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神の存在/不在と科学の範囲
277
:
いらはい
:2007/01/19(金) 06:12:00 ID:DHj5XiXA
しばらく見なかったら、議論の本質的な部分については収束しだしているようですね。
遅レスですが...
>>171
>そういう問題はあるでしょうが、現状はそれ以前の段階でして。
宗教者は他人を祈起するために、根拠を出せない教義を、出せるかのように偽ることがある、ということですか。
私は、人が宗教に帰依するのはボトムアップ的根拠を期待するからではなく、リアリティに惹かれているのだと思いますが。
ところで、モダリティ表現無しの断言、たとえば「死後の世界は存在します」は知っているように振る舞うことの内に入りますか?状況によっても変わると思いますが。
>科学によって否定される(可能性がある)のは、現実世界に対する何らかの言明です。その言明が、たまたま教義の一部だったからといって、科学的検証から保護される理由はありません。
信仰(=信じていること・崇めていること、という意味で使っています)の中のある言明が科学的に検証されることを「科学と信仰の衝突」と呼びますか?
そこは科学の側も宗教の側も、(たとえ科学的発見が常識になり信仰が変容しても)これは衝突ではないと言わなければならないのでは。
それから、どうしてもひっかかるのは言葉の選び方ですね。
「わからない」「知らない」を「合理的な根拠を持ってない」くらいに言い換えれば同意できるのですけど。
宗教者が「わかる」「知っている」と口にするのは
教義を確信している、宗教の教えるリアリティ(神の愛など)を生きている、ということの表明という面もあり、
それを否定してしまうと教義を疑っているような、帰依心が無いような印象になりかねない。
また「信じている」という言葉には、相対的なものごとから敢えてあるものを選択する、というニュアンスが含まれており、
冷笑的な人の「信じているだけでしょう?」という問いかけに頷くことは、
自身にとって信仰の内容が相対的であることを認めてしまうような印象になりかねない。
もちろん「知っている」と言われる側の論理としてはmacskaさんのおっしゃるようなことになるのかもしれませんが、
コンテキストによっては他人の信仰を貶めることになりかねないから、ひっかかるんですね。
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