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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
712
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/19(水) 01:42:35 ID:kvaKH/XU
8月19日はフリードリヒ3世が死去した日です
神聖ローマ帝国では
>>296
などで見たジギスムントが1437年に死去したことでルクセンブルク朝が断絶し、ハプスブルク家のアルブレヒト2世がドイツ王となりました
しかしアルブレヒトは正式に皇帝となることのないまま急死し、息子のラディスラウスが若年であったために、はとこのフリードリヒがラディスラウスの後見としてドイツ王となります
ハプスブルク家の宗家であったアルブレヒトに対し、フリードリヒは傍系の出にすぎませんでしたが、1457年にラディスラウスが夭折するとその遺領はフリードリヒのものとなり、オーストリアを手に入れることとなりました
やがてフリードリヒの弟アルブレヒトが元服すると、所領の分割を巡って2人は争い、フリードリヒは弟によって幽閉されます
フリードリヒは辛うじてウィーンから逃亡し、そのうちにアルブレヒトが急死したためにウィーン帰還に成功するという風に、悪運の強さを発揮するのです
フリードリヒの悪運は対外政策においても発揮されます
1452年、彼は正式に皇帝として戴冠しフリードリヒ3世となりますが、その翌1453年に
>>146
で見たようにビザンツ帝国が滅亡し、長年問題となっていた二帝問題が解消され、フリードリヒが単独の皇帝となったのです
またオスマン帝国の脅威に対しハンガリー王マーチャーシュ1世はオーストリアを併合して対抗することとし、実際にオーストリアに侵攻しオーストリア大公の地位を獲得、ウィーンを占領するという勢いでした
しかしこのマーチャーシュもまた急死し、フリードリヒはウィーンに帰還するのです
ブルゴーニュ公国のシャルル突進公に対しても悪運が働きました
>>414
で見たように、シャルルはフリードリヒに対し「ローマ人の王」の称号を要求し帝国諸侯のなかにもこれを支持する者がいた状況で、フリードリヒはのらりくらりと名言を避け、そのうちにシャルルはナンシーの戦いで戦死したのです
そしてこのシャルルの娘マリーと、フリードリヒの息子マクシミリアンが結婚することでネーデルラントを獲得します
このマクシミリアンが
>>540
で見た神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世でした
フリードリヒの治世は50年以上に渡るものとなり、1493年8月19日、77歳で死去します
その間にフリードリヒの敵対勢力はことごとく力を失い、ハプスブルク家の世襲が確立することとなります
そして
>>502
で見たように帝位はマクシミリアン1世からカール5世へと相続され、広大なハプスブルク帝国が実現するのでした
本日は単独王マクシミリアンの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
713
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/20(木) 00:27:10 ID:VjQbeii6
8月20日はイシュトヴァーン1世が列聖された日です
>>394
で見たように、ハンガリーのイシュトヴァーン1世はパンノニアにてキリスト教国家を確立し、神聖ローマ皇帝オットー3世同意の下、ローマ教皇シルウェステル2世によって1000年、ハンガリー王として戴冠しました
ここにハンガリー王国が成立し、またその王冠は「聖イシュトヴァーンの王冠」として代々ハンガリーで受け継がれ王権の象徴となり、またその領土は「聖イシュトヴァーンの王冠の地」としてハンガリーの基礎となったのです
こうしてイシュトヴァーンはハンガリーの国際的地位を高め、国内の統一を達成し、また王国全土に王城県を設置して地方長官を置くなど、以後のハンガリーの国制の基礎も築きました
イシュトヴァーンは1038年に死去し、彼の男子が皆早逝していたこともあって後継者争いが勃発します
これを収め1077年に即位したのが聖王ラースロー1世で、彼は再びハンガリーをキリスト教国家として整備した後の1083年8月20日、キリスト教国家の基礎を確立したイシュトヴァーンの功績を讃え、列聖しました
この日はハンガリーの建国記念日として祝日となっているのです
本日はハンガリーの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年
・南塚信吾『図説ハンガリーの歴史』河出書房新社、2012年
714
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/21(金) 00:14:57 ID:1nA5IZXA
8月21日は源頼朝が征夷大将軍に就任した日です
>>378
の平治の乱の後、平清盛は平氏一門による専制政治を確立し、繁栄を謳歌していました
しかし貴族、寺社、地方武士の平氏への不満は高まり、1180年には以仁王と源頼政が園城寺や興福寺支持のもと挙兵、全国の武士へ平氏打倒の令旨を発します
2人は平清盛によって討ち取られますが、この挙兵に呼応した武士が各地で決起し、治承・寿永の内乱が始まったのです
反平氏勢力のうち特に有力だったのが伊豆で挙兵した源頼朝で、石橋山の戦いに敗れたものの盛り返し、鎌倉を本拠として東国の武士を糾合していきました
平氏は頼朝追討軍を派遣しますが富士川の戦いで大敗し、さらに1181年に平清盛が病没、西国での大飢饉も重なり大打撃を受けます
1183年には信濃で挙兵した源義仲に倶利伽羅峠の戦いに敗れ、義仲はそのまま京都に乱入し平氏は西国へと逃れることとなりました
義仲は京都を占領するもののその統治に失敗し、頼朝が派遣した源範頼・義経の軍によって滅亡します
この間平氏は福原に戻りますが一ノ谷の戦いで再び福原から追い落とされ、屋島の戦いを経て1185年の壇ノ浦の戦いで滅亡するに至りました
この後、後白河法皇は頼朝の勢力拡大を危惧し、義経を取り込み頼朝追討の軍を発しますが失敗し、義経は奥州平泉に逃れたものの藤原氏ともども討ち果たされ、頼朝の地位が確立したのです
この間頼朝は鎌倉から動かず、新政権の準備を進めていました
1180年に侍所、84年に公文所、後の政所と問注所を設置し、85年には全国に守護・地頭を置き、この時点で鎌倉幕府の基礎が出来上がります
そして1192年8月21日、頼朝は征夷大将軍に就任し、ここに名実ともに鎌倉幕府が確立することとなったのでした
本日は鎌倉幕府将軍の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論新社、2004年
・上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年
・高橋典幸『日本史リブレット人26 源頼朝 東国を選んだ武家の貴公子』山川出版社、2010年
715
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/22(土) 00:38:51 ID:nhOneSBg
8月22日はスティリコが処刑された日です
>>702
のアドリアノープルの戦いでローマ軍が大敗し皇帝ウァレンスが戦死した後、東の皇帝となったテオドシウス1世は軍の再編を行い、ゲルマン人の兵士も数多く編入されました
ローマ軍の指揮権を握るゲルマン系将軍も現れるようになり、そのなかの1人がスティリコでした
ヴァンダル人の父とローマ人の母を持つスティリコはテオドシウスの護衛隊長として信頼を寄せられ、テオドシウスは自身の姪とスティリコを結婚させるほどでした
スティリコはテオドシウスが死去しローマ帝国が最終的に東西に分裂した後、西の皇帝となったホノリウスの後見役となります
しかしスティリコがダキア・マケドニアの帰属問題で東ローマ帝国と対立すると、これに乗じて西ゴート族のアラリックがギリシアで略奪したのは
>>259
でも見た通りです
スティリコはアラリック討伐に向かいますが、東ローマ帝国はスティリコを撤退させ、さらにアラリックをイリュリクムの総司令官に任じたのです
401年にはアラリックはイタリアへと侵入しますが、これはスティリコによって撃退されました
405年にもゲルマン人の混成軍がイタリアに侵入しますがこれもスティリコが撃退します
しかしこのスティリコの活躍を快く思わない人々がいました
蛮族であるヴァンダル人出身の将軍が軍事・政治の実権を握っていることを嫌う元老院、皇帝側近の人々です
彼らはホノリウスに讒言を行い、これを真に受けたホノリウスはスティリコの処刑を決定しました
408年8月22日、スティリコはラヴェンナにて処刑され、これにより配下の将軍もローマ軍から離脱、さらにゲルマン人兵士の多くもアラリックの下へ奔るなどローマ軍は大きく弱体化、
>>259
のローマ刧掠に至るのでした
本日は西ゴート優勢の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
716
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/23(日) 00:27:37 ID:/XOyfk82
8月23日はプラハ条約が結ばれた日です
ドイツ統一を主導するプロイセンに対しオーストリアが反発し、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題が直接のきっかけとなって勃発した普墺戦争は、
>>198
のケーニヒグレーツの戦いでプロイセンが大勝を収めます
しかしイタリア方面ではイタリア軍を破ったオーストリア軍が態勢を立て直しつつあり、またフランス皇帝ナポレオン3世が介入しようとしていました
プロイセン国内では国王ヴィルヘルム1世をはじめウィーン入城やベーメン侵攻を主張する声が大きかったものの、プロイセン宰相ビスマルクはこれ以上の戦いは無益と判断し、停戦交渉に入ります
ケーニヒグレーツの戦い後の1866年7月26日、ニコルスブルク仮講和条約が結ばれ、これをもとに正式な講和条約交渉が進められました
そして1866年8月23日、プラハ条約が締結され、プロイセンはヴェネツィアをイタリアに割譲させた以外はオーストリアに一切の領土割譲を要求せず、ドイツ連邦の解散、オーストリアを除外したドイツ統一を受け入れさせるだけに留めたのです
これによってドイツ統一の方向性としての大ドイツ主義は最終的に断念され、プロイセンは新しい連邦として
>>82
の北ドイツ連邦の結成に進んでいくのでした
本日はドイツ連邦・大ドイツ主義の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
717
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/24(月) 00:34:56 ID:RlUYK1bY
8月24日はサン=バルテルミの祝日です
>>687
で見たように、16世紀半ばのフランスではギーズ公フランソワを中心とするカトリック派、ブルボン家のナヴァール王アントワーヌを中心とするプロテスタント派、そして摂政カトリーヌ=ド=メディシスの三つ巴の対立からユグノー戦争が勃発しました
戦いは第一次、第二次と断続的に行われ、 第三次戦争が終結することになった1570年のサン=ジェルマン=アン=レーの和議において、ユグノーは大幅な信教の自由を獲得することに成功します
ここで宮廷復帰を果たしたのがプロテスタント派の最高指導者であるコリニー提督でした
幼い頃に父親をなくしていた国王シャルル9世はこのコリニーを父親として慕い、その政策はコリニーの意向に従うようになります
1572年にはイングランドとブロワ条約を結び、ともにスペインに対抗し、スペイン支配下のネーデルラントのカルヴァン派を支援すると約束したのです
しかし母であるカトリーヌ=ド=メディシスはこれに反対しました
スペインと本格的に戦うことになれば、フランスが窮地に追い込まれることは明白だったからです
しかしコリニーを中心に宮廷で優位を確立していたプロテスタント派の声は大きく、スペインとの対決はますます進められていきました
ここに至り、カトリーヌは融和政策を放棄し、プロテスタント派の最高指導者コリニー暗殺を決定します
カトリーヌは自身の娘であるマルグリット=ド=ヴァロワを、プロテスタントの指導者の1人であるアンリ=ド=ナヴァールと結婚させ、カトリック・プロテスタント両派の和解を図っていました
しかし融和政策を捨てたことで、この2人の結婚式が利用されることとなります
プロテスタント派が結婚式への参列のためにパリに集まっていた1572年8月24日、カトリーヌと彼女と共謀したギーズ公アンリによってコリニーはじめ多くのプロテスタント派が虐殺されたのです
虐殺はパリに留まらず各地に広がり、9月初頭まで続けられた虐殺でその犠牲者は一万人以上に及びました
カトリック・プロテスタント両派の和解となるはずだった結婚式は最悪事態へと変貌し、両派の関係は決定的に悪化、ユグノー戦争はますます激化することとなったのでした
本日はサン=バルテルミの虐殺の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
718
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/25(火) 00:07:16 ID:c/94u.qg
8月25日はイヴァンが産まれた日です
「タタールのくびき」の下にあったロシアでは1472年、ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪であるソフィアと、モスクワ大公イヴァン3世が結婚し、ビザンツ帝国の後継者・ギリシア正教の保護者としての地位を得ました
1480年にはモンゴルの大ハーンへの歳貢を停止し、モンゴルが派遣した軍も撃退、約250年続いた「タタールのくびき」からロシアを解放することに成功します
イヴァン3世はロシアの諸公国を併合してほぼロシア統一を達成し、全国一律の法典を整備、大公の権威を示すモマノフの冠、双頭の鷲の紋章を用い、皇帝を表すツァーリの称号を自称しました
イヴァン3世が1505年に死去した後は息子のヴァシリー3世が後を継ぎ、彼の代でモスクワが第三のローマであると主張されるようになります
「タタールのくびき」から脱したロシアは新たな道に進みつつあったのです
このヴァシリー3世の長男として1530年8月25日に産まれたのがイヴァンでした
彼は父の急死によってわずか3歳で即位し、イヴァン4世となります
1547年に正式にツァーリとなったイヴァンは全国会議を招集して中央・地方行政の整備に努め、カザン=ハーン国とアストラハン=ハーン国を併合しクリミア=ハーン国にも遠征するなど、対外的にもその権威を誇示しました
しかし1553年に重病にかかると、貴族はイヴァンの従弟であるスタリツキー公を後継者に据えようとします
父の急死後から貴族の権力争いの真っ只中にあったイヴァンはこの一件でますます貴族に対する不信感を強め、両者を仲介していた后のアナスタシアが死去すると貴族への不信は決定的なものとなりました
この頃からイヴァンはいわゆる恐怖政治を始め、専制政治を強化することとなったのでした
本日は後のイヴァン4世「雷帝」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
719
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/26(水) 01:09:41 ID:zl4obF4E
8月26日はクレシーの戦いが行われた日です
イングランド王エドワード3世は
>>653
のスロイスの海戦で制海権を得た後、フランドルに上陸したもののフランス王フィリップ6世の軍に度々敗れ、一時撤退を余儀なくされました
両者は休戦に同意し、1342年までの休戦協定が成立します
この間に勃発したのが
>>300
で見たブルターニュ継承戦争で、エドワードはこれに介入しブルターニュに上陸、1343年に教皇仲介のもとで休戦協定が結ばれ、エドワードはイングランド軍をブルターニュに駐屯させる権利を得たのです
以後エドワードはこのブルターニュを拠点とし、休戦協定明けの1346年3月から再びフランス領への進軍を開始しました
イングランド軍はブルターニュ、フランドル、アキテーヌへと展開し、エドワード自身はノルマンディーに上陸、パリ近郊まで攻め寄せます
これに対しフィリップも応戦、サンドニに兵を集めた後、イングランド軍を討つため北上しました
そして1346年8月26日、両軍はクレシー郊外にて対峙することとなったのです
イングランドの兵力は騎兵約6,000、弓兵約6,000の計約12,000の兵、一方のフランスは約6,000のジェノヴァ弩弓兵に国内外から集まった諸侯の騎兵隊の、計30,000〜40,000という大軍でした
戦いはフランス側のジェノヴァ弩弓兵の射撃で始まり、ついで騎兵隊が突撃をかけましたが、ここでイングランド長弓隊が迎撃し、高地に陣取っての射撃ということもあって絶大な威力を発揮、フランス軍は総崩れとなります
夕刻にはフランス軍は壊滅的な被害を受けて撤退、フィリップが負傷した上に多くの要人が戦死という大敗でした
一方この戦いに勝利したイングランドは戦局を優位に展開、
>>237
で見たようにフランスの重要拠点であるカレーを占領することとなったのでした
本日は長弓優位の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
720
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/27(木) 00:28:36 ID:DFz8zJ5c
8月27日はイギリス=ザンジバル戦争が起こった日です
1884年、
>>89
のコンゴ自由国成立のきっかけにもなった、アフリカ分割を話し合ったベルリン会議が終わった後、ドイツはタンザニアにドイツ領東アフリカ植民地を建てました
この際にザンジバルはドイツとイギリスによって分割されることになり、イギリス領東アフリカ植民地も成立します
やがてドイツではヴィルヘルム2世が皇帝となり、
>>549
で見たように新航路政策を推進するようになりました
それは対外政策や通商・関税政策でよく表され、
>>647
のロシアとの再保障条約の更新を拒否した一方で、イギリスとは関係改善を図ります
そのなかで締結されたのが1890年のヘルゴラント=ザンジバル協定でした
この協定でドイツはヘルゴラント島やタンザニア沿岸地域を獲得、ウィトゥランドをイギリスに譲渡し、ザンジバルに対するイギリスの行動への不干渉を認めたのです
イギリスは同年にザンジバルを保護領としましたが、1896年に親イギリス派だったトゥワイニがクーデターで倒れ、反イギリス派のバルガシュがスルタンとなりました
イギリスはバルガシュ政権を打倒するためザンジバルに艦隊を派遣し、1896年8月27日、バルガシュの立て籠もる宮殿に向けて砲撃を開始します
バルガシュはこれを支えきれずわずか40分で抵抗を諦め逃走、早々に戦争は終結しました
これは史上最短の戦争としてギネス記録となっています
一方、イギリスはこれ以後ザンジバルの実効支配を進めていくのでした
本日は40分戦争の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』講談社、1997年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年
721
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/28(金) 00:26:38 ID:/OvT2ymk
8月28日は平沼騏一郎内閣が総辞職した日です
世界恐慌後ファシズムが台頭した日本・ドイツ・イタリアはそれぞれワシントン体制・ヴェルサイユ体制の打破を目指すようになりました
1936年にはスペイン内戦でのフランコ支援を通じてドイツ・イタリアが手を組み、ベルリン・ローマ枢軸が成立します
一方日本は
>>430
で見たようにワシントン海軍軍縮条約を破棄、ロンドン海軍軍縮会議から脱退し、それによって国際的孤立を深めていました
日本はドイツ・イタリアに接近し、ともに現状の打破を図るようになります
その頃ソ連ではスターリン指導の下で五カ年計画が進み、国連にも加盟してその勢力を増大させていました
これを脅威に感じた日本・ドイツは日独防共協定を結び、これにイタリアが加わって日独伊三国防共協定が成立、枢軸陣営が形成されたのです
1930年代後半になるとドイツは対外膨張政策をいっそう進めるようになり、イギリスやフランスとの対立が深まりつつありました
そのなかで日独伊三国同盟を軍事同盟に発展させようとする動きが活発化し、日本でも陸軍はこれに積極的でしたが、海軍や外務省はイギリスやアメリカと戦争になる危険を主張し、これに反対します
当時の平沼騏一郎内閣はこの両派の対立によって閣内対立が起こり、政局は混乱しました
平沼はイギリス・アメリカと交渉し、ドイツとも反共について協議を進めていましたが、そこに独ソ不可侵条約が結ばれたという知らせが届くと平沼首相は外交の方向性を見失ってしまいます
そして1939年8月28日、平沼騏一郎内閣は総辞職し、ドイツのポーランド侵攻によってヨーロッパは第二次世界大戦へと突入していくのでした
本日は「欧州情勢は複雑怪奇」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
722
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/29(土) 00:42:39 ID:fbOJ5x0Y
8月29日はプロイセンがザクセンに侵攻した日です
>>319
のアーヘンの和約によってプロイセンのシュレジエン領有が国際的に認められましたが、オーストリアはシュレジエン奪回を最優先事項としてその準備を整えていきました
その一環としてフランスとの同盟が成立しましたが、これは驚くべき事件でした
というのもオーストリアとフランスは15世紀以来、宿敵といえる関係にあったからです
発端は
>>545
でも登場したブルゴーニュ公領を巡る争いに遡り、神聖ローマ皇帝選挙でオーストリア・ハプスブルク家のカール5世とフランス・ヴァロワ朝のフランソワ1世が対立、両者はイタリア戦争においても火花を散らしました
その対抗意識は、オーストリアを打倒するためオスマン帝国と同盟するほどのものだったのです
ブルボン朝となって以降も三十年戦争においても
>>305
で見たように宗教対立の壁を超えて反ハプスブルクの立場から参戦し、ルイ14世は
>>280
で見たようにまたもオスマン帝国と同盟し再びのウィーン包囲が実現したのです
このようなフランスとの宿敵関係でしたが、オーストリアはシュレジエン奪回のために外交政策を大転換しました
主導したのはオーストリア宰相カウニッツ、当時ヨーロッパで最も冷静な頭脳を持つと称された政治家でした
こうしてフランスとの同盟、いわゆる外交革命が1756年に実現し、すでに成立していたロシアとの同盟と合わせ、シュレジエン奪回の準備が整えられたのです
一方のプロイセンはイギリス・ハノーファーと協定を結んだのみで、イギリスは植民地戦争に注力していたこともあってほぼ単独でオーストリア・フランス・ロシアという大国の大同盟軍と戦わざるをえない状況でしたが、1756年8月29日、プロイセン王フリードリヒ2世は先手をとってザクセンへと侵攻、ここに七年戦争が勃発したのでした
本日は七年戦争の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
723
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/01(火) 00:18:27 ID:Eak2gcqs
9月1日はドイツがポーランドに侵攻した日です
>>534
で見たように、ドイツは1933年に国際連盟を脱退後、35年にヴェルサイユ条約を破棄して徴兵制を復活、再軍備宣言を行いました
36年にはロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐するなど、ヴェルサイユ体制の打破を進めていきます
これに同調したのがイタリアで、35年にエチオピアを侵略、翌年に併合しました
これらの動きに対し国際連盟は経済制裁を加えましたが石油禁輸措置を取らなかったため効果は上がらず、イギリス・フランスはドイツ・イタリアの行動を黙認する宥和政策をとったのです
ファシズムの台頭に危機感を持った共産主義勢力はコミンテルンを結成、反ファシズム人民戦線の結成を目指し、1936年にはフランスとスペインで人民戦線政府が成立しました
しかしスペインでは人民戦線政府に対しフランコが反乱を起こして内戦が勃発、これを支援したドイツ・イタリアが連携を強めてベルリン・ローマ枢軸を結成、これに日本も接近し、日独伊三国防共協定が成立したのは
>>721
で見た通りです
これらファシズム三国はイギリス・フランスのような広大な植民地・勢力圏を持たない、不利な立場の「持たざる国」として、対外膨張政策を進めていきます
ドイツは1938年にオーストリアを併合、さらにチェコスロヴァキアにズデーテン地方割譲を要求し、これに対しイギリス・フランスはドイツ・イタリアとともにミュンヘン会談を開いたものの、戦争を避けるため宥和政策をとり、ドイツの要求は認められました
ところがドイツは1939年3月にチェコスロヴァキアを解体、さらに8月にソ連と独ソ不可侵条約を結んで互いの勢力範囲を取り決めるのです
そして1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻してついに戦争が勃発、これに対しイギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、世界大戦へと発展していくのでした
本日は第二次世界大戦の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
724
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/02(水) 01:10:21 ID:heFX6BUs
9月2日は科挙が廃止された日です
中国の官吏登用制度である科挙が始まったのは隋を建国した文帝の時代でした
それまでの官吏登用は門閥貴族形成の温床となっていた九品中正でしたが、文帝は中央集権化を進めるため、家柄や財産に関係なく有能な人材を高級官僚に登用するために科挙の実施に踏み切ったのです
科挙は唐の時代にも継承され、発展拡充しますが、この時点ではまだ貴族の勢力は強く科挙官僚の影響力は小さいままでした
転機となったのが宋の時代で、
>>470
で見たように唐滅亡後の五代十国の戦乱時代で貴族層が没落し、科挙官僚が重視されるようになったのです
また宋では科挙制度の変革も行われ、それまでは地方でお、行う州試と中央の尚書省礼部で行う省試の二段階だったのが、最終選考として皇帝自らが試験官となる殿試が加わり三段階となりました
これによって皇帝と官僚が直接結ばれ、皇帝中心の官僚体制が確立することとなりました
こうして整備された科挙は元の時代に一時中断はあったものの、皇帝独裁体制を支える柱として明・清時代にも継承されていきます
しかし清代末期、欧米列強や日本の中国進出によって国政改革が進行するなかで、科挙制度の見直しが進められることとなります
西欧技術導入による近代化のなかで、形式主義に陥り暗記に偏った科挙は時代にそぐわないものとなっていたのです
そして1905年9月2日、袁世凱や張之洞などの意見によって科挙の廃止が断行され、清は憲法大綱を制定するなど立憲国家への移行を図っていくのでした
本日は科挙の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・平田茂樹『世界史リブレット9 科挙と官僚制』山川出版社、1997年
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年
725
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/03(木) 00:02:04 ID:H99TyNP2
9月3日はイギリス・フランスがドイツに宣戦布告した日です
>>723
で見たようにドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦への戦端が開かれましたが、イギリス・フランスのドイツへの対応は鈍いものでした
イギリス・フランスともにポーランドと協定を結んで安全保障を宣言していたにも関わらず、ドイツへの宣戦布告がポーランド侵攻から2日経った1939年9月3日にずれ込みます
宥和政策を積極的に進めていたイギリスのネヴィル=チェンバレン首相は、ここに至ってもその姿勢を覆せなかったのです
フランスもまたマジノ線に拠って攻勢には出ず、西部戦線においてはイギリス・フランスは圧倒的に有利な戦力を有しながら戦闘らしい戦闘が行われない奇妙な状態が続くこととなります
この間にポーランドはドイツとソ連によって分割占領され、ソ連はさらにフィンランドに対し冬戦争を起こし国際連盟から除名されることとなり、さらにバルト三国を併合、ルーマニアからベッサラビアを割譲させました
1940年4月にはドイツがデンマーク・ノルウェーに侵攻し、ここに至ってようやく奇妙な状態が破られました
イギリス国内では宥和政策をとっていたチェンバレンが辞任し、新たにチャーチルが首相となってドイツに対する徹底抗戦の構えを明確に示します
一方フランスは5月にオランダ・ベルギー・ルクセンブルクを占領し攻勢に出るドイツ軍に圧倒され、6月にはパリを占領されてペタン政府が成立、ド=ゴールはロンドンに亡命し自由フランス政府を組織して対抗することとなるのでした
本日は「奇妙な戦争」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
726
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/04(金) 01:46:51 ID:bup9UsnI
9月4日は李世民が即位した日です
>>425
で成立した隋は、
>>724
で見たように科挙を開始するなど中央集権化が進められましたが、文帝の後を継いだ煬帝による大運河の建設や高句麗遠征で民衆の不満が高まり、618年、農民反乱によってわずか38年で滅亡しました
この混乱の中いち早く関中を抑えたのが、山西で挙兵した李淵・李世民でした
李淵は隋最後の皇帝である恭帝から禅譲を受ける形で皇帝となり、新たに唐を建国し長安を都としました
しかしこの時点では未だ各地に群雄が割拠しており、特に河北の竇建徳や洛陽の王世充は大きな勢力を有していました
これらの群雄を従えていったのが、第二代皇帝李世民でした
李世民は皇太子であった兄の李建成を殺害し、626年9月4日、皇帝に即位します
李世民は群雄を平定し、628年には全国統一を達成します
対外的にも東突厥を討伐して西北遊牧民の首長から天河汗の称号を贈られ、また西域交易の一大拠点となっていた高昌を滅ぼし同地を直轄地としました
内政面においても李世民は整備を進め、律令体制を基本とし、科挙・均田制・租庸調制・府兵制などの諸制度を隋から継承しつつその発展拡充を図っていきます
特に三省六部はこの時代にほぼ完成され、律令体制が確立したのです
このように李世民の治世は国内外ともに充実し、中国史上においても最もよく治められた時代とも称されるものとなるのでした
本日は「貞観の治」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
727
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/05(土) 00:00:22 ID:O9qIdCwo
9月5日はポーツマス条約が締結された日です
日本はロシアと開戦するにあたって、国力が劣ることを鑑み短期決戦を想定していました
戦争期間をおよそ一年と考え、戦局を優勢に進めながら講和を仲介してくれる国を探していたのです
この方針のもと日本は1905年1月に旅順を攻略、3月には奉天会戦で勝利、そして
>>621
の日本海海戦で完勝した時点で講和へと動くこととなりました
外相小村寿太郎はワシントンに駐在する高平小五郎公使に打電し、開戦当初から水面下で講和の仲介役を依頼していたアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトに、正式に講和の仲介を申し入れます
6月9日にはアメリカ政府から日露両国に講和勧告が行われ、日本は9日に、ロシアは12日にこれを受け入れました
こうして講和会議への準備が始まり、日本は小村寿太郎を、ロシアはウィッテを全権委員とし、講和会議の開催地をポーツマスと決定し8月10日から会議が始まることになります
10回にわたる会議の中で、日本が講和条件として提示した、日本の韓国支配権に対するロシアの承認、ロシア軍の満州からの完全撤退、日本への遼東半島租借権の譲渡、日本への南満州鉄道の所有権・経営権の譲渡に関してはロシアはすんなり同意しました
しかし賠償金支払い、樺太の譲渡に関しては交渉が難航します
というのも、ロシア皇帝ニコライ2世はウィッテに対し、いかなる賠償金も領土も渡してはならないと厳命していたからでした
しかしロシアも
>>656
で見た第一次ロシア革命に対処するために早期講和を望んでおり、樺太の南半分を譲渡することに同意します
国力の限界に達していた日本も賠償金支払い要求を取り下げ、この両国の譲歩によって1905年9月5日、ポーツマス条約が締結され日露戦争は終結することとなったのでした
本日は日露戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・横手慎二『日露戦争史 20世紀最初の大陸間戦争』中央公論新社、2005年に
・隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論新社、2006年
728
:
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:2015/09/06(日) 01:23:00 ID:xxkkZUXs
9月6日はネルチンスク条約が結ばれた日です
明に代わって中国を統一した清は、北方民族出身ということもあって、明を苦しめ続けた北方民族の脅威とはほぼ無縁でした
清の初代であるヌルハチの時代にホルチン部と同盟を結び、第二代のホンタイジはチャハル部を服属させ内モンゴルを平定、さらに黒竜江沿岸部にも支配地を広げ、万里の長城の北方に勢力を拡大していたのです
そんな清と北方で対峙することになったのがロシアでした
ロシアは16世紀後半からシベリアへの進出を積極的に行い、17世紀前半にはオホーツク海に到達、1643年には黒竜江に進出したのです
ここに両国は衝突することになり、小規模な抗争が1680年代には本格的な軍事衝突に発展しました
清の康煕帝は鄭氏台湾を平定し、三藩の乱も鎮圧したことで北方に目を向ける余裕ができ、またジュンガル部の進出でモンゴル方面の緊張が高まったことでロシアに講和を申し入れます
1689年9月6日、ネルチンスクにて両国の境界画定の交渉が行われ、スタノヴォイ山脈とアルグン川が国境となることが取り決められ、また国境での交易も認められます
こうして清は中国東北地方の全域を確保し、ロシアの南下を防ぐことに成功したのでした
本日は中国における対等条約の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
729
:
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:2015/09/07(月) 01:36:34 ID:Xikyf7hg
9月7日は北京議定書が調印された日です
日清戦争での敗戦後、欧米列強は清の弱体化を見て取り、中国分割が進みました
また中国の伝統的な専制体制をあくまて維持しようとする洋務運動では限界があると判明し、専制体制の改革と立憲政治の実現を目指す変法運動が盛んとなります
これを主導したのが公羊学派の康有為や梁啓超で、光緒帝は彼らを登用して政治改革を行う戊戌の変法を進めました
しかし光緒帝の母后である西太后は1898年9月、保守派によるクーデタを起こして戊戌の変法を挫折させます
こうして西太后のもと保守派が実権を握り、排外的な傾向が強まることとなりました
折しも華北一帯では扶清滅洋を掲げる義和団が勢力を拡大しており、排外運動を進める西太后ら保守派はこれを支援します
そして1900年6月、西太后は列強に宣戦布告し、これに対し日本・ロシア・ドイツ・オーストリア・イギリス・フランス・イタリア・アメリカの8国は共同出兵を行い、8月には北京を占領して鎮圧しました
この戦後処理は翌1901年9月7日の北京議定書でなされ、清は多額の賠償金を支払い、北京周辺の軍備撤廃、外国軍隊の北京駐留権を認めさせられるなど、半植民地化がますます進むこととなるのでした
本日は義和団事件の命日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・菊池秀明『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国』講談社、2005年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年
730
:
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:2015/09/08(火) 02:01:00 ID:u8aMBWzw
9月8日はクリコヴォの戦いが行われた日です
13世紀末までウラジーミル大公国の辺境の町に過ぎなかったモスクワは、
>>629
で見たモンゴルのルーシ侵入期にノヴゴロド公だったアレクサンドル=ネフスキーの子、ダニールの治世以降発展していきました
ダニールの子ユーリーの時代にはウラジーミル大公位をめぐる争いに参加するまでに成長し、ユーリーはトヴェーリ公ミハイルと抗争を繰り広げました
これが決着したのがユーリーの弟イヴァン1世カリターで、トヴェーリの反モンゴル暴動を利用してモンゴルに取り入り、その協力を得てウラジーミル大公であったトヴェーリ公アレクサンドルを追放し自らが大公位を得たのです
イヴァン=カリターはその後もモンゴルに協力して地位を盤石なものとし、モスクワ公の優位を確立しました
やがてイヴァン=カリターの子イヴァン2世が死去すると、わずか9歳のドミトリーが即位します
これに乗じてスーズダリ・ニジェゴロド公ドミトリーとトヴェーリ公ミハイル=アレクサンドロヴィチが介入しましたが、辛うじて撃退することに成功します
ドミトリーにとって転機となったのが対モンゴルの戦いで、当時モンゴルは内紛によって分裂しており、ルーシに対し組織的な支配を行う力が失われていました
ドミトリーはこれを好機と見て「タタールのくびき」からの解放戦争を開始するのです
そして1380年9月8日、リトアニアと同盟を結んだモンゴルの武将ママイと、これを迎え撃つドミトリーがドン川沿いのクリコヴォで激突しました
激しい戦いの末モスクワ軍が勝利し、その勝利は140年にわたって「タタールのくびき」に苦しんできたルーシ諸侯に大きな影響を与えました
モスクワにとってはその威信が大きく高まり、ルーシにおける指導的地位を確立することとなったのでした
本日はドミトリー=ドンスコイ(ドン川のドミトリー)の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年
731
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/09(水) 00:46:38 ID:5jtgoVoQ
9月9日は大宝律令が成立した日です
>>726
で見たように、中国では唐の時代に律令国家体制が頂点を迎えていました
そして日本が遣唐使を派遣し、唐の文化や制度を導入しようとしたのは
>>698
で見た通りです
本格的な律令としては668年に近江令、681年に飛鳥浄御原令が施行され、飛鳥浄御原令で庚寅年籍と合わせ律令国家体制の萌芽が見られるようになります
694年には条坊を備えた日本最初の本格的な都城である藤原京に遷都し、天皇制と官僚制を軸とする中央集権的な律令国家体制の建設へと進んでいきました
そして701年9月9日、文武天皇、持統太上天皇、藤原不比等、刑部親王によって大宝律令が完成したのです
これによって律令が整えられ、二官八省からなる官僚制が確立、ここに中央集権的律令国家体制が成立することとなったのでした
本日は日本の律令国家体制の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中央公論新社、2004年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
・渡辺晃宏『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』講談社、2009年
732
:
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:2015/09/10(木) 00:24:50 ID:rjeARyo6
9月10日はサン=ジェルマン条約が結ばれた日です
>>163
で成立したオーストリア=ハンガリー二重帝国は支配の重点を東欧に置くようになりました
やがてロシアがパン=スラヴ、主義を掲げバルカン半島へと進出してくると、オーストリア=ハンガリーは自国内のスラヴ系諸民族にその影響が及ぶのを恐れ、パン=ゲルマン主義を掲げてロシアと対立、これに大セルビア主義が絡み第一次世界大戦へと至ったのは
>>191
で見た通りです
この第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリーは
>>340
で見たようにヴィットリオ・ヴェネトの戦いに敗れ、最終的に敗戦することとなりました
ドイツが
>>659
のヴェルサイユ条約を結んだ後、オーストリアもまた1919年9月10日のサン=ジェルマン条約を結びます
その内容は領内からチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、ポーランドの独立を確定し、南チロルをイタリアへ割譲、軍備の制限、ドイツとの合併の禁止などで、この条約によってオーストリアは大戦前と比べて面積・人口が1/4に減少することとなるのでした
本日はオーストリア=ハンガリー二重帝国の最終的な命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
733
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/11(金) 01:16:25 ID:pe9FpyOo
9月11日はゼンタの戦いが行われた日です
1683年、
>>280
で見た第二次ウィーン包囲の失敗はオスマン帝国に大きな打撃をもたらし、イスラームとヨーロッパとの力関係が逆転するきっかけとなりました
オーストリアはポーランド、ヴェネツィア共和国とともに神聖同盟を結成、後にロシアも加わりオスマン帝国との断続的な戦争へと突入します
まず総司令官ロレーヌ公シャルルはオルフェルドで戦い、ペストをはじめハンガリー北部を占領しました
1688年にはブダを奪い、さらに
>>264
で見たようにかつて惨敗を喫したモハーチの地でオスマン帝国軍に大勝します
これによってオーストリアはクロアチアとトランシルヴァニアからオスマン帝国を駆逐し、ベオグラードも奪う勢いを見せました
ヴェネツィア共和国もまた海からバルカン半島に攻勢をかけ、ペロポネソス半島からオスマン帝国軍を追い払うことに成功します
>>297
で見たパルテノン神殿崩落はこの時に起こりました
オスマン帝国も大宰相ムスタファ=キョプリュリュのもと反撃を行い、1690年にはベオグラードを奪回、ドナウ川沿いの戦線を立て直します
神聖同盟はその提唱者であるローマ教皇インノケンティウス11世が死去したことでまとまりを失い、オスマン帝国の反撃に有効な対策ができませんでした
1695年、オスマン帝国ではムスタファ2世がスルタンとなり、本格的な反撃を開始します
彼はベオグラードからハンガリーに向けて軍を進めましたが、1697年9月11日、ゼンタの町の側でティサ川を渡っている最中、オーストリアの指揮官プリンツ=オイゲン率いるオーストリア軍の急襲に遭い、約3万人が溺死するという壊滅的敗北を喫するのです
この戦いは対オスマン帝国戦争におけるオーストリアの決定的勝利となり、プリンツ=オイゲンの名声はヨーロッパ中に広まりました
この戦いの後和平交渉が進み、
>>451
のカルロヴィッツ条約の締結に至るのでした
本日は名将プリンツ=オイゲンの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
734
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/12(土) 00:59:43 ID:piRSlqmE
9月12日はマラトンの戦いが行われた日です
前550年に成立したアケメネス朝ペルシアは次第に西方へと勢力を拡大し、小アジアのリディアを滅ぼして小アジア西岸のギリシア植民市、イオニア諸市を支配するようになりました
735
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/12(土) 01:07:27 ID:piRSlqmE
ア ケ メ ネ ス 朝 が フ ェ ニ キ ア 人 を 優 遇 し た こ と で イ オ ニ ア 諸 市 の 不 満 は 高 ま り 、 ま た ア ケ メ ネ ス 朝 が 僭 主 制 に し よ う と 圧 力 を か け た こ と も あ っ て 前 4 9 9 年 、 ミ レ ト ス を 中 心 に 反 乱 を 起 こ し ま す
736
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/12(土) 01:07:49 ID:piRSlqmE
この反乱はすぐに鎮圧されましたが、アケメネス朝の専制支配に対しポリスの民主政を守るため、アテネが反乱諸市に援軍を送り込んでいたことがアケメネス朝のギリシア侵攻のきっかけとなります
前492年、アケメネス朝のダレイオス1世はギリシアに侵入し、ここにペルシア戦争が勃発しました
最初の遠征は艦隊が嵐に遭ったことで失敗しますが、前490年に2回目の遠征が行われます
アケメネス朝軍はトラキア、マケドニアを征服し、アッティカ地方のマラトンに上陸、これを迎え撃つのはアテネとプラタイアのみで、スパルタは宗教祭典のため参加できませんでした
そして前490年9月12日、アケメネス朝軍とアテネ・プラタイア連合軍は激突し、連合軍の重装歩兵部隊はミルティアデスの指揮のもとアケメネス朝軍を破ったのです
この時伝令の兵士がアテネまでの約40kmを走り、勝利を告げたという逸話があります
本日はペルシア戦争におけるギリシア勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・馬場恵二『ペルシア戦争 自由のための戦い』教育社、1982年
・伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と凋落』講談社、2004年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
737
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/13(日) 00:31:34 ID:ZbcZa2S6
9月13日は新羅が朝鮮半島を統一した日です(旧暦)
中国が五胡十六国の分裂状態となっていた頃、朝鮮半島でも国家形成が進んでいきました
北部では中国東北部に興った高句麗、魏によって公孫氏が滅ぼされるた後に朝鮮半島に進出し、楽浪郡を滅ぼすなど強勢を見せます
南部では馬韓・辰韓・弁韓に分かれた小国家群でそれぞれ百済・新羅・加羅諸国となり、加羅諸国はやがて百済と新羅によって支配され、これに高句麗を加えた三国が7世紀まで抗争を続ける三国時代となりました
このような状況の朝鮮半島に対し日本は進出を図り、また中国からも隋・唐が高句麗に遠征軍を送りますが、高句麗の抵抗は強く事態は進展しませんでした
そこで唐は新羅と結んで平定を図り、660年に百済、668年には高句麗を滅ぼすことに成功します
日本もまた百済復興を援助するため軍を派遣しますが663年の白村江の戦いに敗れ朝鮮半島から撤退することとなりました
こうして唐と新羅によって支配されることとなった朝鮮半島ですが、676年9月13日、新羅は唐の勢力を駆逐し朝鮮半島の統一に成功します
新羅は都を金城に置き、特権的身分制度である骨品制によって貴族支配を確立、仏国寺を建立するなど仏教を奨励し最盛期を迎えることとなるのでした
本日は統一新羅時代の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
738
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/14(月) 00:10:50 ID:uDFuOFNY
9月14日は薩摩藩士がイギリス人を殺傷した日です
江戸末期、
>>153
で見たようにアメリカのペリーが黒船で来航し、開国を要求しました
1854年には日米和親条約が結ばれ、次いでロシア・イギリス・オランダとも同様の条約を結びましたが、これらが不平等条約であったため、諸外国の排斥運動、いわゆる攘夷運動が起こるようになります
江戸幕府は安政の改革で国防の充実に努め、諸藩でも軍事力の強化が図られました
しかし1858年、大老の井伊直弼が天皇の勅許を得ないまま不平等条約である日米修好通商条約を結び、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました
これは大きな反発が巻き起こしましたが、直弼は反対派を次々と弾圧する安政の大獄に踏み切ります
1860年、直弼は江戸城桜田門外にて攘夷派の水戸脱藩浪士に暗殺され、攘夷派の運動は活発化していきます
攘夷運動が盛んとなる中で外国人襲撃事件も起こり、1860年にハリスの通訳だったヒュースケンが江戸の三田で薩摩脱藩浪士によって殺害され、翌61年には高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸脱藩浪士に襲撃されました
そして1862年9月14日、神奈川宿近郊の生麦村にて、薩摩藩主島津久光の大名行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺傷する事件が起こったのです
この報復としてイギリス艦隊が薩摩を砲撃する薩英戦争が勃発しますが両者とも被害が大きく、この戦争の講和交渉を機に薩摩とイギリスは関係を深め、やがてフランスと組む幕府討伐へと向かっていくのでした
本日は生麦事件の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』中央公論新社、2006年
・井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末改革』講談社、2009年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年
739
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/15(火) 01:53:20 ID:E70qRotA
9月15日はマンチェスター・リヴァプール鉄道が開業した日です
イギリスでは17世紀にニューコメンが炭坑用に開発していた蒸気機関をワットが18世紀に改良し、安定した動力が得られるようになりました
この蒸気機関は様々な機械に応用され、19世紀になるとトレヴィシックが蒸気機関を動力とする機関車、蒸気機関車を開発し、これをスティーヴンソンが改良します
まず1825年、スティーヴンソンが開発した蒸気機関車ロコモーション号がストックトン・ダーリントン間での貨車・客車牽引に成功します
そして1830年9月15日、スティーヴンソン・ロバート父子によって開発された蒸気機関車ロケット号がマンチェスター・リヴァプール間で営業を開始し、これによって交通環境の飛躍的発展が促され、交通革命に貢献することとなったのでした
本日は鉄道の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・川北稔『イギリス近代史講義』講談社、2010年
740
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/16(水) 13:03:16 ID:8geExgN.
9月16日はドロレスの演説が行われた日です
>>681
や
>>690
で見たように、ラテンアメリカでは18世紀末から独立運動が盛んとなっていました
メキシコではスペイン植民地、ヌエバ=エスパーニャが統治を行っていましたが、イベリア半島出身の白人であるペニンスラールが行政府高官や高位聖職者の地位を独占したため、植民地産まれの白人であるクリオーリョとの対立が深まっていました
イダルゴもクリオーリョの一人で、ドロレスで神父を務めていた彼もまた、ヌエバ=エスパーニャからの独立運動を計画することとなります
ちょうどその頃、スペイン本国ではナポレオン支配に対する独立戦争が起こり、これに乗じてメキシコでも独立の気運が高まるようになりました
そして1810年9月16日、イダルゴはドロレスにおいて演説を行い、ヌエバ=エスパーニャやペニンスラールに対する抵抗を訴えかけたのです
この演説はドロレスの叫びと呼ばれ人々を熱狂させ、各地で独立運動が始まりました
イダルゴはやがて捕らえられ処刑されるものの独立運動は続き、1821年に独立を達成することとなるのでした
本日はメキシコ独立革命の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・増田義郎・山田睦男『世界各国史25 ラテン・アメリカ史1 メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社、1999年
・大垣貴志郎『物語メキシコの歴史 太陽の国の英傑たち』中央公論新社、2008年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年
741
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/17(木) 00:49:47 ID:IaSaP1N.
9月17日はミュリオケファロンの戦いが行われた日です
>>557
で見たように、ビザンツ帝国中興の祖アレクシオス1世、ヨハネス2世の後を継いで即位したマヌエル1世は、ユスティニアヌス1世以来の征服称号を名乗った皇帝でした
その征服事業もユスティニアヌスの再現、地中海帝国復活のための世界戦略を打ち出します
まずは1155年、イタリアへの遠征が開始されました
当時の南イタリア南はビザンツ帝国を駆逐したノルマン人、
>>566
などで見たロベール=ギスカールの甥であるルッジェーロ2世がシチリア王国を治めていましたがその死後に混乱が起こり、これに乗じてイタリア上陸作戦が行われたのです
しかしその後がうまくいきませんでした
>>639
などで見た、ローマ皇帝権の確立を図る神聖ローマ皇帝、フリードリヒ1世バルバロッサが立ちはだかりました
フリードリヒは西欧諸勢力を結集して反ビザンツ同盟を結成し、シチリア王国はもちろん、ヴェネツィア共和国までも敵に回すこととなります
1156年、マヌエルは南イタリアのグリンディジで敗れ、イタリア方面作戦は失敗に終わりました
これ以後も神聖ローマ帝国に対抗し、イタリアへの干渉を続けますが、それによりヴェネツィア共和国との関係が決定的に悪化し、1171年にはヴェネツィアと断交、帝国内の全ヴェネツィア人を逮捕・財産没収という事態に発展します
ジェノヴァ・ピサとは条約を結んだもののイタリア方面での成果は芳しくなく、今度は小アジア方面への遠征に至ります
当時小アジアを支配していたのは
>>261
で見た、マンジケルトの戦いでビザンツ帝国に破滅的な敗北をもたらしたセルジューク朝の後継国家、ルーム=セルジューク朝でした
マヌエルは自ら軍を率い、ルーム=セルジューク朝を討伐し小アジア奪回に向かったのです
そして1176年9月17日、ビザンツ帝国軍はミュリオケファロンにて再び惨敗し、マヌエルは辛うじて戦線離脱しコンスタンティノープルに撤退する有様でした
これによってマヌエルの世界戦略の破綻が決定的となり、ビザンツ帝国の威信は大きく失墜することとなります
この戦い以降マヌエルはふさぎ込みがちとなり、度重なる外征で国力を大きく消耗したビザンツ帝国は衰退に向かうことになるのでした
本日はマヌエルの世界戦略の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
742
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/18(金) 01:17:04 ID:GHkyEmhg
9月18日はフィリップ2世が即位した日です
フィリップ2世の治世は
>>675
などで見てきました
ここではフィリップ即位までを見ていくことにしましょう
フィリップは1165年、フランス王ルイ7世の嫡男として産まれました
このルイ7世の治世はフランス王権にとって大きな脅威が出現した時代でした
>>604
で見たように、ルイの王妃であったアリエノール=ダキテーヌと離婚し、さらにアリエノールがアンジュー伯アンリと結婚、このアンリがイングランド王ヘンリ2世として即位したことで、広大なアンジュー帝国が成立したのです
もちろんルイもただ手をこまねいていたわけではありませんでした
カスティーリャ王女コンスタンスを王妃に迎え、さらに同じくアンジュー帝国に脅威を覚えるシャンパーニュ伯、ブロワ伯、フランドル伯を引き込み、反アンジュー帝国同盟を作り上げます
もっとも、この王妃コンスタンスとの間には嫡男は産まれず、フィリップ2世は3人目の王妃であるシャンパーニュ伯女アデルとの間に産まれました
ルイは待望の嫡男フィリップに王国を託すため、諸問題の解決に務めることとなります
イングランド王ヘンリ2世に対しては和睦を図り、時にはその要求に譲歩して平和を維持しようとしました
一方で自身の娘をヘンリ2世の長男である若ヘンリと結婚させ、アンジュー帝国の相続争いの際に若ヘンリを支持し、イングランドに内紛を起こさせます
ヘンリ2世はこの内紛をいったんは収め、ルイ7世とは1177年に和睦を結びました
そのうちにフィリップ2世は順調に成長し、1179年には父との共同王となります
そして1180年9月18日、ルイ7世の死去によってフィリップは単独王となり、その輝かしい治世が始まることとなるのでした
本日はフィリップ尊厳王の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年
743
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/19(土) 00:01:35 ID:JPE88gx6
9月19日は後醍醐天皇が崩御した日です
>>661
で見たように、後醍醐天皇が倒幕運動を呼びかけ、新田義貞によって鎌倉幕府が滅亡します
幕府を倒した後、後醍醐天皇は醍醐・村上天皇の治世を模範とした新しい政治、建武の新政を開始します
その内容は天皇指揮下での八省や国司制度の復活など天皇中心の政治への回帰で、天皇の権限強化が進むこととなります
しかし性急な改革は各方面からの反発を招き、また新政府に参画した層が多岐に渡っていたためその方向性がまちまちで、さらに幕府の存在を否定したことは武士にとっては容認できないものだったのです
建武の新政への不満は地方武士の反乱として表面化し、特に鎌倉で起こった中先代の乱は大規模でした
しかも独断でその討伐に向かった足利尊氏が鎌倉に居座り、後醍醐天皇に反旗を翻しました
後醍醐天皇は尊氏討伐に新田義貞を派遣しますが尊氏はこれを破り京に侵入します
一時は北畠顕家に敗れ九州に逃れたものの勢力を挽回し、1336年、後醍醐天皇は尊氏によって廃位され新たに光明天皇が擁立されました
後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに朝廷を開き正統な天皇であることを主張します
しかし南朝に味方した北畠顕家や新田義貞が戦死したことで南朝の勢力は衰え、1339年9月19日、後醍醐天皇は失意のうちに死去することとなったのでした
本日は後醍醐天皇の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論新社、2005年
・森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館、2007年
・新田一郎『日本の歴史11 太平記の時代』講談社、2009年
744
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/20(日) 00:08:32 ID:pn7AGqQ2
9月20日はライスワイク条約が結ばれた日です
>>106
で即位したフランス王ルイ14世は財政改革や重商主義政策によって得た経済力を基盤に軍制の再編、軍律の強化、兵舎の増設、兵数の増強を行い、当時ヨーロッパ最強ともされる軍隊を作り上げました
そしてルイはこの軍事力を背景に、フランスの安全を固めるため戦略拠点の確保を図り、各方面への戦争を開始します
まず
>>495
で見たように、1667〜68年にスペイン領南ネーデルラントに侵攻した南ネーデルラント継承戦争を起こしますが、これはオランダの抵抗に遭って失敗し、次いでルイはイングランドと同盟し1672〜78年にオランダ侵略戦争を起こしますが、こちらはイングランドとオランダが講和を結び、フランスへの対応に専念できたオラニエ公ウィレムによって撃退されました
この2つの戦争はネーデルラントに対するものでしたが、その中でドイツもまたルイの標的となります
オランダ侵略戦争中の1679年にフランスとドイツの国境付近のフランシュ=コンテやアルザス・ロレーヌに侵攻し、1681年にはストラスブールを占領しました
そしてこのドイツへの侵攻は、ファルツが対象となったことでさらに本格化していくこととなります
1688年、ルイはファルツ選帝侯の継承権を主張し侵攻、ファルツの首都ハイデルベルクが破壊されました
当時、ルイの勢力拡大を危惧して1686年に神聖ローマ皇帝やドイツ諸侯、オランダ、スペイン、スウェーデンがアウクスブルク同盟を結成していましたが、ルイのファルツ侵攻に際し同盟諸国が結集して対抗します
>>487
の名誉革命後はイングランドも同盟に加わり、ドイツだけでなくヨーロッパ全体を巻き込んだ大戦争へと発展したのです
さしもの軍事大国フランスも優位を保ったものの決定打をうてず、1697年9月20日、オランダのライスワイクにて講和条約が結ばれることとなりました
この条約によってフランスはファルツに対する権利を放棄し、オランダ侵略戦争以後に得た領土をほぼ変換することとなったのでした
本日はアウクスブルク同盟戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
745
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/21(月) 01:36:48 ID:DKF6SXGs
9月21日は戊戌の政変が起こった日です
中国ではアロー戦争終結後、従来の排外主義を転換し、西欧の進んだ技術を取り入れ近代産業の育成や富国強兵を図る洋務運動を始めました
その中心となったのが李鴻章・曾国藩・左宗棠ら漢人完了で、洋務運動が進んだこの期間は同治中興と称されます
しかし洋務運動は中体西用といわれるように、あくまで中国の伝統的な政体を根幹とし、西洋文化のうち利用されたのは主に軍事関係の技術であって、議会政治や立憲君主制は議論されませんでした
この洋務運動の限界が露呈し挫折に至ったきっかけが日清戦争での敗北で、敗戦後中国では近代化のために伝統的専制体制を変革し、議会政治や立憲君主制の導入が主張されるようになります
これが変法運動で、公羊学者の康有為や梁啓超らが中心となって進められたこの運動は時の皇帝光緒帝に受け入れられ、1898年6月、戊戌の変法として国家政策となり、新官庁の創設や近代学校制度と整備が発令されます
しかし戊戌の変法はあくまで知識人階層の運動に留まり、民衆の広範な支持を得ることができませんでした
また運動を主導した康有為らも民衆運動を蔑視・警戒するエリート知識人の意識を抜け出すことができずにいました
やがて宮廷では西太后を中心とする保守派が挽回し、1898年9月21日、クーデターを起こして光緒帝を幽閉、変法派を弾圧し康有為・梁啓超は日本へと亡命します
こうして変法運動はわずか3ヶ月で挫折し、以後中国は西太后指導の下保守的な政策が復活することとなるのでした
本日は変法運動の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・菊池秀明『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国』講談社、2005年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年
746
:
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:2015/09/22(火) 00:59:06 ID:kt1ijM5A
9月22日はセリム1世が死去した日です
>>587
でオスマン帝国スルタン、メフメト2世が没した後にスルタンとなったバヤジット2世は優柔不断で軍事的才能にも乏しく、オスマン帝国を脅かした内外の危機に対抗することができませんでした
その危機とはサファヴィー朝の台頭が最大の要因でした
トルコ人騎兵キジルバシュの強大な軍事力に支えられたサファヴィー朝はシーア派を掲げており、これはスンナ派としてイスラームの正統を自認していたオスマン帝国にとって大きな衝撃だったのです
またサファヴィー朝はオスマン帝国支配下の小アジアの諸部族にシーア派を勧め、一定の成果を挙げたこともオスマン帝国の危機感につながりました
このような状況で1512年、兄であるバヤジット2世を廃して即位し、他の兄やその息子たちを抹殺して地位を確立したのがセリム1世でした
セリムはまず国内のシーア派に対し空前絶後の大粛清を行って基盤を固め、問題の大本であるサファヴィー朝の討伐に向かいます
こうして起こったのが
>>258
のチャルディラーンの戦いで、これに勝利したオスマン帝国は小アジアでの支配を確立しました
セリムは次いでマムルーク朝を標的に定めます
マムルーク朝はイスラームの聖都であるメッカとメディナを有し、またアッバース朝滅亡後にカリフの末裔を迎えたことでイスラーム世界の中心の1つとなっていました
同じくイスラーム世界の中心的存在として台頭するオスマン帝国にとっては打倒すべき存在だったのです
セリムはシリア方面からマムルーク朝に侵攻し、アレッポやダマスクスなど重要都市を制圧した後エジプトへと侵入、1517年にカイロを占領しマムルーク朝を滅ぼしました
マムルーク朝征服によってオスマン帝国はシリア・エジプトを通る交易ルートを確保し、紅海の交易ルートも合わせユーラシア・アフリカをつなぐ交易ルートをほぼ掌握しました
またメッカ・メディナもオスマン帝国に臣従し、セリムはメッカとメディナの二聖都の守護者の称号も獲得し、名実ともにイスラーム世界の中心に君臨することとなったのです
そして1520年9月22日、わずか8年の治世に幕を下ろしました
しかしこの8年でセリムはシーア派をはじめ反対派を次々と粛清、時には大宰相をも処刑するなど、その冷酷性を発揮します
またオスマン帝国歴代スルタンの中でも屈指の軍事的天才でもあった彼はその才能を遺憾なく発揮し、オスマン帝国の地位を確立させることとなったのでした
本日は「冷酷者」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・永田雄三・羽田正編『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論新社、2008年
747
:
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:2015/09/23(水) 00:54:18 ID:XHK/76PY
9月23日はサウジアラビア王国が成立した日です
17〜18世紀、
>>280
などで見たようにオスマン帝国はヨーロッパに対し劣勢となり、その衰退は決定的でした
イスラーム世界では君主が影響力を失い、スーフィーやウラマーによる改革運動が進みます
スーフィー教団はネオ・スーフィー教団として急進化し、ウラマーもまたイスラーム復興運動の担い手となりました
その指導者の一人ムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブはサウード家の支援を受けアラビア半島で勢力を拡大、ワッハーブ王国が成立します
彼は厳格なイスラーム原理主義を掲げ、聖者崇拝、霊廟や木、石の崇拝も批判し、ムハンマドやフサインの廟をも破壊しアラビア半島を掌握、メッカやメディナを占領、ダマスクスも脅かすほどとなりました
これに対しオスマン帝国はムハンマド=アリーに討伐を命じ、1818年、ワッハーブ王国は一時滅亡します
しかしすぐさま1823年には復興し、19世紀を通じてエジプトやオスマン帝国との抗争を繰り広げました
しかしワッハーブ王国内ではサウード家の内紛が頻発し、1889年には再び滅亡することとなります
この時もワッハーブ派は粘り強く運動を続け、1902年、イブン=サウードによってかつとの首都リヤドが奪還され三度ワッハーブ派は復興します
そしてヒジャーズ=ネジド王国の建国、イギリスとのジェッダ条約による独立承認を経て、1932年9月23日、サウジアラビア王国と改称し、今日に至る国家が築かれることとなったのでした
本日はサウジアラビアの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・坂本勉・鈴木董『新書イスラームの歴史 イスラーム復興はなるか』講談社、1993年
・佐藤次高『世界各国史8 西アジア史1 アラブ』山川出版社、2002年
・山内昌之『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』中央公論新社、2008年
748
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/24(木) 01:25:27 ID:9dzLYkgM
9月24日はルートヴィヒ4世が死去した日です
>>703
のヴェルダン条約、
>>701
のメルセン条約を経てフランク王国は分割され、東フランク王国はルートヴィヒ2世ドイツ人王が統治することとなりました
カール3世肥満王の代では西ローマ皇帝・イタリア王・西フランク王も兼ね、帝国の守護者としての役割が期待されましたが、彼はノルマン人、マジャール人、イスラームのいずれにも対処できず、東フランク貴族によって廃位されます
新たに東フランク王に選出されたのがルートヴィヒドイツ人王の息子カールマンの庶子にあたるケルンテン公アルヌルフで、そのアルヌルフの死後王位を引き継いだのがルートヴィヒ4世幼童王でした
しかしこのルートヴィヒはその呼び名のごとく若くして死去します
911年9月24日、東フランク王ルートヴィヒ4世の死によって東フランク王国ではカロリング家の血筋が断絶しました
東フランク貴族は血統へのこだわりを放棄し、国内の有力貴族から国王を選出します
こうして東フランク王となったのがフランケン公コンラートでした
このカロリング家の断絶、そしてコンラートの国王選出は東フランクにおいて重要な転換点となりました
カロリング家の慣習であった分割相続が廃止され、王国不可分の原則が新たに登場したのです
これ以後、王国の領域は王朝という枠を越えて存続することとなり、
>>242
でも見たように東フランク王国からドイツ王国へと移行していくこととなったのでした
本日は東フランク王国カロリング朝の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
749
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/25(金) 00:02:27 ID:zML.o0wM
9月25日はアウクスブルクで帝国議会が開かれた日です
>>334
で始まったルターによる宗教改革は1521年、
>>412
のヴォルムス帝国議会で否定され、ルターの教義に従うことやそと著作の印刷・出版が禁止されるなどしました
しかし破門されたルターはザクセンのフリードリヒ賢公に匿われて活動を続け、またドイツ各地でも改革運動が広がっていきます
その1つが
>>601
で見た、ミュンツァーらによるドイツ農民戦争でしたが、これに関してはルターも否定的で、その鎮圧後はルターから離れる農民が多かったものの、改革運動は反カトリック・反皇帝派の諸侯・都市を中心に進められました
農民戦争が完全に終息した1526年、シュパイアーで帝国議会が開かれ、神聖ローマ皇帝カール5世はヴォルムスの勅令を実行するよう命じましたが反論も多く、ここでは現状維持のまま閉会します
1529年に再びシュパイアーで帝国議会が開かれ、多数派がヴォルムスの勅令を再確認したことに対し抗議が巻き起こり、ここにプロテスタントという呼称が生まれることとなりました
ところでこの1529年は、
>>298
で見たように神聖ローマ帝国に対抗するフランスのフランソワ1世とオスマン帝国のスレイマン1世が結び、第一次ウィーン包囲を行った年でもありました
カール5世はこの脅威に対抗するため帝国諸侯の協力が必要となり、妥協に応じることになります
1530年、アウクスブルクで帝国議会が開かれ、メランヒトンによるアウクスブルクの信仰告白やツヴィンクリの信仰箇条が示されますがカトリックの反発も大きく、この議会でもヴォルムスの勅令を確認するにとどまりました
これに対し帝国諸侯は中部ドイツにてシュマルカルデン同盟を結成しカールに対抗します
カールは先のオスマン帝国の脅威やフランスとのイタリア戦争が継続中であったため妥協を余儀なくされ、1532年にニュルンベルクで平和条約を締結しました
1544年、クレピーの和約でフランスとの講和が成立するとカールはドイツ国内に集中できるようになり、シュマルカルデン同盟の中心人物であったザクセン公モーリッツを引き入れたこともあって同盟軍を破り、シュマルカルデン戦争に勝利します
この勝利によってカールは1548年、プロテスタントに様々な制約を課すアウクスブルク仮信条協定を定め、プロテスタント諸侯にこれを強制しました
ところがこれに対し北ドイツにて反乱が勃発し、モーリッツも再びプロテスタント側に合流してカールと戦うこととなりました
カールはプロテスタント諸侯軍に敗れ、またイタリア戦争においてもフランスに敗れたため、ついに退位するに至ります
カールが引退したことでカトリック・プロテスタント両派に和解への動きが生まれ、1555年に再びアウクスブルクにて帝国議会が開かれました
そして同年9月25日、アウクスブルクの宗教和議が成立し、ルター派の公認や帝国諸侯の信仰の自由が認められたのです
もっとも個人の信仰の自由やカルヴァン派が認められなかったように、この宗教和議はあくまで妥協であり、その後
>>614
で見た新教同盟ウニオンと旧教連盟リガの対立、そしてその対立から発展した三十年戦争を経た
>>327
のウェストファリア条約で1つの解決をみることとなるのでした
本日はアウクスブルクの宗教和議の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
750
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/26(土) 09:36:08 ID:DBKgSXzQ
9月26日は小谷城が落城した日です
1560年、桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は尾張を平定、さらに美濃に侵攻して齋藤龍興を破り67年には美濃も平定します
ついで近江に進出しますが、この時に同盟を結んだのが江北の浅井長政でした
その際、同じ浅井氏の同盟相手である越前朝倉氏を攻めないというのが同盟条件だったとされていますが、1570年、信長は長政への相談なしに越前へと侵攻します
このため長政は信長から離反し朝倉とともに挟撃し信長は窮地に陥りますが、辛うじて逃亡に成功しました
京に帰還した信長は反撃の準備を整え、同年中に徳川家康とともに姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍を破り、浅井氏の拠城である小谷城の包囲に取り掛かります
小谷城は標高約400mの小谷山に築かれた梯郭式の山城で、尾根伝いに曲輪が並びそれらが石垣や砦で守られる戦国屈指の巨大山城でした
しかしその広大な城域に比べて浅井氏の勢力は小さく、浅井氏のみで小谷城全体を守ることは困難でした
そこで小谷城では本丸の背後に大堀切を設けて城域を分断し、一城別郭の構えとすることで対応します
さらに本丸より高所に位置する曲輪群には朝倉氏、京極氏、寺社勢力などに守備を任せ、信長に対抗することとなります
1570年から始まった小谷城籠城戦を長政は3年間耐え抜きますが、73年には武田信玄が病没、足利義昭が京から追放され、信長は本格的に小谷城の攻略を進めました
この時すでに小谷城の支城群は信長によって攻略が進められ、特に最重要支城とされる山本山城が羽柴秀吉によって調略されたことは大きな痛手となります
もはや頼みとなるのは朝倉氏のみとなっていました
そこで信長はまず朝倉氏の攻略から始め、小谷城でも朝倉軍が守っていた部分に突如として攻めかかり、意表をつかれた朝倉軍は敗走します
信長はそのまま朝倉軍を追撃し、その本国の越前にまで乱入、朝倉氏当主朝倉義景は家臣の裏切りにもあって自害し、ここに朝倉氏は滅亡します
こうして孤立無援となった小谷城ですがそれでも頑強に抵抗を続けました
ここで活躍したのが羽柴秀吉で、尾根伝いに伸びる小谷城の側面から奇襲をかけて京極丸を制圧、浅井久政と長政の分断に成功します
数多くの曲輪群で構成され、それぞれが独立して戦える小谷城ですが、劣勢が明らかとなった状態では各個撃破が容易となってしまったのです
1573年9月25日、まず浅井久政が自害に追い込まれ、そして9月26日には浅井長政も自害、さしもの堅城小谷城もここに落城することとなったのでした
本日は浅井氏の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12天下一統』中央公論新社、2005年
・谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』吉川弘文館、2006年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年
751
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/27(日) 00:14:41 ID:vHz0EJrw
9月27日は日本・ドイツ・イタリアが同盟を結んだ日です
日本・ドイツ・イタリアは
>>721
で見たように「持たざる国」としてヴェルサイユ・ワシントン体制の打破を図り、共産主義への対抗でも一致し協力体制を築きました
もっとも日本はドイツ・イタリアとの軍事同盟に関しては、同盟締結に積極的な陸軍と消極的な海軍・外務省との間で対立があり、これが平沼騏一郎内閣の総辞職に至ります
やがて
>>723
でドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発し、この時阿部信行内閣は大戦への不介入を表明し、続く海軍大将の米内光政内閣もまた軍事同盟締結には消極的で大戦への不介入を続け、イギリス・アメリカとの関係改善を模索します
しかし
>>725
で見たようにドイツがめざましい電撃戦を展開しイギリス・フランス軍を撃破、イタリアもドイツ側で参戦し、さらにフランスがドイツに降伏すると、日本でもドイツに与する空気が高まっていきました
これに乗じて陸軍を中心にイギリス・アメリカとの戦争を覚悟してでもドイツと軍事同盟を結び、南方に進出するべきという主張が沸き起こり、19407月、陸軍の圧力によって米内内閣が倒れます
新しく内閣を組織したのが近衛文麿で、近衛内閣は外務大臣に松岡洋右、陸軍大臣に搭乗日を起用、大戦への不介入の方針を転換しドイツ・イタリアとの連携強化、南方への積極的な進出を図るようになりました
そして1940年9月27日、日本・ドイツ・イタリアの間で日独伊三国同盟が結ばれ、日本はヨーロッパにおけるドイツ・イタリアの、ドイツ・イタリアは東・東南アジアにおける日本の指導的地位を互いに認め合い、政治的・軍事的相互援助を約束し共同でイギリスやアメリカに対抗することとなったのでした
本日は日独伊三国同盟の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
752
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/28(月) 00:03:44 ID:fJk6UY5I
9月28日はハインリヒ6世が死去した日です
>>639
の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの死後、その後を継いだハインリヒ6世は父帝の政策を継承しました
彼は
>>454
で見たようにシチリア王女コンスタンツェとの結婚によってシチリア王国の継承権を得ていましたが、ノルマン貴族がシチリア王グリエルモ2世の異母弟タンクレーディを国王に擁立し対抗します
タンクレーディはイングランド王リチャード1世獅子心王と同盟しますが、
>>699
で見た通りリチャードは第3回十字軍からの帰還中にオーストリア大公レオポルトに捕縛され、さらにハインリヒ6世に引き渡されたためタンクレーディは同盟者を失いました
ハインリヒはリチャードから多額の身代金を獲得しシチリア遠征の軍資金とし、タンクレーディが病死したこともあって1194年シチリアを征服、シチリア王となったのです
これによってフリードリヒの時代に強化された皇帝権はさらに強大なものとなりました
アペニン半島のほとんどが皇帝権の支配下に置かれ、スポレート公領にコンラート=フォン=ウルスリンゲンを、トスカーナ公領に弟のフィリップを、アンコーナ辺境伯領・ロマーニャ公領にマルクヴァルト=フォン=アンヴァイラーを置き、帝国とシチリア王国とを結合する街道を確保します
こうして従来の皇帝の支配地域であった三王国、すなわちドイツ・イタリア・ブルグントに加えシチリア王国も加わり、ハインリヒはさらに範囲を拡大しようとしました
ムワッヒド朝にはトリポリとチュニスに対する皇帝の上級高権を承認させ、アルメニア・シリア・キプロスの各国王は皇帝のレーエンとしてその領土を受領したのです
さらにビザンツ皇帝イサキオス2世の娘イレーネがハインリヒの弟フィリップと結婚したことでホーエンシュタウフェン家にビザンツ皇帝位の相続請求権まで転がり込みました
そしてイサキオスがアレクシオス3世によって皇帝位を簒奪されたことにハインリヒは反発し、コンスタンティノープル征服のための十字軍を計画することとなります
ハインリヒの政策は古代ローマ帝国領の復活を目指しており、いわゆる世界支配計画が着々と進められていたのです
内に目を転じると、帝国とシチリア王国との関係が課題となっていました
シチリア王国は国法上は独立したままでしたが、帝国との堅い結合が望まれていたのです
この目標を達成するため、待望の嫡男が1194年に産まれます
>>395
で見た、後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世です
フリードリヒはホーエンシュタウフェン家・シチリア王家双方の遺産相続者であり、ハインリヒはこの遺産を確保し帝国とシチリア王国との国法上の結合を実現しようとしました
そして皇帝権を教皇権から完全に分離させ、ホーエンシュタウフェン家による世襲帝国計画を企てたのです
この世襲帝国計画は教皇や帝国諸侯の強い反発に遭いなかなか進展しませんでしたが、1196年にはフリードリヒがドイツ王に選出され、ホーエンシュタウフェン家の権力基盤は着々と固められていきます
しかし1197年9月28日、ハインリヒは十字軍計画の準備中に急死、その若すぎる死が皇帝権にとって重大な破局をもたらすこととなったのでした
本日は世界支配計画・世襲帝国計画の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
753
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:2015/09/29(火) 11:18:35 ID:Qo20xywk
9月29日はポンペイウスが産まれた日です
マリウスが軍制改革を進めていた前106年9月29日に産まれたポンペイウスは、若くしてスッラのもとで軍事的才能を発揮し、マリウスとの戦いで軍功を重ねていきました
アフリカ・シチリアでマリウス派を破り、ヒスパニアでのセルトリウスの反乱も鎮圧し、スパルタクスの起こした剣奴の大反乱をも鎮圧して民衆の人気を獲得し、前70年にはクラッススとともにコンスルに当選します
前68年にローマで穀物不況が起こると、イタリアへの穀物供給を妨げるエーゲ海の海賊を討伐するためポンペイウスには地中海沿岸における属州総督の権限を3年間行使できる権限を与えられ、ポンペイウスはこれに応えすぐさま海賊討伐に成功しました
また苦戦に陥っていたミトリダテス戦争の指揮権もまたポンペイウスに与えられ、ポンペイウスはただちにミトリダテスを破り、ヘレニズム諸国を制圧、シリア・ビテュニア・ポントゥスが新しい属州となります
こうしてポンペイウスの人気が日に日に高まるなかで、クラッススもまた名声を求め、多くの政治家に融資し裁判での弁護活動で影響力を持ち、また積極的な外征を進めようとしました
カエサルもまた頭角を現し、ポンペイウスに対する軍事権付与への支持やアッピア街道への私財投入などで民衆の人気を得、民衆派のリーダーとして活躍します
この中で特に名声の高いポンペイウスと、彼をライバル視するクラッススは不仲で、カエサルが両者を仲介する形で前60年に成立したのが第1回三頭政治でした
三頭政治は前53年にクラッススが対パルティア戦争で戦死して瓦解、そしてカエサルがガリア遠征で大いに威信を高めることになると、ポンペイウスは自分の地位を脅かすものとしてカエサルを敵視するようになり、元老院と協力してカエサルを事実上の国敵としたのです
これに対しカエサルが武装解除せずにルビコン川を渡り、ローマへと進軍したのは
>>423
で見た通りです
ポンペイウスはギリシアに移り、持久戦によってカエサル軍を苦しめましたが、
>>244
のファルサロスの戦いで敗北、エジプトに逃れますが、プトレマイオス朝のファラオであるプトレマイオス13世によって暗殺されました
奇しくも誕生日と同じ9月29日、カエサルの宿敵は歴史の舞台から去ったのでした
本日はポンペイウスの誕生日にして命日です
参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
754
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:2015/09/30(水) 23:54:05 ID:em5pI4DA
9月30日はヘンリ4世が即位した日です
>>552
のヘンリ=ボリンクブロクは1399年9月30日ヘンリ4世として即位し、ランカスター朝が始まりました
当時はフランスとの百年戦争の最中で、ランカスター朝第2代のヘンリ5世はアザンクールの戦いでフランス軍に大勝するなど戦局を優位に進めます
しかし第3代ヘンリ6世はフランスに敗れて撤退し、さらに薔薇戦争が起こることとなるのでした
本日はランカスター朝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年
755
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:2015/10/01(木) 15:20:25 ID:zW52qkbY
10月1日は厳島の戦いが行われた日です(旧暦)
大内氏の家臣であった毛利元就と陶晴賢は郡山合戦で協力して尼子軍を撃退しましたが、その主君大内義隆が月山富田城攻めに失敗し自堕落な日々を送るようになると、晴賢は元就賛同のもと義隆を討ち取りました
これは大内家臣の大多数に支持されましたが反発したものもあり、江田氏が大内氏を離反し尼子氏に属します
1553年、元就は晴賢の要請を受け江田氏の旗返山城を制圧、三次盆地を支配するようになりました
しかし晴賢は元就の勢力が拡大するのを危険視し、江良房栄を旗返山城主とし、元就の三次盆地への進出を阻みます
同年、晴賢は自身に背いた石見の吉見氏討伐を決め元就にも出陣を要請、元就はこれを受け入れようとしますが長男の隆元は主戦論を主張し、元就はとの決戦を決意するに至ったのです
元就はまず調略を始め、江良房栄に対し密使を送りましたが房栄が広大な領地を望んだため断念します
元就はここで房栄の叛意を晴賢が知るよう工作し、晴賢は弘中隆包に命じて房栄を殺害してしまいました
この混乱に乗じ元就は旗返山城を再び占拠し勢力を広げることに成功します
1554年、晴賢は元就討伐のため3,000の兵を派遣しますが、これは元就によって撃退されました
戦力の小出しを反省した晴賢は一挙に毛利領へ侵攻することを決定、厳島を攻略して海上から侵入しようとしました
1555年9月21日、晴賢は大軍を率いて厳島に上陸し、元就も27日に出陣し厳島の対岸に布陣します
元就は厳島に上陸するため村上水軍に協力を要請し、小早川隆景率いる毛利水軍と合流、30日深夜に厳島東岸の包ヶ浦に上陸した後に山道を上り、尾根筋の博奕尾に布陣しました
そして1555年10月1日、元就は日の出前に博奕尾から一気に駆け下り、晴賢の本陣を目がけて奇襲をかけます
これに呼応して隆景は厳島正面から上陸して陶軍を挟み撃ちにし、村上水軍も陶水軍を撃破し晴賢の退路を断ちました
大混乱に陥った陶軍は総崩れとなり、晴賢は戦線離脱を試みるも陶水軍が壊滅していにことでそれも断念、自害を遂げたのです
この勝利によって元就の勢威は大いに高まり安芸を平定、さらに周防・長門に進出し中国地方の覇者へと踏み出していったのでした
本日は陶晴賢の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年
・「毛利戦記 大内、尼子を破った元就の権謀」学研パブリッシング、2010年
756
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:2015/10/02(金) 12:35:14 ID:BfYA6JjI
10月2日は上杉氏憲が反乱を起こした日です(旧暦)
室町幕府を開いた足利尊氏は鎌倉幕府の中心であった関東を特に重視し、嫡男義詮の弟基氏を鎌倉公方とし鎌倉府を開かせました
鎌倉公方は関東8ヶ国に加え伊豆・甲斐の計10ヶ国を支配し、基氏の子孫が世襲するようになります
鎌倉公方の補佐として関東管領も設けられ、こちらには代々上杉氏が世襲しました
鎌倉公方は当初は室町将軍に従属しましたが、諸権限が移管されて幕府から半ば独立する形で関東支配を行うようになると将軍との対立が表面化していきました
関東管領もまた守護・地頭を管理し、関東武士を実質的に支配したことで鎌倉府以上の権力を持つようになり、鎌倉公方は将軍だけでなく関東管領との対立も起こすようになります
1409年、足利持氏がわずか11歳で鎌倉公方となると、関東管領の上杉氏憲がこれを補佐しました
しかし持氏は次第に氏憲を疎んじるようになり、氏憲もまた若年の持氏にかわって鎌倉府の実権を握ろうとします
この2人の対立は1415年に表面化し、氏憲が関東管領を辞任する事態となりました
そして翌1416年10月2日、氏憲は持氏の叔父である足利満隆や関東の諸将とともに持氏に対し反乱を起こします
持氏は一時鎌倉を追放され、氏憲が関東を掌握することとなりますが、翌年になって将軍が派遣した駿河の今川範政や越後の上杉房方によって鎮圧され、氏憲は討たれました
この反乱後も鎌倉公方と関東管領の対立は続き、永享の乱や結城合戦に引き継がれるのでした
本日は上杉禅秀の乱の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論新社、2005年
・森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館、2007年
・小国浩寿『動乱の東国史5 鎌倉府と室町幕府』吉川弘文館、2013年
757
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:2015/10/03(土) 18:49:52 ID:TQ6Uy2kY
10月3日はアレシアの戦いが終結した日です
ポンペイウスとクラッススを仲介し第1回三頭政治を成立させたカエサルは、イリュリクムとガリアに対する特別命令権と4個軍団を獲得し、前58年、執政官級属州総督としてガリアに着任しました
当時のガリアは多くの部族に分裂しており、アッロブロゲス人の反乱からの復興途上にありました
そこへ現在のスイスからヘルウェティイ人が西進し、カエサルはこれを激戦の末撃退します
さらにガリア人部族の要請でガリア中部のスエビ人を討伐しローマの勢力を拡大、前57には現在のベルギーでベルガエ人諸部族を撃破しました
前56年、カエサルはポンペイウス、クラッススと協力関係を再確認・更新し、5年間の命令権の延長が認められます
やがてウェネティ人が反乱を起こすもカエサルはこれを海戦で撃破、その他諸部族の反乱も鎮圧し、つかの間の平和が訪れました
翌前55年にはライン川を渡りガリアに侵入したウシペテス人とテンクテリ人を撃退し、ウェネティ人の反乱を支援していたブリタニア諸部族の討伐を試みますが、これは不調に終わりました
前54年になるとベルギカでローマ軍が敗れ、これをきっかけに各地で反乱が起こるようになります
カエサルはガリアを転戦し鎮圧していきましたが、反乱の首謀者のセノネス人貴族アッコが処刑されると、ローマによるガリア支配への反発が一気に高まることとなりました
前52年、カエサル不在のなかケナブムでのローマ人虐殺を皮切りに再び反乱が勃発、この指導者となったのがアルウェルニ人のウェルキンゲトリクスでした
ウェルキンゲトリクスはローマに反発する諸部族をまとめて反乱を指揮し、カエサルは急遽ガリアに戻り反攻を開始しました
これに対しウェルキンゲトリクスはゲリラ戦と焦土戦術で対抗し、ローマ軍を悩ませます
しかし天然の要害であったアウァリクムは焦土戦術からは外され、カエサルはここに立て籠もるウェルキンゲトリクスを包囲しました
湿地と川で三方を囲まれたアウァリクムに対し、カエサルはローマの土木技術を活かして接城堤を築き攻城櫓を設置、約一ヶ月の包囲戦の末アウァリクムは陥落、町は破壊され住民は虐殺されました
逃れたウェルキンゲトリクスは今度は丘陵の町アレシアに立て籠もり、カエサルは再び包囲戦を開始します
カエサルはここでアウァリクム包囲戦以上の大工事を行い、高く長大な塁壁に三重の堀を設け、内側だけでなく外側対しても防御施設を建設、鉄壁の包囲陣が築きました
ガリア人は高い丘のため包囲陣が築かれなかった北西方面に援軍を送るものの突破できず、ウェルキンゲトリクスの脱出も失敗に終わりました
そして前52年10月3日、ついにアレシアは陥落しウェルキンゲトリクスは降伏、大規模な反乱はここに終わりを告げました
その後カエサルは小規模な反乱の鎮圧に努め、翌年には全ガリアを平定することとなるのでした
本日は実質的なガリア戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
758
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:2015/10/04(日) 14:28:17 ID:R1Z/wUC.
10月4日はフランスで憲法が改正された日です
第二次世界大戦におけるドイツの敗北によってフランスは解放され、ド=ゴールによる臨時政府が組織された後、1946年に新憲法制定によって第四共和政が成立しました
この新憲法は女性参政権や下院の優位などが規定されていたものの、基本的には第三共和政の憲法を引き継いでおり、共産党・社会党・人民共和派という三大政党の協力の上に立つものでした
しかし冷戦が進んでいくと共産党は下野し、さらにド=ゴール率いるフランス国民連合の反発もあり、左右両派から脅かされる中道政治は不安定なものとなります
さらにインドシナ、アルジェリアでの植民地独立運動への対応に失敗したことで、第四共和政は大きく揺らぐこととなったのです
特にアルジェリアは1830年、
>>700
のアルジェリア出兵以来フランス植民地として長い歴史を持ち、フランスからの入植者も多く非常に重要な植民地でした
アルジェリアではフランスからの独立を目指してアルジェリア民族解放戦線の運動が活発となり、現地・本国ともにアルジェリアの独立を阻止する空気が強くなります
しかしアルジェリア問題は泥沼化し、戦争の財政的な負担もあって本国では独立の承認へと向かっていきました
しかし1958年5月、植民地放棄に反対する現地の軍部と市民が反乱を起こし、コルシカ島を占領してさらにパリへと進撃する動きを見せます
反乱軍はド=ゴールの政権復帰を要求し、政情不安のなかコティ大統領はド=ゴールに首相就任を要請せざるを得ませんでした
6月には国民議会の賛成多数でド=ゴールの組閣が承認され、ド=ゴールはアルジェリア問題解決への全権委任と憲法改正の提案権を獲得します
そして1958年10月4日、ド=ゴールの憲法改正案が国民投票の圧倒的賛成を得て承認され、ここに第五共和政が発足することとなったのでした
本日は第五共和政の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・油井大三郎・古田元夫『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論新社、2010年
759
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:2015/10/05(月) 21:09:55 ID:/r2Vm88s
10月5日はハインリヒ3世が死去した日です
>>633
で見たように、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世は強大な皇帝権を発揮し、帝国、そしてローマ教会の支配者として君臨しました
ローマ教会はザクセン朝・ザリエル朝で進められてきた帝国教会制のなかに組み入れられ、教皇という地位も単なる最高位の帝国司教に過ぎないものとなりつつありました
彼はまたイタリア王としても強権をふるい、反抗的なトスカーナ伯を抑え込みます
トスカーナ伯ボニファチオが1052年に暗殺された後、その妻ベアトリーチェはロートリンゲン公ゴドフロワと再婚し、このゴドフロワが以前にも増してハインリヒに反抗的な態度を取ったため、1055年、ハインリヒは軍を率い討伐に向かいます
これに対しゴドフロワはすぐさま逃亡し、トスカーナにはベアトリーチェと三人の幼児が残されました
この時幼児のうち2人が暗殺され、残ったマティルダがトスカーナ女伯となるのですが、このマティルダが
>>448
のカノッサの屈辱の際のカノッサ城主であり、一貫して親教皇・反皇帝の姿勢をとったマティルダでした
また当時の教会では
>>294
で見たように教会改革が進められ、ハインリヒもまたこれに協力して改革を推進しましたが、教会改革運動は世俗支配からの脱却を目指すようになり、皇帝の存在は邪魔なものとなりつつあったのです
イタリアにおけるこの諸問題は、ハインリヒが健在なうちはその強権によって抑え込まれていました
しかし1056年10月5日、ハインリヒが38歳という若さで死去すると状況は一変します
後を継いだハインリヒ4世はわずか6歳、当然政務をとれるはずもなく、
>>294
で見たように諸侯や教皇に翻弄され、叙任権闘争へと発展していくのでした
本日はハインリヒ黒王の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
760
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/06(火) 20:29:35 ID:edRKdRBI
10月6日はサムイルが死去した日です
>>710
で見たように、ブルガリアではシメオン1世の死後衰退し、一時はビザンツ帝国に併合されたものの、ヨハネス1世急死後のバシレイオス2世の即位に対し起こった反乱に乗じ、サムイルがブルガリアの独立国家を建国、皇帝を称しました
これを鎮圧しようとするバシレイオスをトラヤヌスの門の戦いで撃破したサムイルは、貴族反乱鎮圧に謀殺されるバシレイオスを尻目に勢力を拡大、ブルガリア帝国の旧領をほぼ回復したのです
しかしバシレイオスは反乱を鎮圧、
>>375
で見たように自身の妹であるアンナをキエフ大公のウラジーミル1世に嫁がせてその協力を得るなどして態勢を挽回していきます
1004年までには北部ブルガリアを占領し、1014年には
>>232
のクレディオン峠の戦いで大敗を喫しました
この戦いでバシレイオスは1万5千人のブルガリア兵を捕虜にし、その捕虜を100人ずつの集団に分け、各集団のうち99人の両目をくり抜き、残りの1人だけは片目を残して道案内役をさせ、ブルガリアに送り返します
この凄惨な光景を目の当たりにしたブルガリア王サムイルは卒倒し、2日後の10月6日、息を引き取ったのです
サムイルの死後、ブルガリアでは二代の皇帝が続きますがもはやバシレイオスの勢いに対抗できず、サムイルの死から四年後の1018年に滅亡することとなるのでした
本日はブルガリア皇帝サムイルの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・森安達也・今井淳子訳編『ブルガリア─風土と歴史』恒文社、1981年
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年
761
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/07(水) 21:42:57 ID:py1qjr7I
10月7日はドイツとオーストリア=ハンガリーが同盟を結んだ日です
ビスマルクによって統一が進められたドイツは1871年、普墺戦争からわずか5年でドイツ帝国成立に至り、ヨーロッパ五大国の一角として大きな力を持つようになりました
他の大国はドイツが1871年時点の国境で満足するかどうか、不信感を募らせます
ドイツとしては安全保障を確保するため、外交関係の構築に努めました
四大国のうち、フランスからはアルザス・ロレーヌを奪ったため敵対関係が固定されてしまい、残りのロシア・イギリス・オーストリア=ハンガリーを相手に安全保障を図るのです
ビスマルクは1873年にロシア・オーストリア=ハンガリーとの間に三帝協約を成立させましたが、これは三国の友好関係を宣言しただけのものであり、安全保障を約束するものではありませんでした
そして1875年にフランスが幹部法を成立させ軍事力を増強させたことは、戦争が目前に迫るものとしてドイツに大きな危機感をもたらしたのです
ビスマルクはフランスに対し脅しをかけたものの、ロシア・イギリスがフランスを支持し介入する姿勢を見せたため、ビスマルクは撤退せざるを得ませんでした
しかし当時イギリスとロシアとがヨーロッパ・アジアで対立関係にあり、イギリスとフランスも地中海・北アフリカで対立していたことがドイツにとって有利に作用します
ビスマルクはこれらの対立関係に対し、ドイツは局外中立に立つことを宣言しました
この姿勢は露土戦争後のベルリン会議で明確となります
オスマン帝国とのサン=ステファノ条約でロシアは保護下にあるブルガリアの領土を拡大させたことにイギリス・オーストリア=ハンガリーが強く反発し、戦争の危機が迫ったことでビスマルクが利害関係調整に乗り出したのです
1878年のベルリン会議でビスマルクはドイツの誠実な仲介人としての立場を宣言し、大国間の利害調整に徹してドイツの利益を求めず、これによって諸大国のドイツへの不信感は拭われました
しかしベルリン会議でロシアへの支持が不十分だったことでロシアとドイツの関係が悪化してしまいます
そこでビスマルクはオーストリア=ハンガリーと同盟を結び安全保障を図ろうとしました
1879年10月7日、秘密同盟である独墺同盟条約を結び、ロシアが戦争をしかけてきた場合に両国が共同で戦うことを約束します
しかしドイツとフランスとの戦争に関してはオーストリア=ハンガリーは中立を保つに留まり、ドイツにとっては十分な安全保障をもたらすものではありませんでした
そこでビスマルクはその後も数々の同盟条約を結び、いわゆるビスマルク外交を進めていくこととなるのでした
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/08(木) 00:24:28 ID:26YMMDgc
10月8日はビスマルクが首相に就任した日です
>>550
で見たようにビスマルクはゲルラッハ兄弟を中心とする側近党に接近し、高官への道を切り開きました
当時のプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世はフランクフルト国民議会による皇帝就任要請を拒否し、オーストリア以外のドイツ諸侯と同盟しプロイセンを中心とした連邦国家の建設の目指すウニオン政策を推進しました
しかしこれはオーストリアやロシアの抵抗にあって挫折し、1850年、
>>368
で見たようにオルミュッツ協定が結ばれウニオン政策は放棄されます
これに伴い、議会でウニオン政策放棄を支持する演説を行っていたビスマルクが側近党に高く評価され、ドイツ連邦議会におけるプロイセン公使に任命されます
1859年にはロシアの駐在公使となり、62年にはフランスの駐在公使に任命されました
これは側近党をはじめとする保守主義陣営の後ろ盾によるものでしたが、彼らとビスマルクとは国家統一の方向性や対オーストリア・対フランス政策などで意見の違いが生じ、次第に側近党とは疎遠になっていきます
しかしフリードリヒ=ヴィルヘルム4世が精神的に病み弟のヴィルヘルムが摂政となったことで側近党の影響力が小さくなり、ビスマルクの地位は保たれました
その後
>>301
で見たように新王ヴィルヘルム1世のもとで1862年9月30日、暫定的に首相に任命され「鉄血演説」を行います
そして同年10月8日、正式にプロイセンの首相に就任し、ドイツ統一を進めていくのでした
本日はプロイセン首相ビスマルクの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/10(土) 15:09:14 ID:fq.TB7mM
10月10日はトゥール・ポワティエ間の戦いが行われた日です
クローヴィスによって建てられたメロヴィング朝フランク王国は分割相続制を採用し、代を経るごとに王国が分立、特にアウストラシア・ネウストリア・ブルグンドの三分王国が強力となっていきます
これらの分王国には宮宰が置かれて政治を統括し、次第に権力を掌握して副王的な存在となりました
アウストラシアの宮宰として勢力を伸ばしたのがピピン1世(大ピピン)で、ブラバント地方やナミュール地方に所領を有し、さらに妻イッタが持っていた二ヴェル地方も合わせ、広大な所領を有するようになります
大ピピンはイッタの間に産まれた長男キルデベルトをアウストラシアの分国王にしようとしますがこれは失敗しました
娘のベッガはメッス司教アルヌルフの息子アンセギゼルと結婚し、2人の間にピピン2世(中ピピン)が産まれます
中ピピンはプレクトルードを妻とし、これによりベルギーのマース川流域からトリーア・メッスの位置するモーゼル川流域におよ領域を支配するようになり、河川交易による経済基盤が整えられました
中ピピンはさらにアルパイダを側室として迎え、これによって重要な商業拠点であるマーストリヒトも得ます
そしてこのアルパイダと中ピピンとの間に産まれたのがカール=マルテルでした
714年に中ピピンが死去した後はプレクトルードが実権を握り、彼女によってカール=マルテルは幽閉されます
カールは716年に脱出して実権を奪い、当時フランク王国を牛耳っていたネウストリアの宮宰ラガンフリードを破ってフランク王国全体の宮宰となり、さらにフリーセン人やザクセン人を討伐しました
さらにテューリンゲン・アレマニエン・バイエルンの諸族を平定、プロヴァンスなど南フランスへも遠征、フランク王国における権威は高まっていきます
一方その頃、イベリア半島では
>>582
で見たようにイスラームが西ゴート王国を滅ぼし、やがてピレネー山脈を超えてフランク王国領内へも侵攻するようになります
これに直面したアキテーヌ公ウードは、宿敵であるカール=マルテルに救援を要請せざるを得ず、カールはこれに応え重装騎兵軍を編成しイスラーム軍を迎え撃ちました
732年10月10日、両軍はトゥールとポワティエとの間で激突し、イスラーム軍は指揮官アブド=アッラフマーンが戦死し撤退します
この勝利によってカール=マルテルの名声は大いに高まり、フランク王国における権力は絶大なものとなりました
そしてカールの息子であるピピン3世(小ピピン)の代でメロヴィング朝が廃され、カロリング朝が成立することとなるのでした
本日はカロリング家の覇権の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年
764
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/12(月) 09:32:04 ID:DSXJrpZM
10月12日はドン=ペドロが皇帝に即位した日です
>>573
で成立したポルトガルの植民地ブラジルは、以降開発が進んでラテンアメリカ唯一のポルトガル領として重要な位置を占めました
時代は降り19世紀に入ると、ポルトガル本国がナポレオンによって征服されるという事件が起こります
その際ポルトガル王室は亡命し、大西洋を渡ってブラジルに移動、リオデジャネイロに遷都し拠点としたのです
一方で
>>681
や
>>690
で見たようにラテンアメリカではクリオーリョ指導の下で独立運動が進められており、ブラジルもまた1822年から独立運動が開始されました
この頃ポルトガル王室は本国で革命が起こったため帰還しており、王太子ドン=ペドロが残っていましたが、クリオーリョはブラジルの地位向上のためポルトガル王室の権威を必要しており、このペドロを擁立して独立運動を進めます
そして1822年10月12日、ペドロはブラジル皇帝ペドロ1世として即位、ブラジルは独立を果たすこととなるのでした
本日はブラジル帝国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・高橋均『世界史リブレット26 ラテンアメリカの歴史』山川出版社、1998年
・増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史 未来の大陸』中央公論新社、1998年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年
765
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/14(水) 13:06:57 ID:hftCl/gg
10月14日はイエナ・アウエルシュタットの戦いが行われた日です
フランス革命に際しプロイセンはオーストリアとともにピルニッツ宣言を発して反革命の姿勢を明確にし、フランスへの干渉を進めました
もっとも両国にとってはオスマン帝国やロシアの進出に対抗する方が急務であり、
>>364
などで見たようなポーランド分割が行われます
一方フランスはピルニッツ宣言を脅威に感じ両国に宣戦布告、1792年のヴァルミーの戦いでの勝利後は攻勢に出、94年にはライン川左岸一帯を領有するようになります
このフランスの進出に対し、93年なはプロイセン・オーストリアにイギリスなども加わって第一回対仏大同盟が結成されますが、プロイセンは95年にフランスと単独講和を結び同盟を離脱します
これでオーストリアは事実上孤立してしまい、カンポ・フェルミオの和約でベルギーを、リュネヴィルの和約でトスカーナを放棄し、フランスのライン川左岸領有も認めさせられました
しかしその補償としてライン川以東の諸領邦を統廃合しプロイセン・オーストリアに与えられるという条項も盛り込まれていました
こうして1803年、神聖ローマ帝国の諸領邦はナポレオンによって整理され、バイエルン・ヴュルテンベルク・バーデンなどが領土を拡大してプロイセン・オーストリアに続く第三勢力として台頭、ナポレオンの保護下に入ります
この諸領邦の統廃合の過程で
>>211
のライン同盟が成立し、ここに神聖ローマ帝国が解体されました
このようにナポレオンがドイツに進出し大きな影響力を持ったことは、当然プロイセンの警戒を呼び起こします
直接のきっかけとなったのがハノーファー支配を巡る両者の利害対立で、プロイセンは宣戦布告し軍を南下させます
しかし1806年10月14日、イエナ・アウエルシュタットにおいてプロイセンは大敗を喫し、ナポレオンは勢いに乗じてプロイセンの首都ベルリンまで侵攻するのです
そして翌年には
>>668
で見た屈辱的なティルジット条約が結ばれることとなるのでした
本日はプロイセンの決定的敗北の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
766
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/15(木) 17:01:32 ID:zKUdO05Y
10月15日はアブド=アッラフマーン3世が死去した日です
>>233
で見たアッバース革命によってウマイヤ朝が滅亡した時、ウマイヤ家のアブド=アッラフマーンはイラクから逃れ、やがてイベリア半島に上陸しました
当時のイベリア半島は
>>582
で見たようにイスラームが支配していましたが、有力な指導者を欠いて混乱状態に陥っていました
そこにウマイヤ家出身のアブド=アッラフマーンが現れたことはアル=アンダルスのムスリムにとっては朗報であり、アブド=アッラフマーンは彼らの指導者となったのです
756年、アブド=アッラフマーンはコルドバへと進軍、同地のアミールを破って後ウマイヤ朝を開きアブド=アッラフマーン1世としてアミールの地位に就きました
しかしアッバース朝はこれを認めず後ウマイヤ朝に対し度々干渉し、またベルベル人も各地で反乱を繰り返したことで、その知世はアル=アンダルスの平定に費やされました
やがてレコンキスタが進行しイベリア半島北部のキリスト教諸勢力が次々と反乱を起こすようになり、アル=アンダルスでもイブン=ハフスーンがアグラブ朝と結んで反抗、一時はコルドバが孤立するほどまでに追い込まれます
このような状況でアミールとなったのがアブド=アッラフマーン3世でした
アブド=アッラフマーン3世は各地の反乱鎮圧に努め、917年にはイブン=ハフスーンを破り、932年にはトレドを再征服しアル=アンダルスの再統一を達成します
またアッバース朝カリフ、ファーティマ朝カリフに対抗してアブド=アッラフマーン3世もまたカリフを称し、ここにイスラーム世界は三カリフ鼎立時代を迎えました
こうして領土を回復し、イスラーム世界の指導者としての権威も大いに高めたアブド=アッラフマーン3世は後ウマイヤ朝の全盛期を築き、961年10月15日、半世紀に及ぶ治世に幕を降ろしたのでした
本日は後ウマイヤ朝初代カリフの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
767
:
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:2015/10/19(月) 21:59:32 ID:PnPTMUN6
10月19日はイサベルとフェルナンドが結婚した日です
15世紀のスペイン、カスティーリャ王国ではフアン2世・エンリケ4世と指導力に欠ける王が続き、貴族勢力が政治を牛耳るようになりました
特にエンリケ4世の評判は悪く、その治世で貴族はますます勢力を伸ばしていきます
またエンリケには嫡男が産まれず、王位は王女のフアナあるいはエンリケの異母妹イサベルが継承することとなります
このうちフアナはラ=ベルトラネーハと呼ばれたように、エンリケの寵臣ベルトラン=デ=ラ=クエバが父親であるとされました
真偽はどうあれ、エンリケはロス=トロス=デ=ギサンド協定でフアナの王位継承権を否定し、イサベルを王位継承者としたのは事実です
エンリケに反対する勢力はこれを認めず、エンリケの異母弟アルフォンソをアルフォンソ12世として擁立しますが、アルフォンソが急死したため計画は頓挫、イサベルの王位継承が決定されました
一方アラゴン=カタルーニャ連合王国でも混乱が起こっていました
アラゴンは度々ペストに襲われたことで国土が荒廃し、また王権・貴族層・中産階級層・都市平民層・農民層など様々な勢力が対立し、分裂していたのです
これはナバラ王アルフォンソ5世の弟フアン2世がアラゴン王になったことでさらに激化します
ナバラ王国内の紛争が隣接するカタルーニャに持ち込まれ、内戦に発展しました
これを収拾するためフアンはフランス王ルイ11世に救援を求め、ピレネー山脈のフランス側のカタルーニャを譲渡する代償を払ってようやく状況を打開できたのです
この平定後の状況を固めるために行ったのが、息子フェルナンドとカスティーリャのイサベルとの結婚でした
1469年10月19日、イサベルとフェルナンドは結婚し、ここにカスティーリャとアラゴンの合同が成立します
1474年にエンリケ4世が死去したことで2人は共同でカスティーリャ王となりました
もっともこの時点ではカスティーリャとアラゴンはそれぞれの慣習が引き継がれ、国家としての連合は希薄でした
1479年にアラゴン王フアン2世が死去し、フェルナンドが王位を継承したことでカスティーリャとアラゴンは連合王国として機能するようになるのでした
本日はカスティーリャ・アラゴン連合の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
768
:
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:2015/10/20(火) 11:13:22 ID:UFgP4x0M
10月20日はハインリヒ10世が死去した日です
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の時代、ヴェルフェン家のヴェルフ4世はバイエルン大公国を与えられ、以後ヴェルフェン家はこの大公位を保持し帝国における権力を確立していくこととなります
もっとも、当初から全てがうまくいっていたわけではなく、ローマ教皇との叙任権闘争の過程で紆余曲折を経ます
ヴェルフ4世は最初皇帝ハインリヒ4世側につきましたが、教皇グレゴリウス7世との争いが激化すると教皇側につき、そのためにバイエルン大公位を罷免されたのです
ヴェルフ4世はその後イタリアで勢力を拡大し、息子のヴェルフ5世をトスカーナ女伯マティルダと結婚させ、その領地の相続権を得ようと図りました
しかしマティルダが財産を教会に寄進したためこの計画は頓挫し、ヴェルフ4世はハインリヒ4世と和解、バイエルン大公に復帰します
このヴェルフ4世の死後、バイエルンはヴェルフ5世が、イタリアはハインリヒ9世が継承しました
黒公と称されるハインリヒ9世は兄の死後バイエルン大公となり、またザクセン大公マグヌスの長女ヴルフヒルトとの結婚により、ヴェルフェン家はザクセンにも権力基盤を得、その勢威をますます高めることとなりました
このハインリヒ黒公とヴルフヒルトとの間に産まれたのがハインリヒ10世、の血に傲岸公と称される人物です
黒公は傲岸公をザクセン大公ロタールの長女ゲルトートと結婚させましたが、このロタールは皇帝ハインリヒ5世の強力なライバルでした
ハインリヒ5世の死後、王位は血統権に従いホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世に渡るものとされましたが、黒公はこれに反発しロタールの即位を支持します
こうして
>>512
でも見たようにホーエンシュタウフェン家とヴェルフェンとの長年に渡る対立が始まったのです
ロタールは即位当時すでに50歳となっとおり長期の統治は望めず、その死後ザクセン大公国がヴェルフェン家のものになることが期待されました
また傲岸公はロタールのイタリア遠征に随伴し、その際に教皇からトスカーナ辺境伯領を得ることとなりました
1137年にロタールが死去すると傲岸公はザクセン大公国を受け継ぎ、その権力は帝国諸侯のなかでも最大のものとなりました
ロタールはまた傲岸公に帝国権標を引き渡したとされ、傲岸公が次期国王になるのが有力となります
しかし傲岸公はその名のごとく高慢・尊大な性格であり、帝国内に多くの敵を作っていました
さらにその即位によって強力な皇帝が出現することを怖れた諸侯は、ホーエンシュタウフェン家のコンラートを国王に選出したのです
傲岸公はこれに従わず忠誠誓約を拒否し、またザクセンにおけるアルブレヒト熊公との継承権争いを調停するヴュルツブルク帝国会議に出頭しなかったことで、帝国から追放されてしまいます
こうしてザクセン大公国は熊公のものとなり、傲岸公はバイエルン大公国とトスカーナ辺境伯領も剥奪されました
しかし傲岸公はすぐさま反撃、1139年、ザクセンに進軍し熊公は防戦一方となり逃走、ザクセンは再び傲岸公の支配下に置かれました
傲岸公はさらにバイエルンへも進軍しようとしますが、その準備中の1139年10月20日、40歳で急死してしまいました
傲岸公の突然の死はヴェルフェン家にとって痛手でしたが、
>>699
のハインリヒ獅子公が傲岸公の事業を引き継ぎ、ヴェルフェン家のさらなる隆盛へと導いていくのでした
本日はハインリヒ傲岸公の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・カール・ヨルダン、瀬原義生訳『ザクセン大公ハインリヒ獅子公 中世北ドイツの覇者』ミネルヴァ書房、2004年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
769
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/21(水) 12:39:53 ID:M7fOJ7Ss
10月21日は民衆十字軍が壊滅した日です
>>366
での教皇ウルバヌス2世の演説の後、彼自身がフランス各地を巡り、また説教師を派遣して十字軍への呼びかけを進めていきました
諸侯や貴族はこれに応え十字軍の準備を始めましたが、それには莫大な資金と多数の随員を必要とし、その間にも民衆の熱狂は高まっていきます
この民衆への説教を積極的に進めたのが隠者ピエールでした
北フランスのアミアン出身の隠修士であるピエールは、カリスマ的説教師として北フランス・西ドイツで十字軍参加を呼びかける説教を行い、十字軍への民衆の参加という要素を付け加えました
もっともウルバヌス2世としては十字軍参加者の精選を求め、条件付きでの参加を前提とし、王侯貴族や高位聖職者からなる十字軍を想定していましたが、もはや民衆の熱狂を抑えることはできない状態となっていました
民衆は隠者ピエールのもとに押し寄せ、ウルバヌスの十字軍が準備に時間がかかっている間に聖地を目指すこととなります
ピエールと民衆はケルンに集まり、1096年4月に出発、ライン・ドナウ川沿いに進みました
無秩序な集団となったこの民衆十字軍は、キリストの敵をユダヤ人にも拡大しつつ各地で虐殺・略奪を繰り返し、8月にはコンスタンティノープルに到達します
ビザンツ皇帝アレクシオス1世はこの暴徒の到来に驚き、コンスタンティノープルへの入城は拒絶しました
民衆十字軍はボスポラス海峡を渡ってヘレノポリスにて野営することになります
彼らはアレクシオス1世に正規の十字軍が到着するのを待つようにとの忠告を受けますが受け入れず、ニケーア周辺のトルコ人領を略奪して回り、ニケーアから出撃してきたトルコ軍も撃退します
この事態を重く見たルーム=セルジューク朝スルタンのクルジュ=アルスラーンは大軍を派遣し、民衆十字軍に奪われたニケーア近郊のクセリゴルドンを奪還しました
彼はさらに謀略を仕掛け、民衆十字軍の陣営に間者を派遣し、民衆十字軍の分遣隊がニケーアを陥とし戦利品を分配してるという虚報を伝えます
これを聞いた民衆は我を忘れ、欲に目が眩んだ無秩序な集団となってニケーアへと殺到しました
そして1096年10月21日、ニケーア近郊で待ち構えていたルーム=セルジューク朝軍の奇襲によって民衆十字軍は壊滅し、コンスタンティノープルへと逃げ帰ったのです
彼らは後に正規の十字軍と合流し、
>>224
で見た第1回十字軍によるイェルサレム攻略に参加することとなるのでした
本日は民衆十字軍の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・エリザベス・ハラム、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年
・池谷文夫『世界史リブレット人31 ウルバヌス2世と十字軍 教会と平和と聖戦と』山川出版社、2014年
770
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:2015/10/23(金) 11:54:29 ID:a.dkhUVU
10月23日はサグラハスの戦いが行われた日です
>>766
の後ウマイヤ朝カリフ、アブド=アッラフマーン3世の死後、アル=ハカム2世が後を継ぎ父が築いた繁栄をさらに発展させました
しかし次代のヒシャーム2世が12歳で即位すると、国政は母親のスブフと寵臣のアブ=アミル=ムハンマドによって牛耳られてしまいます
それでもアル=マンスール、勝利者の称号を持ったムハンマドはバルセロナを占領、ガリシアにも侵攻するなど軍事的成功をもたらします
しかしアル=マンスールの死後、王朝の分裂は決定的となります
アル=マンスールの創設した新王朝の支持者とウマイヤ朝の支持者との間で軋轢が生じたのです
王宮の支配をめぐる争い、ベルベル人軍隊の台頭、戦争によって戦利品を求める下層民など、様々な利害対立が起こり、1031年に後ウマイヤ朝は消滅しました
後ウマイヤ朝の統一はカリフを中心とする強力な中央政府に依存しており、それが消滅したことでアル=アンダルスはターイファと呼ばれる小君主の割拠状態となるのです
その頃、イベリア半島対岸の西サハラでも新たな動きが起こっていました
マーリク派の法学者イブン=ヤーシーンが神秘主義的な教説によってベルベル人のサンハージャ族を動かし、その熱狂的な宗教運動はやがて政治運動に転化、1056年にムラービト朝が興ることとなります
ムラービト朝はジハードを唱えて南下、ガーナ王国を滅ぼし、モロッコや西アルジェリアも制圧します
ユースフ=ブン=ターシュフィーンの治世の1062年にはマラケシュが建設され、1084年にはセウタを占領するなど、ムラービト朝はモロッコからアルジェに至る肥沃な農耕地帯を支配下に収めました
一方イベリア半島では1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世によってトレドが征服されました
ターイファ諸王国はユースフに救援を求め、これに応えたユースフは翌年イベリア半島へと遠征します
そして1086年10月23日、ユースフ率いるムラービト朝軍はメリダ近郊のサグラハスにてカスティーリャ軍を破りました
その後もユースフはイベリア半島への遠征を続け、二度目の遠征ではアレードの戦いに勝利しキリスト教徒の南下を阻止します
三度目の遠征ではターイファ諸王国のうちグラナダ王国、マラガ王国、セビージャ王国を滅ぼしてその直接支配を行うようになり、アル=アンダルスはムラービト朝領となるのでした
本日はムラービト朝のアル=アンダルス侵攻の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
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:2015/10/24(土) 19:23:35 ID:Wmq8gszs
10月24日はシブヤン海海戦が行われた日です
>>326
で始まったレイテ沖海戦、日本海軍の中核部隊となった第一遊撃部隊主隊、通称栗田艦隊は10月22日、ブルネイを出撃しました
「大和」「武蔵 」「長門」「金剛」「榛名」の戦艦5隻に巡洋艦10隻以上を擁するこの大部隊はパラワン水道を抜けシブヤン海に入りましたが、ここで米潜水艦の待ち伏せに遭いました
米潜水艦の雷撃で栗田長官座乗の旗艦「愛宕」は沈没し、栗田長官は「大和」に移り旗艦とします
しかしその後も米潜水艦の雷撃は続き、「摩耶」が沈没、「高雄」が大破するという被害を出したのです
大きな損害を受けつつも進撃した栗田長艦隊は24日にシブヤン海に入り、ここで「大和」「武蔵」「長門」と「金剛」「榛名」をそれぞれ中核とする部隊に分け、空襲に警戒する陣形で進むこととなります
そして予測通り午前10時に米機動部隊から発艦した艦載機の大編隊が現れ、一回あたり30〜70機、第五次に渡る空襲が午後3時まで断続的に行われ、のべ300機の艦載機が栗田艦隊を襲ったのです
この空襲で「武蔵」は約200機の米艦載機の急降下爆撃と雷撃の集中攻撃に遭い、直撃弾17発、至近弾18発、魚雷20本が命中しました
>>385
で見たように大和型戦艦には日本の造船技術の粋が集められ、不沈艦と謳われましたが、この攻撃には抗すべくもなく、ついに1944年10月24日午後7時35分、沈没します
栗田艦隊では他にも「妙高」が大破、「大和 」「長門」「利根」なども損傷し、一時戦場を離脱することとなります
栗田艦隊を襲った米機動部隊はその後北上し、小沢機動部隊を襲うこととなるのでした
本日は戦艦「武蔵」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争7 マリアナ沖海戦・比島沖海戦1』光人社、1995年
・「歴史群像太平洋戦争戦史シリーズ9 レイテ沖海戦」学習研究社、1995年
・「丸 2015年11月号 レイテ沖海戦」光人社、2015年
772
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/25(日) 20:09:40 ID:UN9ZXnUo
10月25日はアザンクールの戦いが行われた日です
>>440
のシャルル5世の死後、後を継いだシャルル6世は
>>300
でも登場したモンフォール伯ジャンと和解し、1381年に英仏間で休戦協定が結ばれました
1385年に休戦協定の期限が切れるとシャルル6世はスコットランド王と呼応しイングランドに上陸します
しかしイングランド王リチャード2世はスコットランドに遠征してこれを破り、フランス軍はイングランドからの撤退を余儀なくされました
翌1386年にもイングランド上陸が計画されるものの中止に終わり、1389年には再び英仏間での休戦協定が結ばれます
1396年にはシャルル6世の娘イザベルがリチャード2世に嫁ぐ条件で28年間の休戦協定が成立し、両国は最終的な和平への道を進もうとすることとなりました
しかし
>>552
で見たようにイングランドでリチャード2世が廃位されてヘンリ4世が即位、ランカスター朝が開かれると両国の関係は再び悪化していきます
ヘンリ4世はフランスに使節を送り休戦協定を確認したものの対仏強硬派であり、フランスもこれを警戒していたため相互に不信感が募り、戦争には至らなかったものの休戦協定は完全には遵守されず、間接的な衝突が見られるようになったのです
1400年にウェールズでイングランドに対する反乱が起こるとフランスはその反乱を支援するため軍を派遣し、またスコットランドにも継続的に支援を行っていました
イングランドもまた1400〜1410年にかけて断続的にノルマンディを襲撃、両国関係は悪化の一途を辿ります
シャルル6世がイングランドに対する本格的な攻撃を計画する段階になると、戦争再開の気運はますます高まっていきました
カスティーリャ王国からも軍船が派遣されて艦隊が編成され、重装兵・弓兵も招集、これらが二部隊に分かれ、カレー・ボルドーのイングランド勢力を駆逐すべく、それぞれピカルディ地方とギュイエンヌ地方に派遣されます
しかしオルレアン公ルイとブルゴーニュ公ジャンが率いたこの遠征は失敗に終わりました
というのもこの2人、
>>581
で見たようにそれぞれオルレアン派・ブルゴーニュ派を形成して対立していたのです
この対立はオルレアン公が暗殺されたことでさらに激化し、オルレアン派の主導権を握ったアルマニャック伯ベルナールによってアルマニャック派と称されるようになると、この対立がついに武力衝突に発展しました
ブルゴーニュ公はこの内戦に際しイングランドに軍事的支援を求め、その見返りとしてイングランドへフランドル諸都市やノルマンディ侵攻への支援を約束しました
イングランド王ヘンリ4世の時代ではこの内戦への介入に消極的でしたが、その後を継いだヘンリ5世は積極的な介入を開始します
1413年、ヘンリ5世はフランス宮廷を牛耳っていたアルマニャック派に対し、かつてイングランドがフランスに持っていた全ての領土の割譲という法外な要求を突きつけました
フランスとしては到底受け入れられないものでありこの要求を拒絶、ここに百年戦争が再開されたのです
1415年8月、ヘンリ5世はノルマンディに上陸、セーヌ川河口の都市アルフルールを陥とすとさらにカレーに向けて進軍します
これを追撃したフランス軍との間で1415年10月25日に行われたのがアザンクールの戦いでした
この戦いでイングランドはまたも地形を有効活用した長弓隊の活躍でフランス軍を破り、フランスは多数の犠牲者を出し貴族の多くが捕虜となる大敗を喫します
イングランドは攻勢に出てその脅威が直接パリにも及ぶようになりますが、フランス宮廷では依然としてブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立が続いており、有効な対策をとれない有様でした
アルマニャック派に属する王太子シャルル、後のシャルル7世に対抗するブルゴーニュ派のフィリップ、
>>278
でも見たブルゴーニュ公フィリップ善良公は1420年、イングランドとトロワ条約を締結します
この条約でイングランド王ヘンリ5世が精神異常を来していたフランス王シャルル6世の摂政てなり、シャルル6世の死後はヘンリ5世がフランス王となることが取り決められたのでした
本日は百年戦争後期におけるイングランド攻勢の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
773
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/27(火) 11:14:50 ID:xQU8PqWI
10月27日はイヴァン3世が死去した日です
>>730
のクリコヴォの戦いでドミトリー=ドンスコイはモンゴル軍に勝利し、「タタールのくびき」の下にあったロシアにおけるモスクワ公の威信は大いに高まることとなりました
しかしこの戦いによってすぐにモンゴル支配から脱したわけではなく、二年後にはモンゴル軍によってモスクワが一時占領されます
ドミトリーの後継者となったヴァシーリー1世時代ではモンゴル支配を受け入れ、その下で国内の統一を進める形となりました
ヴァシーリー2世の時代は内部抗争の時代でした
9歳で大公となったヴァシーリー2世は叔父であるガーリチ公ユーリー、その長子のヴァシーリー=コソイとその弟のドミトリー=シェミャーカとの間で公位継承を巡る内戦が勃発したのです
約30年に渡る内戦で国土は荒廃し、滅亡寸前の状態にまで陥りました
この抗争を収め、モスクワ大公国を強力な国家へと発展させたのがイヴァン3世でした
1426年に22歳で即位したイヴァン3世はロストフ、ヤロスラヴリ、トヴェーリなどの諸公国を併合、ロシア南西の諸公国の回復を進めます
最も大きな統一事業は1471年に始まったノヴゴロド攻撃で、1478年にはノヴゴロド併合を達成しました
また1480年には再びモンゴルの侵攻を受けるものの、迎撃に出たイヴァンの軍はモンゴル軍とウグラ川にて対峙し、モンゴル軍は攻撃を諦めて撤退したのです
これ以後モンゴル軍がモスクワへの遠征計画を立てることはなくなり、この時点でロシアは「タタールのくびき」からほぼ完全に脱することに成功しました
またイヴァンは最後のビザンツ皇帝コンスタンティヌス11世の姪であるゾエ=パレオロゴスと結婚し、ビザンツ帝国の遺産を継承する意味合いも込めて「ツァーリ」を自称します
これによってイヴァンの威信はさらに高まり、国内の諸公や大貴族はその威信に服することとなるのです
こうしてモスクワ大公国はイヴァン3世によって発展し、後のロシア帝国の基礎が築かれました
イヴァンは1505年10月27日に死去し、その事業はヴァシーリー3世、そして
>>718
のイヴァン4世雷帝へと引き継がれることとなるのでした
本日はイヴァン3世「大帝」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年
774
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/27(火) 11:34:49 ID:x0vwUjzg
なんやこのスレ!(歓喜)
じっくり読ませてもらうわ
775
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/28(水) 10:46:28 ID:6OSWRmRo
10月28日はマルグレーテ1世が死去した日です
北欧の3国、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーは、ヴァイキング時代を通じてキリスト教化が進み、また部族の統合も進んで国家としての形が整えられていきました
その後11〜14世紀初頭にかけて、それぞれの国内では王や貴族、聖職者の間での争いが続きます
国外からも神聖ローマ皇帝や帝国諸侯、ハンザ同盟の諸都市の圧迫を受け、13世紀にスウェーデンに併合されていたフィンランドもノヴゴロド国に攻撃されてカレリア地方の東半分を割譲するなど、外部勢力の進出によって動揺する時代が続いていました
このような状況で国内を平定し王権を高め、また積極的な外征によって失地を回復していったのが1340年にデンマーク王に即位したヴァルデマール4世でした
ヴァルデマール4世によるデンマークの強大化は周囲の警戒を招き、反デンマーク同盟が結成されます
同盟にはハンザ同盟の諸都市やシュレスヴィヒ、ホルシュタインなどの帝国諸侯だけでなくスウェーデンも加わっておりデンマークは苦境に立たされますが、1370年に講和がなされデンマークの領土は維持されました
こうしてデンマークを強国にのし上げたヴァルデマール4世が男子が産まれまいまま1375年に死去した後、その実権を握ったのがマルグレーテ1世でした
マルグレーテは王位継承問題に際し、自身の息子であるオーロフ2世をデンマーク王とすることに成功し、自らは摂政として国政の実権を握りました
またノルウェー王妃でもあったマルグレーテは夫であるノルウェー王ホーコン6世が急死すると、オーロフ2世をノルウェー王に就け、こちらではオーラヴ4世として即位します
こうして両国は同君連合となり、デンマーク=ノルウェー連合王国が成立、マルグレーテは摂政としてその事実上の支配者となったのです
このオーロフ2世は1387年に17歳で急死し王位が空位となってしまいますが、デンマーク議会はマルグレーテを王国全体の後見人とし、実質的な女王としての権限を与え、新国王選出を委ねることとなります
ここでマルグレーテが新国王に選んだのが、自身の又甥にあたるポンメルンのエーリクでした
エーリクはまずノルウェー国王エイリーク3世として即位します
また当時スウェーデンではメクレンブルク出身のアルブレクトが国王となっていましたが、貴族や聖職者との対立が続いており、マルグレーテはスウェーデン貴族の要請に応えてスウェーデンに出兵、アルブレクトは追放されました
ここで新たにスウェーデン王となったのが先にノルウェー王となっていたエーリクで、こちらではエリク13世として即します
エリクはデンマーク王エーリク7世としても即位し、ここにデンマーク・ノルウェー・スウェーデン3国による同君連合が成立したのです
この連合を確固たるものとするため1397年、マルグレーテはデンマーク優位のカルマル同盟を結成します
これによってデンマーク連合王国が成立し、北欧3国は
>>159
でスウェーデンが独立するまで統合されることとなったのです
マルグレーテは1412年10月28日に死去しするまで3国の摂政として事実上の支配者として君臨し、大国となったデンマークを主導したのでした
本日はマルグレーテ「女王」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・武田龍夫『物語北欧の歴史 モデル国家の生成』中央公論社、1993年
・百瀬宏・熊野聡・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・橋本淳『デンマークの歴史』創元社、1999年
776
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/29(木) 12:17:02 ID:BO0ChcZQ
10月29日はムスタファ=ケマルが大統領となった日です
>>337
で見たようにムスタファ=ケマルは祖国防衛のために立ち上がり、1922年にオスマン帝国のスルタン制は廃止され帝国は滅亡しました
祖国解放戦争に勝利したケマルは1923年7月、連合国との間にローザンヌ条約を締結し、トルコのトラキア・アナトリアなどの領土回復、連合国のイスタンブールからの撤退、オスマン帝国が結んでいた不平等条約の撤廃などを勝ち取ったのです
こうしてトルコの独立を守ったケマルは1923年10月29日、共和国宣言とともに初代大統領に就任します
その後もケマルは
>>509
のカリフ制廃止やイスラーム教の非国教化などの政教分離、共和国憲法の制定、女性解放、文字改革などの諸改革を進め、近代国家としてのトルコの基礎が確立されていくのでした
本日はトルコ共和国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・坂本勉・鈴木董『新書イスラームの歴史 イスラーム復興はなるか』講談社、1993年
・山内昌之『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』中央公論新社、2008年
・新井政美『イスラムと近代化 共和国トルコの苦闘』講談社、2013年
777
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/01(日) 10:39:37 ID:8zKBdLgE
11月1日はダヴィドが処刑された日です
1204年に第4回十字軍がビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルを占領し、その際に黒海南岸に建てられた亡命政権のトレビゾンド帝国は、
>>46
のコムネノス朝の嫡流を自認し、
>>146
のオスマン帝国によるビザンツ帝国滅亡後も存続していました
しかし
>>587
で見たようにメフメト2世は各方面への侵略を進め、トレビゾンド皇帝ヨハネス4世はオスマン帝国に多額の貢納金を支払うことで辛うじて難を逃れているという状態でした
1458年にヨハネスが亡くなると、その息子アレクシオスはわずか4歳であったため、ヨハネスの弟ダヴィドが皇帝に即位します
ダヴィドはオスマン帝国がヨーロッパ方面での問題に手一杯だろうと考え、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、ローマ教皇庁からの援助を取り付け、白羊朝のウズン=ハサンを頼みにオスマン帝国に対抗しようとしました
白羊朝の最盛期を築いたウズン=ハサンは、小アジア東部でオスマン帝国に匹敵する勢力を持っていました
トルコ君侯やグルジア諸王もウズン=ハサンと連合しており、トレビゾンド皇帝ダヴィドとしても、自身の姪が妻となっているウズン=ハサンは頼みとなる存在だったのです
ダヴィドは1460年、オスマン帝国に対して貢納金支払いの免除を要求しました
当然オスマン帝国のメフメト2世は憤慨し、トレビゾンド帝国への侵攻を決定します
メフメトはまず白羊朝へと攻め入り牽制した上でトレビゾンドへと向かいました
頼みとする白羊朝の支援が絶たれたダヴィドは降伏し、1461年8月にトレビゾンド帝国は滅亡しました
ダヴィドはその後コンスタンティノープルにてオスマン帝国からの年金によって生活していました
しかし彼の友人であったゲオルギオス=アミルツェスがダヴィドがウズン=ハサンと連絡を取ろうとしているとオスマン帝国に報告したことで、ダヴィドはアドリアノープルで投獄されます
そして1463年11月1日、ダヴィドはその息子や甥ともども処刑され、ここにトレビゾンド皇族の命運は尽きたのでした
本日はトレビゾンド皇帝の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・永田雄三・羽田正編『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論新社、2008年
778
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/02(月) 23:36:51 ID:2i3StNAc
11月2日はペドロ3世が死去した日です
アラゴン王ペドロ3世は
>>632
で見たようにシャルル=ダンジュー支配下のシチリアに介入し、
>>708
のビザンツ皇帝ミカエル=パレオロゴスの策謀もあってシチリアの晩鐘が起こりました
この事件で直ちにシチリアがアラゴンの影響下に置かれたわけではなく、ナポリ王国を拠点としたシャルル=ダンジューも反撃しシチリア晩鐘戦争が勃発します
ペドロはシャルル=ダンジューの反撃を撃退してシチリアを支配下に収めると、イタリア本土に上陸しシャルル=ダンジューとの戦いを繰り広げました
ここでもペドロはシャルル=ダンジューの息子であるサレルノ公シャルルを破り、シャルル=ダンジューのナポリからカラブリアへの遠征も退けます
しかしシチリアではアラゴン支配に対する反発も起こっており、さらにフランス王フィリップ3世がアラゴンへの十字軍を企てました
その最中の1285年1月、シャルル=ダンジューが死去し、ついでシャルル=ダンジューが教皇位につけ、常にシャルル=ダンジューに肩入れしていた教皇マルティネス4世もまた死去しました
そのためナポリ王国は大いに混乱し、2人の協力によって進められていたシチリア方面への遠征は見込めなくなりました
そのためペドロは防衛戦力を全てアラゴンに回すことができ、フランス王フィリップ3世のアラゴン十字軍をも撃退します
フィリップは同年10月に死去し、これによってアラゴン十字軍も頓挫することとなりました
その一ヶ月後の1285年11月2日、これらの勝利を見届けたうえでアラゴン王ペドロ3世は死去しました
こうしてシチリアの晩鐘の主要人物がことごとく世を去ったわけですが、戦争は彼らの後継者であるナポリ王シャルル2世、ローマ教皇ホノリウス4世、フランス王フィリップ4世、アラゴン王アルフォンソ3世らによって継続されるのでした
本日はペドロ3世大王の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
779
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/03(火) 19:40:52 ID:LPlBoALQ
11月3日はヨハネス3世が死去した日です
>>64
の第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落とラテン帝国建国の後、ビザンツ帝国の人々は各地に亡命政権を建てて対抗しました
まず帝都奪回に着手したのが
>>777
でも登場したコムネノス家のトレビゾンド帝国ですが、黒海南岸を西進したもののニケーア帝国の妨害に遭い撤退を余儀なくされました
ついでアンゲロス家のエピロス専制公国はモンフェラート侯ボニファチオのテッサロニカ王国を破ってコンスタンティノープルに迫るものの、ブルガリアとのクロコトニッツァの戦いに敗れ帝都奪回は挫折します
そのなかで力を伸ばしていったビザンツ亡命政権が、ラスカリス家のニケーア帝国でした
ニケーア帝国はビザンツ皇帝アレクシオス3世の義理の息子であったテオドロス=ラスカリスによって建てられ、1206年には「ローマ人の皇帝」を称し、1208年にはコンスタンティノープル総主教によって戴冠されその正統性を確保します
テオドロスはプロノイア制を発展させ、貴族に土地や徴税権を与える見返りとして軍事奉仕を課しました
テオドロスの後を継いだヨハネス3世はその政策を継続・発展させていきます
貴族に様々な特権を与える一方で皇帝直轄領の経営を進め、農業・牧畜・養鶏に力を入れてその収益を上げることに成功しました
対外政策においてもブルガリアを破りバルカン半島に勢力を拡大していきます
ラテン帝国はコンスタンティノープル周辺にしか領土を持たない存在に過ぎなくなり、また1246年にはテッサロニカ王国を征服、エピロス専制公国へも圧力をかけました
小アジアのトルコ人をも撃退したことでニケーア帝国の威信はますます高まり、一亡命政権からかつてのビザンツ帝国を思わせる強国へと成長させたのです
このうような成功を収めたヨハネス3世は1254年11月3日に死去しました
その功績が讃えられ、その死から50年後、ヨハネスは聖人に列せられることとなったのでした
本日はニケーア皇帝ヨハネス3世の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
780
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/04(水) 11:07:18 ID:IjMWvEhk
11月4日はカヴールが首相に就任した日です
ナポレオン支配下にあったイタリアはウィーン会議によって9ヶ国に再編成されました
いずれもウィーン会議での正統主義に基づく復古を基本とし、この時期のイタリアは復古期といわれます
いずれの国でも基本的にはナポレオン時代の集権的な官僚制が維持されましたが、以前の諸特権を奪われたままの保守派貴族、ウィーン体制期にヨーロッパで広まっていた自由主義に共感する官僚・軍人の双方から不満を持たれる政治体制となっていました
このような状況でイタリアの近代化を図る動き、いわゆるリソルジメントが進められ、秘密結社カルボナリやマッツィーニ率いる青年イタリアの活動が活発となります
この青年イタリアが結成されたのと同年にサルデーニャ王に即位したのがカルロ=アルベルトでした
当時のサルデーニャ王国は行政・法組織が未熟であり、カルロ=アルベルトは法制度の整備に努めます
この時期は農業の発達によって経済発展も進み、1842年には国王認可のもとで農業協会が設立されました
この協会は農業家だけでなく商工業者や官僚も加わった組織で、さまざまな社会問題に関する議論が行われ、協会内で民主派と穏健自由主義派がうまれていきます
この穏健自由主義派のリーダーとして台頭したのが、ピエモンテの名門貴族の息子カヴールでした
カヴールはやがて政治活動に入り、サルデーニャ王国主導によるイタリア統一を主張、サルデーニャ王国の議員として活躍するようになります
この頃諸外国ではウィーン体制に反発する大きな動きがあり、フランスで1848年2月に起こった二月革命を皮切りにベルリンやウィーンでも同様の自由主義革命が勃発しました
1848年革命と称されるこの運動はイタリアにも波及し、特にイタリアにたびたび干渉していたオーストリアのメッテルニヒが失脚したことは大きな影響を与えたました
このような情勢のなかでサルデーニャ王カルロ=アルベルトはオーストリアと開戦しますが、1848年7月にクストーザの戦いに敗れます
サルデーニャ王国内ではその後政権交代がたびたび行われますが共和派が勢力を伸ばし、これにおされたカルロ=アルベルトは再びオーストリアと戦うことを決定します
しかし1839年3月のノヴァーラの戦いで決定的な敗北を喫し、カルロ=アルベルトは退位の後亡命、王位は彼の息子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が継ぎました
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は穏健自由主義者のマッシモ=ダゼリオを首相に任命し、またオーストリアと休戦協定を結びます
1850年、カヴールはこのダゼリオ内閣に農商大臣として入閣しました
カヴールはイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国と通商条約を結んで輸出入の関税を引き下げ、保護貿易から自由貿易へと転換させます
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の信任を得たカヴールは1852年11月4日に首相に任命されました
中道右派に位置するカヴールは中道左派ウルバーノ=ラッタッツィと提携して議会の多数派を形成し、保守派の抵抗を排除しつつ民主派の動きも抑えこみながら自由主義改革を進め、イタリア統一運動を進めていくのでした
本日はサルデーニャ王国首相カヴールの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
781
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/09(月) 00:10:53 ID:fVsZyNo2
あ
782
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/11(水) 11:36:41 ID:xphbT2Jc
11月11日は第4回ラテラノ公会議が開かれた日です
ローマ教会と神聖ローマ帝国との叙任権闘争は
>>294
のヴォルムス協約で一応の妥協が成立しましたが、問題が完全に解決されたわけではなく、その後も教権と俗権を巡る対立が続きました
教会内部でも教皇カリクストゥス2世の死後、インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世が並立する教会分裂が起こります
この分裂は最終的にインノケンティウス2世の勝利によって終息し、彼の支持した枢機卿に法学の知識がある者が多かったため、これ以降教皇庁の統治機構が整備されていくこととなりました
特に教皇庁の組織が発達したのは12世紀後半、自身も法学者であった教皇アレクサンデル3世の時代で、教皇庁の司法・行政・財務などの機構が整備され、この時期から教皇から各地の教会に指示を与える教皇書簡の数が急増していきます
また各地の教会の訴訟が教皇庁に上訴される件数も増え、教皇庁の影響力はますます増大することとなりました
こうして教皇を中心とするローマ教会の体制が12世紀後半に確立しましたが、その絶頂期を現出したのが教皇インノケンティウス3世でした
1198年に即位したインノケンティウス3世もまた法学の専門知識を活かして教皇庁の統治機構を拡充発展させ、また彼は教会君主政と呼ばれる教皇による君主的な教会支配体制が確立します
教皇は12世紀中頃まではペテロの代理者と称していましたが、この頃から神から直接権力を授けられた者であることが強調され、キリストの代理者と称するようになり、教皇は神の権威を地上で代理する擬似的な君主とみなされるようになったのです
インノケンティウス3世はこれをもとに教皇領の集権的な統治を行い、教会組織の君主としてローマ教会全体への支配権を持ち、また西欧キリスト教世界の世俗君主に対しても影響力を行使しました
そしてインノケンティウスが西欧キリスト教世界の長であることを広く示したのが1215年11月11日に始まった第4回ラテラノ公会議でした
この公会議は聖俗の代表者が1000人以上、ローマのラテラノ大聖堂に集まった大規模な公会議であり、カタリ派などの異端対策、信徒の告解の義務化、ローマ教皇の首位権の確認、キリスト教からのユダヤ人の明確な区別などが行われ、インノケンティウスの「教皇は太陽、皇帝は月」という発言にも表れているように、ローマ教皇の絶対的な権威が示されることとなったのでした
本日は教皇権絶頂期の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・P.G.マックスウェル=スチュアート、高橋正男監『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房、2013年
783
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/12(木) 16:29:50 ID:Ag82K/7E
11月12日はカヌートが死去した日です
>>350
で見たように、イングランドではアルフレッド大王やエドガーによって王国が統一され、デーン人とも共存を図っていたものの、エドガーの死後は再びデーン人の侵攻が開始されました
そしてエゼルレッドがデーン人を虐殺したことをきっかけにデーン人の本格的な侵入が開始され、エゼルレッドはデーン人を撃退できないまま死去し、1016年、デンマークの王子カヌートが賢人会議に認められイングランド王として即位したのです
カヌートはその後1019年にデンマーク王、1028年にノルウェー王に即位、さらにスウェーデンにも支配を広げ北海帝国を建設、イングランドもその一部に組み入れられることとなりました
カヌートはイングランドにおいては国内に存在する四つの伯領のうち3つを有力貴族に委任し、またアングロ=サクソン人とデーン人とを平等に統治する体制とします
またカヌートはキリスト教の王としてローマへの巡礼も行い、教会税を徴収し、デーン人のキリスト教改宗も支援し、イングランド社会におけるアングロ=サクソン人とデーン人との共存がますます進むこととなりました
しかしカヌートは1035年11月12日に死去し、彼自身の力量によって保たれていた北海帝国は急速に崩壊していきます
イングランドでもカヌートの後継者をめぐる争いが繰り広げられ、エゼルレッドの息子でノルマンディに亡命していたエドワードが即位してウェセックス朝が復活、デーン人の支配が終わることとなるのでした
本日は北海帝国の覇権の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・高橋博『アルフレッド大王 英国知識人の現像』朝日新聞社、1993年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
784
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/05(金) 23:12:20 ID:HquIe/t6
あ
785
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/26(金) 00:27:52 ID:es91wXT6
行進待ってます
786
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/26(金) 00:59:30 ID:dHk0XJwk
ああ、すっかり放置してしまってた...
なんか途中で一旦途切れてしまったら気が抜けてしまって
あんまり気にせずまたやっていこうかな
787
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/26(金) 12:26:14 ID:dHk0XJwk
2月26日はベルリン会議が終了した日です
19世紀、ヨーロッパ各地で産業革命によって工業化が進展すると、アフリカは機械の潤滑油となるヤシ油・ピーナッツ油の生産地としての需要が高まり、また工業製品市場としての役割も果たすようになりました
それまでヨーロッパによるアフリカへの進出は地中海沿岸にあたる北部と、貿易拠点となる沿岸部に限られていましたが、この時代には内地への進出が活発化し探検やキリスト教布教が行われるようになります
これらの活動はヨーロッパによるアフリカの植民地化を推し進めることにもなり、スタンリーの探検によってコンゴがベルギーの植民地となったのは
>>89
でも見た通りです
しかしこのベルギーの進出に対しイギリスとポルトガルが反発し、これにフランスなども絡んでコンゴをめぐる対立が深まっていきました
この対立の原因が列強による無秩序なアフリカ分割にあったため、1884年、ドイツのビスマルクが仲介に乗り出しベルリン会議が開かれます
会議にはアフリカ進出を図る14の国々が参加し、秩序だったアフリカ分割が話し合われました
そして1885年2月26日、ベルリン会議は終了し列強間での協定が取り決められました
その内容は、コンゴ自由国の権益を承認、コンゴ盆地の自由貿易と中立化、コンゴ川・ニジェール川における航行自由権、奴隷貿易の禁止などでした
また、会議ではアフリカ分割における基本原則も合意されます
1つは勢力範囲の原則で、沿岸部を占領すればその後背地の所有権も得られ、また他国の権益が無い場所を勢力圏に組み入れる際には列強に通告しさえすればよいというものでした
もう1つは実効支配の原則で、新たにアフリカの領土を併合する場合、その地域における他国の権益、通商・航行の自由を確実に保障できる実体的な支配権を確立しなければならないというものでした
このために列強は現地で行政・治安機構を整備することが必要となり、列強によるアフリカの植民地化が急速に進められることとなったのでした
参考文献
・宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』講談社、1997年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年
788
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/26(金) 12:27:29 ID:bOcpNenk
とんでもねえ、待ってたんだ
789
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/26(金) 12:30:39 ID:pKO4PXs.
>>787
誠実な仲介人(大嘘)
790
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/27(土) 16:16:46 ID:NgWrvVz2
2月27日はスラバヤ沖海戦が始まった日です
>>379
のマレー沖海戦をはじめとする日本の南方作戦は順調に進み、1942年1月には石油資源の確保を目的とする蘭印作戦が発動されました
このために日本海軍は強力な水上部隊を編成し、上陸作戦の支援戦力として投入することとなります
ボルネオ島、セレベス島、チモール島を占領した日本は蘭印の主島であるジャワ島攻略に乗り出し、その足がかりとしてバリ島を占領した後、上陸作戦を開始しました
このジャワ島攻略には西村祥治少将率いる軽巡洋艦「那珂」駆逐艦「村雨」「五月雨」「春雨」「夕立」「朝雲」「峯雲」からなる第四水雷戦隊が護衛につき、その援護として高木武雄少将率いる重巡洋艦「那智」「羽黒」駆逐艦「潮」「漣」「山風」「江風」の第五戦隊も加わり、さらに田中頼三少将率いる軽巡洋艦「神通」駆逐艦「雪風」「時津風」「初風」「天津風」の第二水雷戦隊がチモール島攻略作戦終了とともに合流します
この聯合艦隊の諸艦艇には、日本海軍が開発した新兵器、酸素魚雷が搭載されていました
一般的な魚雷の射程が5,000メートル程度なのに対し、この酸素魚雷は最大40,000メートルに達する長大な射程を有し、しかも水に溶けやすい二酸化炭素が出るために無航跡となり、さらに燃焼効率が良くなったことで炸薬量も増加するというまさに一撃必殺の兵器であり、酸素魚雷の初陣となったこの海戦ではその運用に大きな期待が寄せられていました
一方の連合国軍はスラバヤに上陸しようとする日本船団を発見し、カレル・ドールマン少将率いるアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリアの混成艦隊、通称ABDA艦隊が日本軍の上陸を阻止するために接近、これを撃滅しようすとる聯合艦隊との間で起こったのが、1942年2月27日のスラバヤ沖海戦です
海戦はまず昼間の遠距離砲撃戦から始まり、第二水雷戦隊旗艦「神通」が敵を発見すると砲撃を開始し、第五戦隊の「那智」「羽黒」も距離26,000メートルから砲撃を行いました
しかしこの長距離ではほとんど命中弾が見られず、イギリス重巡洋艦「エクゼター」に軽微な損害を与えたに過ぎませんでした
初陣となった酸素魚雷もほとんどが敵艦に到達する前に自爆するなどして効果を発揮できず、オランダ駆逐艦「コルテノール」一隻の撃沈に留まりました
その日の夜戦もまた戦果をあげられず、海戦は翌28日の昼戦に移行します
この日の戦闘では前日の砲撃戦による残弾不足から緩慢な砲撃戦に終始したものの、「那智」「羽黒」から発射された酸素魚雷がオランダ軽巡洋艦の「デ・ロイテル」「ジャワ」を撃沈し、これによって「デ・ロイテル」に座乗していたABDA艦隊司令官のドールマン少将が戦死、海戦に決着がつくこととなったのです
その後ABDA艦隊はバタヴィア方面に退避し、これを追撃した聯合艦隊とのバタヴィア沖海戦によって蘭印一帯の制海権は日本が完全に掌握することになります
こうしてスラバヤ沖海戦は蘭印作戦における一大艦隊決戦となったものの、遠距離砲撃戦でほとんど命中弾を与えられなかったことや、期待された酸素魚雷が188本のうち4本しか命中せず、様々な問題点もまた露呈した海戦となったのでした
参考文献
・佐藤和正『太平洋海戦1 進攻篇』講談社、1988年
・「丸」編集部『写真太平洋戦争2 中部・南部太平洋方面攻略作戦/蘭印攻略作戦/インド洋作戦』光人社、1995年
・「決定版太平洋戦争3 」南方資源と蘭印作戦」学習研究社、2009年
791
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/01(火) 18:46:08 ID:sfQE65Bs
3月1日はアドワの戦いが行われた日です
エチオピアは古代よりキリスト教王国として栄え、近代に至ってもその伝統は連綿と受け継がれていました
しかし18世紀頃から各地の豪族が独立勢力のように振る舞い、国王の権威が著しく衰退した諸公侯時代となっていました
このような状況にあって、
>>787
などで見たようにアフリカの植民地化を推し進めるヨーロッパ列強はエチオピアにも目を向けるようになります
この危機に際し、各地の豪族を破ってエチオピアを統一し皇帝となったテオドロス2世はヨーロッパ列強に対抗しますが、1868年のイギリスとのマグダラの戦いに敗れ戦死してしまいます
この時イギリスに協力し、新たに皇帝となったヨハネス4世もまたエジプト、フランス、イタリアの進出に対抗しますが、1889年にマフディーとの戦いで戦死しました
皇帝の相次ぐ戦死で混乱するエチオピアに対し、ヨーロッパ列強は本格的に侵攻を図るようになります
その列強の1つがイタリアでした
>>663
のローマ併合以降、イタリアは国内の体制固めに集中し対外政策には消極的でしたが、ヨーロッパ列強がアフリカへと積極的に進出するようになると、イタリアもまたアフリカへの関心を強め、まずチュニジアをアフリカ進出の拠点としようと動きます
しかし1881年にフランスがチュニジアを保護国とするとイタリアの計画は頓挫してしまいました
次にイタリアが目を向けたのがエチオピアで、1889年にエチオピア皇帝位を狙うショア王メネリクとの間にウッチャッリ協定を結び、メネリクの皇帝即位を支持するのと引き換えに、紅海沿岸地域にエリトリア植民地を建設したのです
イタリアはこの協定を口実としてエチオピアの保護国化を進めようとしますが、エチオピア皇帝となったメネリク2世はこれに反発、1893年に協定を破棄しました
これに対しイタリアはエリトリア植民地を拠点としてエチオピアへと軍事侵攻を開始しますが、エチオピア軍の激しい抵抗に苦戦します
というのも、メネリクはエチオピア皇帝となって以降国家の近代化を進め、特に軍隊の近代化には力を入れており、約9万の常備軍にライフル銃、機関銃、大砲などを導入し大きく戦力を増強させていたのです
苦戦するイタリア軍に対し、エチオピア軍が決定的な勝利を収めたのが1896年3月1日のアドワの戦いでした
この戦いでイタリア軍は全軍の4割を失うという壊滅的大敗を喫し、エチオピアでの軍事行動が困難な状況に陥りました
この戦いの後、強引な植民地政策を主導していたイタリア首相のクリスピは失脚、イタリアとエチオピアとの間にアディスアベバ条約が結ばれ、エチオピアの独立は保たれることとなったのでした
参考文献
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年
792
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/01(火) 18:48:58 ID:2rCzrDJ.
乙シャス!
793
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/02(水) 22:28:03 ID:18hS/uis
3月2日はアレクサンドル2世が即位した日です
ロシア皇帝ニコライ1世の代に始まったクリミア戦争ですが、
>>548
で見たようにロシアは劣勢に立たされ、ニコライはその最中の1855年3月2日に没します
このニコライの後を継いで皇帝となったのがアレクサンドル2世でした
新皇帝アレクサンドルはまずクリミア戦争の敗戦処理を行い、1856年にパリ条約を結んで戦争を終結させ、ここから彼の政治が始まることとなります
先帝ニコライは保守的な政策に終始し、社会や経済は停滞、農民の不満は高まり、クリミア戦争の敗北によって他のヨーロッパ列強と比べての近代化の遅れが痛感されたことで、ロシアでは農奴制の廃止や立憲制が主張され、ツァーリ体制の打破を叫ぶ者もいました
アレクサンドルはこれに対し、上からの改革を推し進めようとし、ツァーリ体制を維持しつつその強化に努めるとともに、国力の増強を図ります
1861年の農奴解放令を皮切りに、地方・都市行政改革、司法改革、教育改革、軍制改革が行われ、工業化のために鉄道が建設され、関税や通貨、財政面でも改革が進められたのです
これらの諸改革は「大改革」と称され、アレクサンドルはツァーリ体制を整備しつつ国家の近代化を推し進めていくこととなるのでした
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
794
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/03(木) 19:50:57 ID:fulr9Cw2
3月3日はサン=ステファノ条約が結ばれた日です
>>793
で見たロシア皇帝アレクサンドル2世による大改革ですが、当初から軌道に乗っていたわけではなく、国民の不満は解消されませんでした
この不満を外に逸らすためにアレクサンドルは対外進出を図り、その標的として目を向けたのがバルカン半島でした
バルカン半島ではオスマン帝国の弱体化に乗じて諸民族の独立運動が盛んであり、また普仏戦争でフランス皇帝ナポレオン3世が失脚したことでロシアはフランスに圧力をかけ、クリミア戦争の講和条約であるパリ条約を改定させることに成功、バルカン半島進出の準備を着々と進めていきます
そんな中の1875年、オスマン帝国支配下のボスニア=ヘルツェゴビナでギリシア正教徒が反乱を起こしし、これがブルガリアにも波及して1876年に四月蜂起が発生しました
またセルビア・モンテネグロがボスニア=ヘルツェゴビナの領有を主張し、オスマン帝国と開戦しましたがオスマン帝国によって撃退され休戦、四月蜂起もまたオスマン帝国によって武力で鎮圧され、多くのブルガリア人が虐殺されるという事態となりました
これを見たロシアは1877年4月、パン=スラヴ主義に基づくスラヴ人の解放、ギリシア正教徒の保護を口実としてオスマン帝国に宣戦、露土戦争が勃発しました
ロシアはシプカン峠の戦いでの勝利以降戦局を優位に進め、イスタンブールに迫ります
オスマン帝国はイギリスに支援を要請し、これに応えたイギリスがマルマラ海に軍を派遣したためロシアとイギリスとの間での戦争の危機が高まり、ロシアはオスマン帝国と講和条約を結びます
これが1878年3月3日に結ばれたサン=ステファノ条約で、この条約によってセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立が認められ、ロシア保護下でマケドニアを含むドナウ川からエーゲ海に至る大ブルガリア公国が建設されました
これによって不凍港の獲得を宿願とするロシアの南下政策が大きく前進することになりましたが、ロシアの南下を危惧するイギリスと、バルカン半島においてパン=ゲルマン主義を掲げるオーストリアが反発したため緊張が高まることにもなります
これは「誠実な仲介人」を自認するドイツ宰相ビスマルクの呼びかけによってベルリン会議が開かれ、ベルリン条約が結ばれるとともにサン=ステファノ条約は破棄され、ブルガリアは領土を縮小、ロシアの影響力も排除されることとなりました
これによってロシアの南下政策はまたも挫折し、
>>761
で見たようにロシアとドイツの関係は悪化、またブルガリアでもサン=ステファノ条約での大ブルガリア公国領の復活を目指す大ブルガリア主義が広まっていくこととなります
参考文献
・柴宣弘『図説バルカンの歴史』河出書房新社、2001年
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
795
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/04(金) 13:00:04 ID:2x46En2M
3月4日はヴワディスワフ2世が戴冠した日です
>>584
で見たポーランド王カジミェシュ3世大王が1370年に死去した後、男子のいなかった彼の後を継いだのがハンガリー王ラヨシュ1世でした
このラヨシュも男子ができないまま1382年に没すると、ポーランド貴族はラヨシュの娘であるヤドヴィガを国王に選出し、さらにヤドヴィガをリトアニア大公ヤゲウォと結婚させることにしました
当時のリトアニアはキリスト教を受容していませんでしたが、1385年、クレヴォ合同によってヤゲウォがポーランド王となり、彼とその臣民がキリスト教に改宗し、その領土がポーランドに組み入れられることなどが取り決められます
そして1386年3月4日、ヤゲウォはポーランド王ヴワディスワフ2世として戴冠し、ここにヤゲウォ朝が成立することとなったのです
このポーランド・リトアニアの連合によってヤゲウォ家は東欧において重要な地位を占め、ルクセンブルク家、ハプスブルク家と並んで覇権を競うようになりました
ヤゲウォ家、そしてポーランドの名声は
>>217
で見たタンネンベルクの戦いでヴワディスワフ2世率いる連合軍がドイツ騎士団に勝利したことでさらに高まり、後にボヘミア・ハンガリーでもヤゲウォ家の王朝が成立するなど、東欧での覇権を手にすることとなるのでした
参考文献
・山内進『北の十字軍』講談社、1997年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・伊藤孝之他『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
796
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/07(月) 13:16:02 ID:7Ic1lMLs
今日はドイツがラインラントに進駐した日です
第一次世界大戦後のドイツではヒトラー率いるナチスが政権を掌握し、1933年には軍備平等権が認められないことを不満とする軍部の要請もあり、ジュネーヴ軍縮会議と国際連盟から脱退しました
その後は対外的には特に目立った行動は無く、国内体制の整備に取り組みます
まず恐慌対策、失業者削減としてアウトバーン建設などの公共事業を進め、軍備を拡大し、失業者青少年を労働奉仕組織に吸収するなどの政策が行われました
経済政策としては四ヵ年計画を始め、それまで輸入に依存していた天然のゴム・石油・繊維を、国内産出量の多い石炭などを利用した合成ゴム・合成石油・合成繊維で代用し国内自給が図られます
これらの諸政策によって国内体制が整備されると、ヒトラーはヴェルサイユ体制の打破に乗り出しました
1935年初めには住民投票によってザール地方のドイツへの帰属が決定され、同年3月には>534で見たように徴兵制の復活と再軍備宣言が行われます
これに対しイギリス・フランス・イタリアは4月、北イタリアのストレーザで会談を開きドイツへの抗議とロカルノ体制の維持などを決めストレーザ戦線を形成するものの、翌1935年イギリスがドイツと英独海軍協定を結びドイツの再軍備を事実上認めたため、ストレーザ戦線は崩壊しました
ドイツの勢力拡大に対し、フランスはソ連との間に仏ソ相互援助条約を結びますが、ヒトラーはこれをロカルノ条約に対する違反として反発しました
またイタリアがエチオピアに侵攻したことで各国の注意が地中海方面に向けられたこともあり、国際状況はドイツにとって有利に動くこととなりました
そして1936年3月7日、ヒトラーはロカルノ条約を破棄し、非武装地帯とされていたラインラントに進駐するという行動に出たのです
このドイツの行動に対し、イギリス・フランス、そして国際連盟は抗議するのみでした
これはドイツによるヴェルサイユ体制・ロカルノ体制の打破を事実上黙認するものであり、ここに両体制は崩壊することとなったのでした
参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
797
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/09(水) 20:45:16 ID:/asvTHd.
3月9日は武帝が即位した日です
>>506
で建国された漢では、秦の失敗を省み急進的な中央集権化は行わず、都である長安を中心とする直轄地においては郡県制、地方においては劉氏一族や功臣を諸侯として領地を治めさせる封建制を併用する郡国制を採用します
やがて時代が降ると諸侯の勢力は強まっていき、中央政府に対し反抗的な態度を見せることが多くなっていきました
そのため中央政府では諸侯抑圧策を採るようになりますが、第6代皇帝である景帝が諸侯の領土を削減しようとしたことをきっかけに、前154年、呉王を中心とする7人の諸侯が反乱を起こす、呉楚七国の乱が勃発しました
反乱は漢を二分する大規模なものとなりましたが3ヶ月で鎮圧され、この後諸侯は都に移され、それまで諸侯が治めていた諸国は中央から派遣された官吏が治めるようになり、諸侯の勢力が弱まるとともに中央集権化が進むこととなりました
前141年3月9日、武帝が漢の皇帝に即位したのはこのような状況においてでした
武帝は推恩の令を発布、これによって嫡子のみが相続していた諸侯の領土がその子弟にも分けて相続されるようになり、その結果諸侯の領土は分割されていき、諸侯の勢力はますます弱まっていきます
また官吏任用制度として郷挙里選を採用、全国を13州に分けて各州に刺史を派遣して地方行政を監察させるなど、武帝の代で中央集権体制が確立し、漢の全盛期が現出することとなるのでした
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・鶴間和幸『中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国)』講談社、2004年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年
798
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/10(木) 19:49:59 ID:6QbuOrLw
3月10日は奉天会戦が終結した日です
1904年8月、日露戦争において両軍の主力が初めて激突した会戦である遼陽会戦で日本軍は勝利したものの、ロシア陸軍主力を撃滅、あるいは大打撃を与えるという目標は達成できず、またロシア軍以上に損耗率が高かったことで退却するロシア軍を追撃することはとても望めず、戦力回復のため10月まで作戦行動が取れない状態となりました
一方のロシア軍は初め鉄嶺まで退却する予定でしたが、日本軍の追撃が無かったことで沙河で停止し、ロシア本国からの増援による戦力回復に努めます
次に動いたのはロシア軍からで、総司令官クロパトキン大将は北上する日本軍に打撃を与えるため攻勢に出、日本軍右翼に集中攻撃をかけ遼陽方面に圧迫して後方の連絡線を遮断しようとしました
一方の日本軍はロシア軍が攻勢に出ることは察知したものの、児玉源太郎参謀長が旅順要塞攻防戦の視察に赴いていたこともあって積極的な行動が取れず、後手に回ることとなってしまいました
沙河で行われたこの会戦は両軍の痛み分けとなり、しばらくは膠着状態が続きます
日露両軍は遼陽と奉天の間で対陣に入り、越冬も兼ねて長さ50kmに及ぶ長大な防御陣地を構築して睨み合いとなりました
この間にロシア軍は本国からの増援を得て戦力を回復、日本軍も年が変わって1905年1月1日に旅順要塞を攻略し、乃木希典大将率いる第三軍をロシア軍との決戦に転用する目処がたちます
ここでロシア軍は乃木が到着する前に日本に打撃を与えるべく、黒溝台に奇襲をかけ日本軍左翼を包囲しようと動き出しました
日本軍はまたも後手にまわり、ロシア軍は攻勢を続けたものの、予定していた本格攻勢のために攻撃を打ち切り、日本軍は辛うじて窮地を脱することとなります
黒溝台会戦の後、日本軍は乃木大将の第三軍が合流して軍の再編を行い、ロシア軍も防御陣地に籠もり攻撃準備を整え、双方ともに3月10日前後を攻勢に出る日付と予定していました
しかし日本軍が攻撃開始予定日を2月25日に繰り上げたこともあって日本軍が先手を取り、ロシア軍は今度は後手に回ることとなりました
ここに日露戦争最大にして最後の会戦となる奉天会戦が始まったのです
第一・第二・第三軍、鴨緑江軍の5個軍からなる日本軍は鴨緑江軍の陽動によってロシア軍を左翼側に引き寄せ、その間に第三軍が左側面を迂回、第三軍と第二軍が側面と正面からロシア軍を同時攻撃する作戦を立てました
2月22日、作戦に基づき鴨緑江軍が動き出すと、日本軍の思惑通りにロシア軍は鴨緑江軍を抑えるために戦力を投入し、左翼を北上する第三軍も順調に進軍したことで3月1日には同時攻撃の準備が整い、日本軍は一斉攻撃に出ます
しかしロシア軍は強固な防御陣地を盾に頑強に抵抗し、唯一攻勢に出ていた第三軍もまたロシア軍の増援によって攻撃が停滞し始めました
ここで日本軍は第三軍を奉天の背後に回り込ませロシア軍の退路を断つとともに、第一軍には渾河を渡らせて撫順と奉天との間を遮断させる作戦に変更します
ロシア軍もこれを防ぐため日本軍の第三軍に攻撃を集め、両軍は互いの翼側をついて主導権を握ろうと衝突しました
この激戦の最中の3月6日、日本軍が鉄嶺に向かうという誤報がロシア軍総司令官クロパトキンに届き、ロシア軍の反撃が頓挫したこともあって、クロパトキンは防御線を短縮して前線の兵力を減らし、これを他方面に向かわせるため部隊を後退させることにしました
3月9日、クロパトキンは退却を命じ、戦局は後退するロシア軍と追撃する日本軍という構図となります
このロシア軍の転進によって日本軍の第三軍は壊滅し、ロシア軍の退路を断つことが困難となりました
児玉参謀長は追撃を諦めて奉天に残存するロシア軍を撃滅しようとし、3月10日に包囲攻撃をかけたもののすでにロシア軍の大半は脱出し、追撃する余力が無かったため、ここに奉天会戦は終結しました
日本軍はこの会戦に勝利はしたものの損害は大きく、ロシア軍の撃滅を果たせなかったことで、戦争全体の決着をつける勝利とまではいかず、勝敗の行方は
>>621
の日本海海戦を待つこととなるのでした
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・横手慎二『日露戦争史 20世紀最初の大陸間戦争』中央公論新社、2005年に
・隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論新社、2006年
799
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/13(日) 14:54:16 ID:jQuEGPZs
3月13日はオーストリア三月革命が勃発した日です
1840年代、ドイツの諸邦では貧困問題や社会問題への対応の遅れ、農作物の不作や金融恐慌による食糧暴動や失業、多民族国家であるが故の民族問題、身分制が残存した旧態依然の政治体制などによって市民の間で不満が高まっていました
そんな中フランスで勃発した
>>655
の二月革命はドイツにも波及します
まずバーデン大公国のマンハイムにおいて言論・出版・集会の自由、将校の自由選挙を伴う国民の武装、イギリス式の陪審裁判制の導入、全ドイツ議会の即時設立などの要求、いわゆる三月要求を掲げた請願書が反政府民衆集会において採択されました
集会の代表団が大公国の首都カールスルーエに到着すると、そこには大公国各地から市民や学生が集結しており、その圧力のもとで彼らは三月要求に加えて封建的諸特権の廃止や責任内閣制も要求します
バーデン議会はこれを受け入れ、立憲自由主義者を入閣させた新内閣、いわゆる三月内閣がここに成立することとなりました
バーデンでの成功を受けてバイエルン、ヴュルテンベルク、ヘッセン、ザクセン、ハノーファーなどの諸邦でも民主運動が起こり、同様に要求が受け入れられ三月内閣が成立します
そしてこの三月革命はドイツ連邦の盟主であるオーストリアにも及んだのです
1848年3月13日、オーストリアの首都ウィーンでは市民、学生、手工業者らが下オーストリア州会議議事堂前に押し寄せ、三月要求の速やかな審議とメッテルニヒの退陣を要求しました
彼らは議事堂に乱入して軍隊と衝突し、これをきっかけに暴動がウィーン市街地にも広がり、軍隊との市街戦、工場の占拠や機械の破壊、商店の略奪など暴動は大規模化していきました
当時オーストリアは北イタリアでも民族革命に直面しており、皇帝と新政府は譲歩し、旧体制の象徴となっていたメッテルニヒはイギリスに亡命します
こうして要求は受け入れられ、軍隊のウィーンからの撤兵、学生軍と国民衛兵の創設、言論・出版・集会の自由が認められ、憲法制定などが約束されました
しかし他の諸邦とは異なり三月内閣は成立せず、そのために権力の空白地帯が生じたことで皇帝は反撃に転じ十月までには運動は鎮圧されることとなるのでした
参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
800
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/13(日) 19:50:57 ID:u8kPnxqY
おっ再開してる
乙シャス!
801
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/15(火) 20:31:55 ID:lTqDt2zc
3月15日はミズーリ協定が結ばれた日です
アメリカ合衆国では、その北部地域が19世紀に入って産業革命が本格的に進展し、イギリスとの間で工業生産の競合が生じるようになりました
そのためアメリカの工業製品を守るためにイギリス製品を排除する動きが高まり、保護貿易が主張されるようになります
そしてこれを確実に実行するため、中央政府の権限を強化する連邦主義の立場を取ることとなったのです
一方南部では黒人奴隷を使役してタバコ・米・藍・綿花などを栽培するプランテーションが行われ、産業革命が進展して以降は特に綿花の需要が高まり、プランテーションが広がっていくことになります
南部ではプランテーションによって生産した原料をイギリスに供給し、イギリスから工業製品を輸入するという相互依存関係が成立していたため、北部とは異なり外国製品に関税をかけない自由貿易が主張されました
そして中央政府の権限を縮小し州の自治を尊重する姿勢をとったため、北部と南部は経済的にも政治的にも対立するようになったのです
両地域の対立は、西部開拓が進むにつれて生まれる新しい州の争奪戦という形で激化しました
そしてその対立は1819年にミズーリ州が連邦に加入する際に、奴隷制を認めるか否かによって一気に表面化することとなります
1820年3月15日に結ばれたミズーリ協定によって、北緯36度30分以北の新州は奴隷制を認めず、以南では奴隷州とする妥協が成立しました
しかしこれは一時的なものに過ぎず、両地域の対立はやがて南北戦争へと発展するのでした
参考文献
・有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史 ニューワールドの夢と現実』有斐閣、1990年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・紀平英作・亀井俊介『世界の歴史23 アメリカ合衆国の膨張』中央公論新社、2008年
802
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/08/07(日) 00:18:39 ID:WAM1u5uw
このスレも放棄されたんやなって
803
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2017/08/02(水) 03:36:25 ID:Wo.Fp0iA
こんなスレあったんだ
804
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2017/09/21(木) 21:49:34 ID:LlSnThbk
こんなんあったんだ…
誕生日スレ検索してたらここひっかかったけど2レス前が去年とは
805
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2017/11/24(金) 19:31:53 ID:MInU.mjg
とりあえずアドレスを貼るのみで、当スレからは立ち去りますが、
もし興味ある方は読まれて下さい。
いずれ誰もが直面する「死の絶望」の唯一の緩和・解決方法として。
(万人にとってプラスになる知識)
《神・転生の存在の科学的証明》
http://message21.web.fc2.com/index.htm
806
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2019/09/02(月) 20:06:57 ID:5okUStrM
9月2日が誕生日の方々おめでとうございます
巨乳先輩もニプルファックでイキすぎながら祝福
807
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2019/09/02(月) 20:08:02 ID:5okUStrM
すいません誤爆しました
808
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2019/09/09(月) 21:00:38 ID:WSxoGHVc
こんなスレあったんすねぇ
809
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2019/09/09(月) 21:05:52 ID:7jHE.X7Y
この掲示板にずっといたけどこんなスレあったことに今さら気づきました
巨乳先輩のクソしょーもない書き込みした人に初めて感謝しました
810
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2020/08/14(金) 20:49:28 ID:j40KgQ0U
したらば初期のスレなんすねぇ
811
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2020/08/14(金) 20:54:48 ID:gWsZW0Hs
>>806
一生NaNじぇいの聖遺物
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