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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】

1名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/03/18(火) 23:56:08 ID:QU46JH2Y
馬・人物・キャラの誕生日はもちろん、過去の出来事や記念日、ホモが好きそうな商品の発売日などについて語るスレ
AILE君へのネタ提供になればよいのだけれど、やりすぎると逆にネタ潰しやまとめの催促にもなりかねないので、まったり雑談していきましょう
個別誕生日スレを否定するスレではないので、個別スレは予告や告知をどうぞ

552Republica de Venexia:2015/04/03(金) 00:05:20 ID:???
4月3日はランカスター家のヘンリが産まれた日です

>>535で見たようにイングランド王エドワード3世は自らの権限で公爵位の授与を行いましたが、その中にコーンウォール公と並んで現在まで続くランカスター公がありました
この初代ランカスター公ヘンリ=オブ=グロスモントの次女ブランシュと、第2代ランカスター公ジョン=オブ=ゴーントとの間に1367年4月3日に産まれたのがヘンリ=ボリングブロク、後のヘンリ4世でした

やがてイングランドではエドワード黒太子の息子リチャード2世がイングランド王に即位しました
リチャードはいわゆる寵臣政治を展開し、2人の叔父をヨーク公、グロスター公とし、尚書部長官のマイケル=ド=ラ=ポールをサフォーク伯に、寵臣ロバート=ド=ヴィアをオクスフォード伯、そしてアイルランド侯、公として任命し、彼らは王の寵愛を受け権勢をほしいままにしました

1386年、影響力の強かったランカスター公ジョン=オブ=ゴーントがカスティーリャ王位を主張してイングランドを離れると寵臣政治に対する不満が表面化し、常設議会が設置され王権を監視するようになりました
危機感を覚えた寵臣らは挙兵しましたが1387年のラドコット・ブリッジの戦いに敗れ、寵臣政治は崩壊します
翌1388年には無慈悲議会が開かれてサフォーク伯、アイルランド公が死刑を宣告され、その他王の側近多数が逮捕、追放されました
ジョン=オブ=ゴーントが帰国したこともあって王権は抑えられ、しばらくは安定した状況が続きます

しかしリチャードは百年戦争においてフランスと休戦協定を結び国内統治に集中するようになると、無慈悲議会での決定を全て無効とし、寵臣政治を復活させました
ジョン=オブ=ゴーントの2人の息子も追放され、また1399年にジョンが死去するとランカスター公領土の没収を宣言したのです
これに対し追放中のヘンリ=ボリングブロクはイングランドに上陸し反撃、大貴族の多くがヘンリ側についたためリチャードは窮地に陥ります
同年9月にリチャードは廃位され、ヘンリはヘンリ4世として即位することとなるのでした


本日はランカスター朝創始者の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年

553Republica de Venexia:2015/04/04(土) 00:06:41 ID:???
4月4日は山本五十六が産まれた日です

五十六は1884年の今日、旧長岡藩士である高野家の6男として誕生しました
五十六は幼少より勉学に秀で、江田島海軍兵学校には次席で入学します、1901年のことでした
兵学校を卒業した1904年11月はすでに日露戦争が海戦しており、五十六も海軍少尉候補生として従軍、バルチック艦隊を破った日本海海戦にも参加します

日露戦争後、五十六は少尉、中尉、大尉、少佐と順調に昇進し、少佐時代の1916年には旧長岡藩筆頭家老山本帯刀家の養子となり、ここに「山本五十六」が誕生しました
1919年からはアメリカ留学を経験し、アメリカの圧倒的な国力を目の当たりにした五十六は石油の重要性、そして航空戦力の必要性を認識、帰国後は海軍航空隊の育成に力を注ぎました

1921年のワシントン海軍軍縮会議、1930年のロンドン海軍軍縮会議には政府随員として関与し、米英との劣勢比率を押し付けられるなかでますます航空戦力の充実に熱意を燃やすようになります
ロンドンから帰国した五十六は海軍航空本部技術部長に就任、これを2年10ヶ月務め、この時期に艦上戦闘機の整備が進められました
1934年、中将として臨んだ第2次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉は不調に終わり、帰国後五十六の冷遇が続くこととなります

しかし1935年12月に海軍航空本部長という願ってもないポストに就任、航空戦力の拡充を図りましたが、>>385で見たように海軍では無条約時代に突入し「大和」の建造に着手するなど、五十六が恐れていた建艦競争が再開されました
このような情勢で翌1936年11月には海軍次官に就任、日米関係の悪化を避けるため日独伊三国同盟交渉への反対に奔走しました

しかしこれは海軍強硬派や陸軍の反発を招き、五十六は命を狙われることとなります
ここで米内光政海相はその攻撃をかわすため、1939年8月、五十六を聯合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官に任命しました
これは緊急避難的人事でしたが、その直後にドイツがポーランド侵攻を開始、また及川古志郎海相が日独伊三国同盟に賛成、英米への対決姿勢が打ち出されるのです
こうして日本は戦争への道を突き進み、五十六は>>377で見たように真珠湾攻撃の構想に至ることとなるのでした


本日は後の聯合艦隊司令長官山本五十六の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「太平洋戦史シリーズVol.1 奇襲ハワイ作戦」学習研究社、1994年
・「丸」編集部「写真太平洋1 ハワイ作戦・南方攻略作戦」光人社、2003年
・「歴史街道2014年1月号 真珠湾と空母機動部隊」PHP研究所、2013年

554Republica de Venexia:2015/04/05(日) 00:00:18 ID:???
4月5日はウェストミンスター条約が結ばれた日です

17世紀に入り、イギリスでは商業革命と呼ばれる海外貿易構造の転換が進んでいました
北米、西インド諸島、アフリカなどに重商主義に基づく植民地帝国を建設し、また貿易商品もそれまでの毛織物から絹・綿織物やガラス、石鹸、金属製品などの生活必需品の輸出が増加し、輸入品は新大陸からの砂糖、コーヒー、タバコ、インドからの綿織物が増え、これらがヨーロッパへと再輸出されるようになっていったのです

そしてイギリスはこの貿易を安定させるため、国内産業の保護と海外市場の確保に乗り出し、植民地との輸出入をイギリス船舶のみに限定する航海条例を1651年に発布します
これに反発したのがオランダでした
航海条例がオランダ商船の締め出しを図るものであったのが明白だったからです
またオランダは公海上での経済活動は自由なものであると主張し、この海洋自由の原則の立場からも航海条例への反対を明確にします

翌1652年、オランダはイギリスに宣戦布告し、英蘭戦争が勃発しました
この戦争は>>495で見たように1674年2月にウェストミンスター条約が結ばれるまで断続的に続き、1654年4月5日、同名のウェストミンスター条約によってひとまず休戦協定が結ばれたのでした


本日は第一次英蘭戦争の命日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

555Republica de Venexia:2015/04/06(月) 00:10:18 ID:???
4月6日はジョアン1世がポルトガル王となった日です

百年戦争初期の時代、カスティーリャ王国では王位を巡ってカスティーリャ継承戦争が勃発しました
王位を争う当事者はペドロ1世とエンリケ=トラスタマラで、それぞれイングランド、フランスが支援しての継承戦でした
これはペドロ1世を暗殺したエンリケの勝利に終わり、エンリケ2世として即位することとなります

これに反発したのがポルトガル王フェルナンド1世で、王位継承権を主張した彼はカスティーリャに侵攻しますが撃退されます
すると今度は>>552で見たランカスター公ジョン=オブ=ゴーントのカスティーリャ王即位を支援しカスティーリャへの対抗を図ります
ところがこちらも失敗、やがて1383年にフェルナンドは嫡子なくして没しました

フェルナンドの死後ポルトガルでは王女ベアトリスが女王となり、その夫でカスティーリャ王でもあるフアン1世がポルトガルの国政に介入するようになりました
ポルトガル国民の不満は高まり、これを背景にフェルナンド1世の弟にあたるジョアンが勢力を拡大、カスティーリャ軍の直接介入を撃退しその地位を確固たるものとします

そして1385年4月6日、ジョアンは議会で国王に選出され、ジョアン1世として即位するのです
国王となってからもカスティーリャとの抗争は続き、再びイングランドと同盟、ジョン=オブ=ゴーントの娘と結婚しウィンザー条約を結びました
この時のイングランド・ポルトガル同盟は>>170で見たように現在まで続く英葡永久同盟となるのです
やがてジョアンはカスティーリャの影響を排除し、その息子エンリケ航海王子とともに海外進出を推進、ポルトガル繁栄の基礎を築いたのでした


本日はポルトガル・アヴィス朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年

556Republica de Venexia:2015/04/07(火) 00:01:13 ID:???
4月7日はフランシスコ=ザビエルがリスボンを出港した日です

>>334で見た、ルターの改革運動によって始まった宗教改革はカトリックの危機感を煽ることとなりました
カトリックはそれまでにも行われてきた改革をより具体的なものとするため、1545年、イタリアのトリエントにて公会議を招集します
1563まで断続的に開催されたこの公会議でカトリックはその基本原理を再確認し、明確化したのです
このトリエント公会議にいたるまでの教会改革、ルターらの宗教改革に対して対抗宗教改革とも呼ばれる改革の中心となったのがイエズス会でした

イエズス会は1534年にスペイン人のイグナティウス=ロヨラらが創立した修道会で、会士に軍隊式の規律と訓練を課し、ヨーロッパ各地、そして海外でも精力的な布教活動を展開しました
このうち海外布教の先がけとなったのがフランシスコ=ザビエルです
イエズス会創立者の1人でもあるザビエルは1541年4月7日、ポルトガル王ジョアン3世の依頼によってリスボンからアジア地域への布教に出発しました
ポルトガル領の各地を布教して回ったザビエルは明にも立ち寄り、1549年には日本にも至ることとなるのでした


本日はイエズス会世界宣教の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ピーター・ミルワード、松本たま訳『ザビエルの見た日本』講談社、1998年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
・浅見雅一『日本史リブレット人44 フランシスコ・ザビエル 東方布教に身をささげた宣教師』山川出版社、2011年

557Republica de Venexia:2015/04/08(水) 00:38:23 ID:???
4月8日はヨハネス2世が死去した日です

>>46で見たように、ビザンツ帝国中興の祖となったアレクシオス1世は1118年8月に死去しました
彼の死後、その娘のアンナ=コムネナは自身の夫であるニケフォロス=ブリュエンニオスを次期皇帝にと画策します
これを未然に防ぎ、新たに皇帝となったのがヨハネス2世コムネノスだったのです
ヨハネスは父帝アレクシオスの貴族優遇政策を引き継ぎ、またトルコ人の大臣アクスークの登用に代表されるように、身分が低くとも有能な人物を取り立て、帝国の政治を安定させました

ヨハネスは軍人としてもその才能を発揮し、1133年にはコムネノス家の故郷であるカスタモンを奪回し、小アジア南部沿岸地域の回復に成功します
その領域はアンティオキアにも及び、シリア方面への遠征も行われたのです
しかし1143年、ヨハネスは遠征先で狩りをしている最中、毒矢が指に刺さるという事故に遭ってしまいます
死を悟ったヨハネスは末子のマヌエルを皇帝とするという遺言を残し、同年4月8日に死去しました
こうして即位したマヌエルが、>>235のユスティニアヌス1世以来の征服称号を名乗った皇帝で、その称号の通りユスティニアヌス時代の地中海帝国復活を目指して大規模な征服活動を行うことになるマヌエル1世なのでした


本日はマヌエル1世コムネノス「大帝」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年

558Republica de Venexia:2015/04/09(木) 00:58:56 ID:???
4月9日はリーグニッツの戦いが行われた日です

モンゴル帝国代2代皇帝オゴタイは1234年に金を滅ぼし、その後新たな首都カラコルムを建設し、また駅伝制や中央行政機構を整備し国家としての基礎を整えました
そしてオゴタイはモンゴルの勢力を拡大するため、チンギス=ハーンの長子ジュチの次子バトゥに西征を命じます
ヨーロッパなどが位置する西北ユーラシアはもともとジュチに委ねられる予定であり、そのジュチが急死してしまったため、その遺志をバトゥが継ぐという意味合いもありました

またこの西征にはジュチ家の諸王の他、チャガタイ家、オゴタイ家、トゥルイ家からも長子やそれに準ずる王子も参加し、後にモンゴル帝国の皇帝となるグユク、モンケも従軍するという、まさに次代のモンゴルを担う人材が集結した大遠征だったのです
そしてこれらの若者を補佐するのが歴戦の武将、チンギス=ハーン股肱の臣である四狗の1人、スブタイでした

こうして準備が整えられた西征軍は1236年に遠征を開始し、1237年にルーシに侵攻、1240年には>>375で見たようにキエフ大公国を滅ぼすのです
ここでバトゥは軍団を大きく2つに分け、バトゥ率いる本隊はハンガリー方面へ、もう一隊はポーランド方面へと侵攻しました
ポーランド方面部隊のうち、バトゥの兄オルダが率いる一団はピアスト朝のポーランド王国に侵入し、その首都クラクフを占領します
これに続いてチャガタイの6男バイダル率いる一団もポーランドへと侵攻し1241年4月9日、リーグニッツにてポーランド・ドイツ連合軍に大勝し、ポーランドはモンゴルによって蹂躙されることとなります
バトゥ本隊もこのリーグニッツの戦いの2日後に>>63の通りモヒの戦いでハンガリーに大勝、東欧はモンゴルによって席巻されることとなったのでした


本日はワールシュタット(死体の山)の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡上 軍事拡大の時代』講談社、1996年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
・ジャン=ポール・ルー、田辺希久子訳『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社、2003年

559Republica de Venexia:2015/04/11(土) 00:47:40 ID:???
4月10日はモルヴィッツの戦いが行われた日です

>>323で見たように、ハプスブルク家の継承問題に端を発しオーストリア継承戦争が勃発します
1740年12月にシュレジエンに侵攻したプロイセンに対し、オーストリアも反撃しシュレジエン奪回を図ります
この両国主力が初めて激突したのが1741年4月10日に行われたモルヴィッツの戦いでした
そしてこの戦いでプロイセンの歩兵軍が大きな働きを示すこととなります

>>433で見たように、プロイセンは大選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムのもとで常備軍の設置に成功、軍事力強化が図られました
そしてこれをさらに発展させたのが大選帝侯の孫にあたるフリードリヒ=ヴィルヘルム1世でした
フリードリヒ=ヴィルヘルムはプロイセンの軍制改革を進め、徴兵制の実施を断行します
1733年、フリードリヒ=ヴィルヘルムは徴兵区制度を施行し、全国を500戸単位の徴兵区に分け、各徴兵区からそれぞれ指定された連隊に対して兵役義務を追わせたのです
徴兵された者は最初の1年間に基礎訓練を受け、以降は年に2回ずつ2ヶ月間の軍事訓練に服し、その勤務年限は20年とされました

フリードリヒ=ヴィルヘルムは国家歳入の約3分の2をこれらの軍事力増強政策につぎ込み、彼の治世でプロイセンの兵力は38,000人から81,000に増大し、プロイセン総人口の30分の1が軍人という軍事国家を作り上げたのです
フリードリヒ=ヴィルヘルムはこれらの功績から兵隊王と称され、そしてこの強力な軍隊が息子のフリードリヒ2世に引き継がれます

話を元に戻し、オーストリアとの決戦となったモルヴィッツの戦いは、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世時代に鍛え上げられた軍隊、特に歩兵軍の奮戦によりオーストリアに勝利することとなります
この勝利によってプロイセンは国際的な名声を得、オーストリアは一時窮地に陥りました
その後オーストリアは挽回するものの、プロイセンは強力な軍隊でこの戦争を戦い抜き、>>319のアーヘンの和約でシュレジエン領有を認められることとなるのでした


昨日はオーストリア継承戦争におけるプロイセン勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・フィリップ・ヘイソーンスウェイト、稲葉義明訳『フリードリヒ大王の歩兵 鉄の意志と不屈の陸軍』新紀元社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年

560Republica de Venexia:2015/04/11(土) 01:04:52 ID:???
4月11日はゼノンが死去した日です

東ローマ皇帝ゼノンの治世では、>>265で見たように西ローマ帝国がオドアケルによって滅亡し、そのオドアケルが西ローマ皇帝位をゼノンに返上、名目上とはいえゼノンが東西ローマ帝国の皇帝となった時代でした
しかしこのオドアケルが東ローマ帝国に干渉するようになると、ゼノンは軍事長官である東ゴート族のテオドリックにオドアケル討伐を命じ、493年にはテオドリックはラヴェンナを攻略しイタリア王となります

しかしその少し前の491年4月11日、ゼノンは死去していました
この後を継いだのがアナスタシウスで、ゼノンの皇后であるアリアドネと結婚し、アナスタシウス1世として即位したのです
アナスタシウスは497年にテオドリックを正式にイタリア王とし、従属下に置くこととしました
また小アジアのイサウリア人による反乱を鎮圧し、バルカン半島を南下してきたアジア系遊牧民ブルガール人も撃退し、帝国外部の安定化に務めました

また内政においては財政改革を行い、破綻寸前にあった帝国財政を再建することに成功します
その成果は、彼の没時には32万ポンドもの金が国庫に蓄えられるまでになったことからも伺えます
>>235で見たユスティニアヌス1世の大征服戦争は、このアナスタシウス1世の財政再建があってこそと言えるでしょう


本日は東ローマ・レオ朝最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『ビザンツ文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年

561Republica de Venexia:2015/04/12(日) 00:00:53 ID:???
4月12日はイングランド・スコットランド連合王国の国旗が制定された日です

>>17で見たように「処女王」エリザベス1世には世継がおらず、その死によってヘンリ8世の血筋が絶えテューダー朝は断絶します
その後継者として1603年にイングランド王となったのが、テューダー朝初代ヘンリ7世の血を引く、>>226でも登場したスコットランド王ジェームズ6世でした

ジェームズはイングランド王としてはジェームズ6世となり、イングランド・スコットランド連合王国を統治することとなります
正式に連合王国となるのは1707年のアン女王時代のグレートブリテン王国成立を待ちますが、ジェームズもまた両国統一のための様々な政策を打ち出します
その1つが両国国旗統合であり、白地に赤十字のイングランド国旗セント・ジョージ・クロス、青地に白斜め十字のセント・アンドリュー・クロスを組み合わせた国旗を1606年4月12日に制定、イングランド・スコットランド統合の象徴として用いたのでした


本日はユニオンフラッグの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・青木道彦『エリザベス1世 大英帝国の幕開け』講談社、2000年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

562Republica de Venexia:2015/04/13(月) 00:06:44 ID:???
4月13日はハインリヒ5世が即位した日です

>>448で見たように、ハインリヒ5世の父帝ハインリヒ4世はローマ教皇グレゴリウス7世と対立し、1077年のカノッサの屈辱後も叙任権闘争は続きました
ドイツの反皇帝派はハインリヒの行動を認めようとせず、対立国王としてシュヴァーベン公ルドルフを選出します
一方のグレゴリウス7世も1080年に改めてハインリヒ4世を破門、ルドルフの即位を承認しました
ところがドイツ諸侯は教皇の介入によって自身の権益が失われることを恐れ、教皇を支持しませんでした

ハインリヒ4世はこれに乗じ再びグレゴリウスを破門し、クレメン.ス3世を教皇に選出、ここに2人の国王・2人の教皇が併存することとなったのです
この闘争をくぐり抜けたのはハインリヒ4世でした
同年のエルスターの戦いでルドルフが戦死、ハインリヒ4世はそのままローマに進軍しグレゴリウスは追放され、サレルノで客死します
ところが1088年に教皇ウルバヌス2世が即位したことで状況が一変します

>>366で見たようにウルバヌスは十字軍を主導するなど巧みな外交手腕を発揮し、ハインリヒ4世と対立関係にあるトスカーナ女伯とバイエルン公ヴェルフを結婚させ、南ドイツと北イタリアに反皇帝派の勢力圏を作り上げたのです
ハインリヒ4世も反撃しますが1090年のイタリア介入に失敗し、また長子コンラートがウルバヌス側に付き、ハインリヒ4世に反旗を翻すという事態になります
1093年にはウルバヌスがハインリヒ4世に協力していた対立教皇クレメン.ス3世を追放しますが、ハインリヒ4世は1098年に王国会議にてコンラートを廃嫡することでひとまず小康状態となります

1106年には次男のハインリヒ5世を国王に選出し、ラント平和令の発布によって事態の沈静化を図りますが状況は好転せず、逆にハインリヒ5世すらもローマ教会と和解しハインリヒ4世に反逆、ハインリヒ4世は幽閉され廃位させられました
こうして1105年4月13日、神聖ローマ皇帝としてハインリヒ5世が即位し、>>294で見たヴォルムス協約によってひとまずの妥協をみることとなるのでした


本日は神聖ローマ帝国・ザリエル朝最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

563Republica de Venexia:2015/04/13(月) 00:07:10 ID:???
NGワードに引っかかるとは思わなかった

564名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/04/13(月) 07:44:12 ID:Lb0Svd3c
>>563
長文でNG出ると大変ですよね
自分はSS書いてるとたまにありました

565Republica de Venexia:2015/04/14(火) 00:14:32 ID:???
4月14日はアドリアノープルの戦いが行われた日です

>>64の第4回十字軍でコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は一時滅亡しました
十字軍は>>110で見たようにフランドル伯ボードゥアンを皇帝に選出し、かつての東ローマ帝国のような大帝国の建設を目指して各地の征服に乗り出しました
ひとまずビザンツ帝国の旧領を全て併合しようとしたわけですが、これには大きな困難が伴いました
というのも、>>46>>557で見たように、ビザンツ皇帝アレクシオス1世やヨハネス2世が行った貴族優遇政策により、各地方で貴族が勢力を持っていたからでした

ラテン帝国が征服事業を開始した際、ビザンツ貴族の一部はラテン帝国の支配に服し、協力する者もいました
しかし大部分のビザンツ貴族はラテン帝国の支配に反発し、激しい抵抗を行いました
このためラテン帝国による統治は安定せず、その支配権は限定されたものとなります
さらに悪いことにビザンツ貴族が第二次ブルガリア帝国と結び、ブルガリア皇帝カロヤンが侵攻してきます
このカロヤン、>>133で登場した第一次ブルガリア帝国皇帝シメオン1世を模範とし、かつての帝国領の多くを回復した傑物でした

1205年4月14日、ボードゥアンのラテン帝国軍とカロヤンのブルガリア帝国軍はアドリアノープルにて激突し、ラテン帝国はブロワ伯ルイが戦死、ボードゥアンが捕虜となり後に死去するなど大敗を喫し、ビザンツ帝国旧領の征服活動は頓挫することとなります
のみならずカロヤンは余勢をかってラテン帝国各地に侵攻し、ラテン帝国の支配体制はますます弱体化しました
またビザンツ帝国亡命政権のエピロス専制侯国やトレビゾンド帝国、そして>>227で見たニケーア帝国も勢いを得、コンスタンティノープル奪回に至るのでした


本日はラテン帝国征服事業の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年

566Republica de Venexia:2015/04/15(水) 00:02:48 ID:???
4月14日はバーリが陥落した日です

ビザンツ帝国の南イタリア支配は>>235で見たようにユスティニアヌス1世の大征服事業により復活しましたが、早くも5世紀末にランゴバルドがアヴァール族と同盟して南下し、ラヴェンナとローマを結ぶラインの南を辛うじて支える状態となりました
7世紀になると>>253で見たヤムルーク河畔の戦いでイスラームに大敗、シリア・メソポタミア・エジプトを奪われるという大打撃を受け、イタリアでもこれに乗じてランゴバルド王国がビザンツ領に侵攻します

ランゴバルド王国はビザンツ帝国のラヴェンナ総督領を占領し、これに危機感を覚えたローマ教皇ステファヌス3世はフランク王国のピピンを頼り、ピピンはこれに応じてランゴバルド王国を撃破、その領土をビザンツ帝国ではなくローマ教皇に献上します
これが>>466でも見たピピンの寄進、そして教皇領の始まりでした
こうしてイタリアにおける領土が南部に限定されるようになったビザンツ帝国は>>306でも取り上げたテマをここでも採用し、カラブリアとプッリアにテマ長官を派遣し、この地域の維持に努めました

やがてビザンツ帝国は>>232で見たようにマケドニア朝のニケフォロス2世・ヨハネス1世・バシレイオス2世の時代に全盛期を迎えます
その頃イタリアではプッリアでランゴバルド貴族がビザンツ帝国からの独立運動を展開しノルマン人がこれを支援しますが、バシレイオス2世が派遣したビザンツ軍は1018年のカンネーの戦いで独立派に大勝し、イタリア南部諸侯に宗主権を確認させました
しかし1021年、>>544で登場した神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世がビザンツ帝国の勢力拡大を阻止するため南イタリアに遠征し、カプア侯国とサレルノ侯国を占領、ビザンツ帝国の勢力拡大は頓挫することとなります

ハインリヒ2世の死後イタリア南部の抗争は再び激化し、その中でノルマン人が台頭するようになります
その内の一人レイヌルフは1030年にアヴェルサ伯となり、このアヴェルサがノルマン人の活動拠点となりました
1035年にはノルマンディからオートヴィル家のギョーム、ドゥローゴ、オンフロワの三兄弟が南イタリアに入り、ビザンツ領のプッリアを占領したのです
その頃のビザンツ帝国はというと、>>349で見たようにゾエを中心とする宮廷抗争が展開されており、とてもノルマン人に反撃できる状況ではありませんでした

やがて南イタリアにはドゥローゴの異母弟ロベール=ギスカールが上陸しビザンツ領カラブリアに侵攻します
ロベールは1053年に反ノルマン同盟をチヴィターテの戦いで撃破し、1059年にはローマ教皇ニコラウス2世を援助した見返りとして正式にプッリア・カラブリア公に受封され、ビザンツ領征服の仕上げにかかりました
そして1071年4月15日、ロベールはビザンツ領として残っていたバーリを攻略し、ここに旧ビザンツ領の平定を完了します
ビザンツ帝国は反撃しようにも、>>261で見たようにマンジケルトの戦いでセルジューク朝に大敗、壊滅的な打撃を被りとても南イタリア奪回に乗り出せる状況になく、以後南イタリアにビザンツ帝国が戻ってくることはありませんでした


本日は南イタリアにおけるビザンツ帝国領の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年

567Republica de Venexia:2015/04/16(木) 00:35:12 ID:???
4月16日はドイツ帝国で憲法が制定された日です

>>433で見たように、1871年1月、普仏戦争に勝利したプロイセンの国王、ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿にて皇帝に即位し、ドイツ帝国が誕生しました
そして新たな帝国の政治体制を整えるため、北ドイツ連邦憲法を元に憲法案がまとめられていきます

この北ドイツ連邦憲法はプロイセン王が元首として連邦主席を務め、ビスマルクが連邦政府を率いる連邦宰相となることを定めており、その憲法案は官僚が作成したものの、ビスマルクが出したいわゆる「プトブス口述」という指示によるところが大きいものでした
そして北ドイツ連邦憲法は憲法審議議会において、連邦元首の統治行為に対して宰相が連署することを通して責任を負うという規定が追加されるなどの修正があったものの、ビスマルクが提出した案が土台であることは変わりませんでした
つまりビスマルクがドイツ帝国の政治体制をも規定することとなったと言ってもいいでしょう

そして1871年4月16日、ドイツ帝国憲法が制定されます
この憲法の前文によれば、ドイツ帝国は北ドイツ連邦を代表するプロイセン王とバイエルン王以下、4ヶ国の君主との永続的な同盟として結成されたものであるとされました
国家元首はプロイセン王が世襲するドイツ皇帝だったものの、帝国の主権は皇帝ではなく、永続的な同盟に加わったプロイセン以下22の領邦君主と3つの都市国家の参事会が保持しており、その25の政府代表が構成する連邦参議院が帝国の主権を代表していたのです

また帝国における正式な大臣は皇帝が任命する宰相のみで、宰相の下に置かれた行政機関も宰相府のみでしたが、後に各帝国官庁が成立していきます
とはいえその帝国官庁の長官は大臣ではなく、あくまで宰相直属の部下という立場にすぎませんでした

立法機関に目を移すと、上院的な存在が先の連邦参議院とすれば、下院的な存在となったのが帝国議会です
帝国議会は満25歳以上の男子普通選挙によって選出されるという、当時のヨーロッパでは先進的なものでした
あらゆる法案は帝国議会の多数の支持を得なければ成立せず、帝国議会は立法機関として重要な位置を占めることとなります
もっとも帝国宰相は先に見たように皇帝によって任命され、帝国議会の信任を必要とはしなかったので、完全な議院内閣制にはほど遠いものでしたが、その先進的な内容は大日本帝国憲法にも影響を与えることとなったのでした


本日はドイツ帝国憲法の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

568Republica de Venexia:2015/04/17(金) 00:02:15 ID:???
4月17日はマリーノ=ファリエルが処刑された日です

第4回十字軍後、クレタ島をはじめ地中海各地に拠点を獲得し繁栄を迎えたヴェネツィア共和国ですが、13世紀末には一時後退の兆しが見え始めました
というのも、ライバルであるジェノヴァ共和国が台頭し、特に1293〜99年の抗争においてジェノヴァ艦隊に劣勢であることが明らかとなったからです
また>>227で登場した、ビザンツ帝国と敵対していたシャルル=ダンジューと同盟したことでビザンツ帝国との関係が悪化したことも挙げられます
さらに1281〜99年にはヴェネツィア最重要の植民地クレタ島で反乱が勃発したことも影響していました
そして1291年に十字軍最後の拠点アッコンが陥落したことでローマ教皇は新たな十字軍を組織することを試み、そのためヴェネツィアのエジプトとの交易を停止するよう強要するということもありました

こうしてヴェネツィアは対外関係において困難な時代となりましたが、同時に国内でも混乱が起こりました
これがヴェネツィア共和国史上最大の反政府運動とされるティエポロの反乱です
1310年、バイアモンテ=ティエポロ、マルコ=クィリーニ、バドエロ=バドエルが元首ピエトロ=グラデニーゴに対して起こした政権奪取のクーデターはしかし失敗に終わりました

これら一連の危機の対応として、ヴェネツィア共和国は2つの改革を行いました
それは大評議会のメンバーを限定することと、共和国のあらゆる危機を防衛するための十人委員会(コンシーリオ・ディ・ディエチ)の確立でした
十人委員会はティエポロの反乱後に緊急措置として作られましたが、1334年に常設機関となり、強大な権限を有し共和国における最有力組織となりました
そしてこの組織が最初に機能したのがマリーノ=ファリエルの反乱においてだったのです

1355年、元首マリーノ=ファリエルは平民の支持のもと貴族制を打倒し、独裁権力を得ようと企てました
ファリエル家はそれまで2人の元首を輩出した名門であり、マリーノ自身も大使や十人委員会のメンバーを務め、コンスタンティノープル周辺警備や黒海警備の海軍提督、またクレタ総督も経験してきた傑物でした
しかしそんなマリーノが企てた陰謀もたちどころに十人委員会に関知されることとなり、十人委員会は迅速に対処します
結果陰謀は阻止され、1355年4月17日、マリーノ=ファリエルは処刑されその他陰謀に関与した約50人が裁かれたのです
現在でもヴェネツィアで見られるパラッツォ=ドゥカーレの一室に並ぶ歴代元首の肖像画の中で、1つだけ肖像画の代わりに黒幕を描いた箇所がありますが、それがヴェネツィア共和国第55代元首マリーノ=ファリエルの箇所なのです
この事件の後十人委員会をはじめとする政府機関はますます強大化し、以後反政府運動は皆無となるのでした


本日はヴェネツィア共和国における反政府運動の命日です、おめでとうございます


参考文献
・永井三明『ヴェネツィア貴族の世界 社会と意識』刀水書房、1994年
・W.H.マクニール、清水廣一郎訳『ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797』岩波書店、2004年
・藤内哲也『近世ヴェネツィアの権力と社会 「平穏なる共和国」の虚像と実像』昭和堂、2005年

569Republica de Venexia:2015/04/18(土) 00:02:47 ID:???
4月18日はドゥーリットル隊が日本本土を空襲した日です

>>377の1941年12月に行われた真珠湾攻撃以降、日本は南方資源地帯攻略の第一段作戦で大きな成果をあげ、1942年4月5日、さらなる勢力拡大の第二段作戦を内定しました
一方のアメリカは真珠湾攻撃以降、各地で敗退を繰り返し反撃のきっかけをつかめないまま1942年を迎えることとなりました
アメリカ大統領ルーズヴェルトは政府への非難を解消するため、宣伝的な意味合いの強い東京空襲を構想します
この構想はすぐに陸海軍に伝えられ、具体案が練られました

アメリカ合衆国艦隊司令長官キング大将と作戦参謀ロー大佐は、空母で日本近海に近づきそこから爆撃機を発進させて空襲するという計画を立案します
しかし日本の哨戒線より外から発進させるには艦上爆撃機では航続力に不安があったため、陸軍のB25ミッチェル中爆撃機を空母に搭載して遠距離から発進させるという案が提案されたのです
こうして計画がまとめられ、航空作戦参謀のダンカン大佐、陸軍航空隊総指揮官アーノルド大将、そして飛行機隊指揮官ドゥーリットル中佐のもと訓練・準備が進められました

1942年4月2日、16機のB25が空母「ホーネット」に搭載され、重巡洋艦2隻・駆逐艦4隻に護衛されて出撃しました
13日にはハルゼー中将率いる空母「エンタープライズ」以下重巡洋艦2隻・駆逐艦4隻からなる第十六機動部隊と合流し、17日には東京東方の1000マイル地点で燃料を補給、19日の攻撃に向けて進撃します
ところが日本の哨戒線外である500マイル地点での攻撃を予定していたものの、それより前の地点で哨戒艇に発見されるという誤算が起こってしまったのです
そのためドゥーリットル中佐は空襲計画を変更し直ちに発進することを提案、ハルゼー中将もこれを要れ1942年4月18日、ドゥーリットル隊は日本から623マイル地点から発進しました

ドゥーリットル隊は12時15分頃に日本本土に到達し、東京、川崎、横浜、横須賀、さらに名古屋、四日市、神戸を空襲し、そのまま中国方面へと退避していきました
日本軍も迎撃するものの一機も撃墜できず、またセイロン沖海戦から帰投中の南雲機動部隊などに米空母の追撃を命じるものの、米空母はドゥーリットル隊発進後すぐに反転退避したため捕捉することはできませんでした
こうしてドゥーリットル隊による日本本土空襲は成功し、空襲の被害自体は小さかったものの日本陸海軍の受けた衝撃は大きく、その挽回のためミッドウェー作戦が陸海軍の共同作戦として進められます
そして>>155のミッドウェー海戦に至ることとなるのでした


本日はドゥーリットル空襲の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・佐藤和正『太平洋海戦1 進攻篇』講談社、1988年
・「丸」編集部『写真太平洋戦争3 ドーリットル空襲 珊瑚海海戦 ミッドウェー海戦』光人社、1995年
・森史朗『ミッドウェー海戦 第一部:知略と驕慢』新潮社、2012年

570Republica de Venexia:2015/04/19(日) 00:03:52 ID:???
4月19日レキシントン・コンコードの戦いが行われた日です

>>489の七年戦争、そして並行して北米で行われたフレンチ=インディアン戦争に勝利したイギリスはケベックとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得し、フランス勢力に対し優位に立つこととなりました
しかし戦争には勝利したものの、イギリスは多額の戦費を赤字国債発行によって賄っていたため、戦後巨額の負債を抱えるようになります
そしてこの負債の一部を北米植民地に負担させたのです

1765年、イギリスは印刷物全てに印紙を貼り納税を義務付けた印紙法を施行します
これに対し植民地側は「代表なくして課税なし」をスローガンに激しく反発し、印紙法は翌年撤廃されました
しかしこのままでは財政改善は望めないため、イギリスは1767年、蔵相タウンゼンド主導で茶や日常品に対する課税法案、いわゆるタウンゼンド諸法を発布します
植民地側はイギリス製品のボイコットをもってこれに応じ、本国との対立は深まっていきました

両者の対立は1773年の茶法によってますます激化します
この茶法は財政難に陥っていた東インド会社を救済するため、北米植民地への茶の輸送、独占販売権を東インド会社に与えるというものでしたが、これに対し茶貿易で利益をあげていたマサチューセッツ植民地、とりわけボストンの商人が反発し、>>98で見たボストン茶会事件が起こるのです

イギリスも報復として1774年に強圧的諸法と呼ばれる強硬策によってボストン港を封鎖しました
またマサチューセッツ植民地の特許状が取り上げられ自治権を剥奪されるという事態となり、植民地側はフィラデルフィアで大陸会議を開き本国の弾圧法の撤廃を要求、これが認められなかったため本国との通商断絶へと至りました
そして1775年4月19日、レキシントン・コンコードにおいて武力闘争に発展し、1783年に独立を勝ち取ることとなるのでした


本日はアメリカ独立革命の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・五十嵐武士・福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中央公論新社、2008年

571Republica de Venexia:2015/04/20(月) 00:01:23 ID:???
4月20日は顕如が石山本願寺から退去した日です

1568年、織田信長は上洛すると本願寺に対し莫大な矢銭を要求、一時はこれに妥協する姿勢を見せましたが、1570年、本願寺宗主顕如は信長に対する徹底抗戦を決断します
顕如は決起以前より各地から門徒衆を集め、さらに紀伊の雑賀衆も招聘し準備を整えていました
さらに甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、越前の朝倉義景、近江の浅井長政、阿波の三好三人衆、安芸の毛利輝元らの大名と同盟を結び、同盟国の門徒衆も動員して信長に対抗することとなります

本願寺決起の直前、信長は京都に進軍しつつあった三好三人衆に攻撃を加えていましたが、本願寺は決起後この三好三人衆への加勢という形で織田軍に攻撃し、信長は朝倉義景と浅井長政が京都を目指して進軍してきたため撤退、緒戦は本願寺の勝利となりました
顕如はすかさず各地の門徒衆に決起を指令し、伊勢長島の門徒がこれに応じ一向一揆を結成します

信長はまずこの長島一向一揆の鎮圧を図りますが、2度にわたって失敗に終わり、顕如は浅井・朝倉との連携を強化し信長への包囲を強めました
さらに武田信玄もこれに呼応し>>391で見た三方ヶ原の戦いで徳川家康を破りますが、その後信玄が陣中で病死、さらに浅井・朝倉も信長によって滅ぼされ包囲網は瓦解します
これが1573年のことで、また翌1574年には長島一向一揆が信長によって殲滅され、1575年には越前一向一揆も制圧されました

この劣勢を挽回するため、1576年、顕如は大坂に布陣する織田軍に決戦を挑み天王寺の戦いとなります
この戦いで本願寺は塙直政を討ち取り明智光秀を孤立させますが、信長自らが陣頭指揮をとって攻め込んできたため形勢が逆転、本願寺は籠城戦を強いられるようになりました
この間本願寺は雑賀衆の鉄砲隊、また村上水軍を中核とする毛利水軍が運び入れる兵糧を頼りに防衛に努めます
特に毛利水軍は第一次木津川沖海戦で織田水軍を破り大量の兵糧を運び入れることに成功しました
しかし翌1577年、信長は雑賀衆の本拠紀州を攻撃し、膠着状態となるものの和睦を結んで雑賀衆を牽制し、1578年には第二次木津川沖海戦で鉄甲船の活躍により毛利水軍を撃破します
こうして頼みの雑賀衆・毛利の支援が思うように得られなくなった本願寺は孤立していきました
そして開戦から10年になる1580年4月20日、顕如は信長の依頼を受けた正親町天皇の勅命を受け入れ本願寺から退去、ここに決起から10年間にわたって続けられた石山合戦が終結したのでした


本日は石山合戦の命日です、おめでとうございます


参考文献
・武田鏡村『織田信長 石山合戦全史 顕如との十年戦争の真実』ベストセラーズ、2002年
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・神田千里『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』吉川弘文館、2007年

572Republica de Venexia:2015/04/21(火) 00:35:00 ID:???
4月21日はパーニーパットの戦いが行われた日です

>>387で見たようにモンゴル帝国のフビライ=ハーンはモンゴル帝国の統合を進め、>>482で見たユーラシア大ネットワークの整備が行われました
こうしてモンゴルがユーラシアのほぼ全域を統合すると、ユーラシア規模での交易が促進され、経済・文化交流も発展していきます
やがてモンゴル帝国は瓦解し各地で新興勢力が台頭していきますが、その多くがモンゴル帝国の遺産を引き継ぐ形となったのです

15世紀以降ユーラシア各地に成立した大帝国は、モンゴル帝国が有していた柔軟かつ効率的な統治組織を備え、広大な地域を治め多様で大人口の人々を支配する術を受け継いでいました
ティムール帝国、オスマン帝国、ロシア、清などがこれにあたり、これらの多くがチンギス=ハーンの血統など、モンゴル帝国に由来する権威を利用していました
ティムールは婚姻関係を利用してモンゴルの正統に連なることでモンゴル帝国の後継者を自任し、清もその初期において全モンゴルの大ハーンを称しユーラシア東部の遊牧国家を支配下に組み込むことに成功したのです

このような例の1つにバーブルも挙げられます
バーブルはティムールの子孫にあたり、ムガル帝国建設の際にはモンゴルの正統たるティムールの血統を強く意識していました
「ムガル」がモンゴルのペルシア語であるということからもそれが伺えます
さてこのバーブル、ティムール朝サマルカンド政権の支配下であるフェルガナに産まれたものの、ウズベク族との抗争に敗れアフガニスタンのカーブルに本拠を移します
ここで勢力基盤を固めたバーブルはやがてインドへと南下し、当時インドを治めていたデリー=スルタン朝のロディー朝と対峙しました
そして1526年4月21日、バーブルはパーニーパットの戦いでロディー朝を破ったのです
ここにロディー朝は滅亡し、バーブルはムガル帝国を建国することとなるのでした


本日はムガル帝国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・杉山正明・北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』中央公論新社、2008年
・永田雄三・羽田正『世界の歴史15 成熟のイスラーム世界』中央公論新社、2008年
・間野英二『世界史リブレット人46 バーブル ムガル帝国の創設者』山川出版社、2013

573Republica de Venexia:2015/04/22(水) 00:06:55 ID:???
4月22日はカブラルがブラジルに漂着した日です

>>555で見たポルトガル・アヴィス朝を開いたジョアン1世は海上進出を推し進め、特に息子のエンリケ航海王子はアフリカ西岸探検を進めインド航路開拓の基礎を築き、大航海時代の幕開けとなります
新航路開拓をさらに発展させたのがジョアン2世で、彼の命で探検に出たバルトロメウ=ディアスが1488年に喜望峰に到達しました
次代のマヌエル1世もまたインド航路開拓を進め、ヴァスコ=ダ=ガマが1498年にカリカットに到達するなど、ポルトガルの海上進出は着々と進められていったのです

カブラルもまたマヌエル1世の命でインド航路開拓に挑んだ航海者で、ヴァスコ=ダ=ガマに続く第2回インド遠征に臨みました
カブラルの艦隊は西に進み、やがて陸地を発見します
1500年4月22日、カブラルはブラジルに漂着し、ここをポルトガル領と宣言します
ポルトガルのブラジル領有はトルデシリャス条約に基づいて正式に認められ、以降ブラジルはポルトガルの植民地となるのでした


本日はポルトガル領ブラジルの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年

574Republica de Venexia:2015/04/23(木) 00:17:15 ID:???
4月23日はオラニエ公マウリッツが亡くなった日です

>>445で見たように、オランダ独立戦争はその初期においてスペインに対し劣勢で、ユトレヒト同盟を結成したもののオラニエ公ウィレムが暗殺されるなど同盟には内部対立がありました
スペインから派遣されたパルマ公はこの分裂を利用し同盟の崩壊を図ります
これに対抗したのがホラント州の政治家オルデンバルネフェルトで、彼は同盟の分裂を防ぎつつパルマ公と対峙し、やがてスペイン王フェリペ2世がフランスのユグノー戦争に介入するため、パルマ公およびフランドル軍主力をネーデルラントから移動させたことで窮地を脱しました
しかしフェリペ2世の後を継いだフェリペ3世がフランス・イギリスと講和したことで再びフランドル軍主力がネーデルラントに集結し、ネーデルラント反乱軍は劣勢となります
オルデンバルネフェルトはスペインに停戦交渉を申し込み、1609年に休戦協定が成立、辛くも状況の打開に成功しました

この休戦期間中に権力を握ったのがオラニエ公マウリッツです
彼は1618年にオルデンバルネフェルトを処刑して最高司令官の地位を維持すると、スペインに対抗するため軍制改革に乗り出しました
マウリッツは古代ローマの軍事書を参考にその規律、組織、戦術などを学び、これによってネーデルラント軍は統制の取れた火力・機動力を備えた軍隊を作り上げたのです
またマウリッツは当時の主流だったスペインのテルシオに変わり歩兵・騎兵・砲兵の三兵戦術を確立し、これをもって休戦協定明けの1621年以降スペインに挑み、互角の勝負を展開します
マウリッツ自身は1625年4月23日に死去しますが、その軍制改革は>>285で見たようにスウェーデンのグスタフ=アドルフによって完成され、また彼が鍛え上げたネーデルラント軍も八十年戦争を戦い抜き、ついには独立を達成することとなるのでした


本日は軍事革命産みの親の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年

575Republica de Venexia:2015/04/24(金) 00:02:24 ID:???
4月24日は戦列艦「ヴァーサ」が引き上げられた日です

>>527で見たようにスウェーデンはストルボヴァの和約でロシアと講和し、バルト帝国建設の第一歩を踏み出しました
スウェーデン王グスタフ=アドルフは矛先をポーランドに転じ、バルト海沿岸地域の支配を巡って対ポーランド戦争が続けられます
当初はポーランド領のリヴォニア、東プロイセンを占領するなどスウェーデン優勢で進みましたが、ポーランドはスタニスワフ=コニェツポルスキが指揮官とし反撃、敗北を重ねることとなったのです

このコニェツポルスキに対する敗北がグスタフ=アドルフに軍制改革の必要性を痛感させ、昨日>>574で見たオラニエ公マウリッツの戦術を導入するきっかけとなるのですが、ここではスウェーデン海軍に目を向けましょう
スウェーデンはバルト海の制海権
を確保するため艦隊を派遣しますが、コニェツポルスキ率いるポーランド海軍に大敗を喫し、こちらも艦隊の整備が急務となったのです

そこでグスタフ=アドルフは1626年に起工された戦列艦「ヴァーサ」の建造を急がせ、また過大な性能を要求します
元々46門の予定だった砲門を70門とさせ、当初一段式だった砲甲板を二段式に変更させたのです
こうして急ピッチで建造が進められた「ヴァーサ」は1628年、全長62m、最大幅11.7m、高さ50m、排水量1,210トン、大砲64門というスウェーデン最大、17世紀の軍艦としても最大級の戦列艦として竣工しました
この「ヴァーサ」はストックホルムにて処女航海を行いますが、砲甲板の増加、過大な砲門数により重心が高くなっており、非常に不安定な状態での航海となりました
そしてわずか3km進んだところで横風にあおられ、バランスを失って転覆、そのまま沈没してしまったのです

こうして海の藻屑となってしまった当時のスウェーデン海軍最新鋭艦「ヴァーサ」は、沈没から300年以上経った1956年4月24日に引き揚げられます
そしてこの「ヴァーサ」、沈没地点が低音地帯であったため腐食が少なく、ほとんど原型を留めた状態でした
17世紀当時の戦列艦の構造や設備を今に伝える貴重な資料として、現在はストックホルムのヴァーサ博物館に展示されているのです


本日は戦列艦「ヴァーサ」の引き揚げ日です、おめでとうございます


参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年

576Republica de Venexia:2015/04/25(土) 15:36:48 ID:???
4月25日はルイ=ドゥ=ポワシィが産まれた日です

フランス王国カペー朝は>>229で見た、1214年7月のブービーヌの戦いでフィリップ2世が大勝し、その地位を確立しました
そしてちょうどこの年の4月25日、フィリップ2世の息子ルイ8世の次男として産まれたのがルイ=ドゥ=ポワシィ、後のルイ9世です
フィリップ2世は1223年に亡くなり、その後を継いだルイ8世も先王の事業を継続し征服を進めましたが、その治世わずか4年にして急死、彼の長男フィリップも夭折していたため、ルイ=ドゥ=ポワシィが1226年11月にルイ9世として即位したのです

とはいえ即位当時ルイ9世は12歳で統治はままならず、母親で先王の王妃であったブランシュ=ドゥ=カスティーユが摂政としてルイを支えることとなりました
ブランシュはルイが成人するまで王位を狙う諸侯を抑え、1234年4月25日、ルイは成人を宣言し親政を開始します

ルイ9世の治世における事業としては、まず十字軍が挙げられます
>>521で見たように神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が奪還したイェルサレムが再びイスラームの手に落ち、ルイはこれの奪還のため十字軍を起こしたのです
1248年、ルイは十字軍を率いてアイユーブ朝のエジプトを攻撃しますが、ダミエッタを占領したものの敗北、自身も捕虜となった後1254年に帰国しました

この十字軍失敗の後、ルイは以前にもまして敬虔になったといいます
国内の教会保護に尽力し、各教派に僧院を寄進、またキリスト教神学教育のためパリにソルボンヌ大学を創設したのです
またその公明正大な人物を期待され、フランス国内のみならず国外での調停を任されるようになり、イタリアでの教皇派と皇帝派との調停も頼まれました
内政においても高等法院を創設して裁判制度を整え、統一通貨トゥルノワ銀貨はヨーロッパでも権威のある貨幣となります

そして最後の事業として再び十字軍を組織、1270年に>>40などで登場した弟シャルル=ダンジューとともにチュニジアを攻めますが、その途上の1270年8月25日、あえなく陣没してしまいます
こうして志半ばで死去したルイですが、彼の孫にあたるフランス王フィリップ4世の働きかけによって1297年にフランス王として唯一列聖され、彼の命日である8月25日はカトリックの祝日となったのでした


本日は「聖王」ルイ9世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年

577名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/04/25(土) 21:37:33 ID:nlwgE/Ac
今日は早いんですね、乙です

578Republica de Venexia:2015/04/25(土) 21:43:47 ID:???
>>577
いやすみません、昨日書いておいた後、日付変わってから書き込むのを忘れてまして
聖王ルイのは今日の分ですはい

579名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/04/25(土) 21:46:14 ID:nlwgE/Ac
>>578
言われてから今日の分見た記憶がないことに気付きました・・・(池沼)
失礼しました

580Republica de Venexia:2015/04/26(日) 00:00:51 ID:???
4月26日はロンドン秘密協定が結ばれた日です

>>329で見たようにイタリアはサルデーニャ王国の下で統一が進められ、1861年にはイタリア王国が成立しました
1866年には普墺戦争でプロイセン側として参戦しヴェネツィアを併合、1870年には普仏戦争に乗じてバチカンを除く教皇領を併合しました
この教皇領併合後は国内統治に集中するため、イタリアのヨーロッパ列強への関わりは極力避けるようになります
しかしその一方で孤立化も危惧したため、ドイツとの関係が深まり、そのドイツを通じてオーストリアとの関係も生じるようになりました

しかしオーストリアはかつての敵国であり、また1870年以降もオーストリア領に留まっていたトリエステや南チロル、いわゆる「未回収のイタリア」を巡って対立しているという状態でした
1881年にフランスがチュニジアを保護国とするとイタリアはこれに反発し、翌1882年にドイツ、オーストリアとともに三国同盟を形成するものの、オーストリアとの対立により有効に機能したとは言い難いものでした

この両国の対立は第一次世界大戦においても継続し、イタリアは当初中立の立場を取ることとなりました
その間にもイタリアは未回収のイタリア譲渡をオーストリアに要求しましたが満足な回答は得られず、その結果イタリアはイギリス・フランスへと接近します
そして1915年4月26日、イタリアは三国協商側につく見返りとしてトリエステやダルマツィア獲得を約束したロンドン秘密協定を締結、三国同盟からの離脱を決定したのです

その後イタリアは連合国側としてオーストリアに宣戦布告し、>>340で見たようにイタリア戦線にて決定的な勝利を収めます
もっとも大戦後に行われたパリ講話会議ではダルマツィアやフィウメなどはイタリア領とは認めないという空気が支配的となり、イタリアは会議をボイコットする事態となります
その後サン=ジェルマン条約で旧オーストリア領のトレンティーノ、南チロル、イストリアなどを獲得するもののイタリア国民の不満は大きく、やがてファシスト党が台頭することとなるのでした


本日は連合国側イタリアの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

581Republica de Venexia:2015/04/27(月) 00:02:12 ID:???
4月27日はブルゴーニュ公フィリップが亡くなった日です

>>440で見たように、フランス王シャルル5世は百年戦争におけるフランスの混乱を収拾し、イングランドに対する劣勢を挽回することに成功しました
このシャルル5世が1380年に亡くなった後に新国王となったのがシャルル6世でした
しかしシャルル6世は即位当時わずか11歳であり、シャルル5世の弟であるアンジュー公ルイ、ベリー公ジャン、ブルゴーニュ公フィリップ、シャルル5世の王妃の兄であるブルボン公ルイが補佐を行うこととなります

しかしこの4人、新国王が幼いのにつけ込み政治を私物化し、その中でもブルゴーニュ公フィリップが事実上の摂政となって政権を掌握します
しかし1388年、シャルル6世が親政を宣言するとフィリップは政権の中枢から遠ざけられ、代わってシャルル6世の弟のオルレアン公ルイが重用されるようになりました

ところが王権を固めようとした矢先の1392年、シャルル6世は精神に異常をきたし、政務をとるのが困難な状況に陥ってしまいます
これを機にブルゴーニュ公フィリップは勢力を挽回し、宮廷はブルゴーニュ公フィリップを中心とするブルゴーニュ派、オルレアン公ルイを中心とするオルレアン派に分かれて政治闘争を繰り広げます
この両派はも百年戦争におけるイングランド問題で対立しており、>>288で見た教会大分裂(大シスマ)の時期でもあり、このシスマ問題でも対立、さらに神聖ローマ帝国や北イタリアね諸侯との関係による勢力争いなど、まさに一触即発の状況にありました

もっともブルゴーニュ公フィリップの存命中は表立っての抗争には発展せず、フィリップは1404年4月27日に死去します
その後を継いだのが長男のジャンであり、このジャンは無畏公の渾名が示す通り非常に好戦的な人物で、ブルゴーニュ派とオルレアン派の宮廷闘争は他国をも巻き込む武力闘争へと発展することとなるのでした


本日はフィリップ豪胆公の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社、1996年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤賢一『フランス王朝史2ヴァロワ朝』講談社、2014年

582Republica de Venexia:2015/04/28(火) 01:12:26 ID:???
4月28日はイスラームがイベリア半島に上陸した日です

>>311で登場したムアーウィヤによって開かれたウマイヤ朝は、第5代カリフのアブド=アルマリクの時代に最盛期を迎え、各地への征服活動を進めます
東方では将軍ハッジャージュ=ブン=ユースフがイラクを制圧後ブハラ、サマルカンドを征服し、さらにフェルガナ地方へも進出するなど、中央アジアのイスラーム化のさきがけとなりました

一方、西方へと勢力を拡大していったのが将軍ムーサー=ブン=ヌサイルでした
ムーサーはビザンツ勢力を北アフリカから駆逐し、チュニジアのカイラワーンを拠点としてさらに西へと進出します
この地域には先住民族ベルベル人が居住していましたが、ムーサーはこれを従えモロッコまで勢力を拡大しました

モロッコの制圧後、ムーサーの指揮下にあったベルベル人の将軍ターリク=ブン=ジヤードはベルベル人部隊を率い、711年4月28日、イベリア半島のジブラルタルへと上陸します
当時イベリア半島は>>259などで登場した西ゴート族が治めていましたが、グアダレーテの戦いでターリクは西ゴート王国軍に大勝し一気に首都トレドを陥れました
ムーサーも翌年自ら軍を率いてイベリア半島に上陸し、ターリクよりも西寄りで進軍しセビージャやメリダなどを制圧していきました

2人はトレドで合流し、ここでイスラーム軍は再び二手に分かれます
一方は北西方面へ、もう一方は北東方面へと進みサラゴサやバルセロナを占領、715年にはほぼイベリア半島の征服を完了したのです
以後もイスラームの進軍は続き、これが止められるのは>>373で見たトゥール・ポワティエ間の戦いでカール=マルテルに敗北するのを待つこととなります


本日はアル=アンダルスの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年

583Republica de Venexia:2015/04/29(水) 00:01:18 ID:???
4月29日はスペイン王国がグラン・カナリアを征服した日です

イベリア半島でのレコンキスタの進展は>>407で見ましたが、ここではその終盤、カトリック両王の治世での話となります
1469年、カスティーリャ王女イサベルとアラゴン王子フェルナンドが結婚し、いわゆるカトリック両王と称されることとなります
イサベルは1454年のエンリケ4世の死後女王となりますが、その即位に反対する勢力が存在しました
それはカスティーリャ王エンリケ4世の一人娘フアナを支持するグループで、王位継承をめぐって内戦が勃発したのです

この継承権争いによって特にガリシアとアンダルシアが無秩序状態に陥り、フアナ派はポルトガルの援助を受けイベリア半島全体を巻き込む内戦となりました
この内戦は1476年のトロの戦いでイサベル派が勝利して以降はフアナ派は支持を失い、イサベルの王位継承で決着をみることとなります

この過程で征服されたのがカナリア諸島でした
カナリア諸島周辺海域は大西洋へ進出するためには重要な地域であり、アラゴン王国にとっての地中海と同等の価値を有していました
そのためカトリック両王は当初からこの海域の確保を狙っており、同じく海上進出に積極的であったポルトガルと衝突することになります
そのポルトガルはフアナ派に味方して敗れたことでカスティーリャに対し劣勢となり、カスティーリャはそのまま1478年4月29日、カナリア諸島のグラン・カナリアを征服し、その主都ラス・パルマスに司教区と高等法院を設置します
同じくカナリア諸島に属するテネリフェ、ラ・パルマも征服され、これらの地域には多くの自治権が与えられました
このカナリア諸島領有は1479年のアルカソヴァス条約でイサベルの王位継承とともに認められ、正式にカスティーリャ領となったのでした


本日はカスティーリャ領カナリア諸島の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年

584Republica de Venexia:2015/04/30(木) 02:10:06 ID:???
4月30日はカジミェシュ3世が誕生した日です

ポーランド・ピアスト朝は長らく分裂状態にありましたが、13世紀末から統一の機運が高まっていきます
そのなかで1295年、ヴィエルコポールスカ侯プシェミスウ2世が、1079年のボレスワフ大胆王以来約200年ぶりに国王として戴冠しました
プシェミスウは翌年暗殺されボヘミア王ヴァーツラフ2世がポーランド王となるものの、1306年にヴァーツラフ2世の息子ヴァーツラフ3世が暗殺され、ボヘミア支配は長くは続きませんでした

この時台頭してきたのがクヤーヴィ侯ヴワディスワフ1世短躯王で、1320年に正式に国王として戴冠しポーランド人国王の下でのポーランド統一の必要性を訴えたのです
このヴワディスワフ短躯王の息子として1310年2015年4月30日に産まれたのがカジミェシュ3世でした
カジミェシュは>>103で見たように内外に抜群の政治的手腕を発揮し、ポーランドの国際的地位を高めることに成功します
1364年にはポーランドの都クラクフに神聖ローマ皇帝カール4世、ハンガリーの大王ラヨシュ1世ら多数の君主が招かれ、対トルコの十字軍問題について議論したことからも伺えます


本日はカジミェシュ大王の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ステファン・キェニェーヴィチ編、水島孝生・加藤和一夫訳『ポーランド史』恒文社、1996年
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年

585Republica de Venexia:2015/05/01(金) 00:39:41 ID:???
5月1日はイングランドとスコットランドが合同した日です

イングランドでは>>226で見たようにスコットランド王でもあったジェームズ1世が即位して以降、スコットランドとの同君連合となります
やがてイングランドは>>197の清教徒革命で一時王政が打倒されたもののチャールズ2世が王政復古を果たし、>>487で見た名誉革命を経てメアリ2世とウィリアム3世の共同統治が行われていました

このうちメアリは1694年に没し、ウィリアムも1702年に亡くなりますが、2人には子供がいなかったため、メアリの妹にあたるアンが女王となりました
しかしこれに対し、名誉革命で追放されたジェームズ2世の亡命先であるフランスのルイ14世が、ジェームズの息子であるジェームズ=フランシス=エドワードをイングランド王に擁立するなど、アンの即位に反対する運動が起こりました

これはアイルランド、スコットランドでも同様で、これらの地域ではジェームズ派を意味するジャコバイトによる反体制運動が盛んとなります
特にイングランドとスコットランドの対立は激しく、1705年の外国人法によりスコットランド人が外国人と規定された頂点に達しました
この争乱を収めるため、1706年からイングランド・スコットランド両国合同のための交渉が行われることとなります
そして1707年5月1日、両国の合同法が発効し、イングランドとスコットランドは正式に統合されたのでした


本日はグレートブリテン王国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

586Republica de Venexia:2015/05/02(土) 00:02:08 ID:???
5月2日はゾフィー=アウグステ=フリーデリケが産まれた日です

ゾフィーは1728年5月2日、後にプロイセンの元帥となるアンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン=アウグストとホルシュタイン=ゴットルプ家のヨハンナ=エリーザベトの長女として産まれました
と、このように生粋のドイツ人であった彼女ですが、やがてロシアへと旅立つ日がやってきます

その頃のロシアはという女帝エリザベータの治世でしたが彼女には子供がおらず、1741年に即位後間もなく後継者の選定を行います
ここで選ばれたのが、ホルシュタイン=ゴットルプ公カール=フリードリヒと、エリザベータの姉であったアンナ女帝との息子、つまりピョートル大帝の孫であるペーター=ウルリッヒでした
なおペーターは同じく国王に子供のいないスウェーデンも後継者として迎え入れようとしていましたが、当時ロシアとスウェーデンはバルト海を巡って争っているところでした
これが実現した場合、ロシアはピョートル大帝の孫が帝国スウェーデンを率いるということになるため、いち早くロシアに迎えることとなったのです
こうして1743年、ペーターは皇太子としてロシアに入り、ピョートル=フョードロヴィチと改めてました

次に行われたのがピョートルの妻、つまり皇太子妃の選択で、これに選ばれたのがゾフィーだったのです
ホルシュタイン=ゴットルプ家を通じてピョートルのまたいとこにあたるゾフィーは1744年にロシア入りし、名をエカチェリーナ=アレクセーヴナと改めました
この2人が後のロシア皇帝ピョートル3世、女帝エカチェリーナ2世となるのですが、ピョートルのプロイセン贔屓、プロイセン王フリードリヒ2世>信奉によって夫婦仲がうまくいかず、やがてクーデターによりピョートルが廃位されエカチェリーナが女帝となったのは>541でも見た通りです


本日は後のエカチェリーナ2世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

587Republica de Venexia:2015/05/03(日) 00:08:56 ID:???
5月3日はメフメト2世が亡くなった日です

オスマン帝国スルタン、メフメト2世の若年期は>>469で、その後のコンスタンティノープル征服は>>146で見ました
ここではその後のメフメト2世について見ていくことにしましょう

メフメトはコンスタンティノープル征服後も東西に征服活動を続けていきます
まず標的となったのはバルカン半島の強国、オスマン帝国の北上にとって最大の障害となっていたハンガリーで、その玄関口にあたる拠点ベオグラードの攻略に着手しました
しかしこのベオグラードを守るのは>>469で見たようにメフメトの一時退位の原因となったフニャディ=ヤノシュで、メフメトはまたもこれに敗退し、自身も負傷して退却します

こうしてハンガリーへの攻勢は頓挫しましたがバルカン半島内部への征服は順調に進行し、1456年にはアテネ公国、59年にはセルビア、60年にはビザンツ系国家モレア専制公国、62年にはヴラド=ツェペシュ亡き後のワラキア公国、63年にボスニア、78年には>>367にも登場したスカンデルベグ亡き後のアルバニアを征服、バルカン半島のほぼ全土がオスマン帝国支配下となったのです

小アジアもまた征服が進められ、1461年にビザンツ皇帝の子孫であるコムネノス家が支配するビザンツ系最後の国家トレビゾンド帝国を滅ぼし、黒海南岸を制圧しました
66年には小アジアん陸上交易ルートを抑えるカラマン君侯国を征服し、内陸交易ネットワークの掌握にも成功します
メフメトはさらに小アジア東部へと兵を進め、ヴェネツィア共和国と同盟する白羊朝を撃破、小アジア東部にも勢力を拡大しました
その後の1475年には黒海北部沿岸に侵攻、ジェノヴァ共和国の拠点カッファを占領し、クリミア半島のクリミア=ハーン国を服属させ、黒海をも掌握したのです

メフメトの征服活動は留まることを知らず、今度はルネサンス文化が栄えるイタリアに目を向けます
第二のローマ、コンスタンティノープルを征服した彼はローマをも征服すべく一時はイタリア半島のオトラントを占領しましたが、1481年5月3日、進軍を開始していたメフメトは陣中で急死します
当時49歳、その死因や最後の遠征の目的地は明らかにはなっていませんが、一代の英傑の生涯がここで幕を下ろしたのでした


本日は「征服者」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年

588名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/05/03(日) 18:28:07 ID:5Zf8EIos
>>587
信長みたいな一生ですね…

589Republica de Venexia:2015/05/03(日) 18:30:01 ID:???
>>588
征服につぐ征服ですよね
最期も暗殺という説がありますし、確かに中国遠征に出立する時の信長みたいですね

590Republica de Venexia:2015/05/04(月) 01:23:25 ID:???
5月4日は沖田畷の戦いが行われた日です

肥前の戦国大名、龍造寺隆信が頭角を現したのは1559年のことでした
もともと龍造寺氏は守護大名の少弐氏に従属する国衆でしたが、隆信の曽祖父家兼の代で一時肥前を追われその後逆襲、隆信の代で独立を果たしたのです
この龍造寺の成長を警戒したのが豊後をはじめ肥前も含む6ヶ国の守護となった大友宗麟でした
毛利が九州に侵攻し大友を攻めた際、龍造寺が毛利方についたこともあって宗麟は隆信の本拠地佐嘉城を攻撃します
圧倒的に寡兵だった隆信でしたが、鍋島直茂らの夜襲によって大友方の総大将大友親貞を討ち取り撃退に成功しました

この1570年の今山の戦いの後の龍造寺の勢力拡大は著しく、小田鎮光を謀殺、江草武種・後藤貴明の養子に隆信の息子を入れ家督を継承させ肥前支配を固めていきます
1577年には大友が耳川の戦いで島津に大敗したことで大友による支配が弱まり、龍造寺はますます伸長していくこととなります
筑後の蒲池鎮並、田尻鑑種、肥後の隈部親泰、肥前の有馬晴信、大村純忠を従属させ、隆信は「五州二島」の太守と称されるようになりました

しかし隆信は1581年に蒲池鎮並を謀殺、83年に肥後国衆の赤星統家の人質を殺害するなど残虐な行為が目立つようになり、たびたび反乱が起こるようになります
そのなかで肥前の有馬晴信は龍造寺から離反して島津と結びましたが、この晴信への対応と肥後を巡る領土争いもあって島津と直接対決に至ります
そして1584年5月4日、隆信は肥前島原の沖田畷に大軍を進め、晴信とその援軍である島津家久を攻撃しますが島津得意の「釣り野伏」に遭って大混乱に陥り、隆信自身も討ち取られるという大敗を喫したのです
隆信と有力な重臣の多くを失った龍造寺はこの後急速に衰退し島津に従属、やがて鍋島直茂が実権を握っていくこととなるのでした


本日は「肥前の熊」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年
・「歴史読本 2013年9月号 戦国大武将の後継者」中経出版、2013年

591Republica de Venexia:2015/05/05(火) 00:24:26 ID:???
5月5日はアディスアベバが陥落した日です

>>549で見たように19世紀のアフリカはイギリスとフランスが積極的に進出し、国家統一達成が世紀後半であったドイツは植民地獲得に遅れをとっていました
これはイタリアも同様で、1895年に植民地とならずに独立を保っていたエチオピアに侵攻しますが、翌96年のアドワの戦いで大敗し断念せざるを得ませんでした

時代は降りムッソリーニ政権となっていた1935年、イタリアは再びエチオピアへと侵攻します
国際連盟はこれを非難し経済制裁を課しましたが石油の禁輸措置を取らなかったため効果は薄く、逆にムッソリーニは国民の反発を煽ってエチオピア侵略の支持を取り付けたのです
そして1936年5月5日、エチオピアの首都アディスアベバは陥落、皇帝ハイレ=セラシエ1世もイギリスに亡命しイタリア領エチオピア帝国が成立しました

やがて第二次世界大戦が勃発するとイタリア領東アフリカはイギリスの攻撃を受け、1941年4月にはアディスアベバが解放されます
亡命していたハイレ=セラシエ1世も、奇しくもアディスアベバ陥落と同日の5月5日に入城、皇帝に復位しました
その後イタリアの東アフリカ支配は崩壊し、ハイレ=セラシエの戦後は>>338で見た通りです


本日はエチオピア最後の皇帝の再誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年

592Republica de Venexia:2015/05/06(水) 00:32:53 ID:???
5月6日はハインリヒ2世が産まれた日です

オーリヤックのジェルベールをシルウェステル2世として教皇とし、ローマ帝国の復活を目指したオットー3世でしたが、志半ばの22歳という若さで急死してしまいます
このオットー3世の後継者として1002年にドイツ王となったのがハインリヒ2世でした

ハインリヒ2世は973年5月6日、ザクセン朝初代のハインリヒ1世の曾孫にあたり、オットー3世没後の後継者争いにはその血筋を根拠として正当な後継者であると主張しました
ハインリヒ2世は王権を固めるため、自身の所領であったバイエルン大公領を帝国権標にしようと努めます
その一環として1007年にバンベルク司教区を創設し、バイエルン、シュヴァーベン、ライン地方、テューリンゲン、ザクセンの国王支配領域の連結を図りました

その後皇帝となったハインリヒ2世の統治は>>544で見た通りです
彼の死によりザクセン朝は断絶しますが、彼の代で帝国権標となったバイエルン大公領は以後も重要な役割を果たすこととなります
>>512で見たバイエルン大公ハインリヒ傲岸公の強権はその一例といえるでしょう


本日はザクセン朝最後の王の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

593Republica de Venexia:2015/05/07(木) 00:12:20 ID:???
5月7日はオットー1世が亡くなった日です

オットー1世による「ドイツ王国」への移行は>>242で、「キリスト教国の防衛」は>>245で、そして西欧での覇権を確立し「神聖ローマ帝国」が成立したことは>>468で見ました
ここではその後のオットー1世の統治を見ていくこととしましょう

オットーの政策は大きく4つに分類されます
まず教皇に対する皇帝の保護権確保、ついでローマと教皇領も含めたイタリア支配、さらにザクセン朝への帝位の確保、そしてビザンツ皇帝による皇帝権の承認です
このうち最初の教皇に関する政策に関しては>>468で見た通り、「オットーの特権状」で皇帝の優位性をはっきりと示しており、皇帝権の教皇権に対する優越、教皇の保護者たる存在としての皇帝を実現しました

2つ目のイタリア支配に関しては、皇帝権の理念に不可欠なものであったため、その統治は特に重要視されました
オットーは皇帝としての統治期間12年のうち10年間をイタリアで過ごし、帝国の統治にあたったのです
イタリア王を名乗っていたべレンガリオを降伏させてオットーの支配権を承認させ、またイタリア南部のビザンツ帝国領にも影響力を強め、カプア、ベネヴェント、サレルノの諸侯がオットーの宗主権を認めました
とはいえイタリアにおける皇帝権の優位はその軍事的優越に依存しており、そのためには帝国軍のイタリア遠征、そして皇帝戴冠のためのローマ遠征が必要であり、いわゆる「イタリア政策」として以後の神聖ローマ帝国にも影響を及ぼすこととなります

3つ目のザクセン朝への帝位の確保については、すでに961年に息子であるオットー2世をドイツ王に即位させ、967年にはオットー2世は教皇の手によって戴冠され、共同皇帝としたことで実現されました
こうしてオットー1世の皇帝権が確立しましたが、ビザンツ帝国のニケフォロス2世、ヨハネス1世オットーの皇帝権を認めていませんでした
しかしヨハネス1世はイタリア半島におけるオットー1世との戦闘で敗北したことで帝位の承認に傾き、972年にはヨハネスの姪テオファーヌとオットー2世との結婚により承認がなされたのです

こうしてオットー1世は帝国の威信を高め、その功績により大帝と称されることとなります
オットー大帝は973年5月7日に死去し、その政策はオットー2世に受け継がれるのでした


本日は単独皇帝オットー2世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

594Republica de Venexia:2015/05/08(金) 00:09:42 ID:???
5月8日は珊瑚海海戦が行われた日です

>>569で見たドゥーリットル空襲の後、日本海軍の第二段作戦準備はさらに加速し、その第一期としてツラギ・ポートモレスビー攻略作戦であるMO作戦が開始されました
この作戦はポートモレスビーに上陸する陸戦隊を運ぶ輸送船を中心とするMO攻略部隊、その護衛のMO主隊、この2つを掩護するMO機動部隊の3隊によるものでした

まず前哨戦としてツラギ攻略が進められ、同地のオーストラリア軍がすでに撤退していたため1942年5月3日には無血占領に成功します
同じ頃主力3隊も作戦を開始し、第五戦隊「妙高」「羽黒」に第五航空戦隊「翔鶴」「瑞鶴」を主力とするMO機動部隊と、第六戦隊「青葉」「加古」「衣笠」「古鷹」に空母「祥鳳」などのMO主隊が5月4日に合同します
米軍も「レキシントン」「ヨークタウン」を主力とする第十七任務部隊が日本海軍の進撃を阻止しようと近づきつつありました

5月7日、両軍は索敵機を発艦させともに機動部隊の発見を目指しますが、日本海軍は誤報により給油艦と駆逐艦を沈めたのみに終わりました
一方米軍も日本機動部隊は見つけられませんでしたが「祥鳳」を含むMO攻略部隊を発見し「祥鳳」を撃沈、これによってMO攻略部隊は北に退避したため、ポートモレスビー攻略は延期されることとなります
このように7日には本格的な戦闘は行われず、日没に伴い攻撃は中止となりました

そして1942年5月8日、ついに両軍機動部隊が相まみえ、史上初となる空母機動部隊同士の決戦が行われることとなります
夜明けとともに両軍の索敵機が発艦し、敵部隊発見もほぼ同時刻、攻撃機の発艦もほぼ同時という状況で決戦は開始されました
「翔鶴」飛行隊長の高橋赫一小佐率いる攻撃隊は米機動部隊に雷爆同時攻撃を行い、「レキシントン」を撃沈、「ヨークタウン」を中破という戦果を挙げますが日本側も多くの艦載機を失い、高橋小佐め戦死してしまいます
一方米艦載機もMO機動部隊の攻撃に向かいましたが、ちょうどこの時スコールが発生しており、「瑞鶴」はこれを隠れ蓑として攻撃を回避、一方「翔鶴」は集中攻撃を受けることとなりました
「翔鶴」は米艦載機の雷撃は全て回避したものの急降下爆撃によって被弾し中破、空母としての機能を喪失します

午後になるとMO機動部隊と攻略部隊の指揮をとる第四艦隊司令長官の井上成美中将は、機動部隊の損害を考慮して退避を決定しました
しかし聯合艦隊司令長官の山本五十六大将は追撃を司令、翌5月9日にMO機動部隊は再び索敵しますが、米機動部隊はすでに離脱していたため戦闘は起こりませんでした
こうして珊瑚海海戦は終わり、日本は空母「祥鳳」、駆逐艦「菊月」、掃海艇3隻が沈没し空母「翔鶴」が中破、艦載機93機を喪失、アメリカは空母「レキシントン」、給油艦「ネオショー」、駆逐艦「シムス」が沈没、空母「ヨークタウン」が中破、艦載機69機を喪失という結果に終わり、日本は戦術的には勝利したと言えるものの、作戦目標であるポートモレスビー攻略は阻止される結果となったのでした


本日は空母対空母決戦の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「丸」編集部『写真太平洋戦争3 ドーリットル空襲 珊瑚海海戦 ミッドウェー海戦』光人社、1995年
・「歴史群像太平洋戦史シリーズ13 翔鶴型空母」学習研究社、1997年
・「決定版太平洋戦争4 『第二段作戦』連合艦隊の錯誤と驕り」学習研究社、2009年

595Republica de Venexia:2015/05/09(土) 00:31:18 ID:???
5月9日はフリードリヒ=ヴィルヘルムが亡くなった日です

大選帝侯と称されるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムは、>>490で見たようにブランデンブルク=プロイセンの国際的地位を高め、内政においてもフランス絶対王政を模範とし君主権の強化、官僚制の整備、常備軍の設置、重商主義的経済政策の推進、恒常的租税制度の導入など国家発展の基礎を築きました

この大選帝侯は1688年5月9日に没し、嫡男のフリードリヒがプロイセン公フリードリヒ3世として即位します
フリードリヒ3世は文芸を愛好し、父の時代にベルリンに多く移住してきたユグノーがもたらしたフランス文化によって、華やかな宮廷生活を送りました
一方で外交方面では>>433で見たようにスペイン継承戦争でハプスブルク家を支援し、ハプスブルク家当主で神聖ローマ皇帝でもあるレオポルト1世から王号を名乗ることを許されます
こうしてフリードリヒ1世はプロイセン公国を王国に昇格させ、プロイセン王としてはフリードリヒ1世となったのです

フリードリヒ1世は1713年に没し、王国の発展は「兵隊王」フリードリヒ=ヴィルヘルム1世、そして「大王」フリードリヒ2世に引き継がれていくこととなるのでした


本日は「プロイセン公フリードリヒ3世」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

596Republica de Venexia:2015/05/10(日) 00:06:10 ID:???
5月9日はセポイが反乱を起こした日です

イギリスは>>501で見たアンボイナ事件の後インド経営に力を入れ、東インド会社がマドラス・ボンベイ・カルカッタの3港を拠点にそれぞれ南インド・西インド・北インドへと進出していきました
東インド会社はインド人傭兵のセポイを雇って兵力の不足を補い、同じくインドへの進出を図るフランス東インド会社と勢力争いを繰り広げます
これは1757年のプラッシーの戦いで決着がつき、フランスはインドから駆逐されました

またインドでは>>234のアウラングゼーブの死後ムガル帝国が弱体化し、シク教徒、マラーター族、マイソール王国が台頭し、イギリスはこの隙をついてインドの直接支配を広げていきます
やがてイギリス本国で産業革命が進行すると原料生産地、商品市場としてのインドの需要が高まり、より直接的な植民地支配が進められるようになりました

イギリス東インド会社はまずインド貿易独占権を、ついで商業活動を全面的に停止させられ、インド統治の機関としての役割のみを持つようになります
イギリスはインド社会を近代化(西欧化)するため積極的な介入政策を展開し、インドは原料の輸出国となって国内産業が破壊されました
またザミンダーリー制やライヤットワーリー制といった近代的な税制の導入によってインドの伝統的な村落社会が破壊され、インド社会は大きく変動することとなります

このような急進的な改革政策はインド人の反感を招き、1857年5月10日にセポイが起こした反乱をきっかけにイギリスへの不満が一気に爆発しました
反乱はインド各地に広がり、重税に苦しむ農民や綿織物業者、旧支配者層など幅広い階層も加わってイギリスのインド支配を動揺させます
反乱軍はデリーを占領しムガル皇帝を擁立しましたが、イギリス本国はインドに大軍を送り込み、反乱軍が統一を欠いていたこともあって反乱は2年で鎮圧されました
この際ムガル皇帝は廃位され、>>572の成立以来300年以上存続してしたムガル帝国は滅亡します

この反乱を機にイギリスは東インド会社を解散してインドを本国の直接統治下に置き、1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることを宣言し、インド帝国が成立することとなるのでした


本日はインド大反乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・辛島昇編『世界各国史7 南アジア史』山川出版社、2004年
・佐藤正哲他『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』中央公論新社、2009年

597Republica de Venexia:2015/05/11(月) 00:09:06 ID:???
5月11日はフォントノワの戦いが行われた日です

>>323で見たオーストリア継承問題に端を発し、プロイセン王フリードリヒ2世のシュレジエン侵攻によりオーストリア継承戦争が勃発しました
その第一段階である第一次シュレジエン戦争において>>559で見たようにモルヴィッツの戦いでプロイセンが勝利し、これに乗じてフランスがバイエルン、プロイセン、ザクセン、スペインと同盟を結び、オーストリアは劣勢となります
これに対しフランスの勢力拡大を阻止しようとするイギリスがオーストリアを支援し、オーストリアもまたマリア=テレジアがハンガリーの支持を取り付け反撃、1742年のブレスラウ条約で一時休戦となります

しかしオーストリアはプロイセンに対しては妥協したとはいえバイエルンとフランスに対する戦いは続け、オーストリアを支援するイギリスも上陸し本格的な介入を始めました
これにフランスも応戦し、1744年にプロイセンと改めて同盟を結びオーストリア・イギリスに宣戦します
プロイセンはベーメン、メーレンへと侵攻しますが、ザクセンが今度はオーストリア側につき、またバイエルンも皇帝カール7世が死去したことで戦争目的を失いオーストリアと和睦しました
これにより孤立したプロイセンはシュレジエンに攻め込まれますが、>>154のホーエンフリートベルクの戦いでオーストリアを破り、その後オーストリアと和睦し第二次シュレジエン戦争が終結することになります

しかし戦争はこれで終わらず、当事者ではなく介入者同士であるフランスとイギリスによって継続されました
フランスの参戦にはオーストリア領ネーデルラント獲得という目的もあり、フランスの元帥モーリス=ド=サックスはブラバント侵攻を進めます
これに対しオーストリア、イギリス、ハノーファー、オランダの同盟軍も反撃し、サックスはフォントノワに布陣、同盟軍を迎え撃ちます
こうして起こった戦いが1745年5月11日のフォントノワの戦いでした
同盟軍の攻撃によって始まったこの戦いはサックスの巧みな陣地構築、采配により同盟軍の突撃が食い止められ、疲弊した同盟軍に対しサックスが予備兵力を投入し決着がつきました

こうして同盟軍は退却しましたがフランス軍も損害は大きく、追撃はできませんでした
とはいえこの戦いの後フランスは優位となり、オーストリア領ネーデルラントを制圧し戦争目的を達成することとなります
オーストリアとも帝位継承とも無関係となった戦争は>>319のアーヘンの和約で最終的に終結し、サックスはフォントノワの戦いの功績により、後にフランス大元帥に列せられることとなるのでした


本日は大元帥モーリス=ド=サックスの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・B.H.リデルハート、森沢亀鶴『世界史の名将たち』原書房、2009年
・長谷川輝夫・大久保佳子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年

598Republica de Venexia:2015/05/12(火) 01:02:04 ID:???
5月12日はオーリヤックのジェルベールが亡くなった日です

オーリヤックのジェルベールは945〜50年頃、アキテーヌのオーヴェルニュ地方、オーリヤックに産まれました
幼少期からサン=ジェロー修道院で養育され、976年にはオーリヤックを訪れたカタルーニャ伯ボレルに伴われ、カタルーニャで学ぶこととなります
カタルーニャはキリスト教文化圏とイスラーム文化圏の境目にあたり、当時イベリア半島では後ウマイヤ朝が最盛期を迎えており、その都コルドバは西欧最大の文化都市の1つでした

ここで3年間、最新の学問を学んだジェルベールはローマを訪れて神聖ローマ帝国のオットー大帝と出会います
この出会いはまさにシャルルマーニュとアルクィンとの出会いを連想させるもので、ジェルベールの学識に感銘を受けた大帝は息子のオットー2世の学問の師にジェルベールを任命し、その後もオットー家との関係は続くことになります

やがてジェルベールはランスに赴き、ここでランス大司教アダルベロンと出会いました
ジェルベールとアダルベロンは>>151で見たように神聖ローマ皇帝とフランス王との協調を進め、ユーグ=カペーのフランス王即位を支持、またオットー2世死後3歳だったオットー3世の王位継承に反発しちハインリヒを抑え込みます

このオットー3世がローマ帝国の復興を目指して自身をコンスタンティヌス大帝になぞらえ、ジェルベールをシルウェステル1世になぞらえ、教皇シルウェステル2世として即位させたのは>>468で見た通りです
もっともこのローマ帝国構想はオットー3世とジェルベール、そしてその周辺に限られていたためローマでは反対運動が起こり、2人は追放されます
やがてオットー3世は急死して構想は崩れ、シルウェステル2世はローマに戻った後1003年5月12日に死去したのでした


本日はローマ教皇シルウェステル2世の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・歴史学研究会編『幻影のローマ “伝統"の継承とイメージの変容』青木書店、2006年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年

599Republica de Venexia:2015/05/13(水) 00:59:55 ID:???
5月13日はテッシェンの講和が結ばれた日です

>>319のアーヘンの和約で終結したオーストリア継承戦争、ついで>>489のフベルトゥスブルク条約で終結した七年戦争によってプロイセンはシュレジエンの領有を確定し、またヨーロッパ列強の仲間入りを果たしました
以降のヨーロッパは約100年間にわたって五列強を中心とした勢力均衡が図られるようになり、ドイツ国内でも変化が起こります

それまでドイツではウェストファリア条約によって帝国領邦が主権を得たものの、帝国が個々の領邦に分裂してしまったわけではなく、各領邦の自由を保証しつつ連邦制的にゆるやかに統合される共同体として存続していました
しかしオーストリア継承戦争、七年戦争は特にプロイセンにとって帝国よりも自国の利益を優先したものであり、これ以降のドイツはオーストリアとプロイセンの二元主義へと移行することとなります

この自国優先が顕著に現れたのが>>239で見たポーランド分割で、オーストリアとプロイセンは自国の利害をむき出しにし、オーストリアは東部へのさらなる勢力拡大を、プロイセンはブランデンブルクと東プロイセンを陸続きとすることに成功しました
またオーストリアはプロイセンに奪われたシュレジエンの埋め合わせをするべく、バイエルンへと手を伸ばします

バイエルンでは1777年にマクシミリアン3世が子を残さず死去し、これに乗じてオーストリアがバイエルンを占領したのです
これに反発したプロイセンがバイエルンを支援し、軍を派遣したことで始まったのがバイエルン継承戦争でした
もっともこれはオーストリアのヨーゼフ2世が独断で始めたものであり、戦争に反対するマリア=テレジアがプロイセンと和平交渉を行ったことで本格的な戦闘は行われませんでした
こうして1779年5月13日、テッシェンの講和が結ばれ、戦闘をほとんど行うことなくジャガイモばかりあさっていた奇妙な戦争は終結しました
とはいえドイツの諸領邦にとって危機が去ったわけではなく、これ以降もオーストリアとプロイセンによるドイツ内での勢力争いは続くこととなります


本日はジャガイモ戦争の命日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルク家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

600Republica de Venexia:2015/05/14(木) 00:03:57 ID:???
5月14日はジェームズタウンが建設された日です

女王エリザベス1世の時代、イングランドでは不況が続いていました
1550年代に始まった貿易不振が彼女の代でも継続し、イングランドの毛織物の重要な市場であったアントウェルペンはスペイン領であったため、>>243で見たイングランドとスペインとの対立により貿易が阻害されたのです
アントウェルペンは>>445のユトレヒト同盟にも加わったためスペインに破壊され、その結果イングランドの毛織物産業は深刻な不況に陥り、大量の失業者が出ました
一方で16世紀を通じて人口は増大し続けたため、社会不安がますます高まっていったのです

この不況を克服するために様々な方法が模索されましたが、その一つが北米での植民地建設でした
そのさきがけとなったのがエリザベスの寵臣ウォルター=ローリーで、1584年に北米植民地を建設しますが、これは失敗に終わります
この失敗により植民地建設は莫大な資金を必要とし危険度が極めて高いことが明らかとなり、植民地事業が個人ではなく株式会社組織が主導して進められることとなりました
この会社の一つがロンドン拓商会社で、エリザベスの後を継いでイングランド王となっていたジェームズ1世の特許状を得て1607年、ジェームズの何にちなんだジェームズタウンを建設したのです
このジェームズタウンがヴァージニア植民地となり、>>390で見たピルグリム=ファーザーズ以降のニューイングランド植民地につながっていくのでした


本日はイングランドの恒久的北米植民地の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史 ニューワールドの夢と現実』有斐閣、1990年
・大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話』講談社、1998年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999

601Republica de Venexia:2015/05/15(金) 08:04:28 ID:???
5月15日はフランケンハウゼンの戦いが行われた日です

>>334で見たルターによって始まった宗教改革は各地に広がり、その中には過激派も存在しました
ルターと同じくヴィッテンベルクで活動したカールシュタットもその一人で、聖画像を攻撃し幼児洗礼やミサの廃止を主張するなど、ルターと敵対するほどの過激な運動を展開します
さらに急進的だったのがツヴィカウの預言者と呼ばれた人々で、彼らは終末の到来を預言し全ての聖職者を殺せと主張したのです
そしてこのツヴィカウの預言者の一人がトマス=ミュンツァーでした

ミュンツァーはヴィッテンベルクでルターとともに改革を目指していましたが、急進化してルターと敵対し、1521年にヴィッテンベルクから追放されます
ミュンツァーはその後プラハを訪れ、そこで急進的フス派に共感し、ドイツに戻ると再洗礼派と呼ばれる急進的改革派を組織して社会改革を目指すようになりました

社会改革を目指す動きは農民の間でも広がり、1524年にシュヴァルツヴァルトでの農民蜂起をきっかけにドイツ農民戦争が勃発し、ドイツ各地に広がっていきました
ミュールハウゼンを拠点としていたミュンツァーも農民軍を率いて戦いましたが、次第に各地の農民反乱は鎮圧されていきます
そして1525年5月15日、フランケンハウゼンの戦いでミュンツァーの農民軍はシュヴァーベン同盟軍に敗れて壊滅、ミュンツァーも処刑されてドイツ農民戦争は終結することとなったのでした


本日はドイツ農民戦争の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年

602Republica de Venexia:2015/05/16(土) 00:52:08 ID:???
5月16日はメディチ家がフィレンツェから追放された日です

>>346で見たようにフランス王シャルル8世のイタリア侵攻で始まったイタリア戦争のなかで、フィレンツェ市民から信望を失っていたメディチ家が追放され、サヴォナローラが共和制へと移行させました
しかしサヴォナローラはメディチ家だけでなくローマ教皇をも批判するなど急進化し、次第に支持を失っていきます
やがてサヴォナローラは処刑されますが、しばらくは共和制が維持されました

一方メディチ家は1512年にスペイン=ハプスブルク家によってフィレンツェに復帰します
さらに>>529で見たようにジョヴァンニ=デ=メディチが教皇レオ10世として即位し、メディチ家の復権がなされました
しかしジュリオ=デ=メディチが教皇クレメン.ス7世として即位した後、メディチ家は再びフィレンツェを追われることとなります
>>93で見たようにクレメン.スは対神聖ローマ帝国同盟であるコニャック同盟に参加し、その結果神聖ローマ皇帝カール5世によって1527年5月9日にローマ劫掠が引き起こされたのです
そしてローマ劫掠の直後の同年5月16日、フィレンツェからメディチ家が追放され、共和制が復活しました

その後>>298で見たようにオスマン帝国がカールの本拠地ウィーン
を包囲したこともあり、クレメン.スとカールは和約を結びます
それに伴いメディチ家のフィレンツェ復帰も許され、1532年にフィレンツェ公国、そして1569年にはトスカーナ大公国となるのでした


本日はフィレンツェ共和制の再誕日です、おめでとうございます


参考文献
・森田義之『メディチ家』講談社、1999年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年

603Republica de Venexia:2015/05/17(日) 00:22:33 ID:???
5月17日はバッキンガム公エドワードが処刑された日です

>>257で見たように、ヘンリ=テューダーはボズワースの戦いでリチャード3世を破り、ヘンリ7世として即位しテューダー朝を開きました
しかしヘンリ7世の王権は盤石ではなく、ヨーク朝復活を狙う幾度もの反乱に悩まされます
1486年のフランシス=ラヴェルの反乱はすぐに鎮圧されますが、翌年のランバート=シムネルの反乱はブルゴーニュ公妃マーガレットやリチャード3世の後継者候補であったエドワード4世も支持し、アイルランド貴族の多くが加わったことでヘンリ7世は一時危機に陥りました
もっともこの反乱を鎮圧したことでヨーク家支持派の多くが戦死し、むしろヘンリ7世の権力は増すこととなります

その後もパーキン=ウォーベックらの反乱が起こりますが、ヘンリ7世はこれらの鎮圧の過程でヨーク家系の王位継承者や有力貴族を次々と排除し、王権を確立していきます
こうしてヘンリ7世がテューダー朝の基礎を固めた後、1509年に即位したのがその息子のヘンリ8世でした
ヘンリ8世もまた王権の障害となる有力貴族の排除に努め、1510年にはリチャード=エンプソン、エドマンド=ダドリーが反逆罪で処刑されます
この2人は父王の時代から仕える重臣でしたが、そのような人物であっても王権強化のための犠牲となったのです

バッキンガム公エドワード=スタッフォードもまた、父王の時代から仕え、ヘンリ8世の戴冠役を務めるほどの重臣でした
1514年には国王軍司令官である大司馬にも任命されましたが、そんなバッキンガム公ですらヘンリ8世の王権拡大政策には抗えませんでした
1521年5月17日、反逆罪で捕らえられていた彼は処刑され、バッキンガム公位は消滅し、大司馬の権限も以後は王権に統合されることとなったのでした


本日はバッキンガム公・大司馬の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・水井万里子『図説テューダー朝の歴史』河出書房新社、2011年

604Republica de Venexia:2015/05/18(月) 00:02:42 ID:???
5月18日はアンジュー伯アンリとアリエノール=ダキテーヌが結婚した日です

>>299でノルマンディー公ウィリアムがイングランド王ウィリアム1世として即位し始まったノルマン朝は、その息子ウィリアム2世が受け継ぎ、その死後は弟のヘンリ1世が統治を行いました
このヘンリ1世は嫡男を事故でなくしたため、>>562で見た神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の妃で、夫の死後未亡人となっていたマティルダを帰国させて後継者としました

こうしてイングランド初の女性君主となったマティルダでしたが、これに反発したのがヘンリ1世の甥であるフランスのブーローニュ伯エティエンヌ=ド=ブロワでした
彼はスティーヴンとしてイングランド王に即位しますがマティルダはこれを認めず、イングランドは内戦状態となります
やがて内戦は収められ、1153年、スティーヴンの死後はマティルダの息子アンジュー伯アンリが国王となることが取り決められたのです

さてこのアンジュー伯アンリですが、母は先のマティルダ、父はマティルダの再婚相手アンジュー伯ジョフロワでした
ジョフロワはアンジュー伯としてフランス王ルイ7世に対抗する有力諸侯でした
1144年にはルイがシャンパーニュ戦争にかかりきりなのを尻目にノルマンディーを征服し、ノルマンディー公としての地位も得ます
その息子であるアンリは父の遺領アンジュー伯領・ノルマンディー公領、そして母の遺領であるイングランド王国を受け継ぐことになるのです
それにさらなる領地を加えるのがアリエノール=ダキテーヌとの結婚でした

アリエノールの実家はアキテーヌ公家であり、その所領はアキテーヌ公領、ガスコーニュ公領、ポワティエ伯領など、フランス王家すら凌駕する広大なものでした
そのアキテーヌ公ギョームが男子をもうけず死去したため、アリエノールが所領を受け継いでいたのです
そしてこのアリエノール、当初はフランス王ルイ7世の妃でした
ルイとしては広大なアキテーヌ領が王家に加わったこととなり、王権強化の絶好の機会でしたが、これが近親婚であるとして1152年3月に離婚することとなりました
そのわずか2ヶ月後の5月18日、アリエノールが再婚したのがアンジュー伯アンリだったのです
アンリはこの結婚によってアキテーヌ公位を獲得し、上の所領と合わせて広大な地域を支配、さらにイングランド王ヘンリ2世として即位しアンジュー帝国を築くこととなるのでした


本日はアキテーヌ公アンリの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年

605Republica de Venexia:2015/05/19(火) 00:02:18 ID:???
5月19日はイングランドで共和政が宣言された日です

イングランドではスチュアート朝のジェームズ1世、チャールズ1世の専制を巡って王党派と議会派が対立し内戦が勃発しました
やがて議会派は意見の相違で長老派、独立派、水平派に分裂し、このうち独立派を率いたオリヴァ=クロムウェルが鉄騎隊を率いて1644年にマーストン・ムーアの戦いで国王軍を破ったのは>>197で見た通りです
その後クロムウェルは鉄騎隊を中核としてニューモデル軍を編成し、翌年にはネーズビーの戦いで決定的勝利を収めました

その後議会での長老派と独立派の対立が激化し、平等派も人民協約を提出するも受け入れられず、議会の内部対立は深まっていきます
これを見たチャールズはスコットランド軍とともにイングランドに侵攻しましたが、独立派と平等派は一時的に和解し、1648年8月のプレストンの戦いで国王軍を撃退しました
同年12月には議会の長老派が独立派によって追放され、議会は独立派のみで構成される残部議会となります

こうして軍隊・議会を掌握した独立派はチャールズの排除に乗り出し、1649年1月、クロムウェルらが裁判官となってチャールズの処刑を決定します
3月には君主制と貴族院を廃止し、また平等派の指導者を逮捕、平等派兵士の反乱も鎮圧して独裁体制を確立していきました
そして1649年5月19日、正式に共和政が宣言され、1660年に王政復古がなされるまで国王が存在しない時代となるのでした


本日は共和政イングランドの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・岩井淳『ピューリタン革命と複合国家』山川出版社、2010年

606Republica de Venexia:2015/05/20(水) 00:35:20 ID:???
5月20日はマクデブルクが陥落した日です

三十年戦争の第二段階であるデンマーク戦争は皇帝軍総司令官となったヴァレンシュタインの働きもあり、デンマーク王クリスティアン4世を破り、皇帝側の勝利に終わりました
1629年に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は復旧勅令を発布し、皇帝による絶対主義が成立しようとしていました
これに帝国諸侯は危機感を覚え、>>503で見たようにヴァレンシュタインを罷免させます
また北方ではスウェーデン王グスタフ=アドルフが帝国の強大化によってバルト海支配が脅かされると感じ、三十年戦争への介入を決定します

こうして三十年戦争の第三段階のスウェーデン戦争が始まり、ブランデンブルク選帝侯国・ザクセン選帝侯国などが主戦場となります
ここで重要となったのが要衝の都市マクデブルクで、プロテスタント側であったこの都市を皇帝軍が攻撃します
グスタフ=アドルフはマクデブルクを救おうとしますが当時スウェーデン側につく諸侯は少なく、マクデブルクは1631年5月20日に陥落しました

悲劇はその後に訪れました
傭兵主体の皇帝軍は規律が行き届かず、占領したマクデブルクで略奪の限りを尽くしたのです
まさに>>93で見たローマ劫掠のような惨劇が展開され、マクデブルクは文字通り壊滅します
この皇帝軍の行為によってそれまで日和見していたブランデンブルク選帝侯やザクセン選帝侯はスウェーデンと同盟を結び、>>285のブライテンフェルトの戦いでプロテスタント側に初の勝利がもたらされるのでした


本日は「マクデブルクの惨劇」の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・長谷川輝夫他『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

607Republica de Venexia:2015/05/21(木) 00:49:35 ID:???
5月21日はヤン=ソビエスキがポーランド王となった日です

ポーランドはスウェーデンの侵攻による大洪水時代によって荒廃し、>>490で見たように大選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムに介入され、プロイセンの宗主権をブランデンブルク選帝侯に譲渡することとなります
このポーランドを立て直そうとしたのがヤン=ソビエスキでした

1674年5月21日にポーランド王ヤン3世として即位したソビエスキは、当初フランスを頼ってポーランドの勢力回復を図ろうとしましたが、フランス王ルイ14はオスマン帝国寄りの姿勢をみせていました
これに失望したソビエスキは神聖ローマ皇帝レオポルト1世に接近し、オスマン帝国と対峙することとなります
そのハイライトが>>280で見た第二次ウィーン包囲で、ソビエスキ率いるポーランド騎兵がオスマン帝国軍を撃破したのです
これによってヨーロッパは、>>298のスレイマン1世によるウィーン包囲以来約150年にわたるオスマン帝国の脅威から解放され、ソビエスキは一躍英雄となったのです

その後もソビエスキは対オスマン帝国に奮闘しますが、皮肉にもこのトルコ問題への過度な介入がポーランドに不幸な結果をもたらすことになります
ウィーン解放の翌年、ソビエスキはローマ教皇を中心に神聖ローマ帝国、ヴェネツィア共和国と神聖同盟を結成しオスマン帝国に対抗しますが、これがオスマン帝国に対する勝利による利益を分割する結果となったのです
また1686年にはロシアを神聖同盟に引き入れますが、そのためにロシアに対し大きく譲歩したため、後にロシアがポーランドに介入するきっかけを与えることとなりました

やがて1696年にソビエスキは死去し、その後継者をめぐってフランス、オーストリア、ロシアなどヨーロッパ各国が推す国王候補がそれぞれ傀儡として王位をめぐって争う状況となりました
ポーランドは次第に独立国としての地位を失っていき、>>239で見たポーランド分割へと至るのでした


本日は「ヤン3世ソビエスキ」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

608Republica de Venexia:2015/05/22(金) 01:08:14 ID:???
5月22日はグラニコス川の戦いが行われた日です

>>302で見たように、マケドニア王アレクサンドロス3世は父王フィリッポス2世の遺志を継ぎ、アケメネス朝ペルシアへの遠征を開始します
その大義名分は>>246>>262で見たペルシア戦争によってギリシアの国土を踏み荒らし神々を怪我したことへの報復、そして小アジアのギリシア人をアケメネス朝支配から解放することでした

その最初の戦いが前334年5月22日に行われたグラニコス川の戦いで、この戦いでアレクサンドロス率いるマケドニア軍はアケメネス朝の騎兵軍を粉砕します
この時アケメネス朝側にはギリシア人傭兵が残されていましたが、これにもアレクサンドロスは猛攻を加えます
ギリシアのために遠征を起こしたアレクサンドロスですが、その反面アケメネス朝に味方した者に対しては裏切り者として容赦しなかったのです
約5000人のギリシア人傭兵のうち3000人が戦死し、残る2000人は捕虜となってマケドニアでの重労働に従事させられたといいます

ともあれアレクサンドロスはアケメネス朝との最初の会戦に勝利し、アケメネス朝から奪った戦利品をアテネに送ってアクロポリスのアテナ女神に捧げました
この遠征がギリシアのために行っていることを強調したのです
アレクサンドロスはその後主力を失った小アジアのアケメネス朝軍を連破し小アジアを平定、>>165で見たバビロンでの急死まで遠征に明け暮れるのでした


本日は東方遠征におけるアレクサンドロス勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・森谷公俊『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・澤田典子『世界史リブレット人5 アレクサンドロス大王 ─ 今に生き続ける「偉大なる王」』山川出版社、2013年

609落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/22(金) 04:09:48 ID:???
今日は漫画「DEATH NOTE」で青山に出かけていた夜神月が弥海砂に発見されてしまった日です
一つの出会いがその後を大きく左右させるといういい例ですね

610Republica de Venexia:2015/05/22(金) 08:07:18 ID:???
>>609
おお、今日だっだんですね!
変装して月の後をつけてたんでしたっけ?
うろ覚えですけど、確かにあの出会いが1つの転換点だったような気がします、ノート保持者が複数いるなんて...というびっくりも

611Republica de Venexia:2015/05/23(土) 01:15:16 ID:???
5月23日はハインリヒ5世が死去した日です

>>562で即位した神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世は、長らく続いていたローマ教皇との叙任権闘争で妥協し、>>294のヴォルムス協約を締結しました
この叙任権闘争の最中、ドイツではフェーデが頻発していましたが、これは諸侯権力を強めることとなりました
諸侯間の激しい戦いのなかで自由な農民や貴族はその生命や財産を単独では守り切れなくなり、領主に頼るようになったのです
この領主たちの下で自由人は封建化し、国王との伝統的なつながりは断ち切られていきました

この過程ので有力貴族はますます強大化していき、大公や辺境伯の地位を得、国王に対抗し得る勢力へと成長しました
その代表例として、諸侯がドイツ王ハインリヒ4世に対抗しカノッサの屈辱をもたらしたのは>>448で見た通りです
そしてこの諸侯による国王への圧力はハインリヒ5世死後も見られました

ヴォルムス協約から3年後の1125年5月23日、ハインリヒ5世は死去しました
ハインリヒには子がおらず、ここにザリエル朝は断絶しました
新国王選出の国王選挙では>>512で見たホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世が有力候補で、彼はハインリヒ5世の甥であり、相続権に基づいて立候補することができる血筋でした
しかし諸侯はフリードリヒの選挙を妨げ、血統の原理を無視し自由な国王選挙の原則強行を決定したのです
こうして混乱の最中ザクセン大公ロータル=フォン=ズプリンブルクが選挙され、同年8月にロータル3世として即位することとなったのでした


本日はザリエル朝の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

612落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/23(土) 04:00:36 ID:???
今日はキスの日です
1946年の今日この日、日本初のキスシーンが登場する「はたちの青春」という映画が封切られたことからつけられたそうです
キスしたいですね

>>610
青山で偶然見かけたのが始まりだったと思います、死神の目で見て寿命が見えなかったことから興味を持ったようですね
彼女がいなければ夜神月の計画は完璧だったのかもしれません

613Republica de Venexia:2015/05/23(土) 10:39:18 ID:???
>>612
キスの日というのもあるんですね、戦後になってからだったんですねー
アメリカ文化の影響なのかな


そうだ、死神の目でわかったんでしたね!
月がナンセンスだと切り捨てていた死神の目を、海砂はあっさり手にしていたというのも驚きでした

614Republica de Venexia:2015/05/24(日) 01:20:20 ID:???
5月24日は新教同盟が解散した日です

宗教改革によって始まったプロテスタントとカトリックとの宗教対立は、1555年に発布されたアウクスブルクの宗教和議によってひとまずの妥協を見ました
しかしプロテスタントが次第に北ドイツへと勢力を拡大していったことに脅威を感じ、カトリックは>>556で見たトリエント公会議で教会刷新を行い、対抗宗教改革を開始します

しかしすでに北ドイツでは司教領のほぼ全てをプロテスタント諸侯が抑え、下ライン地方までも進出する勢いでした
カトリックもまた巻き返しを図って勢力拡大を進めたため、1570年代以降対立はさらに激化します
83年のケルン大司教職を巡ってその対立は最初の頂点を迎え、これはカトリックの勝利に終わりました

カトリックはさらにバイエルン公マクシミリアン1世がカルヴァン派の都市ドナウヴェルトを占領しカトリック化したことで、プロテスタント・カトリック両派の対立はますます激化します
1608年、プロテスタントはプファルツ選帝侯を盟主に新教同盟(ウニオン)を結成し、翌年カトリックはバイエルン公を盟主に旧教連盟(リガ)を結成、ともにヨーロッパ諸国と繋がりを持っていたため、両派の対立はヨーロッパの国際的対立へと発展するのです

この対立が三十年戦争を引き起こしたのは>>345などでも見た通りです
その第一段階のベーメン・プファルツ戦争は1620年、白山の戦いで新教同盟の盟主プファルツ選帝侯フリードリヒ5世が敗れたことでプロテスタント側の敗北に終わり、翌1621年5月24日、新教同盟は解散することとなったのでした


本日は新教同盟の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

615落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/24(日) 03:49:42 ID:???
今日は伊達巻の日です
由来は、旧暦の今日この日に伊達巻の語源であるとされる伊達政宗がなくなったからだそうです
伊達巻はなんだか薄い出汁巻き卵という印象がありますね
お正月以外では滅多にお目にかかれないイメージです

616Republica de Venexia:2015/05/24(日) 09:04:16 ID:???
>>615
今日が没日だったんですね、若年の頃のはっちゃけぶりを考えると大往生したなー、という印象です

仙台の街、そして青葉城を訪れた時も感じましたが、武の面だけでなく外交や内政、文化面でも活躍した傑物ですよね

617Republica de Venexia:2015/05/25(月) 00:05:56 ID:???
5月25日はグレゴリウス7世が死去した日です

>>448で見たカノッサの屈辱で、ローマ教皇グレゴリウス7世はいったんは神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を屈服させたかに見えました
しかしその後もハインリヒおよび帝国に対して強権を発動しようとし、その際にはドイツ諸侯の反対に遭いハインリヒに反撃されたのは>>562で見た通りです
ハインリヒは1084年、ローマを開城させてラヴェンナ大司教ヴィーベルトを教皇に据えました
グレゴリウスはサンタンジェロ城に閉じ込められますが、これを救出したのがロベール=ギスカールでした

ギスカールは>>566で見たようにビザンツ領南イタリアを征服したノルマン人で、旧ビザンツ領を平定した後は教皇領にも攻撃をかけ、一時は教皇によって破門を宣告されていました
これにより教皇側にたったノルマン人諸侯はギスカールを攻撃しましたが、ギスカールはこれらを撃退し1080年には全ての反乱を鎮圧しました
ギスカールが教皇と和解したのもこの頃でした

ちょうどこの時期はグレゴリウスとハインリヒとの叙任権闘争の真っ最中であり、グレゴリウスとしては強大な軍事力を持つギスカールの支援が必要だったのです
グレゴリウスはチェプラーノにて平和条約を締結し、ギスカールが征服した土地の保有を認める代わりに、ギスカールが教皇権を尊重し教皇庁の防衛を約束させ、教皇の封臣であることを誓わせました
これは>>466で見たコンスタンティヌスの寄進状を根拠に行われたことでもあります

さて、このギスカールがサンタンジェロ城に閉じ込められたグレゴリウスを救うため、大軍を率いてローマに駆けつけ救出します
グレゴリウスはサレルノで保護されますが、翌1085年5月25日、同地で没しました
死に際してこう語ったといいます
「私は正義を愛し、不正を憎んだ。それ故私は流浪のうちに死ぬ」


本日は「聖なる悪魔」の命日です、お悔やみ申し上げます
ハインリヒ4世はおめでとうございます


参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年

618Republica de Venexia:2015/05/26(火) 01:05:57 ID:???
5月26日はニコライ2世が戴冠した日です

ニコライ2世は1868年、ロシア皇帝アレクサンドル3世の長男として産まれ、その後継者として早くから帝王学を学んで育ちました
家庭教師は専制権力の絶対的な保持を説く保守派の宗務院長ポベドノスツェフで、その思想にニコライは大きな影響を受けることとなります

ニコライは22歳となった1890年から翌91年にかけて旅行を行い、ウィーン、ギリシア、エジプト、インドを経て日本も訪れました
ここで巡査の津田三蔵がニコライを斬りつけた事件が大津事件です
ニコライは日本旅行を打ち切り、ウラジヴォストークでシベリア横断鉄道の起工式に参加、シベリア各地を訪問して首都サンクト=ペテルブルクへと戻りました
このシベリア訪問がきっかけでニコライはシベリアに深い関心を持ち続けることになります

やがて1894年、父帝アレクサンドルが49歳で死去し、皇太子ニコライが即位しました
ニコライは父の葬儀を済ませた後、ドイツのヘッセン大公の娘で、イギリス女王ヴィクトリアの孫にもあたるアリックスと結婚します
アリックスは正教会に改宗しアレクサンドラを名乗り、新皇帝・新皇后はその後も重要な儀式をこなしていきます
そして1896年5月26日、ニコライはモスクワのウスペンスキー聖堂で戴冠式を挙行し、ロシア皇帝としての治世を開始するのでした


本日は最後のロシア皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

619落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/26(火) 04:32:28 ID:???
今日は1897年にブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』が発刊されてから丁度118年となります
今では世界中の創作物に登場するようになりましたね
ちなみにモデルとなったワラキア公ヴラド三世、通称ドラキュラ公、ヴラド・ツェペシュ(ツェペシュは串刺しにするものの意で名字ではないです)は、近年自国を侵略から守った者として再評価されています

620Republica de Venexia:2015/05/26(火) 08:55:37 ID:???
>>619
創作のドラキュラ、そんな昔だったんですね、おめでとうございます!

オスマン帝国に対抗したワラキアのヴラド=ツェペシュ、アルバニアのスカンデルベグ、ハンガリーのフニャディ=ヤノシュは郷土の英雄ですよね
ヴラドも再評価が進んでいるのは嬉しい限りです

621Republica de Venexia:2015/05/27(水) 00:07:02 ID:???
5月27日は日本海海戦が行われた日です

日露戦争海戦後、日本はロシア太平洋艦隊を旅順港に封じ込めるため、閉塞作戦を三度にわたり敢行しました
しかしこれは旅順の強力な要塞砲により失敗に終わります
そして1904年、昨日>>618にも登場したニコライ2世が第二太平洋艦隊、通称バルチック艦隊の極東派遣を決定したのは>>316でも見た通りです
両艦隊が合流すれば勝ち目がないと考えた日本は旅順艦隊へ猛攻を加え、ついに旅順艦隊を引き摺り出しました

これを聯合艦隊が追撃したのが黄海海戦でしたが、この海戦で日本は丁字戦法により旅順艦隊の撃滅を図ったものの、旅順艦隊は聯合艦隊と反対に急旋回し決定打を与えられずに逃がしてしまったのです
その間にもバルチック艦隊は日本に迫っており、日本海軍の秋山真之は丁字戦法を取りやめ、駆逐艦・水雷艇によって夜間奇襲を行い、連繋機雷を散布するという戦法を考案しました
そしてこの機雷散布を第一段階とし、二日目の主力艦隊による攻撃、駆逐艦・水雷艇の夜間雷撃、三日目の敵残存艦隊追撃戦、夜間雷撃、4日目の敵残存艦隊追撃、夜間雷撃、そしてウラジヴォストークの機雷区域に追い込み触雷を誘うという七段作戦で待ち構えるのです

しかし決戦当日の1905年5月27日、誤算が発生しました
「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
第一段作戦の連繋機雷による奇襲を断念せざるを得なくなったのです
さらに誤算は続きます
聯合艦隊は黄海海戦を教訓に丁字戦法を取りやめ、バルチック艦隊より1万メートル東方で余裕をもって旋回し、同航戦に持ち込む予定のはずが、通報艦の誤報によりバルチック艦隊が正面に現れたのです

ここで聯合艦隊司令長官東郷平八郎は即座に決断し、いったん西へと進路を取り、
「皇国ノ興廃、此ノ一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ」
のZ旗が翻りました
そして東郷はなんと、東郷ターンと称される敵前大回頭を敢行したのです
当然東郷座乗の聯合艦隊旗艦「三笠」には砲撃が集中しますが「三笠」はこれを耐え抜き、全艦が回頭した聯合艦隊はバルチック艦隊の頭を抑える形で同航戦を展開します

その後バルチック艦隊が北西へ逃れる素振りを見せたため、東郷もまた北西へ回頭し抑えにかかりますが、バルチック艦隊はその逆の南東へ回頭、聯合艦隊はまたも裏をにかかれる形となりました
しかし聯合艦隊第二艦隊司令長官上村彦之丞はバルチック艦隊の先頭艦が北西に旋回したのは舵の故障だと見抜き、南東へ回頭、バルチック艦隊を捕捉したのです
やがて東郷の第一艦隊も追撃したことで挟撃する形となり、バルチック艦隊は集中攻撃を受けることとなったのでした

この日のうちにバルチック艦隊は壊滅的な打撃を受け、夜間には駆逐艦・水雷艇による雷撃により残存艦隊も次々と脱落します
翌5月28日の朝にはバルチック艦隊は降伏、ウラジヴォストークに逃れたのはわずか3隻という完勝を収めたのでした


本日は海戦史上稀な「完全勝利」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・野村実『日本海海戦の真実』講談社、1999年
・「歴史人別冊 日露戦争の真実」ベストセラーズ、2013年
・「歴史街道2015年6月号 日本海海戦と戦艦三笠 『奇跡』を起こしたものは何か」PHP研究所、2015年

622落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/27(水) 04:29:42 ID:???
今日は1986年にゲーム「ドラゴンクエスト」の一作目が発売されて丁度29年となる日です
今でも新作がたまに出るあたり、やっぱり大ヒットしたソフトは違いますね
最近ではオンラインゲーム化やARPG化など、これまでとは違った一面を見せるようになってきました
たまには押し入れにしまってあるSFCなど昔のハードを引っ張り出してするのもいいかもしれませんね

623Republica de Venexia:2015/05/27(水) 07:59:08 ID:???
>>622
ドラゴンクエストの29周年!
来年は30周年ということで何か大々的にするかもですねー
SFCというとスーパーファミコンなんですね、歴史を感じます...

624Republica de Venexia:2015/05/28(木) 00:11:34 ID:???
5月28日はパリ=コミューンが崩壊した日です

>>221などで見た普仏戦争において、1870年のセダンの戦いでフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、第二帝政が崩壊します
パリでは戦闘継続を目指し、トロシュを首班とする国防政府が組織され第三共和政となりました
しかしプロイセンはやがてパリを包囲し、内相ガンベッタは気球で脱出して地方で国民軍を組織、抵抗を図ります

一方パリに残ったティエールら穏健派はプロイセンとの妥協を図り、71年1月にドイツに降伏しました
その後プロイセン王がヴェルサイユ宮殿にて戴冠式を行い、ドイツ帝国が成立したのは>>433で見た通りです
この屈辱にパリ市民は反発し、国民軍の武装解除を図る国防政府に対抗、世界初の市民・労働者からなる革命自治政権パリ=コミューンを結成したのです

パリ=コミューンは国民軍の支配下にあるパリ各区から選出された代議員によって構成され、行政府であり同時に立法府でもある、革命的活動の中核となる組織でした
政策としては労働者階級の利益に沿い、その解放を目指す施策を実施、ドイツ軍の支援を受けるティエールらの政府軍によく抗戦します
しかし5月21日から始まった「血の一週間」と呼ばれる政府軍の攻勢に遭い、1871年5月28日、ついに崩壊することとなったのでした


本日はパリ=コミューンの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

625Republica de Venexia:2015/05/29(金) 00:01:37 ID:???
5月29日はレニャーノの戦いが行われた日です

>>294などで見た叙任権闘争により、それまで神聖ローマ皇帝が支配権を行使してきたイタリア王国と教皇領において皇帝権が弱体化し、権力構造の転換が見られるようになります
それまでイタリアの都市を支配していたのは皇帝が任命した伯や司教またはその代官でしたが、皇帝権弱体化に伴い市民はローマ教皇が任命した伯や司教を支持するようになったのです

司教の指導力が強いロンバルディアでは特にその動きが進み、その中心都市ミラノは三重構造となり、その中でコムーネの権力が皇帝の承認無しに他の権力を侵害し始めます
そしてコムーネは、伯や司教伯に代わって都市の支配者となっていき、伯管区であるコンタードに対し服従を要求、やがてコムーネに従属する支配領域がコンタードと称されるようになったのです

さらにミラノのような強力なコムーネはコンタード領域を超え、周辺のコムーネをも従属させるようになっていきます
神聖ローマ皇帝にとっては、このようなコムーネの権力増大はレガーリア(皇帝の権利)を不法に侵害するものでもありました
また強力なコムーネの圧迫を受ける伯、司教、領主、自治集落、弱小コムーネは皇帝に救援を求めるようになり、1158年に皇帝フリードリヒ1世はロンカリア帝国議会を開き、レガーリアを明確にするというロンカリア立法を発布しました

こうして皇帝とコムーネとの対立は深まり、教皇との対立も絡んで北イタリアでは争乱が頻発するようになります
1162年、フリードリヒは教皇が支援するミラノを征服、64年にもイタリアに遠征し、その際にはヴェローナ、ヴェネツィア、パドヴァ、ヴィチェンツァがヴェローナ都市同盟を結成し皇帝に対抗しました
復興したミラノも、ロンバルディア地方などの26都市を含んだロンバルディア都市同盟を結成、皇帝に反抗します
そして1176年5月29日、ロンバルディア都市同盟軍と皇帝軍はレニャーノで激突し、皇帝軍は大敗しました
その後和平交渉が進められ、1183年のコンスタンツの和約で同盟都市に事実上の主権が認められたのです
これをきっかけにコンタードでもコムーネ権力の承認が進行し、北・中部イタリアではコムーネの支配による都市国家が成立するようになるのでした


本日はコムーネ権力の皇帝権に対する勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・齋藤寛海・山辺規子・藤内哲也編『イタリア都市社会史入門 12世紀から16世紀まで』昭和堂、2008年

626落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/29(金) 04:13:15 ID:???
今日はこんにゃくの日です
こ(5)んに(2)ゃく(9)の語呂合わせらしいです
コニャックの日でもいいかもしれませんね
ちなみにこんにゃくですが、主産地は群馬でほぼ90パーセントのシェアを占めています
灰汁とともに粉を茹でるなどかなり面倒な調理法だったそうですが、どうやって確立されたのでしょうか
こんにゃくイモを加工せず生でたべるとシュウ酸カルシウムのトゲのような結晶が口の粘膜を容赦なく傷つけます、山芋のとろろを素手で触った時のかゆみの強烈なものがくるらしいです
個人的には歯ごたえのあるつるつるしたのがすきですね

627Republica de Venexia:2015/05/29(金) 07:58:17 ID:???
>>626
コニャック...というとフランスの都市を思い出しますね
関係があれば面白いですけど、単に同じように読むってだけなのかな?

こんにゃくの日おめでとうございます!

628Republica de Venexia:2015/05/30(土) 00:06:20 ID:???
5月30日はジャンヌ=ダルクが処刑された日です

>>96で見たジャンヌ=ダルクの登場によってイングランドに包囲されていたオルレアンが1429年5月に解放され、百年戦争はフランス優位に転じていくようになりました
フランスはその勢いでロワール川流域を制圧し、6月にはパテーの戦いでイングランドに大勝、シャンパーニュ地方の大司教座都市ランスに到達します
ランスでは伝統的にフランス王の戴冠式が行われており、シャルル7世もここで戴冠式を挙行しました

しかしその後はジャンヌ=ダルクの快進撃も陰りを見せるようになります
ランスからパリ奪還を目指すもののイングランドの抵抗に遭い、9月には撤退を余儀なくされました
続いてロワール地方で戦うものの戦果は挙げられず、翌1430年5月にピカルディに北上するとコンピエーニュの戦いに敗れ捕虜となってしまいました

ジャンヌを捕縛したのが、>>278で見たブルゴーニュ公のフィリップ善良公の軍勢でした
フランス王権に匹敵する勢力を持ち、その対立からイングランドと同盟していたフィリップはジャンヌの身柄をイングランドに預けます
イングランドはノルマンディ公領のルーアンでジャンヌの異端審問を行い、火刑の執行を決定しました
そして1431年5月30日、ジャンヌ=ダルクは処刑されることとなるのでした


本日は後の「聖女ジャンヌ=ダルク」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年

629Republica de Venexia:2015/05/31(日) 01:03:47 ID:???
5月31日はカルカ河畔の戦いが行われた日です

1206年に大ハーンとなったチンギス=ハーンはモンゴルを平定し、その後周辺地域を征服する一方、1217には四狗の一人ジェべを西遼に遠征させました
モンゴルは瞬く間に西遼を征服し、1218年にはオトラル事件をきっかけにイランへと侵入、ホラズム朝を瓦解させます
この時ホラズム朝のアラーウッディーン=ムハンマドは西方へと逃走、チンギス=ハーンはジェべとスブタイに追討を命じました

2人はムハンマドを追跡するものの捕捉できず、1220年末にムハンマドはカスピ海の小島で死去します
このことを知らないジェべとスブタイはさらに軍勢を進め、1221年にはグルジア王国を制圧し、さらにウクライナ方面へと向かいました
ウクライナ草原はキプチャク族が支配していましたが、モンゴル軍襲来に際しルーシ諸侯に援軍を求めます
しかし諸侯は互いに対立しており、軍としての統率が取れないままモンゴル軍を迎え撃つこととなったのです

そして1222年5月31日、ジェべとスブタイ率いるモンゴル軍はカルカ河畔においてキプチャク族・ルーシ諸侯連合軍に大勝しました
その後モンゴル軍はいったん引き上げるものの、スブタイは>>558で見たようにバトゥの西征に副官として参加し、再びルーシを制圧することとなるのでした


本日は「タタールのくびき」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡上 軍事拡大の時代』講談社、1996年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
・ジャン=ポール・ルー、田辺希久子訳『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社、2003年

630Republica de Venexia:2015/06/01(月) 00:02:40 ID:???
6月1日は中都が陥落した日です

>>629で見た西征の直前、1211年からチンギス=ハーンは金を攻めていました
平定なったモンゴルの遊牧民を対外戦争によって団結させようとしたのです
チンギスはまず内モンゴルの契丹系遊牧民を従属させ、これを軍に加えた後に満州と華北において略奪戦を展開しました
そして金の都である中都は孤立していき、1213年には中都を包囲します

この状況で金の宣宗はモンゴルに対し講和を求め、毎年歳弊をモンゴルに貢ぐという条件でこの講和が成立しました
しかし宣宗は翌1214年、中都を離れて南方の開封に遷都したのです
これを違約とし、チンギスは再び金への攻撃を行います
そして1215年6月1日、中都は陥落し華北をほぼ放棄することとなりました
その後チンギスは金攻略を四駿筆頭のムカリに任せ、自身は>>629の西征に取り掛かるのでした


本日は金の都中都の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡上 軍事拡大の時代』講談社、1996年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
・ジャン=ポール・ルー、田辺希久子訳『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社、2003年

631Republica de Venexia:2015/06/02(火) 00:01:28 ID:???
6月2日はアンティオキアが陥落した日です

>>366で見たように第1回十字軍は1095年に召集され、翌96年秋に聖地へ向けて出発しました
97年4月には小アジアに渡りニケーアを攻めるものの、ここはビザンツ帝国に出し抜かれ、ニケーアを離れて小アジアを横断していきます
この後>>224のゴドフロワ=ド=ブイヨンの弟であるボードゥアン=ド=ブーローニュが別行動を取り、98年2月にエデッサを攻略、エデッサ伯国をたてました
ボードゥアンは後にゴドフロワの後を継いで正式な初代イェルサレム王となり、エデッサ伯国は>>199でザンギーに滅ぼされるまで存続します

一方十字軍本隊はアンティオキアへと向かい、97年10月から包囲を開始しました
アンティオキアはセレウコス朝シリアの都となった歴史の古い都市で、ローマ帝国時代はその第三の都市として繁栄し、キリスト教の五本山としても繁栄します
その後>>253のヘラクレイオス治世でイスラームに奪われるものの>>232でも登場したニケフォロス2世によって奪還され、>>261で見たセルジューク朝によって再びイスラーム支配下となっていました

アンティオキア包囲戦は難航し、ビザンツ帝国将軍タティキオスやエティエンヌ=ド=ブロワらが脱落するほどでしたが、ボエモンの活躍により膠着状態が打開されました
彼は>>566などで登場したノルマン人ロベール=ギスカールの息子でした
彼はイタリアでの展望が開けなかったため十字軍に参加し、東方に活路を見出していたのです
1098年6月2日、ボエモンはアンティオキア城内の内通者の手引によって城内に侵入し、ついに1098年6月2日、アンティオキア攻略に成功するのでした


本日は十字軍領アンティオキアの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・スティーブン・ランシマン、和田廣訳『十字軍の歴史』河出書房新社、1989年
・エリザベス・ハラム、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年

632Republica de Venexia:2015/06/03(水) 00:11:25 ID:???
6月3日はアラゴン艦隊が出港した日です

>>504で見たように、シチリア王マンフレーディはその娘コンスタンツァをアラゴン王子ペドロと婚約させ、アラゴン王国と姻戚関係となりました
やがて>>332のようにマンフレーディ、そしてコンラーディンがシャルル=ダンジューによって滅ぼされ、ホーエンシュタウフェン家の後継者はコンスタンツァに託されることとなります

アラゴンでは1276年にハイメ1世が死去、王子ペドロはペドロ3世として即位しました
79年にはアンダルシアのムーア人との問題を解消し、カスティーリャも王位を巡る内紛が起こっていたため、ペドロはイタリアに全関心を向けられる状況となります
ペドロは宰相ジョヴァンニ=ダ=プロチダを派遣し、シャルル=ダンジューと対立するイタリアの皇帝派やシチリア貴族、そしてビザンツ帝国との同盟に成功します

このビザンツ帝国については、シャルル=ダンジューがコンスタンティノープルへの遠征を計画していたこともあって、皇帝ミカエル8世はあらゆる手段を駆使してその計画を阻止しようと努めていました
シチリア人の反シャルル=ダンジュー感情を煽り、アラゴン王国の協力も取り付けたのです
もっともペドロとしてはシャルル=ダンジューがコンスタンティノープル遠征にシチリアを留守にした隙に侵入するつもりでしたが、ミカエルは先手を打ってシチリアの反乱を誘発させました
これが>>40で見た、1282年3月30日のシチリアの晩鐘です

こうしてミカエルに出し抜かれる形となったペドロでしたが、焦って行動することはありませんでした
シャルル=ダンジューはすぐさま反乱の鎮圧に乗り出し、反乱軍との間で激しい戦闘となります
この間の1282年6月3日、ペドロはアラゴン艦隊を結集しファンゴス港を出港、アフリカに渡って反乱の推移を見守っていました
やがて孤立し始めた反乱軍はホーエンシュタウフェン家の正統であるコンスタンツァとその夫ペドロを国王に迎えることに決し、ペドロに救援を求めます
同年8月にペドロはシチリアに上陸しシャルル=ダンジューを撃破、シチリア王となるのでした


本日はアラゴン王国のシチリア遠征の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年

633Republica de Venexia:2015/06/04(木) 00:02:12 ID:???
6月4日はハインリヒ3世が即位した日です

>>544のコンラート2世が死去し、その息子ハインリヒ3世が1039年6月4日、ドイツ王として即位しました
ハインリヒは父王が残した強力な帝国を受け継ぎ、その支配をさらに固めていきます
本拠地であるフランケン公領の他にシュヴァーベン公領、バイエルン公領も得、ドイツ王・イタリア王・ブルグント王・シュヴァーベン大公・バイエルン大公としての支配権を維持し、またボヘミア・ポーランド・ハンガリーに対する覇権も保ったのです

このようにハインリヒは王権の確立に成功し、また教会政策も父王の政策を踏襲し特に帝国教会にはほぼ無制限の支配権を持っていました
そしてローマ教皇にもまたハインリヒは強権を発揮します
ハインリヒか1046年にイタリアへと遠征した当時、ローマ教皇はベネディクトゥス9世、シルウェステル3世、グレゴリウス6世が鼎立していました
ハインリヒはスートリ教会会議でこのうちグレゴリウスとシルウェステルを罷免し、数日後にローマでの教会会議でベネディクトゥスをも罷免します

ローマの伝統として、教皇の選出はローマの人々によってなされるのが当然とされていました
これまでローマ人を無視し、皇帝の権威によって教皇を擁立したのは>>598などで登場したオットー3世のみでしたが、ハインリヒは再びこの皇帝理念を実現したのです
ハインリヒが教皇に選出したのはドイツ帝国教会の一員、バンベルク司教スイトガーで、これをクレメン.ス2世として教皇の地位に就けます
クレメン.スはバンベルク司教の地位も保ったままであり、ローマ教皇であり帝国司教でもあるという特別な形で皇帝に義務を負うこととなったのです

またハインリヒは1046年のクリスマスにローマにて皇帝戴冠式を挙行しました
その際にローマの人々はハインリヒを「ローマ人のパトリキウス」と歓呼します
こうしてハインリヒは「ローマ人の皇帝」として西欧で最も高い地位にある君主となりました
帝国領における無制限の支配権を望め、また反抗する貴族の領地を召し上げ直轄領の拡大に成功します
また主権者として帝国教会を支配し、司教や帝国修道院長の任命権も保持し、ローマ教会の支配者としても君臨したのです
ハインリヒの治世は、まさに皇帝権の絶頂期だったのです


本日はハインリヒ「黒王」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

634Republica de Venexia:2015/06/05(金) 00:10:46 ID:???
6月5日は後鳥羽上皇が挙兵した日です

鎌倉幕府では源頼朝の死後御家人の勢力が増大していき、中でも北条氏の台頭が顕著でした
北条氏は時政が幕府の実権を握り執権と呼ばれるようになります
時政の後を継いだ義時は1213年に和田義盛を滅ぼして執権の地位を不動のものとし、1219年には3代将軍実朝が暗殺されました
幕府には摂関家から藤原頼経が迎えられ摂家将軍となりますが、名ばかりの将軍であり実権は北条氏のもとにあったのです

一方朝廷では武士勢力の全国拡大を不満とし、特に荘園が地頭に奪われていったことで倒幕の動きが高まりつつありました
これを主導したのが後鳥羽上皇で、専制政治を進め分散していた天皇家領を手中に収め経済的基盤を強化します
そしてその土地を恩賞として軍事力を募り、畿内周辺の幕府御家人も上皇に臣従するようになったのです
上皇はこれらを北面の武士や新設の西面の武士に任じ、朝廷の軍事力は高まっていきました

そして1221年6月5日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発し、ここに承久の乱が勃発します
しかし上皇の下に畿内の武士は集まったものの、大多数は義時の下に集結しました
義時は東海道・東山道・北陸道の三方面から大軍を京都に向かわせ、劣勢の朝廷軍はわずか一ヶ月足らずで壊滅します
後鳥羽上皇は隠岐に配流され、上皇方についた武士の所領は没収、京都には六波羅探題が置かれ、幕府と北条氏の支配はますます強固なものとなっていくのでした


本日は承久の乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論新社、2004年
・上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年
・関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』吉川弘文館、2012年

635Republica de Venexia:2015/06/06(土) 00:08:14 ID:???
6月6日はクリスティーナが譲位した日です

>>353のリュッツェンの戦いでスウェーデン王グスタフ=アドルフが戦死した時、その娘クリスティーナはわずか5歳でした
当然政務はとれないため、宰相オクセンシェルナが国政を受け持ち三十年戦争を戦ったのは>>305でも見た通りです
そしてスウェーデンは三十年戦争を戦い抜き、1645年にはヤンカウの戦いで皇帝軍に勝利し皇帝フェルディナント3世はプラハからウィーンへ逃亡、47年にはプラハが包囲され、講和条約に至るのです

戦勝の立役者となったスウェーデンは当初、ポンメルン、シュレジエン、ブレーメン、ヴェルデン、マクデブルク、ハルバーシュタット、カミン、ミンデン、オスナブリュックの各司教領、ヴィスマル港を要求しました
しかしウェストファリア条約によってスウェーデンが得た領土は前ポンメルン、ブレーメン・ヴェルデン司教領、ヴィスマル港のみでした
この大幅な譲歩を主導したのが、1644年から親政を開始したスウェーデン女王クリスティーナだったのです

クリスティーナはスウェーデン一国の利害よりも、全ヨーロッパ、全キリスト教徒の平和を優先し、オクセンシェルナを筆頭とする国内の大反対を押し切って譲歩を貫きました
その結果他国の利益が増えることとなり、>>327のウェストファリア条約が穏便に締結されたともいえるでしょう
もちろん、クリスティーナの理想はスウェーデンの国益を度外視したものであり、その理想を追求すればするほど、女王としての彼女と乖離していくことになります
そのためクリスティーナは1654年6月6日、27歳にして譲位し、従兄にあたるカール=グスタフが王位を継ぐのでした


本日はスウェーデン王カール10世グスタフの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

636Republica de Venexia:2015/06/07(日) 00:01:29 ID:???
6月7日はトルデシリャス条約が結ばれた日です

>>313で見たコロンブスによる「新大陸発見」を重要視したカトリック両王の対応は迅速でした
「発見」の翌1493年、その法的権利を得ようとローマ教皇アレクサンデル6世と交渉したのです
スペイン出身であるアレクサンデルはこれに応じ、スペインの植民地に法的保証を与えるアレクサンデル教書が与えられ、ヴェルデ岬西方560kmの西側をスペイン領とする教皇子午線が設定されました

これに抗議したのが、同じく植民地拡大を目指すポルトガルでした
カトリック両王としてもポルトガルとの関係を維持したく、ポルトガルの要求に応じ子午線を西方に移します
そして1494年6月7日改めて両国間でトルデシリャス条約が結ばれました
この条約は異例なものであり、全地球を政治的に1つのものとみなし、それをスペインとポルトガルの二国家間で分割するというのです
子午線はさらに150km西方に移され、その西側をスペイン領、東側をポルトガル領とすることが取り決められたのでした


本日は世界分割の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年

637Republica de Venexia:2015/06/08(月) 00:01:26 ID:???
6月8日はリンディスファーン修道院が襲撃された日です

イングランドでは5世紀からアングロ=サクソン人の本格的な侵入が始まり、7世紀末にはケント、エセックス、サセックス、ウェセックス、イーストアングリア、マーシア、ノーザンブリアのいわゆる七王国が分立しました
その中でキリスト教も普及していき、特に7〜8世紀に強勢を誇ったノーザンブリアではキリスト教文化が隆盛し、ベーダやアルクインなどの学僧が活躍します
ノーザンブリアでもキリスト教文化の中心地となったのがリンディスファーン修道院で、聖なる島の異名を持ち、『リンディスファーンの福音書』は現在にも残されているのです

やがて七王国は>>299で見たようにウェセックス王のエグバートによって統一されていきますが、その時期はちょうどヨーロッパの第二次民族移動期と重なっており、イングランドにもその波が押し寄せてきます
793年6月8日、リンディスファーン修道院をデーン人が襲いました
イングランドでは海岸防備が薄く、豊かな修道院は格好の獲物だったのです
以降もデーン人の侵入は繰り返され、アルフレッド大王の時代になって一時撃退することになるのでした


本日はヴァイキング時代の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・B.アルムグレン、蔵持不三也訳『図説ヴァイキングの歴史』原書房、1990年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年

638Republica de Venexia:2015/06/09(火) 21:44:36 ID:???
6月9日はピョートルが産まれた日です

1669年、ロシア皇帝アレクセイ=ミハイロヴィチは妻のマリア=ミロスラフスカヤを亡くし、その2年後にナタリア=ナルイシュキナと再婚しました
このナタリアとアレクセイとの間で1672年6月9日に産まれたのがピョートルです
そして1676年にアレクセイが死去すると、宮廷ではその後継者をめぐってミロスラフスキー家とナルイシュキン家との間で争いが起こりました

この時はミロスラフスキー家のフョードル3世が即位しましたが、彼は病弱のため治世わずか6年で跡継ぎがいないまま死去してしまいます
再び後継者争いが起こり、フョードルの弟イヴァンが候補に挙がりましたが彼もまた病弱で、10歳になって逞しく成長していたピョートルが母ナタリアを摂政とし、皇帝ピョートル1世として即位したのです

しかしミロスラフスキー派も、フョードルとイヴァンの姉であるソフィアが巻き返しを図りました
ピョートル即位の翌月、ソフィアは銃兵隊を取り込んでナルイシュキン派を襲い、イヴァンを皇帝に就け自身は摂政として政治の実権を握りました
ところがソフィアはオスマン帝国従属下のクリミア=ハン国に対する遠征に失敗すると支持を失い、ピョートル支持派は勢いを取り戻します

ミロスラフスキー派はピョートルの暗殺を計画するものの失敗し、1689年、ピョートルは政治の実権を取り戻しました
1694年には摂政である母ナタリアが死去し、ここからピョートルの親政が始まります
そしてピョートルは西欧技術導入によるロシアの近代化、強国化に努め、>>205で見たように大北方戦争に勝利し、新都サンクト=ペテルブルクを建設するなど、「大帝」としてロシアに君臨することとなるのでした


本日は後のピョートル大帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

639Republica de Venexia:2015/06/10(水) 01:17:08 ID:???
6月10日はフリードリヒ1世が水没した日です

>>512で神聖ローマ皇帝に即位したフリードリヒ1世バルバロッサはドイツにおける王権を固め、叙任権闘争以来権力を高めていた教皇権に挑み、その治世で神聖ローマ帝国の威信は大いに高まりました
フリードリヒの皇帝理念は、「神聖帝国」という名称にも表れています
彼は1157年に開かれたブザンソンにおける宮廷会議で、ローマ教皇ハドリアヌス4世がよこした、教皇の恩恵によって皇帝位を授与するという旨の手紙をはねつけます
自身の王権と皇帝権は神のみから授与されたこと、そしてその神の意思はドイツ諸侯の選挙に表現されているとしたのです
皇帝権が神に直接由来し、そのため教皇権から独立したものであるという見解、それを表現したのが「神聖帝国」という呼称でした

そんなフリードリヒにとって、十字軍への参加は皇帝が西欧キリスト教世界の頂点としての威信を高めるものであり、折しも>>199のヒッティンの戦いでサラディンによって十字軍国家が大打撃を受けたこともあって、1189年、フリードリヒは第3回十字軍を組織します
この十字軍はイングランド王リチャード1世獅子心王、フランス王フィリップ2世尊厳王も参加した大規模なものでしたが、その途上の1190年6月10日、フリードリヒは小アジアのサレフ川で水浴中に溺死してしまいます
こうしてあっけない最期を遂げたフリードリヒですが、この偉大な皇帝への追慕から、フリードリヒはキフハイザーの城に眠っていて、ドイツの危急存亡の折には必ず帰還するという伝説が生まれるのでした


本日はフリードリヒ1世バルバロッサの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

640Republica de Venexia:2015/06/11(木) 00:14:43 ID:???
6月11日はブレスラウ条約が結ばれた日です

これまでオーストリア継承は何度か取り上げてきましたが、この戦争はいくつかの段階に分かれており、その第一段階は第一次シュレジエン戦争と呼ばれます
プロイセン王フリードリヒ2世のシュレジエン奇襲によって始まったこの戦争は、>>559のモルヴィッツの戦いにプロイセンが「勝利」したことでプロイセン寄りのフランス・バイエルンが勢い付き、この3国にザクセン・スペインを加えた同盟が成立します
バイエルンは神聖ローマ皇帝位とベーメン、ザクセンがメーレン、スペインがピエモンテ、フランスがオーストリア領ブラバントとフランドルを獲得するという合意がなされました

これに基づき、1741年に連合軍はオーストリア領ベーメンに侵攻、プラハを陥落させバイエルン選帝侯カール=アルブレヒトのベーメン王即位、翌42年には神聖ローマ皇帝カール7世としての即位を宣言しました
これに対しフランスの勢力拡大を阻止すべくイギリスがオーストリア側で戦争に介入、オーストリアもマリア=テレジアがハンガリーの協力を取り付け反撃を開始します
ここでプロイセンは密かにオーストリアと密約を結び、シュレジエンの一部譲渡を条件に単独で講和します

これによってオーストリアは勢いを得、連合軍をベーメンから退却させるため、カール7世の本拠地バイエルンへと侵攻します
このために連合軍はベーメンから退却し、オーストリアはさらにプロイセンとの密約を暴露することで同盟国間の不審を煽りました
ここに至ってプロイセンは戦争から離脱できなくなり、戦争継続を決意します
しかしオーストリアはその勢いのままバイエルンの首都ミュンヘンを占領、さらにプラハも奪回し、プロイセンへと攻勢をかけますが1742年5月のコトゥジッツの戦いでプロイセンに敗北、その勢いは止まることとなりました

ここでオーストリアはプロイセンに対する再びの妥協を決定、1742年6月11日、ブレスラウにて講和条約が締結されます
その内容はプロイセンがマリア=テレジアの夫フランツの神聖ローマ皇帝への即位を認める代わりに、オーストリアがプロイセンのシュレジエン全土の領有を認めるというものでした
こうしてシュレジエンを巡るオーストリアとプロイセンとの戦争はひとまず終結を迎えましたが、>>597で見たようにフランスやバイエルンとの戦いは続いていくのでした


本日は第一次シュレジエン戦争の終結日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

641Republica de Venexia:2015/06/12(金) 00:01:25 ID:???
6月12日はアンネ=フランクが産まれた日です

アンネ=フランクは1929年6月12日、ドイツのユダヤ人の家庭に産まれました
当時のドイツでは反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が勢力を拡大しており、その党首アドルフ=ヒトラーは1933年に首相に就任します
以後国政を掌握したナチスは反ユダヤ主義政策を次々と打ち出し、ユダヤ人の国外追放を進めるのです

アンネ一家も父親のオットーが33年にオランダに移住し、アンネも翌年オランダへと移っていきます
オランダにはナチスの迫害を逃れたユダヤ人が多く移住しており、ここでアンネは教育を受ける機会を得ました
しかし1939年にヒトラー率いるドイツによって第二次世界大戦が勃発すると、翌40年にはオランダもドイツに占領され、オランダでも反ユダヤ主義政策が進められたのです

1942年6月12日、アンネが13歳の誕生日に日記帳をプレゼントされたのはそのような状況においてでした
42年の時点でヒトラーの反ユダヤ主義政策は全ヨーロッパに拡大しており、ホロコーストと呼ばれるユダヤ人の大量虐殺も繰り返されるようになります
アンネ一家は隠れ家での潜伏生活を余儀なくされ、彼女の日記には隠れ家での出来事が書き綴られています
やがて1944年にアンネ一家はナチス親衛隊に発見され、強制収容所に送られることになります
1942年6月12日〜44年8月1日まで記録されたこの日記帳は、戦後父親のオットーによって出版され、『アンネの日記』として全世界で読まれることになるのです


本日は『アンネの日記』の誕生日です


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・レイモンド・P・ジェインドリン、入江規夫訳『ユダヤ人の歴史』河出書房新社、2012年

642Republica de Venexia:2015/06/13(土) 00:53:42 ID:???
6月14日はルートヴィヒ2世が亡くなった日です

これまで度々登場し、ドイツ史において重要な役割を担ってきたバイエルンは、>>211のナポレオンによるライン同盟結成の際、王国に昇格しその加盟国となりました
>>567のドイツ帝国成立の際にも王国としての地位は保たれ、プロイセンに次ぐ第二の大邦として自立性を保持していたのです

ルートヴィヒ2世がバイエルン王となったのはドイツ帝国成立以前の1864年3月でした
しかしルートヴィヒは政務を離れて自身の趣味に没頭し、ノイシュヴァンシュタイン城やヴェルサイユ宮殿を模したヘーレンキームゼー城、トリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城などを建築します
やがてルートヴィヒは精神に異常をきたし、狂人と宣告されて1886年6月12日に王位を追放され、その翌日の6月13日に謎の死を遂げたのでした


本日は「ルートヴィヒ狂王」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・須永朝彦『ルートヴィヒ2世 白鳥王の夢と真実』新書館、1995年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

643Republica de Venexia:2015/06/14(日) 00:17:29 ID:???
6月14日は岩本徹三が産まれた日です

1916年6月14日、岩本徹三は樺太で四人兄妹の三男として誕生日しました
海軍を志した岩本は1934年に呉の海兵団に入団、36年には第34期操縦練習生を卒業し、一等航空兵として佐伯海軍航空隊に勤務することとなります
その初陣は日中戦争が勃発した翌年の1938年、南昌攻撃においてで、この空戦で岩本は4機を撃墜するという華々しい戦果を挙げ、帰国するまでに14機を撃墜するというトップエースとなったのです

太平洋戦争開戦時には空母「瑞鶴」の戦闘機隊として>>377の真珠湾攻撃、>>51のセイロン沖海戦などのインド洋作戦、そして史上初の空母同士の航空戦となった>>594の珊瑚海海戦に参加し、母艦上空直掩で活躍します
珊瑚海海戦から旗艦後は航空隊教員や基地航空隊勤務を経て、1943年11月にラバウル航空隊に加わりました
「大空のサムライ」坂井三郎、「ラバウルの魔王」西澤廣義、「ラバウルのリヒトホーフェン」笹井醇一など名だたるエースも所属したこのラバウル航空隊でも岩本は実力を発揮します

岩本が得意としたのは一航過一撃戦法(一撃離脱戦法)で、敵より先に相手を発見し、敵機より高位から急降下で肉迫、射撃を加え下方に離脱するというものでした
ラバウルでも着々と戦果を挙げていくなか、着任より一ヶ月後の1943年12月、岩本らのもとに新兵器の三号爆弾が到着します
これは敵編隊の上空から投下すると時限信管によって炸裂し約200発の小型爆弾が飛び散るというものでした
岩本はこの三号爆弾を巧みに操り、一航過一撃戦法によって一度に10機以上を撃墜するということもありました

1944年にはラバウルを離れ、トラック基地などを経て内地の基地航空隊を転々、B29を単機で撃墜という活躍もありました
こうして1938年の初陣から1945年の終戦までの8年間、第一線で戦い抜いた岩本は自身の記録で202機もの敵機を撃墜し、その愛機には撃墜数を表す桜のマークが描かれ、その多さから機体後部はピンク色に見えたといいます
岩本徹三は、まさに太平洋戦争における撃墜王の一人だったのです


本日は「零戦虎徹」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・岩本徹三『零戦撃墜王』光人社、2004年
・「歴史街道2009年8月号 岩本徹三と零戦 ラバウル航空隊の誇りと不屈の闘志」PHP研究所、2009年
・「歴史人別冊 零戦の真実」KKベストセラーズ、2012年

644Republica de Venexia:2015/06/15(月) 00:16:03 ID:???
6月15日はコソヴォの戦いが行われた日です

オスマン帝国第三代スルタンのムラト1世はバルカン半島への進出を進め、ビザンツ帝国の重要都市アドリアノープルを征服しました
こうした領土の拡大に伴って支配下の部族は増大していき、オスマン帝国は従来の支配体制からの変革を迫られることになります

初代オスマン、二代オルハンの時代では行政と軍事が未分化なまま、支配下の部族長による合議が行われ、スルタンはその調停者というような役回りでしたが、宰相の制度が整備され統治組織の充実を図られたのです
ムラトは職務内容別に複数の宰相を任命し、彼らによる御前会議がオスマン帝国の政策の最高決定機関となりました
またイスラーム法に精通した知識人(ウレマー)を登用し、イスラーム法の施行に従事したことで法制度も整備されていきます
軍事においても改革が行われ、オルハンの時代には失敗した常備軍が編成されました
異教徒・異民族の人々を奴隷として入手し、訓練を施して軍人とする奴隷軍人制度が取り入れられたのです
これが後にオスマン帝国軍の中心となる常備歩兵軍団イェ二チェリの始まりでした

こうしたオスマン帝国の発展に脅威を感じたセルビアはハンガリーやボスニアなど他のバルカン諸国と結んで対抗しようとしますが、すでにセルビアは>>69のステファン=ドゥシャンの死後分裂しており、1364年のマリツァの戦いで敗れます
71年には再びセルビアがオスマン帝国に挑むもののまたもやマリツァで敗北しました
オスマン帝国はその後も85年にソフィア、86年にはニシュを攻略しバルカン半島を次々と支配下に収めていきます

これに対し1389年、バルカン諸国はセルビア王ラザールを中心にボスニア、ワラキア、アルバニアなど10万とも言われる大軍を編成し南下します
オスマン帝国も小アジアの諸君侯国や属国ビザンツ帝国やブルガリア、セルビアに敵対する諸侯の兵を糾合し迎え撃ちます
1389年6月15日、両軍はコソヴォにおいて激突しました
この戦いにオスマン帝国は勝利を収めたものの、セルビアの放った刺客にムラトは殺害されてしまいます
この危機をしのいだのがムラトの息子のバヤジット1世で、雷帝と呼ばれた彼は>>296で見たようにバルカン半島へのさらなる征服を進めていくのでした


本日はムラト1世の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・柴宣弘編『世界各国史24 バルカン史』山川出版社、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年

645Republica de Venexia:2015/06/16(火) 00:03:46 ID:???
6月16日はアクセル=オクセンシェルナが産まれた日です

1585年6月16日、スウェーデンに産まれたオクセンシェルナは26歳の頃の1612年、宰相に就任しました
その主君は>>285などで登場した名君グスタフ=アドルフ、炎に例えられるグスタフ=アドルフと氷に例えられるオクセンシェルナは二人三脚でスウェーデンの改革を進めていきます

軍事的才能を発揮しマウリッツの軍制改革を完成させたグスタフ=アドルフに対し、オクセンシェルナは内政でその手腕を発揮し、官僚制度、商業、工業、教育などの近代化に努めたのです

グスタフ=アドルフは>>353のリュッツェンの戦いで戦死し、スウェーデンでは幼いクリスティーナが国王となります
オクセンシェルナはスウェーデンに帰還し摂政としてクリスティーナを支え、国政を引き締めて三十年戦争の継続を図ります
オクセンシェルナはプロテスタント諸侯に呼びかけ1633年にハイルブロン同盟を結成、そしてフランスを直接参戦に踏み切らせ、>>305のヴィットストックの戦いでの勝利に導きました

そしてスウェーデンを中心とするプロテスタント陣営の優勢で戦争は進み、>>327で見たようにウェストファリア条約の実現に至りました
この条約交渉においては>>635で見たようにクリスティーナによってオクセンシェルナらの主張は退けられ、その晩年は不遇でした
しかし同時代人に、もしヨーロッパの政治家が同じ船に乗るとしたらオクセンシェルナに舵取りを任せるだろうと言われたほどのその政治手腕、間違いなく当時のヨーロッパを代表する名宰相だったといえるでしょう


本日はグスタフ=アドルフの相棒の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

646Republica de Venexia:2015/06/17(水) 00:02:24 ID:???
6月17日はボレスワフ1世が死去した日です

ポーランドではピアスト朝の創始者ミェシコ1世の時代、神聖ローマ帝国に脅かされていました
当時の皇帝は>>593などで登場したオットー大帝で、彼はマクデブルク司教座を大司教座に格上げするなど、東方への影響力を強めていたのです
キリスト教帝国の皇帝として、オットーはポーランドを自らの主導によってキリスト教化しようとしていましたが、ここでポーランドのミェシコ1世はボヘミアの仲介により966年、直接ローマ教皇から洗礼を受けます

このミェシコの後を継いだのが長男ボレスワフ1世でした
ボレスワフの治世での1000年、グニェズノにて会議が開かれます
神聖ローマ皇帝オットー3世が訪れローマ教皇特使も参加したこの会議で、従来ポズナニにしか司教座がなかったポーランドにグニェズノ大司教座とその管轄下の三司教座が置かれることとなりました
また王号の獲得を望むボレスワフをオットーは支持し、「兄弟にして帝国の協力者ならびにローマ人の友にして同志」と呼んだといいます

このような神聖ローマ帝国の親ポーランド的態度には、オットーの理念が影響していました
>>598などで見たようにオットーはローマ帝国復興を熱望しており、全キリスト教世界の連邦的体制の一員としてポーランドも重要視していたのです
このように神聖ローマ帝国との関係を築いたボレスワフは、ボヘミア征服によって一時はボヘミア公位を得、ビザンツ帝国と結んでキエフを占領するなど、ポーランドの領土拡大にも努めます
1025年にはローマ教皇によって正式に王として戴冠し、「勇敢王」と称されさのです
こうしてポーランド王国の基礎を築いたボレスワフは1025年6月17日に死去しました


本日はポーランド初代国王の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典II 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

647Republica de Venexia:2015/06/18(木) 00:06:19 ID:???
6月18日は三帝条約・再保障条約が結ばれた日です

>>325で見たように1873年、ドイツ帝国首相ビスマルク主導の下でロシア帝国・オーストリア=ハンガリー帝国との間で三帝協約が結ばれました
しかし露土戦争後のロシアの勢力拡大にイギリスとオーストリアが反発し、ビスマルクはその調停のためにベルリン会議を開き、列強間での利害を調整しました
しかしロシアはビスマルクがロシアを十分に支持しなかったと不満を感じ、ドイツ・ロシア関係が悪化してしまったのです

そこでビスマルクは1879年、以前から同盟を望んでいたオーストリア=ハンガリーと独墺同盟条約を結びました
秘密軍事条約であるこの条約はドイツの対ロシアでの共闘を定めたものの、対フランスには無力であったため、ビスマルクはその後次々と同盟条約を重ねていくことになります

ビスマルクはまた、イギリスに接近しようとしていました
イギリスと激しく対立していたロシアは再びドイツに接近し、三帝協約の復活を提案、これを受けて成立したのが1881年6月18日の三帝条約です
こちらは三帝協約とは異なり秘密条約で、第四国との戦争の際にそれぞれ中立の立場を取ることが取り決められました

翌1882年には独墺伊三国同盟条約が結ばれ、イギリスとの友好関係を前提とした上での対フランス戦争での協力が確認されます
こうして仮想敵国をロシアとする独墺同盟、ロシア-イギリス戦争でのロシア支持も盛り込んだ三帝条約、そして仮想敵国をフランスとしイギリスとの友好は維持する三国同盟、この矛盾した3つの同盟条約が成立したのです

この矛盾は戦争に発展しない間は露呈しませんでしたが、1885年からビスマルクは大きな国際危機に直面します
それがブルガリア危機とブーランジェ危機との二重危機でした
ブルガリア危機ではロシアからの自立を目指すブルガリアをイギリスとオーストリア=ハンガリーが支援し、双方の関係が悪化し三帝条約が解消されてしまったのです
またブーランジェ危機は、対ドイツ報復戦を主張するブーランジェ将軍が陸相となったことで対フランス戦争の危機が迫るというものでした
その上先のブルガリア危機ではオーストリア=ハンガリーの背後にドイツにがいるものとされたためロシアとドイツとの関係も悪化していたため、二正面作戦の危険もありました

そこでロシアとフランスの連携を防ぐため、またドイツのイギリスへの接近を阻止しようとするロシアの思惑もあって1887年6月18日、両国間で再保障条約が締結されました
この条約は対オーストリア=ハンガリー、対イギリスを想定したものであり、他の同盟条約とは矛盾するものでしたが、ここにひとまずビスマルク外交の1つの終着点をみたのでした


本日はビスマルク体制の完成日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

648Republica de Venexia:2015/06/19(金) 01:16:53 ID:???
6月19日は朝鮮が対馬を襲撃した日です

14世紀初め、朝鮮半島や中国の沿岸で倭寇と呼ばれる日本人を中心とする海賊集団が略奪を繰り返していました
これを前期倭寇といい、対馬・壱岐・肥前松浦を主な根拠地とするこの倭寇に対し、朝鮮の高麗は日本に取り締まりを要請します
しかし当時の日本は南北朝の動乱時代であり、九州も戦乱の最中であったため倭寇に対し有効な対策ができませんでした

朝鮮半島を主な標的とした倭寇の襲撃は明記されるものだけでも400件以上あり、高麗衰退の一因にもなりました
その高麗では李成桂が倭寇撃退で名を上げ、1392年、高麗を滅ぼして李氏朝鮮を建国します
とはいえその後も倭寇の襲撃は続き、1419年6月19日、朝鮮は倭寇の根拠地とされた対馬を襲撃します
これを応永の外寇といい、10日間に渡るこの襲撃は対馬の宗氏が撃退に成功しました
応永の外寇によって一時は貿易が中断したものの、あくまで倭寇討伐が目的であったためすぐに再開されます
宗氏はこの日朝貿易を次第に独占するようになり、日朝の中継地点として特別な地位を占めていくことになるのでした


本日は応永の外寇の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・永原慶二『日本の歴史10 下克上の時代』中央公論新社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年

649Republica de Venexia:2015/06/20(土) 00:07:31 ID:???
6月20日は第三身分が球戯場に集まった日です

>>489で見た七年戦争、それと並行した北米でのフレンチ=インディアン戦争、インドでのカーナティック戦争に敗れたフランスは、イギリスに対抗するため>>570のアメリカ独立革命を積極的に支援しました
その結果北米で一時は軍事的優位に立ったものの、一方で赤字が膨張し慢性的な財政問題はさらに悪化することとなります
当時のフランスはアンシャン=レジーム(旧体制)と呼ばれ、全人口の1割に満たない第一身分と第二身分の聖職者・貴族が特権を持ち、9割以上の第三身分である平民が重税に苦しんでいたのです

第三身分のなかでも台頭著しい商工業者や大農場経営者などのブルジョワジーが営業の自由を求め絶対王政への反発を強めるなか、フランス王ルイ16世は課税の承認を求める三部会を招集しました
1789年5月5日に開かれたこの三部会で第三身分は身分別の議決法に反発し第一・第二身分と対立、一ヶ月に渡る議論の末、第三身分は三部会を離脱し国民議会を結成します
これに対し第一・第二身分は第三身分の議場を閉鎖したため、第三身分は球戯場に集まりました
1789年6月20日、球戯場に集まった人々はシェイエスやミラボー指導の下で憲法が制定されるまで解散しないことを宣誓したのでした


本日は「球戯場の誓い」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・安藤正勝『物語フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中央公論新社、2008年
・柴田三千雄、福井憲彦・近藤和彦編『フランス革命はなぜ起こったか 革命史再考』山川出版社、2012年

650Republica de Venexia:2015/06/21(日) 00:05:03 ID:???
6月21日はラウペンの戦いが行われた日です

>>441で見たように、スイスではゴットハルト峠が通行可能になって以降、ヨーロッパにおける交通の要所となりました
ハプスブルク家はこのスイスの支配確立を目指しますが、1291年にウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの三州がスイス誓約同盟を結成してこれに対抗します
これとは別に勢力を広げていた都市国家の一つがベルンでした

ベルンは1191年にツェーリンゲン大公ベルトルト5世によって築かれ、ツェーリンゲン家断絶後には神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世のもとで帝国自由都市となりました
13世紀になると上で見たハプスブルク家の進出に遭い、またイタリアからはサヴォイア家も進出してきます
ベルンもまた他のスイス諸州と同じくこれに対抗し、周辺地域を支配下に組み入れ都市国家として拡大していきました

1315年にはスイス誓約同盟はモルガルテンの戦いでハプスブルク家に勝利し、ベルンもまた1339年6月21日にラウペンの戦いでハプスブルク家を撃退しました
ラウペンはベルンの中心地となり、都市国家ベルンはさらなる発展を見せることとなります
1353年にはスイス誓約同盟に加盟してその中心的存在となり、1386年のゼンパッハの戦いで再びハプスブルク家を破るのでした


本日はベルンの対ハプスブルク戦勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年

651Republica de Venexia:2015/06/22(月) 00:22:30 ID:???
6月22日はピュドナの戦いが行われた日です

アレクサンドロス帝国の後継国家の1つアンティゴノス朝マケドニアは、フィリッポス5世が>>236の第二次ポエニ戦争でハンニバルと同盟し、ローマに対抗しました
しかし二次にわたるマケドニア戦争の結果マケドニアは敗北し、以後フィリッポスは親ローマ政策を採るようになります

しかしフィリッポスの後を継いだペルセウスは再びローマに対抗し、ギリシアでの勢力を拡大しようと目論みます
ペルセウスは親ローマであったペルガモン王国に侵攻し、ペルガモン王国がローマに救援を求めたため、前171年に第三次マケドニア戦争が勃発しました
当初はマケドニア軍がローマ軍に対し優勢で、マケドニアのギリシアにおける影響力拡大に成功しますが、>>322のザマの戦いでハンニバルを破ったスキピオ=アフリカヌスの義弟、ルキウス=アエリミウス=パウルスが執政官として派遣されると戦局が変わります

前168年6月22日、パウルス率いるローマ歩兵隊とペルセウス率いるマケドニアのファランクスが激突し、数では劣るローマ軍がファランクスを翻弄し大勝をおさめたのです
敗れたペルセウスは捕虜となって廃位されアンティゴノス朝は断絶、マケドニアは4つに分割され、後にローマの属州となるのでした


本日はアンティゴノス朝マケドニアの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・森谷公俊『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・澤田典子『世界史リブレット人5 アレクサンドロス大王 ─ 今に生き続ける「偉大なる王」』山川出版社、2013年


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