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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
1
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/03/18(火) 23:56:08 ID:QU46JH2Y
馬・人物・キャラの誕生日はもちろん、過去の出来事や記念日、ホモが好きそうな商品の発売日などについて語るスレ
AILE君へのネタ提供になればよいのだけれど、やりすぎると逆にネタ潰しやまとめの催促にもなりかねないので、まったり雑談していきましょう
個別誕生日スレを否定するスレではないので、個別スレは予告や告知をどうぞ
452
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/01/26(月) 00:28:41 ID:9ibLNEGM
オスマン帝国とかいうウィーンでコーヒー飲んだだけのおっさんたち
この後領土削られてる間にチューリップで御花畑ですかたしか。
453
:
Republica de Venexia
:2015/01/26(月) 00:34:58 ID:???
>>452
撤退の最中にコーヒーの袋置いてったんですよねw
さっさとウィーン捨ててどっか行った神聖ローマ皇帝もアレですけど...
チューリップ時代はなんとなくパレオロゴス=ルネサンスが思い起こされます...
454
:
Republica de Venexia
:2015/01/27(火) 00:13:43 ID:???
1月27日はハインリヒ6世とコンスタンツァが結婚した日です
>>299
のように北ヨーロッパでノルマン=コンクェストが行われていた頃、南ヨーロッパでは同じくノルマン人でオートヴィル家のロベール=ギスカールが、ビザンツ帝国領の南イタリア征服を進めていました
ギスカールはイタリア半島南部を、その弟ルッジェーロ1世はシチリア島を支配し、この2つはルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世によって統一され、1154年、シチリア王国が成立しました
以後シチリア王国はオートヴィル家が支配していましたが、その代3代グリエルモ2世には嫡子が無いまま病没し、後継者争いが勃発することとなります
後継者の第一候補となったのはルッジェーロ2世の娘で、唯一のオートヴィル家直系の生まれであったコンスタンツァでした
コンスタンツァは1186年1月27日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの息子であるハインリヒ6世と結婚しており、ドイツと強い関係を持っていました
しかしこのドイツとの関係がシチリア人の反発を産み、レッチェ伯タンクレーディが新国王となります
しかし庶子であったタンクレーディに不満を持つ勢力も多く、その統治は不安定なものでした
ハインリヒ6世はこれを見て南イタリアへと侵攻、タンクレーディの病死もあり、シチリア王国を掌握します
そして
>>395
で見たように、地中海世界で強力な帝国の建設を目指していくのでした
本日はホーエンシュタウフェン家・オートヴィル家同盟の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
455
:
Republica de Venexia
:2015/01/28(水) 00:35:22 ID:???
1月28日はシャルルマーニュが亡くなった日です
>>373
、
>>394
で見たようにフランク王カール1世がローマ皇帝として戴冠し、西ローマ帝国が復活しました
とはいえ、この帝国はかつてオクタウィアヌス(アウグストゥス)が建設したローマ帝国のように強固な支配体制が整った国家ではなく、帝国内の各地方にそれぞれの管区を治める伯や司教が存在し、皇帝から半ば自立した権力を持つようになりました
またシャルルマーニュは皇帝であると同時に、フランク国王でも有り続けました
これらの要素、ローマ教皇による加冠、諸侯権力の自立化、国王と皇帝の併存などは神聖ローマ帝国においても受け継がれることになるのです
そしてこの帝国の問題として、フランク王国の慣習である分割相続が挙げられます
帝国を統治するのは皇帝のみでしたが、王国は分割して相続されるという矛盾が発生したのです
これはシャルルマーニュの3人の息子のうち、長子カールと次子ピピンが早逝し、末子ルートヴィヒのみが残ったため回避されますが、後に
>>187
や
>>151
で見たような王権縮小の要因となるのです
このような問題を残したまま、シャルルマーニュは814年1月28日に没し、すでに共同皇帝であったルートヴィヒが単独皇帝として帝国を治めることになるのでした
本日は単独皇帝ルートヴィヒ敬虔帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年
456
:
Republica de Venexia
:2015/01/29(木) 01:04:48 ID:???
1月29日は明・朝鮮連合軍が蔚山城攻撃を開始した日です
豊臣秀吉が始めた朝鮮出兵は1593年に一時停戦し和平交渉が進められましたが、双方の要求が食い違い決裂、1597年に再び朝鮮への出兵が始まりました
この慶長の役で日本軍は朝鮮半島南部を確保するため、南部の海岸線や島に城を新築、あるいは改修し、その支配領域の強化に努めました
加藤清正が築いた蔚山城もその一つで、すでに文禄の役の頃に浅野幸長とともに築いた日本軍最大の拠点西生浦城の北西、半島南部に連なる倭城群の最東端にあたる位置で築城が始まりました
しかし1598年1月29日、完成間近となった蔚山城を明・朝鮮連合軍によって急襲されます
この時清正は西生浦城にいましたが急遽蔚山城に戻り、防衛戦を指揮します
日本軍は火縄銃を有効に使い連合軍の攻撃を必死に防ぎ、損害が増した連合軍は兵糧攻めに切り替えました
突貫工事であったため防衛体制が未完成で、兵糧にも乏しかった日本軍は苦境に立たされ、飢えと寒さに苦しめられます
しかし2週間が経ち落城寸前となった2月8日、毛利秀元らの援軍が到着、焦った連合軍は蔚山城総攻撃を行いますが清正はこれを撃退しました
退路を絶たれることを恐れた連合軍は撤退し、蔚山城は辛うじて持ちこたえることに成功したのでした
本日は蔚山城籠城戦の誕生日です
参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・北島万次『加藤清正 朝鮮侵略の実像』吉川弘文館、2007年
・中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年
457
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/01/29(木) 22:23:25 ID:/cdF9KkI
さて加藤清正公のお膝元だった熊本市には蔚山町があります
読み方はまんま「うるさん」
すごいですねこれ
ちなみに熊本城では再興にあたり一口城主を募りました(一口1万円)
なんとキン肉マンマリポーサが寄付してました。
熊本行ったら熊本市電に乗りいきなり団子に朝鮮飴買って、ポチョムキン『おてもやんサンバ feat.水前寺清子』、聞こう!(推奨)
458
:
Republica de Venexia
:2015/01/29(木) 22:26:21 ID:???
>>457
おお、そういう所縁があるんですね!
熊本城は一度行ったことがあるのですが、日程の都合上あまり見て回ることができませんでした...
今度行く機会があれば、城跡はもちろんのこと、その周りもじっくり散策したいです、朝鮮の役関係もいろいろありそうですね
459
:
Republica de Venexia
:2015/01/30(金) 00:38:06 ID:???
1月30日は日英同盟が締結された日です
イギリスはクリミア戦争終結後、強大な経済力と海軍力を背景に他国と同盟を結ばず孤立を保っており、その非同盟外交は「光栄ある孤立」と称されました
しかし
>>413
で見たようにヨーロッパではドイツを中心に三国同盟が形成され、さらにフランスとロシアとの間で露仏同盟が成立するなど、イギリスの覇権は揺らいでいきます
またイギリスはロシアの南下政策にも対抗しており、特にロシアが義和団事件後も中国東北地方に軍を駐留させたままであったことに強い危機感を覚えていました
このロシアの動きを警戒していたのは日本も同様で、利害が一致した両国は1902年1月30日、日英同盟を締結してロシアの備えとしたのです
これによってイギリスは極東に覇権していた艦隊を本国海域に再配備することができ、ヨーロッパにおける海軍力を増強が可能となりました
日本もまた日英同盟を背景に巨額の外債を発行して日露戦争を乗り切り、戦後のさらなる工業化やアジア市場への進出が可能となったのでした
本日は「光栄ある孤立」の命日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』
460
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/01/30(金) 22:58:11 ID:C5P6Ych2
児玉源太郎「よっしゃ!海底ケーブル作って大英帝国の情報ももろたろ!」
児玉源太郎が今の時代に至っても讃えられたる人間というのは先見の明があったというのを忘れてはいけません。
「情報戦の名の下同盟国の情報を掠め…いや共用する」という姿勢は多々学ぶべし、と思いますがいかがでしょうか。
461
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/01/30(金) 23:03:04 ID:C5P6Ych2
>>460
は日英同盟のもと児玉ケーブルてわ大英帝国の情報をかき集めていた話がもとです。
462
:
Republica de Venexia
:2015/01/30(金) 23:03:12 ID:???
>>460
日露戦争での綿密な情報把握も、児玉さんの功績大ですよね
日本海海戦というクライマックスに向かって着々と積み上げていく感が見応えありました
463
:
Republica de Venexia
:2015/01/30(金) 23:03:38 ID:???
>>461
ありがとうございます!
464
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/01/30(金) 23:08:30 ID:C5P6Ych2
>>463
酔っ払いの絡み程度のものですが、日々誠実に更新されてるので豆知識程度の助太刀として…
いつも楽しんでます(*^◯^*)
465
:
Republica de Venexia
:2015/01/30(金) 23:13:54 ID:???
>>464
お恥ずかしい限りです...まだまだ要約程度のもので、自分のモノとできていないので精進せねばというところです...
興味深いお話をいつもありがとうございます!
466
:
Republica de Venexia
:2015/01/31(土) 01:24:35 ID:???
1月31日はシルウェステル1世がローマ教皇に即位した日です
>>331
で見たコンスタンティヌス1世がローマ皇帝であった頃、ローマ教会では314年1月31日シルウェステル1世が即位しました
コンスタンティヌスはキリスト教を公認した皇帝として有名ですが、このコンスタンティヌスとシルウェステルが後世、キリスト教会によって利用されることになります
>>373
で小ピピンがフランク王となりカロリング朝を開いたことを見ましたが、その際ローマ教皇ステファヌス3世が王位を承認してくれたことへの返礼として、いわゆる「ピピンの寄進」が行われました
これが教皇領の起源となったわけですが、これに対し東ローマ皇帝コンスタンティノス5世はその返還を要求します
>>265
で見たように、西ローマ皇帝位はオドアケルによって東ローマ皇帝に返上されており、名目上はイタリアも東ローマ支配下にあったからでした
一方ローマ教皇庁では教皇領を正当化するため、「コンスタンティヌスの寄進状」が作成されます
これはコンスタンティヌス1世がシルウェステル1世によって癩病から回復し、その返礼としてシルウェステルとその後継者に帝国の西半分を譲渡したとするものでした
このコンスタンティヌスの寄進状は15世紀になって偽書と証明されますが、それまでの間、ローマ教皇は寄進状を根拠に皇帝権に対する教皇権の優越を主張しました
>>394
のシャルルマーニュへの加冠や、
>>454
のロベール=ギスカールの南イタリア授封、
>>40
のアラゴン王のサルデーニャ授封の際にもコンスタンティヌスの寄進状が根拠とされ、
>>294
や
>>448
で見た教会改革、叙任権闘争においても教皇権優越を示すためコンスタンティヌスの寄進状が用いられることとなるのでした
本日は第33代ローマ教皇の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房、2013年
467
:
Republica de Venexia
:2015/02/01(日) 01:31:24 ID:???
2月1日は鄭成功がゼーランディア城を攻略した日です
16世紀以降、東アジアでは中国の生糸と日本の銀との交易が大きな利益をあげるようになりましたが、中国は倭寇の影響もあって日本と直接交易しようとせず、中間交易が盛んとなります
その一大拠点となったのが台湾で、日本だけでなくポルトガル、スペイン、オランダなども訪れるようになります
その中でオランダが1624年に台湾にゼーランディア城を築いて拠点とし、中国沿岸を支配する鄭芝龍と結んだのです
鄭芝龍は明によって厦門の提督に任じられ、清が明の北京を攻略した後には息子の鄭成功とともに、唐王永歴帝を擁立し、南明政権である隆武政権を打ち立てます
清は各地の反清勢力を鎮圧するなかでこの隆武政権を滅ぼし、鄭芝龍も投降させますが、鄭成功はこれに従わず抗戦を継続しました
鄭成功の財政基盤は交易であったため、清は海禁令を強化し、さらに1661年、遷界令を発して鄭成功の孤立化を図ります
これに対し鄭成功は沿岸地域を放棄し、新たな拠点建設を目指しますが、その標的となったのが台湾でした
鄭成功は1661年に台湾に侵攻、ゼーランディア城を包囲し1662年2月1日にこれを陥としました
鄭成功自身はその翌年に病死しますが、その意志は息子の鄭経が受け継ぎ、1683年まで清に対抗することとなるのでした
鄭成功の運動は日本にも伝えられています
永歴帝を奉じた際、鄭成功は永歴帝の国姓である「朱」を賜りましたが、それに由来する「国姓爺合戦」が近松門左衛門によって人形浄瑠璃として公演され、鄭成功は和藤内として登場します
「国姓爺合戦」は大好評を博し、17ヶ月に渡って公演されることとなったのでした
本日は鄭氏台湾の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
・歴史学研究会編『史料から考える世界史20講』岩波書店、2014年
468
:
Republica de Venexia
:2015/02/02(月) 00:17:23 ID:???
2月2日はオットー1世が戴冠した日です
>>242
と
>>245
で見たように、ザクセン朝のオットーは「ドイツ国王」となり、レヒフェルトの戦いで「キリスト教世界」を防衛したことでローマ教皇から加冠されることになります
962年2月2日、ローマ教皇ヨハネス12世によってオットー1世として戴冠し、
>>455
のようにカロリング帝国期に没落していったローマ皇帝権は復興を果たすのです
このオットーの戴冠はシャルルマーニュ以来の伝統によるものであり、教皇としては
>>466
で見た「コンスタンティヌスの寄進状」に基づくものでもありました
これに対しオットーは「オットーの特権状」と呼ばれる特権状を発し、ピピンの寄進以来教皇庁が保持していた領土の支配権を認めたものの、それは皇帝によって保証されるものであり、皇帝が諸権利を保持することを前提としていました
また教皇の就任には皇帝に対する誠実宣誓が必要とされたのです
つまりは教皇位が帝国における司教の筆頭の地位となったも同然であり、当然ヨハネスはこれに反発、オットーと敵対するイタリア王べレンガリオ2世と結んで対抗しました
オットーは教会会議を開きヨハネス12世を廃位、オットーがイタリアから離れた隙にヨハネスは復位するものの急死し、新教皇となったベネディクトゥス5世もまたオットーによって廃位されイタリアにおける皇帝権が確立するなど、オットー期の皇帝
>>448
のハインリヒ4世とグレゴリウス7世の頃とは異なり強力な権力を有していたのです
このようにしてオットーの新帝国、後に神聖ローマ帝国と呼ばれる帝国が成立しましたが、オットー自身は単なる「皇帝」という称号を用いましたが、次代のオットー2世はローマ帝国起源であることを強調するため「ローマ人の皇帝」を名乗りました
その後継者、古代ローマ帝国復興に燃えるオットー3世は
>>466
で登場したコンスタンティヌス1世に自身をなぞらえ、新教皇となったオーリヤックのジェルベールにシルウェステル1世にちなんでシルウェステル2世と名乗らせ、「ローマ人の至高なる皇帝」という称号を用いたのです
時代が下り、12世紀のホーエンシュタウフェン朝、フリードリヒ1世バルバロッサは皇帝権に聖権を付加し、帝国もまた「神聖帝国」と表記するようになります
13世紀にはオットー朝期の「ローマ帝国」と合体して「神聖ローマ帝国」となり、15世紀以降には帝国とドイツ国民との結びつきが強まり、1512年に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名称が生まれ、
>>241
の神聖ローマ帝国滅亡まで用いられることとなったのでした
本日は帝国(神聖ローマ帝国)の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・歴史学研究会編『幻影のローマ “伝統"の継承とイメージの変容』青木書店、2006年
469
:
Republica de Venexia
:2015/02/03(火) 00:07:39 ID:???
2月3日はムラト2世が亡くなった日です
オスマン帝国スルタン、ムラト2世は
>>347
で見たようにバルカン半島を再び支配下に収め、これを機に退位、まだ若き12歳の息子メフメト2世が即位しました
しかしバルカン半島は完全に平穏となったわけではなく、
>>367
で登場したアルバニアのスカンデルベグやハンガリーのフニャディ=ヤノシュが健在で、度々オスマン帝国領を攻撃していたのです
特にスカンデルベグはオスマン帝国軍に対し無敗を誇り、バルカン半島の情勢が懸念されたことで1446年、ムラトは復位を余儀なくされます
復位後のムラトはギリシアを制圧し、1448年には攻勢をかけてきたフニャディの軍をスカンデルベグと合流する前にコソボにて撃滅し、バルカン半島はスカンデルベグを除いて制圧されました
また小アジアにおいてもアイディン君侯国、ゲルミヤン君侯国を併合し、その他君侯国にもオスマン帝国の宗主権を認めさせたのです
こうしてオスマン帝国に平穏をもたらしたムラトは、1452年2月3日に死去します
この訃報に対し、まず安堵したのは小アジアでオスマン帝国の攻勢にさらされていたビザンツ亡命政権、トレビゾンド帝国でした
また西欧においても同様に安堵の雰囲気が広まります
というのも、神聖ローマ帝国では新皇帝となるフリードリヒ3世の支配基盤が脆弱で諸侯を抑えるのに四苦八苦しており、フランスとイングランドは長らく続いていた百年戦争の末期にあたる時期であり、スペインではレコンキスタの最終局面であったことから、バルカン半島に手を回せる状態ではなかったからでした
また新スルタンが弱冠19歳であり、その補佐を担当していた大宰相ハリル=パシャは穏健派であり、当面はキリスト教勢力への攻撃は無いと判断したからでもありました
しかしメフメトは固い意志を持ってビザンツ帝国の都コンスタンティノープル攻撃を断行し、
>>146
で見たようにビザンツ帝国を滅ぼし西欧に衝撃を与えることとなるのでした
本日はムラト2世の命日です、西欧の皆さんおめでとうございます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
470
:
Republica de Venexia
:2015/02/04(水) 01:21:33 ID:???
2月4日は趙匡胤が皇帝に即位した日です
>>422
で見たように、唐滅亡後の中国は五代十国時代と呼ばれる混乱の時代となり、この間に貴族層は没落し藩鎮支配の下で武断政治が展開されました
この五代の最後の王朝である後周は、三武一宗の法難で知られる仏教弾圧を行った世宗が病没し、その後を弱冠7歳の恭帝が継ぎました
まだまだ戦乱が続くこの時代、幼帝が即位したことに不安を感じた軍人勢力は趙匡胤を皇帝に推し、恭帝による禅譲という形で趙匡胤が即位することになります
960年2月4日、趙匡胤が即位し国号が宋とします
趙匡胤は中国の統一を進め、また五代十国時代の武断政治を改め文治政治を展開します
軍人の勢力は削がれ、一方で科挙の整備による官僚の登用と皇帝直属の常備軍である禁軍を基盤とした皇帝専制を強化していきます
江南では農業開発が進み、茶・絹・陶磁器などの特産物の生産とともに物流が発達、各地に商業都市が生まれ、経済・文化・技術が大きく発展することとなります
また周辺の遊牧国家との間では和議を結んで歳賜を送ることで平和を維持するようになるなど、それまでの朝貢・冊封関係とは異なる関係が築かれます
このように宋代では唐代から大きな変革が進み、唐宋変革と呼ばれる変動期となるのでした
本日は宋の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・中島敏・周藤吉之『五代と宋の興亡』講談社、2004年
・小島毅『全集中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流』講談社、2005年
471
:
Republica de Venexia
:2015/02/05(木) 01:38:18 ID:???
2月5日はベルナドッテがスウェーデン王となった日です
スウェーデンは大北方戦争での敗北後、
>>254
で見たようにグスタフ3世が絶対王政を復活させ、再びスウェーデンを強国の地位に押し上げました
しかしその後を継いだグスタフ4世は先王が築いた地位を保とうとしますが、当時ヨーロッパではフランス革命、そしてナポレオン戦争が勃発するという動乱の時代であり、スウェーデンもまたこれに巻き込まれていくこととなります
この動乱のなか、グスタフ4世は徹底した反ナポレオン政策を採り、対仏大同盟にも参加しますがナポレオンに敗れてしまいます
またナポレオンが発布した大陸封鎖令が発布を拒否し、先王の時代に同盟を結んでいたロシアと敵対することにもなり、フィンランドを奪われるなど、失政が続きました
ここに至ってスウェーデンではクーデターが起こり、1809年、グスタフ4世は廃位されて立憲君主制が復活し、彼の叔父であるカール13世が国王となります
カールはこの時すでに高齢で、また嫡男が急死したため、新たな後継者が選定されることとなりました
ここで後継者に選ばれたのがナポレオン配下の将軍ベルナドッテで、1810年にカール13世の養子となり王太子・摂政としてスウェーデンを率います
ベルナドッテはロシアと再び同盟を結んでナポレオンに対抗し、
>>317
で見たライプツィヒの戦いにも参加し連合軍の勝利に貢献するなど、スウェーデンをナポレオン戦争の戦勝国に導いたのです
そして1818年2月5日、スウェーデン王カール13世が没し、王太子ベルナドッテはカール14世ヨハンとして国王に即位、現在も存続するベルナドッテ王朝の祖となったのでした
本日はベルナドッテ王朝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
472
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/02/05(木) 22:53:34 ID:ND46Aqng
ちなみに現スウェーデン国王はカール16世グスタフです。
グスタフおじさんの被り物とかポルシェ乗り回したりとか風俗疑惑とかこのハッチャケぶりなんなんですかねぇ…
473
:
Republica de Venexia
:2015/02/05(木) 23:08:21 ID:???
今の国王、グスタフなんですね
スウェーデン王にはグスタフやアドルフが多いですけど、グスタフ2世アドルフに因んでるのかな
現国王がそんなはっちゃけた方とは知りませんでしたw
474
:
Republica de Venexia
:2015/02/06(金) 00:17:05 ID:???
2月6日はミュンヘンで飛行機事故が起こった日です
サッカー界の飛行機事故としては
>>91
で見た「スペルガの悲劇」があり、グランデ・トリノが終焉を迎えるという痛ましい事故がありました
この「スペルガの悲劇」の約10年後、同様の悲劇が起こってしまいます
イングランド代表に多数の選手を輩出し、当時チャンピオンズカップ2連覇を成し遂げていたレアル・マドリーの対抗馬の一角として台頭してきていたチームがマンチェスター・ユナイテッドでした
マット・バスビー監督に率いられ、若きキャプテン、ダンカン・エドワーズが牽引するこのチームは1957-58シーズンのチャンピオンズカップにおいて順調に駒を進め、準々決勝ではユーゴスラヴィアのレッドスター・ベオグラードを2戦合計5-4で降しました
しかしこの翌日の1958年2月6日、彼らは悲劇に襲われます
マンチェスター・ユナイテッドの選手たちを乗せたブリティッシュ・ヨーロピアン・エアウェイズの臨時便エリザベッタン号はミュンヘン空港での離陸の際に上昇できず、墜落してしまいます
この事故でチームのレギュラーであるロジャー・バーン、マーク・ジョーンズ、リアム・ウェラン、エディ・コールマン、ジェフ・ベント、デイビッド・べッグ、トミー・テイラーを含む23人が即死し、15日後にダンカン・エドワーズも亡くなります
レイ・ウッド、アルバート・スカロン、ジョニー・ベリー、ジャッキー・ブランチフラワーは後遺症のため選手生命を絶たれ、ハリー・グレッグ、デニス・バイオレット、ビル・フォルケス、そしてボビー・チャールトンの4人のみがほぼ無事で生還するという悲惨な事故でした
この事故後、例外的措置としてブラックプールのアーニー・テイラー、アストン・ビラのスタン・クロウサー、アマチュアのトム・ヒーロンの獲得が認められ、チャンピオンズカップでの戦いを継続しますが、準決勝ではチェーザレ・マルディーニやニルス・リードホルム、フアン・アルベルト・スキアフィーノ擁するACミランに敗れてしまいます
その後のマンチェスター・ユナイテッドは翌年にバスビー監督が復帰しチームの再建を進め、10年後の1967-68シーズン、バスビ監督が育て上げたチャールトン、デニス・ロー、ジョージ・ベストら「バスビー・ベイブス」が躍動し、奇しくもイングランド・フットボールの聖地ウェンブリーにおいてエウゼビオ擁するベンフィカを破り悲願のチャンピオンズカップ制覇を達成、フットボールの母国に初の栄冠をもたらすのでした
本日はミュンヘンの悲願の誕生日です、お悔やみ申し上げます
475
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/02/06(金) 22:47:54 ID:/KNSBJMY
そうか、今日はミュンヘンの悲劇の日か…
ここからマンチェスターユナイテッドは強豪から、比類なき、栄光も悲劇も味わい尽くしたレジェンドになっていったのですね。
あ、そうだ(唐突)
飛行機事故といえばコメット号墜落事故のドキュメンタリーオススメです
リベット(ネタバレ)
476
:
Republica de Venexia
:2015/02/07(土) 00:15:02 ID:???
この事故から立ち直って優勝まで上り詰めたことは本当に心に響きます...
コメット号連続墜落事故というのがあるんですね
なんとなくサンダーバードのファイアフラッシュ号が連想されました
477
:
Republica de Venexia
:2015/02/07(土) 00:36:45 ID:???
2月7日はレオ1世が即位した日です
ローマ帝国はコンスタンティヌス時代、
>>100
で見たようにコンスタンティノープルが実質的な首都となり、テオドシウス1世死後の395年に最終的に東西に分裂しました
次代のアルカディウスから始まる東ローマ帝国テオドシウス朝は、「テオドシウスの城壁」を建設したテオドシウス2世、
>>309
で見たカルケドン公会議を招集したマルキアヌスと続き、マルキアヌスの死によって断絶します
457年2月7日、新たに即位することになったのがレオ1世でした
レオはコンスタンティノープル郊外のヘブドモン練兵場で即位式を行い、その際にローマ皇帝の伝統となっていた、元老院・民衆・軍隊の歓呼によって迎えられます
レオ1世はレオ朝の体制を整え、その後この王朝は
>>265
で登場したゼノンなどを経て、
>>235
で見たアナスタシウス1世まで存続することとなるのでした
本日はレオ朝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年
・井上浩一『ビザンツ文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年
478
:
Republica de Venexia
:2015/02/08(日) 01:20:24 ID:???
2月8日はコンスタンティノス=パレオロゴスが産まれた日です
ビザンツ帝国は
>>227
で見たようにミカエル=パレオロゴスが十字軍に奪われたコンスタンティノープルを奪回し、パレオロゴス朝が成立しましたがもはや往時の面影は無く、
>>69
で見たセルビア王国や、度々取り上げてきたオスマン帝国の進出もあり、国家の命運は風前の灯となっていました
それでも1402年に
>>222
で見たアンカラの戦いによってオスマン帝国が一時中断したことでビザンツ帝国が延命することになります
コンスタンティノス=パレオロゴスはちょうどこの時代、1405年2月8日に産まれます
当時の皇帝はマヌエル2世で、オスマン帝国のスルタンを巡る争いに干渉し休戦協定を結ぶことに成功しますが、オスマン帝国に対し反撃するほどの力はすでに残されていませんでした
やがてオスマン帝国は
>>347
のようにムラト2世が帝国を再建し、再び攻勢に出ます
マヌエルはオスマン帝国によるコンスタンティノープル包囲を撃退、また文化面でもパレオロゴス=ルネサンスの最盛期を実現しますが、1425年に死去しました
後を継いだヨハネス8世は対オスマン帝国強硬策を打ち出し、西欧との協力によってヴァルナ、コソボの十字軍を実現しますが、これらは
>>347
と
>>469
で見たように失敗、失意のうちに1448年に死去しました
この後を継いだのがコンスタンティノス=パレオロゴスで、
>>376
で見たように東西教会統一を進め西欧からの援助を得ようとしますが実現せず、
>>146
のコンスタンティノープル陥落に至るのでした
本日はビザンツ帝国最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年
479
:
Republica de Venexia
:2015/02/09(月) 19:34:02 ID:???
2月9日は足利義昭が征夷大将軍を辞した日です
室町幕府は嘉吉の乱や応仁の乱を経て衰退し、13代将軍足利義輝の時代に復活の兆しが見られたものの、松永久秀や三好三人衆によって暗殺されてしまいました
14代将軍としては足利義栄が三好三人衆によって擁立されたものの、三好三人衆と松永久秀との対立もあって京に入ることすらできないという有様でした
しかし1568年、足利義昭が織田信長とともに上洛、信長は三好三人衆を駆逐し、義栄は後ろ盾を失い阿波への逃れます
こうして義昭は朝廷より将軍宣下を受けて15代将軍に就任し、幕府の再興を図りました
ところが義昭は将軍権力を制限しようとする信長と対立し敗れ、1573年には京を追放されることになります
義昭は毛利支配下であった備後の鞆に逃れ、ここを拠点に反信長運動を展開しました
その最中の1582年、信長が本能寺の変で倒れると毛利輝元に上洛を呼びかけますが、毛利が羽柴秀吉に臣従したためこれは失敗に終わります
やがて義昭は京へと戻り、1588年2月9日、征夷大将軍を辞しました
以後の義昭は秀吉に厚遇され、1597年に死去することになるのでした
本日は足利将軍の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12天下一統』中央公論新社、2005年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年
・谷口克広『信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ』中央公論新社、2014年
480
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/02/10(火) 00:28:39 ID:3wqk/MQY
将軍も殺される可能性が十分ある時代に結構運のいい一生を送ったと思う
481
:
Republica de Venexia
:2015/02/10(火) 00:31:25 ID:???
信長に追放されてからもけっこう粘ってますよね
鞆にもいろんな人々が訪れて小さな幕府のようになってたそうですし...
調べていくうちにイメージが変わった人物でした
482
:
Republica de Venexia
:2015/02/10(火) 01:24:56 ID:???
2月10日はバグダードが陥落した日です
>>282
で見たようにユーラシアに大ネットワークを築き繁栄したアッバース朝ですが、9世紀後半には早くも衰退の兆しが現れ、10世紀になるとエジプトのファーティマ朝とイベリア半島の後ウマイヤ朝がカリフを称し、三カリフ鼎立状態となりました
またイランで成立したブワイフ朝が946年にバグダードを占領し大アミールを称し、1055年には中央アジアのセルジューク朝がブワイフ朝を倒してバグダードを占領し、スルタンの称号を得て世俗支配権を握るなど、アッバース朝は名目のみの存在となっていました
このセルジューク朝のような遊牧国家は中央ユーラシア型国家と呼ばれ、騎馬軍団による軍事力を背景に、小人口ながら南方の大人口を抱える農耕国家を統治するという新しいタイプの国家でした
>>422
で見た遼や西夏、金もこれにあたり、ユーラシアの東西で大規模な変革が起こっていたのです
>>470
で成立した宋も遊牧国家の進出に直面しますが、そのなかで宋の海洋ネットワークと遼などの北方遊牧民ネットワークが結びつき、これがバグダードを中心とする西アジアのネットワークともつながっていたのです
そしてこれらのネットワークを統合したのがモンゴルでした
モンゴルはその強大な軍事力で内陸アジアを統一し、1206年に大ハーンに即位したチンギス=ハーンは西夏やイランのホラズム朝などを滅ぼし中央ユーラシアのネットワークを掌握します
2代オゴタイ=ハーンも征服を進め、駅伝制を整備してネットワークをさらに効率的なものとします
そして4代モンケ=ハーンの時代にはフレグが西アジアに向けて大規模な征西を行い、1258年2月10日、バグダードは陥落しアッバース朝のネットワークがモンゴルに組み入れられ、ユーラシアにまたがる大ネットワークが統合されたのでした
本日はアッバース朝の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・佐藤次高・鈴木董編『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・宮崎正勝『イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた全界』講談社、1994年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
483
:
Republica de Venexia
:2015/02/11(水) 00:39:35 ID:???
2月11日はラテラノ協定が結ばれた日です
>>466
で見たようにピピンの寄進によって成立し、コンスタンティヌスの寄進状によって正当化された教皇領は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世やフリードリヒ2世との対立によって危機に瀕しながらも、巧みな外交戦略によってその領土を保ってきました
その後
>>288
の教皇のバビロン捕囚によって教皇領支配が弱まるものの、イタリア戦争期には教皇アレクサンデル6世とその息子チェーザレ=ボルジアによって教皇領の拡大が図られます
しかし1796年、フランス総裁政府によってイタリア方面軍司令官となったナポレオンが教皇領を併合、一時独立を回復したものの1808年に再びフランス領となります
これは1814年のウィーン会議、その正統主義基づき撤回され、教皇領は再び復興しました
しかしやがてナショナリズムが勃興、イタリアにおいてもリソルジメント(イタリア統一運動)が始められ、
>>329
で見たようにサルデーニャ王国がイタリア統一を進めていきます
当時教皇領を守っていたのはフランスでしたが、
>>221
の普仏戦争でフランスが敗北したため、1870年にサルデーニャ王国改めイタリア王国がローマを占領したのです
このローマ併合はイタリア王国とローマ教皇庁の関係を決定的に悪化させ、双方は国交断絶状態となってしまいます
この状況を改善したのがムッソリーニで、ローマ教皇庁に対して友好的に対応した彼は1929年2月11日、ラテラノ協定を結びます
この協定により両者は和解し、ローマ教皇はここで初めてイタリア王国を承認しました
これに対しイタリア王国は教皇が主権を持つ国家、バチカン市国の成立を承認し、現在に至るのでした
本日はバチカン市国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
484
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/02/11(水) 10:31:17 ID:SdpIJhLY
建国記念の日は、日本の初代天皇とされる神武天皇が即位した日を日本の紀元として祝う日らしいです
2015年で紀元2675年になるそうです
485
:
Republica de Venexia
:2015/02/11(水) 10:37:07 ID:???
皇紀...ってやつですかね
零戦が開発されてからもう75年経つんですね
486
:
Republica de Venexia
:2015/02/12(木) 01:01:53 ID:???
2月12日はマリア=テレジアとフランツ=シュテファンが結婚した日です
神聖ローマ皇帝カール6世は男子に恵まれず、嫡男が夭折したことで長女のマリア=テレジアを相続者とするため、プラグマティッシェ=ザンクツィオンを定めたのは
>>323
で見た通りです
しかしこれはあくまでハプスブルク世襲領に適用されるものであり、神聖ローマ皇帝位をマリア=テレジアが継ぐということはできませんでした
そこでマリア=テレジアの婿が誰になるかが争点となり、将軍プリンツ=オイゲンはバイエルンとの、皇帝側近のバルテンシュタインはプロイセン王子、後のフリードリヒ2世との縁組を主張します
しかしマリア=テレジアはロートリンゲン公子フランツ=シュテファンに恋心を抱いており、先の2人には見向きもしませんでした
カール6世もフランツのことを気に入っていたため、2人の結婚が認められることとなります
1736年2月12日、当時としては稀な恋愛結婚によってマリア=テレジアとフランツ=シュテファンは結ばれたのです
ここにハプスブルク家とロートリンゲン家が結びつき、2人の子供の代にはハプスブルク=ロートリンゲン家が成立することとなります
こうして神聖ローマ皇帝位はフランツが継承者となったわけですが、これに周辺諸国が反発し、1740年のカール6世の死後、オーストリア継承戦争が起こったのは
>>319
で見た通りです
この戦争の間にバイエルン選帝侯がカール7世として戴冠しましたが、マリア=テレジアはこれを破り、1745年に正式にフランツが戴冠、神聖ローマ皇帝フランツ1世としてハプスブルク=ロートリンゲン朝を開くのでした
本日はハプスブルク家・ロートリンゲン家同盟の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家ね女たち』講談社、1993年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
487
:
Republica de Venexia
:2015/02/13(金) 01:27:53 ID:???
2月13日はオラニエ公ウィレムがイングランド王に即位した日です
>>124
のオランダ独立戦争を戦い、
>>327
のウェストファリア条約で独立を正式に認められたオランダは目覚ましい商業発展を続け、ヨーロッパ経済をリードする存在となりました
イングランドもまた、オランダと同じく商業によって発展しようとしましたが、オランダの後塵を拝す状況が続きます
これを打開しようとしたのがクロムウェルで、彼は1651年に航海法を発布しオランダ排除を図ると、反発したオランダが翌年イングランドに宣戦布告し、英蘭戦争が勃発します
この英蘭戦争は1670年代になると様相が異なり、フランス王ルイ14世と結んだチャールズ2世がルイの侵略戦争を支援する形となります
ルイは1672年にオランダ侵略戦争を開始し、オランダは沿岸部を残して征服されるという危機に直面しました
しかしオランダ独立戦争で主導的役割を担ったオラニエ家、そのオランダ侵略戦争当時の当主であるウィレムが連邦最高司令官に就任すると、粘り強く防衛戦を展開、ついにはフランスを撃退することに成功します
オランダはその後復興するものの、ルイは再び侵略戦争を開始、ファルツ継承戦争が勃発します
大同盟戦争とも呼ばれるこの戦争はフランスに対し周辺諸国が同盟を結んで対抗した戦争で、フランスの脅威に直面するオランダはその先頭に立っていました
ここでオラニエ公ウィレムは一計を案じます
ルイがドイツ方面に進軍している間に、イングランドに侵攻しフランスとの分断を図ったのです
イングランドでは
>>193
で見たようにチャールズ2世と議会が対立し、侵攻する好機でもありました
1688年11月、ウィレムは大艦隊を編成しイングランドへと出撃、イングランド王ジェームズ2世は軍にも見放され防戦すらできず、追放されてしまいます
そして1689年2月13日、ウィレムは議会を押し切って妻のメアリとともに国王に即位、これに伴い反フランスに転じたイングランドはアウクスブルク同盟に参加し、フランスのルイ14世と戦うことになるのでした
ウィレムがイングランドに侵攻し、無血で体制を変えたこの事件は、イングランドでは名誉革命と呼ばれています
本日はイングランド王ウィリアム3世の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
488
:
Republica de Venexia
:2015/02/14(土) 00:41:49 ID:???
2月14日はルートヴィヒドイツ人王とシャルル禿頭王が同盟を結んだ日です
西ローマ皇帝シャルルマーニュの死後、後継者となったルートヴィヒ敬虔帝は817年、帝国整序令を発布します
これは敬虔帝の長男ロタール1世を共同皇帝、そして帝国の相続人とし、次男のピピン1世と三男ルートヴィヒ2世を分国の国王とし、2人は皇帝の権威に従うものとする、という内容でした
しかしこのうちピピンが急死し、4男にも分国を与えようとするとロタールらは反発し、領土を巡る争いが勃発しました
そして840年に敬虔帝が急死し、単独皇帝となったロタールがイタリアから北上し、これに反発したルートヴィヒとシャルルとの間でフォントノワの戦いが行われたのは
>>187
で見た通りです
この戦いに勝利したルートヴィヒとシャルルはロタールをさらに追い詰めるため、お互いにロタールと独断で交渉はせず、協力してロタールに対抗するという誓約をストラスブールにて取り交わしました
その後ルートヴィヒとシャルルはロタールを廃位させ、帝国を2人で分割しようとしましたが有力貴族たちがこれに反対し、平和的な手段での解決が模索されました
そして843年にヴェルダン条約が結ばれ、帝国はロタールの中部フランク王国、ルートヴィヒの東フランク王国、シャルルの西フランク王国に分割されるのでした
本日はストラスブールの誓約の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年
489
:
Republica de Venexia
:2015/02/15(日) 01:01:06 ID:???
2月15日はフベルトゥスブルク条約が締結された日です
>>323
の神聖ローマ皇帝位継承問題をきっかけに勃発したオーストリア継承は、
>>319
で見たようにオーストリアが帝位を確保したものの、大工業地帯であるシュレジエンをプロイセンに奪われることとなりました
この後オーストリアは改革を進め、常備軍の設置、議会権限の縮小、中央政府の支配域拡大などが図られます
とりわけ大きな改革となったのは外交面で、なんとフランスと同盟を結びます
>>298
と
>>280
で見たように、フランソワ1世やルイ14世らがオスマン帝国と同盟を結ぶほどハプスブルク家に対抗心を燃やしていたフランスが、オーストリアと同盟を結んだのです
1756年のこの同盟は外交革命と呼ばれます
すでに1750年にロシアとも同盟を結んでいたオーストリアはプロイセン包囲を進めていきます
これに対しプロイセンのフリードリヒ2世が先制攻撃を仕掛けて七年戦争が始まり、プロイセンは
>>341
のロスバッハの戦い、
>>374
のロイテンの戦いに勝利し緒戦は優勢に進めました
しかしプロイセンはオーストリア・フランス・ロシアの大同盟にスウェーデン、ドイツ帝国諸侯も敵に回して劣勢となり、1759年にはクーネルスドルフの戦いに敗れ、1760年には首都ベルリンが占領されます
しかしこの好機に同盟軍の足並みは揃わず、この間にプロイセンは態勢を挽回するというブランデンブルクの奇蹟が起こります
さらに1762年にはフリードリヒを崇拝するピョートル3世がロシア皇帝となり、同盟を離脱してしまいます
またフランスも激化していたイギリスとの植民地戦争、北米でのフレンチ=インディアン戦争やインドでのプラッシーの戦いの方に注力し、プロイセンへの圧力が弱まりました
プロイセンがプルカースドルフの戦いでオーストリアを破るとドイツ帝国諸侯も手を引き、スウェーデンもプロイセンと講和します
こうして単独で戦うこととなったオーストリアも戦費が嵩んで戦争続行が不可能となり、同じく限界に達していたプロイセンと和平交渉が進められました
そして1763年2月15日、フベルトゥスブルク条約が締結されて戦争は終結、プロイセンのシュレジエン領有が確定されたのでした
本日は七年戦争の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
490
:
Republica de Venexia
:2015/02/16(月) 00:01:33 ID:???
2月16日はフリードリヒ=ヴィルヘルムが産まれた日です
1620年2月16日、フリードリヒ=ヴィルヘルムはブランデンブルク選帝侯ゲオルク=ヴィルヘルムの嫡男として産まれました
その当時ドイツは三十年戦争の真っ只中であり、特に主戦場となった北ドイツに位置するブランデンブルクは人口の半分が失われたともされるほど、大きな被害を受けていました
そのためフリードリヒはドイツを逃れ、オランダへと留学することとなります
1640年、フリードリヒは父の死去により選帝侯位を相続者し、戦争からの中立を宣言しました
ウェストファリアの条約交渉においてはポンメルンの継承権確保に努めましたが、バルト帝国建設を目指し同じくポンメルンを狙っていたスウェーデンと利害が衝突することとなります
結局、戦争勝利の立役者であるスウェーデンの主張が優先され、バルト海の良港シュテッティンを含む西ポンメルンをスウェーデンが獲得し、ブランデンブルクは資源に乏しい東ポンメルンを領有するに留まりました
このためブランデンブルクではスウェーデンに対抗するために軍事力強化が進められ、その過程で君主権力の強化も行われたのは
>>433
で見た通りです
またブランデンブルクではこれらの改革が比較的順調に進みましたが、プロイセン公国においては難航します
というのも、プロイセンはポーランドの宗主権下にあり、プロイセン貴族はポーランド王を後見として事実上の自治を行っていたからでした
フリードリヒはプロイセンを治めるため、スウェーデンのポーランド侵攻によって始まった北方戦争に介入します
最初はスウェーデン側についてポーランドと対峙し、スウェーデンが不利となるやポーランドを支援するなど巧みに動き、戦後プロイセンに対する宗主権を獲得するのです
またフリードリヒはフランス王ルイ14世がフォンテーヌブロー勅令によって追放したユグノーを積極的に受け入れ、プロイセン産業を発展させることにも成功します
このようにフリードリヒによって強大化された国家は、やがてドイツ帝国へと至り、近代ドイツ形成の礎となるのでした
本日は「大選帝侯」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
491
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/02/16(月) 23:42:57 ID:XA7lITvs
中世ポーランドの高度な民主制はすごいですね
強力な王権がないから周りの王国から分割されるというのは、政治制度の良し悪しと言うのを端的に語る良い例ですかね…
492
:
Republica de Venexia
:2015/02/16(月) 23:50:40 ID:???
16世紀にすでに民主制の基礎が形成されていたのは凄いですよね
中世を通じてヨーロッパの強国であり続けましたし...だからこそ余計にポーランド分割が悲しく思えてきてしまいます
493
:
Republica de Venexia
:2015/02/17(火) 00:02:52 ID:???
2月17日はトラックを米機動部隊が空襲した日です
トラックは直径30海里の一大環礁で、環礁は水深も深く大艦隊を収容することが可能で、また島々には航空施設や補給施設も設けられており、中部南西太平洋方面の航空作戦や艦隊作戦の重要基地となる、聯合艦隊の一大根拠地でした
そのためアメリカはマーシャル諸島を制圧した後、このトラックを攻撃目標としたのです
1944年始の段階では、トラックには聯合艦隊旗艦「武蔵」をはじめ多数の艦艇が停泊していましたが、い号作戦、ろ号作戦を経て聯合艦隊の航空戦力は壊滅的な打撃を受けており、襲来する米機動部隊を迎撃するのは困難と判断、主力艦隊の撤退が命じられました
1月31日には戦艦「長門」「扶桑」重巡「熊野」「鈴谷」「利根」駆逐艦「浦風」「磯風」「秋月」がリンガ泊地へと出港、2月10日には古賀峯一聯合艦隊司令長官座乗の戦艦「武蔵」、軽巡「大淀」駆逐艦「白露」「満潮」が横須賀へ向かい、重巡「愛宕」「鳥海」「妙高」「羽黒」がパラオ方面へと退避しました
一方アメリカはスプルーアンス中将直率の第50任務部隊第2群とミッチャー中将率いる第58任務部隊第3群を派遣し、空母「ヨークタウン」「エンタープライズ」戦艦「ニュージャージー」「アイオワ」をはじめ大型空母5隻、小型空母4隻、戦艦6隻、重巡5隻、軽巡5隻、駆逐艦28隻の大部隊をもってトラックへと進撃しつつありました
そして1944年2月17日早朝、トラック空襲部隊が発進し、トラックへと次々と襲来します
トラックに残存していた日本側の戦力は軽巡「那珂」他少数の駆逐艦と多数の輸送船、そして航空隊でした
米艦載機に対し航空隊が迎撃しますが、戦闘可能だったのはわずか40機のみで、圧倒的な米軍機の前に次々と撃墜されていきます
このため米軍はトラックの施設、艦艇に思うまま攻撃を行い、航空施設、補給施設は甚大な被害を受け、糧食2,000トン、燃料17,000トンが失われました
艦艇では軽巡「那珂」練習巡洋艦「香取」駆逐艦「舞風」など11隻が沈没し、水上機母艦「秋津洲」工作艦「明石」駆逐艦「時雨」など11隻が損傷します
さらに輸送船も30隻193,500トンが撃沈されるという深刻な被害を受けたのです
このように聯合艦隊の一大根拠地であったトラックは壊滅したことで日本の防衛線は大きく後退し、多数の輸送船を失ったことで以後の作戦遂行にも重大な支障が生じるという大敗北を喫したのでした
本日は聯合艦隊根拠地トラックの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・佐藤和正『太平洋海戦3 決戦篇』講談社、1988年
・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争6 ソロモン/ニューギニア作戦II マーシャル/ギルバート作戦』光人社、1995年
・別冊宝島編集部『日本海軍 全作戦記録』宝島社、2014年
494
:
Republica de Venexia
:2015/02/18(水) 00:01:53 ID:???
2月18日はフリードリヒ2世とアル=カーミルが休戦協定を結んだ日です
>>266
で見たように、アイユーブ朝は内部分裂によって苦しんでおり、聖地の十字軍勢力や西欧との和平を図っていました
その頃のフリードリヒ2世はというと、1215年に戴冠式を挙行し、十字軍への参加も表明していました
また1222年にはイェルサレム王ジャン=ド=ブリエンヌが西欧に来訪し、その娘イサベルの夫にフリードリヒを選び1225年に両者は結婚します
ここでフリードリヒはイェルサレム王を称し、聖地遠征への準備を整えます
同年、フリードリヒはローマ教皇ホノリウス3世とサン=ジェルマノ協定を結び、2年後の1227年に十字軍を行うことを誓約しましたが、悪いことに疫病が流行してフリードリヒも感染し、中止となってしまいます
これに対し、ホノリウスの後を継いだ教皇グレゴリウス9世は十字軍中止を誓約違反とし、フリードリヒを破門しました
こうしてフリードリヒは1228年6月、破門のまま十字軍遠征に出立することになります
しかし出立が1年延期となったことで前年に派遣した先遣隊の多くは帰還しており、また破門の身であったことでフリードリヒは十分な支援を受けることができませんでした
また教皇との対立も続いており、長期間帝国を留守にできないという事情もありました
一方のアル=カーミルも内紛を抱えており、十字軍との本格的な戦闘は避けたい状況だったのです
この2人はかねてより書簡のやり取りによって親交があり、お互いの利害が一致したことで休戦交渉が進められることとなりました
そして1229年2月18日、ヤッファにて休戦協定が結ばれ、イェルサレムはフリードリヒの統治下、そして岩のドームやアクサー・モスクを含むハラム=アッシャリーフ地区はイスラームの管理下に置かれることが取り決められます
こうして一時的ながら、イェルサレムがキリスト教徒の手に戻ることとなったのでした
本日はヤッファ協定の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』山川出版社、2007年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年
495
:
Republica de Venexia
:2015/02/19(木) 00:01:26 ID:???
2月19日はウェストミンスター条約が締結された日です
>>487
で見たように、イングランドはクロムウェル指導の下航海法の発布によってオランダに対抗し、断続的に英蘭戦争が行われました
その第二次戦争がイングランドの劣勢で終わりかけていた頃、フランスではルイ14世が対外侵略戦争を開始し、ネーデルラント継承戦争が勃発します
スペイン領南ネーデルラント継承を巡って争われたこの戦争はオランダがフランスに対抗したため、ルイは成果をあげることができませんでした
ここでオランダに煮え湯を飲まされたイングランドとフランスが手を結ぶこととなります
イングランド王チャールズ2世はピューリタン革命の際にフランスへと亡命しており、同じカトリックということもあって親交がありました
1670年、ドーヴァーの密約が結ばれ、イングランドとフランスは同盟を結びます
ルイはスウェーデンとも同盟を結んでオランダの孤立化を図り、戦争準備を整えました
そして1672年、フランスはオランダ侵略戦争を開始、それに呼応してイングランドもオランダに宣戦布告し、第三次英蘭戦争となります
>>487
で見たようにオランダはフランスの侵攻に苦戦しますが、イングランドに対しては海戦で連戦連勝、チャールズは議会の反発を抑えるためオランダと講和を結ぶことになります
1674年2月19日、ウェストミンスター条約が結ばれ両国は講和し、オランダはフランスへの対抗に専念できるようになりました
総督オラニエ公ウィレムはフランスを撃退し、その後イングランドの混乱をついてイングランド王に即位、事態を好転させることに成功するのでした
本日は第三次英蘭戦争の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
496
:
Republica de Venexia
:2015/02/20(金) 00:16:17 ID:???
2月20日は伊東マンショらがヨーロッパへ出発した日です
>>334
で見たようにルターによって拡大された宗教改革ですが、これに対しローマ教会はカトリック改革をさらに発展させて対抗します
その中心となったのがイエズス会で、日本にもフランシスコ=ザビエル、ルイス=フロイスら宣教師が派遣されカトリック布教を進めました
なかでもアレッサンドロ=ヴァリニャーノは日本文化の理解によって宣教師を日本社会に適応させるという手段をとり、また日本人司祭の教育を進めるため各地にセミナリオ、コレジオ、ノビシャドを設立しました
これらの努力により日本におけるカトリック布教はさらなる進展が見られ、ヴァリニャーノはその成果をヨーロッパに伝え、また日本人にヨーロッパのキリスト教文化を直に体験させるため、使節の派遣を計画します
この使節にはセミナリオで学ぶ少年から選ばれ、キリシタン大名である大友宗麟、有馬晴信、大村純忠と縁がある伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4人が使節として派遣されることとなりました
そして1582年2月20日、4人の使節、その他随行員らが長崎を出港し、ヨーロッパの各地を巡ることとなるのでした
本日は天正遣欧少年使節の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・松田毅一『天正遣欧使節』講談社、1991年
・岡部牧夫『海を渡った日本人』山川出版社、2002年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年
497
:
Republica de Venexia
:2015/02/21(土) 00:49:37 ID:???
2月21日はミハイル=ロマノフが即位した日です
ロシアでは
>>375
でも登場したバトゥが建国したキプチャク=ハン国の下、「タタールのくびき」と称される受難の時代が続いていました
これから脱却したのが15世紀、モスクワ大公イヴァン3世の時代で、彼は
>>478
のコンスタンティノス=パレオロゴスの姪であるソフィアと結婚したことでローマ帝国の後継者であると自称し、モスクワを第3のローマ、自身をツァーリと称しました
これをさらに発展させたのがイヴァン4世雷帝で、彼はツァーリを公式な称号とし専制政治を展開、王権の強化に努めました
1584年にイヴァン4世が死去し恐怖政治が終結すると息子のフョードル1世がツァーリとなりますが、彼は病弱であったため新興貴族のボリス=ゴドゥノフが実権を握ります
ゴドゥノフは1598年にツァーリに選出されますが、1601年に始まった未曾有の大飢饉に見舞われ、ロシアは混乱の時代となりました
また先帝フョードルの弟であり、ツァーリの正当な後継者であるドミトリーを僭称する「偽ドミトリー」がポーランドの支持を得てモスクワに侵攻してくるという事態となります
ゴドゥノフはこの大混乱の最中に急死しその息子も殺害され、偽ドミトリーが即位することとなりました
しかし偽ドミトリーとポーランド人による政権はモスクワの人々の支持を得られず、わずか1年で瓦解してしまいます
続いてツァーリとなったヴァシーリー=シュイスキーも不人気で大反乱が勃発し、これが鎮圧された後にはまたもポーランドから偽ドミトリー2世が出現するなど、ツァーリが度々交代する「動乱時代」が続きました
この動乱は1612年10月にようやく収められ、モスクワが奪還されました
そして1613年2月21日、全国会議によってリューリク朝に近い血筋であるロマノフ家のミハイル=ロマノフがツァーリに選出され、以後300年以上続くロマノフ朝が成立したのでした
本日はロマノフ朝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
498
:
Republica de Venexia
:2015/02/22(日) 01:01:54 ID:???
2月22日はロバート2世がスコットランド王に即位した日です
>>279
で見たように、スコットランドでは13〜14世紀にかけて独立戦争が展開されました
ウォレスの死後も「ジョン王のスコットランドの守護官」を継承したロバート1世が独立戦争を継続し、1314年のバノックバーンの戦いでイングランドに大勝し、スコットランドの大部分を奪還します
1320年にはアーブロース宣言を発して独立を宣言し、これがローマ教皇にも認められたのです
しかしロバート1世が死去した後わずか5歳のデイヴィッド2世が王位を継承すると、イングランド王エドワード3世の支援を受けたエドワード=ベイリアルがスコットランドへと侵攻、デイヴィッドは追放されベイリアルがスコットランド王となりました
ベイリアルはスコットランド南部をイングランドに割譲しここを支配地としましたが、スコットランドの人々はこれを認めなかったため国内は分裂し、デイヴィッドがフランスに逃れていたため、ロバート=スチュアートが摂政としてスコットランドを統治することとなります
やがて英仏百年戦争が勃発すると、フランスはイングランドを北から攻撃させるため、デイヴィッドをスコットランドに帰させます
しかし1346年のネヴィルズ・クロスの戦いに敗れたデイヴィッドはイングランドに捉えられてしまいます
1357年にデイヴィッドは身代金支払いを条件として解放されますが、その額はスコットランドにとって莫大なものであり、デイヴィッドはスコットランド王位をエドワード3世に譲るという密約を結びました
これに対しスコットランド議会が反発、密約を拒否し、デイヴィッドの死後摂政のロバート=スチュアートを国王に選出することを決定します
そして1371年2月22日、ロバート=スチュアートはロバート2世としてスコットランド王に即位、スチュアート朝が創始され
>>226
のイングランド・スチュアート朝の成立へと至るのでした
本日はスコットランド・スチュアート朝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ナイジェル・トランター、杉本優訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』岩波書店、2004年
499
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/02/22(日) 23:07:45 ID:etdlLp1.
そういや去年のスコットランド人は本気で独立国家でやっていけると思ったんですかね…
もし独立して最近の石油価格暴落受けたらいきなり暗雲立ち込めたと思いますがそれは
500
:
Republica de Venexia
:2015/02/22(日) 23:23:09 ID:???
イングランドへの対抗意識は凄いですもんね、ある程度はポーズという部分はあったのかも?スコットランドはいざとなったらここまでするぞ、って
今年には自治権拡大法案が成立する予定なんでしたっけ、今後のスコットランドや他地域の独立運動がどうなるか気になります...
501
:
Republica de Venexia
:2015/02/23(月) 00:02:21 ID:???
2月23日はアンボイナ事件が起こった日です
>>124
で見たオランダ独立戦争を経てスペインから独立したオランダは、17世紀前半には海上交易で繁栄しヨーロッパ市場と対外交易を支配する存在までに成長しました
またアジア進出にも積極的に乗り出し、1602年には世界初の株式会社とされるオランダ東インド会社を設立しました
オランダ東インド会社はインドネシアのバタヴィアを拠点にまたたく間にアジア地域での交易活動を拡大し、ポルトガルやスペインなど他のヨーロッパ勢力を圧倒するようになります
これに対抗したのがイギリスでした
オランダと同じく商業国家としての発展を目指していたイギリスは東南アジアへも進出し、オランダと抗争を繰り広げます
その舞台となったのが香辛料の産出地として重要なモルッカ諸島で、武力衝突が繰り返されることになります
そして1623年2月23日、モルッカ諸島のアンボイナ島にてイギリス商館員が捕らえられるというアンボイナ事件が起こりました
商館員は拷問によりイギリスがオランダの砦を攻撃しようとしていることを自白させられ、後に処刑されてしまいます
この事件を機にイギリスはインドネシアから撤退してインド経営に専念し、オランダはモルッカ諸島、そして東南アジアでの支配権を確立するのでした
本日はイギリス香辛料貿易の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
502
:
Republica de Venexia
:2015/02/24(火) 00:07:26 ID:???
2月24日はマクシミリアン1世の孫シャルルが産まれた日です
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の時代、ハプスブルク家は「戦は他国にさせておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」と表現される婚姻政策を展開します
まず彼自身が
>>414
で登場したブルゴーニュ公シャルルの娘であるマリーと結婚しました
このシャルル突進公はブルゴーニュ戦争において戦死し、ネーデルラントをマリーが相続した後、彼女の急死によって同地はマクシミリアンのものとなります
ここに旧ブルゴーニュ公領を巡るフランスとの争いが勃発し、イタリアにおける権益争いも含め、ハプスブルク家とフランスとの対立がますます深まることとなりました
このような状況で、同じくイタリアにおいてフランスに対抗するスペインがハプスブルク家に縁談を持ちかけてきます
マクシミリアンとマリーの間は一男一女を設けましたが、これに対しスペインは二重結婚を提案し、マクシミリアンはこれを承諾しました
ここにマクシミリアンの長男フィリップ美公とスペイン王女フアナ、マクシミリアンの長女マルガレーテとスペイン王子フアンが結婚し、相互相続契約が結ばれたのです
このうちフィリップとフアナとの間で1500年2月24日に産まれたのが、ブルゴーニュ公シャルルの名にちなんで命名されたシャルルでした
やがてスペインではカスティーリャ女王イサベルが死去し、その唯一の直系であるフアナの夫であるフィリップ美公がスペイン王フェリペ1世として即位します
ところがこのフェリペが急死し、シャルルがカルロス1世としてスペイン王位に就くことになるのです
シャルルはこの他にも広大なハプスブルク家領、そしてその婚姻関係にある領土を継承し、ヨーロッパの広大な範囲に影響を及ぼすこととなるのでした
本日は後の「カール、神の恩寵による、神聖ローマ皇帝、永遠の尊厳者、ドイツ王、イタリア王、全スペインの王及びカスティーリャ王、アラゴン王、レオン王、ナバラ王、グレナダ王、トレド王、バレンシア王、ガリシア王、マヨルカ王、セビーリャ王、コルドバ王、ムルシア王、ハエン王、アルガルヴェ王、アルヘシラス王、ジブラルタル王、カナリア諸島の王、両シチリア及びサルデーニャ王、コルシカ王、エルサレム王、東インド、西インドの王、大洋と島々の君主、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、ブラバント公、ロレーヌ公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、カルニオラ公、リンブルク公、ルクセンブルク公、ヘルダーラント公、アテネ公、ネオパトラス公、ヴュルテンベルク公、アルザス辺境伯、シュヴァーベン公、アストゥリアス公、カタルーニャ公、フランドル伯、ハプスブルク伯、チロル伯、ゴリツィア伯、バルセロナ伯、アルトワ伯、ブルゴーニュ自由伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、フェレット伯、キーブルク伯、ナミュール伯、ルシヨン伯、サルダーニャ伯、ズトフェン伯、神聖ローマ帝国の辺境伯、ブルガウ辺境伯、オリスターノ辺境伯、ゴチアーノ辺境伯、フリジア・ヴェンド・ポルデノーネ・バスク・モリン・サラン・トリポリ・メヘレンの領主」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
503
:
Republica de Venexia
:2015/02/25(水) 00:01:46 ID:???
2月25日はヴァレンシュタインが暗殺された日です
1618年、ボヘミアでの宗教反乱をきっかけに始まった三十年戦争ですが、この戦争では様々な傭兵隊長が活躍しました
ボヘミア出身のヴァレンシュタインもその一人で、
>>345
で見た白山の戦いを含むボヘミア反乱の際には神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に傭兵を提供し、反乱鎮圧に貢献しました
その後も皇帝に資金や傭兵の提供を続け、1623年には北ボヘミアのフリースラント侯に任じられます
ヴァレンシュタイン軍に特徴的だったのが軍税の有効活用で、彼は占領地に軍税をかけ、徴収した税金をその場で兵士に分配しました
つまりヴァレンシュタインの下に集まった傭兵たちはヴァレンシュタインに直接雇われていることとなり、その効果的な軍税制度活用もあって、ヴァレンシュタインの私兵となった大軍勢が編成されたのです
ヴァレンシュタインはこの大軍勢を背景に1625年、皇帝軍総司令官となり、デンマーク王クリスティアン4世を撃退します
これを機に、フェルディナントは回復令を発布します
皇帝権の絶対化を目指したこの法令に帝国諸侯は反発しましたが、フェルディナントはヴァレンシュタインの大軍勢をちらつかせ、法令の強行を図ります
諸侯はここでヴァレンシュタイン罷免を要求し、認められなければ嫡男フェルディナントのローマ王選出を拒否すると決議します
ヴァレンシュタインが皇帝の意向を無視して専横を進めていたこともあって、フェルディナントは1630年、ヴァレンシュタイン罷免を決定しました
ヴァレンシュタインが復帰したのは
>>285
と
>>68
で見たブライテンフェルトの戦い、レヒ川の戦いで皇帝軍が敗北した後でした
スウェーデン軍に押された皇帝はヴァレンシュタインを復帰させ、スウェーデン王グスタフ=アドルフに対抗します
>>353
のリュッツェンの戦いで皇帝軍は敗れたもののグスタフ=アドルフが戦死し、スウェーデンの攻勢は一時中断しました
しかしヴァレンシュタインはかつてのように強大な権力を得ることができませんでした
というのも、彼自身が確立した軍税制度を皇帝も活用し、皇帝直属の大軍勢が組織され、ヴァレンシュタインはその一指揮官に過ぎなかったからです
またヴァレンシュタインはスウェーデンやフランスと秘密裏に交渉を行っていたことが露見し、また皇帝最大の脅威であったグスタフ=アドルフが戦死したこともあって、獅子身中の虫になりかねないヴァレンシュタインを抱える意義がなくなり、1634年2月25日、ヴァレンシュタインはあえなく暗殺されたのでした
本日は最大の傭兵隊長の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
504
:
Republica de Venexia
:2015/02/26(木) 00:04:00 ID:???
2月26日はベネヴェントの戦いが行われた日です
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の死後、帝国とシチリア王国はコンラート4世が継承しました
コンラートはまだ若かったため、その支配が確立するまでマンフレーディが全イタリアの行政長官に任命されました
やがてコンラートが1254年に急死するとマンフレーディは南イタリアでの勢力を確立させ、中部イタリアもその支配下に収めます
1258年にはシチリア王に即位し、1260年には娘コンスタンツァをアラゴン王国のペドロと結婚させ、これがシチリアの晩鐘後シチリアをアラゴン王国が支配する布石となりました
マンフレーディがイタリアで勢力を伸ばし、教皇権に対抗する動きを見せたことで、教皇はシチリア王国の統治を自身の支持者にさせるため、1263年、フランス王ルイ9世聖王の弟シャルル=ダンジューを授封します
この動きをみたマンフレーディは中部イタリアの支配権を強化し、教皇領の包囲にかかりました
一方シャルル=ダンジューは1265年にローマに入城し、教皇とローマ市民に歓喜をもって迎えられます
マンフレーディはローマを攻撃しますがこれは失敗に終わり、一時撤退を余儀なくされます
シャルル=ダンジューもマンフレーディを追撃すほどの軍勢は持っておらず、本国から援軍を呼び寄せました
この援軍が1266年1月にローマに到着し、シャルル=ダンジューは全兵力を率いてすぐさまローマを出撃、マンフレーディの王国攻撃に向かいました
春を待たないこの迅速な進撃にマンフレーディは裏をかかれ、カプア要塞を出てシャルル=ダンジュー軍を追撃します
そして1266年2月26日、ベネヴェントの地にて両軍は激突し、決着を焦ったマンフレーディはシャルル=ダンジューに敗れ、戦死してしまいます
この戦いによってホーエンシュタウフェン朝の支配は崩壊し、代わってシャルル=ダンジューがシチリア王国を統治することとなったのでした
本日はホーエンシュタウフェン朝シチリア王国の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩�偃 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
505
:
Republica de Venexia
:2015/02/27(金) 00:22:04 ID:???
2月27日は碧蹄館の戦いが行われた日です
1592年に豊臣秀吉によって始まった朝鮮出兵は、当初日本軍が快進撃を見せていたものの、明の参戦により劣勢を余儀なくされます
1593年2月、李如松率いる明軍が日本軍の小西行長、宗義智らが拠っていた平壌城を陥としたのです
これに対し宇喜多秀家は平壌と漢城との間に展開していた諸将を招集し、緊急の軍議を開きました
軍議の結果、日本軍は立花宗茂を先鋒として迎撃することを決し、宗茂は先備に小野鎮幸、立花三左衛門、中備に十時伝右衛門、内田忠兵衛、本陣に宗茂、高橋統増という陣立で碧蹄館へと進出しました
そして1593年2月27日早朝、立花勢は明軍の先鋒に突撃、これを蹴散らし追撃します
しかし連合軍も態勢を立て直し逆襲、十時伝右衛門が討ち取られましたが宗茂の本隊が突入し連合軍を撃退、立花勢は小丸山に移り一時戦場から離脱します
やがて日本軍は小早川隆景、毛利元康・秀包、宇喜多秀家らが進出し、明軍と激突します
日本軍は明軍の勢いに押されますが、宗茂は頃合いを見て明軍を奇襲、大混乱に陥った明軍は退却し、昼頃には日本軍の勝利で大勢は決したのです
この敗戦によって明軍の勢いは衰え、日本との交渉に応じる姿勢を見せるようになったのでした
本日は文禄の役における明に対する勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年
・「歴史街道2009年9月号 立花宗茂」PHP研究所、2009年
506
:
Republica de Venexia
:2015/02/28(土) 01:24:25 ID:???
2月28日は劉邦が皇帝に即位した日です
前8世紀、周が犬戎の攻撃や王室の内紛によって都を東方に移した後は王権が衰え、中華世界は名目的な周王の下で各国が分裂して相争う春秋・戦国時代となりました
この戦国時代には鉄製農具の普及によって耕地開発が行われ、手工業や交易も発達します
その結果、世襲的な身分制度や氏族単位のまとまりが崩れ、家族単位で農耕を営む小農民が国家の基盤となったのです
また個人の能力が重視されるようになり、諸子百家が出現しました
このような変革が進むなかで前3世紀末に中国を統一したのが秦で、始皇帝によって中央集権化が進められます
しかし急速な改革は反発を招き、陳勝・呉広の乱をはじめとする農民反乱が広がりました
これを機に勢力を拡大したのが項羽と劉邦で、項羽は楚王、劉邦は漢王となって対立します
この楚漢抗争は垓下の戦いにおいて劉邦の勝利で決着し、前202年2月28日、劉邦は皇帝に即位しました
これによって成立した漢は一時中断はあったものの約400年間存続し、その間に官僚制・法制の整備によって中央集権化が進められ、天命思想や易姓革命、中華思想が形成され、また中華思想に基づく朝貢・冊封体制が確立するなど、中華帝国の基礎が築かれていくのでした
本日は漢の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・鶴間和幸『中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国)』講談社、2004年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年
507
:
Republica de Venexia
:2015/03/01(日) 00:07:02 ID:???
3月1日はディオクレティアヌスがガレリウス、コンスタンティウスを副帝に任じた日です
ローマ帝国の最盛期とされる五賢帝時代の最後、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの死後、その息子コンモドゥスは暴政を行い帝国は乱れることとなります
コンモドゥスが暗殺された後は帝位争いによる内乱が勃発し、セプティミウス=セウェルスの即位によって事態は一時収拾されました
しかしセウェルス朝が断絶し、軍隊が擁立したマクシミヌスが即位して以降のいわゆる軍人皇帝時代では、26人の皇帝が乱立し自然死を迎えられたのがわずか4人という混迷の時代となりました
五賢帝時代に人類史上最も幸福な時代と称されたローマ帝国、三世紀の危機と呼ばれる時代に一変したのです
284年に即位したディオクレティアヌスは帝国の広大な領土を皇帝一人で統治することは困難であると判断し、286年、マクシミヌスを共同皇帝として帝国西方の統治を任せました
さらに293年3月1日、ディオクレティアヌスはガレリウスを帝国東方、コンスタンティウスを帝国西方の副帝に任じ、4人の皇帝で統治を分担することにより帝国を安定させることに成功したのでした
本日はテトラルキア(四分統治)の誕生日です、、おめでとうございます
参考文献
・クリス・スカー、青柳正規監、月村澄枝訳『ローマ皇帝歴代誌』創元社、1998年
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
508
:
Republica de Venexia
:2015/03/02(月) 00:59:30 ID:???
3月2日はルイ5世が即位した日です
カロリング帝国がルートヴィヒ敬虔帝の死後、分割相続に基づいて3人の息子に相続され、そのために領土争いが勃発し843年のヴェルダン条約で分割が確定したことは
>>488
で見ました
このうち中部フランクのロタール2世が庶子だけを残して死去したため再び領土争いが起こり、870年のメルセン条約で中部フランクが分割され今日のドイツ・フランス・イタリアの原型が成立することとなります
フランスの元となった西フランクではシャルル禿頭王の死後、ルイ3世とカルロマン2世が相続しましたが2人とも急死し、ノルマン人の侵入もあって国内は混乱を極めました
ここで新国王となったのが東フランクのシャルル肥満王で、一時的に東西フランクが統一されることとなりましたがこの王もすぐに亡くなり、889年、カロリング家でないロベール家のパリ伯ウードが即位します
しかしウードは嫡子無く没し、王位は再びカロリング家のシャルル単純王のものとなりました
しかし単純王は失政を繰り返し、ウードの弟ロベールが単純王を追放し、再び王位はロベール家が保持することとなるのです
ところがこのロベールがソワソンの戦いで戦死し、その息子ラウルが嫡子を持てずに死去したため、またもカロリング家が王位に復帰します
936年に復活したこのカロリング朝はルイ4世、ロテールと続きますが、この間ロベール家も大ユーグのもと勢力を蓄えていきます
そして986年3月2日、カロリング家のルイ5世が即位した頃にはロベール家の勢力は王権を凌ぐほどに成長し、翌年ルイが急死したことで
>>151
で見たようにロベール家のユーグ=カペーが即位しカペー朝が成立するのでした
本日はカロリング家最後の王の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年
509
:
Republica de Venexia
:2015/03/03(火) 01:37:34 ID:???
3月3日はムスタファ=ケマルがカリフ制を廃止した日です
イスラームではムハンマド死後の指導者としてカリフが選出され、アブー=バクル、ウマル、ウスマーン、アリーと4代続く正統カリフ時代となりました
しかし
>>311
で見たようにイスラームはシーア派とスンナ派に分裂し、カリフはスンナ派のみが認める存在となりました
カリフを称しウマイヤ朝を開いたムアーウィヤは世襲カリフ制を採り、これはアッバース朝にも受け継がれます
アッバース朝は
>>282
で登場した第5代カリフ、ハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎え、カリフの権力も絶頂にありましたが、
>>482
で見たように9世紀には衰退を始め後ウマイヤ朝、ファーティマ朝もカリフを称し、また大アミールやスルタンが事実上の指導者となるなどカリフの権威も衰退し、1258年にはモンゴルによって滅ぼされてしまいます
この際に亡命したカリフを迎えたのがエジプトのマムルーク朝で、
>>269
で見たマムルーク朝スルタン、バイバルスはカリフを擁立しマムルーク朝の権威を確立させました
このマムルーク朝も
>>264
で見たようにオスマン帝国スルタン、セリム1世によって滅ぼされ、この時点でカリフは滅亡することとなります
しかし時代は下って18世紀末、ロシアの南下に苦しむオスマン帝国は、帝国外のムスリムに対し影響力を残すため、スルタンはカリフでもあると主張するようになります
これはセリムがマムルーク朝を滅ぼした際に、アッバース家のカリフ位がセリムに禅譲されたものであるとするもので、スルタンがカリフの権威をも兼ねるということから、スルタン=カリフ制と称されます
しかしこのオスマン帝国も
>>337
で見たようにムスタファ=ケマルによって滅亡に追い込まれます
そして1924年3月3日、すでに廃止されていたスルタン制に続きカリフ制も廃止され、カリフの伝統は完全に途絶えることとなったのでした
本日はカリフの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・佐藤次高・鈴木董編『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
510
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/03(火) 23:20:09 ID:HkmeMXxc
二項対立ではないですが、かつて西洋と対する存在であったイスラム勢の息の根が完全に絶たれたという出来事ですね。
それより百年弱。
今のイスラム原理主義者はそのことから飛躍しすぎて、もとの出来事を思い返せないまでになってしまってはいませんか。
511
:
Republica de Venexia
:2015/03/03(火) 23:47:59 ID:???
この時期のオスマン帝国の衰勢はなんとも物悲しいですよね
ヨーロッパを恐怖に陥れて、ヴェネツィア共和国の最大の敵でもあったあの超大国が
そういえば今の自称イスラーム国もカリフを自称してるんでしたっけ
スンナ派法学者はアッバース朝滅亡時点でカリフは滅亡したとしていますが、未だに影響力は強いものなんですね
512
:
Republica de Venexia
:2015/03/04(水) 00:32:26 ID:???
3月4日はシュヴァーベン大公フリードリヒが皇帝に即位した日です
>>294
で見たように神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は諸侯の反乱に悩まされ続けてきましたが、そのなかでハインリヒに味方し続けたのがホーエンシュタウフェン家でした
ハインリヒは対立王であったシュヴァーベン公ルドルフの死後、その領土を娘婿のフリードリヒに与えます
このフリードリヒには息子が2人おり、長男フリードリヒ独眼公がシュヴァーベン公を、次男コンラートがフランケン公を相続しました
やがて皇帝ハインリヒ4世が死去がし、皇帝となった息子ハインリヒ5世は嗣子に恵まれなかったため、ホーエンシュタウ
フェン家に帝位を譲ろうとします
しかし諸侯は強力なホーエンシュタウフェン家が帝位につくことに反発し、ザクセン公がロタールを皇帝に選出しました
このロタールの死後、その娘婿でヴェルフェン家のハインリヒ傲岸公が帝位につこうとしますが、傲岸公はバイエルン公のみならずロタールからザクセン公も相続していたため、その強権を恐れた諸侯は今度はホーエンシュタウフェン家のコンラートを皇帝に選出します
1138年、こうしてホーエンシュタウフェン朝が開かれましたが、傲岸公はこれに従わず、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の争いが勃発しました
ヴェルフェン家は教皇と結んで皇帝に対抗し、ここからウィーベリン(皇帝派)とヴェルフ(教皇派)の対立へと発展します
ヴェルフェン家は傲岸公が死去した後もハインリヒ獅子公がホーエンシュタウフェン家に対抗し、両家の対立は帝国を混乱に陥れるものとなりました
この両家の争いを鎮めるため、コンラートが皇帝に指名したのが、ホーエンシュタウフェン家出身であり、ヴェルフェン家の血もひくシュヴァーベン大公フリードリヒでした
1152年3月4日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世として即位した彼は、帝国の安定化に努めます
まずハインリヒ獅子公と和解し、帝国諸侯に一定の特権を認めて帝国秩序を整えました
また「神聖帝国」として教皇権に対抗してイタリア諸都市にも皇帝権を認めさせるなど、その治世で神聖ローマ帝国の威信は大いに高まったのです
フリードリヒ自身は第3回十字軍中に志半ばで急死しますが、その理念は
>>395
で見たように息子のハインリヒ6世のもとで「世界支配計画」「世襲帝国計画」として受け継がれていくのでした
本日は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
513
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/04(水) 10:58:18 ID:rU4K8Drw
あっ、おい待てい(江戸っ子)まだ肝心な誕生日祝い忘れてるゾ
514
:
IW26一生ボンバーヘッドダイビングタバコの火を消すブルースリー
:2015/03/04(水) 11:22:15 ID:???
日本で初めて馬券に絡んだ白毛馬、シラユキヒメのお誕生日です。
産駒のブチコはクラシック出走も狙える白毛馬なので応援しましょう。
515
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/04(水) 11:23:41 ID:rTpuMSrQ
世界史を振り返れるスレ
516
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/04(水) 20:29:49 ID:5UYRAoT.
今日はNaNじぇい(したらば掲示板)の誕生日です
おめでとうございます
もう一年経つんですね
517
:
Republica de Venexia
:2015/03/04(水) 22:03:12 ID:???
今日で一周年なんですね、早いような遅いような...感慨深いですね
518
:
Republica de Venexia
:2015/03/05(木) 00:32:53 ID:???
3月5日はチャーチルがミズーリ州で演説を行った日です
第二次世界大戦はアメリカとソ連の2超大国により、連合国優位で進められるようになりました
しかしヨーロッパにおける戦争が連合国側の勝利で終結する目処がたった頃から、アメリカとソ連との間で戦後国際秩序の再構築を巡って対立が生じるようになります
東欧諸国には大戦中ソ連によって解放された国が多く、ソ連は自国の安全保障確保のため、それらの国での親ソ政権の樹立を支援、東欧の大部分がソ連の勢力圏となります
フランス、イタリアでも共産党が勢力を拡大し、このような動きにアメリカは警戒心を抱いていました
そんな折、イギリスの元首相チャーチルがアメリカ大統領トルーマンに招かれてアメリカを訪問します
そして1946年3月5日、チャーチルはミズーリ州ウェストミンスター大学にて演説を行い、その中でソ連はバルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで鉄のカーテンを降ろしたと批判したのです
この演説は米ソの対立表すものとして頻繁に用いられ、チャーチルが懸念した通り米ソの緊張状態はさらに高まっていきます
アメリカはヨーロッパの経済危機が共産主義勢力拡大が一因だとし、対ソ・対共産主義の封じ込め政策を開始しました
またアメリカを中心とする西側諸国は北大西洋条約機構を結成、これに対し東側諸国はワルシャワ条約機構を結成するなど東西両陣営の対立はますます激化し、冷戦と呼ばれる緊張状態に突入するのでした
本日は「鉄のカーテン」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・松戸清裕『世界史リブレット92 歴史のなかのソ連』山川出版社、2005年
・油井大三郎・古田元夫『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論新社、2010年
・猪木武徳・高橋進『世界の歴史29 冷戦と経済繁栄』中央公論新社、2010年
519
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/05(木) 13:18:28 ID:JTefUlFo
今日は大洋ホエールズの名ショート、山下大輔さんの誕生日です
520
:
今の私は日本の高1で最強のつもりや
:2015/03/05(木) 13:32:37 ID:???
このスレすごいっすね、勉強になります
本出せるレベル
521
:
Republica de Venexia
:2015/03/06(金) 01:26:04 ID:???
3月6日はアル=カーミルが死去した日です
アイユーブ朝は
>>266
で見たように英雄サラディンの死後分裂し、アル=アーディルとその息子アル=カーミルによって再統一が進められました
しかしカーミルの即位に反発する者も多く、特にカーミルの弟でダマスカスを支配していたアル=ムアッザムとの対立は頭を悩ませる問題でした
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が十字軍を起こしたのはこの時期にあたり、カーミルとしてはイェルサレムを支配するムアッザムを打倒するためにフリードリヒと協力したという側面もあります
>>494
で見たように1229年2月18日、カーミルはフリードリヒにイェルサレムを譲渡するヤッファ協定を締結しましたが、その前年にムアッザムは死去し、ダマスカスはその息子のアル=ナーシルが後を継いでいました
ナーシルは父と同じくカーミルに抵抗し、聖地イェルサレム譲渡に反発する勢力の後押しもありましたが、十字軍勢力との休戦に成功し反乱鎮圧に集中できるようになったカーミルはナーシルを破ってダマスカスを手に入れ、アイユーブ朝の再統一に成功しました
カーミルはその後内政に力を入れ、特にエジプトでの灌漑事業が成功を収めるなど、国内の経済政策に多くの実績をあげ、エジプトは発展していくこととなります
しかし1238年3月6日、カーミルが死去すると情勢は再び不穏なものとなりました
アイユーブ朝の領土はカーミルの息子であるアル=サーリフとアル=アーディルによって分割され、両者はエジプト支配を巡って争いを始めたのです
またナーシルがこの隙をついて十字軍との休戦協定期間が過ぎた1239年11月にイェルサレムを奪いました
このようにアイユーブ朝は再び混乱の時代を迎え、その中でサーリフが戦力増強のために雇ったマムルークがやがてアイユーブ朝を乗っ取りマムルーク朝を開くこととなるのでした
本日はアイユーブ朝衰退の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』山川出版社、2007年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年
522
:
Republica de Venexia
:2015/03/07(土) 00:02:39 ID:???
3月7日はマルクス=アウレリウス=アントニヌスが皇帝に即位した日です
ローマ帝国は
>>286
のネルウァが皇帝となった後、
>>281
で見たようにトラヤヌスが最大版図を実現、ハドリアヌスによって帝国の安定化が図られました
ハドリアヌスには実子がおらず、ケイオニウス=コンモドゥスを養子としましたが、このケイオニウスが急死し、既に51歳となっていたtティトゥス=アウレリウス=アントニヌスが養子となりました
このアントニヌスにも実子がいなかったため、ハドリアヌスはケイオニウスの遺児ルキウス=ウェルス、そしてアントニヌスの妻の甥であるマルクス=アンニウス=ウェルスを養子とするよう命じました
こうしてハドリアヌスの次代、その次代の帝位継承を定めてハドリアヌスは死去し、アントニヌスが皇帝となります
アントニヌスはハドリアヌスの政策を継承して大幅な改革はせず、反乱や戦争も外交によって解決するなど、帝国は平和な時代を過ごすこととなったのです
アントニヌスはハドリアヌスと対立していた元老院を説き伏せてハドリアヌスをしています神として祭るために誠意を尽くし、「ピウス」の称号を贈られました
アントニヌス=ピウスは23年間の治世を平穏のうちに終え、次代をマルクスに託します
そして161年3月7日、五賢帝最後の皇帝となるマルクス=アウレリウス=アントニヌスが即位しました
マルクスは即位後すぐに同じくアントニヌスの養子となっていたルキウスに自分と同等の権限を与え、共同皇帝となったのです
こうして2人の治世が始まりましたが、この時代になると帝国周辺で不穏な動きが目立つようになります
北方ではゲルマン人が、東方ではパルティアとの戦いが展開され、マルクスが北方を、ルキウスが東方の防衛を担当しました
やがてルキウスが病没した後はマルクスが全ローマ軍を率い、帝国に侵入するゲルマン人との戦いに明け暮れることとなります
この戦いの陣中で書かれた自分自身との対話の記録が『自省録』で、ストア哲学の名著として知られています
マルクスは180年にゲルマン人との戦闘中の陣中で没し、帝国は
>>507
で見たような混迷の時代へと突入していくこととなるのでした
本日は「哲人皇帝」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
523
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/07(土) 22:08:36 ID:LuTlSZAY
高校の頃五賢帝暗記させられたけどテストにすら出ず無駄な労力だったのを思い出した
524
:
Republica de Venexia
:2015/03/07(土) 22:11:34 ID:???
暗記しましたねー、七選帝侯とかも
トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクスは問題にしやすそうだけど、ネルウァと特にアントニヌスは問題作るの難しそう
525
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/07(土) 22:16:42 ID:LuTlSZAY
七選帝候、必死で記憶をたどってるけど本気でもう一人も思い出せないゾ…(池沼)
526
:
Republica de Venexia
:2015/03/08(日) 00:14:46 ID:???
3月8日はペトログラード蜂起が起こった日です
>>191
で始まった第一次世界大戦ですが、戦争はおおむねの予想に反して長期化することとなりました
また経済大恐慌も起こり、この非常事態を乗り切るため反対政党も加えて政府を支える挙国一致体制が取られる国もありました
全国民が軍需物資の生産に動員される戦時体制となり、植民地の住民も兵士や労働者として動員されるなど、大戦は国民のあらゆる力と技術を投入する総力戦となったのです
このような戦争の長期化と国力疲弊のなかで生活物資は不足するようになり、ロシアでは民衆の不満が高まっていきました
そして1917年3月8日(ロシア暦2月23日)、ロシアの首都ペトログラードで戦争の重圧に耐えかねた労働者の大規模なストライキが起こります
これをきっかけに、ロシアでは「戦争反対」「専制打倒」をスローガンにしたデモやストライキが全土に広がるようになり、これに運動鎮圧を拒否した兵士も合流して革命へと発展したのです
この革命のなかでロシア各地に労働者・兵士のソヴィエト(評議会)が結成され、その支持を得てブルジョワジーを中心とした臨時政府が組織されました
ロシア皇帝のニコライ2世は退位を余儀なくされ、ここに
>>497
以来約300年続いたロマノフ朝が滅亡することとなります
この段階では臨時政府とソヴィエトが並立する、いわゆる二重権力状態でしたが、やがて
>>343
で見たようにレーニンが登場し、ソビエト社会主義共和国連邦の建国へと至ることになるのでした
本日はロシア二月革命の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・ニコラ・ヴェルト、石井規衛監『ロシア革命』創元社、2004年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
527
:
Republica de Venexia
:2015/03/09(月) 00:13:17 ID:???
3月9日はストルボヴァの和約が結ばれた日です
>>497
で見たロシアの動乱時代、偽ドミトリー1世に代わってツァーリとなったヴァシーリー=シュイスキーですが、ポーランドが支援する偽ドミトリー2世が出現し、苦境に立たされることとなりました
シュイスキーは偽ドミトリー2世に対抗するため、スウェーデンのカール9世に支援を求めます
カールはリヴォニアの割譲、ポーランドに対する共闘を条件にこれを承諾し、ロシアへの介入に成功したのです
しかしこのロシア・スウェーデン同盟に脅威を感じたポーランドはロシアへの直接介入を決定、ロシア=ポーランド戦争が勃発することとなります
ポーランドは1610年4月のクルシノの戦いでロシア・スウェーデン連合軍に勝利しシュイスキーは退位、偽ドミトリー2世がツァーリとなりました
この後ポーランドはロシアへの影響力をさらに強めるため、国王ジグムント3世の長男ヴワディスワフのツァーリ選出を画策します
もちろんこれには反発も多く、ロシアでは反ポーランド運動が高まります
またポーランドの影響力を排除するため、今度はスウェーデンがカール9世の息子カール=フィリップをイングリアにてツァーリに擁立しロシアに宣戦布告、イングリア戦争が勃発しました
こうしてロシアはスウェーデン・ポーランドの介入に遭い、動乱時代は頂点を迎えることになります
やがてモスクワではポーランドを追放してミハイル=ロマノフをツァーリに選出、ロマノフ朝が創始されます
1617年3月9日にはようやくスウェーデンとの講和が成立し、ストルボヴァの和約が結ばれました
スウェーデンはノヴゴロドとカール=フィリップのツァーリ位を放棄する代わりにイングリアを獲得しました
この当時スウェーデン国王はカール9世からグスタフ2世アドルフに代わっており、バルト海沿岸地域であるイングリア獲得は、後に彼が確立させることになるバルト帝国の第一歩となったのでした
本日はバルト帝国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
528
:
Republica de Venexia
:2015/03/10(火) 00:12:14 ID:???
3月10日はアエガステスの海戦が行われた日です
前3世紀後半、ローマはイタリアの大部分を支配するようになり、ギリシア都市救援に来たエペイロス王ピュロスも撃退し、前272年にはタレントゥムを攻略しイタリア半島の統一を達成します
軍事的天才として知られたピュロスに勝利したことでローマの軍事力は地中海世界に知れ渡ることとなりました
その頃、シチリア島ではシラクサがカルタゴ支配に抵抗していましたが、シラクサの傭兵となったマルメティニがメッサナを占領、これに対してシラクサの僭主ヒエロンがカルタゴと結んでマルメティニを攻撃、マルメティニはローマに救援を求めました
ローマ元老院には慎重派が多く民会に決定が委ねられましたが、ここでコンスルのアッピウス=クラウディウス=カウデクスが護民官に働きかけて開戦を主張、前264年、第一次ポエニ戦争が始まったのです
ローマには当初海軍は存在せず、前261年に初めて軍船が建造されるという有様でした
これでは伝統的な海軍国であるカルタゴには敵わないため、ローマはカラスと呼ばれる接舷タラップを考案します
先に鉤が取り付けられたこのカラスを敵船に打ち込んで自船と固定し、カラスを渡って敵船に乗り込むことで海上での白兵戦を可能としたのです
ローマはカラスを有効的に活用し、前260年にミュラエの海戦でカルタゴ海軍に勝利を収めました
しかしカルタゴもハンニバルの父ハミルカル=バルカが陸戦で反撃し、シチリアのほぼ全土を支配することに成功しました
しかし海戦ではローマが連戦連勝で、ドゥレパナの海戦を除く全ての海戦で勝利を収めたので
そして前241年3月10日、アエガステスの海戦に勝利したことでローマは制海権を完全に握り、補給の望みが絶たれたハミルカルも降伏を余儀なくされ、カルタゴの敗北で終わったのです
戦争に勝利したローマは1,200タラントの賠償金を得、シラクサを除く全シチリア都市を獲得、初めて海外領土を得ることとなったのでした
本日は第一次ポエニ戦争におけるローマ決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・松谷健二『カルタゴ興亡史 ─ ある国家の一生』中央公論新社、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
529
:
Republica de Venexia
:2015/03/11(水) 01:24:30 ID:???
3月11日はジョヴァンニ=デ=メディチが教皇に即位した日です
ジョヴァンニ=デ=メディチは、メディチ家によるフィレンツェ支配の絶頂期を現出したロレンツォ=デ=メディチの次男として産まれました
メディチ家は
>>288
で見た大シスマの際に対立教皇ヨハネス23世を擁立、続くマルティヌス5世を支援したこともあってローマ教皇庁との関係が深く、ジョヴァンニも枢機卿に就任することとなりました
やがてフィレンツェでは
>>346
で見たようにメディチ家が追放されますが、ジョヴァンニは教皇ユリウス2世とスペインの支援を得、フィレンツェに復帰することに成功します
そしてユリウス2世が死去した後の1513年3月11日、ジョヴァンニはレオ10世として教皇に即位したのです
当時の教皇庁はフランス・ヴァロワ家と神聖ローマ帝国・ハプスブルク家が抗争するイタリア戦争の最中にあり、フランス王フランソワ1世が侵攻してくるとレオはフランス王に聖職叙任権の一部を与えることで休戦に持ち込みます
なおレオ10世はルネサンスを保護したことでも知られ、ミケランジェロやラファエロを支援し、ローマにおけるルネサンス文化繁栄をもたらしました
この時期にはレオナルド=ダ=ヴィンチも活躍しており、先のレオ10世とフランソワ1世との会談にも招かれていました
ダ=ヴィンチはその後フランソワに招かれ、フランスにルネサンス文化をもたらすこととなります
またレオとフランソワは協力して神聖ローマ帝国に対抗し、
>>429
で見た神聖ローマ皇帝選挙の際にもフランソワの皇帝選出を支援しますが、皇帝にはカール5世が即位し失敗に終わりました
しかしレオはやがてカールとも協力関係を結びます
>>334
で見たように、ドイツで贖宥状販売への反発をきっかけとする宗教改革が起こったからでした
ルネサンス文化を保護したレオでしたが、サン=ピエトロ大聖堂再建のためには莫大な費用がかかり、レオはこれを贖宥状販売によって賄っていたのです
このようにローマ教皇レオ10世はルネサンス文化の隆盛と宗教改革の発端、この時代のヨーロッパを大きく動かす出来事の真っ只中に位置する存在となったのでした
本日はメディチ家出身教皇の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・森田義之『メディチ家』講談社、1999年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
530
:
Republica de Venexia
:2015/03/12(木) 00:02:25 ID:???
3月12日は「友鶴」が転覆した日です
>>77
のロンドン海軍軍縮条約では駆逐艦の保有にも制限が加えられ、排水量が1500トン以上の駆逐艦は補助艦艇全体の16%に制限されることとなりました
日本海軍ではこの保有枠は特型駆逐艦で使い切ってしまっていたため、1400トン以下で特型駆逐艦と同等の戦力を有する駆逐艦の建造に着手します
こうして建造された駆逐艦が初春型で、1400トンの船体に12.7cm砲6門、61cm魚雷発射管9射線を備える駆逐艦として誕生しました
また駆逐艦の保有枠を1400トン型に絞るため、1000トン型の駆逐艦を条約制限外の600トン型水雷艇に変更し、こちらも初春型と同じく小さい船体に重武装というコンセプトで建造されました
この水雷艇が「友鶴」の属する千鳥型となります
これらの船体に見合わない重武装な艦艇はもちろん設計に無理があり、重心の高いいわゆるトップヘビーな艦艇となりました
これを補うため初春型や千鳥型にはバルジが取り付けられ、復原性能の向上が図られます
しかし1934年3月12日、佐世保港外で夜間演習を行っていた「友鶴」が転覆するという事件が発生していまいます
原因は波浪で、「友鶴」は初期復原性は十分に持っていたものの動的復原性、特に復原性範囲角度、同最大復原性が極めて不足しており、波浪に耐え切れなかったのです
海軍では事件を受けて直ちに臨時艦艇調査委員会が設置され、その報告に基づき復原性能改善工事が進められます
初春型は前方の単装砲が後方に移され、巨大な艦橋は縮小されることになりました
後部魚雷発射管も次発装填装置とともに撤去され、他の魚雷発射管・煙突・缶室給気口・マスト・探照灯台も縮小あるいは低い位置に再装備するなどの低重心化が図られたのです
このように「友鶴」の転覆事故は艦艇設計に大きな見直しを迫り、翌年に発生する第四艦隊事件とともに、日本の艦艇設計の転機となったのでした
本日は友鶴事件の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・吉村昭『空白の戦記』新潮社、1981年
・福井静夫『福井静夫著作集5 日本駆逐艦物語』光人社、2008年
・雑誌「丸」編集部「丸8月別冊 日本の駆逐艦オール大百科」光人社、2014年
531
:
Republica de Venexia
:2015/03/13(金) 00:03:55 ID:???
3月13日はグスタフ4世アドルフが廃位された日です
>>471
で見たように、スウェーデン王グスタフ4世アドルフは先王グスタフ3世の絶対王政を引き継ぎ、スウェーデンの国際的地位を保とうとしますが、ナポレオン戦争に巻き込まれその際反ナポレオン政策を貫いたため窮地に陥ることとなりました
特にロシアと対立することになったのは痛く、フィンランドを巡ってロシア=スウェーデン戦争が勃発しました
スウェーデンは
>>327
で見たように三十年戦争でバルト帝国を確立させヨーロッパの強国の地位についたものの、
>>205
の大北方戦争でロシアに敗れたことでバルト帝国は崩壊に向かい、
>>254
のグスタフ3世時代にその復権に尽力したものの、グスタフ4世が引き起こしたロシア=スウェーデン戦争の敗北によってフィンランドが奪われたことでバルト帝国復権の夢は完全に潰えることになったのでした
すでに農業・経済・財政等の危機に対して有効な対策を打ち出せず、外交政策も完全に裏目に出て国民の信望を失っていたグスタフ4世は、このロシア=スウェーデン戦争の敗北によってその威信失墜は決定的となりました
そして1809年3月13日、スウェーデンの軍人・貴族らはクーデターを起こしグスタフ4世は廃位されることになります
スウェーデンは立憲君主制に改められ、グスタフ4世の叔父カール13世が即位、そして
>>471
で見たようにベルナドッテ王朝の誕生へと至るのでした
本日はスウェーデン絶対王政の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
532
:
Republica de Venexia
:2015/03/14(土) 01:01:43 ID:???
3月14日は毛利元就が産まれた日です(旧暦)
毛利氏の系図は鎌倉時代、源頼朝の重臣大江広元まで遡ります
広元の4男季光が相模国毛利荘を与えられ、その地名から毛利の姓が誕生したのです
そして季光の子である経光が安芸国吉田荘の地頭となり、経光の子である時親の代に安芸国を本拠地としたのでした
それ以降毛利氏は吉田郡山城を拠城として勢力を拡大していきましたが、元就の父弘元の代では一国人領主にすぎなくなっていました
1497年3月14日、毛利元就が産まれた頃はこのような情勢でした
やがて弘元が没し、元就の兄にあたる興元が後を継ぎますが、興元は25歳で急死し、その子幸松丸も9歳で夭折したため、元就が家督を継承することとなりました
ここから元就による毛利氏の戦国大名化が始まります
当時、戦国大名になるには大きく3つの形がありました
1つめは守護大名がそのまま戦国大名になるパターン、2つめは守護代が下剋上により戦国大名となるパターン、そして3つめが国人一揆から戦国大名になるパターンで、元就はこの3つめの典型的な例でした
安芸国には守護大名武田氏がおり、その下にいる30ほどの国人領主による連合体によって支配されていました
この連合体が国人一揆で、元就はその国人の1人でしたが、元就は娘を国人の1人である宍戸隆家に嫁がせ、次男元春には国人の熊谷信直の娘を迎え、三男の隆景を国人の小早川家に、元春は国人の吉川家に養子として送り込み勢力を拡大、国人一揆の盟主としてのし上がったのです
その後も元就は武略・計略・調略を駆使して勢力を広げていき、1555年の厳島の戦いでは大内氏重臣陶晴賢を破り、大内氏の領土の大部分を征服します
>>358
で見たように尼子氏をも滅ぼし、元就は一代にして毛利氏を中国地方の覇者にまでのし上げたのでした
本日は「謀神」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年
・「毛利戦記 大内、尼子を破った元就の権謀」学研パブリッシング、2010年
533
:
Republica de Venexia
:2015/03/15(日) 00:01:54 ID:???
3月15日はカエサルが暗殺された日です
>>423
で見たように、カエサルは保守化した元老院に反発してポンペイウス、クラッススとともに第一回三頭政治を行いましたが、クラッスス死後にはポンペイウスとの対立が表面化することとなりました
ルビコン川を渡りローマに進軍したカエサルに対し、ポンペイウスは対抗しようとするもののローマにはカエサル支持派が多く、ポンペイウスはカエサルとの対立を避けて支持勢力の多いギリシアへと逃れます
こうして空白地帯となったローマにカエサルが入り、独裁体制の確立が図られました
前49年にディクタトルに就任し、前48年のコンスル選挙を主宰して当選、ポンペイウスとの対決の際には一時ディクタトルを辞しコンスルとして臨みました
そして
>>244
のファルサルスの戦いでポンペイウスを破り、しばらくエジプトに滞在した後の前47年にローマへと帰還します
カエサルは前46年のコンスル選挙で再びコンスルとなり、敵対勢力であったポンペイウス派や小カトーをアフリカで破り、その権限はますます強化されていきます
前45年には再びコンスルに就任するとともに10年間のディクタトルにもなり、前44年にはついに終身ディクタトルとなり、カエサルの独裁権は絶頂を迎えることとなりました
しかしこの急激な独裁化に対し元老院閥族派は危機感を覚え、ローマ市民もまた、カエサルがまるで君主であるかのように振る舞うことに冷淡な姿勢を見せるようになりました
そして前44年3月15日、カッシウスやブルートゥスらが決起し、カエサルは暗殺されることとなったのでした
本日は「ブルートゥス、お前もか!」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
534
:
Republica de Venexia
:2015/03/16(月) 00:52:32 ID:???
今日はヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄した日です
第一次世界大戦に敗れたドイツは戦争責任を問われ、屈辱的といえるヴェルサイユ条約を結ぶこととなりました
まずアフリカや中国、太平洋に持っていた植民地を全て放棄させられ、エルザス・ロートリンゲン地方をフランスに、オイペン=マルメディ地方をベルギー、ポンメルン地方をポーランドに割譲しました
これは開戦前の領土の13%、農業生産地の15%、工業地帯の20%、人口の10%の喪失となります
また賠償金として1320億金マルクを課せられ、徴兵制の禁止、陸軍10万人、海軍1万5千人の制限、戦車・潜水艦・航空母艦・航空機の開発・保有が禁止とされたのです
しかしドイツは当時世界的に孤立していたソ連と秘密協定を結び、ソ連領内にてドイツ軍人に戦車・潜水艦・航空機の技術を学ばせ、またドイツの息がかかった会社を設立し戦車・潜水艦・航空機の水面下での研究開発にあたったのです
その他艦艇においても条約で認められる範囲で水雷艇、軽巡洋艦、装甲艦などを建造し、巡洋戦艦や戦艦も極秘で研究開発が進められました
そして1935年、ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し再軍備を宣言した際には、それまで水面下で極秘裡に進められていた兵器が国内で大々的に建造されるようになり、周到に準備されていたこともあってドイツの軍備は急速に整備されていきます
1939年の時点ではすでにイギリス・フランスに対抗し得る戦力を備え、第二次世界大戦へと突き進むこととなるのでした
本日は「再軍備宣言」の誕生日です
参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
535
:
Republica de Venexia
:2015/03/17(火) 00:10:52 ID:???
3月17日はエドワード黒太子がコーンウォール公となった日です
13世紀以前、イギリス議会では軍事力や所領の大きさによって自然と諸侯とみなされた人々が議会貴族身分と呼ばれていました
しかし14世紀以降にはそれにとらわれず、個人宛令状によって議会に召集された諸侯が議会貴族身分とみなされるようになります
その先鞭をつけたのがイングランド王エドワード3世で、彼は自身の子どもたちを諸侯の子女と結婚させ、王族関係者とすることで家系づくりを進めたのです
その代表的な例が、
>>287
でも登場したエドワード黒太子へのコーンウォール公授与でした
1337年3月17日、エドワード3世は議会で6つの伯家を創設し、イングランド最初の公爵となるコーンウォール公に長男のエドワード黒太子を叙したのです
1385年には侯爵、87年には男爵、1440年には子爵が王によって授与されるようになり、議会貴族身分は国王権限によって作り出されるものという伝統が形成されることとなりますが、その最初の例をエドワード3世がつくったのでした
コーンウォール公はその後も連綿と受け継がれていき、現在はイングランド女王エリザベス2世の長男チャールズ王太子が保持しています
本日はイングランド公爵位の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年
536
:
Republica de Venexia
:2015/03/18(水) 00:30:26 ID:???
3月18日はフリードリヒ2世がイェルサレムで戴冠した日です
>>494
で見たように、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は十字軍への参加を表明し、ジャン=ド=ブリエンヌの娘でありイェルサレム王国の相続人とみなされていたイザベルと結婚したことで、イェルサレム奪還の準備を整えていました
そして彼はアイユーブ朝スルタンのアル=カーミルと交渉することによってイェルサレム奪還を図り、カーミルとの間にヤッファ協定を締結することでその目標を達成したのです
1229年3月17日にフリードリヒ2世はイェルサレムに入城し、翌18日、聖墳墓教会にてイェルサレム王として戴冠式を挙行しました
しかしフリードリヒは教皇インノケンティウス3世から破門された身であったため司祭はフリードリヒの戴冠に難色を示し、十字軍諸侯の反応も冷淡なものでした
そこでフリードリヒは教会の祭壇から王冠を取り、自らの手でイェルサレム王として戴冠することになものでした
本日はイェルサレム王フリードリヒの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』山川出版社、2007年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年
537
:
Republica de Venexia
:2015/03/19(木) 00:31:03 ID:???
3月19日は李自成が北京を占領した日です
16世紀、中国の明では海外貿易が拡大し、中国産の生糸が輸出され日本やアメリカから銀が流入するようになりました
この銀が江南の生糸・絹織物産業をさらに活性化させ、輸出量が増え、銀の流入も加速させるという循環を生み出したのです
しかしその一方で農村は貧困化していきます
というのも、明に流入した銀は内地に向かわずに辺境地域へと流れ、銀不足となった内地では銀で納税することが困難となり、農民が窮乏していったからでした
この銀が辺境へと流れていった要因として、「北虜南倭」が挙げられます
明の北方ではモンゴルの侵攻が激化し、南方では倭寇の活動が活発化していたのです
モンゴルの侵攻に対抗するため明の軍事費は増大し、ますます内地の銀不足が進行、すると今度は海外との密貿易によって銀を入手しようと倭寇の活動が活発化するというように、こちらでは悪循環が生じるようになりました
こうして明は内外に問題を抱えその統治体制は揺らぐことになっていきますが、その中で台頭してきたのが後金、そして李自成の反乱軍でした
銀が辺境に集中するようになったことで辺境では周辺民族との交易も行われるようになりますが、中央権力の統制が届きにくい辺境の地では武力による富の争奪戦が繰り広げられ、その競争を勝ち抜いた女真族が後金を建て、明との直接対決に臨んだのです
この脅威に対抗するため明の主力軍は北方へと移動し、その隙をつく形で農民反乱が拡大していきました
その首領となったのが李自成と張献忠で、陝西省出身のこの2人は1630年代を通じて山西、河南、湖広、安徽、四川へと活動範囲を広げ、李自成は長江以北、張献忠は長江以南で反乱を指導しました
李自成の反乱軍は1643年には湖北の襄陽に進出し、44年には西安を攻略し大順国を建国します
そして1644年3月19日、李自成の反乱軍は北京を占領、明最後の皇帝崇禎帝は自害し、明の歴史は幕を閉じることとなったのでした
本日は明の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
・歴史学研究会編『史料から考える世界史20講』岩波書店、2014年
538
:
Republica de Venexia
:2015/03/20(金) 01:14:09 ID:???
3月20日はナポレオンがフランス皇帝に復位した日です
>>317
で見たように、1813年10月16日から行われたライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンはフランスへと撤退を余儀なくされ、勢いづいた同盟諸国は各方面からフランスへと侵攻し翌1814年3月にはパリへの入城を果たしました
ナポレオンは退位させられ、地中海の島エルバ島へと流されることになります
ナポレオンに勝った同盟諸国はオーストリア外相メッテルニヒ主導の下でウィーン会議を開き、フランス首相タレーランが主張した正統主義の原則に基づいて進められました
しかし領土問題を巡って参加諸国の利害が対立したことで審議は遅難航し「会議は踊る、されど進まず」と揶揄される状態となります
この隙をつく形でナポレオンはエルバ島から脱出し、フランスへの帰還を果たします
フランス国民も英雄の帰還を歓迎し、王政復古によって復活していたブルボン朝のルイ18世は追放されました
そして1814年3月20日、パリに入城したナポレオンはフランス皇帝への復位を宣言したのです
ここから
>>175
で見た1814年6月18日までの約100日間、ナポレオンは再び皇帝として君臨することとなるのでした
本日は「百日天下」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・五十嵐武士・福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中央公論新社、2008年
・上垣豊『ナポレオン 英雄か独裁者か』山川出版社、2013年
539
:
Republica de Venexia
:2015/03/21(土) 01:14:43 ID:???
3月21日はアイルトン・セナが産まれた日です
1960年3月21日にブラジル・サンパウロで誕生したセナは幼少の頃からレースの世界に身を投じ、カートレース、ジュニア・フォーミュラ、F3を経て1984年にF1に参戦することとなりました
最初の1年はトールマンに所属し、翌年ロータスへと移籍、ロータスの3年目ではホンダエンジンのマシンを駆り3位という好成績を収めました
そして1988年からは85年・86年に連覇を成し遂げていたアラン・プロストが所属するマクラーレンへの移籍に至ります
この年からホンダエンジンを積んだマクラーレンマシンで2人は思う存分走り回り、開幕から連戦連勝、最急的にセナは初めてのドライバーズタイトルを獲得したのです
89年はタイトルをプロストに譲り2位で終わったものの、90年にはフェラーリに移籍したプロストを抑え王座を奪還しました
91年には躍進するウィリアムズ・ルノー、マンセルとの接戦を制し2連覇を達成しますが、92年はウィリアムズに敗れ4位に終わります
とはいえこの年のモナコグランプリでは首位にたったセナがマンセルを抑え切り優勝を成し遂げました
三宅アナウンサーの「ここはモナコモンテカルロ、絶対に抜けない!」は印象的なシーンでしょう
この優勝でセナはこの時点でモナコグランプリ4連覇、通算5勝となりグラハム・ヒルに並ぶ記録となります
翌93年もマクラーレンで走り、モナコグランプリ5連覇、通算6勝をあげたものの惜しくも2位に終わりました
その後は
>>66
で見たようにサンマリノグランプリで事故死をするまでドライバーズタイトル3回、優勝41回、ポールポジション65回という大記録を残したのでした
本日は「音速の貴公子」の誕生日です、おめでとうございます
540
:
Republica de Venexia
:2015/03/22(日) 00:17:48 ID:???
3月22日はマクシミリアンが産まれた日です
>>415
で見たカール4世が1376年に死去した後、神聖ローマ皇帝はその息子のヴェンツェルが継承しました
その頃ローマ教会は
>>288
で見たように1378年から大シスマの時代に突入しており、これが1417年まで続くこととなります
この間に皇帝となっていたジギスムントはコンスタンツ公会議を開き、大シスマを解消して帝国の一体化を図ろうとしました
ジギスムントは
>>296
で見たようにニコポリスの戦いでオスマン帝国に大敗しており、その進攻に対抗するため帝国をまとめる必要があったのです
1437年、ジギスムントはエーガー帝国議会で平和令を発し、諸侯もまた翌年にフランクフルトでラント平和を決議し、同じ年にニュルンベルクでも選帝侯が帝国の平和に関する法案が提案されたというように、帝国の解体を危惧し一体化を進めようとする動きが見られます
>>468
で取り上げた、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名称が見られるのもこの頃からでした
しかしジギスムントの後を継いだハプスブルク家のアルブレヒト2世は諸侯権力の強大化を恐れて改革案に修正を加え、これに諸侯が反発します
アルブレヒトが急死したため皇帝となったフリードリヒ3世も諸侯の要求をのらりくらりのかわし、ハプスブルク家の帝位世襲を確立したものの、帝国改革にはほぼ手付かずでした
このフリードリヒ3世の長男として1459年3月22日に産まれたのがマクシミリアンでした
1477年に神聖ローマ皇帝となったマクシミリアン1世ですが、フリードリヒの治世でオスマン帝国の脅威が増大し帝国内の亀裂がますます深まり、またコンスタンティノープルが陥落したことで西欧に衝撃が走っており、帝国の一体化は急務という状況でした
マクシミリアンは1495年、ヴォルムス帝国議会において具体的な帝国改革案を提示します
それは永久ラント平和令の制定、帝国最高法院の設置、一般帝国税、帝国議会の整備で、これにより皇帝と帝国が分離し法と秩序によって帝国が支配される体制の端緒となったのです
またカール4世の時代に進んでいた皇帝権と教皇権の分離もマクシミリアンの時代で決定的となり、神聖ローマ帝国の在り方が大きく変わる治世となったのでした
本日は「中世最後の騎士」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
541
:
Republica de Venexia
:2015/03/23(月) 00:53:57 ID:???
3月23日はパーヴェル1世が暗殺された日です
ロシア皇帝ピョートル3世と女帝エカチェリーナ2世との間に産まれたパーヴェルですが、彼は父と同じくプロイセン王フリードリヒ2世を信奉していました
これにエカチェリーナが反発することになります
というのも、ピョートル3世は
>>489
で見たようにフリードリヒを信奉していたことで七年戦争での勝機を逸するという大失態を犯していたからでした
ピョートル3世に対する不満が高まったロシアでは、皇后エカチェリーナがクーデターによってピョートルを追放しエカチェリーナ2世として即位、啓蒙専制君主として国家を強力に主導し
>>239
で見たポーランド分割やオスマン帝国との戦争を通じてロシアの強大化に成功したのでした
そんなエカチェリーナも1796年に死去し、その後を息子のパーヴェルが継ぐこととなります
しかしこのパーヴェル、先に見たようにエカチェリーナとは対立しており、その治世はエカチェリーナの政策を否定するものに終始しました
これにロシア国民の不満が高まり、父と同じくクーデターに遭うこととなります
1801年3月23日、パーヴェルは近衛将校によるクーデタによって暗殺され、同日にその息子で祖母エカチェリーナの寵愛を受けていたアレクサンドルが即位しました
このアレクサンドルが
>>531
のロシア=スウェーデン戦争でフィンランドを獲得し、
>>317
のナポレオンによるロシア遠征を撃退、
>>164
のウィーン会議を主導し、ウィーン体制にてロシアを「ヨーロッパの憲兵」たらしめたアレクサンドル1世なのです
本日はロマノフ朝第10代皇帝アレクサンドル1世の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
542
:
Republica de Venexia
:2015/03/24(火) 00:00:14 ID:???
3月24日は徳川家康が征夷大将軍に任命された日です
>>283
の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、戦後の論功行賞で豊臣氏の勢力を削り、自身の所領も400万石に増加、要地に家臣や徳川側の大名を配してその支配体制を固めます
その仕上げとして1603年3月24日、征夷大将軍に就任し武家の棟梁としての地位を確立したのです
その後家康は1605年に将軍職を辞して息子の秀忠に譲り、将軍職は徳川家が世襲するといえ意思を示しました
1615年には
>>130
の大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川による支配を確立したのでした
本日は江戸幕府の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原大合戦と大坂の陣』吉川弘文館、2007年
・池上裕子『織豊政権と江戸幕府 日本の歴史15』講談社、2009年
543
:
Republica de Venexia
:2015/03/25(水) 00:07:20 ID:???
3月25日はベラルーシが独立を宣言した日です
ベラルーシの始まりはキエフ大公国から分かれたポロツク公国であり、ルーシによって支配されていましたが、
>>375
で見たモンゴルのバトゥによるヨーロッパ遠征の過程でモンゴル支配下となります
その後ベラルーシ人はモンゴル支配に抵抗し、
>>217
でも取り上げたドイツ騎士団の東方植民にも対抗してベラルーシとしての民族意識が高まっていきました
やがてベラルーシはリトアニア大公国が併合し、そのリトアニアが1385年のクレヴォ合同と
>>196
のルブリン合同によってポーランドと一体となると、ベラルーシもまたポーランド支配下となりポーランド化が進むこととなりました
しかし
>>364
で見たように3度のポーランド分割によってポーランドが消滅すると、ベラルーシは今度はロシアの支配下となったのです
ロシア支配下のベラルーシ人はポーランド時代の復活を図って度々ロシアに対する蜂起を行いましたが、これによってロシアの弾圧が激化しベラルーシ人の多くは亡命、ロシア化が進められました
ベラルーシはその後第一次世界大戦においてドイツの占領下に置かれますが、その間に独立することとなります
1918年3月25日、ベラルーシ人はベラルーシ人民共和国と称し建国を宣言、ベラルーシの新たな時代が始まりました
もっともこの国家は早くも翌年にソ連の侵攻を受け消滅、ベラルーシには白ロシア=ソビエト社会主義共和国が成立します
その後ベラルーシはソ連崩壊の際に再び独立を宣言し、ベラルーシ共和国となって現在に至るのでした
本日はベラルーシにおける独立国家の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
544
:
Republica de Venexia
:2015/03/26(木) 01:02:34 ID:???
3月26日はコンラート2世が即位した日です
神聖ローマ帝国ではザクセン朝のオットー3世がローマ教皇シルウェステル2世と協力し、ローマ帝国の復興を目指しました
しかしオットーは22歳で急死したためこの構想は頓挫し、新たに皇帝となったハインリヒ2世はオットーとは異なりフランク王国の復興を掲げ、ドイツ王国とのつながりを強調します
とはいえオットーが進めていたイタリア支配の強化は継続し、イヴレア辺境伯アルドゥインを破りドイツ王とイタリア王との統合に成功しました
イタリアが独自の王を持つようになるのは1861年のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世まで待つことになります
ハインリヒは帝国の支配強化にも乗り出し、大司教や司教を任命して統治を行う、いわゆる帝国教会政策を推進しました
帝国教会に寄進を行う代わりに帝国の宗教・政治・軍事への協力を求めたこの政策は、大司教や司教が世襲ではなく皇帝の任命によって決められるため、皇帝に協力的な人物を据えることができるというメリットがあったのです
やがてハインリヒは子を残さずに死去しザクセン朝は断絶、1024年、ザリエル家のコンラートがドイツ王に選出されました
コンラートは1027年3月26日に皇帝として戴冠し、コンラート2世となります
しかし王朝は断絶したものの、ハインリヒが打ち出した政策はコンラートが継承し、次代のハインリヒ3世も継承発展したのは
>>294
でも見た通りです
コンラートはまた相続によってブルグント王国を獲得し、ここにドイツ・イタリア・ブルグントの3王国が帝国を構成するようになりました
この頃から帝国では「ローマ帝国」の名称が広く普及するようになり、帝国はこれら3王国を結びつけるものとされ、以後の神聖ローマ帝国の領域の基礎となったのでした
本日は神聖ローマ帝国ザリエル朝初代皇帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
545
:
Republica de Venexia
:2015/03/27(金) 23:17:21 ID:???
3月27日はマリー=ド=ブルゴーニュが亡くなった日です
ブルゴーニュ公国は
>>414
で見たように、シャルル突進公がナンシーの戦いで戦死したことで崩壊、フランス王ルイ11世の侵攻に遭い各地でブルゴーニュ家に対する反乱が勃発しました
シャルルの後を継いだマリーは
>>502
で見たようにハプスブルク家のマクシミリアンと結婚し、その協力を得てルイを撃退、ブルゴーニュは奪われたものの、フランドルを守ることには成功しました
マクシミリアンとの間にはフィリップとマルグリットが産まれ、この2人は後にスペインの王女王子と結婚、ハプスブルク家にスペイン領をもたらすこととなります
マリーは1482年3月27日に落馬が原因で急死することになりますが、ヴァロワ=ブルゴーニュ家はハプスブルク=ブルゴーニュ家として継承され、やがてカール5世による大ハプスブルク帝国の成立に至るのでした
本日はヴァロワ=ブルゴーニュ家の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社、1996年
・ジョセフ・カルメット、田辺保訳『ブルゴーニュ公国の大公たち』国書刊行会、2000年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
546
:
Republica de Venexia
:2015/03/28(土) 00:12:27 ID:???
3月28日はスヴェン=ヘディンが桜蘭を発見した日です
紀元前1世紀頃、タリム盆地タクラマカン砂漠の北東部にはロプ=ノールといわれる広大な湖が存在していました
この湖の西岸に位置し、シルクロードの要地となって交易によって繁栄したのが桜蘭でした
中国においてはこの地域は西域と称され、特に武帝の時代に西域へと大きく勢力を拡大し、桜蘭もその支配下に入り、漢の東西交易の恩恵を受けておおいに栄えます
しかし漢は王莽のクーデターに遭い代わって新が成立、その新を倒した後漢ですが西域統治には手が回らず、西域諸国家は分立状態となりました
この時桜蘭は周辺諸国を併合して勢力を広げ、以後西域の一大国家としての繁栄が続きます
ところが4世紀にはロプ=ノールが干上がってしまい、豊富な水源を失った桜蘭は急速に衰退、廃墟となった桜蘭は歴史の表舞台から姿を消しました
桜蘭の名がが再び知られるようになったのは、スウェーデンの探検家スヴェン=ヘディンの中央アジア探検によってでした
ヘディンは大学でシルクロードという言葉の生みの親リヒトホーフェンの指導を受け、シルクロード地域の探検に乗り出していたのです
1900年3月28日、ヘディンはタリム盆地の探検中に桜蘭の遺跡を発見しました
また、ヘディンは桜蘭の近辺で干上がった川床も発見します
ヘディンはこれをロプ=ノールの跡で、かつてタリム川の水がここに流れ込んでいたと考えます
タリム川は堆積・侵食作用によって定期的に流路を変え、それに伴ってロプ=ノールも各地を彷徨っていたとの仮説を立てたのです
後の1934年、ヘディンは再び同地を訪れ、干上がっていた川が流れており、その先でロプ=ノールが復活していたのを確認、ロプ=ノールが移動していたとの説有力説の1つとなったのでした
本日は「彷徨える湖」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・長澤和俊『シルクロード』講談社、1993年
・赤松明彦『桜蘭王国 ロプ・ノール河畔の四千年』中央公論新社、2005年
・岩村忍『文明の十字路 中央アジアの歴史』講談社、2007年
547
:
Republica de Venexia
:2015/03/29(日) 00:36:50 ID:???
3月29日はスウェーデン王グスタフ4世が廃位された日です
>>38
では1792年3月29日グスタフ4世の即位について書きましたが、ほぼグスタフ3世にしか触れていなかったので今度はグスタフ4世を、また
>>531
はグスタフ4世幽閉の間違いでした
>>471
と
>>531
で見たように、グスタフ4世は先王グスタフ3世時代のスウェーデン継続を図りましたが、ナポレオン戦争での対応を誤りバルト帝国の夢が潰えることとなりました
1809年3月13日には軍部のクーデターにより幽閉され、叔父のカール=ヨハンが摂政となります
スウェーデンでは臨時政府が発足し、グスタフ3世・グスタフ4世時代の絶対王政は否定され立憲君主制への移行が図られました
そして同年3月29日にグスタフ4世の廃位が決定され、やがて追放の憂き目に遭うのでした
本日はスウェーデン・ホルシュタイン=ゴットルプ王朝第三代国王の誕生日にして命日です
参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
548
:
Republica de Venexia
:2015/03/30(月) 00:25:32 ID:???
3月30日はクリミア戦争が終結した日です
「トルコの脅威」として怖れられたオスマン帝国は18世紀になると弱体化し、近代的な国家の整備が進むヨーロッパ諸国との力関係が逆転するようになりました
なかでもロシアはエカチェリーナ2世がクリミア・タタールを追放して以来、オスマン帝国の圧政を受けるスラヴ民族解放という名目で南下政策を進め、1828年に始まる露土戦争でボスポラス・ダーダネルス両海峡の自由通行権を得、黒海における通商権も獲得しました
しかしこのようなロシアの南下政策は中東やバルカン半島に影響力を得ようとしていたヨーロッパ列強の反発を招き、特にイギリスとフランスはオスマン帝国を支援してロシアへの対抗を図ったのです
そして1853年6月、ロシアは聖地イェルサレムにおける正教徒の保護を名目にオスマン帝国領に軍を派遣し、オスマン帝国はイギリス・フランスの支援を背景に宣戦布告、クリミア戦争が勃発しました
ロシアは緒戦には勝利したものの、産業革命を経て近代化したイギリス・フランスの軍隊に押され、鉄道網の未整備による補給の停滞もあって次第に劣勢となり、1855年8月にはクリミア半島の要塞セヴァストーポリが陥落します
そして1856年3月30日、オーストリア・プロイセンの仲介によってパリ条約が締結され、クリミア戦争はロシアの敗北によって終結しました
こうしてロシアの南下政策は阻止されたものの、以後ヨーロッパ列強の対立が表面化することとなります
勢力均衡によって大国間の戦争を防ごうとしていたウィーン体制はここで完全に崩壊することとなったのでした
本日はウィーン体制の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
549
:
Republica de Venexia
:2015/03/31(火) 00:14:23 ID:???
3月31日はヴィルヘルム2世がモロッコを訪問した日です
昨日のクリミア戦争終結の後、ヨーロッパ列強は先を競って世界各国へと進出していきました
1870年代半ばから20世紀初頭にかけて、列強は海外に工業製品の市場や原料供給地、資本の輸出先などを求め、武力によって植民地を広げていく帝国主義の時代となったのです
その急先鋒となったのがイギリスで、最重要植民地のインドを中心に据え、カルカッタ・カイロ・ケープタウンを結ぶ3C政策を推進します
また1882年のエジプト占領はアフリカ分割競争のきっかけとなり、イギリスはエジプトから南下して南アフリカとつなごうとするアフリカ縦断政策が進められました
一方イギリスに負けじとフランスもアフリカの植民地化に乗り出し、西アフリカ・サハラ地域から東のジブチをつなごうとするアフリカ横断政策を進めます
この英仏のアフリカ分割はスーダンで衝突しファショダ事件となりましたが、これがきっかけとなって1904年に英仏協商が結ばれたのは
>>57
で見た通りです
この2国に遅れをとったのがドイツでした
>>433
で見たようにドイツが統一されたのは1871年のことであり、ドイツ皇帝がビスマルクを罷免して親政を開始し、世界政策を掲げたのは1890年代に入ってからだったのです
ドイツはオスマン帝国の小アジアからペルシア湾へとバグダード鉄道を建設して中東への進出を図る3B政策を進め、イギリスの3C政策と対立します
アフリカにおいても南西アフリカと東アフリカを領有し、さらなる拡大を図りました
ここでドイツはモロッコへ進出しようとしますが、上で見た英仏協商でイギリスがフランスのモロッコにおける優越権を認めたことに反発します
そして1905年年3月31日、ヴィルヘルム2世はモロッコのタンジールを訪問し、モロッコのスルタンと会見してフランス進出に反対する旨を表明したのです
このため独仏両国の間に緊張が走りますが、翌年にアルヘシラス会議が開かれ、ドイツの目論見は阻止されフランスのモロッコ進出が黙認されることとなったのでした
本日は第一次モロッコ事件の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
550
:
Republica de Venexia
:2015/04/01(水) 00:01:43 ID:???
4月1日はオットー=フォン=ビスマルクが産まれた日です
1815年、それはプロイセンが新たなスタートをきった年でした
この年の6月にウィーン会議が閉会し、領土拡大に成功したプロイセンはヨーロッパ五大国としての地位に復帰したのです
しかしザクセン王国併合が叶わなかったことでプロイセンの領土は東西に分断されたままであり、またプロイセンが属するドイツ連邦は同じく五大国の1つであるオーストリアをも抱えるという複雑な組織となったのです
オットー=フォン=ビスマルクが産まれたのは、そんな1815年の4月1日でした
ビスマルク家はユンカーの家系で、父親のフェルディナントもユンカーとして農場経営にあたっていましたが、母親のヴィルへルミネは市民身分の出身であり、彼女はオットーにユンカーではなく官僚への道を歩ませます
そしてその通り、オットーは1836年に21歳でアーヘン県庁で試補として官僚への第一歩を踏み出しますが早々に挫折し、ユンカーの世界に戻ることとなりました
その後オットーは1847年に生涯の伴侶ヨハンナを得、またプロイセン領ザクセン州の連合州議会に出席して政界との関わりを持つようになります
やがてドイツでは1848年の三月革命へと至る政治体制の変動が沸き起こりますが、そのなかでオットーは一貫して保守的な立場を取り続け、ゲルラッハ兄弟を中心とする側近党へと接近、高官への道を切り開いたのです
オットーは
>>368
の「オルミュッツの屈辱」後に外交官に就き、1862年にはプロイセンの首相兼外相に就任、ドイツ統一への邁進するのでした
本日は後の「鉄血宰相」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
551
:
Republica de Venexia
:2015/04/02(木) 00:56:31 ID:???
4月2日は張角が挙兵した日です
>>506
で成立した漢(前漢)は武帝の時代に最盛期を迎えますが、8年、外戚の王莽が帝位を簒奪し、新が建てられました
王莽は復古主義政策を採りますがこれは失敗に終わり、赤眉の乱が起こるなか25年、前漢の皇族劉秀が新を倒し漢を再興します(後漢)
劉秀光武帝は赤眉の乱を平定し豪族連合政権を樹立、支配体制を整えます
しかし2世紀になると勢力を拡大してきた豪族や官僚、宦官が内紛を起こすようになり、また幼くして即位する皇帝が相次いだこともあって政治的混乱が続きました
この混乱は160年代の党錮の禁で宦官勢力が完了を弾圧するとますます深まっていきます
こうして漢王朝の権威が衰退し世が乱れるようになると、民間宗教が民心をとらえるようになりました
その1つである太平道を創始したのが張角で、彼は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」と、184年4月2日、華北にて挙兵します
これが後漢を揺るがす大農民反乱に発展し、後漢滅亡、三国時代へと至ることとなるのでした
本日は黄巾の乱の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・金文京『中国の歴史4 三国志の世界(後漢 三国時代)』講談社、2005年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年
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