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ホラーテラー作品群保管庫

51なつのさんシリーズ「夜泣き峠」2:2014/06/03(火) 17:44:41 ID:j2Iwz4NM0
「ほら、着いたぞ」
そうこうしているうちに、僕らの車は目的の峠に着いた。
道路脇に車を停めて、三人で外に出る。
外灯が遠く、思いのほか暗い。Sが一度車内に戻って、懐中電灯を持って出てきた。
豆電球の白い光が『夜泣き峠』の周囲を照らす。
何と言うか、心霊スポットと言うだけあって、独特の雰囲気は感じ取れた。
道の両脇はどちらも木が茂っていて、ザワザワと風に揺れる音がする。
いつの間にか、おしゃべりのKも静かになっていた。
「どうする?」とSが言った。
その口はおそらく『早く帰ろうぜ、てか帰らせろ』と言いたいのだ。
僕としても、夜風とこの峠の雰囲気に当たった瞬間、酔いが醒めてしまった様で、実際怖くて帰りたくなっていた。
「うーん。そうだな。何もなさそうだし」
帰るか、とチキンな僕が言おうとした時、
「やべ……」
Kが言った。
「俺、聞こえた」
何が?と言いかけた僕の耳にも、それは入って来た。
掠れた猫の様な、でも猫じゃない。猫は『おぎゃあ、おぎゃあ』とは鳴かない。
これは人間の声だ。赤ん坊の泣き声だ。
「おいおい、嘘だろ」
Kがうろたえていた。僕はもっとうろたえていた。
Sにも聞こえたようだった。
「ん……、あっちからだな」
Sはそう言って、懐中電灯の光をその方向に向けた。
僕らが車を停めた道路脇の反対側に、車一台が通れるくらいの横道があった。
Sが照らしているのは、その細い道だった。
「よし、行くか」と一言。
Sがその横道に向かって行くので、僕とKは顔を見合わせた。Sは果たして正気なのかと思った。
しかし、車のキーも懐中電灯もSが持っているので、僕らは慌ててSの後を追った。

横道の先には、小さな広場があった。
Sが持つ懐中電灯の光が、広場をくるりと照らした。
草がぼうぼうに生えていて、広場を囲むように廃車が数台あった。
古びて赤錆びにまみれたトラックもあれば、比較的新しい車もある。
赤ん坊の泣き声が大きくなっていた。
Sの後ろで僕も泣きそうだった。Kは「やっべー、やっべーよ」をさっきから繰り返している。
Sが一台の車を照らした。その車は黒ずんでいた。外も、中も。ガラスは残っていない。
Sが懐中電灯の光を、車から僅かに下に向ける。
チャイルドシート。
その車の横には、地面に直接チャイルドシートが置いてあった。
隣の車とは不吊り合いな程綺麗で、新品同様と言っても良かった。
泣き声はそのチャイルドシートから聞こえてきた。誰も座っていないはずなのに。
Sがそのチャイルドシートに一歩近づいた。
「おいSやべー。やべーって!」
Kが止めるのも聞かず、Sはチャイルドシートの前まで行くと、その後ろの草むらに向かって手を伸ばした。
僕はその時、泣き声の主にSが喰われるんじゃないかと本気で思った。
「……あった」
僕らの方に向き直ったSが手にしていたのは、一台の機械だった。
ただ立ち尽くす僕らの前で、Sは手にした機械の上にあるスイッチを押した。
その瞬間、赤ん坊の泣き声はピタリとやんだ。
「CDラジカセだ」
Sが言った。
「最初は俺も驚いたけど、泣き声に規則性があったからな。こんなことだろうと思った。
 まあ、イタズラだな。電池が切れるまでは、赤ん坊の声がリピートするようにな」
僕は茫然としていた。Kはぽかんとしていた。
Sよ。お前は何処まで冷静なのだ……。
「……うおおマジかよバカらしー!」
Kが両手で自分の頭を抱え、身体全体でぐねぐねと意味不明な動きをした。彼なりに恥ずかしがっているのだ。
「俺バカじゃん。やべーやべーとか俺バカじゃん!」
それからKはチャイルドーシートに近づくと、一発蹴りを入れた。
そうしてから何を思ったか、倒れたチャイルドシートをまた元通りに立たせると、
「お前ら、写メれ!」
その上にどかりと腰を下ろした。

52なつのさんシリーズ「夜泣き峠」3:2014/06/03(火) 17:45:29 ID:j2Iwz4NM0
チャイルドシートに大の男が座っている。真夜中のこんな場所で。
その滑稽な光景に、先程までの恐怖の感情も消えうせ、僕は声に出して笑った。
「アホらし」と言いながらも、Sが自分の携帯を取りだして、カメラで撮った。
フラッシュ。Kはふんぞり返っていた。僕も笑いながら、その姿を携帯で撮った。
「……おぎゃあ、おぎゃあ!」とKが叫びだした。さらに座った状態で手足をバタつかせる。
僕はまた笑った。Sも笑っていたと思う。
「おぎゃあ、んぎゃああ、んぎゃああ」
僕が、おや、と思い始めたのはそのあたりからだった。
「んぎゃあ、ん、んぎゃああ、おぎゃああああ!」
「おーい、K、もういいよ。十分撮ったから」
しかし僕がそう言っても、Kは泣きやまない。それどころか、Kの泣き声はいっそう激しくなった。
「……お、おぎゃあ、おぎゃあ……ぐ、おぎゃああ、おぎゃああああ!んぎゃああ」
「おいK?」
「ぎゃああああ、おおぎゃあああ!んっく、っく、ぎゅっ……、おぎゃああああああ!んっく、ん」
いつの間にかKの泣き声は尋常ではなくなっていた。Kは本当に涙を流して泣いていたのだ。
顔が歪んでいた。手足をバタつかせ大声で泣く。
その声も、Kの声から、まるで本物の赤ん坊の声に変わっていた。
「おぎゃああおぎゃああおぎゃああおぎゃああああおぎぎゃああああああ」
「お、おい、……け、K」
僕がKに向かって手を伸ばそうとしたその瞬間、
Sが横からチャイルドシートごとKの身体を蹴飛ばした。
「……おい!Kを持て。逃げるぞ!」
Sが叫ぶ。地面に倒れたKは気を失っていた。
僕はSと一緒にKを担ぎあげると、車に向かって一直線に走った。
「S、S!どういうこと?」
「俺に聞くな!」
後部座席にKを押し込んで、Sが車のキーを差し込む。
「お、おい、S。ちょっと待て!」
車のエンジンが掛かる。しかし僕は思いだしていた。夜泣き峠に関する話。
赤ん坊の声を聞いたものは必ず……。
Sもそこに気がついた様だった。サイドブレーキを下ろそうとしていた手が止まる。しかし、躊躇は一瞬だけだった。
「……そりゃ、尾ひれだ」
Sは車を発進させた。
Sの額に浮かぶ大粒の汗とは裏腹に、車は非常にゆっくりとした安全運転で山を降りた。

Kは山を降りる際に意識を取り戻した。
また泣き声をあげられたらどうしようと心配だったのだが、幸い起きたKはちゃんとKだった。
「え……?何コレ。ってか、わき腹ちょーいてえんだけど……」
それはSが蹴り飛ばしたからだ。でもその事実は無かったことになり、全ては赤ん坊の霊の仕業ということで落ち着いた。
Kのわき腹にユウレイが噛みついていたのだと。

そうして、少なくともその日は、僕らは事故に遭うこともなく、山を降りることが出来た。

後日三人で集まり、知り合いの知り合いの知り合いという風に、
か細いつてを頼って、遠くの街の神社でお祓いをしてもらった。
その際、神主らしき人に「一応三人とも大丈夫だが、もうあの峠には行かない方が良い」と言われた。

お祓いが効いたのか、そもそも何も憑いてなかったのか。
あの夜の体験から数年たったが、今のところ三人とも何の事故もなく過ごしている。

『夜泣き峠』を通ってて、赤ん坊を見た、声を聞いたという話は、今でもたまに聞くことがある。
この前も、職場の後輩が彼女と行って、泣き声を聞いたそうだ。
後輩はその時の話を詳しく語ってくれた。
「事故とかは大丈夫だったんすけどね?……やっぱり、ほら。わき腹、噛まれたんすよ、ほら」
確かに、真剣に語る彼のわき腹には、噛まれた様な跡があった。
そりゃ、尾ひれだ。
笑って流していいものかどうか、少し迷った。

53なつのさんシリーズ「首あり地蔵」1:2014/06/06(金) 11:30:56 ID:bXavpRb60
「なあ、お前ら『首あり地蔵』って知ってるか?」
数年前の話になる。僕らは当時大学三年生だった。季節は夏。大学の食堂で三人、昼飯を食べていた時だ。
怪談好きなKが、雑談のふとした合間に話しだしたのが、そもそもの始まりだった。
「首あり地蔵ってお前、そりゃ普通のお地蔵様だろ」
僕の隣に座って味噌汁を飲んでいたSが、馬鹿にしたように言う。
KとSと僕。Kはカレーの大盛りで、Sはシャケ定食で、僕は醤油ラーメン。いつものメニュー、いつものメンバーだった。
でも確かに『首なし地蔵』だったならば、はっきりとは思い出せないが、何かの怪談話で聞いたことがあるかもしれない。
話のネタにもなるだろう。
しかし、Kは『首あり地蔵』と言ったのだ。
Sの言う通り、それは首のある普通のお地蔵様だ。
「ちげぇんだよ。あのな、その地蔵の周りには、もう五体地蔵があってな。
 『首あり地蔵』の一体以外は、全部頭がねえんだってよ」
なるほど。だから『首あり地蔵』か。
僕はその様子を想像してみた。六体の地蔵の内、一体だけにしか首が無い。
「ねえ、何でそうなってんの?」
「それがな、その一体だけ首のある地蔵が、他の地蔵の首をチョンパしたっつう話なんだよ。これが」
そう言ってKは舌を出し、スプーンで自分の首を掻っ切る仕草をした。
「でも、そんなことして、地蔵に何の得があるんだよ」
「さあ?知らねえよ。お供えモン独り占めしたかったとかじゃね?」
Kがそう答えると、Sが、ごほっごほっ、と咳をした。
それからポケットティッシュを取り出し口元を拭うと、
「……馬鹿野郎。喉につかえたじゃねーか」
「何だよ、俺のせいかよ」
不満げなKに「お前のせいだよ」とSが言う。
僕はというと、その地蔵に少し興味を抱き始めていた。
「で、Kさあ。その首あり地蔵については、他になんかないの?」
「ああ、あるぞ。なんてったって、『首あり地蔵』は人を襲う」
その瞬間、再びSが咳き込んだ。
「夜な夜な動き出してさ、人の首を刈り取って来るらしいぜ?
 『要らん首無いか……要らん首無いか』ってぶつぶつ言いながら。寺の回りを徘徊してんだとよ」
「……もうやめてくれ、今の俺は呼吸困難だ」
Sは咳き込んだせいか涙目になっていた。
「何だよS。ロマンがねーな。俺の話が信じられねーのかよ」
「何がロマンだボケ。K、お前、すぐにでもその地蔵に謝ってこい」
「それだって!」とKが大声を出したので、
僕は驚いた拍子にむせたら、ラーメンの切れ端が鼻から出てきた。久しぶりだこんなこと。
「今日の夜、行こうぜ?確かめるんだよ、俺たちで。噂が嘘なら、何ぼでも謝ってやるからよ」とKが言う。
Sは呆れたように天井を見上げた。また始まった、と思ってるんだろう。
Kはそういうスポットに行くことを好む、所謂肝試し好きなのだ。
今までだって、Kが発案し、僕が賛成し、Sが引っ張られる形で、そういういわく付きの場所に足を運んだことが何度もある。
「んじゃあ、今日の夜は、首あり地蔵で肝試しってことで、決まりな」
Kが強引に話を進める。
Sが救いを求めるように僕の方を見た。僕はラーメンをすすりながら、Sに向けてニンマリ笑って見せる。
Sは半笑いのまま力なく項垂れ、黙って首を横に振った。
「……というか、その地蔵近くにあるのかよ」
「おう。○○寺ってとこ」
その名前を聞いた時、うなだれていたSの首が少し上がり、眉毛がピクリと動いた。
そうしてから、隣に居た僕くらいにしか聞こえない程の声で、
「そうか。○○寺か……」と呟いた。
僕は一体何だろうと思ったのだが、
あいにくその時は口の中一杯にラーメンが詰まっていたので、それを聞くことは出来なかった。
その後は聞くタイミングを掴めぬまま、あれよあれよと言う間に具体的な集合場所と時間が決定した。
こういうときのKの手際の良さはすさまじいものがある。但し、普段はまるで発揮されないのが痛いところだ。

54なつのさんシリーズ「首あり地蔵」2:2014/06/06(金) 11:31:33 ID:bXavpRb60
こうして僕らはその日、○○寺の首あり地蔵の元へと足を運ぶことになったのだ。

夜中、僕らはそれぞれ個別に、○○寺がある山のふもとで集合ということになっていた。
○○寺は僕ら住む街を一望できる小高い山のてっぺんに、展望台と隣接する形で建っている。
寺までは数百段の石段が続いており、僕は知らなかったのだが、目的の地蔵はその道中にあるそうだ。

集合時間は十一時。時間を守って来たのは僕だけだった。
十五分待って、バイトで遅れたと言うKと、寝坊したと言うSがほぼ同時にやって来た。
熱帯夜だと言う蒸し暑い夏の夜、僕らは三人は懐中電灯を片手に汗だくになりながら、地蔵があるという場所に向かった。
特に僕は日ごろの運動不足がたたってか、
前を行く二人を追いかける形で、ひーこらひーこら言いながら石段を上っていた。

山の中腹を少し過ぎた頃だっただろうか、
「おーい、早く来いよ。あったぞー」というKの声が、大分上から響いてきた。
僕が二人に追いつくと、そこは石段の脇が休憩のためのちょっとした広場になっており、
地蔵はその広場の端に六体、横一列に並んでいた。
僕は乱れた息を整えてから、地蔵をライトで照らす。
確かに、僕の腰よりちょっと背の低い地蔵たちは、右から二番目の一体を除いて、残りは全部首が無い。
「これで、一つはっきりしたな。少なくとも、この地蔵は夜な夜な徘徊はしていない」
SがKに向けて、からかい半分の口調で言う。
「ごめーんちゃい!」
「くたばれ」
漫才コンビは今日も冴えている。
「っていうか何だ何だー。つまんねーな。夜は地蔵さん、鎌でも持ってんのかと思って期待してたのによー」
そりゃどこの死神だ、と思わず僕も突っ込みそうになった。
「でもよ、ホントに他の地蔵は首がねーんだな」
「何、K。お前ここ来たこと無かったの?」
今日の話しぶりからして、僕はKがここに何度も来たことがあるものだと思っていた。
「いんや。噂で聞いてただけ、面白そーだからさ。見に来てーなーとは思ってたけどよ。ちょっと拍子抜けだなー」
「……この地蔵はな、正式には『撫で地蔵』っつうんだよ」
ふと、Sが呟くように言った。
「なんだよ。お前この地蔵に詳しいの?」
「ん、ちょっとな。見ろ、この地蔵、頭テカってるだろ」
Sが懐中電灯の光で地蔵の頭を照らす。
そう言われれば、この地蔵の古ぼけた身体に対して、頭だけは比較的小奇麗だった。
「触ってみりゃもっと良く分かるんだけどな。
 元々願掛けしながら撫でると、その願いが叶うって言われの地蔵だから、撫でられすぎてそうなったんだ」
そうなのかと思った僕は、そっと首あり地蔵のつるつる頭を撫でてみた。
何だかボーリングの玉を撫でている感じだ。撫で心地は中々いい。
「今でも、知ってる人は知ってるんだけどな。昔はもっと有名だったらしいな。○○寺の撫で地蔵って言えばな。
 けど、そのせいなんだよ」
Kも僕もSの話を黙って聞いていた。
何だか昔話を語る様な話しぶりは、普段のSとは少しだけ違っている様な気がしたのだ。
「三十年くらい前の話らしい。六体全部の首だけが盗まれるって事件があった。綺麗に首だけ取られてたんだってよ。
 犯人は分かってない。ただの愉快犯か、それとも、撫で地蔵のご利益を独占したい輩でもいたんだろうな」
「……おいおいおい、ちょっと待てよ。じゃあ、この首は何なんだ」
Kが言う。それは僕も思った。当然の疑問だ。
「職人に頼んで、地蔵の首だけすげ替えたんだとよ」
僕は改めて地蔵を見てみた。言われてみれば、首の辺りに多少のヒビがある様にも見える。
頭だけ小奇麗なのも、人々に撫でられるだけが理由じゃないということか。
「でも、修復したっていっても、首の部分はやっぱり弱くなってたんだろうな。
 それ以降も、皆に撫でられ続けた地蔵の首は、一体ずつ取れていったんだ。二度目は寺の方も直す気が起きなかった。

55なつのさんシリーズ「首あり地蔵」3:2014/06/06(金) 11:32:11 ID:bXavpRb60
 ……それにしても、まさに身を呈して民衆を救うか、地蔵の本懐だな」
そこまで聞いて、僕は少し不思議に思った。Sのこの地蔵に関する知識に対してだ。
予め予習してきたにしても、知り過ぎてはいないだろうか。隣の鈍いKだって、そう思ってたに違いない。
そんな僕らの疑問を察したらしく。Sは若干バツが悪そうに頭を掻いた。
「俺が小さい頃はな、まだ二体は残ってたんだよ。首」とSは言った。
「実はな。五体目の首もいだのって、俺なんだ」
意外な展開と言えばそうだったかもしれない。
でもSの語り口からは、そんなに罪の告白だとか、そう言った重々しいものは感じられず、
ただ単に昔の失敗談を語っている様な、そんな口調だった。
「昔、家族とこの寺に来た時にな、地蔵の頭撫でたんだよ。
 願いながら撫でると、その願いが叶うっていう地蔵だろ?俺はひねくれたガキだったから、撫でながら言ったんだ」
「何て言ったんだ?」
Kが訊くと、Sは肩を竦めて、
「もげろ」
「……は?」
「『もげろ!』って叫んだんだ。撫でながら。そしたら、もげた。本当に」
Sの話によると、ごり、と音がして、手前のSの方に地蔵の首が落ちてきたのだそうだ。
その時はまるで地蔵が頷いた様に見えたとSは言った。
「まあ、たまたま俺が撫でた時と、限界が重なっただけだろうけど。
 それでもあの時は本気で驚いた。これがご利益か、とか思ったよ。
 そのあと、上の寺から坊さんが来てさ。すげえ怒られたな」
と言いながらSは地蔵の前にしゃがみこみ、その頭に手を置いた。
そうしてゆっくりと地蔵の頭を撫でながら、叫ぶでもなく、呟くでもなく、全く自然にその言葉を口にした。
「こう……、『もげろ』ってな」
ぼり。
鈍い音がした。
次の瞬間には、地蔵の頭はあるべき場所に収まっていなかった。どさり、と地面に重量のある物体が落ちる音。
「うわ」とは僕の声。
Sは手を前に差し出したままの状態で地蔵を見つめていた。
「おおう!マジでもげやがった」
Kが感嘆の声を上げる。
「とまあ……、こんなこともある」
Sはあくまで冷静を保っていた。
Kが落ちた首に近寄って「どーなってんだ?」とつついている。
僕はこの目の前で起きた現象をどうとらえればいいのか、イマイチ判断がつかずにいた。
今日という日の夜、S撫でられ限界を突破してしまったのか。それとも、地蔵がSの願いを聞き入れたのか。

「……帰るか」
ゆっくりとその場に立ち上がりながら、Sが唐突に呟いた。
「え、地蔵は、どうすんのさ?」
「どうにもならん」
「え、ええー……?」
Sは本当にこのまま帰るつもりだった。
かといって僕にもどうすることもできない。
弁償の件が頭をよぎるが、
「触れただけでああだ。風が吹いただけでもげてたよ」と、Sがこちらの心理を見透かしたような発言をする。
しかし、となれば、このまますごすごと帰る以外の選択肢が僕にはない。
帰るか。

56なつのさんシリーズ「首あり地蔵」4:2014/06/06(金) 11:32:53 ID:bXavpRb60
こうして首あり地蔵は、首なし地蔵になったのだった。めでたし、めでたし。
とは、いかなかった。
僕とSが戻ろうとしたとき、Kだけはまだ地蔵の首のところに居た。僕らはそれに気付かず、先に帰ろうとしていたのだが。
「……要らん首、無いか?」
声が聞こえた。
振り向くと、Kが先ほど落ちた地蔵の首を両手に抱えて、無表情で立っていた。
「え、何?」
僕が聞き返すと、Kはまた言った。
「要らん首、無いかえ?」
その時のKの様子をどう表現すればいいのか。
そんなハイレベルな冗談を言えるKではないし、それにいつものKで無いことだけは分かった。
「あったら、もらうぞ?」
「え、いや、ってか……」
「おんしの首でも、ええぞ?」
「無い」
答えたのはSだった。
「少なくとも、俺らは要らん首は持ってない」
「……ほうか」
Kが地蔵の首を地面に落した。どずん、と音がした。
その瞬間、Kの体が電気が走ったかのように、びくん、と震えた。
「……あれ……、何?んっ?え?俺、寝てた!?」
Kは先ほどの自分の言動を覚えてないのか。
「知るか。帰るぞ」
Sはそう言って、さっさと広場を抜け、階段を降りようとする。
「え、ちょっ、待てって!何?説明しろよ!」
Sの後を、慌ててKが付いていく。
僕はしばらくその場にとどまって、ぼんやりと地面に落ちた地蔵の首を見つめていた。
不思議と怖いという感情はこれっぽっちも沸いてはこなかった。
地蔵はまだ働くつもりだったのだろうか。人々の願いを叶えるために。
そう言えばさっき地蔵を撫でた時に、僕は何も願いを思い描いてなかった。
僕はふと思いいたって、地蔵の首を持ち上げた。重い。すげー重い。
切断面を確認し、僕は地蔵の首を元通りの位置に置いた。そして撫でた。
「く、くっつけよ〜、くっつけよ〜」
そっと手を離す。首はまた落ちたりはしなかった。
そろそろと後ずさり、僕は二人を追いかけてその場を後にした。

その後しばらく経って、
「○○寺の地蔵が、首のない地蔵が取り壊されたらしいぞ」とKから聞かされた。
それって何体?とは聞かないことにしておいた。

57なつのさんシリーズ「くもの糸」:2014/06/06(金) 11:34:06 ID:bXavpRb60
僕が小学校低学年の頃の話だ。

学校も終わり、僕は一人帰り道を歩いていた。
そして、ふとした何気ない思い付きから、今日は別のルートで家まで帰ろうと決めた。
いつもは使わない、人通りの少ない山沿いの道。
家までは大分遠回りだけど、僕は随分楽しげに歩いていた記憶がある。
昔はそういう無意味なことに楽しさを見い出す子供だったのだ。

さて、そんないつもと違う帰り道。僕はふと、ある不思議なものを見つけた。
車一台分の幅しかない道、進行方向に対して左は林で、右は小さな池だったのだけど、
その右の池から、何やら白く細いものが空に向かって伸びていた。
その時の僕が『空に向かって伸びている』と思ったのは、単純な話、空に何にもなかったからだ。
木々の枝が伸びているわけじゃない。飛行機が、鳥が飛んでいるわけでもない。
最初、僕は煙かなと思った。でも水のある池から煙というのもおかしい。
別に水面に浮かぶ水草が燃えているわけでもないようだった。
ガードレールに腕を乗せ、僕はその白い細い物体をじっと見つめた。
それはどうやら、糸の様だった。白い糸だ。
僕は白い糸を辿って空を見上げた。
白い糸は上空に行けばいくほど、空に点在していた雲と同化して見えなくなる。
天へと伸びる糸。
当然、不思議だなあと思った。
けれど、その時の僕には、でもそこにあって見えるんだから仕方ないだろう、という確固たる諦めがあった。
見上げていると、上空で、チカ、と何か光った気がした。
時間がたつにつれ、光ははっきり見えるようになった。
糸を辿って空から光が降りてきていた。太陽の光を鏡で反射させた時の様な、目に刺さる光だった。
光は点滅していて、目の上に手をかざしてよくよく見ると、その上に糸は無かった。
僕は身を乗り出し、その光を良く見ようとした。
ランドセルが重かったのが原因だと思う。僕はその瞬間バランスを崩して、頭から池に落ちた。
でもそこで不思議なことが起こった。
僕は頭から池に落ちた。でも、水面に顔が触れた瞬間、僕は『水の中から顔を出していた』。
タイムラグは無い。記憶違いでもないと思う。
惰性で僕はいったんお腹のあたりまで水面から飛び出すと、また重力で頭まで沈んだ。今度は普通に水の中だった。
ここは当然、パニックに陥り溺れかけるべきなのだろうけれど、僕は割と冷静だった。
池は背伸びすれば足がそこに届くくらいの深さだった。
ランドセルが背になかったので、目をぬぐいながら手探りで見つけて、また背負った。
不思議な体験だったなあ。と思いながら、僕は池から道路に上がった。
最後にもう一度池を振り返ったけれど。糸はもう伸びてはいなかった。

そしてその帰り道、僕は何故か帰り道を間違え、家に帰るのがだいぶん遅くなった。

家に帰ると、母はびしょ濡れで帰ってきた息子に驚いた様子で、「あらまあ……、なんぞね、そら」と訊いてきた。
僕は「つられた」とだけ答えた。
その日からだった。僕が文字の読み書きが出来なくなったのは。
先生も困り顔だったが、僕はあの時池に落ちたせいで頭が悪くなったのだと、勝手に思うことにした。
文字の問題は、その後普通にできるようになった。

その後、僕が池に落ちてから一週間くらい経ったある日のこと、あの池から子供の水死体が見つかった。
不思議だったのは、その一週間の間、街の近辺で行方不明となった子供がいなかったこと。だから発見も遅れた。
持ち物は持っておらず、何処の、誰の子供かも分からず。
その身元不明の死体は、一時期話のタネになった。

そして僕はと言うと、今でも健康診断の際は、聴診器を持った先生に「?」という顔をさせている。
心臓の位置が少しだけおかしいのだそうだ。

58なつのさんシリーズ「吊る這う轢かれる」1:2014/06/06(金) 12:02:19 ID:bXavpRb60
それは蛙とコオロギの鳴き声が響く、夏もおわりかけたある夜の出来事だった。
「……この家だってよ。出るって有名な家」
僕とKはその二階建ての一軒家を、周りをぐるりと囲む塀の外から眺めていた。
風は存外に冷たく、そういう季節はもう過ぎたのだと感じる。
なのに、僕らはまた肝試しに来てしまっていた。僕とKとS、いつものメンバーだ。
発案者はKだ。奴のオカルト熱は季節に関係なく、いつでも夏真っ盛りらしい。
「二階あたりに女の霊が出るって噂。今はー……見えねえけどな。窓に映るらしいぜ」
Kの言葉に、僕は二階の窓を懐中電灯で照らした。
Sはというと、道の脇に停めた車から出てこず、運転席側の窓から右肩と頭だけを出して、つまらなそうに家を眺めていた。
「おいS、出てこいよ。なに一人だけ車乗ってんだよおめーはよ」とKが言う。
Sは大きなあくびで返す。
「……さみーんだよ。それに、誰がここまでずっと運転してきたと思ってんだ。……俺は寝るぞ」
Sはそう言って、車の中に引っ込み窓を閉めてしまった。
「Tシャツ一枚で来た奴がわりーんだよ」と Kが、かかか、と笑う。
でも確かに今日の夜は存外冷える。
おそらく朝から曇っていたことが原因だと思うが……。お天気おねいさんは何と言っていただろうか。
そんなことを考えながら、僕はもう一度窓を見上げた。
ちなみに、僕とKがいる位置とSが乗る車の間には、この家の門がある。門は内側に開いていた。
でも、今日は不法侵入はしない。外から眺めるだけだ。理由は、ここがそういうスポットだから。
「噂じゃ女……っていうかここの家の娘な、事故で下半身が動かなくなったんだってよ。
 それから女はショックで段々頭がおかしくなって、そのせいで両親はその女を、自宅にずっと閉じ込めてたんだと。
 ビョーキ家族だな」
と隣でKが言う。
いつもならここらでSの鋭いツッコミが入るのだが、上がTシャツ一枚の人間にとっては、この寒さは多少分が悪い。
「で、事件は起きるわけだ。その女が夜、寝ている両親の首をナイフで掻っ切って、自分も自殺したんだな」
「……自殺?」
と問い返しながら、僕は何だか周りがさっきよりも寒くなった気がした。背筋がぞわぞわする。
「首吊りだってよ。首つり自殺。こう、ロープにぶら下がって、ぶらんぶらん揺れてたんだと」
Kが舌をべろんと出し、身体を揺らす。
しかし、僕はその時Kの話に違和感を覚えた。女は両親を殺して首吊り自殺をした。けれど、その女は確か……。
「……でもさ、それって、おかしくないか?」
「あ、何が?」
「足も動かないのに、どうやって首吊るんだよ」
「どうやってって。そりゃお前……」とKが何か言おうとしていたその口が止まる。
ぞわり、と冷たいものが僕の首筋を撫でた。
それはまるで、大きなつららを直接背中に当てられた様な感覚だった。足から頭まで、全身に鳥肌が立つのが分かった。
僕とKはほぼ同時に二階の窓を見上げた。
二階の一室の窓が徐々に開いていた。ゆっくり、音も無く。
隙間に女の顔が見えた。
髪がぼさぼさ。大きく見開いた目が、僕ら二人を見据えていた。
窓は開く。隙間が広がり、その首にロープが見えたその時、女は一気に窓の僅かな隙間から外へと身を乗り出した。
女が頭から落ちる。途中で、その首に巻いてあったロープが落下を食い止めた。
がくんと女の身体が上下に反転し、二階の窓を支点に振り子運動を始める。
ぶらん、ぶらん。
枯木のように細い足。その手にはナイフらしきものが握られている。一つ、二つ、三つ。
その身体が痙攣した。ナイフが手から落ちる。その手が宙を掻く。音は何も無い。
その内、女の両手がだらりと下に垂れさがった。口が開き、真っ赤な舌がその中に覗いていた。
死んだのか、死んでいるのか。しかし女の目だけは、未だこちらをぎょろりと見据えていた。
僕の口から何か悲鳴のようなものが出ようとしていた。
と、僕の首筋に冷たいものが当たった。

59なつのさんシリーズ「吊る這う轢かれる」2:2014/06/06(金) 12:03:26 ID:bXavpRb60
「ふひゃっ」
僕はついに悲鳴を上げて、実際飛び上がった。
雨だった。
しかし、雨のおかげで一瞬だけだが気がそれた。
それから、はっとしてまた二階を見上げたが、そこにはもう何も無かった。首を吊った女の姿も、窓も、閉まったままだった。
「……ああやって、首を吊ったんだとよ」
隣を見るとKは笑っていたが、無理をしている笑いだと一目で分かる。でもその時は僕も同じ笑いを返していたに違いない。
なるほど、確かにあの方法なら足が不自由でも首が吊れる。
すごいものを見たな。と僕がKに言おうとした時、
――どさり――
僕とKはまた、ほぼ同時に反応した。
何かが落ちた。塀の向こう側。それから、ズル、ズルと布が擦れる音。
先程見た首吊りには音は無かった。しかし、今度は音だけがある。
僕とK、それとSが乗る車の間にある門。門は開いていたのだが、そこから手が出てきた。
さっきの女の手だ。ナイフを握っている。もう片方の腕も出てきた。
次いで頭。首にはロープ。白い服。見開いた眼。垂れた舌は地面を舐める。
僕はSに助けを求めようとした。しかし声が出ない。身体が動かない。金縛り。Kも同じらしかった。
どうしよう。こっちにゆっくり這い寄って来る。足は動いてない。手だけで地面をずるずると。
怖い。それに近い。怖い近いこわい近っ。
這い寄る女と僕らの距離はもう二メートルも離れてなかった。あ、もう駄目かも。本気でそう思う。
突然、光に目が眩んだ。
エンジン音とブレーキ音。
気がつくと、僕らが乗ってきた車が目の前にあった。金縛りが解け、身体が動く。
身体は動いたが、僕はしばらくその場を動けなかった。
ウィームと運転席側の窓が開き、Sの眠たそうな声が聞こえる。
「……おいお前ら、もういいだろ。雨が降ってきたから帰ろうぜ」
僕とKは顔を見合わせた。
おそるおそる車の下を覗くが、そこには何もいない。
「こいつ……」
Kが呟く。
「……轢きやがった」
「あん?ああ、そういや妙な手ごたえがあったな。でかいカエルでもつぶしたか?」
僕は何も言えないでいた。KもSをまじまじ見つめるだけだった。
そんな僕らにSは怪訝そうな顔を見せ、
「どうしたお前ら。なんかあったか?……ま、何を見ても聞いてもだ。そりゃ幻覚に幻聴だ。ほら、乗れ。もう帰るぞ」
僕とKはもう一度顔を見合わせ、お互い何も言わずに車に乗り込んだ。
それは蛙とコオロギの鳴き声が響く、夏も終わりかけたある夜の出来事だった。

60なつのさんシリーズ「あんたがたどこさ」1:2014/06/06(金) 12:04:55 ID:bXavpRb60
深夜十一時。僕と友人のKは、今はもう使われていないとある山奥の小学校にいた。
校庭。グランドには雑草が生え、赤錆びた鉄棒やジャングルジム、シーソー。
現在は危険というレッテルを貼られた回転塔もあった。
僕とKはこの小学校に肝試しに来たのだった。
本当はもう一人、Sという友人も来る予定だったのだが、あいにく急な用事が入ってしまった様で、二人で行くことになった。
野郎二人で肝試しとは別の意味でぞっとするが、
このKと言う奴は、幽霊を見るためなら他の条件が何だろうとお構いなしなのだ。ただ一つの条件を除いて。
「……だってよー。一人じゃ『見た』っつっても誰も信じてくれねえじゃん?」
もっともらしい理由だが、僕は知っている。こいつは実は怖がりなのだ。
それでもって熱狂的なオカルトマニアで、心霊スポット巡りが趣味なのだ。
しかしそんなKのおかげで、僕は普通なら見ることの出来ないものもいくつか見てきた。
「Sのヤロウ正解だったなー、ここハズレだわ」
「うーん……、確かにね。物音ひとつしなかったしなあ」
ハズレならハズレでそれは有難いのだが、僕だって怖いものは怖い。でも興味はすごくある。
6・4で見たいけど見たくない。分かるだろうかこの心理。

というわけで、僕らはさっきまで学校内をウロウロしていたのだが、
あいにくここで自殺したと言う生徒の幽霊は見ることが出来なかった。
懐中電灯を消したり、わざと別々に行動したり、音楽室も理科室も怖々覗いたのだけれど、結局、何も出なかった。
時間が悪かったのか、それともKが「くおらー、幽霊でてこいやーっ!」などと怒鳴りながら探索してたせいだろうか。
そうして、僕らは幾分がっかりしながら、小学校のグランドに出たのだった。

「で、どうすんの?帰る?」と僕はKに訊いた。
Kは明らかに不満そうな顔をして、いつの間にか拾ったらしい木の枝で、地面にガリガリ線をひいていた。
黙ってその様子を眺めていると、Kは地面に二メートル四方ぐらいの正方形を描いた。
次いで、その図の中に十字線がひかれる。田んぼの『田』だ。
Kが顔を上げて僕の方を見た。その顔から不満そうな表情は消えて、ににん、と笑う。
「なあなあ、お前、『あんたがたどこさ』って知ってっか?」
いきなり尋ねられ、僕は少しあたふたしながら、脳内の箪笥からその単語の情報を引っ張り出した。
「知ってる。手まり唄だろ。毬つきながら、ええと……あんたがったどこさ、ひごさ、ひごどこさ、くまもとさ」
「分かった分かった。……じゃあよ、『あんどこ』って知ってるか?」
「あんどこ?」
『それは知らない』と僕が首を振ると、Kは手にした木の棒で、今しがた地面に描いた図形、田んぼの田を指した。
「『あんどこ』ってのは、この四つの四角の枠の中でな、リズムに合わせて飛ぶんだよ。
 右、左と基本は左右交互に飛んで、あんたがったどっこさっ、の『さ』の部分だけ一瞬前に飛んで、戻る。
 いいか?よく見てろよ」
どうやら手本を見せてくれるらしい。
せーの。
「あんたがったどっこさあっ!ひっごさ。ひっごどっこさ!?くまもっとさ!くまもっとどっこさ?せんっばさあっ!!」
大声を張り上げながら、Kは自分で作った図の中を前後左右にぴょんぴょん飛び跳ねた。
「……とまあ、大体こんな感じだな。分かったろ?」
と言われても、僕としては首を傾げるしかない。こいつは一体何がしたいんだろうか。
分かったのは、やはりKはとてつもなく音痴ということだけだ。
「今のが『あんどこ』 ……まっ、遊びだ。遊び」
「へえ……で?」
もしかして、それを僕にもやれと言うのだろうか。しかしKの顔にはまさにそう書いてある。
「で、じゃねえよ。お前もやんだよ。二人で『あんどこ』」
「やだよ。なんで僕がそんなこと」
「何でってお前……しらねえの?
 ま、噂だけどよ。これ二人で目えつぶってやったら、なんか『別の世界』に行けるんだとよ」
およ、と思った。せっかく小学校に来たのだから、ただ単に昔を懐かしんで子供の遊びをやろう、と言うわけでもないらしい。
それなら面白そうだということで、僕はその『あんどこ』をやることにした。

61なつのさんシリーズ「あんたがたどこさ」2:2014/06/06(金) 12:05:30 ID:bXavpRb60
Kの説明によると、田んぼの田の形に区切られた四つのスペースの内、
まず二人がそれぞれ左ナナメに相手が居る様にして立つ。
それから目を瞑り、暗闇の中で『あんたがたどこさ』を唄いながら飛ぶ。スタートは左に。
全てを唄い終わり、『ちょいとかーくーす』の『す』で前に飛んで終了、そこで目を開ける。
何が起こるかはお楽しみ。
注意事項として、歌を間違える、飛び方を誤る、相手にぶつかる、目を開けた時に田んぼの田からはみ出したら失敗。

「んじゃ。行くぞ」
「ちょっと待って」
「何だよ?」
「いや、ちょっと気になったんだけど。
 『あんどこ』が成功してさ。その、Kが言う妙な世界にもし行けたら、……帰ってこれんの?」
するとKは「うはは」と笑い、「シラネ」と言った。
「おいおい……」
「まあいいじゃねーか。さ、はじめっか……。目を瞑れーっ!」
まあいいのか?と思いつつも、僕は目を瞑った。
せーの。
あんたがったどっこさ……。
「イテっ!」「あたっ」
いきなり間違えた。慣れないと意外に難しいのかもしれない。
「おいおいお前、ちゃんとやれって!」
「あははのは。ごめんごめん。次は、さ?」
「ったくよー」

頭の中でシュミレーションする。交互に交互に……さ、で飛ぶ。

いっせーの。
「……いてっ」
正面衝突。一瞬間違えたのかと思って謝りかけたが、よく考えてみると、僕は間違っていない。
目を開けて見ると、Kが手刀をかざして「わりーわりー」。
「次は本気で行くからよ」
僕は何だか急に馬鹿らしくなってきたが、あと一回くらいはやってみようかと思う。

いっせーのっせ。
あんたがったどっこさ、ひーごさ、ひーごどっこさ、くーまもっとさ、くーまもっとどっこさ、せんばさ……、
せんーばやーまには、たーぬきーがおってさ、それーをりょーしがてっぽでうってさ、にーてさ、やいてさ、くってさ……、
……それーをこーのはでちょいとかーくー
「――せっ――」
前へとんで、僕は目を開いた。
四角の中に居た。成功だ。
ちょっと誇らしい気持ちになって、僕はKはどうかなと思い振り返った。
そこにKの姿は無かった。
「……え?」
右を見て、左を見て、もう一度右を見て。
僕は、ははあ、と思う。全てはこのためだったのだ。
『目を瞑ったままのあんどこ』などという凝ったことをさせておいて、Kは唄の途中でこっそり抜け出し、
僕がおろおろするのを隠れて見て楽しむつもりなのだ。
Kの奴め。
僕は何とかしてKを見つけてやろうと思い、そこら中を注意深く見渡した。

62なつのさんシリーズ「あんたがたどこさ」3:2014/06/06(金) 12:06:52 ID:bXavpRb60
グランドに身を隠せるような場所は少ない。しかし、Kは見つからなかった。うまく隠れたものだ。
そうして僕は、持っていた懐中電灯で地面を照らした。グランドにKの足跡が残っているかも、と思ったのだ。
しかし、足跡は無かった。
おかしい。
その時だ、違和感を覚えた。
僕らはさっき前後左右に飛び跳ねてたはずだ。
足跡はともかく、その飛んで着地した痕跡までない。地面に見えるのは、Kが描いた図形だけ。
僕は二歩三歩と歩いてみた。足跡はつく。これはおかしくないだろうか。
辺りをもう一度見回す。誰も居ない。
風の音もしない。さっきまでは吹いてたはずだ。そう言えば、虫の声も聞こえなくなった。
「おーい……」
おーい……、おーい、おーい……
僕はその場に飛び上がった。
Kを呼ぼうと叫んだ瞬間だった。まるでトンネルの中に居るかのように、僕の声が周囲にこだましたのだ。
やまびこでは無い。ここは広いグラウンド。後ろに学校はあるが、何度も音が反響するなんて絶対におかしい。
僕は途端に怖くなった。
「なあっ、おーいっ!」
二度目。返事は無い。僕の声だけが辺りにしつこくこだまする。
ふと思い至って、ポケットの中の携帯電話を取りだした。
圏外。確かにさっきまでは使えたのだ。学校の中でSからのメールも受信した。
『別の世界』
Kが言った言葉がふと頭をよぎる。
ここは、もしかして、そうなのか。
あんたがたどこさ。
ここは、どこだ。
小学校の入口に目を向けた僕は、『それ』に気がついてぎょっとする。
発作的に走りだしていた。学校の外には車が停めてあったが、鍵は持っていない。
それよりも、この小学校は山を少し上った位置にある。
ここに来る時、小学校に入るすぐ前の道からは、下の街の夜景が一望できたのだが。
そこは街を見下ろせる場所。
絶句する。
街が無かった。
いや、正確に言えば、遠目ではあったがそこに街はあった。
ただしその街には、明かりがただの一粒も灯っていなかった。街が黒い。いくら深夜でもあり得ない光景だ。
僕はその場にへたり込んでしまった。
ようやく確信する。僕は異世界への扉を開けてしまったのだ。
帰る手段は知らない。
ぞわぞわと、ゆっくり、足元から恐怖が這いあがって来る。
どうしよう。
僕は立ちあがって学校へと戻った。
とりあえず何か考えがあったわけではない。あのままじっとしていて正気が保てるかどうか怪しかったのだ。

63なつのさんシリーズ「あんたがたどこさ」4:2014/06/06(金) 12:07:34 ID:bXavpRb60
学校の校庭。赤錆びた鉄棒、シーソー、回転塔。
グランドの中央あたりに、Kが描いた図形。僕はその中に入って、再びへたり込んだ。
何をしていいか分からない。Kを探そうか。でも無駄な気がする。
「わっ!」
意味も無く叫ぶ。こだまする。一体何なんだこの反響音は。
僕はもっともっと、遮二無二叫びたい衝動を懸命に押し殺した。
駄目だ。冷静になれ。
人は考えに考えた末、壁をよけて通ることを覚える。これはたしか友人のSが気に入っていた言葉だ。
考えなければ、アイデアは生まれない。考えろ、僕。
そこで一つ思い至る。僕が今座りこんでいるこの地面の図形。
僕はこの図形からここに来たのだ。『あんたがたどこさ』によって。
では、同じことを繰り返せば、元の世界に戻れるのではないか。

俄然元気になった僕は、図形の中に立つ。眼を瞑る。
せーの。
飛ぶ。唄う。間違えない様に、慎重に。
「かーくー、……っせ!」
どうだ。目を開く。
風景に変わりは無い。しかし、静かだ。どうだ、僕は戻れたのか?
「……わっ」
……わっ、わ、わ……
こだました。僕は戻れなかったようだ。
それから何度かパターンを変えて試してみた。
スタートの位置を変えてみたり、飛び方を変えてみたり、Kの様に音痴に唄ってみたり。
けれども、いずれも効果は無かった。
もしかして、二人でなくては駄目なのか。一人では駄目なのか。
一人。無音。暗闇。怖い。
いかんいかん、冷静になれ。後頭部を叩く。考えろ考えろ僕の頭。
もしもだ、僕が『あんたがたどこさ』によってここに来たとする。
そうだとしたら、その歌詞に何かヒントが隠されていないだろうか。
僕は『あんたがたどこさ』の歌詞を頭の中でなぞってみた。
肥後……熊本……せんば山。そこで僕はふと思い至る。
あの歌詞の中で隠されたのはタヌキだ。鉄砲で撃たれて、煮られて、焼かれて、木の葉で隠される。
もしかして僕はタヌキ?だったらKは猟師だろうか。
しかし、そんなことに気付いてもどうにもならないのだった。
足元からじわじわ上って来る恐怖が膝を越えた。足が小刻みに震えだす。
まずい、正気の僕に残された時間は割と少ないらしい。
勘弁してくれ。僕だって怖がりなのだ。
一人は怖い。いつもはどんな心霊スポットに行ってもそれほど怖くは無い。何故なら僕の隣にはSとKが居るからだ。
そう言えば今日は三人じゃなかった。それがいけなかったのかもしれない。
Sが今日来れなかった。急にバイトが入ったと言った。
けれど先程、僕とKが学校の探索をしている時にメールが来ていた。
その時の僕は廃校探索に夢中で、Sからだと知っただけでメール自体は見てなかった。
それを思い出した僕は、ポケットから相変わらず圏外で役に立たない携帯を取りだした。
操作してメール受信画面を開く。
『今何処にいる?』
それがSからのメールだった。それが分かれば苦労しない、と僕は思う。
そうして僕は、足の震えと共に少しだけ笑った。
このメール内容。あんたがたどこさ、じゃないか。
「あんたがったどこさ。ひごさ、ひごどこさ……」
僕は無意識の内に唄い出していた。そろそろ正気がやばい。立っていられなくなりそうだった。
唄いながら、この足では毬を跨ぐことも出来ないな、と思った。
「……くま……え?」
足の震えが止まった。
僕は気がついたのだ。その瞬間、堰を切った様に走り出していた。
そうだ。
あんたがたどこさ。
そうだった。
僕は走る。誰も居ない学校に向かって。走りながら呟く。
「あんたがたどこさ。ひごさ、ひごどこさ……」
そうだよ。あの唄は、元々……。
「……手毬唄じゃないか!」
可能性は見当もつかなかった。客観的に見て、まるで高く無いとは思う。何をどうすればいいかも分からなかった。
けれど、何故か確信できた。これが元の世界に戻るやり方だと。

64なつのさんシリーズ「あんたがたどこさ」5:2014/06/06(金) 12:08:45 ID:bXavpRb60
僕は小学校の校舎脇を走り抜け、裏手に回った。目当ての建物は校舎じゃない。
あった。
体育館。
入口に鍵はかかっていたけれど、床近くにある通風孔が一部壊れていたので、そこに身体を滑り込ませて中に入った。
暗い。懐中電灯を付ける。しかし幽霊でもいいから出てほしい気分だった。
体育館倉庫には幸運にも鍵は掛かっていなかった。錆ついて重たい扉をスライドさせる。
中にはここが小学校として機能していたころの名残がそのまま置いてあった。
目当てはバスケットボール。
ほぼ全部のボールが空気が抜けて萎んでいたが、空気入れを見つけ、それを使ってボールに命を吹き込む。
空気の入ったバスケットボールを持って、僕は体育館の中央に立った。
床にボールを落とす。ダム、と音がして勢いよく跳ねる。再び両手にボールを抱え、僕は目を瞑った。
深呼吸。
いっせーのーせいっ!
「……あんたがったどっこさ、ひーごさ、ひーごどっこさ……」
唄い出すと同時にバスケットボールをつく。目を瞑ったまま。『さ』の部分で片足を上げボールの上を通過させる。
ちなみに、僕は元バスケット部だ。
「くーまもっとさ、くーまもっとどっこさ、せんばさ……」
心臓が鳴っていた。また足が震えだした。
唄いながら自分自身を鼓舞する。もう少しだ、頑張れ僕。
「ちょいとかーくー、すっ!」
最後に思いっきり力を込めてボールをついた。
ボールは今までの最高速度で地面にぶつかり、僕の頭より高く上がったはずだ。
そして僕は目を瞑ったまま、その場で足を軸に一回転した。意味は無い。自分でハードルを上げただけ。
両腕を前に出す。この中にボールが落ちて来るのか。

時間にすれば二秒は無かったと思う。でも長かった。
腕の中にボールが落ちる感触はない。
しかしいつまで経っても、ボールが床に落ちる音もない。
しばらくそのまま目をつぶっていた。開けるのが怖かった。でも、足の震えはいつの間にか止まっている。
深呼吸、一回、二回。
僕は目を開けた。
バスケットボールが消えていた。
「……うわー」
……うわー……うわー、うわー……
僕の声がこだまする。
でもそれは体育館だったから当たり前だったのだ。そのことに僕が気がつくまでに相当の時間を要したけれど。
耳を澄ませば、外で鳴く虫の声がかすかに聞こえた。
僕は携帯を取り出す。アンテナが一本立っていた。
信じられないだろうが、携帯のアンテナが一本立っていたことに、僕は本当に飛び上がって喜んだのだ。
その瞬間、僕の手の中の携帯が鳴った。
Sからだった。急いででた。
『……よお。ところでお前さ。いま、小学校にいるのか?』
Sの声。不覚にも泣きそうになりながらも、僕は「うん、うん。そうだよお!」と大声で返事し、若干ひかれた。
がんっ。
体育館にすさまじい音が響く。
何事かと思って音の方を見ると、丁度体育館の裏口が蹴破られて、息を切らしたKが中に入ってきた。
そうしてKは懐中電灯をこちらに向けた。
「お。……おおう。こんなとこに居やがった。……マジでありえねーし。
 目え開けたらいきなり居ねえんだもん……マージーありえねえよまったくよお……」
そう言ってKは「あーうー、だあーもう疲れた……」と、体育館の床にだらんと寝そべった。
電話の向こうでSが何か言っている。
僕は黙っていた。
戻ったら絶対一発ぶん殴ってやろうと思っていたのだけれど、
体育館の床の上で「うーんうーん疲れたよーい」と唸りながら転がるKを見ていると、何だかその気も失せた。
僕は受話器を耳にあて直し、Sに向かって言う。
「とりあえず、帰るよ」
『ん?……おう、そうか』
それから、帰りにSの家に寄る約束をして電話を切った。
そうして、まだ床でごろごろしているKを軽く一発蹴ると、
実はぼろぼろ泣いていた奴を引っ張り起こして、二人で車まで戻った。
運転席に座ったKが鼻をすすりながらエンジンをかける。

小学校から少し降りると、街の夜景が見えた。
助手席の窓から見たそれは、僕にとって今まで見たどんな夜景よりも綺麗で。
それは決して、僕の目が涙で滲んでいたからでは、ない。
しかしながら、自分で言うのもなんだが、
不思議なことに、これだけの経験をしても、もうこりごりだとは思っていない。
あんたがたどこさ。
どこでもいいよ。けれど、次は三人で行きたいなあ、と思う。

65なつのさんシリーズ「道連れ岬」1:2014/06/06(金) 12:27:25 ID:bXavpRb60
深夜十一時。僕とSとKの三人はその夜、地元では有名なとある自殺スポットに来ていた。
僕らの住む町から二時間ほど車を走らせると太平洋に出る。
そこから海岸沿いの道を少し走ると、
ちょうどカーブのところでガードレールが途切れていて、崖が海に向かってぐんとせり出している場所がある。
崖から海面までの高さは、素人目で目測して五十メートルくらい。
ここが問題のスポットだ。
もしもあそこから海に飛び込めば、下にある岩礁にかなりの確立で体を打ち付けて、
すぐに天国に向けてUターンできるだろう。
そしてここは、実際にたびたびUターンラッシュが起きる場所でもあるらしい。
『道連れ岬』
それがこの崖につけられた名前だった。

僕らは近くのトイレと駐車場のある休憩箇所に車を停め、歩いてその場所に向かった。
「そういやさ。何でここ『道連れ岬』って言うんかな?」
僕は崖までのちょっとした上り坂を歩きながら、今日ここに僕とSを連れて来た張本人であるKに訊いてみた。
「シラネ」
Kはそう言ってうははと笑う。Sはその隣であくびをかみ殺していた。
「まあ、でもな。噂だけどよ。ここに来ると、なんか無性に死にたくなるらしいぜ?」
「どういうこと?」
「んー、俺が聞いた話の一つにはさ。
 前に、俺たちみたいに三人で、ここに見物しに来た奴らがいたらしい。
 で、そいつらの中で、一人が突然変になって、崖から飛ぼうとしたんだとよ。
 で、それを止めようとしたもう一人も、巻き添え食らって落ちちまった」
「ふーん」
「……巻き込まれたやつはいい迷惑だな」
Sがかみ殺し損ねたあくびと一緒に小さくつぶやく。眠いのだろう。
ちなみに、ここまで運転してきたのはSだ。
そういうスポットに行くときはいつも、オカルトマニアのKが提案し、僕が賛同し、Sが足に使われるのだった。
「いや、実際いい迷惑どころじゃねーんだよな。実際死んだの、その止めに入ったやつ一人らしいし」
「はい?」と言ったのは僕だ。
だってそれは理不尽と感じるしかない。飛ぼうとした人じゃなくて、止めに入った人だけ死ぬなんて。
「詳しいことはそんなしらねえけどさ。多いらしいぜ、同じような事件」
「ふーん」と僕。
「……その同じような事件ってのは、どこまで同じような事件なんだ?」
興味がわいたのか、Sが訊く。
「うはは、シラネ。あんま詳しく訊かなかったからなあ……お、そこだよ」
話しているうちに、僕らはカーブのガードレールが途切れている箇所まで来ていた。
そこから先は、僕らの乗ってきた軽自動車が横に二台ギリギリ停まれる程のスペースしかない。
近くに外灯があったけれど、電球が切れかけているのか、中途半端な光量が逆に不気味さを演出していた。
ざん、と下のほうで波が岩を打つ音が聞こえる。
「誰もいねーな」
Sは心底つまらなそうだ。
「ま、他の噂だと、崖の下に何人も人が見えるだとか、手が伸びてくるだとか……」
と言いながら、Kがガードレールをまたぐ。
ガードレールの向こう側は安全ロープなども一切張っておらず、確かに『どうぞお飛びください』といった場所ではある。
「ちょ、おい。K、危ないって。いきなり飛びたくなったらどうするんだよ」
僕の忠告を無視し、Kは崖のふちに立って下を覗き込む。
「おー、すげーすげー」
この野郎め、そのまま落ちてしまえばいいのに。
「死にたくなったら一人で飛べよ」
Sはそう言って、崖に背を向ける形でガードレールに腰掛け、車から持ってきたジュースの入ったペットボトルに口をつけた。
僕はというと、どうしようかと迷った挙句、一応ガードレールを乗り越えて、何かあったときにすぐ動けるよう待機しておく。

66なつのさんシリーズ「道連れ岬」2:2014/06/06(金) 12:28:17 ID:bXavpRb60
しばらくして、じろじろと海を覗き込んでいたKが立ち上がった。
「うーん、何もねーなー。なあ、ところでお前らさ、今、死にたくなったりしてるか?」
どんな質問だよと思いながらも、僕は「別に」と首を横に振る。
SはKに背を向けたままで、「死ぬほど帰りてえ」と言った。
Kが自分の右手にしている腕時計で時間を確認する。
「えーでもよー。ここまで来て何も起こらないまま帰るってのもなー。……なあ、もうちょっと粘ってみようぜ」
「一人で粘っとけよ」
「冷たいこと言うなよSー。俺とお前の仲じゃんかー、ほら、暇なら星でも見てろよ」
「死にたくなれ」
漫才コンビは今日も冴えている。
と言うわけで。僕らは二十分という条件付で、もう少しだけここで起きるかもしれない『何か』を待つことになった。

それから僕ら三人は並んでガードレールに腰掛け、崖側に足を伸ばして座っていた。
僕はボケーっと空を見上げ、Sは腕を組んで目を瞑り、Kはせわしなく周りを見回している。

「やべ……、俺ちょっくらトイレ行ってくるわ」
十分くらいたったとき、Kがそう言って立ち上がり、車を停めた休憩所に向かって歩いていった。
隣を見ると、Sは先ほどから目を閉じたままピクリとも動かない。
僕はまた空を見上げた。先ほどKが言っていた、この崖にまつわる話をふと思い出す。
この崖に来ると無性に死にたくなると言うのは本当だろうか。今のところ自分の精神に変わりはない。
「『道連れ岬』って言うんだろ……ここ」
突然隣から声がしたので、Sの声だとはわかっていても僕は驚いて実際腰が浮いた。
「何?いきなりどうしたん?」
「いや、ちょっとな」
近くにある外灯の光が、Sの表情をわずかに照らす。Sはいまだ目を開いてなかった。
「さっきKが言ってたろ。一人が飛ぼうとして、二人が落ちて、一人が死んで……、なんかしっくりこなくてな。考えてた」
「で、分かった?」
「さあ、分からん。
 ただの尾ひれのついた噂話か……。そもそも、全部が超常現象の仕業っつーなら、俺が考えなくとも良いんだがな」
「うん」
Sが何に引っかかっているのか分からなかったので、適当に返事をする。
Sはそれ以降何も言わなくなった。本当に眠ってしまったのかも知れない。

しばらくたって、誰かの足音に僕は振り返った。Kだ。Kが坂の下からこちらに歩いてきていた。
大分長いトイレだったような気がする。僕はKが来たら『もうそろそろ帰ろう?』 と提案する気でいた。
しかし、歩いてくるKの様子に、僕は、おや、と思う。
Kはふらふらとおぼつかない足取りだった。どことなく様子がおかしい。僕は立ち上がった。
「おーい、K、どうした?」
僕の声にもKは反応しない。俯いて、左右に揺れながら歩いてくる。
「お、おい……」
Kは僕らのそばまで来ると、黙ってガードレールを跨ぎ、僕とSの横を通り過ぎた。
表情はうつろで、その目は前しか見ていない。
三角定規の形をした崖の先端。そこから先は何もない。
Kは振り向かない。悪ふざけをしているのか。Kの背中。崖の先に続く暗闇。海。
何かがおかしい。その瞬間、体中から脂汗が吹き出た。
「おいKっ!」
僕はKを引き戻そうと手を伸ばした。けれど、Kに近寄ろうとした僕の肩を誰かが強くつかんだ。
振り返る。Sだった。

67なつのさんシリーズ「道連れ岬」3:2014/06/06(金) 12:28:54 ID:bXavpRb60
「やめろ」
Sの声は冷静だった。
「でもKが!」
「あれはKじゃない」
「……え?」
Sの言葉に、僕は崖の先端に立ちこちらに背を向けている人物を見つめた。
今は後姿だが、あれはどう見たってKだ。先まで一緒にいたKだ。
「今は何時だ?」
Sが僕に向かって言う。その額にも脂汗が浮かんでいた。
「答えろ。今は何時だ?」
Sは真剣な表情だった。僕はわけが分からなかったが、自分の腕時計を見て「……十一時、四十分」と言った。
「だろう。だったら、あれはKじゃない」
僕はSが何を言っているのか分からず、かといって僕の肩をつかむSの腕を振りほどくこともできず、
ただ、目の前のKらしき人間を凝視する。
あれはKじゃない? 
じゃあ、誰だというのだ?
時間がどうした?
あいつがKだと思ったから伸ばした僕の腕。開いていた掌。
迷いと混乱と疑心によって、僕はいったん腕を下ろした。
その時、目の前のそいつが振り向いた。首だけで、180度ぐるりと。
そいつは笑っていた。顔の中で頬だけが歪んだ気持ち悪い笑み。Kの顔で。
その笑みで僕も分かった。あれはKじゃない。
そいつは僕とSに気持ち悪い笑みを見せると、そのまま首だけ振り向いたままの姿勢で……飛んだ。
「あ、」
僕は思わず口に出していた。
頬だけで笑いながら、そいつはあっという間に僕らの視界から消えた。
何かが水面に落ちる音はしなかった。
「……飛んだ」
僕はしばらく唖然としていた。口も開きっぱなしだったと思う。
突っ立ったままの僕の横を抜けて、Sが数十メートル下の海を覗き込んだ。
「何もいねえな。浮かんでもこない」
僕は何も返せない。Sはそんな僕の横をまた通り過ぎて。
「おい、いくぞ。……Kは大丈夫だ」
そう言ってガードレールを跨ぎ、車を停めた休憩所への下り坂を早足で降り始めた。
僕もそこでようやく我に帰り、崖の下を覗くかSについていくか迷った挙句、急いでSの後を追った。
「S、S!警察は?」
「まだいい」
Sは休憩箇所まで降りると、車を通り過ぎ、迷うことなく男子トイレに入った。僕も続く。
トイレに入った瞬間、僕ははっとする。
洗面所の鏡の前で、Kがうつ伏せで倒れていた。
急いで駆け寄る。Kはぐうぐう眠っていた。気絶していたと言ってあげた方がKは喜ぶだろうが。
僕はKがそこにいることがまだ信じられないでいた。
例えKじゃなくても、ついさっきKの形をしたものが確かに崖から飛んだのだ。
「おいこらK」
Sが屈み込み、寝ているKの右側頭部を軽くノックする。三度目でKは目覚めた。
「いて、何。ん……、ってか、うおっ!?ここどこだ!」
Kだ。まぎれもなく、これはKだ。僕は確信する。
急に、どっと安堵の気持ちが押し寄せてきて、僕は上半身だけ起こしたKの背中を一発蹴った。
「いってっ!え、何?俺か?俺が何かした?」
何かしたも何も、僕はKに何と説明したら良いものか考えて、結局そのまま言うことにした。
「Kが、……いや。Kにそっくりなやつが、僕らの目の前で崖から飛んだんだ」
Kは目をパチパチさせ。
「はあ?……うそっ!?マジかよ俺死んだの!?やっべ、すっげー見たかったのにその場面!」
Kだ。こいつはまぎれもなくK過ぎるほどKだ。あきれて笑いが出るほどだった。
「おい、お前ら。帰るぞ」
Sが言った。
「ええ?そんな面白いことあったんだったらまだ居ようぜ。俺だけ見てないの損じゃん!」
「うるせー。二十分は経った。俺は帰る。俺の車で帰るか、ここに残るかはお前ら次第だ」
そう言ってSはトイレから出て行こうとした。
けれど何か思い出したように立ち止まり、「ああ、そうだ。忘れてた」と独り言のように呟くと、
つかつかと洗面台の前に戻ってきた。
「ビシッ」
深夜のトイレ内に異様な音が響いた。
Sが手にしていたペットボトル。Sはその底を持ち、一番硬い蓋の部分を、まっすぐ洗面所の鏡に叩きつけたのだ。
蜘蛛の巣状に白い亀裂の入った鏡は、もう誰の顔も正常に写すことはない。
僕とKは石のように固まっていた。
Sは平然とした顔で鏡からペットボトルを離すと、僕ら二人に向かってもう一度「ほら、帰るぞ」と言った。
僕とKは黙って顔を見合わせ、Sの命令に従って、急いでトイレを出て車に乗り込んだ。

68なつのさんシリーズ「道連れ岬」4:2014/06/06(金) 12:29:30 ID:bXavpRb60
結局警察は呼ばなかった。誰も死んでない。俺らは何も見てない。Sがそう言ったからだ。

帰り道。後部座席で色々と騒いでいたKが、いつの間にか寝ているのに気づいた後、僕はそっとSに訊いてみた。
「なあ。Sは、どうしてあれがKじゃないって分かったん?」
「あれってどれだ」
「僕らの目の前で飛んだ、Kそっくりな奴」
「ああ」
「……顔も、服装も、体格も、絶対あれはKだったと思う。どこで見分けたんかなあ、って思ってさ」
するとSはハンドルを握っている自分の左手首を指差し、
「あいつの時計がな、左手にしてあったんだ」と言った。
「いつもKは右手に時計をつける。今日もそうだった」
「はあ」
「だから、おかしいと思って注意して見てみた。そしたら、文字盤が逆さだった。一時二十分。そんだけだ」
十一時四十分。一時二十分。鏡合わせ。
「そうか。だから鏡を割ったんだ」
「……ん?ああ、いや。ありゃただの鬱憤晴らしだ。やなモン見たしな」
「はああー……」
Sは鬱憤晴らしなどする様な奴ではないが、まあそれはいいとしよう。

しかしまあSよ。お前は一体どんな観察力してんだ、と僕は思う。
普通だったら気づかない。そんなところには目もいかない。絶対に。
その証拠に、僕はあいつがKじゃないと分からなかった。
「でも、本当に警察呼ばなくて良かったんかな?」と僕が言うと、Sは首を横に振った。
「俺らは何も見なかった。Kは死んでない。それでいいだろ」
確かに、それでいいのかもしれない。Sに言われると、そんな気がしてくるから不思議だ。
それに、きっと死体は出ない気がする。あくまで僕のカンだけれど。
「しかしなあ。もしかすると、あのまま手を伸ばしていたら、お前。逆に引っ張り込まれてたかもな」
何気ない口調でSは恐ろしいことを言う。僕は一気に背筋が凍りついた。
「道連れ岬とはよく言ったもんだ」
そう言ってSは大きなあくびをした。
後ろでKが何か意味不明な寝言を言った。僕はぶるっと一回体を震わした。
生きててよかった。
「……そういや、俺今めっちゃ眠いんだけどよ。これ事故って道連れになったらごめんな」とSが言った。
たぶん冗談だろうが、僕はうまく笑えなかった。
Sの運転する車は僕らの住む町を目指して、深夜、人気のない道を少しばかり蛇行しながら走るのだった。

69なつのさんシリーズ「公衆電話の夜」1:2014/06/08(日) 15:51:47 ID:BgaWrcjA0
ことの始まりは、ある夏の夜。深夜十一時を過ぎた頃に突然来た、友人Kからの一通のメールだった。
――これから電話来ると思うけど。それ、俺だから――
僕はその時、自宅のベッドの上で大学の図書館から借りてきた本を読んでいた。
Kがこんな時間に電話してくること自体は、まあそれほど珍しいことではないのだけど、
いちいちメールで事前告知をしてくるのが気になった。一体、何の話だろう?
そんなことをぼんやり考えていたら、ぶうーん、と蜂の飛行音の様な音を立てて携帯が振動した。Kからだな。
しかし携帯の画面には、Kの名前の代わりに『公衆電話』と書かれていた。
はて、と思った。これがKからの電話だとして、どうしてKはわざわざ公衆電話から僕に電話を掛けてきているのだろうか。
先程メールが来たのだから、携帯は持っているはずなのに。
しかしまあ、考えても分からないので、僕は読みかけの本を置いて電話に出た。
「……もしもし?」
『おせえ。早く出ろよおめーよ』
確かにそれはKの声だった。
「こんな夜中にどうしたのさ。それに、そこって電話ボックスの中?」
『ゴメーイトゥ』
「何でそんなとこから掛けてきてんのさ?」と訊いてみるは良いが、実は僕にはその答えが半ば予想できていた。
Kがこういうことをする時は、必ずオカルトがらみのあれこれなのだ。
『実はよー、この電話ボックスがよ。有名な心霊スポットだって噂を聞いてだな。
 昔ここで事故があったようでよ。
 なんか、こうやって電話掛けてると、いつの間にか男が、外からこっちをジーっと、見つめてるんだとよ』
「あーはいはい。そんなことだろうと思ったよ」

…そして、その男の霊はまだ生きていた頃、仕事帰りにいつもそこの公衆電話を使用していた。
携帯のまだ普及してなかった時代。家族に『もうすぐ帰るよ』 と連絡していたのだ。
が、しかし。ある日、仕事が終わって電話を掛ける前に、よそ見運転の車に轢かれて死んでしまった……。

Kの話を聞いた瞬間。そんな悲しいストーリーが、僕の頭の中では展開されていた。
先程まで読んでいた小説の影響だろうか。
けれども、僕は不思議に思う。オカルト好きにして怖がりなKが、よくそんなスポットに一人で行けたものだ。
「で、そこに男の人は居るの?」
『あ、違う違う。男の霊が出るのはこっちじゃなくて。電話かけられた方だとよ』
「……は?」
『窓の方に出るらしいからよ。出たら、実況してくれ』
僕は窓の方を見た。反射的な行動だった。
カーテンがふわりと揺れていた。窓は閉めていたから、今日の暑さに我慢できずにつけたエアコンのせいだろう。
ここはアパートの二階、窓に映るのは闇夜の景色だけのはず。
しかし。
僕の喉から、ひゅっ、と息が漏れた。
そいつは身体全体をガラスに押し付ける様に、ぴったりと窓にはりついていた。
腕も足も九十度近く曲げ、その目は何処を向いているのか分からない。
服は着ておらず全裸。その身体はぞっとする程白かった。
ヤモリだった。

70なつのさんシリーズ「公衆電話の夜」2:2014/06/08(日) 15:52:41 ID:BgaWrcjA0
「……いた」
『マジでっ!?』
「ヤモリが」
『あ?……男の霊は?』
「いない。というか待て。待て。ちょっと遅いけど言わせておくれよ」
『おう』
「ナンダソレ」
『何が?あ、ヤモリ?』
「……違う。僕を餌に使うなよ、ってこと。そういうのは自分で体験して何ぼでしょうが」
しかしだ。なるほど合点がいった。だからKは今回一人でも大丈夫だったのだ。何せ怖い思いをするのは僕一人だから。
『まあ、いいじゃん。お前だって見たいだろ?ユーレイ。ってか、もう一度窓見てみ?今度は居るかもよ』
「さっきから窓見てるけど、誰も居ないよ」
代わりに、僕の視線に気づいてか、ヤモリが素早い動きで視界から消え去った。
『何だよ面白くねーなー。この電話から掛けると、必ず相手の絶叫が聞こえるって話だったのによー』
僕の絶叫が聞きたかったのかコイツ。
「……そんなに絶叫が聞きたいなら、Sにも電話掛けてあげれば?数打てば当たるかも知れないよ」
『そうだな。あ、でもよ、あいつ寝てる途中で起こされると、メッチャ不機嫌じゃん。ユーレイよりこええし』
「はは。まあ、確かにね。でもユーレイより怖いってのは、」
ガチャン。
「ちょっと……あれ?Kー?もしもしー?」
……ツー、ツー、ツー……、
どうやら電話が切れてしまったようだ。Kは二十円くらいしか入れてなかったのだろうか。
どうしよう。Kの携帯に直接掛け直そうか。
そんなことを考えているうちに、僕の手の中で携帯が振動する。
Kからに違いない。僕はそのことに、微塵も疑問を抱いていなかった。
けれども、ふと手が止まる。
携帯の画面。表示されているのは『公衆電話』か、Kの携帯番号だと思っていた。
読めなかった。表示が文字化けしていたのだ。こんなことは初めてだ。
ぶうーん、と携帯は僕の手の中で振動している。
僕は僅かに揺れるカーテンの向こうの窓を見た。何もない。見えない。ヤモリも。もちろん男など居ない。
そのまま窓を凝視しながら、僕は通話ボタンを押した。耳に当てる。
「もしもし?」
何か聞こえる。小さいけれども誰かが話している。
「もしもし?K?」
『……遅く……ごめ……』
Kじゃない?
微かに聞きとれるその声は、TVの砂嵐に似たノイズが混じり、断片しか聞こえなかった。
何だ?誰の声だ?
『……言うな……そ……』
男の声だと言うのは分かった。しかし、一体だれなのか。何を話しているのか。僕に向けられた声では無い。
『……今から帰るよ……』
次の瞬間、耳が壊れるかと思う程の何かがぶつかる様な音。
何かを引っ掻く様な音。何かが壊れる様な音。何かが割れる様な音。
そして何かが、柔らかい何かが潰れる様な音。
思わず僕は携帯を耳から離した。
音が無くなる。
再び携帯を耳に当てる。
『……ツー、ツー、ツー……』
電話は、切れていた。
何だったのだろうか、今のは。間違い電話だろうか。
……今から、帰るよ……。
最後の言葉だけはやけにはっきりと聞こえた。家に帰るつもりだったのだろうか。
その男はいつも仕事帰りにその公衆電話を使用し、ある日、仕事が終わって電話を掛ける前に……。
そこまで考えて僕は首を振る。妄想だ。そんなものは。
その瞬間、また携帯が震えて、僕は身構える。
しかし、今度はちゃんと画面に表示されている。Kの携帯からだった。
「もしもし……?」
『おっせーよ。とっとと出やがれこの野郎が』
Kの声を聞いて僕はほっとする。
そうしてからすぐに、何で僕が怒られなきゃいかんのかという疑問点に気付き、
無性にKのすねを思いっきり蹴ってやりたくなった。

71なつのさんシリーズ「公衆電話の夜」3:2014/06/08(日) 15:53:24 ID:BgaWrcjA0
『男は出たか?』
「出てねー。……あ、でも、変な電話が掛かってきた」
『あ、ナニソレ?』
「今から帰るよ、って」
『男から?』
「たぶん。それから、すごい音がした」
『ふーん。今、窓には?』
僕は窓を見る。もちろん、何も無い。誰も居ない。
「異常なし」
『……じゃ、間違い電話じゃね?そんな噂聞いてねえし』
「うん……。何だか僕もそんな気がしてきた……」
それからKは『ああ、そうだそうだ』と、何か面白いことを思いついた時の声で言った。
『俺、これから、ある実験をしてみようと思ってんだけど。お前、携帯耳から離すなよ』
「……何すんの?」
『ま、それは聞いてからのお楽しみだ』
Kは何をたくらんでいるのだろうか。気になった僕は、じっと耳を澄ます。
その時だった。視界の隅で何かが動いた気がした。顔を上げる。窓。カーテンが僅かに揺れている。
ヤモリだろうか。いや、今のはそんな小さな動きじゃなかった。何だろう。
「……K?おーい、Kー?」
少し不安になった僕はKを呼んでみる。でも返答は無い。
「おーいー。誰かいますかー……」
まただ。窓の向こうで何かが動いた。
僕はベットから立ち上がり、窓の方へと近づいた。
心臓の鼓動が段々と早くなってくるのを感じた。
見間違いじゃない。僕の部屋の外に、何かがいる。
恐る恐る窓に近づく。そして僕は携帯を耳に当てたまま、カーテンを掴んで一気に開いた。
僕はその場に立ちつくす。携帯電話の向こうからKの声が洩れてきた。けれどそれは僕の意識まで上って来なかった。
外には何も無かった。誰も居なかった。窓の向こうには相変わらず黒く塗りつぶされた街の景色が広がっているだけ。
暗闇を背にしたガラスは、鏡の様に僕の部屋の中を映していた。
外じゃない。そいつは部屋の中に居たのだ。
僕の背後。窓とは反対側の玄関へと続くドアの傍に何かがいた。
振り向くことが出来なかった。心臓の鼓動がより早くなる。
服装で男だと分かったが、それ以上は無理だった。そいつにはちゃんとした顔がついていなかった。
まるで、出来の悪いスプラッター映画を見ている様な気分。
鼻から上が無い。そいつは顔の半分が欠如していた。無いのだ。文字通り無。目も無い、耳も無い。
でこも無い。ならば脳も無いのだろう。
そいつの口が動いた。ゆっくりと上下に開く。
『ただいま』
声はそいつの口から聞こえてきたのではなかった。僕の耳に当てた携帯から。もちろんKの声じゃない。
『ただいま』
ガラスに写るそいつの口の動きに合わせて、携帯電話の奥から声がする。
『今、帰ったよ』
ふつふつと脂汗が額に浮き出ているのが分かった。
もし今振り返ったらどうなるのだろう。部屋の中には何もいないのか。それとも……。
悲鳴が、叫び声が、喉の奥までせり上がって来ている。
『ただいま。……今、帰ったよ』
僕が悲鳴を上げようとしたその時だった、
『うるせえな今何時だと思ってんだこのボケが!!』
聞き覚えのある怒声が、僕の携帯を当てていた左の耳から右の耳へと貫通した。
「うわあっ!」
僕は飛び上がって悲鳴を上げた。
けれどそれは恐怖の悲鳴では無かった。
それからKの『うはははは』と言う笑い声が、電話の向こうから聞こえて来る。
気付けば僕は窓の傍に尻もちをついてひっくり返っていた
電話から聞こえてきた怒声はSの声だった。

72なつのさんシリーズ「公衆電話の夜」4:2014/06/08(日) 16:19:29 ID:BgaWrcjA0
「うあ、うあ、うわわわ……」
恐怖と驚きと混乱で、声にならない声が僕の口から洩れる。
尻もちはついたけれど、携帯はしっかり手に持って放り投げてはいなかった。
『……――あん?お前、○○(僕の名前)か?Kと一緒に居るのか?』
何が何だか分からない。どうしてSの声が電話口から聞こえてくるのか。どうして僕が怒鳴られなきゃいけないのか。
そして、ひっくり返った拍子に後ろを見てしまったわけだが、僕の部屋の中には今、僕意外に誰も居ない。
窓に写っていた顔半分の無い男も居なかった。
『おい、Kに代わってくれ。説教するから』
Kは未だ電話の向こうで『あひゃひゃひゃ』と心底可笑しそうに笑っている。
僕は何度も何度も細かい息を吐いて、ようやく理解した。
つまり今、Kは公衆電話の中で、自分の携帯と公衆電話の受話器を合わせているのだ。
Kを介して僕とSは互いの声が聞こえている。
『うっはっは。あーおもしれー。ってか、こんな風につなげても会話って出来んだなー』
『黙れボケが。何が可笑しいのか知らんが、明日会ったらお前、』
『あーワリーS、十円しか入れてないからよ。もう切れるわあっはっは!』
『テメ俺の安眠を、』
ガッチャン。どうやらKが受話器を戻したらしい。
『あー面白かった。ってかおめーも驚き過ぎだろ。マジで悲鳴あげてたし』
「……うん」
僕は恐る恐る窓ガラスを見てみる。見馴れた僕の部屋。僕一人。他は誰も居ない。
深い安堵の溜息を吐く。怖かったしグロかった。ああいうのは駄目だ。
幽霊というのは、もっとこうスマートで無くてはならないと切に思う。
『んー? どうしたお前、何かあったのか?』
そう言えば、Kがさっきの公衆電話からSに電話を掛けたのだとすれば、
さっきの頭なし男はSの部屋にも行ったのだろうか。
「……いや、ないない」
僕は何故か確信できた。それは無い。僕はSに怒鳴られた言葉を思い出していた。
やっと帰りついて、あんな言葉を言われたら誰だって消えたくなる。
『あ、そ?何もなかった?』
「うん。何も無かったよ。……それよりKさ、今からウチに来ない?目が冴えちゃってさ。何かして遊ぼうよ」
『あー行く行く!んじゃ、二十分くらいでそっち着くわ』
「うん。じゃあまたあとでね」
Kとの電話を切った後、僕はすぐにSに電話を掛けた。Sはもろ不機嫌だった。
『……ああ?』
「あ、S?ねえ、さっきのKの電話で目冴えちゃったんじゃない?」
『……ああ』
「じゃあさ。今からさ、ウチ来ない?」
『ああ?何で』
「Kも来るよ」
『行く。待ってろ』
これでよし。
僕は電話を切ると、ベットの上に倒れこんだ。
まずKが先に来るだろう。後でSがやって来るとも知らずに。僕はそっとほくそ笑む。
でも、それは二人を呼んだ理由の一つにすぎない。
僕は携帯を開けて、着信が来ない様に電源を切った。それから、はっと気づいてカーテンを全部閉める。
その瞬間、ヤモリが一匹窓を横切った。
「うひっ!」
悲鳴を上げて飛び退く。
……ああ怖い怖い。
読みかけていた本もホラーものだったけれど、今日はもう読めない。
これが理由の二つ目。
僕一人じゃ、今夜はどうにも眠れそうになかったから。

73なつのさんシリーズ「河童井戸」1:2014/06/08(日) 16:20:54 ID:BgaWrcjA0
その日、僕は友人Sの運転する車に乗って、県境の山奥にあるという廃村に向かっていた。
メンバーは三人で、いつも通り。運転手がSで助手席に僕。もう一人、後部座席を占領しているのがKだ。
僕らが街を出たのは午前十時頃で、途中で昼食休憩をはさみ今は二時過ぎ。
目的の廃村までは、あと一時間といったところだった。
車は現在、川沿いのなだらかな上り坂を、ゆったりとしたペースで上っている。
僕は開いていた地図に再び目を落とす。
これから行く廃村はもはや地図に載っておらず、赤ペンでぐりぐりと印がつけられている場所が僕らの目的地だ。
等高線の感覚がかなり狭い。それだけ辺鄙な場所にあるということだ。

ふと、後部座席の方から軽いいびきが聞こえる。
「……毎度毎度思うんだが、どうしてこいつは人を足代わりに使っときながら、後ろで一人悠々と寝てられんだ?」
一度バックミラーを覗き込み、不快と言うよりはもはや呆れた口調でSが言う。
今日のこの日帰り廃村ツアーを企画立案したのはKである。
『この廃村にはな、不思議な井戸があるらしいんだとよ』
昨日大学の学食にて、目を少年の様に輝かせ僕とSに語るKは、生粋のオカルトマニアである。
僕とSはこれまでにもう何度も、Kの導きによってそういうスポットに足を踏み入れてきた。
もちろんハズレも多かったが、たまにアタリもあった。
「Kは車酔いしやすいからね。車ん中で吐かれるよりはマシじゃない?」
「……おいおいKの奴ヨダレ垂れてんぞ」
Kの話によると、その廃村には普段は枯れているが、新月の夜にだけ水を満たす井戸があるらしい。
何でも、その井戸の底には河童の死骸が眠っているとされ、
井戸の水を飲むことが出来れば、その人の寿命が五十年は伸びるそうだ。
「河童が眠る井戸かあ……」
僕がぽつりと呟くと、Sがそれに被せる様に欠伸を一つした。
「そう言えば。河童の肉って、食べたら不死になれるんだっけ?」
「……ん?ああ。人魚の肉と混同してるのかは知らんが、そういう言い伝えもあるにはある。
 河童にはまだ色々と言われはあるんだがな。広く分布した物の怪だから、その分話のバリエーションも豊富だ」
「ふーん」
Sの話の後半部分は聞き流して、
その井戸の水には河童のダシが染み込んでいるのかしらん、等と、僕は窓の外に目を向けながら考える。
今回はアタリかハズレか。何にしても、せっかく行くのだから面白そうな土産話くらい持って帰りたいものだ。
ちなみに、今日の夜は月が見えない。

「Sさー。もしその井戸に水があったとして、飲む?」
「飲まん。寿命の件は置いといてだ。
 そもそも管理の行き届いてない井戸水なんぞ、中に何が溶け込んでいるか分かったもんじゃないからな」
「だよねー」
僕もSもその気は無い。但し一人だけ、今後ろで寝ているKだけは、飲む気満々らしかった。
何せ、お気に入りのコーヒーカップとスティックシュガーとインスタントコーヒーまで持参して来ているのだからこの男は。
「ってヨダレがシートに落ちてんぞ。おいこらK!」
Sがバックミラーを見て怒鳴る。それでも当の本人は、シートにもたれて気持ちよさげに眠るばかり。
きっとオカルティストが喜ぶ夢でも見ているのだろう。

74なつのさんシリーズ「河童井戸」2:2014/06/08(日) 16:21:46 ID:BgaWrcjA0
車を停めたSがKを叩き起こし、それから一時間と半。
道は進むにつれ細く荒れてゆき、心配症の僕は少々不安になり、
手持ちのこの地図は本当にあっているのかと疑い始めた頃、
何だか地蔵が沢山並ぶ小さなお堂を通り越して、僕らはようやく目的の廃村に到着した。
「おー、ここだよ。ここ!」
車から降りたKが大声を上げる。
廃村と言っても、その村はまだ村としての形を残していた。
山の斜面にへばりつく様にして、いくつかの廃屋が左右にも上下にも立ち並んでいる。
と言っても木造の家自体は朽ちかけて、蹴り倒せるかと思う程ボロボロなものばかりだ。
辺りには膝より高い草がぼうぼうに生えていて、何処が道だったのかもよくよく見ないと分からない。
村の下方には小さな川が流れていて、その向こうはまた山。生い茂った緑の壁と言った方がしっくりくるかな。
「おーい。お前らこっち、こっちだっつーの!」とKの声がする。
停めた車の傍で辺りをぼんやりと見回していた僕は、ふっと我に帰り、Kの方へと向かった。
一番最後に車から出たSも僕の後からついて来る。
村の端、もうほとんど森の中と言った少しのスペースにKは立っていた。
「河童井戸だ」
Kが指差して言う。Kが井戸というそれは、石造りで、一辺が七十センチほどの正方形の形をしていた。
上に石の蓋がしてある。屋根もつるべもない。
井戸と聞いて、もう少し堂々としたものを想像していた僕は、正直がっかりしていた。
けれども、昔の村の井戸などと言うのは、大概こんなものなのかもしれない。
「おい、ちょっとお前ら、手を貸せ。この蓋あけっからよ」
僕とSは嫌々だったが、力を合わせて三人で蓋を開ける。すんごい重い。
蓋をずらした瞬間、冷蔵庫を開けた時の様な冷たい空気が頬を撫でた。
暗くて深い穴がその口をぽっかりと開ける。地面に垂直に掘られたうろ。覗きこむと、首筋辺りに毛虫が這う感覚を覚えた。
「わっ!」
穴に向かって突然叫んだのはKだ。その声は井戸の内壁に反射して、幾重にも重なって戻って来る。
次にKは地面に落ちてあった石を投げいれた。
……かつっ、
僅かな音。それは、この井戸に水が無いことを示していた。
「枯れてるな」とSが言った。
僕ら三人は、それから無言のまま視線を交わし合う。
Kが背に背負っていたリュックから懐中電灯を取りだした。井戸の中を照らす。
ライトの光は井戸の底を照らしはしなかった。光が弱いのか。しかし相当深くは掘ってあるらしい。
もちろんここに眠るとされる河童の姿など影も形も見えない。
「なーんも見えねー」
「少なく見ても、三十メートルはありそうだな。浅井戸かと思ってたが、そうじゃないのかもな」
そう言って、Sはまた石を投げ込もうと思ったのか地面の石を拾った。
それから、ふと何かに気が付いた様に手にした石を見やり、結局投げ入れずにKの方を向いた。
「で?これからどうすんだ」
Kは「おう」と元気よく返事をしてから、
「決まってんじゃん。話によるとだな、この井戸に水が湧くのは新月の夜、月が出てからだからー。それまで待とうぜ」

75なつのさんシリーズ「河童井戸」3:2014/06/08(日) 16:22:24 ID:BgaWrcjA0
ようするに、待機。
Kの言葉は予想出来ていたものではあったが、僕は「うーん」と唸って辺りを見回した。
廃村。ここで暗くなるのを待つと言うのは、中々ホラーチックで楽しそうではある。
もし一人きりなら、断固として遠慮したいところだ。

それからとりあえず、僕らはいったん車の方に戻ることにする。確認すると時刻は四時半だった。
Kが首尾よくトランプなど持ってきていたので、
極力草の生えていない処を選んで、フロントガラスにひっつけるカーサンシェードを敷き物代わりにして、ポーカーをやった。
結果はKがダントツでトップ。
次にインディアンポーカーをやってみた。結果はSがダントツでトップ。結局ポーカーでは僕は一つも勝てなかった。

「ところで、あの井戸についてなんだが……」
それは、ポーカーは止めて三人で大富豪をしていた時のことだ。Sが口を開いた。
それは何気ない、まるで独り言の様な口調だった。
「河童云々の部分は……、一体どういう話なんだ?」
自分の番でカードを捨ててから、Kが「あ?俺に聞いてんの?」と問い返す。「お前しか知らないだろ」とS。
「あー。そだな」とKは語りだす。
「昔、この村に住んでた一組の夫婦が、そこの川で河童を見つけたそうだ。
 そんで、夫の方が後ろから棒でぶん殴って、ふんじばって村まで持って帰った」
「河童を?何で?」
僕の疑問に、Kは「うはは」と笑った。
「喰うためだとよ」
「マジでか」
「河童の肉には、不老不死の力があると信じられてたからな。
 ま、それとも単に、腹が減ってたからなのかは知らねえけどよ。
 そんで、いざ食おうとした時に、河童が気がついて逃げ出したんだ。
 当然追いかける。河童は逃げる。で、逃げこんだ先が井戸だった、と」
「あれま残念」
「それから、村人は井戸に蓋をするんだけどよ、河童は三日三晩井戸の中で叫び続けたそうだ。
 で、四日目の新月の夜。叫び声は止んだ。河童はお陀仏しちまったってわけだ」
井戸は地下水脈に直接繋がっているわけではない。
いくら泳ぎが達者な河童でも、出口が無ければどうしようも無かっただろう。
「井戸が枯れたのは、その後のことだそうだぜ。水が無くなっちまったんだ。
 でも不思議なことに、新月の時だけは水が湧くんだとよ。河童水だな。
 ……これ、隣の村に住む爺さん情報らしいぜ。又聞きだけどな――ほい、革命!」
「革命返し」
「ぎゃー」
そんなこんなで、僕らはトランプをしたり、雑談したり、寄って来る虫を追い払ったりして、時間を潰していった。

そうして、気がつくと辺りは薄暗くなり始めていた。
こうなると後は早い。数分後にはもうトランプの絵もはっきりとは分からないほど、周囲に夜が浸透していた。
夜の山は暗い。何も見えない。虫、鳥の鳴き声。ガサガサと木の葉がすれている。
空に月は無い。
ぽっと灯がともる。Kがバッグからキャンプ用のガスランタンを取り出して、明かりをつけたのだ。
「行こうぜ」
僕もSも自分用の懐中電灯を持って、村の井戸に向かう。
三人とも無言だった。何となく、陽が射している時とは雰囲気が違う。
暗い。とにかく暗い。こんなに変わるものなのかと、僕は恐怖に近い違和感を覚える。

76なつのさんシリーズ「河童井戸」4:2014/06/08(日) 16:22:58 ID:BgaWrcjA0
ライトの光が照らす。井戸。蓋は開いている。
僕は辺りを見回す。まるで井戸の中の暗闇が、そのまま吹きだして辺りを包んだ様に暗い。
「……さてさて!果たして水はあるのでしょうか!?」
場の雰囲気を盛り上げようとしてか、井戸の傍でKがわざと大きな声を出す。
僕は少し笑う。ちょっとだけ和んだ。
「ではではー。ここに石コロがひとつございまして、今から投げ入れて確かめてみま、しょう、や!」
最後の『や!』でKは井戸の中に石を投げ入れた。
――とぷん――
「……え?」
反射的に声をあげてしまっていた。
音がした。
とぷん。
それは井戸の底にあるものからの返事だった。
今、井戸の中には水がある。昼間は確かに無かった。
水があるのだ。
「……うわ、マジかよ。すげえ!」
僕は固まっていた。石を投げ込んだ本人のKすら驚いてる。
僕ら三人の中で一番冷静なはずのSでは、この結果を受け俯き、何やらぶつぶつと呟き始めた。Sが怖い。
「潮汐は……、関係無いな。いくら新月つっても、地下水面押し上げるほどの影響は無いし、この辺りには海も湖も無い。
 地球の自転が加速したか?……はっ、そんな馬鹿な。しかしだ、となれば……、」
僕はSを見やった。Sが顔を上げる。
「最初から、水は、あった」
ぶつ切りにそういうと、Sは地面に落ちていた石を方手で二つ拾い、その手を井戸の上にかざした。
何をする気か疑問がわくよりも早く、ひとつ石を落す。
――ちゃぽん――
水に落ちる音。Sはすぐに手の位置をずらし、二つ目を落とした。
――かつん――
これは違う。違う音だ。 
何だろう。これはどういうことだ。Sは何をした。
「……おそらく石か何か、硬いものが積りに積もって、水面から顔を出してんだろ」
唖然としている僕に向かってSが言う。
「昼間Kが石を投げた時は、たまたまその硬いものの上に落ちたってことだ。深すぎて中は見えなかったしな。
 先に、もう枯れてるって情報があったもんだから、一度で確認を止めた」
僕はもう何が何だか分からなくて、
頭に浮かぶのは、Sはこんな状況でも馬鹿みたいに冷静なのだなあ、と言う感想くらいだった。
「はあー……、何と言うか。よくまあそこまで考え抜けれるもんだねえ」
それは本当に感心したからこその言葉だった。Kも同じ気持ちだったに違いない。でもSは浮かない顔をしていた。
「当たって欲しくなかった」
「は、え?何が?」
「おい、K」
僕の質問には答えず、SはKを呼ぶ。
「お前、そのバッグの中に色々入ってんだろ?ロープとバケツ、無いか?」
「ん、あ、あー、あるぜ。つるべは無いって、前もって聞いてたからよ。え?出すのか?」
「ああ」

77なつのさんシリーズ「河童井戸」5:2014/06/08(日) 16:23:56 ID:BgaWrcjA0
Kはバッグの中から、小さなプラスチック製のバケツと、細いロープを取りだす。
Sはそれらを受け取り、バケツの取っ手に無言でロープを巻き付け、
ロープの端をしっかり握ると、そのままバケツを井戸の中へと放りこんだ。
バケツが水の上に落ちる音がする。
「おいS何だよ。さっきの『当たって欲しくなかった』っつーのは」
僕の代わりにKがもう一度Sに尋ねる。
しかしSは答えてくれず、手に持つロープを小刻みに操っている。バケツの中に水をすくっているのだ。
そしたら急にSはロープをぐいと大きく引っ張った。その瞬間、井戸の中から何かが音がした。
まるで積み木で作ったお城が崩れるような音。積み重なった何かが下から崩れていく時の音だった。
Sがゆっくりとロープを手繰り寄せる。
「……Kがさっきした河童の話。あれが本当だとしたらな」
「え、え?」
唐突で身構えても無かったので、僕は変な声を出していた。そんなことはお構いなしにSは話を続ける。
「あれは、河童が入ったせいで井戸の水が枯れてしまった、ってな話だ。
 井戸が枯れたのを河童のせいにする。それなら納得できる」
僕はまだSが何を言おうとしているのか分からない。
「でも、実際に井戸はまだ使える。水があって、こうして汲むことが出来るんだからな。
 飲み水に使用できなくても、畑にまく、洗濯、洗い物の水、用途はいくらでもある。
 この村の人間は、わざわざ河童の話を創ってまで、使えるはずの井戸を『枯れている』 ってことにしたかったんだ」
Sがロープを手繰る。僕はその動きだけを目で追う。
「水があっても、使えない。この水は使えないんだ」
バケツが井戸の縁まで上がってきた。Sがそれを掴み上げる。
黄色いバケツの中には透き通った水。それともう一つ。何だろう、細長い石?
「……まさか、こんなものが釣れるとはな」
Sの言葉には苦笑が混じっていた。
「お前ら、これが何だか分かるか?」
分からない。僕もKも首を横に振る。
Sがバケツの中からそれを取りだす。やはり石だ。
人の形をしている様にも見える。但し、頭、顔が無い。まるでボーリングのピンだ。
Sは次いで自分のポケットに手を入れ、何かを出した。
それも石だった。丸い石。
Sは細長い石の上に、丸い石をゆっくりと乗せた。ライトで照らすと、丸い石には表情がある。つまりは顔。
「……河童というものが、昔、貧困ゆえに間引きされた子供の暗喩だ、という話は聞いたことがあるか?」
Sは一体何を言っているのだろうか。
「そうして間引かれた子供のことを、水子と言う」
ぞくり、と生ぬるい風邪で体中を撫でまわされる様な感覚。
視線が井戸の中へと向かう。今にもあの中から何かが這いあがって来ているのではないか。そんな錯覚に陥る。
「お前らには分からないかもしれんが、ここに子供が縋りついている」
Sが手にした地蔵の足の部分。確かに小さく盛り上がってはいるが、あれが子どもなのだろうか。
「こいつは水子地蔵だ。水子を供養するための地蔵なんだよ。それが井戸の中にあったんだ。……分かるか?」
井戸から這いあがって来る。何かが、何が?
水子、間引かれた子どもたち。
たち?どうしてそう思うんだろう僕は。
「こいつは井戸じゃない。墓だ。たぶん、一人じゃないだろう。共同墓地か。
 河童の話でもあったな、食うためにってさ。直接じゃなくて、自分たちが食っていくために、って意味だろうな」
そして、Sはバケツを持ってKに差し出す。
「飲むか?ある意味長寿の水かもしれんぞ。何てたって水子だ。
 あと何十年も生きるはずだった子らのダシが、たっぷり出てるんだからな」
Kは半笑いで、力なく首を振った。
「飲むわけねーだろ」
「……ま、だよな。お前は?飲むか?」
そう言ってSは僕にもバケツを差し出してくる。
「無理無理無理無理無理ムリむり」
「だよな」
そうしてSはくっくと笑うと、バケツの中の水を井戸の中に戻した。
それは試合終了の合図でもあった。
蓋を閉め、首の取れた水子地蔵をその上に置き、僕ら三人は手を合わせた。

78なつのさんシリーズ「河童井戸」6:2014/06/08(日) 16:26:23 ID:BgaWrcjA0
そしてSの車で村を出る時、僕は初めて気づいた。村の入り口近くにある御堂、そこに並んでいた沢山のお地蔵さん。
通り過ぎる際にSがぽつりと言った。
「あれも、全部、水子地蔵だぜ」
その瞬間、粟立った。
怖い。ああ、怖い。
ユウレイよりも妖怪よりも、暗闇よりも、何よりも。
ヒトは、怖いのだ。
しんと静まり返った車内。響くのはSの欠伸の声だけ。Kまでもが何も喋らない。
「ワリー。……ジョークだ」
欠伸の後、Sがぽつりと言った。
「……」
聞こえていたけど、僕は反応しなかった。
「ジョークだよ」
さっきより強めに言われて、僕はようやく反応する。
「……、……は?」
「全部、ジョーク。冗談。ジョーダン。口から出まかせ」
意味が分からない。僕はSを見る。Sは僕にちらと視線をよこし、「くっく」とさも可笑しげに笑っている。
「すまん。あんな簡単に信じるとは思ってなかったんだ。
 井戸からバケツ引っ張り上げた時に、丁度いい形の石が出てきたもんで、つい調子にのってな。
 そしたら引き際が分かんなくなって、ワリー」
「え……、え、でっ、だ」
そんな馬鹿な。
「じょ、ジョークって。……河童とか、水子の話は!?」
「河童が、間引きされた子どもの暗喩だってのはある話だ。でもな、考えてみろ。
 村人が本当にそんなことをしたのなら何故、自分たちの罪、いや恥だな。恥をわざわざを暗喩して人に伝えようとする?」
「だ、誰でも分かるわけじゃあ無いし、後悔の気持ちがあったとか……」
「俺には分かったし、あの河童の話で、私たちは後悔してますと言われてもな……。
 まあ、そんな暗喩があることを当時の村人が知らず、本当に偶然語り継がれた話ってことも考えられるが。
 そうだとしても、だ。あの井戸に、子どもは埋まっていない」
「な、何で分かるのさ!」
「簡単だ。生活に困るからだ」
「は……?」
「山奥の農村で、井戸に頼るというところは少ない。他に色々水源はあるからな。
 それでも、あんなに深い井戸を掘らなくちゃいけなかったってことは、本当にあの井戸が必要だったからだ。
 そんな井戸に、ガキを放りこむ馬鹿は居ない。捨てる場所なら他に沢山ある」
「で、で、でも、あの水子地蔵は……」
「ありゃ嘘だ。あれはただの石。形も全然違うしな。村の入り口にあったのも、ありゃ只の地蔵だ」
「……井戸の水が」
「一度枯れてまた湧き出るなんてことは、ある」
「……」
僕はKに助けを求めようと、後部座席を見る。
Kは寝ていた。どうも静かすぎると思ったんだ。くそう、使えねえ奴め。
「Kには黙っとけ。もう少し静かにさせとこう」とSが言う。
僕は今一度放心状態に陥る。
騙された。騙されたのだ。これ以上ないくらい綺麗に、見事に。
けれども、僕は何だか地の底から救われた気分だった。
もちろん、この野郎と言う気持ちはある。むくむく沸いてきている。
でもそれ以上に心の底から思う。
冗談で良かった。
Sが冗談と言うのだから、きっとそうなのだ。
僕はそう思うことにした。
だから僕は、井戸の蓋が、どうして重い石造りだったのかも気にしないことにした。
だから僕は、Sの表情が、普段よりも優しげなことについて気にしないことにした。
だから僕は、ふと思い出した、あのバケツを差し出された時に見た、水と一緒に入っていた小さな歯のようなものについて、
Sに訊くのは止めておくことにした。
全部、ジョークだから。

「河童井戸」終わり

79なつのさんシリーズ「狐狗狸さん」1:2014/06/08(日) 20:09:22 ID:BgaWrcjA0
季節は秋で、当時僕は大学一回生だった。
長い長い夏休みが終わって数週間が過ぎ、ようやく休みボケも回復してきたとある日のこと。
時刻は昼過ぎ一時前。友人のKから『面白いもん手に入れたから来いよ』 と電話があり、
大学は休みの日でヒマだった僕は、深く考えずに一つ返事で、
のこのこKの住んでいる大学近くの学生寮まで足を運んだのだった。
「よーよー、ま、入れや。Sも呼んであるからよ」
寮の玄関先で待っていたKに促され、中に入る。Kの部屋は二階の一番奥だ。
それにしても、階段を上りながら口笛など吹いて随分と機嫌が良いようだ。
「なあなあ、面白いもんって何なん?」
「まーそう急かすなって。ちゃんと見せてやるからよ」
そんなKの様子を見て僕はピンと来るものがあった。
Kの言う『面白いもの』とは、新作のDVDやゲームの類を想像していたのだけど、どうやらそうじゃないらしい。
Kは生粋のオカルトマニアだ。何か曰く付きのナニカを手に入れたのだな、と僕は当りを付けてみる。
部屋の前まで来ると、Kは僕に向かって「ちょっとここで待ってろ」と言って、自分だけ中に入って戸を閉めた。
僕は素直に指示に従う。

十数秒も待っていると、勢いよく戸が開いた。
すると目の前には一枚の紙。
「じゃんじゃかホイ!」と、僕の顔の前に紙をかざしたKが言う。
紙はB4程のサイズで、パッと見、五十音順にかな文字と、一から十までの数字の羅列。
よくよく見ればその他に、紙の上の方にはそれだけ赤色で描かれた神社の鳥居の様なマークがあり、
鳥居の左には『はい』、 右に『いいえ』 と書かれている。
紙は若干黄ばんでいて、所々に茶色いシミも見えた。
「……何ぞこれ?」
僕の疑問に、Kは掲げた紙の横に、にゅっと顔を出して答える。
「ヴィジャ盤」
「ヴ……ヴィ、何?」
「ヴィー。ジャー。バーン。こっくりさん用のな。もっと言えば、こっくりさんをやる時に必要な下敷きってわけだ。
 そん中でもこれは特別だけどな」
そう言ってKは「うはは」と笑う。
とりあえず僕は部屋の中に入れてもらった。
Kにアダムスキー型の飛行物体を縦につぶした様な座布団を借り、足の短い丸テーブルの前に座って話の続きを聞く。
「こっくりさんって、アレでしょ?十円玉の上に数人が指を置いて、こっくりさんに色々教えてもらう遊び。
 で、これがその下敷きなんね」
丸テーブルの上には、そのヴィジャ盤とやらが広げられている。
あと、テーブルの端にビデオカメラ。どうやら何かしら撮影する気でいるらしい。
「まー、ざっくり言えばそんなとこだな」
「これKが書いたん?」
「ちげえ。とある筋から手に入れた。まー詳しくは言いたかねえけどさ。
 どうせやるなら、とびっきりのオプション付きでやりてえじゃねえか」
僕はそのKの言葉の意味が良く分からなかった。
やりたいって一体何をやるんだろう?オプションって何だ?
僕の頭上には幾つも?マークが浮かんでいたのだろう。
Kはヴィジャ盤を人差し指でトントンと叩き、
「このヴィジャ盤は、昔、ある中学校で女子学生が、こっくりさんをやった時に使ったものだ。有名な事件でよ。
 そのこっくりさんに加わった女生徒、全員がおかしくなって、
 後日、まるごと駅のホームから飛び降りて、集団自殺を図ったんだとよ。
 ほとんどが死んで、生き残った奴も、まともな精神は残って無かった。
 で、これが駅のホームに残されてた」
トントントン、と紙の上からテーブルを叩く音。
話の途中からすでに『みーみーみーみー』と、耳の奥の方で危険を告げるエラー音が鳴っていた。これはマズイ流れだ。

80なつのさんシリーズ「狐狗狸さん」2:2014/06/08(日) 20:10:00 ID:BgaWrcjA0
僕は以前にも、この手の曰く付き物件にKと一緒に手を出して、非常に怖い思いをしたことがある。
それも一度や二度じゃなく。
「やろうぜ。こっくりさん」
それでも、気がつくと僕は頷いていた。
Kほどじゃないけども、僕もこういった類は好きな方だ。
十中八九怖い思いをすることが分かっていても。6・4で怖いけど見てみたい。分かるだろうかこの心理。
「でもこれ、元々女の子の遊びでしょうに。男二人でこっくりさんって言うのも、ぞっとしないねぇ」
「ゴチャゴチャ言うない。ほれ、十円だせよ」
「僕が出すのかよ」と愚痴りつつ、十円をヴィジャ盤の上に置く。
すると、Kがそれを紙の上部に描かれている鳥居の下にスライドさせた。どうやらそこがスタート地点らしい。
「あーそうだ。注意事項だ。最中は指離すなよ。失敗したら死ぬかもしれんしな」
Kが恐ろしいことをさらっと言ってくれる。
それでも幼児並みに好奇心旺盛な僕は、十円玉の端に人差し指をそっと乗せた。Kも同じように指を乗せる。
「……で、何質問する?」
「あー、それ考えて無かったな。まあ手始めに、Sがここにいつ頃来るか訊いてみるか」
Kは適当に思いついたことを言ったのだろうが、それは中々良い質問だなと僕は思う。二人ともに知りえない情報。
こっくりさんは果たしてどう答えるだろうか。
「でーはー、始めますか」
Kはそう言ってビデオカメラのスイッチを入れた。
「んじゃあ……はいっ。こっくりさん、こっくりさーん。Sはあと何分でここに来ますかねー?」
Kの間の抜けた質問の仕方が気になったけども、僕は邪念を振り払い十円玉に触れる指先に意識を集中させる。
と言っても肩の力は抜いて、極力力を込めないように。
十円玉はピクリとも動かない。
ふと、座布団に座る僕の腰に何かが触れた様な気がした。
視線を逸らすと、半開きの窓にかかるカーテンが僅かに揺れている。風だろうか。
「……おい」
Kの声。その真剣な口調に、僕ははっとして視線を戻す。けれども十円玉は赤い鳥居の下から動いていない。
Kを見ると、じっと自分の指先を凝視していた。
「……どうしたん?」
僕はゆっくりと尋ねる。
「なあ、この十円……ギザ十じゃね?」
「あ、ホントだ」
「こっくりさんに使った十円って、処分しなくちゃいけないんだぜ?もったいねー」
ふっ、と安堵の息が漏れる。十円玉は動かない。

それから少しギザ十の話になった。
コインショップに行けば三十円くらいで売れるとか、
昭和33年のものにはプレミアが付いているとか。でも使えば十円だとか。
そんなくだらない話をしている時だった。
部屋の戸が叩かれ、「おーい、来てやったぞ」と声がする。Sの声だ。
そうしてSは、返事も待たずに戸を開けて部屋の中に入って来た。
「よー……って何やってんだ、お前ら?」
僕とKは顔を見合わせる。
「何って、見たら分かるだろうがよ」
「面白いもんがあると聞いてやって来てみれば、だ。お前ら、しょうもないことやってんなよ」
「おいこらSー。こっくりさんのドコがしょうもねえっつーんだよ」
「見る限りの全てだ」
そう言いきると、SはKの部屋にある本棚を一通り物色して一冊抜き出すと、
「相も変わらず、お前んちロクな本がねえな」と言って、一人部屋の隅で読書を始めた。
僕とKはまた顔を見合わせる。Kは肩をすくめて、僕は少し笑う。
そうして僕はふと気付く。
十円玉の位置。さっきまでは、紙の上部の鳥居の下にあった。
数秒間、瞬きすら忘れていたと思う。
五十音順のかな文字の上に並んだ、一から十までの横の数列。その一番左。0の上に十円玉があった。
少しの間言葉が出なかった。Kも状況を察したようだ。
決して僕が故意に手を動かしたのではない。それどころか、何時そこまで動いたのか、僕は全く気付かなかった。
人差し指は変わらず十円玉の上に乗っていると言うのに。
僕はKを見やった。Kはあわてて首を横に振る。今度はKが何か言いたげな顔をしたので、僕も首を横に振った。
このままでは何もはっきりはしない。
僕はもう一度質問をしてみようと口を開いた。

81なつのさんシリーズ「狐狗狸さん」3:2014/06/08(日) 20:11:20 ID:BgaWrcjA0
「えーと……こっくりさん、こっくりさん。今十円玉を動かしたのは、あなたですか?」
その瞬間、十円玉が滑った。『はい』 の上。こんなに滑らかに動くものとは思いもしなかった。
「……あなたは、本当にこっくりさんですか?」
すると十円玉は、『はい』の上をぐるぐると円を描く様に動く。
「うおおおおお!SSSー、ちょっと来てみろよおい」
興奮したKが大声で呼んで、本から顔を上げたSが面倒くさそうにこっちに寄って来る。
「何だようるせーな」
「動いた動いた。動いてんだよ今!」
興奮して「動いた」しか言わないKの代わりに、僕が一通り今起きた流れを説明する。
Sは大して驚きもせず、「ふうん」と鼻から声を出した。
「あ、それとさ。このヴィジャ盤って言うの?この紙にもさ、言われがあるそうで。
 何か昔、コレでこっくりさんした中学生が集団自殺したとか」
それを聞いたSは、ふと何かを思い出すような仕草をして。
「ん……?こっくりさんの文字盤は、確か、一度使った後は、燃やすか破るかしないといけないんじゃなかったか?」
「え?」
そんな情報僕は知らない。Kを見やる。しかしKが答える前に、十円玉が『はい』の回りをまた何度も周回する。
それを見てKが「うっはっは」とヤケ気味に笑った。
「その通りらしい。二度同じものを使うとヤバいらしい。
 具体的に言うと、こっくりさんが帰ってくれなくなることがあるらしい」
「えっ、え、……はあ!?」
まさか、先程オプションと言ったのはそれのことか。
こっくりさんが帰ってくれないとどうなるのか。僕は怖々考えてみる。
そのまま取り憑かれるのか?その後は、まさか、話の中で自殺した中学生の様に……。
その思考の間も、十円玉は絶えず『はい』の回りをぐりぐり回っていた。しかも、徐々に動くスピードが速くなる。
それでも僕の人差し指は、十円玉に吸いつけられたように離れない。何なのだこれは。
その内、十円玉は『はい』を離れて、不規則に動き出した。そこら辺を素早く這いまわる害虫の様に。
いや、よく見るとその動きは不規則では無かった。何度も何度も繰り返し。それは言葉だった。
『ど、う、し、て、な、に、も、き、か、な、い、の』
Kの額に脂汗が滲んでいる。たぶん僕の額にも。どうしよう。どうしよう。
その時だった。Sが長い長い溜息を一つ吐いた。
「こっくりさんこっくりさん。365×785は、いくつだ?」
その言葉は、まるで砂漠に咲く一輪の花のように、不自然でかつ井然としていて。
ぴたり、と十円玉の動きが止まった。
「……時間切れだ。正解は286525。ちゃんと答えてくれないと困るな。まあ、いい。じゃあ、次の質問だ」
僕とKは両方ぽかんと口をあけてSを見ていた。
「ああ、その前に、お前ら二人。目え閉じろ。開けるなよ。薄目も駄目だ」
Sは一体何をする気なのか。分からないが、とりあえず僕は言われた通り目を瞑る。
「こっくりさんは、不覚筋動って言葉を知ってるか?」
暗闇の中で腕が動く感覚。
「そうか、じゃあ、その言葉を文字でなぞってみてくれ」
十円玉は動いている。それは分かる。でも、つい先程に比べると、非常にゆっくりとしたペースだった。
「分かった。ああ、お前らも目開けていいぞ」
僕は目を開く。十円玉は、か行の『く』の場所で停まっていた。もう動かない。
見ると、いつの間にかSがテーブルの端に置いてあったビデオカメラを手に持っている。
「見てみろ」
撮影モードを一端止め、Kは今しがたまで撮っていた映像を僕らに見せる。
最初の部分は早送りで、場面はあれよあれよという間に、Sが僕らに目を瞑る様に指示したところまで進んだ。
『そうか、じゃあ、その言葉を文字でなぞってくれ』
ビデオ中のSの指示通り十円玉は動き出す。
けれどもその移動はめちゃくちゃで、『ふかくきんどう』 の中のどの文字の上も通過することは無かった。
「これで分かっただろ」
ビデオカメラを止めてSが言う。

82なつのさんシリーズ「狐狗狸さん」4:2014/06/08(日) 20:12:01 ID:BgaWrcjA0
「こっくりさんなんてものは、人の無意識下における筋肉の運動かつ、無意識化のイメージがそうさせるんだ。
 さっきも言ったが、不覚筋動。もしくはオートマティスム、自動筆記とも言うな。
 つまりは、意識してないだけで、結局自分で動かしてんだ」
「俺は動かしてねーぞ」
「……ひ、と、の、は、な、し、を、聞けボケが。無意識下つったろうが。
 その証拠に、参加者の知りえない、もしくは想像しえない問題に関して、こっくりさんは何も答えられないんだよ。
 ビデオ見ただろ」
今、十円玉は動かない。
けれど、それでも僕とKの二人は指を離せないでいた。
こっくりさんでは指を離すと失敗となり。失敗すればどうなる、万が一……。そんな不安が胸の奥で根をはっているのだ。
そんな二人を見てSは心底呆れたように、もしくは馬鹿にしたように、「あーあーあー」と嘆いた。
「じゃあ訊くが、俺の記憶が正しければ、こっくりさんは漢字では狐に狗に狸と書く。
 その名の通り、こっくりさんで呼びだすのは、キツネやタヌキといった低級霊って話だが……。
 ここで問題だ。どうしてそんな畜生に、人間の文字が読める?
 文字を扱えるのは、死んでからも、人間以上のものでないと無理だと思うがな」
それは予想外の問いだった。と言うより、僕はこっくりさんで呼びだすのがキツネだとすら知らなかった。
「それは……、死んだ化けキツネだからじゃ。ほら、百年生きたキツネは妖怪になるって言うし……」
「お前は百年生きたら、キツネの言葉が完璧に理解できるようになるのか?」
「……無理です」
「それと、だ。こっくりさんの元になったものは、外国のテーブルターニングって言う降霊術らしい。
 が、そいつは完全に人間の勘違いだと、すでに証明されている」
そう言うと、Sは無造作にヴィジャ盤の上の十円玉に指を当てた。
そして、僕とKが『あ』っと言うより先にこう呟いた。
「こっくりさんこっくりさん。
 こっくりさんという現象は全部、馬鹿な人間の思い込み、勘違い、または根も葉もない噂話に過ぎない。
 はい、か、いいえ、か」
すると三人が指差した十円玉が、すっと動き、『はい』の上でピタリと止まった。
Sが僕とKを見やる。その顔は少しだけ笑っている様にも見えた。
「俺は何もしてないぜ?意識上はな」
そして十円玉から指を離し、彼はまた部屋の隅で一人、読書タイムに没頭し始めた。
僕とKは互いに顔を見合わせ、半笑いのままどちらからとも無く指を離した。

その日はこっくりさんに関してはそれでお開きとなり、
三人で夕食を食べた後、僕はK宅からの帰りに自動販売機に立ち寄り、
今日使用した十円玉を使って缶ジュースを一本買った。
それ以降、身体に異変が起きただの、無性に駅のホームに飛び込みたくなっただの、そういった害は今のところ無い。

ちなみに、Sがあれほどオカルトに詳しいのは、
Kの部屋の家主も把握しきれてない程の蔵書を、「つまらん」と言いながらもほとんど読みつくしているからだ。

あと最後に一つ。あの日撮影したビデオカメラには映っていたのだ。
Sが計算問題を出すまでの間、僕とKの他に、もう二本の手が十円玉に触れていたことだけは付け加えておきたい。
Sが問題を出したとたん、朧げな手は、ひゅっと引っ込んだ。
それを見て僕は、やはりオカルトに対抗するのは学問なのだなあ、と思った。

83なつのさんシリーズ「千体坊主1 雨」1:2014/06/11(水) 17:56:43 ID:hD.sYvCs0
その年の夏は、猛暑に加えて全国的に中々雨が降らず、そこらかしこで水不足に悩まされていた。
ダムの水が干上がって底に沈んでいた村役場が姿を見せたとか、地球温暖化に関するコラムだとか、
『このままではカタツムリが絶滅してしまう』と真剣に危惧する小学生の作文とか、
四コマ漫画の『わたる君』の今日のネタは、『アイスクリームとソフトクリームはどちらが溶けるのが早いか』で、
わたる君が目を離した隙に妹のチカちゃんが両方平らげてしまうという、そんなオチとか。
床に広げた今朝の新聞。天気予報の欄に目を移すと、今後いつ雨が降るのかはまだ予想できないと書かれていた。
窓の外に目を向ける。確かに雨の予感は微塵も感じず、今日もうんざりするくらい晴れている。
「……なあなあ、ちょっとさ、休憩せん?」
「でーきーた。ほれよ、八百体目」
友人のKは僕の提案が聞こえなかった様で、数十体のティッシュペーパー人形が僕の目の前にどんと置かれる。
僕の仕事は、この人形たちの腰から下げてる糸の先にセロテープをつけて、一体ずつ天上から吊るすことなのだ。
すでに天上には七百体以上の人形が吊るされていて、まるで……と言っても形容できるようなシロモノではない。
この状況は、昨日の夜から今日の朝にかけて、僕とKが二人がかりで創り上げたのだ。
常識ある人が見ればギョッとするような光景だが、すでに僕の常識はマヒしているのだろう。
「Sも手伝ってくれりゃあ良いのになあ。途中で帰りやがって。冷てーやつだ、全くよぉ」
Sと言うのは僕ら二人の共通の友人だ。彼には常識があるし、間違っても徹夜で紙人形を作る様な人間では無い。
「まあバイトって言っても、この内容聞いたら普通は断るよ」
「おめーはやってんじゃん」
「内容訊かずに『うん』って言っちゃったからね」
もう分かっているかとは思うが、僕が言う人形とは、てるてる坊主のことだ。
しかもこの天上に吊るされている彼らは、皆一様にスカートを上に、頭を地面に向けている。
つまり逆さ。『ふれふれ坊主』だの、地方によっては『るてるて坊主』と呼んだりもするそうで、
Kは『ずうぼるてるて』 と呼んでいる。
普通のてるてる坊主が晴れを願って吊るされるものなら、『ずうぼるてるて』 はその逆、雨を願うものだ。
「さっき新聞で見たけど。今日からの週間天気予報じゃさ、雨が降る気配なんてこれっぽっちも無さそうなんだけど……」
「だから面白れーんじゃねーか。通常じゃありえねーことが起こるから、オカルトなんだよ。ったりめーだろ」
言いながらKは、二百枚入りのティッシュ箱を新たに開けて、一番上のティッシュ抜き出す。
ティッシュは薄い紙が二枚重なっているので、上手く剥がして一枚を二枚に分け、
ちょいと人差し指を舐めてから、その薄い一枚をミートボールくらいに丸める。
その上にもう一枚を被せ、首の部分をねじってタコ糸を添えてセロテープで固定する。
その流れる様な一連の手捌きは、もはや素人の域では無い。
「でもさ。これでもし明日普通に晴れても、バイト代返せなんて言わんでよ」
「言わねーよたぶん」
「いやたぶんじゃなくて」

84なつのさんシリーズ「千体坊主1 雨」2:2014/06/11(水) 17:57:35 ID:hD.sYvCs0
言い忘れていたが、現在僕が居るここはKの部屋だ。
僕がKに呼ばれて、この学生寮の二階の一番奥の部屋にやって来たのは、
今現在から十五時間ほど遡った、昨日の午後四時が若干過ぎた頃だった。
大学でその日一日の講義が終わった後、
「このあと暇ならよー、ウチで簡単なバイトしねーか?」というKの誘いに乗ってしまい、
オカルティックな趣味を持つKの実験に付き合わされることになった。
千体坊主。
全部Kから聞いたことになるけども、千羽鶴にも似たこのまじないは、
千体のティッシュペーパー人形(別に紙なら何でも良い)を吊るすことで、明日の天候を人為的に変えてしまうというものだ。
人形の頭を上にすると晴れ。下にすると雨。
但し、条件が三つあるらしい。
まず一つは、人形を作る時に中に詰める方の紙を、自分の唾液(ホントは血液の方がいいらしいが)でほんの少し湿らせる。
二つ目に、作っている人は千体坊主完成まで絶対に家の外に出ないこと。
この場合はKが作っている人になる。(僕は別に出ても良いらしい)
途中で出たらなんか悪いことが起きる、とのこと。
三つ目は、人形を千体吊り終えたら、とある『うた』 を歌うこと。
千体坊主が完成し、無事うたを歌い終えれば、次の日の天候はその人の望んだものになる、らしい。
K自身も知ったのはネット上のとある掲示板だという話なので、あまり期待はしてないそうだけども。
僕もオカルトが嫌いではないので、興味はある。
給料も出るということなので、だからやってみようと思ったのだが、予想に反して時間が掛かる掛かる。
はっきり言って最後の方はかなり後悔していた。
ちなみに、最後に歌うといううたの内容は、三番まであって、晴れ用と雨用の二種類あると言う。
それ以上は教えてもらってない。
てるてる坊主の歌というと、僕が知るのは童謡くらいだけども、関係あるのだろうか。

そうこうしているうちに、八百体目の人形を天上に吊るし終えた。
もうKは九百体に王手をかけ、カウントダウンが始まるのもそう先のことではないだろう。
但し、ここまで来るのに相当長かった。正確に言えば、食事と休憩も入れて十六時間くらい。
「うーん……、眠たーい寝たーい夢見たーいー」
「さっきからうっせーな。ダイジョーブだって。人間三日くらい寝ずに働いたって、死にゃしねえんだからよ」
「一体三円って、絶対割に合わない気がしてきた……、自給にしたら二百円以下じゃん」
「今頃おせえよ」
しかし、Kだって昨日から寝てないはずなのに、明らかに僕より元気なのが不思議だ。

そうこうしている内に、天井に吊るされた『ずうぼるてるて』の総数が九百五十を越えた。残り五十。
頭上を埋め尽くす逆さに吊るされた白い人形。
下から見上げれば、まるで僕らの方が天井にへばりついているかのような錯覚を覚える。
錯覚してる間に残り十体だ。Kも一緒に天井に貼り付けながら、カウントダウンが始まる。
……997……998……999……、1000。

85なつのさんシリーズ「千体坊主1 雨」3:2014/06/11(水) 17:58:18 ID:hD.sYvCs0
「おおー……!」
その瞬間、僕は思わず感動の声を上げていた。
消費ティッシュペーパー千と六枚(※途中鼻かんだから。最後で『六枚足りねえ』 ってなった)。タコ糸約三百メートル。
セロテープ丸々一個と半分。天上の消費面積、六畳間まんべんなく。総消費時間約十六時間と四十分。
千体坊主。完成。
「うわきめえー」
感動の千体坊主完成を経て、Kがまず発した言葉はそれだった。
僕はかなり本気で、バイト代要らないからぶん殴ってやろうかなこいつ、と思った。
「ま、何にせよ。後はうたを歌うだけってか。
 あー後は一人でやんよ。疲れただろ、ワリーなこんな時間までよ。……ほれ、バイト代」
そういってKはポケットから財布を取り出すと、ちょいと人差し指を舐めて、中から千円札を三枚取り出した。
もはや癖になっているようだが、やめれ。
「ってことで。今日は帰って、良く寝るこった」
「……今日一限目からあってだね。テストも近いから寝れん」
僕の言葉にKは「うはは」と笑う。
「マジかよー。でもまー、人間三日寝ずに働いたって死にゃしねえからさ。だから頑張れ若人よ……
 つーわけで俺は昼まで寝るわ。明日の天気を楽しみにしとけ。そんじゃ、おやすみ」
そう言ってKは部屋の隅に立ててあった折りたたみベットを広げると、その上に、バフン、と身を投げた。
ポーズじゃなくて本当に眠る気だったらしく、Kは十秒で死体の様に静かになった。
僕は最後に何か言ってやろうと思ったけど、結局、溜息だけをついて部屋を出る。
その際に、一度だけ振り返って再度部屋の様子を確認してみた。
千体の『ずうぼるてるて』 の下で気持ちよさげに眠るこの部屋の住人。
不思議と異様だとかは思わなかった。やっぱり、夜なべのせいで常識がどこかに転げ落ちたのだろうか。
僕は一限目の講義を受ける前に、せめてコーヒーを一杯飲んどこうと思った。瞼が重い。
学生寮から外に出ると、刺さる様な陽射しが出迎えてくれた。

この調子で本当に明日雨なんて降るのだろうか。講義中もふとそんなことを考える。
案の定その日の講義は、眠気と相まってさっぱり頭に入って来なかった。
昼からの講義で僕の隣に座ったSが、
「眠たげだな。まさかとは思うが……、一体何してたんだお前」
はい。てるてる坊主作ってました。ゴメンナサイ。

何とかノートを取ることだけに専念し、ようやく全部の講義が終了。
わき目も振らずに家に帰ると、ご飯も食べずシャワーも浴びずに即効でベッドに倒れこんだ。
完全に眠るまでに、三十秒もかかってないと思う。
その時見た夢は、今朝の新聞で見た四コマの『わたる君』 とまるで同じ場面だった。
妹のチカちゃんがアイスに手を伸ばそうとしている。
いけない。それは君のお兄さんが持つ知的好奇心から生まれた、素晴らしい実験装置なんだ。
何とか止めようとしたのだけれど、チカちゃん背に手を伸ばした瞬間に僕は目を覚ました。

86なつのさんシリーズ「千体坊主1 雨」4:2014/06/11(水) 17:59:01 ID:hD.sYvCs0
携帯が鳴っている。
かなり身体がだるい。僕は壁に掛けてある時計に目を向ける。午前零時過ぎ。真夜中だ。
電話なんて無視しようかとも思ったけど、一応相手を確認する。
Kからだ。僕は無視することにした。
……止まない。
観念して電話に出る。文句を言ってやろうと思ったけど、それより相手の声の方が早かった。
『おい、雨が降ってるぞ!』
中途半端に起こされたので、まだ片足が夢の中だった。だから僕は中々Kの言葉の意味を掴むことが出来なかった。
そりゃ雨だって降るだろう、降らなきゃ困る。今年だってそれで困っている人がたくさんいるのだから。
そんなことをたっぷり数秒考えて、僕はやっとその意味に至った。
「え、ホント!?」
僕は慌ててカーテンの隙間から窓の向こうを見やる。
外は晴れていた。僕は目をこすってもう一度星空の下を注意深く見る。比較的明るい夜だ。紛れもなく空は晴れている。
「……晴れてんだけど」
こんなつまらない冗談のために起こされたのかと憤慨しかけるが、
次いで聞こえたKの声は普段と違って割と真剣なものだった。
『すまん、聞こえねえ。もうちょいデカイ声で喋ってくれ』
「晴れてんだけど!」
『ああ、んなこた分かってる。それでも、雨が降ってんだ』
本格的に意味が分からない。晴れてるのに雨が降ってる。どんな状況だそれ。
「それって、キツネ雨ってこと?Kの寮の周りだけ?」
『は、キツネ雨?……違う。雨は降ってない』
少しイラっとくる。僕は眠たいのに。
「あんさあ、ちょっと意味が――」
『音だけなんだよ』
Kははっきりとそう言った。
『雨音だけが聞こえる。今外雨降ってないよな?だろ?なのに聞こえるんだぜ。耳ふさいでもまるで止まんねえし。
 最初は小雨程度だったけど、何かドンドン強くなってる気がするし。たぶんな、ちいとやべえよ、これ』
これは決して僕をからかっているのではない。これまでの付き合いから僕にはそれが分かった。Kは嘘をついていない。
本当に雨が降っているのだ。Kの中で。
『でさー。コレ非常に言いにくいんだけど、まー、頼みがあんだよ』
「……何?」
Kは本当に言い辛いのか、電話の向こうで数秒間を置いた。
『今からさ、バイトしねーか?材料はもう揃えたからよ』
その言葉で僕は全てを承知した。
「分かった……、行くよ」
電話を切り、そのまま家を出る。
そうして愛車のマウンテンバイクに跨る前に、僕は友人のSに電話をした。真夜中だがきっと起きてる。
予想通り電話に出たSに、僕は少し迷った挙句、正直にことの次第を話した。
「Kがバイト代も出すってさ」と言ったのが唯一の嘘だ。
しかしSは興味もなさげに一言、
『てるてる坊主のせいで幻聴が聞こえるとか、俺はそういった類は信じていない。
 あと今はテスト期間中だぞお前。二日も無駄にすんなよ』
僕は「そっか……。うん、分かった」と電話を切った。
僕はSとも付き合いが長いから分かる。そう言ってくるだろうとは思っていたんだ。

87なつのさんシリーズ「千体坊主1 雨」5:2014/06/11(水) 17:59:47 ID:hD.sYvCs0
Kの寮に行く前に、コンビニ寄って食品とコーヒーを買う。
自転車を漕ぐ。大学までの坂道がしんどい。
それでもかなり飛ばして、いつもの通学より大分早い、コンビニから二十分程でKの住む学生寮に到着した。
Kの部屋は二階の一番奥。鍵は掛かっていなかった。僕は二回ノックして、部屋に入る。
入って最初に思ったのは、天井のアレが綺麗に無くなっていて、さっぱりしたなということだった。
部屋の中ではもう、新しいてるてる坊主が山の様に積まれていた。二百はあるだろうか。
Kは僕が部屋に入って来たことに気付いていない様だった。黙々とてるてる坊主を作っている。
Kの顔は酷く青ざめている様に見える。
作業台の前に来ると、Kはやっと僕に気がついた様だった。「よお」と言うKの声が酷く掠れたように聴こえた。
そうしてKは、部屋の棚から一冊のノートとペンを僕に差し出すと、自分の左の耳を二度指で叩いた。
「……さっきから土砂降りでよ。なんか台風見てーだわ。……ワリーけど、何か言う時はそのノートに書いてくれ」
僕は軽く驚きながらも、『了解』 とノートに書いて見せる。

つい最近千体もの数を作った時と同じ様に、Kがてるてる坊主を作り、僕が天井に張り付けていく。
しかし、今回のKの手の動きは鈍かった。
しきりに頭を横に振っている。その額には玉の様な汗が浮かんでいる。
『作るの代わろうか?』 と書いて訊いてみるが、Kは首を横に振る。
どうやらこの千人坊主は、人形自体は自分の手で作らなければならないらしい。しかしまだ人形は二百と少し。
僕は少し焦っていた。もう病院に行った方が良いのでは、という考えが一瞬よぎるが、
この千人坊主のルールで、部屋を出てはいけないとあったのを思い出す。
悪いことが起こる。くそう、悪いことって具体的に何だよ。
その時、僕はふと雨音を聞いた気がした。
そんな馬鹿な。さっきまでは晴れてたのに。咄嗟に窓の外を見る。雨など降っていない。外は晴れている。
気のせいだろうか。いや、今もかすかだけど聞こえる。僕は一瞬、背筋が寒くなるのを感じた。
まさか僕も……?
しかし注意深く音の出ている方を探ると、それは僕の中ではなく、外から聞こえてくるものだと分かった。
Kだった。雨音はKの両耳の奥から洩れてきているのだ。
まるで他人のヘッドホンから音が漏れる様に、外に音が漏れるほどの激しい雨なのだ。
本人にとっては耳鳴りなどという生易しいものではないのかもしれない。
そこに至ったとき、僕は途端にどうすればいいのか分からなくなった。
見ると、Kは額だけでなく腕にも汗をかいている。部屋はクーラーが効いているのに。
僕はノートに『大丈夫?』 と書いて見せた。
Kはしばらくの間、ぼーっとその文字を見てから、「はは」と力なく笑い、「……やっべえ」と一言だけ呟いた。
初めて見るKのそうした姿だった。
僕は何も言うことが出来なくて、まあ例え口に出しても届かないのだけど、
目を瞑って「とりあえず落ち着いて考えろ」と口に出し自身に言い聞かせる。
しかし考えは浮かばず、どうして良いのか分からない。
今、Kの手は動いていない。顔をしかめてじっと俯いている。
どうしよう。どうしたらいい。考えろ考えろ。
自分一人に、何ができる?
部屋のドアが開いた。
「あー、本当にやってんのな」
そこに立っていたのは友人のSだった。
とりあえず僕は長い息を吐いてから、「おっせえ」と言ってやった。
これまでの付き合いから、ぶつぶつ言いながらも来るというのは分かっていたんだけれど。
「仕方ないだろ。そんなことより、バイト代はほんとに出るんだろうな」
金に困ってない癖に、Sはそんなことを言った。

88なつのさんシリーズ「千体坊主2 晴」1:2014/06/11(水) 18:01:23 ID:hD.sYvCs0
「……で?こいつは一体どうしたんだ」
言いながらSが作業台の横に来ても、まだKはSのことに気が付いていない様だった。
僕は今は会話できないKの代わりに、Sに現在の状況を一から説明する。
それに対してのSの感想は「ふうん……」と実に簡素なものだった。
それからKの方に近づいて、「俺には聞こえんな。雨音」と言う。
「――おいコラKっ!」
Kの耳元でSが叫ぶ。僕は驚く。しかしKは反応しなかった。
それを確認して「ふうん」ともう一度Sは言う。しかし、Sその言い方から何か納得はした様だった。
Sがノートを持って何かを書く。そしてKの肩をポンポンと叩いた。
Kが顔を上げた。その目が少しだけ驚いた色の光を放った。
しかし他の感情が見えたのはそこだけだった。Kは歯を食いしばって、暴音という痛みに耐えていた。
僕にはその実際の痛みの程は分からないが、表情だけで十分痛さが想像できる。
Sがノートを指差した。読めと言うことなのだろう。首を伸ばして覗くと、ノートにはこう書かれていた。
『前の雨乞いの時に使ったっていうてるてる坊主はどうした?』
もう喋ることも辛いのだろう、Kは黙ったまま押し入れを指差した。
Sが開けると、透明なビニール袋の中に入ったあの人形達が出てきた。ビニール袋は五つもある。
Sはそれを確認すると、またKの元に戻った。
『これからこの人形を全部捨てて来る。あと、今作ってる奴も一緒にだ』
それを見て僕は驚いた。前に使ったものは良いとしても、何故、今作っている人形まで捨てるというのだろうか。
しかし、Kはその文字をゆっくりと視線を這わすようにして読んだ。そしてSに視線を戻す。
それからきつく目を瞑り、天井を仰いで、Kは掠れた、しかしいつものKの声で言った。
「おーけー、わかった」
理由も聞かずにKはそう言ったのだ。
Sは一つ頷いて立ち上がり、机の上にあった作りかけの人形を集めて、新しくゴミ袋の中に入れた。
そして僕に向かって「半分持てよ」と言った。
混乱していた僕は、はっとして、急いで六つの内の半分を持った。量が多いだけで全く重くはない。

「あーそうだ」
部屋を出る際にSは何か思い出した様に呟き、ゴミ袋を床に置くと、Kの方へ戻って行った。
ノートを手に取って何かを書き、Kに見せる。Kが頷く。
するとSがKの背後に回る。それは一瞬の出来事だった。
Sの腕がKの首に絡みつく。五秒もかからずKは落ちた。
唖然とする僕に、Sは平然と「行くぞ」と言ってまたゴミ袋を手に取った。
「な、なな、なんで?」と訊く僕に、
Sは何でもない口調で「『それじゃ眠れねーだろ』って訊いたら、肯定したからだ」と言った。
「……チョークスリーパー?」
「いや、裸締め」
そう言えば、Sは中学高校と柔道部だったとKから聞いたことがある。
何でも、ものすごく強かったせいで喧嘩を売る輩が絶えず、しかしその全てに勝ったためSはその町の……、
いや、これ以上は言うまい。

近所のゴミ捨て場にでも捨てるのかと思ったら、
Sは自分の車を使って、人形達をどこか遠くへと捨てに行くつもりらしかった。
後部座席に五つゴミ袋を詰め込み、僕は袋を一つ抱いたまま助手席に座る。
車は未だ何処へゆくかも分からないまま発進した。
「なあ、これから、何処行くん?」
「河だ。近所の、汗見川」
Sはそう答える。それは意外な答えだった。
「か、川?」
「そうだ。……ああ、その前に、少しばかり酒屋に寄るぞ」
「さ、酒屋!?」
「酒が要る」
僕にはSの考えがまるでさっぱり分からなかった。
もちろん、夜の河原で酒盛りしようぜ、などと言っているわけではないことは分かる。
しかしなら何故、酒屋に寄って目的地が川なのか、僕の頭では合理的説明を出すことは出来なかった。
どうしてか。何故か。分からない。

89なつのさんシリーズ「千体坊主2 晴」2:2014/06/11(水) 18:02:20 ID:hD.sYvCs0
「……そもそもがおかしいだろ。その千人坊主ってのは」
「え?」
小さな交差点の赤信号で停まった際にSは話し始めた。どうやら僕の混乱を見てとったらしい。
「お前らは、おかしいとか思わなかったのか?」
「いや、思ったけど……。夜なべで千体もつくらなきゃいけないってとことか……」
「そうじゃなくてだな。
 結果からみても明らかだが、あれは天候を変えるまじないなんかじゃない……。人が人を呪う類のものだ」
信号が赤から青に変わって車は走り出し、僕は腹から胸に掛けて、ぐう、と慣性の力を感じる。
「まずやり方からしておかしいだろう。
 人形に自分の血か唾液を染み込ませるなんて方法は、どう考えても占いや呪術の方面だ。
 明日の天気を変えてほしいと願う対象を、自分の形代にしてどうする。自分で自分に願うのか」
「……かたしろ、って?」
「本物の模倣品ってことだ。呪いのわら人形とかもそうだろ。あれも相手の髪の毛や、身体の一部を用いるそうだから」
僕は自分の抱える数百体の人形を見る。この一体一体全てに、Kの身体の一部だったものが付着している。確かにそうだ。
「二つ目に、千体目が出来た時に歌う歌だ。
 ……実はKの家に行く前に、ちょっとネットで調べてみた。お前が電話で言ってた、千人坊主とやらをな。
 検索掛けたらすぐ出てきた。あるオカルト系の掲示板に、一からやり方全部載ってた。全く賑わってはなかったがな。
 最後に歌ううたは、晴れを願う場合は、有名な童謡の『てるてる坊主』 だ。聞いたことぐらいあるだろ」
そう言って、Sはそのうたの歌詞を口ずさんだ。

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに
晴れたら 金の鈴あげよ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
私の願いを 聞いたなら
あまいお酒を たんと飲ましょ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
それでも曇って 泣いてたら
そなたの首を チョン切るぞ

「……これが、晴れを願う場合の歌なんだそうだ。一方で、雨を願う場合は少し違った歌詞になる」
そうしてSはまた口ずさむ。

ずうぼるてるて ずうぼるて
あした雨よ ふっとくれ
いつかの朝の 地のように
降らせば 赤い飴あげよ

ずうぼるてるて ずうぼるて
あした雨よ ふっとくれ
私の願いを 知ったなら
からいお酒を たんと飲ましょ

ずうぼるてるて ずうぼるて
あした雨よ ふっとくれ
それでも笑って 晴れたなら
そなたの足を チョイと?(※も)ぐぞ

90なつのさんシリーズ「千体坊主2 晴」3:2014/06/11(水) 18:02:52 ID:hD.sYvCs0
「これが、雨を願う場合の歌詞。どちらも、大した変りは無い。
 三番目の最後の部分が、どちらも願いが叶えられなかったら危害を与える、という内容だ。
 実際にある童謡でも、ちょん切るとか言ってるしな」
「それが、耳の中に降る雨と、どう関わるん?」
「『そうされないために人形達は一生懸命天気を変えようとするのです』」
「え?」
「ネットの掲示板にあった言葉だ。やり方を説明した部分のな。
……もしも人形につばや血を付ける行為が、人形を限りなく『生きたモノ』 に近づけるためだとする。
そうして吊るされた千体の人形に、もしもほんの少しの意思を持ったとして、その意思は何のために使われる?」
「何のため……」
「天候を変えるためだ。しかし、現実はそんなに貧相なものじゃない。天気は気象にのっとって動く。変わらない。
 だとしたら、首を切られないために、足を?がれないために、千体の人形に変えることが出来るのは、どこだ?」
Sはゆっくりと続けた。
「それは頭だ。人間の脳味噌の中の、僅かな部分」
僕は黙ってSの話を聞いている。腕の中の人形達が何だかざわついている気がする。
「勘違いすんなよ。俺は別に、人形に命や意思が宿るなんて思っちゃいない」
そこでSは少しだけ笑った。何が可笑しかったのかは僕にはわからない。
「……つまりは、『そういう筋道』が、意識下か無意識かは人次第だろうが、
 この千人坊主を行うプロセスの中で、『出来上がって』しまう。
 ……千個も作った後なら、時間もかかって集中力も使ってるだろうしな、暗示に掛かりやすい状態ってわけだ。
 『部屋から出てはいけない』っていう注意文句もここに掛かって来る。
 時間を置いて作らせない、一気に集中的にやらせる」
Sの言葉によって、頭の中に一つの話の道筋が浮かんでくる。けれども、それは決して気持ちのいいものじゃない。
「あそこにアレを書きこんだ奴の気が知れないな。愉快犯って奴か。
 そう言う意味じゃあ、解決策と思しきものを暗に示してる、って点でもタチが悪い。
 雨が降り続ければ、人は晴れ間を望む。ああいう形でセット出だされれば、誰だってもう一方が解決策だと思う」
どくん、と心臓がはずむ。Sの言わんとしていることが理解出来たからだ。
雨を願って、Kの頭の中に雨が降る様になった。だとしたら、晴れを願えば……。
「これは憶測だが……目に関することじゃないかと、俺は思う」
光。光のイメージ。目の前で輝く何か、時を追うごとにそれはどんどん激しく眩しくなっていって、ついには……。
「俺は、幽霊とか超能力とか、基本的に信じていないが、『呪い』はあると思ってる。いや、あってもいい、と思ってる」
車は目的地である汗見川の川沿いに建つ、一軒の個人経営らしい店の前で停まった。
看板には『酒・タバコ』 とあるが、もうシャッターは閉まっている。
「あるプロセスを通して、生きた人間から生きた人間へ。
 その間に意思と脳みそがある以上、ある程度の何かが起こっても不思議じゃない」
そう言って、Sは一人車から降りていった。
そしてシャッターの横の勝手口の前に立ち、ノックした。
しばらく間があってから僅かに扉が開く。
そこでSが二言三言何かを言うと、ドアの隙間が大きくなって、Sは店の中に入って行った。
次にSが出て来た時、その手には一升瓶が抱えられていた。
「これ持ってろ。じゃ、行くぞ」
「……S。ここの人と、知り合いなん?」
「そんなとこだ。一番からいのを選んでもらった」

91なつのさんシリーズ「千体坊主2 晴」4:2014/06/11(水) 18:03:43 ID:hD.sYvCs0
そして車は近くの河原へと降りる道を進んで行く。
タイヤが河原の意思を踏む音がした時、Sは車を停めた。
河原自体はそれほど広くない。停めた車のすぐ近くに川の流れがあった。
「さてと。ここらで良いだろ」とSが言う。ただ、僕には何が良いのかは分からない。
Sが車のライトをつけたまま車を降りる。そして後部座席の戸を開いて、人形入りのゴミ袋を取りだす。
「これからやることだけどな。作業には変わりないぜ。ま、人形作って吊るすよりは楽だろうがな」
そう言って、SはさっきKの部屋でノートに書くために使ったペンを僕に渡した。持ってきていたらしい。
「ざっと説明するぞ。人形に顔を書く。記号的な顔でいい、凝る必要は無いからな。
 そんで、一袋分たまったら、酒をかけて、川に流す。分かったか?」
分かったけど、分かんなかった。実際に何をするかは分かったけど、何でそんなことをするのかは全く分からなかった。
僕は曖昧に頷く。
「……まあいい、ただ顔を書けばいいんだ。時間もアレだしな、さっさと済ますぞ」

夜の河原でティッシュペーパー人形に顔を描いてゆく。
ちょんちょんちょん、すうー。で目と鼻と口の出来上がり。簡単だ。一体十秒もかからない。
それでも千二百体は少なくともあるので、僕らはただ黙々と作業を続けた。
一つのゴミ袋に一杯になったら、その中に直接酒を入れる。
そして川に膝まで入って、中身を水の流れに沿って一気にぶちまける。
夜の川にさらさらと流れてゆく人形達は、どこか幻想的で、でもこれはゴミの不法投棄なわけで。

「……役目の終わったてるてる坊主は、こうして川に流すものなんだそうだ」とSが作業中、何処かの折にぽろりとこぼした。
そうなのか、と思った。確かに首や足を取られるよりかは、こっちの方が随分マシな様な気がする。

全ての作業が終わった時、もう東の空から太陽が上り始めていた。最後の一体を見送って、僕とSは同時に伸びをした。
「Kの奴は大丈夫かねぇ……」
「まあ、大丈夫だろ。呪いには呪いをってやつだ」
「何それ」
「知らん。適当に言ってみただけだ。いずれにせよ戻れば分かる、出すぞ」
Sが車に乗り込む、僕も慌てて助手席のドアを開けた。

日が出たと言っても、大学までの道に人影はほとんど無い。戻って来た学生寮の周辺もそうだった。
ここに戻って来た時、僕はどうしてか、
幼少時、母に怒られて家を飛び出したあと、そろそろと足音を立てないで家の窓から侵入した時のことを思い出していた。
なんだか妙に後ろめたいという感覚。
ただ、Sはそんな思いは微塵も感じていない様で、車を降りてずかずかと寮の中に入って行った。
Sは二階のKの部屋まで一直線に、僕はそろりそろりとその後ろをついて行く。
一階の集合ポストに新聞が挟んであったので、ついでにKの分を抜き取る。

92なつのさんシリーズ「千体坊主2 晴」5:2014/06/11(水) 18:04:29 ID:hD.sYvCs0
部屋の中でKは、僕らが出ていった時と同じ体勢で作業台の横に倒れていた。
Sがその背中を軽く蹴る。起きない。蹴る。起きない。
それからSはKの上半身を背後から抱き起こすと、両脇の下から腕を入れて両手をKの首の後ろで固定する。
その状態でSが「んっ」と力を入れると、Kの半開きの口から「ほひゅっ」と変な音が漏れた。
「……う、うおう!?」
Kが起きた。
するとSはすかさずKの目の前に自分の手をかざし、人差し指と中指と薬指を立て、極々小さな声で言った。
「……何本だ?」
Kは未だに状況が上手く掴めていないらしく、数回高速で瞬きした。
「何本だ?」
Sがもう一度、囁くように訊く。
「う、あ?……あ。えー、三本、だ?」
「よし。耳は聞こえてるな。目も意識も問題ないようだ」
そこでKはようやく自分の変化に気がついたようだった。
「お、おー!ホントだ。雨が、やんでら……」
それを聞いた瞬間、僕の中で張りつめていたものが煙の様な音を立てて抜けていった。
安心すると、油断をしたのか腹の底から大きな大きな欠伸が出た。そのせいでちょっと涙が混じった。
欠伸がてらに、上手く呑み込めていないKに状況の説明をしてやった。
こっちは真剣に話しているのに、相槌がいちいち「へーえ」とか「ほーお」とかばかりだったのが気になったが、
まあ、それは良いとしておこう。
「……呪いかよ。こえーなあ、しかも無差別なんだろ?」
「インターネットの様な環境は、そういうものをばらまくのに最適だからな。
 まあ、そんなもんに迂闊に手を出す奴も悪いんだが」
「あー、いや。マジ反省してる。……今回はキツかった。いやマジまいった。次からはさ、こういうことの無い様にすっから」
「次があったら見殺すぞ。あとバイト代よこせよコラ」
「はっはっは。またまた冗談を」
そんな今日も冴えている漫才コンビの後ろで、僕は先程ポストから持ってきた今日の朝刊の週間天気の欄を見ていた。
六日間晴れマークの続いた後に、ぽつんと傘のマークがついている。
ふと思い出す。
もしも今回のことが呪いのせいならば、
僕がKの耳元で聞いたあの本物の雨の音も、やっぱり呪いの類だったのだろうか、と。
分からない。呪いは伝染するのかもしれない。良い意味でも悪い意味でも。
その証拠に、SがKを絞め落とす際に見せたノートに書いた言葉、机の上に開きっぱなしになっているそれには、
『耳鳴りで眠れないか?』 の下に走り書きで、『目が覚めたら、全部終わってる』 と書かれていた。
もしかしたら、これがSの言っていた呪いには呪いというヤツだろうか。

ちなみに、四コマ漫画『わたる君』 の今日のネタは、
『どうしても遠足に行きたいわたる君が、てるてる坊主を百個作ってベランダに吊るして、
 作り過ぎだとお天道様に呆れられる』
というものだった。
Kに見せると、「ギャグ漫画にリアルで勝つとかオカルトだろ……」などとわけの分からないことを口走っていた。

93なつのさんシリーズ「Kとの出会い」1:2014/06/14(土) 01:15:02 ID:Hpd3syqU0
大学に入学して間もない頃、僕は学科の新入生歓迎会を通じて、とある面白い男と知り合った。
そいつは名をKと言って、人懐っこくて陽気な男だった。
正直なところ僕は小中高と友達が極端に少なく、
だから大学生活が始まって早々、Kと言う友人が出来たことが素直に嬉しかった。

歓迎会は、街の中心にある市民ホールみたいなところのワンフロアを貸し切って行われていた。
まるで身に入らない学長の話が終わった後、当然ながらすでに仲良くなった者同士グループで固まっていて、
僕とKはフロアの隅の方で、しばらくの間二人だけで話をしていた。
しばらく「出身地は何処か」とか、「趣味は何か」など、取り留めも無い話をしていた。
そして、そんな話題もひと段落したころ。
Kがおもむろに「あそーだそーだ。見せたいものがあんだけどよ」と言って、
傍に置いていた自分のバッグから何かを取りだした。
Kが取り出したのは、立方体の形をしたナニカだった。
大きさは一辺が十センチ程度、両親が結婚指輪を入れている箱よりは一回りほど大きいと言ったところだ。
Kはそれを僕の傍ら、料理を並べているテーブルの上に置いた。
「さて、ここで一つ質問。こいつは一体、何だと思う?」
箱を指差してKは僕に尋ねる。
質問の意図がイマイチ良く分からなかったが、僕はとりあえずその塊を一通り眺めてみる。
上部に周囲を一周する切れ目と、一つの面に可愛らしい蝶番が二つついていたこので、これは箱なのだと見当付ける。
材質は木製のようで、木目以外の模様は見えなかった。
「……えーと、箱、だと思う。木の箱」と僕が答えると、Kは満足そうに「おーけーなるほど」と言った。
「正解だ。んじゃ、それ手に取ってみて」
言われた通り僕は箱を手に取る。その時、ことり、と箱の中から僅かに音が漏れた様な気がした。
「開けてみ?」
僕はフタの部分を手で押さえ、箱を開けようとした。
「……あれ?」
開かない。少し力を込めてみる、がやっぱり開かない。
どころかいくら力を入れても、箱とフタの間に僅かな隙間も作れなかった。
「開かないよ?」
するとKは面白そうに「うはは」と笑い、僕はちょっとムッとする。
「まー開かねーだろうな。だってそれカギ掛かってっから」
「鍵?」
言われて僕は、改めて箱を見直してみる。

94なつのさんシリーズ「Kとの出会い」2:2014/06/14(土) 01:15:34 ID:Hpd3syqU0
そんな鍵がついている様には見えなかったけどなあ、なんて思いながら、もう一度四方八方360度見てみたが、
やっぱり鍵穴なんて何処にも見当たらなかった。
「鍵穴も、何も見えないけど……」
するとKはさらに「うははは」と笑い、僕はさらにムッとする。
「ワリー、ゴメンゴメン。でもな、本当、鍵はちゃんと掛かってんだよ。親指くらいのちっちぇ南京錠だけどよ」
「でも、」
「まあ聞けよ。鍵はな、外側からじゃなくて、内側から掛かってるんだ」
「……え?」
一瞬、頭の全細胞が急ブレーキをかけて動くのを止めたかの様に、僕の思考がストップした。
ただしその停滞は気のせいかと思う程短く、一秒かからず回復し、僕の脳細胞は再び自分たちの仕事を再開する。
「それはおかしいよ。箱を閉じた状態で、内側から鍵はかけれない」
「まーそらそうだな。つっても俺からは、『内側からカギが掛かってる』 って、それしか言えないわけだが……。
 なあ、箱、振ってみ」
数秒躊躇してから、僕は箱を軽く振ってみる。コツ、コツ、と中で音がする。何かが入っているようだ。
「音がすんだろ。そいつが箱の鍵だ」
鍵のかかった箱の中にその鍵がある。あくまでもKは、内側からカギをかけたのだと言い張るつもりのようだ。
僕は僅かな時間、箱を見つめてそれからKを見やった。
「でさ。この箱を僕に見せてどうしようって言うん?なんか理由が分からんのだけど……」
Kがまた「うはは」と笑う。どうやらこの笑い方は彼のクセらしい。
ふとKの笑い声が止んだ。そして間を置かず、口元に笑みの跡が残ったまま彼はこう言った。
「○○(←僕の名前)はオカルトを信じるか?」
沈黙。僕の頭はまたもやフリーズしていた。気のせいじゃない。今度ははっきりと、たっぷり十数秒。
「……何?」
「何って、ただの簡単な質問だって。オカルトを信じるか、そうでないか。
 あなたは地動説を信じますか、ってな質問と同じレベルだろ」
僕はすぐには答えられなかった。
質問の意図が分からなかったからと言うのもあるが、それ以上に、
口元は笑っていたが、Kは至って真面目に、真剣に、この質問を僕にぶつけた。それが伝わって来たからだ。
僕の回答を待たず、Kが口を開く。
「『その箱が本当に内側から鍵をかけられているのか』 ってのは、
 まあ○○(←僕の名前)の立場からすれば、考え方、まー可能性だな、は三つあらーな」
Kが両腕を前に出す。右手はピース、左手は人差し指だけ立てて。
「まーず、一つ。俺が嘘をついている。こりゃ簡単。箱は糊づけでもされてて、中には石コロなんかが入っている。
 ま、無難な考えだ」
Kの右手の中指が下がる。両手共に残っているのは人差し指。残り二つ。
「そんで二つ目。確かに内側から鍵は掛かっているのだけど、何らかの現実的な方法・手段を用いて俺がそうした。
 ま、ミステリの密室トリックみたいな感じだなこれ」
僕は何か言おうとした。しかしKがそれを制して言う。
「ただし、だ。前提としてだな、その箱は、箱部分とフタ部分の二パーツだけ。
 んでもって、その二つのパーツは、一つの材木から削りだされてる。見てみな、つなぎ目、無いだろ?」
「じゃあ、蝶番は……」
「おっと、良いとこつくな。でも残念。蝶番はネジ止めされてるんだが、ネジは箱の内がわでナットでとめられてんだ。
 意味分かるよな?」

95なつのさんシリーズ「Kとの出会い」3:2014/06/14(土) 01:16:19 ID:Hpd3syqU0
それはつまり、箱の内がわの『南京錠に鍵を掛けて鍵も中に入れてから、蝶番を取りつけて密室を作りだす』 、
それが出来ないということ。
「二つ目の可能性は、そこを踏まえてなお、俺が細工をした、っていうことだ。ここまで、二つは理解出来たな?
 よし。おーけーおーけー」
Kが立てている指が、いつの間にか左手の人差し指だけになっている。
「じゃ、最後だ。
 最後の可能性は、ここまでの俺の話は全部本当で、鍵を入れて箱を閉めた後、『何かが、箱の中で、鍵を掛けた』」
Kの左手の人差し指が、僕の手の中にある箱をさす。ことり、と箱の中で音がした。
「……だとしたら、その『何か』 は、まだ箱の中に居ることにならないか?なるよな?うん」
片手で持ててしまうくらいに小さな箱の中。
その中に、鍵を掛けてしまえる何かが存在する。常識的に考えれば、あり得ない。
しかし、今の僕の口からは何故か、その『ありえない』 という五文字の言葉が出てこなかった。
「もう一度聞こうか。『○○は、オカルトを信じるか?』」
Kが先程の質問を繰り返す。
「答えがNOなら、その箱、無理やり開けてみな。
 蝶番はネジ止めになってるから、そこのナイフでも使えばいけるだろ。石コロが入ってるかもな。
 ……しかしだ。し、か、し」
ずい、とKがこちらに一歩近づき、僕は思わず一歩下がる。
「その時、もし、箱の中にとめられた南京錠とその鍵が入っていたら……どうなる?」
どうなる。鍵が入っていたら。どうなる。
僕はその状況を想像してみるが上手くいかない。
ナイフで蝶番を壊し、開けた箱の中身、そこには靄が掛かっている。まるで浦島太郎の玉手箱だ。
僕は目を瞑った。暗闇の中でイメージはよりリアルになる。箱の中の靄が徐々に晴れて行く。雑音が消えた。靄が晴れる。
箱の中には、内側に掛けられた小さな南京錠と、小さな鍵が一つずつ。
その瞬間、足元が崩れ、僕の中の世界は壊れた。
刹那の落下の感覚。それが僕を想像の中から現実の世界に引き戻した。
目の前にはKが居て、腰に手を当てニヤニヤ笑いながら僕のことを見ていた。
僕は僅かに高まった動悸が鎮まるのを待って、一つ大きく息を吐いた。
「……箱は開けない。オカルトを信じるも信じないも、僕には分からないよ」
手にしていた箱をテーブルの上に置く。
するとKが噴き出した。笑う。「うはは」と。今までで一番大きな笑い声だった。周りのみんながこちらを見る程に。
呆気にとられた僕は、ぽかんと口を開けてKを見つめていた。
「うはははははっ、……あーいやー、ワリーワリー。はは、ゴメン。いややっぱお前おかしいよ。
 おかしいだろ?ふつー開けるだろ?はっ、うははは。分からないから、開けたくないって、マジかよ、はっは……」
よほどおかしかったのか、Kは腹を抱えて笑っている。
僕がこいつ今日初めて話したんだけど、殴ろうかどうしようか真剣に迷っていると、ようやくKの笑い地獄は収まった。
「あー、久々に笑ったわ。いやマジごめん。悪気は無いんだって。ただ、予想外の答えで面白かったからよ」
Kが箱を手に取る。
「俺よー。なんか自分と気が合いそうな奴みつけたら、この箱見せんだけどよ。さっきみたいに話しながらさ。
 そんで相手に訊くんだ。『オカルトを信じるか否か、箱を開けるか否か』 ってな。
 ……でもみんな結局は、箱を開けるって言うんだよな」
話しながらKは箱を回転させたり、軽く上に放ったり、色々弄んでから、箱の底部分に左手を、フタの部分に右手を添えた。
「そう言う時はネタばらしをすんだけど、『ごめんごめん。全部俺の嘘でした』 っつってさ。
 箱を取り返して、そいつとは縁を切る」
「……、え?」
「だーかーら、実際に箱を開けて見せるのは、お前で二人目だな、うん」
何かを問う暇もなかった。Kが「んよっ、」と妙な掛け声で気合いを入れると、
箱の蓋がまるでルービックキューブの一列だけ動かす時の様にスライドした。

96なつのさんシリーズ「Kとの出会い」4:2014/06/14(土) 01:17:09 ID:Hpd3syqU0
「え、え〜……?」
そのままKは、箱の蓋をジャムの瓶からフタを取るがごとくくるくると回す。数回転するとフタは箱から外れた。
途端に箱の中から何かが飛び出した。が、それはバネによって飛び出してきた白い紙人形だった。
紙人形は人魂のような形をしていて、足が無く、両手にプラカードを持っている。そこにはこう書かれていた。
『Welcome to Occult World!!』
「オカルトの世界へようこそ〜!」と親切にもKが訳してくれる。
見ると蓋の方に蝶番が二つともくっついていた。あれは最初から箱の方には固定されてなかったのだ。
やられた、僕は騙されたのだ。
「……ハナから嘘だと思ってるよーな奴に、ホンモンは見えねーんだよ。
 ……あ、ちなみに箱の中で音出してたのは石コロな」
そう言ってKは「うはは」と笑う。けれど、そこには嫌味だとかそういった感情は何一つ見えなかった。
再び蓋を閉じ、箱を元に戻したKが右手を僕の方に差し出す。
「握手」
僕はたっぷり躊躇って、恐る恐るその手を握った。上下左右に振り回される。痛い痛い。
「……お前、あの最初の挨拶で、学長のナナメ後ろに居た奴、……見えたろ。一人だけ全然違う方向見てたからよ」
手を握ったままKがぽつりと呟いた。
その言葉に、ああそうかと納得する。だからKは僕なんかに話しかけたのだ。
僕が、話をする学長の後ろ、ここのホールに居る『気配』 に気付いていたから。
「見えては無いよ。……なんか居るなー、くらい」
「上等上等。うはは、ま、そんなわけでさ。これからよろしくな。なんかお前とは長い付き合いになりそうだし」
何時の間にか『○○君』 から『お前』 になっているのはまあ良いとして、それにしてもと僕は思う。
小中高と友達が居なかった一番の『原因』 が、大学生になってすぐ友達が出来るきっかけになるとは。
世の中と言うものは分からないものだ。
「ところでよ、週末、街の北西にあるって言う廃病院行くんだけど、来るよな」
「え?……いや、僕、まだ足が無いから……」
「大丈夫だって。今日は『面倒臭え』 つって来てないけど、Sっていう俺のマブダチが車持ってっからよ。な、行こうぜ」
後にこのSとも僕は強烈な出会いをすることになるのだが、それはまた別の話。
気がつくと僕は廃病院行きを了承していた。

この日うっかりKの友人になってしまったことがきっかけで、僕は大学生活の中で様々な体験をすることになる。
まあその時はそんなこと知る由も無いのだがけども。
ただ、何だか面白いことになりそうだな、という漠然とした予感があったことだけは、はっきり覚えている。
それは、僕にとって今までに感じたことのない光。
やはりKは嘘つきだった。鍵はちゃんとあの箱の中に入っていたのだ。
『Welcome to Occult World!!』

「Kとの出会い」終わり

97なつのさんシリーズ「Sとの出会い」1:2014/06/14(土) 01:18:27 ID:Hpd3syqU0
大学一年生の春、僕は生まれて初めて自らの意思で心霊スポットに赴くことになった。
大学主催の新入生歓迎会で、オカルティストのKと知り合ったのがきっかけだ。
歓迎会があったその週の土曜日、深夜十時。僕は待ち合わせ場所の大学正門前でKと落ち合った。
Kの話によると目的の廃病院は、街を北西に向かい、その先の山を少しばかり上った場所にあるらしい。
もちろん歩いては行けない。
当時の僕は原付バイクの免許すら持ってなかったし、
そもそもこの歳で自転車すらまともに乗れない程の、『車輪オンチ』 だったのだけど、まあ、それはいいとしてだ。
廃病院までは、Kの友人のSという人が車を出してくれるらしい。
Sは僕と同い年で同じ学科だとKが教えてくれた。
僕はSと面識が無い。先日の歓迎会にも来ていなかった様だし、まともに会うのはその時が初めてだった。
僕はKに、Sはどういう人かと尋ねてみた。するとKは「うーん、まー、そーだなー……」と一つ間を置いてから、
「理屈好きで説教好きで頑固で皮肉屋でリアリスト」
そして可笑しそうに「うはは」と笑った。
僕は何を言えるでも無く、「ふーん……」とだけ述べておいた。
とりあえず僕の中でのSのイメージが、
一昔前の特撮アニメで出てきた白髪で眼鏡のマッドサイエンティストで固まったことだけは確かだった。
「KはS君と、前々から知り合いなん?」
「おう、小坊のころからだから、もう腐れ縁だな」
そう言ってKはまた「うはは」と笑う。
噂をすればなんとやらと言うが、Sがやって来たのはその直後だった。
正門前で待っている僕ら二人の前に、やけに丸っこいボディをした小型車がやって来て停まった。
窓が開いて、運転手が外に顔を出す。
若干細目で、髪ぼさぼさ、セットしていないのか所々寝癖の様にはねていた。この人物がSの様だ。
残念ながら白髪では無かったが、眼鏡はかけていた。
Kが僕のことを紹介しようとすると、Sは面倒くさそうに方手を振り「後でいい。とりあえず入れ。さみぃから」と言った。
Kが僕の方を向いて『だろ?』 と、そんな表情をした。僕は、なるほど、と思った。

新たに僕とK二人を乗せてSの車は走り出した。運転するのはSで、助手席に僕、後部座席にはKが座っている。
正直、今日が初対面であるSの隣よりは、後部座席の方に座りたかったのだけど、
Kが言うには、後ろは彼の特等席だから駄目らしい。
そしてKはと言うと、車が発進するや否や、二人分のシートにバタリと横になって眠ってしまった。
Kが僕とSの間を取り持ってくれると思っていたので、これは予想外の事態だった。
しばらくの沈黙。車内にBGMは無い。
「……Kから何処まで聞いた?俺のこと」
さてどうしようかと悩んでいると、Sがいきなり口を開き僕は慌てる。
「あ、それはえっと、えーとだね。……S君って名前と、あと理屈と説教と頑固と皮肉とリアリストが好きって」
しまった、間違えた。別にリアリストが好きだとは言っていなかったな。
しかし弁解する間もなく、Sは怪訝な顔をしてバックミラーを見やる。
「別に好きなわけじゃない。ってか何吹き込んでんだあの馬鹿は……」
すんませんK。僕は心の中で謝った。
「まあ、名前さえ間違ってなきゃそれでいいんだがな」
「……S君で合ってるよね?」
「ああ。それと、『君』 は要らない。Sでいい」
それから僕とSは互いに自己紹介も兼ねた会話を交わした。
初対面の時は気難しい印象を受けたのだけど、話してみれば意外とそうでも無く、
少なくともKよりはよほど常識を持った人の様に思えた、その時は。

98なつのさんシリーズ「Sとの出会い」2:2014/06/14(土) 01:19:04 ID:Hpd3syqU0
いつの間にか車は市街を抜け、山へと続くなだらかな坂道に差し掛かっていた。
しばらくその道を上って行くと、僅かな外灯の明かりの中に、その薄灰色をした建物は唐突に姿を現した。
Sがその入口の門の近くに車を停める。ここが目的の廃病院らしい。
後部座席で眠っていたKがむくりと身体を起こした。
「んふー……ふわあぁおぉえあ。んーだ?お、着いたみてーだな」
Kがドアを開けて外に出たので、それを追って僕も持参の懐中電灯を握りしめ車外に出る。
外は寒い。
門の向こうには少しばかりの駐車スペースがあるようだったけれど、
『立ち入り禁止』 の看板と共に門が閉められているので車は入れない。
門の向こうに見える建物は、昔は白かったのだろうが、灰色の外壁の表面が所々剥がれ、細い亀裂が幾本も走っている。
二階建てだった。
一階の窓や入口にはトタン板が打ち付けてあり、
山を背にしたその建物は、夜の暗さと相まって何とも言えない暗鬱な雰囲気を漂わせていた。
「……昔はなー、ここからもう少し上った場所には集落があった。
 でも、いつかの地震で大規模の地滑りが起きて、集落は無くなっちまった。
 その集落の人間が主に利用してたのが、この病院だったっつー話」
言いながら身体をほぐす様に色々動かしていたKが、
自分の手にしていたライトを一旦ズボンのポケットに差し込み、両手を自由にする。
「……ここには色々噂があってだな。それこそ今から全部紹介してたら、それだけで朝になっちまうくらい」
そしてKは門に手を掛け足を掛けて、そのままひょいと乗り越えた。向こう側に降り立ち、こちらを振り向く。
「ってなわけで。さっそく、行こうぜ」
門に貼られた 『立ち入り禁止』 の張り紙が空しく感じられる。一瞬躊躇うも僕も行くことにした。せっかくここまで来たのだ。
けれども、そこでふと気がつく。Sのことだ。Sはまだ車から出ていない。
何をしているのかと思ったその時、運転席側の窓がスライドしてSが顔を出した。
「……俺は別に、幽霊やらその類に興味はないんでな」
まるで見透かしたようなタイミングで僕に向かってそれだけを言うと、Sの首はまた車内に引っ込んだ。
ウィーム、と音がして窓が閉まる。
「あいつ、立ち入り禁止って場所には入ろうとしねーんだよな。……別にワリーことしに行くわけじゃねーのにな」
と門の向こうからKが言う。
確かに荒らしてやろうだとか、ヤクの取引場所として利用しようとか、そういう意識は無いけども。
「まあ、入ること自体が不法侵入っていう、れっきとした犯罪ではあるけどね……」
自分の口から出た言葉が、幾分自嘲気味に聞こえる。まあ、ここに来ると決めた時点で、開き直ってはいるのだが。
「ちげえよ。ちげえ。俺はちゃんと事前に役所に電話して、『入っていいか?』 て訊いたんだよ。
 そしたら、『駄目』 っつーもんだから、仕方なくこうやってな?」
「どっちにしろ入るんやったら、訊く意味無くない?」
「礼儀だよ。礼儀、いいじゃん。ほれ、いこうぜ」
Kに促され僕は門を乗り越えた。
敷地に降りた瞬間、何やら身体中を無数の手に撫でられるような感覚があった。鳥肌が立つ。
門という壁一枚隔てただけで、これほど空気が変わるものなのか。
Kもそれを感じていたのか、まるで泥棒の様にそろそろ歩きながら病院まで近づいた。
二階建ての病院は近くで見ると、先ほどより大きく見えた。夜だからだろうか。
二階の窓に一瞬何かが映った様な気がして、僕はとっさに目をそむける。
「んじゃ……、お邪魔しまーす……」とKが言った。
入口はトタン板で打ちつけられているので、その横の割れた窓から入ることにする。
おそらくは以前にここにやって来た僕らの様な人が、力ずくでトタンを剥がしたのだろう。
最初に入った先はどうやら受付をする部屋らしかった。

99なつのさんシリーズ「Sとの出会い」3:2014/06/14(土) 01:19:35 ID:Hpd3syqU0
年月のせいで黄ばんだ書類がカウンターの下に散らばっている。ここに通っていた患者の個人情報だ。
あまりじろじろ見てはいけない、と自分に言い聞かせた後で、そうした心遣いの無意味さに気付いてひとり苦笑する。
次の瞬間、文章が不自然な箇所で途切れている書類を見つけ、苦笑は止んだ。
ロビーに出る。二人分の懐中電灯の光のみが照らす病院内には、月明かりすら入って来ない。
侵入してから、二人とも未だ無言。
院内は外観に比べると比較的綺麗だった。
割れた蛍光灯の破片やパイプいすや医療器具などが散乱しているが、
有名な心霊スポットの様に壁や床への落書きなんかは見当たらない。
ただ、それが逆にこの病院が未だ『生きている』 ように感じられて不気味ではあった。
それともう一つ、音がしていた。微かだが確かに聞こえる。
Kは何も言わなかったけれど、おそらく気付いている。『キィ……キィ……』 という何か金属がこすれるような音。
僕らは二人とも、風のせいだと思いこむか、もしくは聞こえないふりをしていた。
音は二階へと続く階段から聞こえていた。ただ、Kは先に一階を見て回るつもりのようだった。

一階の手術室、レントゲン室、診察室などを順に見て回る。
どの部屋も印象深いが、特に手術室にあった緑色の手術台が目に焼き付いた。まるでまな板の様だと思った。
けれど考えてみるとそうだ。手術台は人を捌くまな板だ。台の縁には血痕の様なシミも残っていた。

一階を一通り見て回る。
他のドアは全て鍵が壊されていたが、何故か一番奥の霊安室だけは、鍵が掛かっていて入れなかった。

ロビーに戻り、そのまま僕らは階段へと向かった。
その際に、Kがぼそりと言った言葉がある。
「本番は、病室のある二階だ」
今までは前座だったのか。

二階に上がる。
……キィ、キィ、キィ……
音がする。一階に居た頃よりもはっきりと。
「……さっきから、何の音だろう?」と僕は呟く。
「……ここには、車イスの霊がでるって噂もある」とK。
何故か二人とも囁く様な小声になっていた。そして二人とも声が少し震えている。
僕はKが例え僅かでも怖がっていることに驚いていた。こういうことは慣れっこだろうと思っていた。
存外頼りないのかもしれない。ああ、そうか、だから僕を誘ったのか。Sは来てくれないから。

100なつのさんシリーズ「Sとの出会い」4:2014/06/14(土) 01:20:06 ID:Hpd3syqU0
Kの評価が段々下降修正される中、それを阻止しようとKはゆっくりと音の出所へと向かい、僕はその後ろをついて行く。
音の出所は『202号室』と書かれた病室の様だった。まだネームプレートもそもまま残っている。
井出……高橋……仲瀬川……一つプレートが空いている。ここは四人部屋らしい。
キィ、キィ、……キィ、キィ
音がする。音がしている。このドアの向こうで。
その時、ドアの前に立つKが何の前触れも無く、「……うははは」とひきつった笑い声をだした。
憑りつかれたのかと身構えるが、ただの緊張からくる笑いの様だった。
「……ノックが要ると思うか?」
「いらないと思う……」
「おーけー」
Kがノブに手を掛け、ドアをそっと押して開く。
懐中電灯二本分の光の筋が病室内を照らした。
部屋の端にそれぞれベッドが四つ。マットもシーツも枕もそのままだった。
ドアを開けた瞬間、僅かな風が頬を撫でる。
見ると、窓が割れていて室内に風が吹きこんでいる。
その風のせいで、半分天井から外れかけた蛍光灯の傘が揺れて、
ベッドの横、天井から床まで伸びる鉄製のパイプと擦れ合って、ひび割れた音を出していた。
音の出どころはこれだったのか。
ふう、と隣でKが息を吐くのが聞こえた。同様にKも僕が息を吐いたのが聞こえただろう。
病室内に入る。窓から外を見ると、門の向こうにSの車が見えた。
窓に近い方のベッドの骨組は錆つき、シーツは黒く変色している。
床や天井も幾箇所か剥げており、他の部屋は見ていないが、
おそらく窓が割れているせいで、廃れるのも早かったのだと見当付ける。
このたった四つのベッドで、一体何人の人間が息を引き取ったのだろうか。
一通り室内を見終わったらしいKが、病室を出ようとしている。
僕も入口のドアに向かおうとして、しかし、ふと立ち止まる。一瞬、懐中電灯の光が何かを照らした様な気がした。
入口から見て右手前のベッド。もう一度照らす。
ベッドの上、壁側、枕の横に何かが見えた。白を基調とした病室の中で、その色はちゃんと自己を主張していた。
僕はベッドに近づいてそれを拾い上げる。
折り紙だった。かなり変色しているが、青と、黒色。
鶴ではない。やっこさんだ。しかも袴、足がついている。二枚の折り紙を組み合わせて作るタイプのものだった。
身体が青。袴が黒。
誰かが患者のために折ったのだろうか。
そして僕は息を呑んだ。
ふと、そのやっこさんをライトで照らした瞬間気付いた。
袴の色は黒では無い。黄色だ。黄色い折り紙に、黒い文字がびっしりと書き込まれている。だから黒く見えたのだ。
『あし』
文字はひらがなでそう書かれていた。
よせばいいのに、やっこさんの袴を広げる。
やっぱりその紙には、裏表両方に隙間なく『あし』 と書かれていた。文字の大きさも、方向もバラバラだった。
良く見ると、ベッドの下に隠れる様に同じやっこさんが幾つも落ちていた。めくったシーツの中にも、枕の下にも。
割れた窓から風が吹きこんでくる。
カツン……ギギ……カツ……
半分取れかけた蛍光灯の傘が揺れて、鉄のパイプと擦れ合う音。
違う。音が違う。
僕が聞いたのはこんな音じゃなかった。
そうだ。それにそもそも、扉が閉まっている室内で僅かな風が音を鳴らしたとして、
それが一階まで聞こえて来るはずが無い。

101なつのさんシリーズ「Sとの出会い」5:2014/06/14(土) 01:20:43 ID:Hpd3syqU0
キィー……、キィ、キィ
背後であの音がした。大きい。何かが僕に近づいてきている。Kじゃない。Kはもう病室を出ている。
心臓が派手に脈打つ。息が出来なくなる。振り返れない。
キ……、……
音が止んだ。
誰かがそっと僕の上着の裾を引っ張った。丁度小さな子供が下から裾を引く様に。
意識の糸は極限まで張りつめ、失神しても何らおかしく無かったと思う。
その時、開いたままのドアから光の筋が射しこんできた。
「うおおっ!?」
誰かが奇声を上げた。悲鳴では無く奇声。Kが戻ってきたのだ。彼は僕の背後に居るナニカを見たに違いない。
ただ、その奇声のおかげで、僕は自身のコントロールを取り戻した。
足が動く。僕はわき目も振らず扉へダッシュし、病室を飛び出た。
その際にKと肩がぶつかったけれど、「ごめっ」と一言、構うこと無く一階ロビーへ続く階段を駆け降りる。
Kも後から走って追いついてきた。
受付の中に飛び込み、入って来た窓から外へと出る。
それでもまだ安心できず、僕とKは走って走って、すごい速さで門をよじ登り飛び越えた。

車のドアを開き、中に滑り込む。そこでようやく僕は病室からずっと止まっていた呼吸を再開した。
Sが突然の僕らの帰還を、驚いた様な呆れた様な目つきで見ていた。
僕は息を整えるので精いっぱい。Kは脂汗を浮かべながら、「あーやべえ、あれはやっべえ」と何度も繰り返していた。
シートに深くもたれかかる。怖かった。でも、助かった。
全身の力が抜ける。
例えば、ホラー映画ではこの瞬間が一番危ない。
コツ……コツ……
身体中の産毛が逆立つような感覚。反射的に飛び起きた。
誰かが車をノックしている。
僕が座る助手席の窓。僕はその方向を見てしまった。
白い手がガラスの下の方を叩いている。
「だあS車!」
Kが叫ぶ。彼にも見えたらしい。
二人がパニック気味になる中、只一人Sだけは怪訝そうな顔をしていたが、何も言わずエンジンを掛けた。
例えばホラー映画ではこう言う場合、得てしてエンジンが掛からないものだが、そんなことは無かった。
車はUターンするために一度バックする。
見えた。
それは車イスだった。それと、車イスを動かす白く細い手。
僕に見えるのはそこまでだった。後は何も見えない。誰が乗っているのかも分からない。
ただそれが何であれ、生きた人間でないことは確かだった。
「くっそが!病院外まで追ってくるとか……、おまっ……、ルール違反だろが!」
Kがその車イスに向かって叫ぶと、それに呼応するかのように、滑る様にイスがこちらに向かってきた。
「だああSもっと飛ばせよ!」
走り始めた車の速度は時速四十キロ。あの車イスはそれについてきている。
僕の頭は恐怖のためか、それとも単に混乱していたのか、
あの車イスにはたぶんターボが内蔵されているのだな、などとそんなことを思っている場合ではもちろん無いのだけれど。
「車イスは車だけど車じゃねえぞオイ!」
Kも同じ気持ちだったらしい。
そして彼が後ろに向けてツッコミを入れた瞬間、急ブレーキと共に僕らの乗った車が停止した。
それがあまりに突然だったので、後ろを向いていたKは慣性の力で後頭部を座席にしこたま打ち付ける。
僕はいつもの癖で無意識にシートベルトをしていたので助かった。
止まった。止まったら、追い付かれる。
「Sく……、だ、S君?」
慌てふためきながらSを見ると、彼はちょっと上を向いて、あーう、と長いため息を吐いた。欠伸だったのかも知れない。

102なつのさんシリーズ「Sとの出会い」6:2014/06/14(土) 01:21:42 ID:Hpd3syqU0
「……俺には見えねえけど。まだついてきてんのか?そいつ」
僕は後ろを向く、居る。十メートルくらい後方。間違いなく。近づいてきている。僕は何度も頷く。
「ふうん。……分かった」とSが言った。
それから後部座席の方を振り返り、
「お前ら、これから三十秒くらい、ずっと前見てろ。フロントガラスだけだ。
 目を逸らすな。逸らしたら死ぬってぐらいに思っとけ」
Kはまだ後頭部強打のダメージから回復していない様だった。虚ろな瞳でSの方を見ている。
僕は訳が分からず、あの車イスが来ていないか確かめようと後ろを向きかけた。
すさまじい摩擦音。
車が急発進し、僕の身体は誰かに体当たりされたかのようにシートに押し付けられた。
僕は驚いて視線を前方に移す。Sが限界までアクセルを踏み込んだのだ。
速度メーター。
この車はミッション車のはずだったが、それでも何の支障も無しに、速度はあっという間に時速百キロを越えた。
前方の景色が流線となって次々に後方へとカッ飛んで行く。
ここは高速じゃない。国道だ。道幅はそれほど広くない。カーブもある。
対向車のドライバーが口をあんぐり開けるさまが現れて消えた。
カーブの度にタイヤが滑る。ドリフト?訳が分からない。
後方に遠ざかるクラクション。直線。120キロ。S字カーブ。あ、死ぬ。
僕は前だけを見ていた。身体が硬直して目を離せなかった。
実際100キロ以上出していた時間はほんの十数秒程度だっただろうが、
あの時の僕にはその十数秒が一分にも三分にも感じた。

そのうち車は減速して、まるで何事も無かったかのように、路肩に停まった。
「……やっぱバイクと車じゃ感覚が違うもんなんだな」
Sの口調は、今日の新聞を読んで感想を言う時のそれだった。
僕は金魚の様に口を閉じたり開いたりしていたと思う。
「後ろを見てみろ」と、後方を指差してSが言う。
僕はその時、自分が車イス幽霊のことをすっかり忘れていたことに気がついた。
後ろを振り向く、車イスは何処にも見えなかった。
そしてついでに、シートベルトを付けていなかったKが、後部座席でもんどりうって失神していた。
「どうだ、居るか?」
その問いにSの方を向き直り、僕はゆっくりと首を横に振る。
「……恐怖って感情は、たまに人に余計なもんを見せることがある。
 まあ、簡単に言ってしまえば、お前らは、夜の病院ってとこから来る恐怖心から幻覚を見たんだよ」
Sは淡々と説明する。
そんな馬鹿な。幻覚。あれが幻覚なのだろうか。服の裾を引っ張られたのも、車を追ってきていたのも。
「ものすごい速さで車を追う幽霊ってのは、良く聞く怪談だけどな。
 幽霊が超人的な身体能力を持っているって説明よりは、
 全てはそいつの脳みそ自身が見ている幻覚だから、って説明の方がしっくりくるだろ。
 鼻先三センチで常に映画を上映されているのと同じだ。だから何処まで逃げたって追って来る」
「……じゃあ、どうして今は」
「ん?どうして追って来ないのか、か?」
僕は頷く。
するとSは「くっく」と少しだけ笑った。
「怖かったろ?さっきの」
Sは先程の国道暴走のことを言っているのだ。僕は真剣に何度も頷いた。
「幽霊とは違う、別の恐怖を上乗せされたからな。幽霊どころじゃなくなったんだよ、脳みそが」
「う、上乗せ?」
「イカレた強盗に銃を突きつけられた時、そいつの背後に幽霊が見えたとして、お前はどう怖がる?
 そんなに幾つも同時に処理できないもんだ。人間の頭はポンコツだからな」
Sはそう言って、後部座席のKをちらと見やり、
「そしてたまに、ショートもする」と静かに言った。
よくよく見たら、Kは口から少量の泡を吹いていた。
「さて、種明かしはここまでだ。帰るぞ」
「Kは起こさんでいいの?」
「寝かしとけよ。その方が静かでいいだろう」
そうして車は走り出す。発信の時心拍数が上がったが、今度は普通に、といっても法定速度よりは速かったけれど。
後で聞いた話だが、Sはこの時、車の免許を取ってまだ二カ月だったそうだ。
Sはそういう人物だ。僕はそれを初めて会った日に知ったのだ。

103なつのさんシリーズ「Sとの出会い」7:2014/06/14(土) 01:23:00 ID:Hpd3syqU0
「……S君は、本当に幽霊とか、信じて無いんだねぇ」
帰り道。僕がそっと呟く。
「Sでいい。そうだな。あるならある、居るなら居るで別に良いんだが……、今のところ敢えて信じる要素はないな」
その言葉に、僕は、あれ、と思う。引っかかるものがあった。
「……じゃあさ。何で今日とかついてきてんの?メリット無くない?」
Sが横目で僕を見た。けれどもすぐに前方に視線を戻すと、片手で口を隠し、何処か投げやりな口調でこう言った。
「Kの奴は車持ってねえし。俺は運転が好きだからな。それだけだ」
「……ふうん」
ふと、Kと大学前でSを待っていた時のことを思い出す。
あの時Kが言った言葉は何だったか。思い出せない。まあいいか。
その時、ふと、カサリ、という小さな音が聞こえた。何かを踏んづけたのだ。
見ると、それは病院で見つけたあのやっこさんだった。
逃げ帰ってくる時もずっと握りしめていたらしく、二枚の折り紙は両方くしゃくしゃになっていた。
取り上げて手に持ってみる。
大量に『あし』 と書かれた袴の部分。そしてやっこさんの身体。何故かもう恐怖心は無かった。
僕は何となく青いやっこさんを広げてみた。
裏の白い部分に何か書かれている。大量にではなく、小さな文字でひとことだけ。
『おねがいします』
その瞬間、僕の中で何かが繋がった。
『あし』……『幾つものやっこさん』……『追ってきた車イス』……『おねがいします』
「そっか。鶴には、足が無いもんね……」
小さく呟いた言葉はSにも聞こえなかったようだ。
僕はその二枚の折り紙をしわを伸ばして四角に折りたたみ、財布の中に入れた。
感覚的な真理としては、さっきしてくれたSの説明が正しいのだと思う。
幽霊は全部人間の脳が創りだした幻覚で、実在などするはずが無い。
しかし僕には、あの時感じた気配、音、掴まれた袖が引っ張られる感覚、
あれらが全て幻覚だとはどうしても思えなかった。
もしくは、足が治るようにとやっこさんを折る、その意思。
分からない。でも、それでいいんじゃないだろうか。

ちなみに、二枚の折り紙は現在も僕の財布の中に入っていて、今では僕のお守りの様な存在になっているが、
いつかは返しに行こうと思う。あの廃病院に。
ただし、もちろん行くのは昼間のうちにだけども。
もうカーチェイスは、こりごりだ。

「Sとの出会い」終わり

104なつのさんシリーズ「ふくろさん」1:2014/06/14(土) 01:24:09 ID:Hpd3syqU0
大学二年の春だった。
その日僕は、朝から友人のKとSと三人でオカルトツアーに出掛けていた。
言いだしっぺは生粋のオカルティストK君で、移動手段はSの車。いつもの三人、いつものシチュエーションだった。
車は今、左右を山と田んぼに挟まれた田舎道を走っている。車を運転しているのはSだ。僕は助手席、Kは後部座席。
目的地は、地元から二時間ほど車を走らせた村にあるという神社だった。
Kの話によると、何でもその神社は、ある奇妙で面白いモノを『神』 として祀っているのだそうだ。
「それってさ、僕らが行って見せてくれる様なモノなん?」
「……うーん? あー、……そこはだな、大丈夫じゃね。……たぶん」
後部座席から具合の悪そうな口調。Kは車に弱いタチなのだ。
「神主にはもう連絡とってあっからよ……。
 俺ら三人……、民俗学的な興味でやって来た、真面目な学生ってことになってっから。
 ……あー駄目だキモヂワリー……」
オカルトツアーは今までに何度も経験したが、僕らはそれが必要な場所は事前にアポを取る様にしている。
話をつけるのはKだ。大抵無下もなく断られるが、今回の様にOKの返事がもらえることもある。
まあ、許可が下りない時だって、『やるだけやった』 ってことにして結局行くのだけれど。
「でさ、その神社には何が祀られてるん?」
後ろを見やると、丁度Kの身体が横向きにバタリと倒れた。そのままの状態でKは言う。
「……袋だ」
「袋?」
僕は訊き返す。その神社は袋を祀っているのだろうか?
「あーうー、……いや、何か袋持ってね?やべ、吐きそう、っぷ」
運転していたSが黙って道の脇に車を停めた。
Kはヨロヨロと外に出て行き、林に少し入ったところで、今朝食べたナニカと感動の再会を果たしたようだった。

それからしばらく走り、村に着く。山間に造られた小さな村で、神社はすぐに見つかった。
入口には石の鳥居。近くの路肩に邪魔にならない様駐車して、僕らは外に出た。
Kもどうやら息を吹き返したようだった。
「間違っても境内では吐くなよ。まがりなりにも神の居るところだ」
SがKに向かって言う。
「……吐かねーよ。もう腹ん中になーんも残ってねえし。ってかお前、そんなん信じる奴だっけか?」
「郷に入れば……って奴だ。それに俺らは今、民俗学専攻らしいしな」
鳥居の向こう側には、自転車で行けるんじゃないかってくらいなだらかな階段が木々の間を伸びていて、
その奥に拝殿らしき建物が見えた。
鳥居をくぐって参道に入る。
頭上には周りの木々の枝と葉が陽の光をいくらか遮っている。木漏れ日。風が吹く度にさわさわと足元の影は形を変える。
吸い込む空気がどこか違うもののように思えた。

参道で一人の腰の曲がった老婆とすれ違った。彼女は僕らを見とめると、しわの刻まれた顔で微笑み会釈した。
僕は軽く頭を下げ、Kが加えて「ちわー」と声を掛ける。参拝客だろうか。
境内はあまり広くない。拝殿と、その後ろに本殿。
参道から向かって右側には、水で手や口を清める場所。水盤舎というのだったか。
その隣には、人の背丈よりは大きい程度の社があった。
社の近くに箒を持って掃除している人が居た。
男性。歳は四十後半だろうか。上は青いジャンバー、下はジャージとラフな服装だった。
「ああ、君らかえ。電話くれたんは」
僕らを見つけると、彼は穏やかな笑顔を浮かべてそう言った。ということは、この人がここの神主さんなのだろう。
想像していたより若い。
互いに自己紹介を済ますと、普段は農家でゆず等を作っているらしい神主さんは、箒の柄の部分で隣の小さな社を指した。

105なつのさんシリーズ「ふくろさん」2:2014/06/14(土) 01:25:58 ID:Hpd3syqU0
「ほれ、これが電話で言うた『ふくろさん』 よ。まずはどういうもんか、よう見とき」
どうやら目的のものはこの社の中にあるらしい。神主さんに促され僕らは社の中を覗く。
両開きの扉の奥、そこには何やら奇妙な物体が置かれてあった。
『ふくろさん』
名の通り、それは袋だった。
材質は麻だろうか。薄茶色をした人の頭ほどの大きさをした袋。上部を赤い紐で縛っている。
それだけなら、何だか良く分からないモノで済んだのだが、
異様だったのは、その袋の接地面を除いたありとあらゆる箇所に、『針』 が刺さっていることだった。
待ち針も縫い針も長い針も短い針も、様々な針があった。
「さっきは『ふくろさん』 っていうたけんど、名前なんてあって無い様なもんやけぇ。これには。
 うちの親父なんかは、ハリネズミさま、ハリネズミさま言うとったわ」
社の屋根に手を乗せて神主さんが言う。
「こいつに針を刺すと、過去の罪とか過ちが消えるって言い伝え、本当ですか?」
Kの言葉に、僕は針だらけの袋を見やった。なるほど、只の袋では無いと言うことか。
でも、そんな言い伝えがあるような大層なモノには見えないのだけれど。
「そうな。言い伝えがあるんはほんまよ。信じるか信じんかは人次第やけんど。
 村のジジババらあはまだ信じとって、刺しに来るもんもおらあな。
 ……君らも刺すか?何かやましいことでもあるんやったら」
僕らは互いの顔を見合わせる。僕は首を横に振って、Kはへらっと笑い、Sは小さく肩をすくめた。
三人ともやましいことなど何も無いと思っているのだろう。バチ当たりな連中である。
「はっはっは。ほうかほうか。真っ当な人生を送りゆうようで何より何より」
そう言って神主さんは可笑しそうに笑った。
「じゃあ、私はちょっくら向こうの方を掃いてくるきよ。なんか聞きたいことがあったら呼びんさい」

神主さんが本殿の方へ行ってしまい、残された僕ら三人は、改めて社の中の『ふくろさん』 をじろりじろりと観察していた。
「針を刺すと過ちを払う袋、か。初めて聞いたな」とSがぽつりと呟く。
「『ふくろさん』 って名前がどうもなあ。それだと頭に『お』 をつけたらお母さんになっちゃうし」と僕。
「正式な呼び名は無い、って言ってたろ。その『ふくろさん』 も、参拝客の間で広まった名前だろう。
 ……で、結局のところだ。俺らは今日、この袋をただ拝みに来ただけってことか?」
そう言って、SはKの方を見やった。
それは僕も思っていた。
確かにこの幾本も針の刺さった袋は異様ではあるけれど、Kのオカルトアンテナに反応する程の物件では無い気がする。
言ってしまえば、この袋はそこらの寺に置かれている仏像とさほど変わりはない。
Kは「うはは」と笑う。
「んなわけねーじゃん。それと、今日拝みに来たのはこの袋じゃねーよ」
そしてKは僕とSの胸ぐらをつかみ自分の方へと引き寄せると、
「拝みに来たのは、この袋の中身だ」
囁く様な声でそう言った。
袋の中身。
僕は何となく綿でも詰まっているのだろうくらいにしか思っていなかったのだけれど、
Kの口調からすると、まあ綿ではないみたいだ。
「この袋には噂があるんだよ。針を刺した瞬間袋が動いたり、鳴き声を上げたり。
 ……中には動物が入ってんじゃねえかってな。
 火の無いところにゃ煙は立たず。本当に動物か、もしくはそれ以外か……」
その瞬間、辺りに何かの鳴き声が響いた。僕は思わず社の中の袋を見る。
けれども鳴き声は頭上からで、鴉だろうか、黒っぽい鳥が一羽空へと飛び立っていった。
「……どうやって、見せてもらうのさ」
一つ息を吐いてから僕はKに尋ねる。
先程話した印象では神主さんは気さくな人柄だったが、そうやすやすと自分のところの御神体を見せてくれるだろうか。

106なつのさんシリーズ「ふくろさん」3:2014/06/14(土) 01:26:58 ID:Hpd3syqU0
それに、袋には数え切れない程の針が刺さっている。
袋を開けて中を見るには、これらを一本一本抜かなくてはならないだろう。
「別にこの目で見ないと収まらねーってわけじゃねえよ。
 ま、手っ取り早い方法は神主のおっさんに訊くことだよな。そのために電話したんだし。答えてくれるか知らねーけど」
「訊くだけでいいん?」
「それで納得出来りゃあな」

というわけで、神主さんの元へ話を聞きに行く。彼は本殿の周りの掃除をしていた。
「最近掃除もサボっとったき、えらいことになっちゅうな。はっは」
僕らが近づくと、しゃがんで本殿の下を掃除していた神主さんは笑いながらそう言った。そして腰を叩きながら起き上がる。
「なんぞ聞きたいことでもあるかえ」
「あーはい。あの『ふくろさん』 の中って、何が入っているんですかね?」
何の探りもひねりも入れず、ストレートにKは尋ねた。一呼吸程おいて神主さんがKを見やる。
「聞いてどうするよ。大学のレポートにでも書くかえ?」
「あ。そのつもりっす」
嘘だな、と僕は思う。神主さんは穏やかに笑った。
「メモの用意を忘れとるぞ」
その言葉にKは少しうろたえる。その様子を見て神主さんはまた「はっは」と笑う。
「ええよええよ、わかっとる。前にも、君らの様な若者らあが、興味本位でやって来たことがあったきよ。
 まあ君らは礼儀正しい方やけんどな。ちゃんと、事前に連絡もくれたしな」
どうやら僕らの目的は最初から筒抜けだったようだ。
「中身、見せてくれませんか?」
「すまんけんど。それは出来んわ」
穏やかな口調の中に断固とした意思が感じられた。これはいくら頼んでも無駄だろう。
「あの中身については、教えるわけにはいかんのよ。
 ……ああ、それとも、君らの内、誰か一人がここの跡継ぎになてくれたら、そうなりゃあ教えちゃれるわ。
 おう、そらええ考えやと思わんか?」
本気で言われているのか、からかわれているのか、どっちとも取れず、
「はっはっは」と笑う神主さんを前に、僕らはただ曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
結局、『ふくろさん』 に関して神主さんからは何も情報を引き出せず。
僕らは一旦彼にお礼を言って、神社から出ることにした。

車に戻り、どこか憤慨したようにKが言う。
「くっそ、あのオッサンめ。代々神主しか知らない中身って、余計気になるじゃねーか」
「もしかしたら、俺らのこと監視してたのかもな。神体に妙なことしないかどうか」
Sが運転席に腰かけ、リクライニングを少しばかり後ろに倒しながらそう言った。
「そうなん?」と僕。
「……さっき、あのオッサン言ってたろ。前にも同じようなことがあったって。
 でも俺らとは違い、電話でアポはとってなかった。
 ……それでもそいつらが、『若者たち』 だって知ってるってことは、何かやらかしたんだろうな、そいつら」
「その場に居たんじゃない?神主さん」
「あのオッサン、あんま頻繁にここに詰めてる風でも無かったろ。まあ、居たかもしんね―けど」
「やらかしたって、何をやらかしたん?」
「知らねえよ。俺に訊くな」
その時、Kがぽつりと呟いた。「……呪いだ」と。僕とSは後部座席を振り向く。
「それってよ。そいつら、袋に何かしたせいで呪われちまったんじゃねーの?
 で、どうしようも無くなって、あのおっさんに泣き付いた」
「ねーよ」
即座にSが否定する。

107なつのさんシリーズ「ふくろさん」4:2014/06/14(土) 01:27:53 ID:Hpd3syqU0
「そーか?俺的にはイイ線いってると思うんだけどな……」
Sに否定されたせいで、Kの名推理はしおしおとしぼんでしまった。
「……で、どうするのさ?」
僕がKに尋ねると、Kはうーんと軽く唸った後、運転席を後ろから蹴りあげて、
「おーいS、車出せよ」
そしてシートにもたれかかって目を閉じる。
「俺たちは、やれるだけやった」とそう言った。
事前に見に行くと連絡を入れ、袋の中身は何なのか聞き、見せてくれないかとも頼んだ。
それでも駄目だと言われれば、それはもう仕方が無い。
結局は無断で見せてもらうしかないわけだ。

その日の夜のこと。
神社から少し離れた場所に車を停めて、僕とKは懐中電灯を片手に、またあの石造りの鳥居をくぐっていた。
Sは来なかった。「俺は眠い」とだけ言って、今は車の中でお眠りしているはずだ。
夜の境内は朝とはまるで違う雰囲気だった。
前に来た時には爽やかさを含んでいた木々のざわめきが、今や得体の知れない何者かの息使いに聞こえる。
「そこだ」とKが言う。水盤舎の隣の小さな社。
見ると、朝は開いていたはずの扉が閉まっている。近づいて良く見ると、鍵もかかっているようだ。
どうするのかと思っていたら、Kが社に近づき、僕に「ライトで扉を照らしてくれ」と言った。
ポケットから何かを取り出す。どうやらそれは、工具用の細いドライバーと針金の様だった。
※以下は空き巣の手口と同様なので、ここに書き示すことは出来ません※
そのうち、ガタリと音を立てて扉が外れる。その扉をゆっくりと地面に置いて、Kは「ふう」と一息ついた。
社の中に手を入れ『ふくろさん』 を取り出す。そして地面に置いた扉の上にそっと乗せた。
「うひゃあ、犯罪だねえ……」と僕が呟く。
「しかも完全犯罪だぜ。明日来たって誰も気づかねーからな」
もちろん、袋の中身を見た後は、全て元通りにして退散するつもりだった。
立つ鳥跡を濁さず。それがオカルトに準ずる者のマナーだと、Kは常々言っている。
僕は手にした懐中電灯の光で、袋を色々な方向から照らして見た。やっぱり針だらけだ。
そこで気がついたが、袋の口を縛る赤い糸、その結び目にも一本の針が通してあった。
「ふくろ、重かった?」
「いや、それほどでもない。一キロかそこらってとこじゃね」
そして僕とKは互いに顔を見合わせる。
「んじゃ、抜いてくぞ」
Kが呟き、最初の針をつまむ。するり、と針は抜けた。
刺さっていた部分と外に出ていた部分で色が違う。先の方は、まだ銀色の光沢を放っていた。
一本、一本と針が抜けて行く。抜いた針は、車から持ってきたティッシュの空き箱の中に入れていた。
Kは全部の針を抜いてから、口を縛っている紐を解くつもりの様だった。
もしかしたら針を抜いている間に何かが起きるかもと、期待したのかもしれない。

108なつのさんシリーズ「ふくろさん」5:2014/06/14(土) 01:28:30 ID:Hpd3syqU0
袋をライトで照らしながら、僕は針の数を数えていた。半分ほど抜き終わったところで四十一本。
そうしてから、ふとこの針の数は、人の犯した過ちの数なのだと言うことを思い出す。
僕たちは今何かとんでもないことをしているのかもしれない。
それでも針は抜かれてゆく。
針は残り二十程。
その時だった。鳴き声が聞こえた。
僕ははっとして辺りを見回す。鳥?違う、猫の鳴き声に近い。赤ん坊の泣き声にも聞こえる。
赤ん坊、自分で連想した言葉に背筋が凍る。
Kの手が止まった。彼にも聞こえているのだ。まだ鳴いている。
けれど鳴き声の出所が分からない。左の茂みの中からでもある様な、右の拝殿の下からでもある様な、
空からでもある様な、地面の中からでもある様な。
そして、すぐ傍らの袋の中からでもある様な。
袋。
袋が微かに動いた。
「うわ!」と僕は反射的に後ろに飛びのいた。Kは動かなかった。
ザア、と枝の擦れる音、ナニカのなき声。
頭の中でみーみーみーとエラー音が鳴る。経験上、この音が鳴りだすとヤバいことが起きる。
目を見開く。
それでもまだKは袋から針を抜こうとしていた。
「K、もう止めよう!」と声を掛けるが、Kは針を抜くのをやめないどころか、僕の声も聞こえていない様だった。
立ち上がると足が震えた。全身の血流が段々早くなっているのが分かる。
骨振動で伝わる心臓の鼓動が、まるで大太鼓の様だ。
どうすればいいのか、何をすればいいのか。
Kを殴り倒せばいいのか。Sを呼んでくればいいのか。分からない。動けない。
「そいつをはった倒しい!」
声が聞こえた。
その瞬間、僕の身体は動き、両手でKを突き飛ばしていた。
ライトの光が僕の身体を照らし、僕は振り返った。
そこに居たのは、朝と同じ服装の神主さんだった。
「やれやれ。心配になって来てみりゃあ……、案の定かえ」
外された社の扉とその上に乗った袋を見て、神主さんは深く息を吐いた。
「このバカたれが」
「す、すみません!」
突き飛ばしたKは未だ起き上がって来ない。仕方なく僕は一人きりで神主さんに向かって頭を下げた。
「まあ……間にあったき良かったわ。あれを見とったら、そういうわけにもいかんきよ」
そして神主さんは倒れているKの方を見やる。
「その子を起こしんさい。君ら二人、やらんといかんことがあるけえ」
数回肩を揺すぶるとKは目を開いた。
しばらく焦点のあっていない目で神主さんの姿を見ていたが、はっと我に返り、
「すいませんでしたあ!」とその場に土下座する。
「もうええもうええ。そんで、針を抜いたんは、どっちかえ」
「あ……俺です……」
そろそろとKが手を挙げる。
「ほうか。そんなら君の手でまた針を戻しんさい。
 その袋は針を刺すたんびに、ケガレをはろうてくれるき。罪もそう、過ちもそう……。
 すみませんでしたと思いながら、一本一本丁寧にな」
「……何か見えるんですか?」
恐る恐るKが尋ねる。
「見える言うた方が怖がるやろうが……、あいにく見えん。でもな、この袋は昔っから『そういうもん』 やき。
 それにな、前に来た若者らあは、それを見て、戻ってこれんようになった」
ぞくりとした。

109なつのさんシリーズ「ふくろさん」6:2014/06/14(土) 01:29:02 ID:Hpd3syqU0
Kもそれ以上は何も言わず、黙って針を元通り刺し始めた。
「……まあでもなあ、これだけ言うても、知らなんだらまた来るかもしれんきねぇ」
黙々とKが針を刺していく中、神主さんがぽつりと呟く。
「やりながらでいいき聞きんさい。
 この袋はな、本当は『ふくろさん』 じゃのうて、別に名前があってな、本当の名は『いぬがえし』 っちゅうんよ」
Kと僕は驚いて神主さんを見る。
すると彼は穏やかに笑って、
「好奇心が猫を殺すんなら、今の内にその好奇心を殺しとこうち思うてな。それも、誰にも言わんと、約束できるんならな」
僕らは頷く。
そして神主さんはこの袋のことを話してくれた。
いぬがえし。漢字で書くと『犬返』 となるそうだ。
中に入っているのは動物の死骸。それも血と内臓を抜き取り、ミイラ状態になったモノが入っているという。
「中を空っぽにするんよ。生き物やなく入れ物になるよう。
 ……そうして、その入れ物の中に、針を通して人の持つケガレを移しかえる。
 いぬがえしの目的は、そのケガレを払うということ。
 ああ、誤解せんでほしいんは、それらの動物は、ちゃんと寿命をまっとうしちゅうき」
今は袋の中には猫のミイラが入っている。と神主さんは言う。
「親父は、ネズミ何かもよう使っとったな。まあ、あれは針がようけ刺せんけぇ。あまりようない言うとったけどな。
 猪もあった、ヘビも、犬もあった……」
動物なら何でもええんよ。と神主さんは言う。
「針を通してケガレがいっぱいになったら、そのミイラは本殿の中で祀られる。神さんになるんよ。
 長いこと、人の代わって多くの恨みつらみを担いだけえ」
人々のケガレを代わりに担いでくれるモノ。
「今でこそ農業の神さんを祀っとるが、昔この神社は、そうやって出来たミイラらあをひっくるめて、主神として祀っとった。
 『おおいぬ様』 いうてな」
言わばそれは、大きなケガレの塊、恨みつらみの塊ではないのだろうか。それをこの神社では神として祀っている。
「神道ではな、エライもんが神様になるんじゃのうて、力のあるもんが神になる……」
僕の疑問を読み取ったかのように、神主さんはそう言った。
例えそれが恨みつらみだとしても、力があれば神にもなる。
「……お、終わったか」
話している内に、Kが抜いた分の針を刺し終わっていた様だ。
それを確認し、神主さんは懐から何かを取り出すと、僕とKに手渡した。
それは針だった。
「これが、今日君らが犯した過ちの分やき。これもちゃんとゴメンナサイ言うて刺しい」
悪さしてすみませんでした。でも悪気は無かったんです。本当です。ゴメンナサイ。
そんなことを思いながら僕は袋に針を刺した。
「よし、これで君らは大丈夫」

110なつのさんシリーズ「ふくろさん」7:2014/06/14(土) 01:29:38 ID:Hpd3syqU0
それから僕とKは袋を元の位置に戻し、外した扉を直してから、神主さんに二人でもう一度謝った。
「ええよええよ。まあ、これに懲りたら。もう、危ないことはしなさんなよ」
そう言って、神主さんは最後に僕らの頭に一発ずつ痛いゲンコツをくれると、
笑って「機会があれば、また来んさい」と言ってくれた。

車に戻ると、仮眠から起きたSが僕らの表情を見て軽く吹きだしていた。どんな表情をしていたのか自分でも分からない。
でも、今回のオカルトツアーで、僕らは多くのことを学んだと思う。
帰り道、窓の向こうを流れる夜の山々を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。
ふと、後部座席のKを見やると、さすがの彼も反省している様だった。
何か思いつめた表情で足元を見ていたが、やがて顔をあげると、僕に向かってぽつりと呟く様に言った。
「……あのオッサンの話聞いてたらさ、本殿には人のミイラとかありそうじゃね……。お前どう思う?」
「……、……あったら、どうすんの?」
「見せてくれってあのオッサンに聞いてみる」
「駄目って言われたら?」
「そん時は、やるだけやったんだから……あ!いや駄目だ!うーんとだな……ええ?
 うおおっ、どうしようS!俺どうしたらいい!?」
「とりあえず黙れ」
訂正。今回のオカルトツアーで、僕らが多くのことを学んだというのは間違いだった。
好奇心猫を殺す。
たぶんそれが僕らの得た唯一の教訓だった。
まあそれだけでも、大きな進歩ではあったのだけども。

111なつのさんシリーズ「さがみトンネル」:2014/06/14(土) 01:32:19 ID:Hpd3syqU0
小話を一つ。

僕の住む街から車で少し走ると見えてくる山には、オカルトスポットとしてそこそこ有名なトンネルがある。
開通したのは昭和の初めで、山を越えて隣町に行く人が利用していたそうだが、
昭和から平成に移る頃に、別にもっと便利な道とトンネルが出来てしまったため、
滅多に人が通ることも無くなった、とのこと。
旧さがみトンネル。
何でも、トンネル内で行方不明になった女の子が、数ヵ月後にトンネルの出口からひょっこり出て来た、とか。
トンネルに入った時は確かに夏だったのに、出てきたら雪が降っていた、だの。
白い服を着た女の幽霊に壁の中へと連れ込まれる、といったものもあり。眉唾な噂話には事欠かない。

大学生時代、僕は一度だけこの旧さがみトンネルを通ったことがある。
季節は夏、時刻は午後十一時ごろ。
暗闇でも撮れるビデオカメラ一台と懐中電灯を持たされて、僕は一人トンネルの前に立っていた。
一緒に来た友人KとSの二人は、一足先にこのトンネルを越えた向こうで待っている。
といっても、トンネル内は道が悪く車が入れないので、彼らは車で新しい道の方からぐるりと回ることになる。
そうして、ジャンケンで負けた僕一人がトンネルを通るのだ。
ビデオカメラの電源を入れる。入口の横に、トンネルの情報を掘った石碑があったのでついでに撮っておく。
そうしてから、僕は唾を一つ飲み込み、懐中電灯を構えて暗闇の中に足を踏み入れた。

トンネル内はとても寒かった。ネズミ色の壁は無骨で、触るとやすりの様にざらざらとしていた。
地面には剥がれた壁の欠片や、風で運ばれて来たのだろう枯れ枝などが転がっている。
トンネルは入り口から向かって右の方へと緩やかなカーブを描いていた。
自分の足音と、入口から吹きこんでくる風の音が反響する。嫌なBGMだ。
ライトの光は頼りなかったが、手に持ったビデオカメラの赤外線映像は見なかった。

その内に出口が見え、僕はトンネルの外に出た。
いざ歩き終えてみれば別に大したことは無かったな、というのが感想だった。
辺りには人の気配は無かった。K達が待っているはずなのだが、どうやら僕の方が先に着いてしまったらしい。
外で待つこと数分、迎えがやって来た。
車から降りてきたKが「何かあったか?」と聞いて来るので、素直に「何も無かったよ」と答える。
それから三人で、先ほど僕がトンネル内を撮影した映像を確認した。
映像は二分半ほどだったが怪しいものは何も映っておらず、僕らは随分拍子抜けして、その夜は帰路に着いたのだった。
もう数年前の話だ。

ところがつい最近のことだ。
久しぶりにKと会って酒を飲んでいると、Kがあの夜肝試しで行った『さがみトンネル』 の話をしだした。
何でも、PCの整理をしていたら、あの時に撮った映像のデータを発見して、ふと懐かしく思い見てみたのだそうだ。
「当時は気付かなかったけどよ。意外と、とんでもねえもん撮れてんのな」
「何か映ってたん?」
「いや、別に妙なもんは映ってねえよ。……お前、トンネルに入る前に、傍にあった石碑撮ってたろ?」
それでも要領を得ない顔をしていると、Kが教えてくれた。
『さがみトンネル』 の全長は625メートル。あの石碑に小さく彫ってあったのだそうだ。
そのトンネルを、僕は僅か二分足らずで歩き切った。走っていないことは映像が証明している。
唖然とする僕を見て、Kは「うはは」と可笑しそうに笑った。
ちなみにあのトンネル。オカルトマニアの間では、『タイムトンネル』 と呼ばれているのだそうだ。

112なつのさんシリーズ「ぐるぐる」1:2014/06/14(土) 01:33:29 ID:Hpd3syqU0
僕の友人にオカルティストで霊感もそこそこ強いKという奴が居る。
ある日そのKに、「今まで生きてて一番怖かった体験は何か?」と訊いてみた。
すると、彼は視線を上の方に据えしばらく考えた後、
「んー……そら、ぐるぐるの時だな」と言った。
「ぐるぐる?」
「そー。ぐるぐる」

以下はKから聞いた話になる。
…………
十年くらい前の話だ。
俺が小学五年生の時、当時通ってた小学校内で妙な噂が流れていた。
噂は学校からそう遠くない場所にある南中山という山に関してだった。
『あそこの山には、ぐるぐる様が出るぞ』
話が広まり出したのは夏休みが明けた九月のことで、噂は火災時の煙の様にまたたく間に校内中に広がった。
何でも六年生達が夏休み中に南中山で肝試しを行い、そこで何かしら見たという話が出火元らしい。
多くの噂話や都市伝説がそうであるように、ぐるぐる様に関しても次々にボクも見たアタシも見たと目撃者は増え、
ぐるぐる様を見た者は呪い殺されるだの、日にちが経つごとに話は膨らんでいった。
身長は子供大から数メートルまでばらつきがあったし、男か女かも証言者によって分かれた。
ただ、そんなバラバラな話の中にも共通点があった。
それは、目でも腕でも頭でも、ぐるぐる様は身体のどこかしらが回転しているという点だ。
名前が名前だからそこは外せないんだろう。
あと、ぐるぐる様は黒いらしい。

そんなこんなで盛り上がる周りを他所に、俺は噂とは無縁に至って平凡に過ごしていた。
当時の俺は、オカルトにはあまり関心の無い普通の子供だったのだ。
まあ、まだ十かそこらだ。目覚めるには幾分早い。怖がりだったし。
代わりに四つ歳上の姉貴が目覚めてた。
「あ、Kー。晩御飯終わったら、南中山行くからね。準備しとくんよ」
朝から雲が無くて、朝夕晩通してこれでもかと暑い一日だった。
時刻は午後七時前。夕飯を前に、姉貴は風呂に行こうとしていた俺を捕まえてそう言った。
「南中山?……ぐるぐる様?」
というか、それしかない。
「そう。ぐるぐる。面白そうじゃん。ぐるぐる」
姉貴はトンボを捕まえるときのように、俺の目の前で人差し指を回転させる。
しかし、何がそんなに面白そうなのか、当時の俺にはいまいちピンとこない。
「当然、父さん母さんには内緒にね。決行は夜の十一時。それまでにちゃんとトイレは済ませときなさいよ」
関係ない話だが、俺は小学校低学年の時に観た、『学校の階段』 という子供向けのホラー映画でやらかしたことがある。
先程の姉貴の発言は、完全にそれを馬鹿にしたものだ。
実際のところ行きたくなかった。
しかし、ここで『行きたくない』 と言ってしまえば、更に馬鹿にされた上に、
これ以降俺の呼び名が『根性無し』 になってしまうことは確実だった。
弟に拒否権は無かった。
結局、しぶしぶながら俺は「……おーけー」と答える。
姉貴は「それでこそ私の弟だ」と満足そうに頷いた。

今夜、ぐるぐる様に会いに行く。
おかげで、風呂で頭を洗う時に目を瞑れなかった。
目を瞑ると、イメージされたぐるぐる様の映像が頭の中でぐるぐる回るのだ。
俺は夕食の後、念入りに下腹部内のタンクを空にした。

夜中の十一時。俺と姉貴は子供部屋のある二階の窓から外に抜け出した。
母と、一緒に住んでる祖母はもう寝ているようだったが、父が未だ居間でテレビを見ていた。
身を屈めて動く。玄関近くの車庫から音を立てない様に自転車を取り出す時が、一番緊張した。
自転車は一台。警察等に気をつけながら俺が前でペダルを漕いで、姉貴は後ろの荷台に座っていた。
夜中だが外は暑かった。
俺も姉貴も半袖半パンだったが、後ろで姉貴が鼻歌交じりに風を受けているのに対して、
俺は風は受けているが、同時に二人分の重量を乗せた自転車を漕いでいるのだ。
「重ぇー!あとアッつい。疲れた。しんどい」
「はいはい黙って漕ぐ漕ぐ。あと少しだから」
姉貴の口調は心底楽しそうだった。
南中山の入り口は家から自転車を漕いで二十分程の場所にある。
街の中にある小さな山で、子供の足でも二十分も上れば頂上につける。

113なつのさんシリーズ「ぐるぐる」2:2014/06/14(土) 01:34:07 ID:Hpd3syqU0
「……実はね。お母さんが子供の頃にも一度、学校内で噂になったんだって。南中山にはぐるぐるがでるぞー、ってさ」
もうすぐ山に着く頃、姉貴が後ろからそう言った。
街中を流れる川に沿ったゆるい坂道にそろそろ息が切れていた俺は、返事をしなかった。が、姉貴は構わず続ける。
「それどころか、おばあちゃんも若い時に聞いたことあるって言ってたからね。ぐるぐるはそんだけ長生きな怪談話ってこと」
俺の背後から気味の悪い笑い声がする。それはまるで女の子らしからぬ笑い方だった。
「面白いと思わない?ぐるぐる。
 この街だけに伝わる都市伝説だし、長生きだし、それでいてずっと語り継がれてるわけじゃないし。
 途切れ途切れに、ある時期になるとぽんと顔を出すの。思い出したように。
 ……ねえ、それって一体何でだと思う?」
完全にスイッチが入ってしまっているようだ。こうなるともう、非力な弟ではとめられない。
「え、俺?いや、そんなん分かんねーし知らねーし……」
「ま、そりゃそっか……。あ、心配しなくても、帰りは私が漕ぐからね。あー私すっごい優しいお姉さん!」
そりゃ帰りは楽だからだろ。ゆるくても下りだし。
しかしながら姉貴は、ぐるぐる様に関して俺より多くのことを知っているようだ。

しばらくして、ようやく俺と姉貴は南中山の入り口に辿り着いた。
車が入れる道もあるが坂が急で、ここから自転車は荷物になるだけだ。その辺の電話ボックスの隣に停めておく。
「「こりゃあ、なんちゅうやまじゃあ……!」」
二人で夜の南中山を見上げ、ここに来る人が必ず想像すると言われるお決まりのギャグをハモる。
と言っても、それほど何かが特徴的な山でも無いのだが。唯一、ぐるぐる様が出るという噂を除いては。

車が通る道路の方は使わず、俺たち二人は歩行者用の階段を使って山を上り始めた。
俺らが自転車を降りたのが山の南側で、ぐるぐる様は北側の斜面に出るのだと姉貴が言った。
自転車を漕いで居た時にはずっと聞こえていた車の走行音が、
今は木の葉の擦れ合う音や鈴虫の鳴き声に取って代わっている。
俺はずんずんと前を行く姉貴の後ろに、まるでコバンザメの様にぴたりと張り付いていた。
「今、小学校でも、ぐるぐるの噂って、流行ってんでしょ?」
不意に前を向いたまま姉貴が俺に尋ねる。
俺は「おう」とだけ返した。流行っていると言えば流行っている。今話題のたまご型携帯ゲーム程ではないが。
「それって、どんな噂?」
「どんなって……、なんか、色んな話がごっちゃになってて……、よう分からん」
すると姉貴はぱっと振りかえり、俺の顔面にライトの光を当てて、
「そう、それなんよねー。私のとこでもよく話は聞くんだけど。最近のは、一貫性が無いって言うかねぇ。
 だから、お母さんとか、周りのじいちゃんばあちゃん達にも訊いてみたんだけど」
「姉ちゃん眩しい眩しい」
「出来るだけ多くの話を集めてさ。集計してみたわけ。そしたらある程度特徴が分かったんよ。
 例えば容姿とか居場所とか、あと挙動ね」
「眩しいって」
姉貴は俺の話を聞いてくれない。
「容姿は知れたとおり。真っ黒で、ぐるぐるな身体。片腕は無し。
 とあるおじいちゃんなんかは、黒いのは火傷の跡だって言ってたけど……。
 場所はさっき言った北側の斜面ね。
 挙動は、特に何をするわけでもない。人を呪ったりはしないし、追いかけて来る訳でもない」
「まぶ……」
「ただ、姿が異様なだけ。怖さはあるけど危険では無いから。
 だから、世代間の間でちゃんと伝わって行かないのかもね。その場だけで終わっちゃうって言うか。
 ……おっと?あー、めんごめんご」
姉貴はやっと懐中電灯を俺から逸らしてくれた。
その間俺はずっとサーチライトに照らされた怪盗ルパンみたいな体勢をしていたわけだが。
「あんたはその辺どう思う?」
俺はまた返答に窮してしまう。当時の俺は基本的に姉貴に付いていけてなかった。
「……ってか俺、ぐるぐる様の姿知らないし」
「あれ、そうなん?それじゃあ、見てからのお楽しみってことね」
そう言って、また姉貴はずんずんと階段を上って行った。
階段の途中で俺たちは山をぐるりと回る横道に逸れて、山の北側へと回った。

114なつのさんシリーズ「ぐるぐる」3:2014/06/14(土) 01:34:43 ID:Hpd3syqU0
しばらく歩くと、細い道から少し開けた場所に出た。姉貴がライトの光を左から百八十度、ゆっくりと右へと回す。
「ここだね」と姉貴が呟く。辺りは靴を隠すくらいの高さの雑草と、うっそうと茂るナラの木に囲まれていた。
「……なあ、見える?」
俺は恐る恐る尋ねる。
「いたら見えるでしょ。私も、あんたも」
一寸先も見えないほどではないが、辺りは大分暗かった。
街の明かりも星の光も、頭上まで伸びる木々の枝や葉に遮られ、ここまで届いてるのはごく僅かだ。
虫の鳴き声。木々の囁き。目はラク出来るが、耳は忙しい。
「……今日はお留守かな?」と、辺りを見回しながら姉貴が呟く。
「寝てるんじゃね?」と言いながら、俺は若干ほっとしていた。
その時、ふと姉貴の照らすライトの光が白っぽい何かを浮かび上がらせた。
危うく飛び上がりそうになるが、それは石だった。何枚かの平たい石が縦に積まれ、小さな塔の様になっている。
高さは俺の背の半分程だった。
「……あれ何?」
「たぶん、お墓。名前が彫ってあるわけじゃないだろうけどさ。……供養塔だね」
訊いといて何だが、姉貴からしっかりした返答があったことに俺は驚く。
「誰の墓?」
「ん?いっぱい」
姉貴はこともなげに言ったのだが、俺にはその意味が良く分からなかった。
「だから、個人のお墓じゃなくて。そーねぇ……。
 ここの、南中山にはね。昔、戦争中に死んだ、身元の分からない人たちの遺体が埋められてるから。いっぱい。
 言うたらさ、この山自体がお墓なんよ」
思わず足元を見る。だとしたら俺たちは今、堂々と墓を踏んづけていることになる。
「で。私は、それを確かめに来たわけなんだけど……」
「あえ、何が?」
「んーん。何でもない。なんか、今日は出てこないみたいだし。ぐるぐる。だったら、ここに居ても意味は無いし」
帰ろうか、と姉貴は言う。俺は喜んで賛成した。朝までここに張り込むだなんて言われたらどうしようかと思っていたのだ。
「でも、もと来た道を戻るのはつまらないから、このまままっすぐ、山を一周しようか」
姉貴の提案に、帰れるなら何でも良い俺は素直に首を縦に振る。
そうして、また姉貴が前を行く形で俺たちは歩きだした。
「なぁ、帰りは姉ちゃんが自転車漕ぐんだろ?」
「ぐるぐる見れなかったから、やっぱりあんた漕いで」
「おい何だよそれー。……、……え、マジで?」

それは積み上げられた石の前を通った時だった。
ふと視線の端に何かが居た気がした。
帰れると思ってすっかり気が抜けていた俺は、疑問を抱く前にそちらの方を向いてしまった。
石の横に何かが居た。
最初は猪か何か、獣かと思った。
少量の水で溶いた墨をぶちまけたかのような暗闇の中で、そいつは確かにこちらを見ていた。
身体が固まる。しかし無意識に前に居る姉貴の服を引っ張っていたらしく、姉貴が振り向く。
何か俺に文句を言おうとしていた様だが、それが口から出て来る前に姉貴も俺が見ている何かに気がついた。
ライトの光がそいつを照らす。
ぐるぐる様。
俺の聞いた噂では、身体のどこかが回転しているから、ぐるぐる様だと言っていた。
だが違った。『身体のどこか』 では無かった。全部だ。
例えば、こちらを向いてまっすぐ立った人間を一本の棒と見る。
その棒の腰辺りを正面を向かせたまま、向かって左に曲げる。胸の辺りでもう一度同じ方向に曲げる。首も曲げる。
まるでカタツムリの殻の様に、コーヒーに垂らしたクリームが渦を巻く様に、ぜんまいの様に、
そいつの身体は頭を始点にして渦を巻いていた。
だから、ぐるぐる様なんだ。
頭と思しきモノが膝の横にあった。

115なつのさんシリーズ「ぐるぐる」4:2014/06/14(土) 01:35:29 ID:Hpd3syqU0
渦の外側はあまりに急激な角度で曲げられているため、所々黒い皮膚が裂けて、骨やら肉やら中身が飛び出している。
更に、ぐるぐる様は片方の腕が無かった。残った手は、バランスの悪い身体を支えるため地面についている。
身体のほぼ全身が黒かった。特に左半身が炭の様になっていた。目も開いているのは片目だけ。
異様だった。冗談だろ、ってくらい。
その姿は俺の想像のはるか上までぶっ飛んでいたため、悲鳴も出なかった。
俺は口を半開きにぼんやりと、ただ目の前の存在を見つめるだけだった。
「……ちょっと、ライト持ってて」
姉貴の言葉で、俺の中に放浪していた自我が一部戻ってきた。
姉貴はそんな俺の手にライトを握らせると、ぐるぐる様の方へゆっくりと歩み寄った。
『駄目だ』 とも『行くな』 とも言えず、俺は何をして良いか分からないまま茫然と姉貴とぐるぐる様に光を向けていた。
姉貴はぐるぐる様のすぐ傍で止まった。しゃがむ。何をしているのかは分からない。何もしてない様でもあった。
一度俯いて、それから立ち上がった。
「ライト消して」と、俺の方を向かずに姉貴は言った。
まだ茫然としていた俺は、二度同じことを言われてようやく反射的にライトのスイッチを切った。
暗闇。数十秒か数分。もしかしたら数秒かもしれなかった。
ただ、何も見えない中で、俺は段々と自分を取り戻していった。膝ががくがくと震えだす恐怖も一緒に。
「もういーよ。つけても」
姉貴の声がして、俺は急いでライトをつけた。光の先には姉貴の姿だけがあった。ぐるぐる様は居ない。
「大丈夫、どっか行ったから」
そうして姉貴は、未だ恐怖の余韻に震える俺の方を見て大いに笑った。
「なんか、生まれたての小鹿みたい」
馬鹿にされてもしょうがない。後で思ったことだが、ここに来る前にトイレに行っといてホントに良かった。
俺の震えは、姉貴に頭をたたかれないと歩き出せない程だった。

自転車を置いた場所に戻る前に、姉貴は積んであった石に向かって手を合わせた。
どうしてだか分からなかったが、急いで俺も倣う。『どうか祟らないでください』とお願いした。

それから二人で山を降りた。
「帰りは私が前」と言う姉を強引に後ろに乗せて、俺は若干飛ばしつつ深夜の家路を走った。
身体を動かしていた方が余計なことは考えずに済むだろうって寸法だ。と言っても、それは無駄な抵抗に近かったが。

「……あん時さ、ぐるぐる様と何してたんだよ?」
帰り道の途中、まだ怖かったが、俺は思い切って訊いてみた。
後ろで鼻歌を歌っていた姉貴は、そのまま歌う様に答えた。
「見てただけ」
「……どこ見てたんだよ?」
「うーん……。足の甲にあったVの字とか。あ、ローマ字の、大文字の方ね。おかげで、はっきりした」
「は、Vの字?」
「下駄か何かの、履き物の紐の跡。下駄なら鼻緒って言うんだっけ?そこだけ、うっすらと白かったから」
俺は馬鹿だったから、姉貴が何を言いたいのか分からなかった。

116なつのさんシリーズ「ぐるぐる」5:2014/06/14(土) 01:36:14 ID:Hpd3syqU0
「それが何?」
「火傷を免れた跡ってこと。しかも、あの子の火傷は、左側が特にひどかった。たぶん、爆弾じゃないかな」
やっと呑みこむ。爆発に巻き込まれたから、あんな身体になり、火傷も負った。
しかし爆弾と言われても、現在を生きる俺には現実味が無かった。
「地面に落ちる前に塀か何かに当たって、丁度真横、左側、頭より上で爆発した。
 ……証拠は何も無いけどね。そう的外れでも無いと思う」
「爆弾って……、戦争?」
「そうだよ。だから、おばあちゃんの頃からこの話が伝わってる。
 南中山に埋められているのは、昭和二十年ごろに起きた大空襲の被害者って話だから。
 身元の分からない人もたくさんいた。その内の誰かじゃないかな」
昭和二十年。何年前だろう。とりあえず、俺が生まれていないことだけははっきりしている。
「……姉ちゃん、さっき、『あの子』 って言った?」
すると姉貴は、それを言うのをほんの少しためらった。
「……うん。子供だった。あんたと同い年くらいかな」
俺と同じくらい。
ぐるぐる様は戦争で死んだ子供だった。
それを思うと少しだけ、
ぐるぐる様に対して今まで抱いていたの恐怖の隙間を通って、しんみりとした何かが染み出して来た。
「どうして、今も出てきてるんだろ……」
呟く。
「空襲があったのは、夏らしいからね。忘れられないために、出て来るんじゃないかな。勝手な推測だけどさ」

それから少しの間、俺と姉貴は黙ったままだった。
夜空見上げ、俺はふと思う。
明日学校に行ったら、この噂を広めてやろう。
ぐるぐる様はただの妖怪とか幽霊じゃないんだぞ。戦争で死んだ子供なんだ。忘れられないために、出てきているんだ。
「平和にぃ、感謝だぁーっ!」
突然、後ろの姉貴が大声で叫ぶ。危うくこけそうになった。
振り向くと姉貴は「うははは」と可笑しげに笑っていた。
………………

「……まあ、十歳そこそこの頃に、姉貴に無理やり連れ出されて、いきなりアレだからなあ。ありゃ怖かった」
時間はそれから約十年後。ここは大学近くのKが住む学生寮の一室。
「って言うか。……Kって、姉さん居たんだねぇ」
「お、そういや言ってなかったっけか。何なら、今度紹介するぞ?最近近くに男っ気無くて暇だとか言ってたからよ」
「……いや、遠慮しとくよ。何かスゴイ人の様だし」
さっきの話で、今現在のKがこうもオカルト好きな理由の一端を垣間見た気がした。
類は友を呼ぶ、ならぬ、類は友を造る、か。
「そういえば、そのぐるぐる様ってさ。今も居るんかな?」
「ん。そらまた何で?」
「あ、いや。Kが一番怖いって言うくらいだからさ。僕も一度くらいその姿を拝んでみたいなー、なんて思ったりね」
「あ?あ、いやー違うぞ。そこじゃねぇ。確かに怖かったけどさ。一番って程でもねえよ。
 ……ワリーワリー。重要な部分が抜けてたな」
僕は首をかしげる。一体どういうことだろう。
「今までで一番怖かったのはさ。
 ……あの後、家に帰った後にな、抜け出したことが親にばれたんだよ。
 姉貴が夜に叫ぶもんだから、近所の人に聞かれちまって。
 で、家に帰ってから、猛烈に怒られるわけだ」
「……」
「そん時のオカンが、一番、怖かったな」
そう言ってKは「うははは」と笑った。

なつのさんシリーズ「ぐるぐる」終わり

117なつのさんシリーズ「うじの話」1:2014/06/14(土) 01:39:10 ID:Hpd3syqU0
僕の友人にオカルトの類に詳しく、にも拘らずオカルトと聞くと鼻で笑い飛ばす、Sという奴が居る。
ある日そのSに、「今まで生きてて一番怖い体験は何か」と訊いてみた。
するとSは読んでいた本から僅かに顔を上げて、いつもの興味無さそうな表情でちらりとこちらを見やり、
「一番って……、いちいち順位なんて決めてねえよ」と言った。取り付く島も無いとはこのことか。
「それじゃあ、最近一押しの怖い話とかは?」
僕は負けじと質問を重ねる。
Sは僕に向かってハエでも追い払うかのように手を振った。
それから何か言おうとしたようだが、ふと開きかけた口を閉じて、考える様なそぶりを見せた。
「……なるほど、怖い話か」とSが呟く。
その口調に何やらとても嫌な予感がした。
「一応訊くが、これは相当ヤバい話だ。最後まで聞く覚悟はあるか?」
そこまで言うか。僕は一瞬迷ったが頷く。
「そうか」
ゆっくりと本を閉じ、Sは話し始めた。
「実際に起こった事件だ。数ヶ月前、近くの街で、一人の女子大生が自殺した。それに関わる話だ」

以下しばらくSから聞いた話になる。
………………
大学二年の夏だった。今はもう辞めているんだが、当時俺は駅前の居酒屋でバイトをしてた。
そこで何時だったか、バイト仲間で飲み会をしようって話になった。
場所は一年上の先輩が住んでるアパート。
その人は俺がドリンカー(※裏方でお酒を作る人)として色々教わった先輩だった。
俺らと同じ大学の先輩だ。お前も見たことぐらいはあるだろうな。
自分で言うのも何だが、無愛想な俺にも普通に接してくれる人だった。八方美人と言えば言い方は悪いが。
おそらくその先輩からの誘いじゃなかったら、俺は飲み会なんか断ってたと思う。

当日。集まったメンバーは六,七人だった。
宅飲みだからとことん安上がりにしようってことで、
各自スナック菓子やらチューハイなんかを買い込んで、先輩の家に持ちよった。
飲み会は確か夕方の六時に始まって、七時を過ぎる頃にはもう周りは全員酔っぱらいと化していた。
その内、きっかけは忘れた。とにかく、先輩が昔付き合ってた女性の話をしだした。
何でもその女は隣町の大学生で、随分前に別れたそうだが、相手が納得せずしつこく付き纏われ、
いわゆるストーカーになってしまったらしい。
その話は前に先輩から聞かされ知っていた。飲み会から数日前の話だ。
「俺は、どうすればいいだろう?」と相談を持ちかけて来る先輩は、真剣に悩んでいる様に見えた。
その時俺は、「誰これ構わず、愛想を振るから……。勘違いする奴が出てきて当然ですよ」と答えた。
我ながら冷たい返答だとは思うが、先輩は納得したようで、「そっか、やっぱりそうだよなあ」なんて言っていた。
後で知った話だと、先輩は他のバイトメンバーにも、同じような相談をしていたようだ。

118なつのさんシリーズ「うじの話」2:2014/06/14(土) 01:39:44 ID:Hpd3syqU0
時間を飲み会当日に戻す。
「最初の方は、まだ許せたんだけどさ。
 だんだんエスカレートしてきて、『あなたを呪う!』みたいな手紙まで出してくるようになってさ……。まいったよ」
そう言って、酔った先輩はふらふらと立ち上がって、
背後の戸棚を探り、その元カノからだと言う手紙を出して俺たちに見せた。
真ん中に先輩の名前があり、あとはA4サイズのルーズリーフにびっしりと『呪う』という文字が書きこまれている。
「きめえ」だの、「ひどい」だの感想が飛んだ。
「……まあ、俺が悪いってのも、分かってんだけどさ。何も、そこまでやることはないだろう……こんなさあ……こんな、」
先輩は自分でも酒に強い方じゃないとは言っていた。その時はろれつも上手く回っていなかった。
でも、だからこそ、つい口を滑らしてしまったんだろう。
「それに、最近さ。なんか俺の部屋、蛆が、出るんだよな……」
先輩がそう呟いた。途端にそれを聞いた全員が、何を喋るでもなく口を開いた。鳩が豆鉄砲食らった様な顔だ。
言った本人も場の空気に気付いて慌てたようだった。
「あ、いや、これ秘密にしてたんだった。しまったな……」
それからは詰問の嵐だ。
最初の方こそ渋っていたが、周りが酒も絡ませながら問い質していくと、ものの数分で先輩は陥落した。
本当は誰かに喋りたかったのかもしれない。
「何かさー。家から帰って来るとさ。シンクの中で何か動いてるんだよ。こう、こう、白くて小さいつぶつぶが数匹。
 何だろなって思って良く見てみると、……蛆だった。ウジ。
 昨日なんか、風呂場にも出たぜ。バスの中の排水溝から、栓を押しのけてゾワゾワ湧いてた」
数名の女性陣が同じ色の悲鳴を上げた。
俺と同期のバイト仲間が「で、その後どうしたんすか」と訊くと、
「ああ。普通に、捨てたよ」と先輩は答えて、それから赤い顔で自嘲気味に笑った。
「俺さ……これ、これって。元カノの呪いじゃないかって思ってるんだけど」
再び女性陣から悲鳴が上がる。
その後で、何人かがシンクや風呂とか、先輩が『出る』 って言った水回りの確認をしていたが、
生憎というか、その日は何も居なかった。

それから一週間程経った後のことだ。
先輩の元カノが死体で見つかったと聞いた。自殺をしていたのだと。
俺がそれを知ったのは人伝だったが、地方のニュースで取り上げられるくらいには大した事件だったそうだ。
発見のきっかけは、アパートの部屋の周りに異常時発生した蠅だった。
郵便受けの蓋と挟まったチラシとの隙間から、異常な数の蠅が出入りしているのを、
訪ねてきた新聞の勧誘員が見つけたんだそうだ。
アパートの管理人がドアを開けた時は、約数十キロもの肉が腐った果ての猛烈な匂いと、
黒い竜巻かと見紛う程の蠅の大群が、同時に中から飛び出してきたらしい。
そして遺体は風呂場で発見された。
部屋の中からは遺書が見つかった。大学ノートに彼女の文字で。
そこには、『人生に悲観して』 という内容だけ書かれていた。
先輩も警察に呼ばれたそうだが、あまり込み入ったことは聞かれなかったそうだ。
警察も最初から自殺として扱っていたんだろう。

119なつのさんシリーズ「うじの話」3:2014/06/14(土) 01:40:23 ID:Hpd3syqU0
発見された時、彼女は死後三週間ほど経っていた。
それはつまり、俺たちが先輩の家で飲み会をしていた時には、
彼女はまだ誰にも見つからず、長風呂を楽しんでいたということだ。
しかし、夏の間に死んだ人間が三週間も放置されたのだから、その様子はすさまじかったと言う。
風呂桶の中で自ら首を掻っ切ったまでは良かったが、
場所がアパートの角部屋で、運悪く隣近所に誰も入居者が居なかった。
そのために匂いに気付く者がおらず発見が遅れ、ただの死体から腐乱死体へと昇格をする羽目になった。
何処からか入りこんだ蠅が死体に卵を生み、孵化して蛆が湧く。蛆は蠅となり、その蠅がまた死体に卵を産む。蛆が湧く。
この連鎖は、放っておかれた死体が朽ちるまで続く。
彼女は服を着たままで、発見当時、風呂桶には水は溜まっていなかった。
水というのは、死後人間から染み出す大量の腐乱液も含めてだ。それが無かった。
つまり、風呂の栓が空いていたということだ。
下水道へと通じるその穴にはきっと、
水分と肉とが混ざった腐乱液と一緒に、彼女の身体から湧き出た蛆が流れ込んだみ違いない。
下水道というものがどこまで繋がってるのかは知らないが、
『先輩の家に出たと言う蛆は、彼女の身体をもって生まれた奴らではないか?』
『先輩は元カノに死後もストーカーされた』
その後しばらくの間、バイト内ではそんな噂話が絶えなかった。
………………

「駄目だ……、グロいのは、駄目だ」
ここはSの家。
Sの話を聞くうちに、僕は段々とグロッキー状態になっていた。
隣町で自殺した大学生がすごい状態で見つかったというニュースは、僕にも聞きおぼえがあった。
けれでも、と僕は思う。
確かにちゃんと『怖い話』 ではあったが、やっぱりグロいのは駄目だ。虫も駄目だ。
いや、虫はいいが、ぞわぞわと湧きでて来るのは駄目だ。
「グロいのは駄目だ……」
Sは繰り返す僕の主張を無視して、代わりに欠伸を一つしていた。
「……お前が話しろっつったんだろうが」
「怖い話とグロい話は違うと思う。この世の中には、ちゃんとスプラッターとホラーって二つのジャンルがあってだね」
「それって、同じもんじゃなかったか?」
「違う違う。ホラーっていうのは、もっとこう、スマートに……」
言いかけたが、僕は口をつぐんだ。これを話していると夜を超えて朝になってしまう。
「しかしまあ……、下水を越えてやって来る大量の蛆虫かあ……、なんか夢に出そう」
僕は素直な感想を言っただけのつもりだった。けれどSはそんな僕を見やり、馬鹿にしたように「くっく」と笑った。
「……なんよ?」
「いや。やっぱり怖いなと思ってさ」
「だから、何が?」
「そうやって、人の話を簡単に信じるだろ。それが、怖い」
僕は首をかしげる。Sは何を言いたいのか。人の話を信じることが怖いこと。それは、つまりだ。
考えた末、思考が一つの可能性に行きあたった。
「え……、作り話なん?」
しかしSは、「それは違う」と首を振った。
「事実だよ。さっきの話は、俺が実際に体験したことで。そこに偽りはない」
「んじゃあ、」
「お前は一つ、勘違いをしてる」
僕の言葉を遮り、Sはそう言った。
「まあ、普通に考えれば分かることだが。あの話の中には、一つ、嘘がある」
それはつまり、登場人物の誰かが嘘をついたということだろうか。と言っても、先のSの話の登場人物はそれほど多くない。

120なつのさんシリーズ「うじの話」4:2014/06/14(土) 01:41:00 ID:Hpd3syqU0
そしてS自身は、先程自分の体験が嘘では無いと言った。ならば残された人物は……。
「……先輩が、嘘をついてた?」
そうだとSが頷く。
「でも、何について?」
ため息が聞こえる。おそらくは、僕の頭の回転の鈍さに嫌気がさしているのだろう。
ああ駄目だ駄目だ。自分で頭を叩く。Sに頼りっきりでどうする。考えろ考えろ僕の頭。
先輩は嘘をついていたのだ。何についてか。元カノについて?手紙について?ストーカー被害について? 
違う。
「……蛆虫だ」
僕はようやくそこに行き着いた。考えてみれば当然のことだった。
最初から『怖い話』 として聞いていたせいで、常識的な考え方がすっかり抜け落ちていた。
Sを見る。僕の答えは正解だったようだ。
「そうだな。不自然なのは蛆の話だ。
 普通に考えて、蛆が下水を通って上って来るなんてありえない。排水溝には虫の侵入を防ぐトラップもあるしな。
 まあ、そこを無視して成立するからホラーなわけだが、現実ではそうもいかない。つまり、嘘だ。
 あれは先輩の作り話だったんだ」
僕は自分の家の排水溝を覗き込んだ時のことを思い出した。確かに虫が上ってこれない構造になっていた。
それに元々、定期的に水を流していれば、虫は侵入できない。
現実。そうだ、ここは現実なのだ。その言葉が、僕の脳内に記憶されているSの体験談を徐々に浸食していく。
「飲み会があった日は、先輩の元カノが死んで十日が経った頃だった。
 しかも、蛆が出ると言った場所は、シンク、風呂、トイレ、全部下水から繋がった場所。
 ……ここまでくれば、自然と一つの推測が成り立つ」
そこまで言うと、Sは少し間をおいた。
「……少なくとも、飲み会のあった日。先輩は、元カノがどういう状態で死んでいるのかを知っていた。
 見つけてたんだ。彼女の遺体を、誰よりも早く」
現実的に考えて、先輩の家に蛆が現れることはない。けれど先輩は、S達に居もしない蛆の話をした。
『彼女の呪いかもしれない』 という言葉まで添えて。
そして、実際彼女は蛆の湧いた状態で見つかった。
「……でもさ、それだけなら、ただの冗談とか、偶然ってこともあるんじゃない? お酒も入ってたわけだし……」
するとSは黙って立ち上がり、戸棚から中から何かを取りだして僕に見せた。
それは、何か文字の書かれた二枚のルーズリーフだった。
「……何これ?」
「彼女の遺書の一部」
「い!?」
Sはそれを僕の目の前に置く。
一枚は普通の文面で何か書かれている。
そしてもう一枚には、誰かの名前を中央に、夥しい数の『呪う』 が書かれていた。
それはSの話に出てきた、彼女の呪いの手紙と酷似している。
何故こんなものがここにあるのか。
何も言えずに僕はSを見やる。Sは肩をすくめた。
「俺だって、蛆の話だけで決め付けたわけじゃない。ただ疑いは持った。
 それで、事件の後しばらくしてから、先輩んちに行ってな。隙を見て探したら、それ出てきた。
 飲み会した時にも、気にはなったんだ。棚には鍵掛かってたんだが。そこはまあ、……アレでな」
アレと言うのはおそらく、ここに書いてはいけない技術のことだ。が、まあそれは良いとしてだ。
僕は再び彼女の遺書に視線を戻す。『呪う』 と書かれた紙とは別の方。
そこには『私』 と称した一人の女性が、付き合っていたとある男に浮気され捨てられそうになる、その現状が書かれていた。
「そこにある男ってのが、先輩だ」とSが言った。
「先輩は彼女の家の合鍵を持っていた。随分前に別れたと言っていたが、実際はまだ『合鍵を持てる程の関係』 だった。

121なつのさんシリーズ「うじの話」5:2014/06/14(土) 02:03:53 ID:Hpd3syqU0
 まだ先輩は別れていなかったんだ。もしかしたら、その話をするために、彼女の家へ行ったのかもな」
遺書の最後には、『今死ねば、私はずっとあなたの彼女でいられる』 と書かれてあった。
この二枚の遺書を先輩は持っていた。
しかし、ふと単純な疑問がよぎる。
「……どうしてすぐに燃やしたりしなかったんだろう?遺書」
「だよな。ま、過ぎたことだ。そこは、本人に訊く以外、何をもってしても想像でしか埋まらん」
Sもそこについてはよく分かってないようだ。何らかの後悔や、それを持つことで贖罪の意識があったのかもしれない。
「とにかく確かなことは、飲み会があった日の前に、先輩は彼女の家に行ったんだ」
Sは続ける。
「そこで、先輩は彼女の遺体と、この遺書を見つける。
 先輩は遺書の内、自分の名前がある頁を破り取って逃げた。幸いにも、ルーズリーフだったから痕跡も残らないし。
 それに、残りの遺書は本物で、かつ、それだけで辻褄が合った」
先輩は通報しなかった。

122なつのさんシリーズ「うじの話」6:2014/06/14(土) 02:11:21 ID:Hpd3syqU0
先輩が逃げた理由は、何となくだが想像ができた。
遺書の内容が事実なら、彼女は先輩の心移りのせいで、自殺にまで追い込まれたことになる。
そこでもしも、先輩が遺体を見つけたその場で通報してしまって、事件が発覚すると、
『移り気によって彼女を自殺させた』 と彼の評判は地に落ちてしまう。それを恐れたのだ。
しかし自ら、『随分別れた元カノに付きまとわれている』 と吹聴し、
彼女が十分にストーカーへと変貌した後で、死体が発見された場合はそうはならない。
実際、先輩に下った評価は『死んだはずの元カノにストーカーされる哀れな男』 だったのだから。

123なつのさんシリーズ「うじの話」7:2014/06/14(土) 02:12:17 ID:Hpd3syqU0
それに当然だが、先輩は死んだ彼女の彼氏だったんだからな。発見が遅れるのも計算済みだったんだろう」
僕は大きな大きな溜息を吐いた。これで、隠れていた話の大部分が見えてきた。
ただ、一番大きな疑問がまだ残っている。僕はそれを訊かねばならないのだろう。

124なつのさんシリーズ「うじの話」8:2014/06/14(土) 02:12:48 ID:Hpd3syqU0
「でさ……。Sはさ。何で今、これを持ってるの?」
そう言って、僕は目の前の二枚の遺書を指す。
「ん?だから言ったろ。先輩の家にお邪魔した時に、失敬したって」
「そうじゃなくて!……僕が訊きたいのは、Sがこれを盗んでどうしようとしたのか、ってこと。
 何で、警察の元に、これがいっていないのかってこと」
すると、Sは肩をすくめて少しだけ笑った。
まさか、と僕は思う。Sは先輩のことを見逃したのだろうか。
先輩だと言った。世話になった人だと言った。だから見て見ぬふりをしたのか。
「……お前、普通に考えて、この事件における先輩の、刑事上の責任がどうなるか分かるか?」
「え?」
唐突な質問に僕は口ごもる。
「死体遺棄にはあたるだろうが。しかし、直接の死に関わった積極的な死体遺棄じゃない。
 更生を誓いさえすれば、ほぼ確実に執行猶予がつくだろうな。
 ストーカーのでっち上げなんてのはもっと酷い。しらばっくれられたらそこで終い。
 それに、そもそも被害者が居ないんだからな」
僕には法律の知識など無いから、ここで何か言えるわけが無かった。
「それは、彼の犯した罪からしてみれば、
 自殺まで追い込まれ、さらに死んだ後にストーカーにされた彼女から見れば、あまりに軽い。
 と、『個人的に』俺は思ったわけだ。……が、俺は同時に、『個人的に』 先輩に対して恩も感じていた」
だから、とSは言った。
「だから、俺はまず、先輩に訊いてみた。ルーズリーフ見せてな。これからどうするつもりですか、ってな。
 自首するならそれでいいと思ってたし。ゴネるなら考えがあった」
そうしてSは、先輩に自分が真相を知ったことを告げた。
「意外と簡単に白状したよ。全部。……遺書を見つけて、怖くなってやっちまったんだと。でも、自主はしたくないと言った。
 あの人の八方美人は、生きている人間限定だったらしい。その後、彼女の悪口を散々聞かされたよ。
 友達の少ない子で、同情心から構ってやってたら離れなくなって、仕方なく付き合ってた、だとかな」
Sが鼻で笑う。けれども、先輩としてはそうなんだろう。自首する気があるなら、最初から遺書を破って逃げたりしない。
「この事件がもし、彼女の自殺と先輩の遺体遺棄だけで済んでいたら、俺は見逃してたと思う。
 でも先輩はその後、死人に罪を着せて保身を図った。これは明らかにアンフェアだ。
 公にしたくないと言う先輩の言い分も分かる。ただし、罰は受けなければならない。
 だから、俺は一つ提案をした」
提案。どうやらSは、先輩をタダで見逃したわけではないようだった。そのことに少しだけホッとする。
しかし、続くSの言葉は、そんな僕の安堵を軽く吹き飛ばすものだった。
「……先輩の家には今でも、定期的に元カノからの手紙が届くそうだぜ?」
「は?」
僕はつい間抜けな返答をしてしまう。
彼女は死んでいるはずだ。本当に届いたとすればそれは、それこそ現実を離れたホラーになってしまう。
「あ!」
思わず声に出していた。
当たり前のことだ。死者は手紙を送れない。手紙を送るのは生きた人間だ。Sが言う罰とはそういうことだったのだ。

125なつのさんシリーズ「うじの話」9:2014/06/14(土) 02:13:30 ID:Hpd3syqU0
「一体誰に教えたんだよ……、真相を」
僕がそう言うと、Sは『よくできました』 とでも言うように小さく拍手をした。
元カノの遺族か、もしくは交遊のあった人物か。
いずれにせよその人物は、先輩に対してメッセージを送り続けているようだ。
それは『まだ許さない』 か、もしくは『絶対に忘れるな』 だろうか。
「……彼女の父親だよ」とSは言った。
真実を知ったのは死んだ彼女の父だった。
「『彼』 は先輩を訴えることも出来た。そうすれば、俺も協力するつもりだった。でも、『彼』 はそうしなかった。
 法に照らすことはせず、代わりに、手紙だ」
僕は思う。それは法による罰では無く、個人的な復讐を選んだということだろうか。
「……反社会的だと思うか?けどな、先輩も含め、全員がそれで納得しているんだ。
 これで良かったと言うつもりはないが、執行猶予を過ぎて全て終わった気になるよりはいいだろ。
 ……噂の通りだよ。彼女は死後も、ちゃんと先輩をストーカーしてる」
ここで僕はようやく今までの話が、何だかとてつもなく大きな何かを含んだ話だったことに気がついた。
僕の知らない間にSはとんでもない経験をしていたのだ。
身体が重い。ただ話を聞いただけで、精神と体力を大きく消耗してしまった様だ。
「……でだ。最後に、もう一つ」
Sが言う。まだ続くのか。僕は露骨にげんなりする。
「もちろん、この話をお前にした意味は、分かってるよな」
「……え。意味?」
そんなことを言われても意味が分からない。この話自体は単純に僕の『怖い話が聞きたい』 から始まったはずだ。
ただ、どうしてか分からないが、はっきりと嫌な予感がした。Sが話し始める前に感じた嫌な予感の正体でもあった。
「今は手紙だけだが……、もしも今後、先輩が誰かに殺されたとする。
 すると、俺は思うわけだ。犯人はきっと『彼』 に違いないと。
 で、それが本当に当たっていたら、向こうの方でも、真相を知りうる俺が邪魔だと思うかもしれない」
僕は思う。Sは何を言っているのだろう。
「その果てにもし、俺の身に何か起こったとする。
 そうなれば、彼女の自殺に始まる、事件の全貌を知りうる人物は、もう犯人とお前だけってことになる。
 今、全部話したんだからな。……まあ、その後どういう行動に出るかは、お前次第だが……」
そしてSは、真顔で僕の右肩に手を置いた。
「公表するか、黙っとくか。どちらもそれなりにきついだろうが。
 たった今俺の話を聞いたお前は、万が一の場合は、そのどちらかを選ばなければならない。
 迷惑な話か?でも、俺は最初に聞いたよな。『この話を聞く覚悟はあるか』 ってよ」
僕は言葉が出なかった。混乱していた。
部屋の外、廊下で回る換気扇の音がいやに大きく聴こえた。
これはどうやら、とんでもないことに巻き込まれたようだぞ。と、脳みその隅の方で誰かが僕に告げていた。
どうしよう。という言葉が、頭の中で暴れまわっている。
まだ肩に手が置かれたままだった。Sが『おい、どうすんだ?』 といった表情で僕を見ている。
怖い。
唾を飲み込む。
その瞬間、頭の中で暴れる『どうしよう』が、『どうしようもない』へと進化した。
僕は無言のままぎこちなく笑い、Sに向かって親指を立てて見せた。
しばしの静寂。
突然、Sが噴き出した。そんなSを見るのは随分久しぶりのことだった。
茫然としていると、Sは僕の肩を二度軽く叩きながら。
「……ジョークだよ」と言った。
「ジョークだ。ジョーク。ワリー。……でも、それなりに怖かったろ?」
その言葉が止めだった。僕の混乱は最高潮に達した。
ジョーク。つまり、冗談。
ジョーク。つまり、悪ふざけを伴った物語。
ジョーク。つまり……。
先輩は?
事件は?
死んだ彼女は?
なんだか前にもこんなことがあった気がするな。
「……あのさ。さっきの話の、どこからどこまでが、ジョーク?」
僕が辛うじてそれだけ尋ねると、再び読みかけの本を開いていたSは、ちらりと僕の方を見やって、
「さあて。どこまでだろうな」と、少し笑いながらそう言った。

126なつのさんシリーズ「言伝」1:2014/06/14(土) 20:32:48 ID:Hpd3syqU0
大学時代の冬のある日のことだった。
その日一日の講義が終わってから、僕は友人のSとKと三人で心霊スポット巡りに繰り出していた。
言いだしっぺはK、車を出すのはS、僕はおまけ。いつものメンバー、いつものシチュエーションだった。
目的地は、僕らの住む町から幾分遠い場所にある、今は入居者のいない古い集合住宅。
噂だと、そこには複数の首のない幽霊が出るらしいのだけれど。
結論から言うと、今回はハズレだった。
あたりが暗くなってからようやく目的の廃マンションにたどり着いた僕らを迎えてくれたのは、
色とりどりの落書きと、階段の踊り場で季節外れの花火をするマナーの悪い先客だった。
久々の大ハズレだ。
「ああいう奴らってのは決まって、怖い思いしたり祟りに遭ってから、
 『後悔してる。あんなとこ行くんじゃなかった』 とか言うんだ。
 くっそ、馬鹿じゃねーのか。呪われねーかな、あいつら。それか花火で火傷しろ、ヤケド」
帰りの車の中、いつもなら車酔いでダウンしているはずのKが、後部座席でぶつぶつ愚痴をこぼしている。
花火をしていた若者たちとは接触自体はなかったのだけれど、Kは彼らの行為に相当おかんむりのようだ。
「覚悟がねー奴は後で後悔すんだよ。『やっぱり止めとけば良かった』 とか俺だったら死んでも言わねーし。
 逆に、『やっぱそうだよな』 って言うな、うん」
「知らねーよ……」
運転しているSが若干うんざりした様に呟いた。
Kは廃マンションを離れてからずっとこんな感じだ。
車は郊外、左右を田畑に挟まれた道を走っていた。
暖房が暑くてウインドウを少しだけ下げる。僅かに開いた隙間から入り込んでくる冷たい空気が気持ちいい。
けれど、やりすぎると車内が冷える。僕はすぐにウインドウを閉めた。
確かにKの言うことも分からなくもない。
僕だって心霊スポットと呼ばれる場所に行くときには、『何が起こっても不思議じゃない』 という意識でもって行く。
実際、過去にたくさん怖い目にも遭ったし、死ぬかもしれないと思ったことだって一度や二度ある。
それでも、今日だってKが「首なしマンション行こうぜ」と言うと、ほいほい誘いに乗るのだから、
『何されたって文句は言わない』 くらいの覚悟は、僕自身持っているつもりなのだろう。

「なーなー、俺腹減ったんだけどよ。なんか帰りにラーメンでも食べて帰ろうぜー。俺今日は金ねえけど」
Sが「餓死しろ」と冷たく言い放つ。
僕もKに何か言おうと後ろを振り向いたその時だった。僕らを乗せた車が急ブレーキをかけて止まった。
道がちょうど見晴らしが悪く細い山道へと入るところだったので、死角からトラックでも出て来たのかと思った。
けれども、そういうわけでは無い様だ。
「……事故だ」
僕とKに向かってSが短く言った。事故だと。
それから車を道の脇のスペースになっている部分に寄せる。
車のライトの先、白いガードレールのそばに、確かに倒れたバイクと共に人影らしきものが倒れていた。
ライトはつけたまま、シートベルトを外してSが車を降りる。
僕とKは一度車内で顔を見合わせた後、無言でSに続いて外に出た。
「おい、大丈夫か?」
Sはもうすでに倒れている人のそばにしゃがんで声をかけていた。
仰向けに空を見上げるその人は、フルフェイスのヘルメットをしていた。ガタイが良く男性のようだった。
声をかけても反応がないと知ると、Sは顎とヘルメットの隙間に掌を差し込んだ。
「おい。お前らぼーっとすんな。K、救急車と警察呼べ」
「お、おう」
「○○(←僕の名前)はバイク道のわきに寄せて、車が来ないか見張ってろ」
「分かった」
僕は周りを見回す。耳も済ませてみたけれど、近くに車の気配はない。
停めた車の近くでKが電柱を睨みながら救急車を呼んでいる。
黒いバイクを苦労して起こし、邪魔にならないように路肩に寄せる。
バイクは前輪がゆがみ、フロントライトが粉々になっていた。それが他の部品と共に辺りに砕けて散らばっている。
傍らでSが「ちっ」と舌打ちしたのが聞こえた。見ると、Sが男の被っているヘルメットをゆっくりと脱がそうとしている。
「なあ、大丈夫なん?こういうときって、動かすのって駄目なんじゃ……」
「呼吸も脈もない。このままだとどっちにしろ助からない」
こっちを振り向かないままSはそう言った。
助からない、という言葉にどきりとする。それは死ぬということだろうか。目の前で。人が。
Sが脱がしたヘルメットを横に置いた。
露わになったその鼻と口から、赤黒い血が流れていた。目は閉じている。短髪の男だ。
生気のない死人の顔だった。

127なつのさんシリーズ「言伝」2:2014/06/14(土) 20:33:19 ID:Hpd3syqU0
僕は目をそむける。腹の下から何か熱をもったものがせり上がってきていた。冷静にならなければ、と自分に言い聞かせる。
そこで初めて、僕は男が倒れていた位置から少し離れた場所、道路についたタイヤの跡に気がついた。
等間隔で二本の黒い線が、不自然に弧を描いている。
二輪ではなく、四輪車が慌てて急ブレーキを踏みハンドルを切った様な跡。
僕はもう一度周りを見回した。車の気配は無い。
ひき逃げ。そんな言葉が頭をよぎった。
びい、と何か布の裂ける様な音。
振り向くと、Sが男の胸の上に両手を置き、心臓マッサージを始めていた。
男の口には中ほどまで裂かれたハンカチが乗ってある。救命措置。Sは呼吸も脈も無いと言っていた。
事故に遭ってから僕らが来るまでに、どれくらいの時間があったのだろう。
何度か心臓マッサージをした後、Sが男の鼻をつまみ、顎を持ち上げ人工呼吸をする。そうして、また心臓マッサージ。
それを繰り返す。
「救急車も警察も、あと十分くらいでこっち来るってよ」
電話を終えたらしいKが戻って来る。Sは振り向かず「そうか」と一言。救命処置を続ける。
僕はKに向かって、「……ひき逃げかな」と道路に着いたタイヤ痕を指差す。
Kは目を凝らしてそれを見てから、「マジかよ」と小さく呟いた。

「おい、どっちでもいい、救命講習受けたことあるか」
しばらくしてSがマッサージを続けながら尋ねる。
確か車の免許を取る時に受けたはずだ。三十回心臓マッサージをした後に人工呼吸だったか。
いや、それよりまず気道確保だ。
「できるぞ」
僕がもたもたと一連の内容を思い出していると、Kが一歩進みでてそう言った。
「じゃあK、代わってくれ。俺も休みたい」
「お、おう。分かった」
Sが立ち上がり、Kと交代する。
「ふう」と溜息に似た息を吐くSの額には僅かに汗が浮かんでいた。風のせいで辺りは震えるほど寒いにも関わらず。
「助からないかもしれないな」
僕の視線に気付いた様で、Sは腕で額をぬぐいながら言った。
「まあ、医者が死亡と下すまでは生きてるわけだが。
 それでも、ああも冷たいとな……、人形を必死に生き返らせようとしている気分になる」
それからSは道路のタイヤ痕に目をやり、「ふん」と小さく鼻を鳴らした。
「……ひき逃げかな」
僕は先程Kにしたのと同じ質問をする。
「さあな。それは警察に任せとけ」というのがSの答えだった。
それからSは地面に腰を下ろすと、ガードレールにもたれかかって目を瞑った。
その手に赤いものが付いているのが見える。血だ。
僕は倒れている男に視線を移した。あの男はまだ死んでいない。医者で無い僕らにその判断は出来ないのだ。
救急車で運ばれて、医者に確認されて、初めて死んだことにされる。
それでもSは冷たいと言った。実際に触れていない僕には分からないが、その言葉は確かな実感を伴っていた。
死んではいないが、生きてもいない状態。だとしたら、男の魂は今何処をさまよっているのだろう。
目の前ではKが屈みこみ人工呼吸をしている。僕はその様子をただぼんやりと眺めていた。
身体を起こしたKが、びくり、と震える。
何だろうと思った。
そのままKは動かない。心臓マッサージを続けないといけないのに。Kはただ自分の両手を眺めていた。

128なつのさんシリーズ「言伝」3:2014/06/14(土) 20:33:51 ID:Hpd3syqU0
「……K?」
僕が呼んでも反応は無い。
それからKはふらっと立ち上がると、男の身体越しにガードレールを掴み、そこに人指し指を当てた。
何かを書いている様だった。
不安になった僕はKに近寄り、その肩を掴んだ。
その瞬間、何か電気の様なものがKの身体を通じて、僕の足の先から頭のてっぺんまで走り抜けて行った。
驚いて思わずKの肩から手を放す。同時にKが僕の方を振り向く。
「……いちよんななきゅう」
「え?」
唐突にKが言った。
「おい……、『いちよんななきゅう』 って何だ?それに、『みさき、ゆか』 って何だ。人か……?」
いきなり矢継ぎ早に質問され僕は狼狽する。僕にはKが何を言っているのかも分からない。
その思いが顔に出ていたんだろう。Kもはっとした表情になる。
「何してんだ?」と横からSの声がする。
「……いや、何でもねえ。……わりい。俺もまだ何が何だか分かんねえから……」
そうしてKは僕の方を向いて、
「ちょっと代わってくれ。頭がガンガンする……」
目の辺りを押さえ未だフラフラしながらKはその場を離れた。
残された僕は、Kが先程掴んでいたガードレールを見やる。
そこには赤く掠れた血文字で、辛うじて『1479』 と書かれていた。
それから僕はKと交代して救命処置を行った。Sの言った通り男は確かに冷たかった。

救急車と警察がやってきたのは、僕がKと代わってから五分程経った後ことだった。
男が担架に乗せられ運ばれて行くのを横目に、僕らは警察の質問に答えた。答えていたのはもっぱらSだけれど。
三人とも訊かれたのは氏名と住所。
もっと面倒なことになるのかなと思っていたのだけれど、しばらくすると警察に「もう帰ってもいいよ」と言われた。
僕ら三人は顔を見合わせて、黙って車に乗りこんだ。
やるだけやったという思いも無く、僕らはただ疲弊していた。
帰り道、車内にはなんの会話もなかった。

それから二,三日経った日の朝のことだった。突然Kから電話が掛かって来た。
黒いスーツを持ってないかということだった。
どうするのかと訊いたら、『葬式に出る』 と言い、
誰の葬式に出るのかと尋ねたら、あの事故に遭った男性の葬式だとKは答えた。
『言わんといけないことがあるからな』
車はSが出してくれるらしい。
Kがどうするつもりか気になった僕は、スーツを貸す旨と、自分もついて行くとKに伝えた。

葬式の会場は、偶然にも僕らが事件の日に訪れた廃マンションのすぐ近くだった。
すでに多くの人が集まっており、僕とSを車に残してKは一人会場の中へと入って行った。
「どうしたんだろ。K。……Sは何か聞いてる?」
「いや」
行きの車の中、Kは何事か考えている様でずっと無言だった。ただ単に車に酔っていただけかも知れないけれど。

車の中で待っていると、思ったよりも早くKは戻って来た。
ドアを開け、気だるそうな動作で後部座席に座ると、「……あーあ」と呟き、
「……おう、悪かったな、付き合わせて。ほれ、帰ろうぜ」と言った。
Sは何も言わず車を出した。

129なつのさんシリーズ「言伝」4:2014/06/14(土) 20:34:23 ID:Hpd3syqU0
当然だけれど、帰り道の途中に事故のあった現場を通り過ぎる。思わず注視してしまう。
事故があった痕跡は、もう路面のタイヤ痕だけだった。
「被害者は……、首をやっちまってたらしい」
後部座席からKの声がした。
「頸椎だっけ?が折れるか断裂かしてて、だから痛みも感じず死んだはずだって。言われたわ。奥さんに」
まるで独り言のように、ぽつりぽつりとKは言葉を紡ぐ。
「それに、俺らが見つけたのは、意識も呼吸も脈も無くなってからだった。
 だったら最後の言葉なんて残せるはずもないよな。
 泣きながら言われたよ。『お心遣いは有難いですが、馬鹿にしないでください……』 だとさ。
  ……まあ、当然だけどな。警察にも言ってないことだし」
最後の言葉。僕は思い出す。あの時、数字と共にKが呟いた言葉があった。
『みさき、ゆか』
Kはそれを伝えに来たのだ。
けれど、それは生きている人間が発した言葉ではなかった。普通の人には決して聞くことのできない、死人の言葉。
「理解されないってのは分かってるんだがなあ……。覚悟もしてた。
 でも、こうなんだよなあ。壁があってさ。その向こう側に何があるかなんて、見える奴にしか分からねえんだ」
そうしてKは、「やっぱそうだよなー……」と呟いた。
三人とも口をつぐみ、しんとする車内。
急に亡くなったばかりだし、今は時期が悪かったんだ。Kは悪くない。当然のことをしただけだ。
言うべき言葉は山ほどあったのに、その全てが口の中で空回り、外に出ることなく萎んでいった。
けれども何か言わなければと思い、僕は無理やり口を開く。
「……ラーメン」
意識していたわけでは無かった。ただ、出てきた言葉がそれだった。
どうしてラーメン。自分でも分からなかった。見ると二人が何事かという表情をしていた。
「ラーメンだ……。そうだ、ラーメンを食べに行こう!
 お腹が減ったしさ、時間も丁度いいしさ、前には行けなかったわけだしさ」
ヤケになって喋る。
けれども、今がお昼時なのも事実だし、お腹が減っているのも本当だ。そして何よりラーメンはKの好物だ。
Sが小さく吹きだす様に笑った。
「そうだな……。どっか寄ってくか」
賛同してくれたことに僕はホッとする。
その途端、車の中の温度が少し上がった様な気がした。
「あ、でもさ。実は俺、今日は金ねぇんだけど……」とKが言う。
またかと僕がつっこむ前に、Sが前を向いたまま、ひらひらと片手を振った。
「いい。おごってやるよ」
その親切な言葉にKは驚いて固まっていた。僕も吃驚してSを凝視する。
こいつは本当にSだろうか。そんな疑問まで浮かぶ。
「マジで……?」
「香典で使って金がねえんだろ。だったら、おごってやるよ」
Sの言葉に僕は思い出す。確かに会場に行く前、Kは封筒を手に持っていた。
「……うおおマジかよ!言ったなS。だったら俺メッチャ食うぞ」
「別にいい。でももし車内で吐いてみろ。窓から放り出して轢き殺すぞ」
「上等だ。化けて出てやるよ」
「あ、S、じゃあ僕もおごって」
「うるさいお前ら」

130なつのさんシリーズ「言伝」5:2014/06/14(土) 20:34:57 ID:Hpd3syqU0
そうして僕らはその後、走りながら見つけた中華料理店に立ち寄りラーメンを食べた。
結局Sは全員分奢ってくれたし、
結局Kは帰りの道中で車に酔って、醤油ラーメン大盛り餃子セットをまるごとリバースしたのだけれど。
それからKはずっと後部座席でダウンしていたのだけれど、
「うー気持ちわりい……殺してくれー……」と垂れ流すKはいつものKだった。
そうして隣では、辛うじて車内では吐かれなかったものの、「せっかく奢ってやったのに」だとかSが小言を言っている。
いつも通りを久しぶりに感じた様な気がした。
やっぱりこういうのがいい。僕はSの小言を聞きながら、安堵と共に欠伸を一つする。

今回のこと。人の死をリアルに垣間見てしまった後でも、結局懲りずに僕らはまたオカルトに首を突っ込むのだろう。
どうしてかと問われても、きっと分かりっこない。
説明なんて出来るはずもない。そういうモノこそが、オカルトなのだから。
ちなみに後日、僕らが遭遇したひき逃げ事件のことと、そのひき逃げ犯が捕まったいう記事が地方紙の片隅に載っていた。
記事によると、被害者の血で書かれたナンバーが現場に残されており、それが決め手となったそうなのだが。
事故後、頸椎を損傷した被害者は文字が書けなかっただろうこと。
そして、そのナンバーが実は被害者の死後に書かれたものだとは、何処にも載ってはいなかった。

131なつのさんシリーズ「UFOと女の子 夏」1:2014/06/14(土) 20:36:31 ID:Hpd3syqU0
そろそろ二十世紀が終わろうかという年の九月のことだった。
当時まだ十歳にもなっていなかった僕はその夏、一人の宇宙人に出会った。
僕が住んでいた街の外れには、四階建てのそこそこ大きいデパートがあって、
そこの屋上は、小さな子供たちが遊べるスペースになっていた。
百円玉を入れると動き出すクマやパンダの乗り物や、西洋のお城の形をした巨大なジャングルジム、
クモの巣状に張られたネットの真ん中に、トランポリンが付いている遊具とか。
とにかく、子供心をくすぐるような場所だった。
それらいくつかの遊具の中に、銀色のUFOの形をした遊具があった。
当時はそれがアダムスキー型だということは知らなかった。
UFOの下部にはやじろべえの様に支柱あって、子供が中に入って動き回るとその重心が移動した方にぐらりと傾くのだ。
地面からUFO本体までは、大人の背丈ほどの高さがあった。
中に入るには、等間隔で結び目のついている縄ばしごを上らないといけないので、本当に小さい子は上ってこれない。
それでいて単調で単純な仕掛けだったから、他の遊具に比べると人気も無く、中に人がいることは滅多に無かった。
けれど、僕はそんな UFOが大のお気に入りだった。
当時、たまに母の買い物に付いて行くことがあって、
その時は100円と消費税分だけ貰って、デパート内の痩せた店員さんが居る駄菓子屋で菓子を買い、
母が下で買い物をしている間、僕はUFOの中でその菓子を食べながら、一人宇宙人気分を味わったりしていた。

その日は小学校が昼に終わって、家に帰った僕は、夕飯の買い物に行くという母の後ろをついて行った。
いつもの様に100円分のラムネ菓子や飴やガムやらを買って屋上に行き、
UFO下部に空いている三つ穴の一つから、縄ばしごを伝って中に入ろうとした。
すると中に一人先客がいた。女の子だった。赤い服に長めのスカートをはいている。
こちらに背を向けて、外側に出っ張っている半球状の窓から屋上の様子をぼんやりと眺めていた。
平日だったので誰もいないだろうとタカを括っていた僕は、女の子の存在に少しばかりドギマギした。
すると女の子がこっちを振り向いて、僕は更にドキリとする。
けれども、ここで頭をひっこめると何だか逃げ出したみたいで恰好悪いと思い、僕は黙って中に入った。
僕が入って来たせいでUFOの重心がずれ、ぐらり、と傾いた。
女の子から一番離れた壁にもたれかかりながら腰を下ろして、
下の階で買って来た駄菓子の中から、まずラムネ菓子の包を開いた。
ちらりと見やると、女の子はまた窓の外の方を見やり、こちらに背中を向けていた。歳は僕より一つか二つ上だろうか。
窓から入って来る夏の強い光のせいで、肩まで伸びる黒髪の輪郭がちりちりと光っている。
あの子はどうして外ばかり見ているのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、ラムネが一粒、手の中から転げ落ちた。
ころころとUFOの中を転がり、あっと思った僕はその後を追いかける。
すると、手が届きそうなところでUFOの重心が移動して、
ラムネはまるで僕から逃げる様にあらぬ方向へと転がってしまった。
ようやく捕まえて、汚れを払うために息を吹きかける。
笑い声が聞こえた。
いつの間にか女の子が僕の方を見ていて、両の手を口にあてて、くすくすと笑っている。
「……それ、食べるの?」
そう言って女の子は、僕の手にしたラムネを指差した。
その口調がまるで『一度落ちた物を食べるなんて、キタナイ人』 と言っている様な気がして、
むっとした僕は返事の代わりに無言で、ぽい、とラムネを口の中に放り込み、大げさにがりがり噛んで呑みこんだ。
「おもしろいね」
女の子がまた笑った。
面白いのはけっこうだけれど、面白がられるのは愉快なことではない。
憤然としていると、女の子はすっと片手を僕の方に差し出して、
「わたしも甘いもの欲しい。一つください」と言った。
口調は丁寧だけども、図々しいにも程がある。僕は幼い頭で何とか嫌味を言ってやろうと考えた。
「知らない人から物を貰っちゃいけないって、習ったことはない?」
どうだ。

132なつのさんシリーズ「UFOと女の子 夏」2:2014/06/14(土) 20:37:01 ID:Hpd3syqU0
けれども女の子はまるで怯まなかった。
「うん。でも……、でも、わたしはあなたのこと、知ってるよ」
僕は驚く。僕と彼女はどう考えても初対面だった。それとも実は同じ学校に通ってるとかだろうか。
「あなたはキミでしょ。アンタでもあるし、お前にもなるね。それと、人間で、男の子。たぶん私より年下ね。
 今お菓子を持っていて、わたしのぜんっぜん、『知らない人』 ……
 ほら、あなたのことだって、もうこんなに『知ってる』んだから」
ぽかんとする僕に、女の子はもう一度「だから、ください」と掌をこっちに押し付けて来る。
正直意味が分からなかったけれど、勢いに負けたというか、返す言葉も思いつかなかった僕は、
黙ってラムネを分けてあげた。
「ありがとう」
そう言って女の子はにこりと笑った。
笑うと可愛い女の子だった。

それから僕たち二人は、むしむしと暑いUFOの中でおしゃべりをした。
といってもほとんど女の子が何か尋ねて、僕が答えるという形だったけれど。
女の子が訊き出し上手だったのか僕が隠し下手だったのか、
その日のうちに僕は名前から住所から洗いざらい吐かされて、
しばらく経った頃には、女の子にとっての僕は本当に、『知らない人』 から『知っている人』 へと変わっていた。
買った駄菓子も結局半分くらい食べられた。

どれくらい話しただろうか。そのうち窓の方を見やった女の子が、「お父さんだ」と声を上げた。
見ると、外に黒い野球帽を被った男の人が立っていた。
「迎えが来たから、もう行くね」
「……あ、待って」
UFOの中から出て行こうとした女の子を僕は呼びとめる。
色々と訊かれるままに答えてしまったし、お菓子は半分食べられたし、このまま帰してしまっては僕だけが損した形になる。
それに、僕はまだ彼女の名前も訊いてなかった。
「名前を教えてよ」
女の子がこっちを振り返った。その顔は何か思案している様だったけれど、やがてにこりと笑って、こう言った。
「うちゅうじん」
「え?」
「ワタシハ、宇宙人デス」
自分の喉を小刻みに叩きながら、女の子は震える声でそう言って、にこりと笑った。
ひとり分の重量がなくなったUFOがぐらりと傾き、僕だけが船内に残される。
ぽかんと口を開けたまま、天井に取り付けられた窓から青い空を見上げた。
自分を宇宙人だと言った女の子のまぶしいくらいの笑顔が頭に残っていた。
確かに宇宙人だ。とその時は思った。

133なつのさんシリーズ「UFOと女の子 夏」3:2014/06/14(土) 20:37:35 ID:Hpd3syqU0
それからというもの。僕はよくデパート屋上のUFOの中で宇宙人と遭遇するようになった。
学校が終わってからの時間や休みの日。僕が行けばほぼ必ず彼女は居た。
大抵彼女が先にUFOの中に居て、僕が後からというのが多かったけれど、僕が先に着いて待つこともあった。
彼女と会うと僕は必ず質問攻めに遭った。生い立ちのこと、両親のこと、学校のこと、友達のこと。
彼女の問いに、僕はいちいち馬鹿正直に答えた。
当時の僕は、学校はつまらなかったし友達はいなかったし、それでいて親に対しては『いい子』 を演じていた。
けれども、彼女には何も隠さなくても良かった。
デパートの屋上の小さなUFOの中が僕らの唯一の接点だったから。
どこかふわふわとしていて、掴みどころの無い子だったけれど、彼女と話している時間は楽しかった。
僕らは色々話して、沢山笑った。
いつしか、僕はデパートに行って彼女と話すのが楽しみになっていた。
僕は何の用事のない日でも、気が向けばデパートに行くようになっていた。

「それじゃあ、君も、宇宙人なの?」と彼女に訊かれたことがある。
僕にあまり友達が居ないことを白状させられた時のことだ。
「違うよ。僕は地球人」と返すと、「ちきゅうじん」と僕の真似をするように言って、くすくすと笑っていた。
ぐらぐら揺れるUFOの船内で隣り合わせに座り、二人でラムネなんかを食べながら。
僕から彼女に質問することはなかった。それが無くても、僕たちの間に話題はたくさんあった。
それに、自分のことについてはほとんど話さなかった彼女に、子供なりに遠慮していたのかもしれない。
たまに自分から口を開いたと思ったら、
「私のお母さんが宇宙人で。だから、私も宇宙人なの」などと彼女は妙なことを言って、一人で笑うのだった。
けれども、僕はそれが嘘だとは思わなかった。
彼女は自分のことを「宇宙人だ」としか言わなかった。
僕は女の子が実は本当に宇宙人で、それ以上の秘密を知られたら、自らの星に帰ってしまうんじゃないかと、
割と本気で思っていたのかもしれない。

でも、何度も何度も会って話すうちに、僕はどうしても、あの子のことをもっと知りたいと思う様になった。
出会ってからもう一ヶ月程がたっていたけれど、僕はまだ彼女の名前も教えてもらっていなかった。
だからその日、いつものように迎えが来てUFOから出て行こうとする女の子に向かって、僕は思い切って訊いてみた。
「ねえ、名前を教えてよ。『宇宙人』 じゃなくて、君の本当の名前」
それを訪ねるのは二度目だったのに、一度目よりも緊張した。
彼女も少し驚いたような顔をした。
すぐにいつものあの笑顔に戻ったけれど、その顔はどこかしら困った様にも、はにかんでいる様にも見えた。
「……分かった」
一呼吸置いて、
「  。」
少し俯き、呟く様に、彼女はその名前を口にした。
そうして、いそいそとUFOから出て行ってしまった。
しばらくして、僕は自分耳やら頬やらが火照っていることに気付いた。
初めて彼女の名前を聞き出せたのだし、彼女が答えてくれたこともう嬉しかった。
次会ったらどんなことを訊こうかと、その時からもう色々と質問を考えはじめていた。
けれどもその日以降、僕が彼女に何か尋ねることはなかった。

次の日、学校から帰った僕は、何の唐突も無く原因不明の高い熱を出してしまい、しばらくデパートへは行けなかった。
寝込んでいる間、何の根拠もなく、彼女があのUFOの中で僕のことを待っている様な気がして、
何だか申し訳ない気持ちになったりした。

134なつのさんシリーズ「UFOと女の子 夏」4:2014/06/14(土) 20:38:08 ID:Hpd3syqU0
そうして幾日か経ってから、回復した僕は学校が終わってからいそいそとデパートへと向かった。
彼女に会ったら、数日間来れなかったことを謝らないと、と思いながら。
けれども、屋上へ続く階段をあがった僕は、自分の目を疑った。
そこに有るべきものが無かった。
UFOが無い。たった数日間の間に消えていたのだ。
それがあった場所はただのがらんとしたスペースになっていて、支柱を支えていたボルトの跡しか残っていなかった。
辺りを見回してみたけれど、女の子の姿も見当たらない。
僕はデパート内に降りて近くにいた店員に、屋上のUFOはどうしたのかと訊いてみた。
するとその店員は作業していた手を止めて僕を見下ろし、
「ごめんなさいねボク。UFOと言われても、私は聞いたこともないし、知らないの」と言った。
そんなはずはないといくら言っても、店員は首を横に振るだけだった。
話にならない。そう思った僕は、別の店員を捕まえて同じ質問をした。
けれども返って来たのは同じような答えだった。三人目、四人目もそうだった。
僕は茫然としながら屋上に戻った。沢山ある遊具の中、UFOだけが存在していない。
辺りには他の遊具で遊ぶ子供たちの声がしている。まるで誰もそこにあったUFOのことなんて覚えていないかのように。
当時、『喪失感』 なんて難しい言葉は知らなかったけれど、あの時感じたのはきっとそれなんだろう。
僕はベンチに座って女の子を待った。
でも結局いくら待っても、その日女の子が屋上に現れることはなかった。
もしかして、あの子もUFOと一緒に消えてしまったのかも知れない。僕があの子の名前を知ってしまったから。
そんなくだらない思いつきを、その時の僕は懸命に振り払わなくてはならなかった。

それから僕は、ほぼ毎日の様にデパートに足を運んだ。
百円分のお菓子を買い、いつも半分だけ残して、ベンチに座ってぼんやりと女の子が来るのを待った。
皆UFOのことを知らんぷりする。あの子ならきっと僕の気持が分かってくれると思っていた。会って話がしたかった。
けれども、幾日が過ぎても、何週間と経っても、彼女が僕の前に現れることはなかった。

そんなある日。ベンチに座って女の子を待つ僕の体に肌寒い風が当たった。
その瞬間、僕は自分が女の子の名前をすっかり忘れていることに気がついた。
あり得ないことだった。
あれだけ知りたいと思った彼女の名前を、やっと教えてくれた名前を。
あの時の映像はしっかりと思いだせるのに、彼女が何と言ったのか、どうやっても思い出せないのだった。
ああ、やっぱり。
知ってしまったからだ。
そう僕は思った。
僕が彼女のことを知ってしまったから。だから彼女は僕の前から姿を消してしまったんだ。
自分の名前と存在した痕跡だけを消して。
UFOと一緒に行ってしまったんだ。
気がつけば僕は泣きだしていた。
ずっと何かを溜めこんでいたダムが壊れて、溢れた水は両の目から涙になってこぼれた。
周りから、あの子はどうしたのだろうと視線が集まる。
風が夏の終わりと秋の訪れを告げる中、僕は声をあげて泣いていた。

135なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」1:2014/06/14(土) 20:38:57 ID:Hpd3syqU0
あの夏から約十年が過ぎた。大学二年の冬休みのある日。
ひょんなことで故郷の街に戻ってきた僕は、友人のSとKと三人であのデパートを訪れていた。
そのひょんなことと言うのは、冬休みに入る前、大学の学食で三人で昼食を食べていた時のこと。
Kの提案で、その場でそれぞれ子供時代の不思議な思い出を語ることになり、僕はあの夏デパート屋上での話をした。
それに思わぬ食いつき方をしたのが、オカルティストのKだった。
「うおおUFOとかマジかよ!なあ、今度さ、そのデパート行ってみようぜ」
僕が散々十年以上前の話だし今行っても仕方がないと説明しても、Kは聞く耳も持たなかった。
「居ないなら居ないで、ショッピング楽しめばいいじゃん。別に誰が損するわけじゃねえし。いいだろ?」
「うはは」と笑うKの横で、Sがぼそりと「……ガソリン代はどっちか出せよ」と呟いた。こうなればもう止まらない。
かくして数日後、冬休みに入った僕らは、Sの運転する車に乗って僕の故郷へと出発したのだった。

僕は県内の大学に進学したのだけれど、実家のある街までは国道なら車で大体三時間はかかる。
朝の九時頃から車を走らせ、デパートの外観が見えてきたのは陽も昇った正午過ぎだった。
ちなみに、面倒くさいので実家に寄らなかった。日帰りだし、どうせ年末戻って来るのだし。

Sが立体駐車場の一階に車を止めた。周りは昼時だと言うのに、繁盛しているとは言えない駐車状況だった。
おそらく、街の郊外に大手の大規模なショッピングモールが出来たせいだろう。
昔、このデパートが街の商店街から客を奪ったのと同じことだ。
駐車場から店内に入る。
確かに昔ほどの人込みはないけれど、胸にこみあげてくるものがあった。
実は約十年前、屋上でわんわん泣いたあの日から、僕はこのデパートには近づかない様になっていた。
母の買い物に付いて行くのも止め、中学生の頃も、高校に上がってからも避け続けた。
そうして、消えたUFOのことも、そこで出会った女の子のことも、これまで周りの誰にも、親にさえ話したことはなかった。
何故かと訊かれると、僕にも分からないと言うしかない。
だから、どうしてその隠してきた話をKとSの二人だけには打ち明けて、
今自身も十年とちょっとぶりにこのデパートにやって来ているのかも、当然分かっていない。
強いて言うなら、魔が差したんだろう。

僕らは一階からエスカレーターを使って四回まで上がった。屋上へは四階から階段を使わないといけない。
階段へ向かう途中、百円ショップの隣、昔いつも買い物をしていた駄菓子屋の横を通る。
ふと横目で見ると、レジの方に見覚えのある店員さんの姿を見つけた。
十年前と変わらぬ陳列棚にも、昔と同じ駄菓子が並べられていた。あのラムネ菓子もあった。
屋上へと続く階段は手すりの白い塗装が記憶よりも随分剥げていて、錆びた鉄の部分が露出していた。
屋上への入り口が見えた。前を行く二人の友人の後ろで僕は一度立ち止まる。
夏。階段を一段上るにつれて差し込んでくる光の量は増していき、青い空と沢山の遊具が徐々に徐々に見えてくる。
それが何だか無性にワクワクして、途中から僕はいつも走って駆けのぼるのだった。
その記憶の中の光景に比べると、冬の光は弱く、空は少しくすんでいる様に見えた。
いつの間にか階段を上がりきり、僕は屋上の入り口に立っていた。
こんなに狭かったかなと思う以外は、屋上は最後に見た記憶のままだった。
やはりUFOのあった場所は、ただの空きスペースのままだった。
僕ら以外に人影も見当たらない。音を立てて吹く冬の風のせいか、遊具で遊ぶ子供の姿も無かった。
「さみいなあ。なあなあ、ところでUFOどこよ?」
ポケットに手をつっこんだKがそう訊いて来る。僕は黙って昔それがあったはずの場所を指差した。
「何もねえじゃん」
「僕はゆった。今行ってもなんも無いよって」
「ふーん。UFOだけに、宇宙まで飛んでっちまったのかねえ……」
つまらなそうにそう言うと、Kはクモの巣状に張られたネットの真ん中にトランポリンがある遊具に向かい、
一人でポンポンと跳ね始めた。
ふと見やると、Sが昔UFOがあった場所で俯いて地面を見つめている。
そばに近づいてみると、彼はUFOの支柱をとめていたボルトの跡を見ているらしかった。
「確かに、ここに何かはあったんだな」とSが言った。
「え、何。僕の話、信じてなかったん?」
「記憶ってのは簡単に曲げられるし、一部消えたり、書きかえられることだってあるからな。特に子供の頃の思い出はな。

136なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」2:2014/06/14(土) 20:39:31 ID:Hpd3syqU0
信じてなかったわけじゃない。鵜呑みにしなかっただけだ」
「あそう」
「ただ、まだ呑み込めない部分もあるけどな」
「え……、何それ、どこ?」
Sは僕の問いには答えず、トランポリンの次はジャングルジムに上りだしたKの方をちらりと見やってから、
一人階段へと向かって歩き始めた。
「腹減った。とりあえず下に降りて、飯食おうぜ」
けれども、僕は先程の言葉が気になって仕方が無い。
「ねえ、僕の話の、どこが引っかかってるんよ」
するとSは振り向いて、
「お前の記憶の中にある、店員の対応。それと……」
何故かSはその後の言葉を口にするのを、一瞬だけ躊躇った様に見えた。
「……それと、お前が、確かに教えてもらったっていう、女の子の名前を覚えていないこと」
そう言って、Sはまた階段へと向かう。
隣ではKがいそいそとジャングルジムから降りてきていた。
そんな二人の様子を見ながら、僕はその場に立ったままSの言葉の意味を考えていた。
店員の対応と言うのは、『UFOなんて知りません』 と言ったあの言葉のことだろう。
でも、実際に屋上からUFOは忽然と姿を消したのだ。まるでそんなもの最初から無かったかのように。
もう一つは彼女の名前。
あの時の光景は今でもはっきりと覚えている。
蒸し暑いUFOの中で、天井の丸い窓からスポットライトみたいに円柱状の光の筋が注いでいて、
目の前の女の子は、笑顔の内に少しだけはにかんだ表情をしている。
その口が動く。けれどもここだけが、耳を閉じたわけでもないのに、何を言っているか聞こえない。
外ではしゃぐ他の子供たちの声も、辺りに広がる街の喧騒も消える。無音。
一時期は、本当にアブダクションされて宇宙人に記憶を消されたのではないか、と思ったことさえある。
今思えば微笑ましい妄想だけれど。
でも確かに、Sの言う通り何かが引っかかっている気がした。
形のはっきりとしない何かが、伸ばしても手の届かないギリギリの辺りを漂っている様な。
僕は目を瞑り、集中して、その何かを掴もうとした。
「おーい。そんなとこで突っ立ってんなよ。早くこいよ」
けれども失敗に終わった。その声で僕は我に返ってしまった。
見ると、Kが階段の入り口に立っている。Sはもう階段を下りてしまった様だ。
僕は頭を振って、歩きだそうとした。
その時、ふと視界の隅に何かが映った。
昔UFOがあったスペースの隅に、ぽつんとジュースの空き缶が置かれてある。空き缶には一輪の花が差されてあった。
紫色の花。
頭のどこかがうずいた様な気がした。僕はその花の方へと少し近づいた。
花は折り紙だった。上手く作ってあって、遠目からは本物の花に見える。茎も葉もある。
空き缶は上部が缶切りか何かで切り取られていた。
まるで献花のようだ。
あの日と同じく冷たい風が吹いた。
その瞬間、今度こそ僕は、僕の中で漂っていたそれを掴み取っていた。
ああ、そうか。
だからか。
だからあの日、UFOは忽然と姿を消して。
だから店員は僕に、『UFOなんて知らない』と言って。
だから僕は、彼女の名前を忘れることにした。
僕は全てを思い出していた。
でもそれは鈍い痛みを伴っていた。あのまま忘れていた方が良かったのかもしれない。
僕は空を見上げ、誰に向かってでも無く、声にも出さず問いかける。
もう一度、忘れることは出来るだろうか。
答えは自分の中から返って来た。それは出来ない。
「……おいおいおい、何やってんだよ。さっきから一体全体よ」
僕のすぐ後ろでKが怪訝そうな顔をしていた。
それと、あんまり遅いから戻ってきたのだろう、階段の入口の方にSの姿も見えた。
僕は何を言うことも出来なかった。そのまま歩きだし、黙って二人の横を通り過ぎた。
背中にどっちかの声が当たったけれど、あまり気にならなかった。

137なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」3:2014/06/14(土) 20:40:53 ID:Hpd3syqU0
階段を下りて、僕の足は四階の駄菓子屋の前で止まった。
中に入ると、十年ぶりの店員さんが笑顔で迎えてくれた。
当然だけれど、僕のことなんか覚えていないだろう。
たとえ覚えていたとしても、僕自身十年前とは顔も体つきも変わっている。
友人二人は駄菓子屋の外で呆れたように僕の様子を眺めていた。
僕は駄菓子をきっかり百円分買った。
あの頃と同じ、三十円のラムネや、当たり付きのフーセンガムや、スーパーボールみたいな飴玉を。
「あの……、覚えてますか?」
カウンターで百円玉と十円を一枚ずつ出しながら、僕はレジを打つ店員にそっと尋ねてみた。
その痩せた五十代前半くらいの男性はふと僕の方を見やると、「何のことですか?」と問い返してきた。
やっぱりというか、僕のことは覚えていないようだ。
「あの僕、久しぶりにこっちに帰ってきたんですけど。……昔、屋上に、UFOの遊具があったでしょう」
すると、店員は「ああ」と肯定の声を出した。
「ありました、ありました。うん、確かに。UFOでしょう。グラグラ揺れる」
僕は頷く。UFOはあったのだ。最初から無かったのではなく、僕の記憶違いでもなく。確かに屋上に存在した。
呼吸を一つ。
「……でも、事故が原因で無くなったんでしたよね?たしか、女の子が、巻き込まれた」
僕が熱を出して寝込んだ日。TVである事故のニュースが流れた。
デパートの屋上で女の子が遊具から転落して、意識不明の重体。
原因は、他の子供達が外から遊具を揺らし、バランスを崩したからだと。
けれども、店員は少しばかり眉をひそめ、僕の方を見やった。
「あなたは、ライターですか?」
警戒しているのだろうか。
「いえ。大学生です。昔よくここに、駄菓子を買いに来てました。いつも百円分。
 たまに消費税の五円は、まけてくれたりしてましたよね」
店員の表情が崩れたのが分かった。
話してもいい相手だと思ったのか、もしかしたら僕のことを思い出したのかもしれない。
実は話し好きだったらしい痩せた店員は、それから色々と教えてくれた。
「そうですね。もう大分昔のことですし。
 ……ええ、確かに。夏ですね。夏の終わりごろ。屋上で女の子が遊具から転落する事故がありました。
 意識不明の重体で、打ちどころが悪かったんでしょう。数日後に、亡くなったそうです」
彼女の意識が無かった数日間、僕は熱を出して寝込んでいた。
「その時、子供が数人、周りに居たんですよね」
「はい。数人がかりで、中に上るための紐を持って遊具を揺らしてたそうです。
 見かけたここのスタッフが止めに入ったそうなんですが、間にあわずに……」
そうして彼女は、落ちて、死んだ。
「だから、遊具を撤去した?」
「そうです。普通の怪我ならともかく、死者が出たんですから。
 それにあの頃は、他の公園なんかの遊具も、アレは危ないから外せだの、色々と言われていた時期でしたから」
「……僕、あのUFOが好きだったんですよ。でも、ある日屋上に行ったら、いきなり、無くなってたんです。ショックでしたよ。
 店員さんに訊いても、UFOなんて無い、知らないって言われましたし。何が何だか、分からなくって……」
「ああ……、それはすみません」
そう言うと、店員は僅かに頭を下げ、先程よりも小さな声で、
「確かな話じゃありませんが。あの亡くなった女の子は、学校で苛められてたんじゃないかって。
止めに入ったスタッフが、色々酷い言葉を聞いたそうです。
 だからというか、あの時は、取材と称した方がたくさん来られましたよ。
 店員は下で働いているんだから分かるはずもないのに、事件の様子とか、細かくね。
 中には、子どもを使って訊き出そうとする輩までいたそうですよ」
だからあの時、店員は僕に対して『UFOのことなんて知らない』 と言ったのだ。
おそらくは、店の方から事件については何も喋らない様にと言われていたのだろう。
「可哀そうにねぇ……」
遠い目をしながら痩せた店員は呟いた。

138なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」4:2014/06/14(土) 20:41:23 ID:Hpd3syqU0
「あの子の父親は、このデパートで働いていたんですよ」
「え?」
「あ、いえ。と言っても私はあまり関わりも無かったんですが。傍から見ても、仲の良い親子だったんですよ。
 お父さんの方は朝から夕方までここで働いて、夜はまた別の仕事があったそうですが、
 あの子は、いつもお父さんのことを待っていてね。
 二人、下で夕飯の材料を買って帰るんです、いつも。
 料理はあの子がしてたそうですよ。何でも、母親が病気だったそうで」
「病気……」
「ええ。病名は忘れましたが、大分特殊な病気だったそうで」
『私のお母さんが宇宙人で。だから、私も宇宙人なの』
ふと、彼女が言った言葉を思い出した。けれども、それについては何も分からない。
彼女は自分のことに関しては、ほとんど何も話さなかった。
「もしかして、今、その父親の方は……ここに?」
「いえいえ。あの事件があった後、すぐに辞めましたよ。彼の気持ちを考えたら、とても居られないでしょう」
「そうですね。……あの、有難うございます。何だか色々と教えてもらって」
「いえいえ」
店員にお礼をして、五十円分ずつ別の袋に分けてもらった菓子を持って、僕は駄菓子屋を出ようとした。
けれど、ふと思い出して振り返る。
「あの、最後に。屋上に折り紙の花が置いてあったんですが。あれって……」
「ああ、それは多分。清掃の人が置いたものでしょう。中沢さんじゃないかな。
 ああ、大層恰幅の良いおばちゃんなんですけどね。はは。あの人も私と同じくらい長いですから」
「あの花って、確か」
「ええ。スミレですね」
礼を言って、僕は店を出た。
友人は二人とも百円ショップの前で退屈そうに商品を見ていた。
Kは僕の姿を見つけた途端、「おっせーよ」と言った。
「用は済んだのか?」とS。
僕は、まだ、と首を横に振る。
「先に食べといて。一階にフードコーナーがあるはずだから」
「なになに、なんなのさっきからお前。変だぞ。なんかあったんか?それとも何か隠しててていてて痛いSイタイ」
たぶん一番状況を理解していないKが、Sに首根っこを掴まれて引きずられて行く。
僕は片手を上げ、無言でゴメンと二人に謝ってから、また四階からさらに上へのぼる階段へと向かった。
歩きながら思う。
僕は本当は全部分かっていたんだ。自宅であのニュースを見た時に。もう女の子には会えないということを。
けれども僕の頭は、それをどうしても否定したかったようだ。
高熱は出たけれど、もしかしたらそのおかげかもしれない。僕は事故の存在と彼女の名前を忘れることに成功した。
あの子はまだ生きていると、自分に思いこませるために。
彼女に会いたいがために。
僕は目を細めた。
屋上へと続く階段に、さっきまでとは違う大量の光が降り注いでいた。透明な冬の光ではなく、色のついた夏の光だ。
所々塗装がはげていた階段も、いつの間にか白く綺麗になっていた。
十年前に見た光景だった。何も変わらない。そうして今、僕はあの時と同じように百円分のお菓子を持っている。
戸惑いながらも一歩ずつ階段を上る。上りながらSが言った言葉を思い出す。
記憶は簡単に曲げられる。
だったら、一秒前の記憶はどうなのだろう?ゼロコンマ一秒前の記憶は?ゼロコンマゼロ一秒前なら?
意識と言うモノが記憶の集合体ならば、僕が今見ている景色はそういうモノではないだろうか。
そう強引に納得して歩を進めた。
光が段々強くなってくる。どこからか夏の匂いがした。子供たちの声が聞こえた。
たまらなくなって、気がつくと僕は走り出していた。階段を駆け上がる。

139なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」5:2014/06/14(土) 20:42:06 ID:Hpd3syqU0
屋上。
そこにはあの銀色をしたアダムスキー型のUFOがあるはずだった。
そして夏の光の中、確かにそれはあった。
僕は急いでその傍へと駆け寄った。早くしないと僕に掛かっている魔法が切れてしまいそうで怖かった。
けれど目の前まで来ても、確かにUFOはそこにあった。
小さい頃は届かなかったそのボディを、僕はそっと手で触れてみる。ザラザラとしたプラスチックの手触り。
僕は縄ばしごに手をかける。入口の穴は頭のすぐ上にあった。
この中に居るのだろうか。
けれども、そこでふと立ち止まる。
このままUFOの中に入ってしまって良いのだろうかという疑問が降って沸いてきた。
いまだ魔法は解けず、僕はしっかりとあの日の夏の屋上に居る。
けれどもだ。僕は本当にこのUFOの中に入ることが出来るのだろうか。
出来る。と答える自分が居た。
でも、もし本当にそれが出来てしまったら。
縄ばしごに足をかけて、僕の身体が地面を離れた瞬間……。
この幻覚は、幻覚で無くなってしまうのではないか。
『……どうしたの?』
すぐ頭の上から声がした。聞き覚えのある懐かしい声。
縄ばしごを持ったまま、あまりの唐突さに僕は息をするのも忘れていた。
『入って来ないの?』
彼女の声。
この声すらも僕の脳が創りだした幻なのだろうか。それとも。
『お話ししようよ。私が引っ張って上げようか?』
入口の穴から小さな手がこちらに向かって伸びてきた。掌を上に。顔は見えない。手だけだった。
もしその手を握ればもう戻れない。そんな予感があった。
たっぷりの戸惑い。数秒の迷い。そして一瞬の躊躇。
そうして僕は、自分の右手をそっと彼女の手に重ねた。
重ねて、離した。
彼女の小さな手には、ラムネ菓子や、飴玉が入った袋が乗っていた。五十円分。
それをきゅっと握って、手がUFOの中へと戻っていく。
「ごめん。僕は乗れない。友達を待たせてあるから」
少し僕の言葉を吟味するような間があった。
『……ともだち?』
「うん」
『ともだちが、できたの?』
「うん」
『それは、良いともだち?』
「うん」
懐かしい。昔もこうだった。彼女が質問して、僕が答える。
『私も、良いともだちだった?』
「うん。……もちろん」
何か冷たいものが頬に触れた。
雪だった。
夏のデパートの屋上に、粒の細かい雪が風に乗ってちらほらと舞い降りていた。
そろそろ魔法が解けるのかもしれない。いつの間にか手にしていたはずの縄ばしごの感覚が消えていた。
周りの子供たちの声もしなくなった。
もう残っているのは、目の前の銀色のUFOだけだ。
僕はそれが消えてしまわない様、目を逸らさずにじっと見つめていた。
不意にUFOの入り口の穴から、こちらを覗きこむように女の子が顔を出した。
そして、にこりと笑った。僕の記憶にあるそれと寸分違わない笑顔だった。
『おかし、……ありがとう』
返事をしようとした僕の目に雪が入って、一瞬、瞬きをした。閉じて、開いて。
それだけでもう僕の目の前にUFOは存在していなかった。
雪の降る屋上には人影も無く。足元にUFOを支えていたボルトの跡があるだけだった。
僕はしばらくの間、何もしないで、ただ空を見上げていた。
僕は一体、何を見たのだろう。Sに言わせると、幻覚幻聴、または妄想ということになのだろう。
そして僕は、ふと自分の手の中にあるものを見やった。

140なつのさんシリーズ「UFOと女の子 冬」6:2014/06/14(土) 20:42:58 ID:Hpd3syqU0
「うおお。雪だ。雪降ってんじゃん!」
声のした方を向くと、一階のフードコートに居るはずのKとSが屋上に上がって来ていた。
見ると、Sは方手にビニール袋を持っている。
「二人共……どうしたの?」
尋ねると、Sがその手に持ったビニール袋をひょいと持ち上げる。
「屋上で食った方が美味いんじゃないかってな。下で買って来たんだよ。ほら、お前の分のサンドイッチだ」
そう言って、Sは紙袋に包まれた湯気の立つ大きなサンドイッチを僕によこしてきた。
僕はしばらくサンドイッチを眺めていた。せっかくさっき泣かなかったのに、また涙が出てきそうで。
必死に我慢しながら、無言で一口齧る。
Kの笑い声。何だろうと思った。Sも小さく笑っていた。
いきなりむせた。
辛かった。
からしだった。大量のからしが、サンドイッチのパンとパンとの間に塗りたくられていたのだ。
咳き込んで涙が出た。前言は撤回だ。こんなヤツら、全然良いともだちじゃない。
「俺じゃないぞ。主犯はKだ」
止めない時点で同罪だろう。
二人に対してあまりに腹が立ったので、僕は残りのからしサンドイッチを全部一気に平らげてやったら、もっと笑われた。
大量のからしを食べすぎるとそうなるのか、口だけじゃなくて目まで痛くなった。
三人で屋上のベンチに座って、僕は口直しに渡されたお茶を飲む。
それすらも罠じゃないかと怪しんだけれど、幸い普通のお茶だった。
「で、用事ってのはもう済んだのかよ」とKが訊いて来る。
僕は頷いた。Kは何があったのかを聞きたそうだったけれど、今のところ僕に話すつもりはない。
代わりに、手にしていた五十円分の菓子が入った袋を開け、中身をそれぞれ半分ずつKとSに手渡した。
「何だコレ?」
僕の行動を測りかねた二人が同時に尋ねて来る。
さっきのお返しだとばかりに、僕はたっぷりと意味ありげに笑って答えた。
「言わば、それはKの大好物で、なおかつ、Sが到底呑みこむことの出来ないもので……」
僕の言葉に二人は、お互い訳が分からんといった風に顔を見合わせた。
「さらに言えば、僕がさっき宇宙人にあげたもの、かな」
Sは手にしたガムを怪訝そうに見やり、Kは包を開いた飴玉を恐る恐る舐める。
僕はそれを見て、また少し笑うのだった。

141なつのさんシリーズ「やまびこ」1:2014/06/14(土) 20:44:58 ID:Hpd3syqU0

以下は友人のKから聞いた話だ。

………………
季節は夏で、俺は当時小学校の高学年くらいだったと思う。
家族で父方の親戚の家に泊まりに行った時のことだ。毎年一度はやっている親族の集まりだった。
夜、酒を飲むばかりの大人たちに退屈していた俺と四つ年上の姉貴は、
何か面白いものはないかと探し回り、ついに隣の村で祭りをやっているという噂を聞き付けた。
そしてこれはもう行くしかないと、無理やり親戚のおじさん(下戸)を一人引っ張って、車を出してもらった。
おじさんの話によれば、その祭りは『やまびこ祭り』 という名前らしい。
なんでも、その周辺には昔から『やまびこは山の神の返事だ』という言い伝えがあり、
豊作や雨を願う際、他にも何か願い事がある時には、
山の頂上付近にある突き出た岩の上から叫ぶ、という風習があった。
『やまびこ祭り』 という名前はそこから来ているらしく、
今でも祭りの終盤には子供たちが山に登り、自身の願い事を叫ぶ行事があるそうだ。
聞けば、おじさんも子供の頃祭りに参加して、叫んだことがあるんだとか。
「おじさんは、何て叫んだんです?」
行きの車の中で姉貴が尋ねる。
「『頭が良くなりますように』 ってな」
おじさんは「ははは」と笑った。俺と姉貴も遠慮なく笑った。

移動手段が車だったので、そう時間はかからなかった。
祭りのある村も含め、周辺地域自体が山間のそこそこ高い位置にあるんだが、
祭りの会場は、もう少し山を上ったところにあるダム湖の横の広場だった。
俺たちがついた頃にはもう祭りは始まっていた。
広場の中心にはステージがあって、広場の周りをぐるりと囲むようにたくさんの提灯と屋台が並んでいた。
田舎の小さな祭りだと思っていたんだが、人の集まりもにぎわいも思ったよりある。
二時間後に車に戻って来ることをおじさんと約束して、ついでに少々の小遣いをせびって、
俺と姉貴は祭りの人混みの中へと溶け込んでいった。

まずは綿菓子やイカ焼きを買って食べる。
しかしまあ、祭りで売っている食べ物はどうしてあんなにうまそうに見えるのか。
腹も満足したところで、姉貴が「金魚すくいがしたーい」と言うので、それに付き合った。
「わたし昔さ、金魚すくいの『すくい』 の部分って、救いの手を差し伸べることだと思ってたんよね。
 金魚たちは悪い人に捕まってて、助けてあげなくちゃってね」
「うわ、馬鹿じゃん」
「うっさい、若かったの。
 でさ、前の年にやぶれた金魚すくいの網を一本いただいて、次の年に自分でやぶれない紙張って持ってったの。
 さすがに百匹超えた時点で止められたけど、でも、あの時の店のおじさんの顔ったらなかったわー」
もう言うまでも無いが、俺の姉貴は少し変わっている。いや、少しじゃないな。
ふと見上げると、金魚すくいをしている俺らの会話を、店の店主が険しい顔で聞いていた。
マズイかなと思った俺は二,三匹救った時点でわざと失敗して、やぶれた紙を店主に見せた。
姉貴は空気を読まずに三十匹ほど取ってたけど。
姉貴はその内の二匹だけを袋に入れてもらって、アカとクロという名前をそれぞれつけた。俺は金魚はもらわなかった。
そんなこんなで、俺と姉貴は祭りを十二分に楽しんでいた。

142なつのさんシリーズ「やまびこ」2:2014/06/14(土) 20:47:52 ID:Hpd3syqU0
そうして俺たちが祭りに参加して一時間ほど経った頃だった。
『時間になったので、子供たちは集合してください』
突然辺りに拡声器の声が響いた。
それを合図に辺りから子供が集まって来る。
どうやら、おじさんが言っていた行事がこれから始まるらしい。
俺と姉貴は顔を見合わせた。
「……どうする?」
「行くに決まってるでしょ。おもしろそうじゃん」
やっぱりか。
行くと、何やら番号のついたカードを渡された。
子供たちは渡されたカードの番号の下、幾つかの班に分かれることになった。
集まっていたのはほとんどが小学生くらいの男の子で、他に数人、お守役なんだろう、姉貴と同い年くらいの男子がいた。
俺と姉貴は同じ班になった。
といっても、子供たち全員が一斉に山に登るのだから、班の意味はあるのだろうかと、その時は思った。
今考えると、お守役の子の負担を考えてということだろうが。

ダム湖横の広場から、山頂に続くという細い山道を一列になって歩いた。
列の途中途中にいるお守役の兄ちゃんが提灯のような明かりを持っていたので、そう暗くはなかったが、
祭りの明かりから離れるにつれ、夜の山の雰囲気は不気味さを増していった。
俺は知らぬ間に、前を行く姉貴の裾を掴んでいた。
虫や鳥の鳴き声以外、誰も声を出さなかった。まるで肝試しだ。
女の子がほとんどいないことにも、これで納得だ。こんなとこに来る女の子なんてのは、よほど変わり者か物好きだろう。
その物好きは、俺の前でさっきから全く喋らずに黙々と歩いている。
こんなに登るのかと内心愚痴る程、道は急で長かった。

随分高いとこまで来ただろうと思ったところで、いきなり開けた場所に出た。
一枚の大きな岩が山肌から突き出ていて、俺たちはその岩の上にいるようだった。
周りは落下防止用のフェンスで囲まれている。
お守役の男子の一人が俺ら姉弟を含めついてきた子供たちに、「今からあそこで叫ぶんだ」と説明した。
カードに書かれた番号順。俺と姉貴は最後の方だった。
暗くてよく分からなかったが、岩の向こうは谷か崖のようだった。その向かい側、遠くかすかに黒い山脈の影が見える。
最初の男の子が、岩の先に立ってありったけの声で叫んだ。
よく聞き取れなかったが、ゲームか何かが欲しいと叫んだんだろう。
若干のタイムラグの後、その声はしっかりとしたやまびことなって返って来た。
「……誰の声だろ?」
隣の姉貴がぽつりと呟く。
俺はてっきりさっきのやまびこのことだと思い、「誰って、やまびこじゃん」と若干馬鹿にしたように言った。
しかし姉は、俺の話を聞いていないようだった。辺りをきょろきょろと見回している。
そうこうしている内に、二人目、三人目と子供たちは順番に叫んでいった。
意中の子へのありったけの想いを叫ぶ男の子もいた。
その全てが、やまびこになって返って来る。
「やっぱり聞こえる。……違う。誰。誰?」
そうしてやまびこが返って来る度に、姉貴の様子はおかしくなっていった。

143なつのさんシリーズ「やまびこ」3:2014/06/14(土) 20:48:45 ID:Hpd3syqU0
俺が半ば本気で心配しかけた時、姉貴はカードの順番を無視して走るように進み出た。
周りの何だ何だという雰囲気も、順番を守れという声も、姉貴には届いていないようだった。
突き出た岩の先、落下防止のフェンスを掴み、姉貴は大声で叫んだ。
「誰!?答えてっ!」
大声だったのに姉貴の声は返って来なかった。
代わりに、地の底から吹き上げるような強い風が吹いた。
それはまるで人間の唸り声みたいで、その場にいた全員が固まったと思う。ただ一人、姉貴を除いて。
俺の直感が『何かやっべえぞ!』 と警告を発した。
それと同時だった。突然、姉貴が笑いだした。「うはははは」という、正気とも狂気ともつかない笑い声だった。
呆気に取られる俺を含め周りをよそに、フェンスを掴み崖下を覗き込みながら姉貴は笑う。笑いながら叫んだ。
「すごい、すごい、すごいっ。人だ。やまびこなんかじゃない!
 這いあがって来る。わっ、すごい。ほら、来て。皆にも見せてあげて!」
その瞬間、別の叫び声が上がった。俺の傍にいた一人の子供が出したものだった。
その叫びはやまびことなり、こだまする。
俺も叫びたかった。
人だ。
何本ものあり得ないくらい長く細く白い腕が、崖下から伸びてフェンスを掴んでいた。
何かが這いあがって来ているのか。姉貴は胸から上をフェンスから身を乗り出して笑っている。それは心底楽しそうに。
気付けば辺りはパニックになっていた。叫び声は叫び声を誘発し、場の混乱は個人の思考の自由を奪う。
ほとんどの者がその場を逃げ出し、あっという間に岩の上に残っているのは俺と姉貴だけになった。
実際のところ、俺だって逃げたかった。けれどそもそも足が震えて動かない。それに姉貴を残して逃げるわけにもいかない。
「……ね、ねえちゃん」
辛うじて声が出た。けれど姉貴には届かない。
俺は目を瞑り、一度深呼吸をして、目を瞑ったまま叫んだ。
「ねえちゃん!」
一瞬の間、俺の声がやまびことなって戻って来る。
ゆっくりと目を開くと、姉貴がこちらを振り向いていた。いつの間にかフェンスを掴んでいた白い手も消えている。
「あらら、……皆いなくなってる」
辺りを見回して姉貴はそう言った。いつもの姉貴だ。途端に膝の力が抜けて、俺はその場にしりもちをついた。
「何してんの、あんた」
その言葉に緊張の糸が切れ、俺は長い長い溜息を吐いた。
「……そりゃこっちのセリフだよマジで」
姉貴がこっちにやって来て、俺の手を掴み引っ張り起こす。
「それにしても、すごかったね」
姉貴はまだ興奮している様だった。
フェンスをよじ登ろうとしていた、あの白い手のことを言っているのだろう。
もしかしたら、姉貴には全身像が見えていたのかもしれない。
「……なに、アレ?」
「わかんない。でも、みんな顔中が口だらけだった。目も鼻も無くて。それが、私の声を真似してた」
ぞっとする。
「大丈夫だったのかよ……」
「ん?ああ、大丈夫大丈夫。嫌な感じはしなかったから」
ヤツらの容姿と危険度は必ずしも比例しないというのが、姉貴の持論だけども。
こういうことに関しては、俺は姉貴に何か言える立場ではない。
そもそもヤツらとの付き合いの長さ深さが、俺と姉貴では比べ物にならなかった。

144なつのさんシリーズ「やまびこ」4:2014/06/14(土) 20:49:19 ID:Hpd3syqU0
「でも、どうして、何かいるって分かったんだよ……」
「下から聞こえてきたから。崖の下から。
 普通やまびこって、向こうの山に声が反射して聞こえるものでしょ。それが、崖の下、それも近いところから聞こえたんよ」
俺には何も聞こえなかった。あいつの腕を見たのだって、『見せてあげてよ』 という姉貴の声がきっかけだった。
「おじさんの言う通り、やまびこが神の返事だとしたら、アレが神さまってなっちゃうけどね。
 ……いっぱいいたけど、それぞれが神様なのかな」
「……皆同じだった?」
「ううん。男の人も、女の人もいたし、髪の長いのも短いのもいた。着物を着てたのも、そうでないのもいた。
 同じなのは、顔中口だらけってだけ」
俺はそんな神様はいやだと心底思った。
それにそもそも、うじゃうじゃ崖を上って来る神様なんて聞いたことがない。
でも、こちらに危害を加える悪霊でも無ければ、神さまでも無いとしたら、アレは一体何だというのだろう。
「わたしも、アレはたぶん、神さまじゃないと思う」
俺の思考を読み取ったかのように姉貴が言った。
「ここからはわたしの勝手な想像になるけど……いい?
 まず疑問なんだけど、ここが神様にお願いする場所だったとして。
 飢饉で食べるものが無いとか、長い間雨が降らないとか、
 そういう時に人間って、ただ叫ぶだけで、願いが聞き届けられたと思うものかなぁ……」
姉貴は首をひねる。俺もつられてひねる。
「普通、やまびこって、明らかに自分の声じゃん。どこの山でもあることだし。
 ……それを、それだけを神さまの返事ってするには、ちょっと無理があると思うんだよね。
 だとしたら、神様に願いを聞いてもらうために、必要なものは何だろうね?」
「え、え……、えーと……」
「生贄。人身御供」
イケニエ。俺が言えない言葉を、姉貴は簡単に言ってのけた。
「極端な話をすれば、ね。でも実際に谷底にいた、『アレ』は『それ』じゃないかって、私は思うんだけど」
生贄、人身御供。それは、今の時代の感覚では到底理解できない風習。
「……人を捧げて、それから願い事を叫ぶ、返事が返ってくる。それを、神の返事だってことにする。
 そんな流れが、あったんじゃないかなぁって」
フェンスに囲まれた山肌から突き出た岩の先を見やる。あそこから突き落とせば、人は簡単に死ぬだろう。
崖の下から聞こえてきたという声。願いを叶える神さま。色々な言葉が、断片的に俺の頭の中でぐるぐると回る。
「もしもさ、あそこから落された人たちが、自分が犠牲になることで人々が幸せになると信じていたら、だよ?
 その意思が谷底にまだ残っていて、そこに、沢山の人の『願い』 が降ってきたら……」
頭の悪い俺に整理する時間も与えず姉貴は喋る。
「口がね。たくさんの口が、それぞれ何か呟いてたんよ。
 よくは聞きとれなかったんだけど、たぶん、『お願いします。お願いします』って。
 ……あの人たちは、聞こえて来る願いに、一生懸命応えようとしているんじゃないかな。
 分かんないけど。……分かんないけど」
そうして姉貴はようやく口を閉じた。
対して俺は、ずっと口を半開きに姉貴の話を聞くだけだった。
何も言えなかった。それは間違っているとも、それは正しいとも。
でも、一つだけ疑問があった。
生贄とは、命を犠牲に人々の願いをかなえようとする行為だ。
だとしたら、願いを叶えるためにそいつらが要求するのは、やはり命では無いのか。自分がそうしたように。
俺自身としては、その辺りはもう姉貴の言葉を信じるしかない。『いやな感じはしなかった』 という若干頼りない言葉だが。
まあ、結果としては、確かに何事も無かった。ちゃんと帰りつくまで油断は出来ないが。
そこ至って、俺はようやく一つの現実的な問題に行きついた。
「……ところでさあ、これもしかして、明かりが無いから、下まで帰れないんじゃね?」
恐る恐る俺はその疑問を口にした。
唯一の明かりであった提灯は、先に逃げた奴らによって全部持っていかれていた。
今は月明かりがあるので、辺りがまるで見えないほどではないが、木々の茂る山道に入ると何も見えなくなるだろう。

145なつのさんシリーズ「やまびこ」5:2014/06/14(土) 20:50:02 ID:Hpd3syqU0
「あー……本当。誰か来てくれるのを待つしかないかな。ま、大丈夫じゃない?気付いてくれるでしょ。おじさんもいるし」
確かに助けは来るだろう。でも、それがいつになるかは分からない。
「……これ、おじさんに怒られるかもな」
すると姉貴は意味ありげに笑って、背後の岩の先端辺りを指差した。
「心配なら、『どうか怒られませんように』 って、向こうに立って叫べばいいんじゃん?きっと叶えてくれるから」
「いやぁ、……やめとく、やめとく」
その瞬間、俺の耳元で『……やめとく』 と囁くような声がした。
それは耳に直接息使いすら感じる程の至近距離からの言葉だった。
俺は飛び上がった。まさか、未だ隣にいるのだろうか。やまびことか良いから、もう勘弁してほしい。
そんな俺を見て姉貴は心底可笑しそうに笑った。
こいつの神経は一体どうなっているのだろう。俺はこの時程、姉貴が怖いと思ったことはなかった。

その後のことは姉貴の言う通り、捜索に来た大人たちによって俺たち姉弟は無事保護された。
もちろんおじさんには怒られたけれども、正直怖いとは思わなかった。たぶん、もっと怖い体験をしたからだ。

姉貴がすくった二匹の金魚は、二匹ともいつのまにか死んでいた。
酸素が足りなかったのか、姉貴に振り回されたことが原因か、
はたまた、『皆にも見せてあげて』 という姉貴の願いを叶えたその代償だろうか。
姉貴は「救ってあげられなかったね……」と肩を落としていた。

『やまびこ祭り』 の真相については、未だに確かなことは分かっていない。
その昔、あの地域で生贄、人身御供があったなんて話は聞かないし、姉貴の言葉が全部真実だとも思わない。
生贄とか、そんなもん妄想空想の類だ。と言えればいいが、生憎俺は『アレ』 の一部を見てしまっている。
結局、アレは何だったのか。
もしかしたら確かめる方法はあるのかもしれない。
それは、もう一度あの山に登り、岩の上から直接『叫んで』返事を聞くことだ。あんたらは一体何なんだ、と。
しかし、俺は未だに実行しないでいる。
もし、それを知って、代償として何かの命が要るのなら、割に合わないからだ。
金魚二匹分の命で答えてくれるのかもしれないが、生憎俺たち姉弟はそろって動物好きだった。

ちなみに、これは数年経って親戚の家に行った時に聞いたんだが、
あの夜の騒ぎのせいで、次の年の祭りから子供たちだけで山に登るという行事は無くなったらしい。
「……俺たちのせい?」と隣にいた姉貴にそっと尋ねると、姉貴はからから笑いながら、
「おれたちのせい」と、まるでやまびこのようにそう言った。

146なつのさんシリーズ「遺影」1:2014/06/14(土) 20:50:53 ID:Hpd3syqU0
小話を一つ。

季節は春で、僕がまだ小学校にも上がっていなかった頃の話だ。
その日、僕は家族と一緒に母方の祖父母の家に遊びに来ていた。
まだ夕飯を食べる前だったから、時刻は午後六時か七時か、その辺りだっただろうか。
大人たちは居間でおしゃべりをしていて、
僕はその隣の神棚のある部屋で、従姉で二つ年上のミキちゃんという子とおままごとをして遊んでいた。
いや、遊ばれていたと言った方が正しいかもしれない。
ミキちゃん曰く、『近所迷惑なほど泣きわめいているという子供役の人形』を一生懸命あやしながら、
夫役だった僕は、ふと誰かの視線を感じて背後を振り返った。
後ろには誰もいない。
ただ、天井近くの壁には、僕が生まれる前に死んだという曾祖父の遺影が、
こちらに覆いかぶさるように少し傾けてかけられてあった。
白黒写真の中からひいおじいちゃんがこちらをじっと見ている。
何となく居心地の悪さを感じた僕は立ち上がって、
人形を抱いたままその視線から逃れようと部屋の反対側に移動した。
けれど移動中も、移動した後も、曾祖父の視線はしっかりと僕を追いかけていた。
「何してるん?」とミキちゃんが不思議そうに尋ねて来る。
僕は写真を指差して言った。
「ひいおじいちゃんがね……、さっきからずっと僕を見てるんよ」
今思えば何ということはない。
お札などで試してもらえれば分かると思うけれど、
平面に書かれた人の顔と言うのは、真正面から見て視線が合っていれば、
見る角度を変えても視線が外れることはないのだ。
でもその時は、どうして写真の中のひいおじいちゃんが僕を見つめているのか、不思議で不思議で仕方が無かった。
ミキちゃんは遺影を見上げて、それから僕と同じように部屋の中をうろうろ移動した。
「ホントだ……」
ミキちゃんは少し困った顔をして、それから僕に向かって「ちょっと待っててね」と言い残し、
襖を開けて大人たちがいる隣の居間へと行ってしまった。
僕は人形を抱いたまま再び遺影を見上げた。僕のことを見つめる曾祖父は、えらく気難しそうな顔をしていた。

しばらく待っていると、突然、向こうの部屋で笑い声が上がった。
襖が開いてミキちゃんが戻って来る。
どうやら、写真の中の人がこちらを見つめて来る理由を、大人たちに聞いて来たみたいだ。
「あんね。シャシンを見るとね。どこにいても、向こうもこっちを見ている様に見えるんだって。
 それは当り前のことなんだって。
 だからね、不思議なことでも、怖いことでも何でもないんだって。……分かった?」
いまいち良く分からなかった僕は、曖昧に首を傾げた。
すると、ミキちゃんはますます困った顔をして、「ちょっと待っててね」と言ってまた襖の向こうへと行ってしまった。
また大人たちの笑い声が聞こえた。
戻って来たミキちゃんは、遺影から見て左右、部屋の両端を交互に指差した。
「じゃあね。○○(←僕の名前)はこっちにおってね。あたしが向こうに行くから。
 それから、せーの、で写真を見るんよ。
 それで、ひいおじいちゃんが、あたしのことも○○のことも見てたら、それはおかしいでしょ?
 一人は二人を一緒に見れないんだから」
僕は頷く。確かに、あの写真の位置から部屋の両端にいる二人を同時に見ることは出来ない。
つまりミキちゃんは、部屋の左右から同時に写真を見上げて、
二人が同時に写真の中の人物に見られている、というあり得ない状況を創り出すことで、
それがただの『現象』 であって、不思議なことではないんだよ、ということを僕に伝えたかったのだ。
けれども、当時幼かった僕には、
その実験の結果がどういう結論に至るのか、そこまで理解する知恵も脳細胞もまだ無く、
ミキちゃんに言われるままに、ただそこに突っ立っていた。
ミキちゃんが部屋の向こう側に立った。

147なつのさんシリーズ「遺影」2:2014/06/14(土) 20:51:25 ID:Hpd3syqU0
「じゃあいくよ。……せーの」
声に従い遺影を見上げる。
「ほら、あたしのほう見てる。○○のことも見てるでしょ」
即答できなかった。
「……ううん」
見上げたまま僕は首を横に振る。
「ひいおじいちゃん、ミキ姉ちゃんのほう見てるよ」
怖がらせてやろうだとか、そういう気持ちは微塵も無かった。見えたままを言っただけだ。
写真の中のひいおじいちゃんの黒目の位置が先ほどとは違っている。明らかに僕でなくミキちゃんの方を見ていた。
「僕のことは見てないよ。ミキ姉ちゃんのほう見てる」
もう一度言った。
空白の時間が数秒あった。
そして突然、ミキちゃんが大声で泣き出した。
あまりに唐突だったので、僕は大いに驚いて慌てた。
抱いていた人形を放り出し、どうにかして泣きやまそうとしたけれど、無駄だった。
泣き声を聞き付けた大人たちがゾロゾロと部屋に入って来た。
ミキちゃんが「○○が怖いこと言った〜」と泣く。
唖然としていると、両親にミキちゃんを泣かした犯人としてひどく怒られた。
あまりの理不尽さに僕も泣いた。
「ひいおじいちゃんが、僕じゃなくてミキちゃんを見ただけだ」といくら説明しても、両親は信じてくれなかった。
他の大人たちもそうだった。

ミキちゃんはそれから僕と話もしてくれなくなった。
一応後日仲直りはしたけれど、その時は僕は大人たちに問答無用で嘘つきの烙印を押され、
何だか無性に悲しかった。
けれども、その中でただ一人、眠っていて騒ぎに乗り遅れた曽祖母だけは、
夕食の後、落ち込んでいた僕をきにかけてくれて、僕の話をうんうんと頷きながら聞いてくれた。
「そおかあそうかあ。そらあ、貧乏くじを引いてしもうたのう」
僕の頭を優しく撫でながら、ひいおばあちゃんは静かにこう言った。
「この家には男が多いけんのう……。子供も親戚も男ばあよ。あの人は、娘が欲しい欲しい言うとった。
 ……きっと男の子のおまんよりも、女の子のミキの方が可愛い思うたんやろうねぇ……」
理不尽だ。
僕はまた泣いた。

終わり

148なつのさんシリーズ「ノック 上」1:2014/06/16(月) 21:47:33 ID:mn6OmNt.0
僕の住む町から、県境を跨いで車で四時間ほど走った先にある小さな街。
数年前、その街で身元の分からない一人の男の子が保護された。
調べてみると、男の子は街の人間ではなく、遠く何百キロも離れた他県で行方不明になっていた子供だった。
その子の証言によると、数日間、見知らぬ女の家に監禁されていたのだという。
実は同様の事件、――他県で行方不明となった子供がこの街で見つかるという事件――は、
過去にも四回程起こっており、警察は連続児童誘拐事件とみて捜査をしていた。
被害にあったのは全員、小学校低学年程の男児。
けれどもこの事件が特異だったのは、
発見された男児たちに特に目立った外傷も無く、何かしらの危害を加えられたわけでもない、ということだった。
親元に身代金が要求された様子もなかった。
誘拐された男の子たちが入れられた部屋は、外が見えないように窓の部分が塗り固められていたという。
といっても電灯はついており、食事は三食きちんと与えられ、部屋にはTVの他、本やマンガ、ゲーム等もあった。
誘拐犯の女は顔を隠すこともせず、連れてきた男児を本名では無く『●●』 と同じ名前で呼んだ。
そして子供たちに、自分と会話することを求めた。
そうして数日が経つと、女は眠っている子供を車に乗せ、街の外れで解放した。
警察は、被害にあった子供たちの証言から、街に住む一人の女性を容疑者に上げた。
彼女は街外れの古民家で一人暮らしをしていて、
彼女自身の子供も、誘拐事件が起こるよりも以前に、事故か事件に巻き込まれたのか、行方不明の届けが出されていた。
失踪した息子への想いが犯行に走らせた、と警察は考えた。
そして警察は彼女の家を訪れたのだが、その時すでに家に彼女の姿は無かった。
古民家の中からは、子供たちの監禁に使ったと思しき部屋が見つかり、
その部屋の中からは、『息子の元へ行きます』 という内容の遺書らしき紙と共に、
誘拐した子供たちへの謝罪の手紙が見つかった。
『●●』 とは、彼女の息子の愛称。
誘拐された子供たちは、『怖かったけど、女の人は優しかった』 と口をそろえて証言した。
自身も行方不明となった女性は、彼女の息子と共に未だに発見されていない。
その特異性から、この誘拐事件は一部のメディアでも取り上げられることになった。
そうして有名になった代価か、事件の舞台で今や廃屋となった古民家には、
夜な夜な親子の話声が聞こえるだとか、行方不明になったはずの子供の霊が出るといった、
真偽の定かではない噂話がまとわりつくことになる。

149なつのさんシリーズ「ノック 上」2:2014/06/16(月) 21:48:10 ID:mn6OmNt.0
――――――
誰かが玄関のドアを叩いている。
閉められたカーテンの隙間を縫って、強い陽の光が室内に差し込んでいた。
壁にかけてある時計を見ると、短針はアラビア数字の11を僅かに通り過ぎている。
ベッドの中で目を覚ました僕は、両腕をつき上げて伸びをする。
来客か、それとも宅配便か何かだろうか。
コンコン、コンコンと人を急かすようなノックだ。
「……はーい!」と向こうに聞こえるよう大声で返事をして、僕は未だ名残惜しいベッドの海から抜けだした。
玄関まで行く途中で洗面台の鏡を覗きこみ、酷い寝癖が無いのを確認してから、ロックを外しドアを開けた。
玄関前は無人。
あれ、と思い左右を確認するも、各部屋のドアが並ぶアパート二階の通路には人の気配は無い。
おかしいな、と首をかしげる。寝ぼけてあるはずのない音でも聞いたのだろうか。
いずれにしても誰も居ないのだから、しょうがないか。
扉を閉めて、あふあふと欠伸などしつつ、二度寝をするため玄関に背を向けた。
コンコン。
背後で扉を叩く音がして僕は振り向く。
確かに誰かがノックをしている。
「はいはい」と返事をしつつ、再度扉を開けた。
けれどそこには誰もいない。
閑散とした通路を見回し、子供のイタズラかなと思う。
でも、僕の部屋はアパート二階のほぼ中心にあり、
ドアをノックして急いで逃げたとしても、端の階段につくまでに背中くらいは見えそうなものなのに。
下から石でも投げたのだろうかと地面を見やるも、そんな痕跡も無かった。
しばらく一体どうやったのだろうと思案してみて、止めた。分からないものは分からない。
そんなことより眠たくてしょうがない。もどって寝よう。僕は扉を閉めた。
……コンコン。
またノックの音だ。
どうやら、向こうはこちらの動きをどこかで監視しているらしい。
こういう手合いは相手の反応自体を楽しんでいるのだ。もうドアは開けてあげません。
僕は居間へと戻って夢の続きを見ることにした。

もぞもぞと、布団にもぐり込む。
コンコン……、コンコン……、コンコンコン。
しつこい。あのドアの向こうに居るのが誰であれ、相当しつこい。僕がドアを開けるまでそうしている気だろうか。
やれやれと思いながら、再度布団から這いだして、足音を立てないよう気配を殺して玄関まで向かった。
ドアの目の前まで来る。ノックの音は続いている。
その時、ようやくというか、ふと一つの疑問がわく。
これがピンポンダッシュなら、どうしてインターホンではなくてノックなのだろうか。
本当は、ここでいきなりドアを開けて逆に驚かしてやろうと思ったのだけれど、
その前にと僕はドアに顔を近づけ、そっと覗き穴から外の様子を覗いてみた。
魚眼レンズを通して見る、一点を中心にぐわりと湾曲した玄関先の光景。
そこに見えるのは、赤ペンキが塗られた手すりと、コンクリートの通路だけだった。誰の姿もない。
ドアを叩いて音を出すようなものは何も無い。

150なつのさんシリーズ「ノック 上」3:2014/06/16(月) 21:49:46 ID:mn6OmNt.0
コンコン。
ノックの音。
外の様子を覗いている最中だった。その意味を理解した途端、首筋、うなじの辺りが粟立つのを感じた。
姿が見えないモノのノック。
残っていた眠気が綺麗に吹き飛ぶ。
どうやら、金属のドア一枚隔てた向こう側に、得体の知れないナニカが居るらしい。
その時、アパートの階段を上って来る足音が聞こえて身構える。足音はこちらへと向かってくる。
覗き穴の前を買い物袋を下げた人が通り過ぎた。
同じアパートに住む隣人だった。
反射的に僕はドアを開いて外に出ていた。そして部屋に入ろうとしていた隣人を呼びとめる。
「あの、すみません」
隣人とはあまり親しくは無く、会えば挨拶する程度だ。
確か僕より一つ二つ年上で、学部は違うけれど同じ大学に通っているくらいにしか知らない。
どうやら昼ご飯を買って来たらしい彼は、突然呼びとめられ、一体何事かと僕を見やった。
「はあ、え、何?」
「今さっき。僕の部屋のドアを、誰か叩いてませんでした?」
「いや、見てないな。俺は叩いてないよ?」
「ここまで上がって来る時、誰かとすれ違いました?」
「いや」
「ノックの音とか聞きました?」
「……いや」
僕は確信する。やはりこの通路には最初から誰も居なかったのだ。
「そうですか……。分かりました。ありがとうございます」
隣人はどうにも釈然としない表情をしていたけれど、それ以上関わり合いになることもないと思ったのか、
「じゃ」と言って自分の部屋に入って行った。
僕も部屋に戻る。

扉を閉めると、途端にノックの音が再開した。
とりあえず構うことはせず、台所で砂糖入りのホットミルクを作って、居間に戻り、ベッドの縁に腰かけてゆっくり飲んだ。
飲みながら現状を確認する。
もはや子供のイタズラである可能性は低いだろう。
だとすれば、所謂ラップ音と呼ばれる現象と同じ類だろうか。
今のところ被害は音だけ。それ以上害が無いなら、放っておいてもいいのかもしれない。
けれども、と思う。どうして『今日』 で、『僕の部屋のドアを叩く』 のだろうか。
大学生活のためこのアパートに越して来て大分日が経つけれど、
こんな現象は今日が初めてだし、この部屋が曰くつきだなんて話は聞いてない。
部屋が原因で無いとしたら、原因は僕自身にあるってことになる。
部屋のドアをしつこく何度も叩かれる原因を、どこかでつくったのだ。
一つだけ、微かな心当たりがあった。
ホットミルクを飲みほした後、僕は携帯を取り出して、友人のKに電話をかけた。
コール音が耳元で何度も繰り返される。
結局Kは電話に出なかった。たぶん寝ているんだろう。
Kは自他共に認めるオカルティストなので、色々と相談したかったのだけれど。
次に僕はもう一人、友人のSに電話をかけた。
数回のコールの後、『……何だよ』 とSの声が聞こえた。
「あ、Sー?僕だけど」
『ンなこた分かってる。要件を言え』
Sの声は少々不機嫌だ。どうやら彼も寝起きらしかった。
「じゃあ、簡潔に。あんさ。昨日肝試しに行った場所までさ、もう一度連れてって欲しいんだけど」

151なつのさんシリーズ「ノック 上」4:2014/06/16(月) 21:50:50 ID:mn6OmNt.0
今からまだ数時間前の今日のことだ。
真夜中、僕とKとSの三人は、ここから大分遠い街の、女性と子供の霊が出ると噂の古民家へと、
肝試し兼オカルトツアーに繰り出していた。
それ自体はいつものことなのだけれど、街までが非常に遠かったため帰りが朝方になり、
そのせいで今日は三人とも起きるのがおそい。
古民家では何も見なかったし、何も起こらなかったのだけれど、
もしかしたら、いわゆる『お持ち帰り』 をしてしまったのかもしれない。

『昨日の?……理由は?』と訝しげなSの声。
僕はつい先ほど体験したことをかいつまんで説明する。
これがオカルティストのKならノって来るのだけれど、Sは超常現象と聞くと鼻で笑うタイプの人間なので、
何時『……くだらねぇ』と言われ、電話を切られるかとドキドキしながらの説明だった。
昨日だって、Sだけは肝試しでは無く、夜の長距離ドライブという感覚だったに違いない。
「……あ、もちろん、ヒマだったらで良いんだけど。駄目っていうなら、電車とバスで行くし」
幸い途中で切られもせず、全部話すことができた僕は、最後にそう付け加えた。
『電車とバスで行け』
電話が切れた。
だよねー、と思う。存外に遠いというのは昨日の経験から自明だし、断られるのは予想していた。
それに何しろ、どうしてもう一度そこへ行くのか、自分でもよく分かっていないのだ。
本当なら、何かに憑かれたようなのでお払いしてくださいと、お寺に行くか、
もしくは、幻聴が聞こえますと、病院に駆け込むのが正解なのだろう。
コンコン、といくらかの間を開けながら、未だにノックの音は続いている。
けれども、どうしても気になってしまう。
何故か、気味が悪いだの、鬱陶しい、煩わしいなどとは思わなかった。
むしろ、原因を突き止めたいといった好奇心、もしくは使命感が僕の中にあった。
立派なオカルティストであるK程ではないが、僕自身もそういう類の話には関心の強い方だ。
自分が住むアパートで起こったのなら、なおさら探究心は膨れ上がる。
それに、主な被害がノックの音だけ、というのが気になっていた。そのせいで危機感も薄いのだろうけれど。
ノックの音が聞こえるも、おもてに人はいない。その手の怪談は聞いたことがある。
夜中にノックの音がして、けれども、扉を開けても誰もいない。
聞き間違いかと思い、戻ろうと振り返ると背後に居た、というヤツだ。
その際のノックの意味とは、扉を開けさせることなのだろう。
そう言えば、前に読んだ小説だけれど、陰陽道に関する話で、
家とはそれ自体が家主を守る結界のようなもので、あやかしは中から招かれない限り入ることは難しい、
と書いてあったことをふと思い出す。
自らドアを開けることは、相手を受け入れるのと同意。
なのでその作中のあやかしは、あの手この手で中の者に扉を開けさせようとする。
けれども、この場合は事情が違う。僕は一度ドアを開けた。なのにノックの音だけが続いている。
嫌がらせでなければ、それはまるで、僕にこの部屋から出てきて欲しいと言っているようだった。
呼ばれている、と言えばいいのだろうか。
延々と扉を叩く目的が、自らが中に入るためでは無く、僕を外に連れ出すためだとしたら。
あの音の主は一体僕に何をさせたいのだろう。
考えた結果が、あの昨日訪れた古民家だった。
ここ数日の内に原因があるとすれば、あの場所しか思い当たるふしはない。
ベッドから立ち上がり、しかし自分って本当に行き当たりばったりで無計画な人間だなあ、などと内心思いながら、
出掛けるための身支度をする。

シャワーを浴びて出て来ると、携帯が一軒のメールを受信していた。
Sからだった。
『【件名】さっきの件について。

 【本文】昨日の分と合わせてガソリン代を出すなら、考えなくもない。』
全くSらしいというか。僕は少し笑って、『おいくら?』 と返信した。

152なつのさんシリーズ「ノック 中」1:2014/06/16(月) 21:51:55 ID:mn6OmNt.0
走行中の車の窓から外の景色を見やる。前方から後方へ。車に近いものほど早く、遠いものほどゆっくりと。
約半日前にも通った道なのだけれど、状況は違う。
あの時は陽が昇る前だったので辺りは暗く、車酔いのため後部座席で死体のように寝転がっていたKも今はいない。
運転席の方から欠伸が聞こえて、僕は窓の外から視線をそちらに移す。
ハンドルを握るSは、先程から非常に眠たそうだ。居眠り運転で事故されても困るので、何か話しかけることにする。
「あんさあ、Kが昨日話してくれたこと。覚えてる?」
「……誘拐事件の話か?ああ、大体はな」
数年前。僕らが高校生の時に起こった連続児童誘拐事件。僕は覚えていなかったけれど、そこそこ世間を賑わしたらしい。
真夜中。その事件現場である古民家の庭先で、Kは僕とSを前に、
誘拐事件発生に至る経緯から、警察の捜査状況、どこで仕入れたんだというような情報まで熱く語ってくれた。
「冗談半分に聞いてくれればいいけど。
 もしかしてさ。昨日、あんな話をKがしたから、僕の家にやって来たんじゃないか、って思うんよね」
「何が」
「さっきも言った、ノックの主」
Sが欠伸をする。眠たいのか、馬鹿にされているのか。
「いや、でも、そんなことのためにわざわざ悪いね。二度も。遠いのにさ」
「ああ、全くだな」
Sは心底面倒くさそうに言った。だったらあんなメール寄こさなきゃいいのに、と思う。
ちなみに、ガソリン代として要求されたのは4480円だった。
十円単位で要求してくるとは、ちゃんと残量をはかって計算したのだろう。キッチリしてるというか、何というか。
「そういや聞きそびれてたな。お前、あの空き家に行ってどうするつもりなんだ?」
「んー、まだ決めてないな」
「……何だそりゃ」と前を向いたままSが呟く。
実際に決めてないのだから仕方が無い。
「もしかしたら、家の中に入ることになるかもね」
前夜の段階では、事件のあった古民家を外から眺めるだけだった。
現在、誰が管理しているのかは分からないが、
窓にカーテンが掛かっていて中は見えなかったけれど、おそらく、家具はそのままにしているのだろう。
ここの住人はあくまで行方不明扱いで、いつか戻って来るかも知れないのだ。
「住居不法侵入だな」
「分かってるよ。でもさ、それってさ。向こうの方からウチに来いって、『呼ばれて』 それで入ったとしても、罪になるんかな」
「……お前がどういう場合を想定してるかは無視してだ。今回の場合では、なる」
「あーそっかぁ」
「大体どうやって入るつもりだ。玄関にはカギが掛かってるだろ」
確かに。当然の話だけれど、昨日確認した限りでは、玄関のドアは鍵なしでは開かないようになっていた。
侵入できそうな窓もない。一ヶ所だけ、内側から窓が塗り固められている部屋もあった。
「ノックすれば開けてくれるんじゃない?」
僕は冗談のつもりで言ったのだけれど、
Sは今度は、確実に僕のことを馬鹿にしているのだと分かるような欠伸をして、こう言った。
「……中に人が居りゃあな」

それから数時間と数十分車で走って、僕とSの二人を乗せた車は、目的の古民家がある街まで辿り着いた。
時刻は四時半を過ぎたところだった。
昨日と同じ場所、少し離れた場所にある住宅街の一角に車を停める。
「着いたぞ。ここからは歩いて行けよ」とSが言う。
そうして彼はシートベルトを外すと、後ろにシートを倒して目を閉じた。
どうやら、これ以上付き合う気はなく、僕が戻って来るまでにひと眠りするつもりなのだろう。
しばらくしてSが目を開けた。
「……何だよ。早くいけよ。場所は分かってんだろ?」
怪訝そうに言うSを、「ちょっと待って、静かに」と制す。
何か聞こえた気がした。
……コンコン。
ノックの音。
早く車から出ろと言っているのだろうか。
「この音、聞こえる?」
僕が尋ねると、Sは「……いや」と首を横に振った。
「あーそっか……、これ、今日以降もずっと続くようだったら、やっぱ病院かなぁ」
「おい……」と何か言おうとしたSを置いて車を出る。
少し歩くと後ろでドアの閉まる音がして、振り返るとSがのろのろと大儀そうに車を降りていた。

153なつのさんシリーズ「ノック 中」2:2014/06/16(月) 21:53:45 ID:mn6OmNt.0
住宅街からしばらく歩いた、山へと続く細い坂道の脇に家はあった。ここに来るのは二度目だ。
振り返ると、眼下に僕らが車を停めた住宅街が一望できる。
近くに他の家の姿は無く、まるで仲間外れにでもされたかように、ぽつりとその古民家は建っていた。
瓦屋根の平屋で、建物自体は相当古くからここにあるのだろう。
昨日は夜中だったのでよく分からなかったのだけれど、所々に年季を感じる。
ただ、窓の向こうに見えるカーテンの模様などは現代風で、つい数年前まで人が住んでいたという名残もあった。
家自体の大きさは、親子二人だけで暮らすには少々もてあましそうだった。
雑草の生えた花壇のある小さな庭を通り、玄関の前で立ち止まる。擦りガラスがはめ込まれた木製の二枚戸だ。
「で、どうすんだ?」とSが言う。
僕は戸に手をかけ、力を込める。当然のことだけれど、鍵が掛かっていて開かない。昨日の夜も確認したことだ。
ノックの主が僕をここまで呼んだのなら……。という淡い期待もあったのだけれど、現実はそう甘くは無いようだ。
しばらく無言のまま玄関を見つめていた。
始まりは、僕の部屋の玄関から聞こえたノックの音だ。
僕はその音に誘われて、四時間もかけて再度ここまでやって来た。運転したのはSだけど。
玄関に呼び鈴等は付いていなかった。二度、軽くノックする。扉が揺れて、ガシャガシャとガラスが身悶える音がした。
コンコン。
中から返事があった。渇いた響き。僕がアパートの自分の部屋で聞いた音とまるで同じだった。
たとえこの音が幻聴だとしても、僕はこの音に呼ばれている。それは確信できた。
後ろに居たSの方を振り返る。
「どうにかしてさ、この中に入れないかな」
僕が尋ねると、Sは非常に面倒くさそうな表情をした。
そうして投げやりな口調で、
「……どうにかしたいんなら、入る方法なんていくらでもあるが」と言った。
「どうにかしたいね」
僕は答える。
Sは肩をすくめた。
「一応念を押しとくが、どういう形で入るにしろ。れっきとした犯罪だぞ」
「今さら?」と僕は少し笑って返す。
Sは少し上を向いて、「ふー」と小さく息を吐く。
「……やれあの街に連れてけだのやれ扉を開けろだの。全くやれやれだな」
嘆きながらSはドアの前にしゃがみ、戸の下部分、ガラスがはめ込まれている細い骨組の部分を掴んだ。
「ん」と一声、力を込める。どうやら、襖を外す時のように、二枚の戸を同時に持ち上げようとしているらしい。
鍵が掛かっているなら扉ごと外してしまえ、という作戦だ。
そんな安易な力技で大丈夫なのだろうか、と僕が思った瞬間だった。派手な音がして、二枚戸が玄関の奥へと倒れる。
扉が外れた。
唖然としている僕を尻目に、Sは外した二枚戸を引きずって玄関の端によせると、
「二枚戸で、立てつけの悪い家なら、こういう侵入方法もある。
 まあ、窓を割るのが一番手っ取り早いが、不法侵入に器物破損が加わるのもアレだしな」
と何気もなく言った。
何でそんなこと知ってんだと正直思ったけれど、聞かないことにした。

154なつのさんシリーズ「ノック 中」3:2014/06/16(月) 21:54:30 ID:mn6OmNt.0
戸の無くなった玄関から家の中を覗く。すぐそこは、四畳半ほどの板の間だった。
一本の紐を渦巻状に敷き詰めたような丸いカーペットが、無造作に敷かれている。
正面と左右にそれぞれ戸があり、各部屋へと繋がっているのだろう。
「とっとと行って来い。人が来ないか見ててやるからよ」
Sの声に背中を押される形で、僕はその一歩を踏み出した。
「おじゃましまーす……」
玄関で靴を脱ぎ、僕は一人中に入る。
玄関の方からしか陽の光が届いていないせいか、意外と薄暗い。埃が舞っているらしく、鼻孔が少しムズムズした。
しばらくじっと耳を済ます。けれども何も聞こえてこなかった。あのノックの音もない。
何故だろう。自分で探せといいたいのだろうか。
ふと、家の西側の部屋が、誘拐事件の際に子供たちの監禁に使われた部屋だということを思い出す。
昨日鍵の有無と共に確認した事柄だ。
内側から窓を塗り固めた部屋。そこへ行こうと僕は左手の戸を開いた。
まっすぐな廊下が伸びてあって、三つほど扉がある。
手前のドアから順に開けて確かめていく。物置。次いで客間だろうか、空の部屋。
そうして残ったのは、一番奥の部屋。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開ける。
一瞬、ドアの隙間から暗闇が飛び出してきたような錯覚を覚えた。
暗い。辛うじて、開いたドアから差しこむ光が、室内を僅かに照らしている。
誘拐された子供たちは、ここで監禁生活のほとんどをすごしたのだ。
部屋の中、ドア近くの壁に、明かりのスイッチらしきものがあったので押してみる。
途端に温かみのある柔らかな光が室内に満ち、見えなかった部屋の様子が照らし出された。
どうやら、電気は未だ送られているようだ。
そうして僕はハッとする。電気をつけてしまって良かったんだろうか。まあしかし、やってしまったものは仕方が無い。
部屋の入り口から見て、左手には大きなベッドと、
天井に届くかという程の高さで、マンガ本や図鑑などがびっしり収まっている本棚。
右奥にはいくつかのゲーム機器が並ぶ納棚があり、
その上に、当時としては最新型だっただろう薄型テレビが置かれている。
壁の方を見やると、クレヨンだろうか、全身真っ黒な人間を書いた落書きがあった。
子供が書いたものじゃないかと推測する。
その落書きの上、窓があると思われる部分が、周りの壁と同じ色の薄い板で覆われていた。
窓がないという一点を除けば、ここで過ごすのに不便など何も無い、快適な子供部屋と言えた。
天井には、電球に白い傘を被せただけの簡素な照明がぶら下がっている。
「白熱灯だな」
いきなり背後から声。
比喩でなく心臓が弾け飛び散るかと思った。
振り向くと、いつの間にかSが背後に立っていて、僕の肩越しに室内を覗きこんでいた。
「あー、びっくりした……足音くらいたててよ」
「勝手に入った見も知らぬ人の家でか?馬鹿言うなよお前」
まるで正しいことのように聞こえるけれど、それはどうなのだろう。
「……見張ってるんじゃなかったん?」
「飽きたんだよ。……それにKの話をよくよく思い出してみりゃ、気になることがいくつかあったしな」
入口付近に立っていた僕の肩をちょいと押し脇にどけると、Sは室内の丁度真ん中でぐるりと周囲を見回した。
「お前は、どう思う?」
突然のSの質問に僕は「え、何が?」としか返せなかった。
「何がも何も、この部屋だ。気にならないか?」
言いながらSはおもむろに、ベッドの下から何か箱を引き出してくる。
「失礼」と言ってSが箱のフタを開けると、中には様々な種類の玩具が詰め込まれてあった。
「あれもこれも、小さな子供の身分にしちゃ、少し贅沢過ぎるんじゃないか?
 まあ、一人っ子なんて大体こんなものかも知れんが。やっぱり、ちと過保護の気があるな」
Sが何を言いたいのか分からない。まさか、自分の子供時代と比較して拗ねているのだろうか。
「誘拐してきた子供のために買いそろえたんじゃない?」と僕が言うと、Sは首を振った。
「全部じゃないかも知れんが、名前が書いてある。●●ってな。ここの子供の愛称だったか」
玩具箱を覗きこむと確かに、一つ一つの玩具に『●●のもの』 と書かれたシールが貼られている。
「ここで数人、Kが言うには四,五人だったか、の子供たちが、何日間か監禁されたんだったな」
玩具箱のフタを閉め、元通りにベッドの下に戻しながらSが言った。
確かにその通りなんだろうと僕は頷く。

155なつのさんシリーズ「ノック 中」4:2014/06/16(月) 21:55:22 ID:mn6OmNt.0
「おかしいだろ」
「どこが?」
立ち上がったSは部屋の中をぐるぐると色々見物しながら、僕の方は見ずに言った。
「ここが監禁に使った部屋だとしたら、一人監禁して逃がした時点で普通バレる。普通ならな」
それはどうだろうか。Sの言葉に僕は首をひねる。
「……そうかな?」
「子供は証言したんだ、『窓の無い部屋だった』 ってな。
 詳しく聞けば、警察も内側から窓を隠したってことが分かったはずだ。
 そうして、家を外からみりゃ、この部屋が窓を塗り固めてるってことは一目で分かる。
 つまり、傍から見ても犯行現場である可能性が大なんだよ、ここは」
窓のない部屋が存在する家。同じ街で解放される行方不明だった子供。誘拐犯の女。
被害にあった子供の証言とこれだけの要素があれば、容疑者を特定して逮捕に至るのは簡単だ。とSは言う。
なのに何故か、事件は二度目ならまだしも三度目、四度目まで起こった。
「たぶん警察は犯人が、子供たちが窓の外を見て景色を覚えるといけないから、窓を潰したんだと。
 その視点で捜査をしたんだろう。だから捜査が遅れた。
 それともう一つ、近所の住人から、この家の情報が警察に行かなかったのも、同じ理由だな」
僕自身も、この部屋の窓を潰した理由は、子供に場所を特定させないためだろうと思っていた。
大体、他に一体何の理由があるというのか。
「光線過敏症」
耳慣れない言葉がSの口から出て来る。
「平たく言やあ、紫外線を受けると、人の何倍もの速度、深度で日焼けする体質のことだ。
 まあ、それを誘発する病気によって、症状はいくつかあるがな。
 ともかく、この部屋に『本来』 住んでいた子供は、それだったんだろう」
「え……、や、ちょ、ちょっと待ってよ。何でそんなことが分かるのさ」
するとSは天井を指差し、「白熱灯はな、光量が少ないわりに電気代が高いんだよ」と、良く分からないことを言った。
「まあ、まだ他にも色々と根拠はあるが。
 別の部屋にいくつか本があってな。光線過敏症、またはポルフィリン症についての本だった。
 が、一番は、写真があったからな。黒い頭巾を被った子供の写真がな。
 ……ともかくだ。この部屋の窓が潰されたのは、誘拐事件が起こるずっと前で、
 なおかつ、周りの人間もそれを知っていたんだろうな」
「その、光線過敏症ってことは、太陽の照っている時は、外に出られないの?」
「そうだな。陽の光には当たらない方がいいからな。だから、部屋の中で不自由なく遊べるよう、色々買い与えたんだろ」
僕はあらためてこの日光の差さない部屋を見やった。
内側から潰された窓、まだ小さな子供に過保護な程与えられた本や玩具。
もしかすればSの言う通りなのかもしれない。
「……それが、Sの気になったことなん?」
「気になったことの、一つ、だ。でもそれは、向こうで見た光線過敏症に関する本と、この部屋の白熱灯で大体確信できた。
 問題はもう一つ、その先の話だな」
うろうろと見物しながら歩きまわっていたSが立ち止まり、僕の方を見やる。
「光線過敏症である子供がだ。日光を避ける生活をしている子供が、行方不明なんかになるか?
 たとえ行方不明になったとしてもだ。未だに発見に至ってないのは、何故だ」
「それは……、ただ単に行方不明になって、ただ単にまだ見つかってない……じゃ、駄目なん?」
「こういった症状を持つ子供の、行動範囲がそれほど広いとは思えない。
 となれば誘拐、ということになるが、お前が誘拐犯だとして、黒い頭巾を被って顔も見えない子供を、誘拐しようと思うか?」
「それは、分からないけど」
「身代金の要求があったわけでもなさそうだしな。ただ単に行方不明なんだよ。ここの女が起こした事件と同じでな」
「じゃあ、Sは、どう思ってんの」
「俺は、」
Sはそこでいったん言葉を切った。
「……俺は、その失踪した息子が、いや、誘拐犯の女自体も、まだ、この家にいるんじゃないかと思っている」

156なつのさんシリーズ「ノック 下」1:2014/06/16(月) 21:56:04 ID:mn6OmNt.0
誘拐犯の女とその息子が、まだこの家の中に居る。
すぐには理解できなかった。噛み砕いて、その言葉の意味をゆっくりと脳に染み込ませる。
ようやく理解し、最初に出てきた感想は「そんな馬鹿な」だった。
「そんなこと……」
「無いと言い切れるか?お前、Kが言ってた、犯人の女が失踪する前に残した、遺書らしき手紙の内容覚えてるか?
 確かな情報じゃないかも知れんが、『息子の元へ行きます』って言葉は、『息子の居場所』を知っている者の台詞だ」
「……何年も行方不明で、死んだものと思ったんじゃない?」
「個人的な視点になるが、俺はそうは思わない。息子のために、白熱灯ならまだしも、部屋の窓を潰すような母親だぜ?」
「でも、だったら……、行方不明は、狂言だったってこと?」
「さあな。それは分からないな」
「狂言なら、まさか、二人共生きてる……?」
「いや。少なくとも息子は死んでるだろうな。だから、彼女は誘拐事件を起こすんだよ。
 動機については、警察の見立てで間違ってないと思う」
いなくなってしまった息子への想いから、同じ年頃の男の子を誘拐しては、数日間だけ一緒に暮らす。
息子と同じ部屋に閉じ込めて、息子と同じように会話をしようと話しかける。
「つまり、だ。
 俺は、母親は何らかの理由で死んでしまった息子の死体を、
 どこかに隠し、周りには行方不明になったと伝えた、と考えてる。
 認めたくなかったのか、他の理屈が働いたのかは知らないがな」
そして、一人に耐えきれなくなった母親は誘拐事件を起こす。
息子の部屋で子供と接することで、自分の子供は生きていると思い込みたかったのだろうか。
けれども、その行為を数回終えたところで悟ったのだろう。所詮、彼らは自らの息子じゃないのだから。
「でもさ、何で、その二人の死体が『この家にある』 って分かるんよ?」
「別に分かってるわけじゃない。ただの希望的確率論だ。
 自分の一人息子なんだから、少しでも傍に置いときたいと思うのが人情だろ」
そしてSは壁を二度、コンコンとノックする。
「……そして、だから、お前は今日ここに来たんだよ」
「は……?」
紙風船から空気が抜けたような間抜けな音が僕の喉から滑り落ちる。
「……僕が、何?」
「言っとくが、今俺が言ったのは、未だ真相でも何でもない。全て想像と憶測の産物だ。
 ただ、お前も、俺と同じように考えたに違いないんだ。否定するか?お前は無意識下の元ロジックを組み立てたんだよ。
 そうして、それを探したい、見たいという欲求が、ノックの音になって意識下に現れたんだ」
「なっ、な、おい、何でSにそんなことが分かるのさ」
「お前に聞こえるノックの音は、俺には聞こえない。だとすれば、そいつはお前の中で鳴っている音だ。
 お前自身が脳みそをノックしてたんだよ」
「そんなこと言ったって、僕は、この家の子が日光に触れちゃいけない体質だったなんて、初めて聞いたよ?」
「数年前に、この事件が世間で話題になった時、そのくらいの情報は流れただろうな」
「し、知らないし、見てないし、覚えてないし」
「覚えてなくたって、ちらりと見やっただけの情報も、脳みそはちゃんと保存しているもんだ」
そんな馬鹿な、と言おうとしたけれど、それより早くSが口を開く。
「じゃあ聞くが。お前、この家に入ってから、ノックの音は聞いたか?」
その言葉に僕は絶句する。
確かにそうだ。この家の中に入ってから、それまで僕を誘導していたノックの音はぱたりと止んだ。
まるで、その役目を終えたかのように。
「その音の役割は、お前を、親子二人の死体がある『らしい』この家に連れて来ることだ。
 ここまでは無意識下で組み立てられても、肝心な死体がどこにあるかなんて分からないからな。誘導しようがないのさ」
僕は目を瞑り、後ろの壁にもたれかかる。身体から、どっと力が抜けてしまったようだ。
Sが小さく笑って、僕の肩をたたく。
「もう、ノックが聞こえることは無いだろ。ま、喜べよ。Kにいい土産話が出来たじゃないか」
全く慰めになってない。僕は力なく笑った。
それは結局、僕は自身の思い込みに従い、大きな大きな無駄足を踏んだということだ。
「帰るか」というSの言葉に、僕は黙って頷いた。
トボトボとSの後ろをついて家を出ることにする。
当初、ノックの主に呼ばれているだなんて思っていた僕が馬鹿みたいだ。
それでも。と頑張って思い直す。
今日の体験が、非常に不思議で、なおかつドキドキワクワクして面白かったことは間違い無い。
ノックの音に誘われて、僕はこんなところまで来てしまい、
そこで起こった事件の裏の一面を、少しでも垣間見たかもしれないのだ。
まあ、良い体験をしたと思おう。

1572なつのさんシリーズ「ノック 下」2:2014/06/16(月) 21:57:04 ID:mn6OmNt.0
玄関のある部屋まで戻る。Sはもう靴を履いて外へ出ていた。
これから、あの外した玄関の戸を元に戻さなくてはいけない。立つ鳥跡を濁さずってわけだ。
その時、ズボンのポケットの中で携帯が振動した。電話だ。誰だろうと思い取り出してみると、それはKからだった。
少し早めに恥ずかしい土産話を披露することになるのだろうか。
一人で苦笑いしながら、僕は外に居るSに「Kから電話」と伝えて、玄関の段差に座り、通話ボタンを押した。
『よおー。俺だ。昼に電話くれてたけどよ。何か用かー?』
どことなく陽気なKの声。
「え?K、まさか今起きたん?」
『わりーかよ』
確か時刻はもう五時に近いはずだ。
「遅いよ。何時だと思ってんだよ、もう夕方になるよ?」
『うっせーなー。何だよ。ソッチの要件は何だったんだよ』
う、と言葉に詰まってしまう。Sの方を見ると、そっぽを向いて欠伸をしていた。
「……ノック」
『はぁ?』
「ノックだよノック。そのノックのせいで、精神的にもノックアウトしちゃってさ。もうまいっちゃってさ」
やけくそになって、僕は床を拳で軽くコンコンコンコンと叩きながら「あはは」と笑う。上出来な自虐ギャグだ。
自分でも可笑しかった。可笑しくて笑う。床を叩いて笑って、そして僕は笑うのを止めた。
電話の向こうでKが何か言っている。でも、何を言っているのかまるで聞こえない。
床を叩く。
コンコン。
もう一度、違う場所を。
コンコン。
立ち上がって、携帯を切った。
外と室内を繋ぐ四畳半程の部屋には、カーペットが敷かれている。
最初に入って来た時も見た、渦まき模様の丸いカーペット。僕はその端を持ち、少しめくってみた。
カーペットの下は板の間で、そこには半畳程の大きさの正方形の扉があった。
心臓が音を立てて鳴っている。頭の中を様々な思考が飛び交っているのに、何も考えることが出来ない。
それは、取っ手の金具を引き出して上に持ち上げるタイプの扉だった。この先に何があるのか、何の扉かもわからない。
手を伸ばして、扉を叩く。
コンコン。
それは僕が今日、今まで聞いてきたノックの音と全く同じ音だった。
どうしてだろう。どうして僕は、『この音』 を聞くことが出来たのだろう。
先程Sが言ったことが正しければ、僕は僕が聞いたことが無い『この音』 を創り出せたはずがないのだ。
……コンコン。
僕は叩いていない。
それは今まで聞いた中で一番弱々しかったにも関わらず、一番はっきりと聞こえたノックの音だった。
決して脳内で創り出した音なんかじゃない。僕の鼓膜は確かにその微弱な振動を捉えていた。
扉についている金具を引き出し、僕は扉を持ち上げる。
かなり重かったけれど、ゴリゴリと音を立てて、扉の下からゆっくりと、まるで井戸のような黒いうろが姿を見せた。
据えた匂いと、ひやりとした空気が、穴から立ち上る。背筋がぞくりとして、全身に鳥肌が立った。
扉を落としそうだったので、裏側にあったつっかえ棒で固定する。
「……何やってんだ?」
いつの間にかSが、玄関からまた家の中に入って来ていた。
僕は返事もしないで、扉の奥の穴を見つめていた。
「そいつは……、たぶん、芋つぼだろうな」
「芋つぼ……?」
「その名の通りだよ。芋を保存しとくために、地下に掘る天然の土蔵だ。古い民家なんかにはたまにある。
 ……というか、お前これどうやって見つけたんだ?」
Sの話を聞くでもなく耳にしながら、僕は穴の奥から目が離せないでいた。
「……Sさ、車の中に、懐中電灯ある?」
少しの沈黙の後、Sは「あるぞ」と言った。
「それさ、取って来てくれない?」
Sは何も言わず黙って車へと向かった。

1582なつのさんシリーズ「ノック 下」3:2014/06/16(月) 21:57:49 ID:mn6OmNt.0
しばらくして戻って来たSの手には、二本の懐中電灯が握られていた。
玄関先から、その内の一本を僕に投げてよこす。
「ありがと」
ちゃんと光がつくかどうか確かめて、僕は再び穴に向き合った。
そっと光の筋を穴の奥に這わす。
思ったより穴は深いようだった。三メートルほどだろうか。
木の梯子がかかっていて、下まで降りたところで横穴がまだ奥に続いているらしい。
横穴の様子は、ここからでは窺えない。
何故か迷うことは無かった。僕は穴の中に入ろうと、扉の縁に手をかけた。
「おい」
Sの声。僕は顔を上げる。
「数年間放置されてたんだ。梯子が腐ってることもある。気をつけろよ」
「……OK」
梯子に足をかける。最初の一歩を一番慎重に。腐っている様子は無い。二歩、三歩と、僕は芋つぼの底に降りてゆく。
頭まで完全に穴の中に入ったところで足元が見えなくなり、あとは完全に感覚で梯子を下った。
しばらくすると、足の裏が地面の感触を掴む。芋つぼの中はかなり寒かった。
湿気なども無さそうで、なるほど、と思う。食料を保存しておくには適した場所だろう。
スイッチを入れっぱなしにしていたライトをポケットの中から出す。そうして僕は、ライトの光をそっと横穴に向けた。
あの時の光景を僕は一生忘れない。
暗闇の中、足元からすぐ先に、一枚の茶色く変色した布団が敷かれている。
その上で一組の親子が、互いに寄り添う様にして静かに眠っていた。
掛け布団の中から二つの頭だけが出ている。きっとあの見えない部分では、母親がわが子を抱きしめているのだろう。
僕はライトの光を向けたまま茫然と立ち尽くしていた。
それ以上、一歩も前に進むことが出来なかった。
足やライトを持つ手が震えているのが分かった。恐怖では無い。ただ、身体が震えていた。
息をするのも辛くなって、僕は二人に背を向けた。
その時、初めて自分が泣いているのだと知った。嗚咽もなく、ぼろぼろと涙だけがこぼれた。
涙は熱く、頬に熱を感じる。
怖くは無い。悲しくもない。感動しているわけでもない。よく分からない。
ただ、強いて言うなら、『痛いから』 だった。
自分の中の芯の部分が、ネズミのような何かに集団で齧られているような。そんな気分だった。
頭上からライトの光が降って来る。Sだった。自分が照らされていることを知り、僕は俯いて涙をぬぐった。
身体の震えはいつの間にか消えていた。
梯子をつたって上へと上る。
震えは止まったけれど、思うように身体が動かず、えらく時間をくった上に、最後はSに引っ張り上げてもらった。
Sは何も言わなかった。僕が落ち着くまで待つつもりなのだろう。
ふと玄関の方を見やると、家の中を隠すように戸が玄関に立てかけられていた。
「ごめん……。もう大丈夫」
そして、僕はSについ先ほど見てきた光景を話した。
「そうか」
Sの感想はただそれだけだった。
僕はずっと考えていた。それは、僕がどうしてあの二人を見つけることが出来たかについてだった。
偶然だったのか。または必然だったのか。僕が無意識下でまたやらかしたのか。
それともあの二人に、もしくはどちらかに、呼ばれたからだろうか。
答えは出なかった。
僕はポケットから携帯を取り出す。
「止めとけよ」
その次の行動を見透かしたようにSが言った。
「……何を?」
「警察に通報するつもりだろう」
「……そうだけど。どうして?」
「俺が警察なら、お前を真っ先に疑う」
その口調には何の力も込められていおらず、ただ、いつも通りのSの言葉だった。
「あの二人をここに閉じ込めて殺した犯人としてな。
 ノックの音が聞こえたんでそれで来ました、なんて言ってみろ。それこそ、精神異常者として扱われるのがオチだ。
 まあ、色モノが大好きな世間様には気に入られるだろうが」
「それじゃあ、公衆電話から……」
「そんな電話、こちらから名乗れない以上、イタズラと思われて終いだろう。警察はイタズラ電話多いからな」
「じゃあ、どうすんのさ……、だからって、このままにしとくわけにはいかないしさ」

1592なつのさんシリーズ「ノック 下」4:2014/06/16(月) 21:58:23 ID:mn6OmNt.0
すると、Sはゆっくり息を吸って、こう言った。
「何がいけないんだ?」
それは予想もしなかった言葉だった。
「何がって……」
「俺は別に良いと思うけどな。このままでも。親子水入らずで過ごせるんだ。別に悪いことじゃないだろ」
僕はあの二人の姿を思い出す。二人で寄り添い、一つの布団に入って眠っていたあの姿を。
ここで親子の居場所を外に教えることは、あの二人の間を裂くことになるのではないか。
何故いけないのか。そうだ、何故いけないのだろうか。
僕は答える。
「……やっぱり、駄目だ。知らせよう」
病弱な息子を守りたい、危険から遠ざけたいとした母親。でも、息子の方からすればどうだったのだろう。
生きている頃も、窓の無い部屋でずっと母親に守られ、死んでからも、こうして母の手に抱かれている。
「あのさ……、性懲りもなくって思うかもしれないけんど……。
 僕が聞いたノックの音って、あの男の子が僕を呼んだんじゃないか、って思うんよ」
芋つぼの扉を叩いた、弱々しくもはっきりとしたあの音。あれは『外に出たい』意志の表れではないだろうか。
「あの子が生前、病気で思うように外に出られなかったとしたら。
 死んで身体から離れた今だから、自由にしてあげたいじゃない。
 ……でも、あれだけ母親に大事に抱え込まれてたらさ、それも出来ないんじゃないかなぁって……
 だから、何と言うか、お母さんの方も、子離れしないといけないのかなぁ、てね?」
最後の方は、何か言ってて自分で恥ずかしくなったのだけれど、Sは黙って聞いてくれた。
そして「ふー」と、欠伸ともため息ともつかない息を吐くと、
「親の心子知らず、されど子の心親知らず、ってか」と小さく呟いた。
「分かった。好きにすりゃあいいさ。
 ただ、直接警察に言うのは止めとけよ。見知らぬ親子のために、色々犠牲にすることは無いからな」
じゃあ、一体どうすればいいんだろう。
そんなことを思っていると、いきなりSが立ちあがり、未だ開いていた扉から穴の中に片足を入れた。
「え?わ、何、どうすんの?」
慌てる僕を横目に、身体の半分ほど穴に下りたSは一言、
「まあ、任せておけばいい」と言って、さっさと降りて行ってしまった。
穴の下を覗きこむも、Sが何をしているのか分からない。というよりも、Sはあの空間に居て平気なのだろうか。

しばらくして、Sが梯子を上がって戻って来た。
やはりというか、当然だけれど、その表情には動揺が見えた。でも、僕ほど取り乱した様子もない。
「流石保存用の土蔵だな。イモだけじゃなくて、人間も保存できるのか……」
それから、Sは携帯の写メを使って色々家の中を取り始めた。
あっちの部屋に行ったと思ったらこっちの部屋に行き、芋つぼの様子を真上から撮影して、
最後に外に出て、家全体の様子を映して、ようやく何かが終わったらしい。
「さて、もう良いだろ。おい、外した戸を元に戻すから手伝え」
二人で二枚戸を元に戻す。
外すことが出来たんだから、戻すのも簡単だろうと思っていたのだけれど、
それは間違いで、思ったよりも時間がかかってしまった。
ようやく戸が元に戻った時には、もう時刻は午後五時半を過ぎていた。
カラスの鳴き声と共に、辺りが段々と暗くなり始めている。
Sが家に向かって一礼した。僕も倣う。
そうして、僕らは未だ一組の親子が住む古民家を後にした。

1602なつのさんシリーズ「ノック 下」5:2014/06/16(月) 21:59:03 ID:mn6OmNt.0
「帰りに、ちょっとネカフェに寄ってくぞ」
車に戻りながらSが言った。
「Sさ……大丈夫なん?眠いんじゃない?」
「大丈夫だ。さっきのを思い出しさえすれば、眠気は飛ぶからな」
そういうSの表情からは、冗談かそうでないかの判別がつかない。
ふと、そう言えばKの電話を切ってから、携帯の電源をOFFにしていたことを思い出す。
電源を入れると、着信履歴にKの名前がズラリと残っていた。電話するのも面倒くさいので、メールを一通入れておく。
『約四時間か五時間後にそっち行くよ。尚疲れたので、帰るまで電話もメールも受け付けません』
そして再び電源を切った。
車に戻る頃には、陽は西の山に全部沈んでいた。夕焼けの残りが、オレンジ色の光を僅かに空に留めていた。

「それで、ネカフェに行って何すんの」
帰りの車の中、僕はSに尋ねる。
「別に……大したことじゃない。ただ掲示板上に、写真を織り交ぜて、体験談風のウソ話を投稿するだけだ。
 もちろん、過去に起こった誘拐事件の概要、不法侵入の場面や、死体を発見した場面は真実を添えてな。
 後は勝手に親切な有志達が、警察に通報してくれる」
「……写メ撮ったの?」
「肝心なとこは撮ってねえよ。そんな気も起こらなかったしな」
「……大丈夫かね。その文章と写真、直接メールで警察に送った方が早いんじゃない?何か余計な話題にもなりそうだし」
「別に評判を貶めようってわけじゃないんだ。それに、メールで通報ってのは、ネット上の犯罪行為に限られてくるからな。
 心配しなくても、ちゃんと警察まで届くよう、別の手も打っとくさ」
「何なん、別の手って」
「そのうち分かる」

そのまま僕とSは帰り道の途中にあったネットカフェに立ち寄り、そこで軽い食事もとって、
また自分たちの街へと車を走らせた。
その際にSは何度かKとメールのやり取りをしていて、帰りに彼の家に寄っていくことになった。
やっぱりと言うか、Sも相当疲れているらしく、運転中、何度も眠たそうに目をしぱしぱさせていた。

Kが住む大学付近の学生寮についたのは、午後十一時頃だった。
Kはどうやら僕らが来るのを待ちかねていた様で、
僕らが部屋の扉の前まで来ると、ノックをする暇もなく戸が開いて中に引き込まれた。
「うおおっ、お前ら見ろお前ら!昨日行った児童誘拐事件の現場がすごいことになってんぞっ!」
Kのテンションがすごいことになっている。
そうしてKは、開いたノートパソコンの画面を僕らに押し付けて来た。
そこには、数時間前にSがネカフェで作成したウソ半分本当半分の体験談が、もちろん僕とSの名前は伏せて載っていた。
「いや、俺もSに言われて初めてこのスレッド知ったんだけどよ。いやあ、やべえなあこいつら。
 何かさ、扉壊してまで入ってさ。中で地下の隠し通路見つけてさ、さらに死体発見してやんの。
 しかもそのまま逃げ帰ってるしよ。あんまりなもんでさ、俺警察に通報しちゃったよ!マジで」
ああ、なるほどな、と思う。別の手とはコレのことだったのか。
興奮冷めやらぬKとは間逆に、Sは心底眠たげな目を、ぐい、と擦ると、
「……おい、K、悪い、布団借りるわ。数時間寝る」と言って、部屋の隅にあった折りたたみベッドを広げると、
ばたん、と倒れるように眠ってしまった。
「何だよあいつ。ことの重大さが分かってねえぞ。
 ……いや、ってか俺さ、明日暇だからよ。も一度あそこに行ってみようかと思うんだが。なあなあ一緒に行こうぜー!」
正直僕も眠たいのだけれど、がくがく肩を揺さぶられては仕方が無い。
「……すくなくとも、Sは行かないと思うよ」
「何でよ?いやまあいいや。そんなこともあろうかと、ちゃんと電車代とバス代いくらかかるか調べてあるから。
 片道四時間二十分。往復で五千円もかからないとよ、……ああ、アレだ、そう、片道2240円だとよ。往復で4480円」
ん、何か聞き覚えのある数字だな、と思うけども、疲れて頭が上手く働かないので思い出すことが出来ない。
「あれ……、そういや、お前ら、今日どこに行ってたんだよ?」
その言葉に僕は思わず笑ってしまった。
そうだった。そもそも土産話をしにここへ来たのだった。
疲労でぼんやりとした頭を二度、コンコンとノックして、僕はこの元気な友人に一から語ってあげることにした。
「いやぁ、今日の昼頃なんだけど、ノックの音がね……」

終わり

1612なつのさんシリーズ「蛍」1:2014/06/16(月) 22:44:24 ID:mn6OmNt.0
八月。開いた窓から吹きこんでくる風と共に、微かに蝉の鳴き声が聞こえる。時計は午後六時を回ったところ。
陽はそろそろ沈む準備を始め、ラジオから流れて来る天気予報によれば、今夜も熱帯夜だそうだ。
僕を含め三人を乗せた軽自動車は、川沿いに伸びる一車線の県道を、下流域から中流域に向かって走っていた。
運転席にS、助手席に僕、後部座席にK。いつものメンバー。
ただ、Kの膝の上にはキャンプ用テント一式が入った袋が乗っていて、
車酔いの常習犯である彼は身体を横にすることも出来ず、先程から苦しそうに頭を若干左右に揺らしている。
僕らは今日、河原でキャンプをしようという話になっていた。
Kが持つテントの他にも、車のトランクの中には食料や寝袋、あとウィスキーを中心としたお酒等も入っている。
夜の川へ蛍を見に行こう。
言いだしっぺはKだった。何でも、彼は蛍のよく集まる場所を知っているらしい。
意外に感じる。
Kはオカルティストで、いつもならこれが『幽霊マンションに行こうぜ』 やら、『某自殺の名所に行こうぜ』となるのだけれど、
今回はマトモな提案だったからだ。
「蛍の光を見ながら酒でも飲もうぜ」とKは言った。
反対する理由は無い。でもそれだと車を運転する人が、つまりSが一人だけ飲めないことになる。
「お前だけジュースでも良いだろ?」と尋ねるKにSは、「お前が酒の代わりに川の水飲むならな」と返した。
だったら、不公平のないよう河原で一泊しようという話になった。キャンプ用品はSが実家から調達してくれた。

川の流れとは逆に上って行くにつれ川幅は徐々に狭くなり、
角の取れた小さく丸い石よりも、ごつごつした大きな岩が目立つようになってきた。
D字状に旧道と新道が別れているところに差しかかる。
山沿いに大きくカーブを描いている旧道に対して、新道の橋はまっすぐショートカットしている。
車は旧道の方へと入って行った。

川を跨ぐ歩行者用の吊り橋のそばに車を停める。吊り橋の横には河原へと降りる道があった。
僕とSの二人で手分けして荷物を河原まで下ろす。その荷物の中には、車酔いでダウンしたKという大荷物も含まれていた。
川はさらさらと音を立てて流れている。川幅は十四,五メートルといったところだろうか。
対岸はコンクリートの壁になっており、その上を県道が走っている。
時間が経ち、陽の光が弱くなるにつれ、透き通っていたはずの緑は段々と墨を垂らしたように黒くなってゆく。
蛍の姿はなかった。出て来るのは完全に暗くなってからだと、ようやく回復したらしいKが言う。
「雲も出てるし、風邪もねえし、絶好の蛍日和じゃん」
蛍は、自分達以外の光を嫌うものらしい。それがたとえ僅かな月明かりでも。
「Kって蛍に詳しいん?」
「蛍だけじゃねえよ。俺は昆虫博士だからな。なにせヤツらは、そもそもは地球外から降って来た宇宙生物って噂だし」
ああなるほど、と僕は思う。

そんなこんながあってから、三人でテントを張った。
河原では地面にペグが打ちこめないため、テントを支えるロープを木や岩などに結び付ける。
五〜六人の家族用のテントなので、中は結構広い。
そのうちKが、小型ガスボンベに調理用バーナーを取り付けて鍋を置き、湯を沸かし始めた。
テントを張る時の手際を見た時も思ったけれど、Kは意外とアウトドア派なのだろうか。
Sに尋ねてみると、「……おかげでガキの頃は色々連れ回された」と嘆いてから、「いや、今もだな」と付け加えた。
それからKは、大きな石を移動させて大雑把な囲いを作ると、周りの木々を集めて組み立て、たき火を起こした。
僕も手伝おうと薪を拾ってくると、「そりゃ生木だお前。煙が出るだけだぞ」と笑われた。

1622なつのさんシリーズ「蛍」2:2014/06/16(月) 22:45:30 ID:mn6OmNt.0
夕食が完成した頃には陽はだいぶ落ちて、辺りはオレンジ一色だった。
夕食は、ぶつ切りにしたキャベツやニンジンや玉ねぎやナルトや魚肉ソーセージを一緒くたに放りこんだ、
ぞんざいなインスタントラーメン。
でも見た目はアレでも味は中々で、鍋はすぐに空になった。
ラーメンが無くなると、紙コップにウィスキーを注いで、三人で乾杯した。
残ったキャベツやソーセージをつまみに。Sは何もなしで飲んでいた。
たき火の火に誘われてか、小さな虫たちがテントの周りに集まって来ていた。
蠅を一回りでかくしたような虫に、腕や足などを何箇所か噛まれて痒い。
「テジロちゃんだな」とKが言った。
何でも、捕まえてよく見ると、前足の先が白いんだそうだ。だから手白。
「よっしゃ、捕まえてみるか?」
「……蠅を見に来たわけじゃないでしょうが」
「そりゃそうか」
僕らは蛍を見に来たのだ。
「まだ出てこないね」
時刻は午後八時を回っていた。辺りはもう十分暗い。
「そろそろだろーな」
そう言うとKは立ち上がり、空の鍋に川の水を汲んできて、たき火の上にそれをかけた。
火が消え、辺りは目に見えて暗くなる。雲が出ていて月明かりもない。
辛うじて、テントの入口あたりに置いておいたガスランタンの小さな光だけが、視界を奪わないでくれていた。
暗闇の中、僕らはしばらく何も喋らず、黙ってウィスキーを胃袋に放りこんでいた。

「……そう言えば、お前らには話してなかったっけか」
沈黙を破ったのはKだった。
「この辺りじゃあな、数年に一度、丁度これくらいの時期に、蛍が大量発生するんだとよ」
興味を引かれた僕は、「へえ」と相槌を打つ。
「数年置きとかじゃなくて、本当にランダムなんだそうだ。研究者の間でも確かな原因は分かってない。
 ……でもな、この辺りじゃ、密かに噂されてる話があってな」
Kの表情は分からない。輪郭は辛うじて分かるけれど、この明かりでは互いの表情までは見えなかった。
「この川な。下流はそうでもないが、中流辺りだと突然深くなる場所とか、渦を巻いてる箇所とかあってだ。
 けっこう溺れて死ぬ奴がいるんだわ。近隣の小学生とか特にな。
 もちろん、そういう場所は遊泳禁止には指定はされてるんだが、……ま、子供の好奇心にゃ勝てんわな」
僕はふと、自分のコップが空になっていることに気付いた。ウィスキーのビンを探したけど、見えない。
「まあ、そうは言っても、数年に一人か二人だけどよ。
 でも、重なるらしいんだよな。水死者が出た年、蛍が大量発生する年。
 ……ああ、わりいわりい。ウィスキー俺が持ってるわ」
Kが僕の方にビンを差しだし、僕はKに紙コップを差しだす。
タタ、と音がして、辛うじて白と分かるコップに、何色か分からない液体が注がれた。
「……今年は、その、溺れた子がいるん?」
一口飲んで、焼けるような喉の刺激が去ってから、僕は尋ねる。
Kは「うはは」と笑って、「そんなこたぁ、俺はシラネー。ここには蛍を見に来ただけだからな」と言った。
「んでだ。その話には、もう一つ不思議なことがあってな」
Kが続ける。
「日本で見かける蛍ってのはさ、ゲンジボタルかヘイケボタル、大体この二種類でな。
 ゲンジボタルの成虫が出るのは、五月から六月、遅くて七月上旬にかけてだから。
 そうすると、八月のこの時期に出るのは、ほぼ年がら年中見られるヘイケボタルってことになる」
Kは本当に昆虫に詳しいらしい。
こういう風に、なるほどと思える話をKから説明されることは珍しいので、何だか違和感を覚える。
いつもならそういう解説はSの役目なのだけれど、彼はさっきからつまみも挟まず静かに飲んでいる。
「でもヘイケボタルってのは、集団発生はしねーんだよ。
 年がら年中見れるってこたぁ、成虫になる時期が同時でないってことだ。
 逆に、皆そろって成虫になるのは、ゲンジボタルの方なんだけどよ。
 でも、ゲンジはこの時期にゃあ交尾終えて死んでるし」
酔った頭でも何となく理解出来た。
つまり、Kはこう言いたいのだ。

1632なつのさんシリーズ「蛍」3:2014/06/16(月) 22:46:03 ID:mn6OmNt.0
「……つまり、大量発生するその光は、ホタルじゃないかもしれない、ってこと?」
「おうおうおう!何だ、察しがいいじゃねーか。……
 ま、普通に異常発生したヘイケボタルっつう可能性の方が高ぇだろうけどよ」
「蛍じゃなかったら、なんなのさ」
「シラネーよ。見たことねえし。でもまあ強いていやぁ、そうだな。……鬼火とか、人魂とか、怪火の類?」
「……今年も見れると思ってるんじゃない?」
「シラネーシラネー」
そう言ってKは「うはは」と笑った。
またオカルト絡みか。今日はただ蛍を見に来ただけだと思っていたのに。
蓋を開けてみれば、やっぱりKはKだったということなのだろうか。
その時、今までずっと沈黙を守っていたSが、ふと口を開いた。
「出てきたぞ」
その言葉に、僕はハッとして川の方を見やった。
何も見えない。じっと目を凝らす。
ちらと、青い火の粉のような何かが視界の隅に映った。それを区切りに、河原に無数の青白い光が浮かび上がる。
突然、辺りがさらに暗くなった。KかSのどちらかが、テント前のガスランタンの光を消したからだろう。
おかげで目の前の光がよりはっきりと見えるようになった。
光は明滅していた。それも飛び交う全ての光が同じタイミングで消えては光る。
それはまるで、無数の光全体が一つの生き物のように思えた。
時間の経過とともに、光は更に数を増していった。河原を覆い尽くすかのように、僕らの周りにも。
思考も感覚もどこかへ行ってしまい、目だけがその光を追っていた。
度の強いウィスキーのせいで幻覚を見ているんじゃないかと疑う。それほど幻想的な光景だった。
雲に隠れた星がここまで降りてきたかのような、そんな錯覚さえ抱く。
「もの思へば、沢の蛍もわが身より、あくがれ出づる、魂かとぞ見る……」
ふと、我に返る。Sの声だった。
「……何それ?」と僕が訊くと、「和泉式部」とSは言った。
「誰それ」とさらに尋ねると、溜息が返って来た。
「お前、文系だろうが」

それから数時間もの間。僕らはただ、目の前の星空を眺め続けた。飽きるという言葉すら浮かばなかった。
時間はあっという間に過ぎた。
その内に少しずつ数が減ってきて、時刻が夜十時を過ぎた頃、光は完全に沈黙した。
Kがいったん消した焚き火を組み直し、火をつける。
つい先ほど見ていた光とはまた別の火の光。ぱちぱちと薪が燃えて弾ける音がする。
「昔の人は、人間に魂があるとすれば、それは火の光や蛍の光のようなものだと考えたんだが……。
 今のを見れば、まあ分からなくもないな」
手の中で空の紙コップを弄びながら、Sがぽつりと言った。
あの数は大量発生と言えるのだろうか。だとすれば、今年も誰かが川で溺れて亡くなったのだろうか。
感動と共に、僅かな疑問が頭をよぎる。
「……あ、そう言えばKって、虫取り網持ってきてたよね。使わんかったん?」と僕はKに尋ねる。
おそらくは、あの光が人魂か虫かを確かめるためには、捕まえるのが一番手っ取り早いということで持ってきたのだろう。
「ああ、忘れてたな……。ま、いいや。ありゃ人魂とかじゃねえよ。蛍だ。集団同期明滅してたし」
蛍だった、とKは言いきった。
「ああ、あの同時に消えたり光ったりしてたやつ?」
「そ。ありゃ蛍の習性だからな。ああやって、同時に光ることで雄と雌を見分けてんだよ」
「ふーん」
「……あーあ、でも俺ぁてっきり、今までに死んだ水死者の魂が、飛び交ってんだと思ってたんだけどなあ」
ただ、そういうKの顔に落胆の色はなかった。あれだけのものを見たのだ。満足しない方がおかしい。
僕たちはそれから焚き火を囲んで少し話をして、三人でウィスキーを二本ともう半分開けてから、寝ることにした。
興奮はしてたものの相当酔っていたので、熱帯夜にもかかわらず、すぐに眠りにつくことが出来た。

1642なつのさんシリーズ「蛍」4:2014/06/16(月) 22:46:51 ID:mn6OmNt.0
次の日の朝。起きると、テントの中に残っているのは僕が最後だった。
外に出ると、Sは河原の石に座って釣りを、Kは底が硝子になっているバケツを川に浮かべ、網を持って何かを探していた。
その日は、すっきりと雲ひとつない天気だった。
川の水で顔を洗ってから、釣りをしているSの元へと行ってみた。
「釣竿なんか持ってきてたっけ?」と僕が尋ねると、「昨日、そこの茂みで拾った」と言う。
じゃあ餌は何を使っているのかと聞けば、昨日の内にテジロちゃんを捕まえておいたので、それを使っているらしい。
見せてもらうと、テジロは本当に手の先が白かった。
ちなみにSはこの後、立派な岩魚を二匹釣るという快挙を成し遂げた。
塩焼きにして昼飯になったのだけれど、すごくおいしかった。
Kの元へ行くと、彼はゴリという名の小魚を捕まえようとしているらしい。
ちなみに彼はこの後ゴリを十匹ほど捕まえ、それは昼飯の味噌汁の具になるのだけど、
ゴリは骨ばっててとても不味かった。

二人共元気なことだ。などと思いながら、僕は河原を行ける所まで散歩していた。
その時、ふと足元に黒い昆虫の死骸が落ちていることに気がついた。
十字の模様がついた赤い兜に、黒い甲冑。拾い上げてみると、それは一匹の蛍の死骸だった。
そのまま持ち帰ってKに見せてみた。
「おう。蛍だな」
ちらりと見やりそれだけ言うと、Kはまた腰をかがめて水中に意識を戻した、かと思うと、
がばと起き上がり僕の腕を掴み、もう一度その蛍の死骸を見やった。
「ゲンジボタルじゃん……」とKは呟いた。
「ゲンジボタルなん、これ?」
「ああ、頭のところに十字の模様があるだろ。てっきりヘイケボタルかと思ってたけど。
 ……でも、何でこんな時期に出て来てんだコイツ。一,二月くらいおせぇのに」
僕はもう一度、自分の手の中のゲンジボタルの死骸を見つめた。
Kは「おっかしいな〜」などと言いつつ、ズボンから携帯を取り出すと、何かを調べ始めた。
おそらくインターネットで、ゲンジボタルの生態でも確認しているのだろう。

1652なつのさんシリーズ「蛍」5:2014/06/16(月) 22:47:57 ID:mn6OmNt.0
「……あ?」
しばらくして、Kが妙な声を上げた。携帯の画面をじっと見つめている。
「……どしたん?八月でも出ますよってあった?」
「いや、そうじゃねえけど。いや、これは俺も知らんかったわ」
「だから何が」
Kは開いた携帯の画面を僕に見せながら言った。
「ゲンジボタルの学名だ。……『Luciola cruciata』 ラテン語で、『光る十字架』だとよ」
頭部の辺りに見える黒い十字が見えるけれど、これが十字架なのだろうか。
「……何を祝福してんのか知らんけど、溺れた奴が全員キリスト教でもねえだろうにな」
そう言ってKは「はは」と小さく笑った。
光る十字架。
僕は昨夜の光を思い出す。
ゲンジボタルが光る時期より一,二ヶ月遅れたこの季節は、子供たちが川で遊ぶ季節だ。
そうして人が溺れて死んだ年だけ、光る十字架たちは飛び回る。
全くの無関係なのだろうか、それとも。
ふと、昨夜Sが口ずさんだ歌を思い出す。
あの後、Sにあれはどういう意味かと訊くと、彼は面倒臭そうにこう言った。
『恋心に沈む自分の魂を、蛍にたとえた歌だ』
昔から、人は人間の魂を蛍の光に例える。
僕は首を振った。僕には何も分からない。

昼食が終わった後、僕らはテントを片付けて荷物を車に運び込んだ。
出発する前にKが「ちょっと待ってくれ」と言い、半分残ったウィスキーの瓶を持って、吊り橋の上へと向かった。
何をするのかと見ていると、Kは橋の上からウィスキーの瓶をひっくり返し、残っていた液体を全て川へと振りかけていた。
「よ、待たせたな」
戻って来たKに、何をしていたのか尋ねようかとも思ったけれど、止めておいた。
Kは何も言わなかった。だったら、こっちから聞く必要もないだろう。

車のエンジンがかかり、僕らは川を後にする。
「いやぁ、でも、良いもの見たしね。楽しかった」
走り始めた車内で、僕は本心を言った。
「そうだな」と珍しくSも肯定してくれたので、「また機会があれば、行こうよ」と二人に提案してみる。
「おう、そうか。だったら、次は山だな」とKが言う。
「かなり遠いけどな。昔人喰いクマが出て有名になった山があってな」
いやそれはちょっと勘弁してくれ、と僕は思った。

終わり

1662なつのさんシリーズ「異界」1:2014/06/16(月) 23:29:45 ID:mn6OmNt.0
大学もバイトも、何もイベントのない日。昼寝から起きると、時刻は午後五時になろうとしていた。
携帯を見ると、一通のメールが届いている。知り合いからだ。
その人とは、大学一年の時にボランティアを通じて知り合った。メールもボランティアメンバー全員に宛てたものだった。
メールの内容は、『○○公園のソメイヨシノが開花したよ』 というちょっとしたお知らせ。
大きく拡大した桜の花びらの写真も添えてある。
四月四日のことだった。
僕の家の近くには、桜の名所として全国的にもそれなりに有名な公園がある。
標高二百メートルくらいの小さな山の山頂にある公園で、
山には桜並木の他に、広いグラウンド、美術館、寺、展望台、また山頂に繋がるロープウェイもあり、
地元の人はそれら全てをひっくるめて○○公園と呼んでいた。
休日となると観光客も訪れ、春には花見客が地面に敷くブルーシートで公園中が青くなる。そんなにぎやかな場所だった。
夕食の食材を買いに行くついでに桜を見に行こう。そう思い立った僕は、簡単に身支度を済ませて原付に跨った。

山に沿って建てられた住宅街からカーブの多い山道を上り、○○公園へ。
いつもは子供たちが野球の練習をしている公園敷地内のグラウンドの端に、原付を停めた。
風はなく、上着は必要なさそうだ。
僕は公園全体をぐるりと一周するつもりで歩きだした。散歩コースとしても、この公園は中々良い。
事実、平日の夕方にも関わらず、何人か犬を連れて散歩する人や、ジョギングをしている人とすれ違った。
道の脇に植えられた桜は、見たところ二分咲きほど。開花したと言ってもまだ蕾の方が多い。
それでも、人はいないが屋台のテントを三つほど見かけたり、
大学生らしき若者たちが数人、ベンチのある広場に集まってお酒を飲みながら騒いでいたりと、
花見シーズンがもうそこまで来ているのだと感じさせる。
僕はだらだらと歩き、立ち止まっては桜を見上げ、また歩く。
桜並木から少し離れ、右手にグラウンドが見える坂を下る。

左手に、今はもう誰も住んでいないだろう廃屋の横を通り過ぎた時だった。
廃屋の向こう側に道がある。立て札があり、『○○墓地入口』 と書かれている。
この辺りに墓地があることは知っていた。けれど、その墓地へと続く道の脇にはもう一つ道があった。
おや、と思う。知らない道だ。
ちょっと覗いてみる。林の中へ分け入る道。
舗装はされておらず、折れた木の枝などが所々に落ちていて、頻繁に人が使っているわけではなさそうだ。
人とすれ違うのにも骨が要りそうなほど細い道が蛇行しながら、こちらから見れば下向きに伸びている。
どこに繋がっているのかは分からなかった。
どうせ暇だから来たんだしと思い、僕はその道を下りてみることにした。
知らない道を行くのは、何だか冒険をしているようでワクワクする。

顔面に蜘蛛の巣の特攻を受けながら少し進むと、木々の隙間、眼下に、僕が原付で上って来た側の住宅地が見えた。
帰りがけに寄ろうと思っていたデパートの看板も見える。
あの辺りに出るのかと思いながら、もう少し歩を進める。
すると、前方に分かれ道があった。下っている右の道と、若干上りになっている左の道。
どちらかと言えば右の方がちゃんとした道に見えたので、僕は右の下りる道を選んだ。
思った通り、その道はデパート近くの住宅地に出た。
傍らにはお坊さんを彫ってある大きな岩があって、
その横の朽ちかけた立て札は、『思索の道。この先○○寺』 と辛うじて読める。

1672なつのさんシリーズ「異界」2:2014/06/16(月) 23:31:04 ID:mn6OmNt.0
来た道を逆に、分かれ道まで戻る。
さて、どうしようか。結局、僕は来た道は選ばず、まだ行ってない方の道へと進むことにした。
小さな山だ。きっとどこか知った道に合流するだろうと、そう思っていた。
この時、僕はまだ好奇心に支配されていた。

それから少し歩くと、道のすぐ傍らに一匹の痩せた犬が横たわっていた。
歩を止める。
ぴくりとも動かない。しばらく見やって、死んでいるのだと知った。
小バエが数匹、辺りを飛び回っていた。毛並みは茶色。
腐敗はそこまで進んでいないようだったが、耳の根元が黒ずんでおり、眼球がなくなっていているのが分かった。
そこからハエが体内に出たり入ったりしている。
どうしてこんなところで死んでいるのだろう。
野良犬自体なら、この公園近辺には多くいる。観光客がくれる餌を求めてやって来ているのだ。
けれど、目の前で横たわる犬は首輪をしているように見えた。
そのまま犬の傍を通り過ぎ前へと進むか、そうでなければこのまま引き返して来た道を戻るか。
僕は選ばなければならなかった。
少しばかり迷う。
そうしてから、僕はゆっくりと足を前に踏み出した。
正直、死骸は怖かった。いや、怖いというよりは、ただの毛嫌いだったのかもしれない。
ドラマなどで見る安っぽい死ではなく、目の前の犬の肉体は限りなくリアルだった。
そうして、だからこそ、気持ち悪いから逃げ帰るなんて失礼だと思った。
死骸の様子を間近で見る。途端に一つ心臓が跳ねた。
首輪だと思っていたものは傷口だった。
喉元がばっくり開いていて、そこから染み出した血が黒く固まり、首輪のように見えたのだ。
犬同士の喧嘩の末にこうなったのだろうか。
しかし、傷口は噛み痕には見えず、何か刃物で切られたようにまっすぐ喉を裂いていた。
注視したせいか吐き気を覚える。やっぱり引き返した方が良かっただろうか。
白い歯が覗く半開きの口は、僕に何かを訴えているようにも見え、
頭が勝手に、目の前の死骸がいきなり喋り出す様を想像した。
ただの穴となった眼窩から蠅が飛び出して、僕の胸にとまる。不安と一緒に払いのけて、犬に向かって手を合わせた。
そうして僕は犬の死骸を背に、その先へと進んだ。
先程も書いたが、僕はこの道は、
どこか住宅地から寺や公園へ上がるいくつかの道のどれかに合流するんだと、勝手に思いこんでいた。

犬の死骸のあった場所からもう少し進むと、足元に道は無くなり、閑散と木の生えた場所に出た。
見たところ、行き止まりのようだった。
目の前の木の枝に、キャップ帽とトレーナーが一着引っかかっていた。二つとも色が落ちくすんでいる。
その木の根元には、蓋の取っ手が取れたやかんがあった。
やかんの向こうには、トタン板と木材が妙な具合に重なり合って置かれていて、
傍にコンクリートブロックで出来た竈のようなものがある。火を起こした跡もあった。
その他にも、辺りには金色の鍋や、茶色い水の溜まったペットボトル、ボロボロの布切れ、重ねて置いてある食器類、
何故か鳥籠もあった。中には鳥ではなく、白い棒きれのようなものが何本か入っていた。
一瞬それが骨に見えて、ギョッとする。でも鳥の骨にしては大きい。だったら骨じゃない。
けれどもじゃあ何なのかと問われると、僕には答えられなかった。
いずれにせよ、それらは確かにこの場所で人が暮らしていたという痕跡だった。
崩れたトタン板や木材は家の名残だろうか。
そこにある品々の古さや具合から、今もここに人が寝泊まりしているとは考えにくかったが、
林の中で忽然と漂ってきた生活臭は、あまり気持ちの良いものではなかった。
すでに冒険心は小さくしぼんで、代わりに不安という風船が大きく膨らんできていた。
ホームレスだろうか。

1682なつのさんシリーズ「異界」3:2014/06/16(月) 23:31:39 ID:mn6OmNt.0
つい先程見た犬の死骸を思い出す。関連があるとは思いたくないが。
いずれにせよ、こんなところでこんなところの住人と対面するのは極力遠慮したかった。
ただそうは言っても、来た道を引き返し、またあの犬の死骸の脇を通るというのも気が進まない。
辺りは徐々に暗くなり始めていた。時刻は午後の六時を過ぎている。
他に道はないかと、僕は周囲を見回した。
すると、行き止まりかと思っていた箇所に、辛うじてそれと分かる上へと続く道があった。
戻るか進むか天秤にかける。僕は迷っていた。
この道が本当にどこか知っている道に合流している、という自信は霞みかけていたし、
犬の死骸を踏み越えても元来た道を戻るのが正解に思えた。
その時だった。
気配を感じる。微かに枝を踏む音。僕がやって来た方の道から聞こえた。誰かがこちらへやって来る。
新たな重りが加わり天秤が傾く。僕は咄嗟に新しく見つけた道へと進んでいた。
僕のような好奇心でやって来た者か。もしくはここに住むホームレスか。どっちにせよ、遭遇はしたくない。

急な道だった。
道の途中にはもう数ヶ所、人の寝床と思しき箇所があった。
それは大きく突き出た岩の下に造ってあったり、小型車程の大きさの廃材を使ったあばら家だったり、
ある程度密集したそれらは、まるで集落のように見えた。
上って行くにつれて道は霧散し、もうケモノ道とも呼べないただの斜面になっていた。
それでもしばらく上ると、たたみ二畳ほどの広さで地面が水平になっている場所に出た。
そこにも人の生活の気配がうかがえた。
灰の詰まった一斗缶。黒い液体が溜まった鍋。木の根もとに並べられたビールの缶。枝に吊るされたビニール傘。
先の欠けた包丁。そして小さなテント。
僕は足を止めてそのテントを見やった。異様だったからだ。
三脚のように木材を三本縦に組み合わせて縛り、その周りをブルーシートで覆っている。
高さは僕のみぞおち辺りで、人が入れる大きさではなかった。
一体、何のためのテントなのか。テントの周りにはハエが飛んでいた。
虫の羽音。
そして、羽音とはまた別の音が聞こえる。
タ。
タ。
タ。
それは、閉め忘れた蛇口から落ちた水滴が、シンクを叩く音に似ていた。
地面と僅かにできた数センチの隙間。覗くと、銀色をした何かがテントの中に置かれていた。
鍋のようだった。おそらく鍋は受け皿で、あの中に水滴が落ちている。
ハエが飛ぶ。僕の心臓がやけに早く動く。
異臭。
僅かに風向きが変わったのか。
生臭い匂いだった。以前にも嗅いだ事がある。確か小さな頃、目の前で交通事故が起こった時だ。
匂いの質は同じだけれど、あの時よりももっと酷い匂い。
鼓動が骨を伝わり、足が震えだした。
どこか遠くで犬の鳴き声がした。公園に住みつく野良犬だろうか。首を切られ、横たわって死んでいた犬を思い出す。
現在、テントの外に置いてある鍋の中には、なみなみと黒い液体。赤黒い液体。いや違う。血だ。血の匂い。
タ。
タ。
タ。
水滴がシンクを叩く音。
僕は混乱していた。

1692なつのさんシリーズ「異界」4:2014/06/16(月) 23:32:12 ID:mn6OmNt.0
はやくこの場から去りたいのに、足が動かなかった。
それどころか、足が勝手に動き、自分の腕が青いテントに向かって伸びていた。
めくろうとしているのだ。中を見ようとしているのだ。
やめろ。
声は出ず、心の内で叫ぶも、僕は止まらなかった。
そうして僕は、ブルーシートをめくった。
臭気が這い出て来る。何匹かのハエが、僕の行動に驚いてかテントの傍を離れた。
息を飲んだ。
中には一匹の犬が逆さに吊られていた。喉元が裂かれていて、傷口から血が鍋の中へ滴り落ちている。黒犬だ。
舌が垂れ、見開いた目が地面を睨んでいた。
タ。
タ。
タ。
血が鍋の底を叩く音。
僕の手が驚くほど緩慢な動きでゆっくりとシートを元に戻した。
足も手も震えて、声にならない声が腹の奥から上がって来て、今にも叫びだしそうだった。懸命に自分を押さえる。
息が荒くなっていた。上手く呼吸が出来ない。
その場にしゃがみ、胸の辺りを掴み、目を瞑り、落ち着くまで待とうとした。
「何しゆうぞ」
人の声がした。
振り向くと、そこに人間がいた。
どうやら僕は自分のことに精いっぱいで、近づいて来る足音にも気付かなかったらしい。
男だった。赤いニット帽を被っている。革のバッグを背負い、黒いジャンパー、履いているのは青いジャージだ。
顔には無数のしわが刻まれていて、頬が少し垂れている。
年齢は良く分からなかったが、六十代の半分は過ぎているだろうか。
男は、ぐっと腰を曲げて、しわの延長線上のような細い瞼の奥にある光の無い目で、僕のことを見つめていた。
僕は何も反応ができなかった。
男はそれから青いテントに目を移した。
「……ああ、ああ、見たんか。兄ちゃん。そうか」
ぼそりぼそりとそう言って、それから低く笑った。
「見えんようにと、被せたんにのう」
その時の僕は、今しがた見てしまったモノに対するショックと、突然現れたこの人物に対する驚きで、
身体も精神も固まっていた。
どうやら人間は、許容量を遥かに超える負荷をかけられると、肝心な部分がどこかへ行ってしまうらしい。
男はその手に犬を抱いていた。死んでいる。僕が先程見た眼球のない犬だ。
僕は夢でも見ているようなぼんやりとした心持ちで、その光景を眺めていた。
「ああ、こいつか?こいつぁ、おれの犬だな」
男は僕の視線に気がついたのか、そう言った。
「こいつぁな、野村のヤツが殺した。おれが留守にしとる間に。……そうにきまっとる。
 犬嫌いやけぇあいつは……、俺の犬や言うとろうが。俺が骨もやっとったし、紐もつけとる。やのに、野村のヤツが……」
ぶつぶつと誰もいない茂みへ忌々しげに吐き捨てると、男はもう一度僕の目を覗きこみ、こう続けた。
「兄ちゃん。勘違いしたらいかん。……こいつは食わんぞ?俺の犬やきの」
男は歯がだいぶ欠けていた。
僕の中の糸が切れた。いや、繋がったのかもしれない。
僕は起き上がり、その場から逃げた。
どう逃げたのかは覚えていない。ただやみくもに斜面を上ったような気がする。
途中、転んだかもしれない。悲鳴を上げたかもしれない。何も覚えてない。

1702なつのさんシリーズ「異界」5:2014/06/16(月) 23:32:46 ID:mn6OmNt.0
気付けば、僕は見知った道の上に立っていた。道の向こうに原付を止めたグラウンドが見える。
傍らに見覚えのある、墓場へ誘導する立て札。
立て札の脇には、僕が好奇心をくすぐられて入ったあの細い道の入り口があった。
いつの間にか僕は入口に戻ってきていたのだ。
息が切れていた。近頃運動らしい運動もしていなかったからか、身体のあちこちが痛かった。
見ると、気付かないうちに手の甲に怪我までしていた。
しばらくの間、僕はその場に立ち尽くしていた。
張りつめていた緊張感が爆発したツケか、頭の中で余熱が暴れ回っていた。
これが冷めない限り、正常な思考は出来そうもない。
目を瞑ると、先程見た様々な光景がフラッシュバックした。
時間はどれくらい経っただろう。陽はもう西の山の向こうに沈んでいた。
僕は歩きだした。

グラウンドの傍にある自販機で350ミリリットルのお茶を買うと、一気に飲んだ。
火照った身体と頭が、それで少し冷えた気がした。
遠くの方で誰かが笑っている。
この公園にやって来た当初にも見た若者たちが、未だ桜の要らない花見を続けているのだろう。
腹の中の全てを絞り出すように大きく息を吐く。
もう少し日にちが経てば、満開の桜の下、公園はたくさんの花見客でにぎわうことになる。
それは毎年繰り返される当たり前の光景だ。
けれども、そんなにぎやかな場所から林のカーテンを一つ隔てた先には、全く別の世界がある。
僕は今日、それを知ってしまった。
思う。
あの男はホームレスだろう。
そして、テントの中で吊るされていたあの犬は食料だ。最後に聞いた男の言葉がそれを物語っていた。
頸動脈を切られ、吊るされて、血抜きをされていたのだ。
犬を食べる。
聞いたことはあった。タイや韓国などアジアを中心とした国では、市場の店先に普通に犬の肉が置かれていることもあると。
捌き方や調理法さえ知っていれば、日本の犬だって食べれないことはないだろう。
ましてや調達の手間を考えても、観光客から餌をもらうのに慣れた犬など捕獲し殺すのは簡単だ。
野良犬ならば、動物愛護団体にでも見つからない限り、法的に罰せられることもない。
別にあのホームレスが何かをしたわけではない。

1712なつのさんシリーズ「異界」6:2014/06/16(月) 23:33:50 ID:mn6OmNt.0
魚を釣って料理していたのと同じだ。生きるために他の動物を食べることを止める権利など、誰も持っていない。
ふと、目の前を犬を連れた女の人が通り過ぎた。散歩が終わり、愛犬と自宅に戻るのだろう。
首輪に繋がれた小さな犬が、僕に向かって一つ吠えた。血の匂いでも嗅ぎ取ったのか。
犬だけを特別扱いする理由はない。その理屈は分かる。
でもやはり、もやもやとした何かは残った。嫌悪感と言っても良い。僕でなくても大抵の人はそうだろう。
僕の家では犬は飼ってはいなかったけれど、祖母の家が飼っていた。可愛い犬だった。
あの男だってそうだ。男は『自分の犬は食わない』とそう言ったのだ。
ペットとして飼っていたのだろうか。餌はどうしていたのだろう。
鳥籠の中にあった骨を思い出した。自分が食べた後の犬の骨。そこまで考えて、止めた。
人に飼われる犬。人に喰われる犬。犬を喰う人。犬を飼う人。
遠いようで、それらを隔てる壁は案外薄いのかもしれない。
少なくともこの場では、その隔たりは閑散とした林だけだった。
それとも、二つは完全に分かれていて、僕が迷い込んだことがただの例外だったのだろうか。
異界。
そんな言葉が思い浮かんだ。大げさだと自分でも思う。
僕は首を振って、重い腰を上げた。帰ろう。そう思った。
これから何をしようという気はなかった。夕飯の買い物に行く気にもならなかった。
公園に野良犬が多いと保健所に苦情を言う気も、ホームレスをどうにかしてくれと役所に頼む気も。
声が聞こえる。もう暗いのに、若者たちはまだ騒ぎ足りないようだった。
原付に跨り、エンジンをかける。
それでも、今年はここでの花見には来れそうもない。
走り出す直前に、ふと犬のなきごえが聞こえた気がした。
けれどもエンジン音のせいで、それが本物かどうかは僕には分からなかった。

終わり

172くらげシリーズ「五つ角」1:2014/06/26(木) 16:18:53 ID:TrdgkZJA0
梅雨時になると、たまに思い出すことがある。今から十年程前の話だ。当時、私は中学一年生だった。

四方を山に囲まれた盆地に、私の住んでいた街はあった。
といっても標高はそれほど高くもなく、南側の山一つ越えれば太平洋を見ることができる。
コンクリートで固められた一本の川が街を南北に等分していて、その北側の住宅街に私と家族の家はあった。
対して南側の住宅街。その片隅に『五つ角』と呼ばれる場所があった。
そこは、一見すれば単なる十字路である。
では何故四つ角ではなく五つ角なのかというと、
二本の道が交錯する丁度中心に一メートル程の大きなマンホールがあり、それが五つ目の角だというのだ。
五つ角という名は正式な名称では無い。誰が名付けたのかは知らないが、もちろんそう呼ばれるには理由があった。
『雨の日の夕刻、五つ角のマンホールに近づいてはいけない』
街では有名な都市伝説だった。
何でも、男の幽霊が手招きしていて、
近づいてきた者をマンホールの中、つまり五つ目の角の奥へと引きずり込むのだそうだ。
世の都市伝説に洩れず、えらく恐ろしげでたっぷり胡散臭く、それでいていたく子供心をくすぐる噂話だった。

私と同じクラスに『くらげ』というあだ名の人物がいた。
私がオカルトに興味を持つきっかけになったのが、彼だと言ってもいい。
彼はいわゆる、『自称、見えるヒト』だった。
何でも幼少の頃、自宅の風呂に何匹ものくらげがプカプカ浮いているのを見たその日から、
彼は常人では決して見ることのできないモノを見るようになったのだとか。
当然、最初はなんじゃそりゃと思っていたが、彼と一緒に居るうちに、私はその話を信じるようになっていった。
「僕は病気だからだね」と彼はよく言っていた。病気という言葉には何かしらの説得力があった。
ちなみに、私は当時、どちらかというと科学っコだったのだが、だからこそ彼の存在は面白かった。

「五つ角の幽霊の真相を暴きに行かないか?」
六月半ばを過ぎた、ある雨の日のことだった。
HRが終わり下校の時間。私は帰ろうとしていたくらげにそう切り出した。ちなみに、二人共帰宅部だった。
くらげは私を見て、窓の向こうの雨空を見て、少しだけ面倒くさそうな顔をした。
彼はあまり積極的なノリのいいタイプでは無かった。普段も一人ぼんやりしていることが多く、表情も乏しい。
その点でも、海に漂うくらげのような人物だった。
「いいよ。って言うまで、帰らしてくれないんでしょ」
外を見つめたまま彼は言った。
私は肯定の意味でにっと笑って見せた。
くらげとは小学六年からの付き合いだが、お互いのことはもう大体分かっている。

一端荷物を置きに自宅に帰り、制服のまま傘だけ持って家を出た。
集合場所は、街を北と南を分ける仏と名のつく川に架かった、地蔵と名のつく赤い橋。
くらげは南側の山の方に住んでいた。
五つ角も南の住宅街にあるのだから、くらげが橋まで来る必要はなかったのだが、
私たちが一緒に行動する時、待ち合わせはいつもここだった。
私が行くと、くらげは先に橋で待っていた。彼は私服に着替えていた。
連日の雨で川の水は茶色く濁り増水していた。
「くらげは、五つ角の幽霊、見たことあったりする?」
「あるけど」
私が尋ねると、くらげは平然と答えた。
彼が見たことがあるということは、少なくともガセではなく、男の霊は存在するということだ。
私たちは並んで、目的の五つ角に向かって歩きだしていた。
「どんなんだった?」
「人だった。手招きしてた」
「それは知ってる」と私が言うと、「後は分からないよ。近くで見たわけじゃないから」とのこと。
「それなら、普通の人間かも知れないじゃないか」
疑問を口にすると、くらげは『それは違う』と首を横に振った。
「水死体って、見たことある?」
今度は私が首を横に振る番だった。実際に見たことは無いが、水難事故で死んだ人間がどうなるか、その知識はあった。
「そんな感じだった」
くらげはそう言った後、軽く欠伸をした。
私はぶくぶくに膨れた人間が手招きしている姿を想像して、唾を呑みこんだ。

173くらげシリーズ「五つ角」2:2014/06/26(木) 16:19:48 ID:TrdgkZJA0
五つ角は、南地区の簡素な住宅街の外れにあった。
車一台がやっと通れるほどの細い道で、周りの塀が異様に高く、こちらに倒れて来そうな圧迫感があった。
前方数メートル先に、四方に伸びる曲がり角と、マンホールのふたがあった。時刻は四時半頃だっただろうか。
私の見たところ、マンホールの付近には誰も居なかった。
「……夕刻って何時だろうな」
「日暮れ時じゃない?」
「今日は太陽出てないぞ」
「じゃあ暗くなったらだよ。きっと」
地面は水浸しで座ることも出来ないので、私たちは立ったまま五つ角の幽霊の出現を待った。

くらげと一緒に居ると、私も時々妙なモノを見ることがあった。
それは薄っすら人の形をしていたり、浮遊する青白い光の筋だったりしたが、くらげにはもっとはっきり見えている様だった。
「この病気は感染するんだって」
くらげの説明によると、私は感染したらしい。
「治したかったら、僕に近づかないこと。そしたら自然に治るから」とも言った。
見てはいけないものを見る。背筋がぞくぞくするその体験は、非常に怖くもあり、芯から楽しくもあった。

くらげと他愛もない話をしながら、三十分程たった時だった。
急に雨脚が強まった。雲が厚くなったのか、辺りは少し暗くなっていた。ばたばたばた、と雨粒が音を立てて傘を揺する。
私は地蔵橋の下の水位を思い出した。
まだまだ大丈夫だろうが、早めに帰った方がいいかもしれない。そんなことをふと思う。
服の上からでも分かるひやりと冷たい手が、私の肩を掴んだ。
あまりの冷たさにびっくりしながら横を見ると、くらげが人差し指でゆっくりとある方向を指し示した。
つられるようにそちらを見やる。
軽く息を呑みこむ。
土砂降りのカーテンの向こうに何かが居た。
ピントのずれた映像のようにその姿はぼんやりとしていて、はっきりと見ることができない。
ただ、人だった。頭があり、二本ずつの手足がある。その右手と思われる部分が、ユラユラと上下に動いていた。
噂通りだ。
「手招きしてるね。……もっと近づいてみようか?」
くらげが私に尋ねた。
私はくらげを見返した。彼の表情はまるで読めない。
そろそろ門限だから。これ以上川が増水して橋が渡れなくなったら困るから。
もし噂の通りだとすれば危険だから。怖いから。
断る理由はいくらでもあった。
しかし、私は頷いた。
二人でそいつの方に近づいた。
一歩ごとに、今まではぼんやりとしていた輪郭が、少しずつではあるが鮮明になってくる。
やはり人間だった。ぶくぶくと太った人間。背が高い。正直、男か女かは分からなかった。手招きしている。
その手の届く三〜四歩前で私は止まった。横でくらげが何か呟いたが、雨の音で聞こえなかった。
くらげは止まらなかった。止める暇もなかった。彼はそいつの目の前まで歩み寄った。
雨の音が消えたような気がした。代わりに自分の心臓の音がやけにはっきり聞こえた。
マンホールがずるずると開いて、くらげが中に吸い込まれる。
一瞬そんな想像をしたが、重さ数十キロはあるだろう鉄製の蓋はピクリとも動かなかった。
何も起きなかった。
そんな中くらげは、自分の左手に持っていた傘をそいつの頭上に掲げた。傘をさしてあげているのだ。
途端にくらげは雨に打たれて水浸しになった。
しかし、そんなことはまるでお構いなしに、彼はそいつをじっと見つめていた。
それだけだった。後は何も起こらなかった。
「ああ。それはすみません」
唐突にくらげが言った。
そうして傘を自分の頭上にさし直すと、くるりと私の方に向き直った。
「帰ろう」
そう一言。
返事も待たずに彼は歩きだした。私の前を通り越してどんどん進んで行く。
「……おい待てよ」
はっとした私は、慌ててその背中を追いかけた。
その際、一度振り返ったが、そいつは跡かたもなく消えていて、あるのは雨にぬれるマンホールだけだった。
私たちは黙って歩いた。頭の芯が熱くて、心臓の音がまだ微かに聞こえていたが、しばらく歩くとそれらは収まった。

174くらげシリーズ「五つ角」3:2014/06/26(木) 16:21:04 ID:TrdgkZJA0
くらげは地蔵橋までついてきた。見送りのつもりなのだ。
心配していた水嵩も大して変わっていなかった。
私たちはいつもここで待ち合わせし、いつもここでさよならする。
私は橋の入り口で立ち止まった。くらげも同じように立ち止まったのを見て、私は口を開いた。
「……結局、うそっぱちだったな」
私の自己満足の言葉に、くらげは首を傾げた。
私は事前に調べていたのだ。
あのマンホールに落ちて死んだ人間は確かにいた。
それは、十年ほど前に下水の改修工事をしていた作業員だった。
突然の雨に流され、発見されたのは幾日か経った後、数キロ先の海だった。
それ以来、あのマンホールに落ちて死んだ者はいない。事故もない。
つまり噂の後半、『近寄ったら下水に引きずり込まれる』はデタラメなのだ。
だから近づけた。危険じゃないと知っていたから。
「で。あいつ、何て言ってたんだ?」
私はくらげに気になっていたことを聞いてみた。
すると彼は、胸の前でしっしとハエを払うような動作をした。
一瞬馬鹿にされているのかと思ったが、そうではなかった。
「『帰れ』 だと思うよ。口の動きだけだったから、分かりにくかったけど」
くらげは、あいつの口の動きをよく見るために傘をさしてあげたのだ。
そしてなるほど。手招きじゃなくて、あっちへ行け、か。
やはり、都市伝説なんてばからしいものだ。
可笑しくなった私が「ははは」と笑うと、彼が不思議そうにこちらを見た。
雨が少し弱くなっていた。空を見上げて、明日は晴れるといいなと思う。
「じゃあ、また明日な」
私がそう言うと、くらげは黙って頷き、背を向けて山の方へと歩きだした。
私はふと、彼の服が未だびしょ濡れなことに気がつく。
「おーいくらげ。風邪をひくなよ。シャワーだけじゃなくて風呂につかれよ」
くらげが振り返った。滅多に動かない彼の眉毛が、困った様に八の字になっている。
「……そうするよ」
しぶしぶと言った声だった。
「風呂は嫌いなんだけどなぁ……。あいつら、刺すからさ」
そう言い残して、彼はまた背を向け歩きだした。私も帰ることにした。
彼とは反対方向に歩きながら、体育の時間で見たあの発疹だらけの身体を思い出し、改めて思う。
やっぱり、変わったやつだよなぁ。
そして私はまた笑った。

175くらげシリーズ「死体を釣る男」1:2014/06/26(木) 16:22:26 ID:TrdgkZJA0
中学時代のある日のことだ。その日、私は朝から友人一人を誘って、海へと釣りに出かけた。
当時住んでいた街から山一つ越えると太平洋だったので、子供の頃は自転車で片道一時間半かけ良く遊びに行った。
小学生の頃はもっぱら泳ぐだけだったが、中学生になって釣りを覚えた。

待ち合わせ場所である街の中心に架かる地蔵橋に行くと、友人はすでに橋のたもとで待っていた。
彼はくらげ。もちろん、正真正銘あの海に浮かぶ刺胞動物というわけでは無いし、本名でもない。
くらげというのは彼につけられたあだ名だ。
私は中学の頃オカルトにはまっていたのだが、そのきっかけがくらげだった。
くらげは所謂『自称、見えるヒト』だ。
なんでも、自宅の風呂にくらげがプカプカ浮いてるのを見た日から、
彼は常人には決して見えないものが見えるようになったらしい。
「僕は病気だから」と彼はいつもそう言っていた。
しかし、くらげと一緒にそういう『いわく』 のある場所に行くと、たまに微かだが、私にも彼と同じモノが見える時があった。
くらげが言う病気は、他人に感染するのだ。
「わりぃ、待たせた。んじゃ行くか」
私が言うと、くらげは黙って自転車に跨った。
釣竿は持っていない。彼は釣りをやらないのだ。理由は聞いたことは無かった。
「見てるだけでも良いから来いよ」 と言ったのは私だ。
くらげを誘ったのにはわけがある。それは、これから行こうとしている場所には、とある妙な噂話があったからだ。
曰く、近くの漁村に、死体を釣る男が居るという。いわゆる都市伝説だ。
自転車での山道。私は意地で地面に足をつけずに砂利道を上った。
くらげは自転車を押しながら、後ろからゆっくりとついて来ていた。

峠を越えると突然、眼前眼下に青い海と空が広がる。
純白の雲が浮かぶ空はうららかに晴れていて、風は無い。辺りに潮の匂いがまぎれている。
上りで汗をかいた分、猛スピードで下り降り、向風で身体を冷やした。
小さな港から海に突き出ている防波堤。
近くの松林の脇に自転車を置き、私たちはコンクリートの一本道を、歩いて先端まで向かった。
防波堤は全長五〜六十メートルといったところだろうか。途中で、『く』 の字に折れている。
防波堤の行き止まりに到着した私は、その場に座って仕掛けを作り始めた。
波は穏やかで、耳を澄ませば、ちゃぷちゃぷと小波が防波堤を叩く音が聞こえる。
ふと隣を見やれば、くらげは防波堤の縁に座り、海の上に足を投げ出していた。ぼんやりと遠くの方を眺めている。
何を見てんだ。そう訊こうとして、やめた。きっと何も見てやしない。
「おーいくらげ。お前、死体を釣る男の話って、聞いたことあるか?」
くらげは海の方を見たまま首を傾げた。

176くらげシリーズ「死体を釣る男」2:2014/06/26(木) 16:23:41 ID:TrdgkZJA0
「……鯛を釣る男の話?」
「違う。死体を釣る男の話」
「ああ。死体……。うん、知ってるよ。ここの港にいたおじいさんのことでしょ」
私は舌打ちをした。知っていたのか。面白くない。
針の先に餌をつけ、撒き餌も撒かずにそのまま放り投げる。座ったまま適当に投げたので、あまり飛ばなかった。
赤い浮きが、すぐそこの海面に頭を出している。
死体を釣る男も防波堤の先端で、木製の釣り具箱をイス代わりに、日がな一日中釣り糸を垂らしていたという。
しかし釣りが下手だったのか、そもそも釣る気が無かったのか。噂では男はいつもボウズだった。
「みちさんっていう名前なんだけどね」
くらげが口を開き。私は彼を見やった。
「みちさん?あー、それが死体を釣る男の名前か」
「そう。昔、この辺りの親戚の家に預けられてたことがあって、その時みさちさんと仲良くなったんだ。
 色々話したよ。釣りも教えてもらった」
私は内心驚いた。知り合いかよ。でもそれはそれで面白い。
「僕がここに居たのは三ヶ月くらいだったけど、その間にも、一人釣ったよ」
潮の流れのせいか、ここの港や近辺の浜辺には多くの漂流物が流れ着く。
大体はただのゴミなのだが、中には沖で溺れて死んだ人が、潮流に乗って帰って来ることもある。
死体を釣る男ことみちさんは、どざえもんを何十人も釣りあげた。
人間が海で遭難して死亡した場合は、五体満足で帰ってくる方が稀だ。
小さな魚介類につつかれて顔の判別もままならない遺体も多く、
さらに多くの場合、体内に腐敗ガスが溜まって膨らみ、体表は白く、触れただけで崩れるようになる。
「……でも。みちさんに釣りあげられた人たちは、顔も綺麗なまま、手も足もちゃんと残ってる人が多かった」
そしてくらげは私の方を向いて、「不思議だよね」と言った。
私もそこまでは噂話の範疇だったので知っていたのだが、そこから先は聞いた覚えのない話だった。
「みちさんの最後は知ってる?」
くらげに訊かれ、私は首を横に振った。
死体を釣る男に関する噂話は、ここの港にいる老人がよく死体を釣りあげるという部分だけだった。
男の結末までは噂になっていないし、私は男が死んでいることすら知らなかった。
「みちさん。海に落ちたんだ。釣りの途中で……」
良く出来た話だ。幾つもの水死体を釣って来た男の最後が溺死だったとは。
「でも、そんな面白い話が、なんで噂の中に入って無いんだろうな。いや、面白いって言っちゃ悪いか」
「夕方で暗くなってたせいじゃないかな。周りに誰も居なかったし」
私はくらげを見やった。たぶん不思議そうな顔をしてたんだろう。
「ああ、ごめん」
くらげは何故か謝った。
「僕だから。みちさんを釣ったのは」
しばらく何も反応ができなかった。

その日の夕食前、くらげはふと防波堤の先端に行ってみた。
しかしみちさんはおらず、たてかけられた竿だけが置いてあった。
忘れて帰ったのだろうと思い、くらげがそれを何気なく持ち上げてみたら、
糸の先にはみちさんが引っかかっていたのだそうだ。

想像してみたら、それは不気味を簡単に通り越してシュールだった。
「……あ、ひいてるよ」
くらげの声に我に返る。手ごたえは弱いが確かにひいている。アタリだ。
しかしその時、私はふと思った。果たしてこの糸の先に居るのは、本当に魚なのだろうか。
ゆっくりと巻き上げると、そこには綺麗に針だけが残されていた。ただの魚だったようだ。
ホッとすると同時に、そんなことに怯えた自分が何だか無性に馬鹿らしくなった。
「僕は、釣りはやらない」
隣でくらげが呟いた。
「だって僕に釣りを教えてくれたのは、みちさんだからね」
私は口笛を吹いて聞いてないふりをした。
そして立ち上がり、再び餌をつけた二投目を水平線めがけて放り投げた。

終わり

177くらげシリーズ「死口内海」1:2014/06/26(木) 16:24:54 ID:TrdgkZJA0
これは私が中学生だった頃の話だ。

そろそろ夏休みが待ち遠しくなる七月後半。その日私は、山一つ越えた先の海で一日中泳いでいた。
海水浴場ではない。
急な崖を降りた先に、地元の子供たちだけが知っている小さな浜辺があり、
夏の暇な日は、そこへ行けば誰かしら遊び相手が見つかるといった場所だった。
その日も顔見知りの何人かと一緒に遊び、共に日に焼けている身体を更に黒くした。

海から出て、彼らと別れ、家に帰りついたのは午後六時少し前だっただろうか。
風呂に入る前に、泳ぎつかれて喉が渇いていたので、私は台所で蛇口から直接コップに水を注ぎ、ぐいっと飲んだ。
その時だった。何か思う暇もなかった。
得体の知れない違和感を感じた時には、それは一瞬にして猛烈な吐き気に変わり、
私は今さっき飲んだ水をシンクの中に吐き出していた。
喉がひりつき、しばらく咳が止まらなかった。
蛇口から出てきたのだから、何の警戒もなく真水だと思ってしまったのだ。
私が呑みこんだのは普通の水では無かった。それは紛れもなく塩水だった。

ようやく咳が収まり、信じられなかった私は、蛇口に人差し指の腹を当て、水滴を舐めてみた。
海の味がする。
小さな頃、海で溺れてしまった時に呑みこんだあの海水と同じ味だ。
しかし、何故蛇口から海水が出て来るのだろうか。
うちの水は、地下水をくみ上げているのでも山から引いているのでもなく、水道局から送られてきている水はずだ。
自然に塩分が混じるとは考えにくい。
「おーい、かあさん。なんか蛇口から塩水が出るんだけど」
呼ぶと、隣の居間から母親が顔をのぞかせた。これは我が子を疑っている顔だな、とすぐに分かる。
「嘘言いなさんな。さっきそこで夕飯こしらえたばっかやのに」
「ホントだって、ほら、これ、塩水」
コップに水を注ぎ、母に渡した。
彼女はしばらく疑わしそうに匂いなど嗅いでいたが、その内ちびりと口を付けると、そのまま一気に飲み干してしまった。
「……アホなこといっとらんで、風呂に入ってきんさい。ほら、髪がぼそぼそやんか」
母はそう言って私の頭をわしゃわしゃと撫でて、居間に戻って行った。
釈然としなかったので、私は再度蛇口から水を注ぎ、口を付けた。
舌がしびれる。やはり普通の水ではない。
どういうことだろう。母が嘘を言っているのだろうか。
しかし、目の前で一気飲みされてしまったのだ。嘘をつくにしても身体をはり過ぎだろう。
それにわざわざそんな嘘をつく必要がどこにあると言うのだ。
おそらく、一日中海で泳いでいたせいで、味覚が変になっているのだろう。私はそう自分を納得させた。
外から海水が染み込んで、一時的に身体がおかしくなっているのだと。
ただそれが味覚の勘違いであれ、塩水を飲んでしまったせいで余計に喉が渇きを感じていた。
水道水は止めにして、代わりに冷蔵庫を開けるとオレンジジュースがあったので、それを飲むことにする。
コップに注ぎ、飲む。そして、私は再びそれを口から吐きだした。
塩水じゃないか。
愕然として、まだ半分ほど残っているコップの中の液体を見やる。
色も匂いもオレンジジュースで間違いないのに、私が今飲んだのは、明らかにオレンジ色をしたただの塩水だった。
そのほかも試してみた。冷蔵庫の中にあった、麦茶、牛乳、乳酸菌飲料。冷凍庫の中の氷すらも、塩辛い。
私は何も飲むことが出来なかった。
自分がおかしくなっているということは、とりあえず風呂に行って浴びたシャワーで確信できた。
口に入って来る水滴のせいだ。身体はさっぱりしたが、口の中と喉だけが熱く、どうにも泣きたい気分だった。

その後、私は夕飯も食べずに、母と一緒に病院に行った。
診察と検査をしてくれた医者は、私の話を聞きながら首をかしげるばかりだった。
味覚障害だろうと告げられたが、その場合多くの原因である内臓の異変もなく、原因は分からないと言われた。
ただ、その時は、医者も親も、そう深刻になることは無いだろうと楽観視していたようだった。
私だけが言いようのない不安を覚えていた。
意識的にコップ一杯程の海水を飲んだことのある人間は居ないと思う。居たとしても少数派だろう。
あれは到底飲めるものではない。

178くらげシリーズ「死口内海」2:2014/06/26(木) 16:25:32 ID:TrdgkZJA0
次の日から私は病院に入院し、常に点滴で水分を取るようになった。
普通の方法ではどうしても水分を取ることが出来なかったのだ。
たとえ成分がただの水であっても、どうしても呑みこむことが出来なかった。飲んだとしても、すぐに吐いた。
固形物も、水分が多く含まれていると無理だった。お粥も駄目、果物も駄目。
果ては自分の唾液すら塩辛く感じられて、しばしば水を飲まなくても嘔吐した。
吐き気は常に感じていて、突然ベッドの上で吐き、何度もシーツを汚した。
加えて熱や下痢もあった。
これは体調の悪化による副次的なものだろうが、しかしまるで私の身体の一部でなく、全部が狂ってしまった様だった。
人間、物は食べなくてもある程度生きていけるが、水が飲めなければあっという間に死ぬ。

入院してからたった数日で、驚くほど体重が減った。
自分の身体がカラカラに乾いて行くのを感じ、天井を見つめながら、このままミイラになって死ぬのだろうかと考えた。
この状況が続けば、間違いなく死ぬだろうなと思った。
母も父も、毎日看病に来てくれた。普段は絶対そんなことはしないのだが、入院中母はずっと私の手を握っていた。
それを見ながら、自分は大事にされているのだなと実感した。
死にたくないな。今までの自分の人生で、初めて強くそう思った。

そんな生活を送っていたある日、一人の友人が病院に見舞いに来た。
当たり前だが、入院中は学校を休んでいた。
両親も何と学校に説明したらいいか分からなかったのだろう。
理由は伏せられていて、後で訊いたら、原因は夏風邪ということになっていた。
その友人は、学校のプリントを届けに家に来た折に、私の入院を知ったのだった。
彼は病室に入るなり、無表情のままぽかんと口を開けた。
そうして、私が寝ているベッドの傍に来ると、しみじみとした口調でこう言った。
「痩せたねぇ……」
その言い方が可笑しくて、私は少しだけ笑ってしまった。
笑ったのは久しぶりだったし、自分にまだ笑う元気があったことが驚きだった。
その時は母も父もおらず、他に入院患者も居なかったので、病室に居たのは私と彼だけだった。
彼は『くらげ』というあだ名の、ちょっと変わった男だった。海に浮かぶくらげのように、クラス内でもちょっと浮いている存在。理由は、彼が常人には見えないものを見るからだ。所謂、『自称、見えるヒト』だ。
何でも、ある日自宅の風呂の中に何匹ものくらげが浮いているのを見た日から、そういうモノを見るようになったのだとか。
と言っても、彼自身はそのことを吹聴もせず、そのことについて問われると、「僕は病気だから」と答えていた。
当時、私はよくくらげと遊んでいた。彼といると面白い体験ができたからだ。
「マジでやばくてさ。なんか、死ぬかも」
私はくらげに向かってそう言った。その言葉は思ったよりあっさりと口から出てきた。
くらげは黙って私のことを見ていた。
その視線は、左腕の関節部分に刺さった点滴の針から伸びる細いチューブを辿り、
頭上にある栄養と水分の入ったパックに行きついた。
「これ……、夏風邪じゃないよね。どうしたの?」
私は、ことの始まりから今までのことをくらげに話した。途中、彼は相槌も頷きもせずにじっと耳を澄ましていた。
話が終わると、「ふーん」と言った。
「ねえ、ちょっと、口開けてみて」
「……口?」
「うん。歯を治療する時みたいに、『あー』って」
私は言われるままに口を開けた。すると、くらげは少し腰をかがめて、私の口の中を覗き込んだ。
「……あー、これじゃ塩辛いよね」
くらげが上体を起こした。
「海になってるよ。君の口の中」
訳が分からなかった。
くらげは納得したように一人頷くと、「じゃあ、ちょっと僕、海に行って来るよ」と言って、私に背を向けた。
私は意味が分からず、口を開けたまま、彼が病室を出るのをただ見ていた。

179くらげシリーズ「死口内海」3:2014/06/26(木) 16:26:18 ID:TrdgkZJA0
その後しばらくして、病室に飴玉の袋が届けられた。
看護師さんが言うには、くらげが下の売店で買って、私に渡してくれと言ったのだそうだ。
唾液のせいで塩味の強い飴玉は美味しくは無かったが、他と比べれば何とか食べることが出来た。

その夜、私は今までで一番の吐き気に襲われた。
眠っている最中だったが、反射的に傍に置いてあるバケツを引き寄せ、中にぶちまけた。
それは、滝のような、という表現が一番ぴったりくる。出しても出しても収まらなかった。
ようやく収まると、私はベッドに倒れ込んだ。

気がつくと、病室の明かりがついており、ベッドの周りに看護師と医者と母が居た。
私は無意識にナースコールを押していたらしい。
見ると、五リットルは軽く入りそうなバケツが、半分程吐しゃ物で埋まっていた。
とはいえ、胃の中に何も入っていなかったからか、それは恐ろしく透明な液体だった。
自分の体にまだこんなに水分が残っていたのかと驚くほどに。
看護師と医者は難しい顔をして何か話し合っていて、母は疲れ切った笑顔で私の頭をそっと撫でた。
「寝てていいんよ」
母にそう言われ、私は目を閉じた。
しかし、その内、私は口の中に違和感を感じた。
いや、違和感が無いことによる違和感、といった方がいいだろうか。
とにかくどういうわけか、すっきりしていたのだ。今までは吐いた後も不快感しか残らなかったのに。
まるで、先程の嘔吐で悪いものを何もかも吐きつくしてしまったようだった。
唾を呑みこもうとしたが、口の中が渇いてしまっていた。
私は起き上がって、昼間くらげに貰った飴玉を一粒頬ばった。
甘い。それは何に邪魔されることもなく純粋に甘かった。
私は母に頼んで水を持ってきてもらった。
恐る恐る口を付ける。一口、舌先で確かめるように。二口、軽く口の中に含んで、それから一気に飲んだ。
その時の水の味は一生忘れない。ただの水がこんなに美味しいと思ったことは無かった。
自然と涙がこぼれた。今思えば、入院生活はとても辛かったが、泣いたのはあの時だけだった。
ようやく取れた水分を涙に使うなんてもったいないと思ったが、止まらなかった。
泣きながら、医者と母に症状が治ったことを告げた。
医者がそんな馬鹿なという顔をする横で、母も私と一緒に泣いてくれた。
頬を伝い口の中に入って来た涙は、やはり、ちょっとしょっぱかった。

それから私は、自分で言うのも何だが、すさまじい勢いで回復した。
入院自体は短期間だったこともあり、体力もすぐに取り戻した。
一学期の終業式には出られなかったが、夏休みは十分エンジョイできそうだった。

その終業式の日、くらげが再度見舞いに来た。
おそらくもう退院しても良かったのだろうが、しばらく経過を見るということだったので、
入院はしているものの、もう点滴は外し、病院内をうろちょろする元気も戻っていた。
「ああ、もう大丈夫みたいだね。良かった良かった」
病室に入って来たくらげはそう言った。
ホッとした様子ぐらい見せてもいいのに、彼はまるで読めないあの表情で、口調も淡々としていた。
くらげはプリントの山をベッドの上に置いた。夏休みの宿題。どうやら、これを届けるために来たらしい。
さっぱりしている。らしいと言えばらしいが。
「いつ退院できそう?」
「そうだなー。来週くらいには帰れるんじゃないか?」
「ふーん」
それからしばらく他愛もない話をした。

180くらげシリーズ「死口内海」4:2014/06/26(木) 16:26:58 ID:TrdgkZJA0
その後しばらくして、病室に飴玉の袋が届けられた。
看護師さんが言うには、くらげが下の売店で買って、私に渡してくれと言ったのだそうだ。
唾液のせいで塩味の強い飴玉は美味しくは無かったが、他と比べれば何とか食べることが出来た。

その夜、私は今までで一番の吐き気に襲われた。
眠っている最中だったが、反射的に傍に置いてあるバケツを引き寄せ、中にぶちまけた。
それは、滝のような、という表現が一番ぴったりくる。出しても出しても収まらなかった。
ようやく収まると、私はベッドに倒れ込んだ。

気がつくと、病室の明かりがついており、ベッドの周りに看護師と医者と母が居た。
私は無意識にナースコールを押していたらしい。
見ると、五リットルは軽く入りそうなバケツが、半分程吐しゃ物で埋まっていた。
とはいえ、胃の中に何も入っていなかったからか、それは恐ろしく透明な液体だった。
自分の体にまだこんなに水分が残っていたのかと驚くほどに。
看護師と医者は難しい顔をして何か話し合っていて、母は疲れ切った笑顔で私の頭をそっと撫でた。
「寝てていいんよ」
母にそう言われ、私は目を閉じた。
しかし、その内、私は口の中に違和感を感じた。
いや、違和感が無いことによる違和感、といった方がいいだろうか。
とにかくどういうわけか、すっきりしていたのだ。今までは吐いた後も不快感しか残らなかったのに。
まるで、先程の嘔吐で悪いものを何もかも吐きつくしてしまったようだった。
唾を呑みこもうとしたが、口の中が渇いてしまっていた。
私は起き上がって、昼間くらげに貰った飴玉を一粒頬ばった。
甘い。それは何に邪魔されることもなく純粋に甘かった。
私は母に頼んで水を持ってきてもらった。
恐る恐る口を付ける。一口、舌先で確かめるように。二口、軽く口の中に含んで、それから一気に飲んだ。
その時の水の味は一生忘れない。ただの水がこんなに美味しいと思ったことは無かった。
自然と涙がこぼれた。今思えば、入院生活はとても辛かったが、泣いたのはあの時だけだった。
ようやく取れた水分を涙に使うなんてもったいないと思ったが、止まらなかった。
泣きながら、医者と母に症状が治ったことを告げた。
医者がそんな馬鹿なという顔をする横で、母も私と一緒に泣いてくれた。
頬を伝い口の中に入って来た涙は、やはり、ちょっとしょっぱかった。

それから私は、自分で言うのも何だが、すさまじい勢いで回復した。
入院自体は短期間だったこともあり、体力もすぐに取り戻した。
一学期の終業式には出られなかったが、夏休みは十分エンジョイできそうだった。

その終業式の日、くらげが再度見舞いに来た。
おそらくもう退院しても良かったのだろうが、しばらく経過を見るということだったので、
入院はしているものの、もう点滴は外し、病院内をうろちょろする元気も戻っていた。
「ああ、もう大丈夫みたいだね。良かった良かった」
病室に入って来たくらげはそう言った。
ホッとした様子ぐらい見せてもいいのに、彼はまるで読めないあの表情で、口調も淡々としていた。
くらげはプリントの山をベッドの上に置いた。夏休みの宿題。どうやら、これを届けるために来たらしい。
さっぱりしている。らしいと言えばらしいが。
「いつ退院できそう?」
「そうだなー。来週くらいには帰れるんじゃないか?」
「ふーん」
それからしばらく他愛もない話をした。

181くらげシリーズ「死口内海」5:2014/06/26(木) 16:27:29 ID:TrdgkZJA0
「……そろそろ帰るよ」
くらげが立ち上がる。そうして病室から出て行こうとしたが、途中で「あ、そうだ」と言って振り返った。
「今回のことはね、たぶん、君に僕の病気がうつったことが原因だと思う。病状が悪化したっていうのかな」
私はどきりとした。
くらげは薄く笑っていた。小学校六年からの付き合いだったが、彼のそんな表情などこれまで見たことが無かった。
いや、笑ったところは見たことはあるが、とにかく初めて見せる顔だった。
「だから、これからはあまり一緒に遊ばない方がいいかもね。僕に近寄らなかったら、病気も自然に治るよ」
くらげはそう言って、病室を出て行った。
彼と一緒に居ると、はっきりでは無いにせよ、確かに私にも妙なモノが見える時があった。
いや、見えるだけでは無い。その声が聞こえたり、時には軽く触れることも出来た。
くらげの病気。それに私が感染してしまったために、今回のことが起きたのだろうか。
私はしばらく考えていた。
なる程、彼の言う通りかもしれない。
今まではただ面白いとだけ思っていたが、実際に危険性が高まったとなれば話は別だ。
私は病室の窓に近寄り、開いて頭を外に出した。
病室は二階にあったのだが、そこからは病院の入り口を見下ろすことが出来た。
しばらく待っていると、入口からくらげが出てきた。
「おーい。くらげー」
あまり離れても居なかったが、私は大声でその名を呼んだ。
くらげが首をこちらに曲げる。
「良く分からんけどよ。今回のコレ。お前がなんとかしてくれたんだろ。ありがとうな」

私が良く泳ぎに行くあの浜辺に、女性の水死体が打ち上げられているのが発見されたのは、
私の症状が収まった次の日のことだった。
因果関係は分からない。証明だってしようが無いが、無関係だとは思えなかった。
こちらが気付いていないだけで、私は彼女と会っていたのかもしれない。海の中で。見初められたといえばいいか。
もちろんそれは、もしかしたらの話だが。

「まあ、色々あるらしいから、しょっちゅうは止めるけどさ。たまには遊ぼうぜ。それでいいだろ?」
正直、彼との付き合い方を変えようと思った。今回のような事態はまっぴらだ。
但し、こんな面白い友人を自ら無くすこともない。それが私の結論だった。
「そんでさ。夏休みの間に、一度くらいキャンプでもしようぜ。退院したら連絡すっからさ」
くらげは長いこと私の方を見ていたが、ふいに両手でメガホンを作ると、
「分かったー」と、彼にしては大きな声でそう言った。

182くらげシリーズ「くらげ屋」1:2014/06/26(木) 16:31:10 ID:TrdgkZJA0
私が子供だった頃、『自称見えるヒト』である友人の家に、初めて遊びに行った時のことだ。
当時私は小学六年生で、友人はその年に私と同じクラスに転校してきた。
最初の印象は『暗くて面白みのないヤツ』で、あまり話もしなかった。
とある出来事をきっかけに仲良くなるのだが、それはまた別の話。

季節は秋口。
学校が終わった後一端家に鞄を置いてから、私は待ち合わせ場所である、街の中心に掛かる橋へと自転車を漕いだ。
地蔵橋と呼ばれるその橋では、先に着いていた友人が私を待っていた。欄干に手をかけて川の流れをぼーっと見ている。
私のことに気付いていないようなので、そっと自転車を止め、足音を殺して近づいた。
「わっ」
後ろからその肩を掴んで揺する。
しかし、期待していた反応はなかった。声を上げたり、びくりと震えもしない。
彼はゆっくりと振り返って、私を見やった。
「びっくりした」
「してねぇだろ」
彼はくらげ。もちろんあだ名である。
何でも幼少の頃、自宅の風呂にくらげが浮いているのを見た時から、
常人では見えないものが見えるようになったのだとか。
私は今日の訪問のついでに、それを確かめてみようと思っていた。
すなわち、彼の家の風呂にくらげは居るのか居ないのか。私には見えるのか見えないのか、だ。

橋を渡って南へと、並んで自転車を漕いだ。
私たちが住んでいた街には、街全体を丁度半分南北に分ける形で川が流れており、
私は北地区、くらげは南地区の住人だった。
住宅街から少し離れた山の中腹に彼の家はあった。
大きな家だった。家の周りを白い塀がぐるりと取り囲んでいて、木の門をくぐると、砂利が敷き詰められた広い庭が現れた。
その先のくらげの家は、お屋敷と呼んでも何ら差し支えない、縦より横に伸びた日本家屋だった。
木造の外観は、長い年月の果てにそうなったのだろう。木の色と言うよりは、黒ずんで墨の様に見えた。
異様と言えば、異様に黒い家だった。
私が一瞬だけ中に入ることに躊躇いを覚えたのは、その外観のせいだったのだろうか。
「入らないの?」
見ると、くらげが玄関の戸を開いたまま私の方を見ていた。私は彼に促されて家の中に入った。

中は綺麗に掃除されていて、外観から感じた不気味さは影をひそめていた。
くらげが言うには、現在この広い家に住んでいるのはたったの四人だという。
祖母と、父親、くらげの兄にあたる次男。そして、くらげ。くらげは三兄弟の末っ子。
母親が居ないことは知っていた。くらげを生んだ直後に亡くなったのだそうだが、詳しい話は聞いていない。
長男は県外の大学生。次男は高校で、父親は仕事。
家には祖母が居るはずだとのことだったが、その姿はどこにも見えなかった。気配もない。
どこにいるのかと尋ねると、「この家のどこかにはいるよ」と返ってきた。
玄関から見て左側が、家族の皆が食事をする大広間で、
右に行くと、各個人の部屋に加えて風呂やトイレがある、と説明される。
二階へ続く階段を上ってすぐが、彼にあてがわれた部屋だった。
くらげの部屋は、私の部屋の二倍は軽くあった。
西の壁が丸々本棚になっていて、部屋の隅に子供が使うには少し大きな勉強机がひとつ置かれている。
「元々は、おじいちゃんの書斎だったそうだけど」とくらげは言った。
確かに子供部屋には見えない。
本棚を覗くと、地域の歴史に触れた書物や、和歌集などが並んでいた。
医学書らしきものもあった。マンガ本の類は見当たらない。
「くらげさ。ここでいっつも何してんの?」
「本を読んでるか、寝てる」
シンプルな答えだ。
確かにくらげの部屋にいても、面白いことはあまり無さそうだ。そう思った私は、彼に家の中を案内してもらうことにした。

183くらげシリーズ「くらげ星」2:2014/06/26(木) 16:32:00 ID:TrdgkZJA0
二階は総じて子供部屋らしい。階段を上って三つある部屋の内の一番奥が長男、真ん中が次男、手前がくらげ。
兄貴たちの部屋を見せてくれと頼んだら、「僕はただでさえ嫌われているから駄目だよ」 と言われた。
「そう言えばさ、その二人の兄貴も、見える人?」
くらげは首を横に振った。
「この家では、僕とおばあちゃんだけだよ」
一階に下りて、二人で各部屋を見て回る。
掛け軸や置物ばかりの部屋があったり、雑巾がけが大変そうな長い廊下があったり、意外にもトイレが洋式だったり。
くらげはどことなくつまらなそうだったが、私にとっては、古くて広い屋敷内の探検は、何だか心ときめくものがあった。

「ここがお風呂」
そうこうしている内に、今日のメインイベントがやって来た。
脱衣場から浴室を覗くと、大人二人は入れそうなステンレス製の浴槽があった。
トイレの時と同じように、五右衛門風呂なんかを想像していた私は、その点では若干拍子抜けだった。
中にくらげが浮いているかと思えば、そんなこともない。
そもそも水が入っていなかった。まだ午後五時くらいだったので、それも当然なのだが。
「何しゆうかね」
しわがれた声に、私はその場で軽く飛び上がった。
驚いて振り向くと、廊下にざるを抱えた腰の曲がった白髪の老婆が居た。
「おばあちゃん」とくらげが言う。
どうやらこの人がくらげの祖母らしい。
「どこ行ってたの?」
「そこらで、いつもの人と話をしよったんよ」
老婆はそう言って、視線を私の方に向けた。
「ああ。言ったでしょ。今日は友達連れて来るって。この人が、その友達」
「どうも」と頭を下げると、老婆は曲がった腰の先にある顔を、私の顔の傍まで近づけてきた。
目を細めると、周りにある無数のしわと区別がつかなくなってしまう。
その内、顔中のしわが一気に歪んだ。笑ったのだった。
そうは見えなかったが、「うふ、うふ」と嬉しそうな笑い声が聞こえた。
「風呂の中には、何かおったかえ?」
いきなり問われて、私は返答に詰まった。
何も答えられないでいると、老婆はまた「うふ、うふ」と笑った。
「夕飯はここで食べていきんさい。さっき山でフキを採ってきたけぇ」
「いや、あの……」
遠慮しますと言いかけると、老婆は天井を指差して、「夕雨が降ろうが。止むまで、ここにおりんさい」と言った。
夕雨。夕立のことだろうか。朝に天気予報は見たが、今日は一日中晴れだったはずだ。
「さっきからくらげ共が沸いて出てきゆうけぇ。じき、雨が降る」
思わず私はくらげの方を見た。無言で『本当か?』と問いかけると、
くらげは無表情のまま首を横に傾げた。『分からない』と言いたかったのだろう。

184くらげシリーズ「くらげ星」3:2014/06/26(木) 16:33:13 ID:TrdgkZJA0
数分後。私はくらげの部屋から、窓越しに空を見上げていた。
雨が降っている。くらげの祖母の言った通りだった。
長くは降らないということだったが、土砂降りと言っても良い程、雨脚は強かった。
家に電話をして、止むまでくらげの家にいることを伝えると、『そう。迷惑にならんようにね』とだけ返って来た。
私の親は放任主義なので、子供が何をしていようがあまり気にしない。
「雨の日になると、街中がくらげで溢れるそうだよ。
 プカプカ浮いて、空に向かって上って行くんだって。まるで鯉が滝を登るみたいに」
イスに座って本を読んでいたくらげが、そう呟くように言った。
「……マジで。そんなの見えてるのか?」
すると、くらげは首を横に振った。
「僕には見えないよ。僕に見えるのは、お風呂に水がある時だけだから」
私は窓の向こうの雨を見つめながら、前から気になっていたことを訊いてみた。
「なあ、そもそもさ。お前が風呂で見るくらげって、どんな形をしてんだ?」
「普通のくらげだよ。白くて、丸くて、尾っぽがあって。……あ、でも少し光ってるかも」
私は目を瞑り想像してみた。無数のくらげが雨に逆らい空に登ってゆく様を。
その一つ一つが淡く発光している。それは幻想的な光景だった。
再び目を開くと、そこには暗くなった家の庭に雨が降っている、当たり前の景色があるだけだった

その内、くらげの父親が仕事から帰ってきた。
大学で研究をしているというその人は、くらげとは似つかない厳つい顔つきをしていた。
くらげが私のことを話すと、こちらをじろりと一瞥し、一言「分かった」とだけ言った。
口数が少ないところは似ているかもしれない。
次男はまだ帰って来ていない。但しそれはいつものことらしく、彼抜きで夕食を取ることになった。
大広間に集まり、一つのテーブルを囲むように座る。
大勢での食事会にも使えそうな部屋で四人だけというのは、いかにもさびしかった。
フキの煮つけと、白ご飯。味噌汁。ポテトサラダ。肉と野菜の炒め物。
いつも祖母が作るという夕食はそんな感じだった。
最後にその祖母がテーブルにつき、まず父親が「いただきます」と言って食べ始めた。
私も習って、家では滅多にしない両手を合わせての「いただきます」を言う。
テーブルには酒も置いてあった。一升瓶で、銘柄は読めないが焼酎の様だ。
但し、父親はその酒に手をつけようとしない。
その内にふと気がついた。
テーブルには五人分の料理が置かれていた。
私は当初、それは帰って来ていない次男の分だと思っていたが、そうでは無かった。
祖母が一升瓶を持って、一つ空のコップに注いだ。その席には誰も座っていない。
「なあ聞いてぇな、おじいさん。今日はこの子が、友達を連れてきよったんよ」
祖母は誰もいないはずの空間に向かって話しかけていた。まるでそこに誰かいるかのように。
おじいさんとは、後ろの壁に掛かっている白黒写真の内の誰かだろうか。
見えない誰かと楽しそうに喋る。たまに相槌を打ったり、笑ったり、まるでパントマイムを見ているかのようだった。

185くらげシリーズ「くらげ星」4:2014/06/26(木) 16:33:56 ID:TrdgkZJA0
呆気に取られていると、私の向かいに座っていた父親が、呟く様にこう言った。
「……すまない。気にしなくていい。あれは、狂ってるんだ」
「うふ、うふ」と老婆が笑っている。
隣のくらげは黙々と箸と口を動かしていた。
私は何を言うことも出来ず、白飯をわざと音を立ててかきこんだ。

夕食を食べ終わったのが七時半ごろだった。その頃には土砂降りだった雨は嘘のように止んでいた。
外に出ると、ひやりとした風が吹いた。
車で送って行くという父親の申し出を断って、私は一人自転車で家路につく。
「お爺ちゃんも、雨の日に浮かぶくらげも、おばあちゃんがよくお喋りするいつもの人も、僕には見えない。
 だから僕は、『おばあちゃんは狂ってないよ』って言えないんだ」
それは、私を見送るために一人門のところまで来ていたくらげの、別れ際の言葉だった。
「……もしかしたら、本当に狂ってるのかもしれないから」
くらげはそう言った。
――でも、お前も同じくらげが見えるんだろ――。
のどまで出かかった言葉を、私は辛うじて呑みこんだ。

『僕は病気だから』と以前彼自身が言っていたことを思い出す。
あの時、『あれは、狂ってるんだ』と父親が言った時、一体くらげはどう思ったのだろう。
家に向かって自転車を漕ぎながら、私はそんなことばかりを考えていた。
地蔵橋を通り過ぎ、北地区に入った時、私は思わず自転車を止めて振り返った。
一瞬、何か見えた気がしたのだ。
振り向いた時にはもう消えていた。
私はしばらくその場に立ちつくしていた。
それは光っていた。白く。淡く。尻尾のようなひも状の何かがついていたような。
あれは空に帰り損ねた、くらげだろうか。
もしもそうだったとしたら、私も少し狂ってきているのかもしれない。
しかし、それは思う程嫌な考えでは無かった。
くらげは良い奴だし、雰囲気は最悪だったがおばあちゃんの夕飯自体はとても美味しかった。
私は再び自転車を漕ぎだす。空を見上げると雲の切れ間から星が顔をのぞかせていた。
空に上ったくらげ達は、それからどうするのだろうか。私は想像してみる。
星になるんだったらいいな。くらげ星。くらげ座とか、くらげ星雲とか。
その内の一つが本当にあると知ったのは、私がもう少し成長してからのことだが、それはまた別の話だ。

186くらげシリーズ「みずがみさま」1:2014/06/26(木) 16:35:04 ID:TrdgkZJA0
中学時代の話だ。
その年の夏、私と、私の両親と、友人一人の計四人で、一泊二日のキャンプをしたことがあった。
場所は街を流れる川の上流。景観の良い湖のほとりにテントを立てた。
水神湖(みずがみこ)という少し変わった名前の湖。観光パンフレットにも載っていないので、周りに人は私たちだけだった。

事前の予定では、両親はいないはずだった。
普段は放任主義なのだが、さすがに子供二人だけでのキャンプは危険だと思ったのだろう。
いきなり自分たちも参加させろと言いだして、計画にもあれこれ勝手に手を加え始めた。
今ならその心配も十分に分かるのだが、当時は普通にウゼーと思っていたし、実際口にもした。
もっとも私よりも、まず友人に申し訳ないと思っていたのだが、彼は表向きはまるで気にしていないようで、
私が親がついて来ると告げた時も、「うん。分かった」の一言だったし、
行きの車の中でも、私の両親とえらく普通に会話をしており、私一人だけがいつまでもブーたれていた。
「やっぱりくらげちゃんは、誰かと違って礼儀正しくてしっかりしてるねぇ」
移動中の車内。母が声を大きくしたのはわざとだろう。
くらげとは友人のあだ名だ。私がそう呼んでいるのを聞いて、親も真似をしてそう呼ぶ様になったのだった。
しかし、何が『くらげちゃんはしっかりしてるねぇ』だ。いっそのこと、そのあだ名の由来を教えてやろうかとも思った。
友人は所謂『自称、見えるヒト』であり、幽霊の他にも、自宅の風呂に居るはずの無いくらげの姿が見えたりする。
だからあだ名がくらげなのだが。
口に出したい気持ちを、ぐっと呑みこむ。
くらげはその日、長袖のシャツに黒いジャージという出で立ちだった。
彼はあまり親しくない人の前で肌を見せるのを嫌う。つまりは、そういうことだった。
「まあ何ねこの子は、さっきからぶすーっとして」
うっせー。誰のせいだ。

細い山道を幾分上り、目的地に着いたのは午前十時頃だった。
人の手が入ってないからか、湖の水は隅々まで透き通っていた。
所々白い雲の浮かぶ空は青く、周りの緑がそよ風になびいてサラサラと音を立てている。
荷物を下ろし、今日のために休暇を取ったという父親が、はりきってテントを組み立てにかかった。
くらげがそれを手伝い、私は落ちてある石を集めて積み上げ簡素な竈を作った。
口は強いが身体の弱い母は木陰でクーラーボックスに腰かけ、皆の作業の様子を眺めていた。

テントが完成した後、母が私の作成した竈で昼食をこしらえた。
野菜と一緒に煮込んで醤油とマヨネーズで味付けした、ぞんざいなスパゲッティ。鰹節をふりかけて食べる。
見た目と同様に味もぞんざいだったが、美味かった。
「そう言えば、前にも一度ここに来たことがあってな」
食事中、ふとした拍子だった。パスタと共に昼間から酒に手を付け始めた父が、しみじみとした口調で言った。
「あの時は、こんなにゆっくりとは出来んかった」
私たちが生まれる前のことだという。麓の街に住む一人の男が、山に入ったまま行方が分からなくなった。
次の日、家族の通報により捜索隊が組まれ、何日もかけて山中を探しまわったそうだ。
消防署に勤めている私の父も捜索に加わっていた。
そうして二日程たった頃。行方不明だった男はこの湖の近くで、見るも無残な姿で発見された。
「たった二日なのにミイラみたいになっててな、驚いた。
 腕は一本千切れて無かったし、動物の爪のあとやら、
 しかも腹にはどでかい穴が空いててな、内臓があらかた食われてた。
 熊じゃないかってことになって、そこからは皆大騒ぎだよ。猟友会も呼んで男の次は熊の捜索だ」
私とくらげは無言のまま顔を見合わせた。
隣の母が露骨に止めてくれというような顔をしていたが、私は構わず父に尋ねた。
「で?その熊は見つかったん」
「いや。見つからなかった。そもそも熊じゃないって話もあったな。
 猟友会の奴らが、これは絶対熊じゃないって言うんだ。傷がでかすぎるってな。
 まあ、確かにここらの山に熊が出るなんて、その頃でも聞かない話だったが。
 でも熊じゃないとしたら、じゃあ何なんだって話だよ」
「……そんなのが出るかもしれん山に、私らを連れてきたん?」
そう言って母が父を睨んだ。父はどこ吹く風で缶ビールを口に運ぶ。
「もう十何年も前の話だから心配ない。それに、どこの山だって死亡事故の一つや二つ起きてるもんだ。

187くらげシリーズ「みずがみさま」2:2014/06/26(木) 16:35:36 ID:TrdgkZJA0
いちいちビクビクしてたら何も出来んだろ」
「それにしても、食事中にする話じゃなかろーが」
それでも美味そうにビールを飲む父に、母は「この酔っぱらいめ」と悪態をつく。
そんな夫婦のやり取りを見ながら、私の口の悪さは母譲りだなと改めて思う。
「ああそう、思い出した……。死体を見た専門家も、こいつは熊じゃないって言ってたな」
一本目の缶ビールを飲みほした父が、そのまま顎を上げ空を見上げた状態で、どこか独り言のようにそう言った。
「腹の傷辺りの内臓が、すっかり溶けてるとかなんとか」
「やめんと刺すぞ」
母が父に菜箸をつきつけ、この話は終わった。

昼食後は、日が暮れるまでそれぞれ好き勝手なことをして過ごした。
母は読書をしたり、傍に居たくらげを捕まえて話の相手をさせていた。
酔っぱらいは、わざわざ家から持ってきたハンモックを手ごろな木に吊るして、昼寝をしていた。
私はというと、もっぱら釣りをしていた。
餌はその辺の岩の下に居た小さな虫で、この湖で何が釣れるのかも知らなかったが、
湖の景観は眺めていて飽きなかったし、ついでに何か釣れればいいな、くらいの心持ちだった。

小さな折りたたみ椅子に座りぼんやりしていると、
ようやく母に解放されたらしいくらげがやって来て、私の隣に腰を下ろした。
しばらく二人共無言で湖を眺めた。
どこかで、ピィ、という鳥の鳴き声と一緒に、木々の擦れ合う音がして、
小さなこげ茶色の影が数羽、私たちの頭の上を西から東へと横切っていった。
「さっきの親父の話さ、あれ本当だと思うか」
鳥の影が見えなくなった後、私は何となく尋ねてみた。
欠伸の最中だったらしいくらげは、両手首で涙をぬぐいながら、そのまま「んー」と伸びをした。
「僕は当事者でも何でもないし」
「まあ、そうだよな」
そして、くらげは地面に生えていた草を数本引きぬくと、湖に向かって投げた。
「……あのさ。これ、随分昔におばあちゃんに聞いた話なんだけど」
くらげが言った。
「この辺の山には、神さまが住んでるって」
「神さま?」
「そう。みずがみさま、っていうんだけどね」
くらげは湖を見つめながらそう言った。
みずがみさま。その名前は私に、今自分が釣り糸を垂らしている湖の名前を否応なく思い出させた。
「そのみずがみさまがどうかしたのか?それとも事件は、そいつのせいだって言うのかよ」
くらげは首を横に振った。
「かもしれないねって話。でも、この湖のそばで見つかったんでしょ?」
確かに男の死体はこの水神湖周辺で見つかったそうだが、
だからといって、湖の神さまが犯人は突拍子過ぎるのではないか。
そんな私の考えを知らないくらげは、淡々と続ける。
「ふつう、神さまが見える人なんて滅多にいないし。見えない何かに危害を加えられたり、なんてことはあり得ないんだけど」
そして、くらげは右腕を前に伸ばすと、シャツの裾を少しめくって見せた。
白くて細い腕の中に、赤い斑点が数ヶ所浮き出ている。
「見えない人には居ないも同然だけど。もしも『それ』が見える人なら、刺されたり噛まれたり、殺されることもあるんだよ」
それは、彼が自宅の風呂に出たくらげに刺されたという跡だった。
最初に見たのは小学校の頃の体育の授業だったが、それから数年経っても消えないで、未だ彼の身体に残っている。
ファントム・ペイン――幻肢痛。そんな、どこかで聞いたような単語が頭に浮かぶ。
しかしあれは、すでに失った、あるはずの無い手足の痛みを感じる、というものだったはず。
この場合、幻傷と言った方がいいのかもしれない。
「……でもなあ。最近の神さまは、人を襲って内臓食うのかよ」
私が言うと、くらげは前を見たまま「どうだろうね」と少し首を傾げた。
「神さまなんて、善いとか悪いとか関係なしに、人が崇める対象のことだし。
 もしかしたら、生贄だと思ったんじゃないかな。僕らの街も昔は水害が多かったそうだから」
さらりと言って、くらげは再び欠伸をした。
それから後ろを振り向き、父が寝ているハンモックをどことなく羨ましそうに見やった。
その後、私は夕暮れまで粘ったが、結局一匹も釣れなかった。

188くらげシリーズ「みずがみさま」3:2014/06/26(木) 16:36:11 ID:TrdgkZJA0
夕飯はカレーだった。但し、ここで作ったものでは無い。母が家から鍋ごと持ってきたのである。
しかも飯盒も米も無いので、別の鍋でうどんを茹でて、カレーうどんという体たらく。
何故キャンプに来て、昨日の残りのカレーを食べなければいけないのだ。何故白米が無いのだ。
ここでも結局、私のみがブーたれていた。

食事の後は、焚き火の光を目印に集まってきた虫達と一緒に、夜の景色を眺めたり、誰かと適当に話をしたり、
父のウィスキーを少しなめさせてもらい、母に怒られたりした。
時間は驚くほどゆっくり流れ、
夜空にはどこも欠けることのない満月と共に、
今にも落ちてきそうな、もしくは逆にこちらが吸い込まれそうな、満天の星空が輝いていた。

酒のせいか、いつテントに入ったのかは覚えていない。気がつけば、私は寝袋を敷布団にして仰向けに寝転がっていた。
右を見ると父と母が、左にはくらげが少し離れたテントの隅で、まるでカブトムシの幼虫の様に身体を丸めて眠っていた。
どうして目が覚めたんだろう。
外の焚き火は消えている様だった。辺りはしんと静まり返り、虫の鳴き声が唯一、静寂を一層際立てていた。
私は上半身を起こした。寝起きだというのに、何故か自分でも驚くほど目が冴えていた。
目だけじゃない。五感がこれ以上ない程にはっきりとしている。
何か居る。
ほとんど直感で、私はその存在を認識していた。テントの外に蠢く何かが居る。
直感に次いで、這いずる音が聞こえた。
その内、不意にテントの壁に大きな影が映った。私の背よりは大きくないが、横にかなりの幅がある。
そいつはテントの周りをのそのそと、入口の方まで移動してきた。
私は無意識の内に、テントの入り口に近寄っていた。
二重のチャックは二つとも閉じている。薄い布二枚隔てた向こうに何かが居る。
不思議と、熊かも知れないとは思わなかった。
そいつの足か、もしくは手がテントに触れた。でかい身体の割には随分と細い手足という印象だった。細くて、先が鋭い。
みずがみさま。
ガジガジガジガジ、とまるで錆びた金属同士をこすり合わせたような、そんな音がした。
鳴き声だろうか。そうだとしたら、そいつは熊ではあり得無い。
私は手探りでテントの中に転がっていた懐中電灯を見つけ出した。
片手に握りしめ、もう一方の手でゆっくりと出入り口のジッパーに手をかけた。
じりじりとジッパーを下ろしてゆく。片手が入る程の隙間。その隙間に、私は光のついていない懐中電灯を向けた。
スイッチを入れようとした。
その瞬間、突然後ろから肩を掴まれた。
驚く間もなく口を塞がれる。
「……静かに」
耳元でもようやく聞こえる程の小さな声。くらげの声だった。
いつの間に起きていたのだろうか。後頭部から彼の心臓の鼓動がはっきりと聞こえていた。自分の心臓の音も聞こえる。

189くらげシリーズ「みずがみさま」4:2014/06/26(木) 16:36:49 ID:TrdgkZJA0
いつの間にか懐中電灯が取り上げられていた。
「今は駄目だ。相手にもこっちが見えるから」
外の気配は相変わらず、すぐそこにあった。
「見えるってことを、知られちゃいけない。見えないふりをしないと」
小さく囁くその声が、僅かに震えているのが分かった。そこでようやく、私の頭の芯が冷えてきた。
私は鼻で大きく深呼吸を二回すると、くらげの膝を軽く二度叩いた。
くらげが私の口から手を離した。
星明かり月明かりのおかげで、テントの中でもそれ程暗くない。
テントに映る影。改めて見ると、影の高さは、膝を立てて座った時の私の目線とほぼ同じだった。
私が開いたジッパーの隙間から、その姿の一部分が見え隠れしている。但し、夜中だったせいか黒くしか見えない。
ガジガジガジガジ。あの音がする。不快な音だ。
どうして両親は起きないんだろうと思った。
もしかしたら、彼らには聞こえていないのかもしれない。私とくらげ、二人だけに聞こえている。
くらげと一緒に居ると、私にも常人には見えないものが見える時がある。それをくらげは、『病気がうつる』と表現していた。
見えてしまう病気。それは時には、見えてしまうがゆえに様々な症状を誘発する。
くらげから離れさえすればこの病気は治る。それでも私はくらげと友人でいた。
一度覗いてしまった非日常の世界を、簡単に手放すことは出来なかった。
しかし、この病気は悪化もするのだ。

どのくらい動かずに居ただろう。不意に、外に居るそいつが背を向けたのが分かった。気配がテントから離れていく。
暗闇の中、私とくらげは目を合わせた。「……ライトは駄目だよ」と、くらげが小声で言う。私は頷いた。
二人でそっとテントの出入り口に近づく。
手が一つ入る程だったジッパーの隙間を、もう少しだけ広げた。二人で片目ずつ、外を覗く。
息を飲んだ。
虫だ。
四本の足で這いながら、湖の方へと近づいて行く。
そいつはとてつもなく大きな、まるで私たちが小指大まで縮小してしまったのかと思う程大きな、昆虫だった。
枯れた水草のような色。その畳二畳分はあるだろう背中。
頭から横にはみ出した、車すら挟み潰してしまいそうな巨大な鎌状の前足が二本。
「……タガメだ」
くらげが小さく呟いた。
湖の傍まで来ると、そいつは突然立ち止まり、動かなくなった。
その背中がもぞもぞと動く。同時に、ガジガジガジ、とあの音がした。あれは虫が身体をこすり合わせる音だったのだ。
そう思った途端。いきなりその背中が二つに裂けた。身体の大きさが横方向に突如膨れ上がった様にも見えた。
羽を広げたのだ。
その四枚の羽根が目に見えない速さで振動する。ざあ、と風が吹いて、テントが揺れた。
飛ぶ。その大きな体がふわりと、地面から少しだけ浮いた。
水面に波紋が立つ。飛び上がるというよりは、水面を滑る様に。
徐々に上昇していって、あっという間に木々の向こうへと飛び去ってしまった。
湖はまた静かになった。
私はしばらくの間、動くことも声を発することも出来なかった。
くらげがジッパーを開いて外に出た。湖の方へと歩いて行き、先程あの巨大な虫が飛び立った場所で立ち止まった。
「やっぱり、みずがみさまは、タガメだった。おばあちゃんに聞いた通りだ……」
夜空に向かって、くらげは呟く様にそう言った。
その声は、どこか嬉しそうにも聞こえた。
私も外に出てみる。見ると、焚き火をした後の灰の中に、未だ赤くくすぶっている薪があった。
あの虫は、この僅かな光につられてやってきたのだろうか。

190くらげシリーズ「みずがみさま」5:2014/06/26(木) 16:37:27 ID:TrdgkZJA0
ぶるり、と私は一つ震えた。
「……もし捕まってたら。どうなってたんだろな」
タガメに関する知識で、蜘蛛のように獲物の内臓溶かしながら少しずつ吸う性質がある、ということを私は思い出していた。
「もし捕まったら、僕らお供え物になってたね。きっと今年、このあたりで水害は起きなかったはずだよ」
私の傍に来てくらげがそう言った。
お供え物。私はくらげを見やって、思わず笑ってしまった。
すると、くらげは不思議そうな顔をした。どうやら冗談で言ったのではないらしい。
今年水害が起こったら、それは私たちのせいでもあるということか。
「あら……、二人共早起きやねぇ」
声のした方を向くと、母がテントから顔だけ出していた。私の笑い声で起こしてしまったようだ。
見ると、辺りが段々青白く明るんで来ていた。朝はもう、すぐ近くまで来ている。
「何しゆうんよ。二人で」
母の言葉に、私たちは顔を見合わせた。どう説明したらいいものかと一瞬悩んだが、私は本当のことを話すことにした。
「いや、あのさ、テントの外にでっかいタガメが居るの見つけて、ちょっと観察してたんだけど……」
嘘は何も言っていない。
母は目をぱちくりさせた後、小さく溜息を吐いた。
「ねぇくらげちゃん」
その時の母の笑顔は、私が今まで見たこともないようなものだった。
「ウチの子こんなに馬鹿なんだけど。これからもお願いね?」
するとくらげは、珍しく少し戸惑ったような表情をしてから、こう言った。
「あの、僕、ずっとは無理ですけど……、出来る限り、そうしたいと思ってます」
数秒の間を置いて母が笑った。
当のくらげはやっぱり不思議そうな顔をしていて、どうやらこれも冗談ではないようだ。
くらげの言葉。きっと母と私では、違う受け取り方をしただろう。
正直、おいおいおい、と思ったが、私は笑って流すことにした。

終わり

191くらげシリーズ「転校生と杉の木」1:2014/06/26(木) 16:38:19 ID:TrdgkZJA0
これは、私が小学校六年生だった頃の話だ。

四月中旬。私はその日の放課後、一人居残って教室の掃除をしていた。不注意で花瓶を割ってしまったのだ。
ガラスは担任が片付けてくれたが、濡れた床の掃除を命じられ、
おかげで校門を出た時間は、他の『まっすぐ帰る組』よりも数十分遅れていた。

昨夜はひどい雨だった。校庭に植えられた桜はほとんど散っている。
道には花弁が散らばり、足元にある水溜りは桃色をしていた。
いつもなら水溜りなど気にせず踏み越えて行くのだが、その日ばかりはチョロチョロと避けて歩く。

帰宅途中、私が昔通っていた保育園の前を過ぎようとした時だった。
道路の端で、誰かが園内に生えている大きな杉の木を見上げていた。
同じ学校の生徒だろう。黒いランドセルを背負っている。
見覚えある横顔。彼は始業式の日に、私のクラスに転校してきた生徒だ。
彼は一風変わった転校生だった。
転校初日の全ての休み時間、彼は一度も教室に留まることをしなかった。
休み時間が始まると、一人教室を抜け出して、いつの間にかいなくなっているのだ。次の日からもそうだった。
転校生にとって、転校初日は友人を作る上で最も重要な日だろう。
その重要な日の休み時間に自ら教室を出ていく。つまりは、そういうことだ。
人嫌いの変わり者。それが周りの彼に対する評価だった。
その転校生が私の目の前で、じっと杉の木を見上げている。
園内には、サイズの小さな遊具で遊ぶ子供たちと、それを見守る保育士の先生の姿があった。
私も昔、同じようにここで遊んだ。
私は保育園が大好きな子供で、休みの日でも「やだー。保育園行くー!」と泣きわめいて親を困らせたらしい。
杉の木は園内の隅に生えている。きっと街が出来る以前からそこにあったのだろう。
幹は太く、高さは周りの家々の三倍はある。
建材用のまっすぐ伸びた杉ではなく、見ようによっては身をよじった人のようにも見え、
根元には『みまもりすぎ』と名札が掛けられてある。
私が園児だったころからすでに、その杉の木は『みまもりすぎ』だった。
転校生の横を過ぎざまに、私はちらりと杉の木を見上げてみた。
彼は何を見ているのだろうか。漠然と、枝にとまった鳥でも見ているのだろうと思っていたが、違った。
白い靴が二足、空中に浮かんでいた。
不思議な光景だった。
足はそのまま歩きながら、首だけがその靴を追う。可動域の限界まできたところで私は立ち止まった。
杉の木の方に身体も向けて、もう一度見やる。
一組の白い運動靴が、つま先を下にして、私の頭より高い場所で浮かんでいた。
その一,二メートルほど上には太い枝が真横に張りだしていて、そこから細い糸で吊るしているのだろうか。
しかし、一体どういう理由で。
ふと気がつくと、先に杉の木を見上げていた彼が、いつの間にか歩きだしていた。
何事も無かったかのように平然と、私の横を通り過ぎる。
私は振り返り、その背中に声を掛けようとした。けれど、何と言えば良いのか分からない。
まごまごしている内に、彼は角を曲がり、その姿は見えなくなった。
一人取り残された私は、もう一度杉の木を見上げた。
何もない。白い靴は消えて無くなっていた。
その場に立ちつくし、茫然と杉の木を見上げる。
幻覚、錯覚、見間違い。しかし、私の見たものが見間違いなら、彼は見ていたものは何なのだろう。

その日、家に帰ってから、私は母に今日あったことを報告した。
二足の白い靴が、保育園の大きな杉の木の下に浮かんでいたと。
丁度夕飯の買い物に行こうとしていた母は、
玄関へと向かいがてら、私の頭をわしゃわしゃと撫でて、一言「アホなこと言いなさんな」と言った。

192くらげシリーズ「転校生と杉の木」2:2014/06/26(木) 16:38:53 ID:TrdgkZJA0
日付は変わり、次の日のこと。
学校に行く途中、保育園の前を通り過ぎる際に、私はあの杉の木を見上げてみた。
白い靴など影も形も見当たらない。角度を変えたり目を細めたりしたが、やはり何も見えない。
ふと、柵の向こう、園内から一人の赤い頬をした小さな男の子が、私のことを不思議そうに見つめていた。
私は取り繕うように笑って、そそくさとその場を後にした。

やっぱり、見間違いだ。
母の言う通り。アホなことだったんだろう。
幾分ホッとした私は、以降しばらくの期間、白い靴のことを思い出すことはなかった。

そうして、それからしばらく経った日のこと。
四月が終わりを迎え、五月。端午の節句がすぐそこまで近づいていた。
その日も前日は雨だった。
学校が終わり、一人での帰り道。道路には水溜りという置き土産がいくつも残っていた。
わざと水溜りを蹴飛ばしながら歩く。靴下まで水に濡れて、一歩歩くごとにガッポガッポ音が鳴るのが楽しい。
母には不注意で溝に落ちたとでも言い訳するつもりだった。

そうやって、私は保育園の横の道までやって来た。
歩くのを止めて立ち止まる。何か聞こえたのだろうか。虫の知らせだろうか。理由は忘れてしまった。
とにかく私は立ち止まった。
保育園では数人の子供が遊んでいるようだった。はしゃぐ声がする。
園内を見やると、丁度私の視界を遮る様にあの杉の木があった。
ふと、あの白い靴のことを思い出した私は、なんとなく、木の幹を辿って、視線を空へと向けてみた。
頭上にあの白い靴が浮かんでいた。
瞬きすら忘れて私はそれを見つめていた。
誰かが白い靴を履いている。
その時見えたのは靴だけではなかった。前は見えていなかった人の足首。靴を履いている。人間の足だ。
足は脛のところで途切れていて、それ以上は見えない。
色や輪郭は、まるで霧がかかったようにぼんやりとしている。しかし、
白い運動靴を履いた足が二本、確かに空中に浮かんでいた。
誰かが私の背後を通り過ぎる。
はっとして横を見やると、黒いランドセルが向こうの角を曲がろうとしていた。見覚えのある背中。
「ちょっと待てよ!」
私は咄嗟にその背中を呼びとめていた。彼は立ち止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
その顔は無表情で、相変わらず何を考えているかわからない。
転校してきて一カ月。その頃、彼はすでに教室の置き物扱いだった。休み時間に教室に居ないのは変わらず。
最初の方こそ、寡黙な転校生を面白がっていた周りも、慣れてくるにつれ次第に相手をする者もいなくなっていた。
彼は黙って私の方を見ていた。
言葉で説明出来なかった私は、無言で、杉の木の下に浮かぶ誰かの白い靴を指差した。
彼が私の指差した方向を見やる。長い沈黙があった。
「……見えるの?」
杉の木を見上げたまま彼が口を開いた。
そんなことはないはずなのだが、私はその時、初めて彼の声を聞いたような気がした。
「白い靴と、足首」
私は見えたままを答える。
どうやら、彼にも同じものが見えているようだった。しらばっくれる気はないらしい。
「そう。でも、それ以上は見ない方がいいよ」
そして彼はゆっくりとこちらを見やった。
「あの人、君の方見てるから」
それだけ言い残し、彼は背を向けて歩きだした。
再び呼びとめることも出来ず、私はただその背を見送っていた。
その姿が曲がり角の先に消えてしまってから、私は杉の木を見上げる。
白い靴と人間の足首は、忽然と消えて見えなくなっていた。
一体全体、何だというのだ。

193くらげシリーズ「転校生と杉の木」3:2014/06/26(木) 16:39:26 ID:TrdgkZJA0
その日も家に帰って親に報告したが、やはり母も父もまともに取り合ってはくれなかった。
見間違いではない。自分の目に見えたものが何なのか。私は知りたいと思った。
彼が何か知っているに違いない。その考えは確信に近かった。
私は二度、白い靴を見た。一度目、二度目も、私の傍には彼の姿がある。
しかも、最初にあの杉の木を見上げていたのは彼なのだ。無関係とは思えない。

次の日、学校での給食の時間が終わり、昼休み。私は誰よりも早く教室を出て、廊下にて待機していた。
いつものように彼が教室から出てくる。私はその肩を捕まえた。
「ちょっと話をしないか」
彼は無言のまま私を見やった。相変わらず表情は乏しい。迷惑と思っているのだろうか。
いずれにせよ、中々返答しようとしない彼に、私は自分の中で一番優しげな笑顔を作ってみせた。
「いいよ、って言うまで付きまとうから」
彼は俯き、小さく息を吐いた。
「……いいよ」

人気の少ない中庭に場所を移す。
二人で階段を下り、上履きから靴に履き替え外に出た。
睡蓮の葉が浮かぶ丸い池のふちに腰かけ、単刀直入に、前置きも何も入れず、私は切り出した。
「あの白い靴と足は、何なんだよ」
「分からないよ」
対する彼の答えもシンプルだった。
そうして彼は、「僕は、あの人のことを知らないから」と続けた。
『あの人』。先日もだ。彼は確かにそう言った。『それ以上は、見ない方がいい』とも。
きっと足だけでは無いのだ。その上がある。そして、彼にはそれが見えている。
「あの人って……。人があんなとこで、何してるんだよ」
私の問いには答えず、彼は池の中心にある噴水の方を見やった。
「もう、僕に近づかない方が良いよ。君は特に」
意味がわからない。私は口を開きかけたが、彼の言葉の方が早かった。
「僕は病気だから」
それはまるで、原稿を読み上げるニュースキャスターのように。彼の口調はあくまで淡々としていた。
「……病気?」
「君は、家のお風呂に、くらげが浮いているのを見たことある?」
一瞬、質問の意味が分からなかった。じっくりと考えた末に、私は黙ってかぶりを振った。
風呂に浸かるくらげ。そんなもの、見たことあるわけがない。
「僕は、そういうのが見える病気だから。君が見た白い靴や足とかもそう」
『自称、見えるヒト』というわけだ。しかし彼は、その原因を自ら告白した。
病気。
それは私の体験した全てを説明できなくとも、何かしらの説得力を持っていた。
少なくとも、たまにTVに出てくるナントカ霊能力者。
彼らの様に、何の説明もなく、幽霊やその他が見えると言われるよりも、はるかにずっと。
「君は、僕の病気が伝染ったんだよ。たまにそういう人いるらしいから。……君は前から見えてたわけじゃないんでしょ?」
伝染病。あの白い靴が見えたのは、彼の病気が私に伝染ったからだと彼は言った。
私は彼と同じ病気に罹ったのだろうか。
傍から見ても狼狽していたのだろう。私を安心させるためなのか、彼は辛うじてそうしたと分かる程度に小さく笑った。
「でも大丈夫だよ。その病気は、僕に近づかないようにすれば、自然と治るから」
私は何も言うことができなかった。

194くらげシリーズ「転校生と杉の木」4:2014/06/26(木) 16:40:01 ID:TrdgkZJA0
彼が中庭を去った後も、私は一人、噴水に腰かけていた。
それ以降の午後の授業も、私は心ここにあらずという状態で、先生の話も聞かず、黒板も見ていなかった。
何か考えていたはずなのだが、内容は覚えていない。

その日は五時間授業で学校が早く終わった。
放課後。一緒に帰ろうという友達の誘いを断り、皆から少しおくれて、一人で帰路につく。
ゆっくりと歩き、あの杉の木がある保育園までやって来た。園児たちの姿は無い。お昼寝の時間だろうか。
私は立ち止まり、樹齢は何年だろう、その大きな杉の木を見上げた。
今のところ不可解なものは何も見えない。見えるのは、空へと伸びる杉の木と、その先の青く広い空だけだ。
このまま家に帰れば、今まで通り何事もなく過ごせるだろう。
私はそれをちゃんと理解していた。しかし、私は歩き出せなかった。いや、歩き出さなかった。
その内、黒いランドセルを背負った彼がやって来た。私の姿を見とめたのか、はた、と歩くのを止める。
相変わらずの無表情で、何を考えているかわからない。しかし立ち止まったということは、私の存在が意外だったのだろう。
「や。こっち来いよ」
手を上げて私はそう言った。幾分時間を掛けて、彼が私の傍へやってくる。
「……どうかしたの?」
私はその言葉を無視して一人、杉の木を見上げた。
先程までは決して見えなかった、白い運動靴、足首、さらにその上のつるりとした膝と、ズボンの裾。
間違いない。彼の傍に居るから見えるのだ。そうして、見える範囲が昨日よりも広がっている。
「どうやったら、もっとよく見えるんだ?」
上を見上げたまま私は尋ねる。
「……見ない方がいいよ」
彼は昨日と同じ言葉を繰り返す。私は返事をしなかった。
しばらくお互いに無言のままだったが、
彼はやがて諦めたように、ふう、と小さく息をはくと、私と同じように杉の木を見上げた。
「昨日は、靴と足首だけだったんだよね。今は?」
「今は、膝らへんまで」
「ズボンは?」
「少し、見える」
「そう……」
次の瞬間。彼の右手が、私の左手首を掴んだ。それは思い掛けなく、唐突な出来事だった。
驚いて彼を見やる。その表情は変わっていない。視線も杉の木に固定されたまま、彼は残った手で上空を指差した。
「あの人の手は見える?ズボンの腰辺りで、ぶらぶらしてる、白い手」
戸惑いながらも、私は再び上を見やった。
手が見えた。
手首から先だけだったが、はっきりと。彼の言う通り、それは白い手だった。
彼に腕を掴まれたからか。ズボンも裾まででなく、腰の辺りまで見えるようになっていた。
「シマウマみたいな、長袖のシャツを着てるね」
隣で彼がそう言った瞬間、私の目はぼんやりと白と黒のボーダー柄のシャツを捉えていた。
それは徐々に鮮明になってゆき、しわまではっきりと分かるまでになった。
細かく説明されるごとに、『彼女』の見える部分が増えてゆく。
「首に、ロープが食い込んでる」
縄が見えた。張り出した枝から垂れたロープが、白く細い首に絡まっている。
「女の人だね。ショートヘアで、舌がちょっと出てて、目は……君の方を見てる」
そう言ったのを最後に、彼は私の手首を掴んでいた手を離した。
顔が見えた。
私にはもう何もかも見えていた。

195くらげシリーズ「転校生と杉の木」5:2014/06/26(木) 16:40:33 ID:TrdgkZJA0
その足も、その手も、その身体も、その顔も、口から少し飛び出た舌も、
瞬きもせずじっと私を捉える、その虚ろな目も。
「……あ」
思わず声が出ていた。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
私はその人を知っていた。
彼女は、私がここの保育園で年中組と年長組だった時に、世話になった先生だった。
私は幼い頃。母が入退院を繰り返していて、小さな私は寂しい思いをしていた。
だから、十分に母に甘えられない分を、私は保育士だった彼女に求めたのかもしれない。
私はよく先生の足に縋りつくのが癖だった。まるで猿やコアラの赤子のように。
彼女は私を足にくっつけたまま、「よいしょよいしょ」と歩くのだ。そのまま他の用事をすることもあった。
優しい人だった。
その先生が首を吊って死んでいる。
私はそっと手を伸ばして、その白い運動靴に触れようとした。
指の先が少し触れたが、感触はどこにも無く、私の指は空を掻いた。
触れられない。
「大丈夫?」
気遣ってくれているのだろうか。
「……知ってる先生なんだ」
私は答える。それは自分でも驚くほど冷静な声だった。
おかしなことに、先生の死体を前にしても、実感はまるで湧かなかった。
それは、テレビの向こう側で行われる有名人のお葬式のようだった。
ロープで木にぶら下がった彼女は、ずっと私の方を見ている。
もしかしたら、私と彼女が知り合いであることに、彼は最初から気付いていたのかもしれない。
「『見守り杉』っていうんだねぇ、……この木」
隣で彼が小さく呟いた。

それから、どこで彼と別れて、どうやって家で帰ったのかは、記憶にない。
家に帰ってから、私は母に事情を聞いた。
先生の名前を出すと、母は観念したようで、色々と話してくれた。
黙っていたのは、忘れているのならそのままの方がいい、と思ったからだという。
先生は自ら命をたった。
失恋の果ての自殺。時期は、私が保育園を卒園してすぐのこと。
恋人は、当時同じ保育園に勤めていた人で、私の記憶にもある人物だった。
破局の理由は喧嘩でも浮気でも無く、先生の生まれ育った場所にあった。
周りから忌み嫌われる土地。
知識としてはあったが、そんなものはずっと昔の話だと思っていたし、何より理不尽で、やりきれなかった。
母は「あんた一時期、あの先生のことを、『お母さん』って呼んでたんよ」と言って、懐かしそうに笑った。
記憶の中の先生の姿が、目の前の母と重なる。
私の目から涙がぽろぽろと勝手にこぼれ落ちた。先生は死んだのだという実感がようやく沸いてきたのだ。
私は小さな子供のように泣いた。そんな私の頭を母はわしゃわしゃと撫でてくれた。

196くらげシリーズ「転校生と杉の木」6:2014/06/26(木) 16:41:06 ID:TrdgkZJA0
翌日。私は登校中に、保育園に立ち寄った。
門の傍には一人の保育士がいた。私はその人に、前日に母に用意してもらった小さな花束を渡す。
杉の木の下に供えてくれるようお願いすると、
その年配の保育士は心得ているのだろう、一瞬嬉しそうな、それでいて寂しそうな表情をした。
「ありがとうね」
彼女は私に向かってそう言った。
私は一度だけ杉の木の方を見やったが、先生の姿はどこにも見えなかった。
保育園に背を向けて、私は歩き出す。涙は出ない。先生のための分は、どうやら昨日の内に出しつくしてしまったようだ。

学校までの道、小学校の校門の前で、私は見覚えのある黒いランドセルを見つけた。
彼だ。
その背に声を掛けようと口を開く。しかし言葉が出てこなかった。
足が止まり、私はその場で立ち止まる。
彼が抱える病気。
『近づかない方がいい』という彼の言葉。
私を見下ろしていた先生の目。
見える、ということ。
様々な言葉や事柄が頭の中を駆け巡り、その背を追いかけることを躊躇わせた。
覚悟。そう言ってもいいかもしれない。当時の私は、まだそれを持ってはいなかった。
だから、私が彼のことを『くらげ』と呼ぶ様になるのは、もう少しだけ先の話になる。
後ろから肩を叩かれた。
「ねえ、何ぼーっと突っ立ってんの?」
振り向くと、そこにはクラスメイトの女の子が、疑問符を頭の上に出して私を見やっていた。
若干慌てつつ、「何でもないって」と答えると、彼女はより不思議そうな顔をして。
「何かへんなものでも見たのー?」
そう言って屈託なく笑った。

197くらげシリーズ「緑ヶ淵」1:2014/07/09(水) 09:27:34 ID:qlht/3vE0
街を南北に等分する川。その川を少し遡った、中流域と上流域の丁度境目あたり。
緩やかにカーブを描く流れの外側に一箇所、岸がえぐれて丸く窪んでいる場所がある。
そこは緑ヶ淵と呼ばれていた。
田舎の子供たちにとって、夏の間の川は市営プールと同義だが、
緑ヶ淵は入ると急に深くなる上に、中では流れが渦を巻いているらしく、毎年淵の周辺は遊泳禁止区域に指定されていた。
しかし、川の外からでは渦は見えず、飛び込むのに丁度いい大岩もあってか、
緑ヶ淵はごく稀に、危機感の無い者や、反抗心の使い方を間違えている若者たちの度胸試しの場にもなっていた。
地元の人間は緑ヶ淵で溺れて死ぬことを、『呑まれる』と表現する。
父が消防署に勤めていたので、私もじかに聞いたことがある。
――緑ヶ淵が、また人を呑んだ――

私が中学一年生だった頃の話だ。
九月中旬、暦の上ではとっくに秋だ。もう夏休みボケは抜けたものの、日差しも気温もまだ十分に暑かった。
その日は学校が休みで、部活も入っておらず勉強熱心でもない私は、
朝から一人の友人を誘って、緑ヶ淵に向かって自転車を漕いでいた。
小さな頃から海川野山を駆けずり回って育ってきた私にとって、片道一時間半なんてちょっとした散歩のようなものだ。
ただ付き合ってくれた友人には、「川に釣りに行こうぜ」としか言っておらず、
こんなに遠出するとは思っていなかったのだろう。
しかも、川沿いの道を上流に向かって遡っているので、ゆるい上り坂がずっと続く。
緑ヶ淵に到着したとき、友人は既に青色吐息だった。
彼はくらげ。もちろん渾名だ。
何でも、彼の家の風呂にはくらげが沸くらしい。
『自称、見えるヒト』というわけだが、その中でも、見えるモノが一風変わっている。
加えて、見た目もくらげのように青白い。私は逆に真っ黒だ。

先に対岸の川原でそこら辺の石をひっくり返し、ケラの幼虫やら餌に使う虫を集める。
ミミズも持ってきていたのだが、その土地で取れる餌が一番釣れるというのが私の持論だ。
くらげは先に緑ヶ淵の傍にある飛び込み台としても使われる大岩の上に座って、川の流れをじっと眺めていた。
ちなみに、彼は釣りはやらない。
ただ、水のある風景は好きなようで、海だろうが川だろうが、何時間でも飽きずに眺め続けられるそうだ。
餌を集め終えた私は、くらげの上へと向かう。自転車を止め、ガードレールを跨ぐ。
大岩の上。真上からのぞく緑ヶ淵は、名前の通り周りの流れよりも一層濃い色をしている。
「……飛び込まないでよ」
隣のくらげが小さく呟いた。

198くらげシリーズ「緑ヶ淵」2:2014/07/09(水) 09:28:09 ID:qlht/3vE0
『落ちないでよ』では無く、『飛び込まないでよ』である辺り、
彼とは小学校六年生からの付き合いだが、そろそろ私のことを分かってきた証拠だ。
「心配すんな。今日は水着持ってきてねぇから」
彼が私を見る。彼は基本無表情だが、『そういう意味で言ったんじゃないんだけど』と、その目が言っている。
「冗談だって」と私が言うと、小さくため息のようなものを吐いた。
「……何だか、脳の血管に出来た、静脈瘤みたいだ」
緑ヶ淵について、くらげが何だかよく分かるようでよく分からない微妙な例え方をした。
「気をつけろよ。落ちたら、浮かんで来れないからな」
ちなみに、釣りをする際、私はあまり目的の魚を一匹に絞ることをしないのだが、今回は少しだけ事情が違った。
くらげの隣に座り、つり道具を広げる。大岩から水面までは三メートル強といったところだ。
針に餌をつけて、淵の真ん中を目掛けてのべ竿をふる。
『緑ヶ淵には、何かが潜んでいるのではないか』とは、私の父から聞いた話だ。
子供を怖がらせようとした作り話かもしれないが、それが私が今日ここに来ようと決めた理由でもあった。
「ここで溺れると、死体も上がらないんだってよ」
すると、くらげがちらりと私を見て、「ふーん」と言った。ここまで来るのに相当疲れたのか、少し眠たそうな顔をしている。
『緑ヶ淵に呑まれる』という言葉はただの比喩ではなく、
実際に緑ヶ淵での死亡事故では、遺体が上がらないことが多いそうだ。
雨や台風で増水した場合は別にして、川の水難事故で遺体が上がらないといった状況は、そうそうあることではない。
何度か捜索に駆り出されたことがあるうちの父親は、『巨大人喰いナマズでも居るんじゃないか』と冗談半分に言っていた。
くらげが空に向かって欠伸をしている。
まさか、『今日は人喰いナマズを釣りに来たのだ』とは、さすがの私でも口に出来ない。
アタリの感触はまだ無い。
深緑色をした水面は、円状の淵の中で緩やかに時計回りの渦を描いていた。
流れ着いた枝の切れ端や木の葉などの小さなごみが中心に集まり、ゆっくり回転している。
こうして見ると、ここが人を呑む淵と呼ばれているなどとは到底思えなかった。
北の空には縦に厚い雲が一つ、山を越えてゆっくりとこちらに向かってきていた。ぼんやりと時間が過ぎる。
そよ風が吹き、草木が揺れ、魚は釣れず、隣の彼は船を漕ぎ出していた。

199くらげシリーズ「緑ヶ淵」3:2014/07/09(水) 09:29:08 ID:qlht/3vE0
何投目か。
しばらくして、あまりにもアタリが無いので上げてみると、針に刺さっている部分は残して餌の半分だけ食べられていた。
魚が居ないわけではないらしい。
「……いてっ」
新しい餌に換えようとして、針が人差し指に刺さった。
思ったよりも血が出ていたが、面倒くさいのでそのまま餌をつけて、再び竿を振る。
絆創膏も無いので、一度指を舐めて、あとは放っておく。
隣のくらげが、眠たげな目で私の指をじっと見つめている。
「何?」と訊くと、彼は餌の虫が入ったケースに目を落として、「……何でも無い」と言った。
おかしな奴だなと思う。
その時だった。竿が下に引っ張られた。合わせる暇も無いほど、それは一瞬の出来事だった。
もしも咄嗟にくらげが服を掴んでくれなかったら、私は川に落ちていたかもしれない。それほど突然で、強いアタリだった。
ギチ、と竿が悲鳴を上げる。
くらげも危ないと思ったのか、私の服を掴んだ手を離そうとはしなかった。
本当に巨大ナマズでもかかったのだろうか。
踏ん張りながら、糸の先にいる生き物が何なのか私は考える。
これほど強い引きの川魚とは出会ったことが無い。
しかもそいつは前後左右に暴れることを一切せず、ただ下へ、下へと引っ張っている。
まるで私を川へ引き込もうとするかのように。
これでは、釣りではなく綱引きだ。
その不自然な引きに、一瞬背筋が震えた。
けれども、竿から手を離すことはしなかった。この先に何が喰らいついているのか知りたいと思った。
しかし、結末はあっけなく訪れた。糸が切れたのだ。
引き込まれないよう力をこめていた私は、その瞬間後ろに尻餅をつく。
糸の先にはウキだけが残り、あとの仕掛けは全部持っていかれてしまっていた。
「大丈夫?」
くらげの問いに、私はひっくり返った体制のまま頷く。
ゆっくりと身体を起こして、半ば呆然としながら千切れた糸の先を見やる。
最初は本当に人喰いナマズでも掛かったのかと思った。けれども私の直感は、あれは魚ではないと告げていた。
じゃあ何なのかと問われると、答えようが無いのだが。
「……釣れなくて、良かったのかもね」
川のほうを見ながら、くらげがぽつりと呟いた。
再び覗き込むと、緑ヶ淵はまるで何事も無かったかのように静かに佇んでいた。

200くらげシリーズ「緑ヶ淵」4:2014/07/09(水) 09:30:02 ID:qlht/3vE0
それから、仕掛けを付け替え、めげずに釣りを続けていた私だが、二度とあの強いアタリが来ることはなかった。
代わりにうぐいが二匹釣れたので、うろこと内臓を取って川原で焚き火を起こし、塩焼きにして食べた。
内臓を取っている際、横で見ていたくらげがぽつりと一言、「……君って、やっぱり変わってるよね」と呟いた。
「お前にだけは言われたくねぇ」と返すと、「そうかもね」と言って、ほんの少し笑っていた。

緑ヶ淵でまた水難事故が起きたのは、その次の年の夏のことだった。
街に住む男子高校生三名が、度胸試しという名目で同時に大岩の上から飛び込んだらしい。
一人だけ撮影係として岩の上に残っていた者の証言によると、
三人が水に飛び込んだ後、誰一人浮かんでくる者はおらず、影も見えず、水面には波一つ立たなかったという。
そのまま三人は帰らぬ人となった。
証言者が嘘をついているのではないかという話も上がったそうだが、
彼の持っていたビデオカメラには、
三人が岩の上から飛び込む瞬間と、飛び込んだ後の静かな水面の様子が映っていたらしい。
――緑ヶ淵が、また人を呑んだ――
とは言うものの、それが一体具体的にどういうことなのか、説明できる人間はいない。
非科学的だといって頑なに否定する者も居るそうだが、それでも緑ヶ淵は確かに存在し、今日も静かに佇んでいる。

終わり

201くらげシリーズ「緑北向きの墓」1:2014/07/12(土) 16:12:33 ID:7TU1mP.c0
私が中学一年生だった頃の話だ。

十月上旬。その日は土曜日だった。
昼食を食べた後、私は自転車の荷台に竹箒をくくりつけ、友人の家へと向かっていた。
自宅のある北地区から、町を東西に流れる地蔵川を越えて南地区へ。
思わず、快晴!と叫びたくなるほど真っ青な空の下、箒をくくりつけた自転車は、何だか空すら飛びそうな気がした。
もちろん、気がしただけだったが。
友人の家は、南側の住宅地を抜けた先の山の中腹辺りに、街を見下ろす形で建っている。
家の周りをぐるりと囲む塀の脇に自転車を停め、箒を持って門の傍に行くと、
松葉杖をついた友人が門の外で待ってくれていた。
彼はくらげ。もちろんあだ名だ。
彼の左足には白いギプスが巻かれていた。確か何本か肋骨にもヒビが入っていたはずだ。
先月九月後半、台風がやってきた際の事故による怪我だった。
「別に家の中で待ってりゃいいのに」
私が言うと、くらげは自分で脇腹の折れた肋骨の辺りを軽くさすった。
「……そういうわけにもいかないよ。君は、お墓のある場所知らないでしょ」
今日私がここに来た理由は、彼の先祖の墓を掃除するためだ。
先月の、丁度秋彼岸の時期にやってきた台風により、墓の周辺が荒れてしまったのと、
いつも掃除をしているくらげの祖母の体調が芳しくないため、急遽ピンチヒッターとして私が自ら名乗り出たのだった。
「そういえば、おばあちゃんまだ体調悪いのか?」
「そうだね……。自分では、『大分良くなってきた』って言っているけど、あまり良くないみたい」
くらげはそう言って、家の方を振り返った。
ちなみに、くらげは三人兄弟の末っ子で、長男は県外の大学に行っており、
現在家には、くらげと祖母、大学教授の父親、高校生である次男の四人が住んでいる。
ただ、父親と次男には先祖の墓掃除をする気は無いようだ。理由を聞いたが、くらげは教えてくれなかった。
本来なら家の者が掃除するべきなのだろうが、くらげと祖母は動けないし、あとの二人はそんな感じなので仕方がない。
他人の家の墓を掃除することが失礼に当たることは知っていたが、家の者に許可を貰っているから大丈夫だろう。
そもそも、くらげが怪我をした事故には私も少なからず関わっているので、責任を感じている部分もあった。
「そっか……。じゃ後で、『お大事に』って伝えといて」
「うん。分かった」

それから二人で墓のある家の裏手へと向かった。
裏手には山の斜面に沿った細い道があり、この道を上っていくと墓があるそうだ。
道も分かったので、くらげはここで待ってた方が良いと言ったのだが、彼は自分も行くと譲らなかった。
「君は僕の家の人間じゃないんだから、勘違いされたら、困るでしょ?」
『誰が何を勘違いするんだ』と言いかけて、私はその言葉を飲み込んだ。
言い忘れていたが、彼は『自称、見えるヒト』である。
ちなみに、くらげの祖母も見える人で、その力は彼の比ではないとか。他の兄弟と父親は見えないらしい。

くらげが転びやしないかと内心ひやひやしながら、緑に囲まれた細い道をしばらく登ると、
墓が三段に並んでいる開けた場所に出た。
墓は確かにひどい有様だった。
折れた木の枝や葉がそこら中に散乱し、
花入れは何本か地面から引っこ抜かれていて、その内のいくつかが地面に無造作に転がっている。
その有様を眺めながら、私はふと、違和感を覚えた。何かがおかしいような気がしたのだ。
けれども、これ程荒れているのだから、多少の違和感はあって当然なのかもしれない。
掃除して綺麗になれば、違和感も消えてなくなるだろう。と、その時は思った。
とりあえず、家から持ってきた箒で、目に付くゴミを片っ端から片付ける。
くらげも近くの雑草などを抜いて、出来る限り手伝おうとしてくれていた。

掃除をしている最中、ふと、一番新しそうな墓が目に留まった。
よくよく見てみると、側面に書かれている命日は、私の生まれた年だ。
墓石に刻まれた名前は女性のものだった。だとすれば、これはくらげの母親の墓なのだろう。
彼の母は、彼を生んですぐに亡くなったと聞いたことがあった。
生まれてすぐに母親を亡くす。それが一体どういうことなのか、幸せな私には想像もつかない。
祖母が母親の代わりだったのだろうか。
余計な想像を、私は頭を振って振り落とした。

202くらげシリーズ「緑北向きの墓」2:2014/07/12(土) 16:13:14 ID:7TU1mP.c0
一時間ほど駆けずり回っただろうか。
もし私の母親が見ていたら、『自分の部屋の掃除もこれくらい真剣にしてくれればねぇ……』などと愚痴ってそうだ。
頑張った甲斐もあり、墓の周辺は随分綺麗になっていた。
その間、くらげは一度家に戻っており、ペットボトルのジュースやら水やら饅頭やらを家から持ってきていた。
「おつかれ様」
「おー、サンキュ」
一番上の段の草むらの上に腰を下ろし、くらげからジュースを一本と饅頭をひとつ貰う。
周りの木々が微かな風になびいてさわさわと音を立てた。
私の周りを、濃い緑の匂いと共に、何やらよく分からない小さな虫が飛び回っている。
ジュースを飲み、栗饅頭をかじりながら、私は今しがた自分が掃除した墓を見下ろした。
先程感じた違和感は消えてはいなかった。どころかそれは、墓が綺麗になったことで逆に強まっていた。
何ともいえない、『何かが違う』という感覚。
いくら考えてもその正体は見えず、私は隣に座るくらげに尋ねてみた。
「なあ、くらげさ。……気ぃ悪くしたらごめんだけど」
「何?」
「ここのお墓ってさ、なんか変じゃないか。上手くはいえないけど、どこかおかしいっていうか……」
「ああ、うん」
私は彼を見やる。その表情は何ら変わらず、いつもの彼のものだった。
「全部、おばあちゃんに聞いた話だけど……」とくらげは言った。
「この辺りにはね。昔から、人は死ぬと、その魂は海に還るって言い伝えがあるんだ」
街から現在私たちがいる山を一つ越えれば、その先には太平洋が広がっている。
街の人間にとって、海は昔から身近な存在だった。
「だから魂がちゃんと海に還れるように、この辺りのお墓はみんな、南を向いてる」
そこで私はようやく、違和感の正体にも気がついた。
確かにそうだった。私が今まで見てきた墓は、全部名が彫られた面を南向きにして建てられていた。
しかし、ここの墓は名前のある面が北に向いている。還るべき筈の海に背を向けているのだ。
おそらく無意識のうちに、『墓は南を向いている』という固定観念が私の中に出来ていたのだろう。
だから、初めて北を向いている墓を見て違和感を感じた。
「……村八分って言葉があるでしょ?」
くらげは淡々と話を続ける。
「あれって、死んだ後のことと、火事とか水害とか災害の時は助け合う、っていうのが二分で、
 あとの八分は一切のけ者にする。それが、村八分の意味らしいんだけど。
 ……僕らの家は、八分じゃなくて、村九分にされてたんだ。
 ……だから、お墓も逆向きに建てさせられた。死んだ後も、同じ場所にはいけないように」
私は何も言えなかった。彼はペットボトルのジュースをゆっくり口に含むと、ふう、と一息ついた。
彼の家が疎外されていた理由。それは、彼や彼の祖母が『見えるヒト』であることと、何か関係があるのだろうか。
「……でも、そんなことがあったのはずっと昔のことだから。
 今は、ご先祖様が皆あっち向いてるから、合わせなきゃいけない、っていう理由らしいけど」
そこまで言うと、くらげは饅頭と一緒に持ってきた袋と松葉杖を持って立ち上がった。
そして、一番端にある墓の前にしゃがみこむ。
袋に入っていたのは水と米だった。墓の上から水を掛け、米を供え手を合わせ、瞑想する。
それが終われば、隣の墓に移る。上の段から順々に。
しばらくその様子をぼんやり眺めていたが、はっとした私は、慌てて彼の後についてお参りをする。
そうして、一段目、二段目と供養を続け、一番下の段まで来た。
「これは、ひいおじいちゃん」
水を掛けながら、くらげが呟いた。
「……これは、ひいおばあちゃん」
次々と、その名前を呼びながら手を合わせてゆく。
「これが、おじいちゃん……」
くらげの祖父の墓。今まで一番長く手を合わせていた。
私はくらげの祖父に会ったことが無い。
けれども以前、彼の家で夕食をご馳走になったときのことだ。
死んだはずの祖父の席には料理と酒が置かれ、祖母は誰もいない空間に向かって嬉しそうに話しかけていた。
もちろん、私には祖父の姿は見えず、まるでパントマイムを見ているかのようだった。
くらげにも祖父の姿は見えないらしい。

203くらげシリーズ「緑北向きの墓」3:2014/07/12(土) 16:14:23 ID:7TU1mP.c0
「……なあ、くらげのおじいちゃんって、どんな人だったんだ」
祈り終え、顔を上げたくらげに私は尋ねる。
「怖い人だった」
くらげはそう答えた。
「医者だったからかな。幽霊なんて、全然信じてなかった……。
 だから、僕とかおばあちゃんがそういう話をするのが、すごく嫌だったみたい。
 ……殴られたこともあるよ。『正しい人になれ』って」
私はまた、あの夕食の席を思い出していた。
私にとってはただ一度きりだが、あの家では毎回、毎食、同じ光景が繰り返されているのだ。
もし、くらげの祖父が、生前自分が否定したモノになっていたとしたら、彼は今どんな気持ちでいるのだろう。

くらげが最後の墓に向かう。それは彼の母親の墓だった。
残り全ての水を注ぎ、米を供える。松葉杖を脇で支え、二拍手の後、くらげは目を閉じた。
私は想像してみる。
くらげの母のこと。一体どんな人物だったのだろうか。
しばらくして目を開けたくらげが、ちらりと私の方を見やった。そして何か感じ取ったのか、ゆっくりと首を横に振った。
「分からないよ。……何も、覚えていないから」
私はどうやら無言の質問をしていたらしい。対する彼の答えがそれだった。
私はその名前が刻まれた墓石を見やる。
母と過ごした記憶の無い彼に、目の前の石の塊はどう映っているのだろう。
「戻ろう」とくらげが言った。私は黙って頷いた。

墓を出ようとした時、一陣の強い風が吹いて、周りの木々をざわめかせた。
それはあまりに突然で、
墓を掃除した私に対するお礼だったのか、それとも、よそ者が余計なことをするなという怒りの声だったのか、
もしくはその両方か。
北向きの墓。
海に帰ることの出来なかった魂は、一体何処へ向かうのだろう。
そんなことをふと思う。

「今日は、ごめんね。休みなのに」
山を下りている最中、くらげがぽつりと呟いた。
実際、彼は人に仕事をさせて自分が楽しようというタイプではないので、
今日私が作業している横で心苦しかったのかもしれない。
けれどもそれは、後からこうだったのかもしれないと考えたことだ。
その時の私は、彼の気持ちなどまるで思い至らなかった。
「ああ、それは別にいいんだけど……」
一つ、先ほどからずっと気になっていたこと。
「まさか……、勘違いされてないよな」
せっかく苦労して掃除したのに、当の墓の下で眠る方たちに、墓を荒らしに来たよそ者と思われたままでは、
頑張った甲斐がない。
私の言葉に彼は何度か目を瞬かせた後、不意に私から目を逸らし、何故か突然「くっ」と短く笑った。
笑ったことで肋骨に響いたらしく、身体を丸め、脇腹の辺りを押さえている。
「おい、何が可笑しいんだよ」
私が口を尖らすと、くらげはちらりとこちらを見やり、
「……されたかもしれないね。勘違い」
そう言って、また小さく笑い、「いたた……」と脇腹をさすっていた。

204くらげシリーズ「蛙毒 上」1:2014/07/12(土) 16:15:22 ID:7TU1mP.c0
私が中学生だった頃の話だ。

ある夏の日のこと。その日私が学校に行くと、教室の隅に人だかりが出来ていた。
一部の男子たちを中心に何か騒いでいるようだ。
「何してんの?」
一番近くにいた奴を捕まえて尋ねると、彼は心底気持ち悪そうな顔を私に向けて「蛙だよ」と言った。
「あいつ、ペットボトルに蛙つめて持ってきてるんだ」
その口調からして、彼は蛙が苦手なのだろう。「うえ……」と呟き離れていった。
私は彼と入れ替わりに、人だかりに身体をねじ込んだ。
騒ぎの中心に居たのは、あまり評判のよくない男子生徒だった。仮にOとしておこう。
Oが持っているのは、1.5リットルのペットボトルだった。
ラベルは剥がされていて、中には一匹の茶色い蛙が窮屈そうに押し込められていた。
「キャ」と短い悲鳴が上がる。興味本位で見にきたらしい女性陣からだ。
彼は蛙を周囲に見せびらかして、その反応を楽しんでいるようだった。
私の姿を見つけると、「ほれっ」とペットボトルを目と鼻の先まで近づけてきた。
蛙が手足をばたつかせ、容器の側面にへばりつく。
白いお腹には、黒い斑点がまだら模様に浮かんでいる。その背にはぶつぶつとイボもある。
大きさは六から七センチほど。若いヒキガエルだ。
Oは、臆さず動じず蛙を凝視する私にいささか拍子抜けしたようだった。
幼い頃から哺乳類も爬虫類も虫も魚も散々触れてきた私にとって、ヒキガエルは気持ち悪いどころか逆に可愛いくらいだ。
ふと、私はそのペットボトルの表面に、小さく文字が書かれていることに気がついた。
マジックで書かれたのだろうか。汚い文字だが辛うじて読める。Oの苗字のようだ。まさか、Oが書いたのだろうか。
そしてもう一つ。彼がどうやってペットボトルの中に蛙を入れたのか、という疑問もあった。
飲み口の穴は蛙の体より明らかに小さい。
表面にはいくつか空気穴らしき穴が開けられていたが、
それも五ミリほどの直径で、蛙が通り抜けられる大きさではなかった。
一体どうやって入れたのかとOに尋ねると、「俺だって知らねぇよ」と予想外の答えが返ってきた。

話を聞けば、こういうことだ。
私たちの街から山を一つ越えれば太平洋に出る。
その週の休日、Oは友達数人と海に遊びに来ていた。
海沿いの集落にOの親戚の家があり、友人共に泊りがけで遊んでいたそうだが、
二日目、彼らはその集落の外れに、一軒の奇妙な家があるのを見つけた。
廃屋かというくらいボロボロの小さな家だったが、
家の周囲を囲む塀に上には、大小様々な大きさのペットボトルが並べて置かれていた。
「百個くらいあったんじゃねーか?」とOは言った。
Oは最初、猫避けか何かかと思ったそうだが、違った。
その中には、一匹ずつ蛙が閉じ込められていた。大きさはバラバラで、ヒキガエルだけでなく、青ガエルも居たらしい。

205くらげシリーズ「蛙毒 上」2:2014/07/12(土) 16:16:02 ID:7TU1mP.c0
透明なペットボトルの中に閉じ込められた蛙は、
夏の強い日差しを浴び殆ど死にかけているか、もしくは既に死んで干からびていた。
Oが見つけたヒキガエルは、中で暴れたためか塀の上から落ちて日陰に転がり、運よく日差しを免れていたのだそうだ。
「そんなもん持ってくんなよ〜」
他の男子が冗談交じりにOを叩く。
するとOは、「ウケルと思ったんだよ」と言って、ニヤニヤ笑った。
「で、どーすんの、それ。あんたが飼うの?」
クラスで二番目くらいに気の強い女の子が尋ねた。そろそろ朝のHRが始まる時間だ。
「飼うわけねーだろ」とOは言う。
「じゃあ、逃がすの?」
彼女の言葉に、Oはまたニヤニヤと笑った。
「ちょっと、そこどけ」
Oは周りの人間を少しだけ後ろに下がらせた。
そして、ペットボトルの蓋の部分を両手で持ち、まるで打席に立ったバッターのように振りかぶった。
中の蛙は、いきなり天地を逆さにされ、なすすべも無く飲み口の部分まで転がる。
「ぱしゃ」とも、「ぺちゃ」とも聞こえた。
嫌な予感を感じる暇も無かった。
Oが蛙の入ったペットボトルをフルスイングしたのだ。
遠心力でペットボトルの底の部分に叩きつけられた蛙は、その大きな口から赤い塊を吐き出し、潰れて、死んだ。
悲鳴と短いうめき声が同時に上がった。
見ると、私の隣で、クラスで二番目に気の強い女の子が尻餅をついていた。Oはそれを見てケラケラ笑っている。
挙句の果てには、ペットボトルの蓋を開けて中の匂いを嗅ぎ、「うわ、くっせぇ」などと言って騒いでいた。
「どうせ干からびて死んでたんだしな」
Oの言葉だ。
だからといってここで殺す必要は何処にも無い。しかし、そんなことをOに言っても無駄だということは分かっていた。
私は、内蔵の飛び出た蛙の死体に対してではなく、O自身に対して気持ち悪さを覚えながら、
ただ軽蔑の視線を送るだけだった。
その後すぐにチャイムが鳴り、
蛙の死体が入ったペットボトルは、証拠隠滅のためOによって廊下側の窓から学校裏の林に向かって放り捨てられた。
とはいえ、Oのこのような問題行動は、私たちのクラスにとってありふれたものだったので、
HRでも問題には上がらなかった。

206くらげシリーズ「蛙毒 上」3:2014/07/12(土) 16:16:52 ID:7TU1mP.c0
問題は次の日からだった。
Oが学校に来なくなった。
最初は誰もが、ただの風邪か、もしくはサボりだろうと思って何も気にしていなかった。
ところがそれが三日四日と続き、ようやくクラス内にも『どうしたのだろう』という雰囲気が生まれていた。
Oの親は当初、単なる体調不良だと学校に伝えていた。
しかし、一週間ほど過ぎたところで、隠しきれないと思ったのか、学校側にも真実を伝えた。
両親が言うには、どうやらOは自分の部屋から出てこなくなったらしい。
自分の部屋に鍵をかけ引きこもり、母親が食事を運んでくる時だけ、僅かにドアを開けるだけだという。
理由は分からない。
担任の先生や、仲の良い友人が家を訪ねたそうだが、Oはドアを開けず、「開けるな」「見るな」と叫び追い返した。
突然引きこもりだしたOに、両親も困惑していたそうだ。
幾日かかけて、母親はドア越しに、ようやくその理由を聞き出した。
「……体中に、イボが出来てる」とOは語った。
顔にも手にも足にも。水泡のようなイボが皮膚をまんべんなく埋め尽くしているのだと。
しかし、それを聞いて母親は不審に思った。
彼女は食事を運ぶ際に、僅かな隙間からだが彼を見ている。少なくともその手には、イボのようなものは見当たらなかった。
ある時、食事を運ぶ際に、母親は意を決して扉を開いた。
Oはものすごい形相で何事か叫びながら、力ずくで母親を追い出した。
けれども、やはり彼の体にはイボなど無かった。
ただ、おかしなところはもう一つあった。
引きこもってからのOは、喋るときによく声を詰まらせるようになった。
会話の節々に「……っく……っく」と、喉の奥から空気を搾り出したような音が引っかかる。
Oの友人のうちの誰かは、「蛙の鳴き声のようだった」と言った。
引きこもり始めて十日が過ぎた。
その頃には、Oはもはや言っていることすらおかしくなっていた。
食事もとらなくなり、
自分で鍵を閉めているにもかかわらず、「出られない」「ドアが開かない」「透明な壁がある」などと言い出した。
さらに、「熱い」「かゆい」と訴えるようにもなった。
さすがに手の施しようが無くなり、父親が無理やり鍵を壊し、Oを引きずりだして病院に運んだ。
その体にイボは見当たらなかったが、代わりに体中をかきむしったらしい傷跡で埋め尽くされていたそうだ。
入院中に何があったのかは知らない。
精神科に入院していたOが、退院し、学校に戻ってきたのは、新たな年も明けた約半年後のことだった。
戻ってきたといっても、以前の彼とはまるで違う。
口数も少なく、良くも悪くも騒ぎ好きだった性格は影をひそめ、
いつも何かにおびえている様な、陰険な奴に変わってしまっていた。
しかも、話す際には必ず、「……っく……っく」と声を詰まらすのだった。

207くらげシリーズ「蛙毒 上」4:2014/07/12(土) 16:17:37 ID:7TU1mP.c0
時間を夏に戻す。
彼が家に引きこもっている間、クラスは『蛙の呪い』の噂でもちきりだった。
蛙の幽霊がOに取り憑いただの、爬虫類の呪いは比較的強力だの。
中には、イボガエルに触れるとイボが移る、といった古くからの迷信も含まれていた。
いくらなんでもOがかわいそうだ、という意見もあった。
確かに、自業自得だとは思う。ただしそれを言うなら、私だってこれまでの人生、蛙を殺したことくらいある。
こういう言い方は、人間至上主義と呼ばれるのかもしれないが、
たった一匹の蛙を殺しただけで、果たしてあれだけの症状が出るものなのだろうか。
同情はしていなかったが、不思議ではあった。それに、他にもいくつか気になることがある。
飲み口より大きな蛙をペットボトルの中に入れる方法。ボトルの表面に書かれていたOの苗字。
そうして一番は、そのペットボトルが何本も並んでいたという、海沿いの家についてだ。
当時、私はオカルトというものに目覚め始めていた。そうでなくとも、不思議や謎に一番関心のある年頃だ。
それに、一度気になると動かずにはいられない。自分で言うのもなんだが、私はそういう困った性格の持ち主だった。
そうして我慢しきれなくなった私はその夏、Oが言っていた海沿いの家に向かうことに決めた。
但し、単独ではさすがに心細いので、友人を一人誘ってだ。
その友人は『自称、見えるヒト』であり、私がオカルトにはまるきっかけとなった人物と言っていい。
「おい、次の休みにさ。Oが言ってたカエルの家に行ってみようぜ」
学校にて、友人に向かってそう切り出すと、彼は無表情の中にもひどく面倒くさそうな顔をして、
「……呪われても知らないよ」と言った。
彼はくらげ。もちろん、あだ名だ。

208くらげシリーズ「蛙毒 下」1:2014/07/12(土) 16:18:44 ID:7TU1mP.c0
その日、私は朝早くから自転車に跨り、まずは待ち合わせ場所である街の中心に掛かる橋へと向かった。
私たちが一緒に行動するときはいつも、地蔵橋と呼ばれるこの橋を使う。
くらげは先に着いていて、私のことを待っていた。
不思議なのだが、この橋で待ち合わせをしたとして、私は彼を待ったことがない。
いつも彼は先に待っていて、黙って川の様子を眺めているのだった。
一度、彼がどれくらい早く来ているのか調べてやろうと思って、
わざと待ち合わせ時間より四十分も前に橋に出向いたことがある。
しかし、その時ですら、彼は私より先に着いていた。
「や。待ったか?」
自転車に乗ったまま声を掛けると、くらげはゆっくりと首を横に振り、
「……さっき来たところだよ」
彼はいつもそう言うのだが、それが果たして本当なのか嘘なのか。真相は闇の中だ。
「行こうぜ」と言うと、彼も自分の自転車に跨った。
Oの言った海沿いの集落に行くには、山を一つ越えなければならない。
見上げると、空には薄い雲が広がっていた。天気予報では今日は一日中曇りとのことだったが、さてどうなるだろう。

二人で自転車を漕ぎ、山の峠を越える。
すっきり晴れた日と違って、眼下に見える海もどこか灰色染みていて、
汗で体にへばりついたシャツや、湿度の高いむしむしした気温も相まって、何だか余計に疲れた気がした。
太平洋に到着してからも、海沿いの道を少しの間、東へむけて走らなければならない。

目的の集落に到着したのは昼前だった。
広い松林の間を縫うように細い道がいくつかあって、ポツリポツリと民家が点在している。
集落の入り口に一軒の駄菓子屋があったので、情報収集に休憩もかねて立ち寄ることにした。
店の中には、小柄で糸の様に細い目をした五十台くらいの女性が居た。
彼女は私たちを気付くと、「あんたら、ここらでは見ん子やね」と言った。
「隣町から、山を越えてきたんです」
私が正直に答えると、「あんらまあ」と驚いていた。
私とくらげはそこでアイスを一つずつ買った。
料金を払うついでに、「この辺りで、ペットボトルを周りに並べてる家ってありますか?」と訊いてみた。
すると、おばあさんが糸のような目をこちらに向けた。
「そんなこと聞いて、どうするん?」
口調は柔らかいが、私の質問はあまり好ましいものではなかったようだ。
私はその顔に子供らしい満面の笑みを浮かべて見せる。
「あ、私たち、夏休みの自由研究で、『海沿いの変わった場所』っていうのを調べてるんですよ。
 いくつか集めて、マップを作成しようと思ってて。
 それで、この辺りに変わった家があるって聞いたものですから」
隣でくらげが私をじっと見つめていた。何が言いたいのかは分かっている。
自分でも、良くもこうぽんぽん口からでまかせが出てくるものだと、半ば呆れつつ半ば感心していた。
「ああ、そうなんね」と言って、おばさんは納得したように何度か頷いた。
内心ほくそ笑む。この演技で騙せない人間は私の母親くらいだ。
「確かに変わっちゅうけど……。あんまり見に行かん方がええよ」
おばさんが言うには、『ペットボトルの家』には老人が一人住んでいるらしい。
予想は出来ていたが、彼女の口ぶりからしても、あまり快い人物では無いようだ。
「そのペットボトルの中には、何がおると思う?」
こちらを脅かすような口調だ。
私も興味津々な振りをして、「……何でしょう?」と言う。
「か、え、る。……蛙が、入っちゅうんよ」
知っている。でも、驚いてみせる。
「ペットボトルに入れて逃げれんようにして、太陽の光で焼き殺すんよ。……あの人はね、カエルを殺すのが趣味なんよ」
その老人はそうやって焼き殺した蛙の死骸を、ペットボトルに入れたまま集落の他の家の門の前に置いていくのだという。
「うちの前にも置かれたことがあってねぇ」
軽くため息を吐きながら、おばさんは言った。
「どうして、そんなことするんですか?」
「とっと昔にね。何か村でごたごたがあったらしいんよ。妹か弟が病気で死んだんやったかな……。詳しくは知らんけんど。

209くらげシリーズ「蛙毒 下」2:2014/07/12(土) 16:19:55 ID:7TU1mP.c0
 それをまだ根に持って、嫌がらせしに来るんやと」
嫌がらせに蛙の死骸を置いていく。まるで子供の発想だなと私は思った。Oみたいな人間がやってそうだ。
しかし、本当にただの嫌がらせなのだろうか。
その時家の前に置かれていた蛙の死骸はどうしたのかと訊くと、気持ち悪いからペットボトルごと捨てたとのこと。
当然の答えだ。
「その家って、どこにあるんですか?」
おばさんはあまり答えたくなさそうだったが、
「遠くから見るだけですよ」という私の言葉に、「うーん。まあ、見るだけやったら……」としぶしぶ教えてくれた。
大体聞くべき事は聞けたので、私とくらげは彼女に礼を言って、店を出ようとした。
その際、ふと一つだけ聞き忘れていたことに気付き、私は振り返る。
「あの、ここの辺りに、『Oさん』っていますか?」
私の言葉に、おばさんは細い目を何度か瞬かせた。
「二つ隣の家がOっていうけど……。それがどうかしたん?」
「その人の家にも、同じペットボトルが置かれたことってありますか」
「……どうやろねぇ。でも、あると思うよ。この辺りの人は、皆やられてるはずやから」
お礼を言って、店を出た。

店の外にあるベンチに二人で座り、そこでちょっと柔らかくなったアイスを食べる。
私は普通のアイスクリンで、くらげは最中をだった。
文字通りアイスをぺろりと平らげた私は、隣のくらげに尋ねる。
「なあ、……呪いって、本当にあんのかな?」
今回Oに起こった出来事。その原因はやはり『呪い』なのだろうか。
但しそれは、『カエルの呪い』といった可愛らしいものではなく、
人間が人間にかけた、誰かが誰かを不幸にするための呪い。
自業自得とはいえ、Oはそのとばっちりを受けてしまったのではないか。
わざわざ最中のブロックを手でちぎりながら食べていたくらげは、
最後のブロックを口に含み、こちらがいらいらするほどゆっくりと飲み込んでから、
「……あるんじゃないかな」と言った。
「ほら、昔から、蛙に触るとイボができる、って言うし」
「そりゃ、迷信だろ」
「……似たようなものだと思うけど」
くらげを見やる。その口調は、どこかいつもの彼と違う気がした。
くらげは無意識だろうが私の視線をかわすように立ち上がり、
アイスの開き袋を綺麗に四つ折りにして、傍にあったゴミ箱に捨てた。
「雨が降りそうだね」
空を見上げ、そう呟く彼は、いつもの彼だ。
私も立ち上がる。
「……んじゃ、さっさと行きますか」
私の言葉に、彼は小さく頷いた。

210くらげシリーズ「蛙毒 下」3:2014/07/12(土) 16:20:38 ID:7TU1mP.c0
二件隣の『O』と表札の出ている家を通り過ぎ、いくつか松林を潜り抜け、セミの鳴き声に背中を押されながら、
駄菓子屋のおばさんに聞いた道を進む。
Oが言った通り、集落の外れ。目の前に小さな墓地を臨む、古ぼけた平屋の民家。
そこが目的の家だということは一目で分かった。
大して高くない塀の上に、ペットボトルがずらりと並べて置かれてある。
Oが言った百個は言い過ぎにしても、数十個は確かにありそうだった。
陽に焼かれ黒く変色した蛙の死骸が入ったペットボトル。いくつかは道に落ちてしまっている。
見たところ、生きている蛙はいなかった。

セミの声に混じって、遠くで浜辺に打ち寄せる波の音が聞こえた。辺りは静かで人の気配は無い。
私とくらげは自転車を降りて、塀の傍に近寄った。
近くで見ると、ペットボトルの表面には、それぞれ小さく文字が書かれてあることが分かる。どれも人の苗字だ。
駄菓子屋で聞いた話を思い出す。蛙の死骸が入ったペットボトルを家の前に置いていく老人。
それがもし、単なる嫌がらせ目的ではなかったとしたら。
もう随分と学校に来ていないOは、自分の部屋から出てこず、おかしくなってしまったのだと噂されている。
呪い。
塀に沿って歩く。庭へと繋がる門は、無用心にも少しだけ開いていた。
いくらか躊躇った後、私は門の中に足を踏み入れた。
「見るだけじゃなかったの?」
後ろからくらげの声。
「……庭を見るだけだ」
手入れをしていないのか、庭のいたるところで雑草が背を伸ばしている。
家の窓は全て閉められ、カーテンが引かれているため中の様子は伺えない。
庭の隅にはこれまた今にも壊れそうな納屋があり、鍬が一本立てかけてあった。
納屋とは逆方向の隅の方で私は何かを見つけた。
それは水槽だった。蓋がしてあり、中で小さな何かが蠢いている。
コオロギだ。水槽の中には、底を埋め尽くすほどのコオロギが居た。
その大半は動かず、死んでいるようにも見えたが、中には生きて動いているものも居る。
何にせよ、虫嫌いが見たら卒倒しそうな光景だ。
果たしてこれは、蛙の餌だろうか。
私は想像する。
餌がここにあるということは、このペットボトルの中の干からびた蛙たちは、元々ここで飼われていたのかも知れない。
だとすれば、飲み口と蛙の大きさが合わない疑問も解ける。
卵か、もしくはまだ幼体の蛙をペットボトルの中に入れ、大きくなるまで飼育する。
そうしてある程度大きくなったところで、陽の光を浴びさせ焼き殺す。透明な壁に阻まれ蛙は逃げることもできない。
おそらく、このペットボトルに書かれた苗字は集落の人間のものだろう。
Oが学校に持ってきたペットボトルには、Oの苗字が書かれていた。だからこそ彼も特別興味を示して拾ってきた。
そして、彼は蛙を殺した上に、その蓋を開けてしまった。

211くらげシリーズ「蛙毒 下」4:2014/07/12(土) 16:21:52 ID:7TU1mP.c0
振り返ると、すぐ後ろにくらげが居た。全く気付いていなかったので、ほんの少しどきりとした。
「……脅かすなよ」
私の言葉に、くらげは何度か目を瞬かせて、「ごめん」と言った。
私は辺りを見回す。この庭には他に見るべきものは無いようだ。
入ってきた門を見やる。門にはインターホンのようなものはついていなかった。
次いで、私は家の玄関に視線を向けた。
「どうするつもり?」
くらげが言った。
私は答えの代わりに、にっ、と笑ってみせる。
結果的に見るだけじゃなくなってしまったが、気になるのだから仕方が無い。
「中に居るかな」
辺りに人の気配は無いが、もしかしたら中で寝ているのかもしれない。
玄関の前に立つ。門と同様、チャイムのようなものは無い。
手のひらで扉を二度軽く叩く。
もし老人が家に居るなら、少しだけでも話を聞きたいと思っていた。
あの蛙の入ったペットボトルは、本当に呪具の類なのか。
尤も、素直に話してくれるとも思っていなかったが、帰る前に本人の顔くらいは拝んでおきたかった。
返事は無い。やはり出かけているのだろうか。
「すみませーん」
中に向けて声をかける。やはり返事は無い。
もう一度声を上げようとしたとき、私はふと、何か妙な匂いを嗅いだ気がした。
据えた匂い。家が古いからなのだろうか、微かに漂ってくる。
特に顔をしかめるほどではなかったが、私がその匂いを嗅いで真っ先に感じたのは、何ともいえない嫌悪感だった。
蛙の死骸を見たときよりも、無数のコオロギが詰められた水槽を見たときよりも、はるかに強い嫌悪感。
この扉を開けてはいけない。
警告が頭の隅をよぎる。
けれども私は、殆ど無意識に玄関の取っ手に手を伸ばしていた。私を動かしていたのは好奇心だ。
私はまるで傍観者のように、自分の腕が戸をあけようとするのを眺めていた。
私の腕を誰かが掴んだ。
その瞬間、短い夢から覚めたかのように意識が鮮明になった。
振り向くと、そこにはくらげが居た。
彼は私をじっと見やると、ゆっくりと首を横に振った。
そのまま腕を引っ張り、玄関から引き離そうとする。
「おい……」
思わず声を上げる。
くらげは立ち止まり、私の方を振り返った。
そして、腕を掴んでいる手とは逆の手を持ち上げると、その手のひらを上にしてこう言った。
「雨が降ってきたよ」
ぽつり、と体のどこかに水滴があたった。雨だ。灰色の空から小粒の雨が降ってきている。
「……帰ろう」
くらげが言った。
彼は相変わらずの無表情だったが、腕を掴むその力は意外なほど強かった。
私は一度、後ろを振り返る。古ぼけた家は相変わらずそこにある。
ただし、雨が降っているからか、それとも別の理由か、
私の目にはその家が先程よりも明らかに、古く、黒ずんで、歪んでいるように見えた。
私は目を閉じ、大きく息を吸って、吐いた。
あの戸には鍵が掛かっていた。そう思うことにした。
「……帰るか」
くらげが私の腕を離す。その様子は、どこかほっとしているようにも見えた。
二人で門を出る。
自転車に跨ろうとすると、何者かの視線を感じた。辺りを見回すも、誰も居ない。
そこにはただ、透明な檻に閉じ込められた蛙の死骸が、無表情に私たちを見つめているだけだった。
「帰ろう」
立ち止まっている私に向かって、くらげがもう一度言った。
私は黙って頷き、ペダルに乗せた足に力を込めた。

私たちの街へと帰る間、小雨は強くもならず弱くもならず、ずっとぱらぱらと降り続けていた。
そしてまた、そんな雨を喜ぶかのような「……っく、……っく」という微かな蛙の鳴き声が、
自転車をこぐ私たちの後ろを、どこまでも、どこまでもついて来ていた。

212くらげシリーズ「蛙毒 後日談」:2014/07/12(土) 16:23:03 ID:7TU1mP.c0
あのペットボトルの家で老人の遺体が発見されたと知ったのは、それからまた幾日か過ぎた日のことだ。
道に蛙の入ったペットボトルが散乱し、片付けもしないのかと、文句を言いに来た近所の人間が死体を発見したのだという。
私はそれを、あの駄菓子屋の目の細いおばさんから聞いた。
その日は、私は友達数人と普通に海に遊びに来ていた。おばさんは私を覚えていたようだ。
「自由研究は進んだかえ?」との問いにはもちろん、「バッチリです」と答えておいた。
「また見に来たのかねぇ。でも、あの家はもう無いよ」とおばさんは言った。
老人の死因は、熱中症と脱水症状による衰弱死だった。
何でも、部屋の中で転んだ拍子に足の骨を折ってしまい、
動くことも出来ず、助けを呼ぶことも出来ず、そのまま死んでいったのだそうだ。
出かけようとしていたのか、部屋は全て窓を閉めた状態だった。
そのせいで熱が中に篭り、発見されたとき室内はサウナのようだったという。
近所の人間が老人の死に気付いたのは、『匂い』がきっかけだった。死臭。人が腐ったときの匂い。
「……その人は、いつ頃、死んだんですか?」
尋ねる声が少し震えた。それは演技でもなんでもない。
老人が死んだのは、私とくらげがあの家を訪問した前日のことだった。私が戸を叩いたとき、家主は家の中にいた。
部屋から出ることも出来ず、助けも呼べず、じわじわと身を焼く暑さの中、死を待つしかない。
その状況はまるで、ペットボトルに閉じ込められた蛙と同じだ。
「戸を開けた瞬間、すごい匂いがぶわっと湧いてきたそうでねぇ。
 立ち会った内の何人かは、そんで体を壊して、今でもうなされて、起き上がれないんよ。
 ……嫌やねぇ、死んでまで人様に迷惑かけて」
私は思う。
その発見者が戸を開けたとき湧き出してきたのは、本当に匂いだけだったのか。
生き物を閉じ込めて殺すことで生ずる呪い。
老人が最後に想った感情が恨みであったとすれば、扉が開かれた瞬間、その恨みはどこへ行ったのだろうか。

駄菓子屋を出た後、私は友人たちと一旦分かれ、一人であの家へと向かった。
歩いていくと少しだけ時間が掛かった。
日数が経っているからか、事件現場だと示すようなものは何も残っておらず、
塀の上に置かれていたはずのペットボトルも全て無くなっている。
門を開き、私は庭へと入った。
コオロギの水槽はそのままだった。
もう全部死んでいるだろうと思ったが、驚いたことに、まだ生き永らえている個体が居た。
餌もないのにどうやって生きているのだろう。
玄関の前に立ち、家を見上げる。
なんということはない。ただの古民家だ。嫌な予感も、匂いも、何も無い。
私は玄関の戸に手をかけ、開こうとした。
しかし、扉は動かなかった。鍵が掛かっている。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
あの日もこうやって、ちゃんと鍵が掛かっていたのだろうか。
私が扉を開けていたらどうなっていたのか。
くらげにはあの時、何かが見えていたのではないか。
しばらく考えてから、それらがいくら考えても答えの出ない疑問であることに気付く。
そして私は空を見上げた。
青々とした空からは、答えも、雨も、何も降っては来なかった。

終わり

213くらげシリーズ「黒服の人々 前編」1:2014/07/12(土) 16:42:51 ID:7TU1mP.c0
灰色の空から、水気をたっぷり含んだぼた雪が落ちてくる。
その日、学校は休みだったが、私は朝から制服に身を包み、自転車にまたがっていた。
自宅のある北地区から街を南北に等分する川を越えて、南側の山の中腹あたりに建つ友人の家へと向かう。
私が中学一年生だった頃の話だ。
二月。風は身を切るほど冷たく、吐く息は白く凍る。
山に沿った斜面を上っていると、見覚えのない車がいくつか路肩に停められているのが目についた。

友人の家の前に着く。家を囲む塀の周囲にも、車が何台か停められていた。
門の前では、黒い服に身を包んだ大人が数人立っていた。
そのうちの四十代くらいの女性が私を見つけ、一瞬怪訝な顔をしてから、軽く頭を下げた。
自転車を停め、視線を送ってくる人たちにお辞儀を返しながら、門をくぐる。
砂利の敷き詰められた広い庭と、その向こうの異様に黒い日本家屋。屋根には溶け残った雪が微かに積もっている。
庭にも数人、黒い服装をした人たちが何事か話をしていた。
見たことのない人たちばかりで、少しばかりの居心地の悪さを感じる。
丁度その時、友人が玄関から出てきた。
私を見やると彼もまた、少しだけ驚いたような顔をした。
制服ではなく、黒い長袖のシャツを着ている。
彼は、くらげ。小学校六年生からの付き合いである彼は、『自称、見えるヒト』でもある。
自宅の風呂にプカプカ浮かぶくらげが見えるから、くらげ。けれども、今日だけはその呼び名は使えない。
「来てくれたんだ」
その口調も、表情も、まるでいつもの彼と変わりはなく。
逆に、私の方が何と言ったらいいのか分からず、口を開くまでにずいぶん時間がかかった。
「……あのさ、こういうのは慣れてなくて。手ぶらで来たんだけど、……悪かったか」
「そんなことないよ。大丈夫」
玄関の脇には、小さな受付用の机と共に、柄杓と水の入った桶が置いてあった。
彼に連れられ玄関を抜けようとした時、私はふと思い出す。
この場合は確か、家に入る前には手を洗わないといけないのではなかったか。
しかし横の彼は何も言わず、私たちはそのまま家に上がった。

玄関から向かって左の大広間には、数十人分の座布団が敷かれ、すでに大勢の人たちが座っていた。
部屋の奥には両脇に榊を置く祭壇と木の棺、棺の前には一枚の写真が飾られていた。
モノクロの写真の中に写っているのは、くらげの祖母だ。
去年の秋ごろから体調を崩しており、冬の間はほとんど起き上がれないほどになっていたそうだ。
家族は入院するよう促していたようだが、彼女は家に留まることを望み、そうして数日前、春の訪れを待たずして亡くなった。
享年八十一歳、死因は老衰。
遺影の中の彼女は、着物を着ていて、目を細めて笑っている。
それは見覚えのある笑顔だった。笑うと、目が顔中のしわと同化してしまうのだ。
加えて、「うふ、うふ」というその独特な笑い声も、最初の頃こそ苦手だったが、度々会う内に慣れてしまい、
彼女とは何度か世間話で笑い合ったこともある。
彼女はくらげと同様『見えるヒト』でもあり、その力はくらげ以上だという話だった。
この家で二人の他に『見える』者はいない。
「もう少しで始まると思うから、ちょっとここで待ってて」
そう言って、くらげは私を残し部屋を出て行った。
私は目立たないよう部屋の後方一番隅の座布団に座り、じっと葬儀が始まるのを待っていた。
周囲からの視線は、家の門をくぐった当初からずっと感じていた。
数人からは、直接どこの子かとも聞かれたが、正直に孫の友人だと答えると、
彼らは表面上は「えらいね」などと言いながらも、
その視線にはどこか、私の言葉の真偽を探るような、訝しげなものが混じっていた。
そんな折。一人、茶色に薄く髪を染めた背の高い青年が部屋に入ってきた。十代後半だろうか。
くらげと同じような黒っぽいシャツを着ているが、どこかだらしない印象を受ける。
周りの者におざなりな挨拶をした後、彼の視線がこちらに向いた。
一瞬立ち止まってから、その目に浮かんだのは好奇だった。こちらに近づいてくる。

214くらげシリーズ「黒服の人々 前編」2:2014/07/12(土) 16:43:59 ID:7TU1mP.c0
「わざわざ、どーも」
彼の言葉に、私は無言で短く礼を返した。
彼とは話したことは無いが、初対面ではない。この家で一度か二度、顔を合わせている。
彼はくらげの兄で、三人兄弟のうちの次男。
くらげとは四歳か五歳離れていると聞いていた。そして、くらげがその二人の兄からひどく嫌われているとも。
「えっと、何だろ?君は今日、あいつに呼ばれて来たの?」
彼が言った。『あいつ』とはもちろんくらげのことだ。嫌な聞き方だと思った。
私は首を横に振り、「いえ」とだけ答えた。
「じゃあ、クラスの代表とかで?」
そんなことがあるわけがない。彼は薄く笑っていて、明らかに私をからかっていた。
私は彼をまじまじと見やった。
信じられなかった。すぐそこに彼の祖母が眠る場所で、彼はいとも簡単に軽口を言ってのけたのだ。
正直、腹が立った。けれども、私は膝に置いた手をぎゅっと握りしめて、頭の天辺へとにじり上ってくる不快な感情を抑えた。
「おばあさんのご飯を、食べたことがあるから……。この部屋で」
「あいつが飯食いに来いって?」
もう答えるのも嫌になって、私は無言で首を横に振った。私のそんな様子を見て、彼は面白そうに薄く笑った。
「なあ、これ、好奇心から聞くんだけど」と彼が言った。
「君ってさ、あいつの何なの?」
私はもう一度、彼を見やる。
私は、くらげの、何だ。それは考えるまでもなかった。
「……友人です」
彼が笑う。
「友達ならさ、あいつのこと、どこまで知ってんの?
 ……これ親切心から言うんだけどさ、俺、あいつの友達にだけは、ならない方がいいと思うんだよな」
彼の言いたいことは大体予想ができた。彼はくらげが『自称、見えるヒト』あることを言っているのだ。
まるで見えず、まるで信じない人からすれば、
彼の言動は虚言症持ちか、もっと言えば、精神異常者として映っているのだろう。
兄や父親も同じような考えなのだろうか。
くらげは自分の見える力のことを『病気だから』と言う。
私は思う。彼はきっと、こんな環境に居たからこそ、そう思うに至ったのだ。
唇を噛んだ。けれども、見えない人には何を言っても仕方がないのだ。
「……自分で病気だと言っていることは、知ってます。……何が見えるかも」
彼が初めて「へぇ」と驚いたような顔をした。
「知ってんだ。意外。……いやさ、確かに、あいつだけなんだよな。ばあちゃんが死んで泣かなかったの。
 やっぱその辺が関係あんのかな」
鉄の味がする。どうやら先ほど強く噛みすぎて、唇に穴が開いたらしい。
「……で、だからなんなんですか?」
吐き出すようにそう言うと、周りの人々がちらりと私たちを見やった。
彼はさすがにやりすぎたと思ったのか、「まあ、まあ」と私をなだめるように胸の前に両手を上げ、
先ほどよりも小さな声でこういった。
「いや、俺ってさ、良く勘違いされやすいんだ」
もし彼がこれ以上何か言ったら、もっと大声を出してやるつもりでいた。
けれども次の瞬間、彼の口から出てきた言葉は私を黙らせるのに十分なものだった。
「俺はさ、あいつが、『見える』っていうのは嘘じゃないと思ってるし、
 それに、別にあいつ自身がそれほど嫌いなわけじゃないよ」
それは相変わらず軽い口調だったが、嘘をついているようには見えなかった。
「でもさ。今、そこにある棺の中に入ってんのが、ばあさんじゃなくて、あいつだったらいいのになー、とは思ってる」

215くらげシリーズ「黒服の人々 前編」3:2014/07/12(土) 16:45:28 ID:7TU1mP.c0
私は彼を見やった。言葉が出なかった。
こんなにも堂々と、『死んでしまえばいいのに』という言葉を聞いたのは初めてだった。
それでいて、彼はくらげ自身は嫌いではないと言う。
「矛盾してると思うよな。でも、俺は正常だよ。たぶん、この家の人間の中じゃ一番マトモだ」
部屋の入り口から、どこか見覚えのある顔の知らない誰かが入ってきた。
「あー、兄貴入ってきたな。そろそろ始まんのかな」
振り返って、彼が言う。
礼服をぴしっと着用した、どうやらあの人がこの家の長男らしい。そういえばどことなく、くらげの父親と似ていた。
しかし、その時の私には、そんなことに気を取られている余裕はこれっぽっちもなかった。
「そうだなー……、あいつを一番嫌ってんのは、兄貴か親父だよ。たぶん。
 俺はまだほとほとガキだったから、何がどうしてああなったかなんて、覚えちゃいないしさ」
正直なところ、一体彼が何を言っているのか、私にはまるで分からなかった。
目の前の人間が、まるで宇宙人のように思えた。絶対マトモじゃない。そう思った。
全部顔に出ていたのだろう。彼はそんな私を見て薄く笑った。そして、天井近くの壁の方を指差した。
そこには遺影が何枚か掛けられてあった。
白黒の写真の中に一枚だけカラーのものがある。写っているのは、色の白い三十代くらいの女性だ。
彼が指差してるのは、その女性だった。
「あれ、うちのかーちゃんなんだけどさ……」
彼ら兄弟の母親は、くらげを生んですぐに亡くなったのだと聞いたことがある。
長男に続いて部屋の入り口から、くらげと、くらげの父親が入ってきた。これから葬儀が始まるのだろう。
その時、傍にいた彼がぐっと近寄ってきて、私の耳元で一言ささやいた。
その瞬間、私の中の時計が止まった。
どんな顔で彼を見やったのか、自分でもわからない。
彼はまた、あのからかうような薄い笑みを浮かべると、踵を返し、祭壇の近くの親族の席へと移っていった。
ふと気が付くと、部屋の入り口に立ったまま、くらげが私の方を見つめていた。
その顔は、いつも通り無表情で、これから彼の祖母の葬式をするというのに、何の感情も表に出してはいない。
彼の言葉がずっと頭の中でこだましていた。
こだまなら、壁にぶつかり跳ね返るごとにその音は弱くなっていくはずなのに、
その言葉は私の脳内で反響を重ねるごとに、大きく、強くなっていった。
私は思わず視線をそらしてしまった。
はっとしてもう一度くらげの方を見たが、その時にはもう彼は私を見ておらず、自分の席に向かっていた。
――かーちゃん殺したの、あいつだから――
私の耳にこびりついた言葉。
そんなはずはない、常識的にありえない、と何度否定しても、その言葉は私の中で膨れ上がり、
軽い吐き気と一緒に胃からせりあがってきた。とっさに口を押える。

狩衣に烏帽子を被った斎主が部屋に入ってきた。
部屋の中にいる黒服の人々がその方を向いて礼をする中、
部屋の隅で私だけが体を丸めたままじっと動かず、つい先ほど傷をつけたばかりの唇を、強く、強く噛んでいた。

216くらげシリーズ「黒服の人々 後編」1:2014/07/12(土) 16:46:40 ID:7TU1mP.c0
私の胸中とはまるで裏腹に、葬儀はしめやかに進められた。
えらく長く、それでいてほとんど何を言っているか分からない祝詞などを聞いているうちに、
次男の言葉に混乱していた私も、次第に落ち着きを取り戻していった。
一度、冷静になって考えてみる。
くらげの母親は、彼が生まれた直後に亡くなったと聞いている。
そうだとすれば、本当に彼が母親を殺したのなら、首も座らない赤ん坊が殺人を犯したことになる。そんなことはありえない。
けれども、彼が全くの嘘をついたようにも思えなかった。
だとすれば、おそらく彼女は、出産が原因で亡くなったのではないか。
昔よりは医療が充実した現代だが、ありえない話ではない。
もしもそれが原因だとしたら、彼女の死が、引き換えに生まれてきた赤ん坊のせいにされることだってあるだろう。
私の理性はそう結論付けた。これ以上の答えは、その時の私には考え付かなかった。
それでも、何か腑に落ちない、もやもやとした塊が腹の中に残った。
私の中の誰かが、「違うんじゃないか」と言っている。私はその声を無理やり胸の奥の奥へと押し込んだ。
するとその代わりに、また、あのおちゃらけた次男への怒りが湧き起って、それを鎮めるのにも一苦労がいった。

葬儀の方はすでに、祝詞から玉串奉奠へと移っていた。
仏式では焼香にあたる儀で、席順に遺族、親戚、一般という順に榊の枝葉を受け取り霊前に置いていくようだ。
当時の私は神葬祭の経験自体少なかったので、奉奠のやり方が分からず、目を凝らして前の人の動作を観察した。
二礼二拍一礼は分かるのだが、その前の榊の置き方だ。
何やら回転させているように見えたが、距離があるのと、背中で隠れてしまうため、良くわからない。
私の番が来るまでに、ちゃんと見て覚えておかなければならない。
そう思い、玉串を納めている人の背中を凝視していると、ふと私の目に別の何かが映った。
棺の上に、小さな光る何かが浮かんでいる。
それは蛍の光のような、小さな、淡く青い光の粒だった。しかも、一つではなく複数だった。
何だろう。焦点を合わそうとしても、いかんせん祭壇まで遠く、それが何であるかわからなかった。
祭壇には提灯があるが、それは少なくとも提灯の光ではなかった。風に遊ばれる風船のように揺れて、浮き沈んでいる。
一体、あれはなんだろう。
ふと気が付くと、ほとんどの人が奉奠を終え、次が自分の番だった。
まだ完全に動作を覚えたわけではないが、今になって誰かに助けを求めるわけにもいかない。
仕方なく、ぶっつけ本番で臨むことになった。
祭壇に近づくにつれて、棺の上にある淡い光がより鮮明になる。
斎主の前に進み出た時には、それが何であるかはっきりと見て取れた。
それは小さな、ゴルフボールくらいの大きさの、数匹のくらげだった。
その表面にちりちりと光の筋を浮かび上がらせ、空中にふわふわと漂っている。
どうやら、ゆっくりと天井に向かっているらしい。
そのうち、一匹の新たなくらげが、棺の中から顔を出した。
このくらげたちは棺の中から現れているのか。
あまりの光景に、私はしばらくの間、我を忘れていた。
自分の前に榊が差し出されているのに気づき、慌てて受け取る。
霊前に進むと、一匹一匹のくらげたちの表情がより深く見て取れた。
薄暗い部屋の中、それはとても幻想的であり、たっぷり非現実的でもあり、見惚れるには十分な光景だった。
これは何だろうという疑問さえ、綺麗に消え去っていた。
ふと、くらげたちの動きが変化したのに気が付いた。
天井へ向かっていたくらげの群れがその動きを止め、再び棺の中へゆっくりと落下していく。
そうして、最後のくらげが棺の中へと消えていった次の瞬間、玉串を持った私の手を、誰かの手がふわりと包み込んだ。
その手は目には見えなかった。しかし確かに、棺のある方向から私の両手を優しく握っていた。
そうして、私の手を玉串諸共ゆっくりと時計回りに回転させた。葉をこちら側に、玉串の茎が棺に向くように。
目には見えない。けれども、握られたから分かった。
その手は、小さく、しわだらけで、ごつごつしていた。そして、私はその手が誰の手かを知っていた。
『彼女』は奉奠の動作がわからない私に教えてくれたのだ。
不意に涙がこぼれた。それは感情の動きよりも先に、フライングして出てきたような涙だった。
玉串を置いてもしばらくの間、その手は私の両手を握ったままだった。
このままでは涙も拭けない、そう思った時、ふっと手を包んでいた感触が消えた。
制服の袖で、ぐい、と涙をぬぐい、棺に向かって、二礼、二拍手、一礼する。
ありがとうございます。
そう一言呟き、私は霊前を後にした。

217くらげシリーズ「黒服の人々 後編」2:2014/07/12(土) 16:47:46 ID:7TU1mP.c0
目がにじんでいたせいか、棺の中から浮かび上がるくらげたちは二度と見えなかった。
席に戻る際に、親族の席に座っていたくらげと目があった。
涙の跡を見られないようにと目をそらすと、向けた視線の先に次男が居た。
さすがに真面目な顔をしていたが、どこか面白そうに私を見ていた。
その横には長男も座っていたのだが、彼は軽く目を瞑り彫像のように動かない。
三人が三人とも似ていない兄弟だった。

一般客の後、最後に斎主が自ら玉串を霊前に置き、玉串奉奠の儀は終わった。
その後、斎主が退出し、喪主であるくらげの父親の短い挨拶があって、葬儀は閉会となり、
出棺の準備のため、親族以外は別の部屋に待機することになった。
しばらく待っていると、大広間から、どん、どん、と釘を打つ音がした。
次いで家の中から棺が運び出され、門の外で待っていた霊柩車に乗せられた。
外は相変わらず水をたっぷり吸った重たい雪が降っていた。空は灰色。
遠くの山を白くかすみ、その中を黒い服に身を包んだ人々が動いている。
まるで、出来の悪いモノクロ映画のような光景だ。
火葬は近しい親族だけで行うらしく、私のような一般客やその他の人は、彼らが戻るまで家で待つことになった。
大広間に、茶や菓子が用意されているとのことだったが、私は家には入らず、彼らの帰りを外で待つことにした。
理由は特にない。強いて言うなら、出所の分からない意地だった。
外は寒い。何度か中に入るようにと言われたが、首を横に振り続けていると、彼らも何も言わなくなった。
家に入り、事情を知ってそうな人から、くらげの母の話を聞く。そういう考えも無くはなかった。
けれども何故か私には、もしも誰かに訊くとすれば、この話はくらげ自身の口から聞くべきだ、という想いがあった。

雪がひどくなって、私は屋根のある門の下へと避難した。上着も持ってきていなかったため、手も足もひどく悴んだ。
自分でも何をやっているのだろうと思ったが、それでも家に入る気は起きなかった。
火葬場で焼かれている祖母の遺体のことを思う。雪風に打たれている私とは真逆の状況だ。
といっても、敢えて変わってほしいとも思わなかったが。
ひとしきり馬鹿なことを考えていると、年配の女性が家の中からお菓子と防寒具を持ってきてくれた。
紋所の付いた赤いちゃんちゃんこ。亡くなった祖母のものだという。袖はなかったが、それはとても暖かかった。

火葬場から彼らが戻ってきたのは、二時間も経った後だった。
祖母のちゃんちゃんこを着、門で待っていた私を、親族たちのほとんどは奇怪な目で見やった。
次男は可笑しそうに笑い、長男と父親は何も言わず、くらげは真顔で「本当に、おばあちゃんかと思った」と言った。
その後は大広間での食事会だったが、大人たちのつまらない昔話に耳を傾けるつもりはなく。
私はくらげを誘って抜け出し、二階の彼の部屋へと上がった。
適当なところに座布団を敷いて座る。二人ともしばらくの間、口を開かずにいた。
色々な考えや出来事が私の中のあちこちで渦を巻いていて、それらは容易に言葉にならなかった。
「……今日は、ごめんね」
先にそう言ったのは、くらげだった。
彼は私に向かって『ごめん』と言った。しかし、こちらには謝られるような覚えはない。
怪訝そうに彼を見やると、彼は私とは目を合わさず、「何だか、気分を悪くさせたみたいだから……」と言った。
なるほど。くらげは彼の兄であるあの男のことを言っているのだ。
確かに嫌な気分にはなった。けれども、それは決して彼が謝るべきことではない。
話題を変えようと、私は無理やり口を開く。
「そう言えばさ……、棺の上に、小さいくらげが浮いてたよな」
すると、彼が不思議そうに私を見た。
「……くらげ?」
彼には見えていなかったらしい。
私は驚く。私に見えたのだから、当然、それは彼にも見えたのだと思っていた。
私は元々霊感など持っていない人間だ。それが、くらげと一緒にいるときだけ、僅かだが彼と同じものが見えるようになる。
今まではずっとそうだった。
「え、じゃあ、あの手も?」
くらげは首を横に振った。私は彼に、玉串奉奠の際に体験したことを一通り話した。
「そう……、おばあちゃんらしいね……」
そう小さく呟いた彼の口元は、かすかに微笑んでいた。
窓の外に目を移すと、ぼた雪はいつの間にか雨に変わっていた。

218くらげシリーズ「黒服の人々 後編」3:2014/07/12(土) 16:49:12 ID:7TU1mP.c0
こんな雨の日、くらげの祖母には、空に向かって登る無数の光るくらげたちが見えたそうだ。
「なあ、くらげさ」
くらげの方に顔を向けると、彼は小さく頷き、「うん」と言った。
「ただの想像だけどさ。もしかして……。あのくらげって、生き物の死体から湧くんじゃないか」
棺の上を漂い、青白く光るくらげたち。あの時、私は一瞬だけだが、魂という言葉を連想した。
死体から湧き出る、くらげ。もし、魂というものが存在するのなら、あの光るくらげは、それに近いものなのではないか。
以前、どこかで聞いたことがある。雨は、そのたった一度で、驚くほど多くの生き物の命を奪うと。
生を失うのは、大抵は小さな生き物だ。その一つ一つの魂が発光する小さなくらげとなり、空へ向かって昇っていく。
祖母はその光景を見ていたのではないだろうか。
そんな与太話を、くらげは黙って聞いてくれていた。
私がしゃべり終えると、彼は肯定も否定もせず、窓の向こうの雨を見つめながら、「そうかもしれないね」とだけ言った。
またしばらく沈黙が続いた。
「おばあさんさ……。死ぬ前に、くらげに何か言った?」
ふと、気になっていたことを尋ねる。
死に目にはあえたと聞いていた。人が人に伝え残す最後の言葉。祖母は彼に何が言い残したのだろうか。
「……『強う気持ちを持っておらなぁいかんよ』」
くらげは、ゆっくりとその言葉を口にした。
「そう言った。……自分はもうじき居なくなるから、って」
私は改めてくらげを見やった。その言葉はもしかしたら、そのまま祖母の人生を表していたのかもしれない。
くらげに祖母が居たように、彼女には誰か味方がいたのだろうか。
私は、玉串を納め終えた後もしばらく離してくれなかった、あの小さな手の感触を思い出した。
あの手は、私に何か伝えようとしていたのではないか。
祖母が死んで、くらげは一度も泣かなかった。次男は私にそう言った。
死者が見えるのだから、悲しむ必要もないのだろう。その言葉の裏にはそんな響きがあった。
私はあの野郎が嫌いだ。
悲しくないはずがない。私は二人がどれだけ仲が良かったかを知っている。
いくらそれらが見えたからといって、死んだ者が生きている者と同じようにふるまえるわけがない。
私はそれをこの家で学んだ。死んだ祖父のために出された料理は、決して減ることは無かった。
例え骨になるまで焼かれても、例え雪の降る中突っ立っていても、死んだ者は熱さも寒さも感じることは無い。
いや、例え感じていたとしても、私たちにそれを知るすべはない。
悲しくないわけがない。
私は自分の肩に手をやった。柔らかな綿の感触。まだ、祖母の赤いちゃんちゃんこを着たままだった。
このまま着て帰りたい気持ちもあったが、いったん脱いで、彼の前に差し出した。
「これ、返す」
彼はそのちゃんちゃんこをじっと見つめ、それから「……うん」と言って手に取った。
「……それ着てみろよ。すんげぇあったかいから」
彼は無言でちゃんちゃんこを羽織った。意外と似合っている。
「な」と私が言うと、彼はまた「……うん」と呟き、そのまま抱えた両膝に顔をうずめた。
そうして彼は、まるで眠ってしまったかの様に動かなくなった。
本当は、彼の母親のことを訊こうかとも思っていた。一歩間違えればそうしていた。
私は彼を問い詰め、そして彼はきっと正直に答えてくれただろう。
私は寸前で、これ以上彼を追い詰めずに済んだのかもしれない。
きっと彼だって、張り詰めた糸のような均衡で保たれていたに違いないのだ。
訊くべき時。それは決して『今』ではなかった。
その名を呼ぼうとして私は口をつぐんだ。
膝に顔をうずめ動かない彼に、それ以上かけてやるべき何かを私は持ってはいなかった。
あったとしても彼には届かなかっただろう。当時の私たちは、まだほんの子供だった。
だからせめて、私は彼が顔を上げるまで、そこで待つことにした。
寝転がると、一階の大広間の話し声が微かに聞こえた。大きな家だから、なかなか声も届かないのだろう。
耳を澄ますと、すぐ窓の向こうに降る雨音の方がよく聞こえた。
例え彼が母親を殺していたとしても。たった一つ、これだけは言える。
彼はいいヤツだ。
寝転び、窓を見上げたまま、私は目を閉じた。
暗闇の中では、幾千幾万というくらげが色とりどりに薄く淡く発光しながら、
どこへ続くかもわからない空へと吸い込まれていった。

終わり

219鴨南そばさんシリーズ「四角い部屋」1:2014/10/07(火) 13:43:11 ID:N5E6U.uY0
バイト先の仲間及び上司と肝試しをすることになった。
常連のお客様一人とそのご友人二人。僕とユウキ(源氏名)、そしてガクト(仮)さん。
女二人、真ん中の人一人、男三人、計六人。
名目上は、お客様へのアフターサービスと新しい顧客開拓の準備行為。
売上が急激に下がったのが、このようなサービス残業をする理由だ。
不況を理由には出来ない。その時期にゴソっとお客様が来なくなったのだ。サービス低下の証拠だろう。
潜在的な顧客を含めても、お客様三人に僕たち三人を当てるのは少々過剰だと思う。
だが常連のお客様は、指名料ダントツのガクトさんを二時間以上拘束できる相当な太客。
なので、そのご友人にも期待をこめての放出なのだろう。
しかし正直言うと、ナンバー1であるガクトさんへの接待色が強い。お客様三人も「あれ」が目的だ。
つまらない話だろうが、大声で笑う。自慢話は褒め称える。わざとらしく、大袈裟ぐらいが丁度いい。
外面、男女が六人で和気藹々。内面、各人の思惑で虎視眈々。

「おい、リョウ。それお姉ちゃんマンションだろ?」
焚き火越しに、ガクトさんが僕の源氏名を呼ぶ。照り返しで元々深い彫りの顔立ちがまるでマネキンのようだ。
「流石!これ、僕の地元の話だから勝算あったんですけど。マジ何でも知ってますね」
「お、そうなのか。何度塗りなおしても赤い文字で浮かび上がるんだってな。TVで見た」
「なにそれ〜。怖〜い」
男ではないお客様予定の一人が黄色い声をあげる。全く怖がっているようには見えない。
食虫植物のような凶悪なマスカラに彩られた目で、ガクトさんを見つめる。
どうやら既にガクトさんのことを気に入ったようだ。言い忘れたが、女でもない。
ユウキが次の話に移る。
「じゃあ、ガクトさん、四角い部屋は?」
「あ。あーし、聞いたことあるかもぉ。四人が遭難して寝ないようにして、助かるのでしょ」
アピールするのはかまわないが、それではただの良い話だ。
「山岳部とかワンダーフォーゲル部だかの奴らが、遭難から命からがら帰還。
 実は、その生き残った方法に重大な欠陥があることに後で気づく、ってヤツか。有名な話。基本だな」
「知ってますねえ。なんでそんなに詳しいんですか?」よいしょ、よいしょ。
僕の言葉にユウキが被せる。
「違います、そっちじゃないです。
 マンションとかホテルのペントハウス、エレベーターから直結する部屋あるじゃないですか。
 あんな感じで、エレベーターで四角い部屋に直結するらしいんす。聞いたことありますよね?」
「はあ?部屋なんて大概四角だろ?」
「俺も詳しくは分かんないんすけど、その部屋は完全に四角なんですって。やっぱり知らないんすか。…俺1点ゲットですね」
「何だよ、その完全な四角って。意味わかんねえよ」
確かに意味が分からない。ただ四角い部屋に行くのが何故怖い話なのか。
恐らくは、元々意味のないものに意味を与える行為を楽しむ類の怪談なんだろう。
「じゃあ次、私の番ね。友達から聞いた話なんだけど――」
浜辺で一斗缶の焚き火を囲みながら話していた。

百物語のあとに心霊スポットに行くのが肝試しの王道だ、とガクトさんの案。逆らう理由も力もない。
最初は百物語のつもりで話していたのだが、思いの他ガクトさんが怖い話を知っているため、
徐々に趣旨が変わり、ガクトさんの知らない怪談を探すゲームになっていた。
今のところユウキの話以外は知っているようだ。
「あぁ、それ知ってる。足つかまれるオチ?」
「何で知ってるの、私もうないよ。ホントにガクト物知りだね」
百物語と言っても、百話も話すつもりがないのは全員理解している。
適当なところで心霊スポットの探索に行く予定だ。
本当にやるとしたら、六人で百話、一人当たり16,7話用意しなくてはならない。
普通なら知っている話など2,3話がいいところだ。相当難しい。
百物語を終えた後には怪異が起こるというのも、こういった理由からなんだろう。
肝試しは仲間内での遊びだ。

220鴨南そばさんシリーズ「四角い部屋」2:2014/10/07(火) 13:43:44 ID:N5E6U.uY0
肝試しをするのに集まる仲間など、多くても十人いないくらいだろう。
一人10話も話せないから、百話も話せない。結局、百物語は終われない。
秒速で落下する流れ星に三回も願い事を唱えられないのと同じだ。
肝試し用の心霊スポットは、随分前から放置されている廃ホテルだった。
経営苦で自殺した社長が出るそうだが、
恐ろしいのはむしろ、壁に落書きに来る暴走族や、風雨に晒されたビルの耐久性だろう。
いっそう仲良くなった様子のガクトさんとお客様たちを、彼のマンションに送る。
どうか明日からウチの店に通ってくれますように×3。
流れ星ではないが、一応願っておく。念のため。

僕たちも帰路に向かっているときに、ユウキが切り出した。
「なあ。さっきの四角い部屋の話なんだけど」
「ああ、あれは良くねえな。何なのお前、空気読めよ。分かってるだろ?」
「いや、ガクトさんなら大丈夫かと思ったんだよ。ダメだったけど。
 で、四角い部屋の謎解きに攻め込もうぜ、今から。チャレンジだ!リベンジだ!」
あっついなあ。リベンジって意味分かってるのだろうか?
「何お前、マジネタなのかよ?ガキじゃねえんだからさ」
「マジネタも何も。まさかお前も?四角い部屋知ってるだろ?」
「ガクトさんが知らないネタ、僕が知ってるわけないだろ。有名なのかそれ」

ユウキが話した四角い部屋のルールはこうだった。
エレベーターで直結部屋に行った者しか『完全な四角』の意味は分からないのだが、
『完全』の意味が分かると意味が分からなくなる。
四角い部屋に行くことは誰でも出来るのだが、エレベーターの最大積載量を越えることは出来ない。
必ず一階からスタート。
エレベーターのボタンを下から上まで順に押す。
点灯を確認して、その後上に向かう。
止まる直前に非常ボタンを押す、そうするとランプが点灯したまま次の階に向かう。
それを最上階まで繰り返す。全てのボタンが点灯した状態で最上階へ。
最上階まで行けると、そこは『完全な四角い部屋』だという。
途中で人が乗るなどの邪魔が入ったり、階数のランプが全て光っていなければ失敗らしい。

「エレベーターに非常ボタンなんてあるの?」
「ははっ、俺も似たようなこと聞いたわ。
 非常ボタンってよりも非常マイクって言った方がよかったな。あれで管理人に繋がるんだよ」
「ああ、あれのことか。緊急停止用のボタンかと思った」
「エレベーター緊急停止して何の得があるんだよ。むしろ何かあったら急ぐだろ。面白いこと言うな」
非常ボタンを押すと、外部のメンテナンス会社に繋がるものと、ビル内の管理人に繋がるものがある。
今回行くビルは、管理人に繋がるタイプのものらしい。やけに詳しい。こいつ。
「お前、既に下見済みかよ」
「まあ、そんな感じ。途中で帰ってきたけどな」

221鴨南そばさんシリーズ「四角い部屋」3:2014/10/07(火) 13:44:36 ID:N5E6U.uY0
路上に駐車し、歩くこと五分。
「着いた。ここ」
「え?コレ?全然普通のビルじゃん。死ぬほどぼろいけど。電気は点いてるけど、ホントに人住んでるのか」
「あの潰れたホテルよりはマシだ」
ユウキは先導して入り口へとずんずん進む。見たところ十階程度のマンションだ。
外灯からの距離が離れているせいか、建物の壁面が薄汚れた灰色をしているせいか、
マンション管理会社が電気代をケチっているせいなのか分からないが、いやに暗い。
「これがそのエレベーター」
ボタンを押すと、チンという音が鳴り、すぐさま扉が開いた。
しばらく誰も乗らなかったのか、中にある蛍光灯がチカチカと瞬きながら点く。
「あっそ。んで、どうするの?」
「まずは、一階から十階までの階数を全部押す」
何度やっても全部は点かない。
若干飽きてきている僕とは正反対にユウキは必死だ。
当たり前だ。今一階に止まっているのだから、一階のランプなんて点かない。
「なあ、謎解きしたいんだろ?取り合えず一番上行こうぜ。それで解決するかもだろ?」
ユウキは僕の言葉を聞き、口をポカンと開け、呆けた。
「お前、頭良いな」
誰でも考え付きそうなものだが、お馬鹿なユウキ君は考え付かなかったようだ。
こいつジャニーズの高学歴アイドルに似てるのに天然だったのか、知らなかった。
しかし、頭が良いと言われてちょっと嬉しくなる僕もまた、頭が悪いのだろう。

最上階に着く。居住用の部屋のドアが通路の壁に均等に並んでいるだけだ。
天井の蛍光灯がパチパチ音を立て切れかけているのが少し怖い。
だが、通路が四角くもなければ、トワイライトゾーンに繋がっているわけでもない。
きっとこのエレベーターの怪談を知る者は、一階のエレベーターで悪戦苦闘して先に進めず……。
そうか、何となく分かった。

「なあユウキ。俺、分かっちゃったんだけど」
一階に戻り、小学生のようにエレベーターのボタンを連打するユウキ。見ていて滑稽だ。
「うるさい。今忙しい」
イライラが伝染する。冷たく言う一言に、カチンと来る。
「ねえもう帰っていい?僕疲れちゃったよ。主に精神面で」
「はあ!?ふざけんな!俺と一緒に謎解くって言ったじゃねーか!」
いや言ってないし。何熱くなってんだよ。
「もういいよぉ、飽きたよぉ」
「帰るんなら帰れよ!マジむかつくわリョウ。お前ぜってえ後悔させてやるからな」
おお、こわ。それじゃあお言葉に甘えて帰らせていただきます。

222鴨南そばさんシリーズ「四角い部屋」4:2014/10/07(火) 13:45:17 ID:N5E6U.uY0
クルマに乗り込んだのはいいが、帰りアイツ足どうするんだろ?という素朴な疑問と罪悪感が生まれた。
どうやら先ほどは僕も熱くなっていたらしい。売り言葉に買い言葉だ。ちょっとだけ待ってやるか。
prrrrr
『もし。リョウ今どこだ?』
ガクトさんからだ。
「お疲れ様です!まだ近くにいます。何かありましたか?」
『ちょっとお客さんの相手してくれね?俺もう寝たい』
「了解です!すぐそっち行きます」
『ユウキもいるか?』
「今ちょっといないですけど、連れて行きます」
『頼む。早めにな』
先ほどのクサクサした気分とは一転、楽しくなってきた。
早くユウキを連れてピンク色のパーティーへと行こう、そんなことを考えながらユウキへと電話する。
「もしもーし、まだやってるのか?ガクトさんからお呼び出しだ、行くぞ」
『……マジかよ、分かった。……あ!点いた!』
「え?点いたの?でももうダメ。ガクトさんの言うことに逆らうなんて、健全な男子の僕には出来ないわ」
『あとちょっとだけ待っててくれ。頼む』
「ムリ。早くこっち来い」
『ちょっとだから、すぐに終わる』
「あのさあ、言いたくないけど、それお前ハメられてんだよ。元々成功するはずないんだ。その怪談は――」
僕はその怪談のカラクリを教えてやった。
一階のボタンが点灯した理由は分からないが、普通は到着階に着いたエレベーターのボタンの点灯は消える。
それが到着した合図だから、むしろエレベーターの設計上そうならなければならない。
全てが点灯した状態でどこかの階になどいけない。
少なくとも一つはボタンの光は消えている状態になっている。
動いている最中に押せば出来るが、それだと怪談のルールを破るし、そもそも降りるべき最上階に着いたら消えてしまう。
だから、最初から出来ないことを前提とした怪談で、出来たら不思議な何かがあるかもっていうオチ。
『…不思議な何かって何だよ』
「知らないし。何かがあるっていうのを考える怪談なんだから、答えはないんだよ」
『じゃあ、シュンさんはどこに行ったんだよ!?』
「誰だよ。ほら、ガクトさん待たせてんだから早く」
『っざけんな!何で誰も覚えてねえんだよ!?ナンバー2のシュンさんだよ!俺の派閥の親だよ!!』
「はぁ?何言ってんだ?ナンバー2はマキさんだろ?結構前から」
尋常でない取り乱し方に、僕はマンションに向かう。電話は繋がったままだ。
『大体、お前らに四角い部屋の話をしたのも、シュンさんだろぉが!?
 四月に、ガクトさん派とマキさん派とフリーのお前を含めて、ノルマ持ち合いの会議しただろ!?
 その席の雑談で、四角い部屋の話しただろ?』
「おいおい、落ち着けって。何の話か分からないぞ。四角い部屋は今日初めて聞いたぞ」
確かに四月に会議をした記憶はある。
派閥間でノルマを分配し合うことにより、ノルマを達成できないという給金に影響を与えるリスクを減らすのだ。
もちろん、提供できる余裕ノルマがある派閥の発言力が強い。そしてそれは、大体の場面でガクト派だったりする。
派閥間ではこれで貸しを作ったりする。派閥の親は、派閥管理のためにも使う。
季節的理由で避けられない人員変動や、予見できない急な用事の時が重なった時に役に立つ。
『じゃあ何で今日俺がガクトさんと一緒にいたのか、説明できるか?』
「それはお前……」
何でだ?そういえば何でユウキはガクトさん派になったんだ?揉め事起こしたわけでも、拾われたわけでもない。
俺は良い。各派閥に影響力のある強力なコネを持っているから、基本的に派閥間移動はフリーだ。
ちょっかい出してくるヤツは表立ってはいない。今日のような催しも招待される。
しかし、ガクトさんの派閥に入って日が浅いはずのコネもないユウキが、
何故プライベートに近いこんなイベントに参加できるのか。
確か、確か、確か。

223鴨南そばさんシリーズ「四角い部屋」5ラスト:2014/10/07(火) 13:46:01 ID:N5E6U.uY0
『答えられないのか?教えてやるよ。それが四角い部屋の謎だ。
 俺はガクト派になった覚えはねえ。入店してからずっとシュンさん派だ。
 だけど、今の俺は何故かガクト派だ。説明できる理由がねえ。それを誰も不思議に思わねえ。
 矛盾だらけなんだよ。シュンさんが四角い部屋に向かってから。
 だから俺も行く。行って四角い部屋の謎を解く。
 おい、聞いてるか?リョウ?今八階だ。もうすぐシュンさんを助けられる。よっと、これであと一階』
「待て、言ってる意味が分からない。取り合えず戻れ、もっとちゃんと説明してくれないと分からない。
 シュンって誰だ?何でその人が四角い部屋に行くことになったんだ?
 何でシュンって人が四角い部屋に行ったこと知ってるんだ?」
『もうちょっと待ってろ、もう着く。よし』
「おい!?止めろ!!」
『……くそ、完全ってこういうことかよ。確かにカンゼ――』
「おい!?返事しろ!冗談にしてはタチがわりぃぞ!!!」
ユウキの電話が切れた。いや、切れていない。
電話を掛けてすらいない。音がなくなっただけだ。
通信が切れた後の音や、通話時間を示すものもない。ただの待ち受け画面になっている。
リダイヤルのページを開いても、僕が最後に電話を掛けたのはガクトさんになっている。掛かってきたのもガクトさん。
電話帳にもメール受信・送信欄にもユウキの名前はなかった。
何だこれは。

マンションに到着する。急いでボタンを押す。
チンと音を立てドアが開くと、中の蛍光灯が点いた。エレベーターには誰も乗っていなかった。
prr
ガクトさんだ。
「はい」
『おう、ついでに箱ティッシュとペリエ買ってきてよ』
「すいません。ユウキと連絡が取れなくなってしまって」
『ん?ユウキ?誰?』
「え……。いや、今日一緒に……」
『何?遅いと思ってたら知り合いにでも会ったのか。いーよいーよ。友達は大切にしな。
 だけど上司にもちょっぴり優しくしてくれると、睡眠時間と共に君への感謝が増える』
「ガクトさん、あの、シュンって人知ってますか?」
『誰?同業?』
「いや、知らないならいいです」
『じゃ、頼んだ』
「すいません!あと一つ!四角い部屋って知ってますかっ!?」
『おいうるせぇって。眠いんだから耳元で叫ばないでくれよ。
 四角い部屋?はあ?部屋なんて大概四角だろ?なぞなぞ?』
「いや、完全に四角い部屋です」
『何だよ、その完全な四角って。意味わかんねえ。いいから早く来いよ、お待ちかねだぞお姉さま方』
その声と共に、リョウちゃ〜ん、と甘い声が複数響く。
しかし心は躍らなかった。

終わり

224鴨南そばさんシリーズ「迷子」1:2014/10/07(火) 13:47:10 ID:N5E6U.uY0
車で旅行に行った話。

僕にバイトを斡旋してくれた先輩と夏休み旅行に行った。
当時、念願のクルマを購入した僕は、ドライブに行きたくてしょうがなかった。
「じゃあ俺の実家行くか?」
そう言った先輩に僕は二つ返事で飛びついた。
道中は特に何もない。ただ、移動距離が飛行機クラスだった。
夜の11時に出発して、着いたのが朝過ぎ。もうアホかと。
先輩の家族はものすごく良い人たちだった。
先輩はきっと拾われた子なんだろう。または遺伝子操作で生まれたんだろう。
受験生の妹もいた。先輩の妹だけあって凄く可愛かった。どうやら兄・先輩・妹の三兄弟らしい。
「手を出したら殺す」と、半ば本気で言われる。
「先輩がシスコンとは意外でした」と言ったら、みぞおちに蹴りをいただいた。ナイスキック。

ここから本題だ。
状況はたったの二文字で表すことができる。『迷子』だ。道に迷った。

事の発端は、滞在二日目に先輩が「良い所教えてやるから行くぞ」と言ったことだ。
妹ちゃんともっとお話していたかった。だが、僕が妹ちゃんにべったりなのでやきもちを妬いたのか。
先輩の気持ちは分からないが、僕を外に連れ出した。

囲炉裏のある温泉宿みたいなところに連れて行ってもらう。
そこで昼食の他に、蜂の子(?)と、ツグミ(?)を食べさせてもらった。
どちらも凄く珍しいものと聞いたのだが、グロテスクすぎて食べるのに勇気がいる。
思い出としては懐かしいが、今出されて食べる自信はない。
そこは先輩の古くからの知り合いの店だったようだ。
先輩のことを「タクちゃん」と親しげに呼んでいた。

温泉にも入り、囲炉裏でタバコを吸いながらまったりしていた。
先輩が「サトさん」と、入ってきた人に声を掛ける。
「おお。お前久しぶりだな、こんな所に何の用だよ」
「サトさんご無沙汰です。今、後輩を連れて帰省中なんです」
「もっと顔出せよ、まあいいや。親父さん元気か?」
「元気ですよ。あ、コイツ後輩のマサシです」
「こんにちは。先輩にはいつもお世話になっています」
「嘘つけよ。お世話してんだろ?」
「……はい」
その後、サトさんを含めて三人で雑談。
サトさんは長身でスラリとしていて、声が太く、口が悪い人だった。
だが、凄く感じのいい人だ。先輩が懐くのも分かる。
面倒見の良い渋いイケメンとでも言えばいいのだろうか。
建築関係のリース業をやっていると言っていた。実は当時は良く分かっていなかった。
その日は休みだから釣りに来た模様。
「先輩、僕たちも行きましょうよ」
「明日な、今からじゃ遅いわ」
サトさんにそのポイントを教えてもらう。

225鴨南そばさんシリーズ「迷子」2:2014/10/07(火) 13:47:45 ID:N5E6U.uY0
次の日の早朝から家を出た。
そして、お待ちかねの帰り道。道に迷う。
先輩が調子に乗って、上流へ上流へと登って行く。
さあ帰ろうと言う時に、現在位置が分からなくなった。
先輩の地元とはいえ山奥。道順など知らないだろう。
もちろん、山を甘く見た僕たちがGPSなど持って行っている訳がない。
「ここどこですか?」
「分からん、ヤバイな」
「まあ道路ありますから、まっすぐ行けばどっかに当たりますよ」
「だな」
道路に上がり歩いた。
しかし、相当な時間歩いてもどこにも着かない。それどころか、看板すら見えない。
段々暗くなってきた。
休憩と称して、ガードレールに腰掛ける。
タバコに火をつけながらふと有名な怪談を思い出す。
「そういえば、オイテケ掘りとかありましたね」
「ああ、なんかの昔話だろ?」
「今の状況それじゃないっすか?」
「荷物になるし、置いてくか」
「オイテケ掘りだけに?」
「オイテケ掘りだけに」
ナイロン製の魚の入った魚篭やえさ箱を道路の脇に置き、釣竿やタモなどの小道具もそこに置いていった。
一応、電話番号と名前と後日取りに来る旨を書いた物を添えて。
オイテケ掘り云々よりもかさばって歩き辛かったのがメインの理由。
持って行かれてもいいや、そんな気持ちだったのは内緒だ。借り物なのに。

それから更に歩いた。
幸いなことに疲れもほとんど感じない。
緩い下り道が続いていたので、何も考えずに歩いた。何とも無計画な行為。
クルマが来たら乗せてもらおうと思っていたのだが、それも叶わず。

三時くらいに道に迷ったのを先輩が認め、今が夜の八時。五時間以上も道を歩いていることになる。
時速5キロで歩いているとしても、距離にして25キロ。
いくらなんでも、看板やクルマの往来のある道路に出てもいいはずだ。
しかも、ここはちゃんと舗装されている道路。山の中で迷っているのとはわけが違う。
月明かりがあるので周りが分かるくらいの光はあるが、辺りは真っ暗。街灯はほとんどない。
「先輩。これ、本格的にやばくないっすか?」
「俺も思った」
「いや、遭難ですよこれ」
「そうなん、ですか」
コイツ、ダメだ。
「電波あります?」
「おお。バリバリ。電話するわ」
「もっと早くしてくださいよ」
「そう、そう。うん。じゃあ迎えに来てって言って。
 え?いや、分かんない。●●川の上流沿いの道路にいるんだけど、場所はちょっと分かんないや。
 そう、近くに来たら教えて。はい、じゃあね」
「先輩。妹ちゃんですか?」
「おお、何で分かった?」
「シスコン」
「うっせ」
「どうする?待つか?それとももうちょっと歩くか?」
「まあ、こんな所で待つのもカッコ悪いし、歩きますか」
「だな」

226鴨南そばさんシリーズ「迷子」3:2014/10/07(火) 13:48:32 ID:N5E6U.uY0
しばらく歩く。
多分30分くらい。時間の感覚など既にない。
「おい。あれ見ろ」
先輩が小声で僕に囁く。
道路下の川を指差している。
「何かいますか?」
「何だあれ?」
カカシ?木にしては妙に白い。
「何ですかね?流木が岩に引っかかってるんじゃないですか?」
「動いてるぞ。生き物だろ?人か?」
「ちょっと細すぎないすか?人にしては」
「おい、あっちにも居るぞ」
先輩の言うとおり、川の中にその白く細いものが何匹か立っていた。
どうやら川の中から出てきているようだ。
「ちょっと幻想的ですね」
「ああ、なんかキレイだな」
そんなことを二人で言いながら、段々増えてくるその白いのを見ながらタバコを吸っていた。

ppp先輩の電話が鳴る。
「うん、今どこ?え?置いたけど、そうそう、いや、今ちょっと面白いのが見えてるからそれ見てる。
 え?クルマ通らなかったぞ?じゃあ下ってきて」
「どうしました?」
「釣竿とかは見つけたけど、場所分からないんだとさ」
「そうなんすか」
「一本道なんだがなぁ」

二人でその白いのが静かに増えるのを見ていた。今ではそこかしこにいる。
川の中に溢れるほどの大群。ゆっくりゆっくり下流に向かっているようだ。
「なあ、もうちょっと近くで見ねえ?」
「僕もそれ言おうと思ってたんですよ」
美しい。そういう風に覚えている。
月の光かどうかは分からない。その白いのに埋め尽くされて、川全体が発光しているようにも見えた。
吸い込まれていきそうな魅力がそこにあった。

pppppまただ、急な電話の音は頭にくる。
「はい、え?おお、サトさん。いやいや酔ってないです。今ですか?道に迷っちゃって、ちょっと面白いの見てるんですよ。
 それです!そうです。川の中にしろい…」
『それを見るなっ!!!』
ケータイを通して僕にも声が聞こえた。
『おい!今どこだ!?』
「わかんないです。道に迷ってんですって」
『じゃあ、その白いのはどっちに向かってる!?』
「ああ、下流方向〜?ですね」
『じゃあ上に向かえ!いいか!?道を登れ!!』
「街とは反対ですよ、それだと」
『いいから言うこと聞け!!ぶっ殺すぞ!!!』
「どうしたんすか?なんかサトさん怒ってません?」
「わかんね、すっげえ怒ってる」
『お前、言うこときかねえんだったら、妹ちゃんにアノことばらすぞっ!?』
「何すか先輩?アノことって?聞きたいっす!」
「おい、上行くぞ」
先輩の目つきが変わった。
「えええ、登るんですかぁ、疲れますよ〜」
足をどかりと蹴られた。登山用のブーツで攻撃力も倍増だ。
「うるせぇ、行くぞ」

五分も歩くと、上から先輩の親父さんの運転するクルマがやってきた。
後少し待てば来たじゃないか、とブツクサ思っていた。
川を見ても白いのはもう居なくなっていた。普通の山道の川だ。

僕は車に乗り込むと、もの凄い疲れを感じた。
先輩も同じだったようだ。家に着いたら風呂にも入らずそのまま寝てしまった。

227鴨南そばさんシリーズ「迷子」4ラスト:2014/10/07(火) 13:49:19 ID:N5E6U.uY0
翌日の早朝、先輩に叩き起こされた。
サトさんが出社前に僕たちを訪ねてきたという。
「お。無事だったか」
サトさんは昨日の電話越しとは違って、とても優しく笑う。
「いや、本当にすいません。昨日帰った後寝てしまって、着信気付きませんでした」
「気にすんな。あれ見たら最低でも二,三日寝込むらしいからな。若いってのは偉大だ」
「何なんですか?あれ?」
「ああ、なんか白ヤマメとか言われてるな」
「結構有名なんですか?」
「地元でそこそこ山に入るやつなら、一回は聞いたことがあると思うぞ」
「キレイでしたけどね」
「……お前。まあ、いいか」
「何ですか?気になりますよ」
「……本当に、キレイだったのか?」
川の中に立つ白いカカシ。
細すぎるけど人間っぽい形はしてた。足はぴっちり閉じてたな。ってかゆっくり跳ねながら進んでた。
良く分からないけど、手?妙に細い腕はあったな。プラプラ揺れてた。
目と口の部分に空洞。空洞?ごとりと落ち窪んだ穴。
長くて白い髪?ボサボサの。枯れたリュウノヒゲみたいな。
もちろん服は着てない。
骨ばっているというより木の皮みたいな肌。
それが川を埋め尽くすほど大量に。わさわさと溢れんばかりに。
何だこれ?何がキレイなんだ?
「なあ、本当にキレイだったか?」
「……いえ、今思い出すと、……気持ち、悪いです」
「まあ神隠しの一種なんだろ。変な所に入り込んじまうんだ。お前のテンションもわけ分からなかったからな」
「すみません。無礼でした」
「だから気にすんなよ。誰でも一時的にちょっと気が狂うもんらしいんだ」
そういえば、あんなに長い間歩いてた割には、二人とも異常に楽観的だった。
先輩の性格なら、自分が遭難の原因だろうと絶対僕に当り散らす。迷ってから一発も殴られなかった。
何よりいくら下りとはいえ、何時間も歩いていて疲れないわけがない。休憩にしたって、タバコを吸うぐらいだ。
何より飲み物もないのに、のども渇かなかった。
気が狂う、か。そういえば先輩優しかったなぁ。
「無事ならいいんだ。あんまり無茶すんな」
サトさんは、時計を見ながら僕たちに言った。時間が迫ってきているようだ。
「じゃあ最後に一つ」
「おお、何でも聞け」
「何であんなのがヤマメなんですか?魚ってよりもカカシですよ?」
「ヤマメは漢字で、『山女』って書くんだよ」
ぞくり。背中に汗が線を描いた。

終わり

228名無しさん:2014/10/17(金) 10:50:31 ID:DE6lauo.0
ホラテラ無くなったんだよね。

残念m(。≧Д≦。)m

229名無しさん:2014/10/31(金) 10:23:16 ID:kZan/lBs0
懐かしいなw
蟹風呂って確かここ出身だよね

230名無しさん:2014/11/03(月) 20:55:23 ID:o.vNxu0o0
誰だよw

231名無しさん:2015/04/09(木) 03:42:33 ID:86ppwZAA0
ホラーテラー懐かしいわ
初コメハンター2号で活躍してたけど覚えてる

232名無しさん:2015/06/14(日) 22:36:19 ID:Vzfw3lvo0
ホラテラ懐かしいわ
無くなったんだよね

233名無しさん:2015/07/06(月) 18:06:12 ID:gDT12DB60
雪山とビデオテープって
Samuel Hopkins AdamsのThe Corpse at the Table
ほぼそのまんまなんだけど…

234名無しさん:2018/09/17(月) 20:45:17 ID:LTHrItvQ0
テスト

235名無しさん:2018/09/22(土) 09:44:56 ID:NT/VTf1M0
Hvgjcっヴ

236名無しさん:2019/02/11(月) 03:03:40 ID:Ya4.csHY0
終電を逃した夜、お腹が痛くなって公園のトイレにかけこんだ。静かでなんか不気味な感じがする中、隣の個室に誰か入ったような音がしたのだが――。
夜飲食店でバイトしてた頃、
残業してたらいつもの電車に間に合わなくて、
途中の寂れた駅までしか帰れなかった時があった。
その日は給料日前日で全然金なくて、
始発出るまで公園で寝てたんだけど、
寒さで腹壊しちゃってトイレに行ったの。
そしたら、少しして隣の個室に人が来たんだけど、
何か電話しながら入ってきたみたいで話が聴こえた。
外からは車の音とかするんだけど、
トイレの中かなり静かだから、
相手側の声も微妙に聴こえたんだ。
「ん?うん、分かってるって。あはは!あ、ごめんごめん。何?」
『 ・ ・ なった ・ ・ いつか ・ ・ 』
「あぁ、そーだなー。大丈夫だって。気にすんなよ。え?おう。ぁははっ!やだよ。なんでだよ!ふふ。うん。そーなの?」
『たしか ・ ・ かけ ・ ・ し ・ ・ 』
「そうだっけ?おう ・ ・ あー、そうかもしんね。わり!ちょっと待ってて」
で、トイレから出ようとした時、はっきり相手側の声が聴き取れた。
急に怖くなり駅まで走って、
駅前で震えながらシャッターが開くのを待ってた。
ただ物凄く気味が悪くて怖かった。
思い出すとまだ夜が怖い。

237雷鳥一号 ◆zE.wmw4nYQ:2019/08/21(水) 19:19:03 ID:UJan4.Pk0
大学時代の山岳部の先輩の話

その先輩がとある尾根を進んでいると
向こうからおそろいの黄色い装束を着た修験者が10人ばかり
二列になって疾走してくる
足元は草鞋履きで手に錫杖を持っている
先輩があっけにとられて見ていると
そいつらは先輩の前まできて道中笠をぽーんと放った
するとどの修験者も信楽焼のタヌキの顔をしている
修験者達は「ホッホッツホ- エサホッツホー」と叫んで足元の悪い場所で1回転すると
いっせいに消えたという

238名無しさん:2020/04/14(火) 03:50:53 ID:2fQ5uIB.0
受験勉強のため
部屋で猛勉強していたら、
夜中の2時頃に部屋のドアをコンコンとノックされた。
「○○、夜食持って来たから、ドア開けなさい」
って、母親が言ってきた。

(ドアにはカギがかかってる)

でも○○は、ちょうど勉強に区切りの
いいところで休憩したかったので、

「そこに置いといて、お母さん」って、言ったらしい。
そしたら、お母さんがそのまま階段をトントン降りていく音が聞こえた。
それから3時頃になって、また、お母さんがドアをノックして、
「○○、おやつ持って来たから、ドア開けなさい」って、言ってきた。
でも○○は、「おやつなんて別にいいよ」って、答えた。
そしたら、「うるさい!いいからここ開けなさい!!開けろっ!開けろぉ!!!!」って、急に怒鳴り出したらしい。
○○はビビって開けようとしたんだけど、なんだか嫌な予感がして、開けなかった。
そしたら、今度は涙声で、
「お願い・・・○○・・・ドア開けてぇ・・・」って、懇願してきた。 でも、開けなかったらしい。
そのまま10分ぐらい経ったあと、

「・・・チッ」

って、母親が舌打ちして、階段をトントン降りて行った。
でも、それからすぐに○○は思い出したんだと。
今、両親は法事で田舎に帰っているということに。
あの時、ドアを開けていたらどうなっていたかと思うと、
○○は震えたそうだ。

(終)

239名無しさん:2020/04/14(火) 05:08:41 ID:2fQ5uIB.0
拝観料
せっかくの連休なので歴史好きな親父と一緒に寺院巡りの旅行に出た。

一泊二日の予定で初日は有名所を見て回った。

やはり生で見る大仏は迫力が違う。

二日目はガイドマップを見ながら比較的小さめなお寺を巡る。

とある寺院の前に来たが親父が「あれ?ここは案内に載ってないな」と不思議がっていたが、行動派な父は山門から中へ入っていった。

俺も続いて中へ入るが何だか変な感じだ。何とも言えない空気?と言ったら良いのか。親父は気にしてないようでズカズカ参道を歩いていく。

他に参拝客は居ないようだ…

真正面の本堂に入ってみる。静まり返っている…住職も誰も居ないようだ。

何よりおかしいのは有るはずの本尊が無い。親父も首を傾げている。

右手側にある廊下から奥へと進んでみる。

迷路の様な通路になっていて所々何やら文字が書かれているが読めない。

さすがの親父も気味が悪くなってきたのか足早になった。

240拝観料:2020/04/14(火) 05:09:17 ID:2fQ5uIB.0

ようやく長い通路を抜けてさっきの場所に戻ってきたが、何かが違う…

仏像だ!さっきは無かったのに…

憤怒の表情をしているので明王の仏像だろう、何故か目を閉じているが。

たしか仏像の意味って「目覚めた者」だったはず!

頭の中が?だらけになり親父に「とりあえず出よう」と言おうとしたが親父も同じ考えだったようで目で合図し急いで本堂を出た。

その時

「お待ちなさい」

突然後ろから声がかかり俺は心臓が止まるかと思った。が、親父は冷静に声をかけてきた住職らしき人に「すいません、拝観料が必要でしたか?」と切り返す。

しかし住職は「拝観料はもう頂きましたので結構です。お気をつけてお帰り下さい」と無機質な声で言い意味深な笑顔を向けてきた。

俺たちは「失礼しました」と言い寺院を後にした。

変な気分になったので次は気分転換にガイドマップに載っている由緒ある寺院に向かった。

241拝観料:2020/04/14(火) 05:09:47 ID:2fQ5uIB.0

その寺院は先ほどとは打って変わり賑わっておりホッと安堵できた。
「こんにちは」
また後ろから声がかかるが今度は優しい声だった。
振り返ると『良い人』の模範のような住職さんが居てこう続けた
「どうやらあなた方は良くない場所に招かれたようですね」
俺たちは驚き先ほどの事を話してみた。
「恐らく拝観料として取られたのは寿命だと思われます。」

「このまま放っておく訳にもいきませんので、そこへ案内してもらえますか?」
「せっかくの旅行が大変な事になったな」と苦笑いの親父。
先ほどの寺院へ着いた
「あれ?こんなにボロかったっけ?」
外観もだが、参道も草が生い茂っていた。
まるで狐に化かされたようだ。
住職さんは連れてきたお弟子さん数名と共に本堂を囲むと何か念仏を唱えだした。
数分後…どうやら終わったみたいだ。
「これで大丈夫です」
住職さんはそう言うと本堂の中へ入って行き中の様子を見て戻ってきた。
「目が彫られていない仏像がありました。恐らくアレがここを廃寺にした元凶でしょう。私共の寺に移し手厚く祀りましょう」

そうして俺と親父の旅行が終わった。
あれが元気だった親父との最後の思い出か…
あの住職さんの寺が火事で全焼と風の噂で聞いた

最近よく幻聴を聞く

無機質な声で

「お待ちなさい」

「命を置いていきなさい」

242女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:07:43 ID:o.Sh1KJQ0
女の存在を知らせること
* この話を読む前に次のことをしてくれるとうれしいです。

1、 左足のすねを触ってください。

2、 触ったまま目を閉じて「篠原」という名前を頭のなかで呼んでください。

3、 同様のことを左の薬指と小指にも行ってください。

以上のことを行った方から下にお進みください。

なお、かなりの長文ですが区切らず、話を進めていこうと思います。

今から8年と10ヶ月前のことです。当時、高校3年生だった僕は富山の立山というところに住んでいました。桜もほとんどが散り、とても暖かい一日でした。

受験シーズンに入ろうとしていましたが、僕はただダラダラと過ごしていました。

高校を卒業した後、実家の弁当屋の手伝いをすることに決めていたからです。周りもそんな奴らばっかりでした。僕の学校はレベルが低く、ガラの悪いのが当たり前みたいな感じでした。僕自身も髪の色は茶色でした。

友達のIとHとは中学からの親友でした。

カツアゲみたいなことはしなかったけれどバイクに乗ったり(当時、無免許でした。)、タバコ吸ったりはしていました。

「明日、遊びにいかん?」といってきたのはHからでした。ちょっと遠くにいかんけ、と。富山には、遊べるほどの場所がほとんどありませんでした。あってもパチンコくらいです。「どこに行くが?」と聞くと、Hは「村。」と一言いいました。

「なん、実はそこで肝試しやろっかな・・・って思って。いや、女子とかも誘うし!」と付け加え、行こう、と言ってきました。

243女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:09:30 ID:o.Sh1KJQ0
正直、楽しくなさそうだなと思っていましたが。女子もくるなら・・・ということでそれに応じました。Iはかなり乗り気でした。「俺、写るんですもって来る!」みたいなことを言ってたような気がします。

「じゃあ俺、女子誘うわ。」といってHが右足の義足を引きずりながら。女子のところに歩いていきました。

Hの右足はひざから下がありません。本人は「バイクで事故った。」と言ってました。

結局、集まったのはIとHと僕、女子が3人の計6人。電車を乗り継ぎ、2時間くらいかかりました。「マジで合コンみたい。」「やっば楽しくなってきたんやけど。」といっていました。

Hがいうには普通の村だけどそこで幽霊がでるらしいのです。

といっても怖さは全然ありませんでした。ただのお楽しみ会のようでした。

村ではほとんどが田んぼですが、ポツリポツリと明かりがついてました。まさに「田舎」という感じです。いく当ても無くただ歩いていました。遠くから人が話している声も聞こえてきました。

なんかおかしいな、と思い始めたのはそれから5分くらい経ってからでした。

女子が「なんか気持ち悪い。」とか「歩きたくない。」といい始めました。なんの冗談だよ、マジでうぜえな、と思っていた僕ですが、だんだんと目眩がしてきました。キーーーンと耳鳴りもしてきています。

このときはまだ余裕がありました。Iは「幽霊来るって。まじカメラもって来てよかったし。」と笑っていたと思います。

244女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:12:25 ID:o.Sh1KJQ0
ふいに、自分達が歩いているとこがアスファルトから、砂利道に変わったことに気がつきました。あれ?と思い周囲を見渡します。女子の一人が「どうしたん?」と声をかけてきました。

村の雰囲気がおかしかったのです。

邪気とかそういう意味ではなく、なんとなく古くなっていました。昭和の村というか、タイムスリップしたみたいでした。

女子もなんか古いよね、といい始め。Iもカメラを撮り始めました。

目をやると酒屋だと思われるところに「キリンビール」とかいてあるポスターも貼ってありました。その横にはビール瓶とそれを入れる籠が置いてあります。

家からはテレビの音が聞こえてきます。昔の音というか、独特の音楽が流れてきました。

ここまでくるとさすがに不気味になってきて誰からともなく「引き返そう。」というようになってきました。ところがHは「もう少しだけ進もう。頼むから、もう少しだけ。」といってどんどん進んでいきます。

このころから僕はHに疑問をもつようになりました。これまでHは一言もしゃべってないし、適当に歩き回っているはずなのに「もう少しだけ進もう。」と僕たちに言ったりしたり。あきらかにHは「目的をもって」行動していまいした。ただそれは、今だから考えられることであのときは「なんか怖いな、H。」ぐらいにしか思っていませんでした。

245女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:13:27 ID:o.Sh1KJQ0
Hは右足を引きずって黙々と進んでいきました。

民家からは「東京ブギウギ」が流れてきていました。

Hの動きがある家の前でピタッと止まりました。「H、帰る気なったん?」と女子が聞いてきました。くるっとHが僕たちを見回しました。Hが僕たちを見る目には哀れみが混ざっていました。Iが「なに?ここが幽霊でるとこ?」と勝手に入って行きます。女子も入っていきました。それに続いて僕とHも門をくぐりました。

表札には「篠原」と立て掛けられていました。その家は他の家と違って電気はついていませんでした。

庭から物音がすることに気付いたのは女子の一人でした。勝手に入ってたら怒られるな、と思って出ようとすると、Hが「あっちに行こう。」と言い出しました。「ふざけんなや。」IがHに向かっていいましたが。女子やHはすでに物音のする方向に向かっていて、Iも僕もしぶしぶそこに歩を進めました。

そういえば、人に会うのこれがはじめてかも・・・と思っていましたが、真夜中だしこんなものだろうかと思い、気にしませんでした。

庭を少し歩くと人がいました。「第1村人発見じゃね?」とIが僕にいってきます。あれは幽霊じゃねえだろ、と考えながらHに尋ねました。

Hの顔が異常でした。鼻息はフーフーと荒く、汗が傍目からでも分かるほど流れていました。足が震え始め、次第には歯を鳴らすようになりました。

246女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:14:35 ID:o.Sh1KJQ0
Hの目線に合わせて頭をスライドさせてもそこには後ろ向きにかがんでいる人がいるだけ。かがんでいる人は古い花柄のワンピースを着ていて、肩にかからないほどのパーマをかけていました。この人も昭和みたいだな。というのが第1印象でした。

その女の人は右手を振りかざし、そのまま目の前の地面に手刀よろしく右手を振り落としていました。そして、女の人の向こうにはマンホール4,5個分くらいの穴がぽっかりと開いていました。正直、明かりもついてなかったので、女の人がなにしているのかわかりませんでした。穴にもなにがあるのかさっぱりです。

黙々と作業している女の人を後ろから眺めている6人の男女。

隣の家からは、「りんごかわい〜や〜かわいやり〜ん〜ご〜」とかなんとかと歌っている女の歌手の声。

なんだこれは、と一人で苦笑していると突然女の人の周りが明るくなりました。その後にパシャっというカメラのシャッター音。「ああ、まちがってIがカメラを押しちゃったんだな。」と理解する前に僕の頭のなかは目の前の光景に引き付けられました。

女の人の右手には大振のナタがあり、光りでなぜか赤茶色に反射しました。それよりも息を呑んだのは穴の中の光景でした。

一瞬の光りでも僕の目はそれを認識しました。バラバラの手が、足が、指が、胸が、破れた服が、大きい額縁めがねが、頭皮が、髪の毛が見えました。それもいくつも。真っ赤な斑点が無数にとびちり、真っ赤な臓器のようなものも見えた気がします。女の足元には先ほど切ったであろう体が千切れかけで転がっていました。

247女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:15:49 ID:o.Sh1KJQ0
全身の毛穴が開くような感覚がありました。手が足が震えてきました。唐突にHが門に向かって走りだしました。右足がないとは感じさせないほどはやく、ずり、ずりと。後ろにいたHがいきなり走り出し、僕は顔を後ろに向けました。目線がHに向いていく中、僕の視界は端に女の姿を捉えました。ゆらりと女は立ちあがって体は小刻みに揺れています。

ぎゃああああ。

女子の一人が叫んだのが合図になりました。

女は回転切りをするように体を半回転させました。右手にナタをもって、関係の無い左手も思い切りふり上半身だけをまず回し、次に下半身を動かす歪な動き方で。ナタは叫んだ女子のこめかみを捕らえました。女の動きに合わせて女子の体も動きます。シュトっという子気味よい音と同時に女子の叫びもぷつりと切れました。

ナタと一体となった女子は不自然な格好でその場に突っ伏しました。このときには僕やIや女子は走り出していました。

4人の精一杯の合唱も息ピッタリに重なり合いました。「えぐっ。」と呻き声をだして女子の一人が体は走っているのに頭だけは女に引き寄せられていました。見ると長い髪の毛をわし掴みにされ引っ張られていました。僕は顔を前に戻し、走り続けました。女の子を見殺しにしました。あのときは恐怖が頭のなかを占めていてそれどころではなかったのです。

「やめっ、ああああいいいい!!!」女子が叫び、泣き出しました。叫び声をあげている途中もシュトン、シュトンとナタを振り落とす音が聞こえてきました。

僕とIと女子一人の三人は一気に砂利道を駆けていきました。

248女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:16:42 ID:o.Sh1KJQ0
先頭を走っていた女子が方向を変え、明かりのついている家の戸を叩き「助けてくださいぃ!!」とドンドンと引き戸を叩き始めました。引き戸を開けようとすると、スーーっと戸が開き、力を入れていたため、女子は多少よろけています。それでも玄関に転がっていくようにして入っていきました。僕もその家に入りました。「助けったすっ。」と掠れながらも必死に声を出しました。Iは一瞬足を止め、躊躇っていましたが、別の方向へと走っていきました。

なかの風景も異常でした。オレンジ色の豆電球が上からぶら下がっているだけ。ちゃぶ台には味噌汁や焼き魚、おひたしが並んでいました。テレビはサザエさんの家にあるような大きなテレビで、ふすまや座布団もありました。

でも人がいません。そこから人だけが消えたよでした。僕はそんなこと気にもせず、「誰かっ。誰か。」と声を出し続けました。涙声で鼻水をズルズルとすっていました。僕と女子は顔を見合わせます。「誰もいない・・・。」一体どうなっているのかわかりませんでした。

ガラガラガラガラ・・・

心臓が飛び出るのではないかと思いました。

誰かが戸を開けて入ってきました。Iだろうか?それともこの家の人だろうか?と思っていましたが、女子は顔を強張らせてこっちをみています。あの女だ。

反射的に押入れに手をやりました。押入れの中は新聞紙が敷いてあるだけでした。僕は女子そっちのけでなかに入ります。それに続いて女子も。すっと閉め、息を殺しました。

その直後ぎしぎし・・・と足音が聞こえてきました。脂汗が吹き出てきます。しばらくぎしぎしと音が鳴り。辺りを探していました。よく聞くと「ほほほほほほほっほほほほほほほほほほほほほほほほほ・・・。」と笑っているような声が聞こえました。女の人の金きり声のようでした。ドクドクと心臓が高鳴ります。ふいに、物音がしなくなりました。女の声も聞こえません。無音になりました。僕は女子の顔をみようと顔を上げました。

「そこかぁ。」

249女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:18:38 ID:o.Sh1KJQ0
シュッと戸が開き、向こうから腕が伸びてきました。手は血で赤く染まっていました。その手は女子の首を掴み居間へと引きずり出しました。「いやああああああああああぁぁああ。」と叫ぶ声が聞こえます。

僕は咄嗟に押入れから飛び出しました。彼女を助けるためではありません。今なら逃げ出せる、と思ったからです。

中腰のまま僕は飛び出ました。女は僕に気付き、「あはっ。」と笑い声を出しました。そこで女の顔を僕はのぞいてしまいました。顔色は薄い灰色で返り血や電球のオレンジ色で変な抽象画をみているようでした。唇は不自然な程潤っていて、異常なほど口端を吊り上げていました。目は明らかに焦点があっておらず、半分白目のようでした。口からは「ほほほほほ・・・」と空気の漏れるかのような音をだしています。

女は左手で女子の首を抱え、右手のナタを僕に向かって振り下ろしてきました。

シュト

目の前に芋虫のようなものがくるくると飛んできました。なんだあれは、と目をこらすとそれは指でした。状況が判断できず、それでも逃げようと左手を床についたとき、いつもある左手の小指と薬指がなく、代わりに飛び散った血がありました。

「びゃぁああうううう・・・。」情けない声を出して僕は畳を転げ回りました。全身の毛が逆立ち、耐え難い苦痛が僕を襲いました。心臓が早鐘をうっています。それでも僕は左手を押さえながら、必死に玄関に向かいました。

250女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:20:14 ID:o.Sh1KJQ0
「いやっいやだぁああ!ああああああ!」と必死に叫ぶ声と食器をひっくり返す音を背後に聞きながら僕は玄関を出ました。誰でもいいから助けてください。自分の血が服につき、涙と汗で顔がグシャグシャになっていました。

来た道を必死に思い出し走りました。あああああと叫び声を上げていました。砂利を踏む音がアスファルトに変わっていったのは走り出してしばらくしてからのことでした。

ここから後は記憶が飛んでいて、次に思い出せるのは病院で目をさましたところからです。

あのとき、通りかかった人が血だらけにいなりながら泣き喚いている僕を見つけ、近くの労災病院に運んでくれたらしいです。両親は警察に被害届を出しておらず、(普段でも家に帰ってこないことは日常茶飯事でした。)両親が病院に駆けつけたのは僕が目を覚まして両親の名前と住所を言ってからのことでした。

次第に落ち着いてきた僕は起こったことを医師や両親に話しました。肝試しをしにここに来たこと。歩いていたら、景色が変わっていったこと。ナタを持った女が襲い掛かってきたこと、女子3人が見ているかぎりもう死んでしまったこと。僕がこのことを喋ったことで始めて事件としてみてもらえるようになりました。

しかし、5人のうち、女子3人の遺体は発見されず、行方不明者扱いになってしまいました。Iの行方もいまだに分かりません。おそらく女に見つかってしまったのではないかと思います。

251女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:21:08 ID:o.Sh1KJQ0
しかし、Hだけは、自宅にもどり、今回の事件のことを話さないでいたとのことです。目を覚ましてから2日後、Hが僕の病室を訪れました。

「○野(僕の名前)お前に話しておきたいことがあるんやけど・・・。」Hは第一声にこう切り出した後、「とりあえず、助かってよかった。」といいました。

Hのどの言葉がカンに触ったのかはよく分かりませんが、一気に頭に血が上りました。「おんまえ!なにがよかったじゃボケが!てめえがさそわんけりゃこんなことにならんかじゃこのだぼが!」他にも汚い言葉をHにぶつけたような気がします。Hは黙って聞いていて僕が1通り言い終えると「実は。」と言い出しました。

ここからはHがいったことを簡単にまとめたことを書いていきます。

実はHはあの場所に行くのは2回目だということ。

高校に入る前に地元の先輩に誘われて、社交辞令的な感じでいき、同じように景色が変わり始めたこと。

「篠原」という家に連れて行かれ、同じようにナタを持った女に襲われたこと。

そして先輩の1人が止めようとして腹を切られてしまったこと。

残りの先輩たちと命からがら逃げたこと。

252女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:21:46 ID:o.Sh1KJQ0
そしてこの肝試しを考えた先輩がこういってきたこと。

「あの女からは絶対に生き延びられない。女は自分を知っている奴らの四肢を少しずつあの世界から奪いに来る。そしていつかは手足の無くなった俺の首を落としに来るだろう。」

「ただ、あの女から殺される時間を少しだけ延ばす方法がある。それはあの女の存在を知らない奴にあの女のことを記憶させること。」

「女は自分のことを知っている奴らを無差別に殺して回っている。裏を返せば、あの女の存在を1人でも多くの人間に記憶させれば、自分が四肢をもがれる可能性が少なくなる。」

「俺は前にも同じ目に会ってあの女の存在を知らされてしまった。俺は少しでも死ぬ可能性を低くするため、お前らにあの女を記憶させた。お前らも少しでも生きたかったら、あの女の存在を他の誰かに知らせてくれ。」

253女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:22:34 ID:o.Sh1KJQ0
そしてその4ヶ月後、Hはバイク事故という形で右足をもがれたこと。

事故にあったときその女が視界の端にみえたこと。

そしてあの女が自分の右足を掴んで笑っていたこと。

そのことに恐怖を覚えたHは仲間である俺たちにもあの女の存在を知らせようと思ったこと。

僕はただ唖然としていました。Hは「すまん。」と短くいうと席を立ち静かに去っていきました。外では鶯がないていました。

この話は上でも話したとおり、9年近く前の話です。あのときから僕は今までのことは忘れようと考え、生活してきました。退院してからなんとか学校にはいこうとしたのですが、休みがちになり、結局、中退という形をとりました。

そのあと、通信制の学校に入り直し、弁当屋を手伝いながら、勉強していました。1年前僕は階段から落ち、打ち所が悪かったのか左足を骨折しました。

そして階段から落ちるさなか、階段の上から異常な程に唇をつりあがらせたあの女がいました。入院を余儀なくされた僕は左足にギプスをつけ、通信制の高校の勉強をしていました。

254女の存在を知らせること:2020/04/16(木) 05:23:23 ID:o.Sh1KJQ0
入院してから左足が熱を持ち始めて痛みを持ち始めたため、医師に頼んでギプスを外して診てもらうと僕の左足はすねから下が腐っていました。切断を余儀なくされました。あの女に左足を持っていかれた。そう思いました。そして、Hと同じ考えを持つようになりました。誰かにあの女の存在を教えてやろうと。

ここで一番上の「お願い」について話していきたいと思います。

左足と左薬指、中指は僕があの女に「持っていかれた」部位です。やってくださった方はこれで僕がどこを切断したかを確認していただけたと思います。

次に、僕はこの話をできるだけ「細かく」「詳しく」書きました。それは少しでも読者の方々にあのときの描写を想像してもらおうと思ったからです。

つまり、皆さんにもぼくの「あの女についての記憶」を共有してもらい、僕が次に四肢を失う確立を少しでも下げようということです。本当に申し訳ありません。

身の保身のためだけに今回書かせていただきました。

しかし、これを書いていて安心している僕もいます。せめてもということで皆さんのところにあの女がくることが無いように祈っています。

255霊柩車:2020/05/04(月) 03:07:13 ID:I8iUchik0
Kさんという若い女性が、
両親そしておばあちゃんと一緒に住んでいました。

おばあちゃんは
もともとはとても気だてのよい人だったらしいのですが、
数年前から寝たきりになり、
だんだん偏屈になってしまい、
介護をする母親に向かってねちねちと愚痴や嫌味をいうばかりでなく

「あんたたちは私が早く死ねばいいと思っているんだろう」

などと繰り返したりしたため、
愛想がつかされて本当にそう思われるようになりました。


介護は雑になり、
運動も満足にさせて貰えず、
食事の質も落ちたために、
加速度的に身体が弱っていきました。

最後には布団から起き出すどころか、
身体も動かせず口すらもきけず、
ただ布団の中で息をしているだけ
というような状態になりました。

はたから見ていても
命が長くないだろうことは明らかでした。

256霊柩車:2020/05/04(月) 03:07:47 ID:I8iUchik0
さてKさんの部屋は2階にあり、
ある晩彼女が寝ていると、
不意に外でクラクションの音が響きました。

Kさんはそのまま気にせず寝ていたのですが、
しばらくするとまた音がします。

何回も何回も鳴るので、時間が時間ですし、
あまりの非常識さに腹を立ててカーテンをめくって外を見ました。

Kさんはぞっとしました。

家の前に止まっていたのは
大きな一台の霊柩車だったのです。
はたして人が乗っているのかいないのか、
エンジンをかけている様子もなく、
ひっそりとしています。
Kさんは恐くなって布団を頭から被りました。
ガタガタとふるえていましたが、
その後は何の音もすることなく、
実に静かなものでした。
朝になってKさんは、
両親に昨日の夜クラクションの音を聞かなかったかどうか尋ねました。

二人は知らないといいます。

あれだけの音を出していて気づかないわけはありませんが、
両親が嘘をついているようにも見えないし、
またつく理由もないように思われました。

257霊柩車:2020/05/04(月) 03:10:02 ID:I8iUchik0
朝になって多少は冷静な思考を取り戻したのでしょう、
Kさんは、あれはもしかして
おばあちゃんを迎えに来たのではないかという結論に至りました。
彼女にはそれ以外考えられなかったのです。
しかし、おばあちゃんは相変わらず「元気」なままでした。
翌日の夜にも霊柩車はやって来ました。
次の夜もです。
Kさんは無視しようとしたのですが、
不思議なことにKさんが2階から車を見下ろさない限り、
クラクションの音は絶対に鳴りやまないのでした。

恐怖でまんじりともしない夜が続いたため、
Kさんは次第にノイローゼ気味になっていきました。

7日目のことです。

両親がある用事で
親戚の家に出かけなくてはならなくなりました。

本当はKさんも行くのが望ましく、
また本人も他人には言えない理由でそう希望したのですが、
おばあちゃんがいるので誰かが必ずそばにいなくてはなりません。

Kさんはご存じのようにノイローゼで
精神状態がすぐれなかったために、
両親はなかば強制的に留守番を命じつつ、
二人揃って車で出ていきました。

Kさんは恐怖を紛らわそうとして
出来るだけ楽しいTV番組を見るように努めました。

おばあちゃんの部屋には恐くて近寄りもせず、
食べさせなくてはいけない昼食もそのままにして
放っておきました。

さて両親は夕方には帰ると言い残して行きましたが、
約束の時間になっても帰って来る気配がありません。

258霊柩車:2020/05/04(月) 03:11:14 ID:I8iUchik0
時刻は夜9時を回り、やがて12時が過ぎ、
いつも霊柩車がやって来る時間が刻一刻と迫ってきても、
連絡の電話一本すらないありさまなのでした。
はたして、その日もクラクションは鳴りました。
Kさんはそのとき1階にいたのですが、
間近で見るのはあまりにも嫌だったので、
いつもの通りに2階の窓から外を見下ろしました。
ところがどうでしょう。
いつもはひっそりとしていた車から、
何人もの黒い服を着た人達が下りてきて、
門を開けて入ってくるではありませんか。
Kさんはすっかり恐ろしくなってしまいました。
そのうちに階下でチャイムの鳴る音が聞こえました。
しつこく鳴り続けています。
チャイムは軽いノックの音になり、
しまいにはもの凄い勢いでドアが

「ドンドンドンドンドンドン!」

と叩かれ始めました。

Kさんはもう生きた心地もしません。

ところがKさんの頭の中に、

「もしかして玄関のドアを閉め忘れてはいないか」

という不安が浮かびました。

考えれば考えるほど閉め忘れたような気がします。

Kさんは跳び上がり、
ものすごい勢いで階段をかけ下りると
玄関に向かいました。

259霊柩車:2020/05/04(月) 03:12:50 ID:I8iUchik0
ところがドアに到達するその瞬間、
玄関脇の電話機がけたたましく鳴り始めたのです。
激しくドアを叩く音は続いています。
Kさんの足はピタリととまり動けなくなり、
両耳をおさえて叫び出したくなる衝動を我慢しながら、
勢いよく受話器を取りました。

「もしもし!もしもし!もしもし!」

「○○さんのお宅ですか」

意外なことに、
やわらかい男の人の声でした。

「こちら警察です。
実は落ち着いて聞いていただきたいんですが、
先ほどご両親が交通事故で亡くなられたんです。
あのう、娘さんですよね?
もしもし、もしもし・・・」
Kさんは呆然と立ちすくみました。
不思議なことに
さっきまでやかましく叩かれていたドアは、
何事もなかったかのようにひっそりと静まり返っていました。
Kさんは考えました。
もしかしてあの霊柩車は両親を乗せに来たのでしょうか?
おばあちゃんを連れに来たのでなく?
そういえば、
おばあちゃんはどうなったのだろう?
その時後ろから肩を叩かれ、
Kさんが振り返ると、
動けない筈のおばあちゃんが立っていて、
Kさんに向かって笑いながらこう言いました。


「お前も乗るんだよ」


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