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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

202やす:2006/12/11(月) 22:52:57
『漢詩閑話 他三篇』 『竹陽詩鈔』
 昨日の岐阜県図書館ではまた、郷土資料コーナーで自費出版と思しき漢詩関係の本に出会ふ。しかしながら郷土資料は貸出禁止でネット書店・古書店でもみつからない。不躾とは存じながら巻末記載の発行所名から電話番号を調べ、問ひ合はせてみれば非売品だが残部があり、事情を説明したらば何と頂ける由。諦めずに何でも当たってみないとわからないものです。
 その一。
 『漢詩閑話』([竹陽]中村丈夫著 1991.11関市千疋メインスタンプ刊行19cm上製299p)は、美濃漢詩人の最後の血統を継ぐ方の遺著ですが、初心者を相手に語った晩年の漢詩談話を中心にまとめられた濃いい一冊です。かつては郷々の旧家に隠棲してゐたらう、そんな漢詩人である「翁」の、その文章と回想には儒学精神を伝へる折り目正しい日本人最後の人柄を見る思ひがします。著者の御孫様より一緒に頂いた遺稿詩集『竹陽詩鈔』(1972.11私家版23.5cm和綴62丁)の解説によれば、詩人の家は天保14年、水利権の紛争に当った村瀬藤城が双方を調停する場所として泊り込んだ中立派の大庄屋であって、当時の当主が著者の祖父に当る由。なんとその時のこされた藤城の墨蹟が伝へられてゐるさうであります。それが職場の目と鼻の先だったんだから、まあ驚いた(笑)。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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203やす:2006/12/14(木) 12:52:35
従軍詩歌集『南の星』
 田中克己先生の南方派遣活動の所産といふべき詩歌集『南の星』をupしました。
『田中克己詩集』には歌を割愛して収録しましたので、全貌は序・跋とともに、今回が初の御目見えです。戦争詩集の倣ひである此度の刊行斡旋は三好達治に係る由。作品は、向かった南方でも実体験となることはなかった戦争といふ題材、そして思考を停止させる気候風土が、詩風に少なからぬ影響を及ぼしてゐるやうに思ひます(詩人自身は「南方ボケ」と表現)。
 ところで杉山平一先生がこの度の新著のなかで、この大東亜戦争遂行中に書かれた所謂戦争詩について、
「詩人は校歌をたのまれて書くやうに、頼まれて戦争詩を書いたと思う。校歌に、山高く川清し、の慣用句を使う様に、慣用語で戦争を述べている。そういう仕事だから、出来はもとよりよくない。詩集に、校歌を入れないように、戦争詩を入れない。それは出来が拙いからである。そういう作品を他の作品と比較するのは、校歌に川清しと書いた人に川の汚染を書け、と責めるのは酷である。(『詩と生きるかたち』50p 編集工房ノア2006)
 と、大変わかりやすい説明を書いてをられます。しかしながら田中克己をはじめとして戦争詩の作者は、当時「出来がよくない」と思ってこれらの詩を書いてゐた訳ではないことは云ふまでもありません。はっきり云って戦争詩に価値が失はれたのは、「戦争に負けたから」に他なりません。校歌を作った学校がなくなってしまへば、校歌もまた存在価値を失ふ、さういふことであります。
そして敗戦の年になって自身が二等兵として戦線に送られ、全ての元凶である日本陸軍の体質を肌身で感じることになります。詩集を出して後、戦争末期の日本で次のやうな追悼詩を商業誌に書いてゐますが、或は保田與重郎とともに徴兵にとられる讖をなしたかもしれません。

ますらを還る昭和19年12月初出

ちちははの国は紅葉し
篠原に霰たばしる時ちかづきぬ
たよりあり、功(いさを)し立てて
つはものはそのふるさとに神とし還る──

はじめての召しにゆきしは
北支那の紅葉するくに
かへり来て紅葉を見つつ
いひしことわれは忘れず
大陸の空いや青くその紅葉さらに紅しと

ふたたびを召されてゆきし
濠北はマダン、メラウケ、アイタベか
さだかに知らず──常夏の国にありける
紅葉なく青き空には
敵機のみ日がな舞ひたり

ますらをやいさを語らず
飛機のみか弾丸(たま)も送らぬ
ふるさとに恨みも云はず
三年経しけふたよりあり
──ふるさとに神とし還る。

 最後に。この『南の星』に収められた詩篇に関しては、昭和18年2月4日消印で、東京の自宅から大阪中央放送局文芸課(佐々木英之助)宛速達の放送用原稿が管理人の手許にありますので、合せて御覧下さい。詩集収録に当って若干の異同がみられます。

204やす:2006/12/18(月) 20:17:16
「あ・ほうかい」 / 『悲歌』
 いつもお世話になってをります鯨書房さん御店主山口省三様と太郎丸の詩人藤吉秀彦氏がつくられた、なんとも人を食ったタイトルの同人誌「あ・ほうかい」1号をお送り頂きました(岐阜弁で「ああ、そうかい」の謂かと)。
 山口さんの詩は初めて読みました。言葉遣ひの緊密さに目を瞠りましたが、松田優作ばりに凶暴のより(笑)、ひらがなの詩が私は好きです。ありがたうございました。

「悲歌」       山口省三

ふらつくあし
したたらずなことば
しきりにくうをきるて
じゅうけつしため

みずわりやビールのならぶカウンターをすべるかなしみや
やさしさのかずかず
うすめるわけにはいかないあれやこれや
のみくだせないそれらすべて
カラオケのリズムにのってくるいたい
さけびやふるえ
ボリュームがんがんの
のどをふるわせしぼりだすかぎりないいくつものおもい

コップにうかべるふちどりのあるむすうのゆめやきぼう
ながすにしても
すてるにしてもおもくてもちあげられない
こおりをわるようにはわれないものがあふれているかた

そまつなつまみにもみえてくるおもいで
つりさげるにも
かぜにまきちらそうにもつかめない
はかろうにもはかりきれないきたいでいっぱいのくちびる

かきあげるかみ
なでさするほおやあご
わらいなきでくしゃくしゃのかお
たえることにすらたえているゆみなりのせなか

しやくりあげるのど
たれさがったみみ
なりひびくどうきのくろいセーターのふくらみ
うすいこころをふいごにしなつているちいさなからだ

あたたかな
ゆれているひざしをあびて
いきることを
そのままにみつめようとぶざまにあがいている
ぼくがなぞる
くものむこうに
あなたはいまどうしてる?

といふわけでもないですが、私も田中先生の『悲歌』を本日upしました。

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205やす:2006/12/18(月) 22:05:56
『五つの言葉』
 田中克己先生が編集兼発行者になってゐながら、長らく入手できずにゐた本、コギト同人松浦悦郎の遺稿集『五つの言葉』(昭和10年5月刊行)ですが、此度コピーを国立国会図書館から送って頂きました。遺稿はほとんどが音楽論で、巻末の追悼文も同人の文章はコギト追悼号(昭和8年7月14号)からの転載ですが、保田與重郎一人だけ稿をあらためて書いてゐます。流石であります。友誼に感じ入りました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000308.jpg

206やす:2006/12/22(金) 12:52:43
『神聖な約束』
田中克己先生の最後の詩集『神聖な約束』をupしました。クリスマスに間に合ってよかった〜♪

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207やす:2006/12/24(日) 21:29:53
Merry X`mas
皆様に素敵なクリスマスを!!

「Ein Märchen」初出誌 昭和15年8月むらさき8月号(貴公凡様より寄贈)

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208やす:2006/12/27(水) 12:06:27
訂正
「Ein M醇Brchen」→「Ein Märchen」
投稿するブラウザがIEでないと特殊文字はIEで文字化けを起すやうです。

209やす:2006/12/29(金) 00:56:57
『杉山平一詩集』/『國風の守護』/『紀行・挹源詩集』
 本日は仕事納め。年末年始はどこゆく予定もなく、家に居って読書に耽られたら云ふことはありません。さて先週から今週にかけて三冊の寄贈本がございました。とりいそぎの御報告・ここにての御礼を申し上げます。

 まずは長年に亘り思潮社から刊行されてゐる新書版の叢書、現代詩文庫第2期近代詩人篇による『杉山平一詩集』。
 一瞬改訂版かと思ったら、それは1984年に出た土曜美術社版の『杉山平一詩集』でありました。当時われらが杉山先生の詩がまとまって読むことが出来る単行本が出た嬉しさとともに、思潮社版にどうして迎へられないのか、戦後現代詩の系譜優遇の方針に釈然としなかった若い日の自分が思ひ起こされました。あの土曜美術社版の新書版は実にかゆいところに手の届くやうな人選で、戦前に活躍した中堅詩人達の詩業を押さへ、詩集愛好家も随分裨益を蒙りましたが(尤も戦争詩を書いた人たちは除かれましたが)、一旦あれに収められてしまふと当時ポピュラーで権威も感じられた思潮社版の文庫で出ることは放棄、みたいな雰囲気があったのも事実です。そして時がくだり土曜美術社版から出ることのなかった大木実、小山正孝といった詩人達が一足早くこの思潮社版に収まり、このたびは杉山先生、実力でその二文庫制覇の偉業を遂げられた、といふ感じです。尤も裏表紙に印刷される一言コメントが示すやうにこの文庫、純正抒情詩人に対しては抒情の限界を前提に辛口の姿勢で接するのが伝統ですから、今後、四季・コギト・モダニズム系列の抒情詩人たちが続いていかほど収められるかとなると、需要・魅力とは関係なくまだまだ難しいかもしれません。
 さても御歳92才の先生にはお慶びとともに御体の御自愛を切にお祈り申し上げるばかりであります。

 つぎに山川京子様よりかねて予告のあった、郡上八幡の詩人山川弘至の評論集『國風の守護』復刊。
 初版本は、戦後世相のなかで顧みられること少なく、また造本も頁を思ひ切って披くことができない戦時中の稀覯本。此度のハードカバーによる復刻意義は大きく、しかも棟方志功の挿画を配した意匠の再現は、泉下の詩人もさぞ満足されることではないでせうか。今の世にこれを出す意義を、京子様による跋文もしくはどなたか当代識者による解題として付せて頂けると、市販本として初めてこの著者の本に触れる読者にはありがたかったかと、望蜀するほどに立派な一冊に仕上がってをります。

 そして最後に、これも郡上八幡の詩人の遺稿詩集。川崎市香林寺の岡本冏一様より『紀行・挹源詩集』の御寄贈にあづかりました。さきのブログで紹介した『竹陽詩鈔』同様、岐阜県図書館の郷土資料コーナーで出会った漢詩集ですが、著者は幕末郡上藩の江戸詰め藩士、岡本文造(号:高道)。かつて『濃北風雅』を刊行し文教の奨励に努めた郡上藩ですが、その後どのやうな道を辿ったのか、ゆくりなくも幕末の動乱を契機として、最後の学者が遺していったこれは志の文学であり貴重な歴史の証言です。「白虎隊」は知ってゐても地元「凌霜隊」の史実を、恥ずかしながら職場の図書館で外部からのレファレンスがあるまで私も知りませんでした。藩の思惑のままに厥起したことが独断行動と見捨てられ他ならぬ藩命によって処断される悔しさ。放免された後も後ろ指をさす郡上の地を捨てて散り散りにならざるを得なかった隊士たちの知られざる余生。直系遺族は昭和の初期にすでに行方が分らず、追善するこの本を墓前に手向けることも叶はないといふ歴史の現実にも驚き・悲しみを禁じえません。

 挹源詩集自序
古語日、江河不撰細流矣。蓋従明治戊辰仲冬、到明年己巳秋
謫居之余間、曾所渉危、踏険而経歴、猶以存於其胸臆者、詩之。
随就書。終積為編。素不撰細流之妍媸、謾挹所流出、題以挹源詩集。
不知、果成江河否。竟笑而序焉。
 明治二年九月既望、光耀山中書、竝題
    岡本高道

 古語に日く、江河は細流を撰ばずと。蓋し明治戊辰の仲冬より明年己巳の秋に到り、謫居の余間に、曽て危ふきを渉り険しきを踏みて経歴する所、猶ほ其の胸臆に存する者を以て之を詩にす。就(な)るに随って書せば終に積もりて編を為す。素より細流の妍媸を撰ぶにあらず、謾りに流出する所を挹(く)み、題するに挹源詩集を以てす。知らず、果たして江河と成るや否やを。竟(つい)に笑いて序とす。
  明治二年九月既望(十六夜)、光耀山中にて書し竝びに題す
    岡本高道


 年の瀬、映画「硫黄島からの手紙」を観て敗北を定められた者たちの心情にこのところ過敏になってゐる管理人であります。ではでは。

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210やす:2007/01/04(木) 01:17:17
御挨拶
今年もひきつづき郷土漢詩の修養ならびに「田中克己文学館」の充実に力を注ぎたく。
本年もよろしくお願ひを申し上げます。【返信不要です】

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211mmmk:2007/01/05(金) 20:38:54
(無題)
はじめまして!!わざわざ書き込むことではないと思われてしまうかもしれないのですが、
どうしても急いでいます。

漢詩の『也』という漢字は、助動詞ですか??書き下ろし文にするとき、平仮名にしなくてはいけませんか??

ほんとくだらないと思うのですが、急いでます。よろしくおねがいします。

212やす:2007/01/05(金) 21:22:07
(無題)
『也』は助字(の助詞)で、平仮名にするかどうかはケースバイケースではないですか。漢詩文では「や」「なり」といった普通の訓みかたのほかに 「また」と訓ませたり、置き字で読まないこともあります。この手の質問はインターネット掲示板でのいい加減な回答はあてにしないで、先生に尋ねたり、しっかり辞書ひいた方がいいですよ。

http://homepage2.nifty.com/kanbun/izanai/izanai1/04-17mondaiten3.htm

213やす:2007/01/07(日) 00:35:33
「パルナス」Vol.8
旧モダニズム防衛隊斬込隊長kikuさまより「パルナス」Vol.8 お送り頂きました。前号から実に五年ぶりの刊行の由、巻頭には故串田孫一氏の寄稿を再掲、同人誌にこれだけの作品を書き下ろして寄せられた詩人に感銘です。
ここにても御礼申上げます(早期のネット復帰をお祈りします)。ありがたうございました。

214やす:2007/01/08(月) 23:28:29
『漢詩閑話 他三篇』
 この連休、さきに掲示板で紹介いたしました中村竹陽翁の遺文集『漢詩閑話他三篇』を読み、その魅力に惹き込まれてをりました。書評コーナーにて御紹介致します。

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215やす:2007/01/15(月) 22:39:18
歌集『戦後吟』
歌集『戦後吟』をupしました。
戦後吟とはいふものの、戦中吟、年少吟とともに収められた、全歌集と呼ぶべき内容であり、ことにも年少吟は素晴らしいです。和歌のわからない自分も、次のやうな歌は愛誦してゐます。

冬花(ふゆばな)のマーガレットの白ければきみに買はむとかねておもひき

ゆくさきをまじめに思へばなみだ出づゆでたまごをば食はざりにけり

ゆふぐれはやもり硝子をはひのぼりかはゆきかもよ腹うごかしゐる

埃みちわがゆきしとき匂ふ花ほかになければ葛と知りたり

わがまへにならびゐませるみはらからことごとく泣けばわれも泣きたり

さて、次回予定は戦争末期に刊行され評判を読んだ長編『李太白』、いよいよ先生から漢詩講義を受ける気持して何がなし初心に戻った気分です。

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216やす:2007/01/17(水) 17:49:00
久しぶりに古書目録速報。
本日到着ほやほや「石神井書林古書目録」71より(03-3995-7949)
今回は乾直恵ほか詩人達の昭森社森谷均あて書簡類を多数掲載。
『ペリカン嶋』渡邊修三 昭和8年 函付き染みあり。\21000(早い者勝ち。)
『百万遍』一戸謙三津輕方言詩集 昭和9年私家版孔版 \52500(眼福。)

「趣味の古書展1/26-/27目録」より(抽選1/26 03-5280-2288)
臥遊堂さん(頑張って下さい。03-6909-1359)
 No.11『花ざかりの森』昭和19年 カバー欠。並。\24000
扶桑書房さん(03-5228-3088)
 No.780『象牙海岸』竹中郁 昭和7年 函きず。\4000(函付きですよ!)
 No.781『間花集』三好達治 昭和9年 背題簽欠。\3500(復刻ではありませんよ!)
 No.788『野村英夫詩集』昭和28年 函きず。\3000(これも函付きで!)

217やす:2007/01/17(水) 23:41:23
『桃』1月号
 山川京子様より『桃』1月号(622号)をお送り頂きました。山川弘至記念館の拝観記(野田安平氏)をなつかしく拝読。そして後記につづられた京子様の回想。
 昭和19年、前線へ送られることが決まりそれが最後の面会となった折に
「お帰りになるまで東京へは帰りません。郡上でお待ちします」
 の言葉に対して詩人が放った
「よして下さい。そんなことをされたら、僕が忘れられてしまふ」
 といふ一言。その一言にこめられた滲むやうな思ひと、その一言に殉じてこられた年月の重みに今更ながらうろたへる私です。記念館落成式の際にも感じたことですが、御遺族はともかく「桃」社中の方々が詩人を慕ってこられた心情には、京子様の存在を通じて仰がれる象徴としての日本の姿があるやうに存じました。
 とりいそぎこの場におきましても御礼認めます。ありがたうございました。

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218やす:2007/01/28(日) 10:56:30
一週間のできごと
新村堂目録(よくよく新収分を見ないとね。残念。) 和洋会古書展目録では酒井正平の遺稿詩集『小さい時間』が玉睛さんから。
まつもとかずや様(元下町風俗資料館館長)より、執筆依頼分掲載の「銀河系通信」第十九号をご寄贈頂きました。地方発の辞書級(厚みです)口語俳句個人誌に驚嘆。
雑誌「暮しの手帖」第四世紀26号記事 「ヒヤシンスハウス」。

杉山平一先生奥様訃報 謹んでお悔みを申上げます。

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219mmmk:2007/01/28(日) 14:46:02
(無題)
やすさん、お礼遅くなってすみません!!

学校の先生に嫌われてるので、なかなか質問できなかったので、、、

でも、ありがとうございました!!

220やす:2007/01/28(日) 16:53:56
(無題)
漢文は媚びないところが好きです。
むかしはこんなものをすらすら読むお爺さんがどこの村にも居ったのです。面白いですね。

221:2007/02/10(土) 08:19:00
教えてください
どなたか教えてください。
1、飛騨山川(岡村利平著)という古書にある赤田臥牛の「孝池水」という漢文は、どこの詩集にありますか。
2、また、同書に記載されている、書(画像)の「尾張泰胤」についてご存知のかたあれば教えてください。



222やす:2007/02/10(土) 09:32:26
とりいそぎ
はじめまして。
1、赤田臥牛について知るところは公開しました『臥牛集』の限りです。どなたか御存知の方はよろしくお願ひを申上げます。
2、画像が小さいのでよく分らないのですが「尾張泰胤」は「尾張秦鼎」の記し間違ひといふことはないですよね。

以上管理人よりはとりいそぎ。

223やす:2007/02/10(土) 11:56:20
尾張秦鼎
尾張秦鼎つまり尾張の秦鼎は『臥牛集』の序文を書いてる秦滄浪であります。
レファレンスありがたうございました。この件につきましてどなたか御存知の方はよろしくお願ひを申上げます。

224:2007/02/10(土) 12:57:15
秦滄浪について
ご指導いただいたことから、秦滄浪(尾張秦鼎)は、江戸時代中期の儒者、尾張藩校明倫堂教授(1831年没)であることが分かりました。おかげさまで大変参考になる情報が得られました。赤田臥牛と秦滄浪は深い親交があったようですね。



225やす:2007/02/10(土) 16:27:31
をはり・はた・かなへ
尾張秦鼎は、尾張の国の秦(はた)氏、名は鼎(かなへもしくはテイ)と読ませるのではないでせうか。
秦氏について詳しくは田中先生の「始皇帝の末裔」まで(笑)。

貴重な掛軸、もしできますことでしたら写真を大きく掲げて頂けましたら眼福です。

226やす:2007/02/10(土) 19:21:24
(無題)
掛軸拡大画像再掲ありがたうございました。郷土の漢詩人についてこれからも学習を続けて参ります。拙いホームページですがどうぞ長い目で見守って下さいませ。

227:2007/02/10(土) 20:16:16
ありがとうございました
赤田臥牛と尾張秦鼎についてふるさと研究会へ紹介し、中原史の一部へ取り入れたいと思います。今後ともよろしくお願いします。



228やす:2007/02/10(土) 20:45:02
気のついたところなど
こちらこそよろしくお願ひを申上げます。
それから拡大して頂いた秦滄浪の掛軸ですが、(画像が小さいのでなんとも云へませんが)判読や訓みを再考された方がいい点、私でわかる範囲で初めのところだけ書き記してみます。

4行目:其名曰作苦事親→其名○作善事親 其の名[○作]、善く親に事へ
6行目:孝子走従其所求→孝子是従其所求 孝子これよりその求むる処
7行目:自飛至江三百里 みずからさんびゃくりをとんで→飛(州)より江(州)に至る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

229:2007/02/10(土) 21:12:57
判読について
この画像は、カメラが悪く、少し解読しにくいと思います。各行の直していただいたものは、やはり相当おかしかったですね。チェックしていただき助かりました。
旧家で古文書を見せていただくのですがどれをお借りするのか読めなくて泣いています。

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230やす:2007/02/10(土) 23:34:04
伊藤聴秋
 o.kumazakiさま(名前を存じ上げませんが)、再びの画像掲載鳴謝します。
 この連休中に終へてしまひたい仕事がありますので、その後ゆっくり拝見させて頂きたく存じます。

 といふことで本日は江戸漢詩の話題に田中克己先生の名が出た序でに私からも。
 このたび田中家のふるさと淡路島の漢詩人伊藤聴秋の掛軸が手に入りました。何と詩人同士は姻戚関係にもあったやうです。ただし立派すぎるこの筆札、判読がむつかしく・・・鳴門の渦みたいな筆跡です。また字が読めたところで故事の素養が未だしなれば、ネコに小判、やすに掛軸。折角の「掘り出し物」のお宝も「埋め戻し物」なんてことにならぬやう(汗)。 ではでは。

231:2007/02/11(日) 08:56:16
仲冬望とは
仲冬望とは旧暦十一月でいいのでしょうか。
ご指導下さい。



232やす:2007/02/11(日) 22:10:17
礑と気づけば落札価に蹌踉たり。
 今朝方メールで御連絡申上げましたが、仲冬望は仲冬の望、仰言るやうに旧暦十一月のもちづき十五日のことではないかと思ひます。
 しかしあまりにもタイムリーな話ですが、秦滄浪の掛軸(例によって写し?汗)を、先ほど落札したところであります。これ以上高くなったら諦めるつもりでしたので内心ハラハラしてをりました(笑)。詳細は到着の後またいづれの機会に。

233やす:2007/02/12(月) 11:56:39
『李太白』
 『李太白』、やうやく全ての校正を終へテキスト化終了しました。休み明けにup致しますので、同好の皆様方には御覧頂けましたら嬉しく存じます。なにぶん初版再版ともに印刷が古く、文字化けに悩みましたので、校正もれの御指摘などございましたら嬉しく存じます。

 さて田中克己先生の中国詩人「評伝三部作」ですが、残り二冊も久しく絶版となってをります。これらについてサイト上にテキスト復刻してよいものか、刊行元へ許可を願ひ得た上で、順次『杜甫伝』『蘇東坡』と計画中です(むづかしいかもしれません。絶版書籍についてのネット閲覧可能に関する著作権法改正は来年になるやうです)。

 不肖の弟子ではありますが、これらの著作の顕彰を終へぬかぎり、江戸にせよ郷土にせよ漢詩を云々する資格がないことに気がついた次第です。なほ『李太白』の抄出詩には現代訳がなく、『杜甫伝』『蘇東坡』は反対に訓読が読み飛ばされてをります。この点、口語抒情詩人の真骨頂をしめすべく不取敢『李太白』には後年発表された口語訳を付与して鑑賞の助けに供したいと存じます。すべて今年の宿題として更新を気長にお待ち下さい。

234やす:2007/02/21(水) 22:50:41
詩雑誌『新生』
『杜甫伝』『蘇東坡』のテキスト化は、出版社の見解があくまでも「絶版ではなく品切れ重刷未定」とのことゆゑなかなか難しいやうです。残念。

「美濃地方漢詩文学年表」に秦滄浪の掛軸ほかupしました。
 解読中につき皆様からの御教示をお待ちしてをります。よろしくお願ひを申上げます。

またJIN様より貴重な戦前名古屋の詩雑誌『新生』を三冊も頂きました。順次upして参ります。お楽しみに!

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000348.jpg

235やす:2007/02/23(金) 11:45:58
角田錦江展
 本日職場に笠松町歴史民俗資料館から学芸員がおみえになり、拙蔵の 村瀬太乙・角田錦江合作掛軸を借りてゆかれました。3/1よりはじまる角田錦江の特別展に展示される由。毎度「授業料」払って研鑽を積んでをります(苦笑)漢詩の掛軸ですが、今回のみは僥倖といふべき歟。展示の概要は以下のとほり。見学記はまた追ってupの予定です。

平成19年3月1日〜3月30日 笠松町歴史民俗資料館企画展
「笠松の儒学者 角田錦江」
http://www.town.kasamatsu.gifu.jp/kyouiku/kb073.htm

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236やす:2007/02/23(金) 21:04:49
寄贈御礼『緑竹園詩集訓解』ほか
 笠松町歴史民俗資料館から『緑竹園詩集訓解』村瀬一郎著。
 著者は伊藤冠峰に私淑してその顕彰に退職後の余生を捧げられた岐阜市出身の最後の古老です。学芸員の方の説明で、これまでに「冠峰先生顕彰研究会」から出た本がすべて個人資金によるものだったことを知りました。笠松および御在所岳山上の石碑も、村瀬氏一人の尽力に係る建立と聞き、晩年身寄りなく老人ホームの一室を終の栖処と卜され、そこから先哲の面影にむけて終生敬慕の念を発し続けた翁に、崇敬の念を抱くに至りました。

また鯨書房さんより詩誌「あ・ほうかい」第2号。
>モーニングセットてんこ盛りの茶店林立するこの岐阜を怖れよ(山口省三氏「日常」より)
なるほど明日はそれをば頂き、岐阜駅ビルの古書展初日でもめぐりませう(笑)。

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237西岡勝彦:2007/03/02(金) 18:19:29
業務連絡2つ
ブログから引き続いて書き込んでおります。
1.レンタルサーバーが終わってしまいましたので、ホームページを移動しました。お手数ですが、リンクの書き替えをお願いいたします。
2.田中先生の詩集テキストで気づいた誤植です。
『詩集西康省』
「歴史」5行目 説明科→説明料
「西康省」2行目 Dichtungund→Dichtung und
『悲歌』
「卒業式」1行目 で口を出した→舌を出した
お蔭さまで、アンソロジーでは分らなかった田中克己という詩人の魅力が分かりました。戦後の詩は特に心に響きますね。

238西岡勝彦:2007/03/02(金) 18:26:28
ドイツ文は
直っているようですね。

239やす:2007/03/02(金) 20:34:05
『日々の嘱目』
 あたらしくはじめられたブログの、清澄な写真とともに西岡様の清潔感あふれるコメントをいつも楽しみにしてをります。この世知辛い時代にも人生を満喫するとはどういふことなのか、日々の嘱目の端々に顕れる生活態度に教へられるところが非常に多いです。出張のため訂正はしばらくさきになりますが、御教示御指摘のほど今後とも何卒よろしくお願ひを申上げます。ありがたうございました。

>戦後の詩は特に心に響きますね。
心に響く・・・服膺したい詩句がみつかるのが戦前なら、戦後は痛々しい鎮魂の吐露に尽きるやうです。

240やす:2007/03/03(土) 23:51:33
晦跡韜名爲世所貴・・・
 先週は美濃市まで村瀬藤城一族の碑文を読みに、今週は笠松町の歴史民俗資料館へ角田錦江展の見学に行って参りました。角田錦江といふ儒者が全国的に知られてゐないことはわかってゐましたが、教へて頂いたお寺には立札もなく、それどころかお墓が皆目みつかりません。そんなはずは。必死に探し回って・・・あ、ありました(汗)。直系の角田家は絶えた由ですが、此度の回顧展が町の教育史の先覚を、そして血縁の誇るべき御先祖様を見直すきっかけになったらと願はずにはゐられませんでした。

錦江夫妻(釋錦江居士、釋幸照大姉)の墓碑。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000354.jpg

241やす:2007/03/13(火) 21:10:50
『昧爽』第14号
『昧爽』第14号の御寄贈をかたじけなく致しました。

 特集は「言葉言葉言葉」。と聞いて思ひ出す野嵜さんは書いてゐませんが、この雑誌が特集を組むのですから仮名遣ひに喝が入るのは当然のこと。しかし皆さん色々な方角からの国語に対する憂慮を、漢字・仮名遣ひは投稿のままで載せてゐるところが嬉しいです。最初に一文を寄せられた渥美國泰氏は、私どもテレビ世代には馴染み深い悪役俳優にして、現在は江戸民間書画美術館館長。また宮里立士氏の文章に
「…こう書いてきて思い出す話がある。それは書籍の流通が乏しかった近代以前、学問を志す人問は貴重な書籍を暗誦できるまで自らのものにし、その内容を終生忘れることはなかったという話である。書籍を、所有するのではなく、借覧して読むのが当たり前の時代、同じ本は二度とは読めない頃の人の記憶カというのは、現代人には想像できない、雲をつかむようなものに感じられる。…」
 とあるのに、当時の和本や掛軸が比較的簡単に手に入ってしまふ現在の状況が、いかに異常でさういつまでも続くものでない状況であるかに思ひを致し、同感したことでした。

 そして今号は、そのやうに内容にも幅広いところをみせておきながら、前号後記で予告された、浅野晃と伊藤千代子のことをめぐっての『苫小牧市民文芸』の一文に激怒した中村氏の「鉄槌」が、えらい剣幕で気を吐いてゐるのが、もう、槍玉に挙がった先方が可哀想にさへなる位(笑)。おそらくヒューマニズムの在り処がたったこの四半世紀ばかりの間に大衆のなかで大きく変ってきたことを、前衛の自負が財産のこのひとは理解できない(したくない)のだらうし、中村氏も未だ自らの優位に安心ができず過剰反応の気味。斉藤征義氏の新連載となる浅野晃論が、もう少し共産党の事情に暗い自分などにも分るやう手引きされれば、と思ふ一方で、中村氏が今回のことで神経を擦り切らしてしまはないか懼れる次第です。

 ありがたうございました。

『昧爽』(中村一仁・山本直人氏共同編輯)
    編集部:nahoto@wf7.so-net.ne.jp (@は@です)

242やす:2007/03/17(土) 23:03:24
「桃」三月号
 山川京子氏主宰「桃」三月号をお送り頂きました。誌面後半に、昨秋刊行された山川弘至『國風の守護』についての諸氏から寄せられた読後感が掲載されてゐます。
 私も頂きましたこの復刻本、著者の薀蓄を縦横に傾けた美術史論や国学の評論は、先輩と仰ぐ保田與重郎やシュペングラー張りの断定が爽快ですが、専門知識の乏しい者が評するところでありません。むしろ叙述の端々から私が読み取ったのは、戦争といふ異常な時代、詩心の純潔を守り通すために古典の言葉で自らを防禦しようとした姿勢、むしろ言葉の方が行く先々で詩人を支へてゐるやうな激烈な祈りの様相です。それが痛ましくも見ゆるのは他でもなく彼が非業の死を遂げたからでありますが、それゆゑ容認される文辞を退けたところで、なほ今の飽満の世に生きる私たちが望み得ない真摯な詩への憧憬が、彼の信仰となり全身をめぐる様子は圧巻の一言に尽き、それこそは詩人の生理と名付けてよからうと思ふものです。「七生報国」を「神国の倫理」とも「青春そのものの象徴」とも言挙げる詩人はまた、「戦争遂行の臨時措置として神国を言ふがごとき輩は、真の日本の国体を知らず、歴史を知らず、又神をおそれざる不逞の輩である。」と、厳しく自らの生死を託するに神話への帰依をもってするとともに、「もし自分の言ふことが、神がかってゐると嘲笑するひとがあれば、」と、その自覚をも表明して恥じない。勿論さうでなければ保ち得なかった“國風の守護”でありますが、同時に國風によって自らの純潔が守護されるといふ、詩人ならではの信仰の約束であったのだと思ひ至ります。

 この場にても御礼申し上げます。ありがたうございました。

 さて以前行った四季派学会の講演について印刷用の原稿を送りました。これまた田中克己先生の戦争詩について述べさせてもらったものであります。まとまって先生のことについて書いたのは二度目で、この話題はどうしても避けて通れないものでしたから、ひとつ肩の荷を下ろした気分です。読んで頂ければわかりますが、ページの関係で詩を抄出できませんでしたから、こちらのホームページでテキスト共にしっかりフォローさせて頂かうと思ってをります。

243やす:2007/03/17(土) 23:04:40
古本雑誌「初版本」
「日本古書通信」Vol.72(3) 到着。
「古書展の思い出(古本講座14)」で『孟夏飛霜』を\500で掘出した話、続いて五冊も集めた話には吃驚しましたが(私まだ読んだことない 笑)、今号裏表紙には扨いよいよ計画中の新雑誌「初版本」の全容が発表されました。旧「Salon De 書癡」掲示板出入りの面々に扶桑書房・石神井書林の店主ほかを加へた執筆陣といふのは楽しみです。B5版オールカラー100pで\1000(〒込)といふのも本造り同様、責任編集川島さんの採算度外視の意気込みが窺へます。「人魚通信」の時は限定200〜300部でしたが今回は期限内に申し込めば全員が購読できる模様。 みなさんもどうぞ。 あ、私まだ入金してなかった(笑)。ゴメンナサイ。【〆切は5月31日まで】

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244やす:2007/03/21(水) 17:58:05
詩集『私の墓は』, 評伝『雪に燃える花 詩人日塔貞子の生涯』再刊本
山形県寒河江市の奥平玲子様より、日塔貞子の詩集『私の墓は』および彼女の評伝で同じく稀覯となってゐる安達徹氏の『雪に燃える花 詩人日塔貞子の生涯』の、各再刊版を御寄贈頂きました。厚く御礼を申し上げます。
昭和24年に亡くなった詩人の遺稿詩集が出たのが昭和32年のこと。晩年を看取った四季同人の日塔聰はその後再婚して山形を去ります。遺された日記をもとに安達徹氏が書き綴った評伝の初版が出たのが昭和47年、それからさらに35年の時を経て、当時感銘を受けた奥平様ほか友人四人の自称「主婦のグループ」の手によって、このたびその評伝が甦ったのです。有志はそのためだけに立ち上がり出版に奔走された由(いつの世も美しいものはやはり誰かが抛っては置かないものですね)。さうして昨春刊行された、この28歳で夭折した純正抒情詩人を紹介した本は地元でも話題を呼び、おかげで詩集自体も再刊の運びとなり、なんと現在3刷とのこと。地元の公共図書館以外、まだ大学図書館にも寄贈されてゐない様子で、研究者といふより詩を愛する読書家の間で詩人の伝説が流布され続けてゐるのです。
 詩集の瀟灑な装釘は、サイズや版組みだけでなく、カバーを取ると一層初版本へのリスペクトを感じるもの。評伝の方は新聞連載だったせゐでせう、最初、時系列が不分明なところや、脚色過多ではないかと感じる冒頭を過ぎると、次第に面白くなってきます(こちらは近く著者自ら補筆して再再刊される予定)。唯一残念なのは・・・詩人仲間の誰もが感嘆したといふ閨秀詩人の容姿が、今回の再刊本どちらにも写真で紹介されてゐなことでせうか。 つづきは後日の書評にて。 お問ひ合せは
991-0023 山形県寒河江市丸内2-4-19 桜桃花会 まで。

詩集『私の墓は』 \1800 (紀伊国屋サイトでも購入可)  『雪に燃える花 詩人日塔貞子の生涯』 \1500

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245やす:2007/03/31(土) 11:52:50
週間報告
○ 頂きもの
鯨書房さんより詩誌「あ・ほうかい」(まづは一里塚の第三号おめでたうございます。といって文章には古本屋さんの苦しみが切々と綴られてゐるのですが。)
横浜市大庭様より『李太白』の縦書きpdf文書ファイル。
ともに御礼申し上げます。ありがたうございました。

○ 購入もの
後藤松陰の直筆折帖を入手しました♪ しかし一体なんの理由があってこんな手習ひものを認めたのでせう。国会図書館の所蔵本とところどころ同じ文句がありますが、もとより「世話千字文」なるものについて不詳です。どなたか御教示頂ければ幸甚です。

○ また歳をひとつ重ねました。
「偉さうにすることもされることも嫌ひ」で来たせゐか、いまだに年かさの自分だけ君付けで呼ばれます。人徳なければただ軽んぜられるだけです。

246やす:2007/04/08(日) 15:39:18
『生き残りの記 嫁菜の記その後』
 先日アップした【四季派の外縁を散歩する】で、「このところ戦争中に詩的開花を遂げた夭折詩人について、復刻・回顧の出版が続いてゐる」と書いたのですが、以前に刊行予告を頂いてゐた『生き残りの記 嫁菜の記その後』を鈴木利子様からお送り頂き、思ひはピークに達してをります。山川弘至についてはさきの回に記しましたが、文庫版『大東亜戦争詩文集』に同じく収められた、新生活を絶たれたもうひとりの戦没詩人が増田晃です。山川弘至の場合と同様、申し分ない才能と手放しの愛情表現を兼ね備へた詩人らしい夫君に文学的素養を培はれ、共にあった短い日々がそれ故に殊更消しがたい生涯の傷痕となって焼き付けられたのは、戦後再婚された利子氏にあっても同じこと。それがさきの『嫁菜の記』に続き今回刊行された限定二百冊の非売本のなかに、傘寿の視座から生涯の縁しを俯瞰するやうな、穏やかな筆致で認められてをります。戦時中の同人誌「狼煙」追悼号を中心に、詩人を愛惜する諸氏の文章を後半に収めてをり、読んでゆくと突然若い日の師友の言葉に出会ふ巧まぬ構成が、資料の復刻意義とは別に読むものをして「時の感慨」に駆り立てます。家族を収めた数葉の写真のなかで唯一当時のもの、結婚挙式時の写真にはページを繰った誰しもが息をのむことでせう。また私は本書のおかげで田中克己先生の拾遺詩一篇とゆくりなくも邂逅を得、冒頭『大東亜戦争詩文集』に係り自分のことが引かれてあるのには冷汗を流しました。 つづきは再び後日の書評にて。

 さてこの本の中でも回想されてゐる林富士馬は、山川弘至や増田晃と同様、育ちのよさの面でもいかにも日本浪曼派の第二世代を代表する詩人のひとりですが、戦争をくぐりぬけてのちは、「文学を何故するのだ」といふ青臭さを大切にし、ディレッタントの生涯を貫き通した辛口文芸批評家にして町のお医者様です。晩年のお弟子さんであり、雑誌『近代文学資料と試論』を独力で主宰してをられる碓井雄一様から此のたび第六号の寄贈に与りました。前号に引き続き「林富士馬・資料と考察(三)」のなかで、戦後期に詩人が主宰した同人誌『玻璃』について目録に沿って論及をされてゐます。戦後文壇において日本浪曼派の出自を持つ自分のやうな者は、おのれの文学観に殉じて後日の審判を待てばよいのだとする自負。ジャーナリズムの渦中に去った後輩三島由紀夫を意識したともみえる、敢へて万年文学青年を標榜するかの姿を抄出したり、また寄稿者山岸外史の随想に独特の感傷をみようとする碓井氏の視点は、「サムライ」好きの私にしても全く同感であります。毎度思ふことながら、同人誌といふより大学国文科の紀要に比して遜色ない学術雑誌といふべき。CiNiiで全目次を閲覧できます。『近代文学資料と試論』(「近代文学資料と試論」の会 〒358-0011 埼玉県入間市下藤沢653-1-408 碓井方)

 さらに活動拠点を関西から九州に移された西村将洋様よりは、雑誌「昭和文学研究」第54集をお送り頂きました。保田與重郎の多岐にわたる研究動向について、各論文の意義を比較検証した短評を下されてゐます。私なんぞの読みとは濃度・次元が違ふなあ(汗)。しかし西村様始め、知遇を忝くする近代文学研究者の皆様から一様に喬遷・転封のお知らせを頂くことに驚いてゐます。

 皆様方にはこの場にても健筆ご活躍を祈念するとともに厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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247やす:2007/04/12(木) 12:21:00
『緑竹園詩集』復刻版
 角田錦江特別展の資料協力をさせて頂いた折、主宰の資料館に在庫を無心した故村瀬一郎先生畢生の編著のうち、『緑竹園詩集』復刻版全3冊と遺墨資料1冊(冠峰先生顕彰研究会,1990.11)を、このたび冠峰顕彰会の宮崎惇様よりお贈り頂きました。この場を借りまして厚く御礼を申し上げます。
 前に記しましたが、翁はその全詩に解釈を付し『緑竹園詩集訓解』(2001.11)として刊行。かつて江村北海に
「冠峰をして身都下に在って藝苑に馳聘せしめば、すなはち其の詩歌の名、方今の赤羽(服部南郭)、蘐洲の諸子(徂徠の弟子達)に讓らざるべし、惜いかな」
 と評せしめた詩人伊藤冠峰の詩業が、私のやうな初学者にも明らかになりました。これはその原本の復刻。翁の後記によれば、刊本ながら今では日本に二、三冊しか現存しないと云はれる『緑竹園詩集』のコピーを京都大学図書館からとりよせ、一丁一丁に語句の校訂、印字の補修、原寸大への拡大を施しながら「全行全字全線空間まで殆ど手を加えない箇所は無いと言っても過言ではないほど」労力を傾けられた由。こちらの復刻は古書店にも現れず、一本を愛蔵したいと長らく念じてゐたのでした。
 しかし斯様なまでの苦労をされてゐることを知れば、亡き翁には詩集の実物を一度手にとって御覧頂きたかった気も致します。図書館では直接コピー機に当てることを拒絶され、送られてきた写真撮影なるものにさきに述べた御苦労が三年間に亘って課せられた由。当時は天下に二冊と思ひなしてゐた刊本も、今ネットで調べてみるとなんと近場の、愛知大学の豊橋図書館(菅沼文庫)にもある様子。1989年12月の調査とありますから、もとより復刻作業に資すべくはなかったかもしれませんが、残念なことは2001年の『緑竹園詩集訓解』後記のどこにも新しく刊本と出会った事実が記されてゐないことです。正式な目録もまだない貴重書文庫のやうですから、結局は御存知なかったのでせう。愛知大学でも名古屋図書館の方には復刻本の寄贈があったのですから、利用者と図書館の双方のすれ違ひは、コピーの件といひ、罪作りなことであります。
 つまらんこと記しました。

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248やす:2007/04/15(日) 00:03:00
『朔』160号 一戸謙三特集(終)
 八戸の圓子哲雄様より「朔」160号の御寄贈にあづかりました。二年間六回にもわたった一戸謙三特輯号は今回が最終回です。解説の坂口昌明氏は皮相な定説として避けてをられますが、時代的にはその「繊細で感性豊な抒情詩から、いかにも青年の客気にまかせたヨーロピアン・スタイルの前衛的曲芸にいったんは身を投じた」詩人の前半期について、さらに戦後も引きついでなされた訳詩業を加へて、従来方言詩人としてのイメージしかなかった読者の目を開かせる拾遺資料の紹介、解説、回想が一通りなされた、といったところではないでせうか。ここをもって最終回とするのも、つまりは詩人自身が若気の至りとして訣別した特に初期の時代こそ、詩人が詩人らしい感性の輝きに溢れてゐた時期であったと編集部が判断したからであって、斯様な巻頭特集を連続で組まれた意義はまことに青森詩壇のみならず、口語抒情詩の全国展開を俯瞰する上でも大きなものだったと思ひます。私自身、うわさの『ねぷた』といふ詩集を手にして、初めてこの詩人を知った者ですが、さうして詩人といふのは処女詩集の評価が決定的であると謂はれますけれども、実は正直のところあの一冊では詩人の名が云々される理由がわかりませんでした。語句の解説があらうと青森弁の抑揚を知らないのだから当たり前ですよね。むしろこのたび紹介された大正〜昭和初期にかけての、中央詩壇の動きや質に較べて遜色の無い抒情詩、モダニズム詩に没頭した詩歴が、後年詩風を転じた後もオーラとなって裾野を引いて、過去を封印した筈の詩人に漂ふ一種の風格となるに至ったんぢゃないか、さうも感じた次第です。残念なことはそれを訪ねるべき肝心の、戦前の詩業を収めたといふ第二詩集『歴年』自体が既に稀覯になってゐることでせうか(昭和23年青森美術社刊、200部)。(今回特集となったシュルレアリズム期の作品のいくつかは、アンソロジー『詩鈔』にみることができます。)
 ともあれ坂口昌明氏が中心となって紹介の労をとられたこれまでの拾遺詩篇特集が、あらためての詩集刊行にまで引き継がれることを願ってやみませんが、思ひはさらに村次郎、草飼稔、和泉幸一郎と、青森抒情詩の先人たちの「文庫叢書」にまで広がってしまひます。

 また同人となられた小山正孝夫人常子氏の回想はしばらく連載されるとのこと。しっぽりと睦まじい回想を伺ふと、田中克己先生の逸話もこんな風に今は亡き夫人に書いて頂きたかった気が致します。推理小説がお好きだと仰言ってゐたから、さぞお話の緒も抽斗もあったでせう。但しこちらはちょっぴり面白をかしく・・・。

 ここにても御礼を申しあげます。ありがたうございました。

249やす:2007/04/16(月) 19:45:51
古書目録御礼
 先週から、扶桑書房さん、新村堂、誠心堂書店、森井書店と続々目録到着。 森井書店の古書目録は毎度ながら御礼を言ひたくなるほどの美しさ。

 別冊太陽の「中原中也」を思はず購入。今月29日が生誕百年とか。記念グッズもいろいろと。

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250やす:2007/04/22(日) 11:12:55
奥居頼子遺稿詩文集『和光』
 詩人増田晃が少年の頃、上野図書館に通って閲覧、密かに恋してゐたといふ夭折少女奥居頼子の遺稿詩文集『和光』(1927.7奥居彦松編 非売私家版1000部)が偶々ネット書店に出てゐた。どんな本だったのか興味があって早速注文したのはよかったが、届いた仏壇の如き壮麗な装釘と、いたいけな内容とのギャップに少なからず驚いた。
 第一勧銀の支店長だった父親が自身のコネクションを総動員して、画家から慰撫の絵画を、親戚友人からは追悼文を集め、編輯する自分の後ろ姿も一緒に、将来の嫁入費用を全額遺稿集出版につぎ込んだらこんな本になってしまった、といふ感じの本である(90,210,190p ; 23cm上製函)。収められた遺稿も断簡零墨のすべてに亘ってをり、一寸他愛無い程だが、それだけに普通は窺ひ知ることの出来ない同年輩の少女の心のうちが隅々まで晒されて、可憐な遺影とともに多感な少年の詩心に強烈な灯を点しただらうことは想像に難くない。後年詩人は詩集『白鳥』に収められた当時の所産となる初期詩篇について疎隔の意を漏らし、日本浪曼派の古代禮讃へとのめりこんでゆくことになるが、伊福部隆彦をして天才出現を叫ばしめたそれら殉情詩篇にこそ、私もまた強く惹かれる。詩人の出征中、新婚の利子氏は、伝へ聞くこの本を同じ上野図書館でアルバイトの最中に発見し「ドキドキしながら頁を繰ってみた」。詩人の戦死広報を受取るのはその夏のことである。

  「花束の思出」   奥居頼子

どれがいいかしら──
これもあれもみんな
お友達から送られた花束です
一ツのは赤いバラ
もう一ツのはヤドリ木
第三番目のはカーネーション
終のは枯れてしまいそうな
月見草! でした

赤いバラは美しき愛
ヤドリ木は接吻を乞ふ
カーネーションは
あなたの奴隷になる
月見草! 沈黙せる愛情

私がまよって居るときに
ちいさい聲が言ひました
月見草が一番安全ですよ──と
私は従ひました 小さい聲に
ちいさい聲が言った通り
私はいつまでも幸福でした

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251やす:2007/05/19(土) 23:30:50
【連絡】プライベートアドレス変更
迷惑メールがひどくなってきましたのでプライベートアドレスを変更しました。以後、旧アドレスにはメールを送らないで下さい。よろしくお願ひを申上げます。

252やす:2007/05/20(日) 20:24:27
ごぶさた近況報告
 仕事や家のことで何かと気忙しく、コンテンツの更新も滞ってをりますが、比較的元気でをります。

 歌誌「桃」五月号(No.624)を、主宰の山川京子様より御寄贈にあづかりました。ありがたうございました。毎号末尾に山川弘至にまつはる書簡、書評、断簡零墨が掲げられ、歌の分らぬ私にとっては大変興味深い文献です。さういへば久しく絶版となってゐた「日本浪曼派」「文藝文化」の復刻がオンデマンドで再刊される由(雄松堂出版)。各々\68250、\94500であります。

 「日本古書通信」No.934到着。 川島さんが「本の保存法」について、名高いナフタリンペーパーの使用をやめた経緯など含め面白く解説されてゐます。蔵書家の最大の敵は光・埃・虫・泥棒でもなく家族だとか(さきの再刊にしても結構有名な人々の家族が分らないやうになってるみたいです)。 家族はともかく(笑&汗)目下、私も和綴本の保存(配架)についてはどうしたものか苦慮中。雰囲気は良い慳貪箱も隙間だらけだし、あら隠しに最適なグラシン紙も、酸性紙であってみれば保存に良いのか悪いのかわからぬなんて聞くと訳がわからなくなります。

 さうして今月は宿願、といふか寧ろ生涯手許に置くことは諦めてゐた四季派の稀覯詩集の入手が叶ひました。本屋さんに感謝、献呈先に吃驚。これ以上云ふとまたバチが当りさうな気がします。ほかにも富岡鉄斎の複製書軸など、さても五月は物入り月となる気配。
 (この掛軸といふヤツ、書籍と違ひ、複製であっても図書館のDBに「書誌」がまとめられてゐるといふことはないやうです。ちなみに鉄斎のものは何社から何種類位出てゐるのでせう。複製とて正価では手が出ない代物ですが、今回たまさか手に落ちたのはこれまた僥倖です。)

 「あ・ほうかい」4号を鯨さんより寄贈にあづかりました。ありがたうございました。客間の事を「でえ」と呼ぶのですね。知らなんだです。

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253やす:2007/05/21(月) 22:43:52
(無題)
大久保さまへ

用件そのままに碓井様宛メール申上げました。書き込みは削除させて頂きました。(このレスも削除します。)
以後用件あります場合は下記メールアドレスまでよろしくお願ひを申上げます。
拙掲示板がお役に立って嬉しく存じます。

254碓井雄一:2007/05/22(火) 00:21:11
(無題)
やすさま。ご無沙汰いたしております。こちらでご紹介を賜りました御蔭をもちまして、池内規行さまから拙誌につき有難い御連絡を賜り、早速ご連絡を差し上げた次第です。のみならず、高著『評伝・山岸外史』の御恵送を忝う致し、嬉しいことでした。やすさまにも衷心より御礼申し上げます。また、サーニンさまとの嬉しいやり取りも、久しぶりにさせていただきました。
さて、メール賜りました件ですが、僕と致しましては全く問題ないのですが、「アウトルック・エクスプレス」を一旦閉じて、いま開いてみましたら、何故か先ほどのメールが削除されていて、もう一度御文面を拝して連絡方法等をじっくり考えたく、というほどのことでもないのですが、御手数をお掛け致しますこと本当に心苦しく存じますが、先ほどのメールを、再送いただきます訳には参りませんでしょうか。やすさまのアドレスを登録も致したく。何卒、宜しくお願い申し上げます。
このような私的なご連絡に掲示板使わせていただきましたこと、お詫び申し上げます。同人誌、今年12月までにはもう一冊、と考えております。この1〜2年である開き直りがあり、あくまで林富士馬と伊東静雄に拘泥いて参りたく、どうぞ、今後とも宜しく御教導を賜りますよう、お願い申し上げます。取り急ぎです。

255やす:2007/05/22(火) 12:49:18
(無題)
碓井さま
了解です。用件別途メール申上げました。このレス含めて3件過去ログから外します。
今後ともよろしくお願ひを申し上げます。

256やす:2007/05/28(月) 12:16:10
『評伝・山岸外史』
 このたび林富士馬のお弟子さんである碓井雄一様との御縁を通じ、山岸外史に私淑された池内則行様から御高著『評伝・山岸外史』をお送り頂きました。現在書きかけのまま進まない別稿の作文を措いて読み始めたところ、面白いので読み通してしまひました。さういへばこの山岸外史といふ人は、四季・コギト・日本浪曼派の人脈を考へる上でのキーパーソンであります。悪麗之介さんも大推薦の散文詩集『煉獄の表情』は未見ですが、自意識の強い癖のある文体は、批評家の立言と云ふより詩人の述志と称すべく、彼を一躍有名にした『人間太宰治』のほか折々にものされた人物月旦など、地べたゼロメートルから放たれる切り口・語り口がまず破格です。「太宰はしか」に罹ってゐた大学生の時分、『人間太宰治』を読んで、はぁー、これが文士といふものか(ハートマーク)、彼と檀一雄こそ一番の親友だ、特にこのひとがも少し「おせっかい」であったら太宰治は死ぬことがなかったのぢゃないか、とさへ思ったものでした。一切の権威を無視してなされる彼の不逞な「断定」のすぐ裏にはしかし、同時にサムライに類する「はにかみ」があって、例へばイエスキリストに対する牽強付会が立原道造に対してはそのもろい美しさに理解を示したりする。その育ちの良い禀質には学識と贅沢が助長させた甘えが癒着してゐて、近親に対して居丈高であると思へば、仲間に喝破されると年長であらうが忽ち軽んぜられることとなる。田中克己先生は「山岸」と呼び捨てにして太宰治から窘められたさうですが、晩年の先生から、さきのキリスト論に呆れ返ったことや、萩原葉子さんとの恋愛(?)を醜聞として聞かされたことでした。文章でも「いい人だが、何をたのみに生きてゐるのかと心配でならない。」などと書かれてゐるのですが、つまりは憎めない(笑)。けだし日本浪曼派グループの中でも最も向日的なドイツロマン派気質を持ったタイプとして、芳賀檀とともに双璧のやうに思ひます。著者に対する芳賀檀氏からの礼状コピーも拝読させて頂きました。戦後あれほど悪罵の中にあった芳賀氏の許へ、同志の監視員(?)付きで久闊を辞しに来たとのこと。なるほどあまりに破天荒すぎて、共産党に入ったことさへ(その後のなりゆきを見ましても)自身をもてあました奇行癖の結果と呼びたくもなります。尤も文壇から嫌はれた東京生まれらしからぬ「非スマートさ」も、約めてみれば江戸っ子の向日性と含羞から発したものには違ひなく、もともと陰にこもったものがないから、かうして実害の無くなったところで(?)必ず擁護者も表れる訳であります。冒頭太宰治論をめぐっては、井伏鱒二の側に立つ余り山岸外史に噛み付いた相馬正一氏に対する反駁が快く、また当の井伏鱒二に対しても、山岸外史自身では弁解できないところを第三者である長尾良(コギト同人)等の回想文など援用して、謦咳に接し得なかった師の身の証しを両者並び立つ形で立てられておられます。

 続きはまたブックレビューに場を移して書き直したく、とりいそぎこの場にて御礼の一報まで申上げます。今週は出張でまたしばらく留守にする予定です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000373.jpg

http://www.geocities.jp/sounsanbo/gonta/gonta200602.htm

257:2007/05/29(火) 00:08:21
(無題)
やすさま
 拙著『評伝・山岸外史』についてご懇篤なご紹介を賜り、ありがとうございます。貴ホームページというよりは、やすさまというお名前は、もう一つのアルファベット名前ともども以前から気になる存在でありましたが、このたびの碓井雄一様とのご縁から交流が始まり、嬉しく思っています。あらためまして、この場をお借りして、碓井様へ心からのお礼を申し上げたいと存じます。
 私が山岸さんについて書こうと思ったのは、『人間キリスト記』『芥川龍之介』『煉獄の表情』『ロダン論』『眠られぬ夜の詩論』『人間太宰治』と、独自の発想と詩的な文体で多彩な作品を著しながら、正当な評価を得ていないということへの疑問・憤りからでした。戦前の書物は手に入れにくく、評価のしようがないのは解りますが、太宰研究書中の白眉というべき山岸さんの『人間太宰治』が歪めて評価され、その人間性まで否定されかねないのを見ては黙っていられない、という気持ちです。先入観を持たないで、虚心に山岸さんの太宰論を読めば、また、山岸さんの太宰宛書簡に目を通せば、真に太宰治を語るにふさわしいのは、山岸さんを措いて他にいないということは自明の理であります。
 太宰治研究に関連して触れますと、山崎富栄の実像を探求し、田辺あつみの出自を探り出したあの長篠康一郎氏が今年2月に満80歳で亡くなられましたが、長篠さんも山岸さんに師事され井伏鱒二やその一門の作家・研究者から排斥された在野の太宰研究家でありました。(6月9日正午から東京市ケ谷の旧私学会館で、かつての太宰文学研究会の会員の方たちを中心に、長篠さんを偲ぶ集いが開催されます)
 太宰治関連の話ばかりになりましたが、やすさまの該博な知識と鋭い洞察力に裏付けられた寸評へのお礼の言葉を申し上げるのが、そもそもの趣旨でありましたが、脱線してしまい申し訳ございませんでした。いずれブックレビューでもご紹介・ご批評を頂戴できるとのことで、望外の幸せを感じております。
 やすさま、碓井様、本当にありがとうございました。

258碓井雄一:2007/05/31(木) 20:53:48
改めまして。
池内さま。高著、本当に興味深く(躍動的な記述を)拝読致しました。実は、拙誌につきお問い合わせいただきましたのが、池内さまが初めてでしたので、このことも本当に嬉しいことなのです。どうぞ、今後とも御教導を賜りますよう、お願い申し上げます。
やすさま。御迷惑をお掛け致しましたこと、衷心よりお詫び申し上げます。また、有難うございました。委細、ここで申し上げるべきではありませんね(汗…)
林富士馬(あえて呼び捨てなのです)研究に生涯を捧げたいと存じております。大仰な言い方ですが、思うところもあり、「研究」というより「僕は林富士馬に愛されていた一時期があった」という思いが、僕のつらい日常を支えているのであれば、その思いに正直にと、つくづく考えたりも致しております。と申せ、来る仕事はホイホイ請けて、挙句に窮地に陥るのですが(その節は本当に御迷惑をお掛け致しました)。やすさま、池内さまとの本当に嬉しいやり取り、そしてサーニンさまの腹のくくり方をブログで拝し、後に続きたいなと、そのこと自体を齷齪考えるのが悪いところなのでしょう、これは直りません。
同人誌を創るに当り、「ショック」ともいうべき関わりをお示し下さったのが米倉巌先生です。端的に「破格の人」なのです。というのは、一度もお会いしたことがないのにも拘らず(いまだにお会いしたことがなく)、拙誌お贈り申し上げるたびに、「資金は大丈夫か?」「また寄稿したい」と仰ってくださる方、なのです。僕自身は酔っ払いのダメ人間なのですが、生涯のひと時でも、このような方々に支えられて参りましたこと、涙ぐむような、至福を感じております。
米倉先生の、もちろん『萩原朔太郎』一連の御著も大切なのですが、僕にとりましては、学部生のときに新刊書にて拝した『伊東静雄―憂情の美学』(審美社)から学ばせていただいたことの大きは生涯の宝なのだと感じております。
思い出しますことは、突然の不躾な申上げように対して、しかも過ぎたお願い事に対して「ひとつ返事」でお応え下さいました中嶋さま(上野駅でお会いしてから、もう10年ですね!)、拙誌をお気に留めて下さり御連絡を賜りました池内さま、米倉先生をお慕い申し上げております思いと同様の気持ちで、酔いに任せて取り留めのないメールでございます。どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます。

259やす:2007/06/01(金) 17:40:11
出張より帰還致しました。
>池内規行さま
「Salon de書痴掲示板」が終了してからHNによる表立っての書き込みは歇みましたが、過去ログをみて頂ければ分かりますとほり、「該博」など云はれるとコレクターや古書店主達の失笑が聞こえてきさうです。著書で紹介されてゐた長篠康一郎氏が今年逝去された由、御冥福をお祈り申上げます。

>碓井雄一さま
上野の聚楽にてコーヒー一杯で二時間も話し込んだこと(笑)すっかり失念してをりました。1998.2.22・・・もう十年も以前のことになるのですね。米倉巌氏の著書では他にも『四季派詩人の思想と様式』のなかで、杉山平一先生のことを対談とともに取り上げてをられるのが貴重に存じます。

 思ふに山岸外史、林富士馬、田中克己と三者三様、イッコク故に世間と扞格をきたした述志の文人を選んで師と仰いだことが、結局は自身に対する支へとなり、また新しい出会ひのきっかけともなってゐるといふのは、誠にいみじき縁しであるやうに存じます。今後ともよろしくお願ひを申上げます。

 出張先で立ち寄った古書店では、戦後まもなく刊行されたにも拘らず、徒花のごとく増田晃への愛慕を表明してゐる奇特な詩集に遭遇しました。詩人は庭園史研究第一人者の血統。詩集の表題は萬葉集冒頭の御歌に喚起された詩篇からでせうか。

260:2007/06/06(水) 23:25:43
Book Review ありがとうございました
やすさま
 「Book Review」感銘深く拝見いたしました。これほど詳細に好意的にご紹介くださり、また、やすさまの直截なご感想を賜わりましたことに対し、心からありがたく厚く御礼申し上げます。こんなことなら、20年前に差し上げておけばよかった、というのは冗談ですが、やはり“該博な知識”と鋭い洞察力、柔軟な感性に裏付けられた的確なご指摘・ご批評に、感心したと申し上げたいと思います。(該博な知識も、単にひけらかしたり、他の人を冷やかしたり、揚げ足を取ったりする匿名のある種の人たちの場合は、“該博な痴識”とでも言っておきましょう。)また、一方的にお送りした情報を上手に取り入れて、よくぞ要領よくまとめてくださったことと、感服いたしております。
 太宰治をめぐる山岸外史・長尾良組と、井伏鱒二・相馬正一氏組との懸隔について触れた拙文に着目され、支持していただいたのは嬉しかったです。このあたりは、私に外史伝を書かせた大きな動機のひとつなのですから。
 やすさまは、桜岡孝治氏に目を留めておられますが、桜岡さんはずいぶん血の気が多く、喧嘩っ早い詩人で、林富士馬さんとも長い間絶交状態が続いたようです。また、桜岡さんは千葉県の鎌ヶ谷で養鶏業をなさったり、町会議員を務めたりされたとのことです。
 山岸外史は「詩人の奇矯癖は、あえて怪しむに足りない」という人ですから、周辺には奇人めいた人もいたようです。碓井雄一様が「プシケ」から探し出された山岸さんの「馬の鈴」に出てくる吉野實という詩人などは、女物の着物に赤い腰紐一本を締めて現れるなど、山岸さんが呆れるくらいの奇人だったようです。この女物の着物のことは、山岸外史のお弟子さんの川添一郎さんも書き留めておられます。この川添一郎や吉野實、野口儀道、村上道太郎など8人の詩人が、『詩集8人』という本を出しており(昭和17年11月、詩集8人発行所)、山岸さんが「洋燈に灼らされた言葉」という序文を書いています。
 まだまだ書き足りない気がしますが、キリがありませんので、今日はこのあたりで止めます。それにしましても、本当にこの本をまとめておいてよかったと、つくづく感じます。新しい交友の輪が広がり、やすさま、碓井さま、皆様から新しい情報や刺激を頂いています。これもインターネットのおかげなのですが、太宰治を愛読する若い人が『評伝・山岸外史』をよく読んでくださっているのを知り、大いに勇気付けられています。
 やすさま、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

261やす:2007/06/07(木) 21:56:13
『詩集8人』
>池内規行さま
過分のお言葉を賜り、恐縮するとともにそんな風に云って下さるとやはり嬉しくて仕方ございません。

 相馬教授は職場に国文学科があったころ、私が教務課にをりました時分に、御自宅のある信州追分から二週間に一度、下界に降りてこられ、また高原に帰ってゆかれるといふ、大変羨ましい身分の先生でした。深くお話する機会もありませんでしたが、それでも『夜光雲』を出したことをお伝へしたら二つ返事で買って下さいました。浩瀚な評伝の著者らしく鷹揚な優しい感じの先生でらっしゃいました。

 さて掲示板にございました『詩集8人』は初耳です。書誌が国会図書館サイト他でもみつからないので、どんな本なのか興味津々。詩風も典型的な日本浪曼派第二世代によるアンソロジーなのでせうね。探して読んでみたくなりました。型破りの詩人たちの逸話、桜岡孝治氏の話ももっとお伺ひしたいところです。私が知るのはほか、伊東静雄の葉書くらゐしかありませんから(いま玉英堂のHPに写真が出てゐますね)。

ありがとうございました。

262やす:2007/06/07(木) 21:58:45
「ランプの灯りに集う」Vol.3
 さて本日、丸山薫研究会(豊橋市文化市民部文化課)から会誌「ランプの灯りに集う」Vol.3の寄贈が図書館にありました。これも職場に国文学科があったころ、詩の講義をされてゐた冨長覚梁氏が代表をつとめていらっしゃる会なのですが、今回の会誌には拙掲示板でも告知しました愛知大学で行はれた昨年の会合「丸山薫の魅力」における八木憲爾氏の講演録が収められてゐて貴重です。生憎仕事で参加できませんでしたが、今後丸山薫を語る際には避けて通れないやうな創見をお話しされたやうです。冒頭に、
「それは兎も角、従来「丸山薫を語る」となると、まずその出自、それに絡んだ解説や鑑賞がなされてきました。が、それらの多くは、私にはピンとこなかった。」
と世の丸山論のピントはずれ(それは「四季派=消極的戦犯詩人」とみなした戦後現代詩人達の、彼を批判の俎上から救はうとした成心も含んでゐるやうに思ひますが)を牽制してをられますが、それに続くお話では
「萩原朔太郎、丸山薫、稲垣足穂、江戸川乱歩、この四人は藝術の上で、同じ血筋」
「果たして、丸山薫は、その影響を――モダニズムの洗礼を、強く受けただろうか。私には思い至らないのです。そのように見えるものは、薫が天性持っていたものではなかったか。これは大切なことで、いままでいわれてないことですが、薫には、生来、シュールレアリストの気質が多分にあった、といってもいいかと思います。」
と、出版のお世話にはじまり、詩人と家族の身近にあって一番に気を許された人ならではの卓見が並ぶのです。ことにも詩篇「汽車にのって」の解釈は見事としか言ひやうがなく、
「汽車に乗って、あいるらんどのような処へ行けますか。船に乗って、ではないのです。悲しい少年の、愉しさをあこがれる、あどけない空想だからです。それゆえに、ついで「窓に映った時分の顔を道づれにして」とくるのです。」
といふところは読みつつ胸が熱くなってしまひました。
 続きはまたブックレビューに(笑 こればっかり)。

 写真は復刻版『帆・ランプ・鷗』(1965 冬至書房版)の扉に入った識語。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000379.jpg

263:2007/06/08(金) 00:52:19
『詩集8人』について
やすさま
 こんばんは。
 取り急ぎ『詩集8人』について記します。
 正式なタイトルは、『詩集8人』です。“8”は漢数字の八ではなく、算用数字です。ただし、背表紙は「詩集8人」となっていますが(発行者や発行所などはなく、タイトルのみです)、表表紙には中央に大きくコーヒーポットのような絵が描かれ、左上に縦書きで「詩集」とあり「8人」の文字はありません。中扉には横書きで「詩集8人」とあります。
 内容は、山岸外史の序文「洋燈に灼らされた言葉」に続いて8人の作品(詩)が載っていますが、その氏名と始まりのページは次のとおりです。

 川添 一郎・・・・・??4
 吉野  實・・・・・ 34
 村上道太郎・・・・・ 60
 野口 儀道・・・・・ 80
 秋田  彰・・・・・110
 關 須美夫・・・・・116
 末長  通・・・・・128
 小野 英幸・・・・・136

 最後のページは、141ページで「編輯後記」と奥付になっています。「編輯後記」は大きく二分され、前半の最後に(川添記)、後半の最後に(吉野、村上、野口記)とあります。
 奥付の最初に、詩集8人 非賣品 とあります。発行年月日は昭和十七年十一月廿五日、編輯兼発行者は、東京市本郷區元町1の2 加藤方 野口儀道、発行所は、詩集8人発行所で、その住所は、東京市本郷區元町1の2 加藤方 野口儀道内、となっています。
 なお、並製、カバーなしの本で、サイズは縦21センチ、横14.8センチです。

 具体的な中味につきましては、いずれコピーをとるか何かの方法ででも、お目にかけたいと思います。

 桜岡孝治さん、川添一郎さん、林富士馬さん、長篠康一郎さん、あるいは山岸外史の長女晶さんとそのご主人佐野竜馬さんなど、懐かしく想い出されます。桜岡さんの消息は判りませんが、桜岡さん以外の方は皆さん亡くなられてしまいました。できれば何らかの形で、思い出など書きたい気もいたします。
 せっかくですから、桜岡さんの本をめぐる山岸さんとのエピソードを一つ。
 桜岡さんの著書『テラ・インコグニタ』(昭和46年3月、光風社書店刊)に山岸さんが14ページの長きにわたって序文「序文として」を書いていますが、これは桜岡さんが山岸さんに「1枚につき00円の稿料をお支払いします。何ページでも構いませんから序文を書いてください」と頼んだことにより、400字詰原稿用紙30枚以上という異例の長さになったそうです。これなどは桜岡さん流の、師外史への尊敬と愛情の示し方だとうなづけ、微笑ましくなります。
 例によってキリがありませんので、このあたりで失礼します。
 今週は明日もう一日働いて、9日(土)は長篠さんを偲ぶ集いに参加する予定です。
 どうぞお元気でご活躍のほど、念じ上げます。

264:2007/06/10(日) 00:53:39
『評伝・山岸外史』にことよせて
やすさま
碓井雄一さま
 こちらではすっかりごぶさたしております。そのあいだに大変なことになってるんですね……。やすさんには拙ブログの1コーナーにリンクを貼っていただいたようで、恐縮しています。ありがとうございます。

池内規行さま
 遅ればせながら、はじめてのご挨拶をおゆるしください。愚生が碓井さんのおっしゃるサーニン、やすさんが参考としてあげてくださったブログの管理人、悪 麗之介と申します。愚生もご高著『評伝・山岸外史』から大きな感銘を受けたもののひとりです。以下、少しばかり自分語りのスペースとお時間を頂戴できますでしょうか。

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 愚生がはじめて山岸外史の著作を手にしたのは、ご多分に漏れず『人間太宰治』でした。これは、ぽやぽや頭の高校生にかなり密度の濃いショックを与えました。さっそく書店で入手可能な山岸の本を探したところ、新刊で入手可能だったのが、太宰治論2冊をのぞけば、木耳社版『人間キリスト記』と第四次『四季』のBN(欠号あり)でした。それらはとにかくすべて入手して、そのころようやく勝手がわかりかけてきた古書店で、偶然(奥付が欠けていたため均一台で)入手したのが『煉獄の表情』だったのです。
 これにはすっかりノックアウトされました。もうとにかく山岸の他の著書はずべて読まないと――と思っていたところ、大学受験のため上京中に立ち寄った神田の古書店(田村書店です)で入手したのが、『評伝・山岸外史』でした。1986年ころのことなので、ご高著が刊行されてしばらくのことだったのでしょうか。本当に、むさぼるように拝読させていただきました。ところどころの表現などは血肉化してるかも……というほどです f(^_^;)

 大学入学後はもう授業などには出ず、もっぱら図書館で資料探しかアルバイトばかりしてたのですが、その大学には山下肇氏が勤務していることを知り、ご高著を携えてお話をうかがおうと押しかけたことも思い出されます(その顛末についてはちょっとここには書けないのですが……)。

 とにかく愚生なりに、よたよたと、ご高著『評伝・山岸外史』を手に、山岸の著作や掲載誌を探し求めたり、またその父・山岸薮鴬への関心を深めたりして、のちに京都の大学院に入院したあとは、ある研究会で発表したりもしました。そうした際にも、ご高著はいつも、文字通り愚生の座右の書でした。愚生は詩についてはまったく門外漢なのですが、(やすさんもレヴュウされていますが)四季派をはじめとするさまざまな詩人を知り、自分自身の裾野が広がった思いがしたものでした。

 愚生もいちおう研究者のはしくれ(だったの)ですが、池内さまのお仕事に追いつけ追い越せの気持ちで、なにか書き残すことができれば、そのときあらためてご連絡させていただくなり、あらためていろいろご教示いただけたらなあ、などと都合のいいことを思いつつ、紆余曲折あって現在にいたってしまった次第です(現在は大学の研究者ではありません)。
 このような機会に、なにか庇を借りて云々の気もなくないまま、ずうずうしく自己紹介をさせていただきました。本掲示版の読者のみなさまはじめ、お目汚しの点はあらためてお詫び申しあげます。

『評伝・山岸外史』をこの20年近く愛読して参りましたものとして、いろいろとお伺いしたいことなどもあり、もしもご迷惑でなければ、今後ともご高配賜れば幸甚に存じます。あらためましてどうぞよろしくお願い申しあげます。

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 余談ながら、レヴュウ欄に掲出された山岸の著作一覧で『正岡子規』がありませんが、これは未刊だったのでしょうか? 愚生の手にある山岸外史の著作は、『新イソップ物語』初版(戦後版はあるんですが)と『眠られぬ夜の詩論』の再版(?)以外はすべて揃っているようで、すこしばかり安堵したことでした…… f(^_^;)

265:2007/06/10(日) 17:45:41
たびたびですみません
やすさま
 たびたび、やすさまのDiary欄を拝借して(というよりは占拠しているようで)、相すみません。四季そしてコギトの詩人山岸外史に免じてお許しくださいますよう、お願いいたします。

アクレーノスケさま
 ご丁寧なご挨拶をありがとうございました。悪麗之介氏のブログはときどき拝見しておりますので、『煉獄の表情』の紹介文や、山岸藪鶯についての記述は承知しておりました。いやー、これは強敵が現れたなと思っていました、というほどの競争心はありませんが、資料が蒐集しにくくなるなとは思っていました。しかし、山岸外史を評価する人が一人でも多く現れるのは心強いですし、私の名前と『評伝・山岸外史』の名を挙げてくださっていますので、うれしくありがたいことと感謝しております。ちなみに、山岸藪鶯の『空中軍艦』など、見たこともなく、あなたのブログの写真で初めて目にしました。
 サーニン氏のお名前も、他のブログで承知しておりましたが、お二人が同一人物だとは気付いていませんでした。

 さて、『評伝・山岸外史』は、山岸外史のご長女晶さんのご主人佐野竜馬さん(中央公論社の取締役)のお骨折り・ご援助で一冊にまとめられたものでした。自分で申し上げるのは気が引けるのですが、同人誌「青い花」に連載中から割合内外での評判がよく、一冊にまとめなければいけないかなと考え、同人の先輩須田兼吉氏(筆名:須山哲生、当時は、すばる書房の編集長)の紹介で別の出版社から出そうということで、序文も青山光二先生の了解をいただいていました。青山先生は、直接山岸さんとの縁はありませんが、私が直接師事し尊敬する作家でしたので、おそらくわが生涯で唯一の本の巻頭を飾っていただこうと考えていたのです。
 そこへ、佐野さんから「友人が新しく出版社を始めるので、自分も援助するからそこから出さないか」というお話があり、須田さんにも断わったうえで、万有企画から刊行することになったものです。なにせ佐野さんはプロ中のプロの編集者なので、佐野さんの装丁・造本によりあのような立派な本が出来上がったものです。
 表紙には、川添一郎さんが所有していた彫刻家本郷新描くところの山岸外史の肖像画を拝借し、ウラ表紙のカットには佐野さん所有の阿部合成の絵を使ったもので、本郷、阿部のお二人とも山岸外史に縁の深い芸術家なので、よくぞ実現したものだと、この上ない幸せを感じました。ただし、川添さんからは「池内くん、この絵は喜んでお貸しするが、山岸先生はこの絵を嫌っていたよ。本郷さんに描いてもらったけど気に入らないと言って、ぼくが先生からもらったものなんだ。最初本郷さんの落款は押してなかったんだけど、山岸先生からもらったその足で本郷さんの所へ駆けつけ、落款を押していただいたんだよ」との注釈がありました。
 なお、この絵の山岸外史の鼻の先が尖っていますが、最初本郷新の描いたものは鼻先がもっと丸かったのを、山岸さんが気に入らず、元の線を消して修整した結果このようになったそうです。天下の彫刻家本郷新の描いた絵に、簡単に手を加えてしまうところに山岸外史の奇人振りがうかがわれます。
 この本にはお二人の方の跋文が載っていますが、山下肇先生には私から、林富士馬先生には佐野さんからお願いした後私からも直接お願いして、快諾していただいたものです。お二人とも序文は固辞されて、跋文が二つになったものです。
 こうして『評伝・山岸外史』が1000冊出来上がったのですが、最大の誤算は当初の話と違って、万有企画が書籍の卸会社に口座を持てなかったことでした。流通経路に乗せることができなかっかた『評伝・山岸外史』は、大量に売れ残る結果となり、というよりはほとんど売れず、初期費用に加えて更に在庫の大量買取により著者に打撃を与えるという結果に相成ったものです。
 このように、主人公の山岸外史と同じく不遇な『評伝・山岸外史』ではありましたが、読んでくださった方からの評価は高く、見知らぬ方からの賛辞の手紙も届くなど、感激を味わったものでした。
 そんな中にアクレーノスケさんもいらっしゃったのですね。田村書店さんとは、本の売買を通じてだけではなく、私が中学校と大学の後輩になることなどから好意的に接してくださって、当初何冊かをお店に置いてくださったものです(もちろん先輩用には1冊謹呈しました)。いつでも持ってきていいよ、とおっしゃっていただくのですが、お店の棚に並んでいるのを見るのがつらく、ほんの最初だけでした。同様に扶桑書房さんにも1冊謹呈し、3冊ほど買い上げていただきました。そういうわけで、田村書店さんでお買い求めいただいたのだと思います。
 この20年間一貫して置いていただいているのは、けやき書店さんです。けやき書店の隠れたベストセラー(^.^)なのです。というのは冗談で、この20年で30〜40冊くらい売れたのでしょうか。しかし、著者としては大変ありがたく、けやき書店さんには頭があがりません。

 『煉獄の表情』について書きたいことなどもありますが、またまた長くなっておりますので(やすさま、ゴメンナサイ)、『正岡子規』について記して終わりにします。
 『正岡子規』は結局刊行されなかったようです。山岸外史年譜の昭和22年の項に載せた不明をお詫びして訂正しなければなりません。最近も若い方が山岸外史と太宰治の二人の年譜を作るというユニークな試みをなさっているのを知り、参考文献の一つに拙著を挙げていたので、あわてて訂正のメールを差し上げたことでした。(アクレーノスケさんと同様、10代で太宰治への傾倒から山岸外史に関心を抱き、まだ大学1年生という多才・多感な若い方です。)
 脱線しかけましたが、『正岡子規』が刊行されなかったとの結論に至ったのは、次のように関係者の方から証言をいただいたからです。
 まず、南風書房に縁の深かった眞鍋呉夫氏に、『正岡子規』刊行の広告の載った雑誌(詩風土)のコピーを同封した手紙を差し上げて尋ねたところ、「自分の記憶では刊行されなかったように思うが、確かなところは南風書房で編集実務を担当しており、のちに北川晃二氏(亡)と結婚した北川冨美子さんに照会したらはっきりすると思う」と北川冨美子様を紹介していただきました。そこで九州の筑紫野市にお住まいの北川様にも同様に手紙で問い合わせたところ、「御申越の山岸外史先生“正岡子規”は広告にあるように予定はあったと思いますが、刊行は出来ませんでしたので、真鍋さんの仰る通りだと存じます」とのお葉書を頂戴しました。そこで、長年にわたる疑問も解け、刊行されなかったことがはっきりした次第です。

 以上、特に発表の場を持たない身でありますので、やすさまのお人好しをいいことに、またもやダラダラと書きつづってしまいました。やすさま、申し訳ありません。そして、ありがとうございました。
 それでは、アクレーノスケさま、ご懇篤なご挨拶に再度お礼申し上げ、今後ともいろいろご教示たまわりますようお願い申し上げまして失礼いたします。

266やす:2007/06/10(日) 20:16:49
改版『雪に燃える花 日塔貞子の生涯』
池内さま
アクレーノスケさま

  「占拠」なんてとんでもありません。いろいろ初めて聞くことばかりで、この掲示板に記されたことが光栄です。本当言ひますと、勝手にリンクしておきながら、アクレーノスケさまからもレス頂けるかなーと、お待ちしてをりましたから(笑)。同好の士の通交が始まることを祈ってをります。まずはお礼まで。

 丸山薫のこと書いてをりましたら、かねて予告のありました『雪に燃える花 日塔貞子の生涯』の改訂版が届き、にこにこ顔のパニックに陥ってをります(笑)。 今度は巻末ポケットに別冊付録つき。寒河江の奥平玲子様、ありがたうございました。とりいそぎ掲示板上での御報告と御礼。増田晃について書くのはも少し後に延びさうです。

 改版『雪に燃える花 日塔貞子の生涯』 ISBN:9784990339029
        安達徹著 2007.5.30寒河江印刷「桜桃花会」刊行
        上製カバー325p + 別冊[10p]「手紙 柏倉昌美から安達徹へ」+ 別刷家系図1枚

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000383.jpg

267:2007/06/10(日) 20:21:00
庇をお借りしっぱなしですが
池内規行 さま

ご丁寧なお返事、ありがとうございます。こういうお話をずっとお伺いしたかったので、ほんとに感無量です。愚生に上京の機会でもあれば、ぜひいちどお時間をいただければ、こころよりうれしく存じます。『正岡子規』だけは一度も見たことがなかったんですが、未刊だった(らしい)ということですね……。山岸の著作自体が少ないので、すこし寂しい気もしますが、了解いたしました。

あとひとつだけ、愚生が田村書店でご高著を入手できた理由が、あまりにも明快だったのでびっくりいたしました (^_^;)。。。そういえば、碓井雄一さまとこの掲示板で知遇を得ましたのも、田村書店で入手した何冊目かの山岸著『芥川龍之介』が、林修平(林富士馬)宛の著者献呈本だったからでした。なんとも奇縁を感じる次第です。

このたびはありがとうございました。今後ともなにかとご教示くださいますよう、お願い申しあげます。また拝眉の日を楽しみにしております。

やすさま
どうもいろいろありがとうございました〜。

268やす:2007/06/15(金) 08:23:41
梅雨晴れに碍子かがやく庇かな
丸山薫研究会(豊橋市文化市民部文化課)より会誌「ランプの灯りに集う」Vol.3
個人向けに送って頂きました。ありがとうございました。

「月の輪書林古書目録15 三田平凡寺」目録の域を越えた内容。写真も豊富なので職場の図書館で資産外の寄贈資料として登録させて頂きました。ほかに「石神井書林古書目録」Vol.72「新村堂書店古書目録」89号到着、『春と修羅』\89,250(難波田龍起旧蔵)は早速売れてしまったとか。(・ω・`)

「日本古書通信」935号到着、川島さんから今度出される古本雑誌『初版本』についての予告。対談形式でおもしろく紹介されてゐます。すでに予約〆切されてゐる雑誌ですが、どうしても手に入れたい人は、さきの石神井書林目録から何か買って希望すれば先着20名限定で申し込めるさうです♪

269やす:2007/07/02(月) 22:35:35
菫川千童『譚』 / 『加藤千晴詩集』
 先日、満州で発行された『譚』といふ稀覯詩集についてレファレンスを頂き、ネット上の情報をお伝へしたところ、その高額の古書を入手された御遺族の方から、御丁寧にも礼状と共にコピーをお送り頂きました。ありがたうございました。早速書影とともに貴重な内容をupさせて頂きます。
 御存知のやうに満州の刊行物は戦後引き上げ時に携帯を許されず、国内に現存する本は寄贈もしくは敗戦以前に持ち帰られたものに限られてゐます。況や昭和16年わずか21才で仆れ、刊行された部数もたった100冊とあっては、後世ほとんど知られることなく、長らく古書店の間で語り草として伝承される「幻の詩集」に祀り上げられてゐたのも仕方なかったかもしれません。余白を活かした活字配分の意匠は、昭和初年のモダニズム詩集を髣髴させ、一読またイメージと語彙の豊富さに驚いてゐるところです。十代の少年が書いた詩集と聞いては天才を感じざるを得ません。
菫川千童(遠藤美津男)詩集『譚』1939年 満州文学同人(新京) 限定100部刊行

 それから山形酒田市の加藤千晴詩集刊行委員会(齋藤智[さとる]様)より、頒布が既に終了した詩集の残部を無理に分けて頂き、また続編?の寄贈にあづかりました。仲立ち頂きました池内規行さまのおかげです。ともに厚く御礼申し上げます。
 私はこの詩人の名を、『観音』といふ詩集をもってゐたので女性とは思はなかったけれども、男であるがゆゑに却って本名であると、そして世代的にも日塔聰などと同じく四季派第二世代の人かと思ひ違ひをしてをりました。このたびの集成に添へられた解説・回想によって、詩歴は長く大正末年にまで遡ること。つまりさきの菫川千童とは反対に、大成を期して孤独に沈潜、詩作に刻苦した結果、竟に何ものかに開眼したところで失明、失意に斃れるに至ったといふこと。この詩人についてはいくつかの謎も蟠り、いづれ一文を草したいものと考へてをりますが、しばらくお待ち下さい。

 いろいろ読みたい本、紹介したい本がたまる一方で、スケジュールを眺めては、すでに若い日の夏休みのやうな気持に自ら陥ってをります(笑)。
 といふのも今月から職場に欠員が生じ、図書館業務を一人できりもりすることになりました。利用者にも面目ないことですが、心に余裕がないので、折角家に帰って本に向っても気が急くばかりで、詩なんぞといふものに当っては、菲才ながら外史氏同様「雑駁な気持でこれを読んだり忙しい気持でその稿を繰りひろげたりしてゐたのでは正しい感受が起こらない」(『詩集8人』序)のであります。
 事情お含み頂きましてホームページの更新については、何卒長〜い眼で御覧頂けましたら幸甚です。

 扶桑書房かわほり堂ほか目録多数拝謝。ことにも本日到着、落穂舎古書目録の山本文庫(『林檎みのる頃』\40,000『ランボオ詩抄』\35,000ほかドッサリ)は圧巻でした。『ヒアシンスと花薔薇』\7000は安いと思ひます。

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270やす:2007/07/14(土) 22:46:51
七夕入札会ほか
 先週は上京して明治古典会七夕入札会の下見展覧を久々に見学、近代文学の直筆や漢詩集など眼福に与る楽しい週末を過ごしました。四季派の出物では、宛名を消した神西清宛『暁と夕の歌』、見返しにびっしり詩篇が書き込まれた『春のいそぎ』などなど。朔太郎の葉書の文面には失笑しました。漢詩ものでは加納の儒者長戸得斎の紀行文集『北道遊簿』や『黄葉夕陽村舎詩』、梁川星巌の肖像掛軸(真贋不明)など。
 また田村書店で詩集を買ったのもしさしぶりです。『場末の子(難あり)』\6500、『物象詩集』函・名刺つき\4000、『山の祭』 \6500と、珍しく四季派づいた買ひ物。なんでもまとまって入荷したやうで、今後しばらく入れ替はりするだらう詩集棚に未練たらたらで帰ってきました。
 「ぽえむ・ぱろうる」のなくなった池袋西武に、小宮山書店の支店ができたのも知りませんでした。詩集コーナーもあって割と廉価。以前神保町でみた北園関係の展示物が、すべてこちらの飾り棚に移ってゐるやうです(こちらは超高価)。

 帰ってきましたら相変らず、疲れ目で本を読む気力がおこらないやうな有様で、閉口してゐます。連休唯一の休みの明日は、静かに雨だれに聴き入りながら寝てゐたいものですが、台風なればそんな悠長な感じでもなささうです…。

271やす:2007/07/18(水) 21:27:52
「桃」「季」
 山川京子さま主宰「桃」、関西四季の会「季」をお送りいただきました。

「桃」と一緒に同封いただきました松本和男氏の論集「伊良子清白『孔雀船』とその後」には写真を多く収め、郡上の記念館もふくめて見開きで頁が割かれてあり、うれしく拝見。

 また杉山先生のこのたびの新作には心が温まる思ひです。久しぶりに同人みなさまの平易闊達の詩文にふれて嬉しく存じました。

 ここにても厚く御礼申上げます。


 わからない       杉山平一

お父さんは

お母さんに怒鳴りました

こんなことわからんのか


お母さんは兄さんを叱りました

どうしてわからないの


お兄さんは妹につゝかゝりました

お前はバカだな


妹は犬の頭をなでゝ

よしよしといゝました


犬の名はジョンといゝます

272やす:2007/07/20(金) 22:33:23
『昧爽』第15号 / 『近代文人のいとなみ』
 『昧爽』第15号の御寄贈をかたじけなく致しました。
 斉藤征義氏・中村一仁氏の浅野晃論。前者は左翼活動を中心にそれに挺身する妻千代子の生ひ立ちに触れ、後者の評伝は対米英開戦ののち空襲、疎開に至る非常の時にあった詩人の動静を追ってゐます。なるほどと思ったのは、詩人が宣伝班員として南方へ赴いたときに、乗ってゐた輸送船が撃沈され、命からがら脱出した経験が後年の『天と海』へ昇華したといふ中村氏の指摘。田中先生が徴用となった第二班と較べ、この第一斑目の派遣はまさしく戦線の伊吹とともにあった訳で、現地における熱烈な歓迎も、その時点では全く大東亜共栄圏の趣旨に違ふところのない「解放軍」に対してであったもののやうです。特集は「物語の復興」。
 ありがたうございました。
   『昧爽』(中村一仁・山本直人氏共同編輯)
   編集部:nahoto@wf7.so-net.ne.jp (@は@です)

【本の紹介】
『近代文人のいとなみ』(成田山書道美術館 監修2006.11 \2800)。 写真多数。日本の漢詩文愛好者には必携の一冊となるでせう。収録された幕末明治の文人達は「秋月古香、浅井柳塘、有島生馬、石川鴻齋、板倉槐堂、巌谷一六、江馬天江、鴻 雪爪、大沼枕山、岡本黄石、奥原晴湖、小野湖山、川上冬崖、川田甕江、岸田劉生、木戸松菊、日下部鳴鶴、草場船山、神山鳳陽、小曽根乾堂、児玉果亭、小山正太郎、菅原白龍、杉 聴雨、杉渓六橋、宗 星石、副島蒼海、田近竹邨、谷 如意、田能村直入、千原夕田、長 三洲、富岡鉄齋、内藤湖南、長尾雨山、永坂石埭、中村敬宇、中村不折、夏目漱石、西川春洞、貫名菘翁、野口小蘋、日根対山、前田黙鳳、松林桂月、森 槐南、森 春涛、安田老山、山岡米華、山中信天翁、山本竹雲、吉嗣拝山、依田学海」

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273やす:2007/07/28(土) 11:46:45
『山高水長図記』
【今週の買ひ物】
『近代文人のいとなみ』で紹介されてゐた鴻雪爪の漢詩文集『山高水長図記』が誠心堂書店より到着。なるほど図版が多く、文中欄外にあらはれる交友関係も、村瀬藤城なきあと幕末明治の美濃漢詩壇の掉尾を飾った小原鉄心を中心にした美濃大垣方面の人物に集中してをりました。値段も高額でなく、さきにもとめた『亦奇録』とともに、むしろ詩集より面白さうな感じがします(あくまでも感じ(笑)はやく読みこなせるやうになりたいね U^ェ^U)。

写真は小原鉄心とともに大垣全昌寺にある墓碑(2006年11月撮影)。

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274やす:2007/08/02(木) 22:54:15
『初版本』創刊号 / 「あ・ほうかい」第5号
★『初版本』創刊号たうとう届きました。執筆・関係者のみなさま、お慶び申し上げます。目次を速報致します。

シベリアを渡った漱石の献呈本 川島幸希 2
優れた火災の完了 詩人塩寺はるよ 内堀弘(:石神井書林主人)16
雪岱本おぽえ帖 第一回 異装あれこれ 平田雅樹 24
三島由紀夫の著者四部本 山中剛史 33
白秋の雀 北原白秋挿画考 樽見博 44
『社会主義詩集』と神のようなコレクター 長田鬼太郎 50
戦前の探偵小説 『日満殺人事件』 若狭邦男 61
書物のリヴァース・エンジニアリング 第一回『地上の祭』、見果てぬ夢の形見 片塩二朗、田中栞、郡淳一郎 66
陰の珍本あれこれ 山口哲司 78
「椎の木社」の本 征矢哲郎 87
雑本蒐書録 其之壱 彭城矯介 98
三島由紀夫の稀覯雑誌 『故園』と『シリウス』 東原武文(:扶桑書房主人) 104

『初版本』創刊号 2007年7月30日人魚書房刊行(責任編集:川島幸希)300部予約頒布本(\1000)

【メモ】
戦前浜松のモダニズム詩人、塩寺はるよの遺稿詩集『化粧匣の都邑』の書影がついに明らかに。内堀さんの文章、いつもながらのツボを押さへた語り口で読ませますね。

    水色のランプ    塩寺はるよ

この誇を傷めまい
あなたの耳朶に搖られて石像はやさしく
葡萄畑におり立たう
にはかに歸る人聲が聞えると
影の人の
夜の會話は吐切れました

【メモ】
椎の木社刊行の遺稿集、『曇日に』昭和15年(増田晃編 広島刊)の著者室川創は、『詩鈔』巻末の紹介では別名増田潤二(明治38年 広島生れ)となってゐる(HP参照)。十歳年上だが増田晃の眷属だらうか。後記をみれば分るのだらうが、利子未亡人にも訊ねてみたいところ。

【メモ】
三島由紀夫の詩「春の狐」を創刊号の巻頭に載せた同人誌『故園』(昭和18年2月創刊、2号:昭和18年4月、3号:昭和18年6月)について。発行者稲葉健吉は翌年『故園の花』といふ処女詩集を出してゐますが、序文を蓮田善明と、雑誌の題字を書いてもらった丸山薫に依頼してゐます。蓮田善明(教授)と書いてゐるのは師弟関係だからでせう、その縁故で三島由紀夫の原稿を得たのではないかとは東原さんの推測です。ほか雑誌に詩を寄せる金沢肇、牧章造、田中光子などはみな四季の投稿者、2号には山川弘至の名も虫眼鏡でなんとか確認できました(汗)。

    日ぐれの歌    稲葉健吉 (『故園の花』より)

子供の殘して行つた紙鳶(たこ)
そいつを しつかとにぎつて
ひろい競技場(グランド)を 突つ走つた
風はあるのに かたくなにも紙鳶は
地面を噛んで 上らなかつた
そのとき
君は じいつと瞳をこらして
蒼空の果てをながめてゐた――(後略)


B5版112pオールカラー…ともかく世の中に300人だけが読むことのできる破格の贅沢雑誌です。週末にじっくり。



★また「あ・ほうかい」第5号を鯨書房さんより御寄贈いただきました。ありがたうございました。
実存とがっぷり四つに組んだ激しい自論が開陳されてゐますが、想ひ描かれた「文学」に沿って詩人にないものねだりをしてゐるやうなところもあり、今回の過激な詩と詩論は、私のやうな四季派および漢詩文の日和見愛好者には理解がおよびませんでした…。

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275アクレーノスケ:2007/08/06(月) 22:37:42
お礼
さる日曜日、世界初の「山岸外史研究者」である池内規行さんのご自宅にお招きいただき、ご蔵書やかずかずの気宝珍宝に接するという光栄に浴する機会を得ました。これも本掲示板あってのこと。ありがとうございました。

また、この場をお借りして池内さんにもお礼を。大切なお休みのところ失礼いたしました。あらためて今後ともよろしくお願い申しあげます。

276やす:2007/08/06(月) 23:01:11
残暑お見舞ひ申しあげます
>アクレーノスケさま
ブログを拝見いたしました。上京・喬遷のお慶び申しあげます。早速池内さまの謦咳に接せられた由、「奇宝珍宝のかずかず」は如何でありましたでせう。いみじき出会ひにあらためて乾杯です。
さてもさても神保町が近くなりましたね!

277:2007/08/06(月) 23:12:27
どういたしまして
アクレーノスケさま
先日は遠いところ、また暑い中をお越しいただき、ご苦労さまでした。珍しい資料といってはあまりありませんでしたが、喜んでいただいて、小生もうれしいです。
お互い山岸外史の復権・再評価をめざして、努力いたしましょう。

やすさま
おかげさまで、アクレーノスケさんと対面するに至り、長時間語り合いました。奇宝珍宝というのは過大評価で、多少珍しいものもあるという程度に受け取っておいてください。
山岸外史周辺の人たち(林富士馬氏・川添一郎氏・桜岡孝治氏・佐野竜馬夫妻・長篠康一郎氏など)については、小生だけが承知しているエピソードなどもありますので、何らかの形で書き残しておきたいと念じています。
では、今後ともよろしくお願いいたします。

278やす:2007/08/18(土) 00:00:20
夏休み
 お盆をはさみ、しばらく北海道日高町にて銷夏の日々。穂別にも行ったのですが、浅野晃の記念碑を見学しようにも役場はお休み、しっかり調べてからゆけばよかったと後悔しきり、結局資料館は無人で入れませんでした(写真は宮澤賢治の花壇を模したもの)。

 留守中気がかりだったのはNHKのテレビ番組「鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜」と、「硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜」の再放送。うまく撮れてるかな。

 さて南方に向け、悲壮な面持ちで飛行場に降り立ってみれば、やはりそこは史上最高気温を記録した地獄でありました。本日より勤務再開ですが、空調のない図書館の書庫はまさに擂鉢山のトンネル状態です・・・(苦笑)。

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279中村一仁:2007/08/19(日) 12:17:14
残暑お見舞ひ申し上げます
やす様

 残暑お見舞ひ申し上げます。御健勝のこととお慶び申し上げます。
 穂別では支庁舎や資料室が休みだつたやうで残念でした。記念碑は支庁舎近くの神社の境内にあります。資料室に入るには教育委員会の許可が必要です。機会があれば一度ご覧になられることを強くお勧めします。しかしながら、市町村合併で教育委員会自体が資料室をどう扱つてよいか分からないでゐるやうです。残念といふ他ありません。
 私は8月5日から8日まで、斉藤征義、天澤退二郎、神谷忠孝の諸氏を含む一行に加はつてサハリンに行つてまいりました。寒川光太郎や宮澤賢治にゆかりのある場所に足を運びました。しかしそれらの文学散歩以上に、日本との中立条約を一方的に破棄し、昭和20年8月15日以降も日本側への攻撃を続けた旧ソ連の暴虐について考へさせられました。軍人のみならず非戦闘員が多数殺害された熊笹峠には旧ソ連の戦勝記念碑があり、日本人遺族はその碑に花輪を手向けており、その皮肉に言葉もありませんでした。場所は違ひますが、長尾辰夫の『シベリア詩集』の諸篇が思ひ出されました。今回の旅のこと、そしてそれに先立つて室蘭や苫小牧で取材した淺野晃の勇払滞在のことは、『昧爽』第16号で書くつもりです。
 写真は9人の女性局員の自決で知られる真岡郵便局事件の現場の跡です。今は高層アパート(?)が建つてゐて、事件当時を偲ばせるものはありませんでした。
 末筆ながら、ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

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280やす:2007/08/19(日) 21:58:53
(無題)
中村様 こんばんは。

サハリン行を敢行されたのですね。私の方は北海道ボケにつづく連日の暑さで頭がうまく働きません。このまま月末はまた出張で不在となります。困りました。

>宮澤賢治にゆかりのある場所
鈴谷平原をはしる木造客車にゆられてみたいです(写真は穂別町の廃駅にて)。ヤナギランの群落、チモシイの穂、すがるの描く抛物線・・・。またサハリンではチェーホフを偲ぶ旅もできさうですね。

『昧爽』御健筆お祈り申しあげます。

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281中村一仁:2007/08/19(日) 23:03:28
ヤナギランの写真です
やす様

 ヤナギランのことをさらっと書くあたり、さすがです。賢治初心者の私としては、さう申し上げる他ありません。「銀河鉄道の夜」のモチーフになったとされる線路を、一時間ほど電車で北上しました。線路沿ひはハマナスが今を盛りと咲き誇つてゐました。ユジノサハリンスクの博物館にはチェーホフの資料も展示されてゐましたが、あの肺病病みの作家がよくもまあ、あんな囚人の島まで行つたものだなと思ひました。
 栄浜から白鳥湖に向かふ途中の橋から撮影したヤナギランの群生の写真です。斉藤さんも神谷先生も、この風景に感嘆してをられました。

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282やす:2007/08/20(月) 22:03:48
『風景画の窓』
中村様

 ヤナギランの群落なんて、霧が峰に咲いてゐるのを心の中でふくらませて『春と修羅』を読んでゐたものですが、これが群落の実景なのですね。

 さて本日、國中治様より新刊小説集『風景画の窓』(れんが書房新社刊, 2007, 287p ; 19cm)をお送り頂きました。
 以前同人誌「愛虫たち」を読ませて頂きましたが、かうして詩集、評論集とは別に一本にまとまると、いったいあの精緻な四季派詩人の解読が、現代読み物を書く際にどんな具合に表れるものなのか興味深く、目下の仕事が終ったらゆっくり読ませて頂きたく楽しみです。
 「あとがき」の最後に「杉山先生と同じ時代に生まれ合わせたことは、思えば信じられないほどの幸運なのである。」と締められてゐますが同感、帯に戴いた評言また羨望を禁じえない感じです。

 ここにても広告かたがた厚く御礼申しあげます。ありがたうございました。

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283やす:2007/08/31(金) 20:51:50
まなぐら?
出張が終はりました。本日は万能倉といふ土地の、商人宿(?)に宿泊。明日帰還します。落ち着いたら思ひ出に残る一夕の御報告をしたいと思ひます。ありがたとうございました。おやすみなさい。【携帯より】

284やす:2007/09/13(木) 12:12:03
更新報告
日塔貞子の初出誌の 画像を奥平玲子様よりお送り頂きました。
木下夕爾の故郷を旅したレポートをアップいたしました。

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285やす:2007/09/19(水) 00:34:10
寄贈御礼 その一
「桃」9月号(桃の会 2007.9.15発行) 山川京子様より
 ※巻末後記の、世間一般の御年配の慨嘆とは異なるお言葉にハッとしました。けだし今日の七十代といへども戦後に人格形成をされた方ばかりであり、日本人のお爺さんお婆さんと呼べないやうなひとたちもみかけるやうになりました。茲に「貧しくても清潔で品性の高い日本の国民性」とあるのは、京子様をはじめ、そのやうな「細やかなくらしぶり」を実践してこられた世代にして説得力のある、言葉を裏打ちする誠実と信念に他なりません。

「北方人」第11号( 北方文学研究会 2007.9.10発行) 池内規行様より
 ※随想「永遠の文学青年」林富士馬先生のこと。 30-35p
 昭和60年刊行の『人間山岸外史』以後、沈黙を守ってきた著者がふたたびペンを執り、ものするのは身近に出会った日本浪曼派の人物たちに関する追想。その一回目は山岸外史に詩集序文も書いてもらったといふ林富士馬氏についてです。
 痛ましき共産党時代の詩人から逃げ回ってゐたといふ林氏が、池内様の文章を通じて、やがて自身の回想の空白時代を埋めてゆく喜びに至り、その出版記念会にも心を砕く姿といふのは、高潔な詩人たちの縁しがなせる業とはいへ、それを記す池内様も、さすがに著者冥利を感じてをられる様子で羨望の限り。
「前略…つまり、今から五十年くらい前に文学少年として、山岸外史さんにこういう会に年中連れて行ってもらったのを、今日思い出します。あまり顔がはっきりしない人もありますが、小山正孝君だったり大木実君に会えるのもこういう会のおかげです。池内君が本を出したおかげです。文学のあり方がどんどん変っていっていますが、変わらない面もあるように思います。…後略」

 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

286:2007/09/19(水) 22:48:29
ありがとうございます
やす 様

早速、貴ホームページでご紹介賜わり、ありがとうございます。
お心のこもったコメントを頂き、感謝申し上げます。いつもながらの的確な寸評に、感心いたしました。今後ともよろしくお願いいたします。

287手皮小四郎:2007/09/20(木) 21:05:31
マルスの薔薇
 初めてお便りします。
たまたまインターネットで「モダニズム詩」と打ったところ、「四季・コギト・詩集ホームページ」に行き当たり、ままよとばかり「し行」の荘原照子を開くと「マルスの薔薇」の映像が出てきて驚きました。これは第114号とありますが、中嶋さんの蔵書でしょうか。
 実はぼくもこの詩集を持っているのですが、「マルスの薔薇」がほかにも残存していたということに驚いています。
 2002年6月3日逝去された菊池美和子さんが所蔵されておられましたが、ほかにぼくが持っている第12号しか存在しないものと思いこんでいました。ぼくのは「日本詩壇」の吉川則比古へ贈呈したものです。
 中嶋様がご存じのことを一報願えれば幸甚です。
 小生は詩誌「菱」(鳥取)「裸足」(岡山)の同人で、学生時代カトリック教会で彼女と出会いました。彼女のことを学友に話したことから、学友と交際のあった毎日新聞鳥取支局の記者の取材するところとなって、昭和42年8月21日の記事となったわけです。

 荘原照子(峠田照子)は解説にある1910年の生まれではありませんし、また松江に行ったのは母の郷里だったからではありません。彼女の誕生日は明治42年1月16日。山口県防府市三田尻です。
 彼女の聞き書き用のテープをかなり持っています。お役に立つことがあればお言いつけください。
                手皮(てび)小四郎
 中嶋康博様

                             9月19日 深更

288やす:2007/09/21(金) 22:45:55
はじめまして。
 手皮小四郎さま
 はじめまして。お返事はメールに認めました。訂正情報をありがたうございました。この詩集は250部の発行数ですから、発禁でもないかぎり天下に二冊といふことはないでせう。しかしモダニズム詩集の人気が高い現今、古書目録に現れても一般人の手の出ない価格が付せられるか、すぐに売れてしまふかのどちらかで、稀覯詩集であることに変りはありません。ですので、当時のモダニズムシーンを語った貴重な聞き書きテープといふのは、是非テキストにおこされ、どこかの文藝雑誌に発表されたらと存じます。師友との交歓の日々が明らかにされることを望みます。その折には及ばずながら喧伝に努めたく、御一報頂けましたら何よりです。今後ともよろしくお願ひを申上げます。

289やす:2007/09/22(土) 00:11:08
寄贈御礼 その二 「朔」鈴木亨追悼号
「朔」第161号(朔社 2007.8.20) 圓子哲雄様より
 ※鈴木亨追悼号。1-28p(堀多恵子、小山常子[正孝未亡人]、村次郎[口述記録]、穂積生萩、川田靖子、山本みち子、小柳玲子、圓子哲雄)
 穂積生萩氏の回想が揮ってゐました。戦時中、家庭教師と生徒だった以来の仲とか。意味深長にお互ひの恋心を諷してあっけらかん。決してお婆ちゃんの文章ではありません。モダニズム詩人澤木隆子の妹と聞いたれば二度びっくり。
 また圓子さんが引かれた村次郎の口述記録のなかで
「俺も彼もだが「四季」より「歴程」に近いのではと思っている。」
 とあるのも、まことに正鵠を射た評言と存じました。
ここにても御礼申上げます。ありがたうございました。


 さて、私にとって鈴木亨氏の訃報は、前号「朔」の後記で触れられてゐたにも拘らず、今回の追悼号がまるで初耳のやうに聞こえたのでした。記事を見落としてゐたとも思はれず、掲示板でのコメント(4/15付)でも圓子様への御礼状でも触れてゐないことを確かめると、あらためて言葉を失ったのでした。指摘もありませんでしたし、この詩人と親しくお話しする機会が終になかったのは何か、かうなってみると最初のボタンから掛け違って今日に至ったもののやうに思はれてなりません・・・。
 実は、田中克己先生のところへ出入りしてゐた当時のことですが、先生から伺ったお話のなかで、戦後何かの詩人会の席上で「わたしは四季派ではない」と公言して憚らなかった鈴木氏にとても憤慨したといふことを聞き及んだ私は、この人に対して些か失望した時期がありました。けだし田中先生にとっては伊東静雄の教へ子であり、クリスチャンでもあり、つまり身近に感じて当然の条件をもつが故、尚更そのスピーチは「四季」の存在を蔑ろにする背信行為に映ったのだらうと思ひます。戦争詩に手を染めずに戦後を迎へた四季派第二世代の「処世」を感じて私も悲しくなったのでした。
 尤も鈴木氏の発言の真意は、「四季派といふエコールなどは存在しないから私は四季派ではない」といふ程のことだったのかもしれない。しかし角川書店から出た戦前の「山の樹」の復刻版を知らず、なかんずく『少年聖歌隊』といふ詩人の処女作品集に大いに不満であった私は、たうとう自分の最初の詩集を刊行時にもお送りしませんでした。
 その後田中先生の葬儀で受付に立ったとき、目の前の署名にハッとして顔を上げ、未知の方々と御挨拶を交はしたのですが、鈴木氏が杖を引いて弔問にみえたことは、意外に感じられたので覚えてゐます。
 日夏耿之介のあとを襲って書かれた明治詩史に驚嘆し、また「山の樹」復刻を手に入れると当時の交歓の様子もわかってきました。しかし非礼を悟ったものの時すでに遅く、二番目の詩集に対しては礼状も頂けなかった。いつか四季派学会が名古屋で行はれた夏の夜、会員でも無いのに打上げ会場にのこのこ顔を出したところ、一言「君が中嶋君か。」と一瞥されて縮み上がり、杉山平一先生の陰に隠れてゐたことなど思ひ出します。恐らく田中先生について発表して会誌に載った僭越の文章が目に触れたのでせう。
 詮方なきこととはいへ、沢山のお弟子さんに囲まれて幸せだったといふ晩年を伺へば、田中先生の勘違ひに殉じた私はそれでよかったと諦め、今は神の御許で再会する詩人たちの御冥福をお祈りするばかりです。とりとめない話となりました。

290やす:2007/09/23(日) 23:37:23
梁川星巌150年回記念特別展
大垣市主催の 梁川星巌150年回記念特別展に行ってきました。わが所蔵せる贋物のお手本もみられてよかったです(泣)。

U^ェ^U「図録(\700)もあるでよ。」

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000414.jpg

291やす:2007/09/27(木) 11:51:45
三好達治の葉書
 先日、何の気なしに「日本の古本屋」サイトを検索してゐたら三好達治の田中先生宛の葉書がみつかって、破格だったので注文しました。以前買った伊東静雄の葉書と同様、破格は値段のみならず、破れと、それから今回は染みまであって、これらはすべて後年私が買ひ戻せるやうに予定調和的破損を蒙ったのだらうか、と勝手に思ひ込んでは喜んで居る次第です(笑)。Book Reviewサイトにupしましたので興味のある方は御覧下さい。

292やす:2007/10/06(土) 22:14:45
東濃地方の孔版詩誌
 鯨書房さんに入荷した大正10年当時の東濃地方(多治見、恵那)の孔版詩誌数冊をみせて頂く。同人の名前で見覚えがあるのは鵜飼選吉、落合しげる位でしたが、取次店が名古屋東文堂になってゐるものもあってびっくり。「青騎士」創刊前夜の同人誌は珍しく、末尾の他誌消息も興味深い資料でした。国文学科がなくなった職場では、かういふ資料をコレクション構築する計画が果敢無くなり、まずは大きな公共機関に収まることを願ふばかり。
 気炎吐き続ける「あ・ほうかい」最新号第6号も頂きました。
 ありがたうございました。

293やす:2007/10/15(月) 12:17:02
『[じょう]荷溪詩集』
郡上藩の文学、杉岡暾桑の『[じょう]荷溪詩集:じょうかけいししゅう』をupしました。

九巻五冊の殆どが郡上に来る前、在京時代の作品であり、菅茶山の末弟である恥庵ほかの著名人との交游や、流行の詠物詩に余念のなかったさまが窺はれ、それはそれで貴重なのですが、巻四の後半から、やうやく田舎の小藩に聘せられてはるばる山峡へやってきた漢詩人の、半ばは都落ちの感慨も諷せられる詩に接することが出来ます。スター扱ひはともあれ、本屋さんがすくないのが不満だったのは、同感ですけど仕方ありませんね(笑)。

 毎日人の詩を乞ふ、余、矜恃を施さず。一揮これに応ずれば彼謝するに酒符を以てす。

着処なんぞ須ひん頴芒を惜しむを         ※頴芒:筆の穂先
墨雲揮ひ破る[せん]溪(せんけい)の霜       ※[せん]溪:良い紙。「えーい、ままよ。」の意 あり?(笑)。
酒符投到る風葉より多し
省みず先生酒量のなきを

 [じょう]荷溪は市街に咫尺たり。資用供給頗る弁に足る。唯だ欠くる所は乃ち書肆。故に虧乏を覚ゆ。

市肆、渾て閲すべき書なし
論衡、筆を下すも、故に蕭疎
文に臨んで腹を捫で奇古を温(たず)ぬ      ※お腹を温めると温故を掛けてるのかな。
傚はず、李家の獺祭魚             ※カワウソが獲物をひろげるやうに参考書を並べた李商隠のこと。

294:2007/10/20(土) 10:57:09
増田晃「白鳥」
拝啓。
初めまして。小生、文学及び博物学書のテクスト化を全くの趣味で行っております。
偶々、貴サイトの増田晃の詩集「白鳥」に心打たれ、写真版画像を画面で拝見しながら、手打ちで電子テクスト化を行い、本日公開に漕ぎ着けました。

http://homepage2.nifty.com/onibi/masudaakira.html

門外漢の暴虎馮河の注等、ご笑覧下さい。誤植・注の誤り等、御座いましたらご連絡下されば幸いです。サイトの資料を遣わせて戴き、誠に有難う存じました。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
敬具。

http://homepage2.nifty.com/onibi/index.htm

295やす:2007/10/20(土) 19:19:28
はじめまして。
>やぶちゃん様 はじめまして。

 増田晃詩集『白鳥』テキスト版作成のお知らせありがたうございました。ブログも拝見致しました。サイト誤記の指摘もありがたく、日々の入力作業に添へられた詳しい注記には、亡き詩人の幸せ、冥利を思ひました。
 増田晃など戦争に身も心も殉じたといってよい詩人たちに対してどのやうな態度で接するのか、厳粛な問題と思ひます。生き残った者が過去を恥かしく思ふのは決死の人々への冒涜に他なりませんし、過去が渾て正しかったとふんぞり返る心得違ひも、たとへば伊東静雄みたいな先生が今に健在なら、ピシャリと窘められたでせうね。体験をもとに一家言ある父君の存在を羨ましく存じました。
 清廉の抒情詩に対する偏愛を同じくする者として、今後も街の本屋さんに並ぶことのない、どこでもデジタルアーカイヴされさうもない、古い無名の詩集に対する声援を、何卒よろしくお願ひを申上げます。

296やす:2007/10/20(土) 19:25:04
『加藤千晴詩集』
 といふことで、先達ては『加藤千晴詩集』をお送り頂きながら、紹介する機会が延ばしのばしになってをりましたが、とりあへず『宣告』『観音』『加藤千晴詩集』について、加藤千晴詩集刊行会の齊藤智様による解説(酒田市立図書館報より)を付して紹介させて頂きました。(丸山薫によって生前の刊行詩集を凌ぐと絶賛された遺稿集『みちのく抄』もテキスト化する予定です。)

 ことにも今回は、別冊資料として小部数配布された、『宣告』に対する師友からの返信・礼状の公開について合せて掲載許可を頂きました。彼の初期の口語詩に綴られた孤独が、やがて文語詩の端正な肌触りと綯ひ交ぜになって宗教的にのぼりつめてゆく様子、それは昭和初期の同人誌乱立時代に詩魂を享けた詩人が、詩壇の潮流とともに成長してゆく過程と期を一にしてをります。「感想集」を清書するにあたって、萩原朔太郎と三好達治を劈頭に据えたのも、格別の感慨があったからに相違ありません。顕著な宗教性も、キリスト教に帰依してゐる訳でなく、所謂『黒衣聖母』風の跪拝から、東洋的な諦念に根ざすものに漸次変化してゐるやうでもあり、信ずる境地を歌ふのでなく、一心の祈念を赤裸々にするところに共感を覚えます。
 残念なのは『詩集?』において編集委員の間に議論があり、収録を見合はせた詩篇があったといふことですが、おそらくは戦争に関るものでありませう。失明と死因の因果関係が不明であることと共に、謎を残す結果となりました。

 ともあれ『加藤千晴詩集』が絶版であり、図書館にもあまり所蔵がないので、今後一般の方がこの詩人の存在を知るきっかけとなったら何よりです。齊藤様にはあらためて御礼申しあげます。
 ありがたうございました。

   砂丘        加藤千晴

ふるさとを想ふとき
僕の眼裏に泛んでくるのは
あのゆるやかな弧線のあひだに
まつ青な日本海をのぞかせた
静かな砂丘の遠景である
海はひたすらに青く
砂はいつしんに陽をてりかへし
そのほかになんにもない
まるで虚無のやうな
それは何といふ静かな
何といふ寂しい景色だらう

だがしばらく視てゐると.
そのきはまりない静寂は
しだいしだいに耀きだし
かがやきは白熱して
しまひには破裂するやうな
息ぐるしさがみなぎつてくる
そこには何か犇めきあひ
何かがしきりに奔騰する
そして聲もない哀しい歌が
陽炎のやうにゆらぎはじめる

はるかな砂丘よ ふるさとよ
をさない僕のたましひは
その灼けただれた砂のうへで
王女のやうなものを戀し
もはや悲しみの人となつた
星をこがれる身となつた
握つても握つても
いのちなき砂のかなしさよ
日本海の波うちぎはに
華やかに消えた陽炎たちよ
逆風はそれらを吹きまくり
怒濤はそれらを打ちくだいた

ああ ふるさとの寂しい砂丘
そこにはいまも
渺茫とした海の果に
をさない夢の挽歌のやうな
すさまじい夕焼がもえるだらう
ああ いま一度
つかれた足をそこにはこび
空しい砂を掘つてみよう
そして崩れる砂のあひだに
過ぎ去った嵐をきいてみよう
そしていつかは
僕もそこに眠るだらう
沸きたつ波のひびきに揺られながら
いつさいの虚妄をそこに埋めて

297:2007/10/21(日) 15:07:13
ありがとうございます
やす 様

 われらが愛する四季派の抒情詩人、加藤千晴の『宣告』『観音』『加藤千晴詩集』等のご紹介、お疲れさまでした、そしてありがとうございました。齋藤智様をはじめ、関係者の方々も、もどんなにお喜びのことかと存じます。私などは齋藤様から資料を頂いても、手元に仕舞い込むのみですが、やす様の情熱、積極性には改めて驚かされ、また、感謝申し上げる次第です。多少のかかわりのあった者として、嬉しさを隠し切れません。
 (この場をお借りして、齋藤様へお喜びを申し上げることをお許しください。)

齋藤智 様

 このたびは、加藤千晴の詩集(業績)について、やす様が丁寧にご紹介くださって、本当によろしかったですね。加藤千晴の詩人としての素晴らしさはもちろんですが、齋藤様の千晴への愛情、そしてご誠実なお人柄がやす様の情熱を更にかきたてたに違いありません。
 齋藤様のお喜びのさまを想いうかべながら、わたくしも幸せな気持ちを味わっております。

298やす:2007/10/21(日) 22:59:10
(無題)
>池内様

こんばんは。御無沙汰してをります。
業績の紹介は齋藤さまの図書館報の一文に尽きてをります。

特には更新報知をしませんが、これから詩集の書影と奥付写真だけでも、詩人indexサイトにペタペタ貼りつけてゆかうと考へてをります。皆様の助けを得ながら、どんな「詩集図鑑」に育ってゆくやら、今後ともよろしく御見守り頂ければと存じます。ありがたうございました。

299やす:2007/11/19(月) 23:05:42
「コレクターを引退」?!
 今月号の「日本古書通信」で川島幸希さんが「古本講座」の連載を終へる由。長い間お疲れ様でした。コレクターを引退(?!)するにあたっての「最後の挨拶」では、自ら蔵書目録は作らないといふことですが、残念といふか、なんとも勿体無い気が致します(U^ェ^;Uその分量を知らないですからね〜 笑)。
 さて拙宅の片々たる蔵書とは云へば、全て「詩集目録index」に画像を貼り付ける予定です・・・。これをもって私も近代詩集のコレクターを引退することになるのかな。尤もすでにあるコレクションを手放すつもりはないのですが、川島さんも「古本講座」で仰言るやうに、マイナー作家(=ここでは中堅〜無名詩集)の目録古書価に光が当たり、中身もみないで注文などなかなか出来なくなってきましたから。これは新たな興味分野の江戸漢詩でも同様です。つまりは今手許にある本を、もっと大切に読み直してみようと思ってをります。
「詩集目録index」はさういふ訳ですから、皆様からの提供画像もあれば是非追加したく、リスト上の(或はリストにもない)こんな詩集をお持ちだといふ方がみえましたら、書影と奥付の画像だけで結構ですからメール貼付でお送り頂けましたら幸甚です。家蔵分は今年中にupを終へる予定です。よろしく御協力をお待ち申し上げます。
そして二次情報の「書誌」についてはそんな完成予定図もあるのですが、一次情報「バーチャル詩集図書館」構想に至ってはどうなりますことやら。コンテンツ作りの労力もさることながら、サーバー容量に限りがあること、加へて詩人は著作権継承者の所在がわからない場合も多く、ここでは著作権保護機関が終了してゐない(つまり没後50年を迎へてゐない)と思はれる詩人について、

1. 当サイト上の論評に関係する参考文献として、
2. 戦後に集成本が出ておらず、詩人の作品に接することが困難であり、
3. (そしてこれが一番大切ですが) 管理人が愛着を深くする詩集に対して、

本冊の内容を、改変・誤植が加はらぬやう一冊丸ごと画像によって公開し、往年の詩人の詩業を紹介してゆけたら、と考へてをります。もとより「著作権継承に係る情報を募る」旨のコメントとともに、御遺族から御意見があれば如何様にも取り計らふ所存ですが、各位におかれましては当ホームページの掲げます「隠れた戦前詩人の詩業顕彰」の趣旨に沿って御諒察を賜りましたら、管理人として大変うれしく存じます。

 以上、ちかごろ詩集のスキャンに余念のない管理人からの御報告とお願ひまで、でした。

300やす:2007/12/01(土) 20:29:46
「感泣亭秋報」第二号
??横浜の小山正見さまより「感泣亭秋報」第二号をお送り頂きました。ありがたうございました。
御存知のやうに「四季」の詩人小山正孝を偲ぶ年刊雑誌ですが、私にとって今回一番の読み物は、感泣亭例会での八木憲爾氏の談話を記録した「小山正孝と「四季」」でありました。歯に絹を着せぬ懐かしいお話しぶりが目に浮かびます。戦後角川書店から出た第三次「四季」の創刊号が一万部で半分以上返品、第五号の最終号に至っては千部出して売れたのが三百部といふ「討ち死」の実情など、はじめて知りました。ちょうど同じ頃、詩人も自らが中心となり、戦前「四季」で育った若手第二世代を結集して「胡桃」といふ雑誌を創刊してゐるのですが、八木会長のお話を敷衍すると、「四季」の露払ひ(もしくは斬り込み隊?)をする筈だったこの雑誌の収支も、そら恐ろしいやうな気がいたします。「夏季号」と銘打ち、季刊のつもりだったやうですが、189pといふ大部の冊子を一体いくら刷ったものでせう。この話は出なかったやうですが、実に雑誌「胡桃」は、一冊きりで終ったものの、混迷する戦後詩壇に抒情の正統を問ふ意気込みを感じる誌面で、みなさんが仰言る詩人の意外な一面の、これもひとつだらう、などと私は感じてをります。
 また近藤晴彦氏の一文「小山正孝の詩の世界」では、リアリズムに長けた詩人が小説道に精進せず「立原ソネット」の呪縛に苦しんだことを惜しみ、しかも残された小説よりも詩の方に、より物語的余韻が馥郁と感じられる矛盾(?)についても指摘されてゐて、相槌を打ちながら拝読しました。尤も詩人が苦しみつつ書き継いで行った、情慾と実存の淵を垣間見せる戦後詩篇といふのは、(前にも書きましたが)私にはアルコール度が強すぎて堪能することができず、その分、伊勢山峻氏が口を極めて称賛されたところ、「水の上」をはじめ詩人の最初期の詩篇群に一層の愛著を覚えます。かの雑誌「胡桃」とともに赤坂書店から出された仙花紙の処女詩集『雪つぶて』を愛蔵してゐるやうな始末です。
 とりいそぎここにても御礼を申上げます。ありがたうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000426.jpg

301やす:2007/12/08(土) 19:36:35
「昧爽」16号
 『昧爽』16号をお送りいただきました。中村一仁氏の浅野晃論は、敗戦を迎へた詩人が北海道での流謫の日々を送るくだりです。当時の「新日本文学」の連中による紅衛兵まがひの吊し上げを、杉浦明平自身の回想による「敗戦奢り」といふ言葉を使って言及するところがいいですね。確かに晩年の杉浦氏は岩波文庫版の『立原道造詩集』の解説でも、親友の立原道造が日本浪曼派に近づいていったのは、単に眩惑されたのではなく、必然的な資質と真摯さによるところを認めてゐて、(岩波文庫に立原道造や伊東静雄が入るやうになったこと自体もびっくりでしたが)良心を感じたものでした。
 浅野晃に、弾劾や戦犯疑義に対する弁解の場が与へられなかったこと、中村氏が書かれるまでもなく、それはそれでよかったのであって、反論などせず甘受した一切を詩に託し、思ひを凝らした述志の余生を送るに至って初めて、「本物」が輝きはじめたのではないかと思ひます。「石炭」の詩の最初の4行

爐にいぶる逞しいなま木よ
とめどなくしみ出るわが涙よ

音たてて赤々と燃え進む
それの焔の色とりどりの無言よ

は『天と海』の数章とともに生涯の絶唱です。まさに数奇な運命を生き抜いたひとならではの独白にして代弁、隠喩に富んだ表現は、抒情詩の本統を継いだ戦後詩の精華として長く記憶されることでせう。

 そんな詩人のことを小馬鹿にされたと中村様から仄聞して、以前(2006年1月10日)ここでその保田與重郎の直弟子歌人とやらに毒づいてみたのですが、それが今回同じい冊子で中村様によって追悼されてゐる御方とは思ひもよりませんでした。『大東亜詩文集』の編集でこのたび知遇を忝くしました吉村千穎様の萱堂であったと聞いては二度吃驚。 折しも風日社からお頒け頂いた五十年記念誌『風日志』と「風日」の輓近号を読んで、あらましが判然とした次第です (私はてっきり六、七十の方と思ってをりました)。つまり思想云々ではなく、後添への夫人のことを思ひやっての疳積だった訳であり、中村様の心情も忖度できたのでした。前言を反省・ご冥福をお祈りするばかりです。
 いったいに保田與重郎は古来女流文学の奔放を嘉する人だし、みやびな学識、慕はれるべき人徳・風貌を、教養ある淑女たちが抛って置く筈がなく、さういふオーラがない日本浪曼派の男達はみんな、真率な烈女歌人にあっては本当のところ「ただの取り巻き」なのかもしれません。

ここにても御礼を申し上げます。ありがとうございました。

同人誌「昧爽」16号 (特集「銀幕の宇宙」) 平成19年12月1日 中村一仁・山本直人共同編集 112p \700
問合せ先
〒340-0011 埼玉県草加市栄町3-1-31-406(中村一仁氏)
〒173-0015 東京都板橋区栄町5-17-201(山本直人氏)

302やす:2007/12/09(日) 20:50:25
『若き世代に語る日中戦争』
 戦後、第四次からの参加ながら、「四季」世代の同人最後の孤塁を、現在杉山平一先生と共に守られてゐる、文壇の重鎮伊藤桂一先生ですが、この度、さきの戦争に対する思ひを聞き書きにまとめた一冊 『若き世代に語る日中戦争』(文春新書)を、ゆくりなくも山川弘至記念館の資料整理をされてゐる野田安平様よりお送り頂きました。インタビュアーは野田様の奥様です。
 今や何をどう話しても腥いクレームのついてまはる日中戦争ですが、所謂「従軍慰安婦」「南京事件」「三光作戦」についても、ひとりの女性を前に置いて、自身の戦場体験と戦後に行った取材活動を元に、理性的に誠実に答へてをられます。インタビュアーが、長年小説作法を学ぶ師弟の関係であれば、頓珍漢な問答にもならず、悪の権化の如く伝へ聞く日本陸軍の実情が、ここでは現場の兵隊の目線で率直に語られてゐる印象を受けました。解りづらい軍隊の身分・編成や、対峙した国民党軍・共産党軍の違ひなどわかりやすく説明されてゐるので、当時の歴史を勉強する際の入門にもよいかもしれません。敗戦時に蒋介石が示達した大国らしい襟度、共産党軍が最後に勝利した理由、また大木惇夫の戦争詩のことも出てきます。ですが私には著者が最後に慨嘆されるところの、「自分たちはやることをやったんだ、これでいいんだ」といふ気持。それが子供(団塊世代)にも伝はらない。戦中世代が歴史の中で浮き上がったまま、消えてゆかうとしてゐる。しかし書き残したものから、次の世代の人が推し量って考へてくれたら、といふ切実なメッセージ、そして、

「どうしてこんな無礼な若者が多くなったんだろう、(中略)亡くなった戦友たちが見たら何というか、「こんな日本にするために自分たちは戦って死んだのか」と口惜しがるに違いない。」161p

 といふ、何ともいへぬやりきれなさに思ひを致さないではゐられませんでした。
 野田様にはここにても御礼申しあげます。ありがたうございました。

303やす:2007/12/23(日) 11:31:12
ただいま上京中です。
 昨日は田村書店の店先で偶然お会ひした郡淳一郎様とティータイム。「稲垣足穂未収録短編新刊編集会議」の触りに陪席させて頂きました(みなさん楽しいお話をありがたうございました)。『一千一秒物語』もたうとう初版本の忠実な復刻が出たのですね(沖積舎 2007/11 300部)、これはかわほり堂で購入。知りませんでした。なにやらタルホづいた一日でありました。

 さて本日はこれより「F1」(笑)とも称せられる扶桑書房の古書展に参戦(?)、夜は古本仲間と歓談の予定です。神保町周辺をうろうろしてをりますので、お気軽にお声をかけて下さいませ〜(ホテルの端末より)。

304やす:2007/12/23(日) 17:29:03
F1実況
保田與重郎と浅野晃の諸著作、『日本の橋』(芝書店版函欠\1800)ほか壁棚の品揃へが軒並安いのに吃驚、所蔵なれば手を出さず。既にして独り退場、逆旅に戻り書之。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000431M.jpg

305やす:2007/12/23(日) 21:57:40
戦ひ終へて日が暮れて
Salon de 書痴の旧知の面々と久闊を叙し只今散会、御馳走さまでした。おやすみなさい。

306やす:2007/12/24(月) 11:09:03
(無題)
もいちど会場に立ち寄ってから帰ります。
古本に温まりて新幹線に乗る、亦た楽しからずや。

307やす:2007/12/24(月) 20:40:53
帰還しました。
古本なかまの皆様、在京中は楽しい時間をありがたうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000434.jpg

308やす:2007/12/27(木) 21:14:19
「初版本」第2号
本日、古本雑誌「初版本」第2号到着しました。
明日仕事納めなので、年末にかけて隅々までゆっくり拝見させて頂きます。ありがたうございました。
(献本一冊ですので、予約されなかった方には、拙稿はHP版upの機会までお待ち下さい。)

「初版本」2号 川島幸希責任編集(編集協力:東原武文 造本:真田幸治)  2007年12月31日 人魚書房発行 定価\1000(限定300部予約配本)

目録
逸見猶吉 詩と絵画の接点 東原武文 2-11p
陰の珍本あれこれ 山口哲司 12-19p
潤一郎の書棚から 作家の参照した関連文献 山中剛史 20-29p
表紙の本『黄色い帽子の蛇』 (大手拓次編輯「あをちどり」第一輯 全文復刻) 30-53p
文芸市場社以前の梅原北明 佐々木宏明 54-60p
耶止説夫の稀覯本 若狭邦男 61-65p
我が愛する版型詩集の列記 中嶋康博 66-71p
室生犀星自筆題字本考 樽見博 72-77p
「創刊号」余談 78-79p
清方と英朋の木版口絵 (復刻) 80-83p
〈続〉・酔多道士の著作について 平田雅樹 84-91p
雑本蒐書録 其之貳 彭城矯介 92-97p
伝説の売立 川島幸希 98-111p

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309やす:2007/12/29(土) 21:07:05
今年最後の収穫報告
 和本分野で宿願だった探求書『黄葉夕陽村舎詩』の揃ひ13冊が本日到着。状態不詳で注文したものの、包みを開けてみたら[正篇]、続編、遺稿の装釘は別々で、文化9年,文政6年,天保3年の奥付をそれぞれ持ってをり、虫入りも僅かなら摺りも悪くない。頼山陽の自筆書帖(牧百峰跋)とともに本年最大の古書収穫となりました。休暇はこれを眺めつつ(まだ読むんぢゃないのか 笑)、中途で止んだ『伊澤蘭軒』の読解に再び勤しむ予定です…。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000436.jpg

310やす:2007/12/31(月) 13:22:07
年末最後の御挨拶
 昨夜はNHK教育テレビで中原中也の特番がありました。馬の合った数尠い友人高森文夫さんのことが大きく取り上げられてゐました。筆の一杯入った晩年の原稿に目を瞠り、果てはNHKに入社さして希望通り受付仕事やらせてあげたらよかったのに、と無茶な感想。

 さてさて。
 古本には時にいろんな紙切れが挟まれてゐて、さながら釣り上げた魚の胃袋の中にもう一疋の魚を発見したやうな楽しみを味はふことがあるのですが、写真は一昨日別便で到着した『竹堂文鈔』に挟んであった紙片。戦前の普通選挙で撒かれたビラのやうですが、真面目な文句が何だか可笑しい。齋藤竹堂のふるさと仙台からの、貴重な郷土資料(?)、「最後の御挨拶」です。

 といふことで。
 家蔵の詩集の書影も、粗方「近代詩詩集目録index」に画像upを完了いたしました。前にも書きましたが来年は古本集めも程ほどに、読書する時間をもっと大切にしたいと思ひます。特に漢詩集など読ま(め)なくては持ってる意味がありません。折角陋屋に集まってきてくれた本たちに相応しい所有者となれるやう、漢字の脚力をつけ、心を澄ます修養に、孤軍奮闘、刀折れ矢尽きて斃れて後已まんのみ(笑)。 みなさまも良いお年をお迎へ下さい。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000437.jpg

311やす:2008/01/01(火) 09:45:29
謹賀新年
今年もよろしくお願ひもうしあげます。(御贔屓の方々には追ってメールでも御挨拶させていただきます。)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000438.jpg

312やす:2008/01/08(火) 20:58:42
モダニズム詩人 荘原照子 聞書
 昨秋コンテンツについての御教示を賜りました鳥取の手皮(てび)小四郎様より、同人雑誌『菱』160号の御寄贈に与りました。早速予告のあった「モダニズム詩人荘原照子聞書」を拝読。お手紙には亡き詩人への供養とありましたが、これは手皮氏自らの青春との再会をも重ねた回想であり、単なる詩壇資料ではありません。非常に濃密な思ひ出が下地にあるせゐもあって、筆致になまじいのお世辞がない分、(絶交の時期を含め) 詩人ときちっと正対してゐる氏の誠実さが感じられ、続きが直ぐにも読みたくなる、まことに好発進の連載第一回目と存じました。
 教会での不思議な老婦人との出会ひ、青年詩人だった自分との陽だまりのやうな文学的交歓の日々、そしてある日、彼女がかつて最尖端の詩を書いてゐた名の有るモダニズム詩人であったことを中央の新聞記事が突然に報じます。「荘原照子は生きていた」と。身寄りのない地方都市にひっそりと別名で隠棲してゐた詩人の存在が再び知られるきっかけとなったのは、しかし他でもない田舎の文学青年であった自分の「ある種の優越感」による友人への多弁でした。

「この記事以降、ぼくは峠田と会わなくなった。根っこにあったのは、ぼくの疾妬でありひがみだった」

 はっきりこのやうに自分の過去を剔抉する現在の著者によって、和解後の最晩年の詩人の孤愁があばかれるのも、また一種の親愛の情には違ひありません。話全体が「老詩人の孤独な最後」を下敷きにしたものであるはずなのに、「手皮の紹介がなければ(誰とも)会わない」とさへ言はしめた著者の気の置けないまなざしが、往年の閨秀詩人の面影をみるべくもない一老女の偏屈さに、愛すべきいじましさを添へ得てゐるやうにも思はれたことです。

「どうやらテープ起こしというものは、自分のおぞましさにも対面する作業でもあるようだが」

「一時的だったにせよ、かつての荘原照子に戻ったことのある彼女を、このような姿で旅立たせるのは酷いという思いがあった。この異郷の地生きた痕跡を残そうと思った。一身係累なしという思いが、ぼくを焔(ほむ)らとなって衝き上げた。」


 ぜひとも惜しみない回顧をして頂きたいものです。聞書きはその出生から、つまり漢学者の親たちにも触れられてゐるのかどうかはわかりません。けだし昨年来地元山形で顕彰されてゐる日塔貞子も、旧家の漢詩人を祖父にもつ、才気の勝った薄倖の閨秀詩人でありました。『マルスの薔薇』のあとがきにあるやうに、詩人は若い日に、自分の与らない所で大切な処女詩集を編まれてしまった訳ですが、拾遺詩篇を含めた定本詩集の刊行実現のためにも、ここは「詩の終章」を自ら書き留めることができなかった詩人に代って、評伝にも等しいこの聞書きが評判を呼ぶことを祈って已みません。今後の連載がたいへんに楽しみです。

 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

「菱」160号(詩誌「菱」の会2008.1.1発行)頒価\800
連絡先 〒680-0061 鳥取県鳥取市立川町4-207 小寺雄造様方

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000440.jpg

313やす:2008/01/16(水) 21:48:59
追伸 荘原照子の漢詩人の祖たちについて
 その後、手皮様からの御教示により、詩人の父は活堂の号で周防詩壇の重鎮をなした人であることが判明(1930.1.9歿、享年60)。彼が剏めた「梅花吟社」について現在情報収集中とのことです。
 祖父もまた漢詩人だったらしく、『篁墩詩鈔(上下2巻)』といふ詩集を千鍾房から安政6年に刊行してゐる庄原篁墩といふ人のやうです。「荘原」は結婚前の苗字「庄原」に宛てたペンネームだったのですね。

314やす:2008/01/16(水) 22:41:11
「桃」1月号
 桃の会、山川京子様より「桃」1月号(2008.1.15発行) お送りいただきました。
 毎号の巻末に載る山川弘至に関する資料・文章をたのしみに拝見してゐますが、今回は京子様の萱堂が草した娘婿への誄詞(しぬびごと)、ならびに拾遺詩集『こだま』に未収録の詩篇「柿の家」でした。

  柿 の 実         山川弘至

ふるさとの 柿の実あはれ
秋ふかく 高山原の
夕陽かげ あはく照らししが
柿の実の つぶら木の実の
赤き実の はだにうつれり
ふるさとを 遠く来はなれ
ふるさとの かの背戸畠の
つぶらなる 柿の実思へば
遠き日の 遠き山河
そのままに 今も 目に見ゆ

ふるさとの 柿の実あはれ
その赤き 柿のおもてに
遠山の秀の 初雪うつし
かの日ぐれ 輝きゐしが
はらはらと 過ぐる時雨に
うら寒く ぬれてありしが
ふるさとの 柿の実あはれ
つぶらなる その実思へば
遠き日の 遠きものみな
そのままに 今も 目に見ゆ

ふるさとの 柿の実あはれ
その赤き つぶら実ひとつ
もぎとりて まほり喰ひし
いとけなき 我のおもかげ
そこにます 父母の声
里人のいくたりの顔
遠き日の 遠きおもかげ
そのままに 今も 目に見ゆ

ふるさとの 山に雪ふり
背戸山に 時雨すぐらむ
ふるさとの 山は暮れけむ
家々に 灯は入りにけむ
遠き日の 遠きおもかげ
つぶらなる かの柿の実の
手ざはり思へば 思ほゆるかも

 国学院大学在学中の作品でせうか。歌はれてゐるのは岐阜県郡上郡高鷲村、柿は美濃の名物でもあります。柿の実の詩といふと、神保光太郎の『柿の実抒情』がよくとりあげられますが、それに劣らぬ淳朴の詩篇が、なほ篋底に眠ってゐたことに驚きです。
ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。


 さて年末にも書きましたが現在森鴎外の『伊澤蘭軒』と格闘中、漸く半分を読み了へたところです。章立てのリストも添付してBook Reviewコーナーに前半部までの感想を不取敢upいたしました(全部読み終へるのがまたいつになるかわかりませんので 汗)。お暇の方は御覧下さい。

315やす:2008/01/19(土) 21:52:51
「近代文学 資料と試論」第7号
??碓井雄一様より個人誌「近代文学 資料と試論」第7号をお送り頂きました。

??林富士馬に関する資料紹介シリーズとして、今号は第一詩文集『誕生日』を刊行した当時の、同人誌に発表された学生時代の散文二作品が翻刻されてゐます。
??敬愛する作家、太宰治に原稿を見てもらひ物まねぶりを酷評されたことを、当の小説の中で当の物まねぶりを以て自嘲してみせるなど、たとへば同時期の小山正孝の出発作品「紙漉町」(1939.5)などと並べて読むと、日本浪曼派と四季派における自恃含羞の身振り特色が、文学青年たちに共通した自意識過剰によるもどかしい表現のせゐで、却って分明に対比されるやうにも思はれ、なかなかに面白く、またなかなかこんな風には書けないと詩人の夙成に感歎したことです。

 この場にても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

????「近代文学 資料と試論」第7号 2007.12.31「近代文学 資料と試論」の会刊行  \700

????帰国船上での鴎外と石黒忠悳との応酬詩                   小平 克 1-20p
????佐藤春夫研究ノート                            山中千春 21-28p
????林富士馬・資料と考察(四) 始発期作品二編の翻刻             碓井雄一 29-47p
     「てんで常時的な余りにも反時世的な」 「ぷるす」第4号1938.12
     「誕生日」                   「武蔵野」第2号1939.6
????「林富士馬年譜考」補遺                          碓井雄一 48p
????編集後記                                     [50p]

 問合せ先:〒357-0021 飯能市双柳1495-6-A-202 碓井様方 「近代文学 資料と試論」の会

316やす:2008/01/22(火) 22:28:25
『朔』162号 後藤健次特輯
 青森八戸の圓子哲雄さまより『朔』162号のご恵送に与りました。
 戦前青森詩壇の貴重資料の翻刻がこのところシリーズとなって続いてゐますが、今回特輯の後藤健次といふ人のことは、和泉幸一郎の遺稿詩集『母の紋』のなかで「後記」を書いてゐる後藤峰夫がそのひとであると、指摘されるまではわかりませんでした。単行詩集もなく終った詩人ですが、あらためてその「後記」の文章に目を通し、今回掲載の清藤碌郎氏の紹介文を読み、その作品に実際に触れてみれば、これは地元詩壇の篤志家を俟つほか顕彰される機会もなかっただらう、まこと奇特な詩人に対するまことに有意義な特輯号であることが分ってきました。パストラル(牧歌)詩社を興してあたらしい抒情詩の勃興に一役買った大正後期〜昭和初年の詩作活動は、一銀行員としてつつましく実生活を送るといった世過ぎの点では、ちょっと田中冬二を髣髴させるところもありますが、やがて筆を折ってしまひます。『母の紋』後記に語られる逸話、後輩和泉幸一郎にランボウの逞しさを語って慰めたやさしさは、同時に詩を捨てた自らに対しても含み言ひ聞かせてゐるやうでもあり、詩人であるまえに人としての潔さを感じたことでした。現在目にすることのできる作品が若い日の発表作ばかりであることが尚更それを裏打ちしてゐるやうですが、無欲・恬淡といふべきなのでせうか。なるほど村次郎氏が一目置いた先輩であることが頷かれます。


 哀しみ

若いアカシヤの葉の茂みにおほはれた小径が
五月の陽をところどころに映して続いてゐる。

かつて私達はよくそこを散歩した、病身な彼女と
そして、恋の影でいつぱいの小径に
何を残してきたらう……。

きのふの夢よ、青い葉の茂みが風にゆらいでゐる。
そこには、私達のつつましい心だけが、残されてゐるやうだ。


 この場にもあつくお礼を申し上げます。ありがたうございました。

317やす:2008/02/04(月) 12:04:28
『伊澤蘭軒』読了
 森鴎外の『伊澤蘭軒』を読了。後半の感想は引き続いてBook Reviewに上しました。
 さて次は何を読みませうか。旧臘入手した『黄葉夕陽村舎詩』の槧本を傍らに積んで、富士川英郎畢世の大作『菅茶山』とゆくか、もうそろそろライフワークたるべき郷土詩に向ふか(やれやれ『美濃の漢詩人とその作品』も『梁川星巌翁』も、まだ読んでなかったのね。哂)。はたまた日々矚目する本の一節に引き摺られ、『伊澤蘭軒』みたく袋小路にどしどし踏み込んでゆくかな。


 鯨書房さんより目録17号と「あ・ほうかい」第8号。ありがたうございました。このペースでゆくと同人誌が目録の号数を追ひ越すのは時間の問題であります(笑)。

318やす:2008/02/08(金) 13:07:53
訃報 川村二郎氏
川村二郎氏が亡くなられました。

ドイツロマン派文学に対する造詣をもって、保田與重郎や伊東静雄ら、日本浪曼派でも特にイロニーをよくした詩人たちについて、深い理解を傾けられた先生でした。
刺謁の機会は終にございませんでしたが、一介の無名詩人の処女詩集をお送りした御返事に、過褒のお言葉を賜った思ひ出は忘れられません。扉に掲げた「田中克己先生に捧げる」といふ献辞に対して、礼を払って下さったのだとおもひます。
七日朝「居間で本を読んだままの状態で発見された」と伺ひました。文士の本懐とも申せませうか。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

319やす:2008/02/12(火) 22:56:44
いろいろの道草
 『伊澤蘭軒』読後にしたいろいろの道草を御報告。

 まづは、伊澤棠軒が贈られた『東京繁昌記』に付随して、鴎外が憶ひ起した寺門静軒の『江戸繁昌記』。偶然その原本の揃ひを格安(たった千円)で譲って頂いたので、早速第三編所載の「書舗(ホンヤ)」の章を、註釈本傍らに読んでみました。店主が本の表題を眼鏡越しに見て面倒臭さうに答へる姿や、「(徂来先生はいまだ御存命かね)」などと尋ねる田舎者に対して、小僧が笑ひをこらへながら「(こんな男に売る本)なし、なし、なし」と、手を振る顔付きが目に見えるやう。こんなの読んでゐては修養になりません(笑)。

 それから伊澤家で毎旦誦読されたといふ『孝経』。こちらは加地伸行氏の新刊(講談社学術文庫)を購入しました。中学生の孫を念頭に書き下ろされたといふ『論語』(角川文庫ビギナーズ・クラシックス)もさうですが、この本もわかりやすい訳註と、それから孝経をめぐる資料解説が懇切に施されてゐて、道草ではなく、後々のためにも求めました。けだし「二畳庵主人」名義の受験参考書『漢文法基礎』は、今や幻の名著になってゐるやうですが、斜に構へた若気を排され、訓読の効用をはじめ、漢文を人間教育に積極的に位置づけようとされてをられる今日では、もうあのままの形で復刊されることはないやうな気がします。
 さて伊澤家をはじめ当時の武家で尊ばれたこの経典が、今文・古文二種あるうちの『古文孝経』であったことについて、かつて小説の中で「お上の事には間違はございますまいから」と書いた鴎外は『伊澤蘭軒』のなかでは何もそれとは言及してはゐないのですが、この本のなかには説明がちゃんとありました。「君、君たらずと雖も、臣、もって臣たらざるべからず(古文孝経序)」。なるほど。しかし加地先生のこの本の序文には反対のことが、つまり孝経の重要な主張が、実は「諫言」にあると(おそらくわざと)書いてもあるのです。学術文庫らしからぬ面白さが理解できるやうに、ゆるゆる頑張ります。


 地元の長良川画廊で始まった「岐阜・郷土の先人遺墨展」にて地元漢詩人の掛幅を購入。同庚の御店主と御挨拶、霎時の眼福。最近、地元の別の店で買った佐藤一斎の軸が贋物だったことが判りショックを受けてゐたところだったので、書画専門店嫌ひにならずに済みました。

 また掛軸といへばコギトの小高根太郎さんの書かれた富岡鉄斎の伝記を読んで、鉄斎翁の人となりに心酔中。数多ある画集の中からは、極め付きを「従吾所好」の西岡様に推薦して頂き早速注文しました。
 かつての日本を支配してゐた皇学・儒学・仏教・道教。それらを包括して感謝する文化が信仰として成立した時代。画の良し悪しがあんまりわからない自分だけに、翁が繰り返し思ひをこめた画賛の意味に、却って素直に理解の目標を置くことができさうです。美術評論家とは反対側からの鑑賞があってもよいと思ふのです。

320やす:2008/02/16(土) 22:33:03
『鐵齋大成』第三巻
 富岡鉄斎画集の極め付きである『鐵齋大成』(講談社1977)全五冊のなかで、さらに極め付きの第三巻が古書店から到着。八十五歳以降最晩年を一覧する寔に豪華な大冊でした。ただ何が書かれてゐるのか賛文の言葉が全く録されてゐないのが残念。英文題目も付して「世界に誇る本邦一の大画家」を標榜した意図はそれとして、座談会など収める余裕があるのなら、「わしの絵をみる時はまず賛を読んでほしい」と宣ふた、翁の遺思を大切にしてほしかったです。さきに求めた正宗得三郎著『鐡齋』(平凡社1961)と合せて鑑賞、訓読不安なれど是もって用に充んか。

321やす:2008/02/17(日) 23:35:23
富士川英郎著『菅茶山』
 富士川英郎氏畢世の大作『菅茶山』をぽつりぽつり読み始めてゐます。

 しかし全文「本漢字」を採用してをりながら、また全文が「新仮名遣ひ」といふスタイルがよくわかりません。解説が本漢字で、訓読が新仮名遣ひだと、なんだか居心地悪く逆転した文章を読まされてゐる気もします。他の著作でもさうですから、これは著者のスタイルかもしれません。
 そして引用される漢詩文や尺牘に対する解説が、しばしば鴎外張りに省略されてゐて、素養の無い者に故事などがわからないのは困ったことです。例へばこれは若き日の茶山の文章、重陽の日の想ひ出を書いた「研山に遊ぶ記」(72p)から、

(前略) 靈昌曰く、この遊、設(も)し子雅をして同(とも)にせしなば、將に啻(ただ)に米顛の顛のみにあらざらんとす。目今、誰が家にて菊を采(と)り、何(いず)れの山にて帽を落すかを知らざるなりと。相い共に踟躊盤桓(ちちゅうばんかん)、良久(ひさしゅう)して乃ち下る。子雅牛渚(ぎゅうしょ)の興果さず、鶏黍(けいしょ)の約、已に迫る。記をつくりて、これに寄せ、以て[けい]生の車を促すと云う。

 と原文が引かれてゐるのですが、それに対する説明が、

「米顛」とは宋の米[ふつ](べいふつ)のことで、彼は文に巧みで、書畫を善くしたが、その言動が奔放不羈であったために米顛と言われたのである。「子雅」は西山拙齋の字であるが、拙齋には岩石癖とでも言うべきものがあり、石を愛してほとんど狂氣に近かったので、靈昌(茶山の友人)は奇岩の多い山の中で拙齋を思い出して、このように言ったのだろう。

 と、たったこれだけでは、陶潜の、孟嘉の、李白の、范巨卿の、[けい]康の、故事を知らないひとには何が何だかさっぱり分りません。
 よくしたもので、今やインターネットで意味の通じない文句を検索すれば、奇特な文学サイトから故事についても何らかの緒口を得ることができる、有難い世の中になりました。しかし刊行当時はさぞやこの本も難解だったに違ひありません。著者はかうした素養を読者の常識として、果たして明確に念頭に置かれてゐたのでせうか。米元章について、このひとの「奇矯な言動」を以て「顛」を冠せられたと記し、ただ西山拙齋の「岩石癖」を論ったのも、なんだか不親切のやうな気がしたものです。

 ともあれ、原詩の抄出は詩集の原本に当るべきでは(45p「驚」「舎」の字)、などと、修養にあるまじき生意気なアラ捜しをしながら楽しんでゐます。わるい読者です。

322西岡勝彦:2008/02/18(月) 17:40:38
RE:『鐵齋大成』第三巻
>賛文の言葉が全く録されてゐないのが残念

鐵齋の画賛のかなりのものは、「鉄斎研究」全65冊で解読されているようです。
ただし、研究機関でしか買えないような値段がついています。
私は幸いなことに内20冊ほどをオークションで投げ売りされていたのを
密かに救出して蔵していますが、未だまともに読んだことがありません(汗)。
まったく宝の持ち腐れですね。

323やす:2008/02/18(月) 23:38:12
「鉄斎研究」
>西岡さま
 先日来、ブログでは貴重な助言をお聞かせ頂きありがたうございました。その「鉄斎研究」といふ雑誌のことも、初めて知りました。各地の図書館には結構揃ひがあるやうですが、25万円ですか・・・。尤も今の自分にも「猫に小判」「ごん太に論語」でせうから、今度岐阜県図書館に行ったときにどんな雑誌なのだか閲覧してみます。
 今後とも御教示よろしくお願ひを申上げます。

 さて本日は「日本古書通信」943号が到着。昨年末の古書展「扶桑書房一人展」の顛末について、「応援団」の川島幸希氏から二回に亙る報告です(引っ張りますね 笑)。 また「江戸の古本屋」(橋口侯之介氏)では、偶然にも先日紹介した『江戸繁昌記』:書舗の章の続きが紹介され。さらに今回は、戦前地方詩壇のアンソロジー『福島詩人選集』といふ本について、書誌周辺情報が詳しく紹介されてゐるのも「詩集愛好家」には嬉しいところ(菅野俊之氏)。コレクションの買入価格に関して「リミットに設定しており、それを超えるものはどんなに欲しくても、この世では縁がなかったものと端から諦めることにしている。」とは、まことに拳拳服膺すべき御言葉であります。

 古本雑誌「初版本」第3号(6月末刊行予定)の購読継続の案内状も参りました。3月31日までに郵便振込で前金1冊\1000を送金のこと(1人5冊まで)。これは継続案内といふことなので、新規申込みの向きにはまず、
「人魚書房 : syohanbonアットマークybb.ne.jp」まで問ひ合わせてみて下さい。
(バックナンバーはないと思ひます。また古本の話が種切れたので、今度は私は書きません。)

324やす:2008/02/25(月) 18:04:38
「戦艦献納の詩」
 『菅茶山』(富士川英郎著)を毎朝ゆるゆると読み進んでゐます。さきの鴎外史伝や『頼山陽とその時代』(中村真一郎著)の時と同様、詩人の名前が、未見の熟語とともに次から次へと、「茅を抜くに茹たり、その彙ひをもってする。」といった感じで芋蔓式に出てきますが、彼らと菅茶先生の年齢差、そして引用詩の原本丁数などを記しながら、赤鉛筆片手に大詩人の一代記を鷹揚に辿ってゆくのがとても楽しい読書です。

 さて。以前に多治見の久野治さんから見せて頂いた「戦艦献納の絵葉書」を、幸運にも入手、早速画像を拡大してupdateしました。またこれまで郷土詩人について折々特輯を組んできた東海地方の文芸雑誌『名古屋近代文学史研究』の総目録が、発行団体である名古屋近代文学史研究会のサイト内で公開されてゐることを最近になって知りました。気になるバックナンバーを現在探索中です。

 また。むかし書いたサイト内の文章を読み返して生硬さにあきれることあり、手直しを心掛けてゐます。手始めは紹介文ですねえ(苦笑)。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000454M.jpg

325やす:2008/03/21(金) 03:25:15
馬頭初めて見る米嚢花
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)

やうやく41才の菅茶山と9才の頼山陽が初めて対面する歴史的時日、天明八年六月十日のことを記した詩篇「広島訪頼千秋分得螢字」(広島に頼千秋を訪ひ「螢」字を分ち得る)までたどり着きました。頼千秋は頼春水。山陽の父で、茶山終生の親友であります。

離居屈手幾秋螢   離居(はなれ家)、手を屈すれば幾(いく)秋螢
夜雨西窓酒滿瓶   夜雨西窓、酒、瓶に満つ
十載趨朝頭未白   十載(十年)、朝(役所)に趨むいて頭いまだ白からず
舉家迎客眼倶青   家を挙げて客を迎ふる眼は倶に青し(青眼)
雲低隣屋木陰邃   雲は隣屋に低(た)れ、木陰は邃(ふか)く
石倚勾欄苔氣馨   石は勾欄に倚りて、苔気は馨(かんば)し
喜見符郎紙筆耽   喜び見る 符郎の紙筆に耽り
童儀不倦侍書櫺   童、儀に(行儀良く)して、倦まず書櫺(≒書斎)に侍るを

 詩の後半は、息子の「符郎」に勉学をすすめた韓愈の詩「符讀書城南」をふまへてゐるらしいのですが、この本では例によってあまり詳しく説明してゐません。原本詩集にはさらに、

「閲到此詩 馬頭初見米嚢花」

 といふ評言が一言、欄外にぽつりと書いてあって、『黄葉夕陽村舎詩』の無記名の鼇頭評は、先輩詩人六如によるものなのですが、この「馬頭初めて見る米嚢花」といふ故事がわからない。しらべてみると雍陶(唐)「西帰出斜谷」の詩に

行過險棧出襃斜 険桟を行過ぎて褒斜を出づ (ホウヤ:成都へ通ずる蜀の桟道と呼ばれてゐる難所。)
出盡平川似到家 平川に出尽して家に到る似たり
無限客愁今日散 無限の客愁今日散ず
馬頭初見米花。 馬頭、初めて見る米嚢花

 とあって、「馬頭」は馬の上、「米嚢花」はケシの花で故郷の花の謂。つまり遠地から帰って故郷の土地に入ったことを喜ぶ言葉(『大漢和辞典』)であるらしい。とすれば、『黄葉夕陽村舎詩』をここまで読み到って喜びを記すやうな人とは、頼山陽そのひとではないか、ここは「子成曰く」の文字が頭に抜けてゐるのではないのかとも思ひ、つまりどうして富士川氏はこれに言及しないのだらう、などと訝しく思ったのでした。
 ただ、よくよく前後の評言を読んでみますと、ここに到るまでの旅行中の詩群に対して、六如は手厳しい不満の言葉を書き連ねてゐて、やはりこれは六如の言葉であって、「やうやく良い詩に出会った」安堵を、旅が終って広島に着いたことにかけて書いてゐるのだと、合点がゆきました。六如が不満に感じた詩はどれも次に挙げるやうな叙景詩で、富士川氏も誉め、また山陽も「是もとより実境、新奇をめるにあらず」と弁護してゐますら、もとより私などにその不満の理由がわかる筈もありません。

風外鳴榔響   風外、鳴榔(舷を叩く音)の響
清江七曲濱   清江、七曲の浜
征帆銜島尾   征帆、島尾を銜み
去馬蔽松身   去馬、松身を蔽ふ
[鹵差]戸潮爲圃 [鹵差]戸、潮を圃と為し (塩田のこと)
漁村鷺作隣   漁村、鷺を隣と作す
憶曾過此路   憶ふ曽て此の路を過ぎり
結伴遠尋春   伴を結んで遠く春を尋ねしを

「此様句固非儂所好然如此精錬不得激節恨不與賈浪仙同時三年二句一吟涙流而不濺路人之袂
 此様の句、固より儂の好む所にあらず。然らば此の如き精錬は激節(激励)せざるを得ず。賈浪仙に与り「三年二句」時を同じくせざるを恨む。「一吟、涙流」すも、而るに路人の袂には濺がず。(六如評)」

「賈浪仙」は唐の「苦吟詩人」賈島で、「両句三年得、一吟双涙流」(詩二句を三年かかって得て、吟ずれば涙が流れた)の故事がある由。六如がこんな推敲では涙なんか催さない、と不満を漏らしたのはどこを指してゐるのでせうか。漢詩の良し悪しを決する当時の基準が、平仄を弁じない私には全く不明であるのは、語義、故事の向ふ、さらに険しい「褒斜の桟道」に分け入る話なので仕方ありません。 不満が最後のところなら、「結伴」とは亡き先妻のことで、ことさら月並みな表現に拠ったのかな、とも思ったのですが「黔驢の技」で深読みをするのは止しにします。


 (読書ノートは、誤植や不詳箇所と合せて、今後ブックレビューに逐次累積して上したいと思ひます。)

326やす:2008/03/04(火) 09:10:52
「四季」と 兵庫の詩人たち展
「季」の同人、紫野京子さまより【「四季」と 兵庫の詩人たち展】の御案内をお送り頂きました。展示規模など詳細は不明ですが、3月15日(土曜日)には特別に、杉山平一先生が講演をされるとのことで、お元気を取り戻されたことを何よりに存じます。関西にお住まいの方にはぜひお立ち寄り頂けたらと思ひます。とりいそぎの宣伝まで。

「ごあいさつ(福井久子氏)」より抜萃
(前略)今回はこの「四季」派の詩人たちの中から兵庫とゆかりのある3人の詩人、津村信夫、竹中郁、杉山平一を中心に資料を展示、紹介します。この企画を可能とするにあたって貴重な資料や助言をいただきました津村信夫の遺児春木初枝氏、竹中郁ご遺族、また杉山平一氏からは資料のみならず記念講演までお引受けいただき、感謝申上げます。この企画展を通じて2008年に生きている我々の詩のルーツに思いを馳せ、詩の現在を、言葉の生きたカを確認する一助になればと願っています。(後略)


「四季」と 兵庫の詩人たち展 3月11日(火)〜3月16日(日)
   兵庫県立美術館原田の森ギャラリー(入場無料) 東館1階展示室

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000458.jpg

327:2008/03/07(金) 01:44:08
御礼
お葉書有難うございました。早速宣伝して下さって有難うございます。私のブログにもとりあえず掲載したのですが、初日に出品する絵画作品や詩誌を搬入致しますので、その折にもう少しましなご案内が出来るかと思います。とりあえず御礼まで。紫野京子

http://gessousha.jugem.jp

328やす:2008/03/07(金) 21:50:04
(無題)
紫野様、御挨拶ありがたうございます。地域の詩人を顕彰することは私たちの仕事であり喜びです。ぜひ来年は岐阜と兵庫を結ぶ漢詩人、梁田蛻巌翁の顕彰を(笑)。盛会をお祈り申し上げます。

先週来の風邪引きは、緩解するも油断。「少し癒ゆるに加はる」とはこのことです。本日早退、また寝たきりの週末を送ることに。どなたさまも御自愛ください。

329やす:2008/03/09(日) 23:30:18
『桃』3月号
 山川京子様より『桃』3月号の御寄贈にあづかりました。

 若くして書き散らしたる断簡に迷ひなかりし君を知りたり

 巻頭一首の回顧、まことに、詩人山川弘至そのひとの、非常の時代の非常の思ひに係る断簡であればこそ、見た目は同じく推敲の痕を留めぬワープロ原稿とは、おのづから言葉の響きが違ひます。歌のひとつひとつが遺詠のつみかさねにも等しかった時代の詩人たちに比して、きびしく自問するところです。ここにてもお礼を申し上げます。
 ありがたうございました。

330やす:2008/03/10(月) 23:00:07
自家揉碎す[石牙]繚綾
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)

 終日富士川氏の『菅茶山』読耕。旧友三好達治に触れてあるところで大いに脱線中(「十春詞の穣縟」『三好達治全集』巻七 369-383p)。
ちなみに三好達治が執筆当時に解しかねた、頼山陽の田能村竹田の「十春詞」に対する評言は、
「山陽言ふ。元人の、四體人に著して嬌として泣かんと欲す、自家揉碎す繚綾、といふもの、これと同調、いはゆる穣縟にすぎるもの。」
といふのですが、今日ネット検索で、それが元人ではなく晩唐の韓「半睡」といふ詩であることが瞬時に知られます。

眉山暗澹向殘燈    眉山暗澹として残灯に向ふ
一半雲鬟墜枕稜    一半の雲鬟、枕稜に墜つ
四體著人嬌欲泣    四体人に著いて、嬌として泣かんと欲す
自家揉碎[石牙]繚綾  自家揉み砕く、[石牙]繚綾

まあ何といふか「磨かれた綾絹」を自ら揉み碎いて挑発する、なんて詩なんですね(笑)。
ことのついでに田能村竹田青年の艶詩も晒しときませう。

乍聽鶯兒枕上呼  たちまち聴く、鶯児枕上に呼ぶを
數聲和夢唯模糊  数声、夢に和して唯だ模糊
微香汗凝衾底暖  微香汗は凝りて衾底暖かに
泥得一身骨欲無  一身泥得して骨無からんとす


 また三好達治は同じ文中にあらわれる「信卿」を「晋卿(茶山)」の誤記としてゐますが、「信卿」で正しく、これは茶山の季弟、恥庵のことです。『菅茶山』上巻では、32才の若さで夭折する、この菅恥庵(1768-1800)についても、平行して事跡を記してゐるのですが、巻末の人名索引をみると、京都で恥庵の親友だった杉岡暾桑の出番がないのは残念でなりません。『黄葉夕陽村舎詩』付録(恥庵詩草)では「杉岡公曙」の名で、また『荷溪詩集』では「[管]三閘」の名で夫々呼んでゐますから、結びつきにくいかもしれません。後年、郡上藩に招聘される杉岡暾桑ですが、生年と享年が不詳。しかし恥庵については、「余と善し。」「小蘇の穎才、今いずくにか在る、感慨は大蘇(蘇軾=茶山)を慕ふより深し。」と親近を示し、暾桑が亡くなったとき(1822年)嫡子がまだ若くして跡目を嗣いでゐる様子から、杉岡暾桑もまた菅恥庵と同年輩の、当時は三十がらみの同業者だったやうな気がするのです。

 ともあれ茶山とは20も年の離れた弟の恥庵ですが、今少し長生き出来たら京都でどんな人物になってゐたでせう。「才気煥発」で「諧謔好き」の好青年。長崎へのひとり旅の末に病臥してゐた時には、まさに立原道造をイメージしてゐたのに、頼山陽が撰んだ墓誌には
「長じて魁梧、腰大十囲、方面深目にして眉間に竪紋(たて皺)有り、酒を縦にし、剣を撃ち、弛(放肆)不羇」なんださうな(笑)。
それならそれで大いに文豪頼山陽と絡んで欲しかった人物ですが、斯様な先輩が目の黒いうちは、茶山塾を飛び出した山陽先生も、京都ぢゃ大きな顔が出来なかったかもわかりません。

331やす:2008/03/19(水) 09:07:31
上巻読了。
『菅茶山』上巻読了。

 ほぼ二百章ある大冊を、機械的に両截製本してゐますが、物語そのものは途中の、茶山先生五十四歳のところ、怙恃なく、子無く、師友も喪ひ、通常の江戸時代文人ならここらを以て終るあたりが、所謂「分水嶺」のやうであります。

「ところで、寛政はこの年十二年を以て終り、翌年は享和と改元されたが、足かけ十二年にわたった寛政年間は、茶山にとって身邊多事の時期であり、多くの親族や知友たちがこの世を去っていったのであった。
 先ず寛政三年二月に茶山の父樗平が歿し、同八年二月には母半(はん)が死んだ。そして十二年八月には弟恥庵が京都で客死したのである。また、同僚や先輩のうちでは、二年十二月に中山子幹が、六年七月に佐々木良齋が死に、そして十年十一月には、茶山が最も畏敬し、親愛した西山拙齋が歿したのである。五十歳を過ぎた茶山の身邊は次第に寂寥の影を濃くしていたと言ってもよい[・・・]

 が、やがて享和を経て、文化年間に入ると、伊澤蘭軒や、頼山陽や、北條霞亭のような、年齢からいって親子ほども差のある、若い世代の人々が、次第に多く、茶山の身邊に現われるようになったのであった。」(76 章435p)

 静かに消えゆかうとする埋火を、掻き立て、引っ掻き回す役割を演ずる頼山陽をはじめ、「江戸後期の詩人たち」の主役級が次々に登場してくるわけですが、なんといっても山陽青年の、出奔、捕獲(笑)、謹慎、廃嫡となったその後の動静に沿って話は進みます。ここに至って『伊澤蘭軒』とも接続、何やらこの本も下巻が賑やかさうな気配。

332やす:2008/03/23(日) 09:28:03
『保田與重郎のくらし』
 風日社から歌誌「風日」(新春号、春季号52巻1,2号)二冊が到着。五十年記念誌購入の名目として会費を納めたので、一年間お送り下さることに決まったのである。私には歌の良し悪しはわからないから、保田與重郎(以下詩人と呼ばせて頂く)のひととなりを伝へる記事を紹介したい。

 椿原直子氏の報告「風日創刊五十年記念歌會及び祝賀會の記」(新春号52巻1号)より。
 祝賀会会場では谷崎昭男氏が「角川出版に勤務されてゐた頃の思ひ出」として、

「現代仮名遣ひには、人間が言葉を支配するやうな感費があるが、歴史的假名遣ひには、言葉に仕へるといふ謙虚さがある」

 と語った詩人の逸話を紹介されたらしい。かつて福田恆存氏が自著『私の國語教室』のなかで、私たちが古典の言語感覚と同じ世界に浸る大切さについて、歴史の連続性といふ観点から日本人として考へるべきである旨を力説されたが、それをさらに直截に表せば、詩人のこの一言に極まるやうに思はれる。
 それから詩人の邸宅「身余堂」を改修した際、入口の門を解体したときに中から棟札(むねふだ)が出てきたことを、小田玉瑛氏が報告されてゐた(同新春号「風日火記」)。門とは、保田邸の顔ともいふべき立派な瓦葺で有名な、移築された古刹の山門のことである。

「歌会の後で床脇に立てかけられてゐた棟札を見せて頂く。手に取ると、棟札は縦五十六糎横上方幅が十六糎下方幅は十二糎の撥形をしてゐる。保田先生の丁寧な筆書きは、たつた今書かれたかの如く墨痕彩やか。その墨の香さへ立ちのぼつてくる様だつた。身余堂建立して五十年といふ記念すべき札として大切に保存して欲しいと願ふ。貴重なる故に少し長いが全文を記す。
「この山門は元五條富小路本豊寺に建つ有栖川宮家所縁の名刹也老若善男女の寄心になりし冥加之門の數幾千萬人なるを知らずすべて清浄心ならざるなし今茲春事によりてとりこぼたれしを惜しみしがあたかも鳴瀧身余堂の建立に当りここに移し建つ
昭和三十三年師走廿七日移建上棟
                  願主保田典重郎
                  棟梁木曽久次郎
                  大工牧野金次」

 このたび郵便には、さうして歌誌と一緒に新刊本の案内も添へられてゐたのだが、この『保田與重郎のくらし』といふ一冊が、まさにその山門の佇ひから「終夜亭」と名付けられた書斎、広間の隅々まで、佐藤春夫が感歎して已まなかったといふ日本家屋の素晴らしい表情を記録した写真集であることを知って、早速注文することにした。全集刊行時に出た『保田與重郎アルバム』を見たときから、いつかお伺ひしてみたいと思ったものだが、邸宅の様子は詩人易簀の少し前、自ら紹介の労をとられた貴重なローカルテレビ番組が放送されたとも聞いてゐる。次は在りし日の謦咳にも接すべく、ぜひDVDによって映像として拝見できないものか、望蜀の念を深くしてゐる。

(写真は広告から)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000465.jpg

333やす:2008/03/23(日) 09:39:18
やすのくらし
 さて今月はわが茅屋にも、扁額、屏風と、掛け替へをあまりしない、室内を印象付けるやうな調度品がやって参りました。「いよいよガラクタ屋敷になってきたねー」とは口さがない先輩の言。分不相応な尤物ながら確かにさうかもしれません(笑)。こちら『やすのくらし』の方は、ホームページ上も、実生活も、ヤドカリの如く手当たり次第に「古人の糟粕」を身に纒ひつつ、未だ糟粕の味さへ理解ができてゐないといふ、情けない現状。『黄葉夕陽村舎詩』を傍らに披き、引き続き『菅茶山』と挌闘中。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000466.jpg

334やす:2008/03/29(土) 22:08:05
書懐
 日が明けると四十七歳になります。これまでは「四捨五入で五十だ」、などと笑ってゐましたが、なんだか切実の数字にみえてきました。

 私には組織人として軽く見られるところがあるやうです。それは、「ひとの上に立つべき人物」に注がれる目が、他者には容赦なく、自らには、未だしの思ひを諧謔を以て態度に表すからではないかと、自分では思ってゐます。僻みが昂じると、皆から煙たがれてゐるんぢゃないか、と邪推する向きもあるやうです。しかし敬遠されるほどに大きくみられてゐる訳でもない。
 伝統を重んじるところがある一方で、権力の粗が目に付いて仕方がないところがあり、かつて詩を書いてゐる時には、それが研ぎ澄まされてゆくばかりで困ったものでした。しかし年とともに漢詩文に泥むやうになり、ともすれば腐らうとする志が、励まされ、慰められ、救はれるやうになりました。暢ばし得ない鬱屈も、古人の風懐に託すれば、僅か二十八文字のなかで昇華することができます。さうして不透明な将来については、「日本古来の偏屈爺さん」になるといふ、笑ふべき目標を持つことが出来るやうになりました。拙サイト上の書きものも、それで随分初めの頃とは変ってきたのではないか、と思ってをります。心境の変化は、次第に人付き合ひにも顕れてくるかもしれませんが、「威厳」と「威張ること」は異なります。虚の肩書きも、私には縁がありません。

 拙サイトにおきましては、このさきも近世・近代の詩文資料の公開を進めてまいる所存です。ただ漢詩文については、いくら先賢、先哲、と力んでみたところで、経学と平仄を修めなければ、殆ど外人観光客が漢字プリントの土産物を弄ぶに等しいことは、重々承知のところ。 まづは画像、テキスト、書誌、訓読を中心に、ネット上で閲覧可能な資料を増やすことに愨しんで心掛けたく、学習の過程とともに皆様にはお見守りの程よろしくお願ひを申上げます。

335やす:2008/03/30(日) 00:33:42
佐谷恵甫
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)

 文化六年末から文化八年閏二月まで、一年余にわたった頼山陽の黄葉夕陽村舎在塾中、茶山先生が外出時にいつも山陽と一緒に引き連れてゐた、九州からやってきた佐谷恵甫といふ未成年の塾生のことが書いてある。「筑前秋月藩医、箕浦東伯の子」といふことしか分らないが、教員格の山陽と同時期に入塾し、そのまま「悪い先生」に薫陶を受けたこの生徒は、ともに上京を志すやうになった塾生のうちでも筆頭株の俊穎であったらしい。とりわけ目を掛けられてゐたらしい彼の名は、いつも茶山の日記の中で、山陽と並んで記されてゐて、象徴的なのが、故郷に帰るといふ恵甫を、山陽と、それから茶山の甥で、菅家の跡嗣ぎたる長作が見送る箇所である。

九月七日に佐谷恵甫が豊後に帰ったが、山陽と萬年とがこれを送って横尾に至った。

「士成(子成)と長作、恵甫を送つて、横尾に到る。士成、しばしば、長作に先きに還らんことを勧む。長作、なほ従って行く。既にして手を分つ。而れども士成復た送りて橋上に至り、留談してときを移す。長作、茶店に在りて、士成の還るを待ち、風寒の冒す所となるに至れりと云ふ」

富士川氏は、

茶山の日記にはこのように記されているが、この行文のうちになんとなく山陽を非難するような口吻が読みとれるのではなかろうか。

 と記されてゐるが、「非難」の内容は、病弱な甥子の健康を気遣ふとともに、彼を「のけもの」にして交はされた内緒話が、恐らくは秘密の上洛計画に関るものであったからに他ならないだらう。人心掌握の才に長けた頼山陽の人柄は、学芸抜群ながら、茶山からは
「年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、二十前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候。」と、また母梅颸からは、
「子供らしき事も御座候故、私共はたへず子供しかり候様にし加り申候。」とも窘められるやうな、まことに今日呼ぶところの無頼にして純真たる「詩人らしさ」に与るところがあったやうである。田舎暮らしを喞つ上昇志向の青少年たちを根刮ぎ薫染したらうことは想像に難くない。
 そして同時にこの一文からは、対照的に、山陽より七歳も年上だったといふ、長作こと菅萬年といふ男の、孤りぽつねんと取り残された疎外感もまた、ありありと察せられるのである。萬年は子のなかった茶山の養子となったものの、生来病弱で、天文や暦が好きな、地味な理系の人物だったらしい。さうしてこの翌年、山陽が塾を去った半年後の七月に夭折してしまふ。遺された未亡人敬は一人息子の菅三を菅家に残し、やがて山陽の代りにやってきた塾の都講、北條霞亭の妻になるのである。

 佐谷恵甫はその後ふたたび塾に戻ったものらしい。萬年の死後早々に、九州秋月に帰るとてあらためて、師茶山より特別長い送別の詞を贈られてゐるからである。彼は二年後の文化十一年、茶山江戸行きの際には、大阪在住者として移動中の茶山に謁見してゐるのであるから、この度の「再帰郷」の真意については、茶山も或ひは薄々感づいてゐたのかもしれない。富士川氏はこの詩について言及をされなかったが、一読、おのづから餞別の意に含むところあり、塾の後継者と家の跡取りを失った悔しさ、悲しみを踏まへて読んでみれば、今また手許から逃げてゆく才気一本槍の少年に対し、切に自重を願ふ老先生の心が惻惻と感じられてならない。

 「送佐谷恵甫歸秋月」(『黄葉夕陽村舎詩』後編、巻三13丁)

士愨而求能 馬服乃求良 今時俊髦士 轎誕事鴟張 其文非不美 其論非不詳 而察其所安 功過不相償 恵甫未弱冠 才氣耀峰鋩 況能履謙順 早已収令望 有素絢可施 有實名可揚 君若逐時調 正路或易方 願能守故歩 勿學狂童狂 平素誡輕佻 動致郷人誚 唯此一片心 有不顧我耄 秋柳挂斜日 蕭蕭倚祖筵 寒獸鳴空谷 旅雁翔遠天 雲海千餘里 對酌更何年 別後能思我 時亦誦斯篇

 「佐谷恵甫の秋月に帰るを送る」

 士は愨(つつし)み而して能(わざ)を求め、馬は服して(車に付してから)すなはち良きを求む※。今時の俊髦の士、轎を誕り(小車を偽り)、鴟張(フクロウが翼を広げた様にみせる)を事とす。その文、美ならざるに非ず、その論、詳ならざるには非ざる。而るに其の安んずる所を察すれば、功・過あひ償はず。
 恵甫、未だ弱冠ならざるも、才気峰鋩(きっさき)を耀かす。況や能く謙順を履(ふ)み、早や已に令望(立派な声望)を収むるをや。素(そ)有らば絢(あや)に施すべし※ (真白な素地だから絵が描ける)。実あらば名も揚がるべし。君もし時調を逐はば、正しき路も或ひは方(向)を易(か)へん。願くは、能く故歩(今までの堅実)を守り、狂童の狂を学ぶなかれ。平素、軽佻を誡(いまし)むるも、ややもすれば郷人の誚(そしり)を致す。唯だ此の一片の心、我が耄(この老いぼれ)を顧みざること有り。秋柳は斜日に挂(かか)り、蕭蕭として祖筵(送別の宴)に倚れり。寒獣(わたし)は空谷に鳴き、旅雁(そなた)は遠天に翔ける。雲海千余里、対酌さらに何れの年ぞ。別後よく我を思はば、時にまた斯の篇を誦せよ。

※弓調而後求勁焉、馬服而後求良焉、士信愨而後求知能焉。士不信愨而有多知能、譬之其犲狼也、不可以身爾也。(『荀子』哀公篇)
※子夏問曰、「巧笑倩兮、美目盻兮、素以爲絢兮、何謂也」(『論語』八佾)

「狂童の狂」が、家督を放擲して都で名を馳んとする山陽のことを暗に示してゐるのは、言ふを俟たない。すべての元凶は彼なのである。頭註で当の山陽が、
襄輩當各冩一通以貼座側。 (襄輩(わたくしめ)、まさに各一通を写し以て座側に貼るべし。)
と神妙に反省してゐるが、しかしそれ以上何も書かいで良いものを、
平素二句刪去亦似通。 (「平素…」二句は刪去、また通ずる似し。)と恵甫を庇った上、
而仍作乃似可。 (「而」なほ「乃」と作るも可の似(ごと)し。)と、ことさらに詩の上面をなぶったりしてゐる。さうして山陽の父である春水がまた、
有學有識有文采有雅趣。 (学あり識あり文采あり雅趣あり。)
などと恵甫を誉めちぎってゐるのも、穿って読めば、針の筵に座らされてゐる父子二人の様子がありあり目に見えるやうで、なんとも可笑しい。

 佐谷恵甫は生没年を詳らかにしない。或は夭折したのか、その後、大成したひとではないやうである。御教示を俟ちたい。

336やす:2008/03/31(月) 19:50:06
モダニズム詩人 荘原照子 聞書 (2)
 鳥取の手皮小四郎様より、「モダニズム詩人荘原照子聞書」の連載が始まった『菱』161号の御寄贈に与りました。
 二十歳にふるさとを後にしてから一度も足を踏み入れなかったといふ山口県周防の地に、痕迹すらなくなった生誕地を確定すべく自ら足を運び、遠い日の詩人の記憶を、聞書きや、当時の詩篇、写真帖から偲びます。ことにも宮参りの際にまとった、明治天皇皇女の遺品の産着にスポットが当てられ、由来が探られてゐますが、写真も貴重なら、『マルスの薔薇』刊行時、内容に激怒した兄が妹の廃嫡(勘当)をもとめて親族会議を開いたといふ条りなど、逸話も全て珍しく、初耳のものばかりでした。
 次号は「詩人が当時の詩壇や詩人以上に、熱っぽく時間をかけて語った」といふ、一族血族についてさらに深く語られる模様です。季刊誌なので、長い連載になりさうですが、他に類を見ない数奇な詩人の生涯を、ぜひ磐石の資料によって書き上げて頂きたいものと期待してゐます。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

「菱」161号(詩誌「菱」の会2008.4.1発行) 頒価\500
連絡先 〒680-0061 鳥取県鳥取市立川町4-207 小寺雄造様方

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000469.jpg

337ハトリ:2008/04/05(土) 10:24:22
杉山平一 「桜」
はじめまして、
読売の編集手帳で、杉山平一氏の「桜」を知りました。
検索してここにたどり着きました。
HPにも載せさていただきました。
格調高いページで、おそれおおいですが、またおじゃまさせていただき、滋養にしたいと思います。

http://atarasiihi.hp.infoseek.co.jp/

338やす:2008/04/06(日) 06:46:49
(無題)
 ハトリさま、はじめまして。
 同人誌時代の先輩、矢野敏行さんの文章が御縁で拙HPにまでお越し頂きました由。杉山平一先生の作品を始めとして、紹介させてもらってゐる詩文の格調を仰いで、精進の毎日です。今後ともよろしく御贔屓願ひます。ありがたうございました。

 「あ・ほうかい」第9号の寄贈に与りました。ありがたうございました。
 団塊世代のバイタリティーは、老境・宗教・伝統をあくまで拒絶して、実存の深みでもがき苦しむのを潔しとしてゐるやうにみえます。しかし中原中也を評して「詩として文芸評論的な解釈を行う余地がない」と批判した黒田三郎が云ふところの、「詩における生産性」を云々しないと気が済まないやうな「文芸評論的」性分は、わが愛する詩人たちや詩人を語る友達には要らないですね。

 昭和初期に活躍したモダニズム詩人、草飼稔の処女歌集『喪しみの詩片』がweb版で復刻、閲覧が出来るやうになった由、ご遺族の薫様より御連絡を頂きました。御礼を申し上げます。
 ありがたうございました。
 内容ともにPDFによる縦書きの視認性の優れたものが公開されてゐます。ぜひ御覧下さい。

 富士川氏の『菅茶山』は、下巻の四分の一強を占める文化11年(茶山67歳)から、一年余を送った江戸詰め生活を討尋中。前回の上京時に交誼を結んだ伊沢蘭軒(38)、狩谷齋(40)はもとより、立原翠軒(71)、塙保己一(69)、太田南畝(66)、市川寛齋(66)、古賀精里(65)、亀田鵬齋 (63)、大槻玄沢(58)、楽翁(57)、屋代弘賢(57)、柏木如亭(52)、葛西因是(51)、大窪詩佛(48)、菊池五山(46)、佐藤一斎(43)といった、著名の人々の名が出るたび、そして日記に細々と記された、方々からのいろんな「貰ひもの」に赤鉛筆を引いて喜んでをります。美濃人である川合春川(64)が足繁く訪問を重ねてゐるのにも注目。まもなく帰途、川崎敬軒 (45)『驥[虻]日記』の出番です。

 先月晦に到着した「新村堂古書店目録」ですが、破格割引きの和本をみつけ、長らく探索中の人まですぐに御連絡したのですが、メール不達が今頃になって返ってきて、面目ないこと限りなしです。<(_ _;)>

339やす:2008/04/11(金) 07:26:34
中島棕隠の「穢名」
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)

特にコメントも必要ないやうな頼山陽お得意の悪口雑言。( [??]やす補注)

「京儒、名を挙げ候様、仰せられ下さり候へども、所謂「中風暇乞ひ嫁女」の外は、させる大将もこれ無きと見へ候。近来、梅辻春樵(中風先生の門人)と云ふ詩家、流行り申し候。その友に、かの中島文吉(同門)と申す、是は御存じの先年、穢名あり候者、近来、江戸より帰り、『鴨東四時詞』と申す小冊を出し、竹枝六十五首、猥褻瑣細を極め申し候。元来、竹枝と云ふもの、如何の物と云ふ事を知らぬ様に相ひ見へ候。それはともあれ、あの通の名を被りて、また帰郷、誰も取り合はぬ筈のところ、ヤハリ用ゐ申し候者もこれ有り候、世は広きものに候。その内、京人はただその才か否かを論じ、賢、不肖を論ぜず、その貧富を問ひて、その貧廉を問はず、廉恥と云二字などは夢にも知らぬばかりり多く御座候。春樵は、妻を娶り、その帯び来たる所の金を収め、而して後これを出し候人に候。海保儀兵衛(旧名彦六)[海保青陵 1755-1817]は、江戸吉原にて、儒者彦と云ひし太鼓持なりし。彼の「嫁女先生」に続き候位に御座候ところ、これまた中風仕り候。その外、医者より素読師匠に変じ、只今だいぶん大医などの息子を弟子に致し居り候は、朝倉玄蕃と申すものこれ有り、号は荊山に候[1755-1818]。故岩垣[龍谿 1841-1808]の門人に、遵古堂[塾名]と云ふもの御座候。同門に猪飼敬所と申すもの御座候。これは自身腕は立ち申さず候へども、人の文などを指摘させ候へば、尤もなる事を申し候者に候。皆川[淇園1735-1807]門の小儒、大分これ有り、その巨擘は北小路大和之介[梅荘1765-1844]と申すものに候。先づこれらにてこれ有るべく候。外は斗量帚掃[升で量り、箒で掃き捨てるほど多い]、相応に茶粥は啜り居り申し候と見へ候。襄[のぼる:山陽の名]のごとき新来、控磬其間、御存じの京人之気にて、一年にても古きものを用ゐ申し候ゆゑ、孤立無援に候。登々[庵]などは、親祖父を信服させ候に妙を得申し候ゆゑ、大分よろしきと見へ候。そしてその渡世の致し方は、襄に比して更に倹薄、筆硯書画などの好事は、毛頭これ無く候。楽なる人に候。」
 「中風暇乞[致仕]嫁女」というのは村瀬拷亭である。梅辻春樵、中島棕隠とは、茶山もやがて數年後に相い識ることになるのである。武元登登庵が親祖父を信服させる腕前を持っている一方、生活ぶりが簡素で、書畫骨董の癖もなく“氣樂に暮しているというのは、彼の案外な一面を語っているものと言えよう。(下巻309-310p)

「いつぞや京儒列挙、尊問に応じ候。此節、一珍儒これ有り候。西依(成齋[1702-1797]の子墨山[1739-1798])社中に、井川何某と申もの、同社の衣什を盗窃、講席にて見台に向ひ居り候ところを、快手[捕手役人]踏み込み、高手小手に戒め、座に有り合はせた諸生両輩も再び捕へ、罪に極め候。おのれ等は盗[人]の講釈を何の為に聞きに行くぞ、べらぼうめ、と叱られ候のみにて、諸生は逐ひ返へされ候。去々年は、合田何某(栄藏)と申す儒者の心中を致し、死に候者これ有り(北野の妓と相対死す)。今年は、此の盗儒これ有り、人間[ジンカン]には好對これ有るものに候。文吉の盗は大賊ゆゑ、今におけるも縄を漏れ居り申し候。□□□□名教を汚[血+蔑][おべつ:血を流して汚す]候はなし、先生長老の耳に入れるべくもあらぬ事に候へども、あまり珍事ゆゑ申し上げ候。」
 山陽はこの書簡においても、「文吉の盗は大賊故、於今漏縄居申候」と中島棕隠の悪口を言っているが、その棕隠の非行とは、どんなことだったのだろうか。(下巻313-314p)

 「棕隠の非行」については、大賊すぎて捕まらぬ盗みといふのですが、盗作疑惑なら、いづれ冗談に類した山陽の穿った臆測でせうし、前者の穢名と同じことを指すなら、或は巷間「粋は文吉」とサゲの部分で歌はれる元となった逸事、例へば梁川星巌同様、若き日の風聞があったのかもしれません。彼の詩を江戸贔屓の中村真一郎が買はなかったことからも分るやうに、「粋」が文事の艶に関るものでなかったことは明白だからであります。「先年、穢名」とあるやうに、本人の思惑を超えた儒者にあるまじき事件、しかし側から見れば江戸っ子が囃したてたくなるやうな逸事、つまり誰かお偉い様の鼻を明かすやうな「荒事」を起こして、故郷の京都へ逃げ帰って来たのでせうか。

 それにしても「いつぞや京儒列挙、尊問に応じ候。」なんて、報告の内容まで茶山翁に責の一端があるかのごとく最初に断るところ、強の者です。菅茶翁も、言葉には残らなかっただけで若い頃は毒舌家だったといふから、火にくべるべき往復書翰の山陽の分だけが残ったのかもしれません。それなら律義なのはむしろ山陽の方なのですが(笑)。

340やす:2008/04/12(土) 23:34:57
『昧爽』17号
 『昧爽』17号を御寄贈いただきました。ありがたうございました。20号で終刊が予告されてゐる同人誌ですが、ここにきて表紙のロゴが一新され、中身に相応しい立派な表札が掲げられました。今回中村一仁さまの浅野晃論は休載ですが、詩人の「回顧記念誌」が刊行される計画が持ち上がったのは朗報です。関係諸氏の文章とともに、そこには北海道の旧穂別町資料室に眠ってゐる貴重な写真もたくさん掲載される由、折角の御尽力をお祈りします次第です。
 さて今号、俳優渥美國泰氏の御文章を読みながら思ったのは、氏がこのたび出演された映画『七人の死刑囚』と、それから、現在騒がれてゐる映画『靖国 YASUKUNI』のことでした。つまりこれらの映画を、両つながら観られる今の日本といふのが、チベット問題を握りつぶさうとする中国や親日家子孫の財産を没収する韓国より余程まともな国なんだといふ、当たり前の一事なのですが、かたや上映館の自己規制、かたやジャーナリズムからの意図的黙殺といった状況にあることが残念でなりません。いっそ二本抱合せで上映したらどう(なるん)でせうね。自分で書いてて自己嫌悪。この話題はこれきりにします。

同人誌「昧爽」17号 (特集「古典再読」) 平成20年4月1日 中村一仁・山本直人共同編集 72p \700
問合せ先 〒340-0011 埼玉県草加市栄町3-1-31-406(中村一仁氏)
     〒173-0015 東京都板橋区栄町5-17-201(山本直人氏)

特集「古典再読」巻頭言
「又いづれの書をよむとても、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、…幾遍もよむうちには、始に聞えざりし事も、そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也  本居宣長」

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341やす:2008/04/17(木) 08:30:31
後藤松陰、黄葉夕陽村舎滞在の事
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)

 下巻はさきにも申しました通り、ほぼ半分の分量が文化十一年(67才)の江戸于役と、文政元年(71才)の大和遊山の記述に費やされてゐます。旅日記など考証材料が豊富の故ですが、もとより道中のお話には「華」があり、その間出会った人々を列挙して、(茶山は、もはや知らぬ者のない著名人でしたから、)当時在世の、名のある詩人たちとは総て相見えたといふ感じに、たいへん豪華な様子に描かれてをります。中村真一郎氏の『頼山陽とその時代』が、詩人達を、主人公山陽との関係によって類別し、名鑑のごとき紹介方法で楽しませてくれたのに対し、この本では富士川氏は、茶山が生涯出会った順番に、人物を列挙して紹介の労をとってゐます。『江戸後期の詩人たち』といふ本で、江戸漢詩に対する最初の火付け役を果した富士川氏ですが、その後、中村氏の大冊『頼山陽とその時代』が読書会に与へた衝撃に、自信と使命感は強められたことでせう。この本を書き進むにあたっては、私淑する鴎外史伝の形式とともに、中村氏の本に対しても、後日比較されることを念頭に置いて、予め結構には意が払はれたことと思ひます。私も人物名が(生年―没年)と共に紹介されるたび、赤鉛筆を引いて喜んでゐました。この度の旅行中でも、江戸にあった川合春川、京都まで旧師を追ってきた山伏の體圓など、美濃人のことが記されてゐます。しかしながら一番嬉しかったのは、これは茶山在郷中のことですが、広島に里帰りする頼山陽に伴はれてやってきた門下の一番弟子、後藤松陰の名を見たときでした。茲に至ってやうやく「山陽軍団」の先鋒が登場といったところです。彼は菅茶山の『筆のすさび』序文のなかで、その滞塾中の様子を茶目ッ気たっぷりに披露してゐますが、けだし茶山の京都滞在中、「羅井の門人美濃大垣の人、菓子を恵む」と記されてゐるのも、当時弱冠の、無名の青年だった松陰であったと思しく、今回もそのまま山陽に随いて春水の三回忌に列しなかったのは、山陽の教育的配慮もあったかしれませんが、春風、春風の二大詩人と面晤するより、廿日余の間、黄葉夕陽村舎で翁の謦咳に接する方を優先したからだったやうであります。

 さて茶山は「この後、もはや長途の旅に出かけたことはなかった」訳ですが、寄る年波に加へ、今回帰宅した途端に、姪の娘である梅が疫痢にて病死、続いてその父親で、塾の跡継たる北條霞亭も、厠に「昼夜大凡百行余に及」ぶ状況に陥り、さすがに物見遊山に出かけたバチが当ったと感じたのではないでせうか。翁の子供たちへの眼差しは、江戸で夢みたといふ次の詩篇に見られるやうに、限りなく温かいものだったやうです。菅家を襲った度重なる子供たちの夭札には、詩になることはなかった生々しい慟哭が繰り返された事でありませう。

穉姪能來入夢魂    稚姪 よく来って夢魂に入る
分明見汝徑間奔    分明に汝が径間に走るを見る
汗珠滿面關何事    汗珠 満面 何事に関はる
應覓秋蛩藏草根    まさに秋蛩(コオロギ)の 草根に隠れしを求むるなるべし

 今回の読書ノートも最終コーナーに入りました。

342やす:2008/04/20(日) 17:36:57
読書の法
 さきに「昧爽」の巻頭言として「うひ山ふみ」の一節を挙げましたが、「日本古書通信」今号(945号)の連載「随讀随記(小出昌洋氏)」には、読書の悪癖に「鼠読」といふものが紹介されてゐました。並ぶ「ダニ読」といふについては、それを説いた露伴「その人の文によられたい」とあり、だれもテキストに起こしてゐないエッセイなので、一寸紹介してみます。


読書の法
                                     幸田露伴

 書を読むは極めて好きことなり。されど書を読むの法をゆるがせにして書を読むは極めて危きことなり。
 書巻を手にして[イ占]畢(てんひつ:字面のみ解すること)を事とすれぼ、読書の能事了れりと考ふる如きは、最も無意義の読書法なり。
 如何なる種顆の書たるか、如何なる人の著述せる書なるか、如何たる人の編纂せる書なるか、これらの点を都て顧みること無くして妄りに読むが如きは、必ずしも好き結果をのみ呈すべきならず。世には悪を勧むるといふ書も無けれど、たまたま矯激の説を載せたる書の其の弊害甚だ多きものもあるなり。また固陋謬迷の識見を抱ける人の著述にして、其の偏頗の後進を過誤に陥らしむべきものもあるなり。また粗雑孟浪の編纂にかかる書の空しく人を弊せしむるのみなるものもあるなり。以上の如き良からぬ書を読むは、読まざるにだに若かざる場合多し。
 偏僻の嗜好を有せざる老成の人の教へによりて我が読むべき書を知る事は、最も大切なる事なり。縦ひ学深しと云はるる人なりとも其の人偏僻の嗜好を有せる人ならば、其の人の言にのみ憑るべからず。須らく他の中正の趣味を有せる人の言をききて考ふべきなり。
 問ひ尋ぬべき先輩無き時は、書籍解題の類を購ひ得て、凡そ先づ我が読まんと欲する類の書に、如何なる名の書の有するか、如何なる体裁性質の書のあるかを知りて、さて其の後に審かなる判断により、読むべき書を撰び定むべし。解題を得ずんば目録をなりとも得て覧るべし。
 書を読むは猶ほ文を作るが如し。速なる人あり、遅き人あり。各々其の性の然らしむるといふべし。速きが必ずしも勝れたるにあらず、また遅きが必ずしも勝れたるにあらず。人或ひは、書を読むは叮嚀に、いと遅くすべしなどと説くものあれど、遅速は人々の習ひにある事なれば、強ひたりとも益あらんや否や覚束なし。また或ひは、書を読むは幾度も繰返し繰返し読むべし、と説くものあり。これも一概には定めて云ひがたし。速きもよし遅きもよし、要はただ散乱心をもつて書を読まず、熱心をもつて読むべきのみ。
 書を読むに二つの悪癖あり。一は多きを貪るの癖なり。此癖ある人は、鼠の物を噛むが如く、甲の書をも二三読み乙の書をも四五枚閲し丙の書をも一二枚窺ひ、畢竟書目をのみ知るに止まりて何等の要領をも得ること無く終るものなり。
 他の一の癖は、[虫滿]ダニといふ虫の一処に咬みつけるが如く、書中の一部に拘泥して空しく字句の詮義に過分の心を労し、句読訓詁を読書の目的の如くに考へ誤り、一日二日三日と月日を経て猶ほ一葉二葉を読み得ず、一処に滞りて終に一部の書の意は知る無くして止むの類なり。
 蚕の桑の葉を食ふが如く順序だてて漸々精密に咀嚼し行くを読書の一良法とす。
 また書を読むに当つて、多少解し難きところあるに関らず、先づ読過し、次でまた読過し、次でまたまた読過し、また次でまたまた読過し、是の如く数十回読過して、其の間おのづから円悟融解して後已む。これもまた読書の一良法なり。但し此の法は才高からざるものの為し難きところとす。
 書を読むものは、くれぐれも読書の法に就て熟慮せざるべからず。今ただ其の大概を挙説するのみ。猶ほ各人が自得の工夫に待つあるや論無きなり。

                            『露伴全集』第24巻418-420p


 さて老鋪の書誌雑誌「日本古書通信」、このごろ巻末の目録ページがさびしくなったのぢゃないか、と思ってゐたところ、突如(満を持して?)かの田村書店が参加。全集などでお茶を濁すことなく、超一級の稀覯モダニズム文献を惜しげもなく並べ、しかも店売りでのやうな「お買ひ読」価格が付せられてゐました。早速田中先生のマダムブランシュ時代の盟友だった西崎晋の遺稿詩集を注文のところ、このたび感激の到着。高額ゆゑ久しく見送り続けてゐた稀覯詩集でしたが、早速サーバーのなかへ関連文献とともに画像を「入れ込ん読」。流涎の思ひを同じうされてきた「気の読」の皆様には是非御覧頂けたらと思ひます。
 扶桑書房の古書目録とともに近代文学分野で一番頼りになる田村書店の書棚ですが、度々覗きにゆくことのできない遠方の愛書家に、これはうれしいハプニングでした。株式会社化した日本古書通信社への御祝儀でせうか、来月以降も目が離せません。

343やす:2008/05/06(火) 22:40:01
「郷土史家 伊藤信展」
 大垣市立図書館の三階でひっそり行はれてゐた「郷土史家 伊藤信展」を見に行きました。といふか、このたび読了した『菅茶山』のあと次に何を読まうか思案してゐた矢先にこの展示を知ったので、これはもはや『梁川星巖翁 : 附紅蘭女史』(大正14年 梁川星巌翁遺徳顯彰會)に挑戦すべき啓示と判断、願掛けではないですが、心のなかで報告かたがた遺墨遺品を拝して参りました。星巌の難解な詩も、同じく伊藤先生が解釈を施された全集に拠れば解決されるので、今回も『菅茶山』『伊澤蘭軒』同様の「閑人読書ノート」を作ることになるかどうかは未定です。
 館員の方には年譜のコピーなど便宜を図って頂きました(写真撮影等要許可)。ありがたうございました。

【伊藤信氏 略歴】 (年譜より抄)
明治20年(1887)4月、海津郡西江村稲山(現在の海津市海津町)に誕生。幼少時より祖母から素読を授かり、旧高須藩士の山内虎二、高須町の市川薫精に学んだ。濃尾震災により父死去。
明治35年(1902)高須高等小学校卒業。西江尋常小学校の准教員として子どもたちを教へる。
明治37年(1904)漢詩人高木竹軒に師事。一字を受け竹東と号す。
明治38年(1905)岐阜県師範学校入学。漢詩結社岐阜藍水(らんすい)同声吟社に入る。
明治42年(1909)師範学校卒業、今尾尋常高等小学校教諭となる。のち岐阜県女子師範学校、大垣中学校、海津中学校、大垣市立高等女学校を転勤。
大正14年(1925)『梁川星巖翁附紅蘭女史』刊行。引き続きライフワークとなる。
昭和 5年(1930)『大垣市史』全3巻を編纂。最後の大垣藩主だった戸田氏共(うじたか)より、書斎に「景星閣」の名を扁額ともに贈られた。
昭和 6年(1931)「美濃郷土研究会」創立。翌年、岐阜藍水同声吟社の盟主となる。
昭和 8年(1933)『濃飛偉人傳』刊行。
昭和10年(1935)大垣市立図書館館長に就任。
昭和12年(1937)『濃飛百家絶句』『濃飛文教史』刊行。
昭和18年(1943)『宝暦治水と薩摩藩士』刊行。
昭和20年(1945) 敗戦。図書館貴重資料の避難に尽カした。
昭和24年(1949)大垣市立図書館館長を退職。
昭和28年(1953)   『梁川星巖全集』編纂はじまる。『岐阜県治水史』『赤坂町史』編纂。
昭和31年(1956)『梁川星巖全集』1〜3巻(星巌詩集の部)を著す。
昭和32年(1957)12月19日、死去。70歳。
昭和33年(1958)   冨長蝶如らにより『梁川星巖全集』の残り2巻(紅蘭の部および雑纂)が刊行され、全5巻成る。
昭和44年(1969)遺稿『細香と紅蘭』刊行。

 清痩の姿にどことなく田中冬二を重ねて憬仰してゐます。

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344やす:2008/05/08(木) 12:16:30
顔すでガンス。
 先日「黄巒書屋」と書かれた破損寸前のマクリを文字通りの破格で入手、これを表具屋さんに持ち込み、裏打ちをしてもらひ、新しい扁額に貼り付けていただきました。謂はば簡易の表装なんですが、ボロボロとは云へ、篠崎小竹最晩年(亡くなる半年前)の手蹟で、見応へがあります。為書きの主は、福島県岩代町の中島黄山といふ儒者。苗字も自分と同じなら、ここは「黄巒」=地元の金華山となぞらへて、後藤松陰の岳父でもある小竹翁よりこれを授かり、時と場所を隔てた二代目庵主となった気分を喜んでゐる始末。
 先主の中島黄山(文化12年〜明治3年)については『漢文学者総覧』に載せる情報のほか知るところが尠いです。名は淳、字は大初・君敬、通称を長蔵と称した二本松藩儒、師は天保9年に讒に遭ひ獄死した鈴木堯民といふひとの由(森銑三著作集8 475p)。ネット上では著作もヒットしない人ですが、幕末ケータイ小説の登場人物にはなってゐるらしい(笑)。なんでもいいや。吾が書斎にはじめて表札が掲げられました。感無量です。(拡大はLink集の写真をクリックして見て下さい。)

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345やす:2008/05/10(土) 22:29:39
『知道詩篇 初編』
 川崎の一儒者父子が企画したアンソロジー漢詩集を入手、小出公純ほか郡上藩の好学家老たちの作品が載せられてゐたので一寸紹介します。序の記された文政三年は公純らが藩の文学に杉岡暾桑を招聘した年。さかのぼって江村北海の序文を戴き『濃北風雅』を編輯した公純27歳の春、天明三年からは実に37年が経過してゐる計算です。翌くる文政四年、公純は『三野風雅』の刊行と時を同じくして亡くなるのですが、何か伝手でもあってこの私家版アンソロジーに参加することになったのでせうか。採録詩人の出身地をみると特定の地域に偏ってゐて、これが全国津々浦々に募集したものでないことが分かります。そして序文には

「唐宋の格調を擇ばず、章句の工拙を議せず、貴介公子より以て黎庶に[およ]ぶまで、いやしくも詩あるものは、取って以てその志思若何を観る」

 などと刊行趣旨がもっともらしく述べてあり、たしかに「聖霊派」の全盛時代、「工拙を議せず」は納得するにせよ、結城藩の藩主に至るまでの要路の人々が、掲載順序にさへ異を差し挟むことがなかったのかは気になるところです。奥付の無い私家版ですから採算は各詩人からの掲載料に頼ってゐた筈です。もちろん『濃北風雅』では小出公純が第一巻の巻頭に置かれてゐます。
 しかしアンデパンダンを標榜するところ、なんだか同じく川崎にあった「詩の家」みたいですね(笑)。自ら詩の第一人者を自称して地方の初学者をあつめ宗匠を気取るところも大正時代にデビューした口語詩人たちみたいです。著名詩人を収めた『文政〜慶応○○家絶句』のアンソロジーより却って面白さうなのも、昭和初期の無名詩人たちを集めたアンソロジーと同様、時を経てひとつの時代を映す資料として、裾野に位置する稀覯書となったからに他なりません。


『知道詩篇 初編』井田経綸編、井田赤城閲 文政三年序 建標楼発行 2,2,1,16,2丁 23.3×16.1cm

知道詩篇序 井田赤城  (略)

知道詩篇序
 老子曰く、大国を治めるは小鮮を烹るがごとし。詩道また然り、杓柄を言志永声の間に揚げ、塩梅を孝弟忠信の中に調へ、火度を興観群怨の域に徴し、和羹を烹[食壬]醇沢の滋きに存して、人日に三嚼、もって鹹酸を味ひ、庸言これ信じ、庸行これ謹み、事物の感じる所に因みてもって性情の発する所に賦せば、則ちその温厚和平にして思ひ邪ま無くもまた得べし。若し然らば則ち、士農工商その分を僭せずして身として脩まらざるはなく、家として斉(ととの)はざるはなく、所謂風雲を巻舒し、珠玉を呑吐するも是においてか存す。然らざれば詩三百を誦し、日に日に数千万章を賦するも疾妬誹毀、牆面失愚、それ之を何をか謂はん。吾が師、赤城先生、男経綸の撰ぶ所の知道詩篇を閲して乃ち弟子良[王民]に序を作らしむ。葢し先生の詩を論ずるや、唐宋の格調を擇ばず、章句の工拙を議せず、貴介公子より以て黎庶に[およ]ぶまで、いやしくも詩あるものは、取って以てその志思若何を観るのみ。友人、余を詰って曰く、格調工拙を議せずんば、則ち詩道なんぞ得ん。余、答へて曰く、道外に詩なく、詩外に道なし、若し夫れ夏宵に蓮を嗅ぎ、雪朝に爐を擁して、苟も道に由って以て其の感ずる所を賦すれば、譬ふれば牡丹薔薇の各自その以て芬芳する所を呈するがごとし。友人曰く、妙なるかな詩論、吾が儕の小人をして君子の林に入らしむ、幸ひ焉より大なるは莫し。先生の斯の篇を閲する杓柄、火度、塩梅、和羹、誰か玄味に飽かざる者あらんや。鶴の長脛、鳬の短足、亦ただ先生の詩鼎に投ぜよと云ふ。庚辰秋七月巧夕
       長総 秋葉愿良[王民](びん)拝撰

附言 従吾道人山如山  (略)

(参考)『知道詩篇 初編』掲載詩人一覧

赤城長雲卿 「家君。名某、姓井田氏、武州稲毛長尾邑の人。因って長尾某と自称す。」
有斐公子 「名乗顕、字微卿、姓源氏。」
貞[豕生]君 「名乗豪、字傑甫、姓源氏、号雪幹。」
拙齋  「名安親、字子孝、姓藤田氏、通称通栄、上毛矢田藩。」
関思問  「名思敬、号恭齋、俗称関口留五郎、東都の人。」
泰常  「字子久、号象洲、羽州本庄の人。」
子問  「羽州本庄の人、商家、俗称須藤善太郎。」
浅香元敬  「羽州本庄の人。」
今道召  「通称楽之進、羽州象潟大竹邑の人、業は医、八十六翁。」
今道也  「羽州象潟大竹邑の人、道召の孫、通称全常、業は医。」
藤淇水  「名信行、号翠陰、象潟大竹邑の人、通称佐藤春随、業は医。」
綱経  「字淑挙、羽州象潟大竹邑の人、通称佐々木宗琳、業は医。」
藤秀経  「号成蹊堂主人、字子恭、羽州由利畠邑の人。」
南木  「姓齋藤氏、名延秋、通称茂右衛門、羽州仁賀保の人。」
嶋鴻峯  「名公、字十八、号曰く影蘭、祖貫は東都の人、上総福俵に住す。通称嶋公齋、業は医。」
恊卿  「名克、号善庵、上総州青野の人。俗称秋葉恊二。」
木幾道  「名若水、号[扁]衆、上総州山口の人。俗称木村千代太郎。」
陸子孝  「名惟忠、号衡山、上総州清水の人。俗称陸平左衛門。」
宮恭篤  「名惟政、号孝陵、上総州清水の人。通称清宮伊左衛門。」
石保明  「名載止、上総大網の人。俗称石野六右衛門。」
深子直  「名惟康、号民陵、上総御蔵柴の人。通称深山勇右衛門。」
部子山  「名徂東、号雪顧、上総帆丘の人。俗称矢部五郎左衛門。」
秋愿  「字不、号知之、また蒼原と号す、上総青野の人。業は医、通称秋葉良[王民]。」
成象童  「姓小佐野氏、俗称豊吉、甲州芙蓉山下、吉田の人。」
源[山解]谷  「名光、号子龍、俗称竹屋靱負、甲州芙蓉山下、吉田の人。」
源橘園  「姓羽田氏、名知則、字恕安、また菱花亭と号す。俗称主殿、甲州芙蓉山下、吉田の人。」
山桃溪  「名詮、字文言、一号逍遥亭主人、通称山崎宗倫、宇土侯侍医。」
山[山居][山來]  「名如山、字苞卿、一号従吾道人、山桃溪嫡男、江戸の人。」
東道策  「名徳義、号平原、美濃の人、京師錦街に住す。」
頌齋  「名静、字子正、姓伊庭氏、郡上藩亜大夫、俗称又五郎。」
西嶺  「名栄章、字伯煥、武州比企小川の人、俗称磯田長左衛門。書を善くす。」
村子顕  「名惟良、淡[齋」と号す、上総萱場の人。号をもって通称となす。」
釈玄英  「綽号俊山、駿州富士郡巌平の人。曹洞宗。」
石徳齋  「名篤敬、字子行、因州藩、業は医、通称石上周禎。」
新建城  「名峻、字廬卿、俗称新名表助、丸亀藩。」
芸卿  「名芸、号醒顛、上総堀上の人。通称中村養芸、業は医。」
帝出  「名震、姓伊庭氏、号柳湾、一号相牡丹、通称周齋、業は儒医、尤も周易に精し。柳橋の人。」
栄齋  「上総大網の人、業は医、通称齋藤又玄。」
田皎雪  「上総福俵の人、俗称北田栄佐。」
木静立  「名明之、号忘我、上総姫島の人、通称鈴木道安、業は医。」
富主一  「号惺齋、上総南飯塚の人、俗称冨塚戍松。」
飯子徳  「名驥、号後凋園、上総山口の人、俗称飯塚喜十郎。」
荻子徳  「名順祥、号荻城、上総本納の人、通称荻生順祥、業は医。」
根尾翼  「字垂天、号天梯、通称根尾平八郎、東都の人。」
釈柳芳  「長陽の人、東都青松寺寮頭。」
釈摂晃  「名泰忍、相州三浦横須賀邑波嶋山主、浄土真宗。」
雉玉鉉  「名鼎、上総の人、通称雉間玄雄、業は医。」
釈日冠  「名白円、江戸の人、上総州宮谷檀林僧侶。」
倉宗郁  「守静庵と号す。業は医、上総南横河の人、通称倉持宗郁。」
三上君  「名李富、字礼卿、自ら知来館主人と号す。」
新見君  「名正路、字義卿。」
松子方  「名廉、号崛奇、通称松浦凌、業は医、上総牛込の人。」
土無逸  「名惟馨、号孜堂、また牡丹培者と号す。業は医、通称土屋良順、上総富田の人。」
中務敏  「名遜、允懐と号す、上総青田の人、俗称中邑豊造。」
小謝海  「名公純、字君[か]、俗称小出弥左衛門、郡上侯大夫。」
[てき]川  「名潜、字孔昭、郡上侯大夫、俗称鈴木典礼。」
不換  「名恊、字至善、作州九湍邑の人、東都に住す。」
滄海  「名重僖、字孔和、郡上侯大夫、通称鈴木兵左衛門。」
西崕  「名宗定、字孔固、郡上侯侍医、通称中泉甫庵。」
順齋  「名正名、字子苟、濃州郡上藩士、俗称古沢太介。」
文齋  「名昭、明卿と号す、結城藩、俗称茂野喜内。」
韓城  「名包教、字子文、宇土藩、俗称小林貫之助。」
蘭秀  「名惟徳、字君輔、宇土藩、俗称原伝八郎、東都の人。」
平水  「名惟義、字彰伯、濃州郡上藩侍医、通称多和田自快。」
結城老侯  「名勝剛、字子柔、姓水野氏、菎嶽と号す、また淇園と号す。有斐園に住す。」
琅[王干]君  「名勝久、字子敬、仙籟齋と号す、俗称水野道之助。」
華陽君  「名勝安、字子遷、姓源氏、逸齋と号す、俗称水野三男之丞。」
酔月山人  「名勝敬、字子凰、通称大刀彦居閑谷齋。」
絹江  「名昌全、字子徳、結城藩、俗称松井柳吉。」
錦城  「通称赤堀春楼、江都の人、上総一宮に住す。」
明空上人  「名徳現、三州額田郡法蔵寺主、同州幡頭郡徳永邑の人。」
葦齋  「名元敦、字子叙、姓中岡氏、俗称弾之丞、郡上藩。」
弘齋  「名将房、字楽卿、姓直江氏、通称半平、郡上藩。」
文庵  「名忠義、字路卿、郡上藩、俗称氏井多四郎。」
寛齋  「名忠宗、字思孝、棚倉藩、俗称前川恕助。」
[王民]山  「名敬行、字子信、郡上藩、通称速水佐吉。」

跋 井田経綸  (略)

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346やす:2008/05/12(月) 11:58:56
『鴻雪爪翁山雨樓詩文鈔』
『鴻雪爪翁山雨樓詩文鈔』小林正盛編 昭和11年 信之日本社発行 非売品

これまた、岐阜の漢詩人ゆかりの詩集を手に入れました。今回は昭和の刊行で、しかも表題に「鴻雪爪」とあるのに、大垣の図書館にも岐阜や福井の県立図書館にも所蔵が一冊もみあたらないのは不思議です。稀覯本かとも思ひ早速アーカイヴをupしましたので興味のある方はご覧ください。

347やす:2008/05/17(土) 23:24:36
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート (閑人専用)

 こんばんは、黄巒書屋の稲津康之介です(笑)。
 予告の通り、伊藤信先生の名著『梁川星巖翁 附紅蘭女史』(大正14年, [西濃印刷株式会社内]梁川星巖翁遺徳顕彰会刊行)の読耕を開始しようと思ひます。

 今日までに梁川星巌とその妻紅蘭を扱った伝記といふのは、これを嚆矢として何冊か存在してゐるやうです。郷土の口語詩人武藤和夫による『勤王詩人梁川星巌』(昭和17年)、青年期の星巌を扱った中谷孝雄の小説『梁川星巖』(昭和18年)、東京に移転した子孫の稲津家、孫曽氏による『先覚詩人梁川星巖』(昭和33年)は、資料の引用に誤謬が散見されるのが残念、大原富枝氏の『梁川星巌・紅蘭 : 放浪の鴛鴦』は星巌夫妻の旅程に沿った西日本紀行が描かれ、なかで伊藤信について「この種の研究家にありがちな惚れ込みよう…空疎な讃辞があまりにも多く」(84p)と苦言を呈してゐます。その他専門書に載せる解説をはじめ、最近はまた『梁川星巌・紅蘭「京への道」桑名・ひとときの休息』(伊藤宗隆氏)なる地方出版書もあらはれました。しかし要するに、詩人の事跡はもらさず伊藤氏の「フィールドワーク」によって集められ、最初にして最大であるこの伝記本の中に収められてゐるのであって、けだし『梁川星巌全集』の全詩篇解釈の偉業とともに、すべての後続書が、唯一最善の参考書の著者として伊藤氏を仰いだことは、氏自らの例言を一読すれば納得ゆくところでありませう。このホームページ風に謂ふならば、伊東静雄や蓮田善明の伝記を書いた小高根二郎さんのやうな方、まづはそんな感じであります。もとより大正年間に成った著作ですから、巻頭の賛序はじめ、古色蒼然たる建前を有してはゐますけれど、為に詩人が今日忘却される原因となった「皇国思想による贔屓の引き倒し」は、この本において戦争中のやうなヒステリックのものとは思はれず、私には、(少なくとも冒頭からしばらく読んだかぎりでは)、憶測を以て断定せず、異説があれば紹介する労を惜しまぬ態度に一層の敬服を感じました。むしろ勤王思想について云ふならば、江戸時代後期に在野にあった詩人たちの、在野たる自負が、そのひそかな「反骨」のよりどころに据えてゐた概念として理解すべきなのであって、これを鬱々たる志として理解してゐる点では、同じ「反骨」でも星巌をヒッピーに譬へる大原富枝氏より、むしろ江戸時代に近い、今は喪はれた忠義の倫理が活きてゐた戦前文化圏の叙述に、一度寄り添って読んでみるのもいい、さう考へてみるのでした。古めかしい叙述が却って目下の漢字修養に適する点など、僻字癖がある詩人自らの詩篇より、むしろ伊藤氏の教養に裨益を蒙ることが多いんぢゃないかな、そのやうに思ってゐます。

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348やす:2008/05/20(火) 07:52:36
『日本古書通信』946号
 昨日『日本古書通信』到着、注目の田村書店の目録は、またもやモダニズム稀覯詩書のオンパレードでした。ボン書店あり、椎の木社あり、いままであまりよその目録では見かけたことのないやうな『シュルレアリスムインターナショナル』や芝書店のパンフレット詩集たち、詩集も『ペロケ色の衣装』『偽経』『朝の椅子』等々、書名をキーボードで打ち込んでゐるだけで楽しくなってしまふやうな内容です。みな現状相場よりかなり安く、この期を逃すとなかなかお目にかかる機会も少ないんぢゃないでせうか。今回HP管理人の一押しオススメは、亀山巌画伯装幀、杉本駿彦詩集『暦と地図』\15,000『記憶と秩序』\1,8000かな。この目録ページをいち早く見るためだけに購読者も増へてるんでせうね(笑)。
 頭を休めるためには、巻頭の「大学図書館の現在と未来」(早稲田大学図書館 中元誠氏)でクールダウン。拙HPも「ネットワーク情報資源」の外野末席に坐りつつ、同時に原質の図書にふれる楽しさを語りたい、図書館司書といふ仕事とは、別のプライベートな側面から、世の中の文学情報に働きかけることができたら幸ひです。こちらはタダですし(笑)。

349やす:2008/05/25(日) 19:30:54
中島黄山
 仕事で新潟へ出張。帰還するも尽瘁未だ復せず終日茫々、ただし仕事の合間に新潟県立図書館へ調べものにゆき、我家の書斎扁額の持主だった中島黄山の事跡を『二本松藩史』(二本松藩史刊行會, 1926年)に就いて知ることができた。即ち、

 名は淳、字は大初、通称長蔵、黄山と号す。二本松の人なり。家世々蚕卵紙を鬻(ひさ)ぐを以て業とし、其の店を号して中屋といひ、又種屋とも言へり。少にして学を好み、鈴木堯民に従ひて学ぶ。酷だ詩を嗜み、才気敏捷、立(たちどこ)ろに数篇を賦す。勤王の志深く、笈を負ひて諸国を遍歴し、藤田東湖、齋藤拙堂、梁川星巌等と交る。明治戊辰の役、奥羽連衡将に成らんとするや、黄山内命を受けて仙台に赴き、同藩の実惰を内偵する所あり。時に仙台の儒者岡千仞、勤王の説を持し、大(おほい)に上下に斡旋す。黄山相共に謀り、百方苦辛、勤王帰順の貫徹に力めしが、大勢既に連衡に決し、又如何ともすること能はざりき。西軍本宮占領の報至るや、黄山急遽国に帰らんとす。道梗(ふさが)りて通ぜず、仙兵の怪む所となり、鎌先に匿る。居ること二旬憂慮措かず、危険を冒して庭坂に至り、国老に見え君公の安否を問ふ所あり。會々梅原親固、事を以て同地に来る。親固元より帰順の説を持す、黄山大に喜び、共に相謀る所あり。是に於て黄山福島を過ぎて二本松に帰らんとす、東兵に遮られて進むことを得ず、乃ち紿(あざむ)きて曰く、「二本松に到り同地の敵情を内偵せん」と。辛うじて帰ることを得たり。
 黄山郷に帰り、未だ席煖なるに遑あらず、三春に往いて事を謀らんとし、本宮に到り、其の人在らざるを聞き志を空しうして帰る。一日、安齋宇兵衛と密に事を談じ、相携へて大隣泉孝道和尚を訪ふ。和尚大に喜び、私(ひそか)に西軍参謀渡邊清左衛門に見(まみ)えて請ふ所あらしむ。黄山等清左衛門に謁して其の意中を察し、米澤に赴き事情を報告せんとす。乃ち迂回して飯野(伊達郡)の山路を経て福島に到り、仙台軍事局に告げて曰く、「二本松の西軍、倍々兵数を増し、且つ若松城は西軍の包囲を受けて落城旦夕に在り」と。仙兵之を聞きて恐れ兵を退く、黄山米澤に到り、国老日野和美、用達梅原親固、周旋方和田一等に見えて具さに事情を説く。藩公も亦三人に命じて二本松に赴き、謝罪降伏を西軍に請はしむ。三使二本松に到り、渡邊清左衛門に就きて謝罪歎願書を提出し、総督府の容る所となれり。黄山又此間に処して斡旋する所少からざりき。藩公の東京に召さるるや、黄山又私に糀屋吉助と駕を逐ひて上京し、諸方に周旋する所ありき、蓋し内命に依りてなり。黄山手記に日く、「今日(十一月十三日)に至るまで諸筋へ手を入れ、上の御様子伺ひ奉り候へども、一向に相分り不申、只々心配仕候、定めて奥羽諸侯不残御揃の上朝裁と相見え候」と。能く這間の事情を説明せるものといふべし。
 維新後、藩校の致授に挙げられ、尋いで新潟県大属となり、権少参事に進み、明治三年十一月病んで没す、享年五十有六。著す所『中庸解』、『月課私録』、『池南草堂録』等あり。黄山人と為り誠実質直、其の士流に在らざるを以て当時其の説多く用ひられずと雖も、其の功没すべからざるものあり。丹羽和左衛門の植林事業は黄山の建築に基づくと云ふ。

 弔林子平
此老胸中百萬兵   此れ老胸中には百万の兵
果然瀕海百鯨横   果然、海に瀕して百鯨横たはる
如今国體論開鎖   如今、国体、開・鎖を論ず
我感高人林子平   我、高人林子平を感ず

 晩春途上
烟暖茅檐燕影斜   烟暖たる茅檐、燕影斜めなり
依微春汚透中紗   依微たる春汚、透中紗
霎時飯馬半川水   霎時、馬に飯す、半川水
風弄棣棠無数花   風は弄ぶ、棣棠(山吹)の無数の花

 墨水有感
溶々墨水泛龍舟   溶々たる墨水、龍舟を泛ばす
何計翠華接白鴎   何ぞ計らん、翠華白鴎と接するを
不恠禽名冒都字   怪しまず、禽名「都」の字を冒すを   (白鴎=都鳥のつもり)
如今關左帝王洲   如今、関左(関東)は帝王(天皇)の洲

 述懐
天降喪亂百罹臻   天、喪乱を降し、百罹いたる
閲歴滄桑春又春   滄桑を閲歴すること、春また春
四海英雄半淪落   四海の英雄、半ばは淪落
十年正議空酸辛   十年の正議、空しく酸辛
文山志早期興復   文山(文天祥)の志、早期にまた興り
宋澤誓將攘虜塵   宋沢の誓ひ、将に虜塵を攘(はら)はんとす  (ともに宋の忠臣)
生也有涯愛曷止   生また涯あり、愛しきことなんぞ止まん
悲歌吟向眼中人   悲歌、吟して向かふは、眼中の人        (396-399p)

 梁川星巌とも面識のあった、在野の勤皇家であったことが判明。

350やす:2008/05/25(日) 19:32:38
巻菱湖記念館
 また新潟では御当地の書家、巻菱湖の記念館にも立ち寄り見学、お土産に文庫サイズの復刻本『篋中集』を求めた。日本古書通信で「随読随記」を草されてゐる小出昌洋氏が編集、旧臘上京時には購入を見合はせた本である。現在ネット上でも閲覧できるのであるが、豪宕狷介の巻菱湖が認めた数尠い詩人の一人として年少の梁川星巌が挙げられ、眷属である館柳湾について語る中では秦滄浪の名もみえる。(さうして秦滄浪の曰く「さきに人の君(柳湾)の詩を伝へる有り」といふ「人」とは赤田臥牛に相違あるまい。)
 入館料ともども少々高価なのは、私設記念館・小部数私刊本の宿命といったところか。小出氏が古書通信の今月号に「誤植」の不可避について殊更一筆してゐるのも、本書における瑕瑾を気に病まれてのことだらう。
 星巌と、筆札を授かった巻菱湖との関係は、新潟県立図書館の郷土コーナーでで閲覧した市島春城の『文人墨客を語る』(昭和10年)のなかにも載ってゐた。江戸で門戸を張るにあたっては師の家に五十日も居候した上、八丁堀の邸を斡旋してもらったこと。また書誌的なことでは『星巌集』の版下について、以下のやうに記されてゐる。

 星巖が生前出版した、『星巌集』と云ふ詩集は、菱湖の開係から、菱湖の高足であつた萩原秋巖が版下を書いた。秋巌が字の調べがよかつたので、ひどくその版下を喜んだと云ふに、何故か中途で不和が起り、後には同じ菱湖の門人である中澤雪城に版下を書かせたが、星巖の意に満たなかつたと云ふ。それは兎も角も、題簽だけは是非菱湖に書いて貰ひたいとの望みで、小野湖山が態々使者となつて、菱湖の揮毫を乞うたものが、今流布してゐる、『星巌集』に貼られてある題簽である。
 詩集の事の序に遺稿の事にも及ぶが、『星巌遺稿』の版下は、今日誰も気が付くまいが、巌谷一六の書いたものである。一六は中澤雪城の門人で、云はば菱湖の孫弟子に当る。当時の一六の書は雪城の書と弁別のつかぬほどよく似てゐる。要するに、星巌は菱湖と深い因縁があつて、其の遣著は、皆菱湖系の書家に依つて書かれた。      (198-199p)

 この本には他にも星巌について、件の吉原游蕩の際、登楼するのに朋輩の分まで奢ったことや、窮地を救った獄吏が「熊」といふ名であること、そして踏み倒した妓楼から酒一樽をもって詫が入ったなど、伊藤本にはない新説も色々書かれてある。今後「閑人読書ノート」の参考に資するべく、不取敢コピーをとってきた。(図書館の司書さんにはポスターの御土産まで頂きました。深謝申し上げます。)

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351やす:2008/05/25(日) 19:42:52
週末のいただきもの。
 池内規行様より「北方人」12号の御寄贈に与りました。
 太宰治の心中事件を中心に、実証的な考察を以て、心中のもう一方の当事者たる女性たちの「復権」につとめた在野の文学者、長篠康一郎氏の「太宰治研究に捧げた一生」について、池内様の思ひ出が綴られてゐます。私淑された山岸外史をはじめ、池内様の交游録といふのはロマン派的、反骨的、浪士的にして、かつ道義的な、まことに清廉の詩人たちとの縁しが語られる訳でありますが、今回の長篠康一郎といふ人も、詩は書かずとも奇特な詩人的気質の持主だったのでありませう。長篠氏と、彼が異論を挟んだ「正統派太宰論者」大家たちの「自分に分のない場合は沈黙を守る、歯牙にもかけぬふりをする。」といふ態度が、「まるで太宰治の「如我是聞」と、その中で非難された作家学者との関係をみているようである。」と書かれたのは、けだし長篠氏に捧げられた一番の供養の言葉となったのではなかったかと思ふものです(2007.2.16逝去)。
 ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。

352:2008/05/27(火) 00:29:42
拙稿のご紹介ありがとうございます
やす 様

 ご無沙汰をいたしております。
 このたびは「北方人」掲載の拙稿「太宰治研究に捧げた一生」について、お心のこもったご紹介を賜わりまして、誠にありがとうございました。
 なるほど、おっしゃられてみると、私の敬愛する詩人・文学者は、ロマンチストにして非正統派、アウトサイダーの人がほとんどだということに気付かされます。やはり自分の生き方、感受の在りようと関わっているのでしょうか。
 それはともかく、長篠康一郎さんについて書きながら、その真実追求の情熱、不屈の闘志、そして誠実さと優しさなどを想い起こし、何分の一かでも見習わなければならないと思ったものです。
 やす様に取り上げていただいたことで、一人でも二人でも長篠さんに思いを致してくださる方がいらっしゃれば、これまた何よりの供養と存じ、重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。

353やす:2008/05/31(土) 22:16:31
「当世書家競」番付
 池内さま ご無沙汰をしております。お手紙にも書きましたが、このところ漢詩文の学習が楽しくて入れ込んでをりますが、記憶力の減退には溜息をつくばかりです。ぜひとも池内さまを措いては書けない「浪曼派惑星」の列伝を完成して頂きたく、引き続いての御健筆をお祈り申し上げます。

 さて新潟県立図書館でみかけた図録『江戸の魅力 貫名菘翁を中心として』が到着しました。巻末に載せる「当世書家競」番付は、巻菱湖記念館の玄関にもパネル(下掲図)が掛けられてゐましたが、幕末の三筆をはじめ、一齋、山陽、星巌、淡窓(なぜか茶山翁は小さい 笑)以下、名だたる儒者文人の名が列挙され(後藤松陰や牧百峰の名も「頭取」に見えます)、興味は津々、本冊の過半を占める鵬齋・菱湖・米庵・柳湾の遺墨集とともに、たのしく見入ってをります。
そしてこの本も勿論さうなのですが、一緒に送られてきた数々の地方出版物の執筆を一手に引き受けてをられる、越後の文人研究家にして書家岡村浩先生の、矜式すべき御文章に敬服してゐます。芸術として書を研鑽される大学教員は、当今幾らも居りませうけれど、近世・近代の郷里にあった文人について、当時の精神文化圏ごと顕彰すべく、現地探査にも勤しまれる研究者が、一体全国各地の大学に如何ほど「先生」として籍を置き教鞭を執られてゐるものか、私はまったく知らないものですから感動を覚えました。倉卒に認めた御手紙には失言多きことと、反省してをります。

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354やす:2008/06/05(木) 22:38:04
『竹軒百律』
 『竹軒百律』(明治44年刊行 私家版)を入手。著者は旧高須藩士の高木竹軒、伊藤信先生の師である。本名を貞一と云ひ、嗣子の名を貞幹と聞けば、なんとなくあの『解析概論』の著者高木貞治の関係とも思はれ、県図書館で伝記や、雑誌「岐阜県教育」大正9年7月号「高木竹軒先生を憶ふ」といふ伊藤先生の回顧記事を繰ってみたが、さういふことはどこにも書いてなかった。
 旧紀州儒官の奥村葛陽が序を、貞幹(号耐軒)が跋を撰し、大沼枕山の圏点頭評に係る一冊。本文19丁。著名詩人との詩酒徴逐はみえない。

  藍川夜漁図

争先烏鬼勢如鷹  先を争ふ烏鬼(うき:鵜)、勢ひ、鷹の如し。
宛転拏来十二縄  宛転、拏(ひ)き来たる十二縄。
糸竹売声催妓舫  糸竹(絃楽)、(もの)売り声、妓舫を催す。
楼台移影倚漁燈  楼台、影移りて、漁燈(篝火)倚る。
酒酣藍水風初定  酒は酣、藍水、風初めて定まる。
詩就華山月未升  詩は華山(金華山)に就(な)るも、月いまだ升(のぼ)らず。
白石[リンリン]潜不得  白石[リンリン:透き通ってよくみえる]たるも、潜りて得ず。
魚梭織浪乱成綾  魚梭(鮎たち)、浪を織りて、乱れて綾を成す。

【枕山評】余、頃者、此題の七律を評して曰く、「星巌、松陰は本地の人為り。然れども烏鬼の一律なし。果たして何ぞや。抑も亦た後の才子を待たんか」と。又曰く、「通首、星巌を圧せんと欲す。豈に松陰を説かんや」と。

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355やす:2008/06/14(土) 22:18:30
寄贈御礼ほか
 山川京子様より「桃」5月号(お礼が遅れて申し訳ありません)、山口省三さまより「あ・ほうかい」10号(あと2号で終刊)、舟山逸子さまより「季」89号(杉山平一先生の新作あり)、それぞれ御寄贈を忝くしてをります。この場にても厚く御礼を申上げます。ありがたうございました。

 さて週末、職場の図書館に入ったベストセラーの新書『大人の見識』(阿川弘之2007)をぱらぱら繰ってをりました。
 同じ新潮新書の大ベストセラー『国家の品格』(藤原正彦2005)では、武士道が説かれてゐましたが、あの本を読んで思ったのは、著述に品格を添へてゐる著者の「ユーモア」が、所謂「武士道」から紡ぎだされることはない、といふパラドックスでした。イギリスと海軍びいきの著者によるこの本では、日本人に欠けてゐるものはユーモアなんだと、さうして昔の武士には「ユーモア」はなかったが、また「軽躁」でもなかったと、誰にも分るやうに日本人の守るべき美徳が書いてある。かつて『論語知らずの論語読み』なんて本も書かれた著者ですが、皇室に対する敬語、対象をやりこめるのではない書き方も好ましい。今将に去りゆかんとする世代の良識からの傾聴すべき遺言。
 「フドーイ。」これどっかで使ったろかしらん(笑)。

 さらに先日ネット上でみつけた、これは阿川氏よりはもうひとつ前の前の前位の世代の遺言。
 こんな逸話に手放しの感動を覚えるやうになりました…。

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356やす:2008/06/18(水) 17:59:50
日本古書通信6月号
 日本古書通信6月号到着。今月の目録ページ、田村書店はお休み。新村堂書店からは、先日拙「Book Review」でもふれました人気の柏木如亭の撰になる、『海内才子詩』3冊\136,000、『詩本草』再版\57,750が出てゐました。なかなかのお値段です。
 また今年の七夕市に、立原道造や中原中也の詩集とともに、「杉浦明平の立原道造宛書簡・葉書及び手作り少年歌集」が一括文献として出品されることも記事で知りました。在京の方は手にとってじっくり本物を堪能してみて下さい。

357やす:2008/06/22(日) 16:27:27
佐渡行
 19日より佐渡に出張に行って来ました。仕事専念はよかったのですが、立ち寄ったのは真野御陵のみ。佐渡の文事について「予習」も至らず(御陵には嘉永五年に馮弔を果たした吉田松陰と宮部鼎蔵の碑が建ってゐました※)、レンタカーの返却時に両津市内の地図をみてゐたら、何と「北一輝の生家」と表示があるのにもびっくり。アイランドレンタカーの御親切で、飛行場まで送迎の途中、生家と、それから一般には知られてゐない、丘の辺にひっそり建つ故郷の墓碑にも立ち寄って下さいました(ありがたうございました)。尊王と反骨が綯交ぜになった遺恨の御霊の数々が、今は美しい自然によって鎮められ、世俗から護られてゐる島、といった第一印象。また報告できるといいですね(笑)。

 さて新幹線で新潟から帰るさ、東京にて途中下車泊。翌る土曜日は神保町に立ち寄ることができました。田村書店は次回あたり、また「日本古書通信」で大物を並べた目録を打つ予定の由。あの品揃へを「日本古書通信」の目録ページでやってしまふといふ所がすごいです。また「稀覯本の世界」管理人様とは久闊を叙し、渡邊修三書翰(昭和16年5月11日消印加藤泰三宛)、『足穂拾遺物語』郡淳一郎篇(2008年刊)、大町桂月『蔦温泉帖』の和綴豆本(1929年刊)など、御土産に頂きました。ありがたうございました。

 帰ってきたらば「新村堂書店古書目録」No.94が到着してゐて、これまた梁川星巌ほかの詩集を注文。佐藤惣之助はこれで田村書店でみつけた『深紅の人』と合せて、大正期の第2詩集〜第7詩集が集まりさうです。梁川星巌については、別にネット上の目録から注文した詩人の処女詩集『西征詩』(上下二冊文政12年刊)が、留守中に到着。稍し虫が入ってゐるものの、貴重かと。早速公開準備中です。お待ち下さい。

(付記:旭伸航空の佐渡便は、新潟−佐渡を25分で飛行、運賃も1時間かかるジェットフォイルと\1000しか違はないのに今秋廃止が決定したさうです。10人乗り超小型旅客機の機影が、国産トキに続いて佐渡から消えることになります。残念。)


※ 「凜烈万古存」石碑(真野御陵入口)

異端邪説誣斯民。非復洪水猛獣倫。苟非名教維持力。人心将滅義與仁。
憶昔姦賊秉國均。至尊蒙塵幸海浜。六十六州悉豺虎。敵愾勤皇無一人。
六百年後壬子春。古陵来拝遠方臣。猶喜人心竟不滅。口碑於今伝事新。
                    吉田松陰撰

陪臣執命奈無羞。天日喪光沈北陬。遺恨千年又何極。一刀不断賊人頭
                    宮部鼎蔵撰

異端邪説、斯民(人民)を誣ふるは、復た洪水猛獣の倫(たぐ)ひにあらず。
苟くも(皇室の)名をして維持、力めしむにあらずんば、人心、将に義と仁とを滅せんとす。
憶ふ昔、姦賊が国均(鈞)を秉(と)りて、至尊、塵を蒙り海浜に(行)幸するを。
六十六州、悉く豺虎。敵愾して勤王するは一人として無し。
六百年後、壬子(嘉永五年)の春。古陵に来拝す、遠方の臣(私たち)。
猶ほ喜ぶ、人心の竟に滅せざるを。口碑、今に事を伝へて新なり。
                    吉田松陰撰す

陪臣にして命(命令)を執る、羞づる無きをいかんせん。天日は光を喪ひ、北陬に沈めり。
遺恨千年、又何ぞ極まらん。一刀をして賊人の頭を断たず。
                    宮部鼎蔵撰す

(過去ログで矚目の写真を追加します。)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000495.jpg

358やす:2008/06/28(土) 22:13:43
梁川星巌の詩集
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート (閑人専用)

 詩に一徹、他に何の著書も遺さなかった星巌の詩集は、計画段階に於いてすでに甲・乙・丙…の順序が構想されてゐたものと見え、詩壇を意識した戦略的配慮といふべきか、最初に刊行されたのは『甲集』ではなく、『星巌乙集 西征集』 (文政12年 吉田屋治兵衛ほか刊)、そして『星巌丙集 星巌絶句刪』 (天保6年 玉池吟社刊)でありました。これらが先ず出て、詩人の真価を世に問うたのであります。

 巷間よく見かけるの梁川星巌の詩集は、『星巌集』と称する、『甲集』から『戊集』までが9冊に集成され、加ふるに門人アンソロジー『玉池吟社詩』2冊と妻紅蘭の『紅蘭小集』1冊を以てした全12冊のセット本でせう。別集としては『黄葉夕陽村舎詩』『山陽詩鈔』とともに、当時最も知られたベストセラー詩集となりましたが、大部であるにも拘らず数種の後刷りの存在が確認されてをり、異同が夥しいのです。実のところ伊藤氏も詩集の書誌については持て余してゐたらしく、この『梁川星巖翁 附紅蘭女史』に収められた年譜には、なんと『西征集』『星巌絶句刪』の刊行年さへ記されてゐません。残念なことにこの年譜が伊藤氏没後に出た星巌全集第5巻所載の年譜にそのまま引き写されてしまひ、伊藤氏がその後知り得たに違ひない事実を、全集の年譜に書き加へることなく仆れた無念を、思はないではゐられません。著名の先生方による解説が、皆これを元としてゐますから、私もここで梁川星巌の処女詩集、第二詩集の刊行が、文政12年5月、天保6年2月であることをあらためて記しておきたいと思ひます。

 さてそれなら『星巌集』はどうなのかといふことですが(口ごもる 笑)、元来初版の『星巌集 ○集』といふのは、先ず、天保戊戌季夏[9年6月]に、『丙集』の増補改訂版を3冊ものとして新鐫刊行し、次に、天保辛丑仲春[12年2月]に、長らく封印してきた最初期の『甲集』1冊を、『乙集』の改訂版2冊と一緒に出し、続く季春[3月]には、『丁集』と、現況の最新状況を集めた補遺と云ふべき『閏集』を合せて2冊とし、さらに『閏集』付録と銘打った『紅蘭小集』を別冊にして刊行されたもののやうであります。(但し『乙集』奥付刊記は天保10年だし、『紅蘭小集』奥付刊記は天保12年1月較刊とあり、謎です。付録扱ひだった『紅蘭小集』は先に全ての工程を終へてスタンバイしてゐたのでせうか。)
 要するにこの時点では『星巌集』は全9冊だったのであり、その後の『戊集』1冊と玉池吟社詩人たちのアンソロジー2冊を併せて『玉池吟社詩』の名で刊行されたのは、安政3年正月のことであるらしい。つまり現在世に出回ってゐる12冊セットといふのは、総てそれ以降の一括印刷に係る後刷り「星巌集決定版」であるといふ訳であります。

 『星巌集』は、ですから一見端本とも思はれる9冊揃ひの方が古いといふことになります。もっと云へば、見返しと奥付があって刷り状態の良い『丙集』、『甲集+乙集』、『丁・閏集+紅蘭小集』があれば、それぞれ一番古い可能性があるのです。版元の異同が夥しいのは、板木の権利が売買されたからですが、安政6年に起きた大獄に際して、詩人の評価が一時的に封印されたことも関係してゐるのかもしれません。とまれ、初刷りであるなしに拘らず、各集の見返しには同じ干支が刷り込まれてゐるので、これが奥付の印刷年不記と相俟って書誌舛錯の原因となってゐる訳です。判断できる限りの情報をあつめ、考証したら面白いと思ひます。
 見返しに記名された代表版元として、江戸千鐘房(須原屋茂兵衛)版のほか、京都竹苞書楼版、東京青木嵩山堂版(明治刷)が存在するやうです。管理人の所蔵本は、見返しを甲集のみに留め、各集の扉紙も省かれた千鐘房13冊セットの後刷りですが、奥付版元に江戸とあるので明治刷りではないやうです。

 また『戊集』に続く、江戸玉池吟社を閉じて京都に活動拠点を移した後の作品については、『星巌先生遺稿』(文久3年 老龍庵蔵板)8冊の方に集成されましたが、これまた元治元年版といふものがあり、明治になっても増刷が続けられました。管理人の所蔵本は文久版明治刷りの一組。魁星印のある袋が付いてなかなか綺麗です。

 今後、岐阜県図書館の蔵書と合せ、書影や目次を順次公開してゆければと思ひます。お楽しみに。以上読書ノート「寄り道編」でした。

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359やす:2008/06/29(日) 09:20:31
「初版本」第3号
「初版本」第3号落手。今回は詩集をメインテーマにした話題が少なく、ちょっと残念でした。いちばん反応したのは「福永武彦の世界」(三坂剛氏)の、あとがきかも(笑)。サロン諸氏の御文章ゆるゆる拝読致します。

「贅言
 晩年の中村眞一郎氏の仕事をお手伝いし、書庫に出入りする機会のあった私にとって、例えば国文学研究資料館に納められた江戸の漢詩集を中心とした和本数千巻をはじめ(依頼されて、私は納める際に全ての和本を写真に撮った)、スチール製移動書棚何本にも万載されていた古今東西の洋古書・研究書に加えて、昭和初期からの小説本・詩集の数々、そして毎月一〇〇冊以上続々と送られてくる新刊で溢れる中村氏の書庫は、正に知の宝庫そのものであった。(後略)」(35p)

 「中村眞一郎江戸漢詩文コレクション」といふのは、以前に国文学研究資料館で紹介展示がなされ、目録も出たやうですが、和本数千巻の書影は貴重なデータですね。また毎月新刊が100冊以上送られてくるとあっては、自宅に無名詩人の詩集など寄贈しても読んでは頂けなかった訳です(笑)。さうして、福永氏に於いても、四季派文化圏で育った雰囲気や、麦書房が作った普及版の「枡型詩集」、星座をあしらったあの清楚な装釘は好きなのだけれど、小説を読まない私は、よい読者ではなかった。謂はば「無意識に点が甘くなってゐる」詩集愛蔵者にすぎなかったやうにも思ひます。
 そんな事情を、実は「初版本」の2号に書かせてもらったのですが、3号が発行されましたので拙稿をupしたいと思ひます。編集画面のままで御覧下さい。全頁カラー刷りの雑誌の氛囲気も分かるかと思ひます。

360やす:2008/06/30(月) 21:33:54
『星巌丙集 星巌絶句刪』
 週末に、県図書館へノートパソコンを持ってゆき、『星巌丙集 星巌絶句刪』全頁と『星巌集』の見返し・扉・奥付をスキャナー取り込んできました。最近、熱暴走(?)で突然シャットダウンするやうになった我がパソコン、家ではアイスノンで冷やしながら作業してゐるので、ファンのフル回転の音を聞きながら、いつ止まるかとまさにヒヤヒヤの思ひでありました。
 さて、その『星巌絶句刪』を公開します。本書が乙集のあとに、ふたたび甲集を差し置いて出された星巌の第二刊行詩集『丙集』であり、天保6年2月の刊行元は「玉池吟社」、つまり自費出版されました。経済的な理由で一冊になったけれど作品はこの何倍もあるんだよ、と、いった趣きが「甲ではなく丙」「数ある作品から刪省」といった名付けから窺はれます。お玉が池の詩塾はこれに先立つ3ヶ月前に旗揚げしたばかりでした。正に若年の汚名を雪ぎ、江戸の詩壇に星巌ありと宣言する、正念場の一冊だったと思はれます。すでに京都に頼山陽はなく、先輩大窪詩仏の詩聖堂の趾を襲った玉池吟社の名声が、この後一気に、日本一に揚がったのは周知の通りです。そしてたった5年後の天保11年には、『新鐫 星巌丙集』として、この本は面目を改め、全三冊の全容が明かにされることになります。そればかりか翌年には、満を持しての甲集と、その後の丁集が日の目を見、本邦初の女漢詩人の詩集を付録に加へた『星巌集』9冊セットが完成します。名実ともに漢詩はもはやお堅い儒者の専売余技ではなくなったといふこと。そして浩瀚な漢詩集の商業出版に大書店を踏み切らせた背景にあったもの。2種類の丙集は、一介の在野詩人の名声が開花するあとさきを物語るとともに、漢詩を支へる読者層の広がりを、物的にも証明する象徴的な刊行物でもあるやうに思はれます。

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361やす:2008/07/03(木) 17:30:39
残念・・・。
『中村真一郎江戸漢詩文コレクション』(2007 国文学研究資料館)目録は、発行所に問い合はせたものの、頒けては頂けませんでした。何部刷られたのか、大学図書館や公共図書館にもあまり寄贈されてゐない模様です。残念です。

たうとうノートパソコンのファンが停止。よって電源投入後およそ10分でシャットダウン。再インストール後CDRが焼けなくなり、キーボードも誤変換するやうになった上にこの仕打ち・・・刀折れ、箭尽きたり矣。残念です。

362やす:2008/07/06(日) 16:10:26
寄贈御礼 『菱』162号 / 『桃』七月号
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』162号の御寄贈に与りました。早速連載「モダニズム詩人荘原照子聞書」を拝読。フィールドワークがこのたびは実証的な文献探査・考証となり、そこに飄々とした聞き書きの肉声が効果的に織り交ざり、今回も読ませます。副題は「『花神』の祖父 そして詩人の系譜」。江戸時代の漢詩が好きな私にとっては、予告された次回の「漢詩人の父 そして詩歌への目覚め」とともに興味津々です。今まで自分の中で分裂して存在してゐた漢詩と近代詩が、以前に紹介した日塔貞子と云ひ、このたびの荘原照子と云ひ、かうして文字通りの血縁を語る文章に出会ふたびに、両者の接点が模索されます。本来の時間軸ではその間に存在すべき「明治新体詩」が、すっ飛ばされてゐる隔世遺伝ぽいところも、漢詩人達の遺恨が孫世代に憑いてるやうで面白いですね。さうして荘原家の場合、養子の祖父が引っぱってきた「隠れキリシタン」といふ血筋がさらに、詩人誕生にあたっての大きな触媒になってゐる気がします。これは次回語られる父の生涯とも合せてみてゆきたいと思ひますが、伝統を拒絶する前衛詩人が家系を誇りとしてゐた不思議は、まことにそこで解けるのであって、祖母が極秘事項として語った祖父の体験譚も、異界に迷ひ込んだ御伽噺の主人公さながらです。

荘原「それがね、明治になってから祖母が極秘事項として教えたんです。夜中にご開門、ご開門と戸を叩く。仲間がドーレと言って仲間小屋の窓を開けたら、駕籠が来とって、先生のご来診をいただきたいと。由緒あるお方のご命令ですって言うからね。祖父は医者ですから断われんから、道具持って行ったんですって。そしたら山の中、川のそば、グルグルグルグル、分けのわからん迷路のような所に(駕籠を)入れて、そしてそこは御殿みたいな大きな屋敷。りっぱな緞子みたいな蒲団の上に、姫君みたいな人が寝てるんですって。ただ今ご出産で難産だから、先生のご助力願いますって言うから、祖父はお産[婆]じゃないから困って、わしはそれは……とにかくお願いしますと言うから、まあ力んで力んでやって、とうとう安産したんですって、そうしたらみんなが出て来て、おなつかしゅうございますって、泣くんですって、祖父に。私たちはキリシタンで、あっちに逃れ、こっちに逃れして、あなたのご子孫[先祖]も左様と知って……これギクッとして、また俥に乗せられたら今度は目かくしして、グルグル……街中ひっぱり回して、ありがとうございました。そしてまあ普通の治療費か、置いていったらしいですね。これは誰にも言うなよと言って、明治まで黙っていた。」

 漢詩は明治以降、衰頽の一途をたどってゆく訳ですが、同様に彫落してゆく旧家の末裔に生まれ、祖先から文才を享けた一少女が、何の因果か漢詩を追ひやった詩壇で新たな断絶の詩史を啓き、花火のやうに燃え尽きていった生涯といふのは、果敢なく夭折するでない、老女の貧窮死といふ壮絶な閉じ方にあっても、何かしら数奇にロマンチックな、「隠れキリシタン」同様の、哀しい伝説の余韻を感じてなりません。


 またこのたびは山川京子様主宰『桃』七月号(Vol.55(4),No.631)の御寄贈にも与りました。
 石田圭介氏の後記は、個に偏した作為を排する作歌指導のもと、「桃」ならではの面目を昭らかにした一文。しばしば話題となる短歌における形式論議は、文藝における個性とは何なのかといふ、謂はば日本文学の根幹に嬰れる問題に行き着くもののやうに思ひますが、小野十三郎の「奴隷の韻律」は、桑原武雄の「第二藝術論」同様、耳障りが良く、マクドナルドのハンバーガーのやうに子供に選ばせたら必ずそれを選ぶやうな論旨に過ぎません。「新しい」といふ真の意味が、形式ではなく、個人の日々の再確認のなかにのみ存するといふこと。それが月並みに堕してゐるのか、自恃に値する嗜みなのか、といった問題は、もはや字面ではなく、作家の実生活を俟って判断すべきものだと、私は思ってゐます。幕末志士の漢詩や『大東亜戦争遺詠集』なんかはその極地でせうが、それが愛国的で気に入らない「自分が自分が」といった人物は、歌壇と俳壇を腐すのぢゃなく、去って自由詩か散文で一家を建てたらいいんです。

 二誌に対しましては、この場にても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

363やす:2008/07/11(金) 12:04:14
山本文庫
扶桑書房さんから嬉しい四季派ゆかりの買ひ物、中原中也の『ランボオ詩抄(山本文庫)』が到着。たった10銭の文庫本ですが、立原道造の処女出版書『林檎みのる頃(シュトルム)』とともに、詩人の在世時に刊行された数尠い本として、人気を二分するタイトルです。さてこの山本文庫といふ翻訳叢書、とにかく初版が珍しい。或は「最初から第何版の名で刷って、売れ筋にみせかけてるんぢゃないか疑惑」のあるシリーズでありまして(笑)、加へて酸性紙に刷られ、表紙も薄っぺらいので、初版のみならず残存数自体がそんなに多くはないやうです。田中先生も『ヒアシンスと花薔薇(ノヴァーリス)』といふのを出してゐますが、ともに全ページupしましたので、お暇の方は「詩集目録index」から御覧下さい。


(大庭様@横浜市より見やすい画像ビューア版を送って頂きました。ありがとうございました。2008.7.12)

364やす:2008/07/20(日) 20:25:24
丁艱
 クモ膜下出血で倒れ、永らく入院してゐた父が逝きました。73歳でした。手術後の経過が思はしくなく、七年近くも病院に臥床してゐたので、家族はその間に覚悟も出来、窶れ果てた父の死を冷静に受け止めることができました。それでも元気な頃の遺影を床の間の仮祭壇に掲げ、愛犬をあやす姿をビデオでみれば、やにはに昔の記憶が甦り、父を喪ったといふ心の整理を再び7年さかのぼって家族各々が行ひはじめた次第です。煩瑣な社会上の手続きも一段落、思ひを新たにする習俗上の付合ひもはじまりました。あっと言ふ間の一週間でした。

 久しぶりの職場に「日本古書通信」が届いてゐました。田村書店の目録は北園克衛の稀覯詩集が勢揃ひ。それから知らない間に、村瀬藤城鑑定の 魚々屋茶碗のオークションが終ってゐました。銘「引船」。ものすごい値段ですね。

365やす:2008/08/06(水) 17:27:12
「近代文学 資料と試論」第8号
 碓井雄一様より「近代文学 資料と試論」第8号の御寄贈にあづかりました。
 連載「林富士馬・資料と考察」も残すところはあと2回、今回は『林富士馬評論文学全集』の集成にもれた「序跋」の類をあつめた拾遺集ともいふべき趣きです。文筆業を本業としない(できない)と決めた(諦めた)詩人にとって、それが道楽でも趣味でもない証しをたてる際には、ビッグネームをことさら正面から語るよりか、身近なマイナーポエットを側面から親密に語る際にこそ語り甲斐もあったかと思はれ、また断りきれない義理を果す際に現れる人情の機微といふのも、実に山岸外史と同様、日本浪曼派ならではの詩人ぶり、つまり依頼者に対する優しさを歴々とみる思ひがします。けだし「序跋」といふのも、片々たるものだからこそ、人との縁を大切にする詩人の特性を最もよく表すジャンルのひとつと思ったことです。
 むかし、富士正晴との共著となった、師伊東静雄について論じた『苛烈な夢』といふ文庫本を読んだとき、富士氏のやうに食ひ込んだ、或はもっと身近な見聞を織り込んだ読み物にしてほしかった、と不満に思ったものでしたが、語るべき対象に向かって構へたり力んだりすると、空回りする嫌ひがあるのかもしれません。伊東静雄について直接語ったものでない、序跋のやうなところでフッと回顧される師の俤の方が、よほど詩人論として示唆に富んでゐるんだがな、とあらためて思ったことですが、あの『苛烈な夢』の本にしても、本人生きてゐたら、富士正晴の文章ではなくきっと林富士馬の文章を採られたに違ひない、そんなところもふくめて碓井様謂ふところの「他者に示し続けた優しさ」なんだと思ひます。最後に掲げられた「ときじく」に寄せられた一文など、まさに優しさが文章全部を支へてゐますけれど、これを手紙として寄せられた碓井様の幸せ、思ふべきでありませう。

 ここにてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。

366やす:2008/08/19(火) 11:41:11
流金鑠石
 残暑のさなか、買ひ替へたパソコンの、VistaやOffice2007のインタフェースに振り回され精神を消耗しきってゐます。雑事も重なり、気ばかり急いて本もしばらく読んでゐません。パソコンのみかけを旧に戻すべくネット上を捜索。対応策紹介に付せられたコメントには、
「未だにダイヤル回すタイプのテレビを「ワシにはコレがいいんじゃよ、コレが」とか言いながら使い続ける感じ?」とか「ビデオ録画のできないじぃちゃんの仲間入り」とか(笑)。
 しかし「漢文・日本語のできないじぃちゃんの仲間入り」になるよりはましであります。

【寄贈御礼】:山口省三さまより「あ・ほうかい」11号(あと1号で終刊と思ひきや第2ステージの予告も)。「日本古書通信見本誌」「扶桑書房古書目録」ほか皆様ありがたうございました。

367:2008/08/24(日) 22:33:43
田中克己先生のこと
はじめまして。
旧姓、服部美那子と申します。言語学者であった服部正己の長女です。
中島栄次郎さまの検索をし、そして田中克己先生の検索をしているうちに、亡き父、服部正己の名前が目に入り、今日は、一日中読みふけっておりました。小高根太郎さま、次郎さま、保田さま、また父の洋行にあたって、肥下さまからお金を借りていたこと等など、
母からよく聞かされていました。

昭和37年の春、「ゲルマン古韻史の研究」−特にゲルマン語の母音推移についてーを書き上げ、愛妻(サノ子)と喜びを共にしていた写真が母亡き後、着古した彼女の着物の袖の中から見つかりました。父を52歳で亡くした(白血病)母は47歳でした。それから
30年、亡き父を愛し続け、娘の私としては、何とか、今こうしてインターネットという
テクノロジーを利用して、一人でもいいから、ちょっと覗いてやってくださる方はいないか、かすかな望みを託して、投稿させていただきました。どうかよろしくお願いいたします。彼女は、喜んでいることでしょう。

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368やす:2008/08/25(月) 23:36:15
はじめまして。
 はじめまして。埜中さま、管理人の中嶋と申します。
 服部正己様の御長女の由、検索とリンクをたどられ、拙サイト「コギトの思ひ出」文中からお越し頂いたものかと存じます。まれにコギト関係者の御親族からメールを頂くことがございますが、このたびの写真を付してのコメント寔にありがたうございました。澆末文化の温床たるインターネットの世界とは申せ、斯様な出会ひもまた戦前文藝最後の青春を飾った共同の営為「コギト」に繋がります大切な御縁かと存じます。現在原本画像を公開してをります田中服部両先生の共著『ヒアシンスと花薔薇』につきましては、茲にあらためて掲載許可をお願ひ申し上げますとともに、拙いホームページではございますが今後とも何卒よろしくお見守り頂けましたら、幸せに存じます。ありがたうございました。
 こちらより掲げさせて頂いた写真は、昭和6年卒業間近の大阪高校3年文乙(第2外国語=独語)クラスの集合写真。田中克己、中島栄次郎、保田與重郎、肥下恒夫、松下武雄、丸三郎とまでは分かるのですが、埜中様先君はどこにみえますでせうか。皆さん肝の座った面構へをしてゐますが、碩学の御写真と見比べてあれこれ推測してをります。

 さて昨日、わが先考も四十九日法要を無事終へて、人心地ついたところです。やうやく涼しくもなってきましたから、生活も旧に復し和本読耕に当たりたく思ひます。

 本日は四季派学会東京事務局より紀要論集の14集が到着。前集から時を置いて三年間の活動記録が凝縮された内容ですので、拙稿はともかく他の皆様の文章が楽しみです。東順子様國中治様はじめ、編集局の皆様お疲れ様でございました。そして拙文をこのやうな冊子にまとめて頂きまして本当にありがたうございました。ここにても御礼を申し上げます。

四季派学会論集 第14集

2005年度 夏季大会四季派学会・中原中也の会 合同企画『特集・中原中也と立原道造』
講演 中原中也と立原道造 ―相照らすふたつの詩精神― 宇佐美斉 (3)
   シンポジウム 抒情の変容と可能性 ―四季派をめぐつて― (15)
     パネレスト 勝原晴希・坪井秀人
     司会 佐々木幹郎
     発言 安藤元雄・北川透・宇佐美斉

   田中克己について ―戦争詩の周辺― 中嶋康博 (37)

《研究論文》

堀辰雄『菜穂子』論 ―「国境」を視座として― 澤木一敏 (45)
丸山薫『鶴の葬式』の詩世界 ―メタモルフォーゼの詩学― 権田浩美(53)
堀辰雄と野村英夫  河野仁昭 (67)
活動報告・関西事務局便り・編集後記 (84)

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369:2008/08/26(火) 14:37:45
感謝
中嶋様
お父様が亡くなられたとのこと、ご冥福をお祈りいたします。
そんな中、早速ご返事を頂き恐縮しております。この品格あるHPにたどり着き、厚かましく両親の写真を送ってしまったことに少し後悔しておりました。でも心が晴れました。
父の若かりし頃の写真は一枚も持っていませんので、この大阪高校時代の写真をみて懐かしさで一杯です。この写真の前から二列目、椅子に腰掛けている人物、身体の貧弱さと大きな顔ですぐ父ではないかと。
また、改めて個人的なことにつきましては、中嶋様のメールアドレスに直接、送信させていただきたく思っています。
中嶋様、これからのお仕事のご発展を祈り、心より応援させていただきます。
ほんとうにありがとうございました。

370:2008/08/26(火) 14:49:09
申し訳ありません
付け加えます。この写真の前から二列目、椅子に腰掛けている左端の人物です。
不慣れなパソコン操縦のため、申し訳ありません。

371やす:2008/08/27(水) 18:13:16
御教示ありがたうございます。
 御教示ありがたうございます。大昔にコピーした拡大写真では丁度切れてゐるところですね。ホームページではテキスト・画像アーカイブを通じて引き続きコギト詩人たちの顕彰を続けてゆきたいと考へてをります。コンピューターの性能がどんどんよくなってゐますので、写真資料などは更新して面目をあらためる必要も出てまいりました。原画を再びスキャンする機会に恵まれましたら 「文学アルバム」のなかに掲げさせて頂きたいと存じます。充実に努めてまいりますので気長にお待ち下さいますやう、お見守り下さいませ。ありがたうございました。

 もう一枚ございました。こちらは 『保田與重郎アルバム』に所載の写真のコピーです。

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372:2008/08/29(金) 10:34:13
保田輿重郎アルバムの中に
まだアルバムが残っているのですね。
ここに写っている父は、二列目右から二番目だと思います。普段眼鏡をかけていたそうですが、ここでは掛けていません。なんと言っていいか、懐かしい気持ちでいっぱいです。
ご厚意、感謝いたします。

373やす:2008/09/01(月) 22:21:15
写真もう一枚ありました。
若い日の肖像をご指摘頂いたので、田中先生のアルバムコピーを調べましたところ、もう一葉みつけました。さきの御教示より察しますところ、左端が服部先生(となりが田中先生です)ではないでせうか。昭和3年5月11日の日付がある写真です。
(委細はまたメールにて。)

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374:2008/09/03(水) 11:58:47
昭和3年5月のころ・・・
また新たな写真が見つかったのですね。昭和3年と申しますと、大阪高等学校に入学して、間もない頃、この時期から田中克己先生と父が何か共鳴する接点をお互いに持ち始めた時期なのでしょう。父の遺作である翻訳本、《全訳叙事詩》「ニーベルンゲンの歌」の略歴の中に、1931年(昭和6年)3月大阪高等学校卒業、とありますので、二人が知り合えたばかりのころでしょうか・・・ありがとうございます。

375やす:2008/09/03(水) 18:03:21
『南村遺稿』
>埜中さま
入学当初、寄宿舎の図南寮で一緒だったのだらうと思ひます。
今後ともよろしくお願ひ申し上げます。

さて、『南村遺稿』といふ漢詩集の「下巻」だけを持ってゐて、「下」があれば当然「上」もあって揃ひになると思って探してゐたのですが、なんと過日古本屋さんにて全部で3冊揃ひであることが判明。といっても「中巻」があったといふんぢゃなく、後ろに立派な奥付のある「付録」がついて完本だったといふ話。元来、自費出版された漢詩集といふのは刊記のないものも珍しくないですし、付録には別の名前が付いてゐて一寸わかり辛い完本。購入した和本専門の古書店主も、これは扱ったことのないなあと仰言ってゐたし、『如亭山人遺稿』の付録『詩本草』と同様、珍しい本なのかもしれません。こちらも早速upいたしましたので漢詩集愛好家には御覧下さればと存じます。
また神田柳溪の『南宮詩鈔』も上下2冊に分かれた原装本を発見。持ち帰って校合したところ、刷り具合も含め、中身は手許の合冊本と同じでした。製本の途中で2冊にするのが面倒になっちゃったんでせうか。とまれ稀覯本が2冊も手許にあるのは贅沢なことです。

それから「四季派学会論集」第14集所載の拙稿ですが、ページ数の関係で割愛した部分を補ったものを【四季派の外縁を散歩する・田中克己文学館】にupしておきました。冊子をお送りできなかった皆様にはそちらの「完全版」を御覧頂けましたら幸ひです。

376やす:2008/09/04(木) 21:30:16
「朔」163号
 青森八戸の圓子哲雄さまより「朔」163号のご恵送に与りました。
 前回に続き後藤健次といふ詩人の特輯です。今回は資料として一戸謙三の文章を使用してゐるので、「一戸謙三特輯号拾遺」の趣きもします。かつて「朔」の初期には寄稿も度々あった詩人とのことですが、対談も含め、さうした当時の人々の遺した証言を、バックナンバーから丹念に拾ってまとめたら、それだけで貴重な詩壇資料の一冊が出来上がるんぢゃないかと思ひました。これは名古屋詩壇の生き証人雑誌「名古屋近代文学史研究」についてもいつも思ってゐることです。
 また、小山正孝夫人による中村真一郎氏をめぐっての回想、そして主宰者圓子様の詩集評・人物評を、中村光行氏のあたたかい言葉遣ひで読ませて頂きました。ことにも圓子様は眼を酷使しての体調不全にある由、恢復を願はずにゐられません。
 この場にもあつくお礼を申し上げます。ありがたうございました。

377やす:2008/09/09(火) 08:10:35
『嵯峨樵歌』
昨日到着した漢詩集の原本。『嵯峨樵歌』と『春水遺稿』(付録「新甫遺詩:頼元鼎遺稿」1冊欠)。
「北條霞亭」や「菅茶山」を読んでるときに手に入ってゐたら嬉しさも倍増だった本です。
「9万円が3万円になった、安いっ」って飛びつくのは、もはやブランド品のセールに反応するOL並みの脳味噌のレベルですが、
「そもそも一冊3万円が安いのかな〜。」と言はれても、
「この表紙の紗綾型“エンボス加工”、前蔵者に大切にされた証である紙袋や裏打ち補修の跡を御覧なさい。」と、物欲に領されて心焉にあらず。これでは朝晩唱へてる般若心経の意味がありませんね(笑)。読書の秋に向かって反省。

九日、七老亭に登るの期有るに臥病して果たさず。口占。

山に望みて上ることを得ず。
酒に対して嘗めることを思はず。
枕辺、菊を欠くが如し。
何を以てか重陽を過ごさん。(24丁)

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378やす:2008/09/16(火) 19:59:45
論語の素読
 最近、文学作品を朗読したCDを巷にみかけるやうになりましたが、生涯教育といふのでせうか、その最たるものに「論語」や「大學」の「素読CD」といふのが出てゐるのを知ったので早速聞いてみました。斯の道の先生(どの筋の先生? 笑)が素読されてゐて、アナウンサーぢゃありませんからちっとも恰好はよくはないのですが、おそらく昔の寺子屋ぢゃ、正座したお師匠さんがこんな調子で誦み上げてゐたんだと思へば有り難くもあり。まさに修養の一助にと、通勤の往き帰りに車の中で聞いてみたのですが、古代の訓読ですからテキストもなく聞いてるだけでは、さすがに何を曰ってゐるのかわかりませんでした(笑)。
 それでこの三連休、お恥ずかしい話ですが、初めて「論語」を最初から最後まで、そのCDに就いて読み通してみた次第です。まことに遅まきながら、なのですが、成句の語源のほか、例へば田中先生の名前の由来「克己復礼」はもとより、萱堂の名も正しくは「廉子」ではなく「これん」といふのですが「瑚[王連]」(公冶長)からなのかな、などとも思ったり。明日から出張ですが、これをBGMに、移動時間も耳学問にあてようと思ってをります。

379やす:2008/09/24(水) 22:42:37
矢野敏行詩集『自鳴琴』
 わが若かりし同人誌時代の先輩、矢野敏行様より、詩集『自鳴琴』の御寄贈にあづかりました。処女詩集は深沢紅子氏の描くツユクサのカットを配した函に収められ、羨ましい限りの装釘でありましたが、このたび約四半世紀を隔てて出される第二詩集では、眼目とするところ、最後の四季同人、杉山平一先生のお言葉を戴く「帯」にありませう。
「三好、立原、中也につながる「四季」の新鮮純粋の抒情を守る矢野敏行の美しい詩の灯を消してはならない。」
 こんな一言を頂ければ、寡作を恥ぢられる必要はさらさらないです。
 いったいに矢野さんの作品は、苦心の痕を消し去った美しい導入部に魅力あるものが多く、逆にオチをつけてみたく気がそそられる終はり方にも、確かに津村信夫ゆずりと云へる気質は存するやうな気がします。雑誌掲載時には物足りなくも思はれたそんな淡白さが、一冊になってはじめて水の味のやうに感じられるのも、実に矢野さんらしく、この度は初期作品も一緒に収められましたが、よくある、「初期の方がよかった」といふ批判も、矢野さんには中らないやうな気がいたします。本当に「生きていれば、佳い詩はいくらでも、書けるような気がした」時代が、誰にもあって、古いノートを読み返したらいろいろなことが思ひ出されてくるものですが、そんな調べこそまさしく「オルゴール」の身上ではありませんか。このたびの詩集は、渝ることのない、渝る必要もない、遠い星と近い星の、瞬きのやうな音色を綴った星座のやうです。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました(パソコン早くはじめて下さい 笑)。

矢野敏行『詩集 自鳴琴』2008年 編集工房ノア(大阪)刊 116p,20.2cm上製カバー\2000

鉦と笛は、また思い出したように声を上げ、祭列は一匹の巨大な蛇のように蘇り、ゆっくりと動き出した。・・・・(中略)・・・・魔を払いながら、俗なるものの只中を、鉾がゆく。それは巨体をきしませながら、声を上げ、一匹の聖なる蛇の、形をして。
「祇園祭」より

落葉松の防風林を、シルエットにして、その上、小指ほどの距離をおいて、馭者座が光っている。いびつな五角形の一角から、小さな鈴をつけた短い飾り紐がのびて、それが初頭の風に揺れている。・・・・(後略)
「鈴」より

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380やす:2008/09/29(月) 23:31:23
ご修身
 先日来「素読のCD」に御執心の『論語』ですが、その後、岩波文庫の定番(金谷治訳)と目から鱗の貝塚茂樹訳(中公文庫)を入手し、『論語集註』の槧本(後藤点)とテキスト(簡野道明註)には専用カバーを誂へ、携帯プレイヤーまで買って親しんでゐます。勿論天下の古典ですから、原文も全訳もネット上でみつかりますが、殊に集註の書き下しは江戸時代の教科書で雰囲気を楽しむ際の、有り難いアーカイヴ。周囲には数(しばしば)しませんが、みな呆れ顔です(笑)。
 そして久しく中断してゐた『梁川星巖翁』ですが、こちらも本日よりゆるゆる読耕を再開しました。詩人の「征西」も、広島と三原の間を行ったり来たり、ほぼ一年も淹留してゐるんですね。一簣を覆すと雖も進むは吾が往くなり。まづは読み進めていって、余力あらば文を書きます。

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381やす:2008/10/03(金) 08:49:07
森春濤ほか
【いただきもの】
 二松学舎大学の日野俊彦先生より、森春濤についての雑誌掲載論文をお送り頂きました。
漢詩文を専門とされる先生から御論文を忝くするのは初めてで、サイト管理者として非常な光栄に存じます。『下谷叢話』で血筋の大沼枕山には肩入れして語ってゐた永井荷風も、枕山の最大のライバルだった春濤のことはあんまり語ってゐません。これまで外部から祖述するひともなかったために、今では枕山と比すれば「明治詩壇の巨擘」といふ空疎なイメージにより名前のみが世に行はれてゐる感があります。論考は詩人の日常に分け入り、妻との三度の死別や、梁川星巌はじめ非業の死を遂げた勤王家の師友にかこまれて生き残ることとなったその「生き残り方」を、岡本黄石とも対照しつつ、詩から窺はれる述志と慟哭に焦点をあてられた連作。『岐阜雑詩』を郷土に遺してくれたこの先人の生涯については、あらためて勉強しなくてはと思ひます。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
※一部はCiNiiでも公開されてゐます。「森春濤「十一月十六日擧兒」詩考」  「幕末期における森春濤」
 また今月号の「国文学解釈と鑑賞」が珍しく漢詩文の大特集であることを同時に知りましたので、合せて報知させて頂きます。

【おしらせ】
 それからすでに御存知の方は御存知でせうが、Yahooオークションに『山羊の歌』が出現。染み入り並本ですが、記番は50番代の「矢追順子」宛の署名入り。「様」が敬意を払ってゐる人向けの書き方ぢゃなく、くづしてあり、また女性には他に一人しか献呈本が確認されてゐないらしいのですが、この「矢追順子」が長谷川泰子(佐規子)の酒場で働いてゐた時の源氏名なのか、同僚の女給さんか誰か分からないのですが、記憶力減退で忘れたのか未知の名かさへ弁じ得ぬ自分も情けないです。
 初見の立花晶子訳『ムーミン』私家版とともに幾らまで上がるか、興味は津々。

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382やす:2008/10/13(月) 20:50:38
モダニズム詩人荘原照子聞書 第4回
【いただきもの】
 手皮小四郎様より『菱』163号を、
 國中治様より「文藝論叢」71号(大谷大學文藝學會)、および「四季派学会会報 平成20年春号」と、文芸同人誌「愛虫たち」Vol.74 を、
 鯨書房さんより「あほうかい」第一期完結となる12号をお送り頂きました。

 手皮様の連載「モダニズム詩人荘原照子聞書 第4回」ですが、此度は詩人の父親であり、軍人から野に下った漢詩人の活堂(梅一郎)について、「聞き書き」『続防府市史』『マルスの薔薇』の三資料によって光を当て、謎多き生涯を俯瞰しようする試みです。在支中の版行になる別集もあるらしいのですが、探索して得られた漢詩は一篇にて、

  暁山雲    荘原活堂

白雲湧起岫林間    ???? 白雲湧起す、岫(みね)と林の間
触石随風暁更[間]      石に触れ、風に随ひ、暁更(しづ)かなり
[間]識乾坤王澤遍      まま識る、乾坤、王澤(皇威)の遍(あまね)きを
油油不(于?)岸出青山  ????油油として岸(がけ)より青山(雲の謂)出づる????[間]=[門+月]

 訓読は管理人です。
 今回は写真がなく、著者自ら「臆断を糊としてつなぎ合わせ、脹らませ」と謙遜されてゐますが、本来伝記考察とはさういふ資料の突合せ・縫合作業にあるのではないでせうか。加ふるに「聞き書き」に於いては、縦令そこに誇張があったにせよ、それは当の詩人の、屈折した心情を窺ふ恰好の証言でもある訳ですから、貴重です。
 如何なる不始末によるものか軍籍を解かれ、「大陸浪人」を命ぜられ、のち地方新聞の主筆にもなったといふ、この父親の数奇な経歴ですが、しかし詩人の誇張があるにせよ、兄たちが激怒したといふ「マルスの薔薇」における表現上の諱忌といふのが、体制の批判にあるのではなくして晩年の父親のあられもない描写にあったのではないかといふ指摘が、作品を読む限り、なるほどそのやうにも思はれて参ります。
 モダニズムを弄する詩人の脚色といふものは、國中さんの私小説風創作において毎度私はひっかかってをります口ですので(笑)、ここは締めてかからなくちぁあなりませんけれども。

 さて、次回はその國中様からのいただきものについてじっくり。
 手皮様にはここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。



【付記】
 オークションの期限前夜にテレビで中原中也の特集番組があったせゐか、『山羊の歌』署名本は凾付なみの金額で落札されました。やはり献呈先の女性に理由(いわく)があったのかもしれませんが、よくわかりません。
 私は探求本だった宮澤賢治の手帖の復刻を入手。( 抄録復刻版は現在も購入できます。)「ムーミン」には手が出ませんでした(笑汗)。

383やす:2008/10/20(月) 01:43:11
高祖保書簡集
 700ページにも及ぶ活版印刷の『宮崎孝政全詩集』をたった120冊しか作らなかったことにより、鮮烈な印象を刻してデビューした金沢のプライベートプレス、龜鳴屋さんですが、今年になって再び世の詩愛好家へのプレゼントといふべき『高祖保書簡集』(2008.5外村彰編207p \3000)が刊行されたとのことで、遅まきながら早速注文しました。
 先輩詩人井上多喜三郎に宛てた書簡集で、自筆詩集『信濃游草』および田中冬二の自筆詩集『菽麦集』の翻刻を含んでゐます。田中冬二はのちに正式に四季同人にもなり、四季派を代表する詩人の一人に目されるひとですが、交友圏をたどると「四季」の詩風と多分にリンクする「椎の木」の詩人たちの名が陸続とあらはれてきます。なかでも高祖保は紛ふことなき一等星で、戦地での病歿といふ悲運が詩人を一層の高みで輝かせてゐる気がします。栞を書いてゐる石神井書林の内堀さんも未見の『禽のゐる五分間寫生』は、龜鳴屋同様、限定本の制作をよくした井上多喜三郎が彼のために刊行した小詩集ですが、なんと表紙の絵が「貼り絵」だったことが判明。それでいろんなバリアントがあったのですね。目下一番「復刻版」をつくってほしい詩集ですが「貼り絵」付きにしたら話題になるでせうね…。名古屋の詩人坂野草史の名まで出てきたのには吃驚しましたが、北園克衛、ボン書店、セルパンといった、つまり「四季」「コギト」に拠らなかった知的抒情詩人たちの人脈を窺ふ好個の資料として、外村氏による写真入りの説明も懇切。
 本日「月曜」ゆっくり時間を作って読みたい内容です。

(一部紹介。)
昭和16年7月16日消印 東京市大森区田園調布三ノ三七八 七月十六日 御禮 封書

多喜兄、
ただいま、いただきました。たしかにいただきました。羽榑く天使の訪れのやうに、六十羽の賑やかな「禽」が、タキサン、タキサンと羽おとをあげながら、飛びこんできました。上袋をあける間のもどかしさ、御想像下さい。そしてあけたをりのうれしさ。これも御想像下さい。
玩具の古風な貼り繪は全く多喜兄の独創として、日本一でした。すばらしいでしたさつそく開けた本を、子供部隊に占領されて困りました。全く貼り繪の魅力でした。やつとこさ、返して貰ひ、恐らく多喜さんの思ひやりでせう、貼らずに置いてある十冊ばかりを、家内とあれにしようか、これにしようかと、たのしく苦心しながら全部貼りあげました。何ともいへないうれしさです、なんともいへない、すばらしい試みです。きつと、これは評判になるであらうと思ひます。表題とその下の貼り繪の何ともいへないマッチした美しさ、これを貼るのは大変だつたらうと存じます。ありがたうございました、ありがたうございました。
多喜兄のうれしい心ばえが、なんともいへない魅力となつて一冊を覆つてゐます、他へおくるのが惜しいくらゐです。ゆつくり、一冊一冊の表紙をみてから、送り先の顔を考へ、それから、ゆつくり袋をこさへて、一羽一羽とびたたせようと思つてゐます。
本當にありがたうございました。本當にありがたうさん!です、感謝のほかありません。うれしさで胸がいつぱいです、希臘十字ができあがつたをりのよろこびを、八年ぶりで味はひました。
この第二子は、うんと評判になつてくれると自惚れてゐます。多喜兄の貼り繪がきつと評判にしてくれます。
あつく、あつく、あつく、御礼を、御礼を、御礼を

井上多喜三郎様 坐右
七月十六日
午后四時 保拝

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384やす:2008/10/20(月) 01:45:25
深尾贇之丞の作品集
 大正初年に口語詩の黎明を啓いた地元の詩人、深尾贇之丞について、わが職場のある岐阜市太郎丸で、その遺業を故郷の住民に知らしむための講演会が催されるらしい。主催者の深尾幸雄様より、これまで探索された岐阜中学交友会誌「華陽」と三高交友会誌「嶽水会雑誌」に所載の作品(明治34年〜明治44年)をもとに協力を求められ、私からはHP上でのこれら資料コピーの公開から、手始めにお手伝ひをさせて頂くこととなりました。以前訪ねて分らなかった墓碑も、なんと職場の目と鼻の先にあったことが判明、早速翌日出勤前に立ち寄り霊前に御挨拶。
 以前『漢詩閑話 他三篇』の紹介の項で触れましたが、後見人だった母方の伯父中村嘉市とは、進路や結婚をめぐってやりとりがあった筈で、現存するらしい詩人の未公開書簡の行方が気になるところです。

385やす:2008/10/20(月) 02:00:19
白壁の文士たち?
 さて大正末年に地方発の口語詩の旗揚げを真っ先に行ったのも地元中京地区、名古屋城下の詩人である御存知、春山行夫・井口蕉花・高木斐瑳雄・佐藤一英たちでありますが、彼らが拠った「青騎士」と、昭和初期に高木斐瑳雄が再び残党・新人を鳩合した「新生」。これらを中心に、文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸)で小回顧展が行はれることになり、このサイトで紹介してゐる高木斐瑳雄の アルバム写真など数点の資料協力をすることになりました(ポスターの「斐嵯雄」は「斐瑳雄」の間違ひです)。
 また仄聞するところ、愛知県立図書館でも雁行して1920〜1930年代のモダニズム詩人にスポットをあてた企画展が行はれるらしく、何やら名古屋・岐阜がいま熱い(笑)。
 本日は資料持参かたがた、今回展示される「青騎士」のコピーを特別に許可頂いたのでせっせと画像スキャン。これも近々に公開できればと思ってゐます。お待ち下さい。

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386やす:2008/10/20(月) 22:06:40
高祖保書簡集 2
月曜の一日、井上多喜三郎宛の『高祖保書簡集』を味読。

当時の詩壇について記した部分、例へばマダムブランシュ同人に椎の木の連中と仲の悪い人がゐて、椎の木にもずいぶん変なテオリシアン(理論家)がゐる、なんて発言(12p)は意味深でしたし、また岩佐東一郎『三十歳』出版記念会(1938.3)では、彼は中村千尾と立原道造の間に座ったらしいのに、立原道造についての言及が全くない(73p)。自身が編集する雑誌「苑」について、「只今の「四季」のやうに感じのよいゆとりあるものをこさへ」たいと抱負を語ってゐたこと(35p)を思へば、つまり意識的に云はなかった訳であります。この度の新修『立原道造全集』には「『暁と夕の詩』贈呈表(1937.12)」が掲載されてゐますが、高祖保の名は、高森文夫・三浦常夫とともに番外に挙がってゐるのに井上多喜三郎の名はありません。プライベートプレスの編集者としても、いかにもディレッタントが好みさうな詩集や雑誌の刊行を楽しんでゐた井上多喜三郎にとって、中央の俊髦詩人である立原道造と縁ができなかったことは、詩人として見切られたやうでもあり、淋しい思ひをしたに違ひありません。田舎住まひの年長の身ながら、正確な批評眼と若々しい詩心を持ち、心優しき人格者でもあった彼だけに、高祖保が配慮して言及しなかったのは当たり前かもしれません。

この本はさうして高祖保を語るだけでなく、彼を通してそんな井上多喜三郎の人柄を語る内容にもなってゐるやうです。なかでも「あげ魔・くれ魔」の綽名を髣髴させるプレゼントのエピソードには事欠かず、厚意に応へるべく高祖保の言葉を尽くした礼状がまた楽しい。本に限ってみても今や稀覯の名詩集『瑞枝』(28p)『夏の手紙』(65p)をはじめ、自分のために編集してくれた第二詩集『禽のゐる五分間寫生』(149p前掲)の贈呈に及んで喜悦は頂点をなしたと思はれ、言葉に尽くせぬ感謝が形となって、心づくしの手製詩集『信濃游草』(181p)に結実するところとなった訳でありませう。

心を許した先輩への手紙で、高祖保は心おきなく手足を伸ばし、肯綮に中る批評や縦横に遊ぶウィットを弄します。誌名変更する「マダムブランシュ」について、
「マダムブランシュがエスプリヌウボオへ転身とは、逆行のやうな感が致します。「エスプリヌウボオ」は字義こそ新しいとはいへ、ずゐぶん使ひふるしの俗おちのした字で、」
なんて、やっぱりさうだよね、と思ったし(30p)、多喜三郎主宰の雑誌「月曜」の、葉書アンケートなんかには脱帽です。

×貴氏の胸のポケットに今何が入ってゐますか 「「貴氏の胸のポケットに今何が入ってゐますか」の返事が入ってゐるだけ。」(95p)。
×春はどこから生まれるか 「木の股から生れるでせう。」 (107p)。

387やす:2008/10/29(水) 17:54:34
『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』
 津藩の碩学、齋藤拙堂の玄孫であらせらる齋藤正和様より、『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』影印版復刻本の御恵贈にあづかりました。一介の図書館員への御高誼に対しまして、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 ならびに齋藤様のエッセイ「昔の人の名前」(藤堂藩五日会会報より)も興味深く拝読。けだし江戸時代の漢学者の名前には難しい漢字が多いですが、由来は勿論どう訓むかといふことに思ひ至ったことはありませんでした。拙堂の「有終」といふ変はった字(あざな)は『易経』(謙は亨る。君子終り有り:終りを全うできる) に典故ある由。牧百峰や佐藤一斎の名前、「[車兒]げい」「坦」なども『論語』からとられたものかもしれませんね。
 また、頼山陽とお互ひを呼び合ふにおいて、齋藤拙堂が年長の頼山陽のことを「大兄」と呼び、私塾の先生である山陽が藩の督学=国立大学教授である拙堂のことを「公」と呼び、それぞれ一目置く者同士の、年齢と身分とを勘案した呼称となってゐることなど、面白いことに思ひました。「○○兄」と書かれるのをよくみますが、「兄」だけでは目上に対する礼儀に当らないのですね。

 國中様の論文紹介の一文は停滞中です。もうしばらくお待ち下さい。



『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』影印復刻 齋藤拙堂撰, 2008.10, [1,62,54,80,98]p.菰野町(三重県) : 齋藤正和編 私家版非売

388やす:2008/11/21(金) 03:55:03
『齋藤拙堂傳』『斎藤拙堂物語』
 今回の復刻本刊行にことよせて、齋藤正和様御自身の著書について残部をお訊ねしたところ、重ねて『齋藤拙堂傳(複製)』『斎藤拙堂物語』の寄贈をかたじけなく致しました。恐縮の至りです。ここにても厚く御礼を申し上げますとともに、現在『拙堂文話』を釈読中とのこと、完成を祈念申し上げます。ありがたうございました。

 さて、拙堂は24歳まで江戸藩邸で育った江戸っ子でしたが、後年幕府の儒官に招聘された際、これを断り、藩主が城外まで出迎へて喜んだといふ話が伝はり有名であります。しかし当時将軍拝謁の後、帰藩が聴されず足止めを食ったときに作った「客中書懐」に、

久絶功名念 久しく絶つ 功名の念
病羸何所能 病羸 なんぞ能くする所ぞ
官途熱如火 官途は火の如く熱く
心地冷於冰 心地は氷よりも冷たし
茗飲秋風榻 茗を飲む 秋風の榻
詩思夜雨燈 詩を思ふ 夜雨の燈
猶餘頭上髪 猶ほ頭上に髪を余して
人未喚為僧 人いまだ喚びて僧と為さず   (『鐡研齋詩存』巻九)

 とあり、また現存する掛幅では出だしが「久抱功名念」となってゐるさうです。正和氏は、
「「絶つ」と「抱く」とはどちらが本当だろう。この両者の差異は、功名心に燃える気持ちと、高齢や病気のせいで功名心を絶たざるを得ない残念な気持ちとの間の「揺らぎ」が示すもの」ではないかと解釈してをられますが(『斎藤拙堂物語』11p)、或は藩主への気遣ひが、私的な揮毫の「抱く」から、公的な版本の「絶つ」へと改めさせたのかもしれません。抱かなければ絶つこともできない訳ですから、どちらも本当なのでせう。ほかにも「善きかな」と揮毫を求められたら「ぜんざい屋」の看板だったとか、『斎藤拙堂物語』は、エピソードを交へて世に謳はれた文章をも余技となす真面目な人物像をわかりやすく説いた肩の張らない一冊。一方浩瀚な『齋藤拙堂傳』には身贔屓を排して資料を満載せる由。現在読耕を中断中の梁川星巌伝と併読してゆきたく存じます。

『齋藤拙堂傳』(絶版):
齋藤正和著 -- 三重県良書出版会, 1993.7, 427p.
齋藤正和著 -- 三重県良書出版会, [1993.7], 500p. 複製版5部

『津藩の賢人 斎藤拙堂物語』 : 斎藤正和著 ? 私家版(三重県三重郡菰野町大羽根園呉竹町15-2), 2004.10, 71p.
(2003-2004中日新聞中勢版での連載を纂めたもの)



 それから文化のみち二葉館の企画展「白壁の文士たち?」も始まったやうであります。明日の木下信三氏の講演は仕事で拝聴できませんが、11月22日には中部ペンクラブの詩の朗読会に久野治氏が参加される由、御挨拶に伺ひたいものです。とまれ会期中には一度伺って現場の雰囲気を紹介します。

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389やす:2008/11/22(土) 00:34:42
「浅野晃ノート」曠野の魂
山川京子様より『桃』11月号(No.633)を、中村一仁様より『昧爽』18号の御寄贈にあづかりました。

 『昧爽』の連載「浅野晃ノート」は、詩人が北海道勇払原野で展開した文化活動を丹念に追ってゐて、この地方とはたまさか御縁もできた私ですが、知ることのなかった発電所建設をめぐる穂別村の郷土史など、たいへん興味深く拝読しました。
 戦後日本の文化復興が、中央で華々しくアプレゲールによってなされる一方で、実際の生産現場にあった田舎の若者たちに、浅野晃のやうな戦犯扱ひを受けた文学者が信を得て、地域文化の指導者として遇されたことはもっと特筆されていい。宮澤賢治の世界を北の大地に移植すべく、旧友、理解者、弟子たちと交歓する様子がゆたかに描かれてゐて興味深い。

たきぎの早く燃えつきるのは惜しいが
その焔の色は朱くしてわが目を喜ばしむ    (・・・・・略・・・・・・)

蜂は海風のなかに時を忘れ
かぐはしき香りの中に時を浪費して惜しまず    (・・・・・略・・・・・・)

時を忘れてわれらは楽しく
時を失つてわれらは悔いる    (・・・・・略・・・・・・)

時の失はれるをなげくなかれ
われをおきていづくに時といふもののあるべき
                         (『文学組織』創刊号所載「たきぎの時」より)

 富山の高島高の詩集『北方の詩』の復刻本(昭和40年)に、どうして浅野晃が跋文を書いてゐるのか、奇異に思ったことも渙釈したし(『文学組織』は戦後高島が主宰した同人誌)、以前中村様がこの掲示板に書いて下さった「成田れん子」といふ歌人のことも、このたび初めて作品とともに、その数奇な生涯について知りました。山川京子様の「桃」を活動拠点としてゐたといふ条りを読むに至って、びっくりした次第。

金と虹の落ち葉が雲の奥に散る 日高の山の胸奥にちる

 かくも絢爛な詩情ならば、和歌に疎い私にも分かります。

 ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。


 さて、一方わたくしの感想文予告ですが、國中治様の御論文を頂いてから、もう随分時間が経ってしまひました。それで書いてゐても何だか煮詰まってきたので、一旦筆を休めることにしました。不取敢もやもやの状態で公開してみますが、冒頭では國中さんが昨年「立原道造記念館館報」に書かれた鈴木亨氏についての文章も読まずに、勝手なことを書いてゐます。同号には外村彰氏が「井上多喜三郎宛立原道造書簡」について触れた一文も掲載されてゐるみたいですが、それも知らずに書いた先日の掲示板の一文も、ですから大いに憶測です。何とも情けなく、御論考の「後半」到着を心待ちにするばかりです。

390やす:2008/11/25(火) 21:28:14
「白壁の文士たち2」 / 「1920〜30年代 愛知の詩人たち」
 文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸)での小回顧展「白壁の文士たち2 −春山行夫・井口蕉花・高木斐瑳雄−」に行ってきました。清潔なスペースに陳列された『東海詩集』(職場からの貸出品)などを観て、(こんな展示ケースがわが図書館にもほしい)と思ったり。また矍鑠たる久野治翁とも御挨拶が叶ひ、当日の朗読会を催されたの中部ペンクラブの方々からもお声をかけて頂きまして、たいへん恐縮いたしました。
そしてその足で、同時期に開催されることとなった愛知県図書館の展示「1920〜30年代 愛知の詩人たち 〜モダニズム詩を中心に〜」も観に行ってきました。

 こちらも小展示ながら、ここ数年の特別予算で収集されたといふ貴重な稀覯本が、惜し気もなく展示されてゐるのに瞠目しました。『月の出る町』も『晴天』も『青騎士』もあります。他図書館から借用された『赤土の家』が新刊本同様にビニールコーティングされちゃってる(!)のを見た時は、御挨拶頂いた司書さんとともに苦笑、そして公共図書館として著作権について多々考慮すべき部分もあったこと等、御苦労を伺ひました。

 たしかに著作権の現状では、本の表紙のデザインに対して、著作者とは別に装釘家の著作権が働くわけでありますが、人様の著作をキャンパスにして権利をふりかざすのは、やはり本末の転倒とも思はれ、写真集等を念頭においての措置なのでせうが、商業主義とは無縁の詩壇では一寸考へられない事態です。拙サイト内で掲げてゐる書影につきましては、個人の開設であることをよいことに、スキャナーによる精密画像、また撮影者に断りなく転載してゐる古書の書影写真が大分増へて参りました。これにつきましては、著作権法の理念が元来「文化の発展に寄与することを目的とする」ものであることを踏まへ、「色・素材・形状をとどめた表紙・函・帯および奥付の写真等もまた、確証されるべき書誌情報の一部ではないか。」といふ考へのもとに、戦前の稀覯資料に対して行はさせて頂いてゐます。
 更に、著作権者情報を募りながら「内容の公開」までさせて頂いてゐる、図書館でのテキスト確認も困難な絶版詩集についても、「詩集は詩人の墓碑に他ならない」といふ、詩人の御霊を顕彰する気持を以て、今後とも臨んでゆきたく思ってをります。
何卒あはせて御理解して頂けましたら幸甚です。

 さて、愛知県図書館でも催される11月30日の木下信三様の講演は、このたびも職場の行事ごとのため、拝聴できないこととなりました。残念でなりませんが、文化の日にあった二葉館での講演について、録音を聴かせて頂けさうですので、これを以て慰めにしたいと思ってをります。

会場の様子はこちら

391やす:2008/11/25(火) 21:36:12
「感泣亭秋報」第3号
 小山正見様より「感泣亭秋報」第3号をお送りいただきました。杉山平一先生をはじめ著名の人々からの原稿が並ぶのをみて、編集の御苦労とともに、書いて下さる人々の人脈といふのは、やはり書かれる詩人の愛され方によるものであることをあらためて感じた次第です。

 杉山平一先生の一文に「私たち、能見久末夫や太田道夫や塚山勇三らと違って、同人たちの推薦によって選ばれた大木実、中村眞一郎らの中の一人として、小山正孝が登場したのだった。」と、わざわざ垣根を作って区別して見せてあるのは、恋愛を詩にする手際についてだけでなく、そのやうな恋愛を実際にやってのけ、かろやかに四季のサロンの仲間にも入ってゆけた、才能に「育ちの良さ」と「したたかさ」も兼ね備えた山の手詩人への「嫉妬の思い」でもあるに違ひなく、杉山先生らしいなあ、と思はず微笑んでしまひました。

 また巻末「感泣亭アーカイヴズ便り」にありました、正見氏の八戸・弘前訪問記、ならびに小山正孝の父潭水が家元をつとめた「盆景」界の現状についての報告は、いまに四季派も「絶滅危惧種」になるんぢゃないか、といふ不安をもよぎらせました。詩人の青春を育んだ「津軽文化圏」が確固とした健在を示すなか、村次郎の実家旅館がすでに「「本丸跡」とでも記すしかない様子だった。廃墟になるのは簡単なことだと思った。」とあるのを読んでは尚更のこと、星霜移り人は去るの感を深くします。

 とまれ一詩人を顕彰する雑誌といふ意味では「小山正孝研究」といふ誌名でよいわけですが、さきの著作集たちにも「選集」の名は印刷されませんでしたし、これまた秋を誌名に謳って追善の意義を明確に感じさせます。ここにても七回忌に思ひを馳せ、厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

感泣亭秋報3 2008年11月13日(詩人の祥月命日)刊行 \500

詩 夕方の渋谷 小山正孝 2
小山正孝の詩 杉山平一 6
小山正孝が追求しつづけたもの 里中智沙 10
ソネット逍遥3 桃井隼 14
小山正孝の詩世界2 近藤晴彦 16
正孝あれこれ 比留間一成 20
詩集「逃げ水」を読み返す 杉本正義 21
旅立たれなかった『冬の旅』−小山正孝「雪つぶて」−甲斐貴也 22
小山正孝さんと岡鹿之助 伊勢山俊 24
小山正孝の見た紙漉町 三上邦康 25
「井田川」周辺 南雲政之 26
詩 確定 森永かず子 28
詩 私の愛するあなたは 大坂宏子 30
回想 小山先生のこと 春木節子 32
回想 小山正孝さんの思い出 富士原桃子 33
「ポンペイ」三篇由来譚 坂口昌明 34
感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見 43

392やす:2008/11/29(土) 15:01:45
山口正二詩集『夜光蟲』
 投稿フォームより戦前名古屋詩集のネット上の復刻について御案内を頂きました。早速リンクを張らせて頂きましたのでので御報告申し上げます。

【山口正二】『夜光蟲』1933/あざみ文藝研究會(あざみ叢書??第1巻)(名古屋)/24p/19cm並製/\0.20

 詩集も稀覯ですが、併せて公開されてゐる随想に、当時の同人誌の状況を窺はせる記述や、詩人たちとの交流がふんだんに盛られ、興味深く拝読しました。
 大正10年、白壁尋常小学校に入学した詩人は撞木町や東片端町界隈で育ち、市立第二商業学校を経て、都筑善雄と同人誌活動を展開。『名古屋地方詩史』によれば「薊」「楡」といふ詩誌に拠って、杉本駿彦、折戸彫夫、坂野草史らモダニズム詩人との通行もあった詩人と云ひます。昭和9年に徴兵で志を絶たれるも、戦艦「日向」に配属された海軍では抜群の珠算力を発揮。友人から送られてきた詩集『プルシア抄』や『ふるさとへの道』が没収された条りに思はず反応してしまった次第です(同舌門蚊 笑)。

 此度のテキスト再刊、惜しむらくは原本の詳しい書誌情報が不明なことですが、図書館にも所蔵がない本などは、画像で掲げられると、訪問者に詩集の雰囲気を「時代なり」に感じ取ってもらへるかもしれません。とりわけ孔版詩集といふのは、姿そのものに詩魂がこめられた手作りの記念碑であるやうな気がいたします。

 先日の二葉館における中部ペンクラブの朗読会で一言御挨拶させて頂いたことが御縁となったものと存じます。
 あつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。

393やす:2008/12/03(水) 10:00:12
『日本語が亡びるとき』
「いったいいつごろからだろうか。
 日本に帰り、日本語で小説を書きたいと思うようになってから、あるイメージがぼんやりと形をとるようになった。それは、日本に帰れば、雄々しく天をつく木が何本もそびえ立つ深い林があり、自分はその雄々しく天をつく木のどこかの根っこの方で、ひっそり小さく書いているというイメージである。福沢諭吉、二葉亭四迷、夏目漱石、森鴎外、幸田露伴、谷崎潤一郎等々、偉そうな男の人たち──図抜けた頭脳と勉強量、さらに人一倍のユーモアとをもちあわせた、偉そうな男の人たちが周りにたくさんおり、自分はかれらの陰で、女子供にふさわしいつまらないことをちょこちょこと書いていればよいと思っていたのである。男女同権時代の落とし子としてはなんとも情けないイメージだが、自分には多くを望まず、男の人には多くを望んで当然だと思っていた。また、古い本ばかり読んでいたので、とっくに死んでしまった偉そうな男の人しか頭に思い浮かばなかった。日本に帰って、いざ書き始め、ふとあたりを見回せば、雄々しく天をつく木がそびえ立つような深い林はなかった。木らしいものがいくつか見えなくもないが、ほとんどは平たい光景が一面に広がっているだけであった。「荒れ果てた」などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のように、すべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった。
 もちろん、今、日本で広く読まれている文学を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるであろう。私が、日本文学の現状に、幼稚な光景を見いだしたりするのが、わからない人、そんなことを言い出すこと自体に不快を覚える人もたくさんいるであろう。実際、そういう人の方が多いかもしれない。だが、この本は、そのような人に向かって、私と同じようにものを見て下さいと訴えかける本ではない。文学も芸術であり、芸術のよしあしほど、人を納得させるのに困難なことはない。この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人たちに向けて書かれている。そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。」水村美苗著『日本語が亡びるとき』(58-59p) 2008.10筑摩書房


 長い前説の最後にこんなことが書いてあるのですが、問題作と呼ばれてゐるらしいです。 西岡さんのブログで教へて頂きました。近頃『島国根性 大陸根性 半島根性』といふ金文学氏の比較文化論を読んで感心したところですが、慰められて悦に入ってゐると、ここではしっかり喝が入りさうな内容です。
 私なんかは、本文がなくとももうこの箇所だけでいい。感涙なんですけど(笑)、世界に興亡した各種言語について歴史分析をしながら、現今の英語(米語)圧勝状況に説き及び、いったいどんな結論が引き出されてくるのかハラハラしながら読み続けました。そして本来佳境に入るところなんでせうが、福田恆存の「印籠」が出てきて、却って人心地ついたやうな次第。このサイトも及ばずながら同様の趣旨を以て「国語の存亡」を憂いてをりますから。
 ただ、終盤に水村さんは「日本の国語教育は日本近代文学を読み継がせるのを主眼を置くべきである。」と口を酸っぱくして、三度も仰言ってゐるのですが、そこだけはちょっぴりガッカリしました。「日本近代文学」ぢゃ手ぬるいですから。読み継ぐべきは「論語」「芭蕉」など古典なんだと思ひます。走り読みのくせに重箱の隅を突いて恐縮ですが、178pの「危惧は危惧に終わり」は「杞憂に終わる」が正しいかもしれません。そんなところにも、福田恆存以降の戦後世代がすでにもう、なにかを享け損ねた気配さへ感じるのです。拙サイトの文章だって、ぜんたいがひどいものです。
 さきの金文学さんには『第三の母国 日本国民に告ぐ』といふ著書もあって、日本人の喪った数々の美徳のなかで、唯一顧みられてないのは「忠孝」だと仰言ってるんですね。よその国の人に江戸時代の文人の心得を教へられました。水村さんもきっと「忠孝」までいったら「なにそれ?」なんだと思ひます。私だって実はよくわからないけど太乙翁の軸にもちゃんとさう書いてある(笑)。良心を以て歴史の軋轢に苦悩する近代文学ぢゃ、「謙譲」以外の日本人の美徳は育たないと思ひますね。
                      (ひとり言につき、この項コメント不要です)

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394やす:2008/12/05(金) 00:18:19
漢詩詞華集
 最近の収穫から。いづれも日本の漢詩アンソロジーです。

『日本詩選』安永三年(1774)寛政六年(1794)再刻江村北海編 京都唐本屋吉左衛門ほか3軒刊 大本十巻7冊。江戸時代後期の漢詩ブーム幕開けを告げる一大詞華集。江村北海は主君青山侯が移封されたのに従ひ、郡上に47歳から五年間住み、その後も度々出張講義をしてゐる親美濃派(本当は田舎が嫌だったかも 笑)。「頼山陽家臣団」ができる一世代前の美濃の詩人たち(山田鼎石、宮田嘯臺ら)にとって、彦根の龍草廬とともに精神的支柱だった詩人です。


『日本名家詩選』安永四年(1775)藤元水晶編 京都山崎金兵衛刊 小本七巻1冊。藤元水晶は南宮大湫の高足で、安永元年に35歳で亡くなった美濃詩人の俊穎。つまりこれは遺編著であります。『日本詩選』に先立って企画されたにも拘らず、こちらの袖珍版は(おそらく)編者の夭折によって刊行が遅れ、江戸の出版も未だ京都には及ばなかったのか、こちらも寛政10年に再版が出てゐるのですが、一時代の権威宗匠が編んだ浩瀚な詞華集ほどには評判が残らなかった模様です。双方の選詩センスについて、はやく語れるやうになりたいですね。序跋をup しました。


『名家詩選』明治二十八年(1895)太田淳軒(才次郎)編 東京東雲堂刊 文庫版1冊
江戸時代が終はって社会から見捨てられたはずの漢文ですが、どっこい新文化の息吹のなかで後継者の無いまま空前の盛況を博したのも、実はこの明治時代でした。遺稿詩集だけでなく、活字によるこのやうな先人詩集の携帯本も各種刊行されたやうで、今では読む人(読める人)がゐないので簡単に手に入ります。しかし人選を見る限りこの本も江戸漢詩人を総決算した感のある一冊です。

ほかにも、別集(個人詩集)をもたない牧百峰の作品が読める『天保三十六家絶句』天保九年(1838)の端本をやはり破格で購入。所載の三十種(巻中17〜21丁)をupしましたのでご覧ください。

京寓遇梁公圖自西遊歸見過賦贈
烟鎖春城籠暖香 小留且勿促歸装 故園松竹陰長在 不似櫻花開落忙

京寓、梁公圖(梁川星巌)の西遊より帰り過ぎらるに遇ふ、賦して贈る
烟は春城を鎖して暖香を籠む 小留かつ帰装を促すことなかれ 故園の松竹、陰
は長く在らん 似ず桜花の開落の忙しきに

遅遅として進まぬ『梁川星巌翁』の伝記読耕、やうやく西遊から美濃に帰るも臀
の温まらぬうちに京へ出たところです。

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395やす:2008/12/05(金) 20:36:49
扶桑書房一人展目録
 扶桑書房さんの一人展目録が到着。今年もカラーページ盛り沢山。書影が掲げられてゐるのは、泉鏡花ほかの高額本ですが、眼福は井伏鱒二の『随筆』。山本信雄の詩集『木苺』の意匠の元となった本であります。また、つい先日ガラスケースの中にみた『赤土の家』は、ビニールコーティングされてなかったら(笑)40万円です。
私は去年同様、当日会場の開館時間と閉館後の飲み会が楽しみ。テロと金欠が起こらないことを祈ってゐます(汗)。

「第2回 扶桑書房一人展」
日時  2008年12月23日(祝)12時〜18時
場所  東京古書会館(東京都千代田区神田小川町3-22)地下1階

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396やす:2008/12/17(水) 23:38:43
梁川星巌の手紙
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート (閑人専用)

 梁川星巌の伝記と全集を机上にでーんとひろげ、ひきつづき『星巌集』の版本を拾ひ読みしてゐます。いな、詩を読むといふより、星巌の詩を通じて中国の故事を勉強してゐるといった方が正しいです。不審に思ったことを調べるのは、いまや漢和辞典よりさきにgoogleに頼る有様。様々な賢者隠者仙人詩人の名と字と号が、次々に現れては覚えられず忘れられてゆくのですが(笑)、肩の力を抜ける場面もあって、食べ物やかみさんが出てくると、俄然生彩を帯びてくるんですね。版木で摺られた漢字の字面から直接ウィットやユーモアを感ずるのは、時を超えて鮮烈かつ何とも云へぬ温かい読書体験には違ひありません。

 食香魚
芙蓉紅浅雨初凉 [魚發]々銀刀落夜梁 一段人生快心事 香魚時節在家郷

 香魚を食ふ
芙蓉、紅浅くして雨初めて凉し。溌々たる銀刀、夜梁に落つ。一段人生快心の事。香魚の時節家郷に在り。


 旅夕小酌示内
燈火多情照客床 残瓢有酒且須嘗 又労袖裏繊繊玉 一劈青柑[口巽]手香

 旅夕小酌、内に示す
燈火多情、客床を照す。残瓢、酒有り、しばらく須らく嘗むべし。また袖裏の繊繊玉を労すれば、一劈の青柑、手に噴いて香ばし。 (繊繊玉・・・勿論おべんちゃらです。)

 さて美濃大垣の田舎には金森匏庵といふ後輩がゐて、旅先から星巌にいいやうに使はれてゐるのですが、何とかを送ってくれだの、誰々の書を斡旋してやらうだの、さういふ物に即した細々した消息を記した手紙が、全部遺ってゐるんですね。地元産の奇石を二人で欲しがった結果、値段がつり上がってしまったことを愚痴ってみたり、古書の購入を依頼して「しかし五両弐三歩ならば、尤も妙に御座侯、・・・(されど) 実は六両にても高き者には無之侯」なんて、金払ひの未練がましいところは、全く私と変りません(笑)。
 さらに「頼氏は口腹家ゆゑに一度話し申し侯ことは一向に忘れ申さず候につき、困り入り申し侯。」って云ってますけど、山陽のやうな駄々っ子でないだけで、私は星巌先生の方が食ひしん坊だと思ってます(笑)。如亭先輩には敵はないかな。
 そんな当時の、180年前の今月今夜の手紙も引いてみました。

 梁川星巌書翰(金森匏庵宛 文政11年12月12日)
峭寒御勝常奉賀侯。小生無事に勤業仕侯、御放念可被下候。扨て石之義、(郷里の)舎弟より、追々かけ合申侯処、先方にて申候は、大垣魚屋嘉兵衛(金森匏庵)より至て懇望にテ、金三両より下にては、売り不申侯旨にて、初よりは、金壱両斗り価をあげ申侯故、舎弟も大に困り、小生方へ右之趣き申越侯。無拠右之価にて買取申侯。小生も買かけ申侯物故に、三分や壱両之事は思はれず、右之段御推察季希上侯。来春は、先便に申上侯通り、伊賀に遊歴、帰途は必御地に向、曾根へかへり申侯。僅の石にて、交際に隙を生じ侯てはあし(悪)く、石は来春迄、小生あづかり申置、何か様(いかさま)共可仕侯間、左右に御承知可被下侯。
○明史(『欽定明史(1739)』4帙40巻?)之義、急に御謀り之程奉希上侯、今年中に、小生方に参り申候様奉願上侯。
○珊瑚之義、急に御はからい奉願上侯、何卒急便に御返書奉願上侯。
○餘清斎法帖(王献之の摸刻)、御望も無御座侯ば、見せ本は御返し可被下侯。
○此間名硯出で申侯、価は金拾五両と申し候得共、此節之事、十両位には可仕侯。厚さ貳寸五分斗りにて、紫端溪、うらに眼三つ御座候。何分御返書急々奉願上侯。
西征詩不殘出来申候。委曲は後便に付し申候。草々不喧
 十二月十二日
                          緯上
煙漁老兄


 梁川星巌書翰(金森匏庵宛 文政11年12月17日)
十家詩話(『甌北詩話』)、尾州に無御座侯はば、此方より差上可申侯間、御申越可被下侯。本月十二日発御手帖接手、益御勝常之由奉賀侯。明史の義、御懸合被下侯処、六両位よりは引不申との事、何卒六両にても不苦侯間、急に御買取の程奉希上侯。しかし五両弐三歩ならば、尤妙に御座侯、明史は小生読かけに御座侯に付、何卒して求め置度、何分今年中に落手仕侯様急に奉頼上侯。実は六両にても高き者には無之侯、此節価少々あがり申候。珊瑚、餘清斎法帖慥に落手仕候。繻子之義は先御預り置可被下侯。其内売候はば御売り可被下侯。萬一一向に望む人も無御座候はば、御戻し可被下侯。〇細香よりの繻子之切、並手帖御伝達、慥に落手仕侯。○今春御托し横巻下の巻も、年内に落成可仕侯、後便には必ず差出し可一申侯
○中島(棕隠)先生(美濃遊興)の義、委細承知仕侯。実に遊歴中之拙計(不詳)可発一笑。帰途彦根へ立寄申候様子、一昨日帰京、小生方へ今朝参り申、暫く話し帰り申侯。
○頼(山陽)氏へ鴨を御送りの由、頼氏の横巻も、急に謀(計ら)ひ可申侯。頼氏に鴨御贈之節、別に一つ御求め可被下侯。是は小生より価を出し可申侯。小生も頼氏に鴨を約束いたし置候処、時々催促にあひ困入申侯。其かはりに、横巻を謀り可申候。頼氏は口腹家故に、一度話し申侯事は、一向に忘れ不申候に付、困入申侯。
○石之義、舎弟より度々かけ合申侯様子なれ共、彼理九郎(谷利九郎)、なかなかむつかしき男にて、兎角かたつき不申困入申侯。
○全唐詩之義、今一往高田梅二郎へ御かけ合可被下侯。何れ一帙は上木いたし度者なれ共、先づ半帙にても口あけをいたし度、何分急に御かけ合可被下侯。全唐詩の十両と申す本も、此方に引とどめ、吉治方にあづけ置申候。年内無余日寒気之節御自重奉頼侯。何分明史之義は、急に御かけ合、御越し奉頼侯、其かはり何にても又々御世話可申上侯。猶重便に期候。草々不一
 十二月十七日
                         梁緯拝上
煙漁老兄 文案下

 今月号の「日本古書通信」でも誠心堂書店の御店主が解説してをられましたが(連載「江戸の古本屋」)、「見せ本」といふのは、見計らひの為の見本のことで、仕官せず生計を立てることができるやうになったといっても、詩人は自らの潤筆料だけに頼る訳にもゆかず、講詩・校讐に加へ、書画骨董の斡旋まで何でもしてゐたんですね。

397やす:2008/12/21(日) 08:33:53
御礼2件
 『昧爽』の山本直人様より『四季派学会論集』拙論の感想に添へて、紀要抜き刷り「龜井勝一郎と敗戦--自伝『我が精神の遍歴』の成立背景」(東洋学研究 45号,2008)、「戦争と信仰--戦時下における龜井勝一郎」(同40号,2003所載)をお送り頂きました。ありがたうございました。
 御論文の中で冒頭に表明される「(戦争に)協力したとされる文学者の中から逆説的な抵抗を導き出すことが後世の我々のなしうる唯一の責務」といふ姿勢。「逆説的な抵抗」といふと保田與重郎の「イロニー」を思ひ浮かべますが、「日本浪曼派」に参加した亀井勝一郎にもさういふ上方文化的な屈折があったのかどうか、太宰治しか読んでゐない私には、氏の根底にも屈折といふより責任感がデスパレートに、出自に対する贖罪意識を伴って生真面目に蟠ってゐるものと予想するのみですが、とまれ当時の日本が掲げる建前理念を危なっかしく研ぎ澄ませてみせることで、非政治的な彼岸に精神の自由を確保しようとしてゐた「青春群像」のひとりだったことでは、一致してゐるやうに思ひます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 さて、文化のみち二葉館で催された小展示の際に提供した、高木斐瑳雄の写真類ですが、一個人が所有する筋合ひのものではないため、相談した結果、このまま二葉館が保管・寄贈の労を執って下さることになりました。資料に一番愛情をもって下さる名古屋近代文学史研究会の方々の意向も伺ひ、しかるべき展示スペース整備に向けて、最終的には市でも県でもどこでもよいので最善の場所に収まってくれたらと念じてゐる次第です。予て懸案だったことが片付いて、ホッとしてをります。

398やす:2008/12/26(金) 00:13:40
上京記
 この週明けに上京、田中克己先生の実家へ久しぶりに御挨拶に伺ひ、昔のアルバムや手紙をお借りしてきました。文学者関係のめぼしい来翰は、かつて大垣国司氏が持ち去り行方知れず、残りも古本屋に売り払ってしまったことは、生前本人から直接伺ってゐましたから、このたびの選別の際、手紙の束から保田與重郎と堀辰雄の会葬案内状が出てきたのには吃驚しました。売ったりする筋合のものではないですが、しかしほかに文学者関係で残された葬儀案内はなく、つまり二者が先生にとってやはり特別の存在だったこと、また奇しくもこれが四季とコギトの中心人物の終焉を示す即物的な資料でもあってみれば、これも御縁といふのでせうか、お土産に頂けることになりました。封筒にはそれぞれ(おそらく先生の手で)保田氏からの礼状(昭和55年)と、堀多恵子氏筆の年賀状(昭和26年)が収めてありました。保田與重郎の田中克己宛書簡といふのは、見るのも初めてでしたし、礼状葉書ですが、これまでに買ひ戻し得た 伊東静雄、 三好達治からの二葉と並べてみれば、些か感慨無量のものがあります。
 ほかの手紙も年末年始にゆっくり拝見するつもりですが、まとまった分量で残されてゐたのは、恩師和田清博士(1890年11月15日 - 1963年6月22日)と実父西島喜代之助(1883年2月11日 - 1961年8月20日)からのものでした。学校時代の先生や父親から私信などもらったことのない私にしてみれば、これまた驚きでしたし、晩年まで大切に保管してをられたことに、あらためて師の人となりをみる思ひです。
 御遺族の皆様および埜中さまともお会ひでき、キリスト者だった先生夫妻をクリスマスの時期にしのぶことができたことが何よりの追善となりました。年末恒例となった「扶桑書房一人展」にも楽しく参加、神保町での収穫とともに胸を一杯にして帰ってきた次第です。

よろこびていみじきはふり訃らすふみいだきかへるをしは聴せるか

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399やす:2008/12/31(水) 08:51:40
大晦日
 毎年暮れのニュース「今年の漢字」は「変」ださうです。私事でも父が死んで変動の一年でした。般若心経と論語の素読に親しむやうになり、章句が口を衝いて出るほど馴染んできたこと。これなんかも日常の変化かもしれません。論語から多く引いてゐる『漢文法基礎』なんかも再びトイレで読んでゐます(笑)。
 書斎に掲げられた「黄巒書屋」の扁額と村瀬太乙の屏風。陋屋に於いて吾が居住まひを正してくれるやうになった風変りなコレクションです。また梁川星巌の伝記を読みはじめ、詩人観が親しみあるものに一変。著者伊藤竹東先生箱書の星巌掛軸や『西征詩』を入手できたことも、併せて今年の収穫と呼ぶものと云へませう。

 さてこの年末は、田中家からの借用物の検分をしながら、DVDで全24枚組といふ、漢字学の泰斗故白川静博士の文字講話なんぞも、折々拝聴してゐます。漢字のなりたちを語って毎回話題にはかならず日本語と日本文化への想ひを添へられ、日本が神の国であることや、また昨今騒がしい歴史観についても一言、私見を開陳されてをられます。真に尊敬すべき見識に感銘を深くするばかり。戦前世代最後の碩学の遺言といふべき、渾身の一節を引いてみます(コメント不要です)。

 なほ忌中につき年始の御挨拶は控へさせて頂きます。皆様にはよいお年をお迎へ下さいますやう。今年も一年ありがたうございました。

『DVD白川静文字講話』 第10回「戦争について」より
 最近わたくしは一寸いろんなものを読む機会がありまして、孫文のものなんかを読んでをったんですね。さうしますと孫文が、丁度辛亥革命の翌々年ぐらゐであったかと思ひますが、犬養木堂が逓信大臣になったときがある。そのときに孫文が木堂にあてた手紙がありまして、これ大変おもしろい手紙であると思ひまして、わたくしちょっと控へてきたんですが・・・一寸そこ読み上げますね。大変長い手紙なんでありますけれども、要するに中国がどういふ風になるかちふことでありますけれども、その時孫文はすでに大統領になってをる、辛亥革命の翌々年ぐらゐであったかと思ふんであります。「この四億の人間を奴隷化する力をもつものは、必ず全世界の覇権を握ることになります。そこで列強ははじめ中国を併呑しようとしましたが、他の列強に阻まれました。」といふやうなことが書いてあるんですが、これは辛亥革命当時、中国にをりましたフランスの社会学者、そのひとが辛亥革命の状態を、そのまま書いたものがありましてね。その中に「今の中国の状態はまるで洋菓子をナイフでさくやうに、西瓜を割るやうに分割占領することは容易である。しかし、さういふ場合に、日本が蹶起してこれを阻むといふやうなことがあっては・・・といふやうなことを恐れて、列強は手を出さんのである。」といふやうなことが書いてあるんです。多分それは、中国で生活をしてをったそのフランスの社会学者の実感であっただらうと思ふんですね。だから孫文も、この中国を分割支配するといふ調子で、当時イギリスやフランスは非常にたくさんの借款を清国に供与して居りましたからね、それの代償としてここを欲しいといふ風にしてとるとすれば、あるいは分割は容易であったかもしれん。しかし、日本が日露戦争において示したやうな、ああいふ風な力を見てをるから、列強は手控へてをるんだといふやうなことを、孫文がこの手紙の中で言うてをるんです。 しかしこのときに、孫文があとにつけ足して言うてをる言葉はですね、実は日露戦争は日本がアジアのために戦ってくれた戦争である、アジアの民はすべてさう思うてをった。だから日本がもしあの戦争を義戦として、アジアのための戦ひとして、終始そのやうな行動をしてくれたならば、我々は東方の君子国であるところの日本を、我々の盟主として、他の勢力に対抗することができたであらう。しかるに朝鮮を併呑するといふやうなことは、痛恨に堪へぬ遺憾事である。これによって日本はあの大きな犠牲をはらった日露戦争の戦果を、悉く失うてしまった、といふことを言ってゐるのです。そして今からでも遅くない、泥縄式といはれてもいいから、この問題を解決しなさいといふことを、孫文はいうてをる。
 これは大変長い文章で、いま御紹介しただけでは意を尽くさんのでありますけれども、おそらく孫文だけでなしに、当時のアジアの心ある人々が、皆そのやうな気持であったんであらうと思う。もし日露戦争を日本が、アジアのための義戦として終始することができたならば、今日の日本のあり方は余程変はって居ったであらうと思ふのであります。また今日においてもなほ、そのやうな認識のもとに、戦後のさういふ歴史を考へなほすことができるならば、今日のやうないろいろむつかしい、アジアの内部で、我々が最も将来頼りとしなければならんといふやうな国々からですね、不信をつきつけられるといふやうなことはなかったであらう。これは孫文がまことに痛恨の極みであると言うてをるやうに、わたくしも痛恨の極みであるといふ風に考へてをります。
 今日の問題は、単なる教科書問題としてね、手先で片付けられるといふ問題ではありません。やはり歴史の認識の基本に立って、いったい戦争といふものはどういふものであるか、一体日本はなぜロシアと戦ったのか。戦ふ理由は何にもなかったんです。日本が直接的にはね、何にもなかった。当時ロシアはすでに旅順・大連に権利をもち、満州をも殆ど支配下におき、朝鮮には軍備を禁止して、威嚇的にですね、南進の傾向を示して居った。そのやうな状態は、私は呉大澂といふ清末の金文学者が居ります。『かく斎集古録』という大きな書物を書いた金文の研究者で、わたくしは呉大澂の書物をいろいろ読み、彼の日記も読みました。彼は満州に居って、ロシアのさういふ南進勢力に対して、非常な努力をして戦ったひとです。境界線の画定なんかでもやり直しをさせて、そこに銅柱を立てて、彼が得意とする篆書でこれが境界線である、といふやうなものを建てて、ロシアに対して、なほ低抗するといふやうな気概を示した人です。しかし彼の日記には、しばしば朝鮮をめぐるロシアと日本との暗闘、といふやうなことが見えてをりました。
 日本は本来は満州に兵を出すべきではなかった。出す以上は義戦として戦ふべきであった。もしさうすれば、それからのちの歴史はたいへん変はってをっただらうと思ひます。現在の教科書問題は単なる教科書問題として、何故そんなに拘るのかといふ風に思はれる方も多いであらうかと思ひますけれども、私は孫文のその手紙をみましてね、向ふの有識者がどのやうな気持で当時の日本を見てをったのたか、といふことを考へますと、そののちの軍部の跳梁は、まことに見るに堪へん遺憾なことであったと思ふ。軍部を批判した者は、齋藤隆夫でも(議員を除名され)、中野正剛でもついには自殺にまで追ひやられた。尾崎咢堂でも野に下るといふやうなことで大変圧追をうけた。当時それを批判するものは、殆ど満足に安全を保障されるといふ状態ではなかった。かういふ風なことが日本の謂はば国運をかたむける、日本の国の行手を大きく歪めてしまった、さういふことになったのではないか。
 ま、戦争といふ課題でございましたから、さういふことをも含めて、今日の問題を考へ、将来の問題を考へるために、韓国にしましても中国にしましても、将来これは日本の与国として、日本の同盟国としてね、必ず手を結ばねばならん国なんです。わたしは特に漢文漢字をやってをりますから、さういふ漢字文化圏といふ歴史的な意味あひからも、この文化圏のもつ歴史的な意味を、失ふべきではないといふ風に考へてをる。この文字講話をしてをりますのも、一つはさういふ漢字文化圏の復権といふことを、考へてをるからでありますが、今日はたまたま戦争といふ主題でお話をいたしましたので、どこから日本の軌跡が狂うてきたのかといふことを考へるために、わたくしが一応考へてをりますことを最後に申し添へる、さういふことでお話を結びたいと思ひます。ありがたうございます。

400やす:2009/01/01(木) 22:09:34
『朔』芥川瑠璃子追悼号
 今年もよろしくお願ひを申上げます。

 八戸の圓子哲雄様より『朔』164号芥川瑠璃子追悼号を御寄贈いただきました。
 実は田中克己先生の実家からお借りしてきた昔のアルバムのなかに、このたび口絵写真に採られた詩集出版記念会(1960.4.29)の写真や、夫君比呂志氏とのスナップ写真(1954.7.9)がみつかり、このたびの特集をひとしほ親しく感じてゐます。また、坂口昌明氏が書いてをられますが、戦前「四季」での「葛巻ルリ子」時代には、立原道造が彼女の職場だった文芸春秋社を訪ねて行き、不在だったことなんかもあったと云ひます。或はどこかで読んで忘れてゐるのかもしれません。近頃忘れっぽくていけません。
 連載中の小山正孝未亡人、常子氏のエッセイもさうですが、愛を歌ふ詩人に、心やすらぐ文章を書いて寄せてくれる奥さんが居ったりすれば、これは夭折詩人の青春とは異なる、何か青春といっても琥珀色の気圏が雲蒸される訳で、まことに羨ましい限りに存じます。
 夫人の御冥福を祈りますと共に、ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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401やす:2009/01/02(金) 07:31:25
『初版本』終刊号
 予約の書誌雑誌『初版本』が晦日に到着、終刊号とのことで驚きました(第4号)。さういへば創刊の辞もなければ今回終刊の辞もなく、最後に扶桑書房東原武文氏が、新旧古書番付を引いて人気本の推移を論じてをられますが、初版本市場の変遷と同時に現在の不安材料を語る内容となってゐるのが、少しさびしく感じられました。ただ内容は此度も愛書家が目を細めるものばかりで、とりわけ管理人にとっては、JINさんのモダニズム詩人追跡、そして「詩集の掘り出し達人」のインタビュー記事は興味深かったです。ときに私のことを詩集コレクターのやうに云ふひとがありますけれど、私なんぞは自身の所蔵情報をネット上に開示することで、労なくして新しい情報を得ようとする横着人間(ただの貧乏人)にすぎず、彼のやうに丹念に地方の古書店をめぐって、一旦おさめた奇貨は深く蔵す、得意気に喋って取り上げられるといふやうなつまらぬ禍を避けるのが、本当のコレクターであります。
 今回は終刊号でもあり、特に乞はれて其の極く一部を紹介させられてしまった、といふことでせうね。かつて書庫を親しく拝見した記憶も蘇り、垂涎の書影と体験談は眼福もしくは目の毒です。あ、早速「日本の古本屋」にいって「故国の歌」で検索してるひと誰ですか(笑)。
 編集に関はった皆様方には、たいへんお疲れさまでございました。

『初版本』第4号(終刊号) 2008.12.31人魚書房刊 予約限定300部刊行 \1.000
表紙の本 うねうね川 1
芥川と太宰の識語本 川島幸希 2
三島著書目録稿番外抄 山中剛史 20
小松清の著書 樽見博 29
鏡花外装二題 34
詩集を掘り出す 大地達彦 36
荷風初版本拾いの記 鈴木光 46
清方と英朋の木版口絵 56
耄碌堂主人贋作噺 梶川良 60
陰の珍本あれこれ 山口哲司 66
藤村青一 知られざるモダニズム詩人 加藤仁 78
近代古書目録の旅 「太秦文庫古書目録」 76
雑本蒐書録 其之肆 彭城矯介 86
数寄者・楠瀬日年のこと 平田雅樹 92
文学史的評価と古書価 東原武文 100(当HPが7年前、戯れに選定した当時の「昭和初期抒情詩集番付」はこちら。今なら変更もありますが、一寸さういふおちゃらけたもの作る気力が涌きません。)

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402やす:2009/01/05(月) 22:06:12
更新報告
 「田中克己文学館」に御遺族からの借用資料の掲載を開始します。画像が巨きいので、ブロードバンドでない方には御迷惑をおかけいたしますが、高校大学時代の集合写真など、研究者にもおそらく初めて御覧になる資料が多く珍しからうと存じます。細部に至るまでごゆっくり御覧ください。(無断転載はお断りいたします)
 今年の喪中正月は、そんなこんなでスキャナーとサイト更新作業に明け暮れ、読書は全くお留守になりました。拝聴(拝観)してをりました白川静博士の文字講話DVDは、最後の第20回「漢字の将来」に於いて再び日本の歴史を憂へ、東アジアに於ける「漢字文化圏共同体」再構築の夢が語られてゐます。94歳とは思へぬ志操と、そして四六駢儷体の詩文を朗々と暗誦される記憶力には驚嘆です。共産主義と物欲主義(アメリカニズム)、さらに一神教や戦後教育に反省を求め、礼節と仁による平和を掲げようとする、そんなところが斯界に限らぬ敬慕の対象となってゐる所以なのでせうね。

403やす:2009/01/15(木) 23:17:21
『菱』164号
手皮小四郎様より『菱』164号の御寄贈に与りました。荘原照子の伝記もいよいよ「少女詩人」時代に入り、謎の多い文学的出発を聞き書きと文献と両面から解き明かされてゆくのを興味深く見守ってをります。投稿詩にみられる少女らしい淡い同性愛が、やがて告白しないまま失恋の孤独をかみしめる乙女の心情へと成長してゆく様を見、また母から英語、父から漢学と、あのモダニズム詩を書く教養を殆ど家庭学習により授かったといふ事実を知って、本人の詩人的な素質とともに、旧家の精神的な財産といふのはものすごいものだと思ったことです。次回は初恋のゆくゑと、それからそろそろ交友関係にも若い詩人達の名も現れてくるのでせうか。たのしみです。ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。

404やす:2009/01/15(木) 23:18:42
『近代文学 資料と試論』第9号
 碓井雄一様より『近代文学 資料と試論』第9号の御寄贈に与りました。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 今回の碓井様は、師である林富士馬を、そのまた師であるところの伊東静雄との関はりに於いて論ぜられます(「林富士馬・資料と考察 6伊東静雄と響き合う詩想」)。直前に掲げられた勝呂睦男氏の回想文「忘れがたき年月」が浪曼派詩人林富士馬の面目を明らかにしてをり、碓井様の文章に余韻を引いてゐる様を羨ましく拝しました。師に連なる先輩後輩の交りに薄かった私に殊更さう思はれ、「無益な遠慮と虚勢」を「含羞と自恃」のやうにも思ひなしてゐた過去を恥づかしく回想いたします。
 冒頭、「林富士馬は伊東静雄が最も愛し続けた詩人/知友であった。」と記されてゐることで私の頭に去来するのは、富士正晴氏が何かで書いてゐた回想で、東京で林富士馬と初対面の折、好青年の林氏に対して傍から見て度の過ぎる先輩風を吹かせてゐた伊東静雄が、あとで「あれ位でいいんです」とか嘯いて富士氏を呆れさせたといふ逸話です。富士氏は今回碓井様が抄出の文章中でも「『誕生日』について云ふのに「試論」一篇だけの話をした伊東静雄はやはり眼光の鋭い、たしかな人だったといはないわけにはゆかぬ」なんて書いてゐるのですが、「一篇だけ」なんて語気は伊東静雄の意を見透かすものでありませう。愛情と優位とを確信する相手に対しては、時に不遜の姿で自恃を迫る、また人前で故意にさういふ挙に及んで欝屈の片鱗を垣間見せる人だったんだらうと思ひます。母親に対しても「おまへは黙っとれ」とか怒鳴った事が記されてゐますし、百田宗治も伊東静雄のことを「自恥を知って」ゐるからこそ「きっと不敵なものを蔵してゐる男で、どうかすると傲岸無礼の挙動が平気で行へる種類の人物」と評してゐます。一中学教師の社会的身分と等身大の詩人とみる向きに対して非常な敵意を抱いてゐたと、こんなことは愛読者には今更なことですが、碓井様へ至るいみじき三世代の師事を鑑み、あらためて書き添へてみます。
 晩年の林富士馬を迎へて発刊された同人誌「登起志久」から数へれば11冊。終始篤実の気によって領せられてきた無償の営為も次回の「満願成仏号」を以て終刊となる由。本当に御苦労さまでした。

405やす:2009/01/15(木) 23:22:52
更新報告 続き
 山川京子様主宰の『桃』一月号(Vol.56(1),No.634)の御寄贈に与りました。山川弘至記念館増築に係る地鎮祭の祝詞を、桃の会の野田安平氏が撰してをられます。ここにても会の皆様にはあらためて御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 さて、物を納める蔵も大切ではあるのですが、歳月が日々損なってゆく資料の保存を、なるべく早い段階で画像に於いて留めることが、不取敢自分に出来る精一杯の供養なのではないかと思ひ、昨年「田中克己アルバム」の公開を発心しました。御遺族の全面的な協力を賜り、本日先生の17回忌にあたり、更新を一通り終へることができましたことを、茲に謹んでご報告申上げます。
(なほ、集合写真においてはお名前不詳の方も多く、お分かりの方にはメールにてこっそり耳打ち頂けましたら幸甚です。)

406やす:2009/01/17(土) 18:14:14
初荷のキコー本
 旧臘は、上京した折に見つけた村瀬太乙の初刊行書『菅茶山詩鈔』(嘉永6年序)が「買ひ納め」でしたが、本年の記念すべき「初荷」もまた、長戸得齋の紀行文集『北道游簿』(天保10年序)と、津田天游『天游詩鈔別集』(昭和2年)と、御当地美濃の漢詩文集となりました(ニコニコ)。『北道游簿』は、かつて明治古典会七夕古書入札会で美本を手に取るも、やりすごした紀行本の稀覯本。冒頭にわが町長良村の風景も述べられてゐて、佐藤一斎は跋文で、歴史がてんこ盛りのところが凡百の紀行と違ってゐて宜しいなんて云ってますが、ここはやはり当時の郷土の風景をもっと報告して欲しかったところ。『天游詩鈔別集』は、『美濃の漢詩人とその作品』(山田勝弘著)のなかで、後半の一章を割いて詳しく紹介されてゐる詩集。序文を書いてゐる矢土錦山の扁額を入手してゐることもあって、気になってゐた詩集です。幸運にも二冊とも入手が叶ひ欣喜雀躍。昨日の五反田展『堀辰雄詩集』(デッサン欠\40,000)は残念ながら外れたのですが、これ以上望んだらバチが当ります(笑)。

『北道游簿』(冒頭)    美濃 長戸譲士譲著
文政己丑[12年]季夏、余旧里に帰る。先塋を掃展し、勢・尾間の諸友を訪ふ。還って岐阜に至り、姉夫安藤正修の百曲園に寓すること弥月[満ひと月]なり。路を北陸に取って以て江戸に赴かんと欲す。北勢の原迪齋の、其の子玉蟾を托して遊学せしむに会ひ、是に於て鞋韈千里も蕭然ならざるを得たり。乃ち其の行程を記し、以て他日の臥遊に供す。

七月二十六日。午後啓行[出発]。藍川[長良川]を渡り、長良村を過ぎる。百百峯[どどがみね]を乾[北西]の位に望む。織田黄門秀信の岐阜に在るや、其れ良(まこと)に百々越前守安輝[綱家]なる者、其の地に居れり。山の名を得たる所以なり。土佛[つちぼとけ]の峡を踰(こ)えて異石有り。晶瑩として鑒(かがみ)なるべし。呼びて「鏡巌」と曰く。所謂「石鏡」も葢しまた此の類なり。飛騨瀬川[一支流]を渡りて白金村[関市]に抵る。路岐れて二つと為る。右に折れて二里、関村に出るべし。昔、名冶[刀鍛冶の直江]志津・兼元有り、此に住めり。今に至って其の鍛法を伝へ、良工多く萃(あつま)る。左に転ずれば、下有知[しもうち]松森の二村を歴て上有知[こうづち]に抵る。地、頗る殷盛たり。市端に欝秀たる者、鉈尾山なり。一名を藤城山、佐藤六佐衛門秀方の城趾に係れり。秀方、総見公[織田信長]に仕へ、実に吾が師[佐藤]一齋先生の先[先祖]なり。夜、村瀬士錦[藤城]を訪ふ。置酒して其の弟秋水、及び族太一[太乙]、門人田邉淇夫[恕亭]数輩をして伴接せしむ。酣暢縦談して更深に至って始めて散ず。士錦嘗て頼子成[山陽]に業を受け、其の得る所を以て教授す。就学する者、稍衆(ややおお)し。秋水は画に工みなり。

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407やす:2009/01/18(日) 11:48:20
詩集『揚子江』
 山口融さまより、御尊父正二氏の詩集『揚子江』の あとがき画像をお送り頂いたので追加upしました。戦中に刊行が予定されてゐた戦地での詩篇を、敢へて書き変へず上梓されたのは、徒な戦意高揚でも反戦でもなく、一兵士としての自らの詩想に雑ぜものがなかったからなのだと思ひます。当時軍人詩人として有名だった西村皎三のことを蔑んでゐないのがその証拠ですし、四季派関連で申しますと臼井喜之介と、ウスヰ書房から詩集を出してゐる大西溢雄と、共にお知り合ひであったことにも驚いてゐます。孔版印刷であることも手伝ひ、戦後に出た多くの戦争詩集とは一線を画す氛囲気をあとがきから感じ、興味深く拝見しました。ありがたうございました。

408碓井雄一:2009/01/19(月) 10:30:00
有難うございます。
いつもいつも優しい御紹介と御手紙を賜り、本当に有難うございます。ようやく第9号まで発行することができました。嬉しく衷心より御礼申上げます。拙文「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」と、林先生への追悼文、近日中にお送り申上げます。今日はこれから、大学の方の今年度の最終講義でございます。高校の方、センター試験が終り、僕は3年生の授業のみ担当ですので、こちらも一段落でございます。来年度も3年生の担当だと思いますが、何にせよ、4月中旬まで大勢の前で声を出すのは暫くお休みです。この間に自分の勉強の充実を……、と毎年思うのですが、サボってばかりおります。次号、7月上旬にはお届けできることと存じます。何卒お見守り下さいませ。

409やす:2009/01/21(水) 21:21:08
最近の経済的不況の折、伴侶にこれ以上本を買われるのを防ぐため、家人が目録を先に受け取り・・・
 碓井様、センター試験も終りひと段落された由。わが職場ではセンター終了を受けてのこれからが正念場です。今年もよろしくお願ひを申上げます。

 「田中克己アルバム」の写真の不明人物については、皆様から情報を募ってをります。かつて成城高校の国語教師であられた山川京子様よりは、成城国文学会の人々のほか、宮崎智惠・大伴道子合同出版記念会にも参加されてゐた由、御電話を頂きました。これには気が付かず、当日の雰囲気をお話し頂いた記憶力とともに吃驚です。ありがたうございました。

 さて本日到着の目録、和洋会の「お願い」に笑ひました・・・(今のところU^ェ^;U )。また石神井書林目録に『詩集西康省』の並本が\5250で出てゐましたのでお知らせします。

410やす:2009/01/22(木) 23:06:01
『天游詩鈔別集』
 風日事務局より歌誌「風日」の御寄贈を忝くいたしました。その精神的支柱である保田與重郎を回顧した「五十年記念誌」の頒布について、年会費の名目でお取り計らひ頂いた為、和歌の門外漢である私にまで昨年一年間、購読を賜ったのでした。谷崎昭男氏が草される先師の回想を楽しみに拝読してをりましたが、今号の話題は先だってこちらでも紹介させて頂いた身余堂写真集『保田與重郎のくらし』をめぐっての一文。いづれ一冊にまとめられる時を楽しみにしたいと存じます。ありがとうございました。

 探求書の『天游詩鈔別集』(津田天游著、昭和2年刊)を丸善から受取りました。馴染み深い岐阜市内の土地を詠みこんだ漢詩が目白押しに並んでゐます。金華山、達目洞、忠節橋、雄総山、岩井薬師、・・・尤も当時の風景なら写真がすでにある時代なので、何もわざわざ漢詩で偲ぶ必要はないのですが(笑)。用字・典故も江戸時代より易しくとっつきやすさうです。しかし、今しばらくは梁川星巌の伝記に齧りついてゆくことにします。「読書ノート」ゆるゆる更新してゆきますのでよろしく。

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411やす:2009/01/23(金) 23:51:35
御礼:『定本伊東静雄全集』逸文の紹介
 碓井雄一様
 林富士馬追悼文「先生の御事」(「新現実」71、2002.1)および「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」(「昭和文学研究」48、2004.3)のコピーをお送り頂きありがたうございました。書き込みを賜りましたので、掲示板より重ねての御礼を申し上げます。
 思へば私は田中克己先生の臨終に際して文章を書いてをりません。ですが碓井様同様、年少の友人として接して下さった師の家に足く通ひ、奥様から毎度手料理を振舞はれ恬然長居してゐた貧乏青年、世代をはるかに隔てた不肖の弟子としての想ひを言葉にするなら、全く同一のものになると思ひます。違ふのは、碓井様の2年間に対して吾が5年間(ただし酒と文学論議は無し)。そして120通も手紙を頂いた碓井様に対して、私は最初に「一度いらっしゃい」と葉書一枚を頂いただけ。矍鑠たる浪曼派詩人との濃密な交際といふより、いつも横に控へる奥様と先生を肴にして三人で雑談に興じてゐたことが多かったやうに思ひます。一緒に撮った写真も5年間のあひだに適ま来訪客があって撮って頂いた一枚があるきりです。それは自宅改築の際の仮住まひでの写真で、段ボール箱に囲まれた先生は入歯を外しはなはだ冴えず、私も着たことのない色のセーターを着て表情硬く・・・けだし唯一の大切な写真には変りありませんが、あんまりひとにみせたくないのであります(笑)。
 『定本伊東静雄全集』の逸文ですが、刊行された『伊東静雄青春書簡』以外のものに限ってもこれだけの分量があるのですね。改訂版定本の刊行が無理でも新たに拾遺資料として一冊にまとまると有り難いのですが、それも難しければHPに上してしまふのも一策です。研究者も愛読者も多い詩人ですから(嫌な言葉ですが業績価値も商品価値もあり)此処で勝手に「孫引きベータ版」を掲げてしまふ訳にもゆかないのが残念ですが、今回碓井様が整理して報告されてゐる新見資料の書誌のみ掲げさせて頂きます。

書簡:杉山平一宛(昭15.9.29付)、三島由紀夫宛(昭19.11.21付):『定本伊東静雄全集』第7刷(人文書院1989.4)別刷付録
歌詞:「木枯し」:『新修女子音楽』水野康孝編(大阪開成館、昭12.9):小高根二郎「伊東静雄・その詩碑と拾遺と」『文学館』5 (潮流社1984.11)
書簡:吉田貞子宛(昭7.5.4付)、宮本新治・貞子宛(昭9.2.3付)、宮本新治宛書簡(昭9.2.18付)、杉山平一宛、三島由紀夫宛(前述):同上(小高根二郎)
書簡:下村寅太郎宛(推定昭18.春)、下村寅太郎宛(昭18.10.27付):『伊東静雄―憂情の美学』米倉巌(審美社1985.9)
書簡:小高根二郎宛(昭25) (昭26.1.15):「当館所蔵の伊東静雄書簡について」『大谷女子大学図書館報』19(人文書院1987.1)
散文:短文4篇:『呂』3(昭7.8)、4(昭7.9)、6(昭7.11)、7(昭7.12) :赤塚正幸「伊東静雄読書目録」『敍説』9(敍説舎1994.1)
書簡:肥下恒夫宛(昭10.8.22〜18.10.12):飛高隆夫「肥下恒夫宛伊東静雄葉書二十通他一通」『四季派学会論集』6(四季派学会1995.3)
書簡:品川力方海風杜宛(昭13.11.20):「館蔵資料から 未発表資料紹介」『日本近代文学館』146(日本近代文学館1995.7)
散文:『呂』第四号(昭7.9):碓井雄一「伊東静雄の「全集」と「文庫本」・覚書」『群系』(群系の会、1996.8)
書簡:大塚格宛133通:大塚梓・田中俊広『伊東静雄青春書簡―詩人への序奏』本多企画 (1997.12)
散文:「一つの詩集」:『野人』第六号(昭14.9.20):碓井雄一「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」『昭和文学研究』48(昭和文学会2004.3)

 文中『呂』の逸文の紹介者である赤塚正幸氏は、かつてわが職場で教鞭を執られた先生。おかげで図書館には四季派関係の文献が完備してゐます。過去の紀要所載論文も許諾を受けCiNii からFull Textを公開させて頂いてゐますので併せてお知らせ致します。
 ありがたうございました。

412:2009/02/04(水) 18:58:42
わが忘れなば
はじめまして。佐藤ゆかりと申します。

詩集にも古書にもまったく詳しくなく、なのにこんな「まさに素人!」の投稿していいのだろうか…と不安になりつつ、どうにも気になってメールしております。

私、「この道を泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれか知るらむ」がとても好きです。何というか、生きようという力がわいてくるような歌だと思います。

この歌を検索しているうちに「四季・コギト・詩集ホームページ」に出合いました。
田中克己さんのいろいろな歌にふれることができ、喜んでおります。

そして、「エッ」と思いました。
私は今まで「わが忘れなば」と思っていたのですが、『戦後吟』の写真に「わが忘れたば」とあります。
「わが忘れたば」と「わが忘れなば」は意味合いが少しだけ変わるような気がしています。
中嶋様も「わが忘れなば」と書かれていらっしゃいますが、田中克己さんは『戦後吟』のあとに「たば」を「なば」に変えられたのでしょうか。
もともと「忘れたば」なのか、それとも「なば」に変えたのか(それとも現代用語では「たば」は「なば」なのかと考えたりもして…)などいろいろ考えております。
変えたならば「深い」と勝手に思ったりもしています。

「たば」と「なば」についていろいろ検索したのですがまったくヒットしません。それで、思わず投稿してしまっております。
もしも、ご存知でしたらお教えいただけると幸いです。
このような変な投稿で申し訳ありません。

413やす:2009/02/04(水) 21:42:52
お詫び
佐藤ゆかり様、管理人のやす@中嶋康博と申します。詩を感ずるのに素人も玄人もありません。
さてお尋ねの件ですが、「ご存知」も何も、これは小さな画像を掲げた私のミスなのですが、再度スキャンしました画像を御覧頂ければ分かるやうに「忘れなば」で正しいのです。申し訳ありません。
「生きようという力がわいてくるような歌」といふのは、あたらしい解釈ですね。
私にとっては、落ち込んでゐる時に口ずさんで、さらに完膚無き迄に悲しませる感傷的な歌なのですが、いぢけすぎて悲しみの向かふ側をみて居る節も感ぜられます。
思ふにひとは一度泣きつくした所から再び立ち上がる力も涌きあがってくる訳ですから、さういふ解釈も成り立つかもしれません。
この歌に復唱して「たれをかも恨むにあらむこのみちを??いつよりわれはなきそめてこし」なんて歌もあります。
立派な公開資料に見合はぬ拙いノートを併載してをりますが、今後ともよろしく御贔屓に下さいませ。レファレンスありがとうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000554.jpg

414:2009/02/05(木) 10:48:05
ありがとうございました
中嶋さま

ありがとうございました。詩集も「忘れなば」ですね。
お詫びなんてとんでもない。むしろ、私の見当違いでお手数をおかけしてしまいました。本当に申し訳ありません。

詩(本もみんなそうだと思いますが)はいろいろな読み方があるんですね。中嶋さんの「完膚無き迄に悲しませる感傷的な歌」に「そんな見方もあるのか!」と驚くやら、「確かに」と唸るやら。世界が広がり、ドキドキしております。
私はこの歌を人から教えていただきました。
「哀しみから立ち上がる」というよりも、「この道を泣きつつも頑張って歩んできたことを、誰が知らなくても私自身が知っている。それでいい」と言う感じでしょうか。

詩って本当にいいですね。今回、それをすごく感じています。
これからもHPによらせてください。よろしくお願いいたします。

415やす:2009/02/07(土) 19:25:23
御案内
>佐藤さま
「頑張って歩んできた」といふのは、読者の事情に依った解釈なのか、今一つピンと来ないのですが、「私自身が忘れたらこの私の徒労を知る者もなくなってしまふんだなぁ…それでいいか(嗚咽)。」といふのが私の理解でしたが、前向きに解釈されたのは珍しいことに思ひます。

さて、文化のみち二葉館からは次回の特別展「春日井建と仲間たち」の御案内を頂きました。そもそも和歌と現代詩と両方苦手な人間にして、さきの「この道」の歌さへオロオロ解釈、コメントもできなくって恐縮しきり。頂きましたチラシをとりいそぎ御紹介いたします。

416やす:2009/02/07(土) 19:51:56
詩集『揚子江』
山口融さまよりは、先日(1月18日)紹介しました父君正二氏の戦塵詩集『揚子江』(昭和51年私家版)の御寄贈に与りました。本来戦争中に出る筈だった詩集ですが、戦後手許に戻ってきた原稿を改作せず、30年後に再び刊行することにしたといふ代物。内容は掲示板で予想した通り、日中戦争で実際に戦った当事者の、のっぴきならぬ現実が、思想ではなく詩想を通じて吐露されてゐました。巻末には「文字、仮名づかい、何れも原文のまま」とし、読みづらいのは「それはとりもなおさず戰爭を知らないと云ふことに庶(ちか)いのではなかろうか」と記されてゐます。たしかに仮名遣ひの他にも、当時の中国語が説明無しでたくさん詠みこんでありますが、もとより生き残った知友の机辺におくるため、自ら孔版を刻し、たった200部刷って製本した私家版の詩集です。味方を疑はず、敵を蔑まなかった一日本兵の心情が、生のままに感ぜられ、当時抱いた詩情と真(まこと)を、そこにそのやうにしか在り得なかった青春を、三十年後の著者が併せて懐かしんだ。そのやうにみるべき作品集でありませう。序詩を紹介させて頂きます。

  (序詩)軍艦旗
              山口正二

おれはもうおれのおれではない
理窟も議論も無く、さうなんだ
おれが獨りのおれの時は
社會とか、秩序とか、
生きる爲の方針とかについて、そして又時々は見榮と謂った
こと等や、極くつまらない損とか得とかの區別までも、
ちゃんと考へてゆかねばならなかった。
そんなに多く、持ち切れない條件を背負ひまはっても、
おれは矢張り阿呆の様にしか生きてゐなかった。
おれは
今、もう棒ッ切れの様に單純だ
唯、鬪へばいいのだ。
大きなカのほんの一つの細胞となって
敵に打つかればいいのだ。
そして、勝てばいいのだ。
戦ひは勝てばいい様に、
おれは、誰の爲にとも、何の爲にとも考へる必要はなくて、
唯もう撃ち出された彈丸の様に、眞ッ直ぐに翔ペばいいのだ。
こんな簡単なことが、
おれを数倍も偉く感じさせる。
ともかく
おれはもう充分満足して、おれの動くのを凝視めてゐる。
おれの腦髄にも、網膜にも、
ああ、體中に、
はたはたとはためく軍艦旗
おれは
いっぽんの軍艦旗になって進む。
                    『揚子江』より

詩集の現物を手にすれば、飛騨高山で同じく謄写版印刷を生業とした和仁市太郎の詩集と同じ「手作り感」を実感できます。昨今の、小綺麗で均一装幀の自費出版詩歌集ブームの中にあって、慥かにこの「紙碑」は内容と同等の異彩をを放ってをります。いづれホームページで全文が公開されるのを俟ちたいと存じます。
ここにても厚く御礼を申上げます。ありがとうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000557.jpg

417やす:2009/02/11(水) 16:05:39
Book Review
 去年の10月に『ボン書店の幻』の改訂再版が出てゐたことを知らず、先日新本を求めて所感を記したのですが、同じ月にもう一冊、日本漢詩人選集(研文出版)で梁川星巌の巻が出てゐたこと。これまた不敏にして先週まで知りませんでした。昨晩さっそく県立図書館へ行って借りてきました。収録詩篇が少ないものの、解説は丁寧で江戸詩人選集(岩波書店)との重複はありません。『梁川星巌全集』での伊藤・冨永両先生による注釈以後、新たに補足された語釈や故事について知ることができ、わが拙き読書ノートにも裨益するところ大です(現在【ノー ト13 頼山陽との永訣 江戸へ】まで)。ともにBook Reviewより御笑覧ください。

 また図書館のついでに、全集の第4巻も借用してきました。5巻本のうち手許にこの巻だけないのですが、第1巻〜第3巻の星巌詩集本篇に比べて、350冊しか作られなかったこの第4巻(紅蘭詩集)と第5巻(書簡)のみを手に入れることは至難の業。結局コピーをとることになりさうです。

 中野書店『古本倶楽部・お喋りカタログ』第三号に『萱草に寄す』書入れ並本現る(\315,000)。これまた目録に出るたび切ない気分。

418やす:2009/03/14(土) 19:46:26
(無題)
 花粉症に加ふるに風邪が長引いてゐたため、連日眠気覚めやらず、読耕ままならず、この一ヵ月修養も遅滞してをります。
 山川京子様よりは『桃』の御寄贈を忝く致しました。山川弘至の戦地における遺著といふべき、古事記を和歌の調べに翻案した『日本創世叙事詩』が、版元を変へて三たび再版されます由、お慶びを申し上げます。民族受難の時代に詩人がなすべきことはなにか、神の国に在ることの意義や自覚を求心的に問ひ進めていった末に、凝(こご)り固まった祈りの姿が茲に示されてゐる、そのやうに思ひます。激烈な序文はもとより京子氏が後版跋文で補足された当時の詩人の消息を、今の日本人がどう享けるのか。彼が殉じ得た神話の詩精神が、このさきも歴史を祓ひ鎮め続ける祝詞として活き続けることができるのなら日本は決して滅びない。さうして漢詩文をふくむ古典を通じて、廃仏毀釈以前の日本人が規範とした慎ましい道徳のありかたに再び思ひを寄せることができるのなら、日本はその歴史に安んじて周りを見回すことだってできる、そのやうに思ってゐます。
 ありがたうございました。

419やす:2009/04/26(日) 08:58:19
近況報告
 近況報告を疎かにしてをりました。まとめて記します。

 鳥取の手皮小四郎様より『菱』165号の御寄贈。今回の荘原照子の伝記は読みごたへがありました。田舎らしからぬ執筆陣を聘した『白梅』といふ文藝雑誌をめぐり、中原中也15歳、荘原照子14歳の投稿詩歌の紹介、そして当時三木露風に激励された喜びを今も寸分違はず記憶してゐる元文学少女の老婆と、うなぎ丼を食べながら相対する筆者。残り物をビニール袋に「ドサドサ」詰めて持って帰らうとする姿をリアルに描いて締め括る、手皮様らしい文章と精緻な考証に感歎です。

酔ひたふれ正体も無き吾が父を山門に見て走りよりしも
山門に酔ひ仆れたる父をめぐり人集ひをれど吾は泣かなくに

 当時の、父親を歌った短歌が『マルスの薔薇』のなかの人物描写そのものであったことに「びっくり」ですが、「びっくり」はむしろそんな歌を父自身の目に触れるかもしれぬ雑誌に投稿する恐るべき14歳の少女といふべきかもしれません。この時代の詩人は光と影のコントラストの強いトラウマが、モダニズムを纏ふことなく素のままに渦巻いてゐる感じ。引き裂かれる初恋をめぐっては「いずれ詳しく触れ」られる予定です。


 八戸の圓子哲雄様から『朔』165号ならびにお便りを拝掌。雑誌はこのたびも小山正孝未亡人常子氏の一文に癒されました。丸山薫を語りつつ、引用された八木憲爾氏との件りもあたたかく、本が唯一の財産だったといふ詩人の文学気圏の中に留まり、いつまでもこのやうに回想してくれる奥さんをもつ喜びといふのは、やはり四季派詩人ならではの特権であると思はれたことです。


 圓子様のお便りには、『朔』編集局へ宛てた田中克己先生からの風変りな感想のことが書かれてゐました。そんな折、田中先生のハガキをまとめて送って下さった埜中美那子様には、宛先である辻芙美子様とともに、あらためてこの場を借りまして御礼を申上げる次第です。
 写真も同封されてゐましたので早速アルバムも更新しました。辻芙美子氏は帝塚山学院短期大学時代の四期生。ドイツ語を買はれ卒業後、服部正己博士の秘書に推薦された田中先生の教へ子です。最晩年の来信は、私が先生の御宅に出入りしてゐた時期と重なってそれまた思ひ出深し。けだし私宛ての手紙は、最初においでなさいと呼ばれた絵葉書一枚きりでしたから(笑)。

 みなさまには御身体御自愛のこと御健筆をお祈り申上げ、厚くお礼を申し上げます。
 ありがたうございました。


 さて、読耕が滞ってゐる梁川星巌先生の伝記は、このあと佐久間象山と出会ひ尊王路線を深めてゆく道行きです。日ごろ親炙してゐる「朗読CD」のなかには象山先生の『省[侃言]録せいけんろく』の触りも収めてあって、曰く、
「君子に五の楽しみあり、而して富貴は与らず。一門礼儀を知りて骨肉釁隙なきは一の楽也。」
 またこれも収録の『教育勅語』は、いぶせきこの頃繰り返し聞くうち覚えてしまひました。
「父母に孝に 兄弟に友に 夫婦相和し」
 朝晩般若心経を唱へながら喟然たる日々を送ってをります。

420やす:2009/05/02(土) 11:13:18
(業務連絡)
半月前よりトップページのcounter故障、大凡の数字を足して本日復旧しました。

421やす:2009/06/01(月) 11:50:01
宮田嘯臺翁
 昨日、旧加納宿の当分本陣だった漢詩人宮田嘯臺の旧宅に御挨拶に伺ひ、復刻本『看雲栖詩稿』の全文公開について御承諾いただいた御礼を申し上げるとともに、子孫である佳子様よりは、詩人の遺墨・文献の類を示され、当家に伝はる貴重なお話をお伺ひすることができました。早速、撮影画像を追加させて頂くとともに、この場をもちまして改めて御礼を申し上げます。
 拝見した遺品でびっくりしたのは、復刻された手稿本6冊の他、なほ未公開の漢詩集が1冊あり、多くの「まくり」の類も遺されてゐたことでした。まくりは、岐阜教育大学(岐阜聖徳学園大学)の教授であった故横山寛吾先生が、宮田家を調査された際に筆跡を解読された白文が遺されてゐましたので、テキストに起こして公開、順次読み下してゆければと思ひます。また漢詩のみならず、加納宿の好事家連で巻いた狂歌の写しもまとめられてゐて、こちらは全て佳子様が読み下され、すでに一冊のテキストになってをりました。安永4年(1775年)に25でなくなってゐる詩人の弟(士瑞)が参加してゐることから、狂歌流行の気運のなか、先代を中心とする近所の文学好きのサロンの中で、若き日のユーモアを存分に発揮したものと思はれます。ただ、和歌や芝居の知識も要りさうな江戸時代の狂歌の解釈は私に荷が重いかも(汗)。一例を挙げるとこんな感じ、友人の篠田氏より新蕎麦が送られ、皆で食べた時の模様です。

「花鳥軒の蕎麦切に」

秋なから蕎麦の名代は花鳥軒 はらのはるへ[春の春辺/腹の張る屁]をもてなしにして (霞亭)
扨も扨もこの蕎麦切りの信濃よさ[品の良さ] ほほう見事な花鳥軒とて (州蕷)
花鳥軒たたの鳥とはおもはれす 此ほうちょう[包丁]の手きはみるにも (丁江)
御馳走は花鳥の軒の蕎麦しゃとて はらはるならぬ人とてもなし (滄浪)
花鳥とほうひ[褒美/放屁]のうたのそろいしは 蕎麦にくさみ[ネギ]の取りあわせかも (奈何)
麺盤たるほうちょうときく蕎麦切は くふにしかさるへ[屁]けんどん哉 (奈何)

 蕎麦食べながらの歌会で、誰か大きなおならでもしたんでせうね。奈何は嘯臺翁の父。さても「緡蛮たる黄鳥・・・鳥に如かざる可けんや」を引ッ掛けて洒落のめしてしまふとは磊落な親父さん。二十代とおぼしき翁はこのなかでは(霞亭)の名で時折顔を出します。おそらく脇本陣の詩友、森求玉も混じってゐる筈ですが、どの号が誰なのか判然としません(滄浪は秦滄浪ではないらしいです)。

 当日は少し離れた塋域に立ち寄ることも出来、一日の御縁を墓前にあつく感謝申し上げることができました。訪問記をご覧ください。


 さて、皆様からお送り頂いてをります種々の雑誌、個々に御礼は申し上げてをりますが、ここでの御紹介が久しくお留守になったままでをります。誠に申し訳ありません。殊にも國中治様から4月にお送り頂きました、杉山平一先生の詩業を縦横に論じた論文の数々は、読後感を昨年末に半分書いたまま、継ぎ穂を失ってしまひ、書きあぐんでゐる始末。わたくし事で頭が思考に集中することができず、加之、BookReviewが投書を受けて削除されることもあり、自分のつまらぬ意見よりテキストの紹介に専心した方が、よほど世の為、精神衛生にも適ふと思ったものですから、いましばらく頭を使ふ更新を避け、テキスト紹介作業に集中したい考へです。よろしく御理解賜りたく存じます。

422やす:2009/06/25(木) 23:15:56
『龍山遺稿草稿』と『詩稿』のこと。
 加納の宮田佳子様よりは、ひきつづいて宮田嘯臺の若き日の盟友である左合竜山の詩集『龍山遺稿』の写本草稿と『詩稿』と題された謎の(?) 写本草稿をおあづかりしてゐます。
 『龍山遺稿』の写本は、岐阜県図書館にも昭和16年に寄贈された一冊がすでに所蔵されてゐますが刊本と異同がなく複写本と思はれ、拾遺詩を含んだ原草稿といふのは、編者嘯臺自筆の書き入れとともに、200年前の地元漢詩の新資料発見といふ意味でも、たいへん貴重な文献かと思はれます。
 またもう一冊の『詩稿』と題された文庫本大の写本草稿ですが、裏に嘯臺翁の長子である「宮田[龍共]」といふ名が入ってゐます。普通に考へればこの夭折詩人の自筆草稿といふことになるのですが、途中に現れる「辛巳元年」といふ年号が、宝暦11年(1761)としても文政4年(1821)としても、氏の生没年[明和4年(1767)〜安永9年(1780)]とずれてゐて、合はないのです。後半に「初夏村瀬士錦君見訪」といふ詩があることから、どうやらこれは文政4年、嘯臺翁75歳時の詩稿である可能性が大です。この年の春に翁が村瀬藤城(士錦)の生家である上有知(こうづち:黄土)に自ら赴き、30歳の藤城が礼をもって迎へ、今度は夏に藤城が加納にやってきた。さういふことではないかと思ひます。藤城先生はすでに嘯臺翁の古希(文化13年)に賀詩を贈ってゐます。師である山陽が以前、加納に枉駕したときに与へたといはれる「悪印象※」も、嘯臺翁の中ではもう過去のこととして、人格者村瀬藤城との往来のなかに氷解してゐたことでありませう。
(※文化10年当時34歳だった山陽は、美濃の田舎の宿場町に訪れ、集まった詩人たちを一瞥して「青田のごとし」と評した由。一代前の詩壇が流行させた平易低俗の弊が「擬宋詩」として、新世代詩人たちによって軽蔑され始めた頃ですから、狂俳が蔓延したといはれる美濃の地で嘯臺翁が奉呈した詩の謙譲さといふのは、山陽のためには「単なる文学好きな田舎爺」の媚態とでも映ったのでありませうか。)
 しかし、ならばなぜこの詩稿ノート裏に「宮田[龍共]」と記されてゐるのでせう。これは『三野風雅』に於いて父兄の順に詩人が載せられてゐるなか、三男の精齋が長男のを差し置いて前に記されてゐることや、二人とも同じ吉太郎といふ通称であること(嫡男としての通称を継がせたのかもしれませんが)、ともに謎です。或は多作家と伝へられる嘯臺らしく、息子が作って白紙のまま残してあったノートを、借用して自身の詩稿帳に使用したものかもしれません。

423やす:2009/06/25(木) 23:23:42
つづいて村瀬藤城のこと。
 先日ネット上で偶然村瀬藤城の自筆詩稿を見つけました。眺めてゐたらば、なんと以前BookReview『漢詩閑話 他三篇』で紹介されてゐた地元旧家に伝はる掛軸の詩篇とそっくり同じものを発見。早速その事実を著者の御遺族へ報告し、御挨拶かたがた先日、件の掛軸の写真を撮らせて頂きにお邪魔いたしました。
 往時の長良川の渡し場の面影は、鉄橋と堤防によって偲ぶよすがもありませんが、藤城の詩に記された森鬱たる背後の山や神社はそのままです(写真)。
合せて梁川星巌の詩軸も提示され、現在解読中。ともに故中村竹陽翁の秘蔵品だった由、残念ながら翁の従弟で口語詩人の深尾贇之丞にまつはる資料はありませんでしたが、土地に根ざした文献が、縁りの家に百年以上もそのまま蔵されてゐる有り難さを、しみじみ感じて参りました。
 さて次の日のことですが、偶然頂きものの福井のお土産「織福」といふ和菓子の包み紙に見覚えのある署名をみつけました。村瀬藤城の署名とこんなところで出会へるとは、連日の遭遇にびっくりした次第(笑)。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000568.jpg

424やす:2009/06/30(火) 22:38:48
「口語俳句 新刊号」
 在京時代勤務してをりました下町風俗資料館の元上司、松本和也様より「口語俳句 新刊号」の御寄贈にあづかりました。ここにても厚くお礼申し上げます。ありがたうございました。
 長らく自然消滅状態にあった雑誌の復活は、往年のロックグループの一夜限りの再結成みたいですが、「言うべきことは言っておこうというわがまま」と謙遜される松本館長、否「まつもとかずや」氏らしい節操と節廻しに触れてなつかしく、東京にをりました当時の極貧詩人時代の自分もなつかしく思ひ返されました。もとより作詩上においては180度ことなる立場にあった私ですが、下町の風景が変貌してゆくことに対して、下町風俗資料館ですごした6年間、「いまどきの若い者」なりに心を痛め、今はまた、日本の庶民が当たり前のこととしてゐた生活上の信条さへ、風前の灯下にあることを、ことさら強く感じつつ文章を拝読しました。
 「口語俳句」と「一行詩」とはどこが違ふのか、「口語俳句」と「川柳」とはどこが違ふのか、むかし館長にお尋ねして困らせたことがありました。思ふにそれを「一行詩」として一句ごとにタイトルをつけるのは(そのギャップにポエジーも生れるのですが)事々しく野暮天なのであり、また「川柳」には「あてこすり」はあっても真の批判精神はなかったことを思へば、「鹿火屋」の流れを継ぐ末裔の思ひとして、「川柳」とも一線を画されたのではなかったかと、さう解釈したことと思ひます。戦後民主主義の思想を投入された俳句が、ときに異物を注射された生き物のやうにのた打ち回ってみえることもあり、却ってそんな破調もふくめて「口語俳句」の持ち味として主張してゐるんだらうな、民主主義を前衛する自負と庶民の生活にうごめくエロティシズム、これらが同居した産物として「口語俳句」といふブランドであり、歴史的エコールなんだ、と思ひ至ったことがありました。
「ストリップ嬢の傍らでかぶりつく天皇がいてもいいよね」
 伝統に対する「わがこころのレジスタンス」の最たる一句でせうか。

 しかし「戦争を知らない子どもたち」の世代が老境を迎へ、日本はいまや「戦争を知らない老人たち」が、昔ぢゃあり得なかったやうな情けない事件で世間を騒がす前代未聞の時代に突入して参りました。伝統文化に対して、レジスタンスどころか介護認定をしなくてはならない現状に接して、日本の国はさきの敗戦で切り花のやうに、文化の命運をすでに絶たれてゐたのだらうかとも思はざるを得ません。戦前の面魂を存した斯界の巨匠たちが、たまさか戦後の自由な空気にふれて発火した、最後の燃焼といふべき精神的所産のピークを最後に、日本といふ国は物質的な豊かさと引き換へに精神的にはゆるやかに滅びていったのだと、この頃の私は考へるやうになりました。こんにちの日本文化を代表するとも云はれるアニメブームさへ何かしら、手先が器用だった職人文化の亡霊の仕業に思はれることが多々あります。
 などと、つまらぬ意見を礼状にも認め、大いに頻蹙を買ったことと存じますが(笑)、なにとぞお体御自愛頂き、再び怒りの爆発にむけて御健筆をお祈り申上げます次第です。ありがたうございました。

「口語俳句 新刊号」44p 2009.6.1発行 \500
 〒344-0007 埼玉県春日部市小渕2172口語俳句発行所

425やす:2009/07/13(月) 00:09:02
『マルスの薔薇』
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』166号の御寄贈にあづかりました。荘原照子の伝記は、投稿雑誌『白梅』で三木露風、『婦人之友』で佐藤春夫、『若草』で萩原朔太郎と、雑誌ごとに変容を遂げつつ先輩詩人に認められ、頭角をあらはしてゆく様子を追ひながら、のちに『マルスの薔薇』のなかで仮託して描かれるところの、詩人の生涯を決定づけたといってもよい、青年歌人小川五郎との出会ひと別れについても詳しく触れられてゐます。非常に興味深いです。

 この「マルスの薔薇」といふ小説ですが、導入と締め括りこそ詩的に過ぎる憾みが残るものの、主人公、宍戸タカナをめぐる人物配置の周到さ、実在の恋人からの手紙を思はせる、時衛との往復書簡を挿入する条りなど、処女詩集に収められる習作らしくはない、構想・表現ともに密度の高い散文作品であります。今年は100年祭の太宰治が何かと話題になってゐますが、こんな作品こそ「斜陽」の先行作品と呼んでもいいのではないでせうか。旧家の主人と取巻連はロシア文学を意識して設定されてゐます。主人公が幼児期に見聞きした祖母からの庭訓や、父の嫉妬に纏はる鶏の挿話は封建時代の墨色に彩られ、従兄からの暴虐に「電気に酔はされた蛙の子」になってしまったトラウマの描写にはエロスが漂ひます。彼女が育った一旧家の没落、その様相を綴る際のアレンジには、かう呼んで良いなら大陸モダニズムと日本浪曼派、太宰治といふより、(当時の小説を多く読んだことのない自分ですが、)むしろ安西冬衛や檀一雄を髣髴させます。それをまた、自立を夢見る羸弱な少女の視点を通して語ってゐる訳ですが、最後は唐突に、露天商に身を持ち崩し結核を思はせる病臥の身に主人公を陥れてをり、絶望を袋小路につきつめることで実作者自身は一種の再生を図ったのでせうが、これを「ろまん」と呼ぶには余りに告白の産物に過ぎたのかもしれません。つまり前回も書きましたが、寺の門前で酔ひ潰れる父親の描写など、現実にあったことを脚色して織り込み、赤裸々な恋愛の挫折表白とともに親族の怒りを買って「絶縁」が取り沙汰されたといふことであります。
 詩人らしい一瞬の輝きを形象化したモダニズム女流詩人の奇跡の作品集であることに変はりはありませんが、これが作者「テルちゃん」のあづかりしらないところで秋朱之介によって勝手に編まれてしまったといふ事情を察するなら、新人作家の彼女にとっては、(誤植の多さなどといふことよりも)、あらかじめ飛躍の芽を摘まれる理由を包含しての、不本意な出発を用意されてしまった、そんな側面はなかったのでせうか。次回の連載を楽しみにします。

 また今回、この雑誌の到着と時を同じくして、東京浄土宗の古刹一行院から頂いたメールによって、詩人の祖先の一族のひとりであった、庄原篁暾の塋域が明らかになりました。これも何かの符合を感じて感慨を深くしたことです。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『菱』166号 2009.7.1発行 71p
 〒680-0061 鳥取市立川町4-207 小寺様方 詩誌「菱」の会 \500

426やす:2009/07/15(水) 22:18:38
『桃』七月号
 山川京子様より『桃』七月号の御寄贈にあづかりました。今回巻末に掲載されたのは詩人山川弘至の母の手紙。昭和18年当時といへば、応召直前の詩人は27歳です。家名顕彰を託すに足る俊英とは云へ、手紙のなかで吾子に対し敬語を使用する萱堂の心映えには、詩人が気高く純粋に育つ基を見る思ひがしました。と同時に、帰省の折の慈愛と孝養と、決して他所の家庭と変るものではないことも分かって心温まる内容。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000572.jpg

427やす:2009/07/19(日) 02:00:51
六曲一双屏風・『聖代春唱』・『三野風雅』異本のこと。
 加納の宮田邸にて、嘯臺翁の染筆に係る立派な六曲一双屏風を拝見させて頂きました。それぞれ詩人の古稀、および八十二歳時に書かれたもので、宮田家の家宝といふより、まさに加納宿の文化財と呼ぶべきものと思はれました。追って詳しく紹介したいと思ひます。

 またお土産に、文政九年80歳の嘯臺翁の序文を戴いた『聖代春唱』といふアンソロジー詩集を賜りました。奥付のない、地元吟社が発行した自費出版の稀覯本です。そしてここになんと「宮田[龍共]」氏の名が再び現れてゐました。彼が宮田家を継ぐことのなかった養子であるらしいことや、また文政4年の『三野風雅』刊行時には死んではゐなかったことなど、これで確かなものになった感じが致します。内題に「九峯童梅龍、姓森名敬け小字菊之助継業(森梅溪)之男」とありますから、題字を書いてゐるのは実に嘯臺翁の畏友、森東門の孫といふことになります。正に『三野風雅』第二冊目に収められた人たちによる続編といった趣きですが、掲載は一人一首、順序も[龍共]氏が翁より前になってゐて、まちまちです。こちらも全文を公開する予定です。

 さて、『三野風雅』といへば、美本の揃ひが最近かわほり堂の古書目録に現れて驚愕しましたが、佳子様が
「県立図書館に寄贈した5冊のセットものとは別に、題簽のないこんな一冊があったんですよ」
 と話題に差し出された本を手にとった私はさらに吃驚。この、『三野風雅』第2冊目と思しき一本ですが、「巻三」に収められてゐる筈の宮田嘯臺翁がなんと「巻二」に収められてゐるではありませんか。つまり本来巻三(19丁)と巻四(16丁)を内容とする筈の第2冊目が、巻二として34丁のページが振られてゐるといふ事実です。おそらく第一冊目を巻一に宛てた為にさうなったに違ひなく、アンソロジーは計画段階では10巻5冊セットではなかったことがわかります。収録詩篇の異同をみると、通行本の巻四の初めに収められてゐる井上正方と、最後に収められてゐる伊藤冠峰が抜けてゐます。井上正方の詩篇は34丁あった巻二を(19丁+16丁)の巻三+巻四に分けた際、追加された1丁に収めたことが分かりますが、末尾の伊藤冠峰のために用意されたスペースは、これがどうみても版木に上から紙をかぶせて「隠して刷った」感じです。さらに奇妙なことを云へば、巻頭もまた「菅原達有功采録 西川軌子範校字」の1行が潰して摺られてゐて、題簽も貼られた形跡がなく、サイズも少しばかり大きい。これはおそらく、まだ「お上の許可」を得てゐない「試し刷り」版の一冊ではないでせうか。収録詩篇の一番多い嘯臺翁には、抜き刷りとして早々に配られたものでありませう。また伊藤冠峰については、載せるべき詩が未だ確定してゐなかったのかもしれません。結局掲載は2編でしたが「被せ」は丁の最後まで及んでゐます。遺族との「著作権交渉」がクリアされてゐなかったか、34年も前に亡くなってゐる冠峰の拾遺詩はうまく輯まらなかったのでせう。掲載された2編「読史」と「石川太乙過訪喜賦」は、「詩集を刊行してゐる人は新作か拾遺を収める」といふ編集方針に違ひ、冠峰の詩集『緑竹園詩集』に収録の詩篇です。この詩集には金龍道人の序があり、道人を先輩と仰ぐ翁と冠峰との交流も活発だったことが確認できます (163「春日宮田贈子(ママ)祥」199「次韻宮田士祥兼呈弟士瑞」455「和宮田士祥雨後作」など)、看雲文庫に『緑竹園詩集』はありませんでしたが、もしや嘯臺翁に憚る処あって刊行者津坂拙脩が、この抜き刷り印刷の際に配慮して削除したと考へたのは穿ちに過ぎたやうです。
 とまれ大変興味深い出版資料なので、これまた別に全頁を公開したいと思ひます。お待ち下さい。

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428やす:2009/07/28(火) 22:46:05
山川弘至記念館増築
 日曜日、郡上市にある山川弘至記念館増築竣工のお披露目にお招き与りました。悪天候にも拘らず歌誌「桃」同人の皆さんが多数参集され、主宰の山川京子氏の晴れ女の神通力の効あって、歌碑参拝と展示見学の間だけは篠突く雨も上がるといふ奇跡に恵まれました。

 この記念館、奥美濃旧高鷲村にある詩人の実家が独力で建設せられた、石碑と対をなす詩人を景仰する「祠」と呼ぶべき建物であることは、3年前の開館時にすでに述べたところですが、少時から28歳の戦死に至るまでの吾子ゆかりの品々を大切に保管せられた萱堂の慈愛と、歌誌「桃」を興し、やまと歌の道統を亡き夫の志とともに半世紀かたくなに墨守された京子氏の純愛と、それらを俟って初めて実現を見た「祈念館」とよぶべき性質の資料館であることを、今回の訪問で再び強く味はひました。それは一人の若い戦没知識人を顕彰しながら、決してひとりのものではない、稀有な愛情に貫かれた兵隊遺族の心情が、戦後変はり果ててしまった日本人の国家観の喉元に突き付け続けてゐる「匕首」であるのには違ひなく、志なかばに斃れた詩人国学者の矜恃と無念とを、同時に守り鎮めんとする館設立の趣旨といふのは、これを文学館と呼ぶより、確かに靖国神社と変はらぬもののやうにも思はれるのであります。明るい木のぬくもりの感じられる新展示室で、歩兵操典の字句を書き綴った手帳に涙する見学者の婦人の隣にあって、殊更さう思はれたことです。
 建立が、さうして詩人を殉教者として尊ぶ人々や、辛くも歌によって自らを支へてこられた御遺族の心映えをうつして、英霊の故郷「ふるくに」と呼んで差し支へない日本の農村風景を今も伝へる山深い村里になされたことは、来館者の多寡に拘わらず、里帰りを果たした詩人の安らぎとしてここに特筆すべきことであります。
 今後は、さきに開館した「蔵」を別館、今回草庵を拡張した展示室を「本館」と呼ぶことになるさうです。このたびの増築によって、詩人の旧蔵書900冊が京子氏が寄贈した400冊と一緒に保管されることとなり、その文業の拠りどころとなった師友の人々とともに俯瞰できる展示にしたいとは、事務方一切を引き受けてをられる野田安平氏の抱負でした。尤も整理にはまだまだ時間もかかり、とりわけ酸性紙に印刷された資料については劣化が進行中であり、現状の記録と、山奥まで足を運ばれない人たちに対する公開を兼ねた電子化作業が、ホームページ開設を前提に俟たれるところです。しかしながら精神的支柱である京子氏の全幅の信頼のもとに、野田さんが着実に進められる活動の様子を実見することができたことは嬉しく、この深い山林の中にひっそりと佇む文学館が、地方行政による「ハコモノ」とは全く違ふ形で日本の精神史の断絶面を保存するタイムカプセルのやうに存続してゆくだらうことには、深い安堵を感じた次第。山霧に包まれた奥美濃の深緑を堪能した一日となりましたが、翌日は京子氏の米寿のお祝ひかたがた歌会も催された由、ここにても感謝とともにお慶び申上げます。ありがたうございました。

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429やす:2009/07/30(木) 22:29:54
林富土馬と山川弘至
 碓井雄一様より『近代文学資料と試論』終刊号をお送り頂きました。当初からの予定で10号をもって区切りをつけられたわけですが、連載「林富士馬・資料と考察」の記念すべき最後は、詩人の単行本一覧と紹介に充てられることになりました(見送りになった、碓井さん宛の林富士馬書簡紹介は心惹かれますね)。かうして一覧してみますと、いづれの詩集にも長い序跋を、自ら書き、また師友からも戴いてゐることが、殊更この詩人に似つかはしい、浪曼派風の仕儀であることがよく察せられます。つまり大切にされるのは文人の矜恃と友情。前回書いた山川弘至とは、昭和17年に同人誌『まほろば』を創刊してゐるのですが、『天性』と『帰郷者』の2誌が合流したといふ事情のなかで、それぞれ両極にあった二人は、親しく交はるところがあったのでせうか。碓井さんや山川記念館の情報から検証してみたい関心事です。ともに浪曼派らしい人柄を感じるものの、ディレッタントとして戦後文壇から距離を置いた林富士馬には、師であった山岸外史の無頼派の視線と、伊東静雄のイロニイに富んだ市井人の視線と、双方を按配した韜晦の気分が感じられ、一方の山川弘至には、先人保田與重郎のさらに向ふ、国学に邁進して潔癖さゆゑに自決した蓮田善明の面影が重なります。山川弘至は自ら命を絶った訳ではなく、断たれた学者としての可能性が惜しまれてなりませんが、退ッ引きならぬ気分は当時同人たち全員に共有のもので、ことさら違ひを説くのは結果論に引きづられた言いざまかもしれません。
 ただ、ともに素封家の長男であったものの、田舎と都会の違ひといふのはあったでせう。これは山川弘至と増田晃を対比する際にも思はれることですが、林富士馬が父を介して佐藤春夫をはじめ伊東静雄や太宰治の知遇を得、昭和14年に早々と『誕生日』と命名された処女詩集を刊行して「詩人の出発」をなしたのは、同人たちにはさぞ羨ましく映ったことでありませうし、年令も僅かに皆より先輩であった彼にして、恵まれすぎた条件が却ってロマン派文学者として立つための宿命=憧憬の根となるべきモチベーションを奪ひ去ってしまったといふのは、御本人が一番自覚してをられたかもしれません。戦後、自らの浪曼派の祝祭の記憶から皇国史観をとり除いていった詩人には、いったい何が残されたのでありませうか。もう一世代前の先輩が味はった、逃げ隠れできぬ社会的敗北を背負はされた方が、却って新しい文学的な動機付けになり得たかもしれません。晴れがましい出発の記憶だけがついに詩人としての存在理由を強く規定するやうになった、とは言ひ過ぎかもしれませんが、文壇外にあって文学に臨む姿勢を語り続けた詩人は、三島由紀夫のやうな野心ある後進にとって、やがて物足りなく感じられ遠ざけられることになります。本分が開業医であった詩人にとって、学者・教育者として文学に係ることもままならず、さりとてこの一筋に繋がる決意は確かなものだったと、生涯文学青年の志を大切にされたスタンスといふのは、現在、一図書館員の身分にすぎぬ自分にとっては、やはり羨ましく思ふところなのですが、碓井さんがどのやうなお考へなのか伺ってみたいです。前誌『登起志久』から数へて11年になります。師への献身が、次にどのやうな形をとって顕れるのかを、楽しみに待ちたいと存じます。

 収録はほかにも初期の森鴎外を連載攻究してこられた小平克氏の論文や、伊東静雄や四季派研究で著名な米倉巌氏による佐藤一英の言論を追った珍しい論考。

 まことにお疲れ様でございました。そして長らく御寄贈を賜りましたことを、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『近代文学資料と試論』10号終刊号 2009.6.29「近代文学資料と試論」の会刊行
【目次】
森鶴外『普請中』と「舞姫事件」−『普請中』の本文読解とトポス的読解− 小平克 1-29p
『詩と詩論』における佐藤一英の言説 −(付論)詩学の現在と詩的言語− 米倉巌 30-46p
芥川龍之介「青年と死と」論 −〈大正〉的言説との関わりから− 乾英治郎 47-59p
林富土馬・資料と考察 −(七)単行本一覧、作品の紹介も少し− 碓井雄一 60-85p
後記 86p

430やす:2009/08/12(水) 00:35:58
『新編 丸山薫全集 全6巻』
 『新編 丸山薫全集 全6巻』が刊行された由、週刊新聞「読書人」で知りました。此度も編集に携はった潮流社の八木憲爾会長が祝辞をよせてをられます。職場に国文学科はなくなってしまひましたが、教科書とも所縁の深い詩人であることから、図書館にも収めて頂けることになりました。追加される第6巻目が「補遺」の域を出た、非常に内容の濃いものであるといふ事で大変楽しみです。

 丸山薫は、堀辰雄、三好達治とならんで雑誌「四季」の創刊同人ですが、自ら「四季」の詩史上の位置や意義について、昭和28年に出た創元版文庫のアンソロジー『日本詩人全集(第8巻)』の解説のなかで語ってゐます。しかし同じく『日本現代詩大系(河出書房:第9巻)』で解説を書いてゐる三好達治とは違って、「四季派」と呼ばれてゐることを追認した上で、当時戦犯の張本人扱ひだった保田與重郎と「コギト」の名を出し、いみじき評言で両者の結びつきを語り、総括を行ってゐるのです。これは書かれた時代をおもへば非常に思ひ切った立言であり、私は最初読んだときに非常な驚きと、「この人の言ふことは信じられる」といふ信頼の気分に包まれたことを思ひ出します。
 しかも他のインテリ詩人たちのやうには外国語を弄しなかったに拘らず、主知的かつコスモポリタンな詩想を道徳のやうに堅持し、常に若い詩人たちの動向にも注意を払ってきました。戦後豊橋に隠棲したのを機に、地元の詩人会に引っ張り出され会長に推されるのですが、現代詩が猖獗を極めたこの東海地区で、おそらく「取り仕切る」やうな野暮は何一つせず、非常に詩風の離れた詩人や、カリスマ性とは縁のない散文作家、小田実、城山三郎といった後進の人達からも慕はれてゐたやうです。「朝鮮」といふ詩を戦前に書き示した詩人にして納得しつつ、それはイデオロギーの産物ではない、上記の、抒情の正統を推進し得た自負の表明と合はせて、「肥った静かな重量感の人柄」の絶妙の重心を思ふのであります。
 本来が「四季」の創刊同人といふ「伝説的人物」であって然るべき人物ながら、非常に現代的なイメージも伴ふのは、そんなところにありませうか。愛知大学の講師もされてゐた由、世に伝はる署名も筆よりサインペンが多い(ただ自分のがさう 笑)気がします。

 期間限定特価、分売不可の由。以上、勝手気ままな報知宣伝です。

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431やす:2009/08/26(水) 21:15:42
『朔』166号
 圓子哲雄様より『朔』166号の御寄贈に与りました。今号は和泉幸一郎の未公開資料として、自筆書入れのある同人誌の切り抜きが写真版で公開されてゐます。これによれば遺稿集『母の紋』がまとめられた際、編者はこれらの訂正を見ることなく初出に拠った模様です。誌名が分からぬのは残念ですが、かうした細々した戦前の資料が途切れることなく発表されるネットワークを、現在ひとりで支へてをられる御苦労を偲びます。パソコンはされないといふことですが、いまインターネットで「圓子哲雄」と検索しますと、青森県近代文学館ホームページの「青森県ゆかりの作家」や、また朝日新聞ホームページでは、圓子さんがこの夏語られた、詩人村次郎についての記事などを閲覧することができます。御年79歳と伺ひ、あらためて御自愛を祈らずにはゐられません。
 それはまた、戦時中の青春時代を惜しみなく回想する小山正孝夫人常子氏も同様で、こちらは卆寿を迎へられるとのこと。詩人との出会ひの一瞬を、今もまざまざと心にとめてをられる、その心の若やぎに目を瞠りました。一体にシニカルな詩人に嫁いだ妻といふのは、耐へるばかりの人生かと思はれがちですが、文章を信ずる限り、どうやら田中克己先生とは次元の異なるラブロマンスを体験されたやうでもあります。田中先生の奥様に、いま少しの年月が許されたなら、きっと楽しいお話を沢山書いて頂けたことと、と常子氏の文章を読むたびに思はれてなりません。
 ともに御身体ご自愛頂き、御健筆をお祈り申し上げます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

432やす:2009/09/13(日) 13:21:43
『新編 丸山薫全集 全6巻』その2
 『新編丸山薫全集』が到着しました。早速「補遺」の第6巻目をぺらぺらめくってゐます。加納高校ほか、岐阜県の学校の校歌を作詞されてゐたとは知りませんでした。地元がらみでは「うかいのうた」なんて詞も収録。(『中部日本新聞』昭和30年5月30日号)

「うかいのうた」

ながれを くだる うかいぶね
えぼしの おじさん つなもって
ホーホーホイと こえ かけりゃ
てじなの ような はやわざで
みずを くぐって アユをとる
ふしぎな とりよ うのむれよ
あれ また くぐる それとった
へさきの かがりび もえたって
きらりと おどる ぎんのいろ
けれども うしょうに たぐられて
せっかく のんだ そのサカナ
のどから みんな はいてだす
はいては のんで またもはく
なんびき たべても ハラペコの
うのとり くろい よるのとり(93p)


 「座談会」記録や「来翰集」も興味深いです。亡き盟友三好達治の詩業を俯瞰して、詩篇ごとに詳しいコメントを付した50ページ余りは、原本が『世界の名詩9 三好達治詩集』(講談社1969)と聞くと、なんだか古本屋の平台にうち捨てられてゐさうな本でありがたみが感じられないのですが、かうして全集にまとめられると貴重で、ハッとさせられますね(429-481p)。また『新しい詩の本』(筑摩書房1952)といふ入門書で子供向けに詩を説いてゐるのも、戦前の口語抒情詩人たち作品から、どんなテキストが選ばれたかといふ興味とともに、易しいながら的確な解釈が、山形の小学校の教鞭をとったそのままの肉声として伝はってくるやうです。

「風と花(田中克己)」

 これはおとうさんの気持ちをのべた詩です。この本のはじめのほうでのべた「たかの羽(※永瀬清子)」という詩が、わが子への希望にみちたおかあさんの詩だったのとははんたいに、「風と花」は、子どもをなくしたかなしいおとうさんの詩です。
 このおとうさんがなぜかなしいかは、詩を読めば、だれにでもすぐわかります。どんなふうにかなしいか、どのくらいかなしいかが、あじわってみたいところです。
 風の吹く日に子どもが死んだので、風の音がきこえる夜には、子どもをおもいだします。死ぬまぎわに子どものいったことばをおもいおこすからです。季節は春になって、いろんな花が咲くのに、このおとうさんの気持は、そとの明かるいのとははんたいに、いいえ、明かるければ明かるいほど、なおいっそうかなしいのです。ある日、庭の大きな木蓮の木に花がさいたのでその木の下でよくあそんだ子どものことをおもいだして、いよいよたまらなくなりました。そしてその晩、ねていると、死ぬときにいった子どもの声が、ほんとうに耳にきこえたようにおもいました。いそいではねおきて、雨戸をあけてみると、風がきて、木蓮の大きな花びらがポタリとおちるところでした。
 春には花が咲きます。花は、草や木の、明かるいいのちのしるしです。ところで、いけないことに、春には風がよくふきます。風はむごたらしく、その明かるいいのちのしるしを散らしていきます。この花と風との二つのもののとりあわせが、子どもをなくしたおとうさんのかなしみを、読む人にもわかるように生かしています。そこのところをあじわってください。
 うれしい心も詩になります。かなしい心も詩になります。かなしい心を詩にあらわして、読む人にわかってもらうことで、このおとうさんの気持も、いくらかははれたことでしょう。
子どものことばだけをかたかなにしたのは、そのほうが、おさない子どもの気分があらわれると、作者が考えたからです。(400-401p)

 そして今回の編集では初めて、戦時中の「愛国詩」群も公開されることになったのですが、30年ぶりの全集の意義といふか、心残りに対しての清算といふか、目玉には違ひないのですが、私はこれを分売不可とした理由のひとつぢゃないかとさへ思ったことです。前回編集時にお蔵入りとなった愛国少年詩集『つよい日本』(国民図書刊行会1944)をはじめ、雑文でも、例へば山川弘至と杉山平一といふ二人を並べて誉める書評なんかが収められてゐます。尤も考へてみれば、お二人とも処女詩集を戦時中に刊行せざるを得なかった同世代の詩人なのですから驚くことではないのでせうが…。

「新らしき個性…-近刊詩集の感想」(『日本読書新聞』昭和18年3月20日号)

 詩が自己のはげしく郷愁するこころから出發する。詩が自已のはげしく憎むこころから立ち上がる。またはげしく憧れるこころから歌ひ出す。しかもそれらの個人の憧れなり、憎みなり、郷愁なりが、そのままに國土への郷愁なり、民族の憧れなり憎しみにつながる。國土に生ふる草木のなかの一本として郷愁し、民族の中のひとりの自己として憧れ悩む。――民族の血の中の一血球としてこころ――國土の相貌を帶びる一個性としての性格――さうした詩がいま若い詩人たちの中から生れやうとしてゐる。
 まほろば叢書(大日本百科全書刊行會)の「ふるくに」(山川弘至)を手にして、僕はこんな理想論的なことを感じてゐる。ここには單にいまの若い人達の誰しもが一應抱いてゐる國家とか民族とか郷土とかの觀念はない。詩人はやはりみづからに發する情緒で歌ひ、それは飽くまでみづからの個性に終始するがごとくにうけとれる。にも拘らず、それら個性をとほしたもののひびきは悉く波紋してより大きな、よりひろい彼岸にまで共鳴する。かうした大■な詩の効果は、やはりその詩人の個性の「在り方」に由來するものとしか思はれないのだ。(■不詳)
 嘗て理想を見失ひかけた一時代があつて、その現(うつし)みの中に時代と全く切り離されたが如き詩人の個性が無方向にポツンと存在した。詩はその個性に孑孑(ぼうふら)が湧くやうに發生し、その個性に閉じこもることによつて個性をすら失つてゐた。それと反對に、いまや明かに一つの目覺ましい黎明がきてゐる。日本がうごき、世界が動くときに、世界の脈搏の中にある日本と、日本の脈搏の中にあるみづからを感じることによつて、詩は詩人のそれぞれの個性をとほして、その個性が代表する、より大きな民族の聲音にまでも達しやうとしてゐるのだ。
 別の例として杉山平一の「夜學生」(京都市左京區田中門前町第一藝文社)をとらう。
ここには愛情をもつ詩人の個性からする二つの異なつた方向をとる反射がある。一つは詩人みづからと、みづからと同じ時代と環境に育つた知識人に對するものであり、一つは詩人のはたらく一工場の勞務者達へ向けられたものである。この二つの反射は屈折に富むこの詩人の個性をとほしてそれぞれに、微笑ましく巧みな作品を作り上げてゐる。しかもその現れが詩人の個性をいつさうはつきりと示してゐるかといふ問題になるなら、僕は躊躇なく後者の系列にある作品を數へるであらう。
 詩人の個性の位置は現実の只中にあるべきだ。みづから狹めることなく、思ひ切つてもののまん中に置かねばならない。(496-497p)

 安智史氏による解説(749-762p)でも、これまでの批評家たちが避けてきた部分、すなはち丸山薫が「純粋詩人」と「公的要請に係る詩人」の二面で身を処してきた結果としての、戦時中の社会的責任の自覚についてが踏み込んで語られてゐるのですが、もはや「戦争詩即ち悪」といふ図式的な偏見が無効である現在、この解説のなかではむしろ「大正期民衆詩人たちが主張した詩の民衆化の理念を、戦後から大衆社会にむかおうとする社会状況の中で、図らずも拡大再生産する立場に立った、といえる側面もあるだろう(762p)」と、戦後、豊橋に隠棲した後の地域活動に対して、はっきりした物言ひがなされてゐます。確かに校歌の作詞や「うかいのうた」なんてのはその産物でせうし、もっと云へば、中央に現れた若い戦後現代詩詩人たちの作品に賛意を送る「進取の気性」は、昭和15年当時のヒトラーに寄せた期待(560p)と、そんなに根が違はないやうに私には思はれる。また戦前に「朝鮮」といふ詩に発露した詩人の自覚が、無名のファンだった小田実少年の出世を喜ぶ(379p)一方で、中河與一の人と文学を擁護する一文ともなる(340p)。しかしそれは天邪鬼でなく日和見でもなく、恒産者でない詩人、外国語も堪能ではなかった丸山薫が守った誠実さの表れ方だったと、私は思ってゐます。ここから窺へるのはただ、時代とともにありながら右往左往しない人間性への信頼とも呼ぶべきものではないでせうか。頂点を見定め難い「山容」に生える雑多な草木が、二段組で1032pもあるこの「補遺巻」一冊にはびっしり植わってあって、従来の「丸くて大きな山」といふ表敬的な印象をかきわけて、実地に入り込むことができるやうになった、といふのが私の感想です。

 ただ、この一巻の為に分売不可の全6冊を抱き合はせで買はなくてはならないのはよいとして(笑)、残念なのは、『中原中也全集』のときと同様、造本が並装になってしまったこと、各巻巻頭に写真が一葉も収められなかったこと、そして私の大好きな(笑)「月報」がなかったことでした。さきに出た全集をそのまま再刷して付すなら、写真や月報もなければ仕切り直しにはなりませんし、前回と同じ装釘でこの6巻目だけを刊行したらよかったのです。いっそ別巻として、写真をあつめた「文学アルバム」、さらに第4次「四季」終刊号で行はれた追悼文を補完して「回顧」の巻など望みたいところですが、現在詩人の顕彰を街ぐるみで行ってゐる豊橋市の力を俟ちたいですね。

433萌葱:2009/09/19(土) 17:08:14
お尋ね
 亡父がこの分野の仕事に関係しておりましたこともあってか、父宛にお手紙をいただき、何とかその方の思いを叶えたいと図書館などあたりましたが、見つかりません。ご存知ならば教えていただけませんでしょうか。

 大正10年6月頃創刊の「かぎろい」という詩歌誌について。第4号まで出されているようですが。(山口県近代文学年表、97、226頁に記録があるようです)この「かぎろい」に故 野上巌(新島 繁)氏が当時 短歌など寄稿されていたようで 足跡を調べておられるようです。

 突然のお尋ね申し訳ありません。もしご存知でなければ、どのように探ればよいか教えていただけないでしょうか。

434やす:2009/09/19(土) 21:05:43
(無題)
こんばんは、萌葱さん、こちらではおしさしぶりです。
お訊ねの雑誌「かぎろい」は、「コギト」の前身、大阪高等学校の「かぎろひ」ではないのですね。
すでに検索済かとは存じますが、国会図書館、日本近代文学館、神奈川県立近代文学館等にもない雑誌です。
書誌に言及する『山口県近代文学年表』が、すでに30年以上前の刊行ですから、公の機関に寄贈されてゐないとすれば、
原本は、お持ちだった執筆者の手許からも散逸してゐる可能性が高いのでせう。
不取敢は山口県立図書館宛にメールで手掛かりを問ひ合はせられては如何でせうか。映画で話題になった地元人物についてのことですし、
県立のレファレンスカウンターなら、調べた結果を詳しく報告して下さる筈です。
勿論連絡先アドレスをリンクされれば、この掲示板からも御存じの方には直接お知らせ頂けるかもしれません。
拙サイトの守備範囲でない詩人ですが、社会的改良を志すことが文学者の良心として命じられてゐた時代の詩業です。調査結果が集成されれば喜ばしいことですね。
以上、私個人ではお力になれさうもなく、面目ありません。ありがたうございました。

435萌葱:2009/09/19(土) 21:52:34
ありがとうございます
 ご丁寧なお返事ありがとうございます。お察しの通りまともなルートでは見つかりそうもなく、かえって闘志が?(苦笑)わきます。地元を攻撃してみようと思います。
 掲示板を汚して申し訳ありませんでした。

436(モ):2009/09/19(土) 22:22:44
(無題)
通りすがりですが…『ポエチカ』にちょいちょい「野上巌」の名前が見えますね。
http://www.geocities.jp/moonymoonman/i/poetica.txt

437やす:2009/09/19(土) 23:12:39
(無題)
モダボ隊長、ナイスフォローありがたうございました。
http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/HolderList?txt_docid=NCID%3AAN10555392

438やす:2009/09/23(水) 15:39:28
彼岸の中日
 どこにも遊びに行けなかった連休の最終日は先考の展墓。祝日法でも秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」といふ趣旨なのであるらしい。戦前は「秋季皇霊祭」といふ名でしたが、これは明治になって歴代天皇の忌日をまとめて奉祀するために作った新しい祝日だったやうです。ぢゃあ江戸時代はどう天皇をお祀りしてゐたのでせう。
 神仏混交の時代、天皇家も仏式で葬儀供養が行はれてゐた訳ですが、写真は、先週『五経』の揃ひを買った際に「おまけ」で付けてくれた折本です。中には崩御した天皇が日にち順に列挙してあるだけ。発行元は八幡様の総本社である宇佐神宮のやうです。
 これを見ますと・・・つまり三十日以外の毎日が誰かの命日なんですね。開巻劈頭、天照皇大神から天忍穂耳尊〜日向三代の計五柱の御名をつらね、神武天皇が朔日に薨じたといふところから始まってゐます(旧蔵者は「暦ニハ見ヘズ」と頭書)。おそらく神事と関係するのでせう、晦には該当者がをられぬことになってゐるのも意味深です。
 天皇家の菩提寺とは別に、江戸時代も神社ではこんな記録をもとに何らかの「日々のおつとめ」を行ってゐたのでありませうか。さうして当時の庶民は、これ買って一体どうしてたんでせうね。
 とまれ、珍しい「おまけ」付きの『五経』11冊の揃ひはなんと\1000でした。こちらの方は、読めもしない私が買って一体どうしたものかと(苦笑)……最近の収集物から、でした。

『天皇御崩日記』安政6年3月15日 豊前國宇佐宮 岩坂大神健平 謹撰

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439やす:2009/10/04(日) 20:59:48
寄贈御礼
 手皮小四郎様よりモダニズム詩人荘原照子の伝記を載せる『菱』167号の御寄贈にあづかりました。
 文学の先輩、小川五郎との生涯最大の恋愛と失恋につづいて、峠田頼吉といふ牧師と結婚(駆け落ち)したといふこと、詩人が時に峠田照子と記されてゐる理由を初めて知りました。もとより詩人に関するプライベートな略歴さへ詳らかにしない私にとって、手皮様の筆に上る報告はすべて驚きの連続な訳でありますが、今回は稀覯本『マルスの薔薇』に纏はる世間の誤解を解く見解も示されてをり、胸がスッとする心地を覚えたことです。

 昭和四十二年の夏、荘原の生存を報じた新聞や週刊誌は、必ずといっていいほど、『マルスの薔薇』と御真影一件を記事に織り込んだ。そして「札付きの危険思想家」「特高警察と憲兵が監視」等といった解説と相侯って、なにかこの小説が反骨のモダニズム女流詩人によって書かれた、当時の世相に対する痛烈な風刺の書であるかのような印象を与えた。
 もっとも『マルスの薔葎』といっても、それを読み記憶している人間が居るとしたら、それはもう奇蹟に近いようなことで、ほとんど知ることがない。中国との全面戦争に突入する大日本帝国の軍人を邪揄したものだと言われれば、そういう筋金入りの小説なのかと畏敬をもって彼女を思い出すだけだ。
 ところが、この稀書をいくら読み返してみても「危険思想の持ち主が書いた危険な小説」とは思えない。 御真影を売り歩く木場女史の話にしても、タネを明かせば、この小説をモダニズム文学らしく装うために仕掛けた細工の一つのような気がする。
 ぼくには徹頭徹尾、宍戸タカナと時衛の恋物語に終始しているとしか映らない。タカナと時衛の物語 ──それはすなわち彼女自らが語ったように、荘原と小川五郎の物語だった。

 ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

440やす:2009/10/21(水) 11:52:25
代休日記
【その1】
月曜日、地元図書館の研修会で関西大学図書館まで視察に行って参りました。ここには前から気になってゐた『五山堂詩話』の初刷り本と思しき10冊本が所蔵されてゐることが分かってゐたので、見学の合間に是非その本物を実見できたらと念じてゐたのですが、当日の申請は残念ながら却下。帰還後メールで各巻の奥付情報についてレファレンスを試みたのですが・・・版本に記された正確な刊行者名を訊ねることはレファレンスの範囲外とのことで、受け付けてもらへませんでした。重ねて残念です。

【その2】
まだ手にとってをりませんが、川島幸希氏『初版本伝説』無事出版の由、お慶び申上げます(予約者には31日以降手渡しとのこと)。
初版本・・・近頃は、「初刷本」には興味があるんですが(笑)、近代文学の本を殆ど買はなくなってしまひました。「ちょっと中身を見てみたい」程度の熱意では自分の手に届きさうな本も少なくなり、たうとう某書林の目録さへ来なくなってしまった次第。思ひ当たる節もありますが、むしろ何も買ってないのにこれまでよく送って下さったといふ気持。けだし古書価暴落の今日にも、極少量の供給しかないこの初版本の世界だけは、格差社会の勝ち組顧客によって値崩れもなく安泰のやうに思ひなしてゐたのですが、よくよく考へてみればこんな地味なコレクションに血道を上げる成金がゐるとも思はれず、今号の「古書通信」対談記事でも皆さんボヤいておいででしたが、本屋さんも経営の合理化を余儀なくされてゐる最中なのでありませう。
(尤も我が書庫にも、もう本のおさまるスペースはなく、漢詩文の注釈書も山のやうに溜まってゐますから、これ読む(理解する)だけで余生は潰れるでせうね。)

【その3】
まだ行ってをりませんが、文化のみち二葉館にて 「佐藤一英の足跡」展が始まりました由。御案内を頂きましたので早速紹介。
稀覯本の第一詩集『晴天』や『大和し美し』(ボン書店刊)の書影を飾った古書目録に胸ときめかした頃が、懐かしく思ひ起こされます。

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441やす:2009/10/24(土) 20:19:17
佐藤一英展
文化のみち二葉館で開催中の佐藤一英展を見て参りました。チラシの書影写真が寂しかったのは間に合はなかっただけで、『晴天』「青騎士」といった稀覯本のほか、切手になった油絵の肖像画など、御遺族保管の資料を中心に充実した展示と存じました。 写真upします。
帰途、名古屋で和本を扱ふ古本屋さんに。先日の目録で地元漢詩集が売り切れだった悔しさを滲ませてゐると、御店主がおもむろに、そんなマイナーな詩集注文してくるのはいつも3人で、うち一人は「キャンベルさん」だよと聞いてびっくり。スッキリ諦められました(笑)。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000588.jpg

442やす:2009/11/04(水) 23:35:42
近況
今週上京を予定してゐたのですが、家庭の都合でゆけなくなりました。
高価な詩集や掛軸を注文してバチがあたったかな。
神田古本まつりもあった先週行っておけばよかったのですが、残念です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000589M.jpg

443:2009/11/16(月) 21:35:34
明治・大正期の文人写真
 秦鼎の書の解読では、大変お世話になりました。
 引き続き、地元の「図録」誌の準備を進めています。先般、旧家から、添付の写真が提供されました。この写真の裏書にある方々のうち、「土方久元」は最前列左から三人目と思われますが「細川文学博士」「坂 正臣」「藤沢南岳」はどの人か不明です。(但し、土方・坂・藤沢の略歴は知ることができました。)研究範疇から外れているかも知れませんが、何かご教授願えることがあればよろしくお願いします。

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444やす:2009/11/17(火) 09:32:00
(無題)
お早うございます。熊崎さま、御無沙汰してをります。
人物の顔など全く分かりませんが、「細川」は「細川潤次郎」といふひとでせうか。
またその下に「御奇(寄?)所良?事」とあるのは、或は「御器所ごきそ良事」といふ名前なのかもしれませんが、坂・藤沢両翁よりも前に記されてゐるのはどういふことなのか。名なら有名人でなければいけませんが、ネットでは引っ掛かってきませんね。

大正2年8月23日
中山七里探勝飛騨国漫遊、三留[して]下原村出身之人
加藤鎮之助氏ニ案内セシメシ。伯爵土方久元男爵
細川文学博士、御奇所(御器所?)良事、坂正臣、藤沢南岳翁
東西日本画家四名其他随行四名、本村通過之際
益田郡係勝会員本村有志者相謀リ迎ヘテ、孝池水畔
ニ昼食ヲ供シタル際時ノ記念撮影、写真技師
金山町山口真一氏

写真は推測するより仕方ありません。不取敢ネット上の情報を添付します。
土方 久元(天保4年1833 - 大正7年1918) 最前列左から4人目?http://homepage2.nifty.com/ryomado/Portrait01/po_hizikata.gif
http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jinbutsu/hijikatahisamoto/hijikatahisamoto.htm
細川 潤次郎(天保5年1834 -大正12年1923) 最前列左から3人目?http://archives.cf.ocha.ac.jp/exhibition/a_ph_021-0070.html

阪 正臣(安政2年1855 - 昭和6年1931)最前列右から2人目? http://www.urban.ne.jp/home/festa/ban.htm
http://www.rakutai.co.jp/etc/yamashiro/img/093/0931.jpg
藤沢 南岳(天保13年1842 -大正9年1920)の画像はみつかりませんでした。自宅図書館員のレファレンスの限界です。

以上本日フレックス出勤にて、自宅よりとりいそぎの返信まで。以降の御連絡はメールでも結構です。ありがたうございました。

445やす:2009/11/17(火) 22:57:50
訂正
「御奇(寄?)所良?事、坂正臣」→「御哥所主事、坂正臣」
熊崎様ありがたうございました。

446やす:2009/11/19(木) 23:20:20
『桃』終刊のこと
 山川京子様より『桃』十一月号の寄贈にあづかりました。ここにても御礼申上げます。誠にありがたうございました。
 巻末御挨拶にて、来年の三月号をもって創刊五十五年、六百余号の雑誌の歴史に幕が下ろされることが発表されてゐて、まづ仰天。ものごとには何でもをはりがあること、分かってゐても、この雑誌は志を継ぐ人々に託され、名前を変へることなく灯を掲げ続けるものと思ってをりました。今夏奥美濃で行はれた記念館増築のお祝ひの、にぎやかな集ひにも立ち会ってゐましたから、京子氏が親ら終刊を裁可されるなど、思ってもをりませんでした。
 私が田中克己先生の不肖の弟子であることをふりかざし、桃の会の御縁を忝くしまたのは、思へば郷土の先達詩人山川弘至の『遺文集』『こだま』『山川の音』といった著作集が立て続けに刊行され、会が記念館設立に向けてもっとも活溌に活動してゐた時期でありました。私は京子氏今生の思ひの結実を、まざまざと目の当たりにしてをりながら『桃』の刊行にせよ、なにか空気のやうな当たり前のことのやうに思ひなして居ったやうです。記念館の資料管理についても、差しでがましい助言を申し上げたことなど、はづかしく思ひ返されることです。
 作法など何も知りませんが、一首。

長良川つきぬ思ひのみなもとに みのりし桃をたれか享くべき

447TeX:2009/11/21(土) 18:23:36
Re: 明治・大正期の文人写真
藤沢南岳先生は、一番左の人?

通天閣こぼれ話
http://www.tsutenkaku.co.jp/shiryo/data.html
 (写真:1986年3月25日付朝日新聞の記事)

448やす:2009/11/21(土) 21:23:21
(無題)
TeXさま、ありがたうございます。
たしかに、さうかも知れませんね。
(それにしても20年後、私も翁達のやうな顔になりたいものであります。)

449:2009/11/22(日) 09:56:54
藤沢南岳翁の件
TeXさま、ご指摘ありがとうございました。朝日新聞を手に入れてみたいと思います。
もう一人、加藤鎮之助は、地元(現下呂市金山町)出身の人ですから、お顔を確認したいと思っています。加藤素毛の甥ですので、加藤素毛記念館の中島清氏ほうへ問い合わせ中です。
孝池水には「孝感泉」という加藤鎮之助が建てた碑があります。

450やす:2009/11/28(土) 23:00:21
「感泣亭秋報」第4号
 小山正見様より小山正孝研究誌「感泣亭秋報」第4号をお送りいただきました。
 抒情詩を解析することが、読むのも書くのもだんだん億劫になってきた私ですが、冒頭、詩人の交友圏のひとりであった松田一谷といふひとについて坂口昌明氏がものされた論考は、まさにこの会の趣旨「正孝と共に詩や文学に携わってきた仲間たちの業績を掘り起こすこと」に則った紹介。博捜する言ひ回しはいつもながら、も少しお手柔らかにと思ふところですが、『朔』誌上での戦前青森抒情詩壇の掘り起こし作業といひ、次々と未知の詩人にライトを照らしてゆかれる好奇心とバイタリティを羨ましく仰ぎました。
 また先日の詩人を偲ぶ定例会で、小山正孝の漢詩訳についてお話をされたといふ佐藤保氏の一文を拝読。『唐代詩集 上巻』で李白を担当した田中克己とともに、杜甫が遺した膨大な詩篇から何を選んだかがすでに、享受者の批評に類すること、そして漢詩の口語訳が醸し出す「独特の味わいと親しみ」を再認識しました。ちなみに手許の『唐代詩集 上巻』を繙くと、
「ふりかえれば白い雲が見送るようにたくさんうかんでいる」とか、
「無数の花々は金貨のようだ」とか、
「鼠が古い瓦のかげにごましおのからだをかくした」とか、
「かやの実を手のひらいっぱいとることもあります」とか、
「石の間に海の眼のような 水のわき出ている眼がある」とか、
ことごとく四季派風の譬喩や表現に鉛筆で印がつけてあったのを見て、懐かしい限り。
 また久松小学校同窓会の渡邊俊夫氏が語られた「立原道造を偲ぶ会」当時のこと」のなかで、「会は五十回忌で解散」と予め決めてあってその理由、「偲ぶといふ語彙は、故人と交流のあった者に許されるべきで、見ず知らず、赤の他人がやすやすと使うものではない」といふ言葉に感銘。「警視庁鑑識課顔負け」の考証をする堀内達夫氏、「一家言が背広を着ているやう」な鈴木亨氏、「自己主張しないことを主張している」小山正孝氏、といふ、御三方の人物描写も実に興味深く、世代対立も相俟った、なかなか窺ふことのできぬ会の内情なども、ゴシップに落ちぬ消息を伝へてたいへん得心のゆく文章でありました。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

感泣亭秋報4 2009年11月13日(詩人の祥月命日)刊行 \500 問合せは 感泣亭HPまで。

詩 牛肉 松田一谷風に 小山正孝 2
ゴゴーとディディー 呼応する家庭詩 松田一谷氏の場合 坂口昌明 4
小説 葦 松田谷 18
小山正孝訳の杜甫詩 漢詩和訳の流れのなかで 佐藤保 26
ソネット逍遥4 桃生隼 32
愛と叛逆 渡邊啓史 34
生活の中の性愛「未刊ソネット集」の世界 里中智沙 38
気息から放散するポエジー 藤田晴央 42
小山正孝の詩世界 三 近藤晴彦 44
詩 多羅葉 馬場晴世 46
詩 ほんとうに存在しないもの 森永かず子 48
詩 心中をしてもいいような人 大坂宏子 50
回想
「立原遣造を偲ぶ会」当時のこと 渡邊俊夫 52
中教出版での小山さん 宮崎豊 56
関東短大時代の小山先生 新井悌介 56
感泣亭アーカイヴズ便り 58


>熊崎様
加藤鎮之助氏といふのは骨相からして最前列左から2人目でせうか…。

451:2009/11/29(日) 02:03:01
加藤鎮之助について
中嶋様
 ご指摘のとおりです。素毛記念館の展示写真と、飛騨漫遊の写真は特徴のある、はえぎわが一致していました。加藤鎮之助は、明治2年生まれで、梅村騒動が鎮静し、鎮之助となずけられたとのお話でした。加藤家はこの地域の名主のため梅村側とみなされ、この騒動で焼き討ちにあったとのことです。その後、鎮之助は、東京で農本を学び、殺虫剤の開発により財をなしたとうかがいました。
 飛騨漫遊の画帖三冊と書籍一冊が遺品として保存されています。数頁の書画は撮影させていただきました。改めて、訪問し詳細を見せていただきたいと思っています。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000598.jpg

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452:2009/11/29(日) 19:26:11
加藤鎮之助写真他
加藤鎮之助の写真です。加藤素毛記念館に展示されているものを部分拡大したものです。
裏書に記載がある方々の当時の年齢を概算したところ、土方久元:80歳、細川潤次郎79歳、藤澤南岳71歳、坂 正臣58歳、甲斐虎山47歳、加藤鎮之助44歳、首藤白陽46歳、後藤秋崖27歳、煙律調査中となりました。お顔と氏名の確認はさらに情報を集めながら確定したいと思います。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000599.jpg

453やす:2009/12/02(水) 23:09:42
散文集『巡航船』
 杉山平一先生が散文集『巡航船』を刊行され、一本の御寄贈にあづかりました。ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 今回は函の意匠が素晴らしく(「黒」冒頭で触れられてゐた黄色と鼠色の配色の美しさを初めて実感)、カバーの挿絵(聖橋とニコライ堂)も魅力的ですが、シックな本体の装幀が函にぴったりしてゐる分、カバーで隠れてしまふのが勿体無い感じもします。
 収録は小説集『ミラボー橋』を中心に、これまでの散文からの選集ですが、さきの全詩集や土曜美術社版・思潮社版の選集にも収録のなかった「機械」が新たに選ばれてゐて、恰度、國中治先生がものされた杉山平一論「『四季』の最後の詩人」の理解を助けるやうな内容となってゐます。國中さんが「機械好き」とともに杉山詩の特色として指摘された「乗客観察」を前面に出した短編「巡航船」が、そのままタイトルとなってゐることにも気がつきました。「乗客観察」なら電車の方が杉山先生に相応しい感じですが、電車よりも船の方がポエムがあると思はれたのでせうか、或は師三好達治の『測量船』も念頭に置かれのでせうか、なにか杉山先生らしい気配りに思ひをめぐらせてをりました。
 全詩集刊行以降の拾遺として、今回はもうひとつ、「かくも長き」といふエッセイも収められてゐるのですが、先生が両親以外の親族を、このやうな愛情をもって書かれたものを読んだことがありませんでしたし、また単に家族のことを書いたといふだけでなく、詩人杉山平一の文学出発の状況を、師友との交流からでなく、プライベートな側からみつめてゐる点が新鮮で、結末まで一気に引き込まれます。
 後半に収められた拾遺篇の影響か、全体に「工場経営の負債」に関る文章が多いやうにも思はれたのですが、先生御自身は、或は「詩人らしくない話題ですが」なんて卑下されるかもしれませんが、私は『わが敗走』を読んだときの感動が忘れられず、この企画を立てられた方の選別に敬服します(自選でせうか 汗)。
 さうして負債といふことなら、國中先生の論文に対する感想とともに、杉山先生のポエジーについても、私なりの感想を未だ書ききってはゐない自分にこそあるやうで、感ずるところを、いつかもう一度まとめてみたいとは思って居りながら、荏苒のびのびになって申し訳ない限りです。
 ここにても御礼とお詫びを述べさせて頂きます。ありがたうございました。

杉山平一散文集『巡航船』2009年11月編集工房ノア刊  上製函入374p. \2500

 目次

?「ミラボー橋」
 杉山平一君(三好達治) 11
  *
 父 15
 動かぬ星 42
 虚像 68
 ミラボー橋 86
 黒 91
 季節 95
 暗い手 103
 陰影 112
 月明 124
 巡航船 135
 星空 144
 あしあと 151
 春寒 154
 恋する人 165
 通信教授 185
 あとがき 193

  *『ミラボー橋』拾遺
 機械 199 (既刊単行本未収録)
 覚書 236
 目 254


?
 かくもながき 269 (既刊単行本未収録)
 顔見世 292
 母の死 308
 象 313
 私の会った人 (土曜美術社版『杉山平一詩集』収録)
  花森安治 318
  大西克禮 320
  石川武美 322
  今村太平 325
  伊東静雄 327
  立原道造 329
 また、いつか、どこかで (思潮社版『杉山平一詩集』収録)
  会う 332
  在る 335
  隠す 340
  繰返す 342
 ひとりぼっちの世界 346 (土曜美術社版『杉山平一詩集』収録)
 鳩・公園・ピアノ (思潮社版『杉山平一詩集』収録)
  鳩 351
  公園 354
  ピアノ 357
 星を見る日 (思潮社版『杉山平一詩集』収録)
  桜 361
  犬 362
  星 365
 私の大阪地図(詩) 368

 あとがき 372

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000600.jpg

454やす:2009/12/12(土) 21:48:24
秋田の写本漢詩集
 今月はのっけから、オークションやネット古書店での安物買ひが続いてゐます。
 まづは再版漢詩集の種々32冊を破格値で落札。旧家の蔵から放出されたものと思しく、一緒に送られてきた自筆詩集の巻頭に「以詩為命」と大書してあるのをみれば、なにか旧蔵者だった漢詩人の先生から本たちの行方を託された気分になりました。

 写本『周南峰詩鈔(明治〜昭和29年)』ほか5冊
 著者は鈴木文齋、本名平右衛門、日露戦役に従軍した羽後長野の漢詩人。昭和19年に68歳とあるので明治8年頃のお生まれでせうか。昭和33年1月には翁をしのぶ遺墨展が地元中仙町の公民館で行はれてゐます。当時「御蘭吟社」「八乙女吟社」といふ漢詩・和歌の結社があった模様です。

『周南峰詩鈔』序文「本篇は作者少年時代よりの原作其の侭蒐集する者也。故に無秩序又無方法、随ひて背韻と誤調を免れず。後賢、宜しく斧正を請ふ也。 文齋誌す」(原漢文)

 吊江幡澹園翁 江幡澹園翁を弔す
東北詞壇赤幟移 東北の詞壇、赤幟(盟主の意)移る
堪聞落日梟鳴時 聞くに堪へん、落日、梟(ふくろう)鳴く時
一生才筆揚奇韻 一生の才筆、奇韻を揚げ
百世文潮立供基 百世の文潮、供に基を立つ
桃李盈門衣鉢在 桃李、門に盈ちて衣鉢在れども
風花無跡訓言垂 風花、跡無く訓言垂る
由来木鐸何者振 由来、木鐸、何者か振る
寂寞西山雲一枝 寂寞たり、西山の雲一枝

 頭評は総て明治時代の秋田の漢詩人によるものでした。名と検索結果を記します。
江幡澹園(運蔵、大館市の人『秋田歌集』編者『盍簪余事』著者)、狩野旭峰(大館市1832−1925『旭峰詩鈔』あり)、田口羽山、高橋午山(軍平『征露鐃歌』著者、児玉市隠、伊藤耕餘(直純『金沢史叢』『我観後三年役』著者、藤川豊城、六大山人、六五山人(『仙北郡案内』著者)、小野田半畝、高橋半山、金丸錦村、佐藤弘堂、飯村稷山(粋『佐藤信淵翁傳』著者)・・・。

 活字になることなく遺棄されたこれら草稿の類ひは、ふたたび地元に寄贈できたらと検討中です。

【追伸】無事大仙市役所大仙市教育委員会文化財保護課が寄贈を受け付けて下さりました。といふより町史に写真付きで紹介されてゐた貴重なものだった由、危機一髪で歴史的な地域文献が散逸するところだったのでありました。関係者はすでに上京、おそらく分からずに古本と一緒に処分してしまはれたのでせう。(2010.1.12追加)

 さて年末は自宅に逼塞することが決定、扶桑書房さん主宰の第3回「一人展」にもゆけず、安物買ひもボーナスで赤字になるかも、といふオチを控へて戦々兢々の日々。まさに薄氷を履むが如き暖冬とデフレの師走であります。

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455やす:2009/12/14(月) 00:00:38
詩人川添一郎
 昨日池内規行様より「北方人」13号を御寄贈頂きました(ごぶさたしてをります)。山岸外史を師と仰いだ詩人のひとり川添一郎の事迹と思ひ出を綴ってをられます。拙サイトで紹介させて頂いたアンソロジー『詩集8人』に集結した外史門下の詩人の一人ですが、サムライたちはその後出征、シベリア抑留と帰還後の社会で辛酸をなめた川添一郎の詩は、なにかを沈殿させたやうな抒情詩に変貌、作品を2篇、池内さんが最後に抄出されてゐます。うち一篇。

 父よ

一房の葡萄と三つの林檎
父よ
あなたは
この貧しい供物のなかで
もう夜も更けたれば眠っておいでか

あなたは
わたしの素裸な手に
母と六人の弟妹をのこして
忽然と遠い処へ行ってしまわれた

いまごろは
あの藁葺きの屋根の下で
病める母と幼い弟妹が
寄添って眠っていることだろう

故郷では今宵一夜を
あの竹藪深い軒端に
一つの提燈をかかげ得ただろうか
父よ
あなたの初盆というのに
わたしは故郷へ帰れもしない

だからこうして
夜更けて妻と二人
ふるぼけた書架の上に
一房の葡萄と三つの林檎を供え
あなたの御冥福を祈るばかりです

 詩人からの聞き書きで、山岸外史が「川添君を(第4次四季の)同人に入れたらどうか」と相談したら、丸山薫が俄かに承知しなかったといふエピソードがあったのですが、「二人には一線があったような気がする」といふのも、山岸外史に対しては旧くからの知人の多くがそのやうな姿勢で接してゐたらしく、田中克己先生もまた「何をたよりにしてゐるのかわからん人」などと評してゐるのですが、これはしかし日本浪曼派にあった人物が戦後、政治的に変節したといふこと以外に、その「詩人的気質」そのものに原因があったもののやうに思はれます。けだし田中先生御自身もまた、戦後宗教的に変節し、また東洋学者と二足の草鞋をはいてゐることで「みな仲間はずれにする」と喞ちながら、その実は「詩人的気質」によって敬遠されてゐたので、師事してゐた自分にも十分理解できるのです(笑)。むしろこのエッセイは、孤高の詩人山岸外史と、見ゆることなく私淑しその評伝を書きあげた池内さんとの間を、川添一郎といふ一番弟子が東道し、外史門下として迎へ入れた経緯消息を物語ってゐるのであって、読む者だけでなく池内さん自身にとっても身の証しを立てるたいへんよい文章となってゐることに、読みつつ思ひをめぐらせたのでした。
 ここにても御礼を申し述べます。ありがたうございました。

456やす:2009/12/27(日) 21:04:37
山口正二氏関係詩誌『薊』ほか
 一昨日の郵便にてお贈り頂いたのは、ここ何年ももらったことのない「クリスマスプレゼント」。名古屋の同人誌『薊』『新雪』『名古屋文學』『尾張文藝』などを一括して、同人だった山口正二氏(1913−1985)の御子息融氏よりお送り頂き吃驚、またその中身をあらためながら恐縮してゐるところです。ここにても厚く御礼を申し上げます。
 『夜光蟲』(1933)ほか既刊詩集のテキストを全文公開する融氏のホームページについて、かつて拙サイトで紹介させて頂いたのですが(掲示板過去ログ2008年11月29日、2009年 2月 7日参照)、今回の御厚意をどうお受けしたらよいか、同封のお手紙には「不要な場合には廃棄して頂きたく」とありましたが、とんでもないことです。
 一見すぐに貴重だと分かるのは、山口正二氏をはじめ当時弱冠の名古屋二商の学生たちが興した詩誌『薊』(創刊1933)でせう。最初は文学青年のおちゃらけたガリ版同好誌にすぎなかったものが、活版刷となる辺りから垢抜けし始め、杉本駿彦を迎へ入れた7号などは構成主義の写真を使用した全く面目を一新する表紙で、たった一年でかくまで変るものかと刮目させられます。その間、山口氏の処女詩集『夜光蟲』が「あざみ叢書1」として刊行をみるのですが、誌上に出版記念会の写真も掲げられ、謂はば同人のホープとしてさぞ面映ゆくも晴れがましい夢を膨らませたことでありませう。そのまま文学を続けられたらと思はずにはゐられませんが、7号を最後に詩人は召集され、入営先からは寄稿も雑誌受取りもままならなくなります(雑誌はそれから昭和12年13号まで続き、主宰者で親友だった都築喜雄はまもなく「悲惨な運命」により夭折した由)。そして海兵団のあった呉にあっても『柚の木』といふ雑誌に参加するのですが、憲兵に見咎められ大目玉。敗戦まで軍務に励みながら詩風(題材)を転じ、一兵卒として従軍詩を書き続けることとなるのです(『一枚のはがき』9p・『揚子江』あとがき132p・『その頃』67p参照)。
 また戦後、名古屋詩壇に復帰してから、顧問格として招聘され、最後は山口氏自らが孔版専門職として印刷にも携はった『新雪』『青年文化』『尾張文藝』といふ岩倉〜一宮地区に興った同人雑誌も、今では貴重な地方文学史資料といへるのではないかと思ひます。丁寧正確なガリ版文字をきる職人は同時に発行者であり編集者でもあり、誌面は無償の労力を感じさせる細かいこだはりに満ちあふれてゐます。同人誌経営の常として、遅刊、廃刊、新創刊を繰り返しながら、この昭和22年から27年にわたった一連の活動は、結局山口氏の手許で一区切り=終焉を迎へることになった模様ですが、一冊一冊の編集後記を辿ってゆくと、掲載作品とは別に、地方の若い手作り文芸運動の舞台裏を文字通り手にとって感ずることができ、たいへん興味深いです。
 尤も当時孔版が選ばれたのは、活版が高価だったからであり、つまり粗末な酸性紙に印刷されることが多かったこれら孔版雑誌のバックナンバーは、半世紀以上経た今日、読み捨てられる運命を免れたにせよ、御遺族の仰言るやうに粉韲する寸前の状態にあるのだと云へませう。私もしばらくは手許に置いていろいろ穿鑿してみたいと思ふのですが、繙くたびにボロボロ角からくづれてゆく様をみるにつけ、これはサイトで紹介を一通り行ったのちは、永久保存のため、さきの漢詩写本と同様、しかるべき図書館に寄贈を打診すべきではないか、と考へる次第です。融氏の御意見も伺ひ、その時にはまたここで報告させて頂ければと存じます。
 貴重な資料を本当にありがたうございました。

受贈雑誌

『薊』(あざみ文芸研究会(あざみ社) 名古屋市東区新出来町 都築與詩雄(喜雄)宅) no.1-4 孔版
no.1(1933.4)\0.10,no.2(1933.6)\0.10,no.4(1933.10)\0.10,no.5(1934.1), no.7(1934.7)\0.10, no.9(1935.1)\0.15
『柚の木』(柚の木社 広島県呉市江原町 井上逸夫宅 [印刷は名古屋市東区])
vol.4(1937.8)\0.20

『新雪』(新雪文化倶楽部 愛知県丹羽郡岩倉町 藤井俊男宅→一宮市日比野通 桜井野生宅) 孔版
no.4(1947.8)会費\5,no.5(1947.11)\5,no.6(1947.12)\10,no.7(1948.8)\10, no.8(1948.10)\14
『青年文化』(青年文化会 一宮市広畑町 中島秋夫宅) 孔版
no.1(1949.8)会費\35,no.2(1949.9)会費\35,no.3(1949.10)会費\35,no.4(1949.12)会費\35, no.5(1950.1)会費3ヵ月\100,
『尾張文藝』(尾張文化會 一宮市浅野駅前 下郷聡男宅) 孔版
no.1(1950.3)会費3ヵ月\100, no.2(1950.4)会費3ヵ月\100, no.3.4(1950.8)会費3ヵ月\100, no.6(1950.12)会費3ヵ月\100,no.6(1951.3)会費3ヵ月\150, no.7(1951.5)会費3ヵ月\150, no.8(1951.7)会費3ヵ月\150, no.9(1951.10)会費3ヵ月\150, no.10.11(1952.2)会費3ヵ月\150, no.12(1952.6)会費3ヵ月\150, no.13(1952.9)会費3ヵ月\150, no.14(1955.12)会費記載なし,

『名古屋文學』(名古屋文學社 名古屋市中区梅川町 平野信太郎宅)
no.1(1947.12)\15, no.2(1948.2)\18, no.3(1948.4)\18, no.4(1948.6)\20, no.5(1948.8)\20,
『太鼓』(太鼓の会 茨城県下館町金井町 関操宅) 孔版
no.2(1949.1)会費\45,
『風貌』(東海詩人協會 海部郡蟹江町 藤岡洋次郎宅)
no.1(1952.[3])\50,
『ペン』(名古屋ペンクラブ 名古屋市中区梅川町 成田元忠宅)
no.22(1960.8)\50, no.23(1960.11)\50, no.24(1961.4)\記載なし


【追伸】お送り頂きました貴重な詩誌ですが、【明治・大正・昭和初期 詩集目録】にて紹介をさせて頂きました。もしくは過去ログ、 詩人の項目より御覧下さい。
 書籍と違って雑誌といふ資料は、愛蔵する物でなく、しかるべき公共機関が保存にあたるべき地域遺産だと私は考へてゐます。関係機関に寄贈を打診するとともに、今しばらく斯様な資料の手許にあることの至福の時間を堪能したいと思ひます。(2010.1.11追加)


 つづいて同じく山口さん繋がりで「正二さん」の次は「省三さん」。鯨書房さんより『破衣句』号2冊ご恵送に与りました。ここにても御礼申し上げます。しかしながら団塊世代の無頼派(チョイ悪おやじ連?)のみなさん、いつもながら基調不機嫌です。

コンビニに横殴りの風馬の足(sada坊氏「深夜の風景」)。続けるに…「金のたてがみ嘶けヤン車」とか。
頸筋撫でさすり股揉みしぼる手(同氏「夢いくつか」)。 あー、この仕草よくされてますねー(笑)。
岐阜公園一刻みどりのうねりかな(幻界灯鬼氏「青葉波立ち」) 。 照葉樹林が裏返る金華山がなつかしいです。

 ありがたうございました。良いお年を。

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457やす:2009/12/30(水) 23:44:58
『昧爽』19号
 今年最後にわが家に届きましたのは、山本直人様/中村一仁様共同編集『昧爽』の19号でした。ここにても御礼申し上げます。ご寄贈まことにありがたうございました。
 中村さんが書かれた、今年2月に亡くなった渥美國泰氏の追悼文。テレビドラマを通してしか俳優を知らない私にとって、文壇人と劇団人との関係といふのは、皆目わからぬ事情に属しますが、文壇では保守系批評家の第一人者と目される福田恒存について、却って中村さんのやうな立場のひとが、虚心に渥美氏の回想に耳傾け、福田氏の興した劇団雲の分裂に対して是々非々でもって語る態度が良いです。義憤と人情と同時に「盲従も拒否する」ところが中村さんらしさですが、為に生ずる誤解も受けて立つ堅固な志操は、例へば自らの戦争体験から「世田谷九条の会」に賛同する一方、A級戦犯土肥原賢二を演じて辱しめなかった渥美氏の役者魂とも一脈通ずるところがあるのでせう。葬儀参列者には演劇関係より骨董関係者が目だった由。もとより渥美氏が心酔された亀田鵬齋は、漢詩人が尊王攘となる一世代前、化政期のサロンで活躍した人情に厚い庶民派の文人学者です。
 中村さんらしい義憤は、今回『淺野晃詩文集』刊行の予告文においてより顕著でしたが、1985年に刊行された定本詩集をすでに所蔵してゐる人を念頭に編集中である旨を具体的に伺ひ、私もかつて自らの思ひ入れだけを頼りに『田中克己詩集』に収録する詩篇を選んだときのことを思ひ出し、いたく同感。私淑された先生の著書200冊余と謂はれる文業を俯瞰する「決定版の一冊」が、無事完成に至ることを祈らずにゐられません。中村さんが心配されるやうな、浅野晃の生きざまを否定する人間がどれだけの人物かどうか、相手にするまでもありませんし、またジャーナリズムの書評をあてにしても仕方がないことです。この詩人の大きさを示し、また今回封印の解かれる『幻想詩集』が捧げられた伊藤千代子の追善にも適った書評はかならずや現れませう。
 及ばずながら拙サイトでも広報に努める所存です。残す終刊号とともに、悔いなき編集に専心されますことを祈念申上げます。

458やす:2009/12/31(木) 00:08:58
本年回顧
 年男だった今年、古書の収穫はさておき、職場は危機意識に引締まり、わが家は内憂と外艱に揺れた一年でした。家人のライフワークのみ脚光を浴びましたが、これまた多忙のさまをオロオロ傍観するばかり。来年は数へでたうとう五十になるといふのに、おのが天命に安んずるどころか、不勉強四十九年の非を思ひ知り、加之記憶力の減退に驚き、呆れ、訝しがられる有様です。道なければ巻いて懐にすべき、とはなかなか参りません。
 みなさまにはどうか良い年をお迎へくださいますやう。

【今年のおもな収穫】
長戸得齋『北道遊簿』/津田天游『天游詩鈔別集』/梁川星巌・柴山老山編『宋三大家律詩』/大窪詩佛『北遊詩草』/篠崎小竹『小竹齋詩抄』/伊藤信『日本竹枝詞集』/藤井竹外 掛軸/梁川星巌 掛軸/大槻磐溪『寧静閣一集』/曽我耐軒『耐軒詩草』/梁川星巌『やく天集』/神田柳溪『頼山陽實甫帖』/宮原節庵『節菴遺稿』/頼支峰『支峰詩鈔』/大窪詩仏『詩聖堂詩集』/山中信天翁 掛軸/梁川星巌書簡まくり/『経典餘師』四書之部小學之部/木蘇岐山『五千巻堂集』/堀田華陽編『聖代春唱』(寄贈)/篠崎小竹 掛軸/山川弘至 『國風の守護』/後藤松陰 掛軸/頼山陽 復刻掛軸/村瀬秋水 掛軸/長戸得齋 額/橋本竹下『竹下詩鈔』/檀一雄『虚空象嵌』/高橋杏村 掛軸/文圃堂宮澤賢治全集第2巻端本/古文餘師 前集後集/小高根太郎『富岡鉄斎の研究』など。

459やす:2010/01/01(金) 09:39:25
謹賀新年
今年もよろしくお願ひを申上げます。(掲示板での御挨拶は不要です。)

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460やす:2010/01/05(火) 21:52:06
寄贈御礼
 年明けまして、皆様方から忝くしましたご寄贈を前に大変恐縮してをります。このささやかなサイトを通じて賜りました御縁に対しまして、あらためて深甚の謝意を表すべく厚く御礼を申し上げます。
 石井頼子様、棟方志功カレンダーをありがたうございました。早速和室に掲げさせて頂きました。さういへば今年は保田與重郎生誕100年祭ですね。
 手皮様、富田様、明日より週末一杯出張のため、来週以降にゆっくり御報告させて頂きたく、取り急ぎのお礼のみここにても申し上げます。
 ありがたうございました。

461やす:2010/01/11(月) 21:37:44
上京報告その他
 上京中、古本連との楽しい語らひの他、小山正孝ご子息正見さまと大変有意義な歓談に時を過ごすことができましたこと、あらためて御礼申し上げます。ありがたうございました。
 ではこの連休、東京で1泊した収穫を御報告。


『日塔聡詩集』 (2009土曜美術社)。やはり一年に一度は神保町界隈を歩かないといけませんね。刊行を知りませんでした。詩人については詩集『鶴の舞』をのぞけば、雑誌「曠野」での追悼号(1984)、そしてさきに安達徹氏によってまとめられた『雪に燃える花 詩人日塔貞子の生涯』(2007改版)において触れられてゐることが情報の殆どだったのですが、件の雑誌追悼号の入手が困難な現在、編者によるあらたな解説を付したコンパクトな決定版の刊行は意義深く、多くが自費出版とおぼしき新叢書ラインアップにあって抜きんでた一冊となるものと思ひました(『鈴木亨詩集』もさうですが、旧「日本現代詩文庫」の一冊として刊行して頂きたかったです)。

『北方の詩』高島高詩集 (1938ボン書店)。ボン書店らしからぬ凡様の装釘と思ひきや、表紙は2種類の紙を使用。復刻版(1965)とは似て非なるものでした。(田村書店にて)

『山中富美子詩集抄』 (2009森開社)。これまた刊行を知りませんでした(田村書店に立ち寄ってよかったナァー)。 1983年に『左川ちか全詩集』を刊行した森開社の快挙ですが、左川ちかの方も拾遺を収めた改訂版が再び計画中なのだとか。かたや乾直恵が恋に落ち、かたや伊藤整に恋に落ち、と詩人の恋愛ゴシップが有名ですが、ともに成就しなかったのは知的抒情とはおそらくちっとも関係ない理由からなんだらうなと、かつて『左川ちか全詩集』や上田周二氏が著した評伝『詩人乾直恵』に載せられた写真を見るたびに思ったことでした。ところが今回の刊行の後日談として、病弱を恥じて文学上の知友と会ふのを拒み、突然筆を折って行方知れずになってしまった薄倖の佳人山中富美子が、実は2005年、北九州の病院で老衰のためひっそりと息をひきとってゐたといふ事実が分かったのだといひます(享年91歳)。夢を抱いて上京し病魔に斃れた「おちかさん」に対する追悼が、24歳の文学的才能に鍾るものであるのと同時に、文学と縁を切り地方に埋もれることを覚悟したこの詩人の謎の後半生もまた、明らかになって欲しい気がする反面、謎のままでも良いぢゃないかと思ふのは、夢を封印した彼女の意思を尊重するといふより、やっぱり私がつまらぬ男であるからかも知れません。とまれ初の集成は208p限定300部\3800、知らずに買へなかった人、恐らく後悔します。

雲のプロフイルは花かげにかくれた。
手巾が落ちた。
誰が空の扉を開けたのか。

路をまがつて行くと石階のあるアトリヱだ。
いつもの方角へかたむいて、扉までとどいた日影が、のびて行く所は昂奮する氣候を吐き出す白い海岸だ。
そこはすつかり空つぽだ。そこで海はおとなしい耳を空へ向けてゐる。(後略)     (「海岸線」より)


「モダニズム詩人荘原照子聞書」
 さて、この詩集を編集された小野夕馥氏は、左川ちかとの対比とともに謎に包まれた晩年を送った荘原照子との類似を指摘されてゐます。しかしこのたび手皮小四郎様よりお送り頂いた雑誌「菱」の連載「荘原照子聞書」では、山中富美子が為し得なかった結婚と出産と生活の苦労について多くのページが割かれてゐました。(ここからは前回掲示板で触れた所にさかのぼります)

雑誌「菱」168号(20101.1詩誌「菱」の会発行)
 手皮小四郎「モダニズム詩人荘原照子聞書」第9回「鎌におわれて故郷をたつ」38-47p

 妻子ある牧師男性との結婚は、初恋の人に対する当てつけの気持が働いてのことではなかったかといふ疑念。そして姓が変ったといふことは、病弱な前妻は二人の子を彼女に託し入院ののち亡くなったといふことになるのでせうか。罪ふかき彼女自身が生んだ子供の名についても「どんな漢字を当てたのか知らない」と書かれてゐることが、すでに非常な不吉な次号以降を予感させるものです。そして詩人はこの「できちゃった婚」によって故郷山口を追はれ、牧師失格の夫と岡山で新聞屋を始めるのですが、彼女自身あまり健康でないのに、子供たち3人を抱へての家業の切り盛りに堪へうる筈もなく、加へて出奔直後の父の急死に際しては、おそらく葬儀には参列できなかったであらうといふ客観的な考察も下ります。この時代に「後年のモダニズム詩の対極にある作品」が書かれたといふ事実、それは彼女のモダニズム精神が山中富美子とは異なり静謐な生活に育ったものではない証左ですけれども、さらに新しい職を求めて一家が金沢へ発ってゆくところで今回は終了してしまひます。


小兎よ
わたしの草原を飛び去って
もう帰らぬと思つてゐた
おまへの姿を
今朝 わたしはみいだした
わが子の
愛しい身をおほへる
うす紅色のアフガンに    ※嬰児を包むおくるみ (「兎模様のアフガン」より)


 普通の伝記とは異なり、年譜が謎だった人物に関する「新事実」と「稀覯作品」とが次々に明らかにされ、また敢へて距離を置いた視点で考察してゆく様は、今回特にスリリングです。ハラハラさせられるとともに次号が待ち遠しく、毎回連載で部分的に紹介されてゐる初期作品たちの完成度の高さを見るにつけ、こちらもいづれ全体がまとめて公刊される機会の来ることを、祈らずはゐられなくなって参りました。作品だけ公刊されて伝記が謎のままとなってゐる山中富美子とは正反対で、小野氏がブログで「恨めしい限り」の運命と白されてゐること、よく分かります。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。



 さてさて新刊の『山中富美子詩集抄』ですが、検索しても書誌や書評の類の情報はあんまりヒットして参りません。刊行元ほか一部の書店にしか販路を持たないからでせうが、茲に検索結果が全く出て来ない、四季派マイナーポエットと呼んでも差し支へない無名の閨秀小説家の遺稿集の一冊があります。(おそらく)昨年編まれました。正月明けに御遺族からその500ページにも亘る一本をお送り頂き、先週の出張往復の車中ずっとその集成に読み耽ってをりました。感慨一入、御礼状さへ未だ認めてをりませんが、次回以降に紹介したいと思ひます。

462やす:2010/01/20(水) 07:36:40
御礼
 山川京子様より『桃』一月号の寄贈に与りました。お手紙に添へた拙詠を載せていただき赧顔の至り。 また次回の雑誌終刊を前にされた後記を、感慨をもって拝読しました。

 さきに山口融様よりお送りいただいた『薊』ほかの戦前同人誌ですが、さらに書誌研究家加藤仁様より、当時の雑誌バックナンバーの画像の提供を受け、追加公開させていただきました。【明治・大正・昭和初期 詩集目録(名古屋戦前詩誌)】より御覧下さい。

 皆様にはここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

463:2010/01/31(日) 00:40:49
日塔聡詩集について
こんばんは、いつもいろいろ教えていただいてありがとうございます。

「日塔聡詩集」をお贈りしようかと思いながら忘れてしまって申し訳ありません。
私も安達先生から教えていただいて20冊ほど土曜美術社から送ってもらいました。
さしあげなければならないかたをメモしながら、小屋改築、荷物の引っ越しなどに追われ忘れていたのを中嶋さんのホームページを拝見して思い出しました。

この出版により「鶴の舞」と「鶴の舞以後抄」そのほかのいろいろな詩に出会えて、とても貴重なお仕事をしていただいたと思っています。
お気づきとは思いますがP139にある日塔貞子死去の年が昭和49年となっています。
どうしたらいいかと迷いましたが、土曜美術社に連絡したところ正誤表を入れたいということでしたが入っていましたでしょうか。

娘が「東京かわいいテレビ」拝見したそうです。私は見逃しましたがインターネットで見せていただきました。
これからもどうぞよろしくお願いします。

464やす:2010/01/31(日) 20:34:17
出張帰還
 奥平さま、御無沙汰してをります(「なんとかテレビ」…(^∀^;))。
 購入した本は古書でしたので、正誤表は入ってをりませんでした。年譜をみればどちらが正しいのか判断つくことなので心配ないと思はれますが、もちろん誤植は当事者にとっては居たたまれない関心事です。追ってこの掲示板で御紹介する予定の本も、編者の方がたいへん気を揉んでおいででしたが、私などはそれに懲りてこのやうなホームページを公開形態に択んだといってもいいかもしれません。

 さてこの週末は再び遠地への出張でした。年明けには在京の人々と合流、久闊を叙すことが叶ひましたが、今回は北陸転戦の途次、金沢で大正詩研究の竹本寛秋先生と蓋かたむけて語り合ふ機会を得ました。口語詩の成立過程を専門にされる竹本さんですが、大学では文学ではなく教育系情報学のエキスパートとして重宝されてゐる由、学部改組をめぐる状況は国立も私立も変はりがないやうです。
 また日常の移動は自転車に限るとか。Linux系を能くするインターネット草創期からのエンジニア。でありながら、仕事(飯の種)とは別に今どき文化に熱中する時間も惜しまない。そんな別々のベクトルを共通項として持ってゐるハイブロウな人がすでに自分の周りにはこれで三人も居り、もはや符合ではなく世代交代が進みつつあることを思ひ知った感じです。
 とまれ一陽来復づくしの竹本先生には、今春の故郷北海道への喬遷を控へての得難い歓談となりました。ありがたうございました。

 一方、北国の風にあてられたものか体調をくづして帰ってきたら、家では年越しのごたごたが待ち構へてゐました。こっちはうすら寒い春を迎へさうな予感に、もう滅入りさう。

465やす:2010/02/11(木) 23:37:13
『馬の耳は馬耳ならず』
 八戸の圓子哲雄様より『朔』167号、および新詩集『馬の耳は馬耳ならず』の御恵贈に与りました。今号の『朔』は、青森詩人和泉幸一郎の未発表詩ほかに、小山正孝の若き日(昭和15年、16年)の堀辰雄宛書簡(下書き?)2通が、奥様の手で紹介されてゐます。興味深かったです。
 圓子様の詩集は、これまでお送り頂いてきた『朔』巻末の名物コーナーで、「第二後記」と思って毎回なにが書いてあるのか最初に目を通してゐた文章がまとめられたものでした。エッセイ風の散文詩なのですが、長い雑誌の歴史のなかから斯様に厳選され、今回詩集の名のもとにまとめられたものを拝見すると、裏表紙に3段組みだった作品が大いに面目を新たにしてゐることに驚きます。後半にはすでに読んだ記憶のものもあるのですが、前半の、かなり意識して作られた頃の散文詩に注目しました。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 北国
今年も林檎が実り ずしりと手応えのある実を頬張る 青々とどこまでも拡がりいく空 遠く甘い日が口の中から奔り出てくる
僕達が熊谷に住んでいた頃 父や母の里から送られてくる林檎は 童謡の国の主人公のように 広々とした香りを運んできた 杉の木箱も 北国の冷たい山の香りを運んでいた 母の語る北国 父の物語る北国は いつしか僕の中に深々と育っていった 僕達は 戦災で家を焼かれ 父母の故里《北国》に移り住んで 北国はそのまま僕の中で 甘く醸し出されていった
秋になると 幸せだった子供の国が 再び季節の中から甦ってくる (12p)

466やす:2010/02/11(木) 23:45:52
近況:『山陽詩鈔』ほか
 最近の買物は『山陽詩鈔』の(おそらく)割と初めの頃の版本。この天下のベストセラーは明治に至るまで何度も版を重ねてゐて、見返しや奥付に「天保四年新鐫」と刷ってあっても信用できません。古書目録の記載書誌だけではどんなだか判断できないことが多いのです。状態が悪くても刷りのよい古いものを買はうとずっと機会を窺ってゐたのですが、このたび意を決して注文。届いた本は歴代の旧蔵者に繙かれて「くたくた」になった、河内屋徳兵衛以下6者による版本でした。赤字で補筆してある頭註は増訂版から書き写したものでせうか。嬉しいです。

追伸:
 詩人山口正一関係の資料も、無事愛知県図書館へ(『太鼓』は茨城県立図書館へ)寄贈されましたので御報告いたします。旧臘手許にやってきた貴重資料、すべて収まるべき処へ収まってホッとしてをります。

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467やす:2010/02/11(木) 23:47:31
『躑躅の丘の少女』
 さて随分ひっぱって予告しました四季派の閨秀作家の遺稿集ですが、Book Reviewに明日upします。後日また書き足すかもしれません。

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468やす:2010/02/13(土) 00:09:56
『昨日の敵は今日の友』
 と本日Book Reviewに up しましたところが、富田晴美様より本日の郵便で、今回の本の元となった『兼子蘭子遺作集』、そして田上俊三氏の自伝『昨日の敵は今日の友』が届けられました。
 まだ詳しく読んでゐませんが、岐阜県可児市出身の夫君の自伝には、(おそれてゐたことですが)家族のことが殆ど何も書いてない(笑)。 幼少からの正義感に基づく(もしくは、それが因となった)七転び八起きの人生、その武勇伝・失敗談の数々で埋め尽くされ、ほかに若き日にキリスト教に入信したことなどが書かれてゐて、或ひはお見合ひ時の蘭子嬢、堀辰雄の影響もありそんなところに勘違ひして惹かれた、といふこともあったのでせうか。野村英夫などとはもう、えらい違ひの豪傑キリスト者です。そしてこの数奇な自伝だけでも充分面白いのですが、やはり蘭子氏の遺著と、巻末に晴美様の書かれた年譜を合はせ読むことで、男のロマンとそのために振り回されて犠牲となった家族と、両面から人生といふものを俯瞰することができ、深い奥行きが行間ではなく冊間に醸し出されるやうな気がいたします。

 また『兼子蘭子遺作集』の方は、雑誌の初出コピーをそのまま印刷にかけた本で、少女時代の校友会雑誌は編集後記のついた奥付ページとともに、評判をとった「野薔薇」は小林秀恒の挿絵もそのままに付して復刻されてをり、むしろ私などはこちらを珍重したく思ったほどです。やはり刊記のない非売私家版ですが、発行は2008年11月とのこと。

 この週末にゆっくり拝読したいと思ひます。
 ここにても取急ぎの御礼と御報告を申上げます。ありがたうございました。

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469やす:2010/02/13(土) 12:59:49
(無題)
Book Review の事実関係を中心に訂正。『兼子蘭子遺作集』の複写綴本は刊行5部の由、絶版です。

470やす:2010/03/01(月) 20:59:03
山中富美子の年譜と、高祖保の評伝
 さきに刊行をお知らせした『山中富美子詩集抄』所載年譜の追加訂正について、坂口博氏「幻のモダニズム詩人 山中富美子:西日本文化443号」に記述がありましたので転載します。お手許にお持ちの方は印刷して貼り付けておくとよいかもしれません。

「1914年(大正3年)1月15日 岡山県倉敷町に堀内喬・さわの二女として生まれる。四歳のときに、山中馬太郎・伊勢夫妻の養女となる。養父の仕事(鉄道省勤務)の関係で岡山に居住、養父の本籍地は高知市南新町(現・桜井町)。1931年(昭和6年)四月、福岡県小倉市篠崎へ移転。その後、城野(現・北九州市小倉南区城野四丁目)に養父が自宅を購入、長く住む。1963年(昭和38年)6月養母、1967年(昭和42年)12月養父と相次いで死去。養家に兄弟姉妹なく、岡山の縁戚関係も断ち、天涯孤独となる。2001年(平成13年)2月、認知症などで小倉北区内の病院に入院、2005年(平成17年)6月26日、同病院で老衰のため死去」坂口博氏「幻のモダニズム詩人 山中富美子」《西日本文化》443号(2010.2)37-43p より。

 また同じく「椎の木」ブランドの抒情詩人である、高祖保の初めての評伝が刊行されてゐることを知りました。早速注文、モダニズム抒情詩の愛好家にとって必携の一冊となりませう。装幀・内容ともに掬すべき限定本です。

『念ふ鳥』(外村彰著 2009.8 龜鳴屋刊。A5変型上製 424p 限定208部 \8000)。

 なほ、刊行元の龜鳴屋では、わが職場岐阜女子大学の卒業生でもある金子彰子さんの処女詩集『二月十四日』が、続く最新刊として発売中です。一緒にどうぞ。


【その他 古書目録記事より】

扶桑書房より100号目録が到着。
『宮澤賢治全集』 文圃堂版3冊揃 (11p)

札幌の弘南堂書店2010年国際稀覯本フェア出品目録より
四季萩原朔太郎追悼号原稿 (7p)

471やす:2010/03/10(水) 00:54:39
宵島俊吉『惑星』
宵島俊吉詩集『惑星』大正10年抒情詩社刊行

 著者は関東大震災前夜の東京で「若き天才詩人」の名をほしいままにした、東洋大学系の詩派(のちに「白山詩人」と呼ばれる)の初期の中心人物。ただしその「天才」は詩才といふより、多分に早熟にして奔放な詩的人格に冠せられたものだったやうです。昔、『航路』といふ昭和22年発行の詩集を読んでその抒情詩を好ましく思った私は、その前の昭和8年に出た詩集『白い馬』なら、おそらくもっとよい詩が並んでゐるに違ひないと踏んで探し回り、見つけだした本の瀟洒な装釘に感嘆したものの、その期待が過剰であっただけに内容には却って失望した、なんてことがありました。今回縁あってさらに溯り、大正10年に刊行された文庫版の処女詩集に出会った訳ですが、そこで表白されてゐる、大正口語詩人特有の(といふよりまだ二十歳の青年特有の、といふべきですが)感傷と欲望、ことにも季節に仮託した表現が印象的でした。夏は欝屈した恋愛に汗ばむ狂奔の季節として、秋はその対極から観照を喚起する明澄の季節として、春は朗らかに爆発する生命力謳歌の季節として、そして不思議に冬だけがありません。つまり若々しい。で、若い娘のことがいっぱい出てきて、コンタクトはとれないんだけど、彼女らにも仮託して内から身もだえてみせる。こんな詩を衒ひなく書いて見せるところが、当時の青年にはカリスマに映じたのでありませう。詩人はこの後、もう一冊詩集を出して社会人となり、本名の「勝承夫」に戻って前述の詩集『白い馬』を出して(おそらく)評判を落とすかたはら、むしろ民間作詞家として佐藤惣之助のやうな名声を博します。さらに戦後は母校東洋大学の学長も歴任して当路の人に化けるのですが、詩風にとどまらぬ生きざまの変遷はともかく、最初に読んだ『航路』の堅実な抒情詩について、同じく大正期にデビューした詩人達が刊行した戦後詩集と等し並みにして軽視してゐたのは私の間違ひだったと悟った次第。これは苦労して人格陶冶した結果のぼりつめた詩境だった訳です。さういへば勝承夫は河出書房版『日本現代詩大系』でも、第6巻の大正民衆詩派ではなく、第9巻に昭和抒情詩として紹介されてゐます。同巻にはやはり処女詩集を無視されて茲に編入されてゐる野長瀬正夫もゐて、なるほどと思った次第。

 今回、詩集の中になぜか「大垣」と題された「御当地ソング」がありましたので紹介します。布袋鷺山といふのは楽焼師の名らしいです。当時の大垣といへば稲川勝二郎と高木斐瑳雄が起こした角笛詩社があった筈ですが、東海詩人協会の面々が「東都で評判の若き天才詩人」を呼んで一晩語り明かしでもしたのでせうか。このあとに名古屋の客舎に病臥する詩が3篇並んでゐるので、当時の詩誌を丹念に調べ上げたら何か記事が出てくるかもしれません。

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472やす:2010/03/13(土) 18:09:21
詩集『春と修羅』
 本日わが家に宮澤賢治の詩集『春と修羅』の初版本が到着しました。
 正月に上京した際、神保町の田村書店の御店主に「欲しい本はまだあるの?」と尋ねられ、欲しい詩集で私が買へるやうなものはもう…と言葉に詰まり、ただどんな状態でもよいので、もし私に買へそうな一本が入荷したら、この詩集だけは是非御連絡して頂けたらと、それまでにも方々で話ししてゐた高嶺の花を口にしたのですが、その天下の名詩集がたうとう我が目の前に。私有物として手に取ることはないだらうと諦めてゐただけに、望外の喜び・感慨一入、雀躍してをります。状態もどうして分不相応に良好(笑)です。
 この本、日本近代文学館から何度も刊行されたので、復刻版を持ってゐる人は多いのではないかと思ひます。とても感じよく出来てゐるので、私も若いころはぶらり旅に携行して、山稜や高原に寝転がって披いてゐました。中原中也ぢゃないですが、安く売ってると買ってきて何度かプレゼントにもしました。私が「詩といふもの」に出会った最初の詩人にして、今でも一番に尊敬する自然詩人「石こ賢さん」。その生前に刊行された唯一の詩集です。生涯の宝物として大切にします。本当にありがたうございました。
(ただしかし、妹を思ふ詩を、斯様な今、読み直す破目に陥らんとは。苦笑)

一句。 春が来て心象スケッチ修羅も来ぬ。

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473やす:2010/03/14(日) 00:48:12
『春と修羅』の製本について
 この『春と修羅』ですが、初版本を手にしてみて初めて気付いたことがあります。研究者や古書店の間では知れ渡ってゐることなのでせうが、まず16ページではなく8ページ分を一枚の紙に刷ってゐるらしいといふこと、それに合せて製本が普通の本のやうな「糸かがり」ではなく、「打ち抜き」と呼ばれる原始的な方法に依ってゐるといふことです。
打ち抜き製本とは、一冊分の丁合をとった束にブスブス穴をあけて紐で綴ぢたもので、図書館で雑誌を合冊製本するときなんかに使ひます。小倉豊文氏は「『春と修羅』初版について」のなかで、地元花巻の印刷屋には手刷の小さな機械しかなかったことに触れてをり、もちろんそれが原因でせう。
ではなぜこの田舎の印刷屋を使ったかといふことになるのですが、同じ町内のよしみで、とか、風変りな段組や使用字の指定には一々指示を出す必要があったから、とか考へられはしますが、費用節減のためといふのが一番の理由でせう。丁合作業はたいへんですが手伝へばいいのだし、小さな印刷機で刷れ、綴じる手間もこの方法が一番安く済む…なにしろ私自身が田中克己先生の日記を刊行する際に採用した方法ですから(笑)。
 小倉豊文氏の文章で「殆ど毎日校正やその他の手伝にこの印刷屋に通い」とあるのは、だから「殆ど毎日、印刷現場に立ち会ひ、丁合をとる手伝ひにもこの印刷屋に通」った、といふことではないでせうか。「往復の途次には 校正刷を持って関登久也の店に立寄り」とありますが、もしかしたら校正刷りではなく、近世活字本のやうに順次刷りあがっていった現物を持って行ったのかもしれません。だって毎日「校正」に通ったにしては、あまりにもこの「心象スツケチ」、誤植が多いですから(笑)。でもって誤植があまりにもひどいページだけは切り取り、そこだけ一枚あとから差し込んで繕ってあったりする。或は同じページを2度印刷しちゃったんでせうか。ここ(202-203p)には「製本後に」切り取られた紙が残ってゐるのですが、落丁ではないのです。
 目立つことなので、すでに誰かが書いてゐることだとは思ふのですが、詩人の作品については語る言葉をもちませんので、どうでもよいことを一応紹介しておきます。

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474やす:2010/03/14(日) 01:06:35
文圃堂版『宮澤賢治全集』
 ついでにもう一丁。これは昨年オークションで落札した不揃ひの旧版全集。なかになんと最初の全集である貴重な「文圃堂版」が一冊混じってゐました。けだしこの装釘で当時の詩人たちは宮澤賢治を読んだわけです。昭和10年といふ出版文化のピーク時にあって、造本、サイズ、装釘すべてが出色の出来。その後を引き継いだ「十字屋版」にどう受け継がれていったかもよくわかります。参考まで。

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475やす:2010/03/19(金) 11:37:22
【おしらせ】
停電に関連しWEBサーバを停止します。この間ホームページがみられません。

3/19 19:00 〜 3/20 10:00の間を予定してゐます。

よろしくお願ひを申し上げます。

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476やす:2010/03/20(土) 11:28:07
お薦め一般書
 漢詩文の読耕が滞ってゐる。ご飯(古典)を食べずにおやつ(一般書)ばかり食べてゐるからである。それが余りにもおいしいのである(笑)。
 神戸女学院大学の先生をされてゐる内田樹といふひとの『日本辺境論』(2009新潮新書)を読んで引き込まれました。続いて『逆立ち日本論』(2007)、『街場の教育論』(2008)、『街場の中国論 』(2007)と他の著書にもハマってしまったのですが、自分が社会に対して感ずる違和感をうまく表現できぬまま、このさき古本好きの偏屈爺となっていって一体どう世間と折り合って行ったらいいのか、正直「居心地の悪い老後」の予感に悩んでゐただけに、かういふ物の見方と語りができるひとに(本の上でですが)出会って、本当にホッとしてゐるところです。
 『日本辺境論』は昨年度の新書大賞を受賞しましたが、前書の語り口からしていいです。耳に熟さないカタカナ語は嫌ひなのですが同時に漢語もさりげなく使ひ、全て誰々の受売りと謙遜しながら、おそらく読者の一部として予想してゐる、端から馬鹿にして掛ってくる「頑迷な進取の徒」と「頑迷な守旧派」に対して冒頭それぞれに目配せしてるのが面白い。構造主義とかに全然興味はないのですが、右翼とジェンダーフリーを両つながらにやんわり峻拒する、現代の「中庸」を指し示すこれら読本の数々は「肩のこらない名著」と呼んでよいのではないでせうか。
 ただし私個人のアジア漢字文化圏の再興希望は、論語のみならず、家康公の遺訓や教育勅語を許容する分、著者よりもう少しだけ偏屈です。さうしてこのさき世代交代が進み、敗戦による「断絶」を、人間性を深める葛藤として生きることが難しくなったのなら、もひとつ昔、明治維新の断絶の前の江戸時代のやり方を拝借してでも、この断絶には何らかの文化的な東アジア的決着をつけなくてはならぬと思ったりもします。それは現今の政治家の云ふやうな利害のために日本を「ひらく」ことではなく、各民族の記憶に遺された先賢の風を以てお互ひの「襟を正す」ことから始まるものではないでせうか。(またしても政治っぽくなったのでここまで。)

「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。『街場の教育論』155p

 貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ……そういうものは富や強さや傲慢や規律によって強制すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身に沁みて感じている。『昭和のエートス』68p



WEBサーバ復旧しました。

477やす:2010/03/29(月) 00:47:43
歌誌『桃』終刊号
 歌誌『桃』の641号をお送り頂きました。終刊の実感が湧かないのは、毎号お送り頂いてゐた事を空気のやうに思ひなして居った私などでなく、もちろん主宰者の山川京子氏自身が一番さうであるには違ひなく、氏が雑誌の終焉にあたって最後にしたためた文章(「桃」のはじまり)は、56年前の創刊当時を回顧され、その心情を忖度するになんとも云へぬ気持になるのですが、またこの雑誌を起こすやう強く勧められたといふ、作家松本清張が父方の従兄であったことなど、初耳の御関係にも驚かされた、貴重な回想文でありました。

 とまれ、此度の終刊に際しては、折口信夫、保田與重郎、中河与一夫妻ほかの諸先達をはじめ、本来なら創刊当時の同人も一言なりとも感想を寄せられるべきところ、主宰者を除きそろって幽明境を異とする有様。代はってたまさか私ごとき後学が蕪辞を草し、伝統ある雑誌最終号の誌面をはしなくも汚すこととなった、その忝さと晴れがましさに、胸の詰まるやうな感慨、および御縁の不思議を覚えてゐるところです。

 由来、私は和歌といふものに迂遠で、『桃』誌上における京子氏の選評も、作意のありありと現れたものより顕れないものを称揚される「保田與重郎ゆずり」の姿勢であることに、一種の畏れを抱いてをりましたから、夫君の山川弘至のことを詩人として祖述する文章はともかく、今回ばかりは拙劣な歌でも添へねばと思ひ四苦八苦しました(笑)。いざ自分で作ってみると、詩と同様にこねくり回さないと気が済まず、短いですから煮詰まって自分でもよくわからぬものに凝ってしまふ。歌詠みとして、さうして歌の鑑賞者としても失格(こちらは古典の素養がないから)であることは自任してゐましたが、同人の方々の、日本人として当たり前の日常を淡々と詠み重ねてゆかれる姿勢には、ですから本当に頭が下がります。ぜんたい私がインターネットといふ時代の利器を使って過去の詩人達を好き勝手に祖述しようなどといふ試みが、自身の作意と成心の表れに過ぎない訳ですが、顧みて営々たる歩みの「桃」にはさういふ邪心が一切ない。久しい前から世間では、短歌俳句ブームによる多くの歌誌や句誌が乱立してゐますが、茲に「あざとい個性の発現」を善しとしない国風の短歌雑誌が、創刊当時のまま棟方志功の表紙絵を掲げ、半世紀もの歴史を脈々と保ってきたことに、本当に格別な感慨を感じるのです。つまりその歴史が閉じられたことに際会してゐる自分をも、大切にしてゆかなくてはと、「実在する伝統」の終焉に際して思ひ至りました。「胸の詰まるやうな」とはさういふことです。
 その奇しき際会の思ひを主調低音に、滔々と歌ひ上げられたのが、今回末尾に掲げられた野田安平氏の長歌でありませう。氏にはメールで「今後を託されてゐるといっていい野田様の述懐には、皆さんの注目が集まりますから」と、何を書かれるのか期待したのですが、なんの、万感極まる念ひの丈を一首に託し、このひとが未だ回想モードに入ってゐないことに、却って伝統が途切れることなく託された様子をみて、頼もしく思った次第です。

 巻末に、京子氏は亡き夫君の詩作の中から二編の詩を掲げられました。けだし詩人の絶唱のなかからさらに選ばれた極めつけの二編として、これは山川弘至の代表作と京子氏自らが認定したことを意味しませう。今後、昭和の詩をアンソロジーに編む際には逸することのできない、まことに戦慄を秘めた抒情詩、心に迫る作品と私も思ひましたので、詩に関する掲示板として、あらためてご紹介したいと思ひます。( 『詩歌集 やまかは』1947所載)

  君に語らむ        山川弘至

君に語らむみんなみの
荒き磯辺に開きたる
名知らぬ花の紅の
波高き日はその影を
寄せくる潮に砕きつつ
波しづかなる夕ベには
その美はしき花影を
ひた蒼き水に映すかな

ああ荒磯の岩かげに
はかなく咲きし紅を
君知り給ふことありや
大和島根を遠く来て
このみんなみの荒磯に
北にむかひていつの日も
ひそかに咲きし紅を
君知り給ふことありや

夕荒潮の鳴るなべに
雁の使も言絶えし
この岩かげの潮の間に
かつがつ咲きし紅の
花の色香はいつの日も
高くにほひてかはらねば
ことしげき日もみんなみの
かの岩かげを忘れ給ふな



  ふるさと        山川弘至

そこに明るい谷間があり
そこに緑の山々まはりを取りまき
そこに深き空青々とたたへゐたりき
おほぞらを渡りて吹きし風のひびきよ
あかるく照りし陽の光よ木々のそよぎよ
雲はしづかに 白く淡く
かの渓流のよどみに映りゐたりき

ああ思ひ出づ かの美はしき時の流れを
ああ思ひ出づ かの遥かなる日々の移りを
かしこに 我が古き日の幸は眠りたるなり
かしこに かの童話と伝説は眠りたるなり
思へども思ひ見がたき かの遠き日は眠りたるなり

かの山深き谷峡の村に我が帰らむ日
かのふるさとなる古き大きなる家に我が帰らむ日
太陽はげに美はしく四辺を照らし
あまねく古き日のことどもよみがへられ
あまねく遠き日の夢はよみがへらむ

げに 古く久しく限りなきものよ
汝! そはふるさと
げに 常に遠くありて思ふものよ
汝! そはふるさと
我 かのしづかなる山ふところに いつか
常とはに帰り休らはむ日
そこにこそ かの背戸山の静かなる日溜りに
幾代もの祖先ら温かくそのしたに眠りたる
かのなつかしき数基の墓石
我が やがて帰らむ日を 待ちてあらむ

 戦前の生き方を節操として体現し、示し続けてこられた世代も、京子氏のやうな数奇な運命に翻弄された当時の若者を最後に、この日本から消えようとしてゐます。国ぶりの変貌を、なほすこやかな言霊を信ずることで、些かでも回避することができればといふ願ひ。
 雑誌は終刊しても京子氏を中心とした歌会は、引き続き行はれるとのことです。『桃』の歴史を閉じるにあたって、ここにても御礼かたがた、京子氏の御健康を切にお祈り申しあげます。
ありがたうございました。

【追而】
 また、山川京子氏も執筆してをられる、『保田與重郎選集・全集・文庫』に付せられた月報の文章を纂めて成った『私の保田與重郎』といふ浩瀚な回顧本が、今月新学社より刊行されました。最初に出た南北社版の著作集には、月報執筆のトップバッターとして檀一雄と田中克己先生が書いてをり、その意義を編者の谷崎昭男氏がいみじくも後記で次のやうに記してをられます。

生前の出版にかかる「著作集」と「選集」には、装偵がいづれも棟方志功の手になつたやうに、収録作品の選定から月報の執筆をたれに依頼するかについて、編集者の考へ方はそれとして、当然著者の意向が反映されてゐなければならない。「著作集」の月報の最初を檀一雄と田中克己の文が飾ったのは、他の何といふより、友誼を重んじた保田與重郎の為人を偲ばせる(654p)。

 偶然知った新刊本ですが、合はせて宣伝させて頂きます。

『私の保田與重郎』谷崎昭男編 -- 新学社, 2010.3, 658p.\4200

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478やす:2010/04/04(日) 23:08:01
蔵書刊行年記録更新
 オークションでおとした『再遊紀行』といふ古本が届く。見返も刊年記も無い本ながら、大きな版型(27.4×19.2cm)と江戸中期以前の漢詩集独特の文字体がなんとも古めかしい。東海道中の紀行漢詩集ですが「萬治時己亥季春嘉再遊于東都・・・」の自序があり、予め刷り重ねた風の朱線が「嘉」の字の真ん中に入ってゐて、調べると山崎闇斎だと分かります。巻末にも「二條通松屋町武村市兵衛刊行」とあって、ネット上で

「武村市兵衛は初代二代ともは闇斎門人で、三代目が享保十四年に没して廃業したらしいが(藤井隆『日本古典書誌学総説』158p)、元禄十一年『増益書籍目録』などを見る限りでは、闇斎・敬斎・直方・慈庵などの崎門学派の書のほとんどが武村市兵衛の出版にかかるようである」

 との 記述に遇ひました。しかし「万治」って…万延ぢゃないですよ。吾が「ごん太に小判蔵書」の刊行年記録が、これまでの『蛻巌集』(寛保二年)から、またさらに百年遡及して更新されたのですが、こんな稀覯本が、私ごとき一介の図書館員のお小遣ひで買へる国って…絶句です。

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479やす:2010/04/10(土) 21:02:27
荘原照子聞書 第10回目 金沢時代
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』169号を御寄贈いただきました。

 詩人荘原照子の聞書、第10回目となる今回は、彼女ら一家が岡山で食ひ詰めて金沢育児院に移住した1ヵ年半の出来ごとについてです。ともすれば主観に流れ、思ひ込みに固執する聞書が、手皮さんのフィールドワークと稀少な地元文献の博捜によって補強・訂正され、伝記的事実として明らかにされてゆく様は、毎度のことながら説得力に富んで聞書の域を超えてをります。
 この昭和6、7年といふのは詩人にとって、中央詩壇にデビューする直前の最も暗鬱な時代、といふ位置づけが「結果的に」なされるやうですが、後年のモダニズム詩人が生活苦のあげく、伏字の施されたプロレタリア詩さへ書いてゐたといふ事実はまことに衝撃的で、当時はモダニズム系の詩誌でも、例へば「リアン」のやうにマルクス主義を標榜するやうになるグループもあるにはあったのですが、彼女がキリスト者であったこと、羸弱であったこと、さうして末尾の年譜で手皮さんがおさへてをられるやうに、この年の「詩と詩論」に左川ちかや山中富美子が華麗なモダニズムを挈げてデビューしてゐる事実を思ふとき、ルサンチマンの極にあった詩人の精神生活が、革命思想に向かふことなく、むしろ一種の頽廃を宿したモダニズムの美学を許容してゆくことになる、この時代は正にそんなどん底の分水嶺、蛹の時代であったのかもしれない、と知られるのです。

 これは何といふ哀しい馬だ
 骨と皮ばかりの
 何といふかなしいゆうれいり馬らだ!
  (中略)
 これらよはいものたちの吐息をはつきりきいた
 否!否! じつにそれことは
 サクシュされ利×され 遂にはあへぎつつゆきだほれる
 わたしたち階級の相(すがた)ではなかったか!

 その日
 第××××隊がガイセンの日!
 わたしは病む胸を凍らせる
 北国の氷雨にびしよぬれ乍ら
 とある町角に佇ちつくしてゐた!
 ふかい ふかい 涙と共に!

   「我蒼き馬を視たり」部分(『詩人時代』2巻12号1932.12)


 「利×」が「利用」とわかっても、「第××××隊」について「育児園近くの出羽町練兵場で上海事変から帰還した歩兵第七連隊の兵士を迎えた時のものと思う」とさらっと書くには、調査の労と教養の下地の程が思はれるところです。物語は次回、いよいよ一家で上京、さらに夫・子供たちとも別れて独り横浜に移った彼女が中央詩壇にデビュー、といふことになる由。一体どういふ事情なのか、さうして詩がどのやうに変態を遂げて羽ばたいてゆくのか、手皮様からの報告を見守りたいと思ひます。

 さて新年度を迎へて慌ただしいなか、「季」の先輩舟山逸子様より「季」92号を、富田晴美様からは図書館用に『躑躅の丘の少女』をもう一冊御寄贈にあづかりました。

 御挨拶も不十分で申し訳なく存じますが、ここにても再び皆さまに対しあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。

480二宮佳景:2010/04/21(水) 21:07:28
追悼 堀多恵さん
 作家堀辰雄の妻多恵さん(筆名・堀多恵子)が96歳で他界された。
 堀辰雄は昭和28年5月に信濃追分で亡くなつた。病気と戦争で十全な創作活動ができなかつたのは不幸だつたが、その死後ある時期まで、10〜15年に1度の割合で全集が大出版社からコンスタントに出たのは、漱石を除けば、おそらく近代日本の文学者では堀辰雄だけだつたのではないか。
 生前、すでに角川書店が作品集を出して居たものの、最初の全集は没後すぐに企画され、新潮社と角川が激しい綱引きを演じ、角川源義の師である折口信夫が仲裁に登場する一幕もあつた末に新潮社が出版した。角川は10年待つた後で、河上徹太郎に解説を書かせた全集を刊行。さらにその後、堀の愛弟子といふべき中村真一郎と福永武彦が編集した決定版全集が筑摩書房から世に送られた。
 大学生の頃一時期、堀辰雄にイカれて居た。あの生と死を見つめた甘美でありながら強靱な精神が確乎として存在する世界にあこがれてやまなかつた。バイト先の古書店で、上品な白い箱に濃緑の帯がついた筑摩の決定版全集を羨望の眼差しで見つめて居たが、結局学生時代はあまりにも高価で入手できなかつた。この完全版全集は後に、堀の著作権が消滅する直前に筑摩から復刊され、この時やうやく新刊の形で手に入れることができたのだつた。
 書物の世界だけでは満足できず、バイトで貯めた金を使つて、信州まで足を伸ばした。「美しい村」に登場した岩や、エッセーで書かれた石仏を直接目にできたのは嬉しかつたが、軽井沢も堀の終焉の地となつた信濃追分も、やはり高度経済成長の波に洗はれて見事に俗化して居た。強く失望して、その後、軽井沢には足を踏み入れて居ない。
 その際、堀ゆかりの油屋に宿泊したが、その際主から「多恵さんならこの前おみえになつて、しばらく青森で過ごされると仰つて居た」とのことだつた。夫人がお元気であることに一抹の安堵を覚えた。また、この時は足を伸ばさなかつた「風立ちぬ」の舞台となつた旧富士見高原療養所は現在、農協の施設になつて居ると聞いた覚えがある。ただ、信濃追分の森の中の、澄んだ空気にはなるほどここは療養にはふさはしい場所だと強く感じたものだつた。
 その多恵夫人が書いたエッセーの数々だが、病人や病気、その看護を描いたものであるにもかかはらず、決して暗くならず、明るいユーモアを湛へたもので、読後こちらが元気になるやうな文章だつた。書き手のお人柄といふものを強く感じさせる文章であつた。多恵さんはどこかで「堀は戦後、中村さんや福永さんの書いたものの中で生きてきた」と書いてをられたが、ご自身の著作の中でも、夫である堀は生き続けたのだ。産経新聞に連載されて角川書店から出された『堀辰雄の周辺』は、連載当時から本当に愉しく読んで、続きが楽しみで仕方なかつたものだ。連載には、後に中央大学の学内誌を編集されたT記者が尽力したのだつた。そのTさんから
「多恵子さんはまだ元気なんだろ? 年賀状送るのに確かめようと思つてさ」
 と新井薬師に住んで居た頃、突然電話をもらつたことがあつた。今回改めて、多恵さんによる「あとがき」を読んで、これが本になるにあたつて、風日舎のYさんが編集にあたられたのを知つた。角川時代の最後のお仕事だつたのか。単行本になる際に併せて収録された中野重治や福永武彦への追悼文もいい文章だつた。小林秀雄が死んだ時に『文藝春秋』に、小林と堀が旧制一高の頃、野球やキャッチボールをする間柄だつた云々と短い文章(談話?)が掲載されて居たはずだが、その文章は収録されなかつた。
 ある時、著名な批評家の夫人が多恵さんについて、
「あの方は文章家ですもの」
 と感に堪へないといつた口調で言はれたことがあつた。そして、
「堀さんは、あの方(多恵さん)だから結婚されたのでせう」
 とも仰つた。夫人と多恵さんはほぼ同じお年だつたはずだ。妻は妻を知る、といふことかと思つたものだつた。
 堀辰雄の死後、半世紀以上も一人歩み続けた多恵さんの偉大な足跡を目にする時、はるかなるものを仰ぎ見るやうな気持ちがする。矢阪廉次郎氏の学会発表の際に紹介していただいた竹内清巳氏から、江藤淳の「幼年時代」批判を気にした多恵さんが、はるばる九州まで足を伸ばして、堀の養父であつた上條松吉の工場で働いて居た弟子のところに、堀と上條の関係を聞きに出かけたと聞いた。夫とその作品の名誉を守らうとされたのだなと少なからぬ感動を覚えたものだつた。何よりも、堀未亡人ではなくて、随筆家堀多恵子の書くものに、常に敬意を払つてきた。それは今後も変はることはあるまい。
 堀多恵さんの逝去に、心から御冥福をお祈りいたします。

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481やす:2010/04/21(水) 23:49:38
とりいそぎ
もう帰らうかと職場よりパソコンチェックしたら吃驚です。
存じませんでした。慎んで御冥福をお祈りいたします。
匿名氏の二宮佳景さん[鮎川信夫ペンネーム]、お報せありがたうございました。
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/2010041701000693.htm

482やす:2010/04/22(木) 22:50:33
追悼
 堀多恵子氏が逝去された。96歳といふから天寿を全うされたといってよいのだらうが、図書館に勤めてをりながら知らずにゐた。迂闊であった。
 四季派といふ、エコールといふより氛囲気と呼んだらいいやうな現象を、基底から醸成してゐた堀辰雄。その職業文筆家らしからぬ、詩的で知的に洗練された西洋風の有閑を愛する資性と、また実際に植物のやうな有閑でなくては身が保てなかった健康を、夫人として側らから理解し支へ、亡きあとは遺影を抱いて、時代とともに「青春の記憶」と遠ざかりゆくイメージに殉ぜられるままに、操を守られた。夫婦の有り様、ことにも結婚について私がことさら引き合ひに出して思ったのは、日夏耿之介である。生涯の頂点となる仕事を成し遂げたのち、そのままそこに留まると連れて行かれさうな精神の高みから、再び現世に生身の作家を引き戻し、子のない余生の充実に貢献したのは、実に年の離れた包容力のある夫人の坤徳に与るところが多い、といふ気がするからである。
 もっとも当の夫君が、頭脳明晰の後輩達から先生と慕はれたのも、書かれたものと書いたひとから立ちのぼる悠揚迫らぬ香りと人徳に他ならない訳であって、さしずめ野村英夫を馬鹿にしたり、堀辰雄の芳賀檀への親近を訝しげに眺めて、四季・コギトの気圏から最も遠い所に位置してゐる加藤周一などは、頭脳明晰の後輩の雄たる存在だが、堀辰雄が好もしいと思ったのはもちろん血筋ではなく、育ちの良さにありがちな正直で向日的な詩人的資性に対する親近なんだらうと思ふ。彼自身は下町の出身だが、さういふ「生存力からみた本質的な弱者」への労はりが、若いころは才気走ったものが好きだった、この穎才の心情の基底には(己が身にも引き付けて)あるやうな気がしてならない。加藤周一が中村真一郎とともに多恵子夫人と行った『堀辰雄全集』最後の月報での鼎談で、夫人が野村英夫をフォローする発言を何気なく繰り返してゐるのは、さうした夫の心情の一番機微のところを、敏感に察して彼女自身のスタンスとしても受け継いでゐる証しなのである。さうでなければ、彼らとは文学的立場も社会的立場も対偶にあったやうな吾が師、田中克己が堀辰雄とともに夫人をも徳として仰いだ理由は説明できない。同じキリスト者でもあり、戦後の抒情詩否定の風潮のなかにあって、この人は全てが分かって下さってゐる、といふ安心があったのであらう。

 私自身も、自らの詩集をお送りした際の受領のご返事として、厚情のこもったコメントを附した御葉書を二度、多恵子様からは頂いてゐる。今は亡い先生達から頂いた礼状とともに生涯の宝物である。また田中先生が亡くなって形見分けに御自宅に呼ばれた際、すでに末期がんで臥せってをられた悠紀子夫人を見舞ひに訪れた多恵子様と、偶然御挨拶を交す機会にめぐまれたが、それが最初の最後となってしまった。いづれも20年も昔の話になるのですが、今更ながら御葉書を掲げさせて頂き、個人的な思ひ出とともに偲び、茲に追悼いたします。

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483やす:2010/04/24(土) 21:46:26
追而
本日、『躑躅の丘の少女』を刊行された富田晴美様よりお電話をいただきました。そして堀多恵子様とは、亡くなる前の週に電話でお話をされ、此度の出版についてあらためて労ひの言葉を賜るとともに、なんと4月14日には追分への訪問も約束されてゐたといふことを聞いて吃驚。その後に自宅で転んで額を怪我され、治療に入院した病院で肺炎に罹ってしまはれた、とのことです。それでも約束の14日の時点では自宅から、「少し延期すれば大丈夫」との御返事だったと云ひますから、大事になるとは思ってをられなかっただけに、逝去と事の顛末を知らされたときには驚かれたさうです。御母堂の遺稿集『躑躅の丘の少女』と、多恵子様の序文(2009.7.3)と、両つながらいみじき形見になってしまったことについて、さぞかし感慨の尽きぬ胸中かと拝察申し上げます。以上御報告まで追書きいたします。

484やす:2010/04/29(木) 19:21:06
連休週間
 さきに二松學舎大学の日野俊彦先生よりお送り頂いてをりました御論文(『清廿四家詩』について「成蹊國文」Vol.43)、ならびに一緒に同封頂いた 『幼学詩選』序跋(村瀬太乙・村瀬藤城)のコピーなど、やうやく落ち着いて読ませて頂いてをります。
 さういへば、友人の蕎麦屋さんの床の間の掛軸をボランティアで掛け替へてゐるのですが、その際、熱心にメモを取られる御婦人から声をかけられ、自宅には藤城の立派な屏風があって手をかけて修繕されたとのお話を伺ひ、今も所縁の漢詩人が地元の人々に愛されてゐることを嬉しく実感。
 また小山正見様よりは、一線を退かれて悠悠自適の生活に入られ、愈々ホームページ「感泣亭」の充実に力を注がれるとのお便りを拝して、羨ましい限り。

 連休週間に入りますが、何方様も事故のなきやう、私は今年もどこにも遠出はせず家居終日、冷酒でも舐めつつ読書三昧で無事過ごせれば本望に候です。



『幼学詩選』 序
某等、某詩選を持ちて来り、余に此の中に就て幼学の為に選せんことを請ふ。余曰く、此れ有るにまた何の選かと。曰く、彼れ巻数頗る多く、詩会吟席に携行不便なり。先生、之を便ぜよと。是に於てか、読み随ひて之を点出し、取ると捨てると殆ど相半ばにして、遂に千四百数十余首を得る。また平生記する所の百余首をも加へ、而して之に授く。
一日、たまたま友生を訪ひ、語るついでに自ら笑ひて曰く、余は儒生にして書を読むを欲せざるも、この頃、幼学の為に詩巻を閲して数日間、三千首を読むは如何。懶惰先生もまた時あらば勤むと謂ふべきかと。生曰く、詩を撰するは容易ならず、回(めぐ) らして一小冊子を出して示さる。取りて之を見れば則ち先師山陽翁の輯むる所『唐絶新選』なり。先づ其の例言を読めば、取捨、大鏡に照らす如く、玉石逃るる所なし。乃はち独語して曰く、此の如くにして始めて之を撰すと謂ひて則ち可なり。余輩の為す所(仕業)は、録するとや集むるとや。況んや翁は少時より唐絶を好めり。[吟]唱、年有りて乃はち心に得ること有りし者なり。余や、匆匆の中(うち)の一時の触目、以て可・不可と為すは実(まこと)に児戯のみ。所謂「聖はますます聖に、愚はますます愚に」、読者、之を何と謂はん。覚えず首縮み、汗背を沾(うるほ)す。[黙]然たるもの之を久しうす。既にして(やがて)徐ろに眉を展ばし、頤を撫し乃ち睥睨して曰く、咄矣(舌打)、此の挙や、将に大人先生の間に行はれんとするか、多く其の量を知らざるを見るや、嗚呼、是れ(わが)『幼学の詩選』なり。弘化丁未(四年1847)冬月、美濃村の村瀬黎泰乙(村瀬太乙)撰し、並びに尾城(名古屋城)の僑居の南窓の下に題す。

 跋
余、嘗て古人の絶句を評して云ふ、盛唐にして供奉(李白)龍標(王昌齢)、中唐にして君虞(李益)夢得(劉禹錫)、晩唐にして玉溪(李商隱)樊川(杜牧)、是れ其の最なり。然れども細かく之を観るに及べは、玉溪は樊川に及ばざるの遠きこと甚だし。唯だ樊川は気勝を以てす。夫れ気勝とは則ち筆健なり。世は小杜を以て之を宜しと目す。偶ま泰一と談じて此の事に及べり。泰一曰く、其れ然り。吾が願ひ未だ高論の暇あらざること此の如し。但だ(わが)鄙見低説、幼学に課するを勤めんと欲するのみ、と。回らして其の手づから輯めたる『幼学詩選』を出し示し、余に跋一言を嘱す。夫れ泰一の作文は奇気有りて芳し。為に先師山陽翁の称許する所と為る。今や斯の選、名づくるに幼学の為と曰くと雖も、首々奇響逸韵、別に一種の活眼目を出し、選ぶに以て必ずしも時好に沾沾(軽薄)とせざるなり。此の選の(世に)行はれる如き、童蒙をして明清より遠く遡る三唐に近からしめんことを庶幾(こひねが)ふ。先師、霊と為り、また当に地下にて破顔するべし。
 時 嘉永紀元戊申(元年1848)首夏(4月)
  藤城山人(村瀬藤城)

485やす:2010/05/21(金) 00:37:05
ニュース 三つ
 目下『淺野晃詩文集』を編集中の中村一仁様より、いよいよ今夏に刊行予定との進捗状況をお知らせ頂きました。さきの『全詩集』では「全詩」と謳ひながら『幻想詩集』が封印され、また意匠や造本も愛蔵家向きではありませんでした。どんな一冊となるのでせうか、たのしみです。


 さらに扶桑書房に於いては、この秋にも稀覯詩集を一堂に集めた前代未聞の古書目録を発行する予定とか。肝煎編集方に恒例の最強パートナーを迎へ、「開運!なんでも鑑定団」でも目利きを発揮されてゐる御店主によって、「間違いなく空前のラインナップ」の詩集たちが、人気と稀覯度と相俟って金額で表示されるのですから、触れこみがその通りなら当節古書界の大事件です。もちろん編集の念頭には田村書店の伝説の『近代詩書在庫目録』(1986年)があるのは間違ひなく、今度は原色図版も数多く載せられることでせう。「詩集の図鑑」にしてどんな「人気番付」となるのか、こちらも興味津津です。ただし全ページ高価な本ばかり並ぶやうだと、昨年の「100部限定目録」同様、私には届かないかもしれませんね(笑)。Yahooオークションより。


 ホームページのカウンターがまもなく10万アクセスを記録します。皆さんの殆どがリピーターと思はれるのですが、毎日20人前後の積み重ねが10万人・・・是亦感無量哉。

486やす:2010/05/07(金) 09:45:28
10万アクセス御挨拶
 サイトのトップページに設置してあるカウンターが2000年1月以来、この10年間で10万アクセスを記録しました。毎日20〜30人の来訪には巡回エンジンも混じってゐませうが、至って地味なサイトにして継続の結果とありがたく、御贔屓の皆さまには厚く感謝を申し上げます。

 顧みれば、先師田中克己先生の詩業を紹介・顕彰しようと、図書館に転属したのをきっかけに開設した、ささやかなHPが始まりでした。“祖述”の対象は、先生が同人だった「四季」「コギト」「マダムブランシュ」をはじめ周辺にあった抒情詩人たちに、さらに地元東海地区の戦前詩人達へと広がり、やがて関係者や御遺族の方々、そして愛書家の皆様からの知遇を賜り、その支援を受けて、コンテンツは次第に私個人の管見とは関係なく、文学資料を蓄積するデータベース的な側面を顕してきた、といってよいでせう。現在、サイトの大きさは4Gb余りあります。やってゐることは、図書館界が推進してゐる「電子アーカイブ」事業と一致してゐる所もあるのですが、現代詩を受けつけぬ偏屈な「私」の姿勢は崩したくなく、反対に著作権など「公」のサイトが手を出しにくい部分を我流にフォローするかたちで、ライフワークの存在理由が今後も確保されたらと思ってをります。

 電子アーカイブといふ側面からみますと、むしろ近年の私が執心する江戸時代の漢詩文、時代も遠く且つ私が初学者ゆゑに私意をはさむ余地もない分野ですが、こちらの方は地域資料を対象とすることで一層「公」に傾く気配いたします。時代の断絶による衰退といふ点では戦前抒情詩との類比も感じさせ、またこの分野を再評価に導いたのが取りも直さず「四季」所縁の富士川英郎、中村真一郎両氏の先見であったこと、そして漢詩を介することで田中克己先生の業績の宏大な範囲にも再び繋がることができること、かうしたモチベーションの円環をもたらしてくれる媒ちとして、決してHPの趣旨とも無縁ではありません。ないばかりか、現代詩詩人のスタンスとは異なる日本文化再考の視点を、極東文化の同質性を視野に今日的意義として啓いてくれたといふ意味では、敗戦によって断たれた先人の志をどのやうに後世に伝へてゆくべきかといふ、私個人が向き合ってきた「コギト」的な問題意識と直結するやうにも思ってゐるところです。日本は自身の存在理由を崩すことなく、中韓の諸国との深い記憶における連帯を文化において思ひ起こす責務が有る筈です。私は今の日本人と中国人と朝鮮人が大嫌いです(笑)。

 このやうなサイトがこのさきどのやうな運命をたどるのかは正直、私にもわかりません。国会図書館が「インターネット資料収集保存事業」に動き出した模様ですが、対象はどのやうに広げられてゆくのでせう。民間好事家のサイトはその多くが、おそらく私のやうな偏屈な個人によって管理されてゐることでせう。文化を保存・継承してゐるなどと、をこがましい気負ひは持たず、信奉する詩人達と一緒に、むしろ伝統に殉ずることができる喜び、といふ謙虚な気持で臨んだ方が良い結果をもたらすかもしれません。私は多くの方々の理解と協力と黙認を経て成り立ってゐるこのサイトの資料情報のコンテンツについて、著作権上の公衆送信権を利己的に主張するつもりは今後もありません。

 感謝の念とともに10万アクセスの御挨拶まで申し上げます。


 読耕は梁川星巌の伝記を再開。連休中の読書の副産物として、ノートは江戸の詩塾を畳んで故山で充電、燕居するさまを、伊藤信先生の文章とともにそのまま写しました。ご覧ください。

487やす:2010/06/02(水) 12:14:49
『遊民』創刊号
職場の図書館まで資料レファレンスにお越し頂いた大牧冨士夫様より、岐阜の詩人吉田欣一氏の生涯を俯瞰する「出る幕はここか 詩人吉田欣一の私的な回想 4〜15p」を巻頭に掲げた同人誌『遊民』創刊号の御寄贈に与りました。

?

 岐阜の詩史といふとき、私がまず思ひ起こすのは江戸後期の漢詩人達の時代なのですが、近代詩以降に限ると、昭和初期の「詩魔」を中心とした戦前詩壇、戦後は彼らと所縁のない殿岡辰雄の「詩宴」や「あんかるわ」系の反戦フォーク世代の詩人達が、断絶に断絶を継いでさんざめき、やがて同人の高齢化とともに、現代詩を以て志を立てようとする若者が後を絶って今に至ってゐる、といふ大凡のイメージを持ってゐます。いま振り返って、共産党に深く関りやがて除名にもなった吉田氏の「人民詩精神」といふものを思ふとき、抒情に述志をことよせた四季やコギトの詩精神で無いことはもちろんですが、前衛の自負を嘯くアプレゲールの政治的気炎そのものか、といへばさうでもないやうな気もし、中野重治同様、古く戦前に詩的出自を持った人ならではの、生きざまや人物に魅力を加味した詩人の一人ではなかったかと、遠くからはお見受けし、大牧氏をはじめ多くの後輩に慕はれて93歳の大往生を遂げられた、郷土詩人の冥利に尽きる生涯に思ひを致しました。



とまれ創刊号のメンバー平均年齢がなんと76歳(!)、ここにても厚く御礼を申し上げますとともに、お体ご自愛のうへ御健筆お祈り申し上げます。ありがたうございました。

同人誌『遊民』創刊号108p \500 遊民社 

488やす:2010/06/02(水) 13:17:32
『伊東静雄日記 詩へのかどで』
 昨日はじめて『伊東静雄日記 詩へのかどで』(思潮社)を手にしました。
用紙が硬くて本文が開きにくく、また勝手に新かな遣ひにされてしまったことなど気になりましたが、内容は詩人のデビューに先立つ青春時代の5冊のノートを、懇切な編注とともにテキストに起こした新発見の資料であり、コギトにおけるライバルだった田中克己が同様の期間に記した詩作日記ノート 「夜光雲」と対比すれば甚だ興味深いものがあります。旧制高校のバンカラ学生とはいへ、その欺かざる心情吐露は勢ひ「恋愛」が中心ともならざるを得ませんが、走り書きが均一に活字に起こされてしまふ事情には、田中先生とおなじく同情するところです(笑)。

 此度の刊行は正しく『伊東静雄全集』補遺巻と申すべき内容ですが、全集の改訂が企画されなかったといふことは、編集後記にしるされてゐるとほり、詩人に関する新資料はこれにて打ち止め、台風時に散逸したと云はれる教員時代の日記など、全集において御遺族の配慮によって抹消された個所が話題となってゐた資料も、完全に公開の可能性がなくなったとみてよいのでせう。もっとも今もって若者たちが伊東静雄の為人に、さまで根掘り葉掘りしたくなる魅力を感ずるものかどうかは不明です。日本人古来の忠信に係る実直さみたいなものが、詩人の美徳と認められるのか。もはや「忠信」を時代錯誤、「実直」を馬鹿正直と侮る現代人には、この日記における日本浪曼派的色彩もイロニーの防禦もない学生の日記は、反発どころか「無害」なのかもしれません。御遺族の公開の決断も係ってそこにありませう。しかしながら編者が、

「そして最後に(老爺心)ながら、現代の若者たちにも、自身の心情とこの日記の内実との間の類似点と相違点とに、なるだけ個々人として、また同時代の青年男女の一員として、賛否と好悪の面とはかかわりなく、目を見開き、耳を傾けてくださることをお願いしたい。これはとてつもなく困難なこと、というよりは、まったく不可能な願望かもしれない。ただそれでも、幾分試みてみようという向きがあれば、幕末・明治維新以後の、(十二分に理由のある)日本の超急ぎ足に思いを致してくださることであろう。現代の混乱の大きな原因の一つがそこにあることは明らかだと思われる。」(編集後記522pより)

と仰言る言葉に、私も深く同感いたします。編集後記より経緯を引きます。

 詩人伊東静雄(1906〜1953)によるこの日記は、1924(大正十三)年11月3日から1930(昭和五)年6月10日の約五年半にわたって、大学ノート五冊に記された。伊東満十七歳から二十三歳、旧制佐賀高等学校文科乙類二年に始まり、京都帝国大学文学部国文学科に入学、その卒業後に大阪府立住吉中学校に赴任して一年が経つまでの時期にあたる。詩人の日記で今日われわれの目に触れることができるのは、人文書院刊行の『伊東静雄全集』の日記の部にかぎられていた。これは1938(昭和十三)年から、その死の二年前、1951(昭和二十六)年にいたるものである。詩人の長女である坂東まきさんによれば、今回見つかったこの日記以上の発見は、今後ありえないだろうという。唯一、住吉中学校教員時代の日記(「黒い手帳」と名付けられていた)の存在が明らかだったものの、いまや完全に行方不明だそうである。
 「詩へのかどで」という副題は、第一冊ノートの表紙の真正面に、大きく筆書きされている。これが書かれた時期はまったく不明であるが、日記ノート自体は山本花子との結婚(1932年4月)を控えた時期に、実弟の井上寿恵男に託されたとのことで、おそらくそのときに記入されたものではないかと推測される。このときの詩人のことばが伝わっている。「この日記はだれにも見せないようにしてもらいたい」と。新妻に見せたくないという配慮からだとされている。(中略)
 本日記の原本は、前述したように、弟さんが保存していたが、その遺族から伊東の長女である坂東まきさんにいわば(返還)され、詩人生誕百年を前にして、坂東さんから柊和典に出版に関するすべてが依託され、さらに柊から上野武彦、吉田仙太郎の両名に編集のための手伝いが要請されたものである。(後略)  (編集後記より)

『伊東静雄日記 詩へのかどで』2010.3 思潮社刊行

内容 ノート第1冊 大正13年11月3日〜大正14年12月3日
   ノート第2冊 大正14年12月4日〜大正15年12月2日
   ノート第3冊 大正15年11月24日〜昭和2年10月7日
   ノート第4冊 昭和3年5月25日〜昭和4年3月5日
   ノート第5冊 昭和4年4月26日〜昭和5年6月10日

編注 略年譜 解説:吉田仙太郎氏

\7980 19.5cm上製函 口絵写真1丁 528p ISBN 978-4-7837-2356-1

【参考】asahi.com(朝日新聞社)  2010年5月13日記事リンク

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489やす:2010/06/06(日) 23:07:18
『杉山平一 青をめざして』
 杉山平一先生より安水稔和氏の文集『杉山平一 青をめざして』をお送り頂きました。最初手にした時、以前刊行された同名詩集の再版かと思ったのですが、これは安水氏による、先生についてこれまで語られた小文や講演録、そして途中からはなんと先生御自身との対談をそのまま収めた内容になってをり、読みながら2006年、四季派学会が神戸松蔭女子学院大学で行はれた際に拝聴した先生の面影が髣髴してなりませんでした。このたびの一冊は実に、この対談に於いてお二人の語り口をそのまま写しとったところ、そしてそこで取り沙汰される詩人達の名が、今ではあまり名前も上ることの少ない戦前の関西詩人達に及んでゐるところ、そんなところに出色を感じました。これまで杉山先生の回想文に出てきた「四季」の詩人達のほか、竹中郁を軸にして、福原清、亀山勝、一柳信二といった海港詩人倶楽部の面々の話は珍しく、また杉山先生が、鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれ、北園克衛の詩は好きだったけど断ったとの回想(129p)など、初耳にて、もし実現してゐたら、アルクイユのクラブの詩人達との交流は、もしかしたら同じくマダムブランシュ同人だった田中克己先生の場合とは異なり、杉山先生を敷居の高い「四季」投稿欄ではなく、アンデパンダン色の強い「椎の木」や、社会的関心を強めた「新領土」に続く道筋へと誘ったかもしれない、なんて想像を逞しうしたことです。

「神戸顔って言うのか、ちょっと目が細くてね、色白でね、なんとなく神戸やなって感じの顔はあるんですね(95p)」
「天気のいい日、煙突の煙が真っすぐ上がっていく日があります。たいがい風で靡きますけどね。そんなとき、あらっ、福原清の世界だなあと思うんですね(108p)」

 などの人物観察、日本語の定型詩はソネットのやうな音的な韻ではなく、箍として語調に制約を設けた短詩形にならざる得ぬことを看破したり、抒情詩人は「北」とか「冬」とか名前でも郷里でも北方志向で無いとカッコ良くない、うけない、なんていふことを、憚りなく云ってのけられるところ、著者の安水さんはそれを、
「杉山さんの目っていうか、ものの面白がりようっていうか、ものの本質を見るその思考過程(76p)」
 と評してをられますが、眼光の鋭さは、最後の第4部「資料」における杉山先生の、
「中央の人はね、地方の文化育てよとか、おだてよんですわ、お世辞ばかりいうて。(227p)」 
 とか、
「ええやつはみんな死んどる、悪いことする奴はみんな帰ってきた、という思想がね、ぼくは一部にあるんですねん。戦争への批判ね、戦争を悪く言うものに対してね、もうひとついう気なかったなあ。(228p)」
 との、関西弁による述懐にも極まってゐます。それもその筈、このインタビューは50年前、1961年の録音を起こした大変古いものなのですが、これを読んで、杉山先生の詩を現代詩人達が四季派と切り離して評価しようとする態度になじめない気持をずっと持ってゐた私は、詩をかじり始めた当時に立ち戻って、25年前25歳だったいじましい青年の肩を先生自らが叩いて下さったやうな気持を味はひました。この第4部、「七人の詩人たち」へのインタビューは以下の関西詩壇の先人たち

山村順(当時63歳)、喜志邦三(63歳) 、福原清(60歳) 、竹中郁(57歳) 、小林武雄(49歳) 、足立巻一(48歳) 、杉山平一(47歳)

 に対して行はれた、既に歴史的資料に属する貴重な証言です。もし当時のテープが現存するものなら、あのやうな端折った編集稿(1961.11「蜘蛛」3号所載)でなく、当時の肉声をそのままCDに起こして是非公開して頂きたいものです。第3部の杉山先生との対談も、けだし先生がこれまで著書で何度となく回想してきた話に時間を割かれ、初めて話題に上るやうな「触れたい人に触れぬまま時間切れ」になってしまったやうですが、このインタビューも、「それから、時代の傾斜。戦争。神戸詩人事件。それから。(217p「小林武雄氏へのインタビュー」)」なんて説明の一文を以て片づけてしまふのは、勿体ないといふより、申し訳ない気もしたことです。

 「四季」の流れをくむ関西の同人誌「季」の矢野敏行さんとは、連絡のたびに杉山先生の記憶力と明晰な精神についてが話題に上り、驚歎を同じくしてをります。先生が、私の青年時代に勤めてゐた上野公園の下町風俗資料館まで、「一体どんなひとかと思ってね。」と枉駕頂いたときのことを思ひ起こすたび、それが四半世紀前のことにして、先生には既に古希でいらしたことにも、今更ながら愕然とするばかりです。
 お身体の御自愛専一をお祈り申し上げますとともに、ここにても御礼を述べさせて頂きます。ありがたうございました。

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490kiku:2010/06/07(月) 02:39:35
(無題)
大変ご無沙汰しております。

ご紹介の『杉山平一 青をめざして』、杉山氏ご本人の率直な発言はもとより、往時の詩人たちの動向を知る上でもなかなかに興味深い内容のようですね。ちょっと読んでみたいなァ。一般書店で取り寄せての購入は可能なのでしょうか?

491やす:2010/06/07(月) 10:28:12
(無題)
 kikuさま、こちらではおしさしぶりです。
書誌を記し忘れてをりました。まだamazonにはupされてゐないやうですが、
安水稔和著 『杉山平一 青をめざして』価格:2,415円 :編集工房ノア :2010年6月:235ページ/20cm ISBNコード:9784892711831
です。

 旧「モダニズム防衛隊」(過去ログ参照 笑)としては「鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれた」なん一文は聞き捨てなりませんよね。その後に続き、三好達治から創刊間もない「四季」で自分の初期の投稿詩が没にされた上、誌上でダメだしされた思ひ出を語ってらっしゃるんですが(130p)、そこで先生が反省されるところの「これ見よがし」のウィットや「手振」なんてのは謂はばモダニズムの表情であって、それを矯めるなんてのは、それこそ 「詩と詩論」から決別した当時の三好達治の事情ではあっても、新人にとってはモダニズムの芽を摘むことに他ならない訳です。まあ、小賢しい機智を弄する二流のモダニズム詩人なんかにはなるな、と、入選ラインを高くすることで若者を惹きつけてゆく三好達治の「師」としての手振が一枚上手だったといふことなんでせうが、先生そのあとに、「本当の意味がわかるのに数年かかりました」なんて殊勝に仰言ってます。もちろん「四季」の詩人として自分のスタイルを見定め得たからのことですからね、杉山先生の言葉は大阪弁の簡単な一言に含蓄がひそんで居ったりする、講演はそこがいいですね。

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492kiku:2010/06/08(火) 01:15:37
感謝
詳細な書誌情報、ありがとうございます。早速注文したいと思います。

“鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれた”あたりの事情も面白そうですけど、やすさま仰るように、講演やインタビューでの発言に結構な本音が垣間見れるんじゃないかなァ、なんて思ったものですから。

「燈下言」もわざわざアップしていただき、ありがとうございました。
三好の論評はまさしく正論ですね。どれほど機智に富んでいようと、それを“これ見よがし”に示し、己が機智を誇るために詩をつくる詩人なんてつまりませんからね。杉山氏が指摘された「浮薄の手つき」は所謂若書き故でしょうし、こうした叱咤激励、薫陶を受けたからこそ、詩人杉山平一として確固たる軌跡を刻む事ができたのでしょう。
それにしても、「懼れてもなほ懼れ足りない、夢寝にも忘るべからざる金戒であらう」との提言、時代やキャリアに関係なく、今なお(否、今だからこそ)以て銘とすべき言説だと思います。

って、話がちょっと脱線しちゃいましたネ。妄言多謝。

493やす:2010/06/23(水) 00:09:34
『続々・中部日本の詩人たち』
 このたび多治見在住の織部研究家、久野治様より詩人伝記シリーズ第3弾『続々・中部日本の詩人たち』の御恵送にあづかりました。
 さきの二作に於いてもさうでしたが、地元中部詩壇の生き証人としての翁(御歳87歳)に、私が一番求めて已まぬのは「あの詩人はこんな恰好でこんな顔をしてこんな風に喋るこんな癖のある人だった」といふ、詩人が遺した著作からは窺ふことのできない印象記でありました。このたびも翁の「肉声」を探しながらの拝読でしたが、3冊目ともなると直接交流のあった人も少なく、この点は憾みとして残ったかもしれません。一方これまで出番なく隠れてゐた詩人が、今回もビッグネームと同等のページ数を割かれて紹介されてをり、同人誌の連載だったからでせうが、地元で刊行された意義に感じたり、また連載が一人に余る分量のときには、周辺の詩史や所縁詩人の紹介もふんだんに挿入して「道草」してをられるのを、執筆の御苦労として偲んだ個所もございました。もとより翁御自身の一大伝記をこそ書き起こして頂きたい気持ちは今も変りませんが、かうして今3冊を揃へて並べて見ますと圧巻の観を禁じ得ません。
 稲川勝次郎詩集『大垣の空より』のテキストが、何篇も印刷に付されるのはこの本が初めてでありませうし、一方詳しく書いてほしかったのは「詩文学研究会」の大所帯を率いてゐた梶浦正之の、戦前戦後をまたぐ消息でした。詩文学研究会の叢書詩集からは、書かれてゐるやうに木下夕爾の『田舎の食卓』のやうな、後世に残る名詩集も輩出してゐますが、多くは無名で、それも出版事情が悪くなる戦時中、同人達が戦地へ赴く際に遺書のやうな気持をこめて刊行した、地味ながらつつましい小菊のやうな印象を与へる詩集が多いやうに思ひます。最後はガリ版刷で刊行が続けられた事情の一切を、主宰者である梶浦正之は把握してゐる筈であり、感慨もつきぬものがあったでせうから、戦後、実業界に転じたのち回想が残されてゐないのは残念と云はざるを得ません。一体何冊刊行されたのか、書誌の全貌さへ未だにわかってゐないので気長に採集してゆきたいと思ってゐます。

 ここにても新刊のお慶びとともに篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。


『続々・中部日本の詩人たち』中日出版社:2010年 05月 367p
収録詩人:金子光晴・福田夕咲・稲川勝次郎(敬高)・佐藤經雄・浜口長生・錦米次郎・春山行夫・梶浦正之・稲葉忠行

『続・中部日本の詩人たち』中日出版社:2004年 01月 309p
収録詩人:伴野憲・中山伸・長尾和男・鈴木惣之助・中条雅二・坂野草史・和仁市太郎・吉田曉一郎

『中部日本の詩人たち』中日出版社:2002年 05月 322p
収録詩人:高木斐瑳雄・亀山巌・北園克衞・佐藤一英・日夏耿之介・丸山薫・殿岡辰雄・平光善久

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494やす:2010/07/06(火) 12:25:49
御礼三誌
『朔』168号
 圓子哲雄様より『朔』168号をお送り頂きました。
 小山正孝夫人、常子様の回想エッセイ「人言秋悲春更悲」は、今回なかなか書きづらい消息、大学勤務時代の逸話の数々を明かされてゐて興味深く拝読。いったいに四季派の詩人たちは戦後、女子大や短大に赴任した人が多かったやうですが、皆さん当時は三十代の男盛りだった筈。しかも堀辰雄文学の薫染を蒙った抒情詩人な訳ですから、教養と学歴の向上が謳はれた文学部隆盛の時代、女子学生にもてない道理はございません。わが師でさへ修羅場もあったやに仄聞してをりますし(笑)、全幅の信頼をもって記されるも、当時の奥様にはさうさう心中おだやかな日ばかりではあり得なかったでありませう。
  潮流社にも色紙が懸かってゐました、詩人のお気に入りの言葉「人言秋悲春更悲」。なにかしら堀辰雄が好きだった「一身憔悴対花眠」といふ詩句の一節にもかよふ気がします。さうしてこの「花」の原義が元来妓女を意味するところであったことを思ふと、今回常子様がタイトルに掲げられた「春」も、蘇軾の詩句や詩人の思惑を離れ、また別の趣きの深くも感ぜられるところではないでせうか。


『菱』170号
 手皮小四郎様より『菱』170号をお送り頂きました。連載、モダニズム詩人荘原照子の伝記ですが、このたびは昭和7年から8年、金沢から上京ののち家族が瓦解してゆく足取りを辿ります。当人にとって最もデリケートな思ひ出に属してゐることから、この頃の具体的な「聞き書き」が少なくなるのは仕方ありません。その代はり、詩篇の描写を手掛かりにした手皮様の実地踏査が功を奏した回といってよいでせう。
 新宿「希望社寄宿舎」での生活で体を壊した彼女は、僅か三月ばかりで母親と長兄の住まふ横浜へ引き取られてゆくのですが、夫君峠田頼吉との別居が子供たちとの別れともなった事情、夫婦間のことは分からぬながら、母親失格といふより、やはり手皮様が案ぜられる結核の疑ひなど、子供たちへの配慮もあったのかもしれません。
 佳人の面影を伝へる肖像写真(『詩人時代』昭和8年1月号掲載)も紹介され、最後には「あるアヘン中毒の詩人」が詩人の「落魄の住家」に「足繁く通ふ」との謎の予告を以て終はる今回。次回はいよいよ「『椎の木』のころ」であります。詩中の描写を実生活に当て嵌める推論は、これまでのところまことに鮮やかに成功してゐますが、今回の『詩人時代』寄稿時代を最後に、独り身となった詩人はモダニズムの自由奔放な世界に傾斜してゆきます。韜晦もはげしくなれば、物証なき付会となり困難を極めませう。聞き書きとフィールドワークがものを云ふところ、それらを経糸と緯糸のやうに織り進んでゆく手皮様の手際が俟たれます。


『四季派学会会報』
 あはせて國中治先生よりお送り頂きました『四季派学会会報』。文中の「ほめ殺し」には冷汗が出ました。先生何卒ご勘弁を(笑)。富田晴美様が刊行された 『躑躅の丘の少女』に係はり、私は仕事上「四季」掲載ページのコピーをお送りしただけで、尽力したなどとは赧顔の至りです。四季派学会に対しても、抒情詩 が学問対象となることに馴染めず、早々に会員の籍を抜いて「院外団」を決め込んでしまった、裏切り者であります。ひとこと訂正まで。


 みなさま、まことにありがたうございます。ここにても厚くお礼を申し上げます。

495やす:2010/07/15(木) 12:02:52
収集本報告など。
 まづは頼山陽の詩集。幕末〜明治にかけて実に夥しく刊行されてゐると思ってゐましたが、調べてみるとほとんどが後藤松陰が校訂した『山陽詩鈔』初版のバリエーションのやうです。注を付して補強したものといっては、

『山陽詩註』燕石陳人註 ; 銕齋漫士増校 耕讀荘藏 明治2年, , 8冊, 19m
『山陽詩解』根津全孝解 ; 杉山鷄兒閲 永尾銀次郎 明治11年, , 3冊, 19cm
『山陽詩鈔集解』頼襄子成著 ; 三宅觀集解 佐々木惣四郎 明治14年, , 4冊, 26cm

 の三種ほどになるらしい。
 このうち「三宅觀」は美濃加納藩の三宅樅台の手になるもので、小原鉄心が序を、森春濤が跋を書いてゐます(書き下し準備中)。また「銕齋漫士」は若き日の富岡鉄齋であり、8冊中前半4冊に関係してゐるやうです。知らない人が多いのか、手の出る値段で求められましたが、もちろん註も漢文。おいそれと中身に手が出ぬことが情けない。

 次に梁川星巌の詩集。といってもこちらはアンソロジー。『[元号]何十何家絶句』などといふ名前で、これまた実に夥しく刊行されてゐますが、今回入手したのは生前最後に企図された『近世名家詩鈔』。刊行された安政5年は、正に大獄の始まった年です。その辺の事情を、早稲田大学図書館所蔵の万延2年刊行「再版」の画像と並べて比較してみました。興味のある方は【濃山群峰 古典郷土詩の窓】梁川星巌の項より御覧ください。

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496やす:2010/07/16(金) 08:02:39
立原道造記念館の休館に寄す
 立原道造記念館が今秋にも休館するさうです。さきに資産家の理事長が亡くなり財政的な後ろ楯を失った後、このたびまた館のシンボルであった堀多恵子氏を喪ったことが、一大痛惜事であったとともに、もはや赤字経営に見切りをつける良い潮時と判断されたのは、一面やむをえぬことのやうに思はれます。

 ここが公の施設でないことは特筆に値すべきことでした。企画から運営まで一手に担ってこられた館長代理、宮本則子氏のボランティア精神に支へられて成り立ってゐた、私立の文学館です。私もそもそも出会ひのはじまりは、古本屋の目録から注文した2冊の詩集を脅かされてとりあげられた「事件」にあったのですが(過去ログ参照)、この十年余り、たびたび催し物の御案内や図録を頂いたり、展示の裏側も間近に拝見させて頂き、四季派詩人を主題に据える唯一の文学館として信頼もしてをりました。何の手落ちなく購入した詩集を私が古書店に返品したのも、氏が館の名前を出して説得されたからで、開館間もない頃のことでしたが、ここが社会的権威を保証する公器の文学館であることを信じてをりました。

 館の広報サイト上では、掲載画像の解像度を故意に荒くしてゐることを聞きましたが、来館を念頭に置いた措置だったことでありませう。しかしながら経営難〜休館の話を聞けば複雑な気持です。今後は非営利の顕彰趣旨にたちかへり、貴重な資料のアーカイブ画像公開にもひろく協力されることを希望してやみません。さしづめ本サイト関連で申し上げるなら、館報第48号に紹介された「田中克己宛立原道造書簡」などは、この先どんな風に「お蔵入り」してしまふのか心配です。田中先生の教へ子だった方からの寄贈品の由ですが、私は現物の拝見はおろか、寄贈の事実も知らせて頂けませんでした。ホームページをチェックしなかった自分が悪いのですが、先日遅まきながらこの存在を知り、メールで問合せたところ、館報に掲載された封筒の写真さへ著作権を以て拙掲示板での紹介を丁重に断られた次第。けだし管理人の不徳が齎した結果なのでせうが、残念でなりません。

 私設ホームページである本サイトも、扱ふ「ブツ」といっては画像とテキストだけでありますが、多くの人々から頂いた善意の情報の集積は、某かの形で次代に受け渡してゆく必要がありませう。他人事に思はれぬ気もし、今後のなりゆきを注視したいと思ひます。

497やす:2010/07/18(日) 01:17:29
詩集『媽祖祭』
 ひさしぶりにドキッとする装釘の詩集が本屋さんから送られてきました。戦前の台湾詩壇の第一人者にして、凝りに凝った造本にエキゾチックな己が詩篇を刻んで世に送り続け、コレクター泣かせの詩人とも呼ばれた西川満。その彼が内地詩壇へ放った、実質的な処女詩集といっていい『媽祖祭』(昭和十年)といふ稀覯本です。別刷宣伝文のなかで長文の激賞を寄せてゐるのは、どことなく詩語の畳みかけ方が似てゐる「椎の木」の詩友高祖保。そして詩人のみならず、アオイ書房、野田書房、版画荘などプライベートプレスの主人や、恩地孝四郎、川上澄生といった装幀家からの言葉を珍重してゐるのは、此の人らしいディレッタンチズムの表明でありませう。内容も装釘も台湾趣味をふんだんに盛り込んだ彼の高踏的なスタイルは、早稲田人脈の先輩、日夏耿之介や台北在住の矢野峰人に好意を以て迎へられるところとなり、家産にも支へられた文学活動は、戦後に至って「日本統治下台湾文芸」の功罪そのもののやうに論はれてゐるさうです。
 育ちの良い耽美的な姿勢が非難されるのは、品性を欠く逆恨みによる政治的な復讐にすぎません。外地において地方主義の立場でペンを執り続けた彼のことを「所詮植民地主義に過ぎない」と片づけることが、いかに人情を弁へぬ非文学的態度であるかは、却って彼が、皇国詩人のレッテルを貼られた山川弘至の遺稿詩集『やまかは』のために草した至醇の跋文を読んだら分かるでありませう。軍務の寸暇を惜しんでやってきた後輩詩人を、戦後になって愛しむその人柄に混ぜ物はありますまい。
若き日の田中克己も、学生時代に敢行した台湾旅行を偲ばせる彼の詩集には、おそらく一目置いてゐたと思はれます。名にし負ふ稀覯詩集の眼福に浴したいと念ってゐたところ、このたびあっけなく手に入ってしまひました。「詩集目録index」に書影をupしましたので御覧ください。

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498やす:2010/07/23(金) 22:16:57
『桃の会だより』
 山川京子様より、『桃の会だより』一号をお送りいただきました。『桃』終刊記念の歌会の様子を伝へる文章を読みながら、なにか終刊といふより、何周年かを記念する仕切り直しのやうにも思はれてならないことでした。懇親会もまた松本健一先生や保田與重郎未亡人典子様の来賓を得て盛会となりました由、お慶び申し上げます。
 体裁を改めての機関紙創刊ともいふべき、このたびの『桃の会だより』ですが、活発な歌会報告を収めた内容に驚いてをります。このうへは、京子様にも御身体なにより御自愛頂いて、引き続き会の中心から目配りのゆきとどいた御指導をして頂かなくてはなりません。同人諸氏の希望を誌面から確と感じました。

 また小山正見様よりも、某個人誌の回送を忝く致しました。連載が一冊にまとまるのが楽しみです。

 ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

499やす:2010/08/20(金) 00:47:59
熱血の詩人−桜岡孝治
 詩集『東望』は店頭で見つけ中身を読んで買った。覚えをみると22年前のことである。表題の「柳―東望」といふ詩にしびれた。

 柳 ―― 東望

一株の老柳あり
かたはら
土堤に程近き井の傍に立ち
東望のわが目を休ましむ
夏雲湧き立つ日も
吹雪枯枝を鳴らす時も
わが心その柳と共にあり

風に靡き
雨にうたれたり

春日 芽ぐみしその柳を
村人 来りて丁々と斧断せり
以来 東望するわが目は
穂麦の野をさまよひて
とどめあへず
           (昭和十六年四月 河南省彰徳飛行場にて)

 この詩人、只者でないと思ったら、伊東静雄の手紙に出てくるひとであることがわかったが、もとは太宰治に師事、そして山岸外史とは愛憎の深い関係にある後輩小説家であったこと、そして林富士馬・山川弘至とならんで『まほろば叢書』の著者の一人であったことなどは、長らく知らずにゐた。このたび『評伝・山岸外史』の著者、池内規行様より雑誌『北方人』14号をお送り頂き、この桜岡孝治といふ作家詩人の貴重なインタビューテープを起こした証言をもとに、「熱血詩人」のプロフィールや師であった太宰治・山岸外史にまつはる回想に接するを得た。山岸外史との絡みが激しく詳しく書かれてゐるのは、テープがもともと池内氏の山岸外史調査の過程で残されたものだからであらう。その成果は十二分に『評伝・山岸外史』のなかに活かされてゐる。今回、初耳に属することだけでなく、語り口から詩人の人となりまで窺はれる好内容となってゐるのは、肉声テープの威力であるとともに、やはりこの詩人と山岸外史が生半の関係でないからであるのは云ふまでもない。長尺のインタビューは、まさに文学史の裏側をかいま見る逸話に満ちたフィールドワークの賜物と思はれた。

 太宰治が船橋でパピナールに毒され淪落の淵に沈んでゐた頃、文壇の先輩である井伏鱒二が「悪いとりまき連中がゐる」と言ってたいへん生活を心配してゐたといふ。結局精神病院に叩き込まれたり再婚させられたりすることになるのだが、指弾されてゐるのが具体的にいったい誰のことを指すのか、私は井伏のいふ所謂「とりまき連」からの証言を、その後の「鎌瀧時代」に密接だったコギト同人、長尾良が書いた『太宰治』といふ本しか読んだことがないので、よくわからなかった。それが主にこの桜岡孝治をはじめとする、太宰とともに山岸外史をも戴いてゐた後輩文学青年たちを指してのことであるらしい事が、まずこの聞き書きからは察せられるのであった。しかし物事は一方からの描写では(それも片方に圧倒的な発言力がある場合には)わからぬもので、当事者の不良文学青年側からの証言が、いたく真っ当なのを面白く思って聞いた(読んだ)のである。もっとも桜岡孝治といふひとは、礼儀に厳しい伊東静雄に助言を仰いだロマン派詩人でもあり、含羞すれど甘えは嫌ひで、戦争中は模範的軍人として(尤も模範でなくては当時本など刊行できまいが)、また戦後は養鶏事業を興し世俗的成功も収めてゐる。所謂頭でっかちの青二才文士とは範疇を異にする人である。むしろ10歳年長ながら、頭でっかち山岸先輩のド外れた非常識振りに苦言を呈しすぎ、たうとう絶縁破門された人物なのである。山岸夫人の評価も真っ向対立する二人として、連載前回の川添一郎に配するに、まことに好対照の人選とも思はれたことであった。

 今回は、池内氏が『評伝・山岸外史』のなかで披露できなかった山岸外史に関するエピソードが、桜岡氏の口吻を以ってそのまま再現されてをり、貴重、といふか面白いといふか、ここまで書いて大丈夫か、でも事実なのだから仕方がない、といった感じの叙述でふんだんに楽しめる内容となってゐる。「青い花の会」で萩原葉子が髪の毛つかんでぶんなぐられた、ぶんなぐった男が山岸外史の家の玄関にふんぞり返って寝てゐる所をバケツの水浴びせかけてやったら夫人に怒られた、なんていふ武勇伝は、やはり「老いらくの恋」に関することだらうか。桜桃忌で禅林寺の鐘をガンガン突きまくるやうな荒事を敢へてやってのける山岸外史も、こればかりは「元寇」と呼んで記憶に焼きついてゐたのだといふ。桜岡氏はそんな彼について、

「政治性とか人におもねるところがない。書いたもので来いというのが真骨頂、良くいえば純粋、悪くいえば世渡りがへた。あれだけの人だから文学評論など、だれについてでも何についてでも書ける。政治論だって書ける。時流に外れるように外れるように、自分から仕向けていったところが多分にある。18p」
「火のような、空気の希薄な高い山で叫んでいるような、それこそ縄を帯にして荒野に呼ばわる者というところが多分にある20p」

 と分析してゐる。いみじき理解者ならではの言葉だと思った。たしかに彼が政治(共産党)に求めたものは彼の非政治性によって全く裏切られたし、外史氏曰く人物評の面白さもちょっと比類がない。四季派の詩人たちとも関はりは深いが、エピソードから闊達に斬り込んで人物の本質を突いてゆく手法は、敢へて探すなら草野心平と双璧をなすものであらう。しかし縄を帯にして荒野に喚ばふといふことなら、桜岡氏いふところのモーゼやキリストより、むしろ屈原のやうな東洋の欝屈詩人の面影の方が近しい感じもする。
 いったいに、所謂雑誌名としてでない現象としての「日本浪曼派」といふのは、政治的思想的には保田與重郎ひとりを血祭りにあげて象徴に据える一方で、文学論にひっかからないイメージの出所といふのは、多分にこの山岸外史の風貌から態度から、信条に殉じて老残に至るまで、一切駆引きのなかった奇特な人生の、「見栄え」や「居直り」に由るところが大きかったのではないかと私は思ってゐる。さうして若き日の彼から薫陶を受けた後輩たちが、「サムライ(無頼)文士」=「(井伏鱒二から見た)悪いとりまき連」といふイメージを引っ被ったまま、太宰治が雑誌「日本浪曼派」の同人だったことが経歴上、なにか一種の被害者だったやうなイメージを世間に植え付けるに大いに与ってゐる、不当に与ってゐる、そのやうにも思はれてならないのである。
 桜岡氏が力説し、池内氏が提示してこられた「山岸外史を太宰治から切り離し、試しに彼を中心に眺めた時にひろがる文学史的眺望」から見えてくる景物といふのは、恐らく彼が書く人物評のやうに、書いたもので掛ってこいと云ひつつ人物本位の血のぬくもりを探し求めるやうな、いかにも熱血ロマン的評価に彩られたものとなるのであらう。文学史の裏側といふより、かいなでの文学史のすぐ下に、今は名前も埋もれようとしてゐる、かうした人達が渦巻く評価未定の人脈世界(ネットワーク)があること、それが文学の現場なんだよといふことに、このインタビューは気づかせてくれる。

 「大柄な体格で黒縁めがねに色浅黒く、声高に話すエネルギッシュで情熱的」。盟友林富士馬とも何度か絶交状態になったといふが、ともに市井に隠れたる虎と呼んで差し支へないのだらう。むしろ江戸っ子気質で荒削りの人間味は、彼の上手を行ってゐるかもしれない。脇役たる証言者としてでなく、「東望」「夕陽の中の白い犬」を始めとする優れた戦争詩を書き得たこの詩人について、池内氏が補足して語るところに従って云へば、詩集の背景となった当時の思ひ出に、「毛六」といふやうな陰惨なエピソードが焼きついてゐることを知って、私は驚いた。

「すなわち河南省彰徳飛行場の格納庫の羽目板のトタン泥棒の毛六を捕えた桜岡上等兵は、盗んだトタンの代金のかわりに一カ月間、部隊の炊事場と風呂焚きの労働で放免する約束が中隊長の命令で破られ、銃剣術の刺突訓練の生きた標的として使われることを知り、中隊長に抗議にいくが無視され、毛六は結局殺されてしまう。27-28p」

 戦後になって、一編の小説に書いてわだかまる思ひ出を吐き出した詩人であったが、このエピソード紹介の後に、「兵隊と水牛の仔」といふ愛らしい短い詩を引き、池内氏は今回の稿を擱筆してゐる。余白の関係もあったらうが、詩集中にはなほ「小盗児」のやうな、この事件に脚色を加へたかにみえる詩もあり、「石門をよぎりて」の一節

(前略)
ああ それよりも飛行場の
一隅のかのひともとの木の墓は
朝夕に花捧ぐるひとありやなし
申しおくらざれば草生ひて
見えわかずなるものを

わが心 なほ動かねど
汽車は早や飛び去りて
今とどろ沱河渡りぬ
沿線の棉の花 ほつほつ開き
みのりよき粟の穂は深く垂れ
わがこころまた深く垂れたり
             (昭和16年8月4日京漢線車中にて)

 などは、直裁にその「事件」を踏まへたものなのかもしれないと私は思った。引き続き軍務にあった当事者の表現の限界をいふより、むしろその当時に、こんなにしてでも記さずにはをれなかった詩人の心情を、あらためて詩集を繙きながら憶測を以って各所に認め得た次第である。詩集『東望』カバーの暗い鉄色の意匠(阿部合成装釘)は、そんな詩人の内省的な、孤独に向き合ふ姿を、一羽の鷲に象り映して出色のものと思はれる。サイト内に紹介してあるので一見されたい。

『北方人』14号 2010.8.1北方文学研究会発行 \400 問合せ先(kozo818kotani[アットマーク]yahoo.co.jp )
  内容:随想/熱血の詩人−桜岡孝治さんのこと― 池内規行(8−28) ほか


【追伸】
 池内様にはこの場にても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。
 また詩人に宛てた伊東静雄や太宰治からの手紙の一部は、幸ひにも現在のところ玉英堂書店サイト内に写真で確認することができるやうです。

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500やす:2010/08/20(金) 12:26:00
扶桑書房古書目録(日本古書通信より)
 以前予告のあった「近代詩集特集」。さる蔵書家さんからの一括売り建てが元になってゐるらしい。彼とは過去に貴重な詩集のやりとりをさせて頂いた。
目も眩むやうな書庫も拝見してゐるから、もし売りに出されたとして欲しい本は決まってゐるのだが、買へるだらうか。
目録を手にする時間も、手にしてみるだらう値段も、予想するだに恐ろしい(笑)。
とまれ、まずは注文、目録を。

 また加藤仁様より貴重な地元詩誌『牧人 (1928.1多治見)』と『青騎士3号(1922.11名古屋)』をお送り頂きました。ともに戦前の石川県詩人、棚木一良氏旧蔵書とのこと、『青騎士』には彼の詩集『伎藝天女』の表題詩編の草稿と思しき書込みや紙片も残されてをりましたので合はせて公開いたします。
 ここにても謹んで御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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501やす:2010/08/31(火) 12:22:10
『江馬細香―化政期の女流詩人』
 先週末の出来事より。私には悪いニュースと良いニュースがいつも一緒に齎される運命があるやうです。

 まづは悪い方から。
●楽しみにしてゐた扶桑書房の「近代詩集特集」の古書目録ですが、「今回は送れない」旨の手紙とともに代金を返されてしまひました。恐ろしいものが届いたと思ひました。  文面によると、旧蔵者と私との関係を知ってゐるので、そして目録についてまだ見ぬうちから古書店の思惑を勝手に忖度してコメントしたことが、ダブルで障ったやうです。(半ばは宣伝にもなればと思って書いたことだったのですが。…だって出る前に宣伝すればライバルが増へるだけですからね。)  手紙通りなら、私は石神井書林に続きこの本屋さんとも縁が切れてしまっても仕方のない愚か者なのに違ひありません。近代文学詩書を殆ど買はなくなったのですから、古書店に対する「いい気なコメント」は今後、ますます自重したいと思ひます。

 次にうれしい(ありがたい)話題を。
○相互リンクの小山正見さまの感泣亭ブログにて拙サイトの御紹介に与りました。ありがたうございました。

○門玲子氏の江馬細香評伝『江馬細香―化政期の女流詩人』、巻頭に吉川幸次郎の感想(書簡)を付して新装再刊されました。(写真は初版、再版、新装再刊)
 戦前すでに、漢文に対する学者の態度が世代で異なってゐることを示す、序跋中の二ヶ所について少しだけ引かせて頂きます。伊藤信先生(明治20年生)より一回り以上若い吉川博士(明治37年生) 以降の世代から、斯界の研究は江戸時代以来の訓読と決別し、漢文を中国語として研究する態度がスタンダードになったやうです。けだし修身が義務教育科目だった時代に育ったエリート博士達にとって、訓読に染みついた儒教的精神主義には辟易すると同時に、日本から全くそれが喪はれるなんてことも、予想できなかったことでありませう。今にしてその大切さも見直されてゐますが、門玲子氏は30年前の執筆当時、自らを一介の主婦と謙遜されつつ、本場漢詩研究からも近世文学研究からも忘れられた伝統文学の大切さを、女流文学史の証しを立てるために力説、尽力され、なにより晩年の吉川博士がこれを嘉し、読後感に認め感嘆して下さったことに、万感の想ひを述べてをられます。

『江馬細香』読後(吉川幸次郎)より。
(前略)実は私は日本人の漢詩文は「紫の朱を奪う(※論語)」ものゆえ純粋の漢語に習わんには妨げなり、初学は一切目にするなという教育を京都大学にて受けました為に本邦儒先の業には一向に不案内。もっとも近ごろはよる年波と共に気が弱くなり伊物二氏(※伊藤仁斎と物徂来)に就きましては柳か述作もしましたが、幕末の諸賢に就ては山陽星巌をも含めて不相変の不勉強。(後略)  ※やす注

跋文(門玲子)より。
(前略)次に私が熟読したのは、伊藤信著『細香と紅蘭』(昭和44年、矢橋龍吉発行)という私家版の一冊です。伊藤信という方は大正・昭和初期に大垣地方で国語・漢文の教師を勤めた人です。中国文学者というより、日本古来の漢学老の流れを汲む儒老というに相応しい存在です。その著書は、江馬細香や梁川星巌・紅蘭夫妻の業績を、郷土の先賢として深い敬意をもって祖述しております。記述は古風ですが、先人の業績・生き方に真正面から誠実に向き合っており、私はこの著書からどんなに多くのことを学んだか測りしれません。こうして私は江馬細香の世界に没入していきました。(後略)

○さて本日は田中克己先生(明治44年生)の生誕日、来年は愈々百周年です。さういへば東洋史を専攻し李白・杜甫・白楽天・蘇東坡について評伝を書かれた先生にも、江戸時代の儒者について考察した文章は遺されてゐません。お宅へ通ひつめてゐた当時、も少しこんな話をしてみたかったです…。

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502やす:2010/09/21(火) 22:17:38
良寛禅師坐像
 今月は出張で新潟県の出雲崎へ立ち寄ることを得、そのとき良寛堂で伏し拝んだ禅師の座像、これとよく似た小さなブロンズを、なんと偶然にも帰還してから入手するといふ僥倖に与りました。今夕到着、抃舞雀躍。今の私には余りある慰めです。
 けだし近代詩においては宮澤賢治、江戸漢詩においては良寛。この御両人は、大乗と小乗と立場は違へど御仏の所縁深く、地域や政治の垣根を越えて広く民衆に親しまれてゐる点では正に日本を代表する詩人と呼んでもよいかもしれません。今年は、3月に宿願だった『春と修羅』の初版本を手に入れ、守備範囲の狭い詩集コレクターとしては、寔にお粗末ながら「ささやかな頂き」に立った思ひを深くしたのですが、以後身辺もそれに呼応するやうに、収集熱から解き放たれるべく色々の運気が移動してゐる気配がするのは不思議です。
 此度、箱書きもゆかしき良寛禅師の銅像を手に入れることができたのは、格別の御縁と信じるところです。それを肝に銘じ、昔の詩人の素懐を探るべく、さらなる精進に勤しみたい。皆様には長い目でお見守り頂けましたら幸甚です。感謝と合掌。                              宮沢賢治の祥月命日にしるす

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503やす:2010/09/28(火) 19:48:57
『菱』171号 モダニズム詩人荘原照子 聞書連載12回
 手皮小四郎様より『菱』171号をお送り頂きました。詩人荘原照子の伝記は昭和8年3月より始まる『椎の木』同人時代、いよいよモダニズム詩人として面目一新です。 山口から横浜に拠点を移した荘原家の背景と、生活の意義そのものが詩作へと先鋭化してゆく詩人の様子が描かれてゆくのですが、モダニズムといふトップモードにギアチェンジするにあたっては、まるで似つかはしくない自暴自棄と呼んでよいやうな「デスパレートな環境」がいくつか与ってゐたやうです。

 まづは腸結核に侵され、子供たちとも引き離されて、妻でも母でもない一人の孤独な女として、母と二人きりで営むこととなった闘病生活。そしてそれに複雑に絡むこととなる「新しすぎる詩人達」との交流。また四六時中鳴り渡る製氷工場の騒音。・・・騒音なんて外的要因も、言ってしまへばそれまでですが、逃げ隠れできない状況下では神経も異様に研がれて鋭くなってゆくものです。私も田舎から上京して(今なら低周波といふのでせうが)隣や階下のモーター音に悩まされ、人からみたら些細なことですが、詩的人格形成においても無視できない影響を受けたのでとてもよく分かるのですが(笑)、騒音が自分を駆り立てたのか、詩を書くやうになったから過敏になったのかは今思ふと不明です。

 さて、腸結核の「痛み止め」として劇薬を使用せざるを得ぬやうになった彼女のことを「万病の問屋」と呼び、母娘の生活を脅かしていった悪人物といふのが、前回「あるアヘン中毒の詩人」として謎を掛けられた、自らも壮絶な人生の真っ只中にゐた平野威馬雄であったと云ひます。さらに詩人の間では新即物主義の紹介で有名な笹沢美明も、穀潰しの高等遊民として、その立派な新築の洋館は「食い詰め詩人の溜り場」となってゐた由、そして図らずも彼らとの交流の因となったのが、一歳年長の先輩詩人、高柳奈美(後年の乾直恵夫人)であったとのことで、詩人の曰く、

 詩人仲間からも、誰があの放蕩詩人に荘原を引き合わせたかと問題になり、高柳が「荘原さんと笹沢さんが親しくなって噂が立つようになったらいけないと思い、平野さんを紹介した」・・・「責任を取って詩を書くのを止める」と言うので、その必要はないと答えた・・・。

  聞き書きといふ一方的な証言を、手皮さんは「どこがホントで作り話か判然しないことを語って僕を煙に巻いていた。」などと、度々勘ぐったり意地悪く突き放してみせることで、出来る限りの記述の偏りを戒めるべく努めてはゐますが、もう十分ショッキングです。それでも私にすれば、

 後に、本当は『四季』に入りたかった、『四季』からも誘われた、と浮ついた物言いをしたことがあった。

  なんていふ条りには(当然ですが)うれしい驚きが走りました。当時マダムブランシュの同人でもあった田中克己が、『四季』の編集同人となった折にでも、勧誘の打診がなされた可能性は充分あり得たことですから。戦前の詩人の交流証言には驚くことが多いですが、今回の取り合はせは初耳でなんだか新鮮です。

 これまでの叙述の進め方だった、詩篇からメタファーとしての生活の影を炙り出してゆく手法が、ここにきて難しくなってきたのは、韜晦を常とするモダニズム手法の結果として仕方ないことかもしれません。その分、生活の糧を頼った長兄の周辺に対する綿密な調査を行ひ、聞き書きの言ひなりになることを警戒し、絶えず平行して背景が固められゐます。次回も引き続いて『椎の木』同人時代が語られる予定。何卒ご健筆をお祈り申し上げますとともに、ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。

『菱』171号 2010.10.1発行 500円
問合せ 〒680-0061 鳥取県鳥取市立川町4-207 小寺様方 詩誌「菱」の会

504やす:2010/10/07(木) 21:50:01
『朔』169号・『季』93号
 四季派学会大会として杉山平一先生のシンポジウムが今秋、大谷大学で行はれるらしい。先日ちょうど杉山先生にまつはる思ひ出を八戸の同人誌『朔』に寄稿させて頂いたばかりだったので(次号刊行後にupします)、折も折、慶賀に堪へないことと喜んでゐる。

 初めてお会ひしたのは四半世紀ちかく前、先生には既に古稀を越えてをられた計算である。当時歴史的仮名遣ひで詩を書く私のことを老人だと思って吃驚なさったらしい。同人誌の先輩だった舟山逸子さんから、あなたも青年というより少年の印象でしたから、といふ感想を頂き、実年齢以上のギャップがさらにあったこと、まことに狭量だったに違ひない吾が詩的生活の実態を後悔のなかに懐かしんだ。

 まもなく御歳96歳の先生には、車椅子を使用されるやうになったと聞くが、出席された会の発表をメモに取り、即座に要旨をまとめて総評を賜ふなど、矍鑠たる面目は今なほ健在の由。思ひ出話を良い気になって書き記したことに冷汗を流してゐる。直接拝謁してお詫び申し上げなくてはならないが、催しの正式な日時と内容が確定してをらず、職場の行事と重なることを心配してゐる。

 圓子様よりお送り頂いた『朔』169号には、他にも、詩人小山正孝を回想する令室常子様の連載が今回も快調である。こちらは私とは反対に、読む人をして驚歎せしむる若々しい心映えと御歳とのギャップに、やっぱり羨望を禁じ得ない。「やっぱり羨望」と云ったのは、言ふまでもない、自分の場合は四季派の殻に閉ぢこもり偏狭一徹で押し通すことができた恐いもの知らずの若さに対して、である。

 また手紙とは別に舟山様からは、現在の『季』(93号)もお送り頂いてゐる。杉山先生の最初の教へ子でいらした備前芳子さんの追悼号として、先生を始めほとんどの同人から、生涯にたった一冊『缺席』といふ名の詩集を遺した詩人の人となりに懐旧の情が寄せられた。詩人冥利・同人冥利を感ずるとともに、さすがアタマ員だけ擁してゐる雑誌の多くとは一線を画す、温雅にして守るところ固い、四季派直系の同人誌の面目と意義に出会った気がして心が洗はれた。

 ともに遅まきながら茲におきましても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

505やす:2010/10/09(土) 20:08:31
『桃の会だより』 2号
山川京子様主宰の桃の会より本日『桃の会だより』二号(A4版11p)をお送り頂きました。末尾の後藤左右吉氏による岐阜新聞記事(3/8「岐阜文芸」)、図書館員であるにも拘らず迂闊にも見逃してをりました。

「一生涯、山川姓を貫き、若き日の夫の督励をいちずに守り続けた彼女に、私は戦中戦後を清くたくましく行きぬいた日本女性の一典型を見るようで敬服している」

といふ一節、さうして今号の巻頭に掲げられた十首のうちの一

「身は老いて心をさなくとほき日の面影若き人おもひをり」

といふ歌に感じ入ってをります。

思ふに現役の文学者で私が尊敬申し上げるのは、杉山平一、山川京子のお二人だけとなりました。伝統を新たにする戦前の抒情を、敗戦後に嘗め来った辛酸の痕と共に、両つながら身に帯びられて、今日どんなちょっとした発言にも、おのづからの重みが感じられる懐かしいお人柄…といふのは、もうこの御二方よりほか思ひ浮かばない。これははっきり申し上げて置くのがいいと思ひ、記します。

とりいそぎここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

506やす:2010/10/16(土) 20:11:54
自由書房「ふるほん書店」
 岐阜の大手新刊本屋さん、自由書房の旧本店の店舗2階が、古本部として活用が始まったと聞いて、昨日「ふるほん書店」(そのまんまのネーミング。笑)に行って参りました。

 午前中に行ったのですが、すでに地元古書店主が本を抱へて精算中…。自由書房さんはわが職場図書館の納入業者でもあり、学科や授業関連の本を漁ってきましたが30冊でなんと5000円。所謂「玄い本」は尠かったのですが、ブックオフよりはるかに品揃へは充実してゐて面白い。「あんまり整理しすぎず、本の回転も速くして、“何があるのかわからない感”を大切にしたい」とは、深刻な空洞化に悩める柳ケ瀬の活性化に一肌脱いだ担当氏の弁。

 もちろん自分にも『酔古堂剣掃を読む』といふカセットテープの4本セット(定価\20,000)を\1,300で購入しました♪ おそらくは勝ち組経営者辺りを当て込んだ高額企画ものでせうが、安岡正篤といふ人はこんな声してをられたんですね。

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507やす:2010/10/16(土) 21:25:26
『漢文法基礎』復刊
 序でに漢文関係の話題ですが、かつてZ会から「らしからぬ」受験参考書として刊行され、本屋の店頭に並ぶこともなく語り継がれてきた『漢文法基礎』といふ名著。その後ながらく増刷されず、一時は3万円余の古書価がついてゐた稀覯本でしたが、このたび匿名だった著者の本名を明かし、講談社学術文庫からたうとう復刊されました。出版社を変へての復刊にあたっては、内容も大幅に改訂された由。自分用にも購入しましたが、けだしこの度の再刊は、受験生のためといふより、おそらく私のやうな生涯教育として古典にいそしみたい中高年の需要が多からうと思ふのであります。

「さて、漢文という科目は中国古典を読む学科ではない。ここのところをまちがえないようにしてほしい。あくまでも、過去の日本人が、中国の古典をどのように解釈し、どのように読んできたかということの追体験なのである 42p」

 なるほど、さうなんですね。昨今、日中間の摩擦が問題になってゐますが、つまりは漢文なんかがもっと身近になって、私たちのご先祖知識人がいったいどこからなにを受容し、咀嚼して、この誇るべき繊細な感受性と礼節とを兼ね備へた日本の国民性を培ひ、近代化のお膳立てが成ったのかといふこと、さういふ歴史を忘れ果てた末造に現在の自分たちが傲り立ってゐるといふこと。その自覚から出発しないと、「戦略的互恵関係」なんて小賢しい裏心を以てしては「良き隣人」なんかになれっこない、さう思ふ訳であります(脱線)。

 ことほど左様に、江戸時代の儒者の見解も引いて説明される憂国の参考書ですが(うそ。笑)、本書全体の三分の一強を占める「助字編」の講義には特段の裨益を蒙ってをります。初版とならべて表現改訂の痕を詮索するのも楽しいかもしれませんね。

『漢文法基礎』 講談社学術文庫 2010.10.12刊行
二畳庵主人(加地 伸行)著 : 1,733円 / 603p   ISBN : 978-4-06-292018-6

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508やす:2010/10/29(金) 09:41:45
『愛しあふ男女』復刻版
 小山正見様より予告のありました、小山正孝詩集『愛し合ふ男女』復刻版の御寄贈に与りました。
 詩人にこの一冊のあること、詩集収集家の端くれとしてもちろん知ってゐたものの、私の守備範囲から外れる戦後の著作で、古書価が高額であること、そしてその原因となってゐる、挿画を描いた駒井哲郎の世界が現代美術音痴の私には理解できないこと、を以て、稀覯で著名なこの本を探し回ったことはなかったのでした。(余談ながら彌生書房の選詩集シリーズなど版型も組字も実に好ましい叢書だったので、このひとの手になる戦後民主主義的(?)な意匠には必ず手作りのカバーを被せたものでした 笑)。
 しかしいま改めて手にしてみると、サイズこそ縮小されたものの、歴史的仮名遣ひの字面をそのまま復刻。駒井氏の挿画も、19世紀ロマン派画家が好んで書いたやうな大木の写生であり、安堵したのです (笑)。書肆ユリイカの面目を施す一冊といってよいのでせう。うはさ通りノンブルがなく、1ページに一篇づつタイトルのないソネットが印刷され、おまけに無綴ですから、なるほど一度ばらけてしまへば順番がわからなくなる道理です。
 尤も爺臭くなった最近の自分には、気恥づかしい位のムードが漂ふ詩篇もあり、熱い愛の描写からことさら目をそむけ、さびしい心象描写の部分部分に、戦前の四季派らしい「手触り」を確かめやうとする自分が居て苦笑する次第。原本がもうひとまはり大きな楽譜サイズで刊行されたことを思ひ合はわせと、いつしか立原道造のことも念頭にのぼってくるのでした。
 ここにても御礼を申し述べます。寔にありがたうございました。

『愛しあふ男女』復刻版 小山正孝詩 駒井哲郎画 [16枚](図版共) ; 29.7cm \非売

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509やす:2010/10/29(金) 22:45:07
連絡
メインパソコン復旧。

510やす:2010/11/04(木) 23:02:42
有時文庫
 近所に古くからあった古本屋さんの有時文庫の店舗が、ある日突然あとかたもなく消え去りました…。
 昨今の古書価暴落にあって、仕入本がお店中に積み上がり、終ひにはシャッター外に置き晒しになるやうになったのを見て傍目に心配してはをりましたが、もう一軒ある鯨書房と比べ、戦前資料への目配りやインターネットへの対応が遅れたのかもしれません。尤も近くに学校もあるのに、中高生が古本屋でもじもじするなんて姿も見られなくなりましたしね…。さきにレポートした新刊本屋の古本店進出と云ひ、諸行無常の世の中であります。

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511やす:2010/11/07(日) 22:07:11
曽根崎保太郎詩集『戦場通信』
 むかし自分の好きな詩人をみつけ出すツールとして利用したのは、『日本現代詩大系』(河出書房)、『日本詩人全集』(創元文庫)などのアンソロジーのほか、詩人たちが老境に入り自らの仕事をまとめるつもりで、(おそらく費用は自前で)出された選集叢書の類ひがあった。そのひとつに宝文館出版の『昭和詩大系』シリーズもあったが、戦後現代詩に交じって詩歴の古い詩人たちの、貴重な初期の作物を合はせ収めたタイトルも見つかることがあり、私は古本屋でこの(北園克衞装丁の)本を見つけるたび、一冊一冊中身を確めながら、自分の探求リストに新しく好きな詩人と詩集を加へたりしてゐた。

 なかでも『曽根崎保太郎詩集』が、このシリーズ一番の「めっけもの」であったのだが、その理由は『日本現代詩大系』に紹介のない詩人だったから、といふだけでは当たらない。詩誌「新領土」に拠った彼の処女詩集『戦場通信』は、抒情系モダニズムとは呼べない戦争詩集であり、且つ手法も近藤東や志村辰夫と同様、生硬なカタカナ表記の殻を被った代物である。と同時に、皮肉を封じた韜晦ぶりにより、軍人会館で印刷され陸軍省検閲済を堂々と拝領して刊行されるに至った曲者でもある。ために刊行直後、詩友である酒井正平は「新領土」誌上の書評のなかで、作品が現実批判に向はぬ「じれったさ」を表明したし(43号)、皮肉屋の近藤東は初対面の後輩が颯爽たる現役将校であることに驚き、その印象に「ヒゲをつけてゐた」ことを書き添へることを忘れず、「最も美しい近代的戦争詩集」とこれを総括、揶揄なのか賞讃なのか敗北主義的言辞なのかよくわからぬ感想を書き送ってゐる(44号)。そもそもこの詩集、「新領土」同人らしからぬ装丁や、皇紀を用ゐた周到さ、まではともかく、リアリズムの挿画を配したのは友人の協力を得ての事であり、内容を穿って解釈するまでもなく、ことはもはや韜晦に類する仕儀には思はれぬ。つまりは戦後、左派アプレゲール詩人たちによる「戦犯吊しあげ審判」に於いても、判断留保の著作物として扱はれたのではなかったかと私には推察されるのである。

 この事情は、けだし宝文館版アンソロジーの後半に盛られてゐる、戦後に書かれた作品に至っても決着されなかったのではないだらうか。といふのは、復員後の詩人は、戦争を題材とすることを止め、カタカナで書くことを放棄するとともに、戦後の喧騒からも身を退けてしまった。謂ふところ如何にも甲州らしい生業である葡萄園の「園丁」に身をやつし、故郷を舞台にした、自然が色濃く影を落とす作品群によって詩的熟成を達成していったやうに思はれるのである。それらが単行本にまとめられる機会はなく、二冊目の詩集『灰色の体質』には、タイトル通りの不機嫌な表情のものばかりが故意に集められた。詩と詩人に社会的な批評精神を求めてゐた中央詩壇のオピニオンリーダー達にどれだけ訴求したのかは不明である。

 同じく東京から帰郷し農場経営を事としたモダニズム詩人に、私の大好きな渡邊修三がある。やがて四季派的抒情へと旋回(後退?)していった彼と比べれば、若き日に仰いだエスプリヌーボーのオピニオンリーダー春山行夫が愛した「園丁」といふ詩語が醸し出すポエジーを、そのまま実生活上に仮構してみせ作品を書き続けてきた曽根崎保太郎こそ、座標をぶれさすことのなかったモダニズムの忠実な使徒と呼び得る気がする。さうして批評精神をもちながら戦陣の責任者となり、地方に隠栖せざるを得なかった詩人の宿命を思ふのである。

 私は『戦場通信』に描かれた彼自身の戦争=厳粛な現場にあって凝晶するぎりぎりの知性、と呼ぶべきものに瞠目せざるを得なかった。同時に自然のなかに人間の営みを緩うした表情をみせてくれる、「園丁詩法」「田園詩」と名付けられた後年の作品群、その良質な戦前モダニズムを継承した抒情詩に対しては、より多くの親近を覚えた。戦前と戦後の評価が反転するなど、戦後詩嫌ひの自分にあっては珍しく、かつ刊行された原質としての詩集にあくまで拘る吾が偏屈に照らし合はせても極めて罕な事に類するが、今回読み返してみてあらためてさう感じたのであった。昭和52年に刊行された『曽根崎保太郎詩集』は、現在みつけやすくそんなに高くもない。詩人が到着した北園克衛や渡辺修三を髣髴させる田園モダニズムの世界については、どうか直接本を手に取りあたって頂きたい。「あとがき」ではさらに、「新シイ村」「一匙の花粉」「郷愁」と名付けられた、『戦場通信』以前の、真の意味でのデビュー作品群についても触れられてゐる。同じくカタカナ書きの詩人だった近藤東について発掘されたやうに、同様の初期未刊新資料の公開といった望蜀は今後のぞみ得るであらうか。

 さて、此度その詩的出発を詩壇的には躓かせたかもしれない(?)彼の最初の詩集、限定たった120部といふ稀覯本である『戦場通信』を偶然入手することを得た。ここにテキストでは読むことのできた詩集の原本を、時代を証言する貴重な資料として、画像で公開し当時の雰囲気を感じ取ってもらはうと考へた。 公開に当たっては著作権者の了解を得るべく照会中であり、大方にも情報を募る次第である。朗報を待ちたい。 (明日upします。)

【後日記 2010.11.14】
詩人が平成9年に逝去されてゐたこと、画像公開の許可を拝承するとともに御遺族より御連絡を頂きました。詩人の御冥福をお祈り申し上げますとともに慎んで茲に記します。

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512やす:2010/11/14(日) 22:30:29
腹有詩書氣自華
 わが書斎「黄巒書屋」へ詩集気狂ひに相応しい新しい額が到着。揮毫は明治官界の能筆家として名を馳せた金井金洞、後藤松陰に学を授かった人です。とまれ何とも嬉しい文句ではありませんか♪。
 もとは治平元年(1064年)蘇軾29歳の冬、地方官見習ひの任期が終はり汴京(べんけい:開封)に帰る途次、長安に立ち寄った時につくられたとされる「和董傳留別」といふ詩の一節で、不遇の旧友の奮起を願った送別の辞なんださうです。ですから「詩書」とはもちろん四書五経のことなんですが、近代詩集の書庫に掲げてもいい感じです(大ばか者です)。原詩を掲げます。


 和董傳留別    董伝の留別する(別れを告げる[詩])に和す

麤繒大布裹生涯,粗繒(そそう:荒絹)大布[粗末な成り]、生涯を裹(つつ)むも
腹有詩書氣自華。腹に詩書あれば気は自ら華やぐ
厭伴老儒烹瓠葉,老儒[老師]に伴ひ、瓠葉(こよう)を烹る[隠遁雌伏する:詩経]ことに厭(あ)き
強隨舉子踏槐花。強いて擧子[科挙の受験生]に随ひ、槐花を踏む[槐が咲く長安へ出て勉強した]
嚢空不辨尋春馬,嚢[財布]空しく、弁ぜず[(靴も買へなかった)虞玩之のやうに買へない]、春馬を尋ぬるも [孟郊のやうに「春風得意馬蹄疾:]とはゆかず、つまり落第して」
眼亂行看擇婿車。眼は乱して、行くゆく壻を擇ぶ車を看る[合格者の所へ婿入希望の車がおしかけるのを見る目は泳いだことだらう]
得意猶堪誇世俗,[しかし]意を得れば 猶ほ世俗に誇るに堪へん
詔黄新濕字如鴉。詔黄[黄麻紙に詔書を起草すること]新たに濕(うるほ)ひ、字は鴉の如き[黒々と立派]ならん

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513やす:2010/11/15(月) 13:03:00
daily-sumus
 リンク集に、博覧する好奇心を以て古本情報の日録を更新してをられる林哲夫様の著名なブログ「daily-sumus デイリー・スムース」を追加させて頂きました。江戸時代には抽き書きを以て随筆と呼ぶ慣はしがありましたが、「詩・書・画」の三絶ならぬ「古書・画・装釘」三絶に遊べる古本達人の浩瀚な読書録は、すなはち現代の随筆に相違ありません。ブログを通して感じられるのは、(夙に『ちくま』表紙のお仕事にて思ったことですが)、「本」が写真で撮られたり描かれたりすることによって、著者・装釘家の思惑を越へ、「その一冊が経てきた歴史」に敬意が払はれたオブジェに化してゆくといふ魔法、その過程と意味とをまざまざと目の当たりにしたといふことでした。

 このたびのきっかけとなりました蔵書画像の転載許可も有難く、伏して感謝申し上げます。

 ちなみに以下に拝借したのは、かつて紹介した「我が愛する版型詩集」のルーツであるらしい、フランスはラ・シレーヌ社刊行本の書影。「現代の芸術と批評叢書」はここからヒントを得たんですかね。何の本かわかりませんが検索したら似たやうな当時の書影がヒットしてきたので合せてupします。

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514やす:2010/11/19(金) 12:42:17
頼山陽の掛軸
 日本の漢詩のトップスターといへば御存知、山陽頼襄(のぼる)先生。村瀬藤城、太乙、細香、柳溪、松陰、百峰と、主だった美濃漢詩人たちの師でもあります。かつてはその書が頗る珍重され、掛軸一本で「家が一軒建つ」と云はれた時代もあったらしい。ですから当然にせものも多い、といふか多くが贋作だと聞きます。

 もっとも今となっては好事家の代替はりに伴ひ、価値は急落。頼山陽のみならず、日本書画界、特に「書」の値段は地に落ちてしまったといってもいいかもしれません。旧い母屋の取壊しに際して「ざくざく出てくる美術品」の暴落のさまは古本の比ではなく、しかも本とは異なり価値が分からぬまま「真贋いりみだれて」放出されるといふところが恐ろしい。そもそもなに書いてあるか読める人が居らん訳です。「代替はり」とは云ひましたが、それはつまり漢学の素養がある旧家の御隠居のたしなみが孫子(まごこ)に継承されてといふことではなく、二束三文で売り払はれたのちに、縁もゆかりもない私のやうな貧乏人のコレクションに収まるといふことであって、またその条件として、閉鎖的な骨董屋の顧客市場が、豊富にオークション出品されるインターネットの市場へとひらかれ、環境が整備されたことをも意味してゐます。鑑定の権威はオークション上に成立しません。だからこそ「蔵出しのうぶ物」を、己れの責任において落札するワクワク感があるといふこともできるのでせう。

 そんなこんなで夥しく出品されてゐる「頼山陽」でありますが、筆札を鑑定玩味する審美眼は勿論のこと、確(しか)とした印譜も資金も持ちあはせのない私のことですから、落ちたといへどそこそこには競り上がる代物を、画像で判断して買ひ取る勇気がない。テレビの鑑定番組を観てゐると、実に精巧な印刷ものもあるとのことであります。

 山陽の真蹟については、一昨年すでに「自筆の法帖」といふものを、牧百峰の跋文を信じて購入してゐます。ただ自分勝手に真蹟と思ってゐるだけで、肝心の落款がなかったため競争者も少なかったのでした。或ひはつまらぬ贋物をつかむよりはと、予めそれと銘打ってある素性の明らかな復刻ものを手に入れて喜んでゐた、のが去年の話。

 そんな私が今回色気を出してたうとう「掛軸」に手を出してしまひました。シミも折れもあったためか、敬遠して誰からも入札がなかったところを、「内容から判断して」思ひ切って初値で落札してしまったのですが、けだし贋物作者からすれば「内容から判断されるべく」本物らしく拵へるのは当たり前のことであり、詳しい印譜に照らせば真っ赤な贋作だったのかもしれません。

 で、昨晩届いたこの掛軸ですが、本人いたく喜んでをりますゆゑ、何卒冷水を浴びせるやうな証拠のコメントは御控へ頂きたく(笑)、興味のある方だけご覧ください。

515やす:2010/11/25(木) 22:46:21
「四季派学会会報」 / 「感泣亭秋報」
 國中治さまより「四季派学会会報(平成22年冬号)」をお送り頂きました。12pの会報ですが「立原道造特集」を設け、記念館閉館にともなふ残念さ、含むところも感じられる皆さんのコメントを興味深く拝読しました。
「収蔵者が代わるということは、展示場所や展示方法が変わるだけでなく、展示品そのものが替わるということだ。(國中治)」

 また小山正見さまよりは「感泣亭秋報」第5号の寄贈を忝くいたしました。先達てお送り頂いた小山正孝の稀覯詩集『愛しあふ男女』の非売復刻版(152部限定)に寄せて、感度不足の御礼しか申し上げられず気になってをりましたところ、今号巻頭には多くの犀利にして温かい書評がおさめてあるのを拝見し、あらためて勉強させられました。といふか、恋愛詩を勉強しないとわからないやうでは四季派失格であります。傘寿・卒寿を迎へられた先輩方がものされる強記溌溂の文章にも圧倒され、転載された吾が私信のぼんくら加減には、ため息をつくばかり。
 しかも今回『愛しあふ男女』の復刻記念一色の特集号となるかと思ひきや、前号に続く回想の寄稿をはじめ、あたらしく伝記的追跡の連載も二本並んで、今までで一番濃い内容になってゐるのではないでせうか。
 渡辺俊夫氏の「立原道造を偲ぶ会当時のこと(続)」のなかでは、詩人が鈴木亨氏と麦書房の堀内達夫氏とともに尽力したといふことが記され、一方「四季派学会会報」では錦織政晴氏の文章に、記念館の立ち上げについては逆に二者が杉浦明平氏とともに躊躇の側に立ってゐたことが指摘されてゐましたから、立原道造の顕彰をめぐって識者の立場が二様にあったことを初めて知ったのでした。
 後記の最後には、正見様による「小山譚水の「盆景」の、土の部分を(土壌学の権威となった)兄正忠が、空の部分を正孝が引き継いだと言えないこともない」 といふ評言が置かれてゐました。いみじき発想に感じ入ったことです。
 まだ全てに目を通してゐませんが、とりいそぎの御礼をここにても認めます。ありがたうございました。

 さて、四季派学会冬季大会のお知らせ、もしや流れてしまったのかとも危惧してをりましたが以下のとほり、今週末に行はれる由。先日96歳を迎へられた杉山平一先生御当人をお呼びしてのシンポジウム、楽しみです。

平成22年度四季派学会冬季大会
  日時平成22年11月27日(土)13:30
  大谷大学京都本部キャンパス1号館4階1405教室

【講 演】 「杉山平一 近代を現代に繋ぐ」  詩人 安水稔和氏

【シンポジウム 杉山平一を読む】
         司会 愛知大学短期大学部  安 智史氏
《基調報告》
「杉山平一の文芸活動の全体的で構造的な把握」 「PO」編集長 佐古祐二氏
「『ぜぴゅろす』と一篇の詩「桜」」 自在舎主宰  桜井節氏
「杉山平一の「詩的小説」を読む」 大谷大学 國中 治氏


「感泣亭秋報」(五) 目次 (2010年11月)

詩 愛しあふ男女 アルバム「愛しあふ男女」より 小山正孝2p

恋愛詩のパラドックス 小山正孝第三詩集『愛しあふ男女』を読む 高橋博夫4p
逃走の行方 詩集『愛しあふ男女』のために 渡邊啓史6p
光の輸もとどまつて 西垣脩(再録)18p
小山正孝の詩世界(4) 近藤晴彦22p

感泣亭通信【感泣亭秋報への返信】(到着順) 山崎剛太郎24p 神田重幸24p 木村和24p 中嶋康博25p 組橋俊郎25p 萩原康吉26p 布川鴇26p 岩田[日明]26p 馬場晴世27p 高橋博夫27p 高橋修28p

小山さんが貫いていたもの 伊勢山峻30p

回想の小山正孝
 関東短大時代の小山先生(続) 新井悌介32p
 小山さんの激怒 岩田[日明]33p

デッサン・感泣亭 宮崎豊35p


 黒一色の部屋の中では 大坂宏子36p
 「夕方の渋谷」オマージュ 森永かず子38p
 街 里中智沙40p

「立原道造を偲ぶ会」当時のこと(続) 渡邊俊夫42p
昭和二十年代の小山正孝(1) 小山−杉浦往復書簡から 若杉美智子48p
小山正孝伝記への試み(1) 出生から高校入学まで 南雲政之50p

感泣亭アーカイヴズ便り (小山正見)54p

516やす:2010/11/29(月) 22:12:58
四季派学会冬季大会 シンポジウム杉山平一を読む
 週末に開催された四季派学会冬季大会、詩人杉山平一の初のシンポジウムに、先生自らが同席されるといふことで、私も万障繰り合はせて推参しました。先生の謦咳に接して大満足のところ、國中治さん舟山逸子さんをはじめ諸先輩とも久闊を叙するを得、実に楽しく有意義な一日を過ごすことができました。
 シンポジウムでの発表は、身に引き寄せた親愛に溢るる読みを披露された桜井節氏の言葉に聞き入り、気鋭の國中教授からは研究の糸口となるやうなキーワードがいくつも提示され、杉山先生御本人を前にしての臆せぬ論旨には衆目の注視が集まりました。
 ただ少なかった参加者が、折角の機会に杉山先生の周りに集まらないのは、恐縮してゐるのか、私は最後にはちゃっかり隣に座り、後悔せぬやう発言までしましたけどね、学会だからでせうか。不思議でした。
 さうしてお持ちした『夜学生』にも署名を頂きました。思へば初めてお会ひした折にサインして頂いた本も『夜学生』でしたが、当時はカバー欠・線引きの並本。この度は失礼のない本で臨みましたが、先生「昭和」と書きさうになられてわたくし狼狽(笑)。これもまたよい記念となりました。講演ほか当日の様子はいづれ論集に収められることでせう。

 役員の皆様方にはお疲れ様でした。ありがたうございました。

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517やす:2010/11/29(月) 22:53:15
山陽、星巌両先生掃苔記
 さて当日は、朝一番の列車に駆け込み午前中に入洛、宿願だった梁川星巌先生夫妻を南禅寺天授庵に憑弔、点々とした住居跡をうろつき回り、四季派学会の散会の後は、古本先輩宅に一泊して、翌日曜日もふたたび長楽寺に頼山陽のお墓を訪ねて帰ってきました。山陽先生の塋域には頼三樹、牧百峰、藤井竹外、山田翠雨、児玉旗山といった錚々たる後進の墓碑もあり、また天授庵でも星巌先生の墓が簡単には分からず探し回ったお陰で、山中信天翁夫妻のお墓にばったり行きあたり吃驚したことです。といふか、そこら中が知らない「○○先生之墓」だらけなんですから(笑)。『漢文学者総覧』でも持ってゐれば、いくらでも時間つぶしができさうな感じです。最終回を迎へたドラマ「龍馬伝」の人気も重なったか、紅葉シーズンの東山は大変な賑はひだったのですが、維新の道筋に詩の灯火を掲げた文人達のお墓には訪れるひともなく、観光客とは無縁の閑散さが却ってよかったです。

 墓参の際は花をもって受付で来意を告げませう。無粋な扱ひは受けません。山陽墓所はわかりやすいですが、星巌翁の奥津城に案内板はありません。新しい顕彰碑が据えられた横井小楠(沼山)の墓の隣にあります。

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518やす:2010/12/12(日) 06:27:53
『左川ちか全詩集』新版
 さて昨年『山中富美子詩集抄』を世に問うて詩壇の話題をさらった森開社から、今年『左川ちか全詩集』の新版が、実に27年ぶりに刊行されました。内容の充実を図る一方で、愛蔵に相応しい旧版に比して軽装とすることで価格を抑へ、また別種の意が注がれてゐるやうです。個人的には贅沢を極めた旧版が今回の改訂を以て無価値にならぬやうな、編集上の配慮を同時に感じることができた点が嬉しかったのですが、久しき絶版に対する愛好家の渇望を癒すべく、限定500冊は不取敢一般書店に並べられることはなく直接購読制で売り捌かれるといふことです。その一方で、図書館員の私としては今度こそ多くの基幹公共図書館には所蔵して頂きたいとも思ってをります。言はずもがなのことですが、この詩人こそ、本を案外買はない人種であるところの書き手としての詩人、特に現代の若い表現者に対して、今なほ古びぬ、スタイリッシュな訴求力をもって迎へられるものと信じるからであります。
 もとより彼女に限らず、モダニズム詩に限って「女流」などといふジャンルは不要でありませう。むしろ戦前の日本に於いては、少々乱暴な物言ひが許されるなら、「モダニズム」といふ概念自体が「ロマン派」と対峙したところの女性的概念のやうにも私は思ってゐます。その最良の感性といふのは、理論など持たぬ優れた若い女性たちの一握りによって、いつも軽々と表現されてきたのだと、そのやうに考へてゐるわけです。これはモダニズムを抒情の方便としか考へられぬ私ならではの偏見で、同様に外国では真逆のこと――「モダニズム」を男性的概念、「ロマン派」を女性的概念と思ひなして面白がってゐるのですが、果たしてそんな自分が彼女の詩をどこまで理解してゐるのか、といふより感じることができてゐるのか、といふ段になると、それは旧版全詩集に収められた「椎の木」追悼録で田中克己先生が書いてる以上に、性差にとらはれた、甚だ心許ない解釈に落ちることを白状せぬわけにはいかないのかもしれません。
 新版刊行に寄せた一言まで。詳しい書誌と購入方法はこちらの「螺旋の器」 ブログにて。

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519やす:2010/12/13(月) 09:36:50
「spin:スピン」vol.1-8 「淀野隆三日記を読む」
 林哲夫様より、この11月に終刊した文芸リトルマガジン「spin:スピン」1-8<2007.2-2010.11>を、なんと全8冊の揃ひで御恵投に与りました。ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 各号に連載された「淀野隆三日記を読む」に早速目を通してをりますが、ひとへに林様の資料翻刻に係る労力が偲ばれます。自分もかつて師の創作日記に対し同じい暴露行為(?)に及んだことがあり、林様が47冊ものノートを前にした驚きと、これを活字に起こしつつ実感されたであらう、当にいま文学史的発見に唯ひとり立ち会ってゐるのだといふ感興が、びっしり埋まった誌面からは(自らの楽しかった苦労とともに)伝はってくるやうです。

 ノートの主である淀野隆三については、三好達治や梶井基次郎のパトロン的旧友、京都の商家のボンボンといふ認識しかなかったのですが、どうして、彼らと知り合ふ前の日記が赤裸々で面白い。生真面目な少年がたまさか出会ってしまった文学といふ魔性の人生指針。そのため理性と欲望は折り合ひがつかず、正義感と無力感だけがどんどんつのってゆく文学青年への転落過程が告白体で綴られてゐます。裕福で健康な少年が、花街が身近な環境で女中にかしづかれて育ったら、そりゃ純情であるだけ只では済みますまい。恵まれた者は恵まれた者なりに汚濁や坎穽に遭遇せざるを得ず、又ぬるま湯を自覚しながらそこから抜け出せぬ事情は、ひとり恋愛と性愛の二律背反にとどまらず、大正末期に興った左翼思想についても、(彼が生真面目なだけに)勝者階級に生まれた者として懊悩する己が姿をノートに叩きつけることになるのは、ある意味自然な成り行きだったかもしれません。

 そして「青空」同人からやがてプロレタリア文学〜日本浪曼派の人たちの名前まで入り混じってくる、後半に綴られた興味深い文壇模様。梶井基次郎や三好達治の才能をわがことのやうに喜ぶ友情をはじめ(彼は三好達治の結婚に際しても費用に至るまで細々と世話を焼いてゐます)、反対に林房雄、今東光、春山行夫、室生犀星、仲町貞子等には歯に衣着せぬ言及と、日記ならではの人物月旦は一番の読ませどころと云へるでせう。当サイト関連でいへば、

「人々は幸福を奪はれて行くその状態に於ける自身の悲しさを指して、そこに唯一のレアリテを見出してゐる様になった(コギトの連中)。何といふことか?」(vol.8:84p)

 と、自ら加担した左翼文壇の潰滅時にデビューしてきた後進世代のデスパレートな心情を評してゐる一節は嬉しかったです。けだし前述の田中克己日記『夜光雲』は重要な時期である昭和 7年前半の一冊を欠いてゐるのですが、この日記群にも、彼が左翼文芸に関った昭和5〜7年当時の日々の出来事を記した日記が(破棄されたのか書かなかったのか)存在しません。いったいに彼の私生活については、父祖との対決に係る記述が全冊にちりばめられてゐるのですが、――文科への進路、芸者との恋愛と、親不幸の度に激怒した父との間にはさらに壮絶な、非合法活動にまつはる骨肉の人情ドラマが繰り広げられてゐた筈です。しかし再び付けられるやうになった日記には、以前の悩み多き青年の面影はなく、思ひがけない逮捕によって晩節を汚すこととなった父との、負ひ目ある者同士の和解が、永訣が、この連載の最後を締めくくることになりました。それによりこの目玉企画に負はされた使命の一半が、不取敢果たされたと慶んでよいものなのかどうか。経済的理由で終刊することになった雑誌を前にして、思ひは複雑です。今後さらに翻刻が続けられるのか、また単行本化やネット公開も念頭にあるのか、遺族の意向もありませうが見守りたいと思ひます。



 まだ走り読みですが、ほかには「四季」「コギト」にも寄稿されたドイツ新即物主義文学の紹介者板倉鞆音を追跡した津田京一郎氏の研究(「板倉鞆音捜索」vol.2:27-43p)に注目しました。その昔、献呈した拙詩集に対し、視力の殆ど失はれたことを一言お詫びのやうに添へて返して下さった礼状を今も大切にしてをりますが、詩人の個人研究は嚆矢にして、抄出や参考文献に至るまでまことに貴重な資料と存じました。

「日常誰もが使うごくありふれた言葉でありながら、かように組み合わされみると、所謂写生でも写実でもなくなってしまっている…(中略)…この西洋史の不思議な描写力(奇蹟)の日本語における再現を徹頭徹尾追求すること、翻訳者の任務はこれ以外にないと考えている。」(vol.2:40p)



 そのほか雑誌詳細は「daily-sumus」ブログにてご確認ください。
 ありがたうございました。

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520:2010/12/17(金) 09:50:43
山陽、星巌両先生掃苔記
『墓参の際は花をもって受付で来意を告げませう。無粋な扱ひは受けません。』

世の中には、同じ事を考えて実行する人がいるのだと、嬉しくなりました。
林哲夫・由美子ご夫妻と昵懇にさせて頂いてます。

http://plaza.rakuten.co.jp/camphorac/

521やす:2010/12/17(金) 17:14:17
(無題)
 柳居子さま、はじめまして。
 実は山陽翁のお墓へは翌日に思ひ立ち、下調べなしに行ったものですから、牧百峰・藤井竹外先生らが眠っていらっしゃるとは知らず、一束の花を使ひまはして(汗)お祈りさせて頂いた次第です。
 林様の博覧ブログとはちがって極めて守備範囲の狭い偏屈者のサイトですが、今後とも御贔屓に頂けましたら幸甚に存じます。よろしくお願ひ申し上げます。

522やす:2010/12/30(木) 13:13:47
今年の収穫から。
兼子蘭子『躑躅の丘の少女』平成22年 (堀辰雄に師事した閨秀作家の遺稿集。新刊)
『山中富美子詩集抄』平成21年 (新刊。また同刊行所より『新版左川ちか全詩集』平成22年。)
高島高『北方の詩』昭和13年 (ボン書店末期の刊行書。)
小林正純『温室』昭和16年 (『田舎の食卓』とはほぼ同装釘。)
頼山陽『山陽詩鈔』天保4年 (やうやく購入?)
大沼枕山『詠物詩』天保11年 (処女詩集の再刷、嘉永二年玉山堂梓行。奥付なく見返しに表示の『附 梅癡道人』一冊を欠けるか?)
宵島俊吉『惑星』大正10年 (ひととなりが伝説だった若き日の勝承夫の行跡を示した一冊。)
宮澤賢治『春と修羅』大正10年 (田村書店に格安本をお世話頂きました。)
谷崎昭男編『私の保田與重郎』平成22年 (回想文の集成。新刊)
山崎闇斎『再遊紀行』万治2年 (蔵書最古記録更新。)
村瀬藤城 "岐阜稲葉山" 掛軸 (これは郷土の御宝でせう。)
西川満『媽祖祭』昭和10年 (装釘狂詩人の精華。)
『青騎士 No.3』大正11年 (名古屋モダニズム黎明期の稀覯雑誌。)
良寛禅師座像 昭和2年 桝澤清作、相馬御風箱書 (オークションで思はぬ僥倖。)
曽根崎保太郎『戰場通信』昭和15年 (戦争文学とモダニズムとの実験的融合。)
小山正孝『愛しあふ男女』復刻版 平成22年 (原本は戦後を代表する稀覯詩集。)
金井金洞 "腹有詩書気自華" 額  (今は和室に掲げゐたり。)
頼山陽 "莫咲先生不解曲" 掛軸 (破格で入手できた真蹟。と思ひこんでゐる。)
小野湖山『湖山樓詩鈔』嘉永3年 (初版らしい。)
「spin:スピン」vol.1-8 「淀野隆三日記を読む」 (いづれ単行本になる予定も。)
河崎敬軒『驥虻日記』文政3年 (『菅茶山』を読んでたときに手に入れてゐたら…。)

読んでない本が多く著者に申し訳ない。といふか、味読できるやうに早くなりたいといふのが本音ですね。
一番嬉しかったのは勿論『春と修羅』と、それから本ではないですが良寛禅師座像でした。

みなさま良いお年を。

523やす:2011/01/01(土) 16:33:39
年頭感懐
 古来五十ともなれば「知命」、「人間五十年」、また「年、五十にして四十九年の非を知る」
などと色々に申す由。けだしこしかた半百年、我とわが身の周りに突きつけられし無常のさま
に、ただ驚き悲しみ恐れ居れり。あるひは「四十五十にして聞ゆる無きは是また畏るるに足らざ
るのみ」とも申すとか。畏るるに足らざる者には、天命も下したまはざらん、されど人として、
思ひやり、肚をつくり、ユーモアを解す、この他に知るべき事の何かはあらん、などとひとりご
ちて、ささやかなる新年の祝杯を引けり。             先師生誕百年の元日に

ことしもよろしくお願ひ申し上げます。

524やす:2011/01/04(火) 23:27:15
はつはるに白兔の伝記ひもとけり
 年末年始もボソボソ読んできた梁川星巌翁の伝記ですが、やうやく前編を読了しました。特に翁の最晩年となる安政五年の事跡については、それまでの文人墨客の交遊関係を綴る伝記とは大きく様変はりし、明治まで秘匿されてゐた遺稿『籲天集』から尊王攘夷に彩られた慷慨詩編が紹介される辺りから、一介の宗匠詩人の生涯は、政治の裏舞台を暗躍する熱血に彩られ、変貌して参ります。これを裏付ける資料も、詩集以外から採られたものにかなりのページが割かれてゐて、生き残った志士の回想や書翰(特に佐久間象山と吉田松陰からの手紙が長い)、および事件処理のために残された供述調書(申口書)ほか、一様ではありません。東西日本を遍歴して名声の頂点に上り詰めた老詩人が、やがて「悪謀の問屋」「今度の張本第一なる者」と目されるまでに至った経緯は、その後の結果が分かってゐるだけに痛ましく危なっかしく映ります。その動機も社会転覆を謀るといふより純粋な詩人的熱情のなせる「諫言」が主目的なのですから、弾圧に当たった幕府側にしても、例へば寛典派で星巌にはかつて添削も請うたこともある間部松堂との会見が入京前にもし大津で実現して居たら、大獄の処断はこんなにも陰惨になっただらうかと思ってしまひます。

 心が痛むシーン(もはやシーンと申していいでせう)といふのは幾つもあるのですが、ひとつは志士でなく学者だった人々の動向でした。京摂一番の儒者と星巌に信頼されながら、大獄前に謹慎これ努めて極刑を免れた春日潜庵、彼が星巌へ当てた苦衷を滲ませた挨拶の書簡や、「反逆の四天王」の一人だった池内陶所が、かつて『酔古堂剣掃』を共に編纂した同志、頼三樹三郎の手跡をお白州で証したといふ供述記録。なかなか苦いものがあります。一方、学者とちがって詩人とは云へば、三樹三郎にしても星巌にしても(結局は助からないのですが)どこか楽天的で抜けてゐるやうに映る。三樹三郎は吉田松陰同様の図抜けた詩人ぶりで、育ちの良さや支援者の多さにも拘らず、科せられた罪の重さが大獄の陰惨さを象徴するものとなってゐますが、大獄直前に病没した星巌翁は、吉田松陰の内命を帯びて間部侯襲撃に上京した久坂玄瑞を百方諭止したといふ条りなど、実に歴史の危機一髪を物語るやうな(これは著者である伊藤信氏の手柄ともいふべき、関係者から得た証言らしいのですが)、世故に通じた重々しい判断をなしてゐる。ところが間部閣老には談判すれば真情が通ずるだらうと詩を二十五篇も作って、実はカードはそれだけだったり、見舞客にコレラの出所と噂された鱧を食ったことを注意されると「旨かりしなり、なかなかコロリには非ず」なんて気丈に話してて翌日死んぢゃふなんてところは、どうなんでせう。さうして三日後に明治維新の遠因となる捕縛が始まるわけです。

 安政の大獄といふのは、幕末ドラマファンにとっては、(志士たちの最初期の面目について興味深い報告に富んではゐても)あくまでもドラマの前史といふ位置づけなのでありませう。しかし物語がここで終焉する私にとっては、出てくる名前名前を片端から検索しながら、大獄に遭った人、免れた人、そして大獄を科した人、彼らが辿ったその後の運命について、ネット上で閲覧を繰り返しながら、あれこれと道草の思ひを馳せる処なのでありました。さうしてこれが戦前の著作であることを同時に考へたのでした。この本は、幕末の反体制思想が成就した結果の世界から、その黎明期の功労者にして最初の犠牲者となった郷土の偉人梁川星巌の功績を顕彰しようといふ結構を有してゐます。しかし今の日本には「帝の国」といふ世界観は喪はれ、尊王攘夷のスローガンなども、時代遅れの国粋主義としか捉へられなくなってしまひました。仕方のないことですが、実はこれらふたつの評価の向ふに、詩人が生きた時代の真実があったんだらう、さう思ったのは、頼山陽の時代を再評価した中村真一郎や富士川英郎の詩史観の延長上に、発せられるべき真っ当なリクエスト(要求)として、非常な新鮮を以て私に訴へかけてきた星巌翁の生きざまによるところでした。本書を資料にものを書かうとする現代の作家達を、時に辟易させる大正時代の伊藤先生の口吻ですが、鴎外の史伝『北條霞亭』と同様、むしろここは著者の最も個人的な思ひ入れを大胆に付して「星巌生涯の末一年」とでもして章をあらためて書いたら、もう少し星巌翁本人に近づき得たのではなからうか、さう思ったことであります。

 星巌翁の最期にまつはる証言から以降は、詩壇の後輩達による弔詩の数々、大獄事件の後始末を受けて、歴史の表舞台から退いていった寡婦紅蘭女史の面目を示した回想やその後の世過ぎに筆は移ってゆきます。有名な紅蘭未亡人と暗殺前の佐久間象山とのやりとりなども収められてゐます。面白かったのは紅蘭が出獄に際して占ったところ

「上六。穴に入る。速(まね)かざるの客三人来るあり。これを敬すれば終(つひ)には吉。」

といふ卦が出て、これがどうやらおおきにウケたといふ条り、まねかざるの客といふのはもちろん取調官のことかもしれませんが、出迎へにやってきてくれた鳩居堂主人ほか、気の置けない支援者弟子達のことと解すると、旦那に劣らず磊落な女将さんの人柄が伝はってくるやうであります。

 この年末年始の閑暇を以てゆったり読書ができたことをあらためて感謝します。私からこの伝記に新たに付け加へ得る報告としては、昨年書きましたが、生前に企図された最後の詞華集『近世名家詩鈔』巻頭にあった翁の名が、大獄の諱忌を以て一旦削られたといふ小事件、そしてこれも昨年展墓して発見したことですが、星巌夫妻の墓の高さが、実は建てられてから途中で女史の方だけ低く変へられてゐたといふ、なんだか可笑しいやうな事実についての報告、不日まとめて読書ノートの連載にも付したいと思ってをります。

525やす:2011/01/09(日) 18:47:50
墓参記
 先週の後半1/5〜1/7は新潟県に出張。昨年家宝となるやうな有難い銅像を得た機縁もあり、その日の仕事を終へて宿に帰る途中、長岡郊外の隆泉寺まで初めての良寛禅師の展墓を敢行しました。「敢行」に相応しく(?)底冷えのする曇天の下、当日1月6日は禅師の祥月命日だったのですが、夕刻の境内周辺に観光客らしき人影は皆無、供花もたった二束といふ実(まこと)にさみしい命日に立ち会ってしまひました。町ぐるみの法要が半年遅れで行はれる由ですが、しんみりした憑弔は、しかし星巌翁の時と同じく却って心に期するところ深くして帰ってくることができたやうに思ってをります。
 さうして出張の帰途にはもう一基、今度は東京で途中下車して田中克己先生の霊前に一週間早い墓参り。こちらは「生誕100年」の御挨拶です。

 数珠を持参しては何かと余禄に与った出張に「感謝」の週末でした。

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526やす:2011/01/10(月) 23:45:45
収穫報告ほか
 さて週末土曜日は神田神保町を一年ぶりに散策。以下はその収穫報告まで。
まづは大沼枕山門下、信州佐久郡の禅僧魯宗(字:岱嶽/号:不及)の漢詩集『不及堂百律』(文久3年序、慶応2年跋私家版)。慶応二年当時まだ四十代後半といふことは、つまり枕山師匠とは同年輩らしく、江戸では駒込の諏訪山吉祥寺の旃檀林学寮にゐたといふ全く無名の人ですが、掘り出し物でありました。

 山を出ることを勧む人に答ふ

風月、番々(順次に)として性情に適ひ、眠りに飽きて几に凭れば、小窓明らかなり。
山僧、影に対して談話少なく、杜宇(ホトトギス)、空に向ひて叫声多し。
葷酒、常に辞すは法を畏れるに因り、文詩、偶ま賦すも名は求めず。
鶺鴒、棲み止まるは一枝にて足り、膝を容るる草堂、錦城に勝れり。

 昨年お世話頂いた『春と修羅』の御礼を述べるべく挨拶に立ち寄った田村書店では、再び収穫がありました。安西冬衛の詩集『渇いた神』。漉き上げたままの「耳付き紙」を表紙に、余白を極限まで活かした意匠は「これぞ椎の木社」と掛声を掛けたくなる造本ですが、同装丁の詩集が4冊あり全て昭和8年中の刊行に係ります。内容もエキゾチックで奇怪なロマン(物語)の創造に努めた詩人の、当時の到達点を示した名詩集なのですが、漢字離れの激しい今日、ネット上では一昔前の相場が未だに幅を利かせてゐて、限定300部の稀覯本ながら9冊も晒されてゐる残念な状態が続いてゐます。(本屋には厚手薄手の二種があって、並べて写真を撮らせて頂くことを忘れたのが残念でした。)
 おなじく格安で購入した『新領土詩集』もモダニズム詩集ですが、こちらは戦前の代表詩誌の名をそれぞれ冠して編まれた山雅房版のジャンル別アンソロジーの一冊。『四季詩集』『コギト詩集』『歴程詩集』『培養土(麺麭詩集)』とともに昭和16年に刊行されてゐます。今回「耳付き詩集」と共にわが書棚で「揃ひ踏み」を果たしましたが、ネット上ではカバー付き刊本であることが却って祟ってをり、やっぱり稀覯本らしくもなく複数冊が稀覯本価格でヒットします。

 かうした稀覯詩集をめぐる状況・・・ことの序でですから、年末に催された大学図書館研修会で広報担当者が宣伝してゐたことを繰り返しますが、今年は国立国会図書館「近代デジタルライブラリー(ネット上の公開資料)」の進捗状況に目が離せません。「現在は主に大正期と昭和前期刊行図書の拡充を行っております。」とのことですが、デジタル化のネックとなってゐるのは主に「序文跋文の執筆者に関する著作権」といふことです。これについてどうチェックが進んでゆくのか、そんなもの削ってでも所謂「幻の稀覯本」と呼ばれてきた本は先行ネット公開して欲しいところですが、「提供された情報により収録可能」ともなるやうですから、或は私達が著作権に関する情報を積極的に寄せ、本来著者の意思(遺志)を非営利に表明してゐる詩集分野でのデジタル化とデジタル公開をどんどん求めていったらいいのかもしれません。さすればテキスト封印を盾とした一部の古書価格は瓦解しませう。原質としての詩集の価値がネット公開によって(増すことはあれ)減ずることはなく、あらためて内容と装釘に即した価格が付け直されて、書物愛好者の間に行はれることになる筈です。また漢詩集の場合はすでに「江戸期以前の和漢書約7万冊」が平成23年3月までにデジタル化が完了してしまふ予定らしく、こちらはいつネット公開が開始されるのか、(さきの近代ものについても、デジタル化=即ネット公開といふことではないらしいのですが)待ち遠しいところです。拙サイト上の公開コンテンツも、その有用性や進め方について今後再吟味が迫られることになるかもしれません。

 さて帰宅したら机上で待ってゐたのは、手皮小四郎様から送られた『菱』172号。追って御紹介したいと思ひます。

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527やす:2011/01/12(水) 09:54:01
『菱』172号「モダニズム詩人荘原照子 聞書」連載第13回
 手皮小四郎様より『菱』172号の御寄贈に与りました。出張から帰ってきましたら机の上の郵便に思はずにっこり、早速連載を拝読しました。

 最初に抄出されてゐる詩編「秋の視野」は、『春燕集』にも採られ『マルスの薔薇』の掉尾を飾る彼女の傑作、かうして示されるとあらためての美しさに打たれます。

わたしが小舎の扉をひらくと山羊たちは流れでる 水のやうに その白い影と呼吸を金いろの野原へひたすために……野よ 野は 木犀いろの穹にある わたしは空腹な家畜をともなひ枯笹の崖を撃ぢのぼつた……牧杖と 石と 微風 やがてわたしの視野は豁けたのだ 老いたneptuneが吹き鳴らす この青く涼しい秋の楽器のうへに……。
「椎の木」2年11号1934.11

 彼女が「四季」を意識してゐたといふのは、おそらく本当のことだったでせう。手皮様は椎の木社から当時『Ambarvalia』を刊行した西脇順三郎の「ギリシア的抒情詩」を揚げてその澄明を賞されましたが、私にはドイツロマン派の画家が好んで描きさうな沃野の景観が目に浮かびます。「木犀いろ」といふ語感が不明ですが、手皮様も伝記を書くために採らざるを得なかった詩の解釈法が、ここに至って行き詰まりを来たしつつあることに「たぶんぼくは読み方を違えているのだろう。」と行を変へて態々ことはられ、詩編によって詩人の実人生を検証しようとすることの危うさを語ってをられます。「読み方を違えている」のでなく「分かってない」派の私ですが、モダニズムに端を発する現代詩の難解さについては、毎々書いてきたやうに読者がそれぞれの感受性で、拡散したイメージから納得できるところを採る、私なら抒情表現に於ける自由な感受性を採る、それでよいと高を括ってゐます。が、それでは伝記資料は確保できませんからね。

 今回の連載では、荘原照子がその危ぶまれる健康状態とは裏腹に、旬の詩人として余裕を示すところの所謂「格下地方詩誌」への寄稿について一考察を加へらてゐます。つまり彼女が「生前何も言わなかった」業績に対して、敢へてスポットを当てることでみえてくる、当時の詩人の気張らない佇ひ。「聞き書き」されなかったところに意味を掘り起こす手皮様の十全な配慮が、今回も雑誌探索の努力とともに伝はってくる回でした。
 昭和初年の同人誌乱立時代、その内容を充実させるために中央の大家や意中の新進詩人に対してアプローチを試みるケースはよくみられたのですが、金沢で出されてゐたこの「女人詩」といふ雑誌もそんな、採算を度外視した好事家経営の一冊だったのでありませう。殊に特筆に値するのは主宰者が地方の女性であったこと。深尾須磨子のやうに単身起って出るといふ捨て身の覚悟でなくとも、好きな詩を書きながら自らパトロンとなり、無聊を喞つ有能な後輩に対してサロンを提供する喜びを感ずる…その昔なら田舎の御隠居が漢詩人をもてなしたやうな活動が、昭和の当節そのモダンな女性版として印刷文化上で実現されてゐたといふ事は、やはりエポックでありませう。もちろん主宰者であった方等みゆきに、深尾須磨子と同じく素封家未亡人としての遺産があり功名心もあり、逆に須磨子にはなかった土地の縛りや編集雑務にいそしむ閑暇があったからなので、荘原照子はそんな主宰者の事情をさぐり、心情を慮るやうに、最初は「モダニズムに変身する前の詩」を故意に送ったのかもしれません。もし彼女に「地方誌だから旧詩再録でも構はぬだらう」といふ気持があったとしたら、主宰者の詩集刊行記念号でのお初のお目見えに於いて「荘原の目指す純粋詩の対極に位置するような情念表出の方等の詩」を「口を極めて褒めちぎる」その後ろできまり悪さうに頭を掻いてゐる彼女には、確かに別の意味で「年長者」を、手皮様を「唖然」とさせただけの“したたかさ”を感じます。しかし方等みゆきが「詩の家」に参加した理由はアンデパンダンだったからではなかったのでせう。だからこそ、きっと手紙で感想を送られた詩人も斯様な遠慮・遠謀が不要であることを悟り、以後モダニズムの詩を送り始めたんだと思ひます。なぜなら彼女はモダニズムへの転身を遂げた自分の姿を「この頃の貧しい姿」だなんて謙遜する気持などさらさらなかった筈だし、つまり「アレルギー反応」を見せたわけでなく、ただ主宰者と若い寄稿者との中間に位置する年齢であった彼女にして、新参者が加はる際になかなかの配慮と礼節とを示してみせた。「聞き書き」できなかった今回窺はれたのは、さういふ彼女の女性詩人らしい表情なんだらうと思ひます。
 その後の、詩にあらはれた聖痕と病痕についての考察を興味深く拝読しました。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

528やす:2011/01/20(木) 22:45:08
山田鼎石の墓
 昨年来、先哲の墓碣憑弔を続けてをりますが、本日は岐阜詩壇の嚆矢ともいふべき鳳鳴詩社の盟主だった山田鼎石(1720−1800)の墓所を探しに、長良川畔の浄安寺を訪ねました。こんなに近くにあるのにどうして今まで来なかったのでせう。広くもない墓地の片隅、まさに無縁仏として片付けられんとしてゐる石柱群のなかに「山田鼎石墓」と彫られたささやかな一基をみつけたとき、感動に言葉がありませんでした。

 岐阜県図書館には、山田鼎石晩年の遺文『笠松紀行』のコピーが所蔵されてゐます。短い紀行文ですが、原本を書き写したのは郷土の漢詩人津田天游のやうです。大正七年(1918)、五十二歳の彼が同時にこの寺を訪ね、荒叢中に墓碑を見出し悵然としたことを序文に記してゐて、それを読んだ私は果たして今どうなってゐるのか一抹の不安とともに確かめたくなったのでした。詩人の長逝は寛政12年(1800)。没後一世紀の有様に目を覆った天游翁の嘆きを、さらに約百年の後、同じい荒叢中にふたたび見出し得たといふのは、しかし無常といふより、むしろよくもまあ残ってゐてくれたといふ気持の方が、実は深かったのでありました。

 星巌翁の伝記をともかくも読み終へたので、ふたたび岐阜の地に即した漢詩人の足取りなど、気儘に翻刻する楽しみを味はってみたく思ひます。手始めはこの『笠松紀行』から。塋域の写真などと共に追々upして参ります。よろしくお願ひを申上げます。

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529やす:2011/01/21(金) 05:57:32
『桃の会だより』三号
 折りしも山川京子様から『桃の会だより』三号をお送りいただきました。

 巻頭に掲げられた京子様のエッセイ「郡上の町」は、これまで何度も回想されたところの、嫁ぎ先郡上八幡での思ひ出を語ったものですが、わが師田中克己が語ったといふ靴下に穴のあいてゐた亡き夫の面影や、些細なチョコレートの容器のことなど、ほんの記憶のひとかけらから、まだまだ愛しむべき事柄を書き足すことのできる鮮やかな記憶には、瞠目すると同時に、また刻印された悲しみの深さにも思ひが至ります。文中、詩人に召集令状が届いたとき、父親が急遽上京「下宿に現れて開口一番<結婚は諦めよ>と言った」といふ聞書きの条りなど、それが舅の思ひやりであるだけに殊にも心打たれました。

 徳川三百年太平の世の只中に、地域の詩匠として長生を寿がれ、今は無縁仏として忘れ去られんとしてゐる漢詩人山田鼎石。一方、国運を賭して臨んだ世界大戦に若妻を残して戦死し、今は私設の記念館に祀られることとなった国学者詩人山川弘至。記念館の運営課題については仄聞するところもあり、胸中ともに無常にふたがる思ひです。

ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

530史恵:2011/01/25(火) 22:52:18
(無題)
突然の訪問失礼いたします。

私は北海道在住で、こちらのホームページを見つけて、管理人さんにお聞きできればと思い投稿させていただきました。


私の亡くなった祖父は荒谷七生といい、生前ぽつぽつと詩や郷土史研究をしていたようですが、私自身は祖父の本を見たことがありません。


唯一伯父(祖父からみると息子)が自費出版した方言集のみ、祖父の死後読みました。


詩を書いていたのは古い話しですし、それこそ自費出版ぐらいしかできなかったのかも知れませんが、ネットで祖父の名を探してみました。


それでこのホームページに祖父の名と作品集の文字を見つけた次第です。


この目録にあるものは入手可能なのでしょうか。それとも、どこかの蔵書になっているなら、直接そこに連絡を取ってみようかとも考えています。


祖父の長女は私の母で、ぜひ手に取ってみせてあげたいと思っています。


祖母も同時期に亡くなり、祖父の作品を知る機会もなく手元にはもうないので、ぜひ一度読んでみたいのです。



唐突で本当に申し訳ありません。何か情報がいただければと思い書きました。

531やす:2011/01/26(水) 00:00:13
レファレンスありがたうございます。
 はじめまして。レファレンスありがたうございます。
 本来メールで頂けるとよかったのですが、アドレスがわかりませんのでこの場で回答させて頂きます。

 拙サイトに情報を掲げてゐる阿祖父様の詩集『おのが軍書』『小さな教室』『雪國天女』は現在国会図書館に所蔵がございます。マイクロフィルム化されてゐるので東京まで出向いていっても現物は見せてもらへませんが、郵送でコピーをとることができます。
http://opac.ndl.go.jp/index.html (一般資料の検索/申込みボタン)

 個人で利用者登録するのが面倒な場合は、お近くの公共図書館経由で郵送して貰ったらよろしいでせう。料金は一枚35円+送料梱包料が掛ります。留意しなければならないのは著作権者継承者(伯父様)の承認があることをカウンターを通じてうまく伝へないと著作権法の制限によって、コピーは半分しかとれないといふことです。直接伯父様から依頼される形にするのがよいでせうが、くれぐれも注意して下さい。
 『小さな教室』と『雪國天女』は道立図書館にも所蔵があるやうですが、『雪國天女』はネット上の古書店(日本の古本屋 http://www.kosho.or.jp/public/book/detailsearch.do )に現在3冊在庫がありますから、値付け直されないうちに一番安い一冊を購入し、『小さな教室』は『おのが軍書』と一緒にコピーを申しこんだらよいのではないでせうか。
http://www.kosho.or.jp/public/book/detail.do?tourokubi=B3CFFCF1CC0FBAE3260EFB6E68DA8AF9D2CB0F60AA7D1CD3&amp;seq=1889&amp;sc=5CF60044E458CF87C036DA8DE735CD16

 以上、生もの情報を含みますので取り急ぎ回答申し上げます。幸運をお祈り申し上げます。
 ありがたうございました。

532史恵:2011/01/26(水) 19:32:17
(無題)
こんばんは。
情報ありがとうございます!


すぐにお返事いただき、大変感激しています。祖父死後13年、急に思い出したのは何故なのか自分でも不思議です。


自費出版をしてくれた伯父も4年前に亡くなっており、手に入ったらお仏壇の祖父母と伯父に報告したいなと思っています。


また進展ありましたら、管理人さんに報告させてくださいね。本当にありがとうございます。

533やす:2011/01/27(木) 12:10:12
(無題)
本の外装と奥付の画像などメール添付で送って頂けましたら「詩集目録」に掲げさせて頂きます。ことにも処女詩集は地方の私家版出版の珍しい本だと思ひます。
レファレンスありがたうございました。

534やす:2011/02/01(火) 10:13:29
「朔」170号
 圓子哲雄様より「朔」170号の御寄贈に与りました。まことにありがたうございました。
 堀多恵子氏・三浦哲郎氏の追悼文は、いづれも真情のこもったものながら、山崎剛太郎氏がこれまでの長い思ひ出から、己が師の未亡人に対する尊敬に慊らぬ懐かしさを綴られた一文、堀門下唯一の生き証人であることにあらためて感慨を深くするものです。
 それから私は作品をひとつも読んだことが無いのですが、圓子様が旧くは高校時代のクラスメートだった三浦哲郎氏に寄せられた回想は印象深く、ハンサム・利発・力持ちで人気者だった“華ある”三浦氏から、地味だが鉄棒の国体選手にも選ばれた圓子さんが内心「男」としてライバルと目されてゐたらしいエピソードや、そののち20年もしてから奇しくも両者共通の師であることが判った詩人村次郎氏を挟んで、当事者にしか窺ひ知れぬ曰く言ひ難き三者の心持と事情を語った条りは実に興味深く、殊にも文壇に出た三浦氏から、
「製作しても発表しない生き方だと言いながら、遠くから現代文壇を批評するのは間違えている。沈黙を守るべきだ。矛盾している。」
 と村氏へ言ひ放ったといふ指摘は、もはや「師」に対する物言ひといふより凌駕しつつある「先輩」に正対しての堂々たる批判には違ひなく、手痛い指弾を受けた師の反応を敢へて包み隠さず書き留められた圓子様の、弟子を自任し続けた生き方と並べて同時に感じ入ったことでした。
 他にも天野忠の詩業を概括した小笠原眞氏の評論、小山常子氏の回想を興味深く拝読しました。一体に抒情詩人といふものは最初の詩集で全てが決まってしまふものですけれど、壮年以降に一皮向けた花を咲かせる苦味の利いた詩人の系譜が示されることに、今日的な意義を感じます。

 ならびに今回は、圓子哲雄様の短編小説集『遠い音』の御寄贈にも与りました。小説を読みつけない私の語るところではございませんが、あらがじめ刊行を前提とのことなれば、遠い日のスーベニールの再録ではなく、戦争を題材にしてゐるのですし、もっと手を入れて、詩人の手になる後日の問題作・奇書とも名づくべき「一冊の本」として趣向をこらされたらといふ気も致しました。皆様の意見はどうでありませう。

 ここにても御礼を申し述べます。ありがたうございました。

535やす:2011/02/07(月) 23:15:05
新旧私家版稀覯本:『五つの言葉』と『秋水山人墨戯』
 長らくオークション上に晒されてゐた『五つの言葉』 (昭和10年刊)といふ本を、値引き交渉の持久戦(!)の末にたうとう半額以下で落札。かつて目録でも2、3度しかお目に掛ったことがない稀覯本で、国会図書館からとりよせたコピーを製本し、購入は諦めてゐた本でした。コギト同人で昭和8年に夭折した松浦悦郎氏の遺稿集なのですが、田中克己先生が編集・刊行者となってゐるにも拘らず、御自宅の本棚にはなかった本だっただけに感慨も一入です。墓参の御利益とひとり決めして、手製復刻版の方は寄贈もしくは何方かに差し上げませうか。とまれうれしい収穫報告まで。

 さういへば昨年一年間の「収穫報告」をしましたが、「なにか忘れちゃあゐませんか」と“森の石松”級のお宝本を見落としてゐたことに気がつきました。
古書店で購ひ、うっかり掲示板で触れるのを忘れてゐた槧本、その名も『南遊墨戯巻』。天保二年37歳だった地元美濃の山水画家、村瀬秋水が、大和の古刹に秘蔵するといふ「黄大癡の画」を観んがためにアポなしの直撃、盥回しにされた挙句むなしく帰ってきた時の紀行詩画集です。これに生前の頼山陽が評を入れ、忘れた頃の天保十四年に至って「あっけない後日談」も生じたので、先師からの書簡に篠崎小竹・雲華上人両先輩の跋を付して刊行することになったといふ、村瀬家の私家本であります。

 けだし、秋水翁が一幅の画を観るために骨折り、徒労に帰した労力にくらべ、200年後の私はとは云へば、(奇しくも『五つの言葉』も奈良県からの出品でしたが、)インターネット上であッといふ間の交渉成立、さうして今では村瀬秋水の紀行本こそ、御当地岐阜県図書館にも所蔵がない稀覯本へと変じ、更に拙い読み下しに辱められる有様…、泉下の秋水翁もさぞかし呆れ果ててをられませう、これまた不取敢のところをupしてございますので御覧ください。

536やす:2011/02/16(水) 20:49:17
文字化け
外部の方より、サイトのあちこちが文字化けで見られない旨、指摘を受けました。
詳しい人に尋ねましたところ、Windowsをアップデートした際に起きるらしく、私のWebページの作り方にも原因があるやうですが、次回のアップデートで「回復する予定」だといふことです。ご迷惑をおかけします。2011.02.22更新情報

537やす:2011/02/21(月) 23:27:46
田辺如亭宛神田柳溪書簡
出品者がそれと知らずに「村瀬藤城の手紙ではないか」と出してゐたオークション、寝過してうっかり入札の機会を逸しました。なんたる不覚、幸ひ画像は不完全ながら全文公開されてゐましたので、読めるものなら読んでみたい文献であります。

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538やす:2011/02/28(月) 12:34:39
Twitter
細かい更新記録はTwitterでつぶやくことにしました。
よろしくお願ひ申し上げます。

539二宮佳景:2011/03/09(水) 02:51:11
広告をお許しください
鼎書房より、4月上旬刊行の予定です。

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540やす:2011/03/13(日) 02:37:07
(無題)
二宮佳景様、広告ありがたうございます。
六草いちか様、舟山逸子様、御著ならびに雑誌をお送り頂きながら、昨日来のニュースの大きさに心奪はれ、手につきません。
八戸の圓子哲雄様ほか、被災地区の皆様の御無事を心よりお祈り申し上げます。

541やす:2011/03/25(金) 09:37:55
<<このたびの大震災について>>
 2万人を超える犠牲者はもとより、20兆円に上るとも謂はれる復興資金、原子力発電所の是非、全国の海岸線の防潮や避難所の移動、さらに根本的には「日本の田舎をどうするつもりなのか」「電力浪費社会を今後も続けてゆくつもりなのか」といった問題を、このたび起こった大震災は私達につきつけてゐます。

 「何でも忘れやすい日本人」ですが、世界を取り巻く現在の日本の政治・経済状況でこれらの問題に向き合へば、おそらく忘れたくとも逃れられないことがこのさき分かってくると思ひます。さうして歴史的な危機・転換点は、政治・経済の上だけでなく、文化においても現れてくるのではないでせうか。

 このたびは世を挙げての節電の呼び掛けも、電車や病院をまきこんだ計画停電を避けることができませんでした。原発の是非は措くにせよ、不要不急の電力を規制して停電を回避できないでゐるのは政治家の怠慢であり、その関係業界の利権に屈服の様は正しく「政権の内部被爆」と呼ぶべき醜態です。これを正直に伝へることのできないマスコミにも同様の「そら恐ろしさ」を感じてゐます。しかし突き詰めていけば「日本の田舎は再生されなくてはならない」「電力浪費社会から脱却しなければならない」といった、人としての生き方の問題である訳ですから、これを正してゆくことができるのは、やはりマスコミの一翼を担ふ芸術、文学の分野であるとも信じてをります。

 「自粛」ではなく「意識改革」。今後、震災をきっかけに、「お金があるなら何をやっても自由」といふ、戦後民主主義が担保してきた日本人の思考が、一人ひとりの自覚において根本的に改まることを切に望みます。

 被災者の皆様に慎んでお見舞ひを申し上げます。



 文学の掲示板ですが、今回の大震災は、詩文学に多大な影響を与へた「明治維新」「大東亜戦争」同様、日本の在り方を見つめ直す「国難」であるとの思ひから、サイトのスタンスを示させて頂きました。政治的なレスは不要です。

542やす:2011/04/04(月) 19:27:00
新刊『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』
 森鴎外の短編小説『舞姫』(1980初出)の題材については、若き日の文豪のベルリン留学中の恋愛に係り、ヒロイン「エリス」の実像が小説を地で行く噂話として度々取り沙汰され、諸説は紛々、1981年に発見された乗船名簿からたうとう「エリーゼ・ヴーゲルト」といふ本名までは明らかにされたのですが、その人物像については、鴎外の没後になってから、妹小金井喜美子による「人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けてゐる、哀れな女」であったといふ証言、また子どもたちからは、体裁を重んずる家族からの伝聞や、古傷をいたはるやうな父のさびしげな横顔が、思ひ出として報告されてゐるばかり。鴎外自身はこの顛末について一切を語らず、そして彼女からの手紙など一切を焼いて死んでしまったために、最も身近な関係者であった妹からの、最初にして止めを刺すやうな「烙印」が定説としてそのまま今日に至ってゐる、といった状態だったやうです。

 このたびの新刊『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』の意義は、もはや証言からは得られなくなった100年以上過去の外国人の人物像を、学術論文顔負けの実証資料により浮かび上がらせながら、同時にそれが退屈なものにならぬやう、現地の地理・文化史を織り交ぜたスリリングな「探索読み物」にまとめ得たところにある、といってよいでせう。綿密なフィールドワークと軽快なフットワークを可能とさせたのは、もちろん著者がベルリン在住のジャーナリストであったから、には違ひないのですが「今にも切れてしまいそうで、けれども時おり美しく銀色に光って見える」まるで蜘蛛の糸のやうな手掛かりに縋った探索行は、資料のしらみつぶしに読者を付き合はせるといふ感じは無く、まるで知恵の輪が偶然解かれるときのやうに、徒労に終ったどん詰まりの先「本当に諦めようとしたところで何かが見つかり、また先に続く」謎の扉の連続のやうなフィールドワークとして再体験されます。歴史に完全に埋もれやうとしてゐる一女性の正体に肉薄しようとする意味では、も少し豊富な材料があったらいづれ小さな一史伝と成り得たかもしれません。といふのも、これを彼女に書かしめたのは、学術的好奇心といったものではさらさらなく、晩年の鴎外が前時代の書誌学者に感じたと同様、自らの一寸した特殊な境涯が縁となって知ることを得た、時代を異とする市井の一人物へのそこはかとない人間的な共感の故であるからです。

 そもそも小説に描かれた内容を実人生に擬へ混同すること自体、非学術的といっていいでせう。しかしあのやうな人倫破綻の告白がどうして書かれるに至ったかといふ疑問には、出発したばかりの作家生命を賭した生活の真実が隠されてゐるに違ひない、さう直覚した著者によって、封印された悲劇の鎮魂が、記録を抹殺された女性の側から、資料の積み重ねによって図られることとなり──これが小金井喜美子と同じ日本人女性の手でなされやうとするところにも意味はあるのではないでせうか。学術的な論文ではなく、また空想がかった小説でもなく、世界都市ベルリンの世紀末からユダヤ人迫害に至るまでの文化史を、当地に実感される空気とともに織り交ぜて楽しむドキュメンタリーとして、普段の仕事と変りない視線から語られるレポートの手際は見事としか言ひやうがありません。ために、先行論文は虚心坦懐に吟味され、敬意が払はれ、また臆するところなく間違ひも指摘される。耳遠い文語体を口語体に直す配慮も親切の限り。さうして読み進んでゆくうち、読者は「鴎外の親戚でもエリーゼの知り合いでもない私(著者)が、ベルリン在住の地の利を活かして」行なった調査の結果、その「どれが欠けても、また、どの順序が違っても、発見に至ることはなかった」舞姫の秘密に、最後の最後、共に立ち会ふことになるのです。

 奇跡的な発見の結果は、著者に当時の日本の文学者や高足のだれひとりとして予想できなかった、ペンネーム「鴎外」やその子どもたちの名付けの謎解きにも、蓋然性ある推理で挑戦させます。またそんな奇跡にこの度はどこかで私も関ってゐるらしく(笑)、ぜひ皆さまにも読んで頂きたく、御寄贈の御礼かたがた茲に一筆広告申し述べます次第です。

 六草いちか様、本当にありがたうございました。御出版を心よりお慶び申し上げます。

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http://

543二宮佳景:2011/04/13(水) 02:48:25
淺野晃詩文集
遂に刊行されました! 装丁がなかなか素敵ですね。

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544やす:2011/04/14(木) 00:30:24
(無題)
承前

 また山川京子様よりは『桃の会だより』4号を拝受しました。冒頭このたびの大地震について、感懐が述べられてをります。
 礼状にも認めたのですが、私はこの度の震災における天皇陛下の新聞記事が、まるで普段の皇室ニュースのやうに小さかったことに少なからずショックを受けてゐます。新聞各社は、甚大な被害はあれ、この震災のことをやはり一災害としか認識していないのではないか、でなければ、かくまで軽く日本国の象徴を扱ふやうになったか、といふ慨嘆です。
 天皇陛下のビデオメッセージを唯一表紙に掲げた新聞がありましたが、後日の避難所御訪問の記事が、他社よりも小さく縮こまってをりました。すなはち第一面報道にクレームをつけた国民が少なからずゐたか、もしくは他紙を意識して社内で「自己批判」した結果でありませう。「国難」はすでに国民の意識の上で進行中の出来事であることなのかもしれません。

 さて「共産主義」と「大東亜戦時体制」といふ共同体参画運動の陣頭に立ち、20世紀最大の「国難」に立ち向かはんとするも悉く挫折し、自己反省と斃れた同志への鎮魂の思ひを詩に託し、長い戦後の余生を市井に隠れて送った評論家・詩人、浅野晃。その詩文集がたうとう刊行されたとのこと。二宮様、画像の御紹介をありがたうございます。

545やす:2011/04/14(木) 00:33:05
『菱』173号 『椎の木』の内部事情
 「モダニズム詩人 荘原照子 聞書」連載中の手皮小四郎様より、『菱』173号を御寄贈頂きました。ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

 稀覯詩誌『椎の木』については、昭和7年に再刊されモダニズム色に染められた「第3次」以降の復刻版がなく、閲覧したことも殆どないのですが、「山村酉之助VS乾直恵・高祖保」といふ、若手編集方に確執があったなど、斯様な内部事情が語られたものに接するのは初めてだっただけに、大いに昂奮しました。

「山村酉之助というギリシャ語もラテン語もできるブルジョワの息子が大阪に居て、これが第三次『椎の木』の編集者になった。費用の問題で・・・。ブルジョワだったから。それで百田さんの編集の助手みたいなことをしていた高祖(保)さんが、半分は面白くなくなって、まあ『苑』を自分がやり出したわけだな。
『椎の木』のアンソロジーに『苑』というのがあった。この『苑』を、私達(『椎の木』から出た者)に呉れて、椎の木社から出してくれた。百田さんは度量が広くて、偉い!」

「春山行夫あたりが行動主義を唱えだした。これに山村酉之助など『椎の木』の人たちが引っ張られていった。春山の人民戦線にだ。江間(章子)さんもそうだった。それに対して高祖さんが、詩の純粋性、純粋性と言い出して、ぼくたちは絶対に人民戦線に引っ張られないようにしようと言った。あの時は、すさまじかった。」

 『椎の木』から分裂してできた月刊『苑』や「春山行夫の人民戦線」など、手皮さんが訂正される通り、たしかに思ひ違ひがあるものの、これまで誰も残してこなかった当時の雑誌をめぐる「気分」について、問へば問ふだけどれだけでも口をついて出てきさうな彼女の証言が、実に貴重で興味深い、といふか「面白い」のです。これは偏へにインタビュアーとの信頼関係に拠るところが大きいのでせう。荘原照子はこの昭和10年当時、永瀬清子といふ、抒情詩人としてまた生活人としても中庸の王道を歩いてゐたライバルをネタに、自身の「極端に走りやすい」「分裂製の強度な」性格を自嘲気味に分析してみせるエッセイを書いてゐたらしいのですが、自分とは対極の詩人を引き合ひにして、ことさら「病苦・孤棲・貧困」の境涯を際立たせようとしてゐるのを、また手皮さんが見逃さない。「およそ自分の思い描く自己像ほど虚像に過ぎないものはない」とバッサリ。恣意に流れがちな老詩人の回想の裏に、身を飾る韜晦を嗅ぎ分け、同時に、またさうであるより他なかった事情をも察して代弁してをられます。後半の、漢詩からの影響をもとに展開される詩の分析でも、詩を生活の中に捕らへるのではなく、自身が詩と化す自虐的ナルシズムの夢想に囚われてゐる詩人の発想を指摘してをられますが、鋭いと思ひます。この漢詩からの影響についてですが、儒者の家系に育ったとは云へ、私は彼女がむしろその束縛から脱却せんとモダニズムに新機軸を啓いたとばかり思ってゐましたから、当時のエッセイにそこまで漢詩に寄せる親愛を綴ってゐたことは初耳でした。詩の冒頭に杜甫の詩句が懸ってゐれば、モダニズム常套のお飾りにしか思ってゐなかったのでありました。『椎の木』の現物に当たってみたいところですね。

 かうして今回の連載では、聞き書きと雑誌現物との両面から、いよいよ詩人として全盛期を迎へる荘原照子をめぐる詩壇状況といったものについて考察されてゐるのですが、『椎の木』周辺のマイナーポエット達への伏線に注目です。今回私が気になったのは「ブルジョワの息子」山村酉之助。彼は大阪人なので、素封家の彼が主宰した『文章法』といふ『椎の木』衛星雑誌には、当時モダニズム手法で頭角を現してゐた同世代の田中克己も寄稿してゐます。(といふか御祝儀の意味でせうが、創刊号(昭和9年2月)には乾直恵も高祖保も書いてゐるんですよね。) そして、その縁もあってか、山村酉之助は暫くの間、集中的に「コギト」に詩を寄せるやうになります。手皮さんが解説された彼らの「行動主義(能動主義)」が、本場フランス仕立てのものとならなかったのは、左翼潰滅後で時が遅すぎたことがあったでせうが、スノビッシュな詩風と共同体参画への意志にどれだけの必然性といふか、実存的な拠り所があったのか、一寸みえないところもある。発表誌の強烈な個性に引きずられ、また離れて行ったのではないか、そんな風にも考へたりしました。同様に「草食男子」だった立原道造が、血気を奮って日本浪曼派に親炙し、離れててゆくのも、けだし当時の若者を駆りたててゐた一般の心情・気分だったのでありませう。荘原照子が山村酉之助のことをボンボン呼ばはりするのは、詩そのものに対する評価とともに、詩友高柳奈美がのちに乾直恵の奥さんになったこと、そして「コギト」への寄稿が「日本浪曼派の一味」とも観ぜられて、すこぶる印象がよくないからでありませう。

 次号はいよいよ『マルスの薔薇』について言及されます。さきの掲示板で触れたやうに、詩誌『マダムブランシュ』における匿名子の激辛批評が、秋朱之介の筆になるものであるかのやうな記述が、同誌面の自己弁明記事にみられるのですが、『マルスの薔薇』を編集した稀代の装釘家、秋朱之介に関する彼女の回想は如何なるものなのでありませう。そして彼女が強烈に意識してゐたといふライバル江間章子も、一旦は北園克衛に兄事するものの離れてゆくのですが、北園克衛の一派についても尋ねてをれば、先日の「四季」に対するのと同様、きっと興味深いモダニズム当事者による印象・感想が聞かれたことでせう。楽しみです。

546やす:2011/04/16(土) 01:03:08
『淺野晃詩文集』 【第一報】
 今晩『淺野晃詩文集』を拝掌。刊行経緯を知って吃驚、お慶びとお見舞ひと交々お伝へ申すべくも、まずは巻頭写真16p本文703pといふ浩瀚な陣容、限定300部で6300円(税込)といふ破格の赤字出版について、その完成を緊急報知いたします。
 『淺野晃全詩集』をお持ちの方はもとより、日本浪曼派の研究者・愛読者は急ぎお求めください。感想紹介は追って上したいと存じます。
 中村一仁様、長らくの編集お疲れ様でした。被災の後始末に忙殺の最中、貴重な一冊を私にまでお恵み頂き感謝に堪へません。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

『淺野晃詩文集』2011.3.30鼎書房刊 6300円(税込) ISBN:9784907846794

547やす:2011/04/27(水) 00:12:45
山下肇 / 『木版彫刻師 伊上凡骨』
 池内規行様より「北方人」第15号の御恵投に与りました。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

 池内様が私淑される山岸外史。その周辺人物として今回回顧されるのは、戦後東大教授となった山下肇氏です。池内様の訪問記や「外史忌」におけるスピーチなど、良い感じで読んでゐたのですが、終盤に至り「わだつみ会」の内紛をめぐっての書きづらい事情を、是々非々として裁断し書き留められてゐたのには吃驚しました。いったいどういふ事情なのか、ネット上で関係記事を読むことを得、改竄された岩波文庫版『きけわだつみのこえ』を原姿に戻さうとした「わだつみ会」役員が、「事務局」によって排除されたといふ騒動の一件を知りました。その状況に立会ひながら、事情が「全部分かっているのに事務局には無力」といふ格好を装ひ、なほ理事長の座を墨守されたといふ山下氏の情けない俗物ぶりについては、池内様がこの一文を「知性と詩心と卑俗」といふタイトルにし、

太宰治に学んだはずの含羞の念はどこへ消えてしまったのだろう。人一倍知性に優れ、詩心に恵まれた先生の晩年に想いを致すとき、一種痛ましさを感じずにはいられない。

 と惜しみ嘆いて締め括られた通りです。前半で語られてゐる池内様とのやりとり、そのなかで明らかにされた高橋弥一氏との心温まる交流とは、如何にしてもつながりません。まことに「不思議であり残念でならない」ことですが、それが人間といふものなのでせうか。晩節を汚した人物に対する回想と評価の難しさを思ひ、また「東大名誉教授」や「岩波教養主義」の権威を後ろ楯に、戦没学徒の遺稿をイデオロギーの具に供せしめた「わだつみ会」事務局の変質にも憤りを感じました。
 山下氏が戦後山岸外史を訪ふことがなくなったのは、もちろん「君子危きに近寄らず」との打算が働いたからでありませう。しかし、それは「結婚式に呼ばなくてよかった」といふ酒席における無頼派らしい狼藉ぶりを恐れて、なんて次元の話ではなく、職場内での昇進にも影響を与へかねない「縁を切るべき日本浪曼派の人物」もしくは「戦後は反対に共産党に入党した、激しすぎる節操の持ち主」として敬遠されたのではなかったでせうか。
 若き日の山下氏のかけがへのない親友であり、ともに山岸外史に兄事して通ひつめたといふ今井喜久郎・小坂松彦両氏の戦死を、山岸外史の評価を訂正できる貴重な証言者を失ったと惜しまれる池内様のお気持ちは察するに余りあります。同時に彼らの痛ましい戦死については、『きけわだつみのこえ』の生みの親でもある山下氏御自身こそ、衷情は深刻なのに違ひない訳でありますから、「不正を見て見ぬふりをすること」こそ最も恥づべきナチズムの罪だったと反省するドイツの戦後と深く関ってきた筈の氏にして、この不甲斐なさは一転、一層のさびしさに思はれることです。やがて共産党からも破門されたサムライの先輩は「わだつみ会」の顛末を泉下からどのやうに眺めてゐたことでありませう・・・。


 あらためてここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。


 池内様よりは、合せて同人のお仲間である盛厚三様の新著『木版彫刻師 伊上凡骨』(2011徳島県立文学書道館刊)を同封お贈り頂きました。「いがみぼんこつ」・・・未知の人ながら一度聞いたら忘れられない名前は、また一度会ったら忘れられない人物でもあったやうです。洋装本の装丁に関はり、当時の芸術家たちから最も信任の厚かった木版職人であった彼は、明治気質の職人らしい、裏方としての気骨を「凡骨」と自任したものか、名付け親の与謝野寛夫妻や岸田劉生、吉川英治らと親交を深めながら、誰彼に愛される奇人ぶりを示したと伝へられてゐます。業績とともにエピソードも満載の一冊。重ねて御礼を申し上げます。巻末の「伊上凡骨版画一覧」リストから、家蔵本では『私は見た』といふ千家元麿の詩集がみつかりましたが、似た感じの装釘で、中川一政の処女詩集『見なれざる人』にも「彫刀 伊上凡骨」のクレジットがあるのをみつけました。写真印刷版が確立するまで、江戸和本文化の伝統が最後に燃焼した痕跡とでも謂ふべき「洋装本の木版表紙」の風合に、しげしげと眺めいってゐるところです。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000705.jpg

548やす:2011/05/12(木) 03:06:28
「おぼえ書き・西沢あさ子さんのこと」
? 岐阜の大牧冨士夫様より『遊民』3号御寄贈に与りました。左翼文芸史の回想を連載されてゐるのですが、今回は「おぼえ書き・西沢あさ子さんのこと」。未知の人ですが、詩人西澤隆二の元妻といふことで、佐多稲子への問ひ合はせの手紙を始め、新資料公開の意義は深からんことを思ひ御紹介します。

 福井県丸岡町一本田にある中野重治の生家跡は見学した事もあり、あらためて彼の友人に「ひろし・ぬやま」といふ風変りな名の詩人や、妹に中野鈴子といふ詩人があったことなど思ひ出しましたが、定職のない夫隆二を支へるために働きに出た銀座のバーで、ミイラ取りがミイラになったのか、生活が荒れてゆく同志である妻の様子を、見るに見かねたのでせう、彼らの師であった佐藤春夫が仲裁に乗り込んできたといふ一件。その後いくばくもなく短い夫婦生活は清算されたと云ひます。御存知のやうに「門弟三千人」を誇った佐藤春夫は日本浪漫派筋の弟子も多数擁する文壇の大御所で、離婚後の彼女はその許に通ったといふことですから、如何にも懐が深いといふべきか。むしろ佐多稲子の回想小説で、親しかった気持ちが「しゅんと音をたてて消える」と書かれたのも仕方なく、旧と同志だった誰彼が、彼女の存在を(西澤氏の再婚にも憚ってのことでせう)「なかったこと」にしたがってゐる事情など、イデオロギーによる政治闘争の裏側で、時代に翻弄され捨てられていった一女性の不幸が、聞き出せば聞き出すだけまざまざと浮き彫りにされてくるやうで、戦時中、同郷の中野鈴子に宛てた、詩のやうな彼女の手紙は痛ましい限りです。その一節。

 スズコサン、ワタシタチハ昔ノユメヲモッテイル。ソノユメカライロイロシカヘシヲウケ、コウシテイキテイル。ヒトクチニイヘバ、ワタシタチハウマレソコナツタノデハアルマイカ。ワタシタチハ、アマリクライクルシミニアヒ、ホントニアタマヲワルクシスギルトイフコトガアルノダ。

 これら故意にたどたどしい言葉に滲んでゐるのは、もはや「転向」と呼びたい程の挫折感でありませう。社会の理不尽を具さにクルシミ、ルサンチマンを掻き立て共に見た革命のユメ。しかし直面した現実からイロイロシカヘシヲウケ、ウマレソコナッタノデハアルマイカと、一種因業にも観ずる自責の念は、「正義」に盲ひた自分の姿を戯画化するに至ります。戦後、元夫の幸せさうな再婚を横目で睨みながら、同じく中野鈴子宛ての手紙より。

 私はふとってゐる、おまけに綿入れの重ね着ときている。山が歩いてゐるやうだ。田舎の町の角の店屋のガラス戸に映る大きな大きな女、おおそれは何と私であった!

 田舎の町の一本の本通り、本通りのつき当りは山脈だ。私はそこをのっしのっしと歩く、昨日はこの本通りに雪が降った。山脈がはげたお白粉程に雪を着た。

 私はその本通りを歩く、あなたへ手紙を出しに、その手紙にはる切手を買ひに。

 彼女が如何なる晩年を過ごしたものか分かりません。丁度『淺野晃詩文集』を読んでゐるところでしたから、私は淺野晃の最初の妻であった伊藤千代子のことを思はずには居られませんでした。彼の場合は反対に、思想の憑物が落ちたのが夫の方で、若妻は夫の変心を理解できぬまま、痛ましい錯乱のうちに肺炎で亡くなってゐます。前回掲示板でとりあげた「わだつみ会」と同様、挫折を知らず死んだ女性闘士の一途さを、小林多喜二のそれとならべて「反天皇制」の殉教者として祀り上げんとする政治活動が今も盛んだと聞きます。今回の大牧様はむしろ左翼の立場から、この「生没年不詳」の一女性のことを「忘れてはならない」人物として、文学史の闇から救はうとされてをり、探索動機にある温かな人間観が、私のやうな者が読んでも同感を覚える所以なんだらうと思はれました。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『遊民』3号 遊民社発行 \500? 連絡先:三島寛様rokumon@silver.plala.or.jp

549二宮佳景:2011/05/14(土) 13:05:11
伊藤千代子の栄光と悲惨
 夫である淺野晃の解党の主張に衝撃を受け、一時は統合失調の症例を呈し、最後は松沢病院で肺炎で亡くなった伊藤千代子。ネットで調べれば、ある特定の政党やその同調者同伴者が彼女を持ち上げているのが分かる。若くして死んだことは気の毒という他ないが、実は彼女は、とても幸福だったのではないか。
 まず、89歳の長寿を全うした淺野と異なり、長生きせずに済んだからだ。千代子があの三・一五事件の後も生きていたら、彼女に転向は無縁だったろうか。佐多稲子が戦争中、戦地に慰問に出かけたように、千代子も転向して国策に協力するような事態もあり得たのではないか。そう思うと、あの時死んで、千代子は幸せだったのだと思う。
 また、戦後の日本共産党の歴史を見ずに済んだのも幸福なことだったと思う。今でこそ徳田球一らの「所感派」は党史の上で分派ということになっているが、千代子は長生きしていたら「国際派」に属しただろうか。それとも「所感派」に属して北京からの指令に従って武装闘争路線の片棒をかついだであろうか。
 その後も共産党は多くの文学者や文化人を除名処分にしているが、千代子は例えば蔵原惟人のように、最後まで党に忠誠を誓っただろうか。獄中の千代子について証言を残した女活動家たちの何人かも、結局は党から切られる形になった。佐多稲子にもその思いを禁じえないが、死んだ千代子への追憶が誠実であればあるほど、「家」であったはずの共産党から除名された彼女たちの悲劇が一層痛ましく感じられてならない。
 小林多喜二や宮本百合子のように、どんな拙劣なものでも小説や評論を千代子が書き残していたら、それは「研究」の対象になりえただろう。しかし、夫の母親あてに書かれた書簡、あるいはそこに記された心情の美しさとやらを称えることが果たして「研究」と呼ぶに値するものなのかどうか。門脇松次郎や遠藤未満、紀藤義一や小池豊子、さらには楠野四夫といった淺野晃を直接知る、「苫小牧文化協会」の系譜に連なる人物が相次いで鬼籍に入る中で、伊藤千代子の名前を出したいがために淺野を語るような人物が大きな顔をし出すのは、時間の経過の中でやむを得ないのかもしれない。しかしその楠野さんが名誉会長を務めた苫小牧郷土文化研究会が刊行する『郷土の研究』第9号を見て瞠目せざるを得なかった。というのは、楠野さんの追悼特集を組んでいるのはいいが、御息女の口からあり得ない発言があったからだ。札幌の御息女に電話で確認したら、「父の個人的なおつきあいを私は知らない。それはインタビュアーの人が書き足したこと。申し訳ないことをしました」とのこと。やっぱり! 何より、あの伊藤千代子の書簡発見で一部の連中が盛り上がるのを、楠野さんが苦々しい思いで見つめていたのを、直接知っている。あの時、入谷寿一が編集した『苫小牧市民文芸』の千代子特集にも、楠野さんは沈黙を守った。あちこちの団体などから寄稿や証言を求められたものの、一切拒絶されたのだった。
 「伊藤千代子研究における歴史修正主義」になるか「『郷土の研究』における歴史修正主義」になるかは、まだ分からないが、そんなタイトルで文章を書いてみようと考えている。苫小牧市立中央図書館の、淺野晃に関する展示コーナーに千代子の肖像写真や書簡が陳列されるのも時間の問題だ。しかし、伊藤千代子は苫小牧と直接、何か関係があったのだろうか? 何もない。ただ地元の党員や活動家が騒いでいるだけの話で、公開された書簡が注目されたのも公開当初だけで、その後は他の資料同様、開示請求は激減したという。
 末筆ながら、中嶋さんのますますの御活躍と御健筆をお祈りいたします。

550やす:2011/05/15(日) 00:31:53
伊藤千代子について
 二宮様、あらためてはじめまして。雑誌『昧爽』での御文章をいつも拝見してをりました。伊藤千代子については、二宮様と全く同じ理由から、私は「とても幸福」ではなく、当たり前のことですがやはりとても不幸だったと思ってをります。さうでないと、淺野晃もまた転向などせずに死んでゐれば幸福だったなんて云ふ人が現れてこないとも限りませんから(笑)。

 「とても幸福」といふのは、むしろ千代子の悲劇を主義主張であげつらふ方々の、事情と思惑に於いて、さうなのでありませうが、とても残酷な幸福です。立原道造や中原中也も戦争を知らずに死んでいったから幸福だったといふ人がをります。彼らの親友ならばさう言ってもいい。反対に彼らを歴史的人物としてみることのできる人ならさう言ってもいい。しかし私の立場は、この世代の人たちとは、先師との縁を以て地続きにゐたい(まだぎりぎり許されるのではないか)といふ感覚で接してゐますので、さうは言へません。やっぱり「淺野晃の妻」ならば、生きて居れば必ず転向したと思ふし、死因が肺炎といふのは雨中に立ちつくしでもしたのでせうが、未だ夫の変心を理解できなかったとはいへ、「兄さん」を恨んで死んでいったとはどうしても思はれない。二人を引き離して考へるのは、死に別れた夫婦に対して失礼な話で、だからこそミネ夫人は『幻想詩集』に激怒したんだらうと思ってゐます。(二宮様が記述された後半部の詳しい事情は、『昧爽』14号の「淺野晃ノート番外編」における中村一仁様の収めやうのない怒りを御参照のほど)

 けだし若き日に生涯の傷となった唯一人の女性を心に刻んでゐる文学者は多いですね。森鴎外はもとより、川端康成、伊東静雄、三好達治…。伊藤千代子との関係については、日夏耿之介の死別した前妻と並び、文壇でもタブーに類することだったのでせうか、今回『淺野晃詩文集』に収録された未発表原稿「千代の死」には、多くの注目が集まるものと思はれますが、合せて「水野成夫のこと」に描かれてゐる、昭和3年3月15日に始まった一斉検束の様子なども、なるべく多くの人に読んでもらひたいと思ったことです。

 連休中は私事にかまけて何も書けませんでした。中村一仁様が『昧爽』に連載された「淺野晃ノート」に出てくる人達の名が、この本を読んだ後では親しみをもって理解できるやうになりました。公私ともに多事忙殺中ですがいづれ拙い書評を掲げたく、このたび思はぬ震災被害に遭はれた中村様へも何卒よろしくお伝へ頂けましたら嬉しく存じます。

 コメントありがたうございました。

551:2011/05/24(火) 03:09:04
伊藤千代子と浅野晃
 歌人の伊藤千代子と詩人で歌人の評論家である浅野晃夫婦のことが問題になったのは、浅野晃書簡の公開による。伊藤千代子が不幸だったとか、いや本当は幸せだったのではないかとか、憶測、類推の類が巷に蔓延しておりますが、あまり意味のない素人の感情論に過ぎませんね。
興味のあるのは、事実と真実の狭間です。
 共産党員として病死した千代子、共産党を離党して監獄から出た転びバテレンのごとき浅野晃。こうなれば、党員にとっては、千代子は聖女にしておきたい存在でしょうし、浅野晃は若い妻の千代子を見捨てた男という図式になるのは当然でしょう。浅野晃ゆかりの苫小牧近在の歌人らは浅野晃擁護に回っていたりと、事実や真実を超えてひそひそ、侃侃諤諤というのも、文壇スキャンダルめいていて悲しいことに見えるものです。
 ですが、形の上では、思想に殉じた千代子はジャンヌ・ダルクで、浅野晃は日和見主義者で若い妻を見捨てた事実には違いないことです。だからと言って、浅野晃が良いか悪いかは別のことですが。そこで2首。

 獄死せし伊藤千代子を見棄てたる浅野晃の佇ちし野に立つ
 したたかに生きよと励む歌人の絶えしは寂し窓外の雨
 

552二宮佳景:2011/05/24(火) 21:17:40
事実や真実(藁)
「歌人の伊藤千代子」。千代子の作品あるいは歌集をあげてみてください。
「浅野晃書簡の公開」。夫婦のことが問題になったのは千代子が浅野の母ミネに書き送った書簡が公開されたからでは?
「共産党を離党して」。浅野や水野成夫らは離党ではなく、田中清玄に除名されたのでは?
「若い妻を見捨てた」。見捨てたも何も、お互い獄中に居て助けようもなかったし、浅野は自身の思索の果てに、水野の解党の主張に同意したのだ。
「事実や真実」。これも見る側によって、大きく変わってきますね。ただし生前の伊藤千代子が苫小牧とは何も無関係だったことは事実です。
「浅野晃ゆかりの苫小牧近在の歌人は浅野擁護に回っていたり」。これは初耳ですな。檜葉某なる女流歌人が浅野の文化活動への協力は偽装だったなどとトンデモな主張を、自身の成田れん子論で展開しておりますが。これも様々な「事実」から自ずと否定される謬見です。
「素人の感情論」。ならば貴殿は「玄人」なのか? そして「玄人」になる資格や秘訣は何か? そして自身の主張は「感情論」ではないとでも?

 誤解を避けずにいえば、浅野晃の転向は正しかったし、死んだ最初の妻を「偲ぶ」という形で自身の詩作の題材に利用した姿勢はまさしく「牡の文学者」「強者の文学者」のそれであって、称賛に値する。『幻想詩集』は千代子がらみで論じられることがほとんどだが、浅野の詩作の流れの中では、浅野の宮澤賢治受容の到達点とみることができる。

553二宮佳景:2011/05/24(火) 21:27:17
お詫びと訂正
×浅野の母ミネ
○浅野の母ステ

「ミネ」は浅野の妻の名前でした。感情的になって筆がすべりました。お詫びして訂正いたします。

554やす:2011/05/24(火) 22:03:56
(無題)
人の一生はまことに割り切れないことばかりです。
割り切れないことを、知らずに死んだ方が幸せなのか、
その矛盾を背負い込んで、はからずも生き残った方が幸せなのか、仰言るやうに意味のないことではあります。
ただ幸・不幸を越えて、伊藤千代子より淺野晃の方が桁違ひに「重い人生」を送ったとは、云へるでせう。

思想の色眼鏡を掛けてゐる人は別にして、淺野晃を「千代子を見棄てた」と切って捨てて論じることのできる人は、
偉いものです。例へば思想なんて高級なことは抜きにしても、奥さんと死別したら、大切な思ひ出を胸に、一生独身を貫き通すことができる人でせう。
節を曲げない人生を送ることのできるひとは、勿論その方がいい。業が深い人生を、好んで選ぶ必要などないです。

ただ二宮様が仰言って下さったやうに「見捨てたも何も、お互い獄中に居て助けようもなかったし、浅野は自身の思索の果てに、水野の解党の主張に同意した」といふことだけは、おさへておかなくてはならないでせう。

淺野晃といふ文人の遍歴は、日本の近代史の業の深さをそのまま身に帯びてをり、(詩集の御返事しか頂いたことはないのですが)、私は尊敬に値する方であると思ってゐます。
同じく思想の色眼鏡を掛けてゐる人は別にして、今の日本で、彼のやうな生涯を送った先人を、切って捨てて論じることのできる人は、
情けないと思ひます。自分が与り知らぬ日本の過去について、自分達とは何の関係もない世界として清算したつもりでゐるんでせう。

『詩文集』の書評は書きかけのまま。出張から先ほど帰ってきました。申し訳ないです。
早くupしないといかんですね。根保孝栄石塚邦男さま、二宮様、コメントありがたうございました。

555二宮佳景:2011/05/24(火) 22:56:13
中嶋様へ
 こちらは感情的に書きこんでしまいましたが、中嶋さんは大人ですね。心に余裕があるというか。見習わないといけないと反省しております。
 このコメントも含めて、掲示板を汚すものと判断されたら、小生の書き込みはすべて削除してください。ただ、伊藤千代子について論じるなら、彼女がその若い命を捧げた党が、当時コミンテルンの支配下にあった事実や、当時のソ連でスターリンが何をして居たのかなども、当然視野に入れないといけないですね。千代子を持ち上げる人間からは、そのあたりのことは何も聞こえてきません。
 先日みずす書房から出た『スペイン内戦』(アントニー・ビーヴァー著)で、フランコらの反乱軍と対立した共和国側がソ連一辺倒で、スターリン式の残虐な粛清を導入していたことなどが明らかにされていました。王様の首をはねたことを称えるフランスかぶれや、レーニンやスターリンが大好きなソ連びいきが多い日本の知識人があまり書いてくれないことを、たくさん教えられた気がしました。国際旅団がどうの知識人の連帯がどうのは、もうたくさんですね。
 ソ連が消滅したこと、ベルリンの壁が崩壊したこと、中国共産党の本質が天安門事件やチベット弾圧で明白になつたことなどを、決して直視しようとしない人間が苫小牧にはいるのですよ。本当に驚くべきことです。もっとも、老い先短い人間に、今さらその青春や人生を否定するようなことを言うのは、いささか酷なことなのかも、という気持ちも少しだけあります。
 しかしそんな人間の主張に学ぶところは何もありません。「こうはなりたくない」というのは「学ぶ」ということではないですから。

556二宮佳景:2011/05/25(水) 00:51:13
またまたお詫びと訂正
×みずす書房
○みすず書房

掲示板汚し、何度も申し訳ありません。お詫びして訂正します。

557:2011/05/25(水) 04:49:27
伊藤千代子と浅野晃
 浅野晃が戦後、苫小牧市勇払に在住していたことがある。浅野は浪漫派の文芸評論家として有名で、また歌人・詩人としても一家をなした文化人ながら、戦前共産党に入党していたことから投獄され、獄中を体験したが、共産党の党籍を離れた事によって釈放された体験を持つ。
 戦後、そうした経歴から占領軍によって職を追われて山陽国策パルプゆかりの水野成夫の紹介で勇払工場の社宅に数年居住していたことから、北海道は浅野晃ゆかりの地となって、研究者に注目されている地である。私は、東京の学生時代、浅野晃の歌会の末席に二度ほど顔を出した事があって、彼の存在そのものに関心がある。現在、私は「北海道アララギ」の会員で、旭川の「ときわ短歌」の会員になっているのも、浅野晃の足跡を引き摺っていたゆえかもしれない。
 しかし、浅野晃の最初の妻伊藤千代子に関しては、千代子の哀れが際立って、浅野晃には何としても同情できないのである。それは浅野晃が悪いのではなく時代が悪かったゆえの悲劇なのだが、それにしても浅野晃の立場は、若い妻の千代子が思想の純潔を守ったのに対して、思想的に裏切った男という立場は拭い切れないように映るのである。時代の悲劇であるにしても、浅野晃の姿は、獄中の千代子の心中にどのように映っただろうかと思うとき、千代子への哀れの思いが際立ってくるのである。

558:2011/05/25(水) 05:41:47
再び浅野晃について
 浅野晃は、文学者としては怪物でしたね。その意味では興味深い人物です。思想的に言えば、左翼から右翼まで、時代の変化につれて変節した思想家でありました。私は浅野晃を擁護するつもりもないし、共産党を擁護するつもりもありません。
 ただ、人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味があるだけです。浅野の最初の妻伊藤千代子は歌人であり、その作品も数多く残ってますが、良い作品ですよ。師であり夫であった浅野晃を千代子は恨んでいた資料は残っていませんし、夫婦の間の感情は、さして私には興味がありません。ただ、伊藤千代子は、今や共産党にとっては戦士ジャンヌ・ダルクであることは確か。浅野晃は時代と共に巧く変節してきた日和見男であったことは、彼の足跡から明らかですが、それは、時代を生きたほとんどの人間と同程度のものであって、特別卑劣なことではないでしょう。
 浅野晃フアンには言いずらいことですが、私の見るところでは、彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかったということです。超一流という方も居ますし、三流だという方もいますが、私の見方はそういうものです。
 それにしても伊藤千代子は、若くして亡くなっただけに未熟な歌しか残ってないのですが、今や伝説の歌人となりましたね。むしろ伊藤千代子は、一般には、文学的実績をのこしている浅野晃よりも、悲劇の歌人として人気抜群に持ち上げられています。でも、悲劇は日本人に限らず庶民には好みのものですから、伊藤千代子は、小林多喜二同様、時代のヒロインとなる必要にして十分な条件を備えた女性像でしょう。24歳で亡くなった千代子、90歳を超えるまで生きて天寿をマットウし、文学史に残る業績を残した浅野晃の二人を比較するとき、同情の心が千代子に傾くのは致し方ないことでしょう。草葉の陰で浅野晃は苦笑いしてるでしょし、千代子は首をすくめてテレ笑いしてるでしょうね。

559やす:2011/05/25(水) 07:32:18
浅野晃について について
「文学者としては怪物でした」「彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかった」「時代と共に巧く変節してきた日和見男」

「怪物」…室生犀星とか佐藤春夫とかもよく言はれますね。戦後の糾弾にびくともしなかった「大きな人」のことを左翼がさう呼びますが、やめた方がいいです。
似てるからって勿論ぬらりひょんでもありませんし(笑)、決してぬらりくらりしてゐたのではない。
変節したのは思想であって人倫においてではない。生涯を通じて人づきあひに誠実であったから、共産党の暴力性をいちはやく戦前に見ぬけてしまった。ここ大事ですよ。
だから「日和見男」ではないんです。

さうして本領はもちろん戦後です。北海道での生活がなかったら、私も石塚様の言を肯ひませう。日和見男を多くの青年達が慕ひなどする訳がありません。
そこで詩人として再生し、一流ではなく超一流の詩篇を遺してゐます。
伊藤千代子どころの話でない。保田與重郎のお先棒といふ汚名も返上します(むしろ反対に教示した宮澤賢治を始めとする仏教観が、保田與重郎の後半生のゆかしい文人像に影響してゐるのではないでせうか。)

もっとも四季派好きな私の目からすると、かっちりまとめる職人的機微に通じてゐなかったので、推敲が必要だと思ふのですが、
さういふところも拘らない。やはり大きいといった方がいいかもしれません。

「人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味がある」

そこなのです。さう仰言るなら、まさに今回その視点で中村一仁様がまとめられた『詩文集』を是非、手にとって頂きたいと思ひます。

560やす:2011/05/25(水) 07:39:00
(無題)
二宮様
「自分の投稿の編集・削除」といふボタンを捺せば、投稿したブラウザで訂正ができます。(過去ログに収める際に訂正しておきます。)
よろしくお願ひを申し上げます。

561:2011/05/25(水) 20:10:04
浅野晃の虚像と実像
 浅野晃が晩年、北海道苫小牧市に数度きてますが、そのうち三度、新聞記者として彼に会って取材した体験が私にはあります。
 私が東京の学生時代、先生の歌会に二度ほど出たことがあります、と言いますと、浅野晃はじっと私の顔をのぞき見るように見ました。私は当時、深川の心行寺という浄土宗の寺に寄宿して神田御茶ノ水の大学に通ってました。その寺では幼稚園を経営してまして、そこの先生をしておられたO子さんが浅野先生の短歌の会の会員でした。浅野先生は僕のふるさと苫小牧市に数年居住していたことをO子さんに話しますと、歌会に出てみないかと誘われまして、それで、のこのこついて行ったというわけでした。昭和37年の春だったと思います。
 当時、小説、現代詩、評論をやっていた私でしたが、短歌、俳句にはさほど関心がなく、現代詩も神田の伝説の喫茶「らんぼう」に出入りする「荒地派」の詩人たちを信奉して、鮎川信夫とかの姿を見たいばかりに出入りして教えを請う立場だったで、読んではいましたが、浅野晃の詩作品には関心がありませんでした。
 それで、浅野晃の歌会には二度出席しただけでしたから、浅野晃と伊藤千代子のことは、当時知りませんでしたし、浅野晃の存在そのものにも、さほどの興味はありませんでした。
 しかし、浅野晃は、私の故郷の苫小牧市のお弟子さんたちが、神様のように慕っている存在であることは知ってましたので、そういう男かと短歌の世界の師弟関係の深い絆を感心して見ていたものです。
 私が新聞記者として浅野晃と再会したわけですが、そうした経緯から再会もさしたる感興をおぼえなかったものです。
 浅野晃とは十数年ぶりの再会でしたが、白髪の柔和で上品な80近い学者タイプのプのお年寄りで、初めて東京の歌会で会った印象とは違ったものでした。彼の詩は比較的好きですが、現代詩としては清明すぎて私には今も物足りなさを感じます。つまり、昭和50年代当時としても、すでに古い感性の作品という印象でありました。
 そんなわけで、浅野晃の教え子ではない私は、浅野晃に傾倒する詩人、歌人とは一線を分けている立場ですから、客観的に非情に語ることができるのでしょう。浅野晃信奉者には大変悪いのですが、以上のようなかかわりから、私は、浅野晃を突き放して見ることができるのですが。また、共産党員でもありませんので伊藤千代子を冷静に見ることができるのです。 

562二宮佳景:2011/05/25(水) 22:07:09
生きている本人を直接知っていること
 詩人を歴史上の人物として知っている、あるいは文献や関係者の証言のみでしか詩人を知ることができない私からすれば、直接詩人を見た根保氏はある意味でうらやましいが、ある意味で「その程度の経験か」と冷めた思いも禁じえない。
 ところで、伊藤千代子が「伝説の歌人」? たしかに女学校時代に短歌の一つくらい詠んでいるのかもしれないが、彼女が再評価されるような歌を残していたというのは、本当なのか? 土屋文明が千代子について詠んでいるのは知っているが。穂別の成田れん子の間違いではないのか?

563二宮佳景:2011/05/25(水) 22:25:48
やす様の指摘について
「もっとも四季派好きな私の目からすると、かっちりまとめる職人的機微に通じてゐなかったので、推敲が必要だと思ふのですが、さういふところも拘らない。やはり大きいといった方がいいかもしれません」

 これから浅野晃について語られる時は、こういう意見がどんどん出てもらいたいものです。
 このやす様の指摘、かなり重要です。勇払時代から最晩年の作品に至るまで、そういう印象はやはりぬぐいがたいです。おおらかと言えば聞こえはいいが、かなづかいの当否も含めて、詰めの甘さが残る。ただ、小高根二郎の詩誌『果樹園』に断片が発表された長篇詩「天と海」は、その推敲が功を奏した傑作です。詩誌に発表された一つひとつの断片も捨てがたいのですが、それらをあの七十二章にまとめあげた浅野の力量は、やはりたいしたものです。
 『幻想詩集』の冒頭を飾る「帰つてきた死者」も、『果樹園』に発表された時は舞台が駅のプラットフォームで、深夜の空港ではなかった。詩集収録にあたり大幅に加筆、改稿したことが歴然としています。ソ連による大韓航空機撃墜事件を題材にした「海馬島近海」などは、さらにもう一冊詩集が彼によってまとめられていたなら、どのような形で収録されたろうかと考えるのは、それこそ愛読者の妄想の類ですね。
 転向後の、特に戦後の浅野が批判した「ソ連」や「共産主義」は、セリーヌの「ユダヤ人」同様、字面そのものだけでとらえるべきではなく、人間存在の愚劣や残虐性の象徴でもあり、その告発の底辺にあったのは、彼のヒューマニズムではなかったかと最近は強くそう思っています。

564:2011/05/25(水) 23:32:36
伊藤千代子の短歌
 成田れん子の作品よりも、伊藤千代子の短歌の方が上等ですね。伊藤千代子の作品については、まともな研究がなされていず、これからのことです。
 伊藤千代子が浮上したのは、浅野晃研究の過程でのことですし、共産党の党籍のまま病死した悲劇がクローズアップしたことによるので、浅野晃研究が進まず、千代子ゆかりの諏訪市で大々的に宣伝されなければ、彼女は今も無名のままであったでしょう。
 一方、浅野晃は文学史的に足跡を残した文芸評論家でありますが、それ以上の存在ではないと、私は思います。短歌も平凡な作品ですし、詩の手法も現代詩ではなく近代詩水準のレベルに過ぎません。
 浅野晃の短歌、詩を好きな人は素人だけです。まともに短歌、詩を書いている者はだれひとり評価はしないでしょう。ですが、文芸評論の仕事は、文学史上評価されて良いと思いますよ。
 浅野晃について騒いでいる人たちは、仏教大学で彼の講義を受講した生徒か、短歌のお弟子さんだけでしょう。浅野晃の詩は、詩の本質を理解してない素人好みですから、人気があるだけのことです。
 しかし、文学についての指導者としては、浅野晃は卓越したもので、また容貌、雰囲気も女性を惑わす不思議な魅力のあった人物でしたから、その面からも怪物といわれるゆえんです。
 彼が怪物といわれたのは、いくどか文学者として死に体になりながら、不死鳥のごとく時代の最先端に踊り出たしたたかさによってです。つまり、彼の政治感覚めいた日和見主義が、リバイバルにつながるのですが、そういうところに長けた文学者と見るか、彼の人格のなせる業と見るかは、異論のあるところでしょう。
 一口に言えば、浅野晃は偉大な文壇の政治家であったということです。政治家であったが、政治屋でなかったのは、浅野晃信奉者には、せめてもの慰めでありましょう。浅野晃との関係を言えば、私も弟子の末席を汚す立場ですが、彼の数々の変節は、政治的なものよりも文壇での去就の有り方にあるのです。良く言えば柔軟な思慮を持った正直な男であったとも言えます。つまり「過ちを正すにはばかることなかれ」という思想で一貫しておりました。彼の怪物ぶりは、日本文壇史を詳細にたどれば、その姿が浮き彫りにされるでしょう。
 

565二宮佳景:2011/05/25(水) 23:41:31
お世話になりました
やす様

 お世話になりました。この掲示板からは姿を消します。
 一つ分かったのが、根保氏の経験や主張に学ぶことは少ないということです。
 後は、お任せします。重ねて、お世話になりました。今度改めて、お宅に手紙を出します。

566やす:2011/05/26(木) 02:46:08
(無題)
「短歌も平凡な作品ですし、詩の手法も現代詩ではなく近代詩水準のレベルに過ぎません。」

短歌のことは私も詳しくないので分からないのですが、詩の手法の水準とかレベルって何でせう。少なくとも詩の評価とは関係ないですよね。
そんな視点で抒情詩が評価できるかのやうに「平凡」と並列させたりすると、評価者のレベルの方が知れてしまひます。

むしろ私は、同人誌の高齢化が身を以て表現してゐる通り、すでに戦後現代詩の方こそ近代口語抒情詩よりも古臭くなっちゃったんぢゃないかと心配してゐる「素人好み」の人間です。
その原因は、進歩史観でもって戦前を切り捨て、安易に民主主義日本の歩みに詩の歩みを擬してきたからだと、
それゆゑ「古典への仲間入りができない」といふ決定的なツケを、今になって被ってゐるからだと考へてをります。

本当の文学は時代の流れに対する抵抗からしか生まれません。その流れに抗することが出来なかった時代、流れよりも過激に流れることで己の純粋を主張した日本浪曼派の人達は、
結局、敗戦に至って、そのツケを戦争遂行者とともに、追放といふ形で支払はなくてはなりませんでした。
しかし戦後現代詩の人達が、何の転向も表明しないまま、先輩から取り上げ掌握してきたジャーナリズム上で「素人好み」に受ける伝統詩にすりよった言説をし始め、
巧く変節し日和見し果(おお)せて死んでいったことについては、何のツケも払ってゐません。どころか、
今や日本のお年寄り全体が、戦前の教養や道徳を馬鹿にすることをジャーナリズムから徹底的に教へられた「元紅衛兵」のやうな人達世代の塊です。
彼らが私達世代を飛び越して、孫世代に一体何を伝へ得て死ぬるのか、コスモポリタニズムがグローバリズムの破綻によってなし崩しの無効になりつつある今日、気になって仕方がありません。

私は、近代口語抒情詩人たちの遺産を、謂はば祖父世代からの遺言のやうに受け継ぎ、祖述してゆきたいと考へてをります。
「現代詩としては清明すぎて私には今も物足りなさを感じます。つまり、昭和50年代当時としても、すでに古い感性の作品という印象でありました。」
この前半のお言葉は、まさに当時、自分の詩集が石塚様世代の前衛の先輩から賜った評言と同じなのです(笑)。
つまり、昭和60年代当時としても、新人のくせにすでに古い筈の感性で後ろから何刺して来たんだ、という印象だったのでありませうね。

明日は家の所用で代休をとったので夜更かししてゐます。明後日には(途中でもいいので)書評upしたいです。

二宮様、またいつでもコメント頂きたく、皆さまにも宜しく御鳳声下さいませ。

567:2011/05/26(木) 18:17:56
評価基準は
 「やす」さんは文語体文章をお書きになっていらっしゃるので、私ら世代より上かと思いましたら、下のようですね。旧かな使いの文章お書きになる若い方とは、短歌をやってらしゃるのでしょうか。それもアララギ系統でしょうか。意見は意見ですから、互いに真摯に耳傾けた上の議論をしましょう。感情的に相手を罵倒してはなりませんよ。教養の程度が知れます。
 私は、浅野晃を認めないのではありません。一流ですが、斎藤茂吉、小林秀雄、三好達治のように超一流ではないと言っているのです。私は浅野晃の弟子のひとりですから、師を悪くいうはずはありません。尊敬もしてますし、一流と思いますが、お世辞や身びいきはしません。ただ浅野晃は一流ですが、超一流ではないと客観的に実感していることを申したわけです。理由は概括前述の通りであります。でも、伊藤千代子が脚光を浴びているのを一番喜んでいるのは、草葉の陰の浅野晃だと思いますよ。浅野晃はそのような大らかな男でしたね。自分を誹謗する者に対して、にこやかに微笑んで、罪を憎んで人を憎まずの態度でしたからね。
 新聞記者の私は、生意気にも「あなたの詩はご自身で一流と思いますか」とズバリ尋ねたとき、彼は、「一流とはそんな生易しいものではないものです。あなたもそのくらいは認識なさっているでしょう」と、にこやかに静かに応えてました。彼が怪物と言われるゆえん躍如です。ですが、私はその程度では人を尊敬できない性格でして、今にいたってます。人を軽軽しく尊敬したり、軽蔑したりしてはいけないことを、数々の修羅場をくぐってきた浅野晃から学んだことの一つでした。

568やす:2011/05/26(木) 21:44:21
(無題)
石塚様
私こそ、突然の名乗りのない投稿でしたので、年長者に対して失礼の文言おゆるし下さい。言葉は思ひよりも強く伝はるので注意してゐますが、弟子を自任される石塚様の冷静な分析に、ジャーナリストとしての中立心からと分かってゐながら、案ずべき先輩世代の言として、幾分ムッとしてしまひましたので。
弟子ならば(ことにも末席と自任されるならなほさら)師を客観的に語ってはいけないと思ひます。師を馬鹿にされたら相手がたとい正鵠を突いたところを云ってきても、胸に畳んでいつか仕返しを期する位でなくてはいけないのです(笑)。「感情的に相手を罵倒してはなりません」なんて鷹揚なことではいけないと、私は思ひます。
それから二宮様が仰言った伊藤千代子の短歌のことですが、私も彼女の歌については寡聞にして存じません。同姓同名の歌人もゐるやうです。よい歌を遺したのなら「党」がほっとかないと思ひます。所謂「都市伝説」の類ひではないでせうか。
今後ともよろしく御贔屓下さいませ。仰言る意味はよく分かります。懇切なフォローコメントをありがたうございました。

569:2011/05/26(木) 22:38:19
浅野晃の虚像と実像2
 郷土文研の門脇松次郎さんとは若い頃から「居酒屋鍋万」で酒を酌み交わした先輩でしたし、成田れん子の遺作保存に力のあった紀藤義一さんは共に同人誌を出した仲ですし、楠野さんは私が新聞記者時代、図書館長でしたし、楠野さんの娘さんは、新聞社時代、私の部下でしたので、苫小牧の浅野晃関係者は、私とは極めて近い方ばかりです。しかし、浅野晃は一流だが超一流でないと思っておりました私は、浅野信奉者の輪の中には決して一度も入ったことはありませんでした。
 若い頃から「神様は造ってはならない」というのが、私の信念でしたから、浅野晃を神様のように祀って語る皆さんの立場を理解できない私であったのです。
 文芸評論を軸に学生時代から新聞に寄稿、書いていた私にとっては、浅野晃は一研究材料の文学者に過ぎないという認識しかありません。信奉しすぎたり、憎み過ぎたりすると、客観的視界が曇る怖れがあることを知っていたからでした。
 この場でも、主義主張にこだわった発言や、必要以上のアンチ共産党の発言など枝葉末節の議論が目立ち、ことの本質からずれた意見交換になっていることを危惧するものです。
 歌人で共産党の苫小牧市の市議であった畠山さんとも新聞記者の昔からの付き合いで良く知ってますが、彼はことさら共産党の立場で伊藤千代子を弁護しているわけではなく、一研究者として伊藤千代子の書簡を公けにすることに努力しただけのことですし、元北大演習林長の石城さんは、偶然諏訪市出身であるところから、伊藤千代子像をゆかりの諏訪市に建立することに尽力することになっただけの話で、概要の流れを検証すると、共産党がことさら伊藤千代子を持ち上げ、浅野晃を裏切り者としているわけでもないのです。
 新聞社で客観報道を心がけていた私にとっては、以上のような色合いで見て取れる浅野晃・伊藤千代子問題なのです。伊藤千代子が共産党にとってはジャンヌ・ダルクなのは、政治的視野から言えることですが、文学関係者の浅野研究には何の意味合いもない枝葉末節の週刊誌のスキャンダルめいたことで、問題にすべき事ではありません。
 浅野晃が楠野氏に秘密に託した書簡は、自分の死後、真実が明らかになることを望んでいたからで、浅野晃が伊藤千代子を愛しく思っていることを、家族に知れては問題になると先を読んでのことであったでしょう。そうでなければ、書簡は自分で償却処分していただろうと思います。 

570やす:2011/05/26(木) 23:36:23
(無題)
神様でなくとも師と呼ぶならば、弟子が「超一流でない」なんて自ら評するものではありません。

普段は私の枝葉末節のつぶやきしかなく、議論など起きもしない掲示板ですが、
ここは絶滅危惧種たる伝統的抒情詩の「特別保護地区」です。かつ、私みたいのが管理人を張ってゐますので、
中立的文言と雖も、時と場合によりお引き取り願はなくてはならぬこともあるかもしれません。
ひとの道に反して「政治的中立」なんて成心ある書込みだけはないことを祈ってをります。

571二宮佳景:2011/05/27(金) 00:28:20
駄文を読まされて、いらいらするわ
 やす様。宣言を破棄して、最後にこれだけ書きこむよ。
 根保氏の主張はよく分かった。しかし、根保氏の発言は本当につまらない。
それこそ枝葉末節の言説だ。本人は客観的であるつもりだろうが、すでに最初
の時点でバイアスがかかっている。「自分は浅野信者でも共産党でもない」と
いうコウモリの優越感が透けて見える。
 改めて、「本質」だの「真実」だのは、論者によって変わる多面的なもので
あることがよく分かった。それと、根保氏は共産党に甘すぎる。浅野晃の歩み
を眺めた時、彼が決別した日本共産党がその後どう歩んだのかを検証するのは、
必須の事柄だ。浅野とその生涯を見つめる時、彼が文学者というだけでなく、
歴史の証言者でもあったことを忘れることはできない。ロシア革命以降、ソ連
の(悪)影響を政治的にも文学的にも受け続けた日本の歴史を振り返った時、
浅野晃の文学と生涯はそれと対峙した果敢な事例なのだ。
 根保氏の自慢めいた、つまらない書き込みを読んで、改めて浅野や水野成夫
や南喜一、そして彼らの認識を変えさせた思想検事平田勲の偉大と先見性を強
く思う。
 それと、根保氏が「浅野の弟子」を自称しても、全く氏に尊敬の念など覚え
ない。なぜなら、弟子が師に持つ敬意や愛情のようなものが全くその発言から
感じられないからで、「弟子」という言葉や生前の詩人との(中身のないくだ
らない)会話を若輩者に見せびらかして、自分の意見に従え、自分を敬えと圧
力をかけているかのようで、読んでいて本当に不愉快だ。浅野の方は根保氏を
「弟子」と思っていたのだろうか。本当に疑問に思う。
 それなら、根保氏が軽蔑的に書いていた「仏教大学」(正しくは立正大学)の
教え子たちから浅野の思い出話を聞いた方がまだ為になる。
 門脇松次郎や紀藤義一、遠藤未満画伯や小池豊子から直接、浅野のことを聞き
たかった。つまらない生き残りのつまらない証言など、相手にするだけ時間の無
駄だ。本当にこれでおしまいにする。掲示板を汚して、本当にやす様、すみませ
んでした。

572:2011/05/27(金) 01:53:37
師と弟子
 文学の先輩や師とは宗教における教祖ではないです。弟子と言えども自分の意見は持つべしです。浅野晃先生とは言わずに、浅野晃と私が書くのは、彼の文学的足跡すべてを許容しているわけではないからです。浅野晃は、その点では自由主義者でした。そして平等主義者でした。自分の文学観に反する弟子も受け入れたおおらかな教育者でした。それが彼の魅力であり、また弱点でもあったでしょう。かれ自身、右翼から左翼、そしてまた、左翼から右翼へと変節しましたが、それは教条主義者ではなく、原理主義者ではなく、自由主義者であったからです。彼は純粋の学問的共産主義は89歳の亡くなるまで認めていましたが、一党独裁の政治的な変形共産主義には断固として反対しております。個人のの自由を認めた上での経済的、政治的共産主義を念頭にしていたのですが、当時の日本共産党はかれの理想に反したものに映っていたのでしょう。中国やソ連の一党独裁の共産主義には最後まで批判的でしたし、彼の平等主義、自由主義的体質では当然であったでしょう。日本の歴史的民族性に想いを寄せた彼が、日本民族の象徴としての天皇制を熱烈に容認して右翼と言われたのも、彼が日本人の資質を愛したからで、それは彼の古典への想いから醸成されたものであったでしょう。
 私は浅野晃という文学者を時代に翻弄された悲劇の文学者であったと思いますが、右左ブレた生涯は決して誉められたものではなく、もっと周囲を納得させる処世があったのではないかと思うだけで、偉大な一流文学者であったと思います。ただし、文学史的に見れば、超一流でなかったのは衆目の認めるところで、それを私も宜うということであります。
 日本人の多くは、議論に慣れていません。自説に固執して、異説を忌避する単純な原理主義者が多数を占めているのは悲しい事です。議論は新しい見方を獲得するための道筋であり方法であることの意味を、確認して謙虚に議論しようではありませんか。私の意見に反論があるなら、私を説得する論理を展開していただきたいと思います。
 物事は良いか悪いか、気に入るか気に入らないかで判断するのではなく、私たちは論議するとき、真摯に異説に耳を傾ける許容範囲の広い心を互いに持って論議をすることではないでしょうか。論議によって新しい視野を獲得できれば私は幸せです。この場でも大いに論議し勉強したいものです。
 私も自説を主張します。皆さんも自説を主張していただきたい。歩み寄れるところ、歩み寄れないところを検証して、浅野晃像を追究したいものです。

573やす:2011/05/27(金) 11:59:06
(無題)
お説は尤もの事ながら、この掲示板は自説を主張して議論する処といふより、同好の人たちが寄合するところなのです。さう管理人たる私が決めてをります。もしどうしても「淺野晃は私の師だが超一流じゃなかった」といふことを「弟子」として云ひたくて仕方が無いのでしたら、御自身のブログを立ち上げて開陳されては如何でせうか。

本当に石塚様が弟子ならば、ここは「よその家」なのですから、
「間違っているときにも味方すること。正しいときにはだれだって味方になってくれる。」といふマーク・トウェインの言葉や
「父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。」といふ論語の言葉を思ひ出して頂きたいものです。

石塚様はたしかに淺野晃を得難い先輩と仰ぐ後輩の一人かもしれませんが(私もさうです)、先師に対して限界を言ひ渡すやうな評に対して「ね、さうでせう?先生の限界ですよね。」なんて同じく本人を前に言ひ渡せるほど親しい間柄ではなかったのでしたら、いくら相手がおおらかな教育者であっても「弟子」を名乗るのは、やはり僭越ごとに感じます。

途中経過ながら書評(といふより思ふところ?)をBook Reviewにupします。
しばらくは手を入れて更新するかもしれません。よろしくお願ひ申し上げます。

574:2011/05/27(金) 15:44:46
浅野晃さんの著書
読んでみます。浅野研究のさらなる発展を期待します。以上、もうコメントすることはないでしょう。私は、「月刊文学街」で同人雑誌評を毎月担当してますので、機会がありましたら、浅野晃さんの関連にふれたいと思います。お騒がせしました。皆さまのご健筆お祈りいたします。

575二宮佳景:2011/06/04(土) 15:25:22
増子氏の書評
いい書評だと思う。

http://www.worldtimes.co.jp/syohyou/bk110522-3.html

576やす:2011/06/08(水) 20:00:12
大垣漢詩壇の機関誌
 『淺野晃詩文集』雑誌に載った書評なども載り次第、紹介したいですね。

 さて、久しぶりに古書目録からよい買ひ物をしました。
 小原鉄心の衣鉢を継ぎ、野村藤陰を擁して戸田葆逸(葆堂)が大垣で編集してゐた漢詩雑誌の合冊です。

『鷃笑新誌』 1集〜11集合本(明14年[9]月〜15年8月) 16.9×11.0cm 各号9-11丁 各号定価5銭 鷃笑社(大垣郭町1番地)刊行

鷃笑社 社長:野村煥(藤陰) / 編集長:戸田鼎耳(葆逸) / 印刷兼売捌:岡安慶介
各府県売捌所:大坂心斎橋南 松村久兵衛 / 大坂備後町 吉岡平助 / 西京寺町本能寺前 佐々木惣四郎(竹苞書楼) / 名古屋本町八町目 片野東四郎(東壁堂・永楽屋)/ 伊勢津 篠田伊十郎 / 江州大津 小川義平 / 岐阜米屋町 三浦源助(成美堂) / 岐阜大田町 春陽社

 「鷃笑:あんしょう」といふのは、荘子の故事で、鵬(おおとり)の気持など理解できぬ斥鷃(せきあん)といふ小鳥が笑ってる謂で、毎度儒学者の謙遜です。
 どこの図書館にも揃ひの所蔵はないやうですが、明治16年26号までが確認されてゐるやうです。該書は刊行元で余部を合冊したものでせうか、きれいな製本です。毎号巻頭を先師鉄心の詩文が飾り、招待寄稿者のほか、杉山千和、溪毛芥、江馬金粟ほかの面々。

 いづれ全文画像をupしますのでお楽しみに。

『鷃笑新誌』の引

故鉄心小原先生、往年吟壇に旗を竪(た)つ。嘗て一社を結び、号して「鷃笑」と曰く。
一時の文客靡然として之に従ふ。盛んなりと謂ふべし。既にして世故変遷し風流地を掃ふ。
先生また尋(つ)いで世を捐(す)つ。此より文苑零落し、また社盟を継ぐ者なし。あに嘆くに堪ふべけんや。
吾が社友、葆逸戸田詞兄は先生の侄孫、而して少時その社盟に預かる者なり。
一日、余に謂ひて曰く、
「方今、奎運(文運)旺盛にして文教大いに興る。吾が大垣の若(ごと)きは、嘗て文雅を以て著称せらるも、乃今、寥々として此の如きは、吾、常に此に於いて慨き有り。
因って一社を設け、以て故鉄心の蹤を継がんと欲す、如何。」と。
余、曰く、「善きかな。」是に於いて檄を移(とば)して同志を誘ふ。応ずる者は殆ど二十名。
乃ち相ひ約して曰く、
「毎月一会して、団欒、情を叙して酒を酌まん。酒、無量にして乱に及ばず、分韻、詩を賦すも、金谷の罰は設けず。ただ其れ適(ゆ)く所のみ」と。而して社名は旧に依って「鷃笑」と曰ふ。
是れ即ち旧盟を継ぐの意を表すなり。そもそも鉄心先生、俊傑英邁にして、身は藩国の老を以て補佐の重きに任ず。為に士民の瞻仰する所、退食の暇には鵬翼を枉げ鷃笑の社に入ると雖も、而して心は家国を忘る能はざるなり。
今、我輩、固(もと)より先生の一臂にも当たる能はず、まことに斥鷃たるのみ。鶯鳩たるのみ。いずくんぞ能く九万の雲程を望まんや。
然りと雖も詩酒に優遊し、風月に嘯傲し、自から閑適の楽しみ存するは、果たして如何なるかな。
一月に詩文若干を得、乃ち上梓して以て同志に頒たんと欲す。
同人、余に一言を徴す。因って此の言を挙げて引と為し、以て先生の一笑を地下に要(もと)めん。
                     藤陰野村煥識

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577やす:2011/07/02(土) 17:00:33
加藤千晴の絶筆 ほか
○ 加藤千晴詩集刊行会の齋藤智さまより『加藤千晴詩集』に漏れた最晩年の詩篇一編、挟み込む用に印刷された一葉をお贈り頂いた。池内規行氏が所蔵の雑誌より発見の由、刊行会への連絡で実に公刊後7年を経ての補遺となった。単なる拾遺詩篇でなく絶筆とみられることから特別に印刷・頒布に至ったものにて、茲に掲げる。




 静かなこころ   加藤千晴

?

静かなこころ

なやみかなしみも

底に沈んで

何も思わない

何も夢みない

ただ憧れる

ただ祈願する

この静かなこころ

?

生きる日の

なやみかなしみの

嵐のなかに

かくも静かなひととき

これは神のたまもの

時間空間のまんなかに

ひとり在る

この静かなこころ

?

ああ このひととき

生きている 生きている

ただ安らかに

ただ充ちたりて

静かなこころよ

われに在れ われに在れ

生きる日の

この神のたまもの

         (1949.12.20)

?

○ 梅雨の合間の一日、岐阜市立歴史博物館へ江戸後期岐阜詩壇の山田鼎石、金龍道人の墨蹟などを撮影に(市内円徳寺所蔵委託資料)。合せて館蔵の藤城、星巌ほかの掛軸もカメラに収めて帰る。成果の公開は順次追って【古典郷土詩の窓】にて。

○ 図書館のあつまり(6/28)で講師に招いた松岡正剛さんに名刺交換を強ふ。「千夜千冊」に『淺野晃詩文集』どうでせう、と喉元まで出て果たせず(悔)。

○  近況:職場人事ほか身辺くさぐさの変更の予感。古書的話題では、地元山県市大桑出身の武藤和夫第二詩集『高らかに祖國を歌はん』や、美濃国不破故関銘の拓本掛軸を入手。さらに長年の探求本の抽選結果など、目下何事に於いても息をつめて推移を見守る毎日です。

578やす:2011/07/16(土) 21:19:35
(無題)
○山川京子様より『桃の会だより』5号、手皮小四郎様より『菱』174号(今回は連載休筆)を御寄贈頂きました。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

○今月の『日本古書通信』984号に、地元岐阜市太郎丸の詩人、深尾贇之丞の遺稿詩集『天の鍵』についての紹介記事「犬も歩けば近代文学資料探索 19 曾根博義氏」あり。
 拙サイトも紹介に与りました。

○近況:「長年の探求本」『木葉童子詩経』(丸栄古書即売会)の抽選は外れ。代りに有料会員を辞めたオークションにて頭山満翁の共箱付掛軸を落札。
 翁の筆札は全くの自己流である由、吾もまた平仄無き悪詩をものして一粲を博さんと。

  頭山満翁少壮日   頭山満翁、少壮の日

 天与兼備知仁勇  天与の兼備「知・仁・勇」
 加之皆称以乱暴  しかのみならず皆称するに「乱暴」を以てす
 乱義逆転青雲日  「乱」の義は逆転す、青雲の日
 女傑善教人参畑  女傑善く教ふ、人参畑

○近況2:この3連休は今日月曜と仕事で潰れ、明日また家族の世話に費ゆべし。一句。

 ひとりごつ吾れをみつむる母と犬

579やす:2011/07/19(火) 23:38:05
『主人は留守、しかし・・・』
詩人小山正孝夫人である常子氏による新刊随筆集『主人は留守、しかし・・・』の御寄贈に与りました。
この一、二年、同人誌「朔」誌上において掲載されてきたものを中心に、このたび御家族の手で一冊にまとめられる事になったものです。
わが感想は、別に印刷に付せられる予定にて『只今執筆中、しかし・・・』 幸せな結婚について思ひを致すことが今の私には難しく(苦笑)、あらためて「愛の詩人」のアウトラインを描くべく、唸ってをります。
とりいそぎ刊行のお報せ一報まで。 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

随筆集『主人は留守、しかし・・・』  小山常子著 のんびる編集部 2011年7月刊? 180p ; 18.8cm, 1200円

 問合せは「感泣亭―詩人小山正孝の世界」サイトまで。

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580やす:2011/07/26(火) 23:17:53
『われら戦ふ : ナチスドイツ青年詩集』
 先日入手した武藤和夫の詩集、「ヒットラー・ ユーゲント歓迎の歌」を収めた『高らかに祖國を歌はん』に続いて、同じく地元詩人の雄、佐藤一英による訳詩集『われら戦ふ : ナチスドイツ青年詩集』の特装版を入手。珍しい文献なので早速画像をupしました。が、何でせう。何かしら考へろとの因縁ですかね。ノルウェーで信じられないやうな悲惨な右派テロが起きました。

 「多文化共生」といふ理念は、「よそ様」と「身内」とを峻別して、身内に厳しくあるところに本来意義があると思ふのですが(さう考へる処がすでに我が倫理的思考の限界ですが)、節度を抜きにかざされる「文化摩擦に耐える逞しさが必要」なんていふ強者の正義は、こんな犯人にとっては尚のこと、自国文化に同化しない「よそ者」に寛容すぎる売国的な偽善にしか映らなかったのでありませう。わが国ではそれが「自虐史観」と絡めてこれまで論じられてきましたし、隣国でもそんな摩擦は許し難い侵略と同義なのであるらしい。地球の中での「多文化共生」問題も解決できてゐないのに、一国内に「多文化共生」を積極的に抱へ込まうとするのは、いくら世界一成熟した民主主義国家とは云へ、コスモポリタリズムによせる過信はなかったかと、拙速を心配するところです。
 ナチス党の台頭と独裁も、けだし当時の最も民主的な憲法下で、ユダヤ人が目の敵にされ、多数決によって熱狂的に迎へられたことを考へると、今回のやうな典型的な右派テロも、あながち遠い時代のこと遠い国での出来事とばかり言ってはをられぬ気もします。


書影は『ナチス詩集』1941神保光太郎訳、『ナチスドイツ青年詩集』1942佐藤一英訳、『民族の花環』1943笹澤美明訳

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http://

581:2011/08/06(土) 07:48:21
お尋ね
(初投稿となります。この場でいいのかわからずに投稿しております)
お尋ねします。
掲載の「四季」目次にて昭和17年第65号にて「私はふと涙ぐんだ」伊東静雄となっておりますが、復刻版の該当号には伊東秋雄とあります。ほかの資料からも伊東静雄の作品として確認できませんでした。
(もう一件)
同じく「四季」目次で昭和11年6月第18号でリルケの「純白な幸福」を詩作品に分類されてます。同号「後記」にはリルケの短篇として紹介しております。
 以上二点についてお伺いいします。
当サイトいろいろと参考にさせていただいております。感謝!

582やす:2011/08/06(土) 10:58:58
御礼
目次リストの誤記の御指摘を忝く、早速週明けにも訂正したいと存じます。
また何かございましたら(多々あると思ひます)よろしくお願ひを申し上げます。
ありがたうございました。

583:2011/08/22(月) 08:51:32
字化け
(二度目の投稿)
今朝訪問いたしましたところ
字化けを起こしております。
よろしくお願いします。
(こんな指摘ばかりになり申し訳ありません)

584やす:2011/08/22(月) 12:48:28
文字化けの件
方々から指摘されます文字化けの件、御迷惑をお掛けして申し訳ございません。
私方にても、internet explorer の更新を行ふなかで文字化けが起こり、困ってをりましたが、また更新を行ってゐるうちに直りました。
使用のhtml作成アプリケーションで余分な記述が入るらしく、ホームページビルダーで保存しなおせば直る、といふものでもないらしい。技術に不如意でお恥ずかしく、お詫び申し上げるばかりです。
ブラウザが mozilla firefox だと起こらないやうです。
根本的な解決になりませんがよろしくお願ひ申し上げます。

585:2011/08/25(木) 00:22:49
(無題)
例えば http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/shiki/sikilist1942.htm だと、
html先頭のheadタグ内
「meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=UNIXJIS"」
と書かれている部分の「charset=UNIXJIS」というのはダメです。
このページの文字コードはJISのようなので「charset=iso-2022-jp」と書いてください。

しかし他のページを見るとShift_JISのページもあるようです。
その場合は「charset=Shift_JIS」です。

586やす:2011/08/25(木) 21:06:21
文字化け直りましたでせうか。
も様、御教示ありがたうございました。

587やす:2011/08/31(水) 17:31:56
残暑見舞
 大震災以来、憂きことばかり続きます。過激化する環境は自然ばかりでなく、原発災害および外圧に対する人的なミスリードにおいても私たちの生活を脅かしてをり、「国難」といふ言葉が少しずつ息苦しく実感されるところとなってきました。

 本八月晦日は田中克己先生の生誕百年。不肖の弟子にも多少の感慨あって然るべきところですが、目下、私生活においても意気消沈の最中、気の効いたことひとつ云へず、看書もままならず、朝夕の習ひとなった諷経に己が無力感を重ね合せてをります。

 残暑見舞ひ申し上げます。

588やす:2011/09/18(日) 22:33:41
淺野晃文学散歩
 先週、北海道に一泊。所用を終へた翌日、苫小牧市立図書館を訪ね、所蔵する淺野晃の資料群を拝見し、その足で勇払に建つ詩碑も見てきました。
資料群には淺野晃の著作ほか来簡集がファイルされてあり、時間さへ許せば一通一通ゆっくり拝見したかったところ。詩碑は、今は日本製紙工場入口の緑地内に、盟友南喜一の石碑と一緒に移されてゐました。

われらはみな
愛した
責務と
永訣の時を

 後ろに、建立当時存命だった全ての日本浪曼派関係者、発起人・賛同者の名を連ねたプレートが埋められてゐて、この北限の地で出遇った田中克己先生をはじめとする懐かしい名前の数々を、指に押さへて確かめる感触は格別でした。

 苫小牧市立図書館の大泉博嗣様、また周旋頂いた中村一仁様にここにても深謝申し上げます。ありがたうございました。

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589やす:2011/10/13(木) 18:34:04
杉山平一詩集『希望』
杉山平一先生より新刊詩集『希望』の御寄贈に与りました。刊行のお慶びと共に、ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

「季」誌上ですでに拝見し、見覚えある詩篇はなつかしく、ことに拙掲示板(2007年 7月18日)でも紹介した「わからない 100p」といふ詩の思ひ出が深かったのですが、今回まとめて拝見することで、あらたに「顔 14p」「ポケット 16p」「真相 22p」「反射 24p」「一軒家 26p」「天女 34p」「不合格 44p」「待つ 48p」「ぬくみ 67p」「処方 71p」「答え 88p」「うしろ髪 106p」「忘れもの 108p」などの名篇を記し得、これらを近什に有する杉山先生九十七年の詩業に対し、真に瞠目の念を禁じ得ぬところ。編集工房ノアの再びの詩集刊行のオファーも宜也哉と肯はれたことです。


「ポケット」      杉山平一

町のなかにポケット
たくさんある

建物の黒い影
横丁の路地裏

そこへ手を突込むと
手にふれてくる

なつかしいもの
忘れていたもの         16p



「天女」

その日 ぼんやり
広場を横切っていた

そのとき とつぜん
ドサッと女の子が落ちてきた
すべり台から

女の子は恥しそうに私を見上げ
微笑んでみせた

きょうは何かよいことが
ありそうだ         34p



「ぬくみ」

冷たい言葉を投げて
席を立った 男の
椅子に ぬくみがしがみついていた 67p



「わからない」

お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

お母さんは兄さんを叱りました
どうしてわからないの

お兄さんは妹につゝかゝりました
お前はバカだな

妹は犬の頭をなでゝ
よしよしといゝました

犬の名はジョンといゝます  100p


前にも申し上げたことかもしれませんが、「杉山詩」にみられる、裏側からの考察・逆転の発想。その基底に横たはってゐるのが、攻撃的なあてこすり(批判精神)でなく、防御姿勢をくずさぬヒューマニズムであること。――それがまた裏側からの考察・逆転の発想であり、且つ、手法は明快な機知を旨としつつ、その思惑はいつも明快ならざる人生の「何故」に鍾まる。――「杉山詩」に接する毎に心に残るのは、つつましさや諦念といった、ロマン派が去った後のビーダーマイヤー風の表情、微苦笑しながら決意する市井の一員のそれであります。それは戦争が始まる前から詩人の本然としてさうだった。さらにそんな「分かった風の評言」こそ詩人が警戒した褒め殺しであってみれば、詩編の最後には、ときに心憎いサゲの代りに個人的な意思が「強いつぶやき」として故意に付されてゐるのを看ることもある。――それが、機知に自らいい気にならぬため、新品をちょいと汚して用ゐる、詩人一流の「含羞」の為せる仕業ではないのか、さう勘ぐったりすることもありました。もちろんそんなところが、詩人杉山平一がモダニズムを発祥とする戦後現代詩詩人ではなく、恐竜の尻尾を隠し持つ「四季派」現役の最後の御一人者として、日本の抒情詩人の正統に位置づけられる所以なのだと私は信じてをり、史観を同じくする若い読者の一人でも増へてくれることを庶幾して、このホームページ上で四季・コギト派の顕彰を続けてゐる訳ですが、今回新著に冠せられた『希望』といふ表題詩編の、まるで震災に対する祈念であるかのやうないみじき結構も、そのまま抒情詩人たちの評価がくぐってきた長いトンネルの歴史のやうに私には思はれ、感慨ふかく拝読したのでした。


「希望」       杉山平一

夕ぐれはしずかに
おそってくるのに
不幸や悲しみの
事件は

列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇のなかに放り込んでしまうが
我慢していればいいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ

負けるな          12p

今回の詩集のあとがきには、ふしぎなことに「四季」のことも、師である三好達治のことも触れられてゐません。ただ布野謙爾といふ、戦争前夜に夭折したマイナーポエット、高校時代に仰いだ先輩を先行詩人としてただ一人、名指しして挙げられたのを、私は杉山平一を詩壇の耆宿としてしか認識してゐない今の詩人達に対する不意打ち的な自己紹介として、カバーを剥した時に現れる本冊の意匠とともに大変面白く感じ、彼が自分の処女作に先だちまず世に送り出したといふその遺稿詩集を読んでみたいといふ、ささやかな「希望」が起りました。これを著作権終了資料であることをよいことに誰でも読めるやう本文画像を公開させて頂きました。


「昨日「椎の木」が来た。左川ちか、江間章子の次の方へ載せられて、いささか恐縮した。すこし本格的に頑張らぬと恥しい。」(1934.6.5)

「朝、百田宗治氏より来信あり。主として“椎の木”経営についてのことであった。新しくアンデパンダン制にしたものの集まった作品のレベルが余りに低く、遂に十名位を編集委員とし、委員中心の純粋詩誌にするとのことであった。小生もその一員に推されたが、拠出金が余りにその額が大なので、これを何とか緩和して貰へないかといふやうな意味の便りを出した。」(1934.8.20)

「ボン書店より、レスプリ・ヌボウの同人になってくれと言ってきた。」(1934.8.30)
「春琴抄に対する保田與重郎氏の評論は面白く読んだ。」(1934.9.3)


詩も良いですが、こんな具合に「椎の木」に限らず、モダニズム・四季派・日本浪曼派など当年の抒情詩壇との接点が綴られる日記と書簡に興味津々、まだ途中ですが付箋をつけながら看入ってゐます。

それから杉山先生を奉戴する同人詩誌「季」95号も合せて拝受しました。矢野さん舟山さんなど長年の仲間のなかでも、杉本深由紀といふひとが杉山平一の真正の後継者として、二番煎じではなく歴史を捨象した女性ならではの感性を以て精進を積んでをられることは特筆に値します。散文で我を主張してゐるのをみたことがないのも奇特のことに感じてゐます。合せて御紹介。


「サヨナラ。」   杉本深由紀

やっと書いた サヨナラを
みつめていたら
目の中で 水中花のようにゆれた

そのうち
 ひらひら
  ひらひら

便箋から浮かび上がってきたので
息を止めて その下に書いた
ちいさな ちいさなマルひとつ

石みたいに 重たい             「季」95号 2011.9

ここにても御礼を重ねます。ありがたうございました。

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590やす:2011/10/14(金) 11:14:33
荘原照子聞書:秋朱之介、『マルスの薔薇』を編む
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』175号をお送り頂きました。早速披けば前号休載だった荘原照子の聞書き伝記の再開に抃舞――連載15回目にして、たうとう『マルスの薔薇』の刊行時(昭和11年)にたどりついたのです。?

彼女の処女作品集にして唯一の単行本『マルスの薔薇』は、前半に表題の中編小説を据え、後半に詩10篇を収めた詩文集で、稀覯本の多いモダニズム文献の中でも人気の高い一冊であります。表題作である“ろまん「マルスの薔薇」”が、フィクションといふより作者の伝記的事実をそのままなぞってゐるらしいことは、ために彼女の勘当が家族会議で諮られた事実からも窺はれ、手皮様も独自に裏付けをとりつつ、これまでも度々考証の手掛かりとして引用してこられました。謂はば印刷に付された「吐露エピソード」の宝庫なのですが、これが発表を前提に書かれたのは確かながら、どうやら進んで刊行された素性のものではない、刊行後に著作者をめぐって物議をかもした本なのです。今回はあらためて最初から筋道を追ってプロット全体の解説が試みられ、次いでその物議について考察が加へられてをります。


伝記的事実――子ども時代に強烈な印象を詩人に与へたと思しき、個々の出来事や登場人物の造形に妙なリアリティが感じられることは、初めての小説にして天稟煥発と云ってはそれまでですが、父親の酔態描写などなるほど勘当の発議もありなんと思はされます。ラブレターは実際に投函された写しが使はれたでのでせうが、客間に現れる山師の女怪に至っては「水色地に華麗な紅薔薇の花模様の着物、紫無地の羽織をつけ、深紅に近いゑび色の袴」といふ、さながら宮崎アニメに出くる魔法使ひといったいでたち(笑)、実際に見聞した人物であったのかどうか。露悪的といふより頽唐的な描写は、自身に関しても、素裸にされガラス箱に閉じ込められるといふ、嗜虐的なトラウマを白状(夢想?)してみせるのですが、これなど真偽の程はともかく、文学が不良青少年のたしなみだった当時、田舎の未婚の箱入り娘が初めて書いた小説で披露できる表現でないことだけは、確かでありませう。後生可畏と家族一同が息をのんだことは想像に難くありません。


手皮様は、この風変りな教養小説(?)の魅力が「数学的構成による姿態」といふ著者の抱負にではなく、あくまでも「小説の面目は、詩人の書いた小説であり、イメージの表出の鮮度にあった」ことを指摘し、伝記的事実が与へたリアリティであるとは語ってはをられません。しかしもうひとつの物議、この意匠抜群の一冊の編者であった、ロマン派気質たっぷりの出版仕掛人・秋朱之介に対して、著者が思ひ出を振り返るたびに激怒してゐた事実について語ります。一篇の作品が一冊の本に凝る時に、共有すべき責任が放擲された事。この本の、断りなく著者の与り知らぬところで刊行された「サプライズ」が、意図に反して全く逆効果に終った理由。つまり物議はむら気な編者による「校正の杜撰さ」に対して起ったのですが――それも取り返しのつかない誤植として、主人公タカナの恋人の年齢「廾五(25歳)」を一本棒を間違へて青年から「卅五(35歳)」のオジサンにしてしまった、その一事に極まったのだらう、と推察された条り、これはまことに炯眼と思ひました。若き日の失恋を弔ふべく心血を注いだ“ろまん”に対するこの上もない冒瀆。もっともこの「恋人25才説」は、本人に直接確かめることのなかった仮説ではありますが、しかし罵倒の歇むことのなかった詩人と永らく対峙された手皮様だからこそ、後年フィールドワークの結果くだし得た断案は「聞書きに残されなかった不可触の真実」のひとつではなかったのか。私もさう思はずにゐられないのです。醜聞の曝露など、そもそも発表されることを覚悟の上で書いた原稿であってみれば、それが勝手に刊行されたからといって何の怒る理由には当りませんから。


さらに私が思ったのは、「数学的構成による姿態」といふのも、緻密に筋を組み上げていったといふより、当時の自分の心情に忠実なところを、思ひ出と書簡を縦横に利用しながら、詩を書くやうに書き進めてゆくことで、モダニズム特有のコラージュ発想が散文にあっては奇しくも場面の切替りの妙として作用したのではなかったか、といふこと。いきなり書いた長い小説が、破綻を免れ詩的香気豊かな佳編に結実したのは、もしかしたら「詩人の自伝」に許された一回限りの僥倖・ビギナーズラックではなかったらうか、といふことでした。実際、かうした小説は以後も書かれたのでありませうか。これについてはやがて「著作目録」の後半とともに明らかにされませう。


とまれ意味不明の飛躍が当たり前のモダニズム詩文学に於いて、誤植の具体的な証言が本人より得られてゐるのは貴重であり、味読の上で見過ごせない「理性」→「野生」など、早速公開中の画像を訂正することにしました。いつか活字になることがあったら、定本は本文の方を「廿五歳」と記してあげてほしいところです。


舞台はこのさきモダニズム受難の時代に入ってゆきます。いづれ彼女の詩壇退場劇については、聞書きにより明らかになった顛末も描かれることになるのでせう。今わたしが一番たのしみにしてゐる連載なので、手皮様には貴重な当時のモダニズム詩人達との交友記録を、出来うる限り多く、長く綴って頂けたらとねがってをります。


御健筆をお祈りするとともにここにてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。


『菱』175号 2011.9.1詩誌「菱」の会発行 \500 問合先:0857-23-3486小寺様方

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591やす:2011/10/17(月) 12:37:51
『布野謙爾遺稿集』
 このお休みを、杉山平一先生の編集に係る『布野謙爾遺稿集』の、特に日記と手紙を抜き書きしながら読んでをりました。恰度、手皮小四郎様の前回の連載「モダニズム詩人荘原照子聞書(「菱」173号)」で、当時の「椎の木」に惹起した内紛と分裂について記されてゐるのですが、この遺稿集に収められた日記・書簡を読むと、当時の彼は荘原照子とは反対に、大阪に拠点が移った第四年次の「椎の木」に残り、編集を受け継いだ山村酉之助(荘原照子曰く「ギリシャ語もラテン語もできるブルジョワの息子」)の人柄についても信を寄せてゐたことがわかります。

□「いま大阪で私たちのやってる椎の木を編集してゐる山村さんといふひとに、よく便りをいただいてゐますが今年二十七才位のひとですが、なんだか人間的に私をひきつけるものがあります。このひととなら、のるか、そるかのところまで一緒に雑誌のことを手伝って行き度いといふ情熱を私に持たせます。まだ逢ってゐない人だけれど、ちかころこのひとがあることが、私にはひとつの慰みとなりました。大阪人には気まぐれは少いといふことを悟りました。このあたりか、ひとの好し悪しに関係なく大阪人の特性だと思ひます。お金持で教養のある人は(その教養は単にサロン的教養ではありません。ブルジョアの社会的意義を究明し尽くした教養)やはりプロレタリヤの教養のあるひとより精神的に美しいと思ひました。」(1935.6.18 草光まつの宛)

 しかしこのさき名跡「椎の木」と、あたらしく分かれ別冊誌の名を継いだ「苑」は、同じく季刊を継いで月刊となった「四季」のやうには長命を保つことができず、ある種共倒れの感を呈して廃刊に至ります。それはモダニズムの裾野が囲い込まれてゆく時代状況にあって、中途半端なモダニズムが新領土に淘汰凝縮されていったこと、そしてこの分裂劇以降「新進詩人の育成」について、自身のモダニズム転向を封印(?)してしまった宗匠の百田宗次が興味を失ひ、放擲してしまったといふ事情にあったもののやうです。
 「椎の木」の同人達、とりわけ布野謙爾と姻戚関係にあったと思しき景山節二については、なぜ先輩と袂を分かって「苑」の方へ参加したのか。生前の詩人と面識のあったといふ手皮様も、今回景山家に叔父がゐた事実には驚かれたとのこと。今後、言及が俟たれます。また私も高松章、宍道達といったマイナーポエトの詩集との出会ひを私かに喜んでゐたところ、こんなところでその名に出喰はすとは思ひませんでした。全集類における日記や書信、そして序・跋において明らかにされる交友関係といふのはとりわけ詩人に於いて頻繁で、興味の尽きないところです。さうして布野謙爾が杉山平一を通じて「四季」「日本浪曼派」などモダニズムから意味の回復への接近してゆく過程といふのは、謂はば結核にむしばまれた彼の衰弱過程に沿ってゐるやうです。

□「四季の会に 出かけた由、そんな雰囲気はどうにもうらやましくてなりません。詩を作る機縁なんて、つまるところこの雰囲気がなくては駄目だと思ってゐます。」(1936.7.20 杉山平一宛)

 健康さへ許せばおそらく内地での就学とともに、中央詩人達との通行、また発表の機会も拡がってゐたことでせう。ファッショを厭ひ、朝鮮の現状に心を痛め、杉山平一の詩に萌芽するヒューマニズムを賞してゐた彼にあって、「お金持で教養のある人はプロレタリヤの教養のあるひとより精神的に美しい」と観念した精神が、先鋭化に伴ふ手段としての詩に傾斜していったモダニズムに対して、どのやうな回答を実作において示し得ただらうか。さう残念に思はれてなりません。

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592やす:2011/10/17(月) 23:40:45
『桃の会だより』 / 『保田與重郎を知る』
 山川京子様より『桃の会だより』6号をお送り頂きました。ここにてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 例によって短歌に評など下せぬ自分ですが、文章はいつも楽しく拝見、今回は野田安平氏による棟方志功を語る短文あり、詩人山川弘至『国風の守護』と京子氏『愛恋譜』の二冊を「装釘がとりもった比翼」と表現されたのを、いみじき言葉に受けとめました。「志功装」といふだけで、著者間の教養にも何某かの共通理解が保証されたもののやうに感じてしまふのは、もちろん雄渾な筆さばきの為せる力技でせうが、画伯が『改版日本の橋』を代表とする日本浪曼派関連の印刷物の装釘を戦争中に一手に引き受けたことが、戦後は仇となり、版画家として「世界のムナカタ」に功成り名を遂げた後も、造本家としては色眼鏡でみられること多々あったに相違ないと推察します。尤も画伯自身が彼らとの交友を革めなかったことが、日本浪曼派の為にはきっと得がたい恩となり、また時を経た今となっては、再評価の成った保田與重郎とともに、節操の輝きをお互ひに永久のものにしようとしてゐる。これは有難いことであり、棟方志功と日本浪曼派といふのが、そもそもさうした連理の関係にあるやうです。
 四季派における深沢紅子と日本浪曼派における棟方志功は、伝統を現代のなかに活かさうと目論んだ昭和十年代の抒情を、本の型に凝らせることに成功した装釘家として双璧と呼ばれませう。著者においても彼等の装釘を戴くことが時代の勲章だったといふことを、野田さんの御文章からもあらためて感じました。
 またさういふ気圏の中で起きた詩人山川弘至と京子様との物語は、古代を現ずる一種の神話として語り継がれる運命にあり、郡上の山の奥に安置せられた「本尊」である詩人と、その「語り部」である京子様の、一対一に向き合はれた絶対の関係は、京子様の人徳と雑誌継続の意志により、今では野田氏を始めとする『桃』会員のみなさんとの関係に、うたの道としてひとしく受け継がれてゐる。――編集に当たられてゐる鷲野氏といひ、野田氏といひ、まことに心強いことに存じます。末尾に鷲野氏が抄出された石田圭介氏の代表作は、奥美濃の八月、蝉しぐれの中の静寂を写して実に愛誦に堪ふべきものと感じ入りました。

御歌碑をめぐりて咲けるおそなつの花うつくしく山深きいろ


 またこのたび『保田與重郎を知る』(前田英樹著 新学社2010.11)といふ、生誕百年を記念して昨年刊行された本のあることを知り早速註文、遅まきながら手にとったところです。冒頭まえがきでは――、これまで「文芸評論家」としてしか肩書がなかった保田與重郎について、日本古来の精神を「文章といふ肉体のなかに発光してくる取り換えのきかない意味」のなかで再体験すること、その大切さを一番に語り継がうとした「思想家」として、また歴史的にはその最後の祖述者となった「文人」としてみつめなほし「簡潔に素描」することが目的であると、述べられてゐます。生誕百年の感慨を新たにせずに居られません。「ですます」調だからといって何が入門書であるものでせう、ゆっくり本文を味読すべく(まだDVD観てない♪)、合せて茲に御報告まで申し上げます。

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593二宮佳景:2011/10/25(火) 01:37:03
『不二』九・十月合併号
 野乃宮紀子氏による書評「『淺野晃詩文集』に寄せて」を収録してをります。淺野と縁浅からぬ『不二』に書評が発表されたことに、深い感慨を覚えます。
 野乃宮氏は淺野晃の薫陶を受けた方で、芹沢光治良の研究家です。

594やす:2011/10/27(木) 22:21:31
(無題)
二宮様

 『不二』は昔の歌誌のやうに思ってゐましたが『桃』『風日』同様、現役雑誌なのですね。一番書いて頂きたい方の評言に、編者の中村さんも人心地ついたのではないでせうか。喜びも一入のことと拝察。読んでみたいです。


 また、圓子哲雄様より「朔」172号の御寄贈に与りました。地震の心労により刊行が遅延せられたことに自責の必要はございませんし、ただ震災が詩人達の胸に深く蔵され、滓が沈み、抒情詩として上澄みが掬ひ取れるやうになるまでには、今しばらく時間がかかるのでは。東北・東日本の同人が多く、皆様方からは今後、満を持しての投稿が寄せられることでありませう。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

595やす:2011/10/27(木) 22:46:56
『保田與重郎を知る』
 先日刊行を知って遅まきながらamazonに註文したうっかり者です。帯に「入門の決定版」と謳ってありますが、これまでいろんな評論家によって明らかにされてきた「隠遁詩人の系譜」や「米づくり」など、キーワードを態よくまとめて解説してゐる本ではありませんでした。誰しもなかなかうまく言葉にはできなかった読後感の正体を、易しく語ることは、「ですます」調の語り口とは次元のちがふ話で、そらすことなく得心ゆく説明をするのは決して「易しいこと」ではない――「入門の決定版」なのはその通りですが、初学者のための一冊といふより、核心を突いた一冊、否、私自身が初学者であることを思ひ知らされた一冊でありました。といふのも、このサイトでは嘗て、保田與重郎の文体と「自然」とが、人に及ぼす形而上的な感興を一にする不思議について、訳わからぬまま極めて稚拙な感想を上してゐたからです。

 出版元の創業精神を思へば、この本が所謂国文学の専門家ではなく、思想家と剣術家、謂はば文武両道をよくする教育家の手で、祖述者の姿勢に貫かれて書かれてゐることに、深い意義を感じたことでした。


「この人くらい、この名が完全に、異様に不似合いなところまで昇りつめた「文芸評論家」はいないでしょう。」4p


「すでにこの少年は、学校の勉強とはかけ離れた本格の教養を身につけてしまっていた。この読書法は、後の文芸評論家、保田與重郎の文学界における孤独というものを約束しているようにも思われます。」16p


「(柳宗悦や折口信夫)らの学問は、始めから政府や大学からのお墨付きをもらえる公の方法を注意深く拒むものでした。」22p


「たとえ、そこに暴言に近いものがあったにせよ、何もかもが覚悟の上、というふてぶてしさに文は溢れていました。」26p


「彼の文章は、主語、述語といった統語要素の首尾一貫した構成で成っているのではありません。言葉は言葉を粘りのある糸のように吐きだして、うねるようにその文脈を引き延ばし、変化させてゆきます。このような在り方は、古代日本人が、大陸から文字というものを移植して以来、長い訓練の歴史を通して作り上げていった和文の本質です。保田は、そうした和文の本質を、日本語による近代散文のなかにはっきり生み出そうとしているのでしょう。その文章のどこか捉えどころのない進み具合は、まさにここで保田が描き出そうとしている日本の橋と、またその機能と、たとえようもなく一致しているではありませんか。」36p


「(系譜の樹立)それは「樹立」であって、追跡や調査では決してありません。保田の文業がこの「系譜」を「樹立」するとは「系譜」の全体が、彼自身の文体によってまるごと再創造されることを意味し、また「系譜」の尖端にみずからの文業がはっきりと据えられることを意味するのです。」71p

 など、各所で繰り出される言葉が実に気持ちよく胸に落ち、また原発事故やTPP問題の前に刊行された本であるにも拘らず、抄出される文章には、つひ日本の行末を重ねてしまひ、粛然たる思ひを致さずには居られなかったです。


「(ガンジーの無抵抗主義は)日本の自由主義者のやうに、戦争は嫌ひだ、自衛権の一切は振るへない、しかし生活は近代生活を続けたいといった、甘い考へ方ではありません。その考へ方は非道徳的であって、決して無抵抗主義ではありません。(昭和25年『絶対平和論』)」142p


「我々は百年前、黒艦と大砲の脅迫下で、鎖国を守るべきだと主張した国論の真意を、今日、高く大きい声として、再び世界の人道に呼びかけるべきである。鎖国を主張した日本のその日の立場には一種の惰性的な安逸感を保持しようといふ消極退嬰のものをふくんでゐたかもしれない。今日はしからずして、人道の根拠として世界に叫ばねばならない。この思想を我々は国民の内的生命に於いて確認するからである。(昭和59年『日本史新論』)」147p



 さて付属のDVDですが、こちらは大和の風俗と米作りに絞って、思想の紹介に重きが置かれてをり、映像が美しかったです。人となりが窺はれるエピソードを、インタビューや(もしあれば)録音資料など雑へてもっと多く紹介し、人物伝としても充実させることができたら、このままテレビの深夜枠の特番ででも流してもらひたい感じです。実は初めての紹介映像といふことで、私はもっと手前味噌の出来栄えを予想してゐたのですが、帰農した菅原文太が東北人である自らを「まつろはぬ民」として一言くさびを差しつつ自嘲してみせるコメントがあったり、谷崎昭男氏、前田英樹氏のインタビューならびに特典映像での身余堂未カット映像集にはただもう興味津津、見入ってしまったことです。

 ひとこと宣伝まで。

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596やす:2011/11/05(土) 15:49:40
雑感
 大牧冨士夫様より『遊民』4号落掌。小野十三郎の思ひ出を興味深く拝読しました。戦後の一時期、わが師田中克己とは帝塚山学院で同僚だった時期がありますが、戦時下を凌いだ大物左翼詩人であり、戦後詩壇で反抒情気運を扇動する一世代上の彼と先生とは、おなじく同僚でも『大阪文学』と『四季』の同人であった杉山平一先生を年少の詩友にもつことで、直接の接触の機会をお互ひが避け合ったもののやうに、私は感じてゐます。少なくとも帝塚山時代のお話を伺ふたびにその名は出るものの、田中先生は憎しみも親愛も示しにはなりませんでした。

 その世代――近代の節目を飾った明治末年〜大正初年生まれの人達による精神的所産が、詩の分野に限らずおそらく日本の知識人が示した最後の高みであったらうことは、これから迎へる百年で、嫌といふほど私達子孫は思ひ知らされることになりませう。

 このたびの雑誌では、左翼陣営にある同人の方々の筆鋒が、定番の戦前軍国主義の批判から、下って此度の大震災、ことにも原発問題に向けられてをります。次代を担ふ孫たちの命を守る、そのために食生活を守る、当たり前の話ですが、しかしそれは同時に食をとりまく環境と文化を守ることでもあって、この危機に対しては、今や右も左もないのでは、と私などは思ひます。旧世代の左翼陣営にとっても、守らなくてはならない食生活のアイデンティティに、必ず日本文化の連続性がくっついてくるがどうする、といふ、今までの批判者一辺倒からの転身が迫られてゐるやうに感じるのです。

 たとへば「非国民」なんてのはまことに聞き捨てならぬレッテル言葉ですが、軍国主義を想起するより、もはや豊かさ(物欲)の奴隷になり下がってゐる私たちを打つ「警策の言葉」として、その語気を以て投げつけるに相応しい現実の数々に、いま正に私たちは直面してゐるのではないか――そんな気がしてなりません。はしなくも原発事故や口蹄疫・鳥インフルエンザによって明らかになったのは、これまで浪費文化が隠し続けてきた恥部なのであって、このたびのTPP問題をめぐっても、私はそんな視点から賛成派の人々が示す損得勘定を注視してゐます。さきのレビューに上した『保田與重郎を知る』で何度も語られてゐたのは、米作りを基本とする日本の国体でした。天皇制を解体するのにTPPは決定的な政策である筈ですが、生活防衛を盾に共産党が右派政党と同じく反対に回ってゐることに、私は勝概を禁じえないのです。同人のみなさんが地域の先達に仰ぐ一人には、杉浦明平がある由。彼が生涯を通じて憎悪した同時代文学者こそ保田與重郎でありました。両者の和解はないまま、憎悪も祈念も、ともに将来の記録文化事業のなかで懐旧されるだけの時代がやってくるかもしれない・・・そんな未来の日本への分岐点に立たされてゐるやうな、不穏な空気が社会にたちこめて参りました。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがとうございました。

597やす:2011/11/05(土) 15:52:07
近況
 前の投稿に対する政治的レスは不要です。

 また、10月20日に加藤千晴の『詩集宣告』の画像をupしましたが、30日の山形新聞朝刊にて、詩人の紹介記事(「やまがた再発見」高沢マキ氏)が大きく一面で掲載せられた由、酒田市の齋藤智様より現物とともにお知らせ頂きました。ありがたうございました。

 風邪が治らず、明日の杉山平一先生を囲む会には出られさうもありません。お知らせ頂きました矢野敏行様には、面目なく、残念でたまりません。

598二宮佳景:2011/11/05(土) 20:26:05
淺野晃についての番組
 先月、苫小牧ケーブルテレビで淺野晃についての番組(「刻の旅〜ANOHI」 苫小牧人物伝・浅野晃)が放映されました。このほど、それを収録したDVDを観る機会に恵まれました。20分の短い番組でしたが、生前の淺野晃を知る平井義氏(元国策パルプ工業勇払工場総務課長)の回想が番組に説得力をつけていました。水野成夫や南喜一の写真が出てくれば、もっと良かったと思いました。しかし、全体として、淺野について何も知らない視聴者には実にいい入門篇というべき放送内容で、制作者に敬意を払いたいと思った次第です。
 平井氏が取材に際して、『淺野晃詩文集』を手に姿を見せたのに、思わずニヤリとしてしまいました。また、館長や司書こそ姿を見せませんでしたが、苫小牧市立中央図書館の手厚いサポートを、番組から強く感じました。地域の図書館のあるべき姿を、改めて強く思ったことでした。

599やす:2011/11/06(日) 00:43:10
詩人の声
二宮さま

 淺野晃の番組、よい出来であった由、なによりです。しかし保田與重郎のDVDといひ、あってもよい筈の肉声や映像が出て来ないのも、謦咳に接し得なかった私達後学には歯痒く思はれるところです。かく云ふ私も、田中先生との対談を録音しておけば面白かったんですが、一度要請したら峻拒されました(笑)。今では小さなチップで何でも盗撮盗聴できてしまふ時代ですから、却って恐いですが。

 先日CDではじめて北原白秋や萩原朔太郎の肉声を聞きました(ここから試聴できます)。戦後の音源集はすでに知ってゐましたが(『昭和の巨星 肉声の記録 : 昭和35年ー39年の映像資料 ; 文学者編』)、まさか昭和初期に録音された詩人達の声がこんな高音質で残ってゐたなんて、初耳にして一体これまでどこにお蔵入りされてゐたものやら、懐かしさに絶句されたであらう、今はこの世に無い諸先輩方の生前に企画されるべき貴重な貴重な音源集でした。

『コロムビア創立100周年記念企画 文化を聴く 』

600やす:2011/11/08(火) 23:55:37
掘出しもの二題
 掘出しものが二つ到着。

 一つは苦労して掘り出したといふより、誰でも目につくやうな露天掘りの目録から逸早く注文できた僥倖に過ぎないが、なにしろ揃ひを断念した筈の『柳湾漁礁』の初集である。二集、三集と一冊づつ手に入れてきたが、ハイブロウな古書通にとって今や館柳湾は柏木如亭に次ぐ大人気の漢詩人。入れ本で揃ったこの嬉しさは、山本書店版の『立原道造全集』特製版のとき以来かもしれない(笑)。

 しかもやはり「掘り出しもの」には違ひないことが分かって、吃驚してゐる。といふのも、買った所や値段・汚れ具合から、初(うぶ)ものであるとは思ったが、奥付や見返し印刷がなく、おまけに巻頭にあるべき日野資愛卿の序文さへ無かったことである。普段、古本を買って落丁に遭へばガッカリ肩を落とすところだが、こと和本に限ってはさうとばかりは云へない。つまりこの本、市販される前に頒布された初刷版かもしれないのである。贔屓目で見れば二三集とはサイズ・色も違ふし、本文紙も厚い。因みに太平文庫復刻版に於る序文を記せば
1. 日野資愛、2.呉竹沙の絵・永根鉉、3.大窪詩仏、4.葛西因是、5.亀田鵬齋、6.北條霞亭、7.松崎慊堂、8. 菊池五山の順だが、この本では
1. 松崎慊堂、2. 北條霞亭、3. 菊池五山、4. 大窪詩仏、5. 葛西因是、6. 亀田鵬齋、7. 呉竹沙の絵・永根鉉となってゐる。序文の順序を製本時にしくじるのはよくあることだし、角裂れがないので入れ替への可能性も残るものの、一応参考までに記しおく。本文に異同はないやうである。

 もう一つの掘出しも漢詩で、こちらは掛軸。昨日ツィッターでつぶやいたが、わが所蔵する筆跡の最古記録を更新したことである。明和5年(1768)といふから今から250年前、尾藩督学だった岡田新川といふ儒者の書で、こちらへの注文は或ひは私だけだったかもしれない。当時32才、発足したばかりの名古屋の藩校明倫堂の公務忙殺の合間、近くに住みながら疎遠中の詩盟に向かって、菊でも眺めながら陶淵明みたいに新酒で一杯やろみゃーかと呼びかけた詩。今夏購入した晩年の詩集には収められてゐなかったが、その友人の名はあった。そこで序でのことながら夥しく現れる人名をタイトルごと抜き書きして添へてみた。なかには美濃の人もあるやうで、何かの覚えになればといふ魂胆。実は我ながらをかしいが、調べもので検索してゐると屡々自分のサイトにヒットして自らに教へを乞うてゐるやうな体たらくなのである。

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601やす:2011/12/04(日) 20:52:29
『和本のすすめ』岩波新書
 新書を読む人に気忙しい人が多いためか、冒頭早々「江戸観の変遷」「江戸に即した江戸理解を」といふ核心的結論が掲げられてゐるのですが、ここを読んで何も感じないやうなら、その後に続く文章はもとより、和本といふ気軽に手にすることのできる自国の文化遺産には無縁の人なのでせう。抑もそんな御仁はこんな名前の本を手にとる訳もないか(笑)。

 しかしながら、かつて岩波文庫に『伊東静雄詩集』が迎へ入れられた際、少なからず感動を覚えた者として、再び感慨に堪へないのは、近代進歩主義もしくは西洋教養主義に対する痛烈な反省を迫った本書の内容が、その牙城であった岩波新書自身の一冊として刊行されたことであります。何度も書かれてゐるのが享保の出版条例のことで、それが言論統制といふより出版上の営業権利を保障するものであったこと。江戸時代の封建制度における庶民の自由と権利が、為政者の成熟した倫理感のもとで十全に確保されてゐたことを、その後の出版隆盛に鑑み「事実として肯定」してゐる点ですが、ここに至って五度目の「江戸観の変遷」、すなはち五度目の自国文化に対する反省を迎へた日本の学芸界が、左傾した思想偏重主義から本当に脱却しつつあるのだな、といふ「事実としての肯定」を、私は岩波新書といふ象徴的な「物」に即してまざまざと見せつけられた観がしてなりませんでした。尤も岩波書店の販促誌「図書」に連載の文章ですから、新書にまとられたのは当然なんですが、本書に説かれてゐる「物」としての和本の大切さといふのも、今様に実感するなら、つまりさういふことなのであります。

 論旨たる「和本リテラシー」については前半三章に集中して説かれてゐます。分かり易く書かれた和本学概論としては、「誠心堂書店」主人橋口侯之介氏による『和本入門』(平凡社 2007, 2011平凡社ライブラリー)と双璧をなしませうが、研究者としての興味はやはりサブカルチャーに傾くもののやうで、漢詩好きとしては後半は流し読み。謹恪な行文は和文脈に親しい著者にして、気合や皮肉の入る処で長くなる様子が、管見では一寸三好達治の息遣ひに通ずる面白さがあるものに感じました。

 電車の中で、新書や文庫、たまに洋書のペーパーバックなんぞを披いてゐる人も見かけることはあるのですが、ついぞ和綴本の字面を追ってる人を見たことがありません。外出時に携帯したいのは、手にささへかねるやうな一冊の和本。そんな老人になるべく、最近は毎朝トイレで『集字墨場必携』の字面と睨めっこしてをります。

中野三敏著『和本のすすめ』2011.10 岩波新書 新赤版 1336 \903

602やす:2011/12/30(金) 21:55:06
「感泣亭秋報」第6号
 小山正見様より年刊雑誌「感泣亭秋報」第6号を拝受。手違ひあってクリスマスプレゼントとなりました。今年の「感泣亭秋報」は小山正孝夫人、常子氏の新刊エッセイ『主人は留守、しかし…』の出版記念号となってゐるのですが、夫妻の最大の理解者であった坂口昌明氏が9月に逝去。来春には竣工するといふ、物理的顕彰空間となる「スペース感泣亭(仮称)」の構想にも氏は大きく関ってゐた筈であり、今後の感泣亭運営に於けるこのスペース(空席)の喪失感は計り知れぬものがあります。ここにても御冥福をお祈り申し上げます。

 かくいふ私も今回原稿依頼を受けたのは、一度坂口さんからは忌憚ない御意見を賜りたかったから。この機に(書き手でもあった)自分の中の四季派理解について、なるべく分かり易く述べてみよう、と総括を試みたつもりでした。しかし批正を乞ふことも叶はずなり、また自分自身を見透かすやうな文章を書いてしまひ、今後「四季派とは何ぞや」なる設問に対して、なんだかこれ以上書くことがなくなってしまったやうな気もしてゐます。

 ただ雑誌の内容は、晦渋な恋愛詩を書き続けた詩人である夫について、みずみずしい感性で自ら思ひ当たる夫婦関係の節々を回顧した著者の文才に焦点が集まり、これに大いに掻きまはされた執筆陣が一様に踏みこんだ感想と考察をものしてゐます。「第2特集」――麥書房社主堀内達夫氏に関する文章とともに、年刊雑誌に相応しい充実した内容となったことはお慶び申し上げる次第。ネット上では話題に上ることの少ない個人研究誌ですが(サイト上でも未だ今号の紹介はされてゐませんね)、詩人と親和性ある気圏に対象を広げてゆきたいと抱負を語られた感泣亭アーカイヴズの主宰者、御子息正見氏の今後の舵取りは、坂口氏の後ろ盾を失ひ前途多難ではありませうが、雑誌「感泣亭秋報」が四季派研究家・愛好家の欠くべからざる必須文献として、この平成も20年代に入った現代、毎年刊行され続けてゐる意義といふのはまことに大きい。今回は刷り上がりを3冊頂いたうち2冊を差し上げてしまったので、拙文については許可を得て【四 季派の外縁を散歩する??第17回】にて公 開させて頂きました。
「感泣亭秋報 六」 2011.11.13 感泣亭アーカイヴズ発行 21cm, 68p  連絡先は感泣亭サイトまで。

【目次】

【詩】 誰が一番好きかと聞かれたら 小山正孝 2p

恋愛詩人が作る物語と現実――小山常子『主人は留守、しかし…』を読んで 國中 治 4p
正孝氏への「返歌」 里中智沙 12p
最良にして稀有の伴侶――小山常子著『主人は留守、しかし…』 高橋博夫 14p
詩人再考――小山常子氏の新刊に寄せて 中嶋康博 16p
常子夫人と小山正孝氏 大坂宏子 23p
小山常子様の出版を祝して 圓子哲雄 27p
坂口さんが発見した『津軽』――坂口昌明さんを悼む―― 竹森茂裕 30p
小山正孝の詩世界5『散ル木ノ葉』 近藤晴彦 32p

【感泣亭通信】??松木文子 瀧本寛子 高橋 修 永島靖戸 山田雅彦 絲 りつ 國中 治 石黒英一 神田重幸 相馬明文 佐藤 實 中嶋康博 西垣志げ子 荒井悌介 小栗 浩 西村啓治 馬場晴世 高木瑞穂 益子 昇 安利麻 愼 木村 和

【詩】テイク番号 森永かず子 50p
   あなたの羨望が 大坂宏子 52p
   明日 里中智沙 54p


立原道造を偲ぶ会と堀内達夫さん 益子 昇 56p
堀内達夫さんのこと 藤田晴央 58p
昭和二十年代の小山正孝2――小山−杉浦往復書簡から―― 若杉美智子 61p
小山正孝伝記への試み2――前回の修正と初恋の話―― 南雲政之 63p

感泣亭アーカイヴズ便り (編集部) 67p

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603やす:2011/12/31(土) 01:21:09
よいお年を。
 さきの投稿で、四季派について何だかこれ以上書くことがなくなってしまった、なんて記しましたが、これは詩集コレクション構築に対する執心が低下したからかもしれません。もちろんモチベーションの低減には理由があって、

1.探求書の最高峰であった宮澤賢治の詩集を、古書店の御厚意で手に入れたこと。
2.反対に、(資金・地の利はともかく)、私の了見が狭い所為でこの数年間次々に知友と専門店のコネクションを失ったこと。
3.国会図書館やgoogle booksで実現しはじめた著作権切れ書籍の公開事業により、これまで拙サイト上で公開してきた原資料画像に「賞味期限」が設けられる見通しがついたこと。
4.そして最後に(これが一番の理由ですが)、興味分野に「郷土漢詩」が加はったことでいろんな「防衛機制」がされるやうになったこと。つまり近代詩の詩集が買へなかったら漢詩集を買ふ、或ひは漢詩が素養として強いる道徳によって執心をクールダウンできるやうになったといふことが挙げられると思ひます。勿論わが年齢もありませう。

 幻の詩集とよばれた稀覯本も早晩パソコン上で読めるやうになり、所在情報の詳細が明らかになれば、原物を借りる方策も立ち、購入に際しては価格の比較だけでなく在庫のだぶつき具合も確認できるやうになる。こんな具合に敷居が下がったのはすべてインターネットの恩恵ですが、さらに個人的な状況として、まだ味読されてゐない多くの本が、書棚から恨めしげに私を見下ろしてゐるのにそろそろ耐へられなくなってきた、といふ事もあります(笑)。なるほど難しい研究書を読み返すことがなくなり、この年末に段ボール5箱ほどを“断捨離”した私は、もはや四季派愛好家として薹が立ったと云へるかもしれません。床の間に安置した良寛禅師坐像に向かひ、「修証義」の諷経を日課とすること一年。そのうち野狐禅の説く「コレクター修養講義」が始まりさうです(笑)。

 冗談はさて措き、そのほかのニュースおよび、本年の収穫を御報告。


 「日本古書通信」12月号の巻頭記事にありました、地方図書館の和本群が財政上の理由で博物館に移管されるといふ話。確かに江戸時代の刊本をコピーにかけることを古文書同様に禁ずる学芸員と、読まれることを願って世に送り出された著作物について可能な限り利用促進を図らうとする司書とでは、和本に対する立ち位置が全く違ひます。殊にも私のやうな人間は、原資料を実際に手にとることこそ、著者と著者の生きた時代に直接つながるための唯一の儀式であると実感してきた人間なので(ネット上で行ってゐるのはあくまでも代償行為と興趣喚起です)、地元博物館へ調査に行った際にも同種の不満を感じたことですが、死蔵されんとする和本資料の悲運を思っては同情を禁じ得ません。


 高木斐瑳雄が社長を務めてゐた実家、伊勢久の社史『伊勢久二百五十年』を寄贈頂きました。地元陶磁器産業の歴史資料としても貴重であり、図書館へ寄贈させて頂きましたが、詩人に至るまでの歴代社長の経歴紹介ページについては、許可を得て転載公開してをります。御覧下さい。
 思へば大震災の当日あの時間に何をしてゐたのかといふと、私は図書館まで御足労下さった社長さんと高木斐瑳雄のことをお話ししてゐたんですね。その一年が暮れてゆかうとしてをります。まことに公私ともに厳しい運命が啓かれんとする一年でした。 どなた様もよいお年をお迎へ下さいませ。


2011年の収穫より (収集順)

安西冬衞詩集『渇ける神』
松浦悦郎遺稿集『五つの言葉』
『淺野晃詩文集』中村一仁編 新刊
大垣鷃笑社編『鷃笑新誌』1-11合冊
頭山満翁 掛軸
澤田眉山詩集『三堂集』
大沼枕山詩集『枕山詩鈔』初刷
岡田新川詩集『鬯園詩草』
杉山平一詩集『希望』新刊
前田英樹著『保田與重郎を知る』新刊
加藤千晴詩集『宣告』
館柳湾詩集『柳湾漁唱 初集』初刷

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604やす:2012/01/10(火) 00:25:23
謹賀新年
この正月は逼塞せる毎日。頭の回らぬ時には小難しい本に齧りつくより、香華灯明に向かって一炷の間、お経を唱へるに如かずと、または正月らしく「百人一首」のくづし字の読み当てなどして過ごしをりました。国情・公私生活ともに一陽来復を祈念。今年もよろしくお願ひを申し上げます。

大晦日に中村一仁様よりおたより拝承。お心遣ひをありがたうございました。 画像 full size

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605やす:2012/01/15(日) 20:03:12
先師廿年忌
田中克己(たなかかつみ)1911-1992 詩人、東洋史学者。「四季」「コギト」編輯同人。


【田中克己先生との写真】1989.02.24
先生と一緒に撮った写真はこれ一枚しかない。長男御夫婦と同居するべく自宅を改築することになり、同じ町内の二階家を借りて移られると、半年ほど蔵書を段ボールに詰めたまま奥様と二人で生活してをられた。処女詩集をお持ちしたのも思へばこの家である。先生は着た切り雀で入歯を外し風采上がらず、私も柄にもない赤い色を着てパーマなんかあててゐる。蜜柑箱をバックに甚だ体裁の悪い一葉であるが、この日来訪された久米健寿氏(平田内蔵吉研究者)がカメラをお持ちだったお陰で、悠紀子夫人とも三人同席の写真が遺されることとなった。思ひ出深いわが宝物である。

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606やす:2012/01/23(月) 10:13:46
「モダニズム詩人荘原照子聞書」 第16回 『日本詩壇』の頃
 手皮小四郎様より『菱』176号を御寄贈頂いた。荘原照子の聞書きは、今回と次回にかけて戦前におけるモダニズム受難の時代が対象となる予定である。詩人に於いて因をなした『日本詩壇』といふ詩誌が、そもそも荘原照子といふ詩人を迎へるだけの器が無かったことは、『椎の木』なき後ここへ身を投じた彼女自身すでに承知のことではなかったか、とも思ったものである。
 といふのは、詩壇の公器的存在『文藝汎論』からのオファーはともかく、彼女がハイブロウなモダニズム詩誌であった『新領土』もしくは『VOU』、あるひは『四季』のやうな知的なエコールの香り立つ在京雑誌にどうして参加しなかった(または呼ばれなかった)のか。才気煥発にして気丈な一方、プライド高く臆病な性格が、羸弱な彼女をして近所の雑誌の門を敲くことを躊躇はせたのではなかったか。横浜に住みながら大阪のアンデパンダン的性格の強い『日本詩壇』に拠り、さらに「秘密出版みたいなあっちこっち」の地方詩誌にこそこそ寄稿してゐた事情が気になる。つまり官憲にチェックされ、監視されるまでに至った経緯にこそ、彼女の詩人としての自恃をみるべきではないのか。手皮さんの丹念な発表誌探索から、私はそのやうな詩人の業を感じるのだった。
 もちろん「神戸詩人事件」と同様、それは当局による過剰な猜疑心による民心介入であったが、しかし詩人としての彼女の存在が、在京の詩誌編集者にはどう映ってゐたのか、そして彼女自身、ルサンチマンを溜めこんだ時代の病変の深刻さを、芸術至上主義の立場から甘く見てゐた節がありはしなかったか。
 以前拙ブログで紹介した兼子蘭子も、仲間内の雑談を通報され、憲兵に引っ張られ一時収監されてゐる。当時散文で自分の意見を書かうとする程の女性は「報国もの」が依頼される程度にすでに社会的に著名か裕福でなくては、詩だらうがエッセイだらうが、内容に拘らず、書かずもがなのことを書く生意気な女として、(官憲といふより)国民全員によって監視・制裁の対象にあったこと。女監視員から「毒殺」されぬやう唆されて町から退避する(追ひ出される)までに、裏目裏目の結果を出してきた背景には、たとい政治的信念の持主でなくとも、手法として韜晦を事とするモダニズム詩が因縁をつけられることが十分に予想されながら、発表誌の質を落としてもそれを書き続けなくては居られなかった詩人自身のルサンチマンを当然みるべきであらうと思ふ。彼女の詩風はこれまでの経歴の中で幾度も変遷してゐるが、すべて自身の生活上の必然と詩史的状況が結びついてをり、しかし今度ばかりは他のモダニズム詩人のやうに外的必然(戦争詩)とは縁を切り、筆を折った。それが不遇なりにも、彼女が無名詩人の側にあった幸ひと同時に、クリスチャンとしての節操を完うする幸せを体現するものであったことは、彼女のために一筆すべきであらうと思ふ。

 ここから以降、発表文献が途絶える時代は、まさに聞き書きをされた手皮さんにしか書くことができぬ(尤もすでにこれまでもさうでしたが)独壇場であり、資料云々よりも、詩人を料理する手皮さんならではの運筆に期待したいところ。たのしみです。

 新潟出張で一週間留守にし、紹介が遅れました。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

607やす:2012/01/25(水) 09:00:48
『山川弘至書簡集 新版』
 さて新潟出張からの帰途、東京で途中下車して神保町にて一泊。翌朝、靖国神社に参拝してきました。今年は「山本五十六」の映画を観たこともあり、出張がてら長岡では山本五十六記念館や長岡高校記念資料館などを訪ね、余勢をかっての、でもないですが、実はわたくし、これまで戦争詩について考へたり書いたりしてきたものの(さうして八年間も東京に居ったにも拘らず)靖国神社に足を運んだことがなかったので、意を決して向かったのでありました(恥)。遊就館も初めて見学し、戦歿将兵の遺品遺書に圧倒され、遺影が四方の壁を埋め尽くしてゐるフロアでは、名簿を繰って故郷の詩人山川弘至(やまかわひろし)を、硫黄島で有名な栗林中将の遺影の隣に探し当てて、喜んでゐたのでした。

 ところがです。その晩、東京から帰ってきたら郵便が届いてをり、中から出てきたのは一冊の本。ひもとけば吃驚『山川弘至書簡集』。唇を引きしめて正面を見据える詩人の尊顔と再び対することとなった御縁に、茫然となった次第。

 それは詩人を精神的支柱に据えて活動を続けてゐる和歌結社「桃の会」が最初に刊行した書目で、久しく絶版になったまま一番復刊が希望されてゐた本であり、同装丁でその後、遺稿歌集『山川の音』・遺稿詩集『こだま』・『山川弘至遺文集』の三冊が出版されてゐますが、なんといっても詩人が戦争終結の4日前に戦死したことを踏まへ、未亡人となるべき山川京子氏へ書き綴られたこの本におけるドキュメントには胸にこみ上げるものを覚えずにはゐられず、跋文にも記されてゐますが、『書簡集』一冊が、まるまる相聞と述志の二色に染め抜かれた一篇の長編詩であることについて、いみじき思ひを新たにしたのです。

 ドイツロマン派に詩人の告白・手紙が重要な位置を占めるのと同様、日本浪曼派にこの一冊を持ったことを、はたして文学史上の「幸ひ」とすべきなのか。かくも気高き精神に貫かれた恋文が、青年詩人ならではの全人的なロマン派精神開陳の所産であるのは理解できるとして、しかし優しさと正しさはもとより、憤りや焦り、さらには気負ひすらも読む者の心を痛ましく打つ、その「理由」を思っては今に至っても粛然とならざるを得ず、これを一人でも多くの若い人に読んでもらひたいとの思ひを、戦争を知らぬ世代の私も同じくするのであります。何故ならこの、遺書になるかもしれぬ覚悟を以て書き継がれた、これらの手紙の束から受けた感動を「傑作」と呼ぶことを厳しく躊躇はせる歴史の端っこに、私たちが今もって生きてゐるといふこと、その再確認は全ての日本人の責務と考へるからであります。

 今回は上記の偶然も手伝って少々興奮気味の紹介ですが、ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『山川弘至書簡集 新版』 2011年,山川弘至記念館刊, 355p,17.5cm並製カバー
希望者は「桃の会」まで送料込1300円を送金のこと。振替口座00150-1-82826


付記:
新旧『書簡集』を閲してみましたが、新たに一通が追加された以外は、内容に差障る訂正はありません。追加一通は拙サイト上で紹介させて頂きますので、すでに旧版をお持ちの方には、新版の購入をお勧めするとともに、旧版にも添付して頂ければと思ひます。

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608やす:2012/02/07(火) 22:40:19
蔵書印
 職場の大学に、中国美術学院より半期毎に招聘される書道の先生がみえるのだが、このたび帰国される韓天雍先生から素晴らしい贈物を頂いた。「蔵書印」である。掛軸の解読に度々お世話になってをりながら、更なる御高誼を賜っては申し訳ない限り。ここにても厚く御礼を申し上げる次第です。先生ありがたうございました。
 さて斯様なものにこれまで意識の無かった素人が、どんな本に捺してやらうと色々考へをめぐらしてゐるのである。掲示板の向ふからは「やめろ」といふ悲鳴の如きものも聞こえる気がするのですが(笑)、国家的損失となるやうな貴重書(そこまで云ふか)には「今のところ」捺すつもりがありません、ので御安心を。
 といふことで何となく先師の名の隣に捺してみた。(『東洋思想叢書 李太白』昭和19年)
 満悦の様子を御想像下さい(なぜこんな位置に。やっぱり悲鳴か?)。

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609やす:2012/02/12(日) 18:18:18
詩集『生れた家』
 極美の「笛を吹く人」が、片々たる「昔の歌」を、造りが壊れた「田舎の食卓」で披露する。――これがあこがれてゐた「生れた家」だ。「晩夏」の夢の続きを見るがよいと…。 といふことで(笑)、半ばは手にすることを諦めてゐた稀覯本の一冊、木下夕爾の第二詩集『生れた家』(昭和15年刊)が抽選の結果、我が家に到着した。古書展には果たして何人の希望者があったらうか。幸運と、売って下さった古本屋さんにあらためて感謝申し上げます。

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 戦前に処女詩集を刊行して、一旦名声を確立したのちに、さらにそれらを上回る境地を拓いて戦後大成した抒情詩人は、と問はれれば、私はまず木下夕爾、そして蔵原伸二郎ふたりの名を以て指を屈することにしてゐる。もっとも蔵原伸二郎は、淺野晃や伊福部隆彦らと同様、大東亜戦争に惨敗して落魄の果てに詩人として“目明き”となった別格であり、老残の境地であることを考へるなら、木下夕爾は当時まだ三十の若者だったにも拘らず、戦後現代詩の外連味(けれんみ)を帯びることなく、青春のアンニュイを誠実に歌ひ続けた詩人であり、中央詩壇からは距って、生前に再びその名がのぼることはなかった。彼の詩を読み詩を書きたくなった私のやうな後学にとっては、それがまことに口惜しくも、またこよなく尊い師表とも映ったものである。

 続いて指を屈すべき詩人の一人、杉山平一が百歳を前にして今なほ新刊詩集を世に問ふ現役であることを考へると、木下夕爾はたった6日しか誕生日が違はないにも拘らず、半分の五十年を一期として病に仆れてをり、不運は際だって見える。もちろん、更にそのまた半分の二十五歳で死んでしまった立原道造も、彼らと同じ大正三年生まれであってみれば、半世紀の生涯を「早世」と呼ぶことは憚られもするのだが、立原道造がその人なりの完全燃焼を感じさせ、大戦勃発前に散ったのに比して、立原の死後活躍を始めた木下夕爾は、戦中戦後の苦難の時代を聊かも抒情の節を枉げることがなかった。さうして詩の中に人生の完熟を手にしつつあった詩人であり、さてこれからどのやうに枯れてゆくのかを見届けたかった、否、ただ、もっと長生きして頂いて謦咳に接することができたら、拙詩集にもきっと一言なりの叱咤激励を頂けたんぢゃないだらうかと、さう勝手に思ひ込んでゐた最上壇の詩人なのであった。今おなじく五十歳を迎へ、変らぬ気持ちで恥ずかしげもなく書くことができる自分がをかしい程である。

 雑誌「四季」の同人であった同世代の杉山平一や大木実が、しばしばエコールとしての「四季派詩人」の端っこに位置する特殊性を以て外部から称揚せられてきたのとは異なり、彼は戦前の「四季」には一度きり寄稿しただけだったにも拘らず、むしろ「四季派」と呼ばれる抒情精神の本道を歩んだ人物であった。立原道造なきあとの、抒情詩人列伝中、最後に現れた真の実力者として、第四次の「四季」復刊(昭和42年)に際しても、もしそれがあと数年早かったなら、丸山薫をして必ずや三顧之礼を執って迎へられたに違ひない、といふのがわが詩人に対する偽らざる見解である。余談ながら“列伝”のしんがりには、別に、水や風の如き味はひのする「郷土詩」を書いた詩人、北園克衛、八十島・一瀬の両「稔」たちも挙げておきたい。(一瀬翁の決定版詩集『故園小景詩鈔』については特に広報したく特記します。)

 とまれ堀辰雄の周りに集まった雑誌「四季」の後輩人脈にあって、多くの若者達が大日本帝国の崩壊に伴ひ、却って「四季派」と呼ばれる気圏(危険)から遠ざからなくては己の詩のレーゾンデートルを保つことができなかった事情については、さきに第二世代である詩人小山正孝を引き合いに出してささやかなノートを試みてみたので、御覧頂ければ幸ひである。

 木下夕爾は、詩的出発を「若草」投稿欄の堀口大学選に負ってゐる。上京時には持ち前の気後れが祟って師の門を敲けなかったとのことだが、また強面の三好達治が門番を務める「四季」誌上の「燈火言」に投稿することも、敷居が高く耐へ難かったやうだ。いったいに当時は、大正時代の口語詩の黎明期に一斉にデビューした先輩詩人達が、一人一冊主宰誌をもち「お山の大将」を決め込むことが謂はば詩壇のステータスになってゐた時代である。彼は早稲田から転学した先の関係からだらう、名古屋の詩人梶浦正之を頼って「詩文学研究」といふ詩誌に身を投じたのであった。そして「鳶が鷹を産んだ」といったら語弊があるけれども、そこから世に送り出した処女詩集『田舎の食卓』が、文藝汎論賞を受賞する。昭和14年10月の出版であり、3月に死んだ立原道造には寄贈されなかった。(もっとも含羞と自負ゆゑに、それ以前にも「四季」の誰とも交通はなかったやうであるが。)

 さうして以後、家業(薬局)のために東京で文学修行する夢を断ち、不本意ながら地方に逼塞させられた彼は、ために戦災に遭ふことなく、また羸弱ゆゑに、銃をとることもなく戦争をやり過ごすことができた。前半生の道行きは、まこと「人間万事塞翁馬」を思はせるものがある。そして戦後にせよ、「四季」にコミットしてゐなかったからこそ、却って正統派の抒情詩人であり続けることができたのだとも云へ、果たして身に覚えのない「四季派」の名を以て指さされることに当惑することともなったのである。謂はば彼は、「四季派」といふ言葉が固有の誌名から解き放たれ、(「日本浪曼派」同様、)成心を以て一種のエコールとして敷衍認識(指弾)される際にも、最もわかりやすい指標となったのであった。

 しかし同時に、宮澤賢治や立原道造をはじめ多くの一流近代詩人が志向した仮構の原風景が、憧憬的な北方的なそれであったのに対して、彼が詩情を仮託したふるさとが、瀬戸内の温順な気候のもとで優しい諦念が低徊する、非北方的な色合ひの強いものであったこと、これなどは不運であるよりか、むしろ東日本に傾きがちだった日本の抒情風土の地勢上の平衡を中心に戻すにあたって、微力ながら寄与したのではないか、さう肯定的に考へられもするのである。これは日本にあって経験された昭和初期モダニズムの下、京都・大阪・神戸の都市生活者詩人たちによっては、未だ充分には為し遂げられることのなかった宿題であったといっていい。これが、木下夕爾や渡辺修三ら、「四季」同人以外の、モダニズムの洗礼を受けた、都落ちした田舎住みの抒情詩人達によって、エキゾチズムから一切借りものをせずになされたといふところに、特筆に値するものがある。私はひとり勝手にさう思ってゐる。

 江戸時代の漢詩においては文化的に顕著だった、京都・長崎を磁力源とする西日本方向への憧憬が、明治新体詩が興って失はれて以来、形を変じてふたたび詩の現場で、自らの故郷の自然に対してはたらき、読者を惹きつけるやうになったことを、東海地方在住の自分は特段の感慨をもって歓迎する。「日本の口語伝統抒情詩史上に起こった最後のエポック」と、さうまで云ったら大袈裟にすぎるか(笑)。まあ、それくらゐ木下夕爾の、詩と、仄聞される人となりが私は好きなのである。

 以上、詩人をめぐっての印象を『生れた家』落掌の喜びを利用して一筆してみた。「生家訪問記」の隣に供へておきたい。

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 追伸1:この稀覯本を手にした感謝の念を表すべく(?)、代りに、没後新編された児童詩集『ひばりのす』を図書館に寄贈した。世知辛い改革で疲弊しきった教育現場にすすんで身を置かうとしてゐる学生に、ぜひ読んでほしいと思ってゐます。

 追伸2:また日本中の図書館に所蔵のない彼の第4詩集『晩夏』(和装限定75部)の、書影と奥付の画像をサイト上に公開したいので、どなたか奇特な所蔵者がみえたら送って下さらないだらうか。と、やはりこの機会に呼びかけてみることにします。

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610やす:2012/02/20(月) 12:44:03
(無題)
 先日、拙サイトの旧い文章を読み返して下さってゐるといふ有難いお便りを頂き恐縮した。久しぶりに自分でも読み返してみたのだが、稚拙な字句行文に手を入れずには居れなくなり、古いところは改稿に等しいものとなってしまった。掲示板の過去ログばかりは、交信記録なのでどんなに恥かしくとも削除をふくめ手を入れることはしないが、まことにこの十年余、自らの文章の変ったところ、相も変らぬところを前にして、あきれたりあきらめたりしてゐる。

611やす:2012/02/29(水) 00:47:21
「朔」173号 坂口昌明追悼号
 圓子哲雄様より「朔」173号をお送り頂きました。同封の挨拶状を一読、なにはさておいても御病気の件、御養生専一のこと切にお祈り申し上げます。と同時に後記にありました『村次郎全詩集』刊行のことも初耳にして、こちらはお慶び申し上げる次第。八戸市内の書店でのみ取次いでゐるといふことですが、地元だけで700部の初版を瞬く間に売り切った由。検索したら昨年は刊行に合はせて回顧展も行はれてゐたんですね。

 さて今号は昨秋亡くなった坂口昌明氏の追悼号です。東京生まれの坂口氏が、親友小山正孝の青春の地であったことをきっかけに南部の文学や津軽の民俗学に惹かれ、青森県に宿縁を結んでいったこと。その博識と述志に対して寄せられた賛嘆は、お会ひする機会のなかった私もまた同じくするところであり、あらためて『一詩人の追求−小山正孝氏の場合』を読んだ時に感じた、ただならぬ読後感──博覧強記のすさまじさを思ひ出しました。本邦初の小山正孝論がいきなり単行本で現れたこともさりながら、友情に託けることなく対象を客観視し、意表に出た類比隠喩には立ちくらみさへ催したこと。氏のもどかしげな探究心が進取の気性を以て常に埋もれたものを世に出したいといふ奇特な使命感に向ふとき、時間はどれだけあっても足りることなどなかったと誰しも思はれたのも宜也哉でありませう。

 巻頭には小山正孝ご子息正見様の追悼文が掲げられてゐます。今後の「感泣亭」諸活動に与へる影響が心配されるところですが、坂口氏のお人柄を詩人小山正孝との関りに於いて身近なところから述べることができるのが、正見様と御母堂だけであるのも確かです。
坂口さんの著書『一詩人の追求−小山正孝氏の場合』を執筆するにあたって彼は正孝に一言も聞かなかったと言う。また、本を受け取った正孝の方もニヤリと笑っただけだったらしい。」 2p
 「万事用意周到であった」といふ、かけがへのない支柱を失った活動の行方を、ブログ更新とともに見守りたく思ひます。

 そして圓子様の回想。「朔」誌との関りに於いては、「眼光鋭く、一目で私は見破られたと思った。」といふ、この稀代の祖述者との交流を、師匠である詩人村次郎顕彰の思ひに絡めて活写されてゐますが、特に師の日本語学説については、自ら世に問ふ事のなかったのを惜しみながら、外国語のひとつも自家薬籠中の物にした上で、斯界の現状を鑑みながら論旨を構築してゆくものでなければ、およそ新学説など認められることなどないことを、弟子である圓子様に対して一夜の席上、釘を刺されたといふ一節が興味深いです。坂口氏とは正反対の気質を有しながら(今回のエッセイもロマン派よろしく寄り道がまことに楽しい)、かかるエピソードを敢へて示された圓子様にも、私は贔屓の引き倒しではない先師に対する思ひを強く感じます。さうして隠遁者の自己抑制が永きに過ぎて自己防御に変じてしまった詩人の無念を晴らす為、あくまで地方にあって心を砕き続けてきた圓子様を、坂口氏のこれまでの小山正孝に対する顕彰営為が、形を以て無言で励まし続けて来たのは確かなのです。三者三様ですが、進取の気性が世に報ゐられること尠かったのは一緒なのであって、もし坂口式の比較手法で、村次郎の学的側面が解説されることがあったらどんな眺望が拓けたことでせう。圓子様も頼りにし、全詩集刊行でやうやく詩人にもスポットライトがあたるやうになった矢先の氏の訃報が悔やまれてなりません。御冥福をお祈り申し上げます。

 ここにても寄贈の御礼を申し上げます。ありがたうございました。

612やす:2012/03/03(土) 22:02:49
おめでたうございます。
【速報】現代詩人賞:杉山平一さんの詩集「希望」が選ばれる  毎日新聞 2012年3月3日 18時36分

613松田:2012/03/13(火) 15:34:27
山鶏
 こんにちわ。はじめて書き込みさせていただきます。神奈川県の松田と申します。「四季派の外縁」で一瀬稔の「詩集 山鶏」を初めて知り、こんなにいい詩集があったのかと大変嬉しく思いました。今、愉しみに何度も読んでいます。ところで、お尋ねですが、詩の掲載方法は、詩集そのままというわけではないのでしょうか。というのは、目次と本文では掲載順などいろいろな点で異なっていますので、ちょっと気になってます。細かくなりますが、次のような点です。
1.目次の番号と詩本文につけられた番号が1から5までは一致していますが、それ以下は番号・順番ともに異なっています。
2.目次にあって本文がないものがあります(目次番号6、9、10,11、13)
3.本文があって目次にないものがあります(本文28「春日」、29「山の小駅」)
4.「山の空」がルビの違いがあるものの重複しているようです(本文4、23)
5.「菜園の頌」が目次では章(節?)の題になっていますが、本文では詩の題になっています。
6.「昼の月」が目次では二つ(14、15)ですが本文では三つあります(20、21、22)
 こまごましたことをお問い合わせしてまことに申し訳ありませんが、入手不可能な貴重な「山鶏」を詩集の順序通り読んでみたくて書き込みさせていただきました。よろしくお願い致します。

614やす:2012/03/13(火) 17:44:12
(無題)
 松田様 レファレンスありがたうございました。

 御指摘の『山鶏』テキストですが、これは昔テキストアップした『故園小景詩鈔』のなかから『山鶏』所載のものを拾って掲げてをり、仰言るやうに番号が合ってゐないですね。仮名遣ひも歴史的仮名遣ひになってをりませんし、『山鶏』原本の画像データに差替へたいと思ひますので、お待ち下さい。
 なほ『故園小景詩鈔』のテキストアップは、生前著者から許可を得てのことでしたが刊行元から御指摘をいただきとりさげてをります。てっきり自費出版であると思ひ、御迷惑をおかけしてをりました。詩人が『明日の糧』以降に到着した境地はすばらしく、少々高い本ですが、是非愛蔵されることをおすすめ致します。


今後ともよろしくお願ひ申し上げます。用件のみとりいそぎ。

615松田:2012/03/14(水) 08:44:42
「山鶏」お礼
やす様。厚かましいおねがいに早速ご回答いただきありがとうございます。「山鶏」の画像データを楽しみにしています。一瀬稔の入手できる詩集は手に入れようと思います。
ありがとうございました。

616やす:2012/03/14(水) 21:37:57
(無題)
 池内規行様より「北方人」第16号、舟山逸子様より「季」96号を拝受。「北方人」には「青山光二年譜」が、「季」には杉山平一詩集『希望』の書評が掲げられてをります。ありがたうございました。

 詩集『山鶏』updateしました。戯歌一首。 あしひきの山鶏の詩をしたり気にスキャンしながらひとりかも読む

 花粉飛散とともに気分沈滞とどまるところを知らず。大震災より一年。病ひをおして追悼式典に御臨席賜った天皇陛下に対する新聞記事の、その「日本国象徴」に対する失礼な小ささに (ビデオレターの時にも書きましたが) 憤ってをります。

 わが生活もまた転機を迎へんとしてゐるやうです。

617松田:2012/03/15(木) 10:56:54
感謝
山鶏の早速の更新、まことに有難うございました。
戯句のお返し。山鶏やせっつかれずとも素早くて。

618やす:2012/03/25(日) 22:14:09
『漢詩人岡本黄石の生涯』
 以前に入手した岡本黄石の伝記『漢詩人岡本黄石の生涯』の続編が、その後2集3集と刊行されてゐることを知って世田谷区立郷土資料館に発注したところ、図書館ではなく個人宛に寄贈していただき、寔に恐縮しました。彦根藩家老であった岡本黄石は、梁川星巌をめぐる後進気圏の逸材であるばかりでなく、「悪謀の四天王」と目された師と、主君井伊直弼との間にあって苦悩した、時代に翻弄された歴史的人物といってよい人であります。第3集の副題「三百篇の遺意を得る者」といふのは、「詩経三百篇」をふまへた黄石の人品骨柄に対する星巌の最大限の賛辞ですが、斯様に豊富な資料が、詳細な解読手引きを付して公刊されたことに唯ただ瞠目するばかりです。第一集と同様、学習に活用させて頂きたく、ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000783.jpg

619やす:2012/04/04(水) 01:26:08
はるのあらし
 郡淳一郎様より映画史家の先師をしのぶ『田中眞澄追悼誌』(2012.3.10 田中眞澄書誌・蔵書目録編纂会発行,15p 30cm 500部)を、小山正見様より詩人である先君小山正孝の詩の朗読会の御案内を頂きました。御礼と共に報知いたします。ありがたうございました。

 さて、この四月を以て帰郷奉職二十年。齢を重ぬること五十一歳。この期に及んでふたたび独り身に戻ることになり、年度替りの仕事に取り紛れながらも、思ふところは多いです。情けない仕儀に立ち至った、渾ては自分の不徳ゆゑであり、漱石の漢詩に倣ふるなれば、

「春風吹いて断たず、春恨幾條條。」

 昨日来の風雨に袖もそぼ濡れ、些か途方に暮れてをります。以上報告のみ。

620一行院 住職:2012/04/14(土) 12:46:24
荘原家墓碑
当山に荘原篁墩師の墓碑がございます。なぜ当山にあるのかは不明ですが、当サイトをご覧の方でご興味があれば是非ご参拝ください。

http://www.ichigyo-in.jp/

621やす:2012/04/14(土) 20:17:17
はなぐもり
御住職さま

いつぞやはメールにてレファレンスをありがたうございました。
「庄原篁墩」、名は懿、字は彜卿、通称文助。周防の人、安政中江戸に住む。別号に柳暗。
以前「山田鼎石」を紹介した際、高々200年余で「先生」も無縁仏にされてしまふ現今の日本に長大息したことでしたが、東京の一等地にあるお寺が、公的指定に拘らず先賢の塋域を手厚く保全されてをられる姿勢に脱帽感嘆いたしました。以前(2009年)お送り頂いた写真と情報をここに紹介させて下さいませ。

左:墓碑面欠損 明治15年8月31日没 (明治17年荘原和氏建立)
中央: 篁墩先生(庄原篁墩)之墓 文久元年10月17日没
右:荘原和氏 明治31年6月10日没

御案内をありがたうございました。
折から桜も満開で美しいお花見もできるのではないでせうか。

庄原篁墩のものではありませんが、自蔵の掛軸より一幅紹介。

一池春水[岩]生煙
多少山櫻靜言眠
漠漠濃陰未成雨
慈雲閣畔養花天
詩佛老人

一池の春水、[岩?]、煙を生ず
多少(多く)の山桜、静かに言(ここ)に眠る
漠漠たる濃陰(曇天)、未だ雨を成さず
慈雲閣畔、養花天(花曇り)
詩佛老人

解読訓読御教示を待ちます。「慈雲閣」は増上寺でせうか。昔、池があったことを知りません。お寺の桜だから殊更「山桜」と掛けてゐるんでせう。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000786.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000786_2.jpg

622やす:2012/04/15(日) 02:11:55
「モダニズム詩人荘原照子聞書」 第17回 死よ!来たることの何ぞ遅々たる
 さて、前後しましたが、手皮小四郎様よりは『菱』177号を御寄贈頂いてをります。わたくし事にかまけて未だ御礼状を認めてをりませんが、紹介を先にさせて頂きます。

 今回の「荘原照子聞書き」は、「兄の庇護の元に、母とギリギリの生活を送っていた」昭和十年代の横浜六角堂在居時代が描写されてゐますが、貧乏には貧乏の上をゆく輩がゐるもので、キーパーソンとして何と稲垣足穂が登場します。同類と呼んでは叱られさうですが、けだし荘原照子のポエジーが、政治的な色合ひを帯びることは否定しつつも、何かに妥協することは頑なに拒み通す性質にあったことを、タルホを褒めちぎる聞書きの様子がよく語ってゐるやうな気もしたことです。そして彼女が稲垣足穂や、北園克衛の「VOU」から離脱した岩本修蔵、山田有勝らと拠った「詩とコント」〜「カルトブランシュ」といふ雑誌のことが紹介されてゐるのですが、こちらも初出であります。特筆すべきはここで展開される「コント」といふジャンルなのですが、もちろん現代のコント――戦後ストリップ劇場の幕合に誕生し、テレビ番組とともに成長した今日の「芸人コント」とは関係がありません。雑誌を支へた澤渡恒(1916-1951)をはじめとする立教大学出身の詩人達は、最初にこの文芸コンセプトを誌名にも付して旗揚げをし、やがて「ブランシュ:白」といふ、当時すでに使ひ古されたのではないかとも思はれる言葉を選び、これまたいくぶんバタ臭さを感じさせる表紙デザインでもって雑誌の一新を図ったやうです。謂はば一時代前のモダニズムやナンセンス文芸の系譜上にあって、軽薄文化が失速しつつあった1930年代の後半、自覚的にポエジーを寸劇の中に閉じ込めたオチ無しファンタジーを、「コント」と呼んで制作し続けた訳ですが、果たしてそれがエコールとして「戦争前夜のシュルリアリズム」と呼び得る社会的な韜晦であったのかどうかといふことは、同人各人に当るべきでせうし、前衛音痴の私にはちょっと分かりかねるところであります。荘原照子は、タルホの「一千一秒物語」の書割りテイストを有した「家」といふ「コント」を遺してをり、これは次回の連載でも触れられると思ふのですが、雑誌の精粋は、戦争で刊行できなかった『薔薇園傳説:カルト・ブランシュ コント集』(1986年,澤渡恒編,デカドクラブ(山田有勝方),197p,21cm)の中に、それから雑誌の中心にあった澤渡恒の遺稿作品集『エクランの雲』(2002年,郡淳一郎編,ギャラリーイヴ,29p,30cm,付録つき)といふ限定版冊子において、さきの「家」などとともに読むことができます。なので次号刊行までに是非予習いたしませう(「ムハハハ。」笑;)。付録の当事者による対談集(聞き手・構成:内堀弘)も貴重だと思ひます。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがとうございました。

連載第十七回 「モダニズム詩人 荘原照子聞書」 死よ!来たることの何ぞ遅々たる――横浜市神奈川区六角橋金子町  『菱』177号 2012.3,? 37-43p

623やす:2012/05/21(月) 21:05:11
杉山平一先生逝去
かけがへのない思ひ出を誰にも一人づつに与へて下さった先生の人徳を心から偲び、慎んで御冥福をお祈り申し上げます。


 悼詩


わが師田中克己は ハリー彗星を見ないで死ぬだらうと予言して

晩年に小さな小さな再来を天文台で確認した

杉山平一先生は300年ぶりにやってくるといふ金環日蝕を

来週どんな感慨を以て迎ふるべきか 考へてをられたにちがひない




人生は予測できない――ひとは自分が主人公だと思って生きちゃゐるが

死んでく時には みな誰かの脇役として死んでゆく

いつか命日となるその日を うかうかと過ごしてゐる私も

「希望」を語ることを恐れ 訃報のあとに訪れた「凶兆」の意味を探しあぐねてゐる




忘れられない惨事と ささやかな希望と

新しい主人公たちに 暗喩や直喩のレンズで指し示されたクラリティは

地上に笑まふ木漏れ陽の 不思議な翳かたちでありました




直接は見ることができないもの

みなが空を仰いでゐるときに 俯くことのできる人だけが知ってゐる

なつかしい希望 かけがへのない人徳でありました

                        2012.5.21


http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/tanaka/tairikuenbo/tairikuenbo-0007.JPG

624やす:2012/06/09(土) 13:37:01
寄贈本
 気持の整理は家族関係にとどまらず、この職場をはなれては、詩を読むことも無からうことがはっきりしてきたので、これまでこつこつ買ひ集めてきた研究書や復刻詩誌、全集テキストの類ひから400冊ほどを職場に寄贈することにしました。国文学科時代の蔵書と合せると、これまで手薄だった近代詩の書棚も、戦前口語抒情詩だけは少しく充実するのではないかと思ひます(ものすごいシャープな守備範囲ですね)。岐阜女子大学図書館の「新着図書」検索や「フリーワードで探す」で御覧下さい。研究を志す学生諸君には、さらに私蔵コレクションにてフォローもさせて頂きたく申し添へます。U^ェ^U「ゐないゐない。」
http://libwww.gijodai.ac.jp/jhkweb_JPN/service/freeref.asp

 明日から遠征といふのに、おかげで腰いためちゃひました(苦)。

625初心者:2012/07/03(火) 14:02:43
四季派学会の連絡先を
この板にお願いしてよいのかわかりませんが、どなたか、四季派学会の事務局の連絡先(住所とか?、メルアドなど)、ご教示いただきたいのですが。だいぶ探しましたが、捜せません。

626やす:2012/07/03(火) 14:23:53
(無題)
事務局は持ち回りになってゐると思ひます。現在はどこでせうか、大谷大学気付で國中治先生まで御連絡をとられるのがよろしいかと存じます。とりいそぎの回答まで。レファレンスありがたうございました。

627初心者:2012/07/03(火) 19:36:06
ご教示感謝です。
やす様、大変ありがとうございました。近日中、國中先生にお願い致してみます。

628服部 剛 :2012/07/07(土) 01:12:52
詩を書いている者です 
はじめまして。
詩作・朗読活動をしている服部 剛(はっとりごう)と申します。
「四季」の心が詩の原点と思い、詩作の道を歩んでいます。

昨日「四季」創刊号に掲載されている丸山薫様の「火」という詩についての
エッセイを書いて、僕のブログに載せました。
http://poetrytheater.blog110.fc2.com/

四季の詩人についていろいろ教えていただけたら、ありがたいです。



 

629やす:2012/07/07(土) 23:29:46
『菱』178号  荘原照子聞書き
 服部剛さま はじめまして。

 四季派といっても、有名な詩人は大学の先生方が生涯や作品分析をすでに語りつくしてをられますので、ここではもっぱら著名ではない、当時の周辺詩人について、彼らが思ひを託して小部数刊行した詩集に脚光をあて、原質の紹介に努めてゐます。
 故・杉山平一先生に「ストーブ」といふ詩がありますが、丸山薫のこの詩にインスパイアされたものなんでせうね。
 こちらこそよろしくお願ひ申し上げます。ありがたうございました。


 手皮小四郎様より『菱』178号をお送りいただきました。

 荘原照子の聞書き連載では、前回の予告通り「カルトブランシュ」に掲載されたコントといふ、近代文学分類上「不幸な継子」に終ったジャンルにおける奮闘と、そこから小説に創作の場を移さうとして挫折したくだりについて考察がおこなはれてゐます。イメージの飛翔が甚だしいモダニズムの散文には伝記的要素もなく、文脈の解釈にはさぞ苦労を強いられたことと存じます。そもそも「ヘルムアフロデイトの月」のやうな「風紀紊乱の詩」が書けてしまふ詩人にとって、詩よりも長く、また理路も少しはつけないとならない「コント」なんてジャンルは、体制に対するあてこすりを如何様にも邪推され得る「より危ない表現手段」であることに、やがて彼女自身が気づいたに相違なく、だからこそ「書きにくく、今後もまづからうと思」ふやうになったのでありませう。

 ただし弾圧の一件については、『マルスの薔薇』を出版してオファーが殺到した彼女を迎へることに成功した「日本詩壇」主宰者である吉川則比古が、寄せられた詩文の過激さを持て余し、何かにつけて自粛を迫ったといふ側面もあるかもしれません。彼女は「日本詩壇」のライバル誌だった「詩文学研究」の創刊号にも寄稿してますが、以後なにも書いてゐません。そして「弾圧」といっても、吉川則比古からの手紙の文字にあるだけなんですよね。特高からは直接連絡がなかったやうですし、いくら「カルトブランシュ」が、意気軒昂たる若人の結束に係る同人誌だったといっても、本当に危ないものなら流石にそっくり同じものを載せられない気もします※。コントが拓いた軽佻浮薄路線を継いだモボ・モガ文化を謳歌してゐたのは深尾須磨子ですが、彼女に筆誅をくらはせた荘原照子こそモダニズムの女傑と呼ぶに相応しく、詩よりもむしろ「詩人の権威及び自由性について」等の散文において、体制への親愛を決して示さなかった彼女の運筆態度にこそ、当局、そしてアンデパンダン同人誌を主催する二流の宗匠詩人を刺激する要因が充分にあった。そして本当に特高に睨まれるやうになってしまったのではないでせうか。次回はそんな彼女を暗殺(?!)する計画の全容が、本人の口から語られるといひます。手皮さんによる客観的な考察によって、証言の虚々実々が明らかにされることも大切ですが、同時に、当人がどう感じてどう行動したかといふ事実にこそ、詩人の鋭敏すぎる感性とだけでは説明できない、戦争末期社会の雰囲気の実際も感じ取れるんだらうと期待してゐます。

 ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

※「カルトブランシュ」の匿名ペンネーム「近東豹」といふのは「マダムブランシュ」における匿名子「春日新九郎」の正体の一人(?)が近藤東であったことを、それとなく踏まへて命名されたものかもしれませんね。想像の域を出ませんが。

630服部剛 :2012/07/13(金) 06:20:30
ありがとうございます。 
こんにちは。四季の詩人のこころの原質を吸収し、学びながら、僕も詩を書いてゆきたいです。日本の詩人の回帰する原点のような気がします。「ストーブ」は杉山平一先生らしい詩で、今の僕の日常の心情にも重なり、励まされました。

http://poetrytheater.blog110.fc2.com/

631やす:2012/07/19(木) 19:53:36
写本詩集二冊
 写本詩集を2冊入手した。世に一冊きりしかない近世の個人詩集を手にするのは初めてである。

 著者は森春濤の門下だった石井梧岡【弘化4年7月27日(1847)−明治37年5月29(1904)】といふ医師。明治4年、五等医として出仕、書籍出納の仕事を経てその後愛知医学校の教官などをつとめたといふ※。名を彭、字を鏗期、希腎、通称は栄三、梧岡は号である。父は石井隆庵といひ、西洋医学黎明期の医制改革にも関った尾張藩医の家柄。

 この2冊「述古斎詩稾」「行余堂近稿」は弘化4年(1847)の生年からすればそれぞれ、18才、33才時のときに清書されたもの思はれるが、当初は号を梅圃、居処も述古齋と自称してゐたやうである。巻頭の永坂裒卿宅といふのは、同門の2年年長だった永坂石埭のことであらうか。永坂はのちにお玉が池の星巌旧宅を発見してそこに住まふ素封家であるが、裒卿なる字も初見である。なほ調査中、いづれサイトに画像公開の上、翻刻しますのでお楽しみに。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000796.jpg

632やす:2012/09/18(火) 12:17:11
近況 ―富岡鉄斎関係
 ツイッターではチョコチョコ呟いてをりましたが、こちらは久しぶりの更新。

 富岡鉄斎研究家の野中吟雪先生に、仕事上でしたが新潟の御自宅まで御挨拶に伺ひ、コギト同人でもあった小高根太郎氏の話を伺ったり、また鉄斎翁遺墨コレクションの一部を拝見させて頂きました(写真は鉄斎書き入れ旧蔵書の一冊)。出張から帰還すれば『鉄斎研究』65冊版の揃ひを、古書肆から破格値で図書館に納入することを得て喜んでゐるところ。いふまでもなく『鉄斎研究』は、膨大な画賛釈文を小高根氏が集成された唯一の基本文献です。

 折しも中国・韓国では反日運動が激化してをります。これからの日本の在り方(姿勢)を考へ直す意味でも、漢文学・尊王精神の両つながらを重んじた“儒者”鉄斎翁の存在といふのは、日本が物欲一辺倒から精神的に復帰しなくてはならぬといふ切実な課題に向かふ際、人倫の位相を戦前の政治体制に廻らすのでは なく、幕末の尊王攘夷運動にまで遡り、日本の国柄として一本筋を通しながら考へ直してゆく必要があるのだといふことを、強く感じさせてくれます。

 さて、日常生活不如意になりつつある家族の世話に追はれ、正直どこにも出かけたいとも思へず、かといって本も読めず、「三日書を読まざれば、面目憎むべく語言味なきを覚ゆ」ることをつくづくと実感。「行ひて余力あらばすなはち以て文を学べ」などと言ひ訳に終始するこの頃です。 とまれ前の漢詩集のみ、やうやくスキャン致しましたので、出来損ひの書き下しとともにup乞正、何卒よろしくお願ひを申し上げます。(【ごあいさつ】「★更新履歴」より辿りください。)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000797.jpg

http://

633やす:2012/09/23(日) 01:16:54
『高山竹枝』
 待ちに待った郷土漢詩集の稀覯袖珍本にして森春濤の処女詩集『高山竹枝:たかやまちくし』(慶応2年跋)が到着。全頁の画像を公開しましたので御利用下さい。早速私も南山大学の先生方によって書き下された詳細な注解を片手に、さらにタブレットにとりこんだ画像を拡大表示したりして、三者を見比べながら楽しんでゐるところです。

 疾風怒濤の幕末の世にこんな小粋でささやかな竹枝詩集を、最早老境にさしかかった自身の遅すぎる処女詩集として、地方で自家出版した詩人の心境や如何。序跋も誰にも依頼せず、巻頭は一番弟子である能書家永坂石埭に、かつて飛騨高山に赴任してゐた先輩詩人館柳湾の詩を代書させてゐます。わづかな余白に藤井竹外、遠山雲如、鷲津毅堂ら先輩友人による鼇頭評もあり(木公と精所は誰でせう)、我が蔵書中では一番小さなお宝本となりました。

 また同時に、森春濤と同門下である鱸松塘(鈴木彦之)の処女詩集も入手。春濤より4歳後輩ですが、こちらの『松塘小稿』は遡ること20年の天保14年、若干二十歳の記念に刊行された少年詩集です。とはいっても序跋は、竹内雲濤、大槻磐溪、菊池五山、大沼枕山、生方鼎齋と本冊の1/4を占めて重々しく、挿画の書斎も…見た感じぢゃこっちの方が御隠居さんみたいなんですがね(笑)。 もちろん稀覯書に相違なく、同様に画像をupしたいと思ひます。お待ちください。

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634日野:2012/09/24(月) 12:19:02
『高山竹枝』の評者について
 もしかすると、それは和○会の金●堂書店からの購入ですか?とすれば、外れても悔しく……やっぱり悔しいかな(苦笑)袋もあり、美本のようですね。
 『高山竹枝』の評者についてですが、島木公は家里松嶹(島=嶹、木公=松)、精所は春濤の弟の渡辺精所です。以上、ご報告まで。

635やす:2012/09/24(月) 20:57:29
御礼
 日野俊彦先生、早速の御教示ありがたうございました。

 自分でも“古本の女神”の再臨(?)を実感してをります此頃でございます。幸運はせめても画像を公開することで、著者の遺志ともども世間に返して参りたいと存じます。今後(これまでもですが)複本を集めるつもりはございません、何卒ご了解いただけましたら幸甚です。

 以前もふれましたが、「日本古書通信」(2011年12月号)に、宮城県図書館の和本群が博物館に移管される話について、館員の方からの報告記事がございました。先日も職場の学芸員の方と意見交換することがあったのですが、江戸時代の刊本をコピー・スキャンにかけることを古文書と同列にみなし禁ずる博物館の立場と、可能な限り利用促進を図らうとする図書館の立場とでは、和本に対する立ち位置が全く異なるもののやうです。私は、和本を読める人材が絶えようとしてゐる現在、それらを読み下して後世に遺す作業が日本読書界の喫緊の課題ではないかと思ってをります。和本はノドを圧してスキャナーの微弱な光線に当てた位では傷みませんし、公開サーバーの環境さへあれば特段の「予算」など必要ないのです。何より世に行はれることを願って公刊された著作物の原姿を、研究現場の方々だけでなく広く在野の篤志家も自由に閲覧できる環境を整備してゆくこと。研究に先立ち、著者たる江戸時代の先賢に対する礼儀と心がけたく思ひます。

 といふことで取り急ぎ画像のみですが、星巌門下の雋鋭詩人たちの最初期の詩集、『枕山詩鈔(嘉永版)』『湖山楼詩鈔(嘉永版)』『松塘小稿』も合せて今回upいたしました。後年の明治定稿版との異同など、興味深いところも多々あるのではないかと思ひます。さきに記したタブレットに全ページの画像を入れて持ち運んでゐますが、原本を傷めず、老眼を気にせず、どこでも楽しめるので重宝です。当年の詩人が液晶画面上に指で自在に拡大される自分の詩集をみたら吃驚するでせうね。

636日野:2012/09/25(火) 15:23:18
詩人がいつでも、どこでも自分の旧作を見ることができたら。
 本がいつ手に入るかは、運や縁など人智では謀りがたいものがありますから、お気になさらないで下さい。このように画像などを公開して下さること、ありがたく思っております。
 詩人がいつでも、どこでも自分の作品を見ることができたら……新鮮な喜びを得るか、「こんなものを書いたのか」と頭が痛くなるか、悲喜こもごもかもしれませんね(笑)

637やす:2012/10/19(金) 13:08:49
『菱』179号「荘原照子聞書──もうすぐあなたは殺される」
 手皮小四郎様より『菱』179号をお送り頂きました。

 今回の「荘原照子聞書」連載ですが、昭和16年末を以て筆を折った詩人の、客観的な資料の無い戦時中の時期を扱ってをり、その「無い」ことに意味を探るべく周辺情報に当たり、唯一の積極的資料である「聞書き」も、無批判に受け売りするのではなく、生の詩人と長年接してこられた手皮様の直覚的な吟味と、別証言との校合を経てはじめて書き起こされたものであります。「暗殺計画」などといふ言葉が独り歩きしさうなテーマも、さうしてはじめて論ぜられるものでありませう。

 あらましは前回の掲示板でも少し触れましたが、有名な「神戸詩人事件」同様、モダニズム詩人であった荘原照子が「危険人物」視され、憲兵の監視下に置かれた末になんと殺害対象になってゐたといふもの。当の監視員らの機微によって難を逃れたといふことですが、58歳時の記事と83歳時の聞書きではかなりの異同があり、単純に昔の記憶の方が信憑性が高いとも云へない、むしろ差し障りない後年の私的述懐にこそ真実があるとも思はれるのですが、手皮様は、母と二人暮らしで病気がちの荘原照子が、拘留も咎めだてもなく極秘裏に殺害されなければならないほどの危険人物であったのかどうか、そもそものところに疑問を投げかけてをられます。至極真当の指摘であって、横浜から彼女のやうな人間を追っ払ふための方便として監視方が一芝居うったのではないかと、私も思ひます。ただし官憲サイドの好意的心情はともかく、保田與重郎の例でもみられるやうに「要注意」と目された人物に対するヒステリックな監視体制自体は事実でせうし、さういふ恐怖を味あはせ、当人を実際の退避行動に駆り立てた言論統制の生々しい証言として貴重であることには変りがありません。そこへ折に触れ通ったといふ若年の木原孝一が、何か証言を残してゐるかもしれません。私は彼が硫黄島へ送られたけれど発病し、奇跡的に難を逃れた人だといふことを知りませんでした。

 また彼女が参加しなかった『新女性詩集』ですが、モダニズム詩人が多く参加し、菊池美和子などは全編モダニズムの抒情詩を載せてゐます。重鎮永瀬清子も最初に置いてゐるのは、戦争の厳粛を言って一寸見なにを考へてるか分からない詩。全日本女詩人協会といふもの自体、大東亜戦争が始まる直前に、統制が外から掛けられるのを予見した深尾須磨子が自発的に詩人たちを鳩合したものらしいですから、当局からの信頼をかち得てゐる。荘原照子も、体制内の機構のなかにあってモダニズムの抒情詩を書き続けることも、また戦争の厳粛さに瞠目する態度から一歩もあゆみ出さない詩を書き続けることもできた筈です。要はそれらがミックスすると当局の邪推に遭ふといふこと。その不自由さを指摘したのが共産党詩人壊滅以後には彼女ただ一人位だったのでせう。前回の連載で報告されてゐるやうに、荘原照子から「軽薄」との筆誅を受けた深尾須磨子にして、彼女の勧誘に積極的であるはずもなく、またあれだけ体制よりの跋文を書いてゐる編者に、むしろモガ文化を謳歌した軽薄さと同一の精神的素地を看て取った荘原照子は、自ら名を連ねることのなかったこの本を手にとって、さぞ軽侮の微苦笑を浮かべただらうことも推察に難くありません。

 雑誌をお送り頂いてから、随分日にちを過ごしてしまひました。ご紹介とともにここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。

『菱』179号
発行連絡先:〒680-0061 鳥取市立川町4-207 小寺様方 0857-23-3486(Faxとも)

638やす:2012/10/19(金) 23:15:32
「杉山平一追悼号」その1 『朔』174号
 圓子哲雄様より「朔」174号を拝受。
 5月に長逝された杉山平一先生を追悼する文章の数々を読んでは、あらためて先生のひとがら人徳に触れ得てまことにうれしくなつかしく、ことにも奥田和子氏の回想は同人誌「季」への参加時期が交差するやうにすれ違ってゐる私にとって、私には度々励ましのお便りを下さった小杉茂樹さんや、小杉さん編輯に係る「東京四季」への屈折した思ひも伝はり、興味深く拝読。杉山先生が誰にも特別の思ひをおこさせる方であることをあらためて認識させる、羨ましくも貴重な証言です。また杉山平一・村次郎の“歴史的邂逅”をセッティングされた圓子様が、「両先生」の間を汗して周旋される様子が手に取るやうにわかる御文章では、タクシーで汽車を追ひ駆け、飛び乗る終盤の条りなど、いつもながら思ふエピソードの名手の手際に感嘆せざるを得ず、楽しく拝読しました。

 今号にはさきに追悼された坂口昌明氏の回想続編、その真打といふべき小山常子氏のエッセイも収められ、夫君とその後輩親友との関係について、いちばん身近から御覧になっての思ふところを記されてをります。まだまだ沢山あるに相違ない今まで封印された思ひ出話を、ぜひ今後書き継いで頂きたいものです。続く相馬明文氏の追懐も、坂口さんの向日的でおのれを枉げぬキャラクターが立ち上がってみえてくると同時に、相馬氏の「第三に同志的太宰研究者に申し訳が立たないと感じ」といふ、気概の礼節が潔い。鈴木亨氏を回想する一文とともに今号は四季派追悼一色の感がふかいです。

 ここにても感謝申し上げます。ありがたうございました。

 写真は平成6年8月、鳥羽貞子氏が記されてゐるところの「東京と関西の四季派をきっちり結んだ合宿」の朝に推参し、写真撮影にちゃっかり先生の隣へ飛び入り参加した一枚。(黒ッ。)

『朔』174号
発行連絡先:〒031-0003 青森県八戸市吹上 圓子哲雄様方

邂逅(詩):杉山平一 1
杉山平一さんのこと:村次郎 2
杉山平一の直線性:佐々木甚一 3
杉山先生と私 往復書簡:奥田和子 6
詩人・会津人・杉山平一先生を悼む:山田雅彦 10
杉山平一先生の詩の匂い:鳥羽貞子 12
杉山平一さんを偲んで:萩原康吉 14
杉山平一氏を偲んで:小笠原 眞 16
杉山平一先生とご一緒した三陸海岸:圓子哲雄 19
坂口さんを哭す:小山常子 24
坂口昌明先生のこと:相馬明文 27
奈良、再び:テッド・ファウラー 30
空の色(詩):加藤眞妙 40
カレンの歌声のような(詩):萩原康吉 42
蓮の花(詩):柳澤利夫 44
普段着の先生:小林憲子 46
実は金子光晴こそ恐るべきリアリズム詩人なのだ:小笠原 眞 48
一人旅でめぐるフランス 1:石井誠 60
編集後記 66

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639やす:2012/10/21(日) 02:36:17
「杉山平一追悼号」その2 『季』97号
 関西四季の会より「季」97号をお送り頂きました。
 97といふ、杉山先生の享年との符合、まことにふしぎでなりません。皆さまの回想みな興味深く、一人ひとりに「自分だけの先生」が生き付いてゐる、さすが精神的支柱として詩人杉山平一を仰いできた同人雑誌だけのことはある、先生の折り目正しい温かさを偲ぶに相応しい追悼号となったことと、半ば身内の院外団(?)ながらお慶び申し上げます。

 公私を峻別されてゐた杉山先生の日常が、このたび御長女初美様の証言で初めて人の知るところとなり、三方を本で囲まれた2階の書斎の存在(やっぱりあった)もあきらかになりました。(文中、“布野さんに関するお便り”云々は私のことかもしれません。※) 天声人語を毎朝音読される条りは、なんとなく「オワリ!」ではなく「ヲハリ!」といふ語感を感じさせ、ガラクタを棄てようとすると顔をしかめて大きく手を振る身振り、などなど、何ともいへぬ、ユーモアと申しませうか、ほぼ一世紀を生き抜いてこられた杉山先生のエピソードには、私の世代には覚えのない筈のなつかしさを感じさせます、それを見守られる初美様の温かなまなざしに涙ぐみました。

※訂正:手皮小四郎様よりお便りあり、私のサイトでの『布野謙爾詩集』公開を知った手皮様が、荘原照子と布野謙爾をめぐる人脈について杉山先生まで直接お便りさし上げた際のことを指したものと判明、謎がとけました。筆記不如意の杉山先生からの返信は初美様の代筆と思はれ、尚のこと手皮様のことは印象に残ってをられたのでありませう。

 さうして同人皆さまの「自分だけの先生」の回想を一覧して思ったのは、杉山先生への全幅の愛情を以て凭れかかることのできた詩人といふのは、さきの奥田和子氏を措けば、やはり杉本深由起氏に最初の指を屈する、といふことでせうか。「季」以外の人脈を知りませんので断定しませんが、杉山先生のモテモテの実態が今後(本日の偲ぶ会で?)明らかになったら面白いことと思ってをります。冗談はさておきその杉本氏の回想ですが、いろいろの愉快なエピソードが初めて耳にするものばかりだったのはもとより、作品の上では杉山詩の一番弟子だと思ってゐましたが、実生活の上でもやっぱり先生の方からも心を許してをられた詩人だったことが、もう手放しで分かる文章で、このひとならではの行文のうまさも、このたびは感じさせないほど心をこめた内容に、御長女の一文と好一対の読後感につつまれたことでした。

 そして今回の編輯方にして長年私を詩人として見守って下さった舟山逸子氏がピックアップされたのは、一枚の杉山先生のカット。誌面には故意に載せなかった由ですが、杉山先生の絵が「季」の表紙を飾りはじめた頃のもので、私が同人になった時の扉絵だったので殊更記憶に焼きついてゐる一葉でした。少年なのか老人なのか不明ですが(私はなぜか『ムーミン谷の十一月』に出てくるスクルッタおじさんを想ひ起こします)、追悼詩の冒頭を少し読んだだけですぐに分かりました。数あるカットのなかであれに目をつけられた舟山さんが嬉しかったし、終連は追悼詩の白眉でせありませう。


一枚の絵から      追悼杉山平一
                            舟山逸子

水際へ消える石段
麦藁帽子の少年がつくる
波紋は 広がって
広がって 幾重ものまるい輪だ

直線と機械の世界から
やがて曲線へ

まっすぐ歩いていると
ゆるやかに まるく曲がって
いつのまにか
もとに戻っている
それがあなたの描いた
無限だった

光へと手を伸ばし続けた
その長い生涯

わたしは 手を伸ばす 水際で
深く顔を伏せて 静かに
あなたを偲ぶ
まるい波紋をつくっていく


 今回の追悼号、皆さまの文章に杉山先生の大阪弁のイントネーションもそれぞれに偲ばれ、まだまだコメントしたくなるやうな充実ぶりですが、さぞや泉下の先生も苦笑ひされつつ、安堵もされてをられることだらうと存じます。本日の「偲ぶ会」に間に合ひ、追悼号の真打に相応しい雑誌に拙文も寄せさせて頂いたこと、たいへん名誉に存じます。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『季』97号
発行連絡先:〒569-1022 大阪府高槻市日吉台3-4-16 舟山逸子様方

終りよければ・一匹の蜂(遺稿):杉山平一 6
窓 追悼杉山平一(詩):矢野敏行 10
叱咤激励・色紙(詩):奥田和子12
一枚の絵から 追悼杉山平一(詩):舟山逸子 18
杉山さん、お世話になりました:高階杞一 20
宝塚の詩人:中嶋康博 24
杉山さんの「敗走」:山田俊幸 29
父と暮らせば:木股初美 34
現代詩人賞受賞詩集『希望』について(日本現代詩人会2012詩祭スピーチ)
:以倉紘平 39
杉山平一詩抄 42
苺のショートケーキを食べながら:杉本深由起 50
光を信じて:舟山逸子 56
質問の手をあげながら:小林重樹 60
杉山先生の思い出:紫野京子 64
杉山先生を偲ぶ:高畑敏光 66
杉山平一先生の「死生観」:奥田和子 69
詩人杉山平一のこと:矢野敏行 75
杉山平一氏と関西四季の会関連年譜 78
後記 85

写真は平成15年3月29日、風信子忌行事の途次、谷中多寶院近くの感應寺で澁江抽齋の墓碣銘を前にして。

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640やす:2012/11/03(土) 22:39:06
「杉山平一追悼号」その3 『季刊びーぐる』第17号
 舟山逸子氏より御教示頂いた「季刊びーぐる」第17号(特集杉山平一 人と作品 2012.10)を取り寄せて、さきの回想と対をなす木股初美様の「父の最期」を始めとする、寄稿文の一つひとつを興味深く読んでゐる。
 以倉紘平氏や佐古祐二氏が、杉山平一の詩を近代詩の括りに封じ込めてしまはふとする多くの追悼文の論調に抗議する文章を書いてをられること、むしろそれなら私達こそそのやうな「優れた近代詩にたち戻って詩を書き継がねばならないのではないか」と提起してゐることに非常な共鳴を覚えた。戦中戦後から今に至るまで、杉山詩が古びることなく保ち続けてゐる今日的意義について、冨上芳秀氏が「進化し続けてゐる」と敢へて主体的に立言した真意は、書き手としてのシンパシィにあったんだらうし、否、さうではなく最初から「すごい詩」を書く詩人であって作風を些かもぶれさせることなく生涯を全うされた詩人の軌跡は「進化」などと呼ぶべきものでないと批判した國中治氏の真意もまた、読み手としてのシンパシィを以て語ってゐる、さういふ違ひに過ぎないことのやうにも思はれた。さうして私には、戦時下の詩人について細見和之氏が記された次の一節に、杉山平一といふ詩人の本質の一端をあらためて納得させられる鋭い指摘を感じた。

「 つまり杉山は『夜学生』刊行に先立って書いていた「反戦詩」を『夜学生』出版に際しては、「親兄弟が一所懸命戦っているときに人間的に遠慮すべきだと思って」削除していながら、昭和19年にいたってなお、「港」や「球」といった作品で窪田般弥(1926年生まれなので、当時18歳前後である)らに強い印象を与えていたのだった。しかも、それを長らく戦後の詩集にも収めてはいなかったのである。
 これらの一連の杉山の振る舞いには、庶民的な誠実さと、同時にそれをはみ出すような知識人の揺らぎが感じられるだろう。あくまで庶民の立場を倫理としながらも、そこに収まりきることもできず、それをしかし積極的な価値として積極的に自己主張することもしない…。その振幅のすべてを視野に収めて杉山の詩業を受けとめることは、私たちが状況のなかで詩を書いてゆくことの意味を考えるうえで、きっと示唆的であるに違いない。」15p

 この、成った作品ではなく、詩人の側にいつもわだかまってゐたに違ひない「知識人の揺らぎ」が、収録インタビューにも見られる小野十三郎に対する物の見方の親近感と、保田與重郎や伊東静雄に対する畏敬の念においては、心情的擁護といふ形で敗戦を境に逆転して顕れてゐることに、ことさら注意してみたらいいと思ふ。詩人独特の判官贔屓(ヒューマニズム)の表れであり、冨上氏が「今を生きる心」と言ひ換へてをられるやうな、現在進行形の今日的意義を私達に感じさせる平衡感覚と呼んでもいい。四元康祐氏が見事に集約してみせたところの「眼の詩人」「笑ひの詩人」「生活の詩人」といふ、出来上がった作品の側から見た詩人の特質と共に、詩人の節義ともいふべき、「四季」の詩人の四季派詩人たる貴い所以を、私はそんなところに感じてきたのである。

 ところで「現代詩手帖」にても杉山平一先生の特集が組まれてゐたことを、この雑誌の後記で知った。いくら現代詩と縁のない人間でもこれは迂闊であった。國中さんの一文も収められてある由。早速拝見したいものと思ってゐる。

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641やす:2012/11/04(日) 16:09:38
大垣漢詩文化圏のこと
 「デイリー・スムース」の林哲夫様より『種邨親子筆』と題された貴重な写本詩集お送り頂きました。Comment欄の御教示によると、著者であるこの種邨恭節といふ人は伊勢国員弁郡の医師であった模様ですが、写本の後半部分にあたる、彼の嫡子と思しき人によって引き写された詩篇の多くが、さきにここでも御紹介した大垣の漢詩雑誌『鷃笑新誌:あんしょうしんし』にまつはる、明治期初期の岐阜の漢詩人の作品であるところから、その人は父親から文学的素養を受け継ぎ、桑名から揖斐川を遡って大垣に至るルートをたどって何らか美濃の漢詩文化圏とも直接関係があった人ではなかったかと思ってゐます。

 『鷃笑新誌』、大垣の漢詩といへば小原鉄心や野村藤陰が思ひ起こされる訳ですが、この分野でも新刊情報に疎い私は、彼等による紀行詩文集『亦竒録』の現代語訳なる一本が、大垣有志の肝煎によって今年の春に刊行されたことを知りませんでした。どういふ偶然か『鉄心居小稿』、『洞簫余響』の画像データを県図書館まで撮りに訪ねたその日に知って、早速連絡。品切れのところを特別に、このたびは刊行元の三輪酒造さんより貴重な残部一冊を職場の図書館まで御寄贈頂くことなった次第。執筆の横山正先生が、周辺情報にスポットを当てた「大垣つれづれ」 といふコーナーを地域サイトに連載してをられる前IAMAS学長であるといふことも合せて知ったのでした。

 酒飲みの小原鉄心から眷顧を賜ったといふ刊行元の酒蔵では、『バロン鉄心』なる記念銘柄の緑酒も発売されてゐます。この週末は私も出張、さても鉄心の時代とは比べ物にならぬ安直な日程でしたが、帰還しての秋の夜長を、古書と現代語版と二冊の『亦竒録』を披げ、任地の尤物を肴に一献、往時の酒盛りを偲んでをりました。

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642やす:2012/11/12(月) 23:07:32
『亦奇録』
 『亦奇録』の現代語訳版が図書館に入ったので、冒頭部分の訓読を少し許りテキストに起こしてみました。書き下しにはチャンペラ(アンチョコ)といふべき『大垣文教之心発掘顕彰シリーズ』といふ本があるのですが、これをなるだけ見ず、原本だけを睨んで書き起こしてゆくと、野村藤陰や菱田海鴎の章なんかは行書ですし、くずし字の解読や訓読の良い勉強になります。どうしても困ったら、訓みは『大垣文教之心発掘顕彰シリーズ』に、意味は『現代語訳版』に頼ったらいいのです。両者とも頭註には触れてゐないので、そこだけいい加減な私の読みですから御叱正を乞ふ次第。江戸時代の漢詩文集には、斯様な茶々が入るところが面白く、やはり省けません。

 畏れ多くも『現代語訳版』の著者である横山正先生から頂いたお手紙によると、該書は目下絶版。「大垣地域ポータルサイト西美濃」内での公開を念頭に、現在、訂正・補綴作業を進められてゐる由。また浅野忍氏が筆耕された『大垣文教之心発掘顕彰シリーズ』は、過去に以下のタイトルが出てゐるやうですが、私はまだ第2輯しか確認してゐません。伊藤信、冨長蝶如両先哲の後、大凡この二十年ほどで完全に断絶したといってよい旧世代の精神遺産継承を図る上で、私ども世代以降の読書家に資するところ実に大きな遺産の一つであると感謝いたします。

大垣文教之心発掘顕彰シリーズ

第1輯 小原鉄心『鉄心遺稿』1975.
第2輯 小原鉄心『鉄心居小原稿』『亦奇録』『洞簫余響』1975.11
第3輯 鴻雪爪『山高水長図記』1976
第4輯 不詳
第5輯?第6輯 菱田海鴎『海鴎遺稿』1984.3

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643やす:2012/11/13(火) 22:44:07
篠崎小竹手蹟法帖
 ところでオークションは欲しいものが出るたびに入会を繰り返して未だ縁が切れてをりません(見なきゃいいんです。苦笑)。このたび落札したのは篠崎小竹の手蹟法帖。さきに頼山陽と後藤松陰の自筆ものを入手してゐましたから、山陽の親友であり、松陰の義父であり、また我が家の書斎に挂けられた「黄巒書屋」扁額を揮毫された小竹翁のものとあっては、見過ごすことはできませんでした。無事落札に安堵。而して何が書かれてゐるのかも、小山正孝先生の訳文に助けられてをります。けだし一昔前なら入手方法も要脚も儘ならなかった、全国各地にお蔵入りとなってゐた旧世代の精神遺産たるお宝書蹟が、前述したところの継承断絶の末に、かうして貧乏収集家の許に再編されて一同に会することにもまた感慨を少なしとしません。詩人の訳とともに紹介致します。

「丹青引」 ―贈曹将軍霸―??? 杜甫
                           [ : ]は[原作:書帖]の異同を示す。
將軍魏武之子孫 於今為庶為青門
英雄割據雖已矣 文[采:彩]風流今尚存
學書初學衛夫人 但恨無過王右軍
丹青不知老將至 富貴於我如浮雲
開元之中常引見 承恩數上南熏殿
凌煙功臣少顏色 將軍下筆開生面
良相頭上進賢冠 猛將腰間大羽箭
褒公鄂公毛髮動 英姿颯爽[猶:來]酣戰
先帝[御:天]馬玉花驄 畫工如山貌不同
是日牽來赤墀下 迥立閶闔生長風
詔謂將軍拂絹素 意匠慘淡經營中
斯須九重真龍出 一洗萬古凡馬空
玉花卻在御榻上 榻上庭前屹相向
至尊含笑催賜金 圉人太僕皆惆悵
弟子韓幹早入室 亦能畫馬窮殊相
幹惟畫肉不畫骨 忍使驊騮氣凋喪
將軍畫善蓋有神 [偶:必]逢佳士亦寫真
即今漂泊干戈際 屢貌尋常行路人
塗窮[反:返]遭俗眼白 世上未有如公貧
但看古來盛名下 終日坎壈纏其身


絵画をうたう

将軍は魏の武帝曹操の子孫だ
現在は庶民だがもともとは名門の出なのだ
英雄割拠した時代はすぎ去ってしまったが
曹氏一門の文学芸術にすぐれた気風はなおつたわっている
書を学んで初め衛夫人の書風を学んだ
王右軍にかなわないのがただ残念だというまでになった
絵画の道に入っては年をとるのも気づかないほどだった
そうした身にとって富や貴い位は空にうかぶ雲のように関係ないものだった

開元の頃にはいつも天子にお目にかかり
その恩寵をうけて何度も南薫殿に参上した
凌煙閣の功臣たちの肖像が年月に色あせていたのが
将軍がそれに筆を加えると生き生きとよみがえった
名宰相が頭上にいただいている進賢冠
勇猛な将軍の腰のあたりの大羽箭
褒国公や鄂国公の毛髪は動いている
その姿は颯爽として戦いのまっただ中からいま来たばかり

先帝の御乗馬の玉花驄は
画工が何人も山のようにたくさん描いたがなかなか似ない
この日赤くぬった階の所までひきつれて来た
はるか彼方宮門に立つとさっと一陣の風がまきおこった
将軍に対して写生するようにとの天子のお言葉があった
構図をいろいろに苦心して考えて工夫していたが
あっという間に宮中にまことの竜馬が出現した
古来描かれて来た平凡な馬の姿なんかさっと洗い去った

玉花驄はいまやかえって天子の腰かけの上の方にいる
腰かけの上の方と庭前の方とそれぞれさっと立って向かいあっている
天子はにっこりとしてほうびの金をやれとおっしゃっている
馬のかかりの役人たちは皆このありさまにびっくりした
将軍の弟子の韓幹は早くから技法を極めていた
そして馬を描いてもまたなかなかみごとなものであった
ただ韓幹の場合はその形を描いてもまだ本当の精神は描けなかった
素晴しい馬が意気あがらずに描かれてしまうのはなんともやりきれない

将軍の描く絵には精神がこもっている
立派な人物の場合にはそれこそ真実の姿をうつし出すだろう
いま戦乱の世にあってあちこちとさすらっているので
しばしば平凡なつまらない行きずりの人を描いている
行きづまって困っている人間は世俗の人からは白眼視される
世間には将軍のように貧しい暮しの人もないようだ
そこに見るものは昔から名声のある芸術家は
志を得ず不遇の境涯を送る運命にまとわりつかれているということだ


 七言古詩。成都での作。原題は「丹青引」で、丹青は絵画に用いる赤や青たどの顔料からひいては絵画そのものをさし、引は曲調の一種でうたの意。したがって「絵画のうた」の意である。この詩には原注が付されており、「曹将軍覇に贈る」という。左武衛将軍の曹覇の画いた絵の絶妙さと、しかしそれが世上充分に遇されていないことをうたった作品。
 唐の張彦遠の『歴代名画記』巻九に「曹覇は魏の曹髦(曹操の曽孫)の子孫である。髦の画は後代に称えられている。覇は開元中にすでに有名になり、天宝末には天子の命で御馬や功臣をえがいた。官は左武衛将軍までのぼった」と記されている。しかし、天宝の末年には罪を得て、官籍を削られ庶人に貶されたと伝えられる。詩のなかにも曹覇の事跡はうたわれており、他にも曹覇の絵をうたった作品があり(「韋諷録事の宅にて曹将軍の画馬の図を観る引」)、曹覇の絵は杜甫に大きな感銘を与えていることがわかる。
 この詩は『唐詩選』にも採られていて古くから名高く、傑作の一つである。【小山正孝】

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644根保孝栄・石塚邦男:2012/12/09(日) 09:41:38
専門知識に驚嘆
久しぶりに覗いてみましたが、皆さんの専門知識には驚いてます。
なるほど、日本の文化の奥深さ、東洋の文化の深遠を感得してます。
今後も勉強させてください。

http://演習あ熱r哲に部う長

645やす:2012/12/10(月) 00:06:15
(無題)
石塚邦男様
おしさしぶりです。とても穏やかな古典修養の場と化してをります(笑)。

さても皆様よりの頂きものが其の儘となってをり、それぞれ私信にては御礼申し上げて参りましたものの(杉本深由起様、手皮小四郎様、ありがたうございました。)、とりわけて大切な2冊について御紹介が遅れてをります。
出張や日々の雑事に忙殺されてをりましたが、これ以上の延引は許されず、御周知頂くため一旦上記刊行の御報告まで申し上げます。

646やす:2012/12/10(月) 00:11:57
『感泣亭秋報』7号
 思ひ起こせば初めて創刊号を受け取りました時、抱負はそれとして「御遺族」としての想ひの丈を一度すっかり吐露してしまはれば2〜3号で已んでしまふ性質の雑誌ではないかと思ひなしてをりました。その後さらに号数を重ねてゆくのも、ひとへに坂口昌明さんといふ詩人の最大の理解者にして牽引者の意志を、常子夫人が温かく見守ってをられるからだらう、さうしてこのたびはその坂口氏を喪ひ、正見様の関心も感泣亭の活動には一区切りをつけ、御専門の児童俳句を通じて社会的な方向に向ってゆかれるのではないか、そんな風にも思ってをりました。今は不明を恥じなくてはなりません。「感泣亭スペース」の建設と運営を通じて、なにか家族の限定された想ひだけでは量ることのできない、地域の文化事業に発展する気配さへ窺はせる、正見さま発信の最近の催し物の数々に、自分の予想が裏切られる、これまた爽快さを感じてをります。
 このたびの誌面もその充実度に目を瞠るばかり。本来メインであってもをかしくはない坂口氏の追悼コーナーを措いて、特筆すべきは詩人小山正孝没後十年を記念して誌面を飾った、その他本格的論文の数々です。渡邊啓史氏と相馬明文氏と、小山正孝の文学出発期の分析が詩と散文と両つながら揃って掲載されたのは、四季派気圏内にあって文学の可能性を模索してゐた当時の詩人に一入の愛着を覚える私としても慶ばしく、また若杉美智子氏の文章も、いつもながら本質を突く初見の事に論及されるので、立原道造の周辺を探索する連載ともども早く単行本にまとめられたらと思ひつつ拝読。謹厳な蓜島亘氏の属文と並べはまことに対照的なものを感じ、こちらはこちらで今回対象となった小山正孝夫人の義兄であったロシア文学者安士正夫同様「批評眼ではなく精密な研究態度」を良しとする生真面目な学究ぶりの健在を確認したことであります。さらに戦後の四季派顕彰の立役者である麥書房店主堀内達夫氏について、夫人の回想は古書店主としての一面、矜持と鷹揚さといった為人を伝へるエピソードに満ち、限定版出版社「麥書房」の社主としても「家内工場化」した舞台裏の報告など、私も雑誌『本』のバックナンバーは愛蔵してゐますが、『感泣亭秋報』編集の御苦労と重ねたりしてみながら、堀内氏の生き様を偲ばせて頂きました。
 ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。



『感泣亭秋報』 感泣亭アーカイヴズ2012.11.13発行

詩 なかよし  比留間一成
詩 博物館   小山正孝???????????????????????????????? 4

 −小山正孝没後十年−
灰色の抒情 −詩集『雪つぶて』のために−  渡邊啓史???? 6
小説家小山正孝の文学的出発への試み −官立弘前高等学校時代の小説を中心に− 相馬明文 33
小山正孝の詩を聴く             高橋博夫????43
小山正孝詩と遠近(おちこち)         富永たか子??44
小山正孝の詩世界6  『山の奥』       近藤晴彦???? 45

 −坂口昌明さん追悼−
坂口昌明さんの肖像             福井 一???? 49
坂口さんとの出会い             吉田文憲????51
津軽に沈潜する博物誌的形而上学−坂口昌明詩集『月光に花ひらく吹上の』小笠原茂介 54
坂口昌明の深遠なる世界 −「岩木山奇談集」の遥かな頂き− 小田桐 好信 56
不思議な関係                小山正見????60

感泣亭通信(小山常子著『主人は留守、しかし・・・』への返信) 65-71
曾根博義 内山百合子 伊藤桂一 岩田[日明]  相馬明文
渡邊俊夫 杉山平一 馬場晴世 池内輝雄 現影邦子
神田重幸 高木瑞穂 神林由貴子 富永たか子 木村 和
小笠原 眞 西村啓治

詩 青春のこと 大坂宏子 ??????????????????????????????74
詩 道行き   里中智沙 ??????????????????????????????76
詩 夏の行進  森永かず子 ????????????????????????????78


麥書房・堀内達夫の仕事  ???????????????? ??堀内 圭??80
小山正孝の周辺 −安士正夫とバルザック全集− 蓜島 亘 84
昭和二十年代の小山正孝 3 −小山=杉浦往復書簡から− 若杉美智子 98

感泣亭アーカイヴズ便り ??????????????????????小山正見 100

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647やす:2012/12/10(月) 00:23:05
『人間山岸外史』
 これまで掲示板でも同人誌「北方人」における連載を逐次御紹介して参りました池内規行様より、さきの『評伝・山岸外史』(万有企画 1985)を補筆して、新たにそれら“山岸外史人脈”に関する項目を連結させた新刊『人間山岸外史』(水声社 2012)の御寄贈を賜りました。不意打ちにも近い此度の刊行には爽快な驚きを感じ、もとより内容については既に読んだものである筈にも拘らず、装幀も瀟洒に一新され、近来の物忘れも手伝って却って最初から読ませて頂く楽しみを新たにしてをります。特筆すべきは、山岸外史をめぐっては私淑する一人者を譲らない下平尾直氏が編集の一切を担はれたといふこと。装釘もハイセンスな仕上がりに一新され、ことにも前著には無かった貴重な写真資料群は、太宰治研究者ならずとも必見とするところでありませう。
 合せて今回著者よりは『眠られぬ夜の詩論』『人間キリスト記』の御恵投にも与り、恐悦至極の有様です。急遽思ひ立ち古書店に発注した『煉獄の表情』とともに御著の理解に資する(あ、それは反対ですね 笑)これら原典につきましては、いづれ年末年始にでもゆっくり読書の時間をつくって臨むこととして、まづはここにても刊行のお慶びかたがた篤く感謝を申し上げる次第です。
 ありがたうございました。

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648やす:2012/12/19(水) 21:07:02
「杉山平一追悼号」その4 『文学雑誌』第88号
 杉山平一先生追悼雑誌のしんがり「文学雑誌」88号を、御息女木股初美様よりお送り頂きました。これまで、てっきり「季」のことを杉山先生のフィールドの“奥の院”と思ひなしてゐたところ、先生の戦後の詩歴とぴったり重ねられる、かくも来歴の古い雑誌の存在に驚き、詩誌ではないものの、ここに集はれる嘗ての若手後輩“後期高齢者の同人一同”の皆様の、杉山先生に対する温かいまなざし、物腰こそやはり穏やかであるもの年近い旧知の彼らにはなかなか厳しい批評もされた「油断のならん」壮年時代の先生のエピソードの数々を、まことに気の置けない得がたいお話として拝読させて頂きました。

 今回寄稿された初美様の回想もまたしかり。古いカセットテープ音源の話が出てくるのですが、音吐朗々の対談が収められてゐるといふ録音はいつ頃のものでありませう。湮滅する前にデジタル化して是非後世に遺して頂きたいものです。また前に逝かれた夫人、初美様御母堂に関する回想も、私生活の今現在をおおやけにはなさらなかった先生でしたから、初めて明らかにされることばかりであり、詩人には睦まじい詩人夫妻を内輪からながめた様子をぜひ今後も書き留めて発表して頂きたく思ふのでした。内輪といへばこのたびも瀬川保氏の、

 「表情といえば、夫人の通夜の晩のこと。椅子を引き寄せ、こちらに肩を凭せるようにして一言、「さびしいでェ」と洩らした。」

 などの条りには、いかにも先生らしい口吻が髣髴され、初美様が「びーぐる」の追悼記で記された浴室事故の、当の本人からの報告を書き写された桝谷優氏の文章なども、その深刻の態さへどこかあたたかく感じさせるのは、あながち関西弁のせゐばかりではないやうにも思はれたことです。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。


「文学雑誌」88号 2012.12.15発行21cm 106p 800円 題字:藤澤恒夫   表紙・カット:杉山平一
           文学雑誌発行所:豊中市緑丘4-29-3 大塚様方

【杉山平一作品抄】 「父」創刊号 昭和21年4p 「素粒子と新しがり」84号 平成21年19p
【杉山平一年譜・著書】 年譜抜粋22p 著書目録23p? 「文学雑誌」掲載作品抄24p
【追悼記】 26-39p 木股初美 大塚滋 涸沢純平 竹谷正 瀬川保 桝谷優
【創作】 文鎮(大塚滋) 外国切手(桝谷優) わが懐かしのチャンバラ映画(後篇)(竹谷正)40-105p
【編集後記】 瀬川保・大塚滋106p

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649やす:2012/12/30(日) 22:05:38
収穫回顧
今年は私生活に於いて、まことにめまぐるしい一年でありました。
来年は引き続き、人生の一区切りをつける一年となりさうです。


独坐聴啼鳥  独坐 鳥の啼くを聴き
関門謝世嘩  門を関ざして世嘩を謝す
南窓無一事  南窓 一事なく
閑写水仙花  閑かに写す 水仙花

年末年始は夏目漱石みたいな心境で閑居読書にいそしめたらいいのですが、
毎日老犬の下の世話に奔走する我が家では

独坐聴啼犬  独坐 犬の啼くを聴き
隣門謝臭禍  隣門 臭禍を謝す
南窓有一事  南窓 一事有り
閑瀉水洗禍  閑かに瀉ぐ 水洗の禍

といった感じでせうか(笑)。世話中に腰を痛め、万事億劫の寝正月となりさうです。

みなさまよいお年を。


本年のおもな収集品は以下の通り

掛軸: 原采蘋、服部擔風、頼三樹三郎、村瀬太乙、村瀬秋水、梁川星巌
色紙: 村瀬藤城、村瀬雪峡
折帳: 篠崎小竹、江馬金粟
写本:『行余堂近稿・述古斎詩稾』石井彭、『種邨親子筆』種邨恭節
和本:『高山竹枝』森春涛、『攝西六家詩鈔(含後藤松陰詩鈔)』、
『静軒百詩』寺門静軒、『松塘小稿』鈴木松塘、『清狂詩鈔』月性
『問鶴園遺稿』戸田葆堂、『鳳陽遺稿』神山鳳陽、『柳橋新誌』成島柳北、
『珮川詩鈔』草場珮川、『艮齋文略』『遊豆記勝・東省續録』安積艮齋

詩集など:
『生れた家』木下夕爾
『人間山岸外史』池内規行
『人間キリスト記』『眠られぬ夜の詩論』『煉獄の表情』山岸外史
『花とまごころ(増補活版)』竹内てるよ
『松村みね子訳詩集』
『音楽に就て』上林猷夫
『天地の間』藤原定
『干戈永言』『寒柝』『朝菜集』『覊旅十歳』『一点鐘』三好達治
『母』半井康次郎
『詩と詩人詩集』淺井十三郎 編
『鉄斎研究』本巻65冊 小高根太郎 (図書館納品)
『富岡鉄斎 仙境の書』野中吟雪

といったところ。
変ったものでは学生時代から敬愛する畑正憲先生の初版本とか(笑)。

しめて20万円ほどの購入は、他に耆むものもない自分として今年も分相応の散財でした。

http://

650やす:2013/01/01(火) 01:36:45
迎春
今年もよろしくお願ひを申し上げます。

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651やす:2013/01/11(金) 11:18:32
『菱』180号 モダニズム詩人荘原照子 聞書連載20回 松江の人々
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』180号を拝受。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 今回の荘原照子伝記連載は、終戦前後の松江在住時代が対象になってゐます。乏しい資料を補填するため、新たに現地に赴いた手皮様が当時の教会関係者にインタビューをされてゐるのですが、紀行的な運筆は導入部に故・杉山平一先生との手紙でのやりとりを配し、昭和初期の布野謙爾・景山節二ら松江高校文学圏を回想するとともに「椎の木」の分裂騒動が今一度言及されてゐます。さきの「季」97号での木股初美氏の記述はその先生側からの回想であることが判明しましたが、杉山詩の紹介など特段の配慮をたいへん嬉しく、拙サイトの紹介や、私信で御紹介与りました詩人菊池美和子の御遺族情報も忝く存じました。布野謙爾のプチブル資質をしっかり指摘されてをられるところには、手皮様らしさを感じます。

 さて詩人の在松時代の関係者から聞き取った内容と、詩人自身の聞書きテープとを照合する過程で、聞書きに現れなかったネガ証言として、故意に記憶から抹消されたと思しき鈴木といふ謎の女性のことが炙り出されて参ります。疎開といふべき田舎暮らしのなか、ハイブロウな芸術論談義を唯一共有できたといふこの同居人とは時に激しく議論を闘はせてゐたとのこと。すでに詩壇でも名を馳せてゐた彼女にとって一家言ある無名の後輩との共同生活の記憶は、総括すれば余り快いものではなかったのかもしれません。そしてこの地で洗礼し、正式なキリスト者として終末医療現場に身を置き、患者の心の支へになる一方で、自身の宿痾も悪化してたうとう長期入院することになったらしい。しかしその費用はどう工面してゐたのでせう?同居してゐた母は?

 死の恐怖・日々の生計と直面するのっぴきならぬ生活を送ってゐた彼女は回復の後、終焉の地となった鳥取へ移住し、手皮様と出遇ふこととなります。存在は知られてゐたものの永らく確認できなかった当時の写真が発見されるなど、判明した事実と疑問と、鳥取時代に入る直前の時代が一旦整理された格好の今回。羸弱な体でしたたかに詩作する面影は、聞書きから引かれた当時の歌「コツコツと小鳥の如く叩く音 いばりふと止めわれ応えたり」などといふ一首がよく伝へてゐるもののやうにも感じました。

652やす:2013/01/15(火) 23:36:23
(無題)
 手皮小四郎様より、さきの連載の杉山平一先生を語ったところを収めた「聞書きテープ」をお送り頂き、伝説の詩人荘原照子と手皮様の20年前の謦咳に初めて接しました。
 戦前詩壇の当事者御本人の口からポンポン飛び出す固有名詞といふのは語調、アクセントともに格別な響きありますね。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 また本日は田中克己先生の祥月命日。不肖の弟子もこしかた20年前当時の、不思議な精神状態だった自らを顧みては、人生の区切りとなる本年、不可視のゆくすゑに思ひをはせて一筆を草してをりました。

653やす:2013/01/16(水) 22:17:34
正月十六日夜
春夜二三更
等間出柴門
微雪覆松杉
弧月上層巒
思人山河遠
含翰思万端

都記由幾者 以川波安礼東毛奴者当万乃 気布能己余非耳 奈遠之可数計利

与板 大坂屋
維馨老尼       良寛


正月十六日夜

春夜 二三更
等間 柴門を出づ
微雪 松杉を覆ひ
弧月 層巒を上る
人を思へば 山河遠く
翰を含んで 思ひ万端

月雪はいつはあれどもぬばたまの けふの今宵になほしかずけり

http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/kanshi/ryokan/ryokan.html

654鸕野讃良皇女:2013/02/02(土) 13:05:08
ツイッターで呟くまずいかなと?
@cogito1967 こんにちは。貴ホームページの梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノートのなかに『華漢寺』と掲載がありますが、多分、『華溪寺』が正しいのではないかと思いますがいかがでしょうか?
今は水谷弓夫の事を調べています。また、お世話になります。

655やす:2013/02/02(土) 21:02:15
(無題)
鸕野讃良皇女さま、御教示ありがたうございました。もちろん『華溪寺』が正しいです。OCRの校正もれでせうか、お恥ずかしいかぎり。火曜日に訂正させて頂きます。
ちなみにcogito1967ではなくcogito1961です。余生をいかに過ごすか計画中。今後とも御叱正よろしくお願ひを申し上げます。

656やす:2013/02/15(金) 23:04:02
訃報
職場で教鞭を執られた相馬正一先生が亡くなられました(2013.2.5没 83歳)。御存知のやうに太宰治研究家として、山岸外史をめぐっては池内規行氏とは意見対立する一方、私めに於いては、かの編集拙き『夜光雲』をお買ひ上げ下さった数少ない恩人。御冥福をお祈り申し上げます。

657やす:2013/02/15(金) 23:07:52
道下淳先生遺著
 また昨年亡くなられた、同じく職場の非常勤講師であられた道下淳先生(2012.6.14没 86歳)の御遺族より、遺著二冊を御寄贈頂きました。こちらも文学研究者ながら、照準はすべて地元に向けられ、連載記事を集めた此度の二冊も謂はば岐阜県文学散歩の趣きであります。まずは私の興味深い近世近代の項に目を通してをりますが、江戸時代の漢詩人から、深尾贇之丞はもとより蓮田善明の若き日、短かった岐阜教鞭時代にまで言及してをられることには吃驚。単に文献を引き写しただけではない、本人の回想や生き証人に対するフィールドワークが何気なく盛られてゐることにも感銘を受けました。けだし岐阜女子大学には私も奉職二十年、同じ長良に住みながら、もっと早くに郷土文学研究の先輩として謦咳に接して置くべきであったと、後悔しても始まりませんね。以下に二冊の書誌と陣容を抄出して遺徳を偲びます。


『美濃飛騨 味への郷愁』(『月刊 ぎふ』連載の岐阜県の食にまつわる文学散歩)道下淳著 2012/7道下郁子刊行 221p

目次:
岐阜に泊ったクロウ …… クロウ『日本内陸紀行』
中山道の味 …… 森祐清尼『善光寺道の記』
高山の枇杷葉湯売り ……  田中冬二「織姫」
落ちアユのころ …… 葉山嘉樹 日記
ジカバチを追って …… 下佐見老人クラブ『ふるさと物語』
ああマツタケ …… 館柳湾「高山の官舎に題す」
ボタン鍋のころ …… 幸田露伴『酔興記』
美濃と飛騨の雑煮 …… 青木九兵衛 日記
冬の味ネブカ汁 …… 齋藤徳元『塵塚俳諧集』
だらり餅考 …… 森春濤「多羅里 餅を売る店―思案餅と呼ぶ」
春を食べる …… 福田夕咲『紅箋録箋』
卵の“ふわふわ” …… 十返舎一九『方言修行金草鞋』
油のような酒 …… 梁田蛻巌 「桂貞輔に寄す」
幻となった真桑瓜 …… 貝原益軒『岐蘇路の記』
郷愁を誘うカレー …… 安藤更生『銀座細見』
うまい秋サバ …… 徳山民謡 板取民謡
常食だった菜飯 …… 『おあむ物語』
コロッケ、青春の味 …… 森田草平『漱石の思い出』
しな漬と、かぶら漬 …… 滝井孝作『折柴随筆』
とち餅を食う平民社員 …… 「平民新聞」
豆味噌文化圏で …… 向田邦子「味噌カツ」
水を量る …… 『尾濃羽栗見聞集』
お好み焼きへの郷愁 …… 高見順『如何なる星の下に』
里と山のタケノコ …… 獅子文六「春爛漫」
西洋料理のこと …… 内田百?『百鬼園随筆』
蒲焼きを好んだ人びと …… 斎藤茂吉 歌
食事と初年兵 …… 森伊佐雄「新兵日記」
精進落としの鯉 …… 水上勉「美濃谷汲」
甘柿と渋柿 …… 齋藤道三 書状
辛口大根と甘口大根 …… 池波正太郎「真田騒動」
年とりのごちそう …… 江夏美好「下々の女」
おやきの系譜 …… 『飛州志』
いろいろな弁当箱 …… 高田米吉「米吉庵日和」
甘酒のこと …… 興津要編『五文六文』
いかもの食い …… 十和田操「土地官女」
塩煎餅の思い出 …… 滝井孝作「高山の塩煎餅」
お茶について …… 『酒茶論』
大垣の水まんじゅう …… 長塚節「松虫草」
とうふ料理のこと …… 久保田万太郎ほか 歌
にぎり飯の思い出 …… 高見順「敗戦日記」
栗のうまいころ …… 吉野秀雄 歌
鯉と少年 …… 斎藤茂吉 歌
オカラのはなし …… 五十嵐喜広『濃飛育児院』
ごへいもち …… 島崎藤村『夜明け前』
切り漬けのこと …… 江馬修『山の民』
鯛焼き …… 高村光太郎『智恵子抄』
まんじゅう党銘銘伝 …… 池波正太郎『むかしの味』
柳ヶ瀬コーヒー譚 …… 『柳ケ瀬百年誌』
塩イカ煮イカ生イカ …… 島崎藤村『夜明け前』
塩 …… 辰巳浜子『料理歳時記』
かき氷 …… 『枕草子』
旅とうどん …… 松崎慊堂『慊堂日歴』
高山の朝市・夜市 …… 早船ちよ「高山の朝市」
トウガラシの思い出 …… 角田房子『味に想う』
高山のねずし …… 日比野光敏『ぎふのすし』



『郷土史シリーズ 悠久の旅』(岐阜県PTA雑誌『わが子の歩み』連載)道下淳著 2012/12道下郁子刊行 377p

目次:
金華山伝説 因幡社縁起の背景
伊奈婆の大神 日本霊異記の背景
両面宿儺(上) 仁徳紀の背景
両面宿儺(下) 社寺縁起の背景
美濃の一の宮(上) 金属神の背景
美濃の一の宮(下) 梁塵秘抄の背景
美濃の二の宮 伊吹山説話の背景
流浪する美女(上) 小野小町伝説の背景
流浪する美女(中) 和泉式部伝説の背景
流浪する美久(下) 中将姫、照手姫伝説の背景
水を司る女神 泳宮(くくりのみや)伝承の背景
古代安八郡のなぞ 壬申の乱の背景
伊久良河の宮を考える 神鏡奉遷説話の背景
古代の心を探る(上) 神話伝説の背景
古代の心を探る(下) 神話伝説の背景
峠に鎮まる神々
続 峠に鎮まる神々
忘れられた古代の道
大和勢力の美濃進出
将門をまつる神社
防人の道
水没した輪中地帯
吉野神社のナゾ
飛騨の「おばこ」
「おかざき」を追って
青墓の遊女と今様
西行法師の跡を追う
忘れられた信仰
美濃の馬 飛騨の馬
美濃路での水戸藩士
芭蕉は二度来岐した
「ああ野麦峠」
映画化された「夜叉ケ池」
鑑真を招いた美濃僧 映画「天平の甍」にまつわる人物を語る
ふるさとの古川柳 飛騨の巻
川柳でえがく美濃の国(1)
川柳でえがく美濃の国(2)
異聞 飛騨の伝説
濃飛写真事始
隠れた婦人運動家 西川文子
悲劇の親分 弥太郎(上)
悲劇の親分 弥太郎(下)
「赤報隊」東へ
新選組伍長 島田魁(上)
新選組伍長 島田魁(下)
二人の新選組隊土 新選組と美濃
濃飛育児院をめぐる三人
岐阜での蓮田善明 岐阜第二中の教師
正眼寺と詩人 高橋信吉

問合せ先:〒502-0071 岐阜県岐阜市長良982-1 道下郁子様

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658やす:2013/03/24(日) 21:53:57
詩集のこと
 今週またひとつ年をとります。五十も二年過ごした爺となりますが、おもふところあって(もちろん相手もあってのことですが)今月再婚しました。公私ともに多忙となりさうな新年度を、些か面映ゆい新生活で迎へるにあたって、別段語るべき新しい文学的な抱負がある訳ではありません。けれどこんな節目を機会にこれまでの自分の詩作を“ちゃんと背表紙のある本(笑)”にまとめておきたい、と考へるやうになりました。
 久しぶりに十五年以上前の作物を読み返してみて思ったのは、自分の作風が気候や政治のレベルで現在真実に喪はれつつある日本の自然風土に頼りきりのものであり、自然と共生する発想を失ひつつある新しい日本人の目からは、書かれたとき以上に“お幸せな”孤立点として映るのではないかといふ惧れ、といふか感慨でした。
 読んで頂きたい詩人の皆様はあらかた既にこの世になく、もとより世に問ふといふ性格の本でもなく、四季派の詩とは無縁で生きてゐる人に配って歩くつもりもないですが、方々の図書館には寄贈しますので一瞥頂けましたら幸甚です。書斎に積み置かれた在庫を先達の詩集とならべて眺め、弔ひながら日々を覚悟のなかに過ごす、そんな風に今から観念苦笑してゐる次第です。

5月刊行予定『中嶋康博詩集』潮流社 限定300部 内容(「?夏帽子より」「?蒸気雲より」「?雲のある視野」)120ページ余 上製函付 頒価未定

本日より掲示板を自由投稿モードではなく日記モードとさせて頂きました。御指摘・御感想などございましたらメールにてお寄せ下さい。

659やす:2013/04/07(日) 23:00:35
論考「『希望』と命令」
 國中治様より杉山平一先生についての論考「『希望』と命令」を巻頭に掲げた「文藝論叢」79号(大谷大學文藝學會)、および文芸同人誌「愛虫たち」Vol.81 をお送り頂きました。ここにても御礼を申し上げます。ただいま年度初めの仕事に忙殺中のところ、まさにそれゆゑに、杉山先生について書かれた文章を毎朝少しずつ“味はふ”幸せを満喫させて頂きました。 いったいに四季派の詩作品については、論考をものしようと語れば語るほど読後感として野暮(無味乾燥の学問的論文)に落ちることも多いやうに思はれ、むしろ私などは気楽な立場から詩人のエピソードを集めた回想文の方を好むやうな下世話人間なのでありますが、そこはそれ、制作心情の機微に分け入って行く國中さんの筆鋒には、詩作者としての血が確と通ってをります。長年の交際事実に甘えることなく、杉山先生の「プライベートの楽屋内」ではなく「制作の楽屋内」を、誤解を避ける慎重な語り口を保持しながら、広範囲の文献を余さず浚って案内して下さる手腕を俟ってはじめて、学問的論文を味はふなんてことも有り得るんだらうなと(いつもながらのことですが)感じ入ってしまひました。 杉山詩の二大特長であるウィットとヒューマニズム。これの実例を挙げて詩人論を済ますひとが多いのですが、その根本事情として横たはってゐるのが、詩人が「正反対の感情や成り行きを想定せずにはいられない表現者」であるといふことを、いみじくも指摘してをられます。それはただ表現者の方法論としてさうあるだけでなく、祖国の敗戦・愛児との死別・実家倒産といった不条理な困苦が戦後の詩人に強いた、処世術以上の、その人の本性にまで焼きついた姿勢として詩作の外にあってもさうであった、といふことなのでありませう。さうして例へば私がいつも杉山先生の人徳として敬服する、小野十三郎と保田與重郎の双方に配慮するやうな心情、それが一点の打算もない自省に満ちたものである点などを顧みましても、合理主義を貴ぶ一方で最も日本人的な性向を受け継いでゐる、謂はば四季派詩人としての根本性格を、たしかにこの詩人も持ち合せてゐることが肯はれるのであります。自分の言動を相手がどのように感じ、どのように受けとめたか。それを絶えず相手の側に立って考えてみる。杉山はそういうひとり遊びのような習慣を身につけていたのかもしれない。17p  はしなくもそれが詩人の場合は、自虐史観を戴く戦後ジャーナリズムから独り特別視される理由となり、また同時にその安全地帯を無視して四季派を擁護し続けた信念ともなった訳であり、國中さんの論旨に全的賛意を寄せるとともに、「自分の怒りそれ自体に距離を置く」ところまで自らの良心を追ひ詰めてみせる、詩人の真摯な敗北主義については、同時にといふべきか、その素顔について、御遺族・地元の関係者から関西弁を基調とした楽しいエピソードをもっとお聞きしたい、とも思ったりしたのでした。 とまれ、授業評価と論文本数と広報業務と、三方からの要請に疲弊し切ってゐる昨今の大学の先生方と間近に接してゐる仕事柄のせゐでせうか、とくに感じることなのですが、斯様な、詩の愛好者が読んで快くなるやうな論文を書き上げ、紀要巻頭に示し得る國中先生のモチベーションと力量とには唯ただ快哉の声を叫ばずにはゐられません。四季派学会の今後がどうなるのか分かりませんが、今や実質的な代表者として益々の御健筆をお祈り申し上げる次第です。 ありがたうございました。

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660やす:2013/04/19(金) 09:55:29
モダニズム詩人荘原照子聞書き「近藤東、荘原を探す」
 手皮小四郎様より『菱』181号拝受。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 今回の荘原照子の伝記連載は、詩人の死亡伝説ならびに戦後ときを隔てて彼女が懐旧され探索され発見された事件(?)について。新聞の発見スクープについては本連載の初めにすでに詳しいですが、そこに到る経緯として最初に紹介されてゐるのは、同じく横浜のモダニズム詩人だった後輩の城田英子、木原孝一による、敗戦前夜の詩人を報告する回想文です (『詩学』1957.12『現代詩手帖』1960.5)。そして“戦友たち”と再会を果たした当時の貴重な写真が二枚。永らく詩壇と没交渉だった自分の生存事実が、新聞記事になるほどの話題となったことについての詩人自らの感想を、どのやうに手皮様が聞きとられたのか、交流を断った心情とともに連載初回時とは角度を変へて聞きたく思ひました。
 また表題のとほり、近藤東が彼女を捜索するために出した『週刊新潮』(1966.3.12号)の訪ね人広告のことが出てくるのですが、詩人をよく知るが故に死亡伝説を信じてゐた身近な人達ではなく、却って「他人とドメステイクな交際をあまりしない」彼だからこそ捜索にのりだすこともできたのではといふ手皮様の推測はなるほどです。皮肉屋の自己分析が妥当かどうかはともかく、都市型のモダニズム詩人として認知される彼に、岐阜のことを記したものは少なく、また北園克衛ほどに抽象的な抒情詩としても故郷を懐古することがなかった事情の一斑にも、確かにさういふ側面があったのかもしれません。

 それから編集後記ですが、Iといふ鳥取出身詩人の悪評が書かれてゐて、もしかしたら伊福部隆彦のことかとも思ったのですが、私の仄聞したところの氏の為人は、戦後に成った抒情詩篇そのままの純粋な、無名の才能を発掘したり、生田長江に篤く事へて兄弟弟子だった佐藤春夫が師の生身を疎んずるやうになったことに憤慨してゐた、などといふ、誠に侠気に富んだものばかりだったので、地元の詩人達に嫌はれてゐるのがその通りであるなら、意外のことに思ひました。たしかに気宇は大きく、転向の前歴もあり、前衛の自負が当たり前だった現代詩詩人の集まりからは、凱旋帰国もはなから色眼鏡の対象となってゐたのかもしれません。この段、私も当事者を知らぬ故いい加減のことは申されませんが、愛弟子の俊穎増田晃が戦後を生きて居たらとあらためて思はざるを得ませんでした。

 御身体ご自愛いただき、あと1〜2回で終へるといふ連載の完結をお祈りしてをります。ありがたうございました。

661やす:2013/04/23(火) 21:30:50
杉山平一追悼号:『ぜぴゅろす』『こだはら』『海鳴り』
 杉山平一先生御息女初美様より杉山先生の追悼号雑誌の貴重な余部をお送り頂きました。三誌みな未見のものにて、ここにても厚く御礼を申し上げます。

『ぜぴゅろす』9号 清里の森・自在舎
『こだはら』35号 帝塚山学院大学
『海鳴り』25号 編集工房ノア

 帝塚山学院大学と編集工房ノアは、杉山先生が長年馴染んだ、謂はば地元のホームグランド。前回ブログに記した「その素顔について、御遺族・地元の関係者から関西弁を基調とした楽しいエピソードをもっとお聞きしたい」と思ってゐたところを、多くの人々によって、それぞれ教員として詩人としての側面から窺ふことができました。
 『こだはら』では、大学の同僚であられた佐貫新造氏が杉山先生の笑ひ声について、本当にkaの発音で「カッカッ」と笑はれたと述懐する「杉山平一先生寸秒」や、女学生に「平ちゃん」と愛称された壮年時の面影ならでは逸話の数々が興味深く、また昨秋行はれた「杉山平一さんを偲ぶ会」に御招待いただいたにも拘らず出席できなかった私にとって、その進行の詳細が記された『海鳴り』掲載の「記録抄」は有難く、嬉しかったです。幹事を務められた以倉紘平氏の、現代詩人賞授賞式のために用意された一文はすでに『びーぐる」追悼号で読んでをりましたが、宝塚市長以下、八木憲爾・國中治氏ほか皆様の壇上での御言葉のほか、二百名余の満場が感じ入ったといふお孫さんのスピーチに触れることができ、まことにこれは販促誌の域を超える内容。その編集工房ノアを主宰する涸沢純平氏は、同誌に現代詩人賞授賞式の様子を報告する傍ら、別に『ぜぴゅろす』に一文を寄稿してをられます。
 この『ぜぴゅろす(西風) 』といふ雑誌、同名の詩集が杉山先生にありますが、高原にあって“関西からの風”先生の作品一篇を毎号巻頭に掲げ、四季の詩人たちに深甚の敬意を払ふ趣きがあります。御息女初美様の「父の思い出」の続きも載ってゐて、講演や原稿の依頼があるたび「えらいこっちゃと苦笑いしながら」娘に話をされた様子など、微笑ましく髣髴されたことです。
 茲に関係するページの目次を掲げます。
 ありがたうございました。



『ぜぴゅろす』9号 清里の森・自在舎 2013.4.20  \700

青風                     涸沢純平   24-26
杉山平一さんのこと              眉村 卓   68-69
希望について                 鈴木 漠   70-71
杉山さんの澄んだまなざし           三木 英治  72-75
杉山平一と経験の抒情化            中村 不二夫 76-78
「ぜぴゅろす」 に乗っかる          桜井節    79-81
父の思い出                  木股初美   82-85



『海鳴り』25号 編集工房ノア 2013.5.1 非売

杉山平一写真と略歴                     64
『希望』について              以倉紘平    65-68
おじいちゃんへの手紙            木股真理子   69-71
杉山平一さんを偲ぶ会 記録抄                72-83
足立さんに教えられたこと1993.8.7「夕暮れ忌」講演 杉山平一 84-94
東京日記                  (涸沢純平)   95-98



『こだはら』35号 帝塚山学院大学 2013.3.10 非売

瞬時とスピードの詩 −学院詩人杉山平一先生− 鶴崎裕雄 4-8
杉山平一先生を偲んで             長谷俊彦 9-11
杉山平一先生寸描               佐貫新造 12-14
杉山平一先生 −曲がり角の向こう−      河崎良二 15-19
杉山さんのこと                山田俊幸 20-22
プリズムのような −杉山先生のこと−     石橋聖子 23-26

杉山平一抄・『帝塚山学院大学通信』『こだはら』
詩鈔 27-64
長沖さんという存在(追悼文)               65-66
大谷晃一『文学の土壌』(書評)              67-68
弥次馬(エッセイ)                    69-71
小野十三郎『環濠城塞歌』(書評)             72-73
米倉巌氏の三著を読む(書評)               74-79
庄野英二詩画集『王の悲しみ』(書評)           80-83
庄野英二詩画集『たきまくら』(書評)           84-86
庄野作品のユーモア(追悼文)               87-90

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662やす:2013/04/30(火) 07:14:57
詩人平岡 潤――4人目の中原中也賞
 杉山平一先生が戦 前に受賞した「中原中也賞」。長谷川泰子が寛大な夫である中垣竹之助氏の経済力を恃んで興した雑誌「四季」ゆかりの文学賞である。詮衡が「四季」の編集方 に委ねられ、「文藝汎論」の詩集賞と較べると、より「抒情詩に対する賞」の性格が強い。第1回は昭和14年、亡くなった立原道造に、第2回は雑誌の遅刊が 続いたため昭和16年に2年分として杉山平一、高森文夫の2名に。そして第3回が昭和17年、平岡潤に授与され、以降パトロン中垣氏の事業悪化により途絶 した。 立原道造はもちろん杉山平一、高森文夫のお二方も昭和期の抒情詩史を語る上で名前の欠かせないひとであるが、平岡潤といふ詩人の知名度は如何であらう か。戦後、地元三重県桑名市で地域文化の顕彰にあたり、市史の編纂をなしとげた偉人であるが、賞の詮衡対象とされた詩集『茉莉花(まりか)』は、刊行部数 がたった 120部しかなく、古書でも目に触れることは殆どない。そして投稿の常連者であったのに、戦後、「四季」が復刊される時に彼の名前が無いのである。彼はま た、自由美術家協会から協会賞を受けたといふ絵画界からも遠ざかってゐるが、しかし中部地区の詩人が(在住を問はず)一大集結した『中部日本詩集』(昭和 27年刊)に参加せず、巻末の三重県詩壇の歴史展望の際にも一顧だにされぬといふのは、奇異でさへある。 これは詩集『茉莉花』が軍務の傍らに書き綴られた詩篇を中心とし、伏字を強いられた作品を含みながらも、その作品は旧帝国軍人の手になるもので、彼は戦 意高揚の詩人である、とい烙印を捺されたからなのであらう。多年の軍歴は公職追放をよび、彼は教師の地位からも追はれ、已むを得ず古書店を始めるに至った が、奇特なことに店を繁盛させることより地域資料の散逸をふせぐに遑なかったらしい。これだけの逸材を世間が埋もれさせる訳はなく、中学時代の恩師から詩 史編纂に協力するやう声がかかったのは、むしろ当然の成り行きだったかもしれない。 けだし詩人が戦後、詩壇ジャーナリズムから黙殺・抹殺の憂き目に遭った事情は、岐阜県出身の戦歿詩人山川弘至と同じであり、その後現在に至るまでの詩壇 からの冷遇が能くこれを証してゐる。彼の場合は、なまじい戦争に生き残って、しかも一言も抗弁することなく、故郷に逼塞して歴史顕彰に勤しむやう、自らを しむけなければならなかった。その心情は如何ばかりのものであったらう。南方で米軍に降伏、収容所生活にあっては、ダリの紹介記事を翻訳したり随想をした ため、戦後の文学活動復帰に十全の備へを怠らなかった彼であった。詩才のピーク時を示す「錨」などの詩篇に顕れてゐる丸山薫の詩に対する理解の深さ、そし て授賞時の言葉を考へると、隠棲した豊橋で中部日本詩人連盟の会長に担がれた丸山薫本人から、なにがしかの再起の慫慂がなかったとも思はれ難い。なにより 詩人自身に、さうした文学への思ひや未練を記した雑文 は残ってゐないものだらうか。事情を取材すべく詩人の遺稿集『桑名の文化―平岡潤遺稿刊行会 (1977年刊)』にあたってみた。 桑名の図書館まで足を運んだものの、文学の抱負が記された自筆稿本『無糖珈琲』は未完のまま埋もれ、遺稿集には地元の歴史文化に対する随想が収められて ゐたが、自身の詩歴をめぐる類ひのものは一切得られなかった。むしろ詩を共に語るべき師友のなかったことを、却って物語ってゐるやうな内容であった。なか に引用されてゐる新聞記事も、彼が画家として立つことができなかったことは紹介してあったが、晴れがましい詩歴については触れられてゐなかった。もっとも 巻末には稀覯詩集『茉莉花』の全編ならびに戦前の拾遺詩篇の若干が収められてをり、詩人が眠る市内昭源寺境内には、立派な「詩碑」が建てられてゐるのを 知った。わたしは早速その足で墓参に赴いた。 詩人は昭和50年、郷土史の講話の最中に仆れたといふ。そのため詩碑の建立は詩人の遺志であったとは云ひ難く、その人望の結果であるには違ひない。そし て決して恥じることのない戦前のプロフィールも、地元では尊敬を以て仰がれてゐたことを証するかのやうに、碑面に刻まれてゐたのは彼の郷土史研究の功績で はなく、若き日に自らの前衛絵画を以て装釘を施した、晴れがましい中原中也賞受賞の詩集書影。そして戦後間もなく、未だ詩筆を折ることを考へてゐなかった 時代に、詩的再出発の決意を宿命として表した「名誉」といふ一節が選ばれてゐたのであった。  名譽 詩人は生まれながらにして傷ついてゐる。傷ついた運命を 癒さんために、彼は詩を創るのではなくして、詩を創ることが、傷ついた運命の主なる症状なのである。不治であるといふことは彼の本来の名譽と心得てよい。 昭和二十一年七月十日             平岡潤                 (未刊の自筆稿本『無 糖珈琲』第25節に所載の由) 生涯独身を貫き「郷土史研究がワイフ」とうそぶいてをられた詩人。財産を遺すべき子供の無く、代りに建てられた一対のレリーフの間を“一羽の可憐な折り 鶴”が繋いでゐたのは、その折り方を考案した地元僧侶の顕彰活動に努めたからといふより、なにかしら詩人の「本来の名誉」の鎮魂のために ――、と思はれて仕方が無いことであった。(2013.4.30up) 茲に詩集『茉莉花』の全書影と、初出雑誌の一覧、そして遺 稿集の巻末に久徳高文氏がまとめられた年譜と後記を掲げます。謹んで詩人の御魂と御遺族に御報告するとともに、塋域および御遺族情報を御案内いただきまし た昭源寺様に御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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663やす:2013/05/19(日) 19:08:25
杉山平一先生一周忌
本日は杉山平一先生の一周忌です。御魂に御報告すべき拙詩集は、刊行が祥月命日に間に合ひませんでした。すでに校了し、月末頃にできあがる予定です。寄贈者へお配りしたのち、あらためて御報告御案内申し上げたく存じます。さて、杉山先生を支柱に仰いだ同人誌「季」に年長者として参加されてゐた詩人、清水(城越)健次郎氏の戦前の詩集『失ひし笛』を手に入れました。三好達治から「これは面白いね」と批評されたのは、“ミニ『南窗集』”といふべき外装をふくめてのことでありませう。「季」の先輩同人二氏による追悼文とともに御紹介します。このたびは他にも北国の詩人たちの詩集を4冊、そして雑誌「詩魔」のバックナンバーも4冊入手しました。「詩魔」は、名古屋で廃刊した「青騎士」と踵を接して、当地岐阜から創刊された詩誌。同時期の『牧人』と同様、版型や囲み枠など「青騎士」を意識した豪華な造りです。今週より出張が続きますがおちついたら順次紹介したく、お待ちください。周旋頂いた古本先輩からは別に稀覯詩集の画像も多数お送り頂き、ここにても感謝申し上げます。ありがたうございました。

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664やす:2013/05/31(金) 00:24:20
相馬御風旧宅
 先週今週と2週間かけて全行程2200kmにのぼる新潟県大遠征の出張を敢行、携行した本は満足に読めませんでしたが、帰路糸魚川では良寛禅師を思慕した相馬御風の旧宅に立ち寄ることを得、宮大工の旧家の出であった詩人の神経が行き届いた日本家屋のゆかしい造りを堪能してきました。一階仏間から眺められる雪落しの為の坪庭や、浜風が通り抜けて行く二階の書斎など、この季節の眺めは羨ましい限りでしたが、ことさら冬はさびしい故郷に帰り、同じ北越の風に吹かれる環境に身を置いて良寛の生き様を祖述し続けた相馬御風の後半生は、隠栖といふより、“生涯現役”の中身を、真に自足した後半生を送ることに見出し得た田舎暮らしの理想でありませう。床の間には、戦前に頒布された桝澤清作の、私が入手した御風箱書の銅像と同じ鋳像が飾られてをり、感慨無量でした。

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665やす:2013/05/31(金) 00:34:13
帰還後に
 大牧冨士夫様より『遊民』7号を拝受、ありがたうございました。
『中野重治書簡集』覚書は、大牧様宛の一通について本人による解説が付されることで大冊の資料的価値が補強されるとともに、中野重治との個人的な思ひ出の再確認の後ろ盾として斯様な大冊が与ってゐることに、感慨も感じていらっしゃるのがわかる一文。そして「船木山の滑走路」の話は大東亜戦争をめぐる貴重なオーラルヒストリーであり、村松陸軍少年通信兵学校(新潟県五泉市)の話が出てきますが、私も出張の折に一度立ち寄ってみたいと思ひました。

 また前の掲示板にて触れました清水健次郎氏の御子息より、御尊父の遺著にして、戦前に刊行された詩集の集成を含みます『麦笛』の貴重な残部を御寄贈頂きました。出張より帰着したばかりのことにて本当にびっくりしてをります。いかなる符合か、わたくしもこのたび集成詩集を刊行することとなり、ただいま発送の準備に追はれてゐますが、四季派に親しい戦前詩人の言葉のひびき、香り高い内容については、あらためて御紹介させて頂きたく、とりいそぎの御礼を申しのべます。ありがたうございました。

666やす:2013/06/01(土) 21:30:25
お詫び
 出来上った拙詩集の背表紙の箔押ですが、製本屋が訂正を要求してくるままに任せきりにしたところ、とんでもないセンスで上がってきてしまひました。このまま皆様に送り出す勇気なく、やり直しをしたいと思ってゐます。

 そのため五月晦日の刊行日はそのままに、発送が遅れることになりました。本冊中身と函は思ひ通りに作って頂いたので、不取敢“函の写真だけ”お披露目させて頂きます。

 著者の意図とは異なる装釘はいづれ各地の図書館にて確認することができると思ひます。(図書館版:として20余冊は発送済、さらに追加発送の予定)

 作り直した「正規版」第一陣発送は、6月29日の予定です。
 7月に入ってあらためて刊行報告と御案内を申し上げます。

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667やす:2013/06/23(日) 00:00:50
受贈雑誌より
「稀覯本の世界」管理人様より、杉山平一先生が執筆する種々の詩誌バックナンバーをお送り頂いたので幾つか御紹介。●「現代詩」(No.24:昭和23年10月)は、戦後まだ出版事情の悪いなか、無傷だった新潟北魚沼郡の淺井十三郎の根拠地「詩と詩人社」を使ひ、編集をそっくり中央に預けて刊行された雑誌。日本現代詩人会の母体となった錚々たる同人の顔ぶれをみるに、巻頭に掲げられた杉山先生の詩論「詩に於ける肉声」の筆致がめづらしく力んでみえる理由もなるほどと納得される貴重な一文。●「詩学」(No.40:昭和26年8月)は、「現代詩手帖」とともに戦後ながらく詩壇の公器を以て並称された雑誌(2007年に廃刊)。特集「死んだ仲間の詩」として立原道造以降、亡くなった若い詩人達17名の回顧・紹介が行はれてゐる。死後にデビューしたといってよい森川義信や楠田一郎のほか、加藤千晴、西崎晋、饒正太郎といった人達が挙げられてゐるところに注目。杉山先生は津村信夫について、例の「小扇」から触発されて詩の世界へ入った思ひ出を草されてゐる。この雑誌、しかし目を引くのは匿名編集子による「詩壇時評」と「MERRY GO ROUND」であらう。ことに木原孝一と思はれる後者の毒舌ぶりが酷い。おそらくは物議を醸し、俎上に載せられた詩人も腹の虫が到底おさまるまいところを添付した(「女性詩をめぐって」の項)。とくに戦前モダニズム傘下にあった江間章子・中村千尾らの「劣化」に対してはげしく不満を爆裂させてゐるのだが、これは批評子が前項で「北園(克衛)氏の娯楽的模倣者」に対して放った攻撃と同様、所謂「荒地派」のポレミックなスタンスを前世代のノンポリ先輩たちに向けて投げつけたものにすぎない。むしろ抒情詩の正道をぶれずに歩んでゆく永瀬清子の作品を、寄稿者でもあるためであらうが、ひき較べて高く評価してゐる。前項でも北園克衛本人については、その独自の純粋性を以てあからさまな批判だけは留保してゐるが、この「マダムブランシュ」ばりの匿名子の毒舌にかかると「アバンゲールvsアプレゲール」といふ対立も皮肉っぽく「アスピリンエイジvsアトムエイジ」などと書き換へられる。本誌には木下夕爾が戦後に問うた詩集のタイトル詩篇である「笛を吹くひとよ」も載ってゐるが、彼もまた抒情詩系の雑誌「地球」では、そのスタンスを秋谷豊から社会的に飽き足らぬと批評されてゐることを思ひ出した。批評精神の欠如とやらに対する手厳しさといふのは、近親する者に対する程なかなかにやっかいなものであったらしい。●「詩」 (No.10:昭和52年10月, No.12:昭和53年7月, No.18:昭和55年1月)第4次「四季」廃刊後、会員たちが東西で「四季」の名を「詩」と「季」に分けあって発刊した、これは関東の方の機関誌である。あんまり漠然と座りが悪いので「東京四季」と改めたのだと聞いた。10号には杉山平一先生の詩集『ぜぴゅろす』に寄せられた各氏の書評。「ひと世代」前の長江道太郎氏からの一文に感じ入る。18号では『夜学生』寄贈に対する各氏からの礼状のなかで、明晰を旨とする自負を込めた「ピラミッド」を認めてくれた中野重治に対する私かな恩義と親愛が語られてゐる。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

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668やす:2013/06/23(日) 00:37:14
受贈雑誌より 2
●「木いちご」 (No.1:昭和4年4月)

わが蔵書中、とびきりお気に入りの一冊が『木苺』(昭和8年 椎の木社刊行)といふ詩集である。その著者である山本信雄自身が主宰者となってゐる昭和初年の詩誌も、また同時にお送り頂いた。もちろん初見である。

以前このサイトで「食パン型」サイズの詩集の系譜について語ったことがあったが(四季派の外縁を散歩する第01回、第13回)、この一冊の発見によって、方形に近い特殊な詩集のサイズが、タイトルとともに永らくこの抒情詩人のうちに温められてゐたことが判明した。詩集中に「木苺」といふ同名タイトルの詩は収められてゐない。名も形も共にまた随分さかのぼったところに偏愛の灯はともされてゐた、といふべきである。まことにささやかなこの雑誌が何号続いたかは知らない。けだしその未来に作られる詩集の原型と、彼の代表作である「紗羅の木」一篇を世に送り出したことにのみ、意義を認め得る雑誌であった、といってよいかもしれない。

内容は出張帰還後、サイト上に公開したい 。

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669やす:2013/06/26(水) 21:46:35
山川京子歌碑除幕式
 岐阜県郡上市旧高鷲村の山中にある国学者詩人山川弘至の実家の裏山には、戦歿した詩人を追慕顕彰する目的で昭和33年、故郷の自然を詠んだ、身の丈に余る巨大な歌碑が建立されてゐる。

「うらうらとこぶし花咲くふるさとの かの背戸山に遊ぶすべもがも」

 その隣に、このたび新しく少し小ぶりの山川京子氏の歌碑が建ち、除幕式が行はれた。短歌結社「桃の会」の世話役であり靖国神社の権禰宜でもある野田安平氏が祭司となり挙行された式典には、御遺族をはじめ桃の会や地元関係ほか30余名の列席者があったが、末席に私も加はり見守らせて頂いた。碑の前で、詩人の弟君である清至氏が義姉の成婚70年をふり返へり、敗戦間際の僅かなひとときを共にされた純愛と、そののち今日にまで至る貞節、そして亡兄の顕彰活動の尽力に対して、感無量の涙を浮かべられた挨拶が印象的だった。また「斯様な記念物は自分の死後に」「せめて長良川の小さな自然石で」といふ本人の希望は叶へられなかったさうだが、強い意向であらう、両つを並べず、まるで夫君を永久(とは)に見守らんとする如き位置に据ゑ置かれた京子氏のお気持を忖度した。いしぶみに刻まれたのは、今年92歳になる未亡人が万感の思ひをこめた絶唱である。

「山ふかくながるる水のつきぬよりなほとこしへのねがひありけり」

 岐阜県奥美濃の産である抒情詩人にして国学者であった山川弘至とその妻、歌人として生きた山川京子は、一者が一者を世の無理解から護り顕彰することで、現代から隔絶した鎮魂が神格化してゆき、逆に今度は一者が一者の祈祷を後光で見守らんとする、もはや不即不離の愛の一身(神)体といふべき、靖国神社の存在意義を示した象徴的存在であり、祭主である京子氏は、同時に国ぶりの歌道(相聞)を今に伝へる最高齢の体現者であるといってよいのだらう。私にとっても杉山平一先生が逝去され、戦前の遺風を身に帯びて文学史を生きてこられた風雅の先達といふのは、たうとう山川京子氏お一人となってしまった。主宰歌誌「桃」が終刊した後に、余滴のごとく続いてゐる「桃の會だより」には、それがいつでも絶筆となって構はぬ覚悟を映した詠草が掲げられ、和歌の良し悪しに疎い私も、毎号巻頭歌だけは瞠目しながら拝見してゐるのである。

 式次第には山川弘至の詩が一篇添へられ、野田氏によって奉告の意をこめ同時に読み納められた。6月の緑陰の深い式典会場には、詩篇そのままに谷川が流れ、ハルゼミがせつなげに鳴きはじめ、まさに京子氏が詩人を讃へた「高鷲の自然の化身・権化」を周りに感じながらの梅雨晴れの一刻であった。かつては山々も杉の木が無節操に植林されることはなく、今よりさらに美しい姿を留めてゐたことを京子氏が一言されたのも心に残ってゐる。

  むかしの谷間
               山川弘至

むかしのままに
青い空が山と山とのあはひにひらき
谷川はそよそよとせせらいで
屋根に石をおいたちいさな家のうへ
雲はおともなくゆききした
夏 青葉しげつて夏蝉が
あの峡のみちに鳴いてゐた
あのころの山 あのころの川
そして時はしづかに流れてゆき
雲はいくたびか いくたびか
屋根に石おいたちいさな家々のうへを
おともなくかげをおとしてすぎ
私のうまれた家のうすぐらい
あの大きな古い旧家の玄関に
柱時計は年ごとにすすけふるぼけて
とめどなく時をきざんで行つた
あの山峡の谷間のみちよ
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの家々はちらばり
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの伝説はねむりつつ
ふるきものはやがてほろび
ふるきひとはやがて死に
あの山峡の谷間のみちよ
今眼とづればはろばろと
むかし幼くて聞いた神楽ばやしの笛太鼓
あの音が今もきこえてくる
あのころの山かげの谷間のみち
ゆきつかれ かの山ほととぎす
鳴く音 きいた少年の日よ
そしてあのみちばたで洟たらして
ものおじげに私をみつめたかの童女らよ
今はもう年ごろの村むすめになったらう
そして私はもう青年より壮年に入らうとし
時はしづかに流れ
あの石おいた谷間の家々のうへを
雲は音もなくすぎてゆき
夏となれば又せつなげに
夏蝉が鳴くことだらう
                   詩集『ふるくに』(昭和十八年)所載

 部外者が訪れることも稀なこの谷間には、石碑とは別に、御二人の記念品をおさめた記念館も建てられてゐるが、「タイムカプセル」の未来がどうなるのか、日本文学そして靖国神社や国体の行末とともに、それは私にもわからない。しかし五百年、千年の後にも、開発とは無縁のこの奥深い美濃の山中に、一対の歌碑だけは変はらず立ち続けてゐるだらうことは、自然に信ぜられる気がした。けだし前の大戦にしろ遠い過去とはいへまだ100年も経ってゐない。はるけき時の流れについて、なにやら却って無常の思ひにふけりながら山路の高速道路を帰ってきた。只今の京子様には何卒おすこやかに、健康と御活躍を願ふばかりだが、式典後、記念館に展示された新婚写真をしげしげと見入る参列者に向かって、「そんなにみつめなさんな」と笑顔で叱るお姿に意を強くしたことである。(2013.6.26)

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670やす:2013/07/07(日) 20:06:09
【広告 『中嶋康博詩集』 】
背の箔をやりなほした為、刊行日はそのままに、御案内が遅れました。

2013年5月31日 潮流社刊 126p 21cm上製 付録8pつき
内容?:夏帽子(1988)より?:蒸気雲(1993)より?:雲のある視野(拾遺篇)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024473296-00

A 函つき版(背箔) :販売用1500円
B 函なし版(背題簽):寄贈用

 思ふところあって、自分のこれまでの詩作のあゆみを一冊にまとめることにいたしました。
 版元潮流社には在庫はございません。一般書店では販売してをりません。 amazonにてお求め下さい。

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671やす:2013/07/07(日) 20:20:05
「ぎふ快人伝」
 本日岐阜新聞8面「ぎふ快人伝」に、詩人深尾贇之丞の紹介記事が掲載されました。

「ほかとは調和のない墓碑は、贇之丞と須磨子を物語っているよう。墓碑を建てることで、須磨子の中で岐阜との決別を打ち立てたのかもしれない(深尾幸雄氏談)」

 職場のあります岐阜市太郎丸出身の詩人、深尾贇之丞の事績がこのやうに大きく紹介されたのは初めてのことです。 これを機会にもっと多くの人に認知されたらと思ひます。取材に訪問下さいました岐阜新聞佐名妙予様に御礼申し上げます。ありがたうございました。


【追記】
 なほ、新聞記事掲載後に佐名妙予様より御連絡あり、元岐阜市教育委員長の後藤左右吉氏よりの指摘として、昭和29年に岐阜で須磨子に会ひ、その際「なぜ岐阜にいらっしゃったのですか」と聞くと、「夫が岐阜出身で、お墓参りに来ました」と話したとのこと。お忍びでだったかもしれませんが、とまれ岐阜に一度も足を運ばなかった訳ではないことについて、事実を追記いたします。

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672やす:2013/07/09(火) 22:49:12
『菱』182号 モダニズム詩人荘原照子 聞書
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』182号をお送り頂きました。今回の荘原照子の伝記連載、看板である聞書がないのに内容がいつもにもまして濃く思はれたのは、連載も終盤に入り、手皮様が荘原照子の詩のありかた、つまり詩人の姿勢に対して正面から取り組まれてゐるからに相違ありません。丁度雑誌を頂く前に、文章中に触れられてゐる詩誌『女性詩』について、木原孝一が『詩学』(昭和26年8月号)の批評欄で江間章子らに散々噛みついてゐる様子を紹介したばかりだったので、その符合にまづ吃驚。
 そしてその荒地派の詩学に馴染んでこられた手皮様が、自身の立場とは異なるのは承知の上で、荘原照子が戦後復帰し綴った随想「ちんぷんかん」で韜晦してみせた自恃を俎上に上します。

 荘原は六十年の半生を振り返った時、自分を「旅人」「異邦人」「ちんぷんかん」と観じなければ、どうにも説明できなかったし、むしろそこに自己のアイデンティティーを求めるほかなかったんだと思う。

 ただここで改めて問い直したいのは、荘原にとってあの戦争はなんだったかということである。

 たしかに彼女の詩が作られるのは、抒情詩人のやうな求心的な在り方でも、社会詩人のやうな糺弾的な在り方でもない。その拡散的手法に対しては意図の不明瞭を難じつつも、手皮様はしかし、モダニズムによる豊穣なイメージ効果については惜しみない賞讃を、また現実逃避のその切実さについては同情を寄せられてゐる。つまり総括してやはり他のモダニズム詩人達とは違ったものを感じ取られてゐる。それは伝記事項の探索を通じて深められてきた詩人に対する理解の結果でありませうし、モダニズム詩が作られるモチベーションを作品だけから窺ふことには限界がある、といふことでありませう。モダニズム作品には的外れな断定評価の危険が常にあるといふこと、それは例へば神戸詩人事件で起きたやうな、当てこすりを邪推する検閲の側からばかりでなく、積極的に評価したい場合にあっても、その人の実際の生活を、つまり木原孝一がいふ「作品以前」の詩人の生き様をみてみないとわからないといふこと。喩へてみるなら童話の「ごんぎつね」のやうなところがあるのかもしれません。詩句の意味を完全に解説することができない彼女の作品の数々、その背景への探訪を、モダニズムに疎い私ですが、これまで手皮様の後に就いて御一緒させて頂いてきました。そのなかで私が一番に思ったのは、手皮様が故意に突き放して記すほど明らかになる、彼女のいじらしさでありました。

 次回はたうとう最終回の由。無事の完結をお祈りするとともに、単行本化を見守ってをります。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

673やす:2013/07/19(金) 09:53:23
『多喜さん詩集』
 詩集をお送りした方々から少しづつ受領のお便りを頂戴してをります。普段はSNSでやりとりしてゐる方からも、郵便で礼儀をつくされるのは嬉しいことです。
 またお返しに新刊本をお送り頂きました方々には、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 サイト関連の詩書では、金沢の亀鳴屋、勝井隆則様から頂いた新刊詩集『多喜さん詩集』(外村彰編)に感銘しました。『井上多喜三郎全集』も『近江の詩人 井上多喜三郎』も、それから詩人に宛てた『高祖保書簡集』も職場の図書館へ寄贈してしまって、手許には詩人に関する本が一冊もなくなってしまったので、此度の選詩集は末永く愛蔵します。またそのやうに手許におきたい手触りやサイズは、限定本出版をこととする亀鳴屋が常に心掛けてゐるところ、このたびも詩人と編者と刊行者とのいみじい三位一体の産物であります。披けば巻頭の、詩人が縁側で和んでゐる写真、そして詩篇では選者の眼のつけどころでせうか、小動物によせるユーモア・ペーソスがなんともいへません。

 井上多喜三郎(1902−1966)は、高祖保や田中冬二と親近してゐたといふことからも分かるやうに、堀口大学の『月下の一群』初版1925新編再版1928刊行時にリアルタイムで決定的な影響を受けた(「四季」で育った詩人達よりはやや先輩の、)知的抒情詩をものした詩人、そして木下夕爾同様、家業のために田舎に隠棲を余儀なくされた典型的なマイナーポエットの一人です。戦前は作品よりも地方発の瀟洒な装釘の刊行物で書痴詩人たちを喜び驚かす趣味的なディレッタントとしての位置づけに甘んじた詩人ですが、過酷なシベリア抑留体験を経て詩風が変貌。それが批評精神を身に帯びた戦後現代詩風にではなく、人柄も変わらぬまま優しさを帯び、人間の懐が深くなったところを示して、詩人として一皮むけたのは稀有のことに思ひます。若年には彼を苦しめただらう地方暮らしも、抒情全否定の中央詩壇から遠ざかる環境として彼を守りました。
 昭和41年に突然みまった輪禍、関西詩壇の重鎮に推されるのは時間の問題だった詩人の早すぎる死を、コルボウ詩話会、近江詩人会にあった天野忠から田中克己 をはじめ、様々な詩風の多くの詩人達が悼みました。詩作品に先行してその人柄が、地域の人々に、そして詩壇の気難しい誰彼からも愛された詩人の作品集は、どれもこれも極少部数の限定版ばかりでしたが、今、現代の読者に愛されるための詩集が、資料的な側面の強い全詩集とは別に一冊、彼の造本センスを襲った姿を得て世に送り出されたことに、慶びを申し上げる次第です。ありがたうございました。

  犬

炎天の道の辺で
うんこをしている犬

少しばかりのぞいているのだが
うんこはかたくて なかなかでてこない

彼はうらめしそうに 蝶々をながめながら
排泄と取り組んでいた



  慣

雄鶏の首をひねる
ぎょろりと目をむいているそいつの 羽毛をむしる
じゃけんになれたそのしぐさ

手にあまった抵抗が
急に抜ける
私はとまどう
神さまこれでよいのでしょうか

雌鶏たちは
相かわらず玉子を産んでいる



  夕

ときどき山雨(やませ)がゆきすぎる
竹樋が咳をする

捻飴(ねじりあめ)のようにでてくる水だ
ちよっぴり苔のにおいがする

水溜には豆腐が泳いでいた



『多喜さん詩集』井上多喜三郎  外村彰 編
15.2cm 並製 糸かがり 208頁 限定536部 1600円(税・送料別)

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674やす:2013/08/17(土) 23:38:30
承前 『クラブント詩集』目次
序詩
 どこから
 言葉がなかったら

第一の圏より
 おれは来た おれは行く
 哀れなカスパール
 どんな町にも
 反語的風景
  褐色の畑の波だつ連り
  灰色のぼろを着たごろつきの列のように
 大きな鏡窓の中で
 眠れぬ夜
 夜明けに
 川は静かに
 トルコ椅子の上で
 ハンブルクの娼婦の歌
  バラッド
  ソマリーの女ども
  アパッチの別れ
  酔っぱらいの歌
  神々しい放浪歌人
   1.おれのからだは毒の飲物が
   2.おれは臆面もなく
   3.おれは一人の女を
   4.お前の持っているものは
   5.おれは良心の呵責に
   6.これを名残りと
   7.ああ失ったものは
   (8.もう一度お前の鳥を) 落丁
 酒飲みの歌
 沈みゆく感惰のなかに
 おれは全くのひとりぼっち
 夜な夜なさすらうおれは
 アローザヘの馬車の旅
 ルガノ湖畔にて
 谷を見下して
 イタリアのドイツ人
 初冬
 田舎町のクリスマス
 いつかはこんなになるだろう
 (おれは白昼に眠った) 落丁
 お前だけ

第二の圏より
 おれは愛情のみでこの世に生れたのに
 皇帝の歌(アダム・ミツキエヴィツチュにより自由に)
 朝が赤いトランペットを
 おれは音この国にいたことがある
 秋の歌
 瀕死の兵士
 ドイツの傭兵の歌
 墓掘り人夫
 おれは故里へ帰ってきた
 葉が落ちる
 支那の戦争詩
  別離
  徴兵官(杜甫により白由に)
  ゴビの砂漠の戦い(李太白により自由に)

第三の圏より
 小さな歌をうたつてあげようか
 さあお前の手を
 あたりはお前の香りで一ぱいだ
 もとのように
 果しない波
 許してくれ
 夏が来ると
 熱
  1.ときどき道路工夫が
  2.金髪の女よ
  3.シスター
 (時間が止まる) 落丁
 ぶらんこ
 お前も
 毎日おれは改めて
 白頭の歌
 今は苦情もない
 放たれた矢(ハーフィスにより自由に)
 すべてこの世のことは

第四の圏より
 原人
 おれは見た
 春の雲
 イレーネ頒歌
 すばらしいことではないか
 お前は永遠に愛するか
 まだおれの指先に
 さあ黙って坐って
 樽で明るく
 マロニエの燭台に
 谷で小さな山羊を見た
 おれの悲惨の歌を
 おれは女房を失った
 抱いてくれ
 おれの足許に
 おれの小さな妹を
 樹林教会の合唱席で梨が
 草原から霧がのぼる
 人間より何が
 手で顔を覆って

第五の圏より
 芸者
  夜の叫び
  私はこわい
  漆塗りの酒器の中に
  夜が白む
  釜は歌う
 荒くれ猟師
 老人
 盲人
 主なる神がこの世を回られたとき
 少女と聖母
 クリスマス物語
 杜甫より李太白に
 老子
 神様のところへ行くとき

(あとがき) 未完

675やす:2013/08/17(土) 23:41:16
『クラブント詩集』板倉鞆音 編訳
 残暑お見舞申し上げます。 お盆も終はり、まだまだ秋の気配には遠いですが、拙詩集に対し皆様から頂いた温かい御言葉を読み返し、また合せて御返礼にお送り頂いた編著書・刊行物の数々をゆるゆる拝読してをります。『クラブント詩集』板倉鞆音 編訳 全141p 21cm和綴 和紙二色刷りの、まことに瀟洒な装釘の和本仕立ての詩集をお送り頂きました。なぜか刊記(奥付)がありません。なのでどこの図書館にも所蔵はありません。せめて制作メモのやうなものでも巻末に付されるとよかったのですが、おそらく刊行時のものと思はれるレポートがありましたので参照ください(daily-sumus2009/12/08)。御寄贈頂きました制作者の津田京一郎様には、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。 クラブント(Klabund :1890-1928)はドイツの詩人ですが、これも板倉鞆音氏の訳で有名なリンゲルナッツ(1883‐1934)と同様、第一次大戦後の混乱期、批判精神とペーソスたっぷりの青春を謳歌し、ナチスによって“退廃芸術”が一掃される前に、さっさとこの世から退場してしまった無頼派の詩人のやうです。生前すでに鴎外の『紗羅の木』(1915)に訳出されてをり、このブログでも紹介した『布野謙爾遺稿集』でも度々の言及のある、戦前の詩人たちにとっては同時代の最先端海外詩人の一人だったことがわかります。 内容が5つの“圏”に分かたれてゐるのは原書に倣ったもののやうですが、ところどころ「落丁」があるのは遺された原稿のままを写してゐるからでありませう、訳者板倉鞆音氏に対する謹飭な私淑態度が示されてゐます。むしろこれを以て定本原稿と認めて欲しくない、といふ制作者のメッセージを読み取るべきかも。だからこそ、これだけ立派な内容をも「刊行物」とはならぬやう、奥付を廃した「複製」の体裁にしたのでありませう。さても何冊つくられたのか、これを“簡易製本”と称せらるゆかしき事情を慮っては、寄贈に与り胸がいっぱいになってしまった一冊。私は純愛を盛った第3の圏が好きです。  さあ お前の手をさあ お前の手をおだし春が牧場に燃えているお前を濫費せよこの一日を濫費せよお前の膝に寝て おれはお前の視線をさがすお前の眼は霞んで空を空はお前を投げかえすああ 白熱して縁をこえてお前たちは休みなく流れ去る空がお前になったお前が空になった  果てしない波海の波が上を下へと打ちよせるようにお前を捕えたい 抱きたいおれの願いは果てしなく浪だつこの妄想をどう逃れたらいいか船から下をのぞけばたった一つのこの思いが海の中で上を下へと揺らいでいる  板倉鞆音氏(1907-1990.1.19)はリンゲルナッツのほかにも、昭和11〜12年の初期の「コギト」誌上に於いて、すでに服部正己のマイヤーや田中克己のハイネとならんで「ケストナァ詩抄」を連載されてゐます。クラブントにせよリンゲルナッツにせよケストナーにせよ、戦前から一貫して反骨の詩人ばかりを対象に据ゑてゐるのは、自身は政治的態度を誇示する人ではなかっただけに、却って特筆に値するかと思ひます。雑誌「四季」をめぐる先達文学者のなかでも、燻し銀的な存在であり、戦後は丸山薫のゐる愛知大学にあって、ふたたび服部氏とは官舎を隣にしてをられた由。私は処女詩集をお送りしましたが、眼病すでに篤くお目を通していただけたかどうか、大きな文字の受領葉書が唯一度きり賜ったお言葉となりました。【板倉鞆音 参考文献】 雑誌『Spin』vol.22007.8発行 津田京一郎「板倉鞆音捜索」27-41p++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++【追記】 2013.8.25 津田京一郎様より頂いた訂正コメントを付します。ありがたうございます。 『クラブント詩集』のご紹介ありがとうございました。この詩集の成り立ちにつき少し説明させて戴きます。 板倉鞆音の未完訳詩集『クラブント詩集』の原稿コピーは板倉鞆音の『リンゲルナッツ抄 動物園の麒麟』(国書刊行会、1988)『ドイツ現代詩抄 ぼくが生きるに必要なもの』(書肆山田、1989)を編集された川村 之さんより戴いたものです。板倉さんより預かった生原稿をオートシートフィーダーでコピーをとった際に、紙送りの不具合により残念なことに“落丁”と記した部分が失われました(ノンブル入り原稿だったためノンブルが飛んでいることで判明)。また“あとがき”部分は未完のまま板倉鞆音さんは亡くなりました。返却された生原稿の行方も不明のままです。 原書についてはタイトルとして『クラブント詩集』で「第1の圏」「第2の圏」…という章立てになっているものは見当たらないとのことです。収録されている詩篇の多くはそれぞれほかのクラブントの詩集に収録されていることが判明しているため、この詩集は過去の複数のクラブント詩集から再編集されたものではないか、と考えられています。 まだ実現はしていませんが、川村さんはこの詩集としては膨大な再編集詩集をまるごと1冊にするよりも、(1)可能なかぎり原詩を集める、(2)原典がわかった詩篇をふるいにかけて、(3)適度な分量でうまく編集して1冊にまとめて刊行したいと考えています。 それまでの“仮の詩集”としてテキスト化したものを簡易製本(20部くらい)したため刊記はつけなかったのです。 『沙羅の木』については、ミクシィに以下のように書きました。『沙羅の木』 2011年04月29日14:29 Mさんのご教示で、森林太郎『沙羅の木』にクラブントの訳詩十篇が収録されていることを知った。早速復刻版を入手し調べてみると、板倉鞆音も訳しているものが四篇あった。以下に両者をひく。(原詩略)Ich kam 「己は来た」己は来た。己は往く。母と云ふものが己を抱いたことがあるかしら。父と云ふものを己の見ることがあるかしら。只己の側には大勢の娘がゐる。娘達は己の大きい目を好いてゐる。どうやら奇蹟を見るに都合の好さそうな目だ。己は人間だらうか。森だらうか。獣だらうか。??????????????????????????????????????????????????? 森林太郎『沙羅の木』Ich kam 「おれは来た おれは行く」 おれは来たおれは行くいつか母の腕に抱かれたことがあるだろうかいつか父を見かけることがあるだろうか ただ大勢の女どもがおれのそばにいるみんなおれの大きな目が好きだという恐らく奇蹟を見るのに役だつのだろうおれは人か 森か 動物か??????????????????????????????????????????????????? 板倉鞆音『クラブント詩集』Fieber 「熱」 折折道普請の人夫が來て石を小さく割つてゐる。そいつが梯子を掛けて、己の脳天に其石を敲き込む。 己の脳天はとうとう往来のやうに堅くなつて、其上を電車が通る、五味車が通る、柩車が通る。 ??????????????????????????????????????????????????? 森林太郎『沙羅の木』Fieber 「熱」ときどき道路工夫が来て石を砕き梯子をかけておれの脳天に石を打ちこむ 頭が街路のように固くなりその上を市電が、堆肥車が、霊柩車がかたかた走ってゆく??????????????????????????????????????????????????? 板倉鞆音『クラブント詩集』?Still schleicht der Strom 「川は静に流れ行く」 川は静に流れ行く、同じ速さに、波頭の白きも見えず。 覗けば黒く、渦巻く淵の険しさよ。こはいかに。いづくゆか我を呼ぶ。 顧みてわれ色を失ふ。漂へるは我骸ゆゑ。??????????????????????????????????????????????????? 森林太郎『沙羅の木』Still schleicht der Strom 「川は静かに」 川は静かに同じ早さで流れている流れに白い波頭も立たぬ 一と所 黒い淵が激しく渦巻いておれを呼ぶ声が聞こえるようだ おれは顔をそむけて蒼ざめるおれのなきがらが流れてゆく-----??????????????????????????????????????????????????? 板倉鞆音『クラブント詩集』?Hinter dem grossen Spiegelfenster 「ガラスの大窓の内に」 己はカツフエエのガラスの大窓の内にすわつて、往来の敷石の上をぢつと見てゐる。色と形の動くので、己の情を慰めようとしてゐる。女やら、他所者やら、士官、盗坊、日本人、黒ん坊も通つて行く。皆己の方を見て、内で奏する樂に心を傾けて、夢のやうな、優しい追憶に耽らうとするらしい。だが己は椅子に縛り付けられたやうになつて、ぢつと外を見詰めてゐる。誰ぞひとりでに這入つて來れば好い。髪の明るい娘でも、髪の黒い地獄でも、赤の、黄いろの、紫の、どの衣を着た女でも、いつその事、脳髄までが脂肪化した、でぶでぶの金持の外道でも好い。只這入つて來て五分間程相手になってくれれば好い。己はほんに寂しい。あの甘つたるい曲を聞けば、一層寂しい。ああ己がどこか暗い所の小さい寝臺のなかの赤ん坊で、母親がねんねこよでも歌つてくれれば好い。??????????????????????????????????????????????????? 森林太郎『沙羅の木』Hinter dem grossen Spiegelfenster 「大きな鏡窓の中で」 喫茶店の大きな鏡窓のなかに坐っておれはじっと大通りの舗道を眺めやり色彩と物体の混雑のなかに感傷的な悲しみの治療を求めている大勢の女、見なれぬ男、はでな将校、詐欺師、日本人、ニグロのマスターまで通るみんなおれの方を見て中の音楽をうらやみ夢のような和やかな音(おん)を思い出そうとするだが、おれは椅子に縛りつけられ燃えつきて目もそらさず外を見つめて見とれている誰かこないものか 無理強いでなくて自発的に金髪の少女 -----褐色の娼婦-----ピンクの、黄色の、すみれ色のシュミーズなんか着て----------- いや、太っちょの扶助料暮しのごろつきの脂ぎった、脳にコレステロールのたまった奴だってただおれの前に五分間だけ姿を現してくれたら――おれはとても孤独だ 甘いオペレッタがおれを一層孤独にするああ、どこかの夜の暗がりで寝たいものだ子供ベッドの中の子供になって母親にやさしく寝かしつけられて??????????????????????????????????????????????????? 板倉鞆音『クラブント詩集』 クラブント(Klabund, 本名 Alfred Henschke)はドイツの小説家・詩人で1890年11月4日にクロッセンで生まれ、1928年8月14日に結核のためスイスのダヴォスの結核療養所で亡くなった。1913年に第一詩集『朝焼け!クラブント!夜が明ける!(Morgenrot! Klabund!Die Tage dämmern!)』(Erstdruck: Berlin (Erich Reiss))を出版、『沙羅の木』に訳出されている詩は全てこの詩集から、並び順に訳されている。クラブントの略歴、著作目録、著作内容については以下のサイトが詳しい。 ?(略)?  またユルゲン・ゼルケ著・浅野洋 訳・叢書・20世紀の芸術と文学『焚かれた詩人たち ナチスが焚書・粛清した文学者たちの肖像』(アルファベータ、1999)P153-175でクラブントの生涯と作品が紹介されている。 クラブントが生前に刊行した詩集は以下の4冊のようです。1. Morgenrot! Klabund! Die Tage dämmern!? [Erstdruck: Berlin (Erich Reiss) 1913.]2. Der himmlische Vagant [Erstdruck: München (Roland-Verlag) 1919.]3. Das heisse Herz [Erstdruck: Berlin (Erich Reiss) 1922.]4. Die Harfenjule [Erstdruck: Berlin (Verlag Die Schmiede) 1927.]?

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676やす:2013/08/18(日) 01:25:37
『茅野蕭々詩集』西岡勝彦編
『茅野蕭々詩集』西岡勝彦編 全434p 電子出版 晩霞舎刊 開設草創時から拙ないサイトを見守って下さってゐる西岡勝彦様(「従吾所好」管理人) よりは、これも戦前の翻訳文学者による変り種の新刊本を御寄贈いただきました。『リルケ詩抄』(1927)の訳者として有名なドイツ文学者である茅野蕭々(1883-1946)の、これは訳詩集ではなく其のひと本人の詩集で、変り種と申しましたのは、なんとe-Bookであるからです。抑も、紙・電子を通してこのたびが初めての集成となるわけですが、分量400ページにも垂んとする作品の探索を、初出底本の一覧年譜とともに地道にまとめ上げられた努力にまず脱帽、言葉がありません。「明星」「スバル」に籍を置いて出発した作品は、もちろん大半が文語詩なのですが、今日このやうな内容を商業出版に乗せることは、確かにむつかしいことでありませう。電子出版に上した意義と可能性についてサイト上に刊行メモが記されてありました。 わが任に余る文語詩の感想・評価は避けますが、巻末には編集作業を通じてみえてきた作風の変化や特徴を、当時の状況と、それから作品に即して、西岡様が概括を試みた覚書ノート「蕭々私記」が付せられてゐます。これまた初めての詩人論となりませうが、浩瀚な本書をひもとく際の、初学者にはまことに懇切なガイドになってをります。 さて私にとって茅野蕭々といへば、詩人津村信夫の庇護者としての側面、つまり『北信濃の歌』のなかで紹介された、津村信夫の婚約者昌子さんのために世話を焼く養家夫妻としてのエピソードに親しんでをりますが、やはり一般には前述した『リルケ詩抄』、あの天地を少し落とした私好みの究極の版型(笑)の、豪華な革背本一冊の印象につきるやうです。透かし入りの洋紙に余白を充分にとり、十全の吟味を経て選ばれた一語一語の活字が、やや間をとって布置されたレイアウト。それは歴史的仮名遣ひとともに、思索的で、沈潜する詩境を強調するに適した印刷効果を発揮して、内容の解釈に先立ち、何がなしリルケの四季派的な受容が、高雅な装釘と相俟って嚮導された、さう呼んでも大げさではないやうな気がするわけです。新しい抒情詩人たちに与へた影響は、同じく押し出し満点の第一書房版の豪華本であった、堀口大学の『月下の一群』(1925)や『フランシスジャム詩抄』(1928)に劣るものではなかったでせう。訳詩の妙諦は詩心を写すことを最優先に心得てゐたに違ひない彼の訳業によって、リルケの受容史がどのやうに偏ったとか、そんなことはどうでもよく、覚書の冒頭、西岡様もこの詩人に興味を持つ発端となった口語詩「秋の一日」について、ゲオルゲの訳詩との関係から説き起こされてゐますが、季節の移り変りを人心になぞらへて思索する流儀など、また尾崎喜八の語り口にも親近するものを感じさせます。・・・などと三流詩人によるハッタリ紹介はこれ位にします(汗)。 しかし学者詩人の詩人たる前身の風貌を辿ったこのたびの一冊の俯瞰を通じて、西岡様がされた次のやうな指摘、「しかし、泣菫と違い蕭々は詩作をやめなかった。一時代を築いた有明・泣菫と違い、蕭々はまだ何事も成していないのだから、簡単に野心を捨てることはできなかったろう。」「蕭々の詩作への意欲は未完に終わった。とはいえ、残された詩業を通観すると、文語定型詩から文語自由詩、そして口語自由詩へと、日本の近代詩とともに変転してきた二十年の詩歴に未完の印象はない。」  かうした、詩人の位置をざっくり捉へて最初に語り得た意義は大きく、真の愛読者にしかできないことを大書したいです。『クラブント詩集』は刊行物ではないため図書館でも閲覧不可ですが、同じく図書館には所蔵のないものの、こちらは手軽に読むことができます。以上、ここにても御礼かたがた御紹介させていただきます。ありがたうございました。

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677やす:2013/08/29(木) 00:03:32
とりいそぎの報知まで
本日8/28中日新聞13面、詩人冨永覚梁氏の連載欄[中部の文芸]において拙詩集が御紹介に与りました。予告なき突然の記事、もちろんマスコミ上で斯様な扱ひを受けることも初めてのことにて吃驚してをります。ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

【追記】拙詩集を読むことのできる(予定の)図書館は以下の通り(2013.12.20現在)。

岐阜県図書館
岐阜市立図書館
関市立図書館
恵那市中央図書館
大垣市立図書館
各務原市立中央図書館
飛騨市図書館
美濃加茂市中央図書館

国立国会図書館

北海道立図書館
札幌市中央図書館
山形県立図書館
福島県立図書館
栃木県立図書館
茨城県立図書館
千葉県立東部図書館
都立中央図書館
富山県立図書館
県立長野図書館
愛知県図書館
三重県立図書館
神戸市立図書館
滋賀県立図書館
岡山県立図書館
徳島県立図書館
香川県立図書館
福岡県立図書館
長崎県立長崎図書館
鹿児島県立図書館
沖縄県立図書館

県立と市町村立との所蔵分野の住み分けが進むなか、
受入れの意向を頂いた他府県の基幹図書館には感謝の極みです。
篤く御礼を申し上げます。

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678やす:2013/10/13(日) 22:54:22
モダニズム詩人荘原照子 聞書最終回「猫の骸に添い寝して」
手皮小四郎様より『菱』183号を拝受いたしました。毎号楽しみにしてをりましたモダニズム詩人荘原照子の聞書が、6年間(23回)にも及ぶ連載を経てこのたび完結を迎へました。感慨も深くここにても御礼かたがたお慶びを申し上げます。ありがたうございました。

「一体に身辺に血のつながる身寄りをもたないも老女が、それも異郷の地にあって老いさらばえて死んでゆくというのはどういうことであろうか。」

今回は文学上の記述はありません。役所の手続き等、手皮様が私生活のサポートまでされた当時82歳の詩人の落魄したさまの報告が興味ふかく、表題の「猫のむくろに添い寝して」ゐたなどは無頓着に過ぎますが、しかしその平成三年から四年にかけて聞書きをされた手皮様の当時の記憶そのものが、テープの内容とは別に、謎の多い詩人の年譜の最終ページにも当たるわけです。けだしこれまでの聞書きの内容にしても、そのままが資料として威力を発揮することは少なくて、インタビューされた場が再現されるなかで、手皮様による批判的なフォローを俟ってはじめて、その肉声の意味が明らかになってくる態のものでありました。当時の手皮様の記憶こそは、聞書きに直結する終端地点であり、正確な伝記の一部に自分も参加してゐる貴重な体験記でありませう。

その場では当然話題になったに違ひない、子供など縁者の消息をはじめとして、手皮様が文中では口ごもられたことや、日常生活で萌し始めた認知症のことなど、身寄りがなく、また世間体を気にしない詩人らしさのために、あっけないほど無防備に手皮様の手に落ちていった彼女のプライバシーについては、却って手皮様の側で面くらふ仕儀となり、その結果、生活弱者としての老詩人をほって置けない羽目にも陥ってしまひます。次第に文学上の興味を逸脱して、厄介にも思はれていったらうことも自然に拝察されるのです。かつての閨秀詩人の知的な気位の高さは今や老女の偏屈さに堕し、苛立ちさへ催させるものとなってゐる――。しかし聞書きを終へた後に詩人との関係を裁ったこと、そのときはそれでよかったと思はれたことが、時を経ての自問自答、つまりこれまでは何がなし気位の強いこの先輩詩人を客観的に突き放して書いてこられた手皮様が、最後になって自分がなすべきだったことについて吐露された一節――これは全体の眼目となりますのでここでは抄出しません。一切感傷を雑へないがゆゑに却って突き刺さる告白が応へました。

昭和初期モダニズム詩といふ、ある意味「非人情」「スタイリッシュ」の極みといふべき、個性偏重の詩思潮を体現したといってよい、謎多き女詩人荘原照子。その晩年に偶然接触を持たれ、聞き書きを得た手皮様でしたが、放置されたテープの存在が、年月と共に心の中で大きくなってゆき、その意味をはっきりさせ決着をつけるために始められた連載でありました。もちろんそのまま報告しても面白いに決まってますが、手皮様は生身の詩人の息遣ひに対するに実証的なフィールドワークでもって脇を固め、その結果、日本の近代史に翻弄された一人の女性の生きざまを剔抉し、モダニズムや詩史に興味のない人の通読にも耐へる読み物に仕上げられることに成功しました。それは単なる伝記といふより、忘れられんとする過去の詩人の生涯の端っこに、報告者の存在意義をも位置づけて自分ごと引っ張りあげる作業ではなかったでせうか。謎の多い彼女の生涯を追って結末が慟哭に終ったこと、私には気高くもいじらしい詩人に対する何よりの供養に思はれてならなかったのであります。

おそらく予定されてゐる単行本化にあたっては、連載中の6年間に新たに明らかにされた事実も反映されませう。なにとぞ満願の成就されますことをお祈りするとともに、ひとこと御紹介させて頂きます。



また西村将洋様より田中克己先生の未見の文献(昭和19年11月『呉楚春秋』)につきまして、コピーを添へて御教示を賜りました。外地で編集されたやうな雑誌には、今でも知られないままの文献もまだまだあるのでせう。
ほか山川京子様より「桃だより」14号を拝受。あはせて深謝申し上げます。
ありがたうございました。

679やす:2013/10/17(木) 12:32:46
ご感想ならびに受領連絡の御礼
 このたびの拙詩集刊行につきましては、少ないながら寄贈者の皆様からのまことに手厚い激励のお言葉を賜りました。旧き友人知己のありがたさをあらためてかみしめてをります。

 なかでもむかし詩集を刊行した当時には消息さへ知らずにをり、今回初めてお手紙でその不明を詫びて御挨拶させていただきました山崎剛太郎様より、新刊詩集『薔薇の柩』とともに長文のお手紙を、きびしい視力をおして認めて頂きましたことには、感謝の言葉もございません。小山正孝の親友、『薔薇物語』の作者として晩年の立原道造が計画した雑誌『午前』構想のひとりに員へられた方であり、敗戦前後にはマチネポエティクの人々の盟友として、四季派詩人としての青春期を過ごされた、いまや当時を知る唯一の生き証人の先生であられます。

 また受領のしるしに詩誌「gui」「柵」「ガーネット」の各最新号をお送りいただきましたことにつきましても、あつく御礼申し上げます。
ありがたうございました。

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680やす:2013/11/14(木) 07:57:20
『新柳情譜』
 西岡勝彦様よりEPUB出版有料版の第二弾、成島柳北による新橋・柳橋の芸妓列伝『新柳情譜』をお送り頂きました。ここにても御礼申し上げます。書き下し文に懇切な注記が付された内容の詳細についてはサイト解説をご覧ください。

 これから残った人生をいそしんでゆきたい日本の漢詩文ですが、明治のものだからといって、また書き下し文にされたからといってすらすら理解できるかといへば、そんなことは全くなく、これは暫く口語詩の世界に戻ってゐた私の目を覚まさせるに充分のプレゼントでありました。森銑三翁をして「明治年間を通じての名著」と云はしめた未単行本の雑誌連載記事なのですが、翁が評価されたのは、花柳世界の実地実体験をつぶさに報告してゐる面白さに加へて、各章に一々茶々を入れてゐる“評者”秋風同人も語るらく、やはり「時勢一変、官を捨てて顧みず放浪自ら娯しむ。而して裁抑すべからざるの気あり。時に筆端に見る。」ところに存するもののやうにも思はれます。

 「地獄」といひ「一諾一金」といひ、あからさまな藝妓の呼名もあったものだと呆れたことですが、とまれ藝妓各人に対する解説文言・賛詩・評辞と、菲才かつ野暮天の私には落とし所の可笑しさが分からない段が多くて情けない限りです。何難しさうなもの読んでるんですか、とタブレットを覗かれて、にやにや顔を返すことができるくらいにはなりたいものです。

 ありがたうございました。

『新柳情譜』西岡勝彦編 全265p 電子出版 晩霞舎刊

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681やす:2013/12/02(月) 11:51:38
『天皇御崩日記』
 大分県宇佐市在住の宮本熊三様より、以前紹介した『天皇御崩日記』という折本について、その作者「岩坂大神健平」についてメールから御教示を賜りました。(建平、連、村路、左衛士とも;なお「大神」姓は、宇佐宮祠官の名門である大神氏の子孫であることをしめす)

 また『国立歴史民俗博物館研究報告』第122,128,146,159集に『平田国学の再検討』の表題のもと、岩坂建平のことが出てゐるとのこと。以下の二点について合せて御教示を得ました。

 岩坂建平は、嘉永七年(1854)正月十九日、三十歳の時に平田門に入門。逆算すると1825年(文政八年)生。
 『平田門人録』 、豊橋市図書館 羽田八幡宮文庫デジタル版 歴史/48 平田先生授業門人録中 和281-36-2 1 / 5を見る 23コマ

 そして入門から四年後の安政五年(1858)に、彼は同じ宇佐宮祠官の国学者で後に明治の大蔵官僚となった奥並継(1824 - 1894)や、おなじく国学者で明治の外交官・実業家・ 政治家となった島原藩士の丸山作楽(さくら1840 - 1899)の入門紹介者となってゐる由。
 『平田門人録』 、豊橋市図書館 羽田八幡宮文庫デジタル版 歴史/48 平田先生授業門人録中 和281-36-2 2 / 5を見る 4コマ

 丸山作楽は島原藩士でしたが、島原藩の飛地領が宇佐郡にあり、宇佐神宮が実質島原藩の管理下にあったこと。そのため当時荒廃した宇佐宮を、島原藩・中津藩・幕府の三者で修復・再建することを、彼等は江戸に留まり何年もかけて幕府に請願し続けてゐた模様です。

 宇佐神宮が神仏習合の歴史に深く関わってゐるといふことや、また忌日の考へは仏教に起源があって神道ではあまり重要視されてゐなかったことなど、初耳に属することでしたが、しかしこの折本の作り様からして「日々の勤行に使用するため」だけに刷られた印刷物のやうにも思はれてなりません。それほど宇佐といふ土地柄においては神仏習合が身近であり、一般庶民に対する尊王広報活動も、安政当初はかうした次元から始められてゐたのだ、といふことでありませうか。謎は尽きません。

 御教示ありがたうございました。

682やす:2013/12/28(土) 22:06:38
保田與重郎ノート2 (機関誌『イミタチオ』55号)
 金沢星稜高等学校の米村元紀様より、所属する文芸研究会の機関誌『イミタチオ』55号(2013.12金沢近代文芸研究会)をお送り頂きました。同氏執筆に係る論考「保田與重郎ノート2」(11-50p)を収めます。

 対象を保田與重郎の青年期に絞り、これまでの、大和の名家出身たるカリスマ的な存在に言及する解釈の数々を紹介しながら、最後にそれらを一蹴した渡辺和靖氏による実証的な新解釈、いな、糺弾書といふべき『保田與重郎研究』(2004ぺりかん社)のなかで開陳されてゐる、保田與重郎の文業に対する根底からの批判に就いて、その実証部分を検証しながら、それで総括し去れるものだらうか、との疑問も提示されてゐる論文です。

 渡辺和靖氏による保田與重郎批判とは、反動への傾斜を詰る左翼的論調がもはやイデオロギー的に無効になりつつある今日の現状を見越し、この日本浪曼派の象徴的存在に対しては、反動のレッテルを貼るより、むしろ戦時中の青年達を熱狂させた彼の文業のライトモチーフそのものが、文学出発時の模倣からつひに脱することがなかった、つまり先行論文からの剽窃を綴れ合はせた作文にすぎなかったのだと、一々例証を挙げて断罪したことにあります。彼の文体にみられる華麗な韜晦も、さすれば倫理的な韜晦として貶められ、文人としての姿勢そのものを憐れんだ渡辺氏はその上で、日本浪曼派もプロレタリア文学やモダニズム文学と同じく1930年代の時代相における虚妄を抱へた、思想史的には遺物として総括が可能な文学運動として、止めを刺されたのであります。

 私などは、「論文らしい形式を嫌ひ」「先行思想家の影響に口をつぐんで」大胆な立論を言挙げしてゆく壮年期の独特の文体には、ドイツロマン派の末裔である貴族的な文明批評家シュペングラーにも似た鬱勃たる保守系反骨漢の魅力を感じ、参考文献を数へたてることなくして完成することはない大学教授の飯の種と同列に論ずることとは別次元の話ではないだらうか、などと思ってしまふところがあるのですが、実証を盾にしつつ実は成心を蔵した渡辺氏の批判に対して、米村氏も何かしら割り切れないものを感じてをられるやうで、批判対象となった初期論文と周辺文献とをもっと精緻に読み込んでゆくことで、さらなる高みからこの最後の文人の出自を救ひ出すことはできないか、斯様に考へてをられる節も窺はれます。米村氏の帰納的態度には渡辺氏同様、いな先行者以上の探索結果が求められるのは言ふまでもないことながら、同時に渡辺氏の文章にはない誠実さを感じました。

 後年の文章に比して韜晦度は少ないとはいへ、マルクスなり和辻哲郎なり影響を受けたと思しき文献を見据ゑながら、客気溢れる天才青年の文章を読み解いてゆくのは並大抵の作業ではありません。ところどころに要約が用意されてゐるので、私のやうな読者でも形の上では読み通してはみたのですが、新たな視点に斬り込むために提示された「社会的意識形態」などの概念は、社会科学に疎い身には正直のところなかなか消化できるところではありませんでした。
 しかし誠実さを感じたと申し上げるのは、生涯を通じて保田與重郎がもっとも重んじた文学する際の基本的な信条(と私が把握してゐる)、ヒューマニズムを動機において良しとする態度と、今の考へ方を以て昔のひとびとものごとを律してはいけないといふ態度と、この二点について米村氏が同感をもって論証をすすめてをられる気がするからであり、その上で、恣意的な暴露資料としても利用され得る新出文献の採用態度に、読者も自然と頷かれるだらうと感じたからであります。

 けだし戦後文壇による抹殺期・黙殺期を経て、最初に再評価が行はれた際の保田與重郎に対するアプローチといふのは、「若き日の左翼体験の挫折」を謂はば公理に据ゑ、捉へ難い執筆モチベーションを政治的側面から演繹的に総括しようとするものでした。米村氏は「日本浪曼派(保田與重郎)と人民文庫(プロレタリア文学)とは転向のふたつのあらはれである」と述懐した高見順を始めとするかうした二者の同根論に対しては慎重に疑問を呈してをられます。
 管見では、ヒューマニズムを動機においてみる態度に於いて同根であっても、今の考へ方を以て昔のひとびとものごとを律してはいけないといふ態度に於いて両者(保田與重郎とプロレタリア文学者)は決定的に異なる。その起因するところが世代的なものなのか、郷土的なものなのか、おそらく両者相俟ってといふことなのかもしれませんが、米村氏の論考も今後さらに続けられるものと思はれ、機会と読解力があれば行方をお見守りしたく存じます。

 とまれ今回の御論文に資料として採用された、先師田中克己の遺した青春日記ノート『夜光雲』欄外への書付や、「コギト」を全的に支へた盟友肥下恒夫氏に宛てた書簡集など、保田與重郎青年が楽屋内だけでみせた無防備の表情が学術論文に反映されたのは初めてのことではないでせうか。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

683やす:2013/12/31(火) 00:28:03
よいお年を。
年末に舟山逸子様より同人詩誌「季」98号(2013.12関西四季の会)をお送り頂きました。
精神的支柱だった杉山平一先生の死を乗り越へて、一年ぶりの再始動。お祝ひの意をこめて、私も一篇、寄せさせて頂きましたが、
今年刊行した拙詩集への収録を見送った十年前の未定稿に手を入れたもの。詩想が涸渇したこの間をふり返り・・・いろいろの思ひがよぎりました。
ここにても御礼を申し上げますとともに、同人皆様の更なる御健筆をお祈り申し上げます。これまでの御鞭撻ありがたうございました。

その「季」に発表してきた大昔の作品を中心に、集成にしてはあまりにも薄すぎる詩集でしたが、只今以て反応はとぼしく、
今年は「風立ちぬ」なんて映画も公開されましたが、抒情詩が相変らず現代詩人の評価ネットワークの埒外にある酷しい現実だけは、しっかり見せつけられた気がいたします。
書評を書いて下さった冨永覚梁先生、最後の戦前四季派詩人である山崎剛太郎先生からのお手紙は忘れられません。ありがたうございました。



さて今年の主な書籍収穫。

寄贈頂いた本から
清水(城越)健次郎 詩文集 『麦笛』昭和51年
『クラブント詩集』(板倉鞆音訳)平成21年
山崎剛太郎 詩集 『薔薇の柩』平成25年
斎藤拙堂 評伝 『東の艮齋 西の拙堂』平成25年
井上多喜三郎 詩集 『多喜さん詩集』平成25年
成島柳北 漢詩 EPUB出版『新柳情譜』平成25年
茅野蕭々 詩集 EPUB出版『茅野蕭々詩集』平成25年など

いただきものから
館高重 詩集 『感情原形質』昭和2年
『詩之家年刊詩集1932』昭和7年
雑誌「詩魔」5,9,10,34
<tt>雑誌「木いちご」昭和4年</tt>
明田彌三夫 詩集 『足跡』昭和4年
城越健次郎 詩集 『失ひし笛』昭和13年などなど

購入書から
平岡潤 詩集 『茉莉花』 昭和17年
河野進 詩集 『十字架を建てる』昭和13年
牧田益男 詩集 『さわらびの歌』昭和22年
北條霞亭『霞亭渉筆 薇山三觀』文化13年など

嬉しかったのは、三重県桑名の詩人平岡潤の詩集で戦前の中原中也賞を受賞した限定120部の『茉莉花』や
「季」の先輩でもあった清水(城越)健次郎氏の詩集、岐阜での詩作をまとめた夭折詩人館高重の詩集『感情原形質』など。
ありがたうございました。


今年はまた実生活でも新しく出発を始めた記念すべき年でした。
記憶力の減退に悩むやうになりましたが、新しいことを始めなくては、と思ってゐます。

来年もよろしくお願ひを申し上げます。
皆様よいお年を。

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684やす:2014/01/01(水) 00:01:39
今年もよろしくお願ひ申し上げます。
立原道造年賀状葉書(昭和12年)

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http://

685やす:2014/01/13(月) 14:10:00
新刊『森の詩人』 野澤一のこと
 昨夏、拙サイトを機縁に知遇を辱くした坂脇秀治様から、詩人野澤一(のざわはじめ:1904-1945)の作品を紹介・解説した御編著『森の詩人』新刊の御寄贈に与りました。出版をお慶びするとともに、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 戦後日本の自由を味はふことなく、41歳で結核に斃れた山梨県出身の自然詩人。自然のなかで自然を歌ったといふ意味だけでなく、大学を中退して六年間を地元「四尾連(しびれ)湖」畔の掘建て小屋に籠もり、村人・友人から命名されるまま「木葉童子(こっぱどうじ)」と自らも称した彼自身が、私淑したH.D.ソローに倣って酔狂な自炊生活に勤しんだ自然児詩人でありました。その作品はもちろんのことですが、むしろさうした天衣無縫のひととなりが面白く、このたびの新刊巻末40ページにわたる坂脇様による解説、そして詩友だった故・一瀬稔翁が前の再刊本で披露された回想に、語られるべき風貌や逸話は詳しいので、ぜひ読んで頂きたいのですが、昭和初期の口語自由詩が花開いた時期、実践生活からもぎとった自分の言葉で、すでに時代を突き抜けた詩を書いてゐた彼は、その脱俗の様が徹底してゐる点で特筆に値する詩人でした。恒産を案ずることなく政治体制からも超絶してゐたといふ点では、四季派同様、お坊ちゃんの現実逃避・体制承認との批判も耳をかすめさうですが、私はさうは考へません。戦争詩の類ひにも一切手は染めてゐないやうです。

 もとより物欲なく、肉食を嫌ひ、詩人は一日2升の水(!)を飲み、蟻やねづみやこほろぎの子供を炉辺の友として、散歩と詩作(思索)にあけくれることを日課としたといひます。歌や祈りが朗々たる声で庵前の湖に捧げられ、感極まれば地に額づいて土壌や灰を食らったりするといふ、かなり奇特な変人の趣きです。「その姿は求道者のようにも、野生児のようにも、仙人のようにも、あるいは世捨て人のようにも映る」と坂脇様が記してをられますが、作られる詩も作文も「なつかしい」といふ言葉の用法のほか、稚気を含んだ助詞の使ひ方など、舌足らずな独特の言ひ回しが清貧を貫いた詩人的人格と相俟り、なんとも不思議な雰囲気を醸し出してゐます。

 灰

灰を食べましたるかな
灰よ
食べてもお腹をこはしはしないかな
粉の如きものなれども
心に泌みてなつかしいものなれば
われ 灰を食べましたるかな

しびれのいほりにありて
ウパニイの火をたく時
この世の切なる思ひに
灰を舌に乗せ
やがて 寒々と呑み下しますのなり
このいのちの淋しさをまぎらはすこの灰は
よくあたたかきわが胃の中を
下り行くなり

しづかに古(いにしへ)の休息(いこひ)を求め
山椒の木を薪となして
炉辺に坐れば
われに糧のありやなしや
なつかし この世の限り
この灰は
よくあたたかきわが胃をめぐり めぐりて
くだりゆくなり


 ちっぽけな自分を「壷中の天地」ならぬ「湖中の天地」に放下して、得られた感興を赴くままに、詩といはず散文といはず、生命讃歌に昇華させるべく腐心した様子の彼ですが、しかし同時に野狐禅を嘯く自身の姿については客観視もできてをり、だからこそ風変りな謫居生活も、村人から安心を以て迎へられ、否、親しみさへ込めて遇せられたのでありませう。やがて彼は正直にも「嫁さんが欲しくなったから」と庵をたたんで山を下りるのですが、妻帯して子供も儲け、東京で父の家業を手伝ひ、何不自由のない市民生活者として上辺を振舞ひながら、その実、森のなかで過ごした青春の六年間を懐古し、鬱々と思慕する日々を送るやうになるのです。けだし彼の命を縮める遠因ともなったやうな気がします。

 前掲の「灰」ほか、彼の理想化された湖畔の独居生活の様子は、山から下りてから刊行した詩集『木葉童子詩経』(昭和8年自家版2段組242p)に明らかに、惜しみなく公開されてゐます(このたびの新刊ではうち32編を抄出)。たしかに電気もガスも無ければ、御馳走も食卓を飾ることがなかった耐乏生活には違ひないですが、森に囲まれた周囲1キロの湖と四方の山々を、借景として独り占めできた生活といふのは、ある意味こんなに贅沢な生活はないかもしれない。彼は詩集を献じた有名詩人たちのなかで、唯このひとと見定めた高村光太郎に対し、詩的独白を書き連ねた長文の手紙をほとんど毎日、250通近くも送り続けるといふ、まことに意表をつく挙に出るのですが、子供が三人もある社会人となっても、都会暮らしに馴染めず、ロマン派詩人たる多血質の性分を病根のごとく抱へて生きざるを得なかった人だったやうです。といって光太郎の弟子になりたいとかいふのではなく、敢へてそのやうな仕儀を断つため手紙では「先生」ではなく「さん」付で呼びかけて、高名な詩人を自分の唯一の同志・知己と勝手に恃んだ上で、詩的な心情を吐露し続け、手紙として送りつけ続けた。そんなところに彼なりの矜恃と甘えとの独擅場が窺はれるのではないでせうか。残念なことに、殆ど一方的だったといふそれら往信の束と、光太郎からの貴重な来信は、ともに戦災により焼失し、今日控へ書きによってその一端が窺ひ知られるに過ぎません。ですが、詩人の本領を遺憾なく伝へる内容は圧倒的な迫力に満ち、詩集以後、同人誌に発表された詩篇・散文とともに全容が紹介されることが今後の課題であります。

 「自由」や「地球」や「人民」や、所謂コスモポリタリズム思想のもとで詩語を操った人道主義や民衆詩派に与することを潔しとせず、敢へて身の丈に合った小環境に閉ぢ籠り、自然との直接交感を、身近な命たちを拝むことによって只管に希った詩人、野澤一。この世に生きて資本主義物質文明から逃げ果せることができないことは重々承知しつつ、なほ寒寺の寺男となって老僧との対話を夢想し、彼なりに宗教的命題に対して自問自答を構へるなど、晩年の思索には西洋のソローよりも、良寛さらに宮澤賢治といった仏教的、禅的な境地に心惹かれてゆくやうになるのですが、抹香臭いところは微塵もなく、坂脇様が指摘するやうに、生涯を通じて野生の林檎の如き野趣を本懐とする、やはり規格外の爽快さを愛すべき自然詩人であったやうに思はれてなりません。

 野澤一については、かつてサイト内で拙い紹介を草してをり、それを御覧になった坂脇様、そして坂脇様を通じて詩人の御子息である俊之様との知遇を賜ることになったのでした。読み返せば顔あからむばかりの文章ですが、現代の飽食社会・電力浪費社会に一石を投ずるやうな此度の新刊が、忘れられんとする詩人の供養となりますことを切に願ひ、恥の上塗りを承知でふたたび詩人の紹介を書き連ねます。


 山の晩餐

きうりとこうこうの晩餐のすみたれば
わたくしは
いざ こよひもゆうべの如く
壁を這ふこほろぎの子供と遊ばんとする

こほろぎよ
よく飽きずこの壁を好みて来りつる
秋の夜長なり
我は童子 いま
腹くちくなりて書を採るももの憂し

こほろぎの子供よ
汝(なれ)もうりの余りを食ひたりな
嬉しいぞや
さらば目を見合せ
ことばもなうこころからなる遊びをせん

しびれの山に湖(うみ)は静まり
草中(くさなか)に虫の音もしげし
大いなる影はわたくし
小さなる影は汝
共に心やはらかく落ち流れたり

さらば世を忘れ
しばし窓を開きて
こほろぎの子供よ
へだてなく
恙なき身をいたはりて
共にしばしの時を遊ばん

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686やす:2014/01/26(日) 23:46:37
詩誌「びーぐる」22号 『風立ちぬ』の時代と詩歌の功罪
 季刊詩誌「びーぐる」22号の寄贈に与りました。

 特集が「『風立ちぬ』の時代と詩歌の功罪」といふことで今回、私などにもアンケートのお鉢が回ってきたのに吃驚。その冊子が送られて参りましたが1冊でしたので、自分の回答部分のみ掲げさせて頂きます。各先輩諸氏の回答はぜひ書店にてご確認を。

?「四季」派の詩を今どう評価されますか。

 雑誌『四季』に拠った「四季」派の詩人といふより、知的ではあるが線の細い、自己否定・批判精神の希薄な戦前抒情詩人たちの精神構造に対し「四季派」といふ呼称が行はれました。元来は戦後詩壇から軽侮される際に使用されたレッテルであり、特に戦争への対応に於いて批判され続けてきました。現代詩に解消されることなく、ただ過去の遺産の根強い読者を以て命脈を繋いできた、受容のみに偏った戦後このかたの在り様は、やさしい口語詩であるだけに異様とさへ云へます。
 四季派に限らずすぐれた抒情詩が表現すべきものは、丸山薫が夙に「物象」と呼んだところの、(伝統的花鳥風月に限らぬ)「物質に仮託した心象」につきます。その観照が成功するためには、同時にフレームとして状況なり文体を詩人が宿命として身に負ふてゐることが必須です。抒情には自己否定も批判精神も本来関係ないです。
 戦前に於いては意識的・無意識的にせよ、肯定的・否定的にせよ天皇制が統べる世界観、その空気圧がフレームとしてあらゆる表現者に働いてゐたと思ひます。宿痾が人生の重石になってゐた詩人たちは、ある意味、戦争も天皇制も関係ないところで詩作し得た人々でした。
ですから今、抒情詩を書いたり読んだりするには、病気持ちとして切実な孤立点を生きるか、もしくは今日の日本を総べる自由の野放図さ、おめでたさを宿命と観じ、何らかのフレームを設定して自ら向き合ふ必要があるのではないでせうか。四季派は「派」ではなく孤立点の集りでしかありませんが、戦後現代詩詩人の多くが溺れた、コスモポリタリズムを約束するかのやうな思想に流されることなく、TPPや原発・電力浪費社会が招来する殺伐とした世界に対峙する論拠を基盤に深く蔵してゐると思ひます。

?「四季」派で好きな詩人と作品をあげてください。(字数オーバーの故もあって省略。尤もこのサイトに全部のっけてあります。笑)

 特集に関する論考は、やはり四季派について語る場合、避けて通ることのできない戦争詩との関りについて。以倉紘平氏、高階杞一氏がいみじくも指摘された以下のやうな視点について、胸のすく思ひで拝読。

「私は賞味期限付き戦後思想より三好達治という詩人の<号泣>とその作品を信じたい」5p
「三好が賛美した戦争詩は、日中戦争に対しては一篇も存在しない。彼が肯定した戦争とは、アジアを侵略し植民地化した英米蘭国に対する大東亜戦争である。」6p
「憂国の詩人・三好達治」以倉紘平氏 より

「これまで述べてきたように吉本の論にはおかしな点が多々ある。達治の問題について書きながら、それをいつのまにか四季派全体の問題にすり替えたり、四季派の詩人たちが戦争詩を書いたことを、彼らの自然観や自然認識に問題があったからだと書きながら他のほとんどすべての詩歌人が戦争詩を書くに至ったこととの違いが示されていない。戦争協力詩=四季派、という図式で捉え、責任を四季派に帰趨させようとしている。」25p
「吉本隆明「「四季」派の本質」の本質」高階杞一氏 より

またアンケートでは、

「「抒情」ということばでひとくくりに解決済みとされているものとは何だろうか。それを問う機会を与えてくれる資料として、「四季」には複雑な裾野の広がりがあると思う。」貞久秀紀氏49p

「詩の核心は<感傷>にあるのではないかということだ。(中略)心の傷みを言葉に造形するのが詩であり、文学である。」藤田晴央氏54p

などといふ回答があり、もっと社会的な立場からやっつけられるかと思ってをりましたので、今日的課題を社会的関心に絡めて提出した私こそ浮き上がった感じす。

ここにても御礼を申し上げます。ことにも高階様には拙ブログの紹介まで賜り厚く感謝申し上げます。ありがたうございました。

季刊詩誌「びーぐる」22号 2014.1.20 澪標(みおつくし)刊行 ISBN:9784860782634  1,000円

◆論考「風立ちぬ」の時代と詩歌の功罪◆
憂国の詩人・三好達治 以倉紘平4
第三次『四季』の堀辰雄 阿毛久芳10
吉本隆明「「四季」派の本質」の本質 高階杞一16
萩原朔太郎と『四季』 山田兼士29
堀辰雄の強さ 細見和之35
「四季」をめぐる断章 四元康祐41

◆アンケート「四季」派について◆
安藤元雄46 池井昌樹46 岩佐なを47 岡田哲也47 神尾和寿48 北川透48
久谷雉48 貞久秀紀49 新川和江50 陶原葵50 鈴木漠51 添田馨51
田中俊廣52 冨上芳秀52 中嶋康博53 中本道代53 藤田晴央54 松本秀文54
水沢遙子55 八木幹夫55 安智史56 山下泉57

以下通常頁(〜129p)

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687やす:2014/01/26(日) 23:52:15
「季」98号
 さてその「四季」派の残党ともいふべき同人詩誌「季」は、わが古巣でもありましたが、精神的支柱であった杉山平一先生の死を乗り越え、茲に矢野敏行大兄の詩「喪のおわり」の副題を持つ「十月に」を巻頭に掲げて再出発されました。


 十月に  喪のおわり
                    矢野敏行

明け方、虫声はひときわ盛んに、地から湧き上るように、天に
響いている。その虫声を、私は、聞き分けることが出来る。

エンマは優しく、オカメは忙しげに、ツヅレサセは語りかける
ように。カネタタキはそれから少し、間遠く。

空には冬の巨人が、青白く輝くセイリオスを連れて、昇ってき
ている。その先では、プレイアスの娘達が、ささめいている。

この世から消えていった、大切な人達よ。貴方達は、この虫声
を、どこで聞き、星々を、どこで見ているのか。

もしかしたら、一枚の銀幕を、ひらりと捲れば、すぐそこに
皆、居たりするのか。

藍色をした薄明は、短い。虫の声も星の光も、消えていく。
ちょうど貴方達のように、消えていく。

いや、そうではない。貴方達は、すぐそこに居る。いや、もう
すでに、私の中に、居る。

私は聞き分けることが出来る。貴方達の声を、私は、聞き分け
ることが出来る。


津村信夫の呼吸法を矢野さん独自の解釈で、ふたたび彼等にお返ししてゐるやうな趣きです。
私も詩集に収録を見送った詩を一篇寄稿、宣伝までして頂きました。ありがたうございました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

「季」98号 (2013.12.20 関西四季の会刊行)  500 円

十月に・夏 矢野敏行4
草は踏まれて・あの日の日記から 杉本深由起8
峠ちかくで 中嶋康博12
花の蔭 紫野京子14
山里・植木鉢の花・愚問 高畑敏光16
母・戦争反対・悪態・死なないで・お題目 奥田和子20
龍の火 小林重樹29
百合の気持 小原陽子32
夏の終わり・どこへ? 舟山逸子34
後記 38


【追伸】今週は稀覯本『富永太郎詩集』を入手したり、「きりのなかのはりねずみ」「話の話」などのアニメーションで有名な映画監督ユーリ・ノルシュテイン先生の講演会&サイン会(1/25於岐阜県美術館)に赴き、憧れの映像詩人を間近にしては、嬉しくてどうにかなりさうな週末でした。詳細はTwitter、Facebookにて。

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688やす:2014/02/20(木) 00:06:45
『富永太郎 ― 書簡を通して見た生涯と作品』
 折角詩集を入手した富永太郎ですが、恥ずかしながら詩人のことを詳しく知らなかったので『富永太郎 ― 書簡を通して見た生涯と作品』(大岡昇平著1974中央公論社342p)といふ評伝の古書をamazonから最安値でとりよせたところ、なんとサイン本でありました。で、読み始めたら釈く能はずそのまま一気に読了。 著者の大岡昇平は、生前の面識こそなかったものの詩人の弟と同級生になったのを皮切りに、かの中原中也、小林秀雄、河上徹太郎などなど、フランス象徴詩の受容史に関係する友人とは悉く深いい交友を結び、仲間内では最も年少の筈ですが誰とも互角に渡りあった豪胆な気性の持ち主。殊に不遇のうちに夭折した中原中也と富永太郎にとっては、世に送り出すに与って力のあった謂はばスポークスマン的存在でもあります。愛憎を突き放したやうな筆致には、富士正晴が伊東静雄に対するやうな感触もあり、何度も改訂を経た評伝に対する責任を果たした感もあり、しかし当時から先輩に対する態度はこんなだったのでせう、当時の文学青年の知的共有圏を説明するに硬軟、幅広くあけすけに本質を突いた叙述にひきこまれてしまひました。 ボードレールもヴェルレーヌもランボーも、もとよりフランス語を解せぬ自分ですが、前半は人妻との恋愛事件に始まった詩人の、といふか大正期青年の性欲に言及する姿勢に、後半はやはり迷走を始めた京都時代以降、中原中也や小林秀雄と交友を結びながら「真直に死まで突走った」晩年の足跡について、そして全体を通しては正岡忠三郎、冨倉徳次郎の二人の親友の友情に感じ入った次第です。 本関連のことでいへば、このたび私が入手した昭和二年に刊行された私家版の遺稿詩集は、彼が生前まみゆることなく私淑した日夏耿之介と佐藤春夫に指導・助言を仰ぎ、長谷川巳之吉の尽力を俟って実現した出版であったこと、後書に記されてゐる通りです。 当時、日夏耿之介は例の豪華定本詩集3巻本を第一書房で刊行中であり、社主長谷川巳之吉とは蜜月時代にありました。その後「パンテオン」編集をめぐって堀口大学と争った際、同じ新潟出身の巳之吉とも袂を分つことになるのですが、富永太郎の当時はといへば、結核の転地療養に精神耐へず鎌倉より脱走。節約しなければならぬ家産事情も上の空、“譲価”五十円といふこの破格の予約出版を、死の床から「とりあへず発注」したのだといひます。もっとも没後、代金はそっくり『富永太郎詩集』の刊行費用の足しに宛てられたのでせう。背革こそ張られてゐませんが、サイズもほぼ同じで、これを羨んだ中原中也が『山羊の歌』を同サイズで作ったエピソードは有名ですが、なるほどそのまた原型として、この『日夏耿之介定本詩集』はゴシック・ローマン詩体に私淑した亡き詩人のために装釘を倣ったものだったといってよいのかもしれません。 けだし富永太郎は北村初雄のやうに良家の長男坊で絵心もありましたし、措辞はもちろん、「保津黎之介」といふ平井功(最上純之介)より露骨なペンネームさへ持ってゐた。専門を英仏とする違ひはあれ、黒衣聖母時代の日夏門を叩かなかったことが不思議にさへ思はれることです。 さういへば先日、ネットオークションで大正時代の無名詩人の孔版詩集を手に入れたのですが、当時の不良文学青年(?)の、今ならさしづめ“絶対領域”といふんでせうか、フェティッシュに対する感情が同じい結構でわだかまってゐる様子を、興味深く拝見した(家人にアホといはれた也)ので、一寸写してみます(笑)。 金髪叔女(淑女)の印象                    大澤寒泉 『白銀の壷』(大正12年3月序)より六月の雨けぶる新橋駅近きとある果物店の前ふと擦り違ひし金髪の淑女足早に――洋傘斜に過ぎ去りし。紫紺のショート スカートの下ブラックストッキングを透してほの見えし脛(はぎ)の白きに淡き肉感のときめきしが……。夕(ゆふべ)、 ふとも思ひいづるかの瞬間の不滅の印象秋なれば かの果物店にくれなゐの林檎の肌やつややかに並び居るらん。 大澤寒泉といふ詩人は、童謡雑誌「赤い鳥」に寄稿してゐた川越在の青年らしいのですが、関東大震災ののち名前をみません。御教示を仰ぎます。 そしてこちらが富永太郎の無題詩。やみ難きエロチシズムに表現を与へ、文学の名を冠して発表することは、由来一種の性的代償行為であり、日夏耿之介が創始したパルナシアン風の措辞(ゴシック・ローマン詩体)は、黒外套のやうな韜晦効果を以て、羞恥と衒ひを病むハイブロウな大正期文学青年輩にひろく伝播したのでありませう。大岡昇平も呆れてゐますが、「社会と現実に完全に背を向けた若者」には関東大震災に関する日記も手紙も一切遺されてゐなかった、といふ徹底ぶりでありました。 無題                   富永太郎(大正11年11月)幾日幾夜の 熱病の後なる濠端のあさあけを讃ふ。琥珀の雲 溶けて蒼空に流れ、覺めやらで水を眺むる柳の一列(ひとつら)あり。もやひたるボートの 赤き三角旗は密閉せる閨房の扉をあけはなち、暁の冷氣をよろこび舐むる男の舌なり。朝なれば風は起ちて、雲母(きらら)めく濠の面をわたり、通學する十三歳の女學生の白き靴下とスカートのあはひなるひかがみの青き血管に接吻す。朝なれば風は起ちて 濕りたる柳の葉末をなぶり、花を捧げて足速に木橋をよぎる反身なる若き女の裳(もすそ)を反す。その白足袋の 快き哄笑を聽きしか。ああ夥しき欲情は空にあり。わが肉身(み)は 卵殻の如く 完く且つ脆くして、陽光はほの朱く 身うちに射し入るなり。なほ、個人ホームページである本サイトでは向後、今回の『白銀の壷』のやうな、片々たるコレクションや著作権満了状況が不明の資料に特化した公開を心がけてゆきたいと考へてゐます。と申しますのも、国会図書館では今年から「図書館向けデジタル化資料送信サービス」が始まり、「近代デジタルライブラリー」未公開資料に対する閲覧・複写サービスが劇的に改善されたからです。わが職場でも端末が更新され次第申請の予定。これまで古書界に通用してゐた「おいそれと読めないがための高額本」といふ事態だけは、いよいよこの日本から払拭されることになりさうで、どこの図書館も予算削減の折から、これはまことに慶賀の至り。と同時に、本サイトでこれまで公開してきた稀覯詩集も、その役目を終へるものがいくつか出て来さうです。いづれ画像を整理する時が来るかもしれませんので、必要な向きには今のうちに取り込んで置かれますこと、お報せ方々お願ひを申し上げます。

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689やす:2014/02/23(日) 12:56:14
『棟方志功の眼』
 毎年お送り頂いてゐる素敵なカレンダーに続き、石井頼子様から、以前に予告もございましたの初めての著書『棟方志功の眼』が出版の運びとなり、このたびは貴重な一冊を賜りました。

 冒頭と巻末に、それぞれ

「淡々とした職人のような生活の中から厖大な作品が生まれた。そこにはおそらく多くの人が抱くイメージとは少し異なる棟方が居る。4p」

「映像ではいつも制作しながら鼻歌を歌ったり、しゃべったりしているんだけど、それは映像用のパフォーマンスで、実際はそうじゃない。今「そうじゃないんだよ」と言い続けているのは、実際の棟方の方がもっと面白いからです。162p」

 と記されてゐますが、とかく奇人扱ひされることの多い棟方志功そのひとの普段着の様子を、間近にあった祖父の記憶として織り交ぜながら、遺愛の品々をとりあげて、多角的な面から(画伯として・摺職人として・好事の目利きとして・道義の人として)論じてをられます。とりわけ著者の絶対的な信頼が、適度な客観視を許す描写となってゐるところが、気持ちよく感じられました。

「雨の予報が出ると家の中がわさわさし始め」「画室中に張り巡らされた洗濯紐にぬれぬれとした作品が万国旗のように翻る」話や、スピンドルバックチェアを疎開のために梱包するのに使はれた十大弟子版木の話、テープレコーダが届くと孫を前に突然歌ひ出されたねぶた囃子のこと、そして手も足も出ぬ入院中の境遇をたくさんの達磨に描いて人々に送った話など、興味は尽きません。 もっとも古本のことしか知らない私にとって、師と仰ぎ、交歓をともにされた民藝運動の巨擘の面々はもとより、連載時毎に話題に挙げられた「萬鐵五郎の自画像、コンヴィチュニー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるベートーヴェン交響曲全集、河井寛次郎の辰砂碗、尾形乾山の掛軸、サインに付された折松葉の意匠、通溝の壁画、梁武事仏碑懲忿窒慾の拓本、有名な「棟」の陶印、胸肩井戸茶碗、上口愚朗の背広、」などなど・・・無学者はインターネットで検索しては、一々確かめながら読み進めていったやうな次第です。

 巻末対談における深澤直人氏(日本民藝館館長)とのやりとりのなかで披露された、お二人の含蓄ある鋭い観察がまた読みどころとなってゐます。

深澤氏 「ただ民藝と棟方志功は別で、棟方志功は完全なアーティストだと私は思っている。民藝というのは自分が作家だと思ってない人がつくったものです。ここが大きく切り分けるところなんです。棟方志功が上手いも下手も関係なくグアッとつくっていける強さと、ほんとに下手な人が一所懸命につくったものの良さとは違います。154p (中略) 可愛いというのは、完全じゃないというもっと別の魅力になってくるんです。それが民藝館を支えている大きなファクターで、そのなかの一番の魅力が棟方志功のなかにも脈々と流れている。157p (後略)」

石井氏 「古語で言うところの「なつかしい」という感じ。郷愁ではなくて、心がやさしく寄り添うという意味合いですね。158p」

 ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

690やす:2014/03/17(月) 12:05:33
サイト休止の御挨拶【予告】
 私こと長らく勤めてきました職場の図書館からはなれ、この春より一学科部局の事務職への異動を仰せつかりました。残念ですが新しい大学図書館構想から現状の体制を省みますと、事務課長として力量不足、反省面もありますが致し方ない気もしてをります。

 さて仕事上もさることながら、図書館サーバーの空き領域を拝借して開設してをりました当個人サイト(6Gb)も、保守ができなくなるため休止せざるを得ません。大学にはHP運営を黙認頂いたことに対し感謝申し上げるとともに、これまでコンテンツのために各種御協力を賜った近代文学研究者・詩人たちの御遺族・古書業界等々の関係者各位の皆様にはまことに申し訳なく、いつかは考へなくてはならない移転問題を先送りにして胡坐をかいてきた怠慢を詫びるほかございません。
 新任地では頭を冷やし、ふたたび出直すべく、暫しインターネットからも遠ざかることになるもしれませんが、精神衛生を第一に養生・修養に努めます。不徳の管理者の心中なにとぞ御推察のほどよろしくお願ひを申し上げます。

 なほ、トップと「ごあいさつ」ページ、および掲示板はこのまま残します。今後、コンテンツごとになるかと思ひますが、どのやうな形で復活させられるかは、また掲示板の方でお報らせいたします。よろしくお願ひ申し上げます。

 ありがたうございました。

691やす:2014/03/20(木) 23:21:22
【急報】山川京子様 訃報
歌人山川京子様、本日正午ご逝去の由さきほど御連絡を頂きました。休止するホームページ最後のお報せがこのやうな悲しいものになるとは…言葉がございません。謹んでお悔やみを申し上げます。

http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/essey/shiki10.htm
http://6426.teacup.com/cogito/bbs/837


【追伸】2014.3.21 11:54 御遺族山川雅典様からのメールをそのまま添付いたします。
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桃の会主宰で歌人の山川京子が、昨日、逝去致しました。
享年92歳、患うことなく眠るような大往生でした。
生前、皆様から賜りましたご厚情に心から感謝申し上げます。

通夜  3月25日(火) 午後6時〜7時
告別式 3月26日(水) 午前10時30分〜12時
場所  代々幡斎場
住所  東京都渋谷区西原2-42-1
電話 03-3466-1006??FAX 03-3466-1651

喪主 赤木圭子(姪)
連絡先 京子宅 03-3398-6585

ご生花のご注文・お問い合わせは、下記までご連絡ください。
電話 03-5770-5521 FAX 03-5770-5529 (株)一願

692やす:2014/03/22(土) 19:17:29
鯨書房 山口省三さんの訃
 本夕さきほど、自分の図書館異動のことを、最近めっきり本を買はなくなって縁遠くなってしまったご近所の古本屋さん、鯨書房にお詫び方々お報せに行ったところ、反対に御店主山口省三さんが亡くなったことを奥様から伺って絶句する。それも最近のことではない。昨年12月21日未明、神田町で呑んでの帰りに長良上天神バス停近くの溝に浸かって亡くなってゐるのがみつかったのだといふ。発見の経緯や、生前の口癖だった「俺が死んでも葬式はするな」といふ遺言を半ば守り、内うちに済ませた葬儀のことなど、ご親切にも不躾に私が訊ねるままにお話下さったが、警察の調べでは事件性はなく、さりとて命旦夕に迫る持病も無かったとのことで、涙を浮かべて当時を語られる奥様の心中の混乱、察するに余りある。

 お店は一緒に手伝ってをられた御子息がそのまま継がれてゐる。訃報は新聞にも載せず、ホームページでも知らされず、これまで直接お店にやって来た常連さんに限って伝へられてゐた。店売りのお客はインターネットと無縁なのだらうか、どこのブログにもTwitterにも何の言及も無く、3ヵ月も経った挙句に私なんかがかうして訃報を記すといふのも、ここ何年か「インターネット(日本の古本屋)の所為で忙しくなってね、困っとる。昔に帰りたいよ。」と、例の嗄がれ声で微笑みながらいつもボヤいてをられた御店主にして、まことに皮肉な思ひでもって泉下から苦笑ひしてをられるやうな気がしてならない。

 私が高校生の時に開業(レジ横に設へてあったエロ本の平台こそが我が古本との出会ひであった)、角刈りに度付きサングラスといふ強面ルックスで(斜視でいらした)、どこかしらに学生運動華やかなりし時代の反骨の闘士の面影を残し(当否を伺ったことはない)、その後10余年を経て帰郷した私の最も盛んなる古本購入時代に於いては、地元の戦前詩集・漢詩集の収集のことでお世話になった一番の恩人であった(高木斐瑳雄のアルバムを散佚寸前の際で救ひ私に御連絡下さったことなど数限りない)。
 2013年12月21日未明、岐阜の昔ながらの古本屋、名物店主だった山口省三さん逝く。昭和24年10月1日生れ、享年六十四。

 山川京子女史の突然の逝去といひ、わが図書館からの異動、ホームページの休止といひ、今やこの非常の春に、天変地異にも似た、何か自分の運命に対する終末的気分と変革的予感とを、同時に、ひしひしと感じてゐる。
 まことに間抜けな元常連の顧客より、とりいそぎのお悔やみを申し上げます。

693やす:2014/03/30(日) 10:18:04
近況
○ホームページを休止すると発表しましたら、「稀覯本の世界」管理人様からミラーサイトなるものを作って下さるとの有難いお申し出がありました。
できあがりは半分くらいの容量になるさうで、楽しみです。
ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

追記:サイトコンテンツの取り込みについて、便利なコマンドを使って順調に取り込みが終了したとのこと。当初の予定通り3月31日をもってホームページを休止いたします。永い間ありがたうございました。



○先日の山川京子女史御葬儀弔電にお供へしました三首を録します。

 悼

ふるさとの古きさくらの枝に咲く言葉のごとき人は今なく

ふるさとの花は未だしまちこがるその山川にかへりしひとはも

山川のよどみなければうたかたの消ゆる思ひもつきることなく



○五十三になりました。年をとったとて何の感慨もないですが、岳父、丈母が一緒に食事をして祝ってくれました。老母、荊妻、耄碌犬みな恙ないのが嬉しいです。

694やす:2014/04/03(木) 23:32:23
近況 2
○昨日は山川京子女史の義甥にあたる山川雅典様が、詩人山川弘至の妹君敏子様御夫妻(関市在)を伴ひ、東京より職場まで遠路をお越し下さいました。
御葬儀の様子などを伺ったのですが、入学式の忙殺中のさなか何のお構ひもできず、まことに申し訳なく、恐縮いたしました。
当日配られたリーフレットをいただきましたが、録されてあったのは、書斎の歌稿ノートに遺された三月十日付の、遺詠となった三首でした。

 いちにんの君を思ひて七十歳 面影は今も若くうつくし

 いちにんの君を思ひて幾十歳 昔を今に嘆かるるかな

 老いてなほ思はるるかな めぐまれしひとりの恋の何ぞめでたき

 亡くなる前日の夜も、普段とお変りなく御自身で床を延べて休まれたといひます。普段からその全ての詠草が遺言に等しいものであったことは、主宰された「桃」の会員の皆々様のよく御存じのところ。しかし余りにも突然のことにて、謂はば世に思ひを刻むことを一念に生きてこられた方にして、さて一期にのぞんで何の遺言をのこすこともなかった大往生に一番驚いてをられるのは、あるひは御本人であるかもしれません。夫婦の再会を寿ぐなどいふお悔やみのおざなりを、今はまだ申し上げることができません。
 あらためて御冥福をお祈り申し上げます。

695やす:2014/04/07(月) 22:28:17
サイト移転
 さてサイトの移転ですが、まったく予想しなかったスピードでの再開に驚いてをります。

 新ホームページ http://cogito.jp.net/

 御足労いただいた「稀覯本の世界」管理人様には、拙劣な文弱サイトのためにオリジナルドメインまで賜り感謝の言葉もございません。

 ありがたうございました。

696やす:2014/04/19(土) 02:45:13
訃報三たび・上京記
 八戸圓子哲雄様より『朔』177号の御恵贈にあづかりました。と同時に同日到着した小山正見様からの報知によって、今号巻頭に掲載の小山常子様(小山正孝夫人)の訃報に接し、愕然。はからずも絶筆となった「思い出 立原道造氏母堂光子様」は、周辺の回想を片々たるものでもよいから遺していただきたかったと思はずにはゐられない貴重な証言でした。亡くなられたのはすでに先月23日とのこと。御連絡いただいた翌々日の日曜には、横浜の感泣亭スペース(小山邸)で四季の詩人小山正孝をしのぶ感泣亭の会合が催されるといふことで、かねがね一度はお尋ねしたいと思ってゐたところ、故山川京子様の弔問とあはせて急遽、岐阜から日帰りで御挨拶に伺ったやうな次第です。

 午前中に伺った、短歌結社「桃の会」の歌会錬成会場でもあった荻窪山川京子邸は、これが東京の住宅地かと目を疑はんばかりの佇まひを持した、六十余年の年月を刻した純然たる日本家屋。姪御であられる赤木圭子様には、これまでこの家を訪ねてこられた保田與重郎ほか多くの文学者のことや、このたびの逝去に至る不思議な暗合エピソードのことなど、玄関入ってすぐの、夫君を祀る神棚の隣に新しく祭壇が設けられたつつましい居室において懇切にお話をしていただき、かたがた別棟の離れや菜園畑のある庭など御案内いただきました。ここにても篤く御礼を申し上げます。大変お世話になりました。ありがたうございました。

 その後に伺った横浜感泣亭スペースでは、春の別会プログラムとして雑誌「山の樹」にまつはる思ひ出話が、「青衣」創刊同人であり現詩壇の長老でもある先達詩人、比留間一成氏によってすでに語られてゐる最中でした。十名弱の聴講者に雑じり、午後の時間いっぱいを末席を汚して拝聴。その前に、正見様令閨邦子様には生田勉設計の邸内に招じ入れられ、ここでもお骨を前にして伺ったお話に、終にお会ひすることのなかったものの、先年の御著随筆『主人は留守、しかし・・・(2011年)』や、記憶に新しい拙著に賜った感想のお言葉から想像したとほりの、遺影の笑顔からにじみ出てくるやうなやさしさにとらはれては、さしぐみかけたことでした。

 山川京子様3月20日九十二歳、小山常子様3月23日九十三歳、ともにお最後まで、瞠目に値する意識の明澄をもって、夫君である詩人への「純愛」を貫かれた御生涯でございました。それは京子様のごとく守旧的であらうと、常子様のごとく開明的であらうと、抒情を志として守りとほした我が国の前時代女性においては変はりやうもない。その堅操を、はるか末世に生を享けた泡沫の男性詩人は深く銘記いたします。 合掌

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697やす:2014/04/19(土) 03:31:56
装釘を紹介する図録2種 : 棟方志功と北園克衛
 このたび古本収集のお仲間の一人だった山本正敏様(富山県埋蔵文化センター所長)から、すばらしい図録『「世界のムナカタ」を育んだ文学と民藝:高志の国文学館企画展』の御寄贈に与りました。棟方志功の画業に関して出された画集・図録は数々あれど、書籍装画に絞ったものは考察ともに少なく、雑誌自体は短命だった「日本浪曼派」の、保田與重郎を「渦の中心」に据ゑたイメージづくりに大きく関ったといへる、かの「志功装画本」の全容の解明を目指してきた山本様のコレクションは、夙に古本仲間うちでは有名だったのですが、紙質や印刷を直に確認できる現物収集の史料的な重要性はともかく、このたびは点数の統計的な分析を試みたことなど、山本様ならではの独擅場と呼ぶべき永年の成果を、郷土の文学館の企画展で披露し、カタログに美しいカラー図版で盛られましたことを心よりお慶び申し上げます。

 「棟方志功の装画本を集め、調査研究する意義はどこにあるのか」・・・その意義や、そもそもコンプリートなど不可能事であるとして、口さがない古本仲間から収集営為そのものが揶揄されたやうな時代もありましたけれども、なになに一念通じてもはや誰も否定できぬ陣容のコレクションは自ずと語ってをります。本冊解説にも曰く、ひとつは「棟方の板画や倭絵の画風の時代的変化」との関はりについて。もう一点は「装画本を通じて多くの文学者との交流の実態が明らかになること」。その通りではないでせうか。前者について門外漢の軽々に論ずるところにないのは仕方ないこととして「戦後しばらくして出身地青森県の文学者や出版社にも積極的に関わっていくのは、ようやく郷土への複雑な思いから解き放たれたあらわれであろう。」との考察など、統計によってはじめて説得力を得る新説ですし、また後者の視点を強く反映した今回の紙面づくりは、愛書家、日本浪曼派ファンの私としても、たいへん嬉しく、たしかに冒頭で福江充氏が記されたやうに「文学を愛するこころ」が棟方芸術の大きな要素となってゐることは、ただ単に装釘の仕事が多かっただけではない、何か、例へば冨岡鉄斎と儒学との関係性に似たものが類比されるやうにも思はれたことです。

 先だっては石井頼子様より『棟方志功の眼』といふ新刊の寄贈にも与りましたが、山川邸に伺った折にも、御遺族から保田與重郎とともに話題となったのは、「世界のムナカタ」の拘りのない仕事ぶりについてでありました。



 また日を分かたずして編集者の郡淳一郎様より、雑誌「アイデア」364号の御寄贈にも与りました。さきが棟方志功ならこのたびは戦前の詩精神を視覚的に代表するもう一方の極といふべき北園克衛。その彼が手がけた装釘本の総覧が大部の半分(143-254p)を占めてをります。拙サイトの旧くからの盟友、加藤仁さんのコレクションワークの産物ともいふべき、橋本健吉時代からの足取りを俯瞰した「ヴィジュアルアーティストとしての戦前の歩み」の一文や、労作「北園克衛をめぐる戦前モダニズム詩誌の流れ」を絵解きにしてみせた年表をはじめ、気鋭のキゾニストたちのセンスが汪溢する郡様編集の誌面に圧倒、ことにも貴重な戦前詩集・詩誌の類ひをフューチャーした美しい写真図譜、稀覯詩集『白のアルバム』『夏の手紙』『火の菫』や詩誌『白紙』の拡大写真などにうっとり見惚れてをります。



 大好きな詩人の装釘を紹介する、瀟洒なカタログに縁ある今週この二三日でありました。
ここにても御礼を申し述べます。ありがたうございました。

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698やす:2014/07/11(金) 20:34:01
不機嫌な抒情詩 小野十三郎
 田舎のごった煮のイメージがある詩誌「歴程」、なかでもグループのしたたかな体臭を感じさせることで筆頭に挙げられる詩人に小野十三郎がある。反権力反権威の姿勢を貫いた経歴によって戦後詩壇に返り咲いた。草野心平を東日本の雄とするならば、さしずめ彼などは関西に君臨して現代詩を牽引する役目を担った旧世代詩人のリーダーと思しい。温和な四季派抒情詩人たちにとっては、謂はば敵陣の巨擘であったけれども、職場の帝塚山短期大学にあっては田中克己先生の同僚として一目置きあひ、同じく文学部で教鞭を執られた杉山平一先生もま た尊敬を以て両者間をとりもたれた時期を持ってゐる。在野にあっては大阪文学学校の開設に関り、ながらく初代校長を務めた。

 その小野十三郎の戦前刊行に係る詩集『古い世界の上に』『大阪』を入手した。興味があらたに湧いたといふのではなく、以前に較べて入手可能な価格で二冊が相次いで現れたのだ。これもまた出会ひである。ことにも第2詩集『古い世界の上に』 (昭和9年 解放文化連盟)は、コミュニズムに親炙する内容とは凡そマッチしない、キュートな表紙が魅力的な一冊。草野心平の装釘である。中身とマッチしないのに魅力的、といふのも変ではあるが、詩集の挿画意匠を語るとき、私の中では佐藤惣之助の詩集『荒野の娘』のカミキリムシをあしらった函とともに、いつか手にしたいと思ってゐた詩集だった。

 全体この感情過多の詩人は、詩だけでなく自著のデザインについても屈折した意識ある人であったらしい。処女詩集『半分開いた窓』(大正15年 太平洋詩人協會)のデザインはダダイズムといふか構成主義が意識されたものだが、装釘者は著者より「キタナラシクつくって呉れ」との依頼があった由、で「出来上りがキタナ過ぎた」とぼやいたのだとか。(尾形亀之助記)。

 さういふ意味では意表を突いたといふより、狙ひ通りの屈折した出来栄えと言へるのだらうか。入手したもう一冊の、有名な第3詩集『大阪』(昭和14年 赤塚書房刊)は、同じくアナーキストだった歴程同人菊岡久利の手になる実に投げやりなスケッチによる装釘が、(意識的なのだらうが)過度なつまらなさ(笑)に仕上がってゐる。(人間性の魅力本位で行動する菊岡とはこのあと思想的立場を真反対にすることになる)。

 ただしかし彼の批評精神を宿した詩想はその意識的な「つまらなさ」の下で開花したのであった。戦後、彼の作品は「抒情を排した抵抗精神の顕れ」などと担がれた。けれど私に言はせれば、彼の佳作はことごとく「不機嫌な抒情詩」と呼んだ方がしっくりする。小野十三郎が伊東静雄を回想する一文で『春のいそぎ』収録の詩篇「夏の終り」を選んで親近感を示してゐるのは、伊東が大阪在住の同世代詩人で当時子息の担任であったなどといふ卑近な事情からではない。イロニーの「不機嫌さの質」において等しいものを感じてゐたからであって、このたび酸性紙の香りが芳ばしい『古い世界の上に』の原本を、注意深く繙きながら感ずるところがあったのも、初期伊東静雄の新即物主義風の作品にも通ふやうな 成心に満ちた措辞についてであった。



 ある詩人に



あなたは眼を輝かせて

僕らの話を聞いてゐた

あなたは人一倍涙もろくてすぐに亢奮するのであつた

僕らが語らうとするもの、あなたはそれをお互ひの友愛の上でのみ読まう とした

おそらくあなたは非常に幸福だつたらう

あなたは路傍の泥酔者(のんだくれ)よりも猶悪く酔つぱらつた

あなたの誠実と熱意にもかかはらずあなたは事実その話を聞いてはゐなかつた

あなたは舌鼓をうつて飲んだのだ。僕らの話を。

                             『古い世界の上に』47p







 葦の地方



 遠方に

 波の音がする。

 末枯れはじめた大葦原の上に

 高圧線の弧が大きくたるんでゐる。

 地平には

 重油タンク。

 寒い透きとほる晩秋の陽の中を

 ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され

 硫安や 曹達や

 電気や 鋼鉄の原で

 ノヂギクの一むらがちぢれあがり

 絶滅する。

?????????????????????????????????????????????? 『大阪』13-14p

 『大阪』集中の有名な「葦の地方」といふ詩においても、イメージは全編が重苦しい。「ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され」といふ一節に、まず読者は躓かされるだらう。ユーファウシャとは「euphausia:オキアミ」のことである。言葉が分からなくても「とうすみ蜻蛉」がアキアカネでないことは分かるのだが、語義が分かると、腹脚をうごかして揺曳するオキアミよろしく、イトトンボがそこかしこを飛翔するイメージが、滄海と秋旻とを重ね合はせられて一層美しく伝はってくる。あるひは晩秋に灯心蜻蛉はそぐはない。むしろ彼が忌むべきアキツシマの語源をもち、オキアミとも似つかはしい赤蜻蛉の群泳シーンに変換して読んでも面白いと思ふ。

 とまれ「コギト」的な抒情詩だったら美しい一篇にシニカルな瑕瑾を混ぜるところ、彼はその反対をやって効果を上げたのであり、不機嫌の極みながらこれもまた抒情詩と呼んで差し支へないもののやうに私は思ってゐる。抒情詩を作れぬ詩人は詩人ではない。そして詩に社会的メッセージがなければ価値なしと断ずるなら、メッセージが社会から否定された時点で作品もまた無価値になってしまふ事情は、彼が忌んだ戦争詩だけでなく、この詩においても同様であると思ふからである。

 けだし小野十三郎によって社会的現実に対する認識が投影されない抒情詩人たちの作品が否定されたこと。それに意味があったのは、躬を挺した指弾を彼が敗戦前に放ってゐたからである。いかなる思想も遠慮なく発表できるやうになったのち、小野十三郎にかぎらない、抵抗詩人たちの戦後の詩業といふのは、なほ怨みをもって抒情詩人たちを総括糾弾した散文の詩論に較べれば、漸次戦闘の意味を失はざるを得なくなっていったやうに私には思はれる。180度転身したジャーナリズムは、現実の彼らに充分に酬ゐたであらう。けれど続く高度経済成長はかつての抵抗詩人たちの前衛の自負を後ろから刺したのであった。 その上に露見する共産主義国家の腐敗と恐怖に至っては、彼らは何を思ったらう。嫌気がさし再びアナーキズム的に嘯いてみせることは、戦争を体験した旧世代の抵抗詩人たちだけに許された特権であり、謂はば見果てぬコスモポリタンの夢である。しかし彼らの薫陶を受けた団塊世代以降の現代詩詩人たちが同じいポーズを取りながらも、師匠が否定した四季派否定には頬被りをしたまま、時に抒情詩の魅力なんぞを語る様子をみるにつけ、この上ない破廉恥を私は感ぜざるを得ない。

 詩人の責任ではないところでその詩が述べる志が社会的に有効・無効に選別される「時代」がある。時代からの「お墨付き」の評価に胡坐を掻いた途端、詩人は足元を掬はれる。それは戦前も、戦中・戦後も同じことではないだらうか。 私の中で「批評精神」とは、決して思想ではありえず、その「不機嫌さ」の真率を絶えず問ふことにつながってゐる。

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699やす:2014/07/11(金) 20:40:59
『桃の会だより』17号
 いつも頂いてゐる『桃の会だより』ですが、前号に続いて17号も主宰者山川京子女史を偲び奉る特集となりました。葬儀後初の歌会での詠草と回想は、それぞれ皆さんの哀悼・思慕・尊崇の想ひに満ち、時に曠世の女傑でもあった京子氏その人となりを伝へる消息にも触れ得て、嬉しく拝読しました。
 亡くなる前夜、姪御の赤木圭子氏の呼びかけに対し、応へるでもなく毅然と発せられた「大丈夫よ」といふ最期になった言葉のこと。ほかにも「どして百歳に限るの、百歳以上は生かしてくれないの?」「私に事へるのでなく学ぶのよ。」「甘えるじゃないの。」などなど、煥発される気丈な立ち居振る舞ひの一々が、細やかなことも決して疎かにされなかった几帳面と配慮とを一度でも経験して相対した人ならば、まことになつかしく髣髴されるに違ひありません。
 そして昨年、郡上高鷲に建てられた歌碑のこと。

「山ふかくながるる水のつきぬよりなほとこしへのねがひありけり」

 「とこしへの願ひ」とは何か。会員からの質問には「そのうちわかるわよ」なんて嘯かれた由。その真意を結社の各自銘々が心にひきとり、これからも歌の道をあゆんでゆかれることになるのでありませう。和歌はたしかに亡き夫であった詩人山川弘至と京子氏との「心の通ひ路」でありました。しかし私は野田安平氏の「とこしへの願ひについて」といふ一文にありました、「ねがひ」とは自身の没後にも夫君を追慕し続けるといふやうな、京子氏個人の願ひといふより、何かを指し示してゐるものではないか、その標識として自身の歌碑を建立せよといふ周囲からの懇請をしぶしぶ承知されたのだ、といふ卓見に同意します。

『日本創生叙事詩』は、原稿を確認してもなぜか「桃」の章※が脱落してゐます。以前、先生にお尋ねしましたが、「桃の会」発足時、そのことに結びつける意識はなかったとのことです。しかし結果として、先生は、父君の原著の脱漏を六十年にわたって埋め続けられたことになります。そして未完の長歌の最後に、美しく反歌を添へて一巻を完成なされた。そのやうに思へてなりません。12p (※古事記でイザナキが黄泉軍から逃れる条り)

 日本浪曼派の衣鉢を継ぐ短歌結社といふと、右翼か何かの集まりのやうに思はれる向きもあるかもしれません。しかし山川弘至記念館資料の整理に尽力、今後の運営についても影響されると思はれます野田氏は、靖国神社の権禰宜でありますがキリスト教の薫陶を家庭で受けた謹飭の人であり、姪御の赤木氏は英語の先生、また京子氏自身も戦前日本で迫害にさらされた大本教の司祭になられたのでした。「文学(文士)とは行儀の悪いものである」といふ世に行はれてゐる観念、その対極に立つやうな桃の会の「歌の道」そして大和魂の精神は、ますらをぶりを掲げた山川弘至を愛しむ山川京子のたおやめぶりを本義とするかぎり、俗念の赴くまま自己表現することを誡めながらも、決して表現の自由や平和の大切さを蔑ろにするものでない。むしろその反対だと、それだけは堅く言へるのではないでせうか。

700やす:2014/08/18(月) 16:35:26
連日溽暑
休暇後半も引続き修養中。

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701やす:2014/08/24(日) 23:12:02
舟山逸子詩集『夢みる波の』
 まもなく創刊100号を迎へる季刊同人詩誌「季」の旧き先輩、舟山逸子様より新詩集『夢みる波の』の御恵投に与りました。ここにても御出版のお慶びを申し上げます。
前回の素晴らしい装釘の詩集『夏草拾遺』(1987年)から、早や四半世紀が経ちます(当時は活字本でした)。あれから以降の作品を春夏秋冬、毎回ぽつんぽつんと拝見してきたわけになるのですが、今回かうして一冊にまとめられてみると、淡い色調ながら生きる悲しみが主調低音となって響いてゐることにあらためて驚き、抒情的な滑空を回想のうちに示してみせてゐるこの一冊には、前後も無く
「長い間心にかかっていた古い詩編にやっと場所を与えることができました。」
と、著者にとって何か心の荷物を下ろしたやうな呟きを記した紙片が添へられてゐるのでした。

 けだし杉山平一先生直系のエスプリあり、散文で書かれた海外美術館を巡るスケッチあり。しかし舟山さんの詩の個性はどちらかといへば、やはりエスプリといふより、母性とは異なった女性ならではの語り口、その優しさそのものにあるやうな気がしてをります。現代詩に疎い私は、それを誰それになぞらへたり、また独擅場の語り口であるとも自信を以て讃へることができないのが歯がゆいところ。わが詩的出発の際には矢野敏行大兄とともに姉のやうに見守り励まして下さった、その思ひ出もいまだに当時のままに、このたびは私好みの一篇を抄出して紹介に代へさせて頂きます。ありがたうございました。

  五月

五月の 若葉をたたいた
雨はあがって
ひろがりはじめる青空
草の匂いの濃い森のなかでは
淀んだ池の葦のあいだを
一匹の光る蛇が 首をたてて
泳いで行く


舟山逸子詩集『夢みる波の』2014.9.1 編集工房ノア刊行 75p \2,000 isbn:9784892712142

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702やす:2014/09/24(水) 07:25:03
リルユール
フランスに10日間ほど行ってきました。20年ぶりの海外旅行です。写真はFacebookにupしました。

さて、古本愛好家としてパリの古本屋さんや古書市にも行ったは行ったんですが、所詮言葉が分からないのだからどうといういふこともありません(笑)。
探してゐたドイツ人画家ハンス・トマの画集はみつからず(ここはフランスですからね)、またフランスで一番のおきにいりの詩人フランシス・ジャムの古書も、メモ帳をみせつつ訊ねてはみましたが市にはないやうでありました。(詩が一般庶民の生活に根づいてゐるといふフランスでも今や四季派みたいのは人気がないのかな。)

せめてもの旅の記念にと、美しい革装の袖珍本など左見右見するうち、やがて蚤の市で手に取った一冊の背表紙に目が。『Pierre Lafue. La France perdue et retrouvée1927』理由は写真の通り、日夏耿之介の詩集『黒衣聖母』を彷彿させたからでした(背の褪せ方がまた 笑)。
内容もよくわからぬまま求めたのですが、どうやら元は並装本で装釘をし直したもの。並製の背をそのまま遊び紙に残してあるところがなんともフランスらしく「リルユール」文化を感じた次第であります。

ここではフランシス・ジャムの本(評論) 『Armand Godoy. A Francis Jammes1939』もみつかりました。もっていったもののどう処分したら分からなくなって困ってゐた拙詩集を進呈したら、笑って二冊を値引きして頂きました。御主人ありがたうございます。訳してもらふことになる知り合ひの日本人さんにもよろしく!

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703やす:2014/10/13(月) 13:53:17
「昭和十年代 鳥取のモダニズム詩運動」
 永年モダニズム詩人荘原照子を探索してこられた手皮小四郎様より、同人誌『菱』187号の御寄贈に与りました。
 巻頭に掲げられた小谷達樹氏の御遺稿の8ページ、このあとハイブロウな読書家に人気のある歌人塚本邦雄がらみのお話に続く筈だったといふことで、続編が書かれなかったことが残念でありますが、詩人であった先君、小谷五郎(安田吾朗)が関はった、貴重な戦前の地方詩史の発掘紹介がなされたお慶びを、お悔やみとともに申し上げます。

 小谷五郎氏は現在、鳥取地方の郷土史家として名を残されてゐるやうですが、戦前に発刊されたといふ詩誌『狙撃兵』『ルセルセrecherche』から抄出された、安西冬衛テイストの作品をみるかぎり、シュールレアリズムがかった盟友清水達(清水利雄)氏のものよりも凝縮された抒情がこめられてゐて、詩集を刊行しても反応がなかったことに落胆し画業に向かったともありましたが、斬新な装釘意匠をものする才能ともに残念なことに感じられました。

 閑日の構成
                    小谷五郎

要塞の午後M大尉の私室で麻雀は行はれた。
赤い三角旗のもとで少女は十六才であると言ふことを発見した哨兵はゐた。
U河附近の図上に帰ってこない騎兵斥候。
その日は砲術家のゲミア軍曹が大尉の夫人の眼を気にかけてゐたのでたびたび牌を投げ出してゐた。

                                      (「狙撃兵」2号)

 近視で肋膜の前歴もあったためか戦争にはとられなかったやうですが、地方の師範学校出身の先生ともなれば、そうそう思想的な進取の気性を標榜し続けることも難しかったでせうし、清水氏のやうに軛を嫌って上京することも、おそらく本来詩人の稟質に叶ふものではなかったのだと思ひます。その処女詩集だってそもそも何冊刷って配られたものか、『歴程』といふタイトルの詩集は小谷五郎・安田吾朗いづれの名義でも国会図書館ほか国内の図書館に登録がありません。(一方昭和十年代の西日本同人誌界を風靡したアンデパンダン誌「日本詩壇」から出された清水氏の詩集『航海』は国会図書館で確認できるやうです。) 手皮様が、無念に斃れた達樹氏の略歴を記されましたが、当の詩人の略歴を御子息の手で書き遺して頂きたかったものと、せめて詩集の書影・書誌概略なりとも知ることができたら、これは拙サイト管理者としても残念に思はれたことであります。

 地方に隠棲して郷土史家の道を歩まれたみちゆきは、戦前最後の中原中也賞を受賞しながら詩筆を断った、当地方の平岡潤を髣髴させるものがあります。以下に手皮様の紹介文より経緯について引きます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

「確か昭和41年頃のことと思うが、部員の話題が塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』に及んだ際、家にあるよと言って、翌日持ってきた。部員に鳥取西高の短歌誌『青炎』同人も居て、120部限定のこの稀観歌集を熱心に書き写す者もあった。『水葬物語』は塚本邦雄から小谷の父、小谷五郎へ献本された一冊だった。
 小谷五郎は『狙撃兵』『ルセルセ』を編集発行した後、十年の空白を経て、十歳年少の杉原一司と避遁し、戦後『花軸』を創刊した。小谷にとって〈前衛の歴史を創る詩徒〉の相手が、上京した清水達に替わって杉原一司になったわけである。杉原は八東川対岸の若者で、前川佐美雄の『日本歌人』(当時は『オレンヂ』)に属する俊秀だった。
 昭和23年春、『花軸』が終刊すると、杉原は〈前衛の歴史を創る〉伴走者に『オレンヂ』の塚本邦雄を選び、『メトード』を創刊。 『メトード』全7冊中11冊に小谷五郎が寄稿しており、これらのことが背景にあって、塚本は小谷に『水葬物語』を贈ったのである。

 小谷五郎には多くの著作があり、没後編まれた『小谷五郎集成(文学篇)』もあるが、全作品を網羅した詳細な書誌はなかった。ぼくはかねてからこの書誌の作成と、『狙撃兵』から『メトード』更には『水葬物語』へと流入する八東川畔のモダニズム文学の系譜を纏めるべきだと言い募ってきた。
 小谷達樹がこれに応えて取りかかったとき、彼はすでに病床にあった。二稿辺りの原稿の隅には、もう頭が回らないと震える筆跡の添え書きを残している。小谷は遠のく意識に自らの頬を打ちながら、この前篇を仕上げて逝った。無念であるが、これが彼の命の最後の華と思えば感堪え難いものがある。」
                                                    (「小谷達樹遺稿一件」31p)

『菱』187号 2014.10.1 詩誌「菱」の会発行 56p  500円

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704やす:2014/11/11(火) 21:08:59
舟山逸子散文集『草の花』
 新詩集『夢みる波の』に続き、はじめての散文集『草の花』を、関西四季の会の先輩、舟山逸子様よりお送りいただきました。御刊行のお慶び、そしてふたたびの恵投に与りました御礼をここにても厚く申し上げます。

 先輩舟山さんはわたしよりもうひと世代上、第4次復刊「四季」をリアルタイムで体験された投稿世代にて、ここには「四季」終刊を契機に関西四季の会を興され、本格的に詩作を始められた1970年代から折に触れてものされた散文の粋が収められてゐます。乙女心が映える瑞々しい初期文章はもちろんですが、詩人必ずしも詩情を展ぶるに韻文に限ったものでないこと、ことにも舟山さんの詩人たる特長はむしろ散文の語り口に於いて顕著であること、かうして纏められると一層はっきりするやうな気がいたします。清楚で内省的で、地に足の付いた誠実な心情の吐露は、その手際がまた杉山先生を例に出すなら「手段がそのまま目的」であります。即ち「文は人なり」といふことに尽きる訳ですけれども、書きはじめられた頃の文章から些かの変りもない「操」「育ちの良さ」といった、実際に舟山さんに会った人がやはり同じく感じられるであらう印象に重ね合はせては、また驚いたことでありました。

 第一部の創作エッセイでは、詩人が得意とする美術館探訪エッセイの嚆矢といふべき、碌山美術館の回想を叙した冒頭の一文をはじめ、若くして逝った先考を追慕した作品、花弁を呑み込まうとしては吐き出してしまふ鯉に託した切ない短編などにこころ打たれます。
 対して第二部の詩人論には、これまで単発で発表されたままの優れた立原道造論・杉山平一論がまとめて収められてをり、昭和期の最良の読者から眺められた視点が、そのまま同時代の詩人達に同じ書き手の視線から援用されるところにもあらたな発見を認めます。

「視野の限界が映画の芸術性を支えている。」253p「「型」の肯定は杉山平一氏の特質の一つではないだろうか。」252p
「興味深いのは、この「隱す」ということが、すっかり溶けこんで混じり合ってしまうということでは決してない、ということである。(中略) 存在そのものを消しはしない。(中略) その存在のありようは、強い自負心に裏打ちされているように思われる。」257p

 これを読まれた杉山先生の喜びが手に取るやうに分かるやうな評言に、思はず鉛筆を引いてしまひます。


「私は信じる。「うそ」のなかの「ほんたう」こそが、文学の真実の世界であり、それは常に「ほんとうらしいうそ」であるかもしれぬ現実世界とせめぎ合っていると。」185p
「「夢をみた」と詩人がいうとき、詩人は決して眠ってなどいない。目を閉じてなどいない。くっきりと目ざめていて、その「夢」をみているのである。」207p

 詩人の成立背景を余すところなく語ってゐる点、そして「四季」の詩人達に私淑された影響(成果)が、当時昭和40年代の現代詩ブームが与へた影響よりも、 散文であるためよりはっきりと刻印されてゐるといふ意味においても、舟山逸子の抒情詩人を一番に証する一冊として語られるものになるのではないでせうか。

舟山逸子散文集『草の花』2014.11.1 編集工房ノア刊行 285p 2,500円 isbn:9784892712159

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705やす:2014/11/12(水) 21:11:39
「薄明の時代の詩人」
「薄明の時代の詩人」 スイス在住、写真家にして詩人でもあるschale様のブログを紹介いたします。

 まづはアルプスの山稜や高原、極北の地勢を捉へた風景写真の息を呑むやうな美しさに瞠目です。合せて詩と平和に関する断章が、実存主義に列なる詩人哲学者たちをトリビュートしながら綴られてゐるのに圧倒されました。タイトルはヘルダーリンを評したハイデガーの言葉「乏しき時代の詩人」から。
 驚いたのは、戦後文壇から「日本浪曼派」の中心人物として悪罵の限りを浴びて抹殺された感のある評論家、芳賀檀氏晩年の謦咳に接されたschale様、先師の貴族的精神に対する誤解を釈くべく、ネット上で擁護されてゐることでした。それも政治思想によるのでなく、晩年に至るまで抒情を重んじた思索する詩人としての姿を掲げてをられてゐるのを拝見して、御挨拶さしあげたい方だなと常々思ってをりました。このたび拙詩集をお送りすることが叶って、懇篤なご感想をいただくと共に同庚であることにも聞き及んで、大変励まされてをります。


 また酒田の加藤千晴詩集刊行会、齋藤智様よりは、現在酒田市立資料館で開催中の「吉野弘追悼展」に付随して設けられた、詩人加藤千晴を紹介する小コーナーについて、報告とご案内のお便りをいただきました。こちらは失明によって文字通りの「薄明の世界」を、詩を書くことのみを支へにして生きた四季派詩人ですが、在郷詩人の方々により、この機に合せて顕彰されてゐることを嬉しく思ひました。


 ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。  (写真はすべて齋藤智様より)

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706やす:2014/11/29(土) 12:37:09
松本健一さんの訃報
 松本健一さんの訃が報じられた。

 先師の詩業『田中克己詩集』を、たった300冊しか刷ってゐないにも拘らず中央雑誌の書評欄で紹介して下さったのは松本健一先生だけでした。

 また小高根二郎氏による浩瀚な評伝が出された後、誰も続いて評する者のなかった蓮田善明について、詩人的側面を切り捨てずに論じた単行本を著すなど、日本浪曼派の文学に深い理解を寄せられる当代一の評論家が、折しも時の民主党政権の顧問に迎へ入れられた時には、吃驚もしたことでした。

 昔、海のものとも山のものとも判らぬ無名の若者が送り付けたペラペラの詩集に対し御感想を賜ったこと、忘れません。
 心より御冥福をお祈り申し上げます。

707やす:2014/12/11(木) 19:32:27
『感泣亭秋報』9号 『朔』178号 小山常子追悼号
 詩人小山正孝の御子息正見様より年刊雑誌『感泣亭秋報』9号を拝受、前後して八戸の圓子哲雄様より『朔』178号の御恵投にも与りました。ともに今春93歳で身罷った小山正孝夫人常子氏を追悼する特集が組まれてをり、感懐を新たにしてをります。拝眉の機会なく、お送り頂いた雑誌に対する感想をその都度これが最後になるかもしれないとの気持でお便り申し上げてきた自分には、今回あらためて寄稿する追悼文の用意がありませんでした。同じく書翰上のやりとりを以て手厚いおくやみを捧げられた『朔』同人のお言葉を拝して恥じ入ってをります。

『感泣亭秋報』9号 (感泣亭アーカイヴズ 2014.11.13発行)
発行連絡先:〒211-002 神奈川県川崎市中原区木月3-14-12

『朔』178号 (朔社 2014.11.20発行)
発行連絡先:〒031-0003 青森県八戸市吹上3-5-32 圓子哲雄様方

 詩作の出発時から現夫人との純愛をテーマに据えてきた「四季」の詩人小山正孝。その片方の当事者自らの筆により楽屋裏からのエピソードを提供、それを契機にエッセイ類を陸続発表されるやうになった常子氏ですが、このたび感泣亭の会合に集はれた皆様、そして『朔』同人の方々から寄せられた回想といふのは、亡き夫君の面影を纏ひつつも常子氏独自の人柄才幹を窺はせるエピソードが興味深く、読み応へのあるものばかりでした。

 そもそも詩人当人より奥方の方が、よほど現実生活において対人的な魅力と包容力に勝ってゐるといふのは、わが先師田中克己夫妻の例を引き合ひに出すまでもなく、詩人と呼ばれるほどの人物の家庭では、必ずやさうなのでありませう。詩人からの“呪縛”と記してをられた方もありましたが、伴侶を失った妻が驥足を伸ばし、夫より長生きするといふのも、常子氏の場合において特筆すべきは、その“呪縛”を自らもう一度縛り直すがごとき殉情ロマンチックな性質のものであったこと。まことに「小山正孝ワールド」において韜晦された愛の真実を証しするもののやうにも感じられます。最愛の夫を失った喪失感を埋めるために始められた執筆が、不自由な青春を強いた戦前戦中に成った夫婦の原風景にまでさかのぼり、たちもとほる、その回想が恐ろしいほどの記憶力を伴ってゐることに、読者のだれもが驚嘆を覚えずにはゐられなかった筈です。

 斯様な消息は、(小説と銘打ってゐますが)このたび『感泣亭秋報』に遺稿として載ることになった雑誌の懸賞応募原稿「丸火鉢」にも顕著で、これが卆寿を超えた女性の書いたものであるとは思はれない等といふ単なる話題性を超え、戦時中の日本の青春の現場が、斯様に若い女性の視点からあからさまに描かれてゐるのも稀有のことならば、戦地へ送り出す新妻の心栄えを杓子定規な御涙頂戴の視点からしか称揚してみせることができない邦画的感傷主義に比してみれば、非社会的なあどけない主人公の心持が、許婚に対する意図しない残酷さを伴って綴られてゐる様は新鮮でさへあり、家族に対する真面目な倫理性との混淆も計算上の叙述といふことであれば、非凡といふほかないと自分には思はれたことです。読み進めての途中からどんどん面白くなり、未来の御主人「O氏」が全面に出てくる前に筆を擱いてゐるところなどは、(自分に小説を語る資格などありませんが、一読者として)唸らざるを得ませんでした。
出版社も事情を飲んで一旦応募した作品の返却によくも応じてくれたものだとも思ひます。掲載に至る経緯をあとがきに読み、感慨を深くした次第です。

 一方の『朔』巻頭には絶筆となった未定稿「the sun」が載せられました。

「何時までも何時までも鼓動しているのでしょうか。私の心臓 一時は困ったことだと思っていましたが此の頃になって私の日常のラストのラストまで未知の経験と冒険の日々を作ってみようかなと思うようになりました。」5p

 生(いのち)の陽だまりに対する感謝が、英語塾の先生らしいウィットを以て太陽(sun)と息子(son)に捧げられたこの短文、御子息の編集に係る『感泣亭秋報』には、立場からすれば一寸手前味噌にも感じられてしまふ内容だっただけに、掲載されて本当に良かったと思ひました。けだし1971年に創刊した抒情詩雑誌『朔』はこの数年、小山常子氏の純情清廉なモチベーションによる貴重な文学史的回想によって、四季派の衣鉢を継ぐ面目を保ち、新たにしたといって過言ではありませんでした。常子氏においても自ら書くことによって亡き詩人の余光を発し続けることができることを悟り、残された自身の存在証明とも言はんばかりの創作意欲を、迎へ入れられた「朔」誌上でみせつけてこられたのは、同じく未亡人であった堀多恵子氏以上の情熱であったといってもいいかもしれない。それ故にこそ、訃報を受け取った圓子氏の心痛も半年以上筆を執ることができなくなったといふ体調不良にまで及んだのでありましたでせうし、常子氏が昨年文業を一冊にまとめられて区切りをつけられたことに、私も某かの讖を感じぬでもありませんでしたが、御高齢とはいへ、明晰な思考と記憶と、そして恋愛を本分とする抒情精神をお持ちだった文章の印象が先行してゐただけに、やはり突然の逝去は、期日と年歯をほぼ同じくした山川京子氏の訃報と共に不意打ちの感を伴ふものでありました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


 また今号の『感泣亭秋報』について補足します。このたびは渡邊啓史氏、蓜島亘氏の労作原稿を得て倍増し、資料的価値満載の150ページを超える大冊の文学研究雑誌となってゐます。渡邊氏は詩人小山正孝の一作一作の業績ごとに肉迫する論考を第4詩集『散ル木ノ葉』に於いて展開。一方の蓜島氏は戦中戦後の文芸雑誌人脈を出版面から実に細かく一次資料に当って描き出し、連載3回目のこのたびは、雨後の筍の如く林立しては淘汰されていった終戦直後の出版界の混乱に、抒情派の旗揚げもまた翻弄される様子が述べられてゐます。新雑誌の盟主に『四季』の名前とともに担ぎ出されんとする堀辰雄をめぐり、あくまで抒情詩の旗頭になってほしいと願ふ四季派第二世代である小山正孝・野村英夫らの若い詩人たち、文学者であるコネクションを発揮して頭角を露さんとする新進出版社主の角川源義、そして両者の間にあって病床の堀辰雄のスポークスマンを買って出た親友の神西清、その三者の思惑が一致せず、堀辰雄晩年の思案顔も髣髴されるやうな状況が、正確を期する記述と小山家に残された書翰によって明らかにされてをります。小山正孝は結局『四季』ではなく、1号で終った『胡桃』といふ雑誌を編集することになるのですが、四季派の抒情詩人として出版に携はった、例へば稲葉健吉といったマイナーポエットなども今回は紹介されてゐます。戦後しばらくの抒情詩陣営の活況を、資料によって相関関係とともに焙り出してゆく蓜島氏らしい実証作業は、現代詩一辺倒の詩史の隙間を埋めるものとして注目に値します。

 とりいそぎの御紹介まで。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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708やす:2014/12/12(金) 21:28:12
『季』 100号
 同人詩誌『季』が100号を迎へた。精神的支柱に杉山平一先生を戴いた四季派直系の雑誌である。詩を書き始めた頃、拠るべき場所を失った私を迎へ入れてくださった雑誌であり、最年少の身分で好き勝手させてもらったここでの発表が、乏しいわが詩作のピークであったことを憶ふと、お送りいただいた一冊を手に取っては今更の感慨を禁じえない。
同人の詩風はおしなべて雅馴、かつ淡彩ながら各々別あり、私の脱落とすれ違ふやうに入会された杉本深由起氏は、最年少同人の特別席を襲って杉山平一ゆずりエスプリを発揮し、『季』40年の歴史が送り出した選手と呼んでよいのかもしれません。

ちいさな我慢や 怒りが重なって
ミルフィーユみたいになってきたら
紅茶の時間にいたしましょう

カップの中のティーバッグと
白い糸でつながって
ゆらゆら ゆらしているうちに
風とおしのいい丘の上で
凧あげしている気分になってきました
(後略)                      杉本深由起「ゆらゆら」より

 長らく編集に携はってこられた舟山逸子、矢野敏行両氏の温和な人柄が、ゆったりした組み方からはじめ雑誌全体の雰囲気を決定し、毎号の扉・表紙を飾る杉山先生の簡潔なカットは、これが雑誌「四季」の衣鉢を継ぐ牙城であることを示す徽章のやうでありました。杉山先生なきあと、さきの98、99、100号と、深呼吸をしたのち再び歩みをすすめてゆかうとされる皆さんの意気込みが、気負ひなく表れてゐる誌面となってゐます。

 ここにてもお慶び申し上げます。ありがたうございました。

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709やす:2014/12/13(土) 15:16:54
おくやみ 松本和也氏(下町風俗資料館初代館長)
 口語自由律俳句の鬼才、嘗てわが上司にして台東区立下町風俗資料館の初代館長でありました、松本和也(まつもとかずや)氏の逝去を、年賀欠礼状によってお知らせいただき、吃驚してをります。さる四月十四日とのこと、二年間の闘病生活を送られてゐたことも存じませんでした。毎年娘さんの描く一風変はったイラストに、一言を添へた年賀状を返していただくのが楽しみでしたが、昨年はお送りした拙詩集に感想もないまま、いただいた賀状の言葉の意味を計りかねてゐた自分を恥かしく思ひかへしてをります。

  思ひ起こせば地方の大学を卒業して仕事も決まらぬまま上京、三月も終りに「来月からどうしよう」と思ひ倦み、上野は不忍池をぶらぶらしてゐたところ、偶然下町風俗資料館の玄関に貼りだしてあった求人広告に目がとまったのでありました。マンガ雑誌「ガロ」の影響で下町風情にあこがれて上京してきたなんぞといふ、学芸員の資格もない訳のわからない男を、よくも一見しただけで採用して下さったものだと、今に当時のことを思って不思議の感にとらはれてなりません。この資料館に私は文化財専門員として1984年から1990年までの間、丸6年お世話になりました。新任職員の賃金を上回ってはならぬといふ待遇規定で毎年更新、区は学芸員を正規採用するつもりはなく、だから私みたいな者が採用されることになった訳ですが、館長が常々仰言る「いつまでもおったらだめだよ」といふ言葉通り、同僚はここをステップにキャリアアップを目指して次々飛びたっていったのに、無目的の私は9時5時勤務で週に三日もあった休みを精神生活の彷徨に費やし(お金はありませんでしたから)、しっかり怠け者の詩人の生活が板についてしまったのでありました。

 「前衛の自負」を標榜された新日本文学派の松本館長にとって四季・コギトの編集同人だった田中克己の門を敲いた私は、謂はば「花鳥風月の詩人」「戦犯詩人」に与する反動派であり、氷炭相容れぬ関係だった筈ですが、一方では公務員らしからぬ無頼派を気取り斜(はす)に構へてみせる。例へば縦縞の入った紫色のスーツで身を固め、職場に通ずるポルノ映画館の路地裏を肩で風を切って、といふか風に吹かれてゐるやうにもみえる、浅草生まれを自負する粋人でもありました。「民主主義は多数決の勝利である」と言挙げしつつ、イデオロギーを超えたロマンとエロスに苛まれた実存を吐き出す場所を求め、あくまでも自由律「俳句」のカオスに拘泥された。お役所体質と公務員気質を心底嫌ってをられましたが、日本で初めてできた下町の文化風俗を展示する博物館(敷地規模のため資料館とされましたが)の、構想から設立・運営の差配をすべて任されたのちは、恐るべき情熱をもってこれに没頭され、明治・大正・昭和の風俗論を実地調査と共に展開して、その成果を公的刊行物らしからぬ言辞の揺曳する図録に次々とまとめてゆかれました。核となった原風景は自身が青春を送った敗戦後の猥雑たる浅草界隈であったと思しく、威圧感を嫌って物腰こそ柔らかいものの、何事につけても独断専行、わくわくするやうなモチベーションが先行した斯様な型破りのキャラクターが、私ら口さがないペーペーの若者職員にとって瞠目・称賛・畏怖・観賞に値するボスでない訳がありませんでした。遠まきに時折り議論めいた詩論をふっかけてくる、何にもわかっちゃいない、歯牙にも掛らぬ若者の生意気な口吻も、たしなめつつ不羈の精神を嘉して、温かく見守って下さった、その御恩を仕事の上で在職中にお返しすることはできませんでした。勇退後の松本館長とはむしろ私が帰郷した後、同人誌や著作のやりとりを通じてお言葉を頂く間に、頑固な四季派それもよろしい、といふ文学上の認可に至ったとも任じてをりました。

 まことに東京砂漠で路頭に迷ふ既の所を救って下さった御恩。そして資料の収集・展示にまつはる面白をかしい失敗譚の数々。当時の同僚や出向事務方との思ひ出とともに、ひさしぶりに三十年前の自分をなつかしく回想してをります。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

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710やす:2014/12/26(金) 10:07:19
『森春濤の基礎的研究』
 年末にうれしい贈り物、日野俊彦先生より御高著『森春濤の基礎的研究』の御寄贈に与りました。以前に御論文のコピーをいただいてをりましたが、資料編を万全に付した、立派な装釘に瞠目です。刊行のお慶びを申し上げます。

 内容は三度も賦されなければならなかった悼亡詩をはじめ、「洗児詩」に託す思ひが下敷きとした中国の古典のこと、維新前後の詩人の動静について丹羽花南との関はりや、漢詩時代の掉尾を飾った逐次刊行物『新文詩』の意義。そして春濤といへば必ず挙げられる「竹枝」「香匳体」について。ことにも詩壇から「詩魔」と称された一件に於ける「述志」の詩人岡本黄石との関係にスポットライトを当てての考察は興味深く、最後に野口寧斎が遺した184句にのぼる「恭輓春濤森先生」の追悼詩によって春濤の伝記を概括してゐます。
 これら「基礎的研究」と謙遜される話題の数々について、資料を明示しながら神田喜一郎、入谷仙介、揖斐高ほか先達の考察を踏まへた自説が開陳されてゐるのですが、後世の門外漢たちによって、ともすると不遇な大沼枕山をよしとする為に、まるで政界と癒着して成功を収めたかの如く対比して持ち出されることもあった森春濤のことを、人間性の面から捉へなほさうとする姿勢にまづ敬服です。

 森春濤といへば、私の関心は岐阜にまつはる事迹と、梁川星巌翁はじめ幕府から最も危険視された尊攘グループとどのやうに誼を通じてゐたか、といふことに尽きるのですが、岐阜のことは詳しくは書いてありませんが、高山については幻の選詩集に終った『飛山詩録』のことが述べられてゐます。そして政治へ身を投じることができなかった理由について、妻孥の夭折が決定的に掣肘したのではとの指摘に詩人の苦衷を思ひました。星巌門の末席に連なってゐるといふ意識は大獄の後、どのやうに総括されていったのでありませうか。けだし森春濤・大沼枕山あたりを境にして(もちろん性格と身分に拠るところも大きいのでありませうが)やや年長の小野湖山、岡本黄石といった星巌門の人々は、本当に紙一重のところでの生き残りといった感じが深いのですが、春濤は維新後、それらの人々と文事をもって濃密に交はってをります。如何なる話題が往き来したのか、本書には俊才の弟(渡邊精所)の詩稿を「付録」にしてでも収めることとなった『安政三十二家絶句』の出版事情が、編者家里松嶹からの手紙として紹介されてゐますが、同じく打診されて退けられた佐藤牧山の評価とともにたいへんおもしろい。永井荷風『下谷叢話』の粉本だったともいふ出典『春濤先生逸事談』を読んでみたくなりました。

 かつて中村真一郎は、明治新体詩の新声も、円熟した江戸後期漢詩から精神的にはむしろ後退したところから始まったと喝破して江戸後期の漢詩壇を称揚したのでしたが、では明治時代の漢詩とはいへば、こちらはこちらで市井の人情を盛る役目から、漢詩の特性に相応しい志を述べる役目へと、維新時の志士達からそのまま政界人達に受継がれてゆくに従ひ結局「詩吟」の世界へと硬直してゆかざるを得なかった。当路の人たちを指導した春濤を中心とした漢詩檀サロンの盛況こそ、さうした趨勢を裏書きしてゐるやうに感じます。実地では風俗に通じてゐるだけでなく、家庭的にも教育的にも人間味に富んだ穏健円満な「手弱女振り」ともいふべき漢詩の御師匠さんが、押し寄せる西欧文学から漢詩を救ふ活路を見出すにあたって、政事・軍事を盛りやすい「益良夫振り」が喜ばれる場所を用意した象徴的人物になってしまった、といふのはある意味とても皮肉なことでありませんか。世捨て人型の成島柳北や大沼枕山に後世の人気が傾いたのは仕方がないことですが、管見では、同じ熱情をもちながら実際行動に移すを得ぬまま維新を迎へ、はしなくも斯界の巨擘に育っていった様を、私は詩画二大文化においてもう片方に、孤峰ですが冨岡鉄斎を見立ててみたいとも思ってゐます。

 さて「詩魔」といふレッテルは、時代を下り昭和初期になってから岐阜市内に興った同人詩誌のネーミングとして敢へて踏襲されてゐるのですが、ここに拠った詩人たちは近代詩における香匳体といってよいのか、観光的俗謡の分野で大いに気炎を上げたグループでありました。そして森春濤にせよ梁川星巌にせよ、岐阜から出て斯界を総べるに至ったオーガナイザーの巨星たちには、あとになって懐の深さを誤解される批評が行はれたことも多かったこと。あるひはもっと昔の各務支考をふくめてもいいですが、美濃といふ保守的土地柄が稀に特異点を生む場合の一性格として、風土に関係することがあるのかもしれないと思ったことです。

 星巌も春濤も同じく庶民の出であり、役人の家柄を嫌って野に下り低徊したポーズはない。少年時の無頼によって培はれた反骨精神は、現体制と反対の権威の上で発現しようとする尊王精神に結びつき昇華されるものでありました。上昇志向が未遂に終ったのが星巌であり、雌伏して維新を迎へ成功したのが春濤だったといへるのではないでせうか。本書では成島柳北が槐南青年のバーチャル恋愛詩を揶揄する条りが語られてゐますが、父春濤の若き日の狭斜趣味もまた、不自由なく実地を極め得た柳北の青春とは違ったものであったことでせう。梁川星巌もまた吉原で蕩尽して改心、坊主になり詩禅と名乗ったのでありましたが、苦労人である星巌も春濤もともに禅味といふか、道学仏教に揺曳する脱俗の詩境に韜晦したがる一面を、上昇志向の裏返しと呼んでいいやうな詩人的本質としてもってゐるところも共通してゐます。 最後に、著者は星巌の詩集に妻の名なく紅蘭の詩集に夫の名なしと本書の中で記してをられますが、妻のこと夫のことを歌った詩はあり、行迹行状を顧みてもこの夫にこの妻ありの破天荒さと進取の気性は無双です。死別には終ったものの森春濤の三度の婚娶もまた、閨秀詩人であったり、夫に文才を求めたりと、先師夫妻の形態を襲った面もあるのではないかと思ったりしました。

 もっともかうしたことは全て漢詩を自在に読解することができてはじめて話するべきことがらです。頂いた本から触発され、つまらぬ我田引水の妄想まで書き連ねてしまひました。

 ここにても御礼を申し上げます。有難うございました。

711やす:2014/12/29(月) 16:47:59
2014年回顧
 今年は世の中に訃報が飛び交ふ年だったやうに感じます。拙サイトの御縁だけでも、鯨書房山口省三氏、山川京子氏、小山常子氏、元上司松本和也氏といった方々の逝去に驚いた一年でした。
 私事にても図書館からの思はぬ異動命令と待遇。骨を埋めるつもりで寄贈した文学研究書は自分の管理下を離れHPも移設。家族だった愛犬が死に、禍棗災梨の詩集は売れる筈もなく。帯状疱疹が治ったと思ったら今度は腰痛が悪化。と、今に至って難儀を重ねてをりますが、家人に連れられ20年ぶりに海外旅行に行ったことは良い思ひ出に、そして本ばかりは良い出会ひにめぐまれ、随分と慰められました。おもなものを挙げます。

【頂きもの】
坂脇秀治著『森の詩人』野澤一の伝記
石井頼子著『棟方志功の眼』
山本正敏ほか著『企画展「世界のムナカタ」を育んだ文学と民藝』図録
舟山逸子著 詩集『夢みる波の』散文集『草の花』
手皮小四郎ほか著『とっとり詩集』6集
池内規行ほか著『月の輪書林古書目録17(特集・ぼくの青山光二)』
日野俊彦著『森春濤の基礎的研究』
雑誌:『びーぐる』22号、『季』98 ,99,100号、『桃の会だより』 15,16,17号、『菱』184,185,186,187号、『感泣亭秋報』9号、『朔』178号、『Gui』101,102,103号、『遊民』9,10号

【購ひもの】
西郡久吾『北越偉人沙門良寛全傳』
イナガキタルホ『第三半球物語』覆刻版
『富永太郎詩集』昭和2年私家版
菊岡久利詩集『貧時交』『時の玩具』『見える天使』
ユーリー・ノルシュテイン絵本『きりのなかのはりねずみ』ロシア版
小野十三郎詩集『古き世界の上に』『大阪』
『南山蹈雲録』村上勘兵衛版
佐藤一英詩集『故園の莱』
田中冬二詩集『故園の歌』
『マチネ・ポエテイク詩集』
上田静榮詩集『海に投げた花』
芳賀檀『指導と信従』(カロッサ全集)
日夏耿之介訳『英国神秘詩抄』
八十島稔句集『柘榴』『炎日』

良いお年を。

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712やす:2015/01/01(木) 01:29:12
未年、何が未だか見えぬ年
新年あけましておめでたうございます。 今年もよろしくお願ひを申し上げます。


わが干支にはあらねどおひつじ座生まれなれば星図を仰ぎて思へる


やれうつな まがきに休む羝羊座


「運命よ、にっちもさっちも動けぬ者をこれ以上打ち据ゑてくれるな…。」
「おひつじ座」の上に「ハエ座」なんてのが飛んでるなんて知りませんでした。


一陽来復、どなたさまにもよいことがありますやうに。

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713やす:2015/02/03(火) 09:47:24
「薄明の時代の詩人」ブログ
ベルン在住の写真家schaleさんこと矢野正人様より、ブログ「薄明の時代の詩人」にて拙詩を紹介して下さいました。甚だ過賞面映ゆくも、海山のあなたに知己ありの思ひ。感謝の言葉がみつかりません。

 皎潔な空気が胸に溢れ来る写真は、上より南部アイスランドの海岸、スイスHallwiler湖畔、ベルギューン村。google上で地図を歩いてゐると、なんとまあ同じ教会の鐘楼を発見した次第。

 昨年ヨーロッパの土を実際に踏み体験したことで、物珍しい街並みも単なる写真に思はれぬ実感をもったものに感じられるやうにはなりました。ただしかし、アルプスや極北地方に取材された、この世のものとも思はれぬやうな風景写真の数々は、やはりスナフキンの冒険譚に胸躍らせるムーミンのやうな夢見心地でながめるばかりです。

 公私とも気の塞ぐことばかりに満ちみちた日々に、詩人冥利に尽きる御紹介を賜りましたこと、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

714やす:2015/02/12(木) 12:59:15
『小山正孝全詩集』
 小山正見様より御先考の詩業集成『小山正孝全詩集』の御恵投に与りました。

 これまで御遺族のバックアップのもと、小山正孝研究の第一人者を自他共に任ぜられた故・坂口昌明氏によって刊行されてきた潮流社の一連の著作集(『感泣旅行覚え書き』2004年、『詩人薄命』2004年、『未刊ソネット集』2005年、『小説集 稚兒ヶ淵』2005年)。その体裁をそっくり襲ひ、このたびは気鋭の評論家渡邊啓史氏の協力を得て全詩集に相応しい解題を具へるに至ったこと。さぞ泉下の詩人夫妻が無念の坂口氏を慰めながら感涙に咽んでをられるだらうと、偲ばれもすれば、これが文学出版から遠のいた潮流社から刊行される最新の詩書であることを思ふと、感慨もまた格別なものがあります。

 さても早速解題を拝読しながら、私の大好きな『雪つぶて』時代の詩篇たちに対して、渡邊氏が下された的確な評価には快哉を叫ばずには居られません。
巻頭詩篇「水の上」に対して

「それらは内面の感情を投影した心象風景というよりも、むしろ内面そのものの象徴的表現として作られた風景のように見える。310p」
「(詩篇中の「叛逆」について)恐らくはその裏に悲哀の感情を含む、虚勢に近いものである。311p」

 この「作られた風景」は実作体験から申すなら「捨象された風景」のことで、四季派詩人ならではの表現の搾り出し方を指してゐるのでありませう。「虚勢」もまた四季派詩人に特有な含羞に満ちた「身振り」の謂であり、タイトル詩篇「雪つぶて」に歌はれてゐる心情について、

「ここに歌はれている心情は、ある時期の詩人自身の切実な思い319p」

 であると、世の東西ロマン派詩人の出立期に烙印されるべき波瀾時代の痕跡であることを指摘し、

「ただ一人、詩篇「雪つぶて」の「僕」だけが、自身を閉じ込めていた殻を自らの手で破り、開かれた外の世界に走り去る。その意味で詩篇「雪つぶて」は叶わぬ愛に決別して新たな一歩を踏み出そうとする「僕」の、出発の歌でもあるだろう。318p」

 と、四季派の詩人たちが自足する精神世界の箱庭を脱すべく、殻を破って企投しようともがく契機について触れ、戦後詩の世界を先取りした実存吐露の抒情が「草叢の恋人たちの主題」に結実し、「後年の詩篇にも、さまざまに変奏されて繰り返し現れる。」と、はしなくも喝破されたこと。かうした分析を下し得る渡邊氏の読解には、詩人の後期詩篇に対しても充分に信を置くことができるやうに思はれました。

「風景が単なる背景でなく、孤独な「僕」の内面の象徴的表現であるならば、詩篇「水の上」に於て一篇の構図は、風景を見る人物を風景の片隅に描き込む古代中国の山水画にも似て、「僕」の内面を象徴する風景の中を「僕」自身が蒸気船で下ることになる。詩人後期の詩篇には、自己の二重化、多重化の主題が繰り返し現れる。それらはある時期に突如現れたものでなく、此処に見るような詩人初期の傾向の発展に外ならない。311p」

「第二詩集に小山前期の詩的世界の確立を、また第三詩集にその「ソネット」形式の完成を見ることも出来る。そのことに小山は満足しただろうか。恐らく、そうではない。326p」

 時に露悪も厭はず韜晦をこととした愛の、或は盆景的な戦後詩篇を昧読するに当たって、かうした道標を私のやうな現代詩に迂遠な読者に対し示してくれたことに、まずは感謝したい気持で一杯であるのです。

 まことに身辺騒擾としてをりますが、

「気を落としてはいけません
 僕もあなたと同じやうな目にあったことがありました
 苦境に立つこともありますよ」                『山居乱信』「チョビ髭」より228p

詩人が田中冬二氏からかけられたお言葉に感じ入りながら、余暇の徒然にひもといて参りたいと思ひます。
御上梓のお慶びを申し上げますと共に、ここにても篤く御礼を申し上げます。 ありがたうございました。

『小山正孝全詩集』??全2冊 2015.1 潮流社刊 (?:6,318p ?:6,379p) 19.3cm 並製 函入 7000円

【付記】
蛇足ながら望蜀を申し述べるならば、折角のこの機会に、若き日の詩人や常子夫人の俤、交友関係を示すやうな写真の何葉かを、各巻の巻頭に掲げて頂けたらよかったといふ一点であります。拙サイト「田中克己文学館」と同様、感泣亭ホームページ上での資料集の充実を庶幾申し上げます。

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715やす:2015/02/12(木) 21:06:07
「薄明の時代の詩人」ブログ ふたたび
 日経たずして再びブログ「薄明の時代の詩人」において、拙詩が紹介に与りました。詩人冥利に尽きるお言葉を圭復、目頭を熱くしてをります。

 今回の詩も当時その翻訳の雰囲気に酔ひ痴れてゐたドイツロマン派の影響が色濃く、「詩人の夢」は大好きだったハンス・トマの「wiesenlandschaft」といふ1871年の画を下敷きにしたもの。主人公を画家からビーダーマイヤーの詩人に翻案し、その後の姿に、天上の階段を蹈み進む初期ロマン派のヘルダーリンの姿を重ね合はせて私淑を表明した、私にしては長編(?)に属する一篇です。
 もとより孤独や喪失感といふのは憧憬をこととするロマン派詩人の必須条件なのかもしれませんが、矢野様に「たった一人屹立」などとお見立て頂いたのも、実は周りが見えない、ただの孤立点だっただけのこと。しかしながら鬱々とかなしいことばかりに満ちてゐた青春時代をこんな言葉で弔って頂けると、本当に浮かばれる気がいたします。

「2015年は、世界の歴史の分岐の一つとして刻まれるかもしれません。」(「薄明の時代の詩人」2015.2.8)

 海外においては、たとい中立国のスイスにあっても、在留邦人の身の処し方も留意すべきことが増へてゆくかもしれない今日この頃。不穏ないろんなニュースがこちらにも飛び込んで参ります。
 かつては写真家として戦場カメラマンの道に進むことを考へたこともあり、また平和学研究者として、功利主義・拝金物質主義が招来したグローバリズムの問題を取材するために紛争地に赴かうと思ったことも何度もあるといふ矢野様には、このたびの後藤さんをめぐる報道では、身に迫るものがあり一晩眠れなかったほどであったといひます。 今や当事者にもなりつつある日本の現状を踏まへ、くれぐれも御自愛いただけたらと思はずには居られません。

 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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716やす:2015/03/07(土) 20:09:30
四字熟語漢詩
 偶得

身軽言微詩人嘆   身軽言微、詩人の嘆

心広体胖細君頼   心広体胖、細君頼もし(笑)

遠謀深慮能錬胆   遠謀深慮、能く胆を錬り

慎始敬終安天命   慎始敬終、天命に安んぜん


 漢字検定の勉強過程で四字熟語に親しむ機会が多くなりました。さうして戯れに『四字熟語辞典』を繰って、開いたページに載ってゐた熟語を使って漢詩もどきをこしらへてみた訳であります。もとより平仄も脚韻もない「似非漢詩」ですが、四字熟語のお尻に3つ漢字をくっつけるだけでできるので安直この上なく、前半四字を音読すれば語調は頗るよろしい♪ 今回たまたま開いたページで作ってみましたが、同一音から始まることを一種の制約とすれば、図らずも頭韻を踏むことになります(今回は転句をわざと深謀遠慮→遠謀深慮と外してみました)。地口に落ちてしまふ虞の多い日本語で押韻詩をつくることは難しく、そもそも漢詩の脚韻など訓読すれば意味を成さない訳だから、どうでせう、みなさんも川柳レベルの心構へで「四字熟語漢詩」、試してみては如何。

 ちなみにこの詩はわが身に現在差し迫ってゐる危機の憂さを遣ったもの。




【漢字検定の勉強方法】

 といふことで漢字検定1級を受験、頓に難化が取り沙汰されるなか、前回初受験時は2点足らず(合格率6.1%)捲土重来、このたび無事合格を果たしてホッとしてをります。

 たずねられるのは勉強方法ですが、もちろん協会が制定してゐる『漢検漢字辞典』と『漢検四字熟語辞典』に親しむの以外、捷径はないといってよいのでせう。ただし私の場合、『漢字辞典』は覚えるためではなく確かめるために使ひました。

 種類の尠い問題集の中ではリピーターのみなさんが仰言るやうに『本試験型(成美堂出版)』が、手っ取り早く自信を(特に読み問題について)つけるのにはよかったです。もちろん出題者も「過去問さへやれば合格できる資格」に思はれぬやう、これまでの問題集を回避すべく色々知恵を絞って来ます。自分の場合、今や古書でしか出回ってゐない小学館の『蘊蓄字典』など、問題集ではない別の切口からも勉強してみました。

 しかし先づはみっちり取り組むべきは、多くの受験者が仰言るやうに四字熟語の書きとりだったやうに思ひます。覚える際に私が重宝したのは、ネット上にフリーで配布されてゐたimeの四字熟語辞書でした。これを印刷して膨大な単語カードに貼りつけ、できなかったものを残しながら反復して減らしてゆくのです。

 『四字熟語辞典』を片っ端から覚えてゆくのは容易ではありません。当然「1級・準1級」配当に絞り込んだものから覚えてゆく訳ですが、本番では毎回必ず下級クラスの熟語を使って足元を掬ってきます。また「“人名もの”はパスしてよい」といふジンクスももはや反故になったやうです※。このあたりが思案のしどころですが、満点を狙ふ訳ではないから労力の節減を図るのもよいでせう。下級クラスの熟語は後回しにする、次項に述べますが熟字訓は過去問以外のものには当たらない。事実、僻字の極みのやうな地名や動植物名は本当に役立たない知識です。

 さて、そして問題なのが、書き問題の際に毎回のやうに新出語が出てきてリピーターを悩ませてゐるといふ二字熟語(三字熟語)であります。さきの『蘊蓄字典』、大昔に買ったもので誤記も散見されますが、覚える熟語を絞り込んでゆく際の指標としてはなかなか優れてゐると思った次第。

 熟語を覚える際に一番大切なことは2つあります。ひとつは、故事成語もしくはそれに類した定型の用例ごと覚えてしまふことです。しかし『漢検漢字辞典』の見出し語には用例が挙げられてゐません。そして意味も読みも書いてない小見出し部に挙げられたものから出題されることも少なくない。『漢字辞典』を覚えるためではなく確かめるために使ったといふのはそのためであり、『蘊蓄字典』の熟語にはそこのところがちょろちょろっとゴシックで書いてあったりして重宝しました。宣伝してしまったので、もうamazonで1円では買えなくなるかもしれませんね(笑)。

 そしてもうひとつ大切なのは、「偏」ではなく「旁」でグルーピングして覚えて行くといふことです。音順で並べられた『漢検漢字辞典』は、大筋がその趣旨に叶ってゐるのですが、これに特化した辞書はまだ現れて居ません。幸ひなことに、ネット上で篤志家の方が学習用に作成した懇切なブログが公開されてゐて、これは大変役に立ちました。また複数読みがある場合の読みわけの法則も『漢検漢字辞典』には記してないのですが、ブロガーのみなさまが実例を挙げて解説してくれてをり、大変裨益を蒙りました。

 以上、我流ですが漢字検定1級の勉強方法まで。ここ最近の難易度がいつまで続くのかは分かりませんが、新規取得をめざす方が拙サイト訪問者の中に居られましたら御健闘を祈ります。


※同義の四字熟語が存在する場合、消去法と音感から類推することが可能な様に、配慮もされてゐるやうです(例へば今回なら「濫竿充数」を知って居れば「南郭らんすい濫吹」に到達は可能)

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717やす:2015/03/25(水) 21:38:49
『悲傷の追想―『コギト』編集発行人、肥下恒夫の生涯 』
 先日ふと思ひ立って、田中克己先生と杉山平一先生との対談記録(雑誌『文芸広場』昭和59年)を、ホームページに上すべくテキストにおこしてゐた時のことです。対談中、何度となく“同情を禁じえない”といふ態度で話題に上ってゐた、肥下恒夫氏について、なんとなく気になったのでインターネットで検索してゐたら『悲傷の追想―『コギト』編集発行人、肥下恒夫の生涯 』といふ書下ろしの新刊本が、2012年に刊行されてゐることを思ひがけず発見したのです。コギトの名を冠したホームページを運営してをりながら、全く迂闊なことですが、著者の澤村修治といふ方はこれまで全く存じ上げない未知の方でありました。
早速注文して到着したのが肥下氏の御命日前日のこと。一連の行動が御霊に呼ばて行ったもののやうに思はれてならず、祥月命日の一日、粛然とした気持ちで繙いてをりました。

 「政治的なものから意図的にずれようとした・若き不良知識人たち(同24p)」がつどった同人雑誌『コギト』。雑誌を経済的に支へ、編集雑務の一切を引き受け、『コギト』の母ともいふべき役回りを自ら演じたのは、同人中の奇特な地主素封家であった肥下恒夫でした。「協同の営為」に生涯を捧げた彼の運命はしかし、戦後を境に暗転します。

軍の協力者という誤解を含んだ否定項と、地主という戦後改革での明確な否定項をともに引き受けることになった肥下は、一方で繊細な知識人であった。(『悲傷の追想』53p)

 繊細なばかりではない、至って正義感の強い人でありました。
 本書はその悲劇的な最期に報ずるため、御遺族の協力によって得られた新資料をもとに書きおろされた伝記。前半を割いて戦後の後半生に迫った「胸中恒に花あり」(12-119p)を眼目としてゐます。

 農地改革を受け、売渡式の「祝辞」まで書いて手放した土地が、只同然で取り上げられたことより、時代とともに農地以外の貌に変っていったことの方がむしろ彼にとって不本意なものではなかったかといふ指摘(同54p)にはハッとさせられます。自ら鍬を握り、残った土地で始めた農業が立ち行かず、さりとて学校の教員にもなれず(裕福ゆゑ無理に大学を卒業しなかった)、折角得た病院事務の仕事も内部の不正に耐へられず辞めてしまふ。かつての盟友と会ふことにも気後れが生じ始めるといった条りには、彼を自殺に追ひ詰める複線が一本また一本と張られていくやうで、胸に詰まるものを覚えます。

 本書には、既出資料では大妻女子大学紀要にまとまって公開された「肥下恒夫宛保田与重郎書簡」、それから田中克己先生の回想文がしばしば引用されてゐます。が、なんといっても肥下家に遺された日記と、養女里子氏からの聞き書きといふ、フィールドワークの成果が大きい。戦後となって、訪問のたびにお土産を持ってきてくれた田中先生のことを「ニイタカドロップのおっちゃん」と懐かしく回想されるなど、肥下家と親戚関係※にあった田中先生とは気の置けない交友が続いてゐた様子を窺はせる箇所も数多見受けられるのを嬉しく拝見しました。 (※大阪高校教諭全田忠蔵夫妻それぞれの甥に当たる)

 読みながら、斯様な『コギト』伝を書けるものならば書きたかった自分の菲才を省み、また最晩年の田中先生の知遇を忝くしておきながら、もっといろんなことを聞いておいたらよかったのにと、怠慢の責にも苛まれてゐるところです。

 さうして本書は、「心を盤石の如くおし鎮め」沈黙に甘んじ沈黙を強いた、謎の多い『コギト』の裏方の実像に迫る優れた伝記であると同時に、初期『コギト』に掲載された肥下恒夫の詩・小説・編集後記を併載して、中断された彼の志を留めた作品集を兼ね、さらに『コギト』の実質的な実体であった保田與重郎、その褒貶さだまらぬ文学史的位置に対しても、もはや政治的な思惑から解放され、時代相を客観的に見つめられる世代から突っ込みを入れてゐる優れた保田與重郎論でもあるのが特徴です。といふより、それが後半の論考「協同の営為をめぐって(122-170p)」、さらに巻末に付載された「情念の論理(237-246p)」に至って特化して全開するのです。――いったい「やや翻訳調で自問自答しながら螺旋状に進んで行く(同136p)」、かの悪文(名文)から衒学的要素を剥ぎ取ったところに残るものは何なのか。

筋道を辿って「わかる」ということが、文章にとって、そもそも“いいこと”でも必要なことでもない。「わかる」は正理を強いて抑圧的だ。「わからない」こそ、飛躍がもたらす混沌の自在に開かれる豊饒な言語体験ではないか。――こういった、いささか倒錯的な理解に自分の頭を馴染ませようとしてしまう。これが保田與重郎の「危険な」ところであり、また魅力でもある。(同237p)

 このやうに愛憎意識を語る著者二十年来のモチベーションこそ、本書を著し使めた真の理由であることは間違ひないと思はれるのです。

 正当な理解を遠ざけ、かえって事態をややこしくしてしまうことを、なぜ保田は選択するのか。たとえ誤解に見舞われたとしても、それを余ってあるほどに、概念や範疇で述べることでは到達しないことがらは重要なのだ、と保田は考えていたと思うしかない。(同243p)

 評論対象に「惚れ」こむことを先行的な第一義とし、古典の甲殻を身に纏ひ、同人誌(非商業)精神に開き直ったドグマの城郭上からイロニーの槍を振り翳す。反俗を掲げ、評者と評されるものと共犯関係を築いて時代相に斬り結ばんとする保田與重郎のロマン派評論は、「おおむね、“書き始めてから”、いささか成り行き任せと思われる調子で行われ(243p)」、一種の「憑依」「酩酊」ともいふべき、むしろ詩作に等しいものであることが了知されます。

「真実獲得を昂然と主張する。ひときわ高くから見下ろす。堂々と高みにたつ。高くから見て何が悪いのだ、という開き直りすら保田にはある。その覚悟によって不純を斬り、ひとを殺す(151p)」

 彼はそのやうな覚悟を以て、英雄の日本武尊を、詩人のヘルダーリンを語りました。
本書が刊行される一年ほど前、私は保田與重郎が肥下恒夫に送った最初の著作集『英雄と詩人』の署名本を手に入れました。これ以上考へられないやうな、全くの極美状態で保存された函カバー付の原本を手にした時、私はこれがどのやうに保存されてきたのか、言葉を失ったことを思ひ出します。(画像参照)

「反ディレッタントをいい、真実追究の訴えをしても、それは階級的なものを考えるのではない。真実を明らかにするというのは、左派のいう社会主義リアリズムへの道では断じてない。また、肉親関係とか愛慾相の暴露剔抉から起こる社会的関係といったものでは断じてない。すなわち、自然主義リアリズムのことをいっているのでもない。」(同149p)

 評伝作家としてすでに宮澤賢治や自然主義リアリズムの徳田秋声について単著をものしてゐた著者ですが、肥下恒夫を合せ鏡に見立てたこの度の伝記兼評論の最後に、保田與重郎の思想について「ある部分は間違いなく死滅するが、ある部分はむしろ正当に生き残るであろう。(246p)」と締め括られてゐます。その死滅するのが政治的に、であり、生き残るのが古典として、であることを思へば、さきに当掲示板で紹介した決定版の解釈書『保田與重郎を知る』(2010前田英樹著)と併せて読まれるべき、新しいスタンダードな研究書の登場を、(二年以上も前の刊行ですが)遅まきながら言祝ぎたい気持でいっぱいです。著者が私と同世代1960年生であるところにも起因するのでせう、保田與重郎の文章を分析中(240p)に発せられた「は?」といふ語句の隣に、顔文字(゜Д゜)を頭に思ひ浮かべてゐる自分が居りました。(笑)



 一方、テキストに起こして公開しました田中克己先生と杉山平一先生との対談ですが、雑誌編者の方が語ってゐるやうに、気分屋で好悪のはげしい田中克己先生の“聞き出し”役として、これ以上の人選は考へられず、特に戦前戦中の細々とした人脈事情を、呼び水を注しつつ引き出すことのできるひとは杉山平一先生を措いて居なかったやうに思はれます。機嫌よい日の田中先生ならではのリップサービスや、それも織り込み済みで話を進めてゆかれる杉山先生の大人ぶりが眼前に髣髴とするやうです。

 なかで肥下氏が自殺直前2日ほど前に保田與重郎邸まで愁訴に赴いた日のことが述べられてゐます。これは後日保田夫妻もしくは肥下夫人から田中克己に語られた伝聞ではありますけれども、8日前まで付けられてゐたといふ日記にはその様な記録がないことを確認済の、前述著者の澤村氏が、もしこの対談の一文を読まれてゐたら、との思ひを深くいたしました。保田與重郎は肥下恒夫のお葬式には出席されなかったやうです。今生の別れとなった一日、いったい何が話し合はれたのでありませうか。
 ここには書けませんが、結婚前の保田さんが肥下さんをめぐって田中夫妻を前にして放ったといふ不穏な冗談を耳にしてびっくりしたことがあります。なんでもかんでも、もっといろいろなエピソードを田中先生におたずねして聞き質しておけばよかったと、本当に今更に悔いてゐるのです。

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718やす:2015/04/21(火) 10:15:10
『日夏耿之介の世界』
新刊『日夏耿之介の世界』(井村君江著2015国書刊行会)の読後感をサイトのBookReviewおよびamazonにupしました。(写真は詩人のしかめつら にてない笑)

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719やす:2015/05/01(金) 20:31:17
「陳曼壽と日本の漢詩人との交流について」
 成蹊大学日野俊彦先生より紀要「成蹊国文」48号の抜き刷り「陳曼壽と日本の漢詩人との交流について」をお送りいただきました。

 日中の漢詩人同士の交流。江戸時代にも、長崎出島にやってくる多少文事の嗜みのある商賈たちとの交流が、あるにはあったやうです。しかし明治に入って鎖国が解け、日本の漢詩人たちはそれまで自分達の教養・趣味を規定してきた中華文明の実態に直接触れる機会を持つことになります。明治初期の漢詩壇に陳曼壽なる清人の名がしばしば上ることは承知してゐましたが、彼がまとめた中国人による初めての日本人漢詩アンソロジー『日本同人詩選』の実態や、彼が本国での不本意な待遇から逃れてあるひは食ひ詰めて来日した下級官吏の身分であったことなど、知りませんでした。

 西欧列強の帝国主義に翻弄された日中両国の力関係がはっきりするなかで、漢文教養主義といふものはその後の日本において、在野の側からゆっくり瓦解の道をたどってゆくことになります。漢詩が「詩」であるための根源的な音声学を、書物を通じて理屈として学んできた涙ぐましい日本人の営為に対し、もはや本場のマイスターによる添削やお墨付きが必要とされなくなってしまふ事態――それがよりにもよって物・人の交流が実際に始まった明治時代にさうなってしまったといふのは、なんとも皮肉と言はざるを得ません。伝統的な文人生活を彩ってきた漢詩文の威光が色褪せてゆく一方で、青少年の詩的嗜好は西欧に範をとった新興新体詩へと流れてゆく。当路の人間たちがアジアの盟主たるべく和臭の漢文脈で述志をふりかざし続ける一方で、庶民は中国の現状を馬鹿にし、中華文明を骨董視するやうに変化してゆきます。(今日の中国政府が求める「日本が示すべき歴史的反省」といふのも、実はここらあたり上下でねじれた文化面からほぐしてゆかないと意味がないのではないかと私は思ってゐます。)

 しかしながら漢詩の盛況は、頼山陽の登場にはじまり倒幕維新をゴールとする草莽述志の余勢を駆って、当時の日本では依然として、否むしろ明治に入ってしばらくの期間こそ、空前の量的活況を呈してゐたことが『和本入門』のなかでも明らかにされてゐます。そして本国では左程知られてゐた訳でもない陳曼壽に対する我国の歓待ぶりといふのも、両国文化交流における最も幸せな邂逅のひとつ、日本文化が恩恵を蒙った中華文明の当事者に対して直接敬意を払った記念すべきケースであったといってよいのだと思ひます。来日時すでに小原鉄心が亡くなってゐたのは残念ですが、大垣の漢詩檀との交流などふくめ、詳細な分析結果を興味深く拝読させていただきました。


 また池内規行様より「回想の青山光二(抄)」を掲載する『北方人』21号(2015.4.1北方文学研究会発行)の御寄贈に与りました。さきに「月の輪書林古書目録」内に併載された同名原稿の続編です。小説に迂遠な自分には感想など書くことができず歯痒い限りですが、代作依頼や文学賞への応募、はては著書のサクラ購入の依頼などなど、文壇における先生と弟子との間合を書簡における肉声のやりとりを通じて拝見し、生身の小説家の生理に少しばかり触れ得た思ひいたしました。

 あはせてここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

720やす:2015/05/20(水) 18:23:19
『西征詩』の初刷本
このたびオークションで入手した梁川星巌の処女詩集『西征詩』下冊のみの端本です。
家蔵本と較べると、奥付はまったく同一であるにも拘わらず、最初の4丁だけ微妙に版が異なることが分かりました。
まったく同じ部分の丁も、罫線のかすれををよくよく見比べてゆくと、どうやらこのたびの本の方が古いものであるらしいのです。最初の4丁だけかぶせ彫りにした理由とは何でせう。版木を奥付の本屋で分け合ったために起きた、再刷に関はるトラブル処理だったのかもしれません。

さきに、生前最後の詩集となったアンソロジー『近世名家詩鈔』において、安政の大獄前後に刷られた異本について示しましたが、処女詩集においてもマイナーチェンジが行はれてゐたんですね。詩集が広島から出された経緯とともに、新たな謎となりました。


画像を掲げますので興味のある方はごらんください。

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721やす:2015/06/04(木) 00:50:59
「淺野晃先生をしのぶ集い」
 偲ぶべき故人の膨大な著作を、詩集以外は碌に読んでゐません。生前、一方的に拙詩集を送りつけ御返事を頂いたとうそぶいてゐたといふだけで、出席者のどなたにもお会ひしたこともない文学の集まりに、よく出席などできたねと仮に言はれたとしても反す言葉はないのであります(えばっちゃいけない)。

 先週、五月の晦日に東京竹芝のホテルで行われた「淺野晃先生をしのぶ集い」に、それなら私のやうな人間がなぜ参加したのかといへば、ひとへに中村一仁氏に御挨拶さしあげたかったから。同人雑誌『昧爽』の創刊時より十年にも及ぶ書簡(メール)と寄贈とのやりとりをかたじけなくした中村さんが、私淑された日本浪曼派の文学者である淺野晃の『詩文集』を独力で編集・刊行し、このたびは自身の研究活動に一区切りをつけるため、詩人の御遺族や、立正大学の教へ子、文学関係者・研究者にひろく働きかけて斯様な催し物を企画した、その御苦労をどうしてもお会ひして直接ねぎらひたかったからであります。

 『淺野晃詩文集』の刊行は2011年のことでしたが、今回の集まりは、私の中では、だから少々遅れた詩文集の出版記念会に他ならないものでありました。同じ思ひで臨んだ参会者も少なくなかったのではないでせうか。

 近代文学における伝統の問題をひろく論じてきた文芸同人誌『昧爽』は、中村一仁氏と山本直人氏との共同編集で、創刊準備号を2003年6月に発行して以後、年に2〜3冊を発行し続け、2009年12月に19号を出してからは久しく休刊してゐます。ことさら「休刊」と記すのは20号で終刊する旨をあらかじめ宣言してゐたからですが、本来は、『淺野晃詩文集』の出版を祝する記念号ととして、一緒に出される予定のものと思ってゐました。ところが中村さんの故郷である北海道の公的資料室に収められた淺野晃の関係資料の調査が、町村合併によって金銭的に行き詰まり、また詩人の最初の妻で戦前共産主義の殉教者である伊藤千代子を、転向した夫から切り離して顕彰しようとする地元文学グループの政治的思惑に制せられて、この同時進行の遠大な計画には暗雲が立ち込めた。すくなくとも私には当時そのやうに観じられたのでありました。

 中村さんらしいポレミックな刊行予告文にも一抹の不安を抱いた私は、お手紙でこそ引き続き進捗状況をお知らせいただいてゐたものの、2010年、詩人歿後二十年の命日に『詩文集』が間に合はず、年末に発行予定の20号も出ず、もしや計画は広げられたまま頓挫したのではなからうか、と思ひはじめた矢先のことでありました。東日本大震災の直後、700ページにもおよぶ『詩文集』が送られてきたときには、全く意表を突かれた思ひでしばし大冊を前にして呆然とするばかり。しかしその感慨は、震災を原因とした小火によって中村さんのアパートと蔵書が甚大な被害に遭ったことを知るに至り、痛切なものに変化したのでありました。

 あれから五年が経ちました。ひょんなことから私たちが三人ともTwitterやFacebookを始めたことを知り、近しく情報を共有する間柄にはなりましたけれど、中村さんは『詩文集』刊行の反応について、やはりおもはしくないとの感想をお持ちの様子。さきの地元文学者たちに対する思ひも強ければ、しばしば既存文学に対する懐疑と苛立ちがぶつけられた「つぶやき」に接しては心配もしたことでした。このたび思ひ切って雑誌の終刊号のことをお訊ねしたところ、休刊の間が空きすぎてしまった旨を釈明されました。とは言ふものの今回の「偲ぶ集い」は中村さんの周旋によって実現にこぎつけ、当日も御遺族のほか、文芸評論家の桶谷秀昭氏をはじめ、ネット上で詩人の聞書きを公開されてゐる野乃宮紀子氏ら、約40名の参加者を迎へて盛会のうちに終へることができたのでありました。会後の中村・山本・中嶋の歓談もまた、傾蓋故のごとき実に楽しいひとときであったことを報告します。すでに私は書評をサイトに上してしまったところではあり(ちょこっと手を入れました)、終刊号に寄せるべき『昧爽』にまつはる回想を、詩人淺野晃の御霊の冥福をお祈りするとともに、偲ぶ集ひに参加させていただいた喜びにかこつけてここに語る次第です。中村一仁様、山本直人様、そして発起人の先生方、本当にお疲れさまでございました。

 さて翌日は、淺野晃とは日本浪曼派の文化圏をともにした先師田中克己先生のお宅から、遺された日記帳を借り受け、さらに神保町にては大学卒業時よりお世話になってゐます田村書店に御挨拶。席を移してお昼を御馳走になり、通ひ始めて四半世紀、初めて店主の奥平さんから近しく古本の内輪話をお聞かせいただく機会を得て感激しました。宿泊したのは日本橋で、立原道造の生家跡を散歩できましたし、また電話ではありますが、八木憲爾潮流社会長(92)の御元気なお声にも元気づけられて、貴重な上京、月またぎの両日を終始たのしく有意義な時間のうちに過ごすことができました。

 ここにても皆様に御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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722やす:2015/06/11(木) 20:27:22
田中克己日記
 さきに報告しました、阿佐ヶ谷の御実家よりお借りした田中克己先生の膨大な日記帳ですが、翻刻を開始しました。

昭和4-11年 (『夜光雲』ノート) 9冊 翻刻済
昭和17年 スマトラ記 1冊
昭和18-19年 1冊
昭和20-29年 10冊
昭和30-39年 22冊
昭和40-49年 16冊
昭和50-59年 13冊
昭和60年-平成3年 10冊

 全部で82冊、段ボールひと箱の分量があります(「四季」より1冊多いのだ。笑)。走り書きされた筆跡の判読はたいへんですが、『夜光雲』ノート以来、再び先師の実録とむき合ふライフワークの時間が与へられたといふことであります。昨年から強いられて居る職場からの処遇(いづれお話する機会もありませう)も、ここは「天の差配」と考へ、じっくり向き合ってゆかうと思ってゐます。

 日記は、すでに翻刻公刊済の『夜光雲』については、画像をとりこみ公開する予定です(乞御指摘誤記)。日々の出来事が詳細に記録された戦後の日記については、文学外のプライバシーにも及んでをり、すべてをそのまま翻刻することは考へてをりません。

 しかし矚目のニュースとともに、文事に関はるものを拾ひ、列記してゆくだけでも、戦後関西詩壇および、日本浪曼派文化圏の交流証言として得難い資料となるには違ひなく、また詩人田中克己の東洋史学者としての面目が、詳細な読書記録を通じて私たち一般の人間にも明らかになるのではと期待してゐます。

 手始めにもっとも緊迫した記述を含む、昭和20年の日記を翻刻してみました。このあと出征期間をはさみ、敗戦を「戦犯」として迎へることになった詩人は、五人の家族を背負って(日記は家族の記録でもあります)、その後の日本の混乱期と復興期を、研究者として生計をたてつつ、青春を翻弄した詩の余香と心の平安を求めたキリスト教とにささへられて生きてゆくことになります。戦後70年を迎へる今年、激動の近現代史を生きぬいた市井の一知識人の視点・報告から、私たちが感じ取るべきものも少なくないのではないでせうか。更新は私生活が折れない程度にすすめて参ります。気長にお待ちください。

 借用に関はり御配慮を賜りました著作権継承者の美紀子様、そして御長女の依子様には、ここにてもあつく御礼を申し述べます。久しぶりに訪れた阿佐ヶ谷の、変はらぬ路地のたたずまひがあまりになつかしく、現在自らの境遇を省みては、初めて先生の門を敲いた当時のことを思ひ起こし、しばし感慨にふけってしまひました。ありがたうございました。

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723やす:2015/06/19(金) 01:46:37
田中克己日記 昭和18年
 田中克己日記、昭和18年分の翻刻を完了しました。

日記に出てくる人々はこんな方々。

池内宏、石浜純太郎、齋藤茂吉、小谷秀三、平野義太郎、堀口太平、佐々木英之助、和田清、保田與重郎、小高根二郎、肥下恒夫、桑原武夫、筒井薄郎、稲垣浩邦、松本善海、竹内好、長尾良、白鳥清、竹中郁、川久保悌郎、幣原坦、小高根太郎、田代継男、山川弘至、赤羽尚志(赤木健介[伊豆公夫])、田中清次郎、幼方直吉、小野忍氏等、野原四郎、若林つや、小山正孝、鈴木亨、稲垣浩邦、藤田福夫、信夫清三郎、塚山勇三、田代覚一郎、谷川新之輔、中尾光子、美堂正義、船越章、稲垣浩邦、江本義男、伊藤信吉、伊東静雄、堀辰雄、長野敏一、森亮、新藤千恵子、丸山薫、阪本越郎、呉茂一、津村信夫、沢西健、神保光太郎、五十嵐、野田又男、立野継男、本荘健男、中島栄次郎、山田鷹夫、野長瀬正夫、伊藤佐喜雄、平田内蔵吉、辻森秀英、坂入喜之助、吉野弓亮、若松惣一郎、藤原繁雄、大垣国司、渡辺曠彦、白鳥清、鈴木朝英、西川満、信夫清三郎、渡辺曠彦、浅野忠允、和田賢代、稲葉健吉、中野清見、丸三郎、赤川草夫、古田篤、細川宗平、清水文雄、蓮田善明、岩井大慧、野村尚吾、本位田昇、三好達治、木村宙平、倉田敬之助(薬師寺守)、市古宙三、阿部知二、坂入正之助、北川正明、吉野清、山田新之輔、石田幹之助、古沢安次郎、青山虎之助、杉浦正一郎、杉森久英、植村清二、楊井克巳、岩村忍、、中河与一、田辺東司、井上幸治、山本達郎、太田七郎、亀井勝一郎、今吉敏夫、村上正二、大達茂雄、北村旭、増田晃、篠原敏雄、北町一郎、荒木猛(釈十三郎)、宮木喜久雄、大久保孝次、野原四郎、中島敏、村田幸三郎、中野繁夫、田中城平、佐々木六郎、村上菊一郎、渡辺実定、本多喜久子、中沢金一郎、島田正郎、秋岡博、石山五郎、藤田久一、福永英二、牧野忠雄、服部四郎、木山捷平、小田嶽夫、大塩麟太郎、三島英雄、野村正良、和田久誌、外村繁、白鳥芳郎、北村西望、北條城、長与善郎、林富士馬、坂口安吾・・・。

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724やす:2015/07/02(木) 14:43:57
田中克己日記 昭和19年 20年
 田中克己日記、昭和19年 20年の翻刻を完了しました。 これで戦争中の昭和18年から20年3月出征までの日記が出そろひました。合せて本冊画像をPDFにて公開します。翻刻ミスなどお気付きの向きには御一報いただけましたら幸甚です。

 それ以前の詩作日記「夜光雲」についても、今回本冊画像すべてをPDFにて公開することとしました。
このほか昭和17年の徴用時代の覚え書きノートがありますが、メモ要素が強く、翻刻できる部分がすくないので、こちらは画像のみでご覧いただきます。

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725やす:2015/07/23(木) 02:16:39
田中克己日記 昭和21年 22年
田中克己日記、昭和21年 22年の翻刻を完了しました。

またノート本位ではなく、年で編成し直し、
解説を各年の冒頭に付する形に改めることにしました。

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726やす:2015/08/21(金) 00:38:16
『全釈 拙堂文話』
 このたび齋藤拙堂翁の玄孫であられる齋藤正和様より、新著『全釈 拙堂文話』の御恵投に与りました。誠にありがたうございました。671ページにも亘る分量に瞠目です。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 津藩の藩儒であり江戸時代の文章家として名を馳せた拙堂の著作については、これまでも齋藤先生の私家版として影印復刻された『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』や、白文のまま翻刻された『鐵研齋詩存』がありましたが、このたびは壮年時代の文章論・随筆博物誌といふべき『拙堂文話』二冊全八巻について、訓読、語釈、そして現代文による丁寧な訳文を付し、所々【余説】を設けて、中国古典の造詣が深かった江戸時代知識人の考証の機微にまで触れる解説がなされてをります。巻末に決定稿ともいふべき年譜を付録した浩瀚な一冊は、齋藤先生がさきに刊行されました『齋藤拙堂傳』(齋藤正和著 -- 三重県良書出版会, 1993.7, 427p)とならんで、正にこれまで積んでこられた御研鑽の大集成といふべきでありませう。
 その御苦労を偲びますととともに、労作を墓前に御報告叶った達成感もまた如何にと、手にした本冊の重みにふかく感じ入りました。
 心より御出版のお慶びを申し述べます。

 なほ『拙堂文話』は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」に原本画像のpdfが公開されてをります。ですからこれをタブレットなどに取り込み、並べて参照するのも、今の時代ならではの、和本の雰囲気を一緒に味はふ乙な読み方かもしれません。
 なにしろ孟子、韓愈をはじめ、その多くが中国古典の素養を前提とした作文です。なまなかに紹介さへできぬ内容ながら、ときをり息抜きのやうにみられる随筆的箇所など、たとへば拙堂の地元、伊勢の風俗を記した現代訳文をみつけては、その訓読にあたり、さらにその原本の書影にあたってみる、といった反対の読み方で楽しんでみたいと思ひます。

 拙サイトも管理人の不徳のため、地元漢詩人のコンテンツをゆるゆる充実させる計画が遂に狂ひ、この夏はお尻に火のついたやうな感じで、先師の遺した日記翻刻に専心してゐる、といった塩梅です。御本はいづれゆっくり拝読させていただきますが、とりいそぎ御礼一筆、匆卒なる喧伝を草させていただきます。
 ありがたうございました。


 はじめに            齋藤正和

 第二次世界大戦の戦前、中等学校では漢文が独立教科であった。その教科書には齋藤拙堂の『月瀬記勝』「梅渓遊記」や「岐蘇川を下るの記」が載っていた。だが拙堂は名文家といわれることを好まず、自己の本領はあくまで経世済民の仕事にあると考えた。文章は経世と表裏一体をなすが故に重視した。拙堂にとって文章は愉しむものではなく仕事そのものであった。拙堂は武士である。故に文武一如を説いた。ここに訳出した『拙堂文話』は武士のために書いた文章の指南書であり、それは同時に経世の指南書でもある。魏の文帝の「文章は経国の大業にして、不朽の盛事」という語こそ拙堂の文章観であったに違いない。文武は一如であるが故に文章は高雅であり気塊あるものでなければならない。『文話』はその視点で文章の盛衰がいかに国家の運に関わるかを述べている。文章は国家の品格を表すものと言える。そこのところをこの書から読み取つていただきたいと願うものである。
 なお、拙堂は江戸後期、寛政九年(一七九七)に生まれ、慶応元年(一八六五)に没した。本書の刊行は拙堂没後百五十年を記念するものである。


『全釈 拙堂文話』齋藤拙堂撰 ; 齋藤正和訳註, 明徳出版社, 2015年07月刊行,  671p 8000円

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727やす:2015/08/21(金) 19:45:07
『杉浦明平暗夜日記1941-1945』
 小山正見様より新刊『杉浦明平暗夜日記1941-1945』についてお報せをいただきました。編者の若杉美智子氏は、個人誌「風の音」にて立原道造の雑誌発表履歴の周辺を丹念に追跡、実証的な立原道造の評伝を連載され続けてゐる研究者であり、小山正孝研究サロン「感泣亭」の大切なブレーンでもあります。

 さて、昭和も終らうとする1988年に岩波文庫がたうとう出した『立原道造詩集』の解説のなかで、杉浦明平氏は、晩年の立原道造の日本浪曼派接近が「彼じしんの中からわき出てきたのではないかとようやく気がついた」と、哀惜する詩人に対する彼の“失恋”を完全に認める述懐を記してをられます。しかし一方的に“恋仇”にされた保田與重郎については、『文芸世紀』において主宰者の中河与一がなした非国民的告発をさも彼がなしたやうに、『コギト』の名とともに貶め、捏造したまま、終に改めようとはされませんでした。

 このたびの日記は「遺族の英断と特別な許可のうえで初めて公刊された」代物であるとのこと。それは若き日の彼の糾弾書『暗い夜の記念に』の中で、保田與重郎、芳賀檀、浅野晃といった日本浪曼派の論客たちに対して、ただ怒りに任せた無慈悲の雑言を書き殴って憚らなかった文章の、淵源にさかのぼった日々の記録といふことでありましょう。読まないで迂闊なことは云へませんが、当時の彼を念頭に置いて目を通すべき、謂はば怨念が生埋めにされた放言の産物だらうと思ってゐます。でなきゃ直言居士のこの人が、遺書で「公表を控えるように」とまでいふ訳がありません。しかしそれはもちろん戦後に思想反転してジャーナリズムのお先棒を担いだ連中が遺したものとはまるきり訳が違ふ。編者の云ふやうに、これは彼が戦中戦後いかほどの「ぶれも転換もなかった」“証拠物件”であることもまた、読まずとも分る気がいたします。
さきの岩波文庫の解説のなかで「明平さん」は、立原道造が愛した信州の地元の人たちのことを「屁理屈とくだらないエゴイスムにうんざり」と味噌糞に罵倒してゐて、私は大笑ひしたのですが、つまりは『暗い夜の記念に』から四十年経ってなほ斯様に口ひびく毒舌を、当時のそれにたち戻り、俯瞰して理解できるやうな人がこの本を手にとってくれたらいいと思ひました。

 ただ、戦局が悪化の一途をたどってゐた昭和19年の初頭に「敗戦後に一箇のヒットラーが出現」するかもしれないと彼が予言したのは、広告文がうたふやうに、敗戦七十年後のこの今を指してのことであったのか、いやさうではないでしょう。左翼が後退しっぱなしの現今の政情に溜飲を下げたい人たちに向けて煽ったと思しきキャッチコピーは、残念ながら私の心に届きませんでした。「この戦争前夜とも呼べる閉塞感に覆われた危機的な現在を生きている私たち」であるならば、起きてしまった以後の戦争の悲惨さや理不尽さを、文責を公に問はれることはなかった若者の立場でもって追体験するより、日本がアメリカに宣戦して熱狂した一般国民の心情を写しとった文章にこそ注目し、そこで標榜された当時の「正義」の分析と反省と鎮魂を通して、敗戦の意味を問うてゆくことの方が余程大切であると考へるからです。

 さて、現在当サイトで戦争末期の日記を公開中の田中克己は、杉浦明平とは社会的立場も思想も真反対(戦争末期当時戦争ジャーナリズム詩人vs文学青年、皇国史観vs共産主義)ではありますが、たった二年の歳の差であり、同じく皮肉屋で生涯を通した直情型人間であります。これらの双方の日記を読んで思ふところに現代の立場からイデオロギー評価をしないこと。そんな心構へで、あの戦争の「素の姿」が立ち現はれてこないか期待します。

 とはいへ『神軍』なんていふ詩集を何千部も世に広めた詩人に対して『暗夜日記』の中ではいったいどんな「ツイート」が浴びせられてゐたのでしょう。興味はありますが世の中には知らない方がいいこともある(笑)。保田與重郎も立原道造の全集編輯の際、手紙の提出を拒んで戦災で燃やしてしまひ、結局どのやうなものであったかさへ<tt>生涯口にはされません</tt>でした。ここは私も故人の遺志に従ひ、自分の心が「炎上」するやうな無用な看書は控へるべきかもしれません(笑)。むしろ宣伝にかうも記してある、

「と同時に意外にもそれとは相反するような恋と食と書物に明け暮れる杉浦が頻繁に登場する。」

といふ部分に救はれる思ひがしたことです。 ひとこと報知と刊行に対する感想まで。

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728やす:2015/08/31(月) 03:08:51
田中克己日記 昭和23年
本日、先師生誕104年。
昭和23年の日記を、解説ともやうやくupを終へてお祝ひします。
日々の出来事を順番に活字に起してゐるだけなんですが、辛いときの日記にはやはりドラマが感じられます。
次の昭和24年〜25年のはじめにかけてがひとつの山場となりさうです。翻刻は続きます。


写真は新発売の読書フィギュア「山本君」 + 付け合はせ(笑)。

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729やす:2015/09/10(木) 01:48:07
田中克己日記 昭和24年
昭和24年の日記を解説ともupしました。
翌る昭和25年のはじめにかけてが大学の教員生活へと脱皮するひとつの山場。翻刻は続きます。

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730やす:2015/09/13(日) 22:02:38
奥田和子詩集『独り寝のとき』
関西四季の会の同人雑誌『季』の奥田和子様より、これまでの作品をあつめた詩集『独り寝のとき』の御寄贈に与りました。巻末にしるされた「こざっぱりと 読んでいたら すり減って 消え失せた そんな一冊にしたい」といふ装幀にこめられた思ひにも人柄がにじむ、ささやかな新書サイズの詩集です。

  温度差

しじみの鍋を
覗き込んでいると

せからしいのがいて
「はいっ」と
はじけるように手を上げる

白信なげにじわっと
手を上げるのもいる

みなが上げるのを見計らって
キョロキョロ
押し切られて
半分上げたり下げたり
するものもいる


  酔い

怒っていたら
笑えてきた
笑っていたら
泣けてきた
電話が鳴って
すぐきれた

なんだか無駄に思える今宵
ありがとうに思える今宵


「温度差」、「あなた」、「ひとつ」、「酔い」、「まど・みちおの謎」、「間一髪」、「色紙」

これまで誌上で拝見してきた短かい数行の詩篇たちですが、かうしてまとまった形で拝見すると、杉山平一先生との御縁を大切にされ、また作品の上でも杉山スタイルを自家薬籠中のものにしてをられることがあらためて印象づけられ、詩人杉山平一直系の弟子筋にあることをはっきり感じさせる一冊に仕上がってゐます。短い詩はウィットが命ですが、理に落ちすぎない余韻のある詩句に立ち止まらさせられます。
とりわけ、杉山先生の追悼号に載った「色紙」は、詩集収録の際、見開きページに収めるためか末尾に繰り返される色紙本文が削られてしまひましたが(私なら末尾の方を残したかも。)、このやうな詩を捧げることができた幸せと、捧げられた詩人の冥加を思はずに居られません。

  色紙

ここに九十歳のお祝いにいただいた
手書きの色紙がある

  それでは
  友よふたたび
  運行をつづけよう
  健康で坦々として
             平一

裏に
平成十六年十二月
九十歳とある

九十七歳で『希望』
の詩集をだされ
不意打ちをくわし
すっと姿をくらまされた

いま耳元で先生の
笑い声が聞こえる
「まあこんなもんですな」
「愉快ですなあ」


『季』の誌上で私が抱いたゐた印象は、杉本深由起さんが才気の勝ったウィットで人目を惹くのに対して、おなじ杉山詩の気脈に通じながらも、奥田さんのそれには滋味に富んだオリジナルのユーモアといった得難い趣きがあること、殊にこの数年、「果たしてこんな詩を書く詩人だったらうか」と、失礼ながら認識を改めさせられることが何度もあって、一体どんな方か興味深く思ってもゐたところでした。

それが、『朔』の追悼号での回想文を読ませていただき、奥田さんがそもそも四十にして詩を志した、文学少女上がりの人物などではなかったこと、そしてこのたび初めていただいた詩集奥付にて初耳でしたが、永らく大学で栄養学の教鞭を執られた先生であったことを知りました。奥田さんの詩を外面的に特徴づける、食材やいまどきの後輩女性に注がれる視点に合点し、さらにそのオリジナリィティが発現したのも、青年期の麻疹ではない文学に対する研鑽(写生)を、杉山平一といふ人を逸らさぬ師の元で実直に積まれた成果が正直に出たまでであって、第一線から退かれて観照生活に入り、杉山先生が最後に見せた(詩集『希望』に向けた)輝きに呼応するやうに、寄り添ひ精進するところがあったからではないか、などと想像してみたことでした。

杉山先生の死生観を語った一文は、『季』の追悼号に寄せられたことさらタイムリーなものでしたが、また宗旨がカトリックである著者自身の関心に沿った切実な問題でもあること、詩編中の宗教的な題材を思ひ合せて理解しました。回想文のなかで田中克己を私淑詩人のひとりのうちに数へられたのは、カトリックだからといふよりは、やはり杉山先生が好まれたクラリティ(明確さ)への志向でもあったかと想像いたします。杉山詩の特質として明確さを挙げることには、私もまた異論ありませんが、いま少しく説明するなら、明晰な頭脳ゆゑの明晰さの限界の了知と、そこから望まれる未知領域への憧れとの間に揺曳する詩人であったやうにも思ってゐます。しかしながら決してあちら側へ踏み込んでゆくことはない。死生観にもそのやうな消息、「信じてゐる」に限りなく近い「信じたい」といふ祈りが感じられはしないでしょうか。

詩篇についても、皆さんから寄せられた感想や、生前杉山先生から頂いたお手紙に記された感想と照らし合はせて、果たしてどんな好みの一致や相違があるのか、いづれ『季』上にのぼせられる皆さんの詩集評をたのしみにするところです。

杉山先生不在のいま「気が抜けて」といふのは実感ですが、日々の日常生活から新しい発見と感動を、だれにもわかる言葉で定着すること、なほかつ短詩ならではの余韻の探求に期待いたします。新刊のお慶びかたがた御紹介まで。ここにても御礼を申し上げます。
ありがたうございました。

詩集『独り寝のとき』奥田和子著  ミヤオビパブリッシング (2015/8/25) 157ページ 907円

〔著者紹介〕

奥田和子(おくだかずこ)
1937年北九州市に生まれる。
甲南女子大学名誉教授。専門は食環境政策・デザイン、災害・危機管理と食。
2000年4月22日、力トリック芦屋教会で受洗。
40歳のときに詩誌『東京四季』の同人。その後、詩誌『季』の同人。
既刊詩集『小さな花』1992年『靴』1999年『クララ不動産』2004年・いづれも編集工房ノア刊。

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731やす:2015/10/22(木) 21:25:20
丸山薫の遺品
 昨日は豊橋まで遠征して、丸山薫賞授賞式を末席から見学。祝賀会では、拙詩集刊行に便宜を図って下さった八木憲司潮流社会長と、中日新聞に書評を書いて下さった冨長覚梁先生へ二年振りの御挨拶が叶ひ、御元気なご様子に安心するどころか逆に元気づけられて帰って参りました。

 このたびの受賞者に対する八木会長ならでは評言には、なまなかな祝辞にはない真情が籠められてをり、斯様な激励を受けられた詩人冥加を羨みました。ほめちぎるだけでなく現代詩臭の強い観念語に対しては一言、釘を刺されたことにも感じ入りました。

 当日は早めに豊橋に到着しましたので、市立図書館へ出かけ、ガラスケースに展示された丸山薫の遺品(ステッキ、ラジオ、表札、筆硯など)、ならびに豊橋で出された同人誌「パアゴラ」などを観て参りました。詩人がマッチラベルの収集を他愛なく楽しんでゐたことも知りませんでした。

 一昨年に詩人夫妻の展墓に訪れた際もさうでしたが、詩人の名を冠した賞の授賞式の当日にも拘らず、午前中、展示スペースにどなたの姿もなかったことは、当の詩人の俤を偲んでは考へさせられたことでもありました。

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732やす:2015/11/18(水) 21:24:44
紫野京子詩集『切り岸まで』
紫野京子様より詩集『切り岸まで』の御恵贈に与りました。
内容・装丁とも温雅な佇ひに、抒情詩の看板を掲げる同人誌「季」の年輪を感じる思ひを深くし、表題詩ほか、全体にmortalityや言葉のもどかしさを訴へる観念を主調音としてをり、かうした観念を表現したマチエールに関しては、現代詩詩人の皆さんの評価が別に存するものと思はれますが、私からはいちばんに感じ入った次の一篇を紹介させていただきます。

  夏の庭で

 真夏の日差しを避けて
 石燈籠のなかで
 野良猫がお昼寝

 風が吹くと
 ゆらゆらと合歓の木が揺れる
 薔薇色の糸のような花びらがかがやく

 影もない真昼
 蟻だけが乾いた地面を這う

 枝垂れ桜の緑の葉の下影で
 蓮はひっそりと
 咲くための準備をしている

 生きている今だけを
 生き物たちは繋いでいる

 実に9冊目の詩集とのことですが、著者にとって詩集を出版することは、また新しい自分の可能性に向き合ふよろこびと畏れを感じたいがためである旨。不断に脱皮し続けるバイタリティーに感服です。
ここにても御出版のお慶びとともに御礼申し上げます。ありがたうございました。

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733やす:2015/11/23(月) 19:49:57
『義仲寺昭和再建史話』
現在の義仲寺無名庵の守当番(庵主)である谷崎昭男様より、新著『義仲寺昭和再建史話』(2015.11.14義仲寺発行(編集新学社)18.8cm,127p 並製,非売)の御寄贈に与りました。以前にお贈りした拙詩集に対する御返礼と思しくも、忝く有難く、茲にても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

さて一冊に余さず記録されました、松尾芭蕉ゆかり義仲寺の再建に係る一切の出来事について、殊にも円満寺からの分離引き渡しに係り横たはった諸問題――当時の史跡保存会の機関誌に於いてさへ(関係者存命のゆゑを以て)露はには公表できなかったであらう内幕の事情――が包み隠さず、しかし決して露悪なドキュメンタリーには流れぬやう細心の注意が払はれた前半部に、思はず引き込まれてしまひました。かうした事情を知った上であらためて保田與重郎が撰んだ「昭和再建落慶誌」に目を移せば冒頭、
「史蹟義仲寺は近時圓満院の所管となつてより寺庵荒廃壊滅に瀕し両墳墓の存続さへ危い状態にて、」
といふ表現によってのみ纔かに顕された、義憤にも気がつくといふものです。

さうして三浦義一はともかく、工藤芝蘭子、斎藤石鼎、大庭勝一、後藤肇といった功労者の方々の名をこの本によって初めて知ることを得ました。巷間「右翼の大物」として悪名のみ知れ渡ってをります三浦氏ですが、資金を出されたといふだけでなく、氏がバックに控へ居たからこそ、“曲者入道”との折衝も無事成ったのではないかと推察されます。交渉の上で起きたであらう出来事を全て知悉したなかには、敢へて諷するさへ憚られたことどももあったかしれません。けだし保田氏が、碑文に彼ら全員の名をもれなく銘記した理由が、谷崎様の先師を髣髴させる筆致によって、それぞれ人柄とともに書き分けられ写真とともに掲げられてゐること、本書刊行の一番の眼目であり意義であったとも感ぜられる前半部と存じました。

また本書に説明ある通り、この事業が特記されるべきは、単に建築物の再建のみならず、一緒に、開基に与った巴御前をはじめ、芭蕉翁の近江滞在を支へた(にも拘らず墓所さへ持つことを禁じられた)曲翠、下っては俳聖没後一世紀にしてすでに廃滅の危機にあった堂宇の中興に尽した蝶夢、といった先人の事績をあまねく顕彰し、さらには途絶した「風羅念仏踊り」の再興といふ、無形の精神復興にも及んだことでありませう。義仲寺には十年余りも前、出張の途次に立寄ったことがありますが、無名庵の守りをした蕉門十哲の一人、広瀬惟然の故郷近く岐阜に住みなす私においても、嬉しい話題に接し得た後半部でありました。

以前の訪問とは別の感慨と知識を以て、また「無名庵」「弁慶庵」そして「幻住庵」にも行ってみたくなりました。

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734やす:2015/11/23(月) 22:42:46
田中克己日記 昭和25年、26年
昭和25年につづいて昭和26年の日記を解説ともupしました。

天理図書館からの脱出を、引越しを以て宣言してしまった詩人でしたが、当てにしてゐた大阪大学への転任ままならず、結局彦根短期大学での一年を経て帝塚山短期大学に腰を落ち着けることになります。住まひも、天理〜京都〜彦根〜布施へとめまぐるしく替はります。
その際、就職のコネとして頼った京都大学の東洋学研究グループの間を頻繁に行き来し、文学上でも天野忠や井上多喜三郎をはじめとする関西詩人たちと広く交はり、コルボウ詩話会と近江詩人会とを結成に導きます。他方、保田與重郎の雑誌「祖国」や前川佐美雄の「くれなゐ」歌壇にも参加し、誼を通ずる桑原武夫の主張とは相反する戦前抒情派としても活躍。翻訳『ハイネ恋愛詩集』も順調なれば、恋愛の実践の方はともかく(?)、詩人としては実り多き時期だったと申せましょう。

翻刻は続きます。

735やす:2015/12/01(火) 21:57:50
『感泣亭秋報』十号
小山正見様より『感泣亭秋報』十号をお送りいただきました。

 柿色に毎年実る秋報もたうとうこれで10冊。小山正孝といふ所謂「四季派第2世代」のマイナーポエットとその周辺をめぐる論考だけで成り立ってゐる雑誌が、途絶することもなく、年刊ながら号を追ふ毎にページ数が増へてゆくといふ考へられないことが起こって十年が経ちました。今回も常子未亡人を追悼した前号に劣らぬ質と量であるのは、年始に完成をみた『小山正孝全詩集』の刊行記念号として、制作・執筆陣ともにひと区切りを意識した気合の一冊に仕上がってゐるからです。
 まづは巻頭、詩人の盟友であり、四季派詩壇最高齢でもある山崎剛太郎先生が不如意の筆をおして「この全集で彼は彼の人生を多彩に語り、微細に変調する感性で、人生の多様性に迫った」と満腔の祝辞を述べられてゐます。没後13年、泉下の詩人ならびに常子夫人、坂口正明氏をはじめ、この一文を掲げ得た刊行者、すなはち白寿目前の翁を「山崎のおじちゃん」と幼時より慕ってこられた刊行者にして詩人の御子息である正見様の胸中も偲ばれるといふものです。

 寄稿に至っては、本格的論考から、私の如き『全詩集』巻末の解説をかいなでに紹介して責をふさいだものまで、目次の通り多種多様となりました。その『全詩集』解説を書かれた渡邊啓史氏ですが、本号においても第5詩集『山の奥』テキストに寄り添ひ、詳しい作品分析を行ってをられます。
渡邊氏の説によれば、詩人が戦後展開させた詩境のうち、所謂「愛憎の世界」では第2詩集『逃げ水』の混沌から掬はれた上澄みとして第3詩集『愛し合ふ男女』が成り、そののち分け入った「形而上世界」においても同様に、第5詩集『山の奥』が第4詩集『散ル木ノ葉』を洗練させた主題的展開として位置づけられると云ひます。詩風の区分と対応する詩集との相関関係は、シュールかつ愛憎が韜晦する戦後の作風になじみ難い私にとっても明快な道標となり、助けられる思ひです。

 また國中治氏よりは、第2詩集『逃げ水』にみられる混沌が、ソネット(十四行詩)といふ形式のみならず「立原道造的なもの」へ志向する心情と、そこからの脱却を図らうとする矛盾そのものの露呈として分析され、さうした葛藤こそが抒情詩を書く全ての戦後詩人に課せられてきた現代詩の身分証明だったのだと総括されてゐます。「立原道造的なもの」すなはち四季派の本質を「理想化された西洋文化と伝統的日本文化とのアマルガムを憧憬と郷愁によって濾過・精煉した高純度の情緒」と規定されてゐますが、成立条件にはさらに時代の制約が関係してをり、それが失はれた為に現代詩の彷徨が始まったのだともいへるでしょう。
さらに渡邊氏と同様、第4詩集から第5詩集への発展関係が指摘されるものの、「立原道造的な」自己探求のモチーフとして選ばれる「なぜ・だれ・どこへ」といった詩語・詩句の単位が、第5詩集『山の奥』では詩行単位のレトリックに切換へられ、それが詩人独自の「形而上世界」の構成をなしてゐるのではないか、との切口は新機軸です。つまり詩境を変じたのちにおいても詩人と立原道造との間には、ともに混沌(デモーニッシュなもの)に対する視点が「やや排他的な、密やかな共鳴によって結ばれていたのではないだろうか」と推察されてゐるのですが、四季派詩人の生理の内奥に身の覚えもありさうな、四季派学会理事の國中氏ならでは独壇場の明察であり、感じ入りました。

 そのほか胸に詰まったのは、『朔』誌上でも愛妻との離別を綴られた相馬明文氏からの一文でした。また毎号誌上で一冊づつ「小山正孝の詩世界」を解説してこられた近藤晴彦氏は、今回最後の第8詩集『十二月感泣集』をとりあげ「感泣」の意味を問はれます。蘇東坡の故事においては喜悦感涙の意味を持つものださうですが、けだし杜甫に親しんだ詩人なれば「感泣」はやはり老残の嘆き、ならば「秋報」も年報であると同時に「愁報」さ、などとシニカルな詩人なら答へられるかもしれません。
 とまれ近藤氏が指摘された日本人のメンタリティの特色。本音と建前を使ひ分けることが江戸時代このかたこの国に近代的個人が完全に成立しなかった理由であるといふ指摘に頷かされ、さうしていかなる建前にも臣従することなかった小山正孝について、さらに池内輝雄氏が「小山正孝の“抵抗”」と題して、大東亜戦争開戦当時の『四季』(昭和17年2月号)誌上にあたり、実証してをられます。『四季』巻末に田中克己が記した編集後記は、
「大東亜戦争の勃発は日本人全体の心を明るくのびのびした、大らかなものにした。詩人たちも一様に従来の低い調子を棄てて元気な真剣な詩を書きだした。」
といふもの。引き較べて小山正孝は同誌上で書評の姿を借りて戦争詩の在り方を問ひ、それらが本当に「真剣な詩」だったか、先輩詩人たちがつくったのは「感動のないたくさんの詩」のかたまりではなかったかと言ひ放ち、当時としては精一杯の抵抗を巷の熱狂に対し呈してゐるのですが、両者がそれなら反目の関係にあるのか、戦後はそれなら袂を分かったのかといふと、さうではないところがまた興味深いところです(そもそも編集子が載せてゐる訳ですしね)。拙稿で触れてありますが、今年公開をはじめた戦時中の「田中克己日記」にあたっていただけたらと思ひます。

 さて、このたびは近藤晴彦氏と、戦後出版界再編の事情と実態を(小山正孝を含め)発行者の立場から関った詩人たちを軸にして詳細に論じてこられた蓜島亘氏と、両つの大きな連載が一区切りをつけ、正見氏自身「やめるなら今がやめ時だ」と終刊も考へられたといふことですが、渡邊啓史氏が余す各論はあと3冊分あり、若杉美智子氏による「小山=杉浦往復書簡」の紹介も、新事実を添へてまだまだ続けられる予定であってみれば、近代詩と現代詩にまたがる一詩人を通して昭和詩の命運を俯瞰してゆかうとする試みは、来年以降も続けられることがあらためて宣言され、ひとまづ安堵されました。

 気になった論考の2,3を紹介、この余は本冊に当たられたく目次を掲げます。
 茲にてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。



『感泣亭秋報』十号 目次

詩 つばめ横町雑記抄(絶筆) 小山正孝4p

    特集『小山正孝全詩集』
『小山正孝全詩集』全二巻に寄せて 山崎剛太郎7p
「感泣五十年」 八木憲爾9p
小山正孝の“抵抗” 池内輝雄13p
『小山正孝全詩集』刊行に際して――「あひびき」の詩を中心に 菊田守17p
いのちのいろどり『小山正孝全詩集』に寄せて 高橋博夫20p
『山の奥』の詩法――今あらためて立原道造と小山正孝の接点を問う 國中治22p
小山正孝についての誤解 三上邦康25p
花鳥風月よりも何よりも「人」を愛したソネット詩人小山正孝 小笠原 眞26p
「灰色の抒情」 大坂宏子37p
“私わたくし”的の『小山正孝全詩集』 相馬明文38p
雪つぶてをめぐる回想 森永かず子40p
「アフガニスタンには」に触れ想念す 深澤茂樹43p
心惹かれる『山居乱信』 萩原康吉46p
『十二月感泣集』から 里中智沙47p
『小山正孝全詩集』に接して 近藤晴彦49p
『小山正孝全詩集』作者の目 藤田晴央52p
『小山正孝全詩集』刊行によせて――小山正孝と田中克己 中嶋康博54p
『山の樹』から感泣亭へ 松木文子58p

造化の当惑――詩集『山の奥』のために 渡邊啓史62p
小山正孝の詩の世界9 『十二月感泣集』 近藤晴彦92p
最後の小説「傘の話」を読んでみた 相馬明文97p

「雪つぶて」に撃たれて 山田有策102p
「雪つぶて」作曲のこと 川本研一107p
正孝氏のジャケット 坂口杜実109p
お出かけする三角 絲りつ112p

詩 薔薇 里中智沙118p
詩 机の下 小山正孝「机の上」へのオマージュ 森永かずこ120p
詩 互いの存在 大坂宏子124p
詩 第二章  絲りつ127p

小山正孝の周辺4――戦後出版と紙 蓜島亘128p
昭和二十年代の小山正孝6――小山=杉浦往復書簡から 若杉美智子140p

感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見144p

2015年11月13日 感泣亭アーカイヴズ発行
問合せ先(神奈川県川崎市中原区木月3-14-12) 定価1000円(〒共)

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736やす:2015/12/07(月) 02:00:37
『詩歌に救われた人びと―詩歌療法入門』
 岐阜大学名誉教授の小山田隆明先生より新著『詩歌に救われた人びと―詩歌療法入門』の御恵送に与りました。“入門”と謳ってあるとほり、前著『詩歌療法』で詳述された理論と適用について、本書では「読むことによって救はれる詩」と「書くことによって救はれる詩」を区別して、それぞれの事例と技法とにしぼった具体的な紹介がなされてゐます。

 前著は臨床研究者を念頭に執筆され、症例ごとの報告においても学術論文の体裁を有した専門書の一冊に仕上がってゐましたが、読み物としてはむしろ前半の導入部、アリストテレスやユング、フロイトといった詩学的・心理学的アプローチから説き起こされた詩の原理や、現代詩の一人者である大岡信が自ら明らかにした作品の制作過程に寄り沿って試みた考察などに、私自身の詩人的興味は注がれ、現代詩生成の内幕を垣間見た思ひをもって読んだものでした。このたびの本の中では、
「心理臨床の場だけでなく、学校教育の場でも、そして自分自身のセルフケアのためにも用いることが出来る」入門書としての性格が強く打ち出されてゐます。

 すなはち前半には、表題となった「詩歌に救われた人びと」として、
 1.独房の囚人が読んだ詩 カール・アップチャーチの事例
 2.抑うつ状態を救った詩 ジョン・スチュアート・ミルの事例
 3.会話を回復させた連詩 物言わぬベンの事例
 4.ホームレスの生活を支えた短歌 公田耕一の事例
 5.病苦を耐えさせた短歌 鶴見和子の事例
 の報告がならび、全ページの半分が費やされてゐるのですが、独房で出会った詩集をきっかけに犯罪人生から見事な脱却と転身をとげた社会活動家アップチャーチ(Carl Upchurch 1950?2003)をはじめとする、詩を読むことで、また詩を書くことで(あるひは詩で応答することにより)閉ざされた心が開かれ、「カタルシス」と「認知的変容」により前向きに人生に向かふに至ったひとびとの話が、心理学者の視点からやさしく語られてをります。
 それぞれに興味深いエピソードですが、ひところ朝日新聞の投稿歌壇をにぎはせたホームレス歌人公田耕一の謎の消息については、時系列にならべられた投稿歌の分析が、逆に彼のホームレスとしての実在を実証するやうな形で指摘され得る結果に注目しました。

 後半では、実際に詩をひとに処方する際の手引きが、読み・書き別に語られてゐます。「詩を読むための技法」として挙げられたのは17編の現代詩。「詩を書くための技法」では現代詩、俳句、短歌など「詩形」ごとにその特徴と処方上の注意とが挙げられてゐます。

 とりわけ特に前著にはなかった「詩を読むための技法」のなかで紹介されてゐる詩の数々は――さうしたセルフ・ケアの視点から詩歌といふものに接することのなかった私にとって新鮮で、ほとんど初耳に属する17編でしたが、あるひは現代詩に対する「認知的変容」を私にも、少しはもたらしたかもしれません(笑)。
 ただしせっかく挙げられた詩ですが、著作権を慮って本文に全詩が紹介されてゐないのが残念です。下記※にネット上で読めるやうリンクを掲げましたので御参照ください。またマリー・E.フライの「千の風になって」は、作曲された歌が日本でも有名になりましたが、オリジナルの原詩から起こされた著者自身の訳があり、素晴らしいのでここに掲げさせていただきます。

「千の風になって(オリジナル版) 」
                       マリー・E.フライ(小山田隆明訳)

私のお墓の前に立たないで下さい、
そして悲しまないで下さい。
私はそこにはいません、私は死んではいません。

私は吹きわたる千の風の中にいます
私は静かに降る雪
私はやさしい雨
私は実りを迎えた麦畑

私は朝の静けさの中にいます
私は弧を描いて飛ぶ美しい鳥の
優雅な飛翔の中にいます
私は夜の星の輝き

私は咲く花の中にいます
私は静かな部屋の中にいます
私はさえずる鳥
私は愛らしいものの中にいます

私のお墓の前に立たないで下さい、
そして泣かないで下さい。
私はそこにいません、私は死んではいません。

 さて「詩を書くための技法」の方ですが、現在小学校の教育現場では「俳句教育」の指導が行はれてゐるとか。これはその手引きとして、さらに連句や冠句といった(付け合ひ)による他者との対話・グループ交流へと応用をひろげたり、または短歌、五行歌からさらに現代詩へと自己表現・自己探求の筋道へと導いてあげる際の「指針」として、活用することもできさうにも思はれたことでした。
 ここに「指針」といったのは、この「詩歌療法」、場合によっては相応しくないタイプの詩や、被処方者との組み合はせもあるとのことで、教育の場はともかく文学の場では、むしろさうした毒――破滅に自ら堕ちてゆく詩人に自らを重ね、帰ってこれないカタルシスと心中しかねぬ際どいところに魅力といふか、業といふか、究極の「認知的変容」があったりするので大変です。
 けだし詩人でもゲーテは「ウェルテル」において、メーリケは「画家ノルテン」において、森鴎外は「舞姫」において悲恋の絶望に主人公を蹴落とし、現実の自分はのうのうと生き抜くことができたともいはれてゐる訳で、宮澤賢治や新美南吉の童話体験を挙げるまでもなく、「詩歌療法」と同様に、読み・書きについて「散文療法」といふセルフ・ケアの可能性もあるかもしれぬと思った次第です。

 ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『詩歌に救われた人びと―詩歌療法入門』 小山田隆明著 2015.11.25風詠社刊 19.5cm上製カバー 157,5p 1500円+税

目次

はじめに
第一章 詩歌に救われた人びとの事例
 1.独房の囚人が読んだ詩 カール・アップチャーチの事例
 2.抑うつ状態を救った詩 ジョン・スチュアート・ミルの事例
 3.会話を回復させた連詩 物言わぬベンの事例
 4.ホームレスの生活を支えた短歌 公田耕一の事例
 5.病苦を耐えさせた短歌 鶴見和子の事例

第二章 詩歌療法の技法
 1.詩歌療法とは何か
 2.詩を読むための技法
  (1)詩を読むとは
  (2)「読む」詩の特徴
  (3)処方される詩の例 ※参照
  (4)詩を読む技法
 3.詩を書くための技法
  (1)詩(現代詩)
  (2)五行歌
  (3)連詩
  (4)俳句
  (5)冠句
  (6)連句
  (7)短歌
あとがき
引用文献


※参照  詩を読むための技法
  (3)処方される詩の例

?長田弘「立ちどまる」http://suho1004.dreamlog.jp/archives/43486721.html

?ホイットマン「私はルイジアナで一本の槲の木の育つのを見た」(有島武郎訳)

私はルイジアナで一本の槲(かしわ)の木の育つのを見た、
全く孤独にもの木は立って、枝から苔がさがってゐた、
一人の伴侶もなくそこに桝は育って、言葉の如く、歓ばしげな
 暗緑の葉を吐いてゐた、
而してそれは節くれ立って、誇りがで、頼丈で、私自身を見る思ひをさせた、
けれども槲はそこに孤独に立って、近くには伴侶もなく、愛人もなく、
 言葉の如く、歓ばしげな葉を吐くことが出来るのかと私は不思議だ――
 何故なら私にはそれが出来ないと知ってゐるから、
而して私は幾枚かの葉のついた一枝を折り敢ってそれに小さな苔をからみつけ、
 持って帰って――部塵の中の眼のとどく所へ置いて見た、
それは私自身の愛する友等の思ひ出のためだとおもふ必要はなかつた、
(何故なら私は近頃その友等の上の外は考えてゐないと信ずるから)
それでもその枝は私に不思議な思ひ出として残ってゐる、――それは私に
 男々しい愛を考へさせるから、
而かもあの槲の木はルイジアナの渺茫とした平地の上に、孤独で、輝き、
 近くには伴僧も愛人もなくて、生ある限り、言葉の如く、
 歓ばしげな葉を吐くけれども、
 私には何としてもその真似は出來ない。

?与謝野晶子「森の大樹」http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/2557_15784.html
?無名兵士の詩「悩める人々への銘」http://www.geocities.jp/nkkagosu100/page014.html
?工藤直子「こころ」http://ameblo.jp/sakuratsuruchitoseyama/entry-10846480741.html
?作者不詳の詩「手紙 親愛なる子どもたちへ」http://www.utagoekissa.com/tegamishinainarukodomotachihe.html
?サムエル・ウルマン「青春」http://members3.jcom.home.ne.jp/fuyou3/profi/samueru%20uruman.htm
?茨木のり子「倚りかからず」http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/shisyu.html
?エドマンド・ウォラー「老齢」http://kainorasen.exblog.jp/21777241/
?マリー・E.フライ「千の風になって」http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A01980
?長田弘「花を持って、会いに行く」http://ameblo.jp/machikoedo/entry-11199051816.html
?永瀬清子「悲しめる友よ」http://www.haizara.net/~shimirin/on/akiko_02/poem_hyo.php?p=5

?草壁焔太「こんなに さびしいのは」
こんなに
寂しいのは
私が私だからだ
これは
壊せない

?工藤直子「花」
わたしは
わたしの人生から
出ていくことはできない

ならば ここに
花を植えよう

?永瀬清子「挫折する」http://www.fujiseishin-jh.ed.jp/field_diary/2011/12/5641/
?工藤直子「あいたくて」http://www.ondoku.sakura.ne.jp/gr6aitakute.html
?吉野弘「祝婚花」http://www5.plala.or.jp/kappa_zaru/shukukonka.html

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http://

737やす:2015/12/08(火) 21:46:08
流浪の民
 杉原千畝の映画を観てきました。第二次世界大戦当時、ナチスの迫害から逃れるため、唯一の経路国となった日本の通過ビザを取得せんと、領事館に殺到したユダヤ人たちに対し、国外退去の寸前までビザの発給をしつづけた外交官。いまや郷土岐阜県出身を超えて日本の偉人として有名になりましたが、彼が生存中だったわが中学高校時代を通じ、社会科政経の授業でその名を聞いたことはありませんでした。戦後の長い黙殺期間はもちろん、まして戦前にその名を現在称へられてゐる業績において知る者など、なかったのではないでしょうか。

 映画としての出来はともかく(演出をもっとあざとくやってほしかった)、ビザを手にした人々のその後、特に日本に渡るまでに尚いくたりかの(といふか日本人の意識の上にあった)善意を経なければならなかったことが描かれてゐたのは勉強になりました。ドイツと同盟を結んでゐた当時、難民の彼らははたしてどんな風に庶民には映ってゐたのでしょう。敦賀からユダヤ人協会のあった神戸に移動した彼らの姿が、『四季』同人だった竹中郁の目で次のやうに描かれてゐます。


 流浪の民
        竹中 郁 詩集『龍骨』(昭和19年)所載

西伯利亜(シベリア)鉄道は色んなものを運んでくる
曰く云ひ難いものに混つて
頬鬚を生やした亡命ユダヤ人の群を
どつさり日本へ運んでくる

かれらは町の安レストオランに屯する
帽手と外套とがひどく汚れてゐる
給仕がにこりともせず料理の皿を突出す
大きな鷲鼻が迂散くささうにそれを嗅ぐ

五千弗もつてゐてもユダヤ人だし
二弗しかなくつてもユダヤ人なのだ
かれらの寝てゆく船室はとても足りないし
それに上陸を許してくれる国がとんとない

英艦フツド號が撃沈された日
僕の友人がドイツ語で話しかけたら
神戸は動物園が仲々いいですなあと
噛んで吐き出すやうに答へた


 戦後ならばどんな風に糊塗した書き方もできましょう。戦時中に書かれたことが重要であり貴重です。詩集『龍骨』は昭和19年、湯川弘文堂で竹中郁の企画によって生まれた「新詩叢書」の一冊であり、時局柄どの本にも「戦争詩」が掲げられてゐます。杉原千畝も体制内のひとなので、規則の拡大解釈のかぎりを尽くして人道支援に努めたことでしょうが、戦時中に書かれた戦争詩についても、こめられた諷意が、詩集に一緒に収められた詩篇によって図らずも読み解かれる、といふやうなこともあるやうな気がします。

738やす:2015/12/13(日) 21:15:43
『郷土作家研究』第37号
 青森の相馬明文様より『郷土作家研究』第37号をお送りいただきました。

 なかで翻刻されてゐる小説「白い本屋」ですが、詩人の小山正孝が昭和11年、弘前高等学校休学中に書きまくってゐた短編小説のひとつで、さきにまとめられた小説集『稚児ケ淵』には収録が見送られた一篇です。

 しかしながらこの小説、理想を逐ふべきか社会人として生くべきか、小説家志望の書店の小僧を主人公にして、人生の選択を迫りつつ、その悩みに作者自身が重ねられ、救済が同時に託されてゐるといった按配は、(さきごろ『詩歌療法』を読んだので殊更さう思ふわけですが)、出来は措いても詩人の精神史上、重要な作品なのではといふ気もしないではありません。

 結局彼が小説家としての道を断念してしまったのも、ここに出てくる新助のやうな、まことに心強い先輩知己が実生活上で強く肩を押してくれることがなかったからかもしれませんし、或ひは自身が責を負ふべき結婚の結果、片がついたはずの煩悶がふたたび再燃し、家庭を守るべき方向へと実際上の彼を導いていったからなのかもしれません。

 程度は違へど辛うじて私も文学に扶けられて生きてをります。相馬様にもなにとぞ御静養専一に、ここにても御礼かたがた御健筆をお祈り申しあげます。
 ありがたうございました。

『郷土作家研究』 第37号 平成27年10月23日発行(隔年刊)
青森県郷土作家研究会(弘前市新城字平岡160-807 竹浪様方) A5版 76p 1000円

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739やす:2015/12/26(土) 14:48:01
『詩人のポケット』『初めての扁桃腺摘出術』
先般の『感泣亭秋報』10号で名を連ねさせて頂いた小笠原眞様に拙詩集をお送りしたところ、折り返し有難い御感想と一緒に、御詩集『初めての扁桃腺摘出術』および詩論集『詩人のポケット』の御寄贈に与りました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

『詩人のポケット』は、中村俊亮/藤岡保男/山之口獏/平田俊子/天野忠/圓子哲雄/田村隆一/泉谷明/金子光晴/井川博年/黒田三郎を論じた詩論集。挙げられた11人が中央・地方、名の大小に拘らず、皆これまでの詩生活に影響を与へてきた詩人からすぐられたものであるだけに、対象への愛にあふれ、評論であると同時に著者自らの詩人としての個性をも多角的に表明してゐる一冊であると感じました。雑誌『朔』の連載は読んでゐたはずですが、かうしてまとまったものを拝読してみると、姿勢(気質)によるスタイルの統一感(これは詩集を一貫して編年体で解説するところにも表れてゐます)が感じられます。それで、賛同を禁じ得ぬ評言に信を置き、別の詩人への称賛についてもその開陳に耳傾ける――こんな具合にして、わが現代詩アレルギーの蒙も一枚位は剥がされたやうな感じがしてゐます。

現代詩アレルギー――戦後詩がなぜ私の中へすんなりと入ってこないのかといふことについては、もはやあきらめてゐたことですが、歴史や伝統からの断絶から出発した戦後詩人たちに対する拒否反応が、時代を下って世代替はりをし、その因果色を薄めようとも、食物アレルギーレベルで抜きがたく私の感性に根を張ってゐるからのやうであり、詩法から云へば、四季派の詩人たちに象徴されるやうな、精神を収斂させ観照をこととするのではなく、詩人の方便で精神を拡散させてゆく詩作に付いてゆけない不器用さが蟠ってあるからかもしれません。しかし此度の機会をいただかなければ、このままこのさきも知らずに熄んだ詩篇の数々との出会ひがあり、現代詩の食はず嫌ひぶりに今さらながら呆れもしたことでありました。

本書に取り上げられてゐる山之口獏や天野忠は好きな詩人ですし、その延長上にいただいた詩集『初めての扁桃腺摘出術』を置き、いくつかの詩篇を味はふことができました。四季派を継ぐ『朔』の主宰者、圓子哲雄氏の詩と詩歴も的確に解説されてをり、結局私の抒情世界の方が狭くて、小笠原様が見渡される詩の地平のなかにすっぽり包摂されてゐるといふことを意味してゐるのですが、これは昔、四季派・日本浪曼派に対する鋭い指摘に感じ入りながら、戦後現代詩の魅力は全く伝はってこなかった大岡信氏の詩論集を読んだときにも感じた経験であり、さきの『感泣亭秋報』に於いても小山正孝の戦後詩を論ずることができなかった原因でもありました。


さて色んなタイプの詩が混在し、著者自ら「正にごった煮の闇鍋状態」と称する第5詩集『初めての扁桃腺摘出術』ですが、申し上げたやうに、ユーモアを大切にし、実生活に密着した詩篇に連なるジャンルの御作を、私自身はたのしませてもらひましたが、作者がどの種のものを詩人の本懐と目されてゐるかはよくわかりません。詩論集のラインナップを眺めれば、どれもが愛ほしいジャンルであるに違ひなく、モダニズムの横溢する作品あり、医学用語の頻出する作品あり、むしろその方が素人にも分かりやすく手引きされてゐたり、表紙の奇矯なデザインもどうやらユーモアに拠るらしいこと、また詩篇ラストの一言・一節には、杉山平一先生が自作詩でよく弁明された、作者の依怙地なヒューマニズムへの拘りをも感じさせてくれた、そんな読後感がありました。「今まで詩集に載せていなかった詩篇を掻き集め」と謙遜されるものの、医師として観ずる人の命と、家族として接する肉親の死と、斯様な立場でなければ書けない詩が収められた一冊であり、現在母を介護するわが立場からもいろいろと考へさせる詩集であります。「死を目前として生きることの本当の辛さを/僕は本当のところ分かってはいないのです。」といふ一句には釘付けにされました。


また舟山逸子様よりは『季』102号の寄贈にも与りました。精神的支柱であった杉山平一先生が居なくなっただけに、少人数同人誌の存在意義があらためて問はれてゐる気がいたしました。今回ただひとり、同人の新刊レビューをものされた矢野敏行さんが、後記の中で「団塊」といふ言葉に対し自嘲気味の嫌悪感を示されのは、図らずも象徴的な出来事だったやうにも思はれたことです。

ことほど左様に自分もふくめ、周りすべての事象に高齢化を感じ、考へさせられることばかりが続いた一年でした。あかるい兆しが戻ってくることを祈らずには居られません。

合せて御礼申し上げます。ありがたうございました。

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740やす:2015/12/31(木) 12:32:56
良いお年を。
今年の主な収穫を、入手日降順に一覧。
新刊、古書ともいただいた本が多い1年でした。といふより本が買へなくなりました。
今年の図書購入費は5万円に満たず。こんなことは初めてでしたが、今後は当たり前になるでしょう。
図書館からの異動に伴ひ、寄贈した600余冊の本の返還が叶ひ、
自分で貼ったり押したりした、ラベルや図書館印の入った研究書の姿に涙してゐます。

良いお年をお迎へ下さい。


外村彰編『高祖保集 詩歌句篇』平成27年
高祖保『庭柯のうぐひす 高祖保随筆集』平成26年(勝井様、おまけを頂きありがたうございました。)
石井頼子『言霊の人 棟方志功』平成27年(追ってレビューを上させていただきます。)
小笠原 眞『詩人のポケット』平成26年
小山田隆明『詩歌に救われた人びと―詩歌療法入門』平成27年
谷崎昭男『義仲寺昭和再建史話』 非売平成27年
大沼枕山 点『嚶々吟社詩』明治21年
斎藤拙堂『全釈拙堂文話』平成27年
佐藤惣之助『正義の兜』大正5年
一戸謙三『歴年』昭和23年
藤田金一『白い焔』昭和5年
谷鉄臣ほか『鉄庸集』明治16年
富山県詩誌『日本海詩人』『裏日本』『詩朝』『海』ほか 昭和2年-12年
冨岡鐵齋『複製扁額 山紫水明處』大正13年
松村又一『畑の午餐』大正10年
藤林平也『高空ノポエツ』昭和7年
井村君江『日夏耿之介の世界』平成27年
澤村修治『悲傷の追想 肥下恒夫の生涯』平成24年
冨岡鐵齋『鐵齋筆録集成』平成3年
小山正孝『小山正孝全詩集』平成27年
廣田末松『午前の歌』昭和5年

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741中嶋康博:2016/01/01(金) 01:32:07
謹賀新年
年末に石井頼子様よりお送り頂きました新著『言霊の人 棟方志功』(平成27年12月里文出版刊)、および新学社制作のカレンダー。
追って紹介させて頂きます。
ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

今年よりハンドルネーム返上、名前で参ります。今年もよろしくお願ひ申し上げます。

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742中嶋康博:2016/01/31(日) 01:21:15
【付記】
 本書『言霊の人 棟方志功』を繙く際、是非一緒に広げて頂きたい図録があります。

 図録『「世界のムナカタ」を育んだ文学と民藝:高志の国文学館企画展』 2013.11 高志の国文学館(富山)刊行 80p 30cm 並製 です。

 棟方志功の画業に関して出された画集・図録は数々あれど、書籍の装釘にスポットを当てたものは少なく、本書『言霊の人』のなかでも紹介されてゐますが、膨大な志功装釘本の全容を解明すべく収集に努めてこられた山本正敏氏(富山県埋蔵文化センター所長)のコレクションから、郷土の文学館の企画展で披露された永年の成果がカタログ化されてをり、主要な「柵」と同列に、ほとんど本書の章立てとも対応するやうに並べられてゐます。
 美しいカラー図版に盛られたこれら書影の数々が、文芸との関はりにスポットを当てた本書を読む際の最強の補足資料となることは間違ひありません。

目次

ごあいさつ 1p
棟方志功の板業や人物像に対する文学の視点 ―なぜ文学館で棟方志功展なのか― 福江 充 3p

第一章 棟方志功の装画本からみる文学とのかかわり
 棟方志功装画本の世界 山本正敏 8p

 児童文学の挿絵10p
 初期装画本12p
 日本浪曼派作家の装画本(保田與重郎・中谷孝雄)14p
 保田與重郎の周辺の周辺1 16p
 保田與重郎の周辺の周辺2 18p
 ぐろりあ・そさえて社の装画本20p
 戦前の装画本1 22p
 戦前の装画本2 24p
 民藝運動とのかかわり26p
 郷土作家の装画本28p
 郷土の文芸雑誌1 30p
 郷土の文芸雑誌2 32p
 戦後の装画本1(谷崎潤一郎・吉井勇)34p
 戦後の装画本2(今東光・村松梢風ほか)36p
 戦後の装画本3 38p
 戦後の装画本4 40p
 戦後詩壇の装画本42p
 戦後歌壇の装画本44p
 戦後俳壇の装画本46p
 戦後雑誌の装画48p

第二章 棟方志功と民藝運動
 棟方志功と民藝運動 52p

 板画「大和し美し」53p
 板画「華厳譜」54p
 板画「空海頌」55p
 板画「善知鳥版画巻」56p
 板画「夢応鯉魚版画柵」59p
 板画「二菩薩釈迦十大弟子」60p
 板画「女人観世音板画巻」61p
 板画「流離抄板画巻」62p
 板画「瞞着川板画巻」63p
 安川カレンダー瞞着川頌65p

《ことば》の人 棟方志功 渡邊一美66p
【特別寄稿】世界のムナカタと「立山の文学」・一枚の版画から 奥野達夫 68p
棟方志功略年譜 70p
出品目録74p
謝辞80p

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743中嶋康博:2016/01/31(日) 01:25:51
『言霊の人 棟方志功』
 石井頼子様より新著『言霊の人 棟方志功』(平成27年12月里文出版刊)および、新学社制作のすばらしいカレンダーの御寄贈に与りました。
ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 雑誌連載をまとめられたものですが、棟方志功が関はった文学・文学者との交流について、寝食を共にした家族ならではの立場から、残された手紙資料なども駆使し、大胆な推論を交へたレポートがなされてゐます。板画業の発生・展開に沿って選ばれた各章の人物は下に挙げた通りで、同一人物に費やされる連載回数はそのまま画伯との関はりの深さを示してゐます。そもそも画壇との交流の薄く、風景を観るに心の眼に拠り、文章に強い執着を示したといふ棟方志功。詩歌作者との関係は、単に画題提供にとどまらぬ側面があったはずで、本書はその人となりを、近代詩歌との親炙性に特化して論じた初めての本であるといっていいと思ひます。

 象徴的なのは、保田與重郎に相応に3章(連載)も費やされてゐることかもしれません。20〜30年前までは、憚られることはあれ、決して名声に資することはなかった日本浪曼派の文学者たちとの関はりが、斯様にとりあげられ語られることは考へられなかったことであり、さらにそれ以前の、最初に雄飛するきっかけとなった画題を提供した詩人佐藤一英との関係も、踏み込んだ推論をもって語られてゐます。
 曰く、その「大和し美はし」が保田與重郎との交流を深める過程でモチベーションが温められていったのではといふことや、詩人との交流が以後それほどには深まらなかった理由についても――つまり「大和し美はし」の後、「鬼門」といふ詩篇にふたたび触発されて制作されたと思しき「東北経鬼門譜」が、絶対的師匠である柳宗悦に認められず改変を命じられたこと。その結果、師が没するまで大きな画題にはチェックが入り、それはそれで適切な教育係によって彼が仏教に開眼する訳ですが、柳宗悦が没するまで、遂に故郷への濃密な思ひさへ断ち切る選択をしたのではなかったか、といふ条りには瞠目しました。
 他にもデビュー当時に彫った、宮澤賢治の生前に成った「なめとこ山の熊」の版画のこと、郷里青森の新聞連載小説の挿絵を描いた「これまで世に出たどの図録にも年表にも自著にも掲載されていない、幻の仕事」を考察する段(その三十 中村海六郎)においても、著者自ら本書の各所で「穿ちすぎであろうか」と断ってゐますが、一歩も二歩も踏み込んだ推論がかくやあるべしと思はれ、水際立ってゐるのです。

 もちろん生涯を通じて恩恵を被った民芸運動の指導者たちやパトロン、あるひは俳壇・歌壇・文壇の宗匠・文豪クラスのビッグネームについては戦前、富山疎開時代、戦後を通じて十全のページが割かれ、魂を太らす大切な交流が描かれてゐます(安心してください 笑)。
 初対面で意気投合した河井寛次郎が画伯を伴って帰る際「クマノコ ツレテ カヘル」と電報を打ち、京都の河井家を騒然とさせた笑ひ話など、数々の「らしい」人となりを伝へる頬笑ましいエピソードもふんだんに盛られてゐます。 しかし戦争に関はり、大方は戦後を不遇で通した詩人たちについて――詩壇に君臨した同じ東北出身の草野心平や、いっとき野鳥や骨董や趣味の悉くに傾倒した蔵原伸二郎はともかく、山川弘至・京子夫妻といった人たちにまで公平に一章が手向けられてゐることには、時代が変ったといふより、著者の心映えを強く感じずにはゐられません。このあたりがこれまでの評伝や図録解説とは大きく異なるところではないでしょうか。

 さうして本書には、「柵」として成った「板画巻もの」の作品のみならず、五百冊以上にものぼるおびただしい装釘本の仕事についても言及があります。山川夫妻の著書の他、さきにのべた日本浪曼派との関はりは主にこれにあたるといっていいでしょう。
 保田與重郎のなかだちによって、蔵原伸二郎の『東洋の満月』そして保田自身の『改版日本の橋』を初めとする装釘仕事が開始しされ、

「あばれるやうに彫り、泣くやうにして描きまくって」「何年間に亙ってなす修業を、何日かで終ふるやうな荒行」※

とも見紛ふばかりの無茶苦茶にいそがしい当時の仕事ぶりが写されてゐます。その結果、「日本浪曼派叢書」ともいふべき「ぐろりあそさえて」の35冊や、数々の伝統派文芸雑誌の表紙を飾ることになった、土俗的民族的生命感あふれる意匠の肉筆画が表象するところのものによって、棟方志功は日本浪曼派の意匠的代名詞のやうに世間から目されることになるのです。

「大東亜戦争に入った頃、私は新宿の一番大きい書店の、飾窓や、書物販売台が、内容は個々だが、棟方画伯の装釘本ばかりで埋められているのを見て、驚嘆したことがあった。前代未聞、後世にも想像できない壮観だった。」※

 『棟方志功全集』第一巻序文※に寄せられた保田與重郎のこの一文には、文壇の一時代を象徴する感慨を感じざるを得ません。

 既製の棟方像において語られることのなかった、かうした戦前文学者との渝らぬ交流が、平成の現在になってやうやく、御令孫にして女性ならではの眼によって拘りなく語られるのを読みながら、私は胸のすく思ひがし、時代の変化を実感することができました。そして戦後二度目の雄飛により「世界のムナカタ」に跳躍してゆく過程で、周辺で何がおき整理されていったのか、画伯をサポートする新しい人脈の出現とスタイルの確立との関係についても分かるように綴られてをり、得心したことでした。

 画伯自身は、周りが種々の雑音をスポイルせねばならなかったであらう多忙な創作生活にあっても、師友との交流だけは大切にし、保田與重郎との友情についても生涯憚ることはありませんでした。それだけに『保田與重郎全集』45冊の装釘が当然あるべき姿にならなかったことは、当時私も驚いたところで、後日談に分のある著者にして感想をお聞きしたかったところです。
 とまれ戦後、画伯はその板画が世界に認められることにより、当時の仕事に対する仕事以上の想ひ入れの有無についてことさら問はれることもなく済んだのであります。多くの文学者がさうしたやうに、そこで戦前の柵(しがらみ)と縁を切ってもよかった筈。しかしさうはならなかった。両者の思ひ余さず語られた言葉を引いて著者は最後に

「棟方の「芸業」はすべて「想ひ」から生まれたものと保田は説く。長い親交を通じて、棟方の「想ひ」の真の理解者が保田與重郎であった」

と締め括ってをられます。

 拙サイトに偏した紹介とはなりましたが、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。



『言霊の人 棟方志功』 石井頼子著 平成27年12月里文出版刊 18.8cm 342p並製カバー  2300円

目次

その一 棟方 志功
その二 「修証義」
その三 「善知鳥:うとう」
その四 福士 幸次郎1
その五 福士 幸次郎2
その六 川上 澄生
その七 宮澤 賢治、
その八 佐藤 一英、
その九 蔵原 伸二郎、
その十 會津 八一、料治 熊太
その十一 保田 與重郎1
その十二 保田 與重郎2
その十三 保田 與重郎3
その十四 河井 寛次郎1
その十五 河井 寛次郎2
その十六 大原 総一郎
その十七 前田 普羅、石崎 俊彦1
その十八 前田 普羅、石崎 俊彦2
その十九 永田 耕衣
その二十 山川 弘至、山川 京子
その二十一 石田 波郷1
その二十二 石田 波郷2
その二十三 原 石鼎1
その二十四 原 石鼎2
その二十五 岡本 かの子
その二十六 吉井 勇
その二十七 谷崎 潤一郎1
その二十八 谷崎 潤一郎2
その二十九 谷崎 潤一郎3
その三十 中村 海六郎
その三十一 「瞞着川:だましがわ」
その三十二 柳 宗悦
その三十三 ウォルト・ホイットマン
その三十四 小林 正一
その三十五 松尾 芭蕉
その三十六 草野 心平
その三十七 棟方 志功

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744中嶋康博:2016/01/16(土) 20:14:27
『福士幸次郎展 図録』 ほか
青森県近代文学館の資料調査員、一戸晃様より、詩人阿部幾男が紹介された『玲』別冊号、ならびに弘前市立郷土文学館の「福士幸次郎展」図録の御寄贈に与りました。茲にても御礼を申し上げます。ありがたうございました。


○探珠『玲』別冊『暮小路晩爵(阿部幾男)』

晃氏のもとには、祖父の一戸謙三が遺した原稿や来翰など、郷土の近代文学史を証言する貴重な原資料が多数管理されてをり、遺族ならではの視点から編まれた個人研究誌『玲』が現在すでに158号を数へてゐます。
資料の紹介は詩人だった祖父にとどまらずその交友関係にもひろげられてゐますが、これは(かつて坂口昌明氏が指摘されてゐましたが)初期の詩業を整理淘汰した感のある一戸謙三においては、交友を跡付ける資料から若き日の活躍ぶりが明らかになることも多いことから、広義の顕彰活動ともいへるでしょう。このたびは別冊扱ひとなってゐますが、阿部幾男といふ詩人についても、一戸謙三には絶筆と思しき葉書を送ってゐる親密な間柄であったことが知られます。青森市長だった親を持ち、放蕩詩人として宿痾やスキャンダルといった、斯様な素性につきものの逸話がたくさん報告・紹介されてゐますが、手紙や作品のなかにみられる、

「毎日吸入器のゆげばかりたべて生きてゐます。」
「只呆然と貝殻のやうに風を聴き、小川の鮒のやうに空気を呼吸し、みずたまりのやうに目は物の姿を映してゐます」
「その時私はどいふわけか、いつか夏の涼しい縁側で水色の羽織紐を噛んだときのことを思出した。(中略)どんな味がするって?おいしいことはありませんね。」

といった言葉に対する鋭い感性には紛ふ事なき詩人ぶりが感じられ、アンソロジーを旨とした「パストラル詩社」時代に、個人詩集をもつに至らなかった不幸を思ったことでした。

 「四季の目録」  阿部幾男

 春は床の水仙
 夏は岩のしめり
 秋は俥の雨
 冬は煙突のけむり

(平成28年1月 一戸晃発行 A4コピー誌24p)



○『福士幸次郎展 図録』

先達て紹介した『言霊の人 棟方志功』のなかでも、鍛冶屋の息子であった棟方志功が「鍛冶屋のポカンさん」といふ詩を書いた福士幸次郎を訪ねる条りが書かれてゐましたが、大正時代の東北地方の、詩にかぎらぬ文化活動を語る人たちの口に上る「福士幸次郎」といふ要人の名が、今以上に偉大なものとして認知されてゐたことについて、今日の公的文学館が展覧会を開き、解説を試みた意義は大きいと思ひます。

当地との関りでは、福田夕咲(飛騨高山出身)が口語詩揺籃期の盟友として、また放浪時代の一時期を過ごした名古屋との縁もあってか、金子光晴を詩壇にデビューさせた恩人として、佐藤一英とはおなじく音韻詩を模索した先輩詩人として、浅からぬ縁があります。棟方志功が雄飛するきっかけとなったのは佐藤一英の詩「大和し美し」でしたが、彼らの媒をなしたのも福士幸次郎でありました。さうなると一戸謙三をはじめとする門下生の集まる「パストラル詩社」と、福士幸次郎を講演に招いたこともある「東海詩人協会」との接触もあったかもしれません。

一方で当時、盟友からも後発の詩人達からもその詩人的奇行と見識によって尊敬を贏ち得てゐた様子だった彼が、その後およそ国柄とは本質的にそぐはぬ「ファシズム」の名を冠した団体を立ち上げ、晩節を汚したまま亡くなってしまったことにも思ひは及びました。
一家言の理論家肌がわざわひしたものか、提唱した地方主義運動によってかきたてられた郷土愛・祖国愛が、後年創始した日本古代文化史論においても「尾張は日本のメソポタミヤであり、木曽長良の両川はチグリス、ユウフラテスにあたる」といった創見にとどまらず、図らずも彼をファシズムへと迷はせる讖となった可能性はあります。
ほかにも拘泥した理論に音韻詩がありましたが、詩壇を動かすには至らず(これは聯詩を追及した佐藤一英も同じでしたが)、敗戦まもなく急逝してしまったため戦後史観によって黙殺された結果、近代詩を語る際に逸することのできない業績を遺しながら、徒らに名高い不思議なキーパーソンとしての「福士幸次郎」が取り残されてあるやうな気がしてなりません。

しかしながら、この図録に紹介されてゐますが、無名時代を損得抜きで世話になった金子光晴やサトウハチローのやうな破格の人物から生涯敬慕され続けたといふ事実、そして当時の詩壇の盟友達が彼の逸話集なら何ページでも書けると受け合ったといふ話、これらから結ばれる人物像に、およそ「ファシズム」の名も理念もそぐはないこともまた確かでありましょう。大正時代に開花した口語詩を代表する萩原朔太郎、その彼が寄せた一文が、詩人福士幸次郎の本来の面目と地位を裏書きするやうな証言として掲げられてゐるのを読んで、私自身の認識もあらためられた気がしました。

図録には、館蔵資料のほか一戸謙三の許に遺された原資料も多数掲載され、書影・書翰・原稿、そして萩原朔太郎と室生犀星が一緒に写ってゐる珍しいスナップや、金子光晴の『赤土の家』出版記念会など、全国各所の文学館所蔵の写真の数々にも瞠目しました。概してどれも小さく、もっと拡大して掲載して欲しかったところです。

大正詩に詳しい者ではありませんが、以下に目次を掲げて概略を報知・紹介させて頂きます。


『福士幸次郎展 図録』目次

詩篇紹介 「錘」ほか15編

資料紹介
書・色紙・短冊・草稿・書簡・書籍・雑誌

福士幸次郎の生涯
 1弘前に生まれて文学青年となるまで
 2自由詩社に入り、詩を発表
 3第一詩集『太陽の子』 口語自由詩の先駆
 4詩集『展望』とパストラル詩社
 5地方主義運動(1) 地方文化社の設立
 6地方主義運動(2) 地方主義の行動宣言
 7「日本音数律論」 詩のリズム研究
 8『原日本考』 古代の研究
 9館山北条海岸で没す 弘前市に文学詩碑

福士幸次郎を取り巻く詩人たち 竹森茂裕
佐藤紅緑・ハチロー・愛子に愛された福士幸次郎

福士幸次郎自伝
福士幸次郎君について 萩原朔太郎
弟の思ひ出 福士民蔵

福士幸次郎書簡
福士幸次郎年譜

(平成28年1月12日 弘前市立郷土文学館発行 29.6cm 40p)

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745中嶋康博:2016/04/11(月) 16:30:14
はぐれたる春の日に。
ひさしぶりに【四季派の外縁を散歩する】第21回 東北の抒情詩人一戸謙三 を更新しました。
このたびはまた御ひとかた、 抒情の血脈を同じくする先達の「素顔」に接し得てよろこんでをります。



さて、教へていただくまで気が付きませんでしたが、完全テキスト主義で、かなりマイナーな詩人までフォローした奇特な戦前詩人のデータベース「名詩の林」ホームページが、今年になって(?)あとかたもなくなってゐました。自分のホームページの未来をみる思ひで慄然としてゐます。

けだし自分も四捨五入すれば60になってゐたといふ始末。
現在自分にふりかかってきている運命に理由をもとめることはやめにしないといけないな、とも思ふやうになりました。
仕事のこと、家族のこと、後がありませんが、一日一日を大切に暮らしてゆく所存にて、今後ともよろしくお願ひを申し上げます。



【寄贈御礼】
ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

『詩集 修羅の歌声 (飯島研一様)』
『相逢の人と文学』 (千葉貢様)』
『北方人第23号 (池内規行様)』
『桃の会だより24号 (鷲野和弘様)』
『菱193号 (手皮小四郎様)』
『gui107号 (奥成繁様)』
『遊民13号 (大牧冨士夫様)』
『調査報告 菊池仁康訳『プーシュキン全集』とボン書店 (一戸晃様)』


【御紹介御礼】
現代詩のアーカイブ 「Crossroad of word」にて、拙詩がChronologyの末席へ掲載に与り、感謝と恐縮の至りです。

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746中嶋康博:2016/05/13(金) 16:56:38
限定15部の詩集
奥付を見ると昭和14年1月に印刷を終へたのち内藤政勝の許に預けられたもののやうで、
完成するまでの一年近く、著者は(おそらく学生であったのでしょうか)本郷の弥生アパートの一室にあって、
自分の初となる詩集の豪華な出来上がりを心待ちにしたことに相違ありません。

著者の江泉正作はこののち、詩人ではなく俳人に転身。
昭和16年の滝春一の句集『手毬唄』を同じく内藤政勝が造ってゐるのですが、おそらくこの詩集制作が機縁となってのことでしょう。
江泉は瀧春一が主宰する『暖流』(『馬酔木』の衛星雑誌)の編集実務をつかさどり、戦後も師を支へたと聞きます。
一方の内藤政勝はといへば、これは個性的な造本家として著名ですね、
すなはち後に数々の稀覯本詩集も手掛ける「青園荘」の主人であります。



長らく詩集を集めてきましたが、限定15部なんて本を手にするのは初めてです。
稀覯性に鑑み内容を公開しました。
奇抜な意匠はみられませんが、結構大きく、堅牢な造りであり、
内藤政勝の仕事においても最初期の一冊に数へられるものではないでしょうか。
詳細を御存じの方には情報をお待ちしてをります。

http://cogito.jp.net/library/0e/ezumi.html

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747中嶋康博:2016/05/14(土) 21:40:48
『田中克己日記』 昭和29年
『田中克己日記』昭和29年upしました。

保田與重郎との関係について、少しだけつっこんで解説を書いてみました。

http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1954.html

748中嶋康博:2016/06/08(水) 07:14:57
「保田與重郎ノート3」 紹介
 金沢の米村元紀様より2年半ぶりの発表となる「保田與重郎ノート3「當麻曼荼羅芸術とその不安の問題」をめぐって」を収めた『イミタチオ』57号(2016.5金沢近代文芸研究会)の御寄贈に与りました。

 このたびも保田與重郎の初期評論が対象に据ゑられてゐるのですが、前回論考において呈された「渡辺和靖氏の保田與重郎批判」に対する再批判が、より徹底的に展開され、保田與重郎をその文学的出発時にさかのぼり、文人としての姿勢に宿す本質において批判と総括を試みた渡辺氏の考察が完全に覆され、のみならず、逆に当の批判者本人の批評家としてのスタンスが問はれる恰好ともなった模様です。

 保田與重郎研究書の真打ちの如き、時期と・分量と・装釘でもって2004年に現れた渡辺氏の研究書『保田與重郎研究』(ぺりかん社刊)でしたが、保田本人と直接親交のあった信奉者と、彼らを敵視した左翼マスコミ系イデオローグ達とが、共に評論の舞台から退場した今日、残されたテキストから問題点の整理をし直した、といふ執筆の姿勢が新鮮にも映ったのは事実です。保田與重郎の独特に韜晦する文意を、周辺文献への博捜によって、外壕を埋めるやうに実証的に質し、解きほぐし得たかにみえた考察でしたが、このたびは同じく実証的スタンスを重んじた米村氏による更なる精査によって、渡辺氏の読解の「拙速さ」が指摘され、否、それは果たして「拙速」であったのか、そもそも渡辺氏の執筆動機には、保田與重郎が今日読まれる意義に対して引導を渡さんがための「歪曲」の意図があったのではと、あからさまに筆には上さないまでも疑念さへ呈されてゐるやうに、私には感じられました。

さきの論文では、保田與重郎の文学者としての倫理を問うた「剽窃疑惑」に対し「待った」がかけられましたが、今回はデビュー当時の評論手法に対して渡辺氏が行った批判への反証が徹底的に述べられてゐます。保田與重郎の当時の文章から「視覚的明証性(みればわかる)」を重んずる高踏的な芸術家態度を指摘する一方で、「古典には主観の介入する余地はない」といふ矛盾したもう一つの態度を導き出し、自家撞著を指弾した渡辺氏ですが、「保田のやり方は、口では考証の排除を言いながら実は暗黙裡に時代考証を前提としている。63p」とも語り、批判の手をゆるめません。これに対し米村氏は

 そもそも芸術作品に「知識や思想」を読み取ることを避けるのは「実証的な検討」を否定していることになるのであろうか。(63p) 保田は「芸術史家の途方もない科学的批評」の「観念形態」そのものが歴史的産物であることを暴露しているだけなのである。(64p)
 保田は古典作品に対して「主観の介入する余地はない」などと言ってはいない。それどころか古典作品の享受とは「芸術のレアール」、つまり「切々と心うつ何ものか」を感受することだと主張していた。(65p)「歴史的実証性」に背を向けて古典論を展開しているのではない(67p)[し、]「芸術のレアール」の享受のために科学的実証を否定するわけで[も]ない。「知識や思想」を当て嵌めて批評とする態度を批判しているだけ(68p)[であり、また、]保田は「芸術のレアール」の感受だけを批評だと言っているわけで[も]ないのである。(69p)

 と、それぞれの箇所で保田與重郎自身の文章を引きながら至極まっとうな論駁によって切って捨て、再考が促されてゐます。そして続いて、

では、近代芸術の概念に基づく芸術史を否定するのであれば、保田はどのような歴史を想定するのであろうか。(中略)それに代替するものとして精神史なるものを措定する。(67p)

 と、その後昭和10年代に突入して後の展望の方向が示されてゐます。けだし渡辺氏の「拙速」が本当に「歪曲」ならば、目論見はこの時代を批判したいが余りに、しかしイデオロギーによる悪罵の無効をさとり、土台を崩しにいって失敗したといふことでありましょうから、今度は米村氏の手になる引き続いての論考も待たれるところです。

 前半には哲学者三木清を向ふに回した当時の評論も考察対象に挙げられ、学術用語に詳しくない門外漢の私には就いてゆき辛い個所もあったのですが、論理的なミスリードを突いて白黒決着をつける部分については分かりやすく、最後は心の通った眼目によって論文が締めくくられてゐることにたいへん好感を感じました。

 とまれ雑誌一冊の大半を占める内容には瞠目です。日本浪曼派を論ずる研究書を読まなくなって久しく、斯様な論文に首をつっこんで紹介するなど烏滸がましい限りですが、渡辺氏の労作『保田與重郎研究』も今後は米村論文を念頭に置いて読まれなくてはならぬものになってしまったことだけは云っておきたく、ここに紹介させていただきました。
 同号には、四季派詩人としては珍しく田中冬二を主題に据ゑた、抒情の感傷性・モダニズム・全体主義を、異次元世界構築に向けて発動する想像力の問題として捉へた、西田谷洋氏の力作論考も併載されてゐます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。



『イミタチオ』57号 (2016.5金沢近代文芸研究会)  目次

小説 「想いのとどく日」くどう文緒……2p
評論 「田中冬二 詩のセンチメンタル・モダニズム」西田谷 洋……8p

評論 「保田與重郎ノート3「當麻曼荼羅芸術とその不安の問題」をめぐって」米村元紀……24p

 第一章 「生の意識」と新しいロマンの探求
  1.『戴冠詩人の御一人者』と「當麻曼荼羅」
  2.「剽窃」としての「當麻曼荼羅」
  3.論争の説としての「當麻曼荼羅」
  4. 「生の意識」と三木清との確執
  5.既成文学批判と新しいロマンの探求
  6.三木清の二元論への苛立ち
  7.「パトス」論と三木清の影響
  8.不安の時代と芸術論
  9.保田與重郎と小林秀雄

 第二章 「當麻曼荼羅」と不安の芸術
  1. 不安の芸術と芸術のレアール
  2.「不安の時代に於ける芸術」、「芸術の示す不安」、そして「芸術のあらわす不安」
  3.「芸術のレアール」とは何か
  4.「知識や思想」を排除する批評
  5.「科学的美学の公式」と「知識や思想」
  6.印象批評と「科学的」批評

評論 「五木寛之(金沢物)の傑作「金沢あかり坂」 森英一……76
評論「カンガルー日和」について 改稿から見えてくること 宮嶌公夫……90
北陸の本……98

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749中嶋康博:2016/07/12(火) 23:18:24
『田中克己日記』 昭和30年
『田中克己日記』昭和30年upしました。

歌集『戦後吟』が刊行され、いよいよ小高根二郎氏とあたらしい雑誌を創刊する計画が。

http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1955.html

750中嶋康博:2016/07/27(水) 13:14:14
「 モダニズムと民謡について」
さきに季刊『びーぐる』第31号 <特集>土地の詩学?に書かせていただいた拙文ですが、バックナンバーとなりましたので掲げさせていただきます。


 モダニズムと民謡について          中嶋康博

 詩のなかに土地があらはれると、その土地が作者の詩人たる存在にどんな意味をもってゐるのか関心をもちます。それが詩人の生まれ故郷だった場合、慕はしき場所なのか呪はしき場所なのか。中原中也や萩原朔太郎を持ちだすまでもなく、ふる里はしばしば文学者の性格を決定づけます。そして宮澤賢治はその典型ですが、作者のロマンチシズムによってしばしば変容されるものです。
出身地でなく他郷の場合であっても事情は同じで、理想郷に描かれたり、逆に疎外感にさいなまれて居れば、やはり大きな刻印を詩人に残すのです。信州は都会人である立原道造ら「四季派」の詩人たちによって、彼らの詩的故郷に仰がれましたし、多くの上京詩人たちにとって、都会生活のなかで味はった孤独と不遇とが、故郷への思慕となって彼らのもとに返ってくることを幾多の望郷詩が傍証してゐます。近代文化史的な疎外感、思ひ描かれた故郷が日本の原風景であるやうな、文明開化に対する象徴的な反省として「日本浪曼派」も現れたのだといってよいかもしれません。

 ながらく近代の口語詩を渉猟してきた私ですが、おもしろいと思ったことがあります。それは如上の、詩人らしい故郷との関係のことではなく、都会生活に軋轢を感じるどころか、文明志向がさらに彼らを駆ってゐるやうなモダニズムの詩人たち、ことに東京近傍の中途半端な文化圏から上京したためか、それが一層顕著に感じられる名古屋・中京地区出身の詩人たちのことでした。同じく東海地方に生を享けた自分だから感じるのかもしれません。
 近代物質主義の申し子である彼らにとって、土地はアイテム同様にハイカラなスタイルを纏ふべきものとして詩の中に登場します。先頃刊行された『白昼のスカイスクレエパア 北園克衛モダン小説集』でも感じたことですが、昭和初期に詩壇を席巻したレスプリヌーボー、春山行夫が御膳立てをしたモダニズム詩の運動には、ディレッタンティズムと非政治性――つまり「ハイブロウな平俗性」ともいふべき心性を強く感じます。文学手法の革新が海外文芸の翻訳紹介に偏してゐることに飽き足らず、政治体制批判に目覚める人たちもありましたが、中京地区からの参加はなかったやうであります。おもしろいと云ったのは、その一方で、真反対な「ローブロウな平俗性」を象徴する「民謡詩」といふジャンルが、同じ中京地区の衛星都市である岐阜を拠点に詩壇として成立し、昭和初年の同時期に地方勢力を保ってゐた事実と、私の中でワンセットで思ひ起こされることです。

 土地を題材とする作品が現代詩としての価値を持つためには、詩人の自我がその地の風俗や自然を通して顕れてくることが大切だと思ってゐます。しかし音頭・長唄・小唄といった民謡詩には、公的に要請される校歌や翼賛詩と同様、制作意図に作者の切実な自己(生の意識)は必要とされません。自意識を卑俗的日常まで頽落させた大衆迎合の表現が、御当地詩人たちにとって如何なる制作モチベーションと結びついてゐたものか不思議に思ふのですが、岐阜県の民謡詩運動の場合、アンデパンダン結社であった『詩の家』の詩人岩間純が帰郷し、彼が興した詩誌『詩魔』を足がかりにして昭和初年代に大いに盛り上がったもののやうです。当時、詩と流行歌との二足の草鞋を履くやうになった『詩の家』主宰者である佐藤惣之助が、中央から物見遊山かたがた岐阜市に訪れて歓待される様子は、まるで江戸時代の漢詩人の宗匠をとりまく田舎サロンをみる思ひがします。それから一世紀近く隔てた現代から遠望すれば、歌はれた和風情緒はすでに私たちの生活から遠く、都市化された風景の変容も、資源を食ひ尽くしてなほ観光地の名をとどめる空しさの上に痛感されるところです。

 前述したモダニズムによって描かれた都市化された風景についていへば、そのさきの未来が、今日につながらぬ当時の最先端風景として創造的に懐古されるところに意義があり、今なほ新しい読者を勝ち得、北園克衛の新刊にも注目が集ってゐるのだといってよいでしょう。しかし民謡詩については残念ながら、それが寄りかかってゐる文化的な共通理解の前提をとり除けば何も残らなくなるやうなポエジーのあり方は、戦争翼賛詩と同列に考へられる事象なのかもしれません。ついでながらモダニズムから体制批判を志した詩誌『リアン』の同人たちもまた『詩の家』ファミリーでした。こちらは戦時中の弾圧によって解体、詩派としては継承されず今に至ってゐることを併せて書き添へておきたいと思ひます。

 翻ってグローバリズムが極まり、文化的な共通理解の前提が民主主義の価値観に一元化されるやうになった現代の日本で、詩人は土地をどう歌ひ、何を意味づけすることができるのでしょうか。「地球」を概念としてとらへる野放図さ、土地として向き合ふやうになったときのパースペクティブに私は耐へられず、戦前抒情詩が成立した“箱庭”を仮想し、そこで現代との折り合ひをつけながら詩を書いてゐたやうに思ひます。そして上京生活を切り上げて帰郷した後も、地域の伝統的な風土風俗を詩に詠みこむことに不毛を感じ、むしろ不毛そのものが歌はれる「イロニー」や「パロディ」としての土地の詩学に親しんできたやうに思ひます。過去の作品でいふなら小野十三郎によって描かれた一連の「大阪」や、中原中也の「桑名の駅」といふ詩。土地はこの先あのやうに歌はれ、それがまた新たな歌枕として平俗性をまとって日本文化に定着してゆくのかもしれません。すでに桑名駅には立派な詩碑が建ってゐるとか。斯様な詩碑が建てられる観光まちおこしの思想と経済力に、私はかつての民謡詩人たちが情熱を傾けた姿を重ね合はせ、ふたたび数十年後の行末を思っては(それをむなしいといってよいものか)現在に生きてゐる一種の感慨にとらはれます。


季刊『びーぐる』第31号 2016.4.20 発行:澪標(税込定価1,000円) 現在、最新号32号を発行。

751中嶋康博:2016/09/15(木) 22:11:37
『田中克己日記』 昭和31年
『田中克己日記』昭和31年upしました。

同人誌『果樹園』創刊と、戦後関西在住時代の詩集『悲歌』の刊行。
そして一区切りついた詩人の上京計画が始動します。

http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1956.html

752中嶋康博:2016/10/13(木) 00:25:16
『田中克己日記』 昭和32年
昭和32年『田中克己日記』解説共にupしました。
関西から詩筆を折る決意で上京、十年ぶりの東京で待ってゐたものは・・・。
http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1957.html

753中嶋康博:2016/11/24(木) 08:44:16
『感泣亭秋報 11』
詩人小山正孝の子息正見様より、今年も『感泣亭秋報 11』の御寄贈に与りました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

特集は“『四季』の若き詩人たち”。すなはち戦前の第2次『四季』の常連投稿者のなかで個人詩集を持つことがなかった当時の青年詩人たち、そしてその後の第4次『四季』――戦後詩史上、抒情詩の牙城を守る“真田丸”的存在となった、丸山薫の『四季』――に鳩合することをも得なかった詩人たちの中から、今回は村中測太郎(むらなかそくたろう)、木村宙平(きむらちゅうへい)、能美九末夫(のうみくすお)、日塔聰(にっとうさとし)の4名が選ばれ、それぞれ作品の紹介と解説とがなされ、不遇が弔はれてゐます。

限られたスペースで、紹介作品は『四季』掲載以外のものがあれば積極的に掲げ、プロフィールも複数の書誌を校合して加筆されてゐますが、執筆担当の“信天翁”氏は蓜島亘氏と思しく、自身が抱へる連載とは別に今回は特集全体のオーガナイズを任された趣きです。今後も主宰者正見氏の信を得て坂口昌明氏の亡きあとの『感泣亭秋報』を守り、坂口氏と同様、在野研究者ながら書誌的正確さと資料の博捜を以て、大学で禄を食む研究者からは、畏るべき目を持つ“候鳥”の存在が一目置かれてゆくことでしょう。
連載中の「小山正孝の周辺 その5」において傾けられる蘊蓄にも、氏らしい謹飭さが窺はれますが、戦後復刊した第3次『四季』とは詩的精神を同じくし、主に散文を扱った雑誌だった『高原』について、そこによった山室静や片山敏彦といった正に四季派周辺のことが触れられてゐます。そして彼等が傾倒したシュティフターをはじめとするドイツ語圏の詩的精神が、昭和初期の読書人におよぼしたブームの受容史について。特集にも呼応させるべく何人ものマイナーポエットの名が挙げられてをります。

また現在の四季派研究の先頭に立つ國中治氏からの寄稿を今号でも読めることが、戦前抒情詩の愛好者には嬉しい限りです。
「四季派詩人」の中で「詩集を持たぬ小惑星中の最大」ともいふべき能美九末夫の作品を『四季』誌上にたどり、一篇一篇考察を試みてゐるのですが、自身が詩人である鋭い直感から、このマイナーポエットが伊東静雄や中原中也に対して反対に影響を与へたかもしれない可能性を示唆してみせる条りなど、刺戟に富んだ内容となってゐます。

そして特集以外でも、小山正孝詩との正対を続けてゐる近藤晴彦・渡邊啓史両氏の連載論文が今回も充実してゐます。現代詩音痴の私が敬遠してゐる「戦後詩集における変転」に対し、継続して取り組んでをられるのですが、入る者を韜晦で迷はす、決して“小山”と侮れない山水のなかで試みられたアプローチの論点が、道筋をつけるべく多岐点々と道標のやうに提示されてゐます。

近藤晴彦氏は『未刊ソネット』の成立事情について、主体的抒情に耽ってゐた詩人が抒情を客観視し凝視できる視点をもつまでの過渡期的作品として、
「『雪つぶて』の谺を含みながら、大部分が『逃げ水』の定稿を定めるほぼ9年間に製作されたものではないか」
との推定を下してをられますが、膨大なこれら愛の詩篇たちの向ふには、無垢な四季派詩人で居ることがもはや出来なくなった小山正孝の「立原道造との暗闘」が、対象を愛人に、ソネットといふ形式をとりつつ息苦しく横たはってゐるやうな気分が、私にも感じられます。

一方、質量ともに瞠目すべきは、第六詩集『風毛と雨血』を紹介する渡邊啓史氏の論文「精神の振幅」でしょう。50代を迎へた初老の詩人が描く、理想郷とは呼べぬ心象世界が、実存の深みを指し示すと同時に、それとの距離のとりかたを摸索してゐるやうだと、翻訳を通じて関ってきた中国の古典との関係を挙げながら語られてゐるのですが、現実でも去りゆく「若さ」に対する嫉妬や屈辱があったのではとの指摘には、『唐代詩集』を共訳した田中克己の同時期の境遇を思ひやり、或ひは詩を書けなくなった同世代の自分自身の葛藤をも投影してみたことでした。
加へて渡邊氏には、今回の特集でも日塔聰の宗教観に触れてをられ、彼や、亡き配偶者の貞子や、同じく山形へ帰郷した加藤千晴にも宿ってゐるところの、早春の氷柱に雫するが如き“『四季』の若き詩人たち”に共通する内省する抒情に対して、共感をあらたにしました。

渡邊氏は蓜島氏とともに、この『感泣亭秋報』において懐刀と呼ぶべき、なくてはならぬ存在となってゐます。研究業績の点数かせぎとは無縁の雑誌であればこその御活躍を、今後も期待せずにはゐられません。

それから今号には、詩人小山正孝の最大の理解者でありながら、当の本人についてどんな方だったのか分からぬまま、その学際的博識を畏怖申し上げてゐた坂口昌明氏について、杜実夫人の回想が掲げられてゐます。
亡き詩人の人となりを、たとへば小山常子氏からのレクイエムと比するなら、やはりこの教養詩人にしてこの夫人ありとの印象を表現に感じました。鈴木亨氏など周辺にあった詩人の名も現れる、何回にも分けて聞きたいやうな濃い内容の文章には、
「坂口の詩は読むのに少々努力がいる。(中略)日常の経験を書いても彼の意識はいろいろな要素が相互に浸透しあい多様な変化で詩に象徴される」
とありましたが、これって全く盟友である小山正孝と同じではないかとも思ったことでした。

一方で教育者としての小山正孝のおもかげについて、
「先生のユニークなところは講義に出席さえすれば及第点をいただけるというところで、非常に人気がございました。開始から終了まで真剣勝負、学生は先生の豊富な文学に圧倒されたと聞いております」
とは、関東短期大学在職中の様子を伝へる高橋豊氏の一文。同じく女子大に勤め、畏れられ慕はれた田中克己の日記を現在翻刻中の私には興味深く、頬笑ましい消息にも思はれたことです。

この個人誌がすでに『四季派学会論集』をしのぐ学術研究誌の域にまで達してゐることについては、一詩人の顕彰にとどまらぬ、彼の生きた時代の「特異な人たちの群像(173p)」へと対象をひろげてゆかうとする主宰者正見氏の姿勢において、後記に語られてゐるとほりなのですが、ここ数年の内容を一覧するにあらためて瞠目を禁じ得ません。
全ての文章にコメントをする余裕がありませんが、つまらぬ紹介は措いて、前号を上回るページ数を毎度更新してゐる、この恐ろしい雑誌の目次を以下に掲げます。実際に手にとって頂く機会があれば幸ひです。


年刊雑誌『感泣亭秋報 11』 2016年11月13日 感泣亭アーカイヴズ発行 174p  定価\1,000  問合せ先HP:http://kankyutei.la.coocan.jp/

詩稿・・・・・・小山正孝 3p

【特集『四季』の若き詩人たち】

序にかえて・・・・・・信天翁 5p
「四季派」とは・・・・・・小山正孝 10p
〈村中測太郎詩抄〉12p
詩人・村中測太郎・・・・・・信天翁 15p
〈木村宙平詩抄〉18p
もう一人の九州詩人・木村宙平・・・・・・信天翁 22p
〈能美九末夫詩抄〉24p
能美九末夫と『四季』 たゆみない挑戦・・・・・・國中治 28p
能美九末夫の源流・・・・・・信天翁 41p
〈日塔聰詩抄〉44p
日塔聰 詩および詩人・・・・・・渡邊啓史 47p
詩人日塔聰にまつわることなど・・・・・・布川鴇 50p

盛岡の立原道造・・・・・・岡村民夫 58p
『四季』立原道造と小山正孝と村次郎・・・・・・深澤茂樹 73p

精神の振幅 詩集『風毛と雨血』のために・・・・・・渡邊啓史 77p
小山正孝の詩世界10『未刊ソネット史』・・・・・・近藤晴彦 117p

【詩】
 長い坂・・・・・・山崎剛太郎 126p
 「出てきて おくれ」亡き妻に・・・・・・比留間一成 128p
 手紙・・・・・・大坂宏子 130p
 風・・・・・・里中智沙 132p
 便り・・・・・・森永かず子 134p

【わたしの好きな小山正孝】
漂泊する詩人の魂・・・・・・岩淵真智子 137p
詩になった内部空間・・・・・・松木文子 139p

「浅は与に深を測るに足らず」・・・・・・坂口杜実 141p
常子抄・・・・・・絲りつ 153p
小山正孝先生の思い出とその当時の関東短期大学について・・・・・・高橋豊 155p
鑑賞旅行覚え書1 キネマの招き・・・・・・武田ミモザ 158p

小山正孝の周辺5 『高原』をめぐる詩人たち・・・・・・蓜島亘 160p

感泣亭アーカイヴズ便り・・・・・・小山正見 172p

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754中嶋康博:2016/11/26(土) 12:20:00
探珠『玲』
津軽の抒情詩人一戸謙三を顕彰する探珠『玲』といふ無綴のコピー雑誌があります。詩人の令孫、一戸晃様よりお送り頂いてゐるのですが、昨年に続き今年も、

別冊『戦時下の一詩人』
『調査報告 菊池仁康』、 『調査報告 木村助男』
『詩人一戸謙三の便り』その3、その4、その5
『詩人一戸謙三 青春歌』その1、その2

と発行が続き、詩人とその周辺、戦時期や出発期の消息についてが、数多くの資料とともに明らかにされました。
そしてこのたびは製本を施した刊行本『詩人一戸謙三の軌跡』が、物語仕立ての伝記として始まり、第1巻のご恵投に与りました。ここにても御礼を申し上げます。

ボン書店の社運を賭して刊行した『プーシュキン全集』。その訳者の菊池仁康とはどのやうな人物であったか。また、高木恭造と一戸玲太郎(謙三)の名声の陰に隠れているものの、津軽方言詩をあやつる木村助男といふ不遇のうちに夭折した詩人のあったこと。
東海地方に住んでゐる私には、一戸謙三以外のことについてもいつも知らないことばかりを、新出もしくは稀覯の資料とともに紹介してくださる晃氏ですが、いかんせん無綴のコピー紙のあつまりなので散逸が心配です。「資料のデジタル保存」作業も始められたとのことですが、別に在庫ありとのことでお送りいただいた『玲』百号記念号には、これまでの歩みが記されてをりました。
そのなかに『みちのくの詩学』を著した坂口昌明氏の、晃氏への遺言となってしまった「跋文」が認められてをり、ここに引き写します。

五年前に第一号を頂いてから、 ここで百号に達したという。一戸謙三の詩を研究する者にとって、今後よけては通れない最大の資料集成であることは、すでに間違いない。謙三先生直系の孫である一戸晃氏は、一九九七年秋、弘前市藤田記念庭園前の謙三詩碑除幕式で、膨大な草稿・資料が存在するむねを明らかにしていた。結局、自身が直接整理分類し、このような形で編纂するに至った裏には、既往の伝記や研究のたぐいにあき足りない思いが介在していたからではないかと推測される。

一戸謙三とその時代の文学背景は非常な厚みと混沌を内蔵しているのに対し、再検討する後進の素養と心構えが段ちがいに未熟だったのが主な原因である。そこで晃氏はまず自分の眼で、祖父の文学領域に起きたことを正確に知り、それを捉えなおして提示しようと志したのである。

謙三書斎の保管者としてだけでなく、氏の調査は周辺関係者への聞きとり、図書館文献資料の博捜にまで及んだ。その情熱と努力は半端ではない。詩人謙三の出発から生長、変貌までが、そのおかげでつぶさに辿れるようになったのは、もちろん最大の貢献であろう。ふり返って、謙三の詩が一九三二年末に、超現実主義から方言詩へと変っていった、その転換点を如実に示しているのを、私は知り得た。言葉が観念の重圧に硬化し、鬱からの脱山を足もとの現実=土に求めたと読みとれる。謙三には常に進境を求める存外性急な一面があったようで、それが前の作品を抹殺してしまう傾向につながった。したがって、その意味でも探珠「玲」のような、息の長い、地道な跡づけが必要になってくる。
「探珠」という語は、一九一四年にときの陸軍軍医総監森鴎外が、東北・北海道の軍医療施設を視察の途次、史伝「渋江抽斎」取材のため弘前の斎吉旅館に投宿した際、館主の求めに応じて揮毫した書「探珠九淵」から取られている。その軸を旅館の御曹子で謙三の盟友だった斎藤吉彦が東京遊学中も所持していたという由来にもとづく。吉彦は謙三より五歳若かったが、誕生日が同じ二月十日、慶応義塾の同門ということもあり、意気投合する仲になった。そこに「玲」を添えた、晃氏のネーミングの趣向があろう。

記憶に残り、恩恵を受けた記事のなかで印象に鮮明なのは、竹内長雄(たけのうちのぶお)と桜庭スエの「お岩木様一代記」に果した役割であり、また飯詰の方言詩人木村助男の生涯に当てられたスポットライトである。

百号の跋文をと言われたが、それは本来書物のために書かれるものであって、この場合のようなペーパー類に合うかどうかは分らない。視点にまとまりを欠き、叙述が枝葉に入りすぎるケースが散見される。文献の扱いや措辞に、基本的な条件を欠くうらみも、少なからず感じられる。NHKドラマや教養番組の影響なのかもしれないが、人間模様をドラマ仕立てで語らせてつないでゆく手法も、せっかくの実証性を割り引くことにしかなるまい。何を本当に描きたいのか、気が散りすぎていると思う。研究と小説とは違うのである。

情に篤い氏の性格は財産であるものの、それを生かすのも殺すのも、手きびしい文学の眼である。そういう意味では探珠「玲」は、まだレポートの域をこえていない。謙三は祖父としては満足だろうが、詩人としては苦笑するかも知れない。

これまでの晃氏の営為を過不足なくねぎらって、なほ「きびしい文学の目」をもって鞭撻の視線が注がれてゐました。

このたび刊行された『詩人一戸謙三の軌跡』を拝見するに、蓄積・整理した資料をそのまま提示することには、やはり慊い模様の晃氏ですが、なればそれらを駆使し、情に篤い氏の持ち前の語り口を活かした、坂口氏が希望したその上を往くやうな、御祖父の伝記をぜひとも書きあげて頂きたいものと念じてをります。

『詩人一戸謙三の軌跡 1』 平成28年11月3日 著者・編者・発行者 一戸晃 21cm 108p 非売品

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755中嶋康博:2016/12/27(火) 20:47:16
詩集『野のひかり』
年末にうれしい贈り物ふたつ。
ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございます。

ひとつはネット上で初めて読んだ未知の詩人の詩に感じ入り突然の御挨拶、返礼にいただいた小網恵子様の詩集『野のひかり』です。
造本感覚がゆきとどいた装釘は、刊行元である水仁舎の、著者の作品に寄せられた厚意の感じられる淒楚なもので、活字の効果的使用には羨望を覚えました。私の好きな版型だけでなく扉の配色にも特段の親近を覚えたことでした。
さうして詩集を繙き、ネットでは紹介されてゐなかった詩の数々にふれ、思ったとほりの自然に対するまなざしに、後半の散文詩には寓意風の詩想の妙に、共感と親しみを新たにしました。
一見素朴にみえる自然な描写にこめられた雕琢が、よくわかります。

「野」

あの人が喋ると
ねこじゃらしが揺れる
相槌をうちながら
風の方向を感じていた

食卓に座れば
いつもわたしに向かって風は流れる
風下に風下に
種は飛ばされて
わたしの後ろに
ねこじゃらしの野が広がる

あの人が一つ大きく息をついた
話したことをもう一度反鈍するように
黙して
落とした肩の向こうで何か揺れた


『Crossroad of word』ホームページでいち早くこの詩集の紹介をされた管理人様の炯眼にもあらためて感心しました。
現代詩はみな、理に落ちぬ遠心的な措辞で煙に巻くことを性分にしてゐるものですが、「野」「五月」「ぐるり」など、言葉が作者の心情に回収され、抒情の表情として目を伏せたやうな心の持ちやうが、何とも言へない魅力になってゐます。 みなさんも手にとることのできる機会がありましたら是非。

年末に「この世界の片隅に」といふ素晴らしい映画に出会ひ、心が温まったところ、日ごろの憂さがしばし解きほぐされたやうな心地いたしました。

そしてもひとつ嬉しいいただき物は、石井頼子様からの新学社のカレンダー。
来年も「無事」に過ごせますことを切に祈りをります。
今年は色褪せですが、拙宅の廊下にも保田與重郎「羽丹生の柵」の複製を飾ることができました。

ついでに今年の収穫(いただきもの含む)を掲げて締め括りとします。
額は定めてはゐないですが本年の「図書費」は結果的にその半分を地元漢詩人の詩稿(オークション)に費やして終了。

白鳥郁郎詩集『しりうす』(田中克己校正)
まつもとかずや評論集『するり』(下町風俗資料館元館長)
宮田嘯臺 書幅
『山川京子歌集』 桃の会版
加藤千晴詩集『宣告』(然るべき先へ寄贈したら、奇蹟的に再び入手できました)
冨岡一成『江戸前魚食大全』 (下町風俗資料館元同僚)
戸田葆堂自筆日記『芸囱日彔』うんそうにちろく (来春4月お披露目予定)
河合東皐、木村寛齋 詩草稿
『果樹園』欠号さまざま
江泉正作詩集『花枳穀』限定15部
『自撰 一戸謙三詩集』
北園克衛小説集 『白昼のスカイスクレエパア』加藤仁編
詩誌『咱芙藍:サフラン』(福井県武生)大正15年


さて誰からの催促も反応もないライフワーク「田中克己戦後日記」ですが、
これまでは内容をそのまま載せることを原則としてをりましたが、東京時代に入り、親戚等のプライバシー情報は不要に感じられてきたので、
すでに翻刻と解説が終了してゐる昭和33年は、昭和34年を翻刻して様子をみながら、編集を施しゆるゆるupして参ります。よろしくお願ひを申上げます。


よいお年をおむかへください。

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756中嶋康博:2017/01/03(火) 20:05:27
謹賀新年
あけましておめでたうございます。

酉年ださうですが、今年は明治時代の大垣の漢詩雑誌『鷃笑新誌』の編集長であった戸田葆逸(1851 嘉永4年〜1908 明治41年)の自筆日記を入手したので、その翻刻と紹介を試みたいと思ってゐます。

「鷃笑(あんしょう)」とは荘子の故事で、鵬(おおとり)の気概など感知しない斥鷃(せきあん)といふ小鳥が嗤笑するとの謂であり、雑誌のタイトルが示すところは、葆逸の祖父、大垣藩家老だった小原鉄心の鴻図を仰ぎ、同時に、また彼が身上としてゐた低徊趣味に倣って、旧詩社の名を継いで新しい雑誌の名に掲げた、といふことでしょうか。
毎号、同人の作品の他、小野湖山や岡本黄石など幕末を生き残った著名詩人からの寄稿も受け、十丁ほどの小冊ながら、一地方都市からよくも斯様な雑誌が毎月欠かさず発行されたものと感嘆します。こちらの雑誌も稀覯ながら1〜11巻までの合冊を幸運にも入手してゐました。或ひはそのことがあったので、編集長の日記を天が差配して私に入手させたのかもしれません。

さてこの日記が書き継がれた明治14年3月24日から15年12月18日までといふ期間が、恰度この『鷃笑新誌』の創刊(14年9月)を挟んでゐて、読んでゆくと単なる覚書ではなく、地方の漢詩サロンの中心にゐた彼をめぐって、同好の士との交歓の様子がつぶさに、ありのままに記録されてゐることがわかるのです。
なかでも興味深かったのは、明治の初期に「雑誌」を印刷するために使用した活版機械や活字について記されてゐること。そして当時の漢詩壇において賓客として遇せられてゐた中国人、つまり鎖国が解かれた日本に清国からはるばるやってきた「本場の漢詩人」との交流が詳しく写し取られてゐることでした。

日記にさきがけて、雑誌『鷃笑新誌』の方はすでに公開してゐます。このたび目次を付しました。また日記も翻刻発表と同時に原冊の画像を公開しますので(3月予定)、研究者には自由に活用していただきたく、御教示をまって補遺・訂正に備へたいと考へてをります。しばらくおまちください。

今年もよろしくお願ひを申し上げます。

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757中嶋康博:2017/02/05(日) 16:55:32
『コギト』79号「松下武雄追悼号」
旧制大阪高等学校関係者の御遺族より、『コギト』のバックナンバー47冊の御寄贈に与りました。
ついては頂いた雑誌をまじへて『コギト』総目録の書影を更新しましたのでお知らせします。毎年表紙のデザインは変ってゐますが、昭和19年、雑誌統合に抗してたった8pで出し続けた最後期の「甲申版」には表紙がなく、後継誌『果樹園』の装釘がこれをなぞってゐることがわかります。

また『コギト』の『コギト』らしさ、旧制高校の友情が芬々と感じられる一冊といへる79号「松下武雄追悼号」を画像にてupしましたので合せてご覧ください。
恩師・学友が居ならぶ、当時の“共同の営為”を一覧するやうな目次ですが、なかに立原道造が客人として上席に、伊東静雄は年長の同人ですが此度は親友等より後方に遇せられてゐる配置が興味深いです。

毎日のアクセスが10件に満たぬやうなサイトを、いったいどなたが御覧になって下さってゐるのか、いつも心許ない気持で更新をつづけてゐますが、開設者冥利に尽きるこのたびの御厚情に対し、ここにても篤く御礼を申し上げます。

ありがたうございました。

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758中嶋康博:2017/02/06(月) 10:51:11
『日本近代詩の成立』
市立図書館の新刊コーナーに、職場の大学院にも出講される亀井俊介先生の『日本近代詩の成立』(南雲堂 2016)をみつけました。アメリカ文学とその受容史に取り組んでこられた比較文学界の泰斗にして、このたびは日本の明治大正詩人を縦横に解釈されてゐます。近代詩に縁の深いフランス詩のみならず、漢詩にまで踏み込まれた内容に興味津津、早速借り出してきました。

600頁にものぼる内容の約半分が、80歳以降に脱稿された書き下ろしであることに先ず驚かされ、当ホームページの興味を惹く章から繙き、残りは半ば勉強のつもりで読んでゆきましたが、七五調の文語詩に疎い上、翻訳の機微に触れる考察等にも歯が立たず、果たして他の部分も理解できたかどうか怪しいところ。ですが目をつむって拙い紹介を試みてみます。

『日本近代詩の成立』といふ、たいへん大きなテーマのもとに各章が配置されてゐますが、浩瀚な分量かつ広範なジャンルにわたる文章は、執筆時期も半世紀にわたる著者のライフワーク集成であります。
序章に述べられてゐるやうに、そもそも岐阜県は東濃の田舎町から詩人を志されたといふ先生、若き日には日夏耿之介の大著『明治大正詩史』を読み、多大な感化を蒙られたと云ひます。そして学識と主観とを前面に打ち出した、あの佶屈聱牙な「入念芸術派」の論旨に対して信頼と敬意とを払ふ一方、切り捨てられた詩人たちについてはやはり納得ゆかない気持を持ち続けてこられたとのこと。ならば自らは「入念芸術派」でなく「シンプル自然派」の感性を以て、その補完を試みてみたいと謙遜の辞を述べ、過去に書かれた論文を集めて時代ごとに配し、足りない部分は書き下ろして、ここにやうやく完結をみた本であるといふことです。

なるほど島田謹二を介して日夏耿之介とは専門を同じくする孫弟子にあたる亀井先生ですが、『明治大正詩史』を「補完」するといふ趣旨に極めて忠実、忠実すぎるといふべきか、かの大冊において詳述されてゐる「浪曼運動」から「象徴詩潮」の条り、近代詩の立役者といふべき薄田泣菫・蒲原有明、北原白秋・三木露風、そしてトップスターの萩原朔太郎さへもすっぽり省略されてゐる目次を、まずはご覧ください。

『日本近代詩の成立』亀井俊介著 2016.11南雲堂刊行  B6版574p ¥ 4,860

序 章 日本近代詩の展開 書き下ろし(平成27年2月脱稿)

第1章 『新体詩抄』の意義 書き下ろし(平成27年12月脱稿)

第2章 草創期の近代詩歌と「自由」 (昭和51年2月『文学』岩波書店)

第3章 『於母影』の活動 書き下ろし(平成25年11月脱稿)

第4章 北村透谷の詩業 (昭和50年4月『現代詩手帖』思潮社)

第5章 近代の漢詩人、中野逍遥を読む (平成25年10月『こころ』平凡社)

第6章 『若菜集』の浪漫主義 (昭和32年2月『比較文学研究』東大比較文学會)

第7章 内村鑑三訳詩集『愛吟』 (昭和57年1月『文学』岩波書店)

第8章 正岡子規の詩歌革新 書き下ろし(平成25年7月脱稿)

第9章 ヨネ・ノグチの英詩 (昭和48年10月『講座比較文学5』東京大学出版会)

第10章 「あやめ会」の詩人たち (昭和40年8月『英語青年』研究社)

第11章 『海潮音』の「清新」の風 書き下ろし(平成26年5月脱稿)

第12章 『珊瑚集』の官能と憂愁 (平成15年3月『知の新世界』南雲堂)

第13章 「異端」詩人岩野泡鳴 (昭和48年7月『講座比較文学2』東京大学出版会)

第14章 昭和の小ホイットマンたち (昭和44年11月『東洋の詩・西洋の詩』朝日出版社)

第15章 『月下の一群』の世界 書き下ろし(平成26年7月脱稿)

第16章 安西冬衛の「春」 (昭和52年11月『文章の解釈』東京大学出版会)

参考文献 初出一覧 あとがき

もちろん近代詩の歴史は、謂はば西欧詩摂取の歴史でもありますから、著者の専門とする「訳詩」の考察には重きが置かれてゐます。『於母影(明治22年)』、『海潮音(明治38年)』、『珊瑚集(大正2年)』、『月下の一群(大正14年)』とエポックメイキングな訳詩集の4冊が、詩壇へ及ぼした影響もふくめ、詳しく論じられてをりますが、しかし何といっても気になるのは、その影響下に名を連ねるべき明治大正詩人の重鎮たちが、批判対象としても俎上に上ってゐないことではないでしょうか。
一方それとは反対に、北村透谷や内村鑑三、野口米次郎、岩野泡鳴といった、明治以降日本に持ち込まれた“自由”の問題と何らかの意味で格闘して、敗れた感じのある人々ばかりが論はれてゐます。
(先生と同郷の島崎藤村が芸術派で唯一、章を立てられてゐますが昭和32年の旧稿。また変ったところでは、漢詩ゆゑ一般には敬遠されてゐる中野逍遥にも一章を割き、畑違ひにも拘らず、日夏耿之介も認めた「新体詩以上の詩的エフェクト」が論じられてゐます。)

そして読みつつ気づいていったのは、『明治大正詩史』から発せられた無視や批判を「まったく逆転させてはじめて正鵠を射る(435p)」やうな、「品位なるものに支配されない」表現力にあふれた詩集を中心に拾ひあげてゐることであり、「日本近代詩史は、一般に主流的考え方を正統としてうけいれてしまっているので、こういう詩集を無視してきたが、これを検討し直し、再評価することは、近代詩史そのものの内容をどんなにか豊かにすることになるのではなかろうか。(263p)」と、全体を通して各所に説かれてゐる点でありました。ことにも、

「詩人の骨法を持ってゐるやうではなく、その散文も無骨で滋味を欠いてゐるやうであったが、その点が却って我々の心に食ひ入る」(230p)
「これは失敗訳であろう。ただその失敗によって、内村鑑三の思考の在り方は鮮明になっている。」(247p)
「結果だけとらえて批判することは、何の役にも立たぬ。」(418p)
「非「詩的」な表現(=あけすけな「自己」の告白427p)のほうになんと胸に迫るものがあることか。」(425p)
「やがて日本近代史の背骨となるべき現実主義的精神と詩法をもっともよくつかみ、もっとも大胆に実行してゐた詩人」(433p)

と、内村鑑三の訳詩集『愛吟(明治30年)』、岩野泡鳴の口語詩集『恋のしやりかうべ(大正4年)』に対しては、惜しみない言辞が贈られてゐます。

つまりは日本の“近代詩の詩史”における“詩”が、これまで「芸術性」に偏って評価されてきた弊害を匡し、あらたに「現実性」を基にした“近代日本の詩史”を論じようとしたところに本書の眼目があります。「抒情詩」の歴史ではなく「思想詩」の歴史といってもいい。

斯様な詩史を私は読んだことがありませんでした。といふのはそれが、左翼リアリズム史観から放たれる、芸術派への軽侮否定を伴った批判とも異なってゐたからです。さう、これはあくまでも『明治大正詩史』の「補完」。当時の詩壇を決して否定するものではなく、その点では確かに、詩史本流が影響を蒙った訳詩を比較文学者の視点から考察を加へることにより、その歴史性を明らかにしようとしてゐるのです。むしろ詩史の傍流として消えていった詩人たちに対しては、軽侮の念で眺めるのではなく、「思想詩」を開花させられなかった弱さと同時に、可能性を抱へたまま取り残された時代の必然性の問題として保留し、彼らの営為に対しては寄り添ふ姿勢が感じられます。

これは著者が詩文学を評価する規範として掲げた“自由”の概念が、プロレタリア文学の叫ぶ政治的“自由”よりも大きな、ホイットマンが掲げたやうな、全人的な“自由”であったことに由来してゐるのだらうと思ひます。
(本書では訳詩者としての有島武郎や富田碎花も萩原朔太郎同様にスルーされてゐますが、ホイットマンの受容史については、別に『近代文学におけるホイットマンの運命』(1970研究社出版)といふ、若き日の著者が心魂を傾けて成った一冊があり、そちらを読んでほしいといふことになりましょう。)

書き起こしこそ、どの通史でも嚆矢に挙げる『新体詩鈔』から論じられてゐるものの、ホイットマンを持ち得たアメリカとは異なる近代日本における“自由”をめぐる問題を、「近代詩」が取り組むべきだったなまなましい歴史的課題として据ゑ、表現が担った意義や切実さによって、論じられる(再評価される)詩人が選ばれていったのではないでしょうか。
この基準は、通常の詩史では問題にもされない、自由民権運動と呼応しつつ消えていった新体詩草創期の歌謡詩人たちの動向や、ホイットマン熱が冷めていった昭和初期の詩壇激変期に、自然に返る生活を固守し続けた「小ホイットマン」たちの動向を紹介する条りにおいて、彼らが無名に終ってゐるだけに一層強く感じられるところとなってゐるやうです。

ですから本書の『日本近代詩の成立』といふタイトルが、内容を示すに果たして適切な命名だったのかどうかは、正直なところ意見が分かれるのではないでしょうか。『日本近代思想詩の可能性』とでもいふ題名だったら、とさへ思へる著者の強い反骨の気構へが私には感じられました。

このホームページに関するところで申し上げると、日夏耿之介が勝手に癇癪を起こして絶交した堀口大学のために、一章が新たに書き下ろされ、これまた専門外のフランス文学にも拘らず、訳詩集『月下の一群』が俎上に上されてをります。
著者は堀口大学について、名前こそ「大学」といふものの、官立大学とは縁もゆかりもなく、長きにわたる海外生活のなかで「自由人」として「筆のすさび」の訳業を愉しみながら取り組んだ『月下の一群』の成立事情のことをとりあげてゐる訳ですが、これとて「ほとんどの文章がエロチシズムとウイチシスムを強調している。私もこれに同感だ」と従来の評価をなぞりつつも、世界大戦と対峙したヨーロッパモダニズムが背負った問題意識を翻訳上に表現することを、彼は決して忘れた訳ではなかったと指摘。堀口大学を「いろんな批評でいわれるよりはるかに広い詩的世界を包み込み、精神的なたかまりをもっている」詩人であったと評してゐます。次世代のモダニズム詩派のウィットや、四季派の主知的抒情の揺籃としての役割にとどまらぬ、その訳業から継承されずに終った精神面を強調する切り口が提示されてゐる訳であります。

最後には安西冬衛の短詩「春」一篇をもってモダニズムが論じられ、現代詩への移り変りへの感想が示されてゐますが、こと現代詩については、少年時に『詩の話』といふ啓蒙書で世界を啓いてくれた北川冬彦についても、恩は恩として「北川冬彦は日本における現代詩の興行師的なところがあり、自分たちの詩的実験をいつも「運動」に仕立てた。(527p)」となかなかに手厳しい。日夏詩観だけでなく、戦後史観に沿ったおざなりの詩史を書くつもりも無いことが、あらためて伝はってきて私は嬉しくなりました。

巻末に添へられた「参考文献」も、書名をただ列記するでなく、各文献の特徴を一言で評しながら、ものによってはその装釘にさへ言及する独特の手引きとなってゐます。ことにもこれまで数多く発表されてきた詩史についての、「私は個人による詩史に積極的な関心をそそられる。532p」と断った上で記された、感想の数々が興味深いです。さうしてこの参考文献に自著を挙げられた章、そして参考文献がないと述べられてゐる章などは、著者の創見が打ち出された一番の読みどころかもしれないと思ったことです。

ふたたび申しますが、タイトルと本冊の厚みによってこの本を、東京大学名誉教授のオーソリティーが教科書的・辞書的なテキストとしてまとめ上げたもの、などと判断するのは早計、かつもったいないことに思はれ、是非手に取って中身を御覧いただきたく、ここに紹介・宣伝をいたします。

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759中嶋康博:2017/03/20(月) 12:42:19
『敗戦日本と浪曼派の態度』
 同人雑誌『コギト』の事務的・経済的サポートを唯一人で負ってゐた発行者、肥下恒夫の初めての評伝『悲傷の追想』(2012.10ライトハウス開港社)が出たことには、本当に驚きましたが、その後、続篇といふべき『敗戦日本と浪曼派の態度』(2015.12同)が刊行されてゐたことを知り、先師田中克己の盟友であった肥下氏の数奇な生涯が、さらに詳しく明らかにされ、そして顕彰されてゐるのを目の当たりにしました。

 前著同様、引用されてゐる日記と原稿は、著者澤村修治氏のフィールドワークによって発掘された肥下家に遺されてゐた初公開資料であり、日記には保田與重郎や田中克己の名も頻出してゐます。
 喜びと、不思議な懐かしさも伴っての読後感を、遅まきながら澤村様にお便り申し上げたところ、折返しの御挨拶と、わがライフワーク(田中克己日記)に対する激励のお言葉を賜りました。そして、肥下氏の御遺族とは現在もやりとりが続いてゐること、またこのサイトの存在についてもお報せ頂いたとのことに恐縮しました。
 けだし肥下氏の「戦後日記」の内容は、当然ですが「田中克己日記」の記述と符合するものですし、戦前の「コギトメモ」の方は、恰度詩人が日記を書かなかった時期にあたり、文学史の中心に『コギト』があった時代の、貴重かつたいへん興味深い証言資料です。
おそるおそる澤村様を通じてお尋ねしたところ、二冊の著書に引用されている「肥下恒夫日記」の“田中克己の出て来る個所”について、「田中克己日記」に併記する形でネット上に転載してもよろしい、との許可を頂いて、御二方に感謝してページを更新、喜んでゐる次第です。

 当時の肥下恒夫、田中克己、保田與重郎(そして中島栄次郎・松下武夫・服部正己)らは、旧制高校らしい友情のむすびつきにおいて、今ではみることのできない、濃い文学上の同志関係を築いてゐました。
 なかでも一番の富裕で年長者でもあった肥下氏は、学業からも創作活動からも離れ、自分たちが興した雑誌『コギト』の編集・発行者として自ら黒子に徹することで“共同の営為”の舞台を支へ、保田與重郎と二人三脚で戦前文学史に於いてノブレスオブリージュを果たしたと呼ぶべき奇特な同人でした。その驕ることのない穏健な性格には、君子然の視線が感じられ、年少の庶民階級出身の田中克己を、才気煥発の直情詩人として終始大らかに見守ってくれてゐた様子は、例へば『大陸遠望』のゲラを読んでの感想(昭和15年9月8日)にも、

「良い詩集になるだらう。一冊に集めて見るといろいろ気付くことが多い。矢張りえらい男と思ふ」(『敗戦日本と浪曼派の態度』154p)

と、偽らざるメモ書きのうちにも表れてゐます。
 ところが田中克己の方では、彼らの伯父叔母同士が夫婦であった遠戚の気安さも手伝って同級の肥下氏にはぞんざいなところがあり、敗戦間近の昭和19年4月9日には、『コギト』の存続問題に関して談判にいったものの意見が容れられず、癇癪をおこして一方的に絶交を突き付けてしまひます。

「15:30肥下を訪ね、コギト同人脱退、絶交のこと申渡す。20:00肥下来りしも、語、塞がりて帰る。」(田中克己日記)

 もちろん肥下氏は絶交するつもりなどなかったのですが、二人はそのまま出征。生きて帰国した後も、近くに住みながら、会ひに来ない往かないといふ気まづい事情がしばらくわだかまってゐたやうです。
その肥下さんの、昭和22年4月16日の日記に記された「夢」の一件が面白い。

「今暁田中の夢を見る。保田の家に泊つて寐てゐると田中が来る。ベッドに腰を降して寐てゐる身体に手をかける。こちらは前から知つてゐるので少し笑ひたくなつたが眠つた振をしてゐると身をもたせかけて来るので目を開くと彼の顔が間近にあつた。福々とく肥えてゐた。抱き合つて横たはると二人は期せずして目から涙が流れ出て来た。」(『敗戦日本と浪曼派の態度』89p)

 復縁への期待が深層心理に働いてゐるのでしょうね。「コツ」と綽名された田中克己が夢の中で太って現れたのは、復員した保田與重郎に遭った時の驚きが投映されてゐるのかもしれません。事実、田中先生も別人のやうな頑丈な姿で家族を驚かせたさうですから。
 結局昭和22年になって田中克己が反省し、旧交は無事復活したのですが、農地解放で資産を失ひ、学業を中途放棄したため再就職もままならず、『コギト』の復活が自分の元ではできなくなってしまったことにより、戦後の肥下さんの周りからは文学的な交遊が消えてゆきます。
 帰農した肥下さんの立場がふさがる一方で、田中克己は出世街道を歩む旧友たちに伝手を求めながら、大学人としてなんとか「社会に順応」してゆきました。尤も縁戚である二人は他の友人等とは異なり、気の置けない間柄は両者の日記からも窺はれはするのですが、次第に二人が疎遠になっていったには、お互ひの生活に手一杯だったことに加へ、気心の知れすぎた気安さもこの際には仇となり、却って無関心で済ますことができたといふ事情もありはしなかったか、そんな思ひを日記を翻刻しながら肥下さんの名が現れるたびに私は感じてをりました。もし田中克己が上京せず、帝塚山もしくは関西の大学に残って居ればどうなってゐたでしょうか。

 引き続き一年一年の日記に解説を付すにあたっては、澤村氏と同じく、私も田中克己長女の依子さんと連絡をとり、断片的な記述を御遺族の記憶によっておぎなふことで、出来るかぎりの正確を期すべく心掛けてゐます。そんな日記も只今1959年までの公開を了へました。肥下さんの最期を伝ふるまであと3年。本日は山川京子様と日を同じくしての祥月命日です。
 御冥福をお祈りするとともに、ここに澤村修治様、肥下里子様に対し、厚く御礼を申し上げる次第です。ありがたうございました。

追而
澤村様からは別途、編集に携はる論壇誌『表現者71号』と御著『八木重吉のことば』もお送りいただきました。『表現者』には対談「今こそ問われるべき日本浪曼派の意味」が載せられ、一世代前の研究者たちがたどりついた共通認識を踏まへた論点が、再確認されながら総括されてゐます。『コギト』の意義について話して下さった澤村氏の発言が、日本浪曼派に対する関心を『コギト』の同人にまで拡げ、無償の営為に殉じた肥下恒夫の生涯に思ひを致してくれる人が一人でも増へてくれればと期待いたします。

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760中嶋康博:2017/03/26(日) 16:50:14
「アフリカからアジアをみる ―日中戦争期の保田與重郎とマルクス主義民族論―」
 西村将洋様より雑誌『昭和文学研究』74集抜刷(42-56p)「アフリカからアジアをみる ―日中戦争期の保田與重郎とマルクス主義民族論―」をお送り頂きました。


 ここにてもあつく御礼を申し上げます。

 保田與重郎が『コギト』を始めるにあたって問うたのは「何を文学する(マルキシズム)」でも「どのように文学する(モダニズム)」でもない「なぜ文学を始めた」といふ問題意識でした。それを鮮明に他者へ伝へるために発動された「イロニー」は、読者の偽善や安穏を暴き、当事者性を掻き立てる、挑発的な表現手法といってよいでしょう。


 今回、俎上に上げられたテキストは、ペンネーム「松尾苳成」名義の保田與重郎の一文「文明と野蛮についての研究──ダホミーのベベンチュ陛下の物語の解説」(『コギト』昭和13年1月号)です。


 このなかで「解説」が施されてゐるのが、いつもの日本の歴史や古典、或ひはドイツロマン派でもなく、アフリカの一王国の野蛮な逸話であることに、先づ驚きがありました。しかし蘊蓄を封印した分、一文のイロニーも直截です。さうして斯様な表現をするためには、自身が先づ「過剰な読解者」でなければならなかったといふことを西村さんは指摘します。けだし表現と読解とはコインの裏表である筈で、過激な表現で読者に噛み付く彼は、いったい何を読み取った上でそのやうな言挙げをしてくるのか、その剥き出しの表現の手前でおさめてゐるものは何なんだ、それこそが問題なんじゃないかとの洞察に感じ入りました。


 一文の趣旨は、列強視点の「野蛮人」を擁護するべく、宗主国への反証を敢へて試みたものなのですが、他者を自分の尺度で「野蛮人」として見くびる「文明人」のことを非難する論者自身は、ならば文明人なのか野蛮人なのか。謂はば「上から目線」で彼らのことを勝手に忖度する矛盾を犯してゐるのを指摘したところで、「だからペンネームなんです」と逃げ道の絵解きがされてをり、なるほどと、再び驚いた次第です。


 中盤には「何が文明で、何が野蛮か」といふ同趣旨で開陳を試みた、スペイン人民戦線が冒した野蛮行為を嫌悪する一文(「文芸時評 法王庁の発表」『日本浪曼派』昭和11年10月号)が上げられてゐますが、教会への破壊行為を敢行する彼らの野蛮と、やはり当時党員の粛清を始めたスターリンの野蛮とは、新たな文明のために払はなければならぬ犠牲といふ意味において何ら変るものでないと言及、まんまと挑発にかかって噛みついてきた、人民戦線を擁護する三者(林房雄・亀井勝一郎・三波利夫)を、犠牲者に寄り添ふ濃度によって色分けをし、斬り捨ててゐます。


 しかし保田與重郎が三者のなかで同情を寄せた林房雄が語った、犠牲物でなく犠牲者に心を寄せる「庶民の血」とは、言ってみればポピュリズムそのものではないでしょうか。さうして「何が文明で、何が野蛮か」「何が犠牲者で、何が侵略者か」の議論は、ポピュリズムにおいてどちら側にも横滑りしてゆく危険があることを、西村さんは「マルクス主義民族論(植民地解放闘争)の問題意識を共有していた」中野重治との意識の差異を通して明らかにしてくれました。中野重治と保田與重郎と、世代の異なる両者が意識するところの「植民地(犠牲者)」が、日本に対する朝鮮なのか、欧米に対するアジア諸国なのか、そこから発動される倫理は「他者(の立場)を想像せよ」と傲慢を弾ずることなのか「たやすく他者(の心)を想像するな」と軽佻を戒めることなのか。


 左翼思想が後退を余儀なくされたインテリゲンチャ世代の心情が、自他ともに対する厳しい自己責任論の上に立ち、当事者として「命がけの立場に立つか、さうでないか」「命がけの立場に立てば犠牲者が出ても仕方がないのか、そんな犠牲がでるようなものは正義でも何でもないのか」の決意表明や選択を次々に迫られていった時代下でのお話です。


 西村さんは最後に己の決意の純粋のみによりかかる保田與重郎のレトリックを、「決断の修辞学」「野蛮の倫理学」と呼び、時代によっては「極めて危険な言葉」となって飛び出すと心配してをられますが、──さて警鐘は時を隔て、現在の日本でも鳴らされる可能性があるものかどうか。


 現在の日本は、金権政治家とマスコミとが反目しつつも一致して掲げるグローバリズムへと巻き込まれてゆくやうにもみえます。このまま欧米と同様の格差社会・分断社会への途を進んでゆくのではないか、本当に不安ですが、もしも保田與重郎が再び現れ、イロニーを弄してタブーの告発を行ったとして、飽食文化と自虐史観に馴らされた国民が「炎上」し、目醒めることなどあるでしょうか。このたびはポピュリズムによって潰されてしまふのではないでしょうか。

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761中嶋康博:2017/03/31(金) 09:07:40
八木憲爾潮流社会長を悼む
 八木憲爾潮流社会長(94)が3月21日、心不全のため横浜の自宅で亡くなった。葬儀は遺志により近親者ですでに執行、香典・供花も同様に固辞される由。吾が拙い詩作に対して若き日から御理解と激励を賜り続けた、敬慕する庇護者の逝去に接し、俄かに言葉がありません。このたび小山正見様および潮流社の総務の湯本様より八木会長の訃をお報せ頂き、突然のこととて、たいへん吃驚してゐます。

 昨年十月には、豊橋で毎年催される丸山薫賞の授賞式に欠席される旨を伺ひ、電話にてお見舞させて頂きましたが、その折には、左眼失明や酸素吸入の話に驚いたものの、すでに退院され、旧に渝らぬ矍鑠たる御声に接し、却ってこちらこそ元気を頂いた位でした。

 お歳は承知してゐたものの、謦咳に接するたび斯様な明朗な精神の持主であることに安心し、むしろ安堵しすぎてゐたのかもしれません。今年の年賀状に返信のなかったことに、お電話してお加減をお伺ひすべきだったと今さらながら悔やんでゐます。

 ただ潮流社の御方より訃報とともにお報せ頂いた、御遺族からの最期の様子には、睡眠中に亡くなり朝、発見されたこと、それはとても自然で本人にとって一番楽な逝き方だったのではないか、とあり、山川京子氏の場合もさうでしたが、少し救はれたやうな気持になりました。

 もっとも自然にすぎて、「これから書きたいことがあるんだ」とは『涙した神たち』刊行後、お手紙・お電話のたびに仰言っていた会長ですが、亡くなる直前まで読書のために新しい眼鏡を希望されていたとのことですから、やはり山川氏同様、後事を托す一筆さえ執ることなく逝ってしまった御本人こそ一番に当惑されておいなのではなからうか、そのやうにも思はれたことでした。

 八木会長とは、私がまだ東京の六畳一間で一人暮しをしながら詩を書いてゐた駆け出しの頃に、お送りした最初の詩集に対して過分のお言葉を賜り、銀座のビル階上にあった事務所まで初めて御挨拶に伺った日に始まって以来ですから、お見知りおきいただいて早や三十年近くなります。

 わが師匠と見定めた田中克己先生とは第四次の『四季』をめぐって絶縁状態だったにも拘らず、以後、丸山薫以下『四季』の詩人の末輩として拘りなくお認め頂き、可愛がって頂きました。

 拙い詩作に対する激励はもとより、田中先生の歿後詩集の編集刊行、そして私の集成詩集刊行もこれに倣って「潮流社」の名を冠する許可とアドバイスとを賜りました。四季派一辺倒の自分の詩風が今の詩壇には認められ難いことに対し「世間を気にすることはない」とたえずなぐさめ勇気づけて下さったお言葉は、旧弊を嫌はれた闊達なその御気性の俤とともに、忘れることはありません。

 けだし関西の杉山平一先生が平成二十四年に九十七歳で亡くなられたあと、わが敬慕する精神的な庇護者として、唯一人お残りになった大切な御方でありました。

 四捨五入すれば還暦となる昭和三十六年生の私も、昨日新たにまた年をとり、無常迅速の思ひに呆然とすることが、ちかごろは本当に多くなりました。

 このたびは八木会長の御霊のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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762中嶋康博:2017/04/05(水) 20:10:50
『芸窓日録』
新年の掲示板で予告してをりました、明治期の漢詩人戸田葆逸の写本日記『芸窓日録』ですが、ながらく図書館勤めをしてをりました記念に、職場の研究機関である地域文化研究所の紀要に「資料紹介論文」として載せて頂くことになりました。
写本の原画像とともに公開いたしますので御笑覧ください。
(Twitterフォロワーの鸕野讃良皇女様から早速御教示を賜り、旧蔵者が杉山三郊と判明しました。ここにても御礼申し上げます。)

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763中嶋康博:2017/04/11(火) 12:20:32
『丸山薫の世界(丸山薫作品集)』
 愛知大学丸山薫の会代表の安智史様より、会の編集発行に係る非売品の新刊『丸山薫の世界(丸山薫作品集)』(2017.3.31発行 149p,21cm)の寄贈に与りました。
故八木憲爾潮流社会長との御縁を以て、私のやうなものにまでお送り頂き感謝に堪へません。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 内容ですが、「初期作品より」「詩集より」「豊橋関連エッセイより」「インタビュー、講演筆記より」と4つに分けて詩人の作品が収録され、「丸山薫作詞団体歌・校歌」「略年譜」が資料として付録されてゐます。

 主たる分量を占めるのは「詩集より」ですが、戦前に刊行された7冊の詩集の殆ど全てに、戦後山形県岩根沢での生活を写した『仙境』を加へた陣容は、エッセンスといふより全詩集に近いものであり、丸山薫のやうなゆったり余白を活かした詩篇も、2段組になれば全体が100ページに収まってしまふものであることを知っては、意外にも思はれたことでした。

 編集のみせどころは「詩篇」以外からの選択に表れてゐるといってよいでしょう。
 すなはち冒頭の「初期作品より」の2編「両球挿話」「オトギバナシ文学の抬頭」は、旧全集しか持ってゐない多くの人々が初めて目にする文章であり、丸山薫が花鳥風月の抒情詩を嫌った“物象詩人”とならざるを得なかった消息を、稲垣足穂との気質的な親和性や既存文壇への不満を綴ることによって示したもの。
 また後半の「エッセイ」2編は、後半生を豊橋で暮した詩人にゆかりの、地元ならではの文章が選ばれてゐるのですが、

 戦後、ふたたびここに12年間も住みつづけた現在、曾住の地のどこよりも親しみは感じるけれども、ここが自分の故郷だという、胸を締めつけるような愛情は湧かない。むしろ親しみと同時に、多分の反発感や冷淡な感情を持ち合わせている。そんな事を言うと、土地の人達の不愉快を買うだろうし、みずからの不利益になることは解っていても、それが偽りのない気持であるなら仕方ないではないか。(中略)
 その代りいつしかエトランゼエの思いがはぐくまれていた。私は、いつも近くに在るものを無視して遠方だけをあこがれる子供になっていた。(「伊良子岬」『岬』1960年11月刊) 110-111p

 といふ、中京文化圏に対する“よそ者”感、中部日本詩人連盟の頭(かしら)に担がれることに対しても、当初辞退しようとしたのも解らうといふ述懐に思はず目がとまります。この文章を肯へて選ばれたところに編者の見識を感じないではゐられません。豊橋は、子供のころ暮したことのあった縁故の地には違ひありませんが、戦後、疎開先から上京する繋ぎに一時の落着き先と思ひなしてゐた場所でした。そのまま“大いなる田舎”名古屋の文化圏に居ついてしまふことになったのは、「オトギバナシ文学の抬頭」にみるやうに、最初に私小説の理念を否定して詩人一本で立った彼が、外国語にも手を染めなかったために、小説や翻訳といった原稿料での生活の目途が立たなくなってしまったことにあったと思ひます。
 そんな彼を特別待遇を以て手を差し伸べてくれた愛知大学は、恩誼の対象であるとともにそれ故にこそ、彼を慕ってやってくる素質のよい文学青年たちを前に、本心複雑な思ひは欝々として抱いてゐたのではないかと忖度するものです。
 コスモポリタンの夢を抱く故郷喪失者であるとともに、同時に日本人たる自覚を強く持してゐた彼は、やはり東京か、それとも“先生”と呼ばれる職業に尊敬が無条件に集まるやうな、人心の純朴な僻村か、そのどちらかに本来定住すべき詩人であったと、私には思はれてなりません。

 巻末には、新修全集でもお蔵入りにされたといふ「私の足迹」と題された最晩年の講演の様子(1973年6月17日第13回中日詩祭にて)が収められてゐます。
 中京詩人たちの前で話すのですから、地元が悲しむことは言ってませんが、その代りに、心の中で大切にしてゐた岩根沢の風景が、経済優先の世相の中で変はり果ててしまったことに対する、もはや面に表すことが許されない嘆きや、第四次の潮流社版『四季』をこれまで五年続けてきたものの、若い詩人たちは『四季』より『現代詩手帖』を好むことが語られてゐます。
 岩根沢だって教へ子たちの心は変りなく先生を敬ってゐる。また当時は詩と詩集のブームの時期でありました。しかしながら詩人にとっては、尊敬の結果として詩碑が建てられることに抵抗し、もはや詩とは言ってもフォーク“ソング”の世代からは結局、立原道造や津村信夫のやうな詩人が現れなかったことに対する自嘲といふか、もはや諦めのやうなものが窺はれる気もするのです。

 この録音は、本書冒頭の「初期作品」への自註になってゐる稲垣足穂に対する回想や、中盤からの、自らの感想をさしはさみながら萩原朔太郎からもらった手紙を読んでゆく条りが何ともいへず可笑しい読み物ですが、戦後のみちゆきを、何か掛け違ってしまったかやうな旧世代の日本人のさびしさが、詩壇の中心にあった当時の回想を振り返るたびに、笑ひのうちににじみ出てくる、そんな談話になってゐる気がします。
 それはまた「四季派」といふカテゴリー・レッテルに対しても、当事者として微妙なスタンスで話してゐることからも窺はれます。
 戦後昭和28年の時点で編まれたアンソロジー『日本詩人全集』(創元文庫)における解説においては、「詩壇」など詩を書く当事者の主観の中にないことを前提に、『コギト』との密接な関係に言及しつつ「いわゆる「四季派」と呼ばれたオルソドックスの流れ」や、「いわゆる四季派の精髄」として中核をなした詩人の名を挙げることに躊躇のなかった詩人が、いざ『四季』が復刊されて自分が親分に祭り上げられた現状での意識表明となると、一歩引いた様子がみられるのです。

 旧世代らしさは、現在の政治家の講演だったら新聞記者が食ひつきさうな表現にもあらはれてゐます。表現に対して大らかだったこの時代、詩人ならではの拘りない気宇の感じられる話ぶりですが、この講演筆記を本書に収録することを決めた編者の選択をやはり買ひたいです。金子光晴は抵抗詩人ではないと言って、おそらく聴衆をドキッとさせたでしょうが、そんな彼の、戦前には人権や平和に対する、戦後は国威や伝統への目配り・配慮を欠かさない、「ポリティカル・コレクトネス」とは異なる「中庸」の面目が随所に躍如した、貴重でなつかしい詩人の俤に触れ得た気持ちがしました。

 装釘も「暮しの手帖」っぽいロゴが可愛らしい。詩人夫妻の自宅の縁側での睦まじい姿をとらへた表紙写真と共に、愛読者にはぜひ一冊手許に欲しい出来上りとなってゐます。

 非売品なので、罪なことにならないか心配ですが、ひとこと報知させて頂きたく、ここにても御礼を申し上げます。
 ありがたうございました。


【追而1】昭和17年12月〜昭和18年9月までの戦艦大和の艦長が丸山?の義弟であったことも初耳でした。
【追而2】金華山と岐阜城の事が書かれてゐるのは、管理人にとってはうれしいところなので、最後にちょっと引かせていただきます。

 いま私の住む近くで知っている城を語るなら、先にもちょっとふれたが標高330米、金華山のピークに屹立する稲葉城への道は、数年前に架設されたロープウェイのお蔭で、登るのに骨は折れない。城は山の峻嶮と高さと、その山麓を流れる長良川とのゆえに、上からの展望も下からの眺めも絶佳だ。
 そういえば、これらの山と川との美しさによって、岐阜という都市の全休が、いや、その空までがどんなに品格を挙げていることか。有名すぎる鵜飼の情調はともかくとして、山麓河畔一帯の町のニュアンスまでが、なにか京都を連想させるものをもつ。(「城の在る街と豊橋」『市政』1958年11月号)108p

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764中嶋康博:2017/04/25(火) 10:21:08
豆馬亭訪問記
「朝、聯車十五名同行、公園ニ赴ク。[此]日頗牢晴、看客亦多。夜、桜樹燈ヲ点ス。甚此観ヲ極ム。豆馬亭中ニ宿ス。」  ?『芸窓日録』明治十四年四月十九日

 この資料の紹介論文を書いての後、かねてからの懸案であった豆馬亭への訪問を、先日やうやくのことで果たすことができました。

 戸田葆堂らが中国からの賓客画人胡鉄梅を伴ひ、整備されたばかりの養老公園を訪れ、ここに宿泊したのが明治14年4月19日。恰度136年後となる同じこの日を定めて訪問したのは、往時をしのぶ感慨に耽りたかったからに他なりません。
 名前もそのまま、今では「しし鍋」を名物にする「豆馬亭」は、土日の予約営業といふことで、4月19日は生憎休日だったのですが、事前に用向きをお話したところ、予定があったにも拘らず見学の快諾をいただき、当日朝早く到着して建物の外観をカメラに収めてゐると、現在の主人である村上真弓さんが現れ、御挨拶もそこそこに招じ入れられると、早速当時のまま遺された座敷に御案内いただいたのでした。

 公園開設と時を同じくする明治13年の開業ののち、北原白秋や河東碧梧桐、塩谷鵜平など多くの文人も訪れた和風建築の料理宿屋は、改築を経てゐるものの、主要な客室や、階段、波打つガラスがなつかしい廊下の窓枠などが当時のまま。長押や床の間には「豆馬亭」の名にちなんだ扁額や軸が掲げられてゐました。
 新緑に飾られた窓外は、当時、濃尾平野が見渡され、養老・伊勢・津島の各街道の結節点であった麓の往来をゆきかふ人馬が、それこそ豆粒のやうにながめられたといひます。玄関前にモミジの大木があり(秋はまた美しいことでしょう)、蛍の出る小流れと池溏を配して、こんなところに暮してみたい、さう思はずにはゐられない谷間の山腹の一軒宿でありました。

 先人の筆蹟を眺めながら、ひとつ謎といふか、不思議に思ったことがあります。それはこの木造三階建の「豆馬亭」が明治13年に開業される前、その前身である「村上旅館」がすでにあったらしいのですが、場所や起源をつまびらかにしないことです。
 「豆馬亭」の命名は、養老公園事務所の主任だった田中憲策氏の文章(※)によると、明治時代に活躍した浄土真宗の名僧、島地黙雷の漢詩が元となったともいふことですが、天保9年(1838)生れの黙雷は明治13年(1880)の開業時には42歳。一方、座敷には「寸人豆馬亭」といふ貫名海屋の書額も掲げられてをり、そちらには「癸卯菊月」とあるのです。海屋は文久3年(1863)に亡くなってゐますから、癸卯菊月はおそらく天保14年(1838)の9月と思はれます。
 同じ「寸人豆馬亭」の賛は『芸窓日録』にも出て来る石川柳城も大正4年に書いてをり、小崎利準の額(同年)と一緒に客室に掲げられてゐました。また海屋の額よりもっと古さうな「空外」なる人物による「寸人豆馬」の額もあり、かうした江戸時代の扁額が当の旅館の客室に掲げられて在るのは、旅館の由来において何を意味するものか、可能性をいろいろ考へてみるのも面白いと思ひました。

 この日、天気は旧時と同じく「頗る牢晴」。当時の養老公園では夜桜を照らす提灯が掲げられ、4月19日はお花見どきの最中だったやうですが、136年後となっては温暖化のため並木もすっかり葉桜に変じてをり、それでも山腹にはまだ自生の山桜の、和菓子のやうな花簇を数へることができました。
 今年は年号が「養老」に改元されて1300年を迎へるといひます。その名にし負ふ名瀑にも立ち寄り、まばゆい新緑のしぶきを身体いっぱいに浴び、まるで一泊した旅行客のやうな気分で山道を降りて帰って参りました。(?『芸窓日録』に追加upした他の写真とともに御覧下さい。)

(※)「美濃文化誌」書誌不明のため現在養老町役場に照会中。

豆馬亭 養老郡養老町養老公園1282 電話0584-32-1351

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765中嶋康博:2017/06/26(月) 00:24:24
杉山美都枝「高原の星二つ 立原道造と沢西健」
 先日購入した古本雑誌『ポリタイア』第4号(昭和43年12月1日発行)。特集とは銘打ってゐないものの編集後記には、
「本誌の同人にゆかりの深い師友先達についての心のこもった寄稿を中心に編集した。」
 とあり、『四季』や『コギト』に拠った詩人たちについて論考と回想が並んでゐました。

 なかんづく杉山美都枝(若林つや)氏による立原道造の回想は、『四季』追悼号で有名になった“5月のそよ風をゼリーにして”ほかのエピソードの詳細を、親しく詩人と交はった著者にしてさらに細かく、複雑な心情を交へて吐露してゐて、そのためか以後の「特集誌」で再録の機会もなかったやうに思はれるので、報知かたがたここに紹介したいと思ひました。

杉山美都枝(若林つや)「高原の星二つ 立原道造と沢西健」92-100p

 文中「誰かの出版記念会」とは『詩集西康省』の出版記念会のことであり、「『四季の人々』という誰かの書いたもの」も、立原道造入院中の「ベッドのわきの弥勒菩薩の思惟像の写真」も田中克己からのものなのですが、この文章が書かれた当時、『ポリタイア』の創刊同人である芳賀檀と田中克己とはすでに折合が悪かったらしく、名前が伏せられてしまってゐます。
 逆に芳賀檀については、立原道造の親炙する様子が、油屋での“首吊りびと”のエピソードなどとともに面白く活写されてをり、ことほど左様にいろいろな忖度がなされた上で当時の思ひ出が書かれてゐるやうです。
 立原道造詩集の刊行を、没後最初に堀辰雄に相談したのは出版社「ぐろりあそさえて」に勤めてゐたこの杉山氏であったといふことですが、その場で“きっぱり”反対されたことも書かれてゐます。
 「新ぐろりあ叢書」で展開された、日本浪曼派を象徴するやうな棟方志功による装釘が、堀辰雄や立原道造の「このみ」に合はなかったのは確かでしょう。しかし思想的に峻拒したからと考へるのは、戦後リベラル派らしい付会にすぎるのではないでしょうか。
 一番弟子であった立原道造が自分と決別して傾倒していった先に待ってゐたのは若きカリスマ文芸評論家、保田與重郎でした。ぐろりあそさえて顧問だった彼の用向きを社員として彼女が携へてやってきたとなれば、さうしてその内容が自分の影響下で育った愛弟子の詩業集成を、商業出版にしてまるごともってゆくといふことであってみれば、反対するのは無理からぬ気がいたします。
 彼は結局、山本書店版『立原道造全集』3巻本の刊行に、用紙の手配から腐心するとともに、逆に弟子によって理由付けされた自分の詩集を出版することまで行って、立原道造と共に創り上げた四季派の抒情世界を戦時下の世相から激しく守らうと尽力します。
 『四季』と『日本浪曼派』と両方の気圏にもっとも気安いかたちで住んでゐたといへる彼女は、彼らの無防備な日常会話や挙措のうちにも顕れる心の機微を、女性として感じとる機会が多々あったといへるでしょう。堀多恵子夫人をのぞき周りがすべて自分たちより年長の師友であること――室生犀星や中里恒子やの言動に対しても、同様に憚りつつ、羸弱な詩人を慮るやうに草されてゐるこの回想は、『四季』同人のマイナーポエットである沢西健の消息を伝へる貴重な回想とともに、まことに興味深い行間を味はった一文にも思はれたことです。

 この号には他にも、浅野晃による増田晃の紹介、小田嶽夫による蔵原伸二郎の回想、そしてこの年の8月に亡くなってゐる木山捷平については、小山祐士、村上菊一郎、野長瀬正夫3名の追悼文を併載してゐるので、合せて紹介いたします。

浅野晃「増田晃、その『白鳥』」117-122p
小田嶽夫「随想・蔵原伸二郎」122-131p
小山祐士「木山捷平さんのこと」141-145p
村上菊一郎「夏の果て 木山捷平追悼」145-147p
野長瀬正夫「木山捷平と私」148-157p

野長瀬氏の一文は面白い書き出しで始まってゐます。

 昭和二十四年の秋頃のことである。当時私の家には五歳と三歳になる女の子がいた。毎日部屋じゅう人形や玩具やぼろきれをひきちらかして、 ままごと遊びに夢中の年頃であったが、ある日、その二人の子供が、
「ねえ、木山さんごっこをしようよ」
「うん、しよう」
 と隣りの部屋で話し合っているのが、ふと私の耳にはいった。それきり声は途絶えたが、二人は何かもそもそやっている気配である。「木山さんごっこ」とは何だろう。私は軽い好奇心にかられて、そっと覗いてみた。(後略)

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766中嶋康博:2017/07/04(火) 21:32:05
『絶対平和論』
 このたび保田與重郎の本で、永らく探し求めてゐた一冊を入手しました。『絶対平和論』といふ本です。

 そのむかし大阪の『浪速書林古書目録32号』で「保田與重郎特輯」が組まれた際(平成13年11月)にも、入手困難で有名な『校註祝詞』や『炫火頌歌巻柵』など珍しい私家版本が現れ目を瞠りましたが、世間に訴へるべく刷られたこの市販本は載ってゐませんでした。
 自分が現物を目にしたのも、その更に10年以上も前に神田の田村書店で一度きり。笑顔で「それ珍しいよ」とわざわざ店主が教へて下さったのに、同じ祖国社から同時に出された函入り上製本の『日本に祈る』の方だけ買って、並製本のこちらは「また今度」といって手を出さなかった。以来三十年です(笑)。
 雑誌『祖國』での無署名の匿名連載が本になったものであり、表題も政治的なら内容も純粋な保田與重郎の著作としては認められぬまま、古書市場に残らなかった事情があったのかもしれません。

さて『浪速書林古書目録』は毎度特輯にまつはり専門家による一文が巻頭を飾ることで有名ですが、この特輯でも「保田與重郎の「戦争」」と題して、鷲田小彌太氏の読みごたへある一文が掲げられてゐます。さうして「絶対平和論」のことにもふれ、最後にかう総括されてゐます。

「国防であれ戦闘であれ、その実行ならびに精神はつねに実用を基盤とする。それは、絶対平和を体現するとされる米作りが実用を基盤とするのと、変わるところがない。喫茶や稲作をはじめ、実用(技術神経)を無視、ないし放棄した精神は、ついに、虚妄にいたる、という生活の仕方をしたのは、戦後の保田自身であった、と私は考える。保田の光栄の一つである。」

 保田與重郎は実用を「無視、ないし放棄」した。そのアナクロニズムこそが彼の「光栄」だったと皮肉ってゐるのですが、たとへば“新幹線をなくせと云ってゐるのではない、あるならあってもいい、ただなくても一向構はない”、といふ処世を、私はアナクロニズムとも無責任な放言とも思はない。実用を決して「無視」はしないし、「放棄」したのは実用(利便性)そのものでなく、利便性に胡坐をかくことだと云ってゐるにすぎないからです。

 鷲田氏の一文においても言及されてゐますが、保田與重郎は口を酸っぱくして「共産主義とアメリカニズムとを“一挙に”叩かなくてはならない」と日本の針路に対する警鐘を鳴らし続けてきました。そんな彼が敗戦を経てたどり着いた、近代生活を羨望せぬ、米作りを旨とした社会に道徳文明の理想を託した「絶対平和論」。
 これを現代に活かして具現化するとならば、少人数ながら、つましくサステナブルな、平和で平等なエコロジー文化国家を守り続けること、につきるのではないでしょうか。
 保田與重郎はもちろんその眼目として天皇制の意義を説いてゐるのですが、彼の農本主義がアナクロニズムならば、とまれ過去の遺産だけでなく、生きて居る日本人そのものが (卑下するなら人倫の見せ物として、自慢するなら人倫の手本として) 観光資源になってみせる位の、“世界に対して肚を括りなさい”といふ意味のことを、彼は戦争に負けてまづ最初に提言してゐるわけであります。

 日を追ってキナ臭い袋小路に迷い込みつつあるやうな今日の日本。まじめに2025年問題も心配です。
 今年(左翼フェミニストである筈の)上野千鶴子氏が「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」と公言して物議をかもしました。が、さういふコンセプトが国民にひろく認知されるやう、左右の思想を越えた「非コマーシャル」な文化運動が興らなくては(起こさなくては)ならないと、私もさう思ってゐたところです。「絶対平和論」の覚悟の立ち位置とはさういふものです。
 日本が国柄(アイデンティティ)を保ちながらグローバル世界の中で生き残るにはこれしかありません。
 里山の田圃が消え、国民統合など眼中にない移民がなし崩しに許可され、原発事故が連発してからではもう遅い。日本はアメリカのやうな移民格差社会になり果ててはもらひたくありません。

 現在の左・右のリベラル勢力はグローバリズムとコマーシャリズムを是とし、彼らに支へられてきたマスコミと経済界は、企業や富裕層の富が非正規雇用者へ再分配されること、過疎化してゆく地方を都会から護り助けようとすることを、実のところ望んでゐません。さうして肝心の日本政府もいったい何処に顔を向け、国益の何を守ってゐるのか全く判らないといふのが現状です。
 弱肉強食を本分とするグローバリズム(安易な移民受け入れ)とコマーシャリズム(浪費社会)と、その両方を“一挙に”叩き、リベラル勢力と政府に今一度反省をうながしてもらふこと。
 保田與重郎の絶対平和論を担保したのは「天皇制」でしたが、老鋪看板の権威を担保するのは政府ではなく、国民の総意であることを「日本国憲法」はうたってゐます。

 棟方志功の装釘で飾られた述志の一冊をながめながら、よせばいいのに皆さんに不評な床屋談義をまた一席ぶってしまひました。

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767中嶋康博:2017/09/04(月) 17:04:35
東北の抒情詩人一戸謙三 モダニズム詩篇からの転身をめぐって
【四季派の外縁を散歩する】
第22回 東北の抒情詩人一戸謙三 モダニズム詩篇からの転身をめぐって をupしました。

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768中嶋康博:2017/10/05(木) 00:19:43
映画評
 期待したモダニズム雑誌や稀覯本が次々に繰られるものの、戦前の知性的な詩は目で味はふ要素が強いから朗読はそぐはず、BGMの前衛ピアノも(昔のNHK「新日本紀行」みたいに陰気で)いただけなかった。

 本場シュルレアリストの絵画作品とのコラボや、フィルムの逆回しといふ古典的手法による新たに追加された映像も、この映画の主人公たち──『椎の木』に拠った楊熾昌(水蔭萍)にせよ、『四季』執筆者には名前がみつからなかった林永修(林修二、南山修)にせよ──彼らとは気質を異にするもののやうに、私には思はれた。

 監督の手腕にかかるドラマ演出部分であるが、役者の顔が見えないのはよいとして、ならば西川満をしっかり役に入れ、日本人との交流、日本人による日本語を絡ませてほしかったところ。何より詩人の実生活が(食卓と子供が纔かに描写されてゐたものの)殆ど描かれてゐないことが惜しまれた。後半の歴史的事実が告げるやうに、さうして監督がパンフレットのインタビューのなかで語ってゐるやうに(これは読みごたへあり)、この映画は、単なるシュルレアリスム的手法によりかかった芸術映画であってはいけない内容だからである。

 画面の中で、当時の彼ら学生らしい視点を垣間見せてくれてゐるのは、同世代人である師岡宏次といふ孤独な青年写真家によって切り取られたアングルの視覚的効果に拠るところが大きい。これだけは成功してゐた。

 もろ手を挙げて好意的に迎へたい内容であるだけに、期待が大きすぎたのだらうか。パンフレットにおける巖谷國士氏の解説も、あらためてよく読み返してみれば、「ああ、確かにさうとも言へるなあ」と、苦笑をさそふ誉め方において関心させられたことであった。★★☆☆☆

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769中嶋康博:2017/10/13(金) 21:57:26
『詩人一戸謙三の軌跡 第四集:「黒石」と詩人一戸謙三』
 青森県つがる市の一戸晃様より『詩人一戸謙三の軌跡 第四集:「黒石」と詩人一戸謙三』の寄贈に与りました。

 今回は詩人が代用教員をしてゐた黒石高等小学校時代(大正9,10年)22,23歳の、詩を発表し始めた当時のことをとりあげてゐます。親戚・思ひ人・文壇・教へ子と人間関係を幅広く紹介してゐる内容が興味深いのですが、東北の詩壇にも土地勘にも事情の暗い私においては、刊行された分もふくめてこれまでの目次を下記に掲げて公開するに留めたいと思ひます。
 ひとつだけ記すとして興味深く思ったのは、私は常々「詩人の出発あるある」と称して、魅惑の女性との破局が詩人のトラウマとなってゐること、そして母方の叔父に変人が居て詩人の文学的成長に少なからぬ影響を与へてゐること、この二点をいつも注目しながら伝記を読んでゐるのですが、一戸謙三に於いてはその両つともが該当してゐたといふことです。

 さて今回、わが詩集サイトとして内容からとりあげたのは、職場のガリ版印刷機を使ってたった二十三冊印刷されたといふ第一詩集『哀しき魚はゆめみる』。 冊子では書影の紹介のみですが、晃様の許可を得ましたので今回、全文のPDF画像を公開させて頂けることになりました。
 http://cogito.jp.net/library/0i/ichinohe-kanashiki.pdf

 当時の詩壇を風靡した萩原朔太郎や室生犀星の影響が色濃い、「詩人の出発期」を感じさせる一冊ですが、語感の滑らかさや言葉の抽斗・繊細なその選択は、単なる摸倣から一歩抜きん出た様相をみせてをり、詩人の天稟を感じさせます。

 いったいに詩風に幾変転はあっても、所謂駄作を残さない、知的で潔癖な印象を読者に与へ続けて来た詩人ですが、この処女詩集にまでさかのぼって見てみても、いとけない情感はさりながら、さうして朔太郎の語感、犀星の語調の痕はありながらも、完成品として眺めることが可能であり、その審美眼が確かであった証拠品といへるのではないでしょうか。そしてまたこれはテキストに翻字してしまふより、かうして詩人のあはあはしい筆跡のままに、より強く感じられるところのデリケートな原質を大切にしたい。そんな風にも思はれたことです。

 またこれを読んで考へさせられたのは、さきに『玲』163号でも公開されたパストラル詩社時代の添削詩稿のことです。福士幸次郎からの先輩詩人としての指摘は、摸倣を脱するようにとの真っ当な助言であるとともに、彼に理知を以てまとまってしまふ危険を感じて不満を呈した、世代の差異によるところがあったかもしれません(『玲』163号より抄出↓を参照のこと)。

 この利発さはこののち、ガサツに過ぎるプロレタリア文学ではなくモダニズム文学へと彼を誘ひ、さらにその利発さにさへ自己嫌悪を覚えた挙句、折角身につけたモダニズム手法を破産・放棄させ、郷土詩や定型詩といふ古典的な「殻」を身に纏って防禦的な決着へと彼を導いていったやうに思ひます。エロチシズムにも領されながら、ここにみられる一種の端正な佇ひは、謂はば詩人の原初にしてその最初からの発現ではなかったかと思はれてならないのです。

 潔癖に過ぎる審美眼が、この初期作品群を羞恥とみなし、在世中には長らく纏められることもなく、坂口昌明氏によって『朔』誌上に於いて再評価されるまでそのままにあったことは残念なことではありましたけれど、その純情で知的な詩心は、時代をもう少しだけ下ってゐれば、(戦争中の詩作がそれを証してゐるのですが)、必ずや含羞をこととする『四季』のグループに交はってゐたものとは、私の常々直感するところです。

 一方、朔太郎のエロチシズムや犀星の望郷調が語彙語法として盛り込められなかった歌の方には、詩人の素質としてのオリジナリティが、純情な感受性と共にそのまま豊穣に感知されます。

草色の肩掛けかけて池の辺に鶴を見入りしひとを忘れず

雨はれて夕映え美しきもろこしの葉陰にさびし尾をふれる馬

月のした輪をなしめぐる踊り子の足袋一様に白く動けり

うす苦き珈琲をのみつしみじみと大理石(なめいし)の卓に手をふれにけり

鏡屋の鏡々にうつりたる真青き冬のひるの空かな


 東北の一角より個人的に刊行され、中々手にすることの難しい冊子でありますが、昭和前期を中心に、詩人が遺してきたモダニズム文学・郷土文学の業績に対して真摯な思ひがおありの方には、まづは書簡等にて挨拶申し上げて送付を乞ひ、この奇特な私家版らしい風合を身上とした詩人顕彰の営みにふれてみられるのも、資料的側面にとどまらずまことに有意義のことのやうに思ひます。
 ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。


『詩人一戸謙三の軌跡』(非売品)



第一集 平成28年11月3日発行


詩人 一戸謙三 1-4p

第1篇 「雪淡し(少年時代)」 5-38p

第2篇 「地方文化社(福士幸次郎との出会い)」 39-76p

第3篇 「那妣久祁牟里:なびくけむり(齋藤吉彦との出会い)」 77-104p

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第二集 平成29年4月25日発行


方言詩人 一戸謙三 1-9p

第4篇 「津軽方言詩集(「茨の花コ」から「悪童」まで)」 10-39p

第5篇 「津軽方言詩集『ねぷた』」 40-77p

第6篇 前期「芝生」(同人誌) 78-95p

第7篇 「月刊東奥」方言詩欄 96-113p

第8篇 後期「芝生」 114-139p

付録 追悼一戸れい(詩人長女) 父謙三の思い出 140-162p



第三集 平成29年8月18日発行


第9篇 総合文芸誌「座標」と超現実の散文詩 3-32p

第10篇 詩誌「椎の木」と錯乱の散文詩 33-42p
第11篇 津軽方言詩人一戸謙三の誕生 43-66p
資料 一戸謙三の「日記」抄 昭和8年〜9年 67-129p



第四集 平成29年9月30日発行


第12篇 「黒石」と詩人一戸謙三 1-122p





すべて著者・編者・発行者:一戸晃
連絡先〒038-3153 青森県つがる市木造野宮50-11

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770中嶋康博:2017/10/21(土) 20:38:40
『イミタチオ』58号 「芸術の限界と限界の芸術」
 金沢近代文芸研究会、米村元紀氏より『イミタチオ』58号の御寄贈に与りました。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

 保田與重郎を論ずるライフワークも四回目。今回は、初期の『コギト』同人たちが創作理論の眼目として重要視した「リアリズム」について。それが解体期の左翼文壇とどのやうな関りをもってゐたのかを第一章に、そして当時のソビエトにおけるスターリン独裁体制の現実を、保田與重郎がどのやうに理解し評してゐたのかを第二章に、二つに分けて論じられてゐます。

 先づ第一章「ナルプ解体と社会主義的リアリズム」では、昭和8〜9年にかけての、プロレタリア文学運動が解体してゆく過程を説明。その理由として、小林多喜二虐殺を象徴とする国家暴力といった外的要因だけでなく、
「昨日までの正しかった創作理論(唯物弁証法的創作方法)が突然誤りとされ、(創作精神の個々に自立を要求する社会主義リアリズムといふ)新理論が登場したのである。」39p ※( )内中嶋
といった内的要因の大きかったことが指摘されてゐます。そして昭和9年に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が解散し、左翼文学者たちが見舞はれた混乱を紹介。
そんな最中、「反帝国主義」を掲げた学生運動の気運のもとで、昭和8年4月創刊された雑誌『現実』に集った同人の一人として、保田與重郎の姿を追ってゐるのですが、雑誌の中心人物であった田辺耕一郎の回想はなかなか意外なものでした。

 保田与重郎氏とは彼がまだ東大の学生だった頃からよく知っていた。
 その頃は「コギト」という高踏的な雑誌にくねくねとした優雅でねばりのある文章で、 東洋の古典芸術についての研究やエッセイを毎号発表していた。
 文壇的にはまだ無名であったが、人間がおっとりしていて、博学多才で、高邁な精神とやさしい心情とをもつ珍らしい天才のように思って、私は毎日のように逢っていた。また、彼を通じ「コギト」の人たちとも親しくした。
 三木清、豊島与志雄氏ら先輩と文化擁護の運動を私がはじめた際には、彼はファッシズムの圧力に抵抗することに若々しい熱意をもって私を助けてくれたものだった。
 彼は「コギト」の仲間とともに宣伝ビラを手わけして東大の学内でまいてくれたり、書記局のメムバーになって手伝ってくれたりしたのである。」 (田辺耕一郎「学芸自由同盟から「現実」まで」)

 雑誌『現実』はしかし、折角「リアリズム」を問題意識として共有しながらも僅か半年五冊をもって廃刊してしまひます。こののち象徴的なナルプ解散を経て、左翼陣営の文学者たちは、「人民文庫陣営」・「日本浪曼派陣営」へと分れてゆくことになる訳ですが、その過程において、内外でものされた批判の応酬を紹介しつつ、保田與重郎と左翼系文学者との関係(友情と齟齬と)に即した省察がめぐらされてゐます。(森山啓に対して行はれた批判の応酬が、日本浪曼派に合流する亀井勝一郎からのものとともに詳述されてゐるのですが、私の荷に余る話題なので措きます。)

 当時『コギト』の内部では、保田與重郎とは異なる考へ方をもつ高山茂(長野敏一)が突出して左翼思想を標榜してゐました。彼は東大在学中の昭和7年、構内でアジ演説を行った廉で退学処分となり、コギト同人では唯一学生運動の犠牲者となりますが、その際、演説を聞いてゐて共に警察に検束された田中克己は、一晩泊められた拘置所で正義感の表明方法に対する反省をし、文芸の指向も以後モダニズムへと傾斜してゆきます。文中この演説事件のことが触れられてゐますが、当時を記した日記がこの期間のみ残ってゐないのは残念でならぬことです。
『コギト』同人の中でもすぐ頭に血が上る正義漢だったのでしょう、長野敏一・田中克己の二人は、高校時代の同盟休校ストライキの際の行動においても急進派らしい振舞をしてゐますが、イデオロギーより人間を重視し、しがらみも無視しなかった保田與重郎にしてみれば、さぞ付合ひに苦慮するクラスメートだったことでありましょう。

 寮では皆で歌を合唱している内、保田、竹内、松下、俣野らが内談して、このままでは犠牲者が出る。三目後にはストライキ中止ということになり、長野敏一とわたしが「再起しよう。今度は偶発的でダメ」というと、「今ごろ何をいうか」との罵声が飛んだが、投票の結果はストライキ中止が過半であった。このとき、 病気で一年下って来て同級となった金持の肥下恒夫は非常に残念がって、わたしを驚かせた。(田中克己『コギト』解説:昭和59年臨川書店復刻版)

 さうして左翼陣営の人々の「抵抗する生きざま」には共感を示しつつ、保田與重郎が具体的な政治的課題を責任を以て担ふことができぬ自分の弱さを認め、軽率な行動をいましめていった要因には、実はこの身近な友人たちの決起に逸った顛末も、大きく影響してゐるやうに思はれてならないのです。

 ★

 さて第二章の表題「芸術の限界と限界の芸術」は、保田與重郎の『コギト』寄稿タイトル。
マルクス主義が実践されてゐるロシアの文学者、ゴーリキーが言挙げる「社会主義的リアリズム」。その任務と、彼が夢見た芸術の将来像について、そしてそれを完膚無く裏切った独裁者スターリンによる「ソヴェート的現実」に対して、保田與重郎がめぐらせた思惑についてが語られてゐます。

 そして恐怖政治の実際を実見して一転、ソビエト批判に転じたフランスのジイドについて、彼の言葉を信じない左翼陣営の教条主義者たちを嗤ったのはもちろんですが、個人主義者ジイドの西欧ヒューマニズムにも加担せず、保田與重郎は「ソヴェート的現実」の本性から目を背けようとする左翼ヒューマニストたちに対して、政敵を次々に粛清してゐる「スターリンに感心する」と殊更に言ひ放ってみせたりする。自身の良心にも匕首を当てつつイロニーを弄する、これが保田與重郎ならではの立ち回りとは云ふものの、誤解の危険の代償ある言挙げであるといへましょう。

苛烈な政治の場で芸術がどうあるべきか、また何を背負はされるかを自問する彼にして、これよりさき「芸術の力を用いて人民を功利的に思想教育するプロパガンダ」といふものに対する拒絶反応といふのは、右左に関係なく、物事や人物の善し悪しを見分ける際にほとんど生理的な嗅覚となって発動し、働くやうになったもののやうに思はれます。

 さうして独裁者のもとで華ひらく芸術の様相を比較してみる際にも、ふと豊臣時代に成った桃山文化の豪壮を念ひ泛かべるなど、まことにこの時期の彼の言辞には、米村氏が冒頭に引いた高見順の言葉、「彼の「精神の珠玉」を信ずる」ことのできる人とは、如何に時代と自分の弱さとに絶望した人でなければなければならなかったかと、そんなことを思はされたのでありました。

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 このたびも冊子の過半頁を占める力作ですが、これまでの分量から察して『イミタチオ叢書』の一冊として単行本にまとめられる予定も立てられて来たのではないでしょうか。広く戦前文学を研究される方々に報知させていただきたく目次を掲げます。

『イミタチオ』58号(2016.10金沢近代文芸研究会)

評論 「保田與重郎ノート4「芸術の限界と限界の芸術」米村元紀……37-91p

第一章 ナルプ解体と社会主義的リアリズム
  1. ナルプ解体声明書
  2.森山啓と社会主義的リアリズム
  3.保田與重郎と社会主義的リアリズム
  4.学芸自由同盟と『現実』創刊
  5.新たな友情
  6.「委托者の有無」
  7. 森山啓の反論
  8.保田の再批判
  9.亀井勝一郎の森山批判
  10.森山啓の「転向」

第二章 芸術の限界と限界の芸術
  1.「ソヴェート的現実」と芸術の将来
  2.十九世紀文学の死滅とロマン
  3.ジイドと「ソビエトの現実」
  4.スターリンと「ソビエトの現実」
  5.保田與重郎と「ソビエトの現実」
  6.「誰ケ袖屏風」

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771中嶋康博:2017/12/31(日) 15:58:04
良いお年を
年末は日常生活から些末事を追ひ出すことに専念したかったのですが、介護の件を発端に、不便を感じなかった携帯電話をスマートフォンに買ひ替へてより、その機能に驚くわ、自らの情弱ぶりに呆れるわ、休暇をゆっくり読書に勤しむ時間はなくなりさうな気配。
毎年恒例で晒してきた購入古書も、懐具合もさることながら未だに放置中。今年は五点記すに留めます。

『星巌絶句刪』天保6年(とても探してゐた梁川星巌の第2詩集。)
『絶対平和論』昭和25年(とても探してゐた保田與重郎の筆になる無署名本。)
『現代詩人集』全6冊 山雅房 昭和15年(第2巻は田中克己を収めたアンソロジーの一冊。今年は他にも先生の本で買ひ残してゐたものを揃へてゆきました。)
『村瀬秋水 巻子軸』(「憶昔相逢歳執徐・・・甲子夏日臨書 秋水七十叟 老朽故多誤字観者 宜恕之」恕すも何もまったく手つかず状態。)
『奎堂遺稿』乾坤 明治2年(刈谷で出された最初の版。森銑三翁による評伝も一緒に購入。)

みなさま良いお年をお迎へ下さいませ。

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772中嶋康博:2018/01/03(水) 16:23:59
評伝『保田與重郎』
あけましておめでたうございます。今年も宜しくお願ひを申し上げます。

旧臘、相模女子大学谷崎昭男先生より御先師の書き下ろし評伝『保田與重郎』(ミネルヴァ日本評伝選 2017年)の御恵投に与りました。ここにても新刊のお慶びを申し上げます。

冒頭に記された、「つとめて文学の言葉で保田與重郎についてしるしたい」との執筆趣意、文明批評家としてではなく文人として師の俤を伝へたいとの志は、かたちの上では、一息の長い独特の文体のなかに端的に、象徴的に顕れてゐます。
仮名遣ひも歴史的仮名遣ひに改められてをり、前著『花のなごり』(新学社刊1997年)にもまして與重郎大人の気息を体現する文章には、本書を手にされた皆さん一様に瞠目したところでありましょう。

そしてそれが形の上に留まるものでないことも、(評伝を書くには「直接そのひとを識ってゐるのとさうでないのでは随分と相違すると思はれる」とありますが)、まさしく対象に直接師事した著者だからこそ描き得た血の通った事情が、見聞の無い期間についても確からしさを伴ひ、伝はってくる一冊でした。

戦後、高村光太郎に宛てた原稿依頼の手紙や、生田耕作の回想中に記された“戦犯保田與重郎”に対する桑原武雄の見苦しい振舞ひなど、全集未収録の新発見資料がさりげなく紹介され、仄聞するエピソードへの目配りも忘れない。贔屓の引き倒しにならぬやう、裏付けるべき事実をもって忖度の限り(先師の言動に異を唱へる際の著者の心映え)が尽された筆致の表情こそ、本書の一番の魅力ではないかと思はれたことでした。

ことにも前半生の(絶望的な)正義感と、後半生の(受忍といふべき)節操。ことごとしくいふなら左翼・右翼との関係の機微に属する真相について、保田與重郎から特別に寵愛せられたと任ずる著者がどのやうに「政治の言葉」でなく「文学の言葉」で書き留められたか。これは特段に関心を抱いて読んだ部分でしたが、抜き書きしたくなるやうな言辞が鏤められてゐて、一度ならず快哉を叫んだことでした。

「政治か文学か」、それが一大事とされた日である。しかし、政治へ行くか、文学をとるか、そのどちらかを択ぶのではなく、政治か文学かを問ふ、さういふ心情そのものの上に文学を位置させようとすることにしか、自身の良心を護る途はない。83p

現実に対して、追随する安易さも、そこから逃避する卑怯も保田のものでなく、向き合った現実と格闘しつつも、それとの共生を図らうとしたことに、時代への保田の良心といはれるべきものを見る私は、その点で、戦争を保田ほど十全に生きた文学者はゐなかったと思ふのである。163p

全体を通じ“一評伝”を超えて訴へてくるものが感じられるのは、文学者がどのやうに戦争と向き合ってきたか、そして戦争責任をとるとはどういふことであるのか、といふ、戦後日本文壇が抱へ続けてきた大問題についてでしょう。本人からは言ふことを得なかった念ひを、著者がはっきりと代弁、回答してゐて、祖述者のまことの在り方を教へられた気がします。

そのうち「戦時中に書いた文章の一字一句を保田與重郎は決して改めなかった」といふのは戦争責任にまつはる具体的な一事。責任の取り方(受け止め方)の一斑が示されてゐるのですが、もちろん開き直りで改めなかったといふことではありません。

保田與重郎にとって「戦争責任をとる」とは、自分の文章を心の支へにして戦場に向かった若者たちに、最後まで向き合ひ寄りそふことでありました。勝者から押し付けられた「お前たちが一方的に起こした間違った戦争」といふ思想理念を、生き残った人間が無批判に押し戴いたり、無謀な大本営、野蛮な軍隊、卑怯な上官への怒りをぶつける為にそれを利用することでは決してあり得なかったといふことです。

思ふに正義感の発現とは、傲慢に抗してなされるか、ずるさを軽蔑してなされるか、或ひは欲念からの達観へとむかふのか、それにより左翼にも右翼にも宗教者にも転じ得ると私は思ってゐます。それはまた時代相や、出自・トラウマによって、決定されるところでありましょう。一方で、気質において愛憎の激しい人間は身を誤りやすい。

本書でも論はれてゐますが、戦後“日本浪曼派一党”に対して放たれた批判、ことにも杉浦明平による感情をむき出しにした悪罵は、真偽のみならず表現としても正義の鉄椎と呼ぶに当たらず、彼自身これを若気の至りと訂正することもありませんでしたが、文学者の戦争責任が、報道者(ジャーナリスト)の戦争責任、つまり政治的裁定とは自ら異なるものでなければならなかったことを著者は訴へ、そして保田與重郎ほどそれを日常坐臥の上に示して生きた文学者は居なかったと、本書のなかで繰り返し語ってゐるのです。

「そんなことは言はんでも分かるやらう」と保田與重郎が収めてしまふところを、杉浦明平は「それは敢へて言ひ続けていかなきゃいかんことだらう」と怒り続けた。
無念に死んだ人のために生き残った者がしなくてはならなかったこととは何だったのか。それが死者に寄り添ふことであらうと、死者に代って復讐することであらうと、これから生きてゆく人たちに対して、身を正さしめるために、生き残った者自らが生活を律して生きてゆくことを見せることには違ひありません。

保田與重郎は、さうして杉浦明平も自分(の身)を勘定に入れずに自分(の志)を大切にして、それぞれの節を全うした人生を送ったやうに、私には観ぜられます。しかしながら彼等とその世代が退場した今日、日本人はどのやうに変貌してしまったか。

保守を任じながら環境よりも経済優先の国家経営に余念がない政府のもとで、まもなく日本が戴くべき御代は革められようとしてゐます。隠遁者、もっとはっきり謂ふなら遺民として生きた保田與重郎が願ったのは、国柄を基にした独自の宗教的自然観を、一人でも多くの日本人が守り続けていってくれることだったのではないでしょうか。

本書には、ひとりの文士が大戦争の時代を生き永らへ、やがて最後の文人として崇められるに至ったいきさつの全てが、弟子にして知己である一番の理解者によって書き綴られてゐます。さきの吉見良三氏による評伝『空ニモ書カン』(淡交社刊1998年)とあはせて一読をお勧めします。


追而:
年末に石井頼子様より、棟方志功のカレンダー、および「棟方志功と柳宗悦」展の御案内をお贈り頂きました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

本書にも棟方志功、および彼ら民芸運動の主導者たちとの交流を描いた興味深い記事がみられますが、保田與重郎の昭和18年「年頭謹記」を彫った棟方志功の板画が“不敬”の理由で国画会展から撤去された一件については、「要するに、その筋において保田が危険な人物と目された、その累が棟方志功に及んだ」と説明されてゐます。
何の反政府的なことを書かなくとも「今ある生命の現在に対する絶大な自信と確信」を表はした戦争末期の彼の心の拠り所、つまり「人事を尽して天命を待つ」ではなく「天命に安んじて人事を尽せばよい」との悠々たる態度から、当局(その筋)は“危険な人物”の非協力的態度を嗅ぎとらうとする。同じ態度が進駐軍の審問者には古い大和の貴族に映ったさうですから、思へばこれもまた、日本人にとっての文学者の戦争責任といふものについて、思ひめぐらさされる場面でもありました。

追而その2:
本書ですが、大阪高校時代のストライキの一件では、先師田中克己の日記『夜光雲』にも言及して頂き、そのため私ごとき末輩にも貴重な一冊が恵与されたことと思しいのですが、礼状を書きかけのままお送りしたことが判り赤面してをります。ここにても、あらためての御礼かたがた御詫びを申し上げます。

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773中嶋康博:2018/03/28(水) 12:34:32
『忘れられた詩人の伝記 - 父・大木惇夫の軌跡』
この数日、この本の面白さにかかりきりでした。図書館で借りてきた『忘れられた詩人の伝記 - 父・大木惇夫の軌跡』といふ本。

幼いころの優しかった父の思ひ出をなつかしむと同時に、母を貧乏と浮気で苦しめた“生きた詩人の現実”を、時に冷たく突き放して記録してをり、個々に下される作品評も、編集者らしい批評精神を以て、情や思想に左右されることのない客観性に貫かれてゐるのが印象的。わたくし的には大木惇夫は決して“忘れられた”感じはしませんが(さうならば、拙サイトで紹介してゐる詩人は全員“忘れられた詩人”ですね。笑)、この詩人の略歴や、詩さへ全く知らないひとにも楽しく読める、とても面白い伝記です。すでにネット上には田村志津枝氏による、的確で申し分のない書評があがってゐました。

火山麓記2016-11-16 『忘れられた詩人の伝記』を読んで  家族ってなんだろう
  http://jan3-12.hatenablog.com/entry/2016/11/16/105443

ここに私から付け加へるとするならば、大木惇夫は北原白秋の推輓で華々しくデビューした明治28年生れの抒情詩人ですが、「戦友別盃の歌」を始めとする多くの戦争詩を書いて戦後文壇から「戦争協力者」として指弾された、先師田中克己とは立場において通ふところのある詩人です。2男・3女(うち1男は夭折)という家族構成も同じながら、両親から「一度も叱られたことがなかった」といふのは、田中家とは随分ちがってゐるやうですが(汗)。本文中に先師の名は一度しか出てきませんが、同じく文士徴用に出された際に知り合った浅野晃とは親しく、全詩集の解題は保田與重郎が書いてゐます。

本書は、詩人の下世話な現実を叙したワクワクする部分を除けば(笑)、前半生では、激賞された北原白秋との出会ひを叙したシーン、そして中盤の戦争詩を書いた詩人に対する姿勢が素晴らしく、『詩全集』の解題を書いた保田與重郎に礼を執る是々非々のまなざしが清々しい。以下に抜いてみます。

嫌いではない雨が、この日は行く手を阻む敵意にも思えて、しぶきを蹴飛ばす感じで歩きに歩いた。(72ページ)

「読まない先から失望することが多くてね。頼まれた人の作品を見るのは苦痛なんだ。これ、と言うものには滅多に出会わないのでね。」(中略)
「いいねえ、君、素晴らしくいい。」(73ページ)

批判は痛く堪えたものの、かえってその厳しい苦言が激賞の真実味をも父に感じさせた。(74ページ)

曩日は知らず、目下の君はもはや砂中の金ではない。(中略)
一詩集の序文が(刊行に先立ち新聞紙上で) 4回連載で紹介されるなどと言う例はあるのだろうか。(84ページ)


国の存亡の時に遭遇し、熱く心に点火されるのも詩人であるし、石の沈黙を守るのも詩人なのだろう。厭戦詩はあり得ても、反戦詩を書く土壌は父の内部にはなかった。(201ページ)

戦地で父は、われは詩人であるという、一代の矜持をもって、高揚にまかせて戦争を歌ったのだった。自分を捨て、半ば生と死を往来しつつ、澄んだ詩境にあって歌ったのが「海原にありで歌へる」であった。その詩人の中に大いなる幼児がいたのであって、無垢な一介の幼児が詩人だったのではなかった。(中略)
敗戦時の詩を読む限り、私には、苦しみを徹底して苦しまなかったところに、もっと言えば、苦しみを自分の内部において極限まで受容できなかったところに、父の詩の停滞があるように思わずにはいられないのである。(234ページ)

「懲らしめの後」の「懲らしめ」とは何なのだろうか。もしも、原爆の惨事を「懲らしめ」であると言うならば、その認識の欠如に私の心は蒼ざめるしかないのだ。(中略)
このような饒舌な言葉が虚しい「ヒロシマの歌」を書くのならば、詩人は暗い心を抱きつつ、沈黙の中で堪えるべきだっただろう。(270ページ)

父をどんなに意見をしていようと、外からの攻撃に対して、私は毛を逆立てて反撃する猛々しい猫のように変身する自分を知った。(322ページ)

保田氏は最後まで父の理解者として一途に詩人大木惇夫を守ってくださった希有な人であった。父が後に『大木惇夫詩全集』(全三巻)の全解題を保田與重郎氏に委ねるのは当然の選択であったろう。それについてはこれからの章で触れていかなければならないが、手紙に
「作中主人公を包む人生の好意にも大いに打たれました、どちらかと申すと茫洋としたこの世の人情に感動しました、罪の意識や苦の意識よりその方を感じをりました」
と書き送る保田氏の中に浪漫的精神の純粋性をあらためて知らされる。父と保田氏の深い関わりを考えるならば、父の人生や仕事にまつわる不遇や不運もいくらか埋められそうな気がする。(333ページ)

その日印象的だったのは、奈良から来られ、スピーチをされた保田與重郎氏の渋い和服姿、麻の羽織袴姿の格好よさであった。父に紹介され、私は氏の立ち姿の端麗さに見とれてしまった。(392ページ)

それでは、「詩全集」全巻を通して「解題」を描いた保田與重郎氏の大木惇夫論をたどってみよう。(423ページ)

この人は評論によって陶酔を与える稀な才を持っている。少なくとも、第一巻に関してはそう言える。
父の詩集「海原にありで歌へる」は、「大東亜戦争の真実」を知らせるためのものではない。自らが投げ込まれた「戦場での真実」を歌ってはいるが、大東亜共栄圏を理想とする「大東亜戦争の真実」を歌ったものではなかった。
「海原にありで歌へる」は半分死を体験した生身の人間が歌う戦場の悲劇である。それゆえに、いつも傍に死を実感する兵士たちは心を動かされたのだろう。(中略)
どうやら、保田氏のペンがある自縛に包まれてしまうのは、「大東亜戦争」に対した時のようだ。激烈な文章のようでいて、結論を探してはずむ躍動感が見られない。第一巻の詩論との差異は歴然としている。(424ページ)

したがって、父が受けた保田與重郎氏の共感は、大きな恩寵には違いないが、その恩寵の影にかすかな不幸が潜んでいたようにも思える。保田氏の純粋一徹な気質や張り詰めた美意識、さらには、美を描いてさえ滲み出るあの殺気もまた「悲劇」を想像させる。(427ページ)


著者の宮田毬栄氏は大木惇夫の実の娘で元中央公論社編集者です。この本は時代と恋愛とに翻弄された多情多感な一詩人の伝記であるとともに、中盤以降、著者自身の自伝として、その時々の父親の姿と絡みながら並走してゆくさまも面白い読み物となってをり、かなり分厚く高価な本ですが、叙述の妙にグイグイ引き込まれてしまひました(おかげで喪中のひとときを有意義にすごすことができました)。読売文学賞を受賞した本なので、どこの図書館にもあると思います。機会がありましたらお手に取られることをおすすめします。

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774中嶋康博:2018/08/10(金) 23:55:17
『若い日に読んだ詩と詩人』
 amazon、そして拙サイトにもupした『日本近代詩の成立(2016 南雲堂刊)』の書評ですが、著者の亀井俊介先生のお目に留まり、そのおかげだと思ひますが、このたび『若い日に読んだ詩と詩人』といふ一冊のエッセイの御寄贈に与りました。おそらくこのやうな新刊があったことなど、どなたも御存じないでしょうし、今後も手に取ることはおろか目にすることもない本となるでしょう。なぜって奥付には信じられない発行部数が「限定21部」と印刷されてゐましたから。

 しかしながら、カバーこそ即席デザインですが(愛書家としてこれだけは残念でした)、A5版139pのコンテンツをしっかり印刷・製本されたこの本が、たった21冊しか造られなかったとはやっぱり信じられない。不審に思ひつつ早速「あとがき」に目を通すと、中身の文章7本のエッセイのいずれもが、亀井先生がアメリカに留学される前、東京大学大学院時代に友人と興した文芸同人誌『状況』『浪曼群盗』等に発表した、1958年当時の執筆にかかる“若書きエッセイ”をまとめたものであるということ。そして昨年まとめられた『亀井俊介オーラルヒストリー(2017 研究社刊)』の、謂はば余勢をかった副産物として、岐阜女子大学大学院で教鞭を執られた亀井先生をかこむ英米文学愛好サロンの人々により、その強力な要望に応へるかたちで作成されたプライベートプレス本であるらしいといふこと。
 本書のかうした成立事情、つまり超稀覯本ができた理由と、タイトルとなった「若い日に読んだ詩と詩人」の背景、当時の同人誌をめぐる興味深い懐旧譚とが「あとがき」に綴られてゐました。僅かに十数冊が届けられたと思しきそのうちに、ゼミ生でも教へ子でもなかった私を選んで頂いた幸せをかみしめた次第です。

 さて、であるならばです。さきの書き下ろしの大著『日本近代詩の成立』の冒頭で、亀井先生が日夏耿之介の『明治大正詩史』を引き合ひに出して述べられた若き日の詩観のこと、芸術派だけでなく難解な現代詩に対しても飽き足らぬ思いを詩作者として抱いておられたといふ当時の先生が、その時点のその立場で、いったいどんな文章を実際に書いてをられたのか、これは興味深いことです。読みはじめて、前半の日本の抒情詩について論じられた部分、「立原道造」、「津村信夫」、そして四季派の末裔変種として戦後、発芽しただけで熄んでしまった「マチネ・ポエティク」を論じた3本に早速瞠目しました。

 例へば立原道造の項では、「僕はこのごろレトリックなしになりたい」との告白を「彼の心の謙虚さをあらわしたにすぎない」と喝破。そして津村信夫については、西欧に夢見た物語から妻の在所を通じて日本の(信州の)物語に回帰してゆく過程で、語り部として「触媒のような存在になって」しまった詩人に対して食ひ足りなさを表明し、「たとえば堀辰雄が隠しもっているような果敢さはほとんどないといってよい」と言及。また彼が「自然、自然」と言ひながらも「自然美ということには大して関心を示さなかった」と、立原道造との差異を指摘された条り、などなど。

 「露骨な反感の表現は反省する」と回顧された「マチネ・ポエティク」論のなかで「生活が詩の言葉の一つ一つを徹底的に鍛え、その上で詩は生活から独立した詩的価値を持つはずだ」との詩観を開陳されてゐる亀井先生ですが、60年前の当時、新進気鋭だった同時代人、大岡信や田中清光といった人々が、これらのエッセイを読んだかどうかわかりません。ですが、私が詩を書き始めたころ、彼らの評論を通じて再確認することのできた、四季派と呼ばれる詩人たちの生理について、詩作者として悩み、進路を模索してをられた若き日の亀井先生が、同じく彼らの詩に魅力を認め、その問題点とともに探ってをられたといふこと。「自身の詩的態度の検証のために書いた」と仰言るエッセイに、それが、短くも的確に分かりやすく説明されてあることに吃驚しました。そして、これまで多くの関係論文を読んできた私ですが、半世紀以上前の創見に瞠目の思いを新たにし、この3エッセイを“若書き”だからという理由だけで、たった20人に供するだけでは、あまりにももったいないのではないかと思ったのでした。

 「四季・コギト・詩集ホームぺージ」という名前のサイトを開設し、四季派や日本浪曼派に括られそうな詩人たちの詩と詩集の紹介にいそしんできた私ですが、これまで立原道造・津村信夫(そして伊東静雄)といった中心人物については、あまりにも多くの論者によって分析的研究がなされてきたこともあって、生中なコメントを書くことが躊躇はれ、これまで正面からコメントすることを避けてきました。亀井先生のこれらの文章を、許諾を得て全文を紹介させて頂くことが出来たのは、まことに名誉なことで、これまで「四季」の名を冠しながら彼らに言及してこなかった拙サイトの正に両眼に点晴を得たやうな思ひもしてゐるところです。

 各原稿の転載を快く許諾くださった亀井俊介先生、そしてこの本を企画して作ってくださった犬飼誠先生、日比野実紀子さんに深甚の謝意を表します。ありがたうございました。

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775中嶋康博:2018/08/27(月) 09:52:05
大垣漢詩人展墓
現在調査中資料に関り、大垣の先賢に御挨拶。午後は関西からみえた先生に就いて調査資料を陪観することが叶ひ眼福の至り。吾が古本狂時代の先輩コレクターとの面晤もはたして傾蓋故の如く誠に楽しい有意義な一日をすごしました。華渓寺の御住職ならびにむすびの地記念館の学芸員様にも深謝です。ありがたうございました。

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776中嶋康博:2018/08/28(火) 03:24:33
田中克己日記 1965
【田中克己文学館】に「田中克己日記 1965年」の翻刻をupしました。

 最近ニュースで東京医科大の「差別入試」問題が炎上しましたが、運営が鷹揚だった昔の私立大学の内部事情など、当時の関係者の日記を覗けばいくらでも見てとれるやうに思ひます。
 田中先生の日記を翻刻しながら嬉しく思ったのは、そんな当時でも、お金には潔癖な様子が窺はれるところでした。
 しかしながらこの日記も昭和40年代に突入。関係者の多くが存命人物となるこれより先、個人情報を大幅に割愛してゆかうと考へてをります。御了解ください。

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777中嶋康博:2018/09/09(日) 16:51:50
重陽
現在翻刻着手中の、大垣藩臣河井東皐(1758 宝暦8年〜1843 天保14年)の写本詩集から。


 重陽上養老山

雲裡登高古佛龕
境移盧岳藹烟嵐
飛流直逐青蓮跡
泛酒兼開黄菊潭
養老況逢佳節會
交歓何厭醴泉甘
休嘲狂態頻傾帽
風是龍山自澗南
         養老山南有龍峰※4

重陽、養老山に上る。

雲裡に登高すれば 古佛の龕
境は盧岳に移る 藹烟の嵐
飛流は直ちに逐ふ 青蓮の跡※1
酒に泛べるに兼て(前もって)開く 黄菊の潭※2
養老 況や佳節の會に逢はんとは
交歓 何ぞ厭はん醴泉の甘きを
嘲けるを休めよ 狂態 頻りに帽を傾けるを※3
風は是れ龍山 澗の南よりす

安永十年(1781)九月九日の作と思はれ、23歳の作です。

※1青蓮居士(李白)の詩「望廬山瀑布」の「飛流直下三千尺」を踏まへる。
※2酒に菊花弁をうかべた陶淵明を踏まへる。
※3龍山の宴にて孟嘉が落帽した重陽の故事を踏まへる。
※4養老山南に地元僧龍峰が住んでゐた事に掛ける。



もひとり大垣藩臣の野村藤陰(1827 文政10年〜1899 明治32年)の詩集から。
河井東皐からは随分後輩にあたる人ですが、こちらの宴は鉄心先輩が居ないもののメンバー豪華すぎ。
嘉永三年(1850)の作でしょうか。とすれば東皐と同じく23歳の作です。

重陽日。
凉庭新宮翁、拙堂先生の為に都下名流を南禅寺順正書院に招く。先生携ふるに諸子を従行して往く。煥(藤陰)亦た陪す。
是日会する者。中嶋棕隠、梁川星巌、牧贛齋(百峰)、紅蘭女史、池内陶所、牧野天嶺、佐渡精齋諸子也。七律一章を賦して之を紀す。

不用登高望古関
且陪笑語共懽然
同時難遇文星聚
令節况逢晴景妍
烏帽白衣人雜坐
黄花緑酒客留連
龍山千古傳佳話
孰與風流今日筵

登高を用ゐず 古関を望むに
且く陪笑す 共に語りて懽然たり
同時に難ひ遇し 文星聚まる
令節 況んや晴景の妍(うつく)しきに逢はんとは
烏帽※白衣※ 人は雜坐し
黄花 緑酒 客は留連す
龍山 千古 佳話を伝へ
孰れか風流今日の筵を與にせん

※前述龍山の宴にて孟嘉が落帽した重陽の故事と
※陶淵明が白衣の人より酒を送られた故事を踏まへる。


9月9日は重陽の節句ですが、新暦だとやはり七夕と同様霖雨にたたられますね。
本日美濃地方は曇天。旧暦の9月9日、今年は新暦10月17日とのことです。(写真は台風が来る前の長良川)

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778中嶋康博:2018/09/20(木) 19:54:56
『詩人一戸謙三の軌跡』第七集
津軽の一戸晃様より『詩人一戸謙三の軌跡』第七集をお送りいただきました。
今回、「『自撰一戸謙三詩集』収録詩篇をめぐって」と題して、本サイト上に揚げた文章を裁ち直し加筆・編集したものを掲載して頂きました。
御遺族が編集される文集の一部として拙文が収められるに至ったことは、名誉にして嬉しく、追ってこちらにても公開する予定です。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『詩人一戸謙三の軌跡』 の、これまでの軌跡。

第一集 平成28年11月3日発行
詩人 一戸謙三 1-4p
第1篇 「雪淡し (少年時代1917-1918)」 5-38p
第2篇 「地方文化社(福士幸次郎との出会い 1923-1926)」 39-76p
第3篇 「那妣久祁牟里:なびくけむり(齋藤吉彦との出会い 1929-1931)」 77-104p

第二集 (1926-1943) 平成29年4月25日発行
方言詩人 一戸謙三 1-9p
第4篇 「津軽方言詩集(「茨の花コ」から「悪童」まで)」 10-39p
第5篇 「津軽方言詩集『ねぷた』」 40-77p
第6篇 前期「芝生」(同人誌) 78-95p
第7篇 「月刊東奥」方言詩欄 96-113p
第8篇 後期「芝生」 114-139p
付録 追悼一戸れい(詩人長女) 父謙三の思い出 140-162p

第三集 (1930-1934) 平成29年8月18日発行
第9篇 総合文芸誌「座標」と超現実の散文詩 3-32p
第10篇 詩誌「椎の木」と錯乱の散文詩 33-42p
第11篇 津軽方言詩人一戸謙三の誕生 43-66p
資料 一戸謙三の「日記」抄 昭和8年〜9年 67-129p

第四集 平成29年9月30日発行
第12篇 「黒石」と詩人一戸謙三 (1920-1922) 1-122p
  プロローグ
  1.出生地(石黒町上町)
  2.美濃半(長谷川菓子店)
  3.流転の頃
  4.闇五郎
  5.Sさん(佐藤タケ)
  6.黒石文壇と文芸の集い
  7.黒石高等小学校代用教員
  8.一葉の便り
  エピローグ

第五集 平成30年2月10日発行
第13篇 「東京」と詩人一戸謙三? 慶応義塾大学医学部予科生の頃 (1918-1920) 1-106p
  1.東京と弘中生 一戸謙三
  2.慶応義塾大学医学部予科生 一戸謙三
  3.石坂洋次郎の浪人時代

第六集 平成30年6月23日発行
第14篇 「東京」と詩人一戸謙三? 農商務省商務局商事課雇員の頃 (1922-1923) 1-106p
  1.農商務省商務局商事課雇員
  2.雇員の頃、詩作
  3.雇員の頃、周辺の人物
  4.再度の都落ち

第七集 平成30年9月15日発行
第15篇 敗戦前後と詩人一戸謙三 国鉄五能線での往来の頃? (1943-1945) 1-78p
  1.敗戦間際の詩篇と建物疎開
  2.敗戦後の詩篇と列車往来
  3.詩人の復興
  4.弘前での単身生活
『自撰一戸謙三詩集』収録詩篇をめぐって(中嶋康博) 79-92p
『自撰一戸謙三詩集』寄贈本の顛末(一戸 晃) 93-107p
おわりに 108-109p

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779中嶋康博:2018/11/08(木) 00:58:40
『詩人一戸謙三の軌跡』第8集
津軽の一戸晃様より『詩人一戸謙三の軌跡』の第8集の寄贈に与りました。

第八集 平成30年11月3日発行
第16篇 戦後(昭和30年前後)と詩人一戸謙三 国鉄五能線での往来の頃? (1952-1961) 1-120p
  1.続弘前での単身生活(昭和27年) (1)富田大野 (2)松上町への転居
  2.孫と母(昭和29年)(1)孫の誕生 (2)母の死
  3.退職(昭和31年) (1)弘前市立第一中学校(2)「一中生徒の歌」(3)一戸先生の想い出(4)昭和三十年度弘前市立第一中学校二年四組(5)「當用日記1955(昭和三十年の日記)」
  4.福士幸次郎詩碑除幕式(昭和32年) 特別稿「福士幸次郎の遺墨を巡って」(1)詩碑(2)詩碑除幕式(3)除幕式の人々(今官一・齋藤吉郎・平川カ)
  5.「連」(昭和13年から16年、34年) (1)「連」と一戸謙三(2)「連詩集椿の宮」(3)書評(4)一戸謙三詩集「椿の宮」出版を喜ぶ会
  6.青森県文化賞受賞(昭和35年)(1)授賞者の決定(2)授賞式
  7.弘前詩会(昭和34〜36年)(1)弘前詩会と一戸謙三(2)詩会リーフレット(3)詩「習作」
おわりに 121-124p

著者・編者・発行者:一戸晃
連絡先〒038-3153 青森県つがる市木造野宮50-11


今回は昭和27年から36年まで。
写真の数々にみとれてをります。詩人のお母さんはやはり美人だったこと。また当時の同僚・生徒たちが遺した印象記にも、詩人の人となりが、詩友からのものとは異なる教育者として髣髴してゐます。

(前略)勤めて数か月たったころ、初代校長先生が一戸謙三先生という詩人をつれて来た。我々の父親ぐらいの年配で、痩せて背が高く、いつも黒いマントを着て歩く飄々とした人物である。校長の話では、一中には勿体ない学識のある有名人だそうだ。年寄りだと思っていたら、卓球の試合でこっ酷く打ち負かされたことがあった。この先生が一中生徒の歌の作詞者であり、これに猪股徳一先生が作曲して、皆でいろんな場合に歌った。そしてやがて数年後、一中校歌となった。(後略)」 (『記念誌』「創立当時の思い出」九代校長 境辰五郎)

教へ子を集めて「りら・そさえて」といふ文芸研究会で『偽画』といふ雑誌を出してゐたとのことですが、『偽画』は(詩人が知ってゐたかどうか分かりませんが)、立原道造たちが一高時代に興した同人誌と同名ですし、インスパイアされたことを記してゐる「ぐろりあ・そさえて」は、戦時中に日本浪曼派関係の本を棟方志功の装釘でたくさん刊行してゐた出版社です。
斯様なネーミングを敢へて行ってゐるのは、言ってみれば戦時中は翼賛運動にコミットしなかった彼が(『聯』との絶縁理由もそこにあったのを今回知りましたが)、戦争が終はったら左翼になって威張るのではなく、むしろ今度は無念の死を遂げた先師福士幸次郎をフォローし(遺墨展・詩碑の周旋は主に彼の功による)、戦前抒情詩との縁を大切にするといふ、彼らしい確固たる中庸の態度を、図らずも示してゐるもののやうな気がしたことです。もちろん八戸の村次郎の「あのなっす・そさえて」といふネーミングも念頭にあったでしょう。

連詩へ傾倒を深めてゐた当時、現代詩なるものとの対決すべく、

「その昔みたいに大いに論争(昭和10年、津軽方言論争)をやりたくなる。」

と意気込みを書き記している条りも面白く、と同時に、

「彼らの作品を、わたしの仕事とならべてみると、わたしはもはや古色蒼然たるものがある。」

と白状してゐるところは、その昔のライバルたる「プロレタリア詩」が脆弱な思想性をよりどころにしてゐて負ける気がしなかったのと違ひ、この度のライバル「現代詩」には戦後民主主義がバックについてをり、さすがに老いや、気おくれを感じさせます。
思ふに晩年の彼が連詩と並走して書きはじめたシュールレアリズム詩ですが、自覚的に時代精神と対峙してきた彼が、若き日に「索迷」で示したところの疾風怒涛的発揚によって書かれた詩作とは異なり、「若い者にはまだまだ負けんぞ」といふ、アプレゲールに伍せんとする気概が多分に感じられる作物だったのかもしれません。

一方では、自ら先鞭をつけた筈の方言詩の分野で、詩友高木恭造がマスコミジャーナリズムにとりあげられ、その分野の一人者になってゆく。
日記でも彼についての記述が増へてゆくらしいですが、もちろん喜ばしいことであるにせよ、複雑な心境も思ひやられました。

後半には福士幸次郎の遺墨展(併せて彼が応援した菊池仁康の選挙運動)のことや、詩碑の話題が収められています。
一戸謙三とおなじく福士幸次郎の弟子を自称した今官一ですが、何度も破門されたといふ先師について回想する彼と、その彼を評した謙三の言葉。
片や上京して人気作家となり、師と距離を置いた後輩。片や故郷に戻るも、ひき続き師礼を執り続けた先輩。
今官一が一戸謙三について書いた文章があったら読みたいところですが、二者の関係につき、高木恭造の場合同様、いろいろ忖度するところがありました。

そして最後に「連詩」のこと。
『一戸謙三詩集』には収録されていないので、書影とともに今回抄出された詩集『椿の宮』詩篇を興味深く拝読しました。

 秋風の碑

秋風の碑門とざす白菊の花
求めなく夕をひらけ
散れる世はまた止めまじ
父のこゑ月にあらはる

過ぎし道かすかにけぶれ
澄む顔に空はうつりぬ
砂指を去りて跡なし
すがしさを立てる碑(いしふみ)

啼ける鳥こだまに去れり
なかぞらに薄れゆく雲
慰めよ落葉は朱(あか)し
亡き父は秋風にあり

たよられて萩に声あり
旅かくてさらされし身か
たたずめば空かすかなり
珠いだきて秋に立たむ

戦時中の疎隔は措き、その刊行を祝って賛辞を寄せてくれた佐藤一英の一文も、東海地区の私にはうれしく、また出版記念会の写真に岐阜女子大学の国文学科教授であった相馬正一先生(退職後2013年没)や、田中克己先生の初期モダニズム時代の詩友である川村欽吾氏が映っていたことにも驚いたことです。


ここにてもお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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780中嶋康博:2018/11/08(木) 13:52:43
【くづし字の解読と訓読】
現在、江戸後期の大垣漢詩人の草稿紹介に関り取り組んでをります『地下十二友詩』の序文ですが、これ以上の解読進展せず、音を上げてをりました。
くずし字と訓読につき、ひろく訂正の御指摘・御教示を仰ぐことといたしましたが、このたび斯界の碩学より有難いご教示を賜りましたので、まづは御報告の上さきの依頼を撤回させていただきます。

※以下にこのコピーを取得するにあたって、原資料を所蔵する関西大学図書館へ提出した複写のための理由説明書を掲げます。



小原鉄心が江馬細香たちと起こした詩社「咬菜社」。その同人および大垣藩内で、鉄心が詩の交りを訂した人々の姿を詩業から回顧しようとした『地下十二友詩』という未完の著書について、中村規一氏が『小原鉄心伝』(明治43年)のなかで記した条りは次の通りである。


「すなはち「起こすべからざるの友と一室中に会して、以て旧憾を慰む」との意より、野村藤陰、菱田海鴎とも謀って、江馬細香・菱田毅齋、戸田睡翁、鳥居研山、宇野南村等の詩稿を輯録して一々これが小伝を付し、市川東巌(藩の輯録方)をしてその肖像を画かしめ、一書をなし『地下十二友詩』を編せんとす。材料の蒐集、体裁上の統一、詩稿の校正、一に鉄心の主宰せる所なり。これに費やしたる苦心と努力とは、その関係書類のみを集めたる一書庫に見るをうべし。然るに故ありて出版を果たさず。材料も大半散佚したるは惜しむべし。」(『小原鉄心伝』33p)


このとき散逸したのは「材料」だけであったが、『地下十二友詩』の稿本自体は、その後『濃飛文教史』を執筆する際の参考文献として、著者伊藤信氏の有に帰し、「藤信」「竹東(伊藤氏の号)」の印を捺されたものが関西大学図書館に所蔵されている由である。


その12人の友のうち、蚤くに亡くなった大垣藩臣の河合東皋および木村寛齋の詩稿を、平成28年オークションに現れた際に落札した。さきに紀要『岐阜女子大学地域文化研究』34号にて紹介した戸田葆堂の日記『芸窓日録』と同じ出品者であった。


河合東皋の稿本は第二集、第三集といふ具合に本人手づからまとめあげられたもので誰の手も入って居ない未完詩集と呼んでよいものである。また木村寛齋の詩稿は幾編にも分かれており、それぞれに後藤松陰による批正と感想が記された添削指導版というべきものであった。尚且つ44才で亡くなった彼のために、十八(とし)歳が離れた若き鉄心が選詩し、謹飭な楷書で清書した『寛齋遺稿』一冊があり、嘉永元年三月七日付で小野湖山の朱批が施されている。


鉄心が『地下十二友詩』のための資料収集を心掛けたのは、もちろん執筆を期して以後のことであったと思われるが、これらがそのための「材料」であった可能性は高い。『寛齋遺稿』が若き日の彼によって編集されていることは、藩内一の詩人であり有路の人でもあった小原鉄心のもとに、早くから好事家の遺文が集まり、また彼もそれを大切に保管してきたことを窺はせる。


ここに関西大学図書館に依頼して禁帯出資料『地下十二友詩(配置場所:総合図書館(特別文庫)請求記号:L23**900*612 資料ID:206577869)』について複写を取り寄せ、河合東皋、木村寛齋の項目に記載された小伝と収録詩を、他の「十二友」中の位置づけとともに調査確認することとした。

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781中嶋康博:2018/11/13(火) 20:47:14
『感泣亭秋報』13号
小山正見様より『感泣亭秋報』13号をお送りいただきました。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
山崎剛太郎先生の紀寿のお慶びを申し上げます。
このたびはその祝賀の意を込めての「特集?」。感泣亭例会での談話録がとにかく愉しい。

(前略)おやじがね、「おい、おまえ小山くんとはあまり附き合わん方がいいぞ」(笑)と、注意を受けたくらいでね。注意を受けたけれど、ただ友情は深まるばかりで、ずうっと。向うは弘前の高校、僕は早稲田、それでも帰って来れば、必ず会って。(中略)
その頃、僕はある女性に失恋しまして(笑)本当にがっくりして、もう死んじゃおうかと思って、俺、もう死にたいくらいだよ、と。そしたら小山くんが何と言ったか。「死ね、死ね」って(笑)。そう言われると、こんちきしょう思って(笑)、おかげさまで今日まで生きて来ました(爆笑)。で、小山くんとはそういうふうにしていたけれど、彼の話は実に何と言うか変化に富んでいてそれでよく人の話を聞いてくれるので、僕にとって非常に楽しかったですね。(後略)

「特集?」は詩集『山居乱信』について、常連寄稿者である高橋博夫、小笠原眞、近藤晴彦3氏の評論を集めたもの。
そして毎年一冊ずつ連載を続けて来られた渡邊啓史氏による最後の第8詩集『十二月感泣集』の解説が34ページと充実してゐます。
これまでの相馬明文氏による弘前高校時代の文章の発掘、蓜島亘氏による出版界を渡り歩いた詩人に関係する書誌探訪と並び、小山正孝研究を掲げる雑誌の趣旨を一番に体現した文章としてこのたびも印象に残りました。


 さて「私の好きな小山正孝」で、藤田晴央氏が初期詩篇から詩人のキーワードに「悔い」を挙げられたこと。それまで戦前四季派の詩情として公認されてゐたのは、「鬱屈」を押し殺し「含羞」「諦念」への道を辿るものが多かったのに、「鬱屈」から一転、行動を経て「悔い」にたどり着き、これを抱き続けたことが「四季派第2世代」としての小山正孝の新機軸であったかと思ひ当たりました。

 そのあとで「いつも傍に置く詩」として、石井眞美氏が挙げられた「願い」といふ詩には、


塀を支えてゐるものが 外からも内からも


私自身なのだと気がついて


私は自分の哀れをにくみはじめ


いまの私は 塀にぶつかって


こはしてしまひたいと思ってゐる  (第2詩集『逃げ水』所載、抄出)


 と書かれてゐるのですが、或ひは実生活において壊してしまったことは(それが想像の上に止まるものであっても)「後悔」として詩に取り込まれていったかもしれませんが、詩人は一方で、詩の創作法としての「塀」については、これを壊すつもりはなかったのではないか、と思ってゐます。


 それが渡邊啓史氏が『十二月感泣集』を説明する際に着目した、詩の内容・構成において試みられた「対照」にも現れてゐるのではないでしょうか。渡邊氏は“「枠構造」を好む詩人”とも書いてをられますが、盆景からヒントを得たと謂はれるそのもとには、やはり四季派が着目し大切にしてきた「構造の上で詩が持つべき規制(プレッシャー)」を、どのように設けていったらよいのか、詩人独自の工夫が最後の詩集にも表れてゐるのだな。さう思ったことでした。


 詩人小山正孝は生涯に八冊の詩集を遺した。第一第二詩集の孤独と鬱屈も、第三詩集の不安と恐怖の中の愛も、第四詩集の奇想、第五詩集の寓話的世界と第六詩集の沈鬱も、また第七詩集の平穏な日常も、それぞれの季節に於ける詩人内面の風景を映すものである。

 第八詩集には、これらの詩集に現われた主題を小さな模型として、随所に見出すことが出来る。その意味で、第八詩集は詩人内面の、さまざまな季節に於ける総ての風景を一望のもとに展望する庭園だろう。


『全詩集』の解題をものされた渡辺氏ならではの至言と感じ入りました。



併せて比留間一成氏の逝去(2018.3.4)に御冥福を祈り、立原道造の同人誌時代を個人誌「風の音」にて追跡して来られた若杉美智子さんの御恢復を祈念申し上げます。

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「感泣亭秋報」13号 目次 (2018年11月発行)

特集? 山崎剛太郎さんの100歳を寿ぐ
 山崎剛太郎(再録) 小山正孝4p
 花咲ける字幕の陰に 山崎剛太郎7p
 フランス文化の先達─山崎剛太郎さんの100歳を祝って 菅野昭正10p
 小説家、詩人そして翻訳家としての山崎剛太郎先生 神田明14p
 詩誌「午前」創刊と山崎剛太郎さんのこと 布川鴇17p
 憧れ続ける、ということ─山崎剛太郎さんの「詩的恋愛」について 青木由弥子21p
 隣村の剛太郎さん 木村妙子28p

談話:山崎剛太郎、語る─感泣亭での談話から 山崎剛太郎32p
作品:CATLEYA─ブルウスト幻想(再録) 山崎剛太郎44p
山崎剛太郎の出発 渡邊啓史47p

特集? 詩集『山居乱信』を読み直す
 小山正孝詩篇「秒針」を読んで 高橋博夫52p
 詩集「山居乱信」にみる愛のかたち 小笠原眞54p
 『山居乱信 』再考 近藤晴彦60p

模型の詩集─詩集『十二月感泣集』のために 渡邊啓史69p
情熱の詩誌─第二次「山の樹」をめぐって 永島靖子103p
中学生と弘前高校生の小山正孝を想像する─太宰治にも触れて 相馬明文109p

感泣亭通信
 死線をこえて─近況 若杉美智子113p
 「かなぁ、というふうに」の危うさ 渡邊俊夫114p
 「東京四季」と小山正孝 瀧本寛子、116p
 復刊「四季」と「季」 舟山逸子118p
 軽井沢高原文庫 大藤敏行119p
 軽井沢の文学世界 塩川治子120p
 「小久保文庫」と「自在舎」 櫻井節123p
 田中克己の日記 中嶋康博124p

詩:突然ですが 山崎剛太郎126p
  海よ 大坂宏子128p
  冬の散歩 中原むいは131p
  雪を 里中智沙132p
  再訪 森永かず子134p

私の好きな小山正孝
 <悔い>を抱いた詩人への共感 藤田晴央136p
 いつも傍に置く詩 石井眞美138p

彼との関係─比留間一成集『博物界だよリ』(再録) 小山正孝139p

常子抄 絲りつ141p
坂口昌明の足跡を辿りて3 坂口杜実142p
鑑賞旅行覚え書3 恥の掻き寄席 武田ミモザ156p

小山正孝の周辺7─穏田時代の小山正孝 蓜島亘158p
感泣亭アーカイブズ便り 小山正見173p (雑誌についての連絡先moyammasamia@gmail.com)

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782中嶋康博:2018/12/05(水) 16:41:38
宮田佳子様のこと
宮田佳子(みやたよしこ)氏が今夏7月21日、御自宅にて老衰で亡くなられてゐた由(87歳)、喪中はがきにて知り、本日御仏前へ焼香に上りました。


昨年は、翻刻成った戸田葆逸の日記抜刷をお送りしたところ、御実家の菩提寺である大垣全昌寺に働きかけて下さり、御住職より戸田葆逸の墓碑につき御教示をいただいたのでありましたが(野村藤陰の娘婿である戸田鋭之助の次男の嬢が佳子氏)、御子息の話により、御病気で長患ひをされたのではなかった由を伺ひ、吾が母とひきくらべせめても心なでおろして帰って来た次第です。

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思へば漢詩に関心を持ち始めた2003年の末、職場の図書館に、江戸後期の地元漢詩人である宮田嘯臺の詩集『看雲栖詩稿』の復刻本が寄贈されてあったことから、発行元の御自宅にお便り差し上げのが最初にして、快く在庫を賜ったばかりでなく、以後、嫁ぎ先である宮田家(旧造り酒屋で加納宿脇本陣)に、江戸時代から保管されてゐる「維禎さま(嘯臺翁)」の遺墨類を、たびたび拝見させて頂き、また撮影もさせて頂き、写真を拙サイト上にて公開させて頂いてきたのでありました。


毎度伺ふごとに昔の詩人の紹介に執心する私のことを「若いのに物好きな」と微笑みながら、長話に興じて下さった佳子様でしたが、御自身もまた地元に伝はる狂俳を解読する文芸サークルに所属し、奇特な我がライフワークに対しては応援の声を惜しまれませんでした。


穏やかな物腰の中に旧家の余香を凜と漂はせられた居住まひが忘れられません。


このたび御遺族には、画像公開許可とともに、岐阜県図書館、岐阜市歴史博物館に寄贈・寄託された資料を閲覧したい際には、紹介のお口添えについても引き続いて頂けるとのことにて、寔にありがたく存じます。


現在進めてゐる大垣漢詩人の資料公開事業が了り次第、これら未整理のものを含む資料群についても、精査・考察ができればと考へてをります。


あらためてこの場にても佳子様のご冥福をお祈り申し上げます。


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さて佳子様の曽祖父、野村藤陰については、珍しくオークションに詩稿が現れたので、合はせ紹介いたします。


「正」を乞うてゐるのは(小原鉄心と共に師と仰いだ)齋藤拙堂なのでしょうが、朱筆が入ってをらず、遺稿詩集に収められたものとも殆ど変りがないので、或ひは藤陰本人の許から流出した草稿であるかもしれません。




四月三日、湘夢書屋(江馬細香宅)雨集。長州の山縣世衡(宍戸璣:たまき)、高木致遠、阿州加茂、永郷越前、大郷百穀及び我が加納の青木叔恭と邂逅す。世衡、時に蝦夷より帰る。故に句、之に及ぶ。


霪霖幾日掩柴關。霪霖、幾日柴關を掩ふ。

忽熹高堂陪衆賢。忽ち熹(よろこ)ぶ。高堂、衆賢に陪するを。

今雨相逢如旧雨。今雨(新知)相逢ふ、旧雨(旧友)の如し。

吟筵只恨即離筵。吟筵ただ恨む。即ち離筵するを。

筆鋒揮去紙還響。筆鋒、揮ひ去って紙また響き。

蠻態談來語亦羶。蠻態、談來って語また羶(なまぐさ)し。

此會僻郷知叵数。此の會、僻郷にしてしばしばするは難きを知る。

不妨詩酒共流連。妨げず、詩酒ともに流連するを。


 正(批正を乞ふの謂)   藤陰 生 未定(稿)

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783中嶋康博:2018/12/26(水) 22:28:06
今年の収穫から
〇舟山逸子『春の落葉』昭和53年。
丁度40年前1978年に刊行された第一詩集。今に変らぬ淒楚な抒情は、清潔ではあるけれどせつなさにふたがる気持にさせられる、といった方が合ってゐるかもしれません。
すこしばかり控えめに過ぎる自身の成長エピソードが20代でこんな具合に書けてしまふさびしさ。詩が生涯の心の支へになってしまふ所以であります。
著者とは手紙からやりとりさせて頂いて30年になりますが、我が詩的出発時に温かく同人誌に迎へ入れて下さった先輩詩人の真骨頂を、この年にして初見するとは、遅すぎました。

 不在

死んだ父の枕元で
白いかたまりになって うずくまっていた
ロニィは 小さな箱に入れられ
はるばる大阪まで運ばれてきた
二、三日はおびえたように 何も食べず
水ばかり飲んだ それから
どうしても なにかおかしいというように
私たちの顔をゆっくり見まわすのだ
そして 前足に黒い鼻先をつけて
くうくうと泣く
大阪に来てしまった私たちに抗議するように
くうくうと泣く
そうして泣いていると
父を呼んでいるとしか思えなくなって
せつなく 妹は
その頭をなぜてやりながら
うっすらと涙を浮かべるのだ
突然に父だけがいなくなった家族に囲まれて
ロニィは
父を追いかけて いってしまった
目を閉じたまま 私たちの呼ぶ声に
ゆっくりしっぽを振ってみせながら

ロニィよ
おまえは今も 九州の家の座敷で
父の大きな手に その前足をかけて
ちゃんとお手をしているか
ハムなどもらっているか
ロニィよ 今日も
父を見送った玄関先で
ワンと吠えているか
私たちが ときどき
胸の奥で思い出しては
ひそかに涙をこらえている かつての生活を
遠い空のどこかで
そうして 父と 続けているか


〇冨岡一成『ぷらべん 88歳の星空案内人 河原郁夫』
これまた30年来の友人の新著。斯界の生き字引である河原先生への「聞き書き」をもとに、小説・ドキュメンタリー・エッセイのかたちを借りたそれぞれの「章」と、そして季節ごとの「星空解説」によって構成された、全体がプラネタリウムの如く投影するファンタジーです。

河原郁夫先生はことし米寿を迎える。「八十八=米」のお祝いだけれど、天文ファンには八十八なら星座の数だ。ひそかにこれを星寿のお祝いとおよろこびし、このお目出度いさなかに先生の本を世に送りだせることに、おおきな幸せを感じている。「あとがき」より


〇亀井俊介『若い日に読んだ詩と詩人』平成30年。この本については、別に解説と内容をupしてあります。こちらよりご覧ください。


〇風間克美『地方私鉄 1960年代の回想』平成30年。
〇今井誉次郎(たかじろう)『おさるのキーコ』昭和37年。
ともに道路が舗装してなく、水たまりだらけだった懐かしい昭和30年代の日本の記録。
『おさるのキーコ』は、小学校3年の時、担任の先生から、教室に据えてあった本箱の中から買ふやうすすめられ、選んだ最初の一冊でした。
岐阜県出身の、いかにも綴り方教育畑らしい先生が書いた、日本の田舎くさい子供たちの姿を描いた童話です。


ほかにも
〇吉村比呂詩『白い人形』昭和8年『雪線に描く』昭和10年。飛騨清見村のモダニズム詩人。
〇伊福部隆彦『無為隆彦詩集』昭和36年。書道界に薀蓄一家言ある詩人の自筆詩集200部非売折帖版。
〇深田精一『黙々餘聲』弘化2年刊行、幕末名古屋の漢詩人。茶書にて有名。
〇梁川星巌の処女詩集『西征詩』文政12年正月版。
〇村瀬藤城「天王山(美濃市大矢田)観紅葉之詩」掛軸。

などの古書類を購入しました。年額は20〜10年前の全盛期から較べると1/4以下になりました。

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784中嶋康博:2018/12/26(水) 22:32:29
看々臘月尽。
 さて、書道家の韓天雍先生には、このたび素晴らしい蔵書印を造っていただきました。
 前に「中嶋蔵書」印をプレゼントしていただいたのですが、このたびは旧くからの古本仲間にはおなじみのハンドルネーム「cogito」に漢字を当てた一顆(大江健三郎の小説とは関係ありません)をリクエスト。早速、和本の復刻本に捺印してみました♪ ありがたうございます!

 また、石井頼子様より今年も棟方志功の素晴らしいカレンダーをお送りいただきました。
 去年は般若心経の一節、今年は宮沢賢治と、毎年気に入った絵柄を額に入れ、仏壇に飾ってをります。
 合せて棟方志功の福光時代展「信仰と美の出会い」のご案内もいただきました。
 お知らせかたがたここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 みなさま良いお年をお迎へくださいますやう。本年二月、内艱に丁たり喪中のため、年始の御挨拶を控へます。

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785中嶋康博:2019/01/02(水) 03:14:27
(無題)
昨年二月に母を亡くしました。
喪中につき年始のご挨拶を失礼させて戴きます。



思ひ出す雑煮ひとくち喪正月。


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786中嶋康博:2019/03/31(日) 02:44:20
立原道造の蔵書印
 立原道造の蔵書印「道造匠舎」が捺された『詩集西康省』を入手しました。印顆は詩人の歿後『詩人の出発(1961書痴往来社) 』の扉に使用されてゐて、その後の管理が定かではありません。
 なので題簽を欠き、綴じ糸も切れた先師の処女詩集に対し、悪意を以て捺された可能性は、ないとは言へません。
 加之、『詩集西康省』の著者である田中克己の、津村信夫に宛てた寄贈本を私は所蔵してゐますが、そちらには大きく献呈署名が施されてゐるのです。

 人には何でも自分の都合の良いやうに考へる「防衛機制」といふものが備はってをります(笑)。
 思へば津村信夫宛寄贈本として購入した『詩集西康省』も、奥付に検印がありません。そんな本を著者が『四季』の盟友に寄贈するでしょうか。
 先日も梁川星巌のマクリを、印譜を調べもせず入手してガッカリしたばかり。贋物が横行してゐるのは分かってる筈なのに、騙されたところを更に騙される、世の詐欺被害者を笑へぬ、よくよく懲りない御仁とみえます。
 立原道造の手澤本や手蹟については、これまでも望外の喜びと落胆とを交々味はってきましたが、このたびは如何でしょう。

 以下に挙げるのは、誰に対してでもない、自らにする虚々実々の「防衛機制(言ひ訳)」。論拠は当時の田中克己日記『夜光雲』。昭和13年の日記から、詩集が出来上がって暫くの部分を鈔出してみます。(詩集寄贈先のマークを▲で表してみました。)

九月二十二日(木)
午前中、肥下と製本屋にゆく。午後、松本(※松本善海)と文庫に行き、和田先生(※和田清)に論文をわたす。留守中、大阪の池田日呂志君来訪。詩集(※『夜への歌』)置き行くとのことに明朝反対に訪れる旨電報す。

九月二十三日(金)
宮崎丈二氏宅なる池田君を訪ふ。宮崎氏は春陽会の画を能くする人。美しい画夛く見せらる、江戸前の上品なる人なり。
それより▲池田氏を伴ひ製本屋にて詩集十部受取り、一部を▲宮崎氏にと託す。▲川久保君の留守宅を訪ひ、本日の例会欠席を断る旨の手紙と詩集一部とを託す。
六時より四季の会。三好氏、宇野千代とあり、紹介せらる、美人なり。詩集を▲神西、▲津村、▲神保、▲丸山、▲阪本、▲日下部(※日下部雄一)、▲三好の七氏に渡す(計十冊)。室生、萩原両先生も来会。

九月二十四日(土)
川久保(※川久保悌郎)を訪ね、帰宅、晝寝す。途上萩原先生夫妻来り、先生近よればそつぽ向く。

九月二十五日(日)
夜、肥下と製本屋へゆき十八冊受取りて帰る。

九月二十六日(月)
朝、詩集発送。▲中島(※中島栄次郎)、▲野田(※野田又夫)、▲本庄(※本庄実)、▲興地(※興地実英)、▲五十嵐(※五十嵐達六郎)、▲立野(※立野保男)、▲服部(※服部正己)、▲杉浦(※杉浦正一郎)、▲伊東(※伊東静雄)、▲松下(※松下武雄)。
肥下を訪ね、満州承徳の眞田雅男氏に詩集発送、この送料四十五銭なり。他に東京堂の注文一冊。
保田を訪ね▲詩集十冊を託す。「戴冠詩人の御一人者」を貰ひて帰る。
本日「新日本」の編輯会議の由。紙上出版記念会には保田より萩原、中河の二氏に頼みくるヽ由。僕よりは三好、津村、立原、神保、阪本、草野心 、百田宗治あたりに頼むが良からんと也。
▲中河、▲萩原、▲百田、▲室生、▲船越(※船越章)、▲相野(※相野忠雄)、▲坪井明、七冊。
▲赤川氏に手渡し一冊。合計二十八冊。 ▲小高根二郎▲安西冬衛

九月二十七日(火)
▲石浜先生、▲藤沢桓夫氏、▲小高根次郎君、三冊。計參拾壹冊。
第一書房訪ねしも春山氏留守。▲長谷川(※長谷川巳之吉)、▲春山(※春山行夫)。

九月二十八日(水)
午後印刷屋にゆき検印押す。

九月二十九日(木)
肥下宅にて寄贈の表書す。四九冊なり。

十月一日(土)
▲松本善海に詩集を贈り、肥下の妹▲節子嬢に詩集贈る。

十月二日(日)
▲長野(※長野敏一)を訪ね、詩集を贈る。肥下を訪ね、詩集の礼状を受取る。
中に嬉しきは日夏耿之介氏。「寒鳥」「多島海」「植木屋」の三詩をほめ来らる。斎藤茂吉氏よりも礼状あり。

 9月23日の「四季の会」において、萩原朔太郎・室生犀星と同席したのに、彼らにその場で呈さなかったことが気にかかります。翌日街で見かけた萩原先生にそっぽを向かれたのは、夫人同伴の恥ずかしさからか、それとも詩集を渡されなかった理由を知らなかったからでしょうか(笑)。
 そのときは出来たばかりの7冊しかなく、しかも検印のない本を差上げる無礼を避けたといふことであれば、津村信夫本の奥付の説明がつきます。濡れ染みも、万年筆の字が滲んでいるので、傷んだ後でサインがされた訳ではなささうです。
 そして後日寄贈された、齋藤茂吉や日夏耿之介など49冊の寄贈本における「寄贈者への表書」とはどのやうなものであったか。
 当時のことを田中先生に根掘り葉掘り訊ねておかなかった不明を悔やむばかりですが、わが「防衛機制」は、売り払はれることを予想して詩集本冊には献呈署名がされなかった可能性を信じてゐます。
 立原道造は『詩集西康省』について一筆をものしてゐますが(『四季』昭和13年11月号55-57p)、寄贈本に関する実例に、なほ多く触れたいところです。わが願ひを裏打ちする(打ち砕く)画像情報を求めてをります(苦笑)。よろしくお願ひを申し上げます。

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787中嶋康博:2019/03/19(火) 23:06:54
「『四季』の復刊と復刻」小山正孝
『田中克己日記』昭和42年10月24日に、

「けふ『新潮』にのりし小山氏の文よみしによくなかりし。」

 と書かれた日記ですが、どこが気に障ったのでしょうね。
 先輩を呼び捨てにしたところか、同人名簿の順番か、はたまた四季は新しくなくてはダメだと言ったことか、そのどれもなのか、まあそんなところだらうと思ひますが、正見様の許可を得て紹介させて頂きます。


『四季』の復刊と復刻 小山正孝 『新潮』1967年11月号 p196〜197
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 『四季』が復刊されることになった。丸山?、神保光太郎、田中冬二の編集で、十月中には刊行される豫定である。『四季』は、?


第一次 季刊2册(昭和8年、春、夏)
第二次 月刊81册(昭和9年10月-昭和19年6月)
第三次 月刊5册(昭和21年8月-昭和22年12月)

 それぞれ刊行された。第一次と第三次は堀辰雄の個人雜誌的なものであった。第二次は、創刊號から14號までは、三好達治、丸山?、堀辰雄の編集で、15號から同人制となった。今度復刊される『四季』は第二次のやうに、同人制をとってゐる。

 偶然の一致であるが、近代文學館で、第二次『四季』全册を復刻することになった。同じ年に、復刊と復刻が行はれるわけである。今度の『四季』は第二次の同人を中心として復刊されるので、復刻のことをはじめて聞いた時、話がどこかでこんがらかったやうな感じだった。復刻は一册一册を同一體裁で出すさうである。技術的には相當むづかしい點もあらうが、この方は問題なく進行するであらう。

 一方、復刊は、第一號が10月中に刊行されたとしても、問題はそれからである。

 昨年の2月のある日、雪がちらついて寒い日だったと記憶してゐる。丸山薫に、
「もし『四季』を出すといふことになったら、君たち若い人たちは、それについてどう考へますか」
 と、聞かれた。
「僕たちは、丸山さんよりは若いかもしれませんが、もう、若くはありません」
 丸山は困ったやうな顔をして、
「それはさうだけど。あなたはいくつになったのですか」

 それから、「パノンの会」の話になった。昭和14年に、萩原朔太郎の詩の講義がパノンスといふ喫茶店を會場として何囘か行はれたのだ。パノンスは有樂町の毎日新聞の近くのビルの地下室にあった。
「パノンスの會といふことにするか。スはめんどくさいから、パノンの會がいい。パンの會みたいだし」
 と、萩原が言って「パノンの會」といふ名がついたのだ。その會は、その後、新宿のヱルテルの二階で行はれたこともある。創元選書で『宿命』が出版された頃で、テキストとして、それを使用した。散文詩の一つ一つをとりあげて講義することもあったが、話はいろいろにとんで、手品をしてみせてくれたこともあった。漢詩のこと。絶望のこと。自殺には二つの方法があること。

 講義が終ると、講師の萩原は早口で、
「質問はありませんか、何でも聞いてくれたまへ」と、言って、煙草をスパスパと吸ってゐた。集った20人位の青年男女は、固くなって、みんな講師の顔ばかりみつめてゐた。津村信夫、田中克己が、仕方がないので、質問した。

 昨年の12月、『四季』復刊発起人丸山薫、神保光太郎、田中冬二の名前で次の文面による呼びかけが、『四季』関係者になされた。

「長い間、懸案となっていました『四季』復刊の意向がまとまり、株式会社潮流社を発行所として来春四月から季刊發足することになりました。(中略)
 近時、詩が著しく混亂し、無味乾燥なわけのわからぬものが氾濫して行くところを知らざる現?にあって、詩を求める若い世代の前に舊『四季』の傳統を通した、高い知性と人間らしい抒情の精神を、前向きの姿勢で示すことは、私達舊同人の責務であると信じます。どうか以上の趣旨にご贊同下さってご參加のことを希望します。」

 今年の2月になって、

「『四季』復刊について同人ご參加の旨たまわり深謝にたえません。追々若い世代の加入も考慮いたしますが、とりあえず次の同人をもって復刊出發の、具體的準備にとりかかることになりました。」
「復刊『四季』同人
伊藤整、伊藤桂一、井上靖、井伏鱒二、萩原葉子、堀多惠子、河盛好藏、竹中郁、田中克己、田中冬二、塚山勇三、室生朝子、大木實、大山定一、呉茂一、桑原武夫、山岸外史、丸山薫、小高根二郎、小山正孝、阪本越郎、神保光太郎(発行人)、八木憲爾(事務擔當)、長谷川敬」という報告があった。

 はじめ「春季號」から發刊の豫定であったが、おくれてゐる。新しい雜誌を出すには障害もあるので、出發のおくれるのは仕方がないが、すべり出したら、さういふことがないことをいのる。
 潮流社は、『潮流』といふ綜合雜誌を出した潮流社とは全く別の會社で、海運關係の出版をしてゐるさうである。

 第二次『四季』が長つづきした一つの原因は、刊行者日下部雄一ののんびりした所のある性格によった。少々傳説めくが、彼は編集内容には一切タッチせず、彼の『四季』刊行の熱意は、表紙の文字の色を?號變へて指定することにそそがれてゐた。八木にも、似た所がある。刊行しはじめたら、長くつづけてほしい。

 復刻された『四季』の81册の山を横目に見ながら、第四次『四季』は出發することになるわけである。二十年の空白は、同人の中に四十歳以下の人は皆無といふ、變則な事態のまま出發しなくてはならない。
 『四季』の新生の原動力となったのは、會員の投稿詩であった。今度も會員制度を設けて、會員の詩を募集することになってゐる。いい會員を得ることが出來るかどうかが、雜誌としての発刊の意義を左右することになるであらう。

 ここまでは御報告である。以下に一同人の氣持をのべたい。

 私は復刊といふ言葉は、使ひたくない。新しい同人雜誌をはじめるのだ。今度の『四季』は、正直なところ、すきまだらけである。そして、風當りは強さうだ。「四季派」についてのつめたい論評は、二十年、いやといふ程聞かされて來た。
 『四季』に對する好意的なものに對しても、私は必ずしも同感しない。近代文學館で出す復刻を、一册づつ讀むことで満足して、もう一度、かういふ雜誌を出してほしいといふ程度の『四季』の愛讀者に期待をもって、雜誌をつくるのなら、つくらない方がいいと思ふ。
 時代の動きはもっとはげしい。?史的?況は似てゐるかもしれないが、それは似てゐるのであって、同じではないはずだ。同じにしてはならないと思ふ。
 立原道造は『四季』とは別に、若い詩人だけを糾合して「午前」といふ雜誌を出すことを計畫してゐた。「何時、 『午前』は發刊されるのですか」といふ私の質問に、「『午前』はゆっくりと日本の國に訪れる」と答へた。その約束は果されなかった。
 今度の新しい雜誌を、「午前」といふ雜誌のイメージに近づけるべく、私は私なりに出來るだけのことをしてみよう。(了)

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788中嶋康博:2019/03/27(水) 22:15:16
小説『頼山陽』上中下 (徳間文庫)見延典子
 社会的に皇国史観が否定され、文学的に漢文が敬遠され、頼山陽の名が評判ともに立ち消えた戦後、ふたたび江戸時代の漢詩の面白さという点から、向学的な読者に向けて彼の名にライトを当てたのは、中村真一郎と富士川英郎という外国文学に明るい、抒情を解する文学者たちでした。
 この小説では、さらに漢詩に疎い(あるいは興味のない)読者にも、この人物の面白さを知ってもらおうと、その曲折の人生と時代離れした人間性とが、現代ドラマ仕立てで描かれています。遺された膨大な資料に基づいて史実を忠実になぞりつつも、民主主義思想を大胆にとりいれ、会話の端々にもそれを表すことで、頼山陽という人物に新しい命を吹き込もうとしています。

 その著書である『日本外史』については、ハイライトの場面を紹介するだけでなく、その意義についても説かれています。
 硬直化した徳川封建社会をゆさぶる為に書かれた執筆動機を評価する一方で、作者の思惑を超え、動乱期の志士たちを刺激して明治維新が実現したこと――これは最後の章でふれられていますが、中央集権国家が成った以後の「頼山陽像」については「曲解」と断じています。
 さらに踏み込んだ民主主義な評価を下すため、彼に、
「誤解なきよう申し述べておきますが、わしは天皇家を称賛しているわけではありません。」下巻35p
と言わせ、その歴史観にみられる名分論(身分を弁える大切さ)を、倫理的な側面(盲従ではないこと)とともに強調し、皇国史観自体への執着はなかったのだとするあたり、そして『日本外史』を貫いている勤皇思想を、とどのつまり彼をここまで育ててくれた、父を頂点とする家族親戚に対する感謝の念によって発動させたところなどは注目されます。
 それもまた好意的な一種の曲解なのかもしれません。が、文中で著者自ら示しているように、彼の取り組んだ問題が「歴史という波濤に呑みこまれ、今も洗われ続けている」証拠でもありましょう。

 作品としては、主人公へと同じくらいの感情を注ぎ込み、彼を支え彼を成長せしめた家族親戚の面々の姿が描かれています。ことにもこれまで歴史家が軽視した、家督相続の身代りに立てられた景譲、聿庵が味わった苦悩、そしておそらく誰も注目しなかった山陽の前妻である淳や、聿庵と深い仲になった下女といった女性たちに対して、目いっぱいの同情が注がれています。
 母梅颸の日記が十全に活用されているのでしょうが、それだけでなく、後妻となった梨影についても、子育てに奮闘する姿のみならず、出身を違えた妻連中に混じっての集い、果ては実家への帰省にまで筆は及んでいます。ライバル江馬細香に対しては、正妻として振舞いにおいても心理戦にも勝ったはずなのに、
「細香が帰った後、山陽の欲望は梨影に向けられるという構図、それを考えると、素直に喜ぶことはできない」414p
と愛憎の機微について踏み込んだところなどは、これは曲解どころか著者の創見にして、読者をうならせる独擅場のように感じられました。

 一方で九州旅行の際には禁欲を守ったとか、魔性のリビドーを<石>と名付けた、こういう解釈の部分は小説として「あり」なのだと思いましたが、食い足りないと思われたのは交友関係についてです。
 親友代表のような形で、田能村竹田のことが丁寧に描いていますが、もっと肴にできそうな篠崎小竹や、後藤松陰をはじめとする弟子たちとのやりとりが意外にあっさり流されていて、三木三郎を託すこととなる梁川星巌夫妻との因縁に言及が少ないのも残念な感じです。
 男同士の会話の殆どが「〇〇殿」と呼びかけられているのですが、登場場面が少ないなら少ないなりに、率直かつ磊落な山陽ならではの、「弟子・同輩・先輩」×「気の置ける・置けない」と、それぞれのパターンで異なった筈の言葉遣いの妙を再現してもらえたら、と思ったことでした。(後藤松陰のことを山陽は「松陰殿」とは呼ばなかったでしょうし、梁川星巌も山陽の弟子ではありませんから師に対するような敬語は使わなかったと思います。)

【現代仮名遣いで書きました。】

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789中嶋康博:2019/03/31(日) 11:34:57
「登龍丸」広告
朝から飲んでた昨日到着し、本年度最後の本日紹介する一冊は『酒中趣』。

以前ロバートキャンベルさんが紹介してて気になってた清時代の随筆集ですが、買へたのは端本。

内容は国文学研究資料館HP上の素晴らしい画像で読むことができるのでupしませんが、下巻は『酔古堂剣掃』より箴言の趣が強い感じでした。


ただ和本として面白いのは巻末の薬の宣伝です。
文学書の末尾に載ってるといへば、雑誌『四季』の「わかもと」が直ちに思ひ起こされるんですが、

当時は本屋が薬屋を兼ねてをり、この「登龍丸」も全国の取次所で扱ってゐた由。

広告の後ろに一覧が載ってゐたので、検索される人もあらうかと草書学習もかねて読み下してみました。

ちなみに刊行元青雲堂の英文蔵(はなぶさぶんぞう)と英大助(萬笈堂)は、ともに館柳湾と関係深い本屋で、新潟出身の兄弟店なんでしょうね。



『酒中趣』清:石成金(天基)撰、日本淀藩:荒井公履(叔禮)校

 青雲堂 英文蔵、嘉永2年2月[1849]発行


此の登龍丸は天下一方我家の秘法にして痰咳留飲一通りの妙薬

なり。譬ば十年廿年痰咳にて込上胸痛立居成がたく又留飲

にて気をふさぎ胸、痛、幾夜も寝事成難も軽き症は壱粒

重きは一巡り、数年来の難症は三巡りも用ゆる時は忘れたる

如く啖を治し、咳を止め留飲は胸を開き、病全くいゆる事

疑なし。是に因て心気の疲れを補ひ気血をめぐらし脾胃を

調へ気力をまし、声を立、言舌さはやかに美音を発し無

病延命たる事数万人用ひ試て其功の大なる事、古今無双

希代不思議の妙薬也。其功、左にしるす。


一、十年廿年喘息 一、労症の咳 一、引風の咳

一、からせき 一、咽喉ぜりつき(ザラツキ) 一、痰飲取詰声出ず

一、痰に血交り 一、痰飲吐きても出ず 一、動気つよく怔忡(むなさわぎ)

一、小児百日咳 一、婦人産前産後の咳 一、留飲にて胸痛

一、留飲にて気塞り 一、此外痰咳溜飲より起る病一切によし

一、音声をつかふ人、時々用ゆる時は声を立る事奇妙なり


抑痰咳の薬、昔より諸の書物にも多く売薬にも所々に有て

引札には痰咳は言に及ず頭痛症にも速になほる様に有。之といへ

ども痰咳溜飲の一病と雖、治し難き者也。然るにこの登龍丸は

年久しき痰咳溜飲にて医療手をつくし百薬を用ゆると雖

治がたき難症にても速に治す薬は、予が家の名法にて万人

を救ふて試るに一人として治せざるはなし。依て天下無双の一奇薬

にて他に類なし。しかしながら其功能速なるといへども下し

薬には無く(これにく)、婦人産前産後に用ひ害なきを知べし。能々(よくよく)

用ひて偽なき名法なるを知べし。尤、外々に紛敷(まぎらはしき)薬多く

候間、包紙[を]御吟味之上、左にしるす取次所にて御求可被下候。


東叡山御用 御書物所 江戸下谷御成道 青雲堂英文蔵製


京都三条通りさかい町 出雲寺文次郎 

大阪心斎橋ばくらう町 河内屋茂兵衛

駿府江川町 山本屋伊左衛門

伊勢松阪市場 道具屋重蔵

阿州徳しま新町橋筋 天満屋武兵衛

土州高知市種嵜町 戸種屋兵助

[虫]く前小倉 中津屋卯助

長州萩本町筋 山城屋孫十郎

紀州若山 内大工町 玉屋要蔵

同熊野宮嵜 角屋善助

奥州仙台国分町 伊勢屋半右衛門
阿為津若松市ノ町 齋藤八四郎

/奥州相馬浪江 大原次兵衛
/出羽山形十日町 大坂屋次右衛門
/信州稲荷山荒町 和泉屋武右衛門
/同松本 藤松屋禎重郎
/同善光寺前 小升屋喜太郎
/同上田 澄屋金五郎
/越後三条 扇屋七右衛門
/同水原 紅屋八右衛門
/下野佐野尺得 堀越常三郎
/常陸土浦 橋本権七
/上州高嵜藤町 澤本屋要蔵
/江戸本石町十軒店 英大助

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790中嶋康博:2019/04/07(日) 15:51:25
『雑誌渉猟日録』
 古本好きのくせに、所謂古本ライターの書いた本を、あまり読んだことがありません。


 理由は自分の好みが偏ってゐるからなんですが、そもそも私が好きな昔の詩集や和本のことについて書く人は、もはや古本ライターといふより専科の好事家であり、書いたものは研究と呼んで差し支へない一文に仕上がってゐることが多い所為でもあります。


 しかしそのやうな研究者が言及するのは、ままテキストとしての資料であって、話題に原質としての書冊が現れることは尠なく、まして収集の苦労話が枕に置かれることなど、まずありません。


 今般、その二者を兼ね備へた新刊のエッセイ『雑誌渉猟日録』(皓星社2019.4刊行)を、著者の高橋輝次様からお送りいただきました。


 本好きの感性に訴へる装釘は林哲夫氏によるもの。その林さんのブログ(daily sumus2)で、いち早く紹介された始めの一章、


  「戦前大阪発行の文芸同人誌『茉莉花』探索─編集人、北村千秋と今井兄弟のこと」5-32p


 が気になり、早速ブログにコメントさせて頂いたのですが、実はその後ろに収められてゐる、


  「『季』に集う俊英詩人たち」49-74p


の末尾には自分の2冊の詩集のことも紹介されてをり、原稿段階で知って直接著者ともお手紙をやりとりさせて頂いたばかりなのに、しばらくは気がつかないで居りました俊英ぶりです(笑)。

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 は、さておき最初の一章ですが、三重県津市出身の詩人、北村千秋が大阪で興した同人誌『茉莉花:まつりか』のバックナンバー探求を通じ、刊行に関はった同人たちのあれこれがまとめられてゐます。


 当サイトでは戦前詩人をテーマに据えたこの一章に絞って、紹介かたがた気のついたところを更に「追記」してゆきたいと思ひます。

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 巻末に【資料編】として載せられてゐる、昭和13〜16年、計43冊に亘るその目次を一覧するに、ですが、毎号の表紙を川上澄生が飾る贅沢さ。(林さんのブログに書影あります。)

 そして北村氏が先生と呼ぶ、美術学者である小林太市郎が、初期から同人中の重きをなしてゐるのが窺はれます。北村氏の詩稿は戦争中、彼が預かってゐたとのこと。


 そして創刊一年目あたりから、外部の寄稿者が誌面を飾るやうになります。


 顔ぶれを見ると、詩人として北村氏があこがれた竹中郁や、春山行夫・濱名與志春といったモダニズム詩人はともかく、なぜか辻潤・卜部哲次郎といったアナーキストが頻繁に筆を執ってをり(原稿料が出たのでしょう)、終刊間際には保田與重郎、蓮田善明、浅野晃といった日本浪曼派の面々が名を連ねます。


 『コギト』同人の中島栄次郎や船越章の名まであって驚きましたが、小林太市郎が京都大学哲学科出身であることから声がかかったのでしょうか。


 岐阜で英語教師となった関西学院英文科の先輩、殿岡辰雄も途中からここをホームグランドにして詩を書いてゐます。彼は第一詩集『月光室』を大阪から出してゐて、同人として参加したやうに思はれます。



 そして『茉莉花』を主宰した北村千秋ですが、どのやうな人物であったのか。


 本書には、大学を出た彼が大阪の十三に仮寓し、この雑誌の編集を、勤めてゐた大阪市役所のなかで、役人向けの教養雑誌を編集する仕事の合間に独りでこなし、広告取りまで行ってゐたといふ逸話のほか、雑誌が紙不足による当局の統合によって終刊させられたこと、同人の青山虎之助に乞はれ、あらたな雑誌『新生』の編集長となるべく上京したこと、そして応召したかどうかは不明ですが、戦後は京都の臼井書房で商業雑誌『人間美学』の編集に携はったこと、さらに帰郷して相可高校の英語教師として晩年を迎へたこと等が、知り得た順番に記されてゐます。


 小林太市郎が預かってゐた詩稿は臼井書房から『哀春詩集』として刊行されます。


 大東亜戦争が始まる前、『茉莉花』に発表された詩篇が集められてゐますが、これを読んだ人は、或は北村千秋のことを、立原道造や津村信夫の影響がいちじるしい、所謂エピゴーネンのはしりのやうに思ひなしたかもしれません。


 しかしながら彼は処女詩集『歴史の扉』を昭和10年に出してゐて、そこにみられるのは幼いながら、『四季』よりは前に知的抒情を標榜してゐた『椎の木』の詩人達の間で流行した、モダニズムの色が濃いコラージュを施した散文詩でありました。


 またさらに溯ること昭和8年、彼はジェイムス・ジョイスの『一篇詩集』を訳出し、いかなる経緯があったものか、椎の木社から刊行してゐるのです。


 『椎の木』アンソロジー詩集のなかに彼の名は見当たらないものの、詩書コレクターの中には北村千秋のことをモダニズム稀覯本の訳者として記憶してゐる人があるのではないでしょうか。


 『茉莉花』に於いてもシーグフリード・L. サスーンの訳詩を試みてゐます。


 思ふに、殿岡辰雄もさうですが、すでに詩集を世に問うてゐる彼らが雑誌『四季』と没交渉だったのは、影響が顕著であったからこそ、今更三好達治の詩道場「燈火言」に投稿などできない事情があったのかもしれません。



 本書には北村千秋と併せて、雑誌の運営を経済的に支へてくれた同郷の素封家、今井俊三・貞吉兄弟の業績についても追跡されてゐます。辻潤などは、今井俊三が自分の詩集『壁』を贈ったことから縁が始まり、津市にある彼らの実家に度々来遊・滞在もしたといひますから、虚無的な影がどれだけ詩想に落とされてゐるのか、高橋さんの云ふやうに『哀春詩集』とともに検証してみたいところです。


 詩集『壁』は、幸ひ現在全文が公開済です。高橋さんは『哀春詩集』では集中の佳品「夜に」を挙げられましたが、高橋新吉の名を挙げた「浮草」をもう一篇。

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(下図参照)


 それから謎として追記したいことがあります。桑名の詩人である平岡潤が、やはり同じ『茉莉花』といふ名前の詩集を出してゐることです。


 雑誌の『茉莉花』は昭16年11月に終刊するのですが、詩集の『茉莉花』が出たのはその直後、昭和17年6月。北村千秋の雑誌運営中、彼はずっと軍隊にあり、もちろん雑誌の『茉莉花』には書いてゐないので、いかなる符合によるものかは分かりません。


 平岡潤は杉山平一と同じく「燈火言」出身者として、『四季』が選定する中原中也賞を受賞したといふことで、北村千秋とは同世代の三重産抒情詩人でありながら“茉莉花”といふ言葉に拘って何やら数奇な事情があるのかもしれませんね。(北村千秋1908-1980、平岡潤1906-1975、殿岡辰雄1904-1977)

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 と、こんな感じで最初の章に関して補遺させて頂きましたが、本書では「本稿を書き終えてから」として「追記」が1、2、そのまた「付記」が1、2、3、4、さらに「註」が、と、次々に探求結果が得られるたび、原稿を書き直すのではなく、どんどん書き足してゆくといふルポルタージュの手法が異例で、(林哲夫さんは「高橋節」と呼んでをられますが)、もはや前提として話がどんどん進んで参ります。


 読みつつ当事者であるかの如く、臨場感が伴ふわけですけれども、それは高橋さんが古書収集において、店売り古書店との触れ合いを大切に、フィールドワークを心がける方であること、インターネットに場を移さず本集めをされる昔気質の最後の世代の方であることと、無縁ではないでしょう。


 後記にも、頂いたお手紙にも「機械音痴でワープロもパソコンも全く」と書かれてありましたが、本書における、効率を求めぬ手書き文章の醍醐味は、正に収書ハプニングの日録および、著者の筆の走り具合にかかってゐます。※1


 得られる古書・雑誌がわからぬまま、テーマはいくつか設けておいて、得られた「本が本をつなぐ」古本アナログネットワークをよりどころに、好奇心を存分に飛翔させ、抜き書きされてゆく。


 古来あった「随筆」の伝統も感じさせる、誤認以外の書き直しを拒むエッセイは、同じ事柄を知ったとしても論文とは対極に位置する読み心地に、得難いものがあります。

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 そしてそんな御縁の一環として、自分の詩集も紹介に与ったかと思へば、これ作者として至上の幸福をかみしめます次第。つまりさきに挙げたところの、


  「『季』に集う俊英詩人たち」49-74p の紹介に移ります。


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 高橋さんとの手紙のやりとりの際に頂いた小冊子『古本こぼれ話』(書肆桴2017.6刊行)の中の一章「わたし流詩集の選び方」に、高橋さんが私淑する詩人を挙げてをられるのですが、竹中郁、杉山平一、天野忠、木下夕爾、井上多喜三郎といった、戦後中央詩壇で流行った「抽象的で難解」な現代詩には背を向けた西日本の詩人たちばかりです。


 そして杉山平一旧蔵書が市場に出たことをきっかけにして、詩人を囲んだ若手グループ、関西の詩誌『季』のバックナンバーに注目がゆき、戦前からの詩歴を持つ清水健次郎を始めとして、備前芳子、杉本深由起、小林重樹、舟山逸子、矢野敏行、奥田和子、紫野京子といった、四季派の流れを汲む同人たちの作品についてコメントがなされ、それぞれの詩集へとたどり着いてゆきます。


 抒情詩との親和性が高いばかりでなく、視野の広い高橋さんの評言を読むのは、なまじいその人を知らぬ人からの読後感だけに教へられるところが多く、何よりお金を出して自分の詩集を買って下さった方が、予断なく読まれての感想に出会ったのは初めてのことであり、ありがたくも誠に新鮮な体験でありました。※2


 さうしてその審美眼に信を置いてゆいことが判ったので、その他の未読の章にて論はれてゐる戦後の諸雑誌についても、現代詩に疎い私が読んでゆけることと思ってをります。

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 『季』の詩人たちの作品に目を留めて下さったことに、あらためて深甚の感謝を添へまして、ここに紹介させて頂きました。



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『雑誌渉猟日録』高橋輝次著 皓星社2019.4刊行。19cm,295p (装釘:林哲夫)

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目次


戦前大阪発行の文芸同人誌『茉莉花』探索 5p


詩同人誌『季』で二詩人の追悼号を読む 33p


『季』に集う俊英詩人たち 49p


関西の戦後雑誌、同人誌を寸描する 75p


戦後神戸の詩同人誌『航海表』の航跡を読む 103p


神戸の俳句同人誌『白燕』を見つける 113p


戦後神戸の書物雑誌『書彩』二冊を見つける 123p


柘野健次『古本雑記―岡山の古書店』を読む 137p


エディション・カイエの編集者、故阪本周三余聞 147p


中・高時代の母校、六甲学院の校内誌『六甲』を見つける! 158p


渡仏日本人画家と前衛写真家たちの図録を読む 183p


【資料編】『茉莉花』『遅刻』『書彩』目次 260p


書名索引 295p


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※註1

田舎暮らしになって以降、私も目録そしてインターネットに頼らざるを得なくなりました。しかしネットによって「古書店と顧客たち」の関係が解け、顧客同士が情報交換はじめるというパラダイムシフトを遂げたこと、10年以上も前の話になりますが、コレクターの頂点を極めた方々とのネット上での出会ひと交歓とがあり、現在も古本詩集の紹介サイトの運営を続ける理由となってゐるやうに思ひます。

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※註2

詩誌『季』には1987年43号〜1989年50号まで同人として在籍し、以降はありがたくも客人待遇と申しますか、引き続き院外団のような形で遇して頂いてゐます。

第4次『四季』が丸山薫の逝去をもって終刊したのち、寄稿者集団が関東の『東京四季』と関西の『季』に分かれて旗揚げをしたのですが、旧『四季』の編集同人だった田中克己が、堀多恵子氏の承諾を得て別に第5次の『四季』として同人誌を興しました(1984年1号〜1987年11号)。

同人の顔ぶれは『四季』といふより『コギト』色の濃いものでしたが、当時25歳だった私が田中先生の門を敲き、最後の11号に滑り込む形で同人になったことを以て自ら「最後の同人」と嘯いてゐる次第です。

その後の発表の場として杉山先生を通じて『季』の先輩方を紹介して頂きました。私一人が関西出身でないのはそのためです。

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791中嶋康博:2019/07/28(日) 13:44:05
「ぐ〜たらサイト アンチポデス」
 「ぐ〜たらサイト アンチポデス」の管理人、スキヤポデス・数寄散人さんのお訃らせを、ZINE『drill』4号をお送りくださったkikuさんよりいただきました。
 ネット上でカンタベリーサウンドの蘊蓄を披露する管理人は、同時に澁澤龍彦や永井荷風、変ったところでマンガ家の根本敬を信奉する耽美文学の見巧者(みごうしゃ)聴き巧者でありました。
 ともに顧客だった鯨書房の山口省三さんと同様の、団塊世代が共有する開放的な不服従の信念を、付設掲示板にも馥郁と香らせておられた数寄散人・スッキーさん。文学の嗜好を異にするため、掲示板上のお付き合いから進展しなかったのですが、私はスッキーさんのことを、高級オーディオや自転車にお金をつぎ込むことのできる、DINKS貴族の愛妻家・愛猫家と思い做しておりました。
 そうして実生活を知らぬままその人柄に甘え、お宅へも寄せて頂き、むかし大好きだったリチャードシンクレアの音源など貸して頂いたこと、あれはサイトを開設して4年ほど経ったころでしょうか、岐阜にまでみえたkikuさんとの歓談の一夜がなつかしく思い起こされます。
 2014年に拙詩集をお送りした際には、山口さんが亡くなっていたことを知ったとて、折り返しメールをいただきました。

【2014.4.16 19:47メールより】
さて、同封の文面にあった「鯨書房さんの訃に接し・・」との文意が分からなかったのですが、貴掲示板を今更ながら読み、余りの衝撃に茫然自失しております。
最近古本全般から足が遠のき、鯨にも一年以上行っておりませんが、あの「山さん」がまさか昨年末に他界されておったとは・・
今更どの面下げて弔問できようか・・と困惑、思案しております。
当方は3年前の夏に大腸がんで入院手術しておりましたが、無事回復しました。余後も順調です。御心配感謝。
そうですか、あの山さんが・・・・

 図書館を退き懐事情も変わり、私もまた鯨書房から足が遠のき、スッキーさんともその後はやりとりも気に留めることもなく過ぎるうち、サイトの跡形もなく消滅していることに気がつきました。昨年春のことですが、メールを読み返せば、或いは病気が再発したのでしょうか。言葉がありません。

 ご冥福をお祈りいたします。

792中嶋康博:2019/08/01(木) 20:57:48
「特別展 詩人・一戸謙三」
 みなさん、一戸謙三といふ詩人を御存知でしょうか。モダニズム詩人たちのメッカ『椎の木』の同人だったこともある詩人で、いまは地元青森にて高木恭造とともに「方言詩人」として認知されてゐます。


 Facebook・twitterで報知済みですが、この夏、青森県立近代文学館にて「特別展 詩人・一戸謙三」が催され、その詩と詩人について私が講演をさせていただくことになりました。


 私は津軽弁がわかりませんので、彼の「方言詩以外の詩」についてお話することになってゐます。


 以下に、時間の関係で省略することになった【前段 詩人紹介】について掲げます(現代仮名遣い)。


 興味を持たれた皆様には『図録』を手にとっていただきたく、またお近くの方にはぜひ特別展をご覧いただきましたら幸甚です。

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【前段 詩人紹介】


「ありがとうございます。さて、この地元でも一戸謙三という詩人は一般には、さきほど申し上げましたように、御当地津軽弁の「方言詩」によって認知されている訳でして、「方言詩」といえば、皆さんもご存じの、高木恭造の詩集『まるめろ』が全国では有名なんですが、本題に入る前に、今日はお話ししないこの「方言詩」に絡んで、詩人としての一戸謙三の評価について、最初に触れておきたいと思います。



 方言詩というのは、方言ならではのニュアンスを声で伝える「朗読詩」であるというところに一番の特徴があります。つまり一般に詩を読むという行為──「詩集」に印刷された活字を黙読する普通の読書とは違って、「朗読詩」を読むという行為には、演劇性があるんですね。それで津軽方言詩が、物珍しい一種の「劇」のように、朗読会やレコードを通じて、地元青森県人だけでなく、津軽弁を解さない都会の人たち、そして日ごろ文学に親しむことのない人たちに対しても非常な注目を集めた、ということがあったと思います。


 高木恭造は、方言詩でデビューを飾った詩人ですが、実はその後はずっと方言詩からは遠ざかっていて、もうすっかり忘れられた頃に、詩壇の外から注目されました。いま申し上げた「朗読詩」によって、東京でカルチャーショック的に有名になり、昭和40年代の、フォークソングを始めとするアングラ文化を担う若者たちの支持を得て、晩年をにぎやかに送ることが出来た詩人でした。


 本日お話する一戸謙三はというと、一緒に彼の方言詩も見直されたということはあったと思っていますが、そういう場を避けて、敢えて「朗読詩」のブームには乗らなかった詩人です。


 そして一戸謙三にしても高木恭造にしても、ふるさとで方言詩が詩碑にまで刻まれるという栄誉をこうむっているんですが、実はお二人とも一連の方言詩とは別にですね、共通語で書いたすぐれた抒情詩と前衛詩とを公にしております。【※】


 このことは、ブームを起こした高木恭造自身が、朗読会の会場で「『まるめろ』以後の作品が全く顧みられない」と嘆いているんですが、みなさんあまりご存じない。



 もっと言えば一戸謙三は、高木恭造とは異なり、そもそも方言詩を書いて出発した詩人ではありませんでした。



 今日はそのことをお話しするわけですけれども、一戸謙三も、詩人としての最初の詩集は、先ほど申し上げましたが方言だけで書かれた『ねぷた』という名前の詩集です。昭和11年に刊行しております。読んで頂いた、「街道端(きゃどばだ)ね埃(ゴミ)かぶて、それでも咲エでる茨(バラ)の花(ハナコ)」という詩。当時の彼は、



「私が方言詩を書くまで十数年の間に、約二百篇位の詩を書いていたが、それらの作品全部と、このつまらない津軽弁の詩の試作とがつり合うとまで考えはじめていた。」


 なんて思っていたそうです。「このつまらない津軽弁の詩」というのは、それだけ自信を以て臨んでいる、という裏返しの表現です。しかし方言詩については坂口昌明先生も「一般読者が合点するには山菜を調理する程度の根気が要るのはやむを得ない」と、認めておられますが、よその地域の人にはなかなかわからない。私も『ねぷた』は友達に譲ってしまいましたし、高木恭造が遺した津軽弁による朗読を聴きましたが、かみしめるような調子に感じ入ったものの、如何せん単語がわかりませんから、それ以上は踏み込めない。やはりそれなりの経験が必要だな、と観念したことであります。




 そしてこれが肝心なんですが、一戸謙三は高木恭造とは違って、それまでに書いてきた、方言詩以外の沢山の詩に「詩集」という形を与えて出版することを、そのときしなかったのですね。


 さらに方言詩も作るのをやめてしまって、戦争がはじまるとすべての詩の発表を中断して沈黙してしまうのです。ふたたびペンを執るのは戦後になってからでした。




 戦後になってようやく彼は、自分が納得のゆくように、自撰詩集を二度編んでいるんですが、その際に、自分の詩作を「○○時代」「○○時代」という風に名前を付けて整理して、それぞれの時代に数編づつの作品しか残しませんでした。昭和40年代になると日本は出版ブームを迎えるんですが、戦前に活躍した多くの詩人のようには『全詩集』は作られなかった。彼は自分の『全詩集』というものに興味がなかったようです。




 いさぎよいと言えばそれまでですが、二度の自撰詩集では同じ作品を選んでおります。「自分の魂の遍歴は、これだけ集めてあれば理解されると思う」なんて書いている。そしてそれを補うかの様に、589回にも上る新聞の連載「不断亭雑記」で、自らの詩的生涯を回想をしている訳ですけれど※、詩人というのはやはり「詩集」という宝石箱の中に詩を遺さないと、人々の記憶に残らない。星も星座図のなかに所を得てはじめて名前が覚えられます。個々の作品が単品で輝き続けるというのはなかなか難しいんですね。


 これが「実像」に比較して、小さく偏った文学史的評価に、詩人一戸謙三が甘んじなくてはならなくなった一番の原因だと思います。




 そして詩人が亡くなって30年も経ってからのことになりますが、詩誌『朔』の特集号の中で坂口先生が、謙三の自撰詩集には出来の良い作品がごっそり削られていることを指摘して、たいへん惜しまれた。おなじ津軽詩人の高木恭造と較べ、不当な評価が定着していることについても疑問を呈された。




 その理由として坂口先生は、一戸謙三という詩人のことを「地方人といっても資質は都市的で、芸術性への志向が強かった。(み‐231p)」また「詩人として非常に高いレベルにいた人なので、理解者が少なかったということが案外大きいと思う。」「そうすると人間というのは、自分はこれでいいのか、と自分を疑いだす、それで、絶えず自分の作品を創り直したり、或いはなきものにしたり(『探珠』100号‐7p)」したのではないか。」そう仰言っています。



 私も、彼がことあるごとに、自分の詩歴を整理して語ることを好んだことについては、思うことがあります。




 地元詩壇で陣頭に立っていた彼には、対外的な意識が強かったこと、そして、地方在住の詩人は中央から批評されることが少なく、自分たちが起こした運動については自ら解説せざるを得なかった、そういう事情があったのではないか。「これだけ残せばあとはいい」といういさぎよさは、自覚的な詩作を続けた一戸謙三らしい、詩人としての自負の表れだったように、私には思われます


 そしていつの時代も地元新聞が彼に発表の場所を与えてくれていたこと――これは今回この詩人のことを調べながら思ったことですが、青森人の、地元文化を応援しようという思いが、今に至るまでまことに厚いことに驚いています。逆に言えば、その居心地の良さが彼をして地元に安住させたと、いえないこともないのですが、文学館のない東海地方の人間からすれば、これは本当に羨ましく思ったところです。



 本日は方言詩の意義や鑑賞は前回の工藤正廣先生の文学講座におまかせしましたので、それでは謙三の方言詩以外の詩について、それらがどんなものであったか、書かれた背景と変遷とを順番にたどって参りたいと思います。」

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<第2回文学講座>

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2019年8月18日(日曜日)13:00〜15:00

会場:青森県総合社会教育センター2F大研修室(青森県立図書館となり)

〇講演と朗読 「詩人一戸謙三の軌跡方言詩の前後をよみとく」

講演:中嶋康博 朗読:大川原儀明氏(「あおもりボイスラボ」代表) 稲葉千秋氏(青森朝日放送アナウンサー)



『特別展 詩人・一戸謙三』図録(価格1200円)

<目次>

 開催に当たって
02一戸謙三の詩の魅力について   静かで豊かな時間感覚がそこにある・・・藤田晴央
04詩の産声(1899〜1919年)
06閉ざされたページ(1920〜1922年)
08地方主義の旗のもとに(1923〜1932年)
10「イダコとタユ」─盟友齋藤吉彦との最後の一齣─・・・一戸晃
12津軽方言詩の開花(1933〜1937年)
14津軽方言詩論争・・・櫛引洋一
16詩の音楽性を求めて(1938〜1955年)
18一戸謙三のモダニズム詩──総括と転身と・・・中嶋康博
20茨の花(1956〜1979年)
22新しい方言詩の道をたずねて・・・工藤正廣
24一戸謙三略年譜・・・青森県近代文学館編
28母ふきに抱かれた幼い謙三1899(明治32)年ごろ
29遺品 30書画 31作詞・受賞 32顕彰等 協力者

問い合わせは、青森県近代文学館:bgk@plib.pref.aomori.lg.jpまで。

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793中嶋康博:2019/09/23(月) 13:25:52
『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本
 老後の楽しみにと、漢詩集を買ひ集めてゐますが、以前に入手した『山陽詩鈔』の槧本が初版であり、かつ校正者である後藤松陰本人の手澤本であったことが最近になって判って、ビックリしてゐます。

 和本の世界では、刊記の年がそのまま印刷された年であるとは限らず、殊にもベストセラーとなると摺り版の見極めは難しいもの。

 見返しは同じでも、奥付の元号屋号を換へていろいろと出回ってる『山陽詩鈔』ですが、なるべく刷りがハッキリした本を探してゐたところ、ネットオークションで揃ひの4冊本を手ごろな値段で手に入れることができました。それで、珍しい本でもないから中身をしっかり検めることもせずに、書棚に放り込んでゐたんですね。(購入当時、こんなこと書いてをりました。馬鹿ですね。)

 ところが先日よその『山陽詩鈔』と自分の本との異同を確かめてゐたところ、最終頁にあるべき題詩がない。よくよく見たら手許の題詩は印刷でなく手書きじゃないですか。ぞっとしてめくってみたらば、本文鼇頭の朱筆細書もすべてが後藤松陰本人のものでありました。

 ともかくもおどろいて職場の紀要『岐阜女子大学地域文化研究』に資料紹介を書くことにしました。
 「後刷本」との異同を、書き入れと共に「初版本」の証拠として掲げ、同書の書誌判定、および頼山陽の研究資料として供します。画像公開は紀要の刊行(来年4月)までお待ちください。(頼山陽の祥月命日に)

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794中嶋康博:2019/09/27(金) 00:04:50
『平成の文学とはなんだったのか』
『平成の文学とはなんだったのか』(重里徹也・助川幸逸郎共著 はるかぜ書房 2019)

 平成文学の収穫を小説分野にみている御両人の対談は、私が読んで理解できるかどうか始め不安でしたが、「昭和の負債の清算をせまられた平成」という共通認識をもって、何がどのタイミングでどう変わったのか、まずはこの30年の時代を腑に落ちるかたちでわかりやすく説明した上で、問題ごとに合わせて著者・著書を並べて論じてゆく、謂わば「文化論」の趣きが濃いものであったので惹きこまれました。

 沢山出てくる小説家の名前については、ですから未読の人にとっては「ああ、そういう立ち位置にある作家なのか」と、俯瞰図の中に道標を立ててくれる感じ、読み巧者にはタイトルと不即不離の「平成の時代とはなんだったのか」という問いについて一緒に考えるよう、次々に話題としてふってくる感じ、でありましょう。

 も少し具体的には、作家を通して顕在化される世間の深層で求められている空気というものが、リーマンショック・東日本大震災(原発事故)を境に、

「孤高の天才」や「アウトロー」の主人公が活躍するバブリーな物語から、
「集合知」でもって「連帯」や「配分」を模索するサステナブルな物語を志向するものへと変わってきているということ。

 グローバリズムが将来した新自由主義の擡頭を止められなかった、リベラリズムの教養主義が失墜して、
「地方」住みの主人公から発信される、過疎や高齢化に向き合った、都会との波打ち際での物語が多くなってきたこと。

 そんな内容の対談を、側で聞かせてもらってウンウン頷いておりました。

 個人的には「古典は必要か」の条りにおいて、古典不要論者に対して「決定的に古い」と、彼らが一番に嫌がるレッテルを貼りつけてやった(104p)のに、痛快を覚えました。成功者は国を捨てて逃げてゆく、そうならぬよう人材をつなぎとめておくのが教育(国際人として自国の古典を語れる誇り)なんだ、という視点は、正くその通りです。(しかし身もフタもない彼らは「逃げてゆかないようにするのは教育ではなくシステムだよ」と、さらなる減らず口を叩きそうな気もします。)

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795中嶋康博:2019/09/29(日) 18:35:48
『堀内幸枝全詩集』
『堀内幸枝全詩集』(2009年 沖積舎刊) の年譜を読んでゐました。

 同人にこそなられませんでしたが、杉山平一先生が解説の中で語るやうに「『四季』の詩人」であり(845p)、代表作『村のアルバム』の序文を書いた船越章は、田中克己と遠縁の『コギト』旧同人、また岐阜にも縁の深い深尾須磨子と付き合ひの深い人だったとは初耳でした。

 年譜の中で田中克己と会ったのが1964年中河与一邸でとありますが(875p)、1959年6月6日林富士馬邸においてであるので一応訂正。

6月6日
松本(松本善海)と出て喫茶しゐれば那珂太郎と西垣脩氏と遭ひ、西垣氏を松本に紹介すれば、松山高校での後輩なりし。
林dr.(林富士馬)にゆかんと云はれ、地下鉄にて新大塚下車。beerよばれ堀内幸枝女史来会。「船越章と甲府にて識る」と。
20:00 西垣氏を家に案内し、茶漬食ってもらふ。

 『まほろば』にも参加された由、その縁で『桃』には山川弘至にまつはる手紙を載せたのでしょうか(1991年)。四季派にかぎらず山岸外史(1985年)から岩本修蔵(1989年)まで実に幅広い詩人たちの懐旧譚を書き綴ってをられますが、親炙した田中冬二のことは「次の一冊にまとめたいとこの全集からのぞいておいた」とありました。

 とまれ、別件で県立図書館にいった折にみつけた全詩集でしたが、目に留まったのは、その姿が自分の『詩作ノート』とそっくりだったから。
 本を作る際に、函の寸法を定めるため、表紙から本文から外装をそっくり試験的に作った出来上がり見本、中には何も印刷されてゐない「白い本」のことを「束見本」といひます。出版社が多い神田神保町では、古本屋の店頭に色んな装釘の束見本が並べられ、余剰物として安価に売られてゐましたが、わたしの在京当時、三十年前のことですが、分厚い一冊を『詩作ノート』として重宝してゐたのが、なんと堀内『全詩集』と略おなじ姿であったので、おどろきました。

 『全詩集』は十年前の2009年の刊行ですから、不思議な符合といふべきですが、或ひは私の持ってゐる束見本と同じ装釘の本が世の中に刊行されてゐて、それを参考に詩人が選ばれたのであったかもしれません。今月白寿を迎へられた由。切に健康をお祈り申し上げます。






 詩集『村のアルバム』 (1957年 的場書房版「序文」:1970年 冬至書房再刊版「跋」)?


 「村のアルバム」は実は堀内幸枝さんの第一詩集となるべきものであった。「堀内さんは甲州のある山峡の村に、旧家の一人娘として生れ、父母をはじめ周囲のあらゆる人々の鐘愛の的となりながら、幸福に静かに乙女の日の明け暮れを送ったのである。その頃は、わが国を、そして私たちを今日の不幸におとしいれたあの戦争は、まだ始ってはいなかった。おだやかな山峡の空に、林に、そして川に、堀内さんの夢と情感と理知とは豊かに育って行ったのである。ここに収められた三十数篇の詩は、すべてその頃の作品なのである。?


 「村のアルバム」の描く世界は極端に限られている。しかしそこにみられるのは、乙女にありがちの甘い感傷ではない。はばたく理知と強力な意志とに支えられた、清純な折情である。この抒情の本質は、深くわが国古来の詩歌の伝統に触れ、些かの感傷を含まずして、読むひとをして抒情の世界に誘う力を持っている。この詩集が、堀内さんの女学生時代とその後の僅か一両年の間になったものであることを思えば、早熟の詩才、誠に驚くべきものがある。?


 堀内さんはこの一巻の詩集「村のアルバム」を乙女の日の記念として結婚した。爾来十数年。生活の変化と戦争の傷手とは、ひしひしと堀内さんの身辺に迫った。妻として二児の母として、堀内さんは繁累のなかに堪えて生きた。しかも詩作の筆は、かつて捨てることはなかったのである。乙女の日の伸びやかな抒情はすでに失はれた。苦悩を経て、理知と意志はさらに強められ、反省のにがさが新しく加へられた。しかし苦悩に堪えた抒情は、いま深く悲しい歌声となって、その清らかさを依然として失ってはいないのである。ひとはこの詩集より前に公けにされた筈の、堀内さんの戦後の詩作によって、私の言の溢美でないことを認められるであらう。私は堀内さんの将来に大きな期待を寄せるもののひとりである。?


 私が堀内さんと相知ったのは、既に十数年の昔である。思うに堀内さんがこの詩集の第二部「春の雲」の諸作品を書いていた頃である。私は堀内さんの早熟の才能に驚きつつ、その才能の前途に一抹の不安を感じていた。あまりに早い自己の詩境の把握と、技巧の完成とをおそれたからである。いまとなって私はこれが杞憂であったことを喜びとするのである。?


 戦争は堀内さんと私とを遠く隔ててしまった。繁忙の俗事に追はれ、病床に親しみがちの私は、いつか詩壇の消息に昏くなって行った。しかも偶然の奇縁は、ふたたび私に堀内さんの人と作品に接する喜びを与へた。乙女の日のこれらの詩作を一巻にまとめるに当って、堀内さんは私にあとがきの執筆を依頼した。これは他意あってのことではあるまい。漸く老いて魂に詩情を失ひつつある私に、昔日の夢を追起せしめようとする好意によるのであろう。私は深くこれを感謝する。そして出づることあまりに遅かった堀内さんの「村のアルバム」が、真実に詩を愛する人たちによって、暖く理解され、好意を以て迎へられることを心から祈念して止まない。ささやかなりとも一巻の詩集「村のアルバム」は、わが国の詩歌の歴史に美しい宝石を飾るものであることを私は信じて疑はないのである。?


 一九五三年初冬   船越 章

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796中嶋康博:2019/11/02(土) 12:47:16
『イミタチオ』60号「日本浪曼派とイロニー」
金沢の米村元紀様より『イミタチオ』60号の御寄贈に与りました。

保田與重郎ノート6は、『コギト』創刊から『日本浪曼派』の顛末の頃までの、保田與重郎の文章を彩った「イロニー」についての考察です。一般的に「皮肉」や「逆説」として解されるアイロニーのことです。

同人雑誌『コギト』が、文壇デビューの準備の場ではなく、「非群衆的」「啓蒙的」「超俗的」「アカデミズム容認」といふ方向性を掲げた文学運動体として創刊されたこと。今回のノートは、その実体が、同人を形成してゐた旧制大阪高等学校時代の友情、とりわけ資産家だった肥下恒夫が負担した雑誌運営資金と、ドイツ語を得意とした松下武雄・服部正己・田中克己といった翻訳陣の訳業資源をバックにした「協同の営為」によるものであったことを押さえるところから、説き始められてゐます。

つまりその「非群衆的」「啓蒙的」「超俗的」「アカデミズム容認」といふ強面(こはもて)の方向性ですが、「古典を殻として愛する」彼らは、その一皮下には旧制高校で培はれた共通理解の友情のグルント(土台)があったといふこと。(そこへ入ってゆけなかった東京者の立原道造はもとより、世代を異にした伊東静雄も、この連中は会合で集まっても世間話ばかりでお互いの批評を全然し合はない、って怒ってます。)

保田與重郎が、資金面で問題のない自由に話せる場所を確保し、力強い翻訳陣の援護射撃を得て、「題からして眼がキラキラし、その内容に至っては到底何のことやら分からない」文芸批評を次々に展開してゆく。「ルツィンデの反抗と僕のなかの群衆」とか「後退する意識過剰」とか、これは確かに高見順みたいなリベラルな先輩知識人を、タイトルだけで以て聞きかねさせ、なにかしらイライラさせる「毒の魅力」があったと思ひます。

しかしてドイツロマン派から直輸入されたといふ「ロマン的イロニー」とは、どんなものだったか。

『コギト』の二人の詩人、伊東静雄、田中克己にも、かうしたイライラさせる修辞、言ってみれば機嫌の悪い「あてこすり」の精神がスパイスとして効いてゐて、その点、所謂「四季派」のポエジーとは区別される訳ですが、「皮肉」や「逆説」として解される「一般的イロニー」ではなく、本場のドイツロマン派にあらわれた「ロマン的イロニー」とは、どんなものだったのか。

語学不足で原典には深入りできなかった筈の保田與重郎が多用した「イロニー」といふ言葉ですが、米村氏はシュレーゲルが開陳した「ロマン的イロニー」の原義に沿って見てみて、「それほど間違ったものではなかった」と結論づけてゐます。その後半の条り、私自身はたして「イロニー」って理解してゐたんだらうか、と案じながら興味深く拝読しました。

読みつつ思ったのが、「ロマン主義は自己破壊、自己創造を同時に実現する実践活動(65p)」であるという定義。これは実存主義の概念がなかった時代の「企投」に似たものであったのか。

そして「われわれは同一人にしてかつ別人でなければならない(65p)」といふのも、「イロニーとは古代の文献解読の態度である(67p)」ことを念頭に、すなわち自分を無にして当時の人たちによりそって(のりうつって)考へること、畢竟、現在の知性で過去を断ずるな、といふ教条的なマルクス史観の否定、そしてその後は便乗「日本主義」を退け、結局当局に睨まれることにもなった、彼の歴史に対する姿勢の大本をなしてゆくものではなかったか、といふ感想でした。

ひとつ気になったのは、「デスパレートになったのは社会主義文芸に携わった青年たちであり、日本浪曼派の人々ではない(62p)」とあったところ。「何を(社会主義文芸)」でも、「どのように(モダニズム文芸)」でもなく、「なぜ」文学をするのかに執拗に拘った初期の保田與重郎ですが、「デスパレートな心情」を、社会主義文芸に携はった青年たちと同じくした時代もあったんじゃなかったかな、といふ理解を自分はしてゐます。

思ふに両者を相反する立場に分けてしまったのは、文学デビューしたものの(言論弾圧による)デスパレートな状況に陥り、自省をつきつめて「転向」していった「社会主義文芸に携わった青年たち」と、デビュー時期自体がすでにデスパレートな閉塞環境にあって正義感の表出を「イロニー」を弄して韜晦せざるを得なかった保田與重郎たちと、ほんの数年にすぎない世代の差にすぎなかったのではなかったか。かうしたたった数年の違ひによる世代の断絶は、こののちアプレゲールとの間にもう一度起きています。

そして興味深いことに、現在の日本に照らしてみると、同様の若々しいヒューマニズムが、以前なら反権力の文脈でリベラルに言ひ捨てて当り前だったことが、後ろ楯だった共産主義国家の実体によって裏切られ、かたや弱肉強食のグローバリズムが資本主義陣営を跋扈し始めるに至って、守るべきアイデンティティがコスモポリタリズムではあり得なくなった現状と、ほぼ類比されうるものとなってきてゐるとは言へないか。示唆されるところ多く観ぜられるのです。

ここにても御礼を申し上げます。まことにありがたうございました。

『イミタチオ』60号 (2019.10金沢近代文芸研究会184,5p \800)

評論 「保田與重郎ノート6「日本浪曼派とイロニー」米村元紀……31-74p
 『コギト』創刊の頃
 共同の営為
 独逸浪曼派特集
 ルツィンデの反抗と僕のなかの群衆
 群衆の復讐と萩原朔太郎
 『日本浪曼派』の創刊から終刊へ
 後退する意識過剰と純粋小説論
 内的貧困と巨大なロマン
 文藝雑誌編集方針総じて未し
 ドイツロマン派から日本の古典へ
 『日本浪曼派』以後、所謂「日本主義」との闘い
 ロマン主義的イロニーについて

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797中嶋康博:2019/11/17(日) 00:51:51
『感泣亭秋報』14号 特集「連帯としてのマチネ・ポエティク」 ほか
 現在、『四季』に拠った詩人たちと、その周辺を主題にとりあげる唯一随一の研究誌とよんでよいと思ひますが、年刊『感泣亭秋報』14号が今年もつつがなく190ページの陣容で発行されました。

 私も今年の夏に行はれた青森講演を前に、裨益を被った坂口昌明さんへ感謝の念をのべた通信文を寄稿。今号は亡くなった比留間一成氏の追悼号でもありますが、坂口さんについてふれられた寄稿者が、杜実夫人の連載の他にも複数あり、齋藤吉彦研究、真珠博物館への協力等、博覧強記ならではの、中央からは知られること少なかった生前の御活躍が紹介され、この雑誌、印刷所もなぜか弘前なんですが、講演会の余韻もあって私には津軽との縁しをうれしく感じる一冊となってゐます。

 さてこのたびの特集は、三つあるのですが、まづは巻頭の「マチネ・ポエティク」、戦後抒情詩の実験的グループとして名高い彼らについて。
 中心メンバーだった福永武彦、加藤周一、中村真一郎が、小山正孝にあてた書簡がみつかり、渡邊啓史氏によって24ページにわたり紹介されてゐます。その後につづく半田侑子氏の一文、戦前の加藤周一が遺した「青春ノート」をめぐる考察とともに、興味深く拝読中です。

 四季派から咲いた徒花とも称される「マチネ・ポエティク」ですが、半田氏が加藤周一自らの説明によって要約した、その発生について、

「背景には一高時代に開かれた「万葉集」講読会があった。加藤、中村、白井、窪田らは「万葉集」を一言一句、正確に読もうとする経験ののちに、マラルメやヴァレリーなどの象徴詩を精読し、定型押韻詩の試みへと向かった」45p

といふところ、とりわけ、別のところで渡邊氏が引いてゐる中村真一郎の回想、

「その会では戦争批判は出ないけれども、戦争宣伝に対する一種の反対ということに雰囲気としてはなっていたと思うんです。どうして古典に向かったか。日本の軍国主義は一種のナショナリズムだから、無理しても日本文学を宣伝していた。そういうナショナリズムに対する反発もあったと思う。その反発には、フランス文学を読んで日本語の本は読まないというんじゃなくて、あなた方の日本文学の読みかたは、違っているんじゃないかということがあったと思いますね。」29p

 といふ、古典との関係は意外にも感じられました。そして加藤周一が、「悪いことというか、愚かなことをしたというので有名です」35p
と自嘲して見せる「定型詩」ですが、みなが論ふ「マチネ・ポエティク」といふ概念が単に「定型詩」を指すにとどまらぬ、戦時中の文学の在り方として、広義な「青年詩人たちの集まり」として論じられて良いのだ、と渡邊氏が指摘してをられます。

 すなはち『マチネ・ポエティク詩集』の序文には、作品はなくとも小山正孝や山崎剛太郎の名前が挙がってゐますが、敗戦をまたぐ戦中戦後の1940年代、世の中から距離を置いた堀辰雄を精神的支柱として仰いだ文学青年たちが、思想の動乱から超然と閉じて寄り集まり、持ち寄った高踏的な文芸創作物を朗読した会について、彼ら「仲間」たちの全体とその活動に対して冠せられるべき、亡き詩人立原道造が予定してゐた雑誌を念頭に置いたともいへる広義の「マチネ・ポエティク(『午前』の詩)」といふ概念があるといふこと。
 謂はば「定型詩」は、その結果、実を結んだ「成果のひとつ」であった、といふことが述べられてゐるのです。

 当時の堀辰雄を慕った若者たちのなかには、フランス象徴詩に理論的な根拠を討ねた若きインテリたちの他に、彼らにはまったく馴染むことのできなかった年少のカトリック詩人、野村英夫のやうな詩人もぽつんと孤立して隅に居りました。
 結核のために学業を排し、世事にも疎く家の遺産を食いつぶして転地療養をしてゐた彼の様子について、加藤周一は当時を回想する著書『羊の歌』(岩波新書1968年)のなかで、軽侮の念を以て吐き捨ててをります。立原道造に対して知的な敬意を抱き、四季派ばりの詩を書きはじめた彼にとって、堀辰雄の腰巾着にしかみえない野村英夫は、自分とは対極の環境的・精神的な位置に立ってゐる、求めざるライバルであったといへるかもしれません。

 そしてわれらが小山正孝ですが、戦争を忌避するリベラルな気質を同じくしながらも、しかもフランス象徴詩ではなく漢詩を素養にもつことによって、おそらくその他の俊英たちからは一目置かれる存在となり、また却ってそれがために作為的な押韻を諦めたかもしれない、さう私は思ってをります。
 立原道造に兄事した彼は、『四季』の詩情を体現する不幸な野村英夫の理解者・盟友となり、のみならず中国文学の造詣を以て晩年の堀辰雄に信頼されるようになった、当時は戦争詩を量産中の田中克己とも、『四季』同人の後輩として親しく交はるやうになります。
 押韻定型詩の詩学上では歩調を同じくすることを得ませんでしたが、謂はば戦争にコミットすることを避け得た数少ない詩人として、小山正孝はやはり「マチネ・ポエティク」の「仲間」の一人なのであって、小説家・批評家として文壇に巣立っていった彼らとも中立を保つ格好となった、めずらしい立ち位置にあった詩人であったことを銘記しておきたいと思ひます。

 「マチネ・ポエティク」を定型詩運動と呼ぶのは、戦後刊行された理論書『文学的考察1946』とその成果といふべき『詩集』によってもたらされた衝撃によるものでした。堀辰雄は野村英夫の「砂糖菓子のように甘ったるい」詩の、未熟なりに素質の良さを庇護し、なほかつ物足りなさが年を重ねて消えてゆくことを愉しみにしてゐたと思ふのですが、戦時中に朗読会を開いてゐた時点では、「マチネ・ポエティク」にしても、精神的支柱だった堀辰雄の周りでわきあがった、戦争からは目をつぶった綿菓子のやうな営為だったかも知れません。当時、杉浦明平から酷評されたことを記してゐる加藤周一ですが、後年、多恵子氏を中村真一郎と囲んだ座談会では、野村英夫に対してさすがに言葉を慎んだ物言ひとなってゐます(『堀辰雄全集別巻2』月報1980.11)。


(前略)【堀多恵子】 中村さんも福永さんも、いろいろなこと知っていてよくお出来になるでしょ。野村さんがその場にあてはまらない言葉を使ったりまちがったりすると、二人でくすくす笑うわけ。それで彼は傷めつけられたという感じになることがずいぶんありましたね。


【中村】 だってね、中里恒子さんが堀さんのお宅を訪ねて来ると、野村君は「今、中里さんがずしずしといらっしゃいます」と言うんだ。(笑)「しずしず」をまちがえたんだけど。もっとも彼の詩は、そういう舌足らずのところが一種の魅力になっているんだが。


【加藤】 僕が最初に追分に来た時、もう野村さんはいたんだ。学生達は彼のことを「おかいこさん」と言ってたね。まゆの中に入っていて外に出ない、じっとかがんで入っているから。嘉門さんなんかは可愛がっていたな。井川さんは揶揄的だったけれども。シェストフなんかを読んでいる少年がいるというんで、大学生達は面白がっていましたね。


【堀多恵子】 主人は野村さんは何もわからないからと、かばっている感じで見ていたようです。福永さんとは、「四季」に詩を出すことをめぐってけんかしたみたい。


【中村】 「四季」の編集を野村君と小山正孝にやらせる号と、福永と僕やらせる号と一号ずつ分けて、ヴァラェティをもたせようとしたのね。そしたら野村、小山のやる号で福永の原稿を落とし、野村のが載ったので、けしからんと福永は激怒したんだ。


【堀多恵子】 野村さんが亡くなった時に、福永さんは「けんかして、それきりだった」とおっしゃってました。


【中村】 立原道造が死んで全集を出すというので野村君が実務に従事していた時に、立原の日記の中に自分の悪ロが書いてあるのを見つけて、野村君はショックをうけて編集を下りたですよね。それで、下りた直後に、野村君は僕の所に和解を申込んで来たんだ。それは立原の書いていることを見て、自分に欠点があるのに気づいて中村が怒ったのも無理はないと思ったわけ。だから戦争直後は僕の所にもしょっちゅう来るようになった。福永もそのうちに仲直りしょうと言ってたんですよ。


【堀多恵子】 そう、それがチャンスがなかったのか、そのままになっておしまいになったのね。


【中村】 で、遠藤周作君が野村君の所によく行ってたですね。野村君が死んだ時に彼の本を古本屋に売ったりして後始末までしている。僕が野村君に貸してた本まで古本屋に出ちゃったので、原田義人が目につく限り全部買い戻してくれたことがあったよ。(後略)


『羊の歌』はまた『田中克己日記』のなかでも、
「『羊の歌』よみ了り反駁の文かきたくなる。(1969.7.4)」と書かれてゐるんですが、果たしてどこの部分だったでしょう。

 さて朗読を念頭に置いた定型詩としては、すでに佐藤一英らによる試みが戦争詩にからみとられる形で展開されてゐました。
 やはり『羊の歌』のなかに記されてゐることですが、大学構内に招待されたヒトラーユーゲントを白眼視をもって迎えた彼が、『ナチスドイツ青年詩集』を訳出した佐藤一英に対して一顧だに与へる筈もありません。が、全く別の意図を以て抒情詩の不備を補おうとしたマチネ・ポエティクの押韻定型詩の試みに対して半田氏が、『聯』とおなじやうな意義を感じてをられるのは面白いと思ひました。

「加藤の九八年の「中村真一郎、白井健三郎、そして駒場」、そして九九年の座談会の発言を見みると、加藤はマチネ・ポエティクの試みを、不定全ではあったが、全くの失敗だとは捉えていない。「もし「マティネー・ポエティック」の運動に歴史的な意味があるとすれば」と加藤がいうとき、少なくとも加藤自身は、マチネ・ポエティクには歴史的な意味があると考えていただろう。」45p

 三好達治が不満を漏らしたやうに、ポスト四季派といふべき『マチネ・ポエティク詩集』に盛られた詩情そのものの難解さは、一行一行を独立させようと腐心した、ポストモダニズムである『聯』詩と同様に変わるところがありません。
 批判が、前衛派・守旧派の双方からあつまり、結局詩壇に降参宣言をした彼らは、散文の世界へとそれぞれ活動の場を移してゆきます。そして小山正孝は、マチネの3名の俊秀から散文の才能を惜しまれながらも、野村英夫の側に残り、それがよかったかどうかは措いて詩人として立原道造の影響と格闘する道に分け入ることとなるのです。

 小山正孝と同じくマチネ・ポエティクの一人でいらした山崎剛太郎先生の長寿を寿ぎ、『マチネ・ポエティク詩集』刊行からしばらく経って、東大の後進である亀井俊介氏が渡米前に発表した「マチネ・ポエティクの詩人たち(1958年7月)」の一文を紹介して筆をおきます。

 今回も分量が豊富ですべてを紹介しきれませんが、津村秀夫ご長女高畑弥生氏による「津村信夫の憶い出」は必読です。

 最後に。 比留間一成氏とともに近藤晴彦氏の御冥福をお祈り申し上げます。



『感泣亭秋報』14号 2019.11.13 感位亭アーカイヴズ刊行 1,000円

詩 小山正孝「愛」4p

特集? 連帯としての「マチネ・ポエティク」
その頃の友人たちと僕――戦争前夜の詩的状況(再録) 小山正孝 6p
またマチネみたいなことをやらう――小山正孝宛、福永武彦、中村真一郎、加藤周一のはがき 渡邊啓史 10p
加藤周一「青春ノート」から見るマチネ・ポエティク 半田侑子 34p
何も隠されてはいない――福永武彦の永遠なる未完成小説 三坂 剛 46p
自負と逡巡――1946年の中村真一郎 渡邊啓史 55p

特集? 詩集「十二月感泣集」を読み直す
小山正孝の最後の詩集「十二月感泣集」を再読して 小笠原 眞 60p
小山正孝の〈永遠〉――二つの「池」を巡って 青木由弥子 64p
最後の和声が響く――小山正孝詩集「十二月感泣集」について 上手 宰 69p

特集? 比留間一成さんを偲ぶ
詩人と教師――比留間一成さんの歩んだ教育の道 高山利三郎 74p
比留間一成先生を偲んで 八木澤泰子 64p
詩人・教育者・陶芸家 比留間一成の「優し」と私 横澤茂夫 81p

「顕彰活動のあるべき姿とは 渡邊俊夫 108p

異国拾遣 回想の古都“ユエ”――悲しくも静かな王城(再録) 山崎剛太郎 123p

感泣亭通信
小山正孝が訳した中国現代詩(その二)――桃蓬子「荒村」 佐藤普美子 129p
津村信夫の憶い出 高畑弥生 131p
一戸謙三展 中嶋康博 134p
かやつり草 富永たか子 135p
詩人たちの面影を求めて 服部 剛 136p
父「畠中哲夫」のこと 畠中晶子 138p
小山正孝さんのこと 前田良和 139p
山崎剛太郎さんを撮る〜百一歳の山崎剛太郎さん自作の詩を朗読する〜 松岡みどり 141p
坂口昌明さんと真珠博物館 松月清郎 143p
感泣亭が結んだ糸――近藤晴彦先生を悼む 松木文子 145p
坂口さんの思い出 三上邦康 147p
梅雨明け 若杉美智子 148p

詩 山崎剛太郎(公園のベンチ)/中原むいは/里中智沙/大坂宏子/森永かず子/中村桃/柯撰以 150-165p

《私の好きな小山正孝》
愛を歌った時人の「切なさ」に心を惹かれる詩 萩原康吉 106p

常子抄 絲りつ 168p
坂口昌明の足跡を迫りて(4)  坂口杜実 170p
信濃追分便り2 布川 鴇 177p
〈十三月感泣集〉他生の欠片 柯撰以 178p
鑑賞旅行覚え書(4) 廻り舞台 武田ミモザ 180p
小山正孝の周辺(8) マチネ・ポエティク世代の文学観(1) 蓜島 亘 182p

感位亭アーカイヴズ便り 小山正見 187p


追伸
 立原道造の会の運営につき苦言が呈された一文については、顕彰活動の当初から関られた人物からたうとう声が挙るまでになったのか、といふ感じで瞠目。拙サイトのトップページの検索窓に「P氏」の名前を入れると、昔の嫌な思ひ出が2件ヒットしてきますが、彼の文学を愛するほどの人ならば触れたくもないやうな話題について、敢えて書くことを決意された義憤のしのばれる一文でした。
 これにより「P氏」の功績が消えてしまふ訳ではありませんが、組織を運営する際に求められる透明性──“「開く」ことの大切さ”を挙げて雑誌主宰者の正見様が、この一文を能く載せられたことと驚き感心してをります。

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798中嶋康博:2019/12/02(月) 11:35:18
『敬子の詩集』
 「詩歌療法」研究の権威である小山田隆明先生を通じまして、久しく病の床にあるといふ林敬子さんの詩集『敬子の詩集』をお送りいただきました。果たしてどのやうな詩集かと、身の引き締まる思いでページをめくってゆきました。病の身を見据え、全篇が死と対峙しているやうな緊迫した作品で埋められてゐるものを想像したのですが、現代詩の作品集であることがわかり、安堵しました。

 現代詩が難しいのと言はれるのは、読者からの理解をことさらに求めない、偽りのないつぶやきを、ある意味、断絶をも厭はずに遠心的に投げかける姿にありましょう。言葉と言葉との衝突、あるいは一行一行の間隙に、火花を散らす面白さがあり、詩人として選択するセンスに、私は面白さと真摯さとを探すやうにしてゐます。
 拝見した詩集に収められた作品のほとんどが、そのやうな姿をもって、私に跳躍する言葉と行間とを辿らせるものであり、フレーズの数々に著者の感受性の鋭さがみられます。

 現代詩音痴を自認する私の感想などあてになりませんが、詩篇として素晴らしいと感じられたのは、終盤に至っての「真夜中」「生きている」「約束」の三篇でありました。そしてこれらが残酷にも病気を発症されてからの作品ばかりであることに驚かされてをります。


  真夜中

家を抜けだす
ポケットには小銭入れ
ゆるい坂道 とおい終電車
青白い蛍光灯の照らす
黒いゴミ袋がひとつ

星空がきれいです
風はやや強く
街路樹がなみ打ちます
なんという木なのでしょう
まいにち会うのに名まえを知りません

自動販売機
冷たい缶ビール
あかりの消えた
軒先の犬が吠える
中央線をまたぐと
どこかで走りつづける
サイレンの音      (1998.8.23)



  生きている

むくわれない積み重ねがある
きみがどんなに恋い焦がれ体当りで近づこうとしても
たどり着かない 手に入らない 選ばれない
ことや ものや 楽園がある
こんなに夢をみさせて
こんなにも力を奪ってゆく
物質や知識や情報や言葉のなか
知力も体力も能力も 努力さえ
むくわれない大地のうえ
きみは生きている      (2000年頃)



  約束

音もなく
とおり過ぎてゆく
誰もいないのに
何度もふり返る

待ち続けたのは
何であろうか

音もなく
過ぎてゆく

誰もいないのに
何度もふりかえる

足あとだらけの
約束

私がふみしめた道は
だれと約束したわけでもなく

君と私をへだてる      (2007.7.16)


 以降、長い闘病生活に入られ、現在に至るまで詩作からは遠ざかってゐるやうであり、けだし、のっぴきならないところで詩が発火したやうな気がいたします。そして「詩歌療法」といふ観点から申し上げるなら、かうして自己に向き合ひ、虚無を見据ゑて作品を仕上げてゆく求心的な努力といふのは、作品としての手ごたへを詩人にもたらすものであると同時に、どこまでも続くトンネルのやうな闘病生活にとってプラスになるものであるとは必ずしも言へなかったのかもしれません。

 この一冊は従姉である光嶋康子さんが編集されたとのこと。これだけの詩を書く力量ある著者にとって、おそらくは意を尽くさぬであらうタイトルが物語ってゐるのは、詩集が刊行されたのが時宜を逸して遅すぎた気のすることです。清楚なイラストが添へられたのはなによりでした。

 小山田先生よりのご縁をもちまして大切な詩集をお送りいただきましたこと、ここにても御礼を申し上げますとともに、切に敬子様のご健康ご自愛をお祈り申し上げます。


【追記】(2019.12.27)
光嶋康子さんから頂いたお手紙を読みました。慫慂の結果、お便りをもとに書きあらためて下さった「あとがき」を掲げます。本冊をお持ちの方、またお持ちでない方にも出版の経緯について一斑を知って頂けましたら幸甚です。



 あとがき


 私と従姉妹の敬子さんとは、かなり年齢も離れていますし、住んでいる地域も違いましたので、実際の交流が始まったのは、ちょうど4年前の同じ病気で亡くなった彼女の弟のお葬式が始まりでした。


 私は敬子さんの父親の叔父とは、姪というより、少し年の離れた妹の扱いなので、頼みやすかったのでしょうか、お葬式のときの、車椅子の彼女の世話を頼まれました。そのときに、彼女から詩を作っていることを打ち明けられました。


 同じ頃発病した弟を見送ることは、どれだけ辛いだろうか…と思い、何か慰めになることが出来ないだろうか、と考えました。そのとき、フッと小山田隆明先生が出版された「詩歌に救われた人びと」の本が彼女の慰めになるかもしれないと思い彼女に贈ったのです。


 すると、彼女から9篇の詩が送られてきました。私自身、文学の素養は残念ながら全く持ち合わせていないため、内容については難しくて分からず、正直途方に暮れました。そこで、小山田先生に送られてきた詩を見ていただいたこところ、「優れた詩がいくつかあるから自費出版したら。」と勧めてくださったことが、自費出版へのキッカケとなりました。  


9篇では詩集にならないので、最初は断念いたしましたが、叔父が、押し入れの奥から彼女の詩を見つけたので、最初は叔父が、近くのプリント会社で薄い詩集を作りました。


 「敬子の詩集」という名前は、そのとき叔父がつけた題名です。


 この詩集が出来て、小山田先生にお見せすると「イラストを入れてもう少し女性らしい装丁にすると素敵な詩集になりますが、出版社を紹介しましょうか?」と言っていただきました。確かに、灰色の装丁の詩集は少し淋しいような気がしました。叔父に掛け合い、イラストを描いて下さる方を探し、先生から色々なアドバイスや、出版社をご紹介頂き、出版出来ましたのが今回の詩集です。


 イラストは猫を描いて欲しいとの敬子さんのリクエストが有り、彼女の今まで飼っていた猫を写真から描いてもらいました。猫の写真は彼女の亡くなった弟の部屋から見つかりました。そこには、猫と一緒に写っている小さい頃の弟の写真もありましたので、そのイラストを私の好きな詩「約束」に入れさせてもらいました。お姉さんの詩集の中で生きてもらいたいと願ったからです。


 今回、出版に際しましては、小山田隆明先生を始め、イラストを描いて下さった安江聡子様、彼女を紹介してくれた友人の横井歩様には、本当にお世話になりました。心からお礼申し上げます。そして天国から出版を後押ししてくれたような敬子さんの弟俊宏さんにもお礼を言いたいと思います。
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                            光嶋康子

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799中嶋康博:2019/12/30(月) 15:31:39
『江戸風雅』20号
 近世文学の専門雑誌『江戸風雅』20号が到着いたしました。

 「『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について」と題して資料紹介の一文を載せて頂きました。

 「江戸風雅の会」を主宰・監修される徳田武先生には、2013年の御著書、小原鉄心を中心に野村藤陰や菱田海鴎ら、江戸末大垣藩の文人の事迹を討尋した『小原鉄心と大垣維新史(勉誠出版)』といふ評伝本を読んで驚き、その喜びを直接お伝へすべく、公刊五年後でしたが年甲斐もなく“ファンレター”を認め、お見知り置きを頂いてをりました。

 もとより専門外の自分は漢詩も読むだけ、それさへ全くの独学で「下手の横好き」が昔の和本を集めてゐるにすぎません。手許の『山陽詩抄』があらうことか後藤松陰の旧蔵本だったことを知り、その紹介文を書いて看て頂いたところ、訓読の御指摘かたがた「発表場所がなくて困ってゐるなら」と仰言り預って下さったのでした。私の職場は教員でなければ紀要に論文を発表することも叶ひません。

 いかなるお導きか、先日『江戸風雅』バックナンバーの1〜6号を手に入れたところでした。はるかに嬉しい媒体の末席に名を連ねる光栄に、門外漢の飛び入りながら抃舞雀躍を隠せません。

 目次を一覧、此度の一冊が江戸後期の美濃詩壇に篤い一冊となってゐることもうれしく、この正月にゆっくり繙きたいと思ひます。

 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。


『江戸風雅』20号 26cm,210p 発行:江戸風雅の会

『江戸風雅』創刊の辞 1p
徳田 武  張斐と魏叔子―付 張斐年譜 3p
中嶋康博  『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について 35p
小財陽平  村瀬太乙の贋作考 53p
岩田恭  美濃における幕末・明治の七名僧〜風雅を胸に刻み時代を駆け抜けた禅宗僧侶たち〜 63p
鈴置拓也  林鶴梁年譜稿 86p
徳田 武  吉田松陰と佐久間象山 104p
陳鵬安  「精神病」、「「憑き」及び批判性の欠失――「黒衣教士」の重訳におけるモダンと伝統 139p
徳田武・神田正行  『金毘羅船利生纜』初編翻刻と影印 155p

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800中嶋康博:2019/12/31(火) 00:21:56
2019年回顧
恒例となりました「今年の収穫」より10冊(点)を披露。

野澤一詩集『木葉童子詩経 復刻版』 平成30年
田中克己『詩集西康省』「道造匠舎」蔵書印入り 昭和13年
第三次『椎の木』復刻版 (全11巻・別冊1:コピー) 平成29年
『詩人・一戸謙三展』図録 令和元年
佐藤一英詩集『われを咎めよ』 昭和14年
『高木恭造詩文集』全3巻 昭和58年〜平成2年 (青森での嬉しいお土産)
『尾張に生きた詩人 佐藤一英展』図録 令和元年
梶浦正之『詩文学研究』1-6集 昭和12〜15年
赤田臥牛・赤田章斎父子の色紙 江戸後期
『江戸風雅』20号 令和元年

 今年は生誕120年・没後40年を迎へて催された、二人の近代詩人(一戸謙三・佐藤一英)の企画展が、一番の思ひ出となりました。
 一戸謙三については、令孫晃氏および青森県近代文学館の伊藤文一室長に励まされながら、夏に青森で催された「特別展 詩人・一戸謙三」の文学講座の任を、無事果たすことができました。
 そして佐藤一英については、謙三の盟友であったことを講演でも話すため墓前報告に詣ったところ、たまたま居合はせた地元の方の導きで御遺族と知り合ふことを得、両詩人に所縁の貴重資料(書簡・写真・詩集)を電子公開できることとなり、翻刻や解題の執筆にいそしみました。
 秋に一宮博物館で催された「佐藤一英展」に合せて、資料面のサポートをWeb上で(勝手に)させていただいたことは、自分の視野を開く喜びにもなりました。
 さらに年末にかけて、以前入手した漢詩の新出資料(『山陽詩鈔』『木村寛齋遺稿』『河合東皐遺稿』)の発表に目途がつきました。
 いづれも地元出身の後藤松陰にまつはるものでしたが、早速斯界の学術誌『江戸風雅』上での刊行の栄に浴したことは、昨日コメントで記した通りです。
 生涯の思ひ出に残る、収穫多き年となりました令和御宇の元年。お世話になりました皆様にはあらためて御礼を申し上げます。


 また棟方志功令孫、石井依子様より、すてきなカレンダーをお贈りいただきました。
 石井様には南砺市立福光美術館での企画展「棟方志功の福光時代」が終了したのちも、引き続き志功の疎開先である富山に拠点をつくり、資料整理に当られる由。
 御研鑽、御健筆をお祈りしまして、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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801中嶋康博:2019/12/31(火) 09:30:23
よいお年を。
 さて今年は台風災害に見舞はれた年でありました。うちも雨漏りに遭ひました(苦笑)。
 シーボルト台風が来襲した文政11年(戊子1828年)、大晦日にあたって感慨を記した、当時31歳だった後藤松陰の詩を掲げます。
 来年こそ良き年になりますやうに。

「歳暮戊子」 後藤松陰

昨日了鹹虀。今朝舂歳餻。
貧家亦随分。粗為迎春労。
今年知何年。四方災変数。
颶母鼓西溟。水妃燎北陸。
百里委灰燼。千人葬魚腹。
物価皆驟騰。豈唯菽与粟。
人情頗不安。況我桂玉酸。
猶勝罹溺焚。酒有且須醺。
已張不復弛。天意豈其然。
待彼載陽日。家々開笑顔。

「歳暮戊子」 後藤松陰
昨日、鹹虀(漬物)を了へ、今朝、歳餻(餅)を舂(うすづ)く。
貧家また分に随ひ、粗なれど春を迎へる為に労す。
今年、知んぬ何の年ぞ。四方に災変の数(しばしば)す。
颶母(台風)西溟に鼓し、水妃(洪水)北陸に燎す。
百里、灰燼に委ね、千人、魚腹に葬らる。
物価みな驟かに騰がる、あに唯に菽と粟のみならんや。
人情は頗る不安、況んや我が桂玉の酸(生活苦)をや。
猶ほ溺焚(洪水・火事)に罹るに勝るごとし。
酒有り、且(まさ)に須(すべか)らく醺(酔)ふべし。
すでに張れば復た弛(ゆるま)ず、天意あにそれ然らん(どうしてそうであらうか)。
彼の「載(すなは)ち陽(あたたか)き日(『詩経』豳風)」、家々笑顔を開くを待たん。


(あっ、シーボルト台風って「子年の大風」か!来年も気を引き締めて参りましょう。)

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802中嶋康博:2020/02/12(水) 23:27:12
鯨書房の閉店
 今日、出かけようとしたところ郵便受けに入ってゐた一枚の葉書。鯨書房の閉店(廃業)を記す一報でした。
 2013年の年末に先代の名物店主山口省三さんが不慮の事故で亡くなられたあと、東京から帰郷した御子息が急遽家業を継ぐこととなり、慣れない仕事を母堂とおふたりで奮闘される様子を遠目より拝見、やうやく順調に回り始めたと思ってをりましたが、この1月10日、このたびはその二代目行人さんの急逝に遭ひ、半世紀近い店の歴史(HPには35年とありますが私が大学生の頃には開業してをられた筈)に突然幕が下ろされることとなった、との文面。
 驚き隠せず、早速永らくご無沙汰してゐたお店に伺ひ、短い立ち話でしたが、お話を聞いて参りました。

 図書館から退いた後は、私も仕事上で本の依頼をすることはもとより、自分の本の収集傾向も変はってしまひ、店主とお話を交はしながら探究書を依頼したり、店頭で漁書する愉しみといふものからも遠ざかってしまったので、貴重な店売り店舗が自宅のすぐ近くにあるにも拘らず、先代が亡くなられて以降、すっかり疎遠になってしまったのですが(一旦遠のくとなかなか再び敷居を跨げなくなる)、まだ齢40と伺った息子さんを亡くされた御母堂には(突然ご亭主を亡くされた時も同様でしたが)、おかけする言葉も無く、まだ心の整理がつかぬ御様子のお言葉に耳を傾けながら、こちらからも拙いお悔やみのご挨拶を返すしかすべがありませんでした。

 謹んで御店主のご冥福をお祈り申し上げますとともに、岐阜市の古書店「鯨書房」(〒502-0071 岐阜県岐阜市長良191番地15 TEL 058-294-5578 FAX 058-294-8461 )の閉店(廃業)につきまして御報告いたします。

(許可をいただきましたので本日の店内の様子とともに掲げます。)

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803中嶋康博:2020/03/21(土) 22:08:16
京摂展墓の旅
 週の始め、新型コロナ(「子年の大風邪」)騒ぎで人出が少なくなった京都に出向いて、長楽寺、永観堂、南禅寺、西福寺と東山界隈の古刹に漢詩人の墓参を敢行。さらに一泊して大阪の天徳寺へ、此度の資料紹介論文の発表に伴ひ、宿願となってをりました、後藤松陰先生の墓前報告に行って参りました。

 長楽寺(頼山陽・牧百峰・藤井竹外ほか)、南禅寺(梁川星巌夫妻)は二度目でしたが、このたび御案内を頂いて参加した、墓地移転法要の行われた柏木如亭の塋域のある永観堂へは初参詣。おまけに法要に参加された篤志家の先生方のおかげで、西福寺の上田秋成の墓所にも立ち寄ることを得た次第。当夜はその“柏木如亭クラスタ”の皆様と、江戸時代漢詩人の濃いい話題にて歓談を尽し、田舎では経験できない愉しい想ひ出となりました。

 しかしながら翌日訪れた大阪の天徳寺は、住職のお話によれば第二次大戦時の兵燹に遭った由、加之、さきの阪神大震災の際に台座から倒れたのでしょうか、碑石の表面が層ごと剥がれ落ちかけ、泯滅寸前なのに驚き、心傷んだことです。近い将来どうなることか、近世文学の研究者はこの現状を御存知でしょうか。写真および動画にて御覧頂きたく、こちらに報告いたします。

 時節柄、人混みを警戒しつつの旅行となりました。お世話になりました皆様、寔にありがたうございました。

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804中嶋康博:2020/04/15(水) 22:31:20
終日家居・外出自粛中に思ったこと
【その一】 「端本上等主義」について

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 むかし、近代詩書を収集してゐたころ、古本通の先輩からよく
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「cogito(私は旧い古書仲間にはハンドルネームで呼ばれます)が買ふ本は、函やカバーの無い汚い本ばかりだねえ。」
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と揶揄されたものですが、初版本であればそれでよく、もっと言へば、再版でも同じ装釘で安ければそれで満足でした。余った資金でまた別の本を買ひたい「並本上等主義」を奉じて、乏しいコレクションを増やしてきたのです。


 それが近頃、収集の鋒先が和本の漢詩集に転じました。

 漢詩集は戦前モダニズム詩集のやうに人気の高いジャンルとは言へません。ただ、この世界を充分に愉しむためには、予備知識、現在のわれわれには結構高いハードルが設けられてゐる為に愛好者が少ない。和本のみならず、掛軸なんかも漢詩を書いたものは絵画骨董の好事家から敬遠され、ヤフオクでは真贋不明の“お宝”が玉石混淆で売り叩かれてをります。


 四季派の口語抒情と江戸漢詩の訓読抒情とは親和性が高いものらしく、私も中村真一郎や富士川英郎の著作によってこの世界に目を開かれます。そして和本を小脇に抱へて徘徊する老人になりたいものだ、なんぞとあこがれるやうになり、戦前口語詩から明治新体詩を素通りして、皆目見当もつかぬ江戸漢詩の世界へといざなはれてゆきました。ヤフオクや日本の古本屋サイトがなかった当時、新村堂古書店や藤園堂の目録、そして鯨書房の山口さんから折々「こんな本が入ったよ」と店頭で教へられつつ、江戸時代には漢詩のメッカだったといふ地元美濃詩壇を中心に、クタクタの和本詩集をぼつぼつと買ひ揃へていったのでした。

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 明治発祥の洋装本に較べれば、和本の世界といふのはさらに50年100年と古い訳ですから、本が汚いのは当たり前で「極美本」なんてものは殆どありません。旧世代の読書人が消え、だれにも顧みられず長年蔵の中で眠ってゐたやうな本も多く、染みや虫喰ひなど普通で、書込みなんかは、ある方がむしろ価値が増す位です。洋装本で謂ふところの「函、カバー」にあたるものとしては、「袋」といふやつが一応はあって、これが残って付いてる本は状態もよいのですが、お目にかかることは珍しい。高価な稀少性を洋装本で例へるなら「アンカット本」の比でしょうか。函やカバーとは同列に扱ふべきものではない「めっけもの」の類ひであります。


 さて、さうして漢詩集を集め始めて分かったのが、「上・下」「上・中・下」「一・二・三・四」と分冊されて刊行されることの多いこの和本の世界では、「揃ひ:そろひ」か「端本:はほん」か、これが決定的な古書価の違ひをもたらす評価となってゐることでした。つまり近代詩集ならば必ず拘るべき「初版本」、すなはち和本の「初刷り本」に関する情報が全くもって不明瞭で、目録にも詳しく記されてゐないことが多い。そもそも初刷りか後刷りか判定するための書誌的な指標が、浮世絵のやうな美術的価値を云々されてこなかった和本に対してはそんなにも気にされず、本ごとに差異が論じられることもなく、書誌学的に研究もされてこなかった。あくまでも中身が学術的に大切だった、といふことであります。だから一冊欠けてゐるだけで、使ひ物にならない資料として、まるで洋装本なら落丁本や函がない本のやうに半額以下になってしまふ訳です。


 言はんとするところはもうお判りでしょう。私もこのごろは懐具合がさらに悪くなり、この分野でさへ欲しい本がなかなか買へなくなりました。それで思ったのが、この端本。
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 考へてみれば、江戸時代の本は早稲田大学図書館や国文学研究資料館など、インターネット上に一次情報が公開されてゐるものも増へてきました。読むだけなら画像でよい。さうなると何を以て究極的な価値を古書にもとめるのか、結局は書かれた情報そのものではなく、原本がもつ感触・風合を和紙や刷り文字の上に確かめ、それを刊行し大切に読み継いでいった古への著者や読書人の想ひを肌身で感じたい、近代詩集と同様、さういふものへ落ち着いてゆくのではないか、情報化のさきにある古書としての価値は、やがて原質にのみやどる骨董価値へと収斂してゆくのではないか、と思ひ至るやうになりました。

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 さすれば、貧乏コレクターとして拘るべきところは「揃ひ」ではなく「刷り」にあり、といふことになります。この観点から渉猟し、安価な端本でも良い刷り状態の本をみつけてゆけば、まことにリーズナブルでハイブロウなスローライフが約束されるのではないでしょうか。かう思って『山陽詩鈔』を探し回ってゐたら、たまさかそれが後藤松陰の手澤本だった。そしてこの度は天保12年、最初に刊行された『星巌集』の甲〜丁集の端本8冊(『紅蘭小集』欠)をオークションで落札、さらに合本された天保8年刊行と思しき『星巌集』の丙集を註文しました。ずっとひっかかってゐた漢詩集の二大ベストセラーの収集を了へたところで、「端本上等主義」に転換したことを自ら標榜してみた次第であります。

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【その二】 国立国会図書館はデジタル化データを開放せよ。

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 新型コロナ禍のもと、各地の図書館が次々と休館に追ひ込まれてゐます。


 その最中にあって、国立国会図書館は、所蔵する著作権切れが不明瞭となってゐる資料を、デジタル化の完了したものからすみやかに、インターネット公開するべきであると考へます。斯様の資料の閲覧・複写は図書館間で行はれる「図書館向けデジタル化資料送信サービス」に限られてをり、かつ現在、コピーをとらうにも遠隔複写サービスの受付も休止してしまひました(2020年4月15日〜)。そもそも外出自粛を余儀なくされてゐる利用者は、供されたデジタル化資料を閲覧しに図書館にもゆけません(やってませんが)。


 少なくとも戦前の著作物などは、全てオープンにしてよいのではないでしょうか。序跋、挿絵、装釘者の著作権(公衆送信権)も、書物の成立経緯を考へれば、著者に一任されて文句を垂れる御仁がありましょうか(あったらその時点でひっこめたらよろしい)。また著作権者の没年が不明とならば、一般からも情報源の申告をシステムとして設けるべきです。


 とりわけ詩集などは古今、極く一部の職業詩人を除いて「自分の声を理解してくれる人になるべく多く読んでもらいたい」、そのやうな志を以て刊行されるものであります。銅臭の強い権益は全くそぐはない。そしてテキストが開示されることによって、先般にも述べました「原本がもつ原質にのみやどる骨董価値」が、コレクターのみならず古書店に対しても開示されるものと考へます。


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 かつて駈け出しのコレクターの頃に、小寺謙吉の『現代日本詩書総覧』や、田村書店の『近代詩書在庫目録』などを紹介しながら、詩集収集の手引きみたいなコーナーをサイト上にupしてゐたことがありましたが、これは終日家居・外出自粛中に思ったこと、和本収集に関する提言と、国立国会図書館のデータ管理について、つれづれに記してみました。

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805中嶋康博:2020/05/13(水) 21:17:45
【テキスト起こし】『明治百家文選』序
 『明治百家文選』 隆文館, 明治39年(1906) 9月刊

 序

 不薄今人愛古人、清詞麗句必爲隣(※李白)。千秋の公論、実に此に在り。古今相及ばずとなす勿れ。孔子の聖、猶ほ且つ後生畏るべしといはずや。乃ち知る、かの徒らに故を悦んで、新に即く能はざるものは、眞に弱者、未だ與に語るに足らざるを。
 これを刻下の世に見るに、諸種の文體、紛然雑出、互に其の長を競ひ、殆んど適従するところを知らざるが如しと雖も、融會貫通、渾然一となる、亦た必ず其日あるべく、而して、熙朝の文章、百代に傳ふべきもの、豈に遂に出でずして止まむや。その未だ然らざるは、氣運なほ熟せざるが故のみ。若し既往の事、果して来者を卜すべくむば、勢の赴くところ、断じて、此の如くあるべきこと、智者を待つて後に知らざるなり。
 文を學ぶ、必ず先づ標的を定めざるべからず。その法たるや、今人、名あるものの中、わが性の最も近きを擇び、その得意の作、數篇を取り、文法の在るところに就いて縷陳して分析し、しかる後、心を潜めて誦讀し、久うして已まざれば、文氣自然に我が胸臆の間に浸潤し、筆端遂に窘束せず、操縦自在、はじめて能く堂に上るべし。ここに於て、更に其源に遡り、古今を兼綜し、観るところ愈よ廣く、且つ愈よ精に、悉く諸家の長所を併せ集めて之を大成すれば、やがて模倣より獨創を出し、遂に一家の特色を發揮するを得べく、その欲するところ、之に投じて意の如くならざるなきに至らむ。作文の秘訣、更に他法なし。而して、この特に今人を先として古人を後にするは、たとへば、高枝攀ぢ難く、低花折り易きの類、力を勞すること少く、得るところ多きが故のみ。
 この書、収載するところ、現代名家の文、凡そ百篇。捜羅未だ至らず、或は碔砆(※珠に似た石)を珠玉となし、累を作者に及ぼすを恐るもの、時に之なき能はずと雖も、これを一概して、深思極構の作、初學これに熟せば、その自ら文を為(つく)る、古様の監鹹、時に入らざるの迂をなすことなく、聲響歩趨を模するの餘、善く法度に循ひ、幸に倒行逆施の弊に陥るなきに庶幾(ちか)からむか。
 若し夫れ編纂その他に就いては、學弟河井君の咀華を勞すること最も多く、予は大體に於て指畫を與へしに過ぎず。これ其名を掲げ、特に謝意を表すると云爾(しかいふ)。

 明治三十九年九月上澣  久保天随

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806中嶋康博:2020/05/16(土) 23:03:23
【テキスト起こし】松本健一著『犢を逐いて青山に入る―会津藩士・広沢安任』
松本健一著『犢を逐いて青山に入る―会津藩士・広沢安任』1997年 より




現在、香川大学図書館・神原文庫所蔵の広沢安住自筆「囚中八首衍義」が、国文学研究資料館サイトにてデジタル公開されてをり、この本を執筆当時、著者が拠ったと思はれる写本資料では「なかなか難解な文章だが」「意味がやや不明のところもあるが」と、解釈の滞ってゐた註に対して、より明確な訓読を施すことができるやうになってゐるので補足訂正を試みてみました。




「囚中八首衍義」第一の註(115p)の訓読


徳川右府(大納言(慶喜)復た右府を任ず)政柄を辞し、公(容保)亦た辞職す。(右府、人心騒擾して将に変を生ぜんとするを以て朝に白し、坂城(大阪城)に退く、公亦た之に従ふ)。藩に就き将に日(ひ)有らんとす。而して事情の迫切するを以て之を請うべからずの義有り、遂に伏水の役(伏見戦争)と為る。(右府命を受け上京、前列に邀へられ、[意](つひ:竟?)に発砲するに至る)。随ひて事敗れ以て今日に至る。豈に命に非ず哉。然れども人の尚ぶ所のものは義也、成敗する者は勢ひ也。而して勢に靡き義に背き、以て本を戕(そこな)ひ、宗を堙(うづ)むべけん哉。所謂大義親を滅するもの豈に其れ然らん乎。


昔者、我藩祖(二君に仕へた)馮道の事を以て時人を論ず。蓋し深意有りという。夫れ天朝は名義の存する所なり。倘令(たとい)右府、之を知らざらるとも、則ち安んぞ敝履を棄つる如く祖宗数百年の政柄を辞するを視んや。而して外には欺罔を以て誣(そし)り(徳川慶喜天朝を欺く等の語有り)、私には恭順を以て(慶喜公を)陥るる。(苟も恭順を勉むれば則ち社稷を保つべし云々と人をして伝播せしむる者少からず)。巧詐百変、実に人をして応接に遑(いとま)あらざらしむ。此れ乃ち人心の以て厭はざる所、而して成敗の以て分るる所なり。朝に臣僕為る者、夕には則ち相共に之を斃し、甚しきは之れ則ち其の賞を受けんとす。如何なる者、藩祖をして一たび之を視せ使むれば、其れ之を何とか謂はん哉。然らば則ち我が邸の荒蕪の此の状に至る者も、亦た数(運命)有りて然る耶(か)。余、敢へて酸嘆せざるなり。吁(ああ)。

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「囚中八首衍義」第四の註(126p)の訓読


此の後、徳川氏監察某(勝海舟か)、書を余に致し、吉之助(西郷)との会期を報ず。余直ちに之に赴けば(書は林三郎に因って来る。乃ち共に休之助を訪ふ)、則ち然らず。(監察誤聞して(休之助を)吉之助と為す)。


海江田武治(薩人。時に参謀たり。余、在京時の交友なり)、休之助をして語を余に致さしむるや、辞、懇得(懇篤)を致せり。之に因って、公(天公)に上す所の書、蓋し二十余の疎(上疏書簡)中、達し得たる者は、只だ此れ有る耳(のみ)ならん。更に休之助に託するに吉之助との(会見の)期を以てす。


余、必ず吉之助を期するは只だ此れ有り。此れ有りとは抑も又た説有り、曾つて(吉之助の)其の人と為りを観、立談にて能く断ぜり(蓋し武治は則ち恐らく未だ能はざる也)。余、薀蓄の至誠を発し、天理人情の極まる者を弁ぜんと欲せり。彼、苟くも(我が言に)従はば則ち生民の幸、之に過ぐる無く、従はざれども亦た以て我が義を伸ぶるに足る。是れ其の人を得るに非ざれば、以てロを開く可からず。故に屢(しばしば)之(会見要求)を要せし也。


古へより聖哲の士、尚ほ囹圄に苦しむ者多し。唯だ心を動かさざるを貴しと為す。余、初め総督営に在る時、胸間、常と異なる者有るに似たり。因るに、此に投ぜらる故(ゆゑ)歟と謂ふ。何ぞそれ是の如きや。自ら羞ぢ自ら嗟く。居ること半日、下泄中に長虫あるを視て、意、初めて解けり。(蓋し宿酔の致す所也。)然して之が為に心を動かすは、拙劣の甚だしき也。

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「囚中八首衍義」第六の註(135p)の訓読


坐隅、常に水を盛る(尿瓶?洗浄?)。(之を用ふ、故に時ならざれば置かず)。而して絶えて火気の入る無し、是を以て人の多くは湿気に中る。疥癬満身蟣虱(しらみ)衣に溢る。(義観、素衣を着し来る。のち虱の為に殆ど黒し。余亦た「開襟虱作群」の句あり。皆な然らざる者なし)毎朝一掃すれば虱の殻と疥癬と白、堆を作す耳(のみ)。且(しばら)く病疫者は常に絶えず、死す者は未だ必ずしも刑に就かざりし。

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「囚中八首衍義」第七の註(142p)の訓読


大名街に在る時、始めて兄の北越に戦死せるを聞く。(友人の郷より来れる者あり。私(ひそ)かに之を余に報ず)


鳴呼、殉難は義也。余毎(つね)に思ふ。一家に男子三人。(少(わか)き姓(やから)は僅かに十歳。其の数にあらざる也)而して一死以て君恩に酬ゆる者無く、かつ余の如きは一事をも成す能はず孑孑(げつげつ)として(ひとり)此に在り。実に羞かしき一家なり。此の報を得るに及んで、稍(やや)責を塞ぐを覚ゆ。


既にして(しばらくして)又思ふ。余の兄、勇敢にして気有り、かつ数奇にして志を得ず。毎(つね)に奮いて以て当に難衝に当らんと欲したるは、一旦夕の願に非ざる也。故に、その死必ず醜ならざる也。後に之を問ふに果して然り。(時に我が軍有利たりし故に頗る厚く葬らる)


然れども母の情に在りては果して如何。二子すでに失ふ。(城の陥ちる日に及んで独り幼稚なる者の往来を許し使命の致す一の某、土州の営に入り謂て曰く、官軍残忍と。土人其の故を問ふ。某曰く、聞く、広沢安任の如き、官軍は之を市に磔に執す、残忍に非ずやと。土人曰く、敢へて之を磔にするには非ず、唯だ首を刎ねし耳(のみ)と。是に於て人皆な余の死を信ず。流説紛々、自ら母の耳に入りしは知るべき也)


一孫亦た未だ何処に戦死しかを知らず。(初め越後に出で、のち庄内に転じ、今は高田に在り)老を扶け幼を提げて流離身を置く処無く、身は亦た如何為るやを知らず。(流離中、祖母病死。鳴呼、悲哉。)而して日に城中を望めば、黒煙簇々、砲声轟々たるのみ。


今年二月に及び、余出でて病を養ふ。始めて書を裁して母に贈る。母、之に報ゆるに曰く、巷説粉々、去歳三月某日を以て書して(わが)臨終と為す。豈科らんや、今日この書を視んとは。以て想ふべきなり。乃ち知る、余唯に母を夢みしのみにあらず、母また余を夢みしこと、其れ幾回ならん。

今、我が公幸ひに先祀を奉ずるを得たれば、則ち余等また闔家相見るを得て、共に夢中の事を語るは、其れ近きに在らん耶。実に意外の幸せ也。

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「囚中八首衍義」第八の註(145,146p)の訓読


鳴呼、彼も一時也。此も一時也。一藩滅びて赤土と為り、主従分散し、骨肉また相見る能はず。遂に天下の笑となる。蓋し亦た此を極度と為す。

今雲霧稍(やや)開け再び天日を拝するを得たれば、則ち極度また漸く(次第に)回(めぐ)らん。


是より日に新たなる者(『大学』)得べしと為すは庶幾(ちかから)ん哉。然らば則ち何ぞ以て此の恥を雪(すす)がん。生々世々(何世代にもわたって)雪がざるべからざるもの也。蓋し一世は変遷して測る可らずと雖も。唯だ天理の正に因て人事の極を尽す者、百世と雖も以て知るべき也(『論語』)。


夫れ天の大地球を視るや、安んぞ其の中に就き、而して人位等品と生別するの暇(いとま)あらんや。唯だ推功(献身)して本に報ゆるの義を以て、世襲世禄自ら形を為す。その弊の、人位等品に至っては亦た種を定む人ありと為す。人々自ら喩へざる也。


故に交際、愈よ広く、眼界愈よ大なるに至らば、則ち人位等品の説、自(おのづか)ら廃せざるを得ず。之を廃すれば則ち予に自主権を与えざるを得ず、而して人をして其の家産を自立せしむる也。(人の家産あるは猶ほ国産あるが如く、亦た天理なり)是を初頭下手の第一着眼となし、而して之を導くに科学を以てす。

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807中嶋康博:2020/05/25(月) 18:58:37
「顕忠祠碑銘:北関大捷碑」拓本
さきに旧大垣藩の戸田葆堂が遺した明治期の日記を公開しましたが、彼が碑石の由来を添書きしたといふ拓本の掛軸が、ネットオークションに現れました。

同じものは日本国内の博物館ほかに所蔵があり、デジタル公開もされてゐますが、かつて豊臣秀吉が犯した愚行、朝鮮征伐に抗して戦った義勇兵の戦捷記念に建てられたといふ「顕忠祠碑銘:北関大捷碑」の拓本です。


現物は明治時代に日本へ持ち去られた後、保管してゐた靖国神社から韓国政府を経て2006年、北朝鮮の現地に返還され、きな臭いニュースばかりの両国間の話題にも上った曰く付きの戦国時代の遺物。まさしく朝鮮民族にとっての国宝であり、拓本とはいへ落札の行方が興味深いですが、新しい持主のもとで大切にされることを願って已みません。


明治初期に大陸の詩人たちとの交流を大切にした戸田葆堂ですが、地元大垣から出征した日露戦役の兵士が持ち帰った拓本への添書きに、朝鮮半島侵攻の先鋒を務めた加藤清正を「鬼将軍」と称へる記述があるのは仕方ないでしよう。むしろ彼らを撃退した記念碑を、拓本にして「家宝」とするこだわりない心映えに、何かしら安堵するものを感じたことでした。

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【添書き】

文禄元季豊公征韓之役加藤清正公勇武抜群雷名振於内外當[旹:時]稱云鬼将軍戦酣而生擒該國王子二人即韓軍激昂

憤戦不已鬼将軍一時退此地移它云韓人勒此碑為記念今茲明治[卅:三十]七季日露開戦後備第二師團出征韓国於会寧城發見

此碑師團長三好将軍凱旋日遂持帰以奉献於帝室長存置于振[?:天]府吾大垣高屋町清水仙太郎亦従軍在該地獲石摺一本

帰則装而為記念之家宝  明治[卅]八年乙巳十二月除日  葆堂戸田[炗:光]


文禄元季(元年1593)、豊公(豊臣秀吉)征韓の役、加藤清正公は勇武抜群にして雷名は内外に振ひ、當時稱して鬼将軍と云はる。戦ひ酣(たけなは)にして該國の王子二人を生擒る。即ち韓軍激昂して憤戦已まず、鬼将軍一時此地に退き、他に移る。云(ここ)に韓人、此の碑を勒(刻)して記念と為せり。

今茲、明治三十七季(年)日露開戦。後備の第二師團、韓国に出征し会寧城に於いて此の碑を發見す。師團長三好将軍(※三好成行)、凱旋の日、遂に持ち帰り以て帝室に奉献し、長く振天府(振天府)に存置す。

吾が大垣高屋町の清水仙太郎また従軍して該地に在り、石摺一本を獲て帰れば則ち装して記念の家宝と為す。  明治三十八年乙巳十二月除日(晦日)  葆堂戸田光

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808中嶋康博:2020/06/08(月) 19:41:05
【濃飛百峰 古典郷土詩の窓】リニューアル
【濃飛百峰 古典郷土詩の窓】 リニューアル

【凡例】

岐阜県学芸史のバイブルである伊藤信氏編集の『濃飛文教史』1937。ここに現れる漢詩人データを『漢文學者總覽』に倣ってリスト化しました。

同時にその情報源について、墓碑、遺稿集はもちろん、当時の選詩集である

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『玉振集』1778、  『濃北風雅』1783、  『三野風雅』1821、  『聖代春唱』[1826]、  『洞簫余響』[1867]、

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に収録された情報と、照らし合せできるものは確認し、併せてこれまで詩史から漏れてゐた詩人データを追加しました。

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さらに以下の本を精査して『濃飛文教史』情報と重複しない新規情報がないかチェックしました。

日置弥三郎『岐阜市史 通詩編 近世』1981

岩田隆『東海の先賢群像 正続』1986-1987

笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究 上』1969

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表題人名には「号」を採りました。

順序は始めに大まかな地方毎とし、その後さらに細かい地区、もしくは時代毎に、どちらを優先するかは適宜、詩人間のつながり(血縁や結社)を考へながら配置しました。

郷土漢詩人を調べる際のプラットフォームになってくれれば幸ひです。

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(付記)

当時の版本は人名漢字が定まってをらず(例:「野・埜」、「塚・冢・束」等々)、また赤の他人に編集が委ねられた選詩集には誤記もみつかり、不備は追々訂正して参ります。

リンク先の各ページにおいて公開を試みた草書の解読・訓読テキストについても、御教示お待ち申し上げます。

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809中嶋康博:2020/06/23(火) 12:34:02
『俳諧宗匠 花の本聴秋』
 未知の上田千秋様より、明治大正期に俳壇の“宗匠”として一世を風靡した「花の本聴秋」の伝記本『俳諧宗匠 花の本聴秋』(文藝春秋企画出版2020.4)の御寄贈に与りました。さきに拙サイト内にて公開しました戸田葆堂の『芸窓日録』が参考文献として活用されてをり、日記中に頻繁に現れる「上田」なる人物がその人、上田肇:号聴秋であったことを御教示頂き、吃驚してをります。


 上田聴秋(1852-1932)と戸田葆堂(1851-1908)とは同年輩、小原鉄心を伯父、祖父としてそれぞれ仰ぐ関係です。下図に示しました。


 俳句界は御存知のやうに、明治になると正岡子規による革新運動、所謂「月並み俳句」への批判が起こります。その温床ともいふべき、お代を払ってお点を頂く「宗匠:そうしょう」の制度は、しかし批判を受けて収まるどころか、活版印刷が始まると、俳句を大衆に浸透させる方向でむしろ勢力を拡大してゆきました。


 上田聴秋はその一人でしたが、他の宗匠とはことなり別に生計(副業)を持たず、二条家から拝領した称号「花の本:はなのもと十一世」といふお墨付きを盾にして、俳句だけで八十年の生涯を貫いた人です。
 明治17年に興した俳句雑誌は生前587号にも達し、最盛期には門人三千人を誇ったといひますから、名声のみならず経済的にも大衆に支へられた最後の職業俳人と言へましょう。この本は、聴秋のひ孫である著者により、宗匠俳人上田聴秋の生涯と事迹とを詳細にたどり、考察を交へた唯一の研究書と呼んでよいかと思ひます。


 本書中にふんだんに写真で紹介されてゐますが、芭蕉に倣ってパトロンのもとを「道のため、社のため」遊歴を重ねた南船北馬の半生、それが一面、蒲柳の質であった彼の健康法ともなり、各地の勝地には自句石碑が31基、揮毫石碑も15基が建てられました。
 生前の彼は名声に囲まれてゐましたが、宗匠「花の本」の称号は、昭和七年の彼の死後、時代の流れを感じ取った後継者(娘婿でもあった十二世會澤秋邨1875-1941)による断絶が選択されます。戦後に訪れる、俳句そのものを否定する「第二藝術論」を待つまでもなく終焉することとなり、石碑の多くはいま顧みられることなく、苔蒸す現状も報告されてゐます。


 そんな伊藤聴秋の俳句とは、いったいどんなものであったのでしょう。以下にすこし写してみます。


むかし龍が住みたる池や風かをる


長生きは山家に多し秋日和


明月や敵も味方も同じ秋


砕けても砕けてもあり水の月


美しく鯉はやせたり燕子花(かきつばた)



夜桜や篝(かがり)に春の裏表


降るだけは降りて五月の月夜かな


 本書中に紹介されてゐる、月並み俳句の存在理由を示した研究者青木亮人氏の一文には、同じく、鷹揚・駘蕩なる内容・作者も多い戦前の抒情詩人を愛する私の心にもいささか訴へるものがありました。


「聴秋や梅室などの宗匠の作品は活字では平凡だが、暮らしの中で短冊や軸として接するといいしれの魅力を発する。聴秋たちの句は生活の平凡さを脅かさず、むしろ認めてくれるもので、だからこそ暮らしの中で魅力を放つのではないか。生活とは平凡であり、変わらぬ習慣とささやかな秩序に支えられた「月並」の別名に他ならないためだ。しかし、虚子や碧悟桐の句はこうはいかない。彼らの作品には常識を揺るがす何かが潜んでおり、だからこそ「文学」として優れていると見なせよう。しかし、「文学」は暮らしの中で常に必要とされるものだろうか。仕事に家事や雑事、家族との団らんや他の趣味などで一日の大半が終わる日々の中、従来の習慣や常識を揺るがす力強い「文学」は必ずしも必要でないことを、多くの「月並」短冊や軸と接することで初めて実感した。(265-266p)」青木亮人『その眼、俳人につき』より


 そして彼自身の俳句に対する態度はこんなものでありました。


「俳句をどう作ったらよいか、という問いに対して、聴秋は、「まあやってごらんなさい、そのうちに解ってきますよ」と言い、「無理に作りたれば、不自然なり美に感じて出来たれば、自然なり。句は作るべきものにあらず。出来るものなり」とも答えている。(215p)」


「聴秋は作った句をいちいち書き留めておくようなことをしなかったようだ。あとから念入りに推敵する、といったこともめったにしなかったらしい。ぱっと出来れば、それでよし、あとは顧みない。俳句とはそういうものだと考えていたのだろう。句集を刊行するにあたって、弟子の手帳から句をかき集めたというのも、うなずける。(233p)」



はなむけの分に過ぎたる牡丹かな 紅葉


牡丹切る心に似たる別れかな 聴秋 (明治26年読売新聞、別宴の席で)


 門人ではありませんでしたが、当代の人気小説家、尾崎紅葉や、当時は無名記者だった巌谷小波とも、俳諧を通じて交流は密でした。ただし批判の先鋒であり、現実を活写する「写生」をもって新しい文芸精神を掲げた正岡子規だけは別で、彼にとって「無学、無識、無才、無智、卑近、俗陋、平々凡々」と、口を極めて罵倒した月並み俳句の頂上に位置した彼らの作品は、煎じ詰めるところ


「宗匠派には遠回しに遠方から謎をかけると言うようにして面白がらせるところがある。それが理屈が入っているところである」(161p)


といふ文学的な立ち位置の違ひが物足りなさとして映り、我慢ならなかったもののやうです。対して聴秋はといふと、『帝国文学』(明治33年1月)誌上での対談で、


「「芭蕉翁は、格に入りて格を出ざる時は狭く、また格にいらざる時は邪路にはしる、格に入り格を出で、初めて自在を得べし」と言っているが、「子規ら」のいわゆる「新派といふ人々は初めより格に入らず邪路に陥って」いて、「師について学ぶといふことはない、みな初めから大先生です」。一方の、「正風、すなわち芭蕉派を称へている」人たちも、これまた、はなはだ弊風がある。概括していえば、芭蕉派一は「格に入りて格を出でず」、子規派は「初めより格に入らず」、両派ともこの道をきわめているとは言いがたい。」(148-149p)


と言ってゐる。そして「正岡子規その人を非難したり、その句を批判したりはしていない。あくまでも子規に連なる「新派」を対象として発言している。この姿勢はその後も変わっていない」といふ、個人への配慮もあったやうです。


 確たる学歴を持たず、酒も茶も飲まず煙草も吸わず、現存の俳人に対する批判や悪口をしなかった人柄、「枯木のごとき老体ながら、銀髯を秋風に吹かせた十徳姿」(277p)の風貌を携へ、聴秋は北海道へは七度も足を運んでゐます。開拓地を訪れて拠金し、北辺で果てた会津藩の敗将の墓参に根室まで「密かに」行ったりもしてゐますが、ご存知のやうに彼が参加した戊辰戦争に於いて会津は大垣藩の敵軍でありました。

 土地の親分から至れり尽くせりの接待を受け、観光客相手の呼び声に呼びこまれるままに招じられれば、「ご注文は」と訊かれて「休んでゆけというから坐ったまで」と嘯く「花の本聴秋」時代のエピソードも面白いですが、最も強烈なのは、さうした彼が俳人を志す以前、幕末から明治初年にかけて大垣藩士だった頃に見せてゐたサムライ少年、上田肇の面貌です。


 すなはち伯父小原鉄心同席の場で、木戸孝允や後藤象二郎といった貴顕に臆せず議論を挑んだり、曲がったことが嫌ひで刃傷沙汰を起しかけたり、或ひは後先考へず路銀を乞食に寄付してしまひ、なんとかなるさと旅路を続けてなんとかなってしまふ顛末などなど。
 のちの協賛者の錚々たる肩書を思ひ合せるに、その性情と立ち位置には何かしら典型的な明治の蒼莽、頭山満を髣髴させるやうなものがあり、若い頃から気骨と鷹揚とを併せ持つ“人物”だったことを証してゐるのが滅法面白い。「和歌」に比してパッションを載せづらい「俳句」ですが、斯様の人物がどうして俳諧一本で生きてゆくといふ世捨て人の道を選ぶに至ったのでしょう。


若草や大の字に寝て空をのむ


高鼾 年がこぬなら来ぬでよし


百万の富より春のきまま旅


 冒頭にも記しましたが、俳誌『鴨東集』の創刊(明治十七年)編集にあたっては、先行して漢詩雑誌『鷃笑新誌』を出してゐた戸田葆堂から出版のノウハウ全般を学んだらしいなど、当時を記録した『芸窓日録』を通して、大垣人脈とのふんだんな交流も窺はれます(葆堂と同じく清国の詩人胡鉄梅とも親交があった由)。

 「秩禄処分」が行はれた大垣藩に交付された国債運用のため、家老戸田鋭之助が頭取となって興された第百二十九銀行(大垣共立銀行前身)、彼もまたここからの借入金があったことなど、勉強になりました。


 若年のエピソードについて、適宜端折って下記に抄出してみましたので、興味のある方は実際に本書を手にとってみてください。『論語』を俳句で解いていった試み(「論語俳解」)には驚かされましたが、遺された肖像からも、俳人といふより漢学者にみられるやうな遺臣の面影を感ずることが出来るやうであります。


 ここにても厚くお礼申し上げます。


【若き日のエピソード】


30-32p

 肇は、明治新政府の「参与」に就任した伯父の小原鉄心に連れられて、京都へ出た。「参与」とは、王政復古によって、明治政府に創設された最高政治機関、「三職」(総裁、議定、参与)の一つである。鉄心は慶応四年(一八六八)一月三日にこの職についた。


 肇が木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎らと知り合ったのも、このころである。みな参与として新政府に仕えていた。肇は伯父に伴われて、しばしばこういう人たちとの会合の末席に列なることもあった。そんな折に、いつも奇抜な議論を口にするので、要人たちに可愛がられたという。


 木戸孝允は、ある日、肇に「世の中は議論ばかりでは行かぬものだ」とたしなめて、「世の中は角力の外に角力あり勝負の外に勝ち負けはある」という一首を与えたという。


 肇(聴秋)は後年、日出新聞の記者、黒田天外にこう語っている。


「維新の際、私の叔父、小原鉄心が朝廷に召し出されて参与になりましたから、私もそれにつられて京阪のあいだにおり、木戸公や大久保公などにも世話になりました。そのころはまだ十五、六で、ムチャクチャに議論が好きで、それで木戸公に戒められたことがございます。」(黒田譲『名家歴訪録』上編)(中略)


 後藤象二郎は、肇をこう評したと伝えられる。「舞妓の踊りと肇さんの議論は、無為の天法、人間(じんかん)に落つ」。(『俳諧 鴨東新誌』より)


 肇の議論好きは天性のものだ、と褒めたようにもとれるが、この少年の言うことは舞妓の踊りのように、たわいない、可愛いものだ、というほどの意味かもしれない。


39p
「箕作(みつくり)塾に松本荘一郎という塾生がいた。将来を嘱望された秀才であったが、家計が窮迫して学資の支給ができなくなり、学業を辞めて郷里へ帰ることになった。塾生に上田肇という大垣の藩士がいた。後に花の本聴秋と称して俳譜の宗匠となる人物である。彼は松本の才華を惜しみ、大垣藩に藩士として取り立てるよう推挙し、尽力した。松本は大垣藩士となり、藩から給付を受けて大学南校に進み、明治三年アメリカに留学して工学を学んだ。」(『西濃人物誌』より)

49-57p
 肇は後年、大学南校での学業を諦めて東京を去ったときのことを回想している。その回想はいくつものエピソードを重ねたものだが、大学南校を去らねばならなかったことが、いかに残念であったか、その心の傷跡を暗に語っているように読み取れる。本人はそんなことはおくびにも出していないけれどもこれは『鴨東新誌』385号(大正5年1月1日)に掲載された。六十四歳のときの回想である。

 実兄が幸に海外視察から帰朝したので、そのわけ(大学南校を中退して郷里に帰ること)を話して旅費をもらったが、船賃だけを残してめちゃめちゃに使ってしまった。

 蒸気船というものに初めて乗り込んだが、赤(赤切符のことで三等船客の意)であるから、荷物と同居というありさまであった。やりきれないので、甲板に上がると、遠州灘の荒波は夢の間に過ぎ、伊勢湾の入り口で神崎という島が目の先にあらわれた。

「この船は二見の浦へ寄港しますから、伊勢大廟でも参詣したい方は上陸なさい」
と、船員がふれてきた。無一物では上陸ができず残念であるから、二等室へ行き、室の中央に立って、

「時に、諸君、四海兄弟ということはご承知でしょう。してみると、拙者は君らの弟である。その弟が無一物のために、伊勢大廟へ参詣ができぬから、上陸費わずか二分(今の五拾銭)だけ恩借にはあずかれぬでしょうか」

 と、君父より下げたことのない首を下げて頼んでも、くつくつと笑って誰一人、取り合ってくれぬ。取り合ってくれる人がいないから、大いに立腹して、大声を発した。

「諸君はお見受け申すところ、衣服といい立派なる方であるが、男児たるものが首をさげ、お願い申してもお聞き入れないのは、よもや二分の金がないのでもなかろう。まったく温き涙や赤き血のない人だ。こんな腐った根性の人に、旅費を借りて大廟へ参拝したところで、神への不敬であるから、これまでのことは取り消します。」

 船客のなかに骨のある人がいて、船長に余が不礼を訴えた。船長に叱られて、しほしほ三等室へ帰ろうとしていたときに、青年の男児があらわれて、

「君はまだ年がゆかぬから無頓着であるが、人を罵倒してはいけない。謝罪したまえ。失札ながら僕が二分だけ貸してあげるから」

 と、こんこんと忠告されたので、その人の赤心に惑じて、乗客に謝罪し、大枚二分を借りた。

「君はなかなか面白い男だから、吾輩とともに二見で昼飯を食おう。来たまえ」というのでついて行った。二見の某楼に対座して、ご馳走になった。

「いったい君はどこの人だ?」とたずねたから、
「日本人だ」と答えた。
「なんというか」
「上田いうものだ」
「ふふん、それでは、神戸の箕作の塾にいたことがあるか」
「あるよ」
「快闊男児の評判の高い男は、君であったか」
「そういう君は、誰だ?」
「おれか、おれは新宮涼樹だ」 註)鯖江藩士。
「箕作の塾で才子の名を博し、色男然と気取っていた酒落ものは、君か?互いに逢わんとして逢わなんだが、今ここで邂逅したのは不思議だ。やはりお伊勢様の引き合わせでもあろう」

「上田君、きみはどうしてこの船に乗っていた?」
「おれは体を少し痛めたから、命あっての物種と、故郷へ帰って母の乳でも吸って、健強の体にして、必ず天下に名をなして見せる。一生貧乏は覚悟しているよ」
「上田は若いだけに馬鹿なことを言っているなあ、おれは箕作の塾にいて、文典や万国歴史くらいひねくっていても駄目だと悟って、学問はやめて横浜のフランスの商館へ入りこんで、金を作る稽古をしているのだ。世の中は金でなければ夜が明けぬよ。上田はいつもの壮語豪邁にも似ず、僕の二分の金に頭を下げたではないか。だから病気で学問を中止したのは、君の好機だ、逸すべからず、病が治りしだい横浜に来たまえ。また世話をしてあげるよ」
「新宮君は名誉も義理も捨てて、金銭の奴隷になるつもりか」
「もちろんだ、上田も白髪でも生える時代には、新宮が言ったことを思う時があるよ」
「おれもまた新宮に羨まれる時代があると信じている。ここで君と別れて三十年の後に互いに成功して会いましょう。君は黄金の人となれ、僕は天下の人となる」
と言って、大声で笑った。

 新宮と別れて、伊勢の古市をさして歩を運んだ。その出で立ちは、頭にはボーイのかぶる帽子、破れ袴をはいて、羽織は脱ぎ、杖の先に飲みさしの葡萄酒の瓶をくくりつけ、この杖をかついで、
「児を産めば玉のごとくあるべし、妻を娶らば花のごとくあるべし、丈夫天下の志、四十いまだ家をなさず」
 と、河野鉄兜の詩を声高に吟じつつ、ふらふらと歩いた。
 尾上町まで行き着いたが、どの家でもみな断られて泊まるところがないので困った。裁判所(今の県庁)へ談判に行ったが、門は閉まっていて、小使が一人いるだけで何の役にも立たない。陽は西山に暮れ、塒を急ぐ鴉が羨ましいというありさまであった。
 そこへ兵隊が隊列を組んでやって来たので、近寄って見れば、その隊長は可児春琳である。
    註)大垣藩士(1847-1920)。戊辰戦争の鳥羽伏見の役では、実兄・小原忠辿(軍事奉行)の指揮下で戦い、北越や高岡では肇と戦場をともにした。
余を見て、「上田さんですか。お宿はどこです?」
 と問われたから、事情を話すと、
「ともかく私の宅までいらっしゃい」
 とのことで、行軍中の隊長と話をしながら、可児の宿まで行った。そのあと旅亭に案内してくれた。古市いちばんの割烹店で、朝吉楼(嘉永四年創業の麻吉楼のことか?)という大きな青楼であった。朝からご馳走が出るし、芸者は来るし、四絃(琵琶)の声は耳を聾するほどであった。ここに一両日、厄介になった。

 山田を離れて少しばかり来たところに、年寄りの乞食が病気らしく路傍に寝て、幼き女の児が介抱している。見るに見かねて足をとめた。
「おい、乞食、きみは病気か。飯は食ったか?」
「昨日から何も食べていません」
「そうか、それは気の毒だ。あの女の児は何歳だ?」
「はい、あれは私の孫ですが、歳はようやく八つであります。行人の袖にすがり、少しのお恵みをいただいて、それで親子が食するようなわけです」
 余は心に感じて、虎の子のように大事に持っていた二分金をそのまま乞食の親子にやって、
「君、これで飯を食いたまえ、薬も飲みたまえ」といえば、乞食の云うには、
「これは二分金です。この辛き世の中に一文のお銭さへなかなか下さらぬのに、二分というような大金を乞食が持っていては、盗みでもしたのではないかと、かえって人に疑われます。お恵み下されしお志はありがたく頂戴いたしますが、このお金はご返却いたします」
 というので、付近でこまかい金と換えて、乞食に与えて別れた。
 宮川という川に渡し船がある。何も気がつかずに船に乗って向こう岸に着いたが、二分しかない金を乞食にやってしまったので、船賃がない。恥ずかしかったが、船人にその訳を話して頼んだら、同情のある舟守で、
「おまさんは、まだ子供あがりでありながら、感心なことだ」
 といって、無銭渡船をさしてくれた。
 まだこの頃は、俳句のはの字も知らず、年はようやく十六歳と半分ばかりであった。

 ここで「十六歳と半分」というのは、これが明治五年ごろの出来事だとすると、十九歳か二十歳の思い違いであろう。

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810中嶋康博:2020/08/26(水) 20:46:49
白取千夏雄『全身編集者』
白取千夏雄 著 『全身編集者』 おおかみ書房2017年刊

 今回はマンガが話題なので現代仮名遣いで書きます。
 いまやマンガ界では伝説となっている月刊漫画雑誌『ガロ』。その終焉に至るいきさつをめぐり、当時編集に携わった白取千夏雄氏が書きのこした「遺書」ともいうべき『全身編集者』を読了。一気に読み終えました。本屋に出回らない本ですが注文してよかった。★★★★★五つ星です。

 わが記憶には今だ新しい1997年に起きた『ガロ』編集部の分裂事件。それをクーデターと呼んだらよいのか、刊行元の青林堂から、青林工藝社なる別会社が袂を分かち『ガロ』さながらの出版活動が始められたのは、当時話題にもなったニュースの情報から、その後「政治的」に舵を切った現経営陣との確執が原因だと思っていたのですが、それがそんな単純な話ではなかったという事実。初耳でした。

 そしてもうひとつ。80年代の昔、地方の大学生だった私も購読していた『ガロ』誌上で、現代詩作家のような清新な雰囲気で再デビューを果たしたマンガ家、やまだ紫が著者白取氏の奥さんだったこと。ファンにはおなじみの事実なのでしょうが、当時いくぶん反発も感じていた彼女の作風の裏に、実は前夫のDVが深く横たわっていたなど、全く思いもよりませんでした。

 後半には17歳年上となる、その妻への思いが綴られます。2005年、白取氏は自身に発覚した白血病により余命を宣告されるのですが、彼の入院を待つことなく2009年、妻であるやまだ紫が、脳溢血により先に斃れてしまいます。人気ブログだった当時のネット文章も引用されつつ、「お互いの苦痛を自分の苦痛と考え、まるでDNAのらせん構造のように絡み合って生きてきた(129p)」、という二人の、『ガロ』編集から退いた後にようやく許された、しかしさほど長くもない「余生」の交歓が切々と描かれます。

 ところが物語はそれで終わらない。
 彼女に対する万感の念ひをもって締めくくられると思いきや、この、本屋には並ぶことのない「遺書」が制作されるに至ったその後の経緯が、読者を放さず簡単にはセンチメンタルにしてくれない。すなわち1965年生まれ享年51で逝った著者本人と、彼から編集技術を直伝されたお弟子さん(本書の編集兼発行者:千葉啓司氏)との交流を描いた、いみじきラストスパートの二章に、どっと涙をもってゆかれました。『ガロ』休刊の原因を作った「3当事者」のうちの一方の視点、山中潤氏によるあとがきも、そうして決して蛇足ではない。

 この一冊、日本のマンガ史を語る上での微妙な時代を語る「新しい古典」として、いずれ大きな出版社から文庫版になって広く読まれることになると思います。

 トキワ荘の物語や朝ドラ「ゲゲゲの女房」が象徴するような、いわゆる高度経済成長期の大御所マンガ家の苦労話が詰まった60年代、そして迎えた70年代の漫画週刊誌の黄金期――。『ガロ』は御存知のように、そんな商業出版誌の表舞台とは関係がありませんでしたし、この本の舞台となったのは、さらにその後に続いた、バブルの80年代、マルチメディアの90年代という、サブカルチャーがどんどん尖っていった時代のことであり、紙媒体として草創期から生きながらえた『ガロ』の存在理由が、どのように経営上で模索されて行ったのか、舞台の内側から語られている点で特筆に値します。表現の実際は、エグ味の強い当時の作品群に直接あたって読んでもらえばいいでしょう。

 この本には「作家を単なる商品として見ない」ことを、伝説の編集長である長井勝一氏からモットーに学んだ、生き証人にあっては最年少だった著者白取氏が、ある意味、先見の明がありすぎて、長井氏が興した伝説の出版社「青林堂」の引き継ぎに失敗し、伝説の冊子体『ガロ』を手放し、そこから育った尊敬する作家であり最愛の妻であるやまだ紫を、時を経ず看取ることとなった、まことにほろ苦い悔恨の記録が、本人目線からの嘘の無い遺書としてしたためられております。

 かくいう私も、むかしマンガ家にあこがれ、(詩を書き始める前の話ですが)落書きを描きまくっていた時期があって、何を血迷ったか青林堂に直接原稿を持ち込んだことがあります。1985年頃だったでしょうか、当時の神田神保町、一階が倉庫様の建物の端から階段を上って二階のドアをノックして入ってゆくと、部屋の真ん中には大きなテーブルが据えてあり、編集長である長井勝一さんと、奥にもう一人、若い男性が座っていましたっけ。小柄で温厚そうな長井さんは原稿を一覧し、かすれ声で「こういう、ムードマンガを描きたいならもっと絵を練習しないと。」それから絵柄を見ながらなぐさめるように「描いたらうまくなるよ。」と仰言って下さいました。
 しかしながらお会いしたのはそのとき限り。上京して一年後の自分の中では白取氏と同様、マンガ家には半ば見切りをつけ、その頃からもう詩ばかり読んでいましたから、却って引導を渡されたと踏ん切りがついたような気持ちになりました。
 翌年、今度は書き始めた詩を田中克己先生のもとに送りつけることになるのですが、本書には、その頃の青林堂のことからが書き起こされていて、恥ずかしいやら懐かしいやら。当時のことがあれやこれやと思い出されてきましたが、あの若い人が、あるいは白取氏だったか、それとも別の方だったかと、トランクにしまい込んであるケント紙に描きなぐった落書きを引っ張り出してきては、蛇足ながら回想中です。

白取千夏雄『全身編集者』おおかみ書房,2017年刊行。177p, 21cm

現在3版、購入は「まんだらけ」による委託通販のみか。1500円+税+〒=1,870円

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811中嶋康博:2020/09/09(水) 16:12:31
『復刻版 パストラル詩社通信』
 青森での講演から1年経ちましたが、詩人一戸謙三の伝記資料冊子10冊の刊行を果たしたお孫さんである晃氏よりは、あれ以降も引き続き、詩人に関する考察とフィールドワークを交へた「資料報告」を頂いてをります。本日は断続的に発行されてゐる『探珠 玲』別冊より、『復刻版 パストラル詩社通信』(2020.9.9 A4版13p)のご紹介。

 大正時代、歌壇が主流だった弘前の文芸壇に、口語自由詩の新風を吹き入れる役割を果たした青森県初の詩社、パストラル詩社。

 現在、全集本などにはよく、編集雑記などが刷られた数枚の紙片が「〇〇通信」なんていふ名で栞として挟み込まれてゐますが、大正9年の時点でこの「パストラル詩社通信」はその走りとでもいへましょうか。ただし購読者に対してでなく同人限定に向けた通信文の刷物なので「会報」といった方がいいかもしれません。

 ただし面白いのは編集者の櫻庭芳露から一戸玲太郎への通信文が、そのままガリ版で刷られ、会員にも共有されるといふ趣向です。

 そして編集方からの通信であるとともに、詩社の精神的支柱だった福士幸次郎をフィーチャーすることで、すなわち櫻庭・一戸の二人と、その先生とが実質的に運営していることを示す、パストラル詩社の性格をよくあらわした刷物であることに資料的な意義を感じます。

 内容は編集者の櫻庭芳露から同人への連絡事項で主に占められてゐますが、申し上げたやうに毎号の巻頭、ネジ巻き役である東京在住の福士幸次郎から届いた「通信」、檄やら言ひ訳やらの手紙の文章が掲げられてをり、ことにも最初に同人全員に対して食らはした

「諸君の内から取り得るものは僅かしかない」

の一発目はガツンと効いてゐます。民謡・童謡を「詩」とは認めず、青年詩人に対していましめたところにも見識を感じます。中央では、お仲間世代である佐藤惣之助や西條八十が、かうした作詞で世俗的に売れはじめてをり、青森にも安易に手を付けたい誘惑にかられる若者がゐたことをこの文面は示してをり、たいへん興味深いです。

 (我が郷土岐阜はその点、田舎の紅灯観光地ですから、青年詩人達がこぞって創作民謡にあてられてしまひ、親分として佐藤惣之助のことを、アンデパンダン詩社「詩の家」主宰者でなく民謡調の大家として奉戴する同人誌『詩魔』詩壇が形成され、自由詩が(芸術派もプロ派も)全く振るふことがありませんでしたから。)

 ガリ版の文面写真が載ってゐますが、できれば各号の全体の形姿と共に、詳しい書誌も記されるとよかったです。

 定期的に送って頂くA4に綴じられた「資料通信」を読みつつ、自身で継続中の日記翻刻作業も髣髴され、晃様の地道な営為のさまがしのばれます。資料を寄贈した先の弘前市郷土文学館でも、かうした営為をむだにせず、原画像と共に翻刻資料の公開を考へても面白いことかと思ったことです。

 ここにてもお礼を申し上げます。ありがとうございます。

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812中嶋康博:2020/09/12(土) 22:01:46
新刊『太宰治の文学 その戦略と変容』
 青森の相馬明文様より、新刊『太宰治の文学 その戦略と変容』をお送り頂きました。かつて拙詩集を寄贈させて頂いたお返しかと存じます。

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 『感泣亭秋報』等で拝見してをりました、詩人小山正孝に関する諸文章が(翻刻資料とともに)収められ、他にもこれまで著者が太宰治と向き合ふ過程で知り合った文学者について、考察・思ひ出をまとめて一覧できる章立てがなされてゐます。

ともあれ本書前半の、著者の本領であるところの太宰文学研究に初めて接した私です。

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 かつて、文学史(論)や作家研究に関する研究書で、「時代の子」というこの用語はよく見聞きした。 (中略) (※しかし太宰治という書き手は、)時代そのものを戦略として活用ないし利用した、それも効果的に、と言えるのではないか。たとえば全国を席巻した左翼・共産主義思想、労働側の階級闘争、青年層の自殺自死の季節など (中略) これらの事象・状況を、「時代に生きた」というような客体的な受け身の結果としてではなく、積極的に能動的に、文学表現に「言語の戦略行動」として取り入れた、というべきではないのか。(「序に代えて ──太宰治の戦略を考える」11〜12p)

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 かう冒頭に述べられてゐる着眼点。肯へて「戦略」というキーワードを使用したところに、郷土の研究者ならではの妥協のなさを感じました。この「戦略」自体については、平成21年に青森県立近代文学館で行はれた講演原稿に沿って、大変分かりやすく、「句読点」「同語の繰り返し」「否定」「逆説」「告白体」といった具体例を挙げながら説明されてゐるのですが、私が感じた妥協のなさについては中盤に於いて極まり、

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 私は、太宰が左翼思想に飛びついたのは、単に「えふりこき(※注:津軽弁で“ええ恰好しい”の謂)」だったからではなかったか、という噴飯ものの思い付きを少し長く打ち消せないでいる。つまり、後にこの作家の文学的内容となる共産主義とその離脱への入り口は、言ってみれば取るに足らぬこと──本心から社会正義としての必要性を感じたのではなく、周りに対してそう見せかけようとしたからではなかったのか。この思想は当時の〈非〉合法思想であって、後に全国規模で国家当局から大粛清を受けることになる社会の趨勢については、ここで触れるまでもないことである。官立弘前高等学校でも昭和10年ごろまでに学校当局により弾圧されていくことになる。しかし一方では時代の先端的一面があったはずで、「恰好」がよかったからでは、と思えてならない。(「えふりこき ──太宰治瞥見」95p)

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 とまで突っ込み、語られてゐます。

 太宰治は私にとって、詩に出会う前の大学時代に、『ガロ』のマンガと同列に読みふけった唯一の小説家でした。山岸外史による有名な評伝バイブル『人間太宰治』に詳しく書かれてゐますが、個人的にもっといやらしい言ひ方をするならば、「戦略」とは、彼の人となりについて評された「サービス精神」の表はれでもあったかな、とも思ったことでした。

当時むさぼり読んだ、今はあらかた忘れてしまった作品の中でも、「津軽」は別格として「乞食学生」「眉山」といったセンチメンタルな短篇に心打たれた記憶があり、なるほどよくよく思へば、私はただ彼の「戦略」の術中にはまってゐただけ、だったやうな気もしてをります。

とまれ愛読者だったといって何の論評ができるやうな知識も持ち合はせず、ここにては目次紹介しかできないことを恥づるばかりですが、著者もまた「眉山」がお好きであることを述べてをられるのを知って嬉しかったです。

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 新刊のお慶びを申し上げますとともに、ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

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出版社: 能登印刷出版部 2020年7月24日発行。22cm, 281p \2,500

ISBN:978-4-89010-771-1

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813中嶋康博:2020/10/01(木) 09:41:48
「パストラル詩社の終焉」
 一戸謙三御令孫の晃氏より、前回の「復刻版 パストラル詩社通信」に引き続いてA4版パンフレット、探珠「玲」別冊「一戸謙三の抒情詩 パストラル詩社の終焉」をお送り頂きました。

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 今回は青森県最初の詩の結社パストラル詩社から発行された、10冊の同人アンソロジー(大正8年〜12年)に載せられた一戸謙三の初期の抒情詩を通覧します。合せて詩人の自意識を窺ふやうな、当時の興味深い出来事(事件?)が一緒に記されてゐます。


 すなはち同人達の共通の師匠であった郷里の先輩詩人、福士幸次郎が、「パストラル第7集」に載せる詩篇を取捨選択するその現場に、たまたま田端の福士邸を訪れた謙三が立ち会ってゐるのですが、実力では盟主を任じてゐた自分の作が採り上げられず、代って事務方を仕切ってきた5歳年長の櫻庭芳露(さくらばほうろ)の「悔」が佳作として面前で激賞されたことであります。

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 (※一週間程経って)「また福士さんを訪ねてゆくと、二階(※四畳半)で原稿を書いてあつたが、それを止めてパストラルの原稿を取り出し批評しながら見てゆく。○のついたのは今度の詩集に入れるもの、×のついたものは入れないものとして厳重にむしろ苛酷といふほどに批評してゆく。それだけ芸術に対して福士さんは妥協的態度を取らないのである。真先きに私の詩が、オリジナリテイがない、とやツつけられた。(※この後、原稿は散失してしまったと言う。)桜庭君も困つたものだ。熱心は芸術と違ふからなあ!しかしこの詩はいいぞ。おお、これア傑作だ、と「悔」(※といふ詩)を示して、これアいい、全くだ。二重丸にしてやれ。いや、いいぞ、も一つ丸をつけてやれ。しかしねえ、パストラル詩社の人たちみんなにこんな詩を作れと云ふのではないですよ。ねえ、めいめい自分には個性と云ふものがあるんですから。」「不断亭雑記(昭和36年より新聞連載)」No.524

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 当時上京中だったのですが、謙三はこの第7集『五月の花』に載った作品に対する厳しい批評を、地元青森の一般新聞紙上で行ひます(画像参照)。そしてそれが因なのか、それまで櫻庭から一戸への通信文に擬へて福士幸次郎の言葉を伝へて来た「パストラル通信」も、(出てゐないのか、遺されてゐないのか)、当時のものが見当たらないのです。


 厳しい批評は、嫉妬であるより謙三が盟主を自任してゐた詩社の責任者としての自責を他の同人にまで及ぼした現れでありましょう。師の言葉の“厳重にむしろ苛酷といふほど”をそのまま写したものであったかもしれません。しかし、そののち櫻庭氏が自分と入れ違ふやうに教師を辞して上京してしまひ、パストラル詩社も解散のやむなきに至ったことについては、謙三も彼なりに理由の一端を担ったのではないか。バツの悪い思ひもしたのではなかったか。櫻庭芳露は昭和3年に、福田正夫や白鳥省吾の序文を得て『櫻庭芳露第一詩集』を刊行し、新詩人としては少々遅いですが詩集の刊行を果たします。その際、やはり新聞紙上に謙三が書いた当時の回顧には、上京した後の櫻庭氏が、詩作の上では芸術派だった謙三とは全く肌合ひの異なる民衆詩派詩人として、都会生活のなかで変質をとげていったこととは関係なく、正当な人物評として表れてゐるやうであります。

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「その人(※櫻庭氏)の稟性はまことに誠実そして熱心である。」「あのパストラル詩社を経営した努力、それはわたしら郷土詩壇に今現在生きてあるものの誠に多としなければならぬところである。他日郷土詩史を書くものがあったならば必ずやパストラル詩社の名をまた櫻庭芳露氏の名を逸せぬことであろう。何故なら前者は郷土詩壇の草創の詩社であり、それを主宰し興隆せしめたのは後者であったからである。」昭和3年8月6日「東奥日報」「櫻庭芳露氏とパストラル詩社」

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ところがその後、謙三の方では郷里にあってモダニズム詩人への変態を遂げ、さらにそこからも脱却すべく欝々と模索・煩悶してゐた時期を迎へて、よほど心に余裕のなくなったものか、昭和8年の「日記」にこんなことが記されてゐることに、晃氏は首を傾げてをられます。

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8月6日「県教へ出す方言詩を直して書く。弘新(※弘前新聞)によって、新聞を東京に出す。万茶(※喫茶店)によると、成田君(※東奥義塾で今官一らと同級、画家志望)が来る。雑談して五時ころまでゐる。夜に、桜庭氏の歓迎座談会あり。逢って見たところで、大した話のあるわけでもなし、行きたくもないのだが、パストラル同人であって見れば義理である。」


9月8日「佐藤一英、福士さん(新聞)、高木恭造。桜庭先生からヘンなハガキ来る。黙殺す。」

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 この日記の続きには、高祖保から激励のハガキを受けとり、かうも書いてゐることを以前紹介しました。

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11月14日「返事を書かうとしたが止める。また落ち着いて書くことにする。詩か小説か、私は岐路に立つてゐるやうな気がする。この辺で詩集を出せたらと思ふ。」


 「ヘンなハガキ」とは如何なる内容のものだったのか。座談会での様子、当時の作品への短評、あるひは未だ詩集のない詩人に対する慫慂であったかとも私は勘ぐってみます。そして焦りからの斯様のメモとなったのでありましょうか。


 桜庭芳露といふ詩人は、職場では「非社交的」であり「ものごしがおだやかではあったが、どこか毅然としたものが」あって、「重々しい北国の人の魂」を東京生活のなかでも忘れることがなかった人であったやうです。(本田秋風嶺「青森を生きた人―桜庭芳露君のこと―」)


 ふたたび戦後も随分経って、詩人が「不断亭雑記」の中でさきにあげた当時の顛末を余さず書いてゐるのは、気持の上ではわだかまりも貸し借りもなくなった彼が、事実を重んじ有りのままを書いたものであったのでしょう。送って頂いた冊子(探珠「玲」別冊)の今回、前回とに載せられた文章(画像)と、合せて補足する意味で当時のパストラル詩社のことを回顧した福士幸次郎の一文とを紹介しておきます。



福士幸次郎『櫻庭芳露第一詩集(地上楽園叢書第七編)』昭和3年大地舎刊行 序文より


(前略)『詩を見てくれ』といふ郷土の若い人々の声は、すぐオイソレとは引き受けられない破戒の道だつた。幾度も躊躇したあと、究極の心に基いた感情的承認で、引き受けられた仕事であつた。もし断ったら、わたしはまた故郷を失ふであらう。これは私には折角の与へられた機会に対し、芸術を失ふことよりも或る点辛いことであった。


 承知の旨の返事を出すと、この若い人々は早速同人をあつめて、『パストラル詩社』といふ見事な名をつけ地方文壇に旗上げをし、その作つた詩を集めては、東京のわたしに送つて来た。わたしは之れを個々に熱読し、その個性がその儘に延びるやうにと、其の面白いと思はれた個所に、或は面白くないと思はれた個所に、細かい注意書を赤インキで書き入れ、殆ど一作毎に評をつけ、全体の作品に対する個人評を加へ、同人全体に総評を下し、かうしてパストラル同人に返送した。


 この仕事には室生犀星、百田宗治君等が見て驚嘆したものだ。さうであらう。これだけの事をするのに完全に二昼夜も掛つた。そして同人はといふと未だその頃初歩で、先輩詩人への露骨な模倣時代であつて、民衆派一方のものあり、萩原朔太郎君張りあり、単なる童謡めいたもの等があつた。


 わたしは或る時は持て余してふた月ほども原稿を抛つて置いた事もあった。だが、かういう間に同人は殖え、心境や技量は進み、同人集のパンフレット『田園の秋』『太陽と雪と』『芽ぐむ土』等が次ぎつぎに刊行され、パストラル詩社は地方に於ては文芸上の優勢な地位を作り、当時までここでも全盛だつた短歌歌人を圧倒した。


 この活動の期間は凡そ大正十二年頃まで四五年間継続した。それは私にとつても愉快な仕事であつた。なぜといふに同人はこの間に各自、自分の心の上で延び、わたしも亦、これ等郷土詩人を通じて、故郷に立派に繋がつたのであつた。


 わが桜庭芳露君は、実にこの中の一人であり、最初の社の代表者後藤健次君が出郷したので一戸玲太郎、安田聖一君等の助力のもとに、そのあとズッと社の統率、経営に当つて、地方詩壇に貢献した人であつた。この点わが郷土では同君は隠然、地方詩壇の草分けと見られ、同君の名を今に到つても慕ふものが多い。実際また同君のこの前述四五年間の貢献はすばらしかつた。同人集はこの間に九種も出た。それは地方の印刷なので活字こそ汚なかつたが、表紙はやはり同人の手になる色刷りの木版画で飾り、素朴な中にも可愛らしいパンフレットで、その時の事を知つたものは誰しも懐しがるに違ひない。わたしはこの点、或は不親切な先輩であつた事に成るかも知れぬが、中央詩壇当て込みの野心は同人諸君に厳に抑へてゐたので、中央には余程あとで自然に名を認められるやうになったが、事実地方に於ける気持のいい詩の運動で、そして其の努力には桜庭君に負ふ処が多かつた。


 パストラル詩社の揺藍時代を経て、桜庭君はその後東京に出た。丁度大震災の年の初夏であつた。そして桜庭君はこの新生活で、地方ではまた見られない現代社会の広い波に漂ひ、サラリーマンの劇務のなかに今迄とは違つた精神の芽生えを経験し、新しい心境に彷徨し、都会生活の澱のなかに同情の深い詩材を探るやうになつた。そこには誠実な人の心から迸る怒りや、嘆きや、希望や、激励やが如何にも誠心こめて現れた。わたしの郷土の人は嘘はつけない。また空虚な技巧を娯しむやうな心ももつてゐない。この点桜庭君がここに進出して来たのは当然であつた。ただしこの時期には私は丁度桜庭君と入れかはりに故郷に行って生活し地方主義運動に着手したので、桜庭君についてはその後わたしの手を放れて独り見るみる変つてゆく心境を、ただ遠くから見まもつてゐる外なかつた。


 それは悪い方向ではない。時にあぶないナと思った事もあるが、同君の誠実と努力とに充ちた心は、何かなし底のあるものを掴み、読者をして共鳴を起させる力あるものが現れて来た。わたしは桜庭君がたうとう見つけ出したこの独自性について、パストラル詩社最初の精神を壊しく想ひ出し、心からお祝ひするものである。桜庭君よ、その真つ直ぐな道をなほも開け。誠実は矢張り何時も芸術上で貴い光を放つものである。


 昭和三年五月 世田ケ谷にて 福士幸次郎

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 10月1日は弘前の詩人一戸謙三の祥月命日です。(1899年2月10日 - 1979年10月1日)

 ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございます。

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814中嶋康博:2020/12/12(土) 21:06:13
『感泣亭秋報』15号 特集『未刊ソネット集』を読む
 詩人小山正孝およびその周辺人脈を顕彰する目的で、毎年刊行されている『感泣亭秋報』も今年で15号。
 後記にて編集・発行者である御子息の小山正見氏の語るところ、

「今号をもって感泣亭秋報の元々の使命は果たしたと思う。いつ終刊しても悔いはない。」

とございました。しかしながら、今号も充実した内容をもって過去ページ数を更新(227p)。結局、

「こうなると、面白くて簡単にやめられない気もする。今後の編集は、風の吹くまま気の向くままということになりそうだが、それはそれでいいのではないかとも思う。」

 私も同感申し上げる次第です。


 そして一通り既刊詩集を特輯してきた本誌ですが、このたび俎上に上がったのが、没後刊行された『未刊ソネット集』です。

 各詩篇にタイトルもなく、発表されないまま篋底に蔵(しま)はれてゐた草稿を集めて一冊にしたものであるとはいふものの、これの編集に当った故坂口昌明先生が「編者識」において、

「私は(※その後に出た第二詩集の)『逃げ水』よりも愛すべき作品に、初めて何度となくお目にかかったという感慨で、長嘆息したものである。(『未刊ソネット集』436p)」

と喝破された通り、「またと還らない青春の記念碑として、明晳な意識のもとに書かれた(『未刊ソネット集』436p)」作品群です。

 常子夫人に対するあからさまな愛のメッセージでもあるため発表が憚られたのでは、との臆測もなされてゐますが、第一詩集の『雪つぶて』と第二詩集『逃げ水』の間に介在する「ミッシングリンク」の意味合ひが濃いことを、いづれの評者も指摘してをられます。

 かつ坂口先生が仰言ったやうに、愛の諸相に迷ひ込んでゆく、その後に書かれた第二・第三詩集よりも清純な作品が並んでをり、小山正孝を謂はば「四季派の詩人」としてのみ語らうとする際には、もし彼が『雪つぶて』を刊行したきりで夭折してゐたら、この内容といふのは、正に立原道造における『優しき歌』になぞらふべき意味を持った筈なのであります。

 書き継がれたこれら抒情の純粋化を志向する作品群が、当時のまま「手付かずの状態」でみつかったことは、その後あたらしい歩みを始めた彼、「日本の敗戦を境にした《四季》的情の崩壊を体現するかのように傷だらけで生き抜いたすえ、独自の詩境に到達した(『未刊ソネット集』401p)」彼個人にとってはスキャンダルであったかもしれませんが、四季派の詩情が戦後たどった命運を、詳細に跡付けてゆく作業の上では、たいへん重要な発見だと私は思ってをります。

 作品はみつかったノートごとに整理されてをり、処女地の雪原を思はせる余白の白い一冊から、みなさん思ひ思ひの佳篇を選んでゐますが、やはり坂口先生が「若かりし日の小山氏の本領ここにあり(『未刊ソネット集』443p)」と仰言ったやうに「Iノート」の諸篇の完成度が高い。

 今回執筆の『詩と思想』編集委員の青木由弥子氏(※11月号特輯「四季派の遺伝子」は未読ですが、まさに気鋭の論客かと)が、何でも自由になり過ぎた戦後現代詩の在り得べき姿、その手綱のとり方として、加藤周一が小山正孝の第三詩集『愛し合ふ男女』に贈った言葉を引き、「一巻の詩集を、一つの主題を語る一箇の作品として、つくる」ことによる可能性を語ってゐますが、この「Iノート」に収められた12篇についてもそれが証せられないか、やはりこのノートに着目した渡邊啓史氏の丁寧な論考が、今号の秋報においても光彩を放ってをります。

 私の好きな詩を4つほど上げます。


小雨が ひたひをぬらしてゐる
私は それをぬぐふ元気もない
しづくは 眉のあたりを 横に流れ
走る都内電車の窓のあたりもぬらしてゐる

お前も どこかの街を歩いてゐるのではないか
立ち止つて 飾り窓を のぞきこんでゐるのかもしれない
水たまりの中も 雨はぬらしてゐる
走る自動車の屋根は少し白く光つてすぎる

心のやり場に困つてしまつて
私はお前をうらんでゐる
西の空が明るくなり 雲が走りはじめた

お前のレインコートの雨のしづくが
一筋ひいて 落ちるやうに 私の手の中に
お前の心が 落ちこまないだらうか           100pノートDより



置き去りに されたやうな
氣持で すごした 午後
私はゆつくりと街を歩いた
商品を一つ一つ見て歩いた

お前に 何を送らうと思ひながら
腕輪 時計 首飾り…
眞珠は 圓みを帯びて
色々ににぶく光つてるた

廣い 野原に立つてゐる 一本の木
お前と いつしよに休んだ
その下の 石のベンチ

思ひ出の中のお前の姿勢をめぐつて やがて
不思議なことに 私は さうしたお前に
いろいろ値段などつけてみたりしはじめてゐた        108p ノートDより



窓から雪のふるのを見てゐると木の枝の上にとまるときに
ためらふやうにして枝にすひよせられて行く
カーテンをそつとしめながら 私は お前を抱きよせる
ガラス窓の向ふ側は寒い風が吹きはじめたにちがひない

お前も雪のつぶが枝にとまるところを見てゐたのか
ふりかへりながら美しい目で私に笑ひかけた
人生があのやうにしづかにすぎるならばと言つてゐるやうに
お前のからだの重みが私の兩腕に急にかかつて来た

檜の木の葉末からよろこびの叫びをあげて
キラキラ輝く朝日の光の中でとけて歌ふ歌はどんなだらうか
水たまりに落ちるあの雪の亡びの歌はどんなだらうか

お前に やさしく 出来るかぎりやさしく 私は心がける
私たちのすごしてきた生活のあひだに お前が
雪のやうに 重く 大切に はかなく 感じられてならないので       298pノートIより



お前に花束をさし出しながら言つてやれ
別れだよ これが 私の愛の最後の別れだよ
小さい蜂が花束から飛び出すだらう
ガラス窓の上に一寸とまるだらう

お前はびつくりして私の顔を見るだらう
さうね お別れしませう あなたを自由にしてあげませう
小さいゑくぼが出来るだらう
ほほの上を一すぢの涙が流れるだらう

あたたかいお前の指と私のつめたい指とが
花束の根もとの所でふれあふだらう
それでも 花束の重みはお前の腕に移るだらう

私は知つてゐる やはりはつきりと別れることが
涙を涙として流させること
美しい花を花として咲かせることだといふことを             312pノートIより


 特集の二つ目は現今の立原道造をめぐる環境について。

 前号では旧立原道造記念館の運営姿勢に筆誅を下した渡邊俊夫氏の一文が圧巻でしたが、今号も鈴木智子氏から「立原道造の会」について、これまでの経緯と向後の方針とについて説明がなされてゐます。
 また立原道造をめぐる「研究」環境については、蓜島亘氏が、昨今顕著な新世代研究者の動向について、論文数のみを偏重する文教行政の現状に苦言を呈し、さらに筑摩書房版の新修『立原道造全集(2006-2010)』が、「立原個人の嗜好含め、日本の詩の流れ、立原の時代の文学・文化の周辺事情の理解に乏しい」編集委員によって監修されたことにさかのぼって疑義を突きつけてをります。
 研究者個人に対する批判も名指しで、

「当時の文章を鏤めることで、立原をその時代の中に浸らせて、あたかも立原が彼らの意見を自分の意見としていたかのように論を展開している。必然性や論拠が示されず、(中略) そこに立原ではなく、中原中也がいてもいいし、他の一詩人がいてもいいのではないか。」87p

 等々、各所で辛辣を極めてゐますが、もっともつまるところは、

「詩や小説は、そもそも研究を必要とする対象ではなく、娯しむ対象であり、一人一人の読者がそれぞれの読み方をすればいいものではないかと思われる。」90p

 といふことであって、もしそれ以上の研究を学術的に試みるとするならば、戦前の日本を肌で知ることのない後世の研究者はもっと謙虚に資料に当るべきであり、そして国際基準に則ったルールを守って、文科省の指導に阿って本数に拘った浅薄な「研究」論文は書かないで頂きたい、さういふことなのだと思ひます。

 前号の渡辺氏、そして今回の蓜島氏と、斯様な文章が載せられるところにも、口当たりの良いリベラルな批評がならぶ文芸誌とは一線を画した、この雑誌ならではの個性が存するやうに思ふのは、また私も癖の強い詩の愛好者だからなのかもしれません。

 他には『雪つぶて』所載の詩篇「初秋」の解説を、鋭い読解力によって試みた鈴木正樹氏の一文「私の好きな小山正孝:過ぎ去っていく青春」。そして映画評論家「Q」のペンネームで名を馳せた津村秀夫を追悼して、愛娘の?畠弥生氏が書かれた長文の回顧譚を興味深く拝読しました。女優杉村春子の恋人だったことを知らなかった私は、弟である津村信夫の追悼文集にどうして彼女の名があるのか初めて合点がいったやうなうっかり者です。

 この場にても寄贈のお礼申し上げます。ありがたうございました。



年刊『感泣亭秋報』15号 (2020年11月13日発行) A5版227p 定価1,000円 (送料とも) 発行:小山正見 oyamamasami@gmail.com

  目次

詩 林檎に          小山正孝 4

  特集? 『未刊ソネット集』を読む

愛は静謐である──『未刊ソネット集』を読む          永島靖子 6
十四行詩をやめたまへ          山本 掌 10
愛憎の迷路──十二の愛の十四行詩のために          渡邊啓史 15
『逃げ水』から『愛しあふ男女』へ          青木由弥子 41
小山正孝は日本最大のソネット詩人である          小笠原 眞 46
『未刊ソネット集』と思い出すこと          宮田直哉 50
愛の詩人が視た風景          服部 剛 55

新出資料 十一冊目の「ノート」について          渡邊啓史 60

  特集? 立原道造をつなぐ

立原道造を偲ぶ会の思い出          秋山千代子 64
立原道造を偲ぶ会の思い出──ヒヤシンスセミナーのこと          後呂純英 67
立原道造の会の歩みとこれから          鈴木智子 70
立原道造研究序論          蓜島 亘 75
東アジアの抒情詩人──立原道造と尹東柱          益子 昇 94

  回想の畠中哲夫
真実を求め続けた人、畠中哲夫さん          萩原康吉 101
三好達治と萩原葉子さん、そして父のこと          畠中晶子 106

  同想の津村秀夫
わが愛するQ、父津村秀夫          高畠弥生 108

  追悼 比留間一成
比留間一成アンソロジーを読んで          岩渕真智子 136
一条紫烟秋容満千里 または時人の矜恃          渡邊啓史 141

詩          大坂宏子・里中智沙・中原むいは・松木文子・柯撰以 174-185

 《私の好きな小山正孝》 過ぎ去っていく青春          鈴木正樹 186

  感泣亭通信
ファミリー・ヒストリー          若杉美智子 189
山崎剛太郎さんを撮る          堀田泰寛 191
マチネ・ポエティクとソワレ・ポエティク          深澤茂樹 196

実験小説「面影橋有情」          田浦淳子(渡邊俊夫)  199

信濃追分便り3初夏          布川 鴇 214
常子抄          絲 りつ 215
坂口昌明の足跡を辿りて5          坂口杜実 217
鑑賞旅行覚書5蛇          武田ミモザ 220
《十三月感泣集》2他生の欠片          柯撰以 221

感泣亭アーカイヴズ便り          小山正見 223

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815中嶋康博:2021/01/01(金) 21:02:20
謹賀新年
旧臘、子孫を名乗る方よりメールを頂いたのをきっかけに、美濃加納藩の儒者、長戸得齋の『得齋詩文鈔』の目次作りを始めたのですが、序跋の崩し字の御教示を賜った中国美術学院からの招聘教授および、その知友の岐阜市在住の中国の方々と、年末年始は御馳走と歓談とに明け暮れ、楽しい少人数の正月を過ごしをります。これまで自分を胃弱と思ったことはなかったのですが、さすがに食べ過ぎ飲みすぎ、休みの後半は養生したいと存じます(笑)。


昨年2020年のおもな収穫は

『江戸風雅』第7〜15号 9冊 平成25〜29年
『太平詩文』第1号〜69号 63冊 平成8〜28年
『星巌集』8冊 天保12年初版(『紅蘭小集』欠)
頼山陽「山水画」印刷掛軸(誤字の印が判らず難儀しました)
山川弘至詩集『ふるくに 特製版(檀一雄宛署名)』昭和18年
柴田天馬訳『聊斎志異』全10巻 昭和26〜27年
和仁市太郎詩集『石の獨語(孔版)』昭和14年
『詩集日本漢詩』16巻/全20巻中 昭和60〜平成2年
村瀬藤城「犬山敬道館」「養老泉」掛軸
後藤松陰「松菌」掛軸、書簡(岡田正造:伊丹酒蔵元)宛

といったところでした。



さて、年末に津軽の一戸晃様から、王父である詩人一戸謙三が、昭和10年に弘前新聞に連載してゐた「津輕えすぷり噺」といふ記事の翻刻の労作(A4 32p)をお送り頂きました。

「私が津軽方言詩集を刊行し始めたのは、地方主義の文学という立場であったが、その行動を津軽エスプリ運動と名づけた。そうして地方主義思想が如何にしてこの津軽地方に展開したかを一般に広めるため、弘前新聞紙上に昭和十年の一月から「津軽エスプリ噺」と題する閑談を連載し始めた。」「津軽方言詩の事」(『月間東奥』昭和15年)

といふ、全91回にもわたる回顧記事ですが、変転する自身の詩歴を整理しつつ、折々の節目ごとに過去を振り返る、いかにも律儀なこの詩人らしい文章であり、戦中戦後のバイアスのかかった思ひ出でなく、記憶も心情もまだ鮮明な、当時の発言であるところが貴重です。



また同じく津軽からは、詩人の藤田晴央様より新刊詩集『空の泉』(思潮社2020,21cm,93p)の御恵投にも与りました。私がいちばん気にいった作を一つ御紹介させて下さい。


 ロッキングチェア

まだ二十代だったころの
おまえのアパートにあったロッキングチェア
六畳間に不似合いだった大きな椅子
ぜいたくを嫌ったおまえの
ただひとつの嫁入り道具となった椅子
東京から津軽へと
いくたびもの引越しをへて
今も我が家の居間にある
高い背もたれに
おまえのカーディガンがかかったままの
楢の木でつくられた
かたく丈夫な飴色の椅子

そこにすわる人はいない
西日をうけても
黒ずんだ肘掛はほのぐらく
そこにはただ
ゆったりとした沈黙がすわっている
沈黙が
手編みをしたり
本を読んだり
ときおり
庭をながめたりしている
沈黙とはだまっていることではない
沈黙とは
そこにあること
そこにいること
誰もいない椅子を
かすかにゆらすもの



そして津軽といへば、棟方志功の令孫、石井依子様より今年もすてきなカレンダーをお贈りいただきました。
東京のマンション改築に伴ひ、来春より富山県南砺市福光にある棟方志功記念館の館長としてしばらく拠点を移動されるとのことですが、時代も事情も異なるとはいへ、かつて当地に疎開された画伯が聞いたら、さぞかし満面の笑みを以て、当時のあれやこれやを愛孫に語り聞かせて下さったことでしょう。またそれを肌身で感じる三箇年となるやうにも思はれることです。
けだし富山は40年前の私にとっても、大学時代を過ごした思ひ出深い土地。福光は白川郷や五箇山の川筋ですから山国の醇風も期待されます。資料館には暖かくなってから、ぜひ伺ひたく楽しみです。

福光の隣の金沢からは、米村元紀様より『イミタチオ61号』も御寄贈いただいてをりますが、また別の機会に。みなさまには、ここにても御礼を申し上げます。


首都圏はいよいよ危険信号点滅とか。皆様には感染防止に留意の上、お体の御自愛、切にお祈り申し上げます。
今年もよろしくお願ひを申し上げます。
ありがたうございました。


付記:カレンダーの表紙は毎年画伯の「書」が飾ります。今年は「拈華微笑」。
おもむきは大いに異としますが、富山時代のわが弱冠の面立ちと、ことし還暦を迎へます金柑頭とを、画伯おなじみの破顔一笑とならべてみました。先生為諒否。(再咲)

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816中嶋康博:2021/01/14(木) 23:46:46
田中克己先生の命日に
田中克己先生が亡くなって来年で30年になる。1992年の1月15日のことであった。

当時、私は上京して8年目。いつまで経っても正職員にはなれぬ下町風俗資料館での勤めに見切りをつけ、民間企業に転職したものの勤まらず。心の洗濯と称して初めての外国一人旅を決意して、ネパールくんだりをひと月余りかけて周り、帰ってきた後であった。すなはち失業中の身であり、しかし何をするでも無く、東京下町の下宿にひきこもり、三十を目前に将来の不安を漠然と抱へる無聊の日々を過ごしてゐた。思へば人生の節目において訪れる、一種、危機の季節にあったのかもしれない。

先生は年末に風邪をひかれた後、阿佐ヶ谷からはずいぶん遠い八王子の病院に入院されてゐた。その以前、半年以上前からだと思ふが、先生夫妻と同居されるやうになった長男御夫婦は、末期癌と宣告された悠紀子夫人の看病に付きっきりになってをられた。私はそれを知らなかったが、“詩人”の夫に振り回され、子供たちの為に生涯辛抱を続けて来られた夫人に、不治の病が発覚したことが哀れでならぬ令息夫婦にとって、母親との残された時間が何より大切であり、父親が風邪をひいたとて、かまふことができない状況にあったのだとは、後からお聞きした。

先生自身、自分が先に倒れるなど考へたこともなく、駅を挟んで河北病院までの見舞を日課として欠かすことがなかったらしい。しかしそれさへ夫人のストレスの種となってゐたといふに至っては致し方ない。初期の認知症もみられたのであらう、大事をとって一時の入院を勧められた先生は、病院の検査で、どこで感染したのか知れぬが、黄色ブドウ球菌による肺炎の診断を下された。

田中克己先生と出会ってそれまでの5年間、私は月に一度、電話をしてから御自宅をお訪ねしては、詩と関係ない四方山話に興じ、悠紀子夫人が作って下さる魚の煮つけ等の“おばあちゃんの手料理”を食べて帰るのが常となってゐた。核家族で育ち、上京してアパートの独り暮らしだったこともあり、帰途はいつも祖父母から慈愛を享けたやうな幸福感で満たされたが、斯様の事情も知らず、旅からの帰還報告に上がった11月17日が、お元気な先生夫妻と会った最後の機会となった(日記には「夫人憔悴」とだけ追記してある)。

そして翌月(12月4日)電話すると、先生が11月25日に入院されたことにつき、件の肺炎についてと共にあらましを伺った訳である。「治ったらまたね。」と、こじらせるとは思はれなかった令息夫人から電話口でお聞きすること、その後も二、三度に及んだか、結局見舞ふ機会をズルズルと逸してしまった。

先生そしてその後先生のあとを追ふやうに亡くなった悠紀子夫人からも、だから私は遺言らしい言葉を聞いてゐない。しかし少なくとも病状が革まる三日前までは、先生もまさか自分が亡くなるとは思ってゐなかったやうだ。あとでお聞きしたところによれば、病院では見舞に来た長女を見間違ひ、そのくせナースから自分も均しなみに「おじいちゃん」呼ばはりされることには、大変怒ってゐたといふことである。

そんなことで新年(1992年)を迎へ、悠紀子夫人の要望(許可)もありやうやく17日には初見舞をする約束をしたところで突然の、容態急変を報せる電話だった。愕いて病院に駆けつけたときにはすでに意識は朦朧。吸入器を当てられ、荒い息で苦しさうに呼吸を継いでゐる先生を、ベッドの脇で見守ることしかできなかった。あの痩せて細長い指が、信じられない程むくんでふくれあがってゐる。そして冷たいのだ。瞬きのなくなった瞳には湿ったガーゼが当てられてをり、取って呼びかけると眼差しを向けてくれたが、私と認めて下さったらうか。

その夜の1時24分に先生は亡くなった。

翌日、訃らせがあり、阿佐ヶ谷の自宅に走ったが、教会に留め置かれた遺体は、神様が護って下さるとのことで、その夜も、翌日の前夜祭も、寝ずの番は不要との事であった。

しかしながらこの時、私は教会に夫人の姿がなかったことが不審でならなかった。悠紀子夫人は自宅でテレビの真ん前に座ったまま、観るともなくじっと画面を見つめてをられた。これまでみたことのない、言葉を掛けるのが憚られるその横顔が忘れられない。亡骸をみるのがお辛いとのことだったが、そもそも先生の見舞には一度もゆかれなかったといふ。あれほど熱心に通ってをられた教会だが、本葬にも、結局出席はされなかったのである。



告別式は寒い一日であった。遺族以外、誰とも面識のないプー太郎であるが、詩人の弔問客の対応をしてほしいと、私も受付に立つことになった。しかし先生の交遊関係について『四季』『コギト』時代のことしか知らぬやうな文学青年であるし、記帳と香奠受取の手伝ひをさせてもらったものの、或は不審人物と思はれたかもしれぬ。もとより弔問は葬儀全般の世話に当たられた令息勤務先の官僚の方々が多かった。先生が成城大学を退職してからも五年が経ってゐたし、そして田中家のキリスト教徒は老夫婦だけであり、晩年の先生がもっとも懇意にしてをらた信者の皆さんも、高齢かつ夫人不在のため話す相手とてなく、漫然と教会の隅に寄り添ひ見守ってをられたのが何かしら哀れだった。

それでも私は、存じ上げてゐる詩人の名が書かれるたび、ハッとして面を上げ、詩名を存じ上げてゐることを申し上げると一様に驚かれる、その方々の心情を忖度したことである。長身痩躯の紳士、富岡鉄斎研究の一人者である小高根太郎さんが、

「とうとうコギトは僕ひとりになってしまったね。いつまでも年寄りが頑張ってちゃいかん。後進にゆづらなくては。」

と仰言り、なほ私が詩を書いてゐることを伝へると、

「詩はよした方がいい。あいつも私も気狂ひだった。詩をやると気狂ひになるよ。」

との一言を賜はったのが忘れられず、日記に記してある。

不明にも程があるが、『コギト』で活躍された旧ペンネーム“三浦常夫”先生に拙詩集をお送りしてゐなかった。これを聞いては送るのも憚られ、また漢詩の世界に目を啓かれる前の事とて、手紙もせずその時かぎりの挨拶に終ってしまったことを、今に遺憾に思ってゐる。

最晩年のある日、突然大阪にやってきた先生夫妻を最後にもてなされた福地邦樹さん、そして杉山平一先生も関西からその姿を現すことはなかった。

先生が訳された讃美歌を歌った。初めて聴いた。

御遺族に促されて私はそのあと焼き場までついてゆくことを得た。先生のニックネーム通りの、真白で喉仏がきれいに残ってゐた、お“骨”を、令孫と共に拾はせて頂いた――。

?


先生が亡くなって、それから丁度ひと月後の2月15日、形見分けに呼ばれた私は、先生の蔵書を数冊、それから戦争中、三好達治から貰ったといふ朝鮮土産の筆箱を頂いた。特に自分から所望した松下武雄の『山上療養館』を頂いて喜んだ私は、そのとき夫人が病院から自宅に移された意味もピンと来ず、ベッドの袂で手を握り、なにごとか語り合ってゐた堀多恵子さんの様子からも、何も察することができなかった鈍感ぶりであった。夫人は更にひと月後の、3月10日に亡くなった。二日前に河北病院まで駆けつけた時、初めて癌のことを伺ったが、先生の時と同様、もはや夫人にお詫びを申し上げることもできなかった。もし悠紀子夫人が御元気であったなら、私はおそらくその後も足しげく阿佐ヶ谷のお宅に通ったらう。さうしてこれまでは聞くことが叶わなかった田中先生の面白可笑しいエピソードの数々を(先生同席の場で話せることは既に幾つか聞いてゐたが)、根掘り葉掘り聞きだしに掛かったらうと思ふ。

しかし運命といふのは分からないもので、夫人が亡くなる直前のことであったが、私は年度末のその頃になって、たまたま足を運んだ岐阜県事務所に出されてゐた求人に導かれ、地元私立大学の職員として奉職、帰郷することが決まった。夫人の危篤を見舞った日、令息夫人より、労ひの言葉とともに多額の餞別と、さらに田中先生の遺品から腕時計を頂いたのだが、思へば天国の夫妻から、先の見えない上京生活に見切りをつけさせて、国の両親を安心させるべく、いみじき因縁を以て故郷に帰るやう引導を渡されたものではなかったか、とは、後になって学園理事長が田中先生の教へ子であると判って驚いたことである。

また近年になって長女の依子さんから、「こんなものがみつかりましたよ」と一通の封書が送られてきた。同封の便箋をみれば、先生が亡くなったあと、悠紀子夫人が先生の後輩詩人でいっとき岐阜の名士であられた岩崎昭弥さんにあてた私の就職を依頼する一文を認めた手紙の下書きであった。目を通した途端、私はみるみる涙が滲んでくるのを覚えた。

敗戦後の昭和二十年代、詩人としての田中克己は、国家圧力の下における詩史的な役割の荷を、もはや降ろしたかにみえた。当時のことを、それまで特段注意して見てこなかった私は、岩崎さんをはじめ、福地邦樹さん、高橋重臣さん等々、当時田中先生と詩的に私的に深いつながりを保ち、困窮の極にあった田中家と親しく交はった在阪時代の後輩の恩人の方々について、気に留めること尠く、先生の集成詩集を編集する際にも一切相談せず事を進めた。先生没後「田中克己全詩集を出しましょう」と手を挙げられないのを、ひとり勝手に恨んでゐたものか。

このときの職探しにせよ、失業報告をした時から、先生と夫人と口をそろへて「帰省して一度訪ねてみたらどうか」とお言葉を頂いてゐたにも拘らず、政治家のコネで就職が決まる事に気後れを感じ、保田與重郎全集が応接間の壁面にずらりと並んだ岩崎さんの邸宅にも、思ひ込んだバツの悪さから、一度しかお邪魔することができなかった。しかしながらその直後、運よくみつかった大学職員の口にせよ、思へば父の職業(お堅い県庁事務職)故に決まったのに違ひない。

私は自分が知らない時代の“詩人田中克己”のエピソードを聞いて回るフィールドワークのチャンスを、みすみす自分の偏狭な了見で何度も失ってゐる。小高根太郎先生に限らない。芳賀檀先生、小山正孝先生、そして上記の、後輩にあたる方々についても、訃報に接する度に臍を噛んで、もう取り返しがつかない。

?


茫々、実に三十年。とまれ今年還暦を迎へる私は、再びのお導きかどうか解からないが、咎なく閑職となった身を利用して、先生が遺した膨大な日記の翻刻を続けてゐる。丁度いま、先生が六十になった頃のノートを終へたところである。

人は誰も、いつか自分の命日となる日を知ることもなく、うかうかと過ごしてゐるが、ちなみに60年前の当時、すなはち1971年の1月15日前後のページを繰ってみれば、夫婦で新幹線に乗って名古屋の孫らに会ひ、その足で故郷の大阪に向かひ、教へ子の同窓会と披露宴とに出席してをられる。同じく60歳とはいへ、半世紀前の日本における親族・同窓・教へ子人脈の親密さ、冠婚喪祭の在り方、等々、つまり大人の社会人としての出来上り具合を日記から読みとるたびに、余りにも自分と異なることに驚かされてゐる。

さうしてさきにも書いたが、先生葬儀の日、記帳の名前を拝見しても誰か分からず、声をかけることが出来なかった方々のことを本日は考へる。この日記にもっと早く、できれば先生の生前に許しを得て目を通す機会があったなら、詩史的な役割の荷を降ろした後の、詩人としての田中克己の面白さを率直に伝へて下さる方々から、もっとお話を伺ふ機会もあったらうにと、残念に思ふのである。



今年の田中克己先生の忌日にあたっては、当時の「メモ兼・作詩ノート」を引っ張り出してきて、記憶の訂正も兼ねて備忘録となるやう少々長く書き綴ってみた。手を合はせ、現在の体たらくを天国の先生夫妻に御報告したい。(実は30年忌と思って書いてゐました。笑)

葬儀の当日、だれか始終パチパチ写真を撮ってた人が居たが、涙目で思ひ詰めたプー太郎の姿がしっかり収められてゐる。後日頂いたのを、どうせだから掲げて置く。(2021.01.15)

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817中嶋康博:2021/02/04(木) 20:52:27
『イミタチオ』61号
 旧臘、金沢の米村元紀様より頂いたままになってゐた『イミタチオ』61号の論文を御紹介します。

 表題は「戴冠詩人の御一人者」とありますが、本題は次回以降。今回は朝鮮・中国への旅行中の保田與重郎に去来した、文筆家としての思ひや目論見、すなはち“戦争や農民の現場に即したい”といふ思ひ、しかし“えげつなさ”は見たくないといふ、彼らしいフィルターを通して当時のアジア展望を日本目線で探らうとする解釈(言挙げ)が述べられてゐます。故にタイトルには章題「『蒙疆』――戦場への旅」を掲げるべきだったかもしれません。

 さて、前回の論文に対して「彼の著作に「健全さ」をみるとすれば、それは論理にではなく生活に根差してゐる気が致します。」と感想を書いた私ですが、今回の文中で触れられてゐる保田與重郎の姿勢も同様で、それに殉じて悔いなしとするところが、異様かつ、彼が本領とするところの文人の覚悟でありましょう。

 文章は杉浦明平による「保田與重郎は戦争犯罪者だ」との有名なレッテル貼りの紹介から始まります。
 杉浦明平が云ふ「あの以て廻って本心を決して表へ出さない、きざっぽい言い廻しの下に隠された彼の本体」ですが、政治的な解釈を彼の立場から下せば確かに「きざっぽい」成心にしか映らないでしょう。
 私には「むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべき事をも、いかにもことば多からで、その義を尽くしたりけり。」と、いみじくも新井白石が語った古人の心映えを、彼はことさら委曲を尽してほめまくりたかのではないか、そんな矛盾した情熱の迸りの結果であったやうな気がしてゐます。
 後世の評者が指摘した「イロニーの表情」も、「政治的無責任」も、近代人である彼が古人に憑依して体現するところに生じた矛盾を、そのまま顕現させたものであってみれば、そんな芸当はしない・できない現代人が読んだら、やはり感心するか、馬鹿にするかの二択しかできないに違ひありません。
 そんな一種神がかった文章に潜んだ文意が、戦場に赴く若者の、自ら酔はねば保ち得ない心の拠り所となり(故に厭戦主義の杉浦明平の怒りを買ひ)、また戦後も伏流を続けて読者を贏ち得てゐる理由ではないでしょうか。

 今回、論じられてゐる保田與重郎の各文章は、『戴冠詩人の御一人者』出版後の執筆にかかるものです。日本軍の大陸進出が、大和朝廷の手先となり命ぜられて発った倭建命の遠征と重ねられてゐる節を何とはなしに感じます。
 もちろん現地で触発された見聞は多々あったでしょうが、全て身に収めて、倭建命と同様、政治的な“えげつない”思惑は見ぬよう、あくまでも自分の世界観を補強するロマンを探しながらの旅だったのではないでしょうか。

 大陸戦線での勝ち戦さを重ねるなかで、内地に控へた功利的打算的な日本人が大衆に提示する新しい世界秩序と世界史観。それが決してコスモポリタンではあり得ぬ保田與重郎にとっては「わが国史に見ぬ大きな“恐怖”」であったのではなかったか。
 一方では、いくら自分が日本陸軍に倭建命のやうな詩的理想を重ねようとも、決してねじ伏せることなどできない中国人民の、彼には度し難いと映った現実にも恐怖したことでしょう。
 彼らが古代に創造した「神を畏れることを知らない大芸術」を目の当たりにしては、もはや戸惑はざるを得ない。
 彼はさうした際、古代日本が大陸からの影響を、血統を含め芸術の上で色濃く受けたことを素直に白状すると同時に、そののち独自の世界を築いて些かも風下に立つ必要のないことをつとめて書き綴ってゐますが、そこには当年の世界情勢を笠に着て、いくらか風上に立たうとする「民俗的な優越感」も感じます。
 ただしそれはあくまでも文化の上のことであり、高圧的な気配は感じられない。譬へていふなら杉浦明平が憎悪したファシズム的でなく、シュペングラー的な貴族主義(彼の場合は大和が一番偉い)を纏ってゐるだけのやうにも感じます。

 このさき論究される予定の「戴冠詩人の御一人者」は、私の一番好きな文章の一つです。甞て瞠目したのは、出雲健を騙し討ちにするシーンで日本武尊が言ひ放つ「さみなしにあはれ」の解釈でした。
 今回の論文中、彼が「戦場での武士に対する礼儀は人道的休戦でも勧降でもなく、全体を虐殺するか虐殺されるかである」といふ、秋山好古や乃木将軍の軍人精神を擁護し、森鴎外の詩をほめてゐる条りに、それが色濃く反映してゐるやうに感じました。
 もちろん保田與重郎がどんな賛辞を呈さうが、これは武人にとっての「誇るべき伝統」ではあれ、国民皆兵制下の近代戦では決して「誇るべき伝統の今日の光り」ではあり得なかった筈です。
 また農民の現場の苦労を偲びつつ、彼らが防人として潔く死んでゆける理由と根拠に「詩」しか用意できなかった美学も、杉浦明平に恨まれるまでもなく余りにも脆弱ではある。

 ただし国家が掲げた理想にひたすら即してゆくといふことは、敢へて表現の表舞台から逃げないといふ覚悟です。杉浦明平のやうに弾圧を恐れて沈黙はしない。建前で保身を図る打算的な大人達の嘘を峻拒して、最後までお付き合いする見届けてやる。
 さういふ、いじらしくも毅然とした態度は、早く「戴冠詩人の御一人者」の一文に昂然と現れてをり、それが実際に戦争に駆り出される若者達の心をつかみ、抵抗のすべを閉ざされた心情に、ぴったり寄り添って彼らを従容と死にいざなったのだ、とは云へるやうに思ひます。

 米村氏がライフワークとして取り組んでゐる真摯な文章は毎回、難しい文章を読めなくなった私に、コギト的・日本浪曼派的な心情を呼び起こし、考へさせる契機に満ちてをります。このたびも労作の御寄贈に与り、誠にありがたうございました。ここにても深謝申し上げます。

『イミタチオ』61号(2020.11金沢近代文芸研究会)

評論 「保田與重郎ノート7「戴冠詩人の御一人者(1)」米村元紀……53-85p
  1.『戴冠詩人の御一人者』の「緒言」
  2. 『蒙疆』――戦場への旅
  3.朝鮮古代芸術への旅
  4.おわりに

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818中嶋康博:2021/03/26(金) 17:18:10
山崎剛太郎先生
 今月、詩人でフランス映画の字幕訳者で著名の山崎剛太郎先生が亡くなられたといふ。

 親友だった詩人小山正孝の御子息正見様からは、いづれ詳細が入るのではないかと思ふが、103歳の御長寿ではあり、やすらかな旅立ちをお祈りするばかりである。

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 先生の最晩年、といっても既に七、八年の前になるが、小山正孝研究誌『感泣亭秋報』を御縁に、拙詩集をお送りした際の通信が半年ほど続いた。御返信を待つような再信を出しづらく、そのままとなってしまったが、頂いたお手紙にはどれも御家族によりワープロで打ち直された“判読文”が添へられてをり、本も手紙も、文字を読むこと自体に大変な御苦労をされてゐることを最初のお手紙で知らされ、すでに詩を書かなくなった自分が、どこまで踏み込んでお話ができるものか、あやぶみ恐縮した所為もある。

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 しかしながらその後も日常生活におかれては頭脳明晰にして矍鑠たること、詩集のタイトルにこそ「遺言」や「柩」などの語句を掲げられたが、思へばそれも晩年に書かれた作品が編まれてゐること自体バイタリティの証しであり、四季派の詩人、特に立原道造を偲ぶ集ひにおいては、東の山崎剛太郎、西の杉山平一、いづれかの先生をお呼びできるかどうか、といふのが会合の品格を左右するものと思ひなしてゐた自分がゐる。

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 御存知マチネポエティク界隈の仲間達の一員にして、戦前抒情詩の気息を伝へる正真正銘最後の生き証人といふべき方を喪った。

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 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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(写真は第2詩集『薔薇の柩』より)

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819中嶋康博:2021/04/05(月) 20:26:59
岩波文庫『江戸漢詩選』上・下巻
【書評】新刊BookReviewに、揖斐高先生の『江戸漢詩選』上・下巻の紹介文を書かせて頂きました。

https://shiki-cogito.net/book/edokanshisen.htm

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820中嶋康博:2021/04/12(月) 19:14:05
『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」
 旧臘より気になってゐた雑誌の特集号をやうやく閲読、編集の指揮を執られた小川英晴氏の“立原道造愛”を核として初めて成った特集であることが端々に感じられる一冊でした。

 執筆陣のなかでは、四季派の存在意義を現在最も説得力を以て語ることが出来る論客、國中治氏の一文が相変はらず鋭い一矢を放ってをります。

 戦後“四季派批判”を担った現代詩詩人達にわだかまった「自分達の問題意識が一般読者ばかりか、よりによって若き表現者たちにさえ」共有されない苛立ちと焦躁について。
 すなはち一言で云へば、いつまで経っても四季派の詩人の人気が衰へないことについて。
 その根拠を、彼ら批判者達が始祖として仰いだ萩原朔太郎の

「野放図と言えるほどの先鋭大胆な詩的言語の開拓」
「詩の沃土は沃土にはちがいないが不安定極まりなく、そのままでは朔太郎にしか歩くことが出来ない狷介な荒蕪地」

を、他の誰でもない彼らが目の敵にした三好達治が均して、口語自由詩の表現を現在あるやうな実のあるものに定着させていったのではないか、といふ直球を投げ、
 しかも戦争詩を書いた彼が精神的な耄碌に堕したとならば、どうして再びこんな作品が書けるのか、と戦後の作品「風の中に」を挙げて、これを

「『荒地』の詩群のなかに置かれたとしても読者に違和感を与えないだろう」

といふ見通しと共に述べる、話を逸らさぬ明快さ。

 立論は当時の詩に現れる「鳥籠」を象徴的に解釈しつつ説明されてゆきますが、その自由の制限者でもあり得、安息の保護者でもあり得る「鳥籠」とは、私の四季派に関する持論の、口語自由詩に必要な制約(定型のフレームのみならず、箱庭世界の創造だったり、時代の圧力さへも含む)なんだらう、とも思ったことです。

 そのほか、昨今の異常気象により自然現象としての四季の喪失から『四季』の存在意義を問うてゆく問題意識なんていふのは、特集の理由としては実に現代的で面白く思ったものの、そのことについて深く論及する文章がなかったことは残念でした。

 何より目玉であるはずの「対談」ですが、ただ現代詩詩人として有名であるといふだけで、四季派の抒情を全く認めない荒川洋治氏を相手に呼ぶといふ人選には疑問を感じました。
 また「鼎談」に於いても『四季』の詩人達に詳しい人が誰も参加しない会話に肩透かしを食らひました。

 荒川氏は新刊『江戸漢詩選』のレビューも新聞に書いてをられますが(毎日2021.4.3)、四季派同様、本場中国の漢詩と異なり反権威・反体制を事としない江戸時代の漢詩について、氏のやうな詩人が好意的な書評を書かされること自体、笑止であるし(梗概と解説のはしりを抄して後は自己の読書歴に紐づけて述べ、穏当に「これで勘弁下さい」といふ感じ)、ジャーナリズムが認める伝統的な抒情詩人の空位を、それこそ自然現象としての四季の喪失と同じ次元で考へさせられてしまったことでした。

 ただ立原道造も伊東静雄も田中冬二も認めぬ荒川氏が、地方生活者として里山の詩を綴る蔵原伸二郎や木下夕爾、そして一番外周に位置づけて杉山平一の三人を認めてゐる条り、また

「四季派を批判する戦後の人たちの詩も四季的な抒情に近い、というか、それ以上に甘ったるくて単純なものが多い」

と一刀両断するところだけは良かったです。地元の福井贔屓を平気でガンガン出してくるところも面白かった。



 本誌を読ませて下さった青木由弥子氏には、新刊詩集『しのばず』があり、合せて拝読しました。

 日ごろは敬遠してゐる現代詩ですが、久しぶりに快い抒情詩を堪能。小網恵子氏の『野のひかり』以来です。
 繊細な語感の持ち主であること、殊にも五感をたくみに絡ませた暗喩を繰り出すセンス、抒情詩ではあるものの、新しい表現をめざして自覚的に詩を書いてをられることが伝はってきました。
 特に前半に集められた詩篇には、四季派の抒情詩のカタルシス「抑制することに付随して噛みしめられる恢復感」を感じさせる言葉に満ちてゐて、四季派の遺伝子はかういふ所にこそ流れ続けて居るのではないかと思ったことです。


 ここにても厚く御礼を申し上げます。


『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」

対談:荒川洋治×小川英晴/四季派の詩人たちを巡って
座談会:城戸朱理 竹山聖 小川英晴/四季派・現代詩への継承
エッセイ:國中治/「四季」派の遺伝子 〈鳥のいない鳥籠〉を巡るささやかな追跡
小島きみ子/立原道造のメルヘンについて 見えるものの向こう
布川鴇/「四季」と詩人たち 立原道造の叶えられなかった夢
岡田ユアン/子育ての中でめぐるうた
池田康/四季派についての覚書
鹿又夏実/野村英夫 「四季」の最後期をかざるカトリック詩人
総論:小川英晴 四季派の遺伝子 立原道造を中心にして
ほか

21cm,202p 詩と思想編集委員会発行(土曜美術社)  \1300+税



青木由弥子詩集『しのばず』2020.10 土曜美術社 19.0×15.5cm 101p \2000+税 isbn:9784812025925

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821中嶋康博:2021/08/19(木) 18:06:20
八仙齋亀遊
 いつも拝見してゐるdaily-sumus2の林哲夫様より、下鴨納涼古本まつりでこんな掘り出し物があったのであなたに、と古い短冊をお贈り頂きました。
 御当地ものといふことで賜ったにも拘らず、当方狂俳のことは無知にて、さきに小原鉄心や戸田葆逸に係る人物として、俳句の宗匠だった花の本聴秋(上田肇)について知ったばかりです。
 短冊裏に「岐阜細味庵亀遊先生筆」とあり、亀遊とは、さて如何なるひとにや。
 ネット上で検索すると関連HP記事が一件のみヒットしました。「金華まちづくり協議会公式HP」: https://gokinjyoai.org/group/kyouhai/1692/
 また郷土の文人に関する基本文献『濃飛文教史(伊藤信:昭和12)』924p
 そして『濃飛文化史(小木曽旭晃:昭和27)』、『岐阜市史通史編近代/文芸(平光善久:昭和56)』にも記述がありました。
 これらを合はせると以下のやうになります。

【八仙齋亀遊】

 岐阜市今町の製紙原料商、長屋亀八郎(1818-1893)。
 性風流を好み、無欲恬淡、早く隠遁の志あり、金華山麓竹林中に草庵を結び、俗塵を避け専ら風流韻事に耽る。
 作句弄巧、狂俳選者として知られ、また俳諧を能くし、指導親切のため多くの門人を抱え、推されて宗匠「八仙斎」の第一世となる。
 明治26年10月21日76歳で病歿、 辞世に曰く、「きれ雲をあきあき風に冬の月」。墓は末広町の法圓寺。
 門弟中の高足、渡邊浅次郎(金屋町の味噌溜商山城屋)、推されて第二世八仙斎一秀の文台を継承するも翌月、明治26年11月18日没、享年42。
 以後、第三世巴童(平尾半三郎)、第四世秀雅、第五世右左、第六世松濤、第七世梅溪と、岐阜小学校校区から宗家を輩出。歌仙形式を取り入れた“岐阜調”と呼ばれる、狂俳としては格調を目指した一派を興し、現在も子孫のもとに石碑や古文書等が伝へられてゐる、由。

 短冊に「細味庵」とあるのは、狂俳の始祖、三浦樗良(志摩の人)が安永2年、岐阜に滞在した折に指導した、鷺山生まれの桑原藤蔵(美江寺在住、文政6年4月12日没75)が宗匠として名乗った庵号の細味庵が、代々受け継がれて有名であったから、らしい。すなはち、

「狂俳の活動は、細味庵と、(※後発の)八仙斎の二宗家によって伝統が守られ、江戸時代を経て明治後期〜大正期、第二次世界大戦後に特に隆盛を極めました。現在では、岐阜県を中心に50結社、約400名でその伝統が守り続けられています。」

との紹介がHPでなされてゐます。歴代細味庵は素性が分かってをり、亀遊を細味庵と書いたのは旧蔵者の誤謬のやうです。


 さてHP記事にある「狂俳発祥の地」の石碑を、岐阜公園に訪ねて参りました。
 確かにその右隣には「八仙斎亀遊翁之碑」が。
 裏面の草書の碑文が磨滅して読み辛いのですが、こちらが古く、辛丑とあるのは明治34年(1901)。
 まんなかの大きな「狂俳発祥の地」の建立は昭和47年で、左隣には東海樗流会なる狂俳団体による三浦樗良を顕彰する句碑(昭和55年)がありました。東海地方の雑俳史の権威だった小瀬渺美先生が御存命なら詳しいことがお聞きできた筈で残念です。

 またお墓があるといふ法圓寺にも行きました。
 山門をくぐったすぐのところ、「剣客加藤孝作翁之碑(直心影流)」の隣に「八仙斎亀遊」の墓碑はすぐにみつかりました。
 ただ裏をみると、写真のやうに「終年七十六」はよいのですが、「明治乙巳十一月十八日  花屋善平建之」とあるのです。
 乙巳なら明治26年ですが11月18日は『濃飛文教史』には、二世八仙斎の没年月日だと書いてあります。石碑の方が正しい筈ですよね。
 しかし亀遊の命日が11月18日ならば、それよりひと月溯った10月21日といふ『濃飛文教史』の記述はいったい何の日でしょう。
 亀遊の没年月日はやっぱり10月21日で、11月18日とは花屋善平さんがこの石碑を建立した日??ちょっとそれは…。
 そもそも辞世句「きれ雲をあきあき 風に冬の月」ってどういふ意味なのでしょう。磨滅した石碑に再度あたりたいと思ひます。


 そして、頂いたこの短冊にしても、はっきり書いてある最初の字から読めません(汗)。
 狂俳(7.5 / 7.5)なのか、俳句(5.7.5)なのか、擦れ箇所は措いても、何のことを詠んでいるのかさへ判らないのです。わが解読力の不甲斐無さが悔しく、情なく、悲しい。

[祭・緑・絲][祈][是・春(す)][礼(れ)・能(の)]砂■■[頭]二同[章・筆] 亀遊(之繞欠損)」

 無知を痛感してをりますが、その道の方々より教へを乞ひたく存じます。
 林様よりは、以前にも『種邨親子筆』の写本をお贈り頂きましたが、読めるまで紹介をためらってゐると、いつのことになるやら分かりませんので、面目ないことながら途中報告かたがたこちらにても御礼を申し上げます。このたびはありがたうございました。

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822中嶋康博:2021/09/11(土) 21:27:18
稲森宗太郎『水枕』
「稀覯本の世界」管理人様より、三重県名張の夭折歌人、稲森宗太郎(1901年 - 1930年)の遺稿集『水枕』(昭和5年)を頂きました。

和歌にとんと疎い私ですが、季節ごとに目に触れる身近な自然に対する抒情は理解できます。
といふよりそれこそ我が本領とするところ。殊にも草花や虫たちに対する写生にたいへん感じ入りました。
気に入ったところを引き写してみます。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。



牡丹雪ことに大きなるひとひらはしばらく消えず葉蘭の上に 11

 伯耆三朝温泉にて
暁のいでゆの中に人あらずうすれし灯かげうつりてゐるかも 14

暁の湯浴みををへて春寒し人の起きねば独り坐りをり 14

柳の葉ちりこぼるなり庭檜葉の蜘蛛のいとにもひつかかりつつ 21

焼けくゆる秋刀魚の匂ひ、この夕の厨ゆすなり、さんま、さんま、嗅ぎつつもなつかしきかな、わだつみの潮のいろの、秋さるとむれ来し魚ぞ、油ぎる鱗の色の、さやかにも今は秋かも、くらひなむ秋刀魚。 23

八つ手の花咲ける門べに、豆腐買ふと立てるわが妹、藍さむき瀬戸の鉢にし、銅銭を添へていだしぬ、わが見てをれば。 24

けふの日の思はぬ入日わが部屋の電球の面にひそかにうつれる 27

たたきわりし茶碗のかけら見つつ我れかなしきひとのまみを感ずる 27

 新年をこもりをりて
元日のけふの大空、ほがらかに晴れわたりたり、がらす戸よ眺めてあるに、風船玉あかきが一つ、屋根の上にふとも浮き出づ、子が手よりのがれしならむ、ありなしの風にゆれつつ、庭松の梢をぬきて、向ひ家のあんてなをこえ、いや高く上りゆくかも、青き空の中。 37

 わが弟東京見物にと来りしを、我れたまたま心たのしまぬことありておのづから疎うす。一日伴ひて上野の動物園に遊ぶ。
春さむき水のほとりを、静かにも歩みゐる鶴、清らなりや二羽の丹頂、むかひゐるに憂へは忘れ、ひとりしも遊べる我に、のまずやと莨すすめぬ、うら若き弟。 44

畳にしおきてながむる鉢の罌粟かそかにゆるる人のあゆむに 51

さみどりの鸚鵡のぬけ毛ほのかにも畳にうごく土用のまひるを 59

曇りつつむし暑きかも昼まけてみんみん蝉の遠く聞ゆる 59

こがね虫かさなりてをり朝露のおどろが中の赤ままの葉に 63

落葉せし楢の鞘を逃ぐる小雀(こがら)追ひかくる鵙と杉にかくれぬ 68

落葉をいつぱい詰めし炭俵を人かつぎゆく落葉こぼしつつ 70

 秋の末に
鉢のままに庭にころがれる、一本の鶏頭、うちたたへし紅の色の、寂び寂びて目に沁むまでに深き秋かも。 71

 病弱なる人をその郷里におきて、ひとり東京に住みつつ、
夜ふけて帰りし部屋に、寒やとて炭火おこせば、たきつけの紙の白灰、外套のままなる我に、まひてはかかる。 78

読みさしし机の本にさせる月ひとの坐りて読みゐる如し 88
塩せんべいかむにはりはり音のしてかたへさびしき夕ベにもあるか 88

 春来る
出で来たり夕空見れば金星の光なまめく紫おびて 92

 盲学校の門前を過ぐるに、盲目の童ら、校庭にボールを投げて遊ぶ
盲学校校庭に咲く八重桜子ら遊びをり深き明るみに 97

フットボール空に投げたり下の子らうつむきて待つ地に落つる音を 97

ぎんやんま翅光らして、椎の木の若葉にとまれば、松葉杖つける少年、もち竿を腋にはさみて、木のもとにしのび寄るなり、杖ひきつつも。 105

まかがやく空をかぎれる棟瓦蜂一つとべり触れつ離れつ 106

松葉牡丹咲きて照りたる砂の上に赤蟻の道切れてはつづく 107

 ある時
自由をたたへたりし我れ諦めを尊しとせむこも亦誠なり 120

今の世の苦しき知らに肥えて笑ふ人に好かれじわが痩せ歌は 125

せち辛き世にからからと笑ひ生くる人には見せじわが痩せ歌は 125

 龍を詠ず
青雲の垂り光りたる海の上ひろらに遊ぶ雄龍と雌龍 135

 凧を聞く
戸をゆする風にきこゆる、凧のうなりよ。かきこもる我の心に、ひそみたるもののあるらし、空に誘はる。 137

濁りたるみどり堪へし川の面投げおとす雪をあやしく呑みぬ 142

 車中にて
ほの明くる山の麓の一つ藁家人はめざめず白木蓮の花 147

道の上のわが影法師ほのかにも帽子かむれりこの春の夜を 149

 井の頭公園にて
井の頭の池のおたまじやくし、かぐろくもむれて游げり。まろらなる頭そろへて、一群のより来と見るに、へろへろと尾をうち振りて、遠くしも迷ひ行く一つ、水ふかく沈み行きては、はろばろと浮き来る一つ、同じことくりかへしては、思ふことあらず遊ぶに、俄にもものうき心我をおそひ来ぬ。 151

 郊外に移れる夜
煙草すひて起きゐる我にころころと蛙きこえきて夜の静かなり 154

静かにも蛙の声のきこえ来るこの部屋に我はふみよみぬべし 154

わが部屋に我のこもれば隣室に我が妻もまた昼寝してをり 157

一本の庭の青草そよげる見れば、生涯をなるにまかせて、まどはじ我は。 162

雑草にまじるどくだみきはやかにま白き花を空にむけたり 166

古へ人この素朴さを愛しけむ青葉に咲ける白き卯の花 167

花びらの俄に散りし机の上けし坊主一つこちら見てをり 168

庭潦に落ちきたる雨ぼんやりとのぞける我を瞬かしめぬ 170

庭潦渚に出でし一つ蟻道をかへてはまた歩みゆく 176

星空のすそに伸びたる夏草のかぐろく動く星をかすめて 178

 土用の頃
雑草を出し蜆蝶光重きかみなり雲にやがてまぎれぬ 179

唐紙にとまれる馬追なきさしてあとをつづけず明るき部室に 185

灯をけして眠らむとすればさよ更けを蚊帳のべに来て鳴くも馬追 185

秋づきしま青き空にみんみん蝉鳴きすましたる声のよろしさ 186

野司(のづかさ)のいただきに立つ女の子きり髪みだし風に吹かるる 188

足のべにいなごとぶなりけふの日を妻と出で来て歩める野べに 200

土の上に吹き落されてまろき目を闇にひらきてありし芋虫 207

秋深き風のすさめる暁に盗汗をかきてわがめざめたり 208

暁の落葉ふまく風の音盗汗つめたく我はききをり 208

床の上に目ひらきて暁昏の空にすさめる風を思ひぬ 209

起き上りふらふらとゆく親犬に身ぶるひをして仔犬つきゆく 210

垣くぐり出でむとしては白き犬白ききんたまをあらはに見せぬ 211

肌ぬげるわが胸の上に聴診器しづかにうごき遊べる如し 212

聴診器胸にうけつつカーテンのひだにたまれる灯かげを見てをり 213

庭のべに身ぶるひをする犬の音ねつかれぬ我が床にきこゆる 223

木枯の吹ききわぐ中に雀十羽うちみだれては土よりまひ立つ 224

おとろへし身を養ひてあらむ我れ湧きくる思ひにまなこつぶりぬ 227

 新しき机を買ひて
電燈の照りほのかなるわが机ひとり見つつも手に撫でにけり 249

することなくわがむかひゐる机の上蛾の一つ来て灯かげをみだす 250

尿せるわが鼻の先にぺつとりと碧とけむとして雨蛙ひとつ 251

原稿紙めくりてゆけばここにしも刻み煙草のこなのちらばる 264

秋の雨ふれる柿の木幹の叉にかたつむり這へり首さしのべて 266

庭のべのやせたる菊の清らにも白き蕾を我に向けたり 269

ひと茎を伸びたる紫苑わが庭の秋のふかきにとぼしらにに咲く 271

外套をまろらに着たる十人の女学生の来る道いっぱいに 277

 8月31日、小沼逹死す、その家にて
苦しみて死ににきといふか庭の草青さに照るは今日の日影なり 279

雪つぶて胸にあてられし一人の子投ぐる忘れてよろこびをどる 291

 暖き日、都筑に見舞はる
落椿もちたる友の、物言へぬわが枕べに、言葉なくいぢりてはゐる、くれなゐの花を。 295

 初めてせる水枕を喜びて、十一日によめるもの(編者)
水枕うれしくもあるか耳の下に氷のかけら音たてて游ぐ 297

ゆたかなる水枕にし埋めをればわれの頭は冷たくすみぬ 297

枕べに白き小虫のまひ入りぬ外の面は春の夕べなるべし 300

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823中嶋康博:2021/09/19(日) 23:10:12
圓子哲雄氏の思ひ出
 圓子哲雄様とはもう30年近く前のことになりますが、私が詩を書いて居た1992年の時分、杉山平一先生からの紹介ということで、圓子様主宰の詩誌『朔』の最新号(120号)を送って下さったのが御縁の始まりです。それを機に、田中克己先生の日記の翻刻を4回ばかり誌上で紹介させてもらひ、しばらくして再び同人に勧誘下さいました。

 まことに申し訳ないことながら有難いお誘ひを断ってしまったのですが(当時のことについては『詩と詩想』10月号に寄稿した拙文を参照下さい)、1998年以後、『朔』の寄贈に与り、お送り頂くたび毎に、いつも便箋一枚いっぱいに認められた近況をはるばる八戸からお聞かせ頂いては、岐阜からも返信を長々と書き送るといふ手紙の上でのやりとりを、思へば2015年の夏、『朔』が179号を以て休刊するまでの間ずっと続けてきたことになります。

 1971年の創刊このかた、『朔』は同人の作品発表の場のみならず、青森県が生んだ抒情詩人や、圓子様の詩情の拠り所にして自身のデビューを果たした『四季』にまつはる先達詩人の顕彰が(特輯号もしくは追悼号として)幾度となく組まれて来ました。

 寄稿者として、圓子様と同郷で隠棲中だった先輩詩人、村次郎の人脈を活かし、彼がかつて同人だった詩誌『山の樹』(『四季』第2世代の衛星誌)の盟友達から惜しまぬ協力をとりつけることに成功し、単なる同人誌の域を越え、近代詩の研究者にもその名を知らしめるに至りました。

 私は特輯された詩人のうち、とりわけ感銘した一戸謙三──郷里に籠って新詩型を模索し続けた抒情詩人(1899 ? 1979)について深く興味を寄せるやうになり、やがてその詩集をネット上で紹介しようと思ったことから、令孫晃氏の知遇を得ましたが、思へば圓子様との文通に発するものでした。

 圓子様をめぐって最も思ひ出深いのは、私が田中克己に師事したのと同じく、圓子様が心酔されたその先輩詩人、村次郎について、手厚い追悼号を編集し(1998年137号)、以後「村次郎先生の思い出」を連載するとともに、長年にわたる聞き書きを『村次郎先生のお話』といふ2巻本にまとめられたことです(文学篇1999年、言語論・地名論・伝承芸能・植物相論2000年)。

 編集にあたっては恐らく自分の詩集より心を砕かれたことと思ひますが、戦後、家業を継ぐため帰郷し、潔く作品の発表を絶ってしまった詩人が、心安い地元の後輩詩人を話し相手に、本にされることなど予定せず、折々に語った詩人論・文学論が「聞き書き」の形をとってそのまま活字にされてゐます。

 所謂“炉辺の放談”であり、かつての朋友が次々に有名となっていった後も、皆から一目置かれ声を掛け続けられた存在だっただけに、ことさら身動きがとれなくなっていったのではないか──私が想像するさうした臆測を含め、編集後記を書いて詳しく事情を説明する責任が直弟子の圓子様にはあったとも思ふのですが、錚々たる文学者を一言で片づける態の「人物月旦」など(当たってる・当たってないかは別にしてとても面白いのですが※)、タイトルに「村次郎“先生”」とクレジットされた事と相俟って、誤解や反感を招くことはなかったかと、傍目ながら危惧したことです。

 当時のお手紙には、

「(前略)年金生活者となってヤレヤレ、ホッとして、と思っていましたのに、今回の2冊の本を出したことによって、新しい本性を出した人間たちから矛を見せて取り囲まれました、が、今は何も怖くない。(後略)」2000年11月11日付書翰より

 と認められてゐて、私は『朔』誌上に刊行を慶ぶ寄稿や書評が皆無で、雑誌の主宰者としてもさぞかし孤立感を深めてゐるだらうことを嘆き、一見平穏な編輯の仕上がりに、同人雑誌の存在意義を質したくなるやうな、もやもやした気持を抱いたことでした。

 そして圓子様の斯様な尽力と姿勢こそが「聞き書き」といふ形式の読物を価値付けてゐることを返信に託し、その当時に連載されてゐた「村次郎先生の思い出」も、むしろ圓子様の自叙伝としてまとめ直したら、きっと素晴らしい本になるだらうことを力説したのですが、エピソード満載の回想録はたうとう纏められることはありませんでした。

 2018年の夏、青森県近代文学館にて催された「一戸謙三展」に関り、青森まで公園に出向くことが決まった際、この機を逃しては、と数回お手紙を差し上げて御都合を伺ったのですが、代筆による御返事も頂けず、状況がつかめぬため電話も躊躇はれました。

 見舞訪問ならば控えた方が良いと一戸晃さんよりお聞きして断念、講演翌日の日程を弘前に変更して、一戸謙三の墓参を遂げて帰還しましたが、30年来、手紙を通じてでありましたが、師事する先生の顕彰についてお互ひを励まし合ってきたものの、終に謦咳に接する機会を持たぬまま永別となったことを悔いてをります。


圓子哲雄(1930.11.20 - 2021.8.24)


 受胎告知 ?

秋の山は急に深く色づいて
お前の瞳が不思議と明るくなって
振り返りながら僕に囁いた
一つの新しい木の実の話を
愛することを
生きることを
夢のように語りながら
お前は光り輝く瞳となって
不思識な啓示に打たれている僕を
やさしく包みはじめる

              『受胎告知』1973 より



 高飛込み

僕は僕から脱れようと
空高く羽博いていった
執拗に纏りついていた影は
あんなにも高く遠く
束の間の恍惚
影は急速な重力の前に項垂れ
水の中に起きた飛沫(さざなみ)は一瞬僕を消していた
プールの底にくっきりと映る影
僕は僕であるよりなかった

              『受胎告知』1973 より



 晩秋

庭を眺めていた父の影
今日も父の友達が死んだのだそうだ
一人二人 といなくなって
秋の陽はあまりに早く弱まって
枯木の陰に立つ父を影は忘れていた

              『父の庭』1981 より


※ちなみに田中先生については、

「若い頃の作品は好い。晩年「四季」を再刊すると、二号まで出して挫折した(※11号までですよ)。誰も有力な人がついて行かなかったからだろう。中野清見の親しい友人だが、時々変な電話が来ると言っていた。」

 と一言(笑)。

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824中嶋康博:2021/10/26(火) 09:14:47
『谷崎昭男遺文』
本日が発行日の『谷崎昭男遺文』(私家版,非売本)の寄贈に与りました。

ご出版のお慶びを申し上げます。紹介文はこちら。

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825中嶋康博:2021/11/12(金) 08:49:05
『菱』212号 特集 辻晉堂と詩歌
2021年11月07日の「日本海新聞」朝刊に紹介文を書きました。

 社会とおなじく、特に地方では、新陳代謝のなくなった同人誌メディアが軒並み高齢化問題に直面しているときく。鳥取の老鋪詩誌『菱』も歴史が長く、これまで幾多の同人を追悼号で送ってきた。しかし一方で、ベテラン詩人でなくては遺せぬ資料価値豊富な詩史的文章に出会えるのはありがたい。現在編集を司る手皮小四郎(てび こしろう)には、幻のモダニズム詩人といわれた荘原照子の評伝の長きにわたる連載があり、単行本化が待たれている。今回212号「特集 辻晉堂と詩歌」にも鳥取出身の彫刻家、辻晉堂(つじ しんどう1910-1981)に関する発見と称してよい報告があり注目した。

 抽象的な“陶彫”で有名な晉堂だが、力強い写実的彫刻が美術界で注目されたのは昭和8年。上京した彼が住んでいた、芸術家のたむろする界隈は当時「池袋モンパルナス」と呼ばれたが、そう名付けた詩人小熊秀雄との「相互不理解の上の奇妙な友情」(?)を、元県博物館学芸員の三谷巍(たかし)がまず紹介。ついで、モダニズムの後を受け、その地から独創的な定型詩の発信をはじめた佐藤一英のもとで、晉堂が詩人としても活動していたことを手皮が紹介している。

 小熊秀雄とは馬が合わなかったようだが、同じく我の強い同郷の僧侶小川昇堂とは好かったらしい。文学好きな二人はともに一英が昭和13年に創刊した『聯』という詩誌に参加して、しばらく「四行頭韻詩」という「聯詩」の腕を競っている。本名汎吉(ひろきち)から晉堂に改名したのは、歌人画家早川幾忠の弟子だった昇堂の許で得度したからでは、と推測する手皮だが、晉堂・昇堂ふたりの妻が浜坂出身の姉妹であることまで突き止めている。そうした発見が、一年前に追悼号で送ったばかりの同人西崎昌の岳父だった北村盛義、彼と晉堂とが親友だったことに発しているというのもまた長命詩誌ゆえの縁しというべきか。

 詩作品では足立悦男「正念場」の、「写実とは見たままではなく思ったままを描くことだ」「絶筆の薔薇に花の形はなかった 老画家に見えてゐたのは薔薇の命そのものであった」という、これも詩人画家だった中川一政の逸話を引いた一篇に心打たれた。(中嶋康博・詩文学サイト管理人)


 写真は辻晉堂による佐藤一英像(遺族蔵)。

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826中嶋康博:2021/11/19(金) 21:11:49
棟方志功記念館
 東京の自宅改築を機に拠点を一時富山県南砺市福光に移された石井頼子氏(棟方志功令孫)を、コロナ禍が収まりをみせた一日、車を飛ばして岐阜から一路北上。御挨拶にお訪ねしました。

 南砺市福光は志功の疎開先といふのみならず、“世界のムナカタ”に雄飛する直前の七年間、謂はば“蛹の時期”を過ごした土地です。故郷青森でなく血縁のない富山に家族で引き移り、戦争が終はっても東京に帰らなかったのは、ひとへに画伯の藝術に心酔し、その人となりを慕った地元支援者の高誼ゆゑといっていいでしょう。
 市では棟方志功本人のみならず、支援を惜しまなかった草莽の支持者との交流をふくめ、紹介と顕彰とに努めている様子が、小さいながらも誇り高い越中の町らしく、他所の棟方記念館との違ひとなって現れてゐるやうに感じられました。

 頼子氏は、祖父が世話になった頃と人情そのままの福光から、呼ばれるままに、旧家跡に建つ記念館の隣家に引越して、近くの青少年センターの一画でお手伝ひ二人とともに、自宅に遺された150箱もの資料を東京から運び込み、その整理を、すなはちパソコンによるデータベース化に取り組んでをられました。
 突然の推参にも拘らず懇切な対応にあづかり恐縮のいたり、御多忙中の作業を中断させて長々と話し込んでは反省もしきり。せっかく用意された御自身の弁当をよそにして近くの食堂に伴はれ、おでんを食べながら更に続けられたお話の数々は、予期せぬ発見に満ち楽しい記憶しか残ってをりません。

 予期せぬ発見――実は詩人一戸謙三(一戸玲太郎)の詩歴に関する原稿を書きあぐんでゐた先月、令孫の晃氏から資料(個人誌『玲』のバックナンバー)を送られ、そこに「イヴァン・ゴルに倣って」といふ昭和3年の詩が抄されてをり、イメージチェンジを模索してゐた当時の作品を発見した(!)と喜んでゐたのですが、この日、頼子氏がいみじくもその戦前青森の稀覯同人誌『星座図』の現物を、それも件(くだん)のその一冊のみを、

「先日もこんな薄っぺらい雑誌が箱の中から見つかって、びっくりしたんですよ。」

と、ロッカーから出してこられた時には息を呑み、何かのお導きかと思ひました。
 棟方志功にとっても資料の乏しいこの頃の挿画イラストについて、こちらからも折に触れ照会・連絡さしあげると約してセンターを後にしたのでした。

 そののち見学した、移築保存されてゐる旧居(鯉雨画斎)では、トイレや押入れいっぱいに描かれた絵に驚き、枕屏風に寄書された著名人の間に牧野徑太郎(山川弘至の盟友詩人)の名を見つけて喜び、さらに光徳寺に立ち寄り 南砺市立福光美術館の作品群を拝観して帰還しました。
 毎年すばらしいカレンダーをお送り頂いてゐる御礼だけでもと、残り少なくなった晩秋の晴れ間を見計らひ、ドライブがてらに思ひ立った北陸訪問でしたが、まことに思ひ出深い一日となりました。

 段ボール150箱のデータベース化を、講演ほか各種活動をこなしながら再来年2023年4月までにまとめたいとのことでした。お手伝ひと三人で着々とお仕事を進められてゐる現場を覗くことができたのも貴重でしたが、(資料庫、および御一緒に撮って頂いた写真をアップします)、すでに身近な「よりこ様」として、私にも現在翻刻中の「田中克己日記」につき逐次思ひ出を伺ってゐる先師御長女の諏訪依子さんがみえ、ここにもうおひと方「よりこ様」の知遇を得て大変不思議な、有り難い気持ちにもなったことです。

 重ねてお礼を申し上げますと共に、ご健勝ご活躍をお祈り申し上げます。ありがたうございました。

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827中嶋康博:2021/12/12(日) 21:34:37
田村書店 奥平晃一さん追悼
 神田神保町の古書店、田村書店の奥平晃一さんが2021年11月26日に亡くなられました。80才だった由。古本先輩からの一報で知って驚きを隠せません。文学界隈の様々な人たちから、今後自身の思ひ出を交へた追悼コメントが次々にあがるのでありましょう。


 かくいふ私も初めてお店を覗いたのが大学を卒業して上京した昭和の終りだから、思ひ出はかれこれ40年近く前までさかのぼります・・・。


                  ★


 インターネットなんぞ無かったその昔、戦前に刊行された詩集を求めるためには、さうしてそもそも世の中にどんな詩集が出回ってゐるのか知るためには、古本屋が発行してゐる販売目録といふものがありはしましたが、それがいったいどんな詩集なのかはその本屋まで直接足を運ばなければ見ることができませんでした。図書館では読むことが出来ない本の話です。店が遠ければ、そして売れてしまへばそれも叶はないし、もとより買へもしない高価な本は、只みせてほしいと言ったところで「うちは図書館じゃないよ」と断られて当たり前の話でした。


 だから上京して貧乏暮らしをしてゐた“陰キャ”詩人の若者にとって、目録販売をせず、背取りを事とする同業者を立入禁止にしてゐた田村書店は、足を運びさへすれば、有名無名に限らぬ戦前詩人の詩集の現物と出会ふことができる唯一の場所だったのです。

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 古書目録が知見に役立つと書きましたが、田村書店は過去にただ一度だけ詩集の販売カタログ『近代詩書在庫目録』(1986刊行)を出してゐます。明治期からの近代詩集489冊を書影と共に総覧した古書目録は、伝説のコレクターと呼ばれた小寺謙吉氏が編集した『現代日本詩書綜覧』(1971刊行)といふ詩集図鑑とならんで、そのころ戦前期に刊行された詩集の書影・書誌を知るためのマストアイテムでした。


 ことにも古書目録には身もふたもなく「価格」が明示されてゐます。そこに込められたシビアな価値判断──すなわち「内容」と「装釘」と「ネームバリュー」と「珍しさ」との四者を勘案して示された評価は、こと田村書店のこの古書目録に関して言ふならば、コレクターおよび古書店の間で永らく稀覯本詩集を収集する際の、指標として機能してゐたやうに思ひます(のちに2010年、扶桑書房が同分量の同種目録をカラーで刊行)。


 今ながめると業界の相場も移り変はり、また「内容」については店舗独自の見識が反映されてゐるので、ジャンル単位で補正は必要かもしれません。バブル景気もはじけましたが、新たな富裕層出現により、そのころ台頭した次世代専門店によって吊り上がった稀覯詩集の古書価格は、現在も変化がないやうです。


 ただ田村書店がすごいのは、店売りでは公刊されたこの自店目録とは異なる値付けがされてゐたことで、客の足元を見て無闇に高額にしたがる専門店を牽制するやうな、極力抑へられた値付けが当時からされてゐたことだったと思ひます。扶桑書房が現れるまで掘り出し物はここでしか見つからなかったし、抒情詩はともかく日本浪曼派など全く相手にしなかった奥平さんの値付けは、同じ界隈にある体制寄りの文学者を尊重する古書店の本棚をため息を以て眺め過ぎてゐた私をしばしば狂喜させたものでした。


 それだけに在庫の回転は恐ろしく早く、店外に二足三文で並べられる筋の良い研究書・翻訳本の類ひはもとより、新しく入荷した稀覯詩集も古本屋としてはあり得ないスピードでどんどん売れてゆきます。一冊でも多く詩集と出会ふことを目的とする私のやうなコレクターにとって、覗くたびにワクワクする期待を味はへる本棚はここにしかなく、同時に、見逃したら二度と出会ふことのない一期一会の悔しさを何度となく舐めさせられた「鉄火場」でありました。一巡りして帰ってきたら売れてゐたのは度々のこと、「やっぱり買はう!」と靖国通りを横断してバイクに轢かれた苦い経験は古本仲間の間で笑ひ種になりました。


 新たな本との出会ひが尽きないのは在庫の厚さゆゑですが、「売った本を再び買ひ入れる際には必ず六割を保証する」との奥平さんの公言は、ただいま払底してるからといって阿漕な値付けをする本屋とは異なり、(後年、業界全体が暴落に見舞はれるまで)値付けに対する絶対の自信と信用との証しでした。


 しかしながら私が田村書店を近代文学の初版本を扱ふ最も真摯な店として慕った理由は、実は値段よりその対面販売の姿勢にあります。左様、ここを訪れたことのあるみなさんが一度は被ったと仰言る「洗礼」。すなはち「本を大切にしない人間や、本で稼いでゐる同業者はもとより、研究者にありがちの、たかが本屋風情と見下したビジネスライクの態度をとる客にも、うちの本は売りたくない」といふ、露骨なほどハッキリした奥平さんの古本屋哲学です。


 実際、帳場の後ろの壁一面に敷き詰められた稀覯本に、断りもなくうっかり手を出さうとして叱責された「著者」があったといふのは、通ひ始めた当時すでに広がってゐた伝説でした。しかし商売以前のモットーだったこの姿勢は、私には、在庫に胡坐をかいた横柄な態度ではなく、「本を大切にする読者・研究者に、実際に本を手に取ってもらった上で買ってもらひたい」といふ良心の表れとして映ってゐました。


 東京都心の古書の街、神田神保町で店を経営しながら、古書に対してだけでなくその嫁ぎ先にも慈愛を注ぐためには、斯様に堅固な武装が必要だったかと思はれてなりません。嫌な思ひをして去った人がある一方で、たとい上客でなくとも、私のやうな執念深い探索者には魅力ある古書世界への階梯が開かれたのだと云へるのです。


 ここからは昔話です。


 初めてやってきた人は店に入るなり、名物の番頭さんがグラシン紙の掛かった本の背をトントン叩き回るのをみて、先づ異様な殺気が漂ふのを察知する訳ですね。察知しない人が洗礼をうけます。細長い店内の一番奥、本が山積みにされた司令塔のやうな帳場から、来店する一見の客に向けて鋭い視線を送ってゐた奥平さんは当時40代。その一番恐ろしげだった頃に、田舎からポッと出て来た若者の私がやらかしたのは、


「この本まけてもらへませんか。」


と、ぶっきらぼうに本を差し出したことでした。帳場越しにジロリとにらまれて返された言葉はただ一言、「あんた、関西の人か」。これがキツかった。私の場合は怖い思ひ出ではなく、二の句を継げず、ただ恥ぢ入ってしまったことでした。


 後の祭りですが、これ以後はもうもう畏れて話しかけることもできず、しかしその後も私は5時に仕事が引けると国電を乗り継ぎ、お茶の水から坂を駆け下りて店に駆け込む毎日。店内を縦に仕切った本棚の、詩集を固めて置いてある狭い通路にしゃがみ込み(分かる人は解かる。あそこに坐るのか)、新しく入った詩集を手許に抜いて買はうか買はまいか、閉店する6時半までの短い時間、巻頭から一篇づつ詩を読んでは見返しに貼られた値札をにらみつける日々を送りました。


 古書との出会ひは正に一期一会の真剣勝負。とにかくその場で決めなくてはなりません。何度となく番頭さんに邪魔にされ、腋の下に汗をかきかき黙々と未知の詩人たちと対峙する実地を経験することで、少しは私の審美眼も養はれたでしょうか。


 顔を覚えられて向ふから話しかけられるまで、決してこちらから話しかけはしなかったのは、恐ろしかったのもありますが、ひどく恥をかいた思ひをしたあと、一寸した意地も芽生えたからでした。当時の私は、自分には縁のなささうな寿司屋で黙ってサービスランチを食べてはさっさと帰ってゆく卑屈な流儀を心得てゐましたが、この田村書店でも通したわけです(笑)。


 毎日毎日同じ時間にやって来ては同じ棚の本を見回って安い本ばかり漁ってさっさと帰ってゆく身なりの貧しいふしぎな青年に、奥平さんが会計時に声をかけてくれるまで、どれくらゐ時間が経ったのかは覚えてません。ですが、丁度そのころ田中克己先生のもとに出入りするやうになったので、よほど嬉しかったのでしょう、そのことを伝へると、田中克己が戦争中に『神軍』といふ詩集を出してゐる癇癪持ちで有名な老詩人であるとことを知ってゐる奥平さんは、なんとも奇特な若者だと言う顔をされました。そしてある日の夕方、私を呼び止めて帳場の下から差し出されたのは、なかなか見つからなかった田中先生の最初の詩集『詩集西康省』でした。題簽が剥がれてるからね、と破格値で売って下さった喜びは忘れられません。(こんな時にはいつもそばに奥様が立って一緒に微笑んでをられました。)


 押し戴いて帰った私は、早速「子持ち枠」の題箋紙を作って先生の許に走り、タイトルを手書きして頂いて、世に唯一冊の『詩集西康省』を持ち得る幸せをかみしめたのは言ふまでもありません。


 本の背をトントンやる番頭さんに「函の無いのがもっと安く出るよ」と言はれたのに待ちきれず、上京して初めてもらったボーナスを全額握りしめてショーケースの『黒衣聖母』を出して下さいと申し出た夕べのこと(少し経って半額以下で出ました。親不孝者でした)。仕入れたばかりの『生キタ詩人叢書(ボン書店)』4冊が帳場に広げられ、ひと声「6万円」と言はれて買へなかった夕べのこと。記憶に残ってゐるのは、情けない事も多いですが、いまはすべてが懐かしく思ひ出されます。


                  ★


 昔はそのやうに毎週、判で押したやうに通ひ続けてお世話になった古本屋さんでした。前述したやうに店売りしかしないため、帰郷してからは上京するごとに挨拶かたがたお店を覗くやうな感じになり、却って近況報告とともに短いお話もできるやうになりました。(一緒に写って頂いた唯一の写真は2003年のものです。)


 在京中にはどうしても手が出ず「如何なる状態の本でもよいので」とお願ひしたのが入荷したとお知らせ頂き、とにかくいくらでも買ふつもりでおそるおそる電話して金額を聞き、飛び上がって喜び送ってもらった『春と修羅』が、最初で最後の大きな買ひ物。


 そして最後に挨拶に伺ったのが前回の上京時でもう6年前のことになります。


 自分の詩集を呈して帰らうとしたら、帳場にたむろするお得意とランチに行くとて一緒に連れ出され、初めて御馳走になりました。奥平さんから尋ねられるままに私が話す内輪の昔話を聞くうち、見知らぬその新しいお得意さんが、今は疎遠となったかつての常連のお歴々のことを、所謂ライバル視を以て邪揄ったので、そんなことはないですよ、それに後悔されてるみたいですよ云々と抗弁したのですが、奥平さんはそれを横で黙って聞き入りながら、いかにも懐かしさうな顔をされたのが忘れられない思ひ出となってしまった。辞去する際には「君、もういつまでもやってられないよ。」と応へられた笑顔が、当時すでに闘病中の御返事だったことを、このたび最初に訃音が報じられたブログを読んで知りました。


 インターネットをされない奥平さんには、折々私のサイトを印刷して報告してくださる奇特な方があったやうですが(この場を借りて名前をお聞きしなかった方に厚く御礼申し上げます)、先月アップした、詩集との関はりを振り返った記事は読んで下さっただらうか。古本を安く売ってもらったばかりの、一方的な関係しか無かったものの、私の詩生活・古本人生にとってかけがへのない本屋であり、慕はしいと呼び得る唯一の店主でした。


 これまで蒙った古書恩誼の数々とともに、茲に謹んでご冥福をお祈りいたします。 (2021.12.12)

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828中嶋康博:2021/12/23(木) 15:33:59
『感泣亭秋報』16号
『感泣亭秋報』16号

 今年も『感泣亭秋報』の寄贈に与りました。
 詩人小山正孝の顕彰を主目的に、令息の正見氏が主宰編集する年報雑誌です。
 周辺にあった抒情詩人達の研究にも開放されて早や16年。渝ることのない、むしろページ数を更新して充実度を増す誌面には驚かされるばかりです。

 このたびは小山正孝の初期拾遺詩を集めた『未刊十四行詩集(潮流社 2005)』に未収録のソネットが新たに発見されたことを受け、全22篇が公開されてゐます。渡邊啓史氏による一篇一篇への詳しい解説に、この草稿が詩人の詩業全体から意味するところの考察を付して、大きな「特集?」になってゐます。
 手帖の筆跡は内容からみても二つに分れてをり、冒頭の日付(1956.6.9)に近接して第2詩集『逃げ水(1955年)』、第3詩集『愛し合う男女(1957年)』が刊行されてゐます。
 興味深いのは、前半6篇が、遠く弘前高等学校時代の思ひ出を描いたもので、『未刊十四行詩集』の「?ノート(1954.12.25)」との関係を感じさせる“四季派色”の強い作品であるにも拘らず、詩集には採られず、対して濃密な愛情が描かれた残り後半の16篇から多くが、推敲を経て翌年の第3詩集『愛し合う男女』に収録されてゐることです。
 つまり草稿は単に詩集制作途中の副産物といふにとどまらず、ソネット形式には拘りつつも“四季派色”すなはち立原道造の影響からの脱却を模索してゐた詩人の、当時の方向性を読み取ることもできるのではないか。――渡邊啓史氏は「?ノート」の作品群と、この手帖前半の6篇とを合せて編まれただらう、刊行に至らなかった「弘前時代を回顧する青春詩集」について構想されてゐます。
 けだし卓見といふべく、大人の愛憎より若者の恋愛が描かれた詩を好む私は、かつて公表された『未刊十四行詩集』においても、故・坂口昌明先生が推された「?ノート」に目を瞠りましたが、そしてこの手帖でもとりわけ前半の弘前詩篇に清楚な出来栄えを認めるが故に、渡邊氏と同じく「幻の詩集」を思ひ描いてしまったことです。「抑制された語り口」で「風景を通して内面を」表現する“四季派色”の強い作品を一篇、引いてみます。

 小山正孝の新発見ソネット詩稿より

  【その2】
日の光の中を 私は坂道を しづかに
牛のやうに しづかに くだつて行つた
垣の緑のあひだを 汗を流しながら
茶色のほこりつぼい道を くだつて行つた

ハーデイの小説の中を私は生きてゐるのか
老人のやうに しづかに 歩いて行つた
目に涙をうかべながら 垣の緑のあひだを
茶色のほこりつぼい道を くだつて行つた

青い空が 日の光が おどつてゐるやうだ
あの少年の日に 私がのぼつて 食べてみた
あの桜んぼはなくなつて 桜の木はなくなつて

赤い実が葉かげにゆれてゐたことも
枝にまたがつて 実を食べたことも
私は思ひ出の中 坂道を しづかに くだつて行つた


 雑誌『四季』によって育った第2世代の詩人たちが、戦後現代詩の「抒情否定」の詩流に向き合ひ変貌していった事情については、続く「特集?:四季派の周辺」においても、鈴木正樹氏が「堀内幸枝の作品世界」のなかで明らかにしてをられます。
 戦前戦中の閉ぢた政治フレームの下、箱庭のやうな環境で醸成された抒情世界を、戦後もそのまま持ち続けることの難しさ、いな、堀内幸枝のやうな詩人にあってはもはや不可能であったことを、あからさまに指摘しないまでも、惨落に喘ぐ抒情の様子を追ひ続けた一文のやうに思ひました。
 山梨の片田舎で育った彼女ですが、戦時中は同人誌『中部文学(山梨)』の野沢一ら地元詩人たちや、『まほろば』で籍を同じくした山川弘至を始めとする日本浪曼派系の同人たちと交流を持ったといひます。親から結婚を強いられることなく、そして理解者船越章が所属する『コギト』の圏内から、所謂マドンナ詩人として詩集『村のアルバム』を戦時中に刊行してゐたら…、もしくはデビューが戦後であったにせよ最初の詩集として問うてゐたら、その後どんな道行きになったことでしょうか。
 純粋な抒情を持してゐた女性詩人には、日塔貞子のやうに夭折してしまったひとがあり、山本沖子のやうに30年詩が書けなくなってしまったひとがあり、また堀内幸枝のやうに伝統からは退いて現代詩に塗れたひとが居ったことを、戦後の抒情詩を思ふ際にはいつも想起します。
 小山正孝は、さういふ意味では彼女達と同じく戦争で身を汚すことを免れた上で、男性として詩人の出発時にすでに恋愛のうちにエロスを見据えてをり、それを手掛かりにして立原道造の影響から(ソネット形式だけをしばらく受け継ぎ)不完全変態を繰り返した後、やがて箱庭の意義も新たに抒情を韜晦する独自の制作姿勢を身につけて、現代詩詩人として立つことを得たひとであったやうにも思ひます。

 さうして恋愛とエロスとを切り分け得なかった、ロマンチック気質を同じくする生涯の親友が山崎剛太郎といふことになりましょうが、今号は3月に103歳で長逝された山崎先生と、翌4月に病に斃れた若杉美智子さんに対する哀悼をこめた特集が続いてゐます。
 正見氏は主宰者として、別に後記「感泣亭アーカイヴズ便り」のなかで心のこもった追悼文を寄せてをられますが、「特集?、?」といふ形で呼ぶのを憚ったことにも思ひやりを感じました。

 山崎剛太郎先生の追悼文は、佐伯誠さんの一文に感じ入りました。私も震へる筆蹟に奥様が解読を添へて送って下さった先生からのお手紙を大切にしてをります。かつて草した一文を再び手向けます。

 そして若杉美智子さんの「雑誌「未成年」とその同人たち(再録)」は、彼女の個人誌『風の音』で18回にも亘った長期連載の一括再録ですが、兼ねがね通覧したいと思ってゐた文献でした。これが今『秋報』における、もう一つの大きな目玉となってゐます。
 立原道造、杉浦明平、猪野謙二をはじめ、寺田透、田中一三、江頭彦造、國友則房ら、一高卒東大生の文学有志による同人誌『未成年』9冊(昭和10‐12年)について、その歩みを一号ずつ、回想・書翰等の周辺資料を駆使して同人達の動向と発行当時の影響とを一緒に書き留めてゆかうとした「詳細な解題」ですが、不日誌面が復刻されることがあれば、本文43ページに上るこれら解説に、蓜島亘氏による「附記」13ページを合せて副読資料として欠かせないものとなりましょう。
 立原道造といふより、杉浦明平に長年私淑された若杉さんについては、『杉浦明平 暗夜日記1941-45』を翻刻・編集された晩年の業績にはなむけする別所興一氏の文章がこの後に二本続きます。うち後者は私も寄贈を忝くした左翼系の文学同人誌『遊民』12号(2015年)掲載の再録ですが、郷里で永年明平氏の身近にあって直接指導も受けたひとならではの、日記から看取された率直な「杉浦明平観」が述べられてゐます。
 すなはち彼の女性観においては、年甲斐もない純情さや、美女にうつつをぬかすといった「育ちの良さ」を「中途半端」と指摘し、伴侶を選択する際にその女性の背後人脈を天秤にかけ、作家信条が脅かされることのない方を妻に選んだことについて「随分エゴイスティックな結婚観」とまで呼んでゐます。
 一方、戦時体制に対しては容赦ない批判が綴られてゐるこの日記。日本浪曼派に対する憤りを死んだ親友の立原道造に向けて叩きつけ、その浪曼派の総帥保田與重郎が排したアララギ派についても、戦争讃美が満ちるやうになったと絶望し、遂には官憲の取り締まりに怯える小心翼翼たる自分自身に鋒先が向かふといった内容です。
 ここにも小山正孝同様に兵役や徴用に就くことを免れ得た男性知識人が隠し持つに至った、「何もできないけれど目をそらさず最後まで見届けてやる」との臥薪嘗胆の気概を認めることができましょう。戦後、彼が最初に出版した文集『暗い夜の記念に』の中でなされた文学者への告発は、軍部に対する憎悪をそのまま感情に任せて移しただけの悪罵にすぎませんでしたが、「生来ロマンチストであるゆえに、リアリストの限界を知り、リアリストと身をなしたがゆえに、ロマンチストの欠陥を体験している」、ハイネのやうな心性を宿した彼の文学の出発点を考察する際には、称揚するにせよ批判するにせよ今後この日記が合せ読まれることが必須となるやうに思ひました。
 『杉浦明平 暗夜日記1941-45』については、かつて拙サイトでも述べてゐますが、明平先生は晩年になっても岩波文庫の『立原道造詩集』解説のなかで、四季派詩人たちが愛した信州の地元の人たちのことを、やはり感情先行で「屁理屈とくだらないエゴイスムにうんざり」と罵倒してゐて、(さういへば立原道造も渥美半島に咲き乱れる百合をユウスゲと較べてガッカリしてたのを思ひ出しました)、大笑ひしたのですが、さういふ他愛無い私見の放言、イデオローグには到底なり得ぬ反骨の真面目について、機会があれば更に知りたく思ってをります。

 他にも気になったのは、青木由弥子氏が、独文学者で哲学者の恩師、加藤泰義氏の遺した2冊の詩集について語った一文。
 加藤泰義…? 未知の人かと思ったら、詩を書いてゐた20代、覚束ない理解で読んでゐた『ハイデガーとヘルダーリン(芸立出版1985)』や、訳書『シュペングラー:ドイツ精神の光と闇(コクターネク著:新潮社1972)』といった本が、加藤氏によるものであったと知りました。
 当時、さかんにドイツロマン派界隈の訳書を漁って、ドイツ語文脈圏の詩的感触、或ひは形而上学から香る詩的氛囲気に親しんでゐたことを思ひ出しましたが、ギリシア神話が出される条りにはヘルダーリンが想起されるものの、詩人として紡がれた優しい言葉遣ひには「特集?:四季派の周辺」に収められた理由が首肯されました。
 哲学者として実存と向き合ひ考察をこととする人が、詩人として生を語る際には、時の詩壇・詩流などとは関係なく、純粋な抒情が斯様に啓かれ、自然に紡がれるものなのかもしれません。

 ここにても厚くお礼を申し上げます。以下に目次を掲げます。有難うございました。


『感泣亭秋報』16号 2021.11.13 感泣亭アーカイヴズ刊行 244p 1,000円

詩 小山正孝「一瞬」4p

特集? 未発表十四行詩草稿22篇
 未発表十四行詩草稿22篇 本文とノオト 小山正孝6-42p
                   内面の現実(※解題と考察) 渡邊啓史 43-77p

特集? 四季派の周辺
 塚山勇三の詩 生涯を一つの長篇詩のように 益子昇 78-87p
 「詩集舵輪」について 小山正孝 88p
 堀内幸枝の作品世界 鈴木正樹 89-102p
 加藤泰義の「小さな詩論」 詩で生を思うということ 青木由弥子 103-110p

ある日の山崎剛太郎
 美しい集い 山崎剛太郎氏に感謝 水島靖子 111-113p
 恐るべき人とdangerous boy 宮田直哉 114-118p
 楽しみと日々 山崎剛太郎さんのプルースト 佐伯誠 119-123p
 残照を仰ぐ 山崎剛太郎氏の片鱗にふれて 北岡淳子 124-126p
 アラカルト(a la carte)「薔薇物語から薔薇の晩鐘まで」観劇記 善元幸夫 127-131p

若杉美智子の机
 雑誌「未成年」とその同人たち(再録) 若杉美智子 132-179p
 付記 若杉美智子「雑誌「未成年」とその同人たち」によせて 蓜島亘 180-192p
 若杉美智子さんの杉浦明平研究をめぐって 別所興一 193-196p
 『杉浦明平 暗夜日記1941-45』を読む 別所興一 197-204p

回想の畠中哲夫 三好達治と萩原葉子さん。そして父のこと2 畠中晶子 205-206p

世にも不思議な本当の話 高畠弥生 207-211p

うらみ葛の葉 または葉裏の白く翻る時 渡邊啓史 212-222p

詩 中原むいは/里中智沙/柯撰以 223-227p

私の好きな小山正孝
 若き日の愛の記憶――『雪つぶて』を読む 服部剛 228-230p

濁点、ルビ、さまざまのこと 渡邊俊夫 231-234p

信濃追分便り(終) 布川鴇 235p
常子抄 絲りつ 236-237p
鑑賞旅行覚書6 オルガン 武田ミモザ 238p
《十三月感集》 3他生の欠片 柯撰以 239-240p

感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見 241-244p

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829中嶋康博:2021/12/31(金) 16:45:03
今年の収穫書籍・雑誌より
今年の収穫書籍・雑誌より一部を御報告。(刊行日順)


『勢陽風雅』雪巌道人編 (伊勢地方の漢詩アンソロジー)宝暦8年 土地の名に『〇〇風雅』と名を付ける地方詞華集の濫觴でしょうか。


『勢海珠璣』家里松嶹編(同上趣旨の後継アンソロジー)嘉永6年 扉の「無能有味?(齋)」なる庵号に編者の性格が偲ばれます。



銭田立斎(金沢)『立斎遺稿』上巻 天保12年 金沢の富商詩人。大窪詩仏を歓待する詩が数篇あり『北遊詩草』にも彼に謝する五律を載す。


 仲冬旬四日邀詩佛先生于艸堂

人事すべて縁の有らざるなし。尋常相遇ふ亦た天に関す。何ぞ図らん詩伯の千里を侵し、来りて吾曹と一筵を共にせんとは。

聊か素心を竭くして野蔌を供し、更に新醸を斟みて溪鮮を煮る。斯の如き良會の得難きを知る。況んや復た交遊の暮年に在るをや。


『増補書状便覧』弘化2年 手を掛けて修繕した本はとにかく可愛い!
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上田聴秋『月瀬紀行』乾坤2冊 明治21年 昨年知った郷土ゆかりの文人


高島茂詩集『喜ばしき草木』大正13年 信州の自然詩人。国会図書館未所蔵。


服部つや遺稿詩集『天の乳』昭和4年 岐阜県詩集で未収集だった本。今後おそらく現れないかも。


稲森宗太郎遺稿歌集『水枕』昭和5年 大切ないただきもの。


『小熊秀雄詩集』昭和10年 伏字に附箋を張って書込み補充しました。


龍木煌詩集『門』昭和10年 限定150部 椎の木社版の詩集。買へる場面に遭ったら迷はず買ひたい。


大木惇夫『冬刻詩集』昭和13年 伝記を読んで親炙するやうになった詩人の限定100部限定豪華装釘本。


北園克衛詩集『火の菫』昭和14年 限定200部 ほしくても手が出なかった永年の探索本。函欠なれど意匠は扉にも採用されてゐて満足。


圓子哲雄主宰詩誌『朔』92冊 昭和47年〜 圓子さんの辱知を得る以前のバックナンバーを一括寄贈頂きました。


揖斐高編訳『江戸漢詩選』上下巻 令和3年 斯界第一人者の先生よりゆくりなくも御恵投に与り感激。


冨岡一成『江戸移住のすすめ』令和3年 盟友の新刊。病臥の間に現在も新著を執筆中の由、再起を祈りをります。


『谷崎昭男遺文』令和3年 保田與重郎・日本浪曼派の逸話満載。


小山正孝詩誌『感泣亭秋報』16号 令和3年 過去最高に充実した内容。

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830中嶋康博:2022/05/18(水) 22:53:56
丹羽嘉言『謝庵遺稿』
尾張の画家、丹羽嘉言:にわ-よしのぶ(1742-1786)の遺稿集『謝庵遺稿』 享和元年(1801年)序[刊] を手に入れました。
再刊本『福善斎画譜』 文化11年(1814年)序[刊]と共に、原本はすでにデジタル公開されてをります。

 わたしはどうしても小動物についての記述に目がゆきます。「蚊を憎む文を愛する説」といふ一文。(13-14丁)

 丁酉(安永6年1777)六月 曬書の次に、清少納言の枕書(枕草子)を披き「蚊を憎む一節」に至りて、其れ言簡にして意至れるを愛づ。
 早くに豹脚有りて、眉睫の間に翺翔するは、一に其の言の如し。
 當初の清氏、後の数百歳、蚊の人と興に有ること今日の如きなるを豫め知り、而して筆を下し斯文を成せり。
 予、今、斯文を玩し、而して後、數百年前、蚊の人を擾(煩わ)すこと今日と同じく、又た今より以後、數百千歳も、蚊の人と與に有ること一に今日の如く、而して斯文の終に亡ぜざるを知る也。
 李笠翁云ふ。「蚊の為物(物となり)や、體は極めて柔にして性は極めて勇、形は極めて微にして機は極めて詐。地を擇びて攻め、?に乘じて以て入る。昆蟲庶類の善く兵法を用ゆる者、蚊に過ぎたるは莫し」と。
 是の言、蚊のことを盡したるか。假し予をして蚊子に為らしめば、將に笠翁に於いて三舍を避けん(恐れ近づくまい)。
 古人の筆を弄するは、景を見ては情を生じ、場に逢ふては戲を作す。惱むべく憎むべきの蚊を以て、變じて笑ふべく愛すべきの文に做(な)し、既にして以て自ら娯しみ、又た我が後の人を娯ます。蚊子は微物と雖も、亦たともに斯文に力有るは、豈に憎む可けん哉。
 是に於て殘帙を理(おさ)め、蠹魚を撲ちて嗟嘆獨語す。蚊の既に我が臀の斑然たるに飽けるを知らずと。

丁酉六月 曬書之次 披清少納言枕書 至憎蚊一節 愛其言簡意至 早有豹脚 翺翔眉睫間 一如其言 當初清氏豫知後数百歳 有蚊與人如今日 而下筆成斯文 予今玩斯文 而後知數百年前 蚊之擾人同今日 又知自今以後數百千歳 有蚊與人 一如今日 而斯文之終不亡也 李笠翁云 蚊之為物也 體極柔而性極勇 形極微而機極詐 擇地而攻 乘?以入 昆蟲庶類之善用兵法者 莫過于蚊 是言盡蚊矣 假使予為蚊子 將避三舍於笠翁 古人弄筆 見景生情 逢場作戲 以可惱可憎之蚊 變做可笑可愛之文 既以自? 又?我後人 蚊子雖微物 亦與有力于斯文者 豈可憎哉 於是理殘帙 撲蠹魚嗟嘆獨語 不知蚊既飽 我臀斑然

また『福善斎画譜』においては第四帖。碩学森銑三翁もまたかういふ瑣末事を愛されたらしく、

「動物の方に「井邦高畫」とあるのが一面加はつてゐる。その猫と鼈との題辭に、謝庵のいふところがまた面白い。

 「余素不喜畫猫與鼈偶見二物皆如讐観余余惡其?之不雅又不喜復見二物一日讀聖師録始知猫之仁鼈之義可傳賞于後世而憶吾之相惡不過一時頑擧也夫人貴乎博愛物固不可貌相猫與鼈可憐哉於是移寫舊圖以補吾畫録而不雅者竟不雅」
(『森銑三著作集 第3巻 人物篇 3』中央公論社, 1973 p465-474 「丹羽謝庵」より)

 拙い訓読を添へて置きます。

「余、素と猫と鼈とを畫くを喜ばず。偶ま二物を見るに、皆な余を観ること讐(あだ)の如し。余、其の?の雅ならざるを惡み、又た復び二物を見るを喜ばず。一日、聖師録※を讀むに、始めて猫の仁、鼈の義を知る。後世に傳賞すべし。而して吾の相ひ惡むは一時の頑擧に過ぎざるを憶ふ也。夫れ人は物を博愛するより貴し。固より貌相の可ならざる、猫と鼈とは憐れむべき哉。是に於て舊圖を移寫し、以て吾が畫録を補ふ。而れども雅ならざる者は竟に雅ならざるなり。」

※図書館の蔵書を検索してみたところ、『聖師録』といふのは、どうやら彼自身の手で和刻した唐本のやうです。

清 王言原本・藤嘉言(丹羽謝庵)著『聖師録』 天明元年7月(1781)]跋[刊]
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB11610423
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA69280076

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0001003.jpg

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