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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

476やす:2010/03/20(土) 11:28:07
お薦め一般書
 漢詩文の読耕が滞ってゐる。ご飯(古典)を食べずにおやつ(一般書)ばかり食べてゐるからである。それが余りにもおいしいのである(笑)。
 神戸女学院大学の先生をされてゐる内田樹といふひとの『日本辺境論』(2009新潮新書)を読んで引き込まれました。続いて『逆立ち日本論』(2007)、『街場の教育論』(2008)、『街場の中国論 』(2007)と他の著書にもハマってしまったのですが、自分が社会に対して感ずる違和感をうまく表現できぬまま、このさき古本好きの偏屈爺となっていって一体どう世間と折り合って行ったらいいのか、正直「居心地の悪い老後」の予感に悩んでゐただけに、かういふ物の見方と語りができるひとに(本の上でですが)出会って、本当にホッとしてゐるところです。
 『日本辺境論』は昨年度の新書大賞を受賞しましたが、前書の語り口からしていいです。耳に熟さないカタカナ語は嫌ひなのですが同時に漢語もさりげなく使ひ、全て誰々の受売りと謙遜しながら、おそらく読者の一部として予想してゐる、端から馬鹿にして掛ってくる「頑迷な進取の徒」と「頑迷な守旧派」に対して冒頭それぞれに目配せしてるのが面白い。構造主義とかに全然興味はないのですが、右翼とジェンダーフリーを両つながらにやんわり峻拒する、現代の「中庸」を指し示すこれら読本の数々は「肩のこらない名著」と呼んでよいのではないでせうか。
 ただし私個人のアジア漢字文化圏の再興希望は、論語のみならず、家康公の遺訓や教育勅語を許容する分、著者よりもう少しだけ偏屈です。さうしてこのさき世代交代が進み、敗戦による「断絶」を、人間性を深める葛藤として生きることが難しくなったのなら、もひとつ昔、明治維新の断絶の前の江戸時代のやり方を拝借してでも、この断絶には何らかの文化的な東アジア的決着をつけなくてはならぬと思ったりもします。それは現今の政治家の云ふやうな利害のために日本を「ひらく」ことではなく、各民族の記憶に遺された先賢の風を以てお互ひの「襟を正す」ことから始まるものではないでせうか。(またしても政治っぽくなったのでここまで。)

「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。『街場の教育論』155p

 貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ……そういうものは富や強さや傲慢や規律によって強制すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身に沁みて感じている。『昭和のエートス』68p



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