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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

591やす:2011/10/17(月) 12:37:51
『布野謙爾遺稿集』
 このお休みを、杉山平一先生の編集に係る『布野謙爾遺稿集』の、特に日記と手紙を抜き書きしながら読んでをりました。恰度、手皮小四郎様の前回の連載「モダニズム詩人荘原照子聞書(「菱」173号)」で、当時の「椎の木」に惹起した内紛と分裂について記されてゐるのですが、この遺稿集に収められた日記・書簡を読むと、当時の彼は荘原照子とは反対に、大阪に拠点が移った第四年次の「椎の木」に残り、編集を受け継いだ山村酉之助(荘原照子曰く「ギリシャ語もラテン語もできるブルジョワの息子」)の人柄についても信を寄せてゐたことがわかります。

□「いま大阪で私たちのやってる椎の木を編集してゐる山村さんといふひとに、よく便りをいただいてゐますが今年二十七才位のひとですが、なんだか人間的に私をひきつけるものがあります。このひととなら、のるか、そるかのところまで一緒に雑誌のことを手伝って行き度いといふ情熱を私に持たせます。まだ逢ってゐない人だけれど、ちかころこのひとがあることが、私にはひとつの慰みとなりました。大阪人には気まぐれは少いといふことを悟りました。このあたりか、ひとの好し悪しに関係なく大阪人の特性だと思ひます。お金持で教養のある人は(その教養は単にサロン的教養ではありません。ブルジョアの社会的意義を究明し尽くした教養)やはりプロレタリヤの教養のあるひとより精神的に美しいと思ひました。」(1935.6.18 草光まつの宛)

 しかしこのさき名跡「椎の木」と、あたらしく分かれ別冊誌の名を継いだ「苑」は、同じく季刊を継いで月刊となった「四季」のやうには長命を保つことができず、ある種共倒れの感を呈して廃刊に至ります。それはモダニズムの裾野が囲い込まれてゆく時代状況にあって、中途半端なモダニズムが新領土に淘汰凝縮されていったこと、そしてこの分裂劇以降「新進詩人の育成」について、自身のモダニズム転向を封印(?)してしまった宗匠の百田宗次が興味を失ひ、放擲してしまったといふ事情にあったもののやうです。
 「椎の木」の同人達、とりわけ布野謙爾と姻戚関係にあったと思しき景山節二については、なぜ先輩と袂を分かって「苑」の方へ参加したのか。生前の詩人と面識のあったといふ手皮様も、今回景山家に叔父がゐた事実には驚かれたとのこと。今後、言及が俟たれます。また私も高松章、宍道達といったマイナーポエトの詩集との出会ひを私かに喜んでゐたところ、こんなところでその名に出喰はすとは思ひませんでした。全集類における日記や書信、そして序・跋において明らかにされる交友関係といふのはとりわけ詩人に於いて頻繁で、興味の尽きないところです。さうして布野謙爾が杉山平一を通じて「四季」「日本浪曼派」などモダニズムから意味の回復への接近してゆく過程といふのは、謂はば結核にむしばまれた彼の衰弱過程に沿ってゐるやうです。

□「四季の会に 出かけた由、そんな雰囲気はどうにもうらやましくてなりません。詩を作る機縁なんて、つまるところこの雰囲気がなくては駄目だと思ってゐます。」(1936.7.20 杉山平一宛)

 健康さへ許せばおそらく内地での就学とともに、中央詩人達との通行、また発表の機会も拡がってゐたことでせう。ファッショを厭ひ、朝鮮の現状に心を痛め、杉山平一の詩に萌芽するヒューマニズムを賞してゐた彼にあって、「お金持で教養のある人はプロレタリヤの教養のあるひとより精神的に美しい」と観念した精神が、先鋭化に伴ふ手段としての詩に傾斜していったモダニズムに対して、どのやうな回答を実作において示し得ただらうか。さう残念に思はれてなりません。

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