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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

335やす:2008/03/30(日) 00:33:42
佐谷恵甫
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)

 文化六年末から文化八年閏二月まで、一年余にわたった頼山陽の黄葉夕陽村舎在塾中、茶山先生が外出時にいつも山陽と一緒に引き連れてゐた、九州からやってきた佐谷恵甫といふ未成年の塾生のことが書いてある。「筑前秋月藩医、箕浦東伯の子」といふことしか分らないが、教員格の山陽と同時期に入塾し、そのまま「悪い先生」に薫陶を受けたこの生徒は、ともに上京を志すやうになった塾生のうちでも筆頭株の俊穎であったらしい。とりわけ目を掛けられてゐたらしい彼の名は、いつも茶山の日記の中で、山陽と並んで記されてゐて、象徴的なのが、故郷に帰るといふ恵甫を、山陽と、それから茶山の甥で、菅家の跡嗣ぎたる長作が見送る箇所である。

九月七日に佐谷恵甫が豊後に帰ったが、山陽と萬年とがこれを送って横尾に至った。

「士成(子成)と長作、恵甫を送つて、横尾に到る。士成、しばしば、長作に先きに還らんことを勧む。長作、なほ従って行く。既にして手を分つ。而れども士成復た送りて橋上に至り、留談してときを移す。長作、茶店に在りて、士成の還るを待ち、風寒の冒す所となるに至れりと云ふ」

富士川氏は、

茶山の日記にはこのように記されているが、この行文のうちになんとなく山陽を非難するような口吻が読みとれるのではなかろうか。

 と記されてゐるが、「非難」の内容は、病弱な甥子の健康を気遣ふとともに、彼を「のけもの」にして交はされた内緒話が、恐らくは秘密の上洛計画に関るものであったからに他ならないだらう。人心掌握の才に長けた頼山陽の人柄は、学芸抜群ながら、茶山からは
「年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、二十前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候。」と、また母梅颸からは、
「子供らしき事も御座候故、私共はたへず子供しかり候様にし加り申候。」とも窘められるやうな、まことに今日呼ぶところの無頼にして純真たる「詩人らしさ」に与るところがあったやうである。田舎暮らしを喞つ上昇志向の青少年たちを根刮ぎ薫染したらうことは想像に難くない。
 そして同時にこの一文からは、対照的に、山陽より七歳も年上だったといふ、長作こと菅萬年といふ男の、孤りぽつねんと取り残された疎外感もまた、ありありと察せられるのである。萬年は子のなかった茶山の養子となったものの、生来病弱で、天文や暦が好きな、地味な理系の人物だったらしい。さうしてこの翌年、山陽が塾を去った半年後の七月に夭折してしまふ。遺された未亡人敬は一人息子の菅三を菅家に残し、やがて山陽の代りにやってきた塾の都講、北條霞亭の妻になるのである。

 佐谷恵甫はその後ふたたび塾に戻ったものらしい。萬年の死後早々に、九州秋月に帰るとてあらためて、師茶山より特別長い送別の詞を贈られてゐるからである。彼は二年後の文化十一年、茶山江戸行きの際には、大阪在住者として移動中の茶山に謁見してゐるのであるから、この度の「再帰郷」の真意については、茶山も或ひは薄々感づいてゐたのかもしれない。富士川氏はこの詩について言及をされなかったが、一読、おのづから餞別の意に含むところあり、塾の後継者と家の跡取りを失った悔しさ、悲しみを踏まへて読んでみれば、今また手許から逃げてゆく才気一本槍の少年に対し、切に自重を願ふ老先生の心が惻惻と感じられてならない。

 「送佐谷恵甫歸秋月」(『黄葉夕陽村舎詩』後編、巻三13丁)

士愨而求能 馬服乃求良 今時俊髦士 轎誕事鴟張 其文非不美 其論非不詳 而察其所安 功過不相償 恵甫未弱冠 才氣耀峰鋩 況能履謙順 早已収令望 有素絢可施 有實名可揚 君若逐時調 正路或易方 願能守故歩 勿學狂童狂 平素誡輕佻 動致郷人誚 唯此一片心 有不顧我耄 秋柳挂斜日 蕭蕭倚祖筵 寒獸鳴空谷 旅雁翔遠天 雲海千餘里 對酌更何年 別後能思我 時亦誦斯篇

 「佐谷恵甫の秋月に帰るを送る」

 士は愨(つつし)み而して能(わざ)を求め、馬は服して(車に付してから)すなはち良きを求む※。今時の俊髦の士、轎を誕り(小車を偽り)、鴟張(フクロウが翼を広げた様にみせる)を事とす。その文、美ならざるに非ず、その論、詳ならざるには非ざる。而るに其の安んずる所を察すれば、功・過あひ償はず。
 恵甫、未だ弱冠ならざるも、才気峰鋩(きっさき)を耀かす。況や能く謙順を履(ふ)み、早や已に令望(立派な声望)を収むるをや。素(そ)有らば絢(あや)に施すべし※ (真白な素地だから絵が描ける)。実あらば名も揚がるべし。君もし時調を逐はば、正しき路も或ひは方(向)を易(か)へん。願くは、能く故歩(今までの堅実)を守り、狂童の狂を学ぶなかれ。平素、軽佻を誡(いまし)むるも、ややもすれば郷人の誚(そしり)を致す。唯だ此の一片の心、我が耄(この老いぼれ)を顧みざること有り。秋柳は斜日に挂(かか)り、蕭蕭として祖筵(送別の宴)に倚れり。寒獣(わたし)は空谷に鳴き、旅雁(そなた)は遠天に翔ける。雲海千余里、対酌さらに何れの年ぞ。別後よく我を思はば、時にまた斯の篇を誦せよ。

※弓調而後求勁焉、馬服而後求良焉、士信愨而後求知能焉。士不信愨而有多知能、譬之其犲狼也、不可以身爾也。(『荀子』哀公篇)
※子夏問曰、「巧笑倩兮、美目盻兮、素以爲絢兮、何謂也」(『論語』八佾)

「狂童の狂」が、家督を放擲して都で名を馳んとする山陽のことを暗に示してゐるのは、言ふを俟たない。すべての元凶は彼なのである。頭註で当の山陽が、
襄輩當各冩一通以貼座側。 (襄輩(わたくしめ)、まさに各一通を写し以て座側に貼るべし。)
と神妙に反省してゐるが、しかしそれ以上何も書かいで良いものを、
平素二句刪去亦似通。 (「平素…」二句は刪去、また通ずる似し。)と恵甫を庇った上、
而仍作乃似可。 (「而」なほ「乃」と作るも可の似(ごと)し。)と、ことさらに詩の上面をなぶったりしてゐる。さうして山陽の父である春水がまた、
有學有識有文采有雅趣。 (学あり識あり文采あり雅趣あり。)
などと恵甫を誉めちぎってゐるのも、穿って読めば、針の筵に座らされてゐる父子二人の様子がありあり目に見えるやうで、なんとも可笑しい。

 佐谷恵甫は生没年を詳らかにしない。或は夭折したのか、その後、大成したひとではないやうである。御教示を俟ちたい。


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