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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

660やす:2013/04/19(金) 09:55:29
モダニズム詩人荘原照子聞書き「近藤東、荘原を探す」
 手皮小四郎様より『菱』181号拝受。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 今回の荘原照子の伝記連載は、詩人の死亡伝説ならびに戦後ときを隔てて彼女が懐旧され探索され発見された事件(?)について。新聞の発見スクープについては本連載の初めにすでに詳しいですが、そこに到る経緯として最初に紹介されてゐるのは、同じく横浜のモダニズム詩人だった後輩の城田英子、木原孝一による、敗戦前夜の詩人を報告する回想文です (『詩学』1957.12『現代詩手帖』1960.5)。そして“戦友たち”と再会を果たした当時の貴重な写真が二枚。永らく詩壇と没交渉だった自分の生存事実が、新聞記事になるほどの話題となったことについての詩人自らの感想を、どのやうに手皮様が聞きとられたのか、交流を断った心情とともに連載初回時とは角度を変へて聞きたく思ひました。
 また表題のとほり、近藤東が彼女を捜索するために出した『週刊新潮』(1966.3.12号)の訪ね人広告のことが出てくるのですが、詩人をよく知るが故に死亡伝説を信じてゐた身近な人達ではなく、却って「他人とドメステイクな交際をあまりしない」彼だからこそ捜索にのりだすこともできたのではといふ手皮様の推測はなるほどです。皮肉屋の自己分析が妥当かどうかはともかく、都市型のモダニズム詩人として認知される彼に、岐阜のことを記したものは少なく、また北園克衛ほどに抽象的な抒情詩としても故郷を懐古することがなかった事情の一斑にも、確かにさういふ側面があったのかもしれません。

 それから編集後記ですが、Iといふ鳥取出身詩人の悪評が書かれてゐて、もしかしたら伊福部隆彦のことかとも思ったのですが、私の仄聞したところの氏の為人は、戦後に成った抒情詩篇そのままの純粋な、無名の才能を発掘したり、生田長江に篤く事へて兄弟弟子だった佐藤春夫が師の生身を疎んずるやうになったことに憤慨してゐた、などといふ、誠に侠気に富んだものばかりだったので、地元の詩人達に嫌はれてゐるのがその通りであるなら、意外のことに思ひました。たしかに気宇は大きく、転向の前歴もあり、前衛の自負が当たり前だった現代詩詩人の集まりからは、凱旋帰国もはなから色眼鏡の対象となってゐたのかもしれません。この段、私も当事者を知らぬ故いい加減のことは申されませんが、愛弟子の俊穎増田晃が戦後を生きて居たらとあらためて思はざるを得ませんでした。

 御身体ご自愛いただき、あと1〜2回で終へるといふ連載の完結をお祈りしてをります。ありがたうございました。


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