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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

662やす:2013/04/30(火) 07:14:57
詩人平岡 潤――4人目の中原中也賞
 杉山平一先生が戦 前に受賞した「中原中也賞」。長谷川泰子が寛大な夫である中垣竹之助氏の経済力を恃んで興した雑誌「四季」ゆかりの文学賞である。詮衡が「四季」の編集方 に委ねられ、「文藝汎論」の詩集賞と較べると、より「抒情詩に対する賞」の性格が強い。第1回は昭和14年、亡くなった立原道造に、第2回は雑誌の遅刊が 続いたため昭和16年に2年分として杉山平一、高森文夫の2名に。そして第3回が昭和17年、平岡潤に授与され、以降パトロン中垣氏の事業悪化により途絶 した。 立原道造はもちろん杉山平一、高森文夫のお二方も昭和期の抒情詩史を語る上で名前の欠かせないひとであるが、平岡潤といふ詩人の知名度は如何であらう か。戦後、地元三重県桑名市で地域文化の顕彰にあたり、市史の編纂をなしとげた偉人であるが、賞の詮衡対象とされた詩集『茉莉花(まりか)』は、刊行部数 がたった 120部しかなく、古書でも目に触れることは殆どない。そして投稿の常連者であったのに、戦後、「四季」が復刊される時に彼の名前が無いのである。彼はま た、自由美術家協会から協会賞を受けたといふ絵画界からも遠ざかってゐるが、しかし中部地区の詩人が(在住を問はず)一大集結した『中部日本詩集』(昭和 27年刊)に参加せず、巻末の三重県詩壇の歴史展望の際にも一顧だにされぬといふのは、奇異でさへある。 これは詩集『茉莉花』が軍務の傍らに書き綴られた詩篇を中心とし、伏字を強いられた作品を含みながらも、その作品は旧帝国軍人の手になるもので、彼は戦 意高揚の詩人である、とい烙印を捺されたからなのであらう。多年の軍歴は公職追放をよび、彼は教師の地位からも追はれ、已むを得ず古書店を始めるに至った が、奇特なことに店を繁盛させることより地域資料の散逸をふせぐに遑なかったらしい。これだけの逸材を世間が埋もれさせる訳はなく、中学時代の恩師から詩 史編纂に協力するやう声がかかったのは、むしろ当然の成り行きだったかもしれない。 けだし詩人が戦後、詩壇ジャーナリズムから黙殺・抹殺の憂き目に遭った事情は、岐阜県出身の戦歿詩人山川弘至と同じであり、その後現在に至るまでの詩壇 からの冷遇が能くこれを証してゐる。彼の場合は、なまじい戦争に生き残って、しかも一言も抗弁することなく、故郷に逼塞して歴史顕彰に勤しむやう、自らを しむけなければならなかった。その心情は如何ばかりのものであったらう。南方で米軍に降伏、収容所生活にあっては、ダリの紹介記事を翻訳したり随想をした ため、戦後の文学活動復帰に十全の備へを怠らなかった彼であった。詩才のピーク時を示す「錨」などの詩篇に顕れてゐる丸山薫の詩に対する理解の深さ、そし て授賞時の言葉を考へると、隠棲した豊橋で中部日本詩人連盟の会長に担がれた丸山薫本人から、なにがしかの再起の慫慂がなかったとも思はれ難い。なにより 詩人自身に、さうした文学への思ひや未練を記した雑文 は残ってゐないものだらうか。事情を取材すべく詩人の遺稿集『桑名の文化―平岡潤遺稿刊行会 (1977年刊)』にあたってみた。 桑名の図書館まで足を運んだものの、文学の抱負が記された自筆稿本『無糖珈琲』は未完のまま埋もれ、遺稿集には地元の歴史文化に対する随想が収められて ゐたが、自身の詩歴をめぐる類ひのものは一切得られなかった。むしろ詩を共に語るべき師友のなかったことを、却って物語ってゐるやうな内容であった。なか に引用されてゐる新聞記事も、彼が画家として立つことができなかったことは紹介してあったが、晴れがましい詩歴については触れられてゐなかった。もっとも 巻末には稀覯詩集『茉莉花』の全編ならびに戦前の拾遺詩篇の若干が収められてをり、詩人が眠る市内昭源寺境内には、立派な「詩碑」が建てられてゐるのを 知った。わたしは早速その足で墓参に赴いた。 詩人は昭和50年、郷土史の講話の最中に仆れたといふ。そのため詩碑の建立は詩人の遺志であったとは云ひ難く、その人望の結果であるには違ひない。そし て決して恥じることのない戦前のプロフィールも、地元では尊敬を以て仰がれてゐたことを証するかのやうに、碑面に刻まれてゐたのは彼の郷土史研究の功績で はなく、若き日に自らの前衛絵画を以て装釘を施した、晴れがましい中原中也賞受賞の詩集書影。そして戦後間もなく、未だ詩筆を折ることを考へてゐなかった 時代に、詩的再出発の決意を宿命として表した「名誉」といふ一節が選ばれてゐたのであった。  名譽 詩人は生まれながらにして傷ついてゐる。傷ついた運命を 癒さんために、彼は詩を創るのではなくして、詩を創ることが、傷ついた運命の主なる症状なのである。不治であるといふことは彼の本来の名譽と心得てよい。 昭和二十一年七月十日             平岡潤                 (未刊の自筆稿本『無 糖珈琲』第25節に所載の由) 生涯独身を貫き「郷土史研究がワイフ」とうそぶいてをられた詩人。財産を遺すべき子供の無く、代りに建てられた一対のレリーフの間を“一羽の可憐な折り 鶴”が繋いでゐたのは、その折り方を考案した地元僧侶の顕彰活動に努めたからといふより、なにかしら詩人の「本来の名誉」の鎮魂のために ――、と思はれて仕方が無いことであった。(2013.4.30up) 茲に詩集『茉莉花』の全書影と、初出雑誌の一覧、そして遺 稿集の巻末に久徳高文氏がまとめられた年譜と後記を掲げます。謹んで詩人の御魂と御遺族に御報告するとともに、塋域および御遺族情報を御案内いただきまし た昭源寺様に御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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