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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

325やす:2008/03/21(金) 03:25:15
馬頭初めて見る米嚢花
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)

やうやく41才の菅茶山と9才の頼山陽が初めて対面する歴史的時日、天明八年六月十日のことを記した詩篇「広島訪頼千秋分得螢字」(広島に頼千秋を訪ひ「螢」字を分ち得る)までたどり着きました。頼千秋は頼春水。山陽の父で、茶山終生の親友であります。

離居屈手幾秋螢   離居(はなれ家)、手を屈すれば幾(いく)秋螢
夜雨西窓酒滿瓶   夜雨西窓、酒、瓶に満つ
十載趨朝頭未白   十載(十年)、朝(役所)に趨むいて頭いまだ白からず
舉家迎客眼倶青   家を挙げて客を迎ふる眼は倶に青し(青眼)
雲低隣屋木陰邃   雲は隣屋に低(た)れ、木陰は邃(ふか)く
石倚勾欄苔氣馨   石は勾欄に倚りて、苔気は馨(かんば)し
喜見符郎紙筆耽   喜び見る 符郎の紙筆に耽り
童儀不倦侍書櫺   童、儀に(行儀良く)して、倦まず書櫺(≒書斎)に侍るを

 詩の後半は、息子の「符郎」に勉学をすすめた韓愈の詩「符讀書城南」をふまへてゐるらしいのですが、この本では例によってあまり詳しく説明してゐません。原本詩集にはさらに、

「閲到此詩 馬頭初見米嚢花」

 といふ評言が一言、欄外にぽつりと書いてあって、『黄葉夕陽村舎詩』の無記名の鼇頭評は、先輩詩人六如によるものなのですが、この「馬頭初めて見る米嚢花」といふ故事がわからない。しらべてみると雍陶(唐)「西帰出斜谷」の詩に

行過險棧出襃斜 険桟を行過ぎて褒斜を出づ (ホウヤ:成都へ通ずる蜀の桟道と呼ばれてゐる難所。)
出盡平川似到家 平川に出尽して家に到る似たり
無限客愁今日散 無限の客愁今日散ず
馬頭初見米花。 馬頭、初めて見る米嚢花

 とあって、「馬頭」は馬の上、「米嚢花」はケシの花で故郷の花の謂。つまり遠地から帰って故郷の土地に入ったことを喜ぶ言葉(『大漢和辞典』)であるらしい。とすれば、『黄葉夕陽村舎詩』をここまで読み到って喜びを記すやうな人とは、頼山陽そのひとではないか、ここは「子成曰く」の文字が頭に抜けてゐるのではないのかとも思ひ、つまりどうして富士川氏はこれに言及しないのだらう、などと訝しく思ったのでした。
 ただ、よくよく前後の評言を読んでみますと、ここに到るまでの旅行中の詩群に対して、六如は手厳しい不満の言葉を書き連ねてゐて、やはりこれは六如の言葉であって、「やうやく良い詩に出会った」安堵を、旅が終って広島に着いたことにかけて書いてゐるのだと、合点がゆきました。六如が不満に感じた詩はどれも次に挙げるやうな叙景詩で、富士川氏も誉め、また山陽も「是もとより実境、新奇をめるにあらず」と弁護してゐますら、もとより私などにその不満の理由がわかる筈もありません。

風外鳴榔響   風外、鳴榔(舷を叩く音)の響
清江七曲濱   清江、七曲の浜
征帆銜島尾   征帆、島尾を銜み
去馬蔽松身   去馬、松身を蔽ふ
[鹵差]戸潮爲圃 [鹵差]戸、潮を圃と為し (塩田のこと)
漁村鷺作隣   漁村、鷺を隣と作す
憶曾過此路   憶ふ曽て此の路を過ぎり
結伴遠尋春   伴を結んで遠く春を尋ねしを

「此様句固非儂所好然如此精錬不得激節恨不與賈浪仙同時三年二句一吟涙流而不濺路人之袂
 此様の句、固より儂の好む所にあらず。然らば此の如き精錬は激節(激励)せざるを得ず。賈浪仙に与り「三年二句」時を同じくせざるを恨む。「一吟、涙流」すも、而るに路人の袂には濺がず。(六如評)」

「賈浪仙」は唐の「苦吟詩人」賈島で、「両句三年得、一吟双涙流」(詩二句を三年かかって得て、吟ずれば涙が流れた)の故事がある由。六如がこんな推敲では涙なんか催さない、と不満を漏らしたのはどこを指してゐるのでせうか。漢詩の良し悪しを決する当時の基準が、平仄を弁じない私には全く不明であるのは、語義、故事の向ふ、さらに険しい「褒斜の桟道」に分け入る話なので仕方ありません。 不満が最後のところなら、「結伴」とは亡き先妻のことで、ことさら月並みな表現に拠ったのかな、とも思ったのですが「黔驢の技」で深読みをするのは止しにします。


 (読書ノートは、誤植や不詳箇所と合せて、今後ブックレビューに逐次累積して上したいと思ひます。)


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