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つぶやきすれっど2

1878匿名:2005/11/22(火) 21:48:38
>1877

極力、とりあわないように、心がけますので、できれば、そちら様も。

1879犀角独歩:2005/11/22(火) 21:54:03

そうしてください。現時点でもかなり迷惑しておりますので。

1880藤川一郎:2005/11/22(火) 22:00:10
私がつぶやきスレッドに書いたのは、このスレッドが討論禁止だったからです。
それすら、挑発と取られたとしたら、自分の不徳の致す所であります。
まあ、今後は「烏帽子直垂」の礼装を正した討論を心がけましょう(多少イヤミだったかな?)。

1881匿名:2005/11/22(火) 22:44:20
この際ですから、はっきりしたことを言わせて頂きましょう。
ここの掲示板、私、5年前でしょうか、アップした当初から読ませて頂いております。
信仰における大変有意義な議論が、続けられてきました。
犀角独歩さんの教義における研鑚と、この掲示板における貢献度については、私は大変敬意をもって認めております。
個人的に、感謝もしております。

しかし、この掲示板の参加者は、何も投稿者ばかりではありません。
ロム者も参加者です。広く立場の違う方、意見の違う方がおられるでしょう。
しかし、どうも投稿がしにくい。
掲示板の議論の流れというのは、もちろん大切です。
しかし、ロムしている中で、「あれ?なんか違うんじゃないだろうか」と思うことは、あるわけです。
適当なHNをつけて、投稿にかられることもあります。
しかし、ここは、はっきりいって投稿しにくいです。

個別のHNを出して申し訳ないですが、犀角独歩さんの議論の運び方において、横暴に思えるときが種々あります。
だいたい、人の投稿に対して、何かにつけて「無礼」と言う。こんな発言、他の誰が発するでしょう。
知識の未熟な人もいます。そういう人が投稿したっていいはずです。だからといって、卑屈にならなければいけないのでしょうか。

また、犀角独歩さんの見解とは違う人だって、たくさんいるんです。だけど、それを投稿すれば、必ず最後には、「無礼」呼ばわりされるわけです。それを見ているだけでも、他人事ながら、とてもいやな気分になります。
そもそも「無礼」と発するほうが、「失礼」なわけです。
だけど、誰もそれを、諌める人はいません。
それもそうでしょう。一言言えば、何倍にも返ってくるのですから、それだけども、諌めた側の精神的負担は大きいわけですから。

オフ会などで、面識を交わしている方々も、多くいらっしゃることと思います。そのような方々は、尚のこと、余計な意見をすることは出来ません。
しかしロム者を含めた大半の参加者は、面識を交わすことはなく、個人的な交流は関係ないのです。
そのような方々も、自由に自分の意見が投稿できる掲示板の「空気」というものを作って頂きたい。
これは、管理者様に是非、申し伝えたいことであります。

これは、何も、犀角独歩さんへの個人攻撃というものではありません。
ただ、昔からロムしている参加者としての私の掲示板への思いの一端です。
私は、教義に関する深い造詣はありませんので、教義スレッドに対してレスするつもりはありません。
しかし、教義に縛られないスレッドに関しては、もう少し広く参加者が投稿できる環境を整えて頂けないものでしょうか。

1882管理者:2005/11/23(水) 00:46:57

>1881

匿名さん

>そのような方々も、自由に自分の意見が投稿できる掲示板の「空気」というものを作って頂きたい。
これは、管理者様に是非、申し伝えたいことであります。

管理者に対するご発言なので、応答させていただきます。匿名さんには是非とも、管理者に対してどの様に掲示板を運営すべきか、具体的な御提案を賜りたく存じます。ご承知の事と存じますが、当掲示板は、「管理者からのお願い」スレッドの「掲示板の投稿ルール」に従って運営されておりますので、具体的に、掲示板のルールの変更・追加・削除の御提案を賜りたく存じます。ルールが変わらない限り、運営を変えることは難しい訳です。ご理解賜りたく存じます。

1883雖念:2005/11/23(水) 06:59:18
> 1881 犀角独歩さんの見解とは違う人だって、たくさんいるんです。だけど、それを投稿すれば、必ず最後には、「無礼」呼ばわりされるわけです。

匿名さん、はじめまして。雖念と申します。
独歩さんは、掲示板で議論する上でのマナーを厳しく要求されます。議論の重複を避けるとか、議論の根拠となる文書、発言の出典を明示する等々です。しかし、私も、このようなことは議論の水準を維持し、議論を発展的に進めていく上での最低限のマナーだと思います。
独歩さんはご自分自身に対しても大変に厳しい方で、批判に対しては誠実にレスを返してくださいますが、これは投稿する立場にいざなってみると、なかなかできることではありません。
小生もいくつかの点で、独歩さんとは見解を異にしていますが、無礼呼ばわりをされたりはしていません。
要は、本気になって誠実に議論を続けられるかどうかという点にあると思います。

1884彰往考来(しょうおうこうらい):2005/11/23(水) 07:17:23

>1881オフ会などで、面識を交わしている方々も、多くいらっしゃることと思います。そのような方々は、尚のこと、余計な意見をすることは出来ません

ここはつぶやきなので。

私は確かに犀角独歩さんとオフ会で面識があります。細かい点で意見が違う箇所は多々ありますよ。
でも確実にそれが間違いでない限り、当方の考えは認識されていますよ。
まして無礼よばわりされることはありません。

オフ会で感じることは、この掲示板は色々な出身母体の人がいるということです。創価学会の人もいるし、法華講の人もいる。顕正会の人もいるし、それぞれの組織を退会してフリーになった人もいる。だから、その組織を代表する意見を述べるなら浮き上がってしまいます。組織の枠を越えることができるかできないかどと思うわけです。
要はこの掲示板での真剣な議論をそれぞれの組織においていけせるかどうかだと思っています。

1885彰往考来(しょうおうこうらい):2005/11/23(水) 07:23:47

>1884

打ち間違いをしでかしました。

誤:組織の枠を越えることができるかできないかどと思うわけです。
正:組織の枠を越えることができるかできないかだと思うわけです。

1886彰往考来(しょうおうこうらい):2005/11/23(水) 07:26:32

>1884

ごめんなさい。もう一箇所。

誤:要はこの掲示板での真剣な議論をそれぞれの組織においていけせるかどうかだと思っています。
正:要はこの掲示板での真剣な議論をそれぞれの組織においていかせるかどうかだと思っています。

1887つぶやき:2005/11/23(水) 07:49:45
議論の中身の優劣はともかく、議論の仕方は匿名さんの方がずっと紳士的に
思えるのは私だけじゃないはず。

自分と正反対の意見だと
”無礼でしょ””笑止千万””お話になりません””他の掲示板でやればいい”
”私と議論するレベルじゃない”
とくる。それでいて、応答しないと”逃げるきですか”と来る。
これは言葉の暴力以外何物でもないと思いますが。

でも、管理者さんからの注意は一切無いので、ルールには反して無いのかな。

1888管理者:2005/11/23(水) 09:54:59

>これは言葉の暴力以外何物でもないと思いますが。
>でも、管理者さんからの注意は一切無いので、ルールには反して無いのかな。

管理者は犀角独歩さんの、ご指摘のような発言に対して、確かにハラハラして見守っているという現状は有ります。そして、それらの発言がルールスレスレかな、と思うことも度々有ります。

ただ、明らかに禁止事項に抵触しているとまで判断できるレベルで有る判断できない限り、注意とか削除とかはしていません。

激しい応酬が有ったとしても、それを以って直ちに管理者が介入する考えは有りません。

議論である以上、それぞれ発言される方がご自身の主張に対しては責任を持って頂くことによって、不毛の対立を回避すべきものであると考えいます。

主張の根拠を求められたときに、立ち往生して返答に窮するなら、その時点で議論は終焉します。

にも拘らず、求められた根拠を示すことなく主張を続ければ、1887に示されたような表現が犀角独歩さんから飛び出すのは止むを得ない経過であろうと管理者は考えております。

管理者も、過去、犀角独歩さんとは、かなり激しい議論の応酬になる事がしばしばですが、証拠主義に立つ事によって、喧嘩別れにならないばかりか、却って、啓発され、有意義な議論で有ったとの感慨を持つことが出来てきました。

ご参加の皆様におかれましては、常に「根拠の明確な主張」を心がけて戴けますれば有り難く存じます。

「根拠の定かでない主張はこの掲示板ではお法度か?」という事ですが、ご自身の主張として述べられるのであれば、そうなりますね。

議論というものは、掲示板での議論に限らず、本来、それぞれの方々が根拠を以って主張を展開したときに始めて、議論になるのだと考えております。

もし、それが堅苦しい、とお考えなら、「議論」をなさらなければよろしいのではないかと考えます。

いろいろな投稿の仕方が有ると思います。例えば、どんどん相手に対して質問して、相手の主張の内部矛盾を指摘するとか・・・

管理者の考えは以上のようなことですが、皆様のご意見をお待ちいたします。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

1889犀角独歩:2005/11/23(水) 10:31:02

自分のことなので、自分で記しますが、わたしが「無礼」「失礼」というのは、もちろん、そのように礼が無く、失しているからです。

ごく最近の例でいえば「平和ボケ戦士もどき」とわたしは罵ったものがいる。これは無礼でしょう。

そもそも、十分な説明で出来ず、また、わたしの記したことを誤読したうえで「甘い」などと暴言を吐いて、それに抗議しても何ら応じることもない態度を無礼というのは理の当然です。人に難癖を付ける前に、ちゃんとした謝罪をするべきでしょう。ところが誤るどころか、さらに輪をかけてのこの体たらくです。

だいたい、ここはつぶやきであり、そこでわたしに1871でこすってきた。ところがこれに応じられると、あたかもわたしが言い出したように「趣旨に反してますよ。…このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう…お互いに、そこそこに」と、あたかもわたしが言い出したことのような口振りで来るわけです。さらに「極力、とりあわない」といいながら、1881に長文でさらに書いています。

このようなことは「つぶやき」という当スレッドの趣旨に反しています。常識はずれというより、実におかしなやり取りではないでしょうか。自分から議論に応酬をし趣旨に反しておきながら、あたかもわたしのほうがしたような書きぶりで、さらにエスカレートしてきています。このような点はまったく自省することもなく、ただ、相手のせいにしてあげつらう。このようなことに対して、抗議するのは当然のことです。

そもそも、このスレッドは、応酬禁止というきまりを逆手に取り、悪口を書き連ね、それに応酬するとルールに反しているという理に通らざる批判を投げかけることに悪用されてきた経緯があります。今回も、その一例となったわけです。

わたしは最近では、彰往考来さん、れんさん、一字三礼さん、ラスカルさんなどと応答しています。また、ここの掲示板で、わたしと最も意見も違い、信念体系も違うのは藤川さんでしょう。また、問答さんとも信仰、漫荼羅観、唱題観では大きく異なっています。雖念さんともかなりお考えは違うと思います。しかし、これらの方々に対して、無礼と失礼とも言っていない。何故ならば、たいへんに礼を重んじられ、実に矜持を持ち、礼儀を重んじ、ルールを尊重したマナーがあるからです。わたしは自分の考えと違うことに対して、無礼だといったことは只の一度もありません。実際に無礼だから無礼だと抗議しているわけです。わたしが誰彼構わず、自分と意見の違う方に無礼と言っているのであれば、批判に当たるでしょうが、実際は、挙証不可、回答不能になった段階で終わるべき議論を終わらせることが出来ず、自分の考えに固執して相手を逆恨みし、悪口を書き連ねてくれば、その有様が例を欠いていれば、無礼と言うほかないということです。

1887については、管理者さんの総括に尽くされているので、わたしは繰り返さないこととしています。

1890きゃからばあ:2005/11/23(水) 10:32:52

>オフ会などで、面識を交わしている方々も…。

私もその内のひとりですが、確かにオフ会に参加するまでは、掲示板の参加者全員が強くて怖い存在に感じました。
しかしオフ会に参加してみたら、みなさん丁寧な方々で、掲示板のイメージとは全く違うのがわかりました。
しかしお会いしたことの無い方々の文章には、やはり威圧感を感じてしまいます。
極端な発言は良くないが、論議の中から得たものや、また違いを知ることがどれだけ素晴らしいことなのかを個人的に楽しんでいます。(と言いながらあまり参加できていませんが…。)

犀角独歩さんの「板漫荼羅の真偽」が、板漫荼羅を信じていた私には大きな不安を与えました。しかし今では死後の世界すら本当は無いんじゃないかと疑うようにもなってきました。確かにわからないことへの不安は、絶対に無くなりません。
だからこそ、そのわからないことをこの掲示板で探してみようと思っています。

1891犀角独歩:2005/11/23(水) 13:02:10

きゃからばあさん

> 板漫荼羅の真偽…大きな不安を与え

そうですね。これはわたし自身そうでした。
しかし、事実とは常に厳正であり、粛々と受け止めるなければならないものなのだと思います。
また、事実を明確にすると、その反証ではなく、自分の考えと違うということで敵意を懐かれ、議論ではない悪口雑言の限りとなることは世の常です。10月25日のあの報道の如きです。
独歩たる1人に100万人の憎悪をけしかける。しかし、わたしは怖いとも不安とも感じません。
なぜならば、事実は何よりも強いからです。そして、事実を事実と受け入れられる心の準備ができることを「平安」「目覚め」というのだろうと、最近、考えています。

1892匿名:2005/11/23(水) 21:56:07
ここは、応酬禁止スレッドということで、続けて投稿して良いものなのかどうかわかりませんが、他に適当なスレッドも見当たりませんし、一応の流れですので、ここに投稿させて頂きます。

まず、ここは教義について議論することを主とした目的の掲示板であることは、私は立ち上げ当時から見てきておりますので、当然のこと承知しております。ですから、前にも記しましたように、問答形式、根拠を示す、このような議論形式に対して、何も異論はございません。

ただ私が、申し上げたかったのは、教義に縛られないスレッドで、もう少し自由に投稿できる空気がつくれないものかということです。
これは、ルールなどに記すことは大変難しいことだと思います。私にも方法は思いつきません。
また逆にいえば、思いつかないからこそ、意を決して本音を投稿させて頂いたということでもあります。これも問題提起と受け止めて頂ければ幸いです。

私は、当初、どうせ投稿しても、どういう流れになるものかは、だいたい想像がついておりましたので、疲れるからやめておこうかとも思っておりました。こういう思いは、これまでにも何度かありました。まあ、案の定の結果となりましたが、それでも、それなりの成果もあった思っております。

確かに、私は最初に犀角独歩さんの書き込みに意見する投稿させていただきました。いきなりで、とうとつだったかもしれませんが、揶揄したつもりはありません。その後に質問を兼ねたご返信のレスを頂きました。他にも書きたいことがありましたが、ご返信を優先し、時間を費やし投稿をいたしました。そのご返信から、想像していた通り、水掛け論争になりそうでしたので、私は「やめましょう」とご提案いたしましたが、「答えて前に進めるのが筋でしょう。」ということで、その後も引き続き、お答えさせて頂きました。
ところが、どうでしょうか。そのレスに対して、
「わかりきったことです」ですとか、「なんら参考になりません」とか、「こんなことは他の掲示板で書けばいい」ですとか。
たとえ、そのような印象を受けたとしても、そのようなことを相手に平然と発するものなのか。
それ自体が、礼儀を弁えない、相手を侮辱した発言といえるものではないかと、私は考えます。
そのようなことを言われても仕方がないほど、私は趣旨に反した的外れなレスをしていたのか。そのあたりのことは、私は自分では、いまだによくわかりません。

また、私ではありませんが、「平和ボケ戦士もどき」に対する「無礼だ」という発言もありました。しかし考えても見れば、長年この掲示板を見てきておりますが、その程度の暴言は、犀角独歩さんは頻繁に発しておられるのも事実です。当然この度においても、私にも、いく度となく向けられました。そのことにおいてさえ、「当を得ていたということです。」といったご返事。ところが私が意見すると「無礼」となる。そのような横暴な投稿姿勢だから故に、他の相手にも暴言を吐かせてしまうというものではないかと思うところです。

そもそも、自分と意見の違う人を排除しようという防衛本能が強すぎるのではないかと言いたいくらいです。
誰しも自分の議論を否定されれば、そりゃあ不愉快です。だけど、世間は広いのですから、いろんな意見や見解があって当然なんです。私が投稿していたスレッドは、教義を詰める目的ではないのですから、こうでなければならないというものはないはずです。よその掲示板で書けなどど、排除しないで頂きたい。私は、そのことを主張いたします。

相手を見下した暴言は、それぞれが慎んでしかるべきです。これは教義の議論の場でもそうあるべきでしょう。それが本当の礼儀というものです。
このようなことは人に言われることではなく、仏教徒であれば、誰に言われるでもなく自ら慎んでしかるべきことだと思いますし、ことらの投稿者の大半の人は、そのように慎んでいらっしゃいます。ただしかし、最も、頻繁に投稿し、最も、この掲示板に貢献していらっしゃる方が、その点において自らの慎みにいつまでも非常に「甘い」ように思います。また、そのことが、そもそもの、今回の私が投稿する動機でもあります。

1893匿名:2005/11/23(水) 21:57:05
>>オフ会などで、面識を交わしている方々も、多くいらっしゃることと思います。そのような方々は、尚のこと、余計な意見をすることは出来ません

私のこの記述について誤解を招いてしまったかもしれません。

私が言いたかったことは、たとえ一度でもオフ会で面識を交わすことができれば、誰しもそれなりの「情」が通い、「情」が通えば、少々の暴言は、苦笑いで許せるものだということなのです。
しかし、オフ会で面識を交わすことができるのは、ごく少数の方々です。
どのくらいのロム者がおられるのかは存じ上げませんが、面識を交わすことのない、言葉だけのやりとりに限られる何百倍もの参加者がおられるわけです。その人たちは、個人的な交流の「情」というものは、持ち合わせておりません。せっかく投稿したのに、結局は詰りや謗りを受けて、最後には去っていく姿というのは、見ているだけで気分が悪くなるものです。

はじめての投稿者を警戒してしまう。それこそ防衛本能としてわかります。しかし、はじめて投稿をする。これも大変勇気のいることです。当然、構えてしまうものです。

言葉だけのやりとりは、面識を交わしている時以上に、言葉そのものが力を持ちます。ある意味で、言葉は武器となります。そのまま言葉はストレートにある種の「暴力」にもなるわけです。
それが掲示板への防衛本能と思えば、理解もできます。しかし、しっかりと管理者がいるのですから、投稿者が排除に躍起になることはないはずです。
感情的な議論を避けるためには、どんな議論展開になっても、なるべく相手にレッテルを貼ることがないよう心がけ、決して揶揄せず、暴言を吐かず、そして嘲笑しない、こうしたことをそれぞれが自分で戒めることではないかと思います。
これをルールに記さなければ、その品位が保てないとすれば、それは、仏教徒の掲示板として大変恥ずべきことでもあります。

顔が見えないからといって、平然と暴言を吐くのでは、非暴力主義とはいえません。
掲示板では、言葉こそが暴力にもなるのですから。私はそれを言いたかった。

それから私は犀角独歩さんに、個人的に憎悪を向けているわけではありません。むしろ、教義においては過去5年間のご投稿から、多くを学ばせて頂きました。
しかしこの度の議論では、むしろ犀角独歩さんこそ、自衛隊という存在に憎悪を向けておられたのではないかと、私は、そのように見受けました。しかし、結局、自衛隊翼賛と私は言われ、入隊してイラクへ行ったらどうかと揶揄されたわけです。
せっかく高い教義の知識をお持ちでありながら、仏教徒としての品位を示してはいただけなかった点、残念な思いでおります。

管理者さまにおかれましては、私の意向に耳を傾けてまださいまして、その点、感謝しております。
私は、教義スレッドの議論に口を挟むつもりはございません。立てていただいた、「戦争を考える」においては、まだ書き残していることがありますので、少しずつ投稿していきたいと思っております。
私のこの度のクレームが、今後の掲示板の新たな発展につながりますことを、心より念じております。

1894一字三礼:2005/11/23(水) 23:27:34

> 問答形式、根拠を示す、このような議論形式に対して、何も異論はございません。

> 教義に縛られないスレッドで、もう少し自由に投稿できる空気がつくれないものかということです。

> ルールなどに記すことは大変難しいことだと思います。私にも方法は思いつきません。

もう少しご自身で考えをまとめられてから提案されてはいかがでしょうか。
これでは何を仰りたいのかわかりませんでしょう。

長い時間を費やして、こちらの掲示板で緻密に論証され、暴かれた真実や教義はたくさんあります。その結果に対して快く思わない宗教者も、それこそたくさんいることと想像されます。

もしも、「教義に縛られないスレッド」など立てようものなら、仏法の基礎を学んでいない某団体の教義のような、「諸法」を「宇宙」と言って憚らない人達の「言い捨て」「言いっぱなし」の横行する無秩序な掲示板になってしまうのではないでしょうか。

1895匿名:2005/11/23(水) 23:50:11
>1894

では、なぜ「戦争は起きるのか」ということにおいて、仏教ではどのように説いているのかという私の問いかけにきちんと答えて頂けなかったのでしょうか。
これこそ、教義において答えるべきところではないでしょうか。
私は、教義において、お釈迦さまが出家された事実をもって、限界があるのでないかと、記しました。

1896犀角独歩:2005/11/24(木) 00:16:58

今夕は忙しいのであとでまとめて総括しますが、

> 「戦争は起きるのか」ということにおいて、仏教ではどのように説いているのかという私の問いかけにきちんと答えて頂けなかったのでしょうか

匿名さん、あなたは自分が仏教徒である公言した、ならば、この問に答えるべきは、誰でもない、あなた自身だ。

また、わたしが難じた点をはぐらかして善人面するのはやめなさい。

オフ会で会ったことがあれば、情がある? そんな妥協で、信条を語ったことは、わたしはありません。ここにあるのは事実の究明だけです。

くだらない弁明をしていないで、自分の責任で、自分の問題として語りなさい。

> 言葉はストレートにある種の「暴力」

この暴力を行使したのは、自分自身であるという自覚を持ちなさい。

まったく、いつまで経っても、自分の問題と考えられず、すべてを他人を転嫁することしかできないところにすべてのあなたの過ちがあるわけです。

1897匿名:2005/11/24(木) 00:22:59
>1896

命令口調のレスはやめていただけませんか。

1898犀角独歩:2005/11/24(木) 00:31:28

人の抗議を無視して、なかったように語ることこそ、止めなさい。

1899犀角独歩:2005/11/24(木) 00:32:47

匿名さん、言葉優しく語るあなたは慇懃無礼で、誰よりも命令口調ですよ

1900犀角独歩:2005/11/24(木) 00:37:32

もう一点

> 入隊してイラクへ行ったらどうかと揶揄

なんで、これが揶揄なのでしょうか。
自衛隊を肯定するのであれば、当然の帰結でしょう。
なんで入隊したいのですか。また、イラク派遣を肯定するのであれば、なぜ、行かないのですか。

1901犀角独歩:2005/11/24(木) 00:41:45

打ち間違えました。
「入隊したいのですか」ではなく、「入隊しないのですか」です。

なお、わたしはまったく自衛隊を憎悪などしておりません。
このような決めつけと、プロバガンダはやめてください。

1902一字三礼:2005/11/24(木) 00:59:04
> 1895

> では、なぜ「戦争は起きるのか」ということにおいて、仏教ではどのように説いているのかという私の問いかけにきちんと答えて頂けな> かったのでしょうか。
> これこそ、教義において答えるべきところではないでしょうか。

Jan Gonda氏は「インド思想史」の中で仏教を「宗教でも哲学でもなく、まさに解脱の教えである」と位置づけておりますが、私も基本的には同様に考えております。

「仏教の教義」と簡単に仰いますがそれは数えられないほどあるのですよ。
インドの釈尊根本教団から始まって、上座部・大衆部・部派等の三蔵経典、初期・中期・後期の大乗仏典、雑密・純密・タントラ・倶生・時輪乗等の密教経典、中国で作られたとされる仁王般若や梵網経等の鎮護国家の経典、日本の本覚思想等々。

すべての仏教の教義を網羅して語ることは誰にも出来ないことでしょう。
あなたの仰る「仏教の教義」とはどのような経典、もしくは論、人の教義を指すのですか。

また、あなたは仏教の教義は'なぜ「戦争は起こるのか」’について説いている、というようにお考えのようですが、その根拠は何でしょうか。

1903犀角独歩:2005/11/24(木) 01:00:57

もう一点、読み直したところ、

> 自らの慎みにいつまでも非常に「甘い」

このようにわたしが度々抗議している点について「」つぎで繰り返して、省みることはありません。

わたしからすれば、誰よりも自分に甘いのは匿名さん、あなた自身であるわけです。もう、このような挑発はおやめになったら如何でしょうか。

1904匿名:2005/11/24(木) 01:25:59
>1902

>すべての仏教の教義を網羅して語ることは誰にも出来ないことでしょう。
あなたの仰る「仏教の教義」とはどのような経典、もしくは論、人の教義を指すのですか。

今の私は、日蓮聖人のことを尊敬し、思慕しております。
皆様ほど、教義には精通しておりません。本当に、学ばせて頂いてきた立場です。
ただ、政治と憲法については、私なりに勉強してまいりました。
そのことを自分なりの信仰の実践と思っておりますし、追々、投稿していきたいと思っております。
教義についての表現は、私には豊富な語彙がございませんので、どうしても稚拙表現になりますが、試みたいと思っております。


>また、あなたは仏教の教義は'なぜ「戦争は起こるのか」’について説いている、というようにお考えのようですが、その根拠は何でしょうか。

この点は、どここの記述だったか、見当たらず、そのままを引っ張り出せませんが、概ね継ぎのような内容を投稿いたしました。

人は、生を受けた以上、生きたいという(生存権)本能がは逃れられないもので、その生存権をかけて、領土と資源を求めていくうちに、やがて戦争となる。
不殺生戒は、人の生存権を脅かすなという戒めであると同時に、人は殺生する存在であるということを、説いているのではないかと、たわしはそう思っております。

間違っていれば、ご教授ください。

1906管理者:2005/11/25(金) 05:59:16

通りすがりさん

1905レスは、個人攻撃に当たりますので、当掲示板のルールに従って、削除いたします。

ルールを遵守して投稿されることを希望します。

1907藤川一郎:2005/11/26(土) 15:11:52
小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」(座長・吉川弘之元東大総長)は24日、皇室の安定維持で皇位継承資格を女性や女系の皇族に拡大することなどを求める報告書を首相に提出したそうである。
これは男系霊位継承を覆す許されざる暴挙である。そもそも有識者会議のメンバーが問題である。御皇室のことをもっともご存知であるのは、旧公卿や旧宮家、そして天皇家そのものである。有識者会議のメンバーに本当の事が分かっている者がいるのか?有職故事も儀礼も何も知らない者ばかりで決めるのは、僭越の極みである。
一部オブザーバーで数人の旧宮家が御発言なさったそうであるが、そのほとんどが反対である。その方たちのお話では「①女性天皇は問題ない」しかし「②女系天皇には問題がある」のである。国民の中には「女性天皇と女系天皇の違い」すら知らない者が多い。
御歴代天皇陛下8人10代の方が女性であることを、女系容認の根拠とする、無知な者が多いが、その女帝全てが男性と男性をつなぐ「霊位のお預かり」のお立場である。
ここに、女系天皇の容認は、皇位を冒涜する行為である。神事は女性には出来ない事が多い。ご歴代の女性天皇の時代には、生理の為「大嘗祭(先代天皇の霊位を継承する儀式)」の日時を変えた記録もある。有識者会議と称する「無識者会議」は全員辞任せよ!

1908:2005/11/26(土) 21:12:24
象徴天皇制、どっちでも、なんでもいいけど。万世一系ってほんとかな。

http://www.asukanet.gr.jp/n-ken/kojiki/wakasazaki.html

即、削除されるかも。

1909犀角独歩:2005/11/26(土) 23:43:08

昨日は、三島由紀夫が自決してから、35年目に当たるのだそうです。
島田師の『経堂日記』を読んで、気付きました。

http://hitorigurashi.cocolog-nifty.com/kyodo/

大の三島ファンだった父が「おい、三島が死んだぞ!」を血相の変えて、テレビのスイッチを入れました。盾の会の制服、軍服といったほうがいいのでしょうか。白手袋、鉢巻きをして、高いところから自衛隊員に向かって演説をする三島の雄志がありました。しかし、その命懸けの演説も隊員の野次にかき消されていました。演説を終えたのか、断念したのか、三島は建物のなかに引きこもります。そこで、割腹自殺。介錯は2度、3度と失敗した…、のちに報道が伝えたその一言が何故か記憶に残っています。

この三島の死は何であったのか、耽溺した美学か、狂気か、はたまた、真の武士道であったのか。わたしがいまでも腹立たしく思うのは、誰であろうと、自分の命を賭けて訴えている三島の話を野次で遮ったその自衛隊の有様でした。心底、自衛隊に絶望して、三島は腹を割いたのではないのか、わたしはいまでもそう思っています。

1910藤川一郎:2005/11/27(日) 03:17:36
象徴天皇制度と言いながら、総理大臣等は未だに「大臣」です。
つまり「大いなる臣下」です。
臣下がいれば主君がいる。大臣の主君は誰か?こんなものは、任命形態を見れば天皇陛下に決まっている。そこから現代でも日本国は「(象徴的な)立憲君主制」だと言えます。

しかし曖昧なことには違いない。
戦争放棄の憲法9条を変えるならその前に、不自然で翻訳くさい象徴天皇条項も変えるべきでありましょう。
「天皇は日本国の元首にして統治権を総攬する。」
「天皇は神聖にして侵すべからず。」
上記文言が決して「民主主義」と矛盾するものでは無いのは、近代法上は常識です。
実は世界的に見ると「戦前までの君主国の数よりも、戦後に出来た君主国の数の方が多い」等と言う事実もあり、時代の逆行にもなりません。

1911パンナコッタ:2005/11/27(日) 11:20:21
三島由紀夫といえば、先日こんな記事がありました。
 http://news.tbs.co.jp/20051123/headline/tbs_headline3166795.html
    更新されてリンクが切れる場合もあります。

”日本”というアニミズムの、現在進行形なのかもしれませんね。

1912犀角独歩:2005/11/28(月) 11:52:05

パンナコッタさん、これは貴重な情報、有り難うございます。
実はわたしもこの神社を探していました。

> ”日本”というアニミズム

なかなか味わいのある表現ですね。

1913藤川一郎:2005/11/30(水) 13:47:28
下記のような記事があった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
愛子さま、皇位継承2位に=女性・女系天皇容認−有識者会議が最終報告

 皇位の安定的継承を議論してきた小泉純一郎首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」(座長・吉川弘之元東大学長)は24日、女性・女系天皇を容認する最終報告書をまとめ首相に提出した。報告書は男系男子に限った制度では「皇位の安定的継承は極めて困難」と強調、「女性・女系天皇への道を開くことが不可欠」と結論付けている。皇位継承順位は男女を問わず、天皇直系の第1子から出生順に定める「長子優先」を採用した。
 皇族の範囲は天皇や皇族の子は皇族とする現行の「永世皇族制」を維持。皇位継承者を増やす観点から、女性皇族が結婚後も皇族に残り、宮家を創設できるとした。
 政府は来年の通常国会に皇室典範改正案を提出、成立を目指す。最終報告書通り改正されれば、皇位継承順位は、皇太子ご夫妻の長女愛子さまが皇太子さまに次いで2位となり、秋篠宮さまは2位から3位となる。国民世論の一部にはなお女性・女系天皇を認めることに根強い反対論があり、改正作業は曲折も予想される。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上の記事でも、「女性、女系天皇」とあたかも両者を併記している。
これは誤魔化しでは無いか?
「女性天皇」と「女系天皇」ではまるで意味が違う。
マスコミも愚弄するのもいい加減にしろと言いたい。

1914ラキ:2005/11/30(水) 23:25:42
魑魅魍魎と同席しいて法論(勉強会?)をする事が謗法て、折伏と法論は違う?て、おかしいような気がします。
法について話をする法論は、折伏に通じるのではと思い、同じ意味を持つのでは?と私は思っていますが、顕正会浅井会長に違いを教えて頂きたいですね。
”大坊棟札”が”天生原”に戒壇建立の証明て笑えます。
”棟札”が風習、習慣として行われるようになったのは、確か江戸時代頃でしたね。
そして、国立戒壇に安置する本尊の願主の名前は、一信徒の名前てのはおかしいと思うのに、その正当性を証明するのに、
『不惜身命の集団として大聖人様の師子王心と同心した「師子王は百獣に怖ぢず、師子の子又かくのごとし」この異体同心こそ未来事の広宣流布の端相だから』
浅井さんの指導なのか?幹部の指導なのか?回答にならない回答を言わせてるのかな?願主に付いてのかすりもしない回答と感じます。

1915犀角独歩:2005/12/01(木) 02:05:31

NHK、プロジェクトX『太陽に賭けろ―住宅エネルギー革命』、面白かったですね。

太陽発電パネルの開発物語でしたが、大量需要が日本で見込めないので、モンゴルにこれを持ち込む。放牧移動のテント住居で太陽電池パネルを使用。いまでは5万件で使用されている。ラクダの背の太陽発電パネル。冷蔵庫も積まれる。中にはワクチン。この需要で日本での大量生産、コストダウンが可能になった…。

無害、無限のエネルギーの時代は必ずやってくるだろうと思えました。

1916犀角独歩:2005/12/01(木) 02:13:49

> 1914

顕正会って、まだ、わたしのことを魑魅魍魎だ何だとやっているんですか(大笑)

100万組織が、独歩1人になにをおたおた慌てふためいて口角泡を飛ばしているんでしょうか。滑稽ですね。

口先では、何とも言えますが、百聞は一見に如かず。
もはや、「本門戒壇の大御本尊」の時代は終わりました。
いくら興奮して、わたしの悪口を言っても、真実・事実は動きません。
事実を掴んだわたしのほうはゆったり、余裕の気分でいます。

1917藤川一郎:2005/12/01(木) 12:21:49
浅井さん著書「南無日蓮大聖人」にて、神四郎+弥五郎+弥六郎を足して総称したのが「弥四郎国重」となってますが、この根拠は何処だろうか?
宗門でもこういう公式見解では無かったが。。。

1918藤川一郎:2005/12/01(木) 12:29:36
魑魅魍魎をgoo国語辞典で見てみると、
魑魅は
〔「魑」も「魅」も化け物の意〕山林の精気から生じ、人を迷わすというばけもの。すだま。
魍魎は
〔「魍」も「魎」も山川の化け物〕山・水・木・石などの精気から生じて人をばかすという怪物。すだま。
魑魅も魍魎も似たような意味ですね。まあ怪物、化け物の類ですか?
物の怪的な意味でしょうか?
そうか?犀角独歩さんは化け物だったのか?
でも化け物って悪い意味もあるけど「普通の人間とは思われない能力をもっている人」の事も言うそうですから、超能力者的な意味もあるそうです。
今度「スプーンまげ」して貰おうかな?すいません。冗談でした。気を悪くしないでね(爆)。

1919彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/01(木) 12:47:21

>1916,1918

魑魅(ちみ):山林や沼沢の気から生ずる化け物。人面獣身で人を迷わせるという。
魍魎(もうりょう):すだま。山川・木石の精霊。三歳くらいの小児に似て赤黒く、耳が長く人の声をまねるという。
阿部吉雄編『漢和辞典』(昭和50年新訂版3刷、旺文社)

魑魅魍魎(ちみもうりょう)
さまざまな妖怪変化。いろいろなばけもの。また、怪しげな人々。
金田一晴彦編『現代新国語辞典』(1997年第6刷(初版1994年)、学習研究社)

1920犀角独歩:2005/12/01(木) 12:55:55

> 浅井…神四郎+弥五郎+弥六郎を足して総称したのが「弥四郎国重」

これはたしかにおかしな見解ですね。
現代の石山では、弥四郎国重は「日蓮己心の」ということで、非存在説に立っているわけですね。
日精は波木井嫡男説で、これが史実的に成り立たなくなったあと、弥四郎国重不詳を経てのことでした。

1921犀角独歩:2005/12/01(木) 12:58:37

藤川一郎さん
彰往考来さん

魑魅魍魎の解説有り難うございました(笑)
しかし、こういう表現は人権侵害、名誉毀損に抵触しないのでしょうかね。
弁護士と相談しているところです。

わたしはスプーン曲げはできません。あと、当たらない予言もできません(笑)

1922独学徒:2005/12/01(木) 15:39:18

皆様お久しぶりです。

>いろいろなばけもの。また、怪しげな人々。

私も参加者でしたので、「いろいろなばけもの。また、怪しげな人々。」の中の一人でしょうか。

確か、彫刻と禅師曼荼羅の寸法云々の話をしていたような。

一寸、スプーン曲げに挑戦してみましょうか!

1923パンナコッタ:2005/12/01(木) 22:37:57
魑魅魍魎の絵姿ならば、佐藤有文監修「妖怪大図鑑」に載っていましたっけ。
もっとも、ほかのを見てみれば「人食い鬼ゴール」などとキャプションを付けられていた物が、
ゴヤの『わが子を喰らうサトゥルヌス』だった事実を後で知った時は、唖然としたものでした。
どこぞの教団が主張している教学のメッキが剥がれたのと、同じようなものだったでしょうか。

暮れですから飲み会の機会も多くなると思いますので、曲がる金属のスプーンではなく
割り箸を曲げてみてはどうでしょうか? かなりウケると思いますよ。

1924犀角独歩:2005/12/01(木) 22:51:48

独学徒さん
パンナコッタさん

魑魅魍魎からいきおい、忘年会の隠し芸に話が発展ですね。
独歩の会としても、忘年会をやりたいと思っています。
是非、ご参加いただき、皆でいっせいにスプーン曲げ、箸曲げというのも一興かと(笑)

1925犀角独歩:2005/12/02(金) 01:17:53

昨日は、石山のお陰で賑やかな1日でした。

1926彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/02(金) 07:43:21

>スプーン曲げ


http://www.sun-3.jp/page029.html

http://www.aa.alpha-net.ne.jp/itimuan/maru/old/aya24.html

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ebisan/spoon.htm

1927ラキ:2005/12/02(金) 14:54:21
空中浮遊もやってもらいたいですね。^^

1928犀角独歩:2005/12/02(金) 15:34:45

滝本弁護士はやりましたよ(笑)

1929彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/02(金) 17:39:22

>滝本弁護士・・・空中浮遊

NHKスペシャル「奇跡の詩人」への検証本『異議あり! 「奇跡の詩人」』 (同時代社、滝本太郎・石井謙一郎 編著)の著者近影で、滝本太郎弁護士は「空中浮遊」している。麻原彰晃を激怒させ、滝本弁護士殺害計画の切っ掛けになったとも言われているものだが、滝本弁護士がわざわざこの写真を選んだことの意味は自ずから明らかだろう。「奇跡の詩人」を信じろと言うことは、麻原彰晃の空中浮遊を信じろというのと、等価なのである。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886834752/503-4798392-9661507

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kbys_ysm/dabun24.html

1930ラキ:2005/12/02(金) 20:15:39
>麻原彰晃の空中浮遊

昔、学研のムーと言う雑誌で、掲載されていた号を持ってました。w

1931犀角独歩:2005/12/02(金) 21:10:17

>> 麻原彰晃の空中浮遊
> …ムー…掲載…号

これはプレミアがつきますね。

1932片瀬江ノ島:2005/12/04(日) 12:30:15
67世御法主日顕上人猊下様が今月をもって退座されるようですね。考え深い一日になります。

1933問答迷人:2005/12/05(月) 06:40:45

>67世御法主日顕上人猊下様が今月をもって退座

日蓮正宗の宗制宗規は改定されて、終身制とも言える有り方になっているのに、なぜ、今退座何でしょうか。

そもそも、宗制宗規を変えたのは、確か昨年ではなかったでしょうか。

何か背景が有るのでしょうね。

1934孤独な迷子:2005/12/05(月) 07:17:25
お久しぶりです。

>1933
学会系の掲示板で退座の情報がありましたが、本当だったのですね。

宗門や法華講が大きく変わるのでしょうか。

1935犀角独歩:2005/12/05(月) 08:44:26

創価学会が最も御しやすいと言われる早瀬さん。藤本さんはどんなつっかえ棒になるのか。
先代早瀬(日慈)さんに屈辱を与えた妙観講への怨念を背負っています。顕正会へももっているんでしょう。法道院に入る八木さんは、顕正会のパイプ足り得る存在でしょうか。

阿部さんの容態の度合いは知りませんが、「法主」を降りたからといって、石山では完全引退ということにはなりません。久方の「隠尊猊下」の誕生ということでしょう。いわば、坊さん連中は二つの頭になり倍加した支配構造に締め付けが激しくなるということでしょう。

いずれにしても、創価学会の松岡本、浅井さんの情報入手の末、はったり辞任勧告と、今回の交替劇は、何ら因果関係がないことだけは明らかでしょう。

1936藤川一郎:2005/12/05(月) 12:03:12
「ほらみなさい!
私の諫暁に恐れをなして阿部日顕(上人)が隠居しました。
顕正会の対決申し入れを回避するために逃げたのです。」

上記のような趣旨の講演を浅井さんがすることを前もって予言しておく(私も超能力があるのです・笑)。

1937連番通りすがりじゃない通りすがり:2005/12/05(月) 13:12:27
はやく、浅井センセが私の諫めで「日顕」がやめたっていわないかな。
そしたら、みんな笑いものにしましょ。

1938犀角独歩:2005/12/06(火) 12:49:03

藤川さんの偉大な予言は当たるでしょうね(笑)

1939藤川一郎:2005/12/07(水) 11:35:59
>>1933

>>日蓮正宗の宗制宗規は改定されて、終身制とも言える有り方になっているのに、なぜ、今退座何でしょうか。

「法主は、遷化又は自らの意思による以外はその地位を退くことはない。」
上記条項は、別に改正しようと、しまいと、余り変わりは無い条項ですがね。
むしろ元からの不文律を文律化したようにしか見えませんがね。
もし本気で終身制にするのなら「又は自らの意思による」は削ったでしょう。

それより、改正宗規により、大正以来途絶えていた「学頭職」を復活させた事が重要で、その、宗規に従って、常聰院日如師が学頭に任じられたと言うことは、改正時点で既に、御隠居を想定した改正だったと考える方が普通です。

1940藤川一郎:2005/12/07(水) 12:50:59
別スレですが、確かに「バカチョン」の語源については、この「チョン」を朝鮮人とするのは早計のようです。
私もそう聞いて、後輩を注意したことがありますが、それを朝鮮人と思ってる若者は少なかったのも事実です。
むしろそれを注意することにより、忘れかけた「チョン=朝鮮人説」が復活してくるとも言えます。

所謂、放送禁止用語(言葉狩り)が盛んな昨今ですが、差別用語を言葉狩りで刈るのは日本だけでして、まして古い映画等からも「ピー音」で修正するのは言霊国である日本の習性でしょうか?
しかし「差別用語」を刈れば差別が無くなる等というのは誤解でして、海外では差別用語はもちろん使用しないようにしますが、実質を重んじます。差別を無くすのは「差別用語」を無くすのではなく、「差別の実質」を無くすのが正解なのです。

日本でも古い映画には、座頭市等でも「ドメク○」(目のご不自由な方の蔑称)等と叫ぶシーンでは「ピー音」で消され、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまいます。
せめて字幕で「現代では不適切な用語ですが、制作者のオリジナルを尊重し、そのまま放送します」位の事は出来ないものでしょうかね(パーフェクトTV等衛星放送ではこの例はあります)?

1941問答迷人:2005/12/07(水) 13:42:09

>改正時点で既に、御隠居を想定した改正だったと考える方が普通です。

納得です。有難うございました。

1942藤川一郎:2005/12/07(水) 14:18:13
つぶやきです。
つまらないことですが、自分の投稿を見て、驚きました。
ホリエモンの名文句「想定内」「想定外」を知らぬうちに使用している自分がいた。

私の過去の投稿を全て見ても「想定」等という言葉は使用していない。
しかし、今回無意識に使用していた。
マスコミの報道の影響力を感じた。

1943ラキ:2005/12/08(木) 17:51:06
独歩さん。
本日のランチ勉強会ありがとうございました。
一番の発見は、独歩さんの弱点が○○○とは、驚き!でした。^^
本日は本当にありがとうございました。

1944犀角独歩:2005/12/08(木) 18:19:33

藤川さん、1940のご指摘、賛同します。

ただ「バカ○○○カメラ」(敢えて、それでも伏せ字)は、しかし、そのような意味での使用中止は事実であったでしょう。

わたしも言葉狩りは根治的改善にならないと思います。

らきさん

うーん、一つ弱みを見せてしまいました(笑)

1945管理者:2005/12/15(木) 06:34:33

シタラバ掲示板のメンテナンスが先日実施されたようです。その時に、何らかの錯誤で、レス数が1000に制限される設定になってしまったようです。

新たに、10000レスまで投稿できる設定に変更しました。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。

1947管理者:2005/12/19(月) 13:59:41

>1946は、「戦争についてスレッド」の閉鎖に関連して、さらに、管理者の制止、スレッド停止措置を無視して、書き込まれたものと判断いたします。このような投稿は、当然のことながら、当掲示板のルールに抵触しますので、削除すると共に、匿名さんの、以後の掲示板への書き込みをお断りいたします。

1950ラキ:2005/12/29(木) 19:02:10
2005年も残すこと数日。
色々な事件、出来事があり1年間大変お世話になりました。
来年は、どんな出来事があるか楽しみですが、浅井さんをオフ会に呼びたいですねw
それでは皆さん。良いお年をお迎えください。
お年玉365日受付中です(*ノωノ)

1951ラスカル:2005/12/30(金) 15:39:08
高野山には日蓮上人の墓があるそうです。他にもいろいろ聞きますが。空海は華厳から教学を方向付けたとか読みました。でも、家の周りの真言宗は南無遍照金剛(弘法大師空海)と唱えてるような。学問と捉えるならアバウトさがわかるような気がしました。大仏など仏は、お天道様から信仰が来ているのかと。

1952パンナコッタ:2006/01/16(月) 23:39:15
また、此処の掲示板の存続にも関わるニュースが飛び込んできましたね。
管理人さんの方針が出るまでは、様子を見る感じですね。

しかし、一体どうなる事やら・・・。

1953犀角独歩:2006/01/17(火) 01:08:04

パンナコッタさん、なんのことですか?

1954彰往考来(しょうおうこうらい):2006/01/17(火) 07:17:53

>1952 パンナコッタさん

ライブドア家宅捜索の件ですか?

1955パンナコッタ:2006/01/17(火) 12:18:54
ええ、家宅捜査の件です。
株価は午前でストップ安水準になりましたし、昨年の選挙の時、社長を担ぎ上げた政党(一応、無所属でしたが)も
なにやら慌ただしいですね。
社長のコメントは、お詫びとさらなる事業拡大を言っていましたし、直接板の存続に関わるような事には
ならないでしょうが、間接的には何らかの影響が今後出てくるのかもしれませんね。

1956アリアン:2006/01/18(水) 10:27:48
> 1947
トクメイさんとの議論が気に入らないので一時的に閉鎖し、追い出した後に閉鎖を解除したわけですね。

1958管理者:2006/01/18(水) 10:54:16

非難の応酬の様になってスレッドが混乱したので、停止措置を取りました。一週間停止して、とりあえず混乱が収まったと判断しましたので、停止措置を解除しました。書き込み禁止措置は、1947でご説明した通り、この措置とは別のことです。ご理解賜りますれば幸いです。

1959僕だけ:2006/01/18(水) 12:01:10
ライブドアのホームページにアクセスすると

1960僕だけ:2006/01/18(水) 12:44:13
1959> 済みません尻切れとんぼになってます
ライブドアのホームページにアクセスすると話題の子会社のクッキーが保存されます
しかもワーム付きです
つぶやきでした

1961名無しさん:2006/01/18(水) 19:44:21
>>1958
管理者さん、大変だと思いますが、念のためログの保存を
しておいた方がよろしいと思います。

1962管理者:2006/01/19(木) 07:04:22

>1961 有難う御座います。削除対象となったレスも、全て管理者の手元ではログは保存するように設定してあります。但し、掲示板過去ログ倉庫には現在のところ保存してはいません。今後は、削除する時には、過去ログ倉庫に保存するようにしたいと存じます。

1964パンナコッタ:2006/01/29(日) 01:11:00
れんさんと一字三礼さんとのやり取りの中で電子大蔵経がでてきましたが、それでふと思い過去の
レスを読み返して、えらい勘違いを自分がしていたことが解りました。
以前、独歩さんと薩曇分陀利経についてやり取りをしましたが、自分は竺法護が265年に訳出したと云われる
六訳三存、西晋の薩曇分陀利経と頭から思いこんでおり、それが注法華経にも引用されていたのだと勘違いしていました。

大正新脩大蔵経9巻 訳者不詳 一巻。 内容は見宝塔品の一部と提婆達多品に相当する部分で、蓮祖の引用はこれの事
でしょう。
最初の思いこみと、基本的な事を失念していたポカミスですね。大変失礼しました。 <(_ _)>

1965れん:2006/01/31(火) 18:42:46
昨日、図書館に行きまして、大正新脩大蔵経所収の世親の法華論をコピーしてきました。世親の法華論は梵本が現存せず、世親が用いた梵本法華経の形態が不明なのは誠に残念ですが、世親の教学を知ることができますから、世親当時のインドにおける法華経の用いられ方、知る止すがにはなろうかと思います。
漢訳仏典でのこる法華論ですが、やはり本場の漢文体は難しいですね。日蓮や門下のいわゆる和様漢文体とはまた違いますから、ときどきどのように読み下せばよいかわからない文章に出会います。やはり国訳大蔵経も参照しなければならないですね。
パンナコッタさん、私もそういう思い込みはざらにあります。でも、実際に調べてみて、自分の間違いを修正できた。知らなかったことが、わかった。それもひとつの“功徳”といえるかもしれませんね。

1966犀角独歩:2006/03/18(土) 10:17:00

最近は、既に過去に沸騰した議論になっていることが、同じように繰り返され、投稿されています。

まあ、ここの膨大な過去ログを読むのも大変でしょうし、致し方がないのでしょう。
ただ、大概のことはほとんど、議論が尽くされている観があります。

そもそも、「わたしは」何を書いたのか、忘れているところもありますから、繰り返しも、また、一つのあり方かと最近は思うことにしました。

それにしても、顕正居士さんはさすがで、既に過去に記されたことは、あまり再論なさらない、既に回答済みという姿勢を貫かれるのは、さすがであると違う観点で感心しています。

これまた、余談ですが、わたしは定期的に掲示板データをダウンロードし、テキスト化したうえで、該当事項を検索して、読み直すようにしています。このデータ化は、一度の作業で小1時間、思いつきで、気軽に質問を投げかけるのは個人の自由ですが、既出の話題であれば、この検索で過去の投稿を追ったほうが情報量は遙かに多いことになります。
お薦めしておくことにします。

つぶやきとも、お薦めとも採れる文章になりましたが、一言まで。

1967今川元真:2006/03/25(土) 15:51:05
【21世紀は、空海教、鳩摩教?】●紅(神教)〜白(仏教)、仏塔、●法華教学、本仏殿、法華経様式、●仏性〜如来蔵、北から伝えられた一念の法が三千の花弁の蓮を咲かせる教え『南無妙法蓮華経』、法華堂(十界勧請漫陀羅)、法華経変遷、真蹟研究、宿坊、●価値創造、三証四悉檀、●何の知識・情報も無い人々に布教するのは大変

1968今川元真:2006/03/26(日) 13:13:43
切りの良い所で書き込みを止めれば良いのですが創価(勝ち創造の笑顔と愚痴)学会と冷戦になったのでストレス溜まるので辞められない。何でも書いてバッサリ妙法の利剣(御書遺文)で切り分けてくれる所なんて他所に無い。●広宣流布・仏壇(本尊漫陀羅・位牌・水其他)・道場(シャクソン成道図絵・本尊漫陀羅・日蓮立宗図絵、三国四師・何故最澄は法華経行者・天台と伝教の相違・天台密教と日蓮仏法の相違)・神社仏閣(シャクソン・蓮華・四大菩薩天竺様・四菩薩震旦様・四天王日本様)、個人的には、法華堂(十界勧請漫陀羅)だけで良いと思うのですが、歴史は一筋縄では捉えられませんから。

1969犀角独歩:2006/03/27(月) 22:47:37

やや長い投稿をさせていただきます。以下、あくまで試案です。
議論の俎上に乗せようと思うわけではなく、自らの備忘録として、書き置くものです。

■四大天玉の図示の位置について

以下はわたしが個人的に気が付いた点ですので、先行研究等がございましたらご紹介いただくと共に、ご批正をいただきたく存じます。

四大天玉は、図示年代変遷のなかで、日蓮聖人の試行錯誤が窺われ、興味深いテーマの一つです。

東・持国天、西・広目天、南・増長天、北・毘沙門

当時のの宇宙観では大地を方(四角形)と考えられていたわけで、その四角がそれぞれ東西南北になる(方角)ことは、今さら申し上げることでもないわけです。

戒壇院などの伽藍様式の四角い部屋となっているのは、単なる建都合というより、当時、大地は四角形と思われていることに由来するのであろうと類推します。そのそれぞれ方(四角形)の角が東西南北です(方角)。実際に建物がその方向を向いているかというと、これは45度ずれがあります。中央に五重塔(多宝塔)を建て、中に釈迦・多宝の二仏が奉安されています。実際の法華説相からすれば、宝塔の真後ろが東となります(角が正面ということになります)から、そこに持国天像が置かれ、大衆が立つ背が西となって、ここに広目天像を建てれば、経典のとおりとなります。しかし、こうなりますと、多宝塔の後ろでは、像はよく見えませんし、何より、西側入り口の中央に像を置くことになってしまいますから、参詣にも都合が悪く、また、美を尽くせないことになります。この場合、そこで、45度これをずらして、奉安することで、この点を解消しているのが、一般的な建築の妥協でした。

日蓮聖人は、四角い料紙を大地に見立て、その四隅を東西南北の方角を与えることとまず考案されました。しかし、インドでは天子は東面、日本は天子は南面と、国風の相違があります。説法の釈尊もそのように方向を選んで座しておられるわけです。つまり、西側に座しておられるわけです。そこに涌現した多宝塔は、その釈尊に向かっているわけですから、西面となります。つまり、紙の四角(よすみ)に東西南北を与え、宝塔品を図式化しようとすれば、インドのしきたりに従えば、図される上側が東となります。
一方、日本では天子南面のしきたりがあります。ですから、上側が北になります。

日蓮漫荼羅は宝塔品を図示といいますから、西面となりますが、しかし、天照・八幡という国神も勧請されているわけですし、奉安様式は、南面でしょう。そうしないと国風に準じられないからです。つまり、宝塔は東側は、貴人は北側という相矛盾する二つの要素を孕むことになるわけです。
これを表化すれば

【宝塔涌現】
北(左上):毘沙、東(右上):持国
西(左下):広目、南(右下):増長
【日本国風】
西(左上):広目、北(右上):毘沙
南(左下):増長、東(右下):持国

となり、四大天玉の配置に相違が生じます。

1970犀角独歩:2006/03/27(月) 22:48:48

―1969からつづく―

また、45度、ずらしているために、本来、東には西、北には南と対するところを、東西南北のままに配置すると、こうはならず、従来の奉安では、東西、北南との対が対角線上に配置されてしまうわけです。しかし、実際は、宝塔を正面から見る場合、衆は西を背に東に向かい、日本国風の天子を仰ぐとなれば、南を背に北を向くはずです。けっして、対角線にはなりません。
この点を日蓮聖人は、紙の四角を方角に見立てるに置いて、見事に解消したアイデアが浮かんだのでしょう。
つまり、右上下二角を東西に、左上下二角を北南とすることで、このを問題を見事に図示することに成功したわけです。

なお、漫荼羅平面でしか表現できないわけで、さらに掛け立ててありますが、そのイメージは三次元で、大地と虚空を表すわけで、四角に従えば、床に敷いて大地の如く、けれど、首題(塔内妙法蓮華經)と諸尊はその大地に立って天に向かって立っていることになるのでしょう。紙の上が奧で下が手前という三次元です。

以上、ややこしいので紙に四角を書き、その四隅にそれぞれの四大天玉と方角を書き込んでみれば、日蓮聖人の卓抜したアイデアが彷彿とします。
以下、簡単に作図してみました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/sidaitenohaiti.html

諸尊勧請とインド、日本の国風の相違からの配置については、日寛はうまく説明しています。

「千古より国風自然に同じからず、所謂漢土・日本は天子南面す、故に左は東にして陽、右は西にして陰なり、故に左尊右卑なり。
若し月氏の如くんば君父東面す、故に右は南にして陽なり、左は北にして陰なり、故に右尊左卑なり。
国風同じからざれば尊卑既に定まる、故に其の処に随って何れの方に向かう時も日本は左を上座と為し、月氏は右を上座と為すなり。
本尊の左右亦復爾なり。謂わく、宝塔西に向く、故に釈尊は右の上座に居し、多宝は左の下座に居するなり。大衆は東に向く、故に上行・無辺行は右の上座に居し、浄行・安立行は左の下座に居す、是れ霊山の儀式を移す故なり」(六巻抄当流行事鈔第五)

余談ですが、仏像奉安の際、本当であれば、四菩薩をわたしどもに背を向けている形になるはずですが、こちらを向けて建てられています。これも致し方のないことでしょうか。

■塔中「妙法蓮華經」は五字か・経典か

日蓮聖人における仏像開眼とは、絵像木造で表現できない梵音声である経典を仏像の御前に置くことであることは御遺文から窺われます。『木絵二像開眼事』は、そのことを説明したものでした。

「木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。但し心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず」

梵音声は経典であれば、開眼となるわけですが、しかし、それでは心とならない、心は法華経に限る、では、この心とはいえば、すなわち一念三千である、故に経典は法華経に限るという論の運びであるわけです。
経典は梵音声の説法そのものを指し、妙法蓮華經の五字は一念三千を指す。

1971犀角独歩:2006/03/27(月) 22:50:17

―1970からつづく―

さて、ここで『本尊抄』の

「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり」

というときの「塔中の妙法蓮華経」が五字か・経典かという問をわたしは懐いたわけです。この本尊抄の記述に従って仏像を建立するとします。多宝塔を造り、その塔の中に二仏並座させることになります。

わたしは塔の中でなければならないと思いますが、しかし、これは四菩薩がこちらを向いているのと同様、外に置くのは致し方のない造形上の措置でしょうか。
それは、置くとして、では、肝心の妙法蓮華經はどうでしょうか。
わたしは法華経典であると思います。なぜならば、ここに法華経典がなければ、『木絵二像開眼事』と齟齬を来すからです。では、上行所伝の妙法蓮華經が表現できないではないかとなりますが、そうなのだと思います。仏像造立では妙法五字は表現できないのです。ですから、別立てで曼荼羅が必要なわけです。

富士方では、伝・三位日順文書『本門心底抄』に

「本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し」

とあり、要法寺系でも、この考えですが、わたしは、これはまったく日蓮聖人の三大法門を満たすことが出来ない謬論であると考えています。
本門の本尊は仏像・本門の題目は字像曼荼羅、そして、戒壇は『取要抄』に記される密事として、伝えられた比叡山戒壇の代わる本門戒壇であり、こうして、三大法門の三つは成就するのではないのかという考えです。

これを妙法蓮華經の五字を本仏釈尊としてしまえば、二大秘法としかならないことになります。この点は、石山で言う日蓮本仏・人法一箇でも同様ではないのか、というのがわたしの考えです。

なお、「其本尊為体」は、日蓮門下一般を通じて、「其の本尊為体(ていたらく)と読むことで、異論がないようですが、わたしはこの点に異議を有します。では、どう読むのか「其の本尊を体と為(な)し」ではないのか、というのがわたしの考えです。では、その体とされる本尊とは、その後に続く記述ではなく、その前段ではないのかと考えます。すなわち、四十五字法体段でいわれる仏が本尊であるということではないか、ということです。では、「為体」以降は何を意味するのか、つまり、それは「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」という造立される仏像の奉安様式です。
ただし、この点については、思索中です。

1972犀角独歩:2006/03/27(月) 22:51:17

―1971からつづく―

■日蓮聖人持仏は聖人のご自作のこと

「随身仏、この表現はいかん」と、中尾堯先生はいうので、いまは持仏とさせていただきます。
日蓮門会一般の伝承認識として、このお像は伊東配流の際、船守弥三郎から献上されたものだとなっています。
しかし、その成立を日興上人滅後90年、聖人滅から140年目の成立であるとする高木豊師がいう『五人所破抄』では、日蓮聖人自らが刻まれたものであるといいます。すなわち

「五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙く言うに及ばんや云云」

とあります。これを雪仙日亨は訳解して

「五人一同の義には先師日蓮の御奉持になつていた釈迦牟尼の立像仏は・勿体なくも弘長元年伊東御流罪の時に彫刻せられて・弘安五年池上御入滅の時まで御身を離さず奉持せられたもので・あるを・何とて遺弟の身とて容易く彼是と非難をしてよからうや・唯仰いで信敬すべきぢや云云」

といいます。最近は、どうも記憶力が減退し、文献を失念しましたが、船守弥三郎の寄進は浮木であったという文献が確かありました。
この「忝くも」「勿体なくも」は「刻み」に掛かる語ですから、日蓮聖人を指していることになります。ここで刻んだというわけですから、海中出現とは齟齬を来すことになります。実際に古文献を調べても、海中出現を指示するものには当たれなかった記憶があります。

さて、聖人お手製本尊となれば、その崇敬は高いのは当然で、日興上人作とされる『原殿御返事』に

「大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。
 それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき」

と‘第二転’とは、つまり、日蓮聖人お手製の仏の第二転という意味であろうと、わたしは考えます。ただ、この日朗上人を記述する文面が、本当に日興筆であるのか、やや疑問は残ります。いずれにしても、日蓮聖人お手製持仏という文献は、以上の如くとなります。

■字像漫荼羅の不動愛染勧請の理由

『不動愛染感見記』は真筆か、という問題は、さておいて、不動愛染が梵字で図示される理由は、富士門流信徒の掲示板に顕正居士さんが宝珠曼荼羅を引きご賢察を示されたわけです。そこから、調べたところ、たしかに摩尼宝珠漫荼羅という真言の曼荼羅がありました。中央、宝珠に脇士は不動愛染です。

ただ、この摩尼宝珠曼荼羅の場合、中央宝珠を、どのような解するのかという点で、日蓮聖人とは異なるであろうと思います。聖人は、もちろん、一念三千を宝珠と考える立場でしょう。『本尊抄』に「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたまふ」という珠の正体は、この文脈からすれば、一念三千に他なりません。そして、この珠は、聖人が虚空蔵求聞持法を修して「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候」という珠と一致するのであろうと、わたしは考えます。そして、一致こそ、顕密相対し、聖人のなかで生じる整合性であるとわたしは拝します。つまり虚空蔵を介する密教宝珠を一念三千と翻訳し、上行所伝の妙法蓮華經の五字と一致させ、ここに法華によって、聖人の密教を開会されたのではないでしょうか。

その宝珠を上行所伝の妙法蓮華經の五字に裏み、霊鷲山出現の宝塔中における四菩薩への附属の儀式を併せて表現したのが、字像漫荼羅であれば、密教に精通した日蓮聖人であれば、宝珠の脇士に不動愛染を置かれるのは、むしろ必然というほかありません。『不動愛染感見記』を引き合いに出すまでもなく、不動愛染の勧請は説明が着きます。

1973れん:2006/03/28(火) 19:15:18
犀角独歩さん
1969〜1972
久方振りに御賢察をご披瀝頂き、大変勉強になりました。
>本門の本尊は仏像、本門の題目は字像曼荼羅、そして戒壇は『取要抄』に記される密事、伝えられた比叡山戒壇の代わる本門戒壇であり、こうして三大法門はの三つは成就する…
御賢察に賛同致します。重須側の日順師・日代師の著述を見ますと戒壇に安置する仏像は「本尊図の如し」なのですが、上野に目を転じますと、日目師の申状(正本・保田妙本寺蔵)には「仏滅後二千余年間正像末三時流通程、迦葉龍樹天台傳教所残秘法有三。所謂法華本門本尊与戒壇与妙法蓮華経五字也」日目の孫弟子日向定善寺開山日叡師の後信抄(正本・定善寺蔵)に「本仏・本戒・本尊」(この表記は法華取要抄や報恩抄に見られる通途の本門三法門と表記が異なりますが、これは日興師・日源師の写本が伝わる“法華本門本尊問答抄”の思想の影響を受けた記述と考えます。意味合いとしては、本門本尊=仏像、本門戒壇=『取要抄』に記される密事としての比叡山戒壇に代わる戒壇、本門題目=字像漫荼羅と理解できます)又、時代は室町中期以降に下りますが要法寺日辰師の造読論議に引用される大石寺顕応房の文書には「三箇秘法者仏土教法也」とあり、顕応房自身は御影本尊論を述べるものの、この成句そのものの原初的な意味は取要抄・報恩抄・目師申状・日叡後信抄に同じであったろうと考えます。
蓮師の取要抄や報恩抄ないし初期上野の文献から原初的な本門三法門を調べますと、やはり独歩さんの御賢察の方が、やはりしっくり来ますね。
なおご失念された上代富士における日蓮聖人自作の釋尊像についての記述ですが富士宗学要集第二巻に収録されている日順雑集の中の“法華観心本尊抄見聞”に「聖人海の定木を以て一躰の仏を造り佐渡の国へも御所持・御臨終の時は墓側に置けと云々」との記述を見ます。初期興門においては日蓮聖人持仏の釈尊像は、やはり日蓮聖人の御自作と伝承されていたようですね。

1974犀角独歩:2006/03/28(火) 21:23:39

れんさんには種々ご賛同を賜り、恐悦至極に存じます。
上記備忘録にやや補足します。

■四大天玉の図示の位置については、かつてワラシナさんとメールであったと記憶しますが、遣り取りをしたことに端を発します。

■塔中「妙法蓮華經」は五字か・経典かは、問答名人さんと議論をしたことです。

先に顕正居士さんは「漫荼羅設計図論」を提示されましたが、わたしは、むしろ、『本尊抄』がその設計図ではないのかという考えをもっています。ただし、これは顕正居士さんのご賢察を斥けるというものでは、もちろん、ありません。

漫荼羅が設計図であった場合は、二つの位相、すなわち、宝塔(東西)と国風(北南)は、相容れない配置となりますから、これを実際の大地に顕現することは不可能ではないのかという思いがあり、この点から漫荼羅を設計図と見ることに躊躇いがあることもあります。

なお、日蓮の仏像開眼観は、木絵仏像+{経典:梵音声+心:一念三千}という三点セットで、法華経である場合、梵音声と一念三千の両意を有するととらえている。門下教学のなかでは仏像本尊は、のちに曼荼羅本尊に移行するという見方がありますが、わたしはこの考えには反対です。なんとなれば、本門題目と本門本尊が明確に二立しなければ、三大法門とはなり得ないからです。その意義を異にすると考えるからです

妙法蓮華経に裏まれた宝珠と不動・愛染脇士という試論は、実に秀でたところと敬服します。

仏像本尊は、本師・本仏の所表ですが、漫荼羅は一念三千宝珠の所表、つまり、仏像で表される仏は本尊ですが、漫荼羅の場合は仏界の所表とその意図するところが相違しています。しかし、この二つが別のものであるかといえば、三大法門は一を三に開くところであるところで、所化もって同体だからこそ、一念三千であるのでしょう。また三千はその十界互具百界で本因九界悉く本仏界にあり、さらにその本国土はまさに本門戒壇として事相されなければ、三千を成ぜません。妙法蓮華経の五字は一念三千を裏み、では、その一念三千を諸尊で図すれば曼荼羅図の如く、その東西・北南に拝する宝塔存立の場はまさに戒壇で、この意味において、たしかに顕正居士さんが仰る如く、漫荼羅は、その意義を余すことなく、孕んでいるのであろうと思います。つまり、妙法蓮華経の五字に裏まれた一念三千は具体的な十界諸尊の図示を以てさらに記されているわけです。となれば、漫荼羅の全体は一念三千であり、この宝珠全体を不動愛染の脇士が守護すると見ても、よいのであろうとも考えます。

【宝珠曼荼羅】愛染+宝珠+不動

【字像漫荼羅】愛染+{一念三千〔本果・仏+本因・九界+本国土戒壇〕+〔妙法蓮華経(宝珠:一念三千)〕}+不動

一尊四士の一尊は本仏の所表、四菩薩は附属の菩薩を表しますが、しかし、ここでは師資の義を成じても附属の本法が表せません。已上末法出現仏像本尊。

1975犀角独歩:2006/03/28(火) 21:25:20

―1974からつづく―

これを表すのは、漫荼羅図示に譲られるところで、しかも、具体的に本門寿量顕本の一念三千、仏界・九界・互具十如、そして本門戒壇として三世間をそこに書き示して秘事として、名前を書き示して、授与とすることは、まさに上行菩薩附属の妙法蓮華経の五字を流布する相となるのでしょう。已上五字漫荼羅。

そして、密事された未来建立を期した迹門戒壇に代わる末法の事壇。已上本門戒壇。

■日蓮聖人持仏は聖人のご自作のことについては、いまのところ、議論にはなっていなかったかと存じます。特に参考にした先行研究があるというより、『五人所破抄』の記述が、事実であればという前提の愚考です。

れんさんには、わたしの失念を補完していただきまして、誠に有り難うございました。

■字像漫荼羅の不動愛染勧請の理由について。別スレッドで彰往考来さんがさらに感見記のご賢察を示されたので参考になりました。感見記の真偽は書の鑑定上の問題で、それ以上でもなければそれ以下であってもならないというのは科学的な態度であると考えます。いままで自分の所属する団体が「真言亡国」と言ってきたから、日蓮はそうなんだから、真言臭のする感見記は偽書だなどという連想ゲームが固定観念になって、論陣を張るというのは、古文書鑑定としては墜ちた為にする論というほかありません。鳳凰さんには、最高の意図が示されたこと、喜ばしく存じます。また、パンナコッタさんがご指摘のとおり、独学徒さんの考証がありましたか。

妙法蓮華経の五字は筆を握れば、誰でも記せます。書いて人に授けられます。口で唱えることもできるでしょう。では、それと上行所伝の妙法蓮華経は、どこで違うのか、それはまさに‘日蓮の妙法蓮華経’でなければならない。では、日蓮の妙法蓮華経とは具体的には何か、それはまさに字像漫荼羅を置いて、他にないというのは、わたしなりの結論です。

本仏釈尊の久遠下種、さらに四菩薩地涌菩薩の眷属たるを示す本尊は一尊四士にあり、では上行所伝を日蓮の名に隠す日蓮は、自ら附属された妙法を如何様に、さらに附属、広宣流布しするのか。それはまさに妙法蓮華経の漫荼羅をもってするのでしょう。漫荼羅に示された妙法蓮華経は、日蓮の(正確には上行に附属され、末法に日蓮として流宣する)妙法蓮華経です。他の妙法蓮華経とは軸が同様でも、根本的に意義は相違します。日蓮の妙法蓮華経に有らずんば、附属の妙法蓮華経とは言えないというのが日蓮の自覚でありましょう。そして、その授与を受けた弟子檀那は、ここに自らの久遠下種を知り、報恩尊敬(そんぎょう)の一念を以て像を結ぶのが、本仏師・久遠釈尊、附属の資・四菩薩の像ではないでしょうか。(一尊四士)しかし、日蓮が比叡山を去り、本門一念三千を末法流宣に成就、本国土の妙を、事相せんとすれば、密事とされた本門戒壇未来建立を以て、三大法門の成就を期したのであろうと拝察いたします。本門の本尊と戒壇、妙法蓮華経の五字は一の宝珠を以て、不可思議にも虚空蔵菩薩を介して、日蓮に伝えられ、その守護を不動愛染がなしていたという自覚が日蓮にあったのかも知れません。

以上しかし、わたしは既に富士の裾野より独歩したうえ、大崎の学風にも、身延の学風に疎い、一在家に過ぎません。皆さんのご批正を賜れれば幸甚です。

1976犀角独歩:2006/03/28(火) 23:21:34

【1975の訂正】

誤)鳳凰さんには、最高の意図
正)鳳凰さんには、再考の意図

誤)妙法蓮華経とは軸が同様でも
正)妙法蓮華経とは字句が同様でも

1977今川元真:2006/04/01(土) 17:12:39
今更ながら尚更ながら、●●蓮祖教学≒5機●● ▲▲興門教学≒5時▲▲[本尊論・勝劣でも一致でも無い十全完璧な本尊]、シャカ(泥沼蓮華)、シャクソン(皆成仏道)、鳩摩訳で無くても台家は一心三観等を繋げるか、大乗教団次第か。

1978今川元真:2006/04/03(月) 11:50:53
私の家で花と言えば、スイセン・アジサイ・オニユリ・ウメですが、名前も知らない花もあります。年の所為か小さくて群生で集まって咲く花々をキレイに見れるようになりました。名前が解らないのはイライラします...●皆成仏道、、法華涅槃、依法不法人●本仏と言えない本尊、漫陀羅=修行●像法(仏像)、末法(漫陀羅)、本門法華経戒壇堂(生粋法華経行者)●教義(題目肝心)修行(唱題成仏)できる本尊、横並びでも縦並びでも無い教法本尊●ゼロベースの仏国土=理想郷

1979一字三礼:2006/04/04(火) 22:45:15

犀角独歩さん

超亀レスで申し訳ありませんが、ご教示ください。

> 1790
>> 仏像奉安の際、本当であれば、四菩薩をわたしどもに背を向けている形になるはずですが、こちらを向けて建てられています。

ご存知のように文永・建治の大曼荼羅には釈迦・多宝以外の仏尊も勧請されているものがあります。
保田の万年救護本尊であれば「南無善徳仏」「南無十方分身諸仏」ですが、では、これらの仏尊方は、どちらを向いているとお考えですか。

釈尊・多宝の二尊と同じ向きに座して四菩薩と対面しているのか、それとも四菩薩と同じ向きに座して釈迦・多宝と対面しているのか。

これが解れば、日蓮聖人が東密と台密のどちらを重視していたかを知るための一つのアプローチになるのではないと考えているのです。

その答えを例の金・胎両界の大日如来が勧請されている第18番の大曼荼羅にあてはめて考えてみて、胎蔵界・大日如来が上座であれば、東密重視と考えられますし、金剛界・大日如来を上座としているのであれば、台密重視であったとは考えられませんでしょうか。

1980犀角独歩:2006/04/08(土) 08:17:09

どちらに投稿をしてよいのか判りませんので、こちらとさせていただきます。

4月6日、悲母が逝去しました。
お励ましをくださった皆様には、衷心より御礼申し上げます。

以上の事情から、ここ何日間か投稿ができませんでした。
まだ、しばらくは整理その他から、お声かけに十分なお答えができないこととなろうかと存じます。恐縮ながら、御斟酌をお願い申し上げるものです。

有り難うございました。

1981問答迷人:2006/04/08(土) 08:26:24

犀角独歩さん

ご母堂のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。お力落としの事と存じます。暫くは、ご静養される事と存じます。落ち着かれましたら、又、掲示板でのご活躍を拝見致したく存じます。ご愁傷さまでした。

1982れん:2006/04/08(土) 11:33:17
犀角独歩さん。
三日の松山師ご講義にもご参加なさっておられなかったので、もしや御母堂様の御体調が御悪いのではないかと心のなかで危惧しておりました。
六日に、御母堂様ご逝去の由、謹みて、御母堂様の御冥福をお祈り申し上げます。
何と言葉をかけるべきか、適切な言葉が出てきません。
今は、心身ともに、なにかと大変なことと拝察申し上げますが、今は、とにかく諸事、周りの状況が落ち着くまでは、心ゆくまで、御母堂様をお送り下さい。早々

1983パンナコッタ:2006/04/08(土) 12:36:17
犀角独歩さん、
 お母様ご逝去の由、心からお悔やみ申し上げます。
 ご親族の方におかれましても、ご傷心はさぞ深いことと拝察いたしますが、
 なにとぞお気を取り直されて、ご自愛のほどお祈り申し上げます。
 まずは、謹んでお母様のご冥福をお祈り申し上げます。

1984独学徒:2006/04/08(土) 13:03:19

犀角独歩さん、お母様ご逝去とのこと伺いました。謹んでお悔やみ申し上げます。

私を彫刻信仰から覚醒させてくださった、犀角独歩さんの論考『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』、及び『何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか』を、拝読させていただく中で、犀角独歩さんのご家族への思いを強く感じておりました。
お母様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

1985顕正居士:2006/04/08(土) 13:59:20
犀角独歩さん。
御母堂様のご逝去を悼み、
謹んでお悔み申し上げます。

1986一字三礼:2006/04/08(土) 20:49:57

犀角独歩さん

御母堂様のご逝去謹んでお悔やみ申し上げます。

まことに勝手ながら、題目、読経を勤めまして御母様の菩提を弔わせていただきました。

ご心痛の中、やらなければならない事は尽きないと思いますが、どうぞお体もご自愛ください。

1987文殊:2006/04/08(土) 21:00:57
犀角独歩さん。
お母様のご逝去の報に接し、謹んで
ご冥福をお祈り申し上げます。

1988空即是進化:2006/04/08(土) 22:30:45
犀角独歩様
 御母堂様のご逝去をお悔やみ申し上げます。
 やはり悲しいものは悲しいですね。
 お気を落とすことなく、これからもご活躍をお願いします。

1989ラキ:2006/04/10(月) 02:50:02
犀角独歩さん

お母様ご逝去の由、心からお悔やみ申し上げます。

1990彰往考来(しょうおうこうらい):2006/04/10(月) 06:53:19

犀角独歩さん

ご母堂様、ご逝去の報に接し、心からお悼み申し上げます。

1991犀角独歩:2006/04/13(木) 12:36:17

皆様には、ご弔辞、並びに暖かいお励ましを頂戴しましたこと、謹んで御礼申し上げます。

悲母葬儀は、楠山日道(泰道)上人、貫名日泰(英舜)上人の大導師を得て、お二方のお慈悲溢れる御計らいの許、三浦本山と称される金谷山大明寺に於いて執行していただきました。

法名 帰真院妙行日松信女 位

皆様の御回向を賜れれば、有り難く存じます。蹲踞

1992みかん:2006/04/13(木) 23:49:59
犀角独歩さま。
お母様がご逝去されたとのこと、こころよりお悔やみ申し上げます。
なんと申し上げて良いか、言葉もありません。
こころより、ご冥福を祈念させていただきます。
さぞ、お力落としのことと存じますが、ご無理なさいませんよう。

1993犀角独歩:2006/04/14(金) 04:40:57

みかんさん

お久しぶりです。ご祈念下されるとのこと、痛み入ります。
有り難うございます。

1994雖念:2006/04/15(土) 20:37:35
犀角独歩さん

ご母堂様、ご逝去の報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。

小生も近年両親を送ったばかりですので、ご心中をお察しいたします。

あわせて、ご母堂様のご冥福を祈念させていただきます。

1995犀角独歩:2006/04/16(日) 07:22:10

雖念さん、お久しぶりです。
有り難うございました。

1996犀角独歩:2006/05/01(月) 23:19:19

一字三礼さん

本日は、たいへんに有り難うございました。
追って、詳しく投稿させていただく所存ですが、頂戴しました御香、ただいま、母の遺骨に供えさせていただきました。お気持ち、衷心より御礼申し上げます。

1997Taitsu:2006/05/02(火) 00:10:42
金谷山大明寺とは衣笠の・・・
私以外に横須賀に縁の有る方がここにお出でとは、ちょっと嬉しく思いました。

不謹慎と思われましたならお詫び申し上げます。

1998犀角独歩:2006/05/02(火) 08:19:58

Taitsuさん

わたしも嬉しく思います。
機会がありましたら、大明寺でお会いしましょう。

1999犀角独歩:2006/05/08(月) 22:27:13

本日、日蓮宗の千部会に参列してみたのですが、いくつか発見があり、日蓮宗の様を観て、いまさら、石山とはなんたるかと、慨歎を禁じ得ない発見がありました。

わたしが法華講にいた頃、石山御影堂の法要で散華というものを初めて観ました。教学部の説明では、古式豊かに、よく研究して行ったとかという口上でしたが、本日、日蓮宗の法要で、この散華があったのです。その華の取り出し方、構え方、そして、散らし方に至るまで、ほとんど、同じ。
日蓮宗のほうの散華は、昨日今日始まったものではなく、要は「石山が言う古式豊か」というのは、ただの日蓮宗のパクりということなのでしょう。もっとも、檀林その他で、他派の日蓮門徒と席を同じくし、共に教を唱えてきたからこそ、離間した現在でも、方便自我偈に唱和することに苦労はないわけです。信者を食った話だと思った次第です。

このような呆れ話は、類は幾つもあります。石山で、正式書籍にも載る日目の身延修業時代を謳ったとする古歌「法華経を我が得しことは薪こり 菜つみ水くみ つかへてぞえし(『日蓮大聖人正伝』321頁)という話が、実は、比叡山の修行で僧侶たちが口ずさむ歌であることを、わたしは指摘したことがあります。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117251/37

また、地名さんもその元は、拾遺集哀傷 一三四六、大僧正行基の歌であると、正確に情報をご指摘下さったわけでした。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015573970/724

御受戒の「持(たも)ち奉るや否や」「持ち奉るべし」という遣り取りも、日蓮宗の法要における経巻頂戴の儀式の台詞そのままであり、「乃至法界平等利益」もまた、日蓮宗の勤行の台詞です。

まあ、なんというか、先に勤行は二品読誦で一経読誦謗法だなんだという話がありますが、謗法を云々するのなら、行基の歌を日目の修行を謳ったなどと寝惚けた戯言を記したり、散華その他を日蓮宗からパクッたりするほうが、よほど、問題であろうと思った次第です。

七百年の伝統とか、富士の清流とか、祖道の恢復とか、聞こえは善いのですが、それぞれ結局、近代の捏造で、よくもすぐにばれるような作り物を「伝統」だなんだといって憚らないものだと改めて思った次第です。

2000なし:2006/05/09(火) 01:42:39
延暦寺本堂での散華を見た。身延もパクリかな。正倉院にもあるという。

2001なし:2006/05/09(火) 06:42:36
叡山、散華行道僧の衣がカラフル。身延は?
狩野派の日蓮像、衣が真っ赤。

2002犀角独歩:2006/05/09(火) 07:34:09

散華に関しては、2000、2001に言うとおりでしょう。
その元々は、他派に由来するのでしょう。

石山で散華の記述として、僧俗が誰しも知るのは、化儀抄の記述でしょう。

「経を読むに必ず散華有るべし信の時は法界妙法蓮華経なる故に一仏なり其の一仏の三身に供するなり、是れ即ち本門無作なり、天台宗に沙汰する本有の理智慈悲は理の無作なり」

わたしが着目していたのは、この日亨師の『註解』です。

「他宗にては厳儀の折などに・紙に製したる蓮華の葩を華籠に入れて・行道の僧童が参集の衆の頭を降らすことあり」

という一節です。つまり、紙で造った華(多くは蓮華の花弁を模す)を参集に降らすやり方は「他宗」であると言っている点です。ですから、「宗門古来の伝統」ではないだろうと言ってのことでした。

なお、化儀抄における散華は、石山の勤行では、経机の経本に置かれてある三枚葉の樒を、勤行の終わりに、一枚一枚に切り離すことを言います。
この三枚葉の樒の様もまた天台密教、密壇に置かれるものと同じ。つまり、そこが起原となっているのでしょう。

あと、他日蓮門下の日蓮像の衣は真っ赤なのではなく、緋衣。五位の朝服の色ということですが、この点は、わたしなどより、藤川さんがお詳しいところでしょう。

日蓮が終生、薄墨衣であったかどうか。わたしはやや決しかねますが、先に挙げた化儀抄、その他聞き書きを瞥見すると、薄墨、白五条袈裟は早い時期に定着していた如きです。ただし、ここで重要な点は「素絹」といった簡素な衣であるという点です。

「真っ赤」な衣が、批判されるのであれば、色ばかりは薄墨で、しかし、石山住職が着る衣など、100万とも数100万もするといわれる豪奢なものでしょう。これは日蓮の粗衣、名字折伏を示すという中世の自宗の化儀にも反するという批判は既に為されているところでしょう。

日蓮御影に、在世は、弟子檀那が着せることが出来なかった緋衣を着せ、報恩の志が非難されるべきことなのか、その御影像には在世当時を表す質素な薄墨衣を着せ、その前に座る石山住職は、桁違いの豪奢な衣を纏うことが是なのか、自宗に贔屓目を捨て考えてみるべき点です。

2003犀角独歩:2006/05/09(火) 12:07:32

やや補足しますが、緋衣が五位の朝服を法衣としたものであり、かつ、明治以前からそのような衣が着せられていたとすれば、これはその御影を祀る寺院が勝手に行ったことではないだろうと思われます。つまり、これは朝廷からの勅許なくしては、出来ないことであったろうという意味です。

日本という国は、後継者が既に故人になっている者の、生前の名誉を称揚するために、あたかも生者のように、官位、称号を朝廷に願うことが行われるという特殊な監修を有した国です。

帝都弘教を果たした日像お、既に故人の日蓮への大菩薩号を勅許の功は夙に著明なことです。また、近代では「明治天皇は、日露戦争のときに時宗の苦労を思いやられて、明治37年、勅使を円覚寺にある時宗の墓にお遣わしになって、四階級特進して従一位をご追贈なられた」(『日本史から見た日本人・古代編』(祥伝社)渡部昇一 P280)という話も伝わります。

また、日顕氏が、創価学会の願い出によって執行した故牧口常三郎氏第50回忌で、戒名を冷然院感徳日常居士から、冷然院感徳日常大居士に改めたと言うことがありました。

日蓮御影に緋衣を着せることが江戸時代までのことであれば、以上のような朝廷に対する正式な手続きを経ずしては行えることではなく、終生流人の汚名を背負った日蓮の名誉復権に苦心した門下の熱意がその衣と現れているということでしょう。しかし、近代では、このような官・衣は撤廃され、勝手に団体を興したものが自ら法皇を僭称するご時世ですから、御影に好き勝手な法衣を着せる風潮もまま見受けられるのかも知れません。また、僧位・法衣も各宗の独自性に任せられる故、これもまた、明治以前のような、一つの尺度にはならなくなったという一面もあります。

わたしは個人的には、御影は、日興の言とされる「影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為」という精神は賛成するところが多く、ならば、当時の似姿を忠実に再現したものが至当であるという思いはあります。しかしこれは、あくまで、個人の嗜好と、希望の範囲を超えるものではないのであろうという襟度も記しておかなければならないかと存じます。

つぶやきスレッドなので、これくらいといたします。

2004犀角独歩:2006/05/09(火) 12:10:44

【2003の訂正】

誤)特殊な監修
正)特殊な慣習

2005ミカ:2006/05/09(火) 17:56:48
はじめまして。
こちらの掲示板は、以前から知っておりましたが、私が「自由な茶寮掲示板1F」にて、犀角独歩氏の著書を紹介をしましたが、あちらの掲示板で氏の著書に付いての議論があり、氏の名誉を傷つけかねない発言もありました。
この原因を招いたのは、私の責任でもあり、発言者、UWFさんがこちらで、反論をなされるように進めたしだいでありますので、ご迷惑かもしれませんが、こちらで議論する場をお貸し願いたく、ご挨拶がてら、書き込みをさせて頂きました。
犀角独歩氏にたいして、他の掲示板で名誉を傷つける発言の原因を招いた事を、ここでお詫び申し上げます。


「自由な茶寮掲示板1F」
http://mt.advenbbs.net/bbs/kensho.htm

2006顕正居士:2006/05/10(水) 06:48:16
素絹薄墨の衣に白五条の袈裟は天台宗からです。『有師談諸聞書』、『当家三衣抄』に詳しい。
これは律衣ではなく俗服、それも折伏(戦闘)用の僧兵の服です。日有師、日寛師は慈覚大師
以来としていますが、池田令道師は慈恵大師以来とし、それが正しいようです。
参考 『天台の教え』ページ9
http://www.shosha.or.jp/syukyou/main/tendai/osie/osie/osie9.htm
なお、日蓮は『八幡抄』に八幡大菩薩が伝教大師に授けたのが紫衣の起源だとしており、紫衣
などを否定していません。『三衣抄』もこれを会通できていない。薄墨・白五条は天台宗から来て
いるのですが、色袈裟の否定は神道、修験のほうからではないかと想像します。
参考 『風俗博物館』
http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/

2007なし:2006/05/10(水) 07:00:52
散華の博識ご披露ありがとうございます。

儀式の淵源を尋ねれば誰かの創作でしょうから後にはすべてパクリでしょう。
学ぶの語源は真似ぶからだと聞いたことがあります。

>「宗門古来の伝統」ではないだろうと言ってのことでした

なるほど。

>日蓮御影に、在世は、弟子檀那が着せることが出来なかった緋衣を着せ、報恩の志が非難されるべきことなのか

報恩の志というよりみてくれ、世間気でしょう。アバタもえくぼに見えますか。緋衣の聖人、お弟子がカラフルの図、もう別世界でしょう。高価な法衣もご指摘どおりだとは思いますが。

>また、日顕氏が、創価学会の願い出によって執行した故牧口常三郎氏第50回忌で、戒名を冷然院感徳日常居士から、冷然院感徳日常大居士に改めたと言うことがありました。

これは初めて知りました。

>わたしは個人的には、御影は、日興の言とされる「影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為」という精神は賛成するところが多く、ならば、当時の似姿を忠実に再現したものが至当であるという思いはあります。しかしこれは、あくまで、個人の嗜好と、希望の範囲を超えるものではないのであろうという襟度も記しておかなければならないかと存じます。

日興上人は御影信仰との論は取り下げられました。

興上御自筆の御遷化記録の文によれば、一体仏は御灰骨とともに、廟内に安置しおくべしとの大聖人の御遺言である。けっして、他に持ち出し、または帰敬の本尊仏となすべきでない。墓番の六老僧たちが、廟参のときの香華燈明供の時に記念の礼拝をなすべき、特別の宝物で墓所の内院に納まる御焼骨と同然のものである。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝

興師筆の御遷化記録には「仏は釈迦立像墓所の傍に立て置くべ し」とあるそうですが、ど素人の私にはこの程度でいいご処置でありこれ以上ではないように思いますが。

ブツブツとつぶやきです。

2008犀角独歩:2006/05/10(水) 08:04:44

2005 ミカさん

はじめまして。当掲示板にご訪問なされたことを歓迎いたします。

ご紹介の該当掲示板において、わたしの名誉が穢されたかどうか、現時点では判断をつきかねますので、謝罪を戴くまではないと判断しております。

やや瞥見しましたが、所謂「本門戒壇の大御本尊」と日寛が呼んだ彫刻品についての議論は、当掲示板ではほぼ落着し、すでに拙書でも落着したことです。
あとは、その事実を受け入れられるかどうかは、各人の健康な精神状態によるほかありません。特定信念体系に誣いられて、事実を事実と認められない人は、事実を受け入れられないという過悪において、事実に打ち捨てられ、その仮想現実の中で長い彷徨、つまり、虚偽の夢想の輪廻に陥り続けるほかないことを気の毒に思うばかりです。

該当の掲示板の、わたしに係る一連の遣り取りは瞥見しましたが、これは議論になっていません。つまり、わたしが提示した彫刻に関する事実鑑別についてのミカさんの投げかけに対して、回答側は、顕正会と同じ話法で、その質問に答えず、ただ悪口を以て、回答を回避しています。つまり、質問内容を悪口にすり替えて、答えることから逃げるという、よく見かける人格攻撃の論理のすり替えという常套手段を悪用しています。

また、このような回答回避を受けた側は、その起因、たとえばわたしの事実鑑別が議論の主眼であったところから、人格攻撃に係る論理のすり替えにはまって話がずれされる主題から脱線してしまうという事態に陥るわけです。

この悪辣な論法はしかし、該当掲示板のミカさんのご投稿に対してに限ることではなく、そもそも、顕正会の常套手段です。これに嵌っては肝心の議論ができないことになります。

彫刻が、日禅授与漫荼羅を原本とし、臨模作為された模造品であることは、わたしがサイトにアップした写真でも一目瞭然なのであって、もはや、そこに疑問を挟む余地はありません。反対者側は、その写真を見ることをせず、ただ、その提示者への悪口を以て、論理をすり替えています。その第一が浅井さんでしょう。

浅井さんの言うところに依れば、法道院で何度も日禅授与漫荼羅を観た、この論法自体、既にすり替えているわけです。観たが、それが彫刻の原本であると見抜けなかったのは、浅井さんの鑑識眼の能力が劣っていただけのことです。わたしは図形を以て鑑別したわけですから、その反論は図形を以て論じるそれ以外の反論の方法はないわけです。ところが彼は、「大謗法者」「魑魅魍魎」「学会くずれ」と口を極めて、わたしは悪口することで、この真偽鑑別を人格攻撃にすり替えたうえで、回答から逃げています。また、それを鵜呑みにする誣いられた人々は、その口真似・物真似を以て議論をすり替えるという連鎖に陥ってる自分の姿に気付かないでいます。

もっとも、顕正会員は、観たこともない彫刻を信じさせられているわけですから、その真偽を論じること事態、できるはずはありません。それを信じさせ議論を悪口にすり替える卑怯な論法を口真似するほか、何もできないのでしょう。

2009犀角独歩:2006/05/10(水) 08:05:39

―2008からつづく―

この結果が、わたしの名誉を傷つけたかどうか、いまのところ、子供が棒を振り回して自分が一番強いと思っている他愛なさとしか映じておりませんので、子供の“いきがり”に、腹を立てることは大人げないことなので、以上の分析に留めることにいたします。

ただし、昨年10月25日付『顕正新聞』における顕正会の公式発表、並びに浅井さんの前後の発言については、謂われない誹謗中傷であり、十分に名誉毀損に当たると判断すれば、名を挙げられたわたしのみならず、楠山泰道JSCPR代表理事、紀藤正樹弁護士とも協議のうえ、JSCPRに所属する弁護士複数を以て弁護団を結成し、オウム真理教、統一教会、法の華三法行、ライフスペースといったカルト団体を処理したきたことと同様、法的措置に訴える用意はあります。

しかし、人づて、新聞で見るばかりで、当人浅井さんから、わたしに直接、何ら言ってくるわけでもなく、ただ、わたしの知人を処分している悪口をして、それだけで終わる様は、ずいぶんと恐がりの人物だと、いと面白く感じるばかりです。次にアクションがあれば、裁判の当事者は、私設の掲示板で口真似をしている人々ではなく、ズバリ、裁判のターゲットは浅井さん本人です。

以上わたしの名誉に係ることとしかし、彫刻の真偽は、別問題です。

わたしが採用した該当の写真は熊田葦城著『日蓮上人』に掲載されたものです。わたしの批判者は、この原資料を確認しておらず、この写真自体から疑うというお話にならない稚拙さですので、この点については一言すれば、同書には、

「本門戒壇の大本尊…大石寺に宝蔵す由井一乗居士特に寄贈せらる」(『日蓮上人』P375)

とその写真の提供者を「由井一乗」であると明示してあります。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nitirenshonin_p375.html

同氏は昭和4年に総講頭に日開氏が任命した人物です。『日蓮上人』の発刊は、明治44年のことです。

さらに、写真が発表されたことが事実であることは細井精道(のちの日達)氏が『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮抄宗務院編)のなかで認めています。

また、わたしが使用した日禅授与漫荼羅の写真は、北山本門寺宝蔵調査で撮影されたものです。この北山所蔵漫荼羅と、大石寺所蔵の同漫荼羅が見分けがつかないことは堀日亨氏も認めたことでした。そのことから、この二体は相剥で分かたれたものであると目されるわけです。仮にこの二幅の相貌が不一致であっても、日蓮上人に載る「戒壇の大本尊」写真と日禅授与漫荼羅の相貌が一致していることは、既に鑑別したとおりです。

以上のことは、わたしの管見をご理解いただいている以上、屋上屋を重ねるところですが、取りあえず、記しました。

感情的、人格攻撃によって回答を避け、事実を認めない類の議論は時間の無駄ですから、こちらで、落ち着いた議論をされることをお薦めするものです。

2010犀角独歩:2006/05/10(水) 08:21:06

―2009からつづく―

ご承知のことと思いますが、彫刻に関しては2頁、わたしのHPは2箇所設けてあります。

何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html

所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

佛教再考
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/

BLOG 犀の角のように独り歩め
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/

2011犀角独歩:2006/05/10(水) 08:44:31

2007 なしさん

できれば、何かHNをお決めになって落ち着いて議論されては如何でしょうか。
ここは、つぶやきですから、議論はNG。ですから、感想程度に、以下、留めます。必要があれば、適切なスレッドに移動して、議論を続けたいと希望します。

> …パクリ…学ぶ・真似ぶ

は、御説のとおりでしょうが、わたしが「パクリ」と慨歎したのは、そのパクリ元を謗法だなんだと誹謗したうえで物真似をしているからです。これは学ぶ姿勢とは言えません。「盗人猛々しい」という非難の対象だろうという意味です。

> 報恩の志というよりみてくれ、世間気でしょう

それは、なしさんの個人的な勘繰りでしょう。
世間一般でも親が年を取れば、赤いちゃんちゃんこを着せるといった風習はあります。それは親孝行からの思い、報恩であるのに、世間気といってしまえば、その志は潰えます。

たとえば、日蓮の『立正安国論』が認められ、国士と認められ、朝廷の帰依も受け、官位を衣を下賜されたとしたらどうでしょうか。それを日蓮は拒否したでしょうか。わたしは、むしろ、当初の日蓮は、国師を標榜していたと思えます。となれば、それを否定する言われもないことになります。そんな拒否するぐらいであれば、そもそも、坊さんスタイル、頭を剃って、袈裟衣を着て沙門と名乗る世間気自体から否定すればよいわけです。薄墨=折伏ということ自体、後付の日蓮潤色のみてくれじゃないでしょうか。

> 日興上人は御影信仰との論は取り下げられました。

ええ、これは仰るとおりです。

> …仏は釈迦立像墓所の傍に立て置くべ し

この点ですが、恰も釈迦仏像の扱いを、この文献が既定しているような誤解があるとわたしは考えます。この釈迦像を墓所に置けとされたのは、これが日蓮手製の持仏、すなわち、日蓮個人の本尊だからです。

このような慣習は今でも行われていますが、堂塔伽藍に奉安される本尊と、各人が個人的に護本尊として所有する持仏とは、その性質が違います。
これを同等に論じるなど、石山で下付する個人用のお守り本尊を、本門戒壇の大御本尊として戒壇堂に懸けることだと言っているようなものです。ナンセンスな、勘違いというほかありません。

2012藤川一郎:2006/05/10(水) 11:27:03
薄墨色というのは、面白い。
天皇陛下の衣冠束帯は通常「黒色」であるが、仏門への帰依を顕すときに着用されるのは薄墨色です。
また、伊勢神宮や色々な場所への勅許が下される場合、各種色彩に施された詔書(用紙)が下されますが、
最高神を祀る社である伊勢神宮への詔書の色が薄墨色であります。

つまり、宮中でも特別な意味を持つのが「薄墨色」なのです。

2014犀角独歩:2006/05/10(水) 17:07:23

探したら、石山で七百遠忌の時にもらった散華が出てきたので、日蓮宗のものと並べてみました。

右が日蓮宗、左が石山。描いてあることに違いはありますが、その形は、そっくりです。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/sange_hikaku.html

2015ミカ:2006/05/11(木) 00:22:43
犀角独歩氏へ。
暖かいお言葉ありがとうございます。
犀角独歩氏の「本門戒壇の大御本尊」の書籍を紹介したかいがあります。
顕正会の掲示板では、散々に言われておりますが、いくら騒いでも、証拠を持って反論証明できないのが現状であり、なにを言われても説得力がないと思っております。
顕正会員として、会長の発言矛盾等指摘しても、何の回答も反応も出来ない、同じ会員としては情けない限りです。
私もこちらに参加して反論でもと思いましたが、次元が違いすぎて無理なので、閲覧専門になります。(汗)
こちらの顕正会のスレットでも、反論できる余地が恥ずかしいですが、微塵もございません。

私信の板汚しになって申し訳ございませんが、ご了承の程お願い申し上げます。

2016なし:2006/05/11(木) 01:05:14
>2007 

失礼だとは思いますが、お許しを、削除は受け入れますので
お説を疑問に思うことはあるのですが議論などとてもできないのです。

散華の写真ありがとうございます。左右が逆では?
大石寺の行道散華、堀上人以前はなかったのでしょうね。


世間と出世間とを同列視して飛躍した譬えのように思います。
世間の人は僧の中身より位階に平伏します。出世間に住しながら行態、思考が世間気の僧も数多見かけます。

仮定の上でなんですがセンダラが子と国師の両極の気位をお持ちの聖人、下賜をそのまま応諾されるでしょうか。階位などなくてよしと、ましてや五位の位階などと。  勝手な想像です。


>日蓮手製の持仏、
海中出現と聞きましたがお手製の証拠はどんなものなのですか。

信徒の釈迦像造立は個人の礼拝用の域であれば信心増幅のためお許しあったのではと、これまた自己流解釈です。

波木井氏の釈迦像建立は日興上人身延離山の理由の一つでした。

2017犀角独歩:2006/05/11(木) 01:45:07

なしさん

散華の写真、たしかに左右逆でした。

>大石寺の行道散華、堀上人以前はなかったのでしょうね。

先の資料からするとそういうことになりますね。

> 世間と出世間とを同列視して飛躍した譬え

そうでしょうか。僧侶というのは、何時の時代にも日本では、国家認可ですよ。
日興にしても、四十九院の供僧でしたし、日目その他にしても、自分の領地を持っていたわけです。そんな歴史は知りませんか。まさか、坊さんは、供養だけで食べていると思っていますか。

> 階位などなくてよしと、ましてや五位の位階などと。

では、なぜ公卿の弟子が多いんでしょうね。新田卿の日目、日尊みんなその類ではないでしょうか。また、出世間といいながら、日興は公家天奏しない、いや、できなかった。武士の出身だからでしょう。しかし、日目、日尊はできました。出身が公卿だからでしょう。(まあ、大雑把な表現ですが)
ここで問題です。では、日蓮が「センダラ」の身で、国家祈祷をできるんでしょうか。日蓮にその気があっても、当時の日本社会構造はそれを許さなかったでしょう。そんなことは日蓮は百も承知で、立正安国論ではないでしょうか。つまり、日蓮の出身には謎があるということです。
では、国師とはどういう意味か? あの当時、民衆凱歌なんかありえません。国家祈願、本門戒壇、それが階位なくしてできるなんて、非現実的な議論でしょう。
現在の民主儀と鎌倉時代を混同しては現実は見えません。

>>日蓮手製の持仏、
> 海中出現と聞きましたがお手製の証拠はどんなものなのですか。

この点は、つい最近、投稿し、れんさんの補完も受けたことです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/1972-1973

> 信徒の釈迦像造立は個人の礼拝用の域であれば信心増幅のためお許しあったのではと、これまた自己流解釈です。

当たらずとも遠からずでしょう。
その個人用の隋身仏を日蓮も持っていた問い事です。

> 波木井氏の釈迦像建立は日興上人身延離山の理由の一つでした。

そうですね。しかし、これは釈迦立像建立が離山の理由ではなく、(多分、日蓮手製の)隋身仏が持ちされたからといって、第二転、つまり、その身代わり複製を建立したことに対する抗議、さらに日興は仏像は一尊四士であるという持論を持っていたので、一体仏であるという、以上二つの理由から、これに抗議したことでした。以下、その文献です。

「日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。
 それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき」(原殿御返事)

刷り込まれた集団のご都合アナウンスを自分で考えたことのように思わないことです。そして、集団のいうことは疑って、位置から自分で考え直してみることが大切です。少なくても、ここで長らく書いている人は、みな、その道を通ってきました。

2018犀角独歩:2006/05/11(木) 01:46:37

【2014の訂正】

誤)右が日蓮宗、左が石山。
正)左が日蓮宗、右が石山。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/sange_hikaku.html

2019犀角独歩:2006/05/11(木) 02:01:55

【2017の訂正】

誤)現在の民主儀
正)現在の民主主義

2020犀角独歩:2006/05/11(木) 02:33:34

持仏は、日蓮手製であること
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nitirenteseinobutuzo.html

2021なし:2006/05/11(木) 06:39:41
>現在の民主主儀と鎌倉時代を混同しては現実は見えません。

ご指摘のとおりですね。ありがとうございました。出家の原点はことごとくを捨て去る事から始まると思っていましたが
世の中は認めてくれない。優秀な僧侶にはジレンマもあったでしょうね。 大甘でありました。


聖人手製の持仏、証拠の提示ありがとうございます。伝承鵜呑みはあぶない。


波木井氏の釈迦像建立についての文献提示ありがとうございます。よくわかりました。

御文は強い、後世に残すことに尽力された日興上人のご功績は計り知れない。有難い事です。


>刷り込まれた集団のご都合アナウンスを自分で考えたことのように思わないことです。そして、集団のいうことは疑って、位置から自分で考え直してみることが大切です。少なくても、ここで長らく書いている人は、みな、その道を通ってきました。

心しているつもりです。
恥のさらしついでにもう一つ。
独歩さんの日目上人の評価が気に入らないのです。聞くところではば問答第一であられたという。
天奏でお尋ねあった時、問答に詰まってはお話にならないのでは。

2022犀角独歩:2006/05/11(木) 10:36:59

なしさん

まあ、気に入らないと、言われても困ります(笑)

さて、この「問答第一」「天奏」という2点に就き、あなたの思いは矛盾していませんか。伝説によれば、日目は42度の天奏を行ったといいますね。(『五段荒量』等)最後は美濃で臨終されたわけですから41度ということになりましょうか。41度です。では、あなたがいうとおり、問答第一ならば、そこで問答がされ、相手が納得しなかったのならば、これでは、まるで問答第一ということになりませんが、どうでしょうか。

さきにれんさんが、日目に取り立てた教学的な特徴を見られないのは、むしろ、日蓮、また、日興の教えを忠実に継承したからではないか、顕正居士さんがご指摘されるとおり、特に著書が伝わらないわけです。それでも、日目の様を伝える伝記は古く、『御伝土代』に見られます。

「大聖仰せに云く。卿公問答せよ…聖感あつて云くさればこそ日蓮が見知りてこそ卿公をば出たれと云云」

この記事を見る限り、日蓮は、日目の問答能力を高く評価していたことが知られます。また、これは『家中抄』日目伝では「小日蓮」さらに「肉牙」問答第一の証に脱けた歯を下す(御肉牙)へと潤色されていきます。このようなところから、日目の問答第一の伝説は出来上がって言ったのでしょう。

わたしが日目の教学力に疑義を唱えたのは、問答第一という側面ではありません。概ね二つです。一つは、日目は日興在世の時から既に本尊を認めています。これは石山流の師弟の筋目に反しないかということです。もう一点は、日蓮の漫荼羅は「書写」の二文字がないことは、当掲示板でも話題に上ったことで、これは本尊書写のとしては、ルール違反ではないのかという点です。問答についてではありません。

問答というのは、勝ったほうが教学力も、信心もあると看做されることになりますが、わたしは問答の勝敗と、述べる教学の是非は別問題であると考えます。単に口がうまく、場を握れば、問答には勝つことができるからです。その好例が半世紀前の小樽問答の創価学会の勝利です。ここでなされた問答内容の学会側の主張はまさに噴飯ものですが、しかし、見かけでは学会の圧勝ということになります。しかし、その勝利に際し、主張された内容は、少しも日蓮の教学といえるものではなく、「本門戒壇の大御本尊」も偽物でした。

日目が問答第一であったか、懐く教学の日蓮を継承したものであったのか、今のところ、資料が乏しくその落着は困難であろうかと思います。

さて、前置きが長くなりましたが、なしさんは、一つの固定観念に基づいて天奏を考えているのではないでしょうか。それはつまり、問答が巧みで天奏して問答して朝廷を納得させれば、日蓮の教えに帰依する。これがまず、言われてきた物語を鵜呑みにしてしまったことによる判断の誤りの第一です。

当時のの事情、文献をから考えるとき、天奏とは、大雑把に現在の事例で類似形の探ると、いわば、宗教法人の許認可、また、朝廷、もしくは武家からの供養の確保という点に、実利面に重点があることがわかります。今の時代と違い、書類の手数料を出して、認可を待つというわけにはいきません。公の長、武の長と、直接掛け合って、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願が天奏であったというのが、当時の文献から窺える実像です。まあ、そこで問答に巧み(口がうまい?)というのは、他から抜きん出る意味でも、口下手より有利でしょうが、しかし、絶対要件ではないでしょう。

ですから、日目が問答第一であったかどうかと、天奏とは、直接、脈絡のないことであるとわたしは思いますが如何でしょうか。

2023犀角独歩:2006/05/11(木) 13:19:49

2020に就き、「船守弥三郎許御書にある」というメールを頂戴しましたので、ご本人の許可をいただき、その後指摘を紹介させていただくと共にこの点を記します。

『船守弥三郎許御書』に「海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事」(定230)

この一節から、持仏は海中出現であるというのが、その反論でした。
わたしは、これを類推解釈であると思うわけです。「仏体」とあって、仏像とはないからです。
同御書は真蹟を遺さず、その内容からとても日蓮の真筆とは思えません。しかし、仮にここに記される出現の仏体という伝説が事実であったとしても、それが直ちに仏像であるということにはならないと考えます。

むしろ、ここで日蓮がたまわったとするのは、「海の定木」であり、それを仏像に刻んだゆえに仏(の)体としたという類推は成り立ちます。

漫荼羅正意論からは見えない日蓮の伊東流罪の心情があります。
当時は、当然、漫荼羅図示を日蓮は始めていません。日蓮が伊東で実際に過ごした場所はどのようなところであったのか、憶測の域を出ませんが、幼少より仏教に慣れ親しみ、虚空蔵菩薩に願もかけ、弥陀仏を簡んで釈迦を崇めた日蓮は、仏教の僧侶として、当然、仏像は崇敬の対象であったでしょう。

しかし、流人として流された日蓮の寓居は同宇ではなかった。当然、そこには仏像もないような場所であったのだろうと想像できます。

漫荼羅正意論者が、家に本尊がないことを寂しく不安に思うように、仏教僧として、仏像のない場所での暮らしは、どれほど、心細いものであったのか、わたしは、そんな流地伊東で流人の身上で日々を送った日蓮を想像します。そこで、海に浮かぶ一木を献上された日蓮は、自らの思いを篭めて一体の仏像を彫り、それを持仏として充て、無仏の寓居で、流罪を越した…。その苦しみを共にした手製の持仏を日蓮は、終生、大切に身に帯し、死んで身延に墓所を希望するに及んでも、身が荼毘に付されて骨となっても、その辛苦を共にした持仏を墓の傍らに置いて欲しいと願ったというのが、その日蓮の心情であったのではないでしょうか。

この持仏彫刻の伝承は、しかし、重須文献に見られる富士方が護るところであったのに、その後、徐々に漫荼羅正意に傾いた門派では、日蓮が自ら仏像を彫ったという伝説はまことに都合が悪いところであり、ゆえに今日では文献が残っているのにもかかわらず、語られるところがないことになったのであろうとも思えます。

いくえにも日蓮の痛みが伝わる顛末であると、わたしには思えます。

2024犀角独歩:2006/05/11(木) 13:42:09

ところで、この海中出現仏像伝説というのは、日蓮門下に限らず、むしろ、他で先行して、その物語があります。
なぜか、仏像の海中出現の仏像の伝説は古今東西に聞かれるのですが、こんな物語の延長で船守弥三郎献上の海中出現の仏像伝説も紡がれたのであろうと思われます。
彰往考来さんが得意とされるテーマと感じます。


「推古天皇36(628)年に土地の漁師、浜成・竹成の兄弟が投網で聖観世音菩薩像を海中から拾い、土師真中知が居宅を寺として奉安」
http://masuda91.hp.infoseek.co.jp/page07b.html

「白鳳元年3月15日、この地の漁船が八幡浦で難風に遭ったとき、荒れる海中より出現した阿弥陀仏像を、船にお載せ」
http://www.jodo-chiba.jp/contents/syokai/4088_muryoji.htm

「閻浮檀金釋迦如来像…唐代貞観十九年(646年)
下関赤間ヶ渕の海中出現の金像」
http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/ttemple/y04/0409taka/jihou.htm

「普賢寺は平安時代、寛弘3年(1006)の創建で、開山は播州書写山円教寺の性空上人(910〜1007)といわれる。本尊の普賢菩薩像は海中から出現したという生身の霊仏」
http://www.kvision.ne.jp/~h-kanko/new-hp/bunkazai.htm

貞和3年(1347)「柴村の漁師が海中にまばゆいばかりの光を放つ物を見付け、村人たちは光をたよりに恐る恐る網を入れた。と、その光の主こそ、大津波のとき身替りになった長浜の観音さまだったのである。
 長年、海中に沈んでいたためカキ殻が一面に付着。村人は「貝付<かいつき>観音」といい、別に「海中出現の観音」とも呼んだ」
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/21/21.htm

「応安元年(1368)妙謙和尚によって、開かれたといわれ、本尊の毘沙門天は、行基の作と伝えられています。この毘沙門天は、海中出現の像」
http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/M-MIURASI-B.htm

「済鱗寺…1570)に海中より出現の阿弥陀仏像を本尊」
http://www.kcc.zaq.ne.jp/sitihukujin/sairinnji.htm

等々

2025藤川一郎:2006/05/11(木) 16:13:03
京都のIH法衣店にて、法衣の作成をする場合、一番出しにくいのが「薄墨色」だそうです。
一見逆のようですが、この微妙な色は出すのが難しい。
ネズミ色は簡単に出来ますが、薄墨色は難しく手間もかかるそうです(同一ではありません)。
一見派手な色の方が、染めが簡単だそうです。

だから究極の薄墨色の衣を作るとすると、最大の金額の物も作れるのですが、残念なことに日蓮正宗ですらそこまでの法衣は作ってくれないそうです。
それを宮中御依頼で作成するのが、数十年に一度だそうです。

2026れん:2006/05/11(木) 19:14:12
なしさん、初めまして。
目師の教学については、独歩さんのご指摘の通り、目師自身の著作は殆どなく、目師による日蓮聖人の御遺文の写本も、一代聖教大意(保田妙本寺蔵)・法華経題目抄(柳目妙教寺蔵)・四信五品抄(富士大石寺蔵)・法華取要抄(富士大石寺蔵)が伝承されるのみです。もっとも四信五品抄については奥書に「弘安元年五月二日」とあり、日蓮聖人在世、恐らく身延山での書写でしょうから、日蓮聖人から、この書の法義について何らかの教示を受けた可能性の推定は可能でしょう。ともかく目師が自身の日蓮聖人の教学に対する認識を披瀝した文献は現存しないので、現在、独歩さんが要約してくださった視点に落着しています。
一応の参考資料を提示すれば目師の孫弟子の郷門の日叡師の類聚記には「大上人御出世御本懐御法門日目上人御相承ハ弘安五年正月一日也云々」とあり、また同師の後信抄に「師傳ニ又本佛、本戒、本尊等の大事アリ、可秘可秘」とあり、上記の法門伝授が行われたことが上代目師門下に確認出来ます。道師門でも、大同の法門が伝承されていた模様でこちらは耳引法門として纏められたようですね(石山三十一代日因師の三四月会合抄に引用される日目直授相承〈三口一徹の相伝〉はその一部分の可能性があるかもしれません)。ただし郷門のそれは貫首一人の秘伝というわけではなく、日叡にも伝承されていた訳ですから当器伝授という位置付けだったと思います。
目師の問答については、日叡師の兄弟の慶俊師の写本を底本としたという戦国期の写本を翻刻した「問答記録」にありますね。目師筆の本尊には、現在公開されている三幅の御筆写真には「書写之」が記されてないのは、どういうわけによるものか、釈然としないものがありますね。まあ、図顕といった意識の方が強かったのかもしれません。

2027なし:2006/05/11(木) 20:01:41
先ほど帰ってきました。とりあえず1行だけ
お会式で読まれる申状はどんな位置づけなのでしょう。

2028犀角独歩:2006/05/11(木) 21:48:18

れんさん

つぶやきで、やや議論になってしまいますが(笑)

『百五十箇条』に「三箇秘法とは日蓮日目と御相承し・日興聖人は唯授一人の相
承たる間、我が臨終の時・耳にさゝやげと仰せられけるほどに・其の剋に御耳にこそ唱へて聞せ奉り御座す事なり、大聖より御聴聞有る故にこそは日朗の「卿公は御法門聴聞」とて強くも目の耳を引きたまふ日朗の耳引法門とは今の三箇のいはれなり、此の時は日蓮・日目・日興と次第し、御付法は日蓮・日興・日目と次第するなり、此の三箇の秘法は当宗の独歩なり」とあります。

この文章を信頼する限り、耳引法門とは、臨終に囁く三箇の秘法であり、これは、蓮目興の次第であるけれど、付法となると蓮興目なのだという趣旨です。

この辺のところは、内心ではまだまだ決着していないのですが、以前の話し合ったことかと存じますが、蓮目直授という相承譜は、あるめん、洛の始原であると思うのです。しかし、これが天文法難以降、寺院拠点を喪った洛中では、その復興に際し、権威を富士に求めたところ、その頃には既に蓮興目の次第が定着していた。そこで、上古の蓮目尊という直授相承観と、蓮興目の相承観の整合性を諮る必要性が迫られたということはないでしょうか。

もう一点。わたしはどうも耳引法門という点の判断に迷いがあるわけですが、上記の文献にいう説明というのは至当なものとお考えになりますか。

2029犀角独歩:2006/05/11(木) 21:51:06

> 申状はどんな位置づけ

認可嘆願書といったところではないでしょうか。

お会式のといことなので、一言しますが、これを法要で捧読するようになったのは、日精の時代ではありませんでしたか。その際、申状が存在しない歴代のものをいくつか作って補填したということでしたね。

2030れん:2006/05/11(木) 23:00:01
犀角独歩さん
やはり突っ込まれてしまいました(笑)
御引用の文は百五十箇條ではなく、左京日教が石山転派後に著述した穆作抄ですよね。左京日教が富士に転派する以前の著作の百五十箇條では、「法門の大事・三箇の秘法を授け玉ふ日興」と記して、三箇秘法を日蓮が授与したのは日興という設定で、こちらが当時の尊門の伝承と思います。日教が富士に転派してからの著作には、日蓮が三箇秘法を授けたのは日目としている訳で、こちらが日教が帰依した当時の三箇秘法に関する石山義だったと思います。上古の尊門の系譜観は百六箇の奥に垣間見えるようにむしろ蓮興尊で、蓮目の直授相承観は富士山麓の目師門程には色濃くなかったと思えます。日教は石山日有とほぼ同時代に活動した天文法難以前の人で、石山に帰依してから三箇秘法については以前の蓮興直授の主張を捨て、蓮目相承を主張したので、整合性を諮るというという意図が日教にあったか否かは、私には分かりません。
石山日有の言では、石山で蓮目直授とされる耳引法門を文献化したのは六世日時だとするわけで、御提示の日教が穆作抄に記した耳引き法門にかかるエピソードの設定は、日有の言を補完するものではありましょうね。このエピソードの設定は、おそらく日時が四帖に記したものがネタ元だと思います。
堀日亨師によれば現在要山に所蔵される日蓮在世に日興が書写した観心本尊抄の写本は後世に石山が要山に与えたとのことですから、私の根拠の無い勝手な想像ですが、上古石山においては、石山にあったという観心本尊抄日興写本が、蓮興目の相承観に使われていた可能性はあると思います。
以上のことから、日教の穆作抄の耳引法門に関する説明は、当時の石山の主張を示したものとしては至当と判断しております。
以上ご参考まで。

2031なし:2006/05/11(木) 23:36:19
>> 申状はどんな位置づけ

>認可嘆願書といったところではないでしょうか。

目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか。

小樽問答あれは吊るし上げでしょう。問答に饒舌の必要はないと思います。
簡潔、痛烈な一矢でいいのではと思います。

2032犀角独歩:2006/05/11(木) 23:58:23

れんさん、ご批正、有り難うございました。
たしかに『穆作抄』でした。どうも、最近は耄碌したせいか、すぐに間違います(笑)

れんさんと議論の始まりは、『四帖抄』でしたね。空き缶さんや、現時点さんとの、この件に関しては賑々しく議論しましたね。

わたしは、四帖と聞くと、やはり、慶林日隆を想起するのですが、石山では、そうはならないわけですね。「四帖の聖教」というのは、当時、回達された『四帖抄』にあやかって、悪くいえば、パクって付けた名前ではないのかと、わたしは思ったりするのです。富要で見る限り、この語彙は『有師談諸聞書』でしか、確認できません。相変わらず、歴全を所持しない怠慢なのですが、確実な資料として、この初出というのは一体いつ頃のことになるのでしょうか。

後付で日時に仮託すれば、日隆に先行することになりますが、日有であれば、受け取った張本人以降ということになります。日精に依れば受け取ったが読まなかったというけれど、そんなことはないでしょう。面白いともうのは、『四帖抄』を受け取ったのが、日有であるというのは、日蓮門下一般でも通説になっていて、その他の人の名が上がらないことです。それで、石山は勝劣義というわけですから、影響がないとは誰も思っていないわけです。

関連するかどうか分かりませんが、耳引法門といえば、三箇の秘法で、『三大秘法抄』も日時本があると主張してきたのも、石山。どうも、日時となると疑わしい気分になるわけです。

この辺り、れんさんは、どうお考えになりますか。

2033犀角独歩:2006/05/12(金) 00:07:00

なしさん

「正法を崇められんと請ふ」というのは嘆願以外の何でしょうか。

> 問答…簡潔、痛烈な一矢

それはあなたが考える問答でしょう。

では、逆に聞きましょうか。日目の申状のどこに痛烈な一矢があるのでしょうか。そもそも、内裏に通された僧侶が、朝廷に言辞とは言え、痛烈な一矢など放ったら、その場で即刻、頚を刎ねられますよ(笑)

2034犀角独歩:2006/05/12(金) 00:09:12

それから、なしさんに一つ記しておきますが、れんさんもあなたに話しかけ、記して下さっているわけですし、わたしも時間を割いて、レスをしています。

それなりの儀礼を以て、応じる矜持を示せないのであれば、他のバトル系のBBSでやればよろしいのです。

2035犀角独歩:2006/05/12(金) 01:06:43

日目四十二度の天奏は後付の伝説か?

いま、ざっと検索してみたのですが、日目の四十二度の天奏は、古い資料で『五人所破抄見聞』の「日目上人四十二度の天奏」、『申状見聞』の「目上は一代の間四十二度の御天奏」といったところです。日目寂から、150年ほど、あとの伝説ということになります。

わたしが、日目の天奏に就き、許認可嘆願の類といったのは、その結末が日尊が代奏した結果、土地を賜って、一宇建立したのが上行院であるからです。
この史実は、死身弘法であるとか、国諫という語彙のニュアンスからほど遠いではないかと思うからです。

ただ、これは日尊のみのことかといえば、その他の事例も大同小異という印象があります。

また、申状を受けた側も、他宗他派を斥けて日蓮法華一宗を採ったなどということはなく、常に複数の宗教を是認しているのが、為政者の常でした。新興宗教の代表者が朝廷その他に謁見を求め、内裏に上がるのに、諫めの目通りが適うなどということは、実際上、考えづらいところです。むしろ、やや穿った見方をすれば、このような目通りには、その斡旋、紹介者を含めて、巨額の資金が動き、むしろ、主眼はそちらに傾きやすい面があったのではないのかと想像します。

中世の不受布施派のように、謗施、謗法与同、破邪顕正といった趣きの国諫が実際になされたとすれば、そのレスポンスは、日蓮と同様、法難流罪といった形となったでしょう。ところが、日目にしても、日尊にしても、そうはなっていないわけです。

申状とは「個人が公に差し出す上申書。申文ともいう。または日本中世における訴訟状。本解状・目安。所領等の争いにおいて安堵を要請する原告者の訴状」(日蓮宗事典)というのが、本来の意味ですから、国家諫暁書を直ちに意味すると考える点にわたしは疑問を懐いているということです。

なお、各師の申状の文面は定型化しており、それはつまり、現代の法令書式一般のように、一定の決まりに基づいて書かれたことを意味するのだと思います。

2036なし:2006/05/12(金) 03:27:01
れんさんからご挨拶をいただいておりながら大変失礼いたしました。
れんさんの書き込みの詳細部分、私にはレベルが高すぎて何につながっているのかは実はよくわからなかったのです。ご指摘を受け何度も読み返して目師の著述に関してのご教示でありました。れんさんすみませんでした。

わたしは」日目上人に教学の著述が少ないことには興味がありません。
「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」と日興上人は仰せです。加えて頭頂の凹むご奉公、身延で「聖人の御説法を聴聞せずということなし」これによって習学せざることも亦よく暁了したまえり----。亦予の伝奏の代として二度流難三度の高名これあり----,亦巧於難問答に達せり---伊勢法印と問答したまうときも一両句にて閉口いたされたる、---、と
これらをもって著述が少ないことが何の不足になるだろうかと思っています。

独歩さん、短文過ぎて誤解をあたえてしまったようですみませんでした。

>認可嘆願書といったところではないでしょうか。

目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか。

この質問は独歩さんの以下の記述を受けてのものでした。

>天奏とは、大雑把に現在の事例で類似形の探ると、いわば、宗教法人の許認可、また、朝廷、もしくは武家からの供養の確保という点に、実利面に重点があることがわかります。今の時代と違い、書類の手数料を出して、認可を待つというわけにはいきません。公の長、武の長と、直接掛け合って、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願が天奏であったというのが、当時の文献から窺える実像です。まあ、そこで問答に巧み(口がうまい?)というのは、他から抜きん出る意味でも、口下手より有利でしょうが、しかし、絶対要件ではないでしょう

---------------------------------------------------------------------------------------------------
日 目 上 人 申 状
 日蓮聖人の弟子日目誠惶誠恐謹んで言す。
 殊に天恩を蒙り、且つは一代説教の前後に任せ、且つは三時弘経の次第に准じて正像所弘の爾前迹門の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められんと請うの状。
 副え進ず
 一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の勘文
 一通 先師日興上人申状 元徳二年
 一、 三時弘経の次第

 右、謹んで案内を検えたるに、一代の説教は独り釈尊の遺訓なり、取捨宜しく仏意(ぶっち)に任すベし。三時の弘経は則ち如来の告勅なり、進退全く人力に非ず。
 抑、一万余宇の寺塔を建立して、恒例の講経陵夷を致さず、三千余の社壇を崇めて如在の礼奠怠懈しむることなし。然りと雖も顕教密教の護持も叶わずして、国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈祷も験(しるし)なく、自他の反逆歳を逐うて強盛なり、神慮測られず仏意思い難し。倩(つらつら)微管を傾け聊(いささ)か経文を披きたるに、仏滅後二千余年の間正像末の三時流通の程、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三つあり、所謂法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。之を信敬せらるれば、天下の安全を致し国中の逆徒を鎮めん、此の条如来の金言分明なり、大師の解釈炳焉たり。就中我が朝は是れ神州なり、神は非礼を受けず。三界は皆仏国なり、仏は則ち謗法を誡む。然れば則ち爾前迹門の謗法を退治せらるれば、仏も慶び神も慶ぶ。法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え国も栄えん。望み請う、殊に天恩を蒙り諸宗の悪法を棄捐せられ、一乗妙典を崇敬せらるれば、金言しかも愆(あやま)たず、妙法の唱え閻浮に絶えず、玉体恙(つつが)無うして宝祚の境え天地と疆(きわ)まり無けん。日目先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ。誠惶誠恐謹んで言す。
  元弘三年十一月   日 目
-----------------------------------------------------------------------------------------------------
独歩さんは答えとして「請うの状」をあげられました。嘆と請う
申状の内容には弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願はありません。

二度流難三度の高名これありとは何のことでしょうか。


小樽問答あれは吊るし上げでしょう。問答に饒舌の必要はないと思います。
簡潔、痛烈な一矢でいいのではと思います。

問答について小樽問答を出されましたので感想と問答の要点を述べたまでです。
「伊勢法印と問答したまうときも一両句にて閉口いたされたる」を連想してのことだったのですが。

なぜか「出て行け」とお叱りを受けました。まもなくお暇いたします。
お叱りを受けて一本指で一所懸命に書きました。御寛恕を。

2037犀角独歩:2006/05/12(金) 09:37:44

なしさん

わたしは「出て行け」と記したのではありません。
せっかく、れんさんが声をかけてくださり、長いレスを下さったのだから、挨拶を返してしかりである、そのようなことが出来ないような無礼な態度はこの掲示板に馴染まない、挨拶も出来ないのであれば、他のバトル系の掲示板にいってはどうかという意味で記したのです。しかし、ちゃんと、2036に挨拶をされたのですから、その限りではありません。

なお、2036では、先の投稿内容を繰り返しています。これはたぶん、先の投稿が短文で誤解を招いたので、それを補完して繰り返したのであろうと思います。しかし、この同一内容の繰り返しは、当掲示板では投稿規約に抵触します。

「4 無意味な多重投稿・反復投稿を禁止します。同じ文章の連続投稿、或いは、文章は同一でなくとも内容的に同じことを繰り返し投稿された場合は削除致します。なお、根拠を示せないとか、すでに論理が破綻しているとかにもかかわらず、臆面もなく投稿し続けられた場合は、無意味な多重投稿・反復投稿とみなし、削除致します。」

特に管理者さんから注意がないので、今回は看過しますが、よく『当掲示板への書き込みルール』を熟読されて、投稿されては如何でしょうか。
http://jbbs.livedoor.jp/study/364/#13

さて、日目申状が許認可・嘆願書の類ではないかという点について、説明しましたが、どうも、申状の文のみにとらわれて、わたしの記した意味がわからないようなので、やや補完します。

> 日目上人に教学の著述が少ないことには興味がありません

あなたの興味は、関係ありません。
事実証拠がなければ実証されないということです。

> 「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」と日興上人は仰せです

該当文章は『日興跡条々事』、日目譲状と称されるところですが、これを日興の真筆だといっているのは石山門下ぐらいのものです。
石山では日興真筆があると主張しますが、本日に至るまで、その影本を見せず、石山僧が論文まがいのものを発表し真筆であると言っているのに過ぎません。わたしは偽書説を採ります。偽書を以て証拠とするは笑止千万。この書は日興の真筆である証拠があればお聞きします。是一

わたしは先にも記した際に小樽問答を上げましたが、これは問答ではなく吊し上げだというのがあなたの反論でした。では、この問答と、称賛したのは誰でしょうか。大石寺一山ではありませんでしたか。あなたがどのような信仰者であるか知りませんが、文面からすれば、小樽問答を批判する側であるということは、この点については当時の石山を批判する立場にあるということですね。その点ではわたしは同意しますよ。

2038犀角独歩:2006/05/12(金) 09:38:17

―2037からつづく―

しかし、日目の御伝土代に記されるところの問答において、相手が問答に詰まって閉口した。それが、ですから、朝廷に対する国諫でどんな意味を有するのかというのがわたしの問い返しです。意味を持ちますか、そんなことが。是二

> 目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか

この点については、既に記しましたが、どうも通じないようなので、やや補足しましょう。読み飛ばさず、一々の記述をしっかりと認識してください。

1.「請う」という言葉の意味は以下のとおりです。

こ・う こふ 【請う/乞う】

(動ワ五[ハ四])
(1)ある物を与えてくれるよう、またある事をしてくれるよう相手に求める。
「この道の専門家に教えを―・う」「近日上映。―・う、御期待」「みどり子の乳(ち)―・ふがごとく/万葉 4122」
(2)願いの叶(かな)うよう神仏に祈る。
「天地(あめつち)の神を―・ひつつ我(あれ)待たむはや来ませ君待たば苦しも/万葉 3682」(三省堂提供「大辞林 第二版」)

日目の申状の場合、文面だけで読めば「末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められん」ことのみを請うているわけですが、本当にそれだけが趣旨なのか、というのがわたしの発題です。ですから、わたしが記したことは申状における文章だけの意味ではなく、所謂「国諫」と称された行為そのものがどのような意味のことなのかを記してきたことです。そのうえから、今一度、申状に戻り、読めば、許認可・嘆願を趣旨とした文章なのだろうという意味です。

日目の天奏が本当に42度に及んだのかどうか。この点については、日目寂150年後の書と覚しき『五人所破抄見聞』に載るところであるけれど、上古の文献にそれが見られず、単なる伝説の類、潤色の称賛ではないのかというのが、先に記したことです。となると、実質的に日目の天奏は、美濃の垂井で旅途上で寂した時に、日尊が代奏を果たした事跡に史実が見られる。では、この史実の顛末は、と言えば、日尊は、代奏の巧を嘉見せられ、土地を受け、上行院を建立した。つまり、この史実が示す顛末は、結局のところ、京都における布教の安堵、寺院土地堂宇の下賜ということになっているではないか、つまり、このことが申状の目的であったのだろうというのが、先のわたしの投稿の意味です。

> 申状の内容には弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願はありません

ですから、文だけを読めば、あなたが言うようになるけれど、結果的には、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援にしかなっていないと言っているのです。違いますか。是三

2039犀角独歩:2006/05/12(金) 09:38:47

―2038からつづく―

またもし、日目の意志に「国諫」という意志があったのであれば、日蓮のように流罪・死罪に及ばないのかは不思議である。それはつまり、「国諫」と称される申状を上申する行為が、言うほどの諫めを目的としたものではないから、もしくは、相手にされなかったかのどちらかということになる。であれば、問答が巧みであることにならないし、仮に問答が巧みであっても意味をなさないというのが、先のわたしの記したことです。日目が問答が巧みであったことが国諫に何か役立ちましたか。是四

> 二度流難三度の高名

これが日目とどのような関係があるのでしょうか。日目の事跡であると勘違いしているのでしょうか。日蓮の伊東、佐渡の二度の流罪のことでしょう。三度の高名とは『撰時抄』の以下の文章を指すのでしょう。長いですが、コピペします。

「余に三度のかうみやう(高名)あり。一には、去し文応元年〈太歳庚申〉七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向て云く、禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。この事を御用ひなきならば、この一門より事をこりて、他国にせめられさせ給ふべし。二には、去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向て云く、日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とてこの国の人々他国に打殺さるるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。第三には、去年〈文永十一年〉四月八日、左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑なし。殊に真言宗がこの国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事、真言師には仰せ付けらるべからず。もし大事を真言師調伏するならば、いよ球究いそいでこの国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問うて云く、いつごろかよせ候べき。日蓮言く、経文にはいつとはみへ候はねども、天の御けしきいかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。この三つの大事は、日蓮が申したるにはあらず。ただ偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり。経に云く、「所謂諸法如是相」と申すは何事ぞ。十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば、仏は世にいでさせ給ふ。「智人は起をしる、蛇はみづから蛇をしる」とはこれなり。衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始しは、日本国には一稀一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道はこれよりほかにまたもとむる事なかれ」

その迫力といい、身に法難を呼び起こした実際といい、まさに国諫というに、相応しい内容です。日目の定型文とは、比較になりません。

> 問答…簡潔、痛烈な一矢でいいのではと思います

先に記したとおり、そのようなものでは、何の役にも立ちません。

以上、あなたが個人的に日目を崇拝するのはけっこうですが、ここでの議論は、実際の証拠を挙げて、事実を追求することに目的があります。日目崇拝の押し売りはなじみません。押し売りでないというのであれば、上述したわたしの記述を拾い読みしたり、一部をつまみ出して反論するのではなく、事実証拠を付して、一々に議論に臨むことが望まれます。

2040れん:2006/05/12(金) 10:38:24
犀角独歩さん
石山の四帖については、公開されていないですし、不現存説もありますので、内容を確認出来ない以上考証はできませんが、独歩さんのおっしゃるとおり、日有が日隆から渡された四帖抄にあやかって、または触発されて、当時の石山義を纏めた書である可能性も否定できませんね。石山蔵の三大秘法抄の古写本は、戦後発見され、発見当時は日時筆とされたものの、近時の興風談所の研究と筆跡鑑定により日時筆は否定され、筆者不明本(日主の署名花押が別の箇所に見えることから、日主所持本と考えられています)とされていますから、三大秘法抄と日時の繋がりは、無いとは存じます。
石山の四帖が日時の真書と仮定したとして、私の推定では、三師伝も、四帖の一部では…と想像しています。宗祖伝(一帖)日興伝(二帖)日目伝(未完ですが一応三帖)、残りの一帖に耳引法門を含む当時の石山義が記した…という推定です。まあこれについてはこれといった根拠は全然ないので、お気になさらずにご笑覧ください。

2041れん:2006/05/12(金) 10:49:49
追記
石山の四帖や耳引法門の初出はやはり、文献的には、日有の例の富要収録の雑雑聞書ということになりますね。年代は特定できませんが、まあ、有師老年の頃すなわち室町中期と仮定すればあたらずとも遠からずであろうと存じます。

なしさん、ご挨拶痛み入ります。私については、そんなにお気になさらずに結構です。目師に限らず上代富士門とくに石山は教義についての文献が少なく、考証が困難です。ですから、答えを早急に出すのではなく、ここでの皆さんの議論を拝聴して、一通り勉強してから結論を出しても遅くないと思いますよ。

2042犀角独歩:2006/05/12(金) 11:22:02

れんさん

ご回答、有り難うございます。

> 石山の四帖…公開されていない…不現存説

かさねての問で恐縮ですが、つまり、石山は、条々事や、示書のように真筆があるという主張があるのでしょうか。

この“帖”というのは、いまでいう和綴じ本の体裁を言うとのことでした。
これまた、何で読んだのか失念したのですが、日隆以前では巻本が主流で、帖と綴じられた本がなかった。故にいわば一種の出版革命の趣があり、大いに興隆したということでした。この手のことは、多分、彰往考来さんがお詳しいと思います。

申すまでもありませんが、四帖抄とは『法華天台両宗勝劣抄』。
つまり、四帖とは4冊の和綴本としたという意味で、これが日隆に始まる。となれば、それ以前にそのようなものはなかったのではないのかという類推も交えて、日時の時代には遡れないのではないのかという、まあ、書誌学といえるかどうかわかりませんが、そのような類推です。

2043犀角独歩:2006/05/12(金) 11:38:19

2042の自己レス

帖(じょう)というのは、辞典で調べると、和綴本ではなく、折り本を意味するのですね。
どうも、あぶなかっしい記憶のようです。
どなたか補完していただければ有り難く存じます。

2044顕正居士:2006/05/12(金) 15:02:39
「帖」は折本、つまり屏風のようなものです。源氏物語は54帖です。
四帖というのはそれが四つという以外の意味はありません。

2045れん:2006/05/12(金) 16:21:05
犀角独歩さん
今から十年程前に、石山で刊行した蓮祖の真筆影印集について同山に問い合わせた際、話のなかで、時師が石山の法門を纏めたものがある…というようなことを聞いた記憶があります。それが有師の言う四帖にあたるのか、また別物なのか、本当に時師筆なのか否かも存じ上げません。
まあ、石山にはそのようなものが有るらしい?という程度の認識です。

2046れん:2006/05/12(金) 16:23:51
追記
不現存説は、大黒師編「日興門流上代事典」によります。

2047犀角独歩:2006/05/12(金) 16:49:42

顕正居士さん

そうしますと「四帖抄」とは、どんな意味になりますか。
折本4冊でよろしいでしょうか。


れんさん

有り難うございます。
それにしても、近代以降の石山では四帖も、耳引もいわれなくなりましたね。
散失してしまって「猊下」もご存じないと言ったところでしょうか。

2048顕正居士:2006/05/12(金) 20:32:56
>>2047
折り本四部の著述という意味に過ぎず、日隆の抄とは無関係でしょう。
巻子本の次に行われた製本ですが、平安時代からです。経本は今もこの形です。
一帖抄、二帖抄、八帖抄、三帖和讃、観経四帖疏、古今六帖…。
帖数で呼ばれる著述は多いです。

製本の歴史
http://www.tokyo-seihon.or.jp/seihon/history-1.html

2049犀角独歩:2006/05/12(金) 21:57:38

顕正居士さん

ご教示有り難うございます。
どこかでたしか、帖としたことが、功を奏したといった記述を読んだのですが、いまは思い出せません。たしか日本への輸入も仰るように折本は中国には、かなり早い時期にあったようで、であれば、平安期に日本にあって然るべきかと存じます。ただ、「日蓮門下では」ということでもあったような。しかし、いまはこれまでといたします。

それにしても、日隆は「著述は古来三千余帖と伝えられている」(『日蓮宗教学史』P113)のに、取り分け、そのなかで四帖抄、一帖抄と切り出されていることに不思議を感じます。

2050犀角独歩:2006/05/13(土) 12:06:55

2039のわたしの応答に対して、なしさんからはいまのところ、返答はありませんが、もう少しだけ、申状ということについて、記しておきます。

日蓮が、鎌倉で布教をはじめようとしたとき、『立正安国論』を上申しました。
日蓮滅後、6人の派祖たち、また、その系脈に係る人々は、主に京に向けて申状を提出していったわけです。門下一般では、これを「国諫」と称し、捨邪帰正、一乗法華経帰依の旗印のように論じられてきました。

しかし、わたしは、この説明は、どうも納得がいかない。なぜならば、為政者というのは、常に複数の宗教者、複数の寺院を認めていて、ただ一つに帰依するなどということはなかったからです。

申状…、というより、国諫?と言われた行動を、わたしが「許認可」と言ったのは、たとえば、日蓮は新幕府の地、鎌倉で布教をはじめるのに上申をした、また、その門下は、やはり、日本の中心地である京都に向かい、上申をした。その内容は表面的には確かに自己正当の主張であったけれど、詰まるところ、為政者、国王に自分たちの教えが正しいことを認めてもらうことに主眼があった。これは結局のところ、布教基盤の確保、自己存在の確保という主眼があるわけで、つまるところ、現在の宗教法人の許認可とさほど、変わらない行為であると映じるからです。

しかし、取り分け、そのなかで、近代の国家神道のように、もしくは伝教当時の比叡山のように、その主導権を自らが握ることに主眼が置かれれば、その許認可内容はさらにランクアップしたものとなる、従来の主導権を握る、宗教権威に自らが取って代わる第一歩は、まず、弘教の認可の確保であり、次には為政者、国王の帰依、ついには、日本一国の宗教的主導権の掌握という概ね三段階を、日蓮は想定していたし、また、その意志を継いだ六弟子も標榜した。日蓮が密事とした本門戒壇構想もそんな一環にあったのではないのかとわたしは考えます。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html

時代を遡れば遡るほど、宗教というものは呪術性というか、祈祷的側面が色濃かったわけですが、その性質はいまの言葉で言えば、「国家安全保障」の、霊的というか、神的というか、ともかく防衛の一環を、実は担っていたわけです。
近代でも、他国が責めてきても、神風が吹いて日本は守られると、本気で信じていたのが日本人でした。ところが、東京中心に都市に無差別爆撃をし、非戦闘員を大量殺戮されたうえ、ついには、2度までも原爆を落とされたわけです。ここに日本人の神風信仰は潰えたのでしょう。

結局のところ、日本の戦後というのは、この手の霊的防衛論からの卒業にあったわけです。日蓮滅後から、近代日蓮主義は敗戦で、ようやくその終焉を迎えたわけです。ところが、いまの顕正会の類は、この幻想をいまだに懐いて、高校生を中心に仏教の右も左もわからない不勉強な連中を誑かしているわけです。

いずれにしても、日目が本当に42度も天奏をしたのだとしたら、高名3度で流罪2回の日蓮のような眼に、どうして遭わなかったのか、日尊はどうして、京に代奏ののちに上行院を持ち得たのか、朗門に目を向ければ、どうしても日像に菩薩号、日蓮は大菩薩号を下賜され、それでも、一国帰依でなかったのか、という歴史的事実と照らし合わせたうえで、国諫?であるとか、申状というものを再読してみれば、その本来の意味するところは、冷静に、客観的に判断できることになるだろうと思うわけです。

まあ、返答がなくても、つぶやきということです。

2051れん:2006/05/13(土) 17:54:25
犀角独歩さん
>2047
近代以降の石山…四帖…耳引もいわれなくなりましたね。散失…「猊下」もご存知ない…
独歩さんの仰るとおりですね。耳引との関連が予想される“日目上人直授相承”については、石山三十一代日因の三四月会合抄上巻に引用され、安政六年成立の大石要法血脈問答にも「唯授一人極秘の御大事とは大石寺金口の御相承・三口一徹の御相伝等、惣じて三十三箇の御相承と聞く」(富要第七巻10ページ)とあり、日目直授相承=三口一徹の相伝の存在を金口相承と並記しており、江戸後期まで確認できますが、近代以降は四帖も耳引も、目師直授相承さえもいわれなくなりましたから、独歩さんの仰るとおり、すでに散失してしまっていて、“猊下”ももはやご存知ないというのが真実かもしれません。
まあ、日有の頃の石山義における三箇秘法を左京日教の著述からみますと「当家には本門教主釈尊・本門戒壇・南無妙法蓮華経の広宣流布あるべき事の三箇の秘法と申すなり」(類聚翰集私)「三箇の秘法とは仏と土と教法なり」(日辰の造読論議に引用される大石寺顕応房=左京日教が会津実成寺泉養房へ宛てた消息文)ということになるのでしょうね。当時の石山ではこの三法門についての教義は日蓮から日目に伝承されたという主張していたということですね。
なお郷師の門下の日叡の後信抄に「本仏、本戒、本尊」とありますが、本来は、本仏、本戒、南無妙法蓮華経とでもあるべきですが、それが本尊とあるのは、案外、もしかしましたら文永十一年十二月の“大本尊”の図顕讃文を有する日蓮御筆漫荼羅の存在を念頭に置いていたが故かもしれません。日興門流上代事典によりますと日郷書写「万年救護本尊讃文」が日向定善寺に現存し「恐らく切紙相承の一種として日郷から日叡に授与されたものではないかと推測」(上代事典383ページ)されるからです。まあ、これは私の根拠薄弱な思い付きにすぎないのですが…。

2052犀角独歩:2006/05/13(土) 23:16:56

れんさん

> 大石寺金口の御相承・三口一徹の御相伝等、惣じて三十三箇の御相承

に該当するものは六巻抄ほか、日寛の公刊されている文献に確認できるものでしょうか。

2053なし:2006/05/13(土) 23:22:03
遅くなりすみません。
やはり恥の上塗りをやってしまいました。
「予が天奏の代として二度流難三度の高名これあり巳上」を目師を指してのことと勘違いして
二度流難三度の高名これありとは何のことでしょうか。と質問してしまいました。初歩の事なのに恥ずかしい。


独歩さんは申し状をを嘆願書と表現されました。申状には 請うの状とあります。嘆と表現しながら 請うの語意を
示されました。同じ大辞林で「嘆」の語意を示してみます。
【嘆/▼歎】
(1)感心すること。感動のあまり、うめき声やため息を出すこと。「―を発する」
(2)なげくこと。なげき。 「亡羊の―」「髀肉(ひにく)の―」
[ 大辞林 提供:三省堂 ]
--------------------------------------------------------------------------------
たん‐がん〔‐グワン〕【嘆願・×歎願】
(名)スル事情を説明して、ある事柄の実現を切に願うこと。「助命を―する」[ 大辞林 提供:三省堂 ]
[名](スル)事情を詳しく述べて熱心に頼むこと。懇願。「釈放を―する」    大辞泉

--------------------------------------------------------------------------------
申状の請うは、嘆とは趣が違うのではと思いますが。請うは矜持を感じます。

独歩さんは天奏の背景には権益取得の狙いがあったされています。
真跡主義をとられる独歩さんが申状の中には一言の記述もないにもかかわらず
弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願が天奏であったというのが、当時の文献から窺える実像です。と述べられています。
副えられたのは 一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の勘文 一通 先師日興上人申状 元徳二年 一、 三時弘経の次第です。

日目上人の申状が権益取得を願うという具体的な嘆願であった事実証拠を示す文献をお教えください。


以下、是○の問いの答えを記しました。


さて、日目申状が許認可・嘆願書の類ではないかという点について、説明しましたが、どうも、申状の文のみにとらわれて、わたしの記した意味がわからないようなので、やや補完します。


> 「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」と日興上人は仰せです

該当文章は『日興跡条々事』、日目譲状と称されるところですが、これを日興の真筆だといっているのは石山門下ぐらいのものです。
石山では日興真筆があると主張しますが、本日に至るまで、その影本を見せず、石山僧が論文まがいのものを発表し真筆であると言っているのに過ぎません。わたしは偽書説を採ります。偽書を以て証拠とするは笑止千万。この書は日興の真筆である証拠があればお聞きします。是一

是一の答え
『日興跡条々事』真筆か否かを私に問われても真贋を見抜く力などありません。富士門のいうには「日興跡条々事」を与えられる数日前に、日興上人より「最前上奏の仁、新田卿阿闍梨日目にこれを授与す一が一の中の弟子なり」と脇書のあるご本尊授与があったとの説明を信じるのみ。また文中に他筆もあると解説することは思うに筆跡は鑑定ずみということなのではと。
「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」との日興上人は仰せは事実に反するとは思えません。


しかし、日目の御伝土代に記されるところの問答において、相手が問答に詰まって閉口した。それが、ですから、朝廷に対する国諫でどんな意味を有するのかというのがわたしの問い返しです。意味を持ちますか、そんなことが。是二

是二の答え
早く尋ね聞こし食(め)され、急ぎ御沙汰ある、そんな機会があれば有効に働くのではという程度です。論理が通っても相手が受け入れるかどうかはまた別問題でしょうし。相手がいなければ話にもなりません。

2054なし:2006/05/13(土) 23:23:47
ー2053つづきー

> 目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか

この点については、既に記しましたが、どうも通じないようなので、やや補足しましょう。読み飛ばさず、一々の記述をしっかりと認識してください。

1.「請う」という言葉の意味は以下のとおりです。

こ・う こふ 【請う/乞う】(動ワ五[ハ四])

(1)ある物を与えてくれるよう、またある事をしてくれるよう相手に求める。
「この道の専門家に教えを―・う」「近日上映。―・う、御期待」「みどり子の乳(ち)―・ふがごとく/万葉 4122」
(2)願いの叶(かな)うよう神仏に祈る。
「天地(あめつち)の神を―・ひつつ我(あれ)待たむはや来ませ君待たば苦しも/万葉 3682」(三省堂提供「大辞林 第二版」)

日目の申状の場合、文面だけで読めば「末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められん」ことのみを請うているわけですが、本当にそれだけが趣旨なのか、というのがわたしの発題です。ですから、わたしが記したことは申状における文章だけの意味ではなく、所謂「国諫」と称された行為そのものがどのような意味のことなのかを記してきたことです。そのうえから、今一度、申状に戻り、読めば、許認可・嘆願を趣旨とした文章なのだろうという意味です。

日目の天奏が本当に42度に及んだのかどうか。この点については、日目寂150年後の書と覚しき『五人所破抄見聞』に載るところであるけれど、上古の文献にそれが見られず、単なる伝説の類、潤色の称賛ではないのかというのが、先に記したことです。となると、実質的に日目の天奏は、美濃の垂井で旅途上で寂した時に、日尊が代奏を果たした事跡に史実が見られる。では、この史実の顛末は、と言えば、日尊は、代奏の巧を嘉見せられ、土地を受け、上行院を建立した。つまり、この史実が示す顛末は、結局のところ、京都における布教の安堵、寺院土地堂宇の下賜ということになっているではないか、つまり、このことが申状の目的であったのだろうというのが、先のわたしの投稿の意味です。

> 申状の内容には弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願はありません

ですから、文だけを読めば、あなたが言うようになるけれど、結果的には、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援にしかなっていないと言っているのです。違いますか。 是三

是三の答え

私は違う思いです、天奏の申状の文面も、副えられたものからして聖人のお心、日興上人のお心と寸分も違わぬものであり、表裏などまったく無いと思います。
天奏途上の遷化を聞き、為政者としては無視はしていてもその労苦は承知のはず、惻隠の情のわかぬはずはない。後に下賜があっても何も不思議ではないと思いますが。
下賜のそれが目的であったなどとは邪推の域であり牽強付会ではないかと思います。
頑固ですがどう読んでも独歩さんとは見解が異なります。


またもし、日目の意志に「国諫」という意志があったのであれば、日蓮のように流罪・死罪に及ばないのかは不思議である。それはつまり、「国諫」と称される申状を上申する行為が、言うほどの諫めを目的としたものではないから、もしくは、相手にされなかったかのどちらかということになる。であれば、問答が巧みであることにならないし、仮に問答が巧みであっても意味をなさないというのが、先のわたしの記したことです。日目が問答が巧みであったことが国諫に何か役立ちましたか。是四

是四の答え
聖人の赦免の例もあり、時の経過もあり、さわらぬ神に祟りなしを決め込んだのではないのでしょうか、勝手な想像ですが。
>そもそも、内裏に通された僧侶が、朝廷に言辞とは言え、痛烈な一矢など放ったら、その場で即刻、頚を刎ねられますよ(笑)
日目上人、元より望むところであられたのでは、。斬首がこわくて天奏などできないでしょう。熱原法難を経験しておられます。竜ノ口では四条金吾が殉死の覚悟を示しました。俗でも法の為なら惜しまぬ命を僧が惜しむでしょうか。
他のお弟子は申状に天台沙門と名乗り幕府の安寧を祈ったやに聞きます。へつらいにさぞや恩賞に与ったことでしょう。

独歩さんこれにて退散いたします。多くの誤りを指摘していただき、また多くの教示を賜りありがとうございました。しかし、通じもしない論に拘泥されるのは独歩さんらしくありません。

れんさん、後になりましたがご忠告ありがとうございました。私は去年新井田の本源寺に参詣しました。
車で行きましたが遠路でした。目師は奥州へも数度行かれ京への往復も数多く、最後の出発の模様はすさまじいものを感じます。痛む足をひきずり、雪の中お題目を唱えながら歩を進められたお姿は尊く、欲得の世界は離れられていたであろうと拝します。

2055なし:2006/05/13(土) 23:43:40
書き忘れました。

管理人さんつぶやきすれスレッドのルール違反を謝ります。

削除はおまかせいたします。

2056犀角独歩:2006/05/14(日) 00:02:27

なしさん

> 状の請うは、嘆とは趣が違うのではと思いますが

どうしてでしょうか。あなたが上げた嘆願の意味がそのまま、申状の文面ではないでしょうか。

> 日目上人の申状…事実証拠を示す文献をお教えください。

わたしがいう真蹟主義は文章だけから示すなどと言う狭量なことを言っているのではありません。先に上げたとおり、日尊の安堵がそれを示すのではないかと言っているのです。

> 『日興跡条々事』真筆か否かを私に問われても真贋を見抜く力などありません

では、話にならないでしょう。あなたは、真筆かどうかもわからず日興の文章だと言って、これを引用したわけですか。
そのようなあなたが、わたしに真蹟云々を問うというのはあまりに厚顔無恥、図々しすぎませんか。わたしには真蹟から説明しろと言い、自分は真蹟かどうかわからない。そんな無責任な遣り取りがありますか。あなたが、わたしに真蹟から説明しろと言うのであれば、自分が上げた文章が真蹟であるかどうかをまず示すというのが筋でしょう。

> 説明を信じるのみ

信じるのは勝手です。では、わたしも日目のやったことは許認可だったと信じるのみと、これを答にして善いのですか。他人に厳しく、自分に甘い。そんな遣り取りは成り立ちません。

あなたに課せられたことは、条々事が日興真筆の証拠をここに挙げることです。

> 相手がいなければ話にもなりません。

そうでしょう。ですから、もし、42度、日目が天奏をしたとすれば、相手にされず、話にならなかったことをあなたは認めたと言うことですね。

> 下賜があっても何も不思議ではないと思います

そうですか。そうなると、為政者が信心をしなくても土地を下賜してもらうことが、日目の目的であったとあなたは認めるわけですか。
それが、日蓮と日興と、少しも違わぬ意志であったと。

> 見解が異なります。

見解が異なるなどということは、どうでもいいのです。
わたしはあなたと頷きあうことを目的にしているのではありません。
わたしの興味は、事実は何か、それだけです。

2057犀角独歩:2006/05/14(日) 00:03:02

―2057からつづく―

> 勝手な想像ですが。

そうですね。まったく勝手な想像です。答にも何もなっていません。
ちゃんと回答しなければ駄目ですよ

> 日目上人、元より望むところであられた

臨む望まない話をしているのではなく、そうならなかったのは、なぜか。相手にされなかったか・実際に42度の天奏がなかったからか。そうでなければ、申状の文面は定型文で、国を諫めているなどと採られていなかったのどれかだろうと言っているのです。

> 他のお弟子は申状に天台沙門

石山のアナウンスや、重須文献を鵜呑みにしていませんか。たとえば、日向でも、日蓮の弟子として、申状を提出していますよ。ちゃんと文献を調べて書いたほうがいいですよ。

「申状…日蓮聖人遺弟日向申」(日宗全【向尊之部】P36)
「申状…日蓮聖人遺弟日高謹申」(〃【日高之部】P47)
「日祐日樹申状…日蓮聖人遺弟日祐日樹等謹言」(〃【日祐之部】P403)

以上、天台沙門とは書いていません。

> …聞きます

まさにそのとおり。聞いただけで信じたあなたは軽率です。

> へつらいにさぞや恩賞に与ったことでしょう。

こうした他を貶して自分の信じるものだけを養護するのは、冷笑を誘うだけですからおやめになったほうがいい。みっともないだけです。

> 通じもしない論

いや、別にわたしの論が通じないのは、自分に執着している方だけです。
寧ろ、これはあなた自分に当てはまることでしょう。
まあ、逃げて退散する以上、これにて終了ですか。
真実を何も掴めず逃げ去ることしかできない姿だけをさらして終わりにするのは、後に恥を遺すことになります。もう少しちゃんと回答していったほうがよろしいのではないでしょうか。
それより、その囚われた心を早く解放してあげたほうがよろしい。あなたの囚われた心が可哀想です。

2058犀角独歩:2006/05/14(日) 10:07:19

すでに日蓮門下も六派祖の時代に入ってからは、それぞれ、本拠を構えて、弘教、弟子の養育を行ったことを、各寺院の縁起などからも窺えます。
これはまた、換言すれば、僧侶が寺院を構えることは、その土地の地頭(国主)の認可なくしてはできないことであったという歴史的背景に基づくものです。

それは派祖に限らず、日蓮にしても、波木井の庇護と認可に基づいて、身延に久遠寺の堂を結んでいることからもわかります。日興が身延を離山したのも、その力関係では、地頭が勝っていることを物語っています。

日目が大石寺を開けたのも南条の認可であり、この地頭と僧侶の力関係は重須でも同様でしょう。

天奏は、現代で言えば、宗教法人の許認可を求める嘆願といったところと、わたしが記したのは以上の事情から類推するところで、この歴史的背景を通じて、申状を読まないとその意味を取り違えるだろうというのが一連の遣り取りでした。
それにしても、日目に係る資料を手放しで、ただひたすらに日目崇敬を懐くという有様は、所属団体の刷り込みが如何に大きなものであるか、その一例を見た思いがしました。一中一弟子については、先にれんさんと議論になりましたが、そんなことは何処吹く風という態度にも嘆息を禁じ得ないものがあります。


さて、京は、鎌倉に新幕府が樹立されようと、武家政権となろうと、日本人にとって、変わらぬ中心地であった。その中心地に寺院を建立し、布教の本拠とすることは、これまた、現代風の言い方をすれば、地方区から全国区への進出を目指す悲願であったわけです。天奏が意味することは、この日本の中心地、京都における布教とその本拠の安堵を、幕府も、地頭の、さらに上に位置する朝廷から勅許されることを求めるものであったのでしょう。そして、実際のところ、日尊は油六角小路の土地を受け、上行院を建立するに至ります。

このように京都を目指した日目が、では、単に京都進出だけにその意図があったのかという点は、先のれんさんが提出される日目に係る“相承”と大いに関連するとわたしは考えます。

真蹟遺文から見る限り、日蓮は本門戒壇の具体的内容の言及は見られません。題目についても、本尊についても、あれだけの言及をしているのに、殊戒壇については、その名目を挙げるばかりで、言及がないわけです。依って、わたしは、日蓮は戒壇思想を構築以前に死去したのではないのかと考えていました。しかし、この考えを覆すに足りる資料が存しました。『法華取要抄』の草案である『主要抄』『以一察万抄』です。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html

この提示をわたしは彰往考来さんから受けたわけですが、都守師の秀逸な分析は、わたしのそれまでの考えを覆すに足りる論攷でした。『善無畏抄』の件という、まさに日蓮宗にこの人ありと言うに相応しい優秀な学者であると、わたしは尊敬します。

横道に逸れましたが、派祖の時代、富士方で言えば、日興・日目の時代、では、戒壇義を含めた三箇秘法というのは、門下一般にとって、現在のように遍く知られたものであったのかという疑義は立ちます。わたしは、そうではなかったと考えます。いまですら、日蓮の戒壇義は不闡明であるわけですが、当時はさらにその名目すら“密事”に属したのではないかと思うわけです。ここから、れんさんがお示しの、日目三箇秘法直授、また、耳引法門ということも成り立っていたのではないのかという、歴史性は付加して考えてみる必要があると思うわけです。しかし、時代を経り、「三大秘法」という造語も漸々と定着すれば、密事は、門下教学の解釈に取って代わられ、日目直授相承は色も褪せ、やがて、忘れ去られていったという経緯であったのではないのかと、類推しているわけです。この点については、是非とも、れんさんのご賢察を窺いたいと希望します。

ともかく、天奏を目指した日目は、第一、帝都弘教の安堵、朝廷の帰依、ついには、日目直授、“要”の一密事、成就、すなわち、迹門戒壇に代わる、本門戒壇建立構想を、他の天奏をなす人々とは違い、懐いていたかも知れないという想像はできます。しかし、この想像を補強するためには、れんさんがお示しの日目直授の相承…、というか日蓮の特命があったかどうかに掛かると考えられます。しかし、いまとなっては、この点を証明することは困難を極めることでしょう。

なお、「一中一弟子」については、すでにれんさんの議論をしましたが、数カ年前にも指摘しましたが、ここに上がる「最前上奏仁」の最前が最も最初に上奏したという意味であるとする解釈は、石山でまことしやかに取り沙汰される以下の記事

1281 弘安 4 日興園城寺申状を代奏す〔初度天奏〕(聖613)(富士年表)

と齟齬を来していることが指摘できます。

2059れん:2006/05/14(日) 20:40:39
犀角独歩さん
>2052
管見にはいったものでは、日寛にかかる文献では「金口の相承」の語は寿量品談義(富要第十巻所収)に見えますが、三口一徹の相伝は日寛の文献には見えず、石要血脈問答以外では日因の三四月会合抄上巻に日目上人直授相承に云くとして引用されている一文のみに見えるだけですね。
>2058
派祖の時代…その名目すら“秘事”…時代を経り、「三大秘法」という造語も漸々と定着…密事は、門下教学の解釈に取って代わられ、日目直授相承は色も褪せ、やがて忘れ去られていったという経緯であった…
私も歴史的経過を考える時、仰る通りと存じます。私の愚見では、近世から現代にいたる石山の三大秘法義はあの彫刻を中心に据えたものですが、石山上代に見える日目直授という本門三大秘法義が色褪せ忘れ去られた背景には、石山義としては新義といえるであろう彫刻を中心とする三大秘法義にたいする信仰とその後付け教学の影響があったと思えます。要するに忘れさられたということは、日目直授とされていた上代石山の三大秘法義と近現代石山の彫刻を中心とした三大秘法義は、異質であったからということを表していると思います。
初期日目門下の三法門は、日目には法華取要抄の写本(ただし公開されてないので、内容が草案か中山本かどうか不明)が石山にありますから、恐らくそれに準じたものと思えます。それを土台として、日蓮・日興からの師伝を付加したものが、日目の三法門観ではないかと思います。日興による付加とは門徒存知事に見える日興による本門寺(戒壇含む)建立地を富士に選定したということであるとは考えられます。
日目に近い時代に成立した初期郷門の日叡・後信抄の記述は、初期日目門下の三法門観を窺う一つの資料となるかと存じます。
以上、日目の三法門観についての資料があまりに少ないので、これが限度なのですが、雑雑ながら、賢察などというレベルには千万が一にも及びませんが愚見をしるしてみました。

2060彰往考来(しょうおうこうらい):2006/05/15(月) 07:47:03

>2043 犀角独歩さん
京都へ出張していましたので亀レスとなりました。ちょうど京都では「鴨川をどり」が開催されている最中で「鴨川をどり」を観ることができました。夜は先斗町(ぽんとちょう)で「鴨川をどり」に出演した芸妓さんもみえて皆で飲んで盛り上がりました。(エヘヘ)

さて「帖」(じょう)ですが、検証居士さんから詳細がレスされいますので、できるかぎり重副しないように進めます。「帖」とは「折本」のことをさします。巻物を軸からはずし、継ぎ紙を等分に折り重ねていき、前後に厚めの表紙をつけたものです。読経するときに手にもつ縦長のお経の形です。現在でも経文などはこの形が残っています。「折本」は一帖(いちじょう)二帖と数えます。

書誌学的にみれば、「折本」は中国では「経折装」(きょうせつそう)といって唐代から始まり、日本には平安時代に伝わったものです。
なお日隆師の『四帖抄』ですが北川前肇師講述『四帖抄に聞く(一)』(平成16年、本門法華宗学院、15頁)によれば日隆師の真蹟は兵庫県尼崎市の本興寺にあり、「折本」ではなく、「巻子本」(巻物)だそうです。
従いまして
>2042
帖とは4冊の和綴本としたという意味で、これが日隆に始まる。となれば、それ以前にそのようなものはなかったのではないのかという類推も交えて、日時の時代には遡れないのではないのかという、まあ、書誌学といえるかどうかわかりませんが

ということはございません。

2061犀角独歩:2006/05/15(月) 09:21:48

れんさん

ご賢察のご呈示、有り難うございました。参考になりました。
「日目には法華取要抄の写本」が本物であれば、さらに現実味を帯びますね。

公家出の日目に、直接、本門戒壇勅許の特命を、日蓮を課したなどというストーリーが証明されれば、これは面白いと思えます。ただ、これは、大石寺相続系統の話ではなく、同じ公家筋の日尊系へ受け継がれた話であろうと思います。

それにしても、日目が美濃の垂井に寂したあと、その報告を富士方に告げる必要があったことはわかるのですが、日尊と日郷は、そこで別れ、そこから、まったく別の展開をしていくことは、実に不思議に感じます。
わたしの感覚すれば、二人で日目の遺志を継いで、代奏をし、六角小路に土地を拝領し、寺院建築の基礎ができた段階で、また、二人で富士に戻って、日目の墓も建立するということが通常の在り方ではないのかと思うわけです。

ところが、そうはなっていません。日目の遺骨を、垂井の荼毘の段階で、二分しているわけです。日尊は鳥辺山に塔したわけですが、日郷は、日目の遺骨半分を下之坊に持ち帰ったといいます。大石寺ではなく、下之坊です。そして、いまに至るまで、石山には日目の正墓すら造られなかったわけです。造られてなくなったのか・当初から造られなかったのかわかりません。ともかく、ないわけです。身延に日蓮の正墓、北山に日興の正墓があるのにもかかわらず、石山には日目の正墓がない。日郷が退出に当たってもって出たのかというと、そんな事跡もなかったように記憶します。いったい、日目の遺骨は何処へ行ってしまったのか。この点は、1年前にもれんさんと応答し合った点ですが、それ故、わたしは5年前から、石山で日蓮の灰骨と言われているものこそ、日目の遺骨であると考えてきたわけです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015567021/99

話が横道に逸れましたが、日目直授があったかどうか、わたしは血脈、相承の類は疑って掛かるほうですが、この日目に係る件については、れんさんのご呈示ということもあり、かなり興味を懐いております。

2062犀角独歩:2006/05/15(月) 09:27:14

2060 彰往考来さん

なかなかお楽しみであったようで(笑)

さて、四帖に係るわたしの記憶は、どうやらガセであったようですね。
顕正居士さんのご指摘と併せ、一点、思い込んでいた点を修正することができました。有り難うございました。

それにしても、そうなると、何故、『法華天台両宗勝劣抄』は四帖などと称されていたのでしょうか。この点がまた疑問と残りました。

2063ラキ:2006/05/16(火) 00:34:42
自由な茶寮掲示板を見ていましたが、浅井さんが独歩さんに対して法論を挑む事はないのに、きっと時が来れば破折してくれると、信じてる会員が居るのは、可愛そうです。
独歩さんから浅井さんに法論などめんどくさいかも知れませんが、申し込んだら、浅井さんの反応が楽しみなんですけど!・・・
それにしても、自由な茶寮掲示板てワイドショーを見てる感じで面白い。(・∀・)ニコッ
浅井会長さん〜独歩さんとの法論を会員達が期待してますよ〜〜
つぶやきでした。ヾ(≧∇≦)ノ"

2064犀角独歩:2006/05/16(火) 13:05:09

ラキさん

他の掲示板のことは他の掲示板で、が、まあ、原則ですが、「法論」という話ではないでしょう。

わたしは図形鑑別を通じて、石山の彫刻は日禅授与漫荼羅を原本とし、臨模作為した模造品であるとしたわけです。そして、それを研究発表もし、講演もし、本にもまとめ、ネットでも公開しているわけです。であれば、この彫刻が従来の石山下の論調のとおりのものであることを証明するためには、図形を持っての反論しかないわけです。しかし、そのようなことを少しもできず、単に悪口雑言をもって人格攻撃しかできない。これは忍性良観が日蓮に行った手口と一緒です。つまり、道理から言っても、既に決着はついてます。つまり、浅井さんの負けです。

浅井さんの勝ちにしたければ、図形的特徴から、それを説明すればよろしいだけです。それができない悔し紛れに、悪口を言って、自分の取り巻きをそそのかし憎悪を煽り、発言者の人格を貶めて、その論説を考えることを、やめさせて、自説に呪縛させようとするという手口は、古今東西、悪しき先導者の常套手段です。
しかし、その本質は結局、負け犬の遠吠えに過ぎません。

客観的に見て、顕正会と浅井さんは、この悪人の手口に手を出してしまったわけです。これが、かつて、正本堂について、日達さんに、論を尽くして糺した同一人物の発言なのか、正直、目を疑うほかない愚考であったわけです。

結局のところ、この浅井さんにそそのかされた会員たちは、わたしの鑑別の内容に至ることなく、ただ人格攻撃に翻弄されて、浅井さんの話を鵜呑みにするというロボトミー化、社会心理学で言えば、憎悪に基づく代理状態に陥っているわけですから、このような心理操作下にある人はとは、法論どころか議論も成り立たないでしょう。

この掲示板の善き慣習は、挙証義務の励行ばかりではなく、人格攻撃にすり替えて、回答不能をごまかす悪意を断じて許さない管理者さんの姿勢にあります。

人格攻撃、悪口雑言を除けば何も残らない空虚な遣り取りは、結局、真実を見られない被害だけが残るということです。わたしは、ラキさんが感じるようにワイドショーのようであるとも、面白いと思いません。深刻な宗教被害の実例を見るだけです。

2065ラキ:2006/05/16(火) 15:29:08
>2063>>それにしても、自由な茶寮掲示板てワイドショーを見てる感じで面白い。(・∀・)ニコッ
>>>ラキさんが感じるようにワイドショーのようであるとも、面白いと思いません。
つぶやきで突っ込まれてしまいました(^^;
2063の該当箇所の発言は、ご指摘を受けて、安易な発言あると私も思いましたので、撤回させていただきます。

2066犀角独歩:2006/05/16(火) 16:43:25

あ、そうでした。ここはつぶやきでしたね。失礼しました。

2067Taitsu ◆bnx86/FFP2:2006/05/17(水) 04:00:49
解る人にはその偉大な功績、ドグマを打ち破った事実は良く解っている筈ですし、
無疑曰信を身体で示した功績は大きいと私は思っています。

どうやら迷える人達は「待った無し」の様です。
私にもお手伝いさせて頂きたく、色々模索中です。

ちょっとつぶやいてみました。

運良く犀の角の様に一人で歩いてる方のお目に留まって
連絡なんて頂けたら良いかな、なんて。。

あくまでもつぶやきです。

2068れん:2006/05/18(木) 21:27:26
亀レスにて失礼します。
2061
>大石寺相続系統の話ではなく、同じ公家筋の日尊系へ受け継がれた話であろうと思います…
日尊が公家筋とは驚きました。日尊は、日興門流上代事典によりますと桓武平氏千葉氏族の一族亀卦川胤氏三男とのことで、どちらかというと武家出身の匂いがします。日道は日目の実家の新田小野寺氏出身で、日郷は保田文書によりますと清和源氏頼光流の源三位頼政の末裔とされる太田氏出身だったと記憶します。
もっとも小野寺氏について、ネットで検索してみますと、どうやら秀郷流藤原氏山内首藤氏族というのが史実のようですね。日目の直授についての話は、郷師の門弟日叡師の記述にも見えますし、道門では日時が文献化したという伝承もありますから、日尊系のみでなく、どうも日道系にも日郷系にも受け継がれた話だという感触がありますね。

2069青門:2006/05/19(金) 00:57:07
初めまして。文献だけをみて判断するとした場合、立正安国論をどこか時の権力者が受け入れていたら歴史は大きく変わったいたでしょうか。大して変わらないと私は判断します(あくまで文献だけをみて)。話を変えます。私自身の成長を考えると難に合うことや難問に立ち向かうことを望みますが、弱い私は苦労から逃げ気味です。しかし、信じて南無妙法蓮華経を唱えると大聖人が難を乗り越えられたのと同じくらい成長が頂けると思っています。でないと日蓮仏法の意味は無いのではないでしょうか。言いたかったことはどの宗派のひとも細かいことより大聖人の大慈悲を原点に一致団結できないのでしょうか。細かいこだわりも究極に凝縮すると単純なことです。大聖人の大慈悲が全てのひとにもあるんですから、それをどうやって引き出すかですよね。南無妙法蓮華経と唱える。ここから先のことはこれより大事なことじゃないですよね。間違い探しに陥り本質を忘れていたので反省で書き込みしました。乱筆乱文で失礼しました。つぶやきにつきお許し下さい。

2070顕正居士:2006/05/19(金) 02:00:22
日蓮宗主要本山と現在の包括法人

http://bukkyo.rissho.jp/inform/shugaku/shu_0141.htm

現状、過半は単称日蓮宗に所属しており、その余は小規模教団、単立です。
また日蓮宗学の専攻課程は立正大学仏教学部宗学科が唯一ですから、
すでに事実上、日蓮教団は統一されているのではないでしょうか。

2071犀角独歩:2006/05/19(金) 08:36:45

Taitsu さん

もしお時間等のご都合がつけば、、28日にオフ会にご参加なさってみては如何ですか。お誘い申し上げておきます。


れんさん

有り難うございます。
桓武平氏千葉氏というのは、その祖を桓武天皇とするのではありませんでしたか。
日目は武家南条の縁、けれど、小野寺家の末裔といい、新田卿をいいました。この場合も武家方ということになりますか。

美濃垂井での日目寂後、そこで、日尊、日郷が別れたと、先に記したのですが『日蓮宗事典』によれば

「日興滅後、日目に随い日郷と共に天奏上洛の任についてが、中途にして日目の遷化にあい、日郷を随えて天奏の役を果し、日郷は富士に帰り日尊は関西の遊化にあたり、暦応元年(1338)再び入洛、翌年2年六角油小路に上行院を建ててここに住した」

といい、わたしが記憶していたこととは違っています。以上の記述は『祖師伝』に基づく如くでした。

日目直授ということは、要は、日目が唯授一人相承をしたという話ではなく、日蓮・日目という直授に主眼があるのだと思います。ですから、京の日尊、富士の日道、保田の日郷等の系譜を潤色するのに、日蓮直授、さらに直授という経緯であったのではないでしょうか。

これが、天文法難以降、京の地盤を失った日辰、のちの要法寺系や、教学的根拠の一端を富士の求めた保田では、日教が北山において、一つの体系をものにしていたことなども相俟って、加上する経緯のなかで、権威を日興に求めた。その結果、「三箇秘法とは日蓮日目と御相承…御付法は日蓮・日興・日目と次第」といった折衷案を経て、蓮興目に落着していった歴史があるのではないのかというが、いちおうの、現段階でのわたしの考えです。

2072れん:2006/05/19(金) 10:16:31
犀角独歩さん
>2071
目師直授についてのご見解のご披瀝有難うございます。大変参考になりました。

桓武平氏は当然桓武天皇の子孫ですが、平朝臣姓を下賜されて臣籍降下した時点で皇族ではなく天皇の臣下ですし、千葉氏を出した桓武平氏が関東に土着したのは、中央では殆ど無位無冠で、新天地を関東に求め、子孫は関東に土着して武士化したという流れだったと記憶しております。ですから、私は武家という認識でおります。
目師の新田卿の卿も、小野寺氏の家系伝承ではその祖首藤資清が藤原道長の流れとされていたことによる命名でしょうが、やや時代は下るものの室町時代の公家・洞院公定撰の尊卑分脈によるとその首藤資清は「本姓守部」云々とあって、守部姓の資清が秀郷流藤原氏の猶子となって藤原朝臣姓を名乗ったのが史実の様で、わたしとしては小野寺氏を御堂関白道長の流れとするのには懐疑的です。まあ出自はどうあれ、小野寺氏は鎌倉幕府御家人として奥州に多く領地があり、日目のパトロンとして、その上奏の資金をカバーするだけの経済力は十分に有していたのは事実ですね。

2073犀角独歩:2006/05/19(金) 23:39:57

れんさん、仰る意味はわかりますが、そもそも僧侶になった段階で、無位も無冠もありません、出世間ですから。

ただ、仰るような系図的判断は、たしかに加上、潤色が伴うことですから、慎重に期すことに異論はありません。

わたしが公家方と言ったのは、その方面に発言と人脈を持つといった意味であると解していただければと存じます。

近代で言えば、華族制度は、廃されましたが、しかし、それでも、この人々は、かつて平民と言われた人々より、皇族との関係は、それでも濃厚です。

僧侶となって身分を捨てたとはいえ、また、その出自がかつて天皇家であったけれど、(また、そう主張していたに過ぎないにせよ)その後、無位無冠であり、武家となっていたとしても、実際のその影響力から、公家との接点を有していたのではないかとという意味での投稿であるとお考えいただければと存じます。

2074彰往考来(しょうおうこうらい):2006/05/20(土) 08:58:54

>2062 何故、『法華天台両宗勝劣抄』は四帖などと称されていたのでしょうか

日隆師の『四帖抄』ですが、北川前肇師講述『四帖抄に聞く(一)』(平成16年、本門法華宗学院、15頁)によれば、「現在の装幀は、本興寺二十八世の日顕上人の代に改めたもので、江戸時代の貞亨三年(一六八六年)正月二十三日の日付が記載されている」とありますので、あるいはこの時に「折本」から「巻子本」に改装されたのではないかと思います。
「巻子本」から「折本」はよくある改装ですが「冊子体」の本が「巻子本」に改装されることもまま行われたようです。
例えば、西本願寺所蔵で重要文化財に指定されている『歎異抄』の蓮如上人筆写本は、現在「巻子本」になっていますが、もとは半葉六行の「袋綴じ」であったものを江戸時代中期に今日のように改装されたと考えられています。

http://www.otani.ac.jp/tannisyo/a_tannisyo/tan_b.html

ただし北川前肇師は『四帖抄に聞く(一)』で『四帖抄』が「巻子本」であることについて、「当初よりの形態とみられます」(15頁)と記述しています。尼崎本興寺蔵の御真筆の形態をみてみないと判断できませんが、仮に当初から「巻子本」であったとするなら上述の「改装説」は崩壊することになり、再度なぜ「巻子本」でありながら「帖」と称されているのかという疑問は解消されません。

奉書紙・杉原紙・美濃紙などの和紙で1帖とは48枚を表わしますので、

http://www.hm2.aitai.ne.jp/~row/kazu/kazu.html

『四帖抄』というのは和紙192枚分量(=4帖)の『法華天台両宗勝劣抄』という書物なのですよ、という意味ではないかとも考えましたが少々こじ付けに近いものです。ただ日隆師には『一帖抄』もありますので、このような分量を示す略称があったとしても不思議はないでしょう。

私自身は「巻子本」でありながら『四帖抄』と称するのは「折本」から「巻子本」に改装されたためと考えています。

2075独学徒:2006/05/20(土) 16:31:18

横レスにて失礼します。

隆師の『四帖抄』について、「法華宗全書 日隆1」の解題では、第1巻:42紙、第2巻:46紙、第3巻:64紙、第4巻:59紙となっています。
また『四帖抄』という通称は、隆師自身命名によると出ています。

こちらの解題は、大平宏龍師のものですが、やはり巻子本は当初からの形態と出ています。

隆師の意図するところの「四帖」とは、なにか別の意味があるような気がします。

2076れん:2006/05/20(土) 20:02:40
犀角独歩さん
>2073
了解いたしましたm(__)m

2077犀角独歩:2006/05/21(日) 07:06:37

彰往考来さん
独学徒さん

貴重な情報と、ご賢察の披瀝有り難うございました。
参考になりました。

「帖」の意味するところ、振り出しに戻りました。

2078彰往考来(しょうおうこうらい):2006/05/22(月) 07:45:27

>2075 独学徒さん
>「法華宗全書 日隆1」の解題・・・やはり巻子本は当初からの形態と出ています

「法華宗全書 日隆1」の解題にも同様の記載がありますか。参考になりました。

2079彰往考来(しょうおうこうらい):2006/05/22(月) 12:33:57

こんなアホな行動をする議員が公明党にもいるのですね。まず政治をやりなさい。国民の血税でしょ!

http://www.zakzak.co.jp/top/2006_05/t2006052003.html

2080藤川一郎:2006/05/22(月) 16:21:01
無位無冠と言う意味で言えば「僧侶は官位を越える」と言う考え方があります。
つまり本源的に申せば、天子拝謁は三位以上の位階を有する者、または四位以上の位階で役職に就いている者、即ち「公卿格」を有する者で無ければ、不可能なわけです。
それでも越階(おっかい)して拝謁する場合は、右近の橘(井桁橘)の下で公卿の口を通しての拝謁となる訳です。
俗に言う日像の拝謁は、井桁橘の下での拝謁であった為、法華宗は「井桁橘」の紋章となっているのです。つまり、正式な拝謁でなかった事を紋章からも顕しております。
ところがある一定の色衣を有する場合、無位無冠でも正式拝謁が可能となります。

有名なところでは、千利休は無位無冠でありました。利休とは居士号です。
しかし、天子面前での茶会のために、大徳寺で僧籍を取り「宋易」となった訳です。
単なる居士号では在家扱いですから、位階が必要になります。
それを僧籍で越えたのであります。

2081今川元真:2006/05/22(月) 18:51:57
横割失礼します。 ◆東大寺の対を為すように建てられた西大寺(称徳天皇が四天王を求めて建てたのが始まりだとか)◆十一面観音・四王堂 (聖徳太子)弥勒・薬師金堂、東西五重塔(光明皇后・聖武天皇)◆藤原仲麻呂、弓削道鏡、和気清麻呂の権力闘争。◆東大寺、西大寺、聖徳太子・最澄(比叡山寺・延暦寺)、ビルシャナ・大日如来・空海(金剛峯寺)、弥勒指向。◆鎌倉時代の西大寺、叡尊(真言・戒律の寺院)シャカ如来、愛染明王。

2082犀角独歩:2006/05/22(月) 21:07:44

そうそう。2080、藤川さんから、この手のご教示を期待していました。

2083れん:2006/05/23(火) 11:22:43
藤川一郎さん
>2080
無位無冠…「僧侶は官位を越える」…
有職故実の上からのご教示誠に有り難く拝受いたしました。
私の家は郷士の出で、こういったことには基本的に疎いので、大いに勉強になりました。

2084れん:2006/05/24(水) 19:20:27
彰往考来さん・独学徒さん
遅蒔きながら、2074・2075における隆師「四帖抄」の形態についての御賢察のご教示お礼申し上げます。また学恩に感謝申し上げます。
時師作という四帖見聞については不現存という説もあり、その当初の形態すら不明ということで、所詮、今となっては“伝説”の域を出ないもののようですね。となると、時師作の文献としては、公開されているものとしては三師伝・未公開分では妙法蓮華経色心実相境智根源口決ということになりましょうね。日時は目師の弟子民部阿日盛との師弟関係もあり、仙波で当時の台学の研鑚もした。当時の台学や石山を含む富士門の伝承や文献を参考にしつつ日有師に先駆けて初期石山の教義の基礎を築いたは日時師であろうことは、何となく想像しております。有師は、時師が築いた原初石山義を踏まえながらも、京都で面談したという日隆師の影響を受けて、諸聞書に見える法義を構築したというのが室町期の石山における教学の流れではないかと愚考しております。
取り急ぎ右お礼まで。

2085犀角独歩:2006/05/24(水) 19:30:08

れんさんに異論を述べる形になりますが、わたしは、日有以前の段階で石山は、廃寺売却の憂き目に遭っているだろうと思いますから、ここに上代からの脈絡を考えることは、手前味噌であると思います。

何もなくなっていたために、土地を買い戻し、諸堂を整備し、板マンダラ(伝・紫宸殿)も作り、教学は、律師と日隆のいただいて、これまた整備したのではないでしょうか。

美談化した石山の言い分を踏襲するのであれば、それなりの根拠を出すべきであると思います。

2086れん:2006/05/24(水) 21:57:58
犀角独歩さん
>2085
日有以前の段階で石山は廃寺売却の憂き目…
日時は興津氏法陽より「富士の上方上野郷内大石寺の東坊地者、法陽か雖為知行分之内、如本別当卿阿闍梨日時にさりわたし申也」云々の去状(静岡県史資料編六・六五五)をもって石山東坊地を領掌し、以後石山は日時門下が相続していきます。日時は、自身造立の日蓮御影像裏書きに「大施主、奥州法華宗等僧俗男女、野州法華宗等僧俗男女、武州法華宗僧俗男女、駿州法華宗等…」と記したように日目のパトロンであった奥法華衆たちの子孫と考えられる“奥州法華宗等僧俗男女”の支持をうけており、日時の時代はまだ、奥州法華衆等は石山の日時を支えるだけの財力はあったろうと思います。日影の時代は文献はないものの、おそらく日時を支持した奥州等の諸国法華宗も戦乱等により消長があり、檀越の財力も陰り、石山も衰微したのは事実でしょうが、日有以前に廃寺売却までになったか資料がなくわかりません。日有の御物語聴聞抄には日有代に留守居による石山売却が書かれており、保田日要の当体義抄聞書に「大石の日有上人、カシハ原ノ慶順法印に相ひ給はんが為に極月二十一日に寺出し玉へり。勤行の代は尾張阿へ仰せ付け、さて寺家の成敗は少輔・信濃・土作・作渡阿四人也。此の人をは無智とて宮内阿日掟を召してしばらくの住持と定めて美濃へ参らるる。日有判形し玉ふに彼の人を云へり、日有兎も角も云々。然るに彼の四人の方は日有死去と号し大石をのつとる、此の時日有下向有りて彼の末弟を折檻す云々…内の物をも彼の四人の業なると云々」とあり、これは事実と存じます。このように、日有段階での廃寺売却は史実なるも、日有以前の段階での石山の廃寺売却を示す資料は石山や富士他山になく、別に石山の肩を持つわけではありませんが、何もかもがなくなっていたわけではなく、微々細々ながら時師門の命脈をたもっていたというのが日有以前の石山と考えます。上代のからの脈絡を即断するものではありませんが、上代からの脈絡がまったく存しないということはまた云えないものではないかと考えております。
日有による、儀式やその裏付けとなる教学のさらなる肉付け作業は、ご指摘の通り律師や日隆、また慶順の法義からいただいたものを加上して整備したものですし、さらに板漫荼羅(伝紫宸殿)をつくり整備した堂宇に安置したのだと考えます。
“美談化した石山の言い分を踏襲”するつもりはありませんが、手前味噌にならないように、冷静に文献を読み、石山を含めた富士の思想を考えてまいりたいと思います。今後ともご批正のほどお願い申し上げます。

2087顕正居士:2006/05/24(水) 23:28:42
日時寂が1406年、日阿は翌年に寂し、日影が1407-19年在職。したがって日時寂と日有晋山
の間は13年に過ぎないのであって、何か大きな断絶があったとはいえないでしょう。

2088犀角独歩:2006/05/25(木) 05:13:02

れんさん
顕正居士さん

日有以前に廃寺とは、たしかに言葉が過ぎたかも知れません。
しかし、日目の教学的な資料を裏付けるものは残っていないことは、議論で落着していました。では、その後、日有にいたるまで、石山として、継承したものとは一体なんでしょうか。以下の点について、わたしはまるでその実像が見えません。このようなものが残っていない、すなわち、この期間、何もなくなっていた、いわば、廃寺同然という思いが生じることになったわけです。
そんなことはないというのであれば、

日目から日影に至る石山教学
日目から日影に至る石山の有様

という2点について、日目、日道、日行、日時、日阿、日影のそれぞれについて、それぞれどのような説明が立つでしょうか。

なにより、「時師が築いた原初石山義」とは、どのようなものでしょうか。
また、中興の祖、すなわち、日目から現代に至るまでで、石山史の中で再興した祖であるという日有の時代に、その本人がいない間に石山が売却されるという有様は、むしろ、石山そのものの不安定さを物語っていると映じますが、如何でしょうか。

たしかに、顕正居士さんが仰るように日影から日有までの間は13年。しかし、断絶というのは1年であっても、断絶は断絶です。また、なにより、そもそも、その13年の断絶より何より、そもそも日有以前の何を伝えたのか、その答がなければ、日有に始まったと見なすことは至当なこととなります。故に上記2項の明確な資料がない限り、あたかも断絶、廃寺同然という感は否めません。もちろん、それは印象であって、事実ではないかも知れません。となれば、上記2点について、どのような説明が立つのか、ご教示願えますでしょうか。

2089れん:2006/05/25(木) 07:29:24
犀角独歩さん
>日目から日影に至る石山教学…
日目には教学的にものしたものがないのは以前の議論の落着した通りです。日道は日時作の三師伝に引用される「日興上人御遺告」を記したという事跡と、問答記録と後信抄・日時の大石記に日道の述べたことが記録されているばかりです。私が日時が築いた「原初石山義」とは日時作の三師伝・日時が述べたことを記した大石記に見える日時の記述のことで、これが、日目から日影までの流れの中で文献上日時にかかる上記二文献が唯一この時期の石山の教学を物語るもので、日影は実質それを継承するのみであったろうと思います。その後は独歩さんのご指摘の通りで日有にいたり、律師・日隆・慶順等の影響のもと、石山として独自の法義が構築されたと考えます。
>日目から日影に至る石山の有様…
この点は、まだ、私の中では研究中とでも云うべきもので、まだ、こちらに記せるほどの見解がまとまっておりません。
これから仕事に出かけるので、取り急ぎですが、雑雑に記しました。至らぬ点はまたご批正ください。早々

2090金龍:2006/05/31(水) 00:37:38
以上のレスを拝見して、一つの疑問と言うか、もしかしたらと言う仮説が頭をよぎります。
そもそも、目師は尊・郷師の二人を連れて、寒風拭きぬく中に苦難の上奏と言う伝説ですが、
本当に「苦難の上奏」であったのかと言う疑問です。
目師の当時の年齢を考えると、既に伝法叶った道師が大導師として行くところを、
当時の石山一同が全く留めるという事は無かったという不思議です。
もしかすると、目師でなければならない理由が有り、仮に目師でなければならないとすれば、
多くの祖師の伝説に辻褄が合う場面が多くあると思います。

2091犀角独歩:2006/05/31(水) 08:21:53

> 2090

これは理に適った疑問であると思います。
宮崎師であったか、執行師であったか、失念しましたが、日目の日道相承を、この最期の天奏から疑義を呈していました。

要は、既に伝法相承を行ったのであれば、日目は隠居なのだから、一宗の代表として、天奏すべきは日道であるということです。

当時、血脈相承などということは、まだ行われていなかったにせよ、実質的な継承者が日道であったとすれば、たしかに「目師でなければならない理由」があったと考えることは理に適っています。このような類推経路にわたしは賛成です。

ただし、人間が自分の死期を特定できることは、なかなか難しいことです。ですから、最期の天奏に際、日目がそれを覚り、日道に相承してでかけたなどというのは、潤色の物語としてとらえるほうが事実に近いと思え、天奏を生きて石山へ帰る気で出たのであれば、日道に譲っていく必要もなかったというのも、また、一面の理に適った類推ということになります。

2092藤川一郎:2006/05/31(水) 10:11:45
>>2090
もちろん、目師で無ければ無かったんでしょう?
つまり天奏の手配は出来ていた。いや、もっと踏み進んで、宮中からのお呼び出しが日目上人宛にあったとのなら
代行では御不敬になる。

後醍醐天皇は建武の中興に際して、あらゆる寺院の長に「お呼び出し」をかけている。
もちろん、法華に強く関心があったと言うより、御自身の中興政権を護持できる霊的な存在を求めておられた。
これが御本意であったのであろう。
それが恐ろしいほどの田舎寺にまで、呼び出しをかけている。
考えてみたら、鎌倉幕府壊滅のために悪党まで集められた方である。
とにもかくにも政権維持の霊的保護の為には何でも取り入れるようなところがおありだったのでは?

2093お暇庵:2006/05/31(水) 11:25:37

藤川さん、これは面白い着眼ですね
後醍醐天皇は真言密教の伝法灌頂を受け自ら出家となって鎌倉幕府転覆と王権奪還を目指して怨敵退散の調伏をいたしていたことは事実です。中宮の御産祈祷と称し関東方調伏の祈祷を行い、更に興福寺や延暦寺などの寺社勢力を味方につけようとしていたことも(結果的には延暦寺にうらぎられますが・・・)
もともと武士の出自は源氏を始めとする下野した皇族縁故による(皇位権剥奪や権力遠慮)嫡男以外に寄って組織された護衛団の意味もありましたが、承久の乱に下克上にあって鎌倉北条家に皇位の交替まで云々され、官位や人事にまでの越権行為があったのは歴史的事実なことでしょう。

「正中の変」や元弘の変、幾度かの挙兵による蟄居や配流を経た後醍醐天皇が政権奪還のために利用しようとしたネットワークは高野から連なる連峰群に拠点を持つ修験・山伏系を始めとする山岳集団、木地師、職能・遊行者・白拍子などの芸能集団、忍者の元祖と言われる千早赤阪系の悪党山師。勿論その中には鎌倉にほど近い富士山岳の霊的ネットワークも視野に入っていたと思います。
結果的に鎌倉幕府が新田義貞と足利によって滅亡しますが、鎌倉を滅ぼしたのが新田家とは深長な意味合いが見て取れますね。
その後、建武の新政による後醍醐天皇と貴族中心の政治運営は荷担した武士達が報償面で不満を持ち、後醍醐天皇が政争に敗れて吉野の山中に逃げ込んだのも熊野地方には天皇を支えるこうした武士階級や貴族とは違うネットワークの基盤があったと思うのは自然なことではないでしょうか。

2094金龍:2006/05/31(水) 11:58:22
目師の上洛が、禁裏御采配とした場合、当然にそれに関わる人物はある程度の資格が存在したのではと考えます。
確かに、新田氏との関係を思考しつつも、大聖人入滅時に関わる伝説が私の頭には浮かぶのです。
池上入滅時には、興師は当然六僧の席があり、それぞれに遺言を託されています。
その中にして、一人少年であり「経一丸」後の日像がおりますが、諸説は色々でそれぞれの伝説が言われています。
興味深いのは、大聖人が帝都布教を託されたのが経一丸であり、形見として「歯」を自ら抜いて渡したという伝説です。
極論の展開をしてしまうと、虎王丸と経一丸、どこかに共通点があったのではと思っています。
時代背景として、二人を同一視するのは乱暴と思いますが、当時の記録がハッキリと確証が持てないとすれば、
大聖人在世当時に随時給仕をした少年は二人と言うことになります。
しかし、当家では虎王丸のみを主張し、経一丸は身延方の主張となりどちらも二人の少年の存在を明記していません。
宮中に入る前にここら辺の整理をしてみたら面白いと思います。

2095犀角独歩:2006/05/31(水) 12:22:13

藤川さん、質問。

> 代行では御不敬になる

では、日目の代わりに、日尊が代行したことは不敬ですか。
不敬ならば、何故、土地まで拝領したのでしょうか。
事実と一致しないように思えます。

2096藤川一郎:2006/05/31(水) 13:25:25
>>2095
そもそも、当人が亡くなってしまって後の代行と、当人生存中の代行では意味は違うでしょう。
現今の園遊会でもそうですが、当人がどんなに高齢でも召された当人が参ります。
それに対して、当人が亡くなってしまった場合、しかるべき代理人を園遊会に召すことがあると聞いております(確か映画監督でその例があったと記憶します)。
それとは少しも矛盾しないように考えます。

それに日尊師=日目師の代行というのは、現代の伝承から言えますが、本当に正式な代行だったのでしょうか?
日尊師は日尊師で御自分の資格で参内したと考えた方が自然だと思えるのですが。
当宗の伝承は伝承として、それとは別にそこにも疑問視してみるのも面白いでしょう。

2097お暇庵:2006/05/31(水) 13:34:08

金龍さん、はじめましてお暇庵と申します、よろしくお願いいたしますです。

すこし、お聞きしたいですのでお願いいたします。それは「大聖人在世当時に随時給仕をした少年は二人と言うことになります」なのですが、私の記憶に間違いがあれば訂正をお願いいたします。

確か目師は文応元年(1260)に伊豆仁田郡に出生され、文永九年(1272)走湯山円蔵坊にて出家(13才)興師に謁されたのは文永11年(1274年15才、76年に得度)で、宗祖に謁見叶うのは同年11月(数え18才)のことです、目師は弘安五年(1282)では数えで22才になり、宗祖身延在住の間は(18〜22才となり)わずかに4年あまりで少年とは言えないのではないですか。

また日像こと経一丸は朗門に入ったのが建治元年の7才(1275)目師より15才若いですね、同年12月に宗祖より本尊授与されています、その時に経一丸と名乗ったとあります。朗門であったために鎌倉小企谷妙本寺が本拠で、身延にも再三登ったと物の本にはあります、宗祖遷化の弘安五年には14才ですからこちらの方が少年と言えるのではないでしょうか。

ついでながら、像師は京都布教に再三チャレンジして三度の院宣で追放に会いながら、遂に後醍醐天皇の京都還幸の祈願を護良親王より令旨を得て祈祷し、還幸の報なって尾張・備中などの三ヶ寺の寺領を朝廷より寄進されました。
また、その祈祷成就の功として後醍醐帝より綸旨を賜り勅願寺としての立場と一乗円頓之宗旨を弘める勅許がもたらされています。日蓮宗はここで天下公認の宗派になったわけです。これは像師上洛41年目のことです。

後に京都洛中四条の地の像師開基の妙顕寺(四条門流といわれています)は足利将軍の祈祷所、北朝光厳院の祈願所も兼ね、宗祖諸門流の最高峰として洛中では妙顕寺を通さずして挙状と申し状を朝廷もしくは関係各所には上げられなかったと言うことです。

2098金龍:2006/05/31(水) 15:10:14
お暇庵さんこんにちわ。
確かに現存の歴史的な背景はその様に存じます。
ここは、少し遊んでみませんか。
お説の通り、目師は走湯での13才御出家、像師は宗祖入滅時14才。
しかし目師の記述は、他の日蓮門下に明記されているのでしょうか。
又、当家では像師の事は触れる文献は有りませんよね。
私が、折り触れて思うのは、富士門と他門の文献は互いに反する場面が多いという事です。
これらの伝承等を一蹴にして「不相伝」と言う言葉でかたずけるのでは無く、双方に何らかの共通点が見られないかと言う事です。
教義は別として、日蓮門下に伝わる伝承が如何なる背景で生み出されたかと言う疑問です。
確かに目師と像師は全くの別人と思いますが、事、稚児奉公の頃から考えると、本当に別人であったのかと言う突拍子も無い発想です。

仮に、虎王丸=経一丸と推論した場合、御肉牙の伝承にも繋がり、天奏の次第も目師であったと言っても大変に面白い仮説と思います。
私は、暴論かもしれませんが、虎王丸=経一丸とした場合、鶴丸の紋章使用にも納得する場面があるのです。
後醍醐天皇の宗教政策には確かに多くの教義と手を結び一宗一派に固まる事は無かったことは確かです。
さて、それだけで終わったのでしょうか。
建武以後、日本は戦国を迎え、後、徳川まで禁裏は実験を失い、大政委任が続く体制が続きます。
その中で、目師の伝統と像師の伝統とどちらが、禁裏で捉えられていたかと言う事に続くと思います。
公家文化と言う物は、武家風とは違い、あからさまに物事を表現することはありません。
江戸よりの使者が御所に上がる際。
「遠い関東より、ありがとう・・・・・、はよお帰りやす。」
の世界です。
話しがそれましたが、目師の天奏も又、何かのきっかけがあり、その背景があると思うのです。
一般的には周知されない事があるのではと推論するのが面白いと思っています。

2099金龍:2006/05/31(水) 15:26:13
藤川様こんにちは。
私は、尊師代理説に対して違う意見が有ります。
御所に於いては、「穢れ」を嫌います、その中でも「喪」は最大の「気涸れ」となり、御上への拝謁は控えるべきものと拝します。
現在の礼式ではその限りでは無いと思いますが、少なくても孝明天皇より上はそうであったと存じます。
では、目師の遷化後、何故に尊・郷師で御所に参内出来たかと言う事です。
私はここに、後醍醐帝の政策以上の物を感じるのです。
宗祖・開山・伝法と続く大導師に共通するものは何か。
その意義に、尊・郷師でもお役が叶ったと思うのです。

2100犀角独歩:2006/05/31(水) 16:07:24

藤川さん、有り難うございます。
その通りでしょうね。

では、もう一点。
「呼び出し」という表現を使われていましたが、日目の場合は、どちらですか。
呼び出されたのですか、それとも自分で行ったのでしょうか。

あと、日郷の天奏については、富士年表には

1345 興国 6 乙酉 後村上 足利尊氏 貞和 1 10.21 光明 滅後 64年
日興・日目13回忌 3.7 保田日郷、大聖人本尊を京六条坊門にて薩摩阿日叡に授与す(叡譜)3.14 保田日郷上洛して上杉管領に伝奏す(8ー373)3.15 保田日郷天奏により光明院より綸旨並びに嵯峨帝宸翰の法華経10巻を拝領す(

という記事が伝わります。

日尊は土地を拝領。日郷は法華経典。これら、顛末を見るに、どうも、国家諫暁などという朝廷を謗法罪悪視した様子は伝わりません。朝廷に認めてもらいに行っているという感じですが、これが天奏の実態と見て差し支えありませんか。

2101犀角独歩:2006/05/31(水) 16:19:07

それから、もう一点。
日尊が日目とは独自に天奏をしたのではないかという仮説は、説得性があります。
その理由は、日尊の天奏成就が石山にとって、何の意味もなしていないからです。

2102お暇庵:2006/05/31(水) 18:29:34

金龍さま、レスいただき有り難うございます

駄文に恐れ入ります

>話しがそれましたが、目師の天奏も又、何かのきっかけがあり、その背景があると思うのです。
>一般的には周知されない事があるのではと推論するのが面白いと思っています。

金龍さまの見解はすこし、私どもには相容れないものがありそうです。この文調では何でも有りになってしまいませんか?
私どもはある程度の歴史的事実や資料を基にして文書として価値のなさそうな(偽書や風聞綴り)ものでも、当時の価値観や風習に則して判断をしたいところです。

確かに口伝や相伝のたぐいは公開を前提としたものではないですから、表に出る事は少ないと思われますが、それでも延暦寺では口伝・相伝を書類化するために記家という専門僧侶をおき、そのための血脈相伝もあるのです。

これを言いますと飛んでもない分量になりますので、金龍さまの見解として、この議論は切り上げたいと思います。

有り難うございました、なお2097の文章に間違いがありました
>また日像こと経一丸は朗門に入ったのが建治元年の7才(1275)目師より15才若いですね

の「目師より15才」は8才の(目師出生1260、像師1268年)間違いです、謹んで訂正させていただきます。

2103犀角独歩:2006/05/31(水) 18:56:46

藤川さん、つい、投稿だけ読んで、質問をしてしまいましたが、ここは「つぶやき」なので、質疑応答付加でした。
お応えいただけるようでしたら、「素朴な疑問」のほうにでもお願いいたします。
よろしく、どうぞ。

2104犀角独歩:2006/05/31(水) 18:57:26

間違えました。付加ではなく「不可」でした。

2105金龍:2006/05/31(水) 18:59:23
拝復 お暇庵様
>話しがそれましたが、目師の天奏も又、何かのきっかけがあり、その背景があると思うのです。
>一般的には周知されない事があるのではと推論するのが面白いと思っています。

金龍さまの見解はすこし、私どもには相容れないものがありそうです。この文調では何でも有りになってしまいませんか?
私どもはある程度の歴史的事実や資料を基にして文書として価値のなさそうな(偽書や風聞綴り)ものでも、当時の価値観や風習に則して判断をしたいところです。
とのお説、賜りました。
では、目師天奏と言う所に絞ってみたいと思います。

最終的には、目師自身が天奏を遂げることなく、従僧の尊・郷師により禁裏の奏上がなされた。
これは、富士門にかかる事実として捉えてよろしいでしょうか。

かかる、宗門の大事を遂げた従僧の尊・郷師は石山を離れ、目師天奏の次第は富士門下には伝わらなかったと言う事で良いでしょうか。
現在に残る文献をもって、偽書或いは「伝に曰く」と言われている事に関しては、全く効をそうさないと言う形であるのでしょうか。
「私どもはある程度の歴史的事実や資料を基にして文書として価値のなさそうな(偽書や風聞綴り)ものでも、当時の価値観や風習に則して判断をしたいところです。」
との見解には、どこを持って基準とするかが問題になると思います。
論議の切り上げ とのお言葉ですので、これでこの件に関してコメントはいたしません。
但し、私は教義の云々はさておき、いや、別として。
伝記伝承に対してのみ、色々な方面より意見があってしかるべきと思い、又、これからもそうあるべきと思います。
残念ながら、「判断」の基準が私には分かりませんので、判断に合わないとの結果である
「この議論の切り上げたいと思います。」
には大変に残念に思います。
これからは、議論の判断基準値を示しておいて頂ければ幸いです。

2106お暇庵:2006/05/31(水) 19:50:36

金龍さま、再々におそれいります

独歩さんが、2103でいみじくも書かれています様にこのスレッドでは質疑応答は禁止だそうです、私も大ボケで失礼いたしました。

失礼ついでに適当なスレッドがないので、お答えに変えさせて頂くとして、金龍さまは議論を進めさせるための判断基準をお求めですが、この掲示板は富士門とは書かれていますが他門の方も参加されますし、富士門と言っても石山だけではございません。

よって、大方の人の書き込みを見るまでもなく「ある程度の歴史的事実や資料を基にして」は当然の事と思います、その上で口伝的な事を主張するのであるならば、その根拠と依文は富士だけでなく、他門あるいは首肯するに足る学説を用いて証明する義務はあると思います。
この辺は他のスレッドを読んでいれば空気で分かると思います、何よりも個人の私信掲示板ではないですから、ここには論客も多いですので大方の批判に耐えうる論旨が望ましいと思いますが、こんな感じでしょうか。

以上にて失礼いたします

2108今川元真:2006/06/04(日) 10:58:02
劇画発想【日興私案】 「本化垂(しんにょう)亦天照太神宮」八百万神々の長・光神アマテラスが真の力を発揮。「日蓮聖人御影堂」御書遺文から法華経行者・日蓮を学ぶ。「法華本門寺根源」若くて綺麗な理想・南無妙法蓮華経本尊漫陀羅。

2109励合人:2006/06/10(土) 05:25:34
管理人様、素晴らしいサイトを提供して下さってありがとうございます。また博識ある皆様の貴重な投稿も丁寧な文面で時間を惜しみなく提供して頂いて感謝致します。
管理人様に提案なのですがサイトにカウンターをつけられたら如何でしょうか。どれくらいのロムの方がいらっしゃるのかと思いまして。常連の方々はあまり意識されてないと思いますが今後のサイトの発展を意識できるのにもカウンターがあれば分かりやすいと思いましたもので。新しい時代の幕開けになるサイトだと思いますので動向を見届けたいと思いました。

2110管理者:2006/06/10(土) 07:55:32

励合人 さん

ご参加有難うございます。

>サイトにカウンターをつけられたら如何でしょうか

ご提案有難うございます。
カウンターは当掲示板開設当初より、設置されています。ページの上部、タイトルの下、左側にあります。
現在のカウントは400720です。ご確認戴ければ幸いです。

2111今川元真:2006/06/10(土) 12:40:08
劇画用背景説 ●シャカ(諸行無常) ●大乗教(転輪聖王) ●ビシュヌ様→【密教】秘密一乗[大日如来]大乗現証→【法華】法華一乗[妙法蓮華]一念三千・因果倶時、十全完璧即戦力 ●シヴァ様→鬼道密教→天台神道⇔十二天羯摩曼陀羅or法華本門戒壇堂or金剛界胎蔵曼陀羅法華儀軌(仮称) ◆すいません。2チャンネルに書く事でした。

2112今川元真:2006/06/13(火) 19:02:01
シャカ・ライスカレー・ナンカレー、龍樹・惣菜サンド・カレーパン、大乗経典・いろいろなパン、鳩摩訳・惣菜パン、智豈頁・点心・究極パン、最澄・サンドイッチ・揚げパン・究極パン、円仁・焼きサンド、円珍・惣菜サンド、安然・揚げパン、日蓮・究極パン、牧口・ジャムパン、戸田・惣菜サンド、玄奘訳・ジャムサンド、西遊記・惣菜パン・惣菜サンド・揚げパン・サンドイッチ、道教・点心、鬼道密教・惣菜不調合サンド、天台神道・インスタント的菓子パン、 【少年サンデー「焼きたて!!じゃパン」からの例え】

2113今川元真:2006/06/18(日) 11:09:16
【魔力・神力・法力・仏力・信力・学力・功力】【金剛界胎蔵曼陀羅法華儀軌】【上行・シャカ在世、不軽・シャカ没後】【軍茶利明・大威徳明王・降三世明王・金剛夜叉明王・烏沙摩明王】【南無妙法蓮華経如来、四天王、不動明王、愛染明王】【題目、本尊、戒壇】【鳩摩訳、智豈頁選、最澄編、日蓮継】

2114今川元真:2006/06/19(月) 20:29:20
◆明王の王の字が一つ脱字でした。◆高野山奥院で弘法大師空海の遺体が髪が伸びていたそうです。公家の日記か何かには荼毘にふされた事が書かれてあったそうです。◆聖徳太子に未来予言の書があるらしいです。日蓮聖人が密教や超能力などを否定せずの人なら、漫陀羅本尊を宣揚できる僧が出現するのが「シャカ没後2000年以上後の末法時代」だとしたら[題目義・日蓮、本尊義・日寛、戒壇義・牧口]に求めたい。宗教で無くて学問として。◆聖書に付属する黙示録も21世紀にある私等の眼から見れば警告なのか予言なのか判らず。神が書かせた予言では無くて端なるケースバイケースの未来予知ならヒトの想像の範囲内とも考えられるのでは無いでしょうか。

2115今川元真:2006/06/21(水) 12:06:19
連続書き込みになってるけど一箇所一日一度で御勘弁っていうか此の書き込みで前提な疑問に区切りです。●大乗経典・定義白蓮華思想経典●聖徳太子、役小角、最澄、日蓮、山川智応、石原莞爾、牧口常三郎、戸田城聖●21世紀の仏教・シャカ(諸行無常)解脱、シャクソン(涅槃寂静)成仏 ●「親が存在しなければ、子も存在しない」で振り出しに戻るなら、シャカの言葉・原始経典から始めなければならないか

2116一字三礼:2006/06/21(水) 13:20:17
最近ちょっとがんばって書き込みをしておりますが、顕正居士さんとの対話にしても、犀角独歩さんとの対話にしても自分の投稿内容が非常に保守的だということに気付かされます。

れんさんと初めてお会いした時に、「お坊さんだと思ってました。」と言われたのもなるほどと思いました。

でも最近、見た目で、お坊さんではなく、少し年配のハンプティーダンプティーに似ていると言われました。

年配のハンプティーダンプティーって、、、。

2117今川元真:2006/06/21(水) 16:18:44
連続で無ければ良い? ◆嘘から出た卵。元意、真。 ◆数字の計算では何故か合わないけど、末法の様相には合う。事件事故が起こらない神仏の時代など無いと言われるなら其れまでです。 ◆悟りの立脚点は何か。から考えないと建て直しは無理でしょうか。

2118犀角独歩:2006/06/22(木) 12:02:23

かつての友人が、「成仏したいというのも、欲求なんだから煩悩じゃないの?」と言っていました。「なるほど」と妙に納得したものでした。

しかし実のところ、釈迦牟尼は成仏したところから50年、生き続け、人々を教化していたわけでした。それを修行と呼んでもいたようでした。

ところが仏教徒は成仏するために一所懸命、修行して仏になりません。今日日の仏教ともなると、人間であることに強い執着も見られます。
信じていることからも自由になること、そこに平安があること、釈迦牟尼はそんなことを教えたかったのではないのかとも思う昨今です。

2119今川元真:2006/06/22(木) 15:51:01
反神教or汎神教の違いか?

2120藤川一郎:2006/06/22(木) 16:50:13
>>2116
独歩さんも、顕正会からは「日蓮宗の僧侶」と言われてますが・・・。
何しろ「○○坊」ですからね。

2121犀角独歩:2006/06/22(木) 18:36:49

藤川さん、わたしが日蓮宗僧侶というのは、一種のブラックユーモアですね。
わたしは出家させる大器は、そうはいらっしゃらないと思います(笑)

2122藤川一郎:2006/06/25(日) 19:20:12
>>2121

まあ、日蓮宗でもお断り?(爆)

それはさておき下記オークションは全く落札者無く終了しました(笑)。
終わってからでないと、入札妨害と勘ぐられますので、今発表しました。

http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g42352086

2123ラキ:2006/06/27(火) 23:25:16
商魂たくましいですね(笑)
本尊て破門前は「貸し与え」だったはずなのに、売り渡し(販売)て意識があるんですね。
それにしても、破門されてから日寛上人本尊に交換するのに、3000円を取られて、貸し与えだから交換なら無料でも構わない気がします。
販売された物なら、再販売?で交換と行って、本尊を持っていくのは騙しじゃん!と今は考えますね。
所有権放棄した訳ではないので、返還請求して、オークションにでも掛けてみたいかも?w

2124きゃからばあ:2006/07/01(土) 11:33:09

少しつぶやきたくなりました。

学会2世として育ち、脱会後は法華講として活動し、なによりも大御本尊を信じて勤行・唱題をして、少しばかりの教学を学んできましたが、この掲示板に出会ってから悩んで悩んだ結果、今ではすっかり大御本尊に興味がなくなり、むしろ宗教そのものを信じなくなり、死後の世界すら信じていません。
といいながら家の御本尊に唱題しているので矛盾していますが…。

でも五逆罪よりも法華経の誹謗のほうが無間地獄に堕ちるなら、法華経なんて無いほうがいい。こちらの漫荼羅が良く、あちらが駄目でそれを拝んだら堕地獄なんていうならすべての漫荼羅はいらない。
釈迦も日蓮も、過去の偉人として尊敬はしますが、本仏とは思えません。
もちろん間違いだってあるし、失敗もあるのが普通です。
きっとあの頃の世間の苦しみ(戦争)を無くしたかっただけなのかもしれない。
そのために因果律を説き、真の平等を説いたのかもしれない。
おそらく法華経とは因果律と真の平等を説いたものだから、それを無視すると五逆罪よりも重く、逆に信じるとあらゆる仏を供養するよりも功徳が大きいのだと思う。
そして日蓮は法華経に唱題することで、自己開発・自己啓発・向上心・人間革命?、させる手段を発見したのではないでしょうか?
それと釈迦も日蓮も当時の堕落した僧侶(宗教人)に人々が惑わされていることを五濁悪世の原因と考え、そこには幸福はなく、だからこそそれらから人々を救いたかったのではないでしょうか?

変かもしれませんが私は学会に期待しています。宗教そのものを見極めて、本当に大切なことは抽象的な神仏に拝むことではなく、自己意識による改革・向上の方法を見つけることで、もし本尊が必要なら、万民でそれを協議し、そして選べばいいのであり、そして他力本願的な宗教を打破し、因果律と真の平等を基にした活動を展開して欲しい。

やっぱり抽象的な漫荼羅より、一人ひとりの命のほうが大切だと私は思います。

なお過去の投稿で名前にメールアドレスをリンクさせていましたが、迷惑メールが多いのでアドレスを無くしました。

2125独学徒:2006/07/02(日) 20:47:46

6月18日にブログにて、正信会と創価学会について少々批判的な内容を投稿しました。

なぜかそれ以降、掲示板では連日のように迷惑投稿がなされ、現在に至っています。

ひょっとして因果関係があったりして。

つぶやきでした。

2126犀角独歩:2006/07/03(月) 09:12:24

独学徒さん

この度は、‘ご法難’の由、ご苦労さまです。
また、拙書のご紹介、まことに痛み入ります。
貴ブログ、謹んで拝読いたしました。

正信会に対するご見解にはまったく同意です。
正信会のサイトの

> 熱原法難を通して師弟一箇の成道を得た法難の瑞相

というのは、いったい何を言っているのか理解に苦しみますが、いずれにしても、熱原信徒の篤信と法難を賛嘆したものなのでしょう。ところが、正信会各位、殊に彼の所の古文書研究をよくする人々は、彫刻の真偽を語らないわけです。そこに四弘誓願の衆生無辺誓願度は見られません。彼らの師である日達氏がいった「上求菩提下化衆生」も見られません。

熱原信徒の篤信と法難を賞賛するのであれば、自分たちも真実を語り、そこで遭う難から逃れない生き様を示して然るべきであると思うのです。

ところが、彫刻を信じる人々は、このような破戒に止施するわけでもなく、むしろ、荷担して、事実を語れば留難をなし、罪業を重ねます。また、在家のみで生きる人々もまた、自分の信じる‘本尊’を貶されたと思い、難を為します。しかし、彫刻の真偽を語ることは、事実を語ることであり、悪口ではありません。斯かる信に執着する人々は、何故、事実を見ようとせず、寧ろ、事実を語ることに難を為すのか、哀しむべきものがあります。

しかし、このようなことは先刻ご承知のことであり、昨年の流行語を使えば、まさに「想定内」のこと、致し方のないことなのかも知れません。しかし、難を為す人々もまた、事実を隠蔽することで組織、指導者に呪縛される被害者である以上、こちら側としては、一片の怒りも覚えず、ただ、憐憫の情を催すばかりです。

2127きゃからばあ:2006/07/03(月) 11:16:10

>2124
「すっかり大御本尊に興味がなくなり…、」
を、
「すっかり大御本尊を信ずる気持ちがなくなり、」
と訂正させてください。

あくまでも御本尊の真偽は必要であり、その結果を後世に残さなければいけないと考えています。

2128犀角独歩:2006/07/03(月) 14:44:11

きゃからばあさん

わたしもそう思います

2129独学徒:2006/07/03(月) 20:46:58

犀角独歩さん、”法難”お見舞い、誠に恐縮です。

>熱原信徒の篤信と法難を賞賛するのであれば、自分たちも真実を語り、そこで遭う難から逃れない生き様を示して然るべきであると思うのです。

全く仰せの通りだと思います。

興風談所の研究成果は、深く尊敬致します。
まさに正信に覚醒させられる思いすらあります。

しかし彫刻の真偽や、自分達の興味の無い、もしくは自分達にとって不利益な問い合わせには、どこまでも無視を決めむ態度、傲慢な言い草等には落胆します。
僧侶など所詮は皆この程度かと、溜息が出る思いです。


きゃからばあさん、
>あくまでも御本尊の真偽は必要であり、その結果を後世に残さなければいけないと考えています。

宗門の方の中に、このような真摯な方が居られる事を心強く思います。
心より尊敬申し上げます。


管理人様、
つぶやきスレッドでの返信、失礼致します。

2130下学上達:2006/07/03(月) 22:11:53
本門戒壇の大御本尊だけは、「この世での唯一の真実」と信じて来ましたが、
独歩さんのページなどを読ませて頂き、かなり落ち込んでいます。
本物は、いったいどこにあるんでしょうかね。
一度で良いから、拝んでみたいものです。

2131犀角独歩:2006/07/04(火) 00:16:30

独学徒さん

正信会、殊に興風檀所の人々、あれは“坊さん”なのですか。坊さんの格好をしているだけではないのですか。彼らが坊さん、僧侶という点には大いに疑問があります。頭を剃って、袈裟を着るだけなら、われわれだって、出来ます。彼らが坊さんだというのは、いったいどこから言えるのでしょうか。もちろん、これは独学徒さんへの詰問ではありません。わたしは彼らを坊さんだとはまったく思っていないという意思表示です。坊さんコスプレ、古文書オタク、衆生済度の意志はなく、仏教学界で認められて、いい気分になっているだけとしか映じません。


下学上達さん

本物の戒壇本尊、そんなものはないでしょう。そもそも、日蓮は会談と本尊と題目と言っているのです。

戒壇の本尊があるというのであれば、戒壇の題目、戒壇の戒壇もなければなりません。戒壇と本尊が別立てなのが日蓮の教義ですが、それを束ねれば秘事で一つであるというのが草案に見られるところではないでしょうか。

いずれにしても、本尊は「観心本尊」ではないでしょうか。

2132犀角独歩:2006/07/04(火) 00:18:03

【2131の訂正】

誤)会談と本尊と題目
正)戒壇と本尊と題目

2134犀角独歩:2006/07/04(火) 00:27:59

管理者さん

投稿したあとに、少し反芻しました。これは偽らざる感想です。しかし、管理者さんが、「坊さんコスプレ、古文書オタク」というのが、悪口等の投稿規約に該当するとご判断されるのであれば、2131、2132は削除してください。

2135顕正居士:2006/07/04(火) 05:33:30
正信会や創価シンパの離脱僧はろんなく坊さんです。カルト化しているとはいえ、日蓮正宗は
由緒ある伝統宗派の流れですから。そこで出家した人は坊さんです。宗派から擯斥されても、
宗派を替えても、坊さんであることに変りはありません。
ただし具足戒を受けている人を坊さんという国際標準からは、日本とチベットのニンマ派の方は
優婆塞(居士)です。

2136:2006/07/04(火) 05:39:18
2131の掲示は独歩さんの人格、品性を表して面白い。

自らへの無礼には大変鋭敏でいらっしゃる。
偉大な独歩さんも、
意に副わぬ者に対してはかくの如くになられる。
削除より晒しておくべきでしょう。

「カラフル坊さんコスプレ、法華経オタク」はお気に入りのようだが

独学徒 さん
ブログどこにあるのかご紹介を

2137顕正居士:2006/07/04(火) 05:56:32
日本の坊さんの中でちょっと違うのは真宗の方です。無戒ですから。ほかは円戒です。
日本仏教の世界では真宗の方も同じ坊さんです。全く差異はない。しかし仏教の世界
を出ると違います。神官と同じに俗人として扱われます。ですから、真宗九家は華族に
列したのです。

なお、明治廃仏以後は四民の外である僧侶という身分は法律上はありません。僧侶は
宗教、ことに葬儀に与る職業に過ぎず、選挙権など国民の権利を有すると同時に、納税、
(兵役)などの義務を負います。したがって何が僧侶であるかは、明治廃仏以前の習慣
によるといえます。

2138犀角独歩:2006/07/04(火) 06:27:01

Bさん

「偉大」とは恐れ入りました(大笑)
ところで、わたしはどこに「カラフル」と書きましたか?
わたしがコスプレ、オタクではないかと記したのは、その言葉が気に入っているからではなく、わたしは、僧の僧たる所以は何かと、問うためです。
このようなことは日蓮にも見られるでしょう。以下の如き、引用、記述が見られます。

「法を護らざる者をば禿居士と名づく」
「多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん。是くの如きの人を名づけて禿人と為す。是の禿人の輩、正法を護持するを見て、駈逐して出ださしめ、若しくは殺し若しくは害せん」

また、疑偽書には、さらに激烈を極め、

「食法がきと申すは、出家となりて仏法を弘むる人、我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思ひて今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法がきとて法をくらふがきと申すなり。当世の僧を見るに、人にかくして我一人ばかり供養をうくる人もあり。是は狗犬の僧と法華経に見えたり。是は未来には牛頭と云ふ鬼となるべし」
「遊戯雑談のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を著たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人なり。恥づべし、恐るべし」

既得権ではあるまいし、出家、教師補認という免許を、あるとき、ある宗派から得れば、その後、終生、僧侶であるというのか、そもそも、僧侶とは何ぞや、かくあるべきかという問いです。

以下、よく引用するところです。この心情を言っているのです。

「坊さんのすべてが、もう一度、出家しなおしたら、どんなにすばらしいことかと思う。皮肉などで決してない。実感である。
三十三カ所霊場とは限らない。日本の寺々にはともすると、草創の古さ、寺格の高さ、皇室はじめ過去の権力者にどれほどの庇護や帰依をうけたかを、とくとくと語り、あたかもそれを寺の誇りとするごとき傾向をまま見かける。しかしそんなことが、寺の名誉でも威信でもないことはあきらかである。もし寺院が、それなりに矜持(きんじ)を持つとすれば、仏の智、仏の愛を、どれだけ積極的に民衆のなかに弘通し、彼らの悩みを救ったかという一点にしぼられるはずである。過去はもちろん、現在も未来も、立派にそのつとめを果たし得る自信、そしてその実績――。寺院の誇りはこの一事に尽きる。伝統や寺歴を、問題外にするのではないが、そういうものはあくまで第二義のはずと思うのだ。かたちはでんとかまえているが、ひっくり返してみたら下のほうが腐りかけていた南瓜……。そういう哀しい存在に、寺院が成り下がることを、日本の民衆は一人として望んでいないのである」(『西国巡拝記』杉本苑子)

2139犀角独歩:2006/07/04(火) 06:49:07

なお、誤解があるといけませんから、一言、補足します。

わたしは、僧は宝であるという考えには、心から賛同しています。
原則として、僧侶には、最高の礼を以て、接しています。

しかし、破戒、無戒、一片の民衆共済の志も感じられない者には、歯に衣を着せず、断固、その非を問います。それは、わたしの意に副うか・否かということではない、僧の僧たる所以を滅ぼす悪行であるからです。

2140犀角独歩:2006/07/04(火) 21:02:59

こちらも間違えていました。

【2139の訂正】

誤)民衆共済
正)民衆救済

2141独学徒:2006/07/04(火) 22:36:48

犀角独歩さん、今晩は。

>正信会、殊に興風檀所の人々、あれは“坊さん”なのですか。坊さんの格好をしているだけではないのですか。

私は経験が少ないためか、真に尊敬できる僧侶を存知あげません。
したがって、私にとって僧侶とは「坊さんの格好をしているだけ」の人を指しています。

将来、本当に尊敬できる僧侶と出会うことができれば、この認識は改まると思います。


Bさん、私のブログは以下にございます。

http://blog22.fc2.com/fujikyougaku/index.php?style2=pop-k17&amp;index

2142 B:2006/07/04(火) 23:07:23
下手な書き込みのせいで誤解されたようです。婉曲は通じないようです。

>「偉大」とは恐れ入りました(大笑)
いやいやどういたしまして精一杯のヨイショです、真に受けられた訳ではないでしょうけれど。

> ところで、わたしはどこに「カラフル」と書きましたか?

独歩さんの表現を借りて私がお返ししただけです。

「カラフル坊さんコスプレ」衣の色に憂き身をやつすお上人様、これ中身より見てくれの「高僧コスプレ」なのでは 
古文書オタクに対して法華経オタクと書いてしまいました。オタクとは地道な研究者に対する侮蔑表現です。

独歩さんお気に入りのお上人様方ごめんなさい。
独歩さんお気に入りの法華経研究者様ごめんなさい。

> わたしがコスプレ、オタクではないかと記したのは、その言葉が気に入っているからではなく

私の記した「お気に入り」の意味は、独歩さんが尊称をつけておられる方々は独歩さんの「お気に入り」なのではという意味です。残念ながら富士系僧侶には「氏」と表現されていますので。

ところで独歩さん、今日本国中でこれぞ本物の僧と思われるお方はどなたでしょうか。


独学徒さん  ありがとうございます。 ぼちぼち読ませていただきます。

2143犀角独歩:2006/07/05(水) 04:19:18

Bさん

誤解も何もありません。ここは議論の場ですから、湾曲な表現がどうだとか、お気に入りがどうだとかということ自体、わたしは馴染まないと思いますし、そんな話につきあう気はありません。ヨイショ、お返し、お気に入り、あなた、なんか勘違いして居るんじゃないですか。

> オタクとは地道な研究者に対する侮蔑表現です。

研究だけして、衆生済度を忘れた者は、僧侶の本分を失っている故に尊敬に値していないと言っているのです。そのような戒めは日蓮以已来のことだろうとも記しました。湾曲で通じませんでしたか。
日有は『化儀抄』に
「一、当宗には談義あるべからず、其の故は談義とは其れ文段を横に沙汰する故に智者の所作なり、当宗は信の宗旨なる故に爾るべからず、但し竪に一宗の建立の様を一筋云ひ立るは説法なり、是をば当宗にゆるすべきなり愚者の聞く耳なるが故に云云」
というのではありませんか。わたしは富士の信徒は卒業していますから、この日有の教戒に随うことはありませんが、富士の僧侶を誇るのであれば、よろしく、この義に副うべきところ、単に研究とは、既にこの意に外れませんか。まして、大乗戒、すなわち、菩薩戒をもって僧侶となる法華宗において、「衆生無辺誓願度」は僧侶の誓いでしょう。この僧侶の本分を忘れては、もはや、僧侶と呼ぶことは出来ないと言っているのです。

> 残念ながら富士系僧侶には「氏」

当然でしょう。日蓮本仏という嘘を解き、模造の彫刻を「本門戒壇の大御本尊」と謀って恥じ入るところもありません。とても「師」などと呼ぶことはできません。。

> 今日本国中でこれぞ本物の僧と思われるお方はどなたでしょうか。

たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、こんな質問に答え、実名を上げるわけにはいきません。2136、2142の如く、議論ではなく、突然、人を指名し、悪言を吐き、「晒しておくべき」などという書き込みをして、人を侮蔑するあなたに、まともに応える言われもありません。

2144犀角独歩:2006/07/05(水) 04:34:41

「仏所讃歎捨世中福田所誡於一闡提加讃歎供養。故弥貪欲心盛謗法音満天下。豈不起災難乎。…
 問曰汝以僧形顕比丘失豈非破不謗四衆不謗三宝二重戒乎。答曰守涅槃経云若善比丘見壊法者置不呵責駈遣挙処当知是人仏法中怨。若能駈遣呵責挙処是我弟子真声聞也[已上]。之文記之」(災難興起由来)

2145犀角独歩:2006/07/05(水) 11:07:04

独学徒さん、以下へ移動しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/887

2146ラキ:2006/07/05(水) 13:00:50
最近ネット映像で、イスラム原理主義者による、ロシア人処刑映像を見ましたが、宗教に狂う怖さを実感しました。
日本ではここまで過激ではないですが(オーム事件を別として)自分が信仰してる宗教のためなら、法を犯す行為も平気でするのが宗教と呼べるものなのかと考えます。

2147ひきこもり:2006/07/08(土) 14:39:24
>>2146
そんなことはありませんよ。「仏法は王法よりも尊し」と言う理論を振りかざして、現行法を
犯すようなことは、富士門流信徒のほとんどはしませんよ。

2148真実知求者:2006/07/08(土) 20:42:49
>>2147様、オーーット、、ホンマかいな、?  マー重く受けとめるが、疑義は、、999%位は実感中、だす、、。 因みに「共同謀議処罰法=治安維持法、」、にご執心して批判者をブタ箱にしょっ引く法案には、つい先日までシャカリキの団体さまは、どこの誰でしたか、、ネ、?  ここに宗教のの恐ろしさが存在のようです、、? イスラム教徒がユダヤ人をテロで殺傷する時、、「、、アッラー、!、アクバル、、!」(=お題目)、、と叫ぶ、ようです、。 この点には、??、、どこかと似ている点、、はないのでしょうか、、?
 軽々しくは言えませんが、「、宗教、、=、、洗脳、、=、、凶悪、?、、」、、も、含んではいないでしょうか、? 心配ではございまするが、、。

2149犀角独歩:2006/07/08(土) 21:15:51

> 現行法を犯すようなことは、富士門流信徒のほとんどはしません

何を言いますか。7月3日、その富士門流の顕正会員が、人を殴って、家宅捜査が入ったばかりではないですか。創価・公明で言えば、池田克也、田代富士雄の汚職をはじめ、創価学会が蛇蝎のように嫌う山崎正友氏も、現役の富士門流信徒ではないですか。

不起訴、起訴猶予になったからと言って、現行法を守っていることにもなりません。

2150問答迷人:2006/07/08(土) 21:37:20

僕が創価学会員だったとき、こんな事を習いました。

「法には三種の法がある。世間法、国法、そして仏法だ。この三つの中で一番大切なのは、仏法であり、国法と仏法のどちらかを選ばなければならないときには、たとえ国法を犯しても、仏法に随わなければならないのだ」

たしか、これは、第二代会長の戸田氏の発言が元になっていたように思います。戦時中、戸田氏が国法を犯して捕らえられ、監獄に繋がれた事を正当化する論理がそこにはあったと思います。

本来、創価学会では、国法遵守の精神は薄いのではなかろうかと思います。現に、僕は、昭和44年当時、公然と選挙妨害を幹部から指示され、他党候補の事務所の電話を鳴りっぱなしにする、という選挙妨害活動をしたことがあります。

この経験からも、富士門流信徒、特に大石寺門流においては、現行法を犯すことには、そう心理的抵抗は無いように思っています。

2151犀角独歩:2006/07/09(日) 06:14:14

いわゆる、法に関するハッサン師の記述。以下、『マインド・コントロールの恐怖』から。

現行法は、暴力の行使またはその危険がないかぎり、マインドコントロールなるものが存在すること自体認めない。(略)実際、法というものは、知らないあいだに破壊的カルトの犠牲となってしまった人々よりは、むしろ破壊的カルトの方を守りがちである。(略)カルト集団には途方もない資力があるため、彼らはそれで最高の弁護士を雇い、批判者や元メンバーに対するいやがらせの訴訟(勝ち目はなくても訴えられた人は迷惑)を起こすことができる。

破壊的カルトはみな、目的は手段を正当化すると信じているので、自分たちは法の上にあると思っている。

まっとうなグループは、破壊的カルトのように恐怖と罪意識を通してコントロールするというような極端には、決して走らないものである。
あるもっとも破壊的カルトは、元メンバーを実際に突きとめて、あからさまな暴力、あるいは法的嫌がらせ、感情的脅しや脅迫などでだまらせようとする。

2152ラキ:2006/07/09(日) 14:13:06
>2147
>>そんなことはありませんよ。「仏法は王法よりも尊し」と言う理論を振りかざして、現行法を
犯すようなことは、富士門流信徒のほとんどはしませんよ。

過去に同じような事を述べた記憶がありますが、私は、富士門流信徒の方が、他宗教より(国内限定で言う)犯罪を犯してる方が多いと思います。
報道に流れないような小さな犯罪も身近で体験し、聞いてきました。
富士門流の折伏と言う、脅迫はある意味犯罪行為だと思ってもいます。
顕正会など、顕正会をバカにすると、罰が当たる。入信を拒むと罰が当たる。他の宗教では不幸になる。幸せになるには顕正会の日蓮聖人の仏法をしなければ、幸せになれない。
何か問題があるの?と思う人もいるでしょう。
だけど、捉える人により、罰・不幸と言う言葉の脅迫とも取れるわけです。
そのように考えると、他の宗教を見て話を聞いて来た私をしては、富士門流が一番世間法を犯してると思います。

2153犀角独歩:2006/07/10(月) 05:50:27

> 富士門流が一番世間法を犯してる

まあ、そこまでは言えないと思います、オウム真理教、統一協会などの例もありますし、戦前の軍部権力を結ばれた大東亜圏武力支配という問題もあるでしょうから。

ただ、たとえば、顕正会にしても、昨年は神奈川だけで500件の被害届があったということですし、戦後、間もない、創価学会の威力行使、勧誘、その他の被害は凄まじいものがあったのは、事実でしょうが。

2154今川元真:2006/07/16(日) 06:12:41
創価学会の冷戦敵対に以前此んなものを書き送りました。【シャクソン・出世の本懐・法華経、日蓮・出世の本懐・三大秘法の大御本尊、爾前(諸の外道を破す)→シンニョウ亦門(諸の禅定を明かす)→本門(真寂の深義を明かす)→観心(人天の因果を明かす)、自分自身が妙法の蓮華の当体である事を悟る】 2006年現在では、法華一乗≒三大秘法、爾前or化城

2155大縫 薫:2006/07/20(木) 22:12:42
今回の大雨水害で土石流によってお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げ
るとともに、被害に遭遇された方にお見舞い申し上げます。

2156下学上達:2006/07/21(金) 02:45:38
ここの過去ログは大変勉強になりました。
ずっと読んでいて、日蓮大聖人の真意を理解した弟子はいなくて(日興でさえも)
・・・と言う事は後世には全く正しく伝わっていないのですね。
私は一体、何を信仰してきたのか判らなくなりました。

2157今川元真:2006/07/21(金) 06:05:53
法華一乗では無いですか

2158パンナコッタ:2006/07/21(金) 14:26:23
下学上達さん、こんにちは。ここは受け答え禁止なので、あくまでも自分の主観による
つぶやきです。ご容赦下さい。

以前、TVで三笠宮崇仁殿下が歴史を語ったインタビュー番組の中で、
 「当たり前なのですが、誰が見ても、イエスはキリスト教徒ではないのです」 という
ご発言を聞き、アッと思いました。 
当たり前の事実に、以外と気付いていない事があると言う事ですね。
(イエス実在論もありますが、それを踏まえてもキリスト教徒ではないでしょう)
富士系教学をベースにした信仰の場合、このような事が非常に多いと思われます。


慨出ですが、宗教の法則に”宗教の中心は空洞である”というものがあります。
【神や仏がたとえ存在しないとしても、宗教という装置は成立する。
 重要なのは、神や仏が存在すると、人々に信じさせることである】
組織の維持、拡大が至上命題になっている教団の論理を信仰していたのでは、ないでしょうか。

2159下学上達:2006/07/21(金) 19:28:30
>パンナコッタ さん
受け答えではありませんが。返信ありがとうございました。
私も創価学会の本尊では無く、己心の大聖人の真筆を、
信じて頑張って行こうと思います。

2160藤川一郎:2006/07/22(土) 13:12:42
「イエスは仏教徒だった?―大いなる仮説とその検証 」
著者 エルマー・R. グルーバー

と言う書籍もありますね。

2161ラキ:2006/07/23(日) 00:32:43
本屋さんで見かけて、独歩さんの解体新書かと思ってしまいました。(^^;
「犀の角たち 」  佐々木 閑著
税込価格 : \1,995  出版 : 大蔵出版  サイズ : B6判 / 244p
ISBN : 4-8043-3064-X
発行年月 : 2006.7  利用対象 : 一般
内容説明
「科学とはなにか? 仏教とはなにか? まったく無関係にみえるこの問いの根底にある、驚くべき共通点とは。宗教の神秘性を極力排除し、徹底した論理性だけを用いて解き明かす、知的冒険の書。 」

2162大縫 薫:2006/07/27(木) 22:28:30
興門の化儀で、要法寺・北山本門寺・西山本門寺・小泉久遠寺と大石寺の比較を
考察すると法衣・法具などで大いなる相違があるのに考え深いのがあります。
石山は鶴丸は三枚羽でその他の七山は二枚羽で日興上人の紋たる亀甲紋も亀甲の中
に花菱があるのは石山で二階堂家の門であり、大井家の紋は花菱が無く、御宝前の
器は石山は六器で華香水華香水を供えるのに、七山は三器を供えています。
法衣も大石寺では白五条袈裟に対して、要法寺・北山本門寺・西山本門寺などは
薄墨五条袈裟を着用しています。四菩薩造立抄には宗祖は薄墨色の袈裟を着用して
いた事が判明しますが、石山古刹寺院の御影画像には白袈裟では無く薄墨色で描かれ
ています。題目も石山はナンミョウホウレンゲキョウに対し古来の七山はナムミョウホウレンケキョウ
とゲをケと発音し追いの題目を上げます。
数珠も石山は数え球があるのに対し七山は数え球がなく房も切房で丸房ではありません。
法具たる中啓も石山では葬儀にも朱骨・黒骨金銀の面の中啓を使うのに対し、七山では鈍色又は白骨の
中啓を使用します。葬儀の席も所詮は目出度いとでもいいたいのでしょうか?
まだまだ違いがありすぎて、書ききれません。
後者の七山が興門の古式を伝えているのだけは、誰の目から見ても明らかです。
何故に大石寺が変節してしまったのかお分かりの方がいたらご教示願います。

2163みかん:2006/07/28(金) 08:17:09
>石山は鶴丸は三枚羽でその他の七山は二枚羽で

そのようにMさんという方から教えられましたが、一昨年、
実際に実際に自分で富士五山全山を回ってみたら、
どのお寺でも二枚羽、三枚羽ばらばらに混じっていましたよ。
どうもちゃんと決まっていないと思います。

>ナムミョウホウレンケキョウ

これも同じMさんからそう教わりましたが、疑っています。
ナムミョウホウレンケキョウと表記するのは、古来の日本語が
濁点を表記しなかったからで、実際に濁音で発音していたか
発音していなかったかは、分からないのではないですか?

大縫さんがそのように教わったのは、Mさんからですか?

2164大縫 薫:2006/07/28(金) 11:19:19
みかんさん
要山の関係者から教わりました。

2165みかん:2006/07/28(金) 18:09:03
5年ほど前に、要法寺の寺務所で数珠を買いましたが、
たしか丸房で、房は左右とも二つだったと思うんですよね。
日興上人遺品のレプリカというふれこみでしたが、
いま、探してみましたが、見当たらないので
もし出てきたら、もういちど確かめてみます。

やはり5年ほど前に北山本門寺の御開帳を
受けましたが、その際は、貫主猊下は
白い切房の数珠でしたが、伴僧は色つき丸房の
数珠を使っていました。他門流の僧侶が出仕していた
と思われます。
開帳の時に「引き題目」というものを唱えさせられましたが、
げきょうだったか、けきょうだったか、覚えていません。

やはり5年ほど前の四月、西山本門寺の虫払い法要
に参列しましたが、僧侶の数珠は覚えていませんが、
たぶん切り房だったと思います。
信者は、丸房、切り房、白、色つきまちまちでした。
(東京布教所の信者だけは切り房でしたが、
わたしが持参した要法寺の数珠とはデザインは全く違いました)
一昨年の四月、再度西山の虫払いに参列したところ、信者の
数珠は、切り房が増えていました。

五山の五ヶ寺の鶴丸の写真がちょっと見あたらないのですが、
もし見つかったらアップします。

法衣、法具については知識がないので失礼。

2166犀角独歩:2006/07/28(金) 19:12:06

皆さん、ご無沙汰いたしております。

ここ10日ばかり、モバイルに頼っていたところ、頂戴したメールが不読消去される事故が起きました。もし、メールをお寄せ下さった方がいらっしゃいましたら、お手数でも、再送頂きたくお願い申し上げます。

2167独学徒:2006/07/29(土) 18:36:34

大縫さん、ご無沙汰です。
みかんさん、はじめまして。

>ナムミョウホウレンケキョウ

これは私もMさんから聞いたことがあります。
正信会の「通称『万年講』の邪義を破す」でも出ていますので、ソースはわかりませんが、Mさんは学会在籍中からそのような考えがあったと思われます。

また北山本門寺、京都要法寺、保田妙本寺の勤行要典に該当するものから、現在の各山の発音を探ってみますと以下の通りとなりました。

北山本門寺=「妙行聖典」:南無妙法蓮華経に「なむみょうほうれんげきょう」のルビがふられている。
京都要法寺=「信行正軌」:南無妙法蓮華経に「なんみょうほうれんげきょう」のルビがふられている。
保田妙本寺=「勤行要典」:南無妙法蓮華経に「なむみょうほうれんげきょう」のルビがふられている。

以上から考えますと、むしろ尊門では「なんみょうほうれんげきょう」と発音することが、「正軌」と考えられているようにも思われます。


犀角独歩さん、こんにちは。
昨日も添付ファイル付きのメールを送っていますが、どうも帰ってきてしまいます。
彰往考来さんには、届いているようですので、なにか対処法があればお伝えいただきたく存じます。

2168大縫 薫:2006/07/29(土) 20:05:35
独学徒さん、こちらこそご無沙汰しております。
暑さで体はバテてはいませんか?
保田妙本寺では緑の折本で「勤行読本」といっていたような勤行要典に変わった
のでしょうか!

2169独学徒:2006/07/29(土) 20:30:31
大縫さん、
>暑さで体はバテてはいませんか?

実はバテまくってます。
今日は明るいうちから発泡酒(私の小遣いではビールが買えません)をあけ、家でゆっくりさせていただきました。

>保田妙本寺では緑の折本で「勤行読本」といっていたような

ご存知のように、私は近年こうした富士門系諸山を訪問し始めたばかりですので、保田妙本寺さんに関しましても、正宗時代や離脱直後などのことはわかりません。
確か昨年、冨士教学研究会のブログを起こしたころに購入したのが、現在所持している保田の経本だったと記憶しています。
その今手元にあるものでは「中谷山妙本寺勤行要典」となっています。

2170ラキ:2006/07/30(日) 02:51:16
アンチ日蓮正宗系掲示板て感じで、面白いです。
「自称”顕正会員”の発言を考える」
http://windsaber.hp.infoseek.co.jp/

mixiの中にも日蓮のコミにティーがあるのには驚きました。
mixiメンバーで興味がある方は検索して覗いて見ても面白いかもしれません。

2171犀角独歩:2006/07/30(日) 07:43:59

独学徒さん

恐縮です。
どうも、ここのところ、メーラーの調子がよくありません。
お手数ですが、以下、再送いただければと存じます。

saikakudoppo@rio.odn.ne.jp
saikakudoppo@yahoo.co.jp

恐縮ですが、よろしくお願い申し上げます。

2172独学徒:2006/07/30(日) 10:18:30

犀角独歩さん、お早うございます。
ヤフーに送ってみました。
ご確認下さいませ。

2173犀角独歩:2006/07/30(日) 13:20:42

独学徒さん

こんにちは。拝受いたしました。
お手数をおかけいたしました。
有り難うございました。

2174大縫 薫:2006/07/30(日) 16:57:34
独学徒さん
中谷山妙本寺勤行要典は表紙は何色でしょうか?
大石寺と大差は感じませんでしょうか。

2175独学徒:2006/07/30(日) 17:12:41

大縫さん、
>中谷山妙本寺勤行要典は表紙は何色でしょうか?
グレーです。
大石寺のは私が所持していますのは、昭和56年版で茶色といいますか黄土色のような色をしています。
巷でよく見かけたのは、ブルーの経本でした。
いずれにしましても、現在の保田妙本寺さんの経本で、私が現在所持しているのはグレーです。

ちなみに勤行の次第は以下の通りです。

初座→石山「諸天供養」:保田「諸天供養」
ニ座→石山「本尊供養」:保田「法本尊供養」
三座→石山「三師供養」:保田「人本尊及僧宝供養」
四座→石山「広宣流布祈念」:保田「広宣流布祈念」
五座→石山「回向」:保田「回向」

宗祖本仏論の寺ですが、人本尊と法本尊を別個に供養するところは、石山と違っていますね。
石山では所謂「本門戒壇之大御本尊」をもって、人法一箇の本尊としますが、保田では法本尊=万年救護大本尊、人本尊=日蓮大聖人(大石寺正御影?)としているようです。

2176大縫 薫:2006/07/30(日) 20:22:54
独学徒さん、ご教示有難うございます。
富士諸山でも宗祖本佛論・久遠実成の釈迦佛を人本尊として位置付けをしているのが
大変に面白いです、特に西山では諸師によって人本尊のたて分け方に相違があるのは
興門の三宝式に見られる、宗祖御影(木像・画像)本尊(紙幅・板)開山御影(木像・画像)
の捉え方が多分にも影響しているのではないでしょうか。

2177独学徒:2006/07/31(月) 00:04:17

大縫さん、
>特に西山では諸師によって人本尊のたて分け方に相違がある
本当ですね。西山は諸師によって意見が異なりますね。
保田は猊下と執事さんとで、少々意見が違うようですが。
しかし、10人いれば10通りの意見があっていいと思いますので、むしろ内部で種々の意見があって健全かもしれません。

こちらこそ今後とも御教示の程お願い申し上げます。
特に、導師曼荼羅について、どのようなものを導師曼荼羅と呼称して間違いないのか、是非御教示戴きたく存じます。

2178大縫 薫:2006/07/31(月) 00:38:00
平成十八年 七月七日 「『立正安国論』─その道を歩む─」
立正大学名誉教授中尾中尾堯文師の金曜講話をネット配信で聴聞し、改めて宗祖
日蓮大聖人を身近に感じる事が出来て、今後の活動の糧となった。
合掌
http://dendo.d-nichiren.jp/share/getu_kin/index.html

2179富士:2006/07/31(月) 11:38:39
久しぶりに書き込ませていただきます。

突然ですが、彰往考来さん。
自分の事覚えていらっしゃるかどうかわからないのですが・・・。
昨年のオフ会、二次会の席で正面に居た途中で帰った法華講の者です。

実は早急にお知らせしたいことがあります。

いきなりで大変失礼なのですが、名前のところへ御迷惑でなければ、
電話番号かメアドを教えていただく事は出来ないでしょうか。

個人情報ですので、もし別なアクセス方法があれば指示してください。
従います。

2180れん:2006/08/01(火) 17:20:52
>2177
独学徒さん
>西山は諸師によって意見が異なりますね…保田は猊下と執事さんとで少々意見が違うようです…

とのことですが、私、不勉強にて近年の富士他山のことには全く疎いので、もう少し具体的にお示し下されれば幸甚に存じます。

2181独学徒:2006/08/01(火) 23:33:36

れんさん、今晩は。

西山については、富士門流の謗法観といいますか、所謂「雑乱勧請」といわれる別勧請を謗法ととらえる方と、そうでない方がいらっしゃると思います。
特に末寺にいたっては、身延系の日蓮宗とそう変わらない境内の寺院もあると聞いています。
具体的には申し上げ辛いのですが、本山塔中でも、七面山信仰を奨励されるところもございます。

保田では、昨年の御虫干でも、貫首猊下が同寺の御影を聖人在世に日法の作と説法されましたが、執事さんは霊宝解説の中で、聖人滅後日興上人の命によって作成と話されていたと記憶しています。
貫首猊下は伝統を尊重したお考えで、執事さんは、比較的現実的なお考えなのではないかと存じます。
但し、滅後日興上人の命によって作成との説も、公に判断されたものではないと思われます。

なかなか具体的にできず恐縮です。
事情御察し戴けますと幸です。

2182れん:2006/08/02(水) 13:56:07
独学徒さん
お示し戴ける範囲で、ご教示頂き、誠に有難うございます。
なるほど、保田でも西山でも、そのような事情があるのですね。
保田の場合はいわゆる大石寺御影の造立時期に関する異見ですか、かなり以前に話題になりましたが、日順雑集の記事によると、興師は蓮師滅後、弘安七年までに、蓮師の住坊を御影堂に改め、かつ、蓮師の御影像を造立したことが見えるので、保田の執事さんのご意見は、この雑集の記事にみえる御影を保田の御影像に比定されているということでしょうね。
西山の場合も、旧末寺が日蓮宗に所属しているので、通日蓮宗的な法義解釈の影響を少なからず受けている方もおられるでしょうから、これも、当然のことと存じます。
ともあれ、ご教示誠に有難うございました。学恩に感謝申し上げます。

2183彰往考来:2006/08/02(水) 17:03:38

>2181,2182 横レス失礼。

私はいわゆる大石寺御影の造立時期はもう少し時代が下がるものと考えています。鎌倉末期から南北朝のころでしょうか。
これにつきましては近々私見を公表したいと存じます。

彰往考来

2184れん:2006/08/03(木) 18:16:10
彰往考来さん
>2183
保田所蔵の所謂大石寺御影の造立の時期につき、ご見解を近々御披瀝戴けるとのこと、楽しみにお待ち申し上げます。
日順雑集に記される、興師が弘安七年前後に造立したという蓮師御影については、文面からは画像か木像かは分かりませんが、木像と仮定した場合、その候補は重須の生御影・保田の正御影・下条東光寺に秘蔵されて東光寺の御影・明治時代に焼失した小泉久遠寺の御影が挙げられますが、東光寺の御影は一般に非公開、小泉久遠寺のは焼失していて、比較検討出来ないのは残念です。
ともかくも、彰往さんの御賢察の御披瀝を楽しみにお待ち申し上げます。

2185れん:2006/08/04(金) 17:59:29
>2184
訂正
誤)秘蔵されて
正)秘蔵されている

2186驟雨:2006/08/08(火) 00:44:02
つぶやきすれっどということなので、ふと思ったことを書き込ませて頂きます。
御書には人間感情の両側面の主張を擁護する文面というものが存在しているように思います。
例えば日蓮正宗系で言うと、相対立した立場それぞれの言い分を擁護する御書が存在するような意味合いです。
相対立者同志がそれぞれ御書を元手に主張しても「切文」として吐いて捨ててしまわれ解決をつけられない事柄が多いのですが、大きく見れば、反論御書も、ただ一片だけでは日蓮聖人の聖意とも取れないと思うんです。
でも色々読んでいても、片方では悪を善とし、片方では善を悪とする、といった論述展開が私には見えて取れてしまったのですが、それでは一体日蓮聖人の本来の目的とは一体何なのか・・・判断に迷う事も多くあります。
特にの現在の日蓮正宗系同士のやりとりでは全く判断つかないのです。
多くの僧侶系の方々は「対告衆」という文言をよく使用されますが、主張の違う論者同士の場合、またこれが実に巧みに身勝手に使用されているようにも思えてならないのです。
私は日蓮聖人信奉者でありたいと思っていますが、お互いに情報提供しあって日蓮聖人の御聖意に近づこうとする許容力も、整合力も、協調性もないように感じてならないのです。

こんなご時世にこそ本当の力ある宗教が必要とされるのに・・・結局は日蓮聖人の生き方も、現代の多重の思考主張の世間では、一つの思想でしか成立し得ないのか、と残念に思う今日このごろです。

私は無智の部類の日蓮聖人尊者でしかないのですが、少しばかりもどかしく思いつぶやきすれっどならば、と思い書かせて頂きました。

2187大縫 薫:2006/08/12(土) 20:26:59
興門の長老から伺った話では、御本尊の首題と花押(日蓮在御判)は我々衆生
に向かっているが、実は首題に対して花押(日蓮在御判)はこちらに背を向けている
からこそ、末法有縁の大導師としてのお立場が備わると聞いた事があります。
御影様は逆にこちらを向いているのは、宗祖自ら客をもてなす意があるからだと
言っていたのが、この頃気になるのですが・・・

2188問答迷人:2006/08/12(土) 20:55:03

>実は首題に対して花押(日蓮在御判)はこちらに背を向けている

興門長老のお話のご紹介、大変有難うございます。

僕は、曼荼羅の首題と花押は、それぞれ「上行所伝の妙法蓮華経の五字」と「口唱日蓮」を表していると考えています。

これが正しければ、当然、花押(日蓮在御判)は、「首題に向っている」、つまりは、「こちらに背を向けている」と考えています。

御影様は「口唱日蓮」ではなく、「説法日蓮」を表していますから、客である信徒の方を向かれているのであると考えています。

2189今川元真:2006/08/12(土) 22:58:59
なるへそ!

2190大縫 薫:2006/08/13(日) 00:21:04
問答様
お世話になります。興門長老の言では御義口伝の末文の、法とは上行所伝の題目なり
この要文に興門の真意が要約されているとの事です。
古来より御影様は客殿式の如く安置されるのが伝統であり、西山・北山・蓮山・豆山・石山
が現在も木像・画像の違いはあるにせよ客としての信徒を御持て成しをされている姿は説法
日蓮大聖人・撰時抄を講話され第五の五百歳を指を指し示す日興上人のお姿だと・・・
我々の口を仮にお使いになり、宗祖は上行所伝の妙法蓮華経の五字に向い口唱されているから
こそ末法有縁の大導師にあたるそうです。
その長老も今は鬼籍に入られ、興門の古式伝統を重んじる方は数少ないと思います。

2191大縫 薫:2006/08/13(日) 00:57:26
もうひとつ言うのを忘れていましたが、石山(現日蓮正宗)は興門古来の化儀や
古式・伝統を簡素化にし、日蓮本佛でありますから、宗祖もこちら(衆生)側を
向いていているので、常に説法日蓮であって、客を御持て成しする姿ではなく
本佛として完成された容でありますから、佛と衆生とそこに差別が生じ、一器の
器から器に注がれた法灯連綿が説法日蓮の名代たる法主に受け継がれ、さらに法主
の名代たる寺院住職とそこに所属する信徒としての師弟関係に結び付きます。
化儀抄に出家と在家信徒には大いなる差別があると指南されています。
上行所伝の妙法蓮華経の五字に宗祖御自ら導師になられ、我が口を仮に使い口唱さ
れる宗祖こそが興門の求める宗祖の姿ではないでしょうか。

2192今川元真:2006/08/13(日) 05:44:03
シンプルに考えるなら、多宝如来の建てた宝塔にシャカを招いて法を説いてもらい、其の意義が、鎌倉時代の末法無戒の頃まで続いた事を示している漫荼羅に見えます。

2193問答迷人:2006/08/13(日) 07:33:42

宗祖「仏既に宝塔に入つて二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取つて末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有る可からず。」と法華取要抄に述べられています。

釈尊が法華経で説いた「法」とは、「妙法蓮華経の五字」であり、それが神力品に於いて、上行菩薩を上首とする地湧千界に授与された、との道筋をお示しで有ると思います。

曼荼羅にお認めになられた首題は、この上行所伝の妙法蓮華経の五字であり、日蓮花押は、宗祖が、この上行所伝妙法蓮華経の五字を口唱される姿を表すのだと思います。

2194問答迷人:2006/08/13(日) 10:35:25

「妙法蓮華経の五字」と「南無妙法蓮華経」の関係について

「妙法蓮華経の五字」は上行所伝の、神力品の結要付属の正体。この、「妙法蓮華経の五字」に南無し奉るという意図をもって、南無妙法蓮華経と口唱する数秒間の、行者の刹那の心、ひと思いの心(一念)。この一念を南無妙法蓮華経と言い、この南無妙法蓮華経の一念に十界三千が具わる、というのが、宗祖の教えられた事行の一念三千なのだと考えています。

2195今川元真:2006/08/13(日) 10:36:52
法の形を人物で無くて蓮に例えたと見て良いのか云々。植物に例える事で諸法無我・諸行無常・涅槃寂静を示したと言うべきか云々。

2196犀角独歩:2006/08/13(日) 19:32:16

水を差すようで恐縮ですが、花押は、日蓮ご本人が確かにこれ(漫荼羅)を図したこと示す証なのであって、それが唱題する姿であるとか、こちらを向いている・背を向けているなどという意図で記したものではないという見解も付加されて然るべきであろうと存じます。

なお、現石山の言い分は中世以降に定着したものであり、日興已来のものでないことは既に議論を畢えています。また、御儀口伝が、その名称を『就注法華経御義口伝』(注法華経に就いての御義口伝)と言いながら、実際は、注法華経と脈絡がないこと(山中研究)、さらに、その口伝を弘安元年としながら「六老僧」という語彙が見られること(この記述は、石山、学会版では削除されている)、しかし、本弟子六人の選定は弘安五年であるので時系列が一致しないのみならず、当初の選定段階で「六老僧」という呼称もなかったことなどからして、この文書を以て、日蓮日興已来の血脈を論じることは、議論としては破綻している点もまた既に論じてきたことでした。

以上のような、過去の議論の積み重ねを覆すのであれば、それなりの挙証があって然るべきです。原石山の老僧が何を言ったところで、日蓮日興の教学と伝承の証明とはならない点を、指摘しなければなりません。

ただし、以上の点は、紳士的な道義から申し上げることで、問答さんのご賢察、また、大縫さんの石山歴代曼荼羅研究を穢す意図はないことは申し添えるものです。

2197れん:2006/08/13(日) 20:45:43
問答さん・大縫さん。
貴重なお話謹んで拝聴いたしました。大縫さんのおっしゃる興門長老とは、文脈から、恐らく石山以外の日興門流の老僧の方のお話と拝察致します。興門長老の方のご意見から、ふと、日順雑集の「戒定慧と下る事は仏法修行の儀式なり、定戒慧と下るは説法の儀式なり」を思い出し、前者を漫荼羅の日蓮御判に、後者を御影にあてて考えてみましたが、やはり、原初的には独歩さんが仰る以上の意味は無かったものと思います。
先日の松山師の法華経講義の休憩の時に、松山師が澁澤師に蓮師の上行自覚の有無について質問されておられました。私は個人的には、蓮師の上行自覚があったかもしれないことを示す蓮師真筆は万年救護本尊しかなく、蓮師としてはむしろ「不軽の跡を紹継する」(聖人知三世事)御自覚の方が佐渡期身延期を通じて強かったものと思っております。

2198問答迷人:2006/08/13(日) 21:47:50

犀角独歩さん

御叱責、尤もであると存じます。

れんさん

ご指摘尤もだと存じます。

ここはつぶやきスレッドなので、簡単に思うところを述べさせていただきます。

一、曼荼羅に認められている「妙法蓮華経」という文字は、法華経の経題であり、神力品に於いて上行菩薩が代表として釈尊から付属された要法であるとして蓮祖が教えられる所の「妙法蓮華経の五字」だと言う事。

二、この、上行所伝の「妙法蓮華経の五字」に南無する、という意義を以って、蓮祖が「南無妙法蓮華経」と口に唱える修行方法を自らも唱え、他にも唱える事を広められた事。

この二つは動かないと思っています。この二点を前提に考えるとき、大縫さんが教えてくださった興門の古老のお話は、誠に合点が行くと僕は思ったわけです。これは、過去、既に議論されてきた事を蒸し返しているのでは無く、曼荼羅を蓮祖がどのような目的で表したのか、それを探る意味合いなのです。

又、蓮祖に上行菩薩の自覚が有ったか無かったか、大変難しい問題ですが、事実としては、釈尊が上行菩薩に付属した「妙法蓮華経の五字」を蓮祖が口唱し、他をも口唱させ、又、曼荼羅に認めて信徒に授与したのは紛れも無い事実だと思います。もし、蓮祖に上行菩薩の自覚が全く無かったとしたら、なぜそのような越権ともむ取れる行為に及んだのか、説明が付かないのではないかと思います。大いに疑問が残るわけです。

僕としては、結論を急ぐ気持ちは全く有りません。ただ、蓮祖が如何なる目的で曼荼羅を表したのか、何としても知りたいものだと思うばかりです。まぁ、そういう意味で、日頃考えてきた愚案を少しばかりつぶやかせて戴きました。ご賢察賜れば幸いです。

2199問答迷人:2006/08/13(日) 21:51:17

訂正です

× 越権ともむ取れる行為
○ 越権とも取れる行為

2200大縫 薫:2006/08/13(日) 22:16:47
現日蓮本宗の宗務総長は興門全体の歴史・教学・伝統などすべてに精通していて
興門の論客としてもかなり有名な方だと聞いていますので、現在と往古の違いを
お伺いして見たいと思います。

2201犀角独歩:2006/08/14(月) 08:47:41

問答名人さん

「叱責」など、恐れ多いところです。
曾て、「塔中妙法蓮華経」につき、わたしが、この一節は、法華経典を指すのではないかという見解を示したとき、五字である点をご教示くださった点を、いまも有り難く存じております。その後、考えを改め、本尊抄の文意は、五字である点に、考えを改めさせていただいたものでした。

> 既に議論されてきた事を蒸し返しているのでは無く、曼荼羅を蓮祖がどのような目的で表したのか、それを探る意味合い

なるほど。御意、理解いたしました。

今回の漫荼羅図示の祖意、また、上行自覚については、わたしも興味を懐く点です。真蹟遺文から拝する限り、れんさんもご投稿と、わたしも同様の見解を懐いてまいりました。しかし、仰るとおり、祖師ほどの方がその自覚が無く、しかも、「越権」、僭称とも非難されかねない行為をするとは考えづらいとのご賢察、しかしながら、れんさんのご賢察と相反し、しかし、両意共に、確かに傾聴に値します。

仰せのとおり、早々に答えが出す用はないこと、わたしもお邪魔させていただきながら、愚慮愚見をさらに重ねてまいる所存でございます。また、こちらは、つぶやきですので、適宜なスレッドに宛て、議論もさせていただければと存じます。

2202今川元真:2006/08/17(木) 12:25:45
■名誉会長史の決定版?が出るらしいですね。 ■私の視点論点問題点で出すなら【学会広宣流布・原理主義と過激主義の狭間】《富士興門流変遷、魔障罠法主本仏論》身延・天台密教(四箇格言)法華一乗、富士・漫荼羅正意論[題目・本尊・戒壇]≒シャクソン≒皆成仏道(三証四悉檀)戒壇堂、獄中悟達は華厳式?、空識縁起で偉と卑は無い、皆成仏道で本仏もしんにょう亦仏も無い、肉食妻帯で出家も在家も無い等で書きたいです。

2203れん:2006/08/18(金) 18:22:48
問答さん
>2198
蓮祖の佐渡期の著述である顕仏未来記に「彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意之同じ」とあり、威音王仏の像法の末の不軽菩薩の「我深敬…」の二十四字と題目五字の口唱の意味・意義が同一であることが示されております。身延初期の法花取要抄には、不軽菩薩の二十四字と同意義とされた題目五字が「所謂上行菩薩所伝」と明記されるにいたりました。ですから、上記遺文の記述から、蓮師の不軽菩薩の自覚と上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字の口唱は一応の関連性が有るのではないかと愚考はしております。とはいえ、蓮祖はこの辺のところを体系的に著述したものを残されてないので、真相を現時点で決しきれないのが現状です。
その上、蓮祖は題目を中心とした漫荼羅の図顕をも行っておりますから、結構その関連性は複雑そうだなぁと感じております。
その意味で
>曼荼羅を蓮祖がどのような目的で表したのか、それを探る…
という、問答さんの問題意識に同感いたしております。この点につきましては、問答さんが仰る通り、結論を急がず、問答様をはじめ先学の皆様のご教示を拝聴しつつ、さらに考えていこうと存じております。

2204犀角独歩:2006/08/18(金) 23:03:19

れんさん、書き込みを拝読して改めて思ったこと。

不軽菩薩:二十四文字=日蓮:題目五字

が、まったく同じであると日蓮が考えていたとしたら、二十四文字の法華経と題目の五字が、意が同じであるばかりではなく、不軽が菩薩であれば、日蓮もまた菩薩の意であるという点もまったく同じだと言うことなのでしょうね。

日蓮が自身菩薩の自覚があったとしても、しかし、不軽=上行とはならないことは、法華経典で記述される不軽と上行の相違から言えるのだろうとも思えました。

2205れん:2006/08/19(土) 19:12:35
犀角独歩さん
2204
>不軽が菩薩であれば、日蓮も又菩薩の意であるという点もまったく同じ…日蓮が自身菩薩の自覚があったとしても、しかし、不軽=上行とはならない…法華経典で記述される不軽と上行の相違から言える…
私も、真蹟遺文から、基本的にそのように思います。蓮師自身は真言諸宗違目に「法花経の外の諸経の大菩薩は、法花の名字即の凡夫より下れり」と書き、自らも顕仏未来記に「日蓮は名字の凡夫なり」と自身を定位しました。この蓮師の名字即の凡夫の意識と、蓮師の「日蓮即ち不軽菩薩為るべし」(寺泊御書)「日蓮は是れ法花経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」(聖人知三世事)と表明される“不軽菩薩の自覚”がどのようにつながるのか、この点についても、残念ながら蓮師は体系化した著述を残されていないので、今一つはっきりしません。この点につきましても、犀角独歩さんをはじめ、諸賢の皆様のご意見を拝聴させて戴ければ幸甚です。

2206エン:2006/08/22(火) 22:52:41
ここでよろしいでしょうか。
私は日蓮正宗系信心を続けて、結局組織的な理由から続行不可能になり現在無所属です。
実はかつて母親の臨終の際に日蓮聖人(どうお呼びすればいいのかわからず、こうお呼びさせて頂きます)の仰られたお題目を唱えた際、
母親が一瞬蘇生した事があり、それ以来お題目には力がある、と思ってきました。
現在は組織的な活動などはしたくないので、別段取り込んではいないのですが、他にもお題目で到底人知では乗り越えられない、或いは及ばない事が実現できてしまった、と思う経験があるんです。
宗派とかそうゆうのは抜いて考えた上で、お題目には力がないのでしょうか? 自分のただの気持ち次第の結果なのだろうか? と考える事もあります。
例えば 日本では念仏とか般若心経とかもありますが、そういったものはその人の「心の拠り所」というものだけなのでしょうか。
その点、どなたか御教示お願いしたく書き込みました。

例えばこんな例を私は目の前で見た事があります。(嘘偽りはありません)
ある日、私の会社にα波を調査しにきた方が来ました。
その人は会社のただの社員、中枢幹部、役員といった方達を全て対象にして、それぞれの責任能力や仕事に対する情熱を調査に来た、という名目でした。
そのうち、会社の2割がα波をよく出す人で、営業の人や或いは企画といった部署に務めている人に多く出る傾向にある、という結果が出たんです。
ところが、翌日その調査員から私だけが呼ばれ、「君は調査の際に一体何を考えていましたか?」と突然聞かれたのです。
調査員の質問はだいたい次のようなものでした。
・あなたの理想を思い浮かべて下さい。
・あなたが憎んでいる人を思い浮かべて下さい。
・あなたが「こうなったら幸せだ」という夢を描いて下さい
・あなたが「こんな事態になるのは絶対に嫌だ」というのを考えてみて下さい

などです。

2207エン:2006/08/22(火) 23:00:43
その時、私は正直に言って何も考えられず、最初に説明されていた、α波というものは人を成長させたり、能力を引き伸ばす力がある、という知識だけしかなく、どんなことを考えればいいのかも思い浮かばず、
ただお題目を繰り返し、頭の中で唱えていたのです。
すると、その調査員が聞いてきたのは「あなたは一体何を私の質問に対して考えていたのですか?」というものでした。
私は何に対してもお題目だけを頭に思い浮かべていたので、「ちょっと別のことを・・・」と濁していると、
「その内容を教えて下さい。あなたのα波は異常な高値を示していました」といわれたのです。
私が考えていた事すら知らない人が、私の脳みその中身を知るはずもなく、だからといって他の人も同じような結果が必ず出るとは思っていません。
ですが、私には衝撃でした。
母のことといい、調査の人の戸惑いといい、少なくともお題目には何かあるのではないか、と思ってしまい、それは今でも続いています。

指しよろしくお願いしますにお断りしたとおり、団体には興味がないのですが、お題目の凄さだけはこういった経験から否定する気にもなれません。
だから「ただの心の拠り所」だけではないような気がして、何か判断材料になるような論拠をお持ちの方がいらっしゃればご意見をお伺いしたく書き込みしました。
突然、ご迷惑をおかけいたしました。

2208問答迷人:2006/08/23(水) 20:41:34

エンさん 今日は

>少なくともお題目には何かあるのではないか

僕も、そう思うからこそ、創価学会を辞め、法華講も辞め、しかも、今なお、一日一時間の唱題に取り組んでいます。

過去の信仰体験が、唱題を続けさせているのだと思います。僕の個人的体験に付いては、過去、当掲示板に幾度か書き込みましたので、繰り返しませんが、不思議な力が有るに違いない、という想いには、抜き差しならぬものが有ります。

お答えにはなりませんが、ご参考までに申し述べました。

2209パンナコッタ:2006/08/23(水) 23:27:47
α波の調査という物が具体的にどういった物なのかは、わかりませんけど一般的に勘違いしやすい事を
参考までに。

『アルファ波というのは特殊な脳波ではなく、目を閉じて安静にしているだけで、誰でも発生するものなのである。
 そもそも脳波というのは、脳の活動の「結果」として発生するものである。
つまり、「リラックスするとアルファ波が出る」のに、多くの人は「アルファ波が発生したらリラックスする」
というように、原因と結果を混同してしまっているのだ(風邪をひいた結果としてくしゃみが出ることがあるが、
「くしゃみをすれば風邪をひく」という理屈には決してならない)』
  トンデモ本の逆襲 山本弘・タキオン&オカルト通販生活カタログより引用

エンさんにとって題目を唱える事は、効果的に安息を得られる物とお見受けします。

2210kuusan:2006/08/24(木) 01:39:07
はじめての書き込みにて失礼いたします 
1975年頃に学会を機縁として、信心を始めた者です
皆様の博識ある書き込み感心し興味深くこの掲示板を拝見しております
私も「唱題」はいまだ実感として元気が出ますし
不思議感覚の体験は健在です

唱題は発声とリズム、日常生活では無い深い呼吸法
合掌の姿勢の安定ある集中
自己催眠.気功.アルファ波f/1ゆらぎ等も取り入れたかのような
とても理に適った行法に思えます
更に鈴の音、香 も心地よくさせる物で
心理上に良い効果を用いてますね
唱題はモンゴルのホーミのような超音波も含まれていますね
共鳴する何かを呼び覚ます効果もあるのではと思ってます

ちなみに超音波や脳波測定器も所有してます

2211犀角独歩:2006/08/24(木) 17:32:36

記上の話題は、以下の研究を視野に入れたほうがよいでしょうね。

影山教俊師『修行による変性意識状態の誘導の比較について』坐禅と読経時の脳波と心拍数の比較から

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/01/01_037.htm

2212年金160万無職者:2006/08/25(金) 17:54:47
 横からゴメン下さいませ。 さて、昨年末NHK特集で「独居老人の孤独死と常盤台団地」、が放映されました。
 人知れず「孤独死」を余儀なくされましたかたがたを、何とかしようとNPO(自主的町内会)の方が巡回・個別相談を開始していました、、。
 
 このような「現代版のウバステ山=弱者イジメ」、、が現在・進行形で現存とは、、!!
 自殺者が三万人/年が数年も継続した今になって「、、失敗しても再チャレンジの時代、?」、を掲げる方もございますが、、何を、、今更、、トホホ、、、。
 どーも、、現今は、、何かが、、???、、が、、欠落して、、勝ち組だけが、、謳歌する時代なのでしょうか、??  この辺で、、「弱者からの、、逆襲、、??」、、にご期待は可能、、でしょうか、、??

2213真実知求者:2006/08/28(月) 19:19:31
 横レスゴメン、、。 昨今は諸般に渡り、ナカナカ厳しい世の中と、存じます。
 直近の報道記事には「、、老人夫婦が認知症状の連れ合いを殺し、本人も自殺、、」、、「、児童へのイジメ・虐待問題、老人への介護限界からの老人虐待、、」、、などなど、には言葉も御座いません。
最近の近隣でも、異臭とウジ虫が見える、という新聞配達の方の通報で警官が入室したところ「独居老人の孤独死」が判明。 すぐさま役所福祉員がきて、何食わぬ顔で白い袋に死体を放り込みました。
 人生さいごの最大的な儀式の葬式も無く、、あとは、斎場〜無縁墓地へのお決まりの「現代版姥捨て山」、、が現存中、、です。 勝ち組だけがイバッテいる今は、いかがなものでしょうか、? トホホ、、。

2214今川元真:2006/08/29(火) 10:36:51
勝ち組も負け組も浅深高低ありますから、気落ちする考え方は止めましょう。21世紀の日本が地盤沈下しない為には、技術立国・観光立国・人材立国に改善できるかにかかっていると考えます。でも借金大国ですから、自由主義の名の下にピラミッド型差別社会に移行するのは免れ無いかもしれません。

2215犀角独歩:2006/08/29(火) 12:04:46

れんさん、有り難うございます。
御筆の複製、たしかに、やむを得ないというところですね。
しかし、複製が複製であることをしっかり明示する矜持が望まれますね。

それにしても、通りすがりさんがいう石山初信者向けは日興漫荼羅というのは、日顕さんの説法、ひいては石山本尊「奉書写之」がまるで嘘であることを物語っていますね。
もちろん、仰るように日興上人は日蓮聖人の漫荼羅を書写したわけですから、書写の書写と言えますが、これはしかし、書写とは違います。書写が第二転であれば、書写の書写は第三転ですから。さらに日興書写本尊を書写したと言いながら、実際のところ、種々相貌の相違があるわけですから、そのたびごとに違う原本を書写しているのか??という新たな突っ込みも可能となります。

わたしは曼荼羅書写は、その用途によって、各内容が変化して然りであると思っていますから、石山の言うような通り一遍の屁理屈は、そもそも美を尽くさないと思うわけです。


一真法界さん、はじめまして。

> どのような、ご本尊を拝んでおられるのでしょうか

わたしは、そもそも漫荼羅が本尊であるという点に、疑義を立ててきました。
本尊抄に拠れば、本尊は久遠五百塵点成道の本師釈迦牟尼仏であり、本尊問答抄に拠れば、法華経の題目ということになるでしょう。しかし、そののちの解釈(門派教学)でいわれるように釈迦=題目=漫荼羅という図式は、祖師に遡源できないとわたしは考えています。


彰往考来さん、有り難うございました。

大量印刷用に使用する紙でしょうから、和紙風であっても、和紙ではないでしょうね。本物の和紙であれば、布地の模様のカラープリントなど出来るはずはありませんか。
かつて、創価学会は、身延の売店で漫荼羅が売られていることを非難しましたが、その創価学会が(分離独立したわけですから石山は)他宗の漫荼羅を勝手にコピー、大量印刷し、さらに携帯本尊という、本来、御守とされてきた相貌とは違う仏壇安置用本尊の縮小版をプラスチックのケースに入れて販売したりする様は、まさに本尊雑乱の有様ですね。
おまけにいま販売の印刷本尊は、石山貸下とはサイズを変えて、仏壇を買い換えを余儀なくされる販売効果もねらっているそうですが、この点は、どうでしょうか。

わたしからすれば、身延の売店の本尊のほうが、よほど、ましに見えます。
ただし、漫荼羅は、やはり、墨書きの原本を、僧侶に書いてもらったものは、印刷とは比較になりませんね。

2216彰往考来:2006/08/29(火) 12:40:02

>2214 21世紀の日本が地盤沈下しない為には、技術立国・観光立国・人材立国に改善できるか

まあ、ここはつぶやきですから、反論権はないので、つぶやきです。ブツブツ。

『技術立国に改善できるか』ということは、現在は技術立国ではないという意味になる。
ン? 日本は世界でも有数な技術大国なんだけどな。ブツブツ。
文部科学省のアホな政策のため、学生のレベルが地に落ちているということダヨ、と言う意味ならわかる。でもそれなら『技術立国に改善できるか』ではなく『教育立国に改善できるか』ということダロウ。

2218彰往考来:2006/08/29(火) 12:48:42

>2215 布地の模様のカラープリント

犀角独歩さん
学会版寛師の特別御形木御本尊は布地の模様のカラープリントではなく白地です。
よって、和紙なのか和紙風なのかは眼でみただけではわかりませんね。
実は学会版寛師の御形木御本尊をしげしげとみたことがないのですよ、興味がなくて。
御形木御本尊が布地の模様のカラープリントとすれば、和紙ではありませんね。表装していないわけです。
それに対して寛師の特別御形木御本尊は表装してあります。

2219犀角独歩:2006/08/29(火) 14:20:57

彰往考来さん

先に、投稿するところを間違えたのですが、行きがかり上、ここで続けます。

わたしが記したのは、学会の印刷本尊は、もちろん‘白地’の紙に日寛の文字と本来、織布で表装してあるところに、布模様がカラーでプリントされているのではないかということです。

要は、いちばん高価な携帯小型版がプラスチックケース入りで、次が布模様ごと印刷の1枚プリント、特別版は、それでも表装してあり、文字の部分だけが和紙か・和紙風の、白地用紙に印刷し、表装はしてある大型ということですね。

なお、わたしも、もとよりこんなものを本尊として興味を懐いているわけではありません。むしろ、こんなものを、よくぞまあ、本尊として、拝むものだと呆れているといったほうが合っています。

もし、鎌倉時代にいまのような印刷技術があり、日蓮、日興が大量に印刷したものを本尊と称して頒布したら、いまの時代まで、その高名が残ることはなかったでしょうね。学会本尊は、わたしの正直な感想を述べれば、そんな愚考と映じます。まあ、つぶやきということにしておきます。

2220彰往考来:2006/08/29(火) 17:25:37

犀角独歩さん

>2219 要は、いちばん高価な携帯小型版がプラスチックケース入りで、次が布模様ごと印刷の1枚プリント、特別版は、それでも表装してあり、文字の部分だけが和紙か・和紙風の、白地用紙に印刷し、表装はしてある大型ということですね。

そいうことですが、携帯御本尊がプラスチックケース入りだったか記憶にありません。うろ覚えなので確認が必要ですが本体がプラスチック製で開く形になっていると思いました。だからケースなしで持っていた気がするんですよ。ケースは別売りでしょうか。携帯御本尊が手元にないので(親の家にあります)ついでの時に確認しておきます。

2221独学徒:2006/08/29(火) 22:17:34

犀角独歩さん、
彰往考来さん、

実は私、プラスチック製の携帯ミニ日寛曼荼羅を持っています。
次回、オフ会等があった場合、持参したいと思います。
確かに5,000円を払った記憶があります。

伝特別御形木の絹本日寛曼荼羅もあります。
こちらは10,000円で、プラスチック製携帯ミニ日寛曼荼羅の倍の値段です。
こちらは家族が信仰の対象としていますので、持ち出すことは厳しいと思いますが、今度家族が寝静まったころにじっくりと観察してみます。

伝特別御形木絹本日寛曼荼羅は、遠目で見る限りでは比較的きれいにできていると思います。

私の実家は、メイドイン法道院と噂される初代伝御形木日寛曼荼羅で、叔母の家は今でも顕師曼荼羅です。
これらは紙本表装で、掛軸業界では所謂「仮巻き」といわれる状態です。
仮本尊だからでしょうか?

私が個人的に、某興門寺院より授与いただいた書写曼荼羅は、未表装状態の曼荼羅部分のみでした。
表装は自分で表具店に持ち込み行ってもらいました。

石山の信徒さんには、仮本尊(紙本表装)から変わるのは「常住御本尊」で、この「常住御本尊」には二種類あって、時の法主上人猊下の直筆曼荼羅、もしくは時の法主上人猊下の板曼荼羅(板に墨書したものではなく彫刻されたもの)であると聞きました。
これはあくまでも聞いた話ですので、信憑性はいかがなものかと思います。

たしかに聖僧無き現代ではありますが、書写曼荼羅も良いものだと個人的には感じます。但し基本的には巻いた状態で桐の箱にしまったままです。
仏壇などに安置して、毎日拝むという感じではないです。
基本的には私は不信心で、勤行等はここ数年していませんので、このような感覚なのかもしれません。

不信心な私が言うのもなんですが、本尊は無くても良いような気がするのですがどうなんでしょう。
私は家に帰ってきてから仏壇に向かうことはここ数年なくなってしまいましたが、日々の生活の中で「かわいそうだな」と思うことや、大変なことに直面した時、自分では何もしてあげられない時などは心の中で題目を唱えます。

しかし敢て本尊を曼荼羅の中から選定するのなら、れんさんも仰られていますが、宗祖曼荼羅の複製版が最も良いのではないかと思います。
その意味では、日蓮宗が宗定本尊としている曼荼羅は、最も妥当なのではないかと思います。

2222ラキ:2006/08/30(水) 01:26:48
つぶやきです〜・・・・・( ̄。 ̄ )ボソ...
私が知ってる範囲で、日顕上人の常住御本尊は、直筆曼荼羅から板彫刻に取り替えた方が居ます。
寺院でも直筆曼荼羅から、同じ用に板彫刻に代えてある所もあります。
日顕上人の代で板彫刻曼荼羅になったのか、詳しい経緯は聞いていませんが、何故なんだろうと考えてしまいます。

2223藤川一郎:2006/09/01(金) 12:58:55
>>口悪く言えば「ゲスト」に、総講頭を命じ、本末を挙げての慶讃委員長を命じたのですか。日達さんは池田さんを「現代の維摩居士」とまで言ったわけでしょう。

ふと別スレの独歩さんの上記文章を読んでいて、創価学会って確かにかわいそうな扱いだったんだなと思ったので、つぶやきを・・・。

達師は「現代の維摩居士」と口では言ってくれるのに、何で俺達はゲスト扱いなんだ?
大石寺正式信徒の代表である“総代”のはるかに下にさせられ、大法要では、総代は内陣に入れるのに、外陣で有象無象の信徒と一緒に扱われ、大檀那として扱わず、本来大した役職も無い信徒が命じられるべき“慶讃委員長”という名誉職でお茶を濁された。
自分らは、現代の有徳王のつもりでいるのにその象徴である「太刀持ち役」すらさせてくれない。
俺達(池田さんたち)が最後まで納得いかなかったのは、この扱いだったんだ。
以上が彼らの本音でしょう(笑)。確かに不満は感じるでしょうね。

2224真実知求者:2006/09/02(土) 20:57:40
  気になる点です。 ツブヤカセて下さい。
 今、ロクに葬式もされずに、白い袋にに無造作に放り込まれて、一人寂しく、?、、無縁墓地に埋葬される方が、、少なく有りません。
  菩提寺を持たない現今の方方の「、、弱みを見事に、巧みに利用、?、、」、、した寺院があります、。 大阪・天王寺区の「一心寺」です。
  そこでは檀家からの「お骨」をマゼすり合わせて「日蓮様が堕地獄の主因と喝破された阿弥陀佛(浄土宗)に似せてセメントと合成しながら似非の仏を作り、大衆の支持を受け、経済的にもすごいようです。(日経新聞8月20日、大阪の「御骨佛」、)
 ナカナカのアイデア・マンの建築家あがりの住職の御発想のようです、?
  今後は、これをマネして、お骨の始末・処置に苦慮する寺院らが、、「、、その残骨を活用して、セメント合成の題目の本尊作成も視野、?」、、かも、、??
  これはマジに懸念と検討も、?、、でしょうか、!怖い時代、、かも、、?

2225孤独な迷子:2006/09/03(日) 06:07:11
>>2224
真実知求者さん、はじめまして。

宗教もビジネスの手段、金のためなら何でもあり、というところでしょうか?

2226藤川一郎:2006/09/07(木) 13:36:27
いよいよ、安部普三氏が総理大臣になりそうですね。
彼は、今年の統一教会の合同結婚式に祝電を送ったそうですね。
彼と統一教会の関係は、おじいさんの岸信介氏以来ですかね(岸信介氏と統一教会系の政治結社国際勝共連合の関係は有名)。

自民党の支持母体=統一教会(国際勝共連合)
公明党の支持母体=創価学会

そんなこと無いか(笑)。

2227藤川一郎:2006/09/07(木) 13:42:49
(つづき)
岸信介氏が文鮮明氏を弁護した文書

親愛なる大統領閣下
 本日私たちは恐らく前例がないと思われる憂える米国民および世界市民の集まりとして、閣下にこの書状をしたためております。この集まりは、特に報道・通信分野で活動する者たちを代表しています。(中略)
 「教会と国家」の問題はあまりにも数多くありますが、その中で閣下に書き送るという点で、私たちが一致した問題は、合衆国と文鮮明師との間の訴訟です。私たちは文鮮明師を弁護する必要も、文師の教会を支持する必要もないのです。私たちの伝統が、すなわち万民に対し自由と正義を認めるという遺産が、文師にも同様に与えられるべきであるという、強い信念のゆえの行動なのです。
 文師は米国で評判のいい人物ではありません。彼は強固な反共の立場を取り、同時に伝統的な価値観をはっきりと擁護しました。多くの人々がこれらの価値観を嘲笑している時にです。このような文師とその教会の人気のなさにもかかわらず、文師の訴訟は、事実上キリスト教会全体から支援されただけでなく、米国の主な公民権擁護団体の多数から支持されました。
 歴史上の主な宗教指導者が皆そうであったように、文師は今、迫害のただ中にいます。文師は誰かの助けがあってもなくても、最終的にはこの期間を乗り越えて、神の真の人として認められるようになるだろうと思います。しかし、精神的、物質的再復興という神から与えられたこの国の使命にとって、今世紀最大の希望の灯をともしている政府の下で、このような不正が行なわれているのを見るのは痛烈な皮肉であり、悲劇です。米国は信仰と道徳と正義の善なる手本を自ら示すことで、世界を導いていくという使命を担っているのです。
 「宗教の自由」が、米国で保障されている自由の根幹を成していることを考えると、「宗教の自由」が侵害されているのを見ることは、実に恐るべきことであります。文師の裁判では、文師を支援する書状が、米国でも著名な人々や、主流教会をはじめ3人の州検事総長を含む40の主要団体、個人から合衆国最高裁宛に提出されました。最高裁史上、これほど多くの支援が寄せられた人はいないのですが、それでもなお、最高裁は審理することさえ拒否したのです。
 300万人近い人々の宗教指導者で国際的にも認められている人物が、このような状況下で米国の刑務所に投獄されていることは私たちにとって非常に気がかりです。大統領閣下、私たちは「宗教の自由」および「言論の自由」を保障した米国憲法修正第一条に基づいて、閣下が直ちに過ちを是正する行動を取るようお勧めするものであります。文師を引続き投獄しておくことは、国家にとっても何ら利益になりません。私たちは閣下がこの問題に注意を向けてくださるようお願いするものであります。
敬具
岸信介 元・日本国総理
ダグラス・マッカーサー2世 元・駐日大使
ジャック・スーステル博士 元・フランス副首相

2228彰往考来:2006/09/08(金) 18:23:33

「撃壌歌(げきじょうか)」

日出而作
日入而息
鑿井而飲
耕田而食
帝力于我何有哉

日出でて作り
日入りてやすむ
井を鑿ちて飲み
田を耕して食らう
低力われに何かあらん

太陽がのぼれば耕作し
太陽がしずめば休む
井戸を掘って水を飲み
田を耕してご飯を食べる
帝の権力?私には何の関係もない

本郷和人『人物を読む 日本中世史』2006年、講談社、62頁より、

2229彰往考来:2006/09/08(金) 18:26:00

>2228 誤記訂正

誤:低力われに何かあらん
正:帝力われに何かあらん

失礼いたしました。(彰往考来)

2230独学徒:2006/09/20(水) 22:35:05

公明党元委員長で総務庁長官をつとめられました石田幸四郎さんが、突発性肺繊維症の為18日にお亡くなりになったそうです。
ご冥福をお祈りします。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060919-00000007-maip-peo

2231鳥辺野:2006/09/21(木) 21:06:53
皆さんお久しぶりでございます。2005年5月「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」でお世話になりました鳥辺野でございます。
以前から大変気になっている事を一点挙げさせていただきます。現在小泉久遠寺に奉安されている御影尊は確か明治十三年十一月九日の
大火で焼失してしまった旧御影尊に替わって安置された物なのですが、私が所蔵しています「大石寺をめぐる史跡と伝説」(郷土出版社
緑星社刊 著者 富士 宗四郎 初版1973年9月1日)七六頁によると「九州から戻された由緒ある祖師像」と写真入りで掲載され
ております。本文七五〜七七ページにも「なお当寺の火災後、ただちに九州本善寺から古い由緒ある祖師像が送られたことを報告してお
く。」とあります。九州本善寺といえば石山の末寺ですが元々郷門の寺院で日郷師の弟子日叡師が建武二(1335)年に開山した寺院
です。この事と何か関係があるのでしょうか?どなたかご存知の方はおられますか?

>2230 石田氏亡くなられましたか。ご冥福をお祈りします。

2232鳥辺野:2006/09/21(木) 21:09:46
>2231行がずれました。失礼致しました。

2233独学徒:2006/09/21(木) 22:17:47

鳥辺野さん、はじめまして独学徒と申します。
旧本門宗の時代には、保田妙本寺と小泉久遠寺は郷門の中心寺院でしたので、明治期に本善寺から小泉久遠寺に御影の奉納があっても不思議ではないと思います。
むしろ日向定善寺や日向七ヶ寺・保田妙本寺などが、戦後日蓮正宗に移行したことのほうが不思議な出来事であったのかもしれません。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/Temple/Kyushu/honzenji.jpg

2234鳥辺野:2006/09/21(木) 22:59:49
2233 独学徒さん
>戦後日蓮正宗に移行したことのほうが不思議な出来事
はじめまして。そうですよね。現在の妙本寺に関しましては小泉久遠寺や伊豆の實成寺、北山本門寺とも仲良くされています。特に執事さんは「久遠寺とは親戚のようなものですよ」とおっしゃっていた事が印象に残っています。

2235国旗国歌強制は違憲:2006/09/22(金) 07:01:39
>戦後日蓮正宗に移行したことのほうが不思議

創価の財力がおいしそうに見えたのでは。

2236賞味期限ゼロ:2006/09/22(金) 19:11:29
、、、2235サン。 失礼します。
 >、、おいしそうに、、。
 グサリと核心を突いています。  我々は所詮はカネとその他の力には、トホホ、、ですか、、。
 誠に情けない次第では御座います。
 アノ鎌倉時代にカネと力に対して、、?を感じて、全力・全誠心で命を投げ打って立ち上がった方= 
こそ日蓮さま、と存じます。  その末裔を繋ぎたいならば、いまは、?、、が求められていますでしょう、?
 とっくの昔に賞味期限が切れている団体さまも散見されます。(「創価の実力」島田教授、「FORUM21]9:15号)
 今後もダマシのテクニックが闊歩するでしょうが。 それを見破る眼力の養成に今こそアイ勤めたく思いますが、、。

2237通りすがり:2006/09/22(金) 21:10:28
賞味期限ゼロさんは、たびたびネームを変えて書き込みされていますね。
???、、、ばかりの珍しい書き方は、あなたしかいません。

2238不思議?:2006/09/22(金) 23:03:27
自作自演の書き込み、何が楽しいの?

2239お願いです。:2006/09/23(土) 16:02:10
>2236の方へお願い。

『、、、2235サン。 >、、おいしそうに、、。アノ鎌倉時代にカネと力に対して、、?を感じて いまは、?、、が求められていますでしょう、?』

抜粋しましたが、ひらがな、カタカナ、句読点がゴチャゴチャになってとても読みづらいのです。
公開を前提として書き込まれているのですから、出来るだけ、読む者のことも配慮して頂けないでしょうか。つぶやきというか、お願いです。

2240賞味期限ゼロ:2006/09/23(土) 17:21:08
前略。
 済みません。 全てに関しまして陳謝いたします。
 申し訳が御座いません。 反省いたします。 早々。

2241犀角独歩:2006/09/23(土) 19:37:00

反省いただくことは有り難く思います。

人間孤独なときは、人との関わりがほしくなり、されど、実際に関わるのは怖く、自問自答で、答えを導き出すこともあります。

ここはされど、挙証と論攷を、文書証拠を指し示しながら、静かに落ち着いてするところです。その趣旨に則っていただけると、場が荒れた雰囲気にならず、文字通り、落ち着いてやれます。
ご協力をお願いいたします。

2242鳥辺野:2006/09/23(土) 20:22:24
何やら私の書き込み以降荒れてしまいました。申し訳ありません。これに懲りず勉強させてください。また何かあれば、宜しくお願いいたします。

2243国旗国歌強制は違憲:2006/09/23(土) 21:32:50
2235 名前: 国旗国歌強制は違憲 は

名前:賞味期限ゼロさんとは全くの別人です 。
よって、自問自答ではありません。

書き方、内容からなんとなくどなたかわかるような気がしますが、大はずれかも。

2244犀角独歩:2006/09/23(土) 22:10:37

まあ、どうでもいいですが、管理レベルでは、IPその他から、投稿者が、HNを変えても、誰と誰が同一人物であるかはわかっています。ただ、管理人さんは、こころが大きな方ですから、そんな追及はなさらないだけですよ。ですから、わたしも、突き落とすレスはしません。

そんなことは、どうでもいいですから、実りある議論をしましょう。

2245通りすがり:2006/09/24(日) 03:23:12
私は何も荒れていないと思いますよ。
ただ非常に読みにくく、しかも毎回ハンドルネームを変えて来られる方に、
お願いと言うか、お知らせしているだけだと思います。

1人の方が毎回同じネームで投稿し、意見を述べる。
当たり前のマナーだと思いますし、読む方も混乱しないのではないでしょうか?

2246犀角独歩:2006/09/24(日) 07:44:40

通りすがりさんと、わたしでは「荒れる」という視点が、少し違うのでしょう。

ここは挙証しながら、議論を重ねる場ですから、な議論にもならず、多重ハンドルがどうの、と言い合うこと自体、すでにその段階で荒れ出していると考えます。

いずれにしても、議論に関係のないことなので、これ以上は繰り返さないことといたします。

2247鳥辺野:2006/09/24(日) 09:41:13
>2242
×これに懲りず勉強させてください。
○これに懲りず勉強研鑽してまいりますので書き込みさせてください。

2248鳥辺野:2006/09/24(日) 10:05:42
私は犀角独歩さんのホームページにてアップされている執行海秀師の論文を読んで私自身のなかにある本佛感、本尊感を180度変える事ができました。それまでは日蓮=本佛という石山教学の固定概念にとらわれて生きてきました。しかしそれはひとつの考え方(教義の解釈の違い)の問題で正しくないことがわかりました。今では一塔両尊四士は何のためらいも無く拝んでいます。自宅にも御影尊を曼荼羅の前に安置しています。執行海秀師の論文とそれをアップしてくださった犀角独歩さんに感謝しております。

2249きゃからばあ:2006/09/25(月) 09:57:10

23日、『吉田拓郎&かぐや姫 コンサート イン つま恋』に行ってきました。
拓郎ファンの私にとっては、同じ拓郎ファンの仲間と盛り上がり、忘れられない思い出となった。

平成6年、大石寺の六万総会に参加しました。
平成13年、30万総登山会に参加しました。
「あれ?何も思い出せない!」「どんな話があったっけ?」
一緒に参加した仲間は、ほとんどいなくなってしまった。
ただ『つま恋のコンサート』のチケット代の20倍以上の御供養をしたのだけは覚えている。
つまらないつぶやきでした。m(_ _)m

2250子持ちししゃも:2006/09/26(火) 01:24:16
突然失礼いたします。
全く関係のない家族での出来事なのですが、私には少し尾を引くことでしたので書き込んでみます。
私は日蓮正宗系の信仰でいうと家系的には私が初代(笑)となるのですが、今の考えは組織から完全に離脱していて、むしろ否定的ですらあるのですが、
この前、自分の子供と話している時も、子供の矛盾する言動に対して理屈をこねている私の言い方が、どこか私の最も拒む正宗系の詰め方になっている事に気付きました。
子供への対応の問題ではなく、どこかで自分は既に忘れ去ってしまったと思っている考え方に影響を及ぼしているのでしょうか。
それとも自身に対する警戒のし過ぎなんだろうか。
そんなことをつい思ってしまいました。

たわいもない話ですみません。

2251犀角独歩:2006/09/26(火) 08:21:21

2248 鳥辺野さん、はじめまして。

> 執行海秀師の論文

秀逸な論文であると、わたしも目から鱗が落ちる思いをなしたものでした。対して、石山は50年経っても、何ら進歩するところがなく、嘘を繰り返しています。破門になって古文書を研究する人々は、その識読能力で門下一般に重宝がられ、「先生」と呼ばれたりもしていますが、その人たちがいない場では、「結局、板マンダラと日蓮本仏論を捨てられないんだ」と嘲り笑われている現場を、何度か目の当たりにし、「だから、石山彫刻本尊と日蓮本仏論に決着をつけておけばよいものを」と同情もしました。

さて、わたしは、漫荼羅ばかりではなく、仏像も好きです。文字による図示では表現できない面を有しているからです。もちろん、字像漫荼羅も仏像では表現できない世界を有しています。どちらか一方を採るという考えは偏ったものであると映じます。

ところで、挙げられた「一塔両尊四士」は、通常、首題が記された塔の形を採ることが多いようですが、『本尊抄』の意からすれば「塔中」とすべきところ、同じく、四士は二尊と同じ面を向いていますが、実際は、拝観者に背を向けて、首題と二尊が収まる塔を向かうか、もしくは東西南北に位置し、塔に向いているはずですが、そうはなっていません。ここら辺が仏像奉安上の限界と言ったところですね。まして、「有七宝塔…住在空中」ですから、浮かんでいなければなりませんが、塔は地に着いています。

漫荼羅では、弘安2年10月頃は首題が小さく書かれ、「日蓮花押」と間が大きく開いているために、恰も空中に浮かんでいるような印象を懐かせます。実際、日蓮聖人がそのような意図を持っていたかはわかりませんが、このような表現は、字像、絵像ならでは、仏像奉安では表現不可能ということになります。

「本尊」は天台初期文献には全く見られない密教の影響の反映であるわけですが、真言密教の影響から比叡山を批判しながら、漫荼羅を図し、さらに極楽往生を批判しながら、霊山往詣を語るに至る心情の推移と、末法を意識し展開するところに、鎌倉という時代の人であった一面が窺えます。

横道に逸れましたが、本尊とは「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏」をいうのであって、この本尊を体(たい)と為(な)して、表すところが漫荼羅であり、諸尊仏像の奉安なのだろうというのが、わたしのなかで落着した考えです。「為体」は‘ていたらく’ではなく‘いたい’、もしくは「たいとなし」であると拝します。そして、己の心に観する本尊を「正像未有寿量仏 来入末法始此仏像可令出現歟」というのでしょう。「一閻浮提第一本尊可立此国」の‘可立’も、立つ可しではなく、「立てる可し」であろうと拝します。

以上、つぶやきということで。

2252鳥辺野:2006/09/26(火) 15:27:28
2251犀角独歩さんはじめまして。
字像漫荼羅、仏像どちらも捨てがたいですね。私も両方好きです。日尊師は上行院を起こされた頃、諸尊全体(大曼荼羅勧請全部)を仏像で造立されていた可能性が強いですね。今の富士門流もこれを見習って字像と仏像の両立を、今一度考えてもらえないかと思います。

2253鳥辺野:2006/09/26(火) 15:38:38
>2252
×可能性が強い
○可能性が高い
初歩的なミスです失礼しました。

2254犀角独歩:2006/09/26(火) 18:56:46

鳥辺野さん

HNは、京都における日目墓所ですね。尊門につき、語ることも故なきもなしと読みました。

2255鳥辺野:2006/09/26(火) 19:55:07
目師墓所の側には尊師の逆修塔があります。この逆修塔の一遍首題は日尊師の文字と言われています。要法寺客殿には本尊の隣にこの日尊師の石拓本曼荼羅が掛けてあります。生涯一度も字像曼荼羅を書写しなかったとされる、日尊師の曼荼羅を拝みたいという尊門徒の願望の現われのように私は感じました。

2256れん:2006/09/28(木) 18:24:30
仏像と字像、本来は相反するものではなく、両立するものだったと思います。
日尊師の仏像は日尹師の“遣日代上人状”によりますと「有る仁の方より安置候へとて寄進申さしめ候ひ畢ぬ、教主は立像、脇士は十大弟子にて御座候」とあって、十大弟子を脇士とする釈迦立像だったようです。日代師より日尹師への返状には心底抄と同様に「仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケ大事一度に成就せしめたまうべきの由御本意なり、御本尊図は其れがためなり」と明示されて、本門の仏像の造立は広宣流布の時・本門寺建立の時とことわられています。また尊師実録には「日興上人の仰せに云く、末法は濁乱なり、三類の強敵これ有り、爾れば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華燈明の供養も叶ふべからず、広宣流布の時分まで大漫荼羅を安置し奉るべし云々」とあって、これらの史料から富士上代では未広布時は大漫荼羅安置、本門寺建立の時、戒壇に大漫荼羅図の如く仏像造立安置だったようですね。しかしその本門寺戒壇に安置の仏像等の具体相は、富士に大漫荼羅正意・不造像不読誦義が定着してから戦国期頃にはその伝承は失われたようで、大漫荼羅正意の本尊義から石山では彫刻本尊を作成し、西山等では保田の大本尊を戒壇の本尊をしているようですね。
とりあえず、鳥野辺さんのご投稿を拝見して呟きました。

2257れん:2006/09/29(金) 10:17:01
>2256
訂正
誤)鳥野辺さん
正)鳥辺野さん
HNを間違えてしまい大変失礼いたしました。

2258鳥辺野:2006/09/29(金) 17:34:47
>2256れんさん
はじめまして。富士門流で実際に蓮祖、興師の理想的な本尊論を展開、実行した人物は、要山一三世広蔵日辰師や石山一七世日精師ではないかと思います。造仏論と字像曼荼羅の書写や彫刻等(特に精師は保田の万年救護大本尊の模刻安置)を平行して行っています。今学会ではこの造仏論を謗法と決め付け、石山ではその事実さえ闇に葬ろうとしている始末です。原点に立ち返って冷静に考えてもらいたいです。
西山の万年救護本尊と呼ばれる曼荼羅(つまり戒壇の本尊)は確か本尊集№32-2であったと記憶します。
私も、誤字脱字が多いですのでお構いなく(笑)

2259彰往考来(しょうおうこうらい):2006/09/29(金) 18:05:39

>2258 鳥辺野さん、 横レス失礼。

>西山の万年救護本尊と呼ばれる曼荼羅(つまり戒壇の本尊)は確か本尊集№32-2

西山本門寺蔵の蓮祖御本尊は32の2で間違いないですね。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/032B.html

でも西山の万年救護本尊=戒壇の本尊とおっしゃるのがよくわかりません。
ご説明願えませんか? 西山で当該本尊を万年救護本尊と称しているのは理解しています。
戒壇の本尊とおっしゃっているのは西山にある当該本尊の板漫荼羅のことでしょうか?

2260鳥辺野:2006/09/29(金) 18:23:24
>彰往考来さん
はじめまして
万年救護本尊=戒壇の本尊 失礼しました。戒壇ではなく御宮殿(重文)の本尊でしたお詫びして訂正させていただきます。

2261独学徒:2006/09/29(金) 18:55:30

横レス失礼致します。

>御宮殿(重文)の本尊

御宮殿の本尊は、日蓮聖人御影であり、板・紙幅とも曼荼羅はありません。
御宮殿の背面(御宮殿の外)には、左から日蓮聖人御影画・№32-2の彫刻・日興上人御影画・日代上人御影像となっています。
現在の本堂は旧客殿で、もともとは「左から日蓮聖人御影画・№32-2の彫刻・日興上人御影画」のみがあったと思われます。
いつかは失念しましたが、火災で三堂が焼失した際に、御影堂の本尊である御宮殿に入った日蓮聖人御影像と、開山堂の本尊である厨子に入った日代上人御影像が遷座されたものと思われます。

れんさんの仰る通り、西山でいう「戒壇の本尊」とは、現在保田妙本寺に所蔵される「万年救護本尊」の事です。

2262鳥辺野:2006/09/29(金) 19:42:07
>2261独学徒さん 御宮殿の背面(御宮殿の外)
なるほど、そうでしたか。私は現物を見たことがないもので。ありがとうございます。
れんさんのおっしゃる通りなのですね。れんさん大変失礼しました。
まだまだ私自身知っているようで知らない事だらけです。これからもみなさん御指導、ご教示ください。お願いいたします。

2263鳥辺野:2006/09/29(金) 23:28:27
ところで、別の話ですが、これは私のつぶやきということで、保田妙本寺の一四世日我師の観心本尊抄の抜書に「久遠寺の板本尊今大石寺にあり。大聖御存日の時造立なり」という文章をかつて創価学会は切り文で解釈して仏教哲学大辞典の第一巻(昭和五十年十月一二日三版)で「(日我師が)富士大石寺に大御本尊あり、との事実を、ありのままに認めている。」と宣伝していますが、これは身延山久遠寺の事ではなく私は小泉久遠寺の板本尊の事で、以前れんさんが「本門戒壇の大御本尊様の偽作説」№1409にて語られた弘安四年の板本尊について日我師は述べているのではないかと思います。つまり「(小泉)久遠寺の板本尊(の紙幅曼荼羅は)大石寺にあり(板本尊は)大聖御存日の時造立なり」とは読めないでしょうか?実際に日我師が戒壇の板本尊を本物と認めるはずは無いと思います。ただ小泉の弘安四年の板本尊の原本が本当に石山にあるのかは不明です。私は№2231の小泉の御影尊の事同様この事を考えると夜も眠れません。(少しオーバーですが・・・)皆さんはこの文章どうとらえられますか。以上つぶやきでした。

2264独学徒:2006/09/29(金) 23:56:53

鳥辺野さん、

>日我師が戒壇の板本尊を本物と認めるはずは無いと思います。

私は日我師は、論理構成には長けていたかもしれませんが、本因・百六箇の両抄を真撰として各抄に引用するなど、真偽眼はそれほど長けていなかったのではないかと考えます。
したがって、日我師が大石寺の彫刻を見て「大聖御存日の時造立なり」と錯誤する可能性は大いにありうると思います。
現代のようにパソコンもなければ写真もない時代ですので、そのようなことがあっても致し方ない時代であったのだろうと思います。

しかし写真もパソコンも大いに普及したこの世の中で、いまだに彫刻を「大聖御存日の時造立なり」と信じ込んでいる人が多いことは、大きな問題かもしれませんね。

2265鳥辺野:2006/09/30(土) 00:07:02
>2264独学徒さん
さっそくのご返事ありがとうございます。参考になりました。

2266れん:2006/09/30(土) 20:52:01
独学徒さん・鳥辺野さん
お二人のお話、なかなか興味深く拝読いたしました。私も独学徒さんのご教示により、西山における戒壇本尊=保田の万年救護と知りましたが、腑に落ちないのは西山の御開山の日代上人は仏像安置と日尹師に示しているにもかかわらず、今の西山では保田の万年救護をもって戒壇安置の“本尊”としている点です。おそらく西山では八通置状の内、元徳四年状の「日秀阿闍梨の跡並びに御筆の大本尊…」の大本尊を保田の万年救護に比定しているものと推察しますが、日我師を遡ることさ程遠くない成立と思われる撰者不明“日道六ケ謗法事”には「大聖人御筆御本尊の先師より理境坊に給わるるを横しまに押留せらるる事」とあり、理境坊日秀師にかかる蓮師御筆漫荼羅を日道師門下が“押留”したとする記録があり、とすると八通置状にある日秀師に係る“御筆大本尊”を保田の万年救護に比定するのはやや牽強付会であるかもしれないですね。ただ、何度か記しましたが、道門と郷門の係争は当時の史料によれば、行師・時師と伝師による係争であり、それぞれの門祖である道師・郷師の間に係争があったことを証する正文献はなく、本来行師・時師と伝師の係争であったのを、それぞれの門祖に係争を遡らせている“日道六ケ謗法事”は上記係争からある程度時間がたって、史実が埋もれてから、それぞれの門閥意識が高揚して係争を門祖に遡らせた設定のもとに作られているので余り文献価値が無いのですが、秀師にかかる蓮師御筆漫荼羅の伝承を考えるには一応の参考にはなります。
我師の観心本尊抄抜書ですが、この記述が確かならば石山日院師の代には彫刻が作られていたことになりますが、どうでしょうか?石山における漫荼羅正意を決定付けたのが、左京日教師の著述と思われるので、本尊抄抜書の記述が正確ならば、左京日教師以後に石山において彫刻が作成された可能性を想定することは可能です。ただ確かな石山貫首の著述で彫刻について触れるのは精師を待たねばならないので、写本のみ現存の抜書の記述をどこまで信用すればよいのか、迷いますね。
抜書を信用するとして、しかし、我師の御見識は、現在とは違い、戦国期の限られた情報の中からの判断ですので、独学徒さんの仰る通り、石山彫刻を“大聖御存日の造立”と見誤っても致し方ないと存じます。
鳥辺野さんのご指摘の、小泉蔵の弘安四年の板本尊について、私はまだ一度も拝したことはないので、よくわかりません。実見すればある程度原本を想定することは可能かもしれませんね。
以上、お二方に触発されての長い呟きでした。

2267雖念:2006/10/01(日) 09:31:57
ご無沙汰しています。

最近はネットともご無沙汰気味なのですが、最近「紅楼夢」のビデオ(中国中央電視台作)を見ていて、道教のお寺でも同じように香をたくのを見て、大変興味深く思いました。
また、三国志や水滸伝のビデオ(同)を見ていても、やたらに香を焚くシーンが多いのが気になりました。
また、変わったところでは「牡丹亭」(漢光文化事業股人分有限公司、台北、1990)を読んでいると、進士の受験生である柳夢梅が杜麗の肖像画を前にして香を焚くシーンもありました。
私は、長ずるまで仏壇でしか線香を焚いたことが無かったものですから、これらの情景には新鮮な驚きを感じました。

2268鳥辺野:2006/10/02(月) 14:19:43
>2266れんさん 貴重なお話ありがとうございます。 
行師・時師と伝師による係争  以前保田妙本寺の執事さんからも同様の回答を頂きました。又、師は「(石山彫刻)板本尊は有師が跡条条事とセットで彫刻したものと推定される。重須日浄記の原本が見つかればなー」とおっしゃっていました。私も有師彫刻説を現段階では支持しております。

2269犀角独歩:2006/10/02(月) 17:30:10

2268 鳥辺野さん

こちらの掲示板をいつ頃からロムされていたかわかりませんが、わたしは、彫刻本尊の再造説を立てています。理由は、時代資料に残る彫刻本尊の相貌が著しく異なってからです。この点は、拙書に記してあります。このわたしの仮説を受けて、皆さんも、賛意を表してくださっています。

日有の段階で、仮に彫刻本尊があったとしても、現代のものとは別のものでしょう。完則、日憲の記録がそれを物語っています。

ただし、石山では、日有造立の「戒壇本尊」の身代わり彫刻があると言います。これがどのようなものであるのか、杳としてわかりませんが、実際にこのようなものが存在するとすれば、その相貌を見れば、多くの事実を語ることでしょう。

明治年間に撮影された彫刻本尊は、弘安3年5月9日の日禅授与漫荼羅を臨模作為した模造品ですが、北山にあるこの本尊は『大石寺誑惑顕本書』では万年救護とも、戒壇本尊とも称されています。

万年救護、戒壇というロジックが先行し、次いで、時代時代に、複数の「戒壇本尊」が再造され、今日に至ったのであれば、単に日有作とするの、論を微細に尽くしていないことになります。

なお、条々事との関係とのことですが、この書で言う「弘安二年本尊」とは、日精説では第16大本尊の可能性は濃厚ではないでしょうか。

2270鳥辺野:2006/10/02(月) 18:03:12
>2269犀角独歩さん ご返事ありがとうございます。 彫刻本尊の再造説
なるほど再造ですか。しばらく掲示板見ておりませんでしたので(汗)もう一度過去掲示板を読まさせていただきます。

>「弘安二年本尊」とは、日精説では第16大本尊の可能性は濃厚
この件私も賛同致します。

2271鳥辺野:2006/10/02(月) 21:02:45
>彫刻本尊の再造説
あらためて過去の掲示板をざっと見ました。・・・鳥肌がたちました。つまり石山は何か有るごとに戒壇本尊と呼ばれるモノを何度も何度も偽造し信徒を騙してきたわけですね。いかにも器物崇拝の石山がやりそうな事です。「火事でもえてしまった・・・どうしよう、出生の本懐がなくなった、信徒がいなくなるー。替わりに偽作して本物とするしかない・・・」みたいな。本当に呆れてしまいます。そして、たまたま今の(何体目か判りませんが)板本尊が禅師授与曼荼羅の彫刻だったということですね。それならばすべて納得いきます。

2272彰往考来(しょうおうこうらい):2006/10/03(火) 07:57:46

>2271鳥辺野さん

本件につきまして、私も過去スレッドの「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」のスレッド1347〜1350(2005.09.12)に投稿していますので、併せて参照ください。

彰往考来

2273れん:2006/10/03(火) 21:16:11
鳥辺野さん
亀レスになりましたが
>2268
石山東坊地係争につき、保田妙本寺執事さんのご見解も同様でしたか、これは驚きました。
石山彫刻本尊の有師彫刻説は重須日浄記が典拠とされていますが、犀角独歩さんが三学無縁さんのお言葉をご紹介くださったとおり、「原本」に当たれないようですし、当の日有師には戒壇に“本尊図の如く仏像安置”を説く心底抄を高く評価したという南条日住の記録がありますので、戒壇に安置するという彫刻本尊を有師が造ったかどうか、決しきれないものがあります。条々事が日有作ならば、日有師は蓮師御筆漫荼羅を“数多拝見”したようですから、その拝観した蓮師御筆?や先師御筆の十界広式の漫荼羅を参考に、日道門流の旗印としての紙幅の蓮師御筆に仮託した漫荼羅を偽作した可能性は有り得ると思います。また、それを不造像不読誦・漫荼羅正意論に傾倒した日有師死後の石山貫首(誰かは特定出来ませんが)が、戒壇には大漫荼羅を安置すべしとの思いから、その日有が偽作したであろう門流の旗印の紙幅を彫刻し、あの腰書きを作成し付して戒壇本尊と意義付けして、初代彫刻本尊が成立したという流れ、展望の推定は可能だと思えます。ですから、私の現時点の考えとしては、日有がただちに彫刻本尊を偽作したという説には懐疑的ですので、この点、保田妙本寺の執事さんとは、意見は合いませんね。
ともかくも、亀レスにて失礼しました。

2274犀角独歩:2006/10/04(水) 08:27:11

以下に移動しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1661

2275今川元真:2006/10/20(金) 23:56:09
整理整頓 【漫荼羅正意で無くて漫荼羅本意】 【天台密教から法華一乗を目的とする】 【法華経は因果倶時を目指す場、題目は一念三千を目指す場、本尊は色心不二を目指す場、戒壇は依正不二を目指す場】 【法華経付属と立正安国に導く修行の場を提供する漫荼羅】

2276ひきこもり:2006/10/22(日) 17:57:06
創価学会は日蓮正宗の教義を保持してきたわけです。大御本尊が偽作であり、日蓮正宗が邪宗である
と言うことなら、私は何を拝んだらいいにでしょうか。

2277ひきこもり:2006/10/22(日) 18:04:27
>第16大本尊の可能性は濃厚ではないでしょうか。

独歩さんこれはどう言う御本尊ですか?

2278犀角独歩:2006/10/22(日) 18:39:32

2277 ひきこもりさん

以下の本尊です。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html

2279鳥辺野:2006/10/22(日) 20:28:04
2277ひきこもりさん はじめまして
横レス失礼いたします。
第16大本尊についてですが、私の知っている事を少し書かせていただきます。蓮祖が文永十一年十二月に身延山にて揮毫された曼荼羅です。讃文(端書)に「大本尊」の文字が入っている唯一の曼荼羅です。(他の蓮祖の曼荼羅は大曼荼羅也、大曼陀羅也等です)石山一七世日精師によると弘安二年十二月に興師に授与されたとしています。石山の東坊地問題(日郷師と日行、日時師ら)の後、建武元年(1334)日郷師はこの大本尊と蓮祖正御影を持って小泉久遠寺を開きました。(その後本拠地である大本山保田妙本寺に大本尊、正御影共遷座)現在に至っています。GohonzonShu/016の写真右側のカラーの板本尊は保田妙本寺の真筆大本尊を模刻した新興宗教本門正宗本門寺のレプリカ板本尊です。尚これは私見ですが、蓮祖には究極の本尊とか唯一礼拝の対象の本尊などという物は存在しないと思います。蓮祖揮毫の字像曼荼羅とは釈迦佛救済の世界を図案化した物だと思います。「コレこそ究極だ。これしか拝んではいけない」という器物崇拝主義では決してないと思います。以上僭越ながら私の考えを述べさせていただきました。

2280問答迷人:2006/10/22(日) 20:50:05

ひきこもりさん

>大御本尊が偽作であり、日蓮正宗が邪宗である

確かに、日蓮正宗の戒壇板本尊が偽作で有る事は、前管長日顕師が述べたことでもあり、犀角独歩さんが論証し、広く世に問うたところです。僕も大石寺戒壇板本尊を蓮祖が建立したとはもはや考えておりません。
又、日蓮正宗が本尊に関して、蓮祖のお考えから大きく離れた主張を展開していることに付いては、問題が有る思います。

>私は何を拝んだらいいにでしょうか。

基本的には、六老の門下として、蓮祖の末流に連なる宗派の僧より下付された曼荼羅を拝すれば良いと思います。日蓮正宗の主張に上記の如き問題性が有る事を認識してさえおれば、日蓮正宗から下付された曼荼羅を拝しても何ら問題はないと考えております。なお、この件に付いては、僕の私見に過ぎませんので、諸賢の叱正を乞うところです。

2281今川元真:2006/10/25(水) 16:54:52
私は賢人ではありませんが、私は法華一乗を修行するなら、臨滅度漫荼羅を綺麗にコピーした掛軸を修行の道具に使うべきだと考えます。信学行を望まなければ、修行の道で自然治癒力も出ないと思います。

2282ひきこもり:2006/10/26(木) 02:41:49
>>2280>>2281
問答さんも今川さんも、どっちがどっちなんですか?日寛上人の本尊のコピーと、
本当の日蓮大聖人の第92,93,などのコピーを拝んだ方がいのですか?

私はやはり北山本門寺の曼陀羅か、第92、93、102、103曼陀羅が本当
だと思います。独歩さんどう思いますか?私は全部見ました。四天王と題目の下
の八幡大菩薩と天照大神がある御本尊はこのくらいでしょう?

2283ひきこもり:2006/10/26(木) 02:44:29
>>2281
それでは富士門流を出なければいけないですねw

2284ひきこもり:2006/10/26(木) 02:52:36
>>2281
臨滅度漫荼羅には四天王の日本語の表記がありません。このような表記で、末法の
衆生を全部救済すると言う思想は受け止められません。

2285ひきこもり:2006/10/26(木) 03:04:12
失礼しました。今、臨滅度漫荼羅の曼陀羅の写真を見ましたところ、四天王も
全て同じでした。

2286ひきこもり:2006/10/26(木) 03:09:45
>>2281
蓮祖の御真筆のコピーと、寛師の御真筆のコピーと、どちらがいいのかと言うことですね。
難しい問題ですね。

2287犀角独歩:2006/10/26(木) 12:15:57

ひきこもりさん

わたしは、漫荼羅が直ちに本尊であるという認識はありません。
また、漫荼羅に優劣はないと考えます。あるのは、授与された人の差です。漫荼羅は、授与者に合わせたオーダーメイドですから、自分宛の漫荼羅でなければ、自分の‘本尊’とはなり得ないと原則的には考えています。

また、より厳密に言えば、本尊は寿量仏における久遠本仏の認知ですから、漫荼羅とは別に考えます。

日蓮的な発想で言えば、如何にして上行所伝の妙法蓮華経を受け取るのかは、問答さんのお言葉を借りれば「蓮祖の末流に連なる宗派の僧より下付された曼荼羅」という点で同感です。ただ、それが自分のためのオリジナルでなければ、それはあくまで仮のものという認識です。

2288ひきこもり:2006/10/28(土) 00:14:47
>>2287
独歩さん。有り難う御座います。
『本尊問答抄』に「法華経の題目を以て本尊とすべし」とあります。やはり曼陀羅を
本尊とするのが蓮祖の真髄ではないでしょうか。

2289犀角独歩:2006/10/28(土) 10:46:13

ひきこもりさん

では、反対にお尋ねしますが、法華経の題目とは経典の題名、妙法蓮華経のことです。これは漫荼羅ではありませんよ。題名です。『本尊問答抄』が真蹟であるとして、日蓮が法華経典の題名を本尊とせよというのに、何故、あなたは漫荼羅が本尊であるというのですか。

2290藤川一郎:2006/10/28(土) 17:31:18
>>2267
亀レスですが、床の間の掛け軸の前に香炉と花を置くのは日本家屋の伝統です。
不肖、我が家の床の間にも、父母の実家(茨城県)にも掛け軸の前に香炉があります。
別に、中国に限ったことではありません。最近は日本家屋の伝統を護るほどの大きな家屋が少ないので、見る機会は無いとも思いますが、旧家では常識の話では無いでしょうか?

2291今川元真:2006/10/28(土) 19:07:13
犀角独歩さん等の議論で日蓮宗系の輪郭は見え始めてきた様に存じます。鎌倉時代、日蓮が目指した事。21世紀、私等が目指す事。同じなのか。異なものか。

2292今川元真:2006/10/29(日) 11:55:25
連続書き込みで失礼します。 【末法無戒】 【三法門本尊在りて題目起こす戒壇立つ】 【広宣流布(三法門)→漫荼羅(成道得道)→皆成仏道(平等大慧)】 法華経(教科書)、 漫荼羅(天台密教→法華一乗)、       仏像(主師親)

2293天蓋真鏡:2006/10/29(日) 20:30:05
誤字すいません。 ⇒【末法無戒】 【三法門・本尊在りて戒壇立つ題目起こす】 【広宣流布(三法門)→漫荼羅(成仏得道)→皆成仏道(平等大慧)】 法華経(教科書)、 漫荼羅(天台密教→法華一乗)、 仏像(主師親)

2294再挑戦者:2006/10/31(火) 10:30:44
 失礼します。 最近、99%もの多く方方がズル賢いようです。1%くらいは聖人君子かも。
 経済界では「儲ける為にはインサイダー取引も良い」、「手数料さえ稼げれば客にはウソをついても良い」という方は少ないはずです。
 しかし、進学校で将来の有望な高校で「合格のためには、未履修科目でも履修済みにして内申書を整えた」と言う学校や教育委員会が多数存在です。
「インサイダーに積極的にかかわった人は」証券市場から追放される。 文部科学省は見習えるだろうか。 翻って「宗教法人を管轄するのも文部科学省」だったでしょうか。
 他人をダマシようなズル賢いやり方は「決して美しい国の美しい所作」にはほど遠いのでは、とツブヤキでした。

2295蓮華:2006/10/31(火) 11:44:29
>「法華経の題目を以て本尊とすべし」とあります。やはり曼陀羅を
>本尊とするのが蓮祖の真髄

曼荼羅正依でいい。
本尊の功徳に「差異」などあるはずが無い。
個人宛の本尊に他人が拝めば功徳・効能が異なる?
そんな教えはない。

もし、本尊ごとに功徳・効能が異なるとしたら、日蓮は無慈悲の坊主となってしまう。

日蓮は何の為に沢山の本尊を書写したのか?
その根本の一念に気がついた時、
本尊は功徳の塊である事を自覚する。

コピーした本尊でも功徳は変わらない。
体験済みだ。

また他人が模写した本尊であっても功徳は変わらない。
ようは受けて側の信心だ。
これも体験済みだ。

唱題を行い、生活を正し、法華経三昧に浴する
この法の素晴らしさを伝え、社会に役立つ人間になっていく

本尊がどうだ、宗派がどうだ との論議に迷っている間は
功徳を受ける事すら遠い・・・・

2296犀角独歩:2006/10/31(火) 11:50:59

蓮華さん

ここは教書によって議論する場です。
あなたの一方的な意見の投げ捨ては意味を持ちません。
思うところがあれば、証拠を挙げて論じなさい。

2297蓮華:2006/10/31(火) 11:51:00
受けての信心。

日蓮は弟子の為に、命を墨に染め流して本尊を表した。
しかしながら、どんなに念をこめて書いた本尊すら、
物理的にはただの紙と墨汁の跡なのだ。

大事なのは日蓮の念を感じることだ。
この本尊は己の為に日蓮が心血を注いで書写したものだと感じることだ。

対象物の形、筆法、形式、内容の差異など、
信仰の本質論から言えば意味を成さない。

主題を見、日蓮の慈悲を感じ、己の命を妙法蓮華経に帰命させよ。
余事を交えず己の命があるがままに獲得しようとする世界に目を向けよ。
耳を傾けよ。

2298犀角独歩:2006/10/31(火) 11:52:44

蓮華さん、もう一度、忠告します。
あなたの思いこみの押し売りはやめなさい。

2299蓮華:2006/10/31(火) 11:53:52
>自分宛の漫荼羅でなければ、自分の‘本尊’とはなり得ないと原則的には考えています。

>思うところがあれば、証拠を挙げて論じなさい。

自分の考えを述べているのは私だけではありませんね。
まずは貴殿からどうぞ。証拠を挙げて論じなさい。
そもそもここのスレッドは「つぶやき」のスレッドではないのですか?

2300蓮華:2006/10/31(火) 11:55:47
>蓮華さん、もう一度、忠告します。
>あなたの思いこみの押し売りはやめなさい。

犀角独歩さん、あなたに忠告いたします。
ここはつぶやきスレッドであり、スレ主様の言葉をよく思い出しなさい。

「何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!」

独り言は可ですか? それとも不可ですか?

2301犀角独歩:2006/10/31(火) 11:56:49

本尊と漫荼羅において、わたしは文章を挙げて、論じています。
つぶやきを逆手にとって、放言を述べるのは、ルール違反でしょう。

2302蓮華:2006/10/31(火) 11:57:52
>独り言は可ですか? それとも不可ですか?

2303蓮華:2006/10/31(火) 11:59:01
>放言を述べるのは、ルール違反でしょう。」

どちらがルールを違反してるのか?

「ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!」」

2304犀角独歩:2006/10/31(火) 11:59:12

蓮華さん、では、あなたが、わたしに証拠を挙げて論じろと言ったことはどうなりますか。あなた自身を挙証をしているではないですか。

2305犀角独歩:2006/10/31(火) 12:02:30

訂正します。

蓮華さん、では、あなたが、わたしに証拠を挙げて論じろと言ったことはどうなりますか。あなた自身、挙証をしろと言っているではないですか。それにもかかわらず、つぶやきだと言うのは矛盾しています。

ぼやきだ、つぶやきなどと言わず、本尊と漫荼羅のスレッドに移動して議論しましょう。

2306蓮華:2006/10/31(火) 12:05:45
話を摩り替える前に、まず、つぶやきスレッドの内容に抵触したのは
貴方が先だと言うことを認識してください。

「考えを述べるなら、証拠を挙げよ」と貴殿は仰る。
まずはここでスレッド違反です。

私は注意を促しただけです。
「自分の考えを述べているのは私だけではない」との証明と、
貴方の意見自体が矛盾していると指摘しているのです。
(貴方も己の考えを述べていますが、引用箇所についてはご自信の考えであり、
証拠は提示してませんね)

そもそも論議をするつもりであれば、つぶやきには書きません。

いいですか、まずはご自身の書き込みを振り返ってみてくださいね。

独り言は可ですか? それとも不可ですか?

2307蓮華:2006/10/31(火) 12:07:49
>訂正します。

失礼致しました。訂正の文言に気がつきませんでした。
ROMの方に不快な思いをさせました。

>犀角独歩さん、
失礼致しました。

2308犀角独歩:2006/10/31(火) 12:12:01

蓮華さん、わたしが言っているのは、つぶやきという特性を逆でにとって、挙証もせず、根幹に関わる書き込みをするのは、ルール違反だと言っているのです。

つぶやきならば、何を書いてもよいということではありません。
ここのところ、本尊と漫荼羅において、独学徒さん、問答さんと、わたしは議論を積み重ねてきています。その内容に抵触し、かつ、まったく逆の意見を、つぶやきと称して、放言すれば、掲示板全体の風紀は乱れます。

そのようなことはルール違反だと言っているのです。つまり、そのような他のスレッドの議論を抵触する内容を独り言と称して、反論不能の「つぶやき」に投稿することは、わたしは「不可」であると言っているのです。

これはを逆手に悪用する「アラシ」行為であると、わたしは判断します。

2309犀角独歩:2006/10/31(火) 12:16:48

なお、誤解がないように申し上げますが、「信仰」という点からすれば、蓮華山が記された点に、わたしも大いに賛同するところはあります。ただし、当掲示板は、信仰的見地のみならず、宗史、教学史、書誌学的見地を重視し、かつ、挙証義務を課して、議論を深めることによって発展してきました。

ですから、そのような議論が進んでいる横で、まったく挙証せず、信仰的見地から、論攷と逆の意見を「つぶやき」と称して述べることは、この微風を著しく汚すものであるということです。

しかしながら、ご意見はわかりますので、スレッドに移動して、議論しませんかとお願いしているわけです。

2310犀角独歩:2006/10/31(火) 12:18:38

【2309の訂正】

誤)蓮華山
正)蓮華さん

誤)スレッドに移動して、議論しませんかとお願いしているわけです。
正)スレッドに移動して、議論しませんかとお願いすることとします。

2311蓮華:2006/10/31(火) 12:20:24
>悪用する「アラシ」行為であると、わたしは判断します。

そもそもの考え方が異なるようです。
スレッドの趣旨を守って、独り言のように書く行為が「アラシ」と言うのは、
貴方の独断的な決め付けであるかと思われます。

学術的な論議は大変素晴らしいものであり、
大いに盛り上がるべきであるとは存じますが、スレッドの趣旨にある、
「つぶやき」に学術的根拠を求める事自体、奇異に映ってしまいますね。

スレッドの趣旨を読むべきです。
そして、最初にスレッドの趣旨を違反してクレームをつけられたのはご自身だと言うことを
しっかりと認識してください。

つぶやきの内容の可否について、スレ主でない貴方が決めるのもどうかと思います。
管理者様に知的財産の所有権がある事は承知してますが、
あくまでもオープンな掲示板です。ご理解頂ければ幸いです。

2312蓮華:2006/10/31(火) 12:22:43
>この微風を著しく汚すものであるということです。

仰る事は承知しております。
私も犀角独歩さんのレスで勉強した一人ですから。
サイトも立ち寄らせていただいてますし、書籍も読んでおります。

正し、ご理解いただきたいのは、だからこそ、「つぶやき」に記したのです。

2313犀角独歩:2006/10/31(火) 12:53:48

蓮華さん

「スレ主」ということですが、そもそも、当掲示板にはそのような考え方はありません。しかし、あなたが悪意なく、「つぶやき」として記したまでというのであれば、それはその点を否定するものではありません。わたしの発言にはフライングがあったことを反省もし、お詫びもいたします。

ただ、この点はご承知いただきたいのですが、過去の経緯のなかで、スレッドで進行形でなされている議論に対して、悪用されてきたのが、「つぶやき」でした。実際、ここから投稿停止者も何人も出ています。

まして、本尊と漫荼羅に関する議論は、一山を超えて、次の段階に入っています。このような場の雰囲気を考慮いただき、「つぶやき」というより、むしろ、適宜スレッドにおいて、議論に加わっていただければ有り難く存じます。

いまから、外出いたしますので、次の投稿は、間合いが空きます。悪しからず、ご了承いただければと存じます。

2314蓮華:2006/10/31(火) 13:01:05
犀角独歩さん、

ご丁寧なレス、ありがとうございます。
趣旨は理解いたしました。

ただし、「普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい」
の記述がある事から、あえて、協議論争とは別な観点のスレがあってもいいのでは?
と思ってしまいます。
信仰の上から普段感じている点を記載した次第でございます。

まあ、ご判断はスレ主である管理人様に判断していただきましょう。
管理人様のご意向に一任させていただきます。

それではお気をつけて外出されてくださいませ。

2315蓮華:2006/10/31(火) 13:02:51
>別な観点のスレ

「別な観点のレス」でした。謹んで訂正させていただきます。

2316犀角独歩:2006/10/31(火) 22:25:35

蓮華さん、失礼いたしました。
わたしが過敏に反応しすぎました。仰るとおりであろうと存じます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

2317名無しさん:2006/10/31(火) 23:07:48
現在まで「文証などを挙げ、膨大なる貴重な」書き込みをされている方と、
ポッと出てきて、自分の一人よがりな信仰観を書きなぐる方とでは、
信頼という点で、天地雲泥の差があるように思います。

2318正論氏:2006/11/01(水) 00:57:10
蓮華さんが言ってる事は正論では?
一人よがりを書いてもいいスレでしょうに。

2319寸鉄:2006/11/01(水) 02:03:53
つぶやきを単なるハケ口と勘違いしている。
何でも書けばイイってもんじゃない。

2320藤川一郎:2006/11/01(水) 11:30:40
何かの書籍で読んだのですが、浅井円道師(又は要りん師?)が、とある学術発表会の席上、執行海秀師に
向かって「学術論争の場で、どなたかのように(明らかに執行師に向かって)信仰体験を語られても困る」と批判したそうです。

2321再挑戦者:2006/11/01(水) 19:27:28
、、、失礼、、です。
 いろいろ御座いますようですが、、。 ある程度の、、「、、限界、、」、、も存在のようでしょうか、。
 難儀でしょうか、、、、。 今後とも諸賢の建設的な論議、、考察、、意見、、提言、、をご期待します、、。

2322蓮華:2006/11/02(木) 11:24:46
「会話や議論の応酬は避けるべき」と言うスレの趣旨ですが、
内容を明確にしたいが為、当趣旨を無視して記載する事をお許し下さい。

>何でも書けばイイってもんじゃない。
それでは「つぶやき」に書くべき内容、書いてはいけない内容をご教示下さい。

>学術論争の場で、
全く同意致しますが、つぶやきは引用例は適用外ではないでしょうか?
ここは学術論争の場なのでしょうか?

私の認識と、スレの趣旨は下記の認識でおります。

・普段からフツフツと感じている事
・このスレッドは、独り言、ボヤキ
・会話や議論の応酬は避けるべき
・本音、弱根を、思う存分

学術論争とは別の、信仰における、普段感じている本音を独り言で書きました。
それがスレの趣旨に適合しないのでしょうか?
私的にはルールを遵守した思いがあります。

2323蓮華:2006/11/02(木) 11:28:46
>犀角独歩さん、

ご返信レス、誠にありがとうございます。
こちらこそ失礼致しました。そしてご理解頂いた事に感謝申し上げます。
今後とも勉強させて頂きます。何卒宜しくお願い致します。

2324ボヤッキー:2006/11/02(木) 20:19:45
独り言、ボヤキです。

>コピーした本尊でも功徳は変わらない。
体験済みだ・・・「それは良かったですね。」

>また他人が模写した本尊であっても功徳は変わらない。
ようは受けて側の信心だ。
これも体験済みだ。・・・「素晴らしいですね。」

>本尊がどうだ、宗派がどうだ との論議に迷っている間は
功徳を受ける事すら遠い・・・・「あなた何様?」

2325再挑戦者:2006/11/02(木) 20:32:50
2295さん、 >、、ようは受けて側の信心だ、、。
 一見、、は、、正論のような、響きを感じまするが、、疑義が払拭仕切れませんです、。
 別な視点から考察・論考しますと、ドーモ「、、某S会、、」、、の999%を超えるような「、、擁護論、?」、の感じがしてなりません。
 「本尊に迷えり、、」、、この原点から出発されました日蓮様を「、、何かしら、、軽視、、」、、とも受け止められるような本音をツブヤかてたようでしょうか、、。 そんな自分の愚考をつぶやきました。 悪しからず、。

2326蓮華:2006/11/02(木) 20:36:43
ずいぶん陰湿で排他的なのですね。

教義にわたっては徹底的に論議するべきだと思っています。
真実を探求する姿勢は美しい。諸賢の方々のレスには感謝・感服しております。

私が申し上げたかったのは信仰心から見た宗教の本質、そして心です。
形式も大切だが、偏狭にとらわれずに宗祖本来の精神に光をあてたい。
宗教とは本来、庶民の祈りをかなえる為に生まれたものだと思っています。
庶民が己の人生をより幸福に彩る術であるべきです。

一宗派にとらわれずに、私は私の実践において、宗教がもつ「力」を、
自身の生活の上で発揮していきたいと願っております。
宗祖の門下であった一民衆も、ただひたすら宗祖を信じ、
祈りを実践してきたかのように・・・・。

2327蓮華:2006/11/02(木) 20:44:45
私は諸宗を転々として参りました。また、独歩様のレスやあまたの書籍で、
真実と思える学説に触れる機会がございました。

その結果、無残にも信仰心を消失しかけたのは事実です。

それ故に、敢えてシンプルに考えるようになりました。
宗祖在世中の弟子のように、本尊に題目を徹底的に上げ、宗祖の心を知るべきだと・・。
在世中の弟子には釈尊像を帰依の対象にした方もいらっしゃったでしょうし、
恐らくは主題と四菩薩のみの本尊に帰依してた方もいらっしゃたでしょう。

それがむしろ自然な信徒の姿に感じられました。

2328蓮華:2006/11/02(木) 20:51:34
「本尊に迷えり」。 一番本尊に迷っているのが皮肉にも日蓮系教団です。
私の場合はすっきりしてます。宗祖が表した本尊、それを模写した本尊、
写真複製した本尊、恐らく偽者であろう戒壇本尊、どの本尊に祈っても、
必ず功徳がある気がします。受け手と申したのはその意味です。

現に、身延系、正宗、創価、顕正、正信、その他の宗派は教えは各々異なれど、
沢山の功徳が生まれている現実は無視できません。

それで無ければ、ご本尊を持たない「内徳信仰」などに、功徳がある説明ができないからです。

2329再挑戦者:2006/11/02(木) 21:07:49
 蓮華さん、、>、、内得、、、。
 これである程度が判明しました、、。 そうです、、===、、今お騒がせの「、、某K会、、」、、様のご投稿のようです、、??
 今後ともよろしくお願い申しあげます、!!! 早々。

2330ボヤッキー:2006/11/02(木) 23:29:13
個人の信仰体験を書かれても、心に響かない。説得力が無い。

2331しゅんかん:2006/11/03(金) 13:45:52
独歩さん、このような解りやすいスレがあったんですね。
(教えてくれはったらエエのに。お前の勉強不足や!おっしゃる
通りでごぜぇーやす)(大阪人なんで一人突っ込みです、あしからず)
蓮華さんと独歩さんのやりとりは私など駆け出しの者には両者共
おっしゃる通りと思います。
ここの掲示板は人を傷つける様な文面を見受けないので
好意を持っています。(ほぼ見受けない)
蓮華さんのおっしゃる通り、会話や議論の応酬は避けるべき
ですね。つぶやき=独り言=一方通行では寂しいですから、
会話のキャッチボールをしたいものですネ。

2332しゅんかん:2006/11/03(金) 14:27:18
蓮華さん、はじめまして。
素朴な疑問で駆け出し中のしゅんかんと申します。
蓮華さんの色々な本尊(曼荼羅)ようは受けて側の信心だ。
おっしゃる通りだと思います。多くの方にご理解をいただける
ものと思います。
私は信仰をしておりませんが、ネット上で他宗もこの様に活発な議論、
意見交換、会話のキャッチボールをしているのですかネ。
(しているのであれば私の勉強不足です、すいません)
日蓮上人は他宗はほうぼう?(字も分からず変換出来ませんでした)
って言うのですか。駄目って言ってるんでしょ。
日蓮宗派で色々な曼荼羅が有って全部オッケーって
私自身はなんとなく?って感じです。
信仰を行っている人は自分の派はやはり信じています。
他派の曼荼羅も良しなのであればその教義も良しでしょ。
それでは自我が揺らぐのではないですか。
日蓮上人の教えがこの様に沢山の板を作らせているのかなぁ
と思っております。

2333絵空事:2006/11/03(金) 14:39:51
、、ようは受けて側の信心だ、、。
私もそう思っているのです....が確かな授与も必要かと
一方的片思い...すとーかーもどき?もちょっと困る
様々な経緯は有るものの現在まで受け継がれた信仰としての授与....
かといって広宣流布のように多くの人へ
自分のためのオリジナル曼荼羅以外は仮も無理があるかも....
漫荼羅への大切さと思い入れが持てるのであれば.....
正確な複製の出来る今どきが時代相応なんでしょうかね...
複製に裏書きしてもらって伏せってかぁ.....
でも宗派を越えたような信仰の漫荼羅を誰が授与してくれんねん...
此処の掲示板を読むようになってから、そうだと肯定しながらも疑問を持つようになった...
唱題はいいですね....当面はひたすら祈れってかぁ....

2334蓮華:2006/11/03(金) 15:22:03
>・会話や議論の応酬は避けるべき
上記の趣旨をいささか脱線してしまうことをお許し下さい。

沢山のレスを頂いた故、感謝の意とご返信レスを記させて頂きます。

まずはじめに、独歩様をはじめとする諸賢の皆様の、真実への探求における、
真剣な姿勢、また、わかり易く後輩にご教示いただけるその行為に深く感謝申し上げます。

>ドーモ「、、某S会、、」、、の999%を超えるような「、、擁護論、?」
>今お騒がせの「、、某K会、、」、、様のご投稿のようです、、??
私は確かにとある宗教団体に所属はしておりますが、教義の面では納得しておりません。
ただ少なくとも、他宗教の言い分・主張も理解せずに頭より見下して、
「謗法」だと罵るような行為は、所詮、井の中の蛙であり、本来あってはならない姿勢であると信じております。
又、特別な本尊を崇盃しているが故に、我尊しと言う姿勢にも納得できません。
更に言及して言えば、単なる宗教的建築物を構築する事で、個人も国も安穏になると言う、
安直な考えにも賛同しかねる現状です。(特定の宗派を否定している訳ではありません)

>個人の信仰体験を書かれても、心に響かない。説得力が無い。
ボヤキ、独り言であると言う事でお許し下さい。
宗祖が弟子に伝えたかった世界に触れるには、徹底的な真実の検証行為と、
弟子に示された教えの実践しかないと思っております。

どちらか片方だけでは到達できない何かがあるような気がして仕方ないのです。

2335蓮華:2006/11/03(金) 15:29:03


>私など駆け出しの者には両者共おっしゃる通りと思います。
私の方こそ駆け出しであり、無学の極みであると認識しております。
故に、皆様のレスで学習させていただいております。

>日蓮上人は他宗はほうぼう?
私見でしかご返信できない無礼をお許し下さい。

宗祖は「妙法蓮華経」こそが唯一真実の教えであると説かれました。
故にそれ以外の教えは悉く邪義であると喝破されております。

しかし、その宗祖の言葉にも深い大意があると思っております。
当時と現代社会を比較するば、宗教的影響力、行政との関係性、常識的な仏教解釈が現代とは大きく異なっております。
現代のように、沢山の情報が当たり前のように取得できると言う、ある意味特殊な状況下では、
宗祖の言葉とは言え、文言を取捨択一し、言葉の裏側に内在する心をつかむ事が要であると信じております。

その上で申しますならば、私にとっては、「南無妙法蓮華経」の本尊であれば、
宗祖の弟子が修行を実践するにあたって、充分に事足りるものであると思うのです。
形式や作法も大切だと思いますが、宗祖が何故その本尊を顕されたのか、
また、何ゆえに弟子に修行を明示されたのか。その本質に肉薄できるよう修行するのみです。
回答になっておりませんね。失礼致しました。

>正確な複製の出来る今どきが時代相応なんでしょうかね...
私も個人的には、宗祖の漫荼羅の方が大切に感じます。

>唱題はいいですね....
はい。私も唱題行を大切にしております。

長々と失礼いたしました。

2336ボヤッキー:2006/11/03(金) 16:03:19
ちょっと前の書き込みにて、日蓮さんの「真意」をくみ取り、
現在に伝えている宗派は皆無、と書かれていましたが、
そうなれば、今は誰も「本当の修行」は出来ていない事になりますね。
みんなどうやって修行しているのだろう?

南無妙法蓮華経の本尊ならば、どれでも良いなんて言うのも、
なんじゃそりゃ・・・という感じです。

2337しゅんかん:2006/11/03(金) 18:54:42
蓮華さん早速のご返信有難うございます。
2336のボヤッキーさんと同感なんですが。他宗派なら
これもいいじゃない、あれもまぁ許そうかって言うなら
なんとなく納得出来るのですが。親兄弟やネット上での皆さん達、
日蓮上人門下の方々のご意見を見させてもらいますと。
やはり何処に蓮師の正当な教えがあるのかと追及されています。
その追求されているところが詰り蓮師の教えを守っておられる
様な気がするのです、蓮師に六老僧がおり孫弟子がおり又、弟子が
と・・・人それぞれ捉え方が違いますからええやろとは蓮師の
教えからは逸脱しているように感じられてしまうのです。
すいません信仰もしていない者が。

2338再挑戦者:2006/11/03(金) 19:30:30
ボヤッキーさん、、。
 ウムッム、、!!!、、です。  ホンまに難儀なことでございます。 
 今、、今後、一体、、ドナイしたらエエンでしょうね、?? トホホ、、。

2339犀角独歩:2006/11/04(土) 08:34:35

ここは、つぶやきなので、レスト言うことではないのですが…。

日蓮の真意を汲み取り、いまに伝える‘宗派’は皆無でしょう。ただ、わたしが多くの方々との出会いから思うことは、日蓮の精神を伝える人は、しかし、決して皆無ではないと言うことです。では、仮にその精神を伝える人は、すべてを伝えるかといえば、また、そうではないわけです。それぞれが善いところがあり、また、欠点もあります。善いところは大いに参考にし、敬意もはらい、欠点は批判すると言うより、改善案を考え進歩させる、そんな人の集まりを、わたしはサンガというのだと思います。そこには、文字や形式を超えた生きた人間同士の‘修行’があります。

2340絵空事:2006/11/04(土) 14:29:33
百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サンガ (曖昧さ回避)。「集団」を意味するサンスクリット語で、仏教では修行者の集団を指し、「僧伽(そうぎゃ)」と漢訳される
僧伽 (そうぎゃ、saMgha、संघ (sanskrit))はサンスクリット語の音写であり、「衆」(しゅ)「和合衆」(わごうしゅ)と漢訳される。
もとの意味は「集団」「集会」などであり、古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合、共和政体のことをサンガと呼んだ。
これが仏教に採用されて修行者の集まりや、教団のことを指した。
略して僧と呼び、仏・法・僧の三宝の一つとして尊重され、三帰依の対象となっている。僧は仏陀の教えを実行し、
その教えの真実であることを世間に示し、あわせて弟子を教育し、教法を次代に伝える。

犀角独歩様の思慮深さには感心する事が多いです
その都度、私の想いは右に左に、吊り下げられた曼荼羅に風が吹き付けて揺れ動いたかのように
本当に揺らしていないでしょうねぇ

2341名無しさん:2006/11/04(土) 17:50:20
私は、「日蓮の精神を伝える人」とは、犀角独歩さんじゃないかと、
思ったりしています。真実を探求されている姿は、素晴らしいですね。

2342しゅんかん:2006/11/05(日) 23:32:14
今日、娘の大学の行事で京都に行って時間が余ったので。
本圀寺へ参拝に行ってまいりました。黄金の大梵鐘の下にあった一室
(仏像が沢山祀ってありました)に奉安してあった曼荼羅は平成に
書写された物の様でしたが、釈堤桓因大王ではなく正宗の寺院や
下付曼荼羅の様に帝釈天王だった正宗以外で初めて見たのでへ〜〜っと思いました。
クッソー腹立つなあーーー。
寺院案内のパンフが見当らず見物をしていました。
ある建物内でお経をあげておられ(本師堂でした)信者らしき方が2・30人
おられましたが構わず入って行き座りました。
直ぐにお経が終わり御僧侶さんのお言葉で法要だと判明しました。
(私はアロハシャツを着ていたので信者らしき方から何やこいつ、
といった目でにらまれた、皆さんすいませんでした、そう言やぁ
皆さん黒い服ばっかりやったなぁー)
本堂も拝観させてもらいました。南妙法蓮華経とだけ彫ってある本尊、
その前に釈迦像そしてその前が日蓮上人の座像でした。
寺院で南妙法蓮華経とだけ彫ってある本尊を見たのは初めてでした。
帰る前に寺院関係者の方に尋ねパンフをもらいました。
帰路の車中でパンフを読み、法要を行っていたいた所が本師堂としりました。
そしてそこに大聖人が片時も離さず・・・の釈迦像をお祀りしている事も
初めて知ったのです。(目に止まらんかった。クッソーーー、本圀寺ってこんな
お寺やったん。もう一回行こ〜っと)

2343再挑戦者:2006/11/07(火) 18:51:08
しゅんかんサン、 >、、、、。
 御検足は、、、ご苦労様です、。 日蓮様の御真筆所要のベスト3に名を連ねる「本国寺様」でさえ、、「、、ガタガタ(日蓮的に、)、、」、、のようでしたか、?
 真筆の曼荼羅を所有されていましても「、そのアリガタさを理解不能な方」、、にはムベなるかナ、、?  と、、。
 小生は過去、二度ばかり「真筆さま」をご拝見しました。 一回目は「、、ヤット、、周り道しましたが、遅くなってゴメンなさい、日蓮様、、!!」、、と泣きました、。
 二回目は「、、一寸待てヨ、、ドーモ、、オカシイーぜヨ、、?」、、多少の余裕も出来たので、周りの雰囲気を見渡す度胸も得たのです、、。
 それは、一般の観覧者が美術館、、博物館などでの「古代・中世の文物」を「見る視線」と全く同じに実感しました、、。
 形式上の本物をうわべだけで拝んでも「日蓮様」の「お心」を体得して・体感・体現するのは、、「、、至難、、の難儀、、!!」、、のようです、、? えらそうに御託を述べて、ゴメン下さい、、。

2344天蓋真鏡:2006/11/08(水) 20:16:31
変遷【シャカ如来、法華等持院】【妙法華院、日蓮、仏彫像&漫荼羅&法華経、成仏得道、法華一乗、立正安国】【垂ジャク堂・御影堂・本堂、日興・石川】【日目・南ジョウ】皆成仏道

2345とんび:2006/11/09(木) 00:17:37
 先の発言の付随しての発言です。
 太陽の光に感謝する人は、多いでしょうが、地球の重力に感謝する人は、少ないだろうな...
とも感じたり。人類は、大気のオゾン層などによって守られないと、生きていけないと思います。
また、大地があるから、守られてもいます。

 地球は、自転しているので、重力がないと、大気圏外に、飛ばされてしまうのだろうと...。
確か、かなりなスピードだったと、思います。われわれ人類の動いているスピードは。
それに、地球は、公転しているし、きっと銀河も回転しているでしょう。

 海抜0メートルに住んでいる人より、海抜2000メートルに住んでいる人の方が、より光速に
近いので、老化が遅れる・長生きする...という理論があったと思います。
 余談でしたが、私たちは、様々なものに助けられて生きているのだなと感じます。

2346再挑戦者:2006/11/11(土) 18:29:25
  失礼します。
  私事ですが、今般、実母が88歳で永眠しました。 
 小生の希望の「星」、、でした。 苦しい時、悲しい時、、「、、それなりに元気を」、、モライました。
  ただ、残念は、、晩年の認知症ぎみからの救済が出来なかった事。
 幾度かは「、S会の欺瞞性」を説得しましたが、日ごろの「聖教」に洗脳され他者の意見を聞きませんでした。
  逆に、小生のオチコボレ人生ぶりを小バカにしていました。
 ここで一句、、「、、涙拭く、青いハンカチ、、出しずらい、、。」、、「、、意地だけは、維持したいが、トホホ、、なり、」、、。
 、、、トホほ、、かな、、。 アホのツブヤキ、、でした、、。

2347再挑戦者:2006/11/11(土) 18:49:59
続、、、。
  実母は実妹と同居していたので一番イヤラシー、、「、、友人葬、?、」、、とかの僧侶不在の葬儀でした、。
 小生は、とてもとても参加・出席する気持ちがもてず「、欠席中、、」、、しました、、。
 これは、「、、家庭内の宗教の戦争、、」、、が勃発した、と思います、。 悲しいが、現実です、。 トホホ、、。

2348犀角独歩:2006/11/11(土) 23:11:49

再挑戦者さん

謹んで、御母堂様のご逝去を悼み、お悔やみ申し上げると共に、ご冥福をお祈り申し上げます。

2349しゅんかん:2006/11/13(月) 00:33:44
再挑戦者さん、はじめまして。
お母様のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。

2350再挑戦者:2006/11/13(月) 19:27:38
、、、面目ありません、、お心遣いに深謝致します、、。 悔しいですが、これも厳しい現実のようですか、、。
 諦めずにジリジリ進むことが、アノ化け者某会への打撃になると信じたい、、です、、。 ゴメン下さい。

2351再挑戦者:2006/11/25(土) 21:40:25
、、、失礼します。 今般得ました資料ですが。 「経のうちの肝心は題目におさまられり、、」に関しての考察です。
 「、、日興門流の唱える題目は”旧来の法華経の題目”ではなく、本門かつ本因妙の”久遠初自受報身の所持するところの久遠名字の妙法”である、、とか、??、、この題目こそが、末法の荒凡夫である
我我衆生衆生を成仏”せしめる大法である、本門の題目として示されたのである、、。」、、、
、、皆様、諸賢さまはいかが御考察・検察でしょうか、、?
 自愚考では、オイオイ、、!!、、、一寸、、お待ち、、お待ち下さいませ、、。、です、、。 題目には「格差問題と差別問題」、が存在だったのでしょうか、、?
 本当に難儀で御座います、、。。。。。

2352再挑戦者:2006/12/09(土) 20:00:50
  愚考ですが、家庭内宗教戦争継続の中、母の葬儀の写真が送付されて来ました。 驚きました。 位牌は紙にワープロ印刷して木製の位牌に貼り付けてある様でした。
 棺の右側はガラス扉が有るとうでした。 奉掲本尊は紙にて遮断されていました。 これが「家族葬・友人葬」なる実態のようです。 また、墓地埋葬は12月〜4月の間は冬の期間で一切の参拝・墓参は不可(北海道・厚田墓苑関係、)との事でした。 
  紙を貼り付けた「位牌」、冬は墓参をさせない、、とは、、正しく、、信者を無視・軽視した一点が際立つ「、ボッタクリ宗教の闇事情、?、、」、、でしょうか、?  トホホ、、。

2353しゅんかん:2006/12/18(月) 19:47:26
再挑戦者さん、お久しぶりです。
少しは落ち着かれましたか?

ここよりつぶやき。
私の家族{(認知症の母)姉二人、兄一人}は私以外、全てS会員です。
私、以外の親兄弟が無くなった時の葬儀様式の未来像。
{私は今のところ宗教をしておりません!ひょっとすると私の葬儀様式も?
あら!恐ろしや}
私は宗教に学がありませんから家庭内宗教戦争には至らない(願望)とは
思っています。(姉兄に相手にされなし、私自身、反論が出来ない)
ですが法華経を読誦し僧侶不在の葬儀は経験がないので違和感が有りますね。
自我が不安定になります。
何でも有って感じですね。
真さに人間です、人間の成せる技ですね。

2354再挑戦者:2006/12/21(木) 18:45:08
 しゅんかんサン、ご機嫌のほど、御麗しゅうございます、、。
  人生、、人の間の生活には、、トホホ、、が多いような昨今でございます、、。
 小生も、寄る年波には負けます、。 昨日も今日も、、、、自分の「死」、、にかんして思う時間が多くなりました、、。       決して、自らが希望して、望んでの”生”ではないが、一概に親をを攻めることはには抵抗を感じました、、。
 思うに「、、頼みもしないのに、生みやがって、、!!」と反抗したりもしましたが、、今は「、、頼みもしないの、、”虫(昆虫)、、牛・ブタ・鶏などの被肉食家畜動物”」にも生誕可能は否定は出来ませんようです、、??     しかるに、現生の我らの死亡率は999.999%のようです、、。   今後、自分なりの「、、生、、死、、」、をどのように捕らえ、マットウするのかは、、??? です、、。  各自の現生の、一応の死後は、一体どんな世界に追誕してドンナ動・植物にに連続・生誕、、するのでしょうか、、?? 心配でもあります、、。 愚考でした。

2355しゅんかん:2006/12/23(土) 00:17:27
人生は人が創生したようですね。(私は肯定派です、仏法で言う末法は?)
人が作った世ですがこの世は人に住み難いようです。
(なんだか漱石の草枕の文頭のようですが)
此れも人は現実を現実と見ることが出来ず現実と密着していないからでは
ないでしょうか。
人が言うところの高等動物(よりホモサピエンスに近い)と定義しているもの程ど
現実から乖離していて、人が言うところの下等動物と定義されているもの程ど現実と
密着している様に思われます。下等動物と定義されている彼らは(彼らと会話をした
事が無いが)本能のまま生きている様に思われるからです。
人には自我と言う物が存在します(人の驕り昂ぶりにより)
より人から見て下等と言われている動物の程、本能のまま生きている様に思われます。
本能と現実は密着していると思われます。
人は未熟児として生まれ(此処で言う未熟児とは一般に言われる未熟児ではなく
全ての人をとらえています)本能が壊れているのだと考えられます。
下等動物な程、生を受けて直ぐ地球上の環境に適応出来るが、人は人生の先輩の
手助けなしには、多く見積もっても一週間と生きられないのではないでしょうか。

2356再挑戦者:2006/12/23(土) 20:00:49
 しゅんかん様。
 誠に示唆に溢れる御指摘はとても勉強になりました。
 先々のことは99%ほど意味・不明の一愚者ではあります、、。 ただ、「法華経・如来寿量品第十六の中で、、」、、「、、諸善男子 如来見衆生 楽於小法 徳薄苦垢重者 為是人説 我少出家、、、」、の聖文からも伺えるますのは、、ヒトは「難儀な苦労はしたくない、、少しでも楽をしたい」、という本音が存在のようでしょうか、?
 その一点から、・、各方面の利害関係者らが、ウブな、?、、信者を、? 獲得しようと画策・欲望のダマシの入り口に、、??、、なるようでしょうか、、? 無防備の我々などは、レベルの低い、マヤカシの「、、小法、」、にさえいとも簡単に執着してもその意識すらも不感症の症候群にドップリでは御座います、でしょうか、、? 難儀な、、世の中ではございまするが、、?? 愚考で失礼、。

2357ワラシナ:2006/12/29(金) 10:10:57
「思い出すア先生指導」


0、ア先生の指導で忘れられないのは、1993年国連ボランティアだった中田厚志さんがカンボジアで殉死された事に触れた時のものだ。

1、「ボランティアなんかやっても無駄」といったア先生がはなからカンボジアを見下していた事は、その教義解説書に明らかであった。そこには御自身の小乗仏教観から東南アジア諸国の国民性を一様に「、、その無気力」などと精神的廃疾者のように決め付けた上で「それらは小乗仏教の害毒を如実に示すものである」などと書いてあったからだ。
 
 だが、見た感じで言う。新宿周辺のパチンコ屋で早朝から行列待ちしていた人々のかなりが賭け事熱中体質のやる気満々の東南アジア系と言われていてとても無気力には見えなかったのである。
 反対に、その新宿駅を西に六箇所ほどずらした駅あたりで線路に飛び込む邦人がいたりして大変お気の毒なのであるが、うわさでは株で失敗してしまった人が多い、と聞いた事がある。これなどもしア先生の言う通りなら「大乗仏教の害毒を如実に示すもの」と言えようか(!?)。

2、ところで、国連から明石さんが行ってそこそこの使命を全うされたのだったが、ア先生は根底が見下しているから否定的にしか見ていないのも明らかだった。和平が実現したことを素直に喜ばなかった。自分が期待する見通しの正しさを実証する為に内戦の再発を期待しているかのようだった。
 その本音を意地悪く推量すると、「カンボジアに平和なんか生意気、早すぎだ、もっと殺し合っててくんなきゃこっちは困るんだ、何故かと言えば、もっと殺し合いが続いてくれれば言えた筈のお好きなセリフ「いずれ日本もあーなる」が言えなくなってしまった悔しさ」から来ている気持ち、、に見えた。

「第一、立正安国抜きの平和が実現してもらっては正宗信者の立つ瀬がない」とでも思っているようなそれにも見えた。確かに東洋の民の平和と幸福の実現を願わないわけではないけれども日蓮正宗信仰抜きのそれが実現されてしまっては(繰り返すが日蓮正宗信仰流布の暁にこそ真の平和が招来されると標榜している我々信者の)立つ瀬がない、との思い込みからきているのも明らかだった。
 
この思い込みの強さを見せ付けられると、信者にとっては信者以外の世界の平和と繁栄は忌むべき対象らしく、輝かしくも奇蹟的に招来されるべき立正安国実現のその日に至る迄は、世界は一層の不幸と悲惨で覆われるべき、とでも願っているかのように見えた。

3、確かに、多くの真面目な信者は世界の惨さに対して素直な同悲苦感情から布教による救済を志しているのだが、素直な同悲苦感情におぼれるだけではなく、このような或る懲罰感情めいたもの(一凶的罰論?)も同時に働いていると思うのである。
 きっとその感情が強度になって、世界中が日蓮正宗信仰(むしろ顕正会信仰と言うべきか?)流布の国々になる迄は、世界では暗黒と悲惨だけがふさわしく思われてくるのであろう。決して偶然の不幸発生を認めず、万事に信仰中心の因果付けをしなければ気がすまない心理になってくるのであろう。

4、だが、上で触れたア先生のように自ら依拠する信仰基準から他人の幸福にけちをつけたがる心情は自分にもあるし、これをもってア先生をどうこう言うつもりはない。

「悲惨ですねええ、だがこれらはいまだ序分、みててごらんなさい、いずれ、日本も、あーなるとわたくしは思っております。」式のア先生指導が苦々しく思い出されただけなのだ。、、同時に、今も題目三唱の二回唱えをやってるのかなああ、と言う事も。(h18/12/29)

2358再挑戦者:2006/12/30(土) 21:38:29
 ワラシナさん、、。
 示唆に富むご意見と思います。  ヒトが沈黙することは、結局は、何回でも誤り、失敗を繰り返すと遠因になるようです。
 今、IT時代、一人一人が自由に発言==言いたい事を遠慮もせずに「言える」、、アリガタさを実感します。
  今、格差の拡大が心配です。 時に、貧しい子供や大人も世界中に増加しています。 
  貧しい方に「、食べ物、衣服などの提供、、??」、は本当の援助?では無いようです。
 「ヒトは勉強を通じて、人生を切り開いて行く」ようです。 その為、途上国に50学校もの寄贈した方もいます(日経12月28日夕刊)。 レノンの奥方のオノ・ヨーコ氏です。
 与えるどころか「貰う、、欲しい、、」、ばかりの御方と比較しましてもドヒャッ、と感じます一件、かと思います。 愚思でした。

2359パンナコッタ:2007/01/05(金) 15:20:42
”正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此れをもてなす人は
月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、
徳もまさり人にもあいせられ候なり”

以前、彰往考来さんが過去スレで幻日について紹介して下さりましたが、この正月にも
結構見られたようですね。
 http://www.gifu-np.co.jp/photonews/?p=07010501
 http://www.topics.or.jp/News/news2007010304.html
 http://www.shinmai.co.jp/news/20070101/KT061231FTI090003000022.htm

2360犀角独歩:2007/01/05(金) 17:18:36

『立正安国論』の「仁王経云…其国土中有七可畏難…日月失度時節返逆或赤日出黒日出二三四五日出或日蝕無光或日輪一重二三四五重輪現為一難也…」辺りを引いて、浅井さんが、はしゃぎそうでいやですね、せっかく、きれいな自然現象なのに。

2361しゅんかん:2007/01/10(水) 22:56:58
は宗教学、私宗門学はまずもって理解を致しておりません(難し過ぎます^^;)
が、家庭の事情及び指摘見解上。石山並びにS会に再接触を(主に石山。学会はメディアのみ)
致しております。(学会二世ですが活動だ一切経験無しで、約30数年一切接触無し)
此処、数ヶ月こちらにお世話になって確信に至った事は、石山は他の日蓮宗とやはり違うな、
と言うことです。何時頃?何処から?誰が?何を?は多く議論されていますね。
大変欺瞞に満ち溢れている事でしょう。(今般の情報社会の賜物によるものかもしれませんが)
ですが、上古より石山も他門と接触をもた無ければならなかったはずです。
どうしてすぐばれるような嘘を言い始めたのでしょう。
何故このようなつじつまの合わない、事を起こすに至ったのでしょうか?精師、寛師ともあろう御人が?
私は此処に引っかかります。
地球上における(資本主義国家が指すところの)危険因子。
国家(自治体、団体)における危険因子。
家族内における危険因子。これらはこの存在が在る事によりそれら国家及び個が維持出来ているの
だと言う学説がありますね、バランスがとれているのだと。{俺ら(善良団体、人)だって何時も何時も
良い子ちゃんでいたくはない、爆発もしたい。(これは無意識の領域のことです)}
彼ら危険因子がわれわれの鬱積している物(欲求不満)を開放していてくれているのだと。
彼らを生み出したのは彼らを批判しているところの者だと。
必要悪なのだ、彼らが居なければ成り立たないのだと言う論理です。

2362しゅんかん:2007/01/10(水) 23:06:23
訂正

誤、は宗教学、私宗門学
正、私は宗教学、宗門学

誤、指摘見解上
正、私的見解上

2363顕正居士:2007/01/11(木) 05:06:07
大石寺のカルト化は直接的には大石日応からです。明治の終わり頃ですね。
「すぐばれるような嘘」は、相手が要法寺や北山で、すぐばれる嘘仲間だからです。
つまり今と同んなじなんです。
国会図書館のデジタルアーカイブにその頃の基本資料があります。
独学徒さんのサイトから行けますよ。

2364再挑戦者:2007/01/11(木) 21:19:08
 横から失礼致します。
 ウッム、と感じましたが、奥行きの深い御提言と思います。
 要法寺、北山様の件につきましても示唆が深いようです、。
 小生の独断をお許し戴ければ、、、。
  日蓮さま在世の時に、京都界隈に御信者がどのくらいおられたのでしょうか、、?、、。
 と、申しますのは、真筆本尊の現存在の数ですが、京都周辺の日蓮宗寺院関連が多いようです。
  信者の数と供養者数に比例されての「下付」を日蓮さまは実行されたでしょう、。 ならば、富士山周辺〜千葉周辺などの信者への真筆下付が中心でしたでしょうか、?
 それらの下付された方方がお亡くなりなりました後は、?  
 それなりの関連の重い方向の寺院に返納された、でしょうか、?
 その後は、京都方面に数十回も意見具申したと??讃えられています方もいますようです、。
 現今、大阪の堺=妙国寺さまが真筆さまを非公開ながら「 売り、、」、に出されて、身延本部がアワテ・フタメイタ噂も御座いました、。 話半分に致しましても、、寺院の経営に苦慮・苦闘が押し寄せれば、キレイ事ばかりでは座して餓死しか無いようです、。
 宗教と言えど、これを支える誰かさんが存在せねば経営不振になるのは道理でしょう、。 メシの種に???、、かが存在は??しませんでしたでしょうか、? 愚問でした、。

2365再挑戦者:2007/01/15(月) 18:06:56
、、、、、懸念を捨てられないのは???  何か?? を思いたいですが、、。
 保田の真筆本尊さまが、北山様から、何らかの策略、、??で 回りまわって、、千葉のド田舎に到達とは、、????
 是に類推いたしますと、、旧信者からの返却真筆本尊は、、どのような経過を辿ったのでしょうか? ? 
 マサカのマサカ、、??  日目様の「天奉」と言う、数十回の京都詣でが、、俄然、、疑問視が、、??  有るかも、?

2366再挑戦者:2007/01/15(月) 19:39:10
、、、うそ仲間の中心は、、???  どこの、、??  どなた様、、でしょうか、、???

2367再挑戦者:2007/01/22(月) 19:17:34
 悲しい 、、 厳しい 、、 はかない 、、 当時 の醜い 欲望 、 と継続 ??  の シガラミ 、、
などが、、 存在 したので 、、 しょうか ,、、、??

2368しゅんかん:2007/01/27(土) 17:50:09
〇富士宗学要集、堀日亨編纂を手にしたく現在の発行元である聖教新聞社に問い合わせました所
絶版で現在の在庫のみの供給に成りますとの事で(聖教新聞社版4.5.7.8.9巻)を入手しました。
ここで?と思った事なのですが、この様に歯抜けで無くなるものか?1.2.3.6.10巻に
(勿論、単巻売りなのでありえるのですが)
記されている内容は如何ほどの物なのか?私が手にした全5巻は上記巻よりも見劣りするので在庫
があったのかと思っていたのです。こちらの掲示板で情報を頂き現在の未入手は3巻のみとなりました。
そこで1.2.3.6.10巻は本当に出荷されて在庫無しとなったのでしょうか?
1.2.6.10は古書で学会版です(10は実家にあり、他はネット古書店で入手)
まだこの書を実際に読んではおりません(他のメディアから得た情報です)が、
出版社の故意によるものとは考えられないでしょうか?私の感じた事を以下に記します。

●1巻、2巻本尊写は貫主のみの的な文面
●6巻、仙代問答の方便品読不読
以上なんですが1.2.3.6.10巻は出版社にとって不都合とは私の考えすぎで
しょうか?(3.10巻は未確認です)私の考えすぎですかね。
説得力不足も否めません、独り言です。すいませんでした。

2369れん:2007/01/27(土) 19:13:11
しゅんかんさん、取り敢えずは、別に現在の出版元には意図はないと思いますよ。
私も、かつて学会に所属していたとき、(平成10年ごろに)富士宗学要集を購入しましたが、当時すでに売れきれ(在庫切れ)があって、聖教新聞社版で購入出来たのは2・3・4・5・6・7・8・10巻で、あとは東陽堂書店あたりで出るのを気長に待って、欠巻を補いました。

2370独学徒:2007/01/28(日) 02:15:10

しゅんかんさん、はじめまして。
当方HPをご覧いただいていますこと、厚く御礼申し上げます。
ありがとう御座います。
どうぞ談議所の方にもお越し下さいませ。

富士宗学要集の絶版に関しては、私もれんさん同様で、特に深い意味は無いと思っています。

残すところ3巻のみとの事ですが、古い昭和30年代の富士宗学要集刊行会編のものでよければ、余分にありますので差し上げます。
箱なしで、鉛筆・赤鉛筆での書き込みなどもあり、状態は良くありませんが、読むには差し支えないと思います。
よろしければメールにてご連絡下さい。
http://fujikyougaku.fc2web.com/renraku.html

ともに冨士教学の再点検をできれば幸です。

2371しゅんかん:2007/01/28(日) 15:44:13
れんさん、独学徒さん、有難うございます。
浅学者の愚考でした。

2372しゅんかん:2007/01/28(日) 16:03:30
独学徒さん、お気遣い有難うございます。
まだ購入に要した期間が約二ヶ月ほどです、もう数ヶ月頑張ってみます。
それでも無理な時はご連絡いたします、その折にはよろしくお願い致します。

2373犀角独歩:2007/01/28(日) 16:10:57

れんさんの仰るとおり、意図はないでしょうが、しかし、富要の内容は、それはたしかに創価学会にとって、都合のいいものなど、何もありませんよね。大石寺とそこの本尊、坊さんがいちばん正しいという内容ですから。

松岡さん辺りは、日寛で完成する一切が日亨氏によって公開されたから、万人に開かれたと言った調子ですが、結局のところ、石山の相伝というのは以上のような性質のものです。他人の財産目録をいくら眺めても、金持ちになりません。石山の相伝を分で読んだからといっても、それは他宗の話です。創価学会とは何の関係もありません。単に勝手に石山・日寛本尊と教義を使っているだけです。

やるわけはありませんが、石山が牧口さんの『価値論』とか、戸田さんの『生命論』を勝手に出版して、正統はこちらにありと言うのと、何ら異なりません。やるのは勝手ですが、意味をなしません。石山本尊と教義と坊さんと何の関係もない創価学会が、そこの本尊と教義を使うことは結局他家の財宝を数えるのことならないでしょう。

日寛以降の本尊と教義は、「戒壇本尊」と、唯授一人の絶対性を強調することがすべてです。この戒壇の本尊とも、唯授一人とも何の関係もない創価学会にとって、これを説明する富要の記述はしかし、まったく不都合でしょう。
不都合というより、富要は「不要」でしょう。
よって、増刷、再版の必要なし、消えるに任せるという、『折伏教典』『創価学会入門』『人間革命』などと同様の扱いになるのでしょう。

日寛の記述が石山の絶対性を鼓舞している部分を捨て去って、都合のいいところだけ切り張りし、それを学問の世界でやるとすれば、まさに語るに落ちる愚挙というほかありません。
『創価学会の神話』と言ったところです。
いきおい「不要」からはみ出ました。

2374独学徒:2007/01/28(日) 21:55:05

しゅんかんさん、

>もう数ヶ月頑張ってみます。

わかりました。
先にご案内したとおりの状態ですので、きれいなものが入手できるならその方がいいと思います。
もしもの時は、どうぞご連絡下さいませ。

2375再挑戦者:2007/01/29(月) 19:43:03
 横から失礼ですが、、。
 諸賢様の御検察には御憧憬のいたりで御座います、。
 今、 残念、、、かつ 遺憾 に思いますのは、夏季の二点です。
 1: 日蓮真筆本尊の釈提桓因大王を帝釈などと間違うような方もも居ました。
 2: 戒壇を特に開秘を許すともったいぶっての、登山を企画・運営した中心者もいます、、。
 、、、このような方が、 はたして 999% 以上の確率 でもって マトモ  まとも MATOMO な方 と言える ので しょうか、、。 トホホ、、。

2376ラキ:2007/01/31(水) 02:42:50
妙観講の樋田昌志さんのHPにて「犀角独歩 氏の邪難を粉砕す」と言うページがありました。

http://toyoda.tv/saikaku.hasyaku.htm

「TOPページ」
http://toyoda.tv/

2377犀角独歩:2007/01/31(水) 08:34:14

らきさん

読みました。ぜんぜん、破折になっていないですね(笑)
まあ、何を言うのも勝手ですが、肝心の図形鑑別部分については、何も言えずじまいになっていますね。
「本門戒壇の大御本尊は本物だ」と拳を振り上げた手前、いつまでの模造品を本物だと言い続けなければならないのはかわいそうですね。
贋作を掴ませるというのはこういうことです。

近代、日禅授与を原本にして造った模造品を、「日蓮大聖人が」と言っても始まらないでしょう(笑)

なお、細井さんの言動については、ちょうど、昨日から書いていたところでした。ブログにアップしました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/?blog_id=469468

浅井さんもそうですが、他人の前では威勢がいいんですが、何故かわたしには直接、何も言ってきません。
大石寺彫刻本尊については、日教研の発表の折、大石寺からも数人が来、その中で高橋粛道さんも聞いてくださり、何ら反論もなかった。その後、特に何も書いていないようなので、大石寺としては、これを認めたと、わたしは判断しています。

妙観講は、その大石寺の一在家団体に過ぎず、樋田さんというのは、そこの一部員…、この人、妙観講ですか? ともかく、信者の一人に過ぎません。わたしに文句があるのであれば、自分の指導教師の許可を取って、大石寺の代理人として、彫刻本尊と大石寺蔵の日禅授与漫荼羅の写真をもってくればいいだけのことです。
いずれにしても、一信者がどうこう段階はとっくに過ぎています。
大石寺が公式見解として、「本門戒壇の大御本尊」の原本の真偽考証、さらに彫刻造立課程、さらに!、大石寺持仏堂本尊の贋作であった点に関して、弁明をする段階です。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50865483.html

信者として、信じたい気持ちがあり、自分の信じているものを養護したい気持ちはわかりますが、気の毒というほかありません。
なお、ブログでも引用しましたが、細井さんは以下のようにいっています。引用の方は、この細井さんの教えに違反していますね。

「本書(板本尊偽作論)が既に公明なる求道心から出発したものではなく、全くの感情的な悪意によるものであるからである。かかる悪言は修羅界の徒の致すところであって、真摯(しんし)なる仏教者の口にすべからざるところであるからである。
 凡そ宗門間の論争は飽迄(あくまで)清浄なる道念に立脚して教義の邪正を決し、仏教界の進展に寄与せしむるものでなくてはならない」(P2)

2378犀角独歩:2007/01/31(水) 08:53:52

ついでにブログにアップしなかった細井さんの言を挙げれば

「一宗をかけての邪正の論議決定の時であるならば明確に教えるのは意義がある、その時までは言はないことにする」(悪書「板本尊偽作論」を粉砕す P13)

ちなみに、この本が出たのは昭和31年、前年に小樽問答がありました。
本来、大石寺が日蓮宗と法論をするはずだったのに、創価学会に肩代わりさせ逃げてしまった翌年のことです。
これまた、威勢はいいですが、こんなこと言える立場か、というところです。

しかし、ここに「一宗をかける」と言っているのですから、自分たちの日蓮・日興両方の板本尊が贋作であることが白日の下に晒されたいま、‘教えて’くれるなら、教えてもらいたいものですね。

在家信者に肩代わりさせて逃げてしまうか、何も言わず、嵐が去るのを待つかどちらかでしょうか。いずれにしても、大石寺の公式見解を聞く段階です。

2379犀角独歩:2007/01/31(水) 12:09:02

ラキさんのために、ちょっと書いておきましょうか。

> 既に完膚なきまでに破折され尽くされている

既にブログで考証したとおり、細井さんの言うところは破折になっていませんし、「尽くされて」もいません。

> 此の説を見ると現存御真筆と称する百二十三幅によっている。此れ以外に御本尊がなければ此の説に一分の理がある。しかし若し他に何幅もあるとすれば其の御本尊が果して如何なる御書体であらせられるか、若し一幅でも此れに反するものがあれば、なり立たない説である。

これは一応、文面としては理屈は通りますが、ここまで言うのであれば、具体的に、どの大漫荼羅、どのようになっているのか挙げなければ反証とはならないですね。この義務を細井さんは怠っています。まあ、できなかったのでしょう。

> 然るに山中氏は石山関係の御本尊は全く含まれていないと言っている。

しかし、山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』のなかで、82、111、116は大石寺所蔵だと証しているわけです。

> 弘安二年の十月に於て両様の御本尊が存在しても不思議ではない。

これは机上の空論でしょう。その実際の例を挙げなければ、論証とは言えません。不思議でないのなら、実際の例を挙げればよいだけのことです。

> 御書体の変遷は厳格に日時を区切って御変え遊ばされたのではない事が明白である。

これはある程度言えます。

> 畢畢(つまり)或る時期に於ては斯様な書体が多いということは言い得るが、絶対的なものとは言えないのである。

これについては、山中師は123の実際の大漫荼羅を挙げて説明しているわけです。方や、細井氏は、単に想像でものを言っているに過ぎないわけです。これはお話になりません。反証になっていません。口だけなら何とでも言えます。

石山の遣り方はいつもそうで、図で示されても、想像憶測を言い、それが絶対であるかのように語ることで成り立っています。悔し紛れの言い訳に過ぎません。

> さて此れで安永君の第一節の説

ここで、挙げる安永氏の説は確かに、あまり参考になりません。
細井氏が反論したくなるのは当然でしょう。

> 御歴代上人が唯授一人・血脈相承によって御相伝され、御書写されるのは、御本尊の物理的・表層的な御相貌ではなく、戒壇の大御本尊様の”御内証”である。

得意の「内証」が出ましたね(笑)
そもそも内証というのはどうやって写すのでしょうか。
それを写すと書いてある内容が変わってしまい、それでも書写だというのはどういうことだというのが、こちらの質問です。この答えになっていないわけです。

> 御法主上人御一人の御所作に依られるのであり、犀角氏などの御相伝を全く知り得ない謗法者が云々できる領域ではないのである。

出ました。「謗法」のレッテル張り。口の悪い人ですね(笑)

まあ、わたしが「御法主上人」の相伝を知らないのは事実です。
しかし、反対に聞きますが、では、これを書いている当人は、その相伝の内容を知っているのでしょうか。知りもせず、書いているのでしょうか。
知っているのであれば、意味がありますが、知らなければ何とも言えないでしょう。

> 10月12日に大御本尊を御図顕あらせられた

そうですね。この日に細井さんは日蓮が日興と共同で本尊を建立したというわけです。それなのに、日興は、日蓮の許にいなかった。どうしてでしょうか。

> 妄弁者、犀角氏は、歪んだ自らの心を省みて、大いに恥じ入るべきであろう。

こういう汚い言葉を使う前に細井氏の『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』の冒頭の言葉を読みましょう。

それから、何より、図形でこちらは論証しているのですから、図形を持って反証しましょうというところです。

詳しくは、一信者が代表できるわけもないですから、わたしは大石寺の公式発表を望みます。

2380犀角独歩:2007/01/31(水) 12:21:35

補足です。

> 「熱原で法難が起こり、法華衆3人が首を斬られた。その事件に時を感ぜられた大聖人は、出世の本懐たる大御本尊を顕わされた」と書くのは、ごく普通のことであろう。
また第4世日道上人の『御伝土代』も、その趣旨で書かれたものに他ならない。

何で、『御伝土代』の原文を挙げないのでしょうか。
原文を出すと、困るのでしょうか。

「熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」

‘畢’とは「動詞「おわる」の連用形に完了の助動詞「ぬ」の付いた「おわりぬ」の転〕多く動詞の連用形に付いて、動作の完了したことを表す。…し終わった。…してしまった」という意味です。

熱原の法華宗二人は頚を切られてしまった。その時(頚を切られたとき)、大聖人は感ずるところがあって、「(細井さんの言葉を使えば)日興上人と共に御本尊を建立」したという文章です。

また、「三人」と書いてきたのに、ここでは「二人」となっていることも原文を出すとわかってしまいますね。

文章のとおりでしょう。頚を切られたから感じ入って本尊と遊ばしたということです。

2381犀角独歩:2007/01/31(水) 12:59:23

これも書いておきましょうか。

『熱原法難史』に

「先師がかつて直ちに『聖人御難事鈔』の余は二十七年、この文を以って戒壇本尊(板本尊)顕彰(アラワス)の依文(タヨルブン)とされたようだが直接の文使はないようである」(P72)

堀日亨氏の文章です。
『聖人御難事』と戒壇本尊は関係ないと言っています。
こういうふうに、「歴代上人」が言っているのに、あんなふうに解釈してしまっていいんでしょうか。

あ、図形から見て日禅授与漫荼羅を原本とする臨模・作為した模造品ですから、こんな文章考証は不要なんですが、ラキさん、向こうの言い分に心が動いているようなんで、書いておかないと、反論できないと誤解されては困りますから(笑


2382ラキ:2007/01/31(水) 14:30:44
独歩さん。
解説ありがとうございます。

>ラキさん、向こうの言い分に心が動いているようなんで、書いておかないと、反論できないと誤解されては困りますから(笑

いやいや、心など動いてないですよ(笑)
板本尊が仮に本物であっても、「魂を墨に染め流し書きあらわして」て、文で、観心の魂の墨の部分が削られてないわけですから、魂の篭った本尊にならないと思ってます。
宗祖自身が彫刻でもしたなら別だと思いますが、隅に魂(心)をこめている大事な部分がないのですしね。
せめて、墨の部分だけ残す、浮き彫りならまだ、心が動いたかもしれませんが?(笑)


>何で、『御伝土代』の原文を挙げないのでしょうか。
原文を出すと、困るのでしょうか。
「熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」

これは、ビックリです。
二人と三人では違いますね。
原文をだしたら、確かにおかしいとなってしまうから、調べる手段がない人には、効果的なごまかし方法だと思います。

2383しゅんかん:2007/01/31(水) 21:53:30
御内証と云う語が多くの処で引用されますが、以前からこの語義が解りません。
今回、論に上がりました樋田さんの説を読ませて頂き、(以前よりの考えも含め)
私なりに解釈したところを記させて下さい。

辞典に拠りますと
御内証= 仏語。自己の心の内で真理を悟ること。内面的な悟り。
表向きにせず、内々にしておくこと。外部には隠しておくこと。
また、そういう意向。内密。ないしょ。

>御歴代上人が唯授一人・血脈相承によって御相伝され、御書写されるのは、
御本尊の物理的・表層的な御相貌ではなく、戒壇の大御本尊様の”御内証”である。

1、貫主のみが「ないしょ」を操れる。
2、歴代貫主より内々に、一器の水・・・如く告げられこれは「ないしょ」ですよと。
3、下付曼荼羅は板曼荼羅の「ないしょ」である。
4、内証=上記の如く。内密、ないしょ、であるからとやかく云われる筋合の物ではない。
元より「ないしょ」と云っていると云われかねない都合の良い語である。

1=石山がそのように云っておられるので間違いはないですよね。
2=唯授一人・血脈相承・一器の水・・・ここまでして、「ないしょ」にせねばならない物って
仏教を実践する宗派に必要なのでしょうか。
3=内証は内密。ないしょ。外部には隠しておく事。ですからこれより連想されますのは、
非常に(大切Or恥)だから第三者(私、貫主)には知られない様に隠しておこう。

〇今回、樋田さんの説を読ませて頂いた感想をまとめますと。
>・・・戒壇の大御本尊様の”御内証”である。

〇下付曼荼羅=板曼荼羅の内なる物であって、本来外部に知られたくないものである。
叉、別の表現をすれば、大切で「ないしょ」にしていたい板曼荼羅の部分を顕したのが下付曼荼羅であるが、
捻くれた考え方の御仁は恥の部分を顕したと思われるかもしれません。
ですが、これも貫主さまの人徳の致すところにより顕していただいたのでしょう。
どっちにしろ、板曼荼羅より凄いと云うのが下付曼荼羅である。

2384しゅんかん:2007/01/31(水) 22:00:35
誤=(私、貫主)
正=(私、貫主以外には)

2385佐賀県民:2007/01/31(水) 22:45:57
島田洋七さんの「佐賀のがばいばあちゃん」という作品が大変高い評価を受けています。
とても素敵なお話なのですが、佐賀県民として一言・・・。
洋七さんは「すごいばあちゃん」という意味で「がばいばあちゃん」と表現してありますが、
佐賀弁で「がばい」は「すごい」ではありません。「すごく」です。

2386犀角独歩:2007/02/01(木) 14:12:23

2383 しゅんかんさん

なるほど、「内証」は「ないしょ」ですか。

内証は外相に対する言葉ですが、本尊書写に関してこの語が引用されるのはたぶん、日顕さんぐらいだと思います。
ただし、樋田さんは、引用の日顕さんの言葉を誤読しています。

樋田さんによると「御書写されるのは、御本尊の物理的・表層的な御相貌ではなく、戒壇の大御本尊様の”御内証”である」

日顕さんは、こんなことは言っていません。

「本門戒壇の大御本尊の御内証を拝してお写し申し上げ奉る」

ここで日顕さんは「本尊の御内証を拝」すると言っていますが、それを写したと言っているわけではないのです。石山で言う戒壇本尊は人即法の本尊である、つまり人に即せば日蓮である。しかし、日蓮というのは上行菩薩再誕という外用の姿である。内証の寿量品、深秘相伝から久遠元初自受用報身如来(南無妙法蓮華経仏)であると拝して、そのうえで本尊を書き写していると言うのが、文意でしょう。外に書かれたところが南無妙法蓮華経なら、内に証されたところも南無妙法蓮華経です。その内証を写したら違うものになるはずはありません
誤読されたのでは、日顕さんも迷惑でしょうね。

しゅんかんさんが仰るように、内証を写したのが書写漫荼羅だとしたら、「戒壇本尊」は外用を写したと言うことになる。では、「板曼荼羅より凄いと云うのが下付曼荼羅」という突っ込みにもなるわけです。

だいたい、わたしがサイトで記した趣旨すら、樋田さんは採れていない。

しゅんかんさんのご投稿を例に挙げさせていただければ、「母も私も家に有るご本尊さんは、本門戒壇の大御本尊の通りに当時の法主が書写したものだと思っていました」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/2851

このような考えは、他の方もしばしば語るところです。
出入り禁止になった方ですが、「蓮祖の曼荼羅と相貌が違うのならば、偽曼荼羅です」と発言した現役学会員がいました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015575530/429
また、「

かなり多くの方々が、このように誤解しているわけです。
「そんなのは学会員が勝手に思っていることだ」という話をしたいわけではないのです。このような、誤解が多々散見できますから、故に「創価学会を含む大石寺系集団の信徒は、各家庭に下付される印刷漫荼羅本尊は板漫荼羅と相貌が一緒であると信じ込まされているようであるが、実際には違っている」とことわって、その真相を記したわけです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

2387犀角独歩:2007/02/01(木) 14:13:05

― 2386からつづく ―

それにしても、この樋田さんの発言は、北山の本間師との遣り取りで読み、顕正会員との遣り取りの録画見ました。弁も立つし、論理的に考えることもできる。それなのに、わたしへの批判は、まず、人格攻撃をし「謗法者の脳内は随分と固着」などと記すわけです。

このような文章は、わたしを貶しているつもりでも書いた人間の品性を悪く印象づける以上の意味はありません。細井さんの「既に公明なる求道心から出発したものではなく、全くの感情的な悪意によるものであるからである。かかる悪言は修羅界の徒の致すところであって、真摯(しんし)なる仏教者の口にすべからざるところである」に当たるでしょう。

ついで、答えられないところはすべてカットしているわけです。このような遣り方はカットした部分はすべて認めた・回答不能であることを意味することになります。だいたい、どなたからか、わたしのサイトの掲載文につき回答を求めれ、それに答えるのに答えられないところはカットしてしまった。これはつまり、回答不能、敗北ですね。

さらに細井さんの『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』を挙げていますが、この本自体、ブログで検証したとおり、まったく穴だらけで回答になっていません。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50871189.html
つまり、「日蓮正宗は絶対」という信仰上の罠にはまっているために、このような文章を検証することをしない思考停止状態に陥っています。

あれだけ弁舌が立つのであれば、模造品のためにその能力を使うのではなく、真実を語るために、その能力がよいのにと、その才能を惜しむものです。いまからでも遅くありません。懺悔するところに罪障は消えるというのが日蓮の教えですからね。

2388犀角独歩:2007/02/01(木) 15:54:53

【2386の訂正】

誤)内証は外相に対する言葉
正)内証は外用に対する言葉

2389しゅんかん:2007/02/01(木) 18:47:31
独歩さん、御ご教示有難うございます。

>「本尊の御内証を拝し」・・・
〇この部分が良く判りません。何時の頃から内証と云う物を語られるようになったのか存じませんが。
髷を結っている時代にも使用されていたとすれば多くの信徒は理解出来なかったのでは無いでしょうか。
内証=「ないしょ」とはせず(少し揶揄し過ぎたかも知れません)
内証=(仏語。自己の心の内で真理を悟ること。内面的な悟り。)を採用しますと、

>・・・大御本尊の御内証を拝し・・・
〇内証の意を当てはめますと
1.大御本尊の(自己の心の内で真理を悟ったOr内面的な悟りを得た)を拝し・・・は×
2.大御本尊を拝した処(自己の心の内で真理を悟ったOr内面的な悟りを得た)
と成りませんでしょうか?(この説も少し揶揄してますね)
石山は何時の頃からか自説がどうも辻褄が合わないなと自覚した、それを内証と云う
掴み所の無い物を持って来て多様しているのではないですかね?
どの様に突っ込まれても元より「内証と云ってるでしょ」と。
私自身が心の中でその様に悟り、感じ取ったのだと。
ただ、この様な稚拙な表現方法は御法主上人猊下ともあろうお方は述べられませんので、
内証と云っているのではないかと推察されますが。

2390しゅんかん:2007/02/01(木) 18:56:14
2389の続き

私はどうもこの名称にアレルギーが有りこの板を一度も拝見していませんでしたが
{クリックすると入ってしまいました(´`)}

>他五老方が書写したものも、現在の顕師の書写したものもすべて蓮祖漫荼羅ということになるでしょう。

 あたりまえです。

〇ならばこのお方は仏具店等で身延派等が奉安する宗定本尊を祀られれば
良いのではないですかね、寛師曼荼羅は無い・・・など説明も要しないと思いますが。

>それを否定することは蓮祖漫荼羅を否定することになります。

不思議な人ですね、何故くどとあたりまえの事を声高に述べているのですか?

〇「>あなたがお感じになられないことは、ご自由ですよ」と、この様に一個人の権利を
認める様な事をおっしゃられていて於いて、「くどくどあたりまえ・・・」などと議論をして
下さっている、他者を愚弄する様な文を記すのはこの方自身の品位を下げる者ではなく、
この方の属している団体も同等と取られる事を理解されていないのでしょうね。
そもそも他者あっての議論ですから、相手を尊重すると云うものが根底にあって欲しい物です。
出入り禁止で、古いレスですし云ってもこの方には無駄ですか。すいませんでした。

2391再挑戦者:2007/02/01(木) 21:07:19
 横から疑問です。
 問題になる核心になるのは、、??、、でしょうか、、?
 時代、、時代、の各人、が「、、書写、、」、するには、信者かた、と、身内寺内かたへの担保、?、かと、おもいます、。
 後世の批判に耐えうるような「、書写、」、を、すべきでしょう、!!
 それが不可なら、、マトモニに書写も出来ないようなオチコボレ僧侶、?、と、言えるかも、??

2392犀角独歩:2007/02/02(金) 07:06:26

2389 しゅんかんさん

> 何時の頃から内証と云う物を語られるようになったのか

天台の段階で、既にこの用法は見られます。
ただ、現代のような神秘的な用法ではなく、もっとシンプルです。
たとえば『止観弘決』では「經從外用故云明説 今從内證故名爲知」、我流でよく批正を受けますが、読み下せば、「経は外用に従う故に明らかに説くと云い、いま内証に従う故に名づけて知と為す」
いわば、外用とは外の向いた在り方で経をここに例を採り、それに対して、内証は心のなかで智慧で考え立証していった結果ほどの相対用法です。

日蓮の場合も、この筋に則っているようですが、経典の文字に表れる範囲と、心の中で思惟し立証した経典に相違を起きます。「内証の寿量品」といった用法です。経典の文字面で表れるところ(外用)より、さらに心中立証されるところ(内証)という分別論です。文上・文底、教相・観心といった対概念と一脈通じる用法です。

これが日蓮滅後に創られていく相伝文の段階で神秘化されていきます。
しかし、詮ずる所、本迹、一念三千、自受用身ということを証していきます。

ですから、用法の歴史から云えば、法華系では、1500年以上前から使われている言葉です。

>> 大御本尊の御内証を拝し
> この様な稚拙な表現方法は御法主上人猊下ともあろうお方は述べられませんので、内証と云っているのではないかと推察されますが。

しばらくわたしは日顕さんの仕事をやっていた経験があり、この人の説法を、たぶん、一般の信者さんのなかではいちばん聞いているほうだと思います。開観両抄のほぼ全編の説法を聞いています。その他、消息文も同じほどの時間聞いています。そんな経験から言いますが、実に明晰で記憶力もあり、頭に入っている経・釈・御書を縦横無尽に解し、立て板に水のように話す、非常に有能な弁者でした。まあ、それだけの才能ですから、本尊鑑識の目も確かで、「戒壇本尊」が日禅授与漫荼羅を原本にしていることを見抜けたのでしょう。神秘的な側面も有しますが、教学部長の時代から、ものの考え方は合理的な人でしたね。

彫刻された板の内証というと、何だか神秘的な話に聞こえますが、日顕さんは、そんな煙に巻くような誤魔化し論法はしないでしょう。
言っていることは、要は日寛の人即法という教理的な立場から、板彫刻に人本尊として生身の日蓮と拝し、その御意を内証という意味でしょう。証されるところは自受用報身如来の内証で、すなわち一念三千ということではないですか。『御義口伝』、日寛の教学で、伝・伝教の『秘密荘厳論』(日蓮の時代には成立していなかったと思います)を依拠とするわけですが、つまり、「一念三千即自受用身自受用身者出尊形仏矣。出尊形仏者無作三身云事也」です。(尊形(三十二相八十種好)を出たということは凡夫の姿ですから、ここで日寛は示同凡夫・日蓮を言うわけです。こちらは外用ですね)

2393犀角独歩:2007/02/02(金) 07:06:55

― 2392からつづく ―

この筋を拝して、本尊を写していると言っているのでしょう。
血脈相承という側面から言えば、「法水相承」というわけですから、外用・上行/再誕日蓮、内証・自受用身の「内証相承」も言っていいところですが、該当の説法では、そこまでは言っていません。襟度があります。

> 石山は何時の頃からか自説がどうも辻褄が合わないなと自覚した、それを内証と云う掴み所の無い物を持って来て多様している

この側面は確かにあります。先に記したように、創価学会という在家集団では、印刷本尊を有り難がって受け、これをいちばん根本の「戒壇本尊」を書写したものだから有り難いと信じてきたわけです。ところが、その書かれている内容が違っていた。書写というのは、略があり、また、意義、用途に従って、その書かれる内容が変わるというのは、これは石山ばかりではなく、日蓮門下一般の常識です。ところが、こんなことを知らない信者会員には通用しない。

そこで、引用された日顕さんの言は内証を写したとは言っていませんが、意味もわからない人々は、「内証を写したから同じにならない」などと筋の通らないことを言い出すし、苦しい言い訳に使ったと言うことでしょうね。

余談ながら、わたしがかつて日顕さんの仕事をしていた感覚で言えば「本門戒壇の大御本尊」を‘物理的’と表現しただけで、これはNGですよ。坊さんに怒鳴られたでしょう。生きておわす(生身)の日蓮大聖人と拝する信仰です。たぶん、石山の坊さんや、法華講員に「戒壇本尊の物理的な面」といったら「そんな信心のない、不敬な表現をするものではない」と窘められるでしょう。こんな説明では、日顕さんを弁明していることにはならないわけです。もっと、日顕さんの説法を知悉したほうがよい。まあ、しかし、日顕さん、その寺務を統括する内事部、さらに「日蓮正宗」出版発行の許可を出す教学部から、なんら許可を取らず、勝手に文章を書き、勝手に出版してきた書物なんかが、日蓮正宗の考えだと思うから、こんな軽はずみな石山のアナウンス、日顕さんとも違うことを言い出すことになるのでしょう。

… どうでしょうか、藤川さん。現役法華講員として、以上のわたしの説明に評論してください …

まあ、以上はかつて、法華講であった頃、宗務院内事部『大日蓮』編集室、並びに教学部から仕事を請け負っていた頃の、かつて自分に言わせると、そうなるというところです。

しかしながら、日蓮本仏を典型にする石山教学と、彫刻本尊が後世の捏造であったことで、それまで数十年に亘って、身命を捧げた研鑽と石山での仕事が泡沫に帰したことには、いまでも断腸の思いがあります。言辞に尽くせません。残念でした。しかし、事実を受け容れ、前に進むしかありません。

2394犀角独歩:2007/02/02(金) 07:12:59

【2392の訂正】

誤)天台の段階
正)天台学の段階

2395ラキ:2007/02/04(日) 02:19:33
節分ですね。
豆まきに落花生はどうしても馴染めません。
衛生上そして、豆まき後の掃除を考えての事だと思いますが、大豆の方が風情があって良いのにと思った1日でした。
御在世当時は節分に豆をまく習慣がなかったらしいとはじめて知りました。

落花生て古くから日本に来ていたんですね。

「本土へは宝永3(1706)年中国より伝播したが、栽培には至らなかったとされている。
しかし、江戸時代には「ナンキンマメ」の名称が残っており、すでに栽培されていたのではないかとも考えられるが、明らかではない。
一般に栽培されるようになったのは明治に入ってからである。」

参考「落花生の郷」から落花生の歴史。
http://www.nbn-jp.com/yachimata/histry.htm

2396南京豆:2007/02/04(日) 06:38:25

節分に欠かせない豆撒(ま)きといえば、煎(い)った大豆で、年齢の数だけ食べるのがわが家のしきたりだが、雪国では落花生を撒くというのを、本紙暮らし面の記事で初めて知った▼なんでも「殻つき落花生なら外に撒いて雪で濡(ぬ)れても食べられる」という北海道の開拓農家の知恵が、東北や上越地方に広がったらしい。関取の豆撒きで知られる千葉県の成田山新勝寺でも、撒く豆は大豆八百六十キロに落花生四百キロを加える。落花生が千葉県の特産品だからだそうな

(2007/2/3) 東京新聞 筆洗 から

2397独学徒:2007/02/06(火) 15:01:02

またしても法難?か、

「弥四郎国重」関連を投稿していた、『冨士教学研究会談議所』がなぜか表示されなくなっています。

???、何故でしょう?

2398独学徒:2007/02/06(火) 15:39:28

ひとまず別種の掲示板にて、談議所機能を移すことを検討します。

http://xbbs.knacks.biz/dangisyo

『弥四郎国重』関連より、上記掲示板にて再アップしました。

2399天蓋真鏡:2007/02/06(火) 16:32:58
既得権益と言う権力の魔性が起こさせる悪か? 日蓮が信じた信じさせたい仏法がシンプルイズベストであるので良かった。三国四師から来ていますけど。信仰の形から言えば、漫荼羅本意論で良いのではと思い考えます。

2400独学徒:2007/02/06(火) 19:36:27

お騒がせしました。
談議所の方が無事復旧したようです。
今後ともよろしくお願いいたします。

http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html

2401しゅんかん:2007/02/10(土) 23:10:59
静岡・女子高生ひき逃げ事件の日系ブラジル人。
彼の家の部屋と思われますが、彼が語っている後ろの壁面に
小さく神棚状でしたが十戒曼荼羅がはっきり確認できましたね。
厭ですね、現地で携わっていた報道関係の方の配慮が欲しかったです。

2402しゅんかん:2007/02/11(日) 00:47:05
訂正

誤−十戒曼荼羅
正−十界曼荼羅

2403ラキ:2007/02/14(水) 00:51:02
風塵社HPにて、独歩さんの反証に対して反証した文書がUPされてましたよ。

「犀角独歩と称する妄乱を憐れむ。(笑)」
http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/

2404犀角独歩:2007/02/14(水) 05:54:28

では、また、書きますか(笑)

2405偶ロム偶ログ(別HN御免):2007/02/16(金) 13:56:12
>2404
独歩さん、煩わしいだけですよ。
反論とかする必要のないレベルだと思います。
言いたいだけ言わせておけば良いのです。
悪口雑言であなたを誹謗中傷する様をみて嫌悪しない人は少ないでしょう。
先方は日蓮正宗法華講の信徒とのことですが、どうせ自称です。
「逆誉め殺し」のパターンで、日蓮正宗を毀謗している自覚も無い相手です、自爆するに任せましょう。
日蓮正宗僧侶からの反論であれば相手にしても良いでしょうが、時間の無駄遣いは無意味ですよ。
独歩さんへの有効な反論はただ一つ、日蓮正宗のしかるべき僧侶が、鮮明な写真を公開することだけでしょう。
あ、写真といっても歴代の板ですから複数となるでしょうがね。

それにしても日正寺だかの僧侶は「指導」教師ではないのですかねえ。
たしか日蓮正宗の宗制宗規には、日蓮正宗の名誉を毀損したものは厳重処分の対象とする旨、規定があったはずですのにねえ。

それから、ラキさん、>2403は、私には煽りのように感じられます。
掲示板に書き込まず、独歩さんに直接メールして教えてさしあげれば済むことではないですか。
もっとも、私ならば、独歩さんを煩らわせたくはないので、そんなことはしませんが。

2406きゃからばあ:2007/02/17(土) 10:34:48

法太郎氏のサイトを見て感じることは

>札幌市の法華講員から問い合わせがあった。本門戒壇大御本尊に対する偽作論に対して意見が欲しいとのことである。
>この程度の低劣な痴論を直ぐに見破ることが出来ないのであれば、うかつな教学態度でありやめたほうが良いのではないたろうか、ということである。

とあるように同じ仲間の法華講員を完全に見下している点である。
この慢心が信仰者として、もはや失格である。
おそらく質問したこの法華講員は指導教師(僧侶)に問題の答えを聞けなかったか、その質問さえできない状況だったのだろう。
もちろん指導教師がきちんと答えていれば、このようなことはなかっただろう。
一日も早く大御本尊の疑難に対して、本山がきちんと、本物であることを立証すべきである。
花押以下の脇書きだけでも写真公開すべきです。
また裏に記されているといわれる「閻浮提云云」を明確にしてほしい。

それともうひとつ。
法太郎氏のように法華講員の中で教学を好み、それを武器にして他を攻撃する人々は、尊ばれているようだが、本当は僧侶達から邪魔にされている。それはなぜか?
僧侶達は御供養が好きなだけで、教学は嫌いなんです。
教学の質問をしてくる人も嫌いだし、教学のできる人も嫌いなんです。
さらに大御本尊の疑難は、本音は僧侶達自身が本山に聞きたいけど、聞けないんです。
つまり現状のままでは真偽の判定はできないのです。
ぜひ大石寺の重宝類を大石寺の総代方々のお力で明確にしてほしいじゃありませんか。

だいぶ話が逸れました。m(_ _)m

2407きゃからばあ:2007/02/17(土) 10:38:01

私自身は教学好きな人は大好きです。
もちろん法太郎氏だって…。
一緒に真剣に話し合ってみたい。

2408きゃからばあ:2007/02/17(土) 10:40:14

訂正

ここは「氏」じゃなくて「さん」でした。m(_ _)m

2409ひきこもり:2007/03/08(木) 20:47:20
私は人付き合いが苦手で、人間嫌いなのです。子供の時から家の中
で玩具で一人で遊ぶか、絵本や漫画を読んでいました。一人っ子な
ので大事に育てられました。幼稚園には在籍していましたが、祖父
母の家にいることが多く、欠席することがほとんどでした。

創価学会に入会したのは、中学3年の14歳の時です。学生部の時
には会合に時々出ましたが、家の中で勉強していることがほとんど
でした。

今悩んでいるのは、座談会に出ず、学会活動をしていないことに関
してのことです。一人で拝んでいても、幸福になれるのならば、家
からほとんど出なくてもいいのですが。

パスカルの『パンセ』には、人の不幸の原因は部屋の中で休んでい
られないことであると書いてあります。個人主義者として、人と接
触せずに、ネットで対話して折伏するのではいけないのでしょうか。

2410れん:2007/03/12(月) 11:53:35
富士門祖白蓮日興師・重須談所二代三位日順師の古写本が北山本門寺に現存する文永十年八月三日付けの宗祖遺文の南部六郎三郎殿御返事に「但仏滅後二千余年三朝之間数万寺々有之、雖然本門教主寺塔、地涌千界菩薩別所授与妙法蓮華経五字未弘通之。有経文無国土。時機未至故歟」「所残本門教主・妙法五字、流布一閻浮提無疑歟」とあります。ここに述べられた本門教主・寺塔・妙法五字が後の法華取要抄や報恩抄で説かれる本門三法門の原型であると愚考してます。観心本尊抄を書かれてから四か月程で、三法門の原型が示されるのは注目されるところです。特に南部六郎三郎殿御返事に「本門教主の寺塔」(この“寺塔”に戒壇は含まれるでしょう。寧ろ寺塔の象徴として戒壇が示されるのかもしれません)とあるところから、日興並びにその門下が建立を念願した“本門寺”構想の一つの源流と言えるのかもしれません。

2411犀角独歩:2007/03/16(金) 14:48:03

れんさん

興味深い資料のご呈示、有り難うございます。

わたしは、『本尊抄』述作の段階で、日蓮は三法門に考えが至っておらず、本尊と五字で戒壇義を存していなかったと考えてきました。

しかし、この点について、果たしてそうなのだろうかと反芻しています。
観心本尊という名目は、そもそも教相に対して観心から論じているのであって、その心を観る話題で、現実の国家に建てる戒壇は埒外であるわけです。

本尊抄は、まず教相面から本尊を考え、これを五百塵点成道釈尊とします。ついで、さらに己心達観を通じて「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏」といい、この観心面からすれば「経云 我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数等云云 我等己心菩薩等也 地涌千界菩薩己心釈尊眷属也」といいます。

さらに「妙楽大師云 当知身土一念三千 故成道時称此本理一身一念遍於法界等云云…今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土。仏既過去不滅未来不生。所化以同体。此即己心三千具足三種世間也」

常住の浄土であると言い切ったうえに、では、戒壇建立など考える必要があるのかという疑問は成り立ちます。

以上の点を考えるうえで、先に問答さんとは議論をしましたが、わたしどもが習ってきた教学というのは、教相観心において混乱があるのではないのかと、わたしは整理しました。

つまり、久遠五百塵点成道釈尊とは教相の本尊であり、そこで上行等所伝される妙法蓮華経五字、そして、建てるべき戒壇という三法門は導かれます。
しかし、さらに観心の本尊と進めば、それは娑婆即浄土の国土世間・所化同体の一念三千、つまり、妙法蓮華経が観心本尊であるという教学場の整理を、日蓮は存しているのではないのかということです。

故に、そして三法門から建つ戒壇院(堂)安置本尊は妙法五字の漫荼羅ではなく、一尊四士となる。しかし観心本尊からすれば、法華経の題目こそ本尊である。では、ここに勝劣があるかといえば、それはなく、教観の異なりなのではないかということです。

教相観心本尊の混乱が、教義理解の妨げとなっていると考える昨今です。

2412れん:2007/03/17(土) 20:19:56
犀角独歩さん
愚文に対する重厚なるコメント痛み入ります。
観心本尊抄の流通段に「上宮、四天王寺…阿弥陀他方」「聖武天王、東大寺…花厳経の教主」「伝教大師…東方の鵝王」と示して、地涌千界が本門の一尊四士を建立する事が述べられておりますから、内意としては既に観心本尊抄の時点で地涌千界が建立する寺塔とその寺に安置する一尊四士(本門本尊)が示されていると言えるのかもしれません。
私があの三法妙図から得る感触では本門(教相)の本尊は久遠実成釈尊、観心本尊はその久遠実成釈尊の心法妙の直体とされる法華経の題目で、飛躍していえば本門本尊は色法で観心本尊は本門本尊(久遠実成釈尊)の心法であり、色心(教観)二にして不二という関係ではないかと思います。仏法妙・衆生法妙具足の心法妙(題目)を受持することにより、凡夫の己心にも久遠実成釈尊とその本眷属を感見できるのでは…というがの愚見です。
あまり整理してないので大雑把な愚見で申し訳ありませんが、今日の教相観心本尊の混乱が日蓮聖人のこの部分の教義の理解の妨げになっているというのは、まさに犀角独歩さんの仰る通りと存じます。

2413犀角独歩:2007/03/18(日) 08:57:55

れんさん

ご返信、有り難うございます。

> 本門本尊は色法…観心本尊は本門本尊(久遠実成釈尊)の心法…色心(教観)二…不二…関係

三法妙という配立に関しては、わたし自身は消極的ですが、しかし、ここで整理される点は理があると思います。

ただ、本尊抄の段階では、題目に関しても、色法面を論じているようにわたしは思うのです。

釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足 我等受持此五字自然譲与彼因果功徳

此本門肝心於南無妙法蓮華経五字仏猶文殊薬王等不付属之

但彼脱此種也。彼一品二半此但題目五字也

召地涌千界大菩薩寿量品肝心以妙法蓮華経五字令授与閻浮衆生也

如是現十神力地涌菩薩嘱累妙法五字

此十神力以妙法蓮華経五字授与上行安立行浄行無辺行等四大菩薩

但論理具事行南無妙法蓮華経五字 並本門本尊未広行之
此時地涌菩薩始出現世但以妙法蓮華経五字令服幼稚

不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚

以上の記述は、心法における五字ではなく、明らかに文字で書かれた(色法の)妙法蓮華經の五文字を意味していると思われます。

つまり、本尊抄で査定されるところは、寿量仏像と文字として妙法蓮華經ではないでしょうか。

もちろん、本門本尊=寿量仏像(一尊四士)、観心本尊=妙法蓮華經五字で、後者は「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏…当知身土一念三千 故成道時称此本理一身一念遍於法界等」というわけですから、仰るとおり、教相の五百塵点成道の釈尊の心中と読むことはできようかと存じます。
その段階に至るとき、れんさんの整理は至当であろうかと存じます。

それにしても、富士門下において、等閑にされる教観相待につき、議論ができたことを嬉しく存じます。

2414パンナコッタ:2007/03/25(日) 12:22:27
能登地方で被害に遭われた方、
お見舞い申し上げます。

2415ラキ:2007/03/31(土) 21:51:58
「悪書板本尊論を粉砕する」を読みましたが、良く解らなかったが本音です。
この本自体が”悪書”だから、あまり見せたがらないのかと感じております。
また、「国立戒壇論の誤りについて」「本門事の戒壇の本義」などは、読んでみたいから貸し出しを願い出ても、宗門の人は誰も貸してくれません。
これも、悪書?だから、見せたがらないのかなぁ〜と感じた日でした。

2416ラキ:2007/03/31(土) 22:40:07
2chの正宗スレッドを見ていましたら、不思議な教団を見つけました。
「富士山本門寺」
http://www3.ocn.ne.jp/~isak/index.html

「正統大石寺」の部分で、「弥四郎国重は日目聖人の従兄で新田小野寺弥四郎国重の事です、」と、
記載されてましたが、大石寺系て不思議な教団を産む要因とかがあるのかと感じました。

それにしても最近は「七仏通誡偈」
諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)自浄其意(じじょうごい)是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
「諸々の悪を為すことなく、もろもろの善を行い、自ら心を浄くせよ、是が諸仏の教えなり。」
この言葉が一番理解しやすくて、マイブームと言うか、お気に入りの言葉になってます。

2418犀角独歩:2007/06/03(日) 08:39:45

> http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014181212/117

青蓮さん(はじめまして)と、同じく、かつて、わたしも北山の日興正墓に参じたことがあります。香花灯明すら、何年も上げていない有様で、この一事を見て、北山門下というのは、口先だけの日興崇拝だと思った次第です。
目の前にある派祖の墓を放りだし、自分たちの住まいばかり、せっせと綺麗にし、日興正当もないものだと思ったものです。

もっとも、実質的開祖・日目の正墓すらない石山は、もはや、問題外と言うことになりますか。

2419再挑戦者:2007/06/04(月) 22:47:02
、、毎度の失礼です、、、ゴメンします、、。。
 さて、、先般、ニセ・ササニキ犯罪が報道されました。  その発端は、某中華料理店が発した情報のようです、、「、、これでは、マトモなチャー飯がデケンよよ、、」、、一体、米の会社はドナイなトン、、ジャ、、!!という、一問題の提起から、七名もの詐欺・容疑で逮捕者がでました、。
 気位が高い調理人方の、、「、、真骨頂、、」、、でございました、、。
 さて、宗教界、、方、では、、ドナイ、、でしょう、、???
 「、、ニセ・日蓮ブランドがマカリ通っても、、長年の間、、当該者らは、ナぜか無言、、でした、、??
 むしろ、儲けの手段に逆の利用をたくらんだ、シタタカナ、、???、、方方、、も、、居られました、、??ようでしょうか、、??
 何も知らない、、小生、、一族、、、郎党、、「トホホ、、」、、で御座います、。ツブヤキでした、、。

2420再挑戦者:2007/06/04(月) 23:03:58
  、、小生は、「、、悔しさ、、99999999.99999%、、」、、の毎日ですが、、これほどの「、大問題、?、、」を、、無視〜〜〜軽視〜〜〜、、するような方方も、、御存在、、のようでしょうか、?? クッソー、、!!!!

2421再挑戦者:2007/06/04(月) 23:20:59
、、ドナイしたら、、「、、本当の”、成仏、”とやら、、」、、が、、保障、されるん、、でしょうか、、??
 経文にも、仏の境涯に到達したならば、、「、、いろいろな状況でも、999%もの確かな、、”分別、”、が可能だし、庶民へのお笑いも提供可能、、」、、と経文にはございます、、。 でも、疑問ばかりでございます、、。

2422青蓮:2007/06/05(火) 06:40:52
私も遅ればせながら独歩さんのブログを(携帯からなので写真等が一部読み込めませんでしたが)読ませて頂きました。

独歩さんはブログの中で半生を棒に振ったなどと謙遜されていましたが、とんでもない。先駆者です。

およそ犯罪など事件が起こり裁判となった時などに必ず問題となる事は、何時、何処で、誰が、何をしたかであって、その証拠が明らかとならなければ誰も納得はしませんし信用に足るものではない。この道理がそのまま10月12日の問題にも当てはまると思います。

釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞと何処かで聞いた事がありますが石山にはこの教えの如き振る舞いを忘れずに真摯に対応して戴きたいものですね。

2423ラキ:2007/06/05(火) 09:12:40
石山が佐渡塚原跡に記念石碑を建てました。

表には「日蓮大聖人佐渡御流摘」「塚原跡」「日蓮正宗総本山大石寺六十八世日如 花押」

裏には「維時 平成十九年五月十六日」「立正安国論正義顕揚七百五十年記念局 建之」

顕正会でも塚原跡に記念碑を建てると過去に発言があったのですが、どうするのかな?・・・
隣接地に建てるのか?独自に塚原跡を調査して、宗門の場所は違うとか言い張るのか?見ものですね。

2424犀角独歩:2007/06/06(水) 00:39:41

青蓮さん、ご高覧、感謝申し上げます。

2425凡愚:2007/06/15(金) 15:56:43
突然、失礼いたします。先に本尊の名や曼茶羅についての考察が述べられていた
今月の御講は「日女御前御返事」の一節だった。帰って全文を拝すると御本尊についてのお手紙である。もとよりここにお集まりの皆様には百も承知の御文なのでしょうが。

聖人は

日女御前御返事  御本尊供養の御為に鵞目五貫・白米一駄・菓子其の数送り給び候ひ畢んぬ。 抑 此の御本尊は在世五十年の中には八年、八年の間にも涌出品より属累品まで八品に顕はれ給ふなり。さて滅後には正法・像法・末法の中には、正像二千年にはいまだ本門の本尊と申す名だにもなし。何に況や顕はれ給はんをや。又顕はすべき人なし。天台・妙楽・伝教等は内には鑑み給へども、故こそあるらめ、言には出だし給はず。彼の顔淵が聞きし事、意にはさとるといへども、言に顕はしていはざるが如し。然るに仏滅後二千年過ぎて、末法の始めの五百年に出現せさせ給ふべき由、経文赫々たり、明々たり。天台・妙楽等の解釈分明なり。 爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん。竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比、はじめて法華弘通のはたじるしとして顕はし奉るなり。是れ全く日蓮が自作にあらず。多宝塔中の大牟尼世尊・分身の諸仏のすりかたぎ(摺形木)たる本尊なり。略

一人ももれず、此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是れを本尊とは申すなり。

 此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是れを九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり。之れに依りて曼陀羅とは申すなり。曼陀羅と云ふは天竺の名なり。此には輪円具足とも功徳聚とも名づくるなり。此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。「以信得入」とは是れなり。

南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。 仏法の根本は信を以て源とす。されば止観の四に云く「仏法は海の如し、唯信のみ能く入る」

日蓮が弟子檀那の肝要、是れより外に求むる事なかれ。神力品に云へり。委しくは又々申すべく候。穴賢穴賢。  八月二十三日  日蓮花押  日女御前御返事

2426偶ロム偶ログ:2007/06/15(金) 18:55:00
日女御前御返事 ですか
真筆とはいうものの、断片5ケ寺に5紙の現存ですね。
石山にはありません。
写本は本満寺本より已前にはありません。
本文のどの部分が真筆なのか興味があります。

2427問答迷人:2007/06/15(金) 19:25:55

凡愚 さん
偶ロム偶ログ さん

整理させていただきます。

凡愚さんが引用されたのは、弘安二年八月二十三日される書で、これには、真蹟も時代写しも有りません。
偶ロム偶ログ さんが、「断片5ケ寺に5紙の現存」とされるのは、弘安元年六月二十五日の書です。
同じく、日如御前御返事ですが、別物です。

2428問答迷人:2007/06/15(金) 19:27:34

訂正

×日如御前
○日女御前

失礼しました。

2429偶ロム偶ログ:2007/06/15(金) 19:42:35
しっつれいいたしました、たはは。
行学院日朝師の写本が初出のほうでしたね。
すみませんでした、書名だけで検索したためのおーまちがいでした。
ご面倒おかけしました。陳謝申し上げます。
行学院日朝師の写本が底本となって版本に収録された遺文ですが、以前どこかで民部向師の金綱集がネタではないかというのがあったような。
宗全を持っていないので確認はできていませんが……。

2430凡愚:2007/06/15(金) 22:50:34
ご回答ありがとうございます。

日朝師写本からでしたか。(といっても日朝師がどんなお方か知らないのですが)

この写本の中の文言句々に聖人の常の仰せと違う部分があるのでしょうか?

常の仰せと合致するもの、また違う部分についてご教示いただけませんか。

2431問答迷人:2007/06/16(土) 10:51:44

凡愚さん

>この写本の中の文言句々に聖人の常の仰せと違う部分があるのでしょうか?

真蹟が無いので、後世、誰かが何らかの目的で製作されたものである可能性を否定できません。それで、この書に書かれていることが、蓮祖のお考えであるとは、直ちには採用出来ないということです。

2432凡愚:2007/06/18(月) 22:09:06

でかけておりまして遅くなりました。ありがとうございます。

このサイトでは写本と言われるものについては検討外であり、幸いにして残っている真蹟の範疇での対話でありましたか。失礼いたしました。

そうすると真蹟から波及するところの、凡人の伸張させた考察?なども写本と似たり寄ったりの部分もありますね。

御書に掲載されているものは信頼できるものと思っておりましたが、それぞれに○△×
をつけておかねばなりません。

貴重な真蹟を残された僧俗には感謝申し上げ、写本をされた方々はご苦労様でしたというところでしょうか。
無くなった真蹟も多くあるでしょうに何が書かれてあったのでしょうね。
もったいないことです。

しかし私は「日女御前御返事」の内容を信じることにいたします。

つぶやきでした。

2433再挑戦者:2007/06/23(土) 21:15:06
 お日柄もそこそこのようです、、。 
 一言を発声させてくださいませ。
 当該スレッド”蓮祖の、、、曼荼羅、、の真偽について”に関連します、。
 No.237さんのお言葉「、、戦後最大の宗教犯罪、、糾弾してきました、」、。
 過去ログをご拝見しまして、重く受け止めたく存じます。
 独歩さんは、顕氏の汚さを御指摘では御座いまする、、。 しかし、小生の凡愚の低脳頭から考察させてもらいますと、それ以前から”それなりの体質のような、何か、?”、が存在、、?、のようでしょうか、?
  疑義の人は故日達さん(含む、日寛、)でしょうか、? 「日蓮真筆本尊から、いたく乖離したような、書写(讃文不当添加〜仏滅後の年代の誤記〜略式の帝釈の誤記、、)もマトモに不可の方が存在、したようでしょうか、?
  マトモな書写不可能なのは、そのモデル・規範が存在しない、、?? 当時、当該寺には”日蓮さまの真筆本尊様が御不在のようでしょうか、? こんな団体や法人には、マユに”ツバをつけて、、”、、再考もありでしょうか、? 愚言でした、、。トホホ、、。

2434再挑戦者:2007/06/25(月) 20:06:30
 モウ一言ゴメンします。
 昨今の不祥事には驚愕します、。 何かが作用していますようでしょうか、。
 問題の主因は、いずこに、??
 http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20070623AS1K2300223062007.html

2435犀角独歩:2007/06/26(火) 18:23:12

2433 再挑戦者さん

> それ以前から”それなりの体質

それはそうだと思います。だいたい、日蓮の抜けた歯にくっついている肉が生きて成長しているなどといってきた団体です。それはそれは昔からの体質ではないでしょうか。

2436青蓮:2007/06/28(木) 12:55:46
いやはや、私の思っていたことは、今この平成の時代に、いざ鎌倉〜!などと言って誰が素晴らしい政治的見解だと思う人がいるだろうかというレベルの話しですよ。歴史的な事柄についてはまるでドのつく素人ですのでいつも興味深く学ばせて頂いている次第です。
m(__)m

2437しゅんかん:2007/06/29(金) 14:36:44
時の法主に依る言で方向転換される、どうして「以来今日まで、日蓮大聖人の仏法は、
唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈相承(けちみゃくそうじょう)によって、一器の水を一器に瀉(うつ)
すように法灯連綿として、現法主・第68世日如上人(にちにょしょうにん)に受け継がれている。
などと云えるのでしょう。

2438再挑戦者:2007/07/01(日) 19:02:05
,,ゴメンします、。
 諸賢様の過去の御賢察には、ご同慶の至りでゴワス、、。
 混乱の極まるような、一寸の先は、全く不透明、、と言う、カオスの中では、見下されて来た我ら庶民はタダ、、オドオド、、して良いのでしょうか、?
 、、ところで、、先般の「偽装ミンチ事件、」では、工場長でさえ「、社長は、我らの意見など、聞き入れない雲の上の人”だった、」、と言っていました。
 「、、雲の上の人、、とは、一体、、全体、、どんな御方、、???」、。 是に似たようなお方は、ここ、かしこに存在されたようでしょうか、?
 「雲の上の方」、==「、絶対的な命令・世論操作の中心者、??」、、かも知れマシエーン、、。 騙された方が、バカのようでしょうか、? トホホ、、!!

2439しゅんかん:2007/07/03(火) 00:03:44
先日、法華講のお方より、参院選では在るお人を宜しくお願い致します、とご依頼がありました。
そのお人は祖父か曽祖父が石山末寺の御住職であられたそうで、野党より立候補されるそうです。
宗門・学会が分裂してしまえば全てが異なる、其れは自己の意思に拠る処で無いのが引っかかる今日この頃です。

2440再挑戦者:2007/07/06(金) 22:44:13
 ゴメンします、、。本夏はラニーニャ?とかの因で猛暑・厳暑の予測がございました。 4.5畳のボロ・アパートにすむ小生は、今年こそ「念願のクーラーを購入」しようと、大家に諾否を聞いたところ、配線の電線が昔のままで細い、電流容量?が足りないので漏電火災防止のため、ダメ、と言われました、(涙)。 また、近く建て替え予定なので不満なら退去されたし、との冷たい言でした。
 中・高高年単身者への、姥捨て山のような、弱者へのイジメ〜排除〜儲け主義の悪漢どもの自己主張ばかりは良く通るようでしょうか、(クッソー)。
 先日は、近所の飲み仲間がパート出勤の8時35分頃玄関出口にて倒れましたが、15〜20分?が経過したのか? 救急員の心臓マッサージでも蘇生しませんでした、(トホホ)。 警察の調べで、天涯孤独、事件性無しとのことで、市役所から来た方が白い袋に入れられ、斎場、無縁墓地埋葬まで、一応立会いました(涙)。 これは「人間らしい死に方?」でしょうか?「こんな人生の最期では、あまりにも情けない、??」、。
 「死を考察しつつ生を考える、?ことは?」、何かは不明です。 でもそこそこの「道筋くらい、?」、は知りたく真筆本尊(1〜123)のコピーを順次取替えて、緊急避難的に拝んではいます(それ以外は何やら、やらせぽっくって、ニセっぽくて怖くて、、)。 アホのサエズリ・愚考でした、。

2441孤独な迷子:2007/07/07(土) 01:27:27
地球は温暖化しているのに、人間(社会)は寒冷化ですね。
孤独死・・・ニュースで時々聞きますが、身近に感じてしまいました。
なんか寂しい世の中になったものですね。

2442犀角独歩:2007/07/07(土) 08:08:40

再挑戦者さん

ご友人のご逝去を悼み、ご冥福をお祈り申し上げます。

貧道というのは、ある面、修行のようだとわたしは思います。
少なくとも日蓮にはそのような考えがあったでしょう。
真蹟を残しませんが、『四菩薩造立鈔』に

「日蓮は世間には日本第一の貧者なれども、以仏法論ずれば一閻浮提第一の富者也。是時の然らしむる故也と思へば喜び身にあまり、感涙難押、教主釈尊の御恩報じ奉り難し。恐くは付法蔵の人々も日蓮には果報は劣らせ給たり。天台智者大師・伝教大師等も及給べからず。最四菩薩を建立すべき時也云云。」

なにより『開目抄』に

「般泥亀経云 善男子過去曽作無量諸罪種種悪業。是諸罪報О或被軽易或形状醜陋 衣服不足 飲食麁疎求財不利生貧賎家邪見家或遭王難及余種々人間苦報。現世軽受斯由護法功徳力故等[云云]。此の経文日蓮が身に宛も符契のごとし。狐疑氷とけぬ。千万難由なし。一一の句我が身にあわせん。或被軽易等[云云]。法華経云 軽賎憎嫉等[云云]。二十余年が間の軽慢せらる。或形状醜陋。
又云 衣服不足。予身也。飲食麁疎。予身也。求財不利。予身也。生貧賎家。予身也。或遭王難等。此経文人疑べしや。法華経云 数々見擯出。此経文云種々等[云云]。斯由護法功徳力故等者摩訶止観第五云 散善微弱 不能令動。今修止観健病不虧動生死輪等[云云]。又云 三障四魔紛然競起等[云云]。」

また『撰時抄』に

「法華経の行者は貧道なるゆへに国こぞつてこれをいやしみ候はん時、不軽菩薩のごとく、賢愛論師がごとく、申つをら(強)ば身命に及べし。此が第一の大事なるべしとみへて候」

「法華経の行者は貧道」とは、名言の極みと存じます。

御筆漫荼羅の写真を拝まれているとのこと、これはたしか顕正居士さんがご紹介くださった日蓮を信奉する外国の人々の流行「Download-Honzon」といったことと一脈通じますね。

わたしは個人的に漫荼羅正意から導かれる漫荼羅本尊観は日蓮の考えとは違っていると考えています。日蓮が漫荼羅を書いたのは、一念三千を裹む妙法蓮華経の五字を授与するためであったと思うからです。一念三千とはつまり仏因・仏果ですから、その授受は成仏のためでしょう。日蓮は弟子に漫荼羅の書法を教えたかどうか、どうやら教えなかったようにも思えますし、教えたのかも知れません。それはともかく、しかし、妙法五文字の授与という儀式制は継承されたでしょう。久遠本仏所有・妙法蓮華経―上行所伝―日蓮所伝―継承方式漫荼羅図示【授与】

漫荼羅を本尊として拝むかどうかというより、“日蓮から妙法五文字を書き与える儀式を継承した者が、自分のために書き与えてくれた妙法五文字であること”に、実は重点があるのではないでしょうか。

2443しゅんかん:2007/07/11(水) 18:15:26
〉2240
再挑戦者さん
ええ、その様ですね今夏は猛暑、酷暑の予想ですね。間々外れもしますからそう落ち込まれますな。

大家さんの漏電は少し的外れと思いますよ。
漏電の恐れはクーラーに関係なく危険なのでそれなりの対策が必要と思われます。
〔電気配線は古い家屋との事でしたので、全体が1.6mmだと踏まえて印させてもらいます〕
昨今、省エネが喧しく云われてます。
一例ですが、6畳タイプで消費電力は(75〜650W)です。これが駄目なら、炊飯器や電気ポット(700〜905W)も駄目だし、オーブントースターなんてあんなに小さいのに(1000〜1300W)もあります、これらは咎めないのでしょ、消費電力のもっと多い電気ストーブだって。
簡便に設置出来る窓型(ウィンドクーラー)も在りますよ、これは配管の穴も開けず、ドレン水も処理してくれて又、価格も安いですよ。大家さんにもう一度お願いをされてみてはどうですか?
では、お体ご慈愛下さいませ。

※問題発生時のクレームは、一切受け付けませんので悪しからずm(__)m

2444再挑戦者:2007/07/11(水) 21:12:38
、、独歩さん、しゅんかんさん、、。 諸賢様の暖かい、御心情溢れる御提言には、、ただ、、ただ、、ナミダ、、なみだ、、涙、、でゴワス、、。
 謝謝、、!! Muchas Gracias,! Muito Obrigado,!  セニョレス、、ドクトーレス、!! 諸賢に陳謝、、。

2445偶ロム偶ログ:2007/07/15(日) 02:32:42
過日、大林宣彦監督の「転校生 さよなら あなた」を観てきました。
1981年の「転校生」を大林監督自身がリメイクした作品です。
しかし、このようなリメイクの仕方があったとは、まったく思ってもみませんでした。
私は81年版もリアルタイムで観ており、当時、ノスタルジックなほろ苦さを覚えました。
今回のリメイク版は、81年版の「再映画化」ではありませんでした。
私としては、今年度の邦画ベスト1、大林監督作品としても最高の作品であろうと思います。
掲示板の主旨には、直接には関連しませんが、ぜひ、ご覧になることをお勧めします。
つぶやきでした。

2446犀角独歩:2007/07/20(金) 00:03:08

たぶん、日蓮門下であれば、誰しもが思っているでしょう。

「よりによって『立正安国論』が上奏された7月16日の、それも、日蓮聖人が佐渡からお戻りになって漂着された柏崎で、こんな悲惨な地震が起こるとは…」

とある日蓮宗僧侶が言われた「まったく、顕正会が新潟に会館を建ててから、あの地では、ろくなことはない」

偶然か、必然かはともかく、翌日に、柏崎と連絡が取れたところ、既に日蓮宗僧侶によるボランティアが到着し、活動を開始しているとのことでした。被災された方にはお見舞い申し上げると共に、救済活動をされている方々には、深く敬意を表するものです。

2447犀角独歩:2007/08/05(日) 21:45:38

以下のような相談?を受けるところがあるようですが、ここでは石山法華講の脱会相談を受けているのでしょうか。
学会、顕正会脱会から脱会させ、石山に勧誘するなんてことがあれば、問題にしなければなりません。

創価学会員・顕正会員対象脱会希望者の相談館
http://8830.teacup.com/tsurutaro5/bbs

2448問答迷人:2007/08/05(日) 22:21:56

早速覗いてみましたら、次のように書かれていました。

『日蓮正宗で正しい信仰をされたい方は、どうぞここの掲示板に遠慮なくご投稿ください。私たち法華講員が、あなたを全面的にサポートし、あなたを無事に正しい妙法へとお導きいたします。
 さ、私たちと一緒に、大石寺の本門戒壇の大御本尊様のところへまいりましょう。 』

この書き込みの通りだとすると、法華講員が主宰する、日蓮正宗への勧誘サイトですね。

まだ、こんなことをやっているんですね。もう法華講は下火だと思っていましたが、そうでもないのでしょうか・・・???

2449再挑戦者:2007/08/05(日) 22:23:39
 、、失礼いたします、、。
 
 アノ手、コノ手の策略・策謀が開始されたようですしょうか、。
 石山様では、時流の混乱に生じて、迷った方方の取り込みを思考したかも知れません、? 
 本来の教導、?(、教主釈尊の説いた”成仏”への継続は、?)、を思考するのではなく、明日の飯を確保のため、?、、としか思えない思考でしょうか、?
 その最たる一件が、「、庶民無視・軽視の自・公の結末が、?」、今回の選挙結果かも、? 
  庶民は、一見はバカのようですが、深層は、侮れませんようですか、。
 今は、IT時代の始まりですが、今後は、老若男女がパソコンを自由に操作が可能な時代に突入です。
 今までの「ダマシの技術は、」、小生のツブヤキでは、間もなく、通用しないでしょう!、?(朝日新聞 8/5 社説より)

2450犀角独歩:2007/08/06(月) 07:17:32

問答さん、有り難うございます。

被害者が引っかからないように、注意していかなければいけないと思いました。

2451犀角独歩:2007/08/07(火) 13:57:40

> http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/2447

先の紹介したいまどきこんな掲示板という印象を懐かざるを得ない石山勧誘を意図した脱会相談のサイトですが、ここでは創価学会印刷「本尊」を「ニセ本尊」と書いてあるのですね。

何を以て「ニセ」というのか、その議論は分かれるでしょうが、だいたい自分たちは、彫刻を本物であると謀っておいて、よく言うものだと思いました、もっとも創価学会も他宗の本尊に、何ゆえ執着しているのかもよくわかりませんが。

石山では、本尊所者に関することは「御法主上人猊下」の権能にかかることだから在家は許より、僧侶も考えること自体が謗法だというわけです。便利な詭弁です。この報道管制と思考操作によって、単なる模造品を日蓮作とし・日興作としてきました。そして、歯にくっついた肉が生きているとまで言ってきたわけです。

「本尊」の写真を撮るのも謗法、見るのも謗法、自分たち以外は何でも謗法という論法で、他を斥け、自己正当化を図るところに、真実もなければ、正義もないことは自明です。こんな相談所に迷い込んでしまえば、元の木阿弥、詐欺に引っかかったものが無免許の自称弁護士に相談に行ってしまうようなものです。

宗教問題にかかる各支援団体にも連絡をし、被害の拡大を防いでまいろうと思います。

2452偶ロム偶ログ:2007/08/08(水) 13:31:39
460000ゲットしました。
もうこんなにアクセスされたのですね。
これからもみなさんの論議を学ばせていただきます。
問答さん、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

2453管理者:2007/08/08(水) 22:11:17

偶ロム偶ログさん

>460000ゲットしました。

何か、管理者の想定外の数字です。

以前の議論は、460000から眺めると、的外れの議論も有りますね。
しかし、何ら修正する必要の無い適切な議論も有ります。
460000レスは、それぞれご参加の皆様が刻んでくださった貴重な一コマ一コマです。
発展や矛盾を当然孕んでいますが、この掲示板のレスの総体が冨士門流信徒の為の極めて貴重な議論となっていると考えています。
批判の精神を忘れずにこれまでの議論を読み返してくださるなら、460000レスが宝の山である事をご理解戴ける物と思っております。
然る後、現在の当掲示板の議論にご参加賜りますれば、管理者の願う所、望む所であります。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。

2454犀角独歩:2007/08/09(木) 11:32:05

460000ですか。感慨無量です。

気が付けば、前言・後言、異見とする試行錯誤を繰り返してきました。
7年間に亘り、これだけ多くの稔りある議論ができたことは、ひとえに適切な管理をなさる労により、わたしども安心してなせたことでした。

茲に慎んで、深く御礼申し上げると共に、そのご尽力に深く敬意を表します。

2455再挑戦者:2007/08/09(木) 23:54:02
、、ドーモですが、
今時、無関心方の啓蒙・覚醒などに重大な役目を担って居られる貴HPには「有難うの」一言を忘れておりました、ゴメン、なさい、。

2456スイカペンギン:2007/09/06(木) 03:31:37
法華戦隊ミョウレンジャー
http://www.eonet.ne.jp/~myoh-ranger/
カルト教団を倒し、カルトとから家族を守る法華戦隊なんて子供にも
理解出来るかも!!

2457富士川一郎:2007/09/06(木) 11:54:14
昔昔、悪名高き顕正会ただ1回の体育文化祭にて、オーレンジャーショーが行われ、敵は信濃町の悪の組織であり、武器が題目などと言う馬鹿げたものでした。
確かビデオにもなったと思いますが、どなたか持ってませんかね。

確か、最後に敵が「信濃町に引き上げだ」と逃げていくシーンがあったと思いますが。

2458大縫 薫:2007/09/06(木) 22:00:14
富士川さん、それは面白い!!
船隊シリーズは、子供だけじゃなく大人も楽しめるのでカルト問題に興味を引き付ける
格好の材料になるかも!
そのビデオ是非見て見たいです。
法華戦隊なんて笑いのツボにハマル

2460犀角独歩:2007/09/15(土) 10:20:30

偽造、捏造、模造を暴く、真実糾明を皆さんと行ってきたのが、こちらの掲示板での議論でした。

昨日、電車に乗ったら中吊り広告で

「週刊文春の広告で大きく「スクープ 服部幸應(料理番組のドン)の『家柄』は偽装だった! 本名は『染谷』、450年続く『服部流割烹家元』も大嘘だった」

とあり、吃驚しました。ありもしない団体名を詐称していたということでしょうか。

まあ、よく見かける話ではありますね。

2461富士川一郎:2007/09/15(土) 17:31:42
>>2460

しかし、この程度の事は調べればすぐに分かりそうなのですが、意外と発覚しにくいんですね。
もっともテレビ局が故意に隠している事もありますが。。。
細木某(姐さん)は最も激しい家柄、経歴詐称をしているんですがね。
服部さんについても、人気があるんで、局もかくしていたように思えますがね。

2462富士川一郎:2007/09/15(土) 17:33:37
>>ありもしない団体名

正式名称 宗教法人顕正会
自称  「冨士大石寺顕正会」

正式名称 宗教法人太平教団
自称  「本門正宗」

2463犀角独歩:2007/09/15(土) 17:44:18

顕正会がいつから「冨士大石寺」を自称するようになったのかは、過日の研究発表で明確に、その証拠が出ていて興味深かったですね。

この自称というやつですが、「日蓮正宗」というブランドは、なかなか魅力的ということなんでしょうか。

日蓮宗でも、同様のやり口はあるんでしょうね。
また、その他でもありでしょうか。

2466犀角独歩:2007/09/16(日) 06:44:21

横から失礼します。

アスランさんのクレームの趣旨はわかりますが、アスランご自身も第三者です。ご本人から直接聞いたとのことですが、では、そのことを証するものはなにもありません。こういっては、なんですが、閲覧している側からすれば、その両者ともウラを取れないという点では同等の程度であると存じます。

ここは、アスランさんのクレームが明示されているわけですから、削除しないで、両投稿とも残しておくほうが閲覧側としてはわかりやすいかと存じます。

ご一考ください。

2467アスラン:2007/09/16(日) 08:52:36
犀角独歩様

お話の件、ごもっともだと承りました。
確かに私もこのネット上の立場においてはご指摘の通り第三者となります。
私も友人の名前が予期もせぬ場所から出て来ましたので、彼の名誉の為にと思い、先走りました。
これ以上の追求は致しません。
申し訳ありませんでした。


管理人様

せっかく取り上げて頂いたにも関わらず、ご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。
私も個人的に本人に報告致しましたので、抗議があるのならば本人からして頂くよう進言致します。
お手数をお掛けしてしまいました。

2468犀角独歩:2007/09/16(日) 09:13:00

アスランさん、どうぞ「さん」付けでお願いいたします。

ご理解いただけて有り難く存じます。
わたしも会ったことのない人物が、あたかも会ったことのあるように書かれていると連絡を受けることがあります。こうした場合、やはり悩みます、「会ったことなどないではないか」と抗議するほうがよいのか・しないほうがよいのか。

会ったことがない場合、当然、そこに立ち会った方はいないわけです。となると、この手の話は「二人きりで会った」という虚言にならざるを得ません。こうなると、当の本人であっても、‘会っていない’ことを証明できないことになります。「ない」ことを「ない」と証明するのは、あることを証明するより骨が折れます。これはなかなか困りものです。

なにせ、わたしは読んでもいない、それも未公開の書籍を盗用したという不名誉な疑惑を最近かけられたばかりでした。これには異議を記したのですが、しかし、結局、数と口コミは、わたしの真実をもみ消すかも知れません。

また、以上のように「名誉」という言葉を記しましたが、これまた、最近、「自分の人権と名誉を自分で守る」と言ったことにまで、ケチをつけられたこともあります。

ですから、こちらの掲示板のように挙証義務に基づいて、しっかりとした議論ができる場が希有なのだと、改めて思う次第です。

2473管理者:2007/09/19(水) 15:53:55

波木井坊竜尊@日蓮宗葵講さん

当掲示板の書き込みの基本原則は「意見交換、相互理解の場との主旨から、話合いを重んじてください。」となっています。

貴殿の2469のレスは、この掲示板の基本原則に反していると管理者は判断致しました。よって、当該書き込みを削除すると共に、以後の当掲示板へのご参加をお断りいたします。

なお、問題となった発言以外の書き込みにも、様々な問題点が存すると考えますが、以後のご参加をお断りする事により、削除するまでもない考えますので、削除せずにこのままと致します。

なお、この管理者の措置にご意見がありましたら、引き続き承りたいと思います。

2474犀角独歩:2007/09/22(土) 10:26:55

ごく個人的なつぶやきですが、Livedoor の無料ブログを使っていますが、表示トップ記事には勝手に広告がつくようになりました。これは書き込まれている内容をコンピュータが判断し、自動で適当な広告を選んで貼り付けてくるようです。

わたしの書いている内容がそうだからでしょうが、やたら、創価学会系か、寺院の広告がくっついてきて辟易しています、まあ、無料ですから、文句も言えませんが。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/

あと、犀角独歩、「犀の角のように」という題名を付けたブログやら、ページが、やたらと増加。内容も、仏教であったりします。
いわば、犀角独歩、犀の角現象とでもいう様相を呈しています。

これによってわたしのHP、ブログなどのヒット率が低下しています。
巧妙な嫌がらせの類かと思っています。

2475顕正居士:2007/09/30(日) 14:11:37
SecondLifeの中にあった外国のSGI会員とおぼしき方の公開祭壇。
曼荼羅は厨子の中。希望者には見せてくれるそうである。

ttp://www.geocities.jp/xianzhengjp/altar.jpg
ジオシティの画像には直リンクはできないのでコピーして頭にhを補って下さい。

*SecondLife MMOの一種であるが、すべてユーザーが作ったもので出来ている

2476顕正居士:2007/09/30(日) 17:09:23
これもSecondlifeの中のPrivate Temple。
「六十七歳 日顕」とある。こちらは日蓮正宗の方だろうか。
ここにも曼荼羅があり、以前は公開していたようである。

ttp://www.geocities.jp/xianzhengjp/temple.jpg

2477青蓮:2007/11/04(日) 14:57:39
石山教学は出世の本懐というキーワードに病的にこだわり過ぎている感がある。出世は世に出る事で本懐は本来の目的という意味でありましょうが宗祖におかれては本門の法華経の弘通、或は三大秘法を世に弘める、簡潔に言っても難しく言っても本尊流布する事でしょう。要約すれば、つまりは本尊をしたためて是を受持し世に弘通して行く事であると阿仏房へのお手紙等には明確に金言として残されている。いつの本尊がプレミア物みたいな次元の低い話しではない。実際には弘安2年に本尊も戒檀も題目も日本の全土に流布されたわけではないが、宗祖の出世の本懐を遂げたとのお手紙はこれで必ず広宣流布が出来るという確信からの御金言であると私は感じます。

PS:いつも書き込みを読ませて頂いています。私のような無学の者には大変勉強になります。

2478青蓮:2007/11/17(土) 22:00:17
絵に買いた餅は味も食感も匂いもわからない。

きっと、もしも餅を知らない人に餅を説明し理解させる為にはとてつもない理屈の山を築いても足りない程になるのでしょうね。

ところが餅(三大秘法)がここにあるという事になれば話しは早い。簡単だ。餅を食べてみれば判る。長々と説明で時間を費やすより食べたほうが美味しいし幸せになれる。きっとそれが日蓮仏法なのでしょうね。

2479犀角独歩:2007/11/17(土) 22:41:34

では、お尋ねしますが、食べておいしい日蓮仏法の味とはどんなものでしょうか。
また、各人が、「これこそ、おいしい日蓮仏法だ」と思う味は、本当に日蓮のレシピだという証拠はどこにあるのでしょうか。
結局は、的外れの自己満足ではないでしょうか。
そもそも、日蓮は三大秘法などとは言っていません。

2480管理者:2007/11/18(日) 06:44:11

犀角独歩さん

当スレッドの趣旨はご承知の通り、「何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!」となっています。ここでの議論は、スレッドの趣旨になじみません。よろしくお願いいたします。

青蓮さん、

犀角独歩さんに申し上げたとおり、ここは議論する場所ではありません。今回の書き込みは、激しい議論の的となる様な内容であり、当スレッドになじまないと思います。当掲示板の議論に一石を投じられる場合は、該当スレッドに書き込んでください。よろしくお願いいたします。

2481犀角独歩:2007/11/18(日) 09:10:55

管理者さん、趣旨は理解し、従います。

が、当スレッドは、応酬、議論を逃れて、言いたい放題を書ける欠点を有しています。いままでも、そのような悪用はあとを絶たなかったわけです。
そのようにならないよう、管理を重々、お願い申し上げます。

今回の問題にしても、「一念三千とはなにか」というスレッドを立てることを提案しておきながら、その議論には全く参加せず、その内容に抵触し、かつ、各投稿を抵触する内容を「つぶやき」として書くことで、応酬を逃れた、一方的な批判となっています。このようなことが許されるのであれば、議論そのものを挫くことになりませんか。実に不快なことです。重ね重ねよろしくお願い申し上げます。

2482管理者:2007/11/18(日) 11:15:58

犀角独歩さん

>「一念三千とはなにか」というスレッドを立てることを提案しておきながら

スレッド提案は「春風」さん、このスレッドの書き込みは、「青蓮」さん。別の方だと思いますが・・・


>管理を重々、お願い申し上げます。

はい。厳格に管理してまいります。よろしくお願いいたします。

2483犀角独歩:2007/11/18(日) 20:37:01

まずは、春風さんには、早計勘違いをいたし、大変ご無礼を申し上げました。茲に謹んでお詫び申し上げます。

また、管理者さんには、ご批正を賜りましたこと、深く御礼申し上げます。
今後とも、ご指導・ご鞭撻の程、お願い申し上げます。

2484犀角独歩:2007/11/26(月) 19:53:12

松本師から電話を頂戴した。
「法華経に“祈祷”なんかない。法華六大部にない」
かつて、そんな検索はしたことがなかった。
早速してみると、本当にない。

六大部で“祈”で検索してヒットしたのは、以下のみ。
法華経は、やはり、祈祷の経典ではなかった。


摩訶止觀.TXK(8795):7知次位8,T46'No1911,98a,28
樹崩倒。摧折我人衆惡傾殄。是名懺悔。勸
請者。名爲祈求。聲聞自度直懺己罪。菩薩
愍衆故行道故須勸請。我今知罪尚不得


止觀弘決.TXK(4747):2-2修大行,T46'No1912,193c,14
今文但是顯機顯應。亦冥亦顯機顯應。請又
三義。延請爲身業。祈請爲口業。願請即意
業。又五體是身業。四偈是口業。繋念是意業。

止觀弘決.TXK(4749):2-2修大行,T46'No1912,193c,16
業。又五體是身業。四偈是口業。繋念是意業。
又延是請人。祈是請法。願總人法。機既
開三應亦應爾。三業亦應各有二句機應

文句記_.TXK(14030):8法師品10,T34'No1719,307a,27
倶無力。初約觀中初總明觀。言雖通諸意
且在圓。依通觀下歴教明觀。祈體理同故
略三藏。法華論等者。水如佛性。取之不同

2485天蓋真鏡:2008/01/10(木) 01:39:21
謹賀新年、 去年の内に池上本門寺行けなかったので 2008年中には行きたい。

2486大観:2008/01/11(金) 02:26:45
http://www.rakuten.co.jp/garou/890674/890840/917011/#830947

2487犀角独歩:2008/01/11(金) 21:25:31
>2486

どうでもいいですが、「妙法蓮華教大曼荼羅御本尊」ではなく、「妙法蓮華‘経’大曼荼羅御本尊」ではないでしょうか。
こんな間違いをするようではしようがないですね(笑)

2488カワガミ:2008/01/14(月) 20:05:53
頭ん中が走馬灯ジョターイの私は頭破七分?
いやいや三十路超えのアレだからだな。
若くないわな。みんなそうだよ、うん。うん。

2489カワガミ:2008/01/17(木) 13:38:33
祟教魔光を破ってくる。

2490偶ロム偶ログ:2008/01/22(火) 04:16:40
つぶやきです。

○正宗系で二百年以上の歴史をもつ寺院では、信心が4世代以上続いていて、ようやく信徒としてみとめられる。
○形木本尊は仮本尊であり、仮信徒のものである。
○裏書のない形木本尊は仮本尊未満である。
○家庭の仏壇に安置し礼拝する本尊は墨書紙幅の本尊である。
○家庭の仏壇に安置する墨書紙幅の本尊は当主を被授与者とする。
○当主死去の場合は再感得後は家宝として、礼拝してはならない。
○当主死去後は次期当主宛の墨書紙幅本尊を安置する。
○脇書もしくは裏書のない墨書紙幅の本尊は仮本尊である。
○板本尊には、賞与のものと供養堂(位牌堂)のものの二通りしかない。
○賞与の板本尊は匣に収めておくもので礼拝するものではない。
○供養堂(位牌堂)の板本尊は破損しない限り永代一体のものである。
○供養堂(位牌堂)に紙幅本尊を安置することは永代の義に反する。
○寺の本堂の本尊は住職一代限りの紙幅が本当である。

ずいぶん昔に、亡くなった老僧方から聞いた話のメモ書きからです。
今の石山の僧侶でこんなことを知っているのはほとんどいないのではないでしょうか。


>>2484
独歩さん、松本さんは「法華経に祈祷はない」と。
鎌倉時代に祈祷の無い宗教は禅系だけでしょうね。
日蓮さんは禅僧ではなかったのですから、当然、法華経にはない祈祷をしていたのでしょうね。
ところで法華経に「南無妙法蓮華経」「智識相承」はあったでしょうか?


僧侶のなかに、講義をして金銭を取る人がいるらしい。
僧侶の講義は、基本的には学衆にするもので、学衆を育てるのは僧侶の勤め。
寺に上がった学衆は、金銭を払うどころか、衣食住はもちろん小遣いまで僧侶に面倒をみてもらうもの。
寺子屋でさえ金を取ったなどという話はない。
明治維新以後、妻帯、有髪、洋装、冠り物をする「僧侶」と名乗る職業人が出現したが、、、。
「僧」とは曾て人であった者、つまり今は「人でなし」。
「出家」とは、家を出る=家出・外出ではなく、「出・世間」。
お布施を喜捨していただくのは可としても、金銭の要求・請求は商人のやること。
「智識」とは智慧と見識をいう。
智慧も見識も相承などできるものではなく、天稟のみ。
人の知らないことを知っているのは「物知り」といい、智者・智人とは違う。
理とはことわり、それを覆い隠すことを屈という。
屈とは高い山に庇をかけることの意でもある。(辞書なんぞ探しても出てはこない)


優・良・可・不可、不快は不可、愉快は可、では良・優とは?

2491犀角独歩:2008/01/22(火) 16:05:49

こちらは「つぶやき」なので、2490を拝読して、「なるほど」とつぶやきのみにしておきます。

2492偶ロム偶ログ:2008/01/27(日) 05:53:19
ないのなら作って見せよう板本尊

三ホトトギスのような句はできなかった・・・

2493問答迷人:2008/01/27(日) 09:17:52

偶ロム偶ログさんに倣って、三句です。


偽ならば いつかはばれる 板本尊

偽なれば ばらしてしまえ 板本尊

偽物と ばれてしまった 板本尊

2494犀角独歩:2008/01/27(日) 09:27:49

お二人ともうまいですね(笑)

2495偶ロム偶ログ:2008/01/27(日) 23:09:47
偽だから いくつも作れる 板本尊

ばれたなら たくさん作って ごまかそう

偽だから 花押を入れても だいじょうぶ

偽だから 金箔入れて 虚仮威し

2496犀角独歩:2008/02/07(木) 18:52:16

本日は2月7日、日興の示寂から675年の祥月命日。
それと共に、戒壇本尊を偽物と記した『河邊メモ』から、ちょうど30年目に当たるわけですね。感慨深い1日といえるでしょうか。
それにしても、日興の祥月命日に戒壇本尊の偽物云々がメモされたというのは、皮肉という感想を懐きます。それにしても、興師会の当日、帝国ホテルで話し合っていたとは、なんともはやという印象も懐きます。

2497問答迷人:2008/02/15(金) 17:51:35

ここ数年、こんな気持ちで、こんな事を考えて過ごして来ました。


日蓮を 信ずるならば 真跡だ 宗派都合は 宗祖欺く

大石寺 富士門流で 最悪だ ウソ塗り固め 信徒欺く

学会も ウソに気づいて 大慌て 破門されても 本音は安堵

2498アスラン:2008/02/15(金) 19:48:34
金儲け主義、坊主丸儲けだと創価時代は声高らかに良く口にしてきました。しかし良く良く冷静になった近頃は、もしそんな連中の集まりだったとしたら…創価など切れる訳が無いだろうと自然に思う。上手く池田をちょろまかし、適当に持ち上げ、バカな幹部辺りに少々握らせておけば何とでも道はあったはず。財務で借金を作るのは自分も含め山ほど見てきた。しかし内拝料や講費に追われている人は見た事がない。あれは偽物これは偽物呼ばわりした所で、では他宗教は?墓檀家、葬式坊主、法要坊主。宗教法人をいい事に未だに荒稼ぎを続けている宗派の本尊の真偽など、それこそ問題だと思う昨今。

2499大縫 薫:2008/02/20(水) 23:31:59
今日、所用があり信濃町に行ったが駅横の学会系仏具店を覗いて見ましたが
仏具と全然関係ない、俗に学会グッツと言われるものが売れていて、店内で
はシナノ企画が作成したビデオが流れていて、荘厳さが全く感じ無いどころ
か異様な雰囲気になっていたのが印象に残りました。
余談ですが・・・・・
額入れには、八葉蓮華が入っていて飛ぶように売れてました。

2500偶ロム偶ログ:2008/02/21(木) 00:33:04
僧侶に限らず宗教で生活している所謂聖職者のほとんどは、意図的なのか無知な
のか、信仰と宗教(若しくは教団)を混同して信徒に君臨している。
もちろんこれは新宗教についても同様だと思う。
教団専従者、彼らは信徒にたかっていることすら自覚していないのでは。
信徒に必要なのは宗教や教団や教学などではなく信仰だと思う。

2501問答迷人:2008/02/21(木) 21:55:48

創価学会時代
幸せに なれると言われ 拝んだが 活動迫られ 己失う 

法華講時代
清流と 信じた僕が 馬鹿だった 富士の濁流 全て飲み込む

現在心境
偽物と 気付いてからは 聖人の 教え求めて 晴れ晴れと

2502犀角独歩:2008/02/21(木) 21:55:56

ここは富士門流信徒の掲示板ということで、富士=日興ということになるのでしょうね。ですから、判断の基準が日興の在り方になっています。

しかし、わたしは日興よりも日蓮です。
では、日蓮が拝んでいた本尊とは何か。その答えは、実は日興が書いた文書にありますね。

一、御所持仏教の事
  御遺言に云はく
  仏は釈迦立像 墓所の傍に立て置くべし云云。
  経は私集最要文注法華経と名づく 同じ墓所の寺に篭め置き、
  六人香花当番の時之を被見すべし。自余の聖教は沙汰の限りに非ず云云。
日興筆『御遷化記録』の一節です。
「仏は釈迦立像」、日蓮が、生前、拝んでいたのは何でしょうか。漫荼羅ですか。漫荼羅なんか、拝んでいませんよね。釈迦仏像です。
では「仏は釈迦立像 墓所の傍に立て置くべし」というのを、寂然門下は墓に捨て置けと解釈した。果たして、そうでしょうか。生涯、自分が拝んできた釈迦像を、死して墓に入っても傍らに置いてくれと日蓮は言ったのです。どれほど、この仏像を日蓮は大切に思っていたのか。一節に、この釈迦像は、伊東流罪の折、日蓮自ら流木をもらい彫ったという伝承があります。流罪地で、仏像もない場所で、釈迦仏を求め、自ら刻んで、そして、拝み続けた仏像。そこにはどれほどの思いが籠もっていたのでしょうか。
わたしが同じ境遇であれば、墓場まで持っていきたいと思いますね。
実際、日蓮はそう遺言した。では、日蓮が「本尊」といったのは漫荼羅でしょうか、仏像でしょうか。そもそも、日蓮が拝んだ仏像は真蹟に明確です。一方、では、日蓮が拝んだ漫荼羅なんかあるのでしょうか。ありませんね。

わたしは日興門流というより、日蓮門流として、この事実に着目してきたわけです。

2503犀角独歩:2008/02/21(木) 21:57:44

【2502の訂正】

誤)寂然門下は墓に捨て置けと解釈した。
正)石山門下は墓に捨て置けと解釈した。

2504パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:26:52
議論が活発化するのはいいのですが、信仰感情から板のルールを逸脱してカキコ禁止になるのは
よろしくありませんね。
また、引用文献も蓮祖遺文としては明確でない物を自明としているのは、まさに
素朴な疑問で自分が引用した
"自明なものに変換し、人々をそのようにふるまわせる社会的装置である"
そのものですね。

せっかくなので、この宗教の法則のリンクを張りたいところなのですが既に落ちているため
過疎っている"信仰は役に立つか"に、九つupさせていただきます。
大変長文になって申し訳ないのですが、教団信仰を見つめ直す時に役立ちますので
管理人さん含め諸氏、順番がずれた事はご容赦ください。

2505問答迷人:2008/02/23(土) 22:51:56

御書全集と言うのは、本当に問題を孕んでいる。創価学会版にしろ、大石寺版にしろ、御書全集に収められたものは、全て日蓮聖人の御金言、と勘違いしてしまう。

目次を見れば判るのに。真跡、時代写本が何処に有るか、明示して無いものは、信心の糧にはなっても、議論の根拠にはならないことは、明らかなのに。

編纂した堀上人もワザワザ、「真跡かどうか定かで無い物も、信心の糧になるものは収めた」(取意)と述べられている。

真跡でも、継ぎ接ぎのものも有り、何処まで信じてよいか、迷う物もある。時代写本の無いものは、到底議論の根拠には出来ない。

これは、犀角独歩さんが、そのように先鞭を付けられ、当掲示板では、それが議論の暗黙の大前提になっているので、初めてこの掲示板に来られた方は面食らうかもしれないけれど、言われてみれば道理だと、納得して頂けると考えている。

これはルールとして明文化すべきなのかもしれない、と思う昨今である。

2507鳥辺野:2008/02/25(月) 01:52:31
犀角独歩さん
>わたしは日興門流というより、日蓮門流として、この事実に着目してきたわけです

(少し的外れな事かもしれませんが)そういえば、石山系の人はやたらと、「日蓮大聖人の仏法」等という言葉を使いたがりますね。私もかつては使っていたと思います。おそらく無意識に、です。しかし今使うとすれば、「釈迦仏法の中の日蓮教義」となるでしょうね。そういった意味で、この意見に賛同いたします。

2508鳥辺野:2008/02/26(火) 18:17:10
問答迷人さん
>御書全集と言うのは、本当に問題を孕んでいる。創価学会版にしろ、大石寺版にしろ、御書全集に収められたものは、全て日蓮聖人の御金言、と勘違いしてしまう。

しかも、正宗、学会系は、自分たちの「御書全集」の誤謬を棚に上げて、「身延派の御書は偽書が混じっている」「謬義だ」等と、堂々と書籍や機関紙で語るわけです。本当に恥ずかしい事ですよね。

2509犀角独歩:2008/02/26(火) 20:33:13

鳥辺野さん

ご賛同有り難うございます。

わたしの思惟のなかでは、「大聖人直結」などかけらもありません。
単に、日興の考えは日蓮と違う。日蓮の考えは何かというときに日興は考慮しない、それだけのことです。

2510鳥辺野:2008/02/26(火) 20:49:55
犀角独歩さん
>日蓮の考えは何かというときに日興は考慮しない
 
おっしゃるとおりですね。また特に、石山において歴代貫主、学会においては池田さんの考えが即蓮祖の言葉であるかのような発言をしたがりますね。そもそもこれが「法主本佛論」とか、「池田本佛論」と互いに罵倒しあうきっかけになるのでしょうね。

2511偶ロム偶ログ:2008/03/02(日) 20:59:04
富士門の掲示板を、沖縄でロムしている人は、どのくらいいるのでしょうか。捨てハンでもいいので、教えてほしいなぁと。何人かおられるようだったら、3日〜5日の間のいずれかの日に二時間くらいお会いできるかもしれません。急な話しで、ダメならまたの機会を待つことにします。

2513天蓋真鏡:2008/03/05(水) 21:57:37
言い方悪いかもしれませんが、漫荼羅は法華経の付録でしょうか

2515犀角独歩:2008/03/09(日) 13:50:20

日蓮のもの・日蓮にあらざるものという分立は、極めて重要な作業で、わたしがこれを意識したのは、石山で言い古された言葉を使えば「祖道の恢復」、そのためには祖である日蓮の実像の掌握が必要であり、その日蓮のものの道を恢復しようとすることなのだが、こうした作業をする人々の十中八九が、その手前で引っかかって、そのしがらみから、日蓮のものと日蓮のものにあらざるものの分立を躊躇い、答えを先送りにして、自分の信仰を…わたしからみれば、それが新興団体であれ、伝統教団であれ、それらのご都合に振り回されているだけなのだが…固執してしまう。

日蓮における最後のゴール(日蓮という祖の道)まで、まずは歩んでみないかと、再び問いかけたい。

…ただし、その先には釈迦牟尼仏陀という祖のゴールもあり、さらにその先もあるのがこの道なのだが、まあ、そこは丸い地球の地平線の先が見えないように、日蓮のゴールまで歩まないと先は、けして見えないから…

2516天蓋真鏡:2008/03/11(火) 18:45:26
日蓮仏法と言うなら 日蓮本仏派と間違われるので好ましくないでしょうか

2517マターリ:2008/03/20(木) 12:30:27
約14億円で落札された大日如来の仏像は、欠けた所も無く金箔もかなり
残っていて、国宝級の美術品だと思いました。
大日如来といえば密教の本尊ですが、そういえば両手で印を結んでいて
神秘性・呪術性を漂わせていました。

日蓮が祈祷修法面で参考にしたのは、密教・修験道ですが、密教の修行
中、大日如来像を拝んでいた可能性もあるのでは、と思ってテレビを
見ていました。

2518偶ロム偶ログ:2008/03/21(金) 03:02:45
この数日チベットの問題が気掛かりでしょうがない。
ここにはリンクは記さないが、チベットの人たちの衝撃的な写真もネットで
公開されている。
いまの私にできることは祈ることだけです。

2519犀角独歩:2008/03/21(金) 18:00:24

わたしもチベットに関しては、祈ることしかできません。

それにしても、何が中国チベット自治区ですか。チベットはチベットですよね。
世界情勢など、およそ関係のない浮世離れした石山や、顕正会は問題外にせよ、日本政府・公明党も、創価学会も、なんでこの問題には触れないでしょうか。

2520顕正居士:2008/03/21(金) 20:12:20
「目撃」邦人学生、生々しく語るチベット暴動
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00576.htm

中国はチベットに莫大な投資を続けており、西蔵自治区のGDP成長はこの7年間年率12%以上
だそうです。今回の暴動は経済発展に伴う貧富の差の拡大が原因だと思います。発展の恩恵が
下層に及ぶのには時間がかかります。場合によってはより高い教育を受けた次の世代からです。
したがってこの時期には共産革命などを目指す揺れ戻しが起こり、政府は原則強権をもって対処
しなければなりません。あらゆる問題はチベットが豊かになることによってのみ解決されるのです
から亡命政府の高度自治要求がチベット経済発展第一を前提の政策に進歩することを望みます。

2521一字三礼:2008/03/21(金) 22:01:43

チベットという国は、もともと高度に発達した経済社会とは無縁の土地柄だったのではないでしょうか。
そこに、観光収入でのアガリを当て込んだ中央政府と自治区が、鉄道を通して、商業的環境を整備していったのでしょう。

小規模な農業と放牧で成り立っていた社会に、自国を征服した異民族政府から、急速な経済発展と都市化と人が襲いかかってきたのだとしたら、それが悲劇の始まりだったとは考えられないでしょうか。
「経済が発展することで豊かになる」という経済理論の図式が、チベットという独自の伝統と文化をもつ国家を安定させることに繋がるか、私には疑問です。

2522顕正居士:2008/03/21(金) 23:46:37
チベット報道は一方的な宣伝が多い。次はその類いとは全然ちがうインドの記事の翻訳です。

チベットの未来  http://cruel.org/economist/tibet.html

チベットの歴史が後ろへ巻き戻る可能性はないでしょう。

2523しゅんかん:2008/03/21(金) 23:58:55
資本主義→社会主義→共産主義と熟成発展して行く。

よく述べられるところで共産主義国家は一度も樹立されたことは無い。
(社会主義国家も同じ様に捉えているんですが)
中国が社会主義国家であるのか、はたまた在ったのかどうかはさておき、共産主義化を図って
いないのは自明ですね。
以前よりチベット紛争は宗教問題ではなさそうですね、政治的背景がその原因でしょうか?

大和民族が琉球民族・アイヌ民族を席巻しました、米軍人の戦時下に見られるような
非人道的な犯罪が沖縄で頻繁に発生しておりますが私達、ヤマトンチュー(大和人)は何をしたでしょう?
沖縄の方達から見れば私達、ヤマトンチューの態度はまさしく対岸の火事と映っている事でしょう。

遠交近攻は往古より続いている訳ですが、詰まるところ異なる文化を強要したが為に生んだ
悲劇と愚考致します。

2524パンナコッタ:2008/03/22(土) 14:54:39
岩山ばかりのイメージがある西蔵は、クロム・銅・水晶をはじめとして、
コバルト・鉛・亜鉛・金・銀・ダイヤ、そしてザブイェ塩湖のリチウムは世界最大級とか。
またガス田や油田の掘削ニュースも最近ちらほらとありましたが
西蔵への投資の裏には、それを補って余りある天然資源の豊富さであり、
経済成長を続ける中国政府が、諸外国から非難を受けつつも固執する
大きな要因となっているのでしょう。

又、いまさら多田等観や河口慧海の居た時代へ戻れ というような主張の類は、
やはりナンセンスでしょうね。

2525顕正居士:2008/03/22(土) 18:07:38
今日に至るチベット情勢の概略が述べられています。

多民族国家 中国(6/6) 王柯
http://www3.ocn.ne.jp/~kenro/history/china_ethnicity/6.html

なぜ莫大な投資によって豊かになったラサで暴動が起こるのか?

“一国二制度”−チベット問題解決の鍵 徐明旭
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~TIBET/cnd20.htm

2526犀角独歩:2008/03/23(日) 02:42:59

少し論点がずれていると思うのです。
仮に中国の経済的な背景が肯定され、歴史が不可逆的であるにせよ、では、マシンガンを使って、打ち殺していいのかとは別の問題ではないでしょうか。

2527天蓋真鏡:2008/03/23(日) 12:20:22
中華人民共和国の共産主義とは何だったのか? 資本主義への扉を開けた時から共産党の支配は終わっていたのかもしれません。 中国が超大国になった時日本はどの様な国家であるでしょうか

2528マターリ:2008/03/23(日) 16:58:20
日中戦争のころ共産党軍は、国民党軍と第二次国共合作をしていました。
しかし共産党軍は専らソ連とのパイプ役に徹し、謀略によって日本軍と
国民党軍を戦わせていました。上海事変・南京事件など、大きな戦いで
日本軍は、国民党軍を相手にしました。その間、共産党軍は非戦闘地域
で精力を拡大。そして太平洋戦争終結後、国共内戦となりました。
このように、日本軍は、共産党軍と戦っていないのです。

それなのに、台湾政府が親日で、中国共産党が反日というのも不思議な
話です。

現在の中国は、共産主義を脱し、資本主義社会になったように見えますが、
共産主義思想は根強いと思います。中国共産党の謀略体質は、今も消えて
いないでしょう。

チベット問題は、政治・経済・宗教などの問題が、複雑に交錯しているよう
ですが、案外、宗教問題が大きいと思います。中国政府は、儒教教育に力を
入れており、10年間で1万校以上の儒教学校が設立されそうです。
ダライ・ラマのチベット仏教は、共産党にとって、やっかいな物に映ってい
るのではないでしょうか?

2529みれい:2008/03/24(月) 11:12:55
おひさしぶりです。
流れを切って申し訳ないですが、こういったものをみつけましてつぶやきたく。
ここの掲示板でしたら名前でご存じの方もいらっしゃると思います。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/shorikai/sub188.html
現代に限らず、昔々から炭酸水の泡のようにさまざまな宗教団体が発生し、また消えていったのだろうと想像しています。

また一昨日は顕正会員さんとお話しして、ハンセン病と法華経に関しての質問をさせていただいた際には、差別も当然であるかのような発言を受けて(でも本人はきちんと調べていないし調べる気もない)、問題の深刻さを味わってきた次第です。

2530顕正居士:2008/03/24(月) 18:16:21
中国の現体制は依然社会主義であると考えられます。

資本の公有や計画経済はスターリン時代のソ連の特殊な社会体制であって社会主義に何ら
必然の要素ではありません。資本の公有とは事実上党幹部の私有でありますがそうではなく
人民の所有でなくてはならない。中国の現体制はこの当然の公理に戻って来ただけでしょう。
およそ経済の発達に第一に必要な社会要素は私有財産の保証であってこれが薄弱であれば
他の要素である交通通信の進歩、科学的合理的思考、民主的諸制度もまた存在できません。
社会主義とは競争に伴う弊害と独占に伴う弊害に対して政府が一定の調整を行い得るという
思想であってその意味で今日存在する諸国家はすべて社会主義の体制を採用しています。

註 競争に伴う弊害と独占に伴う弊害 いずれは市場が解決するが、たいへん時間がかかる。
今日では政府の介入が必ず失敗するわけではないと考えられている。ただし失敗は常に多い。

2531とおりすがり:2008/03/26(水) 13:57:30
2529のジャンプは、中杉弘氏の関係。正理研究会で石田次男とからみ、その後、催眠術、博士号販売、宗教法人ブローカー、平和神軍、
むすこはラーメン屋。といった経歴

2532パンナコッタ:2008/03/26(水) 19:53:34
高島易断総本部に業務停止命令とのこと。
 http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&amp;k=2008032600575

この手の悪徳商法は多々ありますが、宗教法人に停止命令が下ったのは初との事。

2533犀角独歩:2008/03/27(木) 02:27:08

みれいさん

> 顕正会員…ハンセン病と法華経…差別も当然…発言

こうした点が顕正会が反社会的存在として糾弾される所以ですね。
差別の砦となっている顕正会は、この人権感覚が発達した現代社会において、やがて自滅していく存在なのでしょう。それが現証というものです。

2534天蓋真鏡:2008/03/28(金) 16:41:57
マターリさん、顕正居士さん、ありがとうございます。良い意味での個人主義が醸成されないと完全な自由競争社会社は無理かもしれません。儒教と言えば仁義礼智信でしたか?伊達政宗の教訓がありました。

2535しゅんかん:2008/04/07(月) 13:48:27
先程、親類の告別式でした。
歩行が困難な母の介添えをしていて、数珠を見エッ!母は施設に入所してもう何年もなります、学会員の姉兄が手渡したんでしょうね。
数取りに青・黄・赤、信仰をしていないのにどうもしっくりしない自分がいます。

2536偶ロム偶ログ:2008/04/19(土) 13:24:16
富士川さんの仏教掲示板がユーザーつごうで閉鎖されていた。
ほとんど動いてはいなかったけれど、なにかあったのだろうか。

2537顕正居士:2008/04/21(月) 09:09:56
昨日はこんな記事

旧オウムを離脱した上祐史浩氏、独占インタビュー
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070506/10799
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070506/10820

や日蓮、創価学会関連掲示板の過去ログ保存サイトなどを眺めて過ごしていました。
わたしがインーネットにはじめて接続したのがサリン事件の年でした。
そのせいで宗教、カルトの話題に多くの人が関心があり、「宗教のるつぼ」という
掲示板が日本では最も栄えていました。折りしも創価学会が破門予定になっており
宗創論争は中でも投稿の多いテーマでした。ネット接続者は今の100分の1もいない頃、
だいたい礼儀正しく議論していました。
その後、宗創論争の掲示板は数多く立てられ、その代わり教団の主張のぶつけあいや
単なる荒らしあいの場所に転落して行きやがて消滅しました。唯一生存しているのが
問答迷人さんの掲示板です。21世紀に入ると創価学会2、3世の方のサイトや掲示板が
増え、2-3年前まで活発でした。
おおよそ正しい日蓮教義とは→正しい仏教教義とは→正しい思想・哲学とはの順に
思考が進み最終的に日蓮やカルト教団に対して無関心になり、いわゆるマインド・
コントロールが解けるようです。今は完全に一段落しましたから長年のウォッチャー
からは寂しいのですが、無関心になるのこそが快癒であることはたしかでしょう。

2538偶ロム偶ログ:2008/05/11(日) 03:19:09
ったく。
自分のサイトで何事かを書くのはいい、masturbationレベルであっても。
しかし、そのmasturbationレベルをサイトで公表する行為は、公衆の面前での
露出行為と異ならないものだ。
が、これはまだ、自宅の窓から露出しているようなものだから、その家を避け
て通ればいいだけのことである。
自宅での露出でやめておけばいいものを、見られて味を占め、他所にまで出か
けて露出したものを見せようとするのは勘弁してほしいものである。
しかも、見せるだけでなく、交わろうというのだから閉口する。
それも言いっ放し、つまりは相手など関係なく見境なく放出するわけである。
自分がどれほどアブであるかの自覚すらないのだから・・・。
そうして、富士門流信徒の掲示板への出入り禁止になった者もいる。
顕正会に限らず、創価学会や法華講にもそのような悪癖を持つものはいる。
もちろん彼らは例外なく出入り禁止になっている。
念彼観音力悉怨嫉退散

2539天蓋真鏡:2008/05/14(水) 00:07:11
仏滅後→薬王・天台以後→末法〜地涌〜妙法蓮華・一念三千因果倶時、 鎌倉時代の僧・日蓮も経典を学ぶ内齟齬を来す所もあるので自分の時代の纏め方を考えていたのでは無いかと想います。 識字率の低い時代には 唱題だけでも良い方向に変わって行く事を信じていたのでは?

2540偶ロム偶ログ:2008/05/28(水) 14:38:19
正信掲示板
http://otd4.jbbs.livedoor.jp/401307/bbs_plain?base=21674&amp;range=1
において、法陰亭妙俊という御仁が、したり気に戯れ言を吐いている。
どうやら元石山僧らしく正信会にでも所属しているのか。

久々に、僧侶という族に対して不快感と怒りを覚えた。
尊大であることは、石山系僧侶の必要絶対条件のようである。
吐き気をもよおしてくる。

2541再挑戦者:2008/06/06(金) 20:51:21
 2533>らい病と法華経、、。
  ドーモ、お久しぶりです、、。
 生命の流転〜〜〜変転〜〜の含みを容認していたような日蓮でさえ、「、、黒らい
、白らい、、」に関する言々が、教主釈尊殿の残文(法華経)を証拠としていたようです。
 今でも難病のライ病です。 一筋縄では、、、イカン、、でしょうか、、??

2542偶ロム偶ログ:2008/06/07(土) 23:52:08
500100ゲットしました・・・。
500000はゲットできなかった・・・。←かなり、くやしいっす(苦笑)。
だれがゲットしたのだろう?

2543てんてん:2008/06/12(木) 12:12:48
牧口常三郎関係のサイト(長らく更新が滞っておりますが…)の
管理人 てんてんと申します。

先日、三一書房の関係者とおぼしきかたより、竹中労の『聞書庶民列伝』が
今月末から7月の第一週にようやく発刊されるとの書き込みがありました。

ttp://www.san-ichi.co.jp/

以前、偶ロム偶ログさんに書き込みいただきまして、
すでにご存知かもしれませんが、ひと言お知らせまでと思い
こちらをお借りしました。

不適切でしたら削除していただいてけっこうです。

2544富士川一郎:2008/06/12(木) 13:32:01
500900ゲットしました・・・。

2545偶ロム偶ログ:2008/06/13(金) 15:09:28
>>2543
てんてんさん、ありがとうございます。
知らなかったので、助かりますです。

2546マハー:2008/06/21(土) 09:27:26
久々に寄らせてもらいます。

幻冬舎新書の「日本の10大新宗教」島田裕己を読んでの感想をつぶやき。

真如苑を日本の3大新宗教に数えたことに驚き。
学会関係の記事は短いながらも前書「創価学会」より相当踏み込んだ内容が目立った。吃驚した。
寺門興隆の記事はあまり好きじゃなかったのだが・・・
それはともかく、「よく取材したな。」との印象であった。

2547富士川一郎:2008/06/23(月) 11:35:32
>>2546
>>真如苑を日本の3大新宗教に数えたことに驚き。

それは当然でしょう。ある時期に誠に失礼な言葉ですが
「貧乏人は創価学会に、金持ちは真如苑に」
と言われてましたからね。
実際に真如苑にはかなりの高額所得者が入信したそうですが。

2548顕正居士:2008/06/23(月) 13:03:33
真如苑の公称信徒数は85万人ですが、これは実数です。
信徒は磁気カードを持っており、総合道場応現院という主要施設を年2回以上訪れた人数だそうです。
したがって通常の公称信徒数200万人以上に優に相当しますので、立正佼成会と同程度か以上ですね。

2550マハー:2008/06/28(土) 14:54:13
>>2548
御返事ありがとう。
信者数が頭打ちになってくると、信者の管理が非常に重要になってくると思います。
特に檀家制度を採らない新宗教は尚更でしょう。この点にハイテクシステムの導入は合理的であり真如苑は抜きんでているかと思います。
今後各団体とも指紋管理程度までは進んで行くでしょう。

特に真如苑の場合の磁気カードは、信徒数の把握よりも個人ごとのカルテを作り、ホットリーディングをより素早くする為に利用出来るので
費用対効果が充分狙えます。

2551天蓋真鏡:2008/06/29(日) 20:26:23
超改革案・貢献度を計る僧侶(個人の発言権は同じ):向学多少→僧位、 檀家(個人の成道成仏の権利名誉は同じ):寄付金多少→檀位(戒名)、 学問:座禅・唱題・真言

2552天蓋真鏡:2008/08/12(火) 07:20:29
[正法四大菩薩or末法地涌菩薩][一念三千因果倶時or因行果徳継仏][南無妙法蓮華経or九識心王真如][釈尊or日蓮]南無妙法蓮華経と九識心王真如はイコール=なのか?

2553彰往考来:2008/08/12(火) 16:04:10

管理人さんへ、

ここはつぶやきなので議論はしませんが、2551-2552の如き意味不明の投稿はおかしいと思います。
もし個人の防忘録であるなら自分のPCか日記に行うべきです。すくなくともインターネットで全世界に発信すべき内容ではありません。
私は、書き込みルールの
無意味な多重投稿・反復投稿を禁止します。同じ文章の連続投稿、或いは、文章は同一でなくとも内容的に同じことを繰り返し投稿された場合は削除致します。なお、根拠を示せないとか、すでに論理が破綻しているとかにもかかわらず、臆面もなく投稿し続けられた場合は、無意味な多重投稿・反復投稿とみなし、削除致します。
に抵触し、削除すべきで、繰り返すなら出入り差し止め処分も考えるべきと思いますが、いかがでしょうか?

彰往考来

2554管理者:2008/08/12(火) 16:26:46

彰往考来さん

このルールは議論の中身を視野に置いての書き込みルールだと考えています。

まぁ、この「つぶやきスレッド」は、本来議論禁止スレッドですから、これらの書き込みルールは適用除外的な扱いで今日まで来ました。

ですから、意味不明でも、ご本人に取っては意味のある事であれば、書き込んではいけないとまでは言えないかと思います。

もし、このルールを適用すべきであるという事であれば「禁止事項は、議論禁止のスレッドにも適用されます」という一文を追加した上で、実施した方が判り易いのではないでしょうか。

彰往考来さんから、改めて禁止事項の一部訂正提案を賜りますれば、ご参加の皆様にお計り致します。よろしくお願い致します。

2555彰往考来:2008/08/12(火) 16:43:49

管理人さんへ

「禁止事項は、議論禁止のスレッドにも適用されます」という一文を禁止事項へ追加提案をします。

つぶやくすれっどは独り言、ボヤキの書き込み用で議論は禁止ですが、スレッドである以上、他人に読まれるのを前提にしていると思います。したがって、投稿者本人しか解らない単語の羅列のような意味不明の投稿は削除すべきと考えます。

なお、一文を追加してから削除を実施するのであれば、今までのスレッドには適用されないと理解します。
ご参加の皆様が従来どおりでよいということであれば、そのご意見に従いますが、くそ暑い最中に意味不明のイライラする投稿は避けていただくよう要望します。

彰往考来

2556天蓋真鏡:2008/08/13(水) 00:53:08
彰往考来さん、管理者さん、富士門流の掲示板に関係無く意味不明で何の足しにもならないなら、削除してもらって結構です。論議確認と情報交換などに変えた方が良いかと思います。自分はめちゃくちゃ難儀な質問又は意味不明な書き込みをしているとはおもいません。同じ語句でもカテゴライズの仕分けで質問の内容等訴える中身は違うものでしょう。

2557偶ロム偶ログ:2008/08/13(水) 01:11:23
まぁ、かなり理解しづらいことは確かですが、荒らしや煽りではないですし、
削除はしなくても良いのではないでしょうか。

天蓋さん自身の中にあるいろいろな思いが、整理されないままに噴出しているのではありませんか?

以前から比べると、それでも「、、、」などが激減してずいぶんと文章に近づいておられるようですから、ここは天蓋さんにもう少し分かり易い文章を書くよう心がけていただければと思います。

文章にしづらければ、No.をふって箇条書きでも良いのではありませんか?

2558彰往考来:2008/08/13(水) 10:33:39

天蓋真鏡さん

私は貴殿の投稿は貴殿自身が「富士門流の掲示板に関係無く意味不明で何の足しにもならない」とおっしゃっているのと同意見です。意味不明で何の足しにもならないと思っています。しかしそれだけでは、削除だ!出入り差し止めだ!と騒ぐことではありません。私の理解力が低いためかもしれませんし、ここは私の掲示板ではないからです。ここで私が求めているのは理解できる文章です。内容を問うているのではありません。貴殿は「めちゃくちゃ難儀な質問又は意味不明な書き込みをしているとはおもいません」と述べていますが、私にとっては意味不明の書き込みなのです。貴殿が意味不明な書き込みではないと思っている以上、そこから先に進みようがありませんがとりあえず意味不明の書き込みを例示します。

天蓋真鏡さんの投稿2556でいう「論議確認」とは何なのでしょうか? ここはつぶやきスレッドですから「議論」はだめですが、「論議」ならよいという意味ですか? そもそも「論議確認」とはどういう意味でしょうか?私には「論議確認」の意味が全く理解できません。「論議」とは広辞苑によれば「問答によって理非を明らかにすること。互いに意見を述べて論じ合うこと」とあります。「論議(互いに意見を述べて論じ合うこと)」を「確認(たしかにそうだと認めること)」するのなら議論禁止のスレッドに投稿すべきではありません。議論しようにも議論が禁止されているスレッドで垂れ流しのように投稿されています。これではアンフェアーです。だからフェアーな扱いを管理人さんに求めたのです。決して自分の気に入らないものを強制的に排除するのが目的ではありません。

書き込みのルールによれば、この掲示板の主旨は以下のとおりです。
1.富士門流信徒同士の意見交流の場
2.各所属団体の活動に疑問を持つ方々の心情の吐露の場
3.現状の各団体には所属していないが、信心を捨ていない人達の場
4.富士門流の改革を外部から支えてくれる人達の場
5.純粋に富士門流の信心を知りたい非信徒の質問の場
6.富士門流の聖職者との意見交流の場
この方向性に即した上で、お話が盛り上がってくることを期待して掲示板を設置いたしております。

天蓋真鏡さんの投稿趣旨は2番目なのですか? それなら心情の吐露が他人に理解できる文章でなければならないと思いますが余計なお世話ですか?余計なお世話なら貴殿の投稿は捨て置くことにします。以後、余計なお世話はいたしません。

2559天蓋真鏡:2008/08/13(水) 12:43:42
彰往考来さん、自分の言葉足らずでイライラさせてすみません。自分の書き込みで何か引っ掛かり物事の見方考え方のヴァリエーションが増えればと思っていたのですが、早々に容易くいきませんでした。自分から見ると否定と肯定が極端な結論で終わってしまいそうで。議論確認は議論の質疑応答のレスの事で、つぶやきスレッドは教義論争以外の情報交換の場みたいなので情報交換と括った看板にすれば良いのでは無いかと思った訳です。自分は④⑤⑥の立場を標傍したいなと思っています。

2560彰往考来:2008/08/13(水) 16:39:08

天蓋真鏡さん

どうも私には貴殿の2559の投稿がよくわかりませんね。ここは議論の場ではありませんから私の感想を述べます。議論の場でない以上、貴殿が答える必要はありません。

>自分の書き込みで何か引っ掛かり物事の見方考え方のヴァリエーションが増えれば
私には全く意味不明です。誰が引っかかるのですか?あなたですか読者ですか?何がひっかかるのですか?引っかかって誰の物の見方が増えるのですか?増えてどうなるのですか? Variation(変化、変異)を理解されていますか?

貴殿は信仰の世界で何故variationが必要なのですか?という質問に答えられないはずです。私は信仰の世界でvariationが必ずしも必要とは思っていません。

>つぶやきスレッドは教義論争以外の情報交換の場
そうでしょうか。それでは情報交換の場でありながらなぜ議論が禁止されているのでしょうか。情報交換であるなら応報があたりまえです。つぶやきスレッドは情報交換の場ではありません。(管理人さん、そうですよね?)
情報交換の場がご必要であれば相応のスレッドを立ち上げられてはいかがですか?ただ貴殿の投稿は情報を供与しているのか求めているのかさえ不明なのです。それでは情報など得られませんし、貴殿の発信する情報モドキを必要とされる奇特な方がおられるかどうかわかりませんね。

>自分は④⑤⑥の立場を標傍したい
というのは、前の文章には丸数字(④〜⑥)がありませんが、内容から判断して
4.富士門流の改革を外部から支えてくれる人達の場
5.純粋に富士門流の信心を知りたい非信徒の質問の場
6.富士門流の聖職者との意見交流の場
でしょうが、あなたは富士門流の改革を外部から支えているのですか?それでは意味不明の投稿など有難迷惑というものです。
純粋に富士門流の信心を知りたい非信徒の質問というのであれば、単語の羅列などそもそも人に物を尋ねる際の礼儀を失しています。
聖職者との意見交流であるならなおさら礼儀が必要ではありませんか?
そもそも質問や意見交流なら議論が禁止されているスレッドへの投稿は自己矛盾しています。

要するに貴殿のロジックはすべて破綻しているのです。貴殿がどういう目的で投稿されているのかさっぱりわからないというのが私の感想です。

2561管理者:2008/08/13(水) 17:27:39

彰往考来さん

天蓋真鏡さん

>つぶやきスレッドは情報交換の場ではありません。

そうですね、このスレッドは、本来、息抜きの為の、休憩室として想定されています。独り言専用スペースですから、ここで情報交換を期待する事はかなり困難ではないでしょうか。なにしろ、ここは応酬禁止、議論禁止ですから。

2562マターリ:2008/08/13(水) 18:34:14
天蓋真鏡さんのカキコは、数学の方程式のように簡潔にまとまっている
のだと思います。しかし簡潔過ぎて、他人が理解し辛いので、説明書き
が必要と考えます。説明書きをすると、本文の5倍〜10倍くらいの、長い
文章になるのではないでしょうか?

昔は、難解な文章を書く人が、文章の達人と思われていました。難しく
て、凡人には訳のわからない文章ほど、高級と思われていました。

しかし現代では、平明達意の文章が、良い文章と考えられています。
つまり、簡単で、しかも他人に意味が通じる文章です。

こたつに入って、おばあさんに話してみて、意味が通じるような文章が
求められていると思います。

こちらの掲示板に当てはめますと、どんな仏教初心者が見ても、簡単に
理解できるような、やさしくていねいな書き方が、必要なのでしょう。

2563天蓋真鏡:2008/08/13(水) 20:31:00
ヴァーリエションが増えると言うのは、自分が信仰するに当たって理解するために必要な理屈・説明で、只見た儘感じた儘で理屈など要らないなら他人の言う事書く事からは目を背ければ良いだけの事。天蓋真鏡の書き込みは完全無視すれば宜しいのでは無いでしょうか。自分はロジックをごねる程の質量が無いので此のレス立てに書いただけの事なので無理に返事を求めてません。結局「自分で調べて自分で考えて自分で行わなければ理解できない」のが信仰信心の質量ならば、釈迦や日蓮の行いの真似をして得られた事が自分の真実であり教義でしょう。シンプルに結論を得たいなら他人に質問する必要もないのでは無いでしょうか。

2564天蓋真鏡:2008/08/15(金) 15:00:42
漫荼羅掛軸を御先祖様に説明するのか[中央首題・自分の一念三千因果倶時を尊形する経典、泥中キレイに花を咲かせる蓮][十界互具・10の世界要素を秘めている、どんな形で表現するかは各々個人差][三国四師・釈尊天台伝教日蓮][四天王・東西南北][二明王・愛染自分の病魔を折伏して健康管理、不動自分を五大明王で摂受して人生充実]云々

2565犀角独歩:2008/08/16(土) 18:52:10

ただいま、「管理者からのお願い」で、天蓋真鏡さんのつぶやきに関しては、検討中。
2564は、ややフライングと感じますね。

2566彰往考来:2008/08/17(日) 09:45:02

ここはつぶやきなので、以下ブツブツ。

天蓋真鏡さんの投稿をみていますと、まるで私の出来の悪い部下の仕事をみているようなのです。唯我独尊というか天動説(世の中は自分中心に動いている)というか極楽トンボというか。出来の悪い部下は自分が正しいと思っているのでよけい始末が悪いです。
仕事がら(技術開発のマネージャーをしています)部下がわけのわからない報告書を持ってきた場合、真赤に添削したり、時間をかけて指導したりすることがあります。それがその者に対する教育であり放っておいたら将来大変なことになるからと思うからです。しかし回りの人の大方の意見は、放っておくというものです。曰く、忙しいのでアイツにかまっているヒマはない。曰く、言っても聞かない。曰く、自分には関係ない。等々。
確かに真赤に添削したり、時間をかけて指導したりすることは負荷が多く大変です。でもそれをしないといけない。心を鬼にしてもしないといけない。でないと出来の悪い部下に足を引張られ会社の発展はないし、事業の継続もおぼつかなくなってしまう。そういう想いです。
だから私は理解できない文章は排除します。もちろん内容が濃く難解で自分の知識でもって理解できないものは排除しませんしできません。排除する(やり直しを命じる)のは小学校の日本語からやり直しなさい!もう一度足し算から勉強し直しなさい!中学校の英語のレベルですよ!という程度のものです。

天蓋真鏡さんの2564の投稿は2565で犀角独歩さんがご指摘されているように、まさに今管理人さんのところで検討していただいている最中であり、常識的には1週間程度のこの期間中は投稿を見合わせるべきでその意味ではフライングといえます。現時点でこのような内容を投稿してはいけないというルールはありませんが、私には、「誰に何をいわれても俺は訳のわからない投稿を継続するゾという天蓋真鏡さんの意志表示」にしか見えません。

天蓋真鏡さんの投稿が理解できないのは単語の意味付けがデタラメだからです。例示するなら、天蓋真鏡さんは2563で「自分はロジックをごねる程の質量が無い」と述べています。質量(mass)とは「物体が有する固有の量」という定義です。よって「自分はロジックをごねる程の質量が無い」というのは日本語になっておらず意味不明です。但し、前後関係から類推するに天蓋真鏡さんは「自分はロジックをごねる程の技量が無い」、「自分はロジックをごねる程の能力が無い」というような使い方で質量という単語を使っていると思われます。しかし質量には技量とか能力とかという意味はありません。もし、ここの文章を天蓋真鏡さん流に単語の羅列をしたらどうなるでしょうか?
「ロジック、ごねる、質量、無」
どうでしょうか?意味が通じますか? 単語の意味付けがデタラメだと到底理解することができず、この人は何をいいたいのかさっぱりわからないので余計な労力を要し結果としてイライラするのです。

2567一読者:2008/11/15(土) 23:46:53
犀角独歩さんの戒壇本尊は偽物だということが、このコーナーで理解でき、大石寺信仰から少しずつ離れていく自分があります。まだmだ知りたいことはたくさんありますが、罰だとか謗法だとかいう言葉の呪縛から時はなれていくことができることに、喜びを感じます。ありがとうございます。とはいえ、では歴史の真実は何かを知りたいと思います。ぜひ、戒壇本尊が偽物だという書籍を一般書店でも手に入り、多くの方に知っていただくようにしていただきたいのです。島田教授の最新刊に犀角独歩さんの研究が掲載されていたので、そのように思います。難しい教学のことはわかりませんが、あまりに盲信している方が多く、私の親族もすべてそうなのです。目覚めてほしいのです。どこに書いてよいか分からないのでここにしました。

2568犀角独歩:2008/11/16(日) 07:47:59

一読者さん

はじめまして。ご高覧有り難うございます。

2569偶ロム偶ログ:2008/12/31(水) 03:45:02
あの、山●●友サンが29日夕方、自宅で倒れ亡くなったとのこと。

享年72歳。

長年にわたっての創価学会批判を評価する人たちもいるようだが、私の見方は
全く異なる。

彼とそのお仲間たちの「創価学会批判」のおかげで、創価学会に対するまとも
な研究や批判が壊滅状態に陥ったと、私は思っている。

彼らは生活のために「創価学会批判」という名目の営業活動を続けていただけ

である。

山●●友サンたちのおかげで、創価学会批判は30年は遅れたと思う。

だから冥福は祈る気にはならない。

幸いなことにようやくここ数年は島田裕巳さんがまともな「創価学会論」を書
いているので、マスコミやジャーナリズムも多少は風向きが変わり始めたよう
な気もする。

2570たけぞう:2008/12/31(水) 17:41:18
亡くなりましたか。
彼の人生はなんだっだのだろう。
私も学生部時代、彼とほぼ同期で一緒に活動してきました。
もちろん、原島氏も一緒です。
学生部時代から、彼は卑屈というか卑怯というか、嫌な性格でした。
でも当時の学会は、東大とか京大の学生を特別扱いし、たいした経験もないのに幹部にしたり。
そんな中で弁護士第一号。
池田名誉会長がさかんにチヤホヤしていました。
チヤホヤされ、甘い汁を吸い、今度は批判者として生きていく。
コツコツと真面目な信仰出来なかったですかね。
信心第一、唱題第一、易しそうで難しいことなんですね。

2571いちりん:2008/12/31(水) 18:29:14
そうですか。山友さん、亡くなりましたか。
原島さんも、たしか今年、亡くなったんですよね。

ま、彼らの批判によって生々しい創価学会の実態、池田さんの実像が、伺えたようにも思います。

池田さんと学会に対する深い思い入れがあったがゆえに、かえって憎悪も怨念も強いものがありましたよね。
人生のほとんどを学会に使った生き方でしたからねーー。
その人生はなんだったんだろうと。
つらかったろうし、憎かったろうし、やぶれかぶれにもなったろうし。

いちど正信会の大会で、佐原まで出かけていって、いちばん前でお二人のことを観察させてもらったことがありました。
原島さんは、なにか肩の力が入っておりました。山友さんは、まあ余裕でにこやかでありました。

2572幻論乙坊:2009/01/01(木) 19:41:21
諸賢
破顔一笑
明けましておめでとう御座います。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。

本年よりHMをしゅんかん→幻論乙坊に変更致しました。

2573再挑戦者:2009/01/01(木) 20:51:31

 2570 > 、、チヤホヤされ、甘い汁を吸い、、、。>
 
 その甘い汁の存在 自体も 末端のわれらは、知りませんでしたゼ !!!
 その内部の、秘密にしたい情報を秘匿したい団体、?さえも、、知り得ません、でした、。

 その、カギとも言える扉の、パンドラの、蓋を、開けてくれた、? という、現実的な効果 ? だけは、 マジに評価、したいですナ、。 
 
  S会 関連者には 肯定不可能な厳しい案件、だろうが、?

2574偶ロム偶ログ:2009/01/03(土) 05:49:38
まぁ、いちりんさんや再挑戦者さんの言い分にも一分の理はあります。

しかし、彼らが本当に学会時代の自らの言動の非を反省懺悔していたかどうか。

彼らの池田サン批判は彼らが学会にいた時の話題が主でしたが、その時に、実質
池田礼賛と神格化を進めていたのは彼らでした。

除名後もアンフェアな批判(?)もどきを繰り返し、結果として学会を利する
ようなていたらくのケースが目に付きました。

パンドラの箱なんぞは、昭和42年に元学会員植村左内氏(故人)によって、とうに
こじ開けられていたのです。

仮に彼らによって箱が開けられたとしても、それで学会になんらかのダメージ
なり反省なりがあったといえるのか。

彼らが除名されても勢力の実質的バロメータといえる議員数や得票数は増加して
います。

ガセネタによる批判の弊害は創価学会を政権与党にし、創価学会を研究する学者は
ほとんどいなくなってしまいました。

つまり反効果だけが残ったのです。

2575一読者:2009/01/04(日) 11:29:59
私はとある寺院(正信会でしたが)で原島さんとお会いしお話したことがあります。私はご家族を大切にしていますか?と言ったことがあります。そのとき涙をためて、つらいことです。と答えられ、あぁ幹部だった方も人間らしいところがあるなと感じたものでした。このころは正信会寺院を回り、講演したりしていた時期ですね。どこか哀れでした。結局は宗創紛争に巻き込まれた被害者でもあったのだと思います。山友さんもそうかもしれません。組織の下の方の人間には分からない世界があったのでしょう。ただ、お二人のお蔭で脱会した方もあったわけで、私などはそれから本当にこの宗派は正しいのだろうかと考えるようになったのも事実です。その意味では感謝しています。複雑な事情や細かい人間性は分かりません。ただ少なくともなくなられた方には、慈悲心で合掌かなと思います。さきほど創価の方でしょうか、あいかわらず口汚くお二人を罵るブログを見て感じました。本当にこの宗派には寛容というか慈悲心がなさ過ぎますね。ちょっと、つぶやいてみました。

2576再挑戦者:2009/01/04(日) 18:56:51

 2574、、>> 池田 礼賛と 神格化をすすめたのは彼等でした、。、、、ガセネタによる、、つまり反対効果だけ、、>>

 なかなか、、きついご意見 でしょうか ?
  
 「最も チヤホヤされての特別な本佛のようなヤラセ的な仕掛けが奏功して、 最も 甘い ? 汁を ? 思う存分に 吸い始めた、? 目の前の 暴君化した、 親分に対して、腰が引けた大勢多数がいた、、。
 
 その視点に、??? ・ マーク を 投影 されたのが 彼等 では無かったか  ?? (「池田大作の品格」、「「創価・公明@2chj掲示板)

2577再挑戦者:2009/01/04(日) 20:16:30
2574 、、 S会への思い入れ には 理解 するが、 エエカゲン 化けの皮は とっくに ? ですぞ !
 
 一信者を、、蹂躙するのは ? か ?

2578偶ロム偶ログ:2009/01/05(月) 09:37:20
つぶやきです。

名指しであればきちんとお答えもするのですが、レスナンバーでの意見ですので(笑)

>S会への思い入れ

そんなものは30年以上前に捨てています。

>理解 するが

無用・迷惑なことですし、理解してないですよね、言葉だけ(笑)

>化けの皮は とっくに

意味不明かつ石山創価圈特有のレッテル貼りはつまらんですよ。

自己満足の文体もいーかげんにやめないと本当に誰からも相手にされなくなりますよ。

あ〜あ、正月からつまらんですなぁ。

2579一読者:2009/01/05(月) 16:00:40
再挑戦者さんは何を主張したいのでしょうか。賛成にしろ反対にしろなんにしろ、意味の読み取れない文章をこうして出してくるのは、みなさんに失礼かと思います。自己満足の壁の落書きではないのですから。偶ロム偶ログさんではありませんが、年の初めの文ではありませんね。

2580再挑戦者:2009/01/05(月) 19:07:23

 それは それは ご迷惑をおかけしまして ドーモ です 、。

 なにぶん 「 本当に 有るか ? ダマシか ?不明 ? の 成仏?」 とやらに ぞっこんにほれ込んでおる バカ ウマ、シカ、 ドアホ、?の一員 でござる 。
 それゆえ お気に触る、? が あれば 私の 無学のいたすところ 故 「 深心から 陳謝を 致したく 存知 申し あげまする、」 、!! 敬具。

2581顕正居士:2009/02/06(金) 00:51:46
宗教というものを現世や来世の自己の利益を期待して信仰するのであれば、
これほど人倫に反したものはありません。ちょっとよい詩を見つけました。

「むしろ地獄に」

弥陀の敵(かたき)ぞ放逸ぞ/進めば極楽に入らう/一歩の後は地獄の火の/燃え立つを知らじか
名号の旗の下(もと)に/立ちたる僧は罵る/親とて、主君とて/信心なきは仏敵ぞ/宗門の外護(げご)の役/
命ひとつ奉れと/攻めよする勢ひは/さながら猛火(みゃうか)の焔なり

三葵(みつあほひ)の旗はなえたり/金扇光うせて動めく/あはや主の元康/この原に消えたまはむ
思へば、主君、後世、忠義/忍びがたきわが心/尽未来まで苦を受くるとも/この様を見るは憂し

いざ来れと総角(あげまき)を/引かへして大音に/われは無間に落ちなむ/心がはりし土屋と名(なの)る
五騎三騎のつはもの/悪業と声かけて/槍あはせはたはたと/穂長の薄(すすき)ひらめく
土屋は斃れたり/敵にしてまた友垣なる/数の勇者も斃れたり/闇は静(しづか)にすべて掩ひぬ。

-山崎紫紅 『大日蓮華』

*土屋重治 一揆側に加わっていたが、家康公が危険に晒されているのを見て、「もう地獄に落ちても構わない」
といって、家康公を助け死んだという。

2582たけぞう:2009/02/06(金) 15:06:36
hageさん
宮本さん
いちりんさん

このスレッドで日蓮仏法の信仰を語りませんか。

私は、かねがね創価学会教学での日蓮本仏論に疑問を持ってました。
開目抄の、詮ずるところ天も捨て給え云々を本仏の境涯と解釈し、開目抄後段の日蓮聖人が過去に自分が法華経の行者を批判したところには言及しないのです。
ですから、学会教学ですと、法華経の行者日蓮という偉大なる凡夫が伝わってこないのです。
そうこうしているうちに、久遠元初を検索すると、本因妙抄と百六箇抄しかヒットしない。
更に、いかにも偽書という内容の産湯相承書が本因妙抄に重用視されている。
こんなことを試行錯誤しているうちに、一連の御書が偽作ではないかと思い始め、更に日蓮本仏論の要である日寛上人の六巻抄まで疑問視し始めました。
そんなことを友人の創価学会人に話しても、興味を示さないので一人で悶々と御書を読んでいました。

そんな時にこの掲示板に出会ったのです。
そして、過去ログも読み、なるほど、なるほどでした。
しかし、投稿している皆さんの教学のレベルが高いので読む専門で投稿はいたしませんでした。
ですが、最近になって思うに、創価学会や大石寺の批判はしますが、肝心の信仰のことは全く触れないのです。
信仰について、投稿出来る掲示板はないかと、いろいろ探しましたがないのです。
私は、日蓮仏法の研究者ではありません。己が信仰の糧になるため教学を学んでいます。
そんなわけで、信仰について、細かく言えば既成の教団教学を捨てて日蓮聖人は何を言いたかったのかを語り合いたいのです。
皆さんもそれぞれ別の教団に属しています。
しかし、この掲示板に投稿するということは、何か教団では満たされないものをお持ちだと考えます。
そんなわけで、満たされない何かを問題にしてもいいし、教学の研鑽でもいい、フリーな対話をいたしませんか

2583たけぞう:2009/02/06(金) 15:23:37
hageさん

早速のご回答ありがとうごいます。
日蓮聖人正宗関係とは明らかに違いますね。
正宗関係は、日蓮本仏論ですし、弘安2年の大御本尊を戒壇本尊としてますから。
でもこの掲示板では、上記の二つとも否定しています。
そうなると、どこが違うのだろう。
素朴な質問ですが、身延派と八品派との違いはなんでしょうか。

それから、hageさんは代々の八品派ですか。
曼荼羅御本尊を御安置しているのですか。
御看経って、御経を読み唱題することですか。やはり、方便品と寿量品ですか。
御講というのがありますか。

2584たけぞう:2009/02/06(金) 15:40:17
宮本さんへ

何度か対話しましたが、一見普通な真面目な学会人とお見受けします。
なんで、こんな魑魅魍魎な掲示板に参加しているのですか。
それに、オフ会は創価学会批判だし。
私の場合は、学会内部で日寛上人批判などしても、誰も話し相手になってくれないからです。
まして、日蓮非本仏論なんて、誰も相手してくれません。

2585たけぞう:2009/02/06(金) 15:48:47
いちりんさんへ

初めまして、たけぞうです。
確か、正宗でしたよね。
私も、入信当初は法華講でした。
でも、お寺の先生が会合嫌いなせいか、座談会は講頭さんの自宅でやっていました。
そんなわけで、御僧侶とお話をしたことがないのです。
法華講でもいろいろな本を読みましたが、完璧に日蓮本仏論講ガチガチで引っ越しのさい、全て捨てました。
いちりんさんが、この掲示板を読んでいる理由はなんですか、教えてください。

2586偶ロム偶ログ:2009/02/06(金) 16:02:44
たけぞうさん

>>こんな魑魅魍魎な掲示板

質問1.あなたが「魑魅魍魎」とおっしゃる根拠を明示していただけませんか。

>>オフ会は創価学会批判だし

質問2.あなたはすべてのオフ会に参加されましたか。

質問3.オフ会が学会批判だという根拠を明示して下さい。

批判と誹謗中傷は全く異なるものです。

批判に対してはきちんと反論するなり意見を述べれば良いだけのことです。

また、これまでオフ会でのテーマは、学会よりも日蓮正宗・顕正会・本尊問題の方がはるかに多いのですよ。

質問4.上記2584の書き込みは、これまでこちらに書き込まれた方たちへの誹謗中傷になると思われませんか。

以上にお答えいただければと思います。

2587たけぞう:2009/02/06(金) 16:15:22
宮本さんへ

>今日の朝10時、二人の壮年部と共に、勤行しました。
>一人の方は、39才で独身、障害者2級(精神病)で、生活保護、妹さんは36才で筋ジストロフィーで寝たきりです。
> 入信してまだ数年、大変です。では、また。

偉いですね。
私も、こうした活動はしたいのです。
個人指導というのが、滅茶苦茶好きなんです。
座談会に出て、他人の話を聞くのは苦手です。

そんなわけで、宮本さんのやっているような活動をしたいと、地区部長に相談しましたが、なしのつぶて、それで担当に入っている副区長にも相談しましたが、やはり駄目でした。
地区部長にもブロック長にも、別々に一席設けて、酒を飲みましたが、なんだか話しがのらずそのまま。
5年前までは、普通の住宅街でしたので、結構活動もさかんで、飲み会も盛り上がっていました。
団地っていうのは、一種独特なものがあります。
まずは、学会人が尋ねてきても家に入らず、玄関先というのが常識で、どうぞどうぞと言っても家の中に入ってもらえません。
もちろん、若き男女青年部はいません。
その代わり、変な話しですが、組織内で怨嫉というのが全くありません。
婦人部も淡々として、妻も喜んでいます。
妻は、副本部長なので、以前のブロックでは毎晩11時帰宅でした。
それから、電話連絡で12時。
引っ越しと同時に、夜妻が居ないと、私が自殺する恐れがあるので、妻は夜の会合は参加しないことにしました。
やっと、我が家も平和が戻りました。
妻は、大学在学中に私と婚約。卒業して3ヶ月で結婚。
ですから、女子部の経験なく学生部からいきなり婦人部。
若いから、すぐに地区担、そして支部婦人部長です。
婦人部の過激な昼夜の活動を30年間やってきたのですから、頭が下がります。
それに、怨嫉だらけの支部ですから、役職の下の人に人気のある妻は随分と睨まれていました。
今は、午前の唱題会、午後は韓流ドラマの世界です。

2588hage:2009/02/06(金) 16:27:14
たけぞうさん、こんにちは。

八品派は、室町時代の日隆聖人の流れを汲んでいる宗派で隆門ともいうそうです。
過去には富士派と壇林(僧侶の学問所)を共にしたり、交流はあったそうです。
冨士教学研究会−投稿論文集−の中の記事にも「富士門と隆門との接触が盛んであった」とあります。
http://xbbs.knacks.biz/dangisyo
「日蓮本仏論」は日隆聖人の「法華天台両宗勝劣抄」(四帖抄)が元になっているという話も聞きます。
(八品派では日蓮本佛諭は否定していますが)
私は違うのですが、本門佛立宗はご存知ないでしょうか?

2589犀角独歩:2009/02/06(金) 16:32:30

たけぞうさん

本日まで、管理者さんから依頼されて、代理管理を行っている犀角独歩です。

こちらのスレッドは冒頭にありますとおり、

「普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!」

という趣旨で立っています。

2582以降の書き込みは、その趣旨に反している判断できます。
つきましては、こちらでの議論は、ご遠慮ください。

なお、投稿内容につき、偶ロム偶ログさんがご指摘なさったような不適切と思える箇所もありますが、この点は、明日以降、管理人さんがご判断なさることと存じます。

以上、注意を申し上げ、警告とさせていただきます。

引き続きこのスレッドの趣旨に反した投稿をなさった場合は、遺憾ながら、削除させていただきます。ただし、削除投稿は保存し、明日以降の管理にさんのご判断に委ねることといたします。

2590犀角独歩:2009/02/06(金) 16:42:06

hageさん

投稿が前後しましたが、2589に記した趣旨の遵守をお願いいたします。

2591hage:2009/02/06(金) 16:50:47
犀角独歩さん

趣旨に反した書き込み、申し訳ありません。
問題がありましたら、削除していただければ幸いです。

2592たけぞう:2009/02/06(金) 16:58:16
偶ロム偶ログ さんへ

>質問1.あなたが「魑魅魍魎」とおっしゃる根拠を明示していただけませんか。
現役の学会人が堂々と、学会批判を出来る掲示板はありません。
本音で喋れる掲示板ですので、それが言論の自由があるというタテマエで無いという学会の組織からみると、魑魅魍魎。

 376 名前:たけぞう 投稿日: 2009/01/21(水) 21:06:38
   >hageさん
   >ここは富士門流になっていますが、
   最初は富士門流のプライドで入りますが、パンドラの蓋を開けて魑魅魍魎。
   迷って迷って、最後には富士門流でなくなったりして。
   私、戸籍上は創価学会かろうじて守ってます。
 377 名前:管理者 投稿日: 2009/01/21(水) 21:23:04
   たけぞうさん
   >魑魅魍魎
   どこかの会の会長さんが、当掲示板にご参加の方を名指しでそう批判したそうですね。
   彼らから見れば、ここは魑魅魍魎の巣窟かな(笑)。
   掲示板管理者は、さしづめ、巣窟の仕掛け人かな(笑)。
魑魅魍魎は、ただのご愛敬です。

>質問2.あなたはすべてのオフ会に参加されましたか。
最近なので参加してません。

>質問3.オフ会が学会批判だという根拠を明示して下さい。
「今回は、創価学会・顕正会・日蓮正宗について考えます。(もちろん「批判的に」です)」
この文章を読んで判断しました。

>質問4.上記2584の書き込みは、これまでこちらに書き込まれた方たちへの誹謗中傷になると思われませんか。
思いません。
日蓮非本仏論を堂々と論議出来るようになったのもこの掲示板のお陰です。
それは、何度も書いております。
また、学会内部でいう御本尊と曼荼羅の違いを教えてくれたのも掲示板のお陰です。
このことは、昨年12月31日犀角独歩さんへ感謝の文をのせてありますのでご覧ください。
ただ、そこまではいいのですが、日蓮非本仏論となると、種脱相対はどうなるのか、教観相対はどうなるのかという疑問が生じてきます。
それを現在思索中です。そして自分の信仰とどうつなげていくのかが検討内容です。
今まで、閲覧してきましたが、信仰態度や折伏業の悩みについては討論されておりません。
批判した先に自分たちの信仰の在り方、折伏の在り方そんなものを考えてみたいのです。
創価学会批判よりは、私にとって創価か学会の活性化の方が問題です。
現状は、婦人部だけで成り立っている創価学会、このままでいいのか。
慈悲の仏法を信じているのに、何ら社会的活動をしていない創価学会。
池田氏の一言でなんでも決まっていく創価学会、せめて人事は選挙制度導入して民主化できないものだろうか。
等々、考えますが、現実は池田氏生存中は無理なようなので、ポスト池田に期待してます。

2593たけぞう:2009/02/06(金) 17:02:45
犀角独歩さんへ

スレッドの意味をよく理解せず文章をだらだらと書いたことお詫びします。

2594犀角独歩:2009/02/06(金) 17:14:13

たけぞうさん
偶ロム偶ログさん

本来であれば、すでに2589で注意をいたしておりますので、2592のご投稿は控えていただくことが筋であったろうと思えます。
しかし、それ以前の、偶ロム偶ログさんの2586のご質問にお応えになった形ですので酌量の余地はあろうかと存じます。

ある面、偶ロム偶ログさんのご質問も当スレッドには反しますが、それは、それ以前のたけぞうさんの投稿に難じる性質上、いたしかたのない側面を有していました。

本来であれば、両投稿を削除すべきところですが、あくまで、代理管理という立場ですので、このままとします。

しかし、先に申し上げましたとおり、こちらは「つぶやき」スレッドですので、いったん、この議論は打ち切っていただくようお願い申し上げます。

2595宮本:2009/02/06(金) 17:18:35
たけぞうさんへ
>こんな魑魅魍魎な掲示板に参加しているのですか
ここは、魑魅魍魎では、おそらくないと思います。
 一例ですが、たしか「河辺メモ」の内容ですが、
(所謂、大御本尊が偽作では、ないかといゆ意見は)犀角独歩さんの
方が早く言っておられたと記憶しています。
(記憶違いでしたらごめんなさい)
ですから、「河辺メモ」の件は、早くから知っていました。
とらえかたが、学会の公式見解とは、違いますが。
 また、学会の知識だけだと、教学力等が、向上しないと思います。
と言ゆうより、それ以前の問題がある場合があるような気がします。
(四箇格言、五重相対論も、現代の現実とマッチしていません)
内部の者同士の教学では、解からないと思います。
>オフ会は創価学会批判
これは、当たり前のことかと思います。
批判される部分があるのだと思います。
(完全、完璧、100%良い宗教組織
があるのかもいれませんが)
で、民主主義ですからね。

2596犀角独歩:2009/02/06(金) 17:21:12

宮本さん

2589にたけぞうさんに申し上げたとおりです。
こちらで議論を継続することはおやめくだささい。
注意いたし警告といたします。

2597宮本:2009/02/06(金) 17:43:28
犀角独歩さんへ
 了解しました。すみません。送信した時、犀角独歩さんの書き込み
 前から、書いていたもので、前後してしまいました。

2598マターリ:2009/02/07(土) 11:21:56
素朴な疑問スレッド3721で、法難で亡くなった弟子に関する御書が、極め
て少ない件について質問させていただきました。しかし、答をいただけず
残念でした。

日蓮は厳しい反面、とても優しい面があると聞いていました。その優しい
面を、ずっと探していましたが、私は御書から感ずることができませんで
した。

本当に優しいのなら、法難で亡くなった弟子に対して、書いた文字のうえに
涙が落ちるような、心優しい文が多くあるのではないかと思っていました。

2599大縫 薫:2009/02/16(月) 11:53:09
 扶桑根源代流沙門の某師は當家沙門訓戒に
「布施なき経は讀むべからず 布施なき法は説くべからず 
 財施應分の法施無きは罪業無限累積と知るべし」という口伝が門下に残って
 いるそうですが、経典か遺文にも同様の事が示されているのでしょうか?
 お分かりの方がいましたらご教示願います。

2600顕正居士:2009/02/17(火) 15:58:06
松本師のことですか。誰が言いはじめたことかわかりませんが、宗派問わずそういうことを
言う坊さんはいるようです。読経がサービス業の一種になれば、価格破壊を避けるために
そういう考え方も出るのでしょう。
仏典の布施という言葉には儀礼の執行に対して坊さんに支払う対価の意味はありません
から、経典にも遺文にも根拠はあり得ないです。

2601犀角独歩:2009/02/17(火) 16:01:44

布施とは、菩薩が積んだ功累ねた徳を衆生に布き施すことでしょう。
菩薩戒を持す側が強要するようになっては、もはや終わりですね。

2603大縫 薫:2009/02/17(火) 20:36:02
顕正居士さん
そうです、松本先生です。
やはりその様な根拠は無いですか・・・

独歩さんが言われるとおりだと自分も思います。
尚當家沙門訓戒は活字化されています。

2604大縫 薫:2009/02/18(水) 14:24:32
法華宗本門流の寺院で冥加料を明示したHPを見つけました。
布施については、寺の雑務、草むしり等をもって身の供養で布施に代えさせて
もらうことも出来るそうです。

妙信寺公式HP
http://www.myoushinji.com/info/info.htm

2605hage:2009/02/18(水) 21:36:50
七布施を検索すると

眼施・・・たたかい目差しを布施する事
和顔悦色施・・・和らいだ顔、喜びの顔色の布施
名言辞施・・・言葉による布施、穏やかな話し方の布施
身施・・・身体に寄る布施、つまり労働奉仕
心施・・・思いやりのこころを布施する事
床座施・・・満員電車などで座席を譲る事
房舎施・・・人を気持ちよく宿泊させてあげること

以上の七つの「施」をもって、無財の七布施と言う。

とあります。

お坊さんが、御法門を信者さんに対して説かれるのを法施とも言いますよね。

2606犀角独歩:2009/07/26(日) 14:03:58

問答さん

告知力のある貴掲示板の場を貸してください。

すでにblog、GREE、mixiでは告知しましたが、あろうことか、わたしが盗用をしたというデマが流されているのです。

まったく冗談じゃない。名誉毀損も甚だしい。浅井さんの「魑魅魍魎」「創価学会崩れ」「大謗法者」という悪口雑言よりたちが悪い話です。
以下、上述へのわたしの抗議を添付させていただきます。

***

あきれ果てた言いがかり、わたしが盗用?

まったく驚くこととはあるもので、金原明彦さんの周辺では、わたしが盗用したのだと言いふらしているのだという。

なにを言っているのやら。
わたしが、大石寺の所謂「本門戒壇の大御本尊」が弘安3年5月8日の日禅授与本尊を原本として臨模作為された作品であるとは、2005年9月9日の段階からインターネットで発表したとおりである。こうした下らない言いがかりをつけられないために発表した当初からカウンターをつけておいた。金原さんの出版は2007年8月20日である。

何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html&quot;

『現代宗教研究』第39号所載
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/pdf/syoho39.pdf

大石寺から離脱して、創価学会から給料をもらっている佐藤伴道さんという還俗者や、西山茂さんあたりが、それに乗っかっていると言うが、本当であろうか。本化ネット、福神でもそんなことをいっているのか? もし、そうであれば、こうした人びとの良識も含めて抗議したい。

わたしが、こうした結論に達していく経緯は、富士門流掲示板における管理人・問答迷人さんをはじめ多くの方々との公開議論に基づいている。同掲示板を時系列で閲覧してもらえばすぐにわかることである。

だいたい、金原明彦さんなどや、その周辺の人びとは、今に至るまで、誰一人会ったこともない。聞くところに拠ると、わたしがネットに書き出す以前に創価学会本部に金原さんが、こうした文書を出し、その文書をわたしが盗用したなどと言う。

だいたい、わたしは創価学会を脱会しているのであって、今に至るまで創価学会とのパイプなど存在しない。創価学会本部に出した文書など、どうやって、わたしが手にできるというのか。それよりも、ネットで公開したものものや、先行出版物を、そのまま採用することのほうがはるかに簡単ではないか。

わたしが出した書籍の目次立て、説明順序とまったく同様の内容で書かれた本が、拙書のあとに出たとしたら、盗用はどちらかは自明だろう。創価学会のやり方は、どうしていつもこうして卑劣なのだろう。それに乗っかる人びとも、人びとである。

2607管理者:2009/07/26(日) 14:45:31

犀角独歩さん

吃驚しました。有り得ない事です。

>富士門流信徒の掲示板を時系列で閲覧してもらえばすぐにわかることである。

その通りですね。この掲示板の日付は改竄は不可能ですね。今もこの掲示板は活きている訳ですから。

富士門流信徒の掲示板の管理者として、以下の通り、犀角独歩さんの論考が成立してアップされたのが2005年9月9日であることを証言しておきます。

当、富士門流信徒の掲示板の2005年9月9日の犀角独歩さんの書き込みです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1333

2608空即是進化:2009/09/10(木) 22:28:53
 富士門流としては、ほぼ話題も出尽くした状況でしょうか。
 真理は“無我・無常”ということを、かの池田先生もかなり早い時期に気づいていた
のではないでしょうか。ホントの信者ならああいう行動はとれなかったと思う。
 御本尊が張りぼてのおもちゃに等しいと知ってしまったら、知的満足感は得られても
何にもうれしくない。
 信じて希望を持った人々に真実を話しても、だれも喜ばない。後は今ある組織を活用
し、行けるトコまで行ってみよう。それが自分の使命だ。なんてね。

 創価学会の存在意義は、現代社会の中でトータルはプラスだとあらためて思います。
それがすべて幻想だとしても。

2609hage:2009/09/11(金) 07:36:53
本当の御本尊は、心の中に写った「南無妙法蓮華経」ではないのでしょうか?

同じ物を見ても、人によって見えかたは違ってしまいますし、
人間の目で見た世界が本当なのか、幻なのか誰にも解らないんでしょうね。
人間は意識の中でしかこの世界を知ることができないですからね。

2610hage:2009/09/11(金) 07:37:01
本当の御本尊は、心の中に写った「南無妙法蓮華経」ではないのでしょうか?

同じ物を見ても、人によって見えかたは違ってしまいますし、
人間の目で見た世界が本当なのか、幻なのか誰にも解らないんでしょうね。
人間は意識の中でしかこの世界を知ることができないですからね。

2611れん:2009/09/16(水) 21:11:03
確かに、富士門流の話題は、出尽くした感がありますね。

門派教学抜きで法華経の成立史なんかやるのも面白ろそうですね。

今、福神研究所の公開講座で、松山俊太郎先生の法華経講義が行われていますが、何れ本に纏められるものと思いますので、出版されたら、それを叩き台として、議論しても良さそうに思います。

2612天蓋真鏡:2009/10/29(木) 11:37:59
過去時代・釈尊本六・日蓮大聖人牧口常三郎日興日寛戸田城聖池田大作、未来時代・釈尊新六・完全自由正義追求原因論結果論平和友愛

2613天蓋真鏡:2009/10/29(木) 11:50:08
ポスト池田 「名誉会長と言う席次は無い」 公明党解散・老若男女を問わない福祉政策プランを世に問う、 コミュニティーを育てる創価大学中心・思想哲学主義主張を学問する

2614北斗★彡:2009/10/30(金) 09:55:48
皆様こんにちは(^-^*)/

質問スレではないのですが、一つ、この言い分を破折して頂ける方いませんか?

「題目は仏説」

あるコミュにて、質問者が「日蓮のお題目云々」と言っていたところ、日蓮信者らしき方が「題目は仏説」と主張していたので、「違うのでは?」と言ったところ最終的に私は「親鸞会員のコミュ荒らし」に認定されました(笑)もちろん、そういった事実はありません。まぁ、阿弥陀如来像は好きですけど(笑)

因みに、仏教辞典で「題目」調べました。

「法華経の表題である妙法蓮華経ないしそれに帰依する意の南無妙法蓮華経のこと」

とあります。

まぁ、信者得意の拡大解釈すれば「仏説」になるのでしょうが、それを法華経に興味を持ち出した方に説明するのは、問題があると感じた次第です。

で、ある研究者さんの見解をレスしたら見事スルーで、最終的に私は「親鸞会員のコミュ荒らし」に認定された訳です(笑)

ま、日蓮門下の信者はどれも「同じ」なのかな〜。

そうであって欲しくないけど、石山系以外のこういった信者を見るのは2人目です。

2616問答迷人:2009/10/31(土) 21:36:22

北斗さん こんにちは

ご無沙汰しております。

「題目は仏説」ですか。日蓮聖人は勿論、法華経の文文句句は悉く仏の説かれたものであると説かれていますから、日蓮聖人は題目を仏説とされています。

但し、仏教の経典は仏様の説法を有りの儘に記録したものとは言えませんね。なぜなら、お経が文字経典として記録されたのは、ずっと後世のことですから。

そうした経過を含めて、仏の説法を記録したものとされている経典を「仏説」と呼ぶのなら、「題目は仏説」という議論は成り立ちますね。

しかし、経典が仏の説法をそのまま記録したものではない、という観点に立てば、経典は仏説とはいえない、という事になると思います。

日蓮聖人の場合は、真跡遺文が残っていますから、遺文の真偽判定が決定的な意味を持ちますが、経典については、真跡が全く存在しないのですから、真偽判定自体が決定的な意味をなさないと考えています。

2617阿佛棒:2009/11/01(日) 17:37:26
何が悩みかといえば文字化けにつきますよ、どうして化けるんだろうw
末法だからに違いないっ!

2618北斗:2009/11/13(金) 16:14:32
問答迷人さん

お久しぶりです(^-^*)/

お元気なんでしょうか?

最近、お見かけしないので心配しておりました。

さて

>「題目は仏説」ですか。日蓮聖人は勿論、法華経の文文句句は悉く仏の説かれたものであると説かれていますから、日蓮聖人は題目を仏説とされています。
但し、仏教の経典は仏様の説法を有りの儘に記録したものとは言えませんね。なぜなら、お経が文字経典として記録されたのは、ずっと後世のことですから。
そうした経過を含めて、仏の説法を記録したものとされている経典を「仏説」と呼ぶのなら、「題目は仏説」という議論は成り立ちますね。


確かにそうですね。



>しかし、経典が仏の説法をそのまま記録したものではない、という観点に立てば、経典は仏説とはいえない、という事になると思います。
日蓮聖人の場合は、真跡遺文が残っていますから、遺文の真偽判定が決定的な意味を持ちますが、経典については、真跡が全く存在しないのですから、真偽判定自体が決定的な意味をなさないと考えています。


実は、私はこちらの方の立場から「題目は仏説」論に反論したのですが、日蓮宗の盲信者には通用せず、更に「FB〇」さんから頂いたご意見にも噛み付く始末でした。
早坂鳳城さんの論文も提示したのですが、ダメでした(笑)


日蓮教学ってのは、盲信者増やしやすいんでしょうかね〜?

念仏も似たようなもんかも知れませんが(笑)

2619問答迷人:2009/11/13(金) 21:57:28

北斗さん

>私はこちらの方の立場から「題目は仏説」論に反論したのですが、日蓮宗の盲信者には通用せず、

日蓮聖人自身が、「妙法蓮華経の五字」が、法華経の神力品に於いて久遠の釈尊から上行等の地湧の菩薩に付属された正体であると述べられていますので、日蓮信徒は、日蓮聖人の教えられた通りに信じるのが当然といえば当然であろうかと思います。日蓮の研究者なら、又違うんでしょうがね。

まぁ、『現代仏教学的には「題目は仏説」と言うのは乱暴だ』と指摘されれば、良かったのかも知れませんね。


>最近、お見かけしないので心配しておりました。

ご心配をお掛けして申し訳有りません。しばらくグリー、ミクシィ休んでおります。ご容赦下さい。

2620北斗:2009/11/14(土) 01:46:22
問答迷人さん


>日蓮聖人自身が、「妙法蓮華経の五字」が、法華経の神力品に於いて久遠の釈尊から上行等の地湧の菩薩に付属された正体であると述べられていますので、日蓮信徒は、日蓮聖人の教えられた通りに信じるのが当然といえば当然であろうかと思います。


>まぁ、『現代仏教学的には「題目は仏説」と言うのは乱暴だ』と指摘されれば、良かったのかも知れませんね。


まさに、ご指摘の通りなんですが相手の盲信ぶりに「カチーン」ときたものでちょっと冷静に反論できなかった部分もありました(笑)


やはり、独歩さんの仰せの通り「問答名人」さんですね。

流石ですm(_ _)m


>GREEやmixiはお休み…


いやぁ、お元気なら全然いいんです。
病気で長期入院とかしてるのでは?
と、心配だったんですよ。


また、こちらにちょくちょく来て「超初心者質問」すると思いますが、よろしくお願いしますm(_ _)m

2621北斗:2009/11/23(月) 06:16:22
一つ、つぶやきを…

石山一派だけでなく、一部日蓮宗信者でもそうなのですが、他宗の人に「文証だ」と説明する上で何故「真偽未決」御書を平気で使うのでしょうね。

そして、それを指摘すると「日蓮聖人の考えを狭くする」だの「他宗信者には、この程度の御書で十分」とか言う人までいます。

相手に、失礼と言うか「真偽未決」じゃあ「文証」(本来の使い方ではないけど)にならないのではないでしょうか?

まぁ、一言「真筆ではないですが」とか「真筆が残っていないけど〇〇の写本があります」とか言うならまだしも…。


そういった方々を傍から見ると「日蓮門下は、上から目線だね」とか「法華経が1番との教えだから、そうなんだ」と映るんですよね。「法華経行者だから偉い」みたいな態度がミエミエって言うか。


なんなんでしょうね。

2622れん:2009/11/23(月) 11:42:58
北斗さん

上から目線というのは、ある意味致命的ですね。

蓮祖ご自身は、自らを「名字の凡夫」(顕仏未来記・真蹟身延曾存)と定位し、最晩年には「一切衆生の同一苦は悉く是れ日蓮一人の苦と申すべし」と宣言され「末法には…不軽菩薩の利益此れなり、各々我が弟子等はげませ給へ」(諫暁八幡抄・真蹟大石寺蔵)と門家に遺言されました。

北斗さんに相対した方々の様に、他者に対し、上から目線で接する輩は、蓮祖を讃すると雖も、還て蓮祖の心を死す人々と言えるでしょうね。

2623北斗:2009/11/23(月) 21:58:04
れんさん


>他者に対し、上から目線で接する輩は、蓮祖を讃すると雖も、還て蓮祖の心を死す人々と言えるでしょうね。


信者でない私ですら、そう思うのに、日蓮門下が「上から目線」してたんじゃあハッキリ言えば「日蓮門下終了」と言いたくなりますよ。


驕りが凄いあるんでしょう。「仏教最高の経典を信じ、理解している」というのが日蓮門下には。

私のように「学者目線」で尚且つ「信者ではない」人間が、各教団の法華経解釈に質問やら批判するのが気に入らないんでしょうね。きっと。

2624れん:2009/11/24(火) 01:22:28
北斗さん

北斗さんが接した大石寺の信者や日蓮宗の信者では、さぞかし北斗さんからのご質問は荷が重いものだったと思います。

現代仏教学の上からの最新の法華経の研究としては、インド学者・幻想文学研究家の松山俊太郎氏が、福神研究所の公開講座で「法華経講義」を現在されております。氏は純粋な文学者・インド学者であり、北斗さんと同じく全くの非信仰者の立場の方ですが、だからこそ、松山氏の、インド学・文学研究の上からの鋭くかつ忌憚の無い法華経の研究・講義は“目から鱗”です。 

何れ、松山俊太郎氏の法華経講義は、著作として纏められる予定とのことですので、刊行されましたら、是非、購読をお薦め致します。

2625北斗:2009/11/24(火) 02:35:41
れんさん


>松山俊太郎氏が、福神研究所の公開講座で「法華経講義」を現在されております。


そのようですね。私は、犀角独歩さんのホームページ「犀の角のように独り歩め」で独歩さんの解説見てました。

出来る事なら、是非参加してみたいです。


>何れ、松山俊太郎氏の法華経講義は、著作として纏められる予定とのことですので、刊行されましたら、是非、購読をお薦め致します。



是非、購読したいです。

ちなみに「蓮と法華経――その精神と形成史を語る」が欲しくて探しているのですが、私の住む地方最大の書店でもないんですよ(泣)

まぁ、古い本ですからないのは仕方ないんですが…。

2626幻明影偲:2009/11/25(水) 00:11:35
近頃思う所があるのですが、本尊と曼陀羅について愚考致しておりますが私は今の所曼陀羅を外して仏壇の中に祖父の遺骨と写真を入れ、題目を唱えています。本来、曼陀羅でなければいけないなどとは空海ですら言ってなかったと思いますが、御覧の皆様方の御意見賜れれば幸いと存じます。

2627問答迷人:2009/11/25(水) 07:03:18

幻明影偲さん こんにちは

>曼陀羅でなければいけないなどとは空海ですら言ってなかった

日蓮聖人は皆様が良くご存知の通り、観心本尊抄において、次のようにお示しです。

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。}

「今、末法の初め、小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共に之を失し、天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天、其の国を棄て之を守護せず。此の時、地涌の菩薩、始めて世に出現し、但、妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」

「天晴れぬれば地明らかなり。法華を識る者は世法を得べきか。一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと大公・周公の成王を摂扶し四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者也」

誠に不思議な事ですが、全て「五字」と説かれ、紙に書かれた文字としての「妙法蓮華経の五字」を「受持する・服す・懸ける」事を説かれています。

「妙法蓮華経の五字」が書かれている曼陀羅こそ、まさに観心本尊抄の論旨の通りの物であり、本尊として仏壇に懸け信仰すべきものであると僕は考えています。

2628幻明影偲:2009/11/25(水) 11:27:11
問答迷人 さん 御無沙汰しております。

先頃、こちらのサイトhttp://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/mmdl/6.4kukai.htm
◇空海は日本に居たころ「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」により、今でいう右大脳半球の脳力開発を行っていたのです。ですから超人的な集中力でもって難解なサンスクリット語やパーリ語をマスターし、身につけた速読法で大量の経典類も短期間に読破できたのでしょう。
とあり、
◇空海が遣唐使船で中国に渡り、短期間に密教の極意を修得して日本に持ち帰ったものは、大量の仏教典・仏具それに曼荼羅です。今でも京都東寺に伝わる胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅の両部曼荼羅は目に見える情報として、私達に大きなヒントを与えてくれます。
とあります。
ですので所詮曼荼羅は物体、物質でありながらも題目そのものに何か人間そのものを変える不思議な力があるのではないかという
観点で見ています。
ですので、私見、個人的展開になりますが実践的な科学的な要素がもっと世に
現れてきてもいい時代なのかと愚考致すところでございます。

2629問答迷人:2009/11/25(水) 12:56:55

幻明影偲さん

>題目そのものに何か人間そのものを変える不思議な力があるのではないか

日蓮聖人は極めつけの現実主義者だと僕は考えています。神秘的なものを、神秘的なままで終わらせずに、必ず具体化しなくては気がすまない、そんな方だと考えています。

その意味で、「題目」「唱題」に籠められた神秘的な中身が有るとしても、それは全て具体化されている、と考えています。つまりは「文字曼陀羅」です。

当初はお題目を唱えるだけであったものが、佐渡以降は曼陀羅を掛けて拝し、曼陀羅を信じてお題目を唱える、という形に変化しました。つまりは、お題目を唱えるという中身が曼陀羅として具体化されたのだと僕は考えています。

2630幻明影偲:2009/11/25(水) 14:43:42
問答迷人さん

仰る通りと思います。
某方の話を以前お聴きした時の事ですが聖人は曼陀羅や釈迦仏像にも題目を唱えていなかったという話が私の耳奥に残っており未だ捨て切れずに居る次第です。某方の話ですと、曼陀羅は法華宗の証明でしか過ぎず、説法する際に曼陀羅を広げ説法をされたと拝聴した事を記憶しております。
ですので、我が家には現在曼陀羅本尊はございませんが祖父の写真に向かい題目を唱え、勤行(五座、三座)を致しております。
しかし不思議に心は晴れやかになるものです。
但し、文字曼陀羅を限定と致しますと現行では別体三宝式(御影像)もどうかと思う所もございますし、また妙蓮寺にあった別体三宝式(絵の掛け軸)もどうかと愚考致す所存です。
真蹟か不明ですが、[題目を以て本尊とすべし]最近ここに尽きるのかと未熟者ながら感ずる所でこざいます。

2631阿佛棒:2009/11/28(土) 10:25:20
法華曼荼羅というものは法華経における虚空会を文字によって図示したもので
これは当然掛けて拝むものだと思いますよ。
日蓮以前にも法華絵曼荼羅というものもありこれも拝む対象として描かれたようですし
本尊うんぬんより仏具として必須アイテムと申せましょう。

真言において各種祈願時に両界曼荼羅を掛けるに同じ

心に曼荼羅を描くほどイメージが出来ているなら要らないかと思いますが、雰囲気的には必要じゃあないでしょうか。

2632犀角独歩:2009/11/28(土) 10:59:24
以下、つぶやき。

漫荼羅が虚空会を表したというのは、日蓮宗や、創価学会の教学であって、日興門家では、違いますね。

『本尊三度相伝』に「今此の本尊大漫荼羅とは霊山一会の儀式を書き顕はす処なり」とあるからです。

また、現存する漫荼羅で折り痕が残っているものがあり、これは、つまり折り畳んで、保存されていたことを意味するというのが中尾堯先生のお話です。いまのお守りのように折り畳んで袋に入れて、懐中していたとのことです。

また、裏に木目の跡が残るものがあり、これらは板に貼られていたためであろうとのことでした。板に貼っていたのか、あるいは、板壁に貼っていたのか、その点はわかりませんが、いまのように厨子や、仏壇に納めるようになるのは、後代のことでしょう。
日蓮にその起源を見ることはできないでしょうね。

2633れん:2009/11/28(土) 17:59:30
昨日、神奈川県立歴史博物館の日蓮聖人展に行って参りまして、大幅のものから一紙の小幅の御真蹟の大漫荼羅御本尊を、間近に拝して参りました。

何時の頃から、大漫荼羅御本尊が現在の様に表装される様になったのか、まだまだ専門の研究者による検討が必要であるとは存じます。日興門流系の史料で言えば興師が聖人御真蹟漫荼羅御本尊の内、数幅に「懸本門寺…」と添書されており、この「懸」が、現在の様に表装して「懸」けるのか、中尾氏が明らかにしたように、表装して懸るのとは別の形で「懸」けるのか、新しく検討してみますと、興師当時の有様すら、実はよく分かんなくなっていますね。

日蓮聖人御自身の“御本尊”につきましては、この界隈に限らず、様々な議論・見解が角逐しておりますが、日蓮聖人晩年の本尊問答抄(真蹟は不現存ながら、筆者不明ながら興師の“弘安五年 月 日”の加筆を有する富久成寺蔵の写本・富士岩本実相寺蔵の正応の日源師写本・年記不明の北山本門寺蔵の興師の写本が現存、富木常忍氏=日常師の本尊聖教目録にも本尊問答抄が見えるので、写本遺文の中では日蓮聖人真撰として信頼出来ると言えると思われる)の意からは、少なくとも、“末代悪世の凡夫”は“法華経の題目を以テ本尊とすへし”というのが日蓮聖人の意図ではないかと愚考しております。

2634犀角独歩:2009/11/28(土) 18:05:46

れんさん

わたしも昨日、櫻川さんのおかげで行ってまいりました。お会いできず、残念でした。
その帰りに、ちょうど、ご呈示の点も雑談をしたのですが、この本尊という言葉について、日蓮は、単独に「本尊」というもあり、「本門本尊」というもありながら、「教相本尊」は、出てまいりませんね。
『本尊抄』で言われる本尊は「本門本尊」に違いありませんが、では、題目本尊は、教相・観心、さて、いずれとお考えですか。

2635犀角独歩:2009/11/28(土) 18:54:38

◎三つの法門

┌本門本尊
├戒壇
└題目五字

もし本尊=題目ならば、以上の三分類は破棄されることになりますね。

┌本門本尊=題目五字
└戒壇

つまり、三大秘法ということと題目本尊の併立は、片方の教義を潰えることになるとわたしは考えます。

この点について、せいぜい反論として帰ってきたのは、

本門本尊=題目五字=戒壇

です。ならば、なおさらのこと、三大秘法は成り立ちません。

なお、題目=本尊で、かつ四大天王が書かれているから戒壇の意義も有すのが漫荼羅本尊であるというのであれば、少なくとも、こうした包摂を意図する日蓮の真蹟遺文を挙げる必要があるとわたしは考えます。

2636犀角独歩:2009/11/28(土) 19:01:30

さらに追記。コマの無駄遣い恐縮です。

また、もし 本門本尊=題目五字=戒壇 で漫荼羅に戒壇を意義を有するというのであれば、なにも日蓮の弟子たちは戒壇建立に普請する必要などなかったことにならないかというのが、わたしの疑問です。

となれば、そこで成り立つ式は

┌本門本尊=題目五字
└戒壇

で、これを三つの法門(三大秘法)とは言うことはできないことになります。

なお、事理戒壇、事義戒壇は、後世の解釈であり、日蓮のあずかり知らないことなので、日蓮の素意を考えるうえでは、対象になりません。

2637れん:2009/11/28(土) 19:04:07
犀角独歩さん


素人の私にとっては、とっても難しい御質問です(泣)

私は難しいことは解りませんが、初期日興門流の宗義書を検するに、“日尊上人仰云”には日代師の義として「題目ハ心法妙ノ直体也」とあり、“日大直兼問答”には日尊師の義として「題目ノ五字ハ観心ノ心法妙ノ直體也」とあり、薩摩阿闍梨日睿師の“類集記”にも「心法妙ヲ受持スル時、仏法妙衆生妙自然ニ具足ス」とも、「末法今ノ時者心仏衆生三合シテ九法妙ナル妙法蓮華経ト名此五字ヲヤスヤスト可唱時節也」ともありますから、此れ等、初期日興門流の伝承から類推しますと、“題目本尊”は教相・観心のいずれかと質問されますと“観心”のかたであるのではないかと類推申し上げる次第です。

2638犀角独歩:2009/11/28(土) 19:20:36

れんさん

早々のご返信ありがとうございます。
「素人」など、とんでもない。

こちらのスレはつぶやきで、議論禁止ですが、少しだけ。

観心とは、心を観るということですね。
しかし、「末代の衆生」はしかし、こうした観念観法に堪えない。よって、題目の受持というのが至極ではないですか。

『観心本尊抄』に「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也」というのであって、観心本尊とは「釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏」にほかなりません。

しかし、題目については、「召地涌千界大菩薩寿量品肝心以妙法蓮華経五字令授与閻浮衆生也」「此時地涌菩薩始出現世但以妙法蓮華経五字令服幼稚」というわけですから、題目において、観心する要素はないと考えますが、この点は、如何ですか。

また、本門本尊の本門とは迹門本尊を簡ぶ対句ですね。
迹門本尊とは方便品諸法実相百界千如に限って説いている釈尊ではないですか。
となれば、本門本尊とは久遠開顕し一念三千を説き尽くす寿量品の仏となりませんか。どうして、それがいきなり題目の五字と言うことになってしまうのか、これでは、本門と本尊をことわる理由が見当たりません。第一、迹門といえ、妙法蓮華経であることに異なりはないからです。

こうして考えるとき題目本尊とは、本門本尊ということはできないのではないかというのが、わたしの疑問です。

となれば、残るところは教相本尊かはたまた何かというのが、先に申し上げた疑問点です。

ここは議論の場ではないので、ここまでといたします。
けれど、ご賢察があれば、是非とも拝聴いたしたくお願い申し上げます。

2639れん:2009/11/28(土) 19:39:17
犀角独歩さん

残念ですが、在家かつ素人の私には、今回の犀角独歩さんのご質問に答えられる程の知識も技量もないので、残念乍らご希望に沿うことは出来ませんが、私も、分からないなりに、犀角独歩さんの疑問とされる点につきまして、折に触れて考えてまいる所存です。

2640顕正居士:2009/11/28(土) 21:36:36
発迹顕本とは?(玄義卷七)

今日發迹顯本。亦指最初爲本。未來發迹本顯迹。亦指最初爲本。
三世乃殊。毘慮遮那一本不異。如百千枝葉同趣一根。
(今日の發迹顯本も亦最初を指して本と爲す、未來の發迹顯本も亦最初を指して本と爲す。
三世乃ち殊なれども毘慮遮那一本異ならず、百千枝葉同じく一根に趣くが如し)
……
問三世諸佛皆顯本者。最初實成若爲顯本。答不必皆顯本。今作有義者。
最初妙覺指初住爲本。若初住被加作妙覺。亦指初住爲本。初住之前。
豎無所指横有體用。即指體豈非本耶。
(問ふ、三世諸佛に皆顯本あらば、最初實成も若しは顯本すと爲んや。
答ふ、必ずしも皆顯本せず、今有る義を作さば、最初妙覺は初住を指して本と爲す、
若し初住に被加し妙覺を作すは、亦初住を指して本と爲す、初住の前は、豎に指す所無けれども
横に體用有り、即ち體を指す、豈に本に非ず耶)

三世諸仏は必ず法華経を説いて本を顕す。すなわち本とは毘慮遮那の一仏のことである。
しからば最初実成の際にも顕本するのか?同じではない、最初実成の場合は初住を本と指す、
初住の前は体を本と指すのであると。つまり発迹顕本の本とは衆生本具の本覚のことである。
したがって本門には教相というものはない、第三教相はそのまま観心であるといえます。

2641犀角独歩:2009/11/28(土) 21:56:18

れんさん

こういってはなんですが、れんさんほどの方に「在家かつ素人」であり、語る資格なしなどといわせる宗派があれば、わたしはそんな寺と坊さんは論外だと思いますね。

戦前から、本尊集にせよ、遺文集にせよ、人力をしてきたのは在家なのであって、坊さんが一体何をしたというのかという思いがあります。

信者を卑屈するようにしか見えない宗派は、もはや滅びればよいと思います。

もっとも、それがれんさんの謙虚な姿勢であれば、その限りではありませんが、しかし、在家と素人が語ることができないのであれば、当の「出家」がここに出てきて、よろしく教導するようにすることが肝心ではないでしょうか。

まあ、布施と恭敬もないところに出てきて、堂々と論陣を張る日蓮のような僧侶は、現代にいるわけはないとは思いますが。

2642犀角独歩:2009/11/28(土) 21:58:10
顕正居士さん

ありがとうございます。

「衆生本具の本覚」を示す、具体的な釈文とはなんでしょうか。
ご教示いただければ有り難く存じます。

2643れん:2009/11/28(土) 22:40:33
一応、横レスにて失礼します。

犀角独歩さん

過分な評価を賜り、恐縮致します。

しかしながら、謙遜ではなく、卑下でもなく私は人間と致しましても、まだまだ門前の小人です。

過分なお言葉を賜り恐縮申し上げるばかりですが、こちらの方々を見渡しましても、犀角独歩さんをはじめ皆さんが、それぞれ積み重ねて来られた人生・ご経験・御学問には、まだまだ全然遠く及びませんし、皆さんのお姿を拝しても、私はまだまだ半人前足らずで、これから残りの人生をかけて、人として命ある限り全てにおいて学び続けて行かなければならないと決意を新たにしているところです。

これは、謙遜とか、自分を卑下するとかというレベルのことでは決してなく、自戒を込めての私自身の人生に対する“姿勢”ですから、この点、ご理解賜れれば幸甚です。

2644顕正居士:2009/11/28(土) 23:28:32
>>2642 この文です。本因初住の文底に久遠名字の妙法を秘沈するという教義の源です。

『初住之前。豎無所指横有體用。即指體豈非本耶』-玄義
(初住の前は、豎に指す所無けれども横に體用有り、即ち體を指す、豈に本に非ず耶)

若云初住之前豎無所指。以體爲本以用爲迹。此本迹倶下句也。若準此意。一切諸佛皆悉顯本。
(若し初住の前は豎に指す所無しと云ふは、體を以て本と爲し、用を以て迹と爲す。
此れ本迹倶に下しの句也。若し此意に準ぜば、一切諸佛皆悉く顯本す)-釈籤

天台智邈は最初実成に顕本有りや否やの問いに、必ずしも皆顕本しないという説もあるが、
今一意を示すに、最初実成の際は初住を本と顕す、初住の前は時間的に指す本はないが、
体を本と指すのであると。荊渓湛然はゆえに一切諸仏皆悉く顯本すと注します。
なぜならば「如三世諸仏 説法之儀式 我今亦如是 説無分別法」(方便品)と三世諸仏同道、
最初実成の際にも権実の法を説いたはずだから、顕本はあらねばならないからです。

したがって 衆生本有の理を指して一仏乗と説きたまふ-釈本覚讃

されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ-諸法実相抄
(書誌的に日蓮の真書ではない可能性があるが、思想内容は後代を待たない)

と衆生の体としての法身(本覚)、具体的には十界皆成を顕すのが発迹顕本であるから、
「不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり、此れは法華経の教主を本尊とす、法華経の
正意にはあらず」(本尊問答抄)と晩年に日蓮はいわゆる仏本尊を否定したと考えられます。

2645犀角独歩:2009/11/28(土) 23:54:42

顕正居士さん

ありがとうございます。

「衆生本具の本覚」は衆生(生)に関して、わたしは本有・本覚を示す釈文を問いました。しかしながら、引用は「一切諸佛皆悉顯本」と仏に関する引用となっておりますね。

『釈本覚讃』を初期天台の釈文とすることができるのでしょうか。また、『諸法実相鈔』を手放しに日蓮遺文とする根拠が希薄であると思えます。

よって、「衆生の体としての法身(本覚)」と所断することを日蓮の教説の確たるご説明になっているように思えないのです。

さらに日蓮が晩年、仏像本尊を否定したのならば、何故、持仏を安置し続けたのか、また、弘安2年『日眼女釈迦仏供養事』に「三界主教主釈尊一体三寸木像造立檀那日眼女」と愛でているわけですから、とても、晩年、日蓮が仏本尊を否定していたとは思えません。

また、仮に、仏本尊否定をし、かつ御説のように迹門本尊・教相本尊が、釈から成り立たないと言うことに従えば、日蓮は釈迦仏像を棄てたということになり、ならば、三つの法門(三大秘法)という教義も棄て、本門本尊=釈迦仏も棄てたということになりますが、そのような意味でしょうか。

となれば、その後、弟子分は、何故、戒壇建立に腐心し続けたのでしょうか。

2646顕正居士:2009/11/29(日) 00:56:00
本尊問答抄の仏(人)本尊否定は古来、難問になっています。
これは一つに「本尊」語を広狭に使用するためと考えます。
大日経の「本尊者、梵音娑也地提嚩多、若但云提嚩多、直所尊之義也」が本尊の定義とされます。
satyadevatāとはtrue deityで修行者にとってのまことの神、まことの偶像という意味です。

開目抄に「一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂主、師、親これなり」とあるのを「根本尊敬」、
略して「本尊」とするのは同語意義であるというべきで、本尊問答抄では密教由来の狭義に使用
されていると考えます。釈迦仏に対するならやはり南無釈迦牟尼仏でなければ変であり、
南無妙法蓮華経と唱える以上、対象は何か妙法蓮華経でなければなりません。
仏本尊を教相の本尊、曼荼羅を観心の本尊と呼ぶ人、あるいはそれを反対に呼ぶ人がおられますが、
これは本門に教相と観心ありとし、混乱を招きます。宗教に教主があるのは当然であって、
浄土では教主は釈迦仏、救主は阿弥陀仏です。教主は狭義の本尊ではないと考えればよいのです。

>「衆生本具の本覚」は〜
最初実成は妙覚を迹とし、初住を本とする、すなわち迹高本下であるということです。更に初住以前の
顕本を述べますから、結局、本とは理即仏の意味になるわけです。六即の教義は当然、そうでないと
成り立ちません。
>『諸法実相鈔』
書誌的に問題があるが、思想内容は原始天台からも直ちに出ることで、鎌倉期成立でも疑問なしと
いうことです。注(×釈)本覚讃はおそらく日蓮と同時代かやや後です(日蓮の本覚讃引用が定着した
ものと少し異なる)。

2647犀角独歩:2009/11/29(日) 03:20:30

顕正居士さん

重ねてありがとうございます。

「初住之前。豎無所指横有體用。即指體豈非本耶」-玄義
「若云初住之前豎無所指。以體爲本以用爲迹。此本迹倶下句也。若準此意。一切諸佛皆悉顯本。」釈籤

「この文が本因初住の文底に久遠名字の妙法を秘沈」ということですが、日寛がこの文を採っていうところを仰っているのでしょうか。この点が合点がいきません。

先の玄義の文は「問三世諸佛皆顯本者。最初實成若爲顯本。」の答えの部分ですね。すなわち「答不必皆顯本。今作有義者。最初妙覺指初住爲本。若初住被加作妙覺。亦指初住爲本。初住之前。竪無所指横有體用。即指體豈非本耶。…」

手許に訓読がないので、間違っていたらご指摘いただきたいのですが、この問答は、以下の如くです。

問:三世の諸仏が皆顕本するのに、最初実に成仏を顕本とするのか。
答:みな、必ずしも顕本としない。…最初の妙覚は初住をさして本とする。もし、初住に妙覚をなすを加えられれば、また、初住を指して本となす。初住の前、タテに指すところがなければ、横に体と用がある。すなわち、体をさす、本ではないか。

ここに、本因、文底、秘沈の語彙は、そうした論の展開にもなっていません。

また、引用の釈籤の前文は「若初住位被加作妙覺佛。亦指初住以爲實本。準淨名疏應作四句。謂本下迹高。本迹倶下。初住唯得此之兩句。夫論迹者約有本説。本爲法身迹爲八相。初住之前無法身本。」

初住位に妙覚仏となるを加えれば、初住をさして、実本となす。淨名疏に準じまさに四句となす。いわく、本は下(ひく)く、迹は高い。初住はただこの両句を得る。それ、迹を論じるとは約あり、本を説く。本を法身となし、迹を八相となす。初住の前は法身本はない。

どうして、この解釈が、「本因初住の文底に久遠名字の妙法を秘沈」したことになるのでしょうか。
天台妙楽共に初住を論じても、本因を語らず、そもそも初住は位であり、そこの文の底はなく、久遠名字は釈尊の因行の位でしょうから、妙法ではなく、秘し沈めるものもなく、そのようなことは論じていないと読めます。

また、「本覚」語の使用は、日蓮真蹟では『八宗違目』に「本覚心」という用法で一カ所のみ。当然の事ながら、天台・妙楽、法華六大部にこの使用はありません。ならば、この釈文をもって「本覚」の根拠とする謂われはないのではないでしょうか。つまり、本迹・体用を論じるばかりとあろうかと存じます。

こうした点から考えるとき『諸法実相鈔』の記述は大いに怪しむべきものであると考えられます。

次の2646は「切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂主、師、親これなり」という文を挙げられ、「南無」妙法蓮華経であるから、題目五字が本尊であるという論の運びであろうかと存じます。

しかし、日蓮は「釈迦仏は我等が為には主也・師也・親也」(主師親御書:真蹟なし)というのであって、この三徳を有するのは釈迦仏であるといいます。となれば、先の『開目抄』の冒頭を挙げて、題目五字本尊の根拠とするよりは、釈迦仏本尊とするほうが至当ではないでしょうか。

2648顕正居士:2009/11/29(日) 04:50:41
訓は>>2640に示しました。
「答不必皆顯本。今作有義者」は「答ふ、必ずしも皆顯本せず(との説あり、然れども)、今有る義を作さば」の意。
「被加」とは加上する意味なので、初住より八相成道することを指していると思われます。

「本覚」は華厳系の用語なので中国天台では用いられません。密教と合伝した日本天台で主要な術語になります。
中国天台での同義の語はいろいろあり得ますが、「理即仏」はその一つです。
日本天台は理即成仏を基本としますが、一般に実相からいい、対して第三教相から本覚をいうのが日蓮宗です。
ただしこれも後代に日本天台で出た思想がもとにあって、日蓮宗に輸入されたのだろうと考えます。

玄義七では三世諸仏に皆分身があるのかという議論がされています。答えはありですが、これはつまりどの仏の
側からも他仏が分身になる意味と考えられます(一つそこまで徹底してはいないのですが)。だから初住に達した
時、毘慮遮那法身に契合し「我成仏已来 甚大久遠」の自覚が生じる、つまり「長寿は只是れ証体の用」です。
これを第三教相から最初実成→初住→入住以前→久遠初発心と本へ遡るのが日寛宗学の特色で、玄義の議論
を発展させたものといえます。「法身、五道に流転するを衆生と名づく」(不増不減経)、毘慮遮那法身とは衆生の
ことになります。

2649犀角独歩:2009/11/29(日) 09:38:36

顕正居士さん

愚昧なわたしに台学のご講義を下さり、まことにありがとうございます。

ここ「つぶやき」すれは議論禁止なのですが、いきおい、れんさんから、顕正居士さんとやややり取りとなっています。

やや整理いたしますと、2633でれんさんが「末代悪世の凡夫”は“法華経の題目を以テ本尊とすへし”」と日蓮は後期、題目本尊となった点を挙げられました。
同様に2644で、顕正居士さんは「晩年に日蓮はいわゆる仏本尊を否定した」と見解を示されました。

ここに日蓮の本覚観の話が入りました。この点は、また、少しご質問させいていただきたい点はありますが、そもそも、2633以降の流れで、わたしが記してきたのは、2635のとおりで、もし題目本尊とするのであれば、所謂三つの法門(三大秘法)は成り立たなくなる、よって、日蓮は三つの法門を棄て、題目本尊へと傾斜したのか。となれば、なぜ、弟子達は、それでも戒壇建立に腐心したのだろうか、戒壇に拘ったという史実からすれば、日蓮は終生、三つの法門を棄ていなかったのではないか。となれば、釈迦仏本尊を棄ててはいなかったのではないかということです。

また、日道の時代頃から、漫荼羅正意論が喧しくなった(執行「教学史」)というのは、他の五老門家との対立を意味することで、つまり、釈迦仏本尊が生きていたからにほかなりません。

そうした点から考えて、日蓮の生前に既に釈迦仏本尊から漫荼羅本尊に移行していたとは考えづらいのではないかという問題提議です。

そもそも、釈迦仏像か・漫荼羅かという二者択一が見え隠れしますが、併用という選択しもあるのであって、それを単に題目=漫荼羅本尊になっていたとする根拠は、はなはだ希薄であるというのが、わたしの考えです。

2650犀角独歩:2009/11/29(日) 13:46:13

つぶやきです。

学会の籠絡作戦の派遣部隊。
まずは、会員、次に学術筋に関わる会員、続いて、学会僧や、創価大の学者。
虫払といった古文書、漫荼羅、重宝類が展示される法要に傍らで参加。
大石寺と、他日興門下寺院僧の同座。さらに学会員、学会僧、創価大の学者が同座。

わたしのように、そんな法要に参加しない人間からすれば、機会極まりない光景ですが、法要に参列し慣れると、いつしか鈍感になっていきます。

学会の出入りするところに謀略があり、金が動く。金が動けば、籠絡される。

そんなことは、興門寺院で、幾度と無く繰り返され、かつての統合があり、それが反古になって、また…。歴史は繰り返されるということでしょう。

2651幻明影偲:2009/11/29(日) 20:56:27
つぶやき。

昨日、某方へ富士宗学要集10巻を誕生日プレゼントとしてお贈りさせて戴いた。あまりこのような事を聞くのは忍びなかったが、(ウイルスはありませんでしたか)と聞いてみた。
そしたら、(ありません)との答えだった。

一先ず悪意のない事なので、安心して眠れようです。

2652幻明影偲:2009/11/30(月) 06:02:51
おはようございます。

何故、保田妙本寺に学会僧が来たり、または懦山寺に研究者或いは学会関連の部類が執着するのかはわかりませんが、一勉強する側にとっては関係のない、また行く必要がない、という方々が居られるのでしたら正に失言ではないでしょうか。
真面目に研究に取り組まれる方々も大勢いらっしゃいますし、ここでは保田妙本寺の話になっていますが、私は個人的に納得が行きませんので独自に調査をし、資料関連も保田へ届ける事とします。

2653阿佛棒:2009/12/02(水) 18:29:25
どうして日蓮は絵曼荼羅にせず文字曼荼羅にしたのだろうか?絵が下手だったからではないか。
もし日蓮が今曼荼羅を描いたら外国の神様入れるだろうか、八分衆は削られてしまうのではないか
仕分け反対

PC画面に曼荼羅を写せば仏壇いらないじゃん!巨大プロジェクタで大曼荼羅拝みたいです
あ、そうだ、携帯に御本尊画像入れておけばお守り本尊ももってかなくていいや!
大体無くすと困るし。しかしモニタにはエロ画像も映るまさに一念三千

などと暴言妄言を吐いてみました

2654再挑戦者:2009/12/02(水) 22:24:32
  
 2653様  ナカナカ、、面白い 御提言 でしょうか、?

 ただ、、人は 感じやすいし、、すぐ感応しやすい、のも現実でしょう、、。
 だからコソ、、 対 「ニセ本尊? 」への 害毒をも 考慮 すべきでしょう、か、?
 当然、、ニセ者らが、、ワンサカ、?、押し寄せるでしょう、、が、、?
 その、、真偽の 見極め、、こそ、、が、、?? でしょうか、、??

 その ポイントは、、???でしょうか、、??

2655天蓋真鏡:2009/12/04(金) 11:29:05
絵とか彫像は千差万別 文字なら手間暇かけ過ぎ無く描けますし学問出来ます

2656天蓋真鏡:2009/12/04(金) 11:58:57
本仏(釈尊)-三大秘法(本尊=戒壇=題目)-戒壇堂宇

2657阿佛棒:2009/12/04(金) 17:26:13
ホーボーとか邪宗の害毒とか佛罰とか
そんなものは無いと思います

日蓮は怒るかも知れないけど、そんなことで人を恐がらせたりするのは
もう止めるべきだと思う。法華経のそういうとこは良くないと思う。

善を勧め悪を止めるためには違うやり方があるんじゃないだろうか。

2658再挑戦者:2009/12/06(日) 19:07:25
 2657様
  
  何を、、?トボケタ、、ことを、、申すのでしょう、? もう、すでに実行された歴史上の事実に対して
  「、、タラ、、レバ、、」を、、申していますのが、、? でしょうか、、?

 (「G2」、「有害カルト情報」、『宗教被害者情報」、「FORUM 21]、「脱会委員会」、「国民新聞」、「政治人気ブログ」、、)

2659阿佛棒:2009/12/10(木) 17:43:30
スターリン毛沢東ポルポトなど大虐殺者が天寿を全うして
ブッシュ親子に佛罰無し

悪行に悪の報いありというがコレは一体どういうことでしょう

思えば世界で富を収奪し悪行の限りを尽くした欧米は未だに栄華を誇ります
そもそも悪行悪果、善行善果というのは本当なのか

末法だからというのではなっとくいかないきょうこのごろ

2660再挑戦者:2009/12/11(金) 19:32:22
、、、。
 長い目で  見ましょう、、。   悪因は、 悪果、、善因は、、??

 今、、これが、、問題、、でしょうか、、?

2661天蓋真鏡:2009/12/12(土) 03:51:13
長い永い前世のルーツ?

2662再挑戦者:2009/12/12(土) 18:41:34
2652様

 本当でしょうか、、?  もし事実ならば、、??
  S会の やからは、石山を 見限り、、!! 次の ターゲットは I先生の支持の元
、ヨリマシナ、、団体としての 探りあい でしょうか、、??
 保田がS会になびけば???

 当然ながら、、日代が 受継ぐべきの曼陀羅を ナゼ、、安房が強奪、出来たのかが、、? 、日郷ユカリの安房へ ? ? かが 、本格的に ネット上
で闘争が開始 されましょう、ゾ、、!!!
 (「G2」、「FORUM 21」、『有害カルト情報」、「宗教被害者情報」、「国民新聞」、、)。

2663阿佛棒:2009/12/12(土) 19:09:22
聖☆おにいさんを読んでるとあーこれ日本の教祖でやったらどうなんだろうとか思う

日蓮と法然とか同居できないだろうなあ

ちくしょう今日も駅前で念仏ディスりやがってー
そうです念仏者は地獄におつるべき

どうしたってケンカになりそうだ

2664幻明影偲:2009/12/13(日) 01:13:03
つぶやきです。

某方の発言に納得が行かずにおりますので、私は私の証拠こ提示してその詳細を資料として「提出]するのみですよ。
ですので、個人的見解、個人的主張など既に無論でしょう。
保田には今まで跳んでもない輩が出現しております。
今現在も(笑)
その近状報告をするまでですよ。
真面目に信仰している方々もおりますし、保田の主張や信者さんの主張などもあるでしょうから
私は純粋に、信仰を真剣に捉えている方々を擁護したいと考えています。
謀略、侵略とかは関係ないと私自身思っています。
因みに創価学会は私の敵ですから、そういう輩がいれば攻撃対象ですよ。
ここでは研究されている方々の集まりの掲示板ですからこれ以上も、これ以下もありません。
ただ、私は保田を守りたい、それだけです。

2665天蓋真鏡:2009/12/13(日) 14:45:14
三大秘法と書くのは 基本中の基本で護持する事が難儀だからの表記で紛らわしくて済みません

2666幻明影偲:2009/12/13(日) 15:32:01
管理人様

【書き込みの基本原則】

1.意見交換、相互理解の場との主旨から、話合いを重んじてください。  
 ①差し支えない限り、自己紹介スレッドで自己紹介をしてください。また、相手に対する敬称は『〇〇さん』で統一して戴きたいと存じます。
 ②感情的表現を避け、できるだけ冷静に話し合ってください。 
 ③掲示板参加者に対する、一方的な個人攻撃は慎んでください。

2.富士門流の発展に寄与する論議をお願いいたします。
 ①富士門教義についての矛盾点の追求を、ダブー視しないでください。
 ②各々の所属組織のあり方についての議論をお互いに避けないでください。
 ③但し、特定の組織をターゲットにした、しかも、一方的な攻撃宣伝は慎んでください。

※ここに該当する書き込みが最近、目立つような気がしてなりませんので御裁定の程、宜しく御願い致します。

2667管理者:2009/12/13(日) 15:57:19

幻明影偲さん

>ここに該当する書き込みが最近、目立つ

なるべくなら管理者が介入しなくて済むなら介入しない、という方向で、禁止事項以外は出来るだけ管理を柔軟に、との方針でおります。これは介入すべきではないか、という書込みに気づかれましたら、管理者までメールを頂戴致したく存じます。伏して宜しくお願い申し上げます。

fujimonkeijibankanrisha@yahoo.co.jp

2668幻明影偲:2009/12/13(日) 17:19:15
管理者様

早速のご回答有難うございます。
当方で誤解されてしまう表現での投稿をしてしまいましたのでここに訂正とお詫び申し上げます。

>②感情的表現を避け、できるだけ冷静に話し合ってください。

上記点につきましての事でございます。
再三にわたり、誤解を招く表現を謹んでお詫び申し上げます。

幻明影偲 拝

2669管理者:2009/12/13(日) 18:33:22

幻明影偲さん

>②感情的表現を避け、できるだけ冷静に話し合ってください。

了解いたしました。その都度、出来るだけリアルタイムでメールして頂ければ、検討させていただきます。宜しくお願い致します。

2670再挑戦者:2009/12/13(日) 18:50:27
2664 幻明 さん、、。
  保田を守りたい、、?・
 これは、、 貴方らのトップらが 決めるのです ネ、?
  所有権、、が日代に 存在する、、文献は 多数 存在します、、。!!
 是を、覆すならば、、説明責任が 存在、、です、、。 マー、、真筆の本尊の 管理に? 無頓着、?なる 日興さんも
いったい、何を? 管理を、? でしょう、?
 ここに曼陀羅を 軽視する、、源流が、?  全く、、?! トホホ、、デス、バイ、、。(「宗教被害者情報」、「G2]、
「FORUM 21]、「国民新聞」、「有害カルト情報」、「脱会委員会」、「政治人気ブログ」、、)

2671幻明影偲:2009/12/13(日) 19:28:13
再挑戦者さん

再挑戦者さんが私に対してトップだとか、何だとか意味がわかりません。
私は、手前で挙げた通り保田を守りたいと申し上げたまでです。

何か差し障りましたら、お詫び申し上げますが少なからず、再挑戦者さんに対する語ではありませんよ。
ここで質問です。
再挑戦者さんが挙げているトップとは誰を指しているのでしょうか。
私の認識では保田には一名しかおりませんが、他にもトップと称する方が居られるのでしたら、畏まらずに仰って戴けましたら幸甚です。

2672資料販売所:2009/12/15(火) 23:44:45
あるものでしたら、50万円から販売しますよ。

2673れん:2009/12/16(水) 11:55:20
横レス失礼します。

再挑戦者さん

日代師に所有権がある云々は全くの誤りですね。

根拠とされる八通遺状は石山の条条事と同列の偽書、代門は、日代師以降、日尊門流出身の日眼師が西山に入山して勝劣義に改める以前は一致派であったことは越後本成寺の日陣門流の記録に残っています。現在の西山は漫荼羅正意ですが、門祖日代師は広布時造像論者です。ですから現在の西山の漫荼羅正意の相伝は、直接的には、室町期の京都住本寺からの輸入と安房妙本寺教義からの摂取ですね。

安房妙本寺開山日郷師は御生前に文永十一年の大本尊の御図顕讃文を書写され、それを御弟子の日睿師に授与されていることから、同大本尊は日郷師が御所持されていたことは明らかですが、同時代の日代師は重須の御影像と重須坊職は我に有りと申し状で主張しておりますが、日代師が日郷師に対して、大本尊の所有権を主張した史実はありません。よって、文永十一年の大本尊は日郷師が正当な所有者であったことは、同時代の南北朝時代には異論はなく、後の時代の西山の勝手な主張を真に受けるのはどうかと思いますね。

2674れん:2009/12/16(水) 18:51:48
一応、典拠を記し置きます。
日代師・葦名阿闍梨御房御返事「仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケ大事一度に成就せしめ給ふべきの由御本意なり、御本尊図は其がためなり」(正本・西山本門寺蔵)
越後本成寺日現師・五人所破抄斥
「彼の日代は初めは興師の付弟たりと雖も本迹一致の法義を信ぜらる」(日宗全七巻)
越後本成寺門流智門日求師・心鏡浮義
「日代は重須本門寺を追い出され、西山の草庵に竄居せしむ。西山本門寺を名乗り近代まで一致の立義なり。大法律師改めて勝劣に帰し、造仏読誦を為さず」(法華宗全書・教義篇・六巻)参考、石山日有・下野阿闍梨聞書「仰せに云く、西山方の僧大宝律師来つて云く、日尊門徒なり…」
西山門流文献の諸門徒規定並法門立派記「法華本門弘通得意・大法律師日眼之談」 


日郷師書写・万年救護大本尊讃文「康永三年太才甲申卯月十六日、之を模す」(正本宮崎定善寺蔵)

2675犀角独歩:2009/12/17(木) 01:15:22

れんさん

たいへんに参考になりました。

偶然ですが、本日の、わたしのブログ「日蓮墨筆を読む」は不動愛染感見記の巡りです。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51667304.html

この図について記す上古の文献は、どのようなものがございますか。

ご教示いただければ、有り難く存じます。

2676れん:2009/12/17(木) 07:28:56
犀角独歩さん

不動愛染感見記ですが、継承する安房妙本寺においては「日月之御形像」と伝称されてきております。

日月之御形像について触れた文献については、私の記憶では、京都要法寺日辰師の祖師伝の釈日目伝に、日月之御形像を挙げたあと、「右一紙日興、日目に付属し玉ふ、今房州妙本寺に在り」というのが、初見だと思います。これについては江戸時代中期以降の一致派系の文献以前には、異説はないので、日辰師以前の上古の文献にはない様ですが、日月之御形像は問題なく蓮興目郷…と安房妙本寺において継承されてきたものであると思います。

安房妙本寺第十五世日侃師が記録された御相伝の目録(千葉県の歴史資料編中世3 277ページ)には、当時、妙本寺に継承していた宗祖御筆御本尊七鋪(大石寺日精の書状には「八幅」とあるが、この残りの一鋪は、南条時光授与の御本尊と考えられる。日濃事件でこれらの宗祖御筆御本尊が流出し、文永十一年の通称・万年救護大本尊と控字之御本尊〈この控字之御本尊の一幅は、現代の鑑定により御真筆ではなく写本であることがわかっております〉の以外は妙本寺に御帰りになれなかった)の次に日月之御形像が挙げられており、安房妙本寺においては、日月之御形像は御本尊に次ぐ重宝として継承して来ております。




以上、悪文ながら、ご参考になれば幸甚です。

2677犀角独歩:2009/12/17(木) 08:19:44

れんさん

早々のご教示、深く御礼申し上げます。

こうした一連の文献考証の結果を見聞すると郷師正統継承といった思いが彷彿といたしますね。

たいへんに参考なりました。有り難うございます。

2678偶ロム偶ログ:2009/12/18(金) 03:03:47
つぶやきです。

どうも多重ハンドルのヒトが煩わしいですねぇ。

2679阿佛棒:2009/12/25(金) 11:32:11
メリークリスマスw

初期キリスト教と仏教の関係と
大乗仏教とキリスト教の影響についてどこかで読んだけど忘れたw

2680再挑戦者:2009/12/25(金) 20:54:29
2673、、れんさん

 八通遺状が マサカの、、偽書  ??  

 日興の一番の弟子 日代が、、曼陀羅を軽視する、? 造像論者、、??

 小生には、、疑義、、疑問、、が  倍増、、中、、 です バイ、、!

 難儀で ゴワス、、ナー、、。 いったい、、何を、、拝めば、、良いのでしょう、、??
 日蓮さんは、「、、末代の幼稚の者ドモ のために、 本門の文底に秘かに
沈められたる、、ところの、、本門の題目を体言!==成仏!、、可能なるは、??」

 この一点、、?? は、、!!   「、、スバラシイ、、成仏、、??」、、!!

2681れん:2010/01/09(土) 11:43:39
再挑戦者さん

日興師の直筆史料としては日目師を「一中一弟子也」と示されておりますので、確実な史料から見える日興師の一番弟子は、やはり日目師であろうと考えます。何を拝めば云々と仰いますが、日興師は「この法門は師弟子をただして仏になり候、師弟子だにも違い候へば同じ法華をたもち候へども無間地獄におち候なり」と示されており、宗祖以来の法燈を御相続されている御僧侶との師弟相対の信心により成仏が叶うというのが、本旨であると仰せです。少なくとも、興門においては、一人よがりの信心ではなく、宗祖以来の法燈を相続をされている御僧侶との師弟相対の信心がなければ、如何に同じように“法華”を持つとも成仏は叶わないのでありますから、創価や顕正などは勿論のこと論外の存在でありますね。

よくよく思慮されて御帰依する御僧侶をえらまれることをお薦めいたします。

2682再挑戦者:2010/01/17(日) 20:43:03

 、、、どーも、、です、、。
  常在しての 御給仕、、が売り の 日興サン にしても、、この体たらく、?

 、、日蓮が 心血を そそいで 現した、、曼陀羅 様を 側近の 日興サン が ナゼ、、
 何故に、、一信者への 領収書的 ? なる 低度の 誤認識 ?? しか ないようでしょうか、、?

 さて、、 周りの 僧侶方 らに 御解答は、、可能でしょうか ?
 信者らを メシ、、のタネ、、にしてきた、?? 方には、 無理 でしょうか、、??

2683再挑戦者:2010/01/29(金) 20:38:09
、、、れんさん。
  
 ワシの 実感、、だが、、 日蓮が 生死の ドマンナカの 生きるか死ぬか、、 
 ママ成らぬ 難儀なる時で 御座った、佐渡の、 記録には、、?
 
 日興が 佐渡に 同行していたならば、、「観心本尊抄」が 佐渡にて 富木殿に 当てられた ことを
 目撃して いたでしょうか、?
 当時は 日蓮 、、本人は 余命は、? 覚悟の ? 遺言 ?
? で、、したか、??
 そこに 居なかった 、、から こそ、、 「曼陀羅への正意、?、」、
などが 軽視〜誤認識、、へと 流れた ようでしょうか、、??
  もっとも  それが、、 かえって  奏功した一面も ありましょう、?

  もし、、日蓮が 「、、コレゾ、、わが、、イノチの 本尊 で御座るぜ、、」、、
 と 公言 したならば、、??  

 つぶす ターゲットが 定まれば 、、外敵らは ?
 そうです、、  一気に 総攻撃に 走ったでしょう、、? つぶされて ? いたでしょうか、?

  その 恐れを 極力 避けて  後世に 、、曼陀羅様 の 真髄を 伝えたい、、??

 という 「一念、、、」が 、「、、、墨に流して、、、信じ させ給え、、」、、

 考えれば、、クビの 皮の 一枚、、差 で、、?  伝承 されたのか、も、?

 全く、、シンドイ、、です、、ナ、、。

2684阿佛棒:2010/02/01(月) 05:34:52
なんでもすぐ地獄に落ちるっていうのは富士門の悪い癖だから直したほうがいいと思ったw

もちろんミーツゥね私も気を付けよう

>創価顕正などは勿論のこと論外
創価顕正にも師はあり弟子もある

妻帯する僧侶など僧といえるものか

2685再挑戦者:2010/04/30(金) 00:44:07
 阿仏棒 君

 僧侶が(聖職者、、?) 何ゆえに 妻帯 厳禁を強調しますか、、? 
 代、代にて 思想・真髄を伝えるのは、わがの子供が、もっとも 信用可能、と、思索するのは当然なり。
 マシテヤ キリステ御免、、の物騒なる時代だった、。 一概に、軽軽には即断は ?!でしょうか、?


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