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伊東静雄を偲ぶ

1morgen:2005/10/24(月) 17:16:21
自問自答する反響
山本先生のおっしゃるように「・・・・・さやうなら・・・・・」というのは、遠ざかっていく過去(または『哀歌』)が、「さよなら」という地上からの詩人の呼びかけに応えているような感じがします。あるいは、翳が「さよなら」と会釈をして、詩人が白雲に向かって「・・・・さやうなら・・・・・」と呼びかけているのでしょうか。

1001Morgen:2014/02/26(水) 16:22:53
『詩学』昭和23年11月号
 山本様。お話を切らせてしまいますが、チョットだけすみません。
龍田様から丸山豊の本の話があり、何か伊東静雄との重なりがあったような気がして探していたら『詩学』昭和23年11月号に、両詩人の詩が併載されているのを見つけましたので、映像だけを投稿します。表紙は東郷青児です。

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1002龍田豊秋:2014/02/27(木) 09:55:06
お知らせです
おはようございます。

Morgen様 伊東静雄と丸山豊が見事に重なりましたね。

ところで,田添市議のブログ「多良岳の仙人」に私のコメントを載せて頂きました。
どうぞ皆様,ご覧になって下さい。

1003Morgen:2014/03/03(月) 22:17:22
今年の梅林・盆梅展
 今年は梅や桃の樹にとっては大受難の年です。熟しないまま果実が落ちてしまう「ウメ輪紋ウイルス」という伝染力の強い病気が見つかったそうで、防除地域に指定された地域(大阪、兵庫、東京西部の一部)では、感染のおそれがある植物については、抜根し、焼却等の処理をしなければならないそうです。(植物防疫法に基づく農水省告示)
 毎年の恒例となってきた大阪城梅林の梅盆栽店も中止されています。大阪天満宮の盆梅展もいつもの名品の展示がありません。樹齢300年も経った老梅の名品が何本も焼却されるのかと思うと、何とか生かせる術はないものかと案じられます。それらの梅の木が生きのびるためには、植物防疫官による検査の結果、感染していないと認めてもらうことが必要です。

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1004山本 皓造:2014/03/19(水) 10:19:47
立原・対話・ハイデガー(2)
 ハイデガーが『ヘルダーリンと詩作の本質』(以下『本質』と略称。訳文は原則として斎藤訳による)で述べている「対話」の意味を、できるだけ簡潔にまとめてみようと思います。
 ハイデガーは冒頭まずヘルダーリンの「五つの主題的な言葉」を掲示します。「対話」はその 3 で主題となりますが、1、2 がそこに到る論理的な導きになっているのでひと通り見ないわけにはいきません。

1. 詩作とは「凡ゆる営みのうち最も罪のないもの unschuldigste」(?, 377)

詩作 Dichten は、戯れ Spiel というつつましい営みである。それはたんに、ものをいう Sagen und Reden だけのことであるゆえに、現実を変える力はなく、また真剣な行為 Tat でもない。それゆえ最も罪のないものである。
 立原はこの部分を、『本質』からの引用ではなく地の文として、次のように書いている。
「……このとき「描く」とは、夢のやうなものであつて、現実ではなく、戯れであつても真剣な行為ではない。何物にも拘束せられずに、うつとりとしてそこにある。あらゆる営みのうちでいちばん罪のないものである」
 出所をハイデガーの『本質』と示して立原が引用した、ヘルダーリンの母親宛書簡の部分は、前回投稿において述べた。「戯れ」の語はその少し前にも出て来る。
 なお、詩作/行為という対比は、伊東の詩「帰郷者 反歌」を想起させる。「詩作を覚えた私が 行為よ」これは偶然であろうか。
 ここまでの限りではまだ、詩作の本質は語られていない。しかし指針は与えられている。詩作は言葉を素材としてなされる。ヘルダーリンは言葉について何を語っているか。これが次の課題である。

1005山本 皓造:2014/03/19(水) 10:24:00
立原・対話・ハイデガー(3)
2.「その故に凡ゆる財宝のうち最も危険なるものである言葉が人間に与えられた……人間が自らの何ものであるかを証せんがために……」(?, 246)

 ハイデガーは、1でのべた「詩作は凡ゆる営みのうち最も罪のないもの」ということと、この個所(2)でいう、「言葉は凡ゆる財宝のうち最も危険なるもの」という、この両者はいかにして両立するか、というふうに問題を立てておいてから、いったんそれをわきにどけて「三つの先決問題」をまず考える、といいます。三つ、とは
 1. 言葉は誰の財宝であるか。
 2. 如何なる点においてそれは最も危険なる財宝であるか。
 3. 如何なる意味においてそれは一体財宝であるか。
 私には残念ながら、この三つを逐条的訓詁的に解明するだけの力がありません。自分でこれが最低最小のぎりぎりの要約と考えるものを書いておきます。しかし、空を掴んでいるかもしれない。

1. 人間は自らの何ものたるかを証しせねばならぬ者である。この証しをするために人間に言葉が与えられた。言葉は人間の財宝である。
2. 後述
3. 言葉は経験と決意と気分を伝える有用な道具 Werkzeug として役立つ。しかしそれは言葉の本質の偶有的な一部分にすぎない。本質的な点は、言葉があってはじめて世界がある、ということである。そうして世界があるところにのみ歴史がある。言葉はこの、より根源的な意味において、財宝 Gut である。

 さて、後述とした2では、言葉の「無垢」と「危険」とをいわば対比するような形で、ハイデガーは少し贅沢に言葉を費やしています。この部分が私にはおもしろかったので、この「対比」部分を取り出してみましょう。

■人間は一般に言葉の力によって初めて顕わなるもの Offenbare にひきわたされる。
 (浜田訳:開示することに晒される)。この「顕わなるもの」というのは難解な概念で、困ってしまうのですが、ハイデガーが他の個所で云っていることをてがかりにして、とりあえずここでは「現世的なもの Weltliche に組み入れられる」という意味に読み解いておきます。
■現世的なものに組み入れられた言葉が自己自身のうちに内蔵する危険
 言葉は理解され且つ万人の共有財産とならねばならない。
 そのために言葉は、
  純粋なもの das Reine、本質的なもの das wesentliche と並んで
  混乱せるもの das Verworrene、低俗なるもの das Gemeine ともならねばならない
■ヘルダーリンは云う
 初穂は神々に帰属する
 果実が人間のものとなるのは、それがもっと陳腐な gemeiner 有り触れたalltäglicher ものとなるときである
■結論:かくて言葉はたえず自己を自己自身によって創り出された仮象のうちに投げ入れそれによって自己の核心――純粋な言葉 das echte Sagen ――を危険に曝さざるをえないのである。

 このように要約すれば、次の課題「如何にして言葉は生起するか」が見えて来ます。次章、3.の主題は「対話」です。

 * 「通俗的な、低俗な、陳腐な」という語に対するのが gemein であることは、ちょっとした新鮮な驚きでした。われわれが学生時代に学んだドイツ語では「共通の、共同の」と訳しておけばすべて間に合ったものでした。そういえば太宰治の『ダス・ゲマイネ』も「通俗的・卑俗的」の意味だということでした。

1006Morgen:2014/03/20(木) 10:57:57
「対話の放棄」の意味するものは?
おはようございます。(会社で書き込んでいますので手元に資料がありませんが…)
 2月6日の私の“「対話型」か「独語型」か?”という問題提起に関して、山本様から「立原・対話・ハイデガー」と題する懇切な連続コメントを頂いております。(感謝!)

 立原のいわゆる「もはや対話が成り立たない」というエッセー「風立ちぬ」における離別宣言が、「もはや対話は無駄だと、国際連盟を脱退し、米英仏から離れ、経済封鎖という墓穴を掘ってしまった」日本政府の姿と何処か似てはいまいか?

 戦前のハイデガー「対話」というのは、同質者間における共通の話題に関する対話―いわば「モノローグ的ダイアローグ」であり、その結果ハイデガーは、ユダヤ人や米英仏との対話を拒否し「ナチズムへの時局便乗者」という生き方を選択してしまったのではないか。これが2月6日における私の問題意識でした。

 今年の伊東静雄賞の栞を先日諌早からお送りいただきましたが、田中俊廣教授の選評の中にこれに通じる言葉(「生きる視点」?)がありました。(手元に資料なし)

 目下のクリミアをめぐる緊迫した国際情勢をみると、ロシアに対する経済制裁が実際に発動され、実効があがるのかどうかは分かりませんが、プーチンはEU諸国間における足並みの乱れを見越して、クリミア編入に踏み切ったようです。しかし、ウクライナとロシアの国境線は長く、いつ発火してもおかしくない状況であると言われています。やはり「もうこれから先はどうにもならないという、絶体絶命と思われる場所でも」なお、人類的知恵を尽くした「対話」によって、何らかの「橋を架ける」余地は残されているのではないでしょうか。

 昭和6〜7年当時の日本外務省は、「経済封鎖が怖いので先手を打って国際連盟を脱退した」(?!)そうです。偏った、楽観的な情報分析に基づく一方的な「対話の放棄・拒否」が、歴史に拭い難い禍根を残すという過ちを繰り返さないようにと祈りたい気持ちです。


 

1007上村紀元:2014/03/22(土) 22:22:11
伊東静雄の未定稿・未発表の詩一篇
彼らは何とはなしにやつてくるらしい
前のつづきを快活にしゃべつたり
笑つたりしながら
その中庭の木立の小さい池のふちに
日に幾組か一対の男女の生徒が来る
彼らにはもう金魚などに興味のある時期は
とつくにすぎてゐるが
かと云つてそこに来てみれば
金魚を眺めて立つてゐるより仕方がない
そんな時 きまつて相手の肩に手をおいたり
指先をもてあそんだりするのは女の生徒だ
それは遠くからみてゐていいしづかさだ
もうしばらくさうしてをればいゝと思う一つの絵だ
しかしすぐ男の生徒は
急に子供らしくぎこちない いたづらっぽさで
小石をつかんで金魚にいたずらを始める
女の子が仰山にそれをたしなめる
それに構わず石を投げる
そして男の子が笑ひこけながら逃げると
何か叫んで女の生徒はそれを追ふ
そして二人の声はすぐに
木立の外のにぎやかな声々にまじつてしまふ

 この詩は、伊東静雄蔵書(諫早図書館蔵)の昭和23年6月出版の丸山薫著 詩集 「花の芯」裏表紙余白に記されている。この詩を裏付けるように、伊東静雄研究(昭和46年 富士正晴編)に収録された中田有彦氏「伊東さんの思い出」に、中田氏が詩人の転勤を知らずに住中に出かけると、正面の表札が「住吉高校」に変り、職員が「伊東先生は阿倍野高校に移りました」という。そこで阿倍野高校を訪ねると

『男女共学というのはいいね。教室のふんいきがとてもやわらかだ。教員室から校庭を見ているとね、ときどき木陰で男の生徒と女の生徒が小鳥みたいにキスしたりしている』『ホントですか』『ええ、ほんとうです』

昭和23年春ごろの思い出だと記されている。

詩人は、昭和23年4月学制改革で府立阿倍野高校に転任したが、同年5月に富士正晴宛て「私は今度アベノ高女に転任しましたが、6月初めごろ、同校が男女共学で、住吉中学に同居することになりますから、6月3,4日頃まででしたら、アベノ高女の方においで下さい。このごろは一つも詩できません。昨日やつと半年ぶりに一つ書いて心持が少し楽になつてゐるところです。」の書簡を送っている。

1008上村紀元:2014/03/24(月) 09:34:51
路上 習作稿
「ドイツ詩抄」大山定一翻訳本の裏表紙の余白に下記の走り書きを見つけた。静雄の字体だから詩の習作として書きとめたものだ。大山定一から贈られた本を読むうち創作意欲が湧き出たものであろうと勝手な推測をする。

   中洲の一劃をはさんで
   大川と堂島川がゆつたりと流れてゐる
   ゆつたりと? さう ゆつたりと従順に
   それは 流れてゐる
   議事堂のドームが あざやかな緑青にかがやいて
   やがて人々の群は爭うて
   わが家にかへる時刻だ
   乗物といふ乗物にとりついて

ここで途切れている。時期は戦後、大空襲の跡もまだなまなましい大阪、勤めが終り我さきに帰宅する人々、昭和二十二年「改造」十月号に発表された「路上」の原型と推定される。

   路上
            伊東静雄
   牧者を失つた家畜の大群のやう
   無数の頭を振り無数のもつれる足して
   路上にあふれる人の流れは
   うずまき乱れ散り
   ありとある乗りものにとりついて
   いまわが家へいそぐ
   わが家へ?
   いな!いな! うつろな夜の昏睡へ
   ただ陽の最後の目送が
   彼らの肩にすべり
   気附かれずバラックの壁板や
   瓦礫のかどに照る
   そして向うに大川と堂島川がゆつたりと流れる
   私もゆつくり歩いて行かうと思ふ
   そして何ものかに祈らずにはをられない
   ――われに不眠の夜をあらしめよ
   ――光る繭の陶酔を恵めよ

1009Morgen:2014/03/24(月) 10:21:11
未発表詩発見おめでとうございます。
 50回目を迎える「菜の花忌」式典を前に、未発表詩が発見されたとは、式典に華をそえる嬉しいニュースです。御盛会をお祈りいたします。

 昭和23年の春といえが、紙を固めた「模造皮ランドセル」に夢をいっぱいつめて、今は無い「小江小学校」(「小江公園」として同保存会の皆様に守っていただいています。)に私も入学したことを思い出します。

 伊東静雄の未発表の詩を噛みしめるように読んで、焦土と化した敗戦国日本が急速に復興を成し遂げたエネルギーが、再び心に甦ってくれることを期待するばかりです。

 

1010山本 皓造:2014/03/30(日) 11:28:28
立原・対話・ハイデガー(4)
3.「多くのことを人間は経験した。神々の多くの名が呼ばれたのは、我等がひとつの対話であり、相互に聞くことができるようになって以来のことである」(?, 343)

 このあとに「対話」についての論述がはじまる以降、あまりむつかしく考えないことにしよう。

「我等―人間―はひとつの対話である。人間の存在は言葉のうちにその基礎をもっているのであるが、言葉は対話に於いて始めて本来的に生起する。……ところで「対話」とは何であるか? 云う迄もなく何かに関して相互に語りあうことである。そこでその場合言葉が相互の接近を媒介することになる。」

 人間は、語り、聞くことができる。そのことにもとづいて、対話が成立する。ハイデガーの云いたいことの第一は、言語は本質的に対話である、ということである。
 立原もここまではごくふつうに受け取ったであろう。エセー「風立ちぬ」?の終り近くで「そして僕らは詩人に問ふ。互に聞き得べきものとして。そして僕らの対話は可能である」と立原が書いているのは、あきらかにハイデガーのこの部分 Und hören können voneinander を意識してのことであろう。

 ところでハイデガーの論調は、ここから、ある一点の強調に向かって動きはじめる、ように私には思われる。前引部分の直後のハイデガーの言葉は、次のように続く。

「だがヘルダーリンはこう言つている――「我等がひとつの対話でありそうして相互に聞くことができるようになつて以来」と。聞くことができるというのは相互に語りあうことの結果なのではなしにむしろ逆にその前提である。ところで聞くことができるということがそれ自身に言葉の可能性を予想しこれを必要とする。語りうることと聞きうることとは等しく根源的である。我々がひとつの対話であることは我々が相互に聞くことができるの謂である。我々がひとつの対話であるとはそれはいつも同時に我々がひとつの対話であるの謂である。ところで対話の統一は我々を結びつける唯一同一のものがその都度本質的な言葉のうちに顕わになつていることによつて成り立つ。そうしてそのような言葉の基礎の上に於て我々はひとつでありしたがつて本来的に我々自身なのである。対話とその統一が我々の現存在を担つている。」(太字は訳文で傍点。以下同)

 ここでハイデガーが云いたいのは、対話はひとつである、ということである。原文はゲシュペルトで、wir sind e i n Gespräch と記されている。我々の個々が交わしあう対話の数々ではなく、それらをひとつにしたもの。あたかも合唱が個々の歌唱ではなくてひとつの「歌」であるように。「我々を結びつける唯一同一のもの」が、我等の内にある。その同一のものによって、我々はひとつ、言葉はひとつ、対話はひとつである。それらが互いに担保しあって、「我々」という現存在を形作っているのである。

 けれども対話は常にひとつであったのではない。ヘルダーリンは「我等がひとつの対話であって……以来」と云っている。それは時間的な出来事であった、とハイデガーは云う。「時が自己を開くとき」、これについては『有と時』§79-81 を参照せよ、というが、私にはもうその余裕はない。

「「引き裂く時」が現在―過去―未来へとその裂目をひらくとき、そのときから始めて常住のものの上に相互にひとつになる可能性が成立する。ひとつの対話で我々があるのは「時がある」というそのときからである。時が出現し成立して以来、そのときから我々も歴史的に存在するにいたる。両者――ひとつの対話でありそうして歴史的であること e i n Gesprächsein und Geschichtlichsein――はその誕生を同じうし、相互に連関しそして同一である。」

 この部分は引用が足りない。ハイデガーの、論証の踏み石を、飛び越している。私の理解が及ばぬため、説明も不足している。最低限私が引き出して示したかったのは、「歴史的」という言葉である。「ひとつ」は、この語にもかかっているのである。

1011山本 皓造:2014/03/30(日) 11:40:37
未発表詩発見のこと
 うれしいニュースでした。
 阿部高の男女共学風景はなかなかいいですね。こういうのを一日一篇くらいづつ、どんどん書いて私たちに残してくれればよかったのに。――

 昭和23年といえば、私はちようど「新制中学」に入った年でした。その時は伊東静雄のイの字も知らず、三年後の昭和26年に住高に入りましたが、その時には伊東先生はもう阿部高にも住高にもいなくて、河内長野の病院に入っておられました。

 今から10数年前、中学の同級生の旧交が復活しはじめ、会食をしたり、毎年一泊旅行をしたり、そのうち誰かの発案で、思い出『文集』を作ることになりました。絵がうまくて、後にデザイナーになった友人が「中学生の頃の山本君をイメージして」描いてくれた、当時の新制中学生像があります。こんな格好で、北田辺町522の筋向いの昭和中学まで、カランコロンと歩いて通っていました。まだ戦後。けれども、私たちは皆、貧しくて、素朴で、キラキラ輝いていたように思います。

1012龍田豊秋:2014/03/31(月) 15:00:19
ご報告
3月22日午後2時から,諫早図書館に於いて第77回例会を開催した。
出席者は7名。

会報は第71号です。
内容は次のとおり。
1 大岡 信 『日本の詩歌』より
  藤原氏の権力争いにより失脚し,太宰府長官として都から追放された藤原道真の漢詩の紹  介

2 高橋 睦郎 「虚を通って実へ」 山上 樹実雄小論

3 宇田 正 追手門大学名誉教授 「水都大阪を巡る近代文学散歩」
????宇田氏は,『春のいそぎ』の古書を手に入れ,詩「淀の川辺」に魅了された。

4 ヘルダァリーンの詩 「夜」 大山定一翻訳
????????????????????????「無題」????〃

5 取材メモ 上村代表が,未発表の詩を発見
????坂東まきさんが,諫早市に寄贈した父伊東静雄の愛読書(昭和19年発刊 大山定一翻訳)  「ドイツ詩抄」に目を通したところ,裏表紙の余白に詩の走り書きがあった。
????上村代表は,「路上」の原型と推定する。
????ほかに,丸山薫著詩集「花の芯」の裏表紙の余白にも詩が記されていた。

6 庄野潤三 昭和43年出版「前途」より抜粋

7 長崎新聞掲載 2014年3月9日掲載 ながさき文学散歩 中島恵美子
????タイトル 伊東静雄の菜の花忌 ??写真 諫早公園の詩碑

8 長崎新聞連載 「伊東静雄と故郷」菜の花忌第50回のタイトルで7回に亘った。

9 長崎新聞第一面に掲載 2014年3月22日 未発表詩発見

10 長崎新聞掲載 2014年3月23日上村代表が,伊東静雄の蔵書の書き込み調査

11 毎日新聞掲載??2014年3月23日 未発表作品発見
??????????????????????????????????????????????????????????????以上

??2014年3月30日,第50回菜の花忌が開催された。
 前日の嵐からの回復が遅れ,場所は諫早観光ホテル道具屋となった。約130人が参加。
 第14回市中学生・高校生文芸コンクール詩部門最優秀賞の前田悠花さん(明峰中)と中村美結さん (長崎日大高)が自作の詩を朗読した。
??次に,第24回伊東静雄賞を受賞した谷元益男さんへの贈呈式と作家後藤みな子の講演があった。

??4月20日,諌早つつじまつりの一環として,例年どおり詩朗読会を詩碑の前で実施します。
??多くの皆様のご参加を祈ります。

 来月の例会 4月26日午後2時から 於 諫早図書館2F

1013山本 皓造:2014/04/06(日) 11:36:01
愚挙としてのプルースト
 プルーストの話はこれで終りです。

 訳書が現在、文庫で4種出ています。
   井上究一郎訳、ちくま文庫、10冊
   鈴木道彦訳、集英社文庫、13冊
   吉川一義訳、岩波文庫、14冊(未完)
   高遠弘美訳、光文社古典新訳文庫、14冊(未完)
 さて、どれを選ぶか。なにしろ長いので、途中、選択の誤りに気付いて路線変更、となったりするのは、「悔い」が大きすぎます。フランス語をやっている友人に聞こうかと思ったりもしたのですが、やはり自分で決めることにしました。
 そのために、第一冊だけは4種類を全部、読んでみることにしたのです。そうして先日、ひとまずこれを果たしました。

 思うに、同じ本を4度読むというのは、愚挙です。いわば、12キロの道のりを、普通に歩けばもう4キロ進んでいるのに、1キロごとに引き返してまた出発点から歩きなおし、結果としてまだ1キロしか進んでいない、というようなものでしょう。
 各訳書それぞれに特徴があって、それはそれでなかなか面白いのですが、これは略。結論として私は岩波文庫の吉川訳を選ぶことにしました。訳業はまだ未完ですが、これは心配していません。吉川訳が完了するのと自分の寿命と果たしてどちらが先か、これはいい勝負ではないかと思うので。

 愚挙をもう一つ、重ねました。原文のフランス語のにおいを、たとえほんの少しでもかいでみたい。たとえ真似だけでもやってみたい。それで、第1冊の、紅茶とマドレーヌ、水中花のあたり、訳書で10ページ分ほどを、辞書を引き引き、訳書を横目に見ながら、ともかくよんでみました。フランス語は全然まじめにやっていなかったので、しかしもうそれは悔いません。自分なりに「原文を読む」楽しさは得られたと思いました。

 高遠弘美氏が吉田秀和の「失われし時をめぐって」という文章を絶賛しています。『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』(新潮社)のち『吉田秀和全集』(白水社)にも収録。この本はある筈と探すと、両方とも買っていました。時代はちょうど「プラハの春」の頃で、ソ連の戦車の音が聞こえてきそうな、生々しい時代の息吹きとともに、ヨーロッパ見聞のあれこれが熱っぽく綴られていました。

 『堀辰雄選集』(筑摩書房)にも、プルースト関係の雑文が集められています。五篇とも昭和10年より以前なので、立原も読んでいるはずです。で、立原はプルーストに無反応?
 プルーストをめぐる私の愚挙と愚考については、今回で終わりです。ご迷惑をおかけしました。

1014山本 皓造:2014/04/14(月) 11:51:17
立原・対話・ハイデガー(5)
 すると直ちに次の問いが生ずるとハイデガーは云う、
 「引裂く時のなかで常住のものを把捉しそれを言葉で繋ぎとめるものは誰であるか」
 これに答えるのが、ヘルダーリンの詩「追憶」における次の言葉である。

4「常住のものは、しかし、詩人がこれを建設する」(?,63)
 (浜田訳:「留まるものを創設するのは、しかし詩人たちなのだ」
  Was bleibet aber, stiften die Dichter.)
 斎藤訳で「建設する」とあるのは、stiften で、浜田訳はこれを「創設する」と訳する。辞書では、たとえば、a)(…のための)[設立]基金を出す;(…を建設する);(…を)寄贈する、寄付する、喜捨する……b) 創立する、設立する。名刺形 Stift には(寄付によって設立された宗教上の団体・施設;)宗教財団;理事会;参事会;修道院;神学校;司教区本部……などの訳がつけられている。その寄付金や基金が Stiftung、これはまた寄付という行為をもさす。このようにかなり特殊な使い方をする語であるのに加えて、ハイデガーはさらに他の文脈でもこの語を用いていて、それぞれに特殊なニュアンスを与えているらしい。ようするにハイデガーが、詩人が stiften する、と述べたここの意味を深く追究し解明し解説する力が、私にはない。

 寄り道はここで終わって、ハイデガーの論旨を続けよう。
 留まるものは必ずしも常住不動ではなくてむしろ速やかに移ろい去るが、どのようにしてこれを繋ぎとめるか。
 「詩人が名づける。……詩人は本質的な言葉を語るものなるが故にかく名をよぶことによって存在するものが始めてその本質を規定せられ、かくて存在するものとして a l s Seiende 知られるにいたるのである。詩は言葉による存在の建設である Dichtung ist worthafte Stiftung des Seins.」

 ここでハイデガーは簡潔な要約を行った後、次節に引き継ぐのだが……

5「いさおしは多けれど、しかも、人間はこの地上に於ては詩人として住んでいる」(IV, 25)
 最終節のこの言葉は私には謎のようなものだ。ハイデガーの説明は保留して、私ももはや疲れて来たので、ここで一気に、《歴史》と並ぶもうひとつのキイワード、《民族》の提示される場面へ飛ぼう。それは突然出て来るのである。

「最初に生じた結果は詩の活動領域は言葉であるというにあった。それ故に詩の本質は言葉の本質から把握せられねばならぬ。ところで次に明らかになったことであるが詩とは万物の存在と本質を建設しそれに名を賦与することであって決して気儘な饒舌ではなく、むしろそれによって始めて我々が日常の話のなかで物語ったり談論したりしている一切のものが明るみに歩み出るをうるにいたるような当のものである。故に言葉が予め創作材料としてそこに見出されてそれを詩がとりあげるというのではなく、むしろ詩そのものが始めて言葉を可能ならしめるのである。詩は民族の根源的な言葉である。それ故に逆に言葉の本質がが詩の本質から理解せられねばならぬ」

 詩は民族の根源的な言葉である Dichtung ist die Ursprache eines geschichtlichen Volkes.これはずいぶんと激越な言葉だ。浜田訳は「詩作は歴史的な民族の祖語である」祖語というのも激越な訳語だ。

1015Morgen:2014/04/14(月) 23:45:57
閑話休題
こんばんは
山本様のご投稿「立原・対話・ハイデガー」興味深く拝読させていただいております。

(ご投稿中に差し挟んで済みませんが、ティーブレイクとして投稿します)
 昨日、あるかんば隊の皆様が昨年11月に訪問された「仁和寺―御室の桜」を観てきましたので写真を載せてみます。因みに、古くからの京都の戯れ唄に「わたしゃお多福御室の桜、はなはひくても人が好く」というのがあるらしく、背も花の咲く位置もも低くて別名「お多福桜」とも言うらしいです。
 ついでに竹久夢二のセノオ楽譜“MORGEN”の写真も合わせてご覧ください。
 4月20日、天気が下り坂のようで心配ですが、何とかもってくれることを祈ります。

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1016上村紀元:2014/04/23(水) 15:50:14
竹下夢二の絵
竹久夢二のセノオ楽譜“MORGEN”有難うございました。「『手をかたくくみあわせ』というのはひところ伊東さんが音楽に熱心な時、私が卒業して姫路にいたころ、まだあの人が『コギト』に出ず、『呂』などに拠ってた時ではなかったかと思いますが、私がシュトラウスの『モールゲン』という歌のレコードを聞かせようとしたとき、竹下夢二の幻想的な絵のついた楽譜の日本語の歌詞を読みながら意味がよくわからぬといい、ドイツ語の方の意味もわからぬといいながらいつまでも見ていましたが、その表紙の絵が若い男女が手を組み合せて海の方へ行っているものでしたし詩の内容は『わがひと』のもそれをとったと思われる位で、『わがひと』にはその絵が頭にあったと思います。詩はJ・Hマッケイの由です」  酒井百合子書簡より

1017山本 皓造:2014/04/26(土) 20:37:57
尹東柱
 私の教え子のTさんは、教え子といっても「先生、わたしもうじき古稀やで」という位で、たぶん40代の終り頃に私たちの通信制高校に入学して来た、元気のよい、在日のおばちゃんである。
 Tさんが自分でも思いがけず入院し、ベッドで『尹東柱詩集』を読んで、先生にも読んでもらおうと思って、わざわざゆうパックで岩波文庫版『空と風と星と詩 尹東柱詩集』を送ってくれた。私も買うつもりをしていたので、これはうれしかった。もうひとつうれしいことに、後半にハングルの原詩が収録されている。だが悲しいことに、私のハングルはもう完全にサビついていて、読めるのだが読めない(おわかりでしょうか?)
 茨木のり子さんが『ハングルへの旅』の最後のほうに、尹東柱のことを書いている。茨木のり子さんはTさんの肌にも合いそうだから、『茨木のり子集 言の葉』3冊が文庫で出ているよ、ということも含めて、知らせてあげた。(『言の葉 3』にも、エッセイ「尹東柱について」が載っている。)
 『ハングルへの旅』の終りのほうに、こんなことが書いてある。
“尹東柱は留学生時代、立原道造を読んでいた。年譜でそれを知った時、ハッとした。尹東柱の詩を読んでいると、その抒情の質が立原道造に似ているような気がしていたから。”
 ある詩人の「抒情の質」を比べる、というのは、考えればとんでもなく難しいことだ。それは読む者の「感性の質」を試される、というのに等しい。
 茨木さんはあともう少し、いろいろ書いている。私としては今のところ、死の直前に変な方向に曲がりかけて、その可能性を可能性のままに残して、24歳で若死してしまった立原と、同じく27歳、1945年2月、「解放」のわずか半歳前に、福岡の刑務所で獄死した、生前一冊の詩集も刊行されず、その名前さえほとんど知る人のなかった尹東柱と、そんな二人の若い詩人が、同時代に、たがいに顔を合わすこともなく、軽井沢や追分と、下鴨警察署や福岡刑務所で、別々に、生きていたという、〈事〉の、ふしぎさ。尹東柱-立原道造と、こんなふうに二人の間に引かれた線の、そのふしぎさにハッとする。
 文庫では金時鐘さんが「解説に代えて――尹東柱・生と詩の光芒」を書いている。かすかだが決して消えない火種が、まわりのものをブスブスといぶらせて、その焦臭が私たちの身体に突き当たりまつわりつくような、濃密な、熱い、激しい文章でした。

[「対話」は難渋中]

1018Morgen:2014/04/28(月) 23:17:39
尹東柱詩集『空と風と星と詩』
 こんばんは。明日から大型連休が始まりますが、皆さま如何お過ごしでしょうか。

 私は、山本様にご紹介頂いた尹東柱詩集『空と風と星と詩』を買ってまりましたので、今から読むつもりです。昼間に会社で拾い読みしてみて、少し気になった詩の一部をとりあえず抜き書きして紹介してみます。

「星をかぞえる夜」(1941・11・5)  卒業記念詩集『空と風と星と詩』から

[・・・・・]
私はなにやら慕わしくて
この数かぎりない星の光が降り注ぐ丘の上に
自分の名前を一字一字書いてみては、
土でおおってしまいました。

夜を明かして鳴く虫は紛れもなく
恥ずかしい名を悲しんでいるのです。

ですが冬が過ぎ私の星にも春が来れば
墓の上にも緑の芝草が萌えるように
私の名の文字がうずもっている丘の上にも
誇るかのように草が一面生い茂るでありましょう。

「たやすく書かれた詩」(1942・6・3)  同年4月立教大学文学部英文科に留学

[・・・・・]
六畳の部屋は よその国
窓の外で 夜の雨がささやいているが、

灯りをつよめて 暗がりを少し押しやり、
時代のようにくるであろう朝を待つ 最後の私、

私は私に小さな手を差し出し
涙と慰めを込めて握る 最初の握手。

1019上村紀元:2014/04/30(水) 09:54:31
第21回 石楠花忌
生涯一教師、地域の子供たちをたくましく育てた詩人木下和郎(きのしたかずろう)、故郷の風土を愛する心は、同郷の伊東静雄にも通ずる、第21回「石楠花忌」が、地元小長井町の詩碑前で行われた。運営は、しのぶ会代表の中溝章氏、和郎の詩をこよなく愛する坂口敏治氏、高来文化協会長嘉村徹氏ほか30名で、その多くが和郎の教え子で、福岡からの出席者もあった。詩「昭和19年 秋」を伊東静雄研究会津田緋沙子が朗読、当時をしのばせるスピーチもあり、夫人木下建江氏の謝辞で幕を閉じた。

1020Morgen:2014/05/01(木) 10:54:52
筑紫石楠花によせて
 おはようございます。
 いま、我が家の小さい庭では、数本の筑紫石楠花が、次々に蕾〜開花〜落花の変遷を見せています。昨夜は雷鳴が響きわたりました(春雷と言うのでしょうか)。今朝は、5月の陽射しに包まれて、草木の蕾が膨らみ、あらゆる木々の葉っぱが燃えるような照り葉色に輝いています。(栃の木、樅、山紅葉、縮緬蔓、常盤柿、山柿、さつき、椿、むべ、甲州梅、山桜、瑞祥松、糸魚川真柏、辛夷、小梨、山躑躅、捻幹石榴、実生かりん、筑紫石楠花・・・・・などの中・小品盆栽が雑然と棚上にあります。)
 上村さんから「第21回 石楠花忌 」のご案内があり、小長井の詩人木下和郎とは?と調べていましたら、「木下和郎詩集」 (1967 紀元書房)、文芸誌「岬」(木下和郎追悼号 風木雲太郎編集)、「木下和郎全詩集」(芸文堂)などが見つかりました。


 草の雷(いかづち)  木下和郎

三月二十七日 また はげしい雷雨でした
夜十一時 ひとつ落ちました
千早が目を覚まし
どうしても ねつきませんでした

枯れがれの桑畑を稲妻が走ります
そんな雷鳴に
桑の蕾も
ちょっぴりふくらむのです

みりにもみたないかいこがからをやぶりました
蚕室温度二十七度

多良の峯にはなごりの
霧氷がかかりました

1021Morgen:2014/05/02(金) 10:39:15
爽やかな五月に
 『魂を揺さぶる人生の名文』/困ったときの名文頼み(川村湊 光文社 2002)を、5月1日昼食の序でに立ち寄った古本屋で買ってきました。体裁はケストナー「人生処方詩集」を真似た編集のようにも見えますが、読者が自分にとっての名文を「続編」として付け加えていくことを、著者はまえがきで勧奨しています。
 そのなかに、
 ○孤独感に苛まれたとき・・・・・伊東静雄詩集「水中花」を読みなさいという処方箋があり(112~113頁)、「ナニナニ?!」と、即購入しました。(594円)

[・・・・・]
遂に逢わざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかいて
死ねという、
わが水無月のなどかくはうつくしき。

川村湊さん(法政大学教授 評論家)の詩解釈のポイントは以下の通りです。
[・・・・・]
<遂に会わなかった人の面影が、葵の花の前に立ち、我慢できないので、水中花を空に投げ上げれば、金魚の影もそこに見える。・・・・・六月はなぜこんなに美しいのか。>

「なぜ、気分爽快になり、孤独感から開放されるのか?」分かりませんが、確かに静雄詩のイメージは鮮明、口調はいいです。詩人だって苛立ち、切れてしまうことがあるのだということに思い至り、「淋しいのは俺だけではない」と共感することによって、孤独感から抜け出せるのかもしれません。


<私流コメント>
 某脳神経学者(有田教授?)の説をモジッて、以下のように考えてみました。
 孤独感や不安感(ノルアドレナリン神経系の優勢)に苛まれた人は、まずバナナを一本食べて、5月の朝の太陽に顔を向け、約10分間のリズム体操(水中花投擲に替えて速歩3分間の3回インターバル運動でも可)をすれば、脳内神経伝達系統のうちで、まずセロトニン神経が活発となり、ドーパミン神経やノルアドレナリン神経とのバランスが確立され、活き活きとした平常心になる。その結果として、不安や孤独感に苛まれた人も「わが水無月−五月でも同じ−のなどかくはうつくしき!」と感嘆する心境になる。
(芥川龍之介が志賀直哉の自然人に憧れた故事を思い出しますね。)一度お試し下さい。もしだめだったら他の処方をお試し下さい。

1022山本 皓造:2014/05/03(土) 16:57:22
ハイデガーとの〈対話〉の終り
 ものを考えること、ものを書くことは、力仕事であることを、近頃つくづくと感じさせられます。

 立原の名前が出てくるというだけで尹東柱のことを書いたところ、Morgen さんからまことに適確な引用をいただきました。自分の名前を指で書いて、土でおおってしまう……だが春が来るとその丘にも草が生えるだろう、誇るように、燃えるように。この淋しさと悲しさ、この希望と自恃。立原に似ているようでいて、あきらかに異なる抒情の質。その背後で、国家権力に倚りかかろうと身体を傾ける若者と、国家権力に抗ってついに圧し潰された若者と。この〈歴史〉と〈民族〉の拮抗、擦過、純情。

 ハイデガーの「本質」を追って行くことに疲れ、またこれは立原の〈対話〉とあまり噛み合うところがないようにも思われたので、この件は、〈歴史〉〈民族〉のあとで出る、〈合図〉という語と、〈この乏しい時代に〉という措辞とこの2点にだけ注目しておきたいと思います。

 はるかな昔、石母田正『歴史と民族の発見』という本がありました。わたしはこの本を読んでマルクス主義者になりました。党全盛の時代は過ぎ、セクト全盛にはまだ至らないという、モラトリアムの時代で、わたしはノンポリからついに出ませんでした。「歴史と民族」が、あの時代と、もう10年か20年前の時代に、同じ口調で、同じ熱さで語られ叫ばれたのは奇妙な感じです。

 矢野久美子『ハンナ・アーレント』(中公新書)という本を読みました。アーレントがハイデガーについて書いています。[ハイデガーは]自分のことを天才と思いこみ、責任感をまったくもたない「最後のロマン主義者」のそれと見なしていた。彼の哲学から導き出される自己は、自己中心的で仲間から分離した自己、完全に孤立し原子化された自己たちであり、そこから「民族」や「大地」といった概念、つまり一つの「超-自己」への組織化が生まれる、と。著者はもっと端的に、ハイデガーは「他者を欠く哲学者だった」と書いています。

 熊野純彦氏が岩波の『図書』4月号で、レーヴィットのハイデガー批判を次のように紹介しています。ハイデガーは……「共同相互存在 Miteinandersein」の有する積極的な可能性をあらかじめ通りすぎてしまっているのではないだろうか。つまり一者[アイン]としての私が他者[アンダー]であるきみと共に[ミット]、また私ときみとが互いに[アインアンダー]かかわり合う次元が、ハイデガーの思考にあってはつねにすでに飛びこえられているのではないか。(レーヴィット『共に在る人間の役割における個人』1928)

 ハイデガーの『言葉についての対話 日本人と問う人とのあいだの』(平凡社ライブラリー)などを読むと(本書の注解には数多く教えられました)、ずいぶん繊細な〈対話〉がなされていて、必ずしも彼が野猪的夜郎自大的な人物とも思えないのですが、しかしやはり、3月20日の投稿で Morgen さんが指摘しておられた「ハイデガーの「対話」というのは同質者間における共通の話題に関する話――いわば「モノローグ的ディアローグ」であった」という意見に、結局わたしも同感です。
 実存的な個々の人間どうしの繊細微妙な思惟情感の差異を認め合いつつ、ねばり強く相互に手を触れ合える地点を求め続ける、個と個の〈対話〉や、アレントも云っている、思考という孤独な営み、自分との対話、「わたしというたったひとりの人間」が「わたし自身」とおこなう対話もある。

 立原の堀辰雄にたいする、対話が「成り立たない―→成り立つ―→成り立たない/訣別」というのも、なんだか自分勝手なきめつけのような気もします。しかも立原はハイデガーから〈対話〉という語は借りて来たけれども、その使い方は必ずしもハイデガーと同じではなく、「ひとつの対話」以下、その「本質」部分には、触りもせぬような書き方をしています。「風立ちぬ」論についてはもう少し詰めたく、とりあえずハイデガーとはもう別れようと思って、妄言駄弁を弄しました。でもここから伊東静雄まではまだ距離があるようです。ご海容を。

[追記:]「モルゲン」でいろいろ検索していたら、中路正恒さんという人が、「モルゲン」「哀歌」「わがひと」etc. についてたくさん書かれているのに出会いました。いくつか読んだだけですが、とりあえず記しておきます。「モルゲン」は、曲(音)そのもの、ないしは楽譜を検索しているのですが、かかって来ません。

1023Morgen:2014/05/12(月) 11:49:31
「誘わるる清らかさを私は信ずる」
 吉本青司著『ローマン派の詩人たち』(沖積社 昭和56年10月1日)70〜106ページに、「誘わるる清らかさを私は信ずる」と題して伊東静雄に関するエッセーが載っていますので、私の注釈を加えず原文に即して概略(かなりの圧縮です)を紹介してみます。

 同書の表題の言葉を「誘わるる清らかさを私は信ずる」としたのは、幾度も読みかえすにつけ、この言葉がどんなに怖ろしい意味を持つかを思うからである。それは一言にして言えば、「感性への大変な信頼」ということになる。静雄詩を解く、神話に匹敵するキーワーズである。(・・・静雄の人生と詩業の意味を解明するかぎであることに間違いはない。)

 <難解な「静雄詩を解く、神話に匹敵するキーワーズ」をご教示下さるのであれば、熟読吟味せねばなるまい!!>と拝読させて頂きました。「プシケ」「果樹園」「公園」などの同人で、1913年高知生まれの詩人吉本青司様のご論旨は、静雄詩と同じく高尚・難解かつローマン的でもあります。
 その論旨を短く要約することは困難ですので、サブノート風に箇条書きにしてみます。

1、私が泉のそばに座った時/噴水は白薔薇の花の影を写した/私はこの自然の反省を愛した・・・さうして私の詩が出来た
 美の理念を創造した白薔薇の姿を噴水に見ることが「反省」であり、詩人は対象から受ける印象について反省するが、その反省の主体となるのは自己の理念であり、対象となるのはつねに内的な理想的な対象でなければならない。

2、かく誘ふものの何であろうとも/私たちの内の/誘わるる清らかさを私は信ずる
 この「誘わるる清らかさ」こそ、理想的な自然や世界を思考する「理念」と超感覚的な源泉であるところの清浄な魂であり「精神性」であろう。

3、いま私たちは聴く/私たちの意志の姿勢で/それらの無辺な広大の讃歌を
(無縁の人=「反省」のできない人は何も感じないが)私たちは「意志の姿勢」で鳥々や草木の太陽への広大な讃歌を聴く。(理念の反省が行動となるのは意志の姿勢によってであり、美しい魂の理想主義が「讃歌を」を生む素地である。)

4、空虚を歴然と見分くる目(空虚を識別する理性)<太陽を遍照させたいという祈念(A<B…BはAより大きい)・・・∴静雄詩「わが人に与ふる哀歌」は「太陽を遍照させる主体たる清らかな魂あるいは理念への讃歌」である。<コギト・エルゴ・スム>

5、地上に太陽は照っていないので、天地の間に置かれた恋人たちにとっては、天上への「讃歌」は地上にあっては「哀歌」(讃歌即哀歌 哀歌即讃歌)である。(「永久の帰郷」は、地上に帰ることによって天上への夢を実現するのが静雄の念い。…cf:芥川

***分かりにくい文章になってしまいました。興味の或る方には原文のコピーをお送りしますのでお申し出ください。kuni@nozaki.ne.jp

1024 斉藤 勝康:2014/05/12(月) 19:36:09
R.シュトラウスの歌曲と静雄
R.シュトラウスの歌曲を愛好していたのはよく知られているが「わがひとに与ふる哀歌」の詩がマッケイのモルゲン(あすの朝)と似ていることは自明と思われます。
あすは太陽が再び輝き.....。マッケイ
山本さんの文からR.シュトラウスの歌曲を思い浮かべ、晩年の名曲「4つの最後の歌」の第4曲「夕映え」、アイヒェンドルフの詩も愛好したに違いないと思った次第。
 私たちは悲しみも喜びも/手に手をとって通り抜けてきた.......。この二つの詩の合作ともいえそうで。
私はジェシー.ノーマンのソプラノとオーケストラ版で聞いております。なお5/8の朝bs3クラシック倶楽部にてサンドリーヌ.ピオというsp歌手がモルゲンを歌っていました。

1025龍田豊秋:2014/05/14(水) 09:40:20
ご報告
4月26日午後2時から,諫早図書館に於いて第78回例会を開催した。
出席者は7名。
平成25年度の決算報告及び承認。

会報は第72号。
内容は次のとおり。
1 伊東静雄研究会 平成25年度活動報告

2 一筆啓上 後藤みな子様 松尾静子(伊東静雄研究会会員)

3 伊東静雄 詩 「夜の停車場で」 昭和23年「詩学」12月号に掲載
????富士正晴の解説

4 伊東静雄の未定稿作品の紹介

5 文章の書き方 辰野和男(岩波新書323)

6 長崎新聞 2014年3月31日掲載
????「第50回菜の花忌」の記事 「伊東文学は郷土の誇り」??????松尾潤記者

7 長崎新聞 2014年4月8日掲載
  コラム「観覧車」??「菜の花忌に感動添え」         石田謙二生活文化部長


8 長崎新聞 2014年4月22日掲載 コラム「往来」
????後藤みな子 第24回伊東静雄賞贈呈式で記念講演 「魂の帰郷を果たしたい」
                               松尾潤記者

9 朝日新聞 2014年4月16日掲載 未発表詩発見????   佐々木亮記者

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 5月の例会 5月24日午後2時から 於 諫早図書館2F

1026Morgen:2014/05/22(木) 21:59:34
「菖蒲忌」(5月25日)によせて
 木下和郎詩集「嵯峨島抄」に次のような詩があります。(ただし抄録)


[・・・・・]
昭和五十五年五月七日、朝、
「おとうさん、野呂さんが・・・・、野呂さんが・・・・」と
妻は、私の出勤の足を止めます。

 涙がとめどもなく頬を濡らした。/私は哀しいのではなかった。泣きながらこれは哀しみではないのだと自分に言いきかせていた。哀しみとはちがうもうひとつの何かが胸を占め、あとからあとからと涙を溢れさせるのだった。(野呂邦暢「足音」より)

[・・・・・]
“待つことにはなれています”あなたの微笑みが彼岸の哀しみとなってしまいました。


 野呂邦暢さんが突然亡くなられた朝の様子が昨日のことのように伝わりますが、既に34年が経過したのだと思うと、溜息が出てきます。せめて「菖蒲忌」(5月25日)が盛大に催行されることを祈ります。
 

1027Morgen:2014/05/26(月) 13:06:34
野呂邦暢を150人追想(西日本新聞)
 「野呂邦暢を150人追想 諫早市で菖蒲忌 作品への高評価いまも」というタイトルで、本日の西日本新聞に記事が掲載されていますので、(無断)転載します。

 諫早を拠点に活動し、自衛隊時代の日々をつづった「草のつるぎ」で芥川賞を受賞した作家、野呂邦暢(1937〜80)をしのぶ第34回菖蒲忌が25日、諫早市の上山公園の野呂文学碑前であり、約150人が出席した。
 没後30年が過ぎても野呂文学への評価は根強く、みすず書房が5月に「兵士の報酬随筆コレクション1]を刊行。6月刊行の「小さな町にて随筆コレクション2」と合わせて、単行本未収録の約240編を収録するという。交遊社も[小説集成](全8巻)の刊行を始め、これまでに3巻を刊行した。
 この日は、主催者のあいさつとして、諫早市芸術文化連盟の森長之会長が「作品は歳月を超えて、格調高い野呂文学の風韻を生き生きと伝えてる。」と述べた。高校生などが野呂文学作品を朗読し、出席者が野呂文学碑にショウブを献花した。(2014/05/26 西日本新聞朝刊)
 

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001162M.jpg

1028龍田豊秋:2014/05/30(金) 11:57:11
ご報告
5月24日午後2時から,諫早図書館に於いて第79回例会を開催した。
出席者は8名。

会報は第73号。内容は次のとおり。
1 <詩を読む>??「四月の風」 伊東静雄     昭和9年「コギト」掲載

2 詩「四月の風」を解題                 上村 紀元

3 詩「除夜」                      高塚 かず子

4 詩「赤とんぼ」 第13回伊東静雄賞奨励賞受賞作品?????? 小町 よしこ

5 第21回 石楠花忌 4月29日
 「昭和十九年 秋」の詩碑の前で開催され,その後例年は葉桜の下で皆さんと食事を楽しむ  が,今年は天候が思わしくなく近くの公民館に移動した。
????伊東静雄研究会の津田緋紗子氏が「昭和十九年 秋」を朗読した。

6 詩「草の雷」                     木下 和郎
????詩集「草の雷」の帯文                 野呂 邦暢

7 「文章」??伊東 静雄
???? 芸術といふものは誠さえこもっておれば、下手なほどよろしい。
 ??????????????????  ????????      ???? 昭和16年6月「三人」25号掲載

8 散文詩 「薪の明り」??昭和23年「家庭と料理」11月号掲載  伊東 静雄

9 詩「捨てられたはしため」                E・メーリケ 作
????????????????????????????????????????????????????????  手塚 富雄  訳
????手塚富雄全訳詩集2(角川書店)から収録
 ??上村代表が,「薪の明り」とモチーフの似た詩を探し出したもの。
?????????????????????????????????????????????????????????????????????? 以上

  伊東静雄賞贈呈式における後藤みな子氏の講演「諫早、長崎ー私の帰郷」を
  当研究会会員の津田緋紗子氏がテキスト化しました。本当にご苦労様でした。
??????????????????????????????????????????????????????????????????????????以上

  来月の例会は6月28日午後2時から,宇都町のレストラン「えげん坂」に於いて開催しま  す。詩に限らず,様々な文学を採り上げおしゃべりを楽しんでいます。
  興味をお持ちの方は気軽にお出で下さい。

1029Morgen:2014/06/03(火) 12:23:50
Das verlassene Mägdlein(はした女か少女か?)
Das verlassene Mägdlein

Früh,wann die Hähne krähn,
Eh' die Sternlein verschwinden,
Muß ich am Herde stehn,
Muß Feuer zünden.

Schön ist der Flammen Schein,
Es springen die Funken;
Ich schaue so drein,
In Leid versunken.

Plötzlich,da kommt es mir,
Treuloser Knabe,
Daß ich die Nacht von dir
Geträumet habe.

Träne auf Träne dann
Stürzet hernieder;
So kommt der Tag heran -
O ging’ er wieder!

“ Mägdleinを「はした女」と訳すか「少女」と訳すか?”私は昔から少し引っかかりを感じていました。
  Mägdeは詩語としては「乙女」であり、-leinは「小さい」ですから、「年の若い乙女」の意味で、(他家で働く若い女中さんかもしれませんが)「はした女」というような卑語的な意味は感じません。

 私は、小さい頃から、ごはんやおかず、風呂、牛のえさ、味噌・醤油豆を自分の家のかまどで炊き、時には煙草の乾燥小屋のボイラーも焚いてきました。頭の中では、どうすれば上手に燃やせるかとか、焦がさないコツ、火加減の調節などを工夫しながら薪をくべました。(少年時代の自分の姿を観ている。)

 伊東静雄は、かまどを炊く妻の姿に田舎の母親を観ているのでしょうか。

 メーリケの詩では、少女は、早朝に起きてかまどに火をつけ、燃え上がる炎をみて、心も沸き立ちますが、甘い言葉をかけ言い寄ってきたのに、もう来てくれなくなった情け知らずの若者のことを、昨夜夢にみたことを突然思い出します。少女は、涙が次から次に流れて、「早く日が暮れてしまえばいい!」と苛ついています。(メーリケは乙女心を観ているのか「はした女」のはしたない心を観ているのか?)

 一つの詩を読んでも、(詩人の意図に拘わりなく)それぞれの心象は読み手によっていろいろなのでしょうね。

1030上村紀元:2014/06/03(火) 13:20:24
訂正とお詫び
第79回伊東静雄研究会報告で詩「捨てられたはしため」は、上村代表が「薪の明り」とモチーフの似た詩を探し出したものと記されていますが、小高根二郎著「詩人、その生涯と運命」で既に紹介されていたものです。訂正とお詫びを致します

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1031山本 皓造:2014/06/03(火) 15:22:15
山と川の名
 またごぶさたをしてしまいました。
 私と同年輩の友人知人に、最近あまりにも脳梗塞が多く、中に亡くなったのも何人かあり、軽いのは娘さんに山岳用のストックを買ってもらって、二本杖をつきながら毎日歩くことに励んでいるのもいます。が、あまり病人が多いので気になって、病院で云って頭のMRIを撮ってもらいました。その結果を先週聞きました。「先生、血管切れたり詰まったりしてませんか」「大丈夫です」「脳ミソの隙間が空いてませんか」「ぎっしり詰まっています」「それなら、かしこいわけですね」「詰まっているのとかしこいのとは、関係ありません」

 もうろうとして雑書を読みちらしているうちに、これは過去何度も目にしたに違いない、しかしその時なぜかハッと気をひかれるものがあって、メモをしておいた詩句があります。

  あれが阿多多羅山
  あの光るのが阿武隈川

 むろん、よくご承知の、高村光太郎『智恵子抄』の中から「樹下の二人」の一節です。
 お気づきかもしれませんが、このとき私が脳裡に無意識に並べていたのは

  夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
  ……
  いかな日にみねに灰の煙の立ち初[そ]めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは


 何が云えるのでしょう。もう〈論〉には疲れ、今の私にふさわしい語はせいぜい〈想〉ぐらいのものか。
 元気を出してまた書いて行きたいと思います。
 京都は35℃を越えたとか、言っています。ささやかな地異!

1032山本 皓造:2014/06/08(日) 17:06:11
捨てられた下女
1.
 Morgen さんの前回の Mägdelein の投稿を拝見して、ハッと何かに触れられたような気がし、その無意志的記憶の糸の端を引っ張ると、まるでプルーストが全コンブレーを引きずり上げたように、いろんなものがずるずるとついて上がって来ました。
 もう十年以上も前、私は「伊東静雄と柳田国男――桶谷秀昭の所論をめぐって――」という論考を書きかけたのですが、「めぐる」だけで、まとまりがつかず、とうとう放棄してしまった、苦い記憶があります。
 私がとりあげたのは、桶谷秀昭「ああ誰がために咲きつぐわれぞ 伊東静雄私論」でした(初出「ポリタイア」1986.12、のち思潮社『現代詩読本10』、桶谷秀昭『土着と情況』に収める)。ここに氏は伊東の「薪の明り 散文詩」を引いて、その所論の足掛かりの一つとしているのですが、この桶谷論文の所在を報告すれば、ひとまず私の役割は果たしたことになります。

2.
 伊東はなぜか「誰の作か忘れたが「捨てられた下女」と題するドイツの詩」というふうに紹介して、メーリケの名を出していません。しかし伊東がメーリケの名を忘れるはずはなく、これは文飾であろうと思います。 Mägdelein はやはり「召使いの若い娘」「下女」におちつくものと私は思います。単なる「少女」は採りません。朝早くかまどに火をたきつけるのは彼女の「仕事」なのです(Muß ... stehen; Muß ... zünden)。それより訳は最後の行がむつかしいですね。
 メーリケの詩には何十人もの人が曲をつけているそうですが、私はネットで探して Hugo Wolf 作曲のものを何人かのソプラノ歌手で聴きました。ヴォルフの曲想は、なんだか重く、沈鬱で、あまりピンと来ませんでした。

3.
 伊東は一応、「それは男に捨てられた下女の悲しみをあわれんだ詩でる」と云って、この詩を紹介しているのですが、しかし彼が伝えたかったのはそれよりも、子供の頃朝早く目を覚ましたときにかまどの明りの中に見た御飯をたいている母や姉の姿、戦後の疎開地で「暗い冬の朝、かまどの前、まきの火の明りの中にうずくまる女」の姿の「あわれ」ということでした。

4.
 桶谷は、これまでの自分の「伊東静雄体験」を回想風に綴りながら、最後の結びの部分に入って、現在の自分がとりわけ惹かれるのは、『夏花』以後の「生活者伊東静雄の心性」であることを告白します。作例として「夢からさめて」「庭の蝉」「誕生日の即興歌」などが挙げられます。ここには同質の心性が流れており、それが人を惹きつけるのは、これが「自身の生の暗部にまでとどこうとするある種の自覚」であり、「この種の自覚は、たんに個人的なものから、民族の遠い体験の核にまでその触手をとどかせるような、普遍的な意味をになっている」からである、と。これが桶谷の、ひとつの結論です。

5.
 さらに同質の感受性が想起させるものとして桶谷はなお、つぎのものを挙げます。
  ・伊東静雄の散文「今年の夏のこと」と、柳田『先祖の話』
  ・伊東の「薪の明り」と、柳田国男の回想的自伝『故郷七十年』の一節。
 後者から引き出される共通のイメージ、〈かまどの前の女〉――

母が朝早く焚きつけているかまどの煙の匂いの記憶から柳田国男がその民俗学を発想したとすれば、伊東静雄はその記憶を詩の発想の基盤にくり込むことによって、「一種前生のおもひ」にめくるめいたのである。それは「すみ売りの重荷に」堪えた戦争末期の生活者伊東静雄の生命の原理の自覚でもあった。それは『哀歌』の詩人が「意識の暗黒部との必死の格闘」の果てに到りついた、日本民族の遠い体験への「草蔭の名無し詩人」の追想でもあった。

6.
 これが桶谷の、もう一つの結論であり、しかし趣旨は前にあげたものと変わるところはない。
 私は桶谷の云うことが決してわからないのではありません。けれどもまた、完全に納得しきれたのでもなく、むしろ云いたいことがいっぱいあるのです。そういう桶谷の所説を「めぐって」いるうちに、いつしか、まるでダンテの煉獄めぐりのように、深い迷路にもぐりこんでしまったような具合になりました。しかしそういうことは余談に属するので、私が迷路で見た光景のいくつかを、折を見て綴ってみようと、未練たらしく保留をつけた上で、私の「論」は「やっぱり未完」ということになるほかなかろうと思います。

1033Morgen:2014/06/08(日) 23:52:45
「薪の明り」論
??山本様。なかなか興味深い「薪の明り」論をありがとうございました。
 桶谷秀昭「ああかくて誰がために咲きつぐわれぞ」はすっかり忘れていました。
 私の“Das verlassene Mägdlein”解釈は、それこそ「論」ではなくて「想」でありますので無視して下さい。私の少年時代の家(農家)は、曾祖母や戦争から帰ってきた父の弟達を含めて当時13人家族でした。広い土間の向こう側に6個くらいの大小のかまどが並んでいました。ご飯は毎朝2升位炊いていたような気がします。(そのかまどを焚く係が小学生の私だった時期がありました。私は薪の焚き方に色々興味をもって、薪割や薪の組み合わせの工夫をしたような記憶が微かにあります。) 伊東静雄や柳田国男よりも我が家の方が更に田舎だったために、「パチパチと木の燃える音を布団の中で聞く」というような悠長なことはありませんでした。(土間と寝室とは大分離れていたせいもありますが。)

伊東静雄「薪の明り」は、「ふと目ざめて、御飯をたいている母や姉の姿を、かまどの明かりの中に度々見た。」と本人が詩の中で書いている通りですが、柳田国男『先祖の話』や「日本民族の遠い体験へのの追想」などへと深められるのが、桶谷秀昭氏独特の「論」なのだろうかという気もしますが・・・。

 この詩の末尾には「暗い冬の朝、かまどの前、まきの火の明かりの中にうずくまっている女の姿ほど、あわれなものはない。」と書かれておりますが、(『家庭と料理』昭和23年11月号)、このかまどは、山本様の『伊東静雄と大阪/京都』128頁に間取り図が載っている北余部の家の「土のカマド」のことだろうと思います。まだ明けきらぬ薄闇の中で、かまどの「薪の明り」が映し出す「(戦禍を生き抜いてきた)家族」の姿。「薪の明り」の詩文を読むと、ザッハリッヒな散文詩の中に、「自分の心の中に浸み出してくるようなその情緒(詩的直観)」を、(戦後らしい)新しい詩のことばで表現しようという意欲が、詩人の心に湧いてきたのではないでしょうか。

 桶谷秀昭氏の、これは「衰退後退期」の詩だが、「(かって活躍した)一詩人の運命にかかわる」詩として・・・(歴史的存在として意味がある?)とでもいうような偏った「伊東静雄私論」は、私には理解できません。
 また、この「桶谷私論」が掲載されている同じ「現代詩読本」で、菅谷規久雄氏は「わたしたちはただ、一べつして去るのみである。」と書かれていますが、自然は破壊されても、その後の伊東静雄の評価は1979年頃よりもさらに高まっているのではないでしょうか。それは、伊東静雄のように美しい詩を書ける人がその後現れていないからではないでしょうか。

*『メーリケ詩集 改訂版』メーリケ 森孝明訳・三修社版は、明日にでも配達される予定です。一読してお知らせすべきことがあればまた投稿します。

1034Morgen:2014/06/11(水) 21:33:38
「捨てられた娘」
『メーリケ詩集』(改訂版)森孝明訳(三修社2000/6/30)が届きましたので添付してみます。ご一読ください

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001169.jpg

1035山本 皓造:2014/06/19(木) 14:04:19
桶谷「ああ誰がために……」の引用
 前回の投稿では、桶谷秀昭の論考「ああ誰がために咲きつぐわれぞ 伊東静雄私論」をとりあげ、伊東の散文詩「薪の明り」の「かまどの前の女」を媒介にして、伊東と柳田を結ぶ「日本民族の遠い体験」というキイ・コンセプトを導き出した次第を述べました。
 この、〈伊東―柳田〉というリンクに関して、私には云いたいことがいくつかあるのですが、その準備としても、必要なデータをまず、少し詳しく引用しておこうと思います。(長い引用はうるさく、また当該文献をお持ちの方にはまったく無用の事柄になりますが、この点、お許しをいただきますよう。)

桶谷秀昭「ああ誰がために咲きつぐわれぞ 伊東静雄私論」(思潮社『現代詩読本10 伊東静雄』より)

…わたしは、『夏花』以後、たとえば「夢からさめて」にあらわれてくる生活者伊東静雄の心性に、現在とりわけ惹かれる。それは『春のいそぎ』全篇を蔽い、蝉の音に、「一種前生のおもひ」を感じ、また[……引用略、「誕生日の即興歌」]という詩にあらわれている。自身の生の暗部にまでとどこうとするある種の自覚である。この種の自覚は、単に個人的なものから、民族の遠い体験の核にまでその触手をとどかせるような普遍的な意味をになっていると考えられる。このことはすでに昭和九年の「今年の夏のこと」というすぐれたエッセイに照らしてもうなずける。ここに感得される伊東静雄の感受性は、『先祖の話』の柳田国男を想起させるものがある。その感受性は戦後に書かれた散文詩と題した「薪の明り」にも、きわめて素朴にあらわれているものである。
「暗い冬の朝、かまどの前、まきの火の明りの中にうずくまる女の姿」に、ドイツの詩「捨てられた下女」のあわれさをひきあいに出しているのだが、しかしここで伊東静雄がたぐり寄せているのは遠くなつかしい彼の感性の故郷である。暗い冬の朝のまだ暗い時刻、「ふと目ざめて、御飯を炊いている母や姉の姿を、かまどの明りの中に度々見た」記憶である。こういう記憶もまた、柳田国男の次のような文章と比較することで、ある意味を考えさせられる。

[柳田国男、引用後掲]

 母が朝早く焚きつけているかまどの煙の匂いの記憶から柳田国男がその民俗学を発想したとすれば、伊東静雄はその記憶を詩の発想の基盤にくり込むことによって、「一種前生のおもひ」にめくるめいたのである。それは「すみ売りの重荷に」堪えた戦争末期の生活者伊東静雄の生命の原理の自覚でもあった。それは『哀歌』の詩人が「意識の暗黒部との必死の格闘」の果てに到りついた、日本民族の遠い体験への「草蔭の名無し詩人」の追想でもあった。「述懐」=『春のいそぎ』

 右の引用で[柳田国男、引用後掲]とした部分は、柳田国男『故郷七十年』から取られたものであり、ただ桶谷は途中恥部を省略して引用しているので、その部分を直接『定本柳田国男集』別巻第三、旧版八四頁から、「中略」された部分も復元して、次に引く。

 子供のころ、私は毎朝、厨の方から伝はつて来るパチパチといふ木の燃える音と、それに伴つて漂つて来る懐しい匂ひとによって目を覚ますことになつてゐた。
 母が朝飯のかまどの下に、炭俵の口にあたつてゐた小枝の束を少しづつ折つては燃し附けにしてゐるのが私の枕下に伝はつたのであった。
 今でも炭俵の口に、細い光澤のある小枝を曲げて輪にして當ててゐる場合が多いやうであるが、そのころ私の家などでは、わざわざ山に柴木を採ることはしないで、それをとつておいて、毎朝、用ゐてゐたわけである。じつはその木がいつたい何といふ名であるかを長らく知ることもなかつた。
 ところが、たまたま後年になつて、ふと嗅ぎとめた焚火の匂ひから、あれがクロモジの木であったことに気がついたのである。
 思へば、良い匂ひの記憶がふと蘇つたことから、私の考へは遠く日本民族の問題にまで導かれていったのであった。

1036Morgen:2014/06/24(火) 12:45:37
「ザッハリッヒな詩作」とはどういうことなのか?
山本様のご投稿の幕間をお借りして、前稿で舌足らずになっていたところを少し補充させていただきます。(これもまた舌足らずか!?)

 はたして「ザッハリッヒな詩作とはどういうことなのか?」について私なりに考えてみようとしたのですが、結果的には論旨が少しずれてしまったかも知れません。

「どんな仲間にも参与しないもの、
今は言いようもなく孤独なのだ。
そこで彼は事物から学ばねばならぬし
子供のようにふたたび始めねばならぬのだ」
<リルケ『時禱集』第2部「巡礼の書」(塚越敏『リルケの文学世界』より抜粋転用)>

この詩の中で、リルケは「子供たちが注意深く善良なときには、すぐにも気付いて全き心で愛したりもする」純粋な事物(事物世界Ding‐Welt)との交渉の姿勢が大切であると言い、晩年にいたるまでこのような事物との純粋な交渉姿勢を保ち続けています。

リルケの詩作方法に影響を受けたといわれる伊東静雄も、「事物の詩」などの初期詩篇に始まり、〜昭和14年「そんなに凝視めるな」、〜戦後の「小さい手帳から」などに見られるように「ザッハリッヒな詩作」を心がけています。

しかし「わがひとに與ふる哀歌」に謡われているのは「美的に理念化された世界」であり、凝視や意識によって映し取られた世界(像世界 Bild‐Welt)であります。

一見、とてもロマンチックな詩など生まれそうもない昭和初期の現実の「日常世界」において、子供の目で見るように純粋な事物(事物世界Ding‐Welt)に対する感動を詩にするのか、凝視や意識によって映し取られた世界(像世界 Bild‐Welt)から「美的に理念化された世界」を詩にする(形而上詩)のか? 伊東静雄は、詩人としての道程においてこの双方を試みたのではないかと私は思います。

また、ロマンチックな詩など生まれそうもないほど意のままにならない当時の「日常世界」の中で、「美的に理念化された世界」を詩作のモチーフとすること自体が、伊東静雄にとっての浪漫的イロニーであったと言うこともできるのではないでしょうか。

「そんなに凝視めるな」(昭和14年)では、「手にふるる野花はそれをつみながら」、「自然は自然のままに」見て、自然(事物)から学ばねばならぬとアッピールしています。

特に、戦後になると「リルケ」「リルケ」とリルケ研究に励み、「小さい手帖から」のようにもっぱらザッハリッヒな詩ばかりを作りました。
「自分がなぜその事物に感動したのかを考える過程を詩にする」と自ら述べている伊東静雄流の新しい詩策法は、静雄詩が平凡な自然詩や叙景詩に堕すことを防ぐとともに、当時の文学青年たちに新しい方向を示す灯台の光であったのだと私は思います。(評者の個人的好みが如何であれ、単なる「歴史的な存在」と軽視したり、一瞥後無視できるようなものではなかったことはその後の伊東静雄詩評価の高まりが証明しています。)
伊東静雄の詩作をめぐる「痛き夢」が、生涯を貫ぬく通奏低音として流れる美しい響きとなって読者に感動を与えることが、その後高まった伊東静雄詩評価の理由なのではないでしょうか。

1037山本 皓造:2014/06/26(木) 18:45:01
谷友幸『リルケ』(アテネ文庫、昭26.10刊)
 Morgen さんの投稿に触発されて、何かリルケの本を読んでみようと書架の前に立ち、やがて引っぱり出したのが、これでした。
 「アテネ文庫」。今どきこんな名前を知っている人はもうあまりいないでしょう。この文庫はどれもみな薄くて安くて(上掲書は78ページ、定価30円)、私もだいぶん持っていたのですが、いつのまにかみんな無くなってしまいました。
 谷友幸先生の名前も、古いリルケイアンなら知っている、その筋ではかなり有名らしいのですが、今頃は聞きません。私はこの谷友幸先生に、2回生のときにドイツ語を習いました。こわい先生でした。たしかテキストはホーフマンスタールだったと思います(無茶ですよね)。
 そんなわけでわたしにとってはなつかしい本で、それこそ一気に読了しました。(なにしろ78ページですから。)
 そのうえで思うのですが、もう、自分は力が弱くなって、何か本を読んで、ハッと気を引かれる場所に遭っても、いつか強い思考の力を以て独自の思索を展開することがあるとすれば、この個所はその立脚点の一つになるだろう、と思って、傍線を引き、メモに書き写し、コピーを取って、それを残し、しかしながら「強い思考」は一向に働かず、「独自の思索」は少しも立ち上がらない、口惜しく、情けない思いばかりが残る、という具合なのです。今回も引用で埋めることになりましたが、どうかお許しください。
 さてそれで、昔読んだ時も今も、やっぱり「リルケはむつかしい」。私はMorgenさんの引いておられる、塚越敏『リルケの文学世界』も持っていて、半分ぐらい読んだのですが、時祷・神・復帰・形象・親密性・鏡・運命・落ちる・伽藍・精神・たましひ・世界内面空間・純粋連関・内部/外部・物象・愛・恋をする女・死/生・天使・豹……
 ザッハリッヒということについて、とくにひとつ印象深く残っているエピソードがありました。それは、別の本で読んだのかもしれません。谷さんの本から引用します。

「新詩集」は、抒情詩の領域に、未曽有の新生面を拓いた。いはゆる「物象詩」の成立である。この「物象詩」の最初の記念すべき作品たる「豹」が、詩人にとって、いかなる大きな犠牲のすえに生まれたか。読者は、パリのリルケが幾週間にもわたって欠かさずジャルダン・ド・プラントに通ひつめ、ひねもす檻のまへに立ちつくしながら、檻中の豹を熟視するに努めたことを、知ってゐるだらうか。

 わかりやすいエピソードですが、しかし私たちはその意味するところを、半分も、2割も、理解できないようです。檻の中の豹をひねもす観て、凝視めて、それで豹という物象の本質のようなものが見えてくるのか、そうして見えたものを詩作すればそれはザッハリッヒな詩ということになるのか。

 谷さんの主張は、仮に「物象詩」という云い方をしても、それは「リルケの詩作の発展の一段階」のようなものではなかった、ということであろうと思います。
 谷さんは一応リルケの活動の時期区分のようなこともしているのですが、そのあとで、

なほ「第一詩集」「舊詩集」に集められた諸篇とか、「生活に沿うて」「プラーク物語二種」「最後のひとびと」に収められた短編小説類は、リルケを専門に研究するのでなくば、詩人の有史以前の作としてまったく無視して差支へない。

と、大胆に断定し切っています(こわい先生でした)。もしそうだとすると、私たちも「呂」や、拾遺詩篇の前半なども「有史以前」として無視してもよいのかもしれません。
 「物象詩」についての谷先生の結語は、次のようです。

生の忘却と死の加齢――これが、パリ時代におけるリルケの芸術的生にほかならなかった。かくては、かれのたましひも、しだいに、その表層から冷たく石のごとく凍るばかり。かれは、石と化した内面の重みにあくまでも耐へながら、研ぎすました眼を鑿と化しつつ、観入の槌によって、一打一打、われとわがたましひを刻みながら、物の象を彫りおこす。「物象詩」は、すべて、かくのごとくにして、成立したのであった。

 本書のいちばん最後に、次のようなフレーズを含む詩句が引かれます。

……
もはや 眼の仕事は終つた
心の仕事にかかるがよい
……

 わかりやすい、と思ってはいけない。谷先生によると、ここには

「すべて宗教的なるものは、詩的である」との深遠な使命に生きた純粋孤独の聖なる詩人ヘルダーリンに嚮導されつつ、急角度の転向を行って、芸術による芸術の克服の道に進む

リルケがゐる、という。
 ……私に「リルケを読む」ということが果して可能なのだろうか。――
(書架にもう一冊、谷友幸『リルケ』(新潮社、昭25.8刊、328ページ)があるのですが、これには全然手をつけていません。)

1038Morgen:2014/06/27(金) 11:17:44
 R.M.Rilke “Der Panther”
 おはようございます。
 会社で、仕事の合間にチラチラとこの掲示板を覗き見しています。
 確かに、山本様がお書きになっているように、リルケの事物詩(物象詩)は新詩集のDer Panther(1902年)から始まるといわれています。そこで、高温多湿の梅雨どきの鬱を吹き飛ばすために、手元にある岩波文庫『ドイツ名詩選』がらドイツ語原文だけを投稿してみたら如何かなと思い、書き写してみました。(皆様名訳にご挑戦あれ!)
 伊東静雄にも幾つか「動物園にて」の詩があります。リルケの影響でしょうか?
 (私の理解)<(私の一生は)大阪という狭い社会に安住して、「都会自体の運行に身を任せながら、小さい輪を描くように空回りをしていた」(秋田静男「リルケにおける檻の世界」)に過ぎないのではないか。、外の世界を見ようとしないまま、やがては生涯を終えようとしている―これが私の生きたder Stäbeであり、既成概念や偏見で作られた自分の「像世界Bild‐Welt」しか見てこなかったのかもしれません。ときたま「事物世界Ding‐Welt」を垣間見ても、神経がピクリと動き、心臓がドキリとして、それで終わり。―まるでリルケに見透かされているような人生ではないか。そんな感想を抱きながら、私はDer Pantherを読みました。>

 *大都会パリの重苦しさ、パリ住人の苦悩に、リルケは「パリは辛い、辛い、不安な都会です。」(1902年末書簡)と、1903年にはパリを飛び出します。(イタリア、ドイツへ)

 伊東静雄の「ザッハリッヒな事物の詩(論)」について一定の理解をしておきたいと投稿を始めてはみたものの、 私の能力では、『ロダン論』〜『芸術書簡』などのリルケの芸術論全体(初期〜1902年〜後期で変化あり)を俯瞰して述べることはできませんので、?事物の詩(論)"と関わりの有りそうなところだけを拾い読みをしているのですが、考えがまとまるまでもう少し時間を頂きます。


Der Panther
    Im Jardin des Plantes,Paris
               R.M.Rilke

Sein Blick ist vom Vorübergehn der Stäbe
so müd geworden, daß er nichts mehr hält.
Ihm ist, als ob es tausend Stäbe gäbe
und hinter tausend Stäben keine Welt.

Der weiche Gang geschmeidig starker Schritte,
der sich im allerkleinsten Kreise dreht,
ist wie ein Tanz von Kraft um eine Mitte,
in der betäubt ein großer Wille steht.

Nur manchmal schiebt der Vorhang der Pupille
sich lautlos auf -. Dann geht ein Bild hinein,
geht durch der Glieder angespannte Stille -
und hört im Herzen auf zu sein.

<注>今から丁度100年前、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント夫妻が、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人(ボスニア語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件が起こり、この事件がきっかけとなって、同7月28日第一次世界大戦が開戦し、リルケにも召集がかかりました(〜1926.10)。

1039Morgen:2014/07/04(金) 14:58:12
 R.M.Rilke “Der Panther”(2)
リルケ「新詩集」は、谷友幸先生をはじめ名だたるGermanist達が翻訳しておられます。
一般的に、「新詩集」の第一部には直喩(wie,als ob)が多く、第2部になると隠喩(メタファー)が多用されており、その比喩表現がリルケ詩を難解にしているといわれていますが、「詩とは比喩なり。」という伊東静雄の言葉は此処から発しているような感じもします。

(各訳文の詳細は出版物をご参照下さい。)先生方の訳文を比べてみると、次の2ヵ所で少し差異があるようです。
?第二節の、
ist wie ein Tanz von Kraft um eine Mitte,
in der betäubt ein großer Wille steht.
?第三節の、
geht durch der Glieder angespannte Stille ?

詩句の意味を理解する上では、WEB上に公開されている慶応大学 秋田静男先生の解説「リルケにおける“檻”の世界」が、私には説得力がありましたので、抜粋して紹介しておきます。

「ここ(第二節)には、豹の内部が描かれている。豹は力強い足取りで動いているのだが、それは檻の中でのこと。豹の足取りが描く跡といえば、ほんの小さな輪に過ぎず、歩く様子も空回りする機械の踊りのように見える。しかもその中心では豹という動物本来の大いなる意思がもはや何をなすすべもなく、ただ惚けて佇んでいるのである。」

「第三節には、豹の内部と、外の世界から入ってくるものとの関係が語られている。豹の目は、周囲の現象の移り変わりに囚われ疲れ果ててしまっているが、ふと瞳が開き外部の世界から像が入ってくる瞬間がある。その像は、全身緊張し続け神経も延び切ってしまっている豹のぴくりともしない器官の間を抜けていく。だが肝心な心臓部に於いて、それは姿を消しもはや存在しない。」

 1902年8月に、(「ロダン論」執筆の依頼を受けて)リルケはパリに出た(第一次パリ時代)のでありますが、その経緯は『リルケとロダン』(ウルズラ・エムデ著 山崎義彦訳 昭林社)という本に詳しく書いてあります。
同じ本ではありませんが「パリ植物園(動物園を兼ねる)に行って自分の目でよく観察しておいで。」とロダンがリルケに言ったという証言もあるようです。
ロダンの執念に充ちた、徹底的な観察(自然の対象にますます深く観入してその実相のすべてをくまなく把握すること)、数10枚にもなるような細かいスケッチ法から、リルケは「見ること」を学んだようです。「ぼくは見ることを学んでいる。自分でもどういうことだかわからないが、すべてがいっそう深くぼくの内部へと入ってきて、いつもならとまるところで止まらない。自分でも気づかなかった内部があるらしい。すべてが今その中へと入って行く。そこで何が起こるのか、ぼくにはわからない。」と言っています。

<「事物の詩」(Dinggedicht)とは何か?>について

 概念的には「気分詩」に対する詩のタイプとして 創始されたが、単純に「叙事的客観的に対象を描写する詩」ではない。「すべての中にものを見るとは、・・・人間や動物、植物などをも含めた、すべてのもつ“ものらしさ”(Dingheit)、すなわちその存在の本質を把みとることである。」

「およそものとは確固たるたるものですが、芸術事物(Kunstding)はいっそう確固たるものでなければなりません。あらゆる偶然からまぬかれ、あらゆる曖昧さから遠ざかり、時間から解き放たれ、空間にゆだねられ、そうしてこそそれは持続するもの、永遠にあづかるものとなるのです。」「詩もまた芸術事物(Kunstding)でなければならない。」として、ロダンが手仕事によって「面」を刻むように、詩を歌わねばならないとリルケは言っています。

 1907年10月「セザンヌ大回顧展」を見たことによる「セザンヌ体験」が、「即物性」をさらに強化させたと言われています。大山定一さんが『セザンヌ 書簡による近代画論』「あとがき」のなかで、「この一群の手紙をまず彼(伊東静雄)に読んで欲しかったと、一種愚痴に似たつぶやきをくりかえす。」と書いておられるところにつながります。
―不安と絶望にぬりつぶされた貧しさのなかから「物たちDinge」がどんな貴重な慰めと救いであったか。不安のなかから「物」をつくるのが、芸術家の唯一つの運命である。このようなセザンヌ体験がスプリングボードとなり、「鎮魂歌」「ドイノの悲歌」「オルフォイスに献げる十四行詩」などの晩年の詩境に至り大きな飛躍をなす。(大山定一『セザンヌ 書簡による近代画論』から)

1040Morgen:2014/07/08(火) 16:02:00
R.M.Rilke “Der Panther”(補)
「ザッハリッヒな事物詩とは ?」への言及が抜けていましたので、長文になってしまいましたが付け加えさせて頂きます。

 「薪の明り」(昭和23年)の1年前には、伊東静雄はリルケ詩を逐一翻訳していたそうですが、遡って昭和14年の有名な大山宛書簡の中でも次のようにリルケのことを書いています。

 「・・・私が詩を本気で書く気持ちになりましたのは、リルケの新詩集を読んでからであります。・・・『マルテの手記』を今拝見しますと、その目の正確さのために拂はれた勇猛な真の犠牲がわかる気がします。しかし写真のネガティブ云々と読者を戒めたリルケはやはり幾分悲しいと思って読みました。・・・」(昭和14年10月19日大山定一氏宛書簡)
 この「写真のネガティブ云々」というのと、『マルテの手記』で、リルケは遂にマルテ・ラウリス・ブリッゲを死なせてしまうのですが、リルケが「ブリッゲの死はセザンヌの生であった。」(1908.9.8妻クララ宛書簡)と書いているのとは、内容的には対応しているように私は思います。

 セザンヌの自画像について、「セザンヌの直視のこの即物性(まばたきもせぬ凝視のなかに、持続的な、本質的な真実をじっとおさめている眼だった。)がいかに偉大で、いかに潔白であるかを示すのが―ほとんど涙ぐましいほどに示すのが―自画像のセザンヌの顔だった。彼は自分の表情を少しも説明したり、芸術家らしい優越の眼で見ようとはしない。何の取柄もない平凡な人とおなじように、少しの飾りもない謙虚な客観性で、くりかえしただ自分自身を描いている。ふと鏡をのぞいた犬が“おや、ここにも一匹、犬がいる”と思いながらたっているかのように素朴な信頼と、何のごまかしもない関心と興味をよせて。」(1907.10.23書簡 大山定一訳)とリルケは述べています。
 このようにセザンヌが自画像や静物画(林檎など)を描いたときのあり方をリルケは「ザッハリッヒ(無制限の即物性)」と言っているのです。
 リルケの詩が、更にSachlichなDinggedichtへと純化され、「芸術事物」としての完成をめざすためには、『マルテの手記』において(リルケの分身でもある)主人公を否定し、死なせてしまわざるを得なかったのではないかと私は思います。

1041龍田豊秋:2014/07/10(木) 09:38:32
ご報告
6月28日午後2時から,レストラン「えげん坂」に於いて第80回例会を開催した。
出席者は9名。

上村代表から,後藤みな子氏の講演録が完成したことの報告があった。

会報は第74号。内容は次のとおり。

1 「伊東静雄の故郷」          川副 国基(元 早稲田大学名誉教授)
????教授は,伊東静雄と同郷で大村中学の同窓でした。

2 「八月の石にすがりて 伊東静雄の詩・35年目の夏」      小川和佑
??????????????????????????????????????????(毎日新聞1980年8月22日夕刊)

3 <詩を読む>  「水中花」   伊東静雄    昭和12年「日本浪漫派」8月号

4 日本浪漫派の解説

5 「水中花」 ??小川和佑氏の解説

6 詩「豊の香」                           西村 泰則

7 詩「いのちを紡ぐ場所に立ち」??第24回伊東静雄賞佳作品????     青木 由弥子

8 詩「鯉取り "まーしゃん"」?? 第24回伊東静雄賞佳作品      藤山 増昭

9 毎日新聞長崎県版はがき随筆 平成26年5月28日掲載 「すゞや」??龍田 豊秋 ??????????????????????????????????????????????????                                                   ????????以上

7月の例会は7月26日午後2時から,諫早図書館に於いて開催の予定です。

1042Morgen:2014/07/12(土) 23:54:11
Balthus(バルテュス)展
 京都市美術館で開催されているBalthus(バルテュス)展を観てきました。

 まず入ってすぐのところに掲示してある年譜(1919年〜スイス時代)を見て驚いたのは、バルテュスの母親がリルケの恋人であり、リルケは少年バルテュスを自分の子供のように可愛がったと記載されていたことでした。(3人で写した写真もありました。)
 (R.M.Rilke “Der Panther”(補) を投稿したばかりで、1910年以降のことはあまり念頭にありませんでしたが、これも何かのご縁でしょうか。)

 バルテュスの描画法(―変遷はしていますが)を推察すると、何回もスケッチをした上で、自分の内部に生まれる美のエッセンスを発見・純化・創造していくプロセスや、「絵の具と筆による面的な創作」方法などに、ロダンやセザンヌに通じるところがあるような気がしました。(―まったくの私的感想にすぎませんが。)
 バルテュス11歳の時に描いた愛猫『ミツ』の物語の素描にリルケが寄せた序文に書かれている「喪失は、まったく内面的な第二の獲得にほかならない」という言葉が、これは前稿で少し触れた「写真のネガティブ云々」という言葉と似たところがあるようにも思いました。
 前稿の記述が少し粗雑でしたので、補の補として「1915年11月日付書簡(大山定一訳)」から一部抜粋して付加しておきます。

 「・・・・・僕は『マルテの手記』という小説を凹型の鋳型か写真のネガティブだと考えている。かなしみや絶望や痛ましい想念などがここでは一つ一つ深い窪みや条線をなしているのだ。しかしもしこの鋳型から本当の作品を鋳造することができるとすれば多分大変すばらしい祝福と肯定の小説ができてくるにちがいない。・・・・・」

 猫は、バルテュスの生涯を通じて、メンタルな「鋳型」となって、絵のモティーフとされています。私は、セザンヌ自画像の犬を連想しました。

**『ミツ』バルテュス素描集にリルケが寄せた「序文(邦訳)」が見つかり、15日に手もとに届く予定ですので、一読後また投稿するかもしれません。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001177M.jpg

1043山本 皓造:2014/07/26(土) 12:10:42
バオバブの花
 ごぶさたしております。
 猛暑ですね。みなさん、お変わりありませんか。
 先日の朝日新聞(京都版)に、府立植物園でバオバブの花が咲いた、と、写真入りで報じていました。記事にあるとおり、バオバブは、サン=テグジュペリの「星の王子さま」に出て来ます。偶然、私は先頃、同書を読み終えたところでした。そのフィナーレはちょっと悲しいけれども、本来は悲しい物語ではないのでしょう。星の王子さまの星はとても小さいのですが、ほかの小さな星でも、住人が怠け者で、手入れを怠ったため、バオバブの木が3本、根を張って、その3本だけでもう星の表面が一杯になってしまったことがある。その挿絵は笑えてくるにですが、花は描かれていなかった。
 それで私は、バオバブの花が白いとは知りませんでした。以前府立植物園へ酔芙蓉を見に行ったことがあります。辛夷の花(伊東は辛夷の花が好きだったようですね)。泰山木(茨木のり子さんが、人に、辛夷を、泰山木と、間違えて教えた話を書いています)。少しまえまでうちの庭でずっと咲き続けていたボケの花。私はなぜか、白い花が好きなのです。「あるだけの菊投げ入れよ」。私の場合でしたら、黄い花なしでしろ花だけでいいなと思います。
――という、どうでもよい話を、掲示板の埋め草に。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001178.jpg

1044山本 皓造:2014/07/26(土) 12:12:34
des baobabs
Le Petit Prince の挿絵です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001179M.jpg

1045Morgen:2014/07/29(火) 00:01:56
暑中お見舞い申し上げます
 暑中お見舞い申し上げます。皆様いかがお過ごしでしょうか。
 私は、早めの夏休みをとって、今年一番の猛暑の中を、群馬〜栃木方面へ3日間行ってまいりました。
 写真は、山の中に自生していた百合の花です。名前は分かりませんが、とても涼しげな花色をしていましたので添付してみます(「白鹿の子百合」?)。この写真を撮った約10分後、突然のスコールに遭って、雨具を持っていなかったためにずぶ濡れになりました。

??山路来て 夏日清涼 白鹿の子

 これからが暑さも本番に入るのでしょうが、猛暑に逆らわず、逃げず、順応していきたいと思っています。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001180.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001180_2.jpg

1046齊藤勝康:2014/08/05(火) 09:30:10
バオバブの樹
星の王子様は子供も大人も楽しめるメルヘンとして心ある人から支持され世界的ベストセラーとなり読みつがれております。私は40年前にある人から薦められ読んだのですがそのあと本棚の片隅におかれたままでした。
最近NHK「100DE名著」にとりあげられたのを機会に大阪府大『M教授の公開講座」に参加しました。ナチに占領されたパリ、作者はパイロットとして従軍し地中海で消息を絶つ、この時代背景の中でこのメルヘン童話は作られました。ですから一筋縄ではないようです。
バオバブの樹は大きくならないうちに芽を摘むように述べられます、根を共通させた樹は何故3本なのか、フランス文学者、塚崎幹夫氏の解釈は(星の王子さまの世界}中公文庫)これは日独伊三国同盟を意味するとなっていて驚きました。そのほか氏の解説は興味深いもので一読おすすめです。メルヘンですのでいかようぬにも解釈が可能でしょうが氏は確信にせまっています。

伊東静雄の生きた時代と戦争詩の問題と合わせて考えるのも今の時期だけに有意義かと思いました。

1047山本 皓造:2014/08/05(火) 13:11:07
クロモジの木――柳田国男「鳥柴考要領」
 前回投稿の引用の中で、柳田国男はこう云っています。
「子供のころ、私は毎朝、厨の方から伝はつて来るパチパチといふ木の燃える音と、それに伴つて漂つて来る懐しい匂ひとによって目を覚ますことになつてゐた。」それが何の木であるか、自分は長らく知らずに来たのであるが、「たまたま後年になつて、ふと嗅ぎとめた焚火の匂ひから、あれがクロモジの木であったことに気がついたのである。」
 私はこのクロモジのことを、何も知りません。世の中が進歩して(?)今ではネットですぐに教えてくれて、それがクスノキ科に属する樹木であり、それゆえにこの科独特の芳香(樟脳のニオイですね)を持ち、また、高級な和菓子に半分皮を残したものを楊枝として使うこと、などを知ることができます。和菓子に添えられる、少し大ぶりの、皮つきの楊枝なら、知っている。また樟(楠)の葉や枝を折ったときにひろがる清冽な刺激臭は子供の頃から親しい。南国を旅すると楠にはたいていどこかで出会う。ただクロモジの木はまだ見たことがなかったのです。

 柳田国男に、「鳥柴考要領」という文章があります(『定本柳田国男集』第11巻、初出は昭和26・4「神道宗教」第3号)。鳥柴というのはクロモジのことです。定本で6ページほどの短いものですが、その「要領」の「要領」を、できるだけかいつまんで、記してみます。

---------------------------------

1.
 「鳥柴といふのは本名クロモジ、即ち楊枝に削つて用ゐる木で、古来の楊枝とちがつて是だけは皮付きの、樟科の樹の香を珍重せられるのである」

2.
 京都でも鳥柴という名は行われていた。鷹匠や上流武家の間では鷹狩の獲物の鳥を人に贈るのに、樹の枝に結はえ付けて持って行く作法があった。その際もっとも普通に用いられたのがクロモジの木で、つまりは鳥を付ける柴だから鳥柴だったのである。

3.
 ここから一歩進めて、人のみならず神に狩の獲物を奉る場合もやはりこの木を選んだことが考えられる。

4.
 狩の獲物だけでなく、一般に神にものを供進するのに樹の枝に挿して飾り立てる風習は全国的であった。
・正月の餅花(甲賀地方では餅花にクロモジの木を使う)。
・御幣餅(山神を祭る時に神に供え、人も共食する)。

5.
 樹種の選択と、木に食物を掛けて神に進ぜらるることと、問題は二つに分けて見ることが出来る。

6.
 ヌサ……現今では絹布麻絲と紙だけになった。
 シデ……神の御依ましの木が是ですという意味の標識。
 御幣……四角い紙のまま串に挟んで祭場に立てる形が今でもある。その紙を「粗末に切りこまざいてさまざまの形に作つたことは、シデの目的には合致するかも知らぬが、ヌサとしては無意味のことだつた」

7.
 樹種の選択については、折り取った時の樹の香といふものが選択の一つの要件であつたと見られる。榊。樒。

8.
 「最初は恐らくはまだ色々の樟科の樹木が、神の依座として手折られてゐた時代があり、乃ち日本人が南来の種族であったことが、是からも段々と推測せられて来るのではないかと私は考へて居る」

---------------------------------

 柳田が「遠く日本民族の問題」と云ったのは、後に『海上の道』に結実する、あの問題であったわけです。この、民族の「移動」または「起源」としての日本民族の「遠い記憶」にはしかし、伊東の「かまどの前の女」の思惟ないし情調は、直接の接点を持ちえません。(強いて接点を云えば、たとえば『妹の力』や『木綿以前の事』などのほうでしょうか。)
 これにたいして桶谷がすぐ前に述べている、伊東の「今年の夏のこと」に見られる感受性は直ちに柳田の『先祖の話』を想起せしめる、という指摘は、素直に首肯できる気がします。(これに伊東の「なれとわれ」を加えることもできるでしょう。)[この稿続く]

1048山本 皓造:2014/08/05(火) 13:13:50
お許しを願って
 6/3にMorgenさんが“Das Verlassene Mägdlein (はした女か少女か?)”を投稿されてから、あっち行きこっち行きしながらウエブ上で交わされた「対話」が、Morgen さんの「豹、ザッハリッヒということ、リルケ」の問題提起のところで滞っています。私のほうが、7月にはやや体調悪く、読んだり書いたりが進まなかったので、はかばかしい応答ができず、申し訳ありません。
 ふりかえってみると、私は、いろいろと思いつきを書き、まあ、「問題提起」をした気になって、しかし力不足のために、どれもこれも結論にまで行きつけない、そうして中途で途切れてしまっているものが、4つも5つもあるようなのです。
 それらの中で、「最後まで書けばおよそこうなる」という形が、いちばん見えていそうに思えるのが、桶谷秀昭の伊東論にかかわる一件なので、ここで今のうちに書けるものを、ひとまず書き切ってしまおうと思います。勝手な言い分、どうかお許しを。

斎藤様
 「バオバブの木」ご投稿ありがとうございました。私は新潮文庫の河野万里子訳と、同文庫・加藤恭子著『星の王子さまをフランス語で読む』というのを横に置いて読みました。塚崎幹夫氏の『星の王子さまの世界』中公文庫のことは知りませんでしたので、さっそく手に入れて読んでみようと思います。3本のバオバブの木が日独伊三国同盟を意味する、というのは、瞬間、爆笑ものでした。いいですねぇ。
 サン・テグジュペリはほかに『夜間飛行』と『人間の土地』を読みました。堀口大学の訳がいい。『人間の土地』の冒頭に、堀辰雄にひっかけて発言したい部分があるので、また書きます。

1049Morgen:2014/08/07(木) 00:06:37
R.M.Rilke “Der Panther”(追加)
 こんばんは。
 私も同じく「豹、ザッハリッヒということ、リルケ」のところで滞っています。そこで「マルテの手記」や「書簡集」、「晩年のリルケ」その他を読み直しています。

 大山定一氏宛て書簡にある「生命の讃歌は、はたしてこのような生のネガティブな立ちどまりを通じてしか歌えないのでしょうか?」(「マルテの手記」読後感)という伊東静雄の疑問について、その回答はどう考えたらよいのか?―ということへの言及を、まだ投稿していませんでしたので、追加します。
 R.M.リルケ「セザンヌ―書簡による近代画論」(大山定一訳)p180〜183に載っているクララ.リルケ宛て書簡(1907/10/19)に書かれている内容がその回答にあたるのではないかと思いますので、少し長くなりますが、一部分だけを抜粋して掲載します。(全文じゃないと分かり難いかも知れませんが。)
この部分は「マルテの死はセザンヌの生であった」というリルケの言葉を理解するキーワードでもあります。

 ・・・・・不意に(そして初めて)僕はマルテの宿命を理解した。この試練がマルテの力を凌駕したのだ。マルテは観念的にこの試練の必然性を確信する。・・・だのに、マルテは現実で、この試練に敗北してしまうのだ。・・・あたらしい行為がはじまらねばならぬとき、彼は何ひとつ行為することができぬのだ。ようやく獲得した彼の自由が彼に反逆する。そして、無抵抗のマルテは悲しい没落を味わねばならぬのだ。・・・・・
(「この試練」については、少し前に「セザンヌの長い自己犠牲−苦しいこころみに耐える「愛」の孤独で単純な生活。ほんとうの仕事も、おびただしい課題も、すべてはこの試練の後にはじまる。」と書かれているのにつながります。)

1050龍田豊秋:2014/08/08(金) 11:24:22
ご報告
7月20日午後1時30分から,諫早図書館に於いて,第1回の「長崎文学散歩」が開催された。
講師は,西陵高校教諭の中島恵美子さん。
伊東静雄を初めとして,芥川龍之介等長崎県ゆかりの文学者の紹介があった。
文学者の数が多いので,駆け足での講演となりました。

7月26日午後2時から,諫早図書館2階学習創作室に於いて第81回例会を開催した。
出席者は5名。

会報は第75号。内容は次のとおり。

1 「リルケ詩集 感想」      富士川 英郎(独逸文学者 東京大学名誉教授)
????「リルケの詩は理解しがたいが,なんだかありがたい感じがする。それは意味のわからないお経
  をありがたがるのに少し似ているかもしれない。」とのことです。

2 「談話のかはりに」                      伊東静雄
??????????????????????????????????????????(昭和7年11月 「呂」)

3 <古今和歌集アラカルト>                    上村紀元

4 河内幻視行????????????????????   ????2013・12・23??産経新聞

5 <詩を読む>?? 菊を想ふ  昭和十七年の秋            伊東静雄
           ???????????????? 昭和16年12月1日号 日本読書新聞

6 詩「菊の花」                         上村 肇
?????????????????????????????????????? 昭和18年 文芸汎論

7 毎日新聞長崎県版はがき随筆 『今年も咲いた』  平成26年7月24日掲載
                                 龍田 豊秋

8 「美しい諫早の町の未来を思う」??鹿児島大学理学部教授 佐藤 正典
 ????岩波ブックレット「海をよみがえらせる 諫早湾の再生から考える」
?? ??著者の佐藤教授は,干潟の底生生物の研究者です。
??????干潟の豊穣さと浄化力に着目し,諫早湾潮受堤防締め切りの際は,締め切り反対の論陣
   を張りました。
                                     以上

 8月の例会は,8月23日午後2時から,諫早図書館2階学習創作室に於いて開催の予定です。

1051Morgen:2014/08/09(土) 14:36:54
「詩はお経の如し。」
「長崎文学散歩」スタートのご報告を興味深く読みました。
 晩年の芭蕉も、次は是非行ってみたいと「夢は枯野をかけめぐりつつ」死んでしまったといわれる「長崎文学散歩」であり、きっと日本国民のほとんどが一度は憧れる旅に違いありません。(私もいつか「長崎観光大使」を委嘱されていたような気がしますが…?)

 ご報告の中にある「リルケの詩は理解しがたいが,なんだかありがたい感じがする。それは意味のわからないお経をありがたがるのに少し似ているかもしれない。」と言う文章に目がとまりましたので、少し知ったかぶりめきますが書いてみます。
 私も、『マルテの手記』やリルケ書簡に出てくるボードレールの「腐肉(屍体)」という詩が、一休『骸骨草紙』、蓮如『御文』、良寛『題九相図』(骸骨詩集)などに似ているような気がしていたのです。(「お経」とは言えませんが…)

 これを解説すると非常に長くなってしまうし、気持が悪くなる人もあると思いますのでここでは止めときますが、ボードレールの「腐肉(屍体)」(これもここに全文を掲載するには長すぎますが)は是非一度、皆様もお読み下さるよう勧めます。

 ここで書いておきたいのは、ロダンもセザンヌもボードレールの詩「腐肉」に影響を受け、セザンヌが一言一句間違えずにこの詩を暗誦したということをリルケも知り、感激していることです。日本人が、修行として「般若心経」を暗誦する姿を思い起こさせませんでしょうか。

 しかし、セザンヌが感嘆したのは仏教的な無常観ではなくて、「…形象は消えてなくなるが、詩人の思い出として残り、画家は記憶をたよりに画布の上に素描を描く…」「…ああ、僕の美しい女よ!/接吻でお前を喰いつくす蛆虫に語れ、/腐敗した愛の形態と神聖な本質を/この僕が保ってきたと。」(佐藤朔訳)というようなその詩句ではないかと思います。

 それはセザンヌの絵画論やリルケの詩論の基礎となった「お経にもましてありがたい」詩句であったに違いありません。リルケも、そういうことを突然悟ったというのではなくて、長い時間をかけて徐々に考えを確立していったに違いありません。その中でも特に、リルケが1907年10月7日〜22日の間毎日サロン・ドートンヌの「セザンヌ記念展覧会」に通い、しかもほぼ毎日奥さんのクララに手紙を書いていることは銘記すべきことであり、その感激度合の大きさを物語っているように思います。

 暑い中、むさ苦しい話をしてすみませんでした。

1052山本 皓造:2014/08/10(日) 13:19:52
「桶谷―柳田―伊東」圏の拡張
 台風が四国から神戸あたりを通って行ったようです。「京都府南部」は風も雨もたいしたことはありませんでした。
 今日、塚崎幹夫『星の王子さまの世界』(中公新書)が届きました(本体\1 + 郵送料)。予想通り、なかなかおもしろそうです。斎藤様、ありがとうございました。
 リルケは、神品芳夫『新版リルケ研究』(小沢書店)というものを読み直しています。行き着くところ、また『マルテ』の読み直し、ということになるのかもしれません。Morgenさん、伊東の「生のネガティブな立ちどまり」云々については、以前なにか考えてだいぶん長いメモを書いたおぼえがあるのですが、出て来ません。また後日に。
 松浦寿輝『折口信夫論』(ちくま学芸文庫)と格闘中。前にプルースト『失われた……』集英社版の解説にふれて、その時間論によって伊東の「河邉の歌」の「わたしに残った時間の本性!」を読み解いた、と思った話を書きましたが、オノマトペ論があって、「ザハザハ」へのヒントが得られそうです。
 一日の半分は横になって、目方の軽い本に目をさらしたり、うとうとしたり、そんな毎日です。しつこく、「桶谷―柳田―伊東」の続きを書きます。

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「桶谷―柳田―伊東」圏の拡張

 柳田の文章はたしかに深々としたイメージを喚起し、私たちに鮮やかな印象を与える。それゆえであろう、この部分に言及したものは桶谷だけにとどまらない。たとえば、谷川健一は柳田の幼少時の原体験としてこの話を引きつつ、「クスとはいったい日本人にとってどういうものなのか」という問題を追及していったことを述べ(『私の民俗学』)、さらに柳田には?はるかな民俗の体験は個人の感官の記憶にながくとどまるという確信?があり、クロモジの?木の放つ匂いの中に、南方から北漸した日本人の祖先の移動の記憶が籠められている?と述べている(『柳田国男の民俗学』)。後藤総一郎も柳田の文章をそっくり引用したあとで、この記憶から「やがて日本の固有信仰の問題にまで深められていった」という(『柳田国男論』 )。橋川文三も同様にそのまま引用しながら、柳田の感覚の鋭敏さと持続の能力が「その学問的発想の有力な動機をもなしていた」ことを指摘する(『柳田国男論』)。

 桶谷が伊東と柳田を結んで考えたのは「ああかくて誰がために咲きつぐわれぞ」がさいしょではなかった。すでに「伊東静雄論」(『仮構の冥暗』所収)において桶谷は伊東のエッセイ「今年の夏のこと」に言及して、「おそらくこのような情感は、盆の精霊帰りという日本人のほとんど無意識のしかし一等根強い信仰、柳田国男のいう、父母や祖父母と共にした「小さい頃からの自然の体験」(『先祖の話』)を、じぶんの生の根源のものとして、いかに伊東が痛切に感じ取っていたかを示している」と述べている。また「日本浪曼派の〈回帰〉」(『近代の奈落』所収)でも同様に「今年の夏のこと」を引いて、「このエッセイに流れている情感、生活感覚は、反近代的な知識人の意識的な主張や信念ではなく、柳田国男のいう、常民の無意識の信仰の姿を思わせる」と、同じ主旨のことを述べている。しかし、さらに視野を広げて戦後の「薪の明り」から柳田の『故郷七十年』のクロモジの木のエピソードを想起したのは、「ああかくて誰がために咲きつぐわれぞ」が始めてであった。そしてこの文章から、冒頭で示したように、『詩集夏花』から『春のいそぎ』にわたって多くの詩篇を参照しつつ、そこから「日本民族の遠い体験」という、ひとつのキイ・コンセプトを引き出したのである。

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「日本民族の遠い体験」とは何か

 「日本民族の遠い体験」という、ひとつのキイ・コンセプト、と云った。しかし、桶谷自身は、この語によって、果たして何を意味しようとしていたのであろうか。
 どんな言い方をしてもわかる人にはわかってしまうということがあるだろう。「言語」ということばをもっとも狭く用いて、「同じ言語圏に属する人々」の間では、俗にツーといえばカー、などと云うように、極端には「云わなくとも」わかってしまうような、思想的心情的共同体が存在する。(もじって云えば、対話が「ひとつ」であるような共同体。)ところで、このこととは別に、発話者にとって自らの発話が意味するものが必ずしも常に明晰判明であるとは限らない、ということがある。
 もってまわった云い方をしたが、「日本民族の遠い体験」と桶谷によって云われた、その語の指示内容は必ずしも彼自身にとって明晰判明なものではなく、むしろ、どんな言い方をしても「言葉にならぬ表現の部分」「暗黒の領域」の残る、そういうものであったのではないか、それにもかかわらず、わかる人にはちゃんとわかってしまうような、そういう圏の中で、桶谷は発言していたのではないか。私にはそう思われるのである。

 実際に桶谷はじつにさまざまな云い方をしている。たとえば『土着と情況』に収められた伊東論だけでも、「古くから日本人の生活の根源に永遠のように流れている生命の原理」「暗い民族の根源」「日本人の暗い生命の原理そのもの」「日本人の生活の根源に流れる暗い生命の原理」「生活の根源にある暗い生命の原理」などの表現が見られるし、ほかの論考からも「日本の土着の精神土壌」「魂の故郷」「伝統の暗い影」「日本民衆の土着性に根ざした民衆の思想」「民族の土壌」「原始の混沌」「日本人の生命の原理としての自然」などの語を拾うことができる。さらに他の著書にも「暗い日本のこころ」「日本的な感性土壌」「土着の感性土壌」「土着の感性秩序」「原初の自然の体験」「日本人の心」「日本の心」「日本の精神の土壌」「日本人のナショナルな感性」「土着の血」「日本のアイデンティティ」「民族の遠い記憶」「?常民?の生活基盤が示唆する?日本?」などの言葉を見出すことができる。

 桶谷には、日本人という個人の生の暗部は、血と土を共にするある共同的・普遍的な根源、民族という土壌に、その下半身を浸している、という認識がある。
人はそこから生命を汲み上げ、そこを魂の故郷とする。
 伊東はみずからの生の暗部を手さぐりし、身を抉じ入れ、意識の暗黒部と必死に格闘したその果てに、生活者として、このことの自覚に到りついたのである、というのが、桶谷の感受である。
 小林秀雄における歴史と伝統ということについて、桶谷はこう述べている(『批評の運命』)。

「歴史」は人間に外から強いる時間の暴力であり、「伝統」は強いられて人間が自分の内側に発見する自己の姿だ(……)

 正確にいえば、これは昭和8年という時点で小林がのべた、「歴史はいつも否応なく伝統を壊す様に働く。個人はつねに否応なく伝統のほんたうの発見に近づくやうに成熟する」という言葉を、桶谷の読解によって言い換えたものであり、したがって部分を取り出して論ずる危険はあるが、これは「意識の暗黒部との必死な格闘」→「日本民族の遠い体験」の自覚と追憶という桶谷の描いた構図の、一つの自解としても読むことができるように思える。すなわち、伊東もまた、外部の力に強いられて、その果てに自分の内側に、日本民族の遠い体験につながるものとしての、自己の姿を発見したのである、と。

1053Morgen:2014/08/14(木) 13:43:22
(結びにかえて)「眼の世界」と「心の世界」
 1910年5月31日、『マルテの手記』がインゼル書店から出版され、同8月13日〜20日、タクシス侯爵夫人の好意でボヘミアの城(ラウチン)に滞在させて頂いたことへのお礼を述べたが次の手紙です。(1910年8月30日付、タクシス侯爵夫人宛)

 ・・・私はほとんど半病人といった状態でここに到着いたしました。・・・ラウチンはまさに分水嶺でした。今はすべてが、ちがったふうに流れています。・・・多分、いま私は少しばかり人間的になることを学ぶでしょう。・・・私はただ事物ばかりを主張してきました。それは片意地というものでした。一種の高慢であったとも、ああ、私は恐れるのです。・・・

 この手紙には、その後の詩集『一九〇六年から一九二六年までの詩』で「眼の仕事」と「心の仕事」の対立の確認(融合)へと変化することの示唆が表れていると言われます。(「目に見えるものの変容」ヘルマン・マイヤー著 山崎義彦訳)

 その後、第一次世界大戦(1914〜9)が起こり、リルケはパリの全財産を失ってミュンヘンに移り従軍します。戦争は、「堅固な物の世界の転倒、転倒する人間の精神状態」「断片や破片によって示される打ち砕かれた世界」(ピカソやクレーの絵の世界)をもたらしました。
 リルケは、そのような経験を乗り越えて、「第九の悲歌」(『ドゥイノの悲歌』1922年完成、1924年出版)に詠われている甚だ平明な境地に達しています。

 「第九の悲歌」

なぜ 現世の時をすごすためならば
・・・・・なぜ
人間の生を生きなければならないのか―そして 運命を避けながら
なぜ 運命に憧れるのだろう?・・・・・
・・・おそらく私たちは言うために此処にいるのだろう
家・橋・門・甕・果樹・窓と言い―
また せいぜい円柱・塔と言うために―・・・・・
・・・・・
見よ 私は生きている それは何によってだろうか? 幼な時も未来も
どちらも少なくなりはしない・・・ありあまる存在が
私の心のなかで迸っているのだ(富士川英郎訳)

 ここでリルケが言おうとしているのは「家・橋・門・・・」というような、物たちの、単純素朴で原初的な姿を、(破壊から守り) 自己の内部へと救い入れ(内部化する)、それを芸術作品のうちによみがえらせること(内部的な変容)が、人間に委託されているのだということです。

 第2次世界大戦が終わり、美原の田舎家に疎開した伊東静雄が(スイスのヴァレイに隠棲したリルケを想起させます・・・)、「竈とその前に蹲る女」という「単純素朴で原初的な姿」を見て、そこに自己の「内部世界」と深く共鳴し「光る」ものを感じて、それを「薪の明り」という詩に詠んだのだ考えると、そこには「リルケ後期詩集に通じる何かがある」と位置づけるのが相応しいのではないでしょうか。

 私には、この詩を単純に「ザッハリッヒな散文詩ですね」という一言で片づけ、忘れ去ってもいいものだろうか?―というような疑問がわいてきます。

1054Morgen:2014/08/19(火) 14:28:53
ご冥福を『闇屋になりそこねた哲学者』
 柳田国男が「近代以後、日本が悪くなった時期が二度ある。一回目は漱石の弟子ども、即ち和辻哲郎、阿部次郎、こういう連中が、西洋思想を輸入したとき、これで日本が悪くなった。第二期は、小林秀雄、桑原武夫、などという連中が、ヴァレリー、プルースト、ジッドなどというようなものを担いで、それをもっとばかな若者どもがその後をついて歩いて、これで日本が二回目に悪うなった。」と私(桑原武夫)に言ったことがある。

 これは、『現代風俗‘85』第9号(1985・10)「“老い”の価値転換」(桑原武夫)の中の一節です。*『日本文化の活性化 エセー1983−88年』(1988.11.25岩波書店)『桑原武夫―その文学と未来構想』(平成8年8月24日 杉本秀太郎編 淡交社)にも同じ文章が収載されています。

 『日本文化の活性化』は、桑原氏が1988年4月10日に逝去された直後に遺著として出版されたものであり、『桑原武夫―その文学と未来構想』は、「日文研」講堂における同氏七回忌(1994.4.10)での約600人の集まりにおける新京都学派リーダーたちの講演記録が収められています。

 『日本文化の活性化』の筆頭には「柳田さんと私」というエセーが載せられており、柳田さんは桑原氏を大変可愛がったことが書かれており、小林秀雄も、「批評家を止めてからは柳田国男を思索の対象として孤独な内省に徹した。」(若き日に小林秀雄に心酔された杉本秀太郎さんの言)そうです。
 まるで喧嘩を売っているような柳田国男さんの冒頭の文章ですが、このような背景を知ると、桑原氏や小林氏に対する柳田さんの愛情あふれる言葉であることが分かります。

 今年1月15日に、平凡社から『新京都学派―知のフロンティアに挑んだ学者たち』が出されており、京大人文研や日文研のことが詳しく書いてありますので、今読んでいます。
もし“伊東静雄が80歳位まで生きていたら、この「新京都学派」といわれる心温かき人脈が醸し出す雰囲気のなかで、作品や後継者を育みながら、穏やかな「老い」を送れただろうになあ!”というため息の様なものが出てまいります。

 先日お亡くなりになったハイデガー研究者木田元氏(昭和3年生れ)も、若き日には小林秀雄に心酔され(『なにもかも小林秀雄に教わった』文春新書)たそうで、『闇屋になりそこねた哲学者』など波乱に満ちた青年時代のことなどを書いた本はとても面白く読ませていただきました。若き日には朔太郎や伊東静雄の詩なども愛読されたそうで、ジュンク堂で『詩歌遍歴』を取り寄せ中です。
 木田元氏の御冥福をお祈りいたします。

1055Morgen:2014/08/20(水) 22:30:00
木田元『詩歌遍歴』
 木田元『詩歌遍歴』(平凡社新書 2002.4.22)が本日配達され、すぐ開封してみると目次の筆頭に「1 水無月の歌―芥川龍之介と伊東静雄」が載っています。
 そこには、伊東静雄「水中花」が全文掲載され、次のような感想文(一部抜粋)が付されています。

・・・・・私は第一詩集『哀歌』の「詠唱」も好きだし、昭和十八年に出された第三詩集『春のいそぎ』の「夏の終」も好きだが、やはり「水中花」がいちばん好きだ。
 この詩を最初に知ったのはいつ頃だろう。…昭和二十年代の前半に、北川冬彦か誰かの編んだアンソロジーで読んだような気がする。一読心惹かれた。・・・・・」

 先の投稿で木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』(平成20年10月刊 文春新書)について書名を紹介しましたが、その中に「小林秀雄と保田與重郎」という興味深い章があります。

 木田氏は、同じ年の川村二郎氏(半年早生まれ)が保田與重郎の本26冊すべてを集めて読み耽ったのに、保田與重郎とは完全にすれ違い、「川村さんと桶谷秀昭さんとも、ほかの点では共感することの多い評論家なのに、話が保田與重郎に近づくと、まるで消える魔球のように、私には急に球筋が見えなくなる。」と述べられています。

1056山本 皓造:2014/08/21(木) 13:41:08
リルケ『セザンヌ』
 先にアマゾンに注文しておいたリルケ、大山定一訳『セザンヌ 書簡による近代画論』が、昨日やっと届きました。巻末に、昭和29年4月の日付のある訳者「あとがき」があって、この日付と、伊東にこれらの書簡を読ませたかった、という大山さんの嗟嘆をあわせ見て、しんみり致しました。わずか一年余。遅かったのですね。
 本のカバー、『セザンヌ 書簡にもる近代画論』と、珍しい誤植があります。Morgen さんのお持ちの本でもそうなっていますか?
 横臥状態で読むのはちょっと辛いけれども、ゆっこり味読しようと思っています。
 木田元さんがなくなりました。ムゥ……書くことがいっぱいある。

 「桶谷・柳田・伊東」の最後の部分を明日にでも投稿の予定です。
?

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1057Morgen:2014/08/21(木) 23:07:21
サント・ヴィクトワール山は伊吹山と似ているか?
今晩は。
 『セザンヌ 書簡による近代画論』は、私の手元にあるのは昭和29年6月15日発行ですが、「書簡による…」となっています。
 リルケの書簡は非常に多くて、国文社刊『リルケ書簡集』?〜?を買ってみたのですが、まだ見つからない書簡があります。
高橋英夫さんが『藝文遊記』の中で「サント・ヴィクトワール山と伊吹山が似ている」と書いておられます。そこで、盆休みを利用して山頂まで登ってみたのですが、写真のとおりガスが濃くて山容は見えませんでした。山野草も少し盛りを過ぎていましたので、麓(醒ヶ井)の梅花藻の写真を添付します。

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1058山本 皓造:2014/08/22(金) 11:50:36
〈存在規定〉
 桶谷は右のような個人の「民族という土壌」への強い繋縛性を、「存在規定」という言葉で言い表している。すなわち、「昭和の史論家――司馬遼太郎」(『滅びのとき昧爽のとき』)という文章の中で桶谷は、小説『花神』における村田蔵六のナショナリズムを「故郷が好き」と表現した司馬に同意して、「ナショナリズムは思想やイデオロギイではなくて、むしろ存在規定だといふ考へで、これに私は同感である」とのべている。
 たしかに〈根源〉や〈土壌〉は、存在規定と言い得る一面を持つ。すでに『土着と情況』の各所にあらわれる「生命」「優性遺伝」「自然」「原始の混沌」といった言葉づかいも、「存在規定」を指示してているといってよいであろう。〈血〉や〈土〉そのものは存在であってイデオロギーではない。したがってそれは、観念の空中戦を演じるべきスジのものではない。
 しかし桶谷は、たんなる事実認識や分析のためにこれを言ったのではなかった。それはあくまでも「論」のためであった。すなわち、桶谷の「情況」「冥暗」「奈落」にかかわる〈批評〉のなかでの発言である。『土着と情況』の「跋」にはつぎのようなことばがある。

……「情況」とはわたしにとって「奈落」である。奈落まで降りていかねばならぬように情況は存在している。さて、奈落というのは、現実の情況の表層から下降していって、透谷のことばを借りるなら、「冥暗のなかに勢源を握る」たたかいの場である。これを「情況」の外観とするなら、それの内観は、生の総体の根源にむかうことであり、「意識の暗黒部との格闘」(伊東静雄)にほかならない。

「暗い土壌」がすなわち「奈落」だというのではない。そうではなく、近代と、暗い土壌とのせめぎあいの淵から出ることができない、その淵の暗さが「奈落」なのである。「近代」はこの「奈落」「冥暗」とぶつかり、きしみ合うことがなければならない。それのないものが近代主義である――これが桶谷の〈批評〉である。
 だが、この文脈で言われる場合、桶谷は時につぎのような激語を発することがある。たとえば、太宰治論のなかで北村透谷に言及した一節(『仮構の冥暗』)、

北村透谷が大きくよろめいたのも、「姉と妹」なる寓話の中の、クリスチャン・モラリティ、インディヴィデュアリズム、デモクラシイといった西洋思想を象徴する姉と、祖先伝来の貧しい農村に育ち、顔色あおざめたりといえど、毛髪一本にまで土着の血を恃む東洋の「妹」に象徴される思想との、激突の只中においてだった。

 ここでははっきりと、二つの思想の激突、と言われている。
 私が言いたいのは、イデオロギイと存在規定とは截然と分けることはできない、ということである。そればかりか、存在規定は無雑作にイデオロギーに連結することができる。とくに、存在規定が〈価値〉と結びつく場合にはそうである(あまりにも卑近な例であるが、「アーリア民族の血」という存在規定が「優秀さ」という価値と結びついた場合のように。また「美しい日本の私」のように。)『浪漫的滑走』のなかで桶谷は、昭和17年におこなわれた座談会「心の米英を撃滅せよ」から、つぎのような場面を引いている。

保田 ……現代の思想でいひますと、土と血ですね。僕は日本人の立場としては土と血の外にもう一つあると思ふんです。歴史とか伝統があるんです。代々万世一系に神の血統を伝へてをらるヽといふ、この思想は土と血の思想からは出て来ない。……大日本は神国であるといふ論理の面が出て来ないんです。国際関係とか人間の生存的な条件とか、いろいろなものを集めて、結局、日本は神国でなければならん、天皇は神でなければならんといふわけです。哲学の本なんかは、みんな「ねばならぬ」です。僕はこの「ねばならぬ」と書いてあるのを無視する。……ゾルレンではないんです。

 出席者の一人(高瀬)は、「私は大日本は神国なりといふ事実は、日本民族生命の存在的な姿なんだと思ふね。「ねばならぬ」ぢゃない。天皇陛下万歳を抱いて生き継いでゐるもの、それが日本人なんだ」と発言して、これに追随している。保田の主張を現在のトポスで表現すれば、「大日本は神国である」というのは存在規定である、ゾルレンではなくザインである、ということになろう。イデオロギーならば、選びとることができ、争うことができる。しかし存在規定であれば、それは拒むことができない。有無を言わせない。保田は、万世一系という歴史・伝統は、土と血の思想からは出て来ない、といっているけれども、保田や日本浪曼派の思想の総体から見れば、「万世一系・日本神国」が「土と血」と全く無関係だと言い張るのは無理であるし、このふたつは自然に連接していたと見ることに、異論のさしはさみようがないであろう。
 万世一系・日本神国の当否がここでの問題ではない。保田流にいえば、それは存在規定であるのだから、当否の判断はそもそも受け付けられぬことになろう。今筆者が仮にここでその当否を言ったとしても、保田はこれを「無視する」はずである。まさしく「言挙げしない」のである。だがそれにもかかわらず、私にはなお「万世一系・日本神国」はイデオロギーである、と言う権利があるであろう。
 存在規定云々は、相対主義にたいする苛立ちから来る。イデオロギーというものは、本来相対論的であることを免れない。異なったイデオロギーの存在を想定しないようなイデオロギーというものは考えられない。そして、自分がひとつのイデオロギーに立つとき、相手と自分のいずれが正しいかを決定する「アルキメデスの点」は、イデオロギー自体のなかには存在しない。この苛立ちを解消するためには、イデオロギーの外に「アルキメデスの点」を設定するほかない。しかしその「点」は、ドクサにほかならない。対立するイデオロギーの双方を宙吊りにして自らはその外部の不動不可謬の場所に立つというこのあり方は、イロニイと同じ構造をもつ。この意味で「存在規定」論はひとつのイロニイとも云いうる。
 存在規定云々は要するに、断定のためのレトリックである。愛国心は存在規定であるという、小林秀雄のつぎのような断定は、それがレトリックであることを見事に明かしている。(これを「恫喝」といっては、さすがに言い過ぎであろうが。)

「疑わしいものは一切を疑ってみよ……性慾の様に疑えない君のエゴティズム即ち愛国心というものが見えるだろう。」(「神風といふ言葉について」)

 ユダヤ人であることはユダヤ人にとって思想やイデオロギーではなく存在規定である――こう、言ってみたとき、それはたしかに真実を含むが、たとえばカフカにとって、それは何ら問題の解決や矛盾の止揚ではなく、出発点にすぎなかった。

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 長々と述べてきて、はたと道を失ったまま、私の書きかけの試論はここで切れてしまいます。このあと私はもう一度、桶谷の伊東論(6篇を数える)を、年代を追って跡付けようとしたのですが、もうこの場では無用でしょう。まっすぐ進めば、いずれは「日本浪曼派論」に真正面から取り組まねばならず、それはあきらかに力量不足です。
 これまでの経緯からは、立原の「日本回帰」?が、また別の面ではハイデガーの「対話」が、この問題にかかわりますが、直接に、というわけではありません。長大な紙面を占領したことをお詫びして、私のこの件についての投稿をこれで終わりにします。

1059山本 皓造:2014/08/22(金) 12:00:20
クロモジ
新聞に「クロモジ」の、こんな記事がありました。

『セザンヌ』私の版は昭和29年4月です。初版で誤植、気づいて2版で刷り直した、というところか。

伊吹山は私も大好きな山です。彦根、米原、長浜方面へ行くときはいつも、見るのがたのしみです。孫の命名を頼まれたとき、「伊吹」を考えたのですが(伊吹=息吹)、ブの音がきたない気がしてやめました。登山までされたとは、すごいですね。

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1060Morgen:2014/08/22(金) 23:11:11
「あげまきのうた」
 古書店で見ていたら、高田敏子編『わが詩わが心』(1)(2)という詩集の中に「あげまきのうた」という珍しい詩がありました。思わず買ってしまいましたので、コピーして紹介します。(少し見にくくなってしまいました。)

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1061山本 皓造:2014/08/23(土) 12:03:30
『セザンヌ』訂正
 8/22 に投稿した記事で、『セザンヌ』の私の所蔵本の刊行年月を昭和29年4月としたのは、私の勘違いで、奥付では昭和29年6月15日と、Morgen さんと同じです。すると、表紙カバーだけ誤植あり/なし、の2種類あり、おそらく途中で誤植に気付いて刷り直したが何かの手違いで或る部数、誤植ありのカバー付きの本が市場に出てしまったのでしょうね。言い古された「校正恐るべし」、扉とか、目次とか、奥付とか、柱とか、表紙とか、思わぬ個所でとんでもない誤植を見逃すことがままあります。コワイデスネェ……

1062龍田豊秋:2014/08/26(火) 10:16:47
ご報告
8月23日午後2時から,図書館2階学習創作室に於いて第82回例会を開催した。
出席者は7名。
会報は第76号。内容は次のとおり。

1 「伊東静雄賞」の重みを内包して    谷本 益雄(第24回伊東静雄賞 受賞者)

 谷本さんが最初に詩として意識し,詩に向かわせたのが伊東静雄の「夏の終わり」であった。
??体の何処かに,焼けた火箸をあてがう気構えが,今後の詩作には必要ではないかと思われています。
             ??????????????(2014.6 宮崎県詩の会 会報より)

2 「諫早の菜の花忌」                    椎窓 猛
????「菜の花忌」と伊東静雄賞の思い出。
   椎窓さんは伊東静雄賞に何度も応募され,佳作となられました。
   詩 「観音」                      上村 肇

????????????????????????????(平成26年7月福岡錫言社発行『紫水』から転載)

3 「つばめ」????????????????????????????????????????????????中山 直子
????????????????????????????               (第13回奨励賞受賞者)


4 「忘れ得ぬ人」(1)????????????????????????????????????????樋口 正己
??????????????????????????????????????????????????????  ??(伊東静雄研究会)

??????樋口さんが繊維卸問屋で働いた思い出です。

                                   以上

9月の例会は,27日午後2時から,諫早図書館2階ボランティア室に於いて開催の予定です。
『海鳥忌』も兼ねて行います。

『ながさき文学散歩2』は,9月28日13:30から諫早図書館2階視聴覚ホールにて開催されます。演題は長崎の芥川賞・直木賞 ~作家と作品~ です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001197.jpg

1063山本 皓造:2014/08/30(土) 11:51:09
baobab、または『考える蜚蠊』
 「朱雀の洛中日記」の中野さんが今月13日、奥本大三郎『本を枕に』のことを書いておられたので、久しぶりに奥本さんの本を読みたくなって、取り寄せて読んだ。読み終わって、なんだか前に読んだような気がする。それで家中を探しまわって奥本さんの本を集めてみると、文庫新書で7冊ほどあり、『本を枕に』もちゃんと買って、読んでいる。こういうのを本当の Double Booking というのだろう。
 一冊読むと次を読みたくなる。今『考える蜚蠊』を読んでいる。その第?部(というのか第?章というのか)の扉の挿絵が、掲出した baobab です。
 『考える蜚蠊』の冒頭に自分の履歴のようなことを奥本さんは書いている。

小学一年生の夏であったか、海水浴に行って水が入ったのが原因で、左の耳が中耳炎になった。私が育ったのは大阪の南部、難波と和歌山市の中点ぐらいのところにある貝塚という町だが……

 奥本さんは貝塚の奥本製粉という会社の社長の御曹司である。私の家内は貝塚の子で、小・中・高と学校は貝塚の学校を出た。小学校は奥本さんと同じで、ただ年齢がだいぶん離れているので、上級生とか先輩というような直接の接触はなく、それでも家内は親しげに「奥本クン」などと云ったりする。その後私たちは結婚して貝塚に住み貝塚の学校に勤めた。だから、奥本大三郎さんは私たちのことは何もご存じないけれども、私たちのほうから見れば奥本さんは親しい人なのです。
 もちろん、書かれたものが好きなのである。『ファーブル昆虫記』は未読なので、プルーストが済んだら……と、気の長いことを考えている。
 しかし『考える蜚蠊』第?章の扉に、なぜ baobab の絵を持ってこられたのか、それがわからない。

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1064Morgen:2014/08/30(土) 17:28:39
Wozu Dichter?(乏しき時代にあって、何のための詩人か?)
「夕映」
・・・・・
けふもかれらの或る者は
地蔵の足許に野の花をならべ
或る者は形ばかりに刻まれたその肩や手を
つついたり擦ったりして遊んでゐるのだ
めいめいの家族の目から放たれて
あそこに行はれる日日のかはいい祝祭
そしてわたしもまた
夕毎にやっと活計からのがれて
この窓べに文字をつづる
ねがわくはこのわが行ひも
あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ
・・・・・

 先日お亡くなりになった木田元さんを偲んで、ハイデガーの本を再読してみようと開いたのですが、文字の表面を目で追っているだけの感じがします。
 『乏しき時代の詩人』(手塚富雄 高橋英夫共訳 1950)―1930年生まれの高橋英夫さんはまだ10代の若さでこの本の下訳をされたのですね!!)
 ヘルダーリーンの「Brot und Wein 」の中にある「Wozu Dichter?」をハイデガーは題名とした(論文集『森の道』に収録されている。)のですが、邦訳にあたっては『乏しき時代の詩人』という書名で出されています。巻末の解説によると、リルケ(1926年12月29日死去)の20周年記念として、ごく少人数の集まりの席でハイデガーが講演したものだそうです。(同書60頁には「今論議が集中している原子爆弾も、特殊な殺人兵器として、致命的なのではない。」というような“ドキ!”とする生々しい発言もあります。) 従って、本書の内容も主としてリルケの詩について述べたものですが、その内容を要約してこの投稿で紹介することは今はできません。(分からないところだらけで・・・)

 この本を読んでいて思い出したのは(時節柄、自宅近所の地蔵盆に子供たちが群れているのを見たせいもあり。)、お馴染の静雄詩「夕映」の中の詩句です。

 地蔵の足許に野の花をならべ・・・・・あそこに行はれる日日のかはいい祝祭

そうか、あのお地蔵さんは地元の人々からは「神」として拝まれているが、実は「逃走した神々の痕跡」なのか。
(庇護されている子供たちは、)その周りで遊戯をしたりするが、神なき時代の人間は庇護の外部にいる(リルケ)。逃走した神々の痕跡がいまなおあるとすれば、それは神なき人間には、ただこういう祝祭の場においてのみ(出会いの機会が)残されているのである。(乏しき時代にあって)詩人たることは、逃走した神々の痕跡を感じ、その痕跡の上に止まり、かくして自己に同類である人間のために、歌いつつ、逃走した神々の痕跡に注意する(転回への径をつけてやる。「聖なるもの」「啓示」などを探す。)人間なのである。(同書12〜14ページ)
 ヘルダーリーンの「Brot und Wein 」の中にある「Wozu Dichter?」やリルケの後期詩集などには、逃走した神々や祝祭のことが書いてあります。(伊東静雄がこのように意識してこの詩を歌ったのかどうかの決め手を明示することはできませんが)これらを下敷きにして静雄詩「夕映」を再吟味してみました。夏の終わりの「夕映」に、また一味違った深い情緒が感じられるのではないでしょうか。
??「夕映」と言うにはまだ少し早すぎますが、秋の気配を帯びた巻層雲の彼方から、詩人の囁く低い声が聞こえてきそうな空模様です。

     ねがわくはこのわが行ひも
     あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ

     ・・・・・・

1065朱雀:2014/09/03(水) 12:36:03
本を枕に
 初めまして。「朱雀の洛中日記」の中野です。いつも伊東静雄を愛するみなさまの掲示板を楽しく拝読しております。先日は山本皓造先生が拙ブログに触れてくださって、驚きつつも嬉しく思いました。先生の奥さまが貝塚のご出身で、ご結婚されたあと、先生も長く貝塚に住んでおられたとのこと。奥様は奥本大三郎さんの先輩にあたられるのですね。私は奥本大三郎さんの処女作『虫の宇宙誌』(1981年)からのファンで、あの悠々迫らぬ大人の、ユーモアと気品にみちた文章が好きです。子ども時の大病は、時に人を早熟で思慮深くするようですね。一度、千駄木にあるという「ファーブル昆虫館」を訪ねてみたいものですが。
 この夏、軽井沢を訪ねましたが、大渋滞にまきこまれて「油や」にも「堀辰雄文学記念館」にも寄ることができませんでした。軽井沢高原文庫には立原道造の資料もたくさんあると聞いたのですが。折に触れ『定本 伊東静雄全集』(人文書院)を開いています。静かな心持になりますね。

1066朱雀:2014/09/03(水) 12:41:59
本を枕に
訂正です。先のコメントの中で、奥本大三郎の文章を「悠々迫らず」と書きましたが、「悠揚迫らず」の間違いです。うっかりでした。私は名うての粗忽者で、このような失敗は日常茶飯事なのです。初めてのコメントで早速失敗して汗顔のいたりであります。

1067山本 皓造:2014/09/08(月) 16:25:16
『乏しき時代の詩人』
 配達の遅れていた『乏しき時代の詩人』(ハイデッガー選集5、手塚富雄・高橋英夫共訳、理想社昭和33年刊)が届きました。Morgen さんの云われるように、本書は Heidegger, Holzwege のうち Wozu Dichter? だけを訳出したもの。(創文社の決定版『全集?杣径』は未見ですが Holzwege の全訳かと思います。)
 巻頭の「訳者序」に、訳者がハイデガーに疑義を発して、
「ヘルダーリンはあきらかに時代にたいする愛の詩人であり、他者にたいする責任ということを、その詩作の基盤としていた。しかし、リルケにはその種の基盤があると認めうるだろうか。彼においての問題の中心は、彼一個の詩人的ありかたを通じての究極的問題の追求の意欲ではなかったか」
と問うたところ、ハイデガーはこれを肯った、とあります。

 大山定一訳・リルケ『セザンヌ 書簡にみる近代画論』を読了しました。その中で、
・わたしの眼は「集団」に向けられていないのです。……どのような場合にせよ、個々の作家だけが問題だと、わたしはかたく信じるものです。(p.61)
・まれな例外をのぞいては、僕らはたがいに手と手をつなぐことはできません。(p.190)
 これらはいかにも上記のリルケを証しているように感じられます。実際私は本書において、リルケの〈神〉や、ハイデガーの「乏しき時代」というような認識/問題設定よりも、「セザンヌの作品…外部…「物」」、「物体としてのレアリテ」、「今度の詩集にはこのような「物」をつくろうとする僕の本能的な第一歩がある筈だ」、「ロダンの素描」、「セザンヌの即物性」、「セザンヌの自画像…顔…「物」を見る眼」、などの言葉に注目を引かれました。
 それともうひとつは、リルケの描写する、セザンヌという画家の人間像。
 リルケには、「セザンヌの画もセザンヌの人物も、「存在者」として(言葉で)述べることができねばならぬ」という覚悟があったのです。
 これから『乏しき時代の詩人』をゆるゆると読み進めようと思います。

1068Morgen:2014/09/08(月) 16:55:40
『乏しき時代の詩人』 によせて
 こんにちは。わざわざ『乏しき時代の詩人』や『セザンヌ 書簡にみる近代画論』を取り寄せてまで、お読み頂きまして恐縮します。季節の変わり目にあたる時節柄、疲れがたまりませんように、ご自愛下さい。
 たまたま、ルー・ザロメ著作集4『リルケ』を読んでいましたら、次のようなリルケ自身の言葉が見つかりました。(1904.5.12ルー・ザロメ宛て書簡から要約抜粋)

 <仕事をすることによって、(大都会パリでの)不安な状態から脱け出ようという(リルケの)考えが述べられ>。創造が詩人の神経症を抑え、詩人は創造によって苦しい症状から救われるのである。(創造的活動は治療的過程といわれている)。詩人は、創造によって生きることの意義を無意識のうちに感じるからで、少なくともこの創造活動の間は、不安な状態からまぬかれる。・・・この手紙を書くことは私にとって救いとなりました。

同書からもうひとつ興味深い箇所を抜粋してみます。(1911.12.28ルー・ザロメ宛書簡)

 でもルーさん(ルー・ザロメ)、あなたにはその区別ができ、マルテが私に似ているかどうか、またどの程度まで似ているか立証できるでしょう。部分的には私の危険からつくられたマルテは……没落していったあの他人は、私をすっかり使い果たしてしまったのです。

 マルテ=「没落していったあの他人」=「もう一人の私」=マルテの作者=「私をすっかり使い果たしてしまった人」とリルケは言っているのですが、『マルテの手記』の完成によって、リルケの神経症をマルテが天国へ持ち去ってくれたのだと言えるのかもしれませんね。<但し、マルテに取り残されたリルケがその後の人生において完全な精神的安定を得たとはいえない。>
 序に言えば、“伊東静雄は『わが人に與ふる哀歌』の完成という創造的活動によって、わがひと(または「半身」)が、その「神経症」(または「芥川的傾向」)を持ち去ってくれたのだ(治療的過程)。”という仮設を立証してくれる学者・評論家が登場しても不思議ではないと言うと、少し言い過ぎになるでしょうか。(蛇足?)

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1069山本 皓造:2014/09/16(火) 21:40:52
天声人語
 ハイデガー『乏しき時代の詩人』と悪戦苦闘中です。
 こういうものを長時間読み続けるとカラダに悪いので、1時間ほどで他に転ずる。従ってなかなか捗りません。

9/15朝日新聞の「天声人語」で鷲田清一『老いの空白』の中の、〈高貴なまでのしどけなさ〉という言葉が紹介されていました。

ローマの美術館のカフェでの光景だ。店の支配人は仕事を店員に任せ、ぼんやり外を見たり、壁にもたれたり、ぶらぶら歩きをしたり。その姿が実に優美だ、と▼支配人は何もしないことに慣れている。手持ちぶさたを紛らせようとはしない。お座りをしてじっと庭を眺める犬のような、妙な高貴さが漂う。他人の思惑などは眼中になく、ひとり超然とたたずんでいる

 こう述べたあと、天声人語の筆者は、

▼この〈見事なまでの無為〉の境地が、私たちの老いには必要なのではないか。鷲田さんはそう問いかける。

と記しています。フーン、と、私は思いました。

 この記事の2日前に私は、多木浩二『20世紀の精神』(平凡社新書)を読み了えたばかりでした。フロイト、ソシュール、エリオット、シュミット、ベケット、と来て最後の6人目に、プリモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』が取り上げられます。その中の「生きる上でのさまざまな目標は、死に対する最良の防御手段である」という言葉が引かれます。
 〈高貴なまでのしどけなさ〉はある意味で、死に対する防御手段でしょう。しかしレーヴィは、自分には、死についてあれこれ考える時間はなかった、と云うのです。少し前から、再度引用します。

私には死に割く時間がなかった。私にはもっと考えることがあった。わずかなパンを見つけ、きつい仕事を避け、靴を修理し、箒を盗み、周囲の兆候や人の表情を読み解くことなどだった。生きる上でのさまざまな目標は、死に対する最良の防御手段である。

 これが、アウシュヴィッツの強制収容所の中での、レーヴィの「生きる上でのさまざまな目標」でした。

1070Morgen:2014/09/16(火) 22:23:38
「ロッホ ローモンド」
こんばんは。
「生きる上でのさまざまな目標は、死に対する最良の防御手段である。」というのは、私にとっても名言であるように思います。(”まだまだ!”と頑張らなくちゃ!)

「朱雀の洛中日記」で中野章子さんが、9月18日に運命の投票日を迎えるスコットランドの友人のことを書いておられ、興味深く読みました。
 そのお話の中に、スコットランド民謡「ロッホ ローモンド」や「アニー ローリー」のことが出ています。「ロッホ ローモンド」の出だしのメロディーは「五番街のメリーへ」(都倉俊一作曲)そっくりですね。

 我が家では、妻(66歳)が「ハンマー ダルシマー」という民族楽器の練習をしており、毎晩のように「ロッホ ローモンド」を演奏しています。(今も聞こえますが、すっかりミミタコ・・・)

 しかし、この曲に付された歌詞やその歴史的背景を知ると、本当に悲しいスコットランドとイングランドの民族間戦争のお話しのようです。ネット上に公開されている歌詞の3番は次のようになっています。(これだけではよくは分かりませんが・・・) 9月18日の国民投票によって、両国民が納得して共存共栄できるような途が見つかるように祈るばかりです。しかし(国民の意見がこうも真っ二つに割れていては)道は厳しそうですね。(こんな悲しい歌は真っ平御免ですね。)

「ロッホ・ローモンド」(三宅忠明:訳)
・・・・・・・・・・・
―(3番から)―
小鳥が歌い、
野の花が咲いていた、
陽光の中に湖水が眠っている。
だが、傷心の心で、
来年の春を見ることは出来ない。
苦悩する身でことばも交わせない。
  おお、君は高い道を行け、
  ぼくは低い道を行く。
  スコットランドにはぼくが先に着く;
  だけど、恋人には二度と会えない、
  美しい美しいロッホ・ローモンド(湖)の岸辺で。

1071山本 皓造:2014/09/23(火) 11:59:40
訃報
小川和佑先生ご逝去の旨、新聞に報道がありました。
つつしんでご冥福をお祈り申し上げます。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001206.jpg

1072Morgen:2014/09/23(火) 22:50:08
謹んでご冥福をお祈り申し上げます
 小川和佑先生ご逝去のニュースをお知らせ頂き、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 お目にかかったことはありませんが、(私の手元にあるだけでも)20数冊の御著書を通じて、学恩を受けてまいりました。とりわけ伊東静雄詩を理解するうえでも、貴重なアドヴァイスを受けてまいりましたが、今後におきましても、小川和佑先生の後継者の方々によって先生のご業績が継承され、さらに深められていくことを強く期待しています。

1073上村紀元:2014/09/24(水) 12:15:01
お悔やみ申し上げます
平成16年3月 第14回伊東静雄賞贈呈式において、「伊東静雄−その詩と時代」のご講演を頂きました。詩集「春のいそぎ」収録の、戦争詩7編の評価については、見直されるべきであると熱く語っていただきました。伊東静雄研究の第一人者であられた小川先生の著作は、これからも読み継がれてゆくことでしょう。謹んでお悔やみ申し上げます。

1074山本 皓造:2014/09/28(日) 14:18:51
山猫
 福井県にMという私の友人がいて、そのMの知己である定道明という福井市在住の詩人・評論家が『中野重治近景』(思潮社1914年)という本を書いたので、できれば読んで感想でも送ってあげてくれないか、と云ってきました。
 ご承知のように、中野重治は福井県の丸岡の出身で、Mの金津町とも近く、昨年私が寝ついたときに、中野の死の前の10年ほどの間に出した単行本数冊や『愛しき者へ』などをまとめて読んだことをMに知らせてやったところ、宇野重吉が『梨の花』を朗読したテープを送ってくれたりしたのでした。
 さてそれで、私が『中野重治近景』を読み、「近景はここにおいてまさしく至近である」というような感想を書き送りますと、折り返し著者から丁寧なお礼状を添えて、ひとつ前の著書『「しらなみ」紀行――中野重治の青春』(河出書房新社2001年)を贈っていただきました。また、定道明さんの最初の中野重治論である『中野重治私記』(構想社1990年)も、別途入手し、これを今読んでいます。
 以上が前置きで、たいへん長くなりましたが、上記3著のうち『「しらなみ」紀行――中野重治の青春』から、山猫についての中野の詩/文の一部を孫引きします。

「いつかだれかに言つて、そのときは冗談と受け取られたように見えたのだが、動物園に行くと山猫というやつがいる。全身黒いろで長い尾を持ち、檻の奥ふかく潜んで人にふれることがない。その金いろの瞳には凶逞無比の無頼漢の俤が宿つている。私が諸君の仕事に望みたいことは、紙くずをしか結果しないような藝術と藝術に関する学問との氾濫するなかにあつて、おのずからー王国をこの山猫の気魄でもつて築きあげてもらうことなのである。」(中野「不敵の面魂」)

 この文章は昭和3年に発表されたのですが、この山猫が昭和5年に「山猫その他」として独立します。

「山猫めは全身まつ黒の毛に包まれて金いろの眼をしていた。彼のしつぽはからだよりも長く、いざというときには棍棒のようになるに違いない一種特別のふくらみを見せていた。僕の知るかぎり彼は、檻の奥行きの半分よりも前へは一度も出てこなかつた。いつも奥の方に坐つて、けつして人に馴れることがなかつた。僕は彼に、「ごろつき」の名を与えた。彼は僕に「ごろつき、ニヒリスト、てきや、かつぱらい、かなつぼ眼、海賊等の言葉を思い出させた。」(中野「山猫その他」)

 そこで著者の定さんの云いたいのは、こういうことです。

「彼は山猫が真底好きなのであり、彼の分身が山猫なのである」
この作品を「プロレタリア文学者中野と短絡させてしまうとおかしくなる」
「「山猫その他」にしても、動物園へ行って、ひねもす山猫の習性を観察して、あらぬ想像力をたくましくしていた一人の男のダルな青春の輝きを、そのものとして損なうことがあってはならないのである」

 中野の「山猫」は、リルケの「豹」に似ているなァ、という、アホらしい(すみません)感想が、この投稿の眼目です。ですが……(続く・時日未定・割り込んでください)

1075龍田豊秋:2014/09/29(月) 09:39:36
ご報告
『ながさき文学散歩2』が,9月28日諫早図書館にて開催されました。
演題は「長崎の芥川賞・直木賞 ~作家と作品~」。

講師は,西陵高校教諭の中島恵美子さん。
先日,交通事故に遭われ,体調不良を押しての講演でした。
中島さんが高校生の時,NHKのテレビ番組に野呂邦暢さんと共に出演した思い出を話されました。

芥川龍之介が長崎に滞在時,長崎医専に勤務していた斎藤茂吉と初めて会ったそうです。
芥川に精神科の薬を調合したのが,茂吉であったとのこと。興味深いエピソードを聞きました。

次回『ながさき文学散歩3』は,10月26日です。
演題は,「古典文学にみる長崎 ~万葉集から西鶴まで~」。
楽しみです。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001210.jpg

1076龍田豊秋:2014/09/30(火) 10:40:36
9月のご報告
いつのまにか,庭のキンモクセイが満開になっていました。
開けた窓から香りが入ってきて気づきました。

9月27日午後2時から,諫早図書館2階ボランティア室に於いて第83回例会及び第9回『海鳥忌』を開催した。出席者は9名。会報は第77号。内容は次のとおり。

1 伊東静雄を聴く 鈴木亨の覚書より????????????????????????青木 由弥子

??静雄は,「作品が成ると,これを大書して壁にはり,日夜これを眺めて口ずさみ,効果を確か  めつつ自ら楽しんでいた」(桑原武夫)

?? 青木さんが,清里の文芸誌『ぜぴゅろす』を取り寄せて読んだ感想文です。

2 詩「風に聞いた話だけれど」     木村 淳子
                (日本現代詩人会会員 詩集『風に聞いた話』所収)

ある夜,男の子は,人形やぬいぐるみの動物を乗せたそりを引っ張って森に入っていった。
もうすぐ春が来るころの満月の夜。通りすがりに,子供たちのたのしそうな笑い声が聞こえた。
通ったあとには海のように水が満ちてきて大きな波の壁が立ちはだかって・・・・。

3 詩「あげまきのうた」????                 原 子朗

(日本近代文学研究家,早稲田大学名誉教授,「河」同人,1986年『石の賦』で現代詩人賞受賞。)

4 毎日新聞長崎県版はがき随筆 平成26年9月14日掲載 「この道は」??龍田 豊秋

????出征兵士を送り出す肉親の情愛。集団的自衛権行使容認の先に見えるもの。

5??第9回 海鳥忌に寄せて                   伊東静雄研究会

????上村 肇の詩業について

6 詩「上村さんの墓」                     小野 裕尚

7 詩「かくれんぼ」????????????????????????????????????????????上村 肇

8??詩「朝霧」??????????????????????????????????????????????????上村 肇

9??詩「詩道」??????????????????????????????????????????????????上村 肇

10??詩「古語拾遺」?????????????????????????????????????????????? 上村 肇
??  ????????????????上村 肇最後の作品です。
??????????????????????????????????????????????????????????????????????以上

10月の例会は,25日午後2時から,諫早図書館2階創作学習室に於いて開催の予定です。

サライ10月号に,杉本秀太郎先生がご登場です。

秋の京都の何とまあ美しいこと。

1077Morgen:2014/10/05(日) 23:02:44
小川和佑先生を偲んで
 先月20日に亡くなられた小川和佑先生を偲んで、ご著書の『伊東静雄論』(昭和48年五月書房刊)や『伊東静雄論考』(昭和58年叢文社刊)などを読み直してみました。
 小川先生は、「終戦の日から昭和28年3月12日までの8年足らずの短い時間こそ、詩人伊東静雄にとって、もっとも濃密な文学的人生が存在していたのではないか。従来この詩人を論ずる諸説に対する、これは筆者の見解でもある。」と、『伊東静雄論考』197頁に述べておられます。このような見地から、従来やや思想偏重で述べられてきた伊東静雄研究を、書誌・文献中心にシフトされて、詳細な伊東静雄年譜を遺していただきました。その間に収集された資料や文献にはさぞ貴重な物があるのではないかと思われますので、関係者の方々によって、その整理保存や公開がなされるように希望してやみません。

 極度の紙不足状態であった昭和22年〜3年頃に伊東静雄詩が発表された『座右寶』『舞踏』『詩人』『至上律』『詩学』などなどの雑誌は、古本屋で見つけたら買うように努めてきましたが、実際にはなかなか進みません。(手元にあるものの一部を表紙だけですが添付してみます)

 我が国の先人たちは、もうだめだとさえ思えるような困難な状況の中でも、(早くも昭和21年頃から再興を図った日本の詩人たちのように)短い期間に立ち直り、日本再建を成功させた、その戦後復興に注がれた熱い雰囲気を「精神的文化遺産」として後世に遺すことが必要ではないでしょうか。そのためには(古書としては市場価値の低い雑誌などであっても)必要な書誌・文献をできるだけ整理保存して、情報公開することが我々の世代の責務ではないかという思いにかられます。(言うは易く、行うは難し。)

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https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001212_2.jpg

1078Morgen:2014/10/10(金) 17:32:20
「サライ10月号に,杉本秀太郎先生がご登場です。」
 9月の報告の中で龍田さんが「サライ10月号に,杉本秀太郎先生がご登場です。」とお知らせいただいた通り、『サライ』10月号が本日発売され、杉本秀太郎先生が「生粋のみやこ人」が案内する秘めおきの京都紅葉名所」の案内人として登場しておられます。掲載されている杉本先生のお写真から推察するとまだまだお元気そうで、安心しました。
 先生のお勧めは「鹿王院」「長楽寺」「蓮花寺」の3ヶ所です。紅葉の絶好シーズンになったら、是非訪れてみましょう。ついでに、杉本家の「秋の特別一般公開」(10月21日〜26日13時〜17時)も是非お立ち寄り下さい。

1079山本 皓造:2014/10/11(土) 18:22:17
「山猫」追記
 先月末の投稿で、中野重治の研究者・定道明氏とその著書を紹介し、そのうち『「しらなみ」紀行――中野重治の青春』に引かれた「山猫その他」を再引しました。その後、氏の最初の評伝である『中野重治私記』を読了。ここにも「山猫」についての評言があり、こちらのほうが定氏の考えをよく表していると思いましたので、ここに引用しておきます。

「山猫」は「雨の降る品川駅」の翌年に発表された。一九三〇年のことである。この頃は既に中野は詩をぱらぱらとしか発表していず、この年には詩として発表されたものは一篇もない。
 中野は、「山猫」の方向でなら、もっともっと詩が書けただろうに、と思うことが私にはある。いよいよ詩が書けなくなって来た中野が、「山猫」に詩と己れの矜持を賭けるべく、一歩も退かずに挑んだ図が浮んで来る。
 それにしても、何という作品であろう。こうした作品が、これまでの日本文学の何処かにあったとは思われない。文学の階級性といい、階級的文学といいはしたけれども、そうした言い方そのものが霞のようにうつろに聞えてしまうほど、「山猫」は凄味に満ち満ちている。危険に満ち満ちているといった方がいいだろうか。とにかくこれは、中野にしてはじめて世に現れ出ることができた何かであって、単にプロレタリア文学理論の適用などといったしろものではないのである。ほかならぬこうした作品が、プロレタリア文学の名のもとに現れたということ、そのことがむしろプロレタリア文学の側にとって脅威でなければならかったほどの、これは出来事だったはずである。

 実は私はそれまで、定道明氏の名を知らなかったのですが、手持ちの蔵書をめくっているうちに、すでに氏の名前が引かれているものをみつけました。『新潮日本文学アルバム 中野重治』、そのp.16-19に、中野の第四高等学校入学、室生犀星とその『愛の詩集』との出会い、詩作の開始、小説「歌のわかれ」と記述が進んで、次のように述べられます。

この犀星の詩は高等学校から大学入学にかけてのころを材にした中編小説「歌のわかれ」のなかにも記されることになる。そしてその「歌のわかれ」の頼子のモデル、薄金まさをへの「恋愛の敗北」(定道明「中野重治私記」)もあったという。

 失恋の相手、薄金まさをの写真も掲載されています。(なお、同『アルバム』巻末の参考文献にも『私記』が挙げられています。)
 定氏は『私記』で、中野の詩集に二度だけ出て来るふしぎな語「ぽろぽ」はこの薄金まさをの(私的・内密の)愛称であり、「中野はその生涯において、精神革命ともいうべきものを二度に亙って経験した。一つはこの彼女との別離であり、一つはいわゆる転向であった」と云います。まさをとの交渉の詳細は同書の後続の諸章で、また『「しらなみ」紀行――中野重治の青春』のなかの「相生町薄金家の存在」の章で、考証されます。すでに見事な〈近景〉であると、私は思います。

 なお、同人誌『驢馬』で中野、堀らがいっしょであったことは周知のことに属しますが、『しらなみ紀行』中の「雑誌『驢馬』の人たち」の章も、堀辰雄のイメージに迫る意味で、興味深く読みました。立原道造の「風立ちぬ」論への、かなりつっこんだ考察もあります。

 追記のつもりで書き始め、「乏しき時代の詩人」の本題に入るつもりだったのですが、思わず長くなりましたので、そちらは(その他の話題も含めて)次の機会にまわします。

1080Morgen:2014/10/21(火) 12:06:32
「菊の香や奈良には古き仏達」(芭蕉」)
 街角から金木犀や菊の香が流れてきて、日ごとに秋の気配が深まってまいりました。

 『芭蕉を読む 対談』(潁原退蔵、大山定一、西谷啓次、吉川幸次郎、湯川秀樹、・・・ 遠藤嘉基編、創拓社、1989)という本が、古本屋に有りました。
 「もしや?」と直感が走り、『伊東静雄全集』昭和19年の4月21日付け日記及び同5月9日付け潁原退蔵宛書簡にある「芭蕉研究の座談会」のことではないかと思って立ち読みしたら、図星でした。(ただし、伊東静雄は参加を断っています。)

 『芭蕉を読む 対談』の「あとがき」には、「京都帝大の北側(左京区北白川追分町)に、秋田屋という出版社の編集部があって、そこで、午後3時頃から9時ころまでの例会があった(複数回)。その記録が、秋田屋刊行の雑誌『学海』(昭和20年1月〜5月)に連載されている。記録の全貌は隠滅してしまったそうですが、創拓社がこれを探し出して、1989に刊行した旨が書かれています。

 同書で取り上げられているのは「菊の香や奈良には古き仏達」「草臥て宿かる頃や藤の花」「白露をこほさぬ萩のうねり哉 」の3句だけです(他は見つからない)が、潁原先生のような専門学者だけでなく湯川博士ほか数人の素人を交えて自由な座談が行われております。
 日々戦局が厳しくなっていく当時の慌しかったに違いない情勢の中ではありますが「さすがは京都だなあ。」と思わせるゆったりした雰囲気を感じました。(興味のある方は、「日本の古本屋」に何冊も出ています。)



1081山本 皓造:2014/10/22(水) 13:15:52
Holzwege
 ハイデガー『乏しき時代の詩人』を読了(選集?、手塚富雄・高橋英夫訳)。
 太い筋は思ったよりもよく見えたのですが、ちょっとこまかい所になると、雲をつかむようになってしまいます。
 で、やっぱり Holzwege を購入しました。日本の古本屋/天牛書店江坂店、\2000。Martin Heidegger, Holzwege, Vittorio Klostermann, Frankfurt am Main, Vierte Ausgabe 1963.
 買った、といっても、すらすらと読めるわけではないので、今のところは、訳本と照合しながらジリジリと読み進めているところです。“Wozu Dichter?”は全部で50ページほどです。

1082山本 皓造:2014/10/26(日) 15:29:37
ルー・ザロメ『リルケ』
 『ルー・ザロメ著作集4 リルケ』(塚越敏・伊藤行夫訳、以文社)を読みました。
 マルテ以後悲歌までのリルケの苦悩の時期へもっとも至近距離にまで接近して描かれた、すぐれた像のひとつであろうと思います。
 とっつきで、文章の〈難解〉に躓きました。訳者も云うようにザロメの文章そのものがクセありなのでしょうが、訳文を読んでも、単語が並んでいて、しかしそういう並び方は日本語にはない。難解というよりむしろ困惑というべきか。
 たとえば「豹」についての言及があるのですが、そこで云われている「物」「言葉」「感情移入」等の語のつながり方が、よく理解できないのです。
 ヨーロッパによくある、某文学者と(たとえば)某々伯爵夫人との〈親交〉――精神的芸術的支援/物質的経済的生活的援助/肉体的交渉――というあり方が、日本人であるわれわれにはよくわからない、ということもあると思います(文章の難解とは別に)。
 リルケはマルテを自分の身代わりとして〈没落〉させた後はマルテを離れる、と云われますが、私は見捨てられたマルテになお執着があり、もうしばらくその後について行きたい気がするのです。
 リルケの宗教観については十分綿密に書き込まれていると思いました。とくに巻末に「ユダヤ人イエス」の章が付されたのはよかった。しかし、リルケの神にせよ、リルケの否定するキリスト教の神にせよ、およそ西欧的〈神〉がわれわれ日本人にあまりにも遠いのは如何ともし難く、そこを無理に何か発言するのはつらいのです。
 巻末の訳者の言葉が印象的でした。
 「リルケにもルー・ザロメにも神への絶対の信頼はあった。神はいつかは内部に姿を現わすであろう。しかし、まだ現れなかった。」
 従ってリルケの時代は〈乏しき時代〉であるわけです。ハイデガーはリルケが時代の乏しさを明確に経験していると云い、歌びとの言葉は依然として聖の痕跡をとどめている、と云います。しかしその詩は、ヘルデルリーンの後列に位している、とも。さて、こういうランク付けがリルケにとって、痛いのか痒いのか、何ともないのか。
 余計なことですが、これを書いた訳者の塚越敏さんは、本心から神がもう一度現われることを願ってこう書いたのだろうか。

1083Morgen:2014/10/27(月) 12:15:37
『ペコロスの母の玉手箱』
 岡野雄一『ペコロス』シリーズ第2弾が朝日新聞出版から発売されました。

 第1弾『ペコロスの母に会いに行く』(西日本新聞社)は、2013年日本漫画家協会賞優秀賞を獲得したのをはじめ、映画化されてキネマ旬報日本映画一位(原作)に輝きました。今回第2弾の単行本として発売されたのは『ペコロスの母の玉手箱』です。
 この本の製作途中でお母様のみつえさんは91歳で亡くなられたそうです。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 漫画『ペコロスの母の玉手箱』の最後のせりふ。

「母ちゃん、ゆっくりゆっくり空に降りてってくれたごたる気のする」

??私は、芥川龍之介「西方の人」に関する例の論争(「天上から地上へ登る」>「空に降りる」)や、リルケの詩に出てくる「降りくだる幸福」を、連想しました。
 作者の岡野雄一さんは、「・・・亡くなっていよいよイマジネーション源であり続ける母と父に。・・・心から感謝。」と巻末に書いておられます。
 ますますのご活躍を!!

 ・・・・・
 そしてわれわれ 昇る幸福に思いをはせる
 ものたちは、 ほとんど驚愕にちかい
 感動をおぼえるだろう、
 降りくだる幸福のあることを知るときに。
 (リルケ『ドゥイノの悲歌 第十悲歌』末尾―手塚富雄訳岩波文庫83頁から引用)

<蛇足>
「降りくだる幸福」・・・「この落ちてゆくものを/限りなくやさしく/両手のなかに受けとめる」(リルケ「秋」)“神のようなもの ein Gott"(宗教性が発生する原初的な何物かの予感?)

1084龍田豊秋:2014/10/29(水) 11:20:18
ご報告
今朝は冷え込みました。ヒイラギの白い花が葉の間に見られ,甘い香りに陶然となります。
ツワブキの花があちこちに咲いて,庭が明るいです。

10月25日午後2時から,諫早図書館2階創作学習室に於いて第84回例会を開催した。
出席者は6名。会報は第78号。
内容は次のとおり。

1 小川和佑先生を偲んで     ???????????????????????? 野崎 國弘
????9月20日に亡くなられた小川先生の著書を読み直されたとのことです。

2 当日に閉会式を迎える「長崎がんばらんば国体」に因んで,伊東静雄の詩『夏の終わり』が  紹介されました。
          『・・・さようなら・・・さようなら・・・』

              (長崎新聞 平成26年10月22日 第一面「水や空」欄)

3 詩「翼の伝承~ナガサキから~」????            田中 俊廣

????B29は,金属の鳥。西彼杵半島と島原半島はその翼。野母半島はその嘴。
????鳥は,プルトニュームの狂った果実を鶴の港に落とし,一瞬にして7万人の命を奪った。

?? 「羽の純白を未来へ」 恐竜の化石が野母崎町で発見された。

4 詩「獣の臭い」??                    森永 かず子

5??詩「雀の庭」                      門田 照子
                     ?? 詩集『ロスタイム』 土曜美術社出版販売

  夫を亡くした詩人が感じる夫の気配。
  同じモチーフの詩には,茨城のり子の「夢」がありますね。
????こちらは,少しエロティックで,のびやかな思い。

6 伊東静雄先生の想い出      ???? 阿倍野高校第4回卒業生 樽谷 俊彦
?? 「言葉に論理的な意味(ロゴス)だけでなく大きな大きな拡がりをもたせることができるのだな  と云うことを知らされた」??????                 以上

12月6日開催予定の「伊東静雄生誕フォーラム」の打ち合わせをしました。

杉本秀太郎先生の著書『見る悦び』の書評が,10月19日毎日新聞の書評欄に掲載されました。
評者は,湯川豊です。

11月の例会は,22日午後2時から開催の予定です。

1085龍田豊秋:2014/10/29(水) 15:35:09
訂正です
「茨城のり子」は,「茨木のり子」の誤りでした。

1086山本 皓造:2014/11/21(金) 07:37:50
ホルトゥーゼン『リルケ』
 H.E.ホルトゥーゼン『リルケ』(塚越敏・清水毅訳、理想社「ロロロ伝記叢書」、1981年)というものを読みました。
 私はこの著者については何も知りません。しかし他書に参考文献として挙げているものもあり、それなりに著名なリルケイアンなのだろうと思います。訳者の「あとがき」には、日本では初心者のための適切な文献がない現状で、本書はその役目をよく果たしていると思う、と述べています。「著者は学者ではない。かつてはリルケに傾倒して詩を書いた詩人であり、現在は文芸もののエッセイストである。そのため、学問的には(誤りではないが)正確を欠くところがある。しかし学者の著述とはちがって、人間リルケを、詩人リルケをみようとする点では、なるほどエッセイストたる著者の力量がうかがえる。この点で、本書は、一般読者にとって好個の読み物といえるだろう。」
 何ヶ所か、私の関心を惹いたところを紹介します。

(1)見ることを学ぶ;「豹」
 「見ることを学ぶ」(リルケはこの課題をもってパリに赴いた)ということの基本的な意味は、世界は感受されうるのだという意識を極限まで高めることであり、……成功作である『豹』ですでに実施されているのは、たんなる「感情移入」や「直観」などではなく、むしろ自我と対象とを同一視することであり、感情を客体化することである。
 ほかに、ロダン、セザンヌ、新詩集、事物詩、等々についても十分な紙数を割いて叙述されています。セザンヌ展を見ての印象的な言葉、「かつての人びとは、「ここにそれが在る」という画を描かずに、「わたしはこれを愛している」という絵を描いていた」も、『セザンヌ書簡』から引かれています。

(2)西欧的ロゴスへの反攻
 プラトンからヘルダーリンにいたるまで、詩人に宿って詩人に詩を吹き込むのはひとりの「神」であり、したがって、詩人は「この神の口にほかならない」とみなされ、そう信じられてきたが……中期のリルケの心情はそうではなく、むしろ「職人的完璧性」という理想である。……セザンヌの自画像や『赤い肘掛け椅子の婦人』の、言葉による取戻し……
 ルードルフ・カスナーの言葉。「美術においても、絵と本体との間に違いがないのと同様に、究極的には、ロゴスが存在してはならなかった。舌のうえで溶けず、しかも舌のうえで溶けないことを使命にするロゴスが、そこに介在してはならなかった。果実の味と違って、舌のうえで溶けてしまわないロゴスに、リルケは怒っていた。彼はそれに怒り、キリストに怒っていた。」
 しかし他方においてリルケがヘルダーリンから多大の影響を受けていたことについて、別の個所で縷々のべられています。詩作品「ヘルダーリンに寄す」の存在することの教示も。

(3)ハイデガー『森の道』
 後期リルケのメッセージは、対応や類似や追憶を通して、近代精神史におけるさまざまの最も重要な出来事や発展に、そして宿命に、関係しているのである。多くのものは、さかのぼってニーチェを指し示している。……また、多くのものは、ハイデッガーを先取りして示している。じつにハイデッガーもまた、彼の著作『森の道』のなかで、ただ一篇の詩に基いて、今日われわれが手にしうる最も美しい、最も意義深いリルケ解釈のひとつを提出したのである。
 ただし「Wozu Dichter?」の内容自体についての分析や評釈がなく、単なる賛辞だけに終わっているのが惜しまれます。

1087Morgen:2014/11/08(土) 23:30:38
メモ(「Wozu Dichter?」に関連して)
こんばんは。山本様がご紹介頂いたH.E.ホルトゥーゼン『リルケ』 は、手元に2冊もありましたが、中身については忘れていたのでぺらぺらとめくって再読してみました。取り敢えずその中で気づいたことを2〜3か所メモしてみます。

1、リルケがヘルダーリンに共感したのはいつからか?ヘルダーリンはいつから有名になったのか?
<同書P161〜162>1910年秋、へリングラード(ヘルダーリン研究者 22歳)と会う。1914年夏へリングラード編『ヘルダーリン』別巻本(第4巻)を入手。・・・ヘルダーリンは約1世紀の間埋もれたままで一般的には知られていなかった。第一次世界大戦頃から知られだし、第2次世界大戦ではゲッペルスの下で「ヘルダーリン協会」が設立され「憂国と救国の民族詩人」と持ち上げられた。(ヘルダーリンの与り知らぬこと)

2、リルケがヘルダーリンを歌ったもの・・・『ヘルダーリンに寄す』(1914年9月)
 <ヘルダーリンはフランス革命期〜ナポレオン時代の「Wozu Dichter?」を歌った。>

3、リルケが第一次世界大戦を歌った『5つの歌』(1914年8月)
 リルケは、「第1の歌」では、開戦当座(8月の最初の数日間)の高揚した「共同体の一員として」の気分を表現して、戦争の神に讃歌を捧げているが、「第4の歌」「第5の歌」では、原始時代のような野蛮な戦争に疑問を呈し、「嘆き」や「苦痛」を訴えている。
<リルケの時代は帝国主義列強間の戦争時代。「Wozu Dichter?」は「嘆き」や「苦痛」になってしまう。>
*H.E.ホルトゥーゼンやハイデガーはここら辺のことを書いていないのではないか。

 1919年6月には、リルケはミュンヘンを捨てて、スイスへ旅立ち二度とドイツへは戻りませんでした。
 戦争の数年間の障害を取り除きながら詩作に復帰したリルケは、1922年2月11日には、10年がかりの『ドゥイノの悲歌』を完結し、同23日には『オルフォイスへのソネット』を完成するという猛烈な集中ぶりを示しています。(同書216頁)

 (私は、目下のところ、この難解なソネットと悲歌を何とか読み解こうとしているのですが、)同書224頁にある以下の文章はなかなか示唆的です。

 「・・・若いマルテには到達しえなかった究極的な肯定を、ここで生が経験するのです。生と死の肯定が一つのものであることが、悲歌のなかで明らかにされているのです。」「後期リルケのメッセージは、・・・彼岸に対抗する決意」であり、生きることへの讃歌です、

“この世にあることは素晴らしい。おとめたちよ。・・・お前達がそこでひとつの存在を持ち すべてを持ち、その血管に存在がみちみちていた一刻は、お前たちの誰にも与えられていたからだ。”(「第七悲歌」富士川英郎訳)という生の歓呼の声です。このように「悲歌」は、リルケが新しい神様を見つける詩であり、生の「讃歌」でもあるということになりそうですね。

1088伊東静雄研究会:2014/11/10(月) 10:10:09
第9回 伊東静雄生誕「菜の花フォーラム」
第9回 菜の花フォーラム 開催のお知らせ

日時:平成26年12月6日(土)13:30〜
場所:諫早市立図書館 2階視聴覚ホール
内容:

  1.「語り 伊東静雄と故郷」  音楽:荒田麻紀さん 語り・詩朗読:伊東静雄研究会
  2.「伊東静雄とあんみつ」   長崎新聞社生活文化部次長 山下和代さん
  3.「伊東静雄 未定稿詩の発見」伊東静雄研究会 上村紀元
  4.「参加者皆さんによるフリートーク」

お気軽にご参加ください。申し込み不要。
問い合わせ 0957−22−0169(上村)
                            

1089龍田豊秋:2014/11/11(火) 13:34:22
再び佐伯一麦
穏やかな日が続いております。
私が子供の頃は,大相撲九州場所が始まると,日ごとに寒さが募ったものでした。

庭の野菊が,ほのかな香りを醸しています。

佐伯一麦の新刊随筆集『とりどりの円を描く』が出ました。日本経済新聞出版社です。
江藤淳を追悼する「江藤さんの手紙」の章で,伊東静雄に言及しています。

"江藤さん,私は,あなたの文章によって,生活者として苦労した夏目漱石も,キャサリン・マンスフィールドも,伊東静雄の詩も,シェークスピアの戯曲も,蒙を啓かされたものでした。

それらの作品から,そしてあなたの文章から共通して伝わってきたのは,「自分を越えるなにものかがあり,現在を越える時間があるという感覚」でした。"

?? <・・・・さよなら・・・・さようなら・・・・
  ・・・・さよなら・・・・さようなら・・・・>

1090大垣 陽一:2014/11/15(土) 16:59:07
貝塚という文字にひかれて
久しぶりに、訪ねましたら貝塚市という地名に触れました。奥本大三郎氏の実家である奥本製粉は私にも懐かしい所です。岸和田から貝塚の工場に通っていた折、しょちゅうその前を通っておりましたから・・・。その近くに本当に良い古本屋さんもありました。私の住む泉州地域がこの様な形ででも、この掲示板の話題になることは嬉しいものですね。今は行く機会もないですが、駅前の露地にある酒屋さんの立ち飲みでは、奥本製粉さんの工員さんともよく一緒になりました。取りとめもない思いの内容ですが投稿致します。

1091山本 皓造:2014/11/20(木) 11:07:11
ふたつの〈思い違い〉
大垣さん
 以前、中尾次郎吉先生のことでご質問をいただいた大垣さんですね。お久しぶりです。そんなに貝塚に近しい方とは思いもよりませんでした。私は昭和37年から平成1年まで貝塚に住んでいましたので、古い街のことはとてもなつかしいです。駅前から旧26号線のほうに向かう道「駅下がり」の光景は今もありありと目に浮かびます。当時は駅はまだ高架になっていなくて、山側と海側の間は暗い細い地下道をくぐって往き来していました。昔は海だったところに今では町ができて、なんだか他処の町に来たような気がします。
 以下が本題です。

 今、リルケ、ハイデガーと読んでいて、私にはどうも、ふたつの〈思い違い〉があったようだ、というふうに思えて来たので、そのことを書きます。
 その一は、〈乏しき時代〉についてです。ハイデガーをまだ読まず、この言葉だけを知っていた頃、(そして誰か他の文学者が「この乏しき時代に文学をやることにどんな意味があるのか」というような問いを投げかけていたのを見た記憶がある。「アウシュヴィッツの時代に詩を書く意味は……」)、私は、〈乏しき時代〉というのは、ごく近い現代、つまり戦争、全体主義、技術の独走、労働の疎外、などから想起される、ごく近い現代のことを考えていたのです。しかしハイデガーのもともとの云い方では、ヘルダーリンに従って、「一なる三者、ヘラクレス、ディオニソス、キリストが世界を去って神が不在となった時代」を指すのですね。と云いつつハイデガー自身、どうしても、たとえば“Wozu Dichter?”の中頃の、技術についての批判などで見られるように、ごく近い現代に視線が行くのは否めないようなのですが。
 思い違いのその二は、『マルテの手記』を鋳物の鋳型、写真のネガティヴとして見ることについてです。この Negativ についてはいつか別稿で投稿したいと思っているのですが、これは私だけでなく一般に、「マルテ」→「悲歌」「オルフォイス」の線を、リルケの〈上昇〉〈成熟〉として見ることが、常識的にあると思われます。が、私は今、無条件にこれを肯定することに疑問を持ちます。
 リルケ自身、この新しい境地へ行くのに、10余年の苦闘を要しているのです。しかもその新しい境地(「開かれた世界」「世界内面空間」「オルフォイス的世界」)が〈正しい〉かどうかは、必ずしも自明ではありません。それをあたかも自明にょうに、上昇、成熟と云うのは、安易にすぎると思うのです。
 私ははじめ、鋳型、Negativ というものに、マイナスの符号、否定的な意味をつけて考えていたように思います。鋳物ができれば鋳型は壊してもよい、いや、壊さなければ鋳物は取り出せない。たしかにマルテは没落した。しかし没落したということと、それをゴミとして棄て去ることとは異なる。鋳型は鋳型として、それ自体独立した実体である。そうでないとすれば、『マルテの手記』という作品はいったい何なのか――こんなことを、グジャグジャと考えているのです。

1092山本 皓造:2014/11/24(月) 13:16:44
庄野さんと須賀さん
 近ごろ、松山巌『須賀敦子の方へ』(新潮社)を読んで、須賀敦子さんが庄野潤三さんの『夕べの雲』をイタリア語に訳し、その刊本を携えて多摩丘陵の生田の庄野邸を訪れたということを、はじめて知りました。その意外な結びつきに、いささか感動しています。
 『夕べの雲』は1965(昭和40)年3月、講談社から刊行されました。私の持っているのは、講談社文芸文庫版で、その巻末に庄野さんが「『夕べの雲』の思い出 著者から読者へ」という文章を書いています。その最終行に、次のように記されています。

なお、「夕べの雲」は、昭和四十一年二月、第十七回読売文学賞を受賞し、同年十二月、イタリア、ミラノのフェロ出版社から翻訳刊行された。NUVOLE DI SERA。リッカ・須賀敦子訳。

 私は上記の文庫版『夕べの雲』を2002年4月に読み、2007年7月に再読していて、その旨の書入れがあるのですが、当時私はまだ須賀敦子の名も文章も知らず、庄野さんの文庫版あとがきも当然目にしているはずなのですが、さしたる注意もはらわなかったのでしょう、まったく記憶に残っていませんでした。私が須賀敦子という人のことを知ったのは、関川夏央『豪雨の前兆』(文春文庫)中の一章によってでした。2009年11月のことです。一読、何か、烈しく搏たれるような感動と共鳴があり、すぐ書店に赴いて、とりあえず棚にあった『コルシア書店の仲間たち』『ヴェネツィアの宿』『トリエステの坂道』の3冊を購入して、次々に読んで行きました。その途中、京都の書店で河出文庫の全集8冊をみつけて、これも買い求めました。以来、私は、話のできる人ごとに、「須賀敦子はいいよ」「須賀敦子はいいね」と語るようになったのです。
 須賀さんが庄野さんの『夕べの雲』を訳すようになったいきさつについては、自身の「“日本のかおり”を訳す」という文章があります(日本経済新聞1968.2.24 →『全集』第2巻)。
 フェロ出版社につとめる友人との雑談の合い間に、クリスマス向けに出版するのに、なにか適当な小説はないだろうか、という話が出て、須賀さんは、

その時、約半年前の冬に読んだ小説のことを考えながら、「ある、日本の小説でよければ」と答えた。/私の読んだ小説とは庄野潤三氏の「夕べの雲」(昭和三十九年日本経済新聞連載)である。この小説は読んで以来ずっと私の頭を離れなかった。読んだ時すぐにこの本をイタリア語に訳せたら、と思った。この中には、日本の、ほんとうの一断面がある。それは写真にも、映画にも表わせない、日本のかおりのようなものであった。ほんとうであるがゆえに、日本だけでなく、世界中、どこでも理解される普遍性をもっている、と思った。…(中略)…しかし、ふだんから付き合いのある、二、三の出版社の編集部で「なにか、最近いい本はありませんか」というおきまりの質問に「夕べの雲」をもち出すと、きまって、私は説明の途中で、自信を失ってしまうのであった。語ってきかすべき筋立てというものがないのである。「丘の上に、ものを書いてくらしをたてている父親と、その妻と、三人の子供が住んでいて、秋から冬まで、いろいろな花が咲いたり、子供が梨を食べたり学校におくれそうになったりする話です」では、どうにも恰好がつかない。/…(中略)…縁があった、とでも言うのだろうか。「夕べの雲」は、フェロ社の編集長の気に入って、私は、九月半ばに、全訳を提出する契約書にサインし、七月と八月いっぱい、来る日も来る日も、この本にかかりきった。招かれた友人の山荘にまで仕事をもちこみ、夜、皆がトランプをしている間、台所で一人、辞書を片手に仕事したこともあった。/無事、期日に間にあって、十一月の半ばに本ができあがり、出版社からとどいたときは、本当にうれしかった。それまでに手がけた、どの訳本よりも、自分の仕事という気がした。/「夕べの雲」のように、純粋に日本的な作品を、どうやって訳したのですか、と私はよく、日本の友人から質問をうける。実を言うと、私自身、この問いには満足に答えられない。本能的に訳してしまったと言いたいほどなのである。にしても、日本人から見て真に価値あると思われる作品がイタリアで読まれる機会を得たことのよろこびは、なんといっても大きいのである。

 『夕べの雲』への須賀さんの思いが、生き生きと伝わって来ます。「筋立て」を要約する須賀さんの筆には彼女の持ち味のユーモアがあふれていて、思わず笑ってしまいますし、「本能的に訳してしまった」などというところは、いかにも須賀さんらしい飾らぬ物言いが微笑をさそい、他方で彼女の心の内部空間が不意に目の前で開かれたようで、読む者をドギマギさせます。
 しかし、須賀さんが自分で訳書を持って庄野邸を訪れたということは、自身のどの文章にも書かれていません。
 須賀さんが『夕べの雲』を読んだのは、前掲の文章からみて1965〜66年の冬、訳書の刊行は同年12月。そして庄野邸訪問は、冒頭の松山さんの推定では1967年秋。実はこの1966〜67年というのは、須賀さんの一身上についても大変な年だったのでした。松山さんの記述と『全集』第8巻の年譜によって略述すると、
  1966.12 『夕べの雲』伊訳本刊行
  1967. 1 父、胃癌の手術
  1967. 6 夫ペッピーノ死去(本名ジュゼッペ・リッカ)
  1967. 8 母の危篤を知り帰国
  1967. 9 祖母急死
  1968. 2 日本経済新聞に「“日本のかおり”を訳す」を寄稿
  1968. 4 ミラノに戻る
 庄野夫人千寿子さんの談によると(松山前掲書)、須賀さんは庄野邸に3度来たといいます。その一回目に訳本を持参した。2度目のとき、前回約束したブナの木を持ってきて植えた。このブナの木は以後、庄野家では「リッカさんの木」と呼ばれることになります。

 長々と書いてきましたが、私が思うのは、庄野さんと須賀さんとの対話のなかで、伊東静雄の名が出ただろうか、どうだろうか、ということです。そうして、さらに思うに、たぶん、伊東のことが話題に上ることはなかっただろう、と。須賀さんの書いたものから判断すると、須賀さんから「伊東静雄の方へ」伸びる触手というものは考えられませんし、庄野さんは問われもしないことをベラベラ喋る人ではありませんから、そう思うのです。松山さんは、「夫人の話から私が不思議な感じを抱いたのは、庄野は生来、寡黙で、リッカさんも物静かな人で、だから二人の会話はじつに静かだった、ということだ」と、書いています。
 でも、もし、二人の間で、伊東のことが語られたとすれば……。二人の声が聞こえて来そうな、庄野さんの仕事部屋の写真が松山さんの本にありましたので、コピーして載せます(松山巌『須賀敦子の方へ』(新潮社)p.115より)。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001227.jpg

1093龍田豊秋:2014/11/25(火) 10:11:19
庄野さんと須賀さん 続
おはようございます。
早朝の雨は上がり,青空が広がってきました。
紅葉が一段と鮮やかになりました。

大分県中津市の作家松下竜一さんは,豆腐屋を廃業して失業者同然の生活をしていた頃,
『夕べの雲』が未知の読者から送られてきました。

"この作品には生きて在ることのなつかしさがたちのぼっている。
家族が平凡に日々を送っていることの総和的なしあわせがにじんでいる。
今日という時間をていねいに生きているがゆえのゆたかさがあふれている。...."

松下さんは,この本を読んで生きる勇気を与えられたとのことです。

私が『夕べの雲』を手に入れたのは「紀元書房」ででした。
この本が「紀元書房」にあることの意味は,もちろん直ぐに理解しました。
店主には何も言わず買い求めました。

須賀敦子さんの文章に魅了されて,ぽつぽつと読み進めているところです。

関川夏央『豪雨の前兆』は2007年に読みましたが,
須賀さんが記述されていることは全く意識にありませんでした。

河出の全集は諫早図書館に揃っています。
諫早図書館には,しっかりとした目利きがいるということですね。
素晴らしい。

1094Morgen:2014/11/25(火) 16:31:50
「須賀敦子全集」をご紹介いただきまして
 昼休みに立ち寄った紀伊国屋に河出文庫版『須賀敦子全集』第1巻、第2巻が有ったので買ってきました。
 仕事の合間に、チラチラと「ミラノ 霧の風景」を見ています。そういえば、学生時代に『鉄道員』という映画を観たことを思い出します。
 先日亡くなられた高倉健さんの映画『あなたへ』のなかに、「あなたにはあなたの時間が流れているから」という田中裕子さんのセリフがありましたが、「ミラノ 霧の風景」の文章から1980~90年代、50~60歳代の須賀敦子さんのなかで流れていた過去の「時間」(1958~1971年イタリアでの出来事)が「ザハザハと音を立てて」伝わってくるような感じがします。「時の遠近法の美しい構図」と、池澤夏樹さんは「解説」で述べておられますが、納得です。

 *悔恨にずっと遠く
  ザハザハと河は流れる

<伊東静雄「河邊の歌」の詩句。詩評論「河邊の歌を読む」(山本論文)をご参照下さい>

 暇を見つけて少しずつ読んでみます。

1095龍田豊秋:2014/11/27(木) 11:37:39
須賀さんと松下さん
関川夏央『豪雨の前兆』を再読しました。

須賀さんは,ミラノの石畳を足早にかつかつと靴音を立てながら歩き回ったのですね。

ところで,須賀さんの夫ペッピーノは鉄道員の息子だったとのこと。

松下竜一さんは貧しい豆腐屋の生活を送っていましたが,ある日弟と喧嘩して
衝動的に家出をしました。
その6日目,北九州の木賃宿を出てもう何をすることもなく街をさまよい,
映画館に吸い込まれるように入りました。そこで観たのが『鉄道員』。
崩壊しようとしている鉄道員一家の幼い末息子が語るたどたどしいナレーション
に,松下さんはとめどなく涙を流したそうです。

1096Morgen:2014/11/30(日) 01:01:10
「生活者の視点から」
 この掲示板で何回か取り上げさせて頂いた松本健一氏が27日に亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

 同氏の著書『戦後の精神ーその生と死』の中で、橋川文三、保田與重郎、島尾敏雄、江藤淳に関して書かれている項目があります。同氏が、保田與重郎や「日本浪曼派」に興味を持たれた経緯などが述べられています。
 島尾敏雄(185〜211頁)の項の中で次のように書かれていますので、一部を紹介します。

1、伊東静雄「春の雪」と島尾敏雄「月下の別れ」というふたつの詩は、戦争をその生活において呼吸しているということで、相似的である。
2、伊東静雄が、若い友人すべてにむかって「たっしゃでゐなさい」と静かに語りかけているところに、日本浪曼派の詩人はもはやいない。生活者伊東静雄がいるばかりだ。(「散華の美学」を歌う「日本浪曼派」から伊東静雄が決別したことを意味する。)
3、島尾敏雄もまた、戦争という政治に囲繞されつつも、それを「生活」として呼吸することによって、生活者の視点を紡ぎだした。
4、これは戦中〜戦後を通じて伊東静雄、庄野潤三、島尾敏雄の三者に共通することであり、三者が戦後いち早く生活者の視点から作品を生み出していった理由である。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001231.jpg

1097上村 紀元:2014/11/30(日) 14:54:37
詩人 齋田昭吉氏ご逝去
 詩人齋田昭吉氏がお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

 同氏は、伊東静雄の教えを受けた詩人で、戦後、詩誌『舞踏』を発刊、病床にあった静雄を励ましました。

 病院から  伊東静雄

 齋田君が大阪に帰つてきた。私は大へん心がにぎやかになつた。私の病気も大分よくなつたので一層楽しい。『舞踏』が早速出るそうだ。そして、病臥一年、初めて仰向けになつて、この文章を鉛筆で書いてのせるわけである。齋田君を通じて友人達の作や消息を、この雑誌でみ得るのは感謝だ。  八月四日     (『舞踏』昭和二十五年八月号)

昭和二十六年、静雄の散文「水晶の観音」は、齋田氏が静雄の口述を記録したものです。

 同氏の詩集『小さい灯』には、静雄が序文を寄せるなど、二人の交流は住吉中学の教師と生徒を超えた師弟の間がらでした。静雄を知る人がまたひとり、姿を消されました。心からお悔やみ申し上げます。

1098龍田豊秋:2014/12/03(水) 15:35:12
ご報告
寒波襲来で,昨日は近くの山にも雪が降りました。

11月22日午後2時から,諫早図書館2階ボランティア室に於いて第85回例会を開催した。
出席者は8名。会報は第79号。
内容は次のとおり。

1 詩「夜の海」     ????????????????????????        中山 直子

????伊東静雄「帰路」(詩集『反響』所収)に取材

2 詩「葡萄は」??????????????????????????????????????????????????柳生 じゅん子

3 毎日新聞長崎県版はがき随筆 2014年11月13日掲載    「秋日」

  ??????????????????????????????????????????????????????????????龍田 豊秋

4 詩「一本のろうそく」??                    小野 十三郎

             ????????         ??(1952年 小野十三郎詩集)

5??わがひとに与ふる哀歌ー伊東静雄君の詩について         萩原 朔太郎


6 詩「冷たい場所で」                      伊東 静雄

    ??????????????????????????????昭和11年1月『コギト』第44号より一部抜

7『わがひとに与ふる哀歌』に収録された短詩

????「詠唱」???? 2篇
????「読人不知」??2篇

8 長崎新聞 2014年11月18日 予告記事掲載

????「伊東静雄をしのび 諫早でフォーラム」

9 詩「眠る人」                         彦坂 まり

????                                     以上

前回に引き続き,12月6日開催予定の「伊東静雄生誕フォーラム」の打ち合わせ
をしました。

1099龍田豊秋:2014/12/10(水) 10:58:49
ご報告
6日,「第9回菜の花フォーラム」を諫早図書館で開催しました。
底冷えのする日和でしたが,師走のご多忙の中,約90名の方が参加して下さいました。

1 語り 「伊東静雄と故郷」
????平成26年3月21日から28日にかけて長崎新聞に掲載された,松尾潤記者執筆による  「伊東静雄と故郷 菜の花忌50回」をもとに構成したものです。

  会員の古賀瑞江,坂本三枝子,津田緋紗子,樋口正己,龍田豊秋の5名が,荒田麻紀さん自  身が作曲したピアノ曲の伴奏に合わせ,「そんなに凝視めるな」「帰郷者」「海水浴」「わ  がひとに与ふる 哀歌」「なれとわれ」「夕映」「野の夜」「曠野の歌」の詩8篇と伊東の  生涯を朗読しました。
????荒田さんがピアノ伴奏により朗読を引き立てて下さいました。

2 長崎新聞社生活文化部の山下和代次長は「伊東静雄とあんみつ」と題し講演しました。
????伊東の教え子,庄野潤三が小説「前途」に書き残したエピソードの紹介でした。

3 上村紀元会長が,今年3月に見つかった伊東静雄の未定稿の詩について解説しました。

4 本日,長崎新聞に高比良由紀記者執筆の記事と写真が掲載されました。

  タイトル??「貴重な出会い 創作の源」
???????????????????????????????????????????????????????????????????????? 以上

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001234.jpg

1100山本 皓造:2014/12/10(水) 11:47:22
Wozu Dichter?――リルケ読書その後(1)
 ハイデガー、Wozu Dichter? を、ようやく読み終えました。前にも書きましたように、原書(Holzwege)で50ページほど、一日2ページとしても、ひと月で読める、と計算したのですが、全然読めない日もあり、半ページしか手をつけなかった日もあり、結局、ひと月以上、かかってしまいました。それで、訳文で読んだ時よりいくらか理解が進んだかというと、まことに怪しいものです。それに、いつの間にか、リルケを脇に放念してハイデガーを読んでいる、というふうにならされてしまうのは、仕方がないようでもあり、腹立たしいようでもあります。
 綿々と書き綴っても仕方がないので、以下では、トピカを(いまヴィーコを読んでいるのです)取り出して、断片的に記します。

 ハイデガーはまず、ヘルダーリンの「パンと葡萄酒」の一節を取り上げます。

  何をなし、何をいうべきか、私は知らない、
  そしてこの乏しい時代にあって、詩人は何のためにあるのか、を。
  ... und was zu tun indes und zu sagen,
  Weiss ich nicht, und wozu Dichter in durftiger Zeit.

 次にリルケを呼び出した後、ハイデガーは次のように問いを立て直します。

  リルケは乏しき時代の詩人であろうか。
  彼の詩作は時代の乏しさといかに関係するか。
  それは深淵にどの程度深く到達しているのか。
  彼がどこかある場所へ進みうるかぎり進むと仮定して、さてこの詩人はいずこへ達することができるか。(訳書 p.18-19)

 これらにたいするハイデガー自身の答え、リルケとは結局「なんぼのものであったか」の答えは、論の最後にならないと出て来ません。少しずつ、進んで行こうと思います。

 はじめにハイデガーは、この時代を何故に「乏しい」と云うのか、いつ、どうして、そうなったのか、乏しい時代の特徴は何か、と説き進めて行きます。
 私はそれを図解してみました。今日の投稿の目玉はこの図解です。ここで気を楽にし、笑っていただければよろしいのです。また、まちがっているところがあれば、ご指摘ください。

 前稿で私は「誤解」ということを云いましたが、あらためて考えてみても、まだその疑念は解けません。見方を変えて、たとえば人間を<実存>として規定すると、それは一般的な規定であって(人間すべてがそうなのだ)、時代的な限定を受けるものではないと思うのです。

 もうひとつ、前回「アウシュヴィッツ」のこと書きましたが、記憶がアイマイで、正確な引用ができませんでした。あらためてここに記します。

  「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」
  (アドルノ『プリズメン』所収「文化批判と社会」、ちくま学芸文庫版 p.36)

 時間的な順序を云うと、
  1924. 6 リルケ「自然が生あるもろもろのものを…」詩作
  1940 アウシュヴィッツ強制収容所建設〜45 解放
  1945.12 ハイデガー記念講演 "Wozu Dichter?"
  1949 アドルノ「文化批判と社会」執筆
 つまりハイデガーの講演は「アウシュヴィッツのあと」であったわけです。ハイデガーは「原爆なんかたいしたことない」みたいな云い方をしていますが、アウシュヴィッツについては一言もふれていません。(これ以上言い募ると「ハイデガーとナチス」のような脇道に入ってしまうので、ここでは立ち入りません。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001235.jpg

1101山本 皓造:2014/12/13(土) 11:18:19
顔の裏側とのっぺらぼうの首――リルケ読書その後(2)
 拙い「図解」を載せましたので、恥のかきついでにもう一点、私のノートを見ていただきます。
 『マルテの手記』のはじめのほうに、こういう所があります。(訳は大山定一、新潮文庫版、p.12)

……女は驚いて上半身を起した。あまり素早い、あまり急激な体の起しようだったので、女の顔は両手の中に残ってしまった。僕は手の中に残された鋳型のように凹んだ顔をみたのである。僕はおそろしく一所懸命になって、その手の中を見つめていた。手の中から持ちあげられた顔を見ないために、僕はひどく真剣な張りつめた気持だった。裏返しになった顔を見るのは無気味に違いないが、顔のない、のっぺらぼうな、こわれた首を見る勇気はさらになかったのだ。

 顔に関して、3つのモノが指されている、と読めます。
 ? は、ふつうの、外側から、ひとの目で見える、顔(の表側)
 ? 女の手に残った、内側から見た、凹型の、顔の裏側
 ? ?を剥されて、顔のなくなった、のっぺらぼうの頭部

『マルテの手記』は、大山訳のほかに、
  望月市恵訳、岩波文庫
  堀辰雄訳、『堀辰雄作品集第五巻』筑摩書房
  塚越敏訳、『リルケ全集 7』以文社
の3点を参看することができました。
? は Gesicht、「顔」もしくは「顔面」としか訳せないとして、??を対照してみます。

? seine hohle Form ... ein Gesicht von innen zu sehen
  鋳型のようにへこんだ顔……裏返しになった顔(大山)
  顔面のうつろな内側……手に残った顔面…の裏(望月)
  うつろな形骸……顔の内部(堀)
  うつろな凹型……顔を内側から見る(塚越)
?-1 was sich aus ihnen [Händen] abgerissen hatte
  手の中から持ち上げられた顔(大山)
  手からもぎ離された顔(望月)
  その手から脱したもの(堀)
  その両手からもぎ離されてしまったもの(塚越)
?-2 dem bloßen wunden Kopf ohne Gesicht
  顔のない、のっぺらぼうな、こわれた首(大山)
  顔面がなくなったのっぺらぼうな顔(望月)
  顔をなくして、むきだしになっている首(堀)
  顔のない、傷ついたのっぺらぼうの顔(塚越)

 その様子を図に描いてみたものがこれです。私が「伊東Note」と称する、A6版の小さなノートをいつも持ち歩き、何か読んだり思いついたりするごとにそこに抜書きや発想をメモするようになったのは1999年のことで、この図はそのNote-5にあるもの。書き込んだ日付が、1999.9.2とあります。当時とりたててリルケと格闘していたわけではなく、ある日、どっと想念が湧いて来て、あわてて書きとめたもののようです。いろいろややこしいことを書いていますが、目を凝らしてご覧ください。「不在」とか「虚在」とか書いているのは、今では「非在」と表わすことに落着しました。あとで埴谷雄高さんに「存在と非在とのっぺらぼう」という文章があるのをみつけました。ただしこの投稿の動機は大山さんが文庫版の解説で引いている「鋳型/ネガティヴとしてのマルテ」という問題からの連想で、いずれそちらに戻ります。

?

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001236.jpg

1102山本 皓造:2014/12/16(火) 12:18:06
マルテの女の顔の現象学――リルケ読書その後(3)
ちょっと逸れますが……
 マルテの女の顔についてのノートを書いてからしばらくして、鷲田清一『顔の現象学』(講談社学術文庫)というものを読みました(2000年1月読了)。『マルテの手記』から例の部分の引用があって、鷲田さんがそれにコメントをつけています。その部分だけを紹介します。

皮を剥がれた顔面は、神経が露出し、血が滴り、ぶよぶよに腫れているのだろうか、あるいは掌に張りついた顔面の薄膜、その裏返された顔は、ヴェロニカの布に写し取られたイエスの顔のように、ひらひらと揺れる蛇の抜け殻のように、やがて縮み、消えゆくのだろうか。だが、少なくとも、顔はもはやそのどちらにもない。顔はそれをそこに出現させている何分の一ミリかの被膜をめくるだけで消失してしまう。ひとが現にそこに存在している(はずである)のに、顔は不在であるという、こうした事態はなぜ不気味なのか。

 ここでの著者の関心は、まず<不気味> unheimlich ということに向けられているようです(マルテは、不気味ではなくむしろ、怖かった mir graute …… ich fürchtete のですが)。
 しかし、顔の「トピカ」は、ここから「仮面」に移り、さらには「ネガティヴな顔というものも存在する」と云われ(ム! 何だ?)、次のように語られるのです。

停止した顔、共振しない顔、逸脱した顔、崩れた顔……。それらは、意味の表面であり、自他の界面である以上に、まずは意味がその外部、つまりは《非意味》と接触する、その限界面を意味する。リルケのいう、掌に張りついた顔の薄膜ではないが、意味のなかに収容できない何ものかが、いわば裏向きにそこに出現するのだ。

 抜書きでは何のことやらわかりませんが、なんだかおもしろそうではありませんか。

 *1 私は顔というものを、「羊羹の切り口」(大森荘蔵)のような、厚みのないものとしてイメージしていました。鷲田さんは「何分の一ミリかの被膜」と云います。abgerissen といい、wunden という以上、やはり厚みがなければならないのかもしれません。俗にも「面の皮が厚い」なとと云いますから。それにしても鷲田さんの描写の生々しさは、ただごとではありません。私はつい、大阪弁(?)の「ズルムケ」という語を考えてしまいました。
 しかし、鷲田さんの描く、惨憺たる、このもの、は、なおやはり顔であって、これを「のっぺらぼう」とは云わないように思うのです。私は「のっぺらぼう」というと、小泉八雲の「KWAIDAN」を思い出します。あれは、卵のようのツルンとしていたのではなかったか。
 むろん「のっぺらぼう」というのは訳者諸氏が云うのであって、リルケは bloß と云っているだけです。辞書を見ると、bloß むき出しの、裸の mit bloßen Füßen 裸足で mit bloßem Kopf 無帽で、などの用例があり、できるだけ忠実にその意を汲むと、「本来あるべき顔面が掌のほうに剥ぎ取られて、顔面のなくなった、むき出しの頭部」というほどの意味でしょうか。wunden とありますが、マルテは恐ろしくてそれを見ることができなかったのです。それとも、恐ろしかったけれどもやはり見てしまったのでしょうか。
 私の結論めいたものを云うと、「bloß とは、あるモノの外観の形容というよりはむしろ、本来は外被によって覆われていたモノがその外被を失ってむき出しになっているという、すなわち、本来的な外被の非在という、存在論的な様態を云う」ということになります。
 他方「のっぺらぼう」のほうは、別に定義しなければならないようです。これは宿題です。
 いま、リルケの『ロダン』を読んでいます。あれらの彫刻には「顔」はあるのでしょうか。あの場合にはリルケが見届けた「表面」Oberfläche がすなわち顔であると、私は思うのですが。

 *2 「千と千尋の神かくし」に「カオナシ」というものが出て来ます。まさしく ohne Gesicht です。あの不気味な白いマスクは、たしか最後には剥ぎ取られたのだったと思うのですが、そのへんの記憶がまったく残っていません。誰か思い出してください。あの下には何があったのか。
?

1103Morgen:2014/12/16(火) 12:25:26
冬本番!
 山本様から“Wozu Dichter?”〜リルケ“鋳型”と、熱心なご研究の成果をご投稿いただいており、仕事の合間に読ませていただいております。リルケの心の中に深く刻まれた“鋳型”から、名作が産み出されたのだと思います。「のっぺらぽー」になってしまった方はどうなったのかも気になるところですが、リルケは「のっぺらぽー」には興味を失ったのではないでしょうか。

 私のほうは、ここ1ヵ月ほど新しい仕事が増えて、趣味的な読書を殆どしていません。(2月ごろまで続きそうです。)昼休みに、古本屋には立ち寄りますが、自宅に未読の本が積み重なっています。
 昨日も、「原田種夫全集」を買いましたが、当分読めそうもありません。同全集(五)の「西日本文壇史」はなかなか面白そうなので、これも仕事の合間にペラペラと頁をめくって眺めています。
 明日からは本格的な寒波がやってくるそうですので、くれぐれもご自愛下さい。

1104上村 紀元:2014/12/16(火) 18:33:09
第25回 伊東静雄賞
国内外から1380篇の作品が寄せられた第25回伊東静雄賞は、田中俊廣氏、高塚かずこ氏、以倉紘平氏、伊藤桂一氏の選考により下記の通り決定しました。

伊東静雄賞 該当作品なし

奨励賞   しのたまご  八重樫克羅氏  76歳 茨城県石岡市在住
同上    水の位置   いわたとしこ氏 83歳 神奈川県横浜市在住

贈呈式   平成27年3月29日(日)諫早観光ホテル道具屋
                                以上

1105山本 皓造:2014/12/19(金) 10:49:22
冒険とは何か――リルケ読書その後(4)
 Morgen さん。拙文お読みいただいてありがとうございます。Morgen さんはお達者で何よりです。労働者なんですね!
 いたずらに掲示板を汚して恐縮していますが、書けるあいだに書いておきたい、と思いますので、どうかお許しください。

 “Wozu Dichter?”においてハイデガーはリルケの詩作の到達点を「ドゥイノの悲歌」と「オルフォイスに寄せるソネット」の2篇に見定めつつ、ただ「悲歌とソネットの解釈の準備はわれわれにはない」だけでなく、「その権利をも持たない」(ハイデガーのあげている、その理由づけは、略す)として、そのかわりに後年のある「即興詩」die improvisierten Verse を取り上げて、若干の基本語をそこから見出し、それによって「リルケがこの乏しき時代に果たして詩人であるのか、またどの程度まで詩人であるのか」を測り、「従ってまた何のために詩人が存在するのか」を知ろうとします。取り上げられる即興詩は、1924年6月の作、無題、出所等は訳書にあるとおりです。

 即興詩は次のように始まります。

 自然が生あるもろもろのものを/彼らのおぼろな欲望の冒険に委ね……[るように]
 Wie die Natur die Wesen überläßt /
dem Wagnis ihrer dumpfen Lust ……
 [1行略]
 [そのように]われわれもまた……/……それはわれわれを冒険する。……
 so sind auch wir ……/…… es wagt uns. ……

 私はこの劈頭から躓きました。Wagnis…… wagt …… 何だ、これは?
 「それはわれわれを冒険する」この文は、いきなり、そのままでは、日本語としては、通用しない、と、私は思います。文脈から、「それは」は、「自然は」ですが、「自然は人間を冒険する」と云い直しても、事態は変りません。
 昔ドイツ語を習ったとき、wagen という語が出て来ると、何とかのひとつ覚えのように、「敢えてする」と訳し、それで大体の用は足りていました。あらためて辞書を引いてみると、1. 危険にさらす、賭ける 2. …を敢行する、思い切って…する、などとあって、原義は 1. のほうにあるようです。

 もやもやと、ふんぎれない気持ちをかかえながら、次を読んで行くのですが、そうこうするうちに、ある日、別の書物で次のようなことばに出会いました。
「アダムよ、おまえにはどんな特定の場所もどんな生得の形貌もどんな特別の才能もあたえないから、どんな場所でも、どんな形貌でも、どんな才能でも、おまえ自身で好きなように選んでとるがよい」。神は世界を創り、最初の人間アダムを造ったとき、こうアダムに告げたという、この言葉はピーコ・デッラ・ミランドラがその演説『人間の尊厳[位階]について』の中で述べているもの、とのことです(上村忠男『ヴィーコ』中公新書 p.10)。上村氏は、この思想はルネサンス期のプラトン主義的な自由意志論に通じるもの、と解説しています。ここで「神」を「自然」と置き換えれば、それはとりもなおさず「自然は人間を冒険する」ということではないか、と私は思いました。そうすると、これはリルケの独創というよりはむしろ、ヨーロッパのキリスト教思想の伝統を背負った、きわめてフツウの発想ではないのでしょうか。
 自由意志と読めば、後に出て来る「庇護なき存在」das Ungeschütztsein、「危険」Gefahr はその反面として理解できるし、また、人間と他の生物との違い(人間はより冒険的である)からハイデガーがやがて、人間の根拠としての大文字の自然は「存在者の存在」である、また「存在者の存在は意志である」と云い及ぶことも、納得できるように思います。

1106Morgen:2014/12/21(日) 01:08:29
リルケ「若い労働者の手紙」
 リルケが「ドゥイノの悲歌」第五の悲歌〜第十の悲歌を一気に書き上げた1922年2月7日〜17日の間に、その悲歌の下書きの原稿用紙に「若い労働者の手紙」を書いています。これは、一見して労働者の手紙の形をしてはいますが、『リルケ全集5』(彌生書房)ではエッセイに分類されています。

「若い労働者の手紙」は、「ドゥイノの悲歌」後半部を理解する鍵といわれますので、少し長くなりますが引用してみます。(川村二郎訳)
 ・・・・・
「このキリストという人は、ぼくたちのことなど何ひとつとして知ってはいないのです。ぼくたちがどのように日々の仕事をはたし、どのように苦しみを切り抜け、喜びを味わうのか、何も知らないのです。
・・・・・
キリストは救い主なのだそうです。しかし彼は、妙に心ほそげに手をつかねて、ぼくたちのそばにたたずんいるだけではありませんか。」(愛の問題について)「生きとし生けるものすべて、幸福な愛の権利をほしいままにしているのに、ぼくたちにだけはその権利を認めない、そんな教義がどうしてこれほど長いあいだ主張しつづけられて来たのか、考えれば考えるほど訳のわからなくなることです。」

 ここでリルケは神とキリストを区別しています。それではリルケの神とはどのようなものでしょうか。リルケの「神について」で書かれている神であり、また「オルフォイスへのソネット」第一部に歌われている神であります。

・・・・・
おんみの教える歌は 欲望ではない
究極において獲得されるものへの求愛ではない
歌は存在だ 神にとっては容易なもの
だが いつ私たちはいるのか? そしていつ神は
・・・・・
 (この神は、ゲルマン民族(またはエッダやサガに描かれた北欧神話)の原初的な神に由来するものであり、ヘルダーリンやニーチェの系譜に属する神だと言われています。)
 そのような純粋な「生の顕現」としての人間の叫びが「歌の存在」であり、第7の悲歌で次のように歌われています。そのなかで、リルケは「目に見えない心の内部の空間に」神殿を築くべきだと言っているように思われます。

求愛ではもはやない 求愛ではなくて 抑えきれずに湧き出た声こそ
お前の叫びの本性であれ
・・・・・
この世にあることはすばらしい おとめたちよ 見たところ貧困のうちにあって
沈んでいったお前たち 都会のみじめな裏町で
膿を病んだり 淪落に身をゆだねたお前たちにも それはよく分かっていたのだ
・・・・・
    思ってはならない 私が求愛めていると
天使よ たとえおんみを求愛めても おんみは来はしないのだ なぜなら
私の呼びかけはいつも移行にみちているからだ このような強烈な
流れに逆らって歩みよることはおんみはできはしない・・・・・

1107山本 皓造:2014/12/22(月) 13:48:24
高安国世さんの本――リルケ読書その後(5)
 岩波文庫で、リルケ『ロダン』を読みました。訳者は高安国世さんです。
 前々回の投稿でほんの少し、「表面」ということを云ったのですが、「表面」や「顔」に関する言及が、かなり頻繁に出て来ます。いくつか心に留まった個所を引きます。

“私たちにできることと言っては結局、或る特別の方法で閉じられた、どの部分も偶然ではない一つの表面(Oberfläche)、自然物の表面と同じように大気に包まれ、かげらされ、照らされている一つの表面、ただこういう表面を作り出すことよりほかにはありません。”
 このように云われると私には、「表面」といってもそれは決してペッタンコの平面ではなく、何か、内部の力のようなものが押し出して来て、その力が外界と交わったところに生成される次元、というふうな感を抱かせられます。高安さんも次のようなロダンの後年の言葉を紹介しています。“面(Plans)とは量である”、また“その排除している空間だ”と。

 バルザックの顔について。 “……顔がある。観ている顔、観る酩酊陶酔の中にある顔、創造に泡立ちたぎっている顔、これこそ元素の持つ顔であった。” この顔は決して剥されることはないでしょう。
 後期の婦人像について。 “その微笑がどこにも固定されず、ヴェールのようにふんわりと顔の上に漂っているので、息するたびに持ちあがるかと思われる顔がある。” この顔の下は決して「のっぺらぼう」ではないでしょう。(婦人像は die späteren Frauenbildnisse と複数で書かれているので、どれか一つと特定したものではないのでしょうが、リルケの描写はあまりにも美しい。)
 素描について。 “一つの無の中に、一つのすばやい輪郭の中に、息もつかず自然から奪いとった一つの輪郭、あまりに繊細であまりに貴重であったために自然がみずからぬいで置いたかと思われる輪郭のそのまた輪郭の中に含まれているのです。……ここには何ら意図して表現せられたもの、意味を持たせられたものはなく、一つの名の痕跡すらもありません。” この表現も美しい。そして、“主題的なものは制作のあいだにしだいしだいに即物的になり、名を持たぬものへと移って行くのである。” ここに「即物的」と「名」という問題が出て来ます。

 文庫本巻末の訳者後記によるとリルケ『ロダン』は、1907年の第一、第二部を合わせた版があるが今は入手不可能、1913年インゼル版が見られるとのこと。これは戦後版もある由。今はウエブサイトから原文をダウンロードすることもでき、私が見たものは
 Projekt Gutenberg EBooks の Auguste Rodin mit 96 Vollbildern, Insel Verlag 1920
です。文庫版では省かれている図版が96点すべてこの EBook では見られるのも嬉しい(HTML版とEPUB版がある)。URL は
 http://www.gutenberg.org/ebooks/45579

 高安国世さんの『リルケと日本人』(第三文明社レグルス文庫、1972年)という著書を、やはり同じ頃にたまたま書店でみつけて、買って読みました。高安さんは歌人でもあります。その実作者としての、短いのですが、重たい実感のこもった心情の吐露を、引いておきます。“私が自分一個の苦しい生活の嘆きの歌から、直接の「私」性よりむしろ現代一般の人間の持つ苦しさの客観的表現を求めていったとき、そういうリルケの『新詩集』の理念や方法が、どれだけ私を力づけ裨益したかははかりしれない。 ”高安さんもやはり「私を超ゆる言葉はないか」と悶えておられたのでしょうか。
 高安さんは、弥生書房版リルケ全集(2)所収『新詩集』の訳者でもあります。また、講談社文庫で『マルテの手記』も出されたようなのですが、これは未見です。

 Morgen さん。
 「若い労働者の手紙」の紹介ありがとうございます。
 私の持っている弥生書房版全集はバラ買いで、該当巻がありません。以文社版『リルケ全集7 散文?』に収載。田口義弘訳。いっぱい傍線や書き込みがあって、たしかに読んでいるのですが、記憶には何も残っていません。「悲歌」「オルフォイス」は、いずれそこへ行きつくべき、私の「勉強」目標ですが、さて、来年のいつ頃になりますか。伊東は「リルケ」「リルケ」と云い暮らした時期がありましたが、「悲歌」「オルフォイス」は、深く読み込んでいたのだろうか。――いつか答えなければならない問題です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001242.jpg

1108山本 皓造:2014/12/26(金) 11:43:19
『リルケ年譜』――リルケ読書その後(6)
 "Rilke-Chronik" という本を買いました。
 理由は、いくつか。
 ? ホルトゥーゼン『リルケ』巻末の「文献」に、次のような紹介があったこと。
    なお一冊だけ研究者にとって欠くべからざる文献を挙げておこう。研究上たいへん便利な文献である。
     Ingeborg Schnack: Rilke-Chronik in zwei Bänden, Insel-Verlag 1975.
 ? もともと私が、年譜というものが好きな男であること。
 ? その物量(1251ページ)と内容のわりに安価なこと(本体諸掛共で4011円)。
 まあ、云ってみれば「本能的に買ってしまった」(!)のですね。(なお、私が入手したのは、2009年の、もと2巻本であったものを併せた、増補改訂版です。)

 いうまでもなく、私にはこの本はとても使いこなせません。第一、研究者ではないし、要するに「ウレシガリ」であり「モノズキ」(両義に解されたし)にすぎません。しかしそれではお話にならないので、ごく一部でも紹介してみたい。
 ためしに、たとえば1922年2月のあたりはどうか。いうまでもなく、「悲歌」「オルフォイス」が、噴火のごとく、嵐のごとく、奔流のごとく、一挙に達成された時期です。2月2日〜23日の20日あまり、記述は10ページ余にわたります。
 これを全部訳せば、即席の「悲歌・オルフォイス成立史」が出来上がるわけですが、「そういうものではない」と、本書の著作者 Schnack は「本書の読者へ」で、釘を刺します。「この Chronik はリルケの伝記ではありません。ここに記されている諸々の事実、体験、経験、見解、判断等から伝記的な統一像を形成する仕事は、読者みずからが行わなければなりません。…」
 とはいえ、一度はこの10数ページを訳出しておきたい気持ちは残ります。でもそれは分量からいっても、掲示板投稿にはむかないだろう……。(なお、記事の半ば以上は書簡の引用です。)
 考えていて、ふと、カフカの名が思い浮かびました。カフカ 1883〜1924、リルケ 1875〜1927。カフカのほうがリルケより少し遅く生まれ、少し早く死に、いわば時間的にはリルケにすっぽり抱かれるような形で生きたわけです。ふたりともプラハの生まれです。両者はお互いのことを知っていたのか、会ったことがあるのか、文学的・思想的影響関係はどのようであるのか――そこまでは行かずとも、何が書いてあるか、まず人名索引を見ると、次のような記載がありました。

 Kafka, Franz (1883--1924), Dichter aus Prag;
   ≫Die Verwandlung≪,
   ≫Das Urteil≪ ( ≫Der jüngste Tag≪ 22/23 und 34 )
   ≫Ein Hungerkünstler. Vier Geschichten≪ 1924
  の3点をリルケは所蔵していた。
  480, 541, 768, 962

 4個所ぐらいなら、そんなに大きな仕事にはならないだろう。――以下、この4個所を見て行くことにします。(以降、次回へ)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001243.jpg

1109Morgen:2014/12/26(金) 15:45:34
良いお年をお迎え下さい。
 今年もあと5日を残すのみとなり、今夜は「納会」で帰宅時間は不明です。
 山本様が仰るとおり「リルケ年譜の1922年2月2日〜23日の20日あまり」は非常に興味のそそられるところであります。私は、不勉強で「実存主義」やカフカについて深くは理解してはいないのですが、実存主義の立場から二人の文学世界を較べてみることは、(塚越敏「カフカが挫折を重ねて生涯を終わったのに対して、リルケの方は実存の問題を突破して存在の道を切り拓いた」わけを解明する)重要な論点なのだろうと思います。「北欧神話」や『ニーベルンゲンの歌』など、読みたい本があるのですが、年末年始は家族小旅行に出ますので先延ばしとなります。
 皆様良いお年をお迎え下さい。

1110山本 皓造:2014/12/29(月) 12:04:33
『リルケ年譜』から「リルケとカフカ」――リルケ読書その後(7)
S.480
1914.10.16 [München]
……当時リルケがすでに Hölderlin、Werfel、Trakl、Kafka を読んでいたことを、Lulu Albert-Lazard が記憶している。

――――――

S.541-542
1916.11.10 [München]
 第5回「新しい文学の夕べ」の席上でカフカが彼の散文作品“In der Strafkolonie”『流刑地にて』を朗読、聴衆のなかに、リルケとその友人 Max Pulver がいた。「カフカは、まるで影のようで、毛髪は濃い茶色、顔色は蒼ざめて」朗読卓のところに坐っていた。彼の言葉は「底知れぬ苦悩に満ちた氷の針となって」聴衆の心に食い込んだ(Max Pulver, “Erinnerungen an eine europäische Zeit”)。カフカは1916.12.7. 付のフェリーツェ・バウアー宛の手紙で、次のように記している。「あなたは朗読会についての批評のことを尋ねていますが、ぼくはあれからただ一つ、《ミュンヘン=アウクスブルク新聞》 の批評を入手しただけです。それはまあ最初の批評より好意的ですが、根本的には最初のそれと一致しているので、より好意的な感情が、朗読全体の実際壮大な失敗をさらに一層強めています。……ところでぼくはプラハでさらにまたリルケの言葉を思い出しました。『火夫』についての大変好意ある言葉の後に、『変身』でも『流刑地にて』でも『火夫』のような緊密なまとまりには達していないと言っています。この言葉はすぐには分かりにくいのですが、明敏です」。*

 *[投稿者註]『カフカ全集』の「フェリーツェへの手紙」の巻の編者であるエーリヒ・ヘラーとユルゲン・ボルンはこの個所に次のような注釈を加えました。
「リルケとカフカはおそらくお互いに会ったことはない。カフカが自分の仕事に対するリルケの判断を知ったのはおそらくオイゲン・モーントを通じてである。リルケがどうして当時まだ未公刊の小説『流刑地にて』を知ったのか、確かめられない。あるいは原稿で読んだのかもしれない――それは九月三〇日にはもうミュンヘンに到着していた――そしてオイゲン・モーントとそれについて話したのかもしれない[出典記載略―投稿者]。――一九二二年二月一七日のクルト・ヴォルフ宛てリルケの手紙は、彼がカフカの創作に向けていた注意を証明している。「……どうかフランツ・カフカから生まれるすべてのものを、いつも全く特別に、ぼくのため書きとめておいてください。ぼくは彼の最悪の読者ではないと断言できます[出典記載略―投稿者]。ルー・アルベール・ラサールは、リルケが彼女にカフカの『変身』を朗読したことを報告している[出典記載略―投稿者]。」

 ところがこの注釈には大きな問題があるとして、詳細な考証を加えた人がいます。河中正彦さんという、山口大学の方(故人)で、ここではとても紹介しきれませんが、もっとも簡略に云うと、
 1.編者が原稿の到着を「九月三〇日」としたのは単純なミスで、正しくは一〇月三〇日であった。検閲を考慮すれば、原稿が検閲から戻ってきてそれをリルケが読む時間的な余裕はきわめて狭い。
 2.朗読会およびその日の夜の懇親会への出席者名は記録されているが、リルケの名前は両方ともに見いだせないので、もし二人が会ったとすればその後ということになる。いずれにせよ、現状では確証がない。
 こうして河中教授は、「リルケとカフカは出会ったか?」という論文を3篇続けて、大学の紀要に発表されたのです。私はウエブをうろうろしていて、偶然そのお名前と論文の所在を知りました。参考までにその所在を記しておきます(この稿の末尾に)。
 なお河中氏の論文によると、Rilke-Chronik の初版では「フェリーツェへの手紙」の編者の註(「会ったことがない」)に同意しているらしいのですが、初版を見る便宜がなく、はっきりしたことはわかりません。他方改訂版では unter den Zuhöreren sind R. und der mit ihm befreundete Max Pulver とあり、上に訳出したように、たしかに「会場にいた」と読めます。

――――――――

S.768
1922.2.17. [Muzot]
 書物を送ってもらったことにつき、Kurt Wolff に礼状を書く。「ただカフカの本だけはもう昨夜、他の仕事の途中で先に取り上げました。私はこの作家のものを一行たりとも、最も風変わりなものに到るまで私に関係のあるものか、私を瞠目させるものと思わずに読んだことはありません。あなたが親切にも私に知らせて下さったからには、私は望んでもよいでしょうから、どうかフランツ・カフカのものであなたの所から出版されるものすべてに対してつねに私の予約を受けつけておいて下さい。そう請け合ってよいなら、私は彼の最悪の読者ではありません」。クルト・ヴォルフがリルケに送ったのは、カフカの『田舎医者 短編集』“Ein Landarzt. Kleine Erzählungen”(1919)である。リルケの遺品の中に、『判決』と『変身』(「最後の審判」叢書、1916 および 1915)があった。

――――――――

S.961-962
1925.11.12. [Muzot]
 この日リルケは Wunderly 夫人に手紙を書き、その手紙の余白に、夫人から返された書物について問い合わせた。「そしてあなたはカフカをまだ高く買ってはおられないのではないかと推察します。彼にはなにか、未使用品、新品、とでもいうような所があって、とても新鮮です。私は彼の短編の一つを読みました。非凡なものです。この人はあの世でどう扱われているのでしょう?彼はあっという間にこの仮初めの永遠(=この世)を駆けぬけて、天使たちを余りにもなじみ深い特徴で驚かせているに違いありません。この傑出した文学者はきっと文学を厭い切っていたのでしょうが、卑俗で些細なできごとのどの一つからでも、眼にみえぬものの一半をしぼりとる技術を知っていたのです。下らない卑しいものを採り上げて、それでもって彼は空間を造りだします。天空と同じくらい空虚であるとともに、活気を吹き込む空間をです。これを見るやいなや、もうそれを呼吸することになるのです」。ここで云われているのはカフカの『飢餓芸人』“Ein Hungerkünstler. Vier Geschichten”Berlin, 1924 である。カフカは1924.6.3. ウィーン郊外のサナトリウムで死亡した。

――――――――

 下記のリンクをクリックすると、河中正彦氏の当該論文の詳細データを記載した「山口大学学術機関レポジトリ」のページが開きますので、最上段の「フルテキストURL」をクリックしてください。

リルケとカフカ(I)序説-リルケとカフカは出会ったか?(前篇)
リルケとカフカ(II)序説-リルケとカフカは出会ったか?(中篇)
リルケとカフカ(III)序説-リルケとカフカは出会ったか?(後篇-I)

 河中正彦氏は『カフカと二〇世紀ドイツ文学』(同学舎、1999年)にも「カフカとリルケ――沈黙の詩学」という論文を寄せ、そのなかでもこの問題の最新の情報と見解を述べておられます。
?

1111Morgen:2015/01/06(火) 00:01:23
明けましておめでとうございます。
新年明けましておめでとうございます。
 皆様お元気で正月をお過ごしになられたでしょうか。私は今日5日から初出、若い社員の皆様の明るい顔や声に囲まれて(わが歳を忘れ)、例年に変わりなく新しい年の橇に乗って滑り出したような気分がします。
 幸い今年の正月3日間は好天に恵まれました。澄み切った冬空にそびえる富士山のように、すがすがしい気分を保って一年を頑張り通したいものです。(写真は三保の松原から撮った富士山です)
 どうぞ、穏やかな心で、健やかな一年をお過ごしくださいますように。
 

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001246.jpg

1112山本 皓造:2015/01/07(水) 13:35:27
須賀敦子さん、ふたたび
 皆様あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いいたします。

 前に庄野潤三さんと須賀敦子さんのことを書いて投稿したことがきっかけで、その後また須賀さんの、未読のものや未購入のものを何冊か、読むことになりました。その中から心に残った部分をいくつか抜き出して記してみます。

■『文芸別冊 須賀敦子ふたたび』(河出書房新社)

“基本的には須賀さんは行為者です。……彼女にとって書くということは、特に晩年は体を動かすということなんです。……書くというのは肉体労働です。” (若松英輔「宗教の彼方へ――須賀敦子の霊性と文学」)

“震災が起きて、家はほとんど崩れなかったんだけど、そのときしばらく本を読まなかった。だけど、その中で読んだ少ない本の中で、感動したのはアランの『幸福論』と、もう一つは須賀さんの関係で読んでいた、庄野潤三さんの『夕べの雲』だったんですよ。” (松山巌「多面体としての須賀敦子」)

“ユルスナールが、フロベールの書簡に見つけて感動したという一節、「神々はもはや無く、キリストは未だ出現せず、人間がひとりで立っていた、またとない時間が、キケロからマルクス・アウレリウスまで、存在した。」” (蜂飼耳「『ユルスナールの靴』は歩く」)
フロベールはこの時代を「乏しい時代」とは云わず、逆に力をこめて「またとない時間」、稀有の時間と云っているのです。これを書いたフロベール、それを引用したユルスナール、それを心にとめた須賀敦子、さらにそれを心にとめた、詩人の蜂飼耳さん。この人々。

■『須賀敦子が歩いた道』(新潮とんぼの本)

“よく、自分は何語で死ぬんだろうと思うのです。”(須賀)

■須賀敦子『霧のむこうに住みたい』(河出文庫)

[マルグリット・デュラスについて]
“硬質の抒情性とでもいうのか”
伊東静雄のほかに“硬質の抒情”と呼ばれる詩人がいた。

[ナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』]
“エゴン・シーレの絵を使った瀟洒なポスター……おなじ絵を表紙にしたエイナウディのその本……”
エゴン・シーレの表紙という、このイタリア語の原本がほしい(読めなくとも)。

“こまかい雨が吹きつける峠をあとにして、私たちはもういちど、バスにむかって山を駆け降りた。ふりかえると、霧の流れるむこうに石造りの小屋がぽつんと残されている。自分が死んだとき、こんな景色のなかにひとり立ってるかもしれない。ふと、そんな気がした。そこで待っていると、だれかが迎えに来てくれる。”
この世界は、das Offene ではないか。

1113Morgen:2015/01/11(日) 21:34:00
庄野潤三『メジロの来る庭』
 庄野潤三さんの『メジロの来る庭』という本(平成16年4月10日刊 文芸春秋)の冒頭に、次のような文章があります。

 メジロ(1月26日)
 午後、書斎のソファーによこになっていたら、珍しくメジロ一羽、山もみじの下の水盤に来て、水浴びする。水盤に飛び込み、水浴びして、水盤のふちに上がる。すぐにまた水にとび込み、水浴びして水盤のふちに上がる。
 六回まで繰返したところへ別のメジロ一羽来て、これも水浴びを始めたので、ややこしくなる。にぎやか。

 今年も、大阪の十三近くの下町にある我が家の狭い庭の山柿の盆栽(赤い実が4個残っている)に、1つがいのメジロが来てしきりに柿の実をつついています。水盤に水を入れて根元においてやりました。よほどお腹が空いていたのか、夕方うす暗くなるまで遊んでいました。明日からは、ほかのメジロも、入れ代わり立ち代わり来てくれるでしょう。盆栽の山柿の実はすぐなくなるので、熟し過ぎた柿を、明日近所の果物屋でわけて頂いて与えることにします。

(写真を撮ってメジロを脅かしてはいけませんので、正月に伊豆で撮ってきた「怪鳥」の写真を載せます。)

 

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001248.jpg

1114山本 皓造:2015/01/16(金) 11:25:01
もう一度、庄野さんと須賀さん
 アマゾンに注文してあった『文芸別冊須賀敦子』が届きました。前にも同名の『別冊』を挙げたのですが(1月7日投稿)、「文芸」は前後2回、須賀さんの特集で別冊を出しているので、くわしく記すと、
  ?KAWADE夢ムック 文芸別冊 追悼特集 須賀敦子 霧のむこうに、1998年11月初版発行
  ?KAWADE夢ムック 文芸別冊 須賀敦子ふたたび、2014年8月初版発行
 今回入手したのはその?で、須賀さんが1998年3月に亡くなり、その年の秋に出された追悼特集、ということになります。
 で、その中に、庄野潤三さんの「『夕べの雲』のご縁」という文章が寄せられていたのです。おそらくこの特集のために書き下ろされたものかと思います。その要点だけを書き抜いてみます。

「夕べの雲」は、昭和三十九年に日本経済新聞に連載して、翌四十年、講談社から出版された本であった。私はイタリア語訳のことをいつどのようにして知ったのだろう? よく覚えていない。多分、或る日、いま私の本棚にある「ヌボーレ・ディ・セラ」の訳者である敦子さんの手紙を添えて、生田の山の上の私のもとに届いたのではなかったか。……今度、この稿を書くに当って、「文芸」編集部から、日本文学のイタリア訳の仕事について須賀敦子さんが「ゆうべの雲」を連載した日本経済新聞に書いた文章(昭和43・2・24)の切抜コピーを送って頂いた。大体、私の記憶の通りであった。

 庄野さんは、須賀さんのイタリア語訳本が届けられたいきさつを「よく覚えていない」と云い、手紙を添えて郵送されて来たように書いていますが、前回紹介した松山巌さんの本によれば、帰国した須賀さんが本を持って直接生田の庄野さん宅を訪れた、とのことでした*。これが一度目です。

……日本へ帰ってから、「夕べの雲」の舞台である多摩丘陵の一つの丘の上の私の家を訪ねて下さった。気さくな、おだやかな方であった。二度目に訪ねて下さったときは、東京のイタリア文化会館の館長のリオさんと一緒で、その日、お母さんのお家の庭から掘って来たというブナの小さな木をさげて来て……

 二度目のときのこのブナの木は、庄野さんがこの文章を書いているときにも目の前の庭で大きく育っていたのですから、記憶もたしかなのでしょう。
 それにしても、あの「仕事部屋」で、静かに対座して、二人はどんなことを語りあったのでしょうか。庄野さんは、話の内容については何も書いていません。須賀さんも書いていません。それだけに、「気さくな、おだやかな方であった」という、庄野さんのやわらかな受けとめ方がいっそう、印象に残ります。でも、もうお二人とも亡くなられて、今は過去を呼び戻すよすがもなくなってしまいました。

* 昨年11月24日の投稿で書いたように、イタリア語訳“Nuvole di Sera”の刊行が1966年12月。そして松山巌さんの推測によると、須賀さんがこの訳本をもって庄野邸を訪れたのが1967年秋。これは松山さんが直接聞いた、庄野夫人千寿子さんの談にも拠っているようです。しかし、この1年近くの長い空白が、私には気になります。加えて、訳書出版の時にはまだ須賀さんには帰国の予定はなかったのです。ですから、もしかして松山さんの推測に問題があり、事実は庄野さんの云うように、訳本は刊行後間を置かずに日本へ郵送されたのではなかったか、という疑問が、私には残ります。
?

1115Morgen:2015/01/19(月) 15:58:03
山本哲也『詩が、追いこされていく』
昼食で外出したついでに古本屋に立ち寄り、山本哲也『詩が、追いこされていく』(西日本新聞社 1996/11)という本を買ってきました。(長崎では周知の本かもしれませんが…)
私の方は、目先の仕事が立て込んでいるので、趣味的な本をじっくりと読む暇はないと思いながらも、事務机の端において時折ぺらぺらとページをめくって眺めています。その中で次のような文章が目に付きましたので紹介します。

<P90〜91>
・三浦一衛遺稿詩集『流れ星』(1989.10)の冒頭句
<ああ、照らすとてよしもなき自らの光よ。・・・>(昭和19年)・・・・・

・伊東静雄<ああわれら自ら弧寂なる発光体なり>の詩質に近いものがある。孤立した意識の暗黒部にむけられた狂い立つような思いは、内部に向けられると同時に、世界にむけて噴きだしている。それは昭和10年代という時代が生んだ絶唱なのだろうか。

<P100>
いま、抒情詩はどのように可能なのか。・・・・・
昭和10年代の伊東静雄の『わが人に与ふる哀歌』が、抒情という行為にどこまでも禁欲的であろうとすることによって、はじめて抒情詩が可能となった例を、ここに持ち出してくることもできるだろう。おそらく、抒情詩なんて不可能だという意識の屈折の果てに、逆説的に生み出されてきたのが、この国の抒情詩の系譜だった。・・・・・

『詩が、追いこされていく』というこの本のタイトルの意味は、「詩がどのような場所にあって、時代のどういう場所から言葉が発せられているのか」にかかわっている。・・・
「河」(諫早市)75号の上村肇「浦上四番崩れ」、・・・・・といった作品は、時代や社会の青春がそのまま彼ら自身の青春と重なっていた時期からの長い時間が、表現の背後に折りたたまれているのだ。老いを詩の内容とする作業は、はじまったばかりである。(P38)

以上、同書からの抜粋ですが、なかなか含蓄の深い文章です。しかし、同書が刊行されてから既に約20年という時間が経過しています。
 それは「阪神大震災から20年」という「物理的時間」とほぼ同じでありますが、阪神大震災以降の諸々の出来事は、私の心の中ではつい先ごろことのようでもあります。わが「人間的時間(脳内時間)」は、「物理的時間」にはるかに“追いこされ”っぱなしになってしまっているのです。

「お前は何をしてきたのか」と中也風につぶやいてみても、どこからも憐れみの言葉ひとつすら返ってはきません。私には、「老いを詩の内容とする」という高踏的な生き方は難しそうだし、今から新事業に挑戦するわけにもいかないので、最低限自分なりの天命を全うすることを目指して、“生活者”または健康老人としてささやかに生きていければよいと思っています。

皆様は、どうぞ「老いを詩の内容とする」べく、寒風を「追風」にかえてご活躍下さい。

1116龍田豊秋:2015/01/20(火) 09:34:24
ご報告
世界中でテロが相次ぎます。
神が間違って創造したと思われる人類の未来には果たして何があるのでしょうか。

1月17日午後2時から,諫早図書館2階集会室に於いて第86回例会を開催しました。
出席者は6名。

12月6日に開催した「第9回菜の花フォーラム」を収録したDVDを作成しました。
観賞ご希望の方はご連絡下さい。

会報は第80号。
内容は次のとおり。

1 「百千の」 詩碑について??    ??????????????        山本 皓造

????所在は,阿倍野区松虫通2丁目のポケットパーク内。
????撰は杉山平一さん。字は,書家の坂本二豊さん。
????庄野潤三さんも,この詩が大変にお好きであったとのこと。

2 第25回伊東静雄賞 奨励賞二篇

????詩「しのたまご」????????????????????????????????????   ???? 八重樫 克羅

????詩「水の位置」                        いわたとしこ

3 詩「くりかえし」??????????????????????????????????????????????伊勢山 峻
??????????????????????????????伊勢山峻詩集「稲燃え盛る」所収

4 「学生の頃の伊東静雄」????????????????????????????????????????大我 勝躬

????伊東静雄と大村中学校で初めて出会った大我さんの思い出話です。
????佐賀高,京大時代も2人は交誼を結びました。

5 第9回 伊東静雄生誕「菜の花フォーラム」に参加して      高塚 かず子

  高塚さんが,フォーラムについての感想文を寄せて下さいました。

????詩は,精神の光源であると述べられています。
????「自らの闇や世界の闇をも鋭く照射する,詩によってしか喚起されない純粋な光。
    たとえば,伊東静雄という詩人の作品は,生死や時の流れを超えて,読者の心のなかで
    光を発しています。」
                                     以上

2月の例会は,28日午後2時から,諫早図書館2階のボランティア室にて開催します。

1117山本 皓造:2015/01/21(水) 18:15:09
キッペンベルク『リルケ』
 伊東静雄研究会の龍田豊秋様、いつも「報告」を楽しく拝見しています。確実に毎月、あのように充実した研究会を継続しておられる、会の皆様の熱意に頭が下がります。今回は思いがけず、松虫通の静雄詩碑についての拙文を使っていただいて、自分でも、あれはいつ、どこに書いたのだったか、もう記憶も定かでなくなっていましたのに、嬉しいことでした。お礼を申します。いま、詩碑はどうなっているでしょうか。
 Morgenさんの、勤勉な?古書店巡りには感心させられます。昔は道頓堀や日本橋や桜橋や阪急古書の街や阿倍野筋や、あゝ、もと大阪球場に古書店が集まっていた一時期がありました。そんなことを覚えている人がまだいるでしょうか。
 山本哲也さんの本は、引き締まった文体で濃い中味がギッシリ書き込まれていそうな、魅力的な本のような気がしますね。年をとって(お互いに!)なおかつ、知らない、優れた書き手に出会えるという喜び。自分にはまだそのような出会いの力が残っているという喜びです。
 さて。

 カタリナ・キッペンベルク『リルケ』という本を手に入れました。訳者は、芳賀檀(!)、昭和26年7月人文書院刊。ただし訳本には、その原本の標題や刊行年等の書誌事項がありません。それで少し調べて、おそらく
  Katharina Kippenberg, Rainer Maria Rilke. Ein Beitrag. Leibzig, Insel Verlag 1935
というのがそれではないかと見当をつけました*。この本は何度か版を重ねているようなので、訳者が手にしたのが第何版か、まではわかりません。
  * Wikipediaの「芳賀檀」のページ、翻訳の項に『リルケ』アントン・キッペンベルク人文書院 1951 とあるのはあきらかに、カタリナ・キッペンベルクの誤りです。

 カタリナ・キッペンベルク(1876―1947)はご承知のように、インゼル書店の店主Anton Kippenberg夫人で、また同書店の協同経営者でもあり、リルケに限らず若い詩人たちをよく世話した、その温かい人柄でも知られています。カタリナは1876年6月生まれで、1875年12月生まれのリルケのわずか半歳年下、しかし貫禄では実際には「お姉様」のような感じで、若き詩人たちは接したのではないでしょうか。
 リルケは1910年のはじめにライプツィヒのキッペンベルク邸で『マルテの手記』を仕上げました。

 1910年の1月、リルケは鞄の中に詰めた「マルテ・ラウリッヅ・ブリッゲ」の原稿を下げてライプツィッヒにやって来ました。私達の家で、その原稿を口述して印刷用の原稿をつくらせるためでありました。その仕事はいつも「塔の部屋」と呼ばれていた公園の樹の梢の上を見はるかす閑静な小さな部屋の中で進められて行きました。その部屋は又気持よく古い家具などで飾られていました。彼は又そこで、いろいろ美しい抽斗や箱などのついた桜材で造った古代の書斎机を使っていました。リルケはひどくその机を気に入っていたのです。私達はその机を「マルテ・ラウリッヅの机」と呼びならすようになりました。

 カタリナはこのあと、家族というものについて、家の子供たちについて、ルー・ザロメ夫人のこと、ロシアのこと、カルクロイドに与えたレクイエムのこと、などを、かしこい小母さんが低声で途切れなく話し続けるように、縷々語ったあと、リルケがジードの『マルテ』の仏訳に感激したエピソードにふれます。

……リルケが、N・R・F(Nouvelle Revue Française)を贈られたが、そこには、アンドレ・ジッドによって、翻訳された「マルテ・ラウリッヅ」の一部がのっているのでした。すると彼はすぐあのインゲボルクが「私はもう生きていたくありません」と言っている所を探し出すのでした。そして、その言葉は「私は満足して死にます」(“J’ai mon content”)と訳されてあるのを見つけ出すと、眼に涙を浮べ乍らこう言うのでした、「何と美しい訳だらう、ああ、何て美しい翻訳だらう!」

 これは『マルテ』第28節の、死んだインゲボルクについての母の思い出のところです。“J’ai mon content”は、原文では“Ich mag nicht mehr.”(全集?:787)、大山訳は90ページ「もうこのままでいいわ」、望月訳は88ページ「わたしもう生きていたくないんですもの」。
 この『マルテ』のジードによる仏訳に関して、ちょっとペダンチックに!例のRilke-Chronikから補足しておきます。

6. SEPT. 1910: リルケはアンドレ・ジードに『マルテの手記』を送り、……(後略)
MAI 1911: アンドレ・ジードは Mme Maryrisch de Saint-Hubert との共同作業によって『マルテの手記』から2つの章を翻訳した。これは7月1日のN.R.F. に掲載された。“彼女はインゲボルクの話になるや否や……”(28. Abschnitt)。
1. JULI 1911: アンドレ・ジードによって翻訳された『マルテの手記』の断章のうちの2つが、Aline de St. Hubert の「まえがき」をつけて、N.R.F. 誌に掲載刊行された。
6. JULI 1911: リルケは7月1日N.R.F. 所載の『マルテ』の翻訳につき、ジードに礼状を書く。
[このあと書簡引用。フランス語。未訳。書簡集に載っているか?]

 後年、彼女はミュゾットにリルケを見舞います。

「そっとしておいて下さい」彼は今人生に向ってこう呼びかけるかの様にも思われました。「私はもう満足しています。“J’ai mon content.” もうたくさんなのです」

 入念に読み込んで、興味深いエピソード、カタリナの述べる感想、解釈、作品論、リルケ的観念の評価、など、いずれこの欄で紹介できればと思います。

1118Morgen:2015/01/23(金) 00:37:20
激動の年となるのかどうか?
こんばんは。
 山本様。キッペンベルク『リルケ』のご紹介ありがとうございます。
 リルケとカフカはチェコ人でありながら当時のフランスで人気を二分していたと書かれています。特に、リルケは方々で詩の朗読会を開催し(とても感動的に自詩の朗読をしたそうで)、当時の貴婦人方がそれに魅了され、スポンサーになったとも言われています。

 私は、大体毎日、昼休みに船場センター街の地下2階の食堂街でランチを摂り、1階の「天牛」古書店に立ち寄っていますが、実際はネットで探して買う方が多いですね。

 先程からECB(欧州中央銀行)ドラギ総裁が、「向こう約1年半の間に、日本円で100兆円規模の国債買い取りをする。」と発表したという報道がなされています。今年は、ナショナリズム勢力の台頭によって、イギリス(5月7日総選挙)をはじめEUやロシアが世界を激動させる台風の目になりそうな気がします。
 やっとデフレ脱出口に来た日本ではありますが、経済だけを考えて視野狭窄症に陥ることのないように願いたいものです。

 今夜は大阪の某所で経済の勉強会に参加してきましたが、約1時間半の講義に使用されたパワーポイントによるグラフや図表が85枚という高密度情報であり、私は、講師(37歳)のハイビートな説明についていくのが大変でした。50〜60歳代の方も大勢参加され熱心に聴講されていました。刻々と世界情勢が動き、時代が移り変わっているのを実感します。「マダマダクタバランゾ!」と、歯を食いしばって小走りながらついて行くしかありません。

 明日も夕方まで会議が連続していますが、その合間をぬって古本屋をのぞいて息抜きをしたいと思います。ではまた。
 

1119山本 皓造:2015/01/26(月) 10:11:23
第一次世界大戦勃発前後――キッペンベルク『リルケ』続
 1914年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦がはじまりました。この頃リルケは、キッペンベルク邸に滞在していました。およそ10日間、カタリナは、リルケと起居を共にしていたので、その叙述はきわめて生き生きとして、リルケの姿が目のあたりに見えるようです。当時の有様を抜書きしてみました(カタリナ・キッペンベルク『リルケ』 p.165-171)。

 7月19日、リルケはパリを発ってゲッチンゲンのルー・アンドレアス・ザロメ家に赴く。
 7月23日、L.A.ザロメのもとを去って、ライプチヒに赴く。キッペンベルク家に8月1日まで滞在。

私たちのお客であるリルケが到着したとき、私たちは驚かざるをえなかった。リルケはまっ蒼な顔をしていました。頬がげっそりこけ、眼と眼の間にはこれ迄見なかった八の字が寄せられていました。彼はいろいろ苦痛を訴えるのでした。それはこの時代に書かれた彼の手紙ににも書かれている苦痛です。

 しかし大戦勃発の直前に、キッペンベルク家やそこに集う人々は、すばらしい夜を持った。

さて、あの忘れ難い夜が来ました。次第に途方もないものに燃え上ってきた国民の政治的な興奮に慄え乍ら、リルケはその夜彼の「ドイノの悲歌」の最初の二つの悲歌を読んでくれたのでした。それはあの「塔の室」での事で、夜もずっと更けていました。カーテンは閉じられていて、蝋燭の灯はやわらかい光を投げかけ、あちらにもこちらにも薔薇の花が蝋燭の光を受けて輝いていました。そのとき私たちが聞いた詩は、曾て私たちが耳にした事のない、未曽有のものであり、又理解を絶したものでありました。その音調は光芒一閃焦熱の剣を以つて空間を裂くかと思われました。この時の印象は、今にも爆発するかと思われるほど切迫した外界の只ならぬ空気に煽られて、黙示録の中の騎士の姿に変ってくるかと思われました。……読み終わったとき、人々は、ひどい肉体的労働でもしたかの様に体のすみずみまでぐったり疲れ切っていました。/次の日であったら、もう詩の朗読は不可能であったに違いありません。災怏はオーストリアから爆発しました。ライプチッヒに在住の兵役義務のあるオーストリア人は帝国へ召喚されました。

 戦争が始まっても、リルケは「落ち着いて」いたという。政治にかけては「彼はまるでく小児」であった、とカタリナは吐息をついている。

 戦争の気配はいよいよ切迫し、次第に昂ぶったものになってきました。皇帝は急いでベルリンに帰ってくるし、その他の王侯らは、それぞれの領地の主都に向って急行しました。そのとき、ロシアの動員の報が、電雷の様に私たちの頭上にはためき下ったのでした。良人がその報知をもって市からとび込んで来て、居間の中にころがる様にして入ってきました。丁度、リルケと私とはお茶を喫んでいる所でした。私は見る見る私自身顔色が蒼ざめてゆくのがわかる様な気がしました。リルケはしかし、実際そういう人だったのですが、政治のことにかけてはここでもまるで小児であることがわかりました。相変わらず、落ちつき払っていて、ただ、「それはただそういう戦争の格好をしてみせるだけですよ」などと言っているのです。

 いくら「まるで小児」であったとしても、戦争から免れることはできない。「もう「個人」などというものに取り合う余地はどこにも残されていなかったのです」

 8月1日、リルケはミュンヘンに向って発つ。そこでL.A.Saromeと落ち合うことになっていた。だが着いてみると、ザロメは同じその日に、急遽ゲッチンゲンへの帰途についていて、会うことができなかった。このすれ違いの事情は、ザロメ自身が記している。

 一九一四年七月、ふたたびリルケはゲッティンゲンに滞在した。私たちがいっしょに明るく過ごしたあのときのことを、私は思いだす。彼のあまりにも大きくなってゆく目も、そのようなときには細くなって、誰の心をも楽しくしてくれるような幼年時代にみちたユーモアが生まれてくるのであった。私たちは、朝もはやく白むまえに起きて、素足で露にぬれた草原をあちこちと歩いたが、それはヴォルフラーツハウゼンに滞在していたあの頃いらいの、私たちの共通の楽しみでもあった。その年の七月は、明るい暑い月であった。苺や薔薇があふれ、太陽がいっぱいだった。
 リルケがパリからやってきたという事情、それがおそらくは監禁されるという危険から彼を免れさせたのであろう。(パリにもっていた彼の所持品は、まもなく差しおさえられた。約十年ほどたってから、その一部ではあったが、彼は自分の持ち物をパリで取り戻したのである。)
 なぜなら、そのとき戦争が始まっていたからである。
 リルケはライプチヒの彼の出販社のもとへ旅をしていた。私はミュンヒェンに向かっていたが、ここで私たちはすぐにまたおち会うことになっていた。戦争が始まったとき、彼がライプチヒを発って、こちらへやってくることはもはやできないだろうと、私は思っていた。そこで私はやっと出た最後の列車に乗って帰ってきた。ところが彼も私のことでおなじようなことを考えて、急いだので、私たちは互いにすれ違いになってしまった。(ルー・アンドレアス・ザロメ『リルケ』 p.80-81)

 なお、パリに置いてあって戦争勃発のために没収されたリルケの持ち物は、のち、アンドレ・ジッドの努力によって1925年11月、ミュゾットのリルケのもとに返された旨、本書訳者の注記がある。

リルケは召集されて短い兵営生活をすると間もなく、もう始めから解り切っていた事ですが兵役に適せぬことがわかってきました。しかし一九一五年の十一月、K・Kのオーストリアの戦時文庫に動員されて働らいていました。併し、彼はここでも亦この仕事に不合格だったのです。これこそ真の天馬を軛につないだ様なもので、徒らにただ悲しく翼をはばたき、柵にぶつけて翼破るだけの話でした。彼はこの仕事の下に、言語に絶した苦痛をなめました。と言うのはその仕事は次第に戦争が残酷になってくるにつれて、毎日精紳的な近しい接触をする機会をもち込んできたものですから。そこで、私は「インゼル書房」の名に於いて請願書を書き、それには全ドイツの文化人の中の有名な指導的な人々の大多数が署名し、それを二通したため、K・Kのオーストリア陸軍省、及びK・Kのオーストリア国防省に提出しました。それによって詩人は戦時動員から除隊される事になりました。そして彼は一九一六年ミュンヘンに帰ってきたのでした。

 結局リルケは、戦争の期間をはさんで、まる10年以上、「仕事を」することができなかったのは、ご承知のとおりです。

 なおこの頃の余談として、ウィトゲンシュタインが父の遺産から10万クローネを相続し、これを、オーストリアの貧しい芸術家たちに贈ることを考えて、トラークルやリルケがその分与にあずかったこと(各2万クローネ)、そのトラークルの自殺、など、話題は尽きないのですが、何の掲示板かわからなくなりますので、このあたりで打ち切ります。(しかし小高根さんの『果樹園』が長々とトラークルを連載したのは、どういう意図だったのだろう?)

1120Morgen:2015/01/26(月) 11:22:09
ゲオルク トラークル G・Trakl
おはようございます。
 山本様と同じく、私もかって「小高根さんは『果樹園』で、“なぜ、トラークルを長期連載(103〜132号まで)したのか?”」という疑問を持ち、『トラークル詩集』(平井俊夫訳)とハイデッガー『詩と言葉』(三木正之訳)を購入しましたが、ペラペラめくって拾い読みした程度で、まだ読みこんではいません。(*)

「正体不明の大富豪」―実は哲学者 Wittgenstein(本人はヴィトゲンシュタインと発音していたと言われます。)から、リルケと並んでトラークルも2万クローネ(公務員年収の30年分相当?)の匿名寄付を受けています。しかし、トラークルは満27歳で、致死量の麻薬摂取により死亡してしまいます。(1887年2月3日〜1914年11月3日オーストリア=ハンガリー帝国、ザルツブルク)

 ハイデッガー『詩と言葉』(**)の訳者・三木正之さんは、「死の前頃の詩ではヘルダーリンの後期の詩風に最も近い関係にあった。」「トラークルに関する文学的研究がハイデッガーのこの論文の発表(1953年)以来目立って盛んになった。」と、あとがきに述べておられます。(偶々、会社のデスクの中に有りましたので参考のために付記。)

(*)『果樹園』103号に、平井俊夫「トラークルについて」と題する一文があります。ご参考までにその中から一部抜粋して紹介します。

 …リルケはむしろ近代詩を完成した最後の巨匠。リルケの詩はいわば世界の詩的完成、「創造」であって、その限りにおいて近代の伝統につながる。
 …しかしトラークルにとって、詩とは近代詩のように「「創造」ではなく詩人自身の言葉を借りていえば「不完全な贖罪」なのであった。…言葉の最も深刻な意味での現代の「憂鬱の詩」である。(没落の時間/「「秋」「夕暮」…)

 ―独墺流「近代の超克」論または「近代/現代」区分論の発生/cf「ヘルダーリン 予め崩れる近代」論/とすれば、(1910年代の)ポーレミックな論点であったと見做しうる。ただし、日本では、トラークルはハイデッガー論文の発表(1953年)以来、ドイツ表現主義評価をめぐる論点として取り上げられたという。因みに『果樹園』103号は1964年9月1日に発行されており、『詩と言葉』邦訳出版の約1年後であるというのはある種の因果関係を連想させます。(―以降は私見による“注”付記です。)


(**)『詩と言葉』 ハイデッガー選集??(1963年7月1日 邦訳出版 理想社)
   ・詩のなかの言語ーゲオルク・トラークルの詩の論究
   ・言  葉    シュテファン・ゲオルゲ

1121上村:2015/01/28(水) 14:41:29
WEBページの引っ越し
このたび、ホームページを移転することになりました。新しいアドレスは、http://www.itosizuo.sakura.ne.jpになります。

1122Morgen:2015/01/30(金) 00:38:59
祝“itosizuo”を表記するウェブサイト誕生
こんばんわ。
“itosizuo”の名称を表記するウェブサイトが開設されたわけですね。
伊東静雄研究会の皆様方のご努力によって、このサイトのコンテンツがますます豊富になり、視聴者を増やし、永久に続いて行ってくれるのだと思うと、ワクワクしますね。
これも一重に今日まで頑張ってこられた上村さんはじめ皆様方のおかげです。

1123山本 皓造:2015/02/03(火) 13:22:03
トラークルへの寄り道
 Unterwegs に「寄り道」という意味があればよいのですが、そううまくはいきません。辞書には「〜への途中で」とあり、そうすると Unterwegs zur Spraqche はどう訳すのでしょうか。その中のトラークル論、Ein Erörterung von Georg Trakls Gedichte は、いきなりErörterung の語義の説明からはじまり、それはまず「場所の指示」であり、ついで「場所の注視」である、という調子です。なるほど、「論究」では「場所」Ort というものとの関連がわかりません。しかしこれを最後まで読み通す気力はないので、後日邦訳の選集か全集を入手して読むことにします。
 私の持っているトラークル関係本は、
  ・中村朝子訳『トラークル全集』、青土社 1979
  ・杉岡幸徳『ゲオルク・トラークル 詩人の誕生』、鳥影社 2000
の2冊だけです。杉岡本は書店で偶々みつけて買ったので、きわめて主張の強い本で、私にはその当否を判断する力はありませんが、その意味でおもしろく、その主張から2ヶ所を紹介します。

詩人とドラッグの関係について
わたしは今、これほどまでに悲劇的な、詩人とドラッグの関係が語られてこなかったという事実に、改めて驚いている。……トラークルは何ひとつ望みはしなかった。彼は別に、人生の不条理とか世界の苦痛なんかに悩んでいたのではない。そんなことは彼の詩からも書簡からも読み取れない。
彼に特有のほとんどの詩語は「薬物的に」説明できる、と著者は言います。たとえば
トラークルの「暗」・「黒」は、モルヒネを意味する。……ところがハイデガーのトラークル論によると、「『黒』は闇に閉ざされ、暗いところに保護すること」らしい。……恐るべき同義反復ではないだろうか。

「グロデク」について
トラークルはそこで、九〇人もの重症患者を一人で看病しなければならなかった。……突然、銃声がとどろいた。ある重症患者が自らの頭を銃で打ち抜いたのである。壁には脳みそがべったりと張り付いた。詩人が耐え切れずに外に逃げ出すと、外の木の枝の一つ一つには人間がぶら下がっていた。処刑されたウクライナ人たちの姿だった。……「嘆き」「グロデク」が生まれたのは、このような状況からだった。それゆえ、この詩は純粋な意味での戦争詩、戦場の詩と言えるのである。/なぜこのようなことを強調するかというと、ハイデガーのように、この「グロデク」を「戦争詩などではなく、まったく別物」などと奇怪なことを言い始める人がいるからだ。/しかし、これは、おそらく全世界で最も偉大な戦争詩であり、反戦詩であり、そして最も偉大な政治詩なのだ。

 私事になりますが、トラークルについてはちょっとした思いがあります。ご承知のようにトラークルはザルツブルクの出身で、私はザルツブルクへは2度行きました。けれどもその時にはザルツブルクとトラークルは結びつかず、知ったのは帰った後でした。旅行中にこの町の本屋で買った“Salzburg”という、町の歴史や見どころをエッセイ風に綴ったものを読んでいると、3ヶ所ばかり、トラークル「ゆかりの地」の話が出て来ます。たとえば生家のあったヴァーグプラッツや、彼が薬剤師の実習で勤めた「天使薬局」など、そういう所は旅行中に何度も前を通っているのですが、知らぬということは悲しいものです。すべては「後の祭り」でした。今、ウエブサイトを検索すると、そういう「ゆかりの地」が7つも8つもあって、標識や記念碑のあることがわかります。モーツァルトより人気があるのではないかと錯覚しそうなほど。そういえば私は、ルートヴィヒ・フィッカーの雑誌“Brenner”の本拠だったインスブルックにも行ったのでした。そしてあの有名な「ブレンナー峠」を望見したのです。もちろん、ブレンナー峠−雑誌“Brenner” −フィッカー−トラークル、という「連関」のことなど何もしらずに。

 またリルケに戻って、少なくともやりかけのハイデガーのリルケ論についての読みを、あと2回ほどでまとめたいと思っています。そのあと、「リルケ読書その後」をもう少し。今、ある縁でヴィーコを読むことを迫られて、その読書中。そうするとデカルトも。併行してリルケ、トラークル、ハイデガー、さらに取り残された立原道造と「風立ちぬ」論、奥の院に伊東静雄――と、まあ、がんばってみよう。
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1124Morgen:2015/02/03(火) 16:09:21
リルケの空白時代(遍歴時代)
こんにちは。山本様  (またリルケに戻りますが)

『マルテの手記』完成(1910年)〜『ドゥイーノの悲歌』完成(1922年)の12年間はリルケの「空白時代」と言われることがあります。

 この「空白時代」には、いわゆる「遍歴時代」(1910年〜1914年)と第1次世界大戦(1914年~1919年)がありました。「遍歴時代」に、リルケは、まるで『マルテの手記』の世界から逃れるように、「救いとなる出会いを求めて」各地(イタリア、スペイン、北アフリカなど)を転々と放浪しています。30代半ばから40歳にさしかかったリルケは、視覚的、空間的、彫塑的なものから、音楽的なものへ近づこうとしていたのです。「私を驚かせ 音楽よ」
 ちょうどその頃(1914年1月22日付)、ウィーンの若い女性ピアニスト(マグダ・フォン・ハッティングベルグ。ブゾーニの弟子)から、「あなたのおそばに行って、音楽の宥和力によって、あなたのその不安な魂を救済したい。」というような趣旨のラブレターが届くのです。
 その日から2月21日までの一ヶ月間に、リルケは15通の熱烈な長文のラブレターを書いています。(リルケは彼女をBenvenutaと呼んだ。それはWelcomeというほどの意味らしい。)その後二人はベルリンで落ち合い〜パリ〜ドゥイノ館と2ヶ月余の旅をしています。

 彼女は貸しピアノをリルケの部屋に持ち込み、ヘンデル、バッハ、シューマン、モーツアルト、ベートーベン・・・と日課のようにピアノを弾いて聴かせました。しかし、やがてはさすがのリルケもそっと席を立って部屋から姿を消すようになったそうです。そしてまもなく二人は旅先で別れました。

 しかし、このベンヴェヌータ体験を経て、リルケは「見る詩人から愛する詩人へと脱皮した」そうです。その過程を表すのが『ベンヴェヌータとの愛の手紙』(源哲磨訳 河出書房新社)であり、1922年に『悲歌』や『ソネッット』において「心の仕事」を成し遂げるに到ったのだそうです。

 私は,他人のラブレターを読むなどという無粋な趣味はありませんが、リルケにとっては手紙=日記であり、その手紙の言葉のどこかに、リルケの「心の遍歴」を解明するキーワードが散りばめられていると言われると、読まざるをえませんね。しかし、ここぞという時のリルケはかなり「情熱的」ですね!!

*(蛇足)因みに、小高根氏は「伊東静雄伝では、詩魂の形成過程を内奥から抉りだすために、手紙と日誌と作品との作品との相関の狭間から、できる限り鋭利にメスを入れた。」(小高根二郎「湧然する棟方志功」後記)のでした。微妙な問題であるだけに、読み手は早とちりや我田引水に陥りやすいところでもあり、関係者から大目玉を頂戴することにもなります。書簡集の相方マグダ・フォン・ハッティングベルグも、後日この書簡集(リルケの遺言によりすべて返却された。)をもとに本(**)を書いておられます。(ただし、源哲磨氏によると、この本は粉飾や美化が多くて信頼性に問題があるそうですが、反面資料として只今取り寄せ中です。)
**『リルケとの愛の思い出』(マグダ・フォン・ハッティングベルグ著、富士川英郎・吉村博次訳 新潮社)

 昼休みに古本屋に立ち寄ったら『ベンヴェヌータとの愛の手紙』(1973年刊)が150円で売っていましたので購読した結果がこの投稿となりました。なお、キッペンベルク『リルケ』では、ベンヴェヌータは冷たく扱われているように思われますが、その手紙を読む限り誠実で情熱的な女性に見えます。

「転向」
・・・・・視覚による仕事はすでになされた
いまや心の仕事をするときだ」
(1914年6月20日 ルー・サローメ宛書簡)

1125山本 皓造:2015/02/18(水) 11:05:01
オスカー・ココシュカ
 神戸市立博物館で今「チューリヒ美術館展」をやっています。なかなかおもしろそうで、行きたいのですが、神戸まで電車を乗り継いで行くのはちょっとしんどいので、残念ですがあきらめました。
 朝日新聞の夕刊では毎日一点づつ、出品作品の紹介をしています。先日の記事を見て、妙に気持ちがおさまらず、何か言いたくなって筆をとりました。ちょっと場違いで気が引けますが、例の雑談として聞き流してください。

 2月14日朝日新聞夕刊、チューリヒ美術館展◆オスカー・ココシュカ「恋人と猫」の記事。
「夫を亡くした女性との恋愛に悩み、第一次大戦に従軍したトラウマに苦しんだココシュカ。劇的な前半生は……」
と始まるのですが、これではココシュカについて何を言ったことになるのか、と大いに不満が生じました。
 私の蔵書中に、Alfred Weidinger, Kokoschka und Alma Mahler というのがあります。その本のカバーの文章をここに借りて書き写します。

「オスカー・ココシュカがアルマ・マーラーと初めて出会ったのは1912年4月12日、彼女の夫の死後ちょうど11ヶ月後のことであった。夫は作曲家グスタフ・マーラーである。3日後、ずっと年下のココシュカは情熱的な手紙を書いて彼女にプロポーズし、こうして二人は嵐のように激しい関係におちいった。それはわずか3年しか続かなかったが、この短くて情熱的な情事は彼の仕事に多大の影響を与えた。」

 つまり「夫を亡くした女性との恋愛に悩み」という、その女性はアルマ・マーラーです。本書はその二人の「嵐のように激しい関係」の顛末を綴ったもので、著者はウィーンのアルベルティーナの館長(?Curator)。そのため、デッサンその他の資料を潤沢に挿入した、興味深い読物になっています。二人の関係の「わずか3年」の、激情の嵐、その前後の両人の異性遍歴など、書きたいが紙面を食うので、略。ココシュカは1915年、アルマとの関係が破綻した後、第一次大戦の軍役に志願して、ガリシアで頭部を撃たれ、さらにウクライナで胸部貫通銃創という重傷を負います。
 ウィーン分離派(ゼツェッション)のうち、クリムトとシーレは大戦末期にスペイン風邪であっけなく死んでしまいましたが、ココシュカは長生きをしました。死亡は1980年、94歳でした。

 ザルツブルクのホーエンザルツブルク城に登るケーブル駅の後ろ、山肌に沿って遊歩道があって、ふらふら歩いていると Oskar Kokoschka Weg と書いた標識があります。え、何だ、なんでこんなところにココシュカの名が、と不審に思い、山を下りて町の某美術館で訊ねると、なんでも「この町でココシュカが夏のアカデミーを開いたのだ」ということでした。帰国して調べると、彼は1953年、ここに「国際夏季アカデミー」を設立して“Schule des Sehens”を開いたことがわかりました(〜62年まで)。画学生たちがこの町へ「見ることを学ぶ」ために集まって来たのです。ここでようやく、この投稿の口実が出来ました。

[付記]ココシュカに「風の花嫁」の名で知られる代表作があります。この標題は、1913年11月頃のある夜、ココシュカのアトリエにふらりとやって来たゲオルク・トラークルが、絵を見て付けたのだとのことです(ココシュカ自伝)。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001260.jpg

1126Morgen:2015/02/19(木) 12:07:13
「チューリヒ美術館展」
 おはようございます。
 「チューリヒ美術館展」およびオスカー・ココシュカのご紹介ありがとうございます。
 さっそく、今度の土曜日(21日)に神戸へ行ってみようと思います。

1127Morgen:2015/02/21(土) 23:50:08
「チューリヒ美術館展」 (追)
 本日午前中に、神戸市立博物館にて開催されている「チューリヒ美術館展」を観てまいりました。
 同美術館が所蔵する10万点以上の 美術品の中から、今回は「印象派からシュールレアリズムまで」の67点を選んで日本人に鑑賞の機会を与えようという主旨の展覧会であったようです。
 その中で、山本様にご紹介頂いたオスカー・ココシュカの作品は5点展示されており、同美術館がオスカー・ココシュカに力を入れて収集していることが表れています。(セガンティーニ2点、セザンヌ1点)
 同展覧会は、5月10日まで開催されているようですので、神戸に行く機会があればまた同展を観たいと思います。

1128Morgen:2015/02/23(月) 16:40:53
トラークル頌/オスカー・ココシュカ
「トラークル全集」付録しおりの中に次のようなオスカー・ココシュカによるトラークル頌がありましたので、ご参考になるかどうかは分かりませんが、とりあえず転載してみます。

・・・・・私たちは一緒に「嵐の花嫁」(現在バーゼル美術館蔵)を描きました。私は彼の肖像を見たこともありました。が、当時私が「嵐の花嫁」を製作していた頃、トラークルは毎日私のところにいました。私は本当に簡単なアトリエを構えていましたが、彼は私の後ろのビール樽に腰を下ろしているのでした。そして時おり、われ鐘のような声でしゃべるのでした、とめどなく。そして又、何時間も黙りこくっていました。わたしたちは二人とも当時市民生活に背を向けていました。私は両親の家を出ていました。ウィーンでの私の展覧会や芝居のまわりは荒れ狂っていました。ところで、彼は「旋風」“Die Windsbraut”という言葉を彼の詩に引用しました。
<添付の絵は、「嵐の花嫁」“Die Windsbraut”1914のポスター複製のようです。>

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001263.jpg

1129伊東静雄顕彰委員会:2015/02/24(火) 10:35:03
(無題)
 諫早出身で日本を代表する抒情詩人 伊東静雄を偲ぶ「菜の花忌」及び「伊東静雄賞贈呈式」を下記の要領で開催いたします。 野の祭りとも称するにふさわしい早春 諫早の文化催事です。お気軽にご出席ください。

<第51回 菜の花忌>
日時:平成27年3月29日(日)午後1時〜
(雨天の際は諫早観光ホテル道具屋)
場所:諫早公園 中腹 伊東静雄詩碑前
内容:菜の花献花 詩の朗読

<第25回 伊東静雄賞贈呈式>
日時:平成27年3月29日(日)午後2時30分〜
場所:諫早観光ホテル道具屋
内容:贈呈式
???????????? 奨励賞 八重樫 克羅氏
       奨励賞 いわた としこ氏

??????記念講演  講師 倉橋健一氏(詩人)
         演題 「伊東静雄の詩と生きた時代」
????????????????????????????????????????????????????    伊東静雄顕彰委員会

1130山本 皓造:2015/02/26(木) 10:35:50
メルリーヌ
 塚越敏・田口義弘編『リルケ論集』(同文社、昭和51)というものを読みました。合計11篇の論考のうち1篇を除いてすべてが外国語からのもので、そのせいというわけでもないのでしょうが、ほとんどが私には消化できませんでした。紙面をとりますが、収録論文名と筆者を記します。

  リルケ ジャン・カスー
  リルケと実存哲学 O・F・ボルノー
  リルケとキルケゴール ヴェルナー・コールシュミット
  リルケとカスナーにおける想像力 ゲルハルト・マイヤー
  リルケとマラルメ ベーダ・アレマン
  「人形」「踊り子」「天使」 ルートヴィッヒ・メスター
  リルケにおける言葉の主題性 ヤーコプ・シュタイナー
  リルケの《オルフォイス》 ヘルマン・ボングス
  純粋な矛盾 ディーター・バッサーマン
  メルリーヌと所有なき愛 ユードー・メイスン
  今日のリルケ 上村弘雄

 「リルケ問題」というもののひろがりがよくわかります。編者は、あと現象学の立場からと精神分析の立場からの論説がえられなかったのを遺憾とする、と云っていますので、裏を返せば、これで「リルケの諸問題」は網羅されている、ということになります。そうして、あらためて思うに、その各々が、なんとも一筋縄ではいかぬこと!
 そんなわけで内容紹介はほんの少し、今回は<メルリーヌ>の問題をとりあげます(もう1回、次回に実存哲学。私に理解できたのはこの2本だけでした。)

 前にMorgenさんから、ベンヴェヌータ(Benvenuta, Magda von Hattingberg)との交情についてのご紹介がありました。私はこのベンヴェヌータや、今回とりあげるメルリーヌも、伝記をあとでたしかめれば、たしかに出て来るのですが、読んだときにはすぐ名前を忘れてしまって、まったく記憶に残っていませんでした。
 たとえば、ルー・ザロメ『リルケ』では、(註で)次のような記述をみつけることができます。

「1921年2月12日から14日にかけてベルクの館にバラディーヌ・クロソウスカ夫人(メルリーヌ)が訪ねてきた。リルケはこのとき彼女にヴァレリーの『海辺の墓地』を朗読した。リルケはその年の3月14日と15日の2日間でこの『海辺の墓地』を翻訳する。ヴァレリーとの出会いは、第一次大戦後のリルケにとってきわめて大きな体験であった」(p.158)。
「1921年6月19日、ベルクの城をでて、しばらく滞在していたエトワにメルリーヌが訪ねてきた。彼女とリルケは新しい住まいを探す目的でリルケは23日にヴァレーを訪れた。29日になってようやく理髪店のショーウィンドウのなかに写真つきで売邸または貸邸、という広告がでていた。それがミュゾットの館である」(p.160)。

 またホルトゥーゼン『リルケ』にも記述があり、メルリーヌとリルケが並んだ写真も載せられています。

[1921年6月、リルケは]「エトワにほど近いコルで、かつてドゥイノでともに客として知り合った女性と再会してこれを祝うことができた。この女性は、ある種の紛糾で重苦しい気持ちになっていたリルケを奮い立たせると同時に、熱心に彼をくどいて、作品『悲歌』を断片形式で発表しようという絶望的な彼の計画を思いとどまらせようとしたのである。それは、新たなエロス的関係がその情熱的な局面に突入した時期のことであった。ほかならぬその関係とは、……ジュネーヴを定住の地としていた女流画家、バラディーヌ・クロソウスカとの関係であった。……リルケがヴァレー地方を旅行した折の6月末に、彼といっしょにミュゾットの館という小さな重厚な塔を発見したのが、またの名を「メルリーヌ」というこのバラディーヌであった」(p.206-208)

(メルリーヌ Merline は、リルケが勝手にそう呼んだのでしょうか。正式には Baladine Klossowska, 1881-1969, 夫は Erich Klossowski)

 本稿の筆者、ユードー・メイスンは、リルケが求める女性関係のあり方を「所有なき愛」と呼び、それは次のようなものであったと云います。

「リルケの所有なき愛の基本概念とは次のようなものである。すべて共有するものは愛においてせいぜい本来的でない、従属的、一時的な意味しかもたぬ。そもそも愛とはそれに与えられた最高の展開をとげるためには、現実にはまったく没却されることのない孤独を回復し、したがって愛の対象を消滅させることを必要とする。それゆえ別離はすべての合一よりも重要なものとし、結婚は何の拘束力もない市民社会の偏見にすぎぬとし、それに反して別れることは真の秘跡のようなものと見なさねばならぬというのである。男特有の粗野な「所有」への意志(この意志は決して肉欲そのものと同一視してはならないが)をいだく男性側だけが、この愛のまことの本質が今日まで知られなかったことに責任がある。女性は、彼女自身このことに気づいているか、それを認めるかどうかはとにかく、自分の愛が相手によって答えられないとき、もっと正しくいうなら、恋人が彼女のもとを去り、彼女がつきることなく湧き出る泉のようなものにまで高められた心をいだいてただ一人あとに残るとき、最高の魂の充足をおぼえるものである――サッフォー、マグダラのマリア、エロイーズをはじめとしてリルケは数えきれぬ多くの場合をその実例としてあげることができるというのである。」

「最もすぐれたリルケ通の一人」、ディーター・バッサーマンが1954年に『ライナー・マリア・リルケとメルリーヌ――一九二〇年から二六年までの往復書簡』を刊行して、はじめて二人の交渉の経過が明らかになった、といいます。(この本はまだ翻訳がないと思います)

「リルケが一九〇六年の昔にパリで持った画家メルリーヌとの浅いつき合いを、彼のスイス滞在期のはじめ、一九一九年六月にふたたび始めたころ、彼女は当時十四歳と十一歳の末たのもしい息子たち、ピェールとバルトゥースとともにジュネーブに住んでいた。リルケが彼女のもつ「神によってえらばれた乙女、聖母の浄らかな顔」について語り、また彼女は「私はただあなたのためにだけ若く美しくあると信じないではおられないのです」と自分についていうことができたほどにメルリーヌをふたたび「乙女にかえした」あの運命的な愛が、この再開された交際の中から燃えあがるまでにはまる一年が経過しなければならなかった。二人の愛の出会いそのものは……一九二〇年八月の三週間のうちにおこっている。はじめは「現実世界のそれと全くちがった空間の中で……まるで新たな次元の充実を」二人が体験することとなったウィーンで、次にはわずかの別離をおいて、嵐のように狂喜させる幸福の二日間が彼らのものとなったベルンでのことである」

 リルケは「かつてクラーラ・ウェストホフやマグダ・フォン・ハティングベルクその他の女性にしたように、自分が愛にたずさわるには特別の条件が守られねばならぬということをあらかじめメルリーヌに対してもいいきかせておいた」らしい。しかしメルリーヌには、それは通じない。

「彼女にとっては自分の心を所有することなどどうでもよいのである。むしろ彼女がもとめるのは……リルケの心を所有することである。……愛とは人間的条件を超越することだなどという考えは彼女の心をいささかもひきつけぬ」
「彼女はリルケの所有なき愛に、ありきたりの人間的で地上的な愛をこえる何かをもはや認めてはいない。……リルケが彼女に送ってくる所有なき愛についての多くの書物に彼女はしばらくすると怒りはじめる。――彼女はその行為に相手の意図を感じて機嫌をそこねる。『ポルトガルの尼僧の手紙』を受けとったあと、彼女はいう。「友よ、これらの処方箋は何の役に立つでしょうか。たとえそれが最もすてきな本であるとしてもです」」

 くわしい経過は書簡集を読まなければわかりません。ユードー・メイスンの判決はこうでした。

「リルケの作品の中からわれわれに向けられているかのようなこの要請を前にしてわれわれが知っていなければならないのは、いったいリルケがどのような人であったか、彼が他のだれよりもずっとよく精通していると思っていた愛において、みずからはどのような成果をおさめたのかということである。だがこのきびしい問いかけに対して実に気をもたせる解答は、リルケが愛の中で、また愛にのぞんでくりかえした数えきれぬ試みが生涯挫折しつづけたということである」

 書いてきて、ここでふと、立原道造のことに思いが行くのは、どうしてでしょうか。


?

1131Morgen:2015/02/26(木) 12:56:42
リルケと立原道造の類似点
こんにちは。ただいま昼休みですが大阪は雨が降っています。

 <立原道造のことに思いが行く>という山本様のご感想は、特に「ベンヴェヌータ書簡」を読んでいると同感します。立原道造『優しき歌』に描かれている水戸部アサイさんは、「立原さんは、私を透過してずっと遠くを見ていたのではないか。」というようなことを何かに書いておられたのを読んだ記憶がありますが、リルケもベンヴェヌータを透過してずっと遠くを(あるいは自分の心の中を)見ていたのではないでしょうか。(1914年)

 メルリーヌの方は、パリ文化人グループ内の古い友人だった(1900年頃?)という事情もあるのでしょうが、その間に戦争がありパリの外国人は排斥されています。また、スイス田舎での不便な生活のお手伝いという実利的な面もあったのではないでしょうか。(1919、1921年)
(因みに、メルリーヌのご子息バルチュスの奥様は日本人で、1900年初頭のパリ文化人グループはジャポニズムJaponismeファンが多かったようです。)

 リルケはその人柄や文学を通じて、女性が思わず傍に行ってお世話をしてあげたくなるような(女性本能をくすぐる)何かを発散していたのかもしれませんね。



 

1132山本 皓造:2015/02/26(木) 15:48:54
訂正
「メルリーヌ」1行目の 同文社 は、国文社 のまちがいでした。
おわびして訂正します。
Morgen さんへの応答は、いつかまた。

1133龍田豊秋:2015/03/02(月) 18:33:28
ご報告
冷たい風の中,諫早公園の大寒桜が開花しました。青空を背景に花の色が映えます
メジロの群れとヒヨドリが蜜を求めて賑やかです。

2月28日午後2時から,諫早図書館2階ボランティア室に於いて第87回例会を開催しました。
出席者は7名。
3月29日に開催される第51回「菜の花忌」に向けて,多くの皆様に参加して頂くにはどのような広報活動を行えば良いのか,様々な意見が出されました。

会報は第81号。
内容は次のとおり。

1 「異郷のセレナーデ」                     遠藤 昭己

   ??????????????????????????????????????????????????第7回 伊東静雄賞受賞詩

2 伊東静雄作品を読む????????????????????????????????????????????上村 紀元

???????????????????????? 三篇の詩の共通性について
????上村代表が,「いつて お前のその憂愁の深さのほどに」??????昭和十年六月
       ??「かの微笑のひとを呼ばむ」??????????????????昭和十年七月
       ??「漂泊」???????????????????????????????? 昭和十年八月
????の三篇を考察しました。

??詩集では独立の作品としてバラバラに編集されているため,夫々が難解な詩のように思われるが,制作
??順に 一気に読むと明解に読み解くことが出来るのではないだろうか。

3 TOPIX   犬塚潔氏からの上村紀元宛て葉書

????......昭和17年,当時学習院文芸部委員であった三島由紀夫氏は「輔仁会」雑誌第168  ??号の巻頭言に伊東静雄氏の言葉を掲載しました。

4 菜の花忌????  ??????????????????????????????????       中嶋 英治
??????????           ????????『河』69号 昭和61年

5 諫早の春                           田中元三(西宮在住)

                                     以上

?? 3月の例会は,14日午後2時から,諫早図書館にて開催します。

1134龍田豊秋:2015/03/03(火) 11:31:27
桜開花
諫早公園の大寒桜が咲きました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001269.jpg

1135Morgen:2015/03/03(火) 14:03:35
「静雄詩のトポロジー」
 こんにちは。
 「諫早公園の桜便り」拝見しました。拙宅前の公園の河津桜も満開を過ぎ既に半ば葉桜になっています。まだ寒い日もありますが、確実に春が来ていることの証です。

 『大阪春秋』という雑誌が発行されていますが、その昭和55年9月号に「現代文学的トポロジー」と題するエッセーがあり、その中に「伊東静雄詩のトポロジー」とでも云えそうな文章があります。(上村さんにその部分コピーをお送りしておきました。)
<ここらは山本様のご専門ですね。>

 同エッセーでは、伊東静雄の詩を生んだトポロジー(風土)としては、阪南町、天下茶屋、松原通、三国ヶ丘などがそれに相当するのでしょうが、筆者の藤田実さんは「伊東静雄の詩に含まれたふしぎに燈明な形而上的空間の感覚は、阪南町を起点として、彼がその詩の大半を形成したこの大阪南部の風土と切りはなしては考えられない。・・・・・」と書いておられます。お手元に届きましたらご一読下さい。(希望者にはコピーをお送りします。)

 三国ヶ丘の「菜の花忌」は3月1日に行われたそうですが、出席できませんでした。
 諫早「菜の花忌」のご成功をお祈りします。(28~31日、私は東京・北海道方面出張予定です。)

1136山本 皓造:2015/03/11(水) 11:42:30
ボルノー「リルケと実存哲学」
 先月末の投稿でとりあげた、塚越敏・田口義弘編『リルケ論集』収録論考のうち、今回はO・F・ボルノー「リルケと実存哲学」を紹介します。
 本論は3つの論題から成り立っています。
 一 現代詩人としてのリルケ
 二 リルケの概念語について
 三 リルケの実存哲学

一 現代詩人としてのリルケ

イ. 人間とはそもそも何であるのか。リルケが詩人として負うた新たな使命
「過去の他の詩人たちはすべて、彼らの所属する時代によって提供された、一定の人間像を抱いていた。彼らには、せいぜい、ともにおのれを形成しながら、こうした人間像の造型に関与することができただけである。その本質において人間とはなんであるか、という問題は、少なくともその最も深いところにおいては、彼らにとって、問うに値する問題とはならなかった。しかし、リルケは現代に特有の問題のなかに立っている。……そしてこの現代においては、以前のいかなる時代とも違って、人間の本質が問われることとなったのである。人間とはそもそもなんであるのか。リルケにはもはやわからない」
「リルケは、人間そのものを歌った詩人である。……以前の人間把握がすべて疑わしいものとなってしまった後に、測り知れぬ闇のなかから新たな輪郭を探り出すこと、すなわち、人間解釈の新たな可能性を明るみへと引きだすこと、これが彼の使命なのである」
「われわれが詩作に関して知る限り、リルケほど、もっぱら人間を、飽くことなく持続的に問うた詩人はいまだかつていなかった。また、個々の人間が、彼ほどに、人間存在の新たな解明へと入り込みえたためしはなかった。そして、それゆえにこそリルケは、われらの時代の詩人なのである」

ロ. リルケの詩作の諸画期
(1) 「本来のリルケとそうでないリルケとの間に一線を画さねばならない。」本来のリルケは後期リルケ、『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』およびそれ以後のリルケである。
(2) 初期作品群は本来のリルケへの視線を遮蔽してしまう。『新詩集』さえ、それが厳しい自己抑制を知らしめたことによってのみ、意義がある。
(3) ひとつの画期としての『マルテの手記』。ここではじめて「人間一般の本質にあるもの」への肉薄が本格化した。「いまや初めて人間は完全に不確かな、疑わしいものとなった」

ハ. 後期作品の特質
(1) 「リルケの作品領域は抒情詩であって、それ以外のものではない。それにもかかわらず、厳密には、リルケは少なくとも従来的な意味あいでの抒情詩人ではない。……われわれにとってとくに決定的な意味をもつ、あの最終の最も深みのある創作段階において淘汰されて残ったものは、きわめて客観的なものであり、……それのもつほとんど冷徹な厳しさにおいては、思想詩そのものである」
(2) 「とはいえ……彼において問題となるのは、……前もって把握されたある思想の詩的表出ではない。……リルケの思索する場とは、同時に思想が詩として形成されるところである。……リルケが活動するところとは、詩作と思索とがまだ別個の可能性として分離していないところ、詩作がそのままなお思索であるところの深みである。ここにおいてリルケは、精神的業績のひとつの根源に到達している。この根源において彼に比肩しうるのは、せいぜいヘルダーリンくらいのものである」
(3) 「リルケの詩作領域は、このように驚くほど狭い。内容からみれば、結局ふたつのおおきな対象だけがあり、これらをめぐって彼のすべての思考は旋回するのである――すなわち、人間と事物であり……しかし、これらふたつのかけ離れた両極の間には、有機的なるものの包括的な領域が欠如している。――動植物にみられる生が、また最も広い意味での風景一般における生が、そして、精神的、歴史的世界における人間の生の豊かさもまた欠如しているのである。……その結果リルケには自然とのいかなる実際の関係もないのである。」

 ほとんど引用ばかりになってしまってすみません。「詩作=思索」がそのまま言われているところなど、関心をそそります。(未完。以下、次回へ)

1137Morgen:2015/03/16(月) 18:05:41
「変容の詩人」&「菜の花忌」
『リルケ論集』(塚越敏・田口義弘編 同文社、昭和51)は、「日本の古本屋」に注文しておいたのですが、少し遅れて在庫切れの返事があり、改めてアマゾンに注文しました。

リルケは、「変容の詩人」と言われるように、初期〜中期〜後期で大きく「変容」しています。リルケ自身が、「若き詩人たちに与える手紙」の中で、「・・・・・それは、あわやと思う土壇場で、王女に変身する竜の神話です。 おそらく私たちの生活のすべての竜は王女なのであって、ただ私たちが美しく勇気ある者になる瞬間を待っているのでしょう。」と、「変容」の意義について語っています。
 「自分の人生を“失敗に帰した人生”、“失われた人生”として、嘆いたり、悔恨したりしている。」 そして「それまでの過去を全否定して、人生を第一歩から新しく踏み出そうとしている。」ことにおいては、リルケも萩原朔太郎も共通していると、富士川英郎さんは仰っています。(「萩原朔太郎とリルケ」昭和37年8月『無限』) 朔太郎『氷島』はまさに悔恨の詩集です。

 詩人といわれる人たちは、その程度に差はあっても、詩人であることと生活者であることのハザマで、揺れ動き、漂泊する運命にあるようですね。
 今年の「菜の花忌」では、上村さんが、伊東静雄の「行って、お前のその憂愁の深さのほどに」「かの微笑のひとを呼ばむ」「漂泊」(昭和10年6,7,8月発表)の三詩を取り上げて、ご講演いただくということで大いに期待しています。
 伊東静雄もまた、リルケや萩原朔太郎と同じく、苦しい「悔恨」や「憂愁」「孤独」「絶望」などの心の渦に巻き込まれながら、漂泊する中で「真清水」に出会い、新しい詩魂や詩語を開拓していったのだろうという状況を、私も推測します。


 PS1/山の方には既に春が来ていますよ。中山観音さんの梅林も見ごろを迎え、三つ葉つつじの蕾もふくらんでいます。

 PS2/菜の花忌・・・中野章子さんがブログに「菜の花忌」のことや庄野潤三さんのことをお書きいただいています。必読!! 菜の花の写真は中野さん撮影のものです。

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1138龍田豊秋:2015/03/18(水) 10:08:27
ご報告
今日は生暖かい雨が降り,久しぶりの春雷がとどろいています。
菜の花があちらこちらで見られます。
来週にはソメイヨシノが開花するようです。

3月14日午後2時から,諫早図書館2階集会室に於いて第88回例会を開催した。
出席者は8名。

まず,平成26年度の決算承認を行った。
次に,4月から原点に立ち返り,現代詩文庫『伊東静雄詩集』をもう一度
最初から読みなおすことにした。
私も含め,途中から入会した者にとっては,嬉しいことです。
これを良い機会として,詩やそのほかの文学を楽しみながら学んでみたいと思われ
る方は,お気軽にのぞいてみられたら如何でしょうか。

会報は第82号。
内容は次のとおり。

1 詩集『春のいそぎ』自序                  伊東静雄

2 詩 『大詔』??????????????????????????????????????????????伊東静雄

3 詩 『わがうたさへや』????????????????????????????????????伊東静雄

4 詩 『述懐』?? 大詔奉戴一周年に當りてひとの需むるまゝに?? 伊東静雄

5 詩 『那智』??????????????????????????????????????????????伊東静雄

6 昭和20年8月15日,終戦勅語を聴いて
?? <伊東静雄全集に収められた日記より>?? ???????????????????? 伊東静雄

7 伊東静雄詩集(創元選書) 解説 昭和28年6月        桑原武夫

8 伊東静雄全集(人文書院) 後記               ??桑原武夫

9 田中克己(成城大学教授) ー伊東静雄回想ー     上村会長の編集構成

                               以上

4月の例会は,25日午後2時から,諫早図書館にて開催します。

1139Morgen:2015/03/23(月) 12:16:36
「兼常清佐氏のこと」
“『伊東静雄詩集』をもう一度を最初から読みなおすことにした。”という「伊東静雄研究会」の兄姉方のご決意に心から敬意を表します。(私も、何度読んでもそのたびに新しい課題を出されているような気がします。)

 杉本秀太郎氏は、近代日本詩人選『伊東静雄』著者および岩波書店『伊東静雄詩集』編者として、私たちには馴染みの深い方です。(桑原武夫氏などを中心とする「新京都学派」の一員ともいわれます。)

 同氏は、『哀歌』の全篇を「私」「半身」というふたりの擬作者に割り振り、一種のドラマとして構成してみることによって、詩人の「意識の暗黒部との必死な格闘」の実情を解明しようとされ、静雄詩解釈に敢えて一石を投じられました。(静雄詩解釈がトマトの連作のようにマンネリ化して小粒化してしまうことへの警告として。)

 同氏の『伊東静雄』(筑摩書房版)246ページから250ページに、「兼常清佐」が登場します。伊東静雄は、昭和10年10月の『哀歌』出版直後、ゆり子さんへ手紙を書いています。「兼常清佐といふ人があるでせう。あの人にも送りました。ただし返事なし。」(昭和10年11月2日付け、酒井ゆり子宛書簡)

 杉本秀太郎氏は「詩集献呈の事実は、伊東静雄が兼常清佐の読者だったことを示しているばかりでなく、幾つかの点でこの人の注意と関心を呼びさましそうなところをみずからの詩集に自覚し、自負していたという推定を許容する。」(『伊東静雄』249ページ)と述べています。そこでさっそく「日本の古本屋」を見たら『平民楽人シューベルト』(昭和3年刊行)がありましたので注文しました。昭和10年6月刊『音楽と生活』も容易に入手できそうなので一読してみます。

 「行って、お前のその憂愁の深さのほどに」「「かの微笑の人を呼ばむ]「漂泊」の3詩を読んで感じるのは、いずれの詩も内容が動的(動詞が多く用いられているという意味でも)であり、短い物語風(劇的)でもあるという共通性をもっていることです。3詩が偶々そうなったというよりも、詩人の何らかの「意図的」なものが私には感じられます。そこですぐに連想されるのがBallade(物語詩)やドイツリート(民謡)です。
 また「魔王死に絶えし森の邊」という詩句は、やはり北欧民話(森の中には色々な妖精が住んでいて妖精たちの王様が魔王である。)からの引用ではないかという印象をもちます。

 長くなりますので、これについては兼常清佐『平民楽人シューベルト』を読んでみて、またあらためて投稿させていただきます。

1140龍田豊秋:2015/03/30(月) 16:31:20
ご報告
3月29日は初夏を思わせる陽気でした。
ソメイヨシノは開花してから瞬く間に満開となりました。

高城城址中腹の詩碑の前で,「第51回菜の花忌」が開催されました。
イロハモミジの薄くて柔らかい若葉が逆光に映えていました。
ウグイスとヤマガラの鳴き声が賑やかでした。
足の踏み場も無いくらい,多くの方々が参加して下さいました。

文芸コンクール詩部門・中学生最優秀賞は,真城中学校三年土橋すずさんの
「夕焼け」。高校生最優秀賞は,諫早高校一年中尾祐圭子さくの「ざくろ」です。

その後,「第21回伊東静雄賞贈呈式」が道具屋ホテルで執り行われました。
長年選者を務められた伊藤桂一先生と高塚かず子さんが,今回限りで退任されました。

奨励賞を受けた八重樫克羅さんといわたとしこさんの受賞詩の朗読を興味深く聴きました。

記念講演は,倉橋健一氏の「伊東静雄の詩と生きた時代」でした。

写真をアップします。
遠く諫早に思いを馳せて頂ければ幸いです。

                               以上

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1141龍田豊秋:2015/03/31(火) 10:53:06
ご報告 続
昨日の続きです。
長崎新聞に諫早「菜の花忌」の記事が掲載されました。

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1142Morgen:2015/04/01(水) 21:44:42
桜満開!
「第51回菜の花忌」のご報告や長崎新聞の記事を興味深く拝見させて頂きました。
 私は、会計年度末の決算立会いなどで、東京大阪間を4日間で2往復し、各データセンターを回りましたので、30日、31日2日間の歩数計の合計が5万歩超となりました。
 その間をぬって移動中に、ちゃっかりと東京の桜の名所(千鳥が淵、上野公園)へ回り道をして、写真を撮ってきましたので、添付してみます。

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1143山本 皓造:2015/04/07(火) 10:56:58
ボルノー「リルケと実存哲学」続
 2月3日投稿で一瞬触れた「ヴィーコ」の勉強会がこの5日、日曜日に終り、それまでしばらくリルケの方に手がまわりませんでした。その間掲示板にもごぶさたをしてしまいました。梅が咲き、桜が咲き、ようやく春爛漫なのに、私などまだ「寒い、寒い」と云っています。「粛々と」や「志」「大義」とかがあまり大声で云われる世の中も、私にはうそ寒く感じられます。

 Morgen さんの「変容の詩人」としてのリルケ、兼常清佐のこと、続稿を期待しています。変容の到達点としての「ドゥイノの悲歌」「オルフォイスによせるソネット」、昔勉強したノートなどをひっぱり出して枕元に置いたのですが、なかなかそこへ戻る気になれません(山が高すぎます)。

 本稿は、3月11日投稿の「ボルノー「リルケと実存哲学」」の続きです。
  一、現代詩人としてのリルケ(前回)
  二、リルケの概念語について(今回)
  三、リルケの実存哲学(次回)

二、リルケの概念語について


「リルケの言語を考察するにあたっても、ある種の貧しさというものがどうしても目についてくる。……彼の言語には軽妙で流れるような豊かな表現が欠けている。……この欠乏は偶然的なものではなく、ある意識的な造型意識の効果なのである」


「リルケにとって顕著なことは、絶えずくりかえされるわずかな単語で済まされていること、また散文や詩のなかで常に新しい関連によって飽くことなく反復されている一定の持続的な単語が存在していることである」
ボルノーはそのような単語として
 純粋な rein、親密な innig、開かれた offen、信頼しうる verläßlich、消える schwinden、乗り超える übersteigen、凌駕する übertreffen、もちこたえる bestehen、讃える rühmen、誉める preisen、従う gehorchen、果す leisten、用いる gebrauchen、などをあげています。


 そうした単語は「その当の単語がたんに問題の個所の特殊な文脈から生まれでてくるというだけでなく、リルケの文学世界全体のなかでその単語が特徴づけているところのより広範な意味連関が同時に共鳴しだす、ということである。その単語は、その特定の個所において、ある表現価値を持つというだけではなく、同時にリルケの文学世界の総合的連関において、きわめて確定的な機能上の価値を持つのである」


「それゆえ、彼の慣用語についてはくりかえし付説を施すことが要求され、他の詩人の場合と異なり、――最も重要な単語の言語上の使用範囲をある程度完全に集録し、その「諸分野」を展開することで、信頼するに足る解釈の前提となる――「比較リルケ辞典」なるものがあれば、それは不可欠なものであろう」


「リルケが好んで用いた単語の系列を一見するや、いまひとつの別のことが目につくのである。その系列には、われわれをとりまく世界の感覚的な豊かさを表現するための単語はないのである。……具象的ならざる蒼白い単語……それゆえ彼には、言語理解の常識に従えば、まったく詩的ではない文が、むしろ哲学の概念語による教訓的なかたちをとった文が成立する。……リルケの晩年の作品は、言葉の厳密な意味における「教訓詩」である」
 たとえば「彼は従う、踏み越えることによって」「変身を意志せよ」「純粋な関連へと戻りゆけ」などをボルノーは挙げています。


「リルケにあっては、同一の表象が、同一の想念がなんとくりかえしくりかえし反復され、その結果、彼の文学作品が立脚している世界は、合わせてみてもかなり限定され一望しうるほどの範囲となっていることに驚かされる。……リルケにあっていく度もくりかえされ、ある象徴的な意味にまで高まった一定の対象、例えば「鏡」、「泉」、「ボール」、「秤」、「バラ」あるいはそれに類する花――……(中略)……このような象徴はこの場合も数の点ではかなり限られ、概算しうるほどではあるが、リルケの作品にくりかえし現われ、新たに観察されるごとに新しい深みをますものである。それゆえに、それらの象徴は、リルケの世界を理解するための恰好の入口をなし、詳細にして厳密な考察の対象に値するものである」

 引用ばかりになってしまいました。
 この章では本題の実存主義には言が及んでいませんが、このようにリルケの用語の独自性に焦点を絞った論究はさほど多くはなく、貴重であり、また、リルケの語彙の意外な乏しさや抽象性と機能性の指摘、さらに「比較リルケ辞典」(いつぞや「立原道造辞典」について何か書いたことを思い出します)「教訓詩」等の意表をつく発想など、私は興味深く読みました。そういえば前回の「詩作=思索」も、同じ発想で換言すれば「リルケの晩年の作品は、言葉の厳密な意味における「形而上詩」である」とでも云えそうです。

1144山本 皓造:2015/04/09(木) 11:20:39
岩波PR誌『図書』からの見つけ物
『図書』今年の3月号に池澤夏樹さんが「「風立ちぬ」という訳を巡って」という文章を書いています。
 堀辰雄の『風立ちぬ』は、まず扉にヴァレリーの詩句 "Le vent se lève, il faut tanter de vivre." が引かれ、第1章「序曲」が「それらの夏の日々……」と、回想の口調で始められる。「私達」は草原の白樺の木蔭に寝そべっている。「そのとき不意に、何處からともなく風が立った」。何かが倒れる物音がした。画架が倒れたらしかった。ふと、「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が、口を衝いて出て来た。……
 池澤さんは、この「生きめやも」が「誤訳」であるという、おおかたの説を、丸谷才一と大野晋との対談から、次のように引用しています。

丸谷 「生きめやも」というのは、生きようか、いや、断じて生きない、死のうということになるわけですね。ところがヴァレリーの詩だと、生きようと努めなければならない、というわけですね。つまりこれは結果的には誤訳なんです。(下略)

 そして大野もこれを肯っているので、誤訳説は定着したかに思われた。
 ところがこの対談の数年後に、『昭和文学全集 6』(小学館)の「室生犀星・堀辰雄・中野重治・佐多稲子」の巻の解説で清水徹がこれに反論を加えた。……
 以下、池澤さんはこの反論の紹介に移ります。すでに十分に要約されたその内容をさらに要約するのは至難なので、以下の拙文の疎漏はお含みおきください。

 小説『風立ちぬ』の、「序曲」「春」「風立ちぬ」の章は、回想の文体で記され、「冬」の章ははじめに日付が明記されて、現在進行形の語りになる。前半3章は、「私達」が愛し始め、やがて「お前」は胸を病んで療養所に入り、「私」はその病室につき添う生活を始めた、そこまでの、「冬」冒頭一九三五年十月二十日以前のある時点からの回想になっている。

「愛し合いはじめた自分たちの未来が暗雲に覆われることを、夏の草原に横たわる「私」は知らないが、その抒情的風景を回想する「私」のほうは知っているのである。「風立ちぬ……」の一行は、こういう文脈に置かれている。だから、この一行はこの文脈との関連で、意味作用を繰りひろげる。風が起こり、画架が倒れたとき、「私」の口を衝いて出て来た詩句は、回想的な語りによるこうした二重性を、「やも」という終助詞の意味のひろがりを利用して、いわば一行の両側に彫りこんでいるわけである」

 さらに池澤さんは、清水の引用を続け、

「著者によって置かれた題辞「生きんと試みなければならぬ」は、こうした語りの治癒力にかかわる。婚約者につき添ってサナトリウムにこもり、婚約者の死の経験をした「私」がなぜその経験を語ろうとしたのか。書くことをとおして、悲しみを乗り越え、「生きんと試み」ているからである。悲しい経験のあとで、それを書くことによって、《婚約》という著者自身にとって重い意味をもつ主題を深く認識し、生への復帰を試みているからである。そうやって堀辰雄は貪婪に作家としての道を進んでゆく」

 見事な読みだと思うし、結論は出たとも思う、と記すのです。
 清水徹解説の全文を、一度読んでみたいと私は思っています。

 池澤さんの文章を読んだのとほぼ同じ頃に、金時鐘『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ――』(岩波新書)を読了しました。これは2011.6〜2014.9の40回にわたる『図書』連載をまとめ、終章を加えたものです。

「やはり歌は情感の産物のようです。その情感を一定の波長の心的秩序に仕立てているものが抒情なのですが、だからこそ批評はこの「抒情」のなかに根づいていかねばならないと私は思いつづけています。私が抒情という、さも共感の機微のようにも人の心情をほだしてしまう感情の流露を警戒してやまないのは、私がなじんで育ったあらゆるものの基調に、日本的短詩形文学のリズム感が規範さながらにこもっているからであります。// 思えば思うほど私はその情感ゆたかな日本の歌にすっぽり包まれて、なんのてらいも抗いもなく新生日本人の皇国少年になっていった者でした」

 これと並んで、

「私はその本を道頓堀通りの「天牛」という古本屋で手に入れました。古本とはいえまだ新本同様の、『詩論』という小野十三郎著の単行本でした、そのときのとまどいと衝撃は、その後の私を決定づけてしまったと言っていいくらいのものでした。……詩とはこういうものであり、美しいとはこういうことである、といった私の思い込みを、根底からひっくり返してしまったものに『詩論』と小野十三郎は存在しました」

 金さんはやがて大阪文学学校にかかわることになり、多くの文学仲間と交わりを得ます。

「なかでも文学の発光体のような三人の友人、しなやかな論理性と巧まざる筆法で読者を虜にしてきた、文芸評論家の松原新一氏と、名人芸の文章力としか言いようがない作家の川崎彰彦氏、そして底知れぬ知識を蓄えている、詩人で評論家で、ドイツ思想専攻の大学人である細見和之さん。」
「詩人、倉橋健一君」との出会いのことも記されています。

 その細見和之さんが、同じ『図書』3月号で、「大阪文学学校創立六十年」という文章を載せているのです。長くは引きませんが、「代表的な講師だった金時鐘さん、倉橋健一さんなどと出会えたことも大きかった」と、それらの名前が引かれています。
 細見さんはご承知のように、小野十三郎・長谷川龍生についで、三代目の「大阪文学学校校長」を引き受けられたのです。
 私の持っている細見さんの著書といえば、近著『フランクフルト学派』(中公新書)と、前に出た講談社の『現代思想の冒険者たち 15 アドルノ』の2冊だけですが、アドルノについてはほかにも何冊か出しておられ、この掲示板でも昨年、〈細見さんの名前は記しませんでしたが)「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という、アドルノの有名な言葉を、私が(「乏しき時代の詩人」とのからみで)引っぱり出したことがあります。細見さんは、みずから詩人であり、ドイツ思想の専攻者であって、アドルノやベンヤミンの翻訳にもかかわり、評論も書かれ、他方で大阪文学学校校長であり、作曲もし、バンドも結成して活動するなど、柔らかい精神の持ち主と、かねて思っていましたので、いつか、あと数冊この人のものを手に入れて読んでみようと思っています(でも、アドルノはむつかしいのです)。
 雑誌『図書』は一冊100円のヘンペンたるPR誌ですが、この3月号は以上のような次第で、思わぬたくさんの見つけ物をした、というご報告です。

1145 斉藤 勝康:2015/04/09(木) 20:27:29
金時鐘氏.細見教授のことほか
「図書」読んでいないので山本さんの紹介ありがたいです。金、細見先生は2006年から5年間在籍した大阪文校で講義を聴いたり詩の指導もしていただきました。細見氏は何度か大阪府大でもお会いしました。
たまたま金氏の本を読んでいるところでした。氏のことは殆ど分っているつもりと思っていたが(TV番組や開高建の日本三文オペラのモデル等)四三事件らの詳細な記述を読みながら氏の根底にあるものを改めて知ったしだいです。昨年の小野賞の受賞式は欠席されていて残念でした。

細見氏は詩人金氏に関する著書も出されていますし昨年7月には堺ビックアイで開かれた講演会でアドルノの有名な言葉を引きながら反ユダヤ主義がどのように形成されたかを解説しながら、後半をパウル、ツエランの「死のフーガ」の朗読をCDで聞かせて戴きました。氏の訳で。
また日本の現代詩の歴史にも通じておられ伊東静雄のときは初版本を回覧しながら主な作品の解説をされました。戦争詩のことでは批判もしていましたが。
三好達治賞の詩人でもあります。詩集〔家族の午後)

追記、昨年のけやき通りの会の倉橋氏及び今年の井村氏の講演うっかりして聞き逃しています、諫早の倉橋氏の講演要旨知りたいところです。よろしくお願いします。

1146齊藤 勝康:2015/04/10(金) 08:38:17
訂正
金時鐘、細見氏の記事中、パウル.ツエランの氏の細見訳は「エング.フュールング「でした。「死のフーガ」は飯吉光夫の訳でした。訂正します。

1147Morgen:2015/04/10(金) 13:00:37
"Le vent se lève, il faut tanter de vivre."
山本様。岩波『図書』3月号のご紹介ありがとうございました。即刻紀伊国屋本町店に駆けつけたのですが一部も残っておらず、取り寄せてくれるそうです。

 ヴァレリイ「海辺の墓地」の

  風が吹く! ・・・・・生きねばならなぬ!
  広大な大気は私の本を開いては閉ぢ、
  波は飛沫となって岩に砕ける!
  ・・・・・
   ―竹内清己編「堀辰雄『風立ちぬ』作品論集」P90から抜粋

 矢内原伊作による詩解釈は次のとおりです。<同書中村真一郎「風立ちぬ(鑑賞)」から>

 風が吹く―吹かなければ死ななければならないであろう。・・・
 生ある限り、生を願う限り、・・・
 知性の本は閉ざされ、砕かれ、飛び去らねばならず、・・・
 知性は海辺の墓地に葬られなければならない。

 「如何なる風が知性の下に動かなかった海を波立たせ、歓喜の水で打ち破り、新しい生の中に我々を立ち上がらせるのか?・・・この絶望的な極点から我々は何処に行けばよいのか?」(同じく、中村真一郎「風立ちぬ(鑑賞)」から>


 堀辰雄の立原道造宛書簡で「今日からやっと小説書き出したところ。今のところ仮に『婚約』といふ題をつけてゐる。(死を前にして)二人のものが互いに幸福にさせ合えるか―さういふ主題に正面からぶつかっていくつもりだ。」(同書P85)

「つまり『風立ちぬ』は、“死”を超えて存在し、“死”を超えて輝く永遠の“生”を、愛のいとなみの中で結実させ、同時に“死”という運命以上の“生”を結実させた愛を高揚させようとした作品である。」(谷田昌平『堀辰雄』)。「死にさらされて始めて透き通って見え始める生の意味」(神西清)などの珠玉のような言葉が紹介されています。

 昼休みに、駆け足で、竹内清己編「堀辰雄『風立ちぬ』作品論集」の中村論文を書き写してみました。休憩時間がなくなりましたが下で弁当を買ってきて食べます。ではまた。 

1148山本 皓造:2015/04/12(日) 11:00:48
ボルノー「リルケと実存哲学」続々
 斉藤さん、Morgenさん。早速の応答をいただき、ありがとうございました。細見氏の本2点(金時鐘論と小野十三郎論)をアマゾンの中古に注文しました。斉藤さんの「知己」の多彩さにあらためて感嘆させられました。
 竹内清己編「堀辰雄『風立ちぬ』作品論集」はおもしろそうで、私も手に入れたいと思います。「生きめやも」は、文法上はともかく、「風立ちぬ」のどこをどう読んでも、「生きようか、いや、断じて生きない、死のう」という意味には読み取れませんね。中村真一郎は、加藤周一との関係もあり、この人のは何冊か手に入れたいのですが、目下は保留にしています。
 今回の投稿のために大急ぎで「風立ちぬ」を読み返してみた際、
 ・作品の向こうに透けて見えるリルケ、伊東。気のせいか? 早とちりか?
 ・「風立ちぬ」は、これはやっぱり名作と云うべきだなあ
 ・堀辰雄の見かけによらぬしたたかさ
そんなことを思ったのでした。

 以下、続々ボルノーです。

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一、現代詩人としてのリルケ(前々回)
二、リルケの概念語について(前回)

三、リルケと実存哲学

イ、前提

(1) 「実存哲学という概念は……ここ数年[*山本註]、あらゆる精神生活を掌握し、さまざまな分野で呼応しながら調和の効果を現わしている包括的な一大運動」であり、
(2) 「その精神的運動の基底層で作用している共通性を言い表わした名称」である。
この運動は哲学ではハイデガーとヤスパースによって実存哲学を生み出し、宗教方面ではカール・バルトの弁証法神学を生み、文学ではリルケとならんでカフカの名をあげることができよう。
(3) 「リルケと実存哲学」という問題設定は、リルケの文学を哲学の地平へとひきずり出して強引に哲学的に解釈しようとするものではない。それはより普遍的な当時の精神的な働きからリルケを理解しようとする試みである。
  [*山本註] 本論文は O.F.Bollnow: Rilke の序文。刊行は1951年。

ロ、リルケとハイデガー

「アンジェロスの伝える言葉によれば、かつてハイデガー自身が、自分の哲学はリルケが詩的に表現したものを哲学的に陳述したものにほかならない、と語ったとのことである」
  [ボルノー註]J.F.Angelloz:Rainer Maria Rilke (Paris 1939)

ハ、実存主義の精神運動の諸特徴とリルケ

(1) この運動の発端=世界の不気味さと人間存在の危機の発現 → 理性への信仰およびこれに代わる生感情いずれもの崩壊
ハイデガー … 人間の現存在の「被投入性」Geworfenheit
ヤスパース … 苦悩と死、闘いと負い目「限界性」
「「護られずに、ここ心の山の頂きで」とリルケが歌うとき、彼もまた人がこのように救いがたく完全に放擲されているという感情を語ったのである。人間の生がまったく護られていないということを、リルケほど衝撃的に表現した詩人は、(カフカは別として)他にいなかった」

(2) 「死」の問題性
「ハイデガーの場合には死への存在(Sein-zum-Tode)が人間の生に究極的な重みと責任とを是非を問わず投げかけるのだが、それと軌を一にしてリルケの場合にも、死の問題は、彼の多様な発展段階において常に伴い、人間の生を熟考する際の内奥の中核となったのである」

(3) 意識の志向性と純粋な関連
ブレンターノとフッサールにおける「意識の志向性」の認識と同様、「リルケもまた、うわべは自己満足して落ち着いている人間の本質を解体し、その代わりに「純粋な関連」――まさしく他のものに対する機能上の関係――を置いたのである」

(4) 超越と乗り越え
ニーチェの「移行」(Übergang)と没落(Untergang)をその特徴とする人間認識、ハイデガーの、人間の自己を越えての移行すなわち「超越」(Transzendenz)を人間の本質とする認識などと同様に、「リルケもまた人間のすべての力を「乗り越え」(Übersteigen)と「踏み越え」(Überschreiten)とに集中させた、これらふたつの語は、「超越すること」(Transzendieren)からの、具象性ゆたかな逐語訳である。/「彼は従う、踏み越えることによって」(オルフォイスのソネット第1部第5歌)」

(5) 決意性
「進歩への信仰は崩壊し、あらあゆる本質的な問題において人間は常に挫折するのだということが、そしてまたくりかえし最初からやりなおさねばならないのだということが認識された」
「ハイデガーは、人間のすべての使命を「決意性」(Entschlossenheit)なる概念で
集約しているのである。――ついでに言えば、この「決意性」なる語は、リルケも特に好んで用いた語である。リルケが、容赦なく幻想を排除して、人間の使命を堅持した方向もここにある」

ニ、実存哲学とリルケの同時代性――1920年代

 1924 カフカの死とその後の諸作品刊行
 1927 ハイデガー『有と時』
 1932 ヤスパース『哲学』
これらはいずれも数年以上の準備期間を含み、同時にそれはリルケ「ドゥイノの悲歌」「オルフォイスへのソネット」の着手と1924年の出版およびそれ以後のいわゆる後期リルケと、正確に符合する。

ホ、リルケと実存哲学との関連のもうひとつの側面――キルケゴールがリルケの精神的発展に及ぼした重要な意味

 ボルノーはキルケゴールを
「かつていかなる思想家も、これほど重要な影響をリルケに及ぼしたことはなかった」「キルケゴールはリルケの生涯における決定的な転回点を意味している」
と、きわめて高く評価している。

-------------------------------------

 私はキルケゴールについて何を言うこともできませんので、ホ、の詳細は省略させていただきます。なお『リルケ論集』には、ボルノーも参照を求めている、ヴェルナー・コールシュミット「リルケとキルケゴール」という論考が収録されています。
 リルケと実存哲学ということでは、ぜひ、塚越敏『リルケの文学世界』を視野に入れたかったのですが、他日を期します。本書はご承知のごとく、とくに『マルテの手記』におけるリルケに焦点をしぼり、これを実存主義としてとらえて論述した大著です。私は本書にたいへん教えられました。
 「被放擲性」という語は、中断したままになっている、「乏しき時代の詩人」および立原道造「風立ちぬ」論の続稿へと私を急き立てるようです。

1149Morgen:2015/04/15(水) 01:58:14
写真2題
 日曜日に、養父市の「樽見の大ザクラ」を観てきましたので写真を添付してみます。
 山の中で、骸骨のようになって残っていた樹齢1000年を経た桜の木を、村人達の数年がかりの必死の努力によって蘇生させたのだそうで、今では毎年一万人が花見に訪れるそうです。

 「諫早眼鏡橋」(1940年 木版 平塚運一)という珍しい写真(『版画芸術』92号「美しき山河」)を見つけましたので、これも添付してみます。

 

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https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001284_2.jpg

1150龍田豊秋:2015/04/20(月) 11:21:24
ご報告
18日、諫早つつじ祭りの一環として、伊東静雄詩の朗読会を開催しました。
高城城址の中腹にある詩碑の周りは、つつじの花が見頃でした。
藤棚には満開の花が溢れ、甘い香りが一帯に漂っていました。
楓の柔らかい青葉が、光輝いていました。

当日は、JR九州主催のウォーキングが実施され、県外からも多くの参加者があり、朗読会にも飛び入りがありました。

「公園」、「わがひとに与ふる哀歌」、「八月の石にすがりて」、「稲妻」、「そんなに凝視めるな」、「燕」、「蛍」、「小曲」と、順次朗読したところで雨がぽつぽつと落ちて来て、一休みとしました。
しばらく雨がやむのを待ったのですが、残念ながらそれで打ち切りとしました。

1151龍田豊秋:2015/04/20(月) 11:23:33
ご報告
写真を載せます。

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1152上村紀元:2015/04/26(日) 11:45:20
静雄詩評 淵上毛錢詩集
昭和22年7月刊行『淵上毛錢詩集』寄贈を受けての礼状。

 御詩集ありがとう存じました。大へん特異な、個性的な御詩業と存じます。むつと土の匂いが顔をうつやうに感じました。馬車屋の親爺、柿の木の下で、短命、柱時計、春祭り、月と牛と朱欒の木、等軽い機智で支へられたやうな淡如たる発想の小品が好きでありました。力作と思はれる割に長い御作は、表現が積極的すぎ(よく云つて)、自己満足的すぎ(悪く云つて)るやうに拝見しました。近来出色の詩集と存じました。
或は小生らより先輩の方ではないかとひそかに想像しております。版画も楽しく、小さい子どもらまで喜んで見入つてゐました。       伊東静雄
                  〈昭和24年3月刊 淵上毛錢主宰詩誌『始終』より転載〉

 淵上毛錢 1915−1950 昭和時代の詩人。大正4年1月13日生まれ。上京したが結核性股関節炎となり,郷里の熊本県にかえり終生病床にあった。昭和18年「誕生」を発表後,「山河」同人となり,22年「淵上毛銭詩集」を出版。23年「歴程」同人。昭和25年3月9日死去。35歳。没後の47年「淵上毛銭全集」が刊行された。本名は喬(たかし)。

 毛錢生誕百年にあたり、熊本県八代市在住の作家、前山光則氏が西日本新聞に「生きた 臥た 書いた」〜極私的淵上毛錢論〜連載執筆中。

1153龍田豊秋:2015/04/30(木) 13:11:15
ご報告
3月25日午後2時から,諫早図書館2階集会室に於いて第89回例会を開催した。
出席者は7名。
ゲストとしてもう一人,植松久子様が出席されました。

今回は、現代詩文庫『伊東静雄詩集』の初めから3篇を読み解いた。

会報は第83号。
内容は次のとおり。

1  「真に獨りなるひとは自然の大いなる聯關のうちに恒に覺めゐむ事を希ふ。」

????『輔仁会雑誌』は、学習院の学生組織である学習院輔仁会が発行する。
  昭和17年11月、平岡公威が、伊東静雄の詩『野分に寄す』の一部を巻頭言として借用
????し、編集後記で伊東静雄を賞賛しました。17歳のときです。

????東京在住の青木由弥子様が、学習院まで出向いて『輔仁会雑誌』のコピーを
????入手して下さいました。
??????????????????????????      ????????????????????????上村 紀元

2 詩 『野分に寄す』??????????????????????????????????????????伊東 静雄

3 『伊東静雄を聴く 鈴木亨の覚書より』????????????????   ??????青木 由弥子
????青木様は、伊東静雄賞の佳作賞を受けられた方です。
??????????????????????????????????????????????       POCULA17号

4 『菜の花忌』??                      ???????? 中野 章子
????以前の菜の花忌に、庄野潤三さんが来られたときの思い出話です。
????中野様のブログは『朱雀の洛中日記』。
  色々な本の紹介、グルメや旅の記録が豊富で、京都の今を知ることが出来ます。

5 伊東静雄と10人の詩人たち

6 詩 『妹の金魚』?????????????????????????????????????????? 大村 直子
????????????????????????昭和40年9月『果樹園』115号(現姓 中山 直子)

7 詩 『丘にのぼって』????????????????????????????????????????大村 直子
????????????????????????昭和41年1月『果樹園』119号

8『諫早行』 ?????? <昭和42年7月15日>  ??     ??????小高根 二郎
????上村肇、木下和郎、内田清三翁、市川一郎と会った。
??????????????????????????????????????『果樹園』139号

9 第25回伊東静雄賞奨励賞
????八重樫克羅さんといわたとしこさんに決定した。
                                 ???? 以上

5月の例会は,23日午後2時から,諫早図書館にて開催します。

1154龍田豊秋:2015/04/30(木) 14:37:06
石楠花忌
木下和郎は(昭和7年〜平成2年)、伊東静雄という大きな山脈に連なる詩人のひとりです。
小長井村生まれ。長崎県内の中学校に勤務しながら純度の高い叙情詩を作り続けました。

3月29日、諫早市小長井中学校そばの詩碑「昭和十九年秋」の前で、
木下和郎を偲び、第22回「石楠花忌」が開催されました。
葉桜に抱かれる詩碑の周りにはさわやかな潮風が吹き渡り、献げられた淡いピンクの
ツクシシャクナゲが優しげでした。
どこからか、野の花の香りが漂ってきました。

木下健枝奥様は今年もお元気な姿を見せられ、教え子の皆様は大層に
喜んでおられました。

伊東静雄研究会から、今回は3名が参加しました。
例年と同様、皆様には大変にお世話になりました。
有り難うございました。

    嵯峨島 抄????????木下 和郎

   "姑そはの また 母そはの
   逝き逝きて あえずなりける「菜花忌」の
   手にふるる野花摘みゆき
   ゆかしかりける歌
   耳に残しつつ
   わたりゆく五島灘かな"

遣唐使船が、いよいよ五島三井楽の港を離れるとき、彼らの想いはいかばかり
複雑であったことでしょう。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001289.jpg

1155Morgen:2015/05/04(月) 00:03:09
爽やかな五月の風・・・
 詩人木下和郎を偲ぶ「石楠花忌」のご投稿拝読しました。ー小長井中には、有明中学3年生の時に陸上競技のリレー選手として訪れたような薄い記憶が残っています。
 毎年のように登った多良岳の麓「山犬谷」の筑紫シャクナゲの群落や、すずなりの紫アケビの実のことなども思い出します。
 (その記憶を引きずっているのか)数本の日本シャクナゲ、アケビ、ムベなどの盆栽樹が、我が家の狭い庭で花を咲かせたり小さい実をつけたりしています。ごみごみした大阪の下町の路地にも爽やかな五月の風が吹いています。

 今日は、朝から娘夫婦が来て、家内と楽器(ハンマーダルシマー)をワゴン車に載せて万博公園に連れて行き、日本庭園で野外演奏会をしたそうです。(私は用事があって行けませんでしたが。) 演奏者は6人(すべて60歳以上)で、家内の演奏曲目は、「ロッホローモンド」、「ひこうき雲」、「花嫁」、「ロード インチクイン」、その他ポルカ3曲などだそうです。また他の演奏者はもっとムードのある曲を演奏されたそうです。
 私は、毎晩、聞かされて「耳蛸」になっていますが、苦手な楽器の演奏にチャレンジすることはボケ防止に大きな効果があるそうです。観客も立ちどまって聴いてくれたそうです。私は、残された連休には、身辺整理やスポーツジム通いなどをします。

 庄野潤三『夕べの雲』を再読しました。
 「そういう切なさ(自分が死んでしまったあと、・・・)が作品の底を音をたてて流れているので読み終わったあとの読者の胸に(生きているということは、やっぱり懐かしいことだな!)という感動を与える。そのような小説を、私は書きたい。」(『わが文学の課題』)


 

1156Morgen:2015/05/15(金) 23:47:29
猛暑/30℃の東京
 10日程前には「爽やかな5月…」という投稿をしましたが、12日から14日までの東京は連日30℃の猛暑でした。(仕事で出張中)
 仕事の合間を盗んで、いつもの如く写真−小石川植物園や後楽園(庭園)周辺ーを撮りに回りました。しかし、この時期は何処も緑一色で変化がありません。
 東京駅で日没となり、皇居外苑の和田倉噴水に夕陽が当たって虹色をしていた景色と、東京駅の窓に夕日が映って、奇麗な色に染まっていた景色の2点を添付してみます。
 当分は、仕事が忙しくあまり読書もできず、投稿するほどの情報もありません。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001291.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001291_2.jpg

1157山本 皓造:2015/05/17(日) 14:58:18
早川電機工業
 Morgen さん、お暑うございます。お勤めご苦労様です。
 私のほうはすっかりごぶさたをしてしまいました。
 準備運動のつもりで、昔話をします。

 私は昭和23年に、大阪市阿倍野区の長池小学校というところを卒業しました。古風ながらちょっとハイカラな木造校舎で、運動場の端には、柵も何もなくていきなり長池という大きな池が広がっていました。
 5年生、6年生の教室は2階にあって窓から見下ろすと細い道路を隔てて小さな町工場があり、それを早川電機工業といって、当時はラジオを作っていたと思います。
 私たち悪ガキは、2階の教室から、工場の中庭に出て来る労働者のオッサンをつかまえて、冗談口をたたいたりからかったりしました。それで先生にこっぴどく叱られたこともありました。
 小さな町工場はある時期からグングン大きくなって、あたりいっぱいに工場、倉庫、本社ビルなどが立ち並ぶようになりました。社名はシャープ工業になり、よくテレビなどに出て来る、角地の本社ビルもこのころに出来ました。私たちがアレヨアレヨと云っている間でした。
 いま、シャープが潰れそうになっているのを見ると、感無量なものがあります。身につまされる、というと笑われるでしょうか。栄枯盛衰というよりは、子供のような町工場から、成長して、成熟して、衰退して、80老人のような満身創痍に。……いや、こういうのはつまらぬ感傷ですね。

 伊東、立原、リルケ、ハイデガー、(細見和之、金時鐘、小野十三郎)、またぼちぼちやります。
 長田弘さんが亡くなりました。朱雀さんがブログに書いておられます。




?

1158Morgen:2015/05/27(水) 23:37:09
涼風を送りたい
 また5月の猛暑がやってきました。皆様お元気にお過ごしでしょうか。こういう時は逆療法で行こうと思って、今日は仕事が済んでからスポーツジムのランニングマシーンで10キロ(1時間)走って汗を流したら、お腹もすいて爽快な気分でした。
 先日、東京の文京シビックセンター前の公園に、サトウハチロー「ちいさい秋みつけた」の詩と、サトウハチロー宅から移されたハゼの樹があり、とても涼しげな感じがしましたので、写真を添付してみます。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001293.jpg

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1159龍田豊秋:2015/05/28(木) 12:57:18
諫早花菖蒲
諫早公園の花菖蒲が見頃となりました。
夜は,周りを蛍が飛び交っています。

野呂さんを偲ぶ「菖蒲忌」は31日に開催されます。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001294.jpg

1160伊東静雄研究会:2015/05/31(日) 08:24:05
杉本秀太郎氏 御逝去
著書 近代日本詩人選18「伊東静雄」(1985年筑摩書房)では、詩集『わがひとに与ふる哀歌』の独自な読解を展開され、静雄研究家に大きな影響を与えて頂きました。謹んでお悔やみ申し上げます。

1161Morgen:2015/06/01(月) 14:53:46
謹んでお悔やみ申し上げます
 お知らせを頂いて驚いています。
 去年の10月には、『サライ』誌上で、お元気そうな写真を拝見し、まだまだご講演を拝聴できる機会もあるだろうと期待していました。
 長い間、色々なご本を通じてお世話になり、ありがとうございました。慎んでご冥福をお祈りいたします。
??中野章子さんも5月28日「朱雀の洛中日記」に「神遊び」と題して追悼文を載せておられます。

「神遊び」
・・・・・わが「朱雀の洛中日記」は、先生の著『洛中生息』からヒントを得たもの。内容が遠く及ばないのは言うまでもない。・・・・・杉本秀太郎さんの本はわが京都暮らしの最高の手引き書だった。いま『火用心』(編集工房ノア 2008年)を開いている。昭和35年(1960)、桑原武夫から富士正晴に会うよう言われたときのことが記されている。(「富士の裾野」)。人文書院から『伊東静雄全集』を出すので、手伝うよう言われたのだ。何とも贅沢な出会いだなあと溜め息が出た。学者というより京都の文人、京文化のエンサイクロペディアのような人であった。ただただご冥福を祈る。

<<ご参考>>「サライ10月号に,杉本秀太郎先生がご登場です。」??投稿者:Morgen??投稿日:2014年10月10日(金)17時32分20秒
 9月の報告の中で龍田さんが「サライ10月号に,杉本秀太郎先生がご登場です。」とお知らせいただいた通り、『サライ』10月号が本日発売され、杉本秀太郎先生が「生粋のみやこ人」が案内する秘めおきの京都紅葉名所」の案内人として登場しておられます。掲載されている杉本先生のお写真から推察するとまだまだお元気そうで、安心しました。
 先生のお勧めは「鹿王院」「長楽寺」「蓮花寺」の3ヶ所です。紅葉の絶好シーズンになったら是非訪れてみましょう。ついでに、杉本家の「秋の特別一般公開」(10月21日〜26日13時〜17時)も是非お立ち寄り下さい。

1162龍田豊秋:2015/06/04(木) 10:36:01
ご報告
5月23日午後2時から,諫早図書館に於いて第90回例会を開催した。
出席者は8名。
今回は、「氷れる谷間」「田舎道にて」「真昼の休息」の3篇を読み解いた。

会報は第84号。
内容は次のとおり。

1 『淵上毛銭詩集』(昭和22年7月刊行)受贈に際して礼状???? 伊東 静雄

???? "御詩集ありがとう存じました。大へん特異な、個性的な御詩業と存じます。むつと土の匂いが
    顔をうつように感じました。...近来出色の詩集と存じました。..."
??????      ????????       ??(昭和24年3月淵上毛銭主宰誌『始終』に掲載)

 ????淵上毛銭(1919−1950 昭和時代の詩人。大正4年1月13日生まれ)
??????郷里は熊本県。

??????前山光則氏(八代市在住)の「極私的淵上毛銭論」が、西日本新聞に15回にわたり連載されました。
??????上記の礼状が掲載されている『始終』のコピーを前山氏から頂戴しました。

2 伊東静雄を哭す                          保田與重?
                (昭和28年7月『祖国』伊東静雄追悼号)

????圧倒的な内容と長文で、なんとも、私には評する術も能力もありません。
????ただゞため息が出るばかりです。
                                    以上

  6月の例会は,27日午後2時から,諫早図書館にて開催します。

1163龍田豊秋:2015/06/04(木) 11:42:34
菖蒲忌
5月31日、第35回「菖蒲忌」が開催されました。
変わらずに野呂さんを愛する遠方からのお客様や市民約150名が参加しました。
前日の天候が思わしくなく、初めて会場を屋内に設けての開催となりました。
かいつまんでご報告します。

1 「諫早菖蒲日記」冒頭部分を、諫早コスモス音声訳の会・峰松純子様が奉読されました。

2 野呂文学作品朗読 鎮西学院高等学校インターアクトクラブ
  「小さな町にて」から、「ルソーの木」を浦 佐季さんが、「奇蹟」を井手 京香さんが朗読しました。

3??野呂文学作品朗読 諫早高校放送部
  「白桃」を、相良 ひかるさんと森 美沙希さんが朗読しました。

4 第15回諫早中学生・高校生文芸コンクール最優秀賞作品朗読

  中学の部 随筆「母の愛」  入江 祐希奈さん(諫早高校附属3年時)

????高校の部 随筆「母へ伝えたいこと」 川西 真未さん(西陵高校3年時)
??????????????代読  西陵高校放送部 正林 さやかさん(西陵高校1年)

                                  以上

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1164山本 皓造:2015/06/10(水) 15:10:30
カール・レーヴィットのハイデガー論
 カール・レーヴィット『ハイデッガー 乏しき時代の思索者』(未来社)という本を読みました。
 ハイデガーに対する鋭い批判者としてのレーヴィットの名は早くから知っていましたし、『乏しき時代』という標題の一部から察して、“Holzwege”に寄せられたハイデガーのリルケ論についても何らかの言及がある筈だと考えて、古書で探して取り寄せたのです。
 結果は、ごくわずかでしたが、リルケ論への関説はたしかにありました。この稿ではそれを紹介し、そして、それを機に、前からこの欄で一、二度書いた、「ハイデッガーのリルケ論」を、もう放り出そうと思うのです。

 レーヴィットが取り上げているテキストは主として『存在と時間』から『森の道』(Holzwege)に至る諸著作と論文、講演などであり、分量的にはハイデガーのニーチェ解釈にたいする論究が圧倒的に多く、これにたいしてリルケないしリルケ論への言及がもう少し多いと思っていたのは、当てが外れました。
 レーヴィットはハイデガーの「解釈の強引さ」に相当苛立っているようです。

ハイデッガーが、近代における他のいかなる解釈者も及ばないほど冴えた聴覚の持ち主で、思索的あるいは詩作的な言語組織を入念に分析し独創的に綜合するに当って、追随を許さぬ読みと解釈の術に熟達しているということは、何びとも異論のないところであろう。しかしまた何びともハイデッガーの解釈の強引さを無視することはできないであろう。実際、彼の解釈は、原典に記されていることの解説などという次元をはるかに超え出ている。それは、解釈的な仲介であって、何ごとかを介入させる。それは原典を転移させて他の言葉へ翻訳しながら、しかも「同一のもの」を思索していると自負している。……この強引さをとがめ、あの精妙さに感心する人もあろうが、これらは同じものの二つの側面なのである。

 このことはリルケの詩の解釈についても同じであって、レーヴィットはこんなふうに述べます。

リルケの詩についての論文(『何のための詩人か』)は――個々の点の曲解を別にすれば――精妙な解釈の傑作である。それはリルケが語った事柄を超えて詩作し、思索しているかぎりで、リルケの思惑から外れているにすぎない。

 そして私も「まことにそうだ」と思わざるを得ないのです。ハイデガーは「乏しき時代の詩人」の中で、リルケの基礎的なターム、「開かれた世界」「純粋な連関」「重力」「世界内面空間」などについて、見事な言い換えをして見せてくれます。私たちはその鮮やかさに感嘆するとともに、ふと、「これはほんとうにリルケ?」との疑念を禁じ得ないのです。

 ハイデガーのリルケ論への言及は、もう1個所あります。

こうして、ハイデッガーによれば、神性への足跡である聖なるものが隠されたままになっているばかりでなく、聖なるものへの足跡たる全きものさえも、かき消されたように見える。頼みになるものがあるとすれば、いまだに幾人かの死すべきものたちが「絶好の瞬間に」居合わせて、危険を見とどけうるということであろう。なぜなら、彼らは深淵の底へととどき、リルケの言葉を借りれば、「より冒険的」であるからである。救いは、存在にかかわる人間の関係が転回するところからしか、到来しえない、とハイデッガーのリルケ解釈で述べられている。

 これはハイデガーのリルケ論の勘所です。
 神なき時代の人間が奈落の底に頽落を続ける。どこかで「転回」が、Wendeが、起らなければならない。上に向って跳ぶ、踏み台がなければならない。その踏み台となるのは、詩人である。なぜなら「言葉は存在の家」であるから。――
 乱暴に要約してしまえば、こうなるでしょう。そして、その見地により明確に立っていたのは、リルケよりもヘルダーリンである。「ヘルデルリーンは、乏しき時代の詩人の先行者である」と、ハイデガーははっきり、リルケと対比しながら、こう述べます。
 私の要約は短気に過ぎるので、ハイデガーがリルケ論の後半でかなり具体的に「ドゥイノ」「オルフォイス」を引いて述べていることなどは、もう少し詳細に耳を傾けるべく、宿題として残しておきたいと思ってはいるのですが。
 けれども、これはリルケの名を出してはいないのですが、レーヴィットが本書の終りのほうで言っていることは、もう遠慮もとり払った、正直なハイデガー評なのでしょう。

ハイデッガーが同時代人に与えている影響を理解するために少なからず重要だと思われることは、おのれを隠蔽する開顕という神秘的なもののパトスが基礎をなしていることのほかに、一方では、事物を対象として客観化してこの対象を打算的に算定する「表象的」「製作的」な学問の合理性に対する彼の否定的な態度、他方では、詩作、とりわけ彼が一連の解釈と換骨奪胎をささげたヘルダーリンに対する肯定的な態度であろう.

 ハイデッガーと四ツに組んで大相撲をとるというのは、おそらく身の程知らずということであろう。しかし、あるいは、もしかしてそれは、愚行であるのかもしれない。
?

1165Morgen:2015/06/15(月) 22:59:00
『鏡のモチーフ』
 まず、リルケとトラークルのふたつの詩を抜粋してご紹介します。

? ・・・・・
それみずから 静かに 美しい水盤のなかで
郷愁もなく 拡がりながら 一つまた一つと輪をなして
ただ 時折 夢みるように 一滴ずつ

垂れ下がった苔にそって したたり落ちる、―
移りゆきによって、その水盤を そっと
下から微笑ませている 最後の鏡に。
(リルケ「ローマの噴水」―『新詩集』より)

? ・・・・・
ぼくの魂の暗い鏡に
かって見たことのない海の
見捨てられた 悲しい幻の土地の映像がうつり
青のなかへ 運命のなかへ溶けていく。
・・・・・
(トラークル「三つの夢」―同全集389頁より)

 リルケの「最後の鏡」と、トラークルの「魂の暗い鏡」との二つの鏡の間には、どこかに共通性があるように、私には感じられます。
 リルケの場合は、水盤(時間のイメージ)をつたって絶え間なく流れおちる水(運動)、その最後の水盤(鏡)には、「未知の事物のような空」が映っています。
 トラークルの詩においては、「ぼくの魂の暗い鏡に かって見たことのない海の 見捨てられた 悲しい幻の土地の映像」が映っています。

 ヴィクトール・ヘル(ハイデガーの弟子)は「リルケにとって、問題は、世界内面空間、詩的空間を現前することにある。」「われわれが捉えようとするが徒労に終わる果てしないあの空が、動いている水に反映することにより形象というはっきりしたフォルムに還元されて、ここにある。」と述べています。(ヴィクトール・ヘル『リルケの詩と実存』後藤信幸訳 理想社)ここらに解明のヒントがありそうです。

 ハイデガーは、自己の実存哲学を学生に講義する一つの方便としてリルケの『マルテの手記』や詩作品を利用したに過ぎないような気がします。従ってハイデガーからリルケを学ぶのは、(山本様が示唆されるように)筋違いなのかもしれないと、私も思います。やはり、リルケはリルケからしか学べないと諦めて、これからもリルケの詩そのものを読み続けることにします。

1166山本 皓造:2015/06/19(金) 13:16:50
これかな? ――ローマの噴水
 Morgenさんの投稿を読んで、また昔のことが蘇ってきました。
私が『新詩集』を読んで勉強していたのはもう30年以上も前のことですが、その時のノートを探し出して、見て、この「ローマの噴水」の前で「これは何?」と立ち止まってしまったことを思い出しました。
 立ち止まった、その原因は2つあったようです。
 ひとつは、私はボルゲーゼ公園の噴水を、実物も写真も見たことがなく、リルケの詩句のひとつひとつが、この噴水のどのような容姿と構造について言っているのか、具体的なイメージがつかめなかったことです。
 その2は、この詩には主語も述語もない!ということでした。動詞はあるのですが、副文中のものを除くと、あとはすべて、neigend ..., zeigend ... というように、分詞形ばかりなのです。(それも übersteigend ... entgegenschweigend ... 長い!)
 まずWEBで検索してみました(30年前にはそんなことは考えられなかった)。たとえば「ボルゲーゼ 噴水 リルケ」というふうなキーワードでやってみると、関連画像というものがどっさり出て来ます。そのひとつを添付してみましたが、これがリルケの「ローマの噴水だ」という確証がありません。どなたかご教示ください。

 次に、訳にも苦労しました。今あらためて手もとにあるものを当ってみたのですが、弥生書房版全集2の高安国世さんの訳がみつかっただけでした。この訳はある意味でスゴイので、第4聯だけ書き出してみます。

   雫となって鏡のような水盤に落ち、
   反す光がほのかに皿の裏側を明るませる、
   此岸を超えて行く者の微笑のように。

「皿の裏側を」は正解だと思います。これは2番目の皿の裏側のことで、一番下の池の波紋が光を反射して上の皿の裏側にゆらゆらと揺らぐ光紋を映しているのだと思うのです。そして最終行がスゴイ!と思いませんか? その当否は私などにはとても言えません。mit Übergängen と複数になっていることをヒントに、私は「水面[みなも]の波の次々のうつろいは/上の水盤に反射して[揺らめいて]それをひっそりと微笑ませる」と、情景を想像してみたのですが……。

 噴水は「リルケ語彙」のひとつで、たしかに「時間」を感じさせますが、しかし別の感じ方では、これは「永劫回帰」なので、、むしろ「無時間」という感じ方もありうると思うのです。
 伊東静雄も噴水(吹上)には何やら思い入れがあるらしく、ただ彼の噴水は、勢いよく吹き上げては崩れ落ちる、そういうタイプのものだったようです。(私はどこかで「噴き上げられる泉の水は、頂点で憧れから悔いにかわるのだ」と書いたおぼえがあります)。
 Morgenさんの云われるように、やはり「リルケはリルケからしか学べない」ほんとにそのとおりだと思います。ハイデガーの「解明」は別格としても、リルケの詩句を、あまりメタファーやアレゴリーや形而上学で解するのは、とくに『新詩集』の場合は、リルケの本意ではないように思います。とはいうものの、そのリルケも晩年の作品は何やら人生訓めいて来る(と、これは以前紹介したボルノーが云っていたことでした)。
 伊東静雄はリルケから何を学んだのでしょう?

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001301.jpg

1167山本 皓造:2015/06/20(土) 14:30:27
追伸――ローマの噴水
せっかくMorgenさんが、トラークルも並べて、鏡について問題を提示してくださったのに、何のお答もできなくて申し訳なく思います。私は鏡は苦手なのです。リルケには鏡がたくさん出て来ますし、マルテの衣装部屋や一角獣の手鏡など、そう思って、試みに塚越敏さんの『リルケの文学世界』を覗いてみたのですが、索引には数十件の参照個所が示されています。伊東は鏡にはとくに詩的な関心はなさそうなので、この西洋的なテーマは私もつい今までパスしてきたのでしたが……。

 詩「ローマの噴水」の解釈についての私見をひとつ。
 第3聯の「郷愁もなく」というのが唐突で、つながりがよくわかりませんでした。これは今思うのですが、
   「郷愁もなく ohne Heimweh」と「悔恨にずつと遠く」には、親縁性がある
と、私は感じました。「悔恨にずつと遠く」は「(ふたたび私は帰つて来た)」と背中合わせになっています。
 「流れ来ては流れ去る河の流れ」と「湛えては溢れ出す噴水」は、共に時の流れに結びつき、そして時の流れは悔恨や郷愁を呼び出すのですが、同時にその永劫回帰によって郷愁や悔恨は否定され、無意味化されてしまうのです。

 ふと思い出して――
 「明澄な鏡での様に」と、伊東は「談話のかはりに」で言っていましたね(新即物主義のところで)。この鏡自体は、まさに即物的な鏡であって、まさか何のメタファーでもアレゴリーでもないでしょうね。
 伊東は「自然の反省」ということを言います。反省=reflection=反映で、この場合は、いわば「心」が鏡の位置に来るのでしょうか。私は絵を描いてみたことがあります。

1168Morgen:2015/06/23(火) 15:05:42
『鏡のモチーフ』 (追)
 山本様、こんにちは。
 私の方は、株主総会を無事に終えて、滞っていた仕事を書き出してみたら10項目ほどもありましたので、順々に片付けているところです。
 最近は月に3回ほど東京出張していますが、根津神社(地元の人は「権現さま」と言う)〜団子坂辺りにある「文豪の街」という看板や藤沢清造『根津権現裏』が心の底に残っていて、少し時間をかけて周辺を散策してみようと思いながら、その時間がとれず、まだ実現していません。

 *藤沢清造『根津権現裏』(1922年)(新潮文庫で復刊されています)が、どこか『マルテの手記』―同書の後記に付されたリルケの「写真のネガティブ・・・」を含めて―を連想させます。
(藤沢清造は、石川県七尾の生まれ。小説家を志して上京。1932年芝公園内のベンチで凍死。年譜によると、藤沢清造が『根津権現裏』を執筆したのは大阪・大淀区中津町の兄の家でだったようで、我が家から徒歩圏内です。)

 先日、天神橋の天牛書店を覗いていた折に『トラークル全集』(元は1万円ほど)が3,500円で売られていたので直ちに購入して、ペラペラめくっていたら、前回ご紹介したトラークル「三つの夢」の「鏡」の詩句が目にとまったのです。

 山本様ご紹介のように、伊東静雄は[談話のかはりに]で、次のように述べています。

 「・・・・・新即物主義といふのは、文字通り、なるべく事物に即し、明澄な鏡での様にこの紛雑した世界に対し、それを透徹しようといふのらしい。表現主義のアンティテーゼで、リルケやゲオルグの伜であるらしいとのことです。・・・・・」


 ご存知のように、トラークルは「表現主義派」に分類されておりますが、「(心の)鏡に映る海の 見捨てられた 悲しい幻の土地の映像・・・」という表現をしているのに興味を引かれたのです。

 「リルケは、まさに“紛雑した世界”の美や情緒のような感性的なものは、そのままでは捉え難くても、「鏡」に映してみるとシンプルになり、解り易くなると言っているのではないか。」というのが、私が感得した『鏡のモチーフ』に関する読み解きのヒントでした。

 『鏡のモチーフ』の使用に関しては「リルケもトラークルも似たようなことをやっているな!」という感想を、そのまま書いたたのが、前稿の趣旨でした。

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1169Morgen:2015/06/28(日) 00:07:16
映画『ターナー 光に愛を求めて』
 去年は、神戸市立博物館で『ターナー展』が開催され、その圧倒的な迫力に感動ましたが、今年は映画の『ターナー 光に愛を求めて』が公開されています。本日、映画ファンの家内に誘われて、梅田ロフトB1F「テアトル梅田」で観てきました。ターナーの個性的な人格描写に加えて、イングランドの19世紀の下町風景や海岸沿いのごたごたした海浜景色が再現されているようで、約2時間半の大作映画にも拘らず、興味深く鑑賞させて頂きました。

 ご存知のように、ターナーの絵画については、夏目漱石は、『坊っちゃん』のなかで「ターナーの松」[ターナー島」などとしてとりあげています。大胆な海や船の構図で、太陽の光や影を奔放な色彩を用いて描いており、イギリスの「ロマン派」画家ともいわれています。漱石は、ロンドン留学中に、国に遺贈されたターナー作品の大部分を収める「テート美術館」を訪れて、ターナーの絵画を鑑賞したそうです。小説のなかで「坊っちゃん」は、?ターナーとは何のことだか知らないが、・・・"と言っていますが、漱石はターナーの絵画をよく知っていたのですね。(言わずもがなのことではありますが…)

 夏目漱石が『坊っちゃん』を書いたのは「千駄木57番地」いわゆる「猫の家」(根津の上の高台で、森鴎外「観潮楼」の近く)ですが、その後(1911年)に早稲田南町に有名な「漱石山房」を建築しています。その漱石山房跡の発掘が新宿区役所のご尽力によって進められており、やがては再建される予定であることが、昨日のの朝日新聞夕刊に出ていました。
( 弥生美術館・竹久夢二美術館の隣りにあった「立原道造記念館」は平成12年に取り壊されたそうです。5月27日の投稿「小さい秋見付けた」でご紹介した近所の「サトウ八ロー記念館」(弥生2丁目)も20年ほど前に閉館されたそうです。)
 

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1170山本 皓造:2015/07/01(水) 10:35:58
「鏡」の絵
 トラークルについて。私はトラークルはやはり「表現主義」だと思います。「ぼくの魂の暗い鏡」が「明澄な鏡」のように事物を映しているとは思えないし、トラークルにもそういうつもりはなかったと思います。Morgenさんのご教示をいただいて、私も「三つの夢」を読んでみましたが、そこから明確な事物のイメージは浮かんで来ません。トラークルは外界の事物ではなく「魂の暗い鏡」に映った自らの内面を表出したかったのであって、その意味で表現主義と呼んでよいと思います。
 これにたいして、リルケの詩から出て来るのはまさしく事物のイメージであり、噴水や鏡は何のメタファや象徴でもなく、まさにそのものであって、そのままで、私はそれを抒情と感じます。少なくとも『新詩集』はそのように読みたいと思います。

 鏡の話が出て、私は前稿で「絵を描いてみたことが」あると云った、その「絵」をノートから探し出しました。前後の書き込みから判断すると、これを描いたのは2013年の4月頃らしく、――
 ふりかえってみると、この年は、「秧鶏は飛ばずに」やチェーホフ書簡の解明からはじまって、3月には美原の詩碑の除幕式があり、その後私が伊東の初期詩篇「海」「窗」について投稿し、話はケストナー、新即物主義、に移り、夏に入って私が腰痛で「休筆」に至った、というふうな流れでした。
 「絵」の周辺には乱雑な書き込みがいっぱいあって、読むと、やはり新即物主義、それに田中俊廣先生の「私を超ゆる言葉」のこと、碓井雄一さんの「詩人の自意識」のこと、などを考え詰めていたようです。
 「窗」(2013.4.4) を書いて、末筆で「ここで行き詰まっています」と私は書いています。2年間、行き詰まったままというわけです。いつかこれは必ず一度は書き切りたい。

 先日来、「小野十三郎のリルケ論」というものを書いて、次に投稿しようと思っています。もうすこし整理中です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001305.png

1171Morgen:2015/07/03(金) 00:00:32
森鷗外と「鏡」
山本様、ありがとうございます。
 昨夜10時からのNHKテレビで偶然にも『漱石先生と妻と猫―“吾輩は猫である”誕生秘話』という番組が放送されていました。(ご覧になられた方も多いのでは。)

 小説“吾輩は猫である”の筋とは少し異なるところもありますが(鏡子夫人の思い出や夏目房乃助氏の話が軸になっている?)、とても面白かったです。

 この舞台となっている「猫の家」は、1890年10月〜1892年1月の間、森鷗外が住んでいました。その約9年後(1903年〜1906年)に同じ家に住んだ漱石は『坊っちゃん』や『三四郎』を書いて小説家としてヒットを飛ばします。その好評に刺激されて鷗外は『青年』(1910年)や『鴈』(1911年)を書いたともいわれます。

 一方で、鷗外は1909年10月にリルケの『家常茶飯』を翻訳していますが、その自評として次のような文章を遺しています。(『現代思想』)

 「・・・底には幾多の幻怪なものが潜んでゐる大海の面に、可哀らしい小小波がうねつてゐるやうに思われますね。・・・」

 この「大海の面」はまさにリルケの「鏡」ではないかと私は思います。

 また、『鴈』の中に描かれた上野不忍池の描写において「・・・此のbitume色の茎の間を縫って、黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水の面を、十羽ばかりの鴈が緩やかに往来している。・・・」と書いています。この「水面」もまた鏡だ!と私には見えてしまいます。

1172山口:2015/07/04(土) 08:24:03
こんにちは
はじめまして、諫早市在住の山口といいます。
諫早の歴史に興味があり、仕事も退職したことでのんびりいろいろと諫早を歩き回っています。
今は伊藤静雄氏の史跡を調べております。
こちらのホームページはとても勉強になりました。ありがとうございます!

ところで、貴方のホームページに載っていた伊藤静雄氏の生家(現在は空き地)の写真が
気になりました。
空き地でも良いので、一度そこの道を歩いてみたいと思うのですが、現在の住所を教えていただくことはできないでしょうか。

よろしくお願いいたします。

1173上村紀元:2015/07/04(土) 10:38:18
伊東静雄生家地について
伊東静雄生家は、昭和14年他の人の所有になり、数年前に取り壊されしばらく空き地になっていましたが、現在は他の方の家屋が建っています。写真をアップすることは控えております。
平成27年7月5日13.30より諫早図書館で「伊東静雄詩の世界」の講話を致します。生家地について説明を致しますのでお出かけください。ご参加が無理であれば電話ください。案内もできると思います。0957−22−0169 上村

1174山本 皓造:2015/07/04(土) 10:39:38
小野十三郎のリルケ論
私は、鏡は一義的には「映す(写す)もの」とのみ考えていたのですが、今回、Morgenさんの云われるところを私なりに理解し得たように思いました。
    ・穏やかな(「鏡のような」)水面
    ・水面下に隠された幻怪
    ・そのような位相において存在するものとしての鏡
もし鏡がこのような属性を持つものであれば、鏡は、あり場合には
    ・何事か/何物かを隠すもの
    ・それによって隠されている存在(もの)
の喩になりうるだろう、というふうに考えてみたのです。

以下、本題です。

-----------------------------------------------------------------

 『小野十三郎著作集』(全3巻、筑摩書房、1991‐92年刊)というものを古書で購入しました。その第2巻に『短歌的抒情』(原本は昭28創元社刊)が入っていて、私はこれを単行本では持っていなかったので、この著作集ではじめて読みました。その中に「風景論の意想」という文章が収められています。編註では「初出不明」とのことですが、内容は三笠書房版『リルケ全集』の第5巻『風景画論』を読んでの批評文です。
 小野十三郎がリルケを論ずるとどういうことになるか? あらかじめわかっていると言ってしまえばそれまでですが、やはりリルケの風景画論の中に一種の宗教的オブスキュリティへの傾きを認めて、これが「がまん出来ないのだ」と言っています。といっても、小野さんはむしろ、ヴォルプスヴェーデという北方ドイツの冷たく乾いた風土や、そこでの画家たちの「硬質の抒情」にむしろ好感を抱いていて、けっしてリルケ嫌いでも何でもなかったと思います。
 しかし、と小野さんは言って、およそ風景画というものにひそむ〈魔〉のようなものについて、ヴァレリーの「風景画の発達は、絵画における理智的要素の著しい減少と不可避的な関係をなしている」という言葉を引き、以下のように述べるのです。

ここには、「形象詩集」から「ドゥイノの悲歌」にいたるリルケの精神的発展の中に見られる一種の宗教的悲願のようなものがようやくその形を現わしはじめている。これがぼくにはがまんが出来ないのだ。詩というものは一たんそれが至上実在的なものや、宗教的な永遠の権威に憑かれて、天上の摂理の中に入ってしまうと、もう詩精神自体としての形成は終ったようなもので、その瞬間から、それがどんなに高度の純粋なものでもさっぱり魅力のないものと化してしまう。

ヴォルプスヴェデの荒漠たるハイデを見るリルケの眼の澄み方もそういう澄み方で、その眼はよく五人の画家の各々の作風と性格の隅々にまで達し、北方ドイツ的国土の陰惨な自然と社会的時代的環境の中から生まれた風景画の冷たい硬質の抒情性の内容を縷々解説しながら、やはり浪漫主義的伝統による習慣的な感性と思考でもって、結局そこに「神性」の顕示を見ることで目出度く終了しているのである。

 「伊東静雄は明晰な精神である」これは亡くなられた杉本秀太郎さんの、名言であると思います。伊東の精神はけっして、オブスキュールな、神韻縹渺などに凭れかかるようなものではなかった。このことが、およそ正反対のような小野と伊東というふたつの精神を相い寄らせたのではなかったか、と思うのです。(小野十三郎の立原道造論というものはないか?)

 ネットで見ると、ヴォルプスヴェーデはけっこうな観光地みたいになっているようです。五人の画家の作品もたくさん見られます。三笠版全集の『風景画論』の訳者は谷友幸先生で、これは思わぬことでした。昭和18.12.12.高安国世宛伊東静雄書簡に『風景画論』を読んだ旨のことがチラと出て来ますが、読んで「色考へて興味深かった」その点を、もう少し書いてほしかったと惜しまれます。

1175山口:2015/07/05(日) 19:02:36
伊藤静雄氏の生家について
こんにちは、早い返信をいただき、ありがとうございます!
5日は予定があり夕方まで外出しておりまして、講話へお伺いすることができませんでした。
せっかく案内してくださったのに、すみません。

実は、用事が済んだ今日の夕方諫早図書館へ寄りまた伊藤氏のことを調べていると、とある食堂の近くということがなんとなくわかり、そこへ行くと偶然その食堂の方に伊藤氏の生家についてお聞きすることができました。さらに、脚本家の市川森一氏の生家も近くにあるということで、二人に親交があったという話も聞けました。
その通りは戦前からある雲仙街道ということで、他にもいろいろと諫早の昔のことをご存知のようでしたので、今度はそこの食堂へ食事がてら話を聞いてみようと思います。

貴サイトを拝見したことで、新たな出会いに嬉しく感じるとと共に、郷土のことを再度勉強したいと思いました。
まことにありがとうございます。
また何かありましたら質問させてください。

1176龍田豊秋:2015/07/06(月) 11:19:42
ご報告
6月27日午後2時から,諫早図書館に於いて第91回例会を開催した。
出席者は8名。
今回は、「帰郷者 同 反歌」「冷たい場所で」「海水浴」の3篇を読み解いた。

会報は第85号。
内容は次のとおり。

1『言霊の国』                      ?? 以倉 紘平
?? 以倉先生の新作詩です。

2「詩と思想新人賞入選作品」 ????????????????????????????????青木 由弥子

??詩を書き始めて、比喩ということの意味を、初めて真剣に考えました。...。
 比喩、その大切さ。考えてみれば、聖書も仏典も、たとえや比喩によって
??真実を語っているのでした。...。

????詩 『星を産んだ日』

3 詩 『輪廻(イメージ)』                 松尾 静子

4 散文『大阪』????????????????????????????????????????????伊東 静雄
??もし私が大阪に住まなかったら、恐らく私は詩を書かなかったことだろうと、
??近頃はよく考える。...。
?????????????????????????????????????????????? 昭和11年1月号『椎の木』

5 散文『伊東静雄の世界』??????????????????????????????????大井 康暢
??????????????????????????????????『戦後詩の歴史的運命についてより』

6 漢詩『社頭歌』??????????????????????????????????????????野口 寧斎

7月の例会は,18日午後2時から,諫早図書館にて開催します。

1177龍田豊秋:2015/07/08(水) 09:23:31
図書館祭り
諫早図書館の前身である諫早文庫は、111年前に設立されました。
諫早出身の漢詩人、野口寧斎が広く呼びかけて実現したものです。

7月5日,諫早図書館に於いて「第14回諫早としょかんフェスティバル」が実行されました。
諫早図書館を足場にして活動している24の団体が参加し、多彩な催しで一日中賑わいました。
図書館のスタッフの皆様のご尽力、本当に有り難うございました。

伊東静雄研究会は、上村会長が「伊東静雄の詩の世界」の演題で講演をしました。
詩3編を鑑賞しながらの講話でした。
大変にわかりやすい内容でした。
一人でも多くの皆さんが、伊東静雄の詩に関心を持って、読んで貰えたら良いですね。

会長が『秋の夜』を、会員の津田緋紗子さんは『稲妻 肥前の思ひ出』を、私は『螢』を朗読しました。

諫早公園のホタルのシーズンは終わりましたが、多良岳金泉寺の境内に現れるヒメボタルは、これからが見頃となります。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001312.jpg

1178Morgen:2015/07/10(金) 15:16:36
「図書館祭り」に寄せて
 龍田様。「図書館祭り」のレポート、ありがとうございました。
 <諫早図書館を足場にして活動している24の団体>・・・こんなにも多くの市民の活動拠点として図書館が活用されていることに感銘を受けました。

 数日前に、『鷗外の坂』(森まゆみ著 新潮社)を読んでいたら、「鷗外記念本郷図書館が自宅から歩いて3分のところになければ、私はとうてい本書を書き得なかった。」という森まゆみさんの記述が記憶に残っていたからです。「地域図書館がなければ地域文化は生まれない」のだと。

 森まゆみさん(ノンフィクション作家、エッセイスト。ただし、森鷗外とは他人。)は、1980年代以降文京区立「本郷図書館」を根城に活躍されて、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』や地域に根ざす60冊を超える沢山の著書を書いておられます。
 同図書館は、戦災で観潮楼が焼けた跡地に、文京区立「鷗外記念本郷図書館」が昭和37年に復興され,その中に鷗外記念室が設けられ関連資料が展示されてされているそうです。(現在は「文京区立鷗外記念館」となっています。)

 私は、『谷中スケッチブック 心やさしい都市空間』『不思議の町・根津 ひっそりした都市空間』切り絵集『谷根千』など、数冊しか読んでいませんが、東京出張(21〜22日)予定がありますので、都合がつけば一日早く20日(海の日)に上京して「谷根千」を歩いてみようかなとひそかに思っています。

 今後とも、諫早の皆様がお元気でご活躍下さいますよう、衷心よりエールをおくります。
 

1179Morgen:2015/07/11(土) 01:37:22
「図書館祭り」に寄せて(追)
 森まゆみ『鷗外の坂』の中に、「謫天野口寧斎」が登場しますので、前稿追加としてご紹介します。

 以下同書第4章「千朶山房−太田の原の家」(157〜185頁)から

 明治23年(1890年)10月4日、鷗外森林太郎は、上野花園町から千駄木町57番地の借家に引っ越しました。(“此の家後に夏目金之助宅「猫の家」となる”)
 鷗外は、この家を「千朶山房」と称しました。山房には当時の若く元気な論客が集い、月刊『志がらみ草紙』を発行し、その中の『山房放話』には、「石橋忍月は内田不知庵、謫天野口寧斎とともに鷗外が認める新しい文学界の批評家で、『舞姫』『文づかひ』などをめぐる論戦を行った。」旨が書いてあるようですが、手元にその資料がありません。

 今年の春、不忍池で撮影した鴨の写真がありましたので添付してみます。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001314.jpg

1180上村紀元:2015/07/11(土) 12:02:06
帰郷者 細事
伊東静雄「帰郷者」に〜古来の詩〜と表現された、諫早出身の漢詩人野口寧斉(1867〜1905)作品の一つ。

社頭花      野口 寧斎
   ?????????????????? 諫早高城神社を詠む

城山山下裊晴絲  城山(しろやま)の山下(さんか) 晴絲(せいし) 裊(たお)やかなり
樹底樹頭風自吹  樹底(じゅてい) 樹頭(じゅとう) 風(かぜ) 自(おのずか)ら吹(ふ)く
石磬無聲春日永  石磬(せきけい) 声(こえ)無(な)くして 春日(しゅんじつ)永(なが)し
萬櫻花擁一神祠  万桜(ばんおう)の花(はな)は擁(よう)す 一(いち)神祠(しんし)

道與侯門咫尺分  道(みち)は侯門(こうもん)と 咫尺(しせき)に分(わか)つ
中空花氣霽氤氳  中空(ちゅうくう)の花気(かき) 霽(は)れて氤氳(いんうん)たり
若從靉靆橋頭望  若(も)し靉靆橋(あいたいきょう)の頭(ほとり)より望(のぞ)めば
兩處蒸成一處雲  両処(りょうしょ)は蒸(じょう)し成(な)す 一処(いっしょ)の雲(くも)

藤蘿蒙密白雲多  藤蘿(とうら) 蒙密(もうみつ)として 白雲(はくうん)多(おお)し
紅上神燈隔晩坡 ??紅(くれない)を神灯(しんとう)に上(とも)し 晩坡(ばんは) 隔(へだ)つ
水色花光不知夜 ??水色(すいしょく) 花光(かこう) 夜(よる)なるを知(し)らず
石厓直下是明河 ??石厓(せきがい)の直下(ちょっか)は 是(こ)れ 明河(めいが)

??城山(諫早城址)晴絲(空を流れる蜘蛛の糸)石磬(吊り下げた石版)侯門(領主への門)
 氤氳(氣が盛ん)靉靆橋(眼鏡橋)晩坡(土手・堤)明河(本明川)

1181山本 皓造:2015/07/18(土) 12:48:59
「階段教室」レジェンド(1)――小野・伊東対談のこと
このところ小野十三郎の、前に読んだものをまた読み返したり、持っていなかったものを注文して取り寄せて読んだりしています。
そうするうちに、以前この掲示板に、住中の階段教室での小野・伊東対談のことを書いたのを思い出しました。
  「階段教室の小野と伊東」2008.10.29
「住中新聞」の部分写真と、より精細な写真へのリンクをつけています。
ところがこのリンクはもう切れていて、見ることができないことがわかりました。住中新聞の記事全体はかなりのスペースを取り、その上昔は活字が小さかったので、記事の全体画像を見られるようにするのはなかなか苦しいのです。でもこの機会に、もう一度アップしてみようと思いました。

添付の画像は、一度保存し、何かの画像閲覧ソフトで開いて、適宜拡大していただけば、なんとか文字は読めると思います。ただしもとの新聞では、記事は流し込みになっていて、アッチ行きコッチ行きしているのを、なるべくひとつのかたまりにまとめたので、体裁はもとどおりではありません。印刷もやってみましたが、Wordで、A4縦、余白を最も狭く設定して、図の「挿入」、またはウエブページの画像をコピーペーストすれば、用紙の版面いっぱいにおさまって、文字も辛うじて読めると思います。
記事本文のテキストファイルを用意しました。これは別見出しで投稿します。

実は、住中新聞だけではなくて、今回はもう少し風呂敷を広げるつもりをしているのです。
その一は、小野十三郎がのちにこの対談を回想した文章があるので、その部分を抜き出して紹介したい。
その二は、対談が行われた昭和22年10月21日現在、住中に在籍していた同僚教師や生徒(卒業生)の中に、この対談の現場にいて、後年それについて何か書いたものがないか、それをできるだけ探し出して紹介すること。
たくさんみつかると良いのですが。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001316.jpg

1182山本 皓造:2015/07/18(土) 12:51:13
「階段教室」 レジェンド (2)――住中新聞記事アップのテスト
住中新聞小野伊東対談記事をテキストファイルにしたものをアップしました。

小野伊東対談.pdf

ごちゃごちゃしますが、とにかく開くように持って行くと、開いてくれるようです。
どなたかテストしてみてください。

1183山本 皓造:2015/07/20(月) 11:46:51
「階段教室」 レジェンド (3)――同僚教師の回想
 住中新聞の記事のうち「中西先生」は、中西靖忠先生で、経歴はご自分で書かれたところによると、昭和21年9月住中赴任、23年学制改革で伊東とともに阿部野高校に移り、24年10月まで同校に在職された。担当は国語。「同僚としての伊東静雄」を『果樹園』に書かれた(『伊東静雄研究』所収)。司会の任に当たったことを自ら記しておられる。

中西靖忠「同僚としての伊東静雄」(『果樹園』第109号、昭和40.3)(抜萃)

 私が感心したことに、住中が二十五周年を迎えるというので住中新聞が主催して、小野十三郎さんを呼んで公開対談会を開いたことがある。昭和二十二年十月二十一日のことで、同新聞十一月一日号に記載されているのだが、この時、初めに立って生徒らに小野さんを紹介されたのだが、簡にして要を得たというが、生徒の身に引きよせ、関心と興味を持たせてつぎの小野氏の発言に耳を傾けさせた発言は司会をしていた私に、中学での文学の指導はこうでなくてはならぬと感心させたものである。その言葉をつぎに記録しておこう。

 小野さんは日本の有名な詩人で大阪に住む偉い詩人だ。最近詩論、大海辺という本をお書きになった。みんな詩といえば西条八十や島崎藤村の書く詩のようなものとぱかり思っているが小野さんのはまるっきり違っている。小野さんは大阪をどう見ておられるか説明しよう、これは私個人の考えだけれど(と黒板に上のような大阪の地図を書かれる)、小野さんは海の方から大阪を見られたのでそこには葦が広く生えていて最も原始的である。そこには最も近代的な大工場が建ちいろいろな文化が絶えず行われる。また人間も機械により変る。そんなものを見ている、そして次の商業地帯もどんどん変る。このように自然と人間が密接に変化している。これを太平洋上から見て詩情を感ずる、そんな詩だと私は思うのですがどうですか。

 なお、その対談の中には次のような言葉も記録されている。

 映画の話がいいだろう、目下のところ映画は一番将来のある芸術だから。今の四年の国文の教科書に『記録映画の幻想佳』という文もあるが。

 フランス映画は隅から隅まで意識がゆきわたっていてかえってそんな幻想性の少い憾を覚えることが多い。[引用終]

 もう一人、「西口先生」の発言が一度だけ見える。西口俊三先生で、同窓会名簿によると、昭和22.4.赴任、23.3.離任。担当は社会。わずか1年の在職で、もちろん私も知らないし、どういう方であったのか、他の知見も全くない。

 発言は記録されていないが、出席して小野・伊東両人の「似顔絵」を描かれたのが、黒田猛先生である。黒田先生はずいぶん長く住中・住高におられて(昭和16.3 〜 45.3)、伊東とも長年の親交があった。京都の「南日吉町の酒井家」にまつわるエピソードについては、拙著『伊東静雄と大阪/京都』に記した。
 むろん、担当は美術で、私は選択で美術をとったので、私の「恩師」でもある。退職後も同窓会にかかわって、私が『住高同窓会室所蔵伊東静雄関係資料目録』を編むために同窓会室通いをしていた頃、しょっちゅうお会いしていた。
 下記の文章は今のところどの本にも再録されていないはずである。

黒田猛「同僚伊東静雄先生」(『RAVINE』第56号、昭和52.9)(抜萃)

 昭和二十二年八月。名門といわれた住中生に戦後の混乱から非行グループが産まれ、新聞紙上を賑わした。それ迄の指導陣が責任をとり、職員会議で伊東先生は最高点で生徒係長に選出された。「私達は愛護の心で、諸君は信頼の念で一緒にやっていこう」とその第一声が学校新聞にのっている。そして文化住中再建の第一歩として創立二十五周年記念号のため、伊東静雄、小野十三郎「新生日本の芸術を語る」座談会が催された。私は挿絵にと二人の顔をスケッチしたが、その新聞を今見ると伊東先生はどうみても雲助顔である。輝く瞳だけでも表現したいと苦心したのだが……。この座談会で先生は、小野氏は大阪湾の葦原の中から工業、商業、農村地帯を望み、そこの生活と人間に詩情を感じるような詩人だと紹介されたが、私はその活々とした口調に今迄とは違った感じを受けた。「淀の河辺」の叙情から「反響」へ、そしてその次はと楽しみにしていたのだが先生はやがて病に倒れてしまったのである。[引用終]

1184Morgen:2015/07/22(水) 22:48:57
「谷根千」散歩
 仕事で東京へ行ったついでに、気温35℃の炎天下、谷根千散歩(谷中・根津・千駄木・本郷・上野)をしてきました。(Am10〜Pm2)
 「森鷗外記念館」に野口寧斎の『舞姫』評論が保存されていないかを確認しようと思っていたのですが、あいにく定休日のため次の機会に再訪します。
 谷中墓地は、広大であるばかりでなく幾多の歴史上著名な方々の墳墓があり、まさに「墳墓博」の様相を呈しています。谷中銀座も、根津神社周辺も、森まゆみさんが書かれているように独特の情緒を漂わせる街で、「ラジオ体操」の会場が方々にあるのが眼に残りました。昔のような地域コミュニティが今も維持されているのでしょうか。

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1185上村紀元:2015/07/23(木) 19:32:08
ホームページの件
下記に引っ越しましたので宜しくお願い致します。

http://www.itosizuo.sakura.ne.jp/

http://www.

1186Morgen:2015/07/24(金) 14:36:38
映画『チャップリンからの贈り物』
先日は、谷中霊園(約10万平方メーター、約7000基)散歩(7月21日)についてほんの少し触れましたが、その前日は大阪のシネ・リーブルで『チャップリンからの贈り物』という映画を観ました。原題は不確かですが『有名であることのコスト』(?)というようなものだったように記憶しています)。“暑気払い”のネタに、というわけでもありませんが、墓のお話です。

1977年12月25日、世界の“喜劇王チャップリン死去”という衝撃のニュースがTVから流れてきます。 それを観た主人公ふたりは、埋葬されたチャップリンの棺桶を盗み、その身代金で妻の入院費(500万円)を支払い、苦しい生活を立て直そうと企て、スイス・レマン湖畔の墓地に埋葬されたチャプリンの棺桶を夜間に掘り出して、別の場所に隠します。
詰めの甘い計画が次々にボロを出すスリルとコメディタッチのドラマが進行し、最後は涙と笑いの中で、ほんわかとしたチャップリン喜劇風なFINを迎えます。
チャップリンオマージュもふんだんに挿入されており、バックには往年のチャップリン映画のテーマ曲が次々に流れます。俳優もチャップリン好みの人が選ばれており、ファンの方は必見ですよ。(詳細は公式ページでご覧ください。)

余談ですが、チャプリンは1932年5月には来日中で、同14日に犬養毅首相を官邸に訪問し、そこの歓迎会に出席する予定だったそうです。海軍将校たちは、世界的に著名なチャップリンも一緒に殺害すれば日米開戦へと持ち込めるという浅慮もあって、その翌日に五・一五事件を起こし、犬養毅首相を暗殺しました。しかし、チャプリンは官邸の歓迎会には行かずに、相撲見物に切り替えたことで命拾いしたそうです。“そんなバカな!?”の一言では済ますことのできない実話だそうです。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001321.jpg

1187山本 皓造:2015/07/24(金) 21:30:46
「階段教室」 レジェンド (4)――卒業生徒の回想 (1)
 幸いに階段教室の「文化座談会」のことを書き残してくれた卒業生に、田辺明雄さんと大村得郎さんがいる。お二人はともに昭和18年住中入学、田辺さんは昭和23年3月に住吉中学第22期として卒業、大村さんはもう一年残って昭和24年3月に住吉高校第1期として卒業された。お二人は同期生なのである。
 そして、この期が、階段教室レジェンドに出逢うことのできた、上限であった。その前の中21期や中20期には錚々たるメンバーが揃っていたのだが、中21期は昭和22年春の卒業で、もう在籍していない。そして高2期、高3期あたりには、伊東について書かれたものが残っていない。無理もない。当時はまだ子供のにおいの残る年頃だった。そして昭和23年春には、伊東が阿倍高へ去ってしまった。

 田辺明雄さんが『関西文学』に寄せた「伊東静雄先生」については、2010.8.7.にMorgenさんからこの掲示板に投稿をいただきました。私は『関西文学』の原本を持っておらず、また田辺さんその人や、『関西文学』とのかかわり等、そのあたりの事情を何も知りません。どなたか詳しい方がおられましたら、ご教示ください。なお、この文章はのちに『永遠の妻』(関西書院、1996.11)に収められた由、どなたかからご教示をいただいた、メモ書きがあるのですが、どなたであったかも失念しています。

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住中22期 田辺明雄「伊東静雄先生」(『関西文学』昭和46年12月)(抜萃)

 同じ文芸部で、先生が企画され、詩人の小野十三郎氏を招いて、皆で話し合った事があった。先生をはじめ数人の国語関係の教師と、生徒が五十人程集ったかと思う。先生は最初小野氏の詩の紹介、解説を試み、「君等は詩と言えば西条八十の詩なんかを思い出すでしょう。所が小野さんの詩はそういうものとは丸きり違うんですね。小野さんは大阪の詩人です。その大阪は時代と共にどんどんどんどん変って行くんです。小野さんはその変って行く大阪をある角度からじっとみつめて、新しい、立派な詩を書かれたんです」というような事をもっとうまい文句で言って、小野氏がその後で、「今、伊東さんが非常にうまい批評をしてくれまして……」と嬉しそうに言われたのを覚えている。
 小野氏は当時ジャーナリズムの寵児で、方々に引っ張り出され、講演疲れしていたのか、話にあまり生彩がなかった。メモをみながら話されるのだが、そのメモもどこかで一度使ったものらしかった。氏自身も何度も同じ事を話すのが気がさすらしくみえた。これに反して先生は、たまりにたまったものを吐き出すといった風で、生気溌溂としていた。会が終ってから、私達は「小野さんよりうちのコーちゃんの方が立派やったね」と囁きあった。
 小野氏は革命的思想(?)を心中に抱いていたそうである。それで、氏の詩には苦節にたえた思想的苦悶がにじみ出ているそうである。そういう事は今に到るまで私にはよく分らないのだが、ただその時、氏が戦時中戦争詩を書かれた事について、一言二言辯明らしい事を言われ、その時の氏のてれ臭そうな、気弱そうな表情が、人生の何か意味深い事実として幼い心に映じたのを、今も覚えている。
 話の終りに、「これからの日本人の在り方として、何か一つお言葉を」という若い教師の注文に応えて、小野氏は言った。「今まで日本人は、狭くともよいから一つの事を深くやれと教えられて来て、そういう態度が立派なように言われていましたが、私はこれからの日本人は浅くてもいいから広くやらねばいかんと思う。私なども学生時代から数学などは逃げて来たんですが、これからは数学でも何でも、広くやらねばいかんと思う。浅くてもいいから広く何でもやる、そこから今後の新しい日本が生れてくるように思います」
 これは昭和二十一年頃の事である。私は中学(旧制)四年か、五年であった。この小野氏の言葉は、新時代を背景に持った優秀な人間の意味深い発言として、今も私の記憶に残っているのである。今日まで私は、折にふれてこれを思い出すのであるが、だからといって自分の生き方に確固たる信念が湧くわけではないのである。ただ、こういう平凡ともみえる言葉に代表された一時代の光景が、ある感慨と共に私の眼前に浮かぶのである。小野氏にしても、過去を省み、日本の将来を思うて、深く考えられた結果に相違ない。心中無限の思いも、言葉に出してみると平凡無味に終るのが常なのだ。[引用終]

1188龍田豊秋:2015/07/28(火) 10:57:50
ご報告
7月18日午後2時から,諫早図書館に於いて第92回例会を開催した。
出席者は7名。
今回は、「わがひとに与ふる哀歌」「咏唱」「四月の風」の3篇を読み解いた。

伊東静雄が語句のひとつひとつに込めた意味を、みんなで、ああでもないこうでもないと推理しながら読み進めるのですが、どうしても私は理解できませんでした。

会報は第86号。
内容は次のとおり。

????????????????????????????被爆七十周年を迎えて
昭和20年8月6日広島、
同年8月9日長崎。
原爆投下という人類史上未曾有の体験のなか
極限を生きた人々の思いを記した文学があります。
時空を超え、鮮明に映し出される被爆の実相。
ここに、あらためて。

1 詩『雲に寄す』                      上村 肇
??????????????????????????????????????昭和31年 詩誌「果樹園」2号

2 詩『二十の夏』     ????????????????????????????????風木 雲太郎
??????????????????????????????????????昭和41年 詩集「ビードロの歌」

3 詩『樹 ?』????????????????????????????????????????????山田 かん
??????????????????????????????????????昭和44年 詩集「記憶の固執」

4 短歌??島内 八郎
??????????小山 誉美
??????????秦  美穂
??????????浜野 基斉
??????????山口  彊
  俳句??松尾 あつゆき
??????????下村 ひろし
??????????隈  治人
??????????中尾 杏子
??????????朝倉 和江
  川柳 前山 五竜
?? <被爆70周年を迎えて 長崎国際文化協会発行 「長崎文化」72号より転載>

5 伊東静雄評伝的解説???????????????????????????????????????? 清岡 卓行

????詩『オーボエを吹く男』???????????????????????????????????? 清岡 卓行
????????????????????ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を聞きながら
??????????????????????????????????????????????????詩集『日常』所収

????????????????????????????????????????????????????????????????以上
8月の例会は,22日午後2時から,諫早図書館にて開催します。

1189山本 皓造:2015/07/29(水) 10:32:20
「階段教室」 レジェンド (5)――卒業生徒の回想 (2)
 大村得郎さんにも私は面識がない。田辺さんと同じ、昭和五年生まれで、昭和18年住中入学、昭和24年住吉高校第1期生として卒業。大阪大学卒業後、毎日新聞記者として活躍された。
 昭和23年6月住高自治会が発足した、その初代会長であった。このときの役員連中はみな「古武士的な風格」をそなえ、「フォークダンスなんか住中がほろびる」と反対して、教師たちを手こずらせたと、『すみよし外史』に見える。
 大村さんの文章は『河』第97〜98号に再録されたはずであるが、その後確認していない。

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住高1期 大村得郎「伊東静雄回想」(『獅子族』創刊号、昭和62年3月)(抜萃)

 静雄が展開した行動の中でも特筆されるイベントは昭和二十二年十月二十一日に催された。住吉中学の階段教室に小野十三郎氏を迎え、静雄との対談があったのだ。聴衆は文芸同好会の上級生徒を中心に、教師の有志も含めて数十人。あふれんばかりであった。
 この年の十一月一日は住中の創立二十五周年記念日で一目から三日間は式典や音楽会、弁論大会、演劇会などの記念行事が盛りだくさんにあった。詩人対談もこれらの関連行事のひとつとして、文芸同好会の部長だった静雄が企画した大イベントであった。恐らくは生涯でも稀有ともいえる……。
 大阪の夕刊紙の「働く人の詩」という欄を担当するなど、有名だった小野氏。この詩人と私たちが「住中の宝」とひそかに誇っていた静雄が対談する。あまり深く詩のわからなかった少年たちにも、二人の作風がかなり違うこと、むしろ相反しているのではないか程度の感じは持っていた。それだけにどんな展開になるのか。しかも静雄が小野氏を紹介するという。私たちは大きな期待を抱いて臨んだのである。
 何時間かかったのかは記憶にない。二人の話はとにかく高度で、少年たちには理解しがたい内容が多かった。それでも収穫は大いにあった。とくに開会にあたって静雄が小野氏について語ったのは明快そのもので、およそ次のようだった。「みんな、詩といえば西条八十や島崎藤村の書く詩のようなものを思い出すでしょう。ところが小野さんのはまるっきり違うんですね。小野さんは大阪に住む詩人ですが、その小野さんが大阪をどうみておられるか、それを説明しよう」
 小野さんは海の方から、つまり太平洋の方から大阪を見られたので、そこには葦が広く生えていて最も原始的なんです。そしてそこには近代的な大工場が建ち、いろいろな変化が絶えず起こっている。また人間も機械により変わる。それを小野さんはみている。工業地帯、そして次の商業地帯も工業により変わる。そのうしろの農業地帯もどんどん変わる。このように自然と人間が密接に変化している。これを太平洋上から見て詩情を感じる――そんな詩だとぼくは思うのですが、どうでしょうか」。
 静雄は教室でもよくみせる、いかにも我が意を得たりというか、あるいは生徒が自分の期待に沿った答えをしたときなどに浮かべた笑いを小野氏に投げかけた。
 ていねいな解説で私も異存ありません。太平洋の方から入って葦原に目をつけるという解説には感心します」と小野氏は嬉しそうに答えた。
 このあと国語関係の教師(わかっていない奴ら―と私たちがさげすんでいた連中)が、やれ第二芸術といわれている俳句や短歌の将来、現代詩の見通しについて、などと“一人前”の質問を出したりした。
 小野氏はすでにジァーナリズムでも広く知られていただけに講演や座談会に出る機会も多かったと思われる。どこでも同じような質問に出会うのだろうか、メモを用意していた。これは、自分の基本的な考えを、話す場所によって、ちょっとした言葉のニュアンスで違った受けとめ方をされるのは本意でない、という気持があったのではないか。
 また階段教室というのは、ふつうの教室とは逆に生徒らが教卓を見下ろすかたちなので、小野氏は少なからずとまどったように見受けた。心理的にも圧迫感があったのか、時間が経つにつれて生彩をなくしていくように思えた。
 これに対して静雄は、平素の授業よりさらに生気がみなぎって、胸の中にうずまいていた思いを吐き出した、と思えるほどだった。これは決して私の独断ではなく、会が終わってから友人らと「やっぱり、うちのコーちゃんは立派やったなあ」とうなずき合ったのである。多分にわが教師に対する思い入れの傾きはあっただろうが……。
 この日、昭和二十二年十月二十一日は、伊東静雄の生涯でも特筆されねばならぬだろう。静雄がこれほど端的に、自分以外の詩人の解説をやってのけたことがあっただろうか。書いたものや、同人ら仲間うちはいざ知らず、未熟な中学生がほとんどの場で展開した小野十三郎氏についてのコメントは、あえて空前絶後といいたい。
 小野氏も場違いなところでのとまどいはあったにせよ、さすがに深い意味をもった発言をしている。つまり――「日本人のものの考え方は、ひとつのことを狭く限って、それを深く掘り下げるという風だが、浅くても広く知るよう心掛けなくてはいけない。自分の仕事と直接関係のないことにも関心を持たねばならない。詩人も詩だけではだめで、とくに科学知識をとり入れることが必要だ」
 この対談は十五年戦争の日本敗戦後二年とわずかの時点で行われた。向かい合ったのは日本近代詩に大きく記録されるべき二人。私はこのときほどインパクトを受けた対談を、その後あまり知らない。
 残念なことに、静雄に関する書物や年譜では、この対談の記述について、私の目を通した限りですべて誤りがある。
 すなわち、対談の開催日を昭和二十二年十一月一日としていることだ。この日付けは、対談の内容を簡単に載せた『住中新聞』第十五号、すなわち住中創立二十五周年記念号のものである。もっと重要なことは、紹介記事とともに登場している静雄と小野氏の似顔絵写真で、二人とも期せずして自分の似顔絵の横に「昭和二十二年十月二十一日」とそれぞれ自筆で明記しているのだ。
 二人の似顔絵を書いたのは、当時の住中美術担当教師だった黒田猛氏。色紙に墨で書いたあと、新聞部の関係者に貸した。ところが原画はついに彼の手元に戻らずじまいだったのである。「伊東先生は、無精ひげをよくのばしておられたけれど、紙面では印刷も悪かったのか、ひどい状態になっている。私は忠実にスケッチしたのだけれど……。なにせ、当時は私のに限らず、写真や原稿の管理が悪くてねえ」。温厚で知られた黒田氏も還らぬ似顔絵の話をするときはさすがに顔を曇らせた。『住中新聞』は戦後創刊の一時期を除き、顧問の教師主導で、生徒のものとはいえなかった。これについては後日書く機会があろう。[引用終]

1190Morgen:2015/07/30(木) 13:51:19
暑中お見舞いにかえて/野口寧斎と森鷗外
森鷗外『ヰタ・セクスアリス』(新潮文庫)108〜110頁に、原口安斎*という詩人が出てきます。<注解> *原口安斎/モデルは野口寧斎(1867〜1905)。漢詩人。長崎生れ。

僕(鷗外)は、自由新聞の社主(代理)が先日書いて貰った御礼に馳走をしたいから、一緒に来てくれというので神田明神の側の料理屋に這入った。
原口安斎は先に来て待っていた。ところが、僕も安斎も酒が飲めない。三人の客は、壮士と書生の間の子という風で、最も普通の書生らしいのが安斎である。・・・・・11時半頃になって人力車3台が迎えに来て、上野の方向へ飛ぶように駆ける。・・・・・広小路を過ぎて、仲町へ曲がる角の辺に来たとき、寧斎が車の上から後ろに振り向いて「逃げましょう」と言った。寧斎の車は仲町へ曲がった。・・・・・

結局、鷗外は逃げきれなくて吉原遊郭へ行き、午前3時半頃「大千住の先の小菅」の両親の家へ帰ったのですが、ここに野口寧斎を登場させたのが面白いですね。(その頃は「自由新聞」も存在せず、恐らく実話ではなさそうですが、野口寧斎と森鷗外の間柄がどのようなものであったかを想像させます。)

『舞姫』は、明治23年1月3日『国民の友』第69号付録『藻塩草』に掲載されたのですが、『しがらみ草紙』第4号(明治23年1月25日発行)には早くも「舞姫を読みて」(謫天情仙*)と言う評論が掲載されています。*野口寧斎のこと
評論「舞姫を読みて」については、長くなってしまいますので別稿とします。

1191Morgen:2015/07/31(金) 12:04:11
「十数行の詩で時代描ききる」
 昨夜、上村さんから「産経新聞に伊東静雄のことが書いてある」という電話がありました。(新聞は未入手ですが、)WEB上にその記事が紹介されていましたので、また引きですが取り敢えず参照URLと、簡単な概略をお知らせしますので、皆様は是非WEB上のサイトを開いてお読み下さい。

 産経新聞“「近代日本」を診る思想家の言葉”という連載物の中で、東日本国際大学教授・先崎彰容先生が「伊東静雄 十数行の詩で時代描ききる」というすばらしいエッセイをお書きになっています。

 まず「八月の石にすがりて」の詩を全文紹介されたのち、先崎先生は以下のようなコメントをして頂いております。

 この詩には明確に死の匂いがする。言葉が緊張と倫理観に震えている。
 強すぎる日差しに、思わず目まいを感じることがある。明るすぎる夏空が、生の過剰に繁殖する季節だからこそ、終わりと不安を予感させる。詩は、言葉のレールを突端まで滑走した揚げ句、夏空に私たちを放りあげる。言葉の届かない場所まで読者を連れてゆける人、それが詩人なのだ。

 1945年8月15日の「日記」についても先崎先生のコメントが書かれています。

「あの終戦から70年をむかえる日、この国にはおびただしい数の戦争という言葉が投げつけられるのだろう。しかしたった十数行の詩だけが、時代の人間模様をまるごと映しだし、描ききり、後世に残る場合もあるのだ。戦争とは何だったのかを何よりも明確に伝えてしまうのだ。
 強いられて刻まれた言葉だけが、時間の風雪に耐える。ただこれだけが真実であるように思われる。」

 まさに先崎先生のコメントの通り、「たった十数行の詩だけが、時代の人間模様をまるごと映しだし、描ききり、後世に残る場合もあるのだ。」そして「強いられて刻まれた言葉だけが、時間の風雪に耐える。ただこれだけが真実であるように思われる。」深い共感を呼び覚ますコメントです。ありがとうございました。

http://www.sankei.com/life/news/150730/lif1507300020-n1.html

1192山本 皓造:2015/08/05(水) 21:47:28
「階段教室」 レジェンド (6)――小野十三郎の回想 (1)
 階段教室での対談について、小野十三郎自身の書いた文章を探していて、今のところ2篇をみつけることができました。
 ・「笠置対談」(『奇妙な本棚』所収)
 ・「海から見えるもの」(「日本経済新聞」昭和57.12.26 →『日は過ぎ去らず』1983.5. 編集工房ノア)
 第一の「笠置対談」について、まずその笠置対談とは何であったのかを記しておかなければなりません。『小野十三郎著作集』年譜に次のように記載があります。

昭和23年 8月 散文「憑かれない心」(『詩文化』創刊号)
  24年 1月15日 安西冬衛ほか『詩文化』一行と笠置行、安西と対談
  24年 3月 安西との「笠置対談」(「詩文化」)を発表

 同じことを小野の口で語ると、以下のようになります。

昭和22年の秋、小野は銭湯帰りに古い友人の詩人・大西鶴之介とばったり会った。大西との懐旧談のうちに、藤村兄弟の話が出、今は近くで「フタバカップ」という紙コップの会社をやっているという。さっそく出向いて兄弟にも会い、話のついでに藤村から詩の雑誌を出そうという話が出た。これが実現したのが『詩文化』である。昭和22年の暮に第1号を出して、24年までに約20冊継続した。[昭和24年]1月15日、安西・小野・藤村弟・大西・太井の5名が、昼すぎまず難波の「創元」に集まり、湊町から関西線約2時間の旅で、笠置の藤村兄の隠宅“鈍光庵”に到着。その夜の小野と安西の対談を記事にしたものが『詩文化』第10号に掲載された。

 笠置の隠宅でのこの夜の5人の文士の談話はとりとめないものであったし、それを紹介するのはこの投稿の目的ではないので、省略します。
 さて、小野の「階段教室」にまつわる回想ですが、これは、ほかの話題からちょっと連想して思い出した、という書き方で、ほとんど簡単な事実のみであまり重要な述懐は認められません。しかし小野の伊東にたいする心情をうかがわせる部分を、読み取ろうと思えば取れなくもありません。それは、ほかのことはおおかた忘れているのに安西や伊東との対談というとふしぎにおぼえているのはなぜだろう、と書いている所です。
 次に、大西鶴之介という人物の特徴を、小野が直接に紹介している所です。

大西は、昔から好ききらいのはげしい男で、同じ大阪に在っても、わたしなど関心をもっていた伊東静雄を絶対に認めようとはしなかった。わたしの『大海辺』と伊東の『反響』の合同出版記念会を大阪の有志の人たちがやってくれたときも、伊東と一しょかと云って、来てくれなかった。

 前置きが長すぎました。小野の「笠置対談」中、階段教室の回想にかかわる部分を抜萃して引用します。

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小野十三郎「笠置対談」(『奇妙な本棚』所収)

 これとかんれんして想い出すのは、同じころに、伊東静雄と、彼が国語の教師をしていた住吉中学の階段教室で、生徒たちの前で詩の話をしたときのことである。これも対談だったが、わたしの長男の恩師でもあった伊東は、わたしの詩集「大阪」の内容について生徒たちに説明するにあたって白墨をとって黒板に大阪湾の略図を描き、大阪市を二重三重の半円でかこんで、そこに線を引いて、工業地帯、商業地帯、農村地帯とそれぞれ書きこむと、教材の絵図などをつるすときに用いる先が金具のカギになってる棒で黒板を指して、わたしの「大阪」は、海の方から見た大阪であると、生徒たちに云った。そのときも、わたしはなるほどと思ったものである。雑誌などに発表されたそのころのわたしの詩に対する諸家の論の内容など大方忘れているのに、安西の場合といい、伊東静雄の場合といい、こんなことはいつまでもよくおぼえているのはなぜだろう。(抜萃終)

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『奇妙な本棚』に収めたほうの「笠置対談」という文章は、その発表事情――初出誌、年月――がわかりません。『奇妙な本棚』にも『著作集』年譜にも記載がありません。
『詩文化』の創刊を『著作集』年譜では昭和23年8月といい、小野は昭和22年暮と云います。また安西との対談記事「笠置対談」掲載は、小野は『詩文化』第10号と記しますが、『著作集』年譜では年月のみ昭和年3月と記し、号数を記しません。

1193大垣 陽一:2015/08/08(土) 15:08:05
「老いのくりごと」という連載記事について
和泉書院のホームページに、国文学者の島津忠夫氏が長く「老いのくりごと」と題して連載記事を載せられておりますが、その中の、3、4、5回の記事に、新出「伊藤静雄日記」を読むと題して、読後の感想を書かれております。「日記に、住中時代教わった先生方の名前が散見しておりなつかしい」とも書かれておりますが、私の知る中尾先生の名が出ているか、興味があります。日記を読まれた方がありましたら、その該当部分の内容についてご紹介頂ければと思っております。

追記:山本先生がお尋ねの田辺明雄氏ですが、真山青果、正宗白鳥の研究者として、有名な方です。私は青果関連の著書、また「永遠の妻」は読みました。氏は確か詩人という肩書もお持ちであったと記憶しております。お尋ねの内容には不十分でしょうが、付記致します。

1194上村紀元:2015/08/08(土) 22:20:19
伊東静雄日記
昭和4年住中の先生方で日記にでてくるのは、橋本寛、新野正義、武田三夫、東野亮、翌昭和5年の日記には、新地保、米澤總太郎、岡憲一、牛島元茂、浜畑栄三、元田龍佐の皆さんです。中尾先生のお名前は見当たりません。生徒では秋山某、村田某(2ノ1)川幡太郎、中田末治、の氏名がみえますが、編注によるものです。

住中に就職した昭和4年、日次もとびとびで内容も簡潔、国語教師の生活が始まり「伊東静雄日記」は、昭和5年も6月10日で終わっています。

1195山本 皓造:2015/08/09(日) 22:11:15
大垣様に、お礼
大垣様、田辺明雄氏のことについて、御教示ありがとうございました。
伊東静雄日記に出る先生方について、上村さんがお調べ下さった中に、お名前だけは聞いたことがあるという方は二、三おられるのですが、私の在学中に教えを受けた先生は、この中にはおられませんでした。調べてみると、10人ともすべて、昭和20年までに住中を去っておおられました。
中尾治郎吉先生は大正14年3月〜昭和38年3月まで在職。おそらく大学を卒業後すぐ住中に赴任して、定年まで40年間、住中一筋に過ごされたのであろうと思います。
元田龍佐先生は有名な方で、住中初代校長、宮崎県都城中学校長から転任して来られたとか、有名な元田肇の甥に当たられるとか、いうことです。住中は大阪府立第15中で、当時(私たちの在学中でも)府立高校の校長には「官舎」が宛がわれて、私たちのころは志賀校長でしたが、北畠のすぐ近くの官舎へお伺いしたことがあります。
島津忠夫先生は、住中18期で、のち昭和29年から33年まで母校でも教鞭をとられたようです。私が29年卒業ですから、ちょうど入れ替わりになります。『果樹園』第189号に「『鵬雛』と『學藝』――伊東静雄ノート」という文を寄せておられます。
何をお知らせすればよいのか、雑談になってしまいました。お礼のつもりでした。

1196大垣 陽一:2015/08/10(月) 13:04:00
(無題)
上村様、山本様、早速に、ご返事頂きまして恐縮に存じます。ありがとうございます。
また、とりとめもないことを書かせていただきますが、伊藤静雄氏の奥様の実家が大阪の木津市場近くに在ったということを読んだことがあります。このようなことでも、私は伊藤静雄に、詩以外に、非常に親しみを感じるのです。木津市場に近い土地に私も生まれ育ち、子供のころ、朝早くに、母に連れられて市場に行った思い出があるからです。年の瀬の頃が多かった思いますが、朝の暗いうちに起こされ食料品等の買い出し連れられました。どうして、こんなに早く、市場にでかけるのか、子供心に不思議に思い母に理由を尋ねたことを思い出します。木津は卸やから、朝早く行かないと、店が昼前には閉まってしまうので、というのがその回答でしたが、市場の活気が好きで、弟と一緒に喜んでついて行っておりました。もう、60年以上も前の思い出です。先日、久しぶりに、周辺を巡りましたが、大変な様変わりで、市場は健在ですが、それ以外、当然でしょうが、幼いころの微かな記憶の風景は残念ながら何も残っておりませんでした。
以前、この掲示板に奥様の教え子だったという方が、その思い出をお書きなっているのを読ませていただき、その時から、奥様のことについて、個人的に、気になっていたことですので、とりとめもないものですが、投稿させていただきました。

1197山本 皓造:2015/08/11(火) 14:56:15
「階段教室」 レジェンド (7)――小野十三郎の回想 (2)
 前の「笠置対談」からずいぶん後になりますが、もうひとつ、小野が「階段教室」対談にふれた、「海から見えるもの」という文章があります。
 『日経新聞』への執筆・寄稿の経緯等、詳細はわかりませんが、「葦の地方」への小野の心情の変化が率直に述べられていること、また、伊東にたいする小野の気持の在り様が、これも「気後れ」や「韜晦」が一切なしにすらすらと語られていること、さらに、ここではじめて、「北西の葦原」をあの対談のときに伊東が読んで解説したという事実が述べられたこと、などの点で、注目すべき文章だと思います。かなり長いので抜粋をと思ったのですが、読むほどに、その全篇が伊東への回想に満ちているように思えましたので、思い切って全文を載せました。
 なお、詩「北西の葦原」は、詩集『風景詩抄』(昭和18年2月)に収録されたもの。

-----------------------------

小野十三郎「海から見えるもの」
  (『日本経済新聞』昭和57.12.26 → 『日は過ぎ去らず』1983.5. 編集工房ノア)

 私には『大阪』という詩集が二冊ある。最初の本は昭和十四年に出ているが、それから四年後の『風景詩抄』という詩集と、戦後まもないころに出した『大海辺』『抒情詩集』という詩集の中にある若干の作品を加えて、二十八年にやはり『大阪』という題であらためて一本にまとめた。そのころ故伊東静雄君がまだ健在で、私の家のすぐ近くの住吉高校の教師をしていた。想い出すが、ある秋の文化祭の催しに私は招かれて、生徒たちの前で伊東君と対談したことがある。そのとき、彼は黒板に大阪市の略図を白墨で描いて、小野さんの詩は海から見た大阪だと、いくつかの詩を紹介しながら、親切な解説を生徒たちのためにしてくれた。海から見た大阪とはどういう意味だったのか、雲ゆきがまた怪しくなってきたこのごろ、私はまた考えさせられている。
 そのとき伊東君が黒板に描いてくれた大阪市の地図の写真がのっている学生新聞がいま探しても見つからないのが残念だが、この詩集に収められている作品の大阪は、主に海ぞいの重工業地帯にそのころひろがっていた荒漠たる葦原の風景であって、人影はまったくない。そんなところを私は大阪だと云っているのである。取材はそこにかぎられていて、都心の所謂大阪らしい場所は天王寺公園ぐらいしか出てこないので、伊東君の説明にもかかわらず、生徒たちの多くは腑に落ちぬ面持をしていた。たとえば次のような詩である。

  遠方に
  波の音がする。
  末枯れはじめた大葦原の上に
  高圧線の弧が大きくたるんでいる。
  地平には
  重油タンク。

  寒い透きとおる晩秋の陽の中を
  ユーフアウシヤのようなとうすみ蜻蛉が風に流され
  硫安や 曹達や
  電気や 鋼鉄の原で
  ノヂギクの一むらがちぢれあがり
  絶滅する。
     * ユーフアウシヤ――南氷洋に棲息するプランクトンの一種

      *

 この「葦の地方」という詩は、いまは中学の国語の教科書にもよく採用されて、あたかも私の代表作の一つみたいに扱われているが、これを書いたのは、日本が長期の大戦争に突入した前夜であった。いまでこそこの詩で云おうとしていることは若い人にもわかってもらえるかとおもうが、戦争のさ中であったから、少数の人をおいて、この詩の意味するところはよく通じなかったらしい。
 私はこの詩で当時における状況と人間の関係をとらえて、私の内奥にある反戦の意志表示をしたつもりでいたが、しかし多くの人の眼には、ただ大阪の工場地帯の実景を描写した毒にも薬にもならない風景と映じていたらしい。したがって検閲の網にもひっかからなかった。伊東君はそういう事情を察して、そのとき対談していた私には深くなっとくできる批評もしてくれたのであった。
 伊東君にも大阪を歌った詩がいくつかある。「淀の川辺」という作品など有名だ。だが大阪の重工業地帯の風景に着目した詩は一つもない。にもかかわらず詩というものの理解にあたって私と一脈通じるところがあるのはなぜだろう。いまそのことを考えると、私にとって海とは、実景に即した海であるよりも、底辺にいる庶民の視角を意味したのと同じように、伊東君にとっても、海とは人間を意味したんじゃないかと思われる。人影が見えない私のただ風景だけの詩にもこの人間がいることで、伊東君は私の詩を海から見た大阪だと言ってくれたんじゃないかとおもう。
 伊東君の詩にときに見る非情さもそこにかかわってくる。庶民の心への真の連帯はそういう非情さを通さなければ力にならないという自覚がこの詩人にあったから、庶民の暮しや願望に直結して想いを述べる抒情詩を書いても、どこかドライなところがあった。そういう意味で、私が海から見た工場地帯の煙突や石油タンクや高圧線の陰影も彼の心のどこかに存在していたかもしれない。「葦の地方」にたたずんでいたのは私一人ではなかったのである。

      *

 きのう、私は思いたって、久しぶりに新淀川の向うの姫島に行った。地盤沈下しているこのあたりから杭瀬の方にかけての地域は大阪でも私が一ばん好きなところで、詩集『大阪』にはここに取材して書いた詩が多い。「葦の地方」という前掲の詩もその一つである。行ってみると、そのあたりにはもう葦原はひろがっていなかったが、道に迷っていると、昔のように私は大葦原のまん中にいるような気がした。どんなに街の様子が変っても大阪の都心ではめったに道に迷うことがないのに、ここにくると方角もなにもわからなくなってしまうのである。

  そんなにぽんぽをだして
  風ひかない?
  兄ちゃんはどこへいったの?
  あ、あんなところだ。
  たくさん蜻蛉捕れたね。
  もう指に挾みきれないね。
  兄ちゃんまだ追っかけてるよ。
  おじさんはこのみちをまっすぐにいってみよう。
  まっすぐにいったらどこへ出るだろうな。
  おじさんいってみるんだ。
  おじさんはじめてきて
  こことても好きになった。
  きみは毎日兄ちゃんと蜻蛉を捕りにくるの?
  いいね。毎日こられていいね。
  きみのお家はきっとあの辺だと思う。
  近いんだもの
  裸だってかまわないや。
  おじさんは遠いから
  洋服を着て 靴をはいて
  ちゃんとして来なければならない。
  とっても遠いんだよ。
  きみの知らない遠い遠いところからおじさんやって来たんだ。
  さあ、どこへ出られっかな。
  海かな。
  おじさんいってみる。
  いいところだといいな。

 「北西の葦原」というこの詩も高校の文化祭のとき伊東君が読んで解説してくれた詩であるが、きのう行ったときも、またどこからかこの兄弟の子どもが私の前に現われてきそうだった。あたりは葦原ではなく人家や団地群が建てつまっていたが、姫島の海よりのあたりは、私にはやはりそんなところであった。大阪でも道に迷わなければ見えてこないものがあるのではないだろうか。冬陽が落ちかかるころ、ようやくもと来た阪神の姫島の駅にたどりつくことができた。そこから梅田に着くと、大阪は夜で、駅前の高層ビル群の灯がまぶしかった。そのときの大阪は、私にはまったく異郷で、ここに自分が住んでいるのだとはおもえなかった。もちろん海は見えない。迷わずに家に帰りつけただけだ。
 伊東静雄が亡くなってからもう三十年になる。彼が夢見たようには、大阪の海の展望はまだひらけていない。

1198Morgen:2015/08/12(水) 22:57:46
「田端文士村記念館」駆け足見学
 昨日、仕事の合間をぬって、東京都北区の「田端文士村記念館」を見学してまいりました。(約1時間の駆け足見学)

 同地区は、明治22年に上野に東京美術学校(現・東京芸大)が開校されると、芸術家やその卵たちが住みつき、大正3年には芥川龍之介、同5年室生犀星が転入し、菊池寛、堀辰雄、萩原朔太郎、小林秀雄、中野重治など約130人の芸術家や文士が住む「田端文士芸術家村」となったのだそうです。詳細は、下記URLを開いてホームページをご覧ください。(コピー&ペースト)

 芥川龍之介は昭和2年にここで自殺しますが、芥川関係の収蔵資料が多そうです。(ただしそれらを観る時間がなくて、受付の女性と再来を約束しました。)蛇足ながら、受付の女性(研究員か?)は、長崎出身の若い美人です。皆様も是非ご訪問ください。

 そのあと会社に戻り、夜8時まで会議に参加し、9時頃の新幹線(自由席)に飛び乗り帰宅しましたが、乗車効率150%位で、大阪まで立ちん坊を覚悟しましたが、途中でやっと座席を確保しました。

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1199Morgen:2015/08/26(水) 00:46:41
「中つ空に はや風のすずしき流れをなしてありしかば、」
・・・・・
夕暮よさあれ中つ空に
はや風のすずしき流れをなしてありしかば、
・・・・・
????????(伊東静雄「夏の嘆き」−昭和10年11月号『四季』−より)

 飛行機の窓から眺めると、「天つ空」(大空)には虚空をバックに一群の層雲が「はや風のすずしき流れをなしてあり」、はるか下方に雲海が一面に広がっている。その間の広大な空間が「中つ空」のようにも見えます。毎年、8月だけ、伊丹〜隠岐間にジェット便が運航しているのを利用して、3日間の家族旅行に隠岐へ行って参りました。
 知夫島の高原を歩いていると、子狸が2匹藪の中から出てきました。こおろぎか何かを捕まえるのに夢中で、すぐ近くのカメラや人間の方を振り向きもしません。(子狸達にとっては私ごときは自然の一部にすぎないのでしょうか。)
 海士町には後鳥羽院(隠岐法皇)の火葬所遺跡はありましたが、明治維新の天皇制復帰に伴う「神霊幸還」によって山稜は破却されて水無瀬神宮に移して合祀されました。、現在の「隠岐神社」は昭和14年に造営されたものです。しかし、後鳥羽院も後醍醐天皇も、観光面では集客力があり、大活躍されています。「私も、政争に敗れて島に流されてきたやんごとなき人の末裔かもしれない。」と、島人のジョークのネタにもなっています。(因みに、膨大な流刑者名簿は今も地元の村上家に保存されているそうです。)
 同島は「世界ジオパーク」に認定されており、地球の成り立ちを知るうえで貴重な海岸や奇岩などが隠岐4島の各地に在って、独特の魅力的な風景が見られます。

 「隠岐島コミューン伝説」の著者 松本健一氏(昨年11月にご逝去されましたが)は、伊東静雄研究においても数々の貴重なご見解を発表頂きました。松本氏のご説は、とても説得力があり、文献等で伝えられている伊東静雄の実像に最も近いと思いますので、その一部を紹介します。(『現代詩読本』昭和54年8月号から)

 芥川という近代主義(日本近代の知性が演じた悲劇)は、保田與重郎にとっても伊東静雄にとっても「克服・卒業」すべきものであったが、保田は、古典の言挙げのほうに赴き、伊東は古典それ自体を体現するほうに赴いた。伊東の「水中花」や「春の雪」の完璧性、完成度は、古典そのものといった風情を示している。これこそまさに「新しき古典」の世界ですね。
 『夏花』以降においては、「日本浪曼派」による時代に対するロマン的反抗が(時流便乗者でしかなくなり)意味を失い、伊東はまさに(「日本浪曼派」の)「夢からさめて」、生活者として戦争に対峙した。

伊東静雄は言っています「私は(青春のロマンティズムを)うたわない。むしろ彼らが私のけふの日を歌ふ。」―(“伊東静雄は「日本浪曼派」を代表する詩人だ”と彼らが勝手にもてはやすのだ!) このようにして、伊東静雄は最も悲劇的な詩人にされてしまったのです。(神林恒道『美学事始め』)今日でも、“伊東静雄は「日本浪曼派」を代表する詩人でして・・・”と平気で言う新聞記者などがいますが、見識が疑われます。

 隠岐神社で買った『隠岐の後鳥羽院』という本に載っている「遠島御百首」の中から、夏の歌一首を掲載させていただきます。

   見るからにかたへすゞしきなつ衣日もゆふ暮のやまとなでしこ(後鳥羽院)

<田邑二枝氏の解説>
(夏の日も夕暮れがたの露を帯びた大和撫子の風情は、見るにつれてその傍において、涼しさを感じる。そして秋も近くなって、着ている夏衣にもどこか涼しさを感じることだ。)

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1200龍田豊秋:2015/09/02(水) 15:20:14
ご報告
8月22日午後2時から,諫早図書館に於いて第93回例会を開催した。
出席者は6名。
今回は、「即興」「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」「詠唱」の3篇を読み解いた。

会報は第87号。
内容は次のとおり。

1 『伊東静雄の自然』
                                エリス俊子
??「わがひとに与ふる哀歌」には、静雄の思い描く自然のあるべき姿が提示されている。

2「わがひとに与ふる哀歌」を読む
????????????????????????????????????????????????????????????????渡部 満彦

3 わがひとに与ふる哀歌
????????????????????????????????????????????????????????????????加藤 宏文

4 私の「わがひとに与ふる哀歌」考
????????????????????????????????????????????????????????????????上村 紀元

5 伊東静雄掃苔
????????????????????????????????????????????????????????????????大塚 英良

6??詩『苦い水』
????????????????????????????????????????????????????????????????高塚 かず子

7 はがき随筆『炎の先で何が』
????軍隊は国民を守らない。国民の弾よけになる気も無い輩が戦争を企む
????????????????????????????????????????????????????????????????龍田 豊秋
???????????????????? 平成27年8月10日毎日新聞長崎県版掲載

8 「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」参考

??????????????????????????<『チェホフ書簡集』内山賢次訳>
 ???????????????????????? 『詩人 伊東静雄』小高根二郎

????????????????????????????????????????????????????????????????以上
9月の例会は,26日午後2時から,諫早図書館にて開催します。

1201あるかんば隊の、ココペリ〜♪♪:2015/09/03(木) 18:40:57
阿倍野区共立通  阿倍野区阪南町
 早くも長月、秋の気配が漂い始めました。
すっかりご無沙汰をしております。
みなさまがたには、ご健勝にご活躍のご様子、何よりです。

 阿倍野区共立通1丁目・2丁目 阿倍野区阪南町3丁目・・
この住所は、私がこの春から非常勤のスタッフをしている、特定非営利活動法人『コーナス』http://www.corners-net.com/ の、施設のある場所です。

 伊東静雄にご縁の深い土地・・そう直感して、山本皓造先生のご著書『伊東静雄と大阪/京都』を紐解きましたら、やはりそうでした!!
驚いたり、嬉しくなったりです。

 共立通1丁目にある『ギャラリー コーナス』は、静雄の住んでいたかつての住居表示共立通1−43のすぐそばでした。
共立通2丁目にある『アトリエ コーナス』は、築80年の町屋を改装してあります。
かつて静雄もこのあたりを歩いて、見たことのある家かもしれません。
そんなことを思うと、静雄がとても身近に覚えて、ドキドキします。静雄の足跡がたどれたらなぁと、これからは山本先生の『伊東静雄と大阪/京都』持参で、通勤しようと思っています。

 この『コーナス』の、大好きで大切な仲間達とそのご家族が、9月1日発売の週刊誌『女性自身』の“シリーズ人間”のコーナーで、7ページ(P60〜P66)にわたり紹介されています。
「障がい者アートの分野で、世界最先端にある大阪・阿倍野アトリエコーナス」と紹介して下さっている記事を、ご高覧頂けましたら幸いです。

 多くの方々がこの特集を、温かいまなざしで読んで下さいますように。そして、障がいを持った方々やその方々を取り巻く環境や状況を、ご理解し寄り添って頂けましたら嬉しいです。
(男性の方にとって、女性週刊誌を立ち読みするのは、抵抗がおありだとは思いますが・・笑)

1202Morgen:2015/09/04(金) 17:35:59
『女性自身』買ってきました。
 「あるかんば隊の、ココペリ〜」さん。お久しぶりです。

 ランチに出かけたついでに、近所のローソンで『女性自身』買ってきました。(カウンターの女性が少し笑っていたように見えました。)
 「アール・ブリュット」と呼ばれる芸術の分野があることも初めて知りました。
 それにしても、30年間営々と「コーナス共生作業所」の運営を続けてこられた阿倍野の「母親たち」の明るさ、底力というのは凄いですね!!

 ココペリ〜さんお元気で、ご活躍を!!!


<P/S>
昨夜、出張帰路の新幹線で『リルケ 現代の遊吟詩人』(神品芳夫著 青土社 2015.9.14発行)という新刊書を読みました。その中に、リルケ最晩年の(未見の)詩がありましたので一部抜粋掲載します。(1926.8 エーリカ・ミッテラーという無名の少女との交換詩の一部・神品訳)

   ・・・・・・・・
   非在の上方に 偏在の天が張られる!
   ああ 投げたボール ああ 敢然と上がるボール、
   それは帰還によって 変わりなく両手に収まるが、
   帰還の重力の分だけ純粋に、ボールは元のボール以上になる。

 ー神品教授の解説は以下の通りです。ー

 危険を冒す生き方をしてきた人は、他人に対して思いやりが深く、愛の機微も会得している。反対に、過保護の境遇で生きてきた人は、他人への配慮が薄い。・・・戻ってきたボールはやはりその体験の分だけそれまでのボールとは違う。










??

1203山本 皓造:2015/09/10(木) 13:57:53
共立通
 ココペリーさん、お久しぶりです。
 大阪も、そんなに近いところでお勤めだったとは驚きました。といっても、私は共立通のあのあたりは、あまり土地勘がないのです。妹が中学は東大谷でしたので、その辺は行ったことがあります。
 共立通から、広い電車道へ出ずにそのまままっすぐ南へ、家並のあいだをくねくねと曲がって、北畠の住高まで行く道がありますから、一度探検してみられてはいかがでしょう。(伊東も住中と共立通のあいだを歩いていたのは間違いありませんから。)
 私の本も、それですから、あまりお役にも立たないと思いますが、持って歩いていただけるのは嬉しいです。
 Morgen さん。いつもご投稿、感心して読ませていただいています。お忙しそうで、お達者そうで、なによりです。神品氏の新刊は私も買いました。先日 Amazonn から届きましたが、まだ読んでいません。最初の章だけザッと読みましたが、目を洗われたようでした。私どものように、ときどき「リルケ狂」になるのとは違って、専門家というのはさすがですね。
 伊東―小野にはまだ少しネタがありますので、もう一回、稿を改めます。

1204Morgen:2015/09/14(月) 23:53:14
『リルケ 現代の吟遊詩人』
 山本様が、神品芳夫『リルケ 現代の吟遊詩人』(青土社 2015.9.14発行)をご購入になり、お読み頂いていることをご投稿によって知りました。

 私は、10数年前に単身赴任から帰り仕事も少し暇になったので、それまでに買って自宅においていた伊東静雄関係の本を読みはじめようとしました。ところが、「イロニー」「事物の詩」「即物的」等々の言葉の意味がよく分からなかったので、萩原朔太郎やリルケの詩集、それらの解説書等を次々に読んでみたのでした。今でも、分かり易そうな解説書が出るとつい買ってしまいます。

 『リルケ 現代の吟遊詩人』は、リルケ詩の変遷を以下の?期に分け、その期の代表的な詩を挙げて解説がなされていますが、初心者の私にはそれが非常に分かり易い説明であるように感じられましたので、サブノート風にまとめてみました。

? 「秋」「秋の日」(1902年)・・・“生命感”
 妻子と別れ、吟遊詩人として旅立ち、一生を過ごそうというリルケの決意。
 ・・・・・
 いま独りでいる者は、これからも独りのままで、
 夜ふかしをして、本を読み、長い手紙を書き、
 落ち葉の散り舞うときには並木の道を
 不安にかられてさまよい歩くだろう。

? 「メリーゴーランド」(1906年)・・・“事物詩”“彫塑的な詩”
 メリーゴーランドの馬や、ライオンや、白い像や、鹿が回転する様子を淡々と即物的に表現しているように見せて、実は「子供たちの微笑」を表現している。
 ・・・・・
 そしてときおり微笑がこちらへ向けられる。
 清らかな微笑はまばゆいほどで、
 息をつかせぬこのむやみな戯れに惜しげもなく注がれて・・・・・

? 「ゴング」Gong(1925年)・・・“空間性”<全an Alles・開かれた空間>に対してわれわれをさらけ出す(Verrat)。
< Wanderers として危険な道の中にころがり出たが、振返ってみるとそれが最も安全に通じる道だった>というリルケの感慨なのでしょうか?
 人生の終盤を予感しつつ、ゴングGongのさまざまな響きになぞらえて、さまざまに矛盾した形象を発想し、その一つ一つが詩のあり方についての意味あるメタファーとなるように試みた(詩論の復習)。

 もはや耳のためではない・・・・・ひびき、
 それはいっそう深い耳のようになって
 聞いているつもりのわれわれを逆に聞く。
 空間のうらがえし、
 内部の世界をおもてにくりひろげる、
 誕生する前の寺院、
 溶けにくい神々をいっぱいに
 ふくんでいる溶液・・・・・ゴング!

 ・・・・・・・・・・

1205吉田:2015/09/27(日) 21:51:08
伯父から聞いた静雄さんのお話
初めまして。諫早生まれの吉田と申します。私自身は詩や文学とはあまり縁のない生活をしています。
さて、「伯父から聞いた静雄さんのお話」というホームページを作成しました。http://shizuo-ito.jimdo.com/?logout=1
実は15年ほど前に伯父から聞き取ってホームページにしていたもののリニューアルです。上村様から、こちらに投稿するように勧められました。何らかの参考にでもなればと思っています。

注:この掲示板はフレーム構造のため上記のアドレスをクリックしても表示できないかもしれません。その時は上記アドレスをコピーしてブラウザで直接開くか、もしくは上記アドレスを右クリックして新規ウインドウで開くを選択してみてください。ご面倒をおかけしますが宜しく御願い致します。

http://shizuo-ito.jimdo.com/?logout=1

1206上村紀元:2015/09/28(月) 17:20:09
内田健一氏を偲ぶ
「伯父から聞いた静雄さんのお話」吉田伸太郎さんにリンクして頂きました。伯父とは伊東静雄といとこ同士の内田健一氏のこと。氏は昭和43年3月『果樹園』145号に「思い出」を執筆、身近な人にしかわからぬ静雄のエピソードを正確に記しておられます。
 内田氏が、諫早高校で教鞭をとられた時期、教え子に芥川賞作家の野呂邦暢がいて、実直な先生の思い出をエッセイに綴っています。
 健一氏が亡くなられ、静雄のご親戚が少なくなり淋しい思いが致します。謹んでご冥福をお祈りいたします。

1207Morgen:2015/09/29(火) 17:58:28
謹んでご冥福をお祈りいたします。
??内田健一先生には、高2の時に教わりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 萩原朔太郎も、リルケも。お母さんが偉くて、母親には生涯頭が上がらなかったという共通点があると言われているのですが、伊東静雄もお母さんが立派だったのですね。
 風木雲太郎先生は高1の担任でしたが、あまり個人的な触れ合いや特別な思い出などはありません。同級生の中でも特に田舎者であったために、教室の掃除を熱心にやって「掃除大臣に任命する。」と褒めて頂いたことくらいです。

 その頃から数えると57〜8年が経っているのですが、若い人たちに助けて頂ながらまだ会社に籍を置いています。身体が辛いと思ったことはありませんが、脳の力は確実に衰退しているのを実感します。
 昨日は「伊東静雄研究会」で発表された皆様方の作品や論文を上村様からお送り頂き、拝読させて頂ました。各方面から、色々な刺激を受けて、好奇心を旺盛に働かせることが、老後を健康に生きていく秘訣なのかもしれません。
 これからも、何でもない処に敢えて問題を見つけて、自問自答しながら生き長らえて、諸先生方のような長寿に恵まれればいいなと思います。

1208龍田豊秋:2015/10/01(木) 09:52:17
ご報告
9月26日午後2時から,諫早図書館に於いて第94回例会を開催した。

今回は、「有明海の思ひ出」「かの微笑のひとを呼ばむ」「病院の患者の歌」
の3篇を読み解いた。

会報は第88号。
内容は次のとおり。

1 暁天の星──伊東静雄「野分に寄す」を読む
????????????????????????????????????????????????????????青木 由弥子


2??詩 「野分に寄す」
????????????????????????????????????????????????????????伊東 静雄

3??詩の読み方── 小川和佑近現代詩史
????????????????????????????????????????????????????????小川 和佑
????*意志と憧憬の恋歌

????*「哀歌」の構造

4 詩 「月光」??????????????????????????????????????????永山 絹枝

?????????????????????????????????????????? 平成24年「詩人会議」3月号

5??「水晶観音」
????????????????????????????????????????????????????????伊福 重一

6??「わがひとに与ふる哀歌」に思う???????? 2015.9.15
????????????????????????????????????????????????????????松尾 静子

7 はがき随筆 「水澄むの候」
????????????????????????????????????????????????????????龍田 豊秋

????????   ??????????????????平成27年9月18日毎日新聞長崎県版掲載

????????????????????????????????????????????????????????????????以上

10月の例会は,24日午後2時から,諫早図書館にて開催します。

1209ジョー:2015/10/01(木) 18:49:34
伊東静雄のこと
三度目(?)の投稿になります。

マイHPをテーマを絞り込みリフォームし「大山定一全書」と改名いたしました。
以降随時更新していく予定です。
リフォーム記念(?)として「資料室」にて、現在では入手が困難と思われます大山定一が1954年に「塔」に発表した「伊東静雄のこと」を再録しております。類似文献として「伊東静雄全集」(1961年)の付録資料「伊東静雄とドイツ抒情詩」がよく知られるところですが比較参照いただければとの思いです。

よろしくお願いします。


「大山定一全書」
http://www.tcn.zaq.ne.jp/palette/

http://www.tcn.zaq.ne.jp/palette/

1210上村紀元:2015/10/02(金) 10:52:32
ジョーさん 有難うございます。
「大山定一全書」リンク有難うございます。「伊東静雄のこと」は、その後の「伊東静雄とドイツ抒情詩」「良心のうずき歌う」三部作の序章で、適切に静雄の詩を語っている数少ない評論の一つだと思います。大山定一によるリルケをはじめとするドイツ詩抄の翻訳詩が、静雄の創作意欲をかきたてたか容易に想像できます。
 昭和49年年大山没後「大山定一 人と学問」が刊行されました。桑原武夫、吉川幸次郎、富士正晴等による追悼文が寄せられ、翻訳に精魂を注がれた大山定一の人となりが描かれています。

1211Morgen:2015/10/06(火) 14:51:31
「日本語の上手な詩人」(庄野潤三『クロッカスの花』から)
 随分秋めいてまいりましたが、皆様は如何でしょうか。私は早速風邪を引いてしまいました。(明日から東京出張というのに・・・)
 投稿の流れからいって次は「萩原朔太郎かな?」と大それたことを考えていたのですが、どうも短く、すっきりと論旨がまとまらず、難しそうなので先に延ばします。

 中継ぎというわけではありませんが、良く知られている本・庄野潤三『クロッカスの花』にある、「日本語の上手な詩人」というエッセーの中から、これも良く知られた話一題。

昭和16年の春、庄野潤三ははじめて堺市三国ヶ丘にある伊東先生の家を訪ねて行ったら、富山房文庫の佐藤春夫『陣中の竪琴』を貰った。

(以下『クロッカスの花』173〜5頁から抜粋)
 伊東静雄は、私に森鴎外と佐藤春夫を読むことを勧めてくれた。この二人が自分は好きだ。日本の文学の中に鷗外と佐藤春夫を結ぶ流れというものがあって、それに自分は心を惹かれるという風にいった。
・・・・・何に対する情熱か。戦場という異常な環境に置かれた鷗外が、事物にふれてどのように詩興を高められたか、それをどう表現したか、一行一行を追ってその制作の機微を明らかにしようという情熱である。すぐれた詩人の手にかかると、日本語がどんなに短い言葉で、どんなに微妙な働きを示すか、その生きた手本に対する讃美の念が著者の佐藤春夫にあった。それが、この情熱を生んだのであろう。・・・・・


どうかして生涯にうたひたい
空気のような唄を一つ。
自由で目立たずに
人のあるかぎりあり
いきなり肺腑にながれ込んで
無駄だけはすぐ吐き出せる
さういふ唄をどうかしてひとつ・・・・・
(佐藤春夫「或詩人の願ひ」)


*富山房文庫の佐藤春夫『陣中の竪琴』は、森鴎外『うた日記』の鑑賞の手引きとして、昭和9年に出版(昭和14年再版)されたものです。

1212龍田豊秋:2015/10/09(金) 18:28:43
秋の気配
庭のキンモクセイが、かぐわしい香りを漂わせるのもまもなくです。

今日の雲仙は、すっかり秋でした。紅葉は未だの様です
草むらに、ワレモコウとリンドウを見つけました。

 吾亦紅すすきかるかや秋草の寂しききはみ君に送らん  牧水

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1213Morgen:2015/10/12(月) 01:08:20
『陣中の竪琴』を贈った意図
??今年の秋は、何となく「足が速い」ような感じがしますね。
 我が家の狭い庭でも、すすきや藤袴が9月早々から花を開き、盆栽の山柿やアケビが早くも色づいています。

 先日は、東京の会議が予定より早く終わったので、「森鷗外記念館」に寄って『志がらみ草紙』の総目次から、幾つかを選びコピーをしてきました。(記念館の2人のお嬢さまには大変お世話になりました。感謝!)

 前回の投稿では、「昭和16年の春、庄野潤三は伊東先生から富山房文庫の佐藤春夫『陣中の竪琴』を貰った。」話を書きましたが、昭和16年の春というのはまさに太平洋戦争が始まる前夜ですね。
 “伊東静雄が、庄野潤三に森鷗外『うた日記』へ目を向けさせた本当の意図がもうひとつあったのではないか”ということを私は感じました。

 “刻々と迫りくる日米開戦、学生や文学者さえも徴兵の運命からは逃れられない。そうであれば、日露戦争の渦中という過酷な情況のなかで、少しでも「精神的な自由」を保とうとした森鷗外を見習うべきではないのか。”というのが伊東静雄の言葉にならない教訓としての森鷗外『うた日記』への注目であり―その解説書・佐藤春夫『陣中の竪琴』を贈ったもうひとつの意図ではないのでしょうか。
 「・・・・・木がらしに波立つ天幕の焚火のほとりに、鉛筆して手帳の端にかいつけられし長短種種の国詩を月日をもてついで、一まきとはしつるなり。・・・・・」(明治40年『うた日記』の森鷗外による広告文)

 伊東静雄に日露戦争中の森鷗外を見習えと言われても、森鷗外の強烈な自制心や意志力、多彩な才能、猛烈な努力―どれをとっても超人的であります。その一部分でも見習えないものかと憧れるのが我々凡人としては精一杯のところですね。
(写真は、森鷗外記念館の庭にある「三人冗語の石」です。)

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1214龍田豊秋:2015/10/15(木) 13:53:19
再び、秋模様
上山公園にある野呂邦暢文学碑の周りには、キンモクセイの香りが漂っています。

そばの銀杏の木の葉は、ほんのりと色づいてきました。

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1215Morgen:2015/10/19(月) 23:43:31
野口寧齋と森鷗外
絵に描いたような秋晴れの一日、朝から町内会の公園掃除(約2時間)で汗を流し、午後からは「淀の川辺」サイクリングに出かけ、約75キロを走りました。(スピードメーター付のロードバイクで)

 先日、森鷗外記念館でコピーしてきた資料の一部をご紹介します。

 1、野口寧齋「舞姫を讀みて」
 2、漢詩による野口寧齋と森鷗外の交信

 森鷗外は、明治21年9月8日、ドイツ留学から帰朝しました。ところが、別の船でエリス(エリーゼ・ヴィーゲルト)という若いドイツ女性が鷗外の後を追うように来日したのです。森家一族はエリスを説得してドイツへ帰らせました。
 この件はそれで無事落着したのですが、色々な噂話が拡がり、それらを打ち消すために翌22年の暮れに、鷗外は『舞姫』という人情本的な小説の原稿をドイツ留学記念3部作のひとつとして書きました。まず家族や友人に『舞姫』を読み聞かせ、その理解を得たうえで、『国民之友』(明治23年1月3日)の新年付録として『舞姫』が発表されました。

 これは各方面で評判となり、森鷗外は小説家として華々しくデビューする結果となりしました。ところが、評論家石橋忍月のように森鷗外を薄情者として非難するものも多く、野口寧齋にも評論文を書いてくれという依頼が鷗外からあったそうです。そこで、寧齋は添付しているような「舞姫を讀みて」という批評を『志からみ草紙』四号に載せたのです。(少し汚くなって済みません)

 鷗外は、寧齋が「真正の恋情悟入せぬ豊太郎」と言うとおりで、「太田は真の愛を知らぬものなりと。」その幕引きを図ります。

 寧斎の評論文をめぐっては賛否両論があり、また『舞姫』論争は今日まで続くテーマとなっています。それはそれで大変面白いのですが、必要があれば「寧斎の評論文をめぐる賛否両論」について再投稿します。

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1216Morgen:2015/10/27(火) 17:41:01
「うたと詩」
 近畿、関東では「木枯らし一番」が吹きました。皆様如何お過ごしでしょうか。

 弁当箱の形をした森鴎外『うた日記』の頁をめくりつつ、そこに載せられている「うた」(短歌もあれば詩も俳句もある)をぼんやり眺めていると、20年ほど前に刊行された檪原聰(*)『夢想の歌学』という本のことを思い出しましたので、抜粋してさわりの部分を紹介します。 (*いちはら さとし 歌人 1953年6月1日〜 東大寺学園中学校・高等学校前教頭 奈良市在住 前登志夫門下) 興味のある方は是非ご一読下さい。(日本の古本屋に在るようです。)

 歌人・前登志夫(*)は、「伊東静雄の詩『曠野の歌』のリズムは“よくぼくを脅かしたなとおもう”」と言いました。その言葉について、『夢想の歌学』の中で檪原さんは次のように解説しています。(*1926〜2008 吉野の歌人 前川佐美雄門下)

 前登志夫をして、この詩のリズムは“よくぼくを脅かしたなとおもう”」と言わしめたものは何か? それは、そのモティーフが「短歌的」であるばかりでなく、そのリズムも短歌になりうるような音楽的要素をもち、しかも、短歌とは明らかに異質な音楽を発しているからではないか。

 また、檪原さんは『夏花』所収の「そんなに凝視めるな」を静雄詩中最高の到達点であると評価されたうえで、『哀歌』〜『夏花』の変遷について、興味深い見解を示されました。

 『哀歌』はきわめて「発出的な詩集である。」

「発出的とは何か?」について、
(a) 自己(われ)が求心的に存在し、その求心的自己から外界にむけて歌がとび出していること。
(b) つねに内界から外界にむけられた視線であること。

 それが『夏花』においては、(静雄詩「そんなに凝視めるな」をご参照下さい。)
(a) 多様化した自己(われ、われら)に変化。
(b) 視線は相対的なまなざしへと転回。

 このように「そんなに凝視めるな」においては、凝視し続けてきた過去のあり方を変えて、観るまなざしは深まるが、そこに自然の多様と変化を認め、それを「讃歌」として歓ぼうと言っている。この詩は、ヘルダーリンでもリルケでもニーチェでもない伊東静雄独自の最高の到達点ではないだろうか。というのが、『夢想の歌学』において檪原聰氏が示唆された興味深いご教示でした。

1217上村紀元:2015/10/28(水) 17:22:48
帝塚山派文学学会
帝塚山文学学会設立記念講演会のお知らせ

1.平成27年11月1日(日)13時20分〜
2.帝塚山学院住吉校舎南館地下1階AVホール
3.記念公演 「帝塚山派文学」木津川計氏
4.記念シンポジウム
  「住吉の歴史と文化」「徳島と庄野英二・潤三兄弟」「坂田寛夫の文学」など

 昭和の時代、住吉の地には「帝塚山文化圏」とも呼ぶべき誇り高い文化の世界が存在しました。文学の世界では、藤澤恒夫・長沖一・伊東静雄らの戦前からの文学活動に、戦後、石濱恒夫・庄野英二・庄野潤三・坂田寛夫たちの新進作家が加わり、大阪文学の大きな流れを形成しました。帝塚山学院では、その文学者たちの作品を研究と再評価のために「帝塚山派文学学会」を設立します。ご参加ください。入場料無料

1218伊東静雄研究会:2015/11/08(日) 10:46:18
菜の花フォーラム のお知らせ
伊東静雄生誕109年 第10回菜の花フォーラムのご案内

日時 平成27年12月5日(土曜日)午後1時30分〜
場所 諫早図書館 視聴覚ホール

1.CD わがひとに与ふる哀歌 中田直宏作曲・諫早混声合唱団・諫早交響楽団
2.講演「伊東静雄からの手紙」 大塚 梓氏
3.講演「誤読こそ正読」    平野 宏氏
4.フリートーク        参加者の皆さん
5.閉会            伊東静雄研究会

入場無料・予約不要 お気軽にご参加ください。問合せ 0957−22−0169

1219龍田豊秋:2015/11/09(月) 11:16:08
ご報告
10月24日午後2時から,諫早図書館に於いて第95回例会を開催した。
出席者は9名。

今回は、「河辺の歌」「漂泊」の2篇を読み解いた。

会報は第89号。
内容は次のとおり。

1 伊東静雄論
????????????????????????????????????????????????????????山崎  脩


2??伊東静雄のこと
????????????????????????????????????????????????????????大山 定一

3??存在と時間?
????????????????????????????????????????????????????????小滝 英史

       ??????????????  ???? 平成27年10月 「水鶏」2号


4 詩 「りんご」
       ????????????????????????????????????    久坂 葉子

5??今月の鑑賞詩 「河辺の歌」アラカルト
????????????????????????????????????????????????????????上村 紀元

????????????????????????????????????????????????????????????????以上

??12月5日開催予定の「第10回菜の花フォーラム」について、打ち合わせを行った。

 11月の例会は,28日午後2時から,諫早図書館にて開催します。

1220Morgen:2015/11/11(水) 23:09:54
淀の河邉(サイクリング)
 ・・・・・
  こことかの ふたつの岸の
  高草に   風は立てれど
  川波の   しろきもあらず
  かがよへる 雲のすがたを
  水深く   ひたす流は
  ただ黙し  疾く逝きにしか
 ・・・・・
  (『淀の河邉』から)

 最近、私は年甲斐もなくサイクリングに凝って、「年寄りの冷や水」だと笑われています。
 先月から、『淀の河邉』サイクリングと自称して、十三〜大山崎間を4往復しました。

 河川敷の風景は、今ちょうど「百千の草葉もみぢし 野の靭き琴は鳴り出づ」という快適な状態で、秋の色が深まっています。

 大山崎町歴史資料館では企画展「河陽離宮と水無瀬離宮」を拝見してきました。こんな狭い場所に、9世紀以来数々の遺跡が密集して存在することに驚きました。
 昨夜は、東京出張の帰路、新幹線で10分弱で帰ったコースを、今日は2時間もかけて走るとは、我ながら物好きだと笑えます。

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1221山本 皓造:2015/11/12(木) 15:08:59
読書近況
またごぶさたをしてしまいました。掲示板はずっと見ていて、楽しく、力づけられるのですが、身体がついて行けませんでした。ぼつぼつ馴らし運転をしようと思います。

朱雀さんがブログで「もうろく帖」と題して、鶴見俊輔をとりあげておられます。現代思想「鶴見俊輔」特集、それから津野海太郎『百歳までの読書』。あゝ、同じ本を読んでハルなあ、と思わず頬が緩みました。先ごろ、河出文庫の『鶴見俊輔コレクション』全4冊を読んだばかりでした。サークル運動、思想の科学、ベ平連……これらは昔の話ではなく、私などには「並走してきた」感のほうが強いのです。

櫟原聰さんの名前は、東大寺学園にかかわりのある知人から「伊東静雄を書いてはる」と教えられて、読んでみたいと思ったのはもうずいぶん前のことですが、そのままになっていました。Morgenさんの投稿に触発されて、日本の古本屋に注文した『夢想の歌学』が届いたので、昨日から読み始めたばかりです。読みごたえがあります。思うこともいいろいろあります。ゆっくり読み進めようと思います。

神品芳夫『リルケ 現代の遊吟詩人』をようやく読み終わりました。後半の描き下ろし部分の評伝は最新の稿だけに、斬新で刺激的でした。また、ドイツ語の詩を読むという営みの現場を近々と見せてもらって、これも有益でした。「豹」が時期的には早く成立していながら『新詩集』のためにとっておかれた、ということに関連して、私は伊東の『夏花』の巻頭詩「燕」について思うことがあるのですが、機会を改めます。

1222伊東静雄顕彰委員会:2015/11/12(木) 19:32:01
第26回伊東静雄賞 決定
第26回伊東静雄賞は、国内外から1,175篇の作品が寄せられ、第一次選考(選者 平野宏、田中俊廣両氏)を経て、最終選考(選者 井川博年、以倉紘平両氏)の結果、下記の作品が伊東静雄賞に決定いたしました。贈呈式は平成28年3月27日(日)伊東静雄を偲ぶ「菜の花忌」のあと、諫早市内ホテルで行います。

 伊東静雄賞  四月の雨  藤山増昭氏(67歳)長崎県諫早市在住

作品の募集にあたり、お寄せいただいた方々、ご協力賜りました報道団体、その他関係先の皆様に衷心よりお礼申し上げます。受賞詩と選評及び佳作49編のご氏名は、「諫早文化」11号に発表致します。購読ご希望の方は郵便振替01820−4−24915、諫早市芸術文化連盟までお申し込み下さい。誌代1部1,300円(送料含む)平成28年5月発行予定。

1223龍田豊秋:2015/11/13(金) 11:25:15
驚きと喜び
このたびの受賞者の藤山増昭さんは、高校の卒業生の名簿で確認したら、何と何と私と同じ19回卒でありました。
藤山さんは理系、私は文系なので、クラスが異なり、記憶にはありませんでした。

諫早市からは、初めての受賞者ということで、素晴らしいことです。
お喜びを申し上げます。

藤山さんのお名前は、長崎新聞の郷土文芸投稿欄で、いつもお見掛けしています。

1224岩田:2015/11/15(日) 15:34:12
田中光子さんのお写真
ご担当の方へ、

お世話になります。

私はもぐら通信といふ安部公房の読者のためのネット上の月刊誌を発行してをります岩田英哉と申します。
(安部公房の広場:http://abekobosplace.blogspot.jp

安部公房が三島由紀夫と親しく、また三島由紀夫は伊東静雄に一時詩文の師事をしてをりましたことからお尋ねするものです。

伊東静雄といふ此の優れた詩人のお弟子さんに田中光子さんといふ方がゐらしやいます。

三島由紀夫は、1970年7月にこの方のために、この女流詩人が伊東静雄の元につて生前出すことの叶わなかつた第二詩集『我が手に消えし霰』を出版し、みづから序文を書いてをります。

また、当時田中光子さん宛の封筒も残つてをります。

さて、お願ひの趣旨は、実は、三島由紀夫の読者のためこの田中光子さんとおつしやる詩人のお写真を拝見致したく、そのやうな写真を、貴会にては収蔵なさつてゐらつしやらないでせうか。
(詩文楽:http://shibunraku.blogspot.jp

もしおありになれば、スキャンなりともして、ご送付戴ければありがたく存じますが、如何なものでありませうか。この場合、料金と支払先の銀行口座なりゆうちょ口座なりをお知らせ下さるとありがたく思ひます。

また、もしお写真がお手元になければ、どちらにお尋ねしましたならば、その可能性があるのか、お教え戴きたく存じます。

よろしくお願ひ致します。

ご返信をお待ち申し上げます。

岩田英哉
もぐら通信

http://shibunraku.blogspot.jp

1225伊東静雄研究会:2015/11/17(火) 19:10:58
岩田様
お尋ねの件、当方は持ち合わせておりません。またご紹介出来る先もありません。悪しからずご了承ください。

1226山本 皓造:2015/11/20(金) 11:28:53
「燕」と「そんなに凝視めるな」
 神品芳夫『リルケ 現代の吟遊詩人』のノートを取り終りました。
 前回の投稿で言いさして言い切っていなかったことがらを、少し敷衍します。

詩「豹」によって、次の時期のリルケの詩作の指標となるものが定まった。ヴォルプスヴェーデの時期の感覚で作成された作品を中心にして計画された『形象詩集』がまだ編集中だったにもかかわらず、「豹」はそれに収めず、次の詩集のために温存したことは、彼が自分の詩作の進展を自覚していたことを示す。(神品 p.217)

 リルケが次の詩集のために「豹」を「温存した」のとは方向が逆になりますが、私は、伊東静雄の詩「燕」は、すでに次の詩集『春のいそぎ』の圏内に入っているにもかかわらず、伊東はそれを現在編集中の『詩集 夏花』の巻頭に据えて、「自分の詩作の進展」を示したのではないか、と考えたのです。
 その「進展」がどういうものであったかを言うのはむつかしいのですが、発表年代の上で「燕」に接近していて、しかし『詩集 夏花』には収めなかった「そんなに凝視めるな」が、「燕」とは対になるものと思います。しかも「そんなに」は、発表は昭和14年12月(全集注記)ですが、もっと早く、日記の昭和14年9月の条にすでにその原型が記されていますので、執筆時期としてはなおいっそう接近して、ほぼ同時期と見てもよいと思えるのです。

 櫟原聰さんの『夢想の詩学 伊東静雄と前登志夫』も読み終わりました。櫟原さんは「そんなに凝視めるな」を非常に高く評価して、次のように位置づけています。

ここに凝視してやまない伊東静雄のまなざしの到達が表出している。そしてこれがこの詩人の最高の到達点ではないかとも目される。(同書 p.187)
〈飛ぶ鳥〉や〈野の花〉に〈無常〉のかなしみを見た
〈みつめる深い瞳〉はそこで〈自然の多様と変化〉を認め、その〈多様と変化〉とをむしろ〈歓び〉としてとらえようとする。無常のただ中において自然の豊かさを再認識し、そこに生きてゆこうとする人間的な〈歓びと意志〉を見出すというこの詩は、ヘルダーリンでもリルケでもニーチェでもない、伊東静雄独自の、そして最高の到達点ではないだろうか。(同書 p.188)

 桑原さんの評言を承けて櫟原さんは、『哀歌』期の伊東の詩を〈発出的〉と見ます。世界の中心としての自己、その自己への凝視、意識の暗黒部との必死な格闘とみずから言う苦闘を経てそこから生成する詰屈な思惟と情念の詩的言語を、外部世界に向って、強く、烈しく発出する、それが『哀歌』の世界でした。
 『夏花』は、伊東の転位というよりは、発出的体位の追究とそこからの脱出という二面、葛藤が見られるように思います。
 そうして、時間的経過のうちに、あるときふと、伊東の中で何かが「ほどけた」のではないでしょうか。「いいのだ」「そんなに凝視めなくてもいいのだ」「そのまま受け止めればいいのだ」と。その詩法の解説が「そんなに凝視めるな」であり、これはいわば楽屋裏であるので詩集には収めず、かわりにこの姿勢からの実作として「燕」を巻頭に据えたのではないかと、思うのです。

 伊東の中で何かが「ほどけた」、その徴表として私は、2つのことを挙げたいと思います。その一は、『春のいそぎ』において、そしてこの詩集でのみ、突如多出する固有名(地名)*、もう一つは、同じく『春』においてのみ出現する、七五音数律の採用です(「小曲」および「螢」)。

 * 先日書店で目にして買った、菅野覚明『吉本隆明―詩人の叡智』(講談社学術文庫)という本を読んでいて、壺井繁治の、大東亜戦争緒戦当時の詩にぶつかりました。

地図は私に指の旅をさせる/こころ躍らせつつ/南をさしておもむろに動く私の指/キールン/ホンコン/サイゴン/国民学校一年生のごとく呟きつつ/私の指は南支那海を圧して進む/私の呟きはいつしか一つの歌となり/私の指は早やシンガポールに近づく[菅野はこれを『吉本隆明著作集8 高村光太郎』p.130より引用]

 唐突ですが、私はこの詩を読んで、とっさに

汝 遠く、モルツカの ニユウギニヤの なほ遥かなる

を思い出してしまったのです。

1227岩田:2015/11/21(土) 04:55:05
田中光子さんのお写真
伊東静雄研究会御中

ご返信、誠にありがたうござゐました。

http://shibunraku.blogspot.jp

1228Morgen:2015/11/25(水) 01:13:54
今年の紅葉は・・・
 「今年の紅葉は奇麗じゃない」と、隣の人がぼやいています。先日、「美濃もみじめぐり」ツアーに参加しました。絵の具を「練り込み」模様に塗ったような西美濃の山々でした。

 写真は、「揖斐川上流」「西国三十三番満願霊場 谷汲山華厳寺」などです。
 「満願」とまではいきませんが、仕事も一段落しそうです。(暇になるわけではありませんが)

 「余計な力を抜いて、必要なポイントの筋肉を動かす」脱力の構えが、武道やサイクリングのコツだと言われます。これからも「脱力の構え」でボツボツいこかと考えています。
 いよいよ冬将軍がやってきそうです。みなさまくれぐれもご自愛ください。

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1229Morgen:2015/11/29(日) 23:50:48
今年の紅葉は・・・(2)
 11月27日、新宿御苑の風景です。
 日本庭園内茶屋のおかみさんも「これからまだ紅くなってくれるんですかね。例年は池の辺が真赤になるんですがね〜」と、うかない顔でした。
 今年も残すところあと一か月。皆様、風邪をひかないようにご自愛ください。
 私は、昨日も「淀の河邉サイクリング」で水無瀬離宮を越えて往復約70キロのペダルこぎをしてきました。淀川べりは、いつも強い風が吹いています。「雨にも負けず風にも負けず…」とまではいきませんが、「脱力の構え」で新年を迎えたいと思います。

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1230龍田豊秋:2015/12/02(水) 09:50:23
ご報告
11月28日午後2時から,諫早図書館に於いて第96回例会を開催した。
出席者は7名。

今回は、「漂泊」「寧ろその日が私のけふの日を歌ふ」「螢」の3篇を読み解いた。

会報は第90号。
内容は次のとおり。

1 井川博年 詩抄

????「石切場の石」???????????? 1975年 詩集『花屋の花 鳥屋の鳥』収録


????「ひとは哀しき」?????????? 1975年 詩集『花屋の花 鳥屋の鳥』収録

????「東京に雪が降る」???????? 2013年4月17日 朝日新聞

????「買物」         「歴程」2015年8月 590号


2??井川博年 詩集について??????????????????????????????白石 明彦

??????????????????????????     ??????朝日新聞2011年1月

3「諫早の春」
????????????????????????????????????????????????????????田中 元三
  ??????????????????????????????2011年4月 『夙川の岸辺から』

4 詩 「りんどう」?????????????????????? 松尾 静子

?????????????????????????????? * 花言葉・悲しんでいるあなたを愛する
?????????????????????????????????? 2015年10月 深江にて

5??詩は溢れている、泥海に!
?????????????? ─ 唐十郎戯曲『泥人形』を読む     新井 高子

??????????????????????????(ミて 詩と批評126号 2014年春 季刊)

?????????????????????????????????????????????????????????????? 以上

1231Morgen:2015/12/04(金) 10:39:42
「不時の鶯」
 一昨日(水曜日)に淀川べりをロードバイクで走っておりますと鶯の囀りが聞こえました。空耳かと思って立ち止まって耳を澄ましますと、すぐ近くで「ホーホケキョ ケキョ ホーホケキョ ケキョ ホーホケキョ ケキョ・・・・・」としきりに囀っています。「チャッ チャッ・・・」という地鳴きも聞こえますので、おそらく藪の中に群れがいるのでしょう。一羽だけ姿が見えました。

 このように季節の到来を間違って花が咲いたり小鳥が鳴いたりするのを「不時」と言うらしく、昔から「鵜殿」は、伊勢物語や谷崎『芦刈』にも登場する「歌枕」の地(?と言ってもよいようなとても由緒の深い場所らしくて、独りで聴くのはもったいないような一種優雅な気分になりました。(ここら辺の葦を“ヨシ”と発音します。例ーよしず)

 写真は、近くのサイクリングロードですが、河川敷とは思えないほど森が茂っています。
 『わが人に與ふる哀歌』の末尾は、「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」「鶯」と続いておりますが、こちらは「不時の鶯」ではありません。

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1232Morgen:2015/12/07(月) 10:14:31
水無瀬神宮の紅葉
 昨日は、十三〜大山崎町(京都府)〜西国街道〜水無瀬神宮(大阪府)〜十三間の淀の河辺をロードバイクで走りました。(約4時間余)
 水無瀬神宮は、大阪府島本町広瀬地区にあります。伊東静雄と庄野潤三は、かつて京阪電車橋本駅の方から「橋本の渡し舟」で広瀬の渡船場に着き、この水無瀬神宮を訪れました。(境内の石に座ってで少量の酒を飲みしばし昼寝をした。?)
 最近は、「名水百選」に指定されている「離宮の水」を自動車で汲みに来る人が多く、昨日も10人以上の水汲み客がポリタンクを持って行列を作っていました。
 境内の紅葉は、樹の数は多くはありませんが、何れの樹も鮮やかな発色を呈していました。

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1233龍田豊秋:2015/12/09(水) 10:52:05
ご報告
12月5日午後1時30分から,諫早図書館に於いて「第10回菜の花フォーラム」を開催しました。お客さんは、約100名でした。

本日,長崎新聞に高比良由紀記者執筆の記事と写真が掲載されました。
タイトルは、「詩人 伊東静雄に触れる」。

フォーラムの内容は次のとおりです。

1 音楽鑑賞 合唱曲『わがひとに與ふる哀歌』
??????中田 直宏作曲・諫早混声合唱団・諫早交響楽団

2??講演「伊東静雄からの手紙」              大塚 梓氏

 伊東静雄と親交のあった、父・大塚 格氏に届いた静雄からの手紙について。

3 講演「誤読こそ正読」   伊東静雄賞・第一次選考委員 平野 宏氏

4 フリートーク

第22回伊東静雄賞受賞者の西村泰則さんは、教職を経験された立場から、誤読ではなく正読をこそすべきと発言され、会場が沸きました。

最期に、第26回伊東静雄賞を受賞された藤山 増昭さんが挨拶をされました。

藤山さんの父上が軍医として従軍した「菊兵団」、詩人丸山 豊が軍医として従軍した「龍兵団」は、日本軍の史上最強最精鋭を謳われた師団でした。
激戦地北ビルマで両師団は共に参戦し、お二人は辛くも生き延びられました。

受賞詩の中にある、「戦後に生まれた私等は、草木の葉先に煌めく朝露ではなかったか」という詩句は、日本人の伝統的な生命観として、私も全く同感です。
?????????????????????????????????????????????????????????????? 以上

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1234山本 皓造:2015/12/12(土) 10:51:12
「語りえないものについては……」
「河邉の歌」における「時間」論について投稿しようと準備している途中、おもしろいものに出会いました。寄り道になりますが、先にこれを投稿します。
 インターネットで「クロノス」とか「カイロス」とかを検索していて、次のサイトに出会いました。筆者はオーストラリアの McKingley Valentine という人、標題は "Chronos & Kairos" で、標題のすぐ下に、エピグラフ風の引用文があります。
  "Whereof we cannot speak, thereof we must remain silent."
 なんか、どこかで見た文句だなと思って、本文に入ると、冒頭に、Oh Wittgenstein. You know just how to put things. そうです、これはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最後のフレーズ、「語りえないものについては、沈黙しなければならない」の英訳でした。

 私はずっと前から(中学生のときから)must という英語について、疑問を持っていました。辞書では、英語の must には「〜しなければならない」と「〜にちがいない」という、2つの訳語が割り当てられています。しかし英語では must 1語なのだから、英語の人々はどんなふうに2つの意味を聞き分けるのだろうか。「ねばならぬ」と「ちがいない」において、意味的に何が共通しているのだろうか。――つい最近になって、私はひとつの結論に到達しました。すなわち、どちらも「選択肢はただ1つしかない」ということを言っているのだ、と。(それでいいのかな?)

 いま、スベトラーナ・アレクシェービッチ『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)を読んでいます。
 チェルノブイリの人々は長い間、自分たちの見たこと、聞いたこと、考えたこと、体験したこと、希望、絶望、悲しみ、怒り、そういうことがらを「語ることができない」で来ました。語る言葉がなかったのです。そのため、彼らは、語らず、ただ、沈黙しているほかありませんでした。ここは「沈黙せねばならなかった」よりは「沈黙するほかなかった」と云いたい。そうして、そのチェルノブイリの人々が、アレクシェービッチさんの問いかけ、語りかけに接し、長い時間が経ち、やがて言葉が生まれ、言葉が交わされて、この本が書かれたのです。その内容は、感動的とか、衝撃的とか、云ってみても、はじまりません。こんどは私が「語りえない」ようになってしまいます。

 ウィトゲンシュタインの言葉の解釈としては、ふつうは、「世界(論理空間)の外側の事柄について語られた命題は、それが真とも偽とも云うことができないので、その命題は端的に無意味である」というふうに解されているようです。たとえば信仰や道徳や形而上学上の命題はすべて、「語りえない」事柄に属します。でもウィトゲンシュタインはそれらについてずいぶんたくさんのことを語っています。

 菅野覚明『吉本隆明』によると、吉本は「発語は沈黙の自己発展である」と考えていた、と云います。

 ところで Velentine 氏がこの引用をしたのは、「もしあなたが 'kairos' という語を知らなければ、"you're missing out" だから」だというのです。でも、ふだん何げなく過ごしている生活の中にも、kairos 的瞬間はきっと存在するはずだ、ただあなたはそれに気づかず、見逃しているだけなのだ、と。

1235Morgen:2015/12/21(月) 15:09:23
「ときじくのかぐのこのみ 非時香果」
??今日の昼休み、古本屋で、伊東静雄詩を英訳してご紹介頂いた宮城 賢(1929年熊本県生まれ〜詩人、翻訳家)の評論集『生と詩』(昭和51年発行)と、『竹林の隠者 富士正晴の生涯』を買いました。(仕事の合間にチラチラと中身を覗いています。)

 宮城 賢『生と詩』には、「伊東静雄と私 負の方向から原点へ」(昭和44年『試行』掲載)が載っています(9〜36頁)。同書「あとがき」に、「・・・は7年前に、やみがたく書きあげたもので、いま読めばスキだらけであるが、私の詩的道程における大きな結節点としての意義を持つ。」と書いておられます。

 宮城さんは、「曠野の歌」をめぐる大岡 信の分析(『昭和10年代の抒情詩』)に反論を加えつつ、「屈折の精神にふれた時その精神の現場を歌った」と言う保田與重郎(*)の評論に軍配を上げています。
(*)「付記」で萩原朔太郎から保田與重郎に訂正されています。その出所は、「伊東静雄の詩のこと」(昭和11年1月『コギト』)
(詳細を述べるスペースはありませんが・・・)以下少しだけ紹介します。

 ・・・・・
 詩人の言う「息苦しい希薄のこれの曠野」とは、彼がその直前の詩という「誰もがその願ふところに住むことが許されるのではない」の二行に示される辛い現実認識そのものであり、そしてこの曠野的現実の認識が「痛き夢」を彼にしいずにおかなかったのである。「息ぐるしい希薄」の「曠野」はげに彼が「願ふところ」ではなかったのである。しかし、まさにそこにしか住むほかなかったのである。そして、そこに生きるとは、「花のしるし」をまく意志そのものである。・・・「永遠の帰郷」とは、「誰もが願ふところ」への永遠の帰郷である。このそれ自体のアイロニイ。この回帰をあらしめんがために、彼はわが手で、曠野の道のべに、おそらくは咲くことはないであろう「花のしるし」をなおみずからの意志によりまかねばならぬのである。

 なお、同書の中で宮城さんは、「非時(ときじく)の木の実」とは、「ときじくのかぐのこのみ 非時香果」(橘の実)であり、「百千の」の“酸き木の実”もまた非時香果(ときじくのかぐのこのみ)であるとも仰っています。

 数日もすれば、平成28年(申年 閏年)と暦が改まります。皆様、清々しく、新年をお迎え下さい。

1236山本 皓造:2015/12/23(水) 11:26:12
宮城賢さん
 Morgen さんの投稿で、『果樹園』でおなじみの宮城賢さんのお名前をなつかしく拝見しました。私は今月にはいって『現代詩手帖臨時増刊吉本隆明1972』を読んでいて、宮城賢さんの「『固有時との対話』研究」という文章を読んだところでした。偶然と言いましょうか。私の読んだ文章にも伊東静雄への言及がありましたので、とりあえずその部分を紹介します。

 宮城さんは、吉本の『固有時との対話』の次の一節を引いて、こう言います。

    何といふ記憶! 固定されてしまつた記憶はまがふかたなく現在
    の苦悩の形態の象徴に外ならないことを知ったときわたしは別に
    いまある場所を逃れようとは思はなくなつたのである

……私はこの一節を読むたびに、伊東静雄の詩の数行をどうしようもなく想起するのである。

    私の放浪する半身 愛される人
    私はお前に告げやらねばならぬ
    誰もが願ふところに
    住むことが許されるのでない

 私自身が青年期においてこの数行に電撃的に打たれたことはすでに「試行」二十七号の「伊東静雄と私」なる一文でのべたので、ここではくりかえさないが、もしその同じ時期に私が『固有時との対話』に出会い、さきに引いた一節に表わされている詩人の姿勢に接していたとすれば、たぶん伊東静雄でなくて吉本隆明が私の青春の数年間を烈しくもろに包み込んだであろうと思われるのである。

 宮城さんの文章は非常に綿密な論で、多くの考えるヒントをもらいました。次の投稿までにもう一度、ていねいに読み返すつもりです。
 諸家の中には、吉本の初期詩篇と、立原道造の詩に、一種の親近性を見出す人が一、二にとどまらないようです。一方で。伊東の立原に対する(たぶん一方的な)好意のようなものがあって、これは私の宿題になっています。何やかやで、当分、寝たりコケたりしている暇はなさそうです。

1237Morgen:2015/12/24(木) 17:35:52
山本様 こんにちは
 山本様 こんにちは。
 私の拙い投稿をお読みいただきましてありがとうございます。
 宮城賢さんは、1929年生まれで終戦時に16歳ですが、当時の青年たちは腹を空かせながらも、伊東静雄詩集を買い求めて、心の糧にしたのだということを思うと、ずっしりとした重みを感じます。(小川和祐さんは1930年生まれでした。)

 昨日(12/23)は午後から雨の天気予報でしたので、大阪港一体を自転車でポタリングしました。小野十三郎さんの詩集『大阪』に歌われた「大葦原」など、もはやその片鱗すらも残っていません。2キロ近い此花大橋の上では、誰とも遭遇しませんでした。足下にはどんよりと曇った海が広がり、今日は仕事を休んでいる新日鉄住金などの工場群が見えるだけでした。

 先日」(12/19)は、枚方大橋から木津川の方へ少しだけ入り、桂川サイクリングロードから橋を渡って淀川右岸を走って帰りました。水無瀬辺りの河淵からオオワシ(大きくて重々しい「ビワコオオワシ」に似ていた・・・)が飛び立つのを観ました。土手の上では、野鳥撮影家達が、50人以上も陣取って望遠レンズを構えていました。当日の走行距離は約110キロでした。

 

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1238Morgen:2015/12/28(月) 12:19:07
納所(のうそ)/「淀君の淀城址」?
 諫早の芥川賞作家・野呂邦暢の本名が「納所邦暢」であることは皆様ご存知の通りです。
「納所」というのは、諫早では珍しい苗字ですが、実は平安時代からある朝廷への税・上納品等の「収納場所」のことだそうです。
 桂川サイクリングロードを走っていると「伏見区納所町」(nouso)という地名が在ります。
そこは淀川水系三川合流点の上流(桂川と宇治川の間)にあり、室町時代から「納所」として重要な場所でした。
時代は移って、浅井茶々が秀吉の側室となり、天正17年(1589年)、捨(鶴松)を懐妊したときに当地に山城国淀城(「古淀城」という)を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになったという由緒のある場所となりました。― 鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を産み、その後この館は破却され、その一部が近くの伏見城に移築されたと記されています。(「淀君」と言えば「江口の君」を連想しますが、「淀君」「淀殿」は後世の人が付けた名前で、生存時にそう呼ばれたわけではないそうです。)

 さらに、江戸初期に伏見城が廃城とされたために、「新淀城」が「古淀城」の南500メーター程の場所に築造され、その周辺に城下町が形成され、古い街並や神社が残されています。
 一方の「古淀城」跡地には、現在は小学校やお寺が建てられ、地域は現在の伏見区納所町となっています。

 大正時代に淀競馬場開場に伴って地域振興が図られ、現在は「淀競馬場」の町として知られています。昼飯に立ち寄った京阪淀駅前の駅前商店街にある古い喫茶店で、聞こえてくる隣のお客様方の話題は専ら競馬レースのことでした。

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1239山本 皓造:2015/12/28(月) 14:53:24
納所の唐人雁木
 納所という地名を見て、思わず懐旧の念にかられ、筆をとりました。
 納所には「唐人雁木」の石碑というものがあります。朝鮮通信使の上陸地と云われます。さっきウエブで見たのでは、「この石碑は1990年(平成2年)に立て替えられたもので、1928年(昭和3年)に三宅安兵衛遺志によって建立された原碑は現在、淀城跡公園内に移設されています」とのことです。
 実は私はその原碑、古いほうの碑を見に行ったことがあるのです。
 朝鮮通信使のことを熱心に調べていたころで、20数年前になりますが、たしか写真もとって、それを見ていただこうと思ったのですが、当時はまだ銀塩カメラの時代で、その古い写真を、とても探し出すことができませんでした。京阪電車の淀駅で降りて、淀城址を横目に見ながら、かなり歩いて行ったのをおぼえています。(写真は、Googleで「唐人雁木」で検索して「画像」を見ると、無数に出て来ます。)
 年末の行事はだんだん手抜きになって、さしてあわただしくもなく、年を越すことになりそうです。皆様、よい年をお迎えください。

1240Morgen:2016/01/05(火) 15:32:04
新年明けましておめでとうございます
 皆々様。新年明けましておめでとうございます。
 私は、今日から仕事始めですが、我が脳内はまだ新年に更新されていません。
 年末〜新年は、奥道後温泉で過ごしましたが、ホテルも比較的に空いており、ゆっくりできました。しまなみ海道では、サイクリングをする人たちの小集団と度々遭遇しましたが、清々しい良い眺めですね。(機会があれば挑戦してみたいものです。)
 当地では、暖冬のため、蝋梅の大木が満開になっており、早咲きの梅も、椿までも既に開花しています。この調子で行くと3月には桜が満開になるかもしれませんね。
 今年も「健康をキープして、清々しく」をモットーにして参りたいと思いますので、宜しくお願いします。

1241山本 皓造:2016/01/06(水) 14:49:00
明けましておめでとうございます
 皆様、明けましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願いいたします。

 大晦日の夜、紅白を観ても歌手の名前が全然わからないので、しばらくチャンネルをいじっていたら、BS7で、「空から日本を見てみよう」というのをやっていて、空から、大村湾を一周、諫早の町が出て来ました。眼鏡橋。諫早高校。池にかかった橋の上に女子高生が並んで腰を下ろして、足をブラブラさせながら、お昼の弁当を食べていました。校内にある「御書院庭園」という庭だそうです。高校の中に「名苑」がある! 検索すると、Wikipedia の「諫早高校」に、庭園の写真が載っていました。皆さんはすでにご承知で、私ひとり感激した、という次第です。

 年がかわってから、加藤周一・中村真一郎・福永武彦『1946・文学的考察』(講談社文芸文庫)と、中村真一郎『芥川龍之介の世界』(岩波現代文庫)を読みました。中村真一郎はこれまで、偶々出会ったときに小さな文章を断片的に読んだ経験しかなく、しかし、おもしろい、と思っていましたので、立原・堀に焦点を合わせて、もう少し蒐めて読んでみようと思っています。

1242Morgen:2016/01/09(土) 00:55:49
『歌と逆に歌に わがバリエテ』(小野十三郎)
 昼休みに近くの古本屋で『歌と逆に歌に わがバリエテ』(小野十三郎著 創樹社 1973年刊)を買ってきました。(この本は昔買って読んだ記憶がありますが取り敢えず買っとこうということで…) 目次にある次の項目が目についたからです。(興味のある方は古本も多数あるようですのでご一読下さい。)
 <座談会 伊東静雄―人と文学―富士正晴・斎田昭吉・中石孝と―>
 <言語と文明の回帰線―前登志夫との対談―>

・<座談会 ・・・>の方は、全体が思わず笑わずにはおれない程に面白いのですが、次のような話はいかがでしょうか。
小野「伊東のことで面白い話があるねん。いつかうちの嫁はんとスバル座で会いよってん。ところが伊東と秋田実、よう似とるねん、顔がな。それでうちの嫁はん、初めからしまいまで秋田のつもりで話しておったんや。伊東もそれにちゃんと、ああとかそうとか言うて受けてな、相づち打っとったらしいわ。それで別れぎわに“ぼく伊東です”言うてな。」

・<―前登志夫との対談―>の方は、かつて小野さんが「短歌的な抒情の否定」というようなことを言い「奴隷の旋律」というような激しいことばを使った真意はどこにあったのか等々について、歌人前登志夫さんと対談しているのが興味深く、「なるほどそうだったのか。」と納得させられるところがありました。

1243龍田豊秋:2016/01/12(火) 10:45:40
ご報告
12月26日午後2時から,諫早図書館に於いて第97回例会を開催した。

会報は第91号。

内容は次のとおり。

1『夏花』に寄せて?????????????????????????????????? 一柳 喜久子

????????????????????????( 昭和45年8月冬至書房復刊・付録より転載)


2??詩 「日暮れの町で」  ???????????????????????????? 井川 博年


3 詩「出発は5分でできる」??????????????????????????井川 博年


4 井川氏の作品に思う????????????????????????????????山本 皓造


5??詩「てのひら」????????????????????????????????????青木 由弥子


6 詩「中心に燃える」????????????????????????????????伊東 静雄


7 詩人伊東静雄に触れる <諫早で作品解説 ~菜の花フォーラム~>

                 長崎新聞 2015.12.9 記事

                ???????????????????????????? 以上

次回は、1月23日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。

1244山本 皓造:2016/01/16(土) 12:02:24
中村真一郎から「河邉の歌」へ
 私がこの欄に「松浦寿輝氏の「エセー」」と題して、「アクチュエル」な時間と「レエル」な時間ということを書いて投稿したのは、ついこの間と思っていましたのに、調べてみるとそれは一昨年、2014年2月26日のことで、もう2年も前のことになります。その2年間という時間の過ぎ行くのが早かったことに驚きます。
 松浦氏はプルースト巻末解説の「プルーストから吉田健一へ」というエセーで、まず吉田健一の時間観を「その流動を奪はれてこれが時間だと自分の前に置ける類の」時間として取り出して、これを「アクチュエル」な時間と呼び、次いでプルーストの無意識的想起によって喚起される時間態様を「レエル」な時間と呼んで、これと対比しました。私はこれにヒントを得て「河邉の歌」を次のように読んでみたのでした。長くなって申し訳ありませんが、以下にその要点を抜き出します。

   私は河邉に横たはる
 作者は、故郷ならざるある河辺に来て横たわります。ここはまだ「アクチュエル」な時間です。
   (ふたたび私は歸つて來た)
 ここで、一つの時間断片ともう一つの時間断片とが不意に接合します。( )は、事態が「レエル」であることの、あるいは時間態様が異なることの、徴表です。
 この「超越的な時間」「純粋状態の時間」においては、アクチュエルな時間は無化され、傷ついたり豊富にされたりした時間は飛びこされます。
 「私」をふたたび「アクチュエル」な時間に引き戻すのは、ザハザハという川の音です。作者は自分が依然としてアクチュエルな時間のうちに在ることを気づかされます。万物の上を等しく流れ、正確に数をきざみ、往って戻らぬ時間というものの本性。この気づきを作者は
   私に殘つた時間の本性!
と云います。
 この時間には、生けるものの「死すべき宿命」mortalité が含まれます。作者はそれを、「はやも自身をほろぼし始める/野朝顔の一輪」において目のあたりに見ます。この宿命の、例外を許さぬ普遍性(正確さ)と、にもかかわらずその死の固有性(孤独)。

 旧稿「「河邉の歌」を読む」では私は、第三聯については適確な解釈を得られないままに、書き流してしまいました。
 最近になって、中村真一郎『芥川龍之介の世界』(岩波現代文庫)、同『芥川・堀・立原の文学と生』(新潮選書)、小久保実『中村真一郎論』(審美社)などを読みました。小久保の『論』が、

周知のようにプルーストは記憶に二種類あることに注目した。意志的な記憶と無意志的な記憶。人は後者の中で、現在と過去を同時に生きる。それは超時間の世界への飛躍である。

という、中村真一郎の著書からの引用を行っていて、私はこれに触発されて、さまざまな想念がワッと湧き上がってきました。以下、手抜きをして、箇条書きにします。

●「時間の本性」は、
  アクチュエルな時間、ギリシア語でいうクロノス的時間、吉本『固有時』に云う自然的時間と、
  レエルな時間、カイロス的時間、固有時的時間
どちらに解してもよい。後続の論理にはかかわらない。
●水中花は無意志的記憶の想起=開花である。プルースト。乾いて、ひからびて、花の色を失い、形を失い、紙屑のようなものになった水中花が、水の中で、鮮やかな花の色と形を取り戻してゆく。内田百?「水中花」(本掲示板2006.6.4)がなぜ「水中花」なのか、やっとわかる。
●「飛行の夢」は「夢想による飛行」と言い換えられる。飛行は、夢想/レエル時間に入り込むこと/による、
  A 大阪の陋屋から本明川の河原への――。
  B 少年時への特権的時間への――。
 拙論「『河邉の歌』を読む」で引いた、杉本秀太郎氏、菅野昭正氏の、「どこからどこへの飛行か」に関する立論はいずれも妥当であると考える。
 レエル時間=「純粋時間」=「詩作時間」という米倉巌氏の所説は、もし「河邉の歌」というこの詩それ自体に適用されるとすれば、その立言はメタ・レベルにあり、この詩は自己言及的な詩であるということになる。
●第一聯は「アクチュエル」時間から「レエル」時間へと入り込む。第二聯はアクチュエルな時間に戻る。
 さて、第三聯はどの時間相に属するか?
 読み方としては第二聯の続きであって、なおアクチュエルな時間に居る、と読むのが自然である。であれば、雲の去来や取り囲む山々の存在はいずれもアクチュエルな時間におけるアクチュエルな事象である。それは、ザハザハという川の音や、萎れかかる野朝顔と同じレベルのアクチュアリテである。最後の「飛行の夢……見捨てられはしなかった」も、アクチュエルな時間に居て行う、直前のレエルな時間経験の確認である。
 そうだとすると、山々が天体の名を持つてはいけない。それがたとえば北斗七星であって、妙見岳を指す、とすれば、それは故郷の山々であり、アクチュエルな時間のアクチュエルな出来事として現れることはありえない。ここには(不注意からかどうかは措くとしても)レエルな時間の時間相が混入してきている。意図的に混入させても詩としては成り立つが、それは伊東の本意ではなかった。伊東はこの混入に気づいて、『反響』でこの行を削除したのではなかったか。
?

1245Morgen:2016/01/19(火) 11:29:37
「詩作的思索」
山本様。貴重なご思索の成果を教示頂きましてありがとうございます。
「河邊の歌」の各詩句の意味が解きほぐされ、(専門家だけでなく)我々素人も詩人のメッセージを「あゝ、そういうことか!」と了解できるようになると素晴らしいですね。

人間の思索―(客観的)哲学的思索と、(主観的・始源的・根源的な)詩作的思索とは、本来的には未分化でありますが、人間にとってはどちらも不可欠であり、本質的な思索であることは言うまでもありません。

伊東静雄は、「飛行の夢」という「洒落た詩句」をつかって、「カイロス的時間」〜「クロノス的時間」の間を飛び回るトランスポート的思索を披露しながら、「望郷」テーマの詩作をしているのだと、「河邊の歌」を私は位置づけました。いわゆる「詩作的思索」または「詩人的思索」(ハイデガー、ヘルダーリン“思索家的詩作”)といわれるものへの伊東静雄的チャレンジなのかも知れないなどと、その時の状況を空想したりしています。
 一言でいえば「河辺に寝転んで目を閉じると、故郷の山や川が脳裏に浮かび、そのプリミティブな思索はストレートに詩の言葉(うた)となって出てくる。」というような状況でしょうか。

私は、健康維持のために相変わらず週1〜2回の「淀の河辺サイクリング」を続けていますが、秋の彩りは淀の河辺から消え失せ、鵜殿の葦も半分位はすでに刈り取られ、大阪港の「大海辺」も冬景色に変わっています。
 淀川河川敷の到る所で、名前も知らないような色々な小鳥や大型の渡り鳥たちによる、賑やかな鳴声の交感が壮んであり、まさに鳥たちの「カイロス的春」であります。太陽入射角が高くなり、日没時間が遅くなっていることから見ても「カイロス的春」がすでに始まっています。自宅前公園の河津桜も紅い蕾が膨らみ、「いつでも咲いたるぞ」と言いたいような気配を感じます。明日もまた桂川辺りまで「ペダリング」をしようかと思っています。
*添付の写真は、先日(1/16)大阪北港の淀川河口から、湾岸線方向をスマートフォンで写したものです)

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1246Morgen:2016/02/01(月) 14:32:01
水無瀬のコミミズク
 昨日は天気が好かったのでいつもの通り「淀の河辺サイクリング」に出かけました。

 大山崎町の観光案内によると、最近シベリヤからコミミズクが渡って来て、水無瀬の河川敷(広瀬地区)で越冬しているそうで、フィールドカメラマンの注目を集めています。。
(添付の写真は、WEB上に公開されている写真を使わせて頂いていますが)昨日も約200人のカメラマンが、長い望遠レンズを構えて撮影していました。腹の白いオオタカも枯れ木のてっぺんに止まっていました。(生憎私はカメラを持参していませんでした。)

 写真の場所は、伊東静雄が、庄野潤三の出征を労う為に、橋本から渡し舟に乗って山崎の渡し場を通って水無瀬宮へ行った道筋に当たります。(その模様は庄野さんの日記を基にした『前途』に詳しく描写されています。)

 伊東静雄〜庄野潤三の文学的継承関係の考察については、饗庭孝男さんが「庄野潤三論」(『批評と表現 近代日本文学の私』において詳しく論じられています。上手くまとまりましたら再投稿してご紹介します。

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http://oyamazaki.info/

1247山本 皓造:2016/02/04(木) 16:54:29
近況雑記
 Morgen さんの「健脚」は、うらやましい限りです。水無瀬には知人が住んでいて、訪問がてらに一度行きたいと、前々から思っていたのですが、この分では夢に終わりそうです(「飛行の夢」でなら行けそうなのですが。)

 小野十三郎『歌と逆に歌に わがバリエテ』所載の座談会は、初出の雑誌『日本浪曼派研究』創刊号のほうで読みました。私も腹を抱えて笑いました。
 伊東先生のエピソードの一つとして、"ズボンのベルトのかわりに奥様の赤い腰紐を締めて出勤した" というのがありますが、以前、花子夫人に直接うかがったところによると、それはなかった、と、否定されました。誰が言い出したのでしょうか。

 『庄野潤三全集』全10冊が古書で1万円で出ているのをみつけました。ずいぶん前に一度、天牛で3万円で出ているのを見たことがあるのですが、古書も安くなりました。

 1月は、読書があまりはかどりませんでした。月末までに読んだ主なものをあげると、
  ・加藤周一・中村真一郎・福永武彦、1946 文学的考察、講談社学術文庫
  ・中村真一郎、芥川龍之介の世界、岩波現代文庫
  ・熊野純彦、埴谷雄高―夢みるカント、講談社学術文庫
  ・中村真一郎、芥川・堀・立原の文学と生、新潮選書
  ・小久保実、中村真一郎論、審美社
  ・山本七平、小林秀雄の流儀、文春文庫ライブラリー
  ・堀田善衛、時間、岩波現代文庫
  ・村上春樹、雑文集、新潮文庫
そして、大冊
  ・中村真一郎編、立原道造研究、思潮社
を、ようやく読み上げました。
 結局、巻頭の室生犀星がいちばんよかった。中村真一郎の回想もよかった。芳賀檀の文章は何を言っているのか意味不明。
 ノートをとるという、大仕事が残っています。
 途中で止まっていた『立原道造全集第3巻』(散文)を、また始めから、読みはじめました。

 考えることはいろいろあり、自分で問題を設定しておいて少しも解答に近づいていないものもあり、ノートやメモは溜まって行きますが「生産性」がガタ落ちで、投稿するまでに至りません。まあ、ぼちぼちやろうと思います。

1248龍田豊秋:2016/02/10(水) 09:28:51
ご報告
1月23日午後2時から,諫早図書館に於いて第98回例会を開催した。
出席者は、8名。

今回は、『燕』『砂の花』『夢からさめて』の3篇を読み解いた。

会報は第92号。
内容は次のとおり。

1 「伊東静雄ノート1」????????????????????????????????青木 由弥子

      ????????????????????????(詩誌 千年樹第64号より転載)

2??詩とエッセイ『千年樹』第64号????~伊東静雄の作品を振り返る~

????????????????????????????????????????(長崎新聞 2016.1.9)

3 伊東静雄と近代西欧の詩人たち????????伊東静雄研究会 森田 英之

項目 はじめに
   啓蒙主義
??????ロマン主義
??????ドイツの場合
??????古典主義・ロマン主義の背後にあったカント哲学
??????ヘルダーリンの復活
??????古代ギリシア文化とヘルダーリン
??????伊東静雄と西欧

              ???????????????????????????? 以上

次回は、2月27日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。

1249Morgen:2016/02/21(日) 00:14:14
「右岸から左岸への手紙」
淀川祭りで唄われた「淀の流れは十三里」という歌があるそうです。(古関裕而作曲 貴志邦之作詞)

  港みなとで
  山ほど積んで
  上り下りの
  通い船
    淀の流れは
    十三里

 伊東静雄も詩のなかで淀川を詠っており、現実の厳しさに直面し「強いられて」、自らの青春の終わりを痛感し、さらには戦争、敗戦と言う濁流に流されていった詩人の人生が表現されています。
・「わがひとに與ふる哀歌」(琵琶湖面。淀川は琵琶湖河畔〜大阪湾河口)
・「淀の河邉」(三川合流点。橋本〜水無瀬)
・「路上」(…そして向こうに大川と堂島川がゆったりと流れる/私もゆっくり歩いて行かうと思ふ…)

 淀川区役所の近く十三東町に詩人・清水正一さん(故人)のご自宅が記念館として遺された「蒼馬亭」があります。周りにはマンション建設が進められているなかで頑張っている古い三軒長屋の端の家です。
 清水正一さんは、昭和3年に伊賀上野から大阪に出て来て、蒲鉾の製造に従事しながら詩を作り続けてこられ、昭和60年に亡くなられました。『大阪春秋』第6号(昭和50年4月15日発行)に、「左岸への手紙―わが新淀川と右岸の町」と題する次のようなエッセイが載せられています。要約してご紹介します。

<友への手紙>「…ナゼ淀川ヲ、唄ワナイカ? 貴方ノ手キビシイ質問。…川岸ニ50年近クモ生活シテイルト、口ヲ噤ンデシマイマスネ。…(創ルナラ)組曲ミタイニ詩ヲカイテ行キタイデスネ。川ニ、水ニ、橋ニ。…>

 清水さんは、伊東静雄に関するエッセイも書いておられ、御堂筋に静雄詩碑を造れと提唱もされました。
「蒼馬亭」の前を通りながら、十三の詩人の心に秘めた“『淀川組曲』が聞こえてこないかなー”と、時々立ち止まってみます。

明日は、9時から鵜殿の葦原焼きが行われる予定です。いつもの様にロードバイクで走る予定ですが、時間が問題ですね。(通行止めになるので左岸からまわる予定)

 輸送路としての役目を終えた淀川は、今や現代人にとって巨大な、天然のスタジアムのような存在です。土日には沢山の人が色々なスポーツを楽しんでいます。そのうち、右岸〜左岸を結ぶダブルマラソンの世界大会が実現するかもしれませんネ。(根拠無し)
*2/21「鵜殿の葦原焼き」は実施されませんでした。写真は昭和60年頃の三川合流点です。京滋バイパスがありません。)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001384.jpg

1250上村紀元:2016/03/03(木) 10:10:00
三国ヶ丘 菜の花忌
堺・三国ヶ丘ゆかりの詩人 伊東静雄菜の花忌のお知らせ

日時   平成28年3月6日 14時〜
場所   堺市立三国丘幼稚園
参加費  500円
講演   冨上芳秀氏 安西冬衛の世界
主催   けやき通りまちづくりの会

1251龍田豊秋:2016/03/09(水) 09:25:00
ご報告
2月27日午後2時から,諫早図書館に於いて第99回例会を開催した。
出席者は、8名。

今回は、『蜻蛉』『夕べの海』『いかなれば』の3篇を読み解いた。

会報は第93号。
内容は次のとおり。

1 見送る者の「さようなら」
??????????????~蓮田善明の自裁と伊東静雄の戦後~
????????????????????????????????          花田 俊典
????????????????????清新な光景の奇跡~西日本戦後文学史~
      ??????????       ??????????????(西日本新聞社)

2??第二十六回 伊東静雄賞 受賞作品

??????????????四月の雨               藤山 増昭

????????????????????????????????????????????広報諫早3月号

3 「世界文化遺産」????           伊東静雄研究会 龍田 豊秋

??????????????????????????????2016.2.1 毎日新聞「はがき随筆」


              ???????????????????????????? 以上

次回は、3月19日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。


諫早公園のヒカンザクラが、去年よりは時期が遅れて開花しました。

カワセミが一羽、陽を受けながら羽を煌めかせて、眼鏡橋から倉屋敷川に向けて、公園広場の上を横切りました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001386.jpg

1252Morgen:2016/03/10(木) 16:44:37
藤山増昭「四月の雨」に寄せて
 一雨ごとに木々の新芽が膨らんでいくのが目立ちます。
 第26回伊東静雄賞を受賞された藤山増昭様の「四月の雨」を読ませて頂きました。
 藤山様、このたびの御受賞おめでとうございます。(遅ればせながら・・・)

―「田舎医師」の老父は、「四月の雨」の朝、自らの病気を省みず、“菊部隊”の慰霊祭へ出かけ、帰宅の後、亡くなられた。
(1年前、詩人もまた病に倒れ、死の淵から生還された。そのときの夢の中に、若い軍医姿の父が現れ、「ゲンキカ」と僅かに笑って聞いて、影のように去って行った。・・・詩人は、故郷の道に父の影を踏みつつ、その背の傷痕をなぞっていく。)
  ・・・・・
  四月の雨が降っている。幽かに光りながら
  父に降り、家族に、私に降り
  話されなかった荒れ地も濡らし始める。
  ・・・・・
 藤山増昭さんが「田舎医師」の老父といわれる方は、我が村(旧北高来郡小江村)唯一の医療機関であった藤山医院の「藤山先生」です。我が家の祖父も父も私ら兄弟もすべてがお世話になりました。小江小学校や有明中学校の校医をしておられたので毎年健診もして頂きました。注射をして頂いた記憶や、お母様の面影も幽かですが脳裏に残っております。
 藤山増昭さんは、おそらく私の弟(優)と同じ位の年代だと思いますが、小さい頃のお姿はほとんど覚えていません。
戦争から生還した父や、叔・伯父達も、すべてが亡くなってしまった今、「話されなかった荒れ地」のことを聞くすべはありませんが、静かな春の雨の音を吸込んで、シベリア、満州、ビルマ、フィリピン・・・どの荒れ地でも植物の新芽が膨らんでいることでしょう。「四月の雨」が静かに降るのは、「樹々の小枝で光ってゐる新芽」がすべての物音を吸い込んでしまうからだそうです。(リルケ)

 <「四月の雨」に触発されて、リルケ“AUS EINEM APRIL”「四月の印象」「ある四月から」・・・について投稿しようと思っていたのですが後日にします。>

  ・・・・・・
  あたりが急にしずかになる黒ずんだ小石をぬらす雨脚が
  何の音もせずに消えてしまふ
  物音といふすべての物音は
  樹々の小枝で光ってゐるあの新芽のなかへすつかり吸はれてゆくらしい
           (リルケ“AUS EINEM APRIL”「四月の印象」大山定一訳から)

http://www.city.isahaya.nagasaki.jp/

1253山本 皓造:2016/03/24(木) 18:19:44
枕上読書断片(1)
 Morgen さん、みなさん、お久しぶりです。
 淀川遡行サイクリング。私にはまず「しんどそう……」という思いが先に来ます。
 昔、友人が大学2回生になって下宿することになったとき、彼は自転車のうしろに布団をくくりつけて、大阪西成から京都までチャリンコで行きました。私の孫は小学生か中学生のころ、オトウサンと(即、娘婿)木津川べりを自転車で下り、3川合流点からさらに嵐山まで桂川をさかのぼって帰ってきたことがありました。Morgen さんも嵐山まで行けば、帰りは漕がずに帰れるかもしれません。

 枕元に積み上げた雑多な文庫本もほとんど読み尽して、仕方がないからまた『薔薇の名前』でも読みなおすか、と、ぼんやり思っていたときに、新聞でウンベルト・エーコの訃を知りました。その偶然にすがって、上下2冊、ぼちぼちと、10日ほどで読み終りました。
 ここではエーコ論をやろうとか「薔薇の名前」とはなにかを解明しようとかいうのではなくて、ほんの冗談みたいな思いつきを一言、述べるだけです。
 『薔薇の名前』の最後はこんな詩句の引用で終わっています。
  《過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキ名ガ今ニ残レリ》
 この原文はWikipediaからの孫引きによると、
  stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus
 直訳すると、「以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする」ということだそうです。事は西洋中世哲学史の「普遍論争」にかかあり、むつかしいのですが、私の云いたいつまらぬ一言というのは、「裸の名 nomina nuda」が、中島栄次郎の「哀歌」評の件の部分に対応するのではなかろうか、ということでした。――「ちやうど王朝時代の歌のやうに、たゞキラキラとする抽象的な美しさとなり、自然ははや輪郭だけとなり、己れの名だけとなり……」

1254Morgen:2016/03/25(金) 17:53:57
なづな花さける道たどりつつ・・・
山本さま。お元気そうなご投稿拝読しました。

 私のサイクリングは専ら運動目的で、そのほかに別段の意図はありませんので、ポタリングはやりません。当面は、同じコースばかり只管ペダリングをしております。
 取りあえずは、70キロコース(京滋バイパス側橋)、80キロコース(納所・宮前橋)、90キロコース(名神下・鳥羽離宮跡)、100キロコース(西京極・阪急線路)、110キロ(嵐山)と大まかな目途をつけて輪行コースを分けています。スタート時点で、当日の天候や、出発時間などに応じてその何れかのコースを選び、まず菅原城北橋で淀川左岸へ渡り、折り返し点で、桂川左岸から同右岸へと橋を渡って帰るのが通常です。天候急変や疲労度、日没までの残り時間を判断してUターンすることもあります。速度は時速35キロ〜15キロ(平均時速約20キロ)の緩いペースで、只管輪行しています。使用しているロードバイクには荷台がなく、水と財布以外は殆んど何も携行していません。ヘルメット・サングラスを装着し、レーシングパンツとジャージーを着ていますので、道で知人と出会っても見過ごしてしまうと思います。
 淀川・桂川べりのサイクリングロードを駆け抜ける匿名ライダー縦列(魚群?)の一部となり、具象性は否定(抽象化)され、河原を吹き抜ける風のカケラとなって流動し、色即是空と化す。―(少し洒落て言えば)こんな情景描写すらできそうにも思います。

 また、輪行中は、観ること・聞くこと・体を動かすことに集中し、無念無想とまではいきませんがあまりものを考えないように努めています。(良い考えなど浮かぶはずはないと初めから諦めています・・・)脳科学的には、朝日の照る屋外で運動をすると、セロトニン等の神経伝達物質の分泌が促され、一時的にせよポジティブシンキング体質へと変わるようです。胴回りのサイズがビフォー90Cm〜アフター80Cmと減少し、体重も10Kg減量しました。「風のカケラ」化に一歩近づいています。

 ・・・・・
 風がつたへる白い稜石の反射を 若い友
 そんなに永く凝視めるな
 われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
 あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ(「そんなに凝視めるな」から)

 年度末を迎えて、明朝からは東京出張です。新幹線の往復時間はほとんど眠っています。背割り堤の桜並木も、近寄ってみると夫々が大樹(老木)になっており、壮大な開花が始まっています。皆様もどうぞお越し下さい。(画像追加:WEB上の画像を借用しました。)
 木津川に架かった木造の「流れ橋」も渡ってみたいですね。ではまた。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001389.jpg

1255山本 皓造:2016/03/29(火) 13:59:08
枕上読書断片(2)
 木津川にかかる「流れ橋」は、流れるたびに新聞に載るので、いまや南山城の名所の一つですが、わたしはまだ行ったことがありません。たまたま Morgen さんの投稿のあった直後に、朝日新聞に「もう流れない? 流れ橋」という記事が出ました。地方版なので貼りつけておきます。

 『立原道造全集3』はときどき休みながら読むのでなかなか読了しません。
 その中で立原が伊東静雄に関説した個所をみつけましたので、ご紹介します。

・p.237(「風信子[三]」)

……何年かの間に僕もまたいろいろな人と会っては別れた。帰郷者はいつも、そんなことを言ふ――「時間の本性」と。……

 これが伊東静雄を指しているのは明らかです。この文ではほかに、芳賀檀、亀井勝一郎、神保光太郎、山岸外史らの名前や著書があがっています。立原が「時間の本性」というとき念頭にあるのは、文脈からすれば mortalite や「会者定離」のコトワリであることも明らかです。

・p.269(「詩集西康省」)

伊東静雄にあって思索と呼ばれた場と、この詩人において輪郭と呼ばれた場とを注意して比べたまへ。……

 立原が田中克己について、また田中と伊東との比較について、何を言いたいのか、その核心を全然つかめぬままに、とりあえず引用しました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001390.jpg

1256龍田豊秋:2016/03/30(水) 09:32:17
ご報告
3月19日午後2時から,諫早図書館に於いて第100回例会を開催した。
出席者は、全員の9名。
ゲストが2名。1名は、第22回伊東静雄賞受賞者の西村泰則さん、もう1名は、元会員の富永健司さん。

今回は、『決心』『八月』『八月の石にすがりて』の3篇を読み解いた。

会報は第94号。
内容は次のとおり。

1 伊東静雄ノート (2)????????????????????????????青木 由弥子

           ?????????????? 詩とエッセイ「千年樹」65号より転載


2??伊東静雄詩論  夏の詩人 13  <花鳥と燈>

???????????? ??????????????????????????????????????萩原 健次郎

???????????????????????????????????? (2013年5月「海鳴り25号」より転載)


3 「マドンナの競艶」????           伊東静雄研究会 龍田 豊秋

??????????????????????????????2016.2.23 毎日新聞「はがき随筆」掲載

4 八月の石にすがりて 鑑賞の手引き
              ????????????????????????    ???? 以上

??高校の国語教師であった西村泰則さんが、文法面からの詩の読み解き方法を講義しました。


 富永健司さんは、諫早振興のための着想を提言しました。


 次回は、5月28日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。

1257Morgen:2016/04/07(木) 23:23:27
「四月の風」
 今日の日本列島は、前線通過による大荒れの天候となりました。爽やかな「四月の風」ではなく、大雨や雷をともなう春の嵐でした。
 晴天の昨日は、嵐山まで(4月になって2度目の)往復110キロ超のロングドライブ輪行を行いました。淀川べりには各所に桜並木が多く、沢山の客が花見に訪れています。
 嵐山の何処かの店で美味しい昼食を摂ろうと予定していたのですが、それは甘すぎる考えでした。どこも観光客で満員のためどの店も入ることができず、家から持参したおにぎり2個とチョコレートを河原で食べただけで、帰路ではさすがに少しバテました。

伊東静雄詩「四月の風」(昭和9年春)から抜粋。

  私は窓のところに坐って
  外に四月の風の吹いてゐるのを見る。
  ・・・・・・・・・・・・・
 (地方の昔の中学生の振る舞う様を思い出す・・・)

  四月の風は吹いてゐる。ちょうどそれ等の
  昔の中學生の調子で。
  ・・・・・・・・・・・・・
  (道の上で悪戯をしたり、冬の風を吹かせたりして・・・)

  曾て私を締め付けた
  多くの家族の絆はどこに行ったか。
  ・・・・・・・・・・・・・
  (生徒たちは、“センセー!” “センセー!”と親しげに寄ってくるが、それ
  は見せかけなのだと私はひがんでいる。―私は28歳なのに既に壮年になったよう
  な気分である。)

  それで、も一つの絆を
  その内私に探し出させてくれるのならば。

 この詩には窓の外に吹いている四月の風の情景がうたわれているのかと思っていたら、実は「家族の絆」〜「も一つの絆」への展開の予感が「四月の風」に寄せてうたわれているのですね。

 今日吹き荒れた4月の嵐で、背割堤の桜も、嵐山川べりの桜も大分散ってしまったでしょうが、「淀の河邉」では燃えるような緑がボリュームを増しています。鶯や雲雀もすぐ近くまで寄ってきて、大きな鳴き声を立ててくれます。年寄りの私を「頑張れ! 頑張れ!」と励ましてくれているようにも聞こえます。

 目まぐるしく変化していく経済情勢のなかで、会社の定時株主総会を控えて、今日からは監査等の準備にかかっています。(業界の急激な変化に雄々しく立ち向かっている青年達に、内心ではせめて老人扱いをされないようにと秘かに思いながら。)

1258山本 皓造:2016/04/10(日) 10:29:38
「わが去らしめしひとは去り」
 四月七日、大雨と大風の「四月の風」の日、大阪に出ました。古い教師仲間の懇親会のようなもので、場所は「中之島プラザ」という所、京阪中之島駅から西へ少し行ったところです。京阪電車がここまで延長されたことなど、私の知見にはなく、天満から淀屋橋まで延伸して地下鉄からすぐ乗り換えできるのに感激したのはついこの間のような気がする、と古い話になりました。昔は「城東線」京橋から京阪電車京橋に乗り換えるのに、何百メートルか土堤下の道をよく歩いたものです。こんなことも、もう知っている人はだんだん少なくなるのではないでしょうか。久しぶりの大阪の街は新鮮でした。
 閑話休題。
 立原道造が伊東静雄に関説している個所について、もうひとつ資料を付け加えます。このことは宇佐美斉『立原道造』(筑摩書房)で知りました。
 昭和11年7月下旬に信濃追分から友人の柴岡亥佐雄に宛てた手紙[角川版6冊全集第五巻書簡番号264]につぎのような文言があります。

君のおそれるやうな物語はなんにもないんだ。だから、追分村風信がやつとこんなにして書けるやうになつたのだよ。ざらざらと、それは毎日してゐる。高原バスなどに似た人の面影見るときには、しかしやつと心が一つのイマージュに向けられ、しづかに燃えてゐるんだ。「わが去らしめし人は去り」といふ伊東静雄の一句を考へてみたまへ。そんな風だ。けれどそんな他人の詩より僕の詩の方が君にはきつとよくわかるだらう。……

 そうしてこのあとで、「ゆふすげびと」FRAU R. KITA GEWIDMET と題する自作のソネットを引用しています。ソネットの全体は長くなるので省きますが、岩波文庫の詩集では、のちに『文芸汎論』に発表した形で、「拾遺詩篇」の部に採録されています。
 その末尾の2行、

しかし僕は老いすぎた 若い身空で
あなたを悔ゐなく去らせたほどに!

が、伊東の「行つてお前の憂愁の深さのほどに」の第4行「わが去らしめしひとは去り」を意識しているのは明らかです。
(これより前、同年5月7日杉浦明平宛[前掲書、書簡番号229]に「……ひとりの少女は去らしめたままに僕から去つて行きました」との文言のあることが、全集の編註から知られます。)
 宇佐美氏はこのあと、昭和10年11月23日『哀歌』出版記念会への立原の出席、伊東の側からの立原への「親近感」、立原/伊東両者のふたつの詩篇の優劣と相違などについて述べているのですが、すべて紹介する余裕がありません。私としてはその「親近感」の拠って来る所以についての宇佐美氏の見解を聴きたかったのですが、適確な理解に至りませんでした。

1259上村紀元:2016/04/15(金) 20:25:06
こんな地震は初めて〜
震度4の揺れに驚きました。翌朝、諫早公園の詩碑が心配で〜6トンもの碑が転がり落ちてはいないかと出かけてきましたが異常なくホッとしました。52回の「菜の花忌」が済んだばかり、今年は例年以上の参加者でした。継続していくためには思わぬ自然災害に遭わぬことも大切な要件、平穏無事であることねがいたい。熊本では被害も甚大、亡くなった方々のご冥福を祈ります。

1260Morgen:2016/04/18(月) 10:40:14
お見舞い申し上げます/熊本地震
 このたびは、熊本県を襲った地震により被害を蒙られた方々にお見舞いを申し上げます。
 直接の物理的・身体的被害はなくても、震度6の激震で足元から揺すられるあの感覚は、堪えられない恐怖です。(阪神・淡路で経験済み。)また、揺れが去っても、あらゆる建物や構築物がが傾いているように見えたり、上から物が崩れ落ちてきそうな不安感は去りません。(心理的後遺症)一日も早く震災復旧・生活再建がなされ、平穏な暮らしが回復されるることを祈るばかりです。

 私は、5月には熊本〜大分旅行を予約申し込みしています。(道路網寸断により中止の連絡が来るかもしれませんが)「地元がこんなに大変なときにのんびり旅行など」とも思いますが、今後の風評被害も含めて観光産業に与える震災被害は甚大となることも予想しなければなりません。(九州経済の地盤沈下のトリガーとならなければよいが・・・)少々の困難があっても熊本〜大分旅行を実行したいものです。(ただし会社は出張制限あり。)

 私の所属会社としても、東日本大震災同様お客様への支援をすることを発表しています。「私にできることは何だろうか?」と思案しているところです。

??   「くまモンもん」(うた 森高千里)

  ・・・・・・・・・・
  くまモン くまモン 日本のために くまモン
  できないことは なかもん
  心の中に くまモン もんもん

http://

1261龍田豊秋:2016/04/20(水) 11:20:21
菜の花忌
3月27日午後1時、肌寒い陽気の中、諫早公園中腹の詩碑の前で第52回「菜の花忌」が開催されました。

献 詩 森山中学校2年  山口 実殊さん 「春の顔」
?????? 鎮西学院高校3年 寺田 智恵さん 「なつのおと」

詩郎読??諫早コスモス音声訳の会
             田中 順子さん 「春浅き」

????????詩人??????????????田中 俊廣さん??「夢からさめて」

??時間をおいて午後2時30分、観光ホテル「道具屋」にて、第26回「伊東静雄賞贈呈式」が開催されました。

記念講演 「詩人と生活」  最終選考委員 井川 博年 氏

受賞者藤山 増昭さんが挨拶と受賞詩の朗読をされました。

そのご、可愛いお孫さん3人が壇上に上がり、花束贈呈がありました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001396.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001396_2.jpg

1262山本 皓造:2016/04/20(水) 14:31:05
熊本地震
 熊本の皆様に心からのお見舞いを申し上げます。

 毎日の新聞報道やTVの画面を息を詰めて見ています。八代、不知火海、三角、熊本、益城、南阿蘇、熊本空港、阿蘇山、大分に入って、日田、豊後竹田、由布、大分、(川内→伊方)、それらを含む太い線を、九州の地図の上に描いてみると、私がかつて足を踏み入れた場所、土地、人びとの光景が、にわかに鮮やかに蘇えってきます。
 子供のころ、1946年の南海地震を経験しました。家がまるごと揺れたと思いました。
 日本は地震国です。昔、在日のオバアサンが、「日本はチヂンがあるから、こわい」と云っていたのを思い出します。調べてみると、M7.0以上の大地震が、決して稀ではなく、ほとんど毎年、2度3度以上、起っています。
 こういうときに最も働かなければならないのは、国家です。阪神淡路、東日本、国は全力を尽くしたとは云えません。弁明はいろいろあるでしょうが、「お金がないから」とだけは云ってほしくありません(保育所だって同じことです)。
 熊本の方々に十分な支援の届くことを祈ります。
 地震は自然災害です。その上に、人の不作為や権謀や誤謬や無責任によって災いが加重されることのないことを祈ります。
 皆様の生命と健康をお祈りします。

 上村さん。さぞ驚かれたでしょう。詩碑へのお心遣い、感謝します。
 Morgen さん。旅行は大変ですね。どうか気をつけて行って来てください。
 滝田さん。「菜の花忌」の記事、ありがとうございました。可愛いお孫さんたちが「華」を添えてくれましたね。

1263青木 由弥子:2016/04/22(金) 14:14:06
はじめまして
青木由弥子と申します。東京の大田区に住んでおります。
熊本大分地震では、東京も微弱なゆれの後に、ガツンと突き上げるような揺れを感じました。
まだまだ余震が続いているよし、どうぞお大事になさってください。
山本 皓造さま他、皆さまがいろいろな情報をアップされているのを拝読しました。
ときどき覗いて、勉強させていただきます。

追伸 八木書店のホームページで、伊東静雄の生原稿がかなりの高額でアップされているのを発見しました。「談話のかはりに」原稿一枚目の写真も確認できます。ご存知かもしれませんが、きれいな字でちょっと感動したので、URLを張り付けておきます。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/search?

1264青木 由弥子:2016/04/22(金) 14:19:34
ついしん
先ほどのURL、商品検索欄に「伊東静雄」と打ち込むとヒットします。

1265山本 皓造:2016/04/27(水) 10:55:03
枕上閑話
 青木由弥子様。ご投稿ありがとうございました。リンクをたどって、貴重な「談話のかはりに」の生原稿の写真も見ることができました。価格を見て仰天しました。
 以下は老人の閑話です。

 古書店の目録などで、ごく偶に伊東の原稿や書簡、はがきなどの出物を見ることがあるのですが、総じて伊東のものは高い気がします。どういういきさつでそういうものがひょっこり古書市場に出て来るのか、私にとって不思議のひとつです。

 全集に収められた書簡などは、おそらくもとの宛先の方に返却されて、それらを今あらためて見るということはもうほとんど不可能になっているのではないかと思います。公にされた大塚宛のものや酒井姉妹宛のものなどはきわめて貴重かつ幸運なものであったのだと思います。私は、宮本新治さん宛で、宮本さん自身がたまたま保存されていたものを、福地那樹さんが借り出されて、それをコピーしたものを、福地さんから戴きました。全集とはずいぶん相違があるので、その一部を拙著に使わせてもらいました。

 私は、酒井百合子さんからいただいたお手紙を3通、大切に保存しています。百合子さんはとても筆まめで、私の質問にたいして、縷々、延々と、便箋に何枚も何枚も書いてくださり、ただ1通の伊東書簡の文言の確認のために千葉の銀行の貸金庫まで、調べに行ってくださるのです。

 生原稿どころか、書物でさえ、以前はなかなか、乏しい小遣いでは思うように買えませんでした。身体をこわして、以後、調べ物に走り回ったり終日パソコンに向ったりということはできなくなって、もうヤタラに本を買うことを、打ち止めにしようと決心し、最後にひとつだけ大盤振舞いを自分に許そうと思って、『春のいそぎ』を古書で買いました。しばらくして、田中俊廣先生から、たしか退職記念かなにかのつもりで、思い切って、やはり『春のいそぎ』を買われた、とお便りをいただいて、「いっしょや!」と、失礼ながら思わず笑ってしまいました。

 ヤタラに本を買うまいと決心し、しかし、それでも買った、最近の大物は、角川版6冊本の『立原道造全集』です。でも、6冊で¥8000で、これは良い買い物だったと満足しています。とはいえ、それは筑摩版全集の最終巻をあきらめた、その代替であったことが、ちょっと口惜しいのです。

 年寄りの長話、失礼しました。また書きたいテーマが溜まって来ていますので、書けるときに書いて、「枕上読書断片」の続きを投稿します。

1266青木由弥子:2016/04/29(金) 21:37:21
ありがとうございました
山本 皓造様

貴重なお話をありがとうございました。百合子さんのお人柄がうかがわれるようなエピソードですね。また色々、お話を聞かせてください。

1267山本 皓造:2016/04/30(土) 14:28:10
枕上読書断片(3)――思索・輪郭・拒絶
 立原道造が伊東静雄に関説している部分、というテーマの続きです。
 3/19投稿の「断片(2)」で、立原の「詩集西康省」の部分を紹介しました。今回はこの件に付随する資料です。

 昭和13年10月4日付、田中克己宛立原書簡に、次のように書かれています。

詩集西康省とお心づくしのコギトたしかにいただきました。あの本は非常におどろきました。しばらくは反発と不安とだけで本をひらくことが出来ずにゐました。あなたの仕事が、拒絶のふかさで先ずはかられねばならなかったことから僕の西康省論ははじまるでせう。……しばらくして僕は一気に最初からよんでしまひました。……よみをへてまへの感じは一層ふかまりました。伊東さんの場合よりもなほこの精神は拒絶してゐないだらうかと。比較級の問題ではなく。

 「詩集西康省」は田中克己の第一詩集、昭和13年10月1日付でコギト発行所から刊行。田中はすぐに自著を立原に送ったのでしょう。このとき立原は盛岡にいて、20日に帰京。10月26日付神保光太郎宛書簡に、「また東京にかへつて来ました。……僕は風立ちぬ十五枚と、西康省のこと、5枚ばかり書きました」とあるので、書評「詩集西康省」は4日以後、盛岡滞在中に書かれたものと、全集の編註は推定しています。発表は「四季」第41号(11月号)。また「風立ちぬ」十五枚というのはおそらく、筑摩版全集では未発表の原稿として[「風立ちぬ」(別稿)]の仮題で収録された(角川版では「補遺」)、定稿の?、?に相当する部分であろうとされます。この「別稿」の中で、立原は同じ主題を次のように記します。

「風立ちぬ」にあつては、この詩人[山本註:堀辰雄]の場合、拒絶はつひに問題とならなかつた。……「わがひとに与ふる哀歌」や「詩集西康省」を見たまへ。ここには一切の風景が色もなく形もなく思索と詩の輪郭とを残して消え去ってゐる。ここには拒絶がつめたくあるばかりだ。

 なお定稿「風立ちぬ」は「四季」第42号(12月号)に発表されましたが、「別稿」の当該部分は定稿では生かされず削除されています。思うに、思索と輪郭というその趣旨はすでに「詩集西康省」で記したので、重複を避けたのでしょう。

 私は田中の『「詩集西康省』そのものをまだ読んでいないので何も云えないのですが、立原のいう「拒絶」は、たとえば伊東が第二詩集の標題にしようかと一時考えたといわれる、一般的な精神の disposition としての <拒絶> 精神のようなものではなく、立原も続けて云っているように、「風景の拒絶」を意味するようです。前引の中略部分で立原は、「風景が誘ふままに、詩人は風景を誘ひ、詩人が風景を誘ふままに、風景は詩人を誘ふ」と云い、小説『風立ちぬ』は「至る所にその絵を氾濫させ」ている、「あれはつひに美しい風景の氾濫にすぎない」と云います。そもそも立原はその堀辰雄批判「風立ちぬ」を、堀辰雄は美しい風景画家であった、と規定することからその第一章を始めたのでした。「別稿」の最後では、「この風景の牧歌的な不毛の美しさのあちらに、果して堀辰雄は、いかなる姿勢で、今日の詩人として、僕らのまへにゐるのか」と、まるでハイデガーみたいに問い詰めるのです。

 立原は伊東をその「拒絶」の姿勢によって自らの <圏> 内に入れたわけですが、その立原の、あの朦朧とした、薄暮の中の、風や雲やユフスゲや火の山の詩を、伊東はどのように読んでいたのでしょうか。

1268青木 由弥子:2016/05/03(火) 18:07:13
自然/世界との拒絶/和解
山本 皓造さま

ご投稿拝読しました。勉強になりました、ありがとうございます。
拒絶、の問題・・・世界との在り方、和解するのか否か、という問題とも関わって来るような気もしますし・・・和解し得ないからこそ、自らの作り出したもうひとつの「夢のかへってゆく村」を描き出したのかもしれませんし・・・

立原への追悼詩「沫雪」の中で、静雄は雪解けの滴の響きに耳を止めて、その調べは立原の讃歌をうたっているのだ・・・という思想/詩想を贈っているように感じます。リルケのオルフォイスのソネットを思いおこします。それは、立原がいつの日にか 自然/世界 と和解することを祈る、ということなのかもしれません。

静雄初期の「空の浴槽」の、世界から拒絶されたような極度の孤独と、「ののはな」のような世界と和解し溶け合い一体となっているような融合感と・・・徹底した拒絶と和解、その両方が同時に存在しているアンビバレントな静雄の心的世界に強く惹かれているのですが、立原の堀辰雄的世界への、心酔と拒否のないまぜになったような烈しい感情世界と、生まれて来る詩の静けさとの間の落差にも惹かれます。

なにやらよくわからない、独り言のような文章になってしまいました。そうした「うやむや」したものを少しでもはっきりさせたくて(無理かもしれませんが)読んでいるのかもしれません。

1269Morgen:2016/05/05(木) 12:11:14
時の流れの激しさに・・・
 山本様のご説明で、立原道造が「拒絶」を引用して堀辰雄の「風景の氾濫」に批判を加えていることが解りました。昭和10年代という緊迫していく時代の流れの中で、そう言わざるを得なかった立原の追い詰められた気持を感じます。

 一方で、昭和10年12月に「拒絶」を書いた伊東静雄は、戦後の「拾遺詩篇」において発表されるまで「拒絶」を仕舞いこんでしまいました。その謎を解くカギは何か?

 「・・・堺三国ケ丘の斜面に立つ家へ引っ越し、ここに引っ越すとすぐ大陸の戦争が起こった。・・・近くにある陸軍の病院には、ひっきりなしに、傷病兵が、バスで運ばれた。私は毎日のやうに子供を連れて路傍に立ち、敬礼した。家にじつと坐つてゐても、胸がはあはあと息づき強く、我慢できず興奮したりした。そんななかで、私の書く詩は、、依然として、花や鳥の詩になるのであった。」(『夏花』)

 「拒絶」において、「隠井の井水」のように、世間一般や時の詩壇とは一定の距離をおいて、“孤高の”位置を保とうと意図した伊東静雄ではありましたが、公私ともに時の流れの激しさはそれを許さず(抗えず)、道造も静雄も時代の奔流に呑み込まれていきました。

 昨日は、朝10時に出発して、ロードバイクで約3時間の「鳥羽伏見激戦地跡」巡りポッタリングを試みました。(野茨の花が咲き茂る淀の河邉を、南風20メーターという逆風に抗して、蹴るようにペダルを漕いで、夕方6時にやっと大阪へ戻りました。)

 鳥羽、伏見も、明治維新の戦いの奔流の中で多くの若者の血が流された戦跡です。地元では「明治維新150周年(平成30年)」の記念行事が準備されているようです。
その地名のひとつひとつが我が胸をうちます<こちらは、機会があればまた投稿します。>

 ・・・・・・・・・・
 そして寒い朔風は
 川面を越えて
 何處へ? 何處へ? と低く
 問うたと汝は言ふ
 (s11/1静雄「追放と誘い」から)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001404.jpg

http://

1270山本 皓造:2016/05/07(土) 13:44:00
「拒絶」について
 伊東静雄の詩「拒絶」は、これまで論ずる人も少なく、私もあまり深く考えたことがありませんでしたが、田中俊廣先生が『痛き夢の行方 伊東静雄論』で、たっぷり1章をとって考察を加えておられます。これを再読して、「拒絶」について云うべきことはすべてここに云い尽くされている、と思いました。とくに「拒絶」と共に「夏の嘆き」「まだ猟せざる山の夢」「行ってお前のその憂愁の深さのほどに」という、同時期の作品をあわせて考察の対象とし、それらと「曠野の歌」とのつながりを求められたことなど、私の考え及ばぬところでした。

 私が考えていたのはもっと単純なことでした。
 「拒絶」を図式化すると、「ものにふれて心がうごく」であれ「自然の反省」であれ、本来は
     万物(自然/世界)がわれに関わり
     われは万物を歌う
 こうして詩が出来るのですが、この詩では
     われは、万物がわれに関わることを拒絶し
     われもまた、万物を歌うことを拒絶する
と、二つ共に詩人の側からする行為として、両者を共に拒絶しています。
 さすれば、詩人は、何を歌うのか。

 ひとつの有力な道は、〈われ〉を歌うことです。そしておそらくその〈われ〉とは、〈内面〉というものと同義になるでしょう。リルケの「モルグ」の屍体たちが、瞼の裏側で眼球をくるりと反転させて、自分の身体の暗い内部を覗きこむように。――リルケの「世界内部空間」とはつまりそういうものではないか。立原の〈追憶〉や〈夢想〉もこれに近いかもしれない。

 「伊東静雄は "私は詩人である" ということを歌うことから、その詩的出発を始めた」というのが、初期詩篇論における私の主張でした。「ののはな」についてもそのような見方を示しました。
 しかし「私が私を歌う」という自己言及、とくに「私は、「私は歌わない」ということを歌う」という形の自己言及は、あきらかにパラドックスです。「呂」の詩群に感じられる一種の窮屈さは、この自己言及性から来ていると思います。

 伊東の愛用する、次のようなレトリックがあります。
 たとえば、「世界が私を拒絶する」ということを認めず、そのかわりに、こちらから、「私は、世界が私に関わることを拒絶する」というのです。同様にして、「人が私から去って行った」のだが、そういわずに「私は人を去らしめた」という。「静かなクセニエ」の趣旨も同じ構造のレトリックです。

 戯れにこんな詩句を書いてみました。
     わがひとよ、はやわれに関はるなかれ
     われもまた、あへて汝を歌ふことはあらじ
 「わがひとに與ふる哀歌」は、「愛の讃歌」ではなく、「哀歌」「悲歌」なのですから、この戯れも、必ずしもナンセンスともいえないと、私は思っています。あるとき、豁然と、一種の〈断念〉があった。そこではじめて詩人は、「お前」(「晴れた日に」)と呼び、「わがひと」と呼ぶことができるようになった。このイロニイを、案外伊東は悦んだかもしれません。立原もイロニイが好きですから、「わが去らしめし人は去り」という詩句に出会い、そこに自分と同質の精神をみつけて悦んだのではないか。

 少し行きすぎたので、「立原の堀辰雄にたいする拒絶」に戻ります。といって、私に云えることはそんなに多くありません。
 立原の「拒絶」は、堀辰雄が「美しい風景画家であること」への拒絶だ、というのは前稿で申しました。美しい風景画家がなぜダメなのか。第一に、それは単なる表面であって、事物や世界の本質を写さず、本質に迫っていない。第二に時局ということ、この大いなる時代に詩人のなすべきなのは、美しく牧歌的な風景を描くという不毛な営為ではない、われらに必要なのは〈前へ〉ということと〈共に〉ということである、と。
 思うに、立原にとっても、風や雲やユフスゲや火の山は決して、美しい風景の描写ではなかったのであろう。彼はむしろ、それらが美しい風景画となることを拒絶しつつその詩を書いたのでしょう。立原のそれらの詩が、伊東や田中と同じように、思索や輪郭となり切っているかどうかは、わかりません。忖度すれば、「言葉による〈音楽〉」と見てやれば、彼の意に添うことになるでしょうか。
 立原の拒絶と訣別の辞にたいして、堀辰雄は直接に応えることをしませんでしたが、しかしあの「大いなる」時代にたいして、無言のまま、最後まで拒絶し通したのは、堀辰雄であった、と、今ここで立原に云っても詮のないことです。

 最近、田中清光『立原道造の生涯と作品』(麦書房、1973年)を読みました。これの初版は1956年にユリイカから出ていて、小川和佑先生の書誌を見ても、単行本の立原文献では最初期のものに属します。しかし読後感としては、そういう「古さ」は少しも感じられず、むしろ資料もまだ乏しい中で真摯に、誠実に、ひたすら自らの力で立原を読み解こうとする、氏の魂の鮮烈さを感じました。

1271青木由弥子:2016/05/07(土) 15:22:52
自発ということ
M orgen 様の奥深い問題提起について思いめぐらせていたところ・・・山本様から更なる展開をご提示いただき、おおいに刺激をいただきました。ありがとうございます。田中様のご著書も、ことあるごとに戻り、そのたびに新たな発見を頂けるご研究ですね。

拒絶、自恃・・・自ら否定する能動性は、遮断されたり疎外されたりする孤独ではなく、自ら選びとった 孤 の地点に立つことでもある・・・その神々しさ、というと語弊がありますが、漆黒の闇の中で、細く小さくとも燃えるひとつの灯のイメージ・・・灯は、ひとつひとつ孤立しているけれども、自分、という枠から離れて、巨視的な視点で見るならば、広大な宇宙空間のなかに、無数の孤の灯が、それぞれ自立して燃えている・・・

「八月の石にすがりて」の中で、われら、と複数で 発光体 である われ が詠われることが気になっています。
自発的な拒否は、自発的な受容にも反転しうる能動性を持つ、ということも。孤の苦悩を突き詰めたとき・・・言い換えれば、内面への遡行をギリギリまで突き詰めたとき・・・発光体として一人一人が命の炎を燃やしている光景が、静雄には見えたような気がしてなりません。

田中清光さんのご著書への山本様のご感想を、お伝えしてもよろしいでしょうか?シュタイナー風というのでしょうか、にじみやぼかしを活かした、素敵な水彩画もお描きになるようです。

1272Morgen:2016/05/09(月) 23:09:22
「喘ぎ喘ぎして」自発的乗越
山本様。青木様。小生の拙い投稿をお読み頂きコメントありがとうございました。
 早速、田中俊廣著『痛き夢の行方』を開いてみました.10余年前に読んで線を引いているのですが、中身の大半を忘れていますね。(慌てて再読しました。)
 今日、昼休みに古本屋をのぞいていたら、硝子戸棚の中に『関西戦後詩史』が展示してあり、その帯に次のようなキャッチコピーがありました。
 <雪原に倒れ伏し、飢えにかげりて、青みし狼の目>が燠火のように燃えている。・・・・・
 言うまでもなく「八月の石にすがりて」の最後の詩句です。中身も見ず即購入して、仕事の合間にペラペラとページをめくると、295頁に次のような文章がありました。
(国鉄詩人連盟の 柏岡 浅治様)
 ・・・・・たとえ独りぼっちになっても、年老いても、伊東静雄の詩じゃないが「雪原に倒れ伏し、飢ゑにかげりて、青みし狼の目」をぼくらは連帯すべきじゃないか、・・・・・
 おそらくこの発言を受けて、<編纂後記>で、福中 都生子様が以下の文章を入れられ、更には帯のキャッチコピーとなったのでしょう。
「雪原に倒れ伏し、飢えにかげりて、青みし狼の目」ともいうべき野性的連帯の光芒が実存している・・・。
 驚いたことに「八月の石にすがりて」の詩句の一部分が独り歩きをしているのです!!(伊東静雄もさぞやビックリしているかも・・・)
 「拒絶」を経て、約半年間のブランク(昭和11・7〜同12)の半ばで、「三日三晩のたうちまはつた」り、「三日三晩ほど気違いのやうになって」生み出してきた詩句であります。このような苦難を自らに課して、「拒絶」という逃避の場所から、伊東静雄は「喘ぎ喘ぎして」自発的に乗り越えてきたというのが、田中俊廣著『痛き夢の行方』の説くところでしょうか。
 小野十三郎さんも、「詩の書き方、うまかったな。名手やな。伊東静雄は。・・・なんかぬれそぼった抒情詩でなくて,固い光沢がある。あの光る固いものは何か。」と仰っています。(『関西戦後詩史』329頁)
 

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1273山本 皓造:2016/05/10(火) 18:37:44
谷間の明り
 青木様が「自立した孤」ということに関して、「広大な宇宙空間のなかに、無数の孤の灯が、それぞれ自立して燃えている」と書いておられる個所を読んで、そのときとっさに私に、2つのイメージが浮かびました。それについて書いてみます。「解明」までは行きませんので、ここではイメージの提示だけです。引用ばかりになりますが、お許しください。

 その一は、堀辰雄『風立ちぬ』の終章「死のかげの谷」の一番最後のところ。

 九時頃、私はその村から雪明りのした谷陰をひとりで帰って来た。そうして最後の枯木林に差しかかりながら、私はふとその道傍に雪をかぶって一塊りに塊っている枯藪の上に、何処からともなく、小さな光が幽かにぽつんと落ちているのに気がついた。こんなところにこんな光が、どうして射しているのだろうと訝りながら、そのどっか別荘の散らばった狭い谷じゅうを見まわしてみると、明りのついているのは、たった一軒、確かに私の小屋らしいのが、ずっとその谷の上方に認められるきりだった。……「おれはまあ、あんな谷の上に一人っきりで住んでいるのだなあ」と私は思いながら、その谷をゆっくりと登り出した。「そうしてこれまでは、おれの小屋の明りがこんな下の方の林の中にまで射し込んでいようなどとはちっとも気がつかずに。御覧……」と私は自分自身に向って言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、殆どこの谷じゅうを掩うように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。……(新潮文庫 p.197-198)

立原道造はその評論「風立ちぬ」でこの部分をとりあげて、堀辰雄への訣別の言葉を準備します。

 僕らは、「親和力」のなかで、嘗てこのやうな言葉をきいた――「人はどんなに世を離れてくらしてゐても、知らない間に、他の人に役立つてゐたり、おかげを蒙つてゐたりするものだ。」と。オチリエがそれをいふのだ。僕らの詩人もまた、今はそのことを言ひたいのではなからうか。――「あつちにもこつちにも、殆どこの谷ぢうを掩ふやうに、雪の上に点々と小さな光の散らばつてゐるのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。」(S.190)とつぶやくときには。僕らは先にこの言葉をひとつの静寂な饗宴から理解した。しかし今むしろ、非常に感傷的な感想として、ここに詩人が、他の人に役立つてゐることを、自分の満足といつしよに、弱々しい微笑で告白してゐるのを見る。生きた人間は恒に他の人から自分を奪はれねばならない。そして自分も他の人も満足しながら、この掠奪がなされるのは、ひとつのやはり美しい感謝ではなからうか。詩人の弱々しい微笑は、限りない肯定である。どこから、この肯定は、しかし僕らに訪れるのか。ひとつの entsagen から? 否。ひとつの entscheidenから。(筑摩書房版『立原道造全集第3巻』 p.261-262)

 立原がここで「ここに詩人が、他の人に役立つてゐることを、自分の満足といつしよに、弱々しい微笑で告白してゐるのを見る」と云うのは、前の堀辰雄の引用部分のすぐあとに続いて、次のように書いているのを指します。

 漸っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見てみようとした。が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになっていた。「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」と私はなんだか気の抜けたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来た。「……だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……(新潮文庫 p.198)

 立原は堀のどこが気に入らないのでしょうか。立原の「風立ちぬ」を読み解くというのは実は、私の前からの課題になっていて、ハイデガーまで担ぎ出した挙句に、音をあげて放り出したのでした。ここでは、谷間に散在するかすかな明り(と、それについての堀辰雄の感慨、立原の何やら不満げな様子)をイメージしていただければ結構です。

 二つ目のイメージは、サン=テグジュペリ『人間の土地』の冒頭部分です。

 ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目のあたりに見る心地がする。それは、星かげのように、平野のそこここに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。
 あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた。あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したりしているかもしれなかった。また、かしこの家で、人は愛しているかもしれなかった。それぞれの糧を求めて、それらのともしびは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っていた。中には、詩人の、教師の、大工さんのともしびと思しい、いともつつましやかなのも認められた。しかしまた他方、これらの生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう……。
 努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。(堀口大学訳、新潮文庫 p.7-8)

 「心を通じあう」は communiquer です。

 伊東の姿勢と立ち位置はどう見ても、「拒絶と自恃」「自立して燃える孤寂なる発光体」であり、とりあえずは、他者との communiquer や、「他者への想像力」からは遠い所にあります。そこからの転位の機微については改めて考えなければならないでしょう。
 なお、田中清光氏の著書への私の感想を「お伝えしてもよろしいでしょうか」と青木様が云っておられること、どうか御意のままにお取り計らいください。

 書いているうちに、もうひとつ、リルケの詩「厳粛な時」(『形象詩集』)を思い出しました。「いま、世界のどこかで、泣いている者がある」。有名な作品なので、以下、引用はやめます。なぜこれを思い出したかも、ご推察ください。

………………………………………………

 ここまで、昨夜、下書きを仕上げて、今日、投稿しようとして掲示板を開くと、Morgenさんの投稿に会いました。
 「雪原に倒れ伏し、飢ゑにかげらせて目を青ませた狼」どうしの「連帯」、というのはなんだか、ドキドキしますね。「広大な宇宙空間のなかで、それぞれ自立して燃えている、無数の孤の灯」たちが、相互に「連帯」する、という壮大な夢想。……

 また続きを書きます。今日はとりあえずここまでで投稿します。掲示板上での濃密な対話を期待します。

1274青木 由弥子:2016/05/13(金) 15:47:29
硬質な抒情
Morgenさま 山本皓造さま

Morgenさま
「八月の石にすがりて」は、読めば読むほど不思議な感覚になる作品ですよね。
蝶を見ている…おそらく大阪の炎天下の「日常」の次元から、蝶の姿が消えて、闇で燃える「いのちの火」の輝きに飛び、さらにその「火」の中に飛び込んでしまったような、周り中、光で真っ白け、というような空間に飛んで…燃える太陽をにらみつけているような炎天の大阪に瞬間移動して、そこからまた、雪原のロンリーウルフに想念が飛ぶ…こんな忙しい詩があるでしょうか?この状態を実感していたとしたら、確かに目が回りそうです。闇と光、蝶と猛獣、夏と冬…。極端なものを引き合わせる、という手法は、ちょっとシュールレアリスムの理論にも似ている気がしますが、大きなものと小さなもの、といった対立するものを取り合わせるのは、むしろ俳句の手法からの影響ではないか、という気がしています。
「曠野の歌」の白雪や、「氷れる谷間」の〈一瞬に氷る谷間/脆い夏は響き去り…〉の極端な振幅とか…「冷たい場所で」の荒く冷たい岩石、のイメージ、などなど…

「固い光沢」、小野十三郎さんも、?うまいこと″言いますね。
ちょうど今、昭和18年刊の『軍神につづけ』を調べているところでした。大政翼賛会が、当時の短歌、俳句、詩の第一人者に依頼し、開戦一周年に当たる心境を「軍神につづけ」の総題のもとに作品にする、という企画を立て、詩は東京日日(毎日)、短歌は朝日、俳句は読売に発表させる、ということがありました。それを一冊にまとめた小冊子です。

伊東静雄は「軍神につづけ」の題で、『春のいそぎ』に「述懐」として収録されている作品を提供しています。「軍神につづけ」では「皇国の誉なりけれ」となっている所が、「述懐」では「皇国の誉なりける」となっている程度で、ほぼ同じです。「述懐」の初出について、どなたか調べておられる方がいらしたかどうか…。

小野十三郎も詩を提供しています。

「物質の原にも」
薙ぎ倒されたやうに
冬の葦は枯れてゐる
周囲の街も山も海も暗い。
一刷毛の青もない 底冷えする
灰色の空へ
今日も私は濃き硫酸の煙をあげやうとする。
大森林のやうなおだやかな翳の中に
清浄な光の斑(ふ)を散らし
われらの物質は反射し交錯し堆積してゐる
あゝわれらの物は
物にしてすでに物に非ず
また単なる魂のごときものでもないのだ。
鐵(てつ)ら冷え 石凍り
十二月八日再びきたる。
長期戦 長期戦
日頃見慣れたわが重工業地帯の風景には
何の変りもないが
今は「精神」よりも強烈に しずかに
われらが物ここに
生きるを感ず。

これって、戦争詩?報国詩?というくらい、戦時色が感じられないことに驚いているのですが(小野十三郎の全集を調べていないので、この作品が後に詩集に収録されたかどうかは、まだわかりません。ご存知の方がいらしたらご教示ください)
…私、が硫酸の煙をあげる…語り手は工場なのでしょう。工場そのものが、周囲の荒涼とした風景を眺めながら、自分たちが生み出した「物」が生きている、ということを(逆に言えば、「人」「人間」は活きていない、ということを)語っている。

この詩の方が、むしろ初期の静雄っぽい、と思ってしまうのですけれど…Morgenさんのお話を伺って、小野十三郎は、モダニズム的な風景の中に「固く冷たく光るもの」を意識的に取り込んだ、と言えるのかもしれない、と感じました。

山本皓造さま
山本様の「谷間の明り」、貴重な引用をたくさん、ありがとうございます。
ちょうど、山羊塾(八木幹夫講師)で梶井基次郎を読んだところでした…課題作品が「闇の絵巻」。闇の中に置かれると、人は最初は恐怖や不快を感じるが、その闇を…いわば甘受する覚悟を決めてしまうと、その闇がむしろ安息として感じられる…という随想的な文章の後に、〈黒ぐろとした山〉が行く手に立ちふさがっていて、〈その中腹に一箇の電燈がついていて、その光がなんとなしに恐怖を呼び起した。パアーンとシンバルを叩いたような感じである〉つまり、人家の光ではない輝きには、恐怖を感じる、という体験を書く一方で、〈如何ともすることの出来ない闇〉の中に〈一軒だけ人家があって、楓のような木が幻燈のように光を浴びている…私の前を私と同じように提灯なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた…男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは…「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ」…という感動なのであった〉と述べていて…この一節を読んだとき、人家の明り、に照らされる一瞬と、闇に没する時間との交錯が「生きている」ということであり、最終的に闇は死(安息、安住)の空間、と考えていたのかもしれない、と思ったのでした。

窓の灯を見上げて、詩作の苦悩と痛切な陶酔のようなものに静かに共感していたリルケもまた、闇から現れ、誰かの光に照らされ…あるいは自ら灯した光を誰かに投げかけながら、また闇へと去っていった詩人であるのかもしれません。

1275山本 皓造:2016/05/15(日) 21:03:17
小野十三郎の詩について
 青木由弥子様のご投稿を拝見して、トリビアルなコメントを二、三書きつけます。

 伊東の「述懐」の、「誉なりけれ」→「誉なりける」について。私はこれは、「これぞわが軍神が/……誉なりける」と、単に係り結びを正しく書き改めただけと思います。

小野十三郎「物質の原にも」のうち、

?「今日も私は濃き硫酸の……」の「私」について。
 私はこの「私」を、詩人のことと読み、「私は詩人として今日も眼前の枯れ葦や灰色の空や硫酸の煙やそれらの光景を、言葉によって作品の上に造り出そうとする」というふうに読んでみました。

?「あゝわれらの物は」などの「われら」について。
 連想はすぐ「あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり」へ行きます。おそらく用法の上でも同じものと見てよいのではないでしょうか。
 いつかどこかで、「こら!」という、私たちが日常使っている叱声が「子等!」と表記されるのを見て、思わず膝を叩いたことがありました。「ら」は基本的には複数をあらわすのですが、手元の古語辞典を見ると、たとえば
  われら【我等】《ラ は接尾語。蔑視・卑下の意をこめて使うことが多い》
  ?一人称。(イ) われわれ……(ロ) わたしなんか ?二人称[下略]
ですから「われら」は、時によってはほとんど「われ」と同じい。「ら」は、声調を整えたり強調したりする役割だけのものであり得る。小野さんの詩句のなかの「鐡ら冷え、石凍り」において、「鐡」を複数で、「石」を単数で書かねばならない理由はまったく無く、これはただ、テツラヒエ イシコオリ と、5・5の音数を揃えるための操作であろうと考えます。(小野の場合、音数律は決して意識的な規範になることはありえませんが、無意識の域ではやはり一種のリズム的な好悪感が働くのでしょう。)

?「われら」の続き
そこで「われらの物質は」「われらの物は」は、くだくだしく書き換えてみると、
  私(もしくは私と同じ詩精神の所有者である詩人たち)が、
  視て、詩に言い表わす、あれらの物たちは……
ということになります。

?〈物〉と〈精神〉について
 〈精神〉とは幻のようなものであって、〈物〉は、そのような〈精神〉までも含み込み、〈精神〉にたいして超越的な〈存在〉であり、それゆえに〈物〉は〈精神〉よりも一層〈生きて〉いるのです。
 もともとアニミズムでは〈もの〉が〈たましひ〉を持つのです。付会すれば、小野は
  おまえら[この ラ は複数]、日本人たちよ、〈物〉をバカにするなよ。〈大和魂〉
  とか云って〈物〉をバカにしていると、いまに〈物〉に復讐されるぞ。
と、云っているのです。

 反戦詩、とまではいかないとしても、少なくとも単純な「軍神につづけ」の歌ではないことは、詩人の気構えからしてもたしかです。第一これでは「軍神につづ」きようがありません。小野は正直に「私は戦争詩も書いた」と云っています。が、反面でこのような詩も書いて、巧妙に「検閲」の眼を眩ましつつ、戦時下における自分のあり方を、証言として残しておこうとしたのではないでしょうか。立派な精神主義よりは物活論の蒙昧を私は選ぶ、という、イロニイを、まじめな顔で書きつけることによって。

1276青木 由弥子:2016/05/18(水) 21:36:30
ありがとうございました!
山本 皓造さま

まるで投稿掲示板ではなくて大学のゼミ室に戻ったみたいです!ありがとうございます!!

・・・なるほど、「ら」・・・一人で一匹の蝶と対峙している、はずなのに、急に「我等」となる、のはなんで?蝶と私???でもそのあと、またロンリーウルフ、独りになる・・・やっぱり蝶と我、なのかな・・・などなど、行ったり来たりしていました。なんだかスッキリしました。

小野十三郎、アルミニュウムとか、新鮮な語感の言葉をどんどん取り込んで詩を動かしていく、そんなモダンなところが素敵だなあと思っています。山本様のご投稿を拝見していて、チョーキセン チョーキセン と、ちょっと皮肉っぽく歌うようにつぶやくイメージが湧いてきました。
精神論なんかで勝てるか、物量だよ、戦争は・・・と精一杯の抵抗(反抗とか単純な戦争反対、とかではなく)を書きつけているのかもしれないなあ、などなど・・・。
また色々考えてみます。

1277山本 皓造:2016/05/19(木) 12:43:07
モランディという画家
 ジョルジョ・モランディ Giorgio Morandi はイタリアの有名な画家で、すでにご存じの方も多いと思いますが、私はこの人の名前を加藤周一『夕陽妄語?』(ちくま文庫)の「画家モランディの世界」という文章で、はじめて知りました。

モランディ……は、ボローニャで生まれて、ボローニャで死んだ。生涯をその町と近郊で送り、主として仕事場の机の上に置いた用ずみの水差しやびんや鉢などを描きつづけた。……モランディは日常の身辺の器物を描いたのではなく、それをじっと眺めているとそこに見えて来る世界秩序を、構成し表現しようとしたのである。

 この文章は刺激的で、いったいどんな絵を描いたのだろうと、すぐに興味が湧きました。
 その画像は、たとえば Google で Giorgio Morandi と検索語を入力して「画像」を表示させると、一挙に数百件の画像が出て来ます。このひとつひとつの背後にそれぞれのサイトを持っているわけで、とても見切れるものではありません。
 作品を次々見ているとすぐに、これは モランディの壺、これはモランディの花瓶とわかるような、それほど特徴的な絵なのです。
 私はその作品を見る前に、加藤周一の文章から直ちに、「あ、これは立原道造の〈思索と輪郭〉だ」と思ったのでした。

 画集、評伝、研究書の類もかなりありますが、Amazon などで見れるものはみな、とても高価で驚きます。
 昨年から今年にかけて、兵庫県立美術館、東京ステーションギャラリー、岩手県立美術館の3個所で、展覧会があったようですが、そんなことを知ったのも、後の祭りでした。東京ステーションギャラリーに問い合わせて、まだ図録の在庫があるというので、送ってもらうよう注文しました。もうひとつ、1989-90年の展覧会の図録も「日本の古本屋」でみつけて注文しました。(加藤さんは京都の近代美術館でこの回の展示をみてこの一文を草されたようです。)

 5月8日(日)、NHKのEテレ「日曜美術館」で放送がありました。なにげなく新聞のテレビ・ラジオ欄を見ていて、アッと思い、急いでTVを切り替えましたが、前半を見逃してしまいました。22日に再放送があるようなので、待ち構えています。

 もうひとつ、河出文庫版の『須賀敦子全集』の表紙カバーに、モランディのアトリエの写真が使われています。見慣れたものだったのに、知らなかった、あっ、そうだったのか、と、もうひとつの驚きを新たにしました。
 奥付の手前のページには、
  装幀 水木奏/カバー写真 ルイジ・ギッリ「モランディのアトリエ」より
と書かれています。ルイジ・ギッリはイタリアの写真家で、モランディの没後、そのアトリエに通い続けて撮影した、その写真集だそうです。その原書(イタリア語版)も、日本のいくつかの古書店や美術商などで入手できるようですが、やっぱり高い。

 伊東掲示板の皆様、このモランディの作品が、私のように〈思索と輪郭〉と見えますでしょうか?
(話の筋が少しずれましたが、話題を割り込んで投稿しました。でも結局は、立原-伊東に戻ってしまいました。)
 

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001412.png

1278青木 由弥子:2016/05/23(月) 13:26:49
東京ステーションギャラリー
モランディ展、行きました!東京ステーションギャラリーも独特の風情のある場所で、ゆっくり歩行するリズムとひとつひとつ現れて来るモランディの絵のリズム感がとても良かったです。
山本様がおっしゃるような「思索と輪郭」につながるかどうかは心もとないのですが、絵を観ていて気になることと言えば、背景と事物の関係、地とモチーフ、特にその輪郭線の周辺でした。

絵の全体を見ているとき(図版を見ているときもそうです)モチーフは背景より手前にあるように見えます。つまり、世界の内側、世界の中、にあるように感じます。
でも、描かれた絵の、輪郭線のところをじっとみていると、その前後が逆転するような不思議な感覚に襲われます。モチーフと背景との明度の差なのですが・・・具体的には、輪郭線間際の「物」は暗く、そのすぐ外側の空間は明るく描かれている、ことが多いのです。白い壺に光があたる。当然、壺は白く輝いていて・・・背景も灰色だったりすると、壺より全体的に明度は低いのですが、壺のすぐそばの背景は、後ろ側から光が当てられているように(たぶん反射光など、あるいは目の錯覚を利用するというテクニック的な部分も含めて)ほんのり明るんで見えます。

明るい方が暗い方より手前にあるように感じてしまうので、輪郭線(物 が 世界 と接する間際)だけを見ていると、物、の方が地で、世界の方が手前に際立って見えて来る、のですね・・・。セザンヌが描いた女性像を見た時にもそれを感じました。

日本画のように輪郭線で描くのではなく、物の形そのものが輪郭を作り出す西欧の絵は、物のすぐそばの空間をほんのり明るませることによって、物の存在感を際立たせる、というテクニックが発達したのかも知れないのですが・・・物それ自体がかすかに発光しているようにも見えてきて、いつも不思議な気分になります。(感想ばかりで・・・世界秩序、というような大きな話には全然つながっておりませんが)

1279山本 皓造:2016/05/27(金) 11:34:49
枕上読書断片(4)――空っぽの容器
 いま、2冊のモランディ展の図録の解説論文を、厄介な訳文と苦闘しつつ、ぼつぼつと読んでいます。モランディ作品の図版を見ながら、こんなことを考えています。

  ぼくの言葉は汚れている(立原)  ――   この絵は汚れていない
  私を越ゆる言葉はないか(伊東)   ――   この絵は〈私〉を越えている

 書き溜めてあった「枕上読書断片」の続きを再開します。

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 加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書)というのを読みました。この本の最終章に「多崎つくる」のことが出てきます。それはまだ読んでいなかったので、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文春文庫)を、追っかけて読みました。
 『多崎つくる』の終りのほうから、2つの文章を取り出します。

A:「僕にはたぶん自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない。……僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた」

B:「ねえ、つくる、君は彼女を手に入れるべきだよ。どんな事情があろうと。私はそう思う。もしここで彼女を離してしまったら、君はこの先もう誰も手に入れられないかもしれないよ」

 多崎つくるには沙羅という恋人があり、結婚してもよいとまで考えているのだが、最後のところでひっこみ思案になって、もう一歩を踏み出せない。それにたいして、エリという、つくるのことを心遣い、つくるも信頼している女性が、「ねえ、つくる」(B)と呼びかけ、つくるが「でも僕には自信が持てないんだ」といい、エリが「なぜ?」と問うのにたいして、つくるが「僕にはたぶん自分というものが」(A)と答える、という流れになっています。私が2つのセリフを個別に取り出して、順序を逆にしたのは、私の話したい主題が2つあるからです。

 「自分は中味のない、空っぽの容器のようなものだ」という、多崎つくるのこのような自己認識は、思春期頃の若者にはよくある、自己卑下、過小評価、悲観主義として、ごくありふれたものとも云えなくありません。立原道造も、こんなことを日記に書きつけています。

……僕は現実から回避してゐる。……どこに自己の何らかを見出せるか。からっぽだ、僕の心の中は……(一九三〇年その日その日日記 四月三日)

 このとき立原は16歳、府立三中の4年生になったばかりです。時に誇大な、時に自虐的な自己評価の、はげしく交替する年頃といってよいでしょう。ほかの人の書いたものからでも、探せば似たものがもっとみつかるかもしれません。
 伊東静雄が昭和5年に「空の浴槽」を書いたとき、彼は25歳でした。二人を並べるのは無謀というものでしょう。伊東はもう大人であり、立原に10年を加えた人生経験があり、思想的な遍歴もあり、内容にも、私が拙い筆で試みたように、いわば存在論的な重みがあります。立原は25歳の誕生日を迎えることなく、死んだのでした。

 「空の浴槽」の作者と「空の容器」の多崎つくるとの間には、大きな差異が存在します。
 1 多崎つくるには「空の浴槽」の作者のような実存的な孤絶感はなかった
 2 「空の浴槽」の作者の胸奥には驚叫する食肉禽が棲まっていた
 「空の浴槽」の作者がのちに拒絶という能動の主体となることができたのは、この差異によるものと考えます。

    …………………………………………………………

 唐突ですが、『石垣りん詩集』(岩波文庫)を読んでいて、こんな詩句をみつけました。

    私のふくらんだ乳房は
    たたくと
    カランと音をたてる
    ゆたんぽの容器のように
    わびしい私の持ち物です
               (「ゆたんぽ」)

 なんという、したたかな、ユウモアとイロニイ!

[B:については、次回に]

1280Morgen:2016/05/29(日) 22:37:16
「雨霽れて別れは侘びし鮎の歌」
「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」5月27日公開< NORTH END PRODUCTIONS> を東宝シネマで観てきました。
 “過激なアポなし突撃取材で知られるマイケル・ムーア監督が、最新ドキュメンタリー「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」について声明を発表。「最も危険で破壊的な映画」と評された本作では、「我々アメリカ人に伝えられてきた“ウソ“を暴き」、「アメリカの国民に、いかに簡単にまともな社会を築けるかを示している」と激白”というのが、この映画の見所です。

 詳しくはyoutubeの予告編で観て頂くことにして、私達日本人の“ジョーシキ”がマイケル・ムーアが告発するアメリカ人のジョーシキに如何に近いか、そしてそれが世界のジョーシキから大きく外れているかもしれない”ということを感じさせられたという私の寸評だけをとりあえず記しておきます。

 今日は、小川和佑『中村真一郎とその世界』(林道舎 昭和58年11月)について投稿しようと思っていたのですが、時間が遅くなってしまいましたので、さわりのところだけ簡略にまとめてみます。

 昭和14年3月、中村真一郎にとっては先輩であり、よき詩友であった立原が死に、その年の夏、中村を含む4人の遺友は「油屋」で一巻の歌仙『鮎の歌』を巻いた。

 その立原追悼歌仙に詠われた中村の揚句「雨霽れて別れは侘びし鮎の歌」の一句は、立原の文学に画然とした訣別の一線を引いた中村の決意の表明であった。(同書P85、P97) 立原が、エッセイ「風立ちぬ」を書いて堀辰雄の文学に別れを告げたように、中村もまた立原の文学に別れを告げた。時代の外側に純粋な文学領域を築こうという中村の志向が、昭和17年3月『四季』63号の詩「失はれた日」に結実し、さらにマチネ・ポエティクの定型押韻詩へと展開されていった。

 この本は「林道舎」という小さな出版社から出されていますので、どの程度読まれたかは分かりません。なかなか面白いので、リクエストがあれば続編を書きます。ではまた。

https://www.youtube.com/watch?v=nE9-GHQWXnQ

1281山本 皓造:2016/05/30(月) 10:51:22
モランディの光と色
 1989−90年に日本で開かれたモランディ展の図録に、エレーナ・ポンティッジャ「言語と視覚」という論文が寄せられ、主としてイタリアにおけるモランディ解釈の歴史がたどられているのですが、特に戦前では、チェーザレ・ブランディという人の批評が、モランディ解釈における「ほとんどコペルニクス的な革命」であったとして、かなりのスペースをさいて紹介されています。その一節、

…彼が描いた事物は、自然とはかかわりのない、文学的ないかなるオーラをも除去された、自立した実在となる。光と色彩はもはや事物の属性ではなく、空間の属性である。ここではそれらもまた、組み立てられ、創り出されて、事物の形態を生み出すために協働する。とくに光は、もはや物理的な量塊(明暗)の描写には奉仕せず、一種の色彩である。かくして空間、光、色彩は一体となる。…

このあたりは、青木様が見られたのと同じ事柄を見ているのではないでしょうか。

1282山本 皓造:2016/05/30(月) 11:36:24
枕上読書断片(5)――愛のかたちについて
 前回投稿で、村上春樹『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』からの引用 B としたものを、ここに再掲します。

B:「ねえ、つくる、君は彼女を手に入れるべきだよ。どんな事情があろうと。私はそう思う。もしここで彼女を離してしまったら、君はこの先もう誰も手に入れられないかもしれないよ」

 2013年12月21日に私は「対話」という題で投稿しました。そこで私は、立原の「盛岡紀行」に関連して、私にとってあらまほしかった立原の姿を書きました。私は逆上していて、暴言を連ねたのですが、若干の反省を含めて、今思っていることを記してみます。

 …………
 ・東北で見、感じ、考えたことをそのまま持って帰ること
 ・アサイへの愛を実体化し、現実に、行為すること
 ・別離、などしないこと
 ・病気でなければよかった
 ・野村は来なければよかった
 ・南への旅は来年まで待つこと
 ・エセー「風立ちぬ」は温めて一〇年後に書き直すこと
 ・芳賀檀なんかにイカレないこと
 ・死を、あと一年ではなく、堀のようにもっと長く、じっと見つめること

 立原よ、なぜあのとき、アサイさんに向かってすなおに手を伸ばさなかったのだ。手を伸ばして、そのすぐ指先に、それは見えていたのではないか(愛が、ではない。人が、女が、身体が)。なぜそれに触れ、掴んで、引き寄せなかったのだ。道造はアホや、なんでそんなときに、別離とか言い出すねン。(暴言! 掲示板除名か)
 …………

 立原は、水戸部アサイという恋人を「手に入れる」ことができた、と思います。
 アサイにたいして立原は、言葉や行動においても十分に積極的です。金田久子や關鮎子や今井春枝らの場合と比較して、「優しい歌?」「物語」およびアサイ宛書簡などから読み取れる限りでは、その愛のかたちがはっきりと違います。
 私はふと思いついて、立原の詩篇のうち「おまへ」という語の用例を調べてみました。「優しき歌?」までは、ときどき、気まぐれのように「おまへ」という語が呟かれて、すぐに消えてしまう。それが「優しき歌?」になって突如、大量のほとんどすべての詩篇ごとに「おまへは」「おまへの」「おまへを」「おまへ」の呼びかけ。薄明の、夢幻の、追憶の、失意の少女への「おまへ」ではありません。黒い髪と白い顔と暖かい胸をもった、手を伸ばせば触れることもできる、現身の「おまへ」なのです。そのことが読み手に、ほとんど肉感的に、感じられないでしょうか。(詩作品のこういう読み方には当然批判があり、それについては後日、稿をあらためます。)

 しかし立原は他方で、「別離に耐へる」ということを言い出すのです。

 僕には、ひとつの魂が課せられてゐる。どこか無限の、とほくへ行かねばならない魂が、愛する者にすら別離を告げて、そして それに耐へて。だが、その魂は決して愛する者を裏切ることには耐へない。別離が一層に大きな愛だといふこと、そして僕の漂泊の意味。おまへにも また、これに耐へよと 僕はいふ。僕たちの愛が、いま ひとつの 大きな別離であるゆゑに。…(中略)…
 しかし、おまへは 僕のここにいふ別離を決して僕たちのカタストロフィーなどとかんがへる愚かさをしてはならない。なぜならばただ別離がいまは大きな愛の形式、そして僕がおまへを生かし、おまへが僕を生かす愛の方法であるゆゑに、そして それに耐へることで僕たちは高められ強くせられるゆゑに――。僕たちの愛をいまは嘗てよりも、未来よりも、いちばんに強く信じなければならない日なのだ。(昭和13年9月1日水戸部アサイ宛、小川和佑『立原道造 忘れがたみ』p.92)

 堀辰雄はこのような立原を、次のように述べています。

 私と妻とはときどきそんな立原がさまざまな旅先から送ってよこす愉しさうな繪端書などを受取る度毎に、何かと彼の噂をしあひながら、結婚までしようと思ひつめてゐる可憐な愛人がせつかく出来たのに、その愛人をとほく東京に残して、さうやつて一人で旅をつづけけてゐるなんて、いかにも立原らしいやり方だなぞと話し合つてゐた。――「戀しつつ、しかも戀人から別離して、それに身を震はせつつ堪へる」ことを既に決意してゐる、リルケイアンとしての彼の真面目をそこに私は好んで見ようとしてゐたのであった。(「木の十字架」)

 「優しき歌 ?」の「? また落葉林で」ではこう歌います。

 そしていま おまへは 告げてよこす
 私らは別離に耐へることが出来る と

 しかし現実世界においてアサイはほんとうに「私らは別離に耐へることが出来る」と告げてよこしたのでしょうか。小川先生はアサイに「わからない、そんなこと」と答えさせておられます(前掲書 p.96)。
 私も「わからない」と答えたい。

 愛のあるべき形について、これが正しいとか、まちがっているとか、言えるとは思えないので、結局は個々人の感受の問題とするほかないのでしょう。「道造はアホや」と云ったのは暴言で、これは取り消しますが、私の感受ではどうしても、次に引く田中清光さんの意見に同意するほうに傾くのです。

 愛は、現実に結び行為として不断の明日への働きかけを生まぬ限り、静止した風景に過ぎなくなり、観念に堕してゆかずにはいない。(田中清光『立原道造の生涯と作品』p.201)

 盛岡紀行や長崎紀行を読んでいると、風景に対したとき立原は、ほんとうにしみじみとした、澄んだ、いい文章を書きます。その立原が、何かを思いはじめると、もう彼の姿を見てはいられなくなってしまいます。
 長崎に向った早々の11月25日に、立原は薬師寺の境内で、こんなことを書いています。

 ……どうしておまへから離れることが出来たのだらうか。昨夜まで僕は知らなかつたこの別離がどんなのもかを、今もまだわからない。おまへは僕とはとほくにゐる。あの僕の知つてゐるビルデイングにゐる。しかし僕はそれを信じられない。僕がとほくに来てゐることも信じられない。別離とはこんなことだつたのだらうか。しかし僕はさびしい。そしてすべてがむなしい。何かささへるものを失つたやうな気がする。(角川版6冊本全集第4巻 p.312)

 私はここに、ほんとうの立原の、ほんとうの面のひとつを、認めてやりたい気がします。そうでないとあんまりかわいそうです。

          ……………………………………………………

 加藤典洋の『村上春樹は、むずかしい』の最終章で取り上げられた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では、もうひとつ、一番最後に「共同体の再生」という主題が提示され、多崎つくるはその可能性を確信するコミットメントを残すのですが、その言葉は、加藤によれば「この小説のなかに根づいていない。浮いている」と評価されるのです。共同体といえば直ちに、晩年の立原道造にとって、彼のつもりでは、生死をかけた大問題であったわけで、いつかはそちらへ論議は踏み込まなければいけないのでしょうが、立原の場合についての私の考えがまだ熟していませんし(「風立ちぬ」の読みこなしもまだできていない)、それに、多崎つくるにおいて「共同体の再生」とは具体的にどういう問題か、小説の背景を説明するだけでも煩雑なことになりそうです。ですので、今は、加藤典洋の問題提示の事実を記すだけにして、「枕上読書」の多崎つくるの章はここでいったん幕引きとします。
 Morgen さん、貴重なご教示ありがとうございました。
 小川先生のその著書は知りませんでしたが、おもしろそうですね。中村真一郎『立原道造論』とちょうど半分ずれて重なる関係にあるわけです。またいろいろ紹介してください。(でも正直私には、中村真一郎の小説がもうひとつよくわかりません。)

1283Morgen:2016/05/30(月) 23:53:53
「AIによる詩の制作」(?)
 山本様。立原道造に関するご投稿の真意は良く理解できました。
 私も、小川和佑『中村真一郎とその時代』を読みながら、ふと感じたことを書いてみます。

 今年の3月、Google系列のDeepmind社が開発した「アルファ碁」というロボットが、世界最強棋士イ・セドルを4勝一敗で破り、世界中を驚かせました。
 最近のAI(人工知能)の発達は著しくて、Deepthinkingという方法によって直観力や、創造力、さらには感情までも持つようになっているということです。また30年後には、ロボットの数が人間の数を越えるだろうとも言われています。
 ロボットは、人間と会話しながら言葉を学んでいきますが、人間そのものには全然興味がありません。従って、将来それが暴走しだすと人類の脅威となるだろうと危惧されています。
 このようなAIが、やがては人類が作った詩のすべてを学習し、人類が読んで感動し、面白いと感じるような詩を創作する時代やってきても不思議ではありません。

 立原道造が、油屋旅館の畳一面に詩句カードを並べ、カルタ取りをするのようにカードを並べ替えて『優しき歌』を制作したという話は、昭和10年代という過去に遡ることではありますが、、私は何となく、このような「AIによる詩の制作」を連想しました。
 「魔術的な詩の制作方法」に対する反発から、中村真一郎が立原と決別したのかどうかは不明ですが、私の身辺にいる技術者達の日常的な問題解決方法を観ていると、立原道造の詩作方法がそれ程奇異なものとも思えなくなります。

 小川和佑『中村真一郎とその時代』は、『恋の泉』『雲のゆき来』『四季』などの小説に関する論評が中心となっていますが、私は小説を読むのが苦手なので(すぐ飛ばし読みをしてしまいます)、そちらは直に同書をお読み下さい。

1284山本 皓造:2016/05/31(火) 10:57:15
「背のびしてさはりし枝の径なりし」
 Morgen 様。
 立原道造の詩の作り方の話、聞いてみれば、さもありなん、と思われますね。
 彼の詩集からランダムに14行ほど取り出して、うまくならべると、ちょっときのきいたソネットがつくれそうです。(そんな不遜なことはおそろしくてできませんが。)
 さて。
 昨日(月曜日)、投稿をすませたその後に、注文してあった、小川和佑『立原道造 詩の演技者』(昭和63、林道舎)が届きました。おや、林道舎?!
 ぱらぱら見ていると、表題の道造の句のことからはじまる終章で、やはり、立原のための中村らの歌仙と「雨霽れて別れは侘びし鮎の歌」の句が紹介されていました。偶然とはいえ、不思議な一致でした。
 この本は「初版限定五〇〇部」で、番号が入っていて、私のは「22」番となっています。本書は「『立原道造の世界』(昭和53、講談社文庫)以後の新稿と、同書未収録の小論を聚めたもの」で、「あえてこのような少部数の限定版にした」と断っておられます。小川先生は何冊、立原道造の本を書かれたのでしょうか。

1285龍田豊秋:2016/05/31(火) 15:01:18
ご報告
5月28日午後2時から,諫早図書館に於いて第101回例会を開催した。
出席者は、会員が5名。
ゲストが2名。前回と同じく、西村泰則さんと富永健司さん。

今回は、『水中花』『自然に、充分自然に』『夜の葦』の3篇を読み解いた。

会報は第95号。
内容は次のとおり。

1 伊東静雄研究会 創設10年記念例会(第100回例会)
   これまでの活動の一端を記録

2??平成27年度伊東静雄研究会事業報告

3 住吉高校同窓会室所属 伊東静雄資料

  (1) 伊東静雄 履歴書(昭和4年)

?? (2) 『耕人』第7号(昭和6年2月発行)??住吉中学校文芸部の機関誌
??????  詩 「歌」              特別会員 伊東静雄

?? (3) 『耕人』第8号(昭和6年10月発行)
     詩 「ののはな」????????????????????????????????伊東静雄

?? (4) 『耕人』第9号(昭和7年2月発行)
???????? 詩 「私の孤独を 一鉢の黄菊に譬えよう...」???? 伊東静雄

?? (5) 『學藝』第1号(昭和7年11月発行) 『耕人』を誌名変更
???????? 詩 「事物が 事物の素朴を失ふ日...」 特別会員 伊東静雄

?? (6) 『學藝』第2号(昭和8年12月発行)
???????? 詩 「少年N君に ──── 」??????????特別会員 伊東静雄

?? (7) 住中新聞 第15号(昭和22年11月発行)
???????? 詩 「二十五周年祝歌」
???????????????????????????????????????????????????????? 伊東静雄
?? (8) 同窓会報 (昭和30年7月発行)
???????? 伊東静雄先生の詩碑建つ


4 詩人上村肇の作品論 (一) 絶唱??????日本現代詩人会会員 松尾静子
????詩集『みずうみ』所収の「みずうみ」について

????????????????????????????????????????参考文献詩集『みずうみ』
????????????????????????????????????????詩誌『河 上村肇追悼号』

5 詩 「佐藤春夫」の服 小詩集?????????????????????????? 井川 博年
?????????????????????????????? (現代詩手帳 現代日本詩集 2010)


6 詩 「また明日」?????????????????????????????????????? 藤山 増昭

7 はがき随筆 「生きた証し」?????????????????????????????? 龍田 豊秋
????????????????????????(2016年3月20日 毎日新聞掲載)

8 本日の伊東静雄作品鑑賞

  <自然に、充分自然に>????詩人の死生観を表明した作品である。

????<水中花>????西村泰則さんが、文法面から詳細に解説を加えました。


次回例会は、6月25日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。

1286龍田豊秋:2016/06/02(木) 15:09:02
菖蒲忌
5月29日、第36回菖蒲忌が開催されました。
梅雨の走りを思わせる小雨がそぼ降り、雨に洗われた諫早菖蒲の紫が鮮やかでした。

会場は、去年と同じくグランドパレスでした。

1 作品奉読 「諫早菖蒲日記」冒頭 花堂 洋子

2 野呂文学作品朗読

????「小さな町にて」 鎮西学院高校インターアクトクラブ

????「風鈴」??????????諫早高校 放送部

3 第16回諫早市中学生・高校生文芸コンクール最優秀作品朗読

????随筆「夏と人生」  中学の部  毎熊 翼

????随筆「僕のカメラ」??高校の部  道脇 佑

4??昼食を挟んで午後からは、講師・中野章子さんによる記念講演がありました。
????久しぶりの来諫で、多くの友人知己の皆様とお会いになられ、大層に楽しそうに
  お話になりました。
????有り難うございました。

????演題 「文学の故郷」

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1287青木由弥子:2016/06/02(木) 21:37:42
掲示板というより・・・
掲示板というより、充実した連載マガジンのようです・・・

山本さま
「空の浴槽」不思議な作品ですよね。初めて読んだとき、魅力的かつ、斬新さに驚きました。プロメテウスの神話を連想したり・・・なぜ詩集に収めなかったのでしょうか・・・モダニズム系の作品の模倣のように感じられたから?・・・散文詩をなぜ静雄は書かないのか、とか・・・『わがひと〜』は、行分け詩でもつなげて読むと散文のような作品と、凝縮度の高い、行分けでしか書き得ない作品と混在していますね・・・何となく『おくの細道』の、散文的な地の文と、結晶度の高い俳諧の部分を組み合わせた構成を連想します。

立原は、恋愛に高い理想を求めすぎていて(精神的な面を)アサイさんは、もっと素朴に、たとえば黙って抱きしめてくれるとか・・・そういうことを実は望んでいたのではないかとか・・・リルケは、あえて愛する人から離れて自らの憧憬や情熱を引き出そうとしたのかも知れず・・・立原もそのあたりに憧れがあったのかな、等々・・・そのあたりの微妙な行きちがいがあったのかな、と思うのですが、どうなのでしょう・・仕事をする女性の、彼女自身の時間というか人生を、立原が尊重した、なんてことがあり得るか?・・・都会で送る新婚生活のようなイメージに、アサイさんが憧れていたとしたら・・・文学を追求する恋人は、添い遂げるのはむずかしく感じられたかもしれません。(立原のことをよく知らないまま、書いております、とんでもない勘違いをしているかもしれません。)

Morgen さま
入手しにくい書物をご紹介くださってありがとうございます。多方面に豊かな感性をお持ちですね。これからも楽しみに拝読させていただきます。
シュールレアリスム的な・・・無意識を活用するようなやり方を、立原も試していたのですね。
夢や夢想の断片を繋いでいくような感覚もありますね。
マチネ・ポエティク の復刊本を読んだときは、福永武彦の作品が、一番好みでした。
なんだか雑感ばかりですが・・・

1288山本 皓造:2016/06/04(土) 15:51:34
生々洞――立原の盛岡
 おもしろい本を読みました。

  A 佐藤実『立原道造 豊穣の美との際会』昭和48年、教育出版センター
  B  〃 『立原道造ノート』昭和54年、同上

 立原の「盛岡ノート」をめぐって、その前後の動静、盛岡の「立原道造文学遺跡」案内、滞盛中の日程の同定、人脈(加藤健、深沢紅子)など。著者はAを書き終えて、もうすべて書き尽くしたと思ったが、その後また書くことが出て来た、と云っています。
 私はこの2冊を読んで、これまで全集とその編註だけでは薄い一枚の靄で隔てられたように輪郭のぼんやりしていた「盛岡ノート」の中の日々や風景や人々が、はじめてくっきりとその色と形を見せてくれたという気がしました。
 小川和佑先生もこれらの著書を「必読」とされておられます。

 それにしても、立原道造という一人の若い詩人が、ただひと月滞在したという「事」があっただけで、若い著者を駆り立ててこれだけの仕事をさせ、のみならず今にいたるまで、たとえばウエブで「盛岡 立原道造」などと検索をかけるとおびただしいページが出て来るという、これはどういうことなのでしょうか。

 図版は、Bの表紙カバーで、「表紙装画 深澤紅子」とあります。これはどこでしょう。
 「生々洞」か、と思うのですが、Aで見られる生々洞の写真は、このカバー絵とはまったく違います。昔の生々洞は戦後になって建て直されたと、あるウエブサイトに書かれていました。今もその跡を探しに行く人が多いらしく、現在の写真が見られますが。詳細がわかりません(もうひとつの図版)。
 加藤健氏邸の写真が洋館で、よく似ているけれども、子細に見るとやはり違うようです。
 一縷の望みを託して、盛岡市立図書館のレファレンスに電話して調べてもらったのですが、私が上に記したのと同様の見解で、Bのカバーの表紙絵に該当する建物を同定することは結局できませんでした。何かゆかりのある建物に違いないのですが……。

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1289Morgen:2016/06/05(日) 00:12:30
水戸部アサイさんについて
皆さま今晩は。
 諫早の「伊東静雄研究会」例会は、その発表テーマから拝察すると、今や本格的な文学サークルへと充実した内容になっていて、同慶至極の思いがします。
 文学門外漢の私は、一種の好奇心から、色々な本を読んでは「ああでもない、こうでもない」と自問自答を繰り返しているばかりですが、青木さまからは「多方面に豊かな感性をお持ちですね。」とお褒め頂き、面はゆい感じがします。

水戸部アサイさんについて、中村眞一郎編『立原道造研究』に収録されている同氏の「優しき歌」(昭和21年11月『午前』5号から再録)に言及がありますので、p39〜41の一部を要約して抜粋してみます。

・・・・・今度の少女(A・M嬢 水戸部アサイさん)は、夢の対象ではなく、初めから生きている一人の女性だった。詩人は村暮らしの間じゅう、若い私に向かって、昼も夜も飽きることなく、その人について、その出会い、その無数の小事件、その無数の心理的絡り、その共にする生の将来への希望、を語り続け、机の上に拡げたまま置いてある長い紙に、毎日日課のようにして手紙を書き続けた。そんな日常の中から『優しき歌』は生まれつつあった。・・・・・もし詩人が、もう一度歌いだすとしたら、丁度『若きパルク』や『ドゥイノの悲歌』のように苦難に満ちた沈黙の後の、体験の底から掬まれた深いものでなければならなかったろう。・・・・・

 「盛岡への旅行中は、童話の他はトーマス・マンばかり読んでいた。」(明るい方向へ向かっている) しかしながら、同13年11月には「かはいさうな僕ら。なぜ愛しあひながら、しかも妨げるだれもゐないのに、離れようとねがったりしなくてはならないのだろう。」(道造)という方向に暗転し、迷走してしまっています。まさに「AIの暴走」を連想させもしますが、戦時かという異常な世相を抜きにしては説明できないことです。

 中村眞一郎氏が書いておられるヴァレリーの最高傑作『若きパルク』や、リルケの「心の時代」の成果である『ドゥイノの悲歌』の境地へ達するまでには、立原にその後どれほどの時間や体験が必要だったのか、想像もつきません。(参考のためやや蛇足の感がありますが、“観る”から“心”への移行を宣言するリルケの詩「転向」を添付します。)
(立原の文章にリルケの文章からの引用は多いが、立原の詩は実際にはリルケ「初期詩篇」のレベルでしかなかったとも言われています。『新詩集』『マルテの手記』の“観る”詩以前。)

 このように、立原道造は、将来への予感として『優しき歌』という詩の断片を遺し、詩友たちに『午前』という仮説的提言を遺しただけで死んでしまったということです。

 水戸部アサイさんは、長崎から帰った立原道造の入院病棟に介添婦として泊まりこみ、献身的な看病をしました。後年は、長崎の修道院で社会奉仕活動に生涯を捧げられたそうです。

 佐藤実様のご本や「生々洞」のことは、山本様の書かれている通りです。(数年前に本欄にチョッピリ投稿したように記憶していますが?)

上村さん、研究会のレジュメをお送り頂きまして有難うございました。

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1290Morgen:2016/06/14(火) 22:21:11
立原道造は<<花の詩人>>か
梅雨時だというのに、利根川水系では早くも水不足の危機がささやかれています。(冬季の雪不足の影響とか…)

 先日は、山本様が『立原道造 詩の演技者』(小川和佑著 林道舎)を紹介され、早速読ませていただきました。番号は5で、「小川和佑」のご署名があります。

 立原道造の詩語・・・「書き言葉」(モダニズム)詩語〜〜〜[日常語としての話し言葉」詩語へと変遷し、加えて14行詩という形を採用して、詩を読む者に「音楽性」を感じさせるという至難の業を成し遂げたところに、「詩の演技者」としての比類なさが表れている。
 同書の中心論点をこのように要約してみました。

 同書63頁以降に、「わずか16種の花の名しか詩集に出てこないのは、<<花の詩人>>というには少なすぎる。」「しかも、『優しき歌』には花の名すら出てこず<<花>>となっている。」

 伊東静雄の詩には「朝顔」「山茶花」「ドクダミ」しか出てこない。と書いておられます。(菊、野茨の花、立葵、辛夷など・・・他にも出てきますが?)

 皆様も、数えてみてください。“「夏花」とは何の花か?”という設問もありましたね。

 梅雨の晴れ間を利用して、丹後半島の奥伊根温泉という所に行ってまいりましたので、涼風に替えて写真を添付してみます。

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1291Morgen:2016/06/16(木) 23:46:57
「かまあげうどん」
昼食の後で、会社の近くの古本屋に立ち寄り3冊買ってきて、仕事の合間にペラペラとページをめくってみました。
  ・小田 久郎著『戦後詩壇私史』(新潮社 1995)、
  ・『詩と思想詩人集2014』(土曜美術社出版販売 2014)、
  ・植和田 光晴著『R.M.リルケ 言語的転向の軌跡』(朝日出版社 2001)

 『戦後詩壇私史』は、序章「口語の詩から日常語の詩へ?萩原朔太郎から谷川俊太郎へ」というタイトルに、興味が湧いたからです。(立原道造詩の戦後形は?)
 同書189ページには、井川博年さんの詩「靴の先」も載っています。日常語詩であり口語の詩でもありますが、著者の小田久郎さんは「現代詩の典型的な達成点をしっかりと押さえている。」と評しておられます。(1960年頃?『明日』のメンバー写真が載っています。)
  死ぬ直前
  ベッドの横で泣いている妻に
  夫は笑顔でこういったという
  なんとかなるさ
  人生はきっとなんとかなるものさ

  そしてほんとうに
  人生はなんとかなるものよ
  と笑顔で
  小さなバーのマダムはいった。
  丸い?い椅子の上で飲んでいると
  酔いは早くまわるのか
  その時ぼくは急に
  確実な地面が欲しくなり
  足をのばし 靴の先で
  床をそっとさわってみたのだ。

『詩と思想詩人集2014』には、青木由弥子さんの「かまあげうどん」が載っています。
明日の昼御飯は「かまあげうどん」にしようかなあ!

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1292青木 由弥子:2016/06/17(金) 23:34:08
「静雄の花」×小川和祐さん
Morgen さんへ

『詩と思想詩人集』お買い上げいただいたとのこと、ありがとうございます!
うれしいような恥ずかしいような・・・不思議な感じです。一度活字になったものは、いろいろなところで、色々な方に手に取っていただける・・・ということを、妙に実感しました。
「かまあげうどん」は、もともとは二倍以上長くて(笑) なかなか帰ってこない息子をイライラしながら待ちながら、茹でたうどんをまた水に放して、またザルにあげて・・・なんていうことをやっているうちに、うどんって、なんだか「触手」に似ているなあ、と・・・以下省略。

小川和祐さんの『伊東静雄論考』叢文社 昭和58年 を読んでいて、7章「わが家はいよいよ小さく」の中に、159篇(!)の静雄の詩の中から、詩集、花の名と作品名を対応させた一覧表が載っていました・・・。小川さんによると、朝顔と桜がそれぞれ四回、あとは合歓、つはの花、菊、薔薇、野いばら、桃、卯の花・・・などなど。身近な花が多いですね。珍しい山野草とか、特別な園芸植物などは歌われていない。
「夏花」は、「堺東駅そばの彼の小さな借家の垣根に咲く瑠璃いろの朝顔の花にちなんでつけられた」・・・とありますが、そうなのかな・・・。そういえば、蕪村の朝顔の俳句に、朝顔や一輪深き淵のいろ というのがありました。これもきっと、深い藍色の花ですね。
小川さんの講談社現代新書の『伊東静雄』(1980)の再録部分に、花のリストはのっていました。とりいそぎ。

1293青木由弥子:2016/06/17(金) 23:58:13
小川和祐→和佑さんです、失礼しました。
うまく修正できなかったので、新規投稿欄を使わせていただきました。

1294Morgen:2016/06/18(土) 23:58:14
「なつばな」
こんばんは
青木さま。有難うございました。小川和佑『論考』と講談社現代新書の2著確認しました。
ついでに、西垣 脩「朝顔」をスキャンして添付してみます。(富士正晴『伊東静雄研究』にも再録)
昨日の昼は、かまあげうどんを食べました。ではまた。

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1295龍田豊秋:2016/06/30(木) 09:51:29
ご報告
当方の今年の降雨量は、すでに例年の二倍に達したとのことです。
関東地方はダムの水位が下がって、まとまった雨が欲しいところですね。
わが家の周囲では、先日からクマゼミとヒグラシの鳴き声が聞こえています。
庭では、ネジバナとキキョウが咲き始めました。
サギソウの苗が順調に育っています。
7月末には、白い羽を広げた群れが見られることでしょう。

6月25日午後2時から,諫早図書館に於いて第102回例会を開催した。
出席者は、7名。

今回は、『燈台の光を見つつ』『野分に寄す』『若死』の3篇を読み解いた。

会報は第96号。
内容は次のとおり。

1 伊東静雄ノート (3)????????????????????????????????青木 由弥子

       ??????????????????????????????????????「千年樹」66号より

2??詩人上村肇の作品論 (二)憤怒

????詩 「桃太郎悲歌」??       詩集『みずうみ』みずうみ抄 収録

  詩??「盂蘭盆会」??????????????????詩集『空手富士』<1> 収録

????????「詩道」
                  日本現代詩人会会員 松尾 静子

3 はがき随筆 「ふるさとの詩人」????????????????????????龍田 豊秋

????????????????????????(2016年5月23日 毎日新聞長崎県版掲載)


4 詩 「今日の一品」????????伊東静雄賞第一次選考委員????平野 宏

????????????????????      ???????????????????? (水盤)十六号


次回例会は、7月23日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。

1296Morgen:2016/07/01(金) 23:26:30
ある「支那事変歌集」−『戒馬』のこと
 滝田様の「ご報告」および上村様からお送り頂いた「例会レジュメ」興味深く拝読いたしました。
有り難うございました。

 青木様の「伊東静雄ノート(3)」に触発されて、わが身内(義父)のある「支那事変歌集」−『戒馬』について書いてみました。

 昭和14年7月、大阪心斎橋筋の丸善と同じ並びの少し南に寄ったドンパルの2階で、日本歌人の大阪歌会があった。そこへ、黒い越後上布の上に絽の黒羽織を着、絽か仙台平か忘れたけれど袴まで付けて、黒い夏足袋もちゃんとはいて、伊東静雄が出席して歌の批評をした。この黒づくめの装束に対して、頭の新しいパナマ帽と足もとの草履の白が印象的であった。…(昭和28年7月号『祖国』に掲載された前川佐美雄「伊東静雄を憶ふ」から。富士『伊東静雄研究』に再録)

 昭和12年、支那事変勃発後応召を受けて2年余の間北支で従軍していたわが義父は、病気のため内地送還され、昭和15年1月以降、同じ心斎橋筋の「日本歌人社」の歌会(月例会)に参加しています。従軍中から暇をみては作歌を続け、「毎日歌壇」に投稿した歌が、川田順先生の選によって新聞に載ったのがきっかけで、「日本歌人社」の同人になり、前川佐美雄先生に師事したのだそうです。「美しい髭をたくはへ、羽織袴を着けてゐて慇懃なる挨拶を述べた。」とあります。伊東静雄から半年遅れて、同じ場所で、しかもどちらも羽織袴を着けてというところが面白いですね。

 義父の支那事変歌集『戒馬』は、(一部しかご紹介できませんが)まるで「防人うた」のように兵士の日常が詠われています。前川先生には9ページに及ぶ序文を書いていただいていますが、「実際に戦火の中をくぐって来た人により、戦場に於ける人間の愛情が悲しきまでに美しく歌われている」戦争の記録であり、表現である・・・という褒め言葉をいただいています。
『戒馬』は、大東亜戦争の開始とともに、再び応召を受け、取り急ぎ前川先生に選をお願いして出版されたもののようです。



 

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1297青木由弥子:2016/07/31(日) 07:45:34
防人歌
Morgen さま

お読みいただきありがとうございます。誤読その他もろもろあるかもしれません、お気づきの点があればお知らせください。

前川佐美雄さんのことを、前登志夫さんが『山河慟哭』の中で記しておられました。読み直してみようと思います。

防人歌と言えば・・・昭和17〜18年頃は、防人歌関連書が6冊も出ている、とのことです。それ以前は2冊くらいしか出ていないのだとか。出版目録に当たっていないので、確定情報ではないですが・・・国民の気分というか心情が、防人歌のこころを求めていたのでしょう。
義父様は、先駆けてその心を詠われた・・・ということになりますね。感性の鋭敏な方だったのでしょうか。
便乗本もあるなかで、吉野裕の『防人歌の基礎研究』は、当時の万葉集本の中でも高水準だったそうです。とりいそぎ。
阿部猛『太平洋戦争と歴史学』より。

1298龍田豊秋:2016/07/04(月) 15:30:41
図書館祭り
7月3日、恒例の諫早図書館祭りが、多数の団体が参加して賑やかに開催されました。
伊東静雄研究会も参加しました。

上村代表から伊東静雄の業績が明らかにされ、会員が「曠野の歌」、「自然に、充分自然に」、
「なれとわれ」、「夕映」、「露骨な生活の間を」、「長い療養生活」を朗読しました。

その後、郷土の文人コーナーに移動し、明治時代に中央で活躍した野口寧斎の漢詩を紹介したり、「河」の同人であった上村肇と木下和郎の詩を朗読しました。

上村肇の詩   「蜜柑」「春の潮」「雁渡る」「塒」「螢」

木下和郎の詩????「斧の花」「草の雷」「谷の歌」「昭和19年 秋」「六地蔵さん」「蟹の歌」

司書さんが、野呂邦暢の自筆原稿や市川森一が名誉館長時代に使用した部屋を説明して下さいました。

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1299山本 皓造:2016/07/07(木) 12:38:55
ごぶさたしました
 パソコンの前に坐ってキイボードを長時間叩くという作業を行うことができなくなって、「休業」していました。掲示板を見ることはできますので、楽しみに見ていました。

Morgenさん。
 先月のはじめ、私が「生々洞」のことを書いて投稿したのにふれて「数年前に本欄にチョッピリ投稿したように記憶していますが」と書かれているのを読んで、「そういえば」と、その心当たりを探そうとしたのですが、ところが今の掲示板の形式で、数年前まで遡って「語句検索」するのは、かなり煩わしいことになります。そこで思ったのは、「索引があればよい」ということでした。私は掲示板開設以来すべての投稿をWordの形になおして保存していましたので、Wordで使える「索引作成機能」によって、ともかく2003年(開設の年です)の分を、試しに作ってみました。結論は、「これは大変だ!」というものでした。
 他方、Morgenさんの回想に該当する投稿を探しつつ、遡って行って、今のところ、
   2011.6.13「ゆうすげのむこうに」、「訂正 水戸部アサイ」さん
がそれか、と思いました。2010.5.31の投稿にもアサイさんの名前が出て来ます。
 全投稿についての語句索引がもし出来れば、大きな財産になりそうですが、夢ですね。

青木由弥子さん。
 伊東静雄研究会会報で、力作「伊東静雄論」を拝見しています。刺激的で新鮮な問題提起があって楽しみにしています。ひとつひとつの論点をたっぷりと展開していただくことを希望します。

 書き溜めてあった草稿がいくつかありますので、整理して追い追い投稿します。

1300青木由弥子:2016/07/08(金) 10:54:48
山本 皓造さま
ご旅行にいらしているのかと思っておりました。お大事になさってください。
紙の手書き原稿をスキャンして添付するという方法を試しておられるかたもおられました、別サイトですが。短時間パソコンの前に座るだけで済むとのことです。
お励ましありがとうございます、頑張ります!

1301山本 皓造:2016/07/09(土) 13:19:13
立原から伊東へ、無言の言及
 青木由弥子様。お見舞い、ありがとうございます。すこしづつ、動けるようになりました。

 立原道造全集の、分厚い書簡集を、ようやく読了しました(角川版6冊本全集第5巻)。その中から。

 昭和10年8月5日猪野謙二宛(第127書簡)で、立原はこう書いています。

先日、コギトの六月八月號を手にして読んだが、中に就て、ナポレオンは面白かつた。保田といふ人の小説は思考は純粋なのであつたが小説として濁つてゐた。あれは小説でないのであらう。僕が小説としてよんだのかもしれぬ。だが、一體保田といふ人の文章はいひたいことがありすぎて、殆どあわててゐるやうな思ひがするのだ。天平、白鳳を背負つてゐる彼の姿はまためづらしくもうつとうしいのだ。それ故に過剰な氾濫が不吉な思ひを強ひるのだつた。

 文中、「ナポレオン」は芳賀檀「ナポレオン・ボナパルテ」(コギト昭和10.6〜11.7連載)、「保田といふ人の小説」は、保田與重郎「等身」(コギト昭和10.6)の由。なお「コギト」昭和10年6月号は第37号、8月号は第39号。

 次に、昭和10年8月6日神保光太郎宛(第130書簡)では、

先日送つていただいた六月號たいへんたのしくよみました。あれからあと室生先生のところで八月號をお借りしました。保田さんの文章はあんまりたくさんのことが書いてあるので、よくのみこめないところもありましたが、面白うございました。

と書いて、立原が神保光太郎を介してはじめて「コギト」6月号に接して興を魅かれ、のち室生犀星に8月号を借り出して読んだことがわかります。保田さんの文章は「有羞の詩」(8月号)で、ここにのべられている保田にたいする感情はやはり好意というべきなのでしょう。
 「コギト」所載の詩については、同じ神保光太郎宛書簡で、

詩では「部落」と「追憶」がすきでした。ほかの詩はどうしてあんなにむずかしいのでございませう。僕にはつきりとのみこめないのでした。

と記します。「部落」は神保光太郎の作品(6月号)、「追憶」は津村信夫の作品(8月号)。「ほかの詩」について、8月号所載の詩は、田中克己「笛吹き」、伊東静雄「漂泊」、蔵原伸二郎「東洋の満月―五篇」、小高根二郎「われ雲際にのみ寄せ歌ふ・禱歌」。6月号については手もとに資料がなくてよくわからないのですが、伊東の「行って、お前のその憂愁の深さのほどに」がこの号に掲載されていたはずです。(8月7日津村信夫宛書簡にも、「ほかの詩はわからないのが多く、むづかしいので、わかりませんでした」との文言がある。)
 立原は伊東の詩については何も言っていません。おのずと「むずかしい」「わからない」詩に入ることになるのですが、これは、「言及しないという形での言及」です。

 次に「日本浪曼派」とのかかわりについて触れておきます。
 昭和12年1月12日、やはり神保光太郎宛(第353書簡)に、

けふ「浪曼派」をよみました。保田さんの本のことを書いてある文章、だれのもみなうつくしくて、快くおもひました。亀井氏の文章がとりわけすきでした。「浪曼派」の詩はつまりませんね。

 全集編註によると、雑誌「日本浪曼派」1月号は、書評特集、とあるだけで、詳細がわかりません。総目次で調べると、この号には伊東の詩はなく、散文「感想」が掲載されています。
 だいたい伊東は「コギト」に比して「日本浪曼派」にはあまり詩を投稿していません(計6篇、うち3篇は拾遺詩篇)。その中で『夏花』の「水中花」が突出しています。
 しかし伊東の「感想」は、昭和8年夏、保田との初めての出会いのことを記した、重要な文章で、その「魅かれ方」が、きわめて率直に述べられています。立原は伊東の名を出してはいませんが、必ずやこれを読んで、保田にたいしては云うまでもなく、伊東にたいしてもまた、あらためて気持ちを通わせるところがあったにちがいありません。

 つけ足し。
 伊東にはもうひとつ、同題の「感想」という文があります(「コギト」昭和13年11月)。そこに、

わたしの年少な一友人は田中君の詩を評して大へんこはいと言った。尤もなことだ。それは模倣を烈しく断はつてゐるから。

 私は直観的に、この「わたしの年少な一友人」を、立原と思い、それは田中克己の詩集への書評として書かれた立原の「詩集西康省」(「四季」昭和13年11月)のことを指していると思ったのでした(因みに「コギト」のこの号は、田中『詩集西康省』の刊行〈祝賀号〉)。しかし、ここでは田中の「拒絶」精神には触れるものの、直接に「こはい」という云い方はされていません。発表誌が両者とも昭和13年11月である点からしても、その先後/因果関係の推定には難が残ります。
 もしも伊東が立原のことを「わたしの年少な一友人」というふうに呼んだとすれば、それは伊東の立原にたいする親愛の気持をあらわす、ひとつの証言とすることができるのですが。

 * 小川和佑先生が『立原道造の世界』で?「コギト」と立原道造?について章を立てて詳しく論じておられます。ぜひご参照ください。
?

1302山本 皓造:2016/07/15(金) 09:47:37
また、立原から伊東へ
 角川版6冊本の立原道造全集第四巻「評論・ノート・翻訳」をパラパラとめくっていて、「スケッチブック」というものの中に、伊東静雄の名前をみつけました。
 編註によると、「スケッチブック」というのは文字どおりの画帳で、3冊あり、各葉のほぼ片面(表面)のみに、地図、家具、風景、建物など雑多なもののスケッチ、心覚えや抜書きなどのメモ、等が、脈絡なく書き込まれているようです。全集の編集上は「ノート」という大分類で「火山灰ノート」「盛岡ノート」「長崎ノート」と同じ並びに入れられています。
 伊東の名はこの「スケッチブック」の3冊目の第6ページに出て来ます。このページの全体をまず引き写します。

     §
津村信夫と王朝のリリック。
伊東静雄にあつては、パロディとしてその精神が投げ出されてゐる。
 古典。――一つの形式としてでなく、本質として。
     ☆
彼の Lyrische Roman のいつはりなること。
神保光太郎の「マグダレナ」に比較せよ。
グレエトヘンと、北信濃の愛する神の神話。

 これだけのデータから、立原が伊東の何について、何を言おうとしているのかを理解するのは、私にはむずかしすぎます。

 編註は、昭和11年1月10日付津村信夫宛書簡に拠って、このページが書かれたのを1月上旬と推定しています。津村宛書簡は短いもので、

冠省。津村信夫論を今肩いからせて書いて居ます。四季・二月号に間に合はせるつもりです。津村信夫と王朝の抒情といふ所が得意の段です。

 この津村信夫論は実際に「愛する神の歌」の表題で『四季』第15号(1936年2月)に発表されました。また、角川版には未収ですが筑摩版全集第3巻に「「愛する神の歌」の手記」と題する文章が収録されていて、これは『四季』掲載分の別稿のようです。
 並べてみると「スケッチブック」のこのページのメモは、全体が津村論の覚書のようなもので、そうであれば、ここから立原の津村論に関して論じるべきなのでしょうが、私には津村信夫について何を云う資格も力量もなく、申し訳ないのですが、津村についてはここでパスさせてください。

 話は戻って、「スケッチブック」のこのページの少し前、第2ページと第4ページに、新古今集巻十一から2首を抜いて、その現代口語訳を試みたものが、書きつけられています。これが第6ページにつながりがあると思われるので、書き出してみます。

第2ページ(表)
 水脈もなく 水禽[とり]一羽 寒い水の上
 私は 待つてゐる
 来ない たよりを――
 たよりは 来ない 今日も昨日も
謙徳公――新古今集・巻十一

第4ページ(表)
 なぜ 乾かないのか 時雨ふる
 冬の 木の葉よ
 なぜ 乾かないのか つめたい頬
 頬をつたつて 誰も知らない涙よ
新古今集巻十一・よみ人知らず

 謙徳公は藤原伊尹で、この原歌は
  水の上に浮きたる鳥のあともなくおぼつかなさを思ふ頃かな
 よみ人知らずの原歌は
  時雨降る冬の木の葉のかわかずぞもの思ふ人の袖はありける
であることを、編註から知ることができます。
 この2首の訳は、少し手を加えて、同人誌「ゆめみこ」第15号(昭和11年1月号)に掲載されました。こちらの訳文は、同全集第四巻の「翻訳拾遺篇?」の篇別中に収録されています。

新古今和歌集巻十一 〈神垣抄〉より

      32    謙徳公
水脈ひかず 水禽一羽 寒い水の上
私は おもつてゐる
来ない たよりを――
たよりは 来ない 今日も昨日も

      65    よみ人しらず
なぜおまへは乾いてゐないのか 時雨ふる
冬の 木の葉よ
なぜ乾いてゐないのか つめたい頬
頬をつたつて だれも知らない涙よ

 編註はなお次のように記します。

この現代語訳の試みは本号の「ゆめみこだより」に、「木曜日の新古今鑑賞で十二月にやつた巻十一から、道造、迪夫、貞夫の現代語訳を抄出してみました」と記録されている。
「ゆめみこ」は立原の一高時代の同期生、松永茂雄が主宰した同人誌で、貞夫はそのペンネーム、迪夫は弟の松永龍樹。

 この松永兄弟の現代語訳は、立原全集の編註では知られないのですが、小川和佑先生は『立原道造の世界』(講談社文庫)において、松永兄弟と同人誌「ゆめみこ」、およびその立原との関係、就中立原の新古今吸収において果たした役割について、詳しく説かれました(p.159〜166)。そこで松永兄弟の試訳も紹介されています。

    32  幾度だしてもたよりのない女に  謙徳公
水の上に 浮いてゐる鴨。
どうして うごかない。

寒いから、
忘れさうな君の顔。
  迪夫(注、松永龍樹)

    65  冬木  よみ人しらず
さめざめと、
小雨にぬれる冬の木の葉の――
かわくときもないものよ。
恋しりそめた 人のなみだは。
  貞夫(注、松永茂雄)

 ただし同書には「スケッチブック」への言及はありません。
 小川先生は、新古今集の和歌は立原の詩そのものになっている、と立原訳に高い評価を与えておられます。

 さて、ここからが、私の大ヤマカンになるのですが、私は
  伊東静雄にあつては、パロディとしてその精神が投げ出されてゐる。
というのは、立原がまず謙徳公の歌を前に置き、ここから伊東の『哀歌』巻末の(読人不知)、

水の上の影を食べ
花の匂ひにうつりながら
コンサートにきりがない

に連想を飛ばして、これを謙徳公の「パロディとして」(つまり本歌取りとして)とらえた、のではないかと見るのです。
 といっても、私は、直感的に「線を引いた」だけであって、これを分析的に論ずる力はありません。
 なりゆきから行けば、立原の津村論は、津村と王朝の抒情について論じ、ひいては伊東との比較に及ぶ、という内容をも含むべきだったはずです。それで、この部分の展開がないのが、惜しまれたのでした。

1303青木 由弥子:2016/07/15(金) 22:24:00
夏の終(『春のいそぎ』の方)
山本 皓造さま

立原の、独り言のような、覚書のような”静雄評”、たくさんのヒントを含んでいるような印象があります。詩人の直観、というような。直接、影響関係を指摘するようなことは出来ないかもしれませんが・・・そういう、論理を越えた部分で。

お元気そうでよかったです。山本様のご投稿を拝見し…「日本浪漫派」に静雄は”4篇”の詩を寄稿した、と早とちりで思い込んでいたので・・・「あ〜!!!」と思って慌てて確認しました・・・4篇、ではなくて、4回、でした・・・。ありがとうございました。

「コギト」には毎回のように詩を出して、しかも同人費も払っているのに、”同人”にはならなかった、とのこと。「呂」の青木敬麿に遠慮したのでは、という説を読みましたが、本当にそれだけなのか、どうか。「日本浪漫派」の方は”同人”になっているのに、こちらには詩をあまり出していない・・・「水中花」は、いかにも浪漫派的な名作ですが・・・。

微妙な距離の取り方が気になります。参加同人との個人的な関係、掲載された他の作品との関係など、色々な要因がからんでいそうです。宿題、です・・・。

今日は、国会図書館に「夏の終」の初出を確認しに行ってきました。棟方志功の挿絵がついていました!ちょっと暗くて見づらいのですが、コピーを添付します。

昭和15年の『公論』、第二次近衛内閣の南進政策を強力に擁護するような論陣が張られていて、全体に戦時色が強く、太平洋戦争に既に入っている時期の雑誌かと勘違いするほどでした。大英帝国の衰退、ヨーロッパにおいてはドイツが覇権を握り、太平洋においては日本が覇者となる。この地域を経済的に支配下に置こうとするアメリカの”野望”を阻止し、亜細亜の植民地化を防ぎ、日本が盟主となる・・・という大東亜共栄圏のイメージが、既に知識人たちの間には浸透しつつあったのだ(メディアの力を借りて)ということが伝わって来るような内容でした。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001438.jpg

1304Morgen:2016/07/19(火) 23:27:36
『夏の終』/「徐かに傾いている」「ある壮大なもの」
 近畿地方には「梅雨明け宣言」が出されて、やっと真夏らしい太陽が頭上に耀いています。気持ちの良い暑さですが、さすがに日中のロードバイクは中断しています。

 “前川 佐美雄と前 登志夫との関係”という、青木様のご設問に誘引されて、前 登志夫『山河慟哭』、同『森の時間』の2冊を読みました。
私も、多良岳山麓のどちらかといえば山育ちで、実父は青年時代には木挽き職人をしていたそうで、応召により満州へ行き、敗戦後数年間のシベリア抑留中は材木伐採をやらされていたそうです。、帰国後は地元農協の製材所で村有林の製材や、伐採予定の植林地の石高見積りなど、一生を材木を相手の仕事をしてきました。私はそんな環境で育ちましたので、少年時代には、多良岳・山犬台の伐採「飯場」に泊まったり、毎年、数回は植林の下刈り・間伐の手伝いに行き、中学時代には「一人前の職人」と煽てられて手伝いをしました。(大学時代にも大阪茨木の美山地方で薙刀をもって植林の下刈りの手伝いをしたことがあります。)
 そんな関係で、前 登志夫さんの『山河慟哭』『森の時間』を読んでいると、遥か60年数前に経験した杉や檜の皮剥ぎの匂いが懐かしく蘇ってくるような錯覚におそわれます。

「各自の苦しみを我慢して公の仕事をして行く、人間のいとほしさをしみじみと感ずるのです。」という昭和15年6月中旬 池田勉宛伊東静雄書簡があります。 父や義父の20歳後半の生き方は、まさに「各自の苦しみを我慢して公の仕事をして行く人間のいとほしさ」そのものであったように思われます。(合掌礼拝!)

 先日の青木様のご投稿で『夏の終』のことに触れられていましたが、そういえば 『夏の終』がいつ書かれたのか? 「徐かに傾いている」「ある壮大なもの」とは何か?という詮索を、やったことがあったことを思い出しました。
(その際、永藤武著『伊東静雄論・中原中也論』―おうふう2002年刊―が私には参考になりましたが、同書は昭和16年夏説です。)

 従来まで、「夏の終」の初出について、『伊東静雄全集』年譜では「不明」とされていましたが、今後は“昭和15年夏”と改められなければなりませんね。第3詩集『春のいそぎ』が、おおむね年代の新しい詩を前に、古い詩を後ろに置いている配列とも一致します。<後ろから3番目が「蛍」、4番目が「夏の終」>。
*田中俊廣『痛き夢の行方』では、昭和15・10「夏の終」とされています。(同書177頁)

1305山本 皓造:2016/07/24(日) 20:45:06
「また立原伊東」追補
 前稿を書いたとき、小川先生が『立原道造の世界』で次のように述べておられることが、気になっていました。

……しかし、この原歌と現代訳の関係は塚本邦雄の「空ぞわすれぬ」(「南北」第六号[ママ])の説のごとく、これは本歌と本歌取りの関連において論ぜられるものではないという山田俊幸の指摘(注、前記「風信」第六号)は正しい。立原はこの原歌を彼の詩語で見事に四行詩に翻訳して見せた。結果的に見て、訳詩はそのまま立原の十四行詩の世界をさながらに映し出している。(p.164)

 引かれている塚本邦雄、山田俊幸両氏の論考は、次のものを指すと思われます。

  塚本邦雄「空ぞわすれぬ――現代における詩歌の意味」(「南北」第一巻第十二号、昭和四一・一二)
  山田俊幸「立原道造――全集未収録訳詩二篇」(「風信」第六号、昭和四六・三)

 このやりとりは、塚本氏が立原の現代語訳を本歌と本歌取りの関係において論評し、山田氏がこれにたいして否定的な見解を示した、という成り行きのようです。しかし私には今のところ、この2論考にアクセスする手立てがありません。そのかわり、ともいえないのですが、次の2篇を見つけました。

  塚本邦雄「飛鳥井の鮎 本歌取りについて」(「新装版現代詩読本立原道造」思潮社、1983.6)
  山田俊幸「ゆめみこたちの群像(一)〜(八)」(「果樹園」第一五四号〜一六一号、昭和四三・一二〜四四・七)

 塚本氏の論は標題どおり、本歌取りという観点から立原の例の2篇の現代語訳についての批評を行っているもので、その批評は「本歌取りとしてすぐれた作品になっているか」「本歌取りの作法に随っているか」という観点から見て、相当に辛口です。(塚本氏は後半では「鮎の歌」を取り上げてこれを絶賛?しています。)
 山田氏のものは、主として松永茂雄の青年時代に焦点を置き、立原から見た茂雄による呪縛とそこからの解放を描きます。同人誌「ゆめみこ」や新古今の現代語訳については触れるところがありません。(なお「果樹園」は、小高根さんの、あの「果樹園」です)

 妙な言い方ですが、塚本邦雄氏というのは、私などから見れば、短歌の専門家であり、「玄人」です。そういう高みからバッサリ斬られると、竦んでしまいます。長くなるので、引用はしませんが、いちどお読みください。
?

1306山本 皓造:2016/07/24(日) 20:46:12
雑談
 国会図書館へは、私はただ一度だけ、行ったことがあります。請求した図書が出て来るのをベンチに座って待つ、いらいらとした不安な時間、複写をとる手続きのわずらわしさ、そんなことを漠然と憶えているだけで、そもそも何をしに行ったのか、何を閲覧したのか、そんなことはきれいさっぱり忘れてしまっています。でも、東京に住んでいる人は、さまざまな資料へのアクセスに関して圧倒的なアドヴァンティジをもっているわけで、その点うらやましく感じたものでした。

 オリジナル、たとえば初出誌や初版本等を見るのは、目的の詩の一篇だけではなくその周辺の風景も見られるので、有益でもあり、また歓びでもあります。以前にも書きましたがが、私は伊東静雄や青木敬麿らが創めた雑誌「呂」が見たくて、それがどこにもなくて、その時に教えてくれる人があって、志賀英夫さんという、詩誌『柵』を主宰している大阪在住の詩人で『戦前の詩誌・半世紀の年譜』という本も出しておられる方のことを知って、お願いして、蒐められた3点の「呂」のコピーを送っていただいたことがあります。
 伊東の詩「病院の患者の歌」ほかの載った第2号のページと、この号の目次の図版を貼りつけます。おそらく掲示板の皆様も、ここに名を連ねた同人の方々を、ほとんどご存じないかと思います。
 伊東の「呂」→「コギト」への移行、接近は、もちろん伊東の詩精神の内的な転位に求めるべきでしょうが、私は伊東の保田との出会いという外的な出来事が案外大きいと思うのです。
 なお「呂」の同号の巻末に「同人語」という欄があり、ここに(伊東)と署名のある文章があります。この(伊東)が「伊東静雄」ならば、これは全集未収録資料ということになるのではないでしょうか。

 伊東と短歌について。従来、全集だけによる限りでは、伊東の作歌作品数はごく限られていて、ほとんど、「短歌から詩への移行」とか、「歌の別れ」などを論ずる必要もないかのように、軽く見られていたような感がありました。しかしその後、田中先生の『伊東静雄青春書簡 詩人への序奏』における大塚宛書簡、『伊東静雄日記 詩へのかどで』、および酒井姉妹宛書簡等、新資料が出て、そこに収められた短歌作品を拾うと、相当な数に上りますし、作歌と作詩とが重なっている時期も明らかにあって、歌の別れ→作詩へ、という単純な行程と見ることはできないように思えるのです。私は短歌の読解力、鑑賞力というものがまったく欠けていて、力及ばないのですが、伊東静雄の短歌というテーマは、誰かがとりくむだけの価値のあるボリュームをすでに備えていると思うのです。

1307山本 皓造:2016/07/24(日) 20:50:35
画像忘れました
ここに貼り付けます。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001442.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001442_2.png

1308龍田豊秋:2016/07/25(月) 09:46:18
花便り
暑い日が続いています。皆様お変わりありませんか。

昨日、多良岳に登りました。
金泉寺山小屋の気温は、摂氏23度でした。

オオキツネノカミソリが丁度見頃でした。

わが家の庭では、サギソウが涼しげに咲いています。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001443.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001443_2.jpg

1309Morgen:2016/07/25(月) 14:07:53
暑中お見舞い申し上げます
龍田様

 多良岳の「オオキツネノカミソリ」の画像をご掲示いただきありがとうございました。さっそく、デスクトップの背景に使わせていただいています。

 色は違いますが「夕萓(ゆうすげ)」などの一種かと思っていましたが、本当はヒガンバナ科ヒガンバナ属の花なのですね。

 10代の頃に、毎年植林をした多良岳山麓の杉や檜が、もう60年物の立派な材木になっているはずで、機会があれば昔の植林地(校有林や村有林など)を訪れてみたいものです。

 大阪は「天神祭り」で賑っていますが、日本全国いよいよ本格的な盛夏到来。
 皆様どうぞお体を大切に猛暑を乗り切ってください。

1310龍田豊秋:2016/07/26(火) 09:29:23
ご報告
Morgen様、私の写真を使って下さり有り難うございます。
中々、満足出来る写真は撮れません。

7月23日午後2時から,諫早図書館に於いて第103回例会を開催した。
出席者は、6名。

今回は、『沫雪』『笑む稚児よ』『早春』の3篇を読み解いた。

会報は第97号。
内容は次のとおり。

1 伊東先生のこと                 明石 長谷雄

?????????????????????????????????????? 詩集『冬タンポポ』あとがき より
????伊東静雄に私淑して、伊東静雄に詩集を献呈した。


2 詩 「渚にて」??????????????????????????????????山本 まこと
????????????2014年夏の記憶、佐世保
?????????????????????????????????????? 「あるるかん」31号

3 詩 「おさなご」????????????????????????????????大木 実


4??詩 「おうどん」????????????????????????????????山田 かん


5 野口寧斎と佐佐木信綱との通交????????伊東静雄研究会 上村 紀元


6 野口寧斎と正岡子規??????????????????        上村 紀元


7 野口寧斎と伊東静雄??????????????????????????????????上村 紀元

??????????????????????????????????????????????????????????????????以上

次回例会は、8月27日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。

1311Morgen:2016/07/26(火) 22:54:44
『夏の終』//私の推理(?)
 7月15日付け青木様のご投稿にありました雑誌『公論』について少し調べてみました。(青木様にお書き頂くべきところですが、これまでに分かったデータと私の推理を“前座”で書いてみます。本格的な論究をお待ちしております。)

 <『公論』は、昭和14年、上村哲也、勝也兄弟によって設立された「第一公論社」の発行になる雑誌である。編集を担当した勝也は、改造社を経て先進社社長となったという人脈から、当初は幅広く小説やエッセー、詩歌なども同誌に掲載したが、戦争の進行とともにそれらは排除されて戦時色の強い雑誌となっていった。>(WEB上に掲載されている『古本夜話』から)

 国立国会図書館デジタルコレクションによると、『公論』1940年(昭和15年)10月号に「夏の終り」(詩)伊東静雄P244〜245が掲載されています。

 また、『公論』について、『ユリイカ』(昭和50年10月号) 特集“日本浪漫派とは何か”P120で、橋川文三氏が対話の中で次のような要旨で述べておられます。

 彼ら(橋川氏より若い世代の人たち)が読んでいたのはもう浪漫派ではなくて『公論』ですね。極右の上村哲也・勝也兄弟が編集していた『公論』、われわれはもう読まなかったですね。しかし僕らよりちょっと若い世代は浪漫派よりもっとラジカルな『公論』に惹かれている。(因みに『日本浪曼派』は昭和13年に終刊)
<保田與重郎氏は昭和18年に第一公論社から『文明一新論』という本を出版しています。>

 <<以下は私の拙い推理ですが、>>―伊東静雄は、保田氏に(?)強く求められて(?)、昭和15年夏の終り頃に創って、手元に置いてあった詩稿「夏の終」を、昭和15年当時は創刊されて間がなく、まだ極右政治誌色が濃厚ではなかった『公論』に(心ならずも)提供した。
 そのために、同誌の他の論調とは異質であり、即物詩・散文詩風のクールな詩になっており、心の中の「ある壮大なものが徐かに傾いている」という、放心状態・虚脱感の漂う平明な詩になっています。その結果、「夏の終り」(詩)だけが何となく浮いた感じで、場違いな『公論』に掲載されることとなった。
 ―(そしてその事実は『伊東静雄全集』の年譜には記載されなかったのではないか?)...こんな推理をしてみましたが、それを裏付けるような証拠や証言が果たして見つかるのか? 今となっては自信はありませんが...

1312青木 由弥子:2016/07/27(水) 14:20:13
Morgenさま
一緒に頭をひねってくださる方がいると、大変心強いです。保田與重郎の斡旋の可能性もありますね。保田は、日本浪漫派を、マルクス主義に続く文学運動と考えていたようです。今からみると、まるで真反対のようにも思えますが、西欧資本主義の欠点や問題点を、いかに克服するか、という点では、マルクス主義も、日本浪漫派(が影響を与えた、ということになっているファシズム的思想も)同じ・・・。皇国史観の立役者、平泉澄も、マルクス主義者の羽仁五郎も共にベネデット・クローチェの歴史学から影響を受けたらしい、ですし・・・平泉は『我が歴史観』の中で、明治以来の(西欧的な)研究法は分析であり、分析は解体であり、解体は死である。真を求めるには綜合であり、総合は生である、それは科学ではなくむしろ芸術である・・・などなど述べているのですが、これって、ノヴァーリスの、科学は自然を切り刻んで殺してしまった、芸術は死んだ自然を総合し再び再生させる、という思考法と、そっくりではないか、という気がして、なんとも複雑な気分になります。

ロマン主義の、原初への遡行、分析よりも総合、歴史的命脈の尊重、変化するものより普遍的なものの重視、現象より本質・・・といった理念が、ファシズムに転用されないためにはどうすればよいのか、という部分で、いつも立ちどまってしまいます。

1313青木 由弥子:2016/07/27(水) 14:35:43
山本 皓造さま
貴重な資料を添付して下さり、ありがとうございました。

「夏の終」の出典情報は、上村紀元さまに教えていただきました。
萩原朔太郎 晩年の光芒ー大谷正雄詩的自伝― 大谷正雄著 P264 に、『公論』の15年10月号とあるそうです。まだ、『公論』そのものの確認は出来ていない、とのことでしたので、国会図書館に出向いた次第です。

父が高校の歴史教員で、夏休みになると国会図書館などに通っていたのですが、その時分は、資料が出てくるまでにかなり手間取ったようです。その話を聞いていたので、なんとなく気が重かったのですが・・・全部デジタル化されていて、あっという間に資料が出てきました。マイクロフィッシュの資料は、かなり手作業の部分があって、読みにくいのですが、『公論』などは画面上でパラパラ本をめくるみたいに簡単に読むことができます。
その時代の雰囲気を知るためにも、前後を広く読む必要があると思いました。
『呂』、ずいぶんたくさんの同人が参加していたのですね。なんとなく、二人誌のようなイメージを抱いていました。ありがとうございました。

短歌、これもまた大きな連山のようなテーマですが・・・富士正晴によれば、静雄が花子さんと出会ったのも歌会の席だったようです。たぶん、その時一目ぼれして(雰囲気や相貌、才知などにほれこんだのでしょう)つてを頼って見合いに持ち込み・・・その途中で父親の死と借金の問題が浮上し・・・その困難を共に引き受ける形で花子さんはお嫁に来て下さったらしい。酒井百合子さんに、この結婚が上手くいくかどうか、と悩み相談のような手紙を出しているくらいですから、一時的には百合子さんに熱をあげていたとしても、この時には花子さんに夢中だったのだろう、と思います。「歌」のつなぐ縁、ということでしょうか。(脱線しました)

1314青木 由弥子:2016/07/27(水) 14:41:55
龍田豊秋さま
サギソウのお写真、素敵ですね。叔父が草物盆栽に凝っていて、溶岩の鉢にミズゴケで植えこんでいましたが、いつも数輪(数羽?)しか咲きませんでした。群れ飛ぶ様は壮観です。拙いものですが、ブログを(たまに)更新しているので、URLを張っておきます。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1315龍田豊秋:2016/07/28(木) 09:39:59
青木由弥子 様
サギソウの写真へのご感想、有り難うございます。

青木様が、伊東静雄研究会の会報に寄せて下さる、力のこもった文章を拝読するたびに、会員全員でため息をついております。

青木様のブログをお気に入りに追加しました。
これからは、時々お邪魔します。

1316Morgen:2016/08/02(火) 13:36:18
「萩原朔太郎 晩年の光芒」―大谷正雄詩的自伝―
「ルナ・パーク」

終電車で別れた
萩原朔太郎が
玄関に立っている
早朝である

濃い茶色の帽子をかぶり
インヴァネスを着ている
昨夜と
全く 同じ服装である

―昨夜は愉快でね
 ルナ・パークでねたよ
 安眠と言うのがわかった
 さわやかだよ
酒の香りが残っている

―目をさましたら
 墓場だった
 おまわりが来ないので
 ゆっくり 眠れたよ
満足な顔をしている
<大谷正雄著「萩原朔太郎 晩年の光芒」―大谷正雄詩的自伝―てんとうふ社>から

アマゾンで注文していた同書が昨日配達されていたので、一気に流し読みしました。
昭和12年〜同17年頃の、東京、軽井沢、白河、茅ヶ崎を舞台にした、人々の様子が描かれています。等身大の萩原朔太郎や伊東静雄が登場し、ナマの話をしてくれます。

 内容的には、伊東静雄に関わる『天性』誌や書簡のボリュームが全体の約3分の一を占めています。(是非ご一読を!)

 例の「公論」(「夏の終り」初出)の件については、p264に次のような簡単な記載があります。
―昭和十五年の「公論」十月号に「夏の終り」と言う「完成された」詩を発表している。

取りあえず流し読みしましたので、もう一回、今度は熟読してみるつもりです。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001451.jpg

1317青木 由弥子:2016/08/04(木) 15:08:06
Morgenさま
情報ありがとうございます・・・
てっきり、うんと古い本だとばかり思い、調べる事すらしませんでした・・・。
まだ新しい本なのですね。
てんとうふ社のホームページからは注文できず、Eメールでやり直しました。
茶色のインヴァネス・・・オシャレですね。高等遊民のような・・・。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1318山本 皓造:2016/08/15(月) 15:15:54
訂正など
7月24日に「雑談」の表題で投稿した記事中に誤りがありました。
表紙・目次の図版を貼りつけた『呂』を「第2号」と書いたのは誤りで、「第一一号」に訂正します(昭和八年六月号、第二巻六月号)。

「夏の終」の初出については、『定本伊東静雄全集』第七刷付録月報(平成元年四月三十日)の中の「追加訂正」の項で、
  「一九六頁下段一七行 不明、太平洋戦争勃発前 → 『公論』昭和一五年十月号」
と訂正されています。Morgenさんのご指摘によるWEB上の記事は私には初見でした。青木様がご自身の眼でしてくださったことで、この件は完璧になりました。ありがとうございました。

青木様、Morgen様が言及された『萩原朔太郎 晩年の光芒――大谷正雄詩的自伝―』は、おもしろそうなので私もアマゾンから取り寄せました。Morgenさんのように「流し読み」できないので、パラパラとめくって、枕元に積んであります。
著者が本書のp.242で述べているように、『非情派』→『天性』のこと、および林富士馬さんのことは、たしかに伊東の「人に知られもせずに行動、行為した部分」のひとつで、この点で本書は大きな意義を有すると思います。

伊東の詩集『春のいそぎ』に載った作品「七月二日・初蝉」と「庭の蝉」は、全集初版では初出誌“「コギト」昭和十六年七月号”とあったのを、前述第七刷月報で、“→ 不明”と訂正されていました。しかるに大谷正雄氏前掲書のp.294に『天性』昭和十六年八月号に伊東の「七月二日・初蝉」を掲載した旨、記述されており、またp.375の『天性』総目次にも記載されているので、この作品の初出もこれで確定しましたね。

1319青木 由弥子:2016/08/15(月) 17:20:42
山本 皓造さま
立秋を過ぎて、朝方、夕方の風には秋の風情が伴うようになりました。
昨日は実家に父の墓参に行き、今日はなんとなく一日まったり過ごしておりましたが…

平成元年の「月報」に関しては存じませず・・・ご教示ありがとうございました。
「七月二日・初?」の初出は「コギト」で、「天性」にも掲載されたもの、とばかり思っておりました・・・大谷正雄さんの御著書295ページに(私も取り寄せてしまいました!)〈「初?」と云う詩を「コギト」に発表しているようだが、それは何うでもいい〉とあって・・・その書き方がいかにもあの時代に生きた人の感じだなあ、と思いながら読んでおります。288ページの発禁のくだりも、当時のVTRを見ているようで「おおお!」と思いました。
8月20日発行予定の詩誌『千年樹』に『春のいそぎ』初出一覧表、なんていうものを作って載せた原稿を送付したばかりでして・・・「コギト」を確認して、初出が「天性」ならば、訂正しないといけないですね。もう間に合わないでしょうから、次号の原稿送付までに調べておきます。
〇号、という数字と〇月、が合っている時とずれている時が多々あって、メモや一覧表などを見ていると混乱してしまいます。読んでいる時には何げなく過ぎてしまうことも、書くとなると一つ一つが小石のようにつまずく原因になったりする・・・気をつけないといけないなあ、と思います。
「てんとうふ」は「点灯夫」の意味のようですね。ガス灯の時代、最先端の職業だったのかもしれないなあ、などなど・・・。明りが少しずつ灯って、道が明るんでいくのが楽しいです。

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1320山本 皓造:2016/08/26(金) 21:27:50
大谷正雄氏の仕事
 『萩原朔太郎 晩年の光芒 ―大谷正雄詩的自伝―』をようやく読み終わりました。愚痴は言うまいと心に決めるのですが、読書のスピードが衰えたのには、ほんとうに情けなくなります。

 萩原朔太郎の、誰も知らない、大谷氏でなければ書き得ない、濃密な、人間くさい交情は、たいへん楽しく読ませてくれました。
 大谷氏の言葉は、鋭く、しかし温かく、気持ちよく読めます。「海戦想望」について、「……それは伊東さんの肯定精神からである。伊東さんという人は時代に便乗しない人であった。ただ肯定した人なのである」という見方、朔太郎と静雄を並べて「むき出しの神経で世間に対処していた朔太郎とはだかの神経の伊東静雄には共通点があったのだろう」という見方、これらは、即座に受け入れるのではなしに、一度じっくりと考えてみることを迫り、その果てに、もし肯定できるなら、深い認識を得ることができるだろう、と感じさせます。昭和17年8月、「妻子をつれて十年振りに帰郷、彼らに始めて私の故郷を見せ」た、その詩「なれとわれ」を、私は今までなんだかのんきな気持ちで読んでいましたが、この「十年」の、長さと重さを、大谷氏の文章から突きつけられるようにして感じ取って、胸を衝かれました。
 改めて、小川和佑『論考』や小高根『生涯運命』をパラパラとめくってみたのですが、大谷氏や『天性』に関連するき記述は、密度が薄く、表面的、ある場所では感情的に軽視、蔑視(言い過ぎ?)とさえ感じられます。他の伊東評伝も捜してみましょう。
 本書に収められた「天性誌の中の伊東静雄」と「伊東静雄書簡集」は大変有益でした。ただしいくらかの疑問を生じました。ごく簡略に言うと、「伊東静雄書簡集」の「凡例」にある「一〜十の十通は大谷正雄により本書収録の「天性誌の中の伊東静雄」の中に引用されているものであり、十一〜十六は本書において始めて公表されるものである」という記述と(「天性誌の中の伊東静雄」は昭和56年「火山地帯」連載)、人文書院刊『伊東静雄全集』(昭和36年2月刊)および『増補改訂』『定本』にはすでに16通の大谷正雄/つゆ子宛書簡が収録されていることとが、合わない。

 本書について、別の話題です。伊東は『天性』第8号に「羨望」という詩を載せています。小高根『生涯運命』によると、この剣道二段の受験生は「三好隆」氏であると、伊東が庄野潤三に教えた由。この三好氏は住中15期卒業で、「「羨望」の思い出」という回想文を『果樹園』第102号に載せています。いい文章ですので、貼りつけます。テキストにしようと思ったのですが、しんどいので、画像で間に合わせました。読みにくくてすみません。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001455.jpg

1321Morgen:2016/08/27(土) 23:04:19
「慰問」に添える 梅花一枝たらん
こんばんは。
「『天性』に関連する(小川氏や小高根氏の)記述は、密度が薄く、表面的、ある場所では感情的に軽視、蔑視(言い過ぎ?)とさえ感じられます。」という山本様のご指摘に、私も同感です。
 因みに、同時代のことを庄野潤三氏が、『前途』や「私の履歴書」(『野菜讃歌』に収録)の中で細かく描写されていたのを思い出して、再読してみました。

 大谷正雄氏や庄野氏の書かれたものを読むと、昭和15年〜18年という戦雲急になりゆく中で、「学徒出陣」「応召」という宿命のもとにある青年たちがつくる個人詩誌に対して、伊東静雄は力を込めて応援し、丁寧に指導していることが読み取れます。

 庄野氏も「僕たちの雑誌が、いま、北や南に遠征している多くの友達への慰問文として送れるような雑誌になったらよい。」(『前途』83頁)と書いておられます。
(『春のいそぎ』の「那智」は、庄野氏が準備していた雑誌『望前』に掲載され、初出となる予定であったが、『望前』の発行は中止され、原稿は伊東静雄に返却された。『前途』156頁
桜岡孝次氏の詩集『東望』については『詩人その生涯と運命』638〜9頁に記載があります。)

 そんな当時の情勢から推測すると、詩集『春のいそぎ』も、「梅花一枝」として、出陣中の教え子たちや友人への慰問の便りと一緒に送られたのだろうと思います。「せめては梅花一枝でありたいねがひは、蓋し今日我が國すべての詩人の祈念ではなからうか。」(『春のいそぎ』自序から)

  義父の歌集『戒馬』も戦友たちへ送られ、(私が保管している)義父への郵便物の中にも、歌集を送られたことに対する礼状が、中支からの「軍事郵便」で来ています。

 我が家では、家族総出で沢山の芋飴(長崎弁では「はっちゃんのんき」という)を作り、戦地への慰問袋に入れて送ったそうです。戦後、帰還された父の戦友さんから、それがとてもありがたかったという話を聞きました。

1322Morgen:2016/08/29(月) 10:13:36
一部修正しました。
 お早うございます。大阪は久しぶりに雨が降っており、傘をさしての通勤となりました。

 先日の投稿(自宅で書いた)で、「慰問袋」に詩集や歌集を容れて戦地へ送ったと言う趣旨のことを書きましたが、会社に来て調べたら、これは私の勘違いでした。「慰問袋」は、誰の慰問袋が、どの兵隊さんに行くのかは判らないようにしたもの(送り主の住所、氏名などは書いてある)だそうで、中にはちり紙や手拭い、石鹸、シャツや腹巻き、缶詰、赤チンなどの薬品、写真や自分で描いた絵、近所の神社でもらってきたお守り札などが容れられていたそうです。(庄野氏の『前途』にも、「慰問袋」作りの模様が書かれていました。)

 従って、詩集や歌集を容れて戦地へ送ったのは、「慰問袋」ではなくて慰問のための郵便・小包だったろうと思います。(とりあえず修正しておきます。)
 当時の伊東静雄にとっては、「詩的な美しさ」よりも戦場で日夜苦闘している教え子や友人たちの悲哀に対する思いやりの情が優先していたにちがいありません。『春のいそぎ』において、せめて戦地への慰問文に添えて送る「梅花一枝」として、「詩集」または一篇の詩を送りたい(「梅花一枝」となって戦地へ赴きたいとも読める。)という気持が強かったことが分かります。
自らは弾丸の飛んでこないところに身をおいて、青年たちの戦意高揚を煽動するような所謂「時局便乗」詩でないことは、『春のいそぎ』やその頃に作られた静雄詩を読めば、詩の内容そのものが自ずから証明しています。(少しクドクなってしまいました。)
 ・・・・・
 われら皆共にわらえば
 わが友の眉羞ぢらひて
 うたひ出るふる歌ひとつ
 「ますらをの
 屍草むす荒野らに
 咲きこそ匂へ
 やまとなでしこ」
 ・・・・・
 (『まほろば』昭和19年3月号 拾遺詩篇「うたげ」から。)

1323青木 由弥子:2016/08/30(火) 17:05:01
山本 皓造さま Morgenさま
あっという間に夏が過ぎ、行きつ戻りつ、の異常台風も過ぎ・・・
蝉と虫の声とが重なりあって聞こえてきます。
落蝉に手を触れた途端、ゼンマイが急に弾けるように震え始めて、どきりとしたことがありました。
もう命のないもの、と思って触れた時の、発作的な生の痙攣、のような・・・あの時の感覚を詩に書きたいのですが、どうにもうまくいきません。

「三好隆」さんの文章、ありがとうございました。小川さんの『伊東静雄論考』に「伊東静雄と三島由紀夫」の1項があり、そこに三島(平岡)少年の最後の詩、「夜の蝉」が引用されているのですが・・・この詩が掲載された「学習院輔仁会雑誌」の昭和18年の169号は、冒頭に大伴家持の「丈夫は名をし立つべし後の代に聞きつぐ人も語りつぐがね」などを置き、「出陣学生諸子を送り在学生諸氏に告ぐ」という野村行一の文章から始まります。(野村氏は、たぶん当時は学習院高等科の教授だったと思います)紙の統制などで発行間隔が開いていた輔仁会雑誌は、この号で休刊となるのですが、三島はそのことも意識しつつ、これで最後、と思いながら、この詩を掲載したのだと思います。
蝉・・・静雄の「前生」という言葉が前から気になっているのですが・・・仏教の信仰篤かったという静雄の母の影響もあるのかもしれません。
蝉は、地中から蘇るように現れて、ひと夏を鳴ききり、またすぐに死んでいく。お盆の時期に盛んに鳴く、ということもありますし、再来した死者の声のような気がするもの、なのではなかろうか、という・・・。
『春のいそぎ』は、前半に「戦争詩」が収められていますが、私もまた、人々とともに歌うことが許された、というような、詩人としての控えめな悦び、詩人の務めを果たせる、という安堵のようなものを強く感じます。
後半に、家族との思い出や、子供への想いを置いたということ・・・出征する友人に、この『春のいそぎ』を贈ったりもした、ということ・・・私もまた、日本の皆と共に、君の無事を祈っているよ、という思いが前半であり、後半は、戦場にあっても、日本の風流や雅を愛する心を忘れないでくれ、家族への想いを忘れないでくれ、という願いが込められているように感じます。

戦勝してほしい、と望みはしても、その為に命を捨てよ、犠牲になってこい、雄々しく名を立てよ、と煽ることはなかった、家族のことを忘れるなよ、日本の(やさしい)心や情緒を忘れるなよ、と呼びかける詩集だったように思うのですが・・・それを、うまく、言えるかどうか・・・課題山積!です。

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1324Morgen:2016/09/02(金) 00:06:19
『うた日記』~『陣中の竪琴』~「戦争詩」
 こんばんは。
 去年の秋〜冬は、月に3〜4日は東京出張をしていて、時間を作っては、森鷗外記念館や田端文士村を数回訪れて、資料を閲覧しました。

 弁当箱のような形をした森鷗外『うた日記』〜佐藤春夫『陣中の竪琴』〜伊東静雄「戦争詩」という流れを辿ってみようという秘かな思いもあったのですが、それ以降進んでいないことに気が付きました。(この掲示板に去年の10月に2回投稿していますが、本題にまでは迫ってはいません。10/6 同12)

 庄野潤三『前途』には、伊東静雄が『うた日記』の詩を朗詠する場面が書かれています。何回も『うた日記』を読みこなしていたんでしょうね。私も、それらをもう一回読んでみて、『うた日記』〜『陣中の竪琴』〜「戦争詩」という流れにチャレンジしてみるつもりです。(しかし良い知恵だ湧いてくるかどうか?)

 今は、古本屋で見つけた森まゆみ『彰義隊遺聞』と半藤一利『幕末史』を読み終わり、森まゆみ『千駄木の漱石』を読んでいます。立場が異なれば色々な見方があることに感銘しました。
 私も、色々な考えに触れて、老化に抗って脳みそを柔軟に保っていきたいものだと、ささやかに頑張ってみるつもりです。色々と新しい情報をお待ちしております。
 *アマゾンで、瀬尾 育生著『戦争詩論』2006/7/19を取り寄せ中で、明日の朝配達される予定です。

1325Morgen:2016/09/04(日) 23:59:21
「敗北の暗示」
 瀬尾育生『戦争詩論』1910−1945が配達されましたので、早速ページをペラペラとめくってみました。
 同書p267〜273、「補論3 敗北の暗示」という項目の中で、「戦時下のごく早い時期に、敗戦への予感を匿された主題として書かれた詩の例」として、伊東静雄「夏の終」があげられています。著者は、「夏の終」は1942年9月に書かれたという前提のもとにこのような解釈をされたのでしょうが、それが1941年8月だとしても同じ解釈が成り立つかどうかは、瀬尾氏に訊いてみる必要がありそうです。

 私はむしろ、秘められた「暗示」があるとすれば、1942年12月「述懐」の方ではないかという感じもします。(確たる根拠はありませんが…)

「大詔」から1年経ち、
・・・・・
戦ひの時の移りに
などてせむ一喜一憂
・・・・・
堪へよとや
乏しきに堪ふる戦は
夷らが童だに知る
・・・・・
と、草陰の名無し詩人が、子と妻に言ったという内容です。

 これだけを読むとどうということもないのですが、「大詔」の文章の単純明快さと較べてどこか口ごもっているような感じがあります。

 瀬尾氏は次のように書かれています。「1942年6月にはミッドウェー海戦の敗北があった。・・・やがて補給路を断たれて大半の兵士たちが闘わずして餓死・病死する。最終的には2万人近くの死者を出して、翌年2月に撤収することになった。1942年9月は、もっとも敏感な詩人たちにとって日本の敗戦がはじめてリアルな予感となってあらわれた<<夏の終>>であった。

 しかし、戦争詩を書いた当時の伊東静雄についてよく知っておられる吉田正勝氏の「伊東の戦争詩は、寧ろ彼の資質の純粋性の証しと考えている。」という意見に関する文章(富士正晴編『伊東静雄研究』355頁〜)などを見ると、伊東静雄が言葉や文章にそんなことを表明するはずはなく、寧ろ「肩をおとしてボソボソと歩かれる緩慢な身のこなしなど、はた目にも見紛うべくもなかった。」と吉田正勝氏が書いておられるような、気落ちした態度に敗戦への予感が表れていたのではないでしょうか。

1326青木 由弥子:2016/09/06(火) 15:56:40
Morgen さま
秋の虫が盛んに鳴きだしたのに、まだまだ昼間は「真夏」です・・・。
先日、瀬尾さんにお便りを差し上げましたところ、大変申し訳ない間違いをしてしまった、できるだけ早い段階で修正してほしいとのことでした。瀬尾さんも、伊東静雄を尊重すべき詩人の一人、と考えておられるそうです。
「初蝉」の初出、『千年樹』の方では修正が間に合いませんでした。こちらは次号で・・・。伊東静雄研究会の会報の方は修正済みです。
なんだかバタバタしていまして・・・取り急ぎ、ご報告まで。

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1327Morgen:2016/09/08(木) 11:52:17
「夏の終」較べ(改)
青木様。お忙しいところを瀬尾氏にお便りいただきありがとうございました。

瀬尾育生『戦争詩論1910−1945』からは、「戦争詩・国民詩・愛国詩の用語法」についてご教示を受けました。

それでは、昭和15年〜昭和17年という3年間の<<夏の終>>は、どういう違いがあったのでしょうか。当時の出来事をまとめて見ます。

*昭和15年夏の出来事
ヨーロッパでは、前年9月から第二次世界大戦が勃発して、その戦火はますます拡大していた。日本では、これに便乗して(日独伊三国軍事同盟加盟)勢力拡大を図ろうとする陸軍や松岡洋右のような政治家と、日中戦争からの足抜きや日米関係改善を優先する海軍や政治家(米内)などが争っていた。
7月には、陸軍のごり押しで、米内内閣は総辞職し、アメリカが最も嫌う松岡洋右を外相とする第2時近衛内閣が成立した。
同月、「大東亜の新秩序」「南方への進出」などの内閣方針が決定され、議会政治が実質崩壊し、北部仏印進駐、日独伊三国軍事同盟成立などの日本の運命を揺るがす大事件が矢つぎ早に起こっている。

このような大波や大風をはらむ苛酷な時の流れは、庶民としては抗うことの不可能な、そのうねりに身を任せて生きていくことを余儀なくさせるもの(心はそうあるよりほかがなかった)であった。詩人は「疲れてゐるわけではなかった」が、詩人の目にはその虚脱感、放心状態から、「壮大なもの(世界)が徐かに傾いてゐる。」ように見えた。

*昭和16年夏の出来事
7月29日、日本軍、南部仏印に進駐。アメリカは、直ちに在米日本資産の凍結、石油全面禁輸措置を取る。(駐米野村日本大使への無線通信が全て米軍に解読されていたために迅速な措置が執られた。これにより対日経済封鎖網が完成された。ルーズベルトが出した助け舟にも日本側は対応できず、自ら設定した10月の期限を徒過し軍部は一直線に日米開戦準備へ進んだ。)…<戦時下での日本の石油備蓄量は1年半分…戦争の限界は18年夏まで!>
この「開戦なき戦時体制」を、日本のマスコミは、「ABCD包囲網」と名づけ、こぞって反米英キャンペーンを展開した。9月6日の御前会議で、(10月半ばまでに交渉不成立の場合は「米英線を辞せず」という)開戦の内意が決められて以降、軍部は具体的な開戦準備や部隊の移動を開始した。(それらの戦時体制の強化によって強烈な反米英敵愾心が国民の間に醸成されたことが、12月8日のの宣戦布告を“清々しく”感じさせたともいえる。)
天皇は、「軍部は、やけっぱちの戦争をしようというのか?」と、軍幹部に対する不満を側近の木戸に漏らされたそうで、“清々しい”などという感情は毛頭なかったに違いない。(『1941 決意なき開戦』堀田江理 2016/6 人文書院)

近衛内閣から東条内閣にバトンタッチされるとともに、世界的な日本封鎖網にまともな判断力を喪失した日本が、地球上から自分の国家が消えて無くなる程の重大な危険をも省みずに「やけっぱちの戦争」「勝算のないワンチャンスの賭け」「集団自殺の道」に踏み出したのが、昭和16年夏の重大事件であった。(松岡洋右、山本五十六は、何よりも賭けが大好きな人間であった。)

9月5日、天皇と杉山 元陸軍参謀総長との会話。(御前会議での拝謁上奏)
天皇「アメリカとの戦争となったならば、陸軍としては、どのくらいの期間で片付ける確信があるのか。」
杉山「南方方面だけは三ヶ月くらいで片づけるつもりであります。」
天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は一ヶ月くらいにて片づくと申したが、四ヵ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか。」
杉山「支那は奥地が広いものですから。」
天皇「ナニ、支那の奥地が広いと言うなら太平洋はもっと広いではないか。いかなる確信あって三ヶ月と申すか。」
杉山総長はただ頭を垂れたままであったという。(『文芸春秋』平成19/4「昭和天皇戦時下の肉声」から)

*昭和17年夏の出来事
1942年6月7日、日本海軍による「窮余の一策」ミッドウェー環礁(北太平洋)攻撃は大失敗となり、日本海軍は主力空母4隻はじめ航空機や操縦士に大きな損害を受けた。
さらに、8月7日には、米軍がソロモン諸島ガダルカナル島(南太平洋)に上陸し、米軍の大反攻が開始された。

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1328龍田豊秋:2016/09/09(金) 11:14:29
ご報告
暑くて長かった夏もようやく終わりが見え、秋の気配がそこここに感じられるようになりました。

 「夏と秋とゆきかふ空のかよひぢはかたへすずしき風や吹くらむ」
                           『凡河内躬恒』

本日の長崎新聞に、第16回伊東静雄賞を受賞された彦坂まりさんの文章が掲載されています。
   ??????タイトルは、『上村肇没後10年「海鳥忌」によせて』

8月27日午後2時から,諫早図書館に於いて第104回例会を開催した。
出席者は、7名。

今回は、『孔雀の悲しみ 動物園にて』『夏の嘆き』『疾駆』の3篇を読み解いた。

会報は第98号。
内容は次のとおり。

1 文学のおもしろさ                 桑原 武夫

  ????????????????????『文学入門』第一章 「なぜ文学は人生に必要か」

2 縁      ?? ????????????????????????????????藤山 増昭

????????????????2016年8月 詩誌『子午線』120号記念特集号より転載


3 詩 「菜の花忌によせる」?????????????????????????? 原 子朗

??????????????????????????昭和47年4月 『河』12号

4??戦争の伝承~心と言葉がつなぐ重み?????????????????? 上村 紀元

????諫早の先人   前山 五竜   川柳
????????????????????市川 青火   俳句
????????????????????内田 冬至??????俳句
????????????????????草野??源一郎  短歌
????????????????????山田 かん??????詩   「片づける」
????????????????????上村 肇????????詩??????「蝉の季節」
????????????????????野呂 邦暢   作家????「失われた兵士たち」


5 はがき随筆 「別れ」 ??????????????????????????????龍田 豊秋

 ????????????????????????     毎日新聞長崎県版 7月20日掲載

????????????????????????????????????????????????????????????????以上

次回例会は、9月24日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。

1329山本 皓造:2016/09/19(月) 18:13:54
ごぶさたしてしまいました
 いま、ふたつの仕事を背負い込んでいます。ひとつは、元教師仲間でやっている雑談会のようなところで、10月に、参集者に「折口信夫原作・川本喜八郎監督、人形劇アニメ『死者の書』」というDVDを見てもらって、私が話をする、という催し。もうひとつは、大学のゼミのOB会で今まで雑文集のような冊子を二、三年に一度出していたのを、電子媒体利用でやれないだろうか、ということになって、そのための「委員」の一人をやらされて、teacup の無料掲示板の経験を話したりしています。そんなことで、目下の読書は折口信夫の全集や関連文献が中心で、あとひと月続くことになります。

 探していた室生犀星『我が愛する詩人の伝記』がみつからないので、注文して取り寄せ、先日読了しました。この夏、富岡多恵子『室生犀星』を読みました。春に『釈迢空ノート』を再読し、初読時と同じように瞠目したのですが、『室生犀星』にも感銘を受けました。この人はすごい人です。(私と同い年です。)

 暑い最中に「PO」の同人、佐古祐二さんの『評論集 抒情の岸辺』を読んでいるとき、偶然というのでしょうか、佐古さんから近著『詩集 丈高いカンナの花よ』を贈っていただきました。中に、書評として「柴田三吉詩集『さかさの木』」という文があり、「戦争詩への熱意」と副題されています。引用された一篇「戦争」の書き出し、「防毒マスクをつけたまま/ひと、を産み終えたあなた」これをも「戦争詩」として、「戦意昂揚詩」や「反戦詩」と共に、統一的に考える視点が欲しいと思います。大谷正雄さんが伊東静雄の「海戦想望」について論じておられた部分が、良いと思いました。佐古さんの『赤いカンナ』の中では、「ある一つのシュールな暗喩――ファシズムの育て方について」という作品が異色と思いました。詩は認識だ、というのは今挙げたどなたかがどこかで云っておられたのですが……。

 とはいえ、佐古さんはまた、「病」や「性」に関する壮絶な情念(?)の歌い手でもあります。またたとえば、「食卓の赤い林檎」に出て来る未来、過去、悔恨、希望などの語句や、「蝋燭」という作品は伊東を想起させますし、「丈高いカンナ」の「記憶」は、立原の「追憶」と並べて何か云いたくなります。それらを含めて長い引用を、ここではできません。

1330Morgen:2016/09/23(金) 15:54:15
家島諸島巡り
 こんにちは。上村さん。『伊東静雄研究会』のレジュメをお贈りいただきありがとうございました。

 一昨日(9月21日)、百合子さん宛伊東静雄の下記手紙に書かれている「家島」に行ってきました。某旅行会社の、チャーター船による「家島諸島巡りツアー」に申し込みをしていたのがやっと実施されたのです。(3度目の正直)

 「・・・私の詩はいろんな事実をかくして書いてをりますので、他人はよみにくいと存じますが、百合子さんはよみにくくない筈です。あなたにもわからなかったら、もう私の詩もおしまひです。家島のことや姫路のことや本明川のことがどっさり歌ってあるはずです。・・・」(昭和10年11月2日 百合子宛封書)

 『詩人、その生涯と運命』(小高根二郎)によれば、百合子・静雄の共有する播磨灘や家島の記憶が「H島に寄す」〜「漂泊−A・Tに−」を生み、伊東静雄は小高根氏のアパートで原稿用紙にこの詩をしたためて朗吟し、小高根氏は「1935年6月16日わが部屋にて歌ふなり。」とその末尾にメモしておいたそうです。(同書 281~289頁)

 家島諸島とは、姫路飾磨港から約30分(18キロ)程の洋上に浮かぶ44島をいい、一昨日はそのうち家島、坊勢島(ぼうぜじま)、男鹿島(たんがじま)、西島の4島を船で巡り、約40名の団体で島に上陸して散策しました。(最高齢92歳!超お元気!)
 家島の小高い山の上にある「家島神社」、坊勢島の漁師集落(兵庫県一番の漁獲高で、今なお人口上昇中という)などの島の佇まい(狭く入り組んだ路地)や歴史の話などが印象に残りました。前日に通過した台風16号のために、船は港内に係留されたまま漁はお休みで、坊勢島の魚屋さんも閉まっており、期待していた鮮魚の土産は買えませんでした。

 「H島に寄す」で「島人は櫂音高く 入海の奥の岩間に うち群れて清水汲む小舟すすめぬ」と歌われている岩間は何所の辺りか? ということが前から気になっていたのです。(随分昔に島の観光案内所に電話で訊ねてみましたが)真清水は枯れてしまったようだというお応えでした。 昔は、島には水源が少なく、とても貴重な真清水だったに違いありません。現在は姫路市営水道管が播磨灘海底に敷設されていて水問題は解決されて、岩間の真清水は、島人の記憶から薄れてしまったのかもしれません。

 「・・・ああ 黙想の後の歌はあらじ/われこの魍魅の白き穂波蹈み/新月におほ海の面渉ると/かの味気なき微笑の人を呼ばむ」(『日本浪曼派』昭和10年7月号)から、「H島に寄す」〜「漂白−A・Tに−」の間(数日間)に詩人にどんな変化が起こったのか?
それは、「姫路から百合子さんが來版されたこと」によるのではと、小高根氏は推測されています。(納得!)因みに、ガイドさんの話によると、家島諸島には犬しか棲まない島と、猫しか棲まない島があるそうです。(44島のうち41島が無人島)

 「漂泊」

底深き海藻のなほ 日光に震ひ
その葉とくるごとく
おのづと目あき
見知られぬ入海にわれ浮くとさとりぬ
あゝ 幾歳を経たりけむ 水門の彼方
高まり 沈む波の揺籃
懼れと倨傲とぞ永く
その歌もてわれを眠らしめし(*)
われは見ず
この御空の青に堪へたる鳥を
魚族追ふ雲母岩の光……
め覚めたるわれを遶りて
躊躇ためらはぬ櫂音ひびく
あゝ われ等さまたげられず 遠つ人!
島びとが群れ漕ぐ舟ぞ
――いま 入海の奥の岩間は
孤独者の潔き水浴に真清水を噴く――
と告げたる


 「H島に寄す」

・・・・・・・(*)
島人は櫂音高く 入海の奥の岩間に
 うち群れて清水汲む小舟すゝめぬ
あゝ われらあまりに遠ければ
 またわれらをさまたぐるものはなし
木葉舞う柏の梢に いざ
 わがひとを招ぜばや
目に見えぬ野犬の群れの島にみち
 長吠きしやまぬ諸声を
いま誰かはひとつひとつにわかち得む

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001466M.jpg

1331吉田伸太郎:2016/09/30(金) 21:53:59
「きらクラ」
NHK FM で日曜午後2時から放送の「きらクラ」。クラシック初心者にも楽しめる番組です。この番組のコーナーの一つに「BGM選手権」というのがあって、詩や随筆・小説の一部にクラシック音楽のBGMを充てるというのがあって、今度の放送(10月2日)では、伊東静雄の「自然に、充分自然に」が取り上げられています。ご興味ある方は是非お聴き下さい。数年前にも同じコーナーで「夏の終わり」が取り上げられています。ひょっとしたらスタッフの中に伊東静雄ファンがいらっしゃるのかもしれませんね。私はこの番組の大ファンで、このFM放送を聞きたいばかりに、アンテナまで設置しました(^ ^)??翌日の月曜朝に再放送されます。

http://www4.nhk.or.jp/kira/

1332龍田豊秋:2016/10/03(月) 09:55:38
ご報告
9月24日午後2時から,諫早図書館に於いて第105回例会を開催した。
出席者は、8名。

今回は、『早春』『金星』『そんなに凝視めるな』の3篇を読み解いた。

会報は第99号。
内容は次のとおり。

1 伊東静雄ノート(4)                青木 由弥子


2 詩人上村肇の作品論?? (三) 慈愛

????「蜜柑」「永別の春」「塒」を読み解く

???????????????????????????????? 日本現代詩人会会員 松尾 静子


3 「羨望」の思い出   ?????????????????????????? 三好  隆

???? 伊東静雄の詩「羨望」に出てくる年少の友人が、三好さんです。

???????????????????????????????? 昭和39年8月 果樹園102号


4??西日本新聞 9月5日掲載 「教えてお宝」諫早の文人素描

????これから、明治以降の諫早の傑物15人が、上村紀元会長の文章により
  紹介されます。

????????????????????????????????????????????????????????????????以上

次回例会は、10月22日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。

1333Morgen:2016/10/08(土) 23:00:50
毎日新聞夕刊(10月7日)
 毎日新聞夕刊(10月7日)の「夕刊ワイド」に、諫早の記事が出ています。

 長崎県諫早市(野呂邦暢「鳥たちの河口」)失われゆく自然への「挽歌」

 スキャンするには大きすぎますので、毎日新聞デジタル版のリンク先を下に載せておきます。そちらからご覧下さい。

http://mainichi.jp/articles/20161007/ddf/012/040/008000c

1334青木由弥子:2016/10/08(土) 23:41:25
バタバタしております
こんばんは。
関わっている詩誌の締切やら、年鑑号のもろもろやらに追われて、なんとなく気忙しい秋です。読みたい本と読むべき本と、読まねばならない本が山積。
我が家も毎日新聞ですが東京版なので、記事情報ありがたかったです。のどかないい景色ですね。環境の変動と気象異常、鳥たちには受難の時代のようですが・・・『沈黙の春』が二度と訪れないように、人間が物質的欲望から精神的欲望へと気持ちを切り替えていくことを願いたいです。干拓の問題も、最終的には自然のかたちに戻ってほしいなぁ、と思います。

1335龍田豊秋:2016/10/17(月) 11:25:51
野呂文学を読む会
おはようございます。
今日は、蒸し暑い陽気です。
こちらでは、ようやくキンモクセイが開花しました。
先日からヒヨドリの群れが賑やかで、モズの高鳴きは遠慮がちの様です。

10月15日、諫早図書館に於いて定例の「野呂文学を読む会」を開催しました。
たまたま、野呂文学研究家の浅尾節子さんが来諫されていて、諫早図書館で資料
調査の最中でしたので、会に参加して頂き、ディープなお話を聴かせて貰いました。

ラーキーでした。

膨大な資料をお持ちとのことで、リクエストがあれば送りますよ、と言って下さいました。

????????????????????????????????????????????????????????????????以上

1336上村 紀元:2016/11/01(火) 09:50:35
伊藤桂一先生 逝去
元伊東静雄賞選者の伊藤桂一先生が逝去されました。本賞創設以来、現代詩の振興に多大なご貢献を賜りました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

1337青木 由弥子:2016/11/01(火) 14:01:02
ご冥福をお祈りいたします
昨日、伊藤桂一様のご逝去のことを伺いました。
99歳・・・100歳まではと、エッセイなどに書いておられたのに・・・。
ブログに、少し前に書いたものですが『竹の思想』の感想文をアップしました。
いつまでも、想いを、美しい言葉を、伝えていきたいと思います。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1338龍田豊秋:2016/11/08(火) 11:13:27
ご報告
10月23日午後2時から,諫早図書館に於いて第106回例会を開催した。

今回は、『詩集 春のいそぎ自序』『わがうたさえや』『かの旅』『那智』『久住の歌』『秋の海』を読み解いた。

会報は第100号。内容は次のとおり。

1 伊東静雄の世界??????????????????????????????????????大井 康暢
???????????????????????????????????? 昭和56年10月 「岩礁」39号

2 詩集 春のいそぎ自序????????????????????????????????伊東 静雄

 ?????????????????????????????????? 昭和18年4月
????詩 「わがうたさへや」


3 詩 「蝙蝠傘の詩」????????????????????????????????????黒田 三郎

????詩 「紙風船」
           ????????     詩誌「荒地」創刊に参加

4??詩 「夢の場所」?????????????????????????????????????? 彦坂 まり

???????????????????????????????????? 2016.9 ERA 第三次7号


5 上村肇の作品論 (四) 闇?????????? 日本現代詩人会員 松尾 静子

????詩 「夜の貌」
????詩  「夜の章」
????詩?? 「雪」

6 伊東静雄研究会に思うこと???????????????????????????? 富永 健司

????????????~会報100号を祝して~


7??はがき随筆 「私は雲の上に」 ?????????????????????? 龍田 豊秋

 ????????????????????????     毎日新聞長崎県版 9月19日掲載

以上

次回例会は、11月26日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。

1339伊東静雄研究会:2016/11/10(木) 20:03:31
菜の花フォーラム ご案内
伊東静雄・生誕110年記念   第11回 菜の花フォーラム ご案内

日時:平成28年12月10日(土)午後1時〜
場所:諫早図書館 2階 視聴覚ホール

〇 講演:詩との出会い〜ことばの力  講師 二羽史裕氏(活水女子大学講師)

〇 歌曲:伊東静雄の詩を歌う 燕・小曲・他  諫早男声合唱団の皆さん

〇 ビデオ上映:わが故郷の詩〜諫早〜 企画 諫早市・製作(株)イワプロ

〇 フリートーク: 参加者の皆さんのご意見交換  郷土の文学について その他ご自由に

  お気軽にご参加ください。申込み不要です。  お問合せ 090−3739−5717(上村)

                      伊東静雄研究会

1340山本 皓造:2016/11/22(火) 17:38:21
ごぶさた その2
久しく音沙汰なしで申しわけありません。
無様なことに、またもや転んでしまいました。夜、ゴミ出しに裏の石段を下りて、最後の段を踏みはずして転倒、膝蓋骨折、つまりひざの「お皿」にヒビがはいって、救急外来へ、以後3週間入院してこのほどようやく退院してきました。
入院中は掲示板も見られず、淋しい思いをしました。前にちょっと書いた、折口信夫『死者の書』の話の務めは果たし、その余韻で、ベッドの上で「折口信夫全集」1冊を、目をしょぼしょぼさせながら読み終わりました。それから横光利一『旅愁』上下。思うに、両人とも日本浪曼派に無縁ではなく、まだ「伊東の幽霊」がつきまとっているようです。
屋内でも歩行器を使って歩いている状態で、思うように動けません。ノートパソコンを2Fの書斎から階下へ移してもらったので、掲示板は見ることができます。またそのうち投稿を再開したいと思います。
知らぬ間にすっかり秋から冬になりました。皆様どうかお風邪を召されませぬように。

1341Morgen:2016/11/24(木) 00:23:55
お大事に・・・
 山本様。膝蓋骨折で3週間もご入院されたとのこと、お見舞い申し上げます。

 私は、公私とも相変わらず身辺多忙でバタバタしておりますが、体力を現状維持するために、年甲斐もなく「淀の河邉サイクリング」は続けております。目下のところ、できるだけ長続きさせる方法として「臀筋ぺダリング」を練習しております。歩く時も、できるだけおしりの筋肉を意識して使うようにし、太腿やハムストリングを脱力して(膝関節に頼らないで)、臀筋を強くする筋トレドリルに心掛けています。

 今日(11/23)は、家内に誘われて電車で京都の紅葉を見に行きました。黒谷(写真上)や真如堂(写真下)など東山方面の紅葉はちょうど最盛期を迎えており、少し歩いて空腹だったおかげもあり「六盛」の弁当もおいしくいただきました。

 どうぞお体を大事にされ、リハビリに励まれて、一日も早く自力歩行力を回復されるように祈っています。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001477.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001477_2.jpg

http://

1342青木 由弥子:2016/11/24(木) 18:12:52
お大事になさってください
膝を傷められたとのこと、お大事になさってください。
私も(そそっかしいので)肋骨を折ったり足の親指の爪をはがしたり・・・親指の時はともかく、足の甲の骨を折った時には、歩けるようになってからも、かなり筋力に差があったように思います・・・。
冷えると痛みが増すかもしれません、どうぞ暖かくして、腰や肩などほぐしながらお過ごしください。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1343伊東静雄顕彰委員会:2016/11/29(火) 09:45:43
第27回 伊東静雄賞
第27回 伊東静雄賞は、国内外から1337篇の現代詩が寄せられ、選考の結果下記の通り決定しました。

伊東静雄賞  該当作品なし

奨励賞2篇  ガッコの先生   渡会 克男氏 千葉県柏市在住
       雪の葬列     宮 せつ湖氏 滋賀県大津市在

       賞状並びに副賞各25万円

贈呈式    平成29年3月26日 諫早観光ホテル道具屋

                          伊東静雄顕彰委員会

       

1344山本 皓造:2016/11/29(火) 14:33:58
石原吉郎――終末について
岩波現代文庫の『石原吉郎セレクション』を読み終りました。シベリア抑留体験者としてのこの人の名前は諸書で何度か目にしたことがありますが、その文章を読んだのははじめてでした。本稿はただひとつのことを誌します。およそ3/4ほど読んだところで私は、ヨハネ黙示録からの「第七の封印を解き給ひたれば、凡そ半刻のあひだ天静なりき」という引用に出会って、ガンと胸を打たれたように思いました。私は前から黙示録の騒々しさがいやで、終末はもっと穏かで静かなものであろう、そうであってほしい、と思っていました。昔(ずいぶん昔)「終末//静かに暮れてゆく/喇叭の音など聞えない」という短詩を書いたことがありました。この掲示板にかつて投稿した、開高健の詩碑についての文章の末尾につけた「北田辺」という題の詩のようなものも、私の予想と願望としての終末の穏かさと静かさを託したつもりでした。世界は今、すでにこの「半刻」に入っているのではないでしょうか。世界のこの静けさ(イロニーとして)はその証ではないでしょうか。そうしてこの半刻が過ぎ去ったあと、阿鼻叫喚が再びはじまるのではなく、そのまま不意に、まるで鋭い刃物で断ち切ったように、世界はスパッと終るのではないでしょうか。私の終末も、穏かで静かであってほしい。しかしどうしても喇叭が鳴るのなら、それはもう仕方がない。(上は私の勝手な妄想で、石原吉郎とは何の関係もありません。石原は「待つことがおそらくはそのまま生きることではないか」と言っています。)

1345Morgen:2016/11/30(水) 01:12:04
「百千の草葉もみぢし・・・・・」
人影少なく、一面に黄葉する草木に囲まれた「淀の河邉」のサイクリングロードで、黙々とロードバイクのペダルをこいでいると、伊東静雄の「百千の草葉もみぢし・・・・・」という詩が脳裏に浮かんできます。(去年も同じことを書きましたが…)

 百千の草葉もみぢし
 野の勁き琴は鳴り出ず
 ・・・・・・・・・・

 詩人は、なぜ「自然の調べ」を「琴は鳴り出ず」と琴に譬えているのでしょうか?私は、良寛和尚の詩に出てくる「没絃琴(もつげんきん)」(絃のない琴)を連想しました。

 静夜草庵裏
 独奏没絃琴
 ・・・・・

 この詩を読んでみると、良寛さんは、実際は「没絃琴」を奏しているのではなく、「自然の調べ」を、「心の裡」で琴の音を聞くように聴いているのです。
「その調べは、流れる水に融けて奥深く、深い谷に満ち溢れ、山林に響きわたっているが、その微妙な音色は耳の聞こえない人でなければ聞き分けられない。(無心の人の心には直接に聞こえるもので、“不立文字”のように達磨禅の境地。)」と、良寛さんは言っているようです。

 詩人には、もみぢする百千の草葉中から鳴り出ずる「自然の調べ(琴の音)」が聴こえ、「百千の」という新しい「詩が生まれた」。
 そして『哀歌』のころの激した心は、秋の太陽に照らされて「あまく醸されて」いると、「百千の」では唱っているように思われます。

 「われ秋の太陽に謝す。」―(明後日からはもう冬ですが)元気で頑張りましょう。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001481.jpg

1346青木 由弥子:2016/11/30(水) 16:03:01
天金
山本さま

石原吉郎、黒田喜夫・・・様々な詩誌で一斉に(まるで連携しているように)見直しの機運が高まっているように思います。現代の詩から、抜け落ちてしまったもの、薄まってしまったもの・・・を、もう一度取り戻しに行こう・・・そんな詩人たちの想いが、背後にあるような気がしています。

Morgenさま

百千の・・・の琴、八木重吉の詩への連想が湧くのですが、静雄があの詩を知っていたか、どうか・・・もっと古くから、人々の心の奥に流れ続けていたものに触れている詩ではないか、と思っていたのですが・・・良寛さんも「琴線」を掻き立てるもの・・・詩情を揺さぶるものの源泉を、目に見える自然の、その背後に息づく「なにか」に見ていたのかもしれません。

ところで・・・三橋敏雄の俳句をボーっと流し読みしていたら、「かもめ来よ天金の書をひらくたび」という句に出会いました。昭和12年の作。
静雄の『わがひと〜』かどうかは定かではありませんが、昭和10年刊行の「天金」装の詩集なので、イメージが重なりました。表紙の白鳥のレリーフとカモメのイメージも、重なるような、重ならないような・・・。
当時、どんな本が「天金」だったのか。なぜ、静雄が(保田與重郎が、というべきかもしれませんが)詩集に採用したのか・・・そもそも、よく使われた技法だったのか、珍しい装幀なのか、などなど・・・ささいなことですが、知りたくなりました。

もしご存知の方がいらしたら、教えてください(^^♪

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1347Morgen:2016/12/01(木) 14:54:44
温かい師走の入り・・・
青木さま
 「没絃琴」へのコメントありがとうございます。夜中に急いで書いたので良寛詩を全詩掲載できませんでしたが、大まかな意味は記載の通りです。「詩が生まれるとき」というような文句が浮かんできますね。

 スヴェトラーナ・アレクシェ−ヴィチさんの講演会感想を読みました。
 「困難な時代であるからこそ知識人は一般の人たちを勇気づけ、助けになるべき存在だ」と言う文章をみて、50年も昔のことを懐かしく思いました。ベトナム戦争の頃に、私は(大学院生)『ベトナム戦争に反対する知識人・文化人会議』の事務局(某新聞社ビル内)にいて、そのような趣旨の声明文や報告書の原稿を書いたり、先生方への連絡係をしていたからです。

 山本様、青木様のご投稿に触発されて、『石原吉郎詩文集』を買いました。
 私の父(大正4年生 故人)もほぼ同年代のシベリヤ抑留組ですが、その頃の話をするのを嫌がりました。繰り返して同じシベリアの夢をみてうなされるそうで、それは誰かが殺される夢だったのかもしれませんね。そのような訳で、私も満州やシベリアの本を読むのは少々辛いです。

 温かい師走の入りではありますが、パソコン上のスケヂュールは結構詰まっています。昨日は休みを取って、淀川サイクリング(70キロ)、スポーツジム(2時間)、公園の落葉掃除(1時間余)をしました。柔道の選手のように“まだまだ”という心構えで、この冬を乗り切りたいと思っています。

1348山本 皓造:2016/12/03(土) 12:02:19
石原吉郎――失語について
 申しおくれましたが、上村さん、Morgenさん、青木さんにはお見舞いと励ましのお言葉をいただき、ありがとうございました。二、三日前、スーパーへ買い物に行ったとき、付き添って来た娘に「お父さん、歩くの、だいぶん早やなったね」と云われました。順調に回復しているようです。
 前回は唐突に、石原吉郎に触発されて妄想を開陳し、見苦しいことでした。と云いつつ、性懲りもなく妄想の続きを書きます。

 『石原吉郎セレクション』ではとくに「ことば」についての多くの言及に目を引かれました。

 饒舌のなかに言葉はない/
 言葉は忍耐をもっておのれの内側へささえなければならぬ/
 言葉を失うことと沈黙することとは、まったく次元がことなる/
 詩の一行目は訪れるもの、書きはじめるのは二行目から/
 「いわなければよかった」というのが、たぶん詩の出発ではないか/
 ことばは伝わるのか

 とくに私は、次の言葉から思索の糸を引き出されました。

 言葉がなお余命をたもち、有効であるのは、彼らの過去、かつて人間であった記憶のなかでである。

 私の思いは、「かつて人間であった記憶」というところから不意に、伊東「空の浴槽」の「あゝ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であつたことを知り抜いてさへゐなかつたなら」へと飛びます。石原がシベリア抑留によって人間であることを喪失させられた体験をふまえて「かつて人間であった」と云っているのと伊東の場合とは状況が異なりますが、伊東がある種の「失語」状態にあったことを述べている、ということは云えると思うのです。このときの「失語」とはどういうものか、石原の「失語」と比べて何が云えるか、そして、伊東の「失語」と「詩」との関係はどうなのか――というのは、石原のもう一冊の講談社文芸文庫版『石原吉郎詩文集』の冒頭に、次のような文章を読んだからでした(「詩の定義」)。

(中略)詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。

 今日、栃久美子『狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮社)を読み終わりました。
 島尾マヤさんの失語は、何だったのだろうか。

1349龍田豊秋:2016/12/07(水) 15:49:19
ご連絡
11月19日午後2時から,諫早図書館に於いて第107回例会を開催した。

今回は、『なれとわれ』『送別』『春の雪』『大詔』を読み解いた。

会報は第101号。内容は次のとおり。

1 元伊東静雄賞選者 直木賞作家で詩人 伊東桂一さん死去
????????????????????????????????????????????????????????共同通信配信

2 (天声人語)戦記作家の貫いたもの
???????????????????????????????????????????? 朝日新聞平成28年11月3日

3 伊藤桂一さんのこと??????????????????「河」同人 ????小野 祐尚


4??詩 「水車」  ??????????????????????????????????????伊藤 桂一


5 詩 「川ー諫早にて」????????????????????????????????伊藤 桂一


6 詩 「天体」????????????????????????????????????????伊藤 桂一


7??詩 「旗を焼く」????????????????????????????????????伊藤 桂一


8 二篇の戦争詩─────朔太郎と静雄         中桐 雅夫

                               以上

1350龍田豊秋:2016/12/08(木) 10:02:04
紅葉たけなわ
おはようございます。今朝は冷え込みました。

野呂邦暢の文学碑がある上山公園には、市川一郎の句碑もあります。
伊東静雄は大学生のとき、同志社の学生であった同郷の市川一郎と親交を重ねました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001486.jpg

1351青木由弥子:2016/12/08(木) 18:36:28
ツイッター
ツイッターで流れてきました(笑)
https://twitter.com/yokoushio/status/805438725933015040
野呂さんのエピソードが、朝日新聞の折々の言葉、に掲載されたとのことです。

1352龍田豊秋:2016/12/09(金) 10:50:16
昔日の客
青木由弥子様、「折々のことば」をご紹介下さり有り難うございました。

このコラムは、鷲田清一さんが書いたものですね。
私が、野呂さんの随筆を読んだ記憶に照らすと、ニュアンスが異なります。

"ある日、野呂さんがいつものとおり手持ちのお金が乏しかったので、均一本の値切りを例によってお願いした。

通常は、野呂さんの願いに応じてくれる店主が、その日はたまたま腹の虫の居所が悪かったのか、激怒して断られた。

諫早に帰ることになり最後に、前から欲しかった高価な本を買うことにして、値札どおりのお金を差し出した。
そして、帰郷することを店主に告げると、店主は黙って値引いてくれた。"

以上が、私の理解です。
関口良雄さんは、値切りを嫌ったいう訳ではないのです。

1353山本 皓造:2016/12/19(月) 11:35:29
石原吉郎と立原道造
  ** Morgenさんのお父上がやはりシベリアからの帰還者であることを知って、どう申し上げてよいか、私には言葉がありませんでした。そのような経験をした親を持つ世代というのは、おそらく私たちが最後なのでしょうか。なにしろ、総理大臣がすでに「戦争を知らない」ひとなのですから。

   ---------------------------------------------------

 昨年か一昨年か、立原道造を読みはじめ、いくつかの評伝と、全集をほぼ読み終えたところで、一度中断し、それから入退院があって、最近まったくの偶然から石原吉郎を読むようになり、しばらくしてこの二人、立原と石原が突然結びついたので、驚きました。といっても、私にできるのは、いくつかの文章を部分的に孫引きすることだけですので、あらかじめお許しを願っておきます。

 石原吉郎に「私の詩歴」という文章があります。これは『断念の海から』所載のものを細見和之さんが『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』(中央公論社)に一部引用されているのを、ここに孫引。

「一九五三年冬、舞鶴の引揚収容所で私は二冊の文庫本を手に入れた。その一冊が堀辰雄の『風立ちぬ』であった。これが私にとっての、日本語との「再会」であった。戦前の記憶のままで、私のなかに凍結して来た日本語との、まぶしいばかりの再会であった。「おれに日本語が残っていた……」息づまるような気持で私は、つぎつぎにページを繰った。その巻末に立原道造の解説があった。この解説が、詩への私自身ののめりこみを決定したといっていい。東京に着いた日に、私は文庫本の立原道造詩集を買い求め、その直後から詩を書き始めた。」

 ここで二冊の文庫本と云っているもう一冊は、ニーチェの『反時代的考察』だそうです。
 前引の文章は、

「そんななかで、私はすがりつくように詩を書きつづけた。どれもこれも立原道造ばりの感傷的なものばかりであったが、……」

と続いて行きます。
 同じ事実を落合東朗『石原吉郎のシベリア』(論創社)が紹介しています。同書によると、ナホトカを出た復員船興安丸は1953年12月1日舞鶴港に入港、援護局の寮に入る。2日、復員式。正式に軍籍を離脱。3日の夜、東舞鶴発の臨時列車で帰郷の途につく。5日午前品川着。弟宅に落ち着く前に銀座を歩く。この日、石原は[銀座で]文庫本の立原道造詩集を買い求め、その直後から詩を書きはじめます。
 落合氏は石原の「詩を書き出すまで」『現代詩体系12』月報、1976年2]月)から引用しています。内容は「私の詩歴」とほとんど同じです。

 細見さんは前引の本で、石原の「自編年譜」および「私の詩歴」に拠りつつ、その青年時代の文学/思想/信仰遍歴をかなりくわしく辿っていますが、「堀」「立原」との接触を思わせる記述はありません。鮎川信夫がある座談会で、

「あんがい彼は、立原道造とか堀辰雄とか、ああいうふうな文学が好きだとかさ、あるいは北條民雄の『いのちの初夜』だとか、そういう若い頃に影響を受けた文学の線から考えればいいんであって、だから、実際はすごく迷惑な話だったと思うの、収容所体験っていうのはね。」

と述べて、石原が青年時代、堀/立原に親しんでいた、ふうのことを示唆しているのですが、典拠が不明です。ここであえて愚見を述べるならば、もし石原と立原をつなぐものがあるとすれば、それは「四季派的抒情」のようなものではなくて、その「詩語」「詩法」においてであろう、と思うのです。たとえば、立原の〈風〉と石原の〈風〉。私はこの語の内包と用法を並べてみて、そんなふうに思いました。

 さて、石原→立原をつなぐもう一本の糸について。

「ある建築家から聞いた話ですが、立原道造という詩人は東大の建築学科の出身で、その卒業設計は、やがては廃墟となることを予想した建築物の設計であったということです。……その話を聞いたとき、瞬間的に私が思ったことは、何よりも建築家である前に、立原道造は詩人であった、ということでした。」(「断念と詩」、『石原吉郎セレクション』所収)

 「断念」は、石原のキイ・タームのひとつで、これをめぐって書かれた評論だけでもずいぶんの数になると思います。悲しいことに私には、今はまだ何も書けません。今、枕元に積んである書物が一段落したら、『立原道造全集』のうち、最後にただ一篇、残してあった卒業論文「方法論」を、読もうと思っています。

1354青木由弥子:2016/12/19(月) 17:55:50
山本さま
お元気そうでなによりです。

11月に新宿で野村喜和夫さんの講演を聞く機会がありました。その時のことを少し。

与えられた演題は立原道造と石原吉郎だが、二人の接点は細見さんが紹介しているエッセイに頼るしかない、と前置きした上で、石原帰国後1年後の、立原風の詩「祈り」などを紹介してくださいました。

祈りは ことのほか/やさしかつた/悔多い やわらかな/てのひらのなかで
祈ることは やはり/うれしかつた/てのひらのなかで 風が/あたたかにうごいた
祈りのなかで/午前がすぎそして/午後がかさなつた/時刻はさみしく しかし/きよらかにすぎた
夜がきて 星がかがやいた/私はその理由を考えなかつた/私は てのひらのなかで/夜あけまで起きていた

石原の抒情の形成に、堀辰雄や立原の世界との出会いは大きく影響しているようです。

ただ、事実としては、石原のエッセイは正確ではないようです。質疑応答の時、堀辰雄の詳細な書誌が出ているが、立原が解説を書いたことはないはずだ、という指摘がありました。
私自身が調べた訳ではないのですが、立原は早逝していますし、弟子すじの青年に解説を依頼することも考えにくい。
恐らく、石原吉郎の帰国後に堀辰雄の『風立ちぬ』との衝撃的な出会いがあり、その関連で立原の「風立ちぬ論」を何らかの形で読んだのでしょう、その記憶が、時が経つにつれて、エッセイに記されたような「物語」として記憶され直したもののようです。
(細見さんには、そのときの質疑応答の模様をお知らせしてあります。)

野村喜和夫さんのお父様もシベリア抑留体験があるとのことです。その事もきっかけとなり、『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』をご執筆することになったとのことでした。

1355青木由弥子:2016/12/19(月) 18:04:50
龍田さま
人の記憶の不思議さというものに関して、先日ご紹介頂いたお話も、大変興味深かったです。
人は・・・物語としてしか、記憶できない、あるいは思い出せない、のかもしれません。
黒田喜夫シンポジウムに行ったときも、葬儀の際の記憶が、参列者それぞれに違う、という驚きがありました。ある人はカンナが真っ赤に咲いていた、と言い、ある人は、カンナなどはなく、くちなしが強く匂っていた、といい・・・ある人は棺が重かった、といい、また別の人は驚くほど軽かった、という具合。
記憶のストーリー、その再生の不思議を思います。

1356龍田豊秋:2016/12/22(木) 11:13:02
フォーラム
12月10日、伊東静雄生誕110年を記念して、「第11回 菜の花フォーラム」を開催しました。

師走のお忙しい中、多くの皆様が足を運んで下さいました。
奇しくも、この日は伊東静雄の誕生日であり、市川森一の忌日でもありました。

1 諫早男声合唱団の皆様が、力強くそして叙情溢れる歌声を披露して下さいました。

  歌曲:伊東静雄作詞の「燕」「小曲」

????永六輔作詩「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」ほか

2 講演:「詩との出会い~ことばの力」

????講師 二羽史裕氏(活水女子大学講師)

3 ビデオ上映:「わが故郷の詩~諫早~」

????企画 諫早市
  製作 株式会社イワプロ

?? テレビアニメ「日本昔ばなし」でおなじみの常田富士男さんが、ナレーションを勤めておら
?? れます。その若々しい声に聞き惚れました。

  今は見られなくなった、諫早湾の干潟を乱舞する野鳥の姿が懐かしい。
 判決で確定した排水門の開門調査をかたくなに拒む国は、100億円の基金を餌
  に一部の漁業者を釣り上げようとしています。
?? どぶ溜にいくら札束を放り込んだとて、有明海の再生など出来る訳はないのに。

4 フリートーク:参加者の皆様のご意見交換

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1357山本 皓造:2016/12/23(金) 15:38:49
野村喜和夫さんのこと――青木様へ
 野村喜和夫さんのお名前は、『現代詩手帖』2015.11月号の座談会で知りました。(他に細見和之、佐々木幹郎の各氏が出席。)
 石原の詩「祈り」については、細見さんがその著書で指摘しておられる、「祈り」「悔い」「風」「午前」「きよらか」等の「語彙からしてもこの作品は立原的」、「なによりも作品のたたえている情緒がきわめて立原的」などの点はほぼ首肯できるのですが、それよりも、そこから数ヶ月での「夜の招待」への転位の速やかさ、佐々木氏の云う〈激変〉が、私にはむしろ鮮烈でした。どうも、石原作品の全体を通時的に〈抒情〉という語で括るには、私の感性にどこか障碍があるようなのです。(蛇足ですが、石原の詩には立原と違って「少女」が出て来ませんね。「クラリモンド」は、少女というよりは、あれは妖精ではないか。)
 野村さんは座談会で、ベンヤミンと云い、名づけと云い、「名づけとしての言語行為については、近刊のぼくの論を読んでいただきましょう」と云われる。そうか、と、『証言と抒情』を手に取るはずみがつきました。
 なお、『風立ちぬ』への立原の解説云々についての青木さんのご指摘と推測には、私も同意します。また、講演会での質疑応答の様子を細見さんにもお知らせなさった由、お返事がありましたら、せひご披露ください。

1358山本 皓造:2016/12/28(水) 12:23:27
妖精 ?!
 野村喜和夫さんの『証言と抒情』が届いたので、さっそく読み始めました。しばらく読み進んだところで、

 クラリモンドとは誰だろう……クラリモンド……妖精! WAO!

「自転車に乗るクラリモンド」のはじめの部分が引用されて、「クラリモンドとは誰だろう」と自問のあと、1974年2月25日付佐藤紘彰宛石原書簡の一部が引かれます。

  クラリモンド(ドイツの怪奇作家 Hans Ewers の小説に出てくる妖精の名で Klarimond、小説の題名も同じ)[野村p.55]

 続いて野村さんは、細見さんもこの詩と、同じく佐藤書簡を取り上げ、ただし題名は「蜘蛛」という短編で、石原の勘違いではないか、と指摘されている旨が紹介されています。
 石原さん自ら、クラリモンドは妖精だ、と云っておられる。これは私の慧眼か、と自惚れてはいけないので、私の喜びはヌカ喜びというか、つまり、細見さんの本は私も読んで、だから当然当該個所も目にしているはずなのですが、ただ、私はそのことをすっかり忘れてしまっていた、というにすぎない。
 細見さんの本を開いて探すと、p.194以下に、該当する記述がありました。けれども「妖精」の個所には、私の手による傍線も書き込みもありません。それで、おそらく、私の目はこの語の上を何の注意もせずに滑って行って、意識的な記憶にはとどまらず、ただ無意識の領域にその痕跡を残して、次に前回の投稿を書いているとき、知らぬ間にそれが浮かんできた、のでしょう。こういうことを長々と書くのは見苦しいので、弁明はこれでやめます。
(でも、クラリモンドはほんとに妖精か?……)

1359青木 由弥子:2016/12/28(水) 13:22:34
詩の妖精
山本さま

窓ふきを終え、一休みです。
作者がどこからイメージを得たか。それが、どのように変容して、詩になっていくのか。
それが読者に、どのように伝わって行くのか・・・その変化やずれや広がって行く空間に「読む楽しみ」があるような気がしていて、勝手に面白がって読んでいます。もちろん、「研究」の場合は別、ですが・・・。

くらり、くらくら・・・する mondo めまいのするような、それでいてどこか明るい語感だなあ、などなど・・・。

『びーぐる』28号の石原吉郎特集で、『詩と思想』の一色真理編集長も論考を寄せていました。
「クラリモンド」は、ロシアの極東地方によくある人名だそうです。(モデルがいるのかも。)
クラリモンドが目をつぶり、その心の中で「肩の上に乗る白い記憶」がさらに目をつぶり、その記憶の中でまたクラリモンドが目をつぶる。これはマトリョーシカ人形のようだ、と評していて、おお!と感嘆。
シャワーのように降り注ぐ記憶、というのも、物凄いイメージ(体感)ですが、感覚的によくわかる。(こういう、エエッという驚きと、なるほど!と他者に容易に伝わる表現を見つけたいです)
一色さんは「ママレードには愛が」、の一節に(音の響きから呼び出される)「ママ」と過ごした幼年時代を見ていて、もちろんそれが「正しい」かどうかはわかりませんが、素敵な解釈だな、と思います。「赤とみどりの/とんぼがえり」はサーカスのピエロ、空にたなびくリボンはサーカス小屋のイメージ。一色さんは「白い記憶」は白い帷子を着た死者の暗喩と読んでいて・・・サーカス小屋に張られたロープの上で、自転車の曲乗りをしているピエロが肩にシベリアの死者を乗せたままとんぼがえりをしている、という光景を導いていく。独自の解釈ではあるけれど、こうした振り幅(解釈の多様性、多義性)を許す詩だからこそ、谷川俊太郎が石原吉郎の詩は、説明できないけれど、これは詩なんだ、と評価したのだろうと思います。

目をつぶって、内へ内へと入り込んでいくと見えて来る幸福な光景・・・あるいは、目をつぶり、外側の現実から内へ内へと遠ざかって行かなければ辿りつけない、幸福な場所・・・シベリアでも心の内部にしまい込まれ、失われることのなかったもの。心の中の青空の下でリボンがたなびく場所。陽性の詩の妖精、クラリモンドが躍動しているその「場所」が、堀辰雄や立原道造の詩に敏感に反応し、石原に詩を生み出させる現場となったのではないか、などと思っています。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1360青木由弥子:2016/12/29(木) 12:08:22
昨日の投稿
クラリモンドは、ラテン系の女性の名前かもしれない、ということでした・・・その後の調べで、わかったことだそうです。
記事の編集がうまく出来なかったので、投稿で訂正します。

1361Morgen:2017/01/04(水) 23:35:42
酉年の始めに・・・・・
 明けましておめでとうございます。 ぽかぽかと穏やかな正月3が日でしたが、皆様、健やかにお過ごしになられたでしょうか。私は、自宅の大掃除をやっと済ませて、大晦日からの「大町温泉郷連泊ツアー」(北アルプス麓)に参加し、帰ってから孫ら一同と食事会をして、あっという間に休暇が終わり、明日から仕事始めです。

 先日、映画「海賊とよばれた男」を観ました。
 内容は、出光興産創業者の出光佐三氏(福岡県宗像郡赤間村出身)をモデルにしたといわれる主人公・国岡鐵造が活躍する歴史経済小説。敗戦の焼け跡から立ち上がる諸先輩たちの力強い姿が描かれています。石油の将来性を見抜いていた国岡鐡造は、北九州の門司で石油業に乗り出しますが、国内の販売業者や欧米の石油メジャーなど、様々な壁が立ちふさがります。それでも諦めないきれない鐵造は、型破りな発想と行動で自らの進む道を切り開いていきます。やがて石油メジャーに敵視された鐡造は、石油輸入ルートを封じられてしまうが、唯一保有する巨大タンカー「日承丸」を秘密裏にイランに派遣するという大胆な行動に出て、民族系石油販売業の船出を高々と宣言します。(WEB上の文章を一部拝借)
 その中で「ルソン島のジャングルをさ迷い歩いた俺達には、こんな事ぐらいなんでもない。」と頑張る男たち。「お前は熱量が足らんのだ!」と、旧将校を叱り飛ばす国岡鐵造のすさまじい気迫など、数々のシーンや台詞が印象に残りました。(原作では「君の真心が足りないからだ。」ですが、映画では最近のはやり言葉「熱量」に変わっている。)

 昨年は、ヨーロッパで猛威を振るったポピュリズムの大波が、遂にアメリカへ飛び火し、世界中が驚かされました。何れの国民も「超高熱量」を秘めた型破りのリーダーに自国の生き残りを託さざるを得ないところまで追いつめられているのだというナショナリズムの今日的な姿が露わになったのだと私は見ています。(日本にもその端緒はある。)

 身の回りを一瞥しても、「高火力コンピューティング」の推進〜「超高火力」のスパコン導入、人間の能力を超える「人工知能」(AI)開発など、目の眩むような事業環境の変化が、今年はさらに加速されそうです。「高火力・高熱量化」を推進する若者たちの熱い躍動に取り残されないように、(己の年を忘れて)私なりの精一杯の「熱量」を発揮して、(せめて腰が引けないように)前を向いてついて行たいと思います。(“ドンキホーテじみた年寄りの年頭の決意”とお笑いください。)

 皆様、今年も相変わりませず投稿を通じてお付き合いいただきますようお願いし、どうぞ健やかな一年をお過ごしくださるようお祈りいたします。(写真は私の年賀状に載せた酉です。伊豆の動物園で撮影。)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001498.jpg

1362山本 皓造:2017/01/05(木) 14:47:47
酉どし
 皆様 あけましておめでとうございます。
 今年の年賀状は、石上神宮の鶏の絵にしました。
 すると、昨日の夕刊(朝日)に、紹介記事とともに、写真が載っていました。
 おお、慧眼!(好きですね)
 掲示板読者の皆様に、年賀状をお送りします。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001499.png

1363龍田豊秋:2017/01/06(金) 10:45:14
お知らせ
おはようございます。今日は快晴です。
ヒヨドリの群れがかしましく、ウグイスのささ鳴きがしきりです。
寒に入り、日差しが強くなってきました。

今年も宜しくお願いいたします。

さて、伊藤桂一先生の新刊「螢の河」が文庫版で出版されました。
光人社NF文庫、定価850円です。
帯には、追悼 伊藤桂一 とあります。

"兵士の日常を丹念に描き、温かく深い感動を伝える戦記文学の傑作短編"
第46回直木賞受賞作品 朝日新聞『天声人語』で紹介

いよいよ21日、遠藤周作原作の映画「沈黙」が公開されます。
今、外海の出津教会辺りでは、水仙の香りが漂っていることでしょう。

1364龍田豊秋:2017/01/10(火) 16:22:17
お知らせ
いよいよ寒波到来のようです。

池内紀著、『亡き人へのレクイエム』(みすず書房)は、皆様読まれましたか。

"したしかった人、何度か会っただけなのに忘れがたい人、本を通して会った人。出会いのかたちはそれぞれ、でもずっと大切な存在である人々について、時代と生活に思いを馳せながら、歩いたあとを辿るように書く。"

須賀敦子、川村二郎、米原万里、岩本素白、丸山薫、野呂邦暢ほか28名が登場します。

野呂邦暢の項が、最も多くの頁を割いてあります。
著者の思い入れが一番深かったのでしょう。

野呂さんが伊東静雄について言及した随筆にも触れられています。

1365Morgen:2017/01/18(水) 23:55:33
同時代人として・・・・・
 龍田様ご紹介の池内 紀『亡き人へのレクイエム』を読ませて頂きました。ついでに、書店にあった川本 三郎『物語の向こうに時代が見える』(2016.10.25 春秋社刊)も購入して読みました。同書には、(?「街」と「町」さす光と影―「鳥たちの河口」とミステリー―野呂邦暢論)が収録されています。

 まず、『亡き人へのレクイエム』の著者池内氏は、1940年姫路市生まれで、次のように書かれています。(同書219〜221頁要約)
 「私には野呂邦暢は三歳年長にすぎない。だからしたしい同時代人として読んだ。自分に代わって自分の何かを語ってくれる人、大切な何かを共有して、実践で示してくれた人。作家として以上に一つの人格として記憶に刻まれている。」それは、「彼がまた半ばは自分であったからだ。」(「もっとも感受性の鋭い時に戦争を知り、自分がたまたま死をまぬがれたことを、たえず考えながら成長した。だからこそ新しい生命を発見しなくてはならず、文学はまさに新しい生を証明するものとして書かれ、甦りの花として同時代人に提出された。」)
 池内氏は、そんな深い思い入れをもって、野呂邦暢の随筆や小説の成立ちを分析しておられます。

 『物語の向こうに時代が見える』の著者川本氏は、1944年東京生まれ、「『わが町の物語』は私見では、野呂邦暢の諫早ものに始まっている。小さな町から世界を、普遍をとらえる。野呂邦暢の『鳥たちの河口』は、その意味で大事な作品となった。」(同書「まえがき」)と書かれています。
 また、野呂小説には「ミステリ小説の味わい」があることを説明されており、野呂が好んだという鮎川哲也氏は「なお聞くところによると、氏には推理長編の腹案があったという」と書いておられるそうです。川本氏が1977年に新人として出された映画エッセイ集『朝日のようにさわやかに』(筑摩書房)を、「今年の成果」の一冊として野呂邦暢に推賞されたことなどが書かれています。(同書134〜137頁)

 そういえば、ノーベル文学賞を贈られたBob Dylanも1941年生まれで「同時代人」です(私もまた同じく)。流浪の歌人として(あるいは池内氏の言われる「孤独の遊牧民」の如く)、世界中を歩きながら今なお膨大な量の歌を創りつづけていますが、彼もまた同時代人として「大切な何かを共有して、実践で示してくれた人」と言えるかもしれないなどという思いが、私の脳裏をふとかすめました。

1366Morgen:2017/01/22(日) 01:02:12
『散歩道にて』
 わが家の梅の花(盆栽)や椿(玉之浦ほか)がちらほらと開き始めました。例年は既にメジロが飛んできているはずなのですが、姿を見せません。最近野良猫が増えたせいでしょうか。寒さの中にも確実に春が近づいているのだと感じつつ、淀の河邉をロードバイクや徒歩でうろついています。

 庄野潤三さんの随筆集『散歩道から』(1995年 講談社刊)によると、毎日1万5千歩くらい歩くのを目安にして、多摩丘陵を散歩されたと書いてあります。(庄野さんは脳内出血で入院され、退院後散歩を始められたのだそうです。)

 同書108頁〜127頁に「森亮さんの訳詩集」と題する「新潮/’91・6」同書では一番長い文章が収録されています。
 これには、『ルバイヤット』の「さて音もなくつぎつぎに」が、どうして『詩集夏花』では「さても音なくつぎつぎに」となったのかについて、「『ルバイヤット』からいちばん好きな四行詩を選んで口ずさんであるうちに、どうかした拍子に、すり代ってしまったのだろう。・・・」と書かれています。

 私も念のため『コギト』を書棚から引っ張り出して、埃を払って第一歌〜第七十五歌まで全部を読んでみました。『ルバイヤット』の原作者は古代ペルシャの天文学者、数学者のオーマー・カイヤムですが、その思想に共鳴した19世紀の英国フィッツジェラルドは、これを極めて自由に英訳しました。大学出たての森亮さんも、「運命のまにまに生き且つ死にゆく人生のはかなさを歌い、その憂さを晴らせとばかり享楽を勧めるたぐいの思想詩」として和訳され、まさに森亮節とも言えそうな調子の良い訳詩集になっています。
 第一歌〜第七十五歌や「注解」を読んでみて、そのことが良く理解できました。

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1367Morgen:2017/01/30(月) 00:28:18
映画『沈黙』―サイレンス―を観て
話題となっている巨匠マーティン・スコセッシ監督渾身の超大作映画『沈黙』―サイレンス―を観てきました。

 言うまでもなく原作遠藤周作『沈黙』の2度目の映画化であります。舞台となっている長崎県としては、「ながさき旅ネット」で宣伝活動を行い、「遠藤周作文学館」も「聖地巡礼マップ・『沈黙』の舞台・長崎をめぐる」などのキャンペーンを展開されています。

 撮影舞台も長崎かと思っていたのですが、実は台湾だそうです。荒波をかぶる海岸風景や「雲仙地獄」などの映像も迫力があります。原作とは、エンディングが少し違いますが、(私はクリスチャンではありませんので踏絵についての詮索などはせず)約3時間近い超大作映画『沈黙』―サイレンス―をひたすら鑑賞しました。

 この映画では、原作通り「神の沈黙」をテーマとしながらも、「棄教者」となっしまった最後の司祭ロドリゴもまた、言葉にならない祈りを心のなかで奉げ続けることによって「沈黙」を守り、死後は天国へ召されたであろうことがエンディングで暗示されています。

 『沈黙』の舞台・長崎をめぐるツアー客の流れが、諫早にも立ち寄っていただけたらいいのにと思います。(「ながさき旅ネット」へ諫早市も参加されることを期待します。)

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1368青木由弥子:2017/01/30(月) 07:36:54
ルバイヤット
おはようございます。
なんだかばたはたしていて、拝読するばかりになっておりますが・・・

夏花のルバイヤットの一節をパソコンに打ち込むとき、無意識に さて音もなく と打ち込んでいて・・・後で、あ〜?と思って修正しました。
口ずさんでいるうちに・・・なるほど。

わがひとに与ふる哀歌 の中の 音なき空虚 が強烈なインパクトとしてあるのですが・・・誰一人いない、そんな孤絶の空間は、シーン、とすべての音が消え去った空虚だったのかな、静雄にとって・・・
その人の 心の歌 自然の奏でる音楽 そうした心の耳に響いてくる音や歌が聞こえない、そんな状態を、空虚、と感じていたのかも知れないなぁ、と思いました。

1369dufysato:2017/01/31(火) 11:18:00
「詩人伊東静雄 」再読
小高根 二郎の『詩人伊東静雄 (1971年) (新潮選書)』を40年ぶりくらいに再読しました。内容は殆ど忘れていましたが、伊東静雄の詩と実生活の関連がかなり強調されすぎているなとの、感想でした。
無論詩作には詩人の実生活が色濃く反映するでしょうが、作品としての「詩」の鑑賞、解釈はもう少し別物でもいいとも思います。次は、杉本秀太郎の本を読み返します。

1370Morgen:2017/02/05(日) 00:27:55
静雄詩読解の方法とは・・・?
 私も、学生時代に『伊東静雄詩集』や小高根氏の『詩人、その生涯と運命』などを読んではみたものの、充分に理解できないまま、静雄詩の読解を宿題として残していました。
 それから30数年経って、仕事も少し閑職(?)に替ったのをきっかけに、伊東静雄詩に関する各種の解説書や批評などを、手当たり次第に集めまくって読んでみました。その頃からすでに約15年ほどが経ってしまいましたが、充分な読解の域に達しているとは申せません。

「詩の実作者でもなく、研究者でもない者は、伊東静雄詩をどのように読解していけばよいのか?」という設問に対して説得力があると思われたのは、『痛き夢の行方 伊東静雄論』(田中俊廣著 日本図書センター 2003年刊)でした。少し長くなりますが、同書65頁から引用してみますのでご一読ください。

「その詩業が、戦前・戦中・戦後の時代と重なり、思想の変遷が著しく、高踏的で激越な作風から出発した伊東静雄については、様々な観点や立場から読解が試みられている。当時の社会情勢と照らし合わせる方法、生い立ち環境を重んじる方法、日本浪曼派の思相と比較論証する方法等、それぞれに論理にも整合性があり、読者を一旦は納得させるのであるが、同時に心のどこかにもの足りなさが残ることも少なくない。それは、作品論が充分に精緻に展開されないままモチーフや発想を論じているところに原因があるように思われる。どのような論旨を開示するにせよ、ひとまず作品全体を構造的に掌握したり、文脈を丁寧に辿ることは、欠くべからず基礎的な作業ではなかろうか。・・・・・」

 これだけの短い引用文ではあまり説得力がないでしょうが、詩句の意味を手っ取り早く理解しようと焦りすぎるあまり、田中俊廣氏がおっしゃる基礎的な作業を疎かにしてきたのではないかと反省しました。「詩作という行為が自己の生を支え、切り開いていく唯一の手段であった」という伊東静雄にとっての深刻さを念頭に置きながら、静雄詩を吟味していくことができればと思っております。またのご投稿をお待ちしております。

1371龍田豊秋:2017/02/06(月) 13:08:20
ご報告
1月28日午後3時から,諫早図書館に於いて第108回例会を開催した。

第27回伊東静雄賞奨励賞を受賞した2作品が披露された。

千葉県柏市、渡会 克男さん  『ガッコのセンセ』。

滋賀県大津市、宮 せつ湖さん 『雪の葬列』。

会報は第102号。内容は次のとおり。

1 伊東静雄について 『対談』 田中克己×杉山平一
 『文芸広場』(第一法規出版) 談   田中克己(詩人、成城大学名誉教授)
??????????????????????????????聞き手??杉山平一(詩人、帝塚山学院短期大学教授)

2 日本浪漫派の思い出 ~才能競った多彩な同人~
????????????????????????????????????????????      亀井 勝一郎
???????????????????????????????????? <読売新聞 昭和29年10月22日>

3 伊東静雄ノート(5)
?????????????????????????????????????????????????????? 青木 由弥子
         ????????????????????????????????????<千年樹 第68号>

4??詩 「夏」  ?????????????????????????????????????? 森永 かず子
     ????????????????????????????<2016.10 あるるかん32号>

5 詩 「明るい帰郷者」
  自然は限りなく美しく永久に住民は貧窮していた−伊東静雄「帰郷者」

?????????????????????????????????????????????? ?????? 井川 博年

     ??????????????????????????????????????????????????????以上

次回例会は、2月25日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。

1372青木 由弥子:2017/02/20(月) 15:17:18
誤訳から始まる・・・
春一番(二番?)が吹き荒れています。生あったかい、変な風です。春嵐です。

陶原葵さんという詩人/批評家/研究者の著書、
『中原中也のながれに』(2013思潮社)を読んでいて、面白いことを知りました。

中也が翻訳したランボーの一節に、誤訳があるというのです。
「飲み物」を「お魚」と間違えたとか。オモシロイのは、ここに水中花が出てくること。

中也の?誤訳″の詩的イメージに触発されて、静雄の「水中花」が生まれた・・・
なんてことはないかしら・・・と思った、ものの・・・まだ詳細は調べていません。

静雄の「水中花」は、初出が昭和12年の『日本浪漫派』8月号。
中也が翻訳していた時期は、昭和9年9月から12年8月ごろ。
中原中也訳『ランボオ詩集』が公刊されたのが、昭和12年9月。

雑誌などに先に発表されていれば、静雄が読んでいる可能性はある、のですが・・・。
中也の「翻訳」そのものが、静雄の「水中花」に影響されて間違えた・・・というのは、
さすがにありえないかな、と思いつつ・・・
なんだか不思議な共通項を持っている詩だと思いました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001509.jpg

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1373Morgen:2017/02/22(水) 22:33:29
文語訳と口語訳
 みなさまこんばんは

 青木様の「誤訳からはじまる…」は面白く読ませていただきました。

 伊東静雄の詩「水中花」においては二通りの水中花が表現されています。口語文(前文)においては「哀れに華やいでコップの水の中などに凝としずまっている」水中花のことが言われており、文語体の詩文の中では、「六月の夜と昼のあはい(夜明け)」の澄んだ大気の中で金魚も一緒に水中花がきらめいています。(詩人の幻想・幻視) この二つは全く違っった印象を与える水中花ですね。

 先月22日の投稿で『ルバイヤット』の文語訳のスキャンを添付しましたが、今度は同じ訳者が口語訳を出されていますので、添付してみますのでご一覧ください。文語訳と口語訳では、全く違ったものに見えますね。

 

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001510.jpg

1374山本 皓造:2017/02/23(木) 14:56:38
六月
 長い休暇をいただいて久しぶりに書く投稿にしてはまったく中味のないただのおしゃべりで申しわけありません。青木様の「誤訳から始まる…」に触発されて。

 水中花は fleurs d'eau というのだと(ランボーはそう呼んだと)いうことを知って、へえ、と思い、そういえばプルーストのはじめのほうにも水中花が出て来たな、と思って調べてみました。
 出て来るのは例の紅茶とマドレーヌのあと、第一篇第一部一の末尾なのですが、残念ながらプルーストは「このもの」に名前を与えていません。岩波文庫の吉川訳に水中花と訳注があります。プルーストは「日本人のよくする遊び jeu」といい、その実体は「小さな紙片 de petits morceaux de papier」というだけ。

 静雄の「水中花」が中也の“誤訳”から生まれたかどうか、これについてはわたしには何の智恵もありません。青木様のお調べを楽しみに待つことにします。

 内田百?に「水中花」という文章があって、しかし題名にそうあるだけで本文中にはひと言も水中花のことが出て来ない、ふしぎな文章だ、というような投稿をいつかこの掲示板でした記憶があるのですが、わたしの記憶違いか。

 郷原宏『詩のある風景』(未来社)という古い本を読んでいて、「六月」について論じているのに出会いました。この六月は、水無月ではなくて、歴史的日付としての、1960年6月という、あの6月のことです。六月といえば樺美智子の死を思い出す、そのような精神的風土/季節が、かつてあったのでした。

 石原吉郎の詩集をめくていると「六月のうた」というのに行き当たりました(思潮社版現代詩文庫26)。でも悲しいことにわたしにはこの詩を解読できません。

1375龍田豊秋:2017/02/24(金) 10:00:53
パロディ
おはようございます。今朝も冷え込みました。
さて、一読してニヤリとさせられる詩を見つけました。
皆様にも鑑賞して頂きたく、ご紹介します。

"
雨にも負けず 風にも負けず
野党の追及にも負けぬ
丈夫な心を持ち
表情なく決して怒らず
いつも心で笑っている

月に2日の出勤で一千万円をもらい
あらゆることを自分の勘定に入れ

よく見聞きし 分かり
そして大事なことは忘れ

霞ヶ関という
安全地帯にいて
東に天下り先あれば
自らそこに再就職し
西に別の天下り先あれば
斡旋してあげ

南に正義つらぬく人あれば
つまらないからやめろと言い
北に斡旋がバレると怖がる人あれば
大丈夫、問題ないと言う

国会答弁では反省するふりをし
国会の廊下をおろおろ歩き
皆に税金泥棒と呼ばれ
全く苦にもしない
そういう人に私はなりたくない
????????????????????????????"
  ????????????鮎川 哲也??????????????(週刊朝日2月24日号)

1376あるかんば隊のココペリです:2017/02/27(月) 22:45:49
3月5日 三国が丘で菜の花忌
皆さますっかりご無沙汰をしています。
ご健勝にご活躍のご様子、何よりです。
堺市三国が丘のけやき通りまちづくりの会の加藤保之様より、下記のとおり『伊東静雄菜の花忌』のご案内がありました。

開催日:2017年3月5日(日)
時間:午後2時〜午後4時
場所:堺市立三国丘幼稚園(堺区北三国ケ丘町4-1-12)
講演:中野章子さま『文学の故郷 伊東静雄と野呂邦暢』
伊東静雄詩朗読、ミニコンサートなど

あるかんば隊の有志も、参加致します。
(13時に、南海高野線堺東駅東口に、集合です)

 私事で恐縮ですが、初代けやき通りまちづくりの会々長の竹内魁成さんと、共通の友人を介してご縁ができました。竹内さんのご案内で、堺市にある三好長慶所縁の南宗寺さんでの、連歌の会に参加させて頂いています。連歌の会でご一緒している長澤信子(旧姓山本)さんという方が、何と山本皓造先生の教え子であり同僚だったということがわかり、お互いにびっくりしました。

信子さんは初芝にお住まいで、美原と伊東静雄のことにも精通されています。堺市の歴史案内もされていて、当日はご参加頂き、諫早高校同窓会関西支部あるかんば隊の、案内役を引き受けていただくことになりました。相変わらず伊東静雄にいざなわれているのかな・・そんな想いになるミラクルなことが起こっています。

1377Morgen:2017/02/28(火) 10:56:46
ご案内ありがとうございます
 あるかんば隊のココペリさん。おはようございます。(お久しぶりです。)

 第9回「“三国ヶ丘ゆかりの詩人”伊東静雄・菜の花忌」のポスター写真は、コピー禁止が掛けられているため残念ながら転載できませんが、「参加費500円、先着50名様」とも書かれています。

 当日は、気温は15度Cと温かそうですが、雨が降りそうです。

 会の終了後、何処か(適当な店があるか?)でお茶(食事でも可)でも如何ですか?

1378あるかんば隊のココペリです:2017/02/28(火) 19:33:21
(無題)
Morgenさま
嬉しいメッセージを、有り難うございます。ご一緒できますこと、とても嬉しく楽しみです。
会の終了後、宴になるのではと思っています。
『さんずいに酉(百薬の長とも言う)』の大好きな、先輩方も参加されますので・・。
一応、場所は考えています。雨にも会わず、良いお天気になることを願っています。
心温まる、菜の花忌になりそうです。どうぞよろしくお願い致します。

1379堺の住人:2017/03/02(木) 13:36:38
伊東花子先生
昭和42年大阪府立登美丘高校を卒業しました。39年入学時の担任が伊藤先生でした。現国の磯部先生から
伊東先生のことを聞き、そんなすごい人の奥様とはじめて知りました。浪人時代予備校のテキストに詩人「伊東静雄」の詩が載っていました。「新妻にして見すべかりき」だったと思います。
結婚したとき大学時代にお世話になったおばさんのことを思い出しました。「嫁さんもらったら見せに来るからね」と話して20年後、やっとおばさんに見せることができました。約束を覚えていて喜んでくれました。
伊東先生ありがとう。おばさんありがとう。

1380青木 由弥子:2017/03/05(日) 18:46:51
花子夫人
花子夫人のことを考えていたら、ご投稿を拝見。静雄さん(という雰囲気になってきました)の教え子の方の文章など、いろいろ読んでいる時だったので、おお、と思いました。

静雄さん、照れ屋だったのか、あっちこっちで共稼ぎだから結婚したんだ、みたいなことを言っていたようですが・・・そして、それを真に受けている方(評論家諸氏も含めて)とても多いようですが・・・花子さんの「追悼文」などを読めば、伊東静雄という詩人/教師に、知性の面でも趣味や教養の面でも対手を務めることの出来る、数少ない女性の一人であったろう、と思います。
富士正晴によれば、静雄さんが歌会で「ひとめぼれ」して、なんとかツテをたどって「見合い」に持ち込んで・・・話が進んでいる最中に父親を無くして「この結婚、ダメになるかもしれない」と心配する・・・くらいに、花子さんと結婚したくて仕方なかったんでしょう、きっと。

百合子さんは、もちろん、詩を評価してくれたり文学の話のできる友人であり、場合によってはミューズとしての役割も果たした、のでしょうけれど。
花子さんは、気の強い、しっかり者でもあった、ようですが・・・。

伊東静雄の散文詩に、早朝、朝ごはんの仕度をしている奥様を見つめながら、子供の頃の母や姉の姿を重ねてしみじみと愛おしむような詩があって・・・もっと、静雄の「屈折」したり「照れ隠し」でわざと意地悪な言い方をしたり、あえてぞんざいに言ったりする、その言葉の「ウラ」を、実はこうだったんでしょ、静雄さん、という感じで、読んであげたいなあ、という気がしています。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1381龍田豊秋:2017/03/06(月) 11:58:28
ご報告
諫早公園の大寒桜は開花しましたが、風はまだ冷たいです。

第53回「菜の花忌」の案内

平成29年3月26日 (日) 午後1時から
場所 諫早公園 中腹 伊東静雄詩碑前
                 (雨天時は諫早観光ホテル道具屋)


第27回 「伊東静雄賞贈呈式・記念講演」の案内

平成29年3月26日 (日) 午後2時30分から
場所 諫早観光ホテル道具屋

伊東静雄賞奨励賞

「ガッコのセンセ」       渡会 克男 氏 67歳
??????????????????????????????????????????千葉県柏市在住

「雪の葬列」????????????????????宮 せつ湖 氏 68歳
??????????????????????????????????????????滋賀県大津市在住

記念講演 講師 詩人・評論家 北川 透 氏
演題 「蝶の運命(さだめ)〜伊東静雄と中原中也の交流について」



2月25日午後2時から,諫早図書館に於いて第109回例会を開催した。
会報は第103号 内容は次のとおり。

1??伊東静雄ノート(6)
?????????????????????????????????????????????????? 青木 由弥子
        ????????????????????????????????<千年樹 第69号から転載>

2 「在りし、在らまほしかりし三島由紀夫」 ????<平凡社>
????????????????????????????????????????????      ?橋 睦郎

「詩を書く少年 三島由紀夫の孤独」と言うテーマで、?橋睦郎と井上孝史が対談。

     ??????????????????????????????????????????????????????以上

1382Morgen:2017/03/06(月) 16:42:33
堺(三国丘)「菜の花忌」
 昨日(3月5日)、堺三国丘の「伊東静雄・菜の花忌」に初参加いたしました。

 地元の「けやき通りまちづくりの会」の皆様方の熱心なお取り組みの甲斐があって、会場には大入り満員の一般参加者が集まられ、約2時間余りのセレモニーが終始ダレることもなく運ばれました。「あるかんば隊」からも約10名が参加しました。

 その中で、「菜の花忌」のご縁が取り持つ、山本皓造様と長澤信子(旧姓山本)様の師弟再会という微笑ましいハプニングもあり、参加者各位のお顔を拝見しても、春の陽気のもと桜色にほころんでいるように見えました。(山本皓造様お疲れさまでした。)

 「春の雪」を弾き語りされたピアニスト(名前を忘れました)も、「時はすでに春だ!」(すでにはるはきむ!)とばかり、明るく張りのよい歌唱を披露されました。
 中野章子様も、予め配布されてたレジュメをもとに、持ち時間いっぱい「伊東静雄と野呂邦暢」のテーマによる熱いご講演を賜りました。参加者の目には、頼もしい「諫早出身者」と見え、長い間の研究や資料収集などの実績をもとにされたお話の内容に、聞く者は感動しました。(感謝!感謝!)

 「けやき通りまちづくりの会」の世話役の方々の企画として毎年「伊東静雄・菜の花忌」を取り上げていただき、セレモニーの回数を重ねられていることには、ファンのひとりとして本当に頭が下がります。
 同会は、詩や文学には無縁の地域団体ですので、伊東静雄研究会におかれても、講師の紹介など面においてお口添えがいただければ幸いだという世話役様のご懇願がありましたことをお伝えしておきます。

中野章子様のブログに、当日の模様が報告されていますので、是非ご覧下さい。

http://suzaku62.blog.eonet.jp/default/

1383山本 皓造:2017/03/08(水) 11:59:35
けやき通り菜の花忌
 毎回、今年は何日で、どなたが講演をなさるのか、と、いつも心がけて注意していましたのに、そのたびに体調が悪くて、今まで一度も参加がかないませんでした。今年はじめて、3月5日の菜の花忌に出席できました。
 JR堺市駅は、ミュシャ館に何度か行って、勝手はわかっていたのですが、そこから足を伸ばしたことはなく、ちょっと迷いながら、なんとか三国ヶ丘幼稚園にたどりつきました。
 中野章子さんの講演はとてもよく、やさしく語りかけて下さって、最近ようやくその作品集(文芸春秋)を読み始めた野呂邦暢に、また少し近づけた気がしました。望むらくは、60分ではなくて90分を、与えてあげてほしかったです。
 中野さん、あるかんば隊のココペリーさん、野崎さん、それに名前の出た永沢さんらに、お会いできて、やっぱりがんばって出て来てほんとによかったと思いました。この日はもう春の陽気のはしり(?)も感じられる、気持ちの良い日でしたが、それだけではなく、嬉しいことが重なって、体があとあとまでホカホカとするようでした。この催しを続けて下さっている「けやき通り町づくりの会」の皆様に、お礼を申します。

1384Morgen:2017/03/17(金) 12:16:49
(余談)「みささぎのまち」(三国ヶ丘)―伊東静雄詩詠唱の流れ
 「けや木通り・菜の花忌」に参加してみて、地元の方々の街づくりの熱意に感化されて、“伊東静雄の堺・三国ヶ丘における作詩(詩想・詩句など)の流れ”を自分なりにまとめてみようと思いたち、取り敢えずそのチャートを頭の中に描いてみようとしているところです。少しまとまったらまた投稿します。(本稿は、単なる余談です)

 随分まえに本欄に私が投稿したことのある東京の「森まゆみ」さん(谷中・根津・千駄木地域雑誌発行者)の『大阪不案内』という本があります。
 その中に、住吉高校を訪問された折のレポに、「詩人伊東静雄が国語の先生をしていたところです。」と紹介されていたところがあったように記憶しています。しかし、もし三国ヶ丘を訪れられたとして、「伊東静雄が終戦まで10年近く住み、“水中花”“百千の”“春の雪”などの、日本詩史上に輝く有名な詩を残したところです。」と言って頂けるかどうかは、きわめて怪しいですね。

 「けやき通りまちづくりの会」は、「みささぎのまち」として、百舌・古市古墳群の世界遺産登録も推進されているのでしょう。百舌古墳群の一番北に位置する「反正天皇陵」が世界遺産に登録されれば、古墳めぐりのスタート地点として沢山のお客さまが国内外から訪れられ、交通至便な「反正天皇陵」を訪れついでに、けや木通りを散策されるようになります。その情景を想像すると一種のワクワク感があります。

 ―街角スピーカーからは日本情緒たっぷりの「春の雪」や「百千の」の音楽が流れる。訪問客は、「みささぎのまち」の風雅を感じ、「日本て良いな!」と思いながらそぞろ歩き、みささぎのまちに「日本人の美しい心」の一端を感じてくれる。そして、けやき通りを下って、次の古墳めぐりへと向かう。そんな三国ヶ丘の情景をふと夢想してみる―

 みなさま、日増しに太陽が輝き、淀川縁は、鶯も雲雀も数が増えて、鳴き声も本物になっていますよ。紫外線対策をしていざフィールドへ!!

中野章子さんのブログが下記へ引っ越されました。

http://suzaku62.blog.jp/

1385Morgen:2017/03/24(金) 22:40:16
『新生日本の藝術を語る』
随分昔のことになりますが、山本様が住高階段教室で昭和22年秋に行われた小野十三郎・伊東静雄の対談についてご投稿頂きました。

 『新生日本の藝術を語る』と題するこの座談会の記録が『すみよし外史』−先輩が語る住高60周年ー(昭和62年11月2日 同高同窓会)に載っていましたので、重複かも知れませんが見ておられない方のために添付してみます。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001523.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001523_2.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001523_3.jpg

1386齊藤 勝康:2017/03/26(日) 22:20:32
三国ヶ丘、菜の花忌
お久しぶりです。ここ数年見逃していた三国ヶ丘のけや木の会、今年もうっかりしていました。油断すると三月は本当にあっというまに来ますね。それに今回、共通のフアンである「伊東静雄、と野呂邦のぶ」の話をされたとは残念。ココペリさんに久しぶりにお会いできたのですね。日頃は月1回.露文の会でロシア文学を読むことに忙しい日々ですがまた静雄の詩と野呂の小説とエッセイの世界に戻ります。野呂の小説は向田邦子が亡くなった頃にTVドラマ化した「落城記」の原作者と知ったことからです。彼が静雄を描いた「詩人の故郷」も愛読しました。来年はぜひ行くことにします。

1387龍田豊秋:2017/03/28(火) 10:17:09
ご報告
3月26日午後1時、諫早公園の中腹にある伊東静雄詩碑前で第53回「菜の花忌」が執り行われました。
空模様が気がかりで、肌寒い陽気でした。
例年は、ヤマザクラの盛りは終わり、ソメイヨシノが満開なのに、今年の開花は遅れています。

献詩  喜々津中学校3年 笹田泰平さん  「おじいさんの死」
?????? 鎮西学院高校2年??佐藤加奈絵さん 「卵のきみ」

詩朗読??諫早コスモス音声訳の会 東かおり様 「野の夜」
????????詩人          田中俊廣様??「まだ猟せざる山の夢」

場所を諫早観光ホテル道具屋に移し、午後2時30分から第27回「伊東静雄賞贈呈式・記念講演」が行われました。
大きな花瓶に活けられた菜の花の香りが、会場全体に広がっていました。

今回伊東静雄賞奨励賞を受けられたのは、次のお二人です。

千葉県柏市在住  渡会 克男 氏 67歳 「ガッコのセンセ」
滋賀県大津市在住??宮 せつ湖 氏 68歳??「雪の葬列」

記念講演の講師は、詩人・評論家 北川 透 氏でした。

演題は、「蝶の運命(さだめ)〜伊東静雄と中原中也の交流について」。
     ??????????????????????????????????????????????????????以上

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001525.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001525_2.jpg

1388Morgen:2017/03/30(木) 10:23:10
老化に抗って
「菜の花忌」が歳時記の1ページのようにすっかり定着してまいりました。「菜の花忌」を始められた先輩方にも、毎年このように盛大に催行されているから、心安らかにお休み下さいと告げることができます。

 今年も、淀川縁の堤防は背の低い外来種の菜の花で真黄色に彩られています。しかし、いつまで待っても桜(ソメイヨシノ)は開花せず、去年はあんなにも混雑していた背割堤も、添付の写真(新築の展望塔からスマホ撮影)のようにひっそりとしています。地元の観光協会は、高さ25メーターの展望塔や「三川合流出合い館」を造って手ぐすね引いて待っていたのですが、今年の花盛りは随分遅れそうですね。

 わたしは、休日には相変わらず「淀の川辺サイクリング」を続けています。ロードバイクもカーボン製の軽量車に買い替え、「まだまだ!」と自らの老化に抗っています。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001526.jpg

1389齊藤 勝康:2017/04/01(土) 11:26:36
在りし、在lらほしかりし
高橋睦郎氏の近著。難しい題名ですが筆者と三島由紀夫との50年以上の付き合らを綴ったもの。
27歳の時の詩集「薔薇の木、にせの恋人たち」を三島に送った時、直接、氏に本人から電話が入る。そして「眠りと犯しと落下と」の跋文を頼んだ時三島は「これはぼくが進んで書くことだからきみは、菓子折り一つ持って来てはいけないよ」と強調したとのこと。(124p)ここのところは北三国ヶ丘での伊東静雄に対する皮肉がこめられていると思った次第。「俗人と小人」が裏返る。
188pからの井上隆史氏の対談では「燕」が取り上げられている。三島の小説はその極端な右翼思想から殆ど読んでいないが4部作「豊饒の海」は読了した。1部の「春の雪」の題名は静雄の詩からとられているのは明らか。2.26事件やタイの仏教、転生の物語は4部の「天人五哀」のエンディングにきて驚愕のどんでん返しにて結末に至るのだがこのことを記述したものは高橋睦郎氏が私の知るところ初めてで我が意を得たりと思いました。今回の本、1度の読書ではつかみきれない本ですが氏の2つの詩集を含めてまた再読したいと思います。

1390青木由弥子:2017/04/04(火) 21:19:18
『呂』の現物をお持ちの方はいらっしゃいますか?
いつも皆様の投稿、楽しみに拝読しています。
ところで、『呂』の現物をお持ちの方はいらっしゃいますか?国会図書館に調べに行ったのですが、所蔵されていませんでした。
昭和7年、11月号、12月号、「静かなクセニエ」の総題?と、内容を確認したいのですが・・・全集と、伊東静雄研究、小川さんの伊東静雄論考、杉本さんの岩波文庫の年譜や年表を照合しているのですが、ちょっとずつ違う、というのが、モロモロあって・・・

1391山本 皓造:2017/04/06(木) 12:27:07
とりあえず
駒場の日本近代文学館で検索すると、「呂」昭和7年6月号〜12月号を架蔵しているようでした。とりあえずお知らせします。
神奈川近代文学館にはないようです。
「呂」の探索については、昨年7月に一度書いたことがありましたね。ずっとさかのぼると、もう2度ばかり書いています。
以前、Morgenさんが、富士正春記念館を調べてくださったことがありました。ここにもありませんでした。
原野栄二さんの旧宅に奥様を訪ね、また、青木敬麿さんのお寺(兵庫県御津・西念寺)の継嗣・青木敬介様に書信で問い合わせをしたことがあるのですが、いずれも成果が得られませんでした。
「呂」の同人が何人かわかっていますので、その所在存否を調べて、片端から尋ねる、ということも考えてみたのですが、これは考えただけに終わりました。。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001529.png

1392Morgen:2017/04/06(木) 13:24:59
RE:「呂」?7,11月号,12月号 
今日は。

「日本の古本屋」に『呂』14・22・27号が出品されていますが、価格は81,000円です。(原野栄二で検索する。)
取敢えず、古書店にお願いして、目次だけを見せて頂くということはできないでしょうか?
***ただし、昭和7年11月号は第6号、同12月号は第7号ですので、「呂」14・22・27号は該当しませんが、『哀歌』所載「静かなクセニエ」の初出は依然として「不明」のままです。
<この際、どこか研究機関のお力で『呂』の総目次作成にチャレンジされるよう提案してみるという手はないですかね?>

*あきつ書店(アキツショテン)

〒101-0051
東京都千代田区神田神保町 1-24 ハクバビル501
TEL:03-3294-8175

1393青木由弥子:2017/04/06(木) 13:28:35
ありがとうございます
山本さま モルゲンさま

早速にありがとうございます。八万円? あわわ・・・この前、『春のいそぎ』を5000円で落札したのでした・・・

とりあえず、明日、駒場に行ってみます。
感謝です?

1394青木由弥子:2017/04/07(金) 20:26:03
行ってきました〜
今日は駒場の日本近代文学館に行ってきました。『呂』の創刊号から7号まで揃っていて・・・その後のものはなかったのですが、確認したかったのが昭和7年だったので、良かったです。ありがとうございました。

巻頭の論文が社会時評的な硬派なもの。
号を重ねるうちに、同人で毎月集まろう、とか、投稿欄設けよう、広告載せよう、と毎号、少しずつ変化している。
夏場に、青木が一人でやるべきものを持って来た、と文句?言いつつ、裸で蚊をバチバチ叩きながら、男三人、原稿用紙とにらめっこ、なんて光景が面白おかしく編集後期に記されていたり(そういうワイワイガヤガヤには、静雄は参加していませんでしたが)女性教師らしい人が、紀元節(昭和6年とか7年頃の事ですが)を批判的に書いていたり(栄養不良の子供たちが、寒さの中で長いこと校長の国体云々の話を聞かされて、貧血でバタバタ倒れる)精神文化研究所が出来たが、どうせマルクス主義者を批判する御用学者の集まりだろう、というような批判的な紹介をしていたり・・・
また改めて、ゆっくり読み込んでみたいと思いました。目次はとりあえず全部コピーしましたが・・・1枚100円のコピー代・・・通って、必要なところを書き写す方がよさそう。ほとんど人がいないので、ゆっくり静かに読めます。

昭和5〜6年の『詩・現実』があったので、借り出して読んでみました。とんでもない分量と濃い内容で驚きました。マルキシズムにシュルレアリスム、英米仏独西の欧米の最先端を翻訳紹介、研究、論考・・・作品欄は、梶井基次郎の短編なんかも詩と一緒にに並んでいて、要するに短い詩と長い詩、あるいは、詩は短めの文学作品、短編小説はちょっと長め、程度の差しか無いようでした。三好達治、丸山薫も、まだこの頃はバリバリのモダニスト。
『呂』の中で、静雄がひとりでモダニスムっぽい短詩を書いていて、同人たちに詩人ぶってるとか、もっとわかりやすく書け、とか言われてる(笑)同人による寸評コーナーなどもあって、面白かったです。

『詩・現実』の中で、静雄の短詩に一番近かったのは、モダニスム時代?の室生犀星・・・。朔太郎がひとりで文語の詩を「叙情詩」と名付けて載せていて、次の号では、新しいイズムは既に皆古びた、今、一番新しいのは新古典主義だ、という詩論を展開していて・・・それだってイズムでしょ、と突っ込み入れたくなるのですが(笑) 昔を懐かしむ、反動的懐古主義ではなく、行きすぎたモダニスムとは異なる新しい道を探そうという古典回帰だったんだな、というのが、なんとなく・・・

帰りに、渋谷のスクランブル交差点を見下ろす駅の2階に、外国人旅行客が鈴なりになっているのを見ました。つられて私も見てみた。全部黒髪の人達が一斉に、バラバラに動くというのは、確かに壮観、不思議なぞわぞわ感があります。

1395山本 皓造:2017/04/16(日) 11:56:59
「呂」探索記
??青木さんの投稿以来、私が昔、「呂」の探索でひと月か二月、走り回ったことを、しきりに思い出しています。といっても、それがいつのことであったのか、もう記憶が定かでなくなっていました。
 気になるので調べてみると、それは2001年の夏であったことがわかりました。その端緒の部分を、話の種に、少し再現してみましょう。

 もう学校は定年退職して、フリーな身体になっていました。自宅もすでに木津町に移っていました。このころの日記はワリとマメにつけています。



 でも、自分で書いたものでありながら、自分でわからない記述もあります。野家というのは野家啓一さんですが、氏の何を読んでいたのか。前後を見て、これは『言語行為の現象学』(勁草書房)であることがわかりました。水本精一郎は住中21期の卒業で、上掲論文は「初期詩篇の構造(1)――伊東静雄論ノート・その三――」(「河」22号、昭49.9)で、水本さんが住高同窓会室に寄贈されたものをコピーして持っていました。

 1998年頃から私は、「伊東Note」と称する、A6版の小さいノートを作って、読んだことの書き抜きや、感想、着想などを片端から書きつける習慣をつくりました。2001年頃にはすでにそれが20数冊に達していました。
 日記に書いた、7/15には、このノートに「構想」を書きつけています。
 ノート番号は「伊東26」で、その29葉目です。
 ここでも自分でわからないことがあり、「正面図」とは何のことなのか? これはやはり野家啓一の『物語の哲学』(岩波書店)を7/12に読了していて、その中にありました。自分では気がつきませんでしたが、この「正面図」という考え、見方は、私の「初期詩篇論」の書き出しの部分や、「河邉」稿の、河の流れの正面に立って見る、などに生かされているようです。
 思いつきに始まって、翌7/16から動き出すのですが、以下は稿を改めて、また投稿しましょう。

1396山本 皓造:2017/04/19(水) 14:16:59
『呂』探索記・その2
 わたしが2003年8月、雑誌『PO』にはじめて書いた論考「伊東静雄の詩的出発」は、「初期詩篇論の試み(一)」と副題し、その末尾に次のように記しました。

しかし『呂』時代にはそれ自体の問題性がある。たとえば「同人」としての『呂』の実態、この時期の詩作の時期区分、とりわけここから「哀歌・コギト的なもの」への道すじ、などは大きな課題である。この時期については、また稿を改めたい。

 前回の投稿で、“雑誌『呂』と伊東静雄”というテーマで思い浮かんだ「構想」を記しましたが、『PO』の初期詩篇論を書き終えた段階では、当時のメモによると、次のようなものになっていました。

 ? 同人雑誌『呂』の創刊までの経緯。原野栄二・青木敬麿・伊東静雄らの人的交渉
 ? 昭和7年6月の創刊号から□年□月第43号終刊号まで、総目次を含む書誌的事項の詳細
 ? 『呂』の同人たちと、主たる作品の紹介。
 ? 同人たちによる伊東の評価、および当時の詩壇・文壇中における結社『呂』の位置づけ
 ? 『呂』に掲載された伊東の諸作品の解読
 ? 伊東の全詩業中における初期詩篇群の位置づけ

 以上をもって(二)として、「初期詩篇論」の完結と考えていたのでした。
 このうち?については、拙著『大阪/京都』で、判明する限りでの事柄をあらまし述べておいたのですが、2001年当時は、青木、原野の二人については、まだほとんど何の知見も持っていなかったのです。

 ともかく『呂』の全冊、バックナンバーを揃えることが不可欠であり、それがなければ何事も始まらないのはあきらかです。まず、ここからです。

 いろんなエピソードから推して、伊東は資料文献類の保存にはわりとマメなところがあったように思います。しかし自宅は昭和20年、堺の空襲によって、「七月十日の明方に罹災、家財の大半と書籍の全部を焼失しました」。このとき『呂』もすべて灰になったに違いありません。

 7/16(月) 日本近代文学館に電話したが、今日は月曜日で、休館日であった。夜、インターネットで「御津町 西念寺」で検索して、住所、電話番号と、住職・青木敬介氏の名を知る。ネットによれば、青木敬介氏はもう長年、瀬戸内の環境破壊問題に精力的に取り組んでおられるらしい。
 7/17(火) 日本近代文学館に再度電話。『呂』は第1〜7号を所蔵していると。NACSISというサイトを教えてもらったので、ここでも検索。非会員なので検索範囲は限られるが、少なくとも大学図書館で『呂』をもっているところはなさそうであった。
西念寺に電話したが、住職は不在。奥様が出てくださったので、用件をあらましお伝えする。その後、手紙を書くことにして、下書きを作る。(未完)

?

1397青木 由弥子:2017/04/19(水) 15:00:58
少しずつ
山本皓三様

襟を正して拝読しております。
「研究」は原典がないと始まりませんが・・・内容は書き継がれて、今、読むことができる。
「鑑賞」は『全集』などで可能、これは大変嬉しいことですね。
フェイスブックに上げたものをコピペします。初期詩篇も、大切に読んでいきたいです。

ネットで知り合った若者たちと、グループチャットやメッセンジャー等で「対話」しながら、「口語自由詩」の自由について、考え続けている。
規範や規制からの自由、既製、既成からの自由・・・逸脱、解放を目指す自由は、行き先を定めているのか。永遠の放浪者、故郷喪失者であることを目指すのか。あるいは、たどり着き得ない、憧憬の地を求め続けるのか。
自主独立を目指す自由、自らの立つ場所を、自らの家と成す自由もあるはずだ、と漠然と思う。それもまた、見果てぬ夢の憧憬かもしれないが。

私が腰を おろす場所は皆
公園になる
そこで人々は ひとりでに
水の様な
安らかな歩調に帰り
木々の梢の様に
自分の言葉で話を始める

伊東静雄の「公園」。
そこを訪れた人は皆、自ずから安らいだ歩調となる場所、焦りを持たずに逍遙できる場所。風にそよぐ木々が自らの歌を奏でるように、各々が自らの言葉で話始めることのできる場所。公園であるから、誰もが出入り自由。静雄の語る「私」は、詩神の語る「私」の代弁であるようにも思う。
自分の言葉を持つ自由。それこそが、口語自由詩の自由、かもしれない。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1398山本 皓造:2017/04/22(土) 13:35:12
『呂』探索記・その3
7/18(水) 青木敬介氏宛発信

青木敬介様
 甚だ突然でございますがお許しください。私は詩人・伊東静雄について研究している者ですが、ご教示を得たいことがあり、先日お電話をいたしましたところ、ご不在にて、奥様にあらましを申し上げましたが、尚、書面にて意を尽したいと存じ、あらためて筆をとった次第でございます。
 私は同人雑誌『呂』のバックナンバーを探しております。ご承知のごとく、『呂』は昭和七年六月、伊東静雄や、お父様の青木敬麿さん、原野栄二さん等を中心に刊行され、伊東は多数の作品を同誌に発表しています。これらの初期詩篇は、伊東の詩業をあとづけるに当ってぜひ詳細な考究を要するテーマと考えるのですが、原資料たるべき雑誌『呂』の書誌事項について、各種評伝や研究書はほとんど触れるところがありません。…… (中略)……
 電話での奥様のお話では、「見たことがあるように思うが、全部そろっているかどうか……」とのことでした。もし現在『呂』をご所蔵であれば、その号数、またほかに同誌のバックナンバーの所在についてご存じならば、それらについても、ご教示を得とうございます。
 私は昭和十年生まれ、大阪の住吉高校の卒業生ですが、伊東先生は私の入学より先に阿部野高校に移られたので、直接に教えを受けたことはありません。伝記研究の欠を埋めるべく、先に大阪での伊東静雄の住居を調べて『昭和文学研究』誌に発表したことがあります。ひき続き京都時代の調査にかかり、ほぼ成稿を得ましたが、並行して“雑誌『呂』と伊東静雄”という標題で、少しづつ構想を練っているところです。(中略)……
 時々地図を眺めて、御津町岩見という所へ、やはり一度はぜひ行ってみたい、との思いを強めております。
 右、まことに唐突で不躾はでございますが、お許しをいただき、ご教示を賜りますよう、何卒よろしく御願い申上げます。 敬具
  七月一八日

 投函して、とうとう踏み出した、という思いに、なんだか昂奮して、ふわふわと、落ち着かぬ毎日を送っていたのですが、7月が終わってもまだ返事をいただけませんでした。
 わたしの孫は当時6歳で、幼稚園の年長組、折しも夏休みで、このころは毎日のようにやって来て(お母さん=わたしの娘の骨休めです)、おじいちゃんと精一杯遊んで、ご満悦、ご機嫌で帰るので、こちらはそれだけでクタクタになります。それでも、まだ今よりは若かったのでしょう、読書もし、原稿にも手をつけていました。
 京都での調べは、最期の詰めがまだ残っていて、これは10月になってようやく実現しました(後述)。それと、わたしのメモでは「桶谷伊東柳田」と称しているものに着手(これはある種の「日本浪曼派論」になるはずであったのだが、結局ものにならず。『コギト』『日本浪曼派』全冊を読まずに「論」を書くのは、無謀であろう)。
 また、この前後に読み上げた書物を拾ってみると、
  川田順三『口承文芸論』、同『無文字社会の歴史』、同『アフリカの心とかたち』
  柳田国男『口承文芸考』
  野家啓一『物語の哲学』、同『言語行為の現象学』、同『無根拠からの出発』
  バシュラール『空と夢』、カール・シュミット『政治的ロマン主義』
  大岡信『抒情の批判』、同『超現実と抒情』、同『昭和詩史』、同『蕩児の家系』
 まあ、よく勉強もしていた、ということでしょう。大岡信『抒情の批判』を読んだ日に、こんなことを日記に書きつけています。

この本の読了は3度目である。1回目は Aug. 3. 1961、羽曳野病院に入院中に詩を書いていた頃。2回目は June 24. 1982、この時も詩を書いていたが、これは中年の Sturm und Drang みたいなもの。すると、ちょうど20年おきにこの本を読んだことになる。それはたぶん、20年を間に置いて、同じような精神状態が戻って来ているということを意味している。〈ちょっとも傷けられも また豊富にもされないで〉。

 8月に入り、督促がましくて気がひけて、臆しつつ、西念寺に電話してみましたが、やはり住職はご不在で、奥様が出られました。これが8/1(水)で、すぐ後の8/4(土)に、追って手紙で、「かような閑文字のために勝手な申し条でまことに心苦しいのですが」お返事を賜りたい、と書き送りました。
 8月13日(月)、「待望の!」返事が届きました。(未完)

1399山本 皓造:2017/04/22(土) 13:38:21
「公園」
青木様。

『呂』という公園。願望と自負。
なぜ伊東の詩は、「私が……」というふうに始まるのだろうか。

1400青木 由弥子:2017/04/23(日) 18:48:18
山本様
そうですね、なぜ、静雄は「私が〜」から始めるのでしょう。

私自身が詩を書き始めた時、青木さんの詩は翻訳詩のようだ、と言われたことがありました。
代名詞が多い、中でも「私」が多い、日本語では「私」は基本的に書かなくてよい・・・

意識して「私」を書かないようにしていた時期もありましたが、今では、「わたし」と「私」を一つの詩の中で書き分けたりする時もあります。

何といえばいいのか・・・和歌や俳句、あるいは伝統的な日本の抒情詩は、障子を開けた縁側のある和室で、外の空気や光を感じながら(時には一体となりながら)部屋の中の各主体(私)が詩を歌っている、そんな気がするのですが、西欧の詩の場合、石造りの部屋の、小さな窓から外を眺めながら(窓のそばに立つ人も、部屋の奥にいて窓に背を向ける人もいるかもしれませんが)各主体(私)が書いている。場合によっては、その状態を、更に窓の外から見ている、のぞき込んでいる「私」がいる、ような気がします。

静雄の「私」「わが〜」には、そんな、感じている「わたし」を、外から見ている「私」が居る、そんな二重性を感じています。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1401山本 皓造:2017/04/25(火) 11:42:13
『呂』探索記・その4
8/13(月)青木氏より返信来る

冠省。度々お便りを頂きながら御返事が遅れ、申訳ありません。お申しこしの「呂」につきまして、私どもにも全巻揃っている訳ではありませんでしたが、かなりの号が残っておりました。で、書斎の一隅に箱に入れておりましたが、先日探しましたものの見つかりません。もう一度探してみますので、あとしばらくお待ちください。なお、お急ぎでしたら、茨木市立図書館の富士正晴コーナ(広重聰氏担当)にいくつかあると思います。右、とり急ぎ御返事のみ。匆々

8/14(火)

 青木氏の教示に従って、まず茨木市立図書館に電話してみましたが、今日は富士正晴記念館は休館、また、広重聰氏は2年前にすでに退職されたという。
 この日、「原野栄二」で検索して、大きな収穫がありました。原野栄二氏に近著『うらばなし 学者 文化人』あり。一燈園燈影舎 1990年6月刊行。――一燈園というのはもしかして、西田天香のあの一燈園ではないか。それなら話には聞いたことがあり、たしか河上肇の自叙伝でも読んだ気がする。原野さんはどういういきさつで、この団体とかかわるようになったのだろうか。そして、もし原野さんがまだご存命であれば、手立てを尽してお会いして、お願いすれば、話は簡単に実現するのではないか(わたしはこのときにはまだ、原野氏が疾くに亡くなられたことを知らなかったのです。1999年7月逝去。)

8/15(水)

 京都市の電話番号案内に問い合わせる。
   京都市内に「原野栄二」名義の電話はナシ。
   一燈園は、075-581-3136.
   燈影舎は番号なし。
 次に一燈園に直接電話して、
   燈影舎 075-581-2901
 を知る。
 それで燈影舎に電話したが、ここも盆休み中であった。盆が明けたら燈影舎にまた電話して、原野氏宅の住所や電話番号を教えてもらう。やってみよう。

8/16(木)

 先日の青木氏からのハガキにたいして、富士正晴記念館のこと、原野栄二氏の近著のこと、一度原野家を訪いたいと考えていること、などを書いて、礼状を出す。

8/22(水)

 お盆も明けたので、探索を再開する。
 まず燈影舎に電話して用件を告げる。
   ・原野氏の本はまだ残っているので、来社されればお渡しできる。
   ・原野栄二氏はすでに死去された。夫人が家を守っておられる。
   ・ただ、その住所、電話番号は、原野家の許しがなければお教えできない。
   ・それで、わたしが燈影舎気付で原野夫人宛の手紙を書いて、これを燈影舎に託し、原野家に届けてもらう、ということを頼んで、了解を得る。
   ・燈影舎の所在は、JR山科―京津線四宮でおりて5分ほどの所。

 大急ぎで原野夫人宛の手紙を草し、午後、山科に燈影舎を訪ねました。原野栄二著『うらばなし』を入手。その他、出版物のカタログ等を頂戴しました(京都哲学叢書、ほか)。

 甚だ突然のお尋ね事をお許し下さい。
 原野栄二先生は昭和七年から、伊東静雄、青木敬麿ら諸氏と共に、『呂』という詩の同人雑誌を出しておられました。私は伊東静雄の研究に携わっていまして、この『呂』所在を探しています。原野家ではもしかして、同誌を保存してはおられなかったでしょうか。もし今も原野家でご所蔵であれば、ぜひ拝見させていただきたく存じます。
 はなはだ不躾ではございますが、右につきご一報を賜りたく、伏してお願い申し上げます。敬白  (未完)
?

1402青木 由弥子:2017/04/28(金) 10:21:03
桑原武夫さんの寄贈書のことなど
もうすぐ『詩と思想』5月号(伊東静雄特集)が出来上がる。
今回、伊東静雄のご遺族から諫早図書館に寄贈された書籍・資料の中に「発見」された、伊東静雄自身の手による書き込み(詩の下書き)の写真と書き起こしを掲載することができた。伊東静雄研究全体から見れば「小さな一歩」かもしれないが、伊東が「下書き」をどのように推敲したのか、など、詩作/思索の過程を垣間見ることができるのは、「小さいけれども大きい」出来事であるに相違ない。
なぜこんなことを記しているか。
昨日、桑原武夫の寄贈書籍、やく10,000冊が、保管場所がない、という、極めて物理的(非人情的、非学術的、非文化的)な理由で、遺族に何も相談のないまま廃棄処分されていたことが判明した、という記事を読んだからである。
神奈川近代文学館の「近藤東文庫」とか「楠本憲吉文庫」、長島三芳の生前・没後の寄贈書類など、それぞれの見識や趣味、志向、傾向性によって収集された書籍の目録を見ているだけでも、その人の「生前の頭の中」をのぞき込んでいるような、奇妙な感覚に襲われてゾクゾクする。
もしかしたら、一冊一冊精査していけば、本人や、誰かの手になる書き込みが発見されたり、そこからまた、新たな研究、ひらめき、発想の扉が開くかもしれない。
それなのに・・・。ご遺族の「『桑原武夫』という存在が忘れ去られたようで残念だ」と語ったという記事を読みながら、その痛みを維持管理する側は、どこまで感じているのだろう、と、なにやらそら恐ろしいような気持ちになった。
データだけが残されていればいい、とでもいうのだろうか。紙の書籍を、手に触れ、読み、場合によっては書き込んだり、何かを挟み込んだりした痕跡そのものが持つ、匂いのようなもの。気配。誰かが生きていた証し。
古書で詩集を購入すると、表紙の裏側にフランス語やドイツ語で月日が記されていたり、蔵書印が押されていたりして、感慨深いものがある。今は値崩れしていて、古書購入に「清水の舞台から・・・」というような覚悟は必要なくなったかもしれないが、新刊本にせよ古書にせよ、たとえば戦前の学生がどれほどの思いで購入したか、大切に持ち続けたか、といった、「もや」のようなものが、書籍そのものの息遣いとして残っている(今も生き続けている)のが伝わって来る。
本の命、のようなものを感じる、感じ続ける生き方をしたいと思う。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1403青木 由弥子:2017/04/28(金) 10:23:07
ついしん
先ほどの投稿は、フェイスブックにのせたものです・・・
それを追記しようとして、そのまま投稿してしまいました。
なんだかぶっきろばうですが、怒りモードもそれなりに加算されているかもしれません。
『呂』が含まれている、なんてこと、あるのか、ないのか・・・今更どうしようもないですが。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

1404山本 皓造:2017/04/28(金) 15:40:46
『呂』探索記・その5
8/25(土)

 母の親しい知人の家にご不幸があり、葬儀から、骨あげ、初七日まで付き合って、夕方帰宅すると、留守中に原野夫人から電話があった由。こちらからかけ直して、暫時お話をし、29日に訪問のお許しをいただく。
 電話で話されたこと。

 ・夫人は今80歳。しかしお元気で、よく話をされる。書にも携わり、号を「清香」といわれる。
 ・同人雑誌は『呂』のほかに『河』『雲』などが保存されていたと思う。押入れをよく探せば出て来るかもしれない。
 ・原野の資料はいずれ、「弟子」に引き継いでもらう。蔵書は物置に入れてあったが、シケったのでゴミとして処分したものがかなりある。
 ・かつて堺で「文学散歩」という催しがあり、そこに原野も参加して、伊東の住居址などに行き、原野が話をしたこともあった。
 ・江川ミキさんとは親交があり、よくモノなど送ってもらった。
 ・雑誌「大阪人」に誰か何か書いていた。
 ・どうぞお越しください。29日がよろしい。宅は阪急上新庄からすぐ近く。娘が近くにいるので、迎えにやります。

 夫人は話が好きで、もっとたくさん喋られた。一気に新しい事実が眼前に開けて、つかまえきれない。

8/27(月) わたしの不在中に夫人から、『呂』みつからぬ、とお電話を頂いた由。
8/28(火) こちらから電話、お話しに出たさまざまな文献資料や人物についても知りたいので、やはり明日お邪魔いたします、と伝える。

8/29(水)

 ・この日わたしから夫人にお渡しした資料
   山本皓造「伊東静雄の住居」(「昭和文学研究」第26集、1993.2)
   原野栄二「伊東静雄のこと」(「果樹園」74号)
  夫人から頂いた資料
   「大阪人」 (2001年9月、Vol.55) 寺田操「伊東静雄 近代大阪の人物誌?」を載す
   「河」 昭和7年2月号(第60号)
   野島秀司「原野栄二先生を偲ぶ」(プリント)
   宇田正「弔辞」(プリント)
  野島秀司さんは夫人が「弟子」と呼んでおられた人です。
  宇田正氏は追手門大の教授とのこと。
  なお、野島氏のこと、および『呂』同人のことについては、後に別に記します。
 ・原野家と青木家はきわめて親しかった。原野夫妻は下村寅太郎氏の媒酌で、西念寺で挙式した(昭和17年)。
 ・姉(?)が、吉田で「白樺」という喫茶店をしていて、貧乏学生に親切にしていた。その学生さんたちは、のちに皆出世した。
 ・燈影舎との関係はあまりよくない(この件は他聞をはばかって、ここには詳述しません)。
 ・2階に案内された。西田幾太郎の書簡を額装したもの、須田剋太郎の原画、その他、有名な人たちの色紙や写真がいっぱい、無造作に置かれていた。(未完)

1405山本 皓造:2017/05/12(金) 11:50:44
『呂』探索記・その6
8/30(木)原野夫人宛御礼状

前略 昨日は押しかけて参上いたし、申訳ございませんでした。手厚いおもてなし、さまざまなご教示と、すばらしい眼福。奥様のお話から、原野先生のお人柄までが偲ばれ、まことにたのしく充実した一刻でございました。厚く御礼申し上げます。
昨日お渡しした原野先生の「伊東静雄のこと」や、『うらばなし』から、『呂』の同人として次のような方々のお名前が出てまいります。まことにご手数ですが、この方々について、現在の消息、ご遺族の連絡先等、もしわかっておりましたら、お教えを願いとう存じます。これらの同人で、もしかして『呂』を保存しておられる方がおありかもしれませんので(氏名別紙)。
野島様には近々お会いしてお話をうかがいたいと思っております。『雲』の中に、原野先生が伊東にふれて書かれた文章が尚あるようですので、こちらは燈影舎で調べるつもりです。
何かの折に『呂』がみつかりましたら、是非お知らせをいただきとう存じます。
お世話になった上、重ねてのお願いで、まことに恐縮に存じますが、何卒よろしくお導きの程、お願い申し上げます。右、御礼迄。    草々
  八月三十日
原野清香様

(別紙)
『呂』同人
  原野栄二、青木敬麿、伊東静雄
  〇 瀧波善雅(アララギ歌人・篆刻家)
  〇 藤野基一(住友本社・俳人)
  〇 鳥羽嘉寿夫(前赤穂市長)
  〇 岡本正三(医学博士・伊東のホクロを手術)
  〇 澤延常(子息茨木市?)
  〇 正岡忠三郎(正岡子規の跡取り)

9/4(火)原野夫人より

前略
先日は折角お越し下さいましたのに何のおもてなしも出来ませず、却って結構なお土産まで頂き、恐縮致しております。お申し越しの件、主人の知人にお尋ねしていますが、何と云っても主人のお友達は皆なくなっていますので、判りにくうございます。お尋ねはしていますが、どなたがいつお返事を下さるか判りません。何か判りましたら又お知らせします。只今私はあれから整形外科に通っています。病気□□なので只今思うようになりません。お許し下さいませ、何か判りましたら又お知らせ致します。野島もその内来ると思います。季節の変り目御身大切にご自愛下さいませ。  かしこ
原野清香 拝

[別紙]

主人の本棚に伊東静雄の詩集がありましたのでよろしければ貴方に差し上げます。そして、娘が本棚を片付けているので、入用の本ありましたら差し上げます。よろしければご覧下さい。原野

9/8(土)原野家訪問

野島氏と初対面。きさくにしゃべってくれて、話がはずみ、そこへ原野夫人も加わって、にぎやかな半日となった。

この後、数回にわたって野島-山本メール交換がありましたが、省略します。

期待していたものん、『呂』は結局、早急にはみつからぬ、という結論になりました。

(未完)

1406山本 皓造:2017/05/13(土) 14:29:32
『呂』探索記・その7
 この稿を書きながらウエブ上を探しているうちに、こんなものをみつけました。

 伊東静雄と原野栄二先生―伊東静雄の未発表の詩の発見に想う
 投稿日: 2014年4月14日 作成者: admin
 http://banvenom.com/?p=707

 このサイトの性質や投稿者については、何の知見も持ちません。『呂』の話が出て来るので、以下に全文を引用してご紹介します。

     ---------------------------------------------------

日本浪漫派を代表する詩人、伊東静雄の未発表の詩が見つかったとのこと。伊東静雄さんは、恩師?原野栄二先生や哲学者で歌人である青木敬麿さんたちと同人誌『呂』を発行。その後、伊東静雄の処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』が刊行されることになるのだが、当時、弘文堂の編集長だった原野先生もかなり尽力をしたと聞く。

原野先生曰く、伊東静雄という人は、?とても線の細い人?だったという。そしてわたしが二十歳の時、堂島にあった近代日本文学専門の書店で『伊東静雄論』を買いに行かされたことがあった。あの書店は書店というよりも、何かソファが置いてあり、その上に無造作に書籍が並べてあるような、そんな湾や打ったことを記憶している。

原野先生が亡くなられて後、東京?神田の古書店の人が来て、同人誌『呂』がないと尋ねて来られたことがあった。何でも人伝いに原野先生のご自宅を聞かられて、先生の自宅まで来られたという。その時、原野先生の奥様に呼ばれて、わたしも原野先生のご自宅に行って、神田の古書店の人ともお会いして、いろいろとお話を聞いた。

残念ながら原野先生のご自宅からも、先生の同人誌関連の書籍を預かっているわたしの方からも、同人誌『呂』は発見できなかった。同人誌『呂』は第四号が刊行された際、当局の検閲で発行禁止処分にあって、それ以後、刊行されなくなった、日本近代文学史においても貴重な同人誌になっているらしく、その古書店もある大学の要請で同人誌『呂』を探しているとのことであった。

そう聞くと、恩師?原野栄二という人は、単に大阪の片田舎で学習塾を営んでいたという人物ではなく、日本近代文学史や日本近代哲学史、あるいは日本近代政治史に名を残すような大人物だったのではないかと、考えるように至ったのである。

一昨年、奥様の原野清香さんも亡くなられ、本当にさみしくなった。何よりも原野栄二という人を知る人物が居なくなることである。だからこそ、伊東静雄さんの話題が取り上げられるようになったときに、わたしは原野栄二先生のことを書きたくなるのである。

1407山本 皓造:2017/05/17(水) 15:39:11
『呂』探索記・その8
 古書の検索中、たまたま雑誌『雲』の「ほぼ揃い」(欠号数冊あり)をみつけて、安いので購入しました。
 『雲』は戦後、原野さんが主宰して自ら編集発行された雑誌です。ほぼ毎号、ご自分の詩とエッセイを出しておられます。ほかに青木敬麿さんの短歌「生老病死」も、毎号掲載されています。
 その『雲』の第22号(昭和56年6月)に、原野さんの、「回想の伊東静雄」という文章が載っていました。
 後半は詩で、単行本『うらばなし』に載ったものの元稿で、いくらか推敲のあとを残して、ほぼ同じものですが、前半の地の文は『うらばなし』にはなく、関西文学の会が堺の伊東家のあたりを散策した、珍しい記録です。そのままここに載せます。画像はクリックして大きくしてみてください。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001545.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001545_2.jpg

1408Morgen:2017/05/19(金) 22:31:11
『詩と思想』(特集 伊東静雄)
『詩と思想』(特集 伊東静雄)5月号(発行 土曜美術社)が発売されていたので今日入手しました。
 なかなか面白そうですので今から読ませていただきます。、

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001546.jpg

1409山本 皓造:2017/05/25(木) 12:36:46
『詩と思想』
 わたしも『詩と思想』特集号の伊東静雄関連部分だけ、ようやく読み終えました。田中先生の論考をはじめ、青木さん司会の座談会など、なかなか読みごたえがありました。期せずして、なのか、あるいは何らかの必然性があるのか、「戦争詩」についての思索が多かったのを、興味ふかく思いました。そのうち感想をまとめて投稿したいと思います。皆様もどうかご意見をお寄せください。思うに、今日び、伊東静雄の特集を組むなど、快挙(怪挙?)ではないでしょうか。

1410青木由弥子:2017/05/25(木) 14:44:32
御礼申し上げます
皆様のご投稿にヒントや新しい発見を頂いたり、アドバイスを頂戴したりして、ただただ感謝です。
お気づきの点がございましたら、どうぞまたご教示ください。とりいそぎ御礼まで。

1411Morgen:2017/05/28(日) 23:16:34
「詩索」という対話
『詩と思想』所載の田中俊廣“「詩索」という対話”を読み感じたことを2点まとめてみました。

1“現代は、情報氾濫の中で言葉や文字言語の価値が希薄化し埋没しつつ(時代で)ある。・・・とりわけ詩の存在感は小さくて薄い。・・・・・ことばによる思考が低下しつつある。伊東静雄の「詩索」の根幹を見直し検証する試行は、今こそ継続していかなければならない。”というのが、田中先生がこのエッセイで強くアピールしておられる論点であります。

2 「詩索」とは?―伊東静雄は、自己の中の他者である“もう一人の「私」”(半身)との対話によって自己の存在(Identity)や認識の根源を探ろうとした。「詩」はこの自己探求の思索そのものであり、詩を書くことで思索し、思索する行為が詩となっている。・・・教師をし家庭を持つ生活者として、十五年戦争の困難な時代を、詩を書くことで「詩索」しつつ生きてきたのである。

 「詩索」の姿勢は「倦んだ病人」まで一貫して保たれていますが、この15年の間に、「詩語」(ことば)の意味合いや、ことばにかけられたバイアスは大きな変化をみせていることが、「太陽」「雪」「鳥」など、「詩語」の時系列マトリックスを作成してみると良く分かります。(この項は次稿にて。)

1412齊藤 勝康:2017/05/30(火) 23:36:31
詩と思想
山田兼士氏のブログを見ていて今回このことを知りました。伊東静雄特集だったのですね。氏の「近代詩最後のトライアングル」興味深く読ませていただきました。今後氏のボードレールのごとく静雄詩について書いていただくことを期待したい。

1413Morgen:2017/06/02(金) 23:08:48
静雄詩における「詞」の流れ
??去る3月17日「三国ヶ丘菜の花忌」に参加して―「伊東静雄詩詠唱の流れ 」という題で投稿をしたことを思い出しました。
 その際、“三国ケ丘移住というトポスの変化によって、静雄詩の「詞」(ことば)・詩的言語にどのような影響があったか?”―というような大まかなテーマを設定して、チャートを作ってみようとしました。
 太陽、雪、鳥、花という静雄詩に出てくる「詞」の中身、ニュアンス、詩的言語としての響き具合(反響)が、どのように変化をしているかを考えてみるために一覧表としたのです。その変化や響きの違いを、詩人の自己内対話・「詩索」と絡ませて展開してみるとどうなるか?―などと今ぼんやりと考えています。何か意味のある成果がまとまったら投稿します(腹案はありますが文章にするには時間がかかりそうです)。

 私事ながら、会社が梅田のグランフロント南館35階に引越したので、今までよりも通勤時間短くなりました(約20分)。(株主総会で再任されれば)2021年迄の4年間は現役で頑張ります。(→80才)
 所属する業界を取り巻く環境は、IotやAIの急速な展開によって、まさに「第4次産業革命」と呼ばれる技術革新が進んでいます。熱気に溢れた若い技術者たちの真剣な息吹を身近に感じながら、老後の時間を過ごせるだけでも有難く思っております。

 淀の河邊では、めっきり緑色が濃くなった草木の間から、繁殖期を迎えた野鳥たちがうるさいほどに鳴き声を上げています。旺盛な生命力が空気中に漲っていることを身体に感じます。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001551.jpg

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1414Morgen:2017/06/14(水) 22:53:39
静雄詩における「詞」の流れ (2)
入梅したというのに、乾燥した爽やかな夏日が続いています。
私の勤務するオフィスからは大阪湾や、淡路島、四国などが眺められ、淀川も河口から上流まで一望できます。
前回の投稿に、次のようなメモを付け加えてみました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
? 「わたし」の膨張

 対象を凝視する「わたし」(近代的自己意識)が膨らみ、描かれているのは、現実の具象的な自然ではなく、幻想・夢想された抽象的な自然
 ・連嶺の夢想よ!… 非時の木の実熟るる
 ・氷り易く 一瞬に氷る谷間
 ・切に希はれた太陽をして 殆ど死した湖の一面に遍照さす

? 「そんなに凝視めるな」

 ・ 膨張した「わたし」が「八月の石にすがりて」「水中花」で、限界に達し破綻しそうになり、自然の中で自然の変化とともに生きる方向への転換をこころみる。
 ・三国ケ丘移住がその契機となった(大きな意義があった)

? 自然の中に包まれた「わたし」

 ・百千の草葉もみぢし…われ秋の太陽に謝す
 ・みささぎにふるはるのゆき…まなこ閉じ百ゐむ鳥の しずかなるはねにかつ消
? ? ? え…春来むとゆきふるあした
 ・「自然の中にすっぽり包まれて自然にとけこむ」=「日本的感性」
   (満開の桜の樹の下で花の盛りを享受する日本人共通の感性)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001552.jpg

1415龍田豊秋:2017/06/15(木) 10:01:32
ご報告
5月27日午後2時から,諫早図書館に於いて第110回例会を開催した。

会報は第104号 内容は次のとおり。

1??伊東静雄ノート(7)
????????????????????     ??????????????????????????????青木 由弥子
        ????????????????????????????????<千年樹 第69号から転載>

2 詩「鳥」
??????????????????????????????????????????  ??      高塚 かず子
????????????????????????????????????????????????<詩と思想5月号>

3 詩 「菜の花に寄す」?? 〜2017・3・26
 ??????????????????  ????第27回伊東静雄賞奨励賞受賞?? 宮 せつ湖

??3月26日、高城城址で開催された「菜の花忌」が、詩人の故郷阿武隈河原に思いを馳せながら謳われています。

4 詩「晩秋列車」
????????????????????????????第26回伊東静雄賞受賞????????藤山 増昭

5 詩「高田の馬場駅 午後六時二十三分」
????????????????????   ???????????????????????????????? 青木 由弥子

6 「伊藤桂一先生を偲ぶ会」が、2017年4月23日東京・学士会館で盛大に開催   された。

7 投稿文 「つつじ祭り 諫早の良さ満喫」
?????????????????????????????????????????????????????????? 岡本 博
         2017.4.10長崎新聞 声欄に掲載

                  ?????????????????????? 以上

1416Morgen:2017/06/16(金) 11:01:11
宇宙と脳みそーどちらが大きい?
 会社のロビーで百数十人もの見なれぬ人達が、あちこちに固まって何かイベントをやっています。(JAXA*のイベントでした。)

"Which is bigger, the universe or the inside of your head?”というキャッチフレーズが大きく掲示してあります。

 説明を読んでみると、むかし夏目漱石が「あなたの頭の中は日本よりも大きい。」と言ったそうです。後に、漱石は「則天去私」の心境に変わりました。伊東静雄にも似たような変容がありました。

 このような膨張した自己意識が、等身大に戻ることによる心の姿勢(「詞」も)の変容は、夏目漱石や伊東静雄だけでなく、誰にもあることなのかもしれませんね。

*JAXA(ジャクサ)は英文名称「Japan Aerospace Exploration Agency」の略称です。
            =日本語の正式名称は「宇宙航空研究開発機構」です。
2003年10月1日、H-IIAロケットなど大型ロケットや人工衛星、宇宙ステーションなどの開発を中心に行ってきた宇宙開発事業団(NASDA)、宇宙や惑星の研究を中心に行ってきた宇宙科学研究所(ISAS)、次世代の航空宇宙技術の研究開発を中心に行ってきた航空宇宙技術研究所(NAL)の3機関が統合し、「宇宙航空研究開発機構」として新たに誕生しました。種子島から純国産衛星を打ち上げていることで知られています。大阪にもその出先事務所があるようです。

  

http://

1417Morgen:2017/06/22(木) 12:07:45
静雄詩における「詞」の流れ (3)
「太陽1」
―「わがひとに與ふる哀歌」
  A    太陽は美しく輝き
 (13行)  あるいは 太陽の美しく輝くことを願ひ
      手をかたくくみあはせ
      しづかに私たちは歩いて行った
      ・・・・・・・・・・
      いま私たちは聴く
      私たちの意志の姿勢で
      それらの無邊な廣大の讃歌を

  B     あゝ わがひと
(4行)   輝くこの日光のなかに忍びこんでゐる
      音なき空虚を
      歴然と見わくる目の発明の
      何になろう

?? C   ??如かない 人気ない山に上り
(3行)   切に願われた太陽をして
      殆ど 死した湖の一面に遍照さするのに

Aの骨子は、「手をかたくくみあはせ しづかに私たちは歩いて行った」「いま私たちは聴く 私たちの意志の姿勢で それらの無邊な廣大の讃歌を」の部分。太陽や鳥、草木はその背景。この抽象的な太陽の描写は、「私たちの意志の姿勢で それらの無邊な廣大の讃歌を」歌う上で必須の要件には見えない。(「太陽が幸福にする」という秘められた期待はあったかもしれないが・・・)

B「あゝ わがひと」で舞台が回る。「太陽は美しく輝き あるいは 太陽の美しく輝くことを願ひ」と歌われたその太陽の光の中には、「音なき空虚が忍び込んでいる」のだ。
「音なき空虚」とは、その直前に歌われた「私たちが意志の姿勢で聴いた無邊な廣大の讃歌」などまったく聞こえないということ。また、凝視の末に脳裏に焼き付けられた残像としての湖(心の中)にまで「音なき空虚」がひろがり、「讃歌」のかけらすら見えない。

C「太陽が幸福にする」と切に希われたのに、「如かない 人気ない山に上り」湖の一面をじーと眺め渡してみても、太陽は湖面を照らさず、「殆ど死した」ように暗く鎮まりかえった湖面には「音なき空虚」だ広がるだけだ。
「私たちの意志の姿勢で それらの無邊な廣大の讃歌を」歌おうとしたのに、「あゝ わがひと」よ、「わがひとに與ふる哀歌」しか歌えないのだ。

「太陽?」
―「八月の石にすがりて」
まだ大阪市内に住んでいた頃に作られた「八月の石にすがりて」のなかには太陽が2回登場し、異なる性格の「詞」になっている。

    A たれかよくこの烈しき
      夏の陽光のなかに生きむ

    B 見よや、太陽はかしこに
      わずかにおのれがためにこそ
      深く、美しき木陰をつくれ。

A の太陽は、昭和11年7月末〜8月始の猛暑続き、特に31日の最高気温35℃という「烈しき夏の陽光」に照らされた灼熱の石という現実性が明確に表現されている。もはや『哀歌』の抽象的な太陽ではなく、熱や光をもった現実のの太陽に照らされた道端の石である。
 母親の急死、長女出産・妻の病気という切迫した家庭の事情のなかで、期日までに詩を提出せよという「文芸懇話会」からの強い要請があった。生きる気力さえ弱まり、心身ともに疲労困憊状態になっていた詩人は、それでも酷暑の大阪を三日三晩気狂いのように歩き回ってこの詩ひとつを創った。

B の太陽は頭の中で創造された太陽である。「太陽すら自分のためだけの日陰をつくっている」ではないか。しかし、詩人は「太陽がもたらしてくれる幸福」とやらに頼ることはやめて(拒絶し)、“自分もまた「雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて 青みし狼の目」をまねて(そんな目をして)、(われも亦)生に執着し、運命に抗っていこう”と頑張っているようなことば(詞)である。

「太陽?」
―「百千の」
      ・・・・・
      哀しみの
      熟れゆくさまは
      酸き木の実
      甘くかもされて 照るに似たらん
      われ秋の太陽に謝す(「百千の」)

 昭和15年『文学界』12月号に発表。翌年1月『文芸』掲載の「わが家はいよいよ小さし」へと続いており、秋の草原(「耳原の三つのみささぎつらぬる岡の辺の草」)をわたる野分けの風、「ことごとく黄とくれないに燃ゆれば」と、堺市北三国ヶ丘の風景が歌われている。

「太陽?」の逼迫した生活環境や心境は、(現実の)秋の太陽の力で「酸き木の実 甘くかもされて」いくように円熟した詩の境地へと深められており、その趣意は「則天去私といふことが大切」「個人の生活と体験(自己意識)のみを主な土台(モティーフ)としていてはいけない」という昭和15年6月池田勉宛書簡に表明されている。「太陽?」は、詩人にとって身近で、親しみやすい太陽であり、詩人はその太陽に心から感謝の詞を贈っている。

 結果的には、三国ヶ丘移住がこの心境変化に大きな役割を果たしているのではないだろうかと推量される。

 こんな調子で、前項で設定したモデル(フレーム)による静雄詩における「詞」の流れ をスケッチして見ました。こうしてみると、当たり前のことをくどくど書いただけで、静雄詩のより深い理解に役立つかどうかは自信がありません。

http://

1418龍田豊秋:2017/06/22(木) 15:02:19
ご報告
5月29日、諫早市美術・歴史館に於いて、野呂邦暢を顕彰する「第37回菖蒲忌」が開かれた。
今年は、野呂邦暢が生誕して80年となる節目の年です。

1??作品奉読 「諫早菖蒲日記」冒頭??????諫早音声訳の会  村川 淳子

2 野呂文学作品朗読
(1) 西陵高校放送部 「落城記」  中野 栄太郎(3年)・福永 瑞菜(3年)

(2) 諫早高校放送部 「小さな町にて」より
????????????????????「パクよ、お前も...」??入江 祐希奈(3年)
????????????????????「鬼火」????????????????草野 美穂??(3年)

3 第17回諫早市中学生・高校生文芸コンクール最優秀賞作品朗読

  随筆 「伝えたいこと」  中学の部 佐藤 佳奈(諫早高校附属中学3年時)

????随筆??「おかえりなさい」??高校の部 渡邊  輝(諫早高校2年時)
????????????????代読 諫早高校放送部 坪田 優花

4 顕彰活動報告  季刊誌「諫早通信」編集長 西村 房子

5 「野呂邦暢小説集成」出版報告  編集者 久山 めぐみ

                  ?????????????????????? 以上

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001556.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001556_2.jpg

1419龍田豊秋:2017/07/04(火) 17:52:39
ご報告
6月24日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第111回月例会を開催した。
会報は、105号です

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。

羨望   昭和16年『天性』8号特集 『春のいそぎ』収録

山村遊行??昭和16年『コギト』6月号????同上

庭の蝉????昭和16年『コギト』7月号????同上


会報はつぎのとおり。

1??伊東静雄の「詩索」という対話
?????????????????????????????????????????????????? 田中 俊廣
?????????????????????????????????????? <平成29年 詩と思想5月号>

2 詩 「最初の質問」
?????????????????????????????????????????????????? 長田  弘
????????(おさだ ひろし、1939年11月10日〜2015年5月3日)

                      ?????????????????????? 以上

1420龍田豊秋:2017/07/05(水) 11:00:10
ご報告
7月2日、第16回諫早としょかんフェスティバルが開催されました。

伊東静雄研究会は、1階最奧の文人コーナーにて、諫早ゆかりの文人の作品を会員4名が紹介しました。

果たしてお客さんに来て頂けるのか、会員一同心細い思いでしたが、足りなくなった椅子を急いで増やしたり、資料を取りそろえたりと、嬉しい悲鳴をあげました。

今回紹介された文人は、次の4名です。
1??伊東 静雄  詩情豊かな孤高の詩人
2 上村 肇   人生の哀歓 詩に込めて
3 木下 和郎  古里を愛した叙情詩人 小長井町出身
4 轟  龍造?? 文学発表の場は同人誌 高来町出身

第157回直木賞候補にノミネートされている佐世保市在住の佐藤正午さんは、北諫早中学校に通っていたそうです。

あと、第156回直木賞候補にノミネートされた作家の垣根涼介さんも、今後の受賞が大いに期待されています。
                      ?????????????????????? 以上

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001558.jpg

1421Morgen:2017/08/01(火) 13:39:01
八月の太陽に・・・・
謹んで暑中お見舞い申し上げます。
いよいよ八月になり、皆様いかがお過ごしでしょうか。私は、日焼け止めクリームをたっぷり塗って八月の太陽を浴び、親しみたいものと(年甲斐もなく)希がっております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
運命? さなり、
あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!
白き外部世界なり。(「八月の石にすがりて」より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
声に出して詠んでみると、のっぴきならない深刻な鋭い響きがしますね。
(たとえ詩全体の意味がよく分からなくても、この三行の詩句の、リズミカルで差し迫った深刻な響きだけで、詠み手の心にアピールし記憶に残る、突出したフレーズです。まるで歌曲の“さび”(高揚部)のような響きがします。)

伊東静雄の詩を読んでいると、意味の流れからみて「主題部」(モティーフ)となるところと、詩を朗詠してみると歌の「さび」(ブリッジ)のように高らかに響く部分との両者が、必ずしも一致しないことに気が付き惑わされることがあります。(“はぐらかし”の一種か偶然の所作か?)(もっとも、両者が常に一致してると演歌みたいに安っぽくなって面白くないかもしれませんね。)


たとえば、『わが人に與ふる哀歌』においては、
<太陽は美しく輝き
 或いは 太陽の美しく輝くことを希ひ>
という詩の前半部分が、演歌の“前さび”のように高らかに響いています。
したがって、(<手をかたくくみあわせ/しずかに私たちは歩いていった>はマッケイの詩『モールゲン』に由来すると言われていますが、そこから、<私たちの意志の姿勢で/それらの無辺な広大の讃歌を>の部分が、『哀歌』においては格調が高く、読むときには力が入ります。

マッケイの詩『モールゲン』の後半は、以下のように続きます。

「太陽はわれわれ幸福なものたちをふたたびひとつにする。そして広い、青い波のうちよせる海辺に、私達は静かに、降ってゆくだろう。無言のままわたしたちは互いの目を見つめ合う、そしてわたしたちの上には、幸福の、無言の沈黙が降りてくる。」(中路正恒訳)

ところが、『哀歌』の<あゝ わがひと>以下の詩句においては、詩人は一人で「如かない 人気ない山に上り」、「音なき空虚」「死した湖」の哀しい情景を見つめております。この詩が「哀歌」(この部分が主題部)たるゆえんであり、“「太陽の恵み」を受けることのない詩人(わたし)の暗い心と、「死した湖」とどっちが大きい?”と言うほどに「わたし」は膨張しています。

したがって、『哀歌』の主旨はマッケイの詩『モールゲン』とは真逆のことを歌うことであり、詩人は『哀歌』をイロニー的に構成するために『モルゲン』風の詩句をわざわざ前半に置いたしたのでしょうか。

昼下がりの会社の窓(35f)からぼんやり淀川や六甲山を眺めながら、こんな取り止めのないことを考えました。

<注>『わが人に與ふる哀歌』を、「わたし」と『半身』との自己内対話(詩索)として解釈してみよう試みてみましたがうまくいきませんでした。

*偶然にも写っていた明石海峡大橋の写真を追加しました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001559.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001559_3.jpg

1422龍田豊秋:2017/08/07(月) 09:43:09
ご報告
例年にない暑さで、いい加減うんざりしております。
台風は、長崎をそれて過ぎ去りました。
サギソウが今年も咲きました。

7月22日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第112回月例会を開催した。
会報は、106号。

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。

「春浅き」 「百千の」 「わが家はいよいよ小さし」

会報はつぎのとおり。

1??伊東静雄の「詩索」という対話???????? (2)
?????????????????????????????????????????????????? 田中 俊廣
?????????????????????????????????????? <平成29年 詩と思想5月号>

2 詩 「新帰郷者」
?????????????????????????????????????????????????? 原 子朗
????????????????????????????     ??「河」??昭和29年6月 7号

3 「帰郷者の墓 諫早伊東静雄」
?????????????????????????????????????????????????? 伊藤 信吉
                   『詩のふるさと』昭和41年12月

4 伊藤桂一という人  「あの世もこの世も同じなんだよ」
?????????????????????????????????????????????????? 住吉 千代美
?????????????????????????????????????? 詩誌『花筏』31号
                     ?????????????????????? 以上

1423Morgen:2017/08/24(木) 16:15:18
KIDS VENTURE
 今日、出社時にエレヴェーターを降りると、案内板に「“KIDS VENTURE”入り口はこちら」という掲示がありました。子供たち(小学1年生〜5年生)のプログラミング教室のイベント案内らしいです。(札幌、東京、大阪、札幌で定期開催)
 昼前になると、子供たちが次々に集まり、会社の社員たちが講師(黄色や赤色のエプロンなどを着て料理教室のような風景)になって教えるそうです。のぞき見ると、子供たちは、半田ごてを使って電子部品を組み立て、おもちゃにつなぎ、動かしています。会費は、材料費込みで2000円らしいですが、とても楽しそうです。

 この子供たちが、やがては「ロボコン」の選手となり、「第4時産業革命」と言われる新しい時代の担い手になるのかもしれないと思うと、何だか声援を送りたくなります。


 

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https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001561_2.png

https://kidsventure.jp/

1424青木由弥子:2017/08/25(金) 23:20:26
ごぶさたしております
皆様 お元気ですか
少し涼しくなったと思っていたのに、またまた35度越えの毎日です。本当に地球はどうしてしまったのでしょう、人の住むところだけ、皮膚が腫れ上がって炎症を起こして、熱を持っている・・・等ということでなければ良いのですが。

明日の土曜日、東京新聞と中日新聞の夕刊、詩歌への招待 欄に、新作を一篇寄稿しました。購読しておられる方がいらしたら、ご高覧頂ければ幸いです。

1425Morgen:2017/09/08(金) 10:41:58
「星を産んだ日」
青木様の「星を産んだ日」を、感動しながら読ませていただきました。ありがとうございました。

????「星を産んだ日」(青木 由弥子)

??????・・・・・・・・・・
???? 汗にまみれた白い分娩台の上で
???? しわしわで赤い火の玉を胸に抱く
???? 胎脂でべたべたの手足でもがき
???? 小さな口を大きく開けて
???? 乳首を求めて挑みかかる
???? ・・・・・・・・・・・

十年前に孫が誕生したとき、血まみれの「赤い火の玉」の写真を娘がメールで送ってくれました。娘は医師ですので、そのときは「リケジョ(理系女子)は凄いな!」とも思ったのですが、まさに「星を産んだ」感動的な瞬間の写真であったのだと、記憶が蘇りました。

今では、孫は、小学3年生の可愛い女の子に成長し、毎日クラシックバレーのレッスンに熱中しています。娘は、私の職場(大阪駅・グランフロント南館)の隣のビル(同・北館)の某医療法人の眼科クリニック院長になっていて、一見優しそうな顔で、十数人のスタッフと共に毎日忙しそうに診療をしています。
夏休みを利用して、熊本地震で中止していた九州旅行(2泊3日)に行ってまいりましたので写真を添付してみます。(別府、高千穂峡、阿蘇烏帽子岳)

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https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001563_2.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001563_3.jpg

1426龍田豊秋:2017/09/19(火) 11:43:12
ご報告
台風は、長崎に少しの風と雨をもたらしました。
のんのこ祭りは、1日だけの開催でした。
彼岸花を、あちらこちらで見かけます。

8月26日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第113回月例会を開催した。
会報は、107号。

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。
「夏の終り」「螢」「小曲」

会報はつぎのとおり。

1??伊東静雄ノート???????? (8)
????『呂』5号(昭和7年10月)に掲載された詩2篇
????「母」
????「新月」
?????????????????????????????????????????????????? 青木 由弥子
????????????????????????????????????????????千年樹71号より転載

2 詩 「白骨の耳」
?????????????????????????????????????????????????? 松尾 静子
????????????????????????????        ??子午線122号より転載

3 評論
?????????????????????????????????????????????????? 小滝 栄史
                      評論 菁夜より転載

4 冥府の蛇
?????????????????????????????????????????????????? 坂井 信夫

5 「夏の朗読会」が8月6日、諫早図書館で開かれた。
  諫早ゆかりの6作品(山田かん、上村肇、木下和郎)が朗読され、戦争体験の詩人 の言葉が 響いた。
                     ??長崎新聞 8月7日掲載
                       ???????????????????? 以上

1427山本 皓造:2017/09/22(金) 16:22:07
二百年
 皆様。長らくごぶさたをしました。
 上村様。「伊東静雄研究会会報」をありがとうございました。
 井川博年様。「丸山薫賞」の受賞をお慶び申し上げます。おめでとうございます。

「二百年後の人々は……」と書き出された詩は、まことに心を揺すぶります。先年、中学のクラス会があったときに、雑談で「人類の滅亡とか云うけど、案外世間の思っているより早いのんとちゃうやろか」「わたしもそう思う。たとえば、五百年とか……」と、某女史は応じたのですが、五百年は甘いか。

 石原吉郎がヨハネ黙示録八・一の
  第七の封印を解き給ひたれば、凡そ半時のあひだ天静なりき
の聖句を引くことはよく知られています。第七の封印はすでに解かれて、われわれの生きてる今は、その「凡そ半時」の、わずかな時の間なのではないか、とどこかで云っていたような気もします。
 しかし石原はまた、詩「世界のほろびる日」で、

  世界がほろびる日に
  かぜをひくな
  ビールスに気をつけろ
  ベランダにふとんを干しておけ
  ガスの元栓を忘れるな
  電気釜は
  八時に仕掛けておけ

と云います。これは、世界の終末という大きな日に、日常の些末な事柄に執着する人間の愚かさへの皮肉とも読めますし、終末とはそんな大ごとではなく、ただ普段どおり静かに迎えればよいのだ、と云っているふうにも読めます。

 私は井川様の、

  ……それでもやはり人間だから
  今からは想像できない仕事をしていても
  仕事先でしくじったり家庭問題に悩んだり
  歯の痛みや背中の痛みに顔をしかめたり
  子供の成績や姿勢の悪いのを気にしているだろう
  二百年後も太陽は昇り夕立だってあるだろうから
  着て行くものも何にするか気になるだろう
  そうして笑ったり泣いたりしているのだろうか

このあたりに、何か共通した気分を感じます。

 人間の愚かさ、そういう人間への憤りと、哀しみと、いとおしさと。

 昔、詩を書いていたころ、こんな断片を書き付けました。

    終末
  静かに 暮れて行く
  喇叭の音など 聞えない

 以前この掲示板に開高健の詩碑のことを書いたときに、「北田辺」という詩を付した、あの内容も、「人類滅亡後の北田辺の人々」を描いたつもりでした。

 しかし、最近もっとも強烈だったのは、車谷長吉の、次の捨て台詞でした。

私たちはいま、得体の知れない時代のただ中に生きていることを強いられることになった。あとは
人類滅亡が待っているだけだ。いい気味だな。ざまあ見ろ。(車谷長吉『文士の魂 文士の生魑魅』)

1428Morgen:2017/09/26(火) 12:27:49
井川 博年『夢去りぬ』
 一昨日、福知山から帰ったら詩集『夢去りぬ』( 井川 博年 1940年12月18日生76歳)が配達されていて、取り急ぎ全詩を読ませていただきましたので、本日、昼休みに走り書きの投稿をさせて頂きました。

 井川博年さんは、「生まれついてのロマンティストの甘ちゃん。その私の今の気分にぴったりなのが、『夢去りぬ』というわけ。」と、「あとがき」に書かれています。
 因みに、『夢去りぬ』とは、1939年にアメリカで発表された楽曲「Love's Gone」の、服部良一さんによる日本語題。(井川さんと同年代の私はこの歌を全く知りませんでした。「あとがき」を読んで、この詩集が『夢去りぬ』−「Love's Gone」とされた所以が分かりました。)

 この詩集のなかでとりあえず私の目をひいたのが、「帰郷者―自然は限りなく美しく永久に住民は貧窮してゐた」という静雄詩の引用文を前文につけられた「明るい帰郷者」という2015/3『暦程』初出の詩です。「明るい帰郷者」とは「明るいナショナル」や「明るい農村」という1945〜50年代の流行語に由来するのでしょうか。
  ・・・・・・
  見わたすかぎり
  耕作放棄地になった
  田んぼは草ぼうぼう
  山や畑は荒れ果てて
  猪が出るので危険になった。
  ・・・・・・
「ああ昔の農村はどこへいった」と詩人が嘆く「昔の農村」とは、詩人が18歳で後にした松江市の風景でしょうが、諫早の「昔の農村」の風景もほぼ似たようなものでしょう。
 私の生家は150年以上も経ち危険だと数年前に取り壊されたので、葬式や法事に帰郷してもホテルに泊まります。親戚は多いが、共通の話題も少ないので、挨拶程度の話しかしません。(もと農家の長男としては心の痛む耕作放棄地の荒れ姿ではあります。)

 伊東静雄が『帰郷者』を歌った1930年代と比べると、その後約80年間の交通網の発達、TVの普及、都会への人口流入など戦後日本共通の急激な社会の変化によって、井川さんが『明るい帰郷者』を歌われた現代の「故郷」は、全く別物に近い程に変貌しました。
 急げば2時間ほどで故郷に帰れるように便利になりましたが、田舎の道を歩いても殆どの人が自動車で移動するので住人には会いません。自動車どうしですれ違ってもチラッと見交わす程度のふれあいでしかなく、「各自ぶつぶつと呟く」暇さえありません。今も昔も変わらないのは「ただ多くの不平と辛苦ののちに」ともに一基の墓となっていることです。私も、大阪で生まれた係累が11人に増えたので、彼らの将来の墓参りの便を考えれば大阪近郊に墓地を買い墓石を建てることになるでしょう。
 私は、わが「老いの坂」を「道なり」に上がったり下がったりしながら日々を送っている昨今でありますが、若い人たちの助けを借りながらも、時の流れに逆らわず、「明るい老後」を全うしたいとと念じています。

    「老いの坂」
  ・・・・・
  昔々「老いの坂」を駆け上り
  ―人間五十年 夢幻のごとくなり
  京の本能寺に信長を討った明智光秀は
  山崎の山林で竹やりで刺されて
  首打たれた。
  だから人間
  みだりに坂は上ってはいけない。
  特に老いの坂は
  下るにまかせるまま。

        (『夢去りぬ』の巻末所載詩から抜粋)

1429青木由弥子:2017/10/03(火) 12:44:36
実りの秋
皆様、お元気ですか。モルゲン様、拙詩集をお読みくださったとのこと、本当にありがとうございました。

『詩と思想』の編集に関わるようになって・・・学ぶことが多すぎて、頭の中、ひっちゃかめっちゃか、です(・・・大学生の頃、ひっちゃかめっちゃか、と言って、どこの方言?と笑われたことがありますが・・・埼玉の方言、なんでしょうか・・・)

一年に一回か二回くらい、「責任編集」の仕事が回って来る、と思っていたのですが、流れで11月号を手伝うことになり、12月号の「文月悠光」さんをお迎えしての座談会は、もともと、私が企画した案なので、まあ、同時進行でバタバタしており・・・1,2月合併号の「年鑑号」でも、いろいろと仕事があったことを知り・・・五月号を担当する、はずだったのですが、寄稿者などとの兼ね合いというのか、諸事情、ご都合、その他鑑み、ということで、三月号に前倒し、ということになって(まあ、私がお願いして、そうしてもらったので、忙しいとも言っていられないのですが)なんでこんなに毎日走っているんだろう、という感じになっています(笑)

おまけに、というのも変ですが。今年の2月に若者たちが立ち上げたインターネットサイト、ビーレビュー(https://www.breview.org/)にも、まりも、のハンドルネームで関わるようになり・・・これも、流れ、と言えばそれまでなのですが・・・もう、笑うっきゃない、くらいの勢いで、詩にまみれる日々を送っています。

とりいそぎ、近況報告です。

1430龍田豊秋:2017/10/17(火) 16:11:43
ご報告
ようやく平年並みの気温となり、秋の到来です。
上山公園にある「野呂邦暢文学碑」横の金木犀は、いつの間にか咲き終わっていました。銀杏は少し色付いてきました。

9月23日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第114回月例会を開催した。
会報は、108号。

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。
「誕生日の即興歌」「野の夜」「夕映え」

会報はつぎのとおり。

1??井川博年さんの詩集『夢去りぬ』(思潮社)が、第24回丸山?賞に決定しました。
????井川さんは、「少年時代から憧れていた丸山?の名前を冠に頂く文学賞を受け、夢のようであり、
   最高の喜びです。」とコメントされています。
????????????????????????????     ???????????? <東日新聞 2017.9.13>

????詩 「二百年」??????????????????????????詩集『夢去りぬ』より

2 「あゝ暗」????????????????????????????????????  ??   岩坂 恵子
????????????????*伊東静雄の詩  「春浅き」から
????????????????*尾形亀之助の詩 「序 二月」から
????????????????????????????????????   夫は、詩人・作家の清岡卓行

3 玖島桜に会いたくて(大阪市北区造幣局の通り抜け桜)       志田 静枝

?????????????????????????????????????????? 2017年「秋桜」21号

3 諫早の詩人 上村肇 この一篇 「雪」              松尾 静子

??????????????????????????   ?????????? 平成29年「子午線」122号

4 詩 「風が起つ」    ???????????????????????? ??????村尾 イミ子

????????????????????????????????   ???? 平成29年詩誌「真白い花」17号

5 詩 「精霊流し」              ??????    ??宮城 ま咲

????????????????????????????????????     西九州文学39号より

6 「海鳥忌」 没後11年

  上村肇の詩数編を朗読し、個人の在りし日を偲びました。
                     ???????????????????? 以上

 ?? 伊東静雄の詩「なれとわれ」を想起させる情景を探りました。
???? なつかしき山と河の名...

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001568.jpg

1431龍田豊秋:2017/11/15(水) 13:28:40
ご報告
霜月となり、冷え込んで来ました。
皆様、ご健勝でお過ごしでしょうか。

10月28日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第115回月例会を開催した。
会報は、109号。

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。
「雲雀」「訪問者」「詩作の後」

会報はつぎのとおり。

1??評論 「感じるままに」??諫早の文人について??????????小滝 英史


2 「わたしの詩作」????????????????????????????????????青木 由弥子


3 「伊東静雄の初期作品と風土」             上村  元


4 井川 博年『夢去りぬ』 を読んで          野崎 國弘


5 「老いの坂」                ???????? 井川 博年
???????????????????? (『夢去りぬ』の巻末所載詩から抜粋)


6 詩 「独りごと」              ?????? 山田 かん


7 詩??「死者は雲になる」               池田 幸子

??????     ???????? ※cloud?? (IT用語で雲)??海峡派第140号

8 評論 「伊東静雄の花と雪」??????????????????????????饗庭 孝男

                     ???????????????????? 以上


上山公園にある、野呂邦暢文学碑の周りもすっかり秋めいて参りました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001569.jpg

1432Morgen:2017/11/16(木) 13:23:17
野崎有以(あい)詩集『長崎まで』-第22回中也賞受賞
時々、本格的な冬のような木枯らしが吹き始めましたが、お元気でしょうか。

・・・・・・・・・
路面電車で眼鏡橋近くの電停まで行って「長崎詩情*」を口ずさむ
私の生まれた冬がない
なかったら作ったらいい
作ったらいいんだ

長崎本線から見える有明海の夕日がまぶしくて両手を顔の前で広げる
まぶしいからだけではない
身体を透かすほどの純粋な抱擁があった
瞬きのたびに無数の夕日の粒が海に降る
様々な光りかたをする粒が輝きとしてそこに存在する
こうしていつかの夕日の一粒として
私は生まれた
・・・・・・・・・・・・
              ―詩集『長崎まで』89~90頁から抜粋
*内山田洋とクールファイブ「長崎詩情」

昼休みに覗いた書店で、“野崎有以(あい)詩集『長崎まで』”という表題を見てこの本を買いました。(中村稔『言葉について』も同時に購入しました。)

 「あとがき」によると、詩人野崎有以(あい)さんは東京の人で、一度も長崎には行ったことはないが「長崎は私の未踏の故郷だ」そうです。
「野崎有以というのは本名で、有は有明海から一文字もらった。“東京がだめだって私には長崎がある”、そう思って生きてきた。“あい”という音で正しく呼ばれるもうひとりの私がどこかにいるような気がしていた。有明海のまわりにその子がいる、そう信じていた。詩を書くことはもう一人の私に会いに行くことを意味している。生きていく過程で手放してしまったもの、取り上げられたものを詩によって取り戻そうとした。私の書く詩の多くが有明海のある九州を舞台としているのはそのためだ。・・・・・」

 戦後現代詩史を飾る著名詩人達の詩に歌われた「わたし」は、伊東静雄や三好達治の「わたし」よりもさらに複雑な情念を持っていると、90歳の現役詩人中村稔氏は書いておられます(青土社『青春の詩歌』序文)。

 野崎有以さんの「わたし」や「故郷」も、フィクションを駆使して自由に転開し躍動する「わたし」であり、また私の「半身」が有明海の辺りにいると幻想することにより、有明海が「詩のポトス」となっています。
 野崎有以さんの詩には、クールファイブ・前川清の歌から着想を得たと注釈されている詩があります(「前川清さんが、言葉を自分の歌として唄うときの誠実な姿勢にすごく惹かれたんです。」『現代詩手帳』2017July)。
 100頁足らずのこの詩集をつい一気に読んで終いましたが、随所で「捻った」表現がされているので、もう一度ゆっくり再読・吟味してみたいと思っています。いわゆる「ガチ現代詩」ではない、いまどきの若者の「自由で躍動的な現代詩」(詩語を用いない詩)のサンプルを見ているような気がします。

 長崎の皆様方も、風邪を引かないようにご自愛ください。

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1433Morgen:2017/11/20(月) 15:56:54
映画『笑う故郷』
 生憎の雨、紅葉見物の予定が映画鑑賞になりました。
 観たのはアルゼンチンとスペイン合作『笑う故郷』ー原題『名誉市民』。その解説には次のように書いてあります。

 「ノーベル文学賞を受賞したスペイン在住の作家ダニエルは、故郷の田舎町からの招待を受けて、30年ぶりに、はるばるアルゼンチンに帰郷する。予告編では、国際的文化人の帰国で歓迎ムードかと思いきや、故郷の住人たちのダニエルに対する嫉妬、酷評、侮蔑が渦巻き、予期せぬ出来事に巻き込まれる作家の姿をユーモラスに切り取っている。」

 南米チリとアルゼンチンは、南北に長く国境を接する国ですが、古来隣国同士対抗心が強く競り合ってきたそうです。ノーベル文学賞受賞者は、チリからは2人も出ているのに、アルゼンチンからは零、これが悔しくてアルゼンチンの片田舎からノーベル文学賞受賞者が出たらどうなるかという「ブラックコミック映画」を作ってみたら、これが国際的なヒットを獲得したといういわくつき。面白く肩が凝らないので、お近くの映画館で上映されたらご覧下さい。(実は、コロンビアのノーベル文学賞受賞者であるガルシア=マルケスとその出身地アラカタカをモデルにしたのだという解説もあります。)

 私が驚いたのは、空港から車で7時間かかる田舎町ですが、携帯電話の「自撮り」が大流行で、主人公は一緒に写真をとりたい人の渦に取り巻かれます。アルゼンチン料理は、羊頭の丸焼きなどオーバーめに表現されてはいるのでしょうが、われわれ「文明人」にはとても食べられそうもありません。
 この映画には、スペインやヨーロッパにに憧れや妬みを抱くアルゼンチン国民の気持ちや裸の姿が、アルゼンチン人自身によって描かれているのではないかとも思いますが、“個性と多様性”と特徴づけられるラティーノ(ラテンアメリカの人々)の感じ方や行動パターンが、私はほとんど認識できていないようです。
 この映画の印象を一言で言えば、「一見親しみやすく、人なつこいラティーノの表情の下にかくされている殺意」という“ブラックコミック”でしょうか。

 

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1434伊東静雄顕彰委員会:2017/11/29(水) 19:25:17
第28回 伊東静雄賞について
優れた現代詩に贈る第28回伊東静雄賞は、国内外から1098篇の作品が寄せられ、平野宏氏、田中俊廣氏、井川博年氏、以倉紘平氏による選考の結果下記の通り決定いたしました。

  伊東静雄賞 正賞 賞状・副賞 50万円
     「きょうだい」 山之内 勉氏 鹿児島市在住

  贈呈式
      開催日時 平成30年3月25日(日) 菜の花忌終了後
      開催場所 諫早市 諫早観光ホテル 道具屋

尚、伊東静雄賞受賞作品及び選評、並びに佳作49篇の作者氏名は、諫早市芸術文化連盟誌「諫早文化13号」(平成30年4月発行)に掲載致します。
                               伊東静雄顕彰委員会              

1435山本 皓造:2017/12/06(水) 12:32:14
詩的言語の生成
 ずいぶん長らくごぶさたをしました。
 「桃谷談話会」で今回私が「石原吉郎と香月泰男」をテーマに話をすることを引き受け、2ヶ月ほど準備に没頭して、それがこの3日の日曜日にようやく終わりました。私の談話は時間が大幅に不足して、なんとも中途半端に終り、大いに悔いを残してしまいました。そもそも私が石原吉郎について語るということ自体が無謀のきわみなのですがそれはもう云わぬことにします。そうして、ひとつだけ、席上、私が絵を描いて話したことを、投稿の形で皆様に見ていただこうと思います。


 「心」というものがあるとします。はじめ、その心の中に、もやもやとした、なにか気がかりのようなものがあって、次第にざわめきのようなものに変わり、あたかも宇宙生成のときの塵がだんだん凝り集まって星のモトをつくるように、あるまとまりを作りはじめますが、まだ形も定かでなく、ましてやそのものを呼び表わすべきコトバもありません。詩人は〈そのもの〉を呼ぶべく――それこそ意識の暗黒部との必死な格闘を行いつつ――〈コトバ〉を探します。
 言語学の用語を借りて、〈コトバ〉を signifiant、〈そのもの〉を signifie と呼ぶことが許されるでしょう。

 石原に「陸軟風」という詩があります。はじめ、「気配」のようなものが萌し、それは「風」と感じられ、最後にそれは「望郷と呼んでもいいだろう」と結ばれます。
 多くの場合、signifiant は、はじめて名付けられたコトバとして、〈喩〉の形をとるでしょう。(図1)

 次の事柄は多分、誰も言ったことがなく、おそらく、詩に無知な素人のたわごとと云われるかもしれないが、とことわりつつ、石原の「夜の招待」を取り上げて、こんなことを云いました。通常、signifiant は、能記としてこちら側から、ある名前のないものに名前をつけようとするのだが、時に signifie のほうから、いわば突然それがはじけるようにして、signifiant を、コトバを、飛び出させることがあるのではないか。なにか〈夜〉にかかわる、あるもやもやしたものがあり、あるとき突然、〈そのもの〉がはじけて〈コトバ〉をはじき出す(図2)。「ぴすとる」「かあてん」「連隊...せろふあんでふち取られた」「ふらんす...すぺいん」・・・
 これらのコトバがどのような脈絡を持つのか、それは「心」に聞いてみなければわからない。ただ、この詩がもしこのようにしてできたとすれば、それを「散文にパラフレーズする」のは不可能であろう、ということは、自ずと了解されるのです。

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1436Morgen:2017/12/19(火) 16:59:28
藤山増昭詩集『命の河』
 藤山増昭詩集『命の河』が出版されたというご連絡を受け、早速購読しました。

 同詩集には、昨年の伊東静雄賞を受賞された「四月の雨」も載せられています。

 帯に書かれた以倉紘平氏の次の言葉が、この詩集の特長を言い尽くしています。

 ―「作者は選ばれて、いのちの河の秘密を覗き見たのではなかろうか」


 “「暗闇」〜「ここに在るということ」”

(2週間の昏睡状態という)「暗闇」の真ん中で、
「わたし」というかすかな意識が、「今確かに暗闇にいる」ことを気付く。

 感覚のない闇の中から、「外燈に似たうす黄色い灯りが滲んでみえた」

「風が吹きわたる生の入り口!」

 寄せては返す波のように、生の入り口へ抜ける「目覚め」のあがきの繰り返し

 やがて顕われる「救命室の白い天井の灯は なつかしい蜜柑色だった」

 こうして「わたし」の意識が起動力となって、暗闇のなかから蘇った詩人は、
 「億年を繋いで風のように流れる“命の河”]その一齣の「わたし」
  ―「雫である自己という存在」を認識するに到る。(「ここに在るということ」)

  ―普遍的な「命の河」の粒子である「ひとつひとつの命」の愛しさよ!!

 感動の絶唱です!!!

    CF:<―いま入海の奥の岩間は
      孤独者の潔き水浴に真清水を噴く―>(伊東静雄「漂泊」より)を想起。

 どうか皆様ご一読ください。

 発行所 株式会社編集工房ノア/テ531−0071
                大阪市北区中津3−17−5
                電話06(6373)3641
 

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001574.jpg

1437龍田豊秋:2017/12/21(木) 10:55:32
ご報告
11月25日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第116回月例会を開催した。
会報は、110号。

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。
「中心に燃える」「夏の終わり」「帰路後」

会報はつぎのとおり。

1??静雄ノート (9)            ??????????青木 由弥子
????????????????????????????????「千年樹」72号から転載

2 評論 「伊東静雄の花と雪 2」??????????????????????饗庭 孝男


3 詩  「三途の川」                  平野  宏


4 はがき随筆 「モクセイの匂う頃」     ??     龍田 豊秋
????   ???????????????????? <2017.11.16 毎日新聞掲載>

5 野口寧斎 優れた文人 生誕150年記念文学祭
?????????????????????????????? <2017.11.12 長崎新聞掲載>

6 詩 「長崎まで」              ?????? 野崎 有以
????????????????????   ??????中原中也賞受賞


                     ???????????????????? 以上

今朝は、今冬一番の冷え込みで、霜が降りました。
明日は冬至です。

1438山本 皓造:2017/12/25(月) 14:40:38
このあいだ迄と、このごろ
▼石原と香月の「談話」のつとめが終わって、縛めを解かれたように、ベッドの枕元に積み上げた未読本を片端から乱読していたのですが、先日、またアマゾンに10点ほど注文しました。注文品は、あっけなく、すぐ届きます。昔、アタマのなかに探求書のリストを詰め込んで古本屋まわりをして、目指す本に行き当たった時の歓喜感激や、その後ジュンク堂とかができて新刊書はほぼ行けば手に入るようになり、収穫を小脇に抱えて店内の喫茶コーナーに座り、タバコをくゆらしながら、本の手ざわりを楽しみつつページをめくる至福……ああいうものがなくなってしまいましたね。

▼中野章子さんがブログ「朱雀の洛中日記」で、石牟礼道子さんの『春の城』のことを書かれていました。注文品とともに900頁の大冊が届きました。石牟礼道子さんはわたしの8歳年上、わたしが講談社文庫版の『苦海浄土』を買って読んで震撼させられたのはたしか1973年で、まだ30台、その後も節目の著作はほぼ読んできたと思います。石牟礼さんが天草の乱を取り上げられたのは、いわば当然であり必然という気がしますが、その気迫とボリュームには圧倒されます。わたしが切支丹史蹟探訪のために島原半島をはじめ九州各地を歩いたのは40台に入ってからですが、石牟礼さんの「草の道」は、おそらくわたしもそれを歩いた道であり、そんなさまざまな回想にひたりつつ、この大冊を手に取るのは、「去年今年」を貫く大きな歓びとなるでしょう。

▼大岡信『うたげと孤心』(岩波文庫)は、手にとって二、三頁を読んだときにすぐ、ああ、これは名著になるな(わたしにとっての)と直感しました。これは、ゆっくりと――始めがあり終わりがあって今このあたりを読んでいる、あとこれだけ、という〈クロノス〉的な読み方ではなく、今読んでいるこの頁に歩みを合わせて、寄り添うように、〈純粋持続〉風に、〈カイロス〉風に、味読をしたいと、今はまだ寝かせてあります。もう一冊、大岡さんの『日本の詩歌――その骨組みと素肌』(同)、これは実は重複でした。今年買って、読んだのもそんなに以前ではありません。届いた現物を見て、「わっ、やった」と苦笑。そういう「重複本」がもうすでに何冊あだろう(3冊同じのがあるのもある!)。それらは老人となる以前からの堆積です。笑止です。

▼ソルジェニーツィン『収容所群島』、新潮文庫版の第1冊だけ買って先日読了しました。石原関連の一冊。『イワン・デニーソヴィッチの一日』はすでに読んだのですが、『収容所群島』は、わたしが古書検索をしたときはなぜかやたらに高価で、全6冊を一度に揃える気にならず、とりあえず、と思って一冊だけ買ったのです。あと5冊、あの「群島」の暗くて陰惨で滑稽で不正で残酷で……を読み続けるのは楽しい仕事ではないけれども、結局わたしは、ぼつぼつと残りを買い揃えて読むことになるでしょう。

▼熊野純彦『レヴィナス』(岩波現代文庫)。野村喜和夫氏の『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』は、その論の多くをレヴィナスに負っています。レヴィナスは、ちょうど日本語での翻訳や入門書や研究書が出始めた頃にわたしも何冊か読んで、知ったかぶりをしてその名前を拙稿「伊東静雄初期詩篇論」に引いたりしたのですが、正直なところは il y a などの語句を読みかじっただけでした。熊野さんのものはその前に『レヴィナス入門』(ちくま新書)を読み、そして今回のものを読んだのですが、これもやっぱり難解でした。レヴィナスは難解で野村の論証はついて行くのがむつかしく石原の詩はうまく解読できない。

▼小柳玲子さんの名前は、詳細な石原年譜を作成した人として知っていましたが、『サンチョ・パンサの行方』(詩学社)は、おもしろかった。詩論でも評伝でもなく、これは(「ロシナンテ」のころ以来の)詩人たちの回想記、とでも言えばよいか、読んで行くうちに「私が小学四年生の時、終戦になって……」おやおや、それではわたしと同い年ではないか。読み進むと、井川博年さんの名前が出て来て、また、おやおや、と思いました。

▼それでは皆様、どうかよいお年をお迎えください。

1439青木由弥子:2017/12/25(月) 15:00:30
良いクリスマスを
皆さま お元気ですか
我が家のお向さんは、フランチェスコ会系の女子修道院です。
御御堂が併設されていて、階段を昇っていくと、踊り場に板絵の磔刑図の複製がさりげなく置かれています。
十字架上で、にこやかに大きく目を見開いた、アルカイックスタイル。
ルネサンス期には、稚拙と揶揄された中世の名残を残すスタイルですが・・・ビザンティンのギリシア風の洗練とは程遠い、子どものアニメのような、ユーモラスで生き生きとした躍動感のある表情は、死に打ち勝つ、というメッセージ性よりも、生きる喜びをそのまま体現しているように見えます。

サン・フランチェスコが、その前で一心に祈り、教会を建て直しなさい、という声を聴いた、奇跡の十字架。サン・ダミアーノの磔刑図。ぼくとつなフランチェスコが、真に受けて本当に煉瓦を積んで教会の修復を始めた、というエピソードと共に、純朴になにかを信じることの「歓び」を思い出させてくれる絵です。

山本さんの、シニフィエとシニフィアンの双方向性、エネルギーの往還するようなイメージに共感しつつ・・・名指すこと、によって立ち上がる空間もあると共に、名指されること自体が呼び寄せられる、そんな切実さに駆られることもあるように思います。

詩に呼ばれるのか、詩を呼び寄せるのか。

素敵な聖夜をお過ごしください。

1440Morgen:2018/01/02(火) 02:02:10
新年明けましておめでとうございます。
皆様 新年明けましておめでとうございます。

“平成30年の幕開け”―「大寒波襲来」などという事前予想もあって、少し身構えていたのですが、いつも通りの平穏なお正月でした。

??ここ数年は家族で手近な温泉に浸かって新しい年を迎えるのが我が家の恒例となっており、今年は大聖寺川の渓谷にある山中温泉にしました。「鶴仙渓」に張り出したような露天風呂に、深夜一人で浸っていると、急流の瀬音は終夜高く響き、真冬の渓谷の冷気は弛んだ心身を引き締めてくれます。

 年末には、市川森一作品の映画化を企画されている諫高同窓会の方々が弊社を訪問されましたが、今年は新しい話題が公表されることでしょう。衷心より映画化のご成功を祈ります。

??世の中では猛烈な勢いで(IoTやAIを軸とした)「第4次産業革命」といわれる大革新と開発競争が展開されています。
我々老人といえども、これらの目新しい奇異なものに遭遇して、それらの変化を理解し適応していくしかないのだという心構えが多少とも必要になります。(除夜の鐘を聞きながら)余りに早すぎる変化に異議を唱えてばかりいると、情勢の変化に立ち遅れるだけでなく、世間から取り残された変人・お荷物扱いさえ受けかねなくなるぞという「時代の警鍾」のようなものを感じます。

??深夜の露天風呂に浸かりながら“「明るい老後」をおくるのも、思ったほど楽なことではなさそうだ!”とも考えました。身震いさせたのは、霙混じりの鶴仙渓の冷気だけではなく、やがて開ける測りがたい時代への不安や予感なのかもしれませんね。(人類にとって夢のような時代なのか、人類を分断する不安の時代なのか?)

??年頭にあたって先ずは健康第一! 飲み過ぎないよう健やかな正月をお過ごしください。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001579.jpg

1441山本 皓造:2018/01/05(金) 17:28:27
明けましておめでとうございます
干支も改まり、一つづつ歳をとりましたが、おたがいに、ゆるゆると、がんばりましょう。

 昨年の投稿で石牟礼道子さんのことを書きましたが、もう10年以上も前に別の場所で書いたものを、探し出しました。子供たちや孫たちを迎えて、送り出して、あとは何もネタがないので、古びた書き物で投稿に代えます。(もとのソースは、前勤務校の「歴史文化部」というクラブ、略称「歴文部」のホームページをわたしが立ち上げて、そこの「ひとりごと」という欄に連載した小エッセイです。)
 もとのページはもう削除されて、見ることができませんので、画像を貼り付けました。ご判読ください。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001580.png

1442山本 皓造:2018/01/11(木) 17:09:23
追悼
 米田義一さんが昨年12月18日に逝去されました。ご遺族からお知らせを頂戴しました。
 米田義一さんは、住中第19期卒業。この掲示板では2007年、2008年に、お名前を出して私が投稿しました。
  「開高健文学碑」2007.8.20
  「映画『美しき朋輩たち』と原作者名「壁静」のこと」2008.7.15
  「『大阪の三越』」2008.10.3
  「一等『美しい朋輩達』伊東静雄氏」2008.10.3
 米田さんは長年、個人誌『東市場』を出して、出るたびに私に送って下さったのですが、近年刊行が途切れて、そのご健康を按じておりました。享年は92歳。生前、名著『伊丹万作』を遺されました。
 謹んでご冥福をお祈り致します。

1443Morgen:2018/01/11(木) 23:22:39
映画『美しき朋輩たち』と、原作者名「壁静」のこと(再掲)
米田義一氏のご逝去を悼み、ご冥福をお祈りいたします。

 山本皓造様(2008年 7月15日 投稿)の“映画『美しき朋輩たち』と、原作者名「壁静」のこと”が(no55のところで)見つかりましたので、(深夜のため山本様には無断ではありますが)再掲させて頂き、同文章を初見の方々とも共有したいと思います。


<投稿者:山本皓造??投稿日:2008年 7月15日(火)13時41分44秒>

  昭和3年に「御大礼」を記念して、大阪三越の主催、大阪毎日新聞の後援で児童映画脚本の懸賞募集が行われ、伊東静雄がこれに応募してみごと第一等をかち得たことは、すでによく知られています。
 私は、上村紀元さんが「掲示板アラカルト」の記事で、美しき朋輩たち→美しい朋輩たち が正しいようです。(当時の報道 大阪毎日新聞)と書いておられることについて少し疑義が生じたのがきっかけで、米田義一さんにお尋ねしているうちに、大変な仕事を仰せつかりました。

 以下、その任を果たすために、この稿を出します。
なお、米田義一さんは住中19期、この映画に関して、次の2篇があります。
・資料紹介「映画見たまゝ『美しき朋輩たち』(伊東静雄原作)その他」(「果樹園」204号、昭和48.2)[米田Aと記す]
・「美しき朋輩達」のゆくえ(「楓」6号、昭和49.7)[米田Bと記す]
またこの掲示板でも一度、2007.8.20の私の投稿で、お名前を出したことがあります。

                        *

「キネマ旬報」(昭和3.12.1)に掲載された梗概が小高根二郎氏によって紹介されて、映画『美しき朋輩たち』の内容の半ばが明らかになりました。しかるに「キネマ旬報」の記事では、「原作者・壁静」とされていて、小高根氏はこれを「ひどい改変」「大変な冒涜」と叱咤したものです。
 次に米田Aによって、「サンデー毎日」(昭和3.11.25)に載せられた、より詳しい梗概が紹介され、小高根氏も同じ内容を『生涯と運命』で引いています。ただ、米田Aは、この記事が、原作者を<伊東静雄さんといふ人です>と正しく書いていることを紹介しているのにたいして、なぜか小高根氏はこの事実にふれていません。米田氏はなお、新聞広告について原作者表記を調べたところ、阪神3紙では<伊東静雄氏原作>、東京2紙では<壁静氏原作>となっていることまで確かめ、「したがって伊東静雄の名は、映画「美しき朋輩たち」の上に、少なくとも京阪神では正しく冠されていたのであり、全く隠蔽されたり抹殺されたりしていたのではなかったのである、しかし、ひとしく<大阪毎日新聞社懸賞募集当選児童映画詩>などと謳いながら、地域により原作者名を筆名化して伝えているのは何人のどんな意図と必要によるものであろうか」(米田A)と、その事態の理由経緯を明らかにすることができなかったのでした。

 A稿の後米田氏は、前に「児童映画座談会」(「映画教育」昭和4年1月、2月)における稲田達雄氏の発言が、映画「美しき朋輩たち」の原作のすぐれた片影を正しく伝えている貴重なものと考え、苦心の結果稲田氏の住所をつきとめて、文通で教を乞いました(昭和49年2月)。そうしてその結果報告として、米田Bを書かれたのでした。
 稲田氏は、前掲座談会当時は大阪毎日新聞社「映画教育」担当記者で、三越の懸賞募集の審査にも当たり、その後も一貫して映画教育運動にかかわって来られた人です。ただしこの時には、「壁静」問題についての明確な回答が稲田氏からは得られませんでした。
 さて、米田Bを脱稿、公表した後、同じ年(昭和49年)の9月になって、米田氏は稲田氏からの手紙を受け取りました。そこで「壁静」問題の解明が果たされていたのでした。
 稲田氏の米田氏宛書簡では、松竹大谷図書館所蔵の「蒲田週報」「キネマ旬報」「松竹七十年史」がいずれも原作者を「壁静」としていることを記したあとで、その解明が述べられています。以下は直接、稲田書簡を引きます。

 <昭和49年9月20日付米田義一氏宛稲田達雄氏書簡(部分)>

[前略]この壁静については、このたび大船行きを思いたった機会に、雑誌「映画教育」の旧号をひっぱり出して目を通しておりました際に、第六集(昭三・八月号)に所載の「御大礼記念児童映画脚本募集」の「募集規定」の中に「原稿はすべて匿名とし別に住所氏名を記して添付し云々」とあるのに、いまさらのように気づき、「美しき〜」の原作に伊東氏は「壁静」という匿名を使われたのではないか、きっと、そうにちがいないと思ったことでした。
 前記「蒲田週報」(宣伝パンフレット)や「松竹七十年史」をはじめ、「キネ旬」、関東での新聞の封切広告等、すべて壁静[傍点]となっているのは、原作の原稿に壁静と署名されていたことによるのではなかろうか。それというのも、失礼ながら当時としては「伊東静雄」に別にネームヴァリューがあるわけでもなかったし、原作―脚本―台本等を通じて、原作者は壁静[傍点]が踏襲され、それが新聞雑誌等への発表にも用いられた、ということではなかろうか、では、関西ではなぜ伊東静雄という実名が使われたか――については、関西ではすでに大阪毎日新聞紙上の当選発表の社告や記事によって原作者は伊東静雄ということが一般に知られているから、伊東静雄[傍点]を使ったのではなかろうか。[後略]

<2008年7月6日付山本宛米田氏書簡(部分)>

[前略]稲田氏が気づいて教示してくださったこの重大なことを、今の今まで長いあひだ忘却してゐました。すでに「『美しき朋輩達』のゆくえ」を昭和四十九年の五月六日に脱稿して印刷発行済みでしたから、その後紹介報告の機会のなかったまま、職務多忙に紛れて忘却してしまったもののやうです。稲田氏に申しわけないことであります。一日も早くこれを全国の伊東静雄読者に周知させたいと思ふのですが、私の通信の次号は秋以降になる見込みで役に立ちません。お願いします。この件をあなたの名で、上村氏主宰のウエブ掲示板か何かに報告発表してくださいませんか。条件としては、稲田達雄氏が私宛書簡に示された見解であることを明記してくださることのみです。そして私の方は、あなたの方の報告発表をプリントでいただいた上で、小通信の「あとがき」に釈明的に触れることにしたいと思います。[後略]

                        *

以上で、米田さんからの委託を果たしたことにしていただこうと思います。
なお、稲田氏から米田さん宛昭和49年2月16日付の分に、伊東氏の原作の題名は「美しい朋輩達」でしたが、映画の題名は「美しき朋輩たち」としたものと思われます。
との指摘があり、私もこれに従うべきものと考えます。

1444上村紀元:2018/01/12(金) 11:46:21
米田義一様のご冥福をお祈りいたします
米田義一様のご逝去に謹んでお悔やみ申し上げます。

 昨年10月、新生(臼井喜之助編 第一輯・第2輯 昭和15年)の写しと、依田義賢詩集「冬晴」上村肇詩集「地上の歌」(いずれも昭和16年ウスヰ書房刊)のご恵贈にあずかりました。
 米田様との御縁は、山本皓造様を通じ、伊東静雄原作「美しい朋輩達」映画題名「美しき朋輩たち」の件で
ご教授賜りました。箕面高校紀要 楓6号にこの映画の詳細について著述されています。

 いただいたご書簡に「伊東先生の詩碑を訪ねて諫早公園に赴いたのは何年前だつたか、もう数へることもできません。また、新しくできた美原図書館わきのは体力が衰えたので訪ねて行くことは多分ないでしょう。
 ついでながら、大阪市阿倍野区松虫通りの詩碑は、拡張されて車の往来が繁しくて風情の乏しい大通に面してゐますが、むかし丸山小学校に在学してゐた当時同級生の家がすぐ傍にあつてしばしば遊んだところです。そこはまた、住吉中学校在学当時の登下校に歩いた道筋にあり、その辺りを伊東先生がよく散歩なさつたといふのが十分納得できて満足です。(後略)」

 前述の「冬晴」「地上の歌」も今や希少本となりました。いずれ諫早図書館に寄贈したいと思います。米田様のご厚情に感謝申しあげご冥福をお祈り申し上げます。合掌

1445龍田豊秋:2018/01/22(月) 10:59:34
ご報告
12月23日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第117回月例会を開催した。
会報は、111号。

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。
「路上」「都会の慰め」「明るいランプ」

会報はつぎのとおり。

1??第28回伊藤静雄賞受賞作品 「きょうだい」     山之内 ?????????????????鹿児島市在住

2 評論 「伊東静雄の花と雪 3」??????????????????????饗庭 孝男

3 詩  「原子のかなしみ」               山之内 ?


4 「長崎まで」      (2)        ?????? 野崎 有以

5 藤山増昭さんの詩集 「命の河」が出版されました。

????帯文 以倉紘平・装画 吉永裕・発行所 株式会社編集工房ノア
????定価2,000円+税
                     ???????????????????? 以上

いよいよ本格的な冬の到来です。
皆様、御身をお大切に。

1446Morgen:2018/02/12(月) 16:38:46
「まちのにぎわい」づくり(湖北・長浜)
??昨日(2月11日)、滋賀県長浜市(人口約12万人)恒例の『長浜盆梅展』を観に行きました。
 樹齢200年を超えるような老樹が何本も展示されており、白梅や紅梅が見事に開花しています。雪が降ったりやんだりという天気の下でも、遠方からの見物客が多く、例年通り賑わっています。盆梅展期間中は展示物の入れ替えもあるので、回数券を買って来られるお客様も多いそうです。

 江戸初期に(真宗大谷派長浜別院)「大通寺」の寺内町として拓かれた旧市街地区には、昨日も沢山の観光客が訪れて、お祭りでもやっているのかとかん違いするほどの賑わいを見せていました。「黒壁スクエアー(ガラス館、オルゴ−ル館・・・)」などがあって、特に若い観光客が多く、有名な和菓子屋の喫茶店には、若い男女の行列ができていました。そこで珈琲を飲むつもりでしたが、あきらめて土産だけを買って帰りました。別の和風喫茶店に入ると、お座敷の縁側に樹齢400年の老梅が蕾をつけていました。この文化財的老樹を守っておられる吉田さんから色々な話を聞かせていただきました。手作り草餅の上品な甘さに、吉田さんとわが老妻が「これは美味しい。」としきりに共感しあっていました。(花より団子です。)

??長浜市役所が「まちのにぎわい」づくり補助金(一軒当たり最高500万円)などの施策によって、古民家や街並みの保存に力を入れて、観光客誘致を促進してきたことも繁盛の一因でしょう。それよりも、もともと商売上手な住民パワーを誘導し、熱意、創意工夫を活かした「まちのにぎわい」づくりがなされています。「まちのにぎわい」づくりの成果を上げているモデル地区、他の都市も長浜市の経験に学ぶことが多いのではないでしょうか。

 湖北・長浜は、今日〜明日と「吹雪」の天気予報が出ており、まだまだ厳寒が続きますが、咲き誇る盆梅の花はすでに春の到来を告げており、曇天の合間に、時々照りつける太陽はとても冬のものとは思えないほどの強烈さです。春がすぐ近くまで来ていることを実感します。

??蓬莱にきかはや伊勢の初たより  はせを
 (盆梅展会場の「慶雲館」の庭に建立されている日本最大10トンの芭蕉句碑)

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http://

1447龍田豊秋:2018/02/15(木) 15:51:43
ご報告
1月27日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第118回月例会を開催した。
会報は、112号。

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。
「小さい手帖から」「野の樫」「露骨な生活の間を」

会報はつぎのとおり。

1??評論 「伊東静雄の花と雪 4」?? 了?????????????????? 饗庭 孝男

2 読み方??????????????????????????????????????????伊東 静雄

「....自分は古来の和歌を毎日二、三首づつ読むことを、忙しい日の読書法としてゐる。」
??????????????????????????????????????<大阪毎日新聞 昭和18年9月12日>

?? 私も見習いたいものです。

3 ワシントンのうた  (抄)????????????????????????????庄野 潤三

??  ??恩師伊東静雄の思い出

4 詩 「故郷」     ??????????????????????????????ヘルダーリン
???????????????????????????????????????????????? 川村二郎 訳


5 「古典落語が好き」?????????????????????????????????? 龍田 豊秋

?????????????? <毎日新聞長崎県版 はがき随筆 平成29年12月20日掲載>


6 詩 「露骨な生活の間を」??????????????????????????????伊東 静雄

??????????????????????????????昭和24年1月1日「新大阪新聞」発表

                     ???????????????????? 以上

1448龍田豊秋:2018/03/01(木) 15:06:34
ご報告
ようやく寒が極まったようです。
諫早公園の大寒桜の蕾みがふくらみ、ピンク色が鮮やかになってきました。

2月24日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第119回月例会を開催した。
会報は、113号。

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。
「雷とひよつこ」「子供の絵」「夜の停留所で」

会報はつぎのとおり。

1??「静雄ノート」??(10)????????????????????????????????青木 由弥子

??????????????????????????????????????????????「千年樹 73号」より転載

2 詩  「新帰郷者」                  原 子朗


3 詩  「龍」        ?????????????????????????? 高塚 かず子

????????????????????????????????       「あるるかん」2017.2より転載

4 詩 「あなたなんかと」「才能」「誰」「夕日が畳に」    高橋 順子

??????????????????    1997年読売文学賞受賞の詩集「時の雨」より転載

????高橋さんは、3月25日の伊東静雄賞贈呈式において、記念講演の講師を務められます。
????演題は、「詩と小説の間」です。楽しみですね。
                     ????     ????????????????以上

1449Morgen:2018/03/03(土) 00:26:50
伊東静雄菜の花忌(堺市i)
堺市中央図書館の行事・催し物欄に次のような記載があります。

伊東静雄菜の花忌
詩人・伊東静雄の命日「菜の花忌」にちなんで、帝塚山周辺に住む大阪の作家たちとの関わりをテーマとした講演会を開催します。講師は、帝塚山派文学学会副代表の高橋俊郎さん。また、詩の朗読やミニコンサートを行います。
3月4日(日曜) 午後2時から4時 (受付:午後1時30分から)
三国丘幼稚園(北三国ヶ丘町4丁1-12)で。参加費500円。直接会場へ。先着60人。
問合せは、中央図書館(電話:244-3811 FAX:244-3321)か、けやき通りまちづくりの会(川添 電話:232-1362 問合せ時間:午前8時から午後8時)へ。

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1450上村:2018/03/06(火) 12:00:03
菜の花忌ご案内
ご案内

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1451Morgen:2018/03/08(木) 17:25:08
三国ヶ丘菜の花忌(堺市)
 すっかり春らしくなりました。
 先日は、三国ヶ丘菜の花忌(堺市)に参加しました。五月を思わせる陽気の下、旧堺灯台〜宿院(「ちく満」蕎麦店)〜三国ヶ丘と歩いて、何枚かの写真を撮りました。

 当日の講演者は、前褐のとおり帝塚山派文学学会副代表の高橋俊郎さんでした。「帝塚山派」と言われる文学者たちの相関関係について、詳細な説明がありました。

 そのレジュメにあった(添付写真1)左端の秋田実さんと伊東静雄が何となく似ているように見えたので添付します。(左から秋田実、長沖一、藤澤恒夫)

 『帝塚山派文学学会 紀要』に、伊東静雄に関する研究(添付写真2参照)が発表されているようですので只今取り寄せています。届きましたらコピーをお送りします。(同会事務局の八木様よろしくお願いします。)

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1452龍田豊秋:2018/03/27(火) 11:14:21
ご報告
3月25日は温かく穏やかな日よりでした。
諫早公園中腹の詩碑の前で、第54回「菜の花忌」が開催されました。

献詩  真城中学校3年  阿比留 大和さん 「挑戦」
?????? 鎮西学院高校2年??藤原 早恵さん  「Faith」(信頼)

詩朗読??諫早コスモス音声訳の会 中路 美知子様 「夜の停留所」
????????詩人          田中俊廣様??「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」
???????????????????????????????????????????????????? (チェーホフ)

その後場所を変えて、諫早観光道具屋で第28回伊東静雄賞の贈呈式が行われました。
今回伊東静雄賞を受けられたのは、鹿児島市在住の山之内 ? 様です。
                   作品は、「きょうだい」

記念講演の講師は、詩人・高橋 順子 氏でした。
演題は、「詩と小説の間」

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1453Morgen:2018/03/28(水) 23:49:27
初夏の陽気ですね。
「伊東静雄研究会」の皆様方のご尽力により、第54回「菜の花忌」が盛大に催行されたことを共にお慶び申し上げます。

 今日(28日)は休暇を取って、京都八幡「背割堤桜」の花見をしました。気温が25度近い初夏の陽気のなか、訪れた人々は、桜の並木を通り抜けるやや強い南風を心地良さそうに花見を楽しんでいました。桜はほぼ満開の状態ですが、まだ「花吹雪」は見られず、しっかりと花が枝に着いています。当分は雨も降らないようなので、今度の土日あたりは道路や堤の土手も満員の花見客で埋め尽くされるでしょう。

 事業年度末を迎え、当分は仕事も忙しそうですが、老化に抗うために出来るだけ暇を作って自然に融け込みつつ身体を動かすように努めたいと思います。淀川べりは本当に鶯や野鳥が多いですね。

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1454Morgen:2018/04/02(月) 11:19:49
「庄野潤三の文学と帝塚山」
「庄野潤三の文学と帝塚山」(上坪 裕介)という講演録(帝塚山派文学学会)をご紹介します。

 全文(PDF)を添付すればよいのですが、この掲示板では利用できませんので、興味のある方はWEB上に公開されている講演録をご一読ください。

 講師の上坪先生は、日大芸術学部の新進気鋭の学者で、「庄野潤三研究」を博士論文のテーマにされました。伊東静雄との関連についても、若干言及があります。

 上坪講演の論点のュニークなところは、庄野文学=人間賛歌の文学(喜びの種子を蒔く〜理想の場所づくり〜根づきの実践〜場所の成熟)としてとらえるところにあります。(所謂「トポロジー」的考察)

 庄野潤三さんは、青春時代には(憂愁の深い戦争の)「1940年代」を体験され、戦後を生きる新しい人生観として、“自分自身の手で「喜びの種子を蒔き、根づかせ、成熟させよう”という考え方を固められたとも言えるのではないかと、この講演録を読んで思いました。(国家や社会賛歌〜人間賛歌へ)―(お前の憂愁の深さのほどに)、<行って 明るくかしこを彩れ>という静雄詩を私は連想しました。―

 また、庄野さんの「人間賛歌の文学」は、「帝塚山派文学」を代表するの文学の基調ともなっています。

 40ページという長文のため詳細をご紹介することはできませんが、下記URLからダウンロードして、ご一読ください。

 写真は、大阪城公園の葉桜になりかけた“名残りの桜”です。(4/2 スマホ撮影)

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https://media.toriaez.jp/y1983/083165017456.pdf

1455齊藤 勝康:2018/04/09(月) 09:24:21
菜の花忌
寒い季節が過ぎ、今年もその季節が来たのですね。諫早での高橋順子さんの講演聞きたかった。10年ほど前、車谷長吉展が姫路文化館で開かれていて伺いました。その時.鷲田氏との対談は聞いたのですが別な日の順子氏との対談はは聞きそびれました。車谷氏の追悼の著作は最近読んだところです。

現在の混沌とした世界情勢の中、事務局をやっている大阪露文談話会では、4/17日1830、千日前丸福コーヒー店2階でウリツカヤ(1943〜)の「通訳ダニエルシュタイン」をとりあげます。全編600p、エピソードのコラージュという手法で描かれていて読むのは大変ですが読後の感動は大きい。今回は初めて方向音痴の私が道案内をしますがどうなりますか。

1456Morgen:2018/04/17(火) 22:57:28
新緑の中ー“SCRAMBLE GRAND ART FES"
 桜花〜新緑へと季節が目まぐるしく移り行く中、皆様は恒例の「菜の花忌」行事を終えられて、一息をついておられるところかと思います。

 職場の窓外に広がる大阪駅北口広場も、仮設スケートリンク場〜満開の桜〜(何かの)イベント会場(?)へと、次々に模様が替えられています。

 今日は、添付写真のようなアニメ風の景色が突如現れ、臨時の遊園地でも開設されるのかと思って説明を読むと“SCRAMBLE GRAND ART FES"の準備と掲示してあります。
 グランフロントビル竣工5周年を記念して、世界的に有名な現代アーティストの作品が広場に展示されるのだそうです。

 連日、沢山の外国人観光客が行きかい、種々の外国語が飛び交うなか、私たちはそれらの賑わいを避けるようにして黙々と仕事をしていますが、こんな雑踏の中に長期間にわたり“芸術”を出現させるというのはなかなかの新鮮な企画です。

 先日は、「帝塚山派文学学会」紀要第2号が送られてきたので、諫早の方にもコピーをお送りしておきました。湯川かをり様と福島理子様の熱心な研究論文が掲載されています。伊東静雄研究者がだんだん少なくなっていく中、貴重であると痛感しつつ熟読させていただきました。読んでみたい方はこの掲示板に投稿してください。

・『詩的流れとロマンチズム―伊東静雄の中のヘルダーリン―』(湯浅 かをり)

・『詩人の観照―潁原退蔵の芭蕉研究と伊東静雄ー』(福島 理子)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001599.jpg

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000206.000005181.html

1457Morgen:2018/04/21(土) 21:42:38
帝塚山派文学学会会報第5号
上村様
「菜の花忌」の模様を伝える新聞記事をお送りいただきありがとうございました。
 “Walking in ISAHAYA”の地図も、観光客の役に立つと思われます。(凡その所要時間を訊かれたことがあります。)

「帝塚山派文学学会会報第5号」がWEB上にありましたのでコピーして投稿します。


  平成29年9月30日(土)午後、帝塚山学院住吉校舎顕彰ホールにおいて第 5 回研究会が 15 人の参 加のもとに開催されました。 発表者は二人で、まず本会会員の湯淺かをりさんが「詩的流れとロマンチシズム――伊 東静雄の中のヘルダーリン」のテーマで発表しました。 湯淺さんは甲南女子大学大学院を修了し、これまでに伊東静雄についてのいくつもの論 考を発表してきた研究者です。学生時代の伊東静雄は、18 世紀から 19 世紀にかけて生き たドイツ・ロマン派の詩人フリードリヒ・ヘルダーリンに傾倒していましたが、湯淺さん は伊東静雄がどのようにヘルダーリンを受容したかを、書簡や処女詩集『わがひとに与ふ る哀歌』中の詩の引用を通じて跡づけました。 もう一人の発表者は本会会員で帝塚山学院大学教授の福島理子さんで、テーマは「詩人 の観照――穎原退蔵の芭蕉研究と伊東静雄」でした。 京都大学国文科を昭和 4 年に卒業した伊東静雄の卒業論文は「子規の俳論」で、その卒 論には最高点が与えられました。そこには穎原退蔵講師の強い推輓があったとされていま す。伊東の卒論中に「白菊の目に立てみる塵もなし」という芭蕉の句に「象徴」性を見よ うとする個所があるのですが、昭和 26 年に刊行された穎原退蔵『芭蕉俳句新講』中の同句 評釈にも「象徴」の語が使われています。ところが昭和 3 年に穎原退蔵が発表した同句の 評釈では「比喩」を使って、「象徴」とは言っていません。この変化は詩人伊東静雄の「観 照」が研究者穎原退蔵に影響を与えたことを意味するのではないか。福島さんの発表はこ の仮説を周到な資料をもって論証しようとするものでした。 なお、上記二つの発表は、来年 3 月刊行予定の『帝塚山派文学学会 紀要』第 2 号に掲 載します。

1458Morgen:2018/05/01(火) 02:15:24
藤むらさきの夢匂う
4月30日―朝10時に家を出て、宝塚から蓬莱峡経由のバスで有馬へ行き、ロープウェイで六甲山頂を経て、阪急六甲駅に降り、神戸クアハウス温泉に浸かって夜8時に阪急電車で帰宅しました。(妻同伴)

今頃、六甲の渓谷では山つつじの群落が満開ではないかと期待して行ったのですが、実際にはヤマザクラとヤマフジが至る所で満開でした。標高1000米に満たない六甲山ですが、山の春はこれからなのでしょうか。山頂の天気は曇りで肌寒く、半袖のスポーツシャツしか着ていなかったので、早々に下山して神戸の温泉に入った次第です。本当はあちこちの樹木に絡みつくヤマフジの花の群落をもっと観て廻りたかったのですが。

本会の皆様ご存知のように、諫早の詩人風木雲太郎(1年生時の担任教諭)は、諫高校歌で藤の花をうたっています。

  藤むらさきの夢匂う
  若き生命(いのち)花と咲く
  真理(まこと)の春はここにあり

―「(若い希望に溢れて集う諫高生達は)まるで諫早城址に咲き匂う藤むらさきの花のように、その瞳は初々しい夢に輝き、気高い香気が匂うようだ。この学び舎では学業に勤しむ若者たちが才能を育み花咲こうとしており、真の人生の春はここにあるのだ。」(私の個人的読み解きです。)

 果たして <藤むらさきの夢匂う若き生命(いのち)花と咲く>青春時代が自分にもあったのか?(ヤボな設問!)

―今はもう遠い昔のこととなり、わが「藤むらさきの夢」が何であったのかは、色褪せてしまい定かではなくなっています。

 今、わたしにできることは、身辺や日常茶飯事の中に「藤むらさきの夢」を見つけて、一喜一憂しながら余生を全うするということでしかありません。

 今年も、仕事場には多才な新入社員たちが加わり、伊東静雄のうたう新鮮な「四月の風」が吹いているのを肌で感じさせます。

 明日からは五月。―自然は、自らを全山緑一色に染め、夏の猛暑に備えて身構えをしているようです。<われもまた・・・!>

1459Morgen:2018/05/10(木) 10:36:39
「わたしの母校」(毎日新聞5.8)
上村様から、伊東静雄関連記事の紹介がありましたので、WEB上で探して転載しました。
なお、詩碑の画像は転載禁止になっており、添付できませんでした。(毎日新聞、5月8日版、「わたしの母校 住吉高校/5」で検索すると、デジタル版掲載記事を見ることができます)
<下記URL>ご参照ください。

 住吉高校の校庭には、日本浪漫派の代表的詩人、伊東静雄の文学碑がある。伊東は京都帝大卒業後の1929(昭和4)年に住高の前身・旧制住吉中学に赴任、詩人として名声を博しながらも生涯国語教師にこだわり続け、生徒を指導した。
 碑は82年11月1日、創立60周年を記念して業績と人柄を伝えようと建立された。代表的詩集「わがひとに与ふる哀歌」から「わが死せむ美しき日のために」で始まる「曠野(こうや)の歌」が刻まれている。裏には、学校長名で「伊東静雄先生は 近代詩史に輝かしい足跡を残された ほとんどを本校国語科教諭として過ごし 誠実な授業 厳しい指導で信頼と畏敬(いけい)の的であった」と記す。
 学制改革により48年、隣の府立阿倍野高校に転勤、53年に死去した。46年の生涯だった。住高教師時代の教え子には、ノーベル化学賞(2008年)を受賞した下村脩さんがいる。教師と詩人の「二刀流」を両立させた伊東は、緑に囲まれた碑から、今も住高生の学校生活を静かに見守る。


 

https://mainichi.jp/articles/20180508/ddl/k27/100/363000c

1460山本 皓造:2018/06/02(土) 22:43:12
阪田寛夫『庄野潤三ノート』のこと
 長らくご無沙汰を重ねました。
 今年二月、妻が具合が悪くなり、その介護の過程で私も何度も転倒したりして、ついに老夫婦は進退谷まり、妻を入院させて、私は心ならずも独居老人となりました。
 上村さん、滝田さん、Morgenさん、斉藤さん、ほか掲示板ゆかりの皆様のご健勝を慶賀し、その労にあつくお礼を申します。

 春以来、庄野潤三さんのことや帝塚山派文学会のことが話題になりました。
 先月、新聞広告で、阪田寛夫さんの『庄野潤三ノート』が講談社の文芸文庫で出たことを知って、さっそく購入しました。この本は、昭和50年冬樹社版をすでに持っていたのですが、もうずいぶん前のことなので、なつかしさもあり、文庫版にも目を通しました。そうして、庄野・阪田のお二人ともに対する畏敬の念を増しました。
 潮時ということがあり、それまで何度も逡巡して未だ手が出なかった『庄野潤三全集』(講談社全10巻)を買うことにしました。
 私がまだ伊東稿にとりかからぬ頃に、ナンバの天地書房の店頭で3万円で括ってあるのを見たことがありました。その後ネット上で探せば1万円であるとの知見を得ました。そうしてこの間、あらためて「日本の古本屋」のサイトで、同じ天地書房が6000円で出しているのを発見し、逡巡遅滞なく注文して、無事私の書棚に収まったのが、つい先日、26日のことでした。1冊ずつがなかなか分厚く、第1巻からゆっくり、これから読んで行こうと思っています。

 今日はそんないきさつから、『庄野潤三ノート』にかかわる話をひとつだけ、つぶやいてみることにしました。
 以前、私は、須賀敦子さんが庄野さんの『夕べの雲』をイタリア語に訳し、刊行された訳書を持って庄野さん宅を訪ねた、そのあたりをテーマに、この掲示板へ投稿したことがありました。今、調べてみると、「庄野さんと須賀さん」という表題で、投稿日は2014年1月24日となっていました。
 その須賀さんの翻訳のことが、阪田さんの「ノート」第15章「雉子の羽」の末尾に書かれています。(文章を打ち込むのがめんどうなので、ページの画像を貼りつけます。)
 第15章の当該部分は、庄野全集では第6巻に収められています。庄野全集の刊行は昭和48年で、この頃はまだ須賀さんの文名が轟く前です。阪田さんも「須賀」という姓は書かず、ただ「リッカ敦子さん」と書いているのも、おもしろいと思いました。なんだか他人のようで、「あの」須賀敦子さん、という気配は微塵もありません。しかし、須賀さんの文章を丁寧に引用し、最後の3行のエピソードも欠かさず紹介しているところは、さすがに阪田さんの眼光だと思いました。見事な結びで、「夕べの雲」や庄野文学の本質を語り得て余すところがありません。
 またなにかおもしろいことがあったら書きましょう。

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1461Morgen:2018/06/04(月) 11:25:52
「日本の香りのようなもの」・・・
山本様。

 いろいろと大変なご家庭の状況の中でも、『庄野潤三全集』(講談社全10巻)を購読されるという旺盛なお心を持っておられることに感服しました。私の方は、(「体の丈夫な内に老後の整理をして下さい!」という)老妻に強いられてダンボール10箱余りの本を廃棄しました。(老後身辺整理はまだまだこれからが本番です!!)

*庄野潤三(帝塚山派文学会)関係では、下記のような案内がなされています。

   平成30年7月1日(日)13:30 帝塚山学院本部棟 同窓会ホール(予定)
   /特別講演:「父庄野潤三を語る」今村夏子(庄野潤三長女、会員)
 (私は、同会員になっていますが、当日出席できるかどうかは不明です。)

 『庄野潤三ノート』p169に引用されている「『夕べの雲』には、日本のほんとうの一断面…日本の香りのようなもの」があるという(須賀敦子さんの)お言葉は印象的ですね。

(「会話の生きた呼吸」、「家族がその中におかれている世の中の呼吸」、『枕草子』や『徒然草』のように何度読んでも面白い・・・というp164〜167にある阪田さんのお言葉と照応して―“まるで同じような事を言って”―いるのでしょうか。・・・)

 昨日(6/3)舞洲「ゆり園」で数百万本の極彩色のゆりの開花を見ました。しかし、それらは切花用に品種改良され上向きに咲くけばけばしい洋花ユリの大群落でした。

 横向きに咲き「日本の香りのする」ヤマユリ、オニユリ、ササユリなどの日本百合は皆無でした。私は、自宅の狭い庭でそれらの日本百合を10数株を育てていますが、レモン色のオニユリ一株が開花しました。7月頃には全株が開花する予定で、路地を通る近隣の方々に、果たして「写真にも映画にも表せない日本の香り」を感じ取っていただけるのか。その時が来るのを楽しみにして、毎日水やりをしています。

 日常茶飯事のなかのおもしろみを「ヒューマン・ドキュメント」として表現し続けた庄野潤三的「眼」というのは、「最も平凡で最も些細な、それこそ池の表面を時折走るさざなみに宝石のような真実の輝きを見出す」と照応するものでありましょう。そのような「眼」や心は、言うは易く体得するのは難しいことのようにも思われます。傍観者、記録者の眼ではなく、善意と明識をもてる“ヒューマン・アイ”を以て、日常茶飯事のなかに“宝石の輝き”を見出せるようになるにはどうしたらよいのか?―日暮れて前途程遠しの感があります。・・・・・「前途程遠し思ひを雁山のゆふべの雲に馳せ、後会期遥かなり纓を鴻臚のあかつきの涙にうるほす。」(和漢朗詠集)

 一陣の涼風に代えて、WEB上にあったやまゆりの写真を添付してみます。(下の「舞洲ゆり園」の写真と比べて観て下さい)

 PS/昼休みに、会社(35階)と同じビル6階にある紀伊国屋で阪田寛夫『庄野潤三ノート』(講談社文芸文庫 2018/5/10発行)を購入して今読んでいます。

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1462山本 皓造:2018/06/13(水) 14:57:23
「一月十二日の記」
 庄野潤三さんの最も若い頃、九大学生時代の作品に「一月十二日の記」「雪・ほたる」があることは、すでに早くから知られていました。
 私が1994年に『住高同窓会室所蔵伊東静雄関係資料目録』というものを編んだ際、庄野さんの項にはまず、
  一月十二日の記(昭和一八・三 未発表)
  雪・ほたる(「まほろば」昭和一九・三)[誤:昭和一九・四に訂正]
  淀の河辺(「午前」昭和二二・二→『伊東静雄研究』)
と書き始め、続いて、伊東さんの亡くなられた昭和28年に、おそらく追悼文の依頼に応えて書かれた
  伊東静雄先生のこと(「詩学」昭和二八・六→『伊東静雄研究』)
  伊東先生の手紙(「プシケ」昭和二八・六)
  『反響』のころ(「祖国」昭和二八・七→『庭の山の木』『伊東静雄研究』『現代詩読本』10)
というふうに、記述を進めています。

 「およそ書誌目録というものは必ず自分の目で見たものだけを記さなければならない」と、厳しく戒めたのは誰だったか(谷沢永一? 青山二郎?)まことにそれは至言であって、しかしそれにもかかわらず私の目録では、自ら未見のものもあえて記入せざるをえなかったことに、忸怩たるものを感じていました。

 私の手もとに「まほろば」掲載の「雪・ほたる」をコピーしたものがあります。しかし「一月十二日の記」は、まったく見る手立てがありません。「実見しないものを記すのは違犯である」という定言命題が重くのしかかります。

 庄野さんご自身は、「一月十二日の記」と「雪・ほたる」の内容はみな『前途』に取り込んだ、と言っておられますので、まず『前途』から引用します。

 三月七日
 (中略)室が帰る時、頭を冷やすために電車道まで送った。星空で、僕は「一月十二日の記」のことを考えて歩く。昨日の夜、室が帰ってから、最後の場面にほんの少し手を加えて、今日にでも蓑田に渡そうと思っていた百枚ほどの小説をやめて、一月の末に二晩で書いた二十五枚の「一月十二日の記」を出すことに不意に気持が変り、っそれより必死で取りかかった。
 二月いっぱい、殆ど徹夜の苦労も、全く空しくはない。熟するまでその小説は心にしまっておきたい。「一月十二日の記」、それは冬休みに家へ帰っていた十八日間の最後の一日の朝から夜までを書いたものである。母と阿倍野へ『ハワイマレー沖海戦』をみに行ったのも、この日の主な出来事のひとつであった。(下略)
 三月八日
 朝、十一時起床、それより四時まで原稿書く。今までで十五枚。好調。あとをしっかり書き終えたい。三十枚にはなる。
(中略)
 三月十一日
 小高のところへ昼ごろ行く。松下さんのためのノートを借りに。小高に書けないと云うと、しゃにむに書いてしまうんだ。この一作に全力をという気持では書けないと云う。
 昼から書き出す。到頭、二時ごろ書き上げる。うれし。
 三月十二日
 朝、小高来る。室の引越の時の写真が出来たのを見せに。よく撮れている。
 三時ごろまでかかって推敲し、夕食後、リュックをかついで下宿を出る。蓑田の家へ寄り、「一月十二日の記」を渡す。

 次に、阪田寛夫さんの『庄野潤三ノート』から引用します。

幸い、昭和十八年一月の末に二晩で書き、三月はじめに書き直したと「前途」に記されている「一月十二日の記」という未発表の小説(冬休みの最後の一日の朝から晩までを書いた三十四枚の作品)をこんど私は読むことが出来た。当時の文章を知るよすがにその一部を引用してみよう。休暇の最後の夜だからと家族にとめられそうになるのを切り抜けてとび出し、郊外電車で伊東静雄の家まで挨拶に行く件りである。

耳原のみささぎ近く、三国ヶ丘に目立たぬ住居なせる一軒の古家の前に、僕は立っていた。標札には、その屋の主の姿勢を思わせるような字で、伊東静雄としるしてあった。とりわけ伊という字は、その人の頭の恰好に似ていた。幾度、期待に胸躍らせてこの標札を眺めたことだろう。そして応え待つ間の気持は、初めて来た日も今も変らなかった。今晩はと呼んで戸を開けると、はい! という澄んだ声が聞えて先生が顔を現わし、客を認めてから、優しい微笑して頷くようにされた。この先生の会釈に逢うと、決って不思議な安らぎを覚え、もうそのまま引き返しても悔ない気持ちになるのだった。先生が嘗て不機嫌な顔をして僕に対応されたのは、一度あっただけだった。(以下略)(p.172)

 「幸い」阪田さんは「一月十二日の記」を「読むことが出来た」のです。そして、これが、私たちの読み得る唯一の部分であると思います。

 庄野さんはのちに『文学交遊録』でも、次のように回想されていますが、内容は『前途』に記されたところを出ていません。。

昼前に島尾の下宿へ行く。小説書けないというと、島尾、「しゃにむに書いてしまうんだ。この一作に全力をという気持ちでは書けない。とにかく書いてしまうんだ」という。昼から書き出す。夜中すぎて二時ごろ、書き上げた。(猪城博之と二人で作る計画の雑誌「望前」に出すつもりでいたこの小説「一月十二日の記」は、冬休みに大阪に帰省した私が、休暇の最後の一日をどんなふうに過したかを書いたもの。夕食が終ってから、母と妹が止めるのを振り切って、堺の伊東先生のところへ行く。そんな話が出て来る。休みの最後の晩だから家族とともに過ごしたいという気持ちと、その日、行きますと伊東先生に話してあった、約束だから行かないといけないというので、気持ちが揺れ動くままに家を飛び出したのであった。)(p.82)

(なお、「雪・ほたる」は七月六日から九月四日までの記事なので、一月の記事および三月七日、十一日の上記部分に対応する記事は存在しない。また『前途』本文も、昭和十八年一月の記事は、一日、二日、三日、四日の次に一月二十日に飛び、「一月十二日の記事」というものは、ない。)

 さて、実は私は、「伊東静雄関係書誌目録」の庄野さんの項を書くにあたって、同窓会室所蔵の資料(現物や複写物)、私の手持ちの若干の資料、『庄野潤三全集』の随筆の巻を読んでの摘出、『伊東静雄研究』その他等を参照して、ひとまず草稿を作り、これを阪田さんに送って点検をお願いし、またもし出来れば庄野さんご自身の校閲を乞えるならば、とお願いしたのでした。阪田さんからは丁寧なご教示をいただき、やがて庄野さんからも直々におハガキを頂戴しました(その一部、画像)。
 「一月十二日の記」は公にはもはや見ることができない、ということが、このようにして確定した次第です。

 次の仕事として、「雪・ほたる」と『前途』の比較対照表というものを作っています。その成果は次回に回しましょう。

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1463山本 皓造:2018/06/22(金) 10:29:22
「雪・ほたる」から『前途』へ
「雪・ほたる」と『前途』を比較対照したとき、ただちに2つの大きな特徴に気がつきます。
 第一は、「雪・ほたる」から『前途』へ、本文を引き写す場合に、その語彙章句のひとつひとつについて、きわめて綿密な推敲が加えられていることです。
 第二は、「雪・ほたる」から『前途』へ、大量の加筆増補が行われていることです。

 「雪・ほたる」は昭和十八年七月六日の記事から始まっています。これは『前途』第七章「赤ちゃん」からに対応します。
 そこで、両者の冒頭の、ごく小さな部分を取り出して、並べてみました(図版)。

 阪田さんの『庄野潤三ノート』に、次のような話が記されています。

……それはどういうことかと聞かれて、私は考えてから、部分部分がきれいすぎてリアリティが無くなっているようだと答えた。
 それはどの箇所を指しているのか、と庄野さんが重ねて訊ねた。活字の上をはっきり指で示して欲しいと、まるで画家が自分の画について語るような態度で糺されて私は忽ち困惑した。……(p.46)

 とても印象的なエピソードです。そして、庄野さんの文章といえばこれまで、すらすら、つらつらと何の抵抗もなくいとも易々と読み進められる印象があったので、その背後に、ここに示されたような厳しさがあったことを知って、身の震えるような思いをしたものでした。推敲過程を追跡していると、まるで庄野さんの太い指が、ことばをひとつひとつ押さえながら、見る者の眼をひきずって行くような気がしました。

 「前途において新たに書き加えられた」という点では同じだが、その追加が単なる語句や章句ではなく、1パラグラフ、1日分、場合によっては何日分にも及んで、「雪・ほたる」では欠けていて『前途』で埋められた、という形をしている所があります。これは、見方によれば、『前途』という作品は、もとからあった部分とあとで継ぎ足した部分の、だんだら模様、縞模様をなしている、ともいえるわけです。
 それを一覧表にして、目で見える形にしてみました。(図版)
 そして、作業をしてみると、「雪・ほたる」はその全部がそっくりすべて『前途』に取り込まれたのではなく、分量的にはごく僅かだが、「雪・ほたる」には記述があって『前途』には取り込まれなかった、という部分が、数か所あることがわかりました。
 その部分を抽出してみます。(図版  A、B、C、D)

A、七月六日。『前途』では p.219〜220。神戸から帰って下宿にやって来た島尾の話。車中で若い奥さんにかわって赤ちゃんを抱いてやったこと。「僕はさぞかし切なかっただろうと思って、聞いた」の次に、「雪・ほたる」の< >の部分が、『前途』では省かれている。
B、七月十六日。『前途』p.263に「小高の葉書」がある。「雪・ほたる」では、宛先島尾、発信人庄野の住所がそれぞれ記されているほか、日付が「七月二十七日葉書」と明記されている。そして「雪・ほたる」ではこの島尾葉書に続いてもう2通、「同日附」庄野宛島尾葉書、および八月五日附庄野宛島尾葉書が収録されている。
C、D 八月十四日、八月十七日。二人で堺の伊東宅を訪う話に関して、「雪・ほたる」の< >で囲んだ部分が『前途』では省かれている。

A、Bは、内容が個別特殊で、小説である『前途』には不適と考えたのでしょう。C、Dは、『前途』の一月の記事に、それまでの伊東との交渉のことがすでに記されているので、「雪・ほたる」には必要と考えられたこれらの説明が、『前途』ではもはや不要とされたのでしょう。

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1464青木:2018/06/22(金) 11:25:31
ご無沙汰しております
山本晧造さま Morgenさま 龍田さま 齋藤さま

お元気ですか いつも貴重な情報をありがとうございます。
ヘルダーリンとの関係は様々な研究者によって深められてきてるように思いますが、
リルケとの関連やケストナーとの関連が、今後、いっそうの課題ということになるでしょうか。
ドイツ文学専攻でないのでなんとも歯がゆいのですが、
独文科の方に伺いながら、独自に読み進めていく他はないのかもしれません。

山本様、どうぞお体お大切に、「庄野潤三ノートを読む」、大切に拝読させて頂きます。

最近書いたエッセイ風の「断章」を(伊東静雄とは直接関係はないですが)掲示板に貼らせていただきます。

詩は、思いを歌うものなのか、思いを伝えるものなのか。いわく言い難い、自分ではなかなかコントロールしがたい熱量を持って、身の内深くからこみあげてくるもの。複雑なイメージや観念が幾何学的な飛跡を残しながらせめぎ合う脳内から、こぼれ落ちて来るもの。こうした曖昧な、あえて名付けるなら詩情の素とでもいうべきものを、言葉という入れ物にそっと収めていく。意味の、音の響き合いや、発する波動のようなものの増幅を確かめながら、一瞬兆した思い、捉える間もなくすり抜けて行ってしまった感覚を、言葉の力を借りて、なんとか再現しようと試みる‥‥‥詩はその先に、文字の芸術、言葉の作品として生み出されていく。
心をつかまれた瞬間、揺さぶられた瞬間を詩作のきっかけとする詩人が多いのではなかろうか。そのきっかけとなるひと押しを、どこから、何から得るのか‥‥‥詩情を感知し、汲み上げて来る、その源泉の微妙な差異が、それぞれの詩人の個性を生み出していく要因のように思う。木々の葉擦れや小鳥のさえずりの向こうに、人智を越えた?ことば″を聞き取る人もいるだろう。景色や風の色が気持ちを捉えた瞬間を、スナップ写真やショートムービーのように写生して、その感興をそのまま他者に手渡そうとする人もいれば、その時の景がなぜ自分を揺さぶったのか、その意味を内省的に問い返していく人もいるだろう。そこに、?私″と?私を取り巻く世界″との関係性が露わに立ち上がって来る。
他者の言葉や思想、他者の作品が喚起するイメージもまた、?私″を取り巻くひとつの?世界″である。作品を通じて、その向こうからやって来るもの、それは、作品を生み出した作者の心身をフィルターとして取り出された、作者による世界との交感の記録であり、その言葉がまた新たに、読者内部の?私″と激しく反応する。


抒情、とは何だろう。過去の出来事を思い出して、その時の情動を呼び覚ましたとしても、それは現在の?わたし″のフィルターを介して行われる行為である。若い時には見落としていたこと、わからないまま置き去りにしていたことに、諸々の経験を経た現在になって、はたと気づく、という幸福な瞬間も訪れるに違いない。五感は肉体を通じて感受されるが、若い時にはスムーズに外界の反応を受け入れていたがゆえに、その存在を意識すらしていなかった身体が、不調などによってかえって自己主張を伴って意識化されることもある。私事で恐縮だが、白内障の手術をした母が、突然、喜々として空の美しさ、光の美しさについて語り始めたのに驚いたことがある。曇天のような空に少しずつ慣れていくことで、忘れていた青空の鮮やかさ。白内障の手術は、見慣れる、ということにより鈍麻していた感性を、一気にリセットする効果があったように思う。病など何らかのきっかけによって、幼子がはじめて世界を見るような目で新たに見つめることが出来るとしたら。あるいは定年、還暦といった人生の節目を、意識的に変化、転換のきっかけに活用するとしたら。それは生まれ変わりにも等しいような、新たな豊かさを手に入れることに他ならないのではなかろうか。


?魂″と肉体の関係について考える。魂は肉体という牢獄の内にあって、実はそこから逃れたがっている、しかし魂は、肉体という分厚い外皮を通してしか、外界に触れることができない。知覚を通じた認知によって魂が豊かな実りに到るのであれば・・・・・・素手で触れれば人体が消滅してしまうような危険物を、分厚いグローブを手にはめて辛うじて確かめるようなもどかしさと切り離すことが出来ないとしても……魂が肉体の内にあり?生きて″いる間、世界に直に触れたい、という焦燥と、触れた瞬間、虚無に吹き散らされてしまう、という恐怖から、逃れることができない。魂は、そんなジレンマを抱え持ったまま、肉体の内でチリチリと切ない灯を日々、ともし続けているに違いない……

1465Morgen:2018/06/27(水) 17:03:21
魂の「活断層」
 山本様、青木様、ご投稿拝読させていただきました。

 先日(株主総会前日)、福岡市の繁華街にある旧大名小学校跡地の起業家支援施設で、講師を務めた岡本顕一郎さんが殺害されるという痛ましい事件が起きました。(私の関係する企業も起業家支援施設に事務所を設け、このセミナーの共同主催者として社長を含め複数名が参加していたのです。)

 この事件は、ネット上のハンドルネームを使用した匿名のブログの記事ですら、殺意に直結する憎悪の源となりうることを意味し、さらに闇サイトと呼ばれる確信犯罪者たちの特殊なアジトすらウェブ上に存在することなど、ヴァーチャル(仮想世界)とリアル(実世界)が混沌と入れ混じった次元で連続して引き起こされる社会現象です。

 時節柄、梅雨時の分厚い雲の切れ目から、突如灼熱の太陽が、山百合や紫陽花の花々に照りつけて、輝かせることがあります。その光の美しさや花の色の鮮やかさは、私たちの曇天に馴れた目をリセットしてくれます。私の脳裏には、何故か金田たつえの「雲の晴れ間のあ〜あ女の暦」という古い歌の一節が意味もなく浮かんできます。

 その一方で、世知辛い現世と「添い遂げる」ことができず、「光の美しさや花の色の鮮やかさ」を妬み、ナイフを研いでいる確信犯的殺人者たちの澱んだ魂が、日本という狭い国土のあちこちで歯ぎしりをしているという恐ろしい社会現象があります。

 公の場で、多数の人々に向けて自らの言葉を発信し続け、こちらの意図を言葉通りに了解していただくということは、私には何となく至難の業に見えてきます。

1466Morgen:2018/06/27(水) 21:08:39
PS「梅雨の晴れ間の百合の花」
画面が切り換わらないので追加で添付しました。

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1467Morgen:2018/06/28(木) 10:36:47
「野呂邦暢小説集成」完結 長崎原爆テーマの未発表作も
 中野章子さんの『朱雀の洛中日記』で、「野呂邦暢小説集成」完結のニュースを知り、アマゾンで注文しました。調べてみると、朝日新聞や毎日新聞などにも記事が載っていたことが分かりましたので、デジタル版のコピーを転載します。同シリーズの解説者中野章子さんのブログ『朱雀の洛中日記』に載っている「夜の船」は、興味深いので是非ともお読みください。


「小さな物語」懸命に、静謐に 「野呂邦暢小説集成」完結 長崎原爆テーマの未発表作も    2018年6月20日16時30分

 長崎県諫早市を拠点に多数の小説を執筆し、1980年、42歳で早世した野呂邦暢(くにのぶ)。端正かつ正確な文体で今なおファンの多い作家の作品集がこのほど完結した。『野呂邦暢小説集成』(文遊社)で、最新刊の9巻には、ライフワークで、長崎の原爆をテーマにした未発表作を収録している。

 野呂は37年、長崎市生まれ。母の実家がある諫早市に疎開して原爆の閃光(せんこう)を目撃、被爆は免れたが、小学校の同級生の多くが亡くなった。高校卒業後に上京、さまざまな職を経て、自衛隊に入隊する。除隊後は故郷の諫早に戻り、作家活動を始めた。

 全9巻に104作を収録。単行本化されていないものが49作、未発表も3作ある。編集に協力した元都立高教諭の浅尾節子さんは、「国会図書館で、野呂が文筆活動した間の新聞・雑誌のマイクロフィルムをひたすら見続け、未発表作を探した」と話す。

 野呂の特異性は、故郷諫早で終生執筆し、動かなかったことだ。ただし単純な郷土愛ではない。代表作「諫早菖蒲(しょうぶ)日記」(5巻収録)では、主人公の少女が有明海の泥海で育つ魚くちぞこを「厭(いや)でならない」と独語する。「見るからに愚鈍そのものである阿呆(あほう)めいた顔が諫早会所のだれかれを思わせる」「世の中はこんなものだとでもいいたげなどんよりとした眼」。おとなしく控えめで争いを好まない故郷の土地柄。しかしそれも過ぎれば、事なかれ主義で過剰に空気を読む、いわば「忖度(そんたく)」に流れるだろう。

 一方、派手な事件の起きない地方の日常に潜むさざ波を、明瞭に描き出した。「小さな物語を懸命な口調で語る」(4巻収録「朝の声」)ことに自覚的だった。まさに東京以外、日本は地方の集まりであり、小さな声の集まりなのだ。

 もうひとつの特異性は、戦争の影だろう。芥川賞受賞作「草のつるぎ」(3巻収録)は自衛隊での体験を描いた青春小説だが、厳しい批判にさらされたこともある。「ベトナムに平和を!市民連合」呼びかけ人の小田実は、野呂作品には戦争での「死者たちの眼」がないと批判、「作者が自衛隊の是非についてどのように考えているのか」と追及した。

 最新刊に収録の「解纜(かいらん)のとき」は、作家畢生(ひっせい)の大作だ。諫早で原爆投下を目撃したルポライターと、長崎市内で被爆した広告マンが主人公。野呂の分身のような2人が、旧満州で行方不明になった父の秘密や、爆心地の復元地図など、失われた時を求めてさまよう。反戦、反核を声高に訴えない。静謐(せいひつ)な文体はそのままに、「死者たちの眼」に再び光を入れようとする。

 忖度だらけの政権による、自衛隊明記などの改憲が現実味を増す。中央を離れ、戦争を声高に語らなかった「小さな物語」の語り口が、今ほど大きく響くときは、ないかもしれない。

 (近藤康太郎)

http://suzaku62.blog.jp/

1468Morgen:2018/07/05(木) 11:12:31
(続) 「野呂邦暢小説集成」完結
 台風7号に続いて、全国各地で大雨の被害が発生していますが、皆様は如何でしょうか。
 前投稿では、中野章子さんの『朱雀の洛中日記』に触発されて、朝日新聞の記事(6/20)を転載したのですが、中野さんはその後も猛烈な勢いでブログを更新されていますので、そちらもぜひご閲覧ください。

「元有明海の葦の茂みの中に打ち捨てられた廃船」の映像は、元有明海岸人であった私にも記憶があります。毎日新聞掲載米本浩二の評論に引用されている“野呂の原風景は「葦のしげみの中にある打ち捨てられた廃船」である。石牟礼も浜辺で崩れゆく舟のイメージに生涯固執したのだった。”という松本道介さんの文章に、生々しいリアリティを感じます。

 毎日新聞(6/24)の「日曜カルチャー」(筆者米本浩二さん)が興味深い記事なので、前投稿追加として転載しておきます。

 <ぼくは再び帰ってきた>

 <ぼくは自分を未知の海めざして錨(いかり)をあげる一艘(いっそう)の船にたとえていた。海図もコンパスも寄港地のあてもなく船出する船、なんのために? ぼくは自分以外の人間になりたかったのだ>(「地峡の町にて」)


 野呂の1年足らずの自衛隊経験は、作家志望者の経歴にしては奇異に感じられる。<自分以外の人間になりたかった>(同)結果なのか。<ぼくは自分の顔が体つきが、いやそれに限らず自分自身の全てがイヤだ。ぼくは別人に変りたい。ぼく以外の他人になりたい>(「草のつるぎ」)と書いている。

 <自分以外の人間>になりたいという願いは、見果てぬ夢を追いかけるようなものだ。別人になりたい、他人になりたい、と言いつつ、焦慮や苦悩は次々に襲ってくる。救いは書くことだ。<海面に燃える船の影が映る/さかさまになって……/誰も気づかない/沖では船が燃えている>(「夜の船」)

 「地方」作家が珍しかった70年代、諫早の野呂は10歳上の水俣の石牟礼道子(1927〜2018年)と並べて語られることが多かった。「海ひとつ隔てた隣人」(野呂)の2人は互いに親近感を抱く。到達したとたんに失われる「もうひとつのこの世」を求めて石牟礼も試行錯誤を繰り返していた。

 <ものを創る、表現するということは、潮と舟の舳先(へさき)との親和を創り出すようなことではなかったのでしょうか>と石牟礼は野呂との往復書簡で述べている。文芸評論家の松本道介によると、野呂の原風景は「葦のしげみの中にある打ち捨てられた廃船」である。石牟礼も浜辺で崩れゆく舟のイメージに生涯固執したのだった。

 石牟礼は10代で<あの火は不知火の海から渡って来る/わたくしを招く火/わたくしを呼んでいる火>(「不知火」)と記す。呼応するかのように野呂は、<もうひとつの火が自分の内に/あるとも知らずに>(「不知火」)と書く。期せずしてタイトルも同じである。次なる海を目指し、新しい自分を求める。夢幻的イメージの源泉である。

 野呂は長崎原爆の直前に諫早に疎開し、危うく死を免れている。生家は爆心地から800メートルの至近距離。原爆投下時、7歳の野呂は諫早にいた。
 <西南の方、ちょうどこれから行こうとしている公園の上空にまばゆく白い光球が一つ輝いている。太陽は真上にかかっている。一時に二つの太陽が天空に位置したかのようだった。一、二分後に鈍い爆音が地を圧して轟(とどろ)いて来た>(「地峡の町にて」)

 「解纜のとき」は、まさに題名が示唆するように、永遠の放浪者たる野呂が地球の裏側を目指すかのような大航海を試みた生涯最長の小説である。
 ルポライターの三宅鉄郎と広告会社の営業マン吉野高志の2人が主人公。三宅は諫早で被爆を免れ、生き残ったことに罪悪感を覚える。吉野は長崎で被爆し、白血病で死を覚悟している。2人は野呂の分身だ。交互に描くことで、原爆後の複雑な現実を重層的に描こうとする。
 31歳ごろ構想した「解纜のとき」は35歳で筆を起こした。物語はこれから、という段階で中断され、未完に終わった。原稿用紙850枚。吉野が廃船と向かい合うシーンが印象的だ。<船橋と舳だけが水面にのぞいている船を見ていた。彼が記憶の乾板に焼きつけている廃船のかずかずがこのときになってくっきりと甦(よみが)えってくる>
 大航海を目指して、海から海を経巡るはずが、気がついたら昔からなじんだ廃船と向き合っている−−心象風景から抜け出せない。

 元熊本日日新聞記者の久野啓介氏は『石牟礼道子全集』月報に「野呂邦暢さんと石牟礼さんのこと」を寄稿している。久野氏は野呂の訃報に接し、石牟礼に電話をかけた。彼女の言葉に絶句した。
 <「別れを言いに来られたんですよ」/「えっ」/「真夜中に戸を叩(たた)く音がして、目を覚ますと、窓ガラスのところに立っておられたんですよ。野呂さんが」/「……」/「なんにも言わずに。やっぱり別れを言いに来られたんでしょうね」/「……」>
 別れを告げに来た野呂は何を言おうとしたのか。石牟礼が語る野呂のたたずまいと、「中断」で終わった「解纜のとき」の雰囲気は似通う。いきなりぶった切ったような空白は、天才的な筆のさえとどこか通じ合う。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001613.jpg

https://mainichi.jp/articles/20180624/ddp/014/040/005000c

1469Morgen:2018/07/10(火) 00:01:58
豪雨被災者の方々にお見舞い申し上げます。
??日雨量1000ミリ超の「平成30年7月豪雨」によって、九州から中部地方までの広範な地域で、住民の人命・財産に甚大な被害が発生しました。その被害の規模はまだ正確には把握できず、今後も生活や産業活動に重大な支障が起こることが危惧されています。

 今般の豪雨により亡くなられた方のご冥福をお祈りしますとともに、被害者の皆様方に心よりお見舞いを申し上げます。

 私も、被害激甚地の広島方面を6月に旅行し、その前には岡山の高梁川上流(備中松山城)を訪れたばかりで、被害の酷さが身近に感じられます。とりわけ、冠水地域の浸水排除が遅々として進んでいないことが、TVを観るたびに痛感され、地域の方々には本当にお気の毒に思います。(倉敷市真備町など)

 各方面の迅速な救助や復旧活動によって、これ以上被害が拡大しないように、祈るばかりです。

1470山本 皓造:2018/07/14(土) 11:25:39
「雪・ほたる」について、追補
 前述のように「雪・ほたる」の日記体の部分は九月三日の記事で終っているのですが、実はそのあとにまだ続きがあります。まず、このあとに「妹のうた」という詩が、2ページにわたって載せられていて、その末尾に「(昭和十八年十一月十八日)」という書入れがあり、ここではじめて「雪・ほたる」全文が終ります。そうして次のページに「○」という、無題の伊東の文が来ます。伊東全集ではこの記号は「★」となっていて、諸書では?推薦文?などと呼ばれているようです。「庄野君の書いた文章が「雪・ほたる」と題して、最初にこの「まほろば」に載るのは喜ばしい」以下の本文は、全集との間に異同はありません。また、この文の最後に、「重要な訂正をしたので」として、詩「うたげ」の訂正稿が載せられています(内容は全集と同じ)。但し『全集』の「拾遺詩篇」の中の「うたげ」は、訂正を加えない旧稿のままで載せています。それはおそらく全集の編集方針なのでしょう。ほかにも、後に伊東が自ら訂正を表明したが全集ではその意志を生かしていない個所がいくつかあります。(もっとも、これを云い出すと詩集『反響』の「ヴァリアント」の問題など、収拾がつかなくなります。)

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1471山本 皓造:2018/07/21(土) 15:34:16
庄野潤三と島尾敏雄の通交
 昭和十八年一月三日、庄野潤三は島尾敏雄に連れられて、はじめて堺の伊東家を訪ねたが、伊東は宿直で不在であった。
 その日、あらかじめ島尾が庄野の家へ来る約束がしてあったらしい。

一月三日
 朝、小高[島尾]が約束通りやって来た。ちょっと応接間で話をした。その折、四日、小高の家へ新年会に呼ばれている話を伊東先生のところでしたら、いまビルマへ映画を撮りに行っている先生の弟さんのお嫁さんに誰かいい人を探してくれるように、小高さんに頼んでほしいと云われたことを伝えると、
 「そんなら、先生に来て貰って、実際に気に入る人をみて貰ったらいい」
 と小高が云った。
 それでは、伊東先生のお家へそのことを云いに寄って、それから堺の御陵のあたりを歩こうということにして、家を出た。
 出かける時、福岡の蓑田から返事の封書が来ていたので、ポケットに入れて行った。伊東先生の家に着くと、今日は宿直で住中へ行かれて、お留守であった。(『前途』82)

 四日には庄野が、六甲口の島尾の家へ遊びに行った。
 一月十二日。この冬休みは、庄野は暮の二十六日に博多から帰阪し、十八日間を大阪で過ごして、冬休みの最後の一日のことを「一月十二日の記」に書いた。しかし『前途』には一月十二日の日付も記事もない(参照、6月13日の投稿記事)。『前途』にある日付を並べると、「二十日」「二十五日」「二十六日」とあって、次に「一月三十一日」に飛ぶ。
 しかし、この間、事がなかったわけではない。

 一月二十九日に、矢山哲治が死んだ。
 『前途』には、二十九日の日付も、矢山の死についての記事もない。
 二月六日、日野先生のところで「スキヤキ会」があった。

……始めようとしているところへ小高が駆けつけた。彼は、同人雑誌の仲間であった矢山哲治の葬式が終わってすぐに来たのである。(『前途』93〜94)

 もともと庄野は矢山とは、島尾が矢山に親しんだほど親しくはなかったし、島尾のような痛恨、哀悼の激情を吐露するのは、『前途』という作品の趣意にはそぐわないであろうけれども、しかしそれでも私には、庄野にこれだけの記述しかないのが、不審であり不満である。
 島尾には「昭和十八年日記」がある。矢山の葬儀当日のことを、島尾は次のように書いている。

二月六日
 朝、矢山の家からたのまれた弔辞文を小山、吉岡がつくる。僕は自分の詩、読むのいやだ。それで岩井の詩を読む事にする。
 午後四時からの式。四時半と思い、おくれる。雨、弔辞の直前辛うじてつく。
 川上、加野、村橋らと別れ、小山、吉岡、鳥井、船津らと別れ、真鍋おっ母さん、大濠のお嬢さんたちと別れ、日野助教授宅の東洋史専攻学生の会合に行く。ワイ談、ワイ歌、一時近く帰る。うそ寒し。(『日記抄』151〜152)

 もし私が、たとえば「庄野潤三と島尾敏雄の通交」というようなものを書くとすれば(書けるとすれば)、何を材料にして、どんなことを書けばよいだろうか。その前に、私にはまだ果せぬ「島尾敏雄と伊東静雄の通交」という宿題がある。
 それにしても、矢山の死にたいする島尾の激情は、読む者の肌に突き刺さるようだ。

一月二十九日
 夕方、矢山の妹見え、兄が亡くなりました。
 妹さんと矢山の家に行く。柩を見て涙湧き止めがたし。むせび泣く。事情よく分らぬ。おっ母さんの断片的なくり言で、天草行やめになっていたこと、親せきの所におっ母さんと行く事になっていたこと、二、三日來機嫌よくなったこと、鈴木に逢いたい、吉岡修一郎氏、鈴木教授に遭った、朝住吉神社にラジオ体操に行っていた、洋服を着て一度家を出、靴をはきに戻って又出た、死骸になって戻って来た、朝の六時半頃だ(死んだのは)、島尾の度胸がうらやましい。この街に残っているのは島尾だけ、今度応召したら戦死します。
 玄関の間、とこ敷っ放し。伊東静雄詩集。……(『日記抄』146)


?

1472山本 皓造:2018/08/05(日) 15:43:17
庄野潤三とVIKING
 変な台風が東から来て西へ去って行きました。
 台風の間に深谷考『野呂邦暢 風土のヴィジョン』(青弓社)を読みました(Morgenさん、朱雀さん、ありがとうございました)。続けて『車谷長吉を読む』も読了しました。
 他方、庄野全集はようやく半分を終り、今、第六巻にとりかかっています。
 ウエブを見ていて、「庄野潤三ファン掲示板」トイウサイトをみつけ、ここへの、ご長男・庄野龍也さんの投稿から、庄野潤三夫人・千壽子様が昨年6月に亡くなられたことを知りました。享年91歳とのことでした。謹んでご冥福をお祈りいたします。

 鷺只雄氏の庄野論「庄野潤三と富士正晴(二)――未発表の富士宛書簡70通をめぐって」に再会しました。鷺氏の名前は記憶にあったので、伊東掲示板を遡って、Morgenさんの2011年7月8日のご投稿にも行き着きました。この鷺さんの論文の(一)を見たいのですが、ウエブで見られないものか、どなたかご存じの方はご教示ください。

 庄野潤三は戦後しばらく、島尾敏雄にさそわれてVIKINGに入っていました。VIKINGのホームページから、今、創刊号以来のバックナンバーの目次を見ることができます。庄野の会員期間は第9号から第25号なので、この間の寄稿文を目次から拾ってみると、次のようになります。

??1949.09??10号 「サロイアンのこと」
??1949.10??11号 「サロイアンのこと(2)」
??1949.12??12号 「10月30日同人会記」
??1950.01??13号 「今村二郎の話」
??1950.06??18号 「分別」

 ところで阪田寛夫さんの『庄野潤三ノート』には、これらについてその言及がありません。全集未収録の作品をも記した巻末の年譜にも出て来ません。『庄野潤三全集第10巻』巻末の詳細な年譜にも、庄野と、VIKING、富士正晴とのかかわりについての記述が一切ありません。
 なぜか?

 鷺氏の前記論文(二)は、私はPDFをダウンロードしただけで、まだ読んでいなかったので、性根を入れ直して、プリントアウトして、腹を据えて精読してみました。鷺氏はこの「なぜか?」について、詳細かつ判明に、ご自身の考えを述べておられました。この件は長くなるので、次回の投稿にまわします。

1473Morgen:2018/08/07(火) 16:13:03
残暑お見舞い申し上げます。
 「あついですね」という”6つのひらがな”が、オールマイティーな挨拶でしたが、8月7日はすでに立秋。これからは“「残暑お見舞い申し上げます」が挨拶だよ”と言われてもピンときませんね。

 山本様が書いておられる「(庄野潤三)未発表の富士宛書簡70通」は、庄野さんのお人柄を知る上で本当に興味深いです。(最近「富士正晴記念館」はご無沙汰しています。)

 鷺論文「庄野潤三と富士正晴(二)」23ページ「僕の小説を読んで意見を聞かせて欲しい」と、庄野さんは、何回も繰り返して富士さんに懇願しています。私には庄野さんの真情が伝わってきそうです。鷺さんは、この一連の書簡に庄野さんとVIKING断絶のナゾがあるとされているようにもみえます。―深読みし過ぎの感じもしますが?

 鷺さんは『ボヴァリー夫人』に由来するBovarisme(現実と夢との不釣合いから幻想を抱く精神状態)に言及され、「森鴎外が歴史・史伝の世界で追及したところを現代の生活で試みているのが庄野氏の世界なのではないか」「庄野氏は現代の鴎外である」と言ってよいのではないかと仰っています。(ちょっと纏め過ぎで分かり難くなってしまいましたが)

 「都留文科大学文学部国文学科創立50周年記念論文集」の中身は、WERB上では探せませんが図書館のインターネット閲覧で可能かもしれません。(未確認)

1474Morgen:2018/08/16(木) 23:34:46
「焦心緩歩」
??去年の3月に札幌から大阪に引っ越してきた6歳の孫が我が家に泊りに来ました。
 アニメ映画に行ったり、六甲山に登ったりで、満足したような顔をして豊中の家へ帰りましたが、「大阪は暑い!」「せみがうるさい!」「北海道がいい。」と言います。

 大阪の蝉はほとんどが「くまぜみ」ですが、有馬や六甲に行くと、「つくつくぼうし」や「ひぐらし】などいろいろな蝉が鳴いていて、あまりうるさく感じません。しかし、六甲山頂で頭の上に照りつける太陽の熱さは、平地よりも強く感じました。

 孫の希望で観に行ったディズニー映画「インクレディブル ファミリー」は、いかにもアメリカ映画らしい大物量投入とすさまじさい破壊の連続で、6歳の子供には刺激が強すぎるような感じです。しかし、「面白かった」と何事もなさそうな顔をしています。

 「あんまりインクレディブルマンの超人力にばかり頼っていると、普通人はますます傍観者的になり、非力になっていく」というような皮肉めいた劇中セリフがありましたが、天才的な能力を持つ人には人類の進歩のためにますます頑張ってもらうにしても、私たち凡人もせいぜい能力に応じて頑張らないと良い社会にはなりません。頑張りましょう。

 8月10日〜15日の私の夏休みが終わって、今日からまた仕事を始めていますが、頭脳が仕事モードでフル稼働するには少し時間がかかりそうです。あれもこれもと心だけが焦っています。「焦心疾駆」という言葉がありますが、私は「焦心緩歩」です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001620.jpg

1475山本 皓造:2018/08/21(火) 21:46:13
『山の上の家 庄野潤三の本』
 こういう本が出たことを知って、注文、入手しました。夏葉社刊。
 庄野潤三の家、身辺、歴史などにかかわる写真が豊富で、おもしろい。

 全集は第十巻まで来ました。この巻は、『自分の羽』と『クロッカスの花』の2篇からなり、前者は文庫本で出たものを私が持っていて、乗り物の中や病院の待合で読むのに、持ち歩いています。後者を全集で並行して読んでいるところ。
 まだ持っていないものがたくさんあって、それらを「蒐集」するかどうか、思案中です。

 鷺さんの庄野論へのコメントはもう少し待ってください。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001621.jpg

1476Morgen:2018/09/20(木) 01:11:34
「あゝ 永かった夏」〜〜「そんなに凝視めるな」
『伊東静雄研究会会報』(118号)をお送りいただき、青木由弥子さんの「伊東静雄ノート」(12)を拝読させていただきました。青木さんは、12回にわたって、『春のいそぎ』を中心に正面から論じていただき、従来論じられることの稍々少なかった「戦争詩」の分析にも言及されました。(感謝!)

昭和14年9月1日。伊東静雄日記には次のような記述があります。
「・・・・・・独逸とポーランド国境にて激戦中との号外あり。自分の頭脳では果たして戦争に堪へるだろうか。・・・・・」「思索ばかりで行動なきものは発狂す」「日光つよく、後頭部いたみ、めまひを覚える。いくぶんの吐き気と。」体調不良と発狂しそうなほどの不安を感じています。

 そして、翌日9月2日に「あゝ 永かった夏」の詩が書かれ、同9月3日には英・仏がドイツに宣戦布告をして、世界大戦が始まったのでした。

そのような中で、「永い永い夏」の詩想は、「人生と和解できぬ男/そんなに見つむるな若い友、・・・・・」と展開され、約半月経って「やや爽涼」と体調を取り戻し、「美しい詩が書きたい。」という気分になって、「永い永い夏」は放棄されて、「そんなに凝視めるな」という詩が残されたのだそうです。

私も、夏の疲れを引きずらないように、気分一新をして、目の前の仕事をひとつひとつ片付けていくことにしましょう。

1477青木:2018/09/21(金) 00:29:01
ありがとうございます
皆様 お元気でお過ごしでしょうか。
いつもありがとうございます。

「そんなに凝視めるな」・・・リルケ的な世界観を得た傑作だと思っているのですが、なぜ、その時には詩集に収めなかったのか・・・観念的過ぎる、と思ったのか。このあたりも、考えていきたいですし、「コギト」の仲間たち(特に、蓮田善明)は、日中戦争の時点で、既にもう、漢の影響を除き、本来の言葉を取り戻す・・・という、今でいう嫌中のような立場に傾いているのに、静雄はどうもそうでもなかったらしい、とか・・・
静雄が感銘を受けた『白の侵入』を国会図書館まで読みに行ったのですが、まだ触れることが出来ていませんし、セガンティーニの図録、恐らく、静雄が入手したであろうものの見当がついたのですが、それがどこで見られるのか、そこはこれから調査する、という状態ですし・・・

その意味では、積み残しだらけ、なのですが、それゆえにこそ、いったん区切りをつけて、哀歌時代、夏花時代、反響時代、と、とらわれずに考えて行きたいと思っています。
今後ともよろしくお願いします。

1478Morgen:2018/09/07(金) 17:12:22
連続する災害
 次から次へと、連続災害が日本を襲っていますが、皆様ご無事でしょうか?

 わが家(正面の白い家)は、台風21号の暴風に揉まれてあちこちが傷みましたが、倒れ掛かってきた公園の大木(根元約60センチ、樹高約30メーター)は、ぎりぎり隣家の屋根に引掛かり、大事には到りませんでした。本当に怖かったですね!!

 2日間の停電のなか台風の後片付けやをして出社すると、今度は北海道の石狩IDC(データセンター)が大変なことになっていました。地震による停電のため1号棟から3号棟までのすべての機器が自家発電で運転されていたのです。経産省や総務省の応援や、現地スタッフの大活躍で取り敢えず1週間分ほどの燃料が確保され、一部通常電源も回復されて一応ヤマを越えました。

 先の大阪北部地震で倒れた本棚の整理も済まないところに、よくも次から次へと、連続災害が発生するものです。

 ぼやいても事態は改善しませんので、「自分は本来百姓の倅だった。」と肝に銘じて「気張れ!」と号令をかけたいと思います。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001624.jpg

1479山本皓造:2018/09/08(土) 14:10:25
地震台風・・・・
Morgenさん。台風がご自宅に残した爪痕の写真を拝見、大変でした。
お見舞い申し上げます。
拙宅のほうは幸い、やや強い雨と風が一時間ほど、まもなく無事に通過して行きました。でも京都市内はなかなか大変だったようです。
それにしても北海道の災厄は、なんということでしょう。
いつか誰か有名な政治家が言った、「天罰」などという傲慢で思い上がった発言が、願わくばどこからも出ないことを祈りたいものです。
(ぱそこんが二階にあるので、枕元のタブレットから投稿しました。)

1480青木由弥子:2018/09/08(土) 18:01:51
お見舞い申し上げます
東日本大震災以来、千年に1度の頻度の地震が各地で数年おきに起きているのではないでしょうか。猛暑も異常でしたが、台風がまるで竜巻のようで恐ろしいです。集中豪雨も頻発していますね。
地球が高熱にうなされているような気がしてなりません。祈るばかりです。
どうぞ、くれぐれもご無理なさらず、お疲れなきよう。

1481Morgen:2018/09/10(月) 22:55:43
Blackout!!
 北海道胆振東部地震による全道Blackoutの動画がTVで流されて、「福島原発メルトダウンでさえBlackoutしなかったのに、一つの火力発電所の停止だけで全道が停電になるのはなぜだ?!」と、誰もが驚きと怒りの声を出しました。

 「北海道は地震が少ない。電力の供給が安定している。」等という誘致担当者の熱心な説明によって、会社は石狩市にIDCを建設したのですが、一瞬にして全道Blackoutの波に飲まれてしまったのです。

 幸い、UPS(蓄電池)〜発電機という連動と、技術者の適格な判断による電源維持と機器運転によって、、約60時間の連続自家発電が継続され、データセンターの電源ダウンというパニックを回避することができました。

 私は、不眠不休で頑張る技術者たちの刻々と交わされるtwitterでのやり取りをパソコン画面で見ながら、最悪事態が回避され、少しずつ事態が改善されていく様子を追っていました。20才代、30才代の技術者たちの沈着で、熱のこもった判断や、指揮ぶりは感動的でした。東京では、同じく30才代の幹部社員が経済産業省の担当者と交渉して燃料確保に成功しました。
 これらすべてが、まるでドラマを見ているように無駄のない、危機管理の原則に則った有効なBCP(事業継続)活動であったことを実証したのです。

 電力網や情報網のみならず、国土そのものを、コストダウンや効率化を重視するあまりに一極集中化や短絡化しすぎることが、いかにに危険であるかの証明が今回の全道Blackoutです。
 BCPの定石である「分散化」、「冗長化」などのキーワードを無視したものは、必ず天罰を受けることになるのでしょう。
 震源地から遠く離れた標津方面の乳牛たちの、停電の影響で乳房炎にかかり死んでいく暗い瞳を見ると、単なる天災では済まされない人間たちの罪深さを感じます。

 

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https://weekly.ascii.jp/elem/000/000/419/419034/

1482山本 皓造:2018/09/13(木) 12:54:52
ブラックアウト
 Morgen さんの投稿をありがたく読ませていただきました。若い技術者たちの奮闘については、私が知らぬことばかりでした。こういうすぐれた人たちがこの国にいて、真摯に、懸命に、精確に、仕事をしておられるということは、ありがたく、また誇らしいことです。教えてくださったMorgen さんに感謝します。「天罰」の定義は、熟慮して変更せねばなりません。

 庄野潤三全集は全10巻を読了して、10冊ある「随筆集」も全部揃いましたので、順次、楽しんで読み進めています。また『貝がらと海の音』以下『星に願いを』まで、いわゆる<老夫婦小説>11冊も全部揃いました(大半は文庫に入っている)。
 拙著に入れた「同窓会室……書誌目録」のうちの庄野の部分は、大増補改訂が必要。また、<庄野潤三と富士正晴との通交>について、いずれ書きたいのですが、まだ材料不足です。

1483伊東静雄顕彰委員会:2018/09/15(土) 11:51:14
北海道地震 心からお悔やみとお見舞い申し上げます
第29回 伊東静雄賞 国内外から1106篇の応募作が寄せられ選考に入りました。11月中旬には入選者(含佳作者)に結果を通知致します。関係各位のご協力に感謝いたします。

1484齊藤 勝康:2018/09/18(火) 09:22:59
夏の終わり
私も工場の電気屋をやっていたので特に電子機器の電源が途切れるとその後の対処に大変だっつたこと思い出しました。特に電源を入れた時に必ず異常になる機器が出るのです

今年の暑さは大変なものでした.(台風もこの影響で通常とは違った進路をとっているように思います。)
灼熱の高校野球も終わり一抹の寂しさを覚える今日この頃です。
伊東静雄の詩「八月の石にすがりて」「夏の終」「夏の終わり」を味わっております。
また2007.7 堺の大浜に建立された詩碑「灯台の光を見つつ」を寄贈された丸三楼雪稜庵の島田氏を想いながら。

1485Morgen:2018/09/20(木) 11:59:09
「備えあれば憂いなし」とは言うけれど
齊藤様。お元気でいらっしゃいますか。

 北海道の全道ブラックアウトの原因が(北電弁明により)だんだん明らかになってきました。

 少し冗長な話になりますが、(IDCを例にして)実際に、会社が現場で行っているBCP(事業継続計画)対策を、簡単に言うと次のようなことになります。(私的説明)

 普通は電力会社の送電幹線は、例えば北回り線、南回り線と二重化(冗長化)されており、受電側の電源も2個着けられています。福島原発崩壊時の東電の例では、南(太平洋)回り線停電、北(日本海)回り線で停電なしという送電状況で、当社の西新宿などにあるIDCは停電がありませんでした。
 万一、電源断の場合は、まずUPS(蓄電池)が自動的に立ち上がることになっていますが、さらに発電機に切り替えます。その際に末端機器に影響が出ないかどうかを、現場では実際にスイッチのON、OFF試験をして、動作を点検しているのだそうです(UPSは月1回、発電機は年1回)。

 IDCは約五千KWH(受電量)という電流多量消費施設ですから、スウィッチノブ(分散化されている)を手で回すのにも慣れが必要になるのでしょうね。また発電機も48時間動かすと一旦停めて、潤滑油を注油することが義務付けられており、連続運転のためには数台の予備発電機が必要になります。(今回は、タンクローリー一台分の潤滑油を東京で調達し、フェリーで北海道まで輸送しました。)
 また、情報系においてもネットワーク機器や光ケーブルも、電力同様に二重化(冗長化)されています。

 ところがそのためには多額の設備投資が必要になりますので、予算や経費節減の都合などにより、危機発生の確率(地震発生確率、降水量確率など)を甘く想定して、「まさか、そんなことは起きないだろう。」と、ややもすると企業や公共事業においてBCP対策を怠る傾向があります。(技術陣の声が経営陣に反映されないこともある。)

 その「まさか?」が次々に起こっているのが最近の「連続災害」ではないでしょうか。(甘い判断をしたり投資をケチった人災であり、それらの全てが必ずしも法律で義務化されているわけではなく「違法」ではなくても、BCPという摂理を侵犯したことに起因する「天罰」と言えるかも知れません。)

 我が家の方も、取り敢えずは復旧または養生をして、「まさか」に備えた強化をしなければならないのですが、ご近所にはもっとひどい被害を受けられた家が多数あり、なかなか屋根工事業者の順番がまわってきません。読売新聞社写真部から「私の投稿写真を載せてもいいか」というメールが来ましたが、あれから半月以上経ってしまい人々の関心も薄れてしまっています。

 当HPの趣旨からは外れてしまいましたが、齊藤様のご投稿に寄せて、時局的な情報共有の一助になればと投稿させていただきました。

 

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34979370U8A900C1L41000/?n_cid=TPRN0011

1486齊藤 勝康:2018/09/24(月) 21:17:10
空気のように「
Morgenさまおひさしぶりです、台風大変でしたね。私の近くの堺市では停電と信号器が倒れて復旧にだいぶかかったようです。こういう時いつも当たり前に享受している電気、水道、ガス、交通、病院と日頃、空気のように思っていることの有難さを思います。私が眠っている間にもそのために尽力している人々のことを。

1487Morgen:2018/10/08(月) 22:31:20
プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画
 台風25号が逸れてくれたので、中之島の国立国際美術館の「プーシキン美術館展―旅するフランス風景画」を観てきました。

 モスクワのプーシキン美術館が所蔵する17世紀から20世紀の風景画65点が展示されています。

 初来日となるクロード・モネの《草上の昼食》(1866年)は、印象派の誕生前夜の作品。26歳のモネが、女性のドレスに強烈な黄色や白色を分厚く塗って、樹々の間から漏れてくる強い太陽の光を表現しています。(少し異常なほどの強烈さは、実物じゃないと解りません。)
 1872年に描かれたといわれる「印象・日の出」が、「印象派展」(1874年)に出品されて、「印象派」がスタートしたと言われていますが、こちらは、私達にもおなじみのお落ち着いたモネ風のトーンです。(今回の展示品ではありません。参考のために添付)

 その他、ルソーの《馬を襲うジャガー》やロラン、ブーシェ、コロー、ルノワール、セザンヌ、ゴーガンらの作品が展示されています。

 図録や映像では見ることのできない分厚く塗られた絵具に込められた画家の思いなどを感じられて、実物ならではの迫力があります。
 フランス近代風景画オムニバス展とも言えそうな軽快さを感じました。

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1488山本 皓造:2018/10/11(木) 18:30:27
庄野さんの伊東書誌・補遺
 Morgen さん、斉藤さん。ごぶさたしています。
 Morgen さんはプーシキン美術展へ行かれたのですね。よかったですね。わたしも前から、行きたいと思っていたのですが、電車に乗って中之島まで行くのがつらいので、断念しました。ウイリアム・モリスも来ているし、わたしは夢を見ているのかもしれませんが、ムンクとか、クリムトとかも来るという記事をどこかで見たような気もします。
 さて、本題。

 庄野潤三さんが自ら「随筆集」と呼んで数えておられるものが、『自分の羽根』から『孫の結婚式』まで、計10点あります。
 また、「生田の山の上」に残された老夫婦の日々を綴った小説が、『貝がらと海の音』から『星に願いを』まで、計11点あります。
 ここまでを、古書で買い集めて、読了しました。
 いずれも興味深く、また、「庄野潤三と伊東静雄の通交」として語り得る材料がいくつもあるのですが、それらは追って(書ければ)書くことにして、今日はさしあたり、ひとつの仕事結果を投稿します。

 拙著『伊東静雄と大阪/京都』の巻末に載せた、住高同窓会室所蔵資料目録の「書誌」のうち、庄野潤三の部分の補訂版です。旧稿に重ねて修正・追加分を緑字で記しました。(この種の仕事は、これで終わりということがありません。単行本で未読のものもまだ20点ほどあります。掲示板の読者で、お気づきの点がありましたら、どうかご教示をいただきますよう。)

* 一月十二日の記(昭和一八・三 未発表)
雪・ほたる(「まほろば」昭和一九・四)
淀の河辺(「午前」七号、昭和二二・二 →『伊東静雄研究』)
伊東静雄先生のこと(「詩学」昭二八・六 →『伊東静雄研究』)
伊東先生の手紙(「プシケ」昭和二八・六)
『反響』のころ(「祖国」昭二八・七 →『庭の山の木』、『伊東静雄研究』、「現代詩読本」一〇)
かの旅――伊東静雄先生のこと(「文学界」昭和三〇・九)
伊東先生(「三田文学」昭和三一・四、「住中住高同窓会報」第八号、昭和三四・七に「伊東静雄先生」として再掲 →『自分の羽根』『全集一〇』)
自由自在な人(筑摩書房『鴎外全集第二巻』月報、昭和三四・二 →『自分の羽根』『全集一〇』)
<抹消>伊東静雄先生(「住中住高同窓会報」第八号、昭和三四・七)
思ひ出(「果樹園」三八号、昭和三四・三)
日記から(『伊東静雄全集』ノート、昭和三六・二 →『自分の羽根』『全集一〇』、『伊東静雄研究』)
伊東静雄全集から(「新潮」昭和三六・一一 →『庭の山の木』)
中村地平さん(「龍舌蘭」昭和三八・八 →『クロッカスの花』『全集一〇』)
詩三つ(「新潮」昭和四一・一一 →『クロッカスの花』『全集一〇』)
伊東静雄の手紙(『手紙の発想』昭和四二・一〇 →『クロッカスの花』『全集一〇』)
日本語の上手な詩人(『詩の本』昭和四二・一〇 →『クロッカスの花』『全集一〇』)
伊東静雄・人と作品(『日本詩人全集』第二八巻、新潮社、昭和四三・一 →『庭の山の木』)
「漂白」(『日本詩人全集』第二八巻 →『伊東静雄研究』)
『前途』、講談社、昭和四三・一〇(「群像」昭和四三・八 →『全集七』)
伊東静雄のこと(「東京新聞」昭和四六・三・一一 →『庭の山の木』)
伊東静雄先生(住高「創立50周年記念誌」、昭和四七・一一)
雲雀(「東京新聞」昭和四九・七・一五 →『イソップとひよどり』)
昔の友(新潮社・三島由紀夫全集附録 昭和五〇・四 →『イソップとひよどり』)
詩集夏花(皆美社しおり、昭和五〇・八 →『イソップとひよどり』)
磯の小貝(「新潮」昭和五一・三 →『イソップとひよどり』)
好きな詩(「俳句とエッセイ」昭和五一・四 →『御代の稲妻』)
水溜り――伊東静雄没後二十五年に(毎日新聞 昭和五三・三・九 →『御代の稲妻』)
春浅き――伊東静雄(『昭和詩歌俳句史』毎日新聞社、昭和五三・四 →『御代の稲妻』)
子供の絵――伊東静雄回想(「朝日新聞」昭和五四・三・一二 →『ぎぼしの花』)
近況(朝日新聞 昭和五四・一一・一八 →『ぎぼしの花』)
「百千の」(ZENON 秋季号、昭和五九・九 →『ぎぼしの花』、「おおさか あべの」昭和六〇・三)
伊東静雄(『日本近代文学大事典』講談社、昭和五九・一〇)
喜びの種子をみつけて(「朝日新聞」夕刊・余白を語る 昭和六三・四・一 →『誕生日のラムケーキ』)
近況(「阿倍野の杜 住吉中学卒業五十周年記念文集」平成一? →『誕生日のラムケーキ』)
『文学交友録』新潮社、平成七・三(「新潮」平成六・一〜一二)
「光燿」のころ(季刊文科、平成一二・夏 →『孫の結婚式』)
伊東静雄「野の花」(「新潮」平成一三・二 →『孫の結婚式』)
林富士馬さんを偲ぶ(「文学界」平成一三・一一 →『孫の結婚式』)
初対面のころ(「新現実」平成一四・一 →『孫の結婚式』)
『ワシントンのうた』文芸春秋、平成一九・四(「文学界」平成一八・一〜一二)

1489Morgen:2018/10/12(金) 10:46:42
「生田の山の上」
 先日(9/13)、小田急線で川崎方面を通過しました(厚木市の三井倉庫に用があった)折に、庄野潤三さんのお宅のことが脳裏に浮かびました。

 実は、ネット上で下記のような文章を見つけましたので、もし「庄野潤三記念館」的な展示でもされているのならば立ち寄ってみたいと思っていたのですが、続報が見つかりませんでしたので、今回は立ち寄りませんでした。
 山本様の「書誌」補遺はプリントして御本の巻末に貼り付けておきました。ありがとうございました。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

[・・・・・]なお、「山の上の家」の今後の利用については、敷地内に居を構える龍也家族が中心となり何らかの形で読者の皆様のお役に立つ方法がないか模索中です。例えば、父の仕事の現場に直接触れることで、作品への理解を深めて頂くようなことが出来ないかと考えています。

これからも皆様の傍らに父の作品があり、日々の生活に彩を加える一助として頂けるなら家族として優る幸せはございません。
どうか良き一年をお過ごしになられますように。

                 平成29年12月1日
                       庄野龍也
                       今村邦雄
                       今村夏子

1490山本 皓造:2018/10/13(土) 14:36:05
「山の上の家」
 以前紹介しました、『庄野潤三の本』(夏葉社)に挟み込みの紙片があって、「山の上の家」の今後の利用について、述べられています。公開は年2回、とのことです。Morgen さん、ご参考に。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001636.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001636_2.jpg

1491Morgen:2018/10/13(土) 22:27:07
ありがとうございました
山本様ありがとうございました。

 建国記念日、秋分の日前後に東京出張することがありましたら、新宿から小田急に乗って生田まで行ってみます。徒歩でもタクシーでも駅からの道は分かりやすいですね。

 今日は、家内に誘われて映画『日日是好日』を観てきました。映画を見ていると、樹木希林さんがまだ生きておられるような気持ちになりました。毎日が、新鮮な驚きや感動に充ちた好い日であればよいとは、誰しもが願うことではあります。樹木希林さんのように、女優でありながらあまり傍目を気にせず、迎合もせず、自らの意志を貫いて生涯を全うするなどということは、真似しようとしてもできることではありません。
 “全身がんに罹りながら、がんを切り捨て、片目を失い、強靭な意志力で個性的な演技を貫く―その命の強さはどこから生まれたのか?”このような自問にたいして、私は、数日前に読んだばかりの竹内勝太郎氏の次のような一文を思い出しました。

 「懶の気ー贅物を吐き出し、切り捨てるということ。…かようなものこそもっとも純粋な芸術ではないか。自己の贅物を吐き出すということは、それだけで死に肉迫するということであり、身を以て、死を征服してゆくことだから。これ以上に強い、そして深いものはあるまい。」(竹之内静雄『先師先人』講談社文芸文庫20〜21頁から)

1492山本 皓造:2018/10/20(土) 17:46:34
「子供の絵」
 庄野さんの随筆集『ぎぼしの花』(講談社、昭和60・4)に「子供の絵――伊東静雄回想」という一文が収められています。いうまでもなく、伊東の『反響』にある、「ウシドロボウダ、ゴウトウダ」の、あの詩を取り上げたものです。
 伊東の原詩を引用するより、ここでは庄野さんの紹介ぶりを見ていただきましょう。

 …昭和二十四年七月に発表された「子供の絵」。疎開地に住みついてという副題が附いている。赤いろにふちどられた、大きな青い十字花が、つぎつぎに一ぱい宙に咲く。きれいな花ね。沢山沢山とお母さんがいうと、ちがうよ、おほしさんだよ。
(子供がおしゃべりをしながら絵をかいてゆくその様子が、オペラのアリアの二重唱をきくように、はっきりとよく分る。)
 このまん中を線がよこぎって、遠く右の端に棒がたつ。それが、それで、野の電線と分る。ひしゃげたような哀れな家が、手前の左の隅っこに、そして細長い窓が出来る。その下は草ぼうぼう。
 家をかいてしまったそのあとは、たちまち余白がくろく塗りたくられ、晩だ、晩だ、ウシドロボウダ、ゴウトウダ。目をむいたでくのぼうが、前のめりに両手をぶらさげ、電柱のかげからひとりフラフラやって来る。くらいくらい野の上を、星の花をくぐって。……

 紹介と書きましたが、これはほとんど100%、伊東の原詩そのままの引用です。ところが、庄野さんの引用を透して見ると、庄野さんの声や、笑顔や、温かさや、体臭までもが、これらの文字から伝わって来るように思えるのです。
 庄野さんはこれに少しばかり説明を加えています。北余部に辛うじて手に入れた「屋根と柱だけで満足に戸障子のない廃屋」の様子、「おとうさんの窓」とは何か、萩原天神から十二、三町の、遠いまっすぐな田舎道。
 つらく貧しかった暮らしにも、一家こうしてそろって暮らせるという喜びがあります。実際、この「廃屋」に移る前、伊東の一家は菅生の菊井さんのところの六畳ひと間を借りて暮らしていました。敗戦直後のこのような時期にひと間を提供してくれる菊井さんの厚意と温情は、まことに貴重なものであったにはちがいありません。それでもやはり、他人の家の一隅で暮らすという気づまりは、また感謝とは別に、否めないものであったでしょう。私はそのように想像して、拙著では
「北余部は少しはマシな家に移ったというよりもむしろ、菅生での間借り生活から来る無言の圧迫から伊東家の人びとの心を解き放ったことが、大きかったのではなかろうか。」
と書きました。(花子夫人は私の草稿のこの部分を読んで、「然り」と書き添えてくださいました。)
 解き放たれた伊東の詩心は、「小さい手帖から」にまとめられた作品群を次々に生み出して行きました。詩を書くこと、詩が書けるということそのものが、歓びでした。その声はもはやかつてのように「美しく輝く太陽」の下で「わがひと」に捧げられた「哀歌」のようにねじれた姿ではなく、「夕映」というもうひとつの光輝の中で、「ねがはくはこのわが行ひも/あゝ せめてはあのやうな小さな祝祭であれよ」という絶唱として、祈りという形で、人の世に差し出されたのです。庄野さんの筆もおのずと、村の十字路の小さい石の祠、そこに集う幼い者ら、白いどくだみの花、子供たちのままごとめいた遊び、日々の彼らの祝祭、へと移り、やがてあゝ、せめて、と、あの祈りを呼び出すのです。
 なお庄野さんは、この詩が「夕映」であることについて、何か胸騒ぎのような心を感じたかのように、随筆の末尾を、次のように締めくくっています。

いつだったか、自分はいつの間にか亡くなった伊東先生と同じ年になったと思ったことがあったが、それからまたひと昔たった。去年が没後二十五年であったからまたひとつ年を加えて、この三月で二十六年になる。

 伊東の死は48歳、この稿発表の昭和54年3月には、庄野さんは満58歳でした。

参照:
 小高根二郎『詩人 伊東静雄』新潮選書、p.341-3
 岡本勝人「現代詩のはじまり――伊東静雄と戦後詩人たち」(「イロニア」第7号 1995年1月 p.27-8)

[添付の「絵」は、私が
昔、ノートノの端に落書きしたものです。]

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001638.png

http://

1493Morgen:2018/10/23(火) 00:35:24
戦後の真っ暗闇の田舎道で…
 伊東静雄、住吉高、諫早高、長崎大などとご縁のあられた下村脩さんが19日、長崎市内で老衰のために亡くなられました。心からご冥福をお祈りいたします。

 「家族総出の発光クラゲ採り」をはじめ、戦後の実験道具や機材が乏しい中で、ご苦労を重ねられて、1960年には蛍光たんぱく質「イクオリン」を発見され、さらに1962年にはGRFの分離、精製に成功されました。それは、その後の生命科学において不可欠な細胞マーカー「標識」として使われ、人類への貢献を果たしたことにより2008年のノーベル賞につながりました。

 「子どもの絵」が発表された1949年頃といえば、北余部あたりでは実際に「ウシドロボウやゴウトウ」がいたのかもしれませんね。「萩原天神から十二、三町の、遠いまっすぐな田舎道には、追剥が出るといわれた」と、地元の方から直に聞いたことがあります。
 私も少年の頃、真っ暗闇の田舎の山道を一人で歩いたことが何回もありますが、いつも大声で歌いながら小走りで暗闇を駆けた遠い記憶が残っています。

 朝夕は随分涼しくなってまいりましたので、皆様、くれぐれも風邪をひかないようにご自愛ください。

1494山本 皓造:2018/11/02(金) 18:50:38
「野の夜」と、池沢茂さんのこと
お詫び:先に投稿した「庄野さんの伊東書誌・補遺」のうち、『孫の誕生日』所収の「野の夜」を、誤って「野の花」と記してしまいました。おまけにうっかりしてクッキーを削除してしまったので、「自分の投稿の編集」ができません。然るべく訂正してお読みいただくか、もしくは管理者権限で修正をしてくださるよう、お願いします。

 庄野さんは、「『反響』のころ」(『研究』所収)で、「小さい手帖から」以下の、伊東の戦後詩篇群の成立事情を、詳細に追っています。のちに庄野さんは、このうちの「野の夜」を単独に取り上げて、「『反響』のころ」を再引しながら、思い出を反復し、その成立事情について、次のように記しました。

「「野の夜」が書かれたのは、終戦の翌年の昭和二十一年の夏のことであった。私の「『反響』のころ」によると、二十一年七月、難波の小学校であった阿部知二の講演会を聞きに行った私は、会場で伊東先生と会い、講演が終ったあと、心斎橋の喫茶店に入って、私はコーヒー、甘いもの好きの先生は「ぜんざい」の券を買ってしばらく話をした。このとき、先生は「座右宝」に送った近作の詩の「夕映」を出して見せて下さった。「夕映」と「野の夜」の二つを送ったといわれた。「野の夜」の方は、その前、勤め先の住吉中学からの帰りに帝塚山にある私の家に寄られたときに原稿のまま見せて下さった。そのころ、私は結婚したばかりで帝塚山の父母の家で暮していた。先生はそのころ、勤めの帰りによく私のところに寄って下さった。
「野の夜」については、
「三年ぶりに初めてゆうべ徹夜して書いた」
と話しておられた。」

 ついで、北余部のお宅のこと、お地蔵さんのこと、詩「夕映」のことについての短い回想があり、その流れで、筆は池沢茂さんの思い出へと移って行きます。

 「伊東先生の住吉中学での教え子で、私より何年か上級の池沢茂さんが、「野の夜」に出て来る萩原天神の田舎家をはじめて訪問したときのことを書いた文章が、『伊東静雄研究』(思潮社)に出ている。中国大陸での兵役から無事帰国した池沢さんが配給のお酒を持って先生のお宅を訪ねた。詩人志望の池沢さんは、住吉中学のころ、私と同じように夜ごと三国ヶ丘の先生のお宅を訪ねて、文学の話を聞いた方である。
 久しぶりに来た池沢さんを、伊東先生は、「こんな遠いところ、忘れずによく来てくれたなあ。ほんとに、よく来てくれたなあ」
 と何度もいって、それこそ踊り上るようにしてよろこんで迎えてくれたという。
 池沢さんが帰るとき、先生は小さな男のお子さんを抱いて、途中まで見送ってくれた。日は落ちて、田圃や畑や小川は夕やみに包まれかけていた。このとき、伊東先生は、
「さようなら、また来てくださいよ。さようなら、さようなら、また来てくださいよォ。さようなら、さようーならぁ……」
 と、子供と一緒に手を振り、なんべんも声を張り上げて呼んだ……と書かれている。
 ここのところを読んで、私は胸を打たれた。」

 池沢さんは住中六期、庄野さんの七年上になります。私は池沢さんとは面晤の機会がありませんでしたが、例の「書誌」を作成する際、その採録について書面でお願いをして、お返事をいただきました。

「御書簡いただき、遠い昔の過去が亡霊になって現れてきたように驚きました。それほど今は当時の文学や詩とは大きく離れたところに住んでいるのでしょうか。火災で全焼したこともあって資料などいっさい残っておりません。私の作品として目録に上げられているのも、あまりにも浅薄な理解や心情で書かれているので、すべて抹消していただきたいと思っているほどです。お志に添えるお返事が書けなくて済みません。御健勝を祈ります。」

 私は当時、最終的には「書誌」に記載された文章をすべて集めて一冊の書物にまで仕上げたい、と<夢想>していましたので、池沢さんはおのずとその気配を察して、今更自分の書いたものを改めて人目にさらすことはしたくない、との意を伝えられたのであろうと思います。
 しかし私は、池沢さんの、あまりにも謙虚な物言いにうろたえてしまって、長いこと逡巡をかさねた挙句、私的な思いをつけ加えて、長いお礼状を出しました。
 その長い手紙の中から、私が花子夫人から聞いた、池沢さんにかんするエピソードを記した部分を、抜粋します。

「……先日、堺の伊東家を訪問した際、奥様はこんな話をして下さいました。「池沢さんが来られますと、静雄はひと言も口をきかないんですよ。何か言ってあげればよいのに、私なんかは、ハラハラしながら見ておりました。池沢さんも、池沢さんで、これもひと言もものを言わず、黙って正座して、膝に拳を当てて、二時間でも三時間でも、じっと黙って座っているのです。そうしてやがて池沢さんは、ボソッと挨拶をして、帰って行かれるのです。ほんとに、なにか言ってあげればよいのに、と思って見ておりました。」
おそらく池沢様は、体が熱くなる思い出だ、と言われるかもしれません。けれども、これをお聞きしたときの私の思いは、違いました。きざな言い方で、筆が進みませんが、あえて記せば、その時伊東先生は、言葉であしらえない、池沢少年の魂の大きさを、もてあましておられたのではないでしょうか。奥様も決して、軽い憐憫の情で言われたのではなく、常とは異なる伊東先生の気配を感じておられたのだと思います。右の話を奥様は、まるでつい今し方、池沢さんがボソッと挨拶をして帰って行かれたような鮮明さで、語って下さったのでした。」

 今回の「書誌」ではとりあえず、タイトルだけを集めて並べたものになる旨をお伝えして、了承していただきました。
 「書誌」では、池沢さんの文献としては3点を挙げています。
  ・詩人とサラリーマン(「祖国」昭二八・七→『伊東静雄研究』)
  ・テニスをする詩人(「果樹園」三号、昭三一・三)
  ・日のあたるグラウンドで(「果樹園」三八号、昭三四・三→『伊東静雄研究』)
 このほかに池沢さんは、上掲の「果樹園」三号から始まっておよそ七〇号に至る、ほとんど毎号に、ご自分とお子様の生活記録のような文章を連載しておられます。私の記憶には、その「人」と「文」の、脆くも清らかな印象が、鮮やかに残っています。
 今、この文章を書いていて、ふと、伊東先生が「子供というものは、かわいいというよりは、かわいそうなものだ」と言われたと、庄野さんが書きとめている挿話を思い出したのは、なぜでしょうか。

1495Morgen:2018/11/04(日) 00:06:43
「芸術家の強烈な個性の変遷」
 山本様のご投稿「 池沢茂さんのこと」を拝読して、『伊東静雄研究』に掲載されている「詩人とサラリーマン」「日のあたるグラウンドで」を再読してしてみました。「詩人とサラリーマン」は、昭和4年から晩年までの伊東静雄との交わりを追悼して、昭和28年5月に書かれたものであります。池沢さんの目を通して観察された伊東静雄という詩人の(日常生活での)ナマの個性が描かれているように感じました。

 今日は、京都国立近代美術館で没後50周年記念「藤田嗣治展」を観てきました。藤田嗣治の全生涯の作品を俯瞰しながら、一面では世界的な「芸術家の強烈な個性の変遷」のようなものを感じました。

 やはり、天才的な詩人や画家と呼ばれる人は、詩を作るのが上手だとか、きれいな絵が描けるとかの才能や技術があるというのは勿論でしょうが、それにもまして大事なのはその人にしかない強烈な個性が作品に表現されているかどうかなのだと思いながら、展示されている絵画の一点一点をじっくり鑑賞してきました。

 フランスに渡った初期(1914年〜)には、ピカソの真似をしたり、シンプルな風景画やなで肩の少女の寂しい絵を描いていますが、やがては淡色(乳白色)の絵の具で塗りつぶした裸婦像に、浮世絵の縁取りのように墨筆で輪郭や目鼻を描いたり、猫の絵をを描き加えたりしています。
 後期には金箔銀箔を用いた障壁画のような重々しい絵画や宗教画、戦争画も描き、一生を通じて変化の多い多彩な絵画描法を展開しております。(日本の洋画家達はこれを人気取りのための通俗的手法としか見なかったのです。) 工芸や彫刻、陶芸までやっており、晩年には教会(お堂)まで作っています。今日一日で藤田嗣治に関する既成概念がすっかり改まりました。

 東山方面の樹々もそろそろ色づき始まており、来週あたりは大勢の観光客が京都に押し掛け賑わうことでしょう。

 youtubeに藤田画伯の生の声というのがありましたのでURLを添付してみました。

 PS:11/4 AM1:00〜1:50 NHKTV「よみがえる藤田嗣治―天才画家の素顔」の再放送がありました。(録画済み)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001642.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=3KTn0ievscM

1496Morgen:2018/11/13(火) 11:05:17
藤田嗣治「戦争画」
 上村様

 「菜の花フォーラム」案内、田中俊廣教授の新聞寄稿(写)などをお送りいただきありがとうございました。「藤田嗣治展」(11月3日)で観て来たばかりで、田中教授の「戦争画」コメントは興味深く読みました。

 当日展示されていた「戦争画」のうち印象に残っているのは「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」の2点です。

 「アッツ島玉砕」は、米軍の写真をもとに想像で描いたと言われていますが、古典的な西洋画の手法で描かれており、リアリズム戦争画として優れた絵だという印象が残りました。「サイパン島…」のほうは、軍から提供された写真などの資料に基づいて(軍の依頼で)描かれたものだそうで、こちらは明確な戦争協力絵画です。真珠湾では巧くいった奇襲攻撃が、アッツ島では情報筒抜けで全員玉砕となった悲劇の絵画です。その真迫力はものすごくて、全国巡回展示され軍部のプロパギャンダに利用されました。

 これらのの事跡は「戦争協力責任問題」を引き起こし、日本画壇は画家の「戦争協力責任」を藤田一人で被ってくれと迫ってきました。そのことに嫌気がさして藤田嗣治はパリへ戻ったのだという説明がしてありました。

 戦後アメリカに接収されたこれらの絵画は、無期限貸与の形で日本に返されており、東京国立近代美術館で展示されているそうです。(写真は、WEB上に公開されていた写真を参考のために添付しましたが、実物は重厚感にあふれた古典的なリアリズム絵画です。是非実物御一見を)

 

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001643.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001643_2.jpg

https://cardiac.exblog.jp/18590525/

1497山本 皓造:2018/11/13(火) 11:22:00
お詫びと訂正
突然ですが、「庄野さんの伊東書誌・補遺」に大きな脱落があるのをみつけました。申し訳けありません。『文学交友録』の次に、1行を追加・挿入します。
前回の訂正(「野の花」→「野の夜」)を含めて、終りのほうの数行を書き改めて投稿します。お手数ですが、よろしく。

『文学交友録』新潮社、平成七・三(「新潮」平成六・一〜一二)
私の履歴書(「日本経済新聞」一九九八・五・一〜五・三一 → 『野菜讃歌』講談社、一九九八・一〇)
「光燿」のころ(季刊文科、平成一二・夏 →『孫の結婚式』)
伊東静雄「野の夜」(「新潮」平成一三・二 →『孫の結婚式』)
林富士馬さんを偲ぶ(「文学界」平成一三・一一 →『孫の結婚式』)
初対面のころ(「新現実」平成一四・一 →『孫の結婚式』)
『ワシントンのうた』文芸春秋、平成一九・四(「文学界」平成一八・一〜一二)

1498山本 皓造:2018/11/13(火) 11:30:53
クリムト、ムンク
その折に私は、新聞か何かで見たようなうろ覚えで、「ムンクとか、クリムトとかも来るという記事をどこかで見た」と、書きました。幻覚ではなく、ほんとに来るみたいです。
ムンクは先日朝日新聞で2面の大きな広告を出しましたので、ご覧になったかと思います。
記事の画像を付けます。
東京まではとても行けない……

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001645.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001645_2.jpg

1499青木由弥子:2018/11/13(火) 11:38:09
ありがとうございます
山本皓造様

ご丁寧にありがとうございます。
研究とは、このようにきめ細やかに、大切に行っていくものなのだと、あらためて感銘を受けました。
学ぶばかりですが、ひとこと、お伝えさせていただきたく、ご返信申し上げます。

1500伊東静雄顕彰委員会:2018/11/16(金) 19:21:22
第29回伊東静雄賞
 国内外から1106篇の応募が寄せられ、選考の結果下記の作品が第29回伊東静雄賞に決定いたしました。

  「母のパズル」  花潜 幸氏 (東京在住)

贈呈式は平成31年3月31日 諫早市で「菜の花忌」終了後に行います。

1501Morgen:2018/11/27(火) 12:51:12
「冬仕度の季節」
今年も「伊東静雄賞」の発表があり、いよいよ「冬仕度の季節」に入りました。
我家は、台風21号で傷められた屋根の修繕のためにやっと工事人が来てくれています。

明治維新150年記念NHK大河ドラマの『せごどん』も終盤を迎え、諌高同窓会の大先輩で関西支部長をなさっていた故毛利敏彦教授(大阪市大)が生涯をかけて力説された“『明治六年政変』のシーンがどのように表現されるのか?” 大いに興味を持ってTVを観ていましたら、西南の役後に明治政府により造られた公定歴史書(在来説)によらず、ほぼ史実に適合するように(毛利説*)構成されています。(天国の毛利先生も少しはご満足いただいたでしょうか…)

*「在来説と毛利説との最大の相違点は、在来説が西郷隆盛は明治六年秋に征韓実行を期したとみなしたのにたいして、私は、政変時の西郷には征韓の意思が希薄であり、むしろ日朝両国間の修好実現を目指して朝鮮派遣使節を志望したはずだと解釈したところにある。換言すれば、征韓の是非を巡る政見の対立が政変の主因であるとの見解に疑問を呈したわけである。・・・・・」
(『明治維新の政治と権力』吉川好文社 27~28頁から引用)


今年は岩倉具視の「実相院」に行く予定だったのですが、予定を変更して台風21号で多数の倒木や崖崩れのため通行禁止になっていた箕面の滝に行って見ました。あちこちで杉や欅の大木が無惨に折れて、箕面川の渓谷を塞いでいます。大勢の観光客が押しかけており意味不明の外国語があちこちから聞こえてきます。普通の滝道は人で混雑しているので、私達は山道を歩きましたが老妻には少しきつかったようです。「この程度の山道が歩き辛くなくなったら我々の生残時間も先が見えたという兆候やね! それを知るために毎年一回は滝まで上ることにしようか。」などとしゃべって励ましながら無事完歩しました。

寒さに向かう折から皆様のご健康と『菜の花フォーラム』のご成功をお祈りします。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001648.jpg

1502伊東静雄研究会:2018/11/30(金) 09:32:51
第12回菜の花フォーラム
伊東静雄生誕112年 第12回菜の花フォーラム ご案内

日時 平成30年12月8日(土)午後1時30分〜
場所 諫早市図書館 視聴覚ホール

内容 1、伊東静雄を歌う 女声コーラスたんぽぽ
      *曠野の歌 *燈台の光を見つつ *春の雪 *燕

   2、講演 詩人山田かん・夢想左翼的な習作期
       講師 山田貴己氏(長崎新聞生活文化部長)

   3、講演 伊東静雄の「詩索」と15年戦争
       講師 田中俊廣氏(活水女子大学教授)

主催 伊東静雄研究会

     入場無料・お気軽にご参加ください。

1503山本 皓造:2018/12/07(金) 18:59:00
伊東静雄・庄野潤三・富士正晴
 このトリアーデの成立の端緒は昭和17〜18年頃に遡るらしい。
 庄野は「ボタンとリボン――追悼富士正晴」(『誕生日のラムケーキ』)で、

 富士正晴『極楽人ノート』の「庄野潤三と島尾敏雄」のはじめに、「庄野潤三と島尾敏雄はいずれも詩人の伊東静雄がわたしに紹介して来た文学青年であり」
 としるしてある。

と記し、先ず富士の言を引いて、その端緒についてはもう記憶があいまいであるが、とことわりつつ、筆を継いでいる。

 庄野が引いているのは、富士の『極楽人ノート』(六興出版、昭和54年)に収録された「庄野潤三と島尾敏雄」という文章で(『富士正晴作品集一』所収、、初出は「海」1976年10月号)。はじめの引用のあと、富士は標題どおり、さまざまな視点から庄野と島尾を比較し、そこへ伊東静雄も出没しつつ、興味深いエピソードが次々に並べられる、全文を紹介したいほどおもしろい一文であるが、今回は断念して、庄野の「ボタンとリボン」に戻ろう。

 庄野と伊東、庄野と島尾、島尾と伊東等の、それぞれの「なれそめ」はいわば周知の事柄であるが、庄野と富士の通交のはじまりは、あまり知られていない。富士みずからも、前掲の文章では「伊東静雄の紹介」というだけで、そのいきさつや時期については記すところがない。
 そこでまず、庄野の語るところを、少し長くなるが、引用しておこう(「ボタンとリボン」より)。

 富士正晴『極楽人ノート』の「庄野潤三と島尾敏雄」のはじめに、「庄野潤三と島尾敏雄はいずれも詩人の伊東静雄がわたしに紹介して来た文学青年であり」
 としるしてある
 その通りだが、最初どんなふうにして伊東静雄が私を富士さんに紹介してくれたのであったか、はっきり思い出せない。私が九州の大学から休暇に大阪へ帰省していたときのことであったような気がする。その頃、私は休暇で帰って来ると、毎日のように堺の伊東静雄先生のお宅へ遊びに行っていた。伊東静雄は住吉中学で国語を教わった先生であり、私は大阪外国語学校英語部三年の春休みにはじめて堺東の先生のお宅を訪ねて以来、通い馴れた道を行くようにして大阪帝塚山の自宅から堺市三国ヶ丘の岡の上の先生の家へ出かけて行った。
 富士君の家へ行ってみましょうと或る日、伊東静雄がいったのだろうか、帝塚山の私の家から歩いて行けるところに富士さんの家があった。北畠の東の方、阪南町のあたりだろうか。そうして私は伊東静雄にくっついて富士正晴の家を訪問し、二階の富士さんの仕事部屋へ招じ入れられて、伊東静雄と富士さんの交す会話を聞いていたのだろうか。古い日記を探してみれば、あるいは見つかるかもしれない。もし九州の大学在学中のことだとすれば、戦争中の昭和十七年の春あたりだろう。富士さんが兵隊で中国へ行っていた時期と重なったら、私の記憶は間違っていることがはっきりする。
 (中略)
 また、昭和十八年五月に私が九州から東京へ出かけて西巣鴨の林富士馬の家に泊めて頂いたとき――ついでにいえば詩人の林富士馬を私に引き合せてくれたのも伊東静雄であった――、大塚の駅まで迎えに来てくれた林さんが私と並んで歩き出すなり、
「富士さんが来て、昨日までうちに泊っていました」
 といったのを覚えている。
 私が富士正晴を知っているのは当然のことだろうという口ぶりであった。それを聞いて私が「富士さん」って誰のことだろうと思わず、多分、富士正晴のあの独特な風貌が目の前に浮んだに違いないところを見ると、十八年五月までに私が伊東静雄に家まで連れて行って貰って富士正晴に会っていたことは、おそらく間違いないだろう。

 庄野の伊東に連れられての富士宅初訪問の、年月、および富士の住所について、手元の資料をあたってみる。

 まず、廣重聰氏作成の「富士正晴年譜」(『富士正晴作品集五』)によると、

昭和十三年 大阪府庁をやめる(辞令八月二十三日付)。京都に下宿(吉田上大路)。時々、大阪の家〈西成区鶴見橋。母が洋裁店を開いていた)に帰る。
昭和十五年 母は衣料品不足のため洋裁店を閉め商店街から住吉区北田辺に転居。
昭和十七年 この年、阿倍野区昭和町に転居。
昭和十九年 二月二十八日、召集令状来る。…三月三日、徳島で入隊。五月二十一日、徳島発、中国大陸へつれていかれ華中華南を桂林の近くまで行軍してあるく。

 他方、『定本伊東静雄全集』の「書簡」の部で富士正晴宛のものを探すと、

昭和十五年二月十二日付(書簡番号一五六) 宛先 大阪市住吉区北田辺八三七[北田辺宛の初出]
昭和十八年六月二十七日付(書簡番号二五一) [北田辺宛の終り]
昭和十八年八月下旬(書簡番号二五四) 大阪市阿倍野区昭和町中三ノ五(昭和町宛の初出)

 庄野は「阪南町のあたりだろうか」と言い、他方、前掲の資料では「昭和町」が正しいようにも思える。拙著に記したように、伊東静雄が結婚して営んだ新居は「阪南町中三丁目二〇」であった、ここから100メートルばかりも東に歩いて行くと、昭和町中三丁目である。どちらにしろ、北畠からは東の方角にあたり、さして違いはないようなものである。北田辺八三七は、今となってはもう同定の労をとる気力体力がない。
 年月については、富士年譜が十七年昭和町転居といい、伊東書簡が十八年になお北田辺宛で発信されている食い違いが、説明できない。まったくの憶測であるが、昭和十八年に住吉区から阿倍野区が分区新設され、町名地番の変更もあったので、あるいは住吉区北田辺八三七がたんに町名地番の変更で阿倍野区昭和町中三ノ五になった、という可能性もあるかもしれない。

 なお、庄野が「富士さんが兵隊で中国へ行っていた時期と重なったら」と記した危惧は、富士の入隊が昭和十九年三月であり、庄野はこれより先、昭和十八年十二月に大竹海兵団に入隊しているので、庄野の心配は意味がなくなった。

 伊東は何を思って庄野を富士に会わせたのだろうか。当時庄野は、自分でもいっているとおり、詩人でも小説家でも何者でもなかった。富士は同人誌『三人』を切り回したり、竹内勝太郎の詩集を刊行したりしていたが、高名には程遠かった。伊東のみが『わがひとに與ふる哀歌』『詩集夏花』の受賞で名を上げていた。三人でどんな話をしたのだろうか。富士が陽気にしゃべり、伊東がびしりと言い、庄野はほとんどもの言わずに黙って傾聴している、という図が目に浮かぶ。年齢差もある。庄野は富士の八歳下、富士は伊東の七歳下であった。(この稿つづく)
?

1504Morgen:2018/12/20(木) 22:09:08
垣根涼介「信長の原理」直木賞候補に!
 年の瀬も押し迫ってまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 垣根涼介「信長の原理」が、平成30年下半期直木賞候補に挙げられています。

 発表は1月16日。垣根亮介は2度目の直木賞候補なので、今度はぜひ受賞するように祈りたいですね。

平成30年/2018年下半期直木賞
[ 対象期間 ]─平成30年/2018年6月1日〜11月30日
平成31年/2019年1月16日決定 正賞(時計)+副賞100万円

<候補>

今村翔吾 34歳 [1] 『童の神』
平成30年/2018年10月・角川春樹事務所刊 長篇 623 枚

垣根涼介 52歳 [2] 『信長の原理』
平成30年/2018年8月・KADOKAWA刊 長篇 1099 枚

真藤順丈 41歳 [1] 『宝島』
平成30年/2018年6月・講談社刊 長篇 1053 枚

深緑野分 35歳 [2] 『ベルリンは晴れているか』
平成30年/2018年9月・筑摩書房刊 長篇 899 枚

森見登美彦 40歳 [3] 『熱帯』
平成30年/2018年11月・文藝春秋刊 長篇 940 枚

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001651.jpg

http://

1505山本 皓造:2018/12/25(火) 14:21:11
年末多忙
 ここ数年、2階の書斎で机に座って読んだり書いたりすることが少なくなり、大概のことはベッドに寝転がってやり、その結果いろんなモノたちは乱雑にベッドの周辺とか、床の間とか、縁側とかへどんどんハミ出して行き、どこになにがあるかわからなくなって行きます。
 庄野/富士について書くために、是非もう一度見ておきたいと思う資料が見つからないので、悶々としていました。それは、中尾務さんが雑誌 VIKING に連載された「VIKING」「VIKING 2」という長文の論考です。
 正月には子供たちや孫たちが集まって来ますので、現在入院中の妻をせめて半日でも外出で家に帰らせてやりたいと思い、そのためには大々的な掃除。片付けをせねばならぬ。痛い腰をさすりながらとりかかりました。そうして、モノたちの山の中から、ブラーヴォ! 中尾さんの論文のコピーを掘り当てました。
 これは私の高校大学の友人S君が VIKING の同人になっているので、バックナンバーを借りて全文コピーしたのです。すでに一度は読んだのですが、いま数えてみるとおよそ500ページにも及び、とても早急には再読しきれません。
 それで、本年最後の投稿は、山本は今病人のくせに多忙であること、傍々、長大な中尾論文の読みに入り(先月は庄野の単行本をほぼ読み終り、今月は岩波の『富士正晴作品集』を読んでいました)、来年には『VIKING』の発足や『光耀』の苦闘の頃の情勢、庄野の VIKING 入会のいきさつ、同人としての行績、脱会の経緯、庄野と富士の、VIKING 時代前後を通してのかかわり、などについて、何か書けそうであることを、報告するにとどめたいと思います。
 なお、庄野の富士宛書簡を扱った鷺只雄さんの論の前半を収めた書物(都留文科大の記念論文集)が国会図書館にあることがわかり、自宅からはバス1本で行けるのですが、気力体力が許せば来年にでも出かけてみようと――思うだけで、さて、どうなるか。

1506Morgen:2018/12/25(火) 16:01:50
“DUM SPIRO, SPERO”
 中野さんの「朱雀の洛中日記」<12月21日>“Festina Lente”(悠々として急げ)というご投稿がありました。添付されている京都のビル写真を観ると壁面にもうひとつの格言が刻されています。 (添付画像も中野さんの撮影写真を借用)

   “DUM SPIRO, SPERO”

 「どんな意味だろうか?」と思って調べてみると、英語では“As long as I breathe,I hope"(私は呼吸をしてる限り希望を抱く)というほどの意味だそうで、古代ローマのキケロ(BC106~43)の言葉だそうです。―「死んだら終りよ」というネガティブな意味と、「最後の瞬間まで希望を捨てるな」とポジティブな意味のどちらにも読めそうです。

 今年もあと6日で終りですね。しかしながら身辺を見渡すと、公私ともに年内には片付きそうもないことばかりで、シームレスな時が容赦なく流れていきます。(行く川の流れは・・・・・)

 私も大きな夢を(spero)周りの若者達に託しつつ、静雄詩「春の雪」に歌われる下草のごとく新しい亥歳を生息して参りたいと思っております。会社としては、AIによる多国語翻訳をインターネットで提供したり、JAXAの人工衛星から送られてくるデータの保存や提供など、胸躍る使命が課されていて、空のどこかで“Festina !”(猪突猛進せよ)という太鼓が鳴らされているようでもあります。
「昔の経験などは殆ど役に立たない時代になった今、はたして私の役目はなんだろうか?」と自問自答しながら、「ステークホルダーから私にに託され使命は」などと、テキスト通り原点に戻って考えてみるのが事始かなとも思います。しかし、それほどゆっくり(lente)している間もありませんので“Dum spiro, spero" と自らに言い聞かせて、息の続く限り(dum spiro)夢を抱いて、走り(fesitina)続けたいと思っております。

 皆様、お元気で年を越されて、幸せな亥歳をお迎えくださるようにお祈りします。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001653.jpg

http://suzaku62.blog.jp/

1507山本 皓造:2018/12/26(水) 13:54:48
スペーロ
 Morgen さん。よくみつけましたね。私は Festina Lente は目についたのですが、下段の句には気がつかなかった。
 もやもやと、いろいろ考えているうちに、不意に、昔書いた文章を思い出しました。
 昔、最後の勤務校で「歴史文化部」というクラブの顧問をやっていて、定年退職後、そのOB会をつくり、春と秋にあちこちの「歴史・文化」を訪ねて、歩き回っていました。そして、自分で勝手に「OB会ホームページ」を立ち上げ、そこに「ひとりごと」という総題で小さなエッセイみたいなものを連載していました。その第一回が「子供の詩」という題で、いま、それを思い出したのです。
 思い出したのだから、dum spiro, spero と関係があるのだろうと思うのですが、でも、どんな関係が?
 私は岩波の『ギリシア・ラテン語引用語辞典』というのをもっていて、試みにそれを引くと、
  私が呼吸する間、私は希望を持つ(北米合衆国の南Carolina州:Ascotti)
という説明がありました。何のことだろうか。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001654.png

1508山本皓造:2019/01/07(月) 21:43:28
富士正晴の伊東静雄書誌
 皆様 明けましておめでとうございます。
 我が家では、親、子、孫、計9人が顔を揃えて、温かいお正月を祝うことができました。
 皆様方にもどうか今年も、すこやかに、ご活躍をお祈りいたします。

 自分用の「富士さんの伊東書誌」を作ってみました。といっても、材料は小川先生の作成された文献目録から富士さんの著作物を抽き出しただけのものす。これで、読めるものはすべて読み、あと、アプローチ不能のいくつかは、現在只今のところはあきらめるほかない、ということがわかりました。
 もしかして、皆様のお役にたてればよいのですが。(お気づきの点がありましたらご教示ください)


伊東静雄、三人第12号 昭和11.5→『研究』
伊東静雄序説、三人9月号〜2月号 昭和14.9〜15.2
『詩集夏花』をめぐって---伊東静雄論---、文芸文化1月号〜3月号 昭和15.1〜3→『研究』
祝ひの詞、文芸文化50号 昭和17.8 伊東静雄・田中克己透谷賞受賞記念号
伊東静雄、午前第7号 昭和22.2→『研究』『作品集三』
伊東静雄のこと、祖国 伊東静雄追悼号 昭和28.7→『研究』
伊東静雄詩集、創元社 昭和28.9 桑原武夫と共編→新潮文庫
   ??? 、詩と真実昭和28.9 [『富士正晴作品集五』年譜に記載、表題不明]
伊東静雄について、近代文学12月号 昭和28.12→『研究』、『読本』
伊東静雄全集 桑原武夫・小高根二郎・富士正晴編(人文書院 昭和36.2)
富士正晴・中村光行・山田博之・鳥巣郁美、座談会・伊東静雄の断面、人間10号 昭和36.12 研究号
伊東静雄と酒、果樹園100号 昭和39.6 伊東静雄特輯号→『作品集三』
伊東静雄詩集 世界の詩16 桑原武夫・富士正晴編(弥生書房 昭和39.7)[付 後記・年譜]
詩人・伊東静雄、毎日放送 昭和39.10.11 [ラジオドラマ]
富士正晴・小野十三郎・斎田昭吉・中石孝、座談会・伊東静雄---人と作品---、日本浪曼派研究創刊号 昭和41.11
「文芸文化」とわたし、バルカノン22輯 昭和42.2 特集雑誌「文芸文化」
回想、『伊東静雄詩集』『わがひとに與ふる哀歌』復元版別冊 冬至書房 昭和43.2
小ヴィヨン、『贋久坂葉子伝・小ヴィヨン』冬樹社 昭和44.11→『作品集五』
伊東静雄少々、ユリイカ 3巻11号 昭和46.10→『読本』
富士正晴・林富士馬、『苛烈な夢---伊東静雄の詩の世界と生涯』、社会思想社教養文庫749、昭和47.3
林富士馬、『伊東静雄詩集』解説、旺文社文庫 昭和48.5
『カラー版 日本の詩集・第15巻 伊東静雄詩集』解説、角川書店 昭和48.5
伊東静雄の思い出、解釈と鑑賞 昭和50.3→『読本』『極楽人ノート』『作品集三』
伊東静雄と日本浪曼派、ユリイカ 昭和50.10→『読本』『極楽人ノート』『作品集三』

  略記:『研究』←『伊東静雄研究』思潮社
     『読本』←『現代詩読本10 伊東静雄』思潮社
     『作品集三』←『富士正晴作品集 三』岩波書店

1509山本皓造:2019/01/08(火) 19:12:31
庄野潤三初期作品年表
こういうものを作りました。(後続の投稿のため)
リンクを右クリックして、「対象をファイルに保存」し、印刷して、見てください。
長いファイル名は適当にリネームしてください。

庄野潤三初期作品年表

試行中ですので、うまくいくかどうか、不安。

1510162:2019/01/13(日) 22:49:03
(無題)
昨年9月に庄野潤三の家を見学して、最も印象に残ったことは
書斎の本棚の一等地(仕事机のそばの目につきやすい位置で、天井近くとか床近くではない場所)に
富士正晴全集がおさめられていたのを見たことです。

1511山本皓造:2019/01/15(火) 14:13:21
庄野さんの本棚
 1月13日の "162" 様。
 貴重なご投稿を、ありがとうございました。

『山の上の家』には、何点か、庄野さんの書斎の写真が収められています。私は、どんな本が並べられているのだろうと、ルーペまで持ち出して、読み取ろうとしてみたのですが、はっきりとは見ることができませんでした。
 庄野さん自身は、「仕事机のすぐ近く、手を伸ばせばすぐ取れるところに、伊東先生の本を置いていた」ということを書いていますが、富士さんの作品集が、おそらく相当の敬意と親近感をもって、その近くに置かれていたという事実は、私たちを安心させます。
 いろいろ言いたいことが湧き出て来ますが、最小限、私は、庄野さんが富士さんの本に与えたこの処遇を、庄野さん流の〈分別〉と考えることにしました。

 今後ともどうか、さまざま、ご教示をいただきますよう。

1512Morgen:2019/01/17(木) 23:07:25
人間の一生に影響を及ぼした本との出逢い
・・・・・・・・・・
もし、このとき、『反響』に巡り合わなければ、私は文学を仕事とするようになっていただろうか? この仮定の問いには答えにくい。・・・・・ある人との出逢いが人間の一生を左右し得るように、ある本との出逢いが人間の一生になにがしかの決定的な影響を及ぼし得るものである。よしその本が、あまり世間には名を知られていない詩人の、小さい詩集であったとしても。

 これは,『なつかしい本の話』(江藤淳著 1953年 新潮社)から抜粋した文章です。

 江藤さんは、昭和23年、鎌倉から東京都北区に引っ越されました。この時旧制中学3年生。近所の古本屋で、名前も知らない詩人の『反響』という詩集を立ち読みしたのがその出逢いでした。(続けて抜粋します)

 それは「夏の終わり」という詩であった。そこには、私の心の底のうずきに応じてくれる言葉があった。そしてその言葉は、あきらかにひとつの確乎たる美的世界を構成して、不可思議な新時代におのずから相対峠していた。当然、私の胸は震えずにはいられなかった。

 ≪……さよなら……さよなら……
  ……さよなら……さよなら……≫

 雲は流れながら、メロディを奏でる。この長調のメロディが、かくもしっくりと心の底にわだかまっているうずきに応えてくれるのは、なぜだろう?

 私は、自分がいまなによりも、このような<……さよなら……さよなら……>という歌を必要としていることに、気がつかざるを得なかった。(鎌倉にも、今までの生活様式にも、時代にも、日本にも)

 しかし、伊東静雄という詩人は、どうして「夏の終わり」というこの本質的には悲哀に充ちた詩を、かくも明るいメロディで歌うことができたのだろう。

(江藤さんは名も知らぬ詩人の『反響』という小さな詩集から、「伊東静雄以下のような啓示(伝言)を感得し、自らの一生を左右されるほどの影響を受けたのかもしれません。以下も抜粋です。)

「行って お前のその憂愁の深さのほどに」という詩の中の

<行って お前のその憂愁の深さのほどに
 明るくかし処を彩れ>が、
(この問いに対する)ひとつの啓示のごとくに響いた。

 詩人は、何か大きなものを喪いつつ、むしろその喪失を創造の出発点に据えて、<明るくかし処を彩>ろうとしている。そしてそれはまた私という日本人に対する詩人の伝言とも考えられた。

 そして『中心に燃える』という詩では、<明るくかし処を彩る>ためには、人は「自ら燃え」ればよいのである。そう詩人は歌っているのであり、それが私の心の底のうずきに応えてくれる詩人の言葉(メッセージ)であるように感じた。


 冒頭の「人との出逢い」「本との出逢い」がその人の一生を左右するという文章も印象的ですが、旧制中学3年生が、『反響』という一冊の詩集から、一生を左右するような深い「啓示」を受け取ることができた―このことの方が私には驚きです。

『反響』が出版された敗戦直後の時代は、庄野さんや富士さんだけでなく、日本人の多くが心の中にそのような「啓示」を抱いて、「自ら燃えるしかない」と懸命に頑張ったのだろうと私には思えてきます。

1513中路正恒:2019/01/18(金) 21:14:28
姫路の酒井家で:拙論「ある日の伊東静雄」
はじめて投稿させていただきます。
去年は機会があって姫路に酒井小太郎の家を探しに行き、今は駐車場になっていましたがその家の合った場所を発見しました。今は地番が変わっていて、法務局の方のご協力があってはじめて発見できた場所です。---ご存知の方も少なくはないと思いますが。

 今まで伊東静雄が「哀歌」を書く前に訪れた姫路の酒井家での出来事を推察して論文にしていましたが、やっとその場所にたどり着きました。

 WEBにも載せておりますその拙論を紹介させていただいてよろしいでしょうか?
https://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html
 です。
 お許しいただければ幸いです。

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

1514Morgen:2019/01/18(金) 23:21:13
中路先生ようこそ
中路先生ようこそ

WEB上で展開された先生の「伊東静雄論」は、かつてこの掲示板でも紹介させていただきました。「なるほど なるほど」と頷きながら、読ませていただいたように記憶しております。ニーチェ論の方は少し難しくて、私はまだまだ消化不良のままです。

梅原猛先生が亡くなられて、いわゆる「新京都学派」と呼ばれたような文化風土の色彩が薄れていくような寂しさを感じます。

ますます個性的な活躍の幅を広げていただいて、絶え間なく多彩な情報を発信くださることを心から期待しています。今後ともよろしくお願いします。

正月は、奥飛騨温泉〜飛騨市古川町方面にいましたが、ロープウェイ山上でも降雪のため良い写真は撮れませんでした。添付した写真は人工的に水をかけて凍らせたつららの壁です。 

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001661.jpg

1515162:2019/01/19(土) 03:37:50
(無題)
1月13日の投稿を下記の通り訂正します。

富士正晴全集 → 富士正晴の著書

当日に撮影した写真を探し出して確認したところ、記憶違いがあることが判明しました。
誠に申し訳ございません。
庄野潤三の著作物が並んでいる段の「絵合せ」「屋根」「丘の明り」の真上に「極楽人ノート」がありました。

1516162:2019/01/19(土) 03:47:56
(無題)
本棚の写真を添付しようとしましたが、うまくいきませんでした。
近いうちに詳しい者に手助けしてもらって投稿するつもりでおります。
申し訳ありません。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001663.jpg

1517中路正恒:2019/01/22(火) 13:34:08
返信ありがとうございました
Morgen様
返信を有難うございました。拙ブログページを紹介して下さっていたとのことまことにありがとうございます。この掲示板を見るのも今回が初めてで、知らずに申し訳ありません。
一度命日に伊東静雄のお墓にお参りしたいとかねてから思っておりましたが、なかなかその機会が得られません。今年もむずかしそうなのですが、このホームページがるのを知って、情報がつかめるので、それを活かして機会を得たいと思っています。
まずはお礼まで。

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

1518青木由弥子:2019/01/23(水) 16:25:06
伊東静雄研究書誌(作成中)リスト
中路正恒様のご投稿を拝見しました。『詩と思想』という詩誌の編集委員をしております、青木由弥子と申します。

中路様のブログのことを存じませず・・・
辿っていきましたら、山中智恵子が静雄の詩を「本歌」としていることを教えて頂きました。
ありがとうございました。
江田浩司さんにもお目にかかる機会があり、興味を惹かれているところでもありました。

中路様のご論考は、大学の紀要で拝読させていただいておりました。
投稿掲示板を通じて、静雄研究の横のパイプラインのようなものが出来ていくことを願っています。(『春のいそぎ』収載の「夏の終」の初出が「公論」昭和15年であるということを諫早の伊東静雄研究会の上村紀元さんから教えて頂いたのですが、2015年の段階で、瀬尾育生さんも林浩平さんもご存じなく・・・横の連携の必要性を強く感じたことがありました。)

ネットを活用して、日本全国の伊東静雄研究者、愛好者、愛読者が情報を共有できるようになればよいと思った次第です。

帝塚山大学の紀要など、最近の調査研究も加えていかねばなりませんが、
2015年までのところで止まっている静雄関係文献一覧を投稿しておきます。
(重要文献が抜けていることと思います。お手すきの折に、ご教示いただければ幸いです。2016年以降は、また改めて調べて、読んで確認してからリストに入れていこうと思います。)

〈伊東静雄〉参考書誌一覧
※文学全集収載のもの、復刻版詩集、同窓会編資料集等は省略(文責 青木由弥子)
◆単行本
1970『伊東静雄詩がたみ―光と影』一柳喜久子/法文館
1971『定本 伊東静雄全集』桑原武夫・小高根二郎・富士正晴編/人文書院(1961初版・増補改訂版)(詩篇、散文、日記、書簡、作品年譜、年表。別添研究書誌一覧)
1971『伊東静雄研究』富士正晴編/思潮社(生前の批評、追悼文(「祖国」静雄追悼号全篇含む)等、百篇を越える集成。桶谷秀昭、磯田光一、北川透、大岡信等の戦後の静雄論も収載。詳細な書誌一覧、年表あり)
1976『詩人、その生涯と運命―書簡と作品から見た伊東静雄』小高根二郎/国文社(1963初版・増補改訂版。年譜あり。)
1978『朔太郎と静雄』清水和子/吟遊双書2・JCA
1982『伊東静雄 その人生と詩』三宅武治/花神社
1983『伊東静雄論考』小川和佑/叢文社(1973『伊東静雄論』五月書房、1980『伊東静雄』講談社現代新書、研究書誌増補版)
1983『戦時下の作家と作品』安永武人/未来社(伊東静雄『春のいそぎ』収載)
1985『伊東静雄 憂情の美学』米倉巌/審美社(新発見書簡、略年譜付き)
1992『雑誌コギトと伊東静雄』高橋渡/双文社
1994『詩人の夏 西脇順三郎と伊東静雄』城戸朱里/矢立出版(93年の講演録の改稿)
1995『夢想の歌学―伊東静雄と前登志夫』櫟原聡/雁書館
1996『ヘルダーリン―予め崩れる十九世紀近代 伊東静雄における受容との関連にて』縄田雄二/西田書店
1996『伊東静雄』野村聡/審美社
1997『伊東静雄青春書簡 詩人への序奏』大塚梓・田中俊廣編/本多企画(16歳〜23歳までに大塚格に宛てた書簡133通)
1998『伊東静雄 詠唱の詩碑』溝口章/現代詩人論叢書?・土曜美術社出版販売
1999『詩人その生の軌跡:高村光太郎・釈迢空・浅野晃・伊東静雄・西垣脩』高橋渡/現代詩人叢書?・土曜美術社出版販売
1999『抒情の方法 朔太郎・静雄・中也』長野隆/思潮社
2002『伊東静雄論・中原中也論』永藤武/おうふう
2002『伊東静雄と大阪/京都』山本皓造/ソフィア叢書5・竹林館
2003『痛き夢の行方 伊東静雄論』田中俊廣/日本図書センター
2006『萩原朔太郎 晩年の光芒』大谷正雄/てんとうふ社(「天性誌の中の伊東静雄」、伊東静雄書簡他)
2008『詩学入門』中村不二夫・川中子義勝編/土曜美術社出版販売(溝口章「伊東静雄」収載)
2010『伊東静雄日記 詩へのかどで』柊和典・吉田仙太郎・上野武彦編/思潮社(静雄17歳〜23歳までの日記。詳細な註あり)2012『近代詩雑纂』飛高隆夫/有文社(「伊東静雄「水中花」」「伊東静雄の語法」収載)
2013 『ことばの遠近法 文学/時代/風土』田中俊廣/弦書房(静雄論4篇収載)
2013『伊東静雄 酒井家への書簡』上村紀元/伊東静雄研究会/私家版
2015『敗戦日本と浪漫派の態度』澤村修治/シリーズ知の港2・ライトハウス開港社(「「治者」の発見―伊東静雄」収載)

◆文庫、選書、新書(入手容易なもの)
◇詩集
1980『伊東静雄詩集』藤井貞和編/現代詩文庫1017・思潮社
1989『伊東静雄詩集』杉本秀太郎編/岩波文庫・岩波書店
1994『伊東静雄詩集』桑原武夫・富士正晴編/新潮文庫・新潮社(1953創元選書、1957新潮文庫)
1997『伊東静雄詩集』林富士馬編/小沢クラシックス日本詩人選?・小沢書店(1973旺文社文庫)
2005『蓮田善明/伊東静雄』近代浪漫派文庫35・新学社
◇評伝
1971『詩人・伊東静雄』小高根二郎著/新潮選書・新潮社
1972『苛烈な夢 伊東静雄の詩の世界と生涯』林富士馬・富士正晴著/現代教養文庫749・社会思想社
1980『伊東静雄 孤高の叙情詩人』小川和佑著/講談社現代新書・講談社
2009『伊東静雄』杉本秀太郎著/講談社文芸文庫(1985筑摩書房版)・講談社

◆雑誌特集号(四季派特集などは省略)
1971『ユリイカ』「増頁特集 伊東静雄」/?月/青土社
1975『国文学 解釈と鑑賞』「現代の抒情〈中也・静雄・達治〉」/3月/至文堂(原子朗「伊東静雄主要研究文献目録」あり)
1978『四次元 詩と詩論』「特集 伊東静雄」/4月第6号/矢立出版
1979『現代詩読本? 伊東静雄』/思潮社
1987『焔』「小特集 伊東静雄」/第六号/福田正夫詩の会
1995『イロニア』「特集 伊東静雄」/第七号/新学社
1995『堺のうた堺の詩歌俳人〈詩人 伊東静雄〉』/第参冊/ふたば工房
2000『四年坊』「それぞれの伊東静雄」/第三号(住吉中学第二十期生中心の同人誌)
2003『関西文学』「特集 没後五十年 伊東静雄」/第37号/澪標
2003『PO』「特集 伊東静雄」/110号/竹林館

◆関連書
1997『声の祝祭 日本近代詩と戦争』坪井秀人/名古屋大学出版会
1998『日本浪漫派批判序説』橋川文三/講談社文芸文庫(初版1960未来社、1985年筑摩書房『橋川文三著作集1』に基づく)
※その他の日本浪漫派関連書は省略
2006『戦争詩論1910-1945』瀬尾育生/平凡社(補論3「敗北の暗示〈伊東静雄・及川均〉)※『春のいそぎ』収載の「夏の終」の初出は、『定本 伊東静雄全集』では不明だったが、現在は昭和十五年の『公論』十月号であることが判明している。(一般に入手可能な書物では『萩原朔太郎 晩年の光芒』2006参照。)瀬尾氏は「夏の終」をミッドウェー海戦後と推定。予感を示す作例とする論旨が動くわけではないが、氏より「できる限り早く、その修正をしたい」と言付かっているので、ここで訂正しておく。
2008『「近代の超克」とは何か』子安宣邦/青土社
2010『地域学への招待』京都造形芸術大学編(中路正恒編集責任)/角川学芸出版(中路正恒「伊東静雄のポジション」収載)
◆研究論文(近年のもの)
1992「伊東静雄と浜田広介―新見資料を中心にして」穀田恵子『宮城教育大学国語国文』3月
1993「伊東静雄と三島由紀夫」涌井隆『名古屋大学言語文化部』3月
1995「肥下恒夫宛 伊東静雄葉書二十通他一通」飛高隆夫『四季派学会論集』第六集
1997「再考 伊東静雄とヘルダーリーン」吉田正勝『大阪樟藤女子大学論集』3月(「再考 伊東静雄とヘルダーリーン 補遺」前掲論集1998・3月)
1997「伊東静雄と危険な抒情:『春のいそぎ』の方法」長野隆『現代文学』弘前大学?月
1999「『詩集夏花』期の伊東静雄―〈茫漠・脱落の戦略について〉」碓井雄一『日本文学論集』(大東文化大学大学院日本文学専攻院
生会)3月
1999「夏の詩人」(伊東静雄論、継続中)萩原健次郎『海鳴り』?号(編集工房ノア)
2000「古今集歌の詩的本質と普遍性について―伊東静雄とリルケと古今集歌」藤原克己『國文学:解釈と教材の研究』4月
2002「伊東静雄『詩集夏花』論―萩原朔太郎『氷島』の後継として」小川由美『清心語文』8月
2004「伊東静雄の詩の中の「朝顔」と「?」」中里弘子『静岡大学留学生センター紀要』2月
2004「伊東静雄参考文献目録?」碓井雄一『近代文学資料と試論』?月
2005「伊東静雄初期詩法論―『わが人に与ふる哀歌』まで〔付「伊東静雄参考文献目録稿」・増補〕碓井雄一『近代文学資料と試論』6月(小川和佑、原子朗以降2003年までをつなぐ書誌研究、文献目録)
2006「ドイツ文学の伊東静雄」渡部満彦『大妻女子大学紀要』3月
2007「伊東静雄のリルケ体験」渡部満彦『大妻女子大学紀要』3月
2007「「小さい手帖から」「『反響』以後」の詩法」中里弘子『静岡大学国際交流センター紀要』3月
2008「伊東静雄論―「吾にむかひて死ねといふ」のは誰か―「愛国詩」とはなにか」林浩平『三田文学』夏季号
2008「詩人のイロニー/批評家のイロニー―伊東静雄と保田與重郎のメディア的相互投射」大澤聡『言語態』8月
2009「ある日の伊東静雄―「モルゲン」と「哀歌」」中路正恒『京都造形芸術大学紀要』14巻
2012「大山定一が愛した詩人:伊東静雄をめぐる文献展望」大山襄『アリーナ』(中部大学国際人間学研究所)
2015「伊東静雄論:詩集『反響』の「小さい手帖から」を中心に」原明子『福岡大学日本語日本文学』25号
2016「伊東静雄『春のいそぎ』考」青木由弥子『詩と思想』9月

1519中路正恒:2019/01/24(木) 03:47:07
伊東静雄と前川佐美雄
青木由弥子様 「研究書誌リスト」拝見しました。こういう書誌情報がネットでいつでも見れるようになっていると、とてもありがたいと思います。収集する努力や手間も大変だと思いますが。まずはリストとして上げられた分を活かしてゆきたいと思います。ありがとうございます。

本歌のことですが、前川佐美雄の歌集『大和』「遍照」に

>山にのぼり切なく思へばはるかにぞ遍照の湖(うみ)青く死にてみゆ

があります。「哀歌」を本歌としているでしょう(山中智恵子はその歌をあるところで評しています)。佐美雄は伊東静雄と実際の交流も多少あったようです。佐美雄の全集第3巻「散文」篇に「伊東静雄を憶ふ」という弔文があります。それによれば最初に会ったのは昭和14年7月。「日本歌人」大阪歌会に来て厳しい批評をしていったことが書かれています。その翌年の山田新之輔の結婚披露の会でも会って、記念写真の席をめぐってのちょっとしたエピソードが書かれています。それ以上の深い付き合いはわたしは今のところ知りませんが、伊東に深く共感するところはあったようです。
とりあえず。

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

1520大山 襄:2019/01/27(日) 18:50:44
青木さんの「伊東静雄研究書誌」
青木由弥子さん。
小生の拙文を「伊東静雄研究書誌」に取り上げていただきありがとうございます。
書誌完結とともに、青木さんの伊東論文期待しております。

1521青木由弥子:2019/01/27(日) 19:14:41
ありがとうございます
皆様、いろいろありがとうございます
折に触れ、行き合った方や集まりで話していると、林富士馬と交流があったという研究者からお便りを頂いたりという「出会い」が増えていきます。

先日も、そんなに凝視るな を含むエッセイをお読みになった方からの返信封筒(の裏側!)に、ラテン語がなぞなぞみたいに記されていて、調べたらホラティウスの詩句の一節、しかも・・・未来を思い煩うな、今日の花を詰め、という・・・もしかして、静雄はどこかでそれを読んで、本歌どり、いな、翻案したのかもしれないなというアイディアが浮かんだものの・・・静雄が読んだ(かもしれない)書籍の中に、古代ローマ詩人に関するものがあったかどうか(ゲーテあたりからかもしれないなとか)探索の道は道草ばかりですが。
それもまた、出会いに繋がるかなと思ったりしています。

韓国外国語大学の徐載坤ス・ゼコン教授(萩原朔太郎研究から出発した日本文学研究者)の特別講義を先日、聴講してきました。静雄の戦争詩に関しても、新たなアイディアを頂きました。少しずつですが、頑張ります。

1522山本皓造:2019/03/03(日) 05:47:59
相楽神社の餅花
 早いもので、もう、ひと月がたって、二月、きょうは節分、明日は立春、あさっては旧正月元日だそうです。
 2月1日には近くの相楽神社で「餅花」という行事がありました。元気なころは自転車で行ったりバスで行ったりしていたのですが、最後に見に行ったのは、あれはいつだったか。
 朝日新聞に写真と記事が載りました。毎年することは同じなのに、律義に新聞は毎年、同じような写真と記事を載せてくれます。
 記事にあるように、餅花というのは、今年の豊作を祈る「予祝」の行事で、1月15日の「御田」も同じです。ほかにも「粥占」とか、この神社は古いものをたくさん残しています。
 紅白で飾られた「餅」が寄り集まって可憐に揺れているのを見ると、胸の奥からぬくもりが湧いてくるような気がします。

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1523Morgen:2019/02/10(日) 23:43:58
「春支度」
 山本皓造様のご投稿を拝見して、小学校低学年の頃の記憶がおぼろげながら蘇りました。今頃の時節に、餅粉でたくさんの餅花を作って、母に連れられて諫早の本名川沿いの神社?(お寺かも)へお詣りに行く慣行がありました。。汽車に乗って諫早の街へ行くだけでもどこかハレやかな気持になったものです。

 今年は、暖冬のせいでしょうか、例年より「花便り」が早いような気がします。
我が家の窓から見える公園の「河津桜」(写真上)も開花し、先日訪れた「長浜盆梅展」(写真下)で樹齢2〜300年の老梅が見事な花を披露していました。

 先日は、用事があって会社から地下鉄御堂筋線に乗ったのですが、心斎橋筋商店街を歩いていると知り合いの紳士服の店長さんが私を呼び止めました。気が付くと、昼御飯のついでに上着も着ないで電車に乗って出かけていたのです。

 明日は、大阪でも雪が降るかもしれないという天気予報が出されていますが、春はもうすぐそこまで来ているようです。今日は、紫陽花の植替えをしました。我が「春支度」です。



 

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1524山本皓造:2019/02/15(金) 12:40:36
堺屋太一氏のこと
 堺屋太一君が死んだ。――堺屋太一「君」というのは、彼と私が同じ中学ー高校の同窓・同級生だったからです。そして、当然だが、年齢も同じ、昭和10年生まれで、彼の享年は83歳だった。
 同年齢の中学ー高校、高校―大学と、同じ道を歩んだ親しい友人が当然、何人もいるわけだが、そのうちもう半分以上が亡くなった。
 住高の3年生、卒業のとき、私は堺屋太一君と同じクラスだった。(担任は大庭先生といって、伊東静雄と同じ国語科で、きわめて親しく交わられたらしく、早く話を聞いておけばよかったと、悔いています)しかし当時はまだ堺屋太一ではなく、本名の池口小太郎君だった。

 彼はユニークな生徒だった。どう、ユニークだったかを言うのはむつかしい。決して天才でも秀才でもなかった。受験勉強にシャカリキになったり、校内の実力テストで一番をとるというような華々しいことは一度もなかった。東大に入ることが唯一の目標、とぼくたちは誰もが後々まで思っていた(が、それは違ったらしい)。二浪して初志を貫いた。

 しかし彼と親しく話したことはほとんどない。彼は社研部で私は新聞部で、クラブ活動での交流もなかった。大学卒業後にも、国家公務員、通産省官僚、万国博覧会、云々という彼の志向および仕事場と、私のそれとはまったく交点を持たなかった。地球の裏と表のような感じだった。これは私の意地もあると思うが、私は彼の有名な著書「油断」「団塊の世代」「峠の群像」などを、一冊も読んでいない。(「豊臣秀長」を書いたと聞いたとき、それまで見えなかった彼の心情の深い一面を、ふと垣間見たような気がした。)

 これは誰に聞いたのだったか、伊東静雄の松虫通の詩碑ができたとき、土砂降りの雨の中の除幕式に出、ちかくのお寺で講演をしたという。それはそれだけのことで、調べるか直接質すかすればわかることなのだろうが、サボって手をつけずに来た。今頃になって、「堺屋」が「伊東」についてどんなことを語ったのだろう、ともっぱら好奇心がうづき始める始末です。

 WEBなどを見ると、彼にたいする賛辞や追悼の言葉がおびただしい。そういう人々にとっては真実そのとおりなのであろう。否定する気もなく、ケチをつける気もない。ただ前にも書いたように、私は彼とはまったく違う場所を生きてきたので、世間の言うことがまるで他人事のようだ。それよりも、はるかな昔、同じ教室で同じ数学の教師にいじめられ、同じ学食で昼メシを食った、変わり者で妙に印象の残る学友が、死んだ、という、そうか、とうとう彼も死んだか、という、(そして私は生き残ったという)その寂しさ、「ほんま、かなわんなぁ」という思い、今はそれがいちばん強いのです。

1525Morgen:2019/02/15(金) 16:37:14
「天の声 地の声 人の声」
??時節柄「堺屋太一氏と大阪万博」という過去の話がいま話題になっています。

 私は、(公務員ではありませんが)当時、大阪府のポーレミックな実践的な小さな課題のいくつかに(殆どがゴーストライターとして)裏方で係わっていて,その一つとしてEXPO'70の企画もありましたので、薄れた記憶をたどってみます。(堺屋太一が本名でなかったことは初めて知りました。)

 当時、大阪府の万博担当者の間では『人類の進歩と調和』というようなメインテーマ(「日本万国博協会」という「天の声」)には全く関係なく、地方館や関連事業の企画ばかり議論していました(土木・建築関係)。例えば、万博が終わると全てのパビリオンは解体撤去されて何も無くなるので、せめて大阪府の地方館だけでも将来残すことを考えて、例えば『大阪の過去・現在・未来』を俯瞰できるような物を集めて地方館に展示して遺すべきだと私は主張し、当時の佐藤義詮知事に大変褒められたことがあります(府庁内泊り込みで原稿を書いていると知事室からホワイトホースと蟹缶3個の差し入れがありました。万博で実現はしなかったが、ずいぶん経ってから、そのミニチュア版と思しき展示館が法円坂のビル内に作られています。)

 また、当時の万博関連事業として計画された道路網が、大阪港や空港と会場を結ぶ「十大放射三環状」という求心的な自動車道路に偏重したものであったので、通過交通量を減らし都心の車洪水を防ぐために、地下鉄伸延や環状モノレールなどの大量輸送手段の建設を提言した記憶があります。(若造のくせにあまりにも大きなプロゼクトを提案したので、)真剣に取り上げてくれたのかどうかは不明ですが、当時名市長と言われた竹内豊中市長の公約に取り上げていただき、土木部専門部隊などにも研究していただいたりして、大騒ぎの末、こちらも随分経ってから半ば実現しました。その後故竹内市長が「住宅街のど真ん中で、しかも地上30メーターの高所に電車を走らせるというのは住宅地に騒音を撒き散らし、非常識じゃないのか。」と私にぼやいておられました。(内心では不承知?)
 竹内市長、深夜2時3時までご自宅に押しかけて、スタッフ同士で無理な議論ばかりしてすみませんでした。ナンマンダブツ!!) 3ヶ月で万博用地の買収をやり遂げた大阪府や豊中市の用地課職員たちのご活躍の凄さは今も忘れません。鶴のようにやせ細った竹内市長の何処からあんなすごい迫力が生まれたのか?

(少し自慢話めいて嫌味な感じの話でもあり、その後思い出すこともなく忘れていました。また当時の関係者は全て亡くなられ、どのような記録が残っているのか確かめる気も起こりませんが。)

 堺屋さんは、余りにも有名になられて、常に時局の中心から華々しい話題を発信し続けることを生涯運命付けられていたのだと思います。―『人類の進歩と調和』という永遠の道程の何処ら辺りを、私たちは今、歩いているのか???「この半世紀の間に、何が進歩し、何が壊れたのか?」―「絶え間なき進歩」という神話は脆くも崩れ、近隣の工場群は姿を消した。その跡地にはマンションが建ち、インターネット機器やコンビニ、○○整骨院やデイケアの数がやたらと増えましたが、それは「進歩と調和」というOptimisticな概念とは少し違います。(どう違う? Optimistic楽天的、Optimistically楽観的)

 1980年代末期(為替自由化)に始まる長期デフレ・低いGDP成長という背景下での「進歩」であり、それらの現象を頭の中でどう整理したらよいのか、いまだ正確な分析のできない半世紀でした。(各個人にとっても、想定されたライフプランの激変を余儀なくされた人が多かった。)

 EXPO'2025も、世界の中の大阪を宣伝する良い機会ではありますが、(万博終了後)将来に採算のとれない埋立地や不採算娯楽施設などの大きな負の遺産を府民に残すだけに終わることのないように、計画段階で練りに練ってほしいものです。

 大阪府・市主導のEXPO'2025が、くれぐれも、お祭り騒ぎで始まって「捕らぬ狸の皮算用」に終ることのないよう、願わくば堺屋太一氏にもあの世から厳しく「天の声」を発信してもらいたいものです。

1526Morgen:2019/02/18(月) 00:45:41
映画「ナポリの隣人」
 2月15日封切(シネ・リーブル)の映画「ナポリの隣人」を観てきました。
 妻に誘われて行ったので、全くの予備知識なしに、内心では美しいナポリの風景が見られるのかと期待していました。

 ところが、出だしから汚く、落書きだらけの狭い路地、無秩序で治安の悪そうな下町風景ばかりが出てきます。

「分かり合えず、すれ違う家族の心情、他者との繋がりが希薄になった地域社会…“人情溢れる下町ナポリ”というイメージを覆す、現代に生きる人々の心の闇を容赦なく描き切り、観る者の心を揺さぶる“21世紀のネオレアリズモ”」と、チラシに書かれていますが、まさにその通りの映画でした。

 とりわけ、頑固一徹そうな主役・独居老人ロレンツォの、変化の少ない表情で演じられる「心の闇」の演技はまさに名演技でした。時々は、ロレンツォ演ずる「老人の心の闇」を想い出して、わが老心の闇を写す鏡にしてみたい気がします。

 それにしてもマスコミで報じられるヨーロッパやアメリカ社会の妥協を知らない「分断現象」は深刻ですね。島国日本だけが例外でいられるはずもなく、「人情溢れる」などという小津下町映画の世界は「幻想共同体」にすぎず、いまや死語となったのでしょうか。

 映画の終盤で、ロレンツォの娘のエレナがアラブの詩(箴言)から引用する「幸せは、目指す場所でなく、帰る家だ」という言葉の意味は如何?
 テーマ音楽が「オーソレミオ」のようなカンツォーネではなく、まるでスローなジプシー(ロマ)音楽のように哀愁に充ちたものであるのも、ナポリとは異質? 等々

 いろいろなことを考えさせる映画「ナポリの隣人」でした。

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1527大垣 陽一:2019/02/24(日) 20:32:49
鶴見橋商店街
投稿されている見事な諸先輩の示される文章に接し、私なりの感慨をいつも憶えています。そして、私の幼い頃の記憶を想い出すと共に、伊藤静雄という詩人に巡り逢えた幸運を喜びます。富士正晴氏が嘗て、大阪・西成区、鶴見橋に住まわれていた事などを知った事などは、この掲示板に一層の親しみを憶える喜びです。私にとって、鶴見橋(商店街)は懐かしの町であります。当時、住まいがその近くにありましたが。父の号令の下。連れられて、母や弟と共に夕食後に、何する訳でも無いのですが、本当によく鶴見橋には出かけたものでした。本当に貧しいい一家でしたが夜の散歩をする家族でした。何故にあんなにもよく出掛けたのでしょうか・・・?。鶴見橋、花園など、西成区の地名を認めるとあの当時の町の様子が今も、私の眼に浮かびます。そんな父も今は亡く、母も老いの介護に頼る毎日です。いずれ、私も同じ状況になるのは確実です。そんな、私は、高専に進み、高野晃兆、中尾治郎吉先生に巡り合いました。そして、庄野潤三、伊藤静雄を知る事になりました。そして、室生犀星、三好達治、中原中也、荻原朔太郎、中野重治、折口信夫、柳田国男、カロッサ・・・など、多くの詩人に親しむ事となりました。これからも拝見してまいります。

1528上村紀元:2019/02/26(火) 11:28:01
菜の花忌
伊東静雄顕彰委員会

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1529Morgen:2019/03/05(火) 11:09:56
「あるかんでもよか隊に!」
今年も「菜の花忌」を目前にして諫早の皆様はお忙しいことと拝察します。

 堺三国ヶ丘の菜の花忌は詳細不明のまま、私は今回は不参加に終わりました。

 また、諫早高校同窓会関西支部から醍醐寺ハイキングのご案内(3/30)を頂いたのですが、仕事で出張中のためこちらも残念ながら不参加。
 同HPをあけてみると「あるかんば隊」→「あるかんでもよか隊」に!変えるとあります。(美術館でも映画館でも暇があれば付き合いますよ。)

JR大阪駅地下街の花屋に「春の雪」と銘する蘭の小鉢を売っていたので仕事場のテーブルに飾りました。同駅前の植え込みの「菜の花」と合わせて画像ファイルに添付してみます。

 いよいよ春が来ました。思い切り駆けて、新しい風を満腔に吸い込みたい気分ですね。

<私たちも旅人>夫れ天地は、万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。而して浮生(ふせい)は夢の若し。歡を為すこと幾何ぞ。古人燭を秉(と)りて夜遊ぶ。良(まこと)に以(ゆえ)有るなり。況んや陽春我を召すに煙景を以てし、大塊我に仮すに文章を以てするをや。(李白)
 

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1530Morgen:2019/03/25(月) 01:20:25
「さては時ぞと思うあやにく」(早春賦)
「伊東静雄菜の花忌」が目前に迫り、心からご成功をお祈りします。

 先日、老妻がハンマーダルシマという楽器で「知床旅情」らしき曲を練習しているので、題名を尋ねてみると「早春賦」だということです。メロディーがそっくりなので驚きました。

 私は、月末にかけて北海道出張予定なので、念のために札幌の天気予報を調べてみると、雪やみぞれが降る想定外の寒さです。
  <3月28日 曇一時雪 0℃〜3.9℃ 3月29日 曇一時雪 −1℃〜2.0℃>

 しかも、行き先が日本海沿いの石狩新港地区なので、吹き付ける風雪に備えて服装も背広の上から冬用のマウンテンジャケットを着用し、リュックを背負って行くことにしました。(「知床旅情」ヒットによる知床ブームの後、リュックを背負った北海道旅行者が「カニ族」と称されたことを懐かしく思い出します。半世紀も昔の話ですが。)

 北国の春の「雪の空」は、童謡・唱歌として作詞された「早春賦」の2番の歌詞の情景を連想させます。1番は「春は名のみの風の寒さよ」と分かりやすいのですが、2番は文語調で歌詞が固く、意味も難解ですね。「早春賦」は童謡・唱歌として大正2年に作られたそうですが、果たして子供たちはその意味が分かったのでしょうか?(作詞者は吉丸一昌?大分臼杵の出身。安曇野を訪れたときの思いを歌ったそうです。「賦」は漢詩の歌。)

・・・・・・・・・・
春は名のみの風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく (*)
今日もきのうも 雪の空
今日もきのうも 雪の空
(*)「さては、(種蒔き等をする)春が訪れたのかと思ったが、それは生憎早とちりであった」(拙訳)
添付写真は我が家の菜の花、玉之浦、桜などです。

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1531Morgen:2019/04/04(木) 11:41:11
「四月の風」(仲春令月時和気清)
 いよいよ「仲春の令月」。われらが「和(倭)国」では、満開の花々咲き匂い、「四月の風」が清々と吹く、まさに1880年程大昔の後漢の詩人「張衡」が「時は和にして気は清し」と「帰田賦」に書いたのに似たような快適至極な雰囲気の中で、「改元」のご時世を迎えることができることを、共に慶び合いたいと思います。

 例年のことではありますが「四月の風」の吹く頃には、仕事場にも新入社員が加わって、新緑の樹木の匂いのような空気が漂います。「大きな夢を抱いて社会へ飛び立つ青年」というイメージは、懐かしくもあり羨ましくもあります。
官民あげて「働き方改革」が喧伝される昨今の世相の中で、彼らは「この上なく自由にされた気になって」いるのか、あるいは青年達の凛々しい顔面は「見せかけ」でしかないのか?―「老いすぎた私」には分かりません。

 昼休みに大阪城公園の桜を観に行きましたが、数十台の大型観光バスでやってきた沢山の外国人観光客が、堀端をぐるりと包囲しています。「群れ咲く桜」を愛でるのは日本人独特の嗜好かと思っていたのですが? 20人ほどの一団が和服で正装をして、雪駄を履き信玄袋を持って歩いています。「“醍醐の花見”の様な風流な茶会でもやっているのかなァ。」と思っていましたが、聞こえてくる言葉は全て中国語でした。

 「令和」という新年号の発表を聞いて、「うるわしき大和」「クールジャパン」などという言うキャッチフレーズが直感的に脳裏に浮かびました。しかし、日本人が外国向けにアッピールしたい「美点・良さ」「クールさ」と、外国人たちの感じ方には少しギャップがあるような気もします。「クールジャパン機構(海外需要開拓支援機構)」が破綻に瀕しているのも、そのような感覚ギャップに起因するのかもしれません。政治家達の「巧言令色」の令とならないように、監視しなければなりません。


 いずれにしても、これからは「令和」の時代を生き、「令和」の時代にわが生涯を閉じることになります。全般的には「和様」を基調にした、分かりやすく、肩のこらない風潮が流行りそうな予感がします。「ストレスフリーな老後」の期待と言えるかもしれません。

―「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」

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1532青木由弥子:2019/04/06(土) 09:25:38
菜の花忌
はじめて菜の花忌に参会させていただきました。
市をあげて、郷土の詩人を偲ぶ、あたたかい会でした。静雄が呑むと泣き上戸だった、という話を聞きましたが・・・しっかりもののお姉さまの話も。
静雄は、奥様もしっかりものであったよし、薪の明かりを読んでも、そういう女性に憧れていたのかな、なんてことも思いました(笑)

写真を少し。
菜の花忌 手前は田中俊廣先生
受賞者花潜幸さんの挨拶

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1533山本皓造:2019/04/20(土) 23:12:02
饗庭孝男「庄野潤三論」
 古い掲示板を読んでいて、Morgenさんの投稿から、饗庭孝男さんに「庄野潤三論」があることを教わりました。それの載った『批評と表現 近代日本文学の「私」』(文芸春秋)を探し、Amazonのマーケトプレイスにあるのをみつけて取り寄せ、先日それが届きました。Morgenさん、ありがとうございました。
 単行本での標題は「経験と自然――庄野潤三論――」、初出誌は「文学界」昭和53.11。

 昭和53ー54年というと、講談社の10冊本庄野全集はすでに出ていますが、『貝がらと海の音』にはじまる晩年の「山の上」の「老夫婦」の日常を綴ったシリーズが書かれるのはまだだいぶん先のことになりますし、それ以前の豊穣なエッセイや紀行群もまだ出ていません。したがって饗庭「庄野潤三論」が見ているのは、庄野さんの制作歴のおよそ前半期ということになります。それゆえ、饗庭さんの「庄野潤三論」は、その対象である「庄野潤三」がまだ完結していない、その時期に書かれたものであることを、留意しておく必要があるでしょう。

 論は次の言葉から始まります。

「文学における影響とは、資質上の類似を内発させることではなかろうか」

 これをやや性急に敷衍すれば、次のようになるでしょうか。

「もし庄野潤三に伊東静雄からの文学上の影響があったとすれば、それは、伊東の持つ詩法や思想や生き方を、外から注入された、というようなものではない。そうではなくて、それは庄野が本来有していた、伊東との資質上の類似を、自ら開拓し発展せしめたのである」

 それでは伊東と庄野の資質上の類似とはどういうものか。

 こんなふうに問い詰めるのは、悪い癖かもしれません。
 庄野は、はじめて堺に伊東の家を訪ねて以来、まったく変わることなくひたすら伊東を師として仰ぎつづけた。創作上の具体的な指導を受けるとか、悩みを打ち明けるとか、そういうことは少しもなかったが、詩人として歩むその時々の伊東の姿は常に庄野の目の前に見えていた。
 伊東は庄野の小さな作品を読んで以来、この少年に好もしい美質を発見し、以後小説家として成長してゆく姿を見つめ、見届けていた。
 それだけで、その事実だけで、十分なのではないか。

 しかし、ここで止まっては、ものを考えることにはなりません。
 饗庭さんは考えたのです。その末に、――あらかじめ結論を先に言ってしまうことになりますが――庄野潤三が「内発」させたものの内実を「経験と自然」という語で表わしました。その裏側で饗庭さんは、伊東の詩歴を検討して、そこにもまた、伊東には伊東の「経験と自然」に到達する歩みのあることを読み取っていました。
 ここには「対応」があり、それを「類似」というなら、それよりもいっそ庄野びいきの立場に立って、むしろ「共鳴」と呼んでみたい気もします。
 ただ、「経験と自然」というだけでは、いかにも言葉が足りません。饗庭さんもほぼ40ページにわたって、言葉を尽くして説いておられます。私は、以下ではもう少しゆっくりと、饗庭さんの「論」を読み解いてみたい。時間は、――それほど多くはないかもしれないが――、まだ、ある。

    ----------------------------------------

 青木さんの投稿で、「菜の花忌」の写真を拝見しました。ありがとうございました。
 田中先生もお元気そうだし、伊東掲示板の皆様もお元気そうで、なによりです。
 諫早は、もう一度行きたいが、無理でしょう。
 遠くから便りの届くのを待っています。
 またぼちぼち書いて行きます。

1534Morgen:2019/04/22(月) 23:11:15
「父庄野潤三を語る」(今村夏子さん)
山本様 ご投稿を拝読させていただき、相変わらず壮んな研究心を持ち続けておられることに感銘しました。

 先日、帝塚山派文学学会から『紀要第三号』が送られてきました。その中に、今村夏子「父庄野潤三を語る」という講演録が掲載されています。(帝塚山〜石神井〜生田の丘と三つの時代に分けて、家族の中で父がどういう人であったかを長女が語るという形のお話です。)もしお手元に届いていないようでしたらコピーしてお送りします。

 なお、同会の本年 7 月以降の行事予定を見ると次のように書かれています。(参考まで)

??2019 年 9 月 29 日 第 10 回研究会
    発表?「長沖一関連」(永岡正巳) (13:30 より)
    発表?「伊東静雄関連」(下定雅弘)

 2019 年 11 月 16 日 文学講座第 7 クール
    第 1 回「阪田寛夫の宝塚-1」(河崎良二)

 2019 年 12 月 15 日 第 11 回運営委員会(11 時より)第 11 回研究会
    発表?「庄野潤三関連」(西尾宣明) (13:30 より)
    発表?「庄野潤三関連」(村手元樹)

 間もなく待望の10連休がやってまいります。何処か高い所(御嶽山中腹?の予定)に登って、令和元年(5月1日)の黎明を見ようかと考えています。
先日(14日)は、奈良国立博物館で藤田美術館展を見た後、佐保川堤防に植えられた延々5キロ続く桜並木の開花を見て歩きました。(添付写真)
 今は、どこを見ても新緑一色、爽やかな「4月の風」が吹いており、我が家でも、筑紫シャクナゲの盆栽が満開を迎えています。

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1535Morgen:2019/05/02(木) 23:34:07
「令和の初旅」の夢想
上村様
 「伊東静雄研究会会報」「多良海道を往く」をお送り頂き、ありがたく拝読させていただきました。(いつものことながら感謝!)

 私は、「令和」の幕開けを木曽御嶽山で迎えようとバス旅行(妻同伴)に参加しましたが、生憎の悪天候のため「令和の初日の出」を拝む(撮影する)ことはできませんでした。

 木曽山脈や八ヶ岳・南アルプス連峰の頭部はまだ冠雪しており、その中腹では山桜が満開。渓谷は雪解け水が滔々と漲る早瀬になっています。眼の前に拡がる雄大なスペクタクルを「令和の幕開けを飾るに相応しい記念映像」として脳裏に収めました。

 今回のバスツアーは<木曽御嶽山〜八ヶ岳北方>の渓谷・滝数か所を巡り、まだ固く凍結している標高2100米の白駒池などへも行くというクラブツーリズムの少し欲張った企画です(時間不足で一部中止あり)。「雪道を歩く」というのは想定外で(アイゼンは持参してはいませんでした)、同行者40人がおずおずと半ば凍結した細い雪道(約1km)を往復する場面もありました。私よりも高齢者と思しき方も数名おられましたが、山道を歩き馴れた健脚ぶりで、同行の皆様方の背中からは「令和の時代を闊歩するぞ!」という精気がエーテルの様に発散しているようにも感じました。

 添付写真(上)は、一面の苔に覆われた原生林の中にある「蓼科大滝」の一部分です。
 御嶽山麓(油木美林遊歩道)の「こもれびの滝」(写真下 WEB)「不易の滝」は修験者たちの行場の一つで、御嶽登山道周辺には「○○霊神」と刻まれた約2万基余の黒い衝立型の「木曽御嶽山霊神碑群」が広範囲に拡がっています。(異様な光景です。)

 御嶽山は702年(大宝2年)6月 に 役小角が開山したという伝説があり、それ以来あちこちに修験者の行場が開かれ、「願わくは我が命を過酷な環境や自然と同化させ賜え」と念じつつ100日の滝行を経て、御嶽連峰を駆け抜ける「精進登山」の日本有数の行場となりました。(三大行場の一つに挙げる説もある。) 滝の前に佇んで目を瞑ると、古来の大勢の修験者達の「苛烈な夢」を籠めた呪文が一帯に籠って、一瞬「ウォーン」という音になって聞こえるような錯覚に捉われます。
 室町時代以降には御嶽信仰の大衆化により全国規模でその人気が高まり、「御嶽教」を信奉する信者数が増え、「講社」の数も増加したことによって、この膨大な霊神碑群(墓石群ではない)を信仰遺跡として残したのだそうです。

 登山路が整備されていなかった頃の、厳しい100日精進修行を前提とした古来のの御嶽山登頂は、標高(剣ケ峰3067米)や自然環境の厳しさもあって、さぞ過酷だったのではないでしょうか。(大峰山奥駆けよりも厳しかったに違いありません。)
 江戸時代以降は,軽精進登山も許され、昔の富士登山の様に御師(行者)が信者を案内したそうで、行者と信者からなる各講社ごとに用地を確保して霊神碑を建立したそうです。しかし誰もが「霊神」になれたのではなく各講社で一定の崇拝を集めた行者しか霊神碑に名を刻まれなかったようです。(高野山の広大な墓石群との違い。)
 (今回は、山頂に登る予定はありませんでしたが、登山道規制解除後に別の登山口から登ってみたいと思います。)

“DUM SPIRO,SPERO!”「昭和〜平成を生きてきた余勢を駆って令和の時代にも息の続く限り夢を見たい!」そんな「あまい夢想」を抱きながら「令和の初旅」に参加したメモの一端を披歴させていただきました。




 

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1536山本皓造:2019/05/16(木) 10:19:52
「淀の河辺」
 近況、と言っても何もないのですが、あんまり掲示板にごぶさたしていると、わたし自身が寂しくなりますので、なんか書いてみます。
 Morgen さん、ご投稿ありがとうございました。

「庄野」の作業を続けています。が、遅々として進まず。
『研究』で庄野さんの「淀の河辺」を読む(何回目だろう)。

庄野潤三は書店でふと手にとった詩集がきっかけで、堺三国ヶ丘の伊東静雄の家を頻繁に訪れるようになった。この初訪問が昭和16年の春で、翌昭和17年春、庄野は九州大学に入学、9月の試験休みに帰省したとき、伊東と、どこかへ小旅行をしようという相談がまとまり、「淀川べりの谷崎の「蘆刈」に出てくるあたり」がいい、ということで、「水無瀬」を行先と決めた。行ったのは9月24日、「秋季皇霊祭の日」であった。
 帰ってから、伊東は、詩「淀の河邊」を書き、これは『文藝文化』昭和18年1月号に掲載されたが、伊東は詩ができるとすぐに庄野にも書き送ったらしい。

“先日、一緒に淀川に行った時、あの風景を詩に作り、近来、戦場にゆく友人、戦場から帰って来る友人の多い、騒然とした中にしづかに疾く流れゆく世相のおもひを歌つてみようと思ひ、とりかかつたが中々うまくゆかず、結局、へんな恋愛詩にばけてしまひました。”

 この伊東の手紙は、庄野が引用しているだけで、『全集』には収録されていません。「十一月になって、先生が下さった」と庄野は記しています。
 “へんてこな恋愛詩”というのは、たとえば
    その日しも 水を掬びてゑむひとに
    言はでやみける わが思
などというところは、そうかもしれません。
 しかし、水無瀬というのは、たんなる行楽地ではなく、きわめて重い意味をもった、特別の土地であって、水無瀬といえば後鳥羽上皇と、そのベクトルは直ちに日本浪曼派的思想気圏に向かっています。伊東も当然その話題に触れたのだが、庄野は

“先生は水無瀬の歴史――後鳥羽院がこの水無瀬の離宮で御心のゆく限り世をひびかしてあそびたまふたことに就いて話して下さってゐるうちに、渡し舟が戻ってきた。”

というふうに、ごく短く記すにとどめています。そしてそれ以上に、何の感慨も記していません。

 水無瀬へはわたしはまだ行ったことがなく、一度は行ってみたいとかねがね思っていました。水無瀬には、旧勤務校の年下の同僚が住んでいて、行けば積もる話を交わす楽しみもあるのですが、とうとう水無瀬には行けませんでした。(Morgen さんは、淀川沿いのサイクリングでちょっと足をのばせば、行けるのですね。うらやましい。)

 水無瀬にかかわって、これもかねがね思っていた、保田與重郎『後鳥羽院』を読んでみようかと、書架から取り出しました。が、どういうわけか、ひとつひとつのセンテンスが大きな抵抗値を持っており、それを掻き分けて進もうとするのですが、なかなか先へ進みません。ようやく最初の一篇を読んだままで、放置しています。

 わたしが子供のころは。絵本や児童書などで、楠正成は「忠臣大楠公」であり足利尊氏は「逆賊」であるような、そういうフンイキの中には居たのですが、それが自分の歴史観?を形づくるというふうにはなりませんでした。要は水無瀬とか後鳥羽院とか聞いて興奮するような情緒とは無縁のまま成人したので、今、保田を読んでも身震いしないのです。(わたしが保田を読むのに難渋するのは、わたしに国文学の素養がまったくないことが最大の原因だろうとは、わかっているのですが、それを言うても詮無し。)

 伊東→庄野、と書いて、考えます。
 饗庭孝男「庄野潤三論」を読んで、これを解きほぐすことから始めようとして、書き始めて、すぐに横道にそれて関連文献を読んだり調べ事をしたりして、なかなか進みません。
 その饗庭さんの論は、次のように始まります。

 “文学における影響とは、資質上の類似を内発させることではなかろうか。”

 「内発」を図示するのは難しく、伊東→庄野と書けばおそらく饗庭さんの意にはそぐわないだろうけれども、いま仮に伊東→庄野と書いて、この矢印を常識的に「影響」をあらわすものとすれば、わたしの直感では、この中には、日本浪曼派的思想気圏は含まれていないのです。
 そこには2つの要因が考えられます。
 ひとつは、伊東の側に、強く、噛みつくように、押し付けるようにして、相手にこの思想的気圏を伝え、植え付けようとする気持ちがなかった、ということ(一般的に伊東はそういう気質の人ではなかった)。
 もうひとつは、庄野の側に、この思想的気圏をわがものとし、それに同化し賛同し、感動するような身構えがなかった、ということ。
 おそらくその両方であろう、というのが、わたしの予想です。ただしこの部分は、ほとんど思いつきに過ぎないので、もっと資料を読み込んだ上で、改めて熟考したいと思います。

 余談。
 保田によると、
  昭和十四年 水無瀬において後鳥羽上皇七百年祭催行
 また
  昭和十四年九月 保田・後鳥羽院「序」を誌す
  昭和十七年春  「増補新版の初めに」を誌す
 これらの事績や刊行の事実を当然、伊東は知っていたと思われます。それで、以下は妄想に飛ぶのですが、伊東は庄野に、「保田さんの後鳥羽院を読みなさい」などとは言わなかったか?

 つけたし。
 今のところ「淀の河辺」をそのまま収録しているのは『伊東静雄研究』だけです。
 ただ、後年の『文学交遊録』の「三 伊東静雄」の中に、原「淀の河辺」に相当する記述が、ほとんどそのまま取り込まれています。ほとんどそのまま、と書きましたが、しかし子細に対照点検すると、小は三、四文字から大は一パラグラフまで、加除修正が施されていて、多数個所にわたって、きわめて丹念な彫琢が加えられているのを読み取ることができます。
 『研究』版「淀の河辺」で、ガスビルでの食事の記事が終ったあと、庄野の入隊、出発を祝う宴のことが記されますが、その部分以後は『文学交遊録』では省かれて、かわりに「淀の河辺」の執筆と雑誌『午前』への寄稿の経緯が、次のように述べられています。

“なお、淀川の一日のことは、戦争が終った次の年に私は「淀の河辺」という文章にして、福岡から出ていた真鍋呉夫君たちの同人雑誌「午前」の二十一年十一月号に載せてもらった。”

 これより前、庄野が自ら、やはり「淀の河辺」の執筆、寄稿の経緯を述べた文章が他にもみつかりましたので、それをご紹介しておきましょう。

“はじめて檀さんが私の書いたものに目をとめてくれたのは、戦後間もなく、福岡から出た「午前」という雑誌の何号目かで伊東静雄の特集を試みた時であった。/真鍋呉夫から注文が来て、「淀の河辺」を送った。昭和十八年[註:庄野の記憶違いか]の九月、休暇で家へ帰っていた文科の学生の私が、伊東静雄と二人、弁当持ちで水無瀬宮へ行った一日のことを、戦争が終ったいま、振り返るという内容のものだが、雑誌が出てから、檀さんが賞めていると真鍋が知らせてくれた。”(「磯の小貝」、『イソップとひよどり』に収録)

 ところで『研究』所収の「淀の河辺」の文末に、
  (二十一年十月)/(昭和二十二年二月『午前』七号)
と記されています。しかるに『庄野潤三全集第十巻』年譜には、
  昭和二十一年十一月「淀の河辺」を『午前』に発表
とあり、阪田寛夫『庄野潤三ノート』も同様です。
 つまり(昭和二十二年二月『午前』七号)に疑義があるのですが、発表誌『午前』の現物を閲覧する手立てがわたしにはありません。
 ウエブで調べると『午前』は復刻版が東京の不二出版というところから出ているようです。ただし、すごく高価です。
 『午前』は昭和21年に真鍋呉夫と北川晃二らが檀一雄らの後援を受けて福岡で創めた雑誌で、真鍋は福岡で同人誌「こをろ」の同人として島尾敏雄らと親しく、また日本浪曼派にもかかわっていました。『午前』の執筆者も、「こをろ」系と「日本浪曼派」系で大半を占めているとのこと。伊東は昭和22年2月に詩「雲雀」を出し、庄野は「淀の河辺」の前に第2号(昭和21.7)に「罪」を出しています。真鍋・島尾・伊東・庄野といった人脈が考えられるのですが、このあたりの事情について書かれたものを知りません。小高根さんも小川先生も、このへんのことはほとんど触れていません。

1537Morgen:2019/05/17(金) 00:12:51
「淀の河辺」に生きてきて
山本様
お元気そうで何よりです。

 先日(5月11日)、JR奈良線で宇治へ行きました。宇治の街は、この時期お茶の香りが漂って、周辺の山も独特の緑色を呈しています。中村藤吉本店(JR宇治駅前の本店)で美味しい新茶を飲ませていただきました。同店の喫茶店は、宇治本店も平等院店も30分〜40分待ちの盛況で、しかも客のほとんどが若いカップルでした。
(戦前、新宿に料亭を出店していた記録がないか?―今回は何も見つかりませんでしたが継続します。新宿区役所に戦前の市街地図がないかも宿題です。)

 古本屋で『漫才作者 秋田實』(富岡多恵子著)と『竹林の隠者 富士正晴の生涯』(大川公一著)を買って一気に読みました。

 『漫才作者 秋田實』の中に次のような文章があります。(p59)

 「プロレタリア文学者の中には、昭和10年ごろから、日本浪漫派に属した人が多い。こういう人たちは、日本的浪漫主義という幻影を追って生きようとした。それにたいして、秋田さんは、イデオロギーという名の幻影を捨てて、市民の実生活に立脚して生きようとした。」(この点「帝塚山派文学者達」に共通するところがあるような気もしますが?)

 富士正晴さんは、昭和10年6月に竹内勝太郎氏が黒部峡谷で転落死して以来、その著作集出版に傾注し、<日本的浪漫主義という幻影>には興味を示しませんでした。戦争に行っても「やっぱり人を殺さんと、人をいじめんと、意地悪をしない、そんなのがもとやろな。」(「人に意地悪をしない話」)という心構えで、「意地でも死ぬまい」と生きぬいてきたということです。

 私も、昭和35年(18歳)に、諫早から(取り敢えずという気持ちで)大阪に出てきましたが、当時の私にとっての大阪とは、有線放送で流されていたラジオドラマ「お父さんはお人好し」や、漫才で伝えられる「品はないが頑張れば生きてはいけそうな都会」というイメージでした。(「帝塚山派文学者達」の作った文化圏であったともいえる。)

 そのまま、今日まで大阪の阪急沿線に居着いてみて、大阪の住民の7〜8割が地方からの移入者であることに気づきました。阪急グループの創始者小林一三さんですら本来は全くのよそ者であり、文学青年(新聞記者?)、三井銀行々員、「箕面有馬電気軌道」開業を経て実業界に入り、結果的に「大阪人」になったにすぎません。
 その小林一三さんが「日華事変から、敗戦へかけての十五六年間の、目まぐるしい世相の変遷に対して、私は、私の思想も、考え方も、言うことも、行うことも、その時々の、ある姿に当面して、勢い局所療養的な投薬めいたものであった。」と書いておられます。
(『私の人生観』序 昭和27年刊 要書房)
 人生とは、案外そんなものかなあとも思います。

・・・というわけで、私も約60年間「淀の河辺」(淀川水系流域周辺)に生きてきて、東京の人達から「大阪人」と観られることに、最近では違和感を感じなくなりました。
(添付写真上)三室戸寺
( 〃  中)宇治川
( 〃  下)中村藤吉本店

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1538山本皓造:2019/05/18(土) 15:32:54
雑誌『午前』
 前回投稿「淀の河辺」の掲載誌についての疑義、今日、『『午前』解説・回想・総目次・索引』というものを、不二出版から入手して、詳細が判明しました。
 図版にあるように、「淀の河辺」は『午前』昭和22年2月号であって、『研究』末尾の記載が正しく、また「第2巻2号」は創刊の21年6月から数えて、通巻「第7号」であり、これも間違いありません。
 上掲の書物は雑誌『午前』の復刻版の別巻であり、内容はとても充実していて、このことに感心し、また戦後のこのような時期に、これだけ充実した雑誌が九州で発行されたことにも感嘆します。(『光耀』で四苦八苦していた若者たちが可哀そうになります。)
 前回書いたように、この号には伊東の「雲雀」が掲載され、また富士正晴の評論「伊東静雄」も掲載されています。この富士の「伊東静雄」は、『研究』p.72〜94に収録されたのと同じものです。庄野はさらに22年5・6月合併号に「青葉の笛」を出し、これは昨年『庄野潤三の本 山の上の家』にようやく復刻されました。
 いろいろ書きたいことが思い浮かびますが、今日はこれだけにします。

 Morgen さん。
 宇治へはわたしも何度か行きました。あるとき、家族連れで行って、宇治橋の畔の店の二階で食事をしたことがありますが、それが中村藤吉平等院店であったかどうか、もうわかりません。川を見下ろす、広々とした、気持ちの良い部屋でした。
 今頃になって申し訳ないのですが、前に言ってくださった、今村夏子さんの講演録のコピー、お手数ですがお送りいただけないでしょうか。12月の研究会なんかも、行きたいなあと思って、じりじりします。

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1539Morgen:2019/05/18(土) 23:04:38
今晩は
山本様

今村夏子さんの講演録のコピーは、明後日(月曜日)お送りします。
中村藤吉平等院店の写真を添付します。

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1540Morgen:2019/05/31(金) 00:01:23
感謝!
「伊東静雄研究会会報」127号をお送りいただいてありがとうございました。
 青木由弥子様の「凝視と陶酔」は力の入った本格派の論考であり、とても読み応えがあります。
 井口時男著『蓮田善明 戦争と文学』は、すぐにアマゾンに注文を入れました。

 井口時男氏のことはよく知らなかったのですが、新学社版<保田與重郎文庫7>『文学の立場』の解説者が井口氏であったことを思い出して、読み返してみました。

 巻末の井口氏の解説「空虚なるものの誘惑」から一部分を抜粋してみます。

 保田與重郎は若かった。実に若かった。(「コギト」創刊 22歳)・・・この異例の若さを勘定に入れて(保田の戦前の文章を)読むべきだ。保田は、時代精神である「空虚」と「無」をためらうことなく引き受ける、それを「没落への情熱」という。「日本浪曼派」はこの没落への情熱を生きた。その「時代の青春歌」であった。

 伊東静雄が「浪曼派の詩人」であったことと、戦前の一時期、「”時代の青春歌”をうたった日本浪曼派」の仲間であったこととは、(用語的にも)厳しく区別して使用する必要がありそうです。

 写真は、今年の春我が家の盆栽の仲間入りした「雲仙つつじ」(長崎県花)です。50年以上は経っている老樹ですが、枯らさないように大事にしたいと思います。

 

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1541青木由弥子:2019/05/31(金) 10:40:19
ありがとうございます
いつもありがとうございます。
山本様のご投稿、「淀の川辺」を読む際に導きとさせていただきます。
Morgenさん、わかりにくい点など、ぜひお知らせください。

少し余談になりますが・・・2012年から刊行が始まった『午前』(布川鴇さん発行)のことを思い合わせながらご投稿を拝読しました。立原道造の遺志を継ぐ、ということで、布川さんの『午前』には杉山平一さんなどもお迎えするご予定だったそうですが、惜しくも(創刊へ寄せる言葉はいただくことが出来たものの)刊行を待たずに亡くなられたよし。立原の終焉にタッチの差で間に合わなかった山崎剛太郎さん(立原が亡くなった翌日に、病院を訪れたとのことでした!)は、100歳を超えてご健筆を揮っておられます。

想いは、続いていく、のでしょう。その都度、新たな読み方や視点を加味されながら。

井口さんの蓮田善明論、今、読んでいるところです。(井口さんといえば、布川版『午前』の刊行当初からの寄稿者である吉田文憲さんの「現代詩文庫」の解説を、井口時男さんが書いておられました。『てんでんこ』にも、井口さん、吉田さん、室井光弘さんなどが寄稿されていますね・・・。)

『表現者』が、いささか〈鷹派〉の詩誌である、というような思い込みがあって・・・蓮田善明論が連載されていることを知りながら敬遠していたのですが・・・瀬尾育生さんにお目にかかった折に、井口さんの蓮田善明論は素晴らしい、とお勧めいただいて、早速、購入しました。批判すべき点を批判しつつ、広範なまなざしで同時代の作家などとも比較検討しつつ、子細に分け入り、大胆に分析していく素晴らしいものでした。謎を解き明かしていく文章の豊かな魅力もあります。

蓮田善明が、(保田与重郎とは違って)言行一致の?ますらをぶり?の文人であったこともあり、文学の世界から?無視され、忘却?されている、いや、触穢のように忌避されている、という現状に触れながら〈もとより私は蓮田善明とは思想も文学観も異にする者だが、同じ日本語による文学に携わる一人として、この現状には義憤めいた思いすら覚えるのである〉というまっすぐな姿勢に、強く共感しています。

話はまた変わりますが・・・江藤淳でしたか、静雄の温和な面を庄野が、激烈な面を島尾が引き継いだのだ、というような評があったように記憶しています。批判的継承ということもあるでしょう、発展的継承、部分的継承、ということもあるでしょう。そもそも、言葉(文学)という千年、二千年の命を持つ「なにか」、に、一時的に触れる(恩寵のように何かを得る)営みの中で、尊敬する人(資質や傾向の似た人)が受け取ったものに自分もまた、故知らず反応してしまう。その、理由のわからなさ、を知りたくて、また、近づこうとする、触れえないものに、触れようとする・・・そんなアプローチの繰り返しであるようにも思います。

詩や文学に足を踏み入れる以前、大学で美術史を学んでいたころにも、饗庭孝男さんの文章に惹かれて、断片的に読んでいたように思います。時間が出来たら、端から饗庭さんの著書をすべて読み込もうと思いつつ・・・そんな悠長なことを言っていたら、いつまでたっても読めないなあ、と思ったりもしつつ。結局、つまみ食いになってしまうわけですが。

自分で作品に触れること、だけでは見えてこなかったもの(疑問や違和感としてのみ、わだかまっていたもの)が、他者の眼を通して、別のものや別の領域を読んでいくうちに、こんな読み方もできるのではないか、と光が差してくるように感じることもあります。

時系列に沿った評伝的な読み方では漏れ落ちてしまうものを、キーワードを辿っていくような形で、なんとか拾い上げていけたら・・・などと思っています。

思いつくまま、一貫性のない文章ですが、とりいそぎ、御礼まで。

1542山本皓造:2019/06/03(月) 12:35:43
水無月と水無瀬についての閑話
 本論がなかなか進まないので、最近見たり読んだりしたことをネタにして、閑談を挟みます。

 6月1日の朝日新聞に「水無月 無は「無い」ではない」という、おもしろい記事が載っていました。その要旨は、
 6月は梅雨時で水が多いのに、水が無い月というのはおかしい、と思っていたが、水が無いのではなくて、大阪大学の蜂矢助教(国語学)はこの語の成り立ちを「ミ[水]+連体詞ナ+ツキ[月]」という語構成で、水底[ミナソコ]、港[ミナト、水の門]などと同様に「水の月」とする」のが主流である、したがって「みなづき」の「無」の字は「無い」という意味ではなく、別の成り立ちの「水無瀬川」(表面に水が無い川)などの表記に影響された一種の当て字と考えてよいと、蜂矢さんは分析しておられる、と。
 それはそうならそれでよいのですが、そうするとこんどは「水無瀬川」が別の成り立ちという、それはどういう成り立ちなのか、ほんものの水無瀬川はほんとうに「表面に水が無い」のか。見たことがないのでわからないのですが、どなたかご存じありませんか。
 伊東静雄は「水中花」を書くときに「水無月」はほんとうは「水有り月」だ、と考えながら書いたのだろうか。庄野潤三に水無瀬宮の話をした際に、「水無瀬はなぜ水無瀬なのか」ということまで説き及んだのでしょうか。

 庄野はまたこんなことも書いています。「先生は水無瀬の歴史――後鳥羽上皇がこの水無瀬の離宮で御心のゆくかぎり世をひびかしてあそびたまふたことに就いて話して下さっているうちに、渡し舟が戻って来た」
 この「世をひびかして」という語が、わたしにはわかりませんでした。日常会話で用いる語ではないので、何か拠る所があるのかと思っていたのですが、その出典が『増鏡』であることを、保田與重郎『後鳥羽院』で知りました。引用がありました。『増鏡』の原文はWEBで見られますので、そこから引いてみます。

猶又水無瀬といふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しばしば通ひおほしましつつ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎり世をひびかして、遊びをのみぞし給ふ。所がらも、はるばると川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。元久の比、詩に歌を合はせられしにも、とりわきてこそは
  見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ
かやぶきの廊、渡殿など、はるばると艶にをかしうせさせ給へり。

 WEBにはこの現代語訳もついていて、「世をひびかして」は「世の評判になる程」の意、とあります。
 そうして、この現代語訳から私は、もうひとつ、とんでもないことを教わりました。

 庄野「淀の河辺」は、冒頭に「見渡せば」の歌を引いて、行く先を決める話し合いの中で、
「結局、水無瀬へ行くことに決めてから、後鳥羽院のあの歌は春がいいのだったかしら、秋だったかしら?と言い出して、……夕べは秋と、まで二人で口吟んで「なに思ひけむ」で思わず笑ってしまった」
という出来事を記しています。
 なぜ「思わず笑ってしまった」のか。
 私はすこしも疑問に感じずに読み流してしまっていました。せいぜい、二人ともよく歌をおぼえていたので、嬉しかった、程度の憶測しかなかったのです。
 現代語訳の解説によると、
 ・この歌の季節は「春」である←「かすむ」により。
 ・「夕べは秋となに思ひけむ」は、枕草子の「春はあけぼの/夏は夜/秋は夕暮れ/冬はつとめて」をふまえている。
 ・この「枕草子」の名句に引かれて「夕暮れといったら秋ダロ」という固定観念が成立した。上皇の歌は、「春の夕暮れも素敵だ」と感動し、「なぜ夕暮れといえば秋だと思い込んでいたのだろう」と、興がるのである。
 それにもかかわらず、二人はやっぱり秋の、秋季皇霊祭の日を選び、心はずませて、これから水無瀬に赴こうとしている。「なに思ひけむ」(笑)、という次第ではないでしょうか。

1543Morgen:2019/06/04(火) 00:07:17
「水無瀬川」雑感
「水無瀬」とは島本町広瀬の古称だそうですが、平安時代に水無瀬川が「歌枕」として使われるようになってから特別な意味を持ち、この川の名前にもなったようです。

<「水無瀬川」とは本来は“表面には流れは見えないが、地下に水が伏流している川”を意味する普通名詞であり、忍ぶ恋を象徴するものと考えられている。ところが、平安京に遷都されて山陽道がこの川の近くを通るようになると「水無瀬川」のイメージが変質し、特定の地名をさすようになった。>という解説もあります。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%84%A1%E7%80%AC%E5%B7%9D

 10数年前、長岡天神から柳谷道をたどって山奥の「柳谷観音」(楊谷寺)へ行き、くねくねと曲がる坂道を降りてくる途中で水無瀬川に出会い、川沿いの道を水無瀬神宮の方へ降りてきたことがあります。
 その辺りの水無瀬川は小渓谷になっており、本流から少し外れたところに滝もあったように記憶していますが、古代からそれほど大きな河川であったとは思われません。普段は水量豊富とは言えませんが、常時一定の水量はあります。昭和42年7月豪雨の時は北摂一帯の中小河川のほとんどが氾濫しましたので、水無瀬川も古来からの暴れ川(早瀬?)であったかもしれません。(「水無瀬離宮跡」の石碑は、水無瀬神宮よりも少し山手に寄った所にあります。)

 私は、水無瀬川が桂川に合流する河川敷の道をロードバイクで走りますが、細々ながらも水は流れています。(決して水無川ではありませんが、堤防が高い割に水量が少ないのは平常は伏流水になっているのかも知れません。)

 また現在の「水無瀬神宮」には大阪府唯一の「名水百選」に選ばれた「離宮の水」があります。この水源が大山崎のサントリーの取水口に繋がっているのか、それとも京都盆地の大地下湖に繋がっているるのか? 大きなミステリーですが、水無瀬地域の地下には豊富な伏流水が潤沢に蓄えられているていることが想像できます。

 古代には、桂川の(扇状地を含め)河川敷はもっと山側まで拡がっていたと思われます(広大な浅瀬)。橋本からの渡船の乗降場は、もとは「水無瀬ゴルフ場」(現在は廃止され公園と深い藪になっている。)の端あたりにあったと思われますが、少し下流の江川かもしれません。(渡船乗り場跡を探したが藪が深くて確認はできていません。添付写真をご参照ください。左側が水無瀬、前方が八幡方面です。)

 そこは宇治川,木津川の合流点にも近く、桂川がこれに合流することによって三川合流となり、通常はそれより下流を淀川(狭義の淀川)と呼んでいます。御幸橋上流の宇治川右岸に「淀川」の大きな表示板があり、法律上はもっと上流から(琵琶湖出口から)淀川なのです。
 ご承知の通り、昔はその東北側には広大な巨椋池(昭和8年から昭和16年の国営干拓事業により農地化された)が広がっていました。(度重なる付け替え工事により三つの河川の様相は時代とともに大変化しています。)

 後鳥羽上皇は、そのような地形を利用して「離宮」という社交場(あそび場)を作り、水量豊富なこの地域一帯の河川や巨椋池を軍事訓練基地化して兵を鍛え、表向きは「文人上皇」の御袍をまといながら、実は好戦的な「武人上皇」としての覇道を歩みました。そして、日本歴史転換期の一場面で「世をひびかして」パフォーマンスを演じたのだという、一種のドラマティックな幻影を脳裏に描くこともできます。
*(後鳥羽上皇にまつわる水無瀬の歴史を語ること―「たおやめぶり」と「ますらをぶり」の調和に憧れる昭和10年代の世相・・・)そんな推測もしてみました。

 石清水八幡宮の展望台から眺めると、この地域一帯の軍事的な重要性が理解できます。

*添付写真(上)はWEB上で見つけた水無瀬川上流の釣り場案内写真をお借りしました。
添付写真(下)は、数年前に渡船乗場跡を探しに行った桂川・淀川合流点付近です。下流から上流方向を写す。

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https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001692_2.jpg

http://

1544山本皓造:2019/06/18(火) 14:19:41
原民喜三冊
  水ヲ下サイ
  アア 水ヲ下サイ

 原民喜の詩をはじめて読んだのはたしか、高校の国語の教科書でだったと思う。『夏の花』という小説のあることを知ったのは、何によってだったか。「原爆詩人」としてその名はよく知られていた。今もって真実か幻像か、わからないのだが、私の書斎の片隅の壁際に『原民喜全集』三冊が、平積みにして置かれていたという記憶らしきものがあるのだが、それは私の思い違いかもしれない。
 いずれにせよ、私は原民喜の原爆詩やその他の詩、小説『夏の花』を、その存在を知っているだけで、手にとって読んだことがなかった(そんな本がなんと多いことだろう)。
 ある日、本屋の棚をのぞいていて、梯久美子さんの『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(岩波新書)が出ているのをみつけて買った。岩波文庫の『原民喜全詩集』と『小説集 夏の花』は書店になかったのですぐに取り寄せた。4月にこの3冊を読み了えた。

 ――こんなふうに書き出すと、なんだか大層な「原民喜論」始まるのかと思われそうなので、大急ぎで言い足しますが、そうではなく、ただ、読みながらふと思いついたり、ちらとかすめたりした、よしないことを書きつけるだけです。

 梯久美子さんは前に、島尾ミホさんの評伝『狂うひと』を書きました。島尾夫妻に関する事実よりむしろ、梯さんの仕事ぶりが衝撃的でした。すごいことをやったなぁと、思いました。
 こんどの『原民喜』評伝はそれほどの衝撃を受けませんでした。というより、よくわからなかったので、詩集と小説を読んだあともう一度読み直して、ようやく、原民喜という人が少し、わかった気がしました。
 今回取り上げる話題は、ひとつだけ。
 『原民喜全詩集』の巻末に、若松英輔さんが「悲しみの花――原民喜の詩学」という解説を書いていて、多くのことを教えられました。若松さんはこの解説の中で、
  「年譜」も批評の一形式である
と書いて、本書に付された竹原陽子氏作成の年譜を高く評価しています。
 たしかに竹原陽子編「原民喜年譜」はすばらしい仕事だと思いました。以下はこの年譜の中からの摘読です。

一九二九年(昭和四年)二十四歳
四月[慶應義塾大学]文学部英文科に進学、……この年から翌年にかけてR・S(Reading Society マルクス主義文献の読書会)に参加し、慶應義塾大学生の小原(氷室)武臣が山本健吉らに呼びかけて学内につくった日本赤色救援会(通称モップル)東京地方委員会城南地区委員会に所属。モップルの会合はほとんど民喜の下宿で開かれた。
一九三一年(昭和六年)二十六歳
四月……頃、東京で検束される。……その後組織の衰弱化、崩壊に伴い、自然に運動から離れた。
一九三三年(昭和八年)二十八歳
三月、永井貞恵と結婚。
一九三八年(昭和十三年)三十三歳
一月「不思議」を『日本浪曼派』に寄稿、……十月「魔女」を『文藝汎論』に寄稿[『文藝汎論』には翌年以降もしばしば寄稿]
一九四一年(昭和十六年)三十六歳
四月、リルケの『マルテの手記』を読む。
一九四四年(昭和十九年)三十九歳
九月、妻貞恵死去。享年三十三歳。
一九四五年(昭和二十年)四十歳
八月六日朝八時十五分、爆心地から一・二キロメートルの幟町の生家、兄信嗣宅にて原子爆弾被災。奇跡的にほとんど無傷で助かり……
一九四六年(昭和二十一年)四十一歳
年末から翌年始にかけて帰郷……大原美術館でセガンティーニの「アルプスの真昼」を見る。リルケを愛読。
一九五一年(昭和二十六年)四十六歳
三月十三日午後十一時三十一分国鉄中央線吉祥寺西荻窪間の鉄路に身を横たえ自死した。

 唐突ですが、原民喜の詩はどこか、立原道造のにおいがします。
 梯さんの評伝に、遠藤周作宛の遺書の写真版が載っていて、原自筆の「悲歌」という詩が読めます。その終りの二聯など、どことなく立原めいていないでしょうか。
 梯さんは次に石垣りんを書かれるそうです。これは楽しみです(『図書』2019.6)。

 些事ですが――。
  原 民喜 1905年生
  伊東静雄 1906年生
 ほとんど、同い年。

1545青木由弥子:2019/06/19(水) 22:59:47
ありがとうございました
『原民喜』全詩集を読んでいる最中でしたので、驚きつつ読ませていただきました。
伊藤整、加藤楸邨、石川達三、原民喜、神保光太郎が1905年生まれ、
火野葦平、高見順、葛原妙子、亀井勝一郎、石井桃子、山本健吉、中原中也が1907年生まれ。
片岡球子、前川國男(1905年)、杉村春子、吉行エイスケ、大野一雄(1906年)、このあたりも気になります。
同時代に青年期を過ごした人の感性を知りたい、のですね・・・。個性や固有性の、さらに向こうにあるもの、について。

1546Morgen:2019/06/23(日) 01:06:32
「国学研究者」―蓮田善明氏と三枝康高氏
大阪は、入梅宣言が出されないまま夏至が過ぎました。27日からのG20を控え、大阪駅周辺は、街中の方々で終日警察官が見張台から通行人を監視する風景が見られます。
グランフロント35階にあるわが職場でも、向こう一週間は株主総会集中日とG20が重なり、ホテルやビルへの出入口は厳重な厳戒態勢が予想されます。

 過日、「凝視と陶酔」にて青木様が紹介された井口時男著『蓮田善明 戦争と文学』、及び古本屋で見つけた三枝康高『作家との対話』を読みました。
 蓮田善明(1904〜1945)、三枝康高(1917〜1978)―両者には年代のズレはありますが、国学研究者、日本浪曼派へのシンパシーという類似点があります。

 『蓮田善明 戦争と文学』を論じられる井口時男氏の語り口は、非常に説得力があり、その論証にも妥当性を感じました。特に、火野葦平と蓮田善明の比較、小高根二郎『蓮田善明とその死』の叙法の危うさ、保田與重郎の“ノンシャランな踊るような足取り”の指摘等々、興味深く読みました。(我が高1時の担任教諭・詩人風木雲太郎は終戦後の火野葦平氏に心酔して弟子入りしたそうで、故市川森一も同クラスでした。昭和32〜3年)

 三枝康高『作家との対話』には、青木敬磨、亀井勝一郎、太宰治その他との日常交友から見た作家論などがエッセイ風に語られています。三枝康高氏の『太宰治とその生涯』 『日本浪曼派の運動』は、昔読んだことがありますが、『作家との対話』は肩の凝らない読物になっていて、“ナルホドナルホド”と得心しながら一気に読みました。

 これから梅雨入り〜猛暑と、私のような老人には過酷な時節がやってまいりますが、敢えて抗わず、環境に順応していきたいと思います。
 ―会議が白熱して、厳しい質問が浴びせられても、涼しく対応して、「愛語」を旨として応答できればいいなァと、夢見ています。

皆様、お身体に気を付けて、過酷な夏を健やかにお過ごしください。(山百合が開花しました。紅筋山百合。黄金百合その他)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001695_3.jpg

1547山本皓造:2019/06/29(土) 13:59:57
世代について
 Morgen様、青木様。
 ご投稿ありがとうございます。

 青木様には文人たちの生年/世代についての興味深いデータをご教示いただきました。1905年〜07年あたりには、すごいのがぞろぞろいますね。
 私は以前、自分の生年が昭和10年なので、その前後の同世代について調べてみたことがあります。そのメモが所在不明で詳細を記せませんが、「昭和5年〜9年頃が最も豊穣である」という結論を得た記憶があります。そして昭和10年生まれにはほとんど「大物」はいず、昭和11年以後も存在感が薄い。思うに、昭和10年生まれというのは戦争体験のちょうど切れ目に当たるので、私より年上は、学徒動員とか、幼年学校とか、防空壕掘りだとか、空襲だとか、ナマの戦争体験と記憶を持ち、皇国史観にもどっぷり晒された世代でしたが、私やそれより年少はまだ子供で、イデオロギーも何もなく、敗戦の日にしても、近所の大人たちが昨日までとは変わって夕方から家の前に床几を出して涼みながら、ボツボツと低い声で話を交わしていた、そんな中から「負けたのか」と知っただけで、「亡国」「茫然自失……しびれるやうな硬直」とか〈慟哭〉は、起こりようもなかったのでした。

 Morgen さん。私も青木さんに教わって井口時男『蓮田善明』を購入しました。はじめの10ページほどをすぐに読み流したのですが、「純粋戦中世代」という範疇が提示されています。それは「生きられたナショナリズム体験」「生きられた日本ロマン派体験」を持った世代であると。私のような昭和10年生まれはぎりぎりこの世代からはみ出し、それゆえに、保田與重郎は完全に《他者》であって、文学や思想の世界を「述志の丈夫ぶり」「述志の永遠な伝統」「述志の国風」「至尊調」「民族の誓ひと断念」等のことばによって分節することを知らぬまま、「戦後」に入って行ったのです。他方で、私たちより少し前の「体験を生きた」世代の人たち(江藤、桶谷)が「豊穣な」仕事をしたのでした。

 保田與重郎『後鳥羽院』をようやく、ほんとにようやく、読み終わりました。続いて、丸谷才一『後鳥羽院』にとりかかりました。なんと、読みやすいこと!
 『蓮田善明』はそのうち着手します。が、今、庄野を横目に睨んだまま、井筒俊彦の著作に取り組んでいます(岩波文庫が最近続けて出してくれている)ので、いつになるか。「生命が足らんなぁ」と思います。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001696.jpg

1548山本皓造:2019/07/18(木) 13:44:57
「年号毎日改ムト雖モ、乱政ヲ改メザレバ、何ノ益カアラン」
 前回投稿で、保田與重郎『後鳥羽院』を読み、次に丸谷才一『後鳥羽院』にとりかかるということを、お話しました。
 丸谷はすでに読み終わり、これはおもしろく、且つ、有益であった。歌人としての後鳥羽院というもの、そして和歌というもの、が少しは見えてきた気がしました。
 ここから横滑りして、堀田善衛『定家明月記私抄』、同『定家明月記私抄 続篇』へと進み、両書を昨日読了しました。この二書は単行本で出たときに買って読み、「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」に、妙に激しく同調した記憶があるのですが、その単行本が見当たらないので、仕方なくちくま学芸文庫版で読みました。
 さて、今回は論議はせず、感想も述べません。上記、堀田『定家明月記私抄 続篇』のただ一行だけを引用します。嘉禄元年四月、改元の知らせを聞いて、定家はこう記します。
  「年号毎日改ムト雖モ、乱政ヲ改メザレバ、何ノ益カアラン」
 誰もいない家の中で、ひとり、大笑いしてしまいました。続きがありますが、またの機会に。

1549Morgen:2019/07/20(土) 23:53:13
心からお悔やみ申し上げます
京阪六地蔵駅からほど近い「京アニ」第一スタジオ放火殺人事件というテロのような大惨事が起き、世界中を驚かせています。
お亡くなりになった方々には心からお悔やみ申し上げます。何事が起こったかもわからぬまま一酸化中毒により急死された方が多く、その無念さ・悔しさを思うと言葉がありません。

平和で、安全なはずの日本で、こんなに酷い、凶悪至極な事件が何故起こるのでしょうか?
この事件の犯人のような反社会性人格障害者、凶悪犯罪を平気で起こす攻撃的なパーソナリティーの持ち主が、日本には何%居住しているのか?―犯罪心理学者や犯罪社会学者には、その概数を明らかにする責務があるような気がします。

「京アニ」のように華々しいヒット作を世の中に発表し続け、作品を身近に感じるファンが増えると、作品の仮想現実とリアルな世界が脳裏で混沌化し、適応障害状態になる人が出てくるのかも知れません。また、アニメの世界が描く夢のような世界に疎外感や敵愾心を抱く人々が生まれるのも社会病理現象として避けがたいとも思われます。急速に進展する情報化社会の負の側面だとも言えます。しかし、世界的な情報産業メジャーが、このような研究に十分な資金を提供したという話は聞きません。

街宣車のスピーカーががなり立てる「熱い政治の季節」のダダ中で、外敵から国土・国民を守るという声は聞こえてきますが、このような凶悪犯罪者から国民の生命財産を守るために国家は何をするのか、この事件に関わる発言は今のところ聞こえてきません。

この事件の犯人のような反社会性人格障害者、凶悪犯罪を平気で起こす攻撃的な犯罪予備軍が日本にどの程度存在するかを掌握し、その存在をマークし、潜在的内敵から国民を防衛するのが国家の存在理由ですらあるようにも思われるのですが、当たり前すぎて選挙のキャッチフレーズにはならないのでしょうか。

1550Morgen:2019/08/04(日) 23:26:09
暑中お見舞い申し上げます
 今年の夏もほぼ猛暑の頂点近くに来たようですが皆様いかがお過ごしでしょうか?

 先日は伊東静雄研究会報129号をお送りいただきありがとうございました。
 掲載されている「放送劇 伊東静雄」(脚本・富士正晴)の放送日は昭和39年10月11日となっています。丁度東京オリンピック(同年10月10日〜24日)と同時期ですね。因みに、『日本浪曼派研究1』(審美社)に掲載されている【座談会】「伊東静雄 人と文学」(小野十三郎、斎田昭吉、富士正晴)が行われたのも昭和39年7月28日です。(94〜119ページ)
富士正晴さんは、大阪弁丸出しのこの座談会に触発されて「放送劇 伊東静雄」の脚本を書かれたのではないかという憶測をしたくなります。(118ページ参照。富士『小ヴィヨン』の伊東静雄を世に出さないかん。云々)

 伊東静雄の詩の中でどれが好きか? どんなところが良いのか? どういう癖があったのか? 等々 伊東静雄の身辺にいて、「生身の詩人」を周知しておられる方々3人の飾らないお話であるだけに、時々引っ張り出して読むととても面白いですね。

 今回は、その中で次のようなやり取りに目がとまりました。(110ページ)
―小野「伊東は年中詩を書いていたけどもやっぱりね。その人が本質的な詩人かどうかちゅうことは耳やな。耳の問題やな。伊東静雄もそうですよ。やっぱりね自分の書いた作品をさ、壁に張ってさ、何度も何度も読んだということは・・・・・。」
―富士「耳で、自分の耳でテストしていた。」
―小野「非常にね、そういう音楽的なもんと関係ない造形的な作品見てもね。結局ものいうのんは耳や。(聴覚やな)」

 英語やドイツ語の詩には、「韻をふむ」という伝統がありますが、日本語の詩にはもっと複雑な何かが隠されていて、それを表現できるのが本質的な詩人だということですね。
 因みに、小野さんは「夏の終」「庭の蝉」が一番お好きだそうです。

「そんことは皆どうでもよいのだ、ただある壮大ものがしずかにかたむいているのであった」「一種前世のおもひと、かすかな暈ひをともなふ吐き気とで、蝉をきいてゐた」
<何かわからん、正体を突きとめんといかんような何かがあるのが良い>と言っておられます。

 今年の夏は、長女の婿の実家(長崎)が初盆で精霊流しをやるそうです。次女一家もどこかへ旅行に行くそうです。私たち夫婦は某ツーリストの「ミステリーツアー」という2泊3日の行き先不明の旅行に参ります。

 どうか皆様、くれぐれもお体に気を付けて、残された夏をお過ごしください。

1551Morgen:2019/08/28(水) 10:18:31
夏の終り
 今年の夏もいよいよ終わりを迎えました。花火大会が終わるときと同じ余韻のようなものを感じます。

 伊東静雄研究会報130号を電送いただき、拝読させていただきました。(感謝!)

 夏をうたう静雄詩には、響きが良く、余韻の残る詩が多いですね。

 ・・・・・
 夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末(こぬれ)をえら
    ぶかの蜩の哀音を、
 いかなればかくもきみが歌はひびかする。

 伊東静雄は,自らの詩について「蜩の哀音をひびかする」と言っていますが、むしろその響きを確かめながら詩を創り、「こころ賑はしく」朗詠してその余韻を楽しんでいる詩人の姿が目に浮かびます。

 9月になると、再び社会全体が活発に動き出し、身辺も忙しくなります。台風もやってきます。(去年の台風21号のような被害が起こらないことを願うばかりです。) 「野分の夜半こそ愉しけれ。」などと言っている余裕はありません。

 先日は、諫高同窓会先輩のお孫さんが会社を訪ねてこられ、先端科学技術大学院大学で人工知能(AI)を研究しているそうで、ディープラーニングのデータが欲しいというご希望。どのような支援や協力ができるか担当者が検討しています。

 若い人達は、競争の激しい最先端分野のテーマに、真正面から挑戦しているのですね。「負けるな! がんばれ!」と応援をしたくなります。

 私も、「まだまだ!」と自分に気合をかけながら、後衛(しんがり)で頑張っていきたいと思います。

 添付の写真は、8月7〜9日四国をバス旅行した時のものです。

(上)香川県観音寺市「豊稔池堰堤」(重要文化財)
(下)高知県大豊町「日本一の大杉」(樹齢3000年 特別天然記念物)

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https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001700_2.jpg

1552中路正恒:2019/08/29(木) 01:50:25
伊東静雄と前川佐美雄
先日、といってもだいぶ前で、7月15日のことですが、葛城市の図書館主催の「風蘭忌」で主に前川佐美雄の「大和」について話してきました。おかげで、歌集『大和』に対する伊東静雄や『哀歌』のかかわりがだいぶはっきりと掴めるようになってきました。佐美雄の
> 山にのぼり切なく思へばはるかにぞ遍照の湖(うみ)青く死にて見ゆ
は昭和11年の作で、これは昭和10年10月発行の静雄の『哀歌』を踏まえ、それを本詩として歌っているものと理解すべきだと言うことがよく掴めるようになりました。伊東の「哀歌」の詩には、詩行の最後まで希望が表白されていますが、佐美雄の歌には希望はすっかり消えているのです。これが次の歌を代表歌とする佐美雄の『大和』の歌の境地なのです。
> 春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ (昭和14年作)

 他に歌集『大和』の中にはニーチェの『喜ばしい知識』125番の「おかしな男」の語りをそっくり取り入れた歌があり、伊東は優れたニーチェ理解者だと思いますが、佐美雄にもニーチェと交響するところがあり、もしかしたらその影響も伊東経由かもしれないと思ったのでした。

 ともあれ、「風蘭忌」での話はとてもよい印象で受け入れていただけたように感じました。

 夜が涼しくなって、やっと7月のことを話せるようになりました。
 みなさまのご健筆をお祈りいたします。

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

1553Morgen:2019/08/29(木) 23:29:15
日本浪曼派歌人
 中路正恒先生

 ご投稿ありがとうございます。
“伊東の「哀歌」の詩には、詩行の最後まで希望が表白されていますが、佐美雄の歌には希望はすっかり消えているのです。”という個所を特に興味深く読ませていただきました。
 並べて書いてみると次のようになります。
 (佐美雄)山にのぼり切なく思へばはるかにぞ遍照の湖(うみ)青く死にて見ゆ
 (静雄) ・・・・・
????????????如かない 人気ない山に上り
      切に希はれた太陽をして
      殆んど死した湖の一面に遍照さするのに

 実は、私の義父は、昭和15年1月に心斎橋筋で開かれた日本歌人の歌会に出席し、その後同会に入り「日本歌人同人」になりました。昭和18年には前川佐美雄氏の選歌により、序文や装幀までもお世話になって、歌集を出版(中身はすべて戦争歌)したのです。一時は、葛城山近辺で土地を購入し、住もうとまでしたそうです。
 戦後は、作歌にはあまり力が入らなかったようで、歌稿らしきメモだけが残されていたのですが、阪神淡路大震災で家屋が半壊した時に解体業者がすべて処分しました。

 人口3万7千人余に過ぎない葛城市役所が、毎年「風蘭忌」を催しておられるということを初めて知りましたが、偉いですね。
 来年の春は、久しぶりに葛城山のつつじを見に行き、「前川佐美雄記念館」を訪れてみたいと思っています。



 

1554中路正恒:2019/08/31(土) 12:37:19
morgen様
ちょっと気になって、『夏花』を読み返していました。
どの詩をみても「死にたい」という願いが通奏低音のように聞こえます。
『哀歌』から五年。その願いに堪え続けていたのだと思います。
詩を書くとはとても大変なこと。

拙い感想ですが。

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

1555青木由弥子:2019/08/31(土) 14:27:53
たとえ前途に絶望しかなかったとしても・・・
皆様のご投稿を興味深く拝読しております。

いま、石垣島です。海水浴をする人達を見ながら、昭和初期には、かなりモダンな、都市生活者の新風俗であったのだろうか・・・あるいは、富国強兵の国家的風潮のもと、心身を鍛えるための鍛練であって、楽しみや娯楽ではあり得なかったのだろうか・・・などなど、考えています。

あまねく照らす・・・漢語の語感も含めて、死語の世界のような不思議な印象へ、読者を一気に引き込む言葉。「水中花」の、死ねと迫ってくる圧力、その圧を突き抜けてしまおうとする反発力。戦争による死か、病による死が「運命付けられている」以外の思考を抱くことができなくなっていた時代に、当時の人が残した言葉を現在の状況下で読むということの難しさと大切さを、改めて感じています。

先日、北海道の小熊秀雄賞授賞式で講演された、田中綾さん(三浦綾子記念館館長)のお話の概要を知る機会がありました。
その中で、乙種合格者ですら「引け目」を感じる時代であったことが、今に残る短歌からも読み取れること(丙種は、さらに。)また、作家は(視力が弱い人も多かったので)丙種合格者が多かったことを知りました。
保田与重郎も、亀井勝一郎も、高見順も、伊東静雄も丙種。
何らかの形で、世の中に役立つこと、お国のためになることをしなくては・・・という思考へと駆り立てられていく、しかし、心は否、という。理性と感性に引き裂かれていく狭間から出てきた言葉について、考えます。

保田が、たとえ前途に絶望しかなかったとしても、前に進むしかないのだ、と、無謀な前進を鼓舞するような文言を記すに至った経緯も、その事によって後に「騙された」「裏切られた」という若者たちの憤りを受けることになった経緯も、今になってみると、どちらにも共感できてしまう。

日本浪漫派を「擁護」するわけではありませんが、世界大戦前の状況に愚かしくも戻りつつあるような、世界と日本の現状を考えていく上で、なぜ、そうなったのかと考えていく大切さを、改めて感じています。

1556Morgen:2019/09/10(火) 00:31:26
散華の詩想
 中路様、青木様。 コメントありがとうございます。

“「水中花」の最後の三行をどう理解するのか?”ということを考えてみました。

 すべてのものは吾にむかひて
 死ねといふ、
 わが水無月のなどかくはうつくしき。

―「すべてのものは吾にむかひて死ねといふ」という詩句は、「時代の青年の気持ち」とみるのか、「詩人の私的心情」とみるのか?

 因みに、義父の歌集後記に当時の雰囲気のようなことが書いてありますので、一部を引用してみます。

 「支那事変勃発後、間もなく晴れの応召を受けて、山岡兵団伊藤部隊に編入せられ、勇躍征途につき着き天津を進発後、・・・2年有余、晋東作戦に参加中でした。偶々余暇に作って投稿した歌が、川田順先生の選により大毎歌壇に載り、・・・」「せめて此の拙著により戦ふ兵馬の相貌の些少なりとも読者に窺知して頂き、また戦友等の追懐の糧ともなるようでしたら・・・」というような意図で歌集は自費出版され、遺された礼状からみると大半が戦友の留守家族宛に贈られたようです。

 義父は応召により一兵卒として北支各地で転戦していますが、自己の死や「散華」というような詞を歌ったものはひとつもありません。(言えない雰囲気だったのかもしれない。)

 蓮田善明氏は、「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。・・・然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知ってゐる。」「私が死に、永遠が、私に薄いかたびらを着せる。」等々、自己の死について幾度も書いておられます。
 死を言葉に出して言うか言わないかの違いはあっても、当時の青年は死ぬことを運命づけられてたことに相違はありません。

「すべてのものは吾にむかひて死ねといふ」という「水中花」の詩句は、そのような青年達の死を凝視せざるをえない心に深く沁みこみ、まさに静雄詩が「時代の詩」になったのだと思います。
 伊東静雄がときとして死の衝動におそわれたことがあった(田中俊廣『痛き夢の行方』参照)にしても、「或る時代の青年の心を襲った稲妻のような美しさ」(三島由紀夫)というような、死を美化した詩句(散華の詩想)を静雄詩の中に見つけることはできません。

 なお、中路先生の『モルゲン』解説については、以前にこの掲示板で紹介させていただきました。ありがとうございました。

1557中路正恒:2019/09/10(火) 01:31:20
「水中花」とわがひと
青木様、Morgen様、コメントありがとうございました。勉強になりました。

『夏花』についてはその前後のテキストを総合的に読んで解釈したことがなく、今日読み返した印象だけでもうしますが、「早春」と「疾駆」の二篇以外には「死にたい」という願望が基底に通奏低音のように響いているように感じます。
その願望がもっとも表面に近いところに出ているのが「水中花」だといえると思いますが、ここでも「遂ひ逢はざりし人の面影」は百合子の面影で、伊東が「死にたい」と思う理由もそのこと以外にはないと考えています。いずれもっとまとまって述べられればいいと思っていますが。

伊東静雄については拙著『ニーチェから宮沢賢治へ』1997年、創言社の中で「伊東静雄の〈わがひと〉」というタイトルで「冷たい場所で」と「哀歌」を論じたことがあります。それは『詩論』13号(1990年6月、詩論社)に「伊東静雄の『哀歌』における〈わがひと〉の問題」というタイトルで書いたものの再録ですが、これを私のHPにも掲載していて、webでも読めるようにしていることを失念していました。そのURLは:http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/nietzsche/wagahito.htm
です。なぜかページのデザインが狂ってしまっていますので、いずれ改修もしくば別のところに掲載したいと思っていますが、とりあえず今はそのことを紹介させてください。

いろいろお世話になりますが、よろしくお願い申し上げます。
皇紀2600年から国家総動員法への進行を繰り返さないように、油断のない構えをしていたいと思います。

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

1558青木由弥子:2019/09/10(火) 09:09:25
二重の虹
中路様Morgen様
早速にご返信ありがとうございます。中路先生のご論考など、国会図書館で 紀要など、拝読させていただいております。
高野喜久雄も、入沢康夫も、失恋のショックで自殺未遂、もしくはその直前まで、自らを追い込んでいったことを思い出しました。
静雄の場合、まだ封建的な気風が強く残る状況への苦渋の思いもあったでしょう。ヘルダーリンや若きウェルテルの悩みなどを通じて、恋愛そのものを精神の飛躍や高次の次元へと魂を導く契機とも考えていたでしょう。
若い頃の日記などを読むと、静雄は文学や芸術に対して共に語りあえるような女性との恋愛を求めていたようですね。百合子は理想の想い人だったことでしょう。
いつも思うのは、百合子の、静雄のことはちっとも好きではなかった、という、拒絶とも言える極端な反応の真意です。まったく意識していなかったとしたら。高名な詩人となった人が、たとえ一時的にせよ、自分の事を想っていてくれたというのは、むしろ喜ばしいことだと思うのです。
上村紀元さんが、百合子の姉に対する静雄の想いについても述べていらしたけれども・・・百合子の極端な反応は、自らの立場上のことだった&姉に遠慮もあった&百合子の秘めた思いは、大切に書簡を保管していたことに現れているのではないか・・・などと、勝手に妄想しています。これは、実証的には証明できないので、たとえば百合子を語り手とする小説のような形を取る他、なさそうです・・・

『夏花』は、冒頭のエピグラフからして、亡くなった人達への思いを歌う追悼詩集のような趣がありますね。何人もの病死した詩友への思い、教え子や詩友の出征や戦死、ヒトラーのポーランド侵攻という、いよいよ迫ってくる世界崩壊への予感、家庭内にも病人を抱えたりしたという日常の苦悩、そうしたストレスが生み出す不眠などの身体的苦悩。
いっそ死の世界に旅立ってしまいたい、という思いが濃厚に現れることでしょう。中路先生が心で感じ取られたように。
静雄が幸いだったのは、しっかりもので気丈で、美人でもあったらしい、そして、文学(短歌など)の才能にも恵まれ、映画や小説などについても共に語り合うことができた生涯の伴侶を得たことでしょう。

石垣島で、二重の虹をみました。
津田清子さんの短歌、神も恋愛したまへり、を思い出しつつ。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001707.jpg

1559Morgen:2019/09/04(水) 01:01:00
いのちなりけり
 吉野の歌人 前登志夫さんの散文集『いのちなりけり吉野晩禱』(2018年1月30日 河出書房新社)を、昨日書店で見つけてましたのでご紹介します。
 前登志夫さんは2008年4月5日に82歳で亡くなられましたが、没後10年を期して「山繭の会」のお力によって出版されたものです。

 その巻末近く232頁に次のような文章があります。

 ・・・・・人には予期せぬ出会いがあり運命があるものだ。昭和二十五,六年に、大和葛城は忍海出身の歌びと、前川佐美雄にふとしたきっかけでまみえている。うわ言めいた詩を書く二十五歳の洟垂れのわたしを、親戚の放蕩息子にたよられたように、迎えてくださった。佐美雄師を通じて、大和桜井からよく遊行してならへこられた、保田與重郎氏にもまみえることができた。・・・・・(2007年5月)

 「いのちなりけり」というのは、西行の歌によるもので、前さんの解説が付されています。

 「年たけてまた超ゆべしとおもいきやいのちなりけりさやの中山」

 ?下の句の「いのちなりけりさやの中山」は、一人の人間の時代を超えて反響してくるのではないか。かつて、どうなるともしれないおもいで踏みこえたさやの中山を、こんなに年老いてふたたび超えるとは ?という、青年のような感動である。(2006年9月「オニ売ります」) *「さやの中山」は静岡のけわしい山の道

 2008年2月2日の「たそがれて、花ぞ恋しき」というエッセーが最後のご文章になっていますが、12月に中之島カルチャースクールに出講しているとき、内臓動脈瘤が破れて済生会中津病院(私の現在の職場からすぐ近く)へ救急車で運ばれたそうです。

 遺歌集『野生の聲』から新年の即興歌三首が載せられています。山人みずからの鬼とつねに厳しく対峙している蔵王堂の節分の豆撒きは「福は内!鬼も内!」と叫ぶそうです。「“鬼も内!”とは山人の抜群のアイロニーではないか。」と仰っています。

  「蔵王堂に般若心経となふれば新春の雪虚空に舞へり」
  「うつしみは本来空とおもへども雪ふりしきるうつしみ歩む」
  「われの歌碑一基もなくて吉野山下らんとするいさぎよかりき」

1560中路正恒:2019/09/04(水) 11:02:10
歌碑をもたぬこと
 前登志夫さんは存じ上げておりますが、今一歩深い関わりはございませんでした。こうしてご紹介くださると、ご自分の歌碑が一基もないということが、とてもすがすがしいことに見えてきます。ご自分の志操を貫かれた方だったのでしょう。
 瞑目

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

1561Morgen:2019/09/10(火) 00:46:47
「乾坤の秋」
 台風15号が、狭い東京湾を通って千葉に上陸し、首都圏に大きな傷あとを残しました。
 去年9月4日、台風21号が大阪湾を抜けて直撃して来た時の恐怖を思いおこします。

 (台風21号のときは)自宅の南側にある公園の大きな欅が倒れ掛かり、我が家は屋根や壁に大きな損傷を受けました。すぐに区役所に連絡して「人の住む家屋に凭れ掛かる公園の倒木を速やかに撤去してくれ」と頼みましたが、一週間経っても工事車が来てくれませんでした。
 また「天災地変で不可抗力なので、修繕などの費用は一切出せない」と、こちらが請求もしないのに区役所の責任者は逃げ腰の構えです。(怒りを超えて滑稽だとすら感じました。根元の腐った大樹を切ってくれるように前々から陳情していたので、公園の施設管理者に過失が無いとは言わせませんが、屋根や壁は3か月後に自費で修繕しました。)
 現実には、区役所に言っても対応が遅く逃げ腰で、堪りかねてマスコミや市役所にメールで直訴した方が少し早く倒木を撤去してくれました。大阪維新が主張する「大阪都制(特別区制)」の実像に疑問を抱かせます。(住民に近いところの自治体である区役所の方が官僚的で、「予算がない。人がいない。」と言い訳ばかりでした。)

 千葉のゴルフ練習場のフェンスが倒れて、数軒の屋根が壊れている映像がTVで放映されています。ゴルフ練習場の経営者は、天災地変による不可抗力なので責任なしと、逃げるのでしょうか。工事業者も忙しくて来てくれないご様子を見ると、一年前の記憶がトラウマのように蘇ってきます。何よりもまず電力や水道が一日も早く回復することを願うばかりです。

 停電や断水の中で頑張っておられる皆様、気を落とさず頑張って復興してください!

 何故か、先に紹介した前さんの『いのちなりけり・・・』の中に「乾坤の秋」と題する一文があったのを思い出しました。辞典によると「乾坤」とは乾と坤、すなわち天地のことであるそうです。「こんなに前例のない激しい台風が来るのも天と地の怒り(乾坤の変)だ!」と言いたくなります。

 前さんの「乾坤の秋」には次のような文章があります。

「うろこ雲たかく炎ゆるぞ果たさざる饗宴ありて一生過ぎなむ
・・・・・秋の夕べの天と地の炎えるひととき。異界からの光芒によって、この世のなべてはひたすら華麗に燃え上がり、燃えつきるのである。人間が思わず神語りするのも、そうした聖なる乾坤のエロスの瞬間であろう。」(同書31頁 2006.10.7)

 前さんらしい、まさに天地に反響する言葉の豊饒さと評することができそうで、こんな「乾坤の秋」なら大歓迎ですね。「乾坤の秋」を見たくて、私は、9月下旬の連休に北海道の大雪山(旭岳)ハイキング(旅行会社のツアー参加)を予定しています。紅葉の上に初雪が降るかもしれないそうですので、晩秋の構えをして行きます。
 

1562Morgen:2019/09/16(月) 22:58:03
「伊東静雄の詩―『わがひとに与ふる哀歌』から『夏花』以後への「変化」についてー」
帝塚山派文学学会の研究会が下記のとおり行われます。

●第10回研究会

?? 2019年 9月29日(日)13:30~16:30 帝塚山学院本部棟 同窓会ホール

発表?「戦後初期における長沖一の作品とその方向」 永岡正己(本学会員)

発表?「伊東静雄の詩―『わがひとに与ふる哀歌』から『夏花』以後への「変化」についてー」
                        下定雅弘(本学会員)

https://www.tezukayamaha.jp/

1563Morgen:2019/09/30(月) 00:22:28
帝塚山派文学学会研究会
「伊東静雄研究会会報」(131号)ありがたく拝読させていただきました。
その3頁に述べられている青木さんの御文章は、興味深かったので抜き書きしてみます。

 現実の悲惨や苦悩を、写実的に実態に即して語ることによって、文学を愛好する人々、さらには“世間”一般に、広く直接的に訴えるのか、あるいは耽美的、口頭的な屈折や内向を経て、ある種の普遍性を帯びたものへ昇華するという選択をするのか。後者は、知的欲求の充足を求める少数者による限定的な享受に留まることを受け入れるという選択でもあろう。
・・・・・保田の<有羞>という概念は、…鬱屈する心情や怒り、悲惨といったものをあえて表出している文学のことを差している。
・・・・・マルクス主義に理念的には共感しつつも心情的には受け入れきれなかった静雄にしても、・・時空を跨ぐ視点に立って、ある種の抽象化を施すことによって、宿命的な本質というべきものをとらえようとする。…(これについてはまたあとで言及します。)

前の投稿でご案内したように、本日「帝塚山派文学学会第10回研究会」が行われ、私も聴講させていただきました。

一番目の講演は永岡正巳氏による「戦後初期における長沖一の作品とその方向」
・帰郷の経緯・・・「全協」崩壊(1934〜6年)で東京の左翼壊滅〜「人民文庫」に残らず帰阪〜「庶民の中に入る」ことを目指した。(リベラルの方向)
・吉本興業入社・・・演芸部長として秋田実との分業で働く
・2度の応召〜復員〜再起〜NHK大阪放送局・・・庶民の暮らしを題材に、たくましく生きる人々の、生き抜く姿そのものを描く。(ウ・フランス民衆文学からの影響)
・文学作品〜放送の時代への転換。もともと「映画芸術論」が専門。(東大卒論テーマ)

2番目の講演は下定雅弘氏(住吉高校、京大卒 岡山大教授名誉教授 中国古典文学)の
『伊東静雄の詩
 ―『我が人に与ふる哀歌』から『夏花』以後への「変化」について
・「哀歌」頂点派(桑原、河野・菅野、磯田、北川、大岡)
・「哀歌」〜「夏花以後」成熟とみる派(井上、杉本、三好、村野)
・それぞれ評価派(饗庭)

 下定氏は、伊東静雄の詩を検証しつつ以上3つの派のいずれにも与せず、「本質的な変化はない」と、次のように結論を出しておられます。

 伊東静雄の詩論は、上に述べたように『古今和歌集』(仮名序)を原点としている。これに芭蕉が加わって、伊東静雄の詩論の基軸は形成されている。再度確認すれば、それは個物に即しつつ、普遍に迫る観察眼であり、魂のすべてを傾けた挑戦が生み出す交響である。
伊東静雄は、万物と己との交響・譬喩的精神を重んずる創作手法(リルケ)を一貫して保持しており、『哀歌』から『夏花以後』に、本質的な変化はない。(「変化」に括弧を付けたのは変化がないから。)以上の観点から詳しく論証されましたが、詳細の紹介は後日に譲らざるをえません。(「帝塚山派文学学会」誌掲載後)

『哀歌』は、伊東の目指す (昭和6年「庭をみると」「夕顔」「葉は」「並木」などの) 詩作自体を歌った詩の群れではない。そうではなく、生活者であると同時に詩人である、伊東静雄という人間のありようと、そのように生きるしかない自己の認識であり、宣言である。(=角逐の発散) この角逐を発散することにより、伊東は、詩人としての自己を確立した。一生、教員としての勤務を続けつつ、詩人として生きた。そして、以後の詩は、ほとんど『哀歌』のような観念性・緊張・孤高を示さない。

 私なりに要約してみると以上の通りになります。
(オリジナルは来年「帝塚山派文学学会」誌掲載後にコピーをお送りします。下定氏から本HP上でご講演の概略を紹介する許可は頂きました。)

 昭和7年〜10年という時期が、まさに青木さんの述べられている時局的な分岐点と一致し、また長沖一の帰郷時期ともほぼ一致します。
 伊東静雄は、立原同様「どうにもならない行き止まりのような」世相の中で、「コギト」との遭遇を通じて、当時の詩壇における自己の詩人としての確立を図りました。『哀歌』には、そのような編集方針に合う歌が選択され、詩語の編み方などにも大変な苦労がされ、その緊張や観念性により「歪められた浪漫派」と言われるようにもなりました。
(以上走り書きとなりましたが取り敢えずの報告です。)

1564青木由弥子:2019/09/30(月) 09:50:02
ありがとうございました
Morgenさま

貴重なご報告を有難うございました。近くに住んでいたら、飛んでいきたいです。

思潮社の現代詩文庫の編集と解題を書いておられる藤井貞和さんは(源氏物語と日本語文法の権威でもあり、また、卓越した詩人でもあります)『夏花』を(現代詩文庫編集の当時は)頂点としておられましたね・・・

江藤淳が、『反響』の「夏の終り」を読んで感動し、自分は文学を志すことになった、というエッセイをどこかで書いていたように思うのですが、乱読しているせいか、出典がわからなくなってしまいました。『伊東静雄研究』に再録されている「伊東静雄随想」の中では、感銘を受けた、ということは書いているけれども、文学を志した、までは書いていないので、あるいは私の勘違い、なのかもしれませんが・・・(どなたか、御存知の方がいらしたら、教えてください!)

ここのところ、必要があって二つの「夏の終」について再考しています。以前、上村紀元さんに(戦時中の「夏の終り」は)昭和15年初出、という「事実」と、大谷正雄の著書という出典を教えて頂いたのですが、それに関連して、山本皓造さんが、平成元年の『定本 伊東静雄全集』の月報に、初出年の訂正がある、と教えてくださいました。その経緯を知りたいと思って人文書院に質問状を出したところ、以下のような事実が分かりました。

当時のことを詳しく知る者が既に社内に居ない、とのことではありましたが、1961年の初版、66年の増補改訂版、71年の完本(最終は1989年の7刷)までの累計で1万部を越えていることを知りました。

刊行記録は以下の通りで、「夏の終」の初出が訂正された月報を有する7刷は500部と少ないので、周知されなかったのでしょう。粘り強く資料の発掘や研究書誌の集約などに従事された小川和佑さんによる修正であるようです。

89年が増刷最終となっているのは、これは私の推測ですが、思潮社の現代詩文庫や新潮文庫、岩波文庫などで読めるようになったからだろうと思います。

1961年版(限定1200部)
1966年 1800部 増補改訂版初刷
1968年 1000部 増補改訂版2刷
1969年 1160部 増補改訂版3刷
1971年 1500部 完本初版
1973年 460部 完本2刷
1974年 700部 完本3刷
1976年 1000部 完本4刷
1977年 800部 完本5刷
1980年 700部 完本6刷
1989年 500部 完本7刷(最終)

静雄が、朔太郎が絶賛した・・・旧来の(常識的な)日本語が破綻するギリギリのところで生み出した、いわば母語の裂け目を突き抜けようとするかのような危うい場所で生み出した「哀歌」の硬質な抒情、そのスタイルが、なぜ継続されなかったのか。手法の継続が重要だったのではなく、普遍的な表現意欲の方が大事だった(たとえばリルケやヘルダーリン、あるいは芭蕉から影響を受けた存在論的な探求の姿勢)のだろう、と、現段階では考えています。

手法を巡っては、モダニズムスタイル、自然主義スタイル、翻訳調スタイル、古典を独自に消化したスタイル、さらに古代歌謡を意識したスタイルと、飽くなき変遷を重ねていると思いますが、その彷徨の課程は、退行や衰弱ではなく、探索、探求だと評価すべきであろう、と思っています。・・・戦後は自然主義的叙述スタイルに「回帰」したように見える、けれども・・・詩作する自分の内面を見つめたり、詩作している場にいる自分を、その外から眺めたりするという意識を持って詩を生み出しているようにも思われるのです。このあたりを真剣に考えていかなくてはいけないのでしょうけれども、まずは戦時中のことを、しっかり考えたいと思います。

封建的旧社会が、「人間性の尊重」という光輝の部分と(無法な自由主義経済、資本主義経済の帰結としての)「帝国主義化」「工業化」という暗愚の部分とに「解体」され、新たな「近代国家」に再編されていく過程が、人間の心、その集合としての社会に与えた、表層的、深層的影響・・・それが現れているのが、二つの大戦を経て生み出されてきた「〜イズム」の諸相であり、遅れて西欧「先進国」と同様の道を辿ろうとした日本が、必死に、時には表層的に取り入れた「〜イズム」であり・・・

マルクス主義の勃興が「庶民」「未だ権力を持たざる者」の側からの「国家や社会体制の解体と新たな理想国家の建設」であったとすれば、解体を恐れた国家の側、既存権力の側からの「新たな理想国家の建設」「求心力を持った、超越的権力の希求」への動きがファシズムである、とも言えるわけです。

伊東静雄の『春のいそぎ』とまったく同時期に刊行された大江満雄の『日本海流』では、最後に宇宙へと選ばれた人民が旅立っていく、そうして、訪れるかもしれない滅びを突き抜けて、人類は新たな次元に至って存続していく、という理想?が歌われていて驚くのですが、こうしたエスエフ的な発想も、宮沢賢治の銀河鉄道や「すべての人が幸福になるまでは個人の幸福はあり得ない」という生真面目な賢治の「憂国」的思想も、すべてがつながっているような気がしてなりません。

大江はマルクス主義からの転向者ですが、戦後に公刊された雑誌の中で、なおも新たな理念を求めようとしている。他方、静雄は新たな理念を求めようとするのではなく、〈牧者を失った群〉のようだ、と当時の人々を見つめながら、「その時代」に生きる自分と社会、家族とを、静かに見つめ、書き遺そうとしている。いわば、観察者、証言者になっている。
(人類に真理を告げ知らせねばならない、というような)ある種の使命感を持って、理想の探求者となる道を歩き続けた大江満雄と、その時代を受け止め、後世に歌い遺していくという運び手の道を選んだ伊東静雄、という方向が、もしかしたら見えてくるかもしれない。そんなことを思うようになったので、しばらく、この二人について考えてみたいと思っているところです。

1565Morgen:2019/09/30(月) 16:00:21
『なつかしい本の話』(江藤淳著) 
 青木様がお尋ねのエッセイとは、2019.1.17の「人間の一生に影響を及ぼした本の話」ではないでしょうか。以下一部を再掲します。

 もし、このとき、『反響』に巡り合わなければ、私は文学を仕事とするようになっていただろうか? この仮定の問いには答えにくい。・・・・・ある人との出逢いが人間の一生を左右し得るように、ある本との出逢いが人間の一生になにがしかの決定的な影響を及ぼし得るものである。よしその本が、あまり世間には名を知られていない詩人の、小さい詩集であったとしても。
 これは,『なつかしい本の話』(江藤淳著 1953年 新潮社)から抜粋した文章です。

1566山本皓造:2019/09/30(月) 16:15:06
帝塚山派文学学会研究会
 Morgen さんも やっぱり来ておられたのですね。
 私も、入会して、がんばって、大阪まで、でかけました。
 会場で、声を出してお探ししようかと思ったのですが、帰りが遅くなると電車で座れなくなるので、はやくに辞去しました。

 当日の実況については Morgen さんがきっちり要約してくださっていますので、付け加えることはありません。
 講師の下定さんも住高のご出身とのことで、講演の前にご挨拶をいただきましたが、驚きました。帰宅して名簿を見ると、住高17期だそうです。
 次回、12月は伊東静雄中心の様子で、行ければこれもぜひ行きたいと思っていますが、足が言うことを聞かず、杖をついて右左にゆらゆらと揺れながら、自宅から会場まで2時間かかりました。
 長らく無音にうち過ぎていますが、そんなことでしたので、まあまあ、ご休心ください。
 今、井口さんの『蓮田善明』の再読にかかっています。くわしいノートをとりながら、なので、なかなか進みません。区切りがついたら、投稿します。

 

1567青木由弥子:2019/09/30(月) 21:44:39
ありがとうございました!
早速にありがとうございました!

1568Morgen:2019/10/03(木) 00:30:08
前稿(9・30)の補足として
 9月30日付投稿は、「伊東静雄研究会」の皆さんに、講演会の「実況」をその日の内にお伝えしておこうと意図したものであります。
 読み返してみると、果たして下定雅弘さんのご講演の真意が伝わるだろうかという懸念がありますので、記憶の新しいうちに要点を抜粋して箇条書きにして補足しておきたいと思います。(これでもまだご講演の真意が伝わるかどうか心配ではあります。)

? 伊東静雄の詩風は、『哀歌』の前から、『哀歌』を経過し、『夏花』以後へと、彼の詩論の原点から外れることなく、着実に成熟発展している。(「変化」があったのではない。)

? 『哀歌』は、処女詩集として独特の性質を持つ詩集であるが、本講演は伊東の詩作の特徴と詩作の歴史全体を明らかにする第一歩として、『哀歌』はどういう詩集なのか、位置づけをすることを目指した。

? 伊東の詩論及び表現方法が、『夏花』、『春のいそぎ』『反響』以後の詩にどのように反映されていくのか、下定雅弘さんは今後さらに調査と考察を進めていかれる。

? 『哀歌』の詩は、(杉本秀太郎と同じく)、生活者としての「私」「われ」と、詩人である「半身」との、角逐・葛藤を描き、その葛藤を宿命として、生活者・詩人として生きる決意を表明した詩集である。

? それは処女詩集であることもあって、気負いと緊張に満ちている。詩の言語を獲得することの困難、ほとんど不可能を処々で述べて、日常の言語から離れた観念的な語が多く、日常の言語であっても観念の隠喩であることが多い。

? 『哀歌』第27番目の、「鶯」(読人不知)は、「私」でも「半身」でもない私が詠んでいる。『哀歌』の詩風・情調とは異質である。
 一老人にとっての鶯との交わりは、(彼がそれを覚えていなかったので)「物象」「客観」であるが、自分の主観として詩となった。この個物たる事物・事象に即しつつ、それを表現することで言葉を超えた真・美を描き出すことが伊東の詩業の目標であることを、「鶯」において再確認している。

? (読人不知)
  水の上の影を食べ
  花の匂いにうつりながら
  コンサートにきりがない
(水に映る花影を食べながら、魚は、花の匂いに惹かれて移り動き、花々と交響してきりがない。)
個に即しつつ真に迫ろうとする、『哀歌』以前に確立していた伊東の創作手法を端的に表現するもの。『哀歌』の最後に、詩人が目指す方向(卒論「子規の俳論」で論じた詩論)を示している。

? 『夏花』は、自然に寄り添い、自然に即し、生活を大切にし、生活の一コマに即し、心に生起するものを見つめ、それらとの交響を詠じる詩が大勢を占めており、さらに『夏花』以後においてもさらに豊かになり成熟していく。

1569Morgen:2019/10/03(木) 15:00:07
「詩論」・「詩の表現論」・「詩の解釈」
(下定雅弘さんのご講演全文は掲載できませんが)、「わがひとに与ふる哀歌」の下定解釈(講演レジュメ記載)について感じたことのメモをご紹介します。(前投稿改)

1 静雄詩の「詩論」と「詩の表現論」「詩の解釈」はどのような関係があるのか?
 ご講演を聞きながらそんな疑問が頭に浮かんできました。しかし、その設問解明のゴールは、チラホラとほの見える程度で、正確な解明プロセスには時間がかかりそうです。先ず、取り掛かり(トリガー)として、下定さんの講演を軸に少し頭を整理してみます。

・(詩論)―『哀歌』〜『夏花』〜『夏花』以後は、一つの「詩論」=「個物に即しつつ、普遍に迫る観察眼をもって、詩人の魂のすべてを傾けた挑戦が生み出す交響である。」

・(詩の表現論)―「万物と己との交響・譬喩的精神を重んずる創作手法」(生涯一貫)
 *(ご参考)“実を云ふと作品の表現論は、一つの作品には一つしかないので、また、又その一つと云ふのが、だれもが無意識に感じとるものであって…”<昭和14.10.22静雄書簡>

・(詩集の編集)―『哀歌』が処女詩集であることもあって、現実生活の苦渋と詩人として詩壇に自己主張をしたいという願望とのディレンマの中で、気負いと緊張に満ちた詩集になっている。それは、掲載する詩の選択、詩語の観念性、捻った詩語の編み方などに表れている。

・(詩の解釈)―(下定さんは杉本氏の解釈法を採用)『哀歌』掲載詩28篇を「私」と「半身」の角逐・葛藤を描くものとして解釈する。(所謂ドッペルゲンガー論による。)

2(「わがひとに与ふる哀歌」の解釈)
 下定さんは、「わがひとに与ふる哀歌」は、半身=詩人が、「わがひと」である「私」=生活者に与えたエレジーであると解説され、詩の読み解きは次のようになります。

「太陽は美しく輝き」は、半身(詩人)の信念・願望。「あるいは太陽の美しく輝くことを希い」は、私(生活者)の目から見た「半身」の願望。
「手をかたくくみあわせ/しずかに私たちは歩いて行った」は、私と半身とが、一人の伊東静雄の中に存在することをいう。美に向かって誘われる清らかさを、私たちは持っているはずだ。「無縁の人」=この清らかさを持たない人が、鳥や草木はいつも同じだとしても、私たちは(鳥や草木に)広大な自然の賛歌を聞くのだ。
「わがひと」よ、日光が照らすのは空虚だなどと諦観するのは、その私たちの思いからすれば何にもならない。詩人である私はやはり、孤独なまゝに、太陽がほとんど死んだと見える湖、荒れ果てた自然を照射することを切に望むのだ。

3 (杉本秀太郎氏の解釈論の評価・読み方)
 (筑摩版『伊東静雄』において、杉本秀太郎氏は、当時おびただしく発表された伊東静雄詩評論が「トマトの連作」のように「小粒化する」傾向を嫌って(小川和佑氏の評論を含め、歯がゆさのあまりに)、『哀歌』巻頭の「晴れた日に」に表れる「私」「半身」の相補、拮抗、対立、牽制、反撥に注目し、『哀歌』のすべての詩の作者を「私」「半身」のいずれかに擬する(「どちらでもない」を含めて)ことができるという仮説を立てられ、その仮説の展開の試みとして『哀歌』の詩を読み解けば、「トマトの連作」の弊害を止められるかもしれないという意欲的なチャレンジをされた。(1985年刊)

 その結果、筑摩版『伊東静雄』は、一定の企画の上に再構成された「『哀歌』解釈論」『哀歌』リモデル版となり、杉本氏は「雄大な構想の立言」(前出静雄書簡)を敢行することを狙ったと憶測することも可能です。そこに展開される、哀歌詩の杉本流詩解釈の有効性・妥当性の判断は、言うならば杉本劇場で演じられる「哀歌オペラ」を観て拍手喝采するかどうかという、観客(読者)の嗜好の問題ともいえそうです。(独特の「解釈論」であることを意識して読む必要があり、ある意味ではその解釈に対する批判や更には再回答を杉本氏は予め断っているようにも推測できないでしょうか?)

4 (冒頭詩「晴れた日に」と他の詩の関係・「編集方法」の論証)
 『哀歌』編集にあたって、「晴れた日に」を冒頭詩とした詩人の意図は注目すべきではあります。(昭和9年8月号『コギト』掲載)

 *<半身の書簡/フィクションを詩にする(技巧)・私の心のギャップ・ジレンマという事実から詩想が広がる。私vis半身(詩人)分離>

 しかし、伊東静雄や『哀歌』編集者が、『コギト』掲載の各詩を創作/編集するに際して、「無意識の内に」も“「私」「半身」の相補、拮抗、対立、牽制、反撥を描くことを”終始一貫して考えていたと考えるのには無理があります。編集方法については、上記(詩集の編集)に記載した程度に理解する方が自然であると思います。
 まして(特に強調して)“三十三間堂の通し矢”のように、一貫して「私」と「半身」の葛藤”を描く(或いは焙り出す)ことを志向したというからには何らかの論証が必要ではないでしょうか。その論証を杉本氏のご本から読み取ることはできません。

5 (詩集を出すという決意をしてから出版までの3年間はどうだったのか?)
 (詩集に込めた思い)伊東静雄の生きざまが、生活者と詩人との葛藤であったという事実、その角逐と葛藤を“何もかも吐き出してみたい”という思いが『哀歌』の編集方針の基調になったという記述はその通りです。(昭和7年以来同10年まで一貫している。/昭和7年10月8日静雄書簡)
 それから約3年間、『呂『コギト』誌投稿時代。外見的には順調に詩作がなされており、散文や書簡に残された情報を見る限り「生活者」と「詩人」との間のジレンマに苦しみぬいたことを想像させる記述はありません。(内心は別)
 「晴れた日に」は昭和9年8月号『コギト』に、「わがひとに輿ふる哀歌」は同11月号に掲載されているので、近接しており詩想の共通性を推測することもできますが、実際に両方を読んでみると、まったく異なる詩風であるように見えます。
 **<丘の上からどんよりと鉛色の湖を眺め、私の心も同じく冷えきり空無だと感じるところから哀歌の詩想が広がる。私=詩人>

(*と**を比較すると、「ある小さな事実や気付きから詩想が広がり、普遍に迫る情景が展開され、詩語の間の響きあい・交響の効果が生み出されてる。」という詩作法は共通しているが、パーソナリティの分離が*は有、**は無。)

 またその3年間の生活苦や精神的葛藤という「伝記的事実」をあまり強調しすぎると,所謂「乞食伝説」や「静雄伝説」などの詩集外事実によって詩の解釈をしているという誹りを免れません。
 父親の遺した借金の返済に生涯苦しめられる宿命を背負った。」という所謂「静雄伝説」は、その後の経過を見ると少し事実とも違うようです。
 (昭和7年以来実家を売りに出し(「なかなか家が売れない」とぼやきながら)毎月返済を続けたが、同15年?に実家が売れて借金を完済したと,長女の坂東まきさんから聞いている旨下定さんにも講演終了後にお伝えしました。下定さんも了承。また、まきさんは「生活の苦しさも、当時は皆が苦しかったのでうちだけが格別に苦しかったと感じたことはない。」とも美原で仰っていました。)

(解釈方法について)<私の感想>
・このように、過度に「静雄伝説」や「詩論」「表現論」という詩集外の事情に拘泥して静雄詩を解釈したり、「独演劇」に見立ててリモデルしたりすると、詩人が詩の中に隠した、あるいは無意識のうちに詩に込めた「詩人の魂」(真や美も)が歪んでしまいそうにも感じます。
・元々が「(朔太郎の言う)歪力詩」である「哀歌」を、さらに重ねて曲げるとなると、もはやオリジナルな詩の意味は失われる惧れがあります。
・「わがひとに与ふる哀歌」の全体的な構図は、 (青春の賛歌〜自然の賛歌〜心中の虚無感・独白〜太陽よ強く照らしてくれと切に希う気持)へと流れていきます。そのダイナミックなリズムやシンコペイション、豊かな響きがこの詩の命であり、そのような原詩の持味を希薄化させたり、「哀歌」独特の格調の高さや音楽性、読み手に与える印象の深さなどが損なわれてしまような読み解き方は相応しくないと思います。

6(詩語について・ちょっと横路)
 「放浪する半身」「漂泊」という詩語との関連で、中路正恒さんが『杉本秀太郎の伊東静雄論』の文末で「漂泊、ないしは放浪の本質は、愛する土地を一旦捨てたならば、人は決してどの土地にも安らかに安住することはできない。」ということであると指摘されています。(詩語の由縁や本来のコンセプト)
 これにに関連して、私には、故市川森一が遺した「ディアスポラとして行きなさい」という次の文章が懐かしく思い出されます。―(私も、市川君と同じく昭和35年4月初めに諫早駅を夜汽車で旅立って以来、大都会の巷を約60年間放浪して来ました。「吾もまたディアスポラとして」というような感慨が湧いてきます。)

 14歳の時に諫早教会で宮崎明治牧師より洗礼を授かり、18歳で故郷を旅立つ駅頭で、林田英彦牧師の口から「ディアスポラとして行きなさい」との啓示を与えられた私でしたが、いつの間にか、荒野を彷徨う異邦人となり果てておりました。長い旅路の果てに、ようやく憩いの水際にたどり着いた思いでおります。

(2011年3月13日,日本基督教団・麻生南部坂教会月報より。なお市川森一は同年12月10日、享年70歳で死去しました。)
*“diaspora”とは、離散定住集団が、難民のように帰還せず、離散先で永住することを意味する。

7 (結び)
  冒頭の設門が重すぎて解明のための本題の展開が進みません。
 <伊東流「不即不離」の処世法に倣って、詩の持つ「匂わせる」「響かせる」という程度の「軽み」を味わうことに主眼を置いて鑑賞するのも詩解釈の一つのやり方ではないか>という遁辞を書いて、私の帝塚山派文学学会講演の聴講レポートを終わります。

 これからも、静雄詩の「真と美」が透し絵のようにほのかに見えてくることを期待して、軽い気持ちで静雄詩を読み続けてまいります。
 下定 雅弘さんのご講演を拝聴させていただきましたことに感謝するとともに、静雄詩研究が『夏花』、『夏花』以後へと深められ、私たちもその成果のご披露の席に呼ばれたいものだと、今から楽しみにしております。
 

1570Morgen:2019/10/22(火) 00:21:27
「災難を信じまいとする心(平常心バイアス)」
・・・・・
遠いお前の書簡は
しばらくお前は千曲川の上流に
行きついて
四月の終るとき
取り巻いた山々やその村里の道にさへ
一米の雪が
なほ日光の中に残り
五月を待って
桜は咲き 裏には正しい林檎畑を見た!
と言って寄越した
・・・・・・(伊東静雄「晴れた日に」から)

 ここで歌われている千曲川や、東北の阿武隈川などの大河川の堤防が,マンモス台風19号のもたらした大雨によって方々で決壊し、各地で大被害を起こしています。

今回の大洪水で被害を受けられた方々には心からお見舞いを申し上げます。

 中でも阿武隈川は、支流を含めて河川整備工事が施されていたので、近隣の人たちは雨も小止みになったし、まさか堤防が決壊するようなことはないだろうと安心して、寝てしまった人も多かったようです。このように異常な危機が身に迫っていることを「懸命に信じまいとする心」を「平常性バイアス」というそうです。自動車で逃げようとして流された人も多かったようですが、自動車は安全と信じる「バイアス」(偏見)が働いたのでしょうか。
 人口密集地を流れる一級河川の堤防は、「100年に一度の異常降水量」(日雨量250?位)に耐えられても、最近のような大降水量があればバックウォーターにより支流堤防が決壊し、またマンホールからの内水氾濫の起る危険は避けられません。半世紀前に作られた現行「河川整備計画」は見直さなければ、海面高温現象の続く現状では、毎年大洪水が起きることになるかもしれません。
 私たちにできることは何か? 例えば「安全神話を信じないで、すぐに逃げること。」「より安全な住所へ引っ越すこと。」「雨風に強くなるように家を改造すること。」等々。
 千曲川流域で今熟している「シナノスイート」や「シナノゴールド」等の長野県産林檎が被害を受けたかも知れせんが、「長野ワイン」は色々な銘柄が売られていますので大いに買いたいと思います。もう少し近ければ手伝いに行きたい気持ちですね。

1571銭亀亭心太:2019/10/25(金) 11:17:10
日本の財政を考える会への招待状
ラジオでは流れないテレビでも写らない
日本がなぜ不景気か?日本はなぜ景気が回復しないか?
日本の財政を考える会は、国民が自主管理の民主国家をめざします。

日本の財政を考える会ブログ「新国譲りの神事」
http://blog.goo.ne.jp/tokoroten001/

また「国民の手で森友問題を追及しよう会」では
安部昭恵さんが籠池夫妻と安部さんと会ったと瑞穂の国小学校の系列「塚本幼稚園」
の講演会で保護者の前で問題発言しています。

安倍総理大臣は「私や妻が事件に関わっていたら議員辞職します」と宣言しています。
問題映像URL
http://www.youtube.com/watch?v=TRd_8Mp7z4c&amp;list=PLPZ9M1FhsAovjx6vyjMeUQ0cm7MyfSCil&amp;index=28&amp;t=0s

国民の手で森友問題を追及しよう会
http://tokoroen001.at.webry.info/
昭恵さんの塚本幼稚園での講演会の映像と合わせて見てください。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001720M.jpg

http://tokoroen001.at.webry.info/

1572山本皓造:2019/10/26(土) 15:43:39
下定雅弘さんの講演について
 下定雅弘さんの講演についての Morgen さんのご労作(と呼びたい気がします)を、何度もくりかえして読ませていただきました。Morgen さん、ありがとうございました。
 私が考えたことの、2つ、3つを、記してみようと思います。

 Morgen さんが言われるように、下定さんのレジュメでは「詩風」「詩論」「詩の解釈」等の言葉が使われていて、それらの語の意義や差異や相互関係をじぶんの理解の中で適切に言い定めることが必要だと、私も思いました。

 私の考えるところでは、下定さんの講演の勘所は2点あり、
 その一は、伊東詩の初期詩篇から『反響』とその後にいたる全詩業を通じて、「頂点―下降・退歩」や、その逆の「成熟」のような「変化」と見る見方を退けて、その間は一貫した「詩論」で貫かれている、と立論されたことです。

 その「一貫したもの」について下定さんは、まずレジュメの冒頭で、

   伊東静雄の詩風は『哀歌』の前から、『哀歌』を経過して、『夏花』以降へと、
   彼の詩論の原点から外れることなく、着実に成熟発展している。------ A

と述べられ、最後に「結びに代えて」の部分で、伊東の「変わらざる」ところを、

   伊東静雄の詩論は……それは個物に即しつつ、普遍に迫る観察眼であり、魂の
   全てを傾けた挑戦が生み出す交響である。-------------- B

というふうに、提示しておられます。

 ただ伊東にも「変わらざる」所とともに、ある意味で「変わった」所もあることを、下定さんも次のような言い方で認めておられます。

   確かに『哀歌』のクリスタルな輝きをもった詩語・格調高い詩風と、『夏花』
   以後の詩の、平明な詩語と自然に寄り添い、生活に親しむ穏やかな詩風との間
   には、顕著な懸隔がある。------------- C

 しかしこの懸隔は、伊東の「詩論の変化」ではない、と下定さんは言われるわけです。
 以上から私は、多少強引ですが、下定さんの言われることを、

〈伊東の詩風はその時期によって変わったとも見られるが、しかしその詩論、すなわち伊東の詩精神の根本原理は、変わることなく全詩業を貫いている。〉

というふうにまとめて、「詩風」と「詩論」の語を分別したいと思います。

 そこで、伊東の「変わらざる」ものとしての「詩論」の具体的内容、すなわち上の引用の -- B として示した、「個物に即しつつ、普遍に迫る観察眼であり、魂の全てを傾けた挑戦が生み出す交響」という部分ですが、じつは私にはまだこれについて十分な理解ができていませんでした。そこにはあまりに多くの問題があまりに短い言葉の中に言い込められすぎている、という気がするのです。

 そこで、以下は Morgen さんの触れられなかったことですが、「個物に即しつつ、普遍に迫る」云々と同旨の記述を、下定さんのレジュメを精読して摘出してみました。下定さんは以下のような詩作品について、そこに一貫する「詩論」を取り出して解説してくださっていました。

・「鶯」 老人にとっての鶯との交わりは「事象」であり「客観」であるが、伊東は「この個物たる、事物・事象に即しつつ、それを表現することで、言葉を超えた真・美を描きだすことを、自己の詩業の目標としていた」
 「ここ詩は、個に即しつつ真に迫ろうとする『哀歌』以前に確立していた伊東の創作手法を端的に表現するものである」
 「この詩集のさいごに伊東は、意図して、詩人が詩作において目指す方向を示したのではないか」
・『哀歌』以前の詩は18首。この中に『哀歌』のように、生活者であり同時に詩人である自らのうちの角逐を詠じた詩はない。個に即しつつ真に迫ろうとする、伊東の詩作の基本姿勢を示す詩がほとんどである。
・「庭を見ると」 自然・万物に寄り添い、その事象・個物が奏でる真との交響を追求する詩の原点に位置する詩
 「自然に寄り添い、個に焦点を合わせつつ、普遍に迫り、美を追求する作品」
 「これが伊東の生涯にわたる詩作の内容の本道・主流である」
・「葉は」 「個に真を見つめている」
・「並木」 「これも個に即して、個の真に接近し、その真において、交響することを願う詩人を詠じている」
・「燕」 「個別に即しつつ、普遍を開示する詩作への志向……は、卒論「子規の俳論」を書いたときにすでに確立している」

なお、饗庭孝男さんがその伊東静雄論で云っておられる「彼の詩魂の中核にあるもの」という言葉は、下定さんの「詩論」の語の志向するものと同じものと思われます。(ただしその内実について、饗庭さんはそれを「孤立する存在意識」とするのですが、下定さんはこれを否定。)

 この作業で、私にも下定さんの言われる「個物―普遍」云々が、かなりよくわかるようになったと思います。あらためて伊東の詩篇を読んでみると今まで見えていなかった「個物」が見え、それが今までとは違った姿で見えてくるようです。それらの「個物」はおのずと「普遍」を呼び、そのとき「個物」の「個」性はだんだん希薄になり、ついには「名」=「普遍」となる。逆に普遍は反転して「個物」としてみずからを現ずる。あたかもプラトンにおける個物とイデアのように。それならばこの関係は、譬喩とも、また象徴とも、言えるのではないか。伊東が「自然の反省」と言ったのもまたこのことではあるまいか。――私の想念は放恣に、勝手気ままに、どこまでも走り出します。

 下定さんの講演の勘所の「その二」は、詩集『わがひとに與ふる哀歌』(以下『哀歌』)について、杉本秀太郎の〈半身―私〉を継承しつつ、『哀歌』諸篇について改めて「解釈」や「表現方法」に関する考察を提示されたことです。
 この点については Morgen さんがとても丁寧に説明してくださいました。これ以上は、杉本さんの著書を直接精読するのに「如かない」!

 以下は、余談です。

  井口時男『蓮田善明 戦争と文学』
  松本健一『蓮田善明 日本伝説』
を読了しました。蓮田のテキストは、
  新学社『近代浪漫派文庫35 蓮田善明・伊東静雄』
  筑摩書房版『現代日本文学大系61 林房雄・保田與重郎・亀井勝一郎・蓮田善明』
所載のものを読みました。小高根二郎『蓮田善明とその死』および『蓮田善明全集』は古書であまりにも高価なので買いませんでした。小高根は「果樹園」で読むつもり。
 蓮田は、保田與重郎『後鳥羽院』からつながり、さらにこれは庄野潤三「河邊の歌」からつながっているので、いずれ出発点に戻らなければなりません。
 皆様、お元気でお過ごしください。

1573Morgen:2019/10/30(水) 00:15:14
「詩人の目」(明石長谷雄)
 今日昼休みに、天神橋商店街の古書店を覗くと、明石長谷雄(本名亀山太一)(1925〜2002.7.28)の詩集『すずめの宿』(1993年3月1日 思潮社版)が100円で売られていたので即、購入しました。
 『現代詩手帳』(2002年10月号)の追悼文によると、「亀山太一氏は、企業の宣伝・広告・マーケティングの第一線で活躍。世にいう“亀山学校”で鍛え上げられた屈強のビジネスマンたちは、その仕事の徹底振り、細心の気配り、そして時代の流れを素早く読み取る若々しい感性に脱帽、敬服した。」と書かれています。 なお、同氏の第4詩集『白い靴』は,随分前にこの掲示板で紹介しました。

 詩集『すずめの宿』に「詩人の目」という詩が掲載されていますので紹介します。

          「詩人の目」

  小学校のときから
  眼鏡をかけている
  検眼表の 一番上の字すら
  見えなかった
  でも 眼鏡を
  不便とは感じなかった
  私の身体の一部分に
  なり切っていたし
  むしろ 他人に
  私の心を 匿せる道具とさえ思っていた

  中学二年から
  詩を書きはじめた
  戦中遺書のつもりで
  母がつくってくれた最初の詩集を
  伊東静雄先生にお送りして
  ご返事をいただいたのが
  ご縁になった

  あるとき先生が
  「眼鏡をかけている詩人は
   贋者 ニセモノです」
  と きっぱり私に言われた
  私は どぎまぎした

  中絶していた詩を
  四十年ぶりに
  また書くようになったら
  先生の言葉が、蘇ってきた

  先日 花子先生にお会いして
  話が眼鏡のことになった
  伊東先生が入院されていた頃のこと
  夫人が教壇で地図の字が見えにくいので
  乱視入りの眼鏡を新調された
  それを知った先生が
  「なぜ 人生のそんな大事を
   私に黙っていたのか」と
  大変な剣幕で叱責されたそうだ
  生存中 夫人は二度と
  眼鏡をかけられなかったという

  いまとなっては真意を
  先生におたずねすることはできない

http://

1574山本皓造:2019/10/31(木) 18:00:55
亀山太一さん(明石長谷雄さん)のこと
 亀山さんの名前と詩を、なつかしく拝見しました。
 以前にもなにか書いたような気がするので、重複するかもしれませんが、亀山さんのお宅を訪ねた時のことを書きます。

 1998年11月3日、私が『大坂/京都』の資料を集めるために毎日走りまわっていた頃のことでした。亀山さんのお宅は、以前は香里園にありましたが、この時は松井山手に移っておられました。白い洋服を着て、小柄な、妖精のような物静かな奥様(『白い靴』の奥様です)と、お二人暮らしでした。亀山さんはこの頃、腎臓を悪くして入院し、退院してほんの間もなくの頃でした。
 亀山さんの談話の摘記。順不同。

・北余部の家は毎日のように行ったが、不思議に他の人と会ったことがない。萩原天神から家までの道中、途中ほんとうに何もなかった。
・香里園の家は、一時来てもらうことまで決まっていたが、後に丁寧な断り状をもらった。北余部へうつったのは、新学期の迫ったぎりぎりだったと思う。
・菅生へは行ったことがない。その頃は宿直室を訪ねて話をした。
・小説を書くのだと、いうことをしきりに言っておられた。
・先生も奥さんも、世事にはまったくうとかった。もう少しうまく立ち回れば、もう少しましなほうへ行ったであろうのに、悪いほうへ悪いほうへと行った気がする。それで病気になってしまった。
・詩や文学のことは行ってもほとんど話さなかった。反して、俗事については実に熱心に、楽しそうに話した。20歳の亀山を大人として扱って話してくれた。
・夏樹さんを心底かわいがった。比してマキさんにはきびしい面があった。
・すぐ、寝転べ、と言われるので弱った。日本浪曼派はすべからくそうなのであるという。
・女物の赤い紐を巻いておられたのは本当。
・はじめて会ったときにはびっくりした。小さく、じじむさく、冴えない、詩人というのはこういうものかと思った。
・人に対する好き嫌いがはっきりしていた。嫌いな人とは同席していても、物も言わなかった。
・詩を持って行っても、こわくて見せられなかった。当時は師弟というのはそういうものであった。
・ミナミをよくほっつき歩いた。
・花子夫人は、その友人の話によると、伊東に出会って、人が変わった。それまでは、宝塚の追っかけをしたりしていた、お嬢さんであった。

 亀山さんの詩集は、私もはじめは『白い靴』を持っていて、その後、亀山さんから、『白い靴』をもう一冊と、
  『冬たんぽぽ』思潮社、1988.9
  『すずめの宿』思潮社、1993.3
を戴きました。
 そのほかに、珍しい、英文(英訳)の『冬たんぽぽ』“Winter Dandelion”も頂戴しました。

 亀山さんは2002年7月28日に亡くなられました。
 亀山さんはとても律義で、気配りが細やかで、その後もときどき、珍しい食べ物などを送ってくださいました。わたしは何もお返しができませんでした。
 住高の私の同期にM君というのがいて、彼は三洋電機で亀山さんの「部下」で、厳しく教育された思い出を書き送ってくれました。
 詩人としての亀山さん、三洋電機専務としての亀山さんを慕う人たちが、まだたくさんいて、ときどき亀山さんのことをなつかしく思い出しておられるのだと思います。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001724.jpg

1575伊東静雄研究会:2019/11/15(金) 09:58:12
13回 菜の花フォーラムの開催
伊東静雄生誕113年 第13回 菜の花フォーラム ご案内

日時 令和1年12月14日(土)13時30分〜
場所 諫早図書館 視聴覚ホール

講演 宮沢賢治の世界 長崎大学名誉教授 佐久間 正先生

お気軽にご参加ください。事前申し込み、及び入場料不要。

1576伊東静雄顕彰委員会:2019/11/24(日) 11:31:54
第30回 伊東静雄賞
国内外から539篇の現代詩が寄せられ、選考の結果下記の作品が伊東静雄賞にきまりました。贈呈式は令和2年3月29日(日)伊東静雄を偲ぶ「菜の花忌」のあと、諫早市内のホテルで行います。

  第30回 伊東静雄賞
          「耳も眼も鎖して」  末国正志氏 62歳 (広島県三原市在住)
                                           以上

1577伊東静雄顕彰委員会:2019/11/25(月) 18:43:26
第30回 伊東静雄賞
前投稿の訂正 国内外から539篇を 953篇に訂正します。

1578大垣 陽一:2019/12/07(土) 17:00:47
無題
以前の事になりますが、この掲示板を借りまして、往時、伊東静雄の同僚であったのではないかと私が考えていた、中尾治郎吉という英語の先生について、或る問い合わせをした事がありました。その唐突な問いに対しましては、山本晧三様より懇切丁寧なご回答を頂きました。その折りに、その投稿文に併せ書いておりましたもう一人の私の先生、高野晃兆先生が、思いかけずも、山本様と、住吉高校で同窓であったとのご教示も頂いて驚いた事がありました。その事に関連して、またしても、誠に私自身の私的な思いで唐突に・・・とも思いましたが、この高野先生が今年、四月に亡くなられたという事を、先生と山本様との、縁を思い巡らして、お知らせ致したく、さんざ逡巡致しましたが、再び、投稿した次第です。先には山本様の書かれている文章中に、香里園という地名が出ておりましたが、先生はその香里園に長く住まわれて居られました。そこから、寝屋川の私達の高専に独逸語の講義に来られていたのでした。香里園は私にも懐かしい土地でもあって、図らずも眼に止まりました。厳しくも、懐かしい講義風景等々・・・、高野先生の面影が今でも目に浮かびます。先生は宗教哲学者トレルチの研究者・翻訳者として知られておりますが、一般的な文学については終ぞ言及などされませんでしたが、私達のリーダーに使用されたのは文学性の高いル・フォールの短編「Die Unschuldigen 無辜の子ら」でした。後に思い至りましたが、ル・フォール女史はトレルチの秘書をされていた時もあり、後には、独逸の著名な作家となられ、真にトレルチに関係する所縁の作家として、先生には格別の想いがあったのだと思います。心より先生のご冥福お祈り申し上げたく存じます。

1579山本皓造:2019/12/11(水) 18:56:11
高野さんのこと、その他
 大垣様のお名前を拝見してなつかしく、掲示板を遡って、2009年1月8日の大垣様の投稿にたどりつきました。その節は十分なお答えができず、申しわけありませんでした。
 そこに記したように、高野晃兆さんはたしかに住高6期の同窓なのですが、私に記憶がありません。同期で医学部に進んだK君も、経済でクラスも同じだったもう一人のK君も、入学後親しくなったT君もN君も、そして堺屋太一君も、ここ数年のうちに相次いで亡くなりました。
 高野さんのご逝去のこと、お知らせありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

訂正のこと
 9月30日の私の投稿「帝塚山派文学学会研究会」にて、“次回、12月は伊東静雄が中心”云々と書いたのは“庄野潤三が中心”の誤りで、早くに気づいていたのですが、訂正の投稿を怠けておりました。お詫びを申します。
 私は先頃、腰痛が劇症化して、15日を楽しみにしていたのですがとても行けそうにありません。掲示板も久しぶりに開いたような始末です。皆様くれぐれもお体大切にお過ごしくださいますよう。

1580Morgen:2019/12/15(日) 22:41:51
帝塚山派文学学会の第11回研究会
帝塚山派文学学会の第11回研究会が開催され、次の演題の内容豊富な研究発表を拝聴させていただきました。(12月15日) 大変勉強になりました。(感謝!)
(演題)
西尾宣明「庄野潤三の文芸史的位置に関する考察」
村手元樹「庄野潤三と徒然草」

・「庄野潤三の文芸史的位置に関する考察」では以下の項目についてお話がありました。
一 庄野の文芸的出発
二 「第三の新人」とは
三 庄野小説の展開と方法
四 庄野潤三の文芸史的位置とは〜「第三の新人」作家たちと比較して〜

 西尾先生は、結論として以下のように述べられました。
 庄野小説が求める創作方法は、他の「第三の新人」の作家達とは決定的に異なる。
「語り手の眼前に現在進行しつつある生活感あふれる日常的世界を凝視し、それをかたくなに素材として小説世界を構築しようとした作家は、庄野ひとりだったといえる。」

・「庄野潤三と徒然草」では以下の項目についてお話がありました。
一 はじめに―庄野潤三「前途」…伊東静雄から「徒然草」を推奨される。
二 徒然草の滑稽と庄野の「おかしみ」
三 徒然草の取材能力と庄野の「聞く」志向
四 徒然草の構成と庄野の小説の構成
五 徒然草の思想と庄野の小説の思想
六 無常と日常
(結び)完結せず「いま」を開く庄野の手法(参照;「徒然草」第八十三段)…さまざまな可能性を包含した「いま」の豊かな手触りを描きだすこと。…
「徒然草」第九十三段…「然れば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。…」

1581青木由弥子:2019/12/15(日) 22:45:59
お大事になさってください
皆様 いつもありがとうございます
山本晧造さま どうぞお大事になさってください。

良いクリスマスを。

1582Morgen:2019/12/16(月) 17:23:28
「 良いクリスマスを」(「談話のかはりに」メモ1)
 先程(仕事場の)大掃除を済ませて、今年も終わったような気になってきましが、パソコンの中に次のメモが残っていましたので、忘れないうちに投稿しておきます。(空気の読めない投稿です。)

 『呂』昭和7年11月号12月号掲載の「談話のかはりに」において、伊東静雄は、ノイエ・ザハリッヒカイト詩人のケストナーの「事実のロマンス」という詩を訳し、それに続けて次のように書いています。
「この道によって、現代を生き抜かうと悲壮な決意をせねばならぬ層が、全世界にわたってあるのも事実だろう。・・・その表題のつけ方はこの主義の行き方―即物的に、事物的にと言ふ―、意識的な心構えをいくらかあらわしてゐる様に見受ける。そして又、これは無意識にかも知れぬが、この主義の生きかたは、誰もが豫測するやうに、「新しいローマン主義」に行きやすいことを證明してゐると思はれた。」と書いています。「事実のロマンス」という詩のタイトルを分解して、「事実」(事物)〜〜「ロマンス」(ローマン主義)と、言語的類推をしているようにも読めますが、それだけでは済まないようです。

 昭和6年8月に出た武田忠哉著『ノイエ・ザハリッヒカイト文学論』に収録されているギュンター・ミュラー『文学におけるノイエ・ザハリッヒカイト』(同書p135〜154)には、次のように書かれています。

「ザハリッヒカイト」に基づく、一つの実態を持たない上部構造として、浪漫派、あるいは浪漫思潮が表れる。その例としては、国法学者カ−ル・シュミットの名を示せば足りるだろう。(p152)
 また、「ノイエ・ザハリヒカイト文学の中には、早くも、ロマンティックな傾向の派生を見るようになった。J・ムローンの「コロンブス」などがその一例といえよう。」とも書かれています。(p225〜226)

 このような見方が、昭和6〜7年当時の日本の文学界で広まっていたのでしょうか?
 伊東静雄は「誰もが豫測するやうに」と書いていますが、そのような情報や予感が一般的であったのでしょうか? カ−ル・シュミット流「新しいローマン主義」の流布が、ドイツのみならず日本でも一般的にを予想されていたとすれば、認識を改めなければならないような気がします。。

 <「日本浪曼派」もその世界的な「新しいローマン主義」の亜流である。>と言ったらオーバートークになるでしょうが、「文学におけるノイエ・ザッハリッヒカイト」を書いたギュンター・ミュラーは、ちゃんとその「新しいローマン主義」を指摘していたのですね。
 昭和7年に「新しいローマン主義」に言及している伊東静雄も偉いということになるのでしょうか?

1583青木由弥子:2019/12/16(月) 20:50:36
昭和6年、7年
Morgen様のご投稿で、思い出したことを、メモ書きとして。

昭和6年、7年といえば、春山行夫らの『詩と詩論』、伊藤信吉、秋山清の『プロレタリア詩』や『戦旗』等が廃刊されていく時期ですね・・・

形式や理念は移入したとして、内部から溢れだす詩の力となるには脆弱過ぎたモダニズムが内部崩壊していく(と言ってしまって良いのか迷いますが)時期であり、プロレタリア詩も権力による弾圧によって壊滅させられていく時期であり・・・そこに、遥かなる「非時」の場所への突出や、超越的領域への奔出が突破口として憧憬されていく、時期でもあったのではないかと・・・

異界への突出を夢想するドイツ的浪漫主義と、英雄的存在によって地上での革命を志向するフランス的浪漫主義との対立・・・本来の浪漫主義では無いとして『日本浪漫派』を批判する高見順の批判も、この辺りから出てくるのだろうと想いながら、どこから紐解いていくか、思案中です。

1584Morgen:2019/12/19(木) 01:06:10
「談話のかはりに」メモ2
 年の瀬も迫ってまいりました。備忘のために前稿の「談話のかはりに」メモの続きを、未完のままではありますが投稿しておきます。(冬休み中に以下のメモを念頭に置いて『呂』の詩を再読し、吟味してみる予定です。)

・武田忠哉著『ノイエ・ザハリッヒカイト文学論』(p219〜238)において、「飛行」「飛行詩」は、ノイエザハリヒカイト詩→「新しい浪漫派」を橋渡しする定番的詩語である。・・・(伊東静雄)“飛行の夢”「河邊の歌」、”花辛夷の影で、ああ僕は飛行士でなくなった”「飛行機」との関連如何?

・「談話のかはりに(二)」
・青木敬磨・・・万葉集・・・素朴な表現
・伊東静雄・・・古今集・・・反省的・意識的な表現・・・「つくりものを書く男」
 リルケ『形象の本』・・・譬喩的精神・・・「静かなクセニエ」
  〃  『新詩集』・・・「現実体験から生まれた詩的造型」・・・CF;『呂』の詩?
  ―「私が詩を本気で書く気持ちになりましたのは、リルケの新詩集を読んでからでありあります。」(大山定一宛書簡s14.10.)
・リルケ「自然だとか、私たちが日常接触したりしている事物だとかは、かりそめのもの、はかないものです。・・・それが私たちと同じようなかりそめの存在であればこそ、私たちはこれらの現象や事物をあくまでも真心を込めて理解し、これを変形しなければならないのです。(『芸術と人生』富士川編訳p66)

・〃「文学者の場合も、書くことができるということも、同じように≪むずかしい手仕事≫なのです。…詩人の使命は彼のことばを単なる交際や了解のことばから根本的に、本質的に区別するという奇妙な義務をよけいに背負っているので、いっそうそれは困難な仕事なのです。…」(同書 p81)

・〃「どうにかしてぼくにも事物がつくれるようにならねばなりません。文字で書かれた造型的な事物ではなく―手仕事から生まれる現実のものがです。…この手仕事は、たぶん言語そのものの中に、言語の内的な生命と意志、その発展と過去をよりよく認識することのうちにあるのでしょうか?」(1903/8/10ザロメ宛手紙)

・「事物存在の詩的な造型」…ホフマンスタールなら受け継がれた教養によって手仕事を可能にしているが、リルケは(教養の欠如のゆえに)事物の存在に、自然に近づくことができ、そして既成の概念にわずらわされることもなく、事物を事物存在的に把握する“眼”を、本質直感を、ロシアの風土から、ヴォルプスヴェーデの風景から、ロダンの芸術から獲得した。)<『リルケ/ホフマンスタール往復書簡』p173>(塚越敏解説>⇒「事物存在の詩的な造型(形而上的芸術)への転向」(現実体験から生まれた詩的造型『新詩集』)

・池田勉「伊東さんの詩の生まれてくる過程の一期に私はしばしばふれることがあった。生まれ出ようとする詩情の構想を伊東さんはよく語ってくれた。(詩情がリズムに成ってくるくるのをじっと待ているような切なさ)・・・私たちは天王寺公園(の春深い公園の歌壇を)歩きながら、『孔雀の悲しみ』の詩の一句「はや清涼剤をわれはねがはず深く約せしことあれば」の構想は語られた。・・・」(『伊東静雄研究』p122)

・富士正晴「詩を自分で書き出す以前の時期に、彼は屋根の物干し台の上で、朔太郎の詩を朗詠ばかりしていたのだといった。…朔太郎の詩→静雄の朗詠→静雄の詩…目読すると無理があっても、朗詠の上では無理不自然がない」(『苛烈な夢』p133〜134抜粋)

http://

1585Mogen:2019/12/26(木) 23:18:50
帝塚山派文学学会報
帝塚山派文学学会報11号が送られてきていますので、その一部をコピーしてご紹介します。
来年になると研究発表の全文掲載された雑誌として刊行されるそうです。

皆様、良い正月をお迎えください。私は、東北地方(山形〜秋田)の寒波を体験しに行ってきます。

第 11 回研究会報告
2019 年 12 月 15 日(日)午後 1 時半より帝塚山学院本部棟同窓会ホールにおいて第 11 回研究会 が会員 25 名の参加のもとに開催されました。 第一の発表は本学会会員の西尾宣明さんによる「庄野潤三の文芸史的位置に関する考察」でした。 これまで書かれた5つの論文をもとに、今後の庄野潤三研究の課題を明確にしようとする、内容の 濃い発表でした。興味深かったのは、「私小説的手法で日常の人間を見つめる文学を開花させた」昭 和 30 年代頃までに登場した「第三の新人」、具体的な作家としては安岡章太郎・吉行淳之介・遠藤 周作・小島信夫・庄野潤三の文芸的起点、基点、帰点の考察でした。安岡は血族へ、吉行は性愛へ、 遠藤は罪・神へと向かったが、庄野はただ一人、「眼前に現在進行しつつある生活感あふれる日常的 世界を凝視し、それをかたくなに素材として小説世界を構築しようとした」。深く納得できる結論で した。 第二の発表は本学会会員の村手元樹さんによる「庄野潤三と徒然草」でした。チェーホフ受容か ら庄野潤三の初期作品を考察してこられた村手さんが『徒然草』を取り上げられたことに驚きまし た。しかし庄野が敬愛する福原麟太郎や伊東静雄が『徒然草』を推奨していたこと、庄野自身がエ ッセイや対談で『徒然草』を語っていることを知り、納得しました。村手さんは『徒然草』の特質 である滑稽、兼好の卓越した取材能力、『徒然草』の構成、現世肯定的な無常観、歴史的な感覚・も のの見方などが、庄野文学の「おかしみ」、聞き書き、小説の構成、無常観に関連していることを多 くの引用を使って解説されました。庄野文学が日本の古典につながるものであったことを知ったの は、新しい発見でした。

第三は本学会会員の小出英詞さんによる報告「長沖一の新出記事について」でした。新出記事と は 1954(昭和 29)年 5 月 15 日真弓書房発行の雑誌「旬刊フエミナ」に掲載された長沖一のエッセ イ「恋愛は女のすべて?」です。この雑誌は当時の画家や詩人、ファッションデザイナーなどの記 事や挿絵が満載のおしゃれなものですが、第 3 号で廃刊となりました。社長真弓常忠氏は後に住吉 大社宮司になられましたが、2019 年 4 月に死去され、遺品の整理をする中で住吉大社権禰宜の小出 さんが見つけられました。論旨は「恋愛は女のすべて」という考えを女性自身が破壊しない限り、 新しい女の歴史は始まらない、です。

1586Morgen:2020/01/11(土) 22:52:30
『大阪春秋』令和元年秋号
昨年9月にお伝えしました長沖一さんを特集した『大阪春秋』令和元年秋号がやっと発売されました。―特集お父さんはお人好し―長沖一の作品世界―
<第10回帝塚山派文学学会>でご講演下さった永岡正己氏は、本誌の中でも総論「長沖一その生涯と作品」が掲載され、座談会においてもご発言されています。全体として、充実した編集で内容の濃い雑誌です。
伊東静雄が活躍した昭和10年代〜40年代の大阪(阿倍野〜住吉界隈の雰囲気・帝塚山文化圏)を知る上で、貴重な生資料です。
NHKラジオ放送劇「お父さんはお人好し」は、1954年12月13日 から 1965年3月29日まで、月曜日 20:00 - 20:30に放送され、長期ヒット番組となりました。
私は、この番組で初めて花菱アチャコや浪花千栄子を知り、大阪弁に接しました。
なお、NHKの今年の秋からの朝ドラは、浪花千栄子さんの生涯をテーマにしたNHK連続テレビ小説「おちょやん」が放送されることが発表されています。
大阪に住んで60年になりますが、私の知らなかった大阪の街や人々の姿を、ドラマの中で再現して見せていただけると期待しています。(意外な俳優が出演するかも…?)

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1587Morgen:2020/02/20(木) 00:15:20
『母との約束―250通の手紙』
 ご投稿が途絶えていますが皆様如何お過ごしでしょうか。

 令和2年正月もあっという間に過ぎ去り、早くも2月となりました。午後5時を過ぎてもまだ太陽が明るく輝いています。自宅横の公園では、濃いピンク色の河津桜が満開に近く、数羽のメジロが忙しく飛び交っています。

 今日は、大阪駅ビルのステーションシネマで映画『母との約束―250通の手紙』を観てきました。
 原作は、「フランスの三島由紀夫」と評される伝説の文豪ロマン・ガリの自伝小説で、ベストセラーとなった『夜明けの約束』の映画化と前評判のが高かった割には、映画館は空いていました。(作者はフランス文学界最高峰のゴンクール賞を2回も受賞している。)

??映画のあらすじはURLの映画紹介欄から見ていただくとして、ユダヤ系ロシア人のシングルマザー ニーナの負けず嫌いの気性の激しさ、主人公ロマンの信じ難い程の素直さ。「フランス軍で勲章を受けて外交官になり、大作家になる。」という母親との幼い頃の約束を生涯守り通し、実現します。

 ロマン・ガリは、母親に連れられてロシア〜ポーランド〜フランス ニースと移住し、1935年にフランス国籍を取得しておりますが、ユダヤ系移住者であることやポーランド出身者であることなどが何処でも必ずばれてしまい、軍隊の中でさえ露骨な差別を受けました。
 それが「自由・平等・博愛」を標榜するフランスの現実の姿であり、そのような現実の差別社会で生き抜いていくためにはニーナの負けん気の強さやロマンの一途さが必須であったのだと感じました。日本の田舎出の貧乏青年の苦労話などとは比較にならない過酷さでしょう。母親は、都会で生きていく露骨とも言える処世術(拳銃・服装・仕草等々)を息子に色々と教えます。息子はそれを忠実に守り、処世に生かします。今時の日本では有り得ないような姿ですね。映画では露骨に表現されている分だけ私にはよく解りました。

 コロナウィルスによる新型肺炎の蔓延が心配される時節柄、お互いにくれぐれも健康に気を付け、病気予防に万全を期していきましょう。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001737.jpg

http://eiga.com/movie/90485

1588龍田 豊秋:2020/02/04(火) 09:53:58
ご報告
おはようございます。今朝はずいぶんと冷え込みました。
そして、ご無沙汰しておりました。

ご報告です。
岩波文庫の最新刊です。

「声で楽しむ 美しい日本の詩」 大岡信・谷川俊太郎 編 です。

伊東静雄の「水中花」が収録されています。

1589上村:2020/02/14(金) 13:36:45
菜の花忌
第56回菜の花忌
第30回伊東静雄賞贈呈式

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1590Morgen:2020/02/16(日) 22:03:11
春が来たとはいうものの.
世界中が新型コロナウィルス禍で揺れているうちに「菜の花忌」の時節を迎えました。
毎日通っている大阪駅北の通路も、いつもは大勢の人で溢れているのですが、最近は外人観光客がめっきり減って、本来のビジネス街に戻っています。

昨日は、恒例の「長浜盆梅展」へ行ってきましたが、例年は雪が積もり、若者達に人気のある街並みもひっそりとしています。お蔭でどの人気店も並ばずには入れます。ひっそりとして淋しい感じがします。4月になると再び若者たちで溢れる街に戻るのでしょうか。

今月末は、熊本から(一部)ローカル鉄道で鹿児島方面へ春を探しに行く予定です。
3月には、決算関係で数回の出張が控えています。東京や札幌のホテルが、空いていて少し安くなっています。海外からの観光客が減って、「日本株式会社」少し委縮してしまったような感じがします。
観光客のマナーが多少悪くても、春の到来とともに街の賑わいが戻ってきてくれることを商人たちは待ち望んでいます。(辛抱!)観光産業の比重が日本経済を左右するまでに重くなったのでしょうか。
何はともあれ、マスクと手洗いに励み、新型コロナウィルス禍に巻き込まれないようにお互いに頑張りましょう。(写真は、湖北の「長浜盆梅展」から)

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1591Morgen:2020/03/03(火) 21:55:40
お互いに頑張りましょう
 ついに「 菜の花忌」まで中止になりましたか。長崎県は感染者がゼロなのに、日本全土に影響が及んでいるのが分かります。
 私の勤務先も政府の基本方針に同調して、3月2日から15日まで(IDC等の物理対応部門を除いて)在宅勤務することするこになりました。従来からテレワーク制度はありましたが、全社的なテレワークは明らかに「特殊状況下」での事業経営という未経験の事態になります。

 昨日からは、できるだけ外出を控えて「特殊状況下における取締役会・株主総会の実務」等のビジネス書を読んでいます。「絶対にコロナウィルスに感染しない」ように注意を払い、手洗い・消毒を励行したいと思います。

 どうぞ皆様もコロナウィルスに感染しないよう十分に気を付けて頂きますように。何よりもまず現在の非常事態が早期に解消され、一日も早く街に活気が蘇ることを祈るばかりです。

1592青木由弥子:2020/03/03(火) 22:56:21
春を待ちましょう
大事をとって、ということなのでしょう、ご年配の方々は、特にお気をつけください。
空気感染はしないとのこと、気温が上がってくれば自然消滅するという情報もありました。

『詩と思想』関連で準備していた座談会やインタビューの予定がすべて延期となり、菊田守さんを偲ぶ会など、大きな催しも中止となりました。1日も早い終息を祈るばかりです。

1593Morgen:2020/03/10(火) 01:51:27
「大変な時代」の到来か!
 皆様いかがお過ごしでしょうか?
 方々で社会機能が一時停止状態となり、まるで「未体験ゾーン」を飛行しているのに似たような不安定な気分です。NYの株式市場が底割れ危機から取引一時停止に陥るなど、世界中が経済危機前夜にあるような恐怖心に襲われています。

 私は、初体験の在宅勤務・テレワーク(tele=遠隔の work=業務)一週間が経過しましたが、自宅に篭り会社の各業務担当者たちが行うコミュニケーションの模様をslackで眺めたり、自分の関係する業務のリスケに応じたりで、何となく傍観者的姿勢に終始しています。予定の業務は思ったように進みません。世の中は緊急事態だというのにテレワークというぬるま湯の中で、緊張感を維持するのは大変だと思い始めています。

 新型コロナウィルスのの拡散が日本で収束に向かう時期の予測についても、研究者の見方は?晩春(5月)と見る者 ?もっと長引くと見る者に分かれています。感染から陽性診断までのタイムラグが半月以上と大きいために、専門家も確かな予測はできない状況で。

 加えて、世界各国の蔓延はこれからというニュースを勘案すると、「春が来るのを待つ」という姿勢から「春が過ぎるのを待つ」という姿勢へと切り替える必要がありそうです。
 ひたひたと迫ってくる世界的な不況の中で、緊急事態下を生き抜く強い自制心・我慢が要請される受難の時期が来るかもしれません。本当の「春が来る」のはその後になるのでしょうか。

 先日、天満天神境内で見た猿回しの若い女性の「綺麗なだけでは生きてはいけない。」という口上が、ドキッとするように蘇ります。何よりも、ぬるま湯の中での「低温火傷」というような無様な状態は嫌ですね。「待つ」よりも何かを仕掛けることができないものかとも思います。

1594山本皓造:2020/03/20(金) 19:16:32
『庭の山の木』
 皆様、ごぶさたしています。

 講談社文芸文庫から庄野潤三『庭の山の木』が出ました。同文庫はこのところ二、三年ごとに――忘れたころに、庄野さんの本を文庫にして出してくれます。

 『庭の山の木』単行本は昭和48年冬樹社から刊行されました。同じ年に『庄野潤三全集』全10巻の刊行が講談社から始まりましたが、この間一髪のために『庭の山の木』は『全集』には収録されませんでした。庄野さんはご自分で、
 「クロッカスの花」以後に発表された随筆、短文にそれ以前に書かれたものを合せて目次を作ってみた。
と、「あとがき」に書いておられます。(「クロッカスの花」は『全集』第10巻に収録)

 『庭の山の木』は『全集』に収められなかったので、私が『住高同窓会室所蔵伊東静雄関係資料目録』を編んだときには、同書が手元になく、参照を怠ったまま記事を書くという、ルール違反をやってしまいました。

 その後、冬樹社刊本を入手したので、もう今回の講談社文庫本は敢えて購入する必要もないのですが、その後の蒐書の際、先に文庫本で(新潮文庫など)持っていたものもたいてい、重複を承知で単行本を入手しているので、「出たものはみな買う」というのが現在の方針です。

 『庭の山の木』に収録された伊東静雄関係の作品は、次の4点です。
  1. 『反響』のころ
  2. 伊東静雄全集から
  3. 伊東静雄・人と作品
  4. 伊東先生のこと

 1.以外はこれまで単行本や雑誌特集号などに未収でしたので、この機会にどうかお読みください。

   ----------------------------------------------------

 私は昨年12月に入院して、正月は病院で迎えて、今年1月27日に退院、それからも早、ふた月がたとうとしています。腰椎の圧迫骨折に加えて、バス停での転倒、そのため、これまでの内科に加えて整形外科、脳神経外科とも縁ができ、外来診療の通院が忙しくなりました。退院後、ヘルパーさんが週2回来てくれて、買い物や掃除などをしてくれます。
 妻はずっと入院中で、近頃はコロナウイルスのために、家族でもすべて面会謝絶で、病室はおろか病棟までも通してくれません。
 皆様もどうかご用心のほど、ご健勝をお祈りします。
 ごぶさたのお詫びと言い訳も兼ねて、ひとこと書き添えさせていただきました。

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1595Mogen:2020/03/20(金) 23:34:39
「4月の風」を待ちかねつつ
山本様
ご投稿を読ませていただいて、安心しました。「要介護」となられて、何かとご不便のこととお察し申し上げます。
今や連日のコロナ報道の中で、まるで世界中が半身不随状態になっているように見えます。私の所属する会社も3月29日まで在宅勤務となって、昨日は役員会のため出社してみましたが、会議室出席者は私一人で、他の役員は全員がzoomによるTV会議参加でした。
彼岸の墓参りのついでに服部緑地公園に立ち寄りましたら、大勢の子供たちで溢れかえっています。長びく在宅に堪りかねて、野外へ出てきたものでしょう。
公園ではもう大島桜が開花していました。数日のうちにすべての桜が満開となるでしょう。
「不要不急の外出は控えるように」という要請がありますが、「在宅」というのは退屈なものですね。一日も早く普段の世の中に戻って、「4月の風」に吹かれたいものです。
皆様、くれぐれも用心をして、ウィルス感染なきよう、お祈りします。

1596Morgen:2020/03/24(火) 23:05:31
醍醐の桜
皆様お変わりはございませんでしょうか。
昨日は用事があって会社へ行きましたが、JR大阪駅周辺は大勢の通行人が戻っており、「大丈夫なのかな?」と心配になりました。(コロナ警戒心の緩みか?)

ところが、今朝になって「京都に花見に行こう」と誘われ、郊外であれば大丈夫だろうと勝手に判断して、醍醐寺の桜を観に行きました。(誘惑に弱い。)
開花状況をGoogleで見ると「五分咲き」となっていましたが、実際には見事に咲きそろった醍醐の桜を観ることができました。ほとんどが薄いピンク色の(富士桜風の)花で、ソメイヨシノよりも古いタイプの桜のようです。(写真を添付してみます。)
コロナ騒動のせいか花見客も程々で、少し得したような気持ちがしました。

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1597山本皓造:2020/03/29(日) 00:20:28
「誘はるる清らかさ」
井口時男さんの『蓮田善明』が昨年、この掲示板で話題になったとき、私も一読して、これは重要な本だと思い、詳細なノートをとりながら再読しました。ただし、「蓮田善明論」という所へはとても行き着けそうにないので、その中でわずかに一個所だけ論点をつかまえて、何か書いてみたいと思います。

昭和13年7月、広島文理大国文科の卒業生4人=清水文雄・栗山理一・池田勉・蓮田善明=を同人として、「文藝文化」が創刊された。池田勉による「創刊の辞」が引用されています。

「今や我等の義務と責任は、この伝統への心からなる感謝と安んじての信従とであらねばならぬ。寧ろ今日の日に在っては、伝統は神さびて厳しく命ずるを聴く。かく命ずる伝統の何ものであらうとも、内に命ぜらるる厳しさを我等は信ずる」

そして井口さんはこの文章を、

「伊東静雄の詩「わがひとに与ふる哀歌」の一節「かく誘ふものの何であらうとも/私たちのうちの/誘はるる清らかさを私は信ずる」を踏まえて」

と、説いておられます。

[中略――ここで杉本さんの「半身」「私」説を引いて考察を加えようとした。]

ひとが行為するとき、その行為を義とするものは何か。

     -------------------------------

ここまで書いてきて、うむ、これは問題の立て方がちょっと違うな、と思い、そこでいったん中断して、以後、そのままになっています。
以下は雑談です。

孫が東京で大学院(工学部)にいて、今月はじめ、ヨーロッパで学会か何かがあるといって、指導教官や院生らと渡欧しました。まもなくヨーロッパもご承知のようなコロナウイルス禍で、心配になって娘に尋ねたところ、今月の15日にドイツから帰国した、ギリギリで、もう一日遅れたら帰れなくなるところだった、とのことでした。今は下宿に閉じ籠ってじっとしているそうです。
息子が会社からの海外派遣でベトナムへ行かされることになっていたのが、ベトナムも入国禁止で、暫時日本で待機させられる様子です。

今日の夕刊(3/28 朝日新聞)に、ドキュメンタリー映画「三島由紀夫 vs 東大全共闘 50年目の真実」のことを書いた記事が載っていました。「記者のツボ」という欄で、記者は中村俊介。詳細は省きますが、記者は、三島の「誠実」「真摯」な態度を好意的に記して、こう書いています。

対極に位置するはずの両者に、なにかしら共通するものを感じるのは私だけではないだろう。「私は諸君らの熱情は信じる。これだけは信じます」と三島は言い放つ。

三島も、諸君の「誘はるる清らかさを私は信ずる」と言ってもよかったのではないでしょうか。

同じ夕刊の「惜別」欄に、古井由吉(享年82歳)、それから、イタリアのソプラノ歌手、ミレッラ・フレーニ(84歳)。フレーニは私の妹ぐらいの齢と思っていたのですが、同い年でした。先日は宮城まり子さんが亡くなりました。宮城さんはご高齢でした。 (3/28 記)

1598青木由弥子:2020/03/29(日) 01:15:21
勝たねばならぬ、と、死なねばならぬ
皆様

欧米からの帰国ラッシュが今週だったとのこと、ここから2週間が、大都市での感染拡大の分岐点になるそうです。推移を見守りながら、静かに過ごしています。座談会とインタビュー記事の編集と原稿執筆が重なってもいるので、窓からお花見をしながら、黙々とやるべきことをやっていきつつ、祈る日々です。

山本さんのご投稿を拝読。井口さんが、(反語として)現れた「勝たねばならぬ」を、「死なねばならぬ」と読んでいた・・・と日本浪曼派の〈受け取られかた〉について記していることを考えています。

清らかさの内に歩みいる「自発」、憧れに自らを燃やし尽くしてしまいたい、という情熱・・・

〜せねばならぬ、という義務に律せられた、受動的、強制的な「自発」・・・

『日本浪曼派』が昭和13年の3月に終刊したあと、7月に『文藝文化』が創刊されるわけですね・・・

思うばかりで、まだ上手く言葉になりませんが。

皆様、お大事にお過ごし下さい。

1599Morgen:2020/03/30(月) 00:35:53
「花見は来年もできる・・・」
山本様、青木様
ご投稿を読ませていただきました。

予想もしなかった「コロナ危機」が日々に深刻化していく中で、一日も早くこの得体の知れない悪質ウィルスに有効な薬品が開発されることを熱望します。
しかし、「危機の長期化」という見方が大勢を占めており、為す術もなく当分は自宅に篭るしかありません。
私も、5月の連休明けまでは在宅勤務が続く見込みで、テレワークの体制にも少しは慣れてきました。逆に、会社へ行かなくても、リモートデスクトップやクラウド、Slackなどを利用して、かなりのところまで情報交換や、資料の閲覧、実務書類作成ができるのではないかと思い始めています。一方で、会社内線番号(Cyber phone)やメールが全部iphoneに入れてあるので、どこへ行くにも手放せません。誰もサポートはしてくれません。
出張もなくなりましたが、東京や石狩との通信の距離感もさほど感じませんので、事務所や会議室も要らないのではないかとさえ感じることがあります。(仮想事務所や仮想会議室でも間に合う…)
その、結果として、有形・有効な仕事の成果だけが残り、各人の努力や真摯さなどは見えません。「働き方改革」という視点からは、テレワークはどう見られるのでしょうか?
―等々と、つぶやきながら、近所の桜を眺めつつ日々を送っていますが、これでは運動不足になる心配があるので、毎日1万歩を目標に近くの河川堤防等を人通りの少ない所を散歩しています。
皆様、どうぞご自愛いただきますように。

1600龍田 豊秋:2020/03/30(月) 10:11:03
菜の花忌
??????????????????????????????????ご報告

第56回「菜の花忌」は中止になりましたが、29日詩碑のところに行ってきました。
人の姿は見えませんでしたが、菜の花の束が6本と瓶ビール1本が献げてありました。

私は、「そんなに凝視めるな」をひとり朗読して、伊東静雄に思いを馳せました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001751.jpg

1601青木由弥子:2020/04/02(木) 10:21:55
山本さまに教えて頂いたことの続報
伊東静雄の『春のいそぎ』収載の「夏の終」初出について、以前、この掲示板でお尋ねしたことがありました。
山本さんに、全集の第七版で訂正されている旨を教えて頂いたので、その経緯について人文書院に尋ねたところ、第七版は500部であったこと、その版で増刷は終了していること、1972年の「定本」版の出る前(1961年の限定1200部の全集)から数えると、累計一万部を越えていることが分かりました。でも、その当時のことを知る方が亡くなったり退職されたりしていて、なぜ訂正が行われたのかは不明のままでした。

このたび、詩人で評論家の瀬尾育生さんが、さらに調査を進めた結果わかったことを、北上の「日本現代詩歌文学館」の紀要に掲載して下さいました。
『日本現代詩歌研究』第14号です。文学館のホームページから取り寄せられると思います。

論考自体が極めて示唆に富む素晴らしいものなので、『千年樹』という同人誌に私が連載しているエッセイの中で、いずれ、丁寧に読んでみたいと思っているのですが、さしあたってご報告として挙げておく内容としては、以下の通りです。

瀬尾さんが、ご友人で『竹林の賢者 富士正晴の生涯』の著者である大川公一さんを通じて、以下のことを明らかにしてくださいました。

1979年7月の『VIKING』に富士正晴が「伊東静雄について判ったこと」(『狸ばやし』編集工房ノア1984年に収載)という文章を書いており、その中で〈『春のいそぎ』の中の「夏の終」の初出が「公論」昭和15年10月号であることを大阪市立大学図書館で大阪府立箕面高校の米田義一という人が見つけたことを附記する。但し題は「夏の終り」で内容は『春のいそぎ』のと全く同じだそうである〉と記しているそうです。

ノアのPR誌、『海鳴り』に詩人の萩原健次郎さんが20年に渡り「夏の詩人」という伊東静雄エッセイを寄せておられるのですが、先日、32号をノアさんが謹呈して下さいました。そのお礼状と共に上記の事実をノアさんと萩原さんにもお知らせし、また、ノアさんに、『狸ばやし』を注文しようと思います。

1602山本皓造:2020/04/03(金) 14:03:27
青木様へ、とり急ぎ……
4月2日の青木様の投稿につき、とり急ぎ下記のみ記します。

1.瀬尾育生さんの伊東論について
「日本現代詩歌文学館」のサイトを開いてみたところ、「紀要」のページには13号までしか記載がなかったので、メールで問い合わせました。
折り返し丁重なお返事を頂戴し、紀要のページはさっそく更新したこと、瀬尾さんの掲載論考は、
  〈ひとつの時代の終わりについて――伊東静雄の「夏の終」〉
であること、がわかりました。
紀要の部分複写は不可とのことで、販売物のページから、紀要14号を注文しました。来週中には届くと思います。

2.富士さんの「伊東静雄について判ったこと」について
富士正晴さんの上掲文章を収載した『狸ばやし』が Amazon のマーケットプレイスに出品されていたので、これを注文しました。
昨年「富士正晴の伊東静雄書誌」という文章を投稿したのですが、そこに書いたように、これは小川先生の書誌から拾い集めただけで、昭和50年までで切れています。
それ以後の文献については、簡便な収集手段とてなく、茨木の記念館まで出向いて、そこの収蔵資料を悉皆閲覧するのが、もっとも確実でしょうが、誰が猫の首に鈴をつけるか……

3.米田義一さんについて
富士さんの文章に出るという「米田義一」さんは、以前この掲示板で、伊東の映画脚本「美しき朋輩たち」について話題になったときに(2008年)、そのお名前が出ました。
ただし富士さんの言われる事柄に該当する米田さんご自身の文献には、心当たりがありません。富士さんの文章を直接読めば、何か手がかりがあるかもしれません。

1603山本皓造:2020/04/06(月) 20:06:53
米田義一さんの文章
 今日(4月6日)、富士正晴『狸ばやし』と、「現代日本詩歌研究」第14号が、同時に届きました。
 さっそく富士さんの「伊東静雄について判ったこと」を見ましたが、「夏の終り」の初出については、青木様が前の掲示板で引用されたのとまったく同じなので、再引用は省略します。「現代日本詩歌研究」の瀬尾さんの文章でも、同じ個所がそっくりそのまま引用されています。
 私が前回の掲示板に書いた「ただし富士さんの言われる事柄に該当する米田さんご自身の文献には、心当たりがありません」の、米田義一さんの文章については、やはり富士さんには記述がありません。
 私はふと、米田さんの文章に、箕面高校時代に書かれたものがあったことを思い出しました。手元の資料を探して、
  〈伊東静雄のこと伊丹万作あるいは池内愚美のこと〉
     (「大阪府立箕面高校研究紀要」第10号、1979年2月)
がそれであることがわかりました。
 少し長いのですが、関連部分をそのまま引用します。

 伊東静雄に「夏の終り」という題の詩が二篇ある、一篇は
  < 夜来の台風にひとりはぐれた白い雲が
    気のとほくなるほど澄みに澄んだ
    かぐはしい大気の空を流れてゆく >
で始まる十七行の作。昭和二十一年十月号の『文化展望』に発表され、第四詩集『反響』に収めている。伊東静雄の詩は今や高等学校の現代国語教科書の多くに教材として採られている。直接に見たのではなく、横からのぞいた記憶で言うので間違っているかもしれないけれども、この詩を中学校の国語教科書の一つが採り、その先鞭をつけたのであった。いま一篇は、第一連が
  < 日の出にはまだ間があるらしかつた
    海上には幾重にもくらい雲があつた
    そして雲のないところどころはしろく光つてみえた >
である一連三行で五連の作。第三詩集『春のいそぎ』に「夏の終」の三字題で、『反響』に「夏の終り」の四字題で収められている。しかし初出は不明とされてきていて、小高根二郎氏の『詩人伊東静雄』(新潮社 昭和46.5.25)に <発表年月がはっきりしない。太平洋戦争の勃発の前であることは間違いない>とある。また『定本伊東静雄全集』(人文書院 昭和46.11.25)の作品年譜にも、<不明。太平洋戦争勃発前?>とあるし、富士正晴・林富士馬両氏の共書『苛烈な夢』(社会思想社・現代教養文庫 昭和47.4.30)の富士氏分担執筆の箇所にも、<この虚しいも陰鬱な気分の詩はその発表年月も発表誌も今のところ判っていない。少くとも大詔渙発以前のものであるとする小高根二郎の説にわたしも賛成である。とすると、昭和十五年のころか、昭和十六年の「第一日」の近くあたりに位置を占めるべきものであろう>とあり、それの不明であることに変わりない。
 このことに触れた以後の文献の有無は知らないが、その発表誌に私が偶然に行きあたった。ことしの春さきに大阪市立大学付属図書館で、その所蔵雑誌の中から『公論』(第一公論社)を閲覧していた折りのことである。その昭和十五年十月一日発行の十月号第三巻第十号に載っていた。「夏の終り」の四字題であるが、『春のいそぎ』に所収の「夏の終」と字句に異同はない。棟方志功が目次のほかカットも手がけていて、この「夏の終り」の見開き二ページにも<棟>の字の混じった花模様がはいっている。さいわい小高根氏は私宅とは駅向こうにお住まいである。川向こうといえないこともないが、実状は駅向こうというほうが近い。自転車で通勤している途にもあたっているので、学校の帰りにお邪魔をし、手柄顔でお伝えした。
 『公論』に発表された、この<月の出にはまだ間があるらしかつた>のほうの「夏の終り」を読むときに私がつねに思い出す逸話がある。<虚しい陰鬱な気分の詩>と富士正晴氏がいっておられることとは全く別に、全く単純に、この詩のなかの<わたし>が海辺の掛茶屋の床几にすわって海に向かっていることから思い出される、伊東静雄の、逸話としても小さい逸話である。
 昭和十五年の四月から、私は伊東静雄の勤める中学校の生徒であった。ただし伊東先生の授業の生徒であったことはないが、それでも折り折りに見た伊東先生の記憶がある。その一つは、入学した年の夏、堺大浜であった水泳訓練のときの、お椀型の黒い海水帽をかぶり、腰まで水につかった姿である。三年生になってから、級友が当時の水泳訓練の記憶として、次のように話すのを聞いたことがある。それで忘れずにいるのである。
  <練習中であるのに、自分たちは遊び半分で足さぐりに貝を掘っていた。あった、
  取れた、とわいわいやっていたところを、伊東先生に見つかってしもうたが、先
  生は近寄ってきても叱りはせず、貝はどこにある、ぼくにくれ、といふうに言うて、
  自分で掘ろうとしはった。この先生は純真やなあ、と思うた。>
 級友は語調に畏敬の念をこめていた。叱られる、と覚悟したのに相違した先生の出かたに、かえって恐れ入りもし心服もしたのであろう、と私は受け取った。
 しかしそのとき、私は心の隅で、あの年の水泳訓練で、この級友にはそんなこともあったのかとも思っていた。まだ学校のなににも慣れていなかった私にとっては、戯れに貝を掘って騒ぐどころでなく、海は潮の香さえ陰鬱であったのである。
 その級友には、この夏に訪れて会っている。数年ぶりであった。確かめはしなかったが、私に話した堺大浜での伊東先生のことを覚えているであろうか。何であるにせよ、私は覚えていること、忘れられないでいることも、人は忘れていること、あるいは忘れているとこたえるものであることに、私もようやく慣れてきている。とはいえ、実のところは、余人の回想文で読んだことであるのに、級友から聞いたことのように私が覚えちがいをしているのかもしれない。そういう懸念もあるのに調べないままでいるが、それほどに堺大浜で見た伊東先生の姿とこの逸話と「夏の終り」とが、私のなかで結び合っている。
 六月の中頃、小高根氏からお手紙が届いた。御新著『総務部長憤死す』(日本経済新聞社)の私宛の署名本を用意しておられるとのことであった。また学校の帰りにお邪魔をしたが、望外のことであった。

1604青木由弥子:2020/04/06(月) 22:52:59
ありがとうございます
山本さま

貴重なエピソードをありがとうございます。書き写すのは、大変だったのではないでしょうか・・・

伊東静雄は、何がなんでも厳格に職務を果たさなくてはいけない、というような義務に捕らわれた指導ではなく、時には教え子たちと共に遊んでしまうようなところもあったのかもしれないですね。

米田→小高根→富士→(全集の修正)という言葉の手渡し。

戦中の「夏の終り」には、暗く陰鬱な調子の、時代を鋭敏な皮膚感覚と鋭い直感とで捉えたような印象があります。戦後の「夏の終り」の澄明感、解放されたような感覚が、新時代の若者に共鳴する・・・あるいは、そうあってほしい、という気持ちから教科書にも採用されたのかもしれません。

でも、私には、あの「さよなら」が・・・高い山の上から展望されているような視点ですが、もっと高いところ、つまり流れゆくはぐれ雲と同じ視点から人里に向かって呼びかけられたもののように思われてならないのです。
8月15日に、いったいなぜ、戦争が終ったのに、世界が終わってしまわないんだ、戦争が終ったのに自然もそこに生きる人々の暮らしにも、何の変化も起きないんだ、と「茫然」とした心を記し、沈黙したあと・・・翳りを帯びつつも祈るような、静かな明るみを願うような詩を記した静雄が、解放感だけで世界を見ていただろうか・・・魂が、ようやく〈念願かなって〉肉体を抜け出して・・・つまり死後の自由を得て、その視点から人里に「さよなら」と呼びかけながら去っていく。その死後の眼差しに、限りなく近接しているのが、この、戦後の「夏の終り」ではないか・・・死後の目には何もかもが美しく見える、その里を、今生の限りと目に納めながら去りゆく者の目線で歌われた歌のような気がしてならないのです。

1605山本皓造:2020/04/22(水) 13:26:28
富士正晴『狸ばやし』
 先に話題に出た富士さんの『狸ばやし』(編集工房ノア、1984年4月)を読みました。中に何個所か、伊東静雄にかかわる話が出ていましたので、ここに集めてみました。本書はすでにお読みの方もあると思いますので、重複はお許しください。

1.「夢のいろいろ」
 敗戦後、詩人伊東静雄の紹介で、当時無名の小説家であり、復員海軍将校(大尉?)である島尾敏雄がわたしを訪ねて来、やがて一緒に同人雑誌VIKINGを創刊したが(……)
 『狸ばやし』巻末の年譜には島尾とのかかわりと「VIKING」の創刊について、次のように記されています。
一九四七年(昭和二十二年)三十四歳
十月、伊東静雄の紹介した島尾敏雄、林富士馬、斎田昭吉、「三人」同人であった富士、井口浩、伊藤幹治、富士正夫、堀内進、「三人」維持会員であった広瀬正年の九人を創刊同人として「VIKING」創刊。
 しかし「VIKING」創刊や島尾との交わりの始めについては、富士はほかの文章や著作でもいろいろ書いていますし、また、島尾の手によっても、富士との通交や「VIKING」創刊参加のいきさつについて、記すところがありました。それぞれに、その場面への伊東のかかわり方の記述も、すこしづつニュアンスが異なり、うるさく云えば、どれがほんとうか、といいたくなるような部分もあります。私の管見に入った限りでは、このあたりの事実についてもっとも詳しいのは、中尾務さんの「VIKING(一)、同(二)」であろうと思います。機会を改めて、伊東・富士・島尾(それに庄野)の関係図をまとめてみたいと思っています。

2.「寄席の思い出」
 先代の円馬が病気勝ちになっていた頃で、詩人の伊東静雄が大阪の飲み屋で、尊敬し切った態度で、お流れを頂戴に行ったことを覚えているが、円馬は暗い顔付きで面倒くさそうだった。伊東静雄は寄席にちょいちょい行き、その方面のことに知識を持っていたらしいが、わたしと一緒に大阪の寄席へ入るというようなことはなかった気がする。
 伊東がミナミをうろついた話はよく耳にしますが、「伊東静雄は寄席にちょいちょい行」ったというのは、私には初耳でした。

3.「潁原さんのかすかな思い出」
 潁原さんの昭和十五年五月二十五日の日記に「大阪女性教養の会」というのに話を頼まれて出かけ、そこへ伊東静雄君が新聞を見たといってわざわざ来てくれたが、富士正晴君と同道であった、二人は講演のすむまで待って居てくれたが、二人に近くの菓子舗の階上に導かれ、そこで一時間あまりいろいろと話した、ということが書かれているらしい。(……)
 この会の会場は百貨店(多分三越)の何階かにあった気がする。二人は、だから、下りる時エレベーターに一緒にのった筈だが、その時いた伊東静雄の姿がわたしの記憶の中からは消え失せていて、潁原さんと二人でいたような気がしていた。
 潁原さんがその時わたしに言ったことは、奇異であったから、ずっと記憶に残っている。奇異というのは、わたしに言うにしては言っていることが、そのころのわたしには全然ふさわしくないからである。(……)
 潁原さんは富士さんに、西鶴は町人ものもよいが、あなたは武家義理ものをやったらよいと思いますね、というようなことを言ったらしい。
 潁原さんの俳文学の本をそれから読むようになったということになるとこの文章を書くのが楽になるが、どうも読んだらしくない。伊東静雄も芭蕉の鑑賞については樋口功という人の本がよいといっていたので、この人のそうした本は読んで、中々いなと思った記憶がある。
 伊東静雄の大学の卒業論文を最も高く評価した人は潁原さんであったし、伊東と潁原さんとは同じ長崎県人で、そのことばなまりの点でも親しいなつかしい気分がしていたのであろうと思われれる。(……)
 このあと話は、京都の西北の方にあった潁原家訪問のことに移る。富士自身はその家を知らないのだから、だれかに連れてもらったはずだが、それが伊東静雄であったかどうかは、はっきりしない。この訪問の時の印象ははなはだ好ましく、しかし何の用事であったか、どんなはなしをしたかは、まるで記憶にない。
 潁原さんのその時の服装はとなると、洋服だったより和服だったような気がするというより仕方がない。ソフトを冠っていたということは確かであり、大へん物静かな歩き方であったということも、その声音の物静かさとともし確かであるような気がする。
 このような物静かな人は女にしみじみと好かれそうだなと思ったことは、これは大いに確かであった。
 というふうに、いかにも富士さんらしく、好印象を述べて、富士さんの文章は終わっています。

4.「挽歌の季節」
 詩人の伊東静雄の「曠野の歌」という詩も、自分の弔いをあらかじめ客観視している風な凄いところがあるが、西洋風で、鋭いが甘美な死でもあるという感じがないでもない。
 この文章は、はじめに「挽」の字の字解があり、そこから「挽歌」の語釈があり、そして伊東の詩の前に陶淵明の挽歌のうちの一首を引用、「ものすごい爺さんであると、いつもわたしは思う」と結んでいます。

5.「伊東静雄について判ったこと」
 最後に残した「伊東静雄について判ったこと」を、小分けにして紹介します。

 はじめに、この文章の成り立ちについて、次のように書いています。

 昭和四十七年四月三十日付で、林富士馬とわたしの共著で、『苛烈な夢―伊東静雄の詩の世界と生涯ー』が出た。その後、わたしは伊東静雄について書いていないが、この本の後に判って来たことがいくつかあって、こんどの東宝画廊の伸子[富士の次女=山本註]とわたしの展覧会で思いもかけぬことを知ることができたので、それを書き、ほかのことにも触れる。

イ「秋の海」
 最初に『春のいそぎ』の五つ目の詩「秋の海」をとりあげて、
・『定本 伊東静雄全集』では二行目住居が 往居 と誤植されている
・「道のまねびの友」について『苛烈な夢』では青木敬麿と想像したが、それはまちがいであった
 と訂正したあと、この「道のまねびの友」について判ったことを詳しく述べます。この件に関する諸々はそのほとんどがわたしには未聞に属しますので、やや長いですが全文をそのまま写します。

 青木敬麿は大阪府三島郡阿武野村大字氷室(……)に新婚生活をし、その家で「呂」創刊(伊東も創立同人)の相談がまとまったのだが、出たのは彼が兵庫県岩見に帰住してからである。そのことを青木敬介より知り、岩見を海岸と考え、「道のまねびの友」ということもあって、これを青木敬麿と考えようとしたが、敬介にいろいろ聞いてみると、時期その他の点で、青木敬麿でないことははっきりしたが、さて誰か調べる手段も思いつかずにきたわけであった。この「秋の海」が空想の所業とはどうしても思えない重さがこれにはあった。しかし、そのままにしておく外はなく、又、そのこともほぼ忘れていた。
 それが今、判った。しかも、東宝画廊主近藤洵二の妻裕子という人が、その「道のまねびの友」の娘で、その時、四歳であったのであり、その海は大阪近郊の保養地助松海岸であり、彼女の母の巻子は結核を病んだため、ここに一家は居を移して住んでいたのだということであった。
 「道のまねびの友」は東京高等師範を出て当時、大阪府立住吉中学校で伊東静雄の同僚として勤めていた林政登[まさのり]という人物で、生物学を教えていた。明治四十一年(一九〇八)生まれであるから、三十九年生まれの伊東静雄とは二つ違いだが、ほぼ、同年輩であり、職員室ではよく話をした。しかし国文と生物と専門が違うせいか、お互いに訪問し合うほどの仲ではなかったそうだ。
 大谷巻子は女学校を出るや否や十七歳位で、政登と結婚したが、政登の母が気に入ってえらんだものらしい。長女裕子をうんだ前後より発病したのかも知れぬと思う。「家にして 長病みのその愛妻[はしづま]に/年頃のみとりやさしき君なりしとふ」と歌われているから、その、南向の一室にこもっての療養生活は短期でなかったのであろう。その室に、娘裕子は近づくことを厳禁されていたそうだ。母が死んで、お別れに死顔を見た折に、母はパッチリと目をひらいてわたしを見たと裕子は今も主張する。
 昭和十七年十一月二日、享年二十四(従って大正八年生)でこの人は死亡した。葬式は多分、次の日であったであろう。葬式に参列した伊東静雄はそれだけでは気がすまず、いかにも彼らしい情の表現だが、そのつぎの日今度はひとりで親しく弔問に出かけたわけであった。幼い娘を残され、愛妻に死なれた人は、家庭菜園に野菜をうえて、悩みをまぎらそうとしていたのだという。その姿を伊東が遠くから見ていたのだということだが、その間に立ち上って海を見ていたのかもしれない。
 その後の日、伊東はこの詩を和紙にきちんと書いて来て、林政登にわたした。林政登はそれを読んで、「こんなきれいごとやないねん、こんなにきれいに書いてもろては困るなあ」といった。伊東は「詩にかくときはそれでいいのです」といったということだ。これは今も元気でいる林政登談を娘がとりついで教えてくれたことである。
 この詩はもらった人の手許にあったが空襲でやけたとかいうことだ。

 ところで、林先生は住中の同僚であったというので、同窓会名簿を見てみたのですが、面妖なことに、載っていないのです。いちど同窓会室に問い合わせてみようと思いつつ、そのままになっています。
 私は、まだ「海」であった助松海岸を知っていますので、傷心をこらえて秋の海に向かって立つ友と、離れた所で思わず涙する伊東静雄の姿が、目に浮かぶようです。


 次の二件は、短く。
・『苛烈な夢』一七二頁「述懐」の初出は、昭和十七年十二月四日大阪毎日新聞。
・同書一八〇頁「〇二九二(二月二十四日)東京 斎田昭吉宛」は、昭和二十一年は誤りで二十三年が正しい。斎田本人の申し出による。


 次は病院で新聞社から詩の注文を受けた件。
『苛烈な夢』二〇六〜二〇七頁に、昭和二十六年、
・〇四〇〇(四月十二日 丹波市 たかはししげおみ宛)
 「先日お金ほしさに新聞社の注文の詩はじめて書いて後二日ほど大へん苦しんだ……」
・〇四〇一(四月十四日 大阪 斎田昭吉宛)
 「……早速その夜『五月の光』といふ一篇つくり上げたら睡れず、その後二回ほど夜もひるもこんこんと疲れてねむりつづけた……」
 以下、『苛烈な夢』の説明と推測。
 「定本伊東静雄全集」では〇四〇〇の「新聞社の注文」のところに(二二〇)と註の番号がついており、編註のその項を見ると、「二二〇 伊東の没後、大阪毎日新聞に掲載された『倦んだ病人』を指すと思われる。」とある。この註は全くの誤りであって、大阪毎日新聞社学芸部が(正確にいえば、犬飼仁也副部長が)伊東静雄に詩を注文したのは、その死の年の「文藝春秋」二月号に「長い療養生活」という伊東の詩がのった後のことである。(……)
 とすると〇四〇〇の新聞社の注文とは一体何だろうかとなる。これはやはり、大阪の毎日新聞社の注文であろうと思う。注文することを命じたのは学芸部長藤田信勝であり、それを示唆または頼んだのはすでに毎日新聞社を退社し、小説家として取材にしばしば関西にやって来ていた前副部長井上靖だと思う。(……)
 長患いで金もいろうし、おそらく手許不如意であろうが、人のあわれみを受けるような人物ではないから、ということになれば詩を注文して原稿料として渡すより外はない。もっともらしく、五月に適しい詩をたのみますということになろう。そこで「お金ほしさに」伊東は書いて送る。金も来たが、新聞には不適当だからおかえししますと、原稿も一緒にすばやく返ってくる。その詩が多分「五月の光」であろう。そこへ斎田は六月号のために詩がほしいといって来る。同人雑誌(ことにガリ版の)の六月号は六月に出ることが多い。すると「五月の光」では困る(……)(以上、『苛烈な夢』の引用)

 このように富士は「推理と想像」をしたが、「後に斎田昭吉より当時の事情の詳細な説明があって、事情がはっきりした」と、「判ったこと」では次のように書いています。

 森脇昭吉(当時斎田)によると、わたしと斎田が毎日新聞社の向いのオリオンズというコーヒーショップにいると、毎日学芸部副部長の犬飼仁也が来あわせ、伊東の病気や入院のことをわれわれから聞くと、そりゃ金がいることだろうから、詩を注文しようと、斎田にそのことを伊東のところへ言いに行かせた。犬飼の気持ちとして、金を社から出すためのことであって、詩はそのために書いてもらうが、必ずしも載せるということではなかったのであろうと思われる。そうした気分、態度は伊東の絶筆となった詩「倦んだ病人」の場合も全くそうであって、その詩は伊東の死亡によって、毎日新聞にようやく載ったのであった。これにはわたしが直接関係していたから、はっきりしている。
 何故載せようとしなかったかは、その頃の新聞はスペースが大へん少なかったからである。毎日新聞が井上靖によって大阪の詩人会をつくったりして詩人を何とか好遇したい意図を示しただけで、他の大新聞は詩をほとどかえりみなかったほどであった。又、新聞などにおける伊東静雄の声価もそう大きくなかったのだ。だから、金を出すために詩を書かせ、その詩を理由に原稿料を送ったということは、
むしろ好遇といっていいのかも知れなかったが、詩人の伊東から見れば、金よりも詩がのることがより大切なことであった筈だ。
 だから、伊東は帰って来た「五月の光」を斎田の目の前で破って捨てたということだ。

ニ「夏の終」
 そうしておしまいに、前回書いた「夏の終」の初出の件が来るわけです。[以上、伊東静雄について判ったこと]

追記
住高同窓会室に問い合わせた結果、林政登先生について、つぎのことがわかりました。
・同窓会名簿「特別会員」の欄に
  (林)大谷政登 昭15.4〜昭18.9 博物
 の記載あり。改姓の経緯は不明(大谷は奥様の姓)
・林先生は、1995年12月24日ご逝去 ご遺族は箕面市

1606Morgen:2020/04/29(水) 22:42:47
お変わりございませんか
 皆様、お変わりございませんか。

 新型コロナの想定外の感染拡大で、世界が変わってしいました。
 2月、3月頃には「やがて収束するだろう」と甘く見ていましが、コロナ肺炎の正体が明になってくるにつれ、影響の深刻さがひしひしと実感されます。
 私は、5月末まで在宅勤務中のため、毎日、パソコンやスマートフォンで、幾つかのグルーと双方向の交信をしたり、オンライン会議をやる巣籠生活です。常に、「何か大変なことが起こっていないか?」とついスマホを見ます。
 こんな?厳しい環境でも、会計や監査の基準が大幅に緩和されるわけでははなく、緊急事態に便乗した甘えが許されるわけではありません。(政治家のリップサービスは濫発されていますが、実務の基準は大して変わりません。)

 私は、通算3か月にも及ぶLONG STAY HOMEを無事にやり抜くために、朝の人が少ない時間帯に、近所の河川敷を散歩しています(目標1万歩/日)。

 「明けない夜はない。」ー アフターコロナの夢を見ながら、巣籠生活」に耐え抜きたいと思います。
 どうぞ皆様も、STAY HOMEしていただき、万全な感染防止に努めてください。
(伊東静雄に言及できなくて済みません)

1607Morgen:2020/05/06(水) 11:18:39
「欲しがりません勝つまでは」
 皆さま、未曽有の緊急事態下という大変な時期を、いかがお過ごしでしょうか。
戦時下を過ごした詩人の環境はこんなものではなかっただろうと思いながら、伊東静雄の詩には関係のない投稿を続けます。

 去る2月27日、安倍首相が「コロナ対応の要請」を出して以来、早くも60数日が経ちました。日本のコロナ対応は、中国からの「帰国者およびその濃密接触者」をターゲットとした保健所による「PCR 行政検査」とういう極めて手作業的・お役所的から始まりました。
当初は2週間単位で出された自粛要請が、約1か月単位となりました。その間、日本の感染者は日増しに拡大し、今では約1万5千人を超えました。

 しかし、「技術大国」を標榜する被検者数はアフリカの小国以下という、一目瞭然の惨めなFactが露になりました。これでは、日本が発表する1万5千人という感染者数すら外国人は信用していません。この信用失墜を回復する手は、民間委託による検査機器の自動化しかないことは明らかですが、これが動き出すのはいつの日でしょうか。

 私たちは「おうちですごそう Stay Home」を「要請」される(強いられる)中で、TVから刻々と流される「新型コロナ感染症」関連ニュースが、常時気になって仕方がありません。国民全てがコロナという目に見えない敵と戦っている有事(戦時体制)です。「欲しがりません勝つまでは」という戦前の標語が脳裏に浮かびます。

 しかし、最近では「アフターコロナ」「出口戦略」が叫ばれるようになり、世界各国は少々フライング気味に「戦時体制解除」にチャレンジしています。既に、主要国がスタートを切りました。「戦後復興」作戦に負ければ、以後5〜6年間は遅れを取り戻せません。
日本も「さあどうする」と迫られています。眼の前では、収入を絶たれ日々の生活が立ち行かなくなった国民が増え、社会不安が高まります。このままでは犯罪や自殺者が増加し、世相もこれまでの日本とは違ったものになります。スタートせざるをえません。

 私の所属する会社は5月31日までの在宅勤務をしていますが、その後もリモ―トワークを働き方改革の軸に据える方針で、このままでの在宅スタートの構えです。
 私は、自分の関係する3グループ向けにslackやzoomというアプリを使って仕事関係の情報発信をするように毎日努めています。日頃は「風をよまない」働き方を勧めながら、双方向通信を心掛け、コミュニケーションに努めてているのですが、皆さんはなかなか思うようにリアクションしてくれません。

 今後どうなるのかなあと不安感に囚われながらも「欲しがりません勝つまでは」という言葉がつい口に出ます。(静雄詩の環境に少し近づいたか?)

アフターコロナを見つめながら、皆さんお互いに頑張りましょう。

*戦時中の有名な標語「欲しがりません勝つまでは」。1942年(昭和17年)、大政翼賛会と新聞社が「国民決意の標語」を募集した「大東亜戦争一周年記念」の企画で、32万以上の応募の中から選ばれました。この標語は国民学校5年の少女が作ったとされています。

1608Morgen:2020/06/06(土) 14:55:10
立葵の花
皆様お変わりございませんでしょうか
六月となりましたが、まだ在宅勤務を続けています。
「タチアオイ」の花が、凛として立派な花を開く神崎川辺りを、時折散歩します。
葵といえば、すぐ思い出すのはお馴染みの「水中花」の絶唱。

忍ぶべき昔はなくて
何をか吾のなげきてあらむ。
・・・・・・・・・・
遂ひ逢はざリし人の面影
一茎の葵の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。

拙訳(一茎の葵の花の前にあの人の姿思い浮かべ、投げうつ水中花
考えてみれば、忍ぶべき昔の思い出など何にもないじゃないか。
こんなにも苛々として嘆きのポーズを演ずる愚か者よ。
今年の六月はかくも美しいのに、私は訳もなく嘆き、自暴自棄になっているのだ。)

6月の太陽は輝き、さつきが満開、山百合も開花し始めています。こんなにも美しい初夏であるのに、苛々悶々と在宅という名の巣籠生活。
「WEB会議」やリモートの?-Workというのは、誤解や無理解を育てる温床です。
口舌の切れが悪い私は出来るだけ言葉を省略して簡略に話そうとしますが、聞き手が解ってくれているのかどうか気になって仕方がありません。
タチアオイの花の前に立ててみたい人の姿など全くありません。哺乳動物は、群れをなして、お互いの匂いのする距離で共棲するようにできているのでしょうか.
東京のあちこちでは、家をなくし、食べ物にも事欠くコロナ窮民の数が増えているのが現実です。
一日も早く救いの手が届きますように。

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1609山本皓造:2020/06/10(水) 13:23:15
新型コロナ禍と般若心経
 5月6日(水)の Morgen さんの投稿「欲しがりません勝つまでは」を読んで、唐突に、私も何か書こう、と思いました。それからもう、ひと月もたってしまいました。私が小学校に上るか上らぬかの頃、
  “パーマネントに火がついて 見る見るうちに禿げ頭
   禿げた頭に毛が3本 あゝ恥ずかしやはずかしや
   パーマネントはやめましょう”
というような「軍国歌謡」(?)を、誰に教えられて、自分たちで歌ったのか、歌わされたのか、そんな昔のことを思い出したりしたものでした。 そんな話を書こうと思っていました。

 何も書けないうちに数日がたって、朝日新聞の連載『折々のことば』に鷲田清一さんが、奥本大三郎さんの『蝶の唆え』から引いて書いておられるのを読みました。
 切り抜きを画像で貼り付けます。鷲田さんの要約・抜粋はきわめて適確で十分なのですが、せっかくなので(何がせっかくなのかわかりませんが)奥本さんの原本から該当箇所を前後丸ごとここに載せます。

 幼時、自分がまだ病気のはじめで寝ていたとき、近所のおばさんが病室に入り込んできて、もの珍しそうにあたりを見回しながら、私に向かって「可哀そうにねえ。おばちゃんが代わってあげられたらいいのにねえ」と言ったことを思い出す。
 もとより私は素直ではない。心の中で「あんな白々しいことを言うて」と怒りを感じた。偽善を憎むことのはじめであったろう。
「本当に僕と代わることができるとして、僕がそう頼んだら、このおばちゃん、うまいこと言い訳して逃げるくせに」
 と私は思った。
 自分と他人は違うのである。健康な人間に、病人の気持ちは本当にはわからない、いくら他人が一生懸命慰めてくれても、ずきずきする痛みは続いている。一方、見舞いの人は、病人のそっばを離れると、当たり前のことながら、そんな痛みのことなんかすっかり忘れて愉快に暮らすことができるのである。
 そういえば、痛みの激しいとき、島田の姉ちゃんが、「般若心経」を唱えてくれたことがある・すると不思議に苦痛がやわらぐ気がするのであった。

 奥本さんの本は好きで、たくさん読みました。書かれたものが好きということもあり、しかしそれ以上に、実は私は奥本さんとは「地縁」があるのです。奥本さんは大阪南部の、泉州貝塚の町で幼時を過ごし、その小学2年生から5年生ころまで大病を患って長いこと休学し、「何度も激痛にのけぞって」おられました。その幼時回想記には終戦直後あたりからの、貝塚の町や道や店や、映画館や農業学校や溜池や、そんな風景や出来事が、涙の出るほどなつかしげに、書かれています。一方、私ども夫婦にとっては、貝塚は、私が貝塚高等学校定時制に就職し、結婚して、箱のような木造アパートに居を定めてからいまの京都府木津に移って来るまで37年間、住み暮らした場所になりました。私と奥本さんとは10歳ほども年齢が違いますので、私の懐かしむ貝塚と奥本さんの懐かしむ貝塚とは違いがあるのですが、それでも奥本さんが『蝶の唆え』で記される、駅下がりの映画館山村座や、通称「すずめや」の中野書店、奥本さんの在籍した北小学校(私の妻も貝塚の子で、北小学校の出身で、彼女は奥本さんのことを呼ぶのに「奥本クン」などと言います)、小学校のすぐ横にあった奥本製粉(奥本さんはそこの御曹司でした)の赤煉瓦の工場などはいまでもありありと目に浮かびます。

 奥本さんの病気は、正岡子規と同じ、脊椎カリエスと、たしか自分で言っておられっと思います。休学するようになったのは、数えてみると昭和27年頃のはずで、伊東静雄の入院は昭和24年、入ってからストレプトマイシンやヒドラジッドなどの特効薬も用いるようになっていましたから、お金持ちの奥本家にそれらを我が子に与える経済力はあったでしょう。
 この頃はまだ結核の全盛期で、同じころに私の父と母が両方とも入れ替わりに入院していました。私も昭和35年に羽曳野病院に入院してパスはヒドラジッドなどを服用させられ、ストレプトマイシンの注射を打たれていました。

 奥本さんの般若心経の話から私はこれもまったく唐突に、柳宗悦の『妙好人論集』という本のことを思い出しました(岩波文庫)。そこで越中五箇山の奥の、赤尾の妙好人、道宗のことを読み、《他力》ということを深く納得しました。般若心経とアベノマスクとどちらがよく効くか、などと言っても口が汚れるような気がするだけですが、せめてあの人たちが、般若心経の話を聞いて、バカにするようではなく、深く胸を打たれる形の人であってくれればよかったと思うのです。

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1610Morgen:2020/06/26(金) 23:23:17
わが消夏法
山本様の「コロナ禍と般若心経」というタイトルを見て、近所のお寺(黄檗宗)の坐禅会のことをすっかり忘れかかっていました。
坐禅会では、初めに開経偈、般若心経、坐禅儀などのお経を唱えます。意味は深く考えず、抑揚もつけず棒読みにします。(般若心経は2分程で)
出だしの「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦複如是舎利子・・・」辺りは滑らかにいくのですが、中程の「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得・・・」辺りにくると少し噛み気味になります。「秋口から坐禅会に復帰するか」という気持ちも沸いてきます。私の祖父は、若い頃禅の修行をしたことがあるそうで、朗々と響くその読経を聴くと心地良く感じたものです。私の読経はその足元にも及びません。

 今日は会社の株主総会がホテルの広い会場を拠点に開かれ、役員はリモートで自宅で参加しました(ハイブリッド型)。会社の仕事もリモートワークが主流となったので、(特に東京支社では)通勤に便利な街中に住んでいた社員達が、家賃の安い環境の良い郊外に引っ越し始めたようです。オフィスも半分位解約しようという方向で検討中です。
 大げさに言えば、「ポストコロナの日本社会の姿」が仄見えてきそうな動静でありますが、今や私は後衛の(埒外の)位置から、若人たちの活躍を見守るほかありません。
「ポストコロナはクラウドを軸に動く」と言われていますが、クラウド上で動く色々な新しいアプリが開発され、それを使いこなさなければ現実の社会の進歩に乗っていけないし、新しいビジネスチャンスもまたそこにありそうです。
 心の邪念を払い、静かに般若心経でも唱えるのが良い消夏法かもしれません。

摩訶般若波羅密多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦複如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無限耳鼻舌身意無色声香味触法無限界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三驀藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経

1611Morgen:2020/07/03(金) 22:59:57
「あかかとばいのんのかばいおらんださんからもろたとばい」
大阪駅周辺は通行人が増え、特に茶屋町など若者の多い通りは過密状態になっています。久しぶりに天牛書店(古本屋)で平山蘆江『長崎出島』(昭和27年11月住吉書店)という古い小説を買って読みました。
この本は、フェートン号事件、ゾーフ蘭和辞書編纂、当時の世界情勢(ナポレオンの仏蘭西帝国対英蘭独連合軍)や、英国による長崎出島乗っ取りの策謀などを織り交ぜて展開する歴史小説です。(序によれば)この本は「ヨーロッパや南洋(ジャワやバタビアなど)からオランダ領が消えて、長崎出島だけにオランダの三色旗が翻っていた頃の、蘭館の人たちを親切にかばった長崎人の情愛を表現した人情小説」として書かれました。
今でも「日本の古本屋」にもあるので、平山蘆江さんは昭和20年代には有名作家だったのかもしれません。(私は300円で買いましたが)
日本は永い鎖国時代を経て明治維新を迎えたので井の中の蛙であったと想像しがちですが、実際には国際情勢や新技術の情報は長崎を通じて江戸へもたらされており、それが明治への移行を容易にしたのだそうです。
大阪北浜の『適塾』には、ゾーフ蘭和辞書が今も展示されていますが、当時は福沢諭吉や長与専斎など多くの塾生達が競い合って利用したそうです。そのゾーフ辞書を編纂(仏語からの和訳)したオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフがこの物語の主人公です。本国がナポレオンや英国に占領されて、18年間もの長崎滞在となったことがこの辞書を誕生させた一因ですが、日本人に与えた恩恵は非常に大きかったと言えます。
「あかかとばいのんのかばいおらんださんからもろたとばい」は、長崎の子供たちが唄ったウタだそうです。オランダ商館員と丸山の花魁との間に生まれた子供は髪の毛が「あかかとばい、美しかばい、オランダさんからもろたとばい」という意味になります。
この小説でも、お花さんというハーフが活躍し、商館長ヘンドリック・ドゥーフの子供「道冨丈吉」も登場します。
 外では、音を立てて雨が降っています。軽めの投稿で少しでも気晴らしになればと思います。

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1612山本皓造:2020/07/06(月) 15:15:02
物言わぬ日々
 1人で外出できず、訪ねてくる人もなく、1日物言わぬなどと言う日ができたりします。人と話す機会と言うのは、ヘルパーさんやリハビリの仲間との世間話、時々くる娘との会話、平均月1回の通院で先生との話位のものです 。
 それで、後は買い物にも散歩にも出られず、家で寝ているほかありません。そして新聞を読んだりスマホでニュースを見たり、アマゾンに注文した本を少しずつ消化したり、テレビを見たりするだけで、話題もそれらに限られます。退屈でしょうがお許しください。
先日本当に久しぶりにテレビで映画を見ました。「伊豆の踊り子」と「潮騒」、どちらも山口百恵の主演で、私には若い頃に山口百恵にドキドキした経験はないのですが、今見ると百恵ちゃんはとても可愛い! (でも今はもう60歳だそうです)

以下、新聞記事から。

 皆川達夫さんがなくなられました。かつてFM放送の全盛時代、NHKの「ルネッサンスの音楽」だったかの放送を毎日カセットテープに録音するのに夢中になっていました。生月島のオラショのテープを手に入れて初めて聞いたときには、涙がこぼれました。御詠歌に似ていました。グレゴリオ聖歌のLPも買い、楽譜の読み方も勉強して、楽譜を見て歌えるようになりました。

 書評欄に、カールシュミット『政治的なるものの概念』(清水幾太郎訳、中公文庫)あり。
 私の大学時代のゼミの指導教官は出口勇蔵先生で、ゼミではときたまに同人誌のような紀要のような冊子を出していたのですが、そこに出口先生は「友情論」と言うものを書かれました。私は生意気にも、友情論があるからには敵論と言うものもなければならぬ、と評論を書いてお見せしたところ、貴君の言は然り、敵論についてはカールシュミットを読め、との教示を賜りました。まだ社会科学と言うものを学び始めてやっと2年、カールシュミットが何者であるかも知らず、慌てて本屋へ行って、1冊だけあった「政治的ロマン主義」を買って読んだのですが、「敵論」には行きつきませんでした。本書(中公文庫)はまだ入手していませんが、新聞書評の冒頭に"「政治に固有な区別は、敵、友(清水訳では『味方』)という区別にある」、本書の中心命題である" と記されています。時代は敵と味方の敵よりも味方の中の敵の方がいっそう敵であるような、そういう奇妙な時代でした。私は「修正主義者」でしたので、敵には事欠かなかったのです。

 小山俊樹『五・一五事件』(中公新書)[朝日新聞書評、6/27、評者=保阪正康]。
 書評の中に、”私見だが、「動機が至純
行為は全て免罪」との錯覚に落ち込んでいく。「テロの不気味さ」とはこの倒錯の感情である”という文章があります。
 このことは、私が以前この欄でちらっと書いた、「ひとが行為するとき、その行為を義とするものは何か」云々につながります。そしてさらにそれは、『文藝文化』の創刊の辞に、蓮田善明に、そして「わがひとに與ふる哀歌」の「誘はるる清らかさ」に、つながります(当掲示板3/29)。井口さんの本はせっかく一所懸命読んだのだから、なんとかまともな一文をこの掲示板に書きたいのですが……。

 アマゾンに注文して、セガンチーニの画集、図録、評伝など数点をまとめて購入しました。杉本さんが「曠野の歌」と「わがひと」の二篇について、セガンチーニの作品を参照しています。少し私には意見があるので、これもいつか書きたい。

 Morgen さん、「般若心経」ありがとうございました。私はダメで、お寺さんの声について口の中でブチブチと小声で唱えるだけで、朗々と誦することはできません。耳に親しいのは、冒頭の「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」「色即是空空即是色」「阿耨多羅三驀藐三菩提」あたりで、「羯諦羯諦波羅羯諦」が聞こえると、あゝ、もう終わりだ、と安心するという、不信心者です。お笑いください。

 あと、岩波新書の『5G』および『「勤労青年」の教養文化史』、梯久美子『サガレン』など、書くことがいっぱいあるのですが、このへんで、略。

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Morgen さんの「あかかとばい……」を拝見。おもしろそうな小説ですね。
 渡辺京二『黒船前後 ロシア・アイヌ・日本の三国志』(洋泉社)を購入、いま閲読中。フェートン号の話なども出てきます。『5G』はとうとう最後までしっかり理解できませんでした。これは Morgen さんの縄張りのようですね。梯『サガレン』は、以前この掲示板で熱中した「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて來る」、それからチェーホフ書簡、『サハリン紀行』を思い出します。本書は、妹を喪った宮沢賢治が樺太に渡るところから始まります。

1613Morgen:2020/07/15(水) 01:33:52
(豪雨災害)(謹んでお見舞い申し上げます。
このたびの7月豪雨により、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された方々には謹んでお見舞い申し上げます。
今年の2月に、肥薩オレンジ鉄道「日奈久温泉」〜「肥後田浦」(芦北町)を経て、バスで球磨村〜人吉市〜鹿児島方面へ抜けるツアーに夫婦で参加し、球磨川沿いの風景の記憶は鮮明に残っています。

山本様
「物言わぬ日々」のご投稿拝読させていただきました。
グレゴリオ聖歌から「5G」まで、広範なジャンルに旺盛な興味を持ち続けて、「書くことがいっぱいある」のは、本当に羨ましい限りです。
「5G」については、日本でも今年3月から商用サービスが一応スタートしたのですが、まだまだ揺籃期で、5Gを使ってどのようなサービスを提供するのか、会社としてもテスト段階です。
日本のバックボーンネットワークが5G規格になり、全国の基地局が整備されるまでには4年位かかると言われています。現在会社として仕掛中のプロジェクトから言えば、医療情報や衛星情報などが5G容量を必要とするかもしれません。しかし、5G電波の特性上全国至る所に小さなコンテナIDCを作らざるをえないだろうと研究員は報告しています。
何れも大変な設備投資が必要になります。
IDCやバックボーンという大規模装置を基盤とする「装置産業」であったIT業界が脱皮し、クラウドを基軸とするソフトウェア産業へ姿を変える現在進行中の動き(ー第4次産業革命と言えるかも知れません)を、5G転換は加速するかもしれません。
IT音痴の私には、いよいよ理解の難しい領域に入っていきます。
私は、在宅勤務のため机に座りっぱなしで「Zoom」や「Garoon」「Slack」などのアプリを使って、仕事上必要な対話や共同作業を行っています。辛うじて「物を言って」いる状態ですが、細かい仕事が面倒臭くなり人間関係も淡白になっていくのが自分でも分かります。

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1614Morgen:2020/07/21(火) 01:21:00
平時・有事・戦時
皆様お変わりはございませんか?
世界中で1500万人近くがウィルスに感染し、60万人超の死者が出ているコロナ禍の惨状は、いま地球上の人類がまさに歴史的大事件の一ページを刻んでいることを示しています。いま我々は「有事」のど真ん中にいます。
「有事」になると、会社の経営実務(会計、法務、労務その他)においても、色々な「有事対応」が必要になりますが、一時的なことだろうと甘く見ていたために現実はまだ俄仕込みの対応です。長期化しそうな「有事」に備えて全面的に経営実務のやり方を改め、理論や手法を構築していくしかありません。

とは云うものの、「お前は何時まで現職を続けるのか?」、「これからのITビジネス展開のイメージはどうなるの?」などと自問してみると、果たしてこれから自分に何ができるのか見通しが難しくなります。(愚痴っぽくなりましたので本題に戻します。)

云う迄もなく伊東静雄が生きた昭和時代初期(初年から20年)は、ほぼ「有事」であり続け、その内数年間は「戦時」でありました。そのような深刻な時代に、詩人はどのような生き方を選択したのか?―という設問をしてみました。

手元にある「国文学解釈と鑑賞」(1975.3)?現代の抒情<中也・静雄・達也>に、福島章「詩人の狂気と宿命」と題する一文(p35〜40)があります。
その中から、中也との比較で述べられている個所を一部抜き書きしてみます。

伊東静雄も、「意識の暗黒部の必死な格闘」をくぐり抜けてこなかったわけではない。しかし、この詩人にはドイツロマン派の遺産を、方法として自分のものにするだけの語学力と知性が恵まれていた。ヘルダーリン自身はまぎれもない精神分裂病者であったが、ヘルダーリンの確立したフォルムは、異国の詩人の「日本的感性」の表現形式に模範を与えることができた。そしてそのことによって静雄の狂気の発展を抑制することに貢献したのである。」・・・・・「伊東静雄が生活者としての狂気を、ブルジョア中学校で<乞食>とあだ名される一教師という役割の中に限定しおおせたことも、賢明な選択であったと思われる。・・・静雄は自らの可能性の枝々をできるだけ剪り落としてしまうことによって、そこから派生してくる何ものか自己統御不能なものを拒んだのである。それは、彼のなかにあるただ一つの純粋なものを大切にするための方策であったといえよう。」

それは、言い換えれば「極限の自己否定こそ自己の至高性を証明するという浪漫的イロニーを詩の発想法として獲得したのであろう。」(同誌p33 分銅淳作)という静雄詩分析にも通じます。

言い方は色々ですが、日常生活を馬鹿にせずそれを愛しながら、それとは別の「一つの国を自分の胸の奥に持ち、そこで詩を書くようになった。」ことにより、伊東静雄は自己統御不能なものを排除し、詩想を培養することのできる栄養豊富な純粋培地を作ることができたと言えそうです。
 やはり伊東静雄は偉かったと言うしかないわけですが、私的に何か学ぶことはないでしょうか?―「何でもかんでも抱え込まず、身辺の断捨離をして、自己統御不能なものを排除し、自分の遺された人生で出来そうなことだけに注力せよ。」との戒めとして受容したらどうでしょうか。出口の見えない「有事」の最中に居て、厳しい戦時を生き抜いた先人たちの強さは、改めて尊敬し直さねばなりません。

1615佐藤:2020/07/26(日) 22:52:13
<ねがわくはこのわが行ひもあゝせめてはあのような小さい祝祭であれよ>
 Morgenさん、お久しぶりです。
以前に書き込みをした者です。あと一年で70才にもなろうとしていますが、現在も伊東静雄とは同じ職業にあり、伊東静雄には常に親しみを感じております。2年前に亡くなりましたが、私の母は伊東花子さんに黒山高女で教えを受けました。母は花子さんのことを当時美原の田舎にあって、そんな田舎にはめずらしい程垢ぬけた先生であったと言っていました。
これからも伊東静雄には“詩人の魂”というものを学びたいと祈念しています。

1616Morgen:2020/07/27(月) 23:18:26
よろしくお願いします。
佐藤さん お久しぶりです。

 堺の方へも、ここ2年ばかりご無沙汰しております。北余部のお地蔵さん周辺も、色々と町の様相が変わったでしょうね。
 私は、明日から2日連続でZoomによるリモート会議で、資料を作ったり、整理したりで、連休は殆んど巣籠生活をしました。

 最近は、この掲示板も投稿者が少なくなりました。またよろしくお願いします。

1617伊東静雄顕彰委員会:2020/07/31(金) 11:41:01
第31回伊東静雄賞募集
31回伊東静雄賞作品募集
コロナ禍、7月九州水害・東北水害と国民の心痛は増すばかりですが、経験によって新たな詩歌が誕生し、多くの人が癒される作品が過去にはたくさんあります。8月31日応募締め切りが迫りました。作品をお寄せください。(詳細は本ホームペー「おしらせ」欄に掲載)

〇 未発表の作品で1人1篇 400字詰め原稿用紙2枚以内
〇 締切日 令和2年8月31日(当日消印有効)
〇 送り先 〒854−0014 長崎県諫早市東小路町10−25 伊東静雄顕彰委員会

1618笑枝:2020/08/05(水) 09:59:13
初めて投稿します。
初めて投稿します。35p.の西垣脩氏の記事に出てきた鈴木亨氏、小生の鷺宮高校の担任の先生でした。
現代国語の授業が面白く、詩をとても熱心に教えてもらいました。教科書は角川書店ので、先生が編集に関わっていたことは卒業してだいぶたった頃に知りました。茅野蕭々訳のリルケ、薄田泣菫「ああ大和にしあらましかば」、萩原朔太郎は『月に吠える』の二三編に加えてなんと散文詩「郵便局」。伊東静雄「夏の終り」。何人もの生徒が朗読をやった中で、一人がとてもボソボソした朗読だったけど、先生にほめられたことを思い出します。
釋迢空は葛の花と供養塔連作。授業の初めで釋迢空の容貌について話したことが忘れられない。痣のことをわざわざ言う必要があったろうか?

同級生と二人で詩の小冊子を作ることになり、先生に表題をお願いしたところ、「路」という題をいただき、詩を書いてくださいました。

友人は毎週毎週書いた詩を見せてくれるのですが、詩に夢中なくせしてぼくの方はうんともすんとも詩ができない。そのうち小冊子の話は立ち消えになってしまいました。お恥ずかしい次第です。

先生にいただいた『少年聖歌隊』にその詩の原稿を挟んだまま、50年余。先生の訃報を聞き、その詩を公開しなければ、と思いつつ今日になってしまいました。
 4・3・3・4、「路」と題した14行のソネットです。掲示板「伊東静雄を偲ぶ」で掲載していただければありがたいです。

    路
             鈴木亨

 少年たちの創る 小冊子に
 せがまれてぼくは
 表題を 贈った
 路――

 少年のころ ぼくは
 友人の編んでいた
 「路」という小冊子に 加わった

 ぼくらは 今日も
 同じみちを歩いている
 それから 三十年――

 少年たちは どう受け取ったか
 とまどいながら しかし
 すこし華やいで
 ぼくの貸した その名を。

《1行目「創」に「つく」のルビ。13行目「華」に「はな」のルビ。》

1619青木由弥子:2020/08/05(水) 12:15:28
つながっていくこと
皆様、急に暑くなりました。
お具合などいかがですか。
山本さんのご投稿で、梯さんが『サガレン』を上梓されたことを知り、早速もとめました。
関わっている詩の雑誌の関係で、リモートの方法を(自身も不慣れながら)ネットやメールに抵抗のある方々とどう共有していくのか、悩む日々が続いています。Morgenさんも様々に工夫されているようですが、いつまで続くのか、ということと同時に、そうでなくても急激に起きていたネット環境革新?のようなものが、一気に進んでいきそうです。書店が開催する有料オンラインイベントなどにも参加してみましたが、その場の空気感に入りこめず。いとうせいこうさんのライブ参加者の動画が、また別のアプリ?で配信されると聞いて覗いてみたのですが、データ容量の問題か、途中で固まってしまって上手く視聴できませんでした。これで5Gの時代に入ったら・・・完全にネット落ちこぼれになりそうですが・・・だからこその「その場」を体験しながら言葉を交わす、というアナログな方法を大切にしていきたい、とも思います(ということを、ネット経由で打ち込んでいる矛盾!)

笑枝さんのご投稿を拝見。私の最初の詩の先生は、西垣脩さんとも親しく、鈴木亨さんと親友のようなお付き合いをされていた比留間一成さんでした。比留間さんとの出会いが、伊東静雄へと誘ってくれたのでもありました。比留間さんのご友人で四季派の詩人、小山正孝のソネットについて考えなくてはいけなかったということもあり、まさにソネットのご投稿を不思議なご縁だと思いながら拝読しました。
「路」、みちは、見えなくても続いているのですね。

サルスベリが枝先から溢れるように咲いています。

みえないところに蓄えられ、時を得て咲き出すものが、永遠につづきますように。

1620Morgen:2020/08/05(水) 23:19:13
鈴木 亨さんの静雄節(詩朗詠)
笑枝さん 青木さん
連日の真夏日の中、お疲れさまです。

先日のTV(テレビ東京系列)で、在宅勤務率80数%の会社(住不西新宿ビル)のガランとしたoffice模様が映され、女子社員が信州に移住してリモートワークをやっている姿も放映されました。若い人は対応能力に優れ、何処でも仕事ができ羨ましい限りです。)
(その後、役員会で4フロアから2フロアへの縮小を決めました。)

笑枝さんが「鈴木 亨さん」の思い出を投稿され、青木さんがいつか書いておられたことを思い出して探してみました。

https://yumikoaoki.exblog.jp/21101848/
伊東静雄を聴く鈴木亨の覚書より

「低唱微吟」―「あの調べはリード風とでも称すべきものであろうか・・・けっして即興の出まかせといった態のものではなかった。練りに練り上げた、完成品であった・・・基調は一つでも、作品ごとに独自の曲節がつけられていて・・・耳にした調べのうちのいくつかは・・・今でも自分でほぼ復元できる・・・」
鈴木さんの静雄節を聴いてみたかったですね・・・・・

私は、在宅勤務5か月を経過しました。)本来は「在宅」が必要なのではなくて、完璧な「リモートワーク」ができればどこでもよいのですが。
゛All Hannds”という24時間連続Zoomなどという試みもあります。先日は、夜7時頃から無制限のオンライン飲み会をやって話し合おうという催しをやりましたが、私は2時間でリタイア―しました。

例年であれば、家族旅行をする時節なのですが、このコロナ情勢ではそんな気分にもなりません。
取り敢えずは、この真夏日連続を在宅で無難に乗り切って、秋以降のことは改めて考えるしかないようです。

皆さま どうかお元気でお過ごしください。

1621Morgen:2020/08/07(金) 01:08:35
「鈴木亮さん…」(追)
 笑枝さんのご投稿にあった「西垣脩氏と鈴木亨氏」を読み直してみました。

山本皓造さんが、2013年8月30日から9月8日まで、7回連続にわたり力の籠ったご投稿をされております。
再読してみると、『山の樹』創刊の頃(昭和14年)の雰囲気や、鈴木亮さんのお人柄などが偲ばれます。

鈴木亮さんの「社交性と趣味の高さとによって、多くの新しい仲間を自然に集め、それが三田系の雑誌という印象を与えたわけである」 外部からの印象では、<三田の連中の作った雑誌>のような観があったらしいが、その中心は西垣氏と鈴木氏とで、<鈴木が優雅さによって目立ったように、西垣は剛直さによって周囲を圧していた>と書かれています。

山本皓造さんのご投稿から丁度7年が経ちましたが、内容の濃い論考で再読に値します。

先日の投稿で「All Hannds 24時間Zoom MTGと書きましたが、今日Garoon上で訂正されていました。→(限定テーマ、時間限定MTG)。やれやれホッとしました。

青木さんが仰るように、これからの仕事術は大きく変わると思います。若い人達は、クラウド上で動く新しいアプリを使って、色々なアプローチをしてきます。それらのRemoteworkについていかないと置いてきぼりをくうだけです。何事も自習自得。恥をかきながらも後ろからついていくしかないというのが現実です。

今日も社員からSlack(共同作業スペース)で連絡があり、来週(盆の間)相談したいことがあるが都合は如何?という申入れ、何時でもどうぞと返事しました。

今年は、例年の家族旅行も当分見送りです。

1622中路正恒:2020/08/28(金) 14:14:03
静雄とニーチェ
《羚羊すら行く道を失うところ…:ニーチェの1876年夏の詩》

を私のブログにアップしました。伊東静雄の「冷たい場所で」とちょっと似たところのある詩です。ご参考までに。

《羚羊すら行く道を失うところ…:ニーチェの1876年夏の詩》
https://25237720.at.webry.info/202002/article_3.html

http://25237720.at.webry.info/202002/article_3.html

1623中路正恒:2020/08/28(金) 14:44:21
セガンティーニ
3年前にスイスのサン・モリッツのセガンティーニ美術館で彼の代表的な作品をいくつか見てきました。他にザンクト・ガレンでしたか、彼が最後に住んだ奥地も見てきました。そして彼が光の画家、極めて激しい光の画家で、必ずしも山奥の生活の諸技術の細部に精通しているわけでもないということがわかりました。伊東静雄はセガンティーニの何を見たのでしょう? 手紙では「セガンチーニの画集は女であるゆり子さんにみせたくあります」(S.6.1.7)と記されていますがこの「女であるゆり子さん」の「女である」という強調はセガンティーニのどういうところなのでしょう? 男たちの厳しい生活を日々見ている女たちの強さのようなことなのだろうか。(自分の)死骸を曳く馬のイメージはもちろんセガンティーニの画にはあるわけですが。---このテーマも「冷たい場所」につながってゆくように思います。

拙ブログ:
https://25237720.at.webry.info/201806/article_5.html


*ザンクト・ガレンはマローヤの誤りでした。

http://25237720.at.webry.info/201806/article_5.html

1624伊東静雄顕彰委員会:2020/09/08(火) 18:22:33
第31回伊東静雄賞締切りました。
第31回伊東静雄賞は8月31日でもって募集を締め切りました。作品をお寄せいただいた皆様にお礼申し上げます。選考の結果は11月上旬関係者に通知いたします。  伊東静雄顕彰委員会

1625Morgen:2020/09/23(水) 21:56:06
「萩の寺」{供養花)
当掲示板にもご無沙汰しておりますが皆様お元気でしょうか。

大阪は、コロナ新規感染者数が減り、街中の動きも徐々に活気を取り戻しつつあるようです。
4連休は、時節柄「Go To トラベル」というわけにもいかず、近場の散歩程度しかできませんでした。
彼岸の墓参りをしたついでに東光院(通称「萩の寺」)の「萩露園」で開花中の赤、白3千株の萩の花を観てきました。ここの萩の花は死者に手向ける供養の花だということです。
寺伝によると、天平年間(735年)大阪豊崎の里に立ち寄った行基は、淀川(旧中津川)のほとりに何千という亡骸が山積みにされているのを見かねて、火葬に付して埋葬し、墓前に萩の花を供養花として植えたそうです。それを見ていた人たちも、次々に萩の花を植え、そこにはいつしか萩の森ができたそうです。(今の「萩の寺」は阪急宝塚線で5駅北の曽根に移転しています。) 萩の花にはそんな深い由縁があったのですね。

気晴らしにどこか行くところはないかと探しても、近場の観光地はどこも満員で、ネットで旅行会社の日程表を見ても「満員キャンセル待ち」となっています。当分は在宅勤務の巣籠生活を続けるほかないようです。
10月からは、街中の動きもいよいよ本格化すると思われますが、世間の雰囲気に呑まれず、しんがりからのろのろ動き出した方が良いような気もします。
皆様どうぞご自愛の上、お過ごしください。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001777.jpg

1626中路正恒:2020/09/28(月) 18:20:42
(無題)
《伊東静雄の「水中花」などを思い出して》

 拙詠一句:
> きみは死ぬこの日に死ねと秋のいふ時
 友人長野隆が死んだのもこのくらいの日だったか。

http://25237720.at.webry.info/201806/article_5.html

1627Morgen:2020/10/04(日) 02:43:33
映画映画『ある画家の数奇な運命』
中路様はサン・モリッツのセガンティーニ美術館にいらっしゃったことがおありだそうで羨ましい限りです。ご掲載のセガンティーニの絵(「風の強い日/アルペンの中の昼」)は、大原美術館の絵と似ているとも思いましたが、比べると羊の数が随分多いですね。

私は、妻に誘われて映画『ある画家の数奇な運命』(Werk ohne Autor―2018ドイツ)を観てきました。(10月2日封切)
ストーリーは、現代美術界の巨匠、オークションでは超高額な値が付くドイツの芸術家ゲルハルト・リヒターの半生をモデルにして、ドイツの「歴史の闇」と「芸術の光」を描いていると評されています。

映像的には、主人公が住んだナチス・ドイツ時代から東ドイツ、そして西ドイツと、第2次大戦をはさんだドイツの3つの異なる世相が映画の舞台として映されています。1961年にベルリンの壁が築かれる直前に主人公は地下鉄で西ベルリンへ亡命するのですが、こうも簡単に地下鉄で亡命できたということには驚きました。

戦後になっても「戦争政策加担」というトラウマを心に抱え、過酷なスターリン体制をも耐え抜き、西ドイツへ亡命して「自由世界」に生きながらもなお多くのトラウマを密かに持ち続けざるをえなかったドイツ人達の姿がこの映画に描かれています。(日独相通うものがあるかも知れません。)

「私は何ものだ」(Was ist Ich ?)という自問。そんな心の中の「Ichを表現し解き放つ手段としての絵画」というこの映画のフレームが透けて見えてきます。=ゲルハルト・リヒターの「肖像写真や新聞写真を油絵に模写し、ブラシでぼやかす手法などを用いて新たな表現方法(フォト・ペインティング)の映画的表現というべきかもしれません。(沢山の絵の再現には大変な費用が掛かったそうです。)

その画家名も題名もないような無個性的な「Werk ohne Autor」(画家なき作品・これが映画の原題)。写真を絵としてキャンバスに描くことによって、人を恐怖のどん底へ突き落としたり、自らの積もった憤懣を発散したりできるという情緒表現のできる絵画手法。一見リアルで客観的に見えながら実は極めて強烈な主観表現ーこれがこの映画を居眠りせず見れた要因か?

実際に存在するリヒターの裸婦像が、映画の中では女優の実写による全裸映像となり、更にはフォト・ぺインティングで絵画化されるという凝った嗜好もされています。義父のナチス安楽死政策への加担を暗示する絵は迫力があります。(アトリエでその絵を見た義父は密かに隠してきたトラウマを暴かれ恐怖に慄く)。ここら辺りが「Werk ohne Autor」のクライマックスのようです。
映画館は、平常通りの全席営業でしたが、客席の半分程の来場者でした。
まだまだコロナ対策をしながらのGO TO〜〜ではありますが、梅田界隈はいつもの過密状態に戻っています。まだまだ死にたくないので、お互いに気を付けましょう。

1628青木由弥子:2020/10/07(水) 11:17:36
セガンティーニのことなど
皆様

お元気ですか、美しい月夜を愛でることができて嬉しい秋です。
もともと美術史専攻だったので、伊東静雄がどのような絵に興味を持っていたのか、常々気になっています。本人も写生を好む人だったこともありますし、二科展を観に行った折の感想の中に、金魚の絵の話も出て来たような・・・(うろ覚えですみません)当時の二科展のカタログをどこかで見たいと思いながら、そのままになっています。

静雄が購入したセガンティーニの図録も気になっています。
2011年に静岡市美術館で開催されたセガンティーニ展のカタログ(完売とのことなので、図書館でしか観られませんが)に、学芸員の小川かいさんという方が、日本におけるセガンティーニ受容について調べた詳細な年表も載っています。

それによると(ご存知の方は読み流してくださいませ)
フォンタネージがセガンティーニ存命中に日本に紹介しているとのことですが、文献上、最も古い紹介は彫刻家の萩原守衛によるものとのことです。

「セガンチニーの如きは文芸復興後に於いて出た天才ある画家である。彼は近代画家の中で最も特色ある人である・・・其の画には深刻な、近代的人生の煩悶が 写されている、尤も彼は親、兄弟から継子遣いにされたのも其の画に影響しているらしい」「イタリーのセカンデーの如きはミレーと同様で、アルプスの山中を生涯写生して歩いて遂に其の山で死んだが、彼の画も悉く一種の説教である」と、1909(明治42年)に記しています。
ミレーを日本では明治末から大正にかけてのキリスト教人道主義的な側面・・・その精神性、人生論、道徳的な共感などの面において受容していったようですが、この画家と並列にとらえていること、特に「煩悶」という言葉が出てくるあたり、気になりますね。
藤村操が明示36年に華厳の滝で自殺した際、煩悶青年という言葉が話題となったようですが・・・芥川の自殺が昭和2年。大正期の煩悶・・・伊東静雄の、大正期の日記・・・

その後、萩原守衛の紹介に触発されるように早稲田文学と白樺にセガンチーニの作品や作家紹介が行われています(明治43年)
早稲田文学では当時の美術評論家、河野桐谷が「生涯其物が又尋常一般の画家には見るべからざる一篇の伝奇(ローマンス)をなして居る」として、生き方に悩む画家の足跡への興味が先行していた感もあるようです。
「白樺」に紹介したのは、留学から帰国した洋画家の南薫造で、こちらはミレーと同様、人道主義的な流れからの紹介と見られますが、当時の画家の目で「彼が画いたアルプスの絵は其の技巧の上からも亦た感じの上からも全く彼れ独特のもので之れに似通った画家は一人も無い」と記していて、興味を惹かれます。ミレーの生涯との類似にも触れながら(南はミレーを図版で見たらしい)実際に精力的にセガンティーニを見て歩いた折の記録も残っているそうです。
大正期の日本の文化的気風にセガンティーニが合っていたのか、児島虎次郎(ミレーよりも一段上、塵界を超絶した一人の崇高な画家)や矢代幸雄(明るいという事を誰にでも納得のゆくような方法を考えた丈で、自然に対する特殊な、敏感と、態度を持っていた、モネー等とは、比ぶ可きものではない)などによって紹介されています。

セガンティーニの絵は、特殊な点描法というのでしょうか、私が見た印象では刺繍糸を混ぜずに乱れ刺しのように刺して行って、遠くから見た時に混ざり合って見えるような画面。色彩の濁りを防ぐので、透明な空気感を表現できる。遠景であるはずの山々が主題の女性に迫って見れるような不思議な遠近感も、山の澄明な空気と光の加減とを表現しようとした工夫のゆえかと思いますが、当時、既に新たな絵画潮流が生まれていたヨーロッパでは、既にセガンティーニは「最先端」ではなくなっていたようです。それでも、絵画取引の現場では最も人気のある画家の一人であったようで(いわゆる流行の先端とマーケットのズレは、現在も起きていますね)大正7年(1918)松方幸次郎が600点もの西欧絵画を買い込んで帰国した折、アメリカの画商から、セガンチニのは米国に一枚もない、と羨望された、と新聞記事に記されています。(東京朝日新聞1918年11月27日)
松方が入手したセガンティーニ作品は、他の収集作品と共に内見会のような形で限定公開され、藤島武二や石井柏亭がセガンティーニの作品も2,3点あるようだ、と言及。
昭和3年の松方コレクションの公開(羊の剪毛)と大原美術館の「泰西美術展」(アルプスの真昼)の同時公開によって、注目を集めることになったようです。
松方(西欧美術館コレクション)と児島(大原美術館コレクション)のセガンティーニ購入が、ほぼ同時期、日本での公開もほぼ同時期、ということになります。

伊東静雄は、どの図版、もしくは画集を購入したのか。ドイツ文学者の佐久間誠一による『泰西名画家伝 セガンティニ』大正10年(1921)日本美術学院 は好評で一か月半で四版を重ねたとのことなので、このあたりかとも思うのですが・・・どれほど図版が載っているのか、まだ未見なのでなんとも言えません。大正12年、読売新聞(1923年7月13日)に「アルプスの昼時」という題で、セガンチニ代表作、として倉敷文化協会での展示の告知と図版が出ていて、これは縮刷版で見てみました。画質は良くないですが、高原と女性と雪の山嶺、空が見て取れます。

昭和に入ると、「美乃国」や「アトリエ」、「みづゑ」に記事が見られるよし。神崎梧楼訳の「セガンチニ伝」(昭和4年)ではセガンティーニの母への思慕についての言及があるようです。ドイツの精神分析学者カール・アブラハムの著作とのこと。(悪しき母などを思い出すと同時に、静雄が母について書いた不思議な詩を思い出します)こちらは「アトリエ」に連載。
昭和五年には今度は画家の木村捷司が、「みづゑ」にセガンティーニの娘が編集した書簡集を参考にして「セガンティーニの自叙伝」を連載しているとのこと。

これらを伊東静雄が読んでいたかどうか、また、実際にどのような受容が行われていたのか、現物を見てから、また、考えたい・・・と思いながら、積み残しの宿題のようになっています(;^_^A
私自身の心覚えも含めて、記してみました。

1629Morgen:2020/10/10(土) 14:11:47
セガンティーニ図録
青木さん
ありがとうございます。
私も、「伊東静雄は、どの図版もしくは画集を購入したのか?」という疑問を抱いて、探してみたのですが確定できませんでした。
手元にある本や図録等は以下の通りです。
1、Giovanni??Segantini :Sein Leben Und Sein Werk(1908)?? Franz Servaes
2、GIOVANNI SEGANTINI−SEIN LEBEN UND SEINE WERKE (1920)
                   ―PHOTOGRAPHISHE UNION
3、1978年4月 兵庫県立近代美術展図録
4、2011年7月 佐川美術館「セガンティー二―光と山ー展」図録
5、大原美術館で買った復刻画
 なお、NHKで放映された特集番組はHD保存しています。
東京の「損保ジャパン東郷青児美術館展」は、出張の時にポスターを見たのですが時間がなくて、7月の佐川美術館(滋賀県守山市)へ行きました。
いわゆる三部作は、絵具があまりにも分厚く重ねて塗ってあり動かすことができないので持出禁止で、複製が飾ってありました。
1920年頃の写真印刷版は、白黒に淡彩の色をのせた程度で、とても壁に貼って眺めるようなものではなさそうです。伊東静雄宅に飾ってあった絵について坂東まきさんに尋ねてみたことがあるのですが、どの絵かの確定はできませんでした。(大原美術館の「アルプスの真昼」かも?)

1630Morgen:2020/10/11(日) 14:28:07
セガンティーニ図録(続)
前項に関連して寸感的なメモを書いてみました。

1、リルケは、『ブレーメン日報』の1902年3月19日号に、Giovanni Segantini :Sein Leben Und Sein Werk?? Franz Servaesの書評を書いています。―彌生書房『リルケ全集』第5巻261~263頁「ジョヴァンニ・セガンティーニ」

伊東静雄がこれを読んだ可能性は?・・・・可能性は少ないような気がします。

この頃のリルケは「風景について」「ヴォルプスヴェーデ」「ロダン」などの美術論を多く書いています。(リルケは美術評論家になりたかったのか?)

2、1899年にアルプス山中で突然死んでしまったGiovanni Segantini の名前は有名になっており、その展覧会が、ブレーメンなどで開かれていたようで、マロ―ヤの偉大な「光の画家」の評判は日本にも伝わってきていただろうと推測されます。
大原美術館の「アルプスの真昼」(1892年)は昭和3年に日本で初公開されています。

3、私の手元にある Franz ServaesのGiovanni Segantini :Sein Leben Und Sein Werk は、reprint版(コピーであり)、図録もすべて白黒版です。「帰郷」の絵も見つかりません。

4、Gottardo Segantini(Giovanniの息子さん)の「 GIOVANNI SEGANTINI 」(ミュンヘン 1920)―添付写真―には「帰郷」の絵も載っており、小高根二郎「生涯と運命」136頁(新潮社)の次の記述に合うように思います。(私見です)

「・・・伊東の入手したのは長崎への舶来物であろうか独逸版であった。決して鮮明とは言えないセピアのグラビア印刷であったが、代表的な絵と伝記がついていて、そこから伊東は電光のような啓示を汲み取ったのである」

*佐久間政一「泰西名画家伝・サガンティー二」は「日本の古本屋」で注文しました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001782.jpg

1631Morgen:2020/10/13(火) 16:46:16
「帰郷」1894-5
 注文していた佐久間政一『セガンティ二」(泰西名画家伝 大正10年4月10日発行)が届きましたので、早速拝読しました。
 同書246〜249頁に記述と写真版、さらに270〜271頁に記述があります。(ゴッタルドオにも言及あり。)

 小高根二郎『生涯・運命』136頁以降の記述と比較するために、同書270〜271頁の一部を抜粋して紹介します。

 悲哀に打勝れたる父は、帽も戴かずに悄然として馬を導いて行く。母は泣きながら柩の上に腰をかけて居る。車輪の後ろからは羊番の犬が就いて来る。彼もまたこの大いなる喪失を知っているかのように悲しげに歩む。この作に描かれたのも、前掲の作と同じく、愛児の死によって惹起された哀傷である。・・・ただ山岳のみは依然として常に同一である。彼等は「人間の日常生活のかやうな小さい不幸の外に」超在して、それ自身「自然の美と力との動かざる表徴」に他ならない。然し、この畫にも子を失った両親に対し一つの慰めはある。(彼岸における再会の望みが慰みとなるというセガンティ二の宗教観・・・自然の調和とその永久の法則・・・セガンティ二の霊的な信仰。・・・もう一つの絵『信仰によって慰めらるる悲しみ』(宗教画)と一体をなすものである。
「このアレゴリイがニーチェの思想を解説することにすることに役立つなら、すぐそう言ってくれたまえ。」(書簡より)

 前稿で紹介したゴッタルドオ・セガンティ二の本に掲載されている「帰郷」(TAFEL37)の写真を添付しますが、アルプスの「連嶺」が、白雪をかぶり明確に不動の背景として描かれていますが、小高根二郎『生涯・運命』掲載の写真は、背景の連嶺がほとんどボケてしまっています。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001783.jpg

1632)Morgen:2020/10/18(日) 15:09:47
「VERGEHEN」(消滅 死)
伊東静雄の「曠野の歌」という詩想は、セガンティーニの画集の内で、「帰郷」に触発されたのか「VERGEHEN」の印象によるのかという論点について、私の感想を述べます。

Gottardo Segantini「 GIOVANNI SEGANTINI 」(ミュンヘン 1920年)には、前掲の「帰郷」とともにアルプス3連作『WERDEN生成−SEIN存在−VERGEHEN消滅』が掲載されています。(佐久間政一「セガンティ二」では生―自然―死…1900年フランス万博のタイトル)
セガンティ二が書簡の中で述べているVERGEHENの構想は「・・・季節は冬で、大地は雪の下に埋められています。背景の山々は朝日に照らされています。家の中では一人の少女が死んだところで、何人かの人が葬列の出発を待っています。」という情景でした。
画面で見でると、朝日に輝く連嶺の白雪のふもとで待っているは「屍骸を曳かむ馬」と橇です。文字に拘ると、「曳く」という言葉には馬車よりも馬橇のほうがぴったり来ます。(「帰郷」の方は馬車で運ぼうとしている。)

しかし、画面に描かれているのは雪原であり、「曠野」と呼んでいいのかは分かりません。「帰郷」では遠方に目視することのできる「教会」まで屍骸を運ぶのですが。VERGEHENの画面の方は広大なスケープで、屍骸を何処まで運ぶのか不明ですが、距離感や高所観はありそうに見えます。(息苦しい稀薄のこれの曠野の「道行き」)

「曠野の歌」の帰結が下記のような「歌」の調子で格調高く終わるのは、「死者の魂が天使に伴われて天国に昇りゆく」というVERGEHEN(消滅)の構想とも整合性があるように思います。(同書TAFEL51??TRIPTYCHONの構想デザイン参照。)

 セガンティーニも「夢想」という語を多用しており、アルプス3連作TRIPTYCHONにかけた夢想(アルプスの大パロラマを描き、パリ万博に集まる世界の人達に見せたいという夢)は、アルプス山上での腹膜炎による突然死によって終わり、天才画家の「夢想の消滅」が現実となってしまったのであります。(未完の絵として残されはしたが。)

・・・・・・・・・・・・
あゝかくてわが永久の帰郷を
高貴なる汝が白き光見送り
木の実、泉はわらひ
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001784.jpg

1633青木由弥子:2020/10/19(月) 08:26:19
死、そして再生
Morgenさま みなさま

おはようございます。

ご投稿、興味深く拝読しています。
静雄が入手したのはドイツ語版、という記述、見落としていました。
白黒の不鮮明な図版であるからこそ、想像力を喚起される、ということもあったかもしれないですね。
曠野、の文字で思い出すのは・・・パッと字面を見た時に、当初は荒野と読んでしまっていましたこと。先輩詩人に、もしかして「広野」を「荒野」と読んでる?と尋ねられて、ああああ〜!!!という・・・ことがありました(笑)荒野と読んでいると、連嶺の「白雪」や「息苦しい稀薄」に引かれて、雪と氷に閉ざされた荒地、のようなイメージが立ち上がってきてしまう。

わが死せむ「美しき日」・・・泉、非時の木の実(橙のイメージとすれば、オレンジがたわわに実る、ゲーテが南国の夢想として描き出したような真っ白なミルテの花と黄金色のオレンジ、濃い緑の木々、真っ青な空、的な世界?)・・・高原の大気だから、きっと希薄なんでしょうね。空はきっと、真っ青に晴れ渡り、周囲の山々は真っ白にキラキラと光り輝いている・・・。たしかに、この世ならざる美しさです。

最近、堀辰雄たちの『四季』と信濃追分の高原という非現実の詩の空間、夢想の文学空間のことを考えています(たまたま、『詩と思想』の11月号が四季派特集で、そのゲラを読んだりしているから、でもありますが・・・)戦況が悪化していき、日本が孤立化していく、大国の脅威が眼に見えて迫ってくる。第一次大戦で敗北したドイツが課せられた過酷な賠償、それに対するファッショ的な大衆の反応、そしてナチ党の台頭、社会主義などに対する取り締まりの厳重化、理由は明示されないままの(権力側が理由を作り出せる)治安維持法、恐慌・・・という当時の社会を考えていくと、鬱状態にならない方がおかしいような気もしてきますが・・・そうした中で、「生」の方向へ超越していこう、気力を奮い立たせよう、としたときに浪漫主義が果たした役割について考えます。

コロナ禍の鬱々とした時代と重なるところはあるか、どうか・・・

静雄に戻ると、もしGottardo Segantini「 GIOVANNI SEGANTINI 」(ミュンヘン 1920年)を観ていたとすれば、生成−SEIN存在−VERGEHEN消滅、というある種の象徴性・・・ザイン、という観念に反応したような気もします。
「帰郷」、「アルプスの真昼」、そして「消滅」のイメージ、そして、冬から春へ、やがて再生していくところ、真に生きることの出来る場所、というイメージ・・・天国というものがもしあるなら、こんな場所ではないか(明るい夏の高原に、恋人が佇んでいる)そこに向って、自らの棺が曳かれていく・・・

「小説」なら、このあたりを自由に書けるのになあ、と思ったりもします(笑)

ちなみに、静雄の「曠野の歌」に触発されて、「芽吹き」という作品を書いたことがあります。


そそぎこまれたものが
深いところにひろがってゆく

透き通った湖面にさざ波が立ち
白い花の水草が揺れ
山稜が刃(やいば)を連ねて
夜空を切り取る湖のほとり

熟れたくだものからつかみ出した種を
打ち寄せられ積もり重なる
白い薄片の中にうずめる
水際で骨のこすれあう音
朽ちていく匂いの満ちる岸辺

月光
夜目に細くうねる川浪
息をするのどがふるえる
あふれていく水
耐えきれぬ川岸が
突き崩され怯えほどけ
野を丘を平らかに呑み尽くして
湖はまた新しくなり

落ち続け降り続け
星は満たされた水の中にこそ
自らのふるさとがあると思い直し
険しい山の奥深いところに
生み出されるもう一つの空

やわらかく降り注ぐものが
私を満たしていく朝
雲の峰の崩れては生まれ
区切られた空が落ちる湖のほとり
うずめられた種が芽吹き広がり

曙光
翡翠色の野がゆれている

1634Morgen:2020/11/19(木) 23:11:35
『夕 映』
 先日、東北地方(秋田〜盛岡)を小旅行した折に、ホテルの7階の部屋に入ると窓一面に「岩手山麓の夕映え」の絶景が展開されており、急いでiphoneで撮ったのが添付の写真です。(雫石高倉)

 静雄詩「わが窓に届く夕映は ・・・・・・・・・」という「夕映」の詩句がありますが、この詩は次のように終わっています。

「ねがはくはこのわが行ひも
 あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ
 仮令それが痛みからのものであっても
 また悔いと実りのない憧れからの
 たったひとりのものであったにしても 」

 前々からの疑問を思い出しました。(結論はありませんが・・・)

「このわが行ひ」とは夕映えの窓辺での詩作であり、詩人はそれが「祝祭」であってほしいと願っています。何のための詩作なのか?―「悔いと実りのない憧れ」というのは詩人の半生についての自省だと思います。
"<痛み>というのは「曠野の歌」にある「わが痛き夢よ休らはむ」の<痛み>と見てよいのかなー? それとも、これも戦時中の生き方に対する自省の言葉なのかな?" という疑問です。
やはり、詩を作ることを「痛き夢」として、生涯を通じて詩語の研鑽に勉めた生き方の表明なのだろうと理解したいと思います。
そのような詩作がどうして「祝祭」になるのか?という疑問もあります。ー「野の花」を捧げるようなもの?
むしろ、ミレーの「晩鐘」の絵のイメージ(祈りの姿)が浮かんできます。

そんな詮索は措くとして、東北の秋の野山を染める色は、独特の深みや複雑さがありほんとうにすばらしいですね。京都の寺社を彩る紅葉よりも、こちらのほうが本当の「日本の色」であるとも思いました。

コロナ禍も第3波に入り、日増しに感染者が増加しておりますが、自力で命を守る行動をするしかありません。私も、当分はまた巣籠生活に戻ります。
皆さまも、くれぐれもコロナ感染されませんようにご自愛ください。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001786.jpg

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1635伊東静雄顕彰委員会:2020/11/21(土) 19:35:03
第31回伊東静雄賞
 下記の作品が第31回伊東静雄賞に決定しました。

「ひまわりがさいている」 おおむらたかじ氏 78歳 男性(新潟市在住)

 贈呈式は、令和3年3月21日(日)諫早市で行います。応募総数964篇、募集に当たり、ご協力賜りました報道関係、各詩人団体その他関係先の皆様にお礼申し上げます。
ご応募いただきました皆様に厚くお礼申し上げます。ますますのご健筆を祈念いたします。
                              伊東静雄顕彰委員会

1636中路正恒:2020/11/29(日) 00:40:11
(無題)
伊東静雄が三島由紀夫のことを俗物と言ったのは正しい。

http://25237720.at.webry.info/201806/article_5.html

1637中路正恒:2020/11/29(日) 00:46:03
青木さん
青木さん、いい詩ですね。
「哀歌」が彼の心の底に残っている。それをわかっている詩ですね。

http://25237720.at.webry.info/201806/article_5.html

1638中路正恒:2020/11/29(日) 00:50:03
セガンティーニ
セガンティーニはドイツ語で書いたのですか?
ドイツ語なら私は読めるので読んでみたいとおもいます。

http://25237720.at.webry.info/201806/article_5.html

1639Morgen:2020/12/20(日) 01:03:36
「冬夜長」
年末寒波襲来により、関越自動車道に数千台の自動車が36時間も立ち往生になるなど、大変な年末を迎えています。皆様のご投稿が途絶えていますが、お変わりございませんでしょうか。
例年(平時)ですと、街も仕事場も、気ぜわしい師走ですが、私はパソコン画面を見つめながら在宅勤務(巣籠り)状態で年越しをする異常な状態になっています。
仕事関係はZOOM等で、顔を見ながら会話をしているので、何となくコミュニケーションしているような気になるのですが、実は10か月も逢っていないのですね。VRとは「まるでリアルであるように」という程の意味らしいのですが、DX(デジタルトランスフォーメーション)が時流となった昨今、超アナロゴな「良寛書墨集」などについ手が伸びて、ページをめくっています。「焚くほどは風が持てくる落ち葉かな」(五合庵時代)という良寛句を口ずさみながら公園の落葉清掃をすることもあります。毎回500リットル程の落葉を袋に入れて公園事務所の車で収集してもらいます。(汗だくになり良い運動です。)
良寛の「冬夜長」や「草庵雪夜作」などの詩には、晩年の良寛の心が込められていて、こちらも心打たれます。私も、一本の線香を焚いて、「草庵雪夜作」を臨書しながら、冬夜を過ごしました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001791.jpg

1640:Morgen:2021/01/05(火) 11:34:09
明けましておめでとうございます。
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

1641Morgen:2021/01/16(土) 21:43:01
「春の足音」でしょうか?
正月から早くも半月が過ぎました。その間に、4大都市圏では「緊急事態宣言」が発令されましたが、昼間の街中の往来や商店街の客数などには大きな減少は見られません。
Zoomによるリモート会議は、正月から3回あり、その内の一回は私が中心になって進行や報告をする会議でした。
終了後に、事務局がが「会議メモ」を作成し、メンバーに配信します。ところがその「会議メモ」には、実際に話したことと別の意味に摂られかねない文章が数か所も見つかりました。慌てて全文に修正をかけ再配信しました。おそらく私の話し方が下手で、表現が明瞭でなかったために生じた誤りでしょう。自分が話したことが聞き手にどう受け取られているかを知る機会は余りありませんから、貴重な機会とみて事務局にはお礼を言いました。次回からは、話す速さや言葉遣いを少し変えようと心の中で思います。

「一月いっとき、二月は逃げる、三月は去る」と昔から聞かされてきましたが、毎日〃、目の前の雑用を片付けていると、あっという間に桜の花が咲き出しそうな気がします。
家の前の公園では「河津桜」(今日アイフォンで撮影)が開花を初めており、メジロが数羽遊んでいます。「春の足音か」そんな感じもします。運動不足解消のために、毎日できるだけ重たいブーツを履いて、1万歩を目標に川沿いの道などを歩いていますが、平均8000歩位しか達成できていません。
皆さま、くれぐれも健康に留意され、明るい春をお迎えください。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001793.jpg

1642Morgen:2021/02/10(水) 23:01:23
「庄野潤三静かなブーム」
 2月8日の読売新聞夕刊に「庄野潤三静かなブーム」という記事がありましたので紹介しておきます。
妻が「芥川賞の今村夏子さんの本は何冊も読んでいるけど、庄野潤三さんのお嬢さんだったの?」と訊くので笑いました。同姓同名の別人ですね。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001794.jpg

1643青木由弥子:2021/02/11(木) 08:04:42
おはようございます
庭の梅も満開になりました。
高校三年の娘の受験真っ最中です・・・

『詩と思想』2021年3月号では、永瀬清子を特集しました。最終ゲラを確認したところです(ドキドキ)

伊東静雄と同年生まれの詩人。井久保伊登子さんの圧倒的な(質量共に)永瀬清子の評伝を読み返しながら、この時代について考えています。

庄野潤三がブームとのこと・・・芥川賞作家の今村さん、私も庄野の娘さんかと思っていましたが・・・違うのですか?!文才が引き継がれたのかと勝手に思い込んでいました。

いま、詩友(というか畏友)と、庄野の『前途』と『春のいそぎ』をつきあわせながら、「久住の歌」や「うたげ」などを読み直しました。ズーム使用、文字起こしと整理をして、こちらももう一人の詩友(こちらも畏友)の個人誌に掲載して頂く予定です。

しばらく、こんな形で『春のいそぎ』の時代について考えていきたいと思っています。

1644伊東静雄顕彰委員会:2021/03/01(月) 10:08:53
菜の花忌・伊東静雄賞贈呈式中止のお知らせ
令和3年3月21日予定の第57回菜の花忌・第31回伊東静雄賞贈呈式及び記念講演はコロナウイルス感染防止のため中止いたします。

1645Morgen:2021/03/11(木) 01:58:26
「花」ー菜の花忌によせて
首都圏の緊急事態宣言延長の影響により、「第57回菜の花忌」が、コロナウィルス感染防止のために中止になり残念でした。
「菜の花忌」に因んで、何処かへ菜の花の写真を撮りに行こうかと思っていたのですが、未だ実行できていません。代わりに、伊東静雄が『舞踏』に投稿した「花」という口述作品のオリジナル(ガリ版)が手元にありますので、コピーして添付してみます。(少し見にくいですが「全集」にも記載されていますのでご参照下さい。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
病気になって色んな人が豪華な花を、次々にもってきてくれた。
それらの花を、美しいと思ふより、季節の移り変りが感ぜられて、自分の病気の長いのが思はれた。三十九度以上もの、熱のなかで、室咲きの繊細な華麗な花を、みていると、何だか非情な気がした。
ただ一度、となりの部屋で、(その部屋とは白いカーテンで仕切りがしてあるだけ) 椿の枝を、瓶にさしてゐて、その影が、夜ははっきりと、カーテンにうつった。そして、となりの患者が、
「ああ、蕾がひらいた」、
と、何度もいふのが聞こえた。あんな固い蕾が、冬の冷たい一鉢の水でひらいて、造りもののやうに部厚い濃色の花辨が咲きでるのを、想像して、何故だか、大へん不思議な気がして、一途に、その花がみたく、又、自分も椿の蕾を、花瓶にさしてみたくなった。・・・

「三十九度以上もの、熱のなかで、室咲きの繊細な華麗な花を、みていると、なんだか非情な気がした。」というのは、見舞客の豪華な花に「思いやりのないつめたい」という気持ちさえしたと詩人は言っているのです。
そして、カーテンで仕切られた隣のベッドで、椿の蕾がひらき、「あんな固い蕾が、冬の冷たい一鉢の水でひらいて、造りもののやうに分厚い濃色の花辨が咲きでるのを、想像して、何故だか、大へん不思議な気がして、一途に、その花がみたく、また、自分も椿の蕾を、花瓶にさして見たくなった。」と、素朴な(藪)椿の花弁が咲き出るのを想像して羨んでいます。・・・

「花を、そんなに欲しがったのは、その時だけであった。そのころが、わたしの病気の一番危い時期であった。」(・・・その憂愁の深さの程に・・・)「自分も椿の蕾を、花瓶にさしてみたい」と、無性に、非常に強い欲望を感じたのは、「ああ、蕾がひらいた」という生命への感動や憧れでしょうか。(・・・明るくかし処を彩れ・・・)

「未だ生きているというしるしに、」口述した言葉が、ガリ版で文字にされ、「花」という一篇の詩ができた。―伊東静雄が、庄野潤三に語ったという次の言葉が思い起こされます。
「詩とは作者と対象との間に内部対外部といふ壁があってはいけないので、つまり言葉はそのまま思想であり情緒となってゐるやうな、さういふ独特な言葉を用ひなければいけない。一度さういふ働きを持った言葉を見つけると、次から次へと湧き出てくるのでせうねと云はれた」(庄野潤三「日記から」)

3月12日には、我がささやかな「菜の花忌」の布施として、盆栽の椿を室内に飾り、「ああ、蕾がひらいた」という瞬間を見てみたいと思います。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001797.jpg

1646Morgen:2021/03/24(水) 00:57:33
「百花発」されど「疫病退散の神」は何処?
皆様 お変わりございませんでしょうか。

椿(「玉之浦」)が一斉に開花しましたので、一部を路地の玄関先に飾りました。アイフォンで撮った写真を添付してみます。派手な肥後椿も一部開花しており、自然界は将に「百花発」の時候に入りました。

―良寛さんの漢詩「?庭百花発」―
?庭百花発 (間庭 百花 発<ひら>き)
餘香入此堂 (余香 此の堂に入る)
相對共無語 (相対して 共に語無く
春夜々將央 (春夜 夜将に央<なかば>ならんとす)

マスクをしたご近所の老人たちが、花の前でちょっと立ち止まり「相對共無語」・・・
時節柄「お茶でも如何」と誘うこともできません。

コロナ感染の勢いは、首都圏・近畿圏とも再拡大の傾向にあり、頼りになりそうな「疫病退散の神」は未だ目覚めてくれません。只管自守自命? 重々ご自愛下さい。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001798.jpg

1647Moregen:2021/04/19(月) 13:16:57
「「企画展 二人の詩人 富士正晴と伊東静雄展」
茨木市立図書館<富士正晴記念館>で、「「企画展 二人の詩人 富士正晴と伊東静雄展」が開催されています。
『舞踏』のバックナンバーを検索していて偶然見つけました。今から早速行ってきます。
 富士正治富宛書簡や、興味深いオリジナル書籍が展示されているようです。
 企画展の模様は、後日投稿します。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001799.jpg

https://www.lib.ibaraki.osaka.jp/?page_id=181

1648青木由弥子:2021/04/19(月) 13:25:53
みなさま、お気をつけて
コロナ感染がなかなか収まりません。大阪近辺、どうぞお気をつけください(東京も再びあぶなくなってきました)zoomが盛んになりました。私も何度か、研究会やら「お茶会」やら「飲み会」やら・・・(以下省略)
zoomの画像にしている版画は、詩集『しのばず』の表紙にも使わせていただいた謡口早苗さんに頂いた版画です。灯台。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001800M.jpg

1649Moregen:2021/04/20(火) 22:25:54
『春のいそぎ』表紙絵
青木様 お元気そうで何よりです。本当に、毎日Zoomや Slack という外国製アプリに頼りきりです。

 茨木市立図書館併設<富士正晴記念館>の、「「企画展 二人の詩人 富士正晴と伊東静雄展」に行ってまいりました。私の他に客はなく、観覧時間が長かったので図書館員が見回りに来ました。「展示品の入れ替えはあるのか?」尋ねましたが、年に三回という返事でした。
 展示目録 https://www.lib.ibaraki.osaka.jp/?page_id=181 にはありませんが、『春のいそぎ』表紙絵(原稿)は3つあったことがわかりました。?高村光太郎画(展示)? 富士正晴画、詩集?実際の『春のいそぎ』表紙です。富士正晴画は、前稿に載せた今回の「企画展」ポスターに使われています。
 静雄詩の生原稿も「七月二日・初蝉」「山村遊行」等がありましたが、後日清書して贈られたものかも知れません。(整い過ぎか?)
 収蔵品目録によると富士正晴宛伊東静雄、伊東花子書簡はそれぞれ百通近く(以上?)ありますが、展示されているのは一部だけです。(できれば全部読みたいですね。)ガラス越しのため読み難いのもあります。七月までには何回かは行けそうです笑顔の写真の展示してありました。(写真撮影禁止の為添付はできません)

 願わくは、同館の所蔵品をお貸しいただいて諫早市立図書館でも「企画展」が開かれないものかと思いました。

1650青木由弥子:2021/05/01(土) 17:00:18
表紙絵
Morgenさま

たいへん興味深いお話をありがとうございます。伊東静雄が・・・「せっかく」描いてもらった原画を拒否、したのか・・・諸事情で実現しなかったのか。高村光太郎のように詩壇のリーダーシップをとる、という位置からは意図的に距離を置いていたように見えます。小高根さんが、静雄はあまり『春のいそぎ』の表紙絵に満足していなかった、と書いていたような記憶がありますが、これは、現行の絵についてなのか、別の絵についての話だったのか・・・再読してみます。

1651Morgen:2021/05/01(土) 22:51:48
『春のいそぎ』表紙絵(続)
青木様

『春のいそぎ』表紙絵原画(候補)として、高村光太郎画と富士正晴画が<富士正晴記念館>に現存していることをとりあえず注記しておきたいと思います。
ちなみに、『伊東静雄研究』(富士正晴編)p136に次のような一節があります。

…第三詩集『春のいそぎ』は桑原武夫、下村寅太郎の力で弘文堂から出ることになってをり、その編集にいくらかわたしも関係した。その装釘はわたしがすることになってぬて原画もできてゐたが、弘文堂をわたしが出たために事はこぢれ、わたしの装釘ならば出さぬと伊東静雄から聞かされて、わたしは手を引いた引いた。…(富士正晴「伊東静雄のこと」)

高村光太郎画も富士正晴画も、「大東亜の春の設けの、せめては梅花一枝でありたいねがゐ」から、画中に色彩豊かな「梅の花」を描いています。実際の『春のいそぎ』表紙は、和紙カバーの見返しに「装幀者 須田國太郎氏」と記され、薄緑の「梅の小枝」が慎ましく描かれています。

1652Morgen:2021/05/04(火) 00:27:26
訂正
 前稿に少し誤りがありましたので訂正させていただきます。(スミマセン)

⇒(訂正後)その後、伊東静雄は桑原武夫のところへ私を連れて行った。
第三詩集『春のいそぎ』は桑原武夫・下村寅太郎の力で弘文堂から出ることになってをり、その編集にいくらかわたしも関係した。その装釘はわたしがすることになってゐて原画もできてゐたが、弘文堂をわたしが出たために事はこぢれ、わたしの装釘ならば出さぬといふことになったと伊東静雄から聞かされて、わたしは手を引いた引いた。その時の伊東静雄の態度には一寸幻滅を感じたが、わたしはすぐにそれを忘れた。(富士正晴「伊東静雄のこと」『伊東静雄研究』(富士正晴編)p136)
ー高村光太郎と富士正晴は、竹内勝太郎詩集『春の犠牲』の編集で協力した関係でした。

(以下PS)
ー伊東静雄が桑原武夫のところへ富士を連れて行った。」のはいつだったのか?
書簡や日記などを調べてみましたが、正確には解りません。(9月15日付け日記から?)

ー10月25日、『春のいそぎ』見本一冊来る。たいへん気に入らぬ。(庄野さんに)どうですといふと、いいですよと答えるので、さうですか、貧乏たらしくじじむさいでせうと力を入れて、かざして見せると、ははと笑いながら「先生がさういふと、何だかほんとにさう見えますよ」と、こちらの例の力説をわらふ。(10月20日日記から)

ーなお同書奥付では、昭和18年9月10日 初版発行(2000部)となっていますが、伊東静雄が京都へ行き、弘文堂で『春のいそぎ』を受け取っ10月26日26日となっています。
 また同日、午後9時45分、蓮田善明を大阪駅で見送り、11月には富士正晴にも召集令状が来ます。「大本営発表で、損害の大きかったことが報じられ粛然たる思いで聞く。」等、戦局は次第に風雲急を告げていきます。時は敗戦まで残すところ1年10か月という戦争末期でした。

 大毎の井上靖へも寄贈。「伊東静雄氏との出会いは遅かった。戦争末期、たまたま新聞社へ贈られてきた詩集『春のいそぎ』を繙くに及んで、氏とは無縁ではなくなったのである。」(井上靖『作家点描』p186) 同氏は、江藤淳「伊東静雄の詩業について」を優れた伊東静雄論として褒めています。(『伊東静雄研究』p612〜627 昭和40年8月『現代詩手帖』では「崩壊からの創造」)

1653Morgen:2021/05/05(水) 15:49:00
余事かも知れませんが・・・
もう一度茨木市立図書館併設<富士正晴記念館>に行こうと思いながらまだ行けてません。
余事かも知れませんが、詩集『春の犠牲』出版事情について、富士正晴さんの文章がありましたので紹介します。(『竹内勝太郎全集』第1巻 p530「解題」)

 ・・・高村光太郎とはその以前、富士が大阪府庁から三月ほど東京に出張しておった時に知り合い、すでに高村光太郎は竹内勝太郎の詩すべてを読んでおり、また高く評価していたので、富士のたのみにより共同編集者として、詩の選択に協力もし、後記を書いた。この詩集はいわば、竹内勝太郎の全時代にわたる詩華集であり、「三人」連載の評論を末尾に加えた。余事かも知れぬが高村光太郎はこのときの弘文堂よりの謝礼全額を「三人」に寄付し、富士の何かお礼したいという申し出に対して、やっと竹内勝太郎使用のペンならいただくということで、竹内家に残っていた万年筆の軸に、竹内が黒部で墜落する途中、出っぱった岩につき当たったさい折れ残った万年筆のキャップの中にあったペンを差し込んだのを贈った。これは空襲で、高村光太郎の家とともに焼失した。

 詩集『春の犠牲』( 昭和16年1月 弘文堂書房刊 高村光太郎・富士正晴共同編集  題字及後記高村光太郎)は、さっそく東京の古書店に注文しましたので、2〜3日中には着くと思います。

もし、老梅の幹から出た数本の梅花小枝を描いた高村光太郎画が『春のいそぎ』表紙絵になっていたら伊東静雄の「貧乏くさい」「じじむさい」という評価は、少しは改善されたかどうか(?)は分かりません。そんなことを考えながら、もう一度茨木に行ってみます。

<前稿訂正漏れ>
わたしの装釘ならば出さぬといふことになったと伊東静雄から聞かされて、わたしは手を引いた引いた。→「引いた」削除。

1654Morgen:2021/05/20(木) 23:50:40
「茨木市長リコール」の思い出
最近報道されている愛知県知事リコールの不正署名に関連して思い出すことがあります。
「富士正晴記念館」のある茨木市は、1970年に開催された万国博覧会への最寄り駅として駅前開発が進められ、駅前ビル建設や都銀支店の進出などがありました。
ところが、当時の市長は建設業者と結託し、進出企業に固定資産税を免除するなどの利益供与をし、また公選法違反で起訴されるなど、茨木市は「政争の街」となっていました。
20歳代後半の私は、当時の府会議員と知り合いであったので豊中市から呼び寄せられて、「市長解職請求」の中心メンバーの一人として事務局に詰め、「受任者」の獲得や「署名簿」のチェックなどの手伝いをしました。その結果「万博の街の市長リコール成立」として全国的に報道されました。無効署名もありましたが、愛知県のような不正署名はなく署名数が有権者の過半数に達する堂々のリコール成立でありました。
私は、その後豊中市に戻りましたので、リコール成立後の市長選挙には関わっていません。(府会議員から市長候補について意見を聞かれたので、教育文化都市として発展するためには、富士正晴さんのような文化人市長ではどうかという意見を述べましたが、あんな「竹林の仙人」ではダメだと一蹴されました。その府会議員は市長選に立候補して僅か900票差で惜敗しました・・・半世紀も前の記憶が蘇りました。)
久しぶりに茨木市を訪れても、当時のことを語りあえる人はもう誰もいません。
閲覧したい資料が数点あるのですが、「富士正晴記念館」は、緊急事態宣言の延長により今も閉鎖されています。
私も、不要不急の外出を止め、河川敷ウォーキングで辛抱せざるを得ません。
皆様、くれぐれも用心されて、感染防止にお努めください。

1655Morgen:2021/06/01(火) 01:59:49
苛烈な文明批評?『苛烈な夢』
富士正晴さんのご住所が茨木市安威であることを知ったのは、「関西国民文化会議」を一時手伝っていた関係からだったと思います。(1965〜8年頃?〜「知識人・文化人のベトナム戦争反対声明」)
伊東静雄に関して、富士さんが当時書かれたものは『伊東静雄研究』(思潮社 1971年) 『ユリイカ 伊東静雄特集』(青土社 1971年) 『苛烈な夢』(社会思想社 1972年)などで読むことが出来ますが、その他にも旺盛な文筆活動をされていました。
富士さんは「毎日文化賞」や「大阪芸術文化賞」を受賞されるなど、有名人にもなっておられましたが、ご本人は市長選挙に立候補する気持など全然なく、私も、茨木在住文化人の例としてお名前を挙げたにすぎませんが、内心で市長選を狙っていた当府会議員にはショックな私の発言だったかもしれません。南無阿弥陀仏!)
それよりも、「中原論、立原論」に関して、伊東静雄が書簡(昭和14年10月5日、同22日、同27日)で力説していた論点は、その後どうなったのでしょうか?
「評論は立言である」「評論の目的は、世の俗人共の傷をあばいて怒らせること・・・苛烈な文明批評であってほしい。」(芸術は啓蒙も解説もできん)という伊東静雄の苛烈な言葉を、富士さんはどう受け止められたのか?
『現代詩読本 伊東静雄』の中で、富士さんは次のように述べています。
非常に親切な忠言であるが、おそらくわたしは承服しないで、自分勝手にやって行ったと思われる。認識することにかかっているような当時の私と、行為することにかかっている伊東静雄との間にはどうしても食いちがいがあったようだ。・・・・・わたしは、伊東静雄には悪いが、やはり、彼の詩の解説(解釈)をやりたい気が尚更に起る。しかしそれは解釈でも解説でもなく、寧ろ拈弄というべきことがらなのだ。『夏花』だけはすでにやっているが、その他の分を、彼の全部の詩についてやりたいと思う。それは彼のいう苛烈な文明批評にならぬかも知れぬし、立言という素晴らしいものにもならぬだろうけれど、何か必要なことである気もする。」(『現代詩読本』(思潮社 p207〜208)
林富士馬さんも『苛烈な夢』の中で次のように言及しておられます。
伊東さんの流儀であり、希望であるところの「個人生活を出来るだけくらまし」且つ、「苛烈な文明批評」で私の文章を綴れるであろうかという危惧である。
但し、以上、二つのことが、伊東さんにとって、欲張った、苛烈な夢であったことは確かである。
―同書で林さんが述べられている所謂「俗人」論は一読の価値ありですね。(同書p81)
「何という才ばしった俗人。自分にはよくわかる。自分の中の俗人に。」

1656morgen:2021/06/13(日) 13:56:07
「庭の蝉」(ふるめきごころ→ぜんしょうのおもひ)
皆様いかがお過ごしでしょうか。
「富士正晴記念館」企画展に関する投稿の中で、展示されている伊東静雄の生原稿について、誤って「七月二日・初蝉」と書きましたが、正しくは「七月七日付封書・庭の蝉」だと思います。(展示品目録には記載がありませんが、後で富士正晴宛書簡を見ていて勘違いに気づきました。同館はまだ休館中です。)

「一種前生のおもひと」が、「七月七日付封書・庭の蝉」では「古心(ふるめきごころ)と」になっています。伊東静雄の推敲の後を遺す資料だと思います。
因みに、「古心(ふるめきごころ)」は源氏物語由来で「昔の人の古めかしい心」の意だそうで、「一種前生のおもひ」は、「小泉八雲全集」や「法然上人伝」(佐藤春夫「掬水伝」)などに由来する「前生」だそうです。

昭和16年7月7日付書簡は、「お手紙ありがとう。小生もう学期試験。それが終わると淡路臨海学舎一週間、それでいよいよ休暇になります。昨日めずらしく詩出来ました。…」と、書かれていますので、「七月七日付封書・庭の蝉」の詩は7月6日にできたということになります。
「庭の蝉」は『コギト』昭和16年7月号記載となっています(未確認)が、『春のいそぎ』に収録された確定稿では、「一種前生のおもひと」になっています。

今年の「初蝉」も間もなくとは思いますが、アフターコロナがどう展開するのか、その中で自分はどう生きていくべきなのか?−誰もが確信の持てない危うい状態ではあります。
国際的にはSDGs等の高邁な目標が掲げられていますが、個人的な実感としては敗戦後の伊東静雄に倣って「身辺の事実」をしっかりと見据え、アフターコロナの不安な一歩を踏み出すほかないと思います。
私は、明日ワクチン接種に参ります(自衛隊の大規模接種会場)。
皆様どうぞくれぐれもご自愛ください。

1657佐藤:2021/06/15(火) 22:48:49
小さい手帳から
 morgenさん、お久しぶりです。時折掲示板を見せていただいて折ります。
非常勤の立場ですが、古希を間近にしながら現在も私は伊東静雄と同じ仕事に就かせていただいています。こんな時期、伊東静雄を見倣い「身辺の事実」をしっかり見据えて生きることの大切さを改めて自覚しています。「小さい手帳から」の一節を載せていただきます。

「こんなとき野を眺めるひとは
 音楽のやうに明らかな
 静穏の美感に眼底をひたされつつ
 この情緒はなになのかを自身に問ふ
 わが肉体をつらぬいて激しく鳴響いた
 光のこれは終曲か
 それともやうやく深まる生の智恵の予感か
 めざめと眠りの
 どちらに誘ふものかを
 誰がをしへてくれることが出来るのだろう
 −そしてこの情緒が
 智的なひびきをなして
 あゝわが生涯のうたにつねに伴へばいい」

改めて伊東静雄の詩魂に触れ、励まされている今日この頃です。

1658Morgen:2021/06/16(水) 12:03:12
゛お久しぶりです。”
 佐藤さん お久しぶりです。
 お元気で、お仕事も続けておられるご様子、何よりです。
 私は間もなく傘寿を迎えますが、3月の健康診断では「異常値なし」のお墨付きを頂いたので、在宅でぼちぼち仕事もしています。今日も1時からZoomによるMTGです。ワクチン接種も一回済みました。
 そろそろ断・捨・離が必要だと感じ、昨日は会社の私物を整理してきました。
 これからは、「実現性の無い計画は諦め、不要なものは捨て、何事にも執着しない生き方」に憧れているのですが、これもまた実現性が低いと自嘲しています。

 時々は身辺のご様子でもご投稿ください。(静雄風に言えば「とぜんなか」)

 

1659Morgen:2021/07/02(金) 01:22:54
7月1日・初蝉
皆様お変わりございませんでしょうか。

朝起きると公園でクマゼミがないています。昨夜は強い雨が降り、朝から太陽が照ったので梅雨明けと勘違いしたのか? 今年は、梅雨入りが随分早かったので、蝉が勘違いをするのもムベなるかなです。

先日、会社の広報部3人からインタビューを受けました。
質問「80歳を過ぎても働こうと云う理由は何ですか?」
応え「?ポツンと十軒家″と言える程の、辺鄙な田舎の長男として生まれ、?足腰立つ間は働くのが当然だ″という風土に育ったからです。会社の仕事がなくなったら公園の雑草取りでもせっせとやります。」― 若い広報部員に理解できたかどうか(?)は疑問です。

昭和45年発行の『四季』(季刊7/8号)に、座談「伊東静雄(その人と作品)」が載っています。(井上靖、桶谷秀昭、小高根二郎、西垣脩、宮城賢) そのひとこまを紹介します。

小高根「伊東の生家の家業が豚の仲買であったこと。これが想像以上の深い暗黒部として、彼の精神構造の中にわだかまっていた」
・・・小高根さんは、繰り返し許しがたい「差別発言」をしています。(俗物の見本)
桶谷「・・・これはもういかんと思いました。(笑い)」

有名な文学評論家たちが初めて伊東静雄の詩を読んだのはいつ頃か?
―『我がひとに与ふる哀歌』や『夏花」は発行部数が少なく、読みたくても入手不可能だったようです。
『ユリイカ』(1971・10)の座談会(川村二郎、菅野昭正、大岡信)では、川村:昭和18年、菅野:終戦直後 大岡:戦後「現代詩集3巻本」・・・

このように、伊東静雄が、大勢の人に読まれるようになったのは、『反響』や「伊東静雄詩集』が出版された戦後からのようです。
しかも、著名な学者達が「伊東静雄論」を雑誌や単行本所収論文として発表しだしたのは昭和40年代になってからです。小高根『生涯・運命』(昭和40年)は、それらに少し先行したために、誰もが無視できなかったのでしょう。この本について、島尾さんは「よく読んだうえでその内容は全部忘れるべきだ」と言っています。(問題個所が多い)
「伊東静雄全詩の逐詩解説」を目指すと先人達が言ってから随分と年数が経ちますが、まだ実現していません。果たしてそんな本が今時売れるのだろうかという疑問すら湧いてきます。私達に出来るのは、この掲示板のようなデジタル空間で色々とおしゃべりをして、伊東静雄を偲ぶ蠟燭の火を絶やさないように努めることくらいだとも思います。
コロナ禍の梅雨時、くれぐれもご自愛いただきつつも、皆様のご投稿をお待ちしています。

1660青木由弥子:2021/07/03(土) 12:28:10
文学論の流行に乗るか反るか
皆さま

お元気ですか。
先月末に四季派学会があり、思潮社の現代詩文庫解説をされている藤井貞和さんの講演がありました。

四季派学会の 理事の方が、藤井さんも学生時代に受講した三好先生の教え子とのことで、そのような思出話から始まったのですが。

最初のエピソードが、高校三年生のとき、注文していた伊東静雄全集が届いたという報を受けて、卒業式を「すっぽかして」本屋に取りに走ったというお話でした!
(新潮社版の文庫で「戦争詩」削除に衝撃を受けた、という・・・そこに至る前段があるのですが、その件については以前、私的に伺ったことがありました。)

講演そのものは、全体を見渡しつつ「そのとき」の「自分と周辺」を間近に観て回るような、鳥が遠い空を旋回しながらポイントごとに舞い降りてくるような自在な視点で、とても触発されました。

高校時代の話から始まり、四季派学会の東さんの「四季派学会会報」の記事のことから三好さんのお話へと移り・・・60年代の状況の学問への影響⇒当時の学問潮流、ロラン・バルトの来日⇒テクスト論などの新潮流⇒その流行に「ノル」か「のらない」か⇒ポストモダンの時代にどう対処したか⇒吉本隆明は政治状況に参加していき、鮎川は距離を取って屹立していた⇒80年代、冷戦の状況が固定化するのではという不安の中で、鮎川は(予言とは言わないまでも)ポストモダンを批判して死んでいった⇒冷戦の崩壊、現代詩の「死」⇒それ以降も詩は書かれているが、まだ第三項は見いだされていない・・・というような流れの話でした。

聞きながら、いわゆる「わがひと」は静雄自身という読み解きは、テクスト論が流行していた時代でもあったということを考えたりしながら、詩人の生涯と知的経験や友人や時代との影響関係、詩人自身の特質といったものの階層・・・透かし絵のように重なるその積層をどのように読みほぐして行くか、というようなことを考えていました。

独り言のような報告ですが・・・

1661Morgen:2021/07/17(土) 13:31:58
「何か滑稽である。」
暑中お見舞い申し上げます。

 30度超えの猛暑を避けて、畳の上に寝ころがって現代教養文庫『苛烈な夢』を読んでいると、富士さんらしい文章に目が留まりました。(同書136頁)

桑原武夫がその詩集が出てから十余年後になって、はじめて「わがひとに与ふる哀歌」を判ったという風に、わたしも、その詩集が出てから三十七年もたって、「わがひとに与ふる哀歌」の頃の伊東静雄のある面に、つまり「イロニイ」とか「クセニエ」とかの言葉に引っかかっている面にようやく気づいた。何か滑稽である。

同書135頁には、「わがひとに与ふる哀歌」という詩集は、全く「コギト」という雑誌なしには生まれてこなかった詩で充満しているという感じである。」(昭和9年〜10年、田中克己、保田与重郎、中島栄次郎等に刺激され、彼らに勝ちたいという緊張と闘い。)と書かれています。そのころの詩人の姿を描写するものとして、説得力があります。

また、同書130頁に、大岡信の分析「抒情の行方―伊東静雄と三好達治」(1965・11『文学』<下記*注に要約しておきました>がありますが、熱い最中なので、興味のある方だけ読んでください。
詳細は、『伊東静雄研究』(富士正晴編)650頁〜670頁「抒情の行方―伊東静雄と三好達治」をご参照ください。
富士さんも、小高根二郎の「三好達治嫉妬的逆上説」は俗論であり、本質的な伊東静雄と三好達治との詩観の相違の違いによると結論付けています。

富士さんのように、?「イロニイ」とか「クセニエ」とかの言葉に引っかかっている面にようやく気づいた。何か滑稽である"と軽く言っていただけると、我々素人でも何となく判ったような気になるものですね。

茨木の「富士正晴記念館」が再開されたようなので再訪してみたいと思います。

<*注>
主題を表現するために言葉があった詩人(三好)と、すでに存在している主題を言葉によって可能な限り消去してゆき、その消去法から結果するはずの、言葉の充溢した空無のうちに、時空の日常的限定を脱したポエジーそのものの出現を期した詩人(伊東)との違い。

「わがひとに与ふる哀歌」に即して結論だけを私なりに要約すれば次のようになる。
 →「太陽の輝きを希って歩んでいく意志の純粋な指向性」だけが残り、「純粋な精神現象としての、詩とよばれる構造物になる」(・・・日本の伝統的な叙述法にさからった歌い方。萩原朔太郎『氷島』と認識上の共鳴点がある。)=ロマン派以後の西洋近代詩の歴史(荒唐無稽な課題・不条理の感覚を言語化する。)

しかし、伊東静雄はこの詩的世界(息苦しい稀薄の曠野)に長く留まることはできなかった。(稀に根付きかけた極めて西欧的な詩の概念〜伝統的な抒情詩の居心地良い歌いぶりへ)

1662morgen:2021/08/11(水) 03:56:26
「・・・この烈しき夏の陽光の中に生きむ。」
「八月の石にすがりて」という静雄詩句から、夏休みに多良岳山麓の川(高来町)で泳いだ少年の頃を思い出します。山の水は、しばらく浸かっていると唇が真っ青になるくらい冷たく、皆で「八月の石にすがりて」時々身体を温めました。

・・・・・
われも亦、

雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢みむ。

⇒「・・・然し只前進する自分を―はてはどうならうと―信ずるよりほかに生き方のないことはニイチェの時代と同じなのでありませう。」(昭和11年4月13日付池田勉宛)

 通天閣の階下の空洞を覗き込みながら、「われも亦、青みし狼の目を、しばし夢」みつつ、立ちあがって生きていこうという詩人のポジティブな姿が目に浮かびます。
(TVでオリンピック実況放送を聴きながらの短信。)

烈しき2021年夏の陽光の下、皆〃様くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

1663Morgen:2021/08/03(火) 10:28:52
「序」〜「あとがき」
富士正晴『桂春団治』(唱和42年11月 河出書房)の「あとがき」と「序にかえて」が非常に面白かったので(少し長いですが)紹介してみます。

「あとがき」(富士正晴)から
昭和36年、講談社の『20世紀を動かした人々』という前週の第8巻「大衆芸術家の肖像」の中の一つ「桂春団治」が思いがけぬことに私の担当となった。・・・全然と言っていいほど、桂春団治について無知なのに、桑原武夫氏は春団治のことは私が知っているから教えてあげますと押さえつけ、貝塚茂樹氏はにこにこして「いや、春団治は君にかぎるんや」と合点のいかぬことを言った。→「ゴリガン」(強引)説

「序にかえて」(桑原武夫)から
「・・・こんな話をいくつかし、また家にあるレコードを聞いてもらううちに富士君は仕事にとりかかる。すると春団治に取りつかれたようになり、講談社の短い仕事がすんでも縁が切れない。そして4年、ここに見られる大作が生まれた。・・・明治・大正・昭和三代の上方落語史は、今後この本なしには研究しえないことになった。」

桑原武夫氏は、「共同研究」により大きな業績を残した学者ですが、大手出版各社とも強い人脈があり、筑摩書房「近代日本詩人選18」の『伊東静雄』を書くように杉本秀太郎氏に勧めるなど、多くの人材を育てました。→「愛情説」

「序」に書かれていることを要約すると、杉本氏は、その方法として当時流行の「テキスト論」に拠り、『我が人に与ふる哀歌』の28篇の詩を、「私」と「半身」との対話劇として構成しつつ、逐一、配列順に註解するという仕事に挑戦された。

「あとがき」では以下のように言っておられます。
『哀歌』の全篇を「私」「半身」というふたりの擬作者に割り振ることが「意識の暗黒部との必死な格闘」の実情を明かす確かな一つの方法である。おびただしい伊東静雄論が「トマトの連作」のように小粒化していくことに義憤を感じた試みであり、これが端緒となって、伊東静雄の詩に対するあらたな読みが次々にあらわれるようなことになれば、トマトの連作はやむかも知れない。

本書については、例えば長野隆『抒情の方法 朔太郎・静雄・中也』(思潮社 1999年8月)―付 杉本秀太郎「伊東静雄について」―ほか幾つかの批評がなされていますが、杉本氏からの応答は見つかりません。(「桑原武夫が書けというから書いた。」という呟きのみ)
また、内容からみても杉本氏の『伊東静雄』を「注釈書」として読むには無理があり、静雄詩解釈の「通説」や「有力説」からも外れているというのが大方の見方のようであります。

本稿の当初の表題は?桑原武夫氏は「ゴリガン」(強引)であったか?″としましたがおそれ多いので訂正しました。
当時の桑原氏、杉本氏、富士氏などの所謂「新・京都学派」とも称される関西文化人達が、京都のバーやお茶屋にたむろして、また各個人宅に泊まるなどして、濃密で温かい交友関係や師弟関係を醸成していたのは、今から見ると羨ましいかぎりと言えます。
盆も近づき、みなさま「あっちでも」和やかにおやりなのでしょうか?
(もし伊東静雄が桑原氏<1904年5月10日 - 1988年4月10日>同様に80歳代まで生きぬいていたら、そんな京都の濃密な人脈の中で大事にされたかもしれませんね。)
茨木市の「富士正晴記念館」は、緊急事態宣言下でも開館されるようです。

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1664Morgen:2021/09/05(日) 05:16:46
総合詩誌『PO』182号(特集 抒情詩)
竹林館の総合詩誌『PO』182号(特集 抒情詩)に、この掲示板でお馴染みの青木由弥子さん執筆の「伊東静雄――戦時中の抒情を考える」が掲載されています。
なかなかの力の入った論考なので、皆様のご一読をお薦めします。(800円 楽天ブック、Amazonで注文可)

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参考(抜粋による概要)
・昭和十年の秋に刊行された伊東静雄の第一詩集『わがひとに与ふる哀歌』に対する評価は、硬質、孤高、凛冽な抒情・・・など、冷たく光を跳ね返す氷壁や刃の切っ先のような美を想起させる。(伊東静雄の登場が人々に与えた期待を代弁する評として、今も朔太郎の評価は鮮明に息づいている。)
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・しかし伊東静雄の全作品を読み通してみると静雄の抒情の質はもっと懐が深い。
一人で冷たい岩礁の中に立って飛沫を浴びているような〈厳しさ〉、世相を皮肉なまなざしと観察眼でとらえた〈鋭さ〉、嵐の中を耐えて海洋を渡って来た燕に寄せる讃嘆や炎天に灼かれて死んでいく蝶、台風の中で潰えていく薔薇を見つめる〈激しさ〉と同時に、名も知れぬ野花を照らし、無心に遊ぶ幼子たちを包み込む夕刻の光を乞う〈優しさ〉、薄闇の中に最初の星が輝き始める瞬間、あるいは夜の水の面に蛍の光が映りこむ様子などをとらえる〈繊細さ〉、蝋燭の火に目を凝らしたり、街灯の照らし出す市井の人々をそっと見つめる〈静けさ〉というように、動から静まで穏やかな広がりを見せる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・一人の詩人の人生の中で?世界との向き合い方?、詩作についての考え方や態度は変化していく。激情から沈静までの幅があるというのも、ことさら不思議なことではない。しかし伊東静雄の評価史を参照しつつ、そこに私自身が感じる伊東静雄の豊かさを重ねていくときに感じる違和感――特に第一詩集に強く表れる?硬質、孤高、凛冽な抒情?、第二詩集に強くみられる?パセティックな抒情?が、あまりにも高く評価され過ぎてはいないか。
対照的に伊東静雄が素地のように持つ穏やかな抒情――第三、第四詩集に至るにつれて音韻や響きの洗練と共に深みを増していく滋味が、過小評価されているのではないかという疑問を考えるために、特に中期から後期にかけての、日常の中から掬い上げられた穏やかさや静けさを読み直してみたいのだ。
また、中期から後期にかけての?平穏、沈静な抒情?を考えていくとき、避けられない問いとして「戦争詩」問題が浮上してくる。
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・こうした時代に、いわゆる家庭詩――家族愛、幼子や野花、小鳥といった弱きものの姿に焦点を合わせていく姿勢を、どのように受け止めたらよいのだろう。壮大な虚無と向き合うような初期作品を評価する視点からは退行に見えるかもしれないが、戦時下の?非常時?に柔弱なもの、ささやかなものへ向かう志向が強まっていった静雄の文学的軌跡を追う時、迫ってくる暗鬱の中にあっても文学者としての目に見えにくい、だがしぶとい抵抗の跡を刻もうとしていたことが見えてくるような気がする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 第一詩集であらゆるものが死滅した湖面を照らし出す壮烈な太陽を激しく乞い願い、同時に拒絶した伊東静雄が、(「百千の」で)哀しみを甘く熟れさせる太陽に感謝を捧げている。
開戦前夜の伊東静雄の、切なる祈りである。

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1665青木:2021/09/18(土) 21:34:40
ありがとうございます
みなさま

お元気ですか。Morgen さん、丁寧なご紹介をありがとうございます。
充実した特集に参加させていただき感謝です。中でもぜひ、山田兼士さんの論考をお勧めします。

平日は午後仕事なので、詩に関わることは午前中か夜間になるのですが、図書館などは土日にしか行けないので(しかもコロナで予約が必要だったり閉館中だったり)いろいろ大変です。

春に、全集未収録の伊東静雄の散文を見つけました。分量的に数ページにわたるものなので、誰かがすでに報告しているのではと思って思いつく「関係各所」に照会したり、過去論文を総当たりで調べたりしているところです。存在を知っている方はいらっしゃいましたが、学会誌などでは未報告なようなので、四季派学会論集誌上でご紹介できるよう準備を進めているところです。

上村さんが6月に研究会会報でご紹介してくださった伊東静雄晩年の書簡についても、より広く知っていただきたいので、同じ稿で再報告をしようと思っています。

台風の被害などは大丈夫でしょうか。東京も明日はなんとか天気が回復しそうなので、神奈川近代文学館に調査に行ってきます。

1666齊藤 勝康:2021/09/26(日) 21:11:53
小野十三郎賞特別賞
お久しぶりです。朝日新聞の記事で青木さんが受賞されたこと知りました。おめでとうございます。いつもなら大阪文学学校の主催の行事に出席するところですがコロナで今年も駄目なのが残念です。

1667Morgen:2021/09/27(月) 00:33:42
おめでとうございます
青木さん おめでとうございます。
齊藤さん お知らせありがとうございます。朝日新聞(9/24)に記事が見つかりりました。

私は、毎日神崎川畔や淀川畔などをウォーキングしていますが、満開の彼岸花群が見られます。(写真添付)萩の花も満開で、川面に垂れて咲いています。

ますます快適になっていく時節のなかで、どうぞお元気でお過ごしください。

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1668Morgen:2021/10/01(金) 23:18:10
「自然に 充分自然に」
今日からいよいよ「カミナヅキ」となり、皆様お変わりございませんでしょうか。

盆栽が春の陽気と勘違いして新芽を吹き、「十月桜」のように花を咲かせ始めているのもあります。先日は、ヒサカキの盆栽の上に、大きなオニヤンマが留まっていて、よく見ると、オニヤンマは瀕死の状態で、ここを死に場所と決めて留まっていたようです。

「自然に? 充分自然に?」
・・・・・・・・・・・
そ處に小鳥はら?々と仰けにね轉んだ
(『コギト』昭和11年1月号 静雄詩「自然に 充分自然に」から)

小高根二郎のさんの「生涯・運命」P324には、「この詩の悲劇性は。小鳥の死にあるのではなく、子供のあてはずれにあるのである。」と書かれていますが。果たしてそうでしょうか?この詩が創られた時の状況を考えてみると、少し違うのでは?と思います。

昭和10年11月23日には、今や伝説となっている『わがひとに與ふる哀歌』出版記念祝賀会が新宿で催され、『コギト』昭和11年1月号は『わがひとに與ふる哀歌』記念特集号として出されています。
普通であれば、まずその出版記念祝賀会出席者(20数名)やコギト執筆者(8名)に対する挨拶をするのが順当なところで、ここで「少年の悲劇」等を書いている場合ではありません。

鈴木亨さんは次のように書いておられます。

「自然に 充分自然に」の詩は。西垣の説く如くそうした執筆者たちへの、挨拶のつもりのものであろうが、同時に先夜の会合に集まった面々へのそれでもあったに違いない。・・・かれの当時の詩を読むと、かれがしばしば<自死>の思いに駆られているさまが窺える。彼はここで、身近な先輩・友人たちにすら、自分の詩が必ずしも正当に理解されないことに身もだえしながら、おのれの異端を宣告し、死所を求めている。
かれはしかし、ここではもはや観念に殉じようとはせず、自若とした自然死を希求する。そしてかかる志向が<日本回帰>を伴いつつ、『夏花』以下の新しい詩風への進展をもたらすのである。(『現代詩鑑賞』桜楓社 168頁)

『わがひとに與ふる哀歌』出版記念祝賀会について、佐藤佐喜雄さんが『日本浪漫派』の中で、とても興味深いことを書いておられたのを思い出しました。(ネタ元は保田氏?)

私は、何ヵ月か前に、伊東静雄の詩集「わがひとに與ふる哀歌」の出版記念会が催され、その時上京した伊東が、すべてのスピーチに対して、ことごとく反駁を加え、ために会場が混乱の様相を呈したという話を聞かされていた。(『日本浪漫派』潮新書 73頁)

出版記念会の出席者への挨拶すべきところを、「自分の詩が必ずしも正当に理解されないことに身もだえしながら」、?すべてのスピーチに対して、ことごとく反駁を加えた“86年前の宴会場の様子が如実に想像できて、痛快な思いがします。

まだまだ30度Cの暑さが残る昨今ではありますが、宣言解除とともに一日も早く街の活気が戻り、人々の笑顔が蘇ることを祈らずにはいられません。
写真は、神崎川畔に咲いていた萩の花です。

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1669青木由弥子:2021/10/02(土) 03:05:32
ありがとうございます
皆さま

齋藤さん、記事を載せてくださりありがとうございます。
現代詩を考える上で重要な小野十三郎を記念する賞、伊東静雄にもゆかりの深い詩人ということもあり、強く背中を押して頂いたような気がします。

戦時中に「軍神につづけ」という総題のもとに新聞に寄稿された詩(伊東静雄の述懐もその一篇でした)のアンソロジーが刊行されていて、その中に小野十三郎の詩も入っているのですが、これが読み方によっては戦争批判ともいえるような内容で驚いたことがあります。気になって当時の新聞の縮刷版を調べてみたのですが・・・アンソロジーに収録されている他の作家の作品は見つかったのに、小野十三郎のものだけがなぜか見つかりません。提出はされたけれど、期日に間に合わなかった(意図的に間に合わないように出した)から、新聞には載らなかったのか。あるいは、新聞という大きなメディアに載せるには、内容的にふさわしくないと判断されて、見送られたのか。(しかし、アンソロジーに載せるならば構わないということで収録されたのか。)小野十三郎の研究者でもある詩人にお尋ねしたことがあるのですが、いまだにわかりません。気になるところです。

Morgenさん、いつもありがとうございます。
十月桜・・・遅かったでしょうかとつぶやかねばなりませぬ・・・言い訳めきますが、齋藤さんとMorgenさんがお祝いのメッセージを寄せてくださった後に、皆さまにご挨拶を申し上げた、はずだったのですが・・・投稿されていないようです。写真と共にアップしようとしたのが、うまくいかなかった、のか・・・改めまして、と申しますか、後れ馳せながら、御礼申し上げます。

「自然に、充分自然に」不思議な、しかし強く印象に残る作品ですよね。「砂の花」もそうかもしれませんが、生きていること、生きているようにみえること、死んでいること、死んでいるようにみえること・・・を考えさせられます。

Morgenさんが当時の状況が浮かび上がるように整理してくださっているので、その背景の前にこの詩を置き直すと、放り投げられてしまった息も絶え絶えの小鳥が、まるで伊東自身、あるいは詩集そのもの、のようにも見えてくるような感じがあります。

『夏花』の中で昭和11年の作というと「八月の石にすがりて」ですが、その前の昭和10年の11月発表の「夏の嘆き」を見ても・・・その後の「水中花」で、堪えかねて思わず投げ打ってしまう、何もかも放り出してしまいたくなるというようなところまで追い込まれていくジレンマを抱えているというのか、悶えている感じがあります。

生と死の層、わかってもらえない(あまりにも予想外の方向で「理解」されてしまう)誤読されているような感覚の層、日中戦争に落ち込んでいく時代の層、それぞれの地層ならぬ詩層で見ていくと、その都度、なるほど、という読み方が出てくる。そうした多層的に読める作品のひとつなのだと、改めて思います。

1670Morgen:2021/10/02(土) 15:03:02
訂正と補足
青木さん
早速のコメントありがとうございます。

「自然に 充分自然に」の引用に間違いがありましたので訂正させていただきます。正しくは次の通りです

「自然に 充分自然に」
・・・・・・・・・・
自然に? 左様 充分自然に!
・・・・・・・・・・・
そ處(こ)に小鳥はらく々と仰けにね轉んだ

『コギト』から『夏花』への転載に際して、踠く(もがく)、瀕死(ひんし)、礫(小石)にルビが付けられ、最後が「そこ小鳥は・・・・」と、ひらがなに直されています。

「作品年譜」からみると、『哀歌』に収録されている詩篇の一番遅いのは、昭和10年8月号『コギト』に「漂泊」が発表されているのが最後で、「拒絶」は同12月号に掲載されていますが、「またも夏の来れるさまを見たり」という詩句から見て、同年夏に作られたのではないかと思われます。

伊東静雄は、『哀歌』の編集をしながら、内心では従来の詩作の方向に疑問を感じるところがあり、11月23日の出版記念会の時点ではその疑念が強くなっていたのではないだろうかというような憶測も沸いてきます。(証拠不十分ですが・・・)
『哀歌』を編集しながら、詩人本人は、現在の通説的『哀歌』評とは異なる詩風を模索していたという仮説を考えてみるのは面白いですね。「拒絶」や「自然に 充分自然に」をその兆候として挙げてみるというのは如何でしょうか?(朔太郎や保田氏は失望するでしょうが。)

 佐藤佐喜雄さんの「すべてのスピーチに対して、ことごとく反駁を加え、ために会場が混乱の様相を呈したという話を聞かされていた。」と書かれているその内容の一部でも記録されていればと思うのですが、まだ見つかりません。じっくりと探します。

―遅かったでしょうか
―いや、これからだよ

1671Morgen:2021/10/05(火) 02:24:19
訂正(2)
 先の投稿で伊藤佐喜雄『日本浪漫派』(潮新書 73頁)とすべきところを、佐藤佐喜雄と誤記していましたので訂正します。何回も訂正してすみません。
 なお、11月23日の出版記念会の場所は、きくや萬碧楼新宿支店であり、本店が宇治にある「関西料理」の店でした。(諌早市立中央図書館蔵の酒井百合子宛案内状が証拠)
 新宿の三越裏でその場所を探し、何枚も写真を撮りましたが、確定できていません。

 当日の模様について、出席者による記録を探していますが、適当なものがまだ見つかりません。

1672Morgen:2021/10/10(日) 23:38:13
「小鳥」〜「狼の目」
緊急事態宣言が解除されたので、久しぶりに「秋の音楽会〜ドヴォルザーク交響曲〜」を聴きにフェスティバルホールへ行ってきました。
ドヴォルザーク交響曲第8番と第9番を続けてリレー演奏する特別企画で、ファンファーレやホルンが、アフターコロナの幕開けを喚起しているようにも聞こえました。

青木さんのご投稿で、「当時の背景や出版記念会の中に詩人を置いてみると、放り投げられてしまった息も絶え〃の小鳥が、まるで伊東自身、あるいは詩集そのもの、のようにも見えてくる」というコメントがありましたが、同感です。

更に「八月の石にすがりて」(『文藝懇話会』昭和11年9月号)のラスト部分にある
・・・・・・・・・
われも亦、
雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を
しばし夢みむ。

この「青みし狼の目」も伊東自身の目の比喩ではないかとも云われます。

「万物よわれに関わることなかれ」と「拒絶」宣言をしてから、約2年間経っています。
「拒絶」は「逃避」であると気づいたのが「八月の石にすがりて」であり、『哀歌』時代の「痛き夢」の詩風に戻ったのではないかという評価がされているところです。

田中俊廣『痛き夢の行方 伊東静雄論』(89~118頁)の「幻の詩集『(拒絶)』*計画と構想の挫折」に、その過程が詳しく述べられていますので、是非ともご参照ください。

散文『夏花』では、?『詩集夏花』が「哀歌』とはまた別趣味なところがあるとするなら作者自身のこの茫漠・脱落の気持ちのせいであらう″と書かれています。
『哀歌』刊行に伴い、激しい過労や緊張の後の茫漠・脱落感というネガティブな気持ちに陥ったが、約2年間の逡巡を経て、伊東静雄本来のポジティブな生き方に回帰し、更に2年半後『詩集夏花』刊行となった。このように整理してみました。
「只前進する自分を信ずるより外生き方はないのではあります。」(昭和11年4月13日付池田勉宛書簡)という信念が、そのスプリングボードになったそうであります。

これからの世の中も、SDGSや「新しい資本主義」の標語でも、どんな形でもよいから、一日も早く活気を取り戻して欲しいものですね。

1673伊東静雄研究会:2021/11/04(木) 09:51:00
諫早三部作  
浦野興治著「諫早少年記」「諫早思春記」「夏休み物語ー昭和篇」の三作をまとめた「諫早三部作」が出版されました。著者の故郷−諫早を舞台に方言を駆使した短編小説の数々をお楽しみください。  発行レック研究所 定価3000円+税

1674伊東静雄顕彰委員 会:2021/11/26(金) 09:47:47
第32回伊東静雄賞
令和3年度第32回伊東静雄賞は、国内外から1146篇の応募があり選考の結果下記の通リ決定しました。

伊東静雄賞 大賞 該当作品なし

伊東静雄賞 奨励賞 2篇
       「庭の蜻蛉」増田耕三氏 高知県在住
       「礼」   関根裕治氏 埼玉県在住

奨励賞作品は、令和4年4月発刊の「諫早文化」誌に選評と共に掲載いたします。又佳作者48名のご氏名も掲載いたします。詩をご希望の方は(一部1300円送料込み)、「諫早文化17号」と記して下記あてお申し込みください。

〒854−0014 諫早市東小路町10−25 伊東静雄顕彰委員会 (?0957−22−1103)

1675Morgen:2021/11/30(火) 00:04:07
市川森一顕彰碑完成ニュース
市川森一没後早くも10年を迎え、顕彰碑完成ニュースが各方面で報道されています。
NHKの地域ニュース(動画)がWEB上にありましたので、コピペして見ます。(保護されているのでうまく開くかどうか分かりませんが)

https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20211129/movie/5030013409_20211129132625.html?movie=false

1676Morgen:2021/12/28(火) 01:55:23
よいお年をお迎えください。
 本年も数日を残すのみとなりましたが、皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。

 大阪では、堂島北ビルの放火殺人事件という大惨事が起きました。歩道の片隅に設えられた場所では、花や飲み物を供えに来られる人が絶えません。慰めの言葉をかけるのさえ憚られるような悲しいスポットです。

 供花の向こうでは、25人の犠牲者たちが「野の仏」となって「助けて!」と通行人に拝んでいるような幻の姿を想像します。
 このような放火殺人に対しては、国民の生命を守るべき国の施策や刑法の規定は役に立たず、犠牲者の命を救うことが出来ませんでした。

 先の見えない、不安に満ちた年の瀬ではありますが、どうか皆さまお元気で新しい年をお迎えください。

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1677Morgen:2022/01/12(水) 01:53:18
「山中無暦日」(さんちゅうれきじつなし)<『唐詩選』>
皆様、寒さの中、如何お過ごしでしょうか?

『よくわかる茶席の禅語』(有馬頼底 主婦の友社)に、次のような一文がありました。

・・・・・私たちは、人間が勝手に作った暦によって動かされています。しかし、山中深くに住む人(山中人)にとっては暦など必要もなく、あるのはただ「人間的な時間」だけです。さらに一歩を進めて、この山を人間本来の本分と考えれば、「山中人」とは、人間本来のあり方をみごとに体得した人であります。・・・・・・

 私は、コロナ禍の影響もあり、昨年の正月以来旅行もせず、今年の正月も自宅に籠りきりで、まるで暦を無視した「山中人」に似てはいないか?・・・などと自分を慰めています。

実は、『よくわかる茶席の禅語』の著者有馬頼底氏は、この本の書き出しを諫早の天祐寺(禅宗)と慶巌寺(浄土宗)の飾りつけの比較から始めています。

 つまり、慶巌寺(浄土宗)は、西方浄土がいかに素晴らしいところかということがよくわかるように、これでもかというような絢爛豪華な荘厳が施されているのに対して、天祐寺(禅宗)は、どちらかと言えばみすぼらしいとも言えるような必要最小限の飾りつけです。

有馬氏は、茶席の禅語を説明するためにこの本を書かれているので、「本来無一物」、「無一物中無尽蔵」の境地を説かれ、外観や他人の眼にとらわれることなく、物の真髄を見きわめ、人間にとって何がほんとうに必要なのかを考え、そして人間の尊厳とは何かを考える。それが実は「無の境地」なのですと仰っています。

これはまさに至言であると考えますので、私も「無駄なもの、余計なものを取り払って、必要最低限のもので生きていこう。」などと殊勝なことを心中で念じています。

 当面、厳しい寒さが続く日々ではありますが、皆様お身体大事にお過ごしください。

1678Morgen:2022/01/26(水) 23:06:05
「鎌倉時代の始まりは・・・?」
「良いお年を・・・」と挨拶を交わしてから早一か月。NHK大河ドラマ「鎌倉殿と13人」―The 13 Lords of the Shogunも今度の日曜日(30日)で、第4回目になります。

 ―鎌倉幕府の成立は1192年なのか1185年? それとも・・・?―

「鎌倉幕府の成立は、1180年10月初旬である」と本郷和人教授が言われる1180年後半の場面が今度の日曜日にあります。(ただし脚本家三谷幸喜氏と本郷氏の関連は不明です。)
 歴史上は、The 13 Lords of the Shogun―「13人の合議制」がスタートしたのは第2代将軍頼家の時代ですが、これは「頼家の実権を制限し、13人が話し合って処置する」という狙いをもったものであり ”THE 13 Lords”とは少し違うニュアンスです。
またthe Shogunも、(頼家や主人公の北条義時ではなく)頼朝であり、「頼朝とその仲間たち」に近いものと「鎌倉殿と13人」を解釈しています。

 *参照「鎌倉幕府の成立」は、1180年10月初旬であるという説。(本郷和人『北条氏の時代』文春新書 2021/11)「武士たちが頼朝を主人と認め、南関東が頼朝の支配に服した時。頼朝が政権の拠点を鎌倉に定めた時」=1180年に鎌倉幕府が成立したという説です。(同『暴力と武力の日本中世史』朝日文庫 2020/12)
鎌倉時代が、1180年に始まったのであれば1333年に足利尊氏の倒幕軍参加により陥落するまで、153年も続いた長期政権です。
日本の中世は、11世紀後半〜16世紀後半の500年と言われますが、運慶・快慶の彫刻に象徴されるような躍動の鎌倉時代があったのだということになります。

 しかし、鎌倉幕府は、武士が一気に全国制覇した単独政権ではなく、京都朝廷との二重政権状態が約40年間も続き、双方の権力の変動は地方の状況にも大きな影響を及ぼしたであろうことが、「関東下知状」(省級年8月30日付)などからも知られます。
―高来東西両郷の二分、同時に仁和寺を本家に頂く寺社領荘園(「御室御年貢」を負担)でもあったという混合権力の状況に、島原や諫早の先祖達は戸惑ったと思います。
 *参照(筧雅博「続・関東御領考」 『中世の人と政治』吉川弘文館)

「蔓延防止等重点措置」下の不安な時代ではありますが、長引く巣籠生活の中で、日頃軽く見てきた日本中世のリアルな姿など、「新しい発見」に出会えば、それもまたよかろうとも思います。

 蛇足ではありますが、NHK朝ドラ『カムカムエヴリバデイ』に、私の孫(春11歳)が子役で出していただくそうです。役柄は、いよいよ結婚したジョーとるいの息子役(桃太郎)で、放映は2月10日から約一か月間と聞いています。「オダギリジョーさんも深津絵里さんもとても丁寧で優しくて、撮影は非常に楽しかった。」という孫の感想でした。よかったら見て下さい。

1679Morgen:2022/01/26(水) 23:35:58
訂正
「関東下知状」(省級年8月30日付)は、承久三年八月三十日付に訂正します。

*承久の乱後、高来東西両郷は、平家没官領として鎌倉幕府の支配下に入ったが、東郷と西郷は二分され、高来西郷は武蔵稲毛本庄と交換され、「前大僧正御坊」が領主となった。また、高来東西両郷は「御室御年貢」を進済すべく定められていたので、仁和寺を本家にいただく寺社領荘園でもあった。参照:『中世の人と政治』255頁〜310頁「続・関東御領考」

1680Morgen:2022/03/21(月) 00:07:51
第58回「菜の花忌」ご盛会を!
 桜開花が報じられる時節になりましたが、皆様お変わりございませんでしょうか。
 今年は「第58回菜の花忌」が開催されるようで、ご盛会をお祈りいたします。

まだコロナ禍が終息したわけではありませんが、一方では、ロシア軍のウクライナ侵攻による残虐な都市破壊と痛ましい大量殺人という大変な出来事が、連日、テレビの画面や新聞で報じられています。狂人としか見えないプーチンの戦争犯罪行為によって、ウクライナ人のみならず世界中の人々が恐怖と怒りに震えあがっています。(「平和共存」や「人類の進歩と調和」などという過去のスローガンはいまや虚妄の幻想と化したのでしょうか?!)

1月26日に投稿しましたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、約2か月かけて「1180年」の出来事が演じられました。同年12月12日、大倉御所が完成し「これより佐殿は鎌倉殿、ご一同は、その家人、御家人であります。」と、関東に独自政権(鎌倉幕府)がスタートした瞬間の模様が、今日の番組で演じられました。
現在の歴史教科書は1185年説でありますが、これで1180年説の方へ一歩前進するのかどうか?(テレビドラマとは云え、日本の歴史を学び直すキッカケを頂きました。脚本の三谷幸喜さんに感謝!)

朝ドラの「カムカム・・・」の方も、小学生時代の大月桃太郎役に10歳の孫を登用頂き、貴重な経験の機会を与えて頂きまして、ありがとうございました。
身内ながら、なかなか落ち着いて、活舌も爽やかに、京都弁のニュアンスもにじませて演じているのを観て、子供の成長は早いものだと驚きました。本人は、元々は三谷幸喜ファンでコメディ風童話などを創る方に興味を持っていたようですが、いまは役を演じる方に変わったようです。役作りや演じ方など、オダギリジョーさんや他の出演者が丁寧に教えてくださったようで、大感謝!!
また何かに出演するときいていますので、よろしくお願いします。

1681Morgen:2022/04/12(火) 01:04:40
「PEACE ON EARTH」(地球の平和)
「第58回菜の花忌」が開催された旨の新聞報道があり、安心しました。

??痛々しい焼け跡の長崎の街が広がる映像、1966年7月長崎駅に到着した特急「西九州」に独り居残り、フルートを手に、長崎の音を作ろうと模索するコルトレーン、原爆公園で祈りと瞑想に耽り、フルートで献奏する姿、スクリーンには長崎とコルトレーンにまつわる実写映像が次々に流されていく(長崎は彼にとって特別な意味を持っていました。)
コルトレーンは、17日間に9都市で17公演を行う強行スケジュールをこなし、その翌年(1967年)には、40歳という若さで病死するという悲しい出来事がありました。

 バックには、ジョン・コルトレーン・クインテットが日本各地で演奏した「PEACE ON EARTH」が流れました。(映画『CHASING TRANE』の一場面から)

 痛々しい焼け跡の長崎の街が拡がる映像は、連日ロシアの爆撃で無残に破壊されているウクライナの街を連想させ、私には、コルトレーンの「PEACE ON EARTH」がウクライナの街に流れているようにも感じました。

 余り映画を見ることの無い私ですが、先日、家内に誘われて、十三のセブンシアター(第七芸術劇場)で映画『ひまわり』の再演を観た折に、コルトレーンドキュメント映画『CHASING TRANE』のポスターがあるのを見つけ今日独りで観てきましたが、その感想です。

 昔(1970年代〜?)、ジャズレコード収集に凝った時代があり、小遣いをためて無理して真空管アンプやアルテックのスピーカーを買って聴いていました。(今はほとんど聴きませんが2階の部屋でそれらが大きな場所を占めていて家内には邪魔者扱いを受けています。)

 初期のコルトレーンは、アルトサックスで美しいバラ―ド曲を吹いていたのですが、後期には彼独自のフリージャズに転じ、馬の嘶きのような演奏を長々と続けるようになっていました。(それは1960年代後半期のジャズ界の流れでもあったのですが・・・)
 初期の美しさバラードメロディーや、コルトレーン独特の音に魅了されることはなくなり、まるで密教僧が延々と祈祷を続けている場面に居合わせたようにも感じました。
そうなるともうジャズ音楽視聴に浸るというよりも、聴衆もコルトレーンと一緒に熱心に祈るほかないのだと感じました。
(後日、フェスティバルの公演の際、ジョン・コルトレーン・クインテットの一員・ドラムのエルヴィン・ジョーンも「あの長さには閉口した」と苦笑していました。

 十三の雑居ビルの5階にある小さな映画館「セブンシアター」(第七芸術劇場)は、映画ファンには知られているようですが、今日も観客は少なく、しかも老人ばかりで少し寂しい気もしました。わたしは、ポスターを見て次の鑑賞予定も決めてきました。また今日の映画のサウンドトラックCDも買ってきましたので、ゆっくりと聞き直したいと思っています。

 ロシアのウクライナ侵略戦争が一刻も早く終結することを祈りつつ、コルトレーンの「PEACE ON EARTH」を聴きたいと思います。

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1682Morgen:2022/06/03(金) 01:45:06
掲示板の存続如何について
 早くも夏が巡ってきましたが、皆様、お元気でお過ごしでしょうか。

 「新しい冷戦時代」(Cold War ?)の深刻化という現在の情勢の下、自らの生き方についても、見直しや新しい心構えが必要になってきているのではないかと私は痛感しています。


 GMOから以下のようなメールが来ています。(当掲示板も、何もしなければ7月いっぱいで終了となります。goo blogへの引越しなど形を変えて存続させるご希望があれば対応が必要です。)

(以下GMOメール)

これまでteacup.をご利用いただいた皆様には、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
teacup.の終了に伴い、ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解、ご了承いただきますよう、お願い申し上げます。

teacup.のサービス終了に伴い、AutoPageブログでは無料版でもご利用いただけるようエクスポート機能を開放しております。
また、goo blogならインポートツールを使って簡単にお引越しができます。お引越しできるデータは、記事のタイトル・本文・画像・コメント・絵文字(※1)・カテゴリー名が対象です。
goo blog
goo blogへのお引越し方法について(以下省略)

AutoPageブログのデータ保存や、お引越しをご検討されている方は、お早めにご利用ください。

1683青木由弥子:2022/06/03(金) 08:29:50
四季派学会論集
皆さま、お元気でしょうか。

掲示板の「引っ越し」が必要なのですね・・・
私も前に使っていたブログの使い勝手が悪く、別のブログを開設したのですが、まとめてデータ移行出来るという「エクスポート」機能がうまく使いこなせず・・・必要なものだけ、コピペで移したり(自分の整理用なので)パソコンの元データのみを残したりしています・・・

話は変わりますが、Facebookに下記の告知をアップしました。以前、研究会会報に「序文」については載せていただきましたが、考察などを加えたものです。

『四季派学会論集』26集、刊行です。
『定本 伊東静雄全集』未収録散文一篇 および 新発見書簡二通 翻刻と解題 ・・・を寄稿しています。

伊東静雄の全集逸文は、詩集の序文なのになぜか国文学随想となっている興味深いもので、伊東の日本浪曼派との距離感というのか、微妙な位相の相違も見えてくる(かもしれない)文章。「なかぞらのいずこより」という詩の戦後の改訂にも関わってくる内容です。
(これだけの長さが、未だに学会などで紹介されていないというのも驚きです。)

手紙も、伊東の入院中にしたためられた少し長めの2通。当時の状況や想いを知ることの出来る貴重な資料です。

巻頭は藤井貞和さんの講演録「近代詩と戦後詩」(もちろん、伊東静雄についても言及されています!)
もうひとつの巻頭講演録は、萩原朔美さんの「中也の風と朔太郎の白」。
論考は桑原旅人さんの「萩原朔太郎と辻邦生の「思索=詩作」」

充実した論集に資料紹介稿を載せていただき、感謝です。




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