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伊東静雄を偲ぶ

1136山本 皓造:2015/03/11(水) 11:42:30
ボルノー「リルケと実存哲学」
 先月末の投稿でとりあげた、塚越敏・田口義弘編『リルケ論集』収録論考のうち、今回はO・F・ボルノー「リルケと実存哲学」を紹介します。
 本論は3つの論題から成り立っています。
 一 現代詩人としてのリルケ
 二 リルケの概念語について
 三 リルケの実存哲学

一 現代詩人としてのリルケ

イ. 人間とはそもそも何であるのか。リルケが詩人として負うた新たな使命
「過去の他の詩人たちはすべて、彼らの所属する時代によって提供された、一定の人間像を抱いていた。彼らには、せいぜい、ともにおのれを形成しながら、こうした人間像の造型に関与することができただけである。その本質において人間とはなんであるか、という問題は、少なくともその最も深いところにおいては、彼らにとって、問うに値する問題とはならなかった。しかし、リルケは現代に特有の問題のなかに立っている。……そしてこの現代においては、以前のいかなる時代とも違って、人間の本質が問われることとなったのである。人間とはそもそもなんであるのか。リルケにはもはやわからない」
「リルケは、人間そのものを歌った詩人である。……以前の人間把握がすべて疑わしいものとなってしまった後に、測り知れぬ闇のなかから新たな輪郭を探り出すこと、すなわち、人間解釈の新たな可能性を明るみへと引きだすこと、これが彼の使命なのである」
「われわれが詩作に関して知る限り、リルケほど、もっぱら人間を、飽くことなく持続的に問うた詩人はいまだかつていなかった。また、個々の人間が、彼ほどに、人間存在の新たな解明へと入り込みえたためしはなかった。そして、それゆえにこそリルケは、われらの時代の詩人なのである」

ロ. リルケの詩作の諸画期
(1) 「本来のリルケとそうでないリルケとの間に一線を画さねばならない。」本来のリルケは後期リルケ、『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』およびそれ以後のリルケである。
(2) 初期作品群は本来のリルケへの視線を遮蔽してしまう。『新詩集』さえ、それが厳しい自己抑制を知らしめたことによってのみ、意義がある。
(3) ひとつの画期としての『マルテの手記』。ここではじめて「人間一般の本質にあるもの」への肉薄が本格化した。「いまや初めて人間は完全に不確かな、疑わしいものとなった」

ハ. 後期作品の特質
(1) 「リルケの作品領域は抒情詩であって、それ以外のものではない。それにもかかわらず、厳密には、リルケは少なくとも従来的な意味あいでの抒情詩人ではない。……われわれにとってとくに決定的な意味をもつ、あの最終の最も深みのある創作段階において淘汰されて残ったものは、きわめて客観的なものであり、……それのもつほとんど冷徹な厳しさにおいては、思想詩そのものである」
(2) 「とはいえ……彼において問題となるのは、……前もって把握されたある思想の詩的表出ではない。……リルケの思索する場とは、同時に思想が詩として形成されるところである。……リルケが活動するところとは、詩作と思索とがまだ別個の可能性として分離していないところ、詩作がそのままなお思索であるところの深みである。ここにおいてリルケは、精神的業績のひとつの根源に到達している。この根源において彼に比肩しうるのは、せいぜいヘルダーリンくらいのものである」
(3) 「リルケの詩作領域は、このように驚くほど狭い。内容からみれば、結局ふたつのおおきな対象だけがあり、これらをめぐって彼のすべての思考は旋回するのである――すなわち、人間と事物であり……しかし、これらふたつのかけ離れた両極の間には、有機的なるものの包括的な領域が欠如している。――動植物にみられる生が、また最も広い意味での風景一般における生が、そして、精神的、歴史的世界における人間の生の豊かさもまた欠如しているのである。……その結果リルケには自然とのいかなる実際の関係もないのである。」

 ほとんど引用ばかりになってしまってすみません。「詩作=思索」がそのまま言われているところなど、関心をそそります。(未完。以下、次回へ)




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