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伊東静雄を偲ぶ
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谷間の明り
青木様が「自立した孤」ということに関して、「広大な宇宙空間のなかに、無数の孤の灯が、それぞれ自立して燃えている」と書いておられる個所を読んで、そのときとっさに私に、2つのイメージが浮かびました。それについて書いてみます。「解明」までは行きませんので、ここではイメージの提示だけです。引用ばかりになりますが、お許しください。
その一は、堀辰雄『風立ちぬ』の終章「死のかげの谷」の一番最後のところ。
九時頃、私はその村から雪明りのした谷陰をひとりで帰って来た。そうして最後の枯木林に差しかかりながら、私はふとその道傍に雪をかぶって一塊りに塊っている枯藪の上に、何処からともなく、小さな光が幽かにぽつんと落ちているのに気がついた。こんなところにこんな光が、どうして射しているのだろうと訝りながら、そのどっか別荘の散らばった狭い谷じゅうを見まわしてみると、明りのついているのは、たった一軒、確かに私の小屋らしいのが、ずっとその谷の上方に認められるきりだった。……「おれはまあ、あんな谷の上に一人っきりで住んでいるのだなあ」と私は思いながら、その谷をゆっくりと登り出した。「そうしてこれまでは、おれの小屋の明りがこんな下の方の林の中にまで射し込んでいようなどとはちっとも気がつかずに。御覧……」と私は自分自身に向って言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、殆どこの谷じゅうを掩うように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。……(新潮文庫 p.197-198)
立原道造はその評論「風立ちぬ」でこの部分をとりあげて、堀辰雄への訣別の言葉を準備します。
僕らは、「親和力」のなかで、嘗てこのやうな言葉をきいた――「人はどんなに世を離れてくらしてゐても、知らない間に、他の人に役立つてゐたり、おかげを蒙つてゐたりするものだ。」と。オチリエがそれをいふのだ。僕らの詩人もまた、今はそのことを言ひたいのではなからうか。――「あつちにもこつちにも、殆どこの谷ぢうを掩ふやうに、雪の上に点々と小さな光の散らばつてゐるのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。」(S.190)とつぶやくときには。僕らは先にこの言葉をひとつの静寂な饗宴から理解した。しかし今むしろ、非常に感傷的な感想として、ここに詩人が、他の人に役立つてゐることを、自分の満足といつしよに、弱々しい微笑で告白してゐるのを見る。生きた人間は恒に他の人から自分を奪はれねばならない。そして自分も他の人も満足しながら、この掠奪がなされるのは、ひとつのやはり美しい感謝ではなからうか。詩人の弱々しい微笑は、限りない肯定である。どこから、この肯定は、しかし僕らに訪れるのか。ひとつの entsagen から? 否。ひとつの entscheidenから。(筑摩書房版『立原道造全集第3巻』 p.261-262)
立原がここで「ここに詩人が、他の人に役立つてゐることを、自分の満足といつしよに、弱々しい微笑で告白してゐるのを見る」と云うのは、前の堀辰雄の引用部分のすぐあとに続いて、次のように書いているのを指します。
漸っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見てみようとした。が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになっていた。「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」と私はなんだか気の抜けたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来た。「……だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……(新潮文庫 p.198)
立原は堀のどこが気に入らないのでしょうか。立原の「風立ちぬ」を読み解くというのは実は、私の前からの課題になっていて、ハイデガーまで担ぎ出した挙句に、音をあげて放り出したのでした。ここでは、谷間に散在するかすかな明り(と、それについての堀辰雄の感慨、立原の何やら不満げな様子)をイメージしていただければ結構です。
二つ目のイメージは、サン=テグジュペリ『人間の土地』の冒頭部分です。
ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目のあたりに見る心地がする。それは、星かげのように、平野のそこここに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。
あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた。あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したりしているかもしれなかった。また、かしこの家で、人は愛しているかもしれなかった。それぞれの糧を求めて、それらのともしびは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っていた。中には、詩人の、教師の、大工さんのともしびと思しい、いともつつましやかなのも認められた。しかしまた他方、これらの生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう……。
努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。(堀口大学訳、新潮文庫 p.7-8)
「心を通じあう」は communiquer です。
伊東の姿勢と立ち位置はどう見ても、「拒絶と自恃」「自立して燃える孤寂なる発光体」であり、とりあえずは、他者との communiquer や、「他者への想像力」からは遠い所にあります。そこからの転位の機微については改めて考えなければならないでしょう。
なお、田中清光氏の著書への私の感想を「お伝えしてもよろしいでしょうか」と青木様が云っておられること、どうか御意のままにお取り計らいください。
書いているうちに、もうひとつ、リルケの詩「厳粛な時」(『形象詩集』)を思い出しました。「いま、世界のどこかで、泣いている者がある」。有名な作品なので、以下、引用はやめます。なぜこれを思い出したかも、ご推察ください。
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ここまで、昨夜、下書きを仕上げて、今日、投稿しようとして掲示板を開くと、Morgenさんの投稿に会いました。
「雪原に倒れ伏し、飢ゑにかげらせて目を青ませた狼」どうしの「連帯」、というのはなんだか、ドキドキしますね。「広大な宇宙空間のなかで、それぞれ自立して燃えている、無数の孤の灯」たちが、相互に「連帯」する、という壮大な夢想。……
また続きを書きます。今日はとりあえずここまでで投稿します。掲示板上での濃密な対話を期待します。
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