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伊東静雄を偲ぶ

1170山本 皓造:2015/07/01(水) 10:35:58
「鏡」の絵
 トラークルについて。私はトラークルはやはり「表現主義」だと思います。「ぼくの魂の暗い鏡」が「明澄な鏡」のように事物を映しているとは思えないし、トラークルにもそういうつもりはなかったと思います。Morgenさんのご教示をいただいて、私も「三つの夢」を読んでみましたが、そこから明確な事物のイメージは浮かんで来ません。トラークルは外界の事物ではなく「魂の暗い鏡」に映った自らの内面を表出したかったのであって、その意味で表現主義と呼んでよいと思います。
 これにたいして、リルケの詩から出て来るのはまさしく事物のイメージであり、噴水や鏡は何のメタファや象徴でもなく、まさにそのものであって、そのままで、私はそれを抒情と感じます。少なくとも『新詩集』はそのように読みたいと思います。

 鏡の話が出て、私は前稿で「絵を描いてみたことが」あると云った、その「絵」をノートから探し出しました。前後の書き込みから判断すると、これを描いたのは2013年の4月頃らしく、――
 ふりかえってみると、この年は、「秧鶏は飛ばずに」やチェーホフ書簡の解明からはじまって、3月には美原の詩碑の除幕式があり、その後私が伊東の初期詩篇「海」「窗」について投稿し、話はケストナー、新即物主義、に移り、夏に入って私が腰痛で「休筆」に至った、というふうな流れでした。
 「絵」の周辺には乱雑な書き込みがいっぱいあって、読むと、やはり新即物主義、それに田中俊廣先生の「私を超ゆる言葉」のこと、碓井雄一さんの「詩人の自意識」のこと、などを考え詰めていたようです。
 「窗」(2013.4.4) を書いて、末筆で「ここで行き詰まっています」と私は書いています。2年間、行き詰まったままというわけです。いつかこれは必ず一度は書き切りたい。

 先日来、「小野十三郎のリルケ論」というものを書いて、次に投稿しようと思っています。もうすこし整理中です。

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