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伊東静雄を偲ぶ

1462山本 皓造:2018/06/13(水) 14:57:23
「一月十二日の記」
 庄野潤三さんの最も若い頃、九大学生時代の作品に「一月十二日の記」「雪・ほたる」があることは、すでに早くから知られていました。
 私が1994年に『住高同窓会室所蔵伊東静雄関係資料目録』というものを編んだ際、庄野さんの項にはまず、
  一月十二日の記(昭和一八・三 未発表)
  雪・ほたる(「まほろば」昭和一九・三)[誤:昭和一九・四に訂正]
  淀の河辺(「午前」昭和二二・二→『伊東静雄研究』)
と書き始め、続いて、伊東さんの亡くなられた昭和28年に、おそらく追悼文の依頼に応えて書かれた
  伊東静雄先生のこと(「詩学」昭和二八・六→『伊東静雄研究』)
  伊東先生の手紙(「プシケ」昭和二八・六)
  『反響』のころ(「祖国」昭和二八・七→『庭の山の木』『伊東静雄研究』『現代詩読本』10)
というふうに、記述を進めています。

 「およそ書誌目録というものは必ず自分の目で見たものだけを記さなければならない」と、厳しく戒めたのは誰だったか(谷沢永一? 青山二郎?)まことにそれは至言であって、しかしそれにもかかわらず私の目録では、自ら未見のものもあえて記入せざるをえなかったことに、忸怩たるものを感じていました。

 私の手もとに「まほろば」掲載の「雪・ほたる」をコピーしたものがあります。しかし「一月十二日の記」は、まったく見る手立てがありません。「実見しないものを記すのは違犯である」という定言命題が重くのしかかります。

 庄野さんご自身は、「一月十二日の記」と「雪・ほたる」の内容はみな『前途』に取り込んだ、と言っておられますので、まず『前途』から引用します。

 三月七日
 (中略)室が帰る時、頭を冷やすために電車道まで送った。星空で、僕は「一月十二日の記」のことを考えて歩く。昨日の夜、室が帰ってから、最後の場面にほんの少し手を加えて、今日にでも蓑田に渡そうと思っていた百枚ほどの小説をやめて、一月の末に二晩で書いた二十五枚の「一月十二日の記」を出すことに不意に気持が変り、っそれより必死で取りかかった。
 二月いっぱい、殆ど徹夜の苦労も、全く空しくはない。熟するまでその小説は心にしまっておきたい。「一月十二日の記」、それは冬休みに家へ帰っていた十八日間の最後の一日の朝から夜までを書いたものである。母と阿倍野へ『ハワイマレー沖海戦』をみに行ったのも、この日の主な出来事のひとつであった。(下略)
 三月八日
 朝、十一時起床、それより四時まで原稿書く。今までで十五枚。好調。あとをしっかり書き終えたい。三十枚にはなる。
(中略)
 三月十一日
 小高のところへ昼ごろ行く。松下さんのためのノートを借りに。小高に書けないと云うと、しゃにむに書いてしまうんだ。この一作に全力をという気持では書けないと云う。
 昼から書き出す。到頭、二時ごろ書き上げる。うれし。
 三月十二日
 朝、小高来る。室の引越の時の写真が出来たのを見せに。よく撮れている。
 三時ごろまでかかって推敲し、夕食後、リュックをかついで下宿を出る。蓑田の家へ寄り、「一月十二日の記」を渡す。

 次に、阪田寛夫さんの『庄野潤三ノート』から引用します。

幸い、昭和十八年一月の末に二晩で書き、三月はじめに書き直したと「前途」に記されている「一月十二日の記」という未発表の小説(冬休みの最後の一日の朝から晩までを書いた三十四枚の作品)をこんど私は読むことが出来た。当時の文章を知るよすがにその一部を引用してみよう。休暇の最後の夜だからと家族にとめられそうになるのを切り抜けてとび出し、郊外電車で伊東静雄の家まで挨拶に行く件りである。

耳原のみささぎ近く、三国ヶ丘に目立たぬ住居なせる一軒の古家の前に、僕は立っていた。標札には、その屋の主の姿勢を思わせるような字で、伊東静雄としるしてあった。とりわけ伊という字は、その人の頭の恰好に似ていた。幾度、期待に胸躍らせてこの標札を眺めたことだろう。そして応え待つ間の気持は、初めて来た日も今も変らなかった。今晩はと呼んで戸を開けると、はい! という澄んだ声が聞えて先生が顔を現わし、客を認めてから、優しい微笑して頷くようにされた。この先生の会釈に逢うと、決って不思議な安らぎを覚え、もうそのまま引き返しても悔ない気持ちになるのだった。先生が嘗て不機嫌な顔をして僕に対応されたのは、一度あっただけだった。(以下略)(p.172)

 「幸い」阪田さんは「一月十二日の記」を「読むことが出来た」のです。そして、これが、私たちの読み得る唯一の部分であると思います。

 庄野さんはのちに『文学交遊録』でも、次のように回想されていますが、内容は『前途』に記されたところを出ていません。。

昼前に島尾の下宿へ行く。小説書けないというと、島尾、「しゃにむに書いてしまうんだ。この一作に全力をという気持ちでは書けない。とにかく書いてしまうんだ」という。昼から書き出す。夜中すぎて二時ごろ、書き上げた。(猪城博之と二人で作る計画の雑誌「望前」に出すつもりでいたこの小説「一月十二日の記」は、冬休みに大阪に帰省した私が、休暇の最後の一日をどんなふうに過したかを書いたもの。夕食が終ってから、母と妹が止めるのを振り切って、堺の伊東先生のところへ行く。そんな話が出て来る。休みの最後の晩だから家族とともに過ごしたいという気持ちと、その日、行きますと伊東先生に話してあった、約束だから行かないといけないというので、気持ちが揺れ動くままに家を飛び出したのであった。)(p.82)

(なお、「雪・ほたる」は七月六日から九月四日までの記事なので、一月の記事および三月七日、十一日の上記部分に対応する記事は存在しない。また『前途』本文も、昭和十八年一月の記事は、一日、二日、三日、四日の次に一月二十日に飛び、「一月十二日の記事」というものは、ない。)

 さて、実は私は、「伊東静雄関係書誌目録」の庄野さんの項を書くにあたって、同窓会室所蔵の資料(現物や複写物)、私の手持ちの若干の資料、『庄野潤三全集』の随筆の巻を読んでの摘出、『伊東静雄研究』その他等を参照して、ひとまず草稿を作り、これを阪田さんに送って点検をお願いし、またもし出来れば庄野さんご自身の校閲を乞えるならば、とお願いしたのでした。阪田さんからは丁寧なご教示をいただき、やがて庄野さんからも直々におハガキを頂戴しました(その一部、画像)。
 「一月十二日の記」は公にはもはや見ることができない、ということが、このようにして確定した次第です。

 次の仕事として、「雪・ほたる」と『前途』の比較対照表というものを作っています。その成果は次回に回しましょう。

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