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伊東静雄を偲ぶ
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野崎有以(あい)詩集『長崎まで』-第22回中也賞受賞
時々、本格的な冬のような木枯らしが吹き始めましたが、お元気でしょうか。
・・・・・・・・・
路面電車で眼鏡橋近くの電停まで行って「長崎詩情*」を口ずさむ
私の生まれた冬がない
なかったら作ったらいい
作ったらいいんだ
長崎本線から見える有明海の夕日がまぶしくて両手を顔の前で広げる
まぶしいからだけではない
身体を透かすほどの純粋な抱擁があった
瞬きのたびに無数の夕日の粒が海に降る
様々な光りかたをする粒が輝きとしてそこに存在する
こうしていつかの夕日の一粒として
私は生まれた
・・・・・・・・・・・・
―詩集『長崎まで』89~90頁から抜粋
*内山田洋とクールファイブ「長崎詩情」
昼休みに覗いた書店で、“野崎有以(あい)詩集『長崎まで』”という表題を見てこの本を買いました。(中村稔『言葉について』も同時に購入しました。)
「あとがき」によると、詩人野崎有以(あい)さんは東京の人で、一度も長崎には行ったことはないが「長崎は私の未踏の故郷だ」そうです。
「野崎有以というのは本名で、有は有明海から一文字もらった。“東京がだめだって私には長崎がある”、そう思って生きてきた。“あい”という音で正しく呼ばれるもうひとりの私がどこかにいるような気がしていた。有明海のまわりにその子がいる、そう信じていた。詩を書くことはもう一人の私に会いに行くことを意味している。生きていく過程で手放してしまったもの、取り上げられたものを詩によって取り戻そうとした。私の書く詩の多くが有明海のある九州を舞台としているのはそのためだ。・・・・・」
戦後現代詩史を飾る著名詩人達の詩に歌われた「わたし」は、伊東静雄や三好達治の「わたし」よりもさらに複雑な情念を持っていると、90歳の現役詩人中村稔氏は書いておられます(青土社『青春の詩歌』序文)。
野崎有以さんの「わたし」や「故郷」も、フィクションを駆使して自由に転開し躍動する「わたし」であり、また私の「半身」が有明海の辺りにいると幻想することにより、有明海が「詩のポトス」となっています。
野崎有以さんの詩には、クールファイブ・前川清の歌から着想を得たと注釈されている詩があります(「前川清さんが、言葉を自分の歌として唄うときの誠実な姿勢にすごく惹かれたんです。」『現代詩手帳』2017July)。
100頁足らずのこの詩集をつい一気に読んで終いましたが、随所で「捻った」表現がされているので、もう一度ゆっくり再読・吟味してみたいと思っています。いわゆる「ガチ現代詩」ではない、いまどきの若者の「自由で躍動的な現代詩」(詩語を用いない詩)のサンプルを見ているような気がします。
長崎の皆様方も、風邪を引かないようにご自愛ください。
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