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伊東静雄を偲ぶ
『呂』探索記・その3
7/18(水) 青木敬介氏宛発信
青木敬介様
甚だ突然でございますがお許しください。私は詩人・伊東静雄について研究している者ですが、ご教示を得たいことがあり、先日お電話をいたしましたところ、ご不在にて、奥様にあらましを申し上げましたが、尚、書面にて意を尽したいと存じ、あらためて筆をとった次第でございます。
私は同人雑誌『呂』のバックナンバーを探しております。ご承知のごとく、『呂』は昭和七年六月、伊東静雄や、お父様の青木敬麿さん、原野栄二さん等を中心に刊行され、伊東は多数の作品を同誌に発表しています。これらの初期詩篇は、伊東の詩業をあとづけるに当ってぜひ詳細な考究を要するテーマと考えるのですが、原資料たるべき雑誌『呂』の書誌事項について、各種評伝や研究書はほとんど触れるところがありません。…… (中略)……
電話での奥様のお話では、「見たことがあるように思うが、全部そろっているかどうか……」とのことでした。もし現在『呂』をご所蔵であれば、その号数、またほかに同誌のバックナンバーの所在についてご存じならば、それらについても、ご教示を得とうございます。
私は昭和十年生まれ、大阪の住吉高校の卒業生ですが、伊東先生は私の入学より先に阿部野高校に移られたので、直接に教えを受けたことはありません。伝記研究の欠を埋めるべく、先に大阪での伊東静雄の住居を調べて『昭和文学研究』誌に発表したことがあります。ひき続き京都時代の調査にかかり、ほぼ成稿を得ましたが、並行して“雑誌『呂』と伊東静雄”という標題で、少しづつ構想を練っているところです。(中略)……
時々地図を眺めて、御津町岩見という所へ、やはり一度はぜひ行ってみたい、との思いを強めております。
右、まことに唐突で不躾はでございますが、お許しをいただき、ご教示を賜りますよう、何卒よろしく御願い申上げます。 敬具
七月一八日
投函して、とうとう踏み出した、という思いに、なんだか昂奮して、ふわふわと、落ち着かぬ毎日を送っていたのですが、7月が終わってもまだ返事をいただけませんでした。
わたしの孫は当時6歳で、幼稚園の年長組、折しも夏休みで、このころは毎日のようにやって来て(お母さん=わたしの娘の骨休めです)、おじいちゃんと精一杯遊んで、ご満悦、ご機嫌で帰るので、こちらはそれだけでクタクタになります。それでも、まだ今よりは若かったのでしょう、読書もし、原稿にも手をつけていました。
京都での調べは、最期の詰めがまだ残っていて、これは10月になってようやく実現しました(後述)。それと、わたしのメモでは「桶谷伊東柳田」と称しているものに着手(これはある種の「日本浪曼派論」になるはずであったのだが、結局ものにならず。『コギト』『日本浪曼派』全冊を読まずに「論」を書くのは、無謀であろう)。
また、この前後に読み上げた書物を拾ってみると、
川田順三『口承文芸論』、同『無文字社会の歴史』、同『アフリカの心とかたち』
柳田国男『口承文芸考』
野家啓一『物語の哲学』、同『言語行為の現象学』、同『無根拠からの出発』
バシュラール『空と夢』、カール・シュミット『政治的ロマン主義』
大岡信『抒情の批判』、同『超現実と抒情』、同『昭和詩史』、同『蕩児の家系』
まあ、よく勉強もしていた、ということでしょう。大岡信『抒情の批判』を読んだ日に、こんなことを日記に書きつけています。
この本の読了は3度目である。1回目は Aug. 3. 1961、羽曳野病院に入院中に詩を書いていた頃。2回目は June 24. 1982、この時も詩を書いていたが、これは中年の Sturm und Drang みたいなもの。すると、ちょうど20年おきにこの本を読んだことになる。それはたぶん、20年を間に置いて、同じような精神状態が戻って来ているということを意味している。〈ちょっとも傷けられも また豊富にもされないで〉。
8月に入り、督促がましくて気がひけて、臆しつつ、西念寺に電話してみましたが、やはり住職はご不在で、奥様が出られました。これが8/1(水)で、すぐ後の8/4(土)に、追って手紙で、「かような閑文字のために勝手な申し条でまことに心苦しいのですが」お返事を賜りたい、と書き送りました。
8月13日(月)、「待望の!」返事が届きました。(未完)
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