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伊東静雄を偲ぶ

1663Morgen:2021/08/03(火) 10:28:52
「序」〜「あとがき」
富士正晴『桂春団治』(唱和42年11月 河出書房)の「あとがき」と「序にかえて」が非常に面白かったので(少し長いですが)紹介してみます。

「あとがき」(富士正晴)から
昭和36年、講談社の『20世紀を動かした人々』という前週の第8巻「大衆芸術家の肖像」の中の一つ「桂春団治」が思いがけぬことに私の担当となった。・・・全然と言っていいほど、桂春団治について無知なのに、桑原武夫氏は春団治のことは私が知っているから教えてあげますと押さえつけ、貝塚茂樹氏はにこにこして「いや、春団治は君にかぎるんや」と合点のいかぬことを言った。→「ゴリガン」(強引)説

「序にかえて」(桑原武夫)から
「・・・こんな話をいくつかし、また家にあるレコードを聞いてもらううちに富士君は仕事にとりかかる。すると春団治に取りつかれたようになり、講談社の短い仕事がすんでも縁が切れない。そして4年、ここに見られる大作が生まれた。・・・明治・大正・昭和三代の上方落語史は、今後この本なしには研究しえないことになった。」

桑原武夫氏は、「共同研究」により大きな業績を残した学者ですが、大手出版各社とも強い人脈があり、筑摩書房「近代日本詩人選18」の『伊東静雄』を書くように杉本秀太郎氏に勧めるなど、多くの人材を育てました。→「愛情説」

「序」に書かれていることを要約すると、杉本氏は、その方法として当時流行の「テキスト論」に拠り、『我が人に与ふる哀歌』の28篇の詩を、「私」と「半身」との対話劇として構成しつつ、逐一、配列順に註解するという仕事に挑戦された。

「あとがき」では以下のように言っておられます。
『哀歌』の全篇を「私」「半身」というふたりの擬作者に割り振ることが「意識の暗黒部との必死な格闘」の実情を明かす確かな一つの方法である。おびただしい伊東静雄論が「トマトの連作」のように小粒化していくことに義憤を感じた試みであり、これが端緒となって、伊東静雄の詩に対するあらたな読みが次々にあらわれるようなことになれば、トマトの連作はやむかも知れない。

本書については、例えば長野隆『抒情の方法 朔太郎・静雄・中也』(思潮社 1999年8月)―付 杉本秀太郎「伊東静雄について」―ほか幾つかの批評がなされていますが、杉本氏からの応答は見つかりません。(「桑原武夫が書けというから書いた。」という呟きのみ)
また、内容からみても杉本氏の『伊東静雄』を「注釈書」として読むには無理があり、静雄詩解釈の「通説」や「有力説」からも外れているというのが大方の見方のようであります。

本稿の当初の表題は?桑原武夫氏は「ゴリガン」(強引)であったか?″としましたがおそれ多いので訂正しました。
当時の桑原氏、杉本氏、富士氏などの所謂「新・京都学派」とも称される関西文化人達が、京都のバーやお茶屋にたむろして、また各個人宅に泊まるなどして、濃密で温かい交友関係や師弟関係を醸成していたのは、今から見ると羨ましいかぎりと言えます。
盆も近づき、みなさま「あっちでも」和やかにおやりなのでしょうか?
(もし伊東静雄が桑原氏<1904年5月10日 - 1988年4月10日>同様に80歳代まで生きぬいていたら、そんな京都の濃密な人脈の中で大事にされたかもしれませんね。)
茨木市の「富士正晴記念館」は、緊急事態宣言下でも開館されるようです。

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