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伊東静雄を偲ぶ

1327Morgen:2016/09/08(木) 11:52:17
「夏の終」較べ(改)
青木様。お忙しいところを瀬尾氏にお便りいただきありがとうございました。

瀬尾育生『戦争詩論1910−1945』からは、「戦争詩・国民詩・愛国詩の用語法」についてご教示を受けました。

それでは、昭和15年〜昭和17年という3年間の<<夏の終>>は、どういう違いがあったのでしょうか。当時の出来事をまとめて見ます。

*昭和15年夏の出来事
ヨーロッパでは、前年9月から第二次世界大戦が勃発して、その戦火はますます拡大していた。日本では、これに便乗して(日独伊三国軍事同盟加盟)勢力拡大を図ろうとする陸軍や松岡洋右のような政治家と、日中戦争からの足抜きや日米関係改善を優先する海軍や政治家(米内)などが争っていた。
7月には、陸軍のごり押しで、米内内閣は総辞職し、アメリカが最も嫌う松岡洋右を外相とする第2時近衛内閣が成立した。
同月、「大東亜の新秩序」「南方への進出」などの内閣方針が決定され、議会政治が実質崩壊し、北部仏印進駐、日独伊三国軍事同盟成立などの日本の運命を揺るがす大事件が矢つぎ早に起こっている。

このような大波や大風をはらむ苛酷な時の流れは、庶民としては抗うことの不可能な、そのうねりに身を任せて生きていくことを余儀なくさせるもの(心はそうあるよりほかがなかった)であった。詩人は「疲れてゐるわけではなかった」が、詩人の目にはその虚脱感、放心状態から、「壮大なもの(世界)が徐かに傾いてゐる。」ように見えた。

*昭和16年夏の出来事
7月29日、日本軍、南部仏印に進駐。アメリカは、直ちに在米日本資産の凍結、石油全面禁輸措置を取る。(駐米野村日本大使への無線通信が全て米軍に解読されていたために迅速な措置が執られた。これにより対日経済封鎖網が完成された。ルーズベルトが出した助け舟にも日本側は対応できず、自ら設定した10月の期限を徒過し軍部は一直線に日米開戦準備へ進んだ。)…<戦時下での日本の石油備蓄量は1年半分…戦争の限界は18年夏まで!>
この「開戦なき戦時体制」を、日本のマスコミは、「ABCD包囲網」と名づけ、こぞって反米英キャンペーンを展開した。9月6日の御前会議で、(10月半ばまでに交渉不成立の場合は「米英線を辞せず」という)開戦の内意が決められて以降、軍部は具体的な開戦準備や部隊の移動を開始した。(それらの戦時体制の強化によって強烈な反米英敵愾心が国民の間に醸成されたことが、12月8日のの宣戦布告を“清々しく”感じさせたともいえる。)
天皇は、「軍部は、やけっぱちの戦争をしようというのか?」と、軍幹部に対する不満を側近の木戸に漏らされたそうで、“清々しい”などという感情は毛頭なかったに違いない。(『1941 決意なき開戦』堀田江理 2016/6 人文書院)

近衛内閣から東条内閣にバトンタッチされるとともに、世界的な日本封鎖網にまともな判断力を喪失した日本が、地球上から自分の国家が消えて無くなる程の重大な危険をも省みずに「やけっぱちの戦争」「勝算のないワンチャンスの賭け」「集団自殺の道」に踏み出したのが、昭和16年夏の重大事件であった。(松岡洋右、山本五十六は、何よりも賭けが大好きな人間であった。)

9月5日、天皇と杉山 元陸軍参謀総長との会話。(御前会議での拝謁上奏)
天皇「アメリカとの戦争となったならば、陸軍としては、どのくらいの期間で片付ける確信があるのか。」
杉山「南方方面だけは三ヶ月くらいで片づけるつもりであります。」
天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は一ヶ月くらいにて片づくと申したが、四ヵ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか。」
杉山「支那は奥地が広いものですから。」
天皇「ナニ、支那の奥地が広いと言うなら太平洋はもっと広いではないか。いかなる確信あって三ヶ月と申すか。」
杉山総長はただ頭を垂れたままであったという。(『文芸春秋』平成19/4「昭和天皇戦時下の肉声」から)

*昭和17年夏の出来事
1942年6月7日、日本海軍による「窮余の一策」ミッドウェー環礁(北太平洋)攻撃は大失敗となり、日本海軍は主力空母4隻はじめ航空機や操縦士に大きな損害を受けた。
さらに、8月7日には、米軍がソロモン諸島ガダルカナル島(南太平洋)に上陸し、米軍の大反攻が開始された。

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