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伊東静雄を偲ぶ

1148山本 皓造:2015/04/12(日) 11:00:48
ボルノー「リルケと実存哲学」続々
 斉藤さん、Morgenさん。早速の応答をいただき、ありがとうございました。細見氏の本2点(金時鐘論と小野十三郎論)をアマゾンの中古に注文しました。斉藤さんの「知己」の多彩さにあらためて感嘆させられました。
 竹内清己編「堀辰雄『風立ちぬ』作品論集」はおもしろそうで、私も手に入れたいと思います。「生きめやも」は、文法上はともかく、「風立ちぬ」のどこをどう読んでも、「生きようか、いや、断じて生きない、死のう」という意味には読み取れませんね。中村真一郎は、加藤周一との関係もあり、この人のは何冊か手に入れたいのですが、目下は保留にしています。
 今回の投稿のために大急ぎで「風立ちぬ」を読み返してみた際、
 ・作品の向こうに透けて見えるリルケ、伊東。気のせいか? 早とちりか?
 ・「風立ちぬ」は、これはやっぱり名作と云うべきだなあ
 ・堀辰雄の見かけによらぬしたたかさ
そんなことを思ったのでした。

 以下、続々ボルノーです。

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一、現代詩人としてのリルケ(前々回)
二、リルケの概念語について(前回)

三、リルケと実存哲学

イ、前提

(1) 「実存哲学という概念は……ここ数年[*山本註]、あらゆる精神生活を掌握し、さまざまな分野で呼応しながら調和の効果を現わしている包括的な一大運動」であり、
(2) 「その精神的運動の基底層で作用している共通性を言い表わした名称」である。
この運動は哲学ではハイデガーとヤスパースによって実存哲学を生み出し、宗教方面ではカール・バルトの弁証法神学を生み、文学ではリルケとならんでカフカの名をあげることができよう。
(3) 「リルケと実存哲学」という問題設定は、リルケの文学を哲学の地平へとひきずり出して強引に哲学的に解釈しようとするものではない。それはより普遍的な当時の精神的な働きからリルケを理解しようとする試みである。
  [*山本註] 本論文は O.F.Bollnow: Rilke の序文。刊行は1951年。

ロ、リルケとハイデガー

「アンジェロスの伝える言葉によれば、かつてハイデガー自身が、自分の哲学はリルケが詩的に表現したものを哲学的に陳述したものにほかならない、と語ったとのことである」
  [ボルノー註]J.F.Angelloz:Rainer Maria Rilke (Paris 1939)

ハ、実存主義の精神運動の諸特徴とリルケ

(1) この運動の発端=世界の不気味さと人間存在の危機の発現 → 理性への信仰およびこれに代わる生感情いずれもの崩壊
ハイデガー … 人間の現存在の「被投入性」Geworfenheit
ヤスパース … 苦悩と死、闘いと負い目「限界性」
「「護られずに、ここ心の山の頂きで」とリルケが歌うとき、彼もまた人がこのように救いがたく完全に放擲されているという感情を語ったのである。人間の生がまったく護られていないということを、リルケほど衝撃的に表現した詩人は、(カフカは別として)他にいなかった」

(2) 「死」の問題性
「ハイデガーの場合には死への存在(Sein-zum-Tode)が人間の生に究極的な重みと責任とを是非を問わず投げかけるのだが、それと軌を一にしてリルケの場合にも、死の問題は、彼の多様な発展段階において常に伴い、人間の生を熟考する際の内奥の中核となったのである」

(3) 意識の志向性と純粋な関連
ブレンターノとフッサールにおける「意識の志向性」の認識と同様、「リルケもまた、うわべは自己満足して落ち着いている人間の本質を解体し、その代わりに「純粋な関連」――まさしく他のものに対する機能上の関係――を置いたのである」

(4) 超越と乗り越え
ニーチェの「移行」(Übergang)と没落(Untergang)をその特徴とする人間認識、ハイデガーの、人間の自己を越えての移行すなわち「超越」(Transzendenz)を人間の本質とする認識などと同様に、「リルケもまた人間のすべての力を「乗り越え」(Übersteigen)と「踏み越え」(Überschreiten)とに集中させた、これらふたつの語は、「超越すること」(Transzendieren)からの、具象性ゆたかな逐語訳である。/「彼は従う、踏み越えることによって」(オルフォイスのソネット第1部第5歌)」

(5) 決意性
「進歩への信仰は崩壊し、あらあゆる本質的な問題において人間は常に挫折するのだということが、そしてまたくりかえし最初からやりなおさねばならないのだということが認識された」
「ハイデガーは、人間のすべての使命を「決意性」(Entschlossenheit)なる概念で
集約しているのである。――ついでに言えば、この「決意性」なる語は、リルケも特に好んで用いた語である。リルケが、容赦なく幻想を排除して、人間の使命を堅持した方向もここにある」

ニ、実存哲学とリルケの同時代性――1920年代

 1924 カフカの死とその後の諸作品刊行
 1927 ハイデガー『有と時』
 1932 ヤスパース『哲学』
これらはいずれも数年以上の準備期間を含み、同時にそれはリルケ「ドゥイノの悲歌」「オルフォイスへのソネット」の着手と1924年の出版およびそれ以後のいわゆる後期リルケと、正確に符合する。

ホ、リルケと実存哲学との関連のもうひとつの側面――キルケゴールがリルケの精神的発展に及ぼした重要な意味

 ボルノーはキルケゴールを
「かつていかなる思想家も、これほど重要な影響をリルケに及ぼしたことはなかった」「キルケゴールはリルケの生涯における決定的な転回点を意味している」
と、きわめて高く評価している。

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 私はキルケゴールについて何を言うこともできませんので、ホ、の詳細は省略させていただきます。なお『リルケ論集』には、ボルノーも参照を求めている、ヴェルナー・コールシュミット「リルケとキルケゴール」という論考が収録されています。
 リルケと実存哲学ということでは、ぜひ、塚越敏『リルケの文学世界』を視野に入れたかったのですが、他日を期します。本書はご承知のごとく、とくに『マルテの手記』におけるリルケに焦点をしぼり、これを実存主義としてとらえて論述した大著です。私は本書にたいへん教えられました。
 「被放擲性」という語は、中断したままになっている、「乏しき時代の詩人」および立原道造「風立ちぬ」論の続稿へと私を急き立てるようです。




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