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伊東静雄を偲ぶ
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山本 皓造さま Morgenさま
あっという間に夏が過ぎ、行きつ戻りつ、の異常台風も過ぎ・・・
蝉と虫の声とが重なりあって聞こえてきます。
落蝉に手を触れた途端、ゼンマイが急に弾けるように震え始めて、どきりとしたことがありました。
もう命のないもの、と思って触れた時の、発作的な生の痙攣、のような・・・あの時の感覚を詩に書きたいのですが、どうにもうまくいきません。
「三好隆」さんの文章、ありがとうございました。小川さんの『伊東静雄論考』に「伊東静雄と三島由紀夫」の1項があり、そこに三島(平岡)少年の最後の詩、「夜の蝉」が引用されているのですが・・・この詩が掲載された「学習院輔仁会雑誌」の昭和18年の169号は、冒頭に大伴家持の「丈夫は名をし立つべし後の代に聞きつぐ人も語りつぐがね」などを置き、「出陣学生諸子を送り在学生諸氏に告ぐ」という野村行一の文章から始まります。(野村氏は、たぶん当時は学習院高等科の教授だったと思います)紙の統制などで発行間隔が開いていた輔仁会雑誌は、この号で休刊となるのですが、三島はそのことも意識しつつ、これで最後、と思いながら、この詩を掲載したのだと思います。
蝉・・・静雄の「前生」という言葉が前から気になっているのですが・・・仏教の信仰篤かったという静雄の母の影響もあるのかもしれません。
蝉は、地中から蘇るように現れて、ひと夏を鳴ききり、またすぐに死んでいく。お盆の時期に盛んに鳴く、ということもありますし、再来した死者の声のような気がするもの、なのではなかろうか、という・・・。
『春のいそぎ』は、前半に「戦争詩」が収められていますが、私もまた、人々とともに歌うことが許された、というような、詩人としての控えめな悦び、詩人の務めを果たせる、という安堵のようなものを強く感じます。
後半に、家族との思い出や、子供への想いを置いたということ・・・出征する友人に、この『春のいそぎ』を贈ったりもした、ということ・・・私もまた、日本の皆と共に、君の無事を祈っているよ、という思いが前半であり、後半は、戦場にあっても、日本の風流や雅を愛する心を忘れないでくれ、家族への想いを忘れないでくれ、という願いが込められているように感じます。
戦勝してほしい、と望みはしても、その為に命を捨てよ、犠牲になってこい、雄々しく名を立てよ、と煽ることはなかった、家族のことを忘れるなよ、日本の(やさしい)心や情緒を忘れるなよ、と呼びかける詩集だったように思うのですが・・・それを、うまく、言えるかどうか・・・課題山積!です。
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