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伊東静雄を偲ぶ

1244山本 皓造:2016/01/16(土) 12:02:24
中村真一郎から「河邉の歌」へ
 私がこの欄に「松浦寿輝氏の「エセー」」と題して、「アクチュエル」な時間と「レエル」な時間ということを書いて投稿したのは、ついこの間と思っていましたのに、調べてみるとそれは一昨年、2014年2月26日のことで、もう2年も前のことになります。その2年間という時間の過ぎ行くのが早かったことに驚きます。
 松浦氏はプルースト巻末解説の「プルーストから吉田健一へ」というエセーで、まず吉田健一の時間観を「その流動を奪はれてこれが時間だと自分の前に置ける類の」時間として取り出して、これを「アクチュエル」な時間と呼び、次いでプルーストの無意識的想起によって喚起される時間態様を「レエル」な時間と呼んで、これと対比しました。私はこれにヒントを得て「河邉の歌」を次のように読んでみたのでした。長くなって申し訳ありませんが、以下にその要点を抜き出します。

   私は河邉に横たはる
 作者は、故郷ならざるある河辺に来て横たわります。ここはまだ「アクチュエル」な時間です。
   (ふたたび私は歸つて來た)
 ここで、一つの時間断片ともう一つの時間断片とが不意に接合します。( )は、事態が「レエル」であることの、あるいは時間態様が異なることの、徴表です。
 この「超越的な時間」「純粋状態の時間」においては、アクチュエルな時間は無化され、傷ついたり豊富にされたりした時間は飛びこされます。
 「私」をふたたび「アクチュエル」な時間に引き戻すのは、ザハザハという川の音です。作者は自分が依然としてアクチュエルな時間のうちに在ることを気づかされます。万物の上を等しく流れ、正確に数をきざみ、往って戻らぬ時間というものの本性。この気づきを作者は
   私に殘つた時間の本性!
と云います。
 この時間には、生けるものの「死すべき宿命」mortalité が含まれます。作者はそれを、「はやも自身をほろぼし始める/野朝顔の一輪」において目のあたりに見ます。この宿命の、例外を許さぬ普遍性(正確さ)と、にもかかわらずその死の固有性(孤独)。

 旧稿「「河邉の歌」を読む」では私は、第三聯については適確な解釈を得られないままに、書き流してしまいました。
 最近になって、中村真一郎『芥川龍之介の世界』(岩波現代文庫)、同『芥川・堀・立原の文学と生』(新潮選書)、小久保実『中村真一郎論』(審美社)などを読みました。小久保の『論』が、

周知のようにプルーストは記憶に二種類あることに注目した。意志的な記憶と無意志的な記憶。人は後者の中で、現在と過去を同時に生きる。それは超時間の世界への飛躍である。

という、中村真一郎の著書からの引用を行っていて、私はこれに触発されて、さまざまな想念がワッと湧き上がってきました。以下、手抜きをして、箇条書きにします。

●「時間の本性」は、
  アクチュエルな時間、ギリシア語でいうクロノス的時間、吉本『固有時』に云う自然的時間と、
  レエルな時間、カイロス的時間、固有時的時間
どちらに解してもよい。後続の論理にはかかわらない。
●水中花は無意志的記憶の想起=開花である。プルースト。乾いて、ひからびて、花の色を失い、形を失い、紙屑のようなものになった水中花が、水の中で、鮮やかな花の色と形を取り戻してゆく。内田百?「水中花」(本掲示板2006.6.4)がなぜ「水中花」なのか、やっとわかる。
●「飛行の夢」は「夢想による飛行」と言い換えられる。飛行は、夢想/レエル時間に入り込むこと/による、
  A 大阪の陋屋から本明川の河原への――。
  B 少年時への特権的時間への――。
 拙論「『河邉の歌』を読む」で引いた、杉本秀太郎氏、菅野昭正氏の、「どこからどこへの飛行か」に関する立論はいずれも妥当であると考える。
 レエル時間=「純粋時間」=「詩作時間」という米倉巌氏の所説は、もし「河邉の歌」というこの詩それ自体に適用されるとすれば、その立言はメタ・レベルにあり、この詩は自己言及的な詩であるということになる。
●第一聯は「アクチュエル」時間から「レエル」時間へと入り込む。第二聯はアクチュエルな時間に戻る。
 さて、第三聯はどの時間相に属するか?
 読み方としては第二聯の続きであって、なおアクチュエルな時間に居る、と読むのが自然である。であれば、雲の去来や取り囲む山々の存在はいずれもアクチュエルな時間におけるアクチュエルな事象である。それは、ザハザハという川の音や、萎れかかる野朝顔と同じレベルのアクチュアリテである。最後の「飛行の夢……見捨てられはしなかった」も、アクチュエルな時間に居て行う、直前のレエルな時間経験の確認である。
 そうだとすると、山々が天体の名を持つてはいけない。それがたとえば北斗七星であって、妙見岳を指す、とすれば、それは故郷の山々であり、アクチュエルな時間のアクチュエルな出来事として現れることはありえない。ここには(不注意からかどうかは措くとしても)レエルな時間の時間相が混入してきている。意図的に混入させても詩としては成り立つが、それは伊東の本意ではなかった。伊東はこの混入に気づいて、『反響』でこの行を削除したのではなかったか。
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