S.541-542
1916.11.10 [München]
第5回「新しい文学の夕べ」の席上でカフカが彼の散文作品“In der Strafkolonie”『流刑地にて』を朗読、聴衆のなかに、リルケとその友人 Max Pulver がいた。「カフカは、まるで影のようで、毛髪は濃い茶色、顔色は蒼ざめて」朗読卓のところに坐っていた。彼の言葉は「底知れぬ苦悩に満ちた氷の針となって」聴衆の心に食い込んだ(Max Pulver, “Erinnerungen an eine europäische Zeit”)。カフカは1916.12.7. 付のフェリーツェ・バウアー宛の手紙で、次のように記している。「あなたは朗読会についての批評のことを尋ねていますが、ぼくはあれからただ一つ、《ミュンヘン=アウクスブルク新聞》 の批評を入手しただけです。それはまあ最初の批評より好意的ですが、根本的には最初のそれと一致しているので、より好意的な感情が、朗読全体の実際壮大な失敗をさらに一層強めています。……ところでぼくはプラハでさらにまたリルケの言葉を思い出しました。『火夫』についての大変好意ある言葉の後に、『変身』でも『流刑地にて』でも『火夫』のような緊密なまとまりには達していないと言っています。この言葉はすぐには分かりにくいのですが、明敏です」。*
ところがこの注釈には大きな問題があるとして、詳細な考証を加えた人がいます。河中正彦さんという、山口大学の方(故人)で、ここではとても紹介しきれませんが、もっとも簡略に云うと、
1.編者が原稿の到着を「九月三〇日」としたのは単純なミスで、正しくは一〇月三〇日であった。検閲を考慮すれば、原稿が検閲から戻ってきてそれをリルケが読む時間的な余裕はきわめて狭い。
2.朗読会およびその日の夜の懇親会への出席者名は記録されているが、リルケの名前は両方ともに見いだせないので、もし二人が会ったとすればその後ということになる。いずれにせよ、現状では確証がない。
こうして河中教授は、「リルケとカフカは出会ったか?」という論文を3篇続けて、大学の紀要に発表されたのです。私はウエブをうろうろしていて、偶然そのお名前と論文の所在を知りました。参考までにその所在を記しておきます(この稿の末尾に)。
なお河中氏の論文によると、Rilke-Chronik の初版では「フェリーツェへの手紙」の編者の註(「会ったことがない」)に同意しているらしいのですが、初版を見る便宜がなく、はっきりしたことはわかりません。他方改訂版では unter den Zuhöreren sind R. und der mit ihm befreundete Max Pulver とあり、上に訳出したように、たしかに「会場にいた」と読めます。