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伊東静雄を偲ぶ

1110山本 皓造:2014/12/29(月) 12:04:33
『リルケ年譜』から「リルケとカフカ」――リルケ読書その後(7)
S.480
1914.10.16 [München]
……当時リルケがすでに Hölderlin、Werfel、Trakl、Kafka を読んでいたことを、Lulu Albert-Lazard が記憶している。

――――――

S.541-542
1916.11.10 [München]
 第5回「新しい文学の夕べ」の席上でカフカが彼の散文作品“In der Strafkolonie”『流刑地にて』を朗読、聴衆のなかに、リルケとその友人 Max Pulver がいた。「カフカは、まるで影のようで、毛髪は濃い茶色、顔色は蒼ざめて」朗読卓のところに坐っていた。彼の言葉は「底知れぬ苦悩に満ちた氷の針となって」聴衆の心に食い込んだ(Max Pulver, “Erinnerungen an eine europäische Zeit”)。カフカは1916.12.7. 付のフェリーツェ・バウアー宛の手紙で、次のように記している。「あなたは朗読会についての批評のことを尋ねていますが、ぼくはあれからただ一つ、《ミュンヘン=アウクスブルク新聞》 の批評を入手しただけです。それはまあ最初の批評より好意的ですが、根本的には最初のそれと一致しているので、より好意的な感情が、朗読全体の実際壮大な失敗をさらに一層強めています。……ところでぼくはプラハでさらにまたリルケの言葉を思い出しました。『火夫』についての大変好意ある言葉の後に、『変身』でも『流刑地にて』でも『火夫』のような緊密なまとまりには達していないと言っています。この言葉はすぐには分かりにくいのですが、明敏です」。*

 *[投稿者註]『カフカ全集』の「フェリーツェへの手紙」の巻の編者であるエーリヒ・ヘラーとユルゲン・ボルンはこの個所に次のような注釈を加えました。
「リルケとカフカはおそらくお互いに会ったことはない。カフカが自分の仕事に対するリルケの判断を知ったのはおそらくオイゲン・モーントを通じてである。リルケがどうして当時まだ未公刊の小説『流刑地にて』を知ったのか、確かめられない。あるいは原稿で読んだのかもしれない――それは九月三〇日にはもうミュンヘンに到着していた――そしてオイゲン・モーントとそれについて話したのかもしれない[出典記載略―投稿者]。――一九二二年二月一七日のクルト・ヴォルフ宛てリルケの手紙は、彼がカフカの創作に向けていた注意を証明している。「……どうかフランツ・カフカから生まれるすべてのものを、いつも全く特別に、ぼくのため書きとめておいてください。ぼくは彼の最悪の読者ではないと断言できます[出典記載略―投稿者]。ルー・アルベール・ラサールは、リルケが彼女にカフカの『変身』を朗読したことを報告している[出典記載略―投稿者]。」

 ところがこの注釈には大きな問題があるとして、詳細な考証を加えた人がいます。河中正彦さんという、山口大学の方(故人)で、ここではとても紹介しきれませんが、もっとも簡略に云うと、
 1.編者が原稿の到着を「九月三〇日」としたのは単純なミスで、正しくは一〇月三〇日であった。検閲を考慮すれば、原稿が検閲から戻ってきてそれをリルケが読む時間的な余裕はきわめて狭い。
 2.朗読会およびその日の夜の懇親会への出席者名は記録されているが、リルケの名前は両方ともに見いだせないので、もし二人が会ったとすればその後ということになる。いずれにせよ、現状では確証がない。
 こうして河中教授は、「リルケとカフカは出会ったか?」という論文を3篇続けて、大学の紀要に発表されたのです。私はウエブをうろうろしていて、偶然そのお名前と論文の所在を知りました。参考までにその所在を記しておきます(この稿の末尾に)。
 なお河中氏の論文によると、Rilke-Chronik の初版では「フェリーツェへの手紙」の編者の註(「会ったことがない」)に同意しているらしいのですが、初版を見る便宜がなく、はっきりしたことはわかりません。他方改訂版では unter den Zuhöreren sind R. und der mit ihm befreundete Max Pulver とあり、上に訳出したように、たしかに「会場にいた」と読めます。

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S.768
1922.2.17. [Muzot]
 書物を送ってもらったことにつき、Kurt Wolff に礼状を書く。「ただカフカの本だけはもう昨夜、他の仕事の途中で先に取り上げました。私はこの作家のものを一行たりとも、最も風変わりなものに到るまで私に関係のあるものか、私を瞠目させるものと思わずに読んだことはありません。あなたが親切にも私に知らせて下さったからには、私は望んでもよいでしょうから、どうかフランツ・カフカのものであなたの所から出版されるものすべてに対してつねに私の予約を受けつけておいて下さい。そう請け合ってよいなら、私は彼の最悪の読者ではありません」。クルト・ヴォルフがリルケに送ったのは、カフカの『田舎医者 短編集』“Ein Landarzt. Kleine Erzählungen”(1919)である。リルケの遺品の中に、『判決』と『変身』(「最後の審判」叢書、1916 および 1915)があった。

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S.961-962
1925.11.12. [Muzot]
 この日リルケは Wunderly 夫人に手紙を書き、その手紙の余白に、夫人から返された書物について問い合わせた。「そしてあなたはカフカをまだ高く買ってはおられないのではないかと推察します。彼にはなにか、未使用品、新品、とでもいうような所があって、とても新鮮です。私は彼の短編の一つを読みました。非凡なものです。この人はあの世でどう扱われているのでしょう?彼はあっという間にこの仮初めの永遠(=この世)を駆けぬけて、天使たちを余りにもなじみ深い特徴で驚かせているに違いありません。この傑出した文学者はきっと文学を厭い切っていたのでしょうが、卑俗で些細なできごとのどの一つからでも、眼にみえぬものの一半をしぼりとる技術を知っていたのです。下らない卑しいものを採り上げて、それでもって彼は空間を造りだします。天空と同じくらい空虚であるとともに、活気を吹き込む空間をです。これを見るやいなや、もうそれを呼吸することになるのです」。ここで云われているのはカフカの『飢餓芸人』“Ein Hungerkünstler. Vier Geschichten”Berlin, 1924 である。カフカは1924.6.3. ウィーン郊外のサナトリウムで死亡した。

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 下記のリンクをクリックすると、河中正彦氏の当該論文の詳細データを記載した「山口大学学術機関レポジトリ」のページが開きますので、最上段の「フルテキストURL」をクリックしてください。

リルケとカフカ(I)序説-リルケとカフカは出会ったか?(前篇)
リルケとカフカ(II)序説-リルケとカフカは出会ったか?(中篇)
リルケとカフカ(III)序説-リルケとカフカは出会ったか?(後篇-I)

 河中正彦氏は『カフカと二〇世紀ドイツ文学』(同学舎、1999年)にも「カフカとリルケ――沈黙の詩学」という論文を寄せ、そのなかでもこの問題の最新の情報と見解を述べておられます。
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