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伊東静雄を偲ぶ

1634Morgen:2020/11/19(木) 23:11:35
『夕 映』
 先日、東北地方(秋田〜盛岡)を小旅行した折に、ホテルの7階の部屋に入ると窓一面に「岩手山麓の夕映え」の絶景が展開されており、急いでiphoneで撮ったのが添付の写真です。(雫石高倉)

 静雄詩「わが窓に届く夕映は ・・・・・・・・・」という「夕映」の詩句がありますが、この詩は次のように終わっています。

「ねがはくはこのわが行ひも
 あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ
 仮令それが痛みからのものであっても
 また悔いと実りのない憧れからの
 たったひとりのものであったにしても 」

 前々からの疑問を思い出しました。(結論はありませんが・・・)

「このわが行ひ」とは夕映えの窓辺での詩作であり、詩人はそれが「祝祭」であってほしいと願っています。何のための詩作なのか?―「悔いと実りのない憧れ」というのは詩人の半生についての自省だと思います。
"<痛み>というのは「曠野の歌」にある「わが痛き夢よ休らはむ」の<痛み>と見てよいのかなー? それとも、これも戦時中の生き方に対する自省の言葉なのかな?" という疑問です。
やはり、詩を作ることを「痛き夢」として、生涯を通じて詩語の研鑽に勉めた生き方の表明なのだろうと理解したいと思います。
そのような詩作がどうして「祝祭」になるのか?という疑問もあります。ー「野の花」を捧げるようなもの?
むしろ、ミレーの「晩鐘」の絵のイメージ(祈りの姿)が浮かんできます。

そんな詮索は措くとして、東北の秋の野山を染める色は、独特の深みや複雑さがありほんとうにすばらしいですね。京都の寺社を彩る紅葉よりも、こちらのほうが本当の「日本の色」であるとも思いました。

コロナ禍も第3波に入り、日増しに感染者が増加しておりますが、自力で命を守る行動をするしかありません。私も、当分はまた巣籠生活に戻ります。
皆さまも、くれぐれもコロナ感染されませんようにご自愛ください。

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