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伊東静雄を偲ぶ
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「詩はお経の如し。」
「長崎文学散歩」スタートのご報告を興味深く読みました。
晩年の芭蕉も、次は是非行ってみたいと「夢は枯野をかけめぐりつつ」死んでしまったといわれる「長崎文学散歩」であり、きっと日本国民のほとんどが一度は憧れる旅に違いありません。(私もいつか「長崎観光大使」を委嘱されていたような気がしますが…?)
ご報告の中にある「リルケの詩は理解しがたいが,なんだかありがたい感じがする。それは意味のわからないお経をありがたがるのに少し似ているかもしれない。」と言う文章に目がとまりましたので、少し知ったかぶりめきますが書いてみます。
私も、『マルテの手記』やリルケ書簡に出てくるボードレールの「腐肉(屍体)」という詩が、一休『骸骨草紙』、蓮如『御文』、良寛『題九相図』(骸骨詩集)などに似ているような気がしていたのです。(「お経」とは言えませんが…)
これを解説すると非常に長くなってしまうし、気持が悪くなる人もあると思いますのでここでは止めときますが、ボードレールの「腐肉(屍体)」(これもここに全文を掲載するには長すぎますが)は是非一度、皆様もお読み下さるよう勧めます。
ここで書いておきたいのは、ロダンもセザンヌもボードレールの詩「腐肉」に影響を受け、セザンヌが一言一句間違えずにこの詩を暗誦したということをリルケも知り、感激していることです。日本人が、修行として「般若心経」を暗誦する姿を思い起こさせませんでしょうか。
しかし、セザンヌが感嘆したのは仏教的な無常観ではなくて、「…形象は消えてなくなるが、詩人の思い出として残り、画家は記憶をたよりに画布の上に素描を描く…」「…ああ、僕の美しい女よ!/接吻でお前を喰いつくす蛆虫に語れ、/腐敗した愛の形態と神聖な本質を/この僕が保ってきたと。」(佐藤朔訳)というようなその詩句ではないかと思います。
それはセザンヌの絵画論やリルケの詩論の基礎となった「お経にもましてありがたい」詩句であったに違いありません。リルケも、そういうことを突然悟ったというのではなくて、長い時間をかけて徐々に考えを確立していったに違いありません。その中でも特に、リルケが1907年10月7日〜22日の間毎日サロン・ドートンヌの「セザンヌ記念展覧会」に通い、しかもほぼ毎日奥さんのクララに手紙を書いていることは銘記すべきことであり、その感激度合の大きさを物語っているように思います。
暑い中、むさ苦しい話をしてすみませんでした。
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