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伊東静雄を偲ぶ

1311Morgen:2016/07/26(火) 22:54:44
『夏の終』//私の推理(?)
 7月15日付け青木様のご投稿にありました雑誌『公論』について少し調べてみました。(青木様にお書き頂くべきところですが、これまでに分かったデータと私の推理を“前座”で書いてみます。本格的な論究をお待ちしております。)

 <『公論』は、昭和14年、上村哲也、勝也兄弟によって設立された「第一公論社」の発行になる雑誌である。編集を担当した勝也は、改造社を経て先進社社長となったという人脈から、当初は幅広く小説やエッセー、詩歌なども同誌に掲載したが、戦争の進行とともにそれらは排除されて戦時色の強い雑誌となっていった。>(WEB上に掲載されている『古本夜話』から)

 国立国会図書館デジタルコレクションによると、『公論』1940年(昭和15年)10月号に「夏の終り」(詩)伊東静雄P244〜245が掲載されています。

 また、『公論』について、『ユリイカ』(昭和50年10月号) 特集“日本浪漫派とは何か”P120で、橋川文三氏が対話の中で次のような要旨で述べておられます。

 彼ら(橋川氏より若い世代の人たち)が読んでいたのはもう浪漫派ではなくて『公論』ですね。極右の上村哲也・勝也兄弟が編集していた『公論』、われわれはもう読まなかったですね。しかし僕らよりちょっと若い世代は浪漫派よりもっとラジカルな『公論』に惹かれている。(因みに『日本浪曼派』は昭和13年に終刊)
<保田與重郎氏は昭和18年に第一公論社から『文明一新論』という本を出版しています。>

 <<以下は私の拙い推理ですが、>>―伊東静雄は、保田氏に(?)強く求められて(?)、昭和15年夏の終り頃に創って、手元に置いてあった詩稿「夏の終」を、昭和15年当時は創刊されて間がなく、まだ極右政治誌色が濃厚ではなかった『公論』に(心ならずも)提供した。
 そのために、同誌の他の論調とは異質であり、即物詩・散文詩風のクールな詩になっており、心の中の「ある壮大なものが徐かに傾いている」という、放心状態・虚脱感の漂う平明な詩になっています。その結果、「夏の終り」(詩)だけが何となく浮いた感じで、場違いな『公論』に掲載されることとなった。
 ―(そしてその事実は『伊東静雄全集』の年譜には記載されなかったのではないか?)...こんな推理をしてみましたが、それを裏付けるような証拠や証言が果たして見つかるのか? 今となっては自信はありませんが...




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