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伊東静雄を偲ぶ
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桶谷「ああ誰がために……」の引用
前回の投稿では、桶谷秀昭の論考「ああ誰がために咲きつぐわれぞ 伊東静雄私論」をとりあげ、伊東の散文詩「薪の明り」の「かまどの前の女」を媒介にして、伊東と柳田を結ぶ「日本民族の遠い体験」というキイ・コンセプトを導き出した次第を述べました。
この、〈伊東―柳田〉というリンクに関して、私には云いたいことがいくつかあるのですが、その準備としても、必要なデータをまず、少し詳しく引用しておこうと思います。(長い引用はうるさく、また当該文献をお持ちの方にはまったく無用の事柄になりますが、この点、お許しをいただきますよう。)
桶谷秀昭「ああ誰がために咲きつぐわれぞ 伊東静雄私論」(思潮社『現代詩読本10 伊東静雄』より)
…わたしは、『夏花』以後、たとえば「夢からさめて」にあらわれてくる生活者伊東静雄の心性に、現在とりわけ惹かれる。それは『春のいそぎ』全篇を蔽い、蝉の音に、「一種前生のおもひ」を感じ、また[……引用略、「誕生日の即興歌」]という詩にあらわれている。自身の生の暗部にまでとどこうとするある種の自覚である。この種の自覚は、単に個人的なものから、民族の遠い体験の核にまでその触手をとどかせるような普遍的な意味をになっていると考えられる。このことはすでに昭和九年の「今年の夏のこと」というすぐれたエッセイに照らしてもうなずける。ここに感得される伊東静雄の感受性は、『先祖の話』の柳田国男を想起させるものがある。その感受性は戦後に書かれた散文詩と題した「薪の明り」にも、きわめて素朴にあらわれているものである。
「暗い冬の朝、かまどの前、まきの火の明りの中にうずくまる女の姿」に、ドイツの詩「捨てられた下女」のあわれさをひきあいに出しているのだが、しかしここで伊東静雄がたぐり寄せているのは遠くなつかしい彼の感性の故郷である。暗い冬の朝のまだ暗い時刻、「ふと目ざめて、御飯を炊いている母や姉の姿を、かまどの明りの中に度々見た」記憶である。こういう記憶もまた、柳田国男の次のような文章と比較することで、ある意味を考えさせられる。
[柳田国男、引用後掲]
母が朝早く焚きつけているかまどの煙の匂いの記憶から柳田国男がその民俗学を発想したとすれば、伊東静雄はその記憶を詩の発想の基盤にくり込むことによって、「一種前生のおもひ」にめくるめいたのである。それは「すみ売りの重荷に」堪えた戦争末期の生活者伊東静雄の生命の原理の自覚でもあった。それは『哀歌』の詩人が「意識の暗黒部との必死の格闘」の果てに到りついた、日本民族の遠い体験への「草蔭の名無し詩人」の追想でもあった。「述懐」=『春のいそぎ』
右の引用で[柳田国男、引用後掲]とした部分は、柳田国男『故郷七十年』から取られたものであり、ただ桶谷は途中恥部を省略して引用しているので、その部分を直接『定本柳田国男集』別巻第三、旧版八四頁から、「中略」された部分も復元して、次に引く。
子供のころ、私は毎朝、厨の方から伝はつて来るパチパチといふ木の燃える音と、それに伴つて漂つて来る懐しい匂ひとによって目を覚ますことになつてゐた。
母が朝飯のかまどの下に、炭俵の口にあたつてゐた小枝の束を少しづつ折つては燃し附けにしてゐるのが私の枕下に伝はつたのであった。
今でも炭俵の口に、細い光澤のある小枝を曲げて輪にして當ててゐる場合が多いやうであるが、そのころ私の家などでは、わざわざ山に柴木を採ることはしないで、それをとつておいて、毎朝、用ゐてゐたわけである。じつはその木がいつたい何といふ名であるかを長らく知ることもなかつた。
ところが、たまたま後年になつて、ふと嗅ぎとめた焚火の匂ひから、あれがクロモジの木であったことに気がついたのである。
思へば、良い匂ひの記憶がふと蘇つたことから、私の考へは遠く日本民族の問題にまで導かれていったのであった。
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