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伊東静雄を偲ぶ
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堺屋太一氏のこと
堺屋太一君が死んだ。――堺屋太一「君」というのは、彼と私が同じ中学ー高校の同窓・同級生だったからです。そして、当然だが、年齢も同じ、昭和10年生まれで、彼の享年は83歳だった。
同年齢の中学ー高校、高校―大学と、同じ道を歩んだ親しい友人が当然、何人もいるわけだが、そのうちもう半分以上が亡くなった。
住高の3年生、卒業のとき、私は堺屋太一君と同じクラスだった。(担任は大庭先生といって、伊東静雄と同じ国語科で、きわめて親しく交わられたらしく、早く話を聞いておけばよかったと、悔いています)しかし当時はまだ堺屋太一ではなく、本名の池口小太郎君だった。
彼はユニークな生徒だった。どう、ユニークだったかを言うのはむつかしい。決して天才でも秀才でもなかった。受験勉強にシャカリキになったり、校内の実力テストで一番をとるというような華々しいことは一度もなかった。東大に入ることが唯一の目標、とぼくたちは誰もが後々まで思っていた(が、それは違ったらしい)。二浪して初志を貫いた。
しかし彼と親しく話したことはほとんどない。彼は社研部で私は新聞部で、クラブ活動での交流もなかった。大学卒業後にも、国家公務員、通産省官僚、万国博覧会、云々という彼の志向および仕事場と、私のそれとはまったく交点を持たなかった。地球の裏と表のような感じだった。これは私の意地もあると思うが、私は彼の有名な著書「油断」「団塊の世代」「峠の群像」などを、一冊も読んでいない。(「豊臣秀長」を書いたと聞いたとき、それまで見えなかった彼の心情の深い一面を、ふと垣間見たような気がした。)
これは誰に聞いたのだったか、伊東静雄の松虫通の詩碑ができたとき、土砂降りの雨の中の除幕式に出、ちかくのお寺で講演をしたという。それはそれだけのことで、調べるか直接質すかすればわかることなのだろうが、サボって手をつけずに来た。今頃になって、「堺屋」が「伊東」についてどんなことを語ったのだろう、ともっぱら好奇心がうづき始める始末です。
WEBなどを見ると、彼にたいする賛辞や追悼の言葉がおびただしい。そういう人々にとっては真実そのとおりなのであろう。否定する気もなく、ケチをつける気もない。ただ前にも書いたように、私は彼とはまったく違う場所を生きてきたので、世間の言うことがまるで他人事のようだ。それよりも、はるかな昔、同じ教室で同じ数学の教師にいじめられ、同じ学食で昼メシを食った、変わり者で妙に印象の残る学友が、死んだ、という、そうか、とうとう彼も死んだか、という、(そして私は生き残ったという)その寂しさ、「ほんま、かなわんなぁ」という思い、今はそれがいちばん強いのです。
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