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伊東静雄を偲ぶ

1556Morgen:2019/09/10(火) 00:31:26
散華の詩想
 中路様、青木様。 コメントありがとうございます。

“「水中花」の最後の三行をどう理解するのか?”ということを考えてみました。

 すべてのものは吾にむかひて
 死ねといふ、
 わが水無月のなどかくはうつくしき。

―「すべてのものは吾にむかひて死ねといふ」という詩句は、「時代の青年の気持ち」とみるのか、「詩人の私的心情」とみるのか?

 因みに、義父の歌集後記に当時の雰囲気のようなことが書いてありますので、一部を引用してみます。

 「支那事変勃発後、間もなく晴れの応召を受けて、山岡兵団伊藤部隊に編入せられ、勇躍征途につき着き天津を進発後、・・・2年有余、晋東作戦に参加中でした。偶々余暇に作って投稿した歌が、川田順先生の選により大毎歌壇に載り、・・・」「せめて此の拙著により戦ふ兵馬の相貌の些少なりとも読者に窺知して頂き、また戦友等の追懐の糧ともなるようでしたら・・・」というような意図で歌集は自費出版され、遺された礼状からみると大半が戦友の留守家族宛に贈られたようです。

 義父は応召により一兵卒として北支各地で転戦していますが、自己の死や「散華」というような詞を歌ったものはひとつもありません。(言えない雰囲気だったのかもしれない。)

 蓮田善明氏は、「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。・・・然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知ってゐる。」「私が死に、永遠が、私に薄いかたびらを着せる。」等々、自己の死について幾度も書いておられます。
 死を言葉に出して言うか言わないかの違いはあっても、当時の青年は死ぬことを運命づけられてたことに相違はありません。

「すべてのものは吾にむかひて死ねといふ」という「水中花」の詩句は、そのような青年達の死を凝視せざるをえない心に深く沁みこみ、まさに静雄詩が「時代の詩」になったのだと思います。
 伊東静雄がときとして死の衝動におそわれたことがあった(田中俊廣『痛き夢の行方』参照)にしても、「或る時代の青年の心を襲った稲妻のような美しさ」(三島由紀夫)というような、死を美化した詩句(散華の詩想)を静雄詩の中に見つけることはできません。

 なお、中路先生の『モルゲン』解説については、以前にこの掲示板で紹介させていただきました。ありがとうございました。




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