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伊東静雄を偲ぶ
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ご無沙汰しております
山本晧造さま Morgenさま 龍田さま 齋藤さま
お元気ですか いつも貴重な情報をありがとうございます。
ヘルダーリンとの関係は様々な研究者によって深められてきてるように思いますが、
リルケとの関連やケストナーとの関連が、今後、いっそうの課題ということになるでしょうか。
ドイツ文学専攻でないのでなんとも歯がゆいのですが、
独文科の方に伺いながら、独自に読み進めていく他はないのかもしれません。
山本様、どうぞお体お大切に、「庄野潤三ノートを読む」、大切に拝読させて頂きます。
最近書いたエッセイ風の「断章」を(伊東静雄とは直接関係はないですが)掲示板に貼らせていただきます。
詩は、思いを歌うものなのか、思いを伝えるものなのか。いわく言い難い、自分ではなかなかコントロールしがたい熱量を持って、身の内深くからこみあげてくるもの。複雑なイメージや観念が幾何学的な飛跡を残しながらせめぎ合う脳内から、こぼれ落ちて来るもの。こうした曖昧な、あえて名付けるなら詩情の素とでもいうべきものを、言葉という入れ物にそっと収めていく。意味の、音の響き合いや、発する波動のようなものの増幅を確かめながら、一瞬兆した思い、捉える間もなくすり抜けて行ってしまった感覚を、言葉の力を借りて、なんとか再現しようと試みる‥‥‥詩はその先に、文字の芸術、言葉の作品として生み出されていく。
心をつかまれた瞬間、揺さぶられた瞬間を詩作のきっかけとする詩人が多いのではなかろうか。そのきっかけとなるひと押しを、どこから、何から得るのか‥‥‥詩情を感知し、汲み上げて来る、その源泉の微妙な差異が、それぞれの詩人の個性を生み出していく要因のように思う。木々の葉擦れや小鳥のさえずりの向こうに、人智を越えた?ことば″を聞き取る人もいるだろう。景色や風の色が気持ちを捉えた瞬間を、スナップ写真やショートムービーのように写生して、その感興をそのまま他者に手渡そうとする人もいれば、その時の景がなぜ自分を揺さぶったのか、その意味を内省的に問い返していく人もいるだろう。そこに、?私″と?私を取り巻く世界″との関係性が露わに立ち上がって来る。
他者の言葉や思想、他者の作品が喚起するイメージもまた、?私″を取り巻くひとつの?世界″である。作品を通じて、その向こうからやって来るもの、それは、作品を生み出した作者の心身をフィルターとして取り出された、作者による世界との交感の記録であり、その言葉がまた新たに、読者内部の?私″と激しく反応する。
抒情、とは何だろう。過去の出来事を思い出して、その時の情動を呼び覚ましたとしても、それは現在の?わたし″のフィルターを介して行われる行為である。若い時には見落としていたこと、わからないまま置き去りにしていたことに、諸々の経験を経た現在になって、はたと気づく、という幸福な瞬間も訪れるに違いない。五感は肉体を通じて感受されるが、若い時にはスムーズに外界の反応を受け入れていたがゆえに、その存在を意識すらしていなかった身体が、不調などによってかえって自己主張を伴って意識化されることもある。私事で恐縮だが、白内障の手術をした母が、突然、喜々として空の美しさ、光の美しさについて語り始めたのに驚いたことがある。曇天のような空に少しずつ慣れていくことで、忘れていた青空の鮮やかさ。白内障の手術は、見慣れる、ということにより鈍麻していた感性を、一気にリセットする効果があったように思う。病など何らかのきっかけによって、幼子がはじめて世界を見るような目で新たに見つめることが出来るとしたら。あるいは定年、還暦といった人生の節目を、意識的に変化、転換のきっかけに活用するとしたら。それは生まれ変わりにも等しいような、新たな豊かさを手に入れることに他ならないのではなかろうか。
?魂″と肉体の関係について考える。魂は肉体という牢獄の内にあって、実はそこから逃れたがっている、しかし魂は、肉体という分厚い外皮を通してしか、外界に触れることができない。知覚を通じた認知によって魂が豊かな実りに到るのであれば・・・・・・素手で触れれば人体が消滅してしまうような危険物を、分厚いグローブを手にはめて辛うじて確かめるようなもどかしさと切り離すことが出来ないとしても……魂が肉体の内にあり?生きて″いる間、世界に直に触れたい、という焦燥と、触れた瞬間、虚無に吹き散らされてしまう、という恐怖から、逃れることができない。魂は、そんなジレンマを抱え持ったまま、肉体の内でチリチリと切ない灯を日々、ともし続けているに違いない……
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