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伊東静雄を偲ぶ

1535Morgen:2019/05/02(木) 23:34:07
「令和の初旅」の夢想
上村様
 「伊東静雄研究会会報」「多良海道を往く」をお送り頂き、ありがたく拝読させていただきました。(いつものことながら感謝!)

 私は、「令和」の幕開けを木曽御嶽山で迎えようとバス旅行(妻同伴)に参加しましたが、生憎の悪天候のため「令和の初日の出」を拝む(撮影する)ことはできませんでした。

 木曽山脈や八ヶ岳・南アルプス連峰の頭部はまだ冠雪しており、その中腹では山桜が満開。渓谷は雪解け水が滔々と漲る早瀬になっています。眼の前に拡がる雄大なスペクタクルを「令和の幕開けを飾るに相応しい記念映像」として脳裏に収めました。

 今回のバスツアーは<木曽御嶽山〜八ヶ岳北方>の渓谷・滝数か所を巡り、まだ固く凍結している標高2100米の白駒池などへも行くというクラブツーリズムの少し欲張った企画です(時間不足で一部中止あり)。「雪道を歩く」というのは想定外で(アイゼンは持参してはいませんでした)、同行者40人がおずおずと半ば凍結した細い雪道(約1km)を往復する場面もありました。私よりも高齢者と思しき方も数名おられましたが、山道を歩き馴れた健脚ぶりで、同行の皆様方の背中からは「令和の時代を闊歩するぞ!」という精気がエーテルの様に発散しているようにも感じました。

 添付写真(上)は、一面の苔に覆われた原生林の中にある「蓼科大滝」の一部分です。
 御嶽山麓(油木美林遊歩道)の「こもれびの滝」(写真下 WEB)「不易の滝」は修験者たちの行場の一つで、御嶽登山道周辺には「○○霊神」と刻まれた約2万基余の黒い衝立型の「木曽御嶽山霊神碑群」が広範囲に拡がっています。(異様な光景です。)

 御嶽山は702年(大宝2年)6月 に 役小角が開山したという伝説があり、それ以来あちこちに修験者の行場が開かれ、「願わくは我が命を過酷な環境や自然と同化させ賜え」と念じつつ100日の滝行を経て、御嶽連峰を駆け抜ける「精進登山」の日本有数の行場となりました。(三大行場の一つに挙げる説もある。) 滝の前に佇んで目を瞑ると、古来の大勢の修験者達の「苛烈な夢」を籠めた呪文が一帯に籠って、一瞬「ウォーン」という音になって聞こえるような錯覚に捉われます。
 室町時代以降には御嶽信仰の大衆化により全国規模でその人気が高まり、「御嶽教」を信奉する信者数が増え、「講社」の数も増加したことによって、この膨大な霊神碑群(墓石群ではない)を信仰遺跡として残したのだそうです。

 登山路が整備されていなかった頃の、厳しい100日精進修行を前提とした古来のの御嶽山登頂は、標高(剣ケ峰3067米)や自然環境の厳しさもあって、さぞ過酷だったのではないでしょうか。(大峰山奥駆けよりも厳しかったに違いありません。)
 江戸時代以降は,軽精進登山も許され、昔の富士登山の様に御師(行者)が信者を案内したそうで、行者と信者からなる各講社ごとに用地を確保して霊神碑を建立したそうです。しかし誰もが「霊神」になれたのではなく各講社で一定の崇拝を集めた行者しか霊神碑に名を刻まれなかったようです。(高野山の広大な墓石群との違い。)
 (今回は、山頂に登る予定はありませんでしたが、登山道規制解除後に別の登山口から登ってみたいと思います。)

“DUM SPIRO,SPERO!”「昭和〜平成を生きてきた余勢を駆って令和の時代にも息の続く限り夢を見たい!」そんな「あまい夢想」を抱きながら「令和の初旅」に参加したメモの一端を披歴させていただきました。




 

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