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伊東静雄を偲ぶ

1537Morgen:2019/05/17(金) 00:12:51
「淀の河辺」に生きてきて
山本様
お元気そうで何よりです。

 先日(5月11日)、JR奈良線で宇治へ行きました。宇治の街は、この時期お茶の香りが漂って、周辺の山も独特の緑色を呈しています。中村藤吉本店(JR宇治駅前の本店)で美味しい新茶を飲ませていただきました。同店の喫茶店は、宇治本店も平等院店も30分〜40分待ちの盛況で、しかも客のほとんどが若いカップルでした。
(戦前、新宿に料亭を出店していた記録がないか?―今回は何も見つかりませんでしたが継続します。新宿区役所に戦前の市街地図がないかも宿題です。)

 古本屋で『漫才作者 秋田實』(富岡多恵子著)と『竹林の隠者 富士正晴の生涯』(大川公一著)を買って一気に読みました。

 『漫才作者 秋田實』の中に次のような文章があります。(p59)

 「プロレタリア文学者の中には、昭和10年ごろから、日本浪漫派に属した人が多い。こういう人たちは、日本的浪漫主義という幻影を追って生きようとした。それにたいして、秋田さんは、イデオロギーという名の幻影を捨てて、市民の実生活に立脚して生きようとした。」(この点「帝塚山派文学者達」に共通するところがあるような気もしますが?)

 富士正晴さんは、昭和10年6月に竹内勝太郎氏が黒部峡谷で転落死して以来、その著作集出版に傾注し、<日本的浪漫主義という幻影>には興味を示しませんでした。戦争に行っても「やっぱり人を殺さんと、人をいじめんと、意地悪をしない、そんなのがもとやろな。」(「人に意地悪をしない話」)という心構えで、「意地でも死ぬまい」と生きぬいてきたということです。

 私も、昭和35年(18歳)に、諫早から(取り敢えずという気持ちで)大阪に出てきましたが、当時の私にとっての大阪とは、有線放送で流されていたラジオドラマ「お父さんはお人好し」や、漫才で伝えられる「品はないが頑張れば生きてはいけそうな都会」というイメージでした。(「帝塚山派文学者達」の作った文化圏であったともいえる。)

 そのまま、今日まで大阪の阪急沿線に居着いてみて、大阪の住民の7〜8割が地方からの移入者であることに気づきました。阪急グループの創始者小林一三さんですら本来は全くのよそ者であり、文学青年(新聞記者?)、三井銀行々員、「箕面有馬電気軌道」開業を経て実業界に入り、結果的に「大阪人」になったにすぎません。
 その小林一三さんが「日華事変から、敗戦へかけての十五六年間の、目まぐるしい世相の変遷に対して、私は、私の思想も、考え方も、言うことも、行うことも、その時々の、ある姿に当面して、勢い局所療養的な投薬めいたものであった。」と書いておられます。
(『私の人生観』序 昭和27年刊 要書房)
 人生とは、案外そんなものかなあとも思います。

・・・というわけで、私も約60年間「淀の河辺」(淀川水系流域周辺)に生きてきて、東京の人達から「大阪人」と観られることに、最近では違和感を感じなくなりました。
(添付写真上)三室戸寺
( 〃  中)宇治川
( 〃  下)中村藤吉本店

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