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伊東静雄を偲ぶ
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自問自答する反響
山本先生のおっしゃるように「・・・・・さやうなら・・・・・」というのは、遠ざかっていく過去(または『哀歌』)が、「さよなら」という地上からの詩人の呼びかけに応えているような感じがします。あるいは、翳が「さよなら」と会釈をして、詩人が白雲に向かって「・・・・さやうなら・・・・・」と呼びかけているのでしょうか。
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再々『反響』
"遠ざかっていく過去(または『哀歌』)が「さよなら」という地上からの詩人の呼びかけに応えている……" この応答はまさしく『反響』だと思うのです。そして、単なる訣別ではなく、そこにはまたエコーとナルシスの関係もありはしないか。――思いつきをしゃべっていると、妄想がどんどんふくらんで行きます。
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これ等は何の反響やら
山本さん はじめまして
伊東静雄が白い雲に呼びかけ、白い雲がその呼びかけにエコーする。はたまた白い雲の影(自分の過去)の呼びかけに静雄自身が呼応するナルシスの関係という想像はいいですね。<これ等は何の反響やら>という冒頭の語句が象徴的です。
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何の反響?
「夜の停留所で」という詩があります。伊東はここで「おやすみ」と、そっと呼びかけます。そっと呼びかけるのは、学校の外にたたずむ伊東か、それとも、静謐と暗黒と淨福の校舎の中のもう一人の伊東が、外の現身の伊東に呼びかけるのか。「おやすみ」――「さよなら……さやうなら……」
杉本秀太郎さんはこんなことを言っています。「ずっと後年、戦後にいたって、彼は『わがひとに與ふる哀歌』の時代の理念をはじめて外部の風景として眺め、回想の現在として、耳に聞き取る一瞬を体験する。美しい瞬間。詩による詩の証明。……」
ぼくのメモにこんな書入れがあります。
「『反響』は、伊東の「耀かしかった日」の、伊東の内部への反響である。それを彼は、羞恥とイロニーをこめて、初期のものの「解説」と呼んだのであった。」
江藤淳「それは過去の三つの詩集の"反響"であり、亡国の民の敗亡の哀しみの"反響"にほかならない。」
この後半はまたそれで、論議をよびそうですね。
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亡国の民の敗亡の哀しみ
「おしらせ」に掲載されている『わが海鳥の歌』を送っていただき、この詩集に載せられている上村肇さんの写真と、手元の『みずうみ』『空手富士』『浦上四番崩れ』に載せられている写真とを畳の上に並べて、私なりの感慨に耽っております。
『現代詩手帖』(昭和40年8月号)の中で、江藤淳氏が「この非常にメロディアスな、まるで子守歌のような諧調を持った詩(夏の終り)には、なにか個人ではたえきれないほどのいわば個人をこえたものの(それを民族という言葉でよぶとすれば、そういうものの)かなしさが附け加わっている。私はこの伊東静雄という優れた詩人の作品に、亡国の民の、敗亡のかなしみが、非常にはっきりと定着されていることに感動するのであります。」と述べておられます。
私の父もシベリヤ抑留を経て帰還し、現在90歳で諫早市で暮していますが、敗戦の挫折感や喪失感は、今も消すことのできない民族の哀しみとして心の奥に残っているように思います。上村肇さんのお写真や父の頑固そうな顔を見るたびに、その年代の心の裏に秘められている「憂愁の深さ」を感じるのであります。
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民族の興亡という視野・・・伊東静雄と蓮田善明
当時の伊東静雄の書簡です。
「おなつかしうございます。御無事でようございました。蓮田さんのこと『光耀』の原稿で初めて知りました。丁度一年目の八月二十日ごろでありました。その日は台風の余波が河内平野を過ぎようとして、しきりに雷鳴のある日でありました。それから二三日目に未知の青年(三高の学生)が来訪し、その人が話のついでに、蓮田さんに対する敬愛の衷情を述べましたので、その最期のことををしへましたら、急にその青年は顔面蒼白になり、貧血をおこした模様で、失礼しますと言って、私の前に仰向けにねころびました。私は驚くと同時に、この青年の肉体にまでしみこんんでいた蓮田さんの影響を思ひ、痛切の情にうたれました。私は『ひとりの友を失って、他の多くの友をも遠ざかっていたい気持とそのころの心境をノートに書きとめておきました」
この手紙は、かつての「文芸文化」の編集者清水文雄宛のものの一部で、「夏の終わり」が「文芸文化」に発表された翌月投函されたものです。
蓮田善明がそうであったように、”輝かしかった日本国”に対する哀切の情が伊東静雄にもあったであろうことは想像に硬くはないのですが、伊東静雄はまた、蓮田善明の最期の様子を知った時、「死ぬのなら一人で死ねばよかったのに」と呟いたとも伝えられています。”輝かしかった国”に対する哀切の情とともに、またその国に殉じた蓮田善明にたいする惜別の情も合わさって・・・・さよなら・・・・さようなら・・・・というフレーズは”この作品の味わいを深いものにしています。
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「野の夜」について
『反響』の冒頭詩は、「野の夜」です。(左の?詩作品をご参照下さい)
この詩は、敗戦から1年後の5月に作られた戦後初めての静雄詩で、「夕映」とともに岩波文化グループの『座右宝』(昭21.9)に掲載されました。
この詩のなかに、「なにを考えてあるいてゐたのか/野の空の星をわが目は見てゐなかった」とあるのは、伊東静雄が新しい世の中の流れ(野の空の星)を見ていなかったことに気付き、戦後思想(民主主義)に対する覚醒を喩化したものではないかと、米倉巌氏は言われています。それは、昭和21年5月に復員した富士正晴氏が、戦闘帽と軍服のままで住吉中学を訪ねたのに対して、はなはだ不愉快がったということとも関連しています。
とすれば、この詩は、本人が謙遜して言うような「哀れな小さな詩・・・」ではなくて、「(戦後詩への)静雄の詩人的成熟」(小川和佑氏)を示すマイルストーンであり、正に『反響』の冒頭詩として相応しく思われます。(ちなみに、夜の中とは、世の中を暗示する両義語でしょう。)
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時代が歎く
"反響"について、伊東は後年こんなことを言っています。
「この反響というのはどういう意味かというとね、僕等はみな自分が悲しんだり、歎いたり、喜んだりすると思っているでしょう。所が実際はそうではないんですね。自分じゃなくて時代が、悲しんだり、歎いたりするんですね。自分が歎くのはその反響なんです」(田辺明雄「伊東静雄先生」)。
これらは何の反響やら――もし、詩集『反響』が、時代の歎きの伊東への反響なら、そしてその時代の歎きの中に「亡国の民の敗亡の哀しみ」が含まれるならば、江藤淳の評言は当たっていることになります。
ただぼくは、詩集『反響』の「反響」を「亡国の民の敗亡の哀しみ」だけに局限したり特化したりすることには、異論があります。そこには morgen さんの言われる「新しい世の中の流れ」もまた、こもごもに反響しているのを、ぼくは感じるのです。
morgen さんの「野の夜」の読みには、考えさせられました。今までぼくはこの詩を、完全に伊東の個人的なアスペクトだけで読んでいましたので。
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もうひとつの『反響』(昭和15年)
"反響"という言葉一つとっても、ご教示の通り、奥深くまたは多義的に用いられていることが解り、まだまだ自分の読みが浅いことが痛感されます。
手元に昭和15年1月に出版された河出書房『現代詩集』3巻本がありますが、その第2巻に伊東静雄『反響』が載せられています。『詩集夏花』から9篇、『哀歌』から14篇の詩が採られており、覚書には、その旨の記載と「現代の雑多な印刷物になれすぎた眼が、あまりに性急に読まねばいいが。」と書かれています。冒頭の詩は「夜の葦」です。"反響"という言葉を連想させるもの詩を見出すことはできませn。敢えて言えば、「前出2詩集の再録」というのが"反響"の意味なのかなあ、というぐらいのことしか思いつきません。
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第16回 伊東静雄賞
第16回 伊東静雄賞は984篇の応募の中から下記の方に決定しました。
「夏の駅」 彦坂まり氏 石川県
授賞式は平成18年3月26日(日)「菜の花忌」にひき続いて執り行われます。
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「人声や」と「この道や」
最近山本健吉『俳句の世界』(講談社文芸文庫)を読みました。その中で著者は、芭蕉が「笈日記」であげた次の2句、
人声やこの道かへる秋のくれ
この道や行く人なしに秋の暮
をとりあげて、「私はこの「人声や」の句がなんとなく好きである」と言っています。
以下、少し引用します。
"「この道や」と同じように、この句も、芭蕉の単独者としての深い意識の上に立っている。だが芭蕉はこのとき、楽しげにうち語らいながらこちらへ近づいてくる「人声」を聞いて、魂の底から揺り動かされるのである。そこには孤独における交わり(コンミュニケーション)が、他者への真の愛が成立する。"
"孤独者である作者は、この日常の人間関係の場にまで下降する。すなわち、暖かい連帯の感情で、帰ってくる「人声」を迎える。この「人声」は、作者に背を向けているのではなく、向かい合っているのである。ここには相互交流が成立している。この句の「人懐かしさ」は、作者の心の奥底からの呻きでもあった。" (p.224)
長田弘さんが言った
"わたしは伊東静雄の「自ら孤寂なる発光体なり!」という限界の生を生きる生き方の受苦と荷担がどのような意味においても他者への想像力によってささえられることがなかったことを、この詩人の生と詩の挫折をあらためてじぶんなりに追尋することによって正しく想い知らされるのである" (「現代詩読本10」)
という言葉を自分の課題として、長い間考えてきました。
ぼくは『反響』に、山本健吉さんのいう「人声」「人懐かしさ」を感じます。同時に「作者の心の奥底からの呻き」も聞き取ります。この「人」は、他者ではないでしょうか。そこに「他者への想像力」の可能性を見たい、というのは、ぼくの欲目でしょうか。
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ボードレールの反響
みなさん おはようございます。
ボードレールの「秋の歌」のなかに<おわかれだ、あまりにも短かった夏の日の烈しい光>という詩句があります。伊藤静雄がこの詩句を知らなかったとは考えられません。それに呼応するかのような詩が、『寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ』です。その最後の句がこうです。
私はうたはない
短かった輝かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
この詩句ほど伊藤静雄の生のあり方を象徴している句はないと思います。帰還を拒まれた伊藤静雄の生の姿。そのような現在の状況に対して過去の輝かしかった日々が”反響”して現在の自己を祝福する。平明の境地に達して歌った『夕映え』にある<ねがはくはこのわが行ひも あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ>に至る原点のような伊藤静雄の姿が窺われます。
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反響的コンミュニケーション
先日、京都の劇団に人に来てもらって「コミュニケーション上達法」という社内研修を行いました。その中のレッスンのひとつに、3人1組になって相手が「*****」と言ったら、次の人は必ず(よく響く低音で)「いいですねえ、*****ですか。」と言ってから自分の話しをする、という練習を繰り返すのがありました。このように相手の話を聞いて相槌を打つというのも一種の「反響」なのかもしれません。伊東静雄が「これからは視る生活をしよう」と言っていますが、それはまた「聴く生活」でもあるかも知れません。それはすなわちコミュニケーションに通じます。
ここでひとつまた頭に浮んだのですが「自ら孤寂なる発光体なり!」と言ったのは、伊東静雄なのでしょうか蝶なのでしょうか?
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白と青のたたかい
伊東静雄は夏が好きでしたので、私なりの偏見で次のような読み方をしてみました。
春に生まれ、秋には翅うち枯らして死ぬ運命を知っている蝶が、八月の太陽に輝く白い石の上に、まるで生きている時と同じ姿で立ったまま死に、翅が白い光を放っている。それは、白く輝く夏の景色を構成するひとつのモチーフとなって、幸せそうにさえ見える。
しかし、伊東静雄はこの白(死の色)の誘惑に抗して、むしろ真白い雪原で飢えに耐えて必死に命を保っている狼の目の蒼さ(生)を夢見て、昭和11年の、母の死、妻の病気、赤ちゃんの育児という当面の身辺の苦境を乗り越えようとしている。従って「自ら孤寂なる発光体なり!」と言うのは蝶の台詞ではないでしょうか。(杉本秀太郎氏や故永藤武氏の説と似ている?)少し無理があるような気もしますが、とりあえずこのように推理してみました。ご批判を待ちます。
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(無題)
>佐藤さん
「ボードレールの反響」興味深く拜見しました。フランスの詩は不勉強でぼくには何を言う資格もないのですが、「あまりにも短かった夏の日の烈しい光」という詩句はたしかに伊東静雄を思い起こさせます。(同時にぼくは「八月の石にすがりて」をも思い出しました。)詩史的には付合しないけれども、「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」は『反響』の中に置かれるのがふさわしい一面を持っていると思います。そのように読むことによって『反響』という詩集の位置と性格をとらえ得る一面を持っていると思います。
ただ、この詩句が書かれた時代に即して考えると、これは伊東の発明ではなく、むしろ「コギト」という集団の共通認識のような面があったのではないかと思うのです。
中島栄次郎は伊東と親交があり、伊東は常々中島の批評に耳を傾けたと言われます。その中島がこんなことを書いています。
"[ヴェルレエヌ、ボオドレエル、ヘルデルリーンは]表現しようとせずに表現されたのだ"
"現実は「存在」するだけでは充分ではない、自己からそれを「証明」せねばならない、それを彼らがしたのだ"(「抒情の客観性」昭和10年4月、「コギト」35号)
後年伊東は次のように書きました。
"何といつても詩人に大切なことは詩による証明だ。といふより何か茫漠たるものによって証明された詩に僕が向ふから歌はれることだ"(「談話のかはりに」昭和16年)
保田與重郎は「セント・ヘレナ」(昭和10年5月、「コギト」第36号)で明らかに「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」および「冷たい場所で」を意識的に引いて、「コギト」の仲間に伊東を称揚しています。長いけれども引用します。
"群衆のミユトスの奈落にこそ、當代の英雄と詩人とは立たねばならない。すぎ去った榮光の間隙のあとの、現實的な奈落の悲哀である。この嘆きに今日の歌は成立する。けふの日の歌を、むかしの彼らが歌つた、あなたこそニイチエの歌を實現する者だ、と人が云つたとき、それを満足と思ふといつたのは、ゲオルゲその人であった。しかし僕らのけふの日を歌つた彼らを、意識して耐へぬ今日の僕らである。嘆きと悲しみの底から、當代の喪失した歌が、語られるだらう。「セント・ヘレナ」はかくていまは變貌した。悲しと云ひつヽ、己ひとりに耐へて、人はこの時を憤らなかつたか。
セント・ヘレナの悲劇は、精神を所有する現代人にとつては切實な思ひ出である。今世紀の眞の人間の切ない故郷である。「かなたへ、君といざかへらまし」。そしてその故郷がたヾ一つの悲劇である。その故郷を思ふといふだけのことが――。ギリシヤの悲劇を、近代の初めに見たヘルデルリーンは、この悲劇を第一等に純粋になめた最初の人であつた。ヒユペリーオンの運命圖繪は、何らの辯明もこじつけもなく、近代の眞の人間の悲劇である。こゝでヘラスの悲劇は、重複された後代の悲劇とさへなつた。昔のひとに休息の場であつたものが、今の人にあつては一そうに深められた悲劇である。一つの精神にみた昂揚と悲劇、たとへばナポレオンは純一の昂揚を思ひ、ゲエテは昂揚の悲劇を見、それを後人は抽象した。今はその抽象したといふことに純粋透明の悲劇さへ見える。それを見るべく強ひられる。むしろ、私のけふの日を彼らは歌ふ――その彼らをこの目でみ、この周圍にもつことは、抽象的な現代人の故郷と思ひ出の誕生に他ならない。(『保田與重郎文庫 2 英雄と詩人』258--259)
「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」についてはまだ、「文芸文化」の「創刊の辞」、大江健三郎、大岡信、菅谷規矩雄、などを引いて論じたいのですが、長くなりますのでまたの機会に。
あとは雑談です。
新聞でぼくの好きなマルタ・アルゲリッチが「ソロ活動復活を宣言」という記事を読みました。インターヴューで彼女は、「演奏している最中は……なにか音楽に演奏させられているという感じ」だと語っています。「言葉が私をして詩作せしめる」というふうにして詩ができたら、これは至福でしょうね。
佐藤さんは阿倍野で生い育った方だとか。ぼくは伊東の生活圏については拙著『伊東静雄と大阪/京都』で語りつくしたと思っているのですが、語りつくした、とはぼくの知っていることを語りつくした、という意味であって、ぼくの知らないことがまだいっぱいあると思います。佐藤さんの知見を披露してくださいよ。
>morgenさん
反響的コンミュニケーション――「自ら孤寂なる発光体なり!」と言ったのは、伊東静雄なのでしょうか蝶なのでしょうか? ――白と青のたたかい――という「自問自答」については、次回に。
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失礼
前の投稿、題名をつけるのを忘れました。、「寧ろ彼らが」としておきます。
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白と青のたたかい(一部補正)
山本さんが引用された「コギト」35号p6〜7には、以下のような文章があります。
“(ジイド「地の糧」から)『私がまだ幼い頃、時折悲しみに捕はれると、ブルタアニュの広野に出る、すると悲しさが風景の中に包蔵され、吸いとられるように感じたからだ−斯くして私は悲しみを前において愉しく眺めることが出来た。』・・・・・表現する代りに表現されるといふことはこの眺めると言ふことなのだ、象徴と化すと言ふことなのだ。”“表現する代りに表現を眺めたのだ。換言すれば現実は「存在」するだけでは充分ではない。自己から「証明」せねばならない、・・・・・”
これを読みながら、先日の投稿を少し変えさせていただこうかなと思って、次のような文章を考えてみました。
秋にはボロボロになって死ぬ「運命」を知りながら、白く輝く八月の陽光に照らされる石にすがって息絶える蝶を眺めて、詩人にはそれが「幸多き蝶」に見えた。自らの運命に順応しながらも、蝶は白い発光体のように光を放ち、真夏の景色に同化している。詩人も(蝶と同じように、われら)心の中で熱い炎を燃やす発光体であり、白き外部世界の一部であることにかわりはない。
一月に生まれたばかりの長女のおしめを替えたり、乳を調合したり、不眠不休で育児や妻の看病をしながら、「笑む稚児」の青く澄んだ瞳を見ると「子供が居るといろんなものがごまかせます。・・・・・」と、詩人は自らの厳しい運命を受け容れて「生きよう」という気持が湧いてくる。
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伊藤静雄の生活圏
山本さん
実は私が貴著の『伊東静雄と大阪/京都』のことを知ったのは最近のことで、未だ拝見をしておりません。従ってこのように不勉強なものが、何かの知見を披露するなんてことは大変おこがましい次第です。ただ私は阿倍野区昭和町1丁目というところで育ちましたので、阿倍野高校は眼と鼻の先ですし、住吉高校付近もよく遊びの場でした。というようなことで伊東静雄の生活圏であった阪南町当たりはどの路地までもよく知り尽くしているということなのです。私の母は現在もその地に生活していますが、黒山高女出身ですので夫人の伊東花子先生に教わったことがあります。(昭和15.6年頃だと思うのですが大変洗練された方であっという印象を持っています)
母の実家が上黒山であったので、そんなこともあって菅生、北余部あたりの事も相当詳しいのです。昭和30年代の黒山付近の様子はよく知っています。
何の縁があるのか私の生活圏と伊東静雄の生活圏はこんな事情によってよく重なっているのです。是非、貴著を読ませていただいてまた勉強する予定です。
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訂正
失礼!題名の字の間違い。伊東静雄です。
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北余部・阪南町のことなど
一昨年の5月に上村さんが上阪された折に、知己の方々と数人で大阪の伊東静雄ゆかりの場所を訪ねてまわったことがありました。北余部ははじめての方にはわかりにくいので、「わたしが案内します」と大きなことを言って出かけたのですが、ここ数年のあいだにすっかり様変わりして、ただ一つ残っていた灌漑池も埋めたてられ、「野の夜」の小川もいつ渡ったか気がつかず、ぐるぐると引き回して大変なご迷惑をかけました。あの「夕映」のすばらしい夕焼けは、もう見るべくもありませんでした。「村の十字路とそのほとりの小さい石の祠」と「首のとれたあの石像」がそのまま残っていたのが、唯一の慰めでした。
阪南町のあたりは戦災に遭わずに古い家が残っているところが多く、探索には便利ですが、住人がすっかり入れ替わって、50年も60年も昔のことを知っている人がほとんどいなくなりました。私が暮らしていたのは阪南町5丁目(西田辺)で、95歳になる母が今もそこで健在です。
伊東が暮らしていたといっても、ほんの数ヶ月、長くて二、三年のことですから、そんなことを覚えている人なんか、いないのが当然ですね。そこをなんとか、こじ開けるようにして調べてまわるのは伝記研究の醍醐味ですが、労多くして実りの少ないのにはがっかりします。もうこれ以上わからないだろう、と見切りをつけると、10年もして突然新しい事実がわかったりして、こわい仕事でもあります。
<しかし大阪は私に詩を書く口実を与えるのだ>と、いつか佐藤さんが引いておられた、伊東にとっての大阪の意味が、ぼくにはまだよくわからないのです。
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室内楽はピタリとやんだ
山本さん
堺市立図書館で貴著の『伊東静雄と大阪/京都』さっそく借りてきて拝見させていただいています。おかげさまで「首のとれたあの石地蔵」ようやく見つけることができました。今まで北余部407の地は何回か足を運んだことはあったのですが、石地蔵は見つけられませんでした。なにしろあのあたりは昔とはあまりの変貌ぶりで、私が記憶している昭和30年代の風情は全く残っていません。「夕映」の情緒は母に連れられて行った私の幼年時代の黒山での思い出に残るのみです。
もう一つ驚いたのは旧北田辺522の地の事です。山本さんのご尽力で現昭和町2丁目21の地であることがわかったのですね。この場所は写真を見てすぐにわかりました。これは私の母校である阿倍野中学の東北角の筋向いではありませんか。この地は今でも母の住んでいる昭和町の地を訪れる際、JR南田辺駅から年に数度は通る所です。この地に伊東静雄は昭和4年に住んでいたのですね。阪南町3丁目あたりには当時の中学の同級生がいっぱい住んでいました。今でも当時のおもかげは残っていますが、人は入れ替わっていて私の知っている友人が今でもいるかどうかはわかりません。
小学校の同級生の親が阿倍野高校の先生をしていたので昭和34.5年頃はよく阿倍野高校へ遊びに行ったものです。題名の句で始まる「夜の停留所で」はおそらく阿倍野高校での印象がモチーフになっていると思われます。伊東静雄が阿倍野高校に勤めていた昭和23.4年とは10年の時間差があります。阿倍野高校での思い出があるので「夜の停留所で」には特に親しみを覚えます。
おもかげをわすれかねつつ
こころかなしきときは
ひとりあゆみて
おもひを野に捨てよ
おもかげをわすれかねつつ
こころくるしきときは
風とともにあゆみて
おもかげを風にあたへよ
尾崎 翠
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これはまさしく奇遇
佐藤さんがあまりに近い方だったので、驚いています。
ぼくは昭和26年に昭和中学を卒業しました。昭和中学は現在は桃ヶ池畔にありますが、当時は今の阿倍野中学のところにあったのです。同じ場所で佐藤さんが学んでおられた、というわけです。グランドの横の、埃の立つ地道などは今でも昔のままです。そしてぼくの3年のときの教室は、まさしく現昭和町2丁目21の筋向いにありました(校舎の北東の角です)。住居調べでつきとめた際、こんなにすぐ近くで伊東静雄は暮らしていたんだなあ、と、その奇遇に本当に驚きました。佐藤さんも驚いたと書いておられましたが、その驚きはぼくの驚きとまったく同じものだったろうと思います。「二重の奇遇」とでもいうのでしょうか。
昭和33年に大学を卒業して、1年間非常勤講師で阿倍野高校で教えました。「夜の停留所で」が何処かというのは諸説あるようです。以前ぼくが書いた文章(未発表)から……
……「夜の停留所で」は昭和二十三年「詩学」十二月号に、更に二年後の「文学界」六月号に発表された。「反響以後」の作品である。この場所については、「帝塚山女学院か」「夜の映画帰りに電車を待つ間のスナップであろう」等の想像もあったが、そうではなく、富士正晴が指摘したように(『苛烈な夢』212--213)、阿倍野高校が住吉高校と同居していた頃のものであることに、おそらく疑問の余地はない。昭和二十三年四月一日、学制改革によって住吉中学は大阪府立住吉高等学校と改称、四月二十六日阿倍野高校と職員生徒の交流がおこなわれた。旧制女学校と「名門」住中との間の交流は必ずしも円滑にはいかなかったようであるが、伊東は阿倍野高校に移った。六月三日、阿倍野高校に校舎の一部を貸与した(以上『すみよし外史』住高同窓会昭和六十二年刊)。上町線北畠駅から西へ五十メートルほどだらだらと坂を下りたところが正門で、正門のすぐ左手に講堂があり、その灯は外からも間近に見えたのである。伊東の同僚であった黒田猛先生に「講堂の燈」という短文がある。前年には生徒部長をつとめ、職員生徒交流問題では対策委員の一人として苦慮し、最後はみずからすすんで阿倍野に転出した伊東に、「面白く、楽しくて」はともかく、俗な邪念はなかったであろう。だがこの頃すでに伊東の肉体は病菌に蝕まれていた。翌年六月発病、十月入院。……
その後、松本悦治さん、吉田正勝さん(両者とも住高の先輩で伊東の教え子)が、「帝塚山女学院」に傾いておられることを知り、ぼくもややそちらに「傾いて」、揺れています(松本悦治「伊東静雄の詩と思い出(五)」→『ぼくが「クオレ」を読んだころ』所収。吉田正勝「一冊の詩集」)。
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ただくらい学園の一角 あゝ無邪気な浄福よ
山本さん
ほんとに奇遇です。十数年の時を隔ててまさに同じ地で中学時代を送っていたのですね。しかもその外の一角ではさらに時を隔てて伊東静雄が生活をしていたとは! あの場所は中学3年間毎日その前を通っていた所です。何か伊東静雄の詩魂に導かれているような気さえしますが、考え過ぎですか?
私がよく阿倍野高校へ行った頃山本さんは非常勤講師をされていたのですね。私の同級生の親は沢田という女の生物の先生でした。
私は南海高野線を使って通勤していますので、北野田、萩原天神、初芝は毎日通りまた利用する駅です。まあ伊東静雄と今でも一部同じ通勤経路を通っているというわけです。
伊東静雄は帝塚山の駅を利用して通勤していたということですから、帰宅の途中に帝塚山女学院を通りかかった際の出来事を詩に詠んだという見方も成り立ちますね。清らかな静謐さを漂わせているこの詩は、仕事に追われ、病魔に蝕まれ始めていた時期に詠まれただけに、何か伊東静雄が自らのレクイエムを詠んでいたと思ってしまうのは私だけでしょうか。
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「川邉の歌」を読む 詩評論登載
山本皓造さんのお許しを得て詩評論に〜「河邊の歌」を読む〜掲載いたしております。みなさんの読後感など掲示板にご投稿下さい。
お陰さまでこの掲示板も、伊東静雄作品論でにぎあっております。今後ともお気軽にご投稿くださいますようお願いいたします。
11月10日から3日間ほど大阪に滞在し、天王寺公園やじゃんじゃん横丁を歩きました。北三国ケ丘は次回にしました。
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「河邊の歌」について
上村さん
拙稿の掲載、ありがとうございました。
研究会の皆さんへ
「「河邊の歌」を読む」は、竹林館の詩誌『PO』の機関誌「プラネッツ」195〜197号に今年連載してもらったものです。3年間温めながら、また一から書き直したりして来ましたが、あまり温めていると腐ってしまうので、思い切って発表しました。まだしかし自分でも「これでよし」というには到りません。あちこちから叩いてもらって、ずたずたになったところで、決定稿を書きたいと思っています。
どうかよろしくお願いします。
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伊東の地図
>佐藤さん。思い出の続きです。
北野田、萩原天神、初芝、と出てくると、思い出が甦ります。
萩原天神で下りて、北余部までの野中の道を、何度通ったでしょう。でも、途中で高速道路ができて、一本道が遮断されてしまいました。あの美しい夕映えも遮断されてしまいましたが、昔は仁徳天皇陵までずっと見通せたそうです。
北野田は、菅生へ行くのにいつもバスを利用していました。駅周辺の雑然としているのにはあきれました。小高根さんがたしか、菅生までは3キロと書いておられて、そんなにないのではないかと疑問に思い、実際に歩いてみました。トットッと歩いておよそ30分で着いたので、私の本では「2キロ余」としておきました。
初芝には伊東家があって、花子夫人が夏樹さんと暮らしておられたので、ここも何度も乗り降りしました。時にはまきさんも来ておられて、思い出話しをいっぱい聞きました。
『定本全集』p.488 の「黒山村北余部」の地図を見ると、堺東から萩原天神までの間に白丸で駅が4つ描かれています。伊東はきっと、三国ケ丘、百舌八幡、中百舌鳥、初芝と、唱えながら丸を描いていったのでしょう(今は白鷺駅が増えて5つになりましたね)。
「夜の停留所で」についてはまた次回に書きます。
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<大阪は私に詩を書く口実をあたえるのだ>とは?
>山本さん
富士正晴氏は伊東静雄が一向に大阪弁を喋らなかったこと。また大阪人の気風(とくに庶民の)を気楽に思っていたこと。また大阪の文化人に対しては、時折一種のやり切れない窮屈さ、完全さに対する窮屈さを感じないでもなさなそうだった節がある。と語っています。
伊東静雄自身は<大阪では自ら「心ある人」を以って任じている人達は、私に、萩原朔太郎の所謂西洋の図を、余所の町でよりもよりやすやすと認容するからである。大阪はそんな町である。私はかかる「心ある人」をこの町で一番軽蔑している。>と語っています。
伊東静雄は大阪の庶民といわゆる”文化人”に対して異なった評価を下しています。庶民の気安さに対する肯定的な評価。それに対していわゆる文化人に対してはその”いいかげんさ”(完全さを求めない気質)に対するやり切れなさ、と考えてよいのでしょうか?
私自身この問題に関してはまだまだ思考が不足しており、また京都の気質との比較も視野に入れて考えてみる必要性を感じています。
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朔太郎の「西洋の図」
伊東の散文「大阪」は、ぼくにはずっと難解であり続けていました。
ひとつには大阪人として、「大阪の文化人」にたいする伊東の認識に違和感があり、それにちょっとひっかかるのです。
たしかに大阪人は軽薄でおっちょこちょいですが、そんなことはトリビアルな問題です。
<大阪では自ら「心ある人」を以って任じている人達は、私に、萩原朔太郎の所謂西洋の図を、余所の町でよりもよりやすやすと認容するからである。大阪はそんな町である。私はかかる「心ある人」をこの町で一番軽蔑している。>
この文章は、大阪批判、大阪の「心ある人」批判としてではなく、「萩原朔太郎の所謂西洋の図をやすやすと認容する」日本の「心ある人」にたいする批判として読みたいと思います。
そうすると問題は「萩原朔太郎の所謂西洋の図」とは何か、ということになります。これを突き詰めてゆくと、結局「日本浪曼派論」になってしまいそうです。
この問題はまだぼくの中で煮詰まっていません。
長々と引用はできませんが、直接の材料として、
・小高根二郎氏の「大阪」解説(『生涯運命』)
・朔太郎の「日本回帰」
・桶谷秀昭の伊東論、保田與重郎論
・「近代の超克」、竹内好、松本健一
・小林秀雄「様々なる意匠」「故郷を失った文学」(文明開化も浪漫主義も自然主義もすべて「西洋の図」だ、と言ってしまえば)
・伊東の「啓蒙はあかんですな」という言葉
などが念頭に浮かび、果てしなく広がって行きます。
伊東が「大阪」を書いたのは昭和11年、『わがひとに與ふる哀歌』から『詩集 夏花』への過渡のときでした。伊東が大阪を「口実」としてこれからどんな詩を書いて行くのか。その結実を『詩集 夏花』と見れば、散文「大阪」はどう読めるのか。
ぼくは何を言っているのでしょうね。
多くの方々の発言がこの掲示板に集まってくればよいと思います。
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おひさしぶりです。
夏ごろちょくちょく遊びに来ていた者です。
先日、友人たちと詩や小説の朗読会をやろうということになって、なじみの古本屋兼カフェのお店を会場として使わせてもらえないかと話に行きました。そうしたら店主さんに伊東静雄の生徒さんの話をききました。以下はその古本屋さんのブログです。
http://kosho-ichiro.269g.net/
住吉中学の教え子だそうです。喫茶店に入ってお金がなく、その生徒さんにおごってもらったという話には私も笑ってしまいました。
来年は生誕100年でもありますし、都会の片隅でひっそりと伊東静雄を偲んで詩の朗読会をやってみたいな・・・なんて気がしている今日このごろです。
さいきんは宮沢賢治を読んでいます。
山本皓造さんのご著書はまだ拝読していないのですが、近所の図書館にありました。急いでいて用事のある本以外読むわけにいかない場合でも、「伊東静雄」の字が目に飛び込んでくると、つい、立ち止まってしまいますね(笑)。いずれ読んでみようという本の一冊です。
それにしてもめっきり冷え込むようになりましたね。
失礼します。
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諫早人の気性
「大阪」の文章はまさしく諫早人の気性を現した一文である。そしてまた望郷の一文でもある。一般的に文化人と言われている人は容易に相手の話にのってしまう。いわゆる「心ある人」である。故意に故郷の自慢話をしながらじっと聞き手を観察する静雄に「心ある人」は相槌でも打って表面的に融け込もうとする。静雄はそんな人を苦手としたというより、田舎人独特の感情ー私は軽く見られているーをおさえることができなかった。自分にすりよっ来る人間を警戒する風潮が諫早では強かった。また永く諫早に住んでいる住民は、故郷を離れ久しぶに帰省した者が得意げに大阪弁や東京弁を使ってしゃべることを「ふうけもん」といって馬鹿にし嫌った。静雄はそのことを知っていて、帰省した時も諫早弁を無理してでも喋った。大阪にあっても大阪弁は使わなかった。歴史的に諫早では反骨精神は育たなかったであろうし、詩も生まれなかった。しかし何事にも迎合する町ー大阪−、何事にも一見迎合する人ー文化人ー、の場所だからこそ反骨的に詩が生まれた。後年はそんな町が、そんな人が好きになって<北余部>での新たな作品が生まれたのではないでしょうか。
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こんな文章見つけました。
昭和26年4月22日谷口卓夫君がいつものように病床を見舞ってくれてついでにこの本を差し出された。どこかの古本屋で百円で見つかったのだそうだ この詩集の中でうたった戦争は敗れ、うたった自分も深く病んですでに二年近く床についてゐる。求められて扉に何か書かうとしても調子のいゝ詩句など浮かばない。それでもようやく病も安定し、床上に座り窓から入る春らしい風を感じてこれを書けば、又一種のなつかしさがある。
このごろ谷口君は小川のほとりにといふ非常に美しい詩を書かれた。それを喜ぶ記念の気持ちも同時にこめて以上ののような文章を書きつける
南河内 千代田国立病院 北病棟にて 伊東静雄
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私はお金がない
>Okapia さん はじめまして。
さっそく「古書一路」さんのページを開いてみました。
面白い話ですね。
伊東静雄はほんとにお金がなかったみたいですね。
国語の授業でいつも黒板に「私はお金がない」という例文を書いて文法の説明をしたとう、誰かの書かれたエピソードを思い出します。
花子夫人と京都でデートして、帰り際に「十円貸してくれ」と言って、花子さんに十円借りて別れたという話しは、私の本で紹介しました。
佐賀高、京大時代の「貧」。
尾向さんというのはどういう方なのでしょう。
名簿を繰ってみましたがすぐには見つかりませんでした。またゆっくり探してみます。
同じく国語の授業で生徒が間違うと、「ちごー」と奇妙なアクセントでやっつけたという話しはどこにあったのか。諫早弁で、どんなふうに言うのでしょうか。
>上村さん
「諫早人の気性」に教えられました。「西洋の図」や「日本浪曼派」に視野を狭めず、もう少し広く考えないといけませんね。
「田舎」と「都会」にもからんで来そうです。
谷口卓夫さんについての文章、初めて見ました。出所を教えてください。
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賑わいにけり
Okapiaさん、お久しぶりです。少し賑ってきましたね。
「古書一路」さんのHPをご紹介いただき、「BOOK&COFFEE]の話に興味を持ちました。
会社の近く(船場)にあった佐世保二世(中島潤君)の古本屋が夏の終わりごろに他所へ移転して、「コギト」「文芸文化」「果樹園」などをこまめに探してくれる便利屋、云わばわが「BOOK&COFFEE]が無くなったこと。我家でも、本とレコードや古いオーヂオ機器が増え過ぎ、家内のタンスが開けられなるなど家庭内不和の元凶となっていること。等々の状況があって、「BOOK&COFFEE]ショップに興味がそそられるのです。
先日(12/1)、通天閣の近くの商店街にある「澤野工房」http://www.jazz-sawano.comという(店は下駄屋)小さいレコード会社(コンサートがなんばHATCHでありました。東京は12/3)があり、その近くに「スラバヤ」という品種のコーヒー生豆を安く売ってくれる店があります。この二つの店に私はしばしば行き、レコードやコーヒー生豆を買います。伊東静雄が、「ものわかりのよい」詩人たち(百田宗治等?)を連れて行って驚かせた飲み屋もこの近くでしょう。
老後は(孫達にはすでにオジーさんと呼ばれている)、「マンガ喫茶」の向こうを張って、古本読み放題レコード聴き放題のジャズ喫茶(真空管アンプとSP.LP使用)にこのガラクタを移せたら、などと夢見ています。住吉高校同窓会が、伊東静雄資料関係資料の保存や研究に尽力されていることに敬意を評します。諫早勢もがんばらんといかんですね、上村さん。
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訂正
眼が疲れていて読み直しをしなかったので、誤字やおかしなところだらけでした。とりあえず次のように訂正します。他はご判読ください。
澤野工房のリンクhttp://www.jazz-sawano.com
コーヒー生豆の店「スラウェジ ビーンズ ジャパン」の「タナ・トラジャ」という豆で、ブルーマウンティン№!より安くて美味しいですよ。
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続 こんな文章見つけました。
伊東静雄の長女まきさんが諫早市に寄贈した多くの資料の中に、詩集「春のいそぎ」がありましてその詩集の表紙の次頁に静雄の自筆で書き付けられた文章です。谷口卓夫さんが一筆依頼し、そのまま伊東家に残ったのではないでしょうか。
来年の菜の花忌、まきさんに父の思いで(仮題)について講演していただくことが決定いたしました。皆さんお出かけ下さい。
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谷口卓夫さんのこと、諫早図書館のこと
諫早図書館の伊東静雄関係資料は、私が行ったときはガラスケースに入っていて、書名などは控えてきましたが、閲覧はできないとのことでした。リルケの詩の本がたくさんあり、何か書き込みでもないかと思ったのですが、係の人の話では、ほとんど新品状態だということでした。せめて目録でも作ってほしい、とお願いしてきました。
谷口さんの「ノート」ははじめ、林富士馬さんの「プシケ」掲載用に送られてきたものを、追って『祖国』が伊東静雄追悼号を出すことになったので、それに協力する意味で林富士馬さんが自身の責任をもって『祖国』に転送したものだとのこと。(以上は碓井雄一氏の御教示による。「林富士馬・資料と考察(二)」)
谷口さんは住中21期、すでに昭和43年に死亡しておられますので、確かめようもありませんが、あるいは谷口さんがいったん『春のいそぎ』に書いてもらって、のち静雄の死去の際にご遺族に託されたのではないか、とも考えられます。
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>morgenさん
ジャズ喫茶の夢、実現したら、きっと行きます。
さいきんは仕事以外ではパソコンに触れることがあまりなく、お返事が遅くなりました。いまパソコンを使用しているのも、実は先ほどケータイに架空料金請求詐欺の電話がやってきて、法務省のホームページを読むためだったんですね。法務大臣の許可した債権回収業者が「出会い系サイト」の未払い料金回収をしたり個人名義の口座に料金を振り込ませることは絶対にないと明記してあり一安心。・・・いやもちろん、そんな「出会い系サイト」を利用したこと自体ありませんよ!
そんなことがあって非常に気分がくしゃくしゃしていた折にmorgenさんの書き込みを読みまして、なんだかこう、世の中捨てたもんじゃないなあ、といいますか(笑)、救われた気分になった次第です。
ただ、これは一時の感激で言っていることなのではなく、やはり、そういった喫茶店があれば、これはもう、海山越えてでも行きたい。今から楽しみです。morgenさんの「老後」が早く訪れますように。(・・・おいおい。)
>山本皓造さん
はじめまして。ご挨拶が遅れました。
たしか「ち」にアクセントがつくのでしたよね、例の「ちごー」は。この話を書いていたのは庄野潤三だったような気がするのですが定かではありません。後で確認します。あ、もう確認済みかもしれませんね。
伊東静雄の朗読会をやるときには尾向さんにゲストとして出席していただきたいなあなんておもっています。そのとき、「ちごー」についてもお聞きしたいですね。
朗読会は夏ごろを考えています。それまでは、朗読会メンバーとも月に一回くらいは顔を合わすので、あらためて伊東静雄を学んでいきたいなと考えています。
先日、これまで伊東静雄の名前もきいたことのなかった友人(メンバーの一人)に「これ等は何の反響やら」の語を見せたところ、ウケてました。このことばなんかも、諫早アクセントで聴いてみたいものです。
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諌早弁のことなど
「ちごー」の出所はまだ調べていません。いずれ、住中出身の先輩の誰かが書いたはずですが、庄野潤三さんの文章はたくさんあるし、西垣脩さんは謹厳な方だからあまりそういう話は書かれそうにないし、森脇(斉田)さんか、池沢さんか、田辺さんか、……言い出した責任上、近いうちに資料をひっくり返して調べてみようと思います。「あんぽんたん」というのもどこかにありましたね。
伊東静雄は家でも自由に諌早弁でしゃべっていたようです。花子夫人のお話では、とくに寿恵男さんなどが来たときには花子さんをほったらかしで、二人で猛烈に諌早弁でしゃべりまくっていたそうです。その話の内容はちっとも理解できなかった、とのことでした。上村さんに「猛烈に」諌早弁でしゃべってもらって、その様子を彷彿させたい気がします。
花子夫人の話でもうひとつ印象に残っているのは、伊東の読書のことです。夜中、花子さんがふと眼をさますと、伊東はまだ寝床で本を読んでいた。枕元にスタンドを引っ張ってきて、うつ伏せになって、顎の下に枕を置いて、書物に目をこらしていた。
堺の家の二階は本の置き場で、6畳の部屋と廊下まで、人の通れるわずかな隙間を残して、うず高く本が横積みにされていた。「赤い本」を下のほうの見えない所に積み込んであった、という話は、拙著で書きました。
赤いシゴキをベルトの代わりに結んで学校に行った、という話は、夫人は否定されていましたが、ありうることだと、ぼくは思っています。
「夜の停留所で」については次回に、と前に書きました。「帝塚山」説の松本氏の文章を引用して宿題を果たします。佐藤さんはこれで説得されるでしょうか。
"この詩は「終曲のつよい熱情とやさしみの残響」と「目には消えていまは一層あかるくなつた窓の影絵」との対応が「無邪気な浄福よ」という詩人の呼びかけによって、一つの世界を結実している。この詩について、富士正晴が「住吉中学校の教師から、男女共学の阿倍野高校の教師になつて、伊東静雄は面白く、楽しくて仕方なかったらしい。(中略) この詩はおそらく阿倍野高校が住吉高校と同居(旧住吉中学校の校舎に) していた頃のものであろう。その近くの郊外電車は間遠で、永らく停留所で待っていなくてはならない。高校の女生徒の少女のクラブ活動に、彼は無邪気な浄福を見たわけだ。」と書いでいる。
この事について、伊東静雄の教え子で、私より一年下の、吉田正勝氏は次のように書いている。「他の詩から推して、この詩も詩人の純粋な心象風景であることを感じていた。だが、もしかしたら、私の生家の近くにある帝塚山駅での詩人の生の体験の産物ではなかったろうか。駅のすぐ傍らにある帝塚山女学院の黒ずんだ古い建物。」「帝塚山駅のプラットホームに佇みながら、彼がふと目撃した夜の学園の状景、それがこの詩の成立を促さなかったと誰が言えよう。」(「一冊の詩集」)
この詩の停留所のイメージが、富士の言う南海電鉄上町線の北畠か、吉田の言う高野線帝塚山駅かについては、私は吉田の推理に傾く。私も帝塚山女学院のあの瀟洒な校舎がふさわしいように思うし、郊外電車の駅を停留所と言うかといえば、あの帝塚山駅は駅と呼ぶにはあまりにも貧弱な狭い二本のプラットホームであったように思う。それに北畠の停留所は校舎からかなり離れているし、「少女」というところに、共学ではなく、女学校を感じると言えば言い過ぎだろうか。"
松本悦治さんは住中20期、群馬県前橋在住で、「風の街」に「伊東静雄の詩と思い出」を連載し、のちに『ぼくが「クオレ」を読んだころ』(2003.9 鶺鴒社)にまとめられました。とてもいい文章で、鋭い読みや貴重な証言に満ちていますが、広く市販されていないのが残念です。
長らく学校教師をしていると、話が長くなります。もう辞めて10年になるのに、まだ悪癖が抜け切れません。みなさん、ご迷惑様でした。家庭人としては、1日に原稿用紙1枚ほどしかものを言わない、いたって寡黙な男なのです。
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私をこんなに意地張らすがよい (四月の風)より
>山本さん
『夜の停留所』についての解説ありがとうございます。納得できました。
<停留所>という題名にあるとおり、ロケーションから考えてやはり帝塚山女学院説が自然ですね。雰囲気もピッタリです。
>上村さん
自分に擦り寄ってくる人間を警戒する風潮が諫早では強かったということですが、厚かましい要望ですが、諫早人気質についてもう少し詳しく教えていただければと念願しています。
>morgenさん
喫茶の夢が是非かなうことを切望する次第です。ジャズやクラシックの音楽が静かに流れる文芸喫茶があればよいと思うのは私だけでしょうか?
>Okapiaさん
お久しぶりです。たまにはドストエフ好きーのページにも顔を出してください。
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山茶花は詩人の誕生花
1906年12月10日は伊東静雄の誕生日。来年は生誕百年になります。
詩人の故郷にある多良岳山麓には、白い一重咲きの山茶花が自生しています。伊東静雄の誕生日の花は、白い素朴な一重咲きの山茶花と、私は勝手に決めています。(ウーロン茶の花に似ています)
ところで、「山茶花」と書いて、「さんさか」と読まないで「さざんか」と読むのは不思議ですね。中国から日本に渡る途中で、ひっくり返ったのでしょうか。
お茶と言いますと、「古本とチコンキ(蓄音機)のある茶店」というのは夢ですね。
私は、今の仕事の任期があと4年弱あり、重任すれば8年程は無理ですね。それまでは、妻に文句を言われながら、せっせとSPやLPを買い、伊東静雄が持っていたというヴィクトローラ75も、探して手に入れましょう。濃密な音楽と炒りたて挽き立てのコーヒーで皆様をおもてなしできればよいですね。
上村さん、野口寧斎の資料ありがとうございました。
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「ちごー」の出所について
「伊東静雄詩がたみ」(一柳喜久子編者)で、「諫早訛りの先生について、彼の教え子であった庄野潤三が、実に生き生きと次のように書いている。」として「ちごー!」が紹介されています。山本さんご指摘のように、静雄の教え子である庄野潤三が記憶して何かに書かれたものと思います。その原文はわかりません。
「ちごー!」は「違う!」の方言で、諫早では今でも感情が高ぶって相手の言葉を否定する時、又正すときに使います。私もよく使います。それも大きな声で・・・間髪をいれずに「ちごー!」怒声です。その後「お前ははどうしてそんなにできないんだろう」とゆっくり諭すのが今でも通用しています。
大阪での「ちゃう ちゃう」は、柔らかい言葉使いですね。
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庄野さんと「ちごー」
とりいそぎ1件だけ。
上村さんのご教示によって、庄野潤三さんの書いたものを調べてみました。
『文学交遊録』(新潮社)p.55 に同じエピソードが紹介されていますが、雑誌新潮連載は『詩がたみ』よりずっと後ですし、文章も一柳の引用とは少し異なります。『文学交遊録』は庄野さんのこれまでの文章の集成のような本ですから、同じことを別のどこかで書かれたのだと思うのですが、手持ちの資料の中には見当たりません。
すみません。答えになりませんでした。
大阪でもやはり怒気を含んで「ちがう!」と言いますが、これは3音とも平坦な高声アクセントですね。「ちゃう、ちゃう」はすでに相手を受け入れています。
伊東は家でも花子さんや子どもたちに「ちごー!」と言ったのでしょうか。
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静雄の思い出
山本皓造さんの資料の中から「静雄の思い出」江川ミキ(静雄の姉)の講演内容を詩評論に掲載させていただきました。ご一読下さい。
山本さん有難うございます。
佐藤さん 諫早人気質については少しまとめてからご報告ということで・・・
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おもいだしました
「ちごー」についてです。
私が読んだのは新潮社の日本詩人全集(グレーの布装のもの)に収められた「伊東静雄・立原道造・丸山薫」に執筆された庄野潤三の文章でした。
これが「ちごー」について書かれた初出のものかはわかりませんが、とりいそぎ情報提供。
失礼します。
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ああ
「グレーの布装」といっても、もとは紙のカバーがかかっているものでした。たしかシリーズ名は「日本詩人全集」だったはずですが・・・やや不安。
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庄野潤三書誌(とは大げさですが)
私の編んだ「住高同窓会室所蔵 伊東静雄関係資料目録」の書誌の部に、庄野潤三さんの分をわかるだけ集めました。一柳『詩がたみ』は昭和45年10月刊なのでそれ以前のものを列挙すると、
○一月十二日の記(昭和一八・三 未発表)
●雪・ほたる(「まほろば」昭和一九・三)
●淀の河辺(「午前」七号、昭和二二・二 →『伊東静雄研究』)
●伊東静雄先生のこと(「詩学」昭二八・六 →『伊東静雄研究』)
○伊東先生の手紙(「プシケ」昭和二八・六)
●『反響』のころ(「祖国」昭二八・七 →『庭の山の木』、『伊東静雄研究』、「現代詩読本」一〇)
●かの旅――伊東静雄先生のこと(「文学界」昭和三〇・九)
●伊東先生(「三田文学」昭和三一・四 →『自分の羽根』『全集一〇』)
●自由自在な人(筑摩書房『鴎外全集第二巻』月報、昭和三四・二 →『自分の羽根』『全集一〇』)
●伊東静雄先生(「住中住高同窓会報」第八号、昭和三四・七)
●思ひ出(「果樹園」三八号、昭和三四・三)
●日記から(『伊東静雄全集』ノート、昭和三六・二 →『自分の羽根』『全集一〇』、『伊東静雄研究』)
○伊東静雄全集から(「新潮」昭和三六・一一 →『庭の山の木』)
●詩三つ(「新潮」昭和四一・一一 →『クロッカスの花』『全集一〇』)
●伊東静雄の手紙(『手紙の発想』昭和四二・一〇 →『クロッカスの花』『全集一〇』)
●日本語の上手な詩人(『詩の本』昭和四二・一〇 →『クロッカスの花』『全集一〇』)
○伊東静雄・人と作品(『日本詩人全集』第二八巻、新潮社、昭和四三・一 →『庭の山の木』)
●「漂泊」(『日本詩人全集』第二八巻 →『伊東静雄研究』)
●『前途』、講談社、昭和四三・一〇、(「群像」昭和四三・八 →『全集七』)
実はこのリストには、私が初出または所収本で直接目にしたもののほかに、二次的に他の資料から引いたもので未見のものが含まれています。○印がそれです。
「ちごー」問題が提起されてその出典が問題になったとき、●印は手元にありますので全部調べてみましたが、出典を見つけることができませんでした。
今回の Okapia さんのご教示で、解決しましたね。ありがとうございました。
「人と作品」はのちに『庭の山の木』に収録されたのですが、目録作成当時手近の図書館に架蔵せず、すぐどこかでみつけるつもりでペンダントにしていて、その後この仕事を離れてそのままになっていました。
『庭の山の木』ないし『日本詩人全集』はインターネットで簡単に入手できそうなので、注文して現物を見ようと思います。もしどなたか確認できたら、この掲示板でご報告ください。
ついでながら、冒頭の「一月十二日の記」は未発表、以前庄野さんに直接尋ねましたが、今後とも発表の意思はない、とのことでしたので、われわれはこれを見ることを断念せざるをえません。次の「プシケ」当該号は碓井雄三さんが雑誌を所蔵しておられるようなので、コピーをいただけると思います。
さて、こわい話をひとつ。
青山毅『古書彷徨』に、「自分の目で確認せず、二次文献によって書誌を作成することは、絶対に許すことができない」とあります。まさにそのとおりなので、一言もありません。(が、それはそうやねんけど……)
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日本詩人全集28
Okapiさんのご指摘通り、日本詩人全集28 新潮社刊(43年1月)伊東静雄・人と作品 庄野潤三氏が執筆されていました。42年10月の日付があります。確認報告まで。
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山本さんにお尋ねしたいのですが
伊東静雄・庄野潤三・高橋和巳・司馬遼太郎、といった人物群をひとくくりに語る文章はないでしょうか。とりわけ庄野と高橋のつながりに注目したようなものがあれば読んでみたいのですけれども・・・。高橋の中学生時代、同じ学校で庄野潤三が教師をやっていたということしか知りません。
なにかご存知でしたら、よろしくお願いします。
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伊東・庄野・高橋・司馬
>Okapi さんへ いや、まいりました。
突然「伊東静雄・庄野潤三・高橋和巳・司馬遼太郎」が一つの皿の上に乗った料理を前に置かれて、どぎまぎしています。その皿がどういう形や色をしているのか、見当がつきません。(かなりの大皿だろうと想像します。)
たしかに庄野潤三は戦後3年ほど今宮中学で歴史を教え、高橋和巳は戦中・戦後今宮中学に在籍して松江高校に進みました。年譜を見ると、高橋和巳が疎開先から今宮中学に復学した昭和21年10月から23年3月卒業までの期間、二人は教師・生徒として居たことになります。しかし高橋が庄野について、あるいは庄野が高橋について書いたものがあるのかどうか、寡聞にして知りません。
高橋和巳が伊東静雄について何か言っている、というのは、ありえないことではないような気がしますが、私が高橋和巳を読んだのはもう20数年も前で、伊東静雄をやりだした時期とはずいぶんずれていて、私の「伊東静雄ノート」には高橋和巳からの書き抜きはひとつもありません。
Okapi さんは、4人が乗った皿はどんな色や形をしていると思われますか。ご意見をお聞かせください。
桶谷秀昭に次のような文章があります。
●「高橋和巳」(『仮構の冥暗』)
●「述志」(埴谷雄高編『高橋和巳論』)
●「昭和の史論家―司馬遼太郎」「司馬遼太郎『ひとびとの跫音」」(『滅びのとき 昧爽のとき』)
少なくとも桶谷氏においては伊東静雄と高橋和巳が同じ皿の上に乗っているわけです(無論保田與重郎も、そして太宰も)。いつかこの掲示板で話題になった「散華」をここで思い出しました。高橋和巳の「散華」を蔵書の奥のほうから探し出して読んでみようと思います。
すみません。答えになりませんでした。
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大阪の地平から〜
>Okapiさん
これはすべて大阪に関連する人物ではありませんか。しかも大阪の<上と下>に関係します。高橋和巳はいわゆる大阪の最下層と言えるいわゆるドヤ街の近くで育ちました。3月のあの”大阪サミット”では高橋和巳の生家付近やドヤ街を散策しましたよ。
司馬遼太郎の生まれたのも高橋和巳の生家の割合近くです。一方庄野潤三は、父が大阪の最も上層家庭の集まる帝塚山学院の校長でしたし、伊東静雄はその帝塚山に近い住吉高校で務めていたわけです。
阿倍野の地はある特徴をもっています。標高の高い帝塚山には上流階級が、上町台地の阪を下っていくと、その生活階層も下がっていくのです。歩いても20〜30分の間に<上と下>が体験できます。大阪にこられましたら”上から下まで”案内させていただきますよ。
阿倍野には松本健一の本がずらりと並んでいる天海堂という古本屋があります。
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静雄の書き込み 2
「わが最晩年の喜びの一つは三好氏のよき理解を得たことである 何となくそれを書きつけておきたくなつた 27年7月13日」
詩を読む人のために(志文堂 27.6刊 三好達治著)の表紙の次のページに静雄直筆で記されています。桑原武夫が三好達治とともに創元社社長に伊東静雄詩集を出して欲しいと頼み即座に快諾を得ている前後の事と推察される。
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静雄の近作を激賞〜続き〜
長年心に引っかかっていた三好達治との文学上のわだかまりが解消したことは、余程嬉しかったものと思われます。桑原武夫が「伊東静雄氏の詩」の評論の中で、静雄の近作が三好達治に激賞されたことを記しています。その近作とはどの作品をさすのでしょうか。夕映かも・・・
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「伊東静雄の遺書」のことなど
佐藤さん。「大阪の<上と下>」の話、面白いですね。
伊東は阪南町から西成に居を移しましたが、当時西成に住んだ住中教師は誰もいなかったのではないかと思います。拙著では「西成という土地のコスモロジカルな位相を、大阪に住まぬ人に伝えるのはむつかしいが」と、ぼやかしておきましたが……。ところが伊東はまた庄野潤三の<上>性を愛したらしいので、なんじゃそれ、と言いたくなります。
このごろ古書目録で伊東静雄の原書簡が載っているのを時々見かけます。売却は所持者の自由とはいえ、これでは散逸してしまうのではないかと心配です。『全集』の書簡は必ずしも原文に忠実ではなく、編集方針なのでしょうけれども、表記などが大きく変更されている場合も少なくありません。モトがわからなくなるのは困るのではないでしょうか。
上村さんから、新発見の「書き込み」について2件の報告がありました。『全集』の逸文はまだ出る可能性がありますね。皆さんは「伊東静雄の遺書」をご存じでしょうか。住中の伊東の教え子の斎田昭吉さん、柊和典さんらが出している『四年坊』という小冊子に発表されたもので、そのコピーの写真版とともに、詳細な経緯が記されています。「遺書」のテキストを写しておきます。
謹み謹みて
天皇陛下の万歳を唱へ奉る
一、花子よお前の強さには自分は信頼してゐる
この上は充分に優しい母であつてくれ
一、まき子よ素直な女になつておくれ
一、夏樹よ誠實で勇気ある男子たれ、又学藝
をも輕んずること勿れ
一、この家は伊東家の本家たることをゆめ忘るること
なく姉上みき、弟壽惠男、妹リツと助け合ひ、睦み合
ひ變ること勿れ
一、夏樹、まきは出來るだけ度々祖先の地諌早を訪れよ
一、賜金、資産は夏樹の名儀にせよ
一、後事の處置、一家の進退は姉上みきに相談せよ
わが母なき後、自分は姉上を母と思つてきたから
一、貸借関係なし、又一つの秘密事もなし
一、わが文学上の作の問題が起つた場合は林富士馬、栗山理一、
保田與重郎、桑原武夫氏等に託せよ、但し未発表のも
のの出版、掲載は禁ず
右遺言す
昭和十九年八月二十五日
伊東静雄 印
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空間的な連想でいけば
伊東静雄・庄野潤三・高橋和巳・司馬遼太郎の四人には、折口信夫を加えられるかもしれません。たしか、高橋・司馬と生家が近かったと記憶しています。(西成ですね。いまネットで検索してみたところでは。)
一見して、情の濃い面々という印象を受けるのは、私が関東人だからでしょうか(笑)。
万葉集を読んでいると、難波という地の歴史的な層の厚さに圧倒されます。高橋和巳の苦悩は、ほんのついこのあいだのことでありながら、どこか古代的な感じがあります。かりに高橋和巳が大伴家持と同時代人であったとしても不思議ではない。
高橋和巳と司馬遼太郎のリンクは、いまのところ、高橋と京大作家集団を一緒にやっていた三浦浩氏(作家・故人)が、産経新聞社員時代に司馬遼太郎の後輩だったということをとっかかりに考えています。いろいろ書き残してくれています。
高橋と司馬をセットに考えると、戦後という時代は、なんのかんのいわれながらも「下からの民主主義」の時代だったなという気がします。
高橋和巳の「散華」は、舞台が孤島ということもあって、保田與重郎がモデルといわれますね。保田は、「セント・ヘレナ」『後鳥羽院』に見られるように、島に流される敗北者の姿を好んで描きました。
しかし私の印象ではむしろ北一輝ではないかという気がしました。(保田はあまり政治的ではありませんから。)
もっとも「散華」の老人は、実在の誰かであるというよりは、あの当時のイデオローグの誠実な部分を集めて人格化したものでしょう。自己の信念に誠実でなければ、戦時中影響力を発揮することもなく、戦後になって、主人公の青年からないものねだり的な対話を求められることもなかったでしょうしね。「散華」のラストシーンは、見ようによっては、日本浪曼派的「死の美学」への屈服といえないこともない。発表時、そういう批判があったそうですね。
林房雄は三島由紀夫との対談で、『英霊の声』の「英霊」たちを「女々しい」と斬って捨てていますが、その女々しさにおいて、三島の「英霊」たちと高橋の「散華」の主人公は良く似ている気がしますね。三島と高橋はよく似たところがあります。太宰も。
高橋和巳が伊東静雄や庄野潤三について触れている文章を見たことは私もありません。きちんと全集にあたったわけではないのですが・・・。
私は保田與重郎というひとは、おおすじにおいて正しいことをいうひとだと考えています。細かくみると、いろいろアヤシイ感じもありますが(笑)。折口信夫は、保田に、右翼なんかと付き合うのはよせ、と言いたいんだけれども私が言うとカドが立つからお前言って来いと弟子に命令したそうです。面白いひとですね。
保田は文学は魂を太らせるものである、勧善懲悪の観点を排して成立した近代の「小説」はやがて滅びる、といっていましたが、どうもその予言は当たったような気がします。
大阪というトポスにいったん着地しないことには、高橋和巳の文学が読まれることももう再びないだろうし、読まれても、読んだ者の魂を太らせるような文学とはならないような気がします。誰かが高橋和巳を救う必要があるんだが、それには高橋ひとりだけをとりあげても無意味で、高橋を救うためには、一緒に伊東静雄・庄野潤三・司馬遼太郎、折口信夫をさえ盛り込むことの出来るような大きな器が必要なんじゃないかと考えています。
そういえば『わがひとに與ふる哀歌』の出版された年でした。われらが阪神タイガースの誕生したのは。伊東静雄は野球など観たのでしょうかね。
以上、伊東・庄野・高橋・司馬・折口・・・といった人物連環については、私の考え自体が漠然としているので、文章まで漠然としてしまいました。
それにしても上村さんの下の書き込みには、いささかの感動をおぼえました。
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もうひとつ、時間的な連想(空想)をたくましくすれば
『生き方上手』の日野原重明さんがよど号ハイジャック事件(1970)に遭遇した際、人質となった乗客の読むものとして犯人が用意していた本に『カラマーゾフの兄弟』があったそうです。また伊東静雄の詩集もあったそうです。日野原さんは『カラ兄弟』を読んだそう。
三島の死んだのが同年、高橋和巳は翌年ですね。
あのころ、伊東静雄が、どういうひとたちに、どういうふうに読まれていたのかということも、いまでは(私には)、よくわかりません。
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路面電車で住吉大社へ
25日京都で行われた全国高校駅伝大会に、諫早高校の連覇を信じて応援に出かけましたが残念ながら4位の終わりました。翌日天王寺から路面電車を利用して、住吉大社にお参りに出かけました。多分伊東静雄も歩いたであろう境内を散策してきました。
山本さんが触れられた、静雄の直筆遺言書は諫早図書館で保存しています。
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来年こそは・・・・・
急に頼まれた仕事があり全国高校駅伝の応援に京都へは行けず、はるばる駆けつけて頂いた諫高同窓会の諸兄に会うことも出来ませんでしたが、事前に伝えられた色々な悪条件の中で、諫高女子は4位入賞を死守し、来年に夢をつないでくれました。ありがとう。仙台育英のように3連覇もするというのは大変なことですね。
静雄の直筆遺言書や、江川ミキさんの「静雄の思い出」など興味深く読ませていただきました。小高根二郎氏は、『静雄全集』編纂余禄のなかで次のように書かれています「伊東静雄はもはや個人だけのものではなく、又肉親だけのものでもない」こうした強い申し入れを、桑原武夫さんが遺族や肉親にすることによって、やっと伊東静雄全集が陽の目を見るにいたった。(『大阪手帖』昭和33/10)
私も、この全集を入手したのがきっかけで、難解な静雄詩の一篇一篇を何とか理解しようと関連の書籍を集めているうちに消化不良のまま今や読み切れないほどの量になってしまったのです。
今となっては、これらの参考書類を読み尽くすなどということはあきらめて、むしろ文庫本の詩集をいつもポケットに入れて歩き、難解な詩句について私なりの解釈や自問自答をしてみたいという心境です。そして、来年こそは・・・・・と夢を持ち続けたいと思います。
皆さんよいお年をお迎え下さい。
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<いまどんなお正月がかれらにきているか>
みなさん おはようございます。
今年はこのホームページのおかげで発見の多い一年でした。また、山本さんの著書のおかげで北余部407にある石地蔵を見つけることができました。旧北田辺522の地のことも分かりました。今日は午後から母のいる阿倍野区昭和町へ行くので、時間を見つけてかの地をのぞいてきたいと思っています。
その気になれば多くの伊東静雄の詩が誕生した地へ1時間もあれば行くことができるので、来年はその足跡を辿りながら伊東静雄の詩の情緒を内部世界に取り込みたいと念願しています。
皆さんよいお年をお迎え下さい。
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『こをろ』、矢山、島尾、伊東
今月になって、インターネットの「日本の古本屋」で、数冊購入しました。
1.『島尾敏雄詩集』\2200
2.小山俊一『EX-POST通信』\1000、3.同『プソイド通信』\800
4.新潮社『日本詩人全集28伊東静雄他』\400
5.阪田寛夫『庄野潤三ノート』\1600
4.5.は、この掲示板に刺激されてのものです。
それぞれ、従来ならば古書店を10年も巡って、アンテナを張り詰めて、それでもほとんど出会うことはなかっただろうと思います。値段も安い。ありがたい世の中になった、と言うべきでしょうか。
このところずっと、矢山哲治を読んでいます。『こをろ』とその同人たち。矢山と伊東、矢山と島尾、島尾と庄野、庄野と伊東、伊東と島尾。
小山俊一がおもしろい。『こをろ』のなかから小山が出たというのは、なかなか興味ある出来事です。
ゴールは「島尾敏雄と伊東静雄の通交」を書くこと。島尾の側からの「詩」をさし挟んでの異和、この異和を逆説的な媒介とする通交の継続。
気力、体力が、ゴールまでもつかどうか。
掲示板の皆さんにはたいそう教えられました。ありがとうございました。
突然しゃしゃり出て好き勝手なことを書き散らし、顰蹙を買っているのではないかと思い、思いつつ老人の厚顔で、好き勝手なことを書き散らしました。来年も懲りずに、また書き込みます。
どうかみなさんよいお年をお迎えください。
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葉山万次郎
年の瀬です。いま、数日がかりの大掃除の最中です。途中で古雑誌などを読んでしまうから時間がかかります。
先日の書き込みの後おもいだしたことがありました。
司馬遼太郎が大阪外語時代を回顧して、当時学長だった葉山万次郎が吉田松陰の師事した葉山佐内の孫だったということを書いていました。左内は丁寧な人柄で、松陰は深く尊敬していたそうです。万次郎先生もそういう人柄で、それが平戸の風なのかという内容でした。
葉山万次郎というひとに興味があるのですが、ネットの検索などでわかるのは、どうも本人らしい人物がキルケゴールの論文を書いているようだというくらいですね。庄野潤三がなにか書いていてくれるといいんだけどなあ、なんてことを考えながら、そのうち探しみようかとおもいつつ、大掃除続行。こんな調子だから全然ハカがいきません。
司馬遼太郎は数学が苦手で、大阪外語に入ったのは入学試験に数学がなかったからだった・・・ような記憶があります。とすると、庄野潤三も・・・?
また、保田與重郎の大阪高校時代の同級には竹内好をはじめ人物が多い。これも入学試験に数学がなかったからだったそうですね。
入試問題数学免除は、あのころ、流行っていたのかな。
というようなことをぼんやり考えながら掃除をしていると、ハカはいきませんが、そんなに苦ではなくなりますね。
皆さまよいお年を。
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謹賀新年
お健やかに新年お迎えの事とお慶び申しあげます。
今年は静雄生誕百年の年になり、菜の花忌を中心に諫早で何ができるか検討を重ねています。皆さんのご意見をお待ちいたします。今年もよろしくお願いいたします。
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<自然が与へる暗示は いかにそれが光耀にみちていようとも凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ>『そんなに凝視めるな』より
みなさん 上村さん こんばんは
今年もどうぞよろしくお願い致します。
ところで、11年前の今日は阪神淡路大震災の日でした。自然は私たちを育んでくれると同時に災いももたらします。そんなことを考えていると伊東静雄の詩が思わず出てきました。
<そんなに凝視めるな>です。
手にふるる野花はそれを摘み
花とみずからをささえつつ歩みを運べ
このホームページのBGMですね。
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
あゝ歓びと意志も亦そこにあると知れ
こんな秀逸な詩歌がもっと世に知られることを切望する次第です。
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・・・あれから11年・・・
あの日(大震災)から11年が経ったのですね。
我家では、その後に生まれた二人の孫が、もう小学生になっています。まさに、震災を知らない子供達です。
先日、ヤフーオークションを見ていたら、伊東静雄が持っていたのと同じ蓄音機(ビクトローラ1−70号)が出品されていました。また、SPの“MORGEN"も有りました。「正月から縁起が良い」と、両方とも落札して、“MORGEN”は届いたのですが、蓄音機は違う型式のものが届けられ、再配送は2〜3日後になりそうです。出品者は秋田県の業者でしたが、本当にひどいズーズー弁のお爺さんで、外国人と話しているみたいでした。昭和初期に唄われた“MORGEN”は、戦後のものよりややリード的な響きが強いような感じがします。静雄の蓄音機は、ビクターのカタログには「雲母のサウンドボックス付きで、音色は大変綺麗ですが、音量は余りございません。」(¥175.00)と書かれています。1923年に関東大震災で東京が灰燼に帰してから、1928年には早くも立ち直り、『東京行進曲』が全国的に大ヒットしています。
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・・・(続)あれから11年・・・
毎日新聞2/1(14版)『ニュースUP』に、砂間記者の次のようなルポが掲載されています。
「阪神大震災でJRや各私鉄電車は、数ヶ月にわたって運休となり、被災者の生活を支えたのは代替バスであった。震災から約半年経ち、翌12日に阪急神戸線の全面復旧を翌日に控えた95年6月11日夜のできごと。乗客40〜50人は、バスが終点に近づくと乗客全員が蛍の光を合唱し、一人一人運転手と握手して下車した。(概略)」
配車係の泉さんはそのときのことを覚えていて「震災のときは、終戦直後と同じように、誰も文句一つ言わず、人のことを思いやることができた。」と語っています。
当時、私もJR神戸から須磨までバスに乗っていましたが、満員バスの中で皆が同じように、いたわりあう気持を共有していたように思います。
「若い女性が、街頭の消えた真っ暗な道を歩いていると、そばを歩いていた男の人が『上を向いて歩こう』を歌いだし、前後を歩いていた5〜6人の見知らぬ同士が、一緒に歌って、寂しい暗い道を通り抜けた。」という話も載っています。
何でもないときに、もう一度そんな気持になって歌おうと思ってもなかなかできるものでは有りません。本当は、人間は誰でもそんな気持をいつも持っているのでしょう。
今夜も、古いMONOやSPを何枚か聴きながら、11年前の優しかった神戸の人たちのことを思い出しました。
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阿倍野の音楽喫茶
阿倍野の音楽喫茶『ボストン』をご存知の方がいらっしゃるでしょうか?
その『ボストン』が、長い歴史の幕を降ろし、昨日(2/28)で閉店したそうです。もしかしたら、「伊東静雄が通った音楽喫茶と関係があるのか」と思ったのですが、戦争直後の開店のようです。
この話を知ったのは、ヤフーオークションを見ていて、『ボストン』創業者のお孫さんが、昔のおなじみさん達に、店のスピーカーやプレーヤーをオークションで売ろうとして、随分頑張ったのですが、結局応札者なしで終ったからです。(おそらくあまりに大き過ぎて家庭用ではないためでしょうか)
伊東静雄が『哀歌』収録の一連の詩を創った頃の大阪の音楽環境―というと難しく聞こえますが、有名音楽家の顔ぶれは私の学生時代に有名だった音楽家達とほとんど変りがありません。アメリカでその頃にカットされたSPが、アメリカ各地の倉庫に今でも新品デッドストックとして残されており、ネットで売られています。蓄音機で再生するとびっくりする様な生々しい、インパクトの強い楽器音やボーカルを聴くことができます。当時の青年達が、この音に魅了され、音楽喫茶に通ったであろうことが、充分に頷けます。最近、その当時のSP盤を聴く「SP愛好会」が日本各地で催され、SP熱が復活しているようです。
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音楽喫茶のこと
MORGENさん、みなさん、ごぶさたしてます。
伊東静雄と全然関係のない話ですが、音楽喫茶のことです。
阿倍野ではあまり「遊んだ」ことがないので、残念ながら『ボストン』は知りませんでした。ときどき行ったのが、心斎橋筋の『ウィーン』。京都では柳月堂(出町にまだあります)。しかし、通い詰めたのは大阪梅新の『日響』でした。
いつでも隣の化粧品工場?の匂いがしていて、ぼくと同い年かすこし上の女の子がいて、癖のある字で小さな黒板にチョークで曲名を書いていました。昭和30年代のはじめ。当時100円は今思えば高かった。SPも積んであったが、主流はLPでした。スピーカーやアンプは何だったのだろう。
『日響』はもうありませんが、いつか阪神沿線のどこかの町に同じ名前の喫茶店があるのを、何かで知りました。店を移ったのでしょうか。どなたかご存知のかたは教えてください。
伊東静雄は一人で音楽喫茶に通ったのでしょうか。
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伊東静雄生誕100年記念の菜花祭
こんばんは
諫早では、伊東静雄生誕100年記念の菜花祭が催されるようですが、(例年のことながら)年度末で時間が取れません。
私も、諫早を出てから早くも46年が過ぎました。昭和35年から数年間は石橋に住んでいましたが、そこで山本先生がお持ちの『果樹園』が発行されていたことなど、当時は全く知りませんでした。(後日、地元の大田書店に尋ねてみたのですが、ほとんど同誌の買取りはないそうです。)
学生時代は、刀根山寮の労音グループに加入していて、フェスティバルホールなどで催される例会でクラシック演奏を聴いたり、スパニョーラ(スピーカーTANNOY-WESTMINSTER)やバンビ(同JBL-PARAGON)などでLPレコードを聴いていました。
当時は、心斎橋筋のレコード店『ミヤコ』蔭山社長宅で家庭教師をしていて、レコードを安く売って頂けました。
最近は、帰宅時刻が早くなったので、昔買ったLPレコードをガラードやマッキン等の骨董品的再生装置で、反芻するように聴いています。SPも2,3百枚位は貯まっています。
いずれも50年〜80年位は経ったもので、それらと比べると100年というのが、少しも遠い昔のことには思えなくなります。(ちなみに、今年はモーツアルト生誕250年)
伊東静雄生誕100年記念の菜花祭に多数の参加者が集まられ、生誕200年祭へと継承されることを祈っています。
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「みなと」のこと
『痛き夢の行方』の著者、田中俊廣さんから近作「伊東静雄の帰郷・「なれとわれ」論――未発表書簡に触れながら」を送っていただきました。論は、内田健次郎・山本芳司・内田清三宛未発表書簡3通を紹介し、伊東の「故郷」を検討して、「「なれとわれ」は故郷との和解の詩である」という結論にいたるもので、前著を敷衍するものになっています。
今日の話題は直接この件ではなく、きわめてトリビアルなものなのですが、伊東の散文に「今年の夏のこと」(昭9)といういい文章があります。その中の、「精霊は南海本線に沿うたみなと[傍点]で流すことにきめた」という個所、わたしは何の疑問もなくこれを、堺の次の駅の「湊」と読んでいたのですが、大阪に有縁の諸兄はどうお考えでしょうか。
湊は、昔は海水浴場で、少年時代には水練学校もここでありました。駅から歩いてすぐでした。ただ、湊の海岸で一般に精霊流しを行う風習があったのかどうか。湊は堺の、いわば「周辺」であって、精霊流しがあってもおかしくないと思いますが、実証ができていません。
もし誰もいない暗い海岸で伊東の一家だけが精霊を流したとすると、これはちょっと物凄いことになってしまう……
どなたかご存じの方は教えてください。
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「精霊流し」の場所
田中先生の近作のご紹介ありがとうございました。「内田健次郎」とは、諫高で歴史を教わった先生かな(?)と思います。さっそく本屋に注文しておきます。
伊東家の精霊流しの場所については、堺地先の埋立が大規模なので、考えてみることすら諦めていました。
確かに長崎市の精霊流しは、観光化して、にぎやかに海に流します。しかし、諫早の街中から有明海(諫早湾)の本明川河口までは少し距離があります。大型の精霊舟は直接海まで運んだのでしょうが、小さい船は河口に続く川縁で流していたように思います。(ただし昔の話です)
私の生家は、諫早より一里ほど東の高来町で、有明海に直面していますが、それぞれ家から近い川の河口付近で流していました。大きい船は(数は少ない)、青年団が何人も船と一緒に泳いで、少し沖のほうまで運び、そこで火をつけて燃やしていたように思います。(見物人もいました) だだし、小さい船は海岸や小川の河口付近で、思い思いに流すのが普通でした。だから、伊東家が家族だけでひっそりと精霊を流したとしても、(田舎ではよく見られる光景で)私には異常な感じがしないのです。
(ただし、昭和9年のことで、私の記憶も50年も前のことですから、どちらも随分変わっているでしょうし、実地検分が必要ですね)
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「みなと」の精霊流し
諌早の精霊流しは、伊東の本文とあわせて、とてもよくわかりました。ありがとうございました。大阪ではこんなに豊かな光景は見られないように思います。
「もし誰もいない暗い海岸で伊東の一家だけが精霊を流したとすると、これはちょっと物凄いことになってしまう……」という私の文には問題がありそうです。伊東の本文では、当夜は嵐模様で、海辺には若い衆、沖から戻ってくる漁船、などが描かれていて、精霊流しをする人の姿はないようです。それが天候のためなのか、もともとここはそういう場所ではないからか。伊東は精霊流しと故郷とを重ねようとしているのだが、自然はそれを許してくれない。「今年の夏のこと」と「河邊の歌」はどちらも昭和9年10月の発表です。両者あいまって、一方を他方の「解説」として読みたい気がします。
内田健次郎氏は、田中さんによると「伊東静雄の従弟。伊東の母・ハツ(旧姓内田)の弟・清三の次男……昭和18年9月、長崎医大を卒業。近年、冬至の筆名で句集『流光』を刊行」とあります。以前私が井上寿恵男さんの案内で墓地を訪れたとき、その足でたしか近くの「内田医院」(だったと思う)にも連れて行かれた記憶があります。この件は上村さんがお詳しいのではないでしょうか。
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諫早通信
伊東静雄の帰郷・「なれとわれ」論〜未発表書簡にふれながら〜は田中俊廣氏の論文で、書店では販売していません。静雄文学展にはこの未発表の書簡も掲示することになりました。伊東の母・ハツの弟、清三には、七人(2男5女)の子供があり、長男・健一さんが諫早高校の教師であり、次男・健次郎さんが墓地の近くの内田病院の先生です。〜山本さんのご記憶は正確です〜
静雄は故郷の精霊流しを再現して家族に見せてやりたかったのと、異郷の大阪で父の3回忌のお盆をむかへ、供養をしたい気持ちで、菓子箱を精霊船にみたてて、「南海本線に沿うたみなとで流すことにきめた」のでしょう。当時住んでいた松原通りから、みなとは近距離でなければなりませんが、湊はどいった位置関係にあるのでしょうか。「みなと」の傍点も気になります。諫早では固有の「みなと」の地名はありません。いづことか音にのみきく美みらくの島にかくれし人をたずねん〜蜻蛉日記〜西方浄土の島、五島列島の柏のみなとを思い浮かべたのかもしれません。
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みささぎにふるはるの雪
みなさん こんにちは
一昨日の3月12日は伊東静雄の命日でした。もう53年になるのですね。今日の朝は大阪でも雪が積もりました。三国ヶ丘の反正天皇陵でも春の雪が舞ったことでしょう。<春の雪>は日本上代文化との不可欠な連続性を感じさせる、静謐で繊細な伊東静雄の美の世界を形成していると私は思っています。
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諫早通信2
伊東静雄生誕百年記念文学展の準備がやっと終わり、3月23日を迎える手筈が整いました。伊東静雄ホームページで後日「映像文学展アラカルト」として紹介したいと思います。
多くの方々からご協力いただきました。斎田昭吉様から、静雄宛三島由紀夫の書簡や「舞踏」また犬塚潔様から「光耀」等の文学冊子 また富士正晴記念館から静雄の書、まき様からはお母様宛の富士正晴書簡、大東幸子様からは「なれとわれ」の静雄自筆の原稿、また若かりし頃の酒井百合子と静雄の写真等を展示いたします。
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精霊流し
山本先生や、MORGENさんが書かれたことと重複しますが、諌早在住のものが感じたことを述べます。
旧諌早町の大川(本明川)下流の東はずれに光江という美しい名前の所があります。町のほうから東にあるため夜明けなどには輝いて見えたからそのような名前がついたのでしょうか。
江戸時代ここは本明川の河口港で津として管理され、長崎に輸入した生糸を陸路で諫早の光江まで運び、光江から船に載せ有明海を渡り、筑後川をのぼって長崎街道入った大切な貿易ルートの役割を担っていました。また領主や家臣団、その家族などの人の往来にも多く使用されたところです。津の人々は普段は漁業を営み、往来客の旅籠屋などもあったようです。
有明海の潮位差(我が国で最大)を利用した上げ潮入船、下げ潮出船の水運業は昭和40年代初めまで続きました。写真(昭和41年撮影)は光江のすぐ下流の対岸に大潮でのぼって来ただるま船です。砂利と砂を積んできて、一人か二人の作業員がおうこを担いで荷卸し、次の大潮の引き潮のとき下っていくというのどかな風景がありました。(残念ですが、いまでは諌早干拓のため本明川は有明海から切り離され、潮はのぼってきません)
静雄が「今年の夏のこと」で書いた諌早の精霊流しの情景は私の少年時代にもつながっています。旧盆なので大潮で満月に精霊舟を流す情景、養母が亡くなったときは船を作ることが出来ず供え物を薦に包んで本明川に流した記憶などです。
最後に「今年の夏のこと」は(『呂』昭和9年10月号)に掲載されていますが、精霊流しを9年にしたのでしょうか。普通精霊流しは初盆にするもので、静雄の父惣吉が亡くなったのは昭和7年2月です。また4月に花子夫人と結婚されていますが、文中の花子夫人の初々しさや、伊東家への遠慮などからすると昭和7年のことではなかったかと思うのですが。
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『詩へのかどで』
高橋さんのおっしゃるとおり、「精霊流し」は、初盆の最後の日に、仏壇のお供え物を、藁で作った舟に載せて、潮が引くのに会わせて流す習慣であったように記憶しています。
私が生まれたのは「小江」村でしたが、お写真の「光江」という所は思い出しません。
毎日新聞(3/19)に、「若き日の伊東静雄日記発見」と題する記事が掲載されていますので、見落とされた方の参考のためにご案内します。
同日記が書かれたのは、1924年11月〜30年6月で、大学ノート5冊分(表紙に『詩へのかどで』と墨書)、現所有者は坂東まきさん、大阪の「六耀社」(代表者柊和典氏)が刊行準備を進めておられるということです。同社に電話(06-6361-0529)で問い合わせたところ、現在3分の1ほど編集が終った段階で、年内には間に合わせたいというお返事でした。26日の講演で、そのことも話されるのかも知れません。
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精霊流しのこと、新出日記のこと
高橋さん。ご教示ありがとうございます。
「光江」という地名を地図で探しましたが、もしかして、諌早の町外れにある「光江橋」の付近のことでしょうか。近くに稲荷神社や、漁協などもあります。静雄の生家からも近くですね。
「今年の夏のこと」の該当年次のこと。たしかに父惣吉の死去の年の初盆であれば、昭和7年ですね。ただ、標題が「今年の」夏のこと、であり、また初盆とは書かずにただ「今年の」盆は、であること、から、「みなと」での精霊流しはやはり昭和9年のことと、私は考えたいのです。「妻、弟、親類の子供、その四人でやった」「故郷にいる私の母」などの家族の動向がヒントになりそうですが、私にはそのあたりを解明する力がありません。
なお、松原通からは、南海本線の岸里から湊まで1本で行けます。
毎日新聞の記事、蛇足ですが私の切り抜きを添付します。柊さんは住中20期の卒業、『中島栄次郎著作選』の編者の一人です。私も電話で問い合わせようと思っているうちに MORGEN さんの投稿をいただきました。ありがとうございました。「初期詩篇」にモロにかかわるだけに、一日も早く見たい気がします。
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追伸
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伊東静雄生誕百年記念文学展を終えて
??庄野潤三様、杉本秀太郎様、斎田昭吉様、松村慶三様、前田総助様、新学社様のお祝いの生花で飾られた会場には、遠くは金沢市、東京都、大阪府から多くの人がお見えいただき伊東静雄生誕百年記念の文学展が終了いたしました。
来館者の方々から、常設展にして下さいと有難い言葉をいただくほど、初の試みであっただけにうれしく思いました。坂東まきさんにもご来館いただき、「展示場をそのままわが家に持ち帰り、いつまでもその中に浸っていたい思いがした。」との感想を頂戴しました。伊東静雄文学の継承を図る中で、常設館は今後の課題として考えてゆきたいと思います。谷崎昭男様、犬塚清様、大東幸子様、富士正晴記念館 安光様、思潮社 小田様ご協力有難うございました。
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PRで詩壇の雄を身近に
生誕百年を迎えた詩人、伊東静雄の足跡を探して故郷の諫早を歩いた。詩作の中心は関西だったが、古里を題材にした詩や散文は多いと聞いていた。ゆかりの地は何らかの形でPRされていると思っていたが、そうではなかった。
容易に見つかったのは諫早公園内の文学碑と諫早図書館の「伊東コーナー」だけ。数年前に取り壊された生家の跡は空き地になっており、説明版はない。墓にも明確な案内板がなく、墓地をさまよい歩くファンは少なくない。昭和の詩壇に名をはせた伊東だが、地元では身近な存在になっていないようだ。高校時代、伊東は文学史の授業で登場した。だが詩に関心がなかったためか、作品を味わうこともなく、試験対策で代表作だけを記憶した覚えがある。確かに詩は難解だし、一度読んだだけでは意味がよく分からない。しかし何度も読み返すうちに詩の情景がすこしずつ浮かび上がり、文章とともに頭から離れなくなる。そんな魅力的な一節を刻んだ碑を、小さくてもいいから作品の舞台になった場所に設置できないか。散歩中の市民は古里のよさを再認識できるだろうし、まち歩きのきっかけにもなる。
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『常設館』に期待します
関東や北陸などの遠方から今年の菜の花忌にご参加頂いた方々は、伊東静雄詩の生まれるもととなった「原郷」を見たいと思って諫早を訪れて頂いたのではないだろうかという気がします。今年の「菜の花忌」が、「生誕百年記念」と銘をうたれていることからの連想かもしれませんが、「静雄詩」を「生む」始源となった諫早人の人情−美しい詩となって後世に残される人間共有の「情」が、「静雄詩」を詠む自己の情に共鳴する、そのような「場」を期待して諫早を訪れて頂いた。そのような方々や、詩情に目覚める青少年に、心の援けとなる「何か」を与えてくれる常設館−『伊東静雄記念館』または『諫早文学館』が建設されるようになると、本当に良いですね。
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伊東静雄詩碑(「百千の」によせて)
大和葛城山(つつじ群落見物)散歩の帰途(夕方6時頃)、阿倍野松虫通りの伊東静雄詩碑に立ち寄りました。(詩全文はこのHPの「百千の」をご参照下さい。詩碑の写真を添付したのですが重すぎて蹴られました)
詩碑に向かって思ったことのうち、自問自答による拙文を投稿します。
?詩句2行目の「野の勁い琴は 鳴り出づ」とは、「野分け」−『夏花』に「野分けに寄す」がある−のことでしょうが、私は、江戸末期に山田検校によって作られた「山田琴」(6尺筝、分厚く反り強大音量)を連想しました。また、その琴の鳴り方については、詩人の故郷諫早(慶巌寺)で、八橋検校が創作した「六段の曲」のことを思いました。(ただしこちらは江戸初期?)
八橋検校は「近代筝曲の祖」と崇められていますが、江戸時代に管弦音曲を生業とした浪速の庶民達は、伊東静雄詩碑の近くにある「松虫塚」に参詣する習慣があったそうです。
六段の曲琴歌(ことうた)には「琴の音の峯の松風通うらしいづれの緒よりしらべそめけん・・・」「・・・恋くらし恋あかし、まつにしぐれは真葛が原にうらみしに、・・・」などの粋な歌詞が付けられています。2〜30メーター隔てて、並べて建てられた二つの石碑を見ながら、私は日本人の「粋」を感じました。
?3〜6行目「哀しみの/熟れゆくさまは/酸き木の実/甘くかもされて照るに似たらん」
「酸き木の実」という言葉は、『哀歌』冒頭の「晴れた日に」の「到底まっ青な果実しかのぞまれぬ/変種の林檎」を連想させました。
それは同時に伊東静雄を含む当時の日本抒情詩人の多くがが、日常性から隔絶したところに(形而上的な)独自の詩境を創造しようと悪戦苦闘していた姿でもあり、結局は日常性と折り合う(静雄詩「そんなに凝視めるな」昭和14年9月作などに現れている詩心)ことで安定した自己の詩の世界を確立したということの表明であるように私には思われました。
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伊東静雄のこと
堺市の隣にすんでいることと諌早の作家 野呂氏の文から静雄を知ったのでした。その後かれが三国、黒山に住み近くの南大阪病院でなくなったことも伝記で知りました。
また父が晩年 菊を鉢で栽培していて静雄の「私の孤独を」という詩がオーバーラップしてくるのです。私の孤独を一鉢の黄菊に譬えよう つつましい庭師に作られて
位置の正しい明るい花がいくつも咲く.....という詩です。解釈のそれがあっているのか心もとないすが。どちらにしても彼の詩が高潔で難解な面があっても心が引き寄せられるのです。
三好達治が選んだ諌早の碑文の詩も素晴らしいですね。大阪のものはHPでやっと見ることができうれしいことでした。一度訪れたいものです。
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静雄と草花
こんにちは
KATUYASUさんが書いておられるように、静雄詩にはよく草花や樹木が登場します。ちなみに手元の詩集(だだいま会社にいるのでほるぷ出版の「伊東静雄」しかありませんが)の未刊詩篇に収録されている83篇のうち、ざっと数えて38編に草花や樹木が登場しています。(ただし正確な数ではありませんが)これは約45.8%の高登場率です。
私も、ささやかに盆栽を栽培していますが(ただしベランダです)、無駄な力が入って小枝を折ったり、水や肥料をやりすぎて根を腐らせたり、失敗の連続です。今年は雨が多すぎて日照不足のため、皐月の開花が不揃いで観賞価値が落ちます。
「菊を想う」という詩(『春のいそぎ』)に、「誇り高い菊」、「したたかにうるはしい菊」と言う詩句が登場しますが、詩人にとって菊は特別な存在だったのでしょうか。伊東静雄詩集が刊行され、文庫本の詩集を携行することによって、私たちは「位置の正しい明るい花」をいつでも鑑賞することができるのですね。あの厳しい時代に、あのようにきれいな花を咲かせることができた伊東静雄の「意志の力」を実感します。
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追加
(最後の一行を書き漏らしましたので追加します)
しかし、この詩「私の孤独を」には、次のようなオチガついているように私には思えます。
静雄「おい、良い詩ができたから琴を弾いてくれ」
花子「あんた、この忙しいときに何言うてはりまんねん」
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菊と静雄
MORGEN さま早速のレスありがとうございます。菊のきっぱりとした美しさが彼の詩のもつ格調高さと連動しているのではとも思います。この詩の成立状況にも興味がわいてきます。この詩の 私も孤独を.....がこの後の節の分かりやすさ..を覆っていて難関なのですが。私の父は15年前になくなったのですが通夜にこられた人々のことを今も思います。菊は葬儀にかかわることの多い花でもありますが。これはそれを現したものではないでしょうが私にはオーバーラップしてくるのです。それにしても美しい詩だ
又それを 静かな饗宴と言はう 美しい空気の日には 礼の厚い貧しい人達が 一人づつ招かれてくる
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追加(2)
「私の孤独を」は、昭和7年2月『耕人』に発表されています(伊東静雄26歳)。
(書かれた時期はそれより前だと思いますが記録が見つかりません)因みに、同年2月12日に、伊東静雄の父惣吉氏が逝去されています。(この詩の成立した状況については、ぜひ山本先生にご教示頂けたらと思うのですが・・・)伊東静雄が花子さんと結婚したのは、同年4月3日ですから、前の投稿で「この詩のオチ」とした部分は成り立ちませんので取り消します。庄野潤三宛に「琴は語る菊は頷づくまがきかな・・・」という歌(?)を贈っているように、菊の花と琴の音を結び付ける趣味があったようには思います。
参考になるかどうかはわかりませんが「伊東静雄研究」(富士正晴編)に所収されている村野四郎「伊東静雄」のなかに、次のような解説がありますので抄録します。
(同書p756〜763_集英社版『日本文学全集51』解説からの再録)
(内面の痛みが、三好達治においては喪失の痛み、中原中也はそれに生活的苦渋が加わっているのと比較して)伊東静雄のおいては・・・黄菊の花が、たとえ孤独のメタファ(隠喩)であろうとも「位置の正しい」とみる存在論的認識からは、どこからも嫋嫋たるムードはおろか、現実的な生活感情も生まれてこないのである。・・・彼は独り稀にみる形而上的抒情詩人だったのである。
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(無題)
「私の孤独を」をいつ知ったのかを考えていたらMORGENさんも書かれている集英社の全集51を最初に持っていてその村野四郎さんの解説を読んだのが引き金になったことがわかったところでした。村野氏の慧眼に感謝です。当初このなかの 中原中也 三好達治は読んだけれど
伊東静雄はよくしらなかったこともあり読みませんでした。その後向田邦子..野呂さんの落城記..詩人の故郷..からこの全集を読みかえしたのでした。以後彼の全集や小高根、小川、杉本秀太郎
および思潮社の伊東静雄等よみあさりました。一番評論も含めて読んでいる詩人となりました。
伊東静雄の菜の花忌での講演会 梅原さんの分など興味深々ですが講演録などありましたら教えていただければありがたいです。
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講演内容記録の件
KATUYASUさんのお尋ねにお答えいたします。これまでも庄野潤三さん、住中の教え子の方達が講演していただきましたが、講演録はありません。今回の坂東まきさんからビデオで記録として残すことにいたしました。今思へば残念なことです。
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詩跡散歩_水無瀬離宮跡
久しぶりの五月晴れの日に、長岡天神〜山崎〜水無瀬〜島本町のルートを散歩しました。
(水無瀬離宮跡から水無瀬川沿いに淀川の三川合流点に出て、河川敷や川床を砲台跡まで)
庄野潤三「前途」では、伊東静雄と2人で、石清水八幡宮〜橋本〜渡し舟〜水無瀬というルートになっています。
水無瀬神宮境内には大きな古樹が茂っており、2人が弁当を食べた床几は何処の辺りかななどと推理したりしました。その時間帯には、本殿参拝者は私一人で、ポリタンクを幾つも提げて「離宮の水」(大阪府唯一の名水百選)を汲みに来た人が10数人もおられました。
後鳥羽上皇が「釣殿」(私には「錬兵場」と思われた)を建て、水泳・馬術・球技その他の訓練をした(ただし私の勝手な推理です)のは現在の河川敷ゴルフ場辺りではなかったのかとも思いました。
上皇は、全国の刀鍛冶を登録制にし、直営の刀剣製造所も作ったのです。また「熊野御幸」を名目にして南紀の山伏や水軍と連携するのにも絶好のポイントです。
昭和18年ごろと同じく、三川合流点付近は水量が多く、流れも速そうです。(けっして澱む河ではありません)
「かがよへる 雲のすがたを 水深く ひたす流は ただ黙し 疾く逝きにしか」(「淀の河辺」から)という詩句が、印象的に思い浮かびます。
川辺には、まるで人が水辺に近づくのをブロックするかように生茂る野茨の大株群落があり、今を盛りに花を開いていたのが印象に残ります。川辺の茂みの中ではたくさんの鶯やカワウ(川烏?)が美しい、およびギャーギャーと奇妙な啼き声を交わしています。(これは手近な「野鳥の楽園」として一押しです)
「野茨の花」(お前の社交の時は了った・・・)という初期(昭和7年)の詩があったのを思い出しました。陽も沈みかけたので、淀川河川敷の「夕影の茂みの傍」を歩いて、帰路につきました。「聖孤独の祈りをしたりすればいい お前は」と歌った伊東静雄とは反対に、にどこか充実した気持ちでした。柄にもなく「詩跡散歩」としゃれてみました。
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「耕人」と「私の孤独を」のこと
みなさん、ごぶさたしております。掲示板の盛況、なによりです。
MORGEN さんから誘い水がありましたので、「耕人」と「私の孤独を」のことを少し書いてみます。(旧稿やメモからの寄せ集めです。)長文失礼。
■「住中住高同窓会室所蔵 伊東静雄関係資料目録」より抜粋
「耕人」は「大阪府立住吉中学校校友会誌文芸号」とあるように、校友会学芸部の機関誌である(*1)。
「耕人」という誌名の由来については、第二部昭和七年『学藝』第一号巻頭之辞を参照(*2)。
学芸部の委員をしていた伊東は、赴任後毎号に作品を寄せた。
六号 山科の馬場 京大在学中、昭和三年一二月「同志社高商学友会誌第六号」に「可憐草」の筆名で発表した同題の文章の「定稿」であるが、両者には大きな異同がある。
七号(庭を見ると) 目次、本文とも「歌」と題す。
八号(ののはなを) 目次に「歌」、本文は「ののはな」と題す。第一行、全集は「のの花を」、原本は「ののはなを」。
九号(私の孤独を) 目次に「歌」、本文には題なし。全集「一人づつ」、原本「一人づゝ」。
(*1)「耕人」表紙の写真をとった記憶があるのですが、ちょっと見当たりません。
(*2)
(前略)「學藝」の前身は「耕人」でありました。「耕人」の由って来る所は遠い太古の昔から人間が汗水を流して大地を耕し、荒れたるを鋤き、痩せたるを肥やし、そして肥沃な地から豊穣な収穫が得られる如く、太古からの聖賢哲士が不断の思索研鑚の結果現代の優れた文化を造り上げたるを思ひ、更に又次代の人々へ譲り伝へようとするために文化の田を耕す人たらん、との意味から命名されたと解して居ります。
名の由来がかやうであります関係から「耕人」時代に所載の作物は、大部分詩歌文章乃至哲学的思索に属するもので、更に広く科学に関する研究、学術的実地踏査の記事類のものは見られなかったのであります。全く一種の文芸雑誌の形態に属するものゝやうでありました。(後略)
しかるに、寄稿に文芸以外のジャンルが漸次増えてきたので、創立10周年を記念して誌名も「学芸」と改題し、文芸以外のものも載せるようにした、というのが趣旨です。
■旧稿「伊東静雄の詩的出発――初期詩篇論の試み(一)」より、紙数の関係で削除した部分を含めて。下の解釈にはずいぶん異論も多いと思います。わたしもざまざまな可能性を考えていますが、拙論では「論」である関係上、あえて突っ走ってみました。
『耕人』は、「住吉中学校校友会誌文芸号」とあるように、建前は校友会の機関誌であるが、実質的には校友会学芸部の機関誌であった。ほぼ年二回発行された。赴任の直後から学芸部の顧問の一人となった伊東は、昭和五年第六号に「山科の馬場」(定稿)を載せ、以後昭和七・二に『耕人』が『學藝』に改題されるまで、毎号一篇を掲載した。
この『耕人』所載の計四篇は『増補全集』以後に入れられたもので、初版にはない。「果樹園」第一〇九号(伊東静雄十三回忌記念号)ではじめて新資料として紹介された。提供者は旧職員で伊東の同僚の中西靖忠氏である旨が、後記に記されている。……
「庭をみると」の標題は、原本では目次、本文とも「歌」であり、「庭をみると」は「果樹園」に発表の際に小高根氏が付したものではないかと思われる。また『全集』の組み方ではわかりにくいが、二行目と三行目の間にはアキがあって、全四聯となっている。
「のの花」は、原本では「ののはな」であり、「果樹園」での発表の際に「のの花」となった。その事情をこれ以上詳らかにしえないが、伊東の自筆原稿が別に存在したのであればともかく、さもなければたんなる誤写、あるいは小高根の恣意的な改変ではないか、との疑いも捨てきれない。いずれにせよこれは公表時の原型に戻すべきであろう。また標題は原本では目次に「歌」、本文で「ののはな」と記す。
「私の孤独を」の標題は目次に「歌」、本文では題なし。以上のことからみて、伊東は三篇とも題をつけずに本文だけを投稿したのではないか、とも想像される。
……
ここでは「私の孤独」が直接明示的に、まず「一鉢の黄菊に」、次に「静かな饗宴」に譬えられる。あとは謎解きである。なぜ「私の孤独」が「一鉢の黄菊」や「静かな饗宴」に等しいのか。
「つつましい庭師」は、詩人。前作で自分を小さくか弱いものに擬した詩人は、ここでも「つつましい」存在であることを主張する。「位置の正しい明るい花」は、詩作品。すなわち「私の孤独」は、詩の生まれる源泉なのである。かつて「孤独」に泣いた<私>は、いまはそれを手なずけ、育てて、詩の源泉としているのである。
第二聯の「禮に厚い貧しい人達」は、詩人の詩作品の読者である。読者は詩人のいる「庭に招かれてやって来る。」<庭>の再出。その象徴性。この庭は、そこで「愛」が演出される hortus conclusus「閉ざされた庭」を思い出させる(リルケ)。詩人はその庭の一隅に坐して、「位置の正しい明るい花」や「禮に厚い貧しい人達」を愛で、自足している。これもまた「よろしさ」の世界である。
しかしこの「謎々」は解きにくい。ほとんど独断的と呼びたくなるような、言葉と意味の置換。隠喩のぎこちなさ。伊東の「謎々」の解きにくさについてはすでに「空の浴槽」のところでも指摘した。唐突だが、それは筆者に、ヴィトゲンシュタインの「私的言語」やヘルダーリンの「逐語訳」を連想させる。伊東の詩の「佶屈」の一面がこのあたりにある。
米倉厳はこの詩(のとくに第一聯)の発想の背景にパロディ、本歌取りの様式を指摘し、また詩全体について、それが詩人の決意であり宣言であったと述べる。後者について思うに、一般にある文が直叙であると同時に願望であり宣言でもある、といったことが、接続法を持たない日本語ではあり得る。たとえば「位置の正しい明るい花がいくつも咲く」という文は、直叙であると同時に、「位置の正しい明るい花がいくつも咲くことを願う」という願望であり、さらに「私は位置の正しい明るい花をいくつも咲かせよう」という決意でもあるわけである。「わがひとに與ふる哀歌」冒頭の二行はそれを明示的に歌ったものであった。
それにしても、発表誌『耕人』は学内の教師・生徒向けの内輪の雑誌である。伊東は誰に向かって決意し宣言したのであろうか。
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米倉巌氏の伊東静雄
米倉さんは私の住んでいるところから2分ぐらいのところにかって住んでおられて伊東静雄の評論で関西文学賞を受けていてそれを新聞でみました。その時本を買いましたが今回さがしてみたところこの本の冒頭に山本皓造 さんの書いておられる「私の孤独を」が書かれていました。この詩の解釈としてもなるほどとおもいました。読みっぱなしで再読しないことが多いので記憶が薄れていました。その後氏は20年前東京の大学に移られています。このときは朔太郎の評論にも署名していただき氏の詩集 「いま、揺れている」をいただきました。月日の経つことの早いことをおもいます。もう一度氏の伊東の評論読みなおして見ます。
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「硬い物も食べなさい」
“誘い水”で誘い出して、美味しいところを食べさせて頂いたような気持ちです。
咀嚼できないような「硬質」な部分はついつい皿の片隅に寄せて後回しにしてきましたが、
「残さずチャント食べなさい」と叱られたような気持ちです。
伊東静雄にとっては「孤独」という詩語そのものが独自の「私語」であって、口癖であったという「徒然なか」という意味とは限らないのですね。
「位置の正しい」/「明るい」、「礼に厚い」/「貧しい」、「静かな」/「饗宴」などの一語一語が、普通に読んでも良いのか「私語」なのかという疑問が沸いてきます。
米倉先生の本も随分昔に読んでいて、開けてみるといっぱい書き込みをしているのですが、「私の孤独を」について書かれていたことを思い出せませんでした。
このような「惚け老」ですが、どうぞよろしくお願いします。
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そんなに凝視めるな 他
私はどちらかというと昔 ロシア文学特にドストエフスキーやゴーゴリを読んできました。今年の正月 これはサンクトペテルブルグフィルによるショスタコビッチ生誕100年の記念コンサートを聴きにいくことが目的でしたがネフスキー通りを凍結する道を徘徊してきました。今にも「外套」のなかの幽霊が出そうな雰囲気でした。足の一指し指はどちらも血豆ができていました。掲示板をみましたら音楽 文学に同好の方がおられるようですね。
「そんなに凝視めるな」 についても教えていただきたいですね。
私はこの詩 反響の最後におかれていること 三好達治が選んだ詩ですが全体的には勿論 伊東の詩で見事なものと思いますが てにふるる野花....歩みを運べ の箇所だけ取り出すといかにも三好達治的な感じをうけるのですが。
私が思うところでは彼は借金がなければ大学での研究者として残る秀才だったと思います。
そして生活者として教師となり一般の社会に埋没していく。そこに詩がかれの矜持となるのでしょう。朔太郎に絶賛される詩人と一般人としての生活の二重生活はかれの詩に特有の響きを造っていく....詩は他の詩人たちとはかけ離れたものだった。大学に残らなかったということが伊東静雄と言う詩人を生んだということは借金に感謝しなければと人ごとながら感じます。
国文学学者としてのプロが教師として研鑽を深め、また愛好したドイツ詩人たちを参考にしながら日本的言葉の美しさと知的教養を合一させた詩の数々
そのことが彼の詩の難解さと詩の響きの魅力につながっているのだろうと私は独りよがりでで思っているところです。
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六月の夜と昼のあはひに万象のこれは自ら光る明るさの時刻
みなさん ご無沙汰しておりました。
六月となると<水中花>の詩を取り上げずにはおれません。この詩は昭和12年7月に発表されました。磯田光一氏はこの詩について「理論的にこの詩の思想を否定することができても、ここに生きている日本的美意識の魅力に抗することはむずかしい。」と語っています。
KATUYASUさん はじめまして。私もドストエフスキーを最もよく読みます。
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「水中花」愚考2題
「堪へがたければわれ空に投げうつ水中花」
ぼくはこれを読むといつも、伊東さんは腹を立ててほんとに金魚鉢を放り投げたのではないか、などとバカなことを考えてしまいます。
内田百間に「水中花」という不思議な随筆があります。
どう不思議か、筑摩文庫版『集成 15』で読んでください。
ぼくはこの随筆について、小さな文章を書きました。
もしよければ、これも読んでみてください。
"http://www.geocities.jp/rtxkp473/index040401.htm"
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無題
佐藤さん 今日は
このHPの投稿が賑やかになると、伊東静雄の墓前(行ったことはありませんが)に、季節の草花が手向けられているような気持になります。
辛口な磯田光一氏も抗することができなかったという静雄詩の「日本的美意識の魅力」の正体を探しに、昨日京都府美山町の「茅葺の里」を訪れ、ついでに由良川に沿って福知山方面へ参りました。(写真はまたも蹴られました。残念)
れんげ草畑の向こうに並ぶ茅葺民家は、私が少年時代を過ごした田舎の風景に似通うものがあります(こんなに絵葉書のようにきれいではありませんでしたが)
見渡す限りの緑々々々、うすい赤紫の下草の花の色、茅葺屋根の名付けることのできない独特の中間色等を見ながら、私は、何が「日本的美意識」なのか_すなわち日本人が美しいと感じるエッセンスは何かと、自問自答してみました。その中で、「日本の色」のことを思いました。(興味のおありの方は「日本の色事典」をご参照下さい)和服に用いる布の糸を染める染料は日本山野に自生する植物が多く、日本独自の色合いや固有の色名があります。(その数は非常に多く、西洋にも中国にもないものです)
「呉服のはぎれを裏地にして背広を作ってみようか」とふと思いましたが、隣で居眠りしている家内には言いませんでした。
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写真の件
掲示板が繁盛で嬉しく思います。KATUYASUさん仲間に入っていただき大歓迎です。
MORGENさんの折角の「写真蹴られ」がなぜ起こるのか調べています。容量が不足であればこのHPの拡大を考えたいと思います。事務的なことで投稿が中断しないことを願っています。
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写真投稿について
静雄のHPのアップロードを担当している高橋です。写真投稿ではMORGENさんにはお手数をかけました。
この掲示板はteacupのFree BBSを使用させて貰っています。teacupの機能拡張を取り入れて次の2箇所を追加しました。
? 画像投稿が出来るようにしました。
? 投稿者による投稿の削除・編集が出来るようにしました。
ぜひ利用されてこのページを楽しいものしていただけるようお願いします。
以下は追加箇所のteacupからの抜粋です。
4-02.画像の投稿方法は?
以下の方法がございます。
1.すでにアップしてある画像のURLを貼り付ける(リンクをする)方法
すでにアップしてある画像のURLを貼り付ける(リンクをする)場合は、内容欄にタグを用いて自由に入力し「投稿」ボタンを押して下さい。
2.パソコン内の画像を使う方法
パソコン内の画像使う場合は「画像(パソコン内の画像も投稿することが出来ます)」右の参照ボタンから使用したい画像を選んで指定し、「投稿」ボタンを押して下さい。
「パソコン内の画像を使う」を選択した場合、アップロードできるファイルは、ファイルサイズ:最大1.0MBまで、ファイル形式:gif, jpg, pngのみとなります。
携帯電話からは、投稿画面にて、投稿者名、題名、内容などを記入した後、「投稿と画像UP」ボタンを押してください。
4-03.HTMLタグ、JavaScript、スタイルシートは使えますか?
teacup.レンタル掲示板では、様々なタグをご利用いただけます。
種類に関しましては、利用可能タグ一覧をご参考ください。
JavaScript、スタイルシート使用できません。
4-04.自分の投稿の削除・編集はできますか?
パスワードを入力せず、掲示板の「管理者メニュー」を押していただくと、ご自身の発言の削除・変更ができます。
*ご利用のブラウザが「クッキーを有効にする」設定にしてあるブラウザからの投稿のみ、この機能が利用できます。
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写真投稿について
こんにちは
ちなみに、私の場合で言えば、1024*768・・・0.786MBていどにリサイズしてパソコンから送ればよいということですね?
https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0000218.jpg
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画像の投稿について
私も以前から仲間とこの掲示板(teacup)を開設して、非公開で仲間内だけで使っています。
その仲間から以前、「複数の画像を投稿することはできないのか」という質問をうけましたので、teacup に問い合わせてみたところ、次のような回答を得ました。
●パソコン内の複数の画像を投稿、並べて表示したいのですが、方法はありますか。
→1件の投稿記事にPC内の画像データを複数投稿することはできません。
●すでにアップした画像をタグを使って複数表示できることは確認しました。もし画像だけをアップすることができるならば、複数表示が可能となりますが、それはできるのですか。
→記事の投稿の際は、「投稿者」「内容」欄への入力は必須となっており、画像データのみの投稿はできません。
以上のようでした。
どうしても複数の画像を投稿したい場合は、
1.画像処理ソフトを使って一枚にまとめてしまうか、
2.「題名」「内容」を別々にして投稿するか、
どちらかしかない、という結論になりました。
参考になりますかどうか、私の経験を記しました。
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