したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

伊東静雄を偲ぶ

1004山本 皓造:2014/03/19(水) 10:19:47
立原・対話・ハイデガー(2)
 ハイデガーが『ヘルダーリンと詩作の本質』(以下『本質』と略称。訳文は原則として斎藤訳による)で述べている「対話」の意味を、できるだけ簡潔にまとめてみようと思います。
 ハイデガーは冒頭まずヘルダーリンの「五つの主題的な言葉」を掲示します。「対話」はその 3 で主題となりますが、1、2 がそこに到る論理的な導きになっているのでひと通り見ないわけにはいきません。

1. 詩作とは「凡ゆる営みのうち最も罪のないもの unschuldigste」(?, 377)

詩作 Dichten は、戯れ Spiel というつつましい営みである。それはたんに、ものをいう Sagen und Reden だけのことであるゆえに、現実を変える力はなく、また真剣な行為 Tat でもない。それゆえ最も罪のないものである。
 立原はこの部分を、『本質』からの引用ではなく地の文として、次のように書いている。
「……このとき「描く」とは、夢のやうなものであつて、現実ではなく、戯れであつても真剣な行為ではない。何物にも拘束せられずに、うつとりとしてそこにある。あらゆる営みのうちでいちばん罪のないものである」
 出所をハイデガーの『本質』と示して立原が引用した、ヘルダーリンの母親宛書簡の部分は、前回投稿において述べた。「戯れ」の語はその少し前にも出て来る。
 なお、詩作/行為という対比は、伊東の詩「帰郷者 反歌」を想起させる。「詩作を覚えた私が 行為よ」これは偶然であろうか。
 ここまでの限りではまだ、詩作の本質は語られていない。しかし指針は与えられている。詩作は言葉を素材としてなされる。ヘルダーリンは言葉について何を語っているか。これが次の課題である。




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板