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伊東静雄を偲ぶ
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須賀敦子さん、ふたたび
皆様あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いいたします。
前に庄野潤三さんと須賀敦子さんのことを書いて投稿したことがきっかけで、その後また須賀さんの、未読のものや未購入のものを何冊か、読むことになりました。その中から心に残った部分をいくつか抜き出して記してみます。
■『文芸別冊 須賀敦子ふたたび』(河出書房新社)
“基本的には須賀さんは行為者です。……彼女にとって書くということは、特に晩年は体を動かすということなんです。……書くというのは肉体労働です。” (若松英輔「宗教の彼方へ――須賀敦子の霊性と文学」)
“震災が起きて、家はほとんど崩れなかったんだけど、そのときしばらく本を読まなかった。だけど、その中で読んだ少ない本の中で、感動したのはアランの『幸福論』と、もう一つは須賀さんの関係で読んでいた、庄野潤三さんの『夕べの雲』だったんですよ。” (松山巌「多面体としての須賀敦子」)
“ユルスナールが、フロベールの書簡に見つけて感動したという一節、「神々はもはや無く、キリストは未だ出現せず、人間がひとりで立っていた、またとない時間が、キケロからマルクス・アウレリウスまで、存在した。」” (蜂飼耳「『ユルスナールの靴』は歩く」)
フロベールはこの時代を「乏しい時代」とは云わず、逆に力をこめて「またとない時間」、稀有の時間と云っているのです。これを書いたフロベール、それを引用したユルスナール、それを心にとめた須賀敦子、さらにそれを心にとめた、詩人の蜂飼耳さん。この人々。
■『須賀敦子が歩いた道』(新潮とんぼの本)
“よく、自分は何語で死ぬんだろうと思うのです。”(須賀)
■須賀敦子『霧のむこうに住みたい』(河出文庫)
[マルグリット・デュラスについて]
“硬質の抒情性とでもいうのか”
伊東静雄のほかに“硬質の抒情”と呼ばれる詩人がいた。
[ナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』]
“エゴン・シーレの絵を使った瀟洒なポスター……おなじ絵を表紙にしたエイナウディのその本……”
エゴン・シーレの表紙という、このイタリア語の原本がほしい(読めなくとも)。
“こまかい雨が吹きつける峠をあとにして、私たちはもういちど、バスにむかって山を駆け降りた。ふりかえると、霧の流れるむこうに石造りの小屋がぽつんと残されている。自分が死んだとき、こんな景色のなかにひとり立ってるかもしれない。ふと、そんな気がした。そこで待っていると、だれかが迎えに来てくれる。”
この世界は、das Offene ではないか。
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