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伊東静雄を偲ぶ

1306山本 皓造:2016/07/24(日) 20:46:12
雑談
 国会図書館へは、私はただ一度だけ、行ったことがあります。請求した図書が出て来るのをベンチに座って待つ、いらいらとした不安な時間、複写をとる手続きのわずらわしさ、そんなことを漠然と憶えているだけで、そもそも何をしに行ったのか、何を閲覧したのか、そんなことはきれいさっぱり忘れてしまっています。でも、東京に住んでいる人は、さまざまな資料へのアクセスに関して圧倒的なアドヴァンティジをもっているわけで、その点うらやましく感じたものでした。

 オリジナル、たとえば初出誌や初版本等を見るのは、目的の詩の一篇だけではなくその周辺の風景も見られるので、有益でもあり、また歓びでもあります。以前にも書きましたがが、私は伊東静雄や青木敬麿らが創めた雑誌「呂」が見たくて、それがどこにもなくて、その時に教えてくれる人があって、志賀英夫さんという、詩誌『柵』を主宰している大阪在住の詩人で『戦前の詩誌・半世紀の年譜』という本も出しておられる方のことを知って、お願いして、蒐められた3点の「呂」のコピーを送っていただいたことがあります。
 伊東の詩「病院の患者の歌」ほかの載った第2号のページと、この号の目次の図版を貼りつけます。おそらく掲示板の皆様も、ここに名を連ねた同人の方々を、ほとんどご存じないかと思います。
 伊東の「呂」→「コギト」への移行、接近は、もちろん伊東の詩精神の内的な転位に求めるべきでしょうが、私は伊東の保田との出会いという外的な出来事が案外大きいと思うのです。
 なお「呂」の同号の巻末に「同人語」という欄があり、ここに(伊東)と署名のある文章があります。この(伊東)が「伊東静雄」ならば、これは全集未収録資料ということになるのではないでしょうか。

 伊東と短歌について。従来、全集だけによる限りでは、伊東の作歌作品数はごく限られていて、ほとんど、「短歌から詩への移行」とか、「歌の別れ」などを論ずる必要もないかのように、軽く見られていたような感がありました。しかしその後、田中先生の『伊東静雄青春書簡 詩人への序奏』における大塚宛書簡、『伊東静雄日記 詩へのかどで』、および酒井姉妹宛書簡等、新資料が出て、そこに収められた短歌作品を拾うと、相当な数に上りますし、作歌と作詩とが重なっている時期も明らかにあって、歌の別れ→作詩へ、という単純な行程と見ることはできないように思えるのです。私は短歌の読解力、鑑賞力というものがまったく欠けていて、力及ばないのですが、伊東静雄の短歌というテーマは、誰かがとりくむだけの価値のあるボリュームをすでに備えていると思うのです。




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