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立ち話・雑談スレッド

1副管理人Z★:2010/11/25(木) 22:35:03
特にテーマを絞らないフリートークのスレッドです。

2備前 ◆TtzwqSGci2:2010/11/25(木) 23:14:23
  いェ〜い!二番だぞォ〜 v(^0^ ♪ カッ!カッ!カッ!

  ささ、堅皇さんもしげきょんさんも、コッチ来てお話の続きやりましょう! v(^^

3日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/11/25(木) 23:34:16
三番。

椅子があったほうが……。

4堅皇:2010/11/26(金) 03:41:17
んじゃま、しげきょんさん。

> 末法の時代に唯一南無妙法蓮華教を経文どおり流布した行者日蓮大聖人と顕します
> 独一本門という言葉は後の弟子がつけてるもので
> 日蓮至上主義の曲解だと思いますが 泣き 文証挙げられません
> 日蓮はドグマに陥らないところの法華経根本<是が唯一とか独一にやくされる
> わけですが 多様性を持っているのではと思います
> 法華経の多様性>おうばいとうり、自体顕正(個性尊重)

これエキストラオさんにも突っ込まれているように
しげきょんさんの話だと日蓮正宗教義上の独一本門からはズレるわけですよ。

「独一本門という言葉は後の弟子がつけてるもので」
って独一本門は日蓮の言葉ではないという事を認めると言う事ですか?

独一本門というのは釈迦の法華経が文上脱益で
日蓮の南無妙法蓮華経は文底下種であり二つの法門があるとして
日蓮の南無妙法蓮華経は文底下種を独一本門としているわけです。

つまりは釈迦の法華経と日蓮の南無妙法蓮華経は別物であると言う事。
故に釈迦の久遠実成を文底下種に当てはめると日蓮は久遠元初となる訳です。

対し法門が二つあるわけないだろと言う事で
これを日蓮に観心として当てはめた場合日蓮も同じく久遠実成であったのだろうとなると言う事。
独一本門の文底ではなく単なる文底で当てはめれば釈迦を日蓮と変わるだけで久遠実成は久遠実成ということね。

6副管理人Z:2010/11/30(火) 23:24:33
4 名前:怖くて名乗れません 投稿日: 2010/11/29(月) 16:34:20
【堅皇さんを中心にしたコチラでの似たような議論】が、沖浦さんの掲示板で展開されているようです。

該当する方は、沖浦さんの板へお越しください。
それぞれ忙しいとは思いますが、

対話をすると言った方は、最後まで責任を持って頂きたいと思います。

一言、感想まで。


5 名前:日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks 投稿日: 2010/11/29(月) 16:35:28
名前入れ忘れました。ゴメンなさい。

7副管理人Z:2010/11/30(火) 23:25:52
7 名前:名無し 投稿日: 2010/11/30(火) 20:39:32
>>4 >>5 日々氏。

備前氏の提案を、盟友の君が真っ先に破るとは…。

以下、お読みなさい。

//////////////////////////////////////////////////////

131 :備前 ◆TtzwqSGci2:2010/11/23(火) 11:51:36
  > ※難癖をつける横ヤリは絶対に禁止。

  ってェ〜いゥ〜かァ〜説教オヤジ氏と堅皇氏以外の書き込みは、即行削除としてしまえば良いのでは?
  他の人間混ぜるとスレのみが伸びて、訳が解からなくなるのと違うかい? (^^;
  それに、堅皇氏が糞真面目に一々レスを返すから、彼の負担にも成ると思うぞ。
  管理人さん、副管理人さんに於かれては一考の余地ありと思いますが、よろしく御考察下さい m(__)m

※管理人さん、
日々氏の反応が見えたら、この私の書き込みの削除は当然のこと、
日々氏の書き込みへの対応もご検討を。

8しげきょん:2010/12/13(月) 23:35:27
堅へ文上脱益の仏法から本門下種益の仏法に立ち返る故に二つの法門が二つ立ってるわけでなく
本門下種益の日蓮の妙法蓮華教が立ち上がればいつ成仏するかわからないような
文上脱益は廃されて唯一の日蓮の妙法蓮華教を信受し流布の下種益によって
(人人に妙法を体験し実益の功徳を対話的に語る)また一生の内に自身が妙法の当体であると実感したものが
また次の知人や友人に語る下種益を興して、末法万年への継承の仏法になるんだよ

9しげきょん:2010/12/13(月) 23:35:57
略して肝要は、自身が立派な日蓮門下として立っていれば
おのずと信頼され下種益に通じるのだ

10堅皇:2010/12/16(木) 01:02:01
>>しげきょんさんや

> 自身が立派な日蓮門下として立っていれば

諸経、法華経を文上脱益と廃するならば
何を持って日蓮門下と条件をつけるよ、何を持って血脈と証するよ。
南無妙法蓮華経が独一本門であれば、ただ単に曼荼羅本尊に題目を唱えれば
それで日蓮門下と言うことにはならないか?

つまり学会が日顕宗と揶揄する日蓮正宗も
しげきょんさんが批判する沖浦氏も皆血脈ありと言う事で問題がないはず。

何れにせよ法門が2つと言う考えそのものが組織の分裂原因とは思わんかな。

11怖くて名乗れません<m(__)m>:2010/12/17(金) 21:33:30
>何を持って日蓮門下と条件をつけるよ、何を持って血脈と証するよ

信心の心を持って血脈とします信心の心を持って日蓮の門下とします。はい

12しげきょん:2010/12/17(金) 21:50:04
11はしげきょんです すいませんネーム入れ忘れしてしまった

13堅皇:2010/12/18(土) 02:55:22
>>しげきょんさん

信心の心って何?
信仰心の事?
そんなものあらゆる宗教にありますよ。
諸経、法華経を廃されて一体全体何を規範にするかと言う事。

独一本門は曼荼羅に題目を唱えればいいわけですから
であれば日蓮正宗も沖浦さんも正信会も顕正会も全て条件を満たしています。

も死も万が一南無妙法蓮華経が独一本門であれば
これ等の方々を誹謗する創価学会員こそ大謗法であると言う事になりますね。

14しげきょん:2010/12/18(土) 15:48:19
独一本門て何?現代語で説明してよ
そんな概念こちらはもってませんから

15しげきょん:2010/12/18(土) 16:09:51
信心の心は大聖人を信ずる心です 一般の人の信仰心とは違います
貴方には無いでですか?

16しげきょん:2010/12/18(土) 17:13:35
元々池田先生の信仰のおかげで僕らは信心の目的や確信できたので
先生の功績を称えるものです堅皇氏はその池田先生を否定し 袂を分けたわけですから
僕らは池田先生と共に信仰を磨いて行く僕らと違うものに進んでいくのだろうと思いんますが
一つ僕は先生と歩む道を選びます

17堅皇:2010/12/18(土) 17:20:09
> 独一本門て何?

は?
こっちが聞きたい話よ。
創価学会の文底の捉え方は
文底独一本門と言うわけで南無妙法蓮華経という題目自体が文底なんでしょ。
題目を真言の様な捉え方なんかして。

> 信心の心は大聖人を信ずる心です 一般の人の信仰心とは違います

であれば日蓮正宗も沖浦さんも正信会も顕正会も全て条件を満たしています。
何度も同じ事を書かすなよ。

18堅皇:2010/12/18(土) 17:32:40
> 元々池田先生の信仰のおかげで僕らは信心の目的や確信できたので
> 先生の功績を称えるものです堅皇氏はその池田先生を否定し 袂を分けたわけですから

本尊の概念を用いたのは真言であり
南無の形を取ったのは念仏であり念仏の流布が題目の流布に貢献した事も否定ではない。
また題目を一番流布したのは創価学会や日蓮正宗ではなく日蓮宗である。
学会に出会う前から題目の存在は知っていたでしょ。

つまりこれ等を否定しても日本の仏法は語れない訳ですね。
当然感謝すべき事である。
そういった意味では日蓮の仏法まがいを広めた創価学会にも感謝はある。

感謝は感謝として間違いは正すべき事が大事だと思いますね。
また、それこそが感謝の意を示す行為であると言えますね。

19しげきょん:2010/12/18(土) 22:18:47
文証一つ無い自説だね

20堅皇:2010/12/18(土) 23:59:56
まてまて、まず、文証とはもともと諸経、法華経の事を指しますからね。
この文証である諸経、法華経を廃するために題目を唱えると言うのが日寛教学で
これがいわゆる文底独一本門と言う法門ですね。

ちなみに御書は文証である諸経、法華経に対する理証でありますから。
日蓮の真筆と言われる書は文証と悉く理証が一致しているが
偽書贋作の疑いの書は理証が異なったものとなっている。

創価学会、日蓮正宗の教義は日寛教学を中心に据えられているのだから
南無妙法蓮華経さえ唱えれば文証に対する理証を変えて読むべきとの事ですから
文証を提示しろと言う方が滑稽な話だといえる。

出したところで御書を文証と捉えているようじゃ話にもならない。
諸経、法華経に理証が違うものを文証と主張しているのはそれこそ自説であり単なる我見ですよ。

さて問題、日蓮在世に置いて御書の存在はありましたかね。
また日蓮は御書を経文として捉えろと言ってますかね。
当時から「行学の二道」と言ってましたが経典、教科書がない状態で日蓮は何を学べと言ったのでしょうね。

21堅皇:2010/12/19(日) 02:20:27
ついでだから文証に関してなのだが
何故に文証を用いるかと言う事はそれぞれの共通認識から整合性を取り法論するためにあるわけなのね。

つまり仏教徒以外との対話には効果が成さないと言う話。
当然日蓮の行った法論と言うものは全て仏教を語った人たちとの法論ですので効果があるという話ですね。
仏教徒以外との場合はお互いに理証で語っていくしか道はないと言う事なのよ。
三証を用いる目的は何なのかを考えたときにも完全に創価の方はその目的を見失ってしまってますね。

ちなみに今俺は真言宗の方とも話しをしているのだが
真言は真言で諸経を学んでいるので文証が共通なので会話が非常にしやすい。
後はその解釈の部分での理証に対してのやり取りになるわけですから。

しげきょんさんに創価の教学では真言の友人との仏法対話は無理だ
相手にならないといった理由もそこにあるわけですね。
だって自説を一生懸命唱えてそれが文証だと言い切るわけですから相手が聞き入れられなくて当然と言ったところ。

結局のところ創価のやっている行為は「文証を出せ」といってるだけの"ごっこ"って所ですね。
まー日蓮正宗相手に一生遊んでなさいという感じですか。
それに置いても学会の認識する文証とは歴代法主の作り上げたものだから創価にとっては不利だともいえますね。

どのみち矛盾だらけの理証なのでお互いに決着が付く日が来るとも思いませんけどね。

22御意見番:2010/12/19(日) 03:06:26
堅皇さんへ。

他板のことで失礼しますが、沖浦板II(非公認掲示板II)の方は
どうなさいましたか?

せめては、求道の人さんから出された宿題くらいは、片づけた方が
いいと思いますよ。


------ 沖板II より ------

645 :求道の人:2010/12/06(月) 20:54:11 ID:yrxG4b3w0

堅皇さん、人に正論を求める前に、あなた自身がまず正論を述べなさい。

持論の典拠を示し、正論を述べてください。

典拠不明の放言は全て邪論です。

さあ、まずは「煩悩即菩提」が真言密教から起ったとする文献を、
著者・文献名・頁数を挙げて証明して下さい。

23怖くて名乗れません<m(__)m>:2010/12/19(日) 04:36:46
>>御意見番さん

いや別に求道の人さんからの発言は宿題だとは思ってはいません。
話の平行線を感じたから引いただけですね。

事実「煩悩即菩提」はいわゆる法華経からの引用ではないですし
この一言をクリアしたとしても日蓮仏法における密教経典の影響化は否定せざる事ですし
それ自体は求道の人さんも認めてらっしゃるではないですか。
それでも構わないと思っている状態では先に進めないと判断したまでです。

特別自身の自説を通す事が目的ではありませんし
日寛教学の矛盾点をお話している段階で矛盾があっても構わない。
それよりも疑問を投げかける行為が板を汚す行為であるという考えであれば
それ以上話す事はないのではないでしょうか。

こちらの板にお邪魔したのは説教オヤジさんが話をしたいと言われたから訪れたわけで
また、しげきょんさんが会話を求めているからであります。
あちらでは会話を求めてないという判断を感じましたので引いただけの話です。

24しげきょん:2010/12/20(月) 01:14:07
堅皇殿 友人のN君は真言の大日を宇宙の真理としてる宗教があると
つまり日蓮の南無妙法蓮華教のみが宇宙の法則かどうかはわからない
としてる、彼もいろいろ論を述べてるが、何一つ題目を挙げたり
こちらの仏法を実践したことがないし、大日の教えもしたわけでもないし
はっきりとした宗教的な確信もない。宗教は信じてる人が信じていればいいんじゃない
というつまり何モノ教でもない教なんだよ
家の宗教は浄土真宗だけどね

25堅皇:2010/12/20(月) 01:56:47
真言の理論を聞くところによると文底独一本門とほぼ同じ理屈に思えましたね。
両者とも真理を説き明かしたワードであるという結論にありますから。

真言は権経の理論をチョイスし発展させていわゆる真言(真実)を見出そうとしているわけ。
もちろんその中に法華経の理論も取り入れてね。
で、真言密教自体は諸経の理論を自身で再構築しているから
文底独一本門みたいに諸経を全て廃するという考えは無いわけね。
故に諸経もちゃんと学んでいるわけですね。

その為に諸経も段階的に学び解った順番に次の段階へ進んでいく
これがいわゆる密教と言うシステムで段階を経てやればやるほど真実へ近づいていくという感じですね。
に対し独一本門はのっけから真実と言う話だね。
まー真実を後に知るか先に知るかの違いであり目的はほぼ同様と言ったところですか。

しかしながら俺は南無妙法蓮華経が真実であるとは思ってないんですね。
何故なら南無妙法蓮華経が真実であれば日蓮はこれを題目とは呼ばずに真言(マントラ)と名づけたと思いますし
日蓮の学びによって得た悟りと言うものはむしろ真言の流れに近いところにあり
それだけでは真言を否定する理由にはならないと思うからです。

つまり南無妙法蓮華経=真実では無いと考えるべきだと。
そう考えると日蓮が何故に真言を否定したかと言うことが見えてきて
同時に文底独一本門という考え方自体が誤りであるという方程式も見えてくると言うところなんですね。

26エキストラオ:2010/12/20(月) 10:35:56
★お邪魔します。賢皇さんは 何を求め何を目指して生きてるのですか。
素朴な疑問ですが、都合が悪くなければ お聞かせ下さい私は日蓮正宗ですが・

//////////////////////////////////////////////////////////////////

27堅皇:2010/12/20(月) 15:21:55
>>エキストラオさん

考えている事、目的は皆さんと同じだと言えますね。
真実とは何か?南無妙法蓮華経とは何かと言う点では。

ただ僕の中の結論では
南無妙法蓮華経は真言(真実を顕した言葉ではなく)真実を得るための題目(建前、名目)と言うことですね。
仏法は無始無終を説いた法門であるからして真実もまた無始無終であると言う事。
真実とは題目を通したそれぞれの観心の中にあると言ったところだと言う事ですね。

これが法華経が顕した理論であり題目を唱える意義だと思っています。
真言宗は経典の中に真言を見出したものだと思われ
日蓮正宗もまた題目こそが真言であると独一本門と言う形で結論付けられたのだと思いますね。

日蓮の理論が正しければ独一本門を掲げる正宗も創価も
行き着く先は亡国であると言う事になると考えています。

28エキストラオ:2010/12/20(月) 22:01:30
★なるほど。よく解りました。遅かれ早かれ人類は亡国になります。
国も人類もいつかは消滅しますからね。ですから亡国云々以外の課題が
ある訳でしょうね。高々100年未満の人生で我も得たり我も得たりとは、
云っても、なんの証明にもなりません。自分の頭のハエを追える内だけ
ですよね。人間が偉そうな事言えるのは。其処には真理も意義もへった
くれもない・・・と言うのが実状ではないでしょうか。ですから真実な
んて実体不明の夢幻を追いかけて虚しく一生を終わるのは如何なものか
と 私は思う訳です。     でわ。

///////////////////////////////////////////////////////////////////

29堅皇:2010/12/21(火) 10:38:50
>>エキストラオさん

仮に国や人類が消滅する時が訪れるかもしれませんが
その時は、また何かが誕生する時でしょうね、結局のところ終わりは無いのですから。
あると思うのはその時に楽しむか苦しむかの違いと言うところではないですかね。

実体不明の夢幻を追いかける事は僕は無いですね。
何故なら法門には「未顕真実」と明確に記されているわけですからね。
つまり、真実は顕す事が出来ないと言う事が真実なのではないですかね。

少なくとも題目を真言と捉えているようでは真実は見えてこないというだけの話ですから。

30備前 ◆TtzwqSGci2:2010/12/21(火) 12:45:19
  お久しぶりです、堅皇さん

  > 何故なら法門には「未顕真実」と明確に記されているわけですからね。

  「四十余年未顕真実」ならば無量義経で説かれておりますが、「未顕真実」と言う単独では何処で記されておりますか?

31堅皇:2010/12/21(火) 13:50:18
>>備前さん

言ってるのは「四十余年未顕真実」の事ですよ。
また、四十余年とは時と言う概念だけでなく爾前経の事ですよね。
つまり、爾前経では真実は未だ顕してはいないと。

では、法華経では真実は何かを顕したのでしょうかと言うことです。
つまるところ「文底秘沈」と言うことは
あくまでも寿量品の文の底に沈めたわけであり寿量品自身ではないですよね。

加えて日蓮は南無妙法蓮華経と言う言葉を「題目」と表現されています。
「題目」とは名目、建前と言った意味ですよ。
建前が真実と言う事は無いですよね。

つまり真実は題目という文の底に沈めてあると考える方が妥当ではないですかね。

南無妙法蓮華経自体が真実の言葉であればそのまま「真言」と名づけるはずです。
「真言」とはそもそもそういった意味なのですから。

32エキストラオ:2010/12/21(火) 14:34:23
★『題目』とは名目・建前ではありませんよ。

少なくとも『題目=建前』 これは思い込みと 捉えると解決しますね。

つまり『気のせい』という範疇ですね。これは自由ですね。言葉の意味は

個人まかせです。それに『真実』にこだわる理由なんてありませんからね。

///////////////////////////////////////////////でわ。またあした。

33堅皇:2010/12/21(火) 15:10:31
別に『題目=建前』と拘っているわけではありません。
表題、題名、名目、演目、これ等を意味する「題」と「目」と言うことでしょうから。

何れにせよ「未顕真実」を顕した真実そのものではないという事ですし
それに対する「真言」はこの「未顕真実」を顕したそのものと言う意味ですからね。

34怖くて名乗れません<m(__)m>:2010/12/22(水) 11:31:54
はらへったな
http://abcdefg.toypark.in/get.php?u=farm4.static.flickr.com/3232/2731073624_356a66e76f.jpg
http://farm4.static.flickr.com/3273/2709364919_a88cd9bf9b.jpg

35エキストラオ:2010/12/22(水) 12:02:36
★とにかく『真言』なんてものは ありませんね。我々はすべて
第三者ですから。言葉を発した本人以外はすべて第三者です。第三者
は、三人称の客観世界ですから『内証』たる一人称の世界へは誰人も
踏み込むことはできない。したがって三人称の会話は全て推測の域を
出ない。言葉の遊び場としてなら 無害でしょう。

////////////////////////////////////////////////////////でわ。

36堅皇:2010/12/22(水) 17:00:03
なるほど。
南無妙法蓮華経と言うのは創価学会解釈では「宇宙のリズム」とする真言であり
日蓮正宗解釈ではでは法主以外が触れてはいけない『内証』であると言うことですか。
一応違うんですね。

何れにせよ両者ともこれぞ密教と言う話ですね。
天台宗同様に日蓮正宗は日蓮亡き後密教化していったと言う事が良く理解できました。

37しげきょん:2010/12/22(水) 22:23:26
日蓮の奥義は問われると?それは誤ッ法主上人さまの秘密のアッ子tゃんです
別名内証とも
秘密化は聖職者クラスには供養貪りとるかっこうの宗教形態です
とわれれば 内証だから法主のみ真実を知るものがないもんでどんどん隠して
知りたいのは供養金が何割法主や元法主に入るのを密教にしてる

38エキストラオ:2010/12/22(水) 22:43:25
★仏法とは道理なり。此れで行きましょう。宇宙のリズム??これは如何なもん
でしょうか。創作熟語のなにものでもありません。

触れていけない内証??これもあり得ませんよね。供養? これは説得力あります
ね。密教? これがなにか問題でも?。ありませんね。 秘密化。これは、すば
らしい響きがあります。魅力的でさえあります。

///////////////////////////////////////////////////////////////////

39堅皇:2010/12/23(木) 14:19:58
>>しげきょんさん

「宇宙のリズム」には触れないんですね。
これはエキストラオさんも指摘されているように法門には無い言葉ですよね。

「宇宙のリズム」の理を考えると真言、真理、真実と言ったものになると思うのですが
その解釈でいいんですかね。
つまり創価学会では南無妙法蓮華経は「真言」の理と考えると言う事になるかと思います。

日蓮は南無妙法蓮華経を「題目」と名づけた。
何故にそれが「宇宙のリズム」となるのかさっぱり理解不能だと言う事ですね。
明らかに理証が違うと思いますからね。

>>エキストラオさん

> 秘密化。これは、すばらしい響きがあります。魅力的でさえあります。

と言うお考えで納得されているのであれば宜しいかと思います。
信仰は自由ですので
ただ僕は密教では無駄な差別が生まれると考えているだけですから。
また、法華経でも「雖近而不見」とありますので
あえて密教と言う形態を取って隠さなくても解ろうとする人にしか解らないと言うものが仏法なのですからね。
密教形態をとる理由が解らないといった感じでしょうかね。

40怖くて名乗れません<m(__)m>:2010/12/23(木) 17:01:34
もともと日蓮仏法は顕密二つあって顕れて解り易い証果が権益と顕れ
意識の奥の無意識宿業意識に秘された冥益の二つ共にあるわけで
密教の宗教形態を創価学会はとってるわけでない
ただ顕益冥益の二つをさして顕密としてるだけで言わば功徳の種類を分類したものである
摩訶不思議を妙と捉えてるのが日蓮仏法で陰徳の冥益の不思議さを大聖人の信仰で観ずるものである

41しげきょん:2010/12/23(木) 17:04:42
>40はしげきょんです

42エキストラオ:2010/12/23(木) 17:07:27
★宇宙のリズムね・・どうしたら宇宙とリズムを結びつけるのか・・・
イケダ先生の真骨頂です。おそらく、本人も理解できない・・しかし・
だからこそ 大勢の人々が、解ったような気分になってしまった。とい
うのが真相ですね。 彼は方程式と言う言葉がことのほか好きです。
しかし彼は その方程式の定義すら 解っていません。彼の言う方程式
とは、一般に言う方程式ではなくて、『いう事さえ聞いていれば自動的
に幸福になってしまう』という意味合いの都合のいい 意味での方程式
なのです。宇宙にリズムなんか あるはずがありません。しかし、ある
かも知れないと思う人々には 在る事になってしまうわけです。いや、
実に 滑稽ですが、これが現実でしょう。

///////////////////////////////////////////////////////////////

43しげきょん:2010/12/23(木) 17:14:23
これを未見真実を一人の人間にやくせば、今だ妙法蓮華教の当体であるを知見せず
つまり別な言い方では無明不信に覆われてると言うことを
明かしているのです

44エキストラオ:2010/12/23(木) 19:45:07
★  未見真実=未顕真実ではありませんか?

ベストアンサーに選ばれました。     ふへっ・

/////////////////////////////////////////////////////////////////

45堅皇:2010/12/23(木) 20:48:59
>>しげきょんさん

顕密の説明は求めてないし未見真実を一人の人間にやくす事もこの場では求めてません。

「南無妙法蓮華経=宇宙のリズム」の意味を説明して欲しいんですね。
また、「宇宙のリズム」とは何ぞやという説明を求めているんですけど。

46エキストラオ:2010/12/23(木) 23:08:47
★とにかくね・・・お唱えなさった センセーが インスピレーションで

『宇宙のリズムにわが生命を合致させたとき〜』なあんてね・・・

本人が説明できない シロモノを説明ったってもね・・無理があるだろう

ね。そりゃ・・・//////////////////////////////////////////////

47しげきょん:2010/12/24(金) 00:39:05
説明めどうくさいよ
自分で実体験してね
宇宙のリズム宇宙に冥伏されてる真如の自我妙法の当体蓮華の我及び我々のこと
はい説明終わり!後は唱題行で実感してねえ♪

48しげきょん:2010/12/24(金) 00:50:36
ナムミョウホウレンゲキョウを説明してくれて言われても
堅も今もかわからんけど唱題してるだろその時の命が妙法だよ
自分も唱えることは知っているなら論より体験を語ればいいだけです

49堅皇:2010/12/24(金) 04:30:43
>>しげきょんさん

それだと「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」ではなく
「南無妙法蓮華経を唱えると宇宙のリズムを感じられる」と言う説明になりますよ。

つまり池田さんと言っている意味と違います。

何度も書くけど
「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」の意味を説明して欲しいんですね。

50エキストラオ:2010/12/24(金) 11:16:29
★宇宙のリズムっ・『オッパッピー♪』ってことじゃないの????

///////////////////////////////////////////////////////////////////

51堅皇:2010/12/24(金) 14:53:22
「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」であると言う事が
ちゃんと会員の人たちの口からも説明できないとなると

それは池田さんだけが知っている秘密のアッ子ちゃんですよ。

ちなみにテクマクマヤコンは宇宙のリズム?

52しげきょん:2010/12/25(土) 01:00:22
まあ説明の前触れですけど  、宇宙と生命のあり方ですね
宇宙が生命を創出した、その生命が年数と共に進化を果たした
ちょと立証しがたいが、宇宙には生命の母である働きがあるとして
前述の進化を育んだとも言える、その大前提にあるのが
無限の宇宙も生命創出の因果と縁があり 生命も宇宙であるという考えとの
過去世という概念が宇宙の中で(生命も宇宙として)
知的生命が過去世の因と縁を思い出した
因果と縁により生命及び宇宙が仮に和合しているのを解明したのが釈尊の
仏法である、究極宇宙は生命を育み因果と縁の生命の活動を続けるその
価値的法則というものを己心と宇宙の大我の存在に見出したのが胸中の妙法蓮華教とした
のが法華経の四師たちであって釈迦、天台、伝教、大聖人であって
各々十界の生命で変化の縁に触れながら活動するこの縁の最高善が日蓮の生命である
価値を見出し、会得することを、弘教と妙法流布したのが
日蓮及びその眷属である地涌千界の菩薩たちである
変化に価値的変化の栄えの道と堕落的変化の滅びの道(貪り愚かいかりの生命に翻弄される人人)を本来内在する
善い価値の生命つまり仏性を開発する修行法を確立したのが日蓮大聖人であると思う
ぶっちゃけ日蓮の大我の生命に境智冥合する体験を日々自己の生命のに行えば信解するもので
即身成仏の意味でも唱題決意の修行されるのがよろしいと思いますよ

53しげきょん:2010/12/25(土) 01:04:15
宇宙のリズムとは随縁真如の道に他ならない
広宣流布とは日蓮の請願に同意の眷属を導きだす運動である

54しげきょん:2010/12/25(土) 01:14:54
地涌の菩薩を自覚することです
「日蓮と宿縁深き」と観ずる本尊があるではないか?

55堅皇:2010/12/25(土) 03:25:20
>>しげきょんさん

> 宇宙のリズムとは随縁真如の道に他ならない

この回答で宜しいですかね。
と言うより俺は「宇宙のリズム=真如」と考えてもいいと思いますけどね。
それが解りやすいと言うのであれば。

では「題目」と「真言」との随縁真如を宇宙のリズムに当てはめて違いを述べますね。

「真言」の場合は真如である言葉を随縁として真如を得ると言う事ですね。
これに対し「題目」はその名の通り真如ではない。
題目と言う言葉を随縁として真如を得ると言う事ですね。

違いは解りますよね、両者ともその言葉を随縁として真如を得ようとしているわけですが
それ自体が真如か否かと言うことです。

つまり真言の場合はそのまま「真言=宇宙のリズム」であり
題目の場合は「題目を通じて宇宙のリズムを知る」となるので
題目自体は宇宙のリズムではなくあくまで随縁であり真如ではない。
よって「題目≠宇宙のリズム」となります。

池田さんは「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」と発言していますので
南無妙法蓮華経は真言であると解釈されているという事になります。

さて、南無妙法蓮華経は「真言」なのか「題目」なのかと言う話。

56堅皇:2010/12/25(土) 03:41:29
真如に関しては金剛般若経の出典となりますので
無量義経での「四十余年未顕真実」や法華経を蔑ろにしてしまうと
そのまま真如の追求に目が行ってしまうわけですね。

まさしく真言宗が陥ってしまった過ちであると言えますね。
「未顕真実」や法華経をちゃんと理解すれば真如は顕す事のできないものであると言う事が
ちゃんと学習する事ができたのにと言う話になるかと思います。

この真言の過ちをちゃんと理解した事により
日蓮は「題目」という形で南無妙法蓮華経を広めたのだとも言えますね。

57エキストラオ:2010/12/25(土) 07:10:40
★まず、仏法は『理解』する対象ではないだろう。
次に釈尊の法華経はラーメンのスープ程度の役割。
次に言葉を以って宣べる事なかれ。言語道断とね。
最期は言語遮断心行遮断不可思議を顕す言語無し
言語無ければ分別も無分別もなし。仏法は学習し
理解するものと思うのは、かなり慢心がなければ
できないわな。シャク佛の思慮も及ばないものを
末法のド凡夫が『理解しましたコンナン出ました
それはないだろ・と云う話。イケダセンセもまた
末法のド凡夫。 理解し学習で済めば大学を創り
全員其処へぶち込めば解決するだろう。

//////////////////////////////////////////////////////////////////

58堅皇:2010/12/25(土) 09:24:05
>>エキストラオさん

> まず、仏法は『理解』する対象ではないだろう。

なかなか面白い事をいいますね。
では、何故に「信心は行学の二道」だと言うのでしょう。
それは行も学もやる事により信心が増す事になるからではないでしょうか。
ちなみに学をやり過ぎると頭が狂うと言うのは創価学会の指導でもありましたが
こんなバカな指導をし始めたのは日蓮正宗さんのご指導なのですかね?。

ただ残念な事にちょっとだけ学びを入れてみたことにより解った事が多々あります。
それは学を通せば頭がおかしくなる事ではなく確実に信心が増すと言う事。
加えて頭が狂うのではなく組織が狂っている事を見極める力が付くと言う事。

結局のところ組織が狂っている事がばれて欲しくない為に必要以上に学ぶなというのが答えだったと言う事が解ったと言う話ですね。
また、法門の邪正を考えずに如何様に判断するべきか。
理解なしに仏法を語ることの方が奇なる行為と言えますね。
理解でなければ何を持って信心と言うものを確かめるのかと言うこと。

「唯仏の遺言の如く一向に権教を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権教に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、
但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。」

法主と言う立場や池田さんと言う組織的評価という利根ではなく
また、功徳体験といった通力によるものでもなければ法門による邪正で判断するものではないでしょうかね。
法華経、南無妙法蓮華経は法門が完璧な理論の上で構築されているから「信心は行学の二道」が成し得ているのだと言えますね。
逆に創価学会及び日蓮正宗は法門に無理な理論を積み上げているから『理解』する対象ではないと言った答えが出るのかと思います。

ま、大丈夫です、僕は"仏法は『理解』する対象ではないだろう"と解釈する日蓮正宗は信じてないのでご安心を。

59堅皇:2010/12/25(土) 09:31:09
「在世の本門と末法の初は、一同に純円なり」

エキストラオさんのおっしゃるところのラーメンのスープ法華経を語らずにして
ラーメン本体は語れないと言う事ですね。
こんな事でもはや日蓮正宗や創価学会には騙されないと言う事です。

60しげきょん:2010/12/25(土) 15:54:46
題目をとなえること御本尊という最高善日蓮の魂魄に髄縁し元品の無明の汚れを
取り除き自我の真如が無作の三身と顕れると真如の自分は無始無終以来
久遠の釈尊日蓮と宿縁深き眷属としての実力が顕れる本尊と言えるでしょう

61しげきょん:2010/12/25(土) 16:07:35
日蓮は法華経の経文に色心の身をまかせ経文どおりの現証をおこし
邇前の諸氏の邪説に埋没していた法華経の無作の三身の色心を顕した
この日蓮の修行も信の題目と日蓮を根本の師とする行学で我々にも無作の三身の
境智を顕すことのできる修行法が確立した 皆大聖人の慈悲救済の菩薩行のおかげである

62しげきょん:2010/12/25(土) 16:27:18
>逆に創価学会及び日蓮正宗は法門に無理な理論を積み上げているから『理解』する対象ではないと言った答えが出るのかと思います。

僕も無理な理論に型はめられた戦いは結局一番道理から外れると思い
先生の書物で武田信玄公の戦い方を学んできました
信玄公は科学的で無理な戦術を嫌う所があり兵卒を一番死なせない戦法を
熟慮してました人は石垣人は城と人材の損失が自国の損失と思っていたのです
なおさら仏法の力は皆幸福へと成就する兵法を取るべきです

63堅皇:2010/12/25(土) 17:09:52
日蓮が久遠元初の御本仏であると言う事はどの経文にも記されてない絵空事ですよ。
理証とすべく日蓮の真筆にもそういった類の物は見受けられませんね。

確固として残っている「日蓮本仏論」と言うものは
日蓮正宗の法主である日時さん、日有さん、日寛さんといった書でしかないと言う事。

結局のところ創価学会と言う組織は日蓮正宗から脱却し切れずに
歴代法主という我見に執着している団体であると言う事なのでしょう。
これでよく日蓮正宗の事を日顕宗と揶揄する事が出来るよなと言う話。

学会員も充分に立派な日顕宗の一派とも言える団体です。

で、結局しげきょんさんにとっての主・師・親とは一体何なのでしょう。
俺は日蓮以外考え付きませんが
しげきょんさんは池田さん?日時さん?日有さん?日寛さん?
それとも武田信玄なのですか。

64エキストラオ:2010/12/25(土) 23:38:34
★ほっほっほっ・・・行も学もによって信心は『増しません』もしそう思うなら
それは・『思い込みシンドローム』 俗諦の範囲ですね。残念ながら・・・・
////////////////////////////////////////////////////////////////////

65エキストラオ:2010/12/25(土) 23:45:06
★とりあえず・・・日顕宗という宗派は事実上 存在するのでしょうか???

もし・実体不在の架空の宗派なら SF ということでいいでしょうか。

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66しげきょん:2010/12/25(土) 23:46:56
究極は日蓮が主師親の三徳であるが
池田先生も武田信玄も広布の御僧侶も徳の資質はありと思っています 学ぶものは学びます
実際に池田先生に学ぶのが多いですがね

67エキストラオ:2010/12/25(土) 23:56:50
★あたしゃ・イケダ先生からは 何も学ぶもの ありませんね。
自分で自分の事を褒めそやす指導者ってのは・ちと・頂けませんからね。

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68堅皇:2010/12/26(日) 01:12:45
>>エキストラオさん

なるほど、日蓮正宗では「行学の二道」は存在しないという事ですね。
それはそれで構わないと思います。
文底独一本門と言う事で南無妙法蓮華経と唱えられているわけですから
理由は何でも良いわけですからね。

>>しげきょんさん

師の徳と言うことであれば誰でも備わっているんじゃないですかね。
学ぶ事に関して言えば法然からも空海からも学ぶべき点は多いです。
と同時に反面教師にする部分も多々あるわけですがね。

それはそうと仏法者としての武田信玄の有り方は非常に突っ込みどころが多い人物でもありますね。
史実的には多くの寺社に寄進し、自らも在家出家という僧である側面もあるのですが
その根底には仏法の政治利用の側面が強く感じられる人物とも言えますね。
その有り方は同じく仏教に精通していた上杉謙信との比較される事も多かったりします。

池田さんの性格上、武田信玄に思いを寄せる気持ちはある意味理解できるところがあるかも。
共通するのは戦いのため、自身の勝利の為に仏法を利用すると言う姿勢などに置いてもね。

69堅皇:2010/12/26(日) 04:18:11
>>しげきょんさん

取り合えず話を戻して
まず、南無妙法蓮華経は真言か題目かの二者択一をお願いします。

真言であれば「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」と言う主張は理解するよ。
但しその時点で創価学会は日蓮の意に反する別宗教であると言う事になるけどね。
題目は真如では無いですからね。

次に南無妙法蓮華経は題目であり真如は久遠元初の日蓮その人だとする。
そうなると今度は「人法一箇」と言う事が崩れてしまう。
一箇と捉える時点で南無妙法蓮華経と久遠元初の日蓮は
随縁と真如の両方兼ね備えないといけないからね。

これに置いても南無妙法蓮華経が真言であれば話は直ぐに解決ね。

どのみち日蓮が久遠元初の御本仏という真如であるとか
人法一箇なんて言葉は仏法には無い話なんだけどね。

70エキストラオ:2010/12/26(日) 12:06:19
★あたしゃ〜 ダイモクでもシングゥオンでも どっちでもかまやしない派。

横スレ ですまん。 うっ・・ぐぐぐ。〔涙〕・・・でもないか・・

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71堅皇:2010/12/26(日) 14:12:19
>>エキストラオさん

> どっちでもかまやしない派。

そうなのよ。
それも1つの回答なんだけどそれすら答えないのよね。

72堅皇:2010/12/26(日) 14:23:51
以前に、しげきょんさんは「理由なんて解らなくていい」と言う回答をしたので
それならそれで話は終了と思ったのですが
「あの時は寝起きだったから」と、またぶり返したので付き合っている訳です。
基本信仰の自由は認めるべきものだと思うので
池田さんを信じたいと言うなら勝手にすればという考えもあるわけよ。

ただし、しげきょんさんの場合、創価だけが絶対的に正しいと主張するものだから
白黒つけましょうよとしているわけなのだが
質問に対して無回答のままだったらこれにて終了ね。

73しげきょん:2010/12/26(日) 16:05:51
僕が池田先生を信ずるのは僕の自由ででしょう他者が入り込むものでもないから
こちらから窓は開けているが
南無妙法蓮華教は日蓮が法華経の題目としているのだから
題目でしょう誰も法華経の真言と読んだりしないのが事実だからね
人法一箇はまた 別の機会にお願いします

74しげきょん:2010/12/26(日) 16:28:05
創価学会員が創価学会を信じるのは当たり前でしょう白も黒も功徳の教団だから
貴方は退転して疑いかかってなんでも観てしまう命の人だから
多分疑いありきと確信犯だろうけど

75堅皇:2010/12/26(日) 22:37:47
>>しげきょんさん

まー別に池田信仰を続けたいと言うのであれば
これ以上何も言うつもりはないというところなんですね。
あえて違いを提示しても受け入れる機根では無いとも思うからね。

ところが創価学会の方々は自分たちの信仰だけが正しいと
根拠なしに説き伏せようとしているからその根拠を問うているわけですね。

しげきょんさんの場合でも日蓮正宗が間違っているだの
沖浦氏の考えが誤りであると糾弾しているところがあるわけでしょ。
だったらちゃんとした根拠を示せと言っているわけですよ。
明らかに怨嫉謗法と思えるから。

少なくとも怨嫉謗法が得策ではないと言う事は共通認識であるわけでしょ。

ハッキリ言って学会員を見ていると怨嫉謗法が酷すぎる。
このまま続けていると確実に身を滅ぼすぞと忠告しているわけですね。

76エキストラオ:2010/12/26(日) 23:07:41
★学会員の怨嫉謗法は・度を越してるのは事実。日顕上人の写真を会館の
入り口に置いて 足で踏ませる・というのもやっていたが、思わず噴出した
くらいである。 あれは何?  漫画の世界でしかないと思っていたからだ。
普通は『大人げないしみっともないから止めなさい』と云う人がひとりも、
居ないのだ。これは間違いなく『菩薩の振る舞い』ではない・・・・
四悪道の命そのものなのだが、誰一人気付かない。そして・恨むに当たって
その根拠の希薄なことおびただしいのだ。 こんなに貢献した先生を クビ
にしやがって・・・・の類である。彼は人師気取りの凡夫であるが・それを
師弟不二とか言って憚らない。今も会員の前に姿を見せられない状況が続いて
いる。世間では罰当たりではないのかの声が高まっている。

/////////////////////////////////////////////////////////////////////

77堅皇:2010/12/26(日) 23:59:14
ま、実際の話第一次宗門問題の流れの中で
三代会長と言う席から失脚させられたのを結果的に名誉会長と言う形で前線復帰に持って言ったのは
理由はどうであれ日顕さんの意向が強いわけですからね。

その後第二次宗門問題の時点で振り出しに戻ったと考えると
あえて日顕さんだけに怒りを覚えるのも筋違いな話ではないかとも思うし。

学会が宗門と離れた行為自体はどうとでも言う事ではないし
それはそれで良かったのではないかと思うくらいでもあるけど
必要以上に日顕さんの人格攻撃する行為は単なる怨嫉謗法でしょ。

日顕さんが間違っていると言うのであればあえて攻撃するまでも無い話。
諭して叱ると言う事なら理解できるが
単に怨みの感情で怒っているだけですからね。

どっちが最初に売った喧嘩か知らないけど
売る方も売る方だし買う方も買う方じゃないかと思うだけですね。

78日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/12/27(月) 09:50:27
>>76
>日顕上人の写真を会館の
入り口に置いて 足で踏ませる・というのもやっていたが、思わず噴出した

………………………………………
管理人(管理主事さん?副管理人Zさん?)さん、おはようございます。
エキス氏の投稿は事実無根であり、デマ記事の類いです。
この掲示板が学会員主宰の板であるならば、早急に警告を発し、後に削除の対象となる極めて酷い内容だと思います故、忙しいとは思いますが、是非ご一考頂ければと思います。



って事でエキストラレクン。嘘は書かないように。

79通行人:2010/12/27(月) 12:09:03
>>78
いや、やってたよ。婦人部の人写真を踏ませてたって言ってたよ。
江戸時代かと思いました。写真踏ませたの何十年か前の話だよ。
会館の人が出入りするところに置いてあったって。
婦人部のおばさん「日顕さんの顔を踏んでたよ、私あんなことできないって」
聞きました。日々前進のところでしなかっただけではないんですか?
もう昔のことになると証拠写真とかが必要になりますね。嘘嘘っていはれるなら。

80通行人:2010/12/27(月) 12:10:41
79訂正
誤日々前進

正日々前進さん

81エキストラオ:2010/12/27(月) 21:11:06
★通行人さん・・の言うとおりです・・・実際にやっていましたっす。

組織として 一斉にやれという指示はなかったらしく、実際にはやった組織も

在ればやらなかった地域もあったわけね。    ホント。  日々君は

不運にもやらなかった組織に属していたわけのようね。しっかし・・・

なんちゅう組織かね・・・・・

/////////////////////////////////////////////////////////////////////

82日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/12/27(月) 21:54:19
嘘だっ!!。
タワシは信じないっ!!。

それが事実?だとしても……


あっそうだったの(-_-メ)。くらいの話し。


もっと酷い事したんだからね。日顕の自慰さんはっ!!
って事です。
で……嘘でしょ。ケッキョク南極放送局。





あっ!
タワシではないワタシでした。

83エキストラオ:2010/12/27(月) 22:02:11
★おいっ・・万年亀タワシっ・・か・・・タワシ事で吸いませんっ・・
事実だとしても信じないってか???  見たくない・・現実から目をそらせっ・
見るなっ・聞くな・云うなっ・・これが学会精神だっ・・♪♪・・

///////////////////////////////////////////////////////////////////////

84日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/12/27(月) 22:47:50
>>83

だってェぇェぇ〜〜〜(^。^)
「エキストラレぱなしさん」と、ちょいと横を通った「通行人さん」のカキコミなんだもーーん(-_-メ)♪!。

信じろっつうほうが、ムリポじゃぁァぁァーん(^0^)/♪!←アーンみたいにクチを開ける図。
俺、経験してねえし(^_^;)。踏み絵的なの。


もしあったら、その上で、Jumpしちゃう(^。^)かも♪!。子供がはしゃぐみたいにo(^-^o)(o^-^)o!。

ラジオ体操第二の最初のようなJump!→トップロープからのニースタンプ!→ついでにぶっちゃけブッチャー的なエルボードロップ→力道山ばりの空手チョップ→猪木の卍固めして→馬場の32文ロケット砲→長州小力のラリアット→そしてサソリ固め→???



で、なんの話しだっけ?。

って事でエキスさん、お休みなさい。

85しげきょん:2010/12/28(火) 00:16:54
僕は日顕氏を別段恨みもないですし
写真踏ませたとか知りません
早く相じょう箱示して日達上人から受けられてないのが証明される
日が来るよう御本尊に祈る日々です

86しげきょん:2010/12/28(火) 00:21:56
>ま、実際の話第一次宗門問題の流れの中で
>三代会長と言う席から失脚させられたのを結果的に名誉会長と言う形で前線復帰に持って言ったのは
>理由はどうであれ日顕さんの意向が強いわけですからね。

日顕氏の意向で名誉会長に就任???聞いたこともない
堅皇さんには僕とは別な歴史の流れがあるようで

87堅皇:2010/12/28(火) 02:09:15
>>しげきょんさん

この辺は第一次宗門問題が何故起きたかとか
池田さんが何故三代会長を辞任する経緯となったのかと言う話になります。
しげきょんさんは北条会長時代ってまだ未入信でしょ。
俺は辛うじて記憶があるのよ。
日達さん時代から日顕さんの法主就任時も僅かながらその記憶がある。

聖教新聞から池田さんの名前が消えた時期というのが実際あるわけよ。
当時は何故なんてことは考えたりもしなかったけど
いろいろ調べてみるとなるほどなと思うことがあるわけね。

一度この辺の出来事を自分で調べて整理してみたらいいと思うよ。
そうすれば正信会の発足の歴史も見えてくるし
正信会ってもともとは学会から僧になった人が多いという事実もね。

池田さんの前線復帰は宗門側の正信会の切り捨てとの交換条件みたいなものだから。

> 早く相じょう箱示して日達上人から受けられてないのが証明される
> 日が来るよう御本尊に祈る日々です

これを証明させているのは正信会ですからね。
正信会の歴史も自身でいろいろと調べてみれば。

88日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/12/28(火) 06:47:50
ナハ、ナハハ、ハ(@_@)(*_*)(@_@)(*_*)!

小力って言っちゃった(>_<)(*_*)(>_<)(*_*)♪(>>84のラリアットの件)


おはようございますm(__)m。

89日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/12/28(火) 07:06:53
しげきょんさん(^0^)/♪!お久しぶりですっ!!。

>早く相じょう箱示して日達上人から受けられてないのが証明される日が来るよう御本尊に祈る日々です


その祈りっ!別な事に祈り向けが善いとワタシは思いますよっo(^-^)o!。
「証明される日」

すでに証明されてますっ!C作戦以降の双方の興隆と衰退の事実で。

日顕さんは超がつく程の嘘つきだったんです。ナハ♪、ナハハ♪、ハ♪言っちゃった(@_@)(*_*)(@_@)(*_*)!

箱なんてナインいんですよ多分……(>_<)(*_*)。
基本的に先代が用意し渡すんでしょ。お亡くなりになったんですから、シメシメって日顕坊は思ったんだと……思います。

ワタシの中でそれで納得納豆食うo(^-^)o♪!です。

ケッキョクナニが言いたいかと言えば……

朝ご飯は納豆o(^-^)o!がいいっすっ!。

90日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/12/28(火) 10:02:02
結局、朝ご飯はお茶漬けでした(^^)。

鮭フレークあとのせの豪華なやつです。

92怖くて名乗れません<m(__)m>:2010/12/28(火) 20:04:14
★さて起きるかな・・・
////////////////////////////////////////////////////////////////

93怖くて名乗れません:2010/12/28(火) 23:50:30
★さて寝るか・・
//////////////////////////////////////////////////////////////////////

94ぜんまい:2010/12/29(水) 00:28:16
>>92
>>93

3〜4時間程しか起きていなかったようですね。





95エキストラオ:2010/12/29(水) 17:36:56
★京阪君の書き込み見ていると、独善的な臭みのある異臭感じるのはおそらく、
私一人だけではないだろう。 ミニ池田先生になりきっちゃっているというか、
そう・・解る人には解る・・アレ・・である。内容はごたいそうなのだが、高い
所からの物言いの典型的な スタイルだ。 たぶん本人も気付かないまま、逝く
のだろうが、むしろ其のほうが本人にとっては幸せだろう。なぜかと云うと・な
まじ、途中で気付いたりすると『自己嫌悪の塊り』なる可能性がおおきいからで
ある。自分ほどたいした者はいないという錯覚・・自分ほど苦労してきた者は居
ないと思ううぬぼれ・・慢心がそうさせるのかもしれない。世間の言動に・
武士の品格みたいなものに、当て嵌めて・さもしたり顔で〔ドヤ顔〕解ったふう
な口利きをする輩・・・生き様を語る・・とかの類である。彼がそうだと決めつ
けているのではない。 そういう臭いがするのである。 そういう人々が寄り合
いてできた団体・・それが創価学会なのだろう。一言で言うと『慢心』で・・
チョン・・である。

////////////////////////////////////////////////////////////////////////

98日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/12/30(木) 17:37:37
粛々坊管理人さま、管理主事さん、副管理人Zさん、京阪さん、しげきょんさん、ぜんまいさん、堅皇さん、そして……、法華★のエキスパンダーさん、

今年一年お世話になりましたm(__)m。
よい年越しをお迎えくださいm(__)m。

99日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/12/30(木) 17:38:33
おっ!ついでなので……

100日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/12/30(木) 17:39:49
キリ番を(^0^)/!って事でロンっ(@_@)♪!

101エキストラオ:2010/12/30(木) 22:49:16
★おっ・・・♪日々君♪お前もよく健闘したな・まノーベル賞はやれんが、
ノー味噌賞くらいなら あげてもいいよ。矢野委員長の褒章は・まずかった
誰かがまた、焼もち焼いて いじめられるとかわいそうだしぃ〜・・

今年こそ 日々君もいい年になるように。。 でわ
////////////////////////////////////////////////////////////////

102ぜんまい:2010/12/30(木) 23:22:13
>>101
>今年こそ 日々君もいい年になるように。。


今年こそって、あと1日で終わりですよ。




103日々朗らか(前進) ◆kzJPIT27Ks:2011/01/01(土) 23:17:15
新年明けましておめでとうございますm(__)m。
今年も宜しくお願いいたしますm(__)m。

104エキストラオ:2011/01/04(火) 12:03:22
★あ・・オメデトオメデト・・今年もしっかり 前を見て生きていってください。
すこしは・成長したすがた・みなさん期待してませんが、 息子にだけは・
お年玉 はずんであげてください・・・///////////////////////////////////

105堅皇:2011/01/09(日) 02:44:32
取り合えずしげきょんさんからの返答も無さそうですし
説教オヤジさんも書き込みをする意志も感じられないので
折角この板に誘っていただいたのですが
もう話す事はないと言うことで宜しいでしょうかね。

P.S
しげきょんさん。
うちの兄に送ったメールでの謝罪文の内容は兄から聞かせてもらいました。

確かに兄はこれまでのしげきょんさんからのメールには大変迷惑していた様ですが
俺個人はしげきょんさんのボヤキぐらいは迷惑とは思っていませんけどね。

人の事を相手にされてないと表現するのは
おそらく自分が相手にされてないという心の葛藤の裏返しだと思いますので
その辺は寛大に受け取ろうと思っています。

ま、今あるしげきょんさんの環境が幸せと感じられるのであれば
何も言う事はないという感じなのですけどね。

106エキストラオ:2011/01/09(日) 22:37:38
★表に出て来ないというのは・何かを隠しているという事ですよね。
久しく 大衆の面前に出てきていない・・・関係者は・正直どう思
って居るのでしょうか。たいていなら 互無沙汰してますとかの・
メッセージがあってしかるべきなのにね・・・もう・・1年近くも
経ちますよね。
///////////////////////////////////////////////////////////////////

107ぜんまい:2011/01/09(日) 22:53:21
>>106
>★表に出て来ないというのは・何かを隠しているという事ですよね。

相承箱は33年近くも行方不明ですよ。





108エキストラオ:2011/01/10(月) 14:03:14
★表に出て来ないというのは・物理的な物体ではなくて、ある・人物をさして
います。それまで・・馬糞きのこのように出没していた人物が・挨拶もなく
ご無沙汰しているのは・どうおもいますか? ぜんまい君・という話ですよ。

/////////////////////////////////////////////////////////////////////

109ぜんまい:2011/01/10(月) 17:11:17
>>108

1年近くでしょ?誰の事を言っているのですか?




110エキストラオ:2011/01/10(月) 20:47:11
★ほれ・・昔 言論出版妨害事件で断罪された かつての指導者ですよ。

いまでは・ほとんど忘れかけられた 指導者ですよ。

高利貸しになんか手を染めていた過去なんかもありましたね。

わたしは奥ゆかしいから言えませんけどね・・・

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111堅皇:2011/01/11(火) 17:10:07
>>エキストラオさん

いやいや、その方はかつての指導者ではなく永遠の指導者ですよ。
ちなみにこの方はご心配かとは思いますが
最低でもあと2.3年は亡くなる事はないと思いますね。
その間に表に出てこられることがあるかどうかは別としてね。

それはそうと
この指導者の師匠が在籍していた大日本皇道立教会ってどう思います?
創価学会のルーツと言われる組織と言うことなのですが。

112エキストラオ:2011/01/11(火) 17:28:00
★よくわかんなぁ〜〜いけどぉ〜・・・牧口・戸田の口癖にはペラペラと・
出て来る言葉がありますわね。

いわく『万系一世の 我が皇国で アメリカの閲兵式を見るとは思わなかった
はらわたが煮えくり返る心持だ』/////////////////////////////////////

・・・・・そういう『感覚』の持ち主だったことは確かだろーーね。
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113堅皇:2011/01/11(火) 23:18:00
牧口さんの思想が南朝支持が根底にあったとすれば
創価教育学会の旗揚げの意味も戦時中神札を拒否した理由もかなり明確になると思うんですね。

創価側からの発信に寄れば日蓮正宗と別の法人格を取得したのは
早くから日蓮正宗の体質を見抜いていたからとの主張なのですが
これだと少し疑問が残る話なんですね。

法人格と言うのはあくまで宗教法人としての認可な訳でして
事実上の組織作りは戸田さんではなくそれ以前の牧口さんにあるわけですよね。

牧口さんが日蓮正宗に入信したのが1928年で創価教育学会の設立が1930年。
僅か2年の出来事なんですね。
加えて牧口さんが日蓮正宗への信仰に本腰を入れ始めたのは創価教育学会の設立以降であると言うことです。

つまり牧口さんの場合、日蓮正宗の教義や体質に疑念を抱く以前に
自分たちの組織作りから始めたと言う事になります。

となると牧口さんが何故に組織作りを考えたかの理由が不明の状態だったんですね。
目的もなしに組織作りを考えると言うのはあまりにも不自然ですね。
別に目的があったと考える方が矛盾はなくなります。

終戦後、天皇制に関してその殆どがタブー視されて戦後世代にはこの件に関しては
まともな教育すら受けてないのが現状なんですね。
当時の情勢を考えると今の価値観と違うものがあるのではないかとは思います。

神札の拒否という事を今の感覚で捉えると単純に右派ではないと思ってしまってましたが
南朝支持が事実であればその考えは根本的に覆ってしまうんですね。

加え戸田さんと岸信介さんとの交友関係の事実も俄然納得が行く話ともいえますからね。

114備前 ◆TtzwqSGci2:2011/01/14(金) 13:02:25
  こんにちは、堅皇さん

  > 牧口さんの思想が南朝支持が根底にあったとすれば

 戦前は、皇室は「南朝」が正統とのことですが・・・・(^^;
 ですから、楠正成が忠臣で足利尊氏は朝敵の扱いですよ。

115堅皇:2011/01/14(金) 16:43:04
>>備前さん

明治天皇が南朝の末裔の替え玉説と言うものもありますが
公式では北朝の末裔である孝明天皇の子息ですからね。

日本が神の国と言われるのは即ち天皇の事を示すと言う事もあります。
で、幕末に国が乱れたのは単に帝が国を治めなかったと言う事ではなく
南朝が正統としなかったと言う考えも同時にありますからね。

そこで北朝の大本と南朝の大日本皇道立教会とすれば
その対立の図式が見えてくるのではと言う話ですね。

加えて入信間もない牧口さんが創価教育学会を立ち上げた理由も明確になるのではと言う話。

何故に牧口さんは単に日蓮正宗の信者となっただけでなく
組織作りから始めたのかなと言うことですね。

ある程度知識を得て、そこで思想による対立軸が生じてからでも
暖簾分け、組織作りは遅くなかったのではないかと思うわけです。

普通、思想なしで組織なんか作るのかと言うことですね。
あるとすれば日蓮から学んだ思想ではなく他からと言う事ですね。
だって組織を作ってから日蓮正宗へ日蓮の思想を学びに行っているのですから。

116堅皇:2011/01/14(金) 18:36:59
日蓮が立宗宣言を行うに至るまで
30年も掛けて諸経を学んでいるわけです。
対し牧口さんの創価教育学会の設立は入信から僅か2年。

もっとも南無妙法蓮華経が本因妙で直達正観されたと言うのであれば
何も言う事はないのですけどね。
牧口さんは立派な御本仏であると言う事だろうから。

では直達正観された方が何故に日蓮正宗から教義を学ぶのか
まーいろいろ考えるところがあるわけですよ。

牧口さんがそこまで凄いものであれば
何故に創価学会は牧口さんの「創価教育学体系」を根本に据えないか。
基本今のベースとなっているのはどちらかといえば
戸田さんの教義からの発展であり
実際に用いているのは池田さんの指導ですからね。

117高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2011/01/14(金) 19:06:12
堅皇さん こんにちは! ご無沙汰しております。

>>115
 以前、蛍さんとの対話を進めるにあたって、このような、内容の事を私も考えました。
 話としては、「逆説の日本史」のようで面白いし興味を掻き立てられます。

 しかし現実はどうだったのかとなると、チョット違うかなと私は思います。

 蛍さんとの対話に書きましたが
創価教育学会を創立する27年程まえに、牧口先生が若き日(32歳)に著された、人間生活を地理学の観点から捉えた
 「人生地理学」(明治36年)は、当時、社会一般において注目され普及しました。
 しかし、アカデミックな地理学(会)からは、ほとんど軽視、無視されたようです。
 このことは、牧口先生がいわゆる大学では地理学を学んでおらず、北海道尋常師範学校卒業と言う事も大きな
 原因だったのだと思います。

 この事から、牧口先生は日蓮正宗と出会う以前に、人生(人間生活)に真正面から取り組んでおり、牧口先生の
 人生哲学がその時点である程度確立されていた事が解り、その延長線上に創価教育学会があると理解する事が
 大切であり、でなければ視点を間違ってしまう可能性がある、と私は考えています。

 「創価教育学体系」での牧口先生の「価値論」は、相対主義的・主観的・功利主義的価値論(「創価教育学入門」
 熊谷一乗)とされており、この事も大切な視点だと思います。
 「価値論」では、真理は、「人にも時代にも環境にも関係なく不変である」と定義し、変化していく価値とは明確に
 区別されています。

 『而して生命の維持保全に対して有害と認められる其の種類程度に応じて悪といい、害といい、醜という』
 この一文は、一個人に取って、自分を犠牲にして国の為に尽くす(滅私奉公)事は、相手が国と言えども
 価値ある事では無い、「一人の人を大切にする事」に価値が有ると、私には読み取れます。

 つまり、私は、牧口先生は国家主義的な人間を作る事を、否定しているのだと捉えています。
 なぜなら、牧口先生は、その時代に教育者・思想家として何を問題視し、どの様に変革しようとしたのかを考えると
 「教育勅語」に見られるように、また時代背景として日清日露の戦争があり、教育は、知育よりも徳育を
 重んじられており、徳育も、我々が考える道徳や理性ある人間を育てる事よりは、国家主義的な人間をつくる要素が
 強かったと考えられるからです。

118高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2011/01/14(金) 19:11:29
つづき 
 そのような中で、牧口先生は庶民、人間に重きをおいた教育が大切とは考えていたのでしょうが、批判するに
 足りるモノサシとなる理論を持ってなかったのではないでしょうか。
 人生地理学に、『不肖、教育の職に在ること多年、其の間、地理学の教育上、重要の地位にあらざるべからずして、
 しかも甚だ軽んぜらるること久し。而して、嘗て思えり。もし、この学の教授法にして、今少しく改良せらるるを
 得ば、現今における教育上の痼疾の大半は除去せらるべしと。』と記されているように、教育(界)に批判的な
 考えを持っていた事は明らかであり、変革の思いを込めて書かれた書だと理解出来ます。

 池田諭氏(実践的思想家1923〜1975)は、牧口先生を「福沢諭吉、中江兆民、北村透谷のような人権論者、
 自由論者、平等論者ではなくて、彼は、人権、自由、平等を具体的に存在する庶民大衆の中に発見していく
 とともに、庶民大衆自身が、自らの中にそれを発見し、定着させることのできる思想を創造していこうと
 したのである。」と評しており「このように考えるとき、牧口は、現代日本の誇りうる思想家であると同時に、
 現代日本が深く学ばなくてならない思想家である。(中略)牧口の思想が、そして彼の学問、教育論が長い間、
 一部の人を除いて、殆んどかえりみられなかったということは、日本の学問と教育にとって大きな不幸である。」
 とも著しています。 私も正にその通りだと考えます。

 そのモノサシともなるべく日蓮正宗に三谷素啓氏の折伏で入信しましたが、「創価教育法の科学的超宗教的実験証明」
 (牧口全集第8巻:第三文明社 74-75頁)の中で『まず師とするに足る正しい人の言を信じ、如説の実行をなし、
 体験によって価値の有無を証し、無価値なる主観的の観念論を捨て、以て人をも離れて、生活関連の法を信ずるので
 ある。更に何故に価値が証明されるかを、経文及び道理にただして、いよいよ信仰を確立し、かくて価値の遠大と
 近少とを比較対照して研究し、遂に無上最高の極意に達し、ここに初めて畏れる所なき安全の境地に達する。
 『一信二行三学』という科学のそれとは全く異なった研究法がすなわちこれであるが、これはすべての技芸乃至
 生活法の研究に適用されるべきもので、現に無意識的に如何なる技芸の修業にも実行しつつある所である』
 と述べています。
 
 生活法、言い換えれば社会(民衆)への価値・意味(公益性)を宗教は考える必要があり、
 全文からは、教義より道理に合った論理を重視していると考えられます。

 つまり、宗教というのは伝統的な教義が第一では無く、杜会の繁栄や個人の幸福を実現する事が最重要であり、
 もしそれが実現出来なければ、宗教としての意味(価値)がないと言う事です。

119高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2011/01/14(金) 19:13:44
つづき

 ■結論

 以上の内容から、

>>115
>普通、思想なしで組織なんか作るのかと言うことですね。
>あるとすれば日蓮から学んだ思想ではなく他からと言う事ですね。
>だって組織を作ってから日蓮正宗へ日蓮の思想を学びに行っているのですから。

 これは、違うと思われると云う事です。

 誤解を恐れずに云うと、創価教育学会は、庶民の為に価値ある会(人間主義)とする為には、
 日蓮正宗の教義があって、創価教育学会が有ると云う事ではなく、
 創価教育学会に、日蓮正宗の教義を利用出来ると云う事だと思います。

120堅皇:2011/01/14(金) 21:32:03
>>高速太郎さん

> 日蓮正宗の教義があって、創価教育学会が有ると云う事ではなく、
> 創価教育学会に、日蓮正宗の教義を利用出来ると云う事だと思います。

冷静に考えるとそういう事ですよね。
別にそれが良いか悪いかは別としてね。

ただそれはきちんと公言するべきではないですかと言うことです。
加えて「大日本皇道立教会」という組織は全く創価学会内では語られない歴史ですね。
同じように皇道思想を利用していたのならそれでも構わないですね。
隠さないでちゃんと説明すればと言うところです。

隠すと言う事は牧口さんはそのまま皇道思想であり
皇道思想を通す事が目的であり仏法を利用しようとしたか否かは闇の中であると言うところですね。

ですから問いかけですね。
創価教育学会は大日本皇道立教会を母体としてのものなのか否かです。
その為にもちゃんとこの辺を会員の人にも説明してあげないとね。

南朝支持派の日蓮系教団の本門正宗サイトには
大日本皇道立教会のメンバーの写真としてしっかりと牧口さんも写っていますね。
http://syohnan.jp/syoumetu.html この写真はねつ造写真なんですかね?

写真には右翼運動家で錦政会顧問、政財界の黒幕、フィクサーと呼ばれた児玉誉士夫さんも同席しています。
この辺の人脈があれば戸田さんと岸信介さんとの交友関係や
出版言論問題の時に田中角栄さんの力添えがあったとされても疑いは持ちませんね。

さてさて、実際問題はどうなんですかねという問いかけですね。

121高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2011/01/14(金) 23:47:21
堅皇さんへ

>>120
>ただそれはきちんと公言するべきではないですかと言うことです。
>加えて「大日本皇道立教会」という組織は全く創価学会内では語られない歴史ですね。

 なぜ、語られないかは、学会にとって必要のない事だからです。
 もし、牧口先生が皇道思想だけで事足りたら日蓮正宗には、入らなかった訳です。
 前の投稿は、牧口先生にとっては、皇道思想を含め日蓮正宗以外の思想は、
 自分のモノサシにならなかったと云うことを述べたのです。

 日蓮正宗に入ってからも会に参加しているようですが、其れまでの付き合いがあったからだと思います。
 堅皇さんが現在も創価系の掲示板に投稿しているのと同じ程度の話ではないでしょうか。

 つまり、創価教育学会も創価学会も皇道思想を必要としておらず、実際に教義上なんら取り入れられていません。
 だから、今となっては語るべきものがない、と云う表現が合っているかも知れません。

>創価教育学会は大日本皇道立教会を母体としてのものなのか否かです。

 否でしょうね。
 この事を言っているのは、「本門正宗」の小野寺直(日了)氏です。
 このような件は、シッカリと自分で調査をして100%間違い無いと判断してから問題提起をするべき内容です。

>この写真はねつ造写真なんですかね?
 捏造では無く、本物だと私は思います。

>さてさて、実際問題はどうなんですかねという問いかけですね。

 上記と同じ様に、シッカリ調査の上で書かないと、単なる興味本位の戯言になってしまいます。
 もっと、シッカリと調査、分析をして事の意味も深く捉えて提起することをお勧めします。

122堅皇:2011/01/15(土) 01:56:46
>>高速太郎さん

> なぜ、語られないかは、学会にとって必要のない事だからです。

必要かないかは個々の判断ではないでしょうかね。

> >この写真はねつ造写真なんですかね?
> 捏造では無く、本物だと私は思います。

とすれば少なくとも大日本皇道立教会と言うのは奇しくも
創価学会初代、二代会長が在籍していた組織と言うことなのでしょうから。

母体でないのであれば尚更明確にそうではないと言う事を
事前に経歴として触れておけば何の問題もないことですね。

創価学会と言う組織はどうも情報の後出しが多すぎますね。
かなり苦し紛れの物も多かったりしますが狂信者にはそれでも納得すると言う事でしょう。

もっともそのやり方が問題でどんどんの不信を覚える人や退会者が
後を絶たないと言う事と言うわけですね。

どのみち僕は組織運営に関しては部外者の立場ですから
これはあくまで傍からの助言と言うことですけどね。

123堅皇:2011/01/15(土) 02:08:18
そうそう

> この事を言っているのは、「本門正宗」の小野寺直(日了)氏です。

と同様にそうではないと言っているのは創価学会の人ですから同じく信用は出来ませんね。
それこそどちらの思想にも傾かない中立に人の明確な判断を待つのみです。

今のところ断定は出来ないが本当の話と捉えた方が多くの事柄の辻褄が合うと感じるだけですからね。

124怖くて名乗れません<m(__)m>:2011/01/15(土) 19:43:50
堅皇さんへ

>>122 >事前に経歴として触れておけば何の問題もないことですね。

 例えば、堅皇さんが幼稚園や小学校の時にA君と云う友達が居たとします。
 A君家へ遊びに行って、A君の父母や家族と一緒に写真を何回か撮ったとします。
 その写真を元にB氏が、実は堅皇さんは、A君家の子供なんだよと皆んなに、言いふらしたとします。
 その時に、堅皇さんは、どの様な行動をとりますか・・・。

 堅皇さんが他人と写真を撮ったら、全てブログにでも写真撮影に関する、事の顛末を書いておくのですか。
 
 そんな程度の話しですよ。
 ようするに、創価学会に対するタメの話ですよ。 揶揄とか難癖と言える事柄です。

>創価学会と言う組織はどうも情報の後出しが多すぎますね。
>かなり苦し紛れの物も多かったりしますが狂信者にはそれでも納得すると言う事でしょう。

 こう云う対話の進め方を、後出しジャンケンと云うのです。

 なぜならば、堅皇さんの >>115 に対して、私は、自分が調べたことを元に
>普通、思想なしで組織なんか作るのかと言うことですね。
>あるとすれば日蓮から学んだ思想ではなく他からと言う事ですね。
>だって組織を作ってから日蓮正宗へ日蓮の思想を学びに行っているのですから。

 上は、違うと云う事を証明しているのであって、それに対して話を進めるのでなければ、対話は成立しませんよ。
 おそらく、堅皇さんの、今まで他の人との話も、この様な話の流れなんでしょうね。 相手にする人は少ないと思います。

 と云う訳で、真摯な前向きな対話に成りそうもないと判断出来ますので、私は、ここ迄とさせて頂きます。

125高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2011/01/15(土) 19:46:51

失礼しました。 >>124 の投稿は、私です。

126堅皇:2011/01/16(日) 01:37:28
>>高速太郎さん

> 例えば、堅皇さんが幼稚園や小学校の時にA君と云う友達が居たとします。
> A君家へ遊びに行って、A君の父母や家族と一緒に写真を何回か撮ったとします。
> その写真を元にB氏が、実は堅皇さんは、A君家の子供なんだよと皆んなに、言いふらしたとします。
> その時に、堅皇さんは、どの様な行動をとりますか・・・。

A君とは幼稚園や小学校の時仲良くしてたんだ。
そしてA君の両親とも仲良くさせてもらってたんだと話します。

学会のやってる事はA君やA君の両親との関係すら伏せている状態ですからね。
この事実を知らなければそりゃーB氏からあらぬ誤解を受けられるのも当然と言う話です。
最も誤解かどうかも定かではありませんけどね。

> 違うと云う事を証明しているのであって、

証明には何もなってないですよ。
高速太郎さんの話はあくまで創価学会側の主張と言う域を出ていませんから。

法華経では真実を得るために良い言葉がありますね。
それは「諸法実相」です。
つまりは創価学会の主張、本門正宗の主張、日蓮正宗の主張。
これ等の整合性の中に実相があると言う事ではないですかね。

ですから僕はそれぞれの人たちの主張を全て鵜呑みにする事無く
集められた事実の中で真実を見出したいと考えています。
創価学会がそう言っているから正しいとか本門正宗のが言っているから嘘って話はないんですよ。
学会のこれまでの流れを見ると信憑性が高いと言う確率の問題ですね。
この確率を覆す確固たる証拠があれば話は別ですけどね。

127エキストラオ:2011/01/16(日) 20:36:50
★日蓮大聖人の教えは『人間主義ではないですよ』

★日蓮大聖人の教えは人間主義ではありません』

★現代に『人間主義』と云う都合のよい言葉を当て嵌めたい

という人間が居るだけでしょう。

日蓮大聖人と 人間主義・・まったく無関係です。

/////////////////////////////////////////////////////////////////////

128堅皇:2011/01/16(日) 22:41:00
>>エキストラオさん

確かに仏法は人間が作ったものではありますが
『人間主義』って事ではないとは僕も思いますね。
また仏法とは価値創造にありとの考えも違うと思います。

何れにせよ創価学会は仏法を何らかの目的のため利用しようとしたと言うのが始まりって事ですかね。

129釈子・創価門流:2011/01/16(日) 23:32:58
「大日本皇道立教会」ですか。
  久しぶりに聞きましたね。
確か、日蓮正宗の人々が創価学会員に変わって、反論提起していた事を思い出しました。

 確か、戸田第二代会長が時習館の生徒?に「南朝の正統」を話した事を何かの書籍で見た記憶がございます。
ただ、その内容は「楠正成」を正しいと思えばという内容だったかなと。

130堅皇:2011/01/17(月) 14:46:29
>>釈子・創価門流さん

お久しぶりです。
僕は釈子・創価門流さんにはいろいろとお伺いしたい事はあるんですけどね。
で、その際たるものが釈子・創価門流さんが何故に創価に拘るかと言う点ですね。

あちらでは僕の発言を「板を汚す」と表現されましたから退去させていただきましたが
どのみちアクセス禁止や制限が頻繁にあるところはあまり好きではないと言うのもあります。

創価思想は僕は仏法ではないと思っているんですね。
もっとも諸法実相という観点から入り口は仏法でなくてはいけないという拘りはないのですが
自らが実相だと名乗った時点で法華経を第一と捉える事ではなくなり
また法華経を捨てているとも思えます。

もっとも題目が法華経の題目ではなく法華経とは釈迦の法華経と捉え
捨て去りなさいと言うのが日寛教義ですから
その時点で題目が法華経の題目では無くなってしまって
法華経を捨て去っている行為だともいえるんですけどね。

131釈子・創価門流:2011/01/17(月) 18:23:38
>>130
堅皇さん

・ではなく法華経とは釈迦の法華経と捉え捨て去りなさいと言うのが日寛教義
⇒日蓮正宗の「日蓮本仏論」は、本仏・釈迦牟尼仏の垂迹として存在する「本仏・日蓮」なんですね。
  「捨て去る」の意味が違うと私は考察します。
・創価思想は僕は仏法ではないと思っているんですね
⇒訳経僧 鳩摩羅什が『法華経』を『妙法蓮華経』八巻として訳し、その『妙法蓮華経』の訳し方が"正しい"と言う論理に立ち、
  日蓮大聖人は、天台大師・妙楽大師などの釈を基にし、己流の解釈をした訳です。
 創価学会の三代会長諸師が、その教えを基にし、己流の解釈及び論を以って成り立つのが「創価思想」であると私は考察します。
  なので、「仏法ではない」と言う意・論は堅皇氏が思ってる分には、よいのではと。

132堅皇:2011/01/17(月) 23:19:00
>>釈子・創価門流さん

> 訳経僧 鳩摩羅什が『法華経』を『妙法蓮華経』八巻として訳し、その『妙法蓮華経』の訳し方が"正しい"と言う論理に立ち、
> 日蓮大聖人は、天台大師・妙楽大師などの釈を基にし、己流の解釈をした訳です。

これはその通りですね。
純然たる釈迦の教説のみを仏法と名づけるならば日蓮の南無妙法蓮華経は仏法ではありませんね。
それ以前に法華経が歴史上の釈迦の説法ではないとすれば
これもまた仏法と呼ばれる物ではありませんから。
事実、法華経を語るにはあまりにもヒンズー教の影響を否定せざるものでも有りますから。
それ以前の釈迦が説いたとされる仏法もその影響下を避ける事はできませんからね。

その理を持ってすれば僕が考える創価思想は仏法に当たらないのではと言うとは的を外していますね。
創価思想は単に西洋の人文主義を取り入れているだけであり
仏法自体が人文主義から成り立っているわけですから創価思想も立派に仏法と呼ばれるものかもしれません。

ただそれでは『法華経』とはなんなのかと言う話になりますね。
釈子・創価門流さんの中では日寛教義の様に
釈迦が説いたとされる法華経と日蓮の南無妙法蓮華経は別の法門であるというお考えなのでしょうか?

僕は日蓮が唱えた題目とはまさしく法華経の題目の事を指していると思っています。
つまり釈迦の法華経だの天台・妙楽の法華経といった立て訳があるとは考えておりません。
法華経と理が異なる時点でそれはもう法華経と呼べるものではないと思っています。

ではその法華経の理とは何かと言うことですが
それは諸法実相であり本因妙ではない、久遠実成であり久遠元初ではないと言う事だと思います。
理が異なる時点でそれはもう法華経とは呼べなくこれを蔑ろにする事で
法華経をいくら用いてもそれは真言宗と同様に法華経を盗んでいるものと考えています。

釈子・創価門流さんの中での法華経の定義があればそれをお聞かせいただきたいです。

133釈子・創価門流:2011/01/17(月) 23:58:10
堅皇さん

⇒『妙法蓮華経』の釈を、天台大師・妙楽大師などがされ、更に、その「釈」を用いたり・用いなかったりしながら
日蓮大聖人が現して行く。
 原版→訳経僧 鳩摩羅什→大乗人師・論師→日蓮大聖人と「釈」がされ、「法華経」が幾つものフィルターを通り、今の私たちに届いている。
「定義」と言うのは何でしょうか?
 記した一連の流れの中で生まれた解釈が「法華経の定義」と捉えるか・捉えないかです。

 「法華経と理が異なる時点でそれはもう法華経と呼べるものではないと思っています」←御自身で選ばれては?

134釈子・創価門流:2011/01/18(火) 00:08:32
>>127
エキストラオさん

・★日蓮大聖人
⇒「日蓮大聖人」とは、富士門流の方ですか?
 何処の宗団ですか?
  立ち位置如何で、お答え方を変えてようかなと思いまして。

135堅皇:2011/01/18(火) 00:32:36
なるほどですね。

その中で創価思想が法華経と中枢であるとのご判断なのですかね。

僕は日蓮が言うように法華経の肝は方便品を経ての寿量品にあると思うので選んでいるわけです。

それは方便の必要性
「諸法実相」実相とは諸々の法の中に存在していると言う事。
また、諸々の法とはそれぞれ方便であると言う事。
「久遠実成」釈迦が仏とは言ってもインドにおいてはじめて悟りを得た始成正覚ではない。
つまりは仏とは突然世に現れたものではないと言う事。

これだけに置いても物凄く素晴らしい考えだと思っていますから。
この考えを中心に据えるだけで全ての法や思想を取り入れることが出来ますからね。

そうすればキリスト教やイスラム教の思想ですら取り入れることが可能ですからね。
それぞれの思想が単独の実相ではなく、全てが仏に導くための方便であると捉えたら。
また、それぞれの思想の整合性の中に実相があると互いに捉えればそこからは戦争は生まれませんから。

戦争が生まれるのは自分たちの教えこそが実相であり唯一の正義であると捉えるから争いが起きるわけですからね。

また、それぞれの神と呼ばれる存在もその時突然現れたというものではなく
「久遠実成」と捉える事によりいわゆる世を司る神や御本仏と言った存在がなくなりますからね。

僕はもう仏法だけに拘るつもりも無いのですが
世界各国のあらゆる思想、宗教の中にこの法華経と同様の理にたどり着いた思想と言うものがあるのかなと考えます。
少なくとも仏法内、日本国内に置いて法華経より優れた法は無いのではと思って
法華経の題目を信じて唱えているわけなのですが。

136堅皇:2011/01/18(火) 00:48:57
ですから僕の中ではあるゆる思想の持ち主であっても僕にとっての敵と言う概念は無いんですね。
あらゆる考え方は自身の目的である実相に到達すべき上での方便であると捉えていますから。

学会員さんであれ日蓮正宗を信じておられる方でも敵ではありません。
ただ、自身の考えこそが万民に通じる実相であると押し付けてくる人たちには
違うのではないかと言う必要はありますけどね。

日蓮の行った折伏と言うのもこのような感覚だったのではないかと思います。

ともかく日蓮正宗も創価学会も日蓮が本仏だとか我々が唯一の正義であるとか言っている時点で
法華経を捨てているのではないかと思っているわけですね。

僕の考えはまーそんな感じと言うことです。

137エキストラオ:2011/01/18(火) 11:00:38
★わたしは 日蓮正宗の信者ですから・・・

結論として楠の板で 成っている御戒壇様をそのまま 人法一個の

本佛 日蓮大聖人と信仰しています。  ここから外れることは

ありません。法華経の捉え方は 究極ここに、極まるわけです。

信じる人とそうではない人々の間には 縁というものがありますから

強く曳かされる側に 系統していくのは当然でしょう。とにかく

縁の問題という事になりますよ。ともあれ 如何なる縁にてあっても

最期は強いほうに 曳かされていきますから、とにかく『縁』つまり

『下種』ですね・・日蓮大聖人の題目そのまま末法の法華経に『縁』

した者たちが最期はその法華経の渦に組み込まれていく・・故に・・

順縁なり逆縁なりでも 結構な話であります。  ま・・言ってみれば

一度被爆したものが最期までその影響下に置かれるのだというようなもの

でしょう。・・というように池田大作さんも 最期は帰命の途につかざる

を得ないと思いますから、去るものは追わずというスタンスは定着している

と思いますね。

//////////////////////////////////////////////////////////////でわ。

138エキストラオ:2011/01/18(火) 11:09:34
★電灯の二月じゃなかった・伝統の二月・・折伏じゃなかった・・・
会員勧誘は進まないかも・です。////////////////////////////////////

139堅皇:2011/01/18(火) 13:12:56
>>エキストラオさん

> わたしは 日蓮正宗の信者ですから・・・

学会員さんにしても日蓮正宗の信徒さんにしてもこの辺は関しては
生真面目といえばそうなんでしょうけど
義理堅いと言うべきか日寛さんの「師弟不二精神」と言うべきか
理由が信者だからと言うのはかなり窮屈な思考なのかなとも思いますかね。

もっとも僕の信仰動機も日蓮という人が凄いと思ったからと言うのもあるから人の事は言えないんですけどね。

ただおかげで会長さんがどうとか歴代の法主がどうとかと言う事は
まるっきり最初から眼中に無かったと言う事はありますね。

御戒壇様も人法一個も本佛日蓮大聖人も日蓮の意志とは反していると言うのを感じた段階で
直ぐにこの考えとはサヨナラ出来たという感じではありますね。

ただ、そこまで日蓮と言う人を信じる事が出来た背景には
日蓮正宗の日蓮本仏論があってこその側面があったからかもしれませんし
その部分では自分とっては良い方便となったのかなとは思いますけどね。

ただ今現在の考えとすれば僕は日蓮本仏論は有り得ないと思っています。

140エキストラオ:2011/01/18(火) 19:25:24
★それでいいんじゃないのですかね・・・どう捉えようとも本人の因縁
だと思うし、理屈だけでは人は動きませんからね。心変わりは人間なら
また、いつしか起こり得るわけですし、その時はその時で考えればいい
事でしょう。

いろいろと変わりますからねひとは。
若い頃の考えと・年老いてからの考えは多少なりとも変化していきますよ

////////////////////////////////////////////////////////////////////

141堅皇:2011/01/18(火) 23:03:31
>>エキストラオさん

どう捉えようが良いですよね、また考えが変わる事があっても。
二世、三世・・・はともかくとして
学会員さんに関しても正宗の方に関しても先祖代々の宗派を捨てて信仰している人が大半ですから。

良いと思ったら良いと思うものを信仰する、信仰は自由ですからね。
「日蓮正宗の信者ですから」と言う理由だけなら
義理やなんかで縛り付けられているような印象を受けて何だか可哀想に思えたのでと言う話です。

特に学会員さんは直ぐにご恩返しと言う事を口にしますけど
先祖に対して改宗する事が恩返しとの判断で今の宗派を選んだのではないかなと思いましてね。

普通に自分自身が納得しているのであれば別段問題はないのですがね。

142エキストラオ:2011/01/19(水) 23:36:54
★学会員がご恩返しというのですか????

でも一番の恩知らずは総か学会員ですよ・・・宗門の軒下を借りる形で入信
してきて 御法主に信伏随従 御戒壇様は究極などと言ってきたわけですから
ね。

単にあの指導者が 御法主の上にはどうしてもなれない・・しかも・
叱られるのがことのほかキライだった・・・

すべては其処から来ているものだとおもいますがね・・・つまり感情
がね・・地獄界の感情がかれの中で爆発してしまった・・・・
・・・という事なのでしょうね・・・解り易く言えば・・・・・・

会員は会員で『ちくしょうめ・おらたちの 親分コケにしやがって』
・・ただ・そのへんの・低次元の判断ですよ。
仏法のなんやらかんやらが解って創価学会に残った人なんかひとりも
いませんよ。

単なる感情論なんです。

////////////////////////////////////////////////////////////////

143堅皇:2011/01/20(木) 02:40:56
>>エキストラオさん

てか、僕は第二次宗門問題の際に創価学会に残った訳ですが
その残留理由は正宗には法主の絶対視があったからなんですよ。
正直言えば池田さんと日顕さんがどちらに指導者としてすばらしいかと言う発想はまるで無かったですね。

ホントに日蓮しか興味なかったですから
それでも当時の創価学会は充分アリだったんですけどね。

「白鳥の恩をば黒鳥に報ずべし・聖僧の恩をば凡僧に報ずべし」

とあるわけですから恩返しするとすれば仏法を知らない人であるとか
悩んでいる方に対してですよね。

に対して池田さんにご恩返しとかお守りをとか法主猊下に信伏随従ってのは
池田さんも日顕さんもどんだけ真っ黒い鳥でどんだけ凡僧なのかと思ったりするわけですね。
島流しにあってる話でもなかろうに。

それまでは池田さんや法主の事を上行菩薩の様な役目をする人と好意的解釈していましたが
師弟を前面に出してきたあたりで完全に萎えたと言うところです。
守んなきゃいけない師匠って良く解らないんですね。
そんなに懐が狭くヨボヨボなのかって、こっちはまだまだヨチヨチだってのにさ。

今となっては学会をやめたことによりいろいろと自身で仏法を学ぶ機会が増え
返って良かったというところではありますけどね。

144エキストラオ:2011/01/20(木) 12:21:18
★護んなきゃならない師匠ね・・・たしかにね・・わかんないね・
学会の師弟はね・異常ですよ・・なんの世話にもなってないはずの
人達がね・先生には御恩があるって言うんですよ・・・ねっ・・

確かに千円くらいずつ 小遣い貰った人達は居ますよ・・ピン札でね・
それを後生大事に取っておいて自慢する人がたくさんいますからね・

しかし・中には『なんだこの金だって おらたちが 寄付したものじゃ
ないのかっ』て憤慨していた会員も居たのは事実ですけど・・ね・・・

うちはね・・恩といっても御法主個人そのものに対しての信伏随従ではなく
袈裟衣を着て二乗台にて法要される御法主の信心に対しての信伏ですから・

二乗台から降りた御法主は凡夫僧であるわけ。という筋目の上からのまた
法を司る立場に対して・・・でしょうね。それ以上は個人的な関係のある
人々はそれぞれに 違うでしょ。尊敬の仕方はね。

恩といってもあくまでも『法』が大事だとするところからは逸脱しません
よ。

ところが学会は『人間イケダ大作』に対して これでもかというほどに、
尊敬を強要してますよ。明らかに『依法不依人』から逸脱していますがね
殆んどの人々が『あんなに勲章貰った先生は偉大だ』との理由で個人宣揚
の担い手になっていますよね。

////////////////////////////////////////////////////////////////////

145エキストラオ:2011/01/20(木) 12:40:53
★堅皇さん・・師弟といっても、 僧の世界は ま言ってみれば
礼儀礼節の世界です。 僧の世界も俗の世界も 基本的には
同じでしょうけどね・///////////////////////////////////////

僧と俗では まったく違う世界ですからね・・・『四恩抄』にある
とおり・俗からみれば、僧に対しての恩は確かにあると 日蓮大
聖人もおおせですからね。

ですから個人的には自分の信心で すべてを拝していけば言い訳で
別に束縛されるなにものもありませんよ。

///////////////////////////////////////////////////////////////

146堅皇:2011/01/20(木) 17:03:03
>>エキストラオさん

> 僧の世界も俗の世界も

僧俗の捉え方が変なんじゃないですかね。
創価学会や日蓮正宗には僧俗和合たる変な言葉が蔓延していますがこんな言葉御書に載ってますかね?
俗との対義語は明らかに僧ではなく聖です。
僧は信じるもの全般に当てはまる僧伽の略称ではないですかね。

現代用語では一般に僧と言えば比丘・比丘尼といった出家者を指し
優婆塞・優婆夷と言った在家信者を俗と解釈されているところもありますが
これらを全て含んでの僧伽と言うのが本来の僧の意味だと思われます。

つまり破和合僧と言う場合は僧伽ではない不信者も含めての和合と言う事であると思われます。
日蓮はそもそも僧俗と言う言葉はほとんど用いておりませんね。

用いてないというと御幣がありますので1つ
「当世の僧俗多は人を本として経文を本とせず」てのを上げて見ますが
ここでの僧俗と言うのは俗である僧と言う意味であると思われます。
僧になったからといって直ぐに聖になるわけではないので
日蓮はよく「聖なる僧」とか「俗である僧」と言う表現は良く使われておりますからね。

つまり職業僧侶といえども聖僧か俗僧かは解らないと言う事ですね。
これが法主と言う立場であっても聖であるとは断言できるものではないと僕は考えますね。

特に日蓮正宗の法主は直ぐに総講頭罷免を口にしますので
これは破和合僧の破壊僧であると僕は捉えているという事ですね。

仏法にない文言「僧俗和合」と言う言葉が人を惑わす天魔の働きをしているものと思います。

147堅皇:2011/01/20(木) 17:22:34
> 二乗台から降りた御法主は凡夫僧であるわけ。

その割りきりがあるというのはいいかもしれませんね。
ただ二乗台に乗っているから信伏ってのはね。

もちろん教壇にだった講師の話は真剣に聞くと言う事は悪い事ではないと思いますし
いちいち茶々を入れるのもおかしいと思いますが
教壇に立ったからといって明らかにおかしなことを言えば信伏の必要もないと思います。

1つ宗門側を持ち上げるとすれば池田さんより日顕さんの方が
教学力はあるのではないかと言う事は思いますね。

ただ両者とも伏せているというか隠している事は多いと思います。
仏法における「秘密」と言うものは単に伏せると事ではなく
全てを明るみにして尚且つ解る人には解るといったものであると思います。
「雖近而不見」ってやつですね。

148堅皇:2011/01/20(木) 17:27:51
末端には理解できないであろうと隠し通すのは単なる傲慢だとも思えますね。
すべてを見せても解る人には解る、理解できない人は理解できない。
これが仏法上の「秘密」であり、これが道理ではないかと思いますね。

149エキストラオ:2011/01/20(木) 21:24:29
★日蓮大聖人を敬うとも『悪しく敬う』という事があります。しかし・
そのモノサシは無い。 学会も 我こそ台聖人直結だと言い張ってます
が・やはり・根拠は皆無である。

宮沢賢治も日蓮大聖人を慕ってはいたが、やはり『悪しくうやまう』
部類にはいっているかもしれないし・・

とにもかくにも、ぜんぶの人々が『私はこう思う』という『己義』で
あり、我見であることには 変わりないのですよね。

つまり『わたくしの所見』であるわけですよ。日蓮大聖人本人以外は
全部二人称三人称の立場の人々であるわけだね。だから私はどれ程の
見識を持った人々の言葉も信用しないのですよ。

日蓮大聖人本人以外に『本人の悟り』を共有すべき方途はないからです。
第三者第二者が彼の悟りこころのなかを見る事は『不可能』だからである。

猫があくびをしている。それを見た人が この猫は腹いっぱいで眠く成っ
たので、いまはただ眠る場所を探しているのだ・・・とは・・誰人も
断言できる人はいないのと同じである。

あくまでもこちら・自分の見識からみた判断以上のものではないからね。

隠す隠しているといってもね 日蓮大聖人の得道の方法は境智の二法
だけだしね・・信を持って題目を唱える・・カンタン至極なものだ・・
一切衆生が 救われるには シンプルでないと 一人も救われない事に
なってしまいますしね。 隠したりするほどの 複雑な仏法ならば・
あたしゃ・とっくに・御免蒙りますよ。

///////////////////////////////////////////////////////////////////

150堅皇:2011/01/20(木) 22:54:38
>>エキストラオさん

> 学会も 我こそ大聖人直結だと言い張ってますが・やはり・根拠は皆無である。

これに関して言えば日蓮正宗も同じくですね。
五老僧にしても日興さんにしてもそれはいえます。
二箇相承?
それにしたって根拠は何処にもありませんしこれ自体が日蓮正宗の己義、我見の域を出ていませんね。
故に僕は全部取っ払って考えていきたいわけです。

> 日蓮大聖人本人以外は全部二人称三人称の立場の人々であるわけだね。

もちろんそうですね、しかしヒントは隠されています。
それが日蓮が書いた御書であります。
また御書は諸経を元に書かれています。
ですから諸経を学べはその答えに近づくことが出来るのではないかと言う事です。

> 猫があくびをしている。それを見た人が・・・とは・・誰人も断言できる人はいないのと同じである。

確かにそうなのですが法華経にはそれを解く鍵が記されているという事
それが諸法実相と言う事。
猫があくびをしている瞬間だけを見た人だと答えを導き出す事は難しい。
しかしながらそこに至るまでの多くの確かな目撃者が居たらどうだろう。
更に猫があくびをする様々な条件を知り尽くした専門家が居たらどうだろう。
真実とはいかなくても限りなく真実に近づける答えを見つけることは出来るのではないだろうか。

ただそこで自身の固定観念を抱いたり専門家の声が絶対に正しいと思ってしまったらどうだろうか
真実は遠のいていくのではないかと言う事。

そういう意味で創価学会も日蓮正宗もこの法華経から少し外れた危険な思想であると感じるわけです。

151堅皇:2011/01/20(木) 23:09:44
秘密に関して言えば例えば曼荼羅に書かれている文字が秘密です。
それぞれそこに書かれている意味を理解しないと何故にこれ等の文字なのかと言う謎は解けませんからね。
もちろん謎なんかとかなくても良い、ただ曼荼羅に題目を唱えよというのが日蓮の趣旨ですが
でも理屈が解ればより深く信じる事が出来ますよね。
故に行だけでなく学も同時に推奨され、その両方を持ってして信を得るとの話なのですから。

御書や経文に置いてもこれは言えます。
現実に当て嵌めて、また自身が体験する事により謎が解ける納得するという事柄があると思います。
そういう意味で題目もまた秘密の1つであると言うこと。

題目の文字は誰にも隠してない言葉である
でもその本来の意味と言うものが秘密と言う事であると考えるわけです。

つまる所全てを公表しても解る人にしか解らない話でしょ。
これに対し日蓮正宗の中だけに伝わる秘密、秘伝書と言う類はこれに当たらない。
歴代法主だけが知りえる丸秘事項と言う事でしょ。
これは単に自分たちの権威を守るための道具であるとしか感じられないという話です。

152エキストラオ:2011/01/21(金) 11:00:31
★わたしは 組織の上の層の人々には無関心ですね。彼等がもし・
秘密を持っていたとしてもです。縁の無い者には『無縁』ですから
ね。 自分の手の届く所にあるもの・・それで充分だと考えています。

またそんなものが有っても知りたいとも思わないし知ったところで
無用ではないでしょうかね。

また『理屈が解ればより深く』とは思いませんね。信とは始めから
具わったものですからね。信力の場合色身不二です。

生まれたばかりの赤ん坊が教わる事なく母の乳を吸うのは色身不二
だからです。悪縁多くして基たる信が 偏屈してきますからね。

ここでいう善知識とは本宗から授かった御本尊ですね・私の場合ですが・・
日蓮大聖人は『余念なく』と・・仰せですが多くの人が この『余念』に
左右され翻弄され続けて逝きます。

これが解ったら次が知りたくなる・・これも余念の餓鬼界のあらわれで
しょう。そんな事しているうちに自分の人生は終わってしまいます。

境と智の冥合こそ究極の修行だと思っています。いわく『本地難思』と

天台いわく『本地難思の境智の妙法はしゃくぶつの思慮に及ばず如何に
いわんや菩薩凡夫をや』・・・・と日蓮大聖人もこれをひかれておおせ
ですよね。

私も含めて 末法のすべての人人はこの『しゃくぶつですら思慮できな
いという』ものを 理解したり慮ったり 解説したりはできない・・
と・・言ってるわけですからね。

それにしたがうだけです。それに対向して自分なりの悟りは不可能です
。いわく『不可思議・心行所滅・言語道断』の法ですからね・
ほかにはどうしようもないわけです。

/////////////////////////////////////////////////////////////////////

153エキストラオ:2011/01/21(金) 11:15:52

★日蓮正宗はある意味・ある人々にとっては危険な思想かもしれません。
しかしそれは悪いという同じ意味ではありませんね。毒も使い方によっては
大きな薬になりますからね。

わたしの場合末法の法華経は日蓮大聖人の御戒壇そのまま題目ですからね。
そういう意味では 末法無縁の釈尊の法華経はラーメンのスープくらいの
感覚です。あれば便利だが無くても困るというくらいでしょうか。

/////////////////////////////////////////////////////////////////////

154堅皇:2011/01/21(金) 16:38:16
>>エキストラオさん

> これが解ったら次が知りたくなる・・これも余念の餓鬼界のあらわれで
> しょう。そんな事しているうちに自分の人生は終わってしまいます。

これは確かに的を射てますね。
全てを知り尽くそうと思ったらそれこそ八万法蔵を
習いつくさなければならなくなりますからね。
となると何のため題目を唱えるかって話にもなりますからね。
法華経や諸経の智慧を活かすために唱える題目であるわけですから。

ただ言えるのは創価学会が近頃何だか変だゾと言うのが発端で
また創価学会対日蓮正宗の口論(法論と呼べる物ではない)を見て
なぜなぜみんな題目唱えているのにこんな口汚い論争してるのと思って
その原因を探ったのが切っ掛けみたいなものですから。

疑問がなければもともと御書なんてものは広げたりしませんでしたからね。
あまりにも創価、正宗共におかしいと感じたから自分で調べてみようと思ったわけです。

でもっておかしいと思える箇所をおかしいでしょと言ったところで
全く聞く耳を持たない様子ですからね。
信じるって行為は別の方向へ行くともう止めようがないんだなと言うのは感じます。
まさに「宗教はアヘン」なんだと思います。
不幸な状態に陥ってもおそらくそれが気持ちいいんだろうなって。

> 日蓮正宗はある意味・ある人々にとっては危険な思想かもしれません。

その自覚があるのであれば取り敢えずは大丈夫なんだと思います。
エキストラオさんは意外と割り切っている部分も多く見受けられるんで。

ただあえて言わせていただくと創価がおかしい事も去ることながら正宗も同様におかしいと思いますけどね僕は。

155エキストラオ:2011/01/21(金) 17:20:36

★おかしいところを おかしいと言ったところで〜〜

一緒に共感してくれというなら・お付き合いもしますがね・・
ほんとはね・・そうだそうだそのとおりだと・言ってもはじまり
ませんからね・・

私の場合・・『臨終只今にあり』と題目を唱えることに尽きます。
日蓮大聖人は『臨終の時を待って御覧ぜよ』と おおせになり・
信仰の究極は臨終ですよ。 

まず仏法を学せんものは臨終を先に学すべしと・・台聖人様も、
おおせですからね・・ 若い者が いや俺はまだ若いから先で
いいわ・という問題ではありません。ね。

学会の指導者も現在では高齢者所在不明のようですし・・
いくら・勲章貰っても 最期だけは誤魔化せませんからね・・
これは臨終只今という 覚悟の信心を積み重ねていかなければ
ジタバタしますからね・・だれでも。若い者ほど あがくらし
いですよ。

オレの最期はこんなはずじゃなかったと・・・・・・

/////////////////////////////////////////////////////////////////

156堅皇:2011/01/21(金) 22:23:02
>>エキストラオさん

ちゅうか臨終が最後だと思っているからジタバタするんですよ。
仏法は三世を顕し無始無終といくども言ってるんですけどね。
終わりがないと言うなら焦る必要はないと思うんですけどね。

現在所在不明の高齢者さんですが物凄く現世に対する執着が強いですね。
もちろんそれ自体は悪い事ではないですけど
今世を精一杯生きるという観点では。

ただ何かが違うと思いましたね、学会の葬式に出て彼の出したとされる弔電を聞く限りでは。
単に迫り来る死が怖いという印象は受けましたね。

僕は思うんですが人間はどう死ぬかを考えるよりどう生きるかを考える方が建設的だと思いますね。
仮にそこで死が訪れても納得行く人生を過せるのではないかと思います。

素晴らしき臨終と言う事に力点を置くということは何処となく念仏思想の匂いがするんですね。
明日死んでも満足だという思いで毎日生きていけばそれで構わないと思います。
もちろん如説修行は大切な事なのですがそれは何のためであるかと言う事。

臨終時や来世を目的に考えるという事は違うんじゃないかなと思っています。
もっとも今身を潜めている指導者さんの様な現世欲ともまた違う
特に会員が考えている日顕さんとのご長寿対決と言う事自体が
物凄く不毛さを感じられずにはいられないんですね。

157エキストラオ:2011/01/22(土) 21:19:55

★長寿対決ね・初めて聞きましたね・・日蓮大聖人は臨終を学ぶというのは
一番最初に持ってきていますね。それを深く学ぶ事は 質の高い生き方・・
つまり菩薩行ができるということです。京阪君のように『オレはこういう立場
で頑張ってるんだ・それも先生のおかげだあ〜』みたいな人生に『価値』は
まったくありませんがね。

ですからどう死ぬかという事ではなく 衆生所遊楽の行き着くところが・
臨終のすがたでなければいけない。

ところで日蓮大聖人はなんと言っているのか? 結局は『一切衆生南無妙法蓮華
経と我も唱え他をも勧めんこしこそ今生人界のおもひでなるべき』とおおせの
とおりですよ。つまり題目行と折伏行以外は『無益なり』の教えのままです。

ですから臨終は最期だとおもうのではなく 生のはじまりと捉えるから・
一番大事な 継ぎ目の節にあたるわけです。

ともあれ・学会の指導者は とりわけ臆病でしたから、今頃 音沙汰がな
いと言う事は・相当に ジタバタしているのではないかと容易に想像が・
つきますね。

とりわけ私は日蓮大聖人がそうしろと仰せですから そのとおりにしていく
だけですね。『臨終ただいまにありとさとりて〜〜』ですよ。ほかの誰でも
なく日蓮大聖人様の教えですから。

//////////////////////////////////////////////////////////////////////

158堅皇:2011/01/23(日) 01:24:16
>>エキストラオさん

> ところで日蓮大聖人はなんと言っているのか? 結局は『一切衆生南無妙法蓮華
> 経と我も唱え他をも勧めんこしこそ今生人界のおもひでなるべき』とおおせの
> とおりですよ。つまり題目行と折伏行以外は『無益なり』の教えのままです。

つまるところ創価と正宗の違いって何処にあると思います?
どちらも上の条件には当てはまってますからね。
正宗の方たちはその理由がニセ曼荼羅にあると判断されているようですが
僕はその見解が違います。

僕が考える理由はご祈念文(ご観念文)にあると思っています。
学会が現在のご祈念文になったのは2004年です。
この年を境に学会の情勢は激変してますね。
会員数の減少や一般的に確かめやすいのは公明党の投票数の低下ですかね。
それより何より組織内の雰囲気が変わってきて、気持ち悪いくらいの池田さん中心の組織へと変貌してきています。
本尊に問題があるのであればこの波が1990年以降に来るはずですが
この時の創価学会は完全に上り調子でありその片鱗は見えません。
ですから僕は問題は曼荼羅にはないと考えています。

159エキストラオ:2011/01/23(日) 17:26:59

★なるほどね・・・私は『感応妙の原理』により いくら精巧に創られた
ニセ物本尊でも やはりニセ物を拝めば ニセ物の感応妙に応じて 現在の
ような 例えば京阪君のような 偏頗な人間が出来上がっていくのだと、
思っています。

また観念文に問題ありとする考えかたは 確かにあるとは思いますが、やはり
対境となる本尊から影響を受けることは間違いありません。

池田大作氏の ごく最近の表情は 如是相との方便品に有る如く みられた
相ではありませんね。二度と見たくないほどの激変ぶりは館内から『うおー
ーーっ』と どよめきが立つくらいに衝撃的です。

ですからもう二度と 以前のようなスタイルで 会員の前に登場することは
出来ないでしょうね。この人の生き方はそっくりそのまま・生きてきたよう
にしか 死ねないでしょう。   おわかりですね。

非情に哀れではないでしょうか。公明党の総得票数から 会員数の激減は、
目を覆うばかりですが、これとて 隠しようがありませんしね。ですから
この会に対して 目を剥くほどの事は もはや ありませんよ。自然消滅
の道を突っ走ってますからね。

もはや会員の御観念文は 感謝しまぁ〜〜すぅ・・から 先生の御健康に
集中しているらしいですが・誠に 滑稽な話です。

///////////////////////////////////////////////////////////////////

160堅皇:2011/01/24(月) 00:56:06
>>エキストラオさん

> 対境となる本尊
本尊が対境と言う事ですか。
悪いけどこの考えは日寛教義になるので僕は信じません。

で、対境って事は本尊と境地冥合すると言う話ですね。
これって真言曼荼羅の理ではないですかね。
対する日蓮の曼荼羅は法華経の虚空会の付嘱の儀式を表現したものだと思われます。
衆生が仏と一体となるのではなくあくまでも智慧を授けると言うものであります。

つまり衆生が仏となる概念が既に真言と法華経では違うんですね。
仏とは仏と境地冥合する事ではなく法という智慧を得て仏に成るということですね。
この時点で真言は仏法の理から外れていると思いますし法華経は理にかなっている。
つまり日寛さんは日蓮の法華曼荼羅を真言曼荼羅の理を説いている事になるかと思います。

この「対境となる本尊」と言う考え方が一子相伝というか法水瀉瓶と言った思想を生み
曼荼羅は法主しか書写する事はできないと言う考えになったのだと思います。
というか曼荼羅書写が法主だけとなったのは何時頃からなのでしょうか
少なくとも日興さんや日目さんの時代ではまだそんなルールもありませんでしたし。
ともかく「対境となる本尊」という理は真言の曼荼羅の理だと思います。

ちなみに対境を対鏡と言い出したのは創価学会ですかね。
対鏡なんて言葉は仏法にはありませんしこれは翻って自分が仏と言う事ですかね。
となればこれは禅の理に近い気がします。

ともかく僕は法はあくまで法であると捉えていますのでオカルトではなく理論的に考えていきたいわけです。
法主が書くから効果があるという考えはあまりにもオカルト過ぎると判断しています。

161堅皇:2011/01/24(月) 01:05:40
失礼、
×翻って自分が仏と言う事ですかね。

○翻って自分が本尊と言う事ですかね。

と表現した方が良かったですね。

162エキストラオ:2011/01/24(月) 13:04:40

★大聖人の御本尊は『未曾有』ということであって天台の理とは違うと思います。
自行化他にわたるという点でも相違点はありますよ。

ともあれ『信を以って入る』以上でも以下でもないと思っています。
日蓮大聖人おおせのごとく『事の事を行ずる』ということで 納得しています。

法主が書くからオカルト・という考え方は確かにもっともだと・普通の人々は
考えて当然でしょうね。

『誰が書いた本尊も 全てがまったく同じもの』というかんがえが 変化しまし
た。本や手紙のように単なる書いてある内容がわかればよいという 利便的な、
利用としてのものならば 確かにそれでいいものと考えます。しかし本尊と成る
と 単なる書いてある文字によって人生の未知の部分の影響も受けるかもしれな
いという懸念があります。今の我々の感覚からすれば 未知の影響は殆んど・解明
されてないことだらけです。そこの部分に焦点を当てて考えるときに。

未だ 世間の人々は知っているとは思えない 最先端の科学からの報告が私の
アテンションを捉えました。それは量子物理学の話になり 甚だ僭越ではあります
が、『量子物理学の未解明の分野のひとつに量子エンタングルメントという
性質があります。』  これは電子や光子という原子内粒子同士が一度接触すると
其の後 どれだけ離れても〔何億光年の隔たりがあっても〕その粒子同士は、認識
し合い影響〔afect〕を 互いに及ぼすという〔behave〕振る舞いが発見された事で
す。

こういう次元の問題は今後の量子物理学がさらに発展していくことにより、
『本因下種』というのは とらえどころの無いものから 手の届く 見える形の佛の
『諸仏智慧甚々無量』の一端が垣間見えてくるのです。いってみれば・今の
創価の皆さんに此の事を説明するのは 『江戸時代の人々に特殊相対性理論を説明する
のと同じくらいに無謀な事』は・私は知悉しています。

ここで お分かりのように 同じ物を創るといってもその物質に接触した人物の十界十如
一念三千の情報の全てが創られたものとの共有情報を同一にするということです。
これを『量子エンタングルメント』〔非局在性〕と呼ばれています。

これをここで 発表するのは 堅皇さんがあえて創価から出られたというある意味の
『求道者』であるという理由だからです。もちろん創価のみなさんには・
『驚天動地』であり かかわりたくない事実である事は知悉しているので・
あしからず。

とにかく・700年前の日蓮とは そういった〔relates〕拘りのない人々で
創られた『モノ』には 本物の『日蓮』とは まったく無関係のそういう
『別物の情報の封印された量子で充たされた本尊』ということになり・

それを我々は『魔札』ともいわざるを得ない・・・ということです。

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163エキストラオ:2011/01/24(月) 15:48:36
★つまり法主が帯びている日蓮という量子原子粒子が 書写された御本尊に大きく影響
している・・・

他人が書いたものはあくまで他人の情報原子粒子光子量子の分配によって
振る舞いが成される・・・ということです。

もしも麻原彰晃が本尊書写したとしても それは『同じものでなく』
麻原の量子原子粒子に その本尊はAFECTINGされるということだ・・

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164堅皇:2011/01/24(月) 17:49:51
>>エキストラオさん

完全に法華経や日蓮を捨てて日寛教の信者さんと言うところですね。
学会員さんも同じですが
本因妙とか独一本門の義は念仏の「横超の誓願」の理を知れば同じだと言う事が解るんですけどね。
日寛さんの曼荼羅の解釈は先に示した通り真言曼荼羅の理と同義。
ちょっと法華経を読んで他宗と比較すれば直ぐに解るんですけどね。

そりもそのはず正宗系の方々は御観念文で毎日歴代法主の言ってる事が真実だと祈願してますからね。
この凝り固まった思想から離れられるわけがない。
全ての正宗系の独善性、異常性は全てこの御観念文によるもので説明が付く。

さて、それぞれの御観念文の意義は日蓮は何処で説いているでしょうか。
その殆どが真蹟から外れたものであったり日寛教義を基にしたもの。
そもそも勤行の意義とは何か

月水御書にはこうある。
「されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、」と

"習い"読ませ給い候へとある訳ですから現在の様に暗に音読すればよいと言う事ではない。
暗に音読するのは南無妙法蓮華経と言う題目に関してです。
完全に日寛教学による話のすり替えですね。

暗に音読した後に法華経から外れた「歴代法主真教」の教義を観念し続ければ否が応でもおかしくなりますよ。
法華経と言う経典を理解して良くよく読めばは暗に信じるための理論が書かれた経典です。
この法華経を読んだ後におかしな御観念文を読めば簡単に「歴代法主真教」や「池田真教」ってものが出来上がると言う話ですね。

165堅皇:2011/01/24(月) 17:56:21
ちなみに麻原彰晃が本尊書写しても本尊にはなりますよ。
それは犯罪者である数学者が顕した数式も理にかなっているものであれば
立派に数式としての意義がなせると言う事です。

数式が合っているのに犯罪者だと間違った答えが導き出されると言うのであれば
それはもうオカルト以外なんでもないという話です。

逆に言えばどれだけ良い人が話した事でも全て正しいとは言い切れないと言う話ですね。

166エキストラオ:2011/01/24(月) 20:24:37

★同様に 堅皇さんの考えも全て正しいとは言い切れないという話しです。

そのように『凡夫たる人の 語ることは全て 正しくはない』という大前提で

私の受け止めは成り立っています。ので悪しからず。

犯罪者の数式に叶っている・・と云う意味と私の 先ほどの話は 噛みあいませんね。

という事で 無理に理解は求めません。人には得て不得手があるのは・

当然ですからね。

要するに『成仏を願わなくても学問として仏教はまなべます』からね。

肩肘はらずに 気軽に行きましょう。オカルトで結構ではありませんか。

オカルトではダメだという前提で話しをするとそういう事になりますね。

いのちの問題ですからね・既成の答えは不要なんです。求めているものが

ある者にとってオカルトだった・ようだった・・これもありですよ。

肯定・否定だけのモノサシでは計れないものもありますからね。

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167エキストラオ:2011/01/24(月) 20:29:00

★量子物理学のはなしを堅皇さんにしたのは 間違いでした。済みませんが
無かった事にしてください。  現証にはしかず・・でした。
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168堅皇:2011/01/24(月) 21:03:48
>>エキストラオさん

別に僕の話を信じて欲しいと言う気持ちはないですね。
逆に僕の話を鵜呑みにされても困りますからね。

そうではなく誰それの話に固執することはないのではないかと言う話です。
それが法華経が教えてくれた真実である諸法実相ですからね。

それに対して学会は池田さん一人に固執しているし
日蓮正宗は日蓮正宗で歴代法主と言う人たちの考えだけに固執している。
これが問題ではないかと言ってるわけですね。

それもこれも基本に置いて考えている教学が
日蓮でもなく法華経でもなく日寛さんにあるからではないですかと言ってるわけですね。

169エキストラオ:2011/01/24(月) 21:21:26

★ 堅皇さんにとってそれは大事な事なのでしょうけれども・私にとっては
別に大した問題ではないのです。 悪しからず。

ただ・歴代法主が替わるので、なにか特別な問題でもない限り安泰ですよ。
令法久住という観点からいえばね・・

しかし・池田さん一人に固執というのは 問題がありますよ・世襲とか
外の方法で 権力の引継ぎをしていかないと 後々大きな禍根を組織が
遺すことになりますからね。

それを承知で 今まで池田氏ただ一人のお山の大将に甘んじて来てしま
ったのは・あそこの体質がそうだからでしょう。
どのみち成るようにしかならないんだからね・・じっと静観もこれまた
いいのではないかといった具合ですね。

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170堅皇:2011/01/24(月) 21:54:05
>>エキストラオさん

考え方の違いや信じるものが違う事に関してとやかく言うつもりはないですから。
これは信教の自由の範疇です。

ですから正宗の方が歴代法主を信じたいんだとか
学会の方が池田さんこそが信心の根本だと言う事に対して無理にやめさせるような無粋な事は考えません。

ただ一応に正宗も創価も根本が日蓮だの法華経だのと主張してくるから困るんです。
君たちの信じているものは日蓮でも法華経でもなく歴代法主や池田さんだって思想だってね。

どっちが日蓮の思想に近いかと言う討論の場で日寛さんと言った人の言葉を交えるのがどうかしていると思うわけですね。
ともすれば正宗側も戸田さんや過去の池田さんの言葉なんかも用いてくる。
これだと確かに創価学会と言う組織の思想の矛盾点は付けるが
自身の正当性の証明には成り得ませんからね。

こんなやり取りを終始やりつくしているので創価と正宗の討論は見てて不毛だと感じるわけです。

ハッキリと双方「歴代法主真教」や「池田真教」だと言ってくれるとスッキリするんですけどね。

171エキストラオ:2011/01/24(月) 23:48:00

★まあ・それは無理でしょうね。文部省届けがそう出ていますからね・

面倒でしょう。信徒たちは・ほぼ御戒壇様を信仰しているわけですから

学会の言うように御法主を拝むなんてことはありませんからね。もともと

御戒壇さま・・で・・通ってきた宗派です。堅皇さんがどうしてもスッキリ

したいというのなら、掛け合ってあげてもいいですが、おそらく門前払い

になるのがオチでしょう。根本は御戒壇様・・これだけのことです。

私はね。 ある意味で・学会が題目根本・御書根本と謂いますがこれは・

根本の乱用でしょう。そんなに根本ばっかりあるから迷ってしまうわけ

です。////////////////////////////////////////////////////////////

172堅皇:2011/01/25(火) 01:00:27
>>エキストラオさん

> 掛け合ってあげてもいいですが

の言葉だけでも、なかなか僕の趣意を捉えていて頂いているものと思います。
つまるところ法華経の根本である題目と言うのが
本当に御戒壇様を信仰する事なのか?と言う事なのですから。
これを言ってるのはどう考えても日蓮ではなく日寛さんって人だろと言う話です。

ですから学会が正宗とはなれたことに関しては何も不満もなければ不信もなかった。
ただ離れてみて解った事は学会は法華経の題目を根本にしようとしているのではなく
単に法華経の題目を使って池田さんと言う人物を根本にしようとして
組織を大きくしようとしているだけなのではないかと思って組織から退会させていただいたわけですね。

組織のリーダーなんていうものは正直誰がやっても構いません
そんなものなりたい人がなればいいのではないかと言うのが僕の考えです。

正宗教義には日蓮の思想にはない唯一人の人、唯一つの物を重んじる思想があります。
つまるところ池田さんはこの部分に蜜を感じたんだと今は思いますね。
おそらく池田さんは第一次宗門問題の時点で同じように日寛教学の誤りに気が付いた。
でもそこで改革を訴えると師匠の戸田さんの思想を否定する事になる。
そこで逆に利用してやろうと考えたのだと思います。

本尊模刻問題はハッキリ言って池田さんの確信的行動で正宗の識ある上層部も
あれ自体が本尊と成りえることも充分に承知の上だと思っているとも推察できますね。
あのままでいたら法主以外が作った曼荼羅でも充分に本尊と成りえる証明になってしまっていたからですね。
学会が第二次以降直ぐに曼荼羅の制作に踏み切れた事も納得出来る話です。
つまるところ正宗は学会本尊をニセモノと揶揄してますが識ある上層部はこれをニセモノとは認識していないと思いますね。

173堅皇:2011/01/25(火) 01:08:52
単純に言ってしまえば日寛教義がそもそも日蓮の本義ではないと言う事ぐらい
学会上層部も正宗上層部も完全に周知の事実で直接話をするならば何を今更と言う話でしょう。

知らないのは一般学会員と未だに御戒壇様を信じている法華講さんぐらい。
上の考えている事は日寛教義をどう自分たちが利用し会員を丸め込めるかぐらいでしょう。

上手く丸め込む事ができれば後は兵隊達が存分に戦ってくれるという感じですかね。

174エキストラオ:2011/01/25(火) 10:16:45

★いいですね・・・それでもいいんですよ。キセルみたいなもんでも・・

1222年出現の日蓮大聖人と1900年代生まれの私が いればそれでいいん

です。その間取り次ぐのはすべて凡夫ですからね・それをとやかく云っても

無意味でしょうね。

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175エキストラオ:2011/01/25(火) 15:22:43

★うまく丸め込むというのは・なかなかいいものです。私も学会員を

丸め込んで 法華講に 帰命させる・・これはなかなかの快感です。

その元学会員が あんな所からぬけられて本当に良かった・・・・・

と・体験発表させる所までくると・なかなか気分のいいものです。

本人も喜び・丸め込んだ私も喜ぶ・・利他ですね。これは・

本当の意味での価値創造ですよ。 いまの創価学会にはないもの

ですね。

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176エキストラオ:2011/01/25(火) 15:29:31

★つまり広宣流布といっても 大多数の人々を うまく丸め込む
ということですから・ ただ『丸め込む』という言葉の響きが・
ニュアンス的に 良くない様な気もしますが・私は気にしません
ね。

日蓮正宗の教えを信じ込ませて丸め込む・・なんと素晴しいでは
ありませんか。

それを兵隊が勝手にやってくれる・・そして徳を積み・罪障も
消せる・・・ 実に理想的社会の実現です。

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ですから 創価も そのうち・日蓮正むねに丸め込まれる世の中になり
ます。  ま・・こんなところですかね。

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177釈子・創価門流:2011/01/25(火) 18:23:21
>>176
パッチワーク板マンダラ、相伝書パクリ、本仏デッチアゲ・・・
「日蓮正むねに丸め込まれる世の中になり」←なる訳ない(爆笑)

178堅皇:2011/01/25(火) 20:27:33
残念ながら正宗教学の基本ベースは謗法厳禁ルールの中で成り立っていますから
丸め込める範囲は内部の人間に限ると言う事ですね。
つまり自分の組織のトップに対しては絶対侍従関係で通じるけど
一旦袂を別れた相手に対してはそれはもう敵でしかなくなります。

丸め込むどころか待っているのは争いしか起きませんね。
兵隊同士が相手の兵士と戦う事しか考えることが出来なくなる。
この戦いは自分が朽ち果てるまで終わりはないですね。

179堅皇:2011/01/25(火) 20:43:40
> パッチワーク板マンダラ、相伝書パクリ、本仏デッチアゲ・・・

これがそのまま日蓮正宗の歴史ですからね。
自身の崇める御戒壇様が既にパッチワーク板曼荼羅ですから

パッチワークでも充分に本尊として成り得ることを既に学習していますからね。
これがばれてしまうと御戒壇様の権威も何も崩れちゃいますからね。
だから学会版の曼荼羅をニセモノと警告しているだけですよ。

パクリ、デッチアゲも常用手段。

これは日蓮正宗内では常識な話。
知らずにニセモノと騒ぎ立てるのは兵隊信者だけと言う話ですね。
日顕さんも池田さん同様、宗内の洗脳能力に長けていると思いますよ。

180エキストラオ:2011/01/25(火) 23:39:02

★ええ・・それでいいんです。そこへ行けば御戒壇様がおられる。
充分ですよね。

ただ・考えかたの違う人間は山ほどいますからね・・そう・一億人いれば
一億人・全部が考えかた微妙にちがいますからのぉ〜。

所詮は 同じくなるのはなにひとつありませんよ。世界が一つに・・・
ええ・絶対あり得ないことですからね。

パッチワーク・あれね・芸術ですよ・・素晴しいです。パッチワークの
先生を知っていますが感動しました。独自の世界があります。

ええ・・プライドはそれぞれにあるようですね。洗脳する人が居る・
つまり洗脳される人も居なくてはならないのですよ。 芝居ですからね
そのどちらも演じられるようで有れば結構人生は楽しいですよ。

ええ・お芝居ですね・・ここに登場してくる人物・それぞれが役者です
ね・・いい役者ですよ・・・成り切ってますからね。それぞれが仮諦の
すがたですからね。

到達点などというものは存在しませんよ・・写真のように停止した広宣
流布のすがたなんていうものもありませんよ。誰が決めるのでしょうか

此処に居る登場人物の全てが やがて・近い将来死に絶えていきますが
なにも残せませんし残りませんね。それを不毛ということも出来ますが
不毛=悪い事じゃない。しね。

あたしゃ 毎日が歓喜の中の大歓喜ですね・不思議と。なんにも不満は
無いしね・・イッパシのミニ指導者面した人観察してるのも楽しいです
よ。信心とは 『文句をあげつらう事でもなければ グチを言うことで
もありませんからね』

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181堅皇:2011/01/26(水) 00:06:57
エキストラオさんの場合
嘘だ〜〜っと言う話ではないですかね。
それはそれでいいんじゃないのと言うのは基本姿勢ですね。

第三者から見れば互いに自論になる訳ですからね。
御戒壇様がちゃんとパッチワークであると言うことを認識した上で信仰されているわけですから
それはそれで構わないと思います。

> あたしゃ 毎日が歓喜の中の大歓喜ですね

これは結構大事な事だと思います。
ただ歓喜じゃないのに大歓喜だと言い聞かせているとすれば
それはちょっと考え直した方がいいんじゃないですかと言う話ですからね。

それはとても見ていて痛々しい感じがしますからね。
如説修行の中でちゃんと衆生所遊楽を堪能しているかどうかです。
届きもしない衆生所遊楽をただひたすら夢見ての如説修行であれば
少し立ち止まり見つめ直す必要があるのかとは思うだけですから。

182エキストラオ:2011/01/26(水) 15:08:36

★ 御本尊に向かい奉りただ南無妙法蓮華経と唱える・これ以外に遊楽は
ない・・と 日蓮大聖人様は おおせです。

そのとおりです。過去の宿習により 歓喜を観ぜられない人が居るのも
また事実です。ただ強いて 説き聞かす・・化他行も自行も大切ですね。

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183エキストラオ:2011/01/26(水) 19:42:28

★ここの粛某くんてのは・驚くほど ノー天気だね・・・久しぶりに

大爆笑させてもらった・・・・いや・・アリガトアリガト・・・

庶民の苦悩救済だってさ・・・・

はははははははははははははははははははははははははははははははははっ・・

おかしいね。        

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184京阪電車でいこか ◆AIo1qlmVDI:2011/01/29(土) 01:39:52
>>183
「庶民の苦悩救済」を“しない”宗教だと認めたんか。なるほど。

さすが、人の死をもてあそぶ“信徒”(=トラオ氏)の所属する邪教だ。

185副管理人Z:2011/01/30(日) 21:37:23
188 :怖くて名乗れません:2011/01/27(木) 09:10:35
所や能と言っても依、用、化、証といろいろあって難しいです。
正しい使い方をご存知の方おられましたら教えてください。
よろしくお願いします。

186副管理人Z:2011/01/30(日) 21:38:17
189 :堅皇:2011/01/27(木) 11:22:07
>>187 >>188 所依とはそのまま依り所の事ですね。
で、能化とは指導者の事なので師と言う事です。

所化とは所依により得たものを伝えるという感じですね。

これを仏法に置き換えると
所依が法であり能化が仏であると言うこと。

ここで何故に所化が出てくるかといえば法は人がいないと広めれないからですね。
故に「人法共に尊し」と言う事ですね。
しかし人を依り所とはしてはいけないとするのが「依法不依人」
これはご本尊(法)が所依でありご本尊を教えてくれた能化(仏や師などと言った人)を依り所にしてはいけないと言う事ですね。

能証や所証と言うのは証と言う事ですから能証が成仏と言った証(果)であり所証が法として証したもの。

これらを踏まえて仏法とは如何様にして能化(仏)となるかを証した法であり所依となるものと言う事ですね。

しかし仏法では所依となる経文が山の様にある。
では一体どれを所依とするべきかと言う問いに日蓮はそれは法華経であると言ったわけです。

何故所依とすべき経文が法華経なのかといえば法華経のみが真実を明かしているからだと。
ではその真実とは何かといえばそれは「諸法実相」であると。
諸法がそのまま所依であり実相が能化と言う事ですね。

つまり法華経では所依を単なる法華経のみではなく諸法(一切の法門)が所依であるとしたからですね。
また日蓮は本因となる諸法が九界からなり本果である実相が仏界であるとも言っている訳で
ここで「九界即仏界」「煩悩即菩提」が成り立っているわけですね。
故に一切の法や人は決して捨ててはいけない、その全てが仏に成るための本因であるからだと言っている訳です。

187副管理人Z:2011/01/30(日) 21:39:07
190 :エキストラオ:2011/01/27(木) 13:39:53

★その本因たる 本化第一番の行法を 御戒壇様だったと いう事で
我々は信仰している訳です。 いやそれを 事もあろうに池田君は・
捨閉閣倣としてしまった訳です。

しかし有り難くも『金剛宝器戒』により・本因妙を一度下種されたが
最期 成仏の佛因は植えられたので・最期は救済されます。

有り難い事でございます。 合掌・・なむなむ ちぃ〜〜〜〜ん。

////////////////////////////////////////////////////////////////

188副管理人Z:2011/01/30(日) 21:39:43
191 :堅皇:2011/01/27(木) 16:33:18
>>エキストラオさん

> その本因たる本化第一番の行法を御戒壇様いう事で我々は信仰している訳です。

故に日蓮正宗は法華経を捨てたと言わざるを得ませんね。
法華経では所依となる本因は諸法だといってます。
諸法とは言うまでもなく釈迦が説いた八万法蔵の事ですね。

この諸法実相という真実に反しているのが真言と言う事になりますね。
真言はこの諸法実相を捨てて真言こそが実相だとしたわけですから。
つまり真言はこれまで積み上げてきた法を全て捨て去ってしまったわけですから。
対する法華経はあくまで諸法実相ですから法華経を第一に中心に据えれば密教経典に書かれている事も諸法の1つと捉え
法華経に組む入れることが出来るわけですね。

さて、そこで疑問が生じます日蓮も南無妙法蓮華経が本因である「本因妙」と言ったのではないか?
これはつまり南無妙法蓮華経が真言であると言う事で諸法を捨て去ったのではないかと。
また御戒壇様が本因たるものと考えるのは真言と同様なのではないかと。

いやいや「本因妙」たる言葉は日蓮の真蹟には全く残っていないというのが近年の調べで明らかになったこと。
現存するのは日時さんの書写物しかなく確固たる日蓮が書いたとする証拠は残ってないのですね。

そこで日蓮は法華経の諸法実相を否定すべき「本因妙」と言うものを本当に書いたと考えるか?
法華経第一と唱えた日蓮がそんな法華経の理を捨てる事を言うとは到底思えませんね。
故にこの「本因妙」と書かれている「本因妙抄」「百六箇抄」は世間一般で偽書扱いされているわけですね。
創価学会もこれに倣い最近では「本因妙抄」や「百六箇抄」を用いる事はありませんね。

未だにこの真言まがいの「本因妙」を平気で使っているのは日蓮正宗ぐらいです。
「本因妙」は日蓮正宗"だけ"に伝わる秘伝だそうだ、つまりはこの秘伝を使ったときから日蓮正宗は法華経を捨てたという事ですね。

189副管理人Z:2011/01/30(日) 21:40:22
192 :エキストラオ:2011/01/27(木) 17:44:15


★とりもなおさず・正宗は インド応誕の釈尊は 無縁の者くらいの
扱いですよ。ですから釈尊の法華経も日蓮大聖人から見れば・ものの
数ならず・・ですね。もちろん釈尊の法華経も去年のカレンダーくら
いの価値にしか見ていません。

末法の法華経は『御戒壇様』なんです。シンプルですよ・・でなきゃ
一切衆生の救済は不可能ですから。

疑問たら真言たら真蹟たら証拠たら理たらなんとか抄たら・一切不要
なんですよ。 そんなもんに拘りあっていたら・あっという間に人生
終わりますからね。

釈尊の法華経も諸法実相も まったく不要のガラクタですね・当方か
ら見れば・・・ですがね。ですから・ 信心の対象が全く違うという
のは・大変面白いですね。

3000年前の骨董品を撫でさすり大切にしている人々もいていいんです
またそういう方々が居ないとつまりませんからね。でも・ある人々に
は・そういう骨董品は『味噌汁の具』にもならん無価値なものです。

それを価値あるモノとして眺める・・それは自由な世の中なんですか
らね。  いや・有り難いことですよ。

私等流に言えば末法の法華経信仰は 御戒壇様信仰・・法華経を持つ
とは御戒壇様に身口意の三業で信仰する事ですよ。これを法華経を・
持つといいます。

日蓮大聖人様も『受けるは易く持つは難しされば成仏は持つにあり』
と・・実にシンプルですね。何を持つかは 其の人々ごとに違います
それを無理強いしない事です。

二座の御観念文は傑作です。 もう二度とこのような素晴しい御観念
文はつくれないでしょうね。 本地難思ですよ・・しかし・・
その本地を『我も得たり我も得たり』『オレもオレもわかっちゃった
ンだよん』という『タワケ者が末法には頻出することになっています
から』別に驚く事でもないわけです。

本地は『わかっちゃったから秘伝じゃないもん〜』と云う人がたくさ
ん居るわけですね。 いいですね・・しあわせで・といったスタンス
で眺めている人々もまた居るわけです。

///////////////////////////////////////////////////////////////////

190副管理人Z:2011/01/30(日) 21:41:07
193 :しげきょん:2011/01/27(木) 19:13:12
坊さん丸儲けを許す体質の宗門とは違う創価学会です
坊さんの日蓮学はうまいようにて供養餓鬼の非難をかわすものです


194 :しげきょん:2011/01/27(木) 19:24:22
日蓮正宗は日蓮もどきもどきのくせに本物ぶるな!

191副管理人Z:2011/01/30(日) 21:41:44
195 :堅皇:2011/01/27(木) 21:34:04
>>エキストラオさん

シンプルなのは良いんだけどその「御戒壇様」って
日禅さんの曼荼羅のパッチワークですよね。
構造を言えば学会の日寛曼荼羅と同じ作りとなりますから
確かに本尊と言えば充分に本尊に成り得ると言う話ではあるんですけどね。

それとも日蓮正宗にとっての大聖人って日禅さんとなるのか
はたまた「御戒壇様」ってのも血脈相承の儀式というものがあるものか
それこそ法主だけが知りえる秘伝と言うやつですね。

であればそろそろ古くなってきた「御戒壇様」は新しいものにお取替えになる日もくるかな。

諸法実相という法華経の理が不要のガラクタで
パッチワークの「御戒壇様」がそれ程大事ならばそれはそれで良いでしょう。

192副管理人Z:2011/01/30(日) 21:42:33
196 :エキストラオ:2011/01/27(木) 22:19:27


★此処ではパッチワークの云々という表現は少数派ですね。でもいいんです
。なにかを 拠り所として 人は生きているのですからね。

日興上人が 身延沢から お運びになられた御戒壇様・・はなしだけでも、
感激しますよ・私はね。

人は信じたい・・そこから入るのですよ。何故か・『有り難い』とおもう
からなんですよ。これを初随喜といいます。一念信解ともいいます・・
此れだけ有れば成仏できると 日蓮大聖人はおおせです。何故か????????

法が偉大だからです。 学問ある者も無い者も 富ある者も無い者も・
老若男女 悪人善人無差別に救われなきゃ大乗とはいいませんからね。

もう理はいいんですよ・・『事の事を行ずる』 これが本物ですね・
少なくとも私はこう信じているわけですよ。 信じられない人に信じろ
といっても・無理です。

有り難いと思えないものに有り難いと思え・・・無理ですね。
秘伝・儀式・血脈相承・素晴しい言葉ですよ・・

・・なあむぅーーーーー・・ちぃ〜〜〜〜ん・・・

//////////////////////////////////////////////////////////////

193副管理人Z:2011/01/30(日) 21:43:10
197 :怖くて名乗れません:2011/01/28(金) 05:23:35
>>187 >>188のものです。
訳あって名乗れません。皆さんすみません。
堅皇さん、エキストラオさん、はじめまして、そしてお答えいただきありがとうございます。とくに堅皇さん、目からウロコです。感激です。勉強になりました。ありがとうございました。

また、これもちょっと気になっちゃって。
諸法と実相を違う角度で見えたりします、これって私だけでしょうか?
諸法がたえず変化する無常に属しているように。
実相がその諸法の奥に、つまり変化する層があってその層を越えてさらに奥に常に安定してというか、常住?とか普遍とか、それが実相?

寿命のうえからは無常に属するみたいですが、寿命間の範囲では、
地球を例にすると、地表からマントルまで?変化する層に属しているような部分と、
一番中心(核)が、ジョウジュウエクウ?は、あるとしても安定している部分。
これを地球の諸法と実相でみるなら中心の核が実相でその他が変化する層に属する諸法?
人間の体なら心臓が実相でその他が変化する層に属する?
じゃ人間の心では諸法と実相は?、心と密着してるのが迷いと悟り、客観でいうと無明と法性(意識からみて)、十界はここでは触れませんが、とにかく安定、常住?普遍?なものを獲得するために、知る、手に入れるために頑張っているということを、考えたりします。科学は、わかっていないところはあるにしても、「これが真実だ」が、どんどん変わっていきますよね。宗教もその範疇なのでしょうか?
こんな考え方はどうなのでしょう?

自己紹介もなしなので、そろそろこのへんで失礼します。ご迷惑おかけしました。
副管理人Zさん、寛大なお心、感謝いたします。ありがとうございました。

194副管理人Z:2011/01/30(日) 21:43:44
198 :堅皇:2011/01/28(金) 06:48:29
>>エキストラオさん

初随喜と一念信解は残し諸法実相は不要のガラクタですか、その辺の選択基準が良く解らないけど。
となると「諸法実相抄」もガラクタと言う事ですかね「実相は必ず諸法」と言ってるんですけどね。
日蓮正宗としては捨てときますか「本因妙抄」は大事だから取っておくとして。

あらためて四箇の格言を見るとこれらは悉く諸法実相から外れているわけですね。
例えば念仏、これは諸法には他力の浄土門と自力の聖道門と二つの法門と立て別けて
聖道門は大変だから浄土門で仏と成りましょうというお話。

当然念仏では聖道門と呼ばれる諸法は捨てられちゃいますので諸法から捨て去られてしまいます。
また、自力を捨て他力だけを求めるわけですから自ずと助けを乞うばかりの信心となってしまいます。
「念仏無間」とは日蓮もなかなか上手い表現をしたものだと感心させる言葉ですね。

仏法は自行化他の両輪ですからやはり諸法の分断と言うのはいけませんね。
「実相は必ず諸法」大事な言葉です。

ところでこの「二つの法門と立て別けて」ってどっかで何か聞いた事がありますね。
あーそうだそうだ「文底独一本門」だ。
なになに?日蓮の題目と釈迦の法華経と二つの法門があり釈迦の法門は捨てなさいとの話。
これって明らかに「実相は必ず諸法」に反してないか、日蓮は本当に「文底独一本門」なんて事を言ったのか。
こいつもどうやら日蓮正宗だけに伝わる秘伝って奴らしい、この秘伝って奴はどうも信用できない。
これは単なる日寛さんの我見という奴ではないかなと言う事ですね。

日時さんの「本因妙」にしろ日寛さんの「文底独一本門」挙句の果てには物質が所依となる「御戒壇様」。
何処まで日蓮の意を変え法華経の理を捨て去ろうとするのか
これでどう日蓮正宗が正当な血脈を相承してると言えるのかと言う話ですね。

195副管理人Z:2011/01/30(日) 21:44:18
199 :堅皇:2011/01/28(金) 06:49:19
>>197 怖くて名乗れませんさん

お話を伺っていると恐らく南無妙法蓮華経が諸法実相の実相だと思われていると思います。
これこそ日蓮正宗が用いた大謗法である「本因妙」と言う考え方です。
題目はあくまで法華経の題目(タイトル)であり「本因妙」と言った真言でも念仏でもありません。
南無妙法蓮華経は実相ではなく諸法の1つです。
あえて言うなら究極の諸法とでも言いましょうか。

これは法華経を読むと理解できますが法華経は爾前権経で説き明かした結論のみを羅列してある経典です。
仏法は本来宗教では無かったんですね、それを法華経が信じる事を取り入れて宗教にしたわけです。

理屈は簡単ですね。
法華経は爾前権経と違い何故と言う理由を一切説かず結論しか説いてないんです。
つまりは理由には一切触れずただ説かれた内容を暗に信じなさいと言う経典なんですね。
理由を書かないなんてなんて酷いと思われるでしょうが
理由が知りたければ爾前権経を読んでみればいいだけですからね。
読めば何故に法華経が正しいかが解ります、これが信を得るための行学の二道の理論ですね。

ですから法華経を得るには法華経を信じるか爾前権経を学ぶかのどちらかでいいわけですね。
ただ、一口に爾前権経を学ぶと言っても爾前権経は八万法蔵とあるわけですから学びきれないですよね。
だから手っ取り早く法華経を信じればよいと言う事なんです。

更に法華経で説かれた一念三千の法門を使い、この法華経の題目を信じる事により
経文である法華経を得る事になり法華経を得ると言う事は八万法蔵すべてを得ると言う事になります。
それもこれも法華経が爾前権経と全く外れる事無く同じ理で説かれているからと言う事に尽きるんですね。

更に日蓮の描いた曼荼羅に唱える題目は法華経以後の密教経典や日本の神々の教えまでも諸経と見なし
その題目の力とは実に寛大なものだと言えます、それこそ諸仏知恵 甚深無量ですね。

196副管理人Z:2011/01/30(日) 21:44:56
200 :怖くて名乗れません:2011/01/28(金) 10:20:06


★信を得るための行学の二道・・これはこれは 初耳。
法華経は随自意の法門ですが、成仏得道の法を説いていない大欠陥があります
日蓮大聖人の法華経はいきなり随自意ですよ・下種だから本因といいますね。

法華経を得ると言う事は『有り難いと思う一念』これだけです。
凡夫の我々がどちらの法華経を選ぶかなんていう問題じゃない。
一大事因縁を受けて初随喜を起す。それだけのことですね。信心というのは。

日蓮大聖人は『いのちすでに一念にすぎざれば』と・刹那の一念以外には
いのちなんてもんは無いんだとはっきり仰せです。

日蓮大聖人は久遠の本佛ですから、我々が選ぶなんて資格はありません。
ただ与えられたものを 理由も無くありがたいと思う・・これが信心ですね

でなければ、一切の衆生はすくわれませんからね。御本尊を顕す前に
草木成仏を日蓮大聖人は説かれていますね。これは言っておかないと・
楠の板が 佛になるということを知らせておく必要があったからです。

板だ・物だ・だから信じないという事を言わせないためですね。
『当世のならいそこないの学者夢にも知らざる法門なり』といわれた
のはそのためですね。

天台曰く『草にも木にも成る仏なり』を言われたのは草木成仏を信じ
させんがため・それだけのことですよ。

これは非情の成仏なりとも言われています。これを知らない人々を
『所詮 妙法蓮華経をしらざるゆえに迷うところの法門なり』

信じらんなあぃ〜〜と驚く人々を日蓮大聖人は『惑耳驚心』として・
笑っています。そしてそれらの人々は『一色一香』と罵ったりもする
とね・・・・

当然でしょう。日蓮大聖人様が言う『当世の学者』のレベルにも達し
ない・人々が 此処にも十万していますからね。『当世の学者』が・
夢にも知らざる事を・ここに登場する 人物が『あーでもねぇこー
こーでもねぇー』さわいでいるのですからね。

釈尊の法華経は未完成の欠陥法門ということになります。
『我本行菩薩道』といったのが最後のクライマックスですからね・
オラが成仏できた事の行法は 伏せたままですからね。
ですから中身は空っぽ・・なんですね。

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197副管理人Z:2011/01/30(日) 21:45:38
201 :堅皇:2011/01/28(金) 12:14:39
>>200 怖くて名乗れませんさん

> 法華経は随自意の法門ですが、成仏得道の法を説いていない大欠陥があります

まさしく真言が陥った過ちですね、また同じ罠に嵌ったのが日蓮正宗と言うところでしょう。
つまるところ爾前権経での未顕真実は法華経でも確固たる成仏のための本因を明かさなかったではないか
と言うご指摘ですね。

いやいや、法華経はちゃんと真実を明かしましたよ諸法実相「実相は必ず諸法」とね。
そもその実相とは何か、仏とは何かと言う事ですが
仏とは即ち悟りであり悟りと言うものはあくまで個人個人の内の中にあるものです。

人間の興味関心と言うのは人それぞれであり願いや希望も人それぞれです。
誰に強要されるものでもなくそれこそ桜梅桃李であるわけです。
あれが食べたいあれを知りたい何処へ行きたい何をしたいその目的を全て叶えるのが
仏であり悟りであるわけですからこれを顕す事は誰にもできない行為であり
それが解ったと言う人は大嘘つきであると言う事です。

本因を固定してしまうと言う事は結果も固定してしまう事になり
自分が思い願う結果は得られなくなってしまう事なのです。

法華経方便品でどうしても教えてほしいと懇願する舎利弗に対して釈迦はやめようと諭す訳ですが
舎利弗ほどの智慧ものに何故と言う話となります。
それもそのはず実相とは人の数ほど存在し、またその一人一人の中に数え切れない実相があるのですから。
故に「実相は必ず諸法」でなければならないと言う事ですね。

法華経はこの諸法実相を明かした事により自身が思うままの望みや願いが叶う如意宝珠を手に入れたということですね。

198副管理人Z:2011/01/30(日) 21:46:14
202 :堅皇:2011/01/28(金) 12:15:23
> 天台曰く『草にも木にも成る仏なり』を言われたのは草木成仏を信じ
> させんがため・それだけのことですよ。

では、草木成仏を通して物質も仏と成ったと仮定しましょう。
しかしこの物質は能化であって所依ではありませんね。
仏と成るにはあくまでも能化である仏に依って仏に成るのではなく
あくまでも所依である法に依って仏と成るわけですから物質を中心に考えるのは誤りと言えますね。

日蓮が本仏とする日蓮正宗も釈迦を本仏と捉える日蓮宗も
能化である仏を所依とする考えでどちらも誤りであると言わざるを得ませんね。

こと日蓮が御本仏と言うのもやはり日蓮正宗にしか伝わらないものであり
日蓮自身は唯一言も自分が御本仏などと言う言葉は発してはいません。
その全てが歴代法主という方たちの創作話、妄想話であると言うことです。

どこまでこの日蓮正宗と言う教団は法華経を蔑ろにして謗法を犯せば気が済むのでしょうか。
嘘に嘘を積み重ねた結果、自分たちも何が嘘かホントかも解らなくなってしまったのではないでしょうか。

禅は経文を無視して己が仏であり真実であるとしました。
結果、規範とする法を忘れ何が真実かが自分でも解らなくなってしまう。
「禅天魔」とはまさしくこの禅の有り様を見事に付いた言葉だと思います。

次々に秘伝と称して己の思うままに法を改ざんしていった日蓮正宗にも見事に適合する言葉だと思います。

199副管理人Z:2011/01/30(日) 21:46:49
203 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:01:25


★物質中心という考えかたは偏頗ですよ。生の成仏死の成仏ですからね。

未曾有の大曼荼羅なりと日蓮大聖人はおおせですからね。有り難い事です

御戒壇様・そのまま一大事因縁なんです。禅はどこまでも禅のことですね

私達には無関係なんです。法華経から得るものは何一つありません。

豆腐のおからみたいなものですから・ま・少しは栄養がありますが・それ

くらいのものですね。能化も所化ももはや不要なんです。御戒壇様即・

善知識です。それ以上のものは不要なんです。歴代法主に執着していては

肝心の一大事因縁を亡失してしまいます。『諸法も実相』もただのことば

です。ことばを所依とした宗教はすべて妄想の宗派でしょう。妙法は・

言語道断ですからね・一旦遮しなければ到達できないのが妙法です。

諸法という言葉に囚われて言語の概念の夢の中に遊ぶ胡蝶の夢・・・

これがいい例ですね。御戒壇があり題目がある・ここには如何に誰人

も改竄の余地はありません。 言語に執着する事が不幸の原因です。

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200副管理人Z:2011/01/30(日) 21:48:01
204 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:18:32


★本因を固定しても結果も固定してしまう事にはなりませんね。なぜなら

本因とは成仏の種子ですから一切を開いていく功徳がありますね。

それは日蓮正宗で叶えられるということです。人それぞれに種々の謗法が

ありますから・誰でも私のようになれることではありません。世界の機根

も違い衆生の機根も違う異国の法華経を現在に振り回す愚は 当然の如く

末法の衆生には 不適であり 消化不良のもとになります。妙法は・つまり

大良薬ですから 末法の衆生にのみ処方されるものですね。ガイドライン

としての釈尊の法華経としてみれば『旨からずといい服せぬ者あり』・・・

ともあり・しかりですね。 そう・・釈尊の法華経は末法の法華経つまり

日蓮大聖人の法華経・を説明する分において・つまり流通分において・

かすかに 役立つ程度なんです。その証拠に歴代御法主を根本とする信徒

は一人も日蓮正宗にはおりませんね。

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201副管理人Z:2011/01/30(日) 21:48:54
205 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:20:46
?
200と201は エキストラオでした。ゴメンネゴメンネ・・・//////////////


206 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:23:06
・訂正200はエキストラオ・・//////////////////////////////////////////

202副管理人Z:2011/01/30(日) 21:50:11
207 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:35:55


★日蓮大聖人が末法の御本仏とは名乗りませんね。当然ですよ。御内証
を・外に向って御示しあそばされたが・御戒壇様という未曾有の大曼荼羅
この国に立つべし・・これでチョンです・・あえて 自ら宣言する必要な
どは有りませんね。 これ言ってしまったら末法の衆生から総スカンされ
ます・御本仏ですから御存知でしたね。 此れは御本仏としてすごい判断
だと思います。 一般のミーちゃんハーちゃん相手にそれは言いません。

我々と御本仏が同格だとカン違いするところから・間違いは起きています
つまり・慢心の上からホトケを見ちゃいますからね。それを

寿量品の最期に『以常見我故 爾生僑恣心』とあり 常に慢心で法門を

弄び学する者が出て来る事が説かれてます。まさしくそのとおりでしょう

//////////////////////////////////////////////////////////////


208 :エキストラオ:2011/01/28(金) 16:44:41


★・・管理人様。  京阪君がなにを血迷ったか・音楽スレッドに

怨念のうえから 個人様の誹謗中傷と・・呪いの言葉を書き込んで

居られるようです。 ええ・私は結構ですから 『とらおスレッド』に

移動しておいてください。ええ・わたしは太っ腹ですから気にしません

彼には優しく対応 お願いします。私も彼の人間的成長を『御祈念』

させて頂きます。

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203副管理人Z:2011/01/30(日) 21:50:49
209 :しげきょん:2011/01/28(金) 21:47:14
日蓮災い教が  災い転じて福と為す=宿命転換の祈りだよ
創価にあるのは 日蓮災い教変じて日蓮バラモン教に落ちた
宿命主義者のトラオ君はほどほど救いようが無い

204副管理人Z:2011/01/30(日) 21:51:20
210 :エキストラオ:2011/01/28(金) 21:56:48


★大丈夫ですよ・しげちゃん・・あなたに救ってもらおうとは思いません

ぷっ・・・/////////////////////////////////////////////////////////

205副管理人Z:2011/01/30(日) 21:51:55
211 :京阪電車でいこか ◆AIo1qlmVDI:2011/01/29(土) 01:35:50
>>210

人の死をもてあそぶ最低人間のトラオさん。

ご本尊さまも、そんなあんたを“救って”くれないだろうね。

ご愁傷さま。

206副管理人Z:2011/01/30(日) 21:52:33
212 :堅皇:2011/01/29(土) 06:35:53
『以常見我故 爾生僑恣心』
常に我を見ることが出来なければ僑恣の心が生じる。(法華経はいらないんじゃなかったっけ)

我見ってのは自分だけの偏った考えって事ですから
それだけに捕らわれるなと言う事ですね、それが慢心に繋がると。

要するに俺の解釈に従わないとは何たることだこの罰当たりがと言ってるのが我見であり
また自分だけの偏った考えに捕らわれているのも我見と言う話。
常に自身の考えを顧みてニュートラルにすれば我見に捕らわれる事もなく慢心にも陥らないという事ですね。

ちなみに僕は日顕さんは賢い人だということは認めてますよ。
日寛さんもおそらく人々を救おうと思った中での結論だと思っています。
ただ、これに関して言えば法然さんも同様だと思います、なんせ「智慧第一の法然房」と呼ばれたくらいですから。
どれだけ賢いと思える人でも、また人の為にと思った行為でも結果としてそれが仇となることであれば
やはり従うわけには行きませんね、極々当たり前の話ですね我見に捕らわれるのは嫌ですから。

正直僕は全然自分の事を賢いとは思ってません、ただ法華経をニュートラルな気持ちで読んでいるだけですからね。
また日蓮の真蹟とされる部分とそうでない部分、更には日寛さんの教義をそれぞれ見比べてみると
日蓮の真蹟の部分は法華経の理(言語ではなく)と悉く合致しているのに対し
そうでないものや日寛教学は悉く法華経の理から外れているものであったということですね。
また、それらの理は日蓮が異を唱えた念仏、真言、律、禅の理と悉く合致していたと言う話ですね。

法華講であるエキストラオさんが日寛教義により法華経から得るものは何一つありませんと思うのは大いに結構です。
僕は法華経は捨てるべきではなくあくまでも法華経の題目を捉えるべきだと思うだけですから。

またまた要らない物が増えてきましたね諸法実相に次ぎ能化も所化も不要なんですか
それは人など要らないということですね、大切なのは物質である御戒壇様だけだと。

207副管理人Z:2011/01/30(日) 21:53:06
213 :堅皇:2011/01/29(土) 06:37:09
>>しげきょんさん

> 日蓮災い教変じて日蓮バラモン教に落ちた宿命主義者のトラオ君

これは日蓮正宗の事を指していると思いますが
具体的にどう災いなのどの部分がバラモンか教なのか教えてください。
俺には創価との違いが全く区別が付かないのですが。
出来れば感情論ではなく具体的且つ理論的にお願いします。

また日蓮正宗は「宿命主義者」なのですか?
そもそも宿命という表現は創価学会が用いている表現なので良くその意味が解りかねます。
加えて

> 災い転じて福と為す=宿命転換の祈りだよ

とのことですが災い転じて福と為すと宿命転換では少し理が違うような気がしますが宿命転換の意味を教えてください。
宿命とは宿る命と書きますがここで言う宿命とは「業」の事なのでしょうか
「生死一大事」の事でしょうか「出世の本懐」の事でしょうか。
これを転換すると言う事ですから酒屋に生まれた人間が八百屋を始めるというような話でしょうか。

208副管理人Z:2011/01/30(日) 21:53:40
214 :しげきょん:2011/01/29(土) 08:00:34
宿業とは無明のものの見方じゃ悪業のこと指すのよ
しかし法性の場合つまり妙法蓮華教の場合の立場からは
毒(悪業)変じて(薬、成仏の果)となるものよ
悪業を悪業と捉えるのは邇前教以前の教えなのよ

209副管理人Z:2011/01/30(日) 21:54:13
215 :堅皇:2011/01/29(土) 08:29:20
なるほど、宿命は宿業と言う事で宜しいですね。

ちなみに業とはカルマ、つまり行為の事ですね。
更に宿業と言えばその前世に行った善悪の行為が現世で報いとして宿る事。

基本人は「煩悩即菩提」を求める人が大半ですから
業と聞くと直ぐに悪業を連想してしまうと思いますが
業とは行為のことであり悪業に対し善業も当然あるわけです。

過去の悪業により報いを受けると言うのであれば善業も結果として現れるのも必然ですね。
じゃなければ善根を積む必要が全くなくなってしまいますからね。

とすればやはりこの宿命転換との言葉、やはり使い方が確実に間違っています。
「災い転じて福と為す」に当て嵌めるならせめて「悪業転換」とするべきか?

ただそれでもやはり不完全で悪業にも様々な種類が存在します。
「悪業転換」となるとコソ泥をやめて強盗にするというのも「悪業転換」になりますから。

何れにせよ「災い転じて福と為す」と「宿命転換」はイコールで繋げないものであると言えますね。

210副管理人Z:2011/01/30(日) 21:54:47
216 :エキストラオ:2011/01/29(土) 15:32:14


★しげちゃん・・感情的に成るのは良くないそうです。

////////////////////////////////////////////////////////////////

宿命の転換・・これも創価の造語の部類でしょうね。大聖人直結も・・

師弟不二も・・みんな・・流行を狙った造語です。 しげちゃん

それに妙法蓮華教 というのは教えですか・初めて目にしましたが

何でも造語の人にかかると 訳がわからなくなりますね。

//////////////////////////////////////////////////////////////

211副管理人Z:2011/01/30(日) 21:55:22
217 :エキストラオ:2011/01/29(土) 15:45:17


★しげちゃんが 池田君に 下駄を預けて 思考を停止して生きている・

それも宿業なんですね。日蓮大聖人は

『鷺の白きもからすの黒きもみな強く先業のつよく染みける〜』と・・

おおせですよ。外道はしらずして自然自然と言い張るともおおせです。

『霧島研修道場にかつて沿うか王国なる講想があり・財政難や・地元の

住民パワーで実現できなかった経緯がありましたね。強く池田君の・・

要望がありましたが、実現できてたら今頃大変でしたね。 日本一の・

三災七難の多い場所になっていますからね。 被災された方々には・

御心痛・お察しいたします。  それもこれも・元〔原因〕をたどれば

○○本尊を頭から湯気立てて 拝むという 乱国の一大原因があるから

です。指導者が戦闘に立ち・日蓮正宗総本山に対しお詫びして懺悔滅罪

を願い出れば これ等の七難は悉く 解決するでしょう。

///////////////////////////////////////////////////////////////

212副管理人Z:2011/01/30(日) 21:55:57
218 :堅皇:2011/01/29(土) 16:22:12
さてさて、エキストラオさんもしげきょんさんもこんな言葉尻捉えて
面倒くさいこと言ってるなと思っておられると思います。

何故こんな事をくどくど言うかとすれば正宗も創価も南無妙法蓮華経が本因妙だ文底独一本門だのと
題目が実相だとか自分たちの組織の考えや指導だけが実相だのと考えているから言ってるんですね。
法華経では実相は諸法の中にあるといっています。
日蓮もまた「実相は必ず諸法」と言っている訳ですからこれを信じれないかと言う事なんですね。

更にこの諸法は全て方便であるとも言っています。
つまり南無妙法蓮華経も自分たちの組織の教義や指導も全て方便として捉えていて
幾つかの方便を集めその中で実相を探ろうとすれば問題はないのですが
これ自体が実相と考えると本当の実相と言うものを見誤るぞと言いたいわけですね。

解りやすい例を出しますとハンムラビ法典。
これは正宗、創価も共通して邪経と判断されていますよね。
その代表的な言葉「目には目を、歯には歯を」これは思想自体が誤りであると思っていますよね。
この言葉の趣意は「毒を持って毒を制す」と同意義ですよね。
しかしこの理論があながち使えないかと言えばそうでもありません。
例えば免疫治療等ではこれで効果が得られるわけですね。
ただすべての事柄に当てはまるわけではないのでこれ自体を実相と捉えるのは誤りだと言う事ですね。

つまりどの様な言葉も実相ではなく諸法の1つであり方便の1つであると捉えれば活かす事が出来ると言うことです。
その為にはあらゆる法は諸法の1つと捉え法華経を中心とすることにより実相を得るためのパーツと捉えるべきだと。

この観点で言えば文底独一本門という題目が実相とする考えも
題目を唱えされるための方便の1つと捉えればその効果を得る事が出来るが
これ自体が実相と捉えてしまい大事な諸法を全て捨ててしまえば本当の実相を見誤ると言う話です。
本当の実相を得たいと言うのであれば常に法華経を中心に法華経の題目を唱えなければいけないと言う事ですね。

213副管理人Z:2011/01/30(日) 21:56:38
219 :堅皇:2011/01/29(土) 16:22:42
ですからそもそもが日蓮の題目と釈迦の法華経と言った隔たりなどありません。
法華経はあくまで法華経です、題目はあくまで法華経の題目であり
日蓮も「法華経こそ第一」と言っています。
この法華経を釈迦の法華経と言い放ち全て捨ててしまうのは全くの論外。

日蓮の言葉、御書には法華経を中心に据える為の方便を諸法を通じて沢山書かれています。
当然これらの言葉も全て実相ではなく諸法の1つです。
諸法の全ては法華経を中心に据えてこそ初めてその意味が理解でき実相が得られると言うものですね。

ですから日蓮も題目自体が文底独一本門であり実相であるなんて事は一言たりとも発していないわけです。
その全てがそれぞれの実相を導き出すための方便であると言う事。
「実相は必ず諸法」諸法実相という真実を明かしている法華経を第一に捉えないと
たとえ題目を唱えていても全くの無益であると言っている訳ですね。

仏法は実相に導くための限りなく実相に近い方便ですから
その理に合わない造語を勝手に突っ込むなと言う話ですね。

> 師弟不二も・・みんな・・流行を狙った造語です。

いやいや、師弟不二は創価造語ではなく日寛さんが作られた造語ですよ。
その元凶はやはり日蓮正宗にあるって事です。

214副管理人Z:2011/01/30(日) 21:57:15
220 :エキストラオ:2011/01/29(土) 16:38:36


★ 法華経は 遠くは 不軽菩薩の所持していた法華経から・釈尊の法華経

そして・末法の衆生には・機根・国土・時・というものに叶うべく末法の、

法華経があります。それを『味噌もくそも一緒くた』にしたところに、元々

の誤りがあります。末法の法華経は日蓮大聖人の御戒壇様ただひとつです。

3000念前の薬品は 賞味期限が切れて カビの臭いがします。どころか・
毒になってしまいます。 道理と言うものはこんなもんです。だれもが
納得できる道理ですね。

釈尊の法華経しかも・漢字に訳されて風味が抜けただけでなく・漢字の
ただ・『諸法実相』という 観念論のしかも俗諦の範疇のもので・人は
救われようもありませんね。

『諸法実相』は今・煮ても・焼いても 食用にはなりません。
太陽の出る国・・日本という名前に連なった『日蓮』という御本仏により
末法の人々は救済されるのです。

/////////////////////////////////////////////////////////////////

215副管理人Z:2011/01/30(日) 21:57:48
221 :エキストラオ:2011/01/29(土) 16:47:24



★師弟相対は・出家の場合言うことがまま・あるが・

『俗の中で俗の上下を分け隔てるための師弟不二なんてものはあり得ません』

それ以外だと・俗の中ならば いけばなの中の世界なら在ってもよさそうで
すが・やはり生花の世界でも『師弟不二』などと とち狂った言い方はありま
せんでした。ね。

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216副管理人Z:2011/01/30(日) 21:58:23
222 :エキストラオ:2011/01/29(土) 17:08:36


★日蓮大聖人の悟りを・御本尊に顕した・これは内道でみていかないと
つまり・創価学会は外道で拝してきたので・大きな間違いが生じてきたのである。

日蓮己心の法を本尊に顕した・・・その悟りの内容は境智冥合の題目でしか
受け取る事は出来ない。諸法実相も 釈尊の二個人的日記の一行でしかない
ものですね。その執着が・無明の根源になります。所詮釈尊は我々には・
全くの無縁の仏です。しかも日蓮大聖人から見れば劣応仏でしか無い訳です

個人的に釈尊が好きだ嫌いだの範疇のモンでしょう。
ただ成仏には有縁の佛によらなければなりません。ここには釈尊のファン
がいる事も事実ですが、少数派です。 でも少数派は居なければ困るとい
う事もあります。 物の大小・遠近・などには・それらの 位置関係が・
必要だからですね。

文字をもたなかつた当時の人の教えが・必ずしも正確に末法へ伝わったと
いえる各章は如何なる学者も 検証することは不可能です。なのにそれでも
釈尊がすきな人々はいて当然です。 そこの世界が居心地がいい人にとって
は・・・です。しかしそれが正当性があるかと言えばそれは・無関係ですね

いかにしても・親を意識して生まれてきたものが居ないように・それは・
宿縁ということです。  麻原彰晃に有縁の人々はたくさんいました。
知能指数には関係無い事です・それを宿縁と大聖人はおおせです。

大聖人を 好きだといっている人が居てもやはり・いう事を聞かないとい
う・つまり『悪しくうやまう』といった・日蓮大聖人ファンは多いもので
す。 ファンでも・『如説修行のひとは稀な理』と・やはり日蓮大聖人も
おおせの通りですね。

私はありがたくも大聖人の仰せの如く『如説修行』させてもらっています
それで・今このように幸せなのです。これが・実証なのですね。

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217副管理人Z:2011/01/30(日) 21:58:59
223 :しげきょん:2011/01/29(土) 17:49:50
一体誰が流行語大賞を狙ってるんですか?
そんな人はいません
またテラオ君の妄想が始まりましたね
創価被害妄想病のテラオ君妄想と言えば妄想で折伏薦める
日蓮妄想宗の折伏ノルマの妄想達成がありますね
テラオさんも坊主に妄想たたきこまれたのでしょうか?
?なところです日蓮妄想宗は現実に折伏できない法華講があふれて
ネットの世界にあぶれてますよ

218副管理人Z:2011/01/30(日) 21:59:34
224 :エキストラオ:2011/01/29(土) 18:09:33


★流行語大賞?????   しげちゃんさ・・・一度病院へ行くがいいよ。

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219副管理人Z:2011/01/30(日) 22:00:10
225 :堅皇:2011/01/29(土) 18:57:43
さてさて「日蓮己心の法を本尊に顕した・・・その悟りの内容は境智冥合の題目」とな。

では境智冥合とはなんぞや
ざっと御書検索を掛けてみてヒットしたのが「当体義抄」と「御義口伝」の僅か2件。
「御義口伝」は日興さんの筆によるもで「当体義抄」はこれもまた真蹟が存在しないと言うではないか。
またまたこれも日蓮正宗による法の改ざんの1つなのですかね。
調べれば調べるほど日蓮正宗の謗法行為が濃厚となって行きますね。

はい、日蓮を本仏と捉えそれに対して境智冥合とはもうこれは確実に
所依(法)を無視して能化や所化(人)に依るという依法不依人に反してますね。

てか日蓮大聖人御書全集自体が日蓮の真蹟か否かをそっちのけで
『味噌もくそも一緒くた』なんですけどね。
毎日そのくそを食ってるもんだからもう味噌がどんな味なのかも解らなくなってしまったかな。

日蓮妄想宗の教義を未だに大事にしている創価学会も法華講と同様に妄想病ですね。

220副管理人Z:2011/01/30(日) 22:00:44
226 :堅皇:2011/01/29(土) 19:05:49
改めて日蓮正宗の御観念文を読み直してみると
日蓮の真蹟に存在しない文言がてんこ盛りですね。
せっかくの勤行唱題した後にこのような「くそ」をふんだんに毎日掻き込んでいたら
そりゃー味噌の味も解らなくなりますよね。

221副管理人Z:2011/01/30(日) 22:01:17
227 :しげきょん:2011/01/29(土) 22:14:20
ちびにっけんが文句言うなよおまえこそ病院に行け

222EUPA:2011/02/05(土) 07:03:59
世界の閉塞感は、やはり宇宙開発があまり進んでないからかも知れません。
宇宙のイメージは、暗い。生きるのが大変。このイメージを払拭できればと思うのですが。
月や太陽系の星に石油に相当するエネルギー資源が発見されたり、
過去のスタートレックの映画の中に、死んだ星を地球と同じ惑星に変える話なんか。
それよりいまだに解明されていない重力について、解明されれば人間の生活は、一変しますよね。(重力を操作できれば。)
宇宙の中に人間が楽に暮らせる(人間が暮らせる環境という意味で。)地球のような星々を人間自ら作っていく。
今は夢物語ですが、そのようになって行けば、人間はもう少し楽観的になれるのになと、思ったりします。

223EUPA:2011/02/05(土) 07:37:30
人生を攻略する、壁を打ち破る法は、ないでしょうか?
・あらゆるものには必ずスキがある。
スキを見つけて、そこからなし崩しに、攻略、制覇していく。この考えは?
動物が獲物を捕らえるのもスキを突く。スポーツ、武道でも。
そういう発想は、学問、勉強、ひいては人生、人生の壁も打ち破る、対象にあるものは、必ずスキがある。
もしかすると、智慧というのは一見、目に見えないスキを発見しているのかも知れません。
人生勝利の実相は、スキを見つけて、そこからひらく。
こんな発想を考えたりします。
古代ギリシャの英雄アキレスにも弱点(スキ)があった。

224EUPA:2011/02/05(土) 07:46:06

難、攻略の智慧もスキにあるのかも知れません。

225EUPA:2011/02/05(土) 08:17:30
連投、すみません。
三障四魔だって、多くのスキがあることを賢者は知っているのかも知れません。

名聞名利と一番になることの違いは、なんなのでしょう?
名聞名利は、悪いというイメージですが、これもそうなのかも知れません。
(人生崩壊のスキあり)

226堅皇:2011/02/05(土) 10:47:34
>>EUPAさん

全ては目的がなんなのかと言う話ですね。
また、その目的を達成した後その次の目的は何なのかと言う話にもなってきます。

一番になるため、これを目的に掲げるとするのは良しとしましょう。
では、その一番を手に入れたときその次の目的とは一体何なのでしょうか。
また、自分が何故に一番になろうとしようとしたのかその目的は一体何処にあるのか。

よくよく考えると一番になると言う事は1つの通過点でしかないと言う事。
一番になるのは他に何かを得る為の手段の1つであった事に気付かされるものだと思います。

「名聞名利」とはこの一番になるとか名声を得たいと言う事が目的になってしまってると言う事なのですね。
もちろん「名聞名利」を得ようとする事も一番を目指すと言う行為もけして悪いことではありません。
むしろ前に進もうと思う前向きな姿勢から発するものです。

ただ「名聞名利」は何かを行う為の1つの手段として捉えるか
「名聞名利」自体が目的となってしまうのかココに判断が分かれるものであるといえます。

「名聞名利」だけに溺れると自分が何をやろうとしていたかすら解らなくなってしまうと言う事です。

227堅皇:2011/02/05(土) 10:58:08
例えばノーベル賞と言うものがありますが
ノーベル賞と言う賞自体には何の価値もないものなんですね。

しかしその研究の成果に価値があるからノーベル賞を貰う事にも価値があると言う話です。

ですから賞を貰ったと言う事をいくら並べ立ててても人は何も素晴らしいとは思わないものなんですよ。
結局のところどの様な事を行ったか
これが見えてこない限りいくら賞だけ沢山貰い受けてても誰も感動しないと言う事でもありますね。

228EUPA:2011/02/08(火) 07:49:03
堅皇さま いつもお相手、ありがとうございます。まだまだ未熟なもので、
キャッチボールが出来なくて……。

他板のことで、すみません。 お手上げです。
2chの日蓮って.ver19で、>577で結論書いたのですが、納得してもらえません。>578のしつこい質問にお手上げです。

EUPAは、>560.561.565.566.577です。
質問者は、>571.578です。
時間があれば、また内容書きます。

ちょっと困っちゃって……。

229堅皇:2011/02/08(火) 10:36:10
>>EUPAさん

"釈迦のような仏"と言うものをEUPAさんはどの様にお考えなのかと言う事ですね。
そもそも仏とは何かと言う事になってくるのですが
仏とは神とか本仏と言った人々から崇められる本尊と言う存在ではありません。
何故なら仏法はもともとは宗教ではありませんでしたから。

仏とは悟りの境地でありあらゆる苦難に直面してもそれを乗り切れる智慧や力が身に付いた人の事を指します。
そういう意味で日蓮もこれを充分に有しているので立派な仏と言う事ではないでしょうか。
また自身が体験する苦難に対しそれに対処する智慧や力があればその時点で仏と言う事になります。
人は学びと経験により悟る事ができ、この悟りの状態を仏と表現しているわけです。
ですから仏とは人智を超える神の領域に辿り着いた時と言うのではなくあくまでも人智の領域による悟りと言う事です。

これまでの諸経では釈迦は生まれ持っての仏の様に描かれていましたが
法華経寿量品にてその釈迦もこれまで数々の学びと経験によって仏と呼ばれるようになったと説かれています。
つまりは皆さんと同じなんですよと言う話ですね。
これが法華経における方便品の諸法実相と並ぶ真実の部分であり久遠実成と言う事ですね。
言ってみれば世の中に全知全能の神もいなければ本仏と言う存在もありませんよと言う事を顕したのが
法華経寿量品と言う事になりますね。

仏法とはもともと釈迦が宗教からの脱却を図る為に説かれたものです。
それは一人の人、一つの法だけを信じてしまうと確実に波状を来たして結果的に不幸になってしまうからです。
そこで法華経は一つの法ではなく諸法全てをまとめ、一仏を置かずに信じることを取り入れ宗教としたわけです。
こうして仏法は法華経を経て宗教へと変化していったと言う話です。

釈迦のやり方では歴劫修業を要するのは釈迦仏法は信じることを取り入れない宗教では無かったからですね。
しかし、釈迦の理念から外れてしまっては釈迦が脱却を図ろうとした宗教と同じ状況に陥ってしまいます。

230堅皇:2011/02/08(火) 10:46:58
日本に仏法が伝わってきたのは法華経以後の真言、念仏と言ったものであるから
仏法=宗教と捉えられがちですが
実際に仏法が宗教となったのは法華経以後の話となります。

試しに法華経以前の諸経を読んでみれば何処にも「信じろ」なんて事は書かれていません。
「信じろ」と言い始めたのは法華経からであると言う事が解ると思います。
これはあくまで法華経で「諸法実相」や「久遠実成」が顕されてこそと言う事になります。

ですからこの法華経を無視してただ「信じる」という行為だけを真似た
真言や念仏は完全に仏法の理念から外れた誤った宗教であると言えるわけですね。

231堅皇:2011/02/08(火) 18:31:56
EUPAさんは釈迦も久遠に南無妙法蓮華経に出会って仏に成ったと認識しているのかと思いますが
久遠には南無妙法蓮華経はおろか仏法も存在していません。

釈迦は如何様にして仏に成ったかと言えばそれは自身の学びと経験によるものです。
それ以外は有り得ませんね。

また日蓮も南無妙法蓮華経によって仏に成った訳ではありません。
仏法を学びそれらを自ら体感して南無妙法蓮華経を導き出した訳ですから
順序がまるっきり逆だと言えると思います。

232EUPA:2011/02/09(水) 12:59:38
考えてみますと、法華経とは釈迦が、釈迦自身の生命、命とはこのような状態なんだと、言っているように思うのですが……。

つまりその他の諸仏が、自分の生命状態は、(仏が、仏の生命状態を述べれば、それは法華経?)このようなものだと、説けばそれも法華経なのでしょうか?

あとよく例に出てくる蓮について、その清らかさと瞬間に似た速さに注目し、仏に成るのに、歴劫修業ではなく、素早く成る法を探っているように思うのですが……。(諸仏の中に私は、このように素早く仏に成ったという仏の話や経を残しててくれればいいのにと、思ったりします。)

しかしあまりこのへんを探っていくと……。
一つ間違えば、〜真理経みたいな方向にいくのではないかと思うと、
恐ろしいです。

233堅皇:2011/02/09(水) 14:53:01
EUPAさんは法華経を実際に読まれたことはあるのでしょうか。
また、法華経以前の諸経を少しでも理解されていればその関係性が解るかと思うんですけどね。
法華経は単に釈迦が説いた諸経を1つにまとめた経典であると言えますね。
ですから、取り立てて諸経に説かれてない新たなる内容と言うものは記されていません。

強いて言うなら釈迦自身が生まれ持っての仏と言う事ではなく
それは過去世に置いて自らが学び経験した事による結果だと述べているぐらいですね。
ここが寿量品の肝心と言うところです。

で、釈迦は何を学んだかと言えば物事の道理の部分ですね。
腹が減ったらどうするか、病気になったらどうするか、人から嫌がらせを受けたらどうするか
こう言った当たり前に思うことの積み重ねと言う事ですね。
それぞれその場その場をどうして行けば幸せになれるかを歴劫修業の末学び体験していった結果と言う事です。
そうしてこれら対処方法を身に付け(悟りを得て)人々に伝えたのが諸経と言う事になります。

ただ、あくまで諸経と言うものは一方的な物の見方で得た判断なので
その人その人の立場と成れば人の善悪は変わってしまう。
一方が得をする判断であれば一方が損をする事になってしまう。
結局は万民に通じる究極の法など存在し得ない訳です。
しかし、そこで釈迦の説いた諸経の中でもどれが一番正しいのだという争いが生まれてしまう。
こいつはいかんと言う事で生まれたのが法華経と言う事になります。

法華経はどれが一番正しいなどと言う事は一切言ってないわけです。
それぞれがそれぞれにみんな正しくそれぞれがそれぞれの中に正解が存在すると言う結論を出している訳です。
ですから法華経自身が真理と言う事ではなく真理は諸法の中に存在すると。
これが「諸法実相」と言う事ですね、更に言えば諸法は全て方便であるから諸法の中の文の底と言う事ですね。
ですから自分達だけが正しいのだと言ってしまった時点で法華経を捨てた事になるという話です。

234EUPA:2011/02/11(金) 15:04:44
吉川英治氏の三国志は、読んだことがあると知人の弁護士と話した時に、原文の三国志演義を勧められたことがあります。その弁護士は、毎年、年のはじめに挑戦されるそうです。
法華経も全文はまだありませんので挑戦してみたいと思います。

ところで般若心経を唱えると頭がよくなるのででしょうか!?

235EUPA:2011/02/11(金) 16:52:01
「智人は起を知る、蛇は自ら蛇を知る」や、「法華を識るものは世法を得る」
これむずかくって……。
とくに世法を得るとは、どういうことなのでしょう?

236堅皇:2011/02/11(金) 21:57:08
>>EUPAさん

法華経の日本語訳は何種類かの本が出ていますしネットでもアップされていますから
けっこう手軽に読めると思います。
また、方便品や寿量品なんかは日ごろ音読していますから割とすんなり読めるのではないかと思います。

> 般若心経を唱えると頭がよくなるのででしょうか!?

これはなんとも言えませんが真言密教はもともと頭の良い人のための教えみたいなものですからね。
密教は仏法を段階的に捉え解った人に次の課題を出していくと言う感じですね。
日蓮正宗でも僧侶だけが知りえるとか、法主だけが知りえる事柄だとか
創価学会に置いてもこれは幹部に聞かないととか、池田さんしか解りえないだろうという考えが既に密教と言える訳です。

これに対して念仏はそんな難しいものではなく万民を救おうと考えたわけで
比較的簡単な浄土経のみで仏に成ろうとして他を全て捨ててしまったわけです。

日蓮の題目の理論は万民を救おうとする念仏の意図は全く同じであり
それが浄土経ではなく法華経に依るものであると言うこと。
何故に浄土経でなくて法華経だと良いかと言えば法華経は諸経を集約したものであり全てを得る事が出来るからです。

浄土経だけだと法華経を始め残りの諸経を全て捨てなければいけないが
法華経を中心にすれば浄土経はおろか一切諸経を全て得る事が出来るからです。

> 世法を得るとは、どういうことなのでしょう?

世の中の仕組み、事の善悪が理解できると言う事ではないでしょうか。

237EUPA:2011/02/12(土) 17:05:14
>>236
>法華経を中心にすれば浄土教はおろか一切諸教を全て得る事が出来るからです。
堅皇さまの言われるとおり、EUPAもそのとおりだと思います。

南無妙法蓮華経の信心をしているのは、
何かを証明するためにこの世に生まれて来たと考えるのはどうでしょう?
自分の考え、体で何かを証明するために。
人間の可能性の挑戦?
不可能と誰もが思うことを自らが挑戦し、可能にしていく?

対象に影響されるのではなく、自らが人々の対象になって影響を与えていく……。
EUPAも世の中のお役に立てる生き方をしたいと思うのですが、
なかなか難しいですよね……。

日常と非日常……毎日が惰性なのか、日々新鮮なのか?
極端な考え方かも知れませんが、EUPAは対象とするもの(現実世界)は、
たとえ非日常であってもそれは日常ではないかと……。
新鮮(と感じられる)な毎日は、自らが作っていく……。
それが非日常ではないかと……。

238堅皇:2011/02/12(土) 23:51:05
>>EUPAさん

>>法華経を中心にすれば浄土教はおろか一切諸教を全て得る事が出来るからです。
> 堅皇さまの言われるとおり、EUPAもそのとおりだと思います。

この点をご理解いただけるのはありがたく思います。
更に日蓮の描いた曼荼羅を見るともっと凄いのです。
釈迦が説いた一切の諸法だけに留まらず真言密教で説かれた経典をも受け入れて
更には日本古来より伝わる神々の教えまで全てを抱擁されているわけですね。
またその受け入れが可能な法華経の素晴らしさでもあるわけです。

題目1つで世法を得るとはここでも言えるわけですね。
他の教えが全て誤りだと全て捨ててしまうのと他の教えを用いなくても得る事が出来るとでは全く意味が異なってきます。

他を切り捨て自身の考えだけが正しいと考える事から争いは生まれてきますが
他の意見を全て受け入れその中で答えを見出すと言うのでは争いが生まれてくることはありません。

念仏は浄土経の中にこそ真実があるとし、真言もまた密教にこそ真実があると考えるから救われる事がないんですね。
対する法華経の題目は全ての中に真実を見出そうとするから万民を救う事が可能となるわけです。

ですから同じ題目を唱えていても自分達だけが真実であり自分達だけが正義であると言って他を切り捨てる行為は
題目を唱えながら法華経を捨てている行為だといえると思います。
これがいわゆる日蓮が言う「信心の血脈」と言う事だとも思います。
そういう意味では日蓮正宗にはもう最初の時点からこの「信心の血脈」と言うものが存在してないと僕は思います。

239堅皇:2011/02/12(土) 23:51:53
> 南無妙法蓮華経の信心をしているのは、
> 何かを証明するためにこの世に生まれて来たと考えるのはどうでしょう?

その考え方は悪くないと思いますが
何の為に証明するかですよね。
それは自己満足の為だけであってはならないし自分を犠牲にしてまでの他人の為だけであってもいけないという事ですね。

法華経はあらゆる人の考えを全て取り入れてその中で答えを見出すわけですから
自分の考えや誰かの考えだけに固執していては偏った答えになってしまいます。

信心は自行と化他行の両輪と言う事ですから
自分が納得し尚且つ周りの人の納得を得るということが最も重要な事だと言える訳です。
解りやすく言えば自行だけを突き進めば真言の様に自身は一瞬は栄えるが最後には人々が離れやがて亡国へ向かい
また化他行だけであれば自身の発展が無くなってしまい結局辿り着く先は念仏の様に無間地獄と言う事になってしまいます。
どちらも真実と言う先を見誤っているからだといえるのだと思います。

> 日常と非日常……毎日が惰性なのか、日々新鮮なのか?

自分や周りから惰性だと思われればそれはおそらく惰性であり
自分や周りから新鮮だと思われればそれはおそらく新鮮だという事ではないでしょうか。

要は自他共に、身土、依正共に納得する人生が過せると言うのが仏であり
それを得る事が出来るというのが法華経の題目と言う事ですからね。

240しげきょン:2011/02/14(月) 20:34:34
まず始めに信ずるものが宗教という説と祈ること(請願)が宗教という説
があって舎利仏以来の二乗は信ずる面の宗教観が強く
上行、を始め地涌の菩薩達は祈り請願の宗教世界をかもしだしてて
どちらも人間の一生成仏にとって必要であると言えます

241堅皇:2011/02/15(火) 08:41:55
信じることも祈ることも一緒だよ。
宗教とは何かに執着することを基本とするから仏法は先ずこの執着を解く為の脱却を図ったわけ。
方便品で言う「無数方便。引導衆生。令離諸著。」
「無数の方便を使って衆生を引導してきて諸の執着を離れさせてきた」ってね。

と言うわけで法華経以前の仏法には執着に繋がる「信」の文字はない。
しかし、法華経では一見相反するかのように思われる執着する事無く「信じる」という行為を取り入れたわけです。
「信」はどうしても一転すると執着に変わってしまいます。
故に法華経は「難信難解」の法と呼ばれるわけですね。

で、何故に法華経のみが執着せずに「信」を用いる事となったかと言えば簡単な話
独一法門に執着することなく諸法を信じるからであり、一仏に執着することなく事無く諸仏を信じるからです。
要は凝り固まった一辺倒な物に執着せずに視野をもっと大きく広げ世界を見渡せと。
そして信じるのはその全てを信じて判断しろと言う事なんですね。
そうすれば1つの物事に執着する事無く「信」を得る事が出来ると言う話です。

自身が生まれ育って得てきた物、それが全て正しいと思って信じていても
世の中が急転してしまった時に如何にその価値観に付いて行けるかと言う話。
執着を捨てきれずにいればその判断力を大きく見誤ってしまう。
解るかな、この「難信難解」の法の理論が。

> 何か池田先生を指導者と仰いだらまずいと言う勢力でもあるんですかね

しげきょんさんの思考回路は完全に創価学会と言う考え方だけに執着している状態です。
政財界に多く進出していてマスコミに対してもスポンサーとなっている創価学会だ。
利益を考えて守る事はあっても攻撃を加える理由はあまりにも希薄です。
もし、攻撃を加えるとすればそれは利益を考えない人たちの力と言う事でしょうね。

242堅皇:2011/02/15(火) 08:53:32
世間の池田さんに対する評価は比較的適切なものと思われます。
逆に創価学会内での池田さんの評価の方が異常と思えるのが妥当な判断と言えるでしょう。

池田さんにはどうしてもファシズムの匂いがしてなりませんね。

243堅皇:2011/02/15(火) 09:57:42
法華経は諸法の中に実相があると言う教えなので広く世間を見つめ
様々な意見を多く取り入れその中で真実を見つけようとするものです。

対し創価学会の指導は真実は聖教新聞にしか書かれていない世間一般に書かれている事は全て嘘だあるから
見るな聞くな惑わされるなと言います。

さて、この法華経に書いてあることと創価の指導を二つ並べてみて
あなたはどちらを信じますかと言う話だけですからね。
僕は間違いなく法華経を信じますね。
それに対してしげきょんさんは創価学会を信じていると言う話。

僕からすればしげきょんさんは創価の執着から逃れられずにいて苦しんでいるように見えますが
それはあくまでも第三者から見た個人的意見です。
それによって苦しんでいるか楽しんでいるかは当人にしか解りませんからね。

今の日本では信仰は自由ですのでどちらを選んでもそれは自由と言う話です。

244堅皇:2011/02/15(火) 13:23:42
そうそう、あと「一生成仏」と言う言葉ね。
これは「一生成仏抄」から来る言葉であり僕も一生成仏抄は書かれている内容でも
個人的にはかなり好きな部類での御書であります。

しかしこの「一生成仏」と言う言葉は一生成仏抄でしか用いられておらず
更にこの一生成仏抄も贋作であると言う説が濃厚となっていると言う事も言っておきますか。

さて、その理由ですが
一生成仏抄は富木常忍に宛てられた御書であるとの話ですがこの富木常忍と言う人は
日蓮が亡くなった後に出家し日常となり御書を収集された人としても有名な方ですよね。

その富木常忍に宛ての御書はすべて格護されているにも係わらず、一生成仏抄は真蹟が残っておらず
また、常修院聖教緑にも記載なし。同年代の御書とも法門の内容が合わず。
との指摘をされた段階ではこれを日蓮の真作と捉えるには確かに矛盾が生じるものと思えます。

となると「一生成仏抄」が日蓮の真作であると言う思い込みの執着から逃れるべきであると
僕はそう判断するわけですけどね。
これ一本だけに執着する事無く信じれる日蓮の真蹟は他にも多数存在するわけですから。

その中で日蓮の真意と言うものは汲み取っていくべきだと僕は考えますが。

245しげきょん:2011/02/15(火) 16:31:29
何か堅皇氏は創価学会がマスコミを支配しているような大手スポンサーのような
印象を受けるような事書いてらっしゃるが何か事実でもあるのですか?

246しげきょん:2011/02/15(火) 16:55:56
堅皇氏こそ 依法不依人せよ
それはただの人師の堅皇氏が読むところの法華経解釈であり堅皇氏独自の解釈である

247堅皇:2011/02/15(火) 18:07:36
> 創価学会がマスコミを支配しているような大手スポンサーのような

充分大手スポンサーですよ。
ちなみに地方の広告代理店に勤めていた事があるわけでテレビのCMの放送料がいくらで
新聞の広告費がいくらかぐらいは大体想像が付きます。
特にテレビCMに関してはローカルスポットだけではなくなったので
どれぐらいのお客さんかと言う事も解る訳ですよ。
特に今は娑婆は不景気ですからね、ハッキリ言って上得意様の部類ですね。

俺が営業マンだったらあれだけのCM打ってくれるスポンサーは正直言って神様ですよ。

248堅皇:2011/02/15(火) 20:13:16
ところで「人師」とは、なんじゃらほい。
ざっと検索を掛けてみたけど

「経師は遇い易く人師は遇い難し」(資治通鑑)
経書の文や章句の講釈をしてくれる師は沢山いるが、人の行うべき道を教えてくれる師はいないものだということ。

「名利に人師を好むなり」(親鸞)
自自分は有名になりたいし師匠と仰がれたい思いがある。

ここから察するに人の道を教えてくれる師匠と言う事ですか?
そんな立派なもんではありませんよ。

249怖くて名乗れません<m(__)m>:2011/02/16(水) 02:27:49
一見、普通の女の子の日記ですが、
ある事をした後に更新しています。
かなり中毒性が高いので注意が必要かもしれないです。

ttp://prof9pop.web.fc2.com/hrk/

250しげきょん:2011/02/16(水) 23:47:27
そんなに立派なもんじゃありません
そのとおり仏の真意から 己義流の解釈の人のことを
人師という折伏の言葉として大聖人が使われている
人師=我流の人文証もなく自分勝手みそな見解を立てる人のこと

251しげきょん:2011/02/17(木) 01:04:56

創価に執着も諸法の一つではないでしょうか?

252堅皇:2011/02/17(木) 01:05:21
でさー、どこがどう独自の解釈か言ってみてよ。
ちゃんと法華経から文証出してる訳ね。

逆に本因妙を文証出して説明してみてよ。

253しげきょん:2011/02/17(木) 01:21:51
↑訂正創価の信仰も諸法即実相に入るのではないか
それが僕個人の執着だとしても
それを度外視しても創価の人自体は 意識があろうとなかろうと
諸法即実相に自然に生きてるのじゃないか?
そりゃ諸法実相に生きる人が多い少ないッ論議
省いても  世法の中で仏法を得て生きなさいという仏法だから
人生道の諸法に実相ありきじゃなきゃ仏法自体嘘になる
ただ迷い無く実相と思えるか迷うか宿業によるけどね

254しげきょん:2011/02/17(木) 01:42:13
一生成仏抄が真筆じゃないと誰にいつ教わったのか?
その証拠は

255しげきょン:2011/02/17(木) 02:17:33
文証またいつか遠い日にね〜〜〜
正直言って堅皇の話さっぱわからないし読んでて面白くないのよ
なんか二乗の人相手にしたら〜〜て感じ
てなことでばあい〜〜

256堅皇:2011/02/17(木) 07:49:11
当然、俺は創価の信仰も諸法の一つと捉えているよ。
ただ、創価の方々がそれ自体が実相として捉えているから誤りだと指摘しているわけよ。

一生成仏抄は御書を見ても解るように真蹟の存在が記されてないでしょ。
そこへ持ってきて >>244 の理をぶつけられたら納得せざる得ないでしょう。
確かに「一生成仏」という言葉自体が一生成仏抄にしか出て来てない事も事実だし。

それを単に嘘だと主張してもそれを覆すだけの確固たる証拠が必要でしょ。
それと別に一生成仏抄がなくても題目の必要性を説く事は幾らでもできるわけだから。

さっぱり解らなくてつまんないと思うなら他人の事をいちいち誹謗するなよ。
折角題目唱えても誹謗していては無意味になるからね。
しげきょんさんの場合はもう誹謗する事が信心と捉えてしまっているところにあるから。

257しげきょん:2011/02/17(木) 08:35:19
僕が誹謗するのが信心ならばそれも諸法でしょうね
つまんないと言う赤裸々な実相があるからね

258堅皇:2011/02/18(金) 01:05:34
今の生活がつまんないと思うからという現実がそうさせるのだと思いますよ。

259EUPA:2011/02/26(土) 10:58:22
理想の創価学会の姿とは、どういう姿なのでしょう?
最近おかしいのか? もともとおかしいのか?
考えていくと、教義を間違ってとらえているのか? いや教義自体に間違いはないか? 理想の創価の在り方を願う心は、尊いと思います。
(これだけ世界的に大きな団体は、影響力は大きいし、方向性を間違えば、世界を不幸にするかも知れない。)

創価は、堅皇さまの意見を謙虚に聞くべきかも知れませんね。

私は、創価学会員ですが、こういう考え方もあるのかと、勉強させてもらい、
堅皇さまの話を大事に受け止めています。
私の場合、中から変えて行こうと思いますので、よろしくお願いします。

しげきょんさま はじめまして
堅皇さまは、創価を潰そうと思われていないと思いますので、
理想の創価を語り合うことで意見が合ってくるのではないでしょうか?

ぶしつけな事を言って申し訳ありません。

260しげきょん:2011/02/27(日) 01:10:00
EUPAさん はじめまして 堅皇氏の意見も(感情的に拒絶しなければ)創価の中から
改革する前提で聞けば建設的であると思います
ただ自分のペースやモチベーションを保ちながら聞く余裕をもって聞くことが大切です
広宣流布といっても僕らの運動であるから主体的精神は大切です
主体性を尊重しないものは拒まれてもしかたありません
むしろ主体性に 意味や価値を深めてく知識などは好まれます
そのようにありたいと願うものです

261EUPA:2011/02/27(日) 11:47:43
主体的精神……大事なことだと思います。
1. 組織は、人々を従属させるために存在するのか?(組織のために)
2. 組織は、人々の可能性を拓くために存在するのか?(人々、民衆のために)

指導する側が、2. の姿勢でも指導される側が、1. の従属しようとする姿勢で臨んでいたら?
指導する側が、1. の姿勢で臨んでくる人々をいかにして、主体的精神に立たせるか?

錯覚もありますよね。
聖教新聞の会合や、幹部会の写真。
軍隊のように集団で、従属しているように。
しかし違いますよね。
結果を出してる人も、出せなかった人も、(能動的に、積極的に、)励まされに来ている。より自分の可能性を引き出せるように。(能動、受動の観点から述べていますが、出席されている人たちは、それぞれのしっかりした目的を持たれて参加されている。)

聖教新聞の読み手側も、従うために読んでいるのか? 自分に対して励み励まされるために、自分の可能性を引き出すために読んでいるのか?
そんなの意識しないでいいのかもですが、生命力が弱っているとどうしても、受動的になり、従属する方向にならないかと。

従属の反対は、率先 ?
では、師弟の理想の関係とは ?
(質問以前に、答えを誘導しているような文章で、すみません。)

262堅皇:2011/02/27(日) 12:36:03
> 理想の創価学会の姿とは、どういう姿なのでしょう?

この場合創価学会と言う組織が何を理想に置いているかで変わりますね。
池田さんの思想を理想とするのか、法華経の題目を理想とするのか。
純粋に理想を追うとするなら全くの条件を付けずとも誰彼なく集まってくるものと言う事が理想なのではないかと思いますね。

> 最近おかしいのか? もともとおかしいのか?

日蓮宗及び日蓮正宗が、もともとおかしいと思いますから日蓮正宗から教義を得た創価学会は創設時点からおかしかったものだと思います。
また、近年にいたっては誰が見てもおかしいと思うから会員の減少や非活の増加が目立っているといえるのではないでしょうか。
認めようが認めまいが衰退の事実が組織のあからさまにおかしいという証明とも言えますね。

> 考えていくと、教義を間違ってとらえているのか? いや教義自体に間違いはないか?

これは両者共にあるものと思います。
事実、本因妙抄等は学術的にも日蓮の真作ではない事が証明されていますし創価もこれを明確には否定しておりません。
しかし、戸田さんの御書の編纂目的を見るとこの本因妙抄等の収録が最大の目的であるとの趣意が発刊の辞にも述べられています。
つまりこの時点でも創価は過ちを犯しているという事になります。

また日蓮を本仏、御書を聖典と捉え文証とする考え自体も日興門流特有の考え方であり
これらもまた本因妙抄を機軸とした考えであるという事を言わざるを得ません。

この様な歴史的事実を踏まえ創価学会と言う組織が今後どう転換するかと言う事に掛かっているかと思います。
目指す方向は法華経の行者なのか、それとも阿鼻地獄なのかと言う事ですね。
今のままでは確実に後者のほうだと言わざるを得ないですね。

263しげきょん:2011/02/27(日) 13:46:23
理想の創価と言っても、一人一人の内面に希望が燃えてるか、どうかだと思います
希望をさえぎる 魔性の奪命を破る希望でなければ、ならないと思います
要は理想の創価は希望の信仰によって一人から始める一人立つ信仰であると思います
一人に続く二人三人の原理だと言えます

264しげきょん:2011/02/27(日) 14:05:07
組織に従属とは苦しい境涯でありますね
むしろ仏法者は依報(環境周囲など)に対し主体者であり主人公であり
自由自在で在り続けるのが理想です

265しげきょん:2011/03/01(火) 00:19:44
EUPAさん>従属の反対は、率先 ?
では、師弟の理想の関係とは ?
従属の反対は自由自在の境涯だと思います
一つ仏法は、元品の無明からの解放です

266東(空):2011/03/04(金) 13:39:34
昭和32年 [戸田先生] 生きていることが、楽しい状態だよ。私が、もし、ふつうの教授やなんかでありまして、ここで講義をしておったら、何時間講義しなきゃならん、どうしなきゃならんと思うでしょうが、私はイヤならやめちゃう。

私は生きて楽しんで講義してるんです。あなた方に義理なんか立てていませんよ。だからご遠慮なく(笑)

私は自分で生きているんです。講義をしたいから、しているので、イヤになったらやめてしまうだけのことだよ。
それを三身即一身の境涯というのだよ。

イヤならやめる、好きならやる。それで人に迷惑はかけないぞ。人に迷惑はかけちゃいかん。
自分だけのことは、自分が楽しんでおればいい。

今日の講義なんかも、自分で好き放題のことを言っているんです。こういったら、ほめられるか、こういったら嫌がられるか、そんなことは微塵(みじん)も考えてないぞ。
僕の思い通りの講義してるんだから。それがイヤなら君ら来なきゃいいじゃないか(笑)

それを、三身即一身、自我得仏来の境涯というのだよ。それを習って帰って
「おれは、自我得仏来だ、一パイ出せ」なんて、女房に言ったら承知しないぞ(爆笑)

わが心の境涯は、広々として、天空をわたるような境涯でなければならぬと、私は思うのだがな。
だから、僕は、講義していても楽しいのです。

267堅皇:2011/03/04(金) 18:09:27
> 今日の講義なんかも、自分で好き放題のことを言っているんです。こういったら、ほめられるか、
> こういったら嫌がられるか、そんなことは微塵(みじん)も考えてないぞ。
> 僕の思い通りの講義してるんだから。それがイヤなら君ら来なきゃいいじゃないか(笑)

これはもうジャイアンの言い分ですね。
リサイタルをやりたいからやる、それがイヤなら君ら来なきゃいいじゃないかと言われても
のび太くんたちには選択権は無いわけですから。

「イヤならやめる、好きならやる。」
こんな無責任な態度であれば、確実に人に迷惑はかける状況を生んでしまいます。

「妙法」はもちろん自分が楽しむ事が大事であるとも言ってるのですが
と同時にそれによって周りも楽しむと言う事も大事であると言うことですね。
「依報 正報ともに妙経を宣ぶ」であり、どちらか一方が欠けても妙法では無いと言う事ですね。

禅は依報と関わりを断ち正報のみで仏性を見出そうとするもので
真言は正報が依報を支配するというものでありますから戸田さんの理論は真言と言う事になるかと思います。
ちなみに、依報のみに走るのが念仏と言う事になりますね。
ですからこの場合講義を行っている戸田さんが真言であり講義を聞いてる人たちが念仏と言う事になりますね。

で、戸田さんが何故にこんな事を口走ったかと言えば他でもない
日蓮正宗が発する「本因妙抄」と言う偽書に魅入られてしまったからであり
妙法とは正報を指す事だと思われたのでしょう、だから自分が楽しければ周りも楽しい筈だと思い込んでしまった。
これに関してはしょうがないところだと思います、なんせ日蓮正宗の教義はこの時点で偽書まみれだったわけですから。
端的に言えば戸田さんは日蓮正宗に騙された被害者の一人と言う事でしょう。

268東(空):2011/03/05(土) 03:43:20
>日蓮正宗から教義を得た創価学会は創設時点からおかしかったものだと思います。
>端的に言えば戸田さんは日蓮正宗に騙された被害者の一人と言う事でしょう。

[戸田先生 質問会より]
「初代会長が罰論をいったとき、罰論は創価学会がかってにつくったものだといって、
坊さんのあいだにもずいぶん非難がありましたが、これは創価学会がつくったものでもなんでもなく、
御本尊様がきちんとおっしゃっているのです。うそだと思ったら、御本尊様をよく拝んでみなさい。
右のかたには 『若し悩乱せん者は頭七分に破れん』と罰論が、きちんとあります。
また左のかたには『供養すること有らん者は福十号に過ぐ』と功徳論が厳然としてあるのです。

戸田第二代会長が執筆された「寸鉄」より

昭和28年
・或る僧侶云く「此の頃少し罰と功徳の事がわかって来たよ」と、おそいおそい。

・御僧侶たりとも、信心および折伏の指導に誤りありと思わば直ちに会長に報告すべし。

・御僧侶に望む。現時の御僧侶は尊敬されるべき何物も持合せていないと思う。
若し、尊敬を受けたら自ら御自身に言い給え「衣の功徳と御本尊の御威光である」と。

・僧侶にして信心なしと云わば毛のなき猿が衣をつけたようなものである。

・なげかわしきかな魔の僧侶よ、大御本尊様は大慈大悲の大聖人様が凡夫マルだしの
その凡夫に賜わった事を知らざるか、僧衣をぬいで速かに地獄へ行け。

騙されたどころか戸田先生は坊主を諌めていらっしゃいます。

269東(空):2011/03/05(土) 03:44:29
>これはもうジャイアンの言い分ですね。

てんとう虫コミックス、ドラえもん 全45巻 及び ドラえもんプラス全5巻において、
ジャイアンが「リサイタルに来るのが嫌なら来なければいい」といった趣旨の発言をしてるシーンは、
どこにもありません。したがってジャイアン、キャラクターと同列に論じるのは無理があります。

>日蓮正宗が発する「本因妙抄」
創価学会版御書に「本因妙抄」(P870)が記載されています。

>「イヤならやめる、好きならやる。」

例えて言えば、嫌な会社を辞めて、好きな会社に移り仕事をする事を「無責任」とは言わないでしょう(笑)

>この場合講義を行っている戸田さんが真言であり講義を聞いてる人たちが念仏と言う事になりますね。

この場合、戸田先生は師匠であり講義を聞いてる人たちは弟子です、師弟不ニ。

270堅皇:2011/03/05(土) 11:09:02
師弟不ニとは如何なる理論か。

単純な話、日蓮の師匠は道善房となる訳ですから日蓮は念仏を唱えなければならないと言う事ですね。

ま、法華経を第一とすれば「捨てた方便」の1つであり
法華経を受持し未だこの師弟不ニに執着していると結果的に謗法者となり阿鼻地獄と言うところですね。

法華経を理解するには真言、念仏はある意味誰もが通る道なのかもしれませんね。
空海、法然、日蓮と続くように
また、若き日の日蓮も真言がもっとも素晴らしいのではないかと誓いを立て
その後釈迦仏に念仏をした後、ようやく法華経に辿り着きましたからね。

正宗教義も日有さんの「本因妙」という真言思想から
日寛さんの「独一本門」という念仏思想による題目の解釈。
戸田さんの真言的解釈から始まり創価学会が流布した南無妙法蓮華経と言う念仏と言うものに出会い
ようやく法華経の意味を理解する事が出来たわけですから。

歴史は本当に繰り返されているものだと思いますね。

そう考えると
空海(日有)さん、法然(日寛)さん、極楽寺良観(池田)さんにも感謝するべきだと言う事は
最近は特に感じるところです。

271東(空):2011/03/05(土) 12:20:31
>師弟不ニとは如何なる理論か。

師弟不二とは、師匠が持っている智慧を弟子がそっくりそのまま感じ取ることができるのか否かになる。

師匠は自分の持っている智慧を 惜しみなく全部弟子に分かち与えたいと考えている。弟子はその智慧を欲しいと思うか思わないかという立場になる。


戸田先生が生命論で述べている文章

「自分自身が死に直面したらどうか(中略)キリスト教の信仰にはいったり、
または阿弥陀経によったりして、たえず道を求めてきたが、どうしても生命の問題に関して、
心の奥底(おうてい)から納得するものはなにひとつ得られなかった。」

「道を求めてきた」というところが要点。

>戸田さんの真言的解釈から始まり創価学会が流布した南無妙法蓮華経と言う念仏と言うものに出会いようやく法華経の意味を理解する事が出来たわけですから。
>空海(日有)さん、法然(日寛)さん、極楽寺良観(池田)さん

↑これはもう酔っ払っている泥酔者の言い分ですね。昼間から酒盛りですか?(笑)

んで、
>日蓮正宗から教義を得た創価学会は創設時点からおかしかったものだと思います。
>端的に言えば戸田さんは日蓮正宗に騙された被害者の一人と言う事でしょう。

に対して、>>268に書いた事に関しては、反論出来ない、とみていいのかな。

272堅皇:2011/03/05(土) 14:37:55
「真書と偽書と歪曲する等読者を迷わす事甚だしく、到底之を信頼する事が出来ない上、
最も重要なる血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄は巳に上梓を見た如何なる御書全集にも掲載されず、
宗祖の御真意を拝せんとひたすら念願する者として久しく遺憾の念を抱かしめていたのである。」

と言うのは戸田さんが御書全集発刊に置いて書かれた発刊の辞でありますね。

つまるところ戸田さんは偽書である「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」こそが
「宗祖の御真意」だと思われたと言う事ですね。

この時点で大間違いって事ではないですかね。

>>268 で戸田さんが日蓮正宗内に説法した内容は「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」と言う事なのかと。
と言う事はこの偽書中心の教学を植えつけた戦犯の中心人物であったと言う事になりますね。

この辺は創価学会の齊藤教学部長の方が良くご存知の事だと思います。

ただ、表立って戸田さんは間違いを犯していると言う事は言えないですね。
自身の保身の事を考えたら。
即組織から追われる立場になってしまいますからね、可哀想に。

これから出す御書全集に関しては発刊の辞を消す必要があるかもしれませんね。
こう言った改ざんや黙って消去すると言う行為は創価では日常に行われてきた行為ですから。

ただ、ここまで出回ったものを今更そんな事ぐらいで消せるものとは思えませんが。

273東(空):2011/03/05(土) 16:57:21
御書 発刊の辞より抜粋 昭和27年 

「大聖人唯一の正統であり大権威である日蓮正宗の発刊になる御書全集が皆無に近い現状であり、やむを得ず巷間流布されている御書に拠つていたが、相伝なき流流・学者等の編纂した書は観心本尊抄を始めその他種種の重要なる御抄に於て大聖人の御真意に叛く読み方をなし、或は誤をその儘伝え又は偽書を真書となし、真書と偽書と歪曲する等読者を迷わす事甚しく、到底之を信頼する事が出来ない上、最も重要なる血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄は巳に上梓を見た如何なる御書全集にも掲載されず、宗祖の御真意を拝せんとひたすら念願する者として久しく遺憾の念を抱かしめていたのである。」


>つまるところ戸田さんは偽書である「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」こそが

戸田先生は当時、は巷に出回ってる学者などの出した御書に、偽が出回っていることや、最も重要な、血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄が巷のどの御書にも載っていない、宗祖の御真意を拝したいと念願する者をして、遺憾の念を抱いた、と言っているのであり、
>>272のような「切り文」でもって相手を騙そうとする手口はホケコーの十八番なのだ。

発刊の辞をよく読み直すことですな「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」が偽書とはどこにも書いてないぞ、まだ酔いが覚めてないのかい?(笑)

274堅皇:2011/03/05(土) 17:29:14
全文載せてみたところで
「最も重要な、血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」との表現は覆い隠す事は出来ませんね。

何故ならこの「血脈抄」「本因妙抄」があってこそ日興唯一論、日蓮本仏論といったものから
日寛さんの六巻抄を始め文底独一本門といった
日蓮正宗特有の石山教学が成り立っていると言えるわけですから。

ハッキリと申し上げて僕は日蓮仏法を否定しているわけではありませんよ。
日蓮正宗の教義と未だ日蓮正宗の教義に依存しきっている創価学会の教学を否定しているのですから。

いくら齊藤教学部長がそのほころびをせっせと埋め繕い見せ掛けだけで誤魔化そうとしても
もうそろそろ限界なんではないですかと言う話ですよ。

学会のお掛けで念仏を唱えても、ある一定の功徳と言うものは得られると言う事は学ばせていただきました。
これが「魔の通力」と言う奴ですね。
しかし、あまりにも念仏が過ぎるとそのうち自身の未を滅ぼす結果になってしまいますよと警告しているだけですから。

そもそも真言と念仏と題目ではその発生する音の違いだけではなく、その理論がそれぞれに異なっています。

真言とは宇宙の真理、真如を指し示す言葉です。
つまり、題目を本因妙や宇宙のリズムと捉えること自体が真言と言う事ですね。

また、念仏とは仏に念ずると言う行為の事を指す訳ですね。
つまり、人本尊である日蓮に対し念ずる、法主に対して念ずる、創価三代を永遠の指導者として念ずる。
いずれにしても題目を念仏として捉え唱えていると言う事になりますね。

275堅皇:2011/03/05(土) 17:47:49
かたや題目とは何か。
その名と通り「お題目」つまりはタイトルの意味を指します。
つまりは法華経に書かれている法自体を信じる事になるわけです。
当然、文底独一本門といった物により書き換えられた法華経ではなく
ありのままの法華経を信じると言う事。

法華経では権実大小のあらゆる経文を賛美し、またこれから現れるであろう法も全てが一乗に帰する事が書かれています。
だからこそ、法華経の題目を唱える事によりあらゆる法を自らの力で得る事が出来るわけですね。

これを文底独一本門を義によって捨閉閣抛する事によって
この題目は法華経の題目ではなく文底独一本門の題目となってしまい。
結果的にあらゆる法を誹謗し謗法の輩に転じる事となってしまうということですね。

正に文底独一本門とは法然の記した「選択集」と同じ理論が綴られています。

ただ「南無妙法蓮華経」と唱えたところで肝心な理屈が念仏と同意なら全く持って意味を成さない。
行き着く先は当然見えてくると言う話です。

276東(空):2011/03/06(日) 08:23:09
>日蓮正宗の教義に依存しきっている創価学会の教学を否定しているのですから。

初代会長、牧口先生のときから創価学会は坊主によらず、最初から御書を根本としてきた←聖教新聞社の、教学談話室という本にちゃんと書いてある

念仏だ真言だと、八百神信仰みたいなことを目指してるのかな?くだらんw

277堅皇:2011/03/06(日) 11:58:20
確かに牧口さんと戸田さんは最初から日蓮正宗とは別組織で出発しましたから
それは日蓮正宗と相まみえない部分はあったでしょうね。

また、牧口さんと戸田さんでもその方向性は若干違いますからね。
牧口さんは日蓮正宗とは距離を置いて付き合っていたのに対し戸田さんは宗内に入り込んでの付き合いですからね。
この辺を掘り下げると長くなりそうですから割愛しますが。

僕は聖教新聞社の本も読む事はありますがそれ以外の本も読みますからね。
やはり両者の物を読まない限り真実は見えてきませんからね、それこそ諸法実相で考えてますから。
真実は身に非ず土に非ず、身土にありってところでしょうね。

学会員の方は聖教新聞社系の本しか読まないし、アンチの方はアンチの本しか読まないから
情報を鵜呑みにしてしまうと思います。
同じニュースを複数の角度から読んでいけば情報に騙される事はないと思っています。

278東(空):2011/03/06(日) 13:04:33
>>269のように私はドラえもん、も読んでいる

279ぜんまい:2011/03/06(日) 14:10:19
>>278

東さん、はじめまして。


私もドラえもんは読んでいました。

280ぜんまい:2011/03/06(日) 14:16:32
>>277

はじめまして。


>学会員の方は聖教新聞社系の本しか読まないし、アンチの方はアンチの本しか読まないから



私は立ち読みを含めて、アンチ系の本を読むことはありますよ。


またアンチ系のサイトを閲覧する事もあります。

281東(空):2011/03/06(日) 19:37:43
ぜんまいさん、こんにちは(^ω^)

282しげきょん:2011/03/07(月) 00:12:33
念仏と聞いて大体日本人は阿弥陀如来に 念ずるイメージです
それを 師匠に念ずる 日蓮大聖人に念ずるとかて考えの概念を持つのは
創価学会員か元会員の堅皇氏lぐらいです
ごく一般的認識では 学会員は念ずるという言葉よりも
御祈念するという言葉を多用し、
決意を祈念する宗教的文化をもっています
御本尊に誓いを立てるyという行為は従来の阿弥陀思想のすがるという念仏思想からは
生み出されない民衆自立の文化です
それを学会指導者たちは現代語に訳し、一人立つ、と簡潔に訳されてます
仏典でも 師に誓いを立てる
釈尊の十第弟子のフルナの弘教の請願などがあるように
誓いを果たす弟子の力によって 教団の行く末を興隆するものです
大聖人の若きころも 虚空蔵菩薩への誓いなどが(一切衆生にとっての智者とならせたまえ)
の請願があります、修学時の請願が大聖人の青春であられたのでしょう

283しげきょん:2011/03/07(月) 00:25:16
続き、大聖人の「一切衆生の智者と成らせたまえ」という請願は
即主師親の徳を因果具時に成就されたのでしょう
詳しくは省きますが
無作の三身の如来成就とも言えましょう
絶対の安穏の境智です
法難にあえども門下を慈しみ 親以上にも門下を大切にされ
末法の未来を託されたのです

284しげきょん:2011/03/07(月) 00:37:04
>282  教団の行く末=サンギャ和合僧団の行く末
平たく言えば 日蓮門下の善智識の集いの行く末
とも訳されます

285堅皇:2011/03/07(月) 00:58:09
>>ぜんまいさん

はじめまして。

> 私は立ち読みを含めて、アンチ系の本を読むことはありますよ。

これは僕が学会員時代から基本の行為でしたね。
その昔は「週刊実話」なんかを読むと結構楽しい事が書かれていまして。
会館内の写真を掲載して、「この中で日夜幹部たちは宴会を繰り広げている」なんてね。

あーなるほど、あれだけだだっ広い畳敷きの部屋を見ると確かに知らない人が見ると宴会場に見えるわなと。
嘘もこれだけ書かれると気持ちが良いというのと相手に実状を説明するにはこういった記事を目にした方が
実際の答弁はしやすいものなんだと思いよく読んでいたと言う事はありましたから。

もっとも同時に組織内での体験発表や聖教新聞に載せるときの原稿に
幹部が赤ペンを入れて修正している事実も目の当たりにはしていたんですけどね。

まーある意味どちらの立場に置いても、その目的を考えた上である程度冷静な態度で
寛大に受け止めていたんですけどね、若い頃からそのへんだけは大人でしたから
水清ければ魚住まず、嘘も方便って事で。

このお互いの方便合戦に対して徐々にアンチ側からまともな指摘が入ってくる事が増えてきましてね。
それに対する創価の過剰反応に少し戸惑った時期もありました。

もっとも今はその戸惑いを通り越したものになってしまった訳でして
これでも昔はアンチからの指摘に対しある程度の弁護はしてきたつもりなんですけどね。
でも正直今は弁護が全く出来ない状況だと言う感じですね、残念ながら。

286堅皇:2011/03/07(月) 01:53:00
>>しげきょんさん

> 念仏と聞いて大体日本人は阿弥陀如来に 念ずるイメージです

そうですね、単なるイメージと言う事ですね。
つまりは思い込みと言う事になろうかと。

さてさて、仏は一体何の為に法を説いてきたと言うのでしょう。
毎日読んでいる方便品にはここ書かれています。

吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
「私は仏と成っより已来(このかた) 種々の因縁、種々の譬諭をもって
広く言教を演べ無数の方便をもって衆生を引導して。諸の執着を離れさせてきた。」
だそうです。

つまりは仏法とは本来この様な衆生の思い込みと言う著(執着)から離れるために為に法を説いたという話ですね。
確かに思い込みによる判断と言うものは物事を見誤る危険性が高いと言えますからね。

> 大聖人の若きころも 虚空蔵菩薩への誓いなどが(一切衆生にとっての智者とならせたまえ)

その通りですね、若き日の日蓮は真言こそが第一と思われ、真言密教の菩薩である虚空蔵菩薩への誓いを立て
釈迦仏を本尊として念仏により経を読誦されました、間違いはございません。

この後に日蓮は法華経第一と悟られ立宗宣言を行ったわけですから。

ですから、真言も念仏も一度は通る道なのかもと言っているではないですか。
ただ、くれぐれも念仏が過ぎると行き着く先に気をつけましょうと言うことですね。

287しげきょん:2011/03/07(月) 08:59:03
日蓮は 真言念仏などの権教への執着をも絶たれたのではないでしょうか・?
ひいては法華経しゃくもんの立場も破り去った本門上行の垂迹を払って
久遠以来の如来の境涯を開かれた
末法の衆生の主師親のを確立したのではないだろうか

288堅皇:2011/03/07(月) 10:44:02
> 日蓮は 真言念仏などの権教への執着をも絶たれたのではないでしょうか・?

吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。

更に言えば真言念仏は権経ではございません。
いずれも実教である法華経以後のものであり、その法華経の理に反し
尚且つ法華経を無視したり法華経より優れているとしているから謗法だと言う事です。

方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか説いてないわけですね。
舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。

また、比喩品では世尊は舎利弗に遊び場で此の法印を宣伝するのはダメだと説かれています。
何故ならば、この「以信得入」の此の法印は利益か大きいのと同時に大変危険だからと言う事ですね。
特に執着の強い人、依存の強い人(増上慢)に聞かせれば法を謗り阿鼻地獄へ落ちるとも言われているからです。

解ります?「以信得入」と言ってもただ何でもかんでも信じればよいと言う話ではないんですよ。
創価の指導では誰彼構わずにこの「以信得入」と言う言葉を宣伝してますが。

密教の始まりはこれらを元にして段階的に秘密裏に仏法の実践を行おうとしたわけですね。
もちろん密教の形態では、取り仕切り側のさじ加減で変わるものなので法華経の趣意を掴んでいるとは言いがたいのですが。

しげきょんさんの話は日蓮や法華経の理論ではなく日寛さんの理論ですね。
「選択集」と同様な理を立てた日寛さんは執着の強い人(増上慢)だったと言えると思います。

289御意見番:2011/03/07(月) 14:05:37
>>288

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが。


>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。

釈尊が十如是・世雄偈を説いた後、舎利弗以外の衆生が動執生疑を起こし、
舎利弗と釈尊の「三止三請」のやりとりの後に「五千の上慢」が会座から
立ち去ってはいるけど、霊鷲山の会座には五千に留まらないほど数多くの
衆生が集ってたわけですが。


堅皇さん。

貴方が有する法華経の知識、大丈夫ですか?

290堅皇:2011/03/07(月) 15:44:54
> 方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
> 霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが。

ちもろんその程度の事は理解しております。
但し、立ち去っていった上慢の比丘・比丘尼の存在があると言う事ですね。

更に加えて言えば、この立ち去っていった比丘・比丘尼の存在に対して世尊は謗法者とは扱ってないですね。
彼らはまだ此の法に出会ってないわけですから。

具体的に謗法者となるのは此の法を謗る事にあるわけですからね。

つまりは権経自体は法華経に近づけるための方便と言う事になり
法華経を知りつつ法華経を謗る真言念仏が謗法と言う事になりますね。

日寛教学では権経、更には実教である法華経を捨閉閣抛するように促しております。
さて、法華経の何処に権経を誹謗して捨閉閣抛しなさいということが書かれているというのでしょう。
ましてや法華経を所破とはあるまじき行為であり正に念仏と同じく謗法であると言えますね。

291御意見番:2011/03/07(月) 17:16:11
>>290


>ちもろんその程度の事は理解しております。

堅皇さんは「舎利弗に〝しか〟説いてない」「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟
世尊は語り始めています」と言ってたでしょ?

舎利弗を対告衆として、霊山の会座にいた一切衆生に説いたとされる方便品の経文と
異なる話をしておきながら、な〜にが「ちもろんその程度の事は理解しております」
ですか(呆)


>この立ち去っていった比丘・比丘尼の存在に対して世尊は謗法者とは扱ってないですね
>彼らはまだ此の法に出会ってないわけですから


「十是実相」は、五千の上慢も、一応は聞いてるわけですよ。

その上で、十是実相の話に動執生疑を起こして霊山の会座から立ち去ったという
方便品の流れを理解出来ないで、な〜にが「彼らはまだ此の法に出会ってない」
ですか(呆)

292堅皇:2011/03/07(月) 17:28:52
ところでふと思ったのですが御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると読み取られたのでしょう。
経文には何処にもそんな事は記されていないと思うのですが。
もしかして法華経の解説書などを目にされてそう思われたのですかね。
ちなみに僕はこの「妙法蓮華経」自体が方便であると捉えたから舎利弗と言う個人ではないとの判断なのですがね。

また訳を読むにあたって一人の訳では読んでないわけですね僕は
より現代訳に近い方が読みやすい理解しやすいと言う事はありますが同時に意味が若干異なる場合があります。
例えば「三昧」と言う言葉等を取り上げれば「瞑想」などと訳されているものもあります。
確かに解りいいと言うこともありますが、では「禅定」とは何か。
同じく「瞑想」と訳されていたり、「如来」と言う言葉も単純に「仏」と訳されている場合もあります。
「如来」と「仏」が同義であれば最初から書き分ける必要はないわけですね。

1つの訳文、解説書に依存してしまう事も同じく著に囚われる事だと思います。
御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると判断されたのかは解りかねますが
もし、解説書に書かれているからと言う理由であれば解説書に依存されている事になり
その状態こそが増上慢だと言う事になるかと思います。

と言うのも石山教学に触れている方々は南無妙法蓮華経という教相が真言であるとの考えですから
御書を読む場合でも教相で捉えるところがあると思います。
方便品を教相で捉えると単に舎利弗という二乗作仏の話と捉えられてしまいますが
これを観心で捉えると二乗作仏であるなら全ての衆生もまた十如是であるから自ずと「煩悩即菩提」の文字が浮かび上がってくるわけですね。

つまりは「煩悩即菩提」は確かに密教で表現された言葉ですが
法華経の文の底に既に沈めてあったということになります。

よく石山教学の方々も文証、理証、現証と言う言葉を使われますが、実際に用いられているのは文証だけですね。
理証となる考えはどこかの解説文書に依存して現証に至ってはまるで無視、これを増上慢と言わず何を増上慢と言うかですね。

293堅皇:2011/03/07(月) 17:34:15
> 「十是実相」は、五千の上慢も、一応は聞いてるわけですよ。

「十是実相」は法華経の触りですよ。
舎利弗が三度懇願した後にようやく世尊は説かれ始めていますよね。

294しげきょん:2011/03/07(月) 18:02:08
>方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
>霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが

それは確かに多いよ、現代で192カ国のSGIのメンバーが 御宝前で
異体で会座に連なっているもの まだ世界広布の前半だから
六万劫沙の数は地球の今の人口を超えるものだも
これから陸続と地涌の菩薩がどんどん出て来るものだよ

295御意見番:2011/03/07(月) 18:03:17
>>292-293

>御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると読み取られたのでしょう。

「対告衆」は「仏が説法する時の聴衆の代表者」(仏教哲学大辞典)のことを
いうわけでしょ。


>経文には何処にもそんな事は記されていないと思うのですが。

方便品の始めに

「爾の時に世尊、三昧より安詳として起ちて、舎利弗に告げたまわく」

で、「舎利弗に〝しか〟説いてない」「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟
世尊は語り始めています」とする堅皇さんは、釈尊が「舎利弗に告げたまわく」で
方便品を説き始めた時、霊山には「舎利弗一人しかいなかった」と解釈してたの
ですかい?


>「十是実相」は法華経の触りですよ。
>舎利弗が三度懇願した後にようやく世尊は説かれ始めていますよね。


舎利弗が三度懇願したのは「十是実相」の後でしょ。



堅皇さんの発言を再掲

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。


堅皇さん。

貴方が有する法華経の知識、大丈夫ですか?

296しげきょん:2011/03/07(月) 18:10:26
舎利仏は一人霊山会にいたのではありません
二乗を代表してその他の眷属一同釈尊の十如是方便を説いたのです

297しげきょん:2011/03/07(月) 18:44:48
>日寛教学では権経、更には実教である法華経を捨閉閣抛するように促しております。

間違ってる事説きなさんな
しゃへいかくほうは法然の説いた謗法でしょう
混乱狂学は止めなさいよ

298しげきょん:2011/03/07(月) 19:02:33
>は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。
権教は欲望やエゴの生き方をセーブしてきたけど
末法に近くなり権教の僧が欲得や名声欲に溺れて着出してもはや方便の権教じゃ
治せなくなっており
日蓮は方便権教ではもはや成仏もかなわないし
社会も混乱して何も解決しないと説かれて南無妙法蓮華教の 大法をもって
根本的無明法の正しい道に暗き衆生にっとって太陽のように明るい希望の道を切り開いたのです

299堅皇:2011/03/07(月) 20:44:22
> 堅皇さんの発言を再掲

> >方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
> >説いてないわけですね。

> >舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
> >更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。

御意見番さんがどう解釈したか存じませんが

僕が「舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった」とするものは当然

「爾時世尊。告舍利弗。汝已慇懃三請。豈得不説。」から
最後の「随宜方便事。無復諸疑惑。心生大歓喜。自知当作仏。」までの事を指しているわけですよ。

つまりは三乗はなく全てが一乗であるというくだりの部分ですよ。
ここが世尊が説くのを最もためらった重要な箇所なんですから。

> 「対告衆」は「仏が説法する時の聴衆の代表者」(仏教哲学大辞典)のことをいうわけでしょ。

そんな事だと思いましたけど僕が信じるのは「妙法蓮華経」であり
唱える題目も「南無妙法蓮華経」であるわけですからそれ以外は全ては参考程度と言う話ですね。

300堅皇:2011/03/07(月) 20:46:28
>>しげきょんさん

> それは確かに多いよ、現代で192カ国のSGIのメンバーが 御宝前で
> 異体で会座に連なっているもの まだ世界広布の前半だから
> 六万劫沙の数は地球の今の人口を超えるものだも
> これから陸続と地涌の菩薩がどんどん出て来るものだよ

創価学会も何時の間にか本当に傲慢な存在になってしまったもんですね。
創価学会は地涌の菩薩確定と言う話ですか。

俺がまだ子供の頃は「法華経に地涌の菩薩の事は書かれているが創価学会が地涌の菩薩のという確証はない
でも我々が地涌の菩薩だと言う事を信じて頑張ろう」という話をする幹部も沢山いたのですが
もうこう言った姿勢で捉えている人は誰もいないという話ですね。

もうこうなると「嘘も方便」ではなく「方便が真実」って事になってしまっているわけだ。
もっとも「本因妙」と言う言葉自体が「方便が真実」って話なのでしょうがないですけどね。

301堅皇:2011/03/07(月) 20:49:40
その勝手な思い込み、依存、執着の持ち主の事を「増上慢」と言うわけですよ。

302しげきょん:2011/03/07(月) 21:27:18
なんか過去の指導者の言に拘ってますな
その当時の 幹部の言葉
も古いですな

303しげきょん:2011/03/07(月) 21:28:22
なんか過去の指導者の言に拘ってますな
その当時の 幹部の言葉
も古いですな

304御意見番:2011/03/07(月) 22:25:13
>>299


>僕が「舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった」とするものは当然

>「爾時世尊。告舍利弗。汝已慇懃三請。豈得不説。」から
>最後の「随宜方便事。無復諸疑惑。心生大歓喜。自知当作仏。」までの事を
>指しているわけですよ。


堅皇さんの元発言を再掲

>吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
>は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。


「吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。」

この経文は「汝已慇懃三請」の後ではなく、十如実相(十是実相は漢字間違いでした)
の前に説かれているわけでしょ。


>そんな事だと思いましたけど僕が信じるのは「妙法蓮華経」であり

七文字の題目を信じるのもいいけど、法華経の教学を語るならば、
法華経開結の読み下し文を読み直して、経文の基礎知識を身につけなよ。

305堅皇:2011/03/07(月) 22:54:55
>>御意見番さん

まいりましたね、ここでも切り文で来ますか。

>>286 僕の発言は
吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。

この辺の説明では「此の法」とは言ってないですよ。
僕は「仏法とは」と表現してありますからね。
> つまりは仏法とは本来この様な衆生の思い込みと言う著(執着)から離れるために為に法を説いたという話ですね。
> 確かに思い込みによる判断と言うものは物事を見誤る危険性が高いと言えますからね。

そりゃそうですよ、毎日勤行で唱えている部分はこれまでの権経を褒め称えている部分であり
まだ核心部分に入ってないですからね。

何故に石山流の勤行が長行ではなく「十如是」までで終わっているかは
「十如是」が核心部分だと思ったか、増上慢の集まりの団体だからかは知りませんけどね。

方便品の一連の話をちゃんと最後まで聞いて初めて
「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」となるわけですから。

いきなり権経の方便を取り去ってしまったら法華経にたどり着く事も出来ないわけではないですか。

つまるところ仏法の何たるかを理解する為にも権経は必要であり
また、法華経に辿り着いた人は権経の理に執着してはいけないという事でしょう。
石山教学は完全にその逆を行っていると申し上げたいわけですね。

306堅皇:2011/03/07(月) 23:50:27
>>しげきょんさん

> なんか過去の指導者の言に拘ってますな

指導じゃないよ、それだけ昔は御書を創価から配られた解説本だけを鵜呑みにしないで
ちゃんと考えて読んでいた人が多かったって話よ。
当事は、子供だったからそれこそ意味が全然解らなかったけど今になっていろいろと思い出すことが多いわけ。
「久遠元初」に対してなんか言い訳臭くて納得できないなと言う話や
日顕曼荼羅が謗法曼荼羅と言い出したのは危険な話だとか
「九識論」と「一念三千」は本来別次元の話だとか。

今となるとなんでこの様な議論をしていたかの意味が良く解るという話ね。

307堅皇:2011/03/08(火) 18:13:57
えーと、1つだけ僕の書き込みに関してのお詫びです。
勤行に関しての方便品での「十如是」と言う物は石山流に限った話ではないということ。
また、この「十如是」までを長行とする考え方もあるみたいですね。

これは一体何を所依としているかと言う根拠までは解りかねますが。

一宗派の問題に書いた事はお詫びいたします。
宗内の腐敗に関した事例も日蓮正宗だけに限らずその他の日蓮宗派でも多かれ少なかれありますからね。

もっとも広宣流布というものを目指しながら各門流と称し組織の分裂を繰り返しているのは
何も石山派だけに限った話ではないということでもありますからね。

308御意見番:2011/03/08(火) 23:16:09
>>305

>僕は「仏法とは」と表現してありますからね

ほぉ〜

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

「此の法」を「仏法」とした場合、

そうなると釈尊は「仏法」を「舎利弗に〝しか〟説いてない」
「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟世尊は語り始めています」
ということなのなのかい?



堅皇さんの発言を再掲

>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。

>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です


舎利弗と釈尊の「三止三請」のやりとりは、会座にいる衆生を意識した内容に
なってるでしょ。

舎利弗「今者四衆、ことごとく皆疑い有り、唯、願わくは世尊、この事を敷演したまえ」
釈尊「もし、この事を説かば、一切世間の諸天及び人、皆当に驚疑すべし」

会座の衆生が十如実相の文を聴いて疑いを起こしたがゆえ、その衆生の心を知った
舎利弗が、衆生の疑いを晴らすため、代表して釈尊に教えを懇願し、
釈尊がそれを拒否するやりとりが「三止三請」なわけだろ。

だからこそ、舎利弗が、会座の衆生を代表する「対告衆」としての意義があるわけ
じゃんか。

「舎利弗に〝しか〟説いてない」
「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟世尊は語り始めています」は、
五千の上慢に入らなかった会座の衆生を無視した我見だぞ。


何度でも言うけど、法華経の教学を語るならば、法華経開結の読み下し文を
読み直して、経文の基礎知識を身につけなよ。

309しげきょん:2011/03/08(火) 23:24:15
堅皇氏の考えると言うのは疑うと言うことを意味している
つまり不信を合えてするという考えですね
不信こそ 迷いの主、、無明ですよ
以信得入以前の考えですよ 悟りから迷いへの転落ですよ 即身成仏から
歴劫修行への転落ですよ

310堅皇:2011/03/08(火) 23:50:09
>>御意見番さん

解んない人ですね。

仏法と言えば南無妙法蓮華経も権実大小も全て含まれるわけでしょう。
それに対する「此の法」と言う表現は見て取れば解るっしょ。

>>しげきょんさん

先ずは方便品を全部読んでみるとこ。
また比喩品に書かれている「以信得入」の前後をよく読んでみることですよ。

そうすればただ何でもかんでも信じればよいと言う事ではない事が解りますよ。

先ずは信と著の違いを見極める事ですね。
しげきょんさんのは信ではなく著だから。

311しげきょん:2011/03/09(水) 19:18:37
別に以信得入を説いたからと言って
なんでもかんでも 信じろと説いていません
貴方の脳内変換で 勝手に言われちゃ話になりませんわ
もちろん御本尊の当体であることを  強く信じ智恵へと転換することですよ
基本は御書御本尊大聖人です

312しげきょん:2011/03/09(水) 19:30:43
堅皇氏の説は 方便を説かなきゃ仏法に入れないという執着に囚われています
法華経の真実から法は説くべきです
勇気があれば、、、だが

313しげきょん:2011/03/09(水) 19:42:08
方便をごまかしごまかし説いていけば ごまかしが本当と思う人が出るでしょう
真実を説くから大聖人と同じ勇気慈悲が湧現するから人生が楽しいのでしよう
つまり方便は方便でしかないのです法華経は題目で得た真実の体験を説くものです
回りくどい方便なんか説いていたら広宣流布は大変立ち遅れてしまうものです

314堅皇:2011/03/10(木) 12:11:11
>>基本は御書御本尊大聖人です

かつては同じくそう思っていたんですけどね。
ただ、御書御本尊大聖人と言う事自体が、日蓮正宗が作り上げた「本覚思想」によって成り立っていますからね。
この「本覚思想」と言う物は秘伝や口伝主義が多発し比叡山の僧風を堕落させた中古天台と同じ思想ですからね。

また御書を基本と据える事が秘伝や口伝を持ち込むには都合の良い状況であるとも言えます。
簡単な話、秘伝や口伝を日蓮の御書だと信徒に触れ回れば良いだけの話になりますからね。
つまりは中古天台の悪しき時代に逆戻りと言う事になると言う事です。

仏法では「信」を段階的に捉えているわけですね。
シュラッダー:信 プラサーダ:浄信 アディムクティ:信解 バクティ:誠信

で、バクティと言う物は本来仏法にはないものでヒンドゥー教によるもので
まーバクティとは「絶対の帰依」と言う事ですね。
これに対する仏法はプラサーダ止まりと言う事でも仏法が宗教では無かったと言う事が物語れますね。

羅什の「妙法蓮華経」が逐語訳ではなく意訳と言う事はご存知かと思いますが
本来のプラサーダをバクティに意訳したのは他でもない羅什と言う事になります。
余程その書かれている内容に確信があったという裏づけにもなりますよね。
更にこのただでさえ「信」をより強調した羅什訳の「妙法蓮華経」に対し更に「南無」を加えて
更に「信」を強調したという事になります。
つまり日蓮にとっての「妙法蓮華経」と言う物は「絶対の絶対の帰依」と言う事になるわけですね。

そこまで日蓮が誠信を尽くした「妙法蓮華経」を何故に信じれなくて本覚思想の秘伝や口伝書を信じるのかと言う話。
であれば、「南無御書御本尊大聖人」でいいのではないですかね。
もっとも石山派の中ではそれ以前にやってる行為が「南無日寛上人」「南無六巻抄」「南無文底独一本門」ですけどね。

315しげきょん:2011/03/10(木) 22:56:22
所詮仏法が存在するのは
行学二道が行われるところしか存在しないのでは
折伏の行、教学の学の、二つを怠りなく進める人のいる場所が寂光土ではないかと
言えるのです
学だけでは観念的にしか仏法がありそうなだけで 実践の行に具体的証拠になる
仏法の実在が出てくるのではと思います
それは権益冥益の二つの利益があるのは当然ですが自身の命に実態として
どちらも行学の結果証拠として現れてくるものだと確信します

316堅皇:2011/03/11(金) 02:37:02
>>しげきょんさん

行学二道と言ってもねぇ。
その「行」をやるにしてもしげきょんさんの場合、体力も精神力も既に枯れ果ててるのではないですかね。
ぶっちゃけた話、両親が倒れてしまったらしげきょんさんはどうやって生きていくのか。
しげきょんさん自身の体調も去ることながら両親ももう若くないでしょうに。
一日も早く依存癖から抜け出せるようには願ってます。

と言う事で構うのはもうお仕舞い。
このままではもう何も変わらないと思うので、本当に困ったときが来たら
訊ねてきてくれればいいから。

それでは説教オヤジさんの復活も見込めそうに無いので
お元気じゃなさそうだけどお元気で。

317しげきょん:2011/03/11(金) 23:16:34
お構い無く、、、依存じゃなく親子互いに協力し合って生きています
これも創価のおかげです
仲良く協力し合っているのが 言葉だけで依存と断じられては
かなわないよ ほっといて下さいなとしか言いようがない


貴方は貴方の道を歩めばいいよ

320首都高バトル01:2011/09/30(金) 10:11:09
堅皇さんと説教オヤジさん〜 のスレで、

>50 より、たぶん勢いで書かれたと思うのですが、
「 釈尊は法華経方便品に於いて十如是を説き、一念三千を明かした 」とありますが、一念三千は、天台によってではないですか?
そのところ、すみませんが補足願えれば、ありがたいのですがよろしくお願いします。 しょうもないツッコミをしてすみません。

どこに書いていいのやら、ここのスレの皆さん、突然 申し訳ありません。

321首都高バトル01:2011/09/30(金) 11:14:08
ついでですので、十如是ってなんでしょう?
十の如是の語句の解説ではなく、華厳教にある「こころは、工(たくみ)なる画師」とあるように、一念を強く持つところに、意識に顕れる映像も生命内において、十如是ではないでしょうか。
十如是の映像を持って十界が顕れ、十界のそれぞれの一念によって十如是の映像が、顕れる。
依正の依、つまりまわりや環境、他人の一瞬のしぐさに十如是の映像を見る間もなく(本当は見ているが、めちゃくちゃ速い)、十界のどれかを観じ、
そしてそれに素早く反応しようと今観じた十界とは別に、対処しようと(依正の正)、自らに内在する十界が顕れ、どう対処するかの十如是の映像が意識に顕れる。これも瞬間なので内在する十界のどれかが顕れ、その強い一念で十如是の映像を確認することなく、その映像のとおりに行動しているのかもしれない。

つまり十界互具は、互具にとどまらず、互顕するのではないでしょうか?

まとめてみます。
「 十如是を持って、十界は顕現し、十界を持って、十如是は顕現する。南無妙法蓮華経を持って(唱えることにより)、仏界が湧現し、仏界を持って最高理想(具体的行動内容)の十如是が顕現する。

観心本尊抄講義で戸田先生曰わく、「 妙法蓮華経とは、即これ十界互具である 」

322首都高バトル01:2011/09/30(金) 11:28:53
では、仏界の一念とは、どのような生命状態なのでしょう?
一つの方向から、また機会があれば述べてみたいです。

一応まとめていますので...。

323説教オヤジ:2011/09/30(金) 22:14:57
開目抄上
「法華経方便品の略開三顕一の時仏略して一念三千心中の本懐を宣べ給う、」
開目抄下
「宗宗互に種を諍う予此をあらそはず但経に任すべし、法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり
天台の一念三千これなり」

一念三千法門
「法華経は念念に一心三観一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され
無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身煩悩具縛の身即本有常住の如来となるべし、」

一念三千法門
「法華経の余経に勝れたる事何事ぞ此の経に一心三観一念三千と云う事あり、」

まだ、言わせるか?

324堅皇:2011/09/30(金) 23:07:08
>>首都高バトル01さん

一念三千は、天台によってではないですか?

これは説教オヤジさんに対しての質問だと思いますがその通りで
一念三千は法華経の諸法実相、十如是を天台が釈したものですね。

更に言えば十界論も天台の釈ですね。

ただあえて言うならば諸法実相も十如是も一念三千も十界論も同義であると言えますね。
天台は法華経最上の元で釈されてますので
全てが一乗と言う事で法華経の義に反してないと思われますから
「 釈尊は法華経方便品に於いて十如是を説き、一念三千を明かした 」と言う文には
僕は指した違和感は感じません。

厳密に言うのであれば釈迦は法華経は説いてませんし
法華経を説いたのは釈迦滅後の僧集団であり
更に天台や日蓮が指す法華経とは、その梵本法華経の事ではなく
鳩摩羅什訳の妙法蓮華経を指すわけですから
「釈尊は法華経方便品に於いて」の時点で釈尊は法華経を説いてないだろうとなりますし
「法華経方便品に於いて十如是を説き」の時点で法華経では十如是は説いてないだろうと言う話になりますからね。

325堅皇:2011/09/30(金) 23:07:45
> 華厳教にある「こころは、工(たくみ)なる画師」とあるように、
> 一念を強く持つところに、意識に顕れる映像も生命内において、十如是ではないでしょうか。

これは違うと思います。
と言うより妙法蓮華経第一の解釈ではないと言えます。
華厳経にある義を妙法蓮華経の義により釈すのは妙法蓮華経第一となりますが
妙法蓮華経の義を華厳経の義により釈すとそれは華厳経第一となってしまいます。

例えるならそれは「煩悩即菩提」を「菩提即煩悩」としてしまう様なものですね。
これは真言宗が妙法蓮華経第一と捉えずに大日経等を第一と据えてしまった事と同じ過ちに思います。

日蓮の言い分によりますと真言は天台の一念三千を用いているにも拘らず
妙法蓮華経の義(もちろん諸法実相)から外れているので、語だけを用いるのは泥棒だと揶揄しているわけですね。

もっとも妙法蓮華経よりも華厳経が第一であると捉えられているのであれば
華厳経より妙法蓮華経がどれだけ優れているかと言う話から始めなければいけなくなりますが。

でもって天台の一念三千、三千一念は当然一念が実相であり三千が諸法と言う事が当て嵌まりますが
その一念とは何なのかと言われれば、やはりそれは諸法実相と言う事になろうかと思います。
つまりは、諸法実相の実相とは諸法実相であり、その実相もまた諸法実相で形成されていると言う事。

人間は何により形成されているかと言えば細胞の集合体であると言う事
その細胞は何により形成されているかと言えば細胞を形作っているものの集合体。
何処まで言っても諸法実相は諸法実相で形作られており実相と言う単体の存在はない
無限の無始無終と言う話であると言う事であると言えますね。

この妙法蓮華経の諸法実相に反し全ての宗教は始まりを見出そうとして
その始まりを神や本仏と言うもの作り出しているわけで
真実は諸法実相、十如是と言う縁起によって成されると説かれているのは
妙法蓮華経以外に現時点では存在していないと思いますから僕は妙法蓮華経を信じているわけです。

326説教オヤジ:2011/10/01(土) 05:44:57
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
>一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、

十法界事
>本門観心の時は是れ実義に非ず一往許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば永く六道の流転を出ず可からず、

まだ挙げろってか?

327堅皇:2011/10/01(土) 18:38:53
説教オヤジさん

「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」も「十法界事」も単なる日蓮の釈ですよ。
ここでの質問は法華経(妙法蓮華経)に一念三千や十界論と言う物が出てきているのかと言う話です。

一念三千や十界と言うものはあくまで天台が妙法蓮華経の「義」によって表現された「語」であるという事です。

328首都高バトル01:2011/10/02(日) 02:05:11
遅くなって申し訳ありません。
説教おやじさんへ
いっぱい書いてくださいまして本当にありがとうございます。
勉強になりました。 子どもがおぼえたての言葉を連発するように、こういう指摘をすると言うことは、まだまだ未熟者です。ご勘弁のほどを。

堅皇さんへ
諸法実相の言葉は、そのとおり諸法実相なんですが、しかしその言葉は、指すゆびですよね。この世の中というか、十法界、森羅万象という大きな視点というか、全体像で視ると、諸法実相の実体は、生命ですよね。

それからご指摘の文章が、華厳経第一(私は、妙法蓮華経こと法華経が第一だと思っておりますので)にならないようにするには、どう書き換えるかということですよね。

(1)引用文が見当たらない。
(2)法華経寿量品の神通力如是あたりから〜雨曼陀羅華.散仏及大衆は、仏の目や境涯を通せば(これは大事なことなのですが)、そう見えるということで
全体ではないですよね。
(3)天台大師は、華厳経を引用しているのは、どうとらえればいいのか?
また日蓮大聖人は、天台大師が華厳経を引用することを、どうとらえられているか?
(4)そもそもこの文章が、堅皇さんの言われる、華厳経第一になってしまうのか?
(5)とにかく妙法蓮華経こと法華経第一にしたいので、文章をどう組み立てたらいいか考えてみます。、、、文章をあとさき逆にしてもなぁ〜、五陰もな〜、難しいです。ハイ。

329首都高バトル01:2011/10/02(日) 02:42:28
付け加えて〜
諸法実相は、文底の立場で言うと、御本尊であり、そして究極するところ十如是は、御本尊であると言うこと。

330堅皇:2011/10/02(日) 14:23:54
首都高バトル01さん

> (私は、妙法蓮華経こと法華経が第一だと思っておりますので)

とのお話ですが基本的に日蓮信者の方々は法華経が第一ではなく
日蓮及び御書第一と捉えられている方が多いと思います。

更に言えば日興門流では日興第一であり御書に外れる義であっても遺誡置文にあればこれが第一
もっと言えば、日蓮正宗で言えば歴代法主の書にあればこちらの方が第一となり
御書や妙法蓮華経から外れる義であっても、これを第一として捉えているわけです。

これが正解か不正解かと言う議論はその内容を精査する必要があるとして
言えるのは妙法蓮華経が第一と言う事ではなくなってしまっていると言う事です。

その際たるものが「久遠元初の自受用報身」や「文底独一本門」と言う事ですね。
妙法蓮華経にある語は「久遠実成」に「諸法実相」ですから
この義に照らせば「久遠元初」は「久遠実成」と義が異なりますし「文底独一本門」は「諸法実相」と義が異なりますよね。
異なる義が交差する時にどちらの義を根本に第一として捉えるかと言う事ですね。

僕は妙法蓮華経を第一と据えますから「久遠元初」や「文底独一本門」と言う方便は法華経を理解した時点で捨方便しますが
日蓮正宗及び創価学会の方々は歴代法主の書を第一と捉えてますから逆に
「久遠元初」や「文底独一本門」を持ってして「久遠実成」や「諸法実相」の方を捨方便していますよね。

ちなみに天台の「一念三千」は「諸法実相」に義が異なるものではありませんが
「一念三千」の「一念」もまた「諸法実相」ではなく「実相」と言う単体のものと解釈するならば
妙法蓮華経と義が異なるものとなり、禅宗や真言宗の様な捉え方となってしまうということです。

また、十界論では仏性は人々の中に久遠の昔から既に内在する事を表現されているわけですから
「久遠実成」の義を解りやすく表現されたものであるといえますが

331堅皇:2011/10/02(日) 14:24:37
また、十界論では仏性は人々の中に久遠の昔から既に内在する事を表現されているわけですから
「久遠実成」の義を解りやすく表現されたものであるといえますが
「久遠元初」では九界の境界を超えた仏性はある日突然一人の人物によって発生させたという考えであり
天台の「十界互具」と言う事にも義が異なると言えると思います。

以下ご質問の回答です。

(1)引用文が見当たらない。

僕は妙法蓮華経を第一として考えていますので文証は基本的に妙法蓮華経及びそれを証明させるための諸経です。
加えて妙法蓮華経を第一と捉えた上で妙法蓮華経を守らんがための第二に大般涅槃経を用います。

日蓮信者の方々はどうしても「語」に拘る方が多いようですが
僕は「義依不依語」の観点から「語」ではなく「義」を追求しているわけです。
「語」に拘り音読、丸暗記を基本として考えているのは真言密教の考え方ですね。

対する羅什、天台、日蓮に共通する事は「語」に依らず「義」に依り解りやすく意訳して伝えているところにあります。
これが仏法がインド、中国、日本へ渡って使われる言葉や表現方法が異なれど
その「義」が伝わるものだと言えますが
密教が用いた音訳は発声自体は継承されても「義」が全く異なり
仏法が仏法で無くなってしまった所以であるとも言えると思います。

大切な事は「語」なのか「義」なのか、その両方を比べた時
僕は間違いなく「義」が大切なものであると思っています。

意味の解らない丸暗記の文章を羅列するよりは、その「義」を汲み取り
少しでも理解しやすいように伝える事が本命だと考えています。

332堅皇:2011/10/02(日) 14:25:26
(2)法華経寿量品の神通力如是あたりから〜雨曼陀羅華.散仏及大衆は、仏の目や境涯を通せば(これは大事なことなのですが)、そう見えるということで
全体ではないですよね。

先にも説明しましたが人は「十界互具」であり「久遠実成」であるわけですから
「仏の目や境界(境涯ではなく境界)を通せば」で言う「仏」とは人々に内在するものですから
なにも偏った思想では無いと言うことです。
「仏の目や境界」とは誰もが既に用いているものであると言えますから。
これを引き出せるか引き出せないかと言う話であり、仏とは人間を超える何かと言う事ではありませんから。

(3)天台大師は、華厳経を引用しているのは、どうとらえればいいのか?
また日蓮大聖人は、天台大師が華厳経を引用することを、どうとらえられているか?

諸法の引用はしますよ、妙法蓮華経では一切の諸法を認めているわけであり
また、それらの諸法の中に実相があると言っているわけですから引用しないわけがないです。

但し、天台も日蓮も諸法の段階的な優劣は説いています。
これは妙法蓮華経を守り広めるための大般涅槃経の義ですね。

どちらも間違いではないと言う観点に立ち、どちらが最上かを計るためのものですね。
A案しかなければA案を選択するしか道はないですが
A案とB案が存在すれば、どちらがベストであるか計る必要があるでしょう。
互いに逆の方向を目指せばまとまるものもまとまらない。
そこで優劣を決め考えを纏める必要があるということです。

その中で最も優れていると判断されたのが妙法蓮華経であるわけですから
華厳経の義を妙法蓮華経で解釈すれば最上の解釈となり
逆に妙法蓮華経を華厳経の義で解釈すれば最上の解釈ではなくなるということですね。

333堅皇:2011/10/02(日) 14:26:04
ちなみに華厳経では仏とは盧舎那仏と言う一仏に集約されていると言う教えであり
妙法蓮華経では仏とは一切衆生に内在するものであり全ての人々が仏であると言う教えです。

妙法蓮華経を華厳経で解釈すれば一切諸仏は一仏に集約すると言う考えになり
華厳経を妙法蓮華経で解釈すれば一仏(盧舎那仏)とは一切諸仏の集合であると言う考えになります。

日蓮は本尊と言う形をとり華厳経の一仏信仰の様な形を取っていますが
その実は曼荼羅と言う形で本尊の中に一切諸仏が描かれているわけで
妙法蓮華経の義に異なる事無く一切諸仏を敬う形に纏め上げているわけです。
これは華厳経を妙法蓮華経で解釈しているという事になりますね。

逆に曼荼羅を用いて、これこそ御本仏(盧舎那仏)、日蓮大聖人のお姿だと解釈するなら
妙法蓮華経を華厳経で解釈したと言う事になります。

もともと法華経を突き詰めると華厳経に逆戻りしてしまう事は良くある話です。
日本でも過去に聖徳太子の時代に広まった法華経が聖武天皇の時代では華厳経に陥ったと言う。
縦軸で考えるところでは一番遠いところに位置しているように見えるが
実のところ、らせん状に繰り返し輪廻している事が解ります。

(4)そもそもこの文章が、堅皇さんの言われる、華厳経第一になってしまうのか?

妙法蓮華経の持つ義を華厳経の義を持って解釈するならそう言う事になりますね。

「変毒為薬」や「煩悩即菩提」と言う考え方も妙法蓮華経の義に即していると言えます。
薬を成す為に毒を用いるわけであり、毒と言われるものでも使いようによれば薬として活用できるわけです。
と言う事は毒の中に薬となる成分が既に内在していると言う事ですね。
ですからここでも「十界互具」や「久遠実成」と言う義は当て嵌まるわけです。

毒と言う存在を「捨閉閣抛」してしまうと薬を得ることも叶わなくなってしまいます。

334堅皇:2011/10/02(日) 14:26:51
と言う事は逆も言えるわけですね、薬を持ってして毒を作り出す事だって出来るんですから。
薬の中には毒の成分も内在しているわけですから逆に用いると
薬を飲んでいるように思っていても実はどんどん毒を盛り込んでいる事にもなりかねない。

「即」と言う事でイコールと考え逆に用いても同じだろうと考えがちですが
「変薬為毒」や「菩提即煩悩」と使い方を間違えれば浮かばれる事はありませんからね。

> 付け加えて〜
> 諸法実相は、文底の立場で言うと、御本尊であり、そして究極するところ十如是は、御本尊であると言うこと。

これも逆の捉え方だと思います。
「究極するところ十如是は、御本尊」ではなくて
「究極するところ御本尊は、十如是」なのだと思います。

以上、大変長くなってしまいましたが。

335首都高バトル01:2011/10/03(月) 11:02:22
堅皇さんへ
長い文章でのご説明ありがとうございます。
まだまだ勉強不足なもので、仏教用語で理解できてないものがいっぱいありすぎて、難しいです。 しかし勉強になります。

「 諸法の実相は、南無妙法蓮華経 」この文章で、実相と南無妙法蓮華経は、一緒だと思うのですが、よくよく考えてみると同じものでありながら、別物にみえてくるのですが。つまり実相は、南無妙法蓮華経を指す言葉であると言うことが。 私の見解ですみません〜 十如是は、御本尊と思えてなりません。

語より義が第一 〜 堅皇さんの言われるとおりだと思います。
では、義は、何を指しているのでしょうか? まだ先があるように思えるのですが、行き止まりまで行ってないような...。義と言う文、語の先と言うより、義の言葉の中の底へ突き当たる、行き止まりまで。そこが、その言葉の、その文の底、一番深いそれより行きようがないところがあるように思えるのですが。義は義だから何ものでもないと言われればそれまでなのですが...。


あまり詳しくないのですが、天台大師の十乗観法の中に、禅のような瞑想の修行があったり、もっとすごいのは、ぐるぐるお堂の中を歩きながら、念仏を唱える修行、四種三昧の中の常行三昧で、般舟三昧経によって設けられたものだそうです。まず道場を荘厳して阿弥陀仏の像を本尊として安置し、九十日間外出しないで、沐浴しつつ本尊の阿弥陀仏のまわりを、阿弥陀仏の名を唱え、念じ歩きながら歩き回る修行だそうです。天台大師が止観(の中の円頓止観)を修する為に行う修行の一部だそうです。
天台大師は、どのように瞑想や念仏を唱える修行をとらえているのでしょう?
また日蓮大聖人は、天台大師のこのような行いをどうとらえられているのでしょうか?また天台大師が瞑想や念仏を修行に取り入れているのに、大聖人の時代、日本の天台宗が真言はさておき、(どういう意図の流れで真言を取り入れたかは、勉強不足でまだわからないないので、すみません)、念仏を取り入れたことに反対され曲解と言われるのでしょうか?

336首都高バトル01:2011/10/03(月) 11:38:14
その状況が大変なら大変なほど、この先どうなるんだろうという思いを強くした時、この先の状況が意識に映像とまで言わなくても、「これから、ああなって、こうなって行きそうだ」と思いますよね。最悪ならば状況打開の案を考えますよね。一見、状況をもとに、打開案が根本みたいですが、状況を捉えるもの、打開案が出てくる先、というか捉えるところと、出てくるところが元であり、もっとも状況打開案が出てくるところが大事と思っていますので、義はそこにあるとして、そのことを文章にすると華厳経第一には、ならないですよね。華厳経の文を引用しても。  しつこくてすみません。

普段人間が行っていることですよね。そういう機能というか、、、
大変になればなるほどそのような状態が命の中から起こってきますよね。

337首都高バトル01:2011/10/03(月) 12:17:48
すいませんもうひとつ。真言宗で一念三千を取り入れると泥棒と、日蓮大聖人は言っていますが、例えば五智(十八円満抄の中の)は、弘法大師によるものですよね?違いましたら訂正して下さい。すいません。
とにかく日蓮大聖人が真言宗からの引用は、なぜいいのか?

法華経は主だから、全て法華経よりのものだから法華経の持ち物(爾前.権教)だから許されると言う考え方?

338首都高バトル01:2011/10/03(月) 13:12:16
ほかに判ずる本門(法華経の)より次元の高い経がないから「 但真実の依文判義は本門に限るべし 」ですが、まだ奥がありますよね。
「  」の文の上ならそこまでですけど、もっと奥の文の底の行き止まり、これ以上ないところ、つまり文底独一本門の義によって文上の本門は判ぜられる(依義判文)ほかないと言うこと。

したがって、文底独一本門の南無妙法蓮華経のみが他の義を借りずに、そのまま真実・究極の義を示す「 依文判義 」であると言うこと。

339首都高バトル01:2011/10/03(月) 13:44:54

究極するところ「 義 」は、文底独一本門の南無妙法蓮華経であると言うこと。

340首都高バトル01:2011/10/03(月) 15:27:10

南無妙法蓮華経は、万能薬なので、変毒為薬や、変なんですが変薬為薬になることはあっても、変薬為毒にはならないですよね。(ほうぼうや曲解するとあるかな〜?) ほうぼうの漢字が出てこなくてすみません。

九界即仏界は煩悩即菩提に、 仏界即九界は菩提即煩悩 (たえず煩悩が前なのかな〜?、仏界所具の九界や、仏界所具の地獄もあるし煩悩があとにくることはあるでしょう。)に、皆、お題目を唱え、悩み苦しみながら闘い、またお題目を唱え闘う、そのくりかえしのなかに、より強靭な煩悩即菩提になっていくように思ったりします。九界即仏界と煩悩即菩提を同じ意味にとるのは、まずかった?
まだまだ教学力は、この程度なのですみません。

死に金と生き金という考え方(NHKの龍馬伝より)
その場でなくなる金の使い方か、使うことによって何倍もの大金になって帰って来たり、大きな価値を生み出す金の使い方。

こんな言葉はないですが、死に教学と生き教学というものは、どのようなものなのでしょう?
さらに、死に人生と生き人生とは?

破壊のための行動なのか、創造する行動なのか?
生き金を使い、生き教学を実践し、生き人生であゆみ、破壊する人ではなく創造する、創造していく、人でありたいです。



ちなみに生き教学(本当の教学の実践)には、励ましと激励は、必要ですよね。

341首都高バトル01:2011/10/03(月) 16:33:28
これは、当てはまらないのかな〜?
変毒為薬〜毒の中に薬の成分が潜んでいる。薬の中に毒が潜んでいる。
それでは、煩悩の中に菩提が潜んでいる。菩提の中に煩悩が潜んでいる。
悩みの中に悟りが潜み、悟りの中に悩みが潜む。
九界の中に仏界が潜んでいて、仏界の中に九界が潜んでいる。
これぐらいでやめときます。まだまだ理解には、とおいので、、、菩提即煩悩がもしあったら、悟りの中に悩みがあるなんて今は理解できません。またそれを考えると、仏界即九界の仏界の中に九界が潜んでいる。これもよくよく考えると難しいですよね。

寿量品の文に、「 以何令衆生. 得入無上道. 速成就仏身. 」は、仏界即九界なのかな〜 ?  とにかくお題目を唱えることは、九界即仏界ですよね。

結論を出してから投稿するではなく、ひとりごとのような質問をぶつけるスタンスでの投稿ですみません。

342堅皇:2011/10/03(月) 19:01:54
首都高バトル01さん

> 義は、何を指しているのでしょうか? 
> まだ先があるように思えるのですが、行き止まりまで行ってないような...。

皆同じ事を考えるようですね。
この考えの下に天台門下は真言密教に染まっていったのだと思います。

基本的に仏法は無始無終の輪廻を説くものであり
何処まで言っても行き止まりは無いという考えであるという事です。
これに逆らっているのが真言密教であると言う事です。

つまり仏法では「深理」は追求できても「真理」は顕せない。
「絶待」は求められども「絶対」は存在し得ない。
この「真理」や「絶対」は存在し得ないと言う絶対的な真理を顕したのが妙法蓮華経と言う事。

> 天台大師の十乗観法の中に、禅のような瞑想の修行があったり

基本的に天台の止観行のベースは禅定ですからね。
日蓮のように曼荼羅(世界)に向けるものではなくあくまでも己心の中での行法となりますから
折角一念三千の法理を明かしているのですが依報に働きかけずに己心と言う正報に留まっているので
「理の一念三千」と呼ばれるわけですね。
対する日蓮の場合は己心から曼荼羅(世界)と言う依報に働きかけているので
「事の一念三千」となるわけです。

加え、ちと天台の教えと天台門下による天台宗の教えとがごっちゃになっているような。
阿弥陀仏はあくまで念仏が用いたものであり
もともとの天台では釈迦如来や薬師如来がベースであり
念仏を取り入れた事により、これらが全て阿弥陀如来にすげ変わったものだと思われます。

343堅皇:2011/10/03(月) 19:02:26
> 日蓮大聖人が真言宗からの引用は、なぜいいのか?

これは僕も当初抱いた疑問でしたね。
先ず何より、本尊や曼荼羅と言うものは完全に真言のパクリではないかと。
更にいえば「南無」は念仏のパクリであるという事ですね。
泥棒、泥棒といっている日蓮の方が泥棒なんじゃないのか?と正直思いました。

で、よくよく内容を読んでみるとパクリは仏法的に全然OKなんですよ。
咎められるのは、パクって義を変えた"まがい物"を作って
これが本物だと言い張るのが罪であるという事ですね。

アイデアだけを盗み取り、全く違うものを正規品として触れ回る事を泥棒と言っているわけです。

で、真言も念仏も毒であるわけですが
毒の中にも薬の成分が内在しているわけであり「久遠実成」「十界互具」ですから
それを「変薬為毒」した形で、本尊や曼荼羅、「南無」と言うものを活用していると言えるでしょう。

また、妙法蓮華経では新たなものを取り入れてはいけないかと言えばそうではなく
後世に妙法蓮華経を補填する諸法が現れることも示唆されています。
それが「陀羅尼品第二十六」ですね。

日蓮は全てのを否定しているのではなく誤りの部分を指摘しているだけの話ですから。
故に日蓮がしたためた曼荼羅には密教の不動明王や愛染明王
日本の昔からの神々である八幡大菩薩や天照大神なんてのも記されています。

日蓮正宗的に言えばこれらを讃えるなんて大謗法だという考えなんでしょうけど。

344堅皇:2011/10/03(月) 19:02:59
> 南無妙法蓮華経は、万能薬なので、変毒為薬や、変なんですが変薬為薬になることはあっても、変薬為毒にはならないですよね。

万能薬なんてものはこの世に存在しないですよ。
薬を服用する事により必ず副作用と言うものが付きまといます。
また、薬に依存する事により薬無しでは生きられない状況にも陥りますからね。

よく薬を過信評価する人がいるのですが
薬は極力服用しないで治せるものなら治すというのが医学の中では常識事です。
もちろん、服用すべき時に服用しないと言うのももちろん問題ですが。

> 仏界即九界は菩提即煩悩 (たえず煩悩が前なのかな〜?

たえず煩悩が前なのではなく、煩悩を菩提を持って行った方がいいですよねと言う話。
菩提から煩悩へ、仏界から九界へ向かいたいと言うなら止めはしませんが
苦しみたいから仏法を実践していますと言う人はいないのではないかと。

もちろん理論的には同じ事ですから可能ですが不毛だと思います。

345首都高バトル01:2011/10/04(火) 01:09:34
ちょっと、ひとりごとを書きます。

生命は勝負に勝つことで生存し、人間にまで進化した。人間世界では、正しき法の下での勝負しか許されない。これは、人間が破滅しない為、人間が生存していくには正しき法の下が、不可欠であるということを人間は知っている。(勝負に勝つことが、生存の第一条件)...まず勝負を先とするは、生存の極意。

ひとの前に灯りを灯せば、我がまえ明らか。治世産業と相違しない(一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず)...人は負ける時、不幸せになるのが世の中の一般である。弱肉強食しかり、戦争、災害、しかし人が負けても(人を負けさせても)幸せになる、幸せにさせる法則がある。社会も経済もその法則で動いて人間社会、お互いが生存、共存しあっている。つまり世を治める産業もこの道理で円満に動いて発展、繁栄して行っている。
...ひとを驚かせ勝っても、負けた人たちを不幸にしない、ひとを驚かせ、ひとに勝つことが...おのれの対象者が、驚き負ける事が、より幸せになる法則がある。...ピータードラッガー風に言うと、イノベーションサプライズ;既存の常識を超えた発想、創造する価値がひとを驚かせ、ひとに負けを与えるがその中身は、納得と感動があれば、それに対してひとは負けを受け入れ、幸せになる、その気持ちを得る。そういう提案、行動するひと、団体、組織、企業は、隆盛、繁栄していく。
(例)身近なところで、男女の恋愛、、、彼女をデートに誘う、彼は付き合ってお互いをもう充分知り、もうボチボチいけると感じている。
デートは、サッカーか、野球観戦に。(ありふれていてスミマセン)
そこで彼がイノベーション.サプライズを起こす。;電光掲示板に、プロポーズのメッセージ..彼女が驚き、納得、感動すれば、彼女は負けを認め、プロポーズを承諾し、幸せを受け入れる。そして彼は、ガッツポーズを決め、勝利を手に入れ、彼女を驚かせ負けさせたのに、彼女からありがとうの感謝の言葉までもらう。
自分が勝つことで皆を幸せにできるんだったら、絶対やった方がイイ。

ひとは驚きと、納得と感動を与えられたら、負けを認め、幸せを受け入れる生きものである。〜 最高の勝利の法則 〜 by 首都高バトル01。
その上で、お互いが信じあえるひとや世界を広げていくが大事。
実践する方からは、驚き負けの幸せにするである。
ひとりごとでした。

346首都高バトル01:2011/10/04(火) 02:47:02
ひとりごと(2)
持つは難し。〜最高の勝利の法則〜を陳腐化させないために、
モチベーションアップ法カレンダー(成功、失敗カレンダー)を作ってみる。
今日の1日の終わりに、自分の評価を記す。
記入は簡単。  〜最高の勝利の法則〜を実践し、失敗したか、成功したか、記す。
失敗したら[失敗.明日こそ成功させる]と書く。
成功したら[成功、明日も成功させる]と書く。
これを繰り返し毎日書く。

その効果は〜 勝負心が養える。勝ちぐせがつく(世の中、そう甘いかな?)。
明確な目標と設定が、はっきりしてくる。一日一日を勝とうとする意欲と、強くなる力がつく。信心の基本、人生の勝利につながる。題目の向上、真剣な祈りの題目が、あげられるようになる。人生はどこまでいっても、これの繰り返し、挑戦しないと未来は拓けない。だらだら生きる毎日にいい未来はない。限界まで努力する習慣がつく。人生に結果を出そう。結果を残そう。勝利しよう。毎日の成功の積み重ねが、その割合が大きくなればなるほど、未来の扉は大きく開く。
(なんかちょっと How to 本みたいになってしまいましたが、もしかしたら誰かの役に立つかも知れません。)

わが友に贈る・2011.9.10付ー聖教新聞より。
未来のために今日を勝つことだ。 今を勝つことだ。
不撓不屈の信心で。 さあ挑戦の一歩を!

(地湧の菩薩、本因の仏として、目覚めたら)全ての人の一日一日は、(本当は)超過密スケジュールである。気づかないだけである。

学会活動及び座談会に参加すれば、仲間、同志とのふれあいにより、安心感と元気が出る。信行学に徹し、学会活動をしっかり行えば、モチベーションアップ法カレンダーは必要ないかも知れない。

法華経題目抄より「 妙と申すは開と云う事なり 世間に財(たから)を積める蔵にカギなければ開く事かたし 開かざれば蔵の内の財を見ず 」

347首都高バトル01:2011/10/04(火) 14:44:23
十如是の説明にこうありました。
十は、(十界それぞれに、瞬間の生命にそなわる十種の共通の構造)は、置いといて、 如是は「是(か)くの如(ごと)き」と読み、「ありのままに見た事物・事象のすがた」という意。
わかりやすく付け加えて、
目や感覚器官、心を通して意識に描かれる映像はなんでしょう?
それは、十の構造を持つ、「ありのままに見た事物・事象のすがた」であると言うこと。 これを十如是と言います。 たいへんよくできました。

あまりきかない、聞いたことがない、それはあっているのか?いないのか?
正統なものの理解につながるのか?
そういう内容を「 冒険 」と表示してから、これからは、書きます。

さっそく冒険します。
・ 一個人の生命自体について依正を立て分ければ、一念心が正報であり、肉体が依報になります。
・ 一念三千の法理を依正に立て分ければ、五陰と衆生の二世間が正報であり、国土世間が依報になります。依正の二報ともに一念の生命に収まるということ。

問題(1):依正を一個人の生命で立て分ければ、肉体と一念心になりますが、また一念三千も依正に立て分ければ、上記の通りですが、
では、 三世間を一個人の生命で立て分ければ、どうなるでしょう。

問題(2) 地湧の菩薩のすがたは、どれくらいあるでしょうか?
一例、・虚空会の儀式に現れる。・末法のはじめに上首の上行菩薩として現れる(日蓮大聖人)(再往、内証は、置いときます)。その教えを受持して悪世末法に弘めている私達は、そのけんぞくとなります。
いろいろとほかにも出てくると思いますが、質問の意図は、問題(1)と同じで、最終的に一個人の生命(内)では、どのすがたが、地湧の菩薩であるか?が、知りたい訳なんです。 虚空会の儀式での地湧の菩薩のすがたと行ない、それと御本尊の前で我々、一個人の生命(内)で起こる現象が相似していること。
生命(内)において地湧の菩薩のすがたを指す実体はなにか?
また本化地湧の菩薩が所持している本法とはなんなのでしょう?

思うのは、なんでもかんでも一個人の生命(内)に約すのは、よくないのか?約せるものと約せないもの、約さない方がいい、約す必要がない?なぜ地湧の菩薩のすがたを生命においてこれだと言わないのか?依正、つまり人と環境あたりで表現はとめておいたほうがいいのかと言うこと。はっきり言って一個人の生命(内)において地湧の菩薩は、仏界の一念心、そして本法

348首都高バトル01:2011/10/04(火) 16:46:30
>>347の続き〜
本法は、仏界の一念心(一念発起心?)が一緒に持ってくる自らが生命の中から引っ張り出した、仏界の瞬間の生命にそなわる十種の構造の事物・事象のすがた、ここでいうところの本法とは十如是、仏界の一念心と言っているので必要ないが、生命内に十界を互具しているうちの仏界所具している十如是(自分が行なう具体的行動内容)。
こうなってくるとだんだん迷路にはいりそうなので(いや、充分入っている)
いやなんですけど、とにかく進めます。
・環境から生命に取り入れる十如是と・生命内から引っ張り出してくる自分がこれから行うであろう具体的行動内容の十如是をどう分けて表現したらいいか?単純に、所と能なら十界で使っている所具、能具と混同、混乱しかけない。所や能と言っても、具、化、開、依、証などいっぱいあるし。とにかく所と能の能の方と言うことで勘弁して下さい。
こんな私でも、創価王道の掲示板の十如是1~3は、所と能の違いと言う表現で、終わっており、ここまでバチッと言えていません。

またそこから発展して冒険します。
(1)利潤弘深についてどう捉えるか?
・横軸に時間と空間、縦軸に一瞬の瞬間の一念心の生命内より生命(身)に起こる現象。横軸の各点は妙法が行われる場所(虚空会の儀式、御本尊の前で唱題する一個人とその生命)、両端は、過去の始まりのちょっと前(竹膜の違い、観心本尊抄参照)と無限の尽未来際へ。縦軸は先ほど言った横軸の各点より下というか無量の義がいっぱい詰まっている、法性之淵底玄宗之極地、九識心王真如の都、縦軸の下。縦と横は、十文字ではなく、横軸の各点より下、つまりTの字。縦の上は、横軸の各点より上に、全方向に広がっていくかたち。縦軸に横軸を全て包含し、その場所で瞬間、瞬間に起こる(虚空会の儀式の場所と仏壇の前の我々が、ゴッチャになりそうですが)虚空会の儀式や、唱題する我々の生命内から生命(身)に向かって起こる現象。一瞬に時間と空間を包含する、これを宇宙即我と言い、弘く潤っていく(虚空会の儀式に地湧の菩薩が出現し、使命をおびて四方に去っていく、また一個人では生命に現象が起こり広がっていく。これを我即宇宙。(2)地湧の菩薩と本法を 体 と 用 で表現するとどうなるか?(一個人の生命においてはこれも一緒)(地湧の菩薩が、日蓮大聖人であれば、本法所持の本法とは、南無妙法蓮華経、そして日蓮大聖人の体から出した用は、南無妙法蓮華経)

349首都高バトル01:2011/10/04(火) 18:31:53
宇宙即我と我即宇宙を断定して言ってしまいました。
まだ充分な理解に至っておりません。
宇宙との一体感なら宇宙.我.一体でいいわけだし,
宇宙即我も我即宇宙も自分中心(我)で展開しますよね。
そうであるならばですよ、一体感ではなく、宇宙即我は自分に引き寄せている。我即宇宙は自分から宇宙に解き放っている。
宇宙の星々も人間と同じ生命であるという実感?そんな考え方も。

とにかく目的は自己啓発、人間革命なので、それを手助けする為に、教学では生命において何を指しているのか、何を表現しているのかを踏まえて、取り組みたいと思います。

研究対象の教学もありますが、それは研究される人に任せて(堅皇さんはそういう取り組みをされているのかな〜?)、信心は幸せになるためにやっているので
、はっきり言って、教学は究極のHowtoであり、御書は究極のHowto本ではないでしょうか。御本尊の凄さを説明し、こうやれば幸せになりますよと、励まし、激励と共に人々を幸せにしていくために本来、教学はあると思います。

ちょっと話はそれますが、私は、沖浦克治さんは、学会教学を、正確に捉えられていると思います(何もかもわかった上でこれが最上だとかなり強引に進んでおられると思います。)宗門の策謀によりひどいやり方で学会を切り離し、その後この問題は解決せず年だけを重ね、現在に至っています。
その宗門と創価学会が別れたところを分岐点として、もう宗門とは、完全に別れてしまったんだ。そう結論づけるのか、そうではなく宗門と創価学会の再生はあるのか?どちらに転ぶかわからない?とにかく宗門は破折する、それが続いたまま。今になる。
そこのところで信心の捉え方が、
(1)以前のまま
(2)分岐点より宗門との和解は未来永劫ないとして、信心を新たに組立て直す。(沖浦さんは、この位置だと思います。たとえ矛盾が出ても、本人はそれはわかっているんですが、しかばねを乗り越え、強引にでも、信心はこうやってやるんだ、という確信で突き進んでおられるのだと思います。)

(3)分岐点も時代の要請も関係なく、信心は完璧に完成されているので
あり、何があろうと教学の中身は変更しない。

(1)か(3)とにかく学会は、いままでどおり教学に関しては変わってないと思います。
あるかないか、、、もし学会と宗門が和解した時、沖浦さんの教学の捉え方は、どうなってしまうかと言うことです。

350首都高バトル01:2011/10/04(火) 19:24:20

無作の三身は、一個人の生命においては、何を指すのでしょうか?
一心三観や、当体義抄で説明されていますので、
これは、これ以上、冒険しません。

351堅皇:2011/10/04(火) 21:40:25
首都高バトル01さん

>>345 のひとりごとに関してはほぼ同意です。
・勝負に勝つことが、生存の第一条件
・おのれの対象者が、驚き負ける事が、より幸せになる法則がある。...ピータードラッガー風に言うと、イノベーションサプライズ
・ひとは驚きと、納得と感動を与えられたら、負けを認め、幸せを受け入れる生きものである。

結論から言えば勝負は方便であり実相は幸せを得れるかどうか。
また、幸せを得れるかどうかもまた方便であり実相は悟り、仏性を得れるかどうかに掛かるものだと。

>>346
> 失敗したら[失敗.明日こそ成功させる]と書く。
> 成功したら[成功、明日も成功させる]と書く。

したがって、これでは足りないと思います。
失敗したら「その原因を探る」
成功したら「その原因を探る」やはり全ては一乗であると言う事。

暗に一つの策に溺れ執着しても勝負を制する事もできず
また、勝ちに執着しても悟り、仏性を得る事ができない。

>>347
> 問題(1):依正を一個人の生命で立て分ければ、肉体と一念心になりますが、また一念三千も依正に立て分ければ、上記の通りですが、
> では、 三世間を一個人の生命で立て分ければ、どうなるでしょう。

同じく五陰、衆生、国土の三世間により正報が形作られていますね。

352堅皇:2011/10/04(火) 21:40:58
> 問題(2) 地湧の菩薩のすがたは、どれくらいあるでしょうか?

これは無数に存在しますよ、生物は生死流転しますから地湧の菩薩の誕生は後を絶たないものといえます。
自身の体の構造を考えてみても絶えず古い細胞は死に新しい細胞は生み出されるわけですから。

>>349
> 宇宙即我と我即宇宙を断定して言ってしまいました。

誰が断定しているんですか?
「宇宙即我」と言えば「梵我一如」と同義に思えます。
少なくとも仏法は「諸法無我」ではないかと思います。
更にいえば「縁起」も無視していますから既に仏法ではないと思います。

「宇宙即我」だとバラモンやヒンドゥー教
もしくは道教や禅宗と同様の捉えかたであると思いますね。

あえて表現するのであれば「宇宙即我々」と言う感じですかね。

そう言う意味では「当体義抄」に書かれていることも仏法に反すると思っています。
誰が書いたか知らないけれど日蓮の法を下げる行為に繋がっている書のひとつであると思っています。

353首都高バトル01:2011/10/06(木) 09:46:57
冒険します。

・一個人の生命自体について三世間を立て分ければ、五陰世間は十如是、衆生世間は十界互具、国土世間は心をとりまく一個人の生命全体。
・一個人の生命自体について事の一念三千の観心(一番大事な、御本尊に向かって唱題の時、生命に起こる、また起こす現象)において三世間を湧出品(法華経)に描かれる地湧の菩薩で立て分ければ、
五陰世間は、本法所持の本法(所証及び能証の智、この説明は後の観心本尊抄の文意で)。衆生世間は、地湧の菩薩(十界互具、十界が所具する仏界の一念)。国土世間は九識心王真如の都、法性之淵底玄宗之極地(生命内奥)。

「我等己心の釈尊は五百塵点の当初・名字凡夫の御時に所顕の三身にして無始の古仏なり」御書P1022。

「妙楽大師いわく[当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し]等云云」〜観心本尊抄よりの文意は、「当に知るべし本地自受用身の身土・我等が信心の一念の中の三千である。ゆえに成仏の時この本地難思の境智の妙法に称い、一身の五大が法界に遍じて所証となり、一念の信心が法界に遍じて能証の智となり(十界互具、つまり五大ことまわりや環境を通じて十界として顕れ、十如是(御本尊)を見とる、読み取るを所証とし、そして自らの命の中から十界「最高の仏界を湧現が目的」が顕われ、最高理想の自らこれから行う具体的行動内容の十如是の姿を感じ見とる、自らが行う幸せの答えを能証の智とし)、久遠元初の境智冥合の自受用身と顕われるのである。」

「五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕わし給えり」P513。

即について、また冒険したいので機会があれば、、、。
なぜ仏法即社会なのか?、、信心即生活なのか?
即が使われる熟語をできるだけ集め、それらの表現から共通の法則性を見つける。
今考えられるのは、無明即法性と法性即無明の冥伏と顕現(総勘文抄を参考にして)。法華の円。どちらを主にするか? 。体と用の関係で表現できるのか?。
即より右側の語に変化移行をどう捉えるのか?。能(主)具所(従、受)具は冥伏、能証所証は顕現。また即は左右の語が合体(どちらも顕現した状態)、しかしそれなら不二や体一や一体、一如だし、、、。 難しいです。

これぐらいで、またいつかと言うことで、今日はこのへんで、失礼いたします。

354首都高バトル01:2011/10/06(木) 11:01:13
訂正〜つまり五大ことまわりや環境を通じて十界として顕われ〜
 つまりまわりや環境を通じて五大こと自らの身に受ける作用により十界として顕われ。

訂正ではなく付加〜久遠元初の境智冥合の自受用身と顕われるのである。〜
 久遠元初の境智冥合の自受用報身と顕れるのである。


「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じ三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、 能居・所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の効能なり敢て之を疑うべからず之を疑うべからず、」
御書.P512

355首都高バトル01:2011/10/06(木) 12:24:42
一個人の生命自体について事の一念三千の観心において、相似している虚空会の儀式に出現する地湧の菩薩の姿と行いを三世間で立て分けたとき、
衆生世間は、(命の中なのに世間と言うのはおかしいですが、)地湧の菩薩、
その証得する所証の実体は、、、御本尊 。

356首都高バトル01:2011/10/06(木) 12:44:42

事の一念三千の観心は、受持即観心。

357説教オヤジ:2011/10/07(金) 15:21:18
>首都高バトル01

この御仁・・・・・
かなり面白き人物なり。
ワシも勉強になりそうじゃ。
いずれ、教学談義でもやらかそうかの。

358首都高バトル01:2011/10/07(金) 16:31:00
説教オヤジさんへ
いえいえこちらの方こそ、いつも勉強させてもらってます。
まだまだ未熟者でありまして、機会があればいろいろ教えて下さい。


「 eijisenseiのブログ ブログテーマ.現象展開の法則=十如是 」 
という、成長の家の関係者のブログがあるのですが、十如是の捉えかたが似ているように見えますが、似て非なるものである事を書きます。

十如是を一個人の生命において五陰、感覚器官や心を通じて意識に映る映像と捉えている。
ではなくて、〜を通して意識に顕われる映像の事物、事象の姿が、十如是。
十如是を映像と捉えると、堅皇さんの言われる、その義は華厳経第一になってしまいます。権経と実経の区別が付いていない。
だから十如是の考えと色即是空は、一緒、同じと、ブログでは書かれています。
どこからその発想が出てくるのか、あまり詳しくないのですが、信仰の対象が神になってます。
十如是の捉えかたが、少し似ていると見えますが、似て非なるものであると言うことを書きました。
法華経の奥義が示すところまで、ぜんぜん届いていない内容です。

359首都高バトル01:2011/10/07(金) 17:18:16

なぜ色即是空は、色と言わず依正の依を使い、、、
依即是空 空即是依 依不異空 と言わないのでしょう?(依即是空ありました?ありませんよね?)  
依即是空にしたらもう少し広がるように思います。 色即是空は、人間生命において五官の働きや五陰、意識との関係性について語られている。
そこに映し出される映像の姿まで到達してしていない。

宇宙生命に約せば、色即是空は科学がもっともって発達しないとその作用は、わからないのではと思います。いろんな宗教家たちが言っていることは、宇宙生命に約そうとして、とらえどころのない一般人にはわからない内容になってしまっている。さらに進んでわからない事自体が色即是空。多くの般若心経の出版物の内容は混沌の中にある、混沌だから答えを求めて出版物が増えていく。

360首都高バトル01:2011/10/07(金) 21:20:48
>>358
訂正〜 × 成長の家
  ○ 生長の家

361堅皇:2011/10/07(金) 22:53:35
首都高バトル01さん

> なぜ色即是空は、色と言わず依正の依を使い、、、
> 依即是空 空即是依 依不異空 と言わないのでしょう?(依即是空ありました?ありませんよね?)  

「色即是空」は「色心不二」と同義で「色」は「色心不二」の「色」ですね。
で、「色心」を併せ持ったのが「正」となり、これに不二なのが「依」になるわけです。

対する「空」は三諦で顕すところの仮諦、空諦、中諦の「空」
「仮」と「空」を併せ持っての「中」であり、「正」に匹敵するわけですから
「依即是空」ではバランスがおかしくなります。

ちなみに十如是に当て嵌めれば
「空」が「性」で、「中」が「体」であり、「体」を「因」とし
「縁」に匹敵するところが「依」と言う感じですかね。

362首都高バトル01:2011/10/07(金) 23:00:44
・大志、大願、決意が、命の中から何が現れてくる。
よし頑張ろうと決めた時、出てくるものはなんだろう?

・まる子「お母さ〜ん、この料理、めちゃくちゃ美味しいね!私も作りたい。
お母さんどうやって作るの?教えて?」
・まる子のお母さん「めんどくさいわね!できたもの食べてりゃいいでしょ。」
・まる子「ねぇ〜ねえ〜お母さん、おせえてョ〜」

・まるこのおかあさん「しょうがないわね〜。じゃ実さいにどう成って、どうやってつくるか、おかあさんといっしょにつくりながらおぼえて、まるこも実さいに、ひとりでもつくれるように成りなさい。」

・まる子のお母さん「このおりょうりは、いちば〜んさい初は、なべにみずをいれるのよ。」

・ナレーター「こうしてまる子は、美味しい料理をつくれるようになったのである。 おしまぃ。」

・研究者にとって、ものごとの成り立ちは、研究課題であり仕事である。

363首都高バトル01:2011/10/07(金) 23:46:14
ちょっと冒険。気にしないで下さい。
一念に三千が収まる。〜三千即是一念。

空は、唯識(識というぐらいだから意識全般?)や法相宗の考えによく出てきますよね。空と心は一緒なのかなぁ?
空の領域に心がはいるのかなぁ?反対に心の領域に空が、、、?
もし空の領域に心が入るのであれば、、、、一念三千即是空。

364首都高バトル01:2011/10/07(金) 23:57:41
堅皇さんへ
>>361 ありがとうございます。
難しい内容ですが、理解できるように頑張ります。

365首都高バトル01:2011/10/08(土) 00:27:59
冒険が脱線ぎみなので、
題目を唱え、気を引き締めることに、そうすることにしよう。

そうすることにしよう〜は、エジソンの母でよく使われていたなぁ〜。(ひとりごと)

366堅皇:2011/10/08(土) 07:54:09
首都高バトル01さん

> 空と心は一緒なのかなぁ?

僕は一緒であると思います。
ただ、空は仮と縁しないと中諦とならないわけですから
性は相と縁しない限り体を成さないと言う事で
つまり空は心と言えども空だけでは自我としての心と言う体は成さないところにあると思います。

で、死んだらどうなるかと言えば心は色(身体)から離れて空のみとなるので自我は無くなるが
確かにこの世に存在すると言うもの。

ここでも心や空の「非実非虚」が顕せると思います。

自我とは何処から生まれるかと言えばあくまで「縁」に接する事によりその実を知る。
つまり「因」があれども「縁」がなければ「因」であると言う認識も出来ない。

人間の感情の変化と言うものは全て「因」と「縁」とのギャップにより認知するもの。
美味いという感情は不味いものを知った上で、美味いと感じるところ。
好きと言う感情も、嫌いなものを知った上で、嫌いと感じるところ。
もちろんその逆も言えます。

これは光が何故明るいと認識できるかと言う事と同じであるといえますね。
光が明るく感じるのはそれを照らす対象物があって始めて成り立つというもの。
何もない宇宙空間が真っ暗に思うのは光を受ける対象物
つまりは空があれども仮がないから光を感じさせず
性があれども相がない、因があれども縁がない状態を示しているものかと。

故に空や一念と言うものを単独で顕す事は不可能であり、一念もまたその一年を作り出す三千により形成されていると言う事だと思います。

367河内平野:2011/10/21(金) 18:09:59
皆さん、お久しぶりです。ちょっと宣伝させてください。

「河内平野の教学研鑚ノート」を作りました。

最新
『創価学会と三時の弘教』をアップしました。(長文です)

http://kawachiheiya.blog.fc2.com/blog-category-2.html

368はぐれ雲 ◆HHaU7zEjNg:2011/10/21(金) 19:07:46
こら!かわっち平野よ、暇なやっちゃの〜w

369ぜんまい:2011/10/21(金) 22:53:40
河内平野さん、はぐれ雲さん、お久しぶりです。

元気にしていますか?





370首都高バトル01:2011/10/22(土) 00:16:37
河内平野さん どうもです。
また教学研鑽の為に拝見させてもらいます。

お知らせ、ありがとうございます。

371京阪電車の燈 ◆AIo1qlmVDI:2011/10/22(土) 12:49:38
重厚かつ長大な研鑽ノートの完成、おつかれさまです。

感想を兼ねて、明確に断言させていただきますと、
「何一つ間違った事は書いておられません。」です。

今後、つまらん揶揄を含め、反発をも予想されますが、
軽く一蹴されることでしょう。
彼らは恥をかくだけです。

372はぐれ雲 ◆HHaU7zEjNg:2011/10/22(土) 13:11:05
ぜんまいさんおひさ〜^^

京阪さん心配性ですね〜^^誰も書いてないからかわいそうにと思ってかいてあげたのですがなにか?w
たまたま覗いた所でかわっちさんのこの書き込み見たものだからつい反応してしまったのもありますが・・・・・

374首都高バトル01:2011/10/23(日) 21:54:29
十界互具を人間の生命内に観ると、
まず依報(さまざまな十如是の姿)を覚知することにより十界が顕れる。
そしてそれに対処しようと、正報の自らの境涯に応じて収まる十界が顕れることにより対処しようとする十如是(立ち向かう自分の姿)が、顕れる。

十界×十界、それぞれに十如是が収まる。心具から始まり心生(湧現、顕現)へ・・・十如是を持って十界は顕れ、十界を持って十如是が顕れる。

働きを捉えることで、十界互具がどういうものか、見えてくる。

妙法蓮華経は、即これ十界互具である。

認識と対処・・・
生命内においてそれぞれの境涯に応じて十界と十如是が役割と働きを行う。

十界互具についてこういう捉え方をする内容があるかを
あちこち見たのですがなかったものですから、これについてお尋ねします。

みなさんどう思われます?

375首都高バトル01:2011/10/23(日) 22:30:55

一瞬の生命、一念に十界互具を含む三千諸法が収まる。

一念三千は十界互具より起こる。

376首都高バトル01:2011/10/24(月) 13:34:45

難信難解だからなぁ〜(機根が整わない?)

十界互具は、法数のカウントに留まり、もう一歩突っ込んだ説明がない。

こういう視点で観ているのは、首都高バトル01だけかぁ〜???

377高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2011/10/29(土) 12:18:31
首都高バトル01さん こんにちは!

 人とは、何かを考えたことは、ありますか?

 例えば、ダーウィンの進化論的なこと・・・など。

378首都高バトル01:2011/10/30(日) 01:16:29
高速太郎さん どうもです。

すごく哲学的ですね。
人はなんであるか?・・・考える葦であるとか、言いますよね。

進化論ですか。壮大なお話ですね。
勉強になりますので、また教えて下さい。 よろしくです。

379首都高バトル01:2011/10/30(日) 01:28:49
・サイコロを転がすと毎回、目が数が違う(同じ数の時もある。)。(サイコロが止まった瞬間や、止まった時)

・生命は、たえず変化している。いま見た瞬間が次には、変わっている。転がしたサイコロのように定まらない。
そしてグ〜ルグル回っている。グ〜ルグルと。

・色心で見てみます。
生命は永遠不変であり、人間の生命は、肉体を構築し、肉体(妙法蓮華経の姿)に属します。
仏界は、心に属し、本門に有ります。また縁に随がい(御本尊、題目)、現れます。
生命も仏界も差別がなく、絶対であります。

その生命と心、仏界と肉体をグ〜ルグルまわり、一定にとどまらず、変化します。

・永遠不変の生命から縁に随がい心(十界、仏界)が現れ、その心が肉体を動かします。

・サイコロの目、数のようにある時は、永遠不変の生命のまま(ボ〜としているのかどうなのか?心が現れていない状態)。
またある時の一点をみると、心が肉体を動かしている状態。つまり不定。

生命とは、迹門不変真如。 仏界とは、本門随縁真如。
人が生きている限りたえず変化し、一定でない。

・依正で見てみます。
御本尊は、非情に属し、体は永遠不変の生命の冥伏した妙法蓮華経の姿というより、体は永遠不変の生命を保ち(冥伏し)ながら、仏界の生命が全面に出たまま、(ヒーローズのヒロ.ナカムラが時間を止めたそのままの状態)止まっている状態。

・とても失礼で申し訳ないのですが、
サイコロをふってみます。
御本尊は、不変真如から随縁真如、出現停止状態。我々は、その都度変わる、変化する。

・すべてのもの(生命)には、仏の命が具わっており、差別が無いこと。
随縁不変・一念寂照の御本尊。

・迹と本は定まらない。・・・迹本不定。

寝ているとき人は、迹(不変真如のまま)?

参考・・・御書P.708
御義口伝の冒頭の帰命についての所、参考にして下さい。

380首都高バトル01:2011/10/30(日) 02:36:58
訂正
×出現停止状態
○出現して、停止状態

381高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2011/10/30(日) 09:49:18
首都高バトル01さんへ こんにちは!

 十界互具を理解するには、人とは何なのかを考える事も必要かと・・・。

>>379 >・すべてのもの(生命)には、仏の命が具わっており、差別が無いこと。

 すべてのもの(生命)とは、人の生命のことを指しているのですか、それとも全生物の生命ですか?

382首都高バトル01:2011/11/02(水) 21:00:28
>>381
そうですよね。 生命と表現したらそう思いますよね。

すべてのものとは、宇宙に存在するすべてのものと言う意味でご理解下さい。

383無名:2011/11/14(月) 21:49:36
>>372
沖裏の太鼓持ちは引っ込んでいてくれ。

384首都高バトル01:2011/12/23(金) 00:20:05
忘れまじ、学会精神!!!

>>http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/19990427/p1

385首都高バトル01:2011/12/23(金) 05:52:03
一番大変な時、先生は何をされていたか?

>>http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20041215/p1

386首都高バトル01:2012/08/03(金) 21:44:43
若き指導者は勝った

[ 少年よ、日本の少年よ。世界の少年達よ。
願わくは、常に、一人も洩れなく明朗であれ、勇敢であれ、天使の如くあれ ]

[ 世界の文学を友とする青春時代だった。
シラー、カーライル、プラトン、ルソー、エマソン、モンテーニュ、
ユゴー……。
いかなる状況にあっても向学心は衰えない。
ホイットマンの『草の葉』を何度も読み返す。
「さあ、出発しよう!悪戦苦闘をつき抜けて! 
極められた決勝点は取消すことができないのだ」(昭和24年刊、富田碎花訳)という一句も胸に刻んだ。]

 [ 君らは一流から学ベ 
全体観と団体観──。
高い視点から全体を見渡すべきであり、自分の団体だけに固執してはいけない。「水滸会のことだけを考え、青年部のことを考えないようでは、
それはいけない。青年部のみを考え、学会を考えないなら、これもだめだ」 
さらに戸田会長は続けた。 
「それだけではない。学会のことのみを考え、社会全体のことを考えなければ、考えがあまりに小さい。大きく考えることが必要だ」 
水滸伝のケースにあてはめてみれば、梁山泊の生き残りだけを考えるのでなく、どうすれば宋の国がよくなるのかを念頭に行動しろというのである。]

池田大作──その行動と軌跡 若き指導者は勝った
http://newfnet.blog62.fc2.com/blog-entry-163.html
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Circle/2009/koudou.html

387首都高バトル01:2012/08/04(土) 22:18:40
ホイットマン

[ 青春の宝の一書  
 民主主義の詩人、国民の詩人、
人間と宇宙を謳った詩人―ホイットマン(一八一九〜一八九二年)。  
 我が人生を謳い、人間と生活をほめたたえて生きる人は幸福である。
愚痴は自分も他人をも不幸にする。
頭を上げて、人生を「謳い」、
希望を「歌う」心豊かな青春であっていただきたい。  
 私が、彼の詩集『草の葉』と出あったのは、
約四十年前のの二十三歳のころであった。
同じくらいの年代の方もいらっしやると思う。
「自由」「平等」「友情」の賛歌、
そして「民主主義」「人間主義」の叫びを込めたこの詩集を、
私はこよなく愛した。
それは、私にとって、まさに青春時代の「宝の一書」となった。
多くの詩を暗唱し、折あるごとに人々に聞かせてあげたものである。]
http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/hoitoman.htm

388首都高バトル01:2012/08/04(土) 22:57:07
おめでとうございます!

全国ダンスドリル選手権大会 関西創価高校が日本一 堂々の文部科学大臣賞
http://blog.goo.ne.jp/yosidashouinnkyousitu/e/7b017f6bd98568ebf179e988a50a902b

389首都高バトル01:2012/08/17(金) 13:18:31
創価の同志が頑張っています。

日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ皆様へ
http://kangaeruhito777.blog100.fc2.com/

の、はじめましてさんの
最新コメント( [ 2012/08/16 22:50 ] はじめまして )が秀逸です。
感動しました。

390名無し:2012/09/07(金) 10:14:03
非公認板で朝からインターネットにかまけている人たちがいます。沖裏氏はその代表です。

391エキストラオ:2012/10/10(水) 13:06:02
★・・あたしは・沖浦氏を応援します・・・理由は彼は人間カクメーしようとがんばってるからです・・・
★貴重な意見を陳べさせていただきました。・・・・・

392エキストラオ:2012/10/10(水) 13:11:11
★それにさー・・敵の敵は味方だしさ・・・寛大にならないとね・・
★耕治君も元気なのかな・・・彼ともやりあったなーーーー・・・少しバカみたいけどね・・

393エキストラオ:2012/12/17(月) 06:44:17
相変わらずだな、ここも、


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