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立ち話・雑談スレッド
160
:
堅皇
:2011/01/24(月) 00:56:06
>>エキストラオさん
> 対境となる本尊
本尊が対境と言う事ですか。
悪いけどこの考えは日寛教義になるので僕は信じません。
で、対境って事は本尊と境地冥合すると言う話ですね。
これって真言曼荼羅の理ではないですかね。
対する日蓮の曼荼羅は法華経の虚空会の付嘱の儀式を表現したものだと思われます。
衆生が仏と一体となるのではなくあくまでも智慧を授けると言うものであります。
つまり衆生が仏となる概念が既に真言と法華経では違うんですね。
仏とは仏と境地冥合する事ではなく法という智慧を得て仏に成るということですね。
この時点で真言は仏法の理から外れていると思いますし法華経は理にかなっている。
つまり日寛さんは日蓮の法華曼荼羅を真言曼荼羅の理を説いている事になるかと思います。
この「対境となる本尊」と言う考え方が一子相伝というか法水瀉瓶と言った思想を生み
曼荼羅は法主しか書写する事はできないと言う考えになったのだと思います。
というか曼荼羅書写が法主だけとなったのは何時頃からなのでしょうか
少なくとも日興さんや日目さんの時代ではまだそんなルールもありませんでしたし。
ともかく「対境となる本尊」という理は真言の曼荼羅の理だと思います。
ちなみに対境を対鏡と言い出したのは創価学会ですかね。
対鏡なんて言葉は仏法にはありませんしこれは翻って自分が仏と言う事ですかね。
となればこれは禅の理に近い気がします。
ともかく僕は法はあくまで法であると捉えていますのでオカルトではなく理論的に考えていきたいわけです。
法主が書くから効果があるという考えはあまりにもオカルト過ぎると判断しています。
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