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立ち話・雑談スレッド
118
:
高速太郎
◆Z9TaEykyCQ
:2011/01/14(金) 19:11:29
つづき
そのような中で、牧口先生は庶民、人間に重きをおいた教育が大切とは考えていたのでしょうが、批判するに
足りるモノサシとなる理論を持ってなかったのではないでしょうか。
人生地理学に、『不肖、教育の職に在ること多年、其の間、地理学の教育上、重要の地位にあらざるべからずして、
しかも甚だ軽んぜらるること久し。而して、嘗て思えり。もし、この学の教授法にして、今少しく改良せらるるを
得ば、現今における教育上の痼疾の大半は除去せらるべしと。』と記されているように、教育(界)に批判的な
考えを持っていた事は明らかであり、変革の思いを込めて書かれた書だと理解出来ます。
池田諭氏(実践的思想家1923〜1975)は、牧口先生を「福沢諭吉、中江兆民、北村透谷のような人権論者、
自由論者、平等論者ではなくて、彼は、人権、自由、平等を具体的に存在する庶民大衆の中に発見していく
とともに、庶民大衆自身が、自らの中にそれを発見し、定着させることのできる思想を創造していこうと
したのである。」と評しており「このように考えるとき、牧口は、現代日本の誇りうる思想家であると同時に、
現代日本が深く学ばなくてならない思想家である。(中略)牧口の思想が、そして彼の学問、教育論が長い間、
一部の人を除いて、殆んどかえりみられなかったということは、日本の学問と教育にとって大きな不幸である。」
とも著しています。 私も正にその通りだと考えます。
そのモノサシともなるべく日蓮正宗に三谷素啓氏の折伏で入信しましたが、「創価教育法の科学的超宗教的実験証明」
(牧口全集第8巻:第三文明社 74-75頁)の中で『まず師とするに足る正しい人の言を信じ、如説の実行をなし、
体験によって価値の有無を証し、無価値なる主観的の観念論を捨て、以て人をも離れて、生活関連の法を信ずるので
ある。更に何故に価値が証明されるかを、経文及び道理にただして、いよいよ信仰を確立し、かくて価値の遠大と
近少とを比較対照して研究し、遂に無上最高の極意に達し、ここに初めて畏れる所なき安全の境地に達する。
『一信二行三学』という科学のそれとは全く異なった研究法がすなわちこれであるが、これはすべての技芸乃至
生活法の研究に適用されるべきもので、現に無意識的に如何なる技芸の修業にも実行しつつある所である』
と述べています。
生活法、言い換えれば社会(民衆)への価値・意味(公益性)を宗教は考える必要があり、
全文からは、教義より道理に合った論理を重視していると考えられます。
つまり、宗教というのは伝統的な教義が第一では無く、杜会の繁栄や個人の幸福を実現する事が最重要であり、
もしそれが実現出来なければ、宗教としての意味(価値)がないと言う事です。
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