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立ち話・雑談スレッド

353首都高バトル01:2011/10/06(木) 09:46:57
冒険します。

・一個人の生命自体について三世間を立て分ければ、五陰世間は十如是、衆生世間は十界互具、国土世間は心をとりまく一個人の生命全体。
・一個人の生命自体について事の一念三千の観心(一番大事な、御本尊に向かって唱題の時、生命に起こる、また起こす現象)において三世間を湧出品(法華経)に描かれる地湧の菩薩で立て分ければ、
五陰世間は、本法所持の本法(所証及び能証の智、この説明は後の観心本尊抄の文意で)。衆生世間は、地湧の菩薩(十界互具、十界が所具する仏界の一念)。国土世間は九識心王真如の都、法性之淵底玄宗之極地(生命内奥)。

「我等己心の釈尊は五百塵点の当初・名字凡夫の御時に所顕の三身にして無始の古仏なり」御書P1022。

「妙楽大師いわく[当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し]等云云」〜観心本尊抄よりの文意は、「当に知るべし本地自受用身の身土・我等が信心の一念の中の三千である。ゆえに成仏の時この本地難思の境智の妙法に称い、一身の五大が法界に遍じて所証となり、一念の信心が法界に遍じて能証の智となり(十界互具、つまり五大ことまわりや環境を通じて十界として顕れ、十如是(御本尊)を見とる、読み取るを所証とし、そして自らの命の中から十界「最高の仏界を湧現が目的」が顕われ、最高理想の自らこれから行う具体的行動内容の十如是の姿を感じ見とる、自らが行う幸せの答えを能証の智とし)、久遠元初の境智冥合の自受用身と顕われるのである。」

「五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕わし給えり」P513。

即について、また冒険したいので機会があれば、、、。
なぜ仏法即社会なのか?、、信心即生活なのか?
即が使われる熟語をできるだけ集め、それらの表現から共通の法則性を見つける。
今考えられるのは、無明即法性と法性即無明の冥伏と顕現(総勘文抄を参考にして)。法華の円。どちらを主にするか? 。体と用の関係で表現できるのか?。
即より右側の語に変化移行をどう捉えるのか?。能(主)具所(従、受)具は冥伏、能証所証は顕現。また即は左右の語が合体(どちらも顕現した状態)、しかしそれなら不二や体一や一体、一如だし、、、。 難しいです。

これぐらいで、またいつかと言うことで、今日はこのへんで、失礼いたします。


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