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立ち話・雑談スレッド
330
:
堅皇
:2011/10/02(日) 14:23:54
首都高バトル01さん
> (私は、妙法蓮華経こと法華経が第一だと思っておりますので)
とのお話ですが基本的に日蓮信者の方々は法華経が第一ではなく
日蓮及び御書第一と捉えられている方が多いと思います。
更に言えば日興門流では日興第一であり御書に外れる義であっても遺誡置文にあればこれが第一
もっと言えば、日蓮正宗で言えば歴代法主の書にあればこちらの方が第一となり
御書や妙法蓮華経から外れる義であっても、これを第一として捉えているわけです。
これが正解か不正解かと言う議論はその内容を精査する必要があるとして
言えるのは妙法蓮華経が第一と言う事ではなくなってしまっていると言う事です。
その際たるものが「久遠元初の自受用報身」や「文底独一本門」と言う事ですね。
妙法蓮華経にある語は「久遠実成」に「諸法実相」ですから
この義に照らせば「久遠元初」は「久遠実成」と義が異なりますし「文底独一本門」は「諸法実相」と義が異なりますよね。
異なる義が交差する時にどちらの義を根本に第一として捉えるかと言う事ですね。
僕は妙法蓮華経を第一と据えますから「久遠元初」や「文底独一本門」と言う方便は法華経を理解した時点で捨方便しますが
日蓮正宗及び創価学会の方々は歴代法主の書を第一と捉えてますから逆に
「久遠元初」や「文底独一本門」を持ってして「久遠実成」や「諸法実相」の方を捨方便していますよね。
ちなみに天台の「一念三千」は「諸法実相」に義が異なるものではありませんが
「一念三千」の「一念」もまた「諸法実相」ではなく「実相」と言う単体のものと解釈するならば
妙法蓮華経と義が異なるものとなり、禅宗や真言宗の様な捉え方となってしまうということです。
また、十界論では仏性は人々の中に久遠の昔から既に内在する事を表現されているわけですから
「久遠実成」の義を解りやすく表現されたものであるといえますが
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