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立ち話・雑談スレッド

314堅皇:2011/03/10(木) 12:11:11
>>基本は御書御本尊大聖人です

かつては同じくそう思っていたんですけどね。
ただ、御書御本尊大聖人と言う事自体が、日蓮正宗が作り上げた「本覚思想」によって成り立っていますからね。
この「本覚思想」と言う物は秘伝や口伝主義が多発し比叡山の僧風を堕落させた中古天台と同じ思想ですからね。

また御書を基本と据える事が秘伝や口伝を持ち込むには都合の良い状況であるとも言えます。
簡単な話、秘伝や口伝を日蓮の御書だと信徒に触れ回れば良いだけの話になりますからね。
つまりは中古天台の悪しき時代に逆戻りと言う事になると言う事です。

仏法では「信」を段階的に捉えているわけですね。
シュラッダー:信 プラサーダ:浄信 アディムクティ:信解 バクティ:誠信

で、バクティと言う物は本来仏法にはないものでヒンドゥー教によるもので
まーバクティとは「絶対の帰依」と言う事ですね。
これに対する仏法はプラサーダ止まりと言う事でも仏法が宗教では無かったと言う事が物語れますね。

羅什の「妙法蓮華経」が逐語訳ではなく意訳と言う事はご存知かと思いますが
本来のプラサーダをバクティに意訳したのは他でもない羅什と言う事になります。
余程その書かれている内容に確信があったという裏づけにもなりますよね。
更にこのただでさえ「信」をより強調した羅什訳の「妙法蓮華経」に対し更に「南無」を加えて
更に「信」を強調したという事になります。
つまり日蓮にとっての「妙法蓮華経」と言う物は「絶対の絶対の帰依」と言う事になるわけですね。

そこまで日蓮が誠信を尽くした「妙法蓮華経」を何故に信じれなくて本覚思想の秘伝や口伝書を信じるのかと言う話。
であれば、「南無御書御本尊大聖人」でいいのではないですかね。
もっとも石山派の中ではそれ以前にやってる行為が「南無日寛上人」「南無六巻抄」「南無文底独一本門」ですけどね。


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