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立ち話・雑談スレッド
342
:
堅皇
:2011/10/03(月) 19:01:54
首都高バトル01さん
> 義は、何を指しているのでしょうか?
> まだ先があるように思えるのですが、行き止まりまで行ってないような...。
皆同じ事を考えるようですね。
この考えの下に天台門下は真言密教に染まっていったのだと思います。
基本的に仏法は無始無終の輪廻を説くものであり
何処まで言っても行き止まりは無いという考えであるという事です。
これに逆らっているのが真言密教であると言う事です。
つまり仏法では「深理」は追求できても「真理」は顕せない。
「絶待」は求められども「絶対」は存在し得ない。
この「真理」や「絶対」は存在し得ないと言う絶対的な真理を顕したのが妙法蓮華経と言う事。
> 天台大師の十乗観法の中に、禅のような瞑想の修行があったり
基本的に天台の止観行のベースは禅定ですからね。
日蓮のように曼荼羅(世界)に向けるものではなくあくまでも己心の中での行法となりますから
折角一念三千の法理を明かしているのですが依報に働きかけずに己心と言う正報に留まっているので
「理の一念三千」と呼ばれるわけですね。
対する日蓮の場合は己心から曼荼羅(世界)と言う依報に働きかけているので
「事の一念三千」となるわけです。
加え、ちと天台の教えと天台門下による天台宗の教えとがごっちゃになっているような。
阿弥陀仏はあくまで念仏が用いたものであり
もともとの天台では釈迦如来や薬師如来がベースであり
念仏を取り入れた事により、これらが全て阿弥陀如来にすげ変わったものだと思われます。
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