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立ち話・雑談スレッド
241
:
堅皇
:2011/02/15(火) 08:41:55
信じることも祈ることも一緒だよ。
宗教とは何かに執着することを基本とするから仏法は先ずこの執着を解く為の脱却を図ったわけ。
方便品で言う「無数方便。引導衆生。令離諸著。」
「無数の方便を使って衆生を引導してきて諸の執着を離れさせてきた」ってね。
と言うわけで法華経以前の仏法には執着に繋がる「信」の文字はない。
しかし、法華経では一見相反するかのように思われる執着する事無く「信じる」という行為を取り入れたわけです。
「信」はどうしても一転すると執着に変わってしまいます。
故に法華経は「難信難解」の法と呼ばれるわけですね。
で、何故に法華経のみが執着せずに「信」を用いる事となったかと言えば簡単な話
独一法門に執着することなく諸法を信じるからであり、一仏に執着することなく事無く諸仏を信じるからです。
要は凝り固まった一辺倒な物に執着せずに視野をもっと大きく広げ世界を見渡せと。
そして信じるのはその全てを信じて判断しろと言う事なんですね。
そうすれば1つの物事に執着する事無く「信」を得る事が出来ると言う話です。
自身が生まれ育って得てきた物、それが全て正しいと思って信じていても
世の中が急転してしまった時に如何にその価値観に付いて行けるかと言う話。
執着を捨てきれずにいればその判断力を大きく見誤ってしまう。
解るかな、この「難信難解」の法の理論が。
> 何か池田先生を指導者と仰いだらまずいと言う勢力でもあるんですかね
しげきょんさんの思考回路は完全に創価学会と言う考え方だけに執着している状態です。
政財界に多く進出していてマスコミに対してもスポンサーとなっている創価学会だ。
利益を考えて守る事はあっても攻撃を加える理由はあまりにも希薄です。
もし、攻撃を加えるとすればそれは利益を考えない人たちの力と言う事でしょうね。
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