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本尊と曼荼羅
403
:
顕正居士
:2005/05/18(水) 13:03:14
日蓮聖人の教説はこれを精密に解釈しようとすると煩瑣な議論に陥るのでありますが、これを単純に受容するなら
実に簡単な内容であります。すなわち法華経を唯一至高の聖典であると信仰することによって、それのみによって
釈尊の因行の功徳も果徳の功徳も自然にわれわれに譲与されるという以上の内容はありません。遺文はすべて
以上の事柄を述べるに過ぎず、かつその大部分は法華経が唯一至高の聖典であることを論証しようとするのです。
日蓮の教説をルターの教説と比較すれば、
法華経のみ--聖書のみ(Sola Scriptura)
信仰のみ----信仰のみ(Sola Fide)
只自然譲与--恩寵のみ(Sola Gratia)
であります。親鸞とカルヴァンの教説も概ね同致であって欧州と日本にはこの四宗が成立普及したことが、世界に
先んじて資本主義を発達させた歴史はマックス・ウェーバーの著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、
及びこれを日本に応用した研究によって叙述されます。モンゴル世界帝国の成立が周辺の欧州と日本において
中世的ナショナリズムの形成を共通に刺激した契機があったと考えます。なぜこの四宗の教義が近代社会の成立
を促すかといえば、人は「信仰のみ」によって救済に与るのであって、「行い」や「修行」によるのではない。宗教は
信仰の一点に集中し集約され、かつて宗教に摂せられた善行も修行も学問も世俗の活動になる、あるいは逆に
個人生活も社会生活もすべてが宗教に接せられ、世間の法の全体が仏法となる。これを「宗教の世俗化」という。
しかしこれらの新宗旨が近代社会の将来を意図して成立したのではなく、純粋な狂信によって生成したのだから、
欧州も日本も極限的の宗教戦争の世界になった。しかしその荒廃の中から宗教勢力を統制し得る権力が生じ来り、
やがて近代国民国家が誕生した。今日、欧米の諸カルトのほとんどが広義の福音派に由来し、日本の強力なカルト
の多くは日蓮宗か浄土真宗と関連がある。この四つの宗旨は意図せずして近代社会の将来に積極的にあるいは
敵対勢力として反面的に貢献した。その元来の反面の要素がマルチ商法と連結し、多数のカルトを生成し、欧米や
日本の文明を脅かしつつある。イスラームの場合には逆に「信仰のみ」の宗旨がいまだ成立していないゆえに近代
社会への発達が順調ではない。
404
:
犀角独歩
:2005/05/18(水) 13:48:21
問答名人さん
顕正居士さん
ご教示、有り難うございます。
参考にさせていただき、少し考えてみます。
405
:
一乗談義庵01
:2005/05/18(水) 22:55:51
五重玄て漢字5文字に対する説明でしょ。名体宗用教て。
406
:
犀角独歩
:2005/05/19(木) 09:58:30
蓮師の御立法門というのは、実際のところ、法華経典=聖典信仰なのでしょうか。
一字三礼さんのご批正を期待しますが、いわゆる経典というものが、それまでの暗誦伝承に取って代わっていった経過というのは、インド独自のものではなく、たぶん、西の影響を受けていたのではないのかと思えます。聖書、コーラン、経典というのは、世界史的に見れば、ほぼ同時期に勃興した「聖典」信仰という潮流であったように思えます。
では、蓮師はどうか。聖典(法華経典)信仰なのか。むしろ、そこからさらに前に進んだ(後退した?)題名信仰であるように思えるのです。
そして、その題名(=首題=題目=妙法蓮華経という経典の名称))を、ついに陀羅尼(問答さんのお言葉を借りれば、‘呪’にまで高めていった信仰のように思えますが、このような判断は違っていますでしょうか。
407
:
問答迷人
:2005/05/19(木) 10:11:43
>ついに陀羅尼、呪にまで高めていった信仰
僕は、体験的には、そのように捉えています。『南無妙法蓮華経』=『即身成仏の呪文』という捉え方です。
408
:
犀角独歩
:2005/05/19(木) 10:46:54
> 407
そうですね。そう考えたほうが当を得ていると思えます。
その呪を書き付けたのが漫荼羅ですから呪(護)符ということでしょうか。
そんなふうに、たしかかつて投稿されていた菊水護国さんが記された覚えがあります。
しかし、呪文を唱えて成仏するというのは、もはや、シャキャムニとは何の関係もないどちらかというとバラモン、ヒンドゥー的、それを摂取した密教ということなのでしょうね。タントリズムは仏教とは言えないというのが厳格な学者の意見でした。
晩期の蓮師というのは、題目の呪文化、呪(護)符の授与という真言密教的な発想、、霊山浄土(他土)願望という念仏的発想に転じていったわけでしょうか。三つの法門の放擲されたのでしょうか。青年期の虚空蔵求聞持法、不動愛染感見、壮年期の論理性、晩期の退行と蓮師の一代を見るべきでしょうか。
「教学なんか考えなくて、先生(猊下)が」完璧に教えてくれるから、あとは勤行、唱題して、実践するのみ」、こんなものが仏教でも何でもありませんが、絶対的な信を立て、ただ呪文を唱え続けるという蓮師タントリズムを会運営、絶対権力者の座の保持にしようとすれば、そんな打ち出しになることは火を見るよりも明らかということでしょうか
もちろん、以上は、問答さんの体験を批判する意図ではもちろんありません。個人的な体験は個人にしかわからないことですから、各人の固有の宝として大切にされてしかるべきです。
けれど、科学で言う因果とは違い、万人に通用し、再現可能というものでないところに、仏教2500年の歴史のなかで成仏を目的にしながら、誰一人、成仏した人がいない理由も隠されているのでしょうか。
かつて、投稿されていた五月雨さんが、たしか、「成仏したあとはどうするの?」といった疑問を呈されていたことがありましたが、初歩的な疑問として当然すぎることであったのでしょう。
409
:
一字三礼
:2005/05/19(木) 17:49:33
犀角独歩さん
> いわゆる経典というものが、それまでの暗誦伝承に取って代わっていった経過というのは、インド独自のものではなく、たぶん、西の影響を受けていたのではないのかと思えます。
ご指摘に賛同します。
西の影響、もっと言えば世界的な潮流であったのではないでしょうか。
大乗仏典が文字化・典籍化された理由には、宗教文化圏の拡大が考えられます。世界規模で交易が盛んになり、異国・異文化圏にまで仏教が拡大していく過程で、暗誦伝承から成文化への変化は必然だったのでしょう。
蓮祖の題目行について
「南無妙法蓮華経」だけで成仏できるという発想の根拠は、法華経の一偈一句の受持にもとめられるのではないかと考えます。
「仏前に於て妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せん者は我皆記を与え授く。当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。」(法師品第十)
「是の清浄の意根を以て乃至一偈一句を聞くに、無量無辺の義を通達せん。」(法師功徳品第十九)
教えのほんの一部分を聞いただけで、成仏が約束されたり、全てを理解することが出来るとするくだりです。この教説は、法華経のみならず他の大乗経典にも散見されます。
「もし、善男子善女人有りて、七宝を以て、そこばくの恒河の沙の数ほどの三千大千世界を満たし、もつて布施せんに、福を得ること多きやいなや。須菩堤言う、甚だ多し、世尊よ。仏、須菩堤に告げたもう。もし、善男子善女人ありて、この経の中において、乃至四句の偈等を受持して、他人のために説かんに、しかもこの福徳は前の福徳に勝れたり。」(金剛般若波羅蜜経)
実際にこれらの経典からランダムに一偈一句を抜き出しても、それだけでは意味の通じない箇所も当然あります。結局は、この一偈一句の受持を重んずる教説の意味は、いわゆる須利槃特の故事の拡大解釈ではないでしょうか。
「善哉善哉、汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福量るべからず。」(陀羅尼品第二十六)
直接の題目受持の根拠は、この陀羅尼品にもとめられるのでしょう。
しかし、その意義としては法華経の一偈一句受持と不軽菩薩の但行礼拝の精神ではないかと愚考します。
410
:
犀角独歩
:2005/05/19(木) 18:19:46
問答さん、408の補足です。
どうも、先のような書き方ですと、問答さんが仏教ならざるものを信仰しているかのように論の運びになってしまいます。下手な文で恐縮です。わたしが言いたかったのは、以上のような脈絡でわたしは考え込んできたと言うことで、問答さんが非仏教の信仰をしているという意味では決してありません。法華経から導き出される蓮師が示した久遠本仏とい仏への信仰であれば、仏教に違いありません。
一字三礼さん、ご教示、有難うございます。
ご指摘の点こそ、たしかに「大乗」仏教の醍醐味なのかも知れません。批判考証しすぎると、こんなダイナミズムを否定しているような文の運びになってしまうと反省しました。
411
:
問答迷人
:2005/05/19(木) 19:23:02
>問答さんが非仏教の信仰をしているという意味
ここが、僕の悩むところなんです。
『南無妙法蓮華経』=『即身成仏の呪文』という捉え方は、僕の中では確固とした信念のようなものになっていますが、果たして、これが蓮師の教えの全てか、と問われると、そう言い切ってしまってよいのか、という躊躇いはあります。
まるっきり、それでは密教ですよね。まぁ、この辺りは、不動・愛染が曼荼羅に常に書かれていることから、そういう理解で、蓮師のお考えと基本的には違わないだろうとは思っています。
412
:
吉祥仙人
:2005/05/20(金) 05:11:42
お邪魔虫が失礼します。
>『即身成仏の呪文』
新人間革命のなかでアメリカ合衆国での折伏の場面
「あのマジックワードを教えてください」
とアメリカ人が言うシーンがありました。
413
:
犀角独歩
:2005/05/20(金) 11:20:22
> 411
問答さん、結局のところ、このようなことは言えるのでしょうね。
たしかに悩ましい問題ではあります。
414
:
顕正居士
:2005/05/21(土) 12:32:03
大聖人門下掲示板に中尊は法であって仏ではないという私見について投稿しました。
http://jbbs.livedoor.jp/study/3171/gudo.html
わたしの本尊観はおよそ次のような考えです。
日蓮宗諸派にある具体的様々な本尊から別勧請や宗祖御影を報恩謝徳等の意義による造立とし外し、
一体釈尊は四菩薩を加えるのが宗祖滅後にはより適切として外し、一塔両尊四士およびこれに若干の
諸尊を加えたものを大曼荼羅の立体表現(羯磨曼荼羅)として大曼荼羅に含めれば、日蓮宗の正格の
本尊は三種ある。一遍首題、大曼荼羅、一尊四士である。三種本尊を法仏に配すれば順に法本尊、
法仏倶備本尊、仏本尊である。大曼荼羅は法仏倶備の本尊であり、本尊抄、報恩抄の説示するところ、
此の宗の基本的正格の本尊である。大曼荼羅の全体が本門教主釈尊の本身を示し、中尊は本法、
具体に宝塔であり、塔中の釈迦仏は迹身に即した本身を示す。一遍首題は中尊を毘盧遮那仏と誤解
しないよう本尊問答抄に説示するところ、元意の本尊であるが、究竟の本尊ではない。一尊四士は
四菩薩造立抄*に説示するところ、教主に即した本尊であり、宗祖在世には立教の本主を示さんため、
滅後には法仏混乱の弊を防がんために推奨される。しかし在末相対して一尊四士が滅後には基本的
正格の本尊であるという学説は遺文に根拠がない。本尊問答抄は元意の本尊を示し、報仏本体説を
遮すと同時に応仏絶対説を遮す。
*四菩薩造立抄 真偽未決とするが、宗祖在世に一尊四士が推奨された伝説は史実であると考える。
415
:
犀角独歩
:2005/05/22(日) 08:23:20
一昨日、開催された御遺文講義に質疑応答の際の小松師・渋澤師の質疑応答は、漫荼羅と本尊に関することでした。小松師は立正の先生から、漫荼羅本尊感を陳べ、しかし、渋澤師は、突っ込んだ質問を繰り返すと言った具合でした。終了後、渋澤師は「漫荼羅が何であったか、よくわかりませんよね」と、あのにこやかな調子で語っておられました。
漫荼羅本尊正意で凝り固まったつまらぬ議論と違い、有意義なものでした。
四菩薩に関しては、法華行者値難事に「本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字」ともあり、また、本尊抄一巻の大意からしても、当然のことであると思います。
やや、ずれますが、
文永10年(1273) 本門釈尊・事行の南無妙法蓮華経(本尊抄)
文永11年(1274) 本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字(法華行者値難事)
本門の本尊と戒壇と題目の五字(法華取要抄)
文永12年(1275) 一大秘法(曾谷入道殿許御書)
建治2年(1276) 本門の教主釈尊を本尊…本門の戒壇…南無妙法蓮華経(報恩抄)
と挙げてみますと、蓮師は「本門の題目」と句を成していません。法華主要抄では「三つの法門」というものの三大秘法とはもちろん言っておりません。本門の題目はありか、わたしはやや疑ってかかっています。
416
:
問答迷人
:2005/05/24(火) 17:54:38
犀角独歩さん
>415
本門の題目はありか
『本門の題目』という成句は見当たりませんが、意味としては、有りだと思います。以下に該当する真蹟遺文を引用します。
観心本尊抄
『此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏、猶お文殊・薬王等にも之を付属したまはず。』
新尼御前御返事
『上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひ』
下山御消息
『世尊、眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に、法華経の半分迹門十四品を譲り給ふ。これは又地涌の大菩薩、末法の初めに出現せさせ給ひて、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふべき先序のため也。』
417
:
犀角独歩
:2005/05/24(火) 21:20:05
問答名人さん、
うーん、どうでしょうか。蓮師の程、到な人が、「本門の題目」、「本門の戒壇」といい、しかし、本門の題目とは言わなかったという点は重視されるべきとわたしには思えます。
たとえば、四菩薩には本門は付されません。
本門の本尊とは、迹門の本尊に対する語として意味をなします。つまり久成已前・已後の対比です。
戒壇も本迹の相対から論ずることはできます。また、このような考えは蓮師は遺文から看取できるように思えます。
しかし、四菩薩は迹門の終わりで涌きい出たとにせよ、迹門の四菩薩は成り立ちません。
同じく、本門の題目に対して、迹門の題目ということは蓮師が言ったかどうか。
題目は本迹で捌く枠を出ていると見ることはできませんでしょうか。
本門の肝心が題目であるということと、本門の題目というのは、論理的には相違があると思います。
ただし、これはそう断言することではなく、蓮師が言う三つの法門とは、本門の本尊(釈尊・四菩薩)・本門戒壇と題目の五字(裏一念三千)ということが、後代、勝手に三大秘法と言われ、本門題目と成句された可能性を探ってみようと言うことです。
418
:
犀角独歩
:2005/05/24(火) 21:20:55
【417の訂正】
誤)蓮師の程、到な人
正)蓮師の程、周到な人
419
:
問答迷人
:2005/05/24(火) 22:18:13
>本門の肝心が題目であるということと、本門の題目というのは、論理的には相違がある
なるほど。そうですね、迹門の題目という表現は確かに見当たりません。
僅かに、関連するものとして、下山御消息に次のように有ります。
『故に教大師像法の末に出現して法華経の迹門の戒定慧の三が内、其の中円頓の戒壇を叡山に建立し給ひし時、二百五十戒忽ちに捨て畢んぬ。随って又鑒真が末の南都七大寺の一十四人三百余人も加判して大乗の人となり、一国挙つて小律儀を捨て畢んぬ。』
この場合、『迹門の戒定慧』という表現から、対比関係として『本門の戒定慧』が想定されていたと考える事は出来ます。そうであれば、理屈的には、その『本門の慧』を『本門の題目』と言っても不思議はないのではないかと思います。
そして、勿論、そうであるにも拘らず、蓮師が『本門の題目』と表現されなかった理由が何か、という事がやはり重要だと思います。
420
:
問答迷人
:2005/05/24(火) 22:24:54
自己レスです。
>蓮師が『本門の題目』と表現されなかった理由
『本門の慧』=『事行の南無妙法蓮華経』=『題目』なので、『本門の「題目」』では、『本門の「本門の慧」』と『本門』が重複してしまうので、「本門の題目」とは表現されなかったのではないか、と思います。
421
:
犀角独歩
:2005/05/24(火) 23:00:30
問答さん、レス、有難うございます。
いずれにしても、蓮師が「本門の題目」を成句化していない以上、この語彙の使用は慎重を期そうと思います。
語彙の使用として関連しますが、昨日、福神講義で今成師の摂折論を聴講してきました。おってブログにアップしますが、「折伏」語の使用も、慎重を期そうと思いました。それにしても、このような真面目な考証に、自分たちの教義と違うというだけで、学的考証をするわけでもなく、批判する相変わらずの石山の在り方は、噴飯者というか、世間の物笑い、読んでいて恥ずかしくなります。
妙光寺の尾林さん
http://www.myokoji.jp/page/kowa/97-2.htm
この記述のことを今成師ご本人にお伝えしたら、苦笑いをしていました。真剣に、学問的に、追究する人に対して、真偽考証もしない好い加減さで、簡単に批判を加えるというのは如何にも石山流だと思った次第です。
さらに余談ですが、最近、わたしは石山方では「学会員」と断定されているそうです。それでわたしが書いていることが間違っているというのです。わたしが書いていることが間違っていると言うとき、自分たちが書いていることが正しいという大前提があるのでしょうが、わたしは学会員ではないわけですから、既にその段階で間違っています(笑)
さきほど、とある方からご連絡を受けて、腹を抱えて大笑いをしました。
本尊と漫荼羅という当スレから脱線しましたが、真摯にその実否を考えるのに、なんでかどうしてか、事実とはまったく違うレッテルを貼り批判をする、蓮師が言ってもいないことを恰も言ったかのように語る、こんなことを随分と騙されてきたとさらに感慨を深くする昨今です。蓮師は漫荼羅を本尊と考えていたか・扱っていたか、そんな考証で足に絡むゴミを、やや話題とさせていただいた次第です。
422
:
ひたち
:2005/05/24(火) 23:03:27
横レス失礼します。
題目とは、字の如くtitleではありませんか。素直に考えれば、妙法蓮華経の経題だと思います。ですので、あえて成句にするとすれば、「本門の題目」ではなく、「法華経の題目」となると思います。ただ、南無妙法蓮華経が三つの法門の一つであることは、どちらにしても揺るがないと思いますがいかがでしょうか。
423
:
犀角独歩
:2005/05/24(火) 23:10:37
ひたちさん、記されるところ、同意見です。
424
:
犀角独歩
:2005/07/06(水) 19:50:48
問答名人さん
本日、小野文著師の講演録を読んでいたのですが、そのなかで日講『禄内啓蒙』から優那陀日輝に至る教学を解説されて
「久遠実成の釈迦牟尼仏が南無妙法蓮華経である…南無妙法蓮華経は、お題目じゃない。法じゃない。南無妙法蓮華経は寿量品の久遠本仏の大牟尼世尊のお名前…南無釈迦牟尼仏、この久遠の本仏が仏界として顕れた時のお名前、九界として顕れると、この天照大神、八幡大菩薩や諸仏世尊尼なると、これが仏界縁起である」
と記されていました。「あ、そういえば」という感じで拝読していたのです。
この考えは、日寛教学では、久遠本仏釈尊=日蓮大聖人を置換されたうえで、奪取されているわけですが、違うのは人即法の本尊という点かと思えました。
この一連の教学潮流は、人即法という一点を除くと問答さんのお考えと親和性があると思ったのですが、如何でしょうか。
425
:
問答迷人
:2005/07/07(木) 10:48:11
犀角独歩さん
>親和性があると思った
うーん。僕は違和感を感じます。
>南無妙法蓮華経は、お題目じゃない
これは、全く納得できません。僕は、字像曼荼羅の中尊、南無妙法蓮華経は、唱題の音声以外には無かろう、と考えています。ですから題目そのもの。
>久遠実成の釈迦牟尼仏が南無妙法蓮華経
これは、本尊抄と矛盾すると思います。
どうも、全てを『久遠実成の釈迦牟尼仏』として、統一しようという意図は分かりますが、蓮師の祖意の果たして叶うものかどうか、甚だ疑問です。
本尊問答抄の如く、逆に、南無妙法蓮華経が先ず有って、そこから『久遠実成の釈迦牟尼仏』も、三世十方の諸仏も出ているというのが、蓮師のお考えで有ろうと思います。
426
:
犀角独歩
:2005/07/07(木) 11:23:02
問答名人さん
そうでしたか、失礼いたしました。
> 南無妙法蓮華経が先ず有って…
たぶん、「三身所顕無始古仏」という点から展開であろうと思います。
わたしは、蓮師文献のなかで、この点がもっとも謎です。要は法華の説相と一致しないではないかという思いがあります。門下一般では五百塵点を無始永劫ととらえるのも、この件からでしょうが、納得できない日蓮教説の一つです。
427
:
犀角独歩
:2005/10/23(日) 22:42:23
彰往考来さんと話題にしている『大崎学報』第104号の、掲載の小林是恭師『本尊抄の本尊の主要形態』に、かつてどなたかと議論になった本尊為体、並びにその造立資材についての論及があり、大いに頷きました。
「本尊為体での主要形態なるものが、それならいかなる資材によって造立されるのか。本尊抄には本尊造立の資糧と考えられるものであろうと思うものに「木画」の文字が出ている。又第九の文に記されている聖人前の仏像が木又は金銅でのものだことから想うと、聖人が包懐されていた仏像造立の資材は、大体は木像で絵像も認知の中にあったであろうということだ。「木画」の木はいう迄もなく木材だ。「画」は「絵画」と見るのが普通だろう。而して其は多くの彩色を有つだろうし、其資源は草木であった。本尊抄・の第二の文に「草木之上不置色心因果」とは、此等が自ら仏像造立の不可欠材であるに通ずる意もあってのことと見てよいだろう。
…第一は本尊抄での本尊は第四の「本尊為体」の処で語られたものが聖人の本尊相で、以下の文に見る本尊の文字は、何れもこの本尊相のものを指示しているということ。第二は聖人の本尊相の主体仏は寿量品の釈尊で、従って「本尊為体」での主体仏は釈尊だ。これはまた聖人の本尊は尤も端的に言えば本師釈尊だということ。第三はこの本尊造立の資材たるものを本尊抄から考えると草木で、それは木像或は絵像で大体は木像であろうと想われるということだ」(『大崎学報』第104号 P66)
また、その前掲論文『御本尊造像史』で影山尭雄師は、日蓮最晩年から滅後間もない本尊状況に就き、
「宗祖御自身は伊東感得の立像釈尊の一体仏を御本尊とせられ御直門の僧俗へは文字マンダラを御授与になり御入滅程ない頃には関東の主な諸寺で御本尊として一尊四士の仏像が造立せられ、他方では文字マンダラの絵画化は既に御在世の頃から試みられたらしく、それが祖滅七十余年頃には完成せられ、これと並んでマンダラの木像化も祖滅五六十年頃から試みられ、さらに日興門流の間では本門戒壇造立に至らぬ已前は文字マンダラ本尊説が、滅後五六十年頃から盛んであったように見られる。
三宝さまと通称せられる中尊二仏式が普及してをる現状をひるがえって考えて見るに、宗祖はそのご終生まで尊崇給仕遊ばされたのは、たとえ宗祖自らの御心持ちでは四士を添えた久遠の本仏であったのは勿論でも、表現された形は一体仏であったし、御在世中に一尊四士を造立した者があったがそれは四五人已上を出ていない極めて少数の、しかも在家信者であった。これに対して、直弟直檀に崇拝の対象として授与せられた文字マンダラは現在蔵伝せられてをるだけでも百二十余幅に達してをり、滅後五六百年間に焼失破損紛失盗難などで失われた数も少なからぬことを思えば、御在世当時授与せられたのはこれ已下の数であったろう筈はない。随って祖滅三四十年ごろは御門下僧俗の殆んど大部分の者がすでに文字マンダラを御本尊と崇拝していたと思われる。ここに祖滅四五十年の間に身延三世日進中山三世日祐の両師が前後してこの文字マンダラを木像化した中尊二仏式を造立せらたのは、この当時の現状の基づかれた企てではなかろうか」(同 P61)
という記述は、興味が惹かれました。
ただ、わたしがどうも合点がいかないのは、日蓮自身が本尊とするところ(一体仏)、信者(文字マンダラ)、身延中山(中尊二仏式)と、それぞればらばらという点です。
日蓮を宗祖と仰ぐのであれば、日蓮と同じ本尊を崇敬するのが自然だと思うからです。
以上の点は、彰往考来さんに資料を送付したのち、ご意見を窺いたいと思っています。また、最近、お忙しそうなれんさん、また、一字三礼さん、独学徒さんなどは、どのようにお考えなのかお聞きしたいと思っています。最近は問答さんはお忙しいようで、ご投稿がないことは残念です。
428
:
犀角独歩
:2005/11/03(木) 13:37:11
彰往考来さん
『御本尊写真鑑』コピーのご送付、まことに有り難うございました。
わたしが先に立正大学情報センターでコピーしてきたものと付き合わせたところ、同一の本でした。
ただ3箇所、相違があります。
1箇所は立正大学所蔵本は、書名が「御本尊写真鑑 巻之一」となっていましたが、頂戴したほうは「御本尊写真帖 全」となっていました。(旧字)
もう1箇所は奥付で、立正大学所蔵本では「大正元年十二月二十日印刷/大正元年十二月廿三日」となっていますが、頂戴したほうでは「大正元年十二月廿四日/大正元年十二月廿六日」となっております。こちらは日付のところは張り紙で訂正してあるのでしょうか?
もう一箇所は、立正大学所蔵本では、1ページ目に、「日蓮宗管長」の揮毫があります。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/gohonzonshasinkan.html
429
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/05(土) 22:13:35
>428犀角独歩さん・・・3箇所、相違
>(1)は立正大学所蔵本は、書名が「御本尊写真鑑 巻之一」、頂戴したほうは「御本尊写真帖 全」(旧字)
そうなんです。(2)と関連しますが奥付の日も数日の違いがあります。今回の犀角独歩さんの投稿で逆に私は「御本尊寫眞鑑 巻之一」の存在を確認できました。
>(2)奥付で、立正大学所蔵本では「大正元年十二月二十日印刷/大正元年十二月廿三日」、頂戴したほうは「大正元年十二月廿四日/大正元年十二月廿六日」
>こちらは日付のところは張り紙で訂正してあるのでしょうか?
私が所蔵のコピーでみる限り、張り紙で訂正してあります。
私が『御本尊寫眞帖 全』を国会図書館でコピーしたのは、10年ほど前と思います。その時は原本だったと思うのですが記憶は定かでありません。最近、独学徒さんの「お薦めスレッド」 >305 の投稿で、資料としては成り立たないほどの写りの悪さということでしたので、再度、国会図書館へ出むき確認したところ、マイクロフィッシュ(マイクロフィルム)になっていて、確かに写りが悪いものでした。そのため現在、私が所有しているコピーはかなり貴重なものになってしまいました。そのおかげで立正大学所蔵本でちぎられていた箇所の内容を明らかにすることができて、よかったと思います。
>(3)もう一箇所は、立正大学所蔵本では、1ページ目に、「日蓮宗管長」の揮毫があります。
私の所蔵コピー(国会図書館所蔵本)では、このような揮毫は見当たりませんね。
この本は同一内容で、異本があるようですね。どちらが本流なのでしょうね。「御本尊寫眞鑑 巻之二」の作成予定がないので『御本尊寫眞帖 全』のほうがよいと後で思ったのでしょうか。また名前が『妙宗先哲本尊鑑』と紛らわしいので“帖”としたのでしょうか。どうもその程度のことであったのではと考えています。
430
:
犀角独歩
:2005/11/05(土) 22:41:27
> 429 彰往考来さん
有り難うございます。
お陰で破り取られたものを確認できました。
それにしても、「巻之一」が「全」になり、‘鑑’が‘帖’になって同じもの、なんとも大らかというか、これが今だと、ちょっと騒ぎにもなりそうですが、和綴じ本の妙味というか、「なんだ、そうか」と納得して終わってしまう自分がおかしくなりました。
431
:
ラスカル
:2005/11/14(月) 11:36:33
414・顕正居士さんの意見が気になります。一遍首題は始成正覚、一尊四士は久遠実成、大曼陀羅は久遠元初と考えるなら本尊として解り易いのですが、教主とか本仏とか絡むとヴァリエーションの問題なのでしょうか。時空軸・次元軸で内実を一つひとつ判別できるのでしょうか。ブッダ・ガヤの覚りと大乗経典の悟りと。
432
:
犀角独歩
:2005/11/14(月) 14:09:45
> 一遍首題は始成正覚、一尊四士は久遠実成、大曼陀羅は久遠元初
わたしは、この分類は納得がいきません。
大漫荼羅の二仏並座・四菩薩他脇士は霊山虚空の儀式ですから、久遠元初ではなく、教学的な意味における法華説法の在世、一尊四士は末法における上行弘法を顕わすでしょうし、むしろ、久遠已来一貫しているのは「南無妙法蓮華經」ということなると思います。
433
:
ラスカル
:2005/11/14(月) 14:51:02
返答ありがとうございます。携帯のページ検索などで犀角独歩さんと問答迷人さんの検証論議を覗き読みさせてもらいました。創価学会の幽霊会員で久遠云々などは我見ですので御容赦願います。「始成正覚は蓮が言葉の意味合いが似てるかなと思い、久遠実成は四士以外は出て来ないから、久遠元初は南無妙法蓮華経如来=日蓮と考えて」つい書き込んでしまいました。ドがつくぐらいの素人で雑学ぐらいの知識・情報しか持ち合わせてませんが宜しくお願い致します。
434
:
ラスカル
:2005/11/14(月) 14:58:13
連続書き込みで失礼します。何が一番聞きたいか考えました。やっぱり、真偽いろいろある遺文・御書で四箇格言、三大秘法、独一本門、天生原戒壇等どこからどこまでが鎌倉時代の僧・日蓮が思考展開した教義なのでしょうか。
435
:
01
:2005/11/14(月) 17:36:50
横レス、ごめん。
ラスカルさん、あんたいいやつだなぁ。おれ、ファンになっちゃったよ。
独歩ジジは気難しがり親父だけどど、うまくつき合ってヨロシクぅ。
436
:
犀角独歩
:2005/11/15(火) 09:45:19
> 真偽いろいろある遺文・御書
取り敢えず、パンナコッタさんが示された「現宗研 文献資料」で、真跡遺文とされるものを基に、残る写本遺文に関しては、その内容から類している現在進行形が日蓮研究でしょう。わたしは個人的には最蓮房関連、御義口伝、日向記は外します。
> 四箇格言
これは日蓮の考えです。ただし、伝説で言われるように建長5年4月28日の初登高座で述べたのではなく、佐後にかけて整理されていったのだろうと考えられます。
> 三大秘法
「三大秘法」という成句は『三大秘法稟承事』に見られる成句ですが、この書が真筆であるとする点には疑問があります。つまり、日蓮は「三つの法門」というのに留まっています。
> 独一本門
石山で言えば、日寛の用語で、江戸時代以降と考えられます。
> 天生原戒壇等
これまた、要法寺出の石山歴代が持ち込んだ考え、本来、石山にはなく、また、重須の日興にもこの考えはありませんでした。もちろん、日蓮にこの考えはありません。
437
:
ラスカル
:2005/11/15(火) 15:07:12
返答ありがとうございます。気になる所から。■三大秘法について、遺文・御書を読めば其の儘書いてあるようです。本門寿量の一品→(涌出品に秘し)寿量品の本尊戒壇題目〈口決・三大秘法〉〈義(行為)〉→寿量品事の三大事⇒事戒法→戒壇堂云々■此の遺文・御書で考えたいのは、五百塵点とは大乗経典の内容から比べた相対的時間の長さなのか。それと、曼陀羅は戒壇(受戒の儀式を行なう)足り得るか。如何でしょう。
438
:
パンナコッタ
:2005/11/15(火) 16:33:44
三大秘法稟承事の補足としまして、
『日親本』、京都府本法寺蔵。従来『日時本』とされてきた大石寺蔵本は、日時筆とは認められず『大石寺本』とする。
同本は「御書目録日記事」及び「三大秘法抄」を含む数通の御書写本・要文、更に『天台四教義集解』の要文、
日目伝等が収録されており、中に大石寺第十四世日主(1555〜1617)の「本持日主 花押」との記載がある。
『日朝本録外目録』『本満寺録外』『三宝寺録外目録』『刊本録外』等所収。
本書は特に近来真偽についての論争が盛んになされてきたが、今日ではおおむね山川智応・清水竜山の
真撰説が支持されている。しかし、本書には「一身即三身」などの、信頼される御書には見られず、
且つ疑義濃厚な御書にしばしば見られる用語が使用されており、今後更に慎重に検討されるべきであろう。
御書システム 解題より引用
真筆は現存しない、真偽未決文のようですね。
439
:
犀角独歩
:2005/11/15(火) 17:40:50
> 三大秘法について、遺文・御書を読めば其の儘書いてある
いえ、書いてありません。書いてあるのは、真偽未決という果たして本当に日蓮の文章かどうかわからない疑わしいもののなかだけです。
> 寿量品の本尊戒壇題目〈口決・三大秘法〉〈義(行為)〉→寿量品事の三大事⇒事戒法→戒壇堂云々
このフローチャートは日蓮とは関係のない後世のものです。
要は『三大秘法稟承事』(真偽未決)、『日蓮一期弘法付嘱書』(偽書)の出てくる言葉から組まれたもので、日蓮の教えではありません。
> …五百塵点とは大乗経典の内容から比べた相対的時間
相対とする二つの主語は何を指しているのかわからないので、答えられません。
> 曼陀羅は戒壇(受戒の儀式を行なう)足り得るか
これも仰る意味がよくわかりません。曼陀羅とは本来、壇も、意味するでしょうが、日蓮の漫荼羅を指すのであれば、しかし、その趣旨は、わたしは違うと考えています。
440
:
ラスカル
:2005/11/15(火) 18:37:49
情報ありがとうございます。それならば、真蹟はどれくらい残っているのでしょう。■相対的とは広くは大乗経典の他宗派の物。狭くは久遠実成、久遠元初と比べて。■日蓮聖人の曼陀羅の位置付けと出典を教えて下さい。
441
:
犀角独歩
:2005/11/15(火) 19:14:49
> 真蹟はどれくらい残っているのでしょう
遺文集はなにかお持ちですか。
お持ちでしたら、冒頭の目次に真蹟所在は明記されています。断片まで入れるといくつと数えることになるのか、意見の相違はあるでしょうが、御書と言われるものの半数程度。200編程度ということになりますか。既にパンナコッタさんが紹介してくださった現宗研サイトに真蹟と写本は分けて載っているので参考になります。
> 久遠実成、久遠元初
久遠実成と五百塵点は同じ時を指しています。
久遠元初は日蓮とは関係ありません。のちの教学解釈です。
> 日蓮聖人の曼陀羅の位置付け
図示の部分的説明とすれば『本尊抄』でしょうが、‘位置付け’ということであれば、「ない」というのがもっとも正確な答えになると考えます。
442
:
パンナコッタ
:2005/11/15(火) 19:24:37
ちなみに御書システムのC分類では、
◆[C]: (部類 = class の頭文字) 御書を真蹟・写本の存否、内容の種別、システムの必要性等の理由から10に分類したものです。
「御書本文」「御書通読」の各行にも付してあります。
C=0 真蹟が完全若しくはほぼ完全な形で現存し、活字御書と対応するもの。 17.6 %
C=1 真蹟が断簡で現存し、活字御書の断簡と対応するもの。 5.2 %
C=2 真蹟の断片が現存し、活字御書の一部分と対応するもの。 11.6 %
C=3 真蹟が明治8年の火災まで身延山久遠寺に存在していたもの。 10.0 %
C=4 真蹟は現存しないが日興書写本の現存するもの。 4.5 % 以上 48.9 %
C=5 日興上人以外の上代諸師の古写本の現存するもの。 3.2 %
C=6 上記の0〜5と下記の7〜9以外の全てのもの。 31.3 %
C=7 御義口伝と御講聞書。 6.2 %
C=8 富士門流の相伝書類。 1.5 %
C=9 偽書と云われるもの。(昭和定本第三巻の第二輯続篇分) 8.9 % 以上 51.1 %
と、なっています。(注法華経や写本の円多羅義集は含まず)
443
:
パンナコッタ
:2005/11/15(火) 19:33:17
>442
失礼、注法華経はシステムに本文が掲載されていないだけで、C=0。
円多羅は、蓮祖の写本ということで掲載していないと云う意味です。
444
:
犀角独歩
:2005/11/15(火) 19:39:55
パンナコッタさん、御書システムでは、真蹟は何編と数えているんでしょうか。
445
:
パンナコッタ
:2005/11/15(火) 20:18:13
御書システムで、現在掲載されているのは、
C=0 145編
C=1 499編
C=2 114編
断簡・断片を含めて、このようになっています。
446
:
パンナコッタ
:2005/11/15(火) 20:38:39
断簡・断片をとりあえず省いてみると、
C=0 145編
C=1 51編 (含めると499編)
C=2 58編 (含めると114編)
と、云うことになっています。
447
:
犀角独歩
:2005/11/15(火) 21:32:54
パンナコッタさん、有り難うございました。
448
:
パンナコッタ
:2005/11/15(火) 21:47:52
またまた、すみません。
>443
円多羅は、蓮祖の写本ということで、システムに本文を掲載していないと云う意味です。
数と%が違っているのは、一つの遺文に断簡が多数ある物もあり、数字か違ってくるということです。
449
:
ラスカル
:2005/11/15(火) 23:26:34
犀角独歩さん、パンナコッタさん、ありがとうございます。御書全集と呼ばれるものしかありませんのでHPサイトを見てみます。
450
:
ラスカル
:2005/11/15(火) 23:51:31
■のちの教学というと日有上人・日寛上人の頃なのでしょうか。(独一本門もでしょうか)■では、曼陀羅は何故図顕され、どのような扱いだったのでしょう。■四箇格言は鎌倉時代の様相が背景にあり、それぞれ教義比較など踏まえた含蓄のある格言だと思います。でも、平成時代は三証・四悉檀で対応した方が良いと考えますが如何でしょう。■国立戒壇とかも話題になりましたが、其の先々の為、地域ごとに法華堂を建てれば伽藍は要らないと思います。文化財など否定するつもりは無いですけど。
451
:
犀角独歩
:2005/11/16(水) 10:34:09
> のちの教学というと日有上人・日寛上人の頃なのでしょうか
そうですね。整理集成落着するのは、日寛でしょう。
> 独一本門もでしょうか
「独一本門」という成句は、(大石寺ではなく)要法寺『本因妙抄』のなかで見られますが、これが「文底独一本門事本門戒壇本尊」というような教学的な整理は日寛です。
> 曼陀羅は何故図顕され、どのような扱いだった
真跡遺文から知られる限りでは、守札の用途ははっきりしています。その他は、実は不明です。実際のところ、日蓮自身が漫荼羅は拝んだことはないと考えざるを得ず、(拝んでいたのは所持の釈迦一体立像)では、なんのための図顕かというのは当然の質問です。この点はここでも議論されましたが、わたしは弟子への允可証ではないのかと考えています。
> 平成時代は三証・四悉檀で対応した方が良い
まあ、この考えは四箇格言よりは実際的でしょうね。四箇格言中、「念仏無間」は念仏法華の法論で法華が負け詰め腹を斬らされて以来の禁句でした。これが復活するのは明治以降のことでしょう。
現在、四箇格言が鎌倉時代同様の意味を持ち得るか。やはり、持ち得ないでしょう。
では三証はとなりますが、第一段階の「文証」で、日蓮がどのような経釈に基づいて論を構成したのかという分析は可能です。しかし、その文証とした経典、つまり、大乗経典が釈尊の直説ではなく、滅後500年以上経って創作されたものである以上、これを金科玉条の如く文証とするのは今の科学的見地は認めません。となれば、つづく理証も同様の扱いと成らざるを得ない。では実証もか、となりますが、さて、ここはどうでしょうか。実証とは学会を含む石山門下が言うような功徳、御利益の類を言うのであれば、これは別段、信仰者は誰しも、‘体験’はあるでしょうから、その体験は否定されないでしょう。しかし、文理との因果関係にあるのかは、それらが釈迦真説出ないことがわかった以上、関係しないことになります。さらに言えば、実証とは「実証証得」などという成句でもわかるとおり、元来、成仏の証を意味するわけです。こうなると、もはや、三証は、今日的な意味を持ち得るかどうか。わたしは否定的に考えざるを得ません。ただし、各人の感じる法悦は否定しませんが。
> 国立戒壇
田中智学以前の意義からすれば、国主の立てる戒壇ということになりますが、それは、ともかく、民主主義のご時世ではこの意味を取り違えているのだろうと思います。これらは、要するに国主受戒の場を自らが作ることを意味していたのでしょう。過去の戒壇建立の理由を見る限り、その様子が窺えます。もちろん、併せて僧侶受戒の意義があることは言うまでもありません。そんな、その後の扱いはともかくかくとして、本来の意味はそこにあるのでしょう。一般在家に受戒など、元来はなかったわけです。この点は藤川さん辺りと話し合いましたが、こんなことがある程度、定着したのは昭和になってから、先の戦前の話でしょう。
> 地域ごとに法華堂を建てれば伽藍は要らない
日興は日蓮御筆漫荼羅に「奉懸本門寺」と複数の漫荼羅に添書をしています。
当時の日本各地方ごとが「国」であったわけです。日本全土を指して一国という考えは、やはり、明治以降に一般化したものでしょう。当時、京と鎌倉、どちらが真性日本の首都であったか、両方かは議論の分かれるところでしょうが、それでも、それらは統一拠点以上の意味を持たなかったのが当時でしょう。つまり、複数の本門寺に懸ける漫荼羅が策定されたこと自体、ある面、「地域ごと」という考えは当たっていることになります。
452
:
犀角独歩
:2005/11/16(水) 11:06:27
一つ落としました。
> 四悉檀
これはたしか渡辺照宏師の指摘したことであったと思いますが、四悉檀は、梵本から訳される際、誤訳(意訳?)された誤った翻訳文に基づいて構成された教義で、成り立たないということでした。この点を記した論文を、読んだのですが、題名とも、失念しました。わたしの失念とは別に、この指摘は重要で、梵本直訳が容易に手に入る現在、この指摘が正鵠を得ていれば、四悉檀を用いる以上は、この反対文理を証明する義務があるとわたしは考えます。わたしは、この指摘を読み、もっともだと思った記憶があり、故に反対の論陣を張る蛮勇も起きませんので、四悉檀は用いません。
453
:
犀角独歩
:2005/11/16(水) 12:31:57
【451の訂正】
誤)「実証証得」
正)「実相証得」
454
:
ラスカル
:2005/11/16(水) 17:41:46
素直(?)になって聞いてみるものですね。って。パソコン持ってないし大きな書店へ行かないと探すのも難しいので。もう少し質問させて下さい。■久遠元初の出典■南無妙法蓮華経如来の出典■法華経説話と一念三千の間は繋がるか■経典・サッダルマ法プンダリカ蓮の付属の表現もしくは出典範囲等。焦点絞って簡潔に書いたつもりなんですけれど解り辛いかもしれませんが、いろいろ単語・成句などを出してもらえれば、調べたり考えたりできるので宜しくお願いします。
455
:
犀角独歩
:2005/11/16(水) 22:03:16
■久遠元初の出典
要法寺相伝(正確には上行院と言ったがよいかもしれませんが)『百六箇抄』「久遠元初の自受用報身無作本有の妙法」『本因妙抄』「久遠元初の結要付嘱」、その後、要法寺出の日教『150箇条』「御書曰久遠元初」と見られ、しかし、日蓮遺文にはもちろんこの語句はないので、上記2抄を指すのでしょう。日教は日有の時代に大石寺に来ているので、二箇相承などと共にこの要法寺教学を伝播した役割を果たしたのであろうと思えます。その後、これら相伝は大石寺にもとよりあったような論法で日寛が教学を創り、この基礎に据えたのが「久遠元初」でしょう。ただし、これには日時以来、大石寺の歴代が学んだ仙波檀林(天台宗)には、この原型となる教学、恵心流口伝法門があるので、教学的枠組みとしては、こちらの影響も受けてのものでしょう。
■南無妙法蓮華経如来の出典
この成句は、日寛文献で読んだ記憶がありますが、今は思い出せません。文段中であったと記憶します。しかし、近代では横浜問答で蓮華会が使用しました。
■法華経説話と一念三千の間は繋がるか
羅什訳『妙法蓮華経』から天台が経て、妙楽が造語したところです。
法華経説話、もちろん、サンスクリット語原点ではつながるはずもありません。
■経典・サッダルマ法プンダリカ蓮の付属の表現もしくは出典範囲等
日蓮の教学では末法付属の正体は妙法蓮華経の5字であることを『本尊抄』に尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」と記されるとおりです。
しかしながら、上行菩薩が神力品で付属を受けたのは、漢訳妙法華でみて、「嘱累の為の故に此の経の功徳を説かんに、猶お尽くすこと能わじ。要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す。是の故に汝等如来の滅後に於て、応当に一心に受持・読誦し解説・書写し説の如く修行すべし」を付属と見るかどうか、見たとしても、この該当文が妙法蓮華経の五字になるかどうかは、一考を要するでしょう。わたしは、そうはならないという立場です。
456
:
犀角独歩
:2005/11/16(水) 22:08:21
【255の訂正】
誤)『本尊抄』に尊の因行果徳の二法
正)『本尊抄』に釈尊の因行果徳の二法
457
:
ラスカル
:2005/11/16(水) 23:14:27
龍樹の空識・一心三観から天台一門の一念三千まで認識判断の複雑化構造改革も、教義・方法論も[正法→像法→末法]や[戒→破戒→無戒]など、どういう時にどういう形で受け取るかの質量で語句の表現も変わる。というのではキツイでしょうか。表題は妙法蓮華経の事ですよね。それとも、皆成仏道だけで無く諸行無常とかも兼ね合わせての呼び掛けになるのか。宗教は学問でヴァリエーションをどれだけ具現化できるかなら曖昧な繋ぎでも良いのでしょうが。未顕真実→真実開顕ですから、実相証得が鍵でしょうか。
458
:
犀角独歩
:2005/11/16(水) 23:22:25
> 457
なかなかいいところを掴んでいますね。
459
:
ラスカル
:2005/11/17(木) 12:41:37
■始成正覚・空間・本仏→久遠実成・時間・本尊にはなりませんか。■曼陀羅図顕は法華経に沿った本仏と本尊の立て分け?一遍首題と十界曼陀羅は像法と末法への対応に考えられなくもないのだけれど。
460
:
犀角独歩
:2005/11/17(木) 22:24:36
■始成正覚・空間・本仏→久遠実成・時間・本尊
時空概念からということでしょうか。
こういう現代発想オチはおやめになったほうがよいでしょう。
■曼陀羅図顕は法華経に沿った本仏と本尊の立て分け?
法華経に添った部分と密教に添った部分の二重立てです。
本仏は釈迦牟尼仏(本尊抄)本尊は法華経の題目(本尊問答抄)というわけで、では、本仏=本尊となるか?という点では、いまだに落着していないのが日蓮教学研究の実像でしょう。
> 一遍首題と十界曼陀羅は像法と末法への対応に考えられなくもない
これは、どういう意味かわたしには介せません。
461
:
ラスカル
:2005/11/17(木) 23:41:27
早とちりのような書き込みで申し訳ないです。 ■曼陀羅が守札である事は想像に難くない事かもしれませんが、弟子への允可証というのは合点がいきません。弟子の名前を書いたとして本尊でない?守札を下賜するのは縄張り意識からでしょうか。日蓮聖人は「通力に頼るべからず」とかありませんでしたでしょうか。修行方法・受持即観心の戒壇と考えるなら納得がいくと思うのです。■一遍首題というのは天台・伝教の頃「宝幡」と呼び、日女御前御返事に「法華弘通のはたじるし」と書いてあります。首題と不動・愛染の名、十界曼陀羅には冥府判官其他書いてある掛け軸があるらしいですが日興上人に下賜された十界曼陀羅の事を指します。行方不明らしいですが。化導にあって像法と末法の区別とした方が宗派別に気配りしたというよりは良いと思います。憶測とテンション上がったような書き方ですみません。
462
:
犀角独歩
:2005/11/18(金) 08:02:55
■曼陀羅が守札である事は想像に難くない
これは日蓮の遺文のなかに、たしかにそのように書いてあります。
> 弟子への允可証というのは合点がいきません
そうですか。しかし、漫荼羅は1人1幅が原則で、日蓮の名、授与者の名、日付が入ります。この弟子が、法座その他を開くときには、そこに掲げられたでしょう。となれば、それだけで日蓮の弟子であるとわかります。このような用途があれば、允可証という側面はあったろうと想像できます。
> 守札を下賜するのは縄張り意識からでしょうか
違うでしょうね。密教の呪符の側面からでしょうね。二明王、「頭破七分」「福過十号」などという書き込みは、まさにそのような点を物語っています。
> 日蓮聖人は「通力に頼るべからず」
写本遺文の範囲です。真蹟には載りません。
> 受持即観心
これまた真蹟に載らない用語です。
■一遍首題というのは天台・伝教の頃「宝幡」
この点は少し調べてみましょう。
> 日女御前御返事に「法華弘通のはたじるし」
これも写本遺文です。真蹟を遺さない一節です。
> 十界曼陀羅には冥府判官其他…日興上人に下賜
これは伝説、不確かな話ではないでしょうか。記されるところが考えると、それは「臨終漫荼羅」などと言われる葬式要に考案された後世の漫荼羅の様式。創価学会が盛んに謗法だと喧伝した様式です。大石寺では日寛まで遡れたと記憶します。しかし、日蓮漫荼羅の諸尊勧請にこれが記されたものは遺りません。行方不明と言うより、伝説に過ぎないのではないでしょうか。
> 化導にあって像法と末法の区別
この区別は、日蓮的に言えば、釈迦在世は法華経典、天台に摩訶止観、日蓮に題目五字ということになるでしょう。
> 宗派別
宗派というのは、空海が日本に初めてもたらしたもので、天台の時点では南三北七の別はありますが、これは宗派に当たりません。日本では南都六宗がありますが、これも今の大学で言う学部程度の相違しかありません。日蓮の時代に念仏、禅の興起があり、日蓮自身天台法華から次第に離れ、独自性を確立していきました。しかし、三国四師という自尊に明らかなように釈迦・天台・伝教を継承する法華宗としての自覚ですから、これはその後の宗派意識とは異なっていると思います。
463
:
犀角独歩
:2005/11/18(金) 12:08:38
【462の訂正】
誤)臨終漫荼羅
正)導師漫荼羅
464
:
ラスカル
:2005/11/18(金) 17:55:38
認識判断の前提で印度応誕のゴウタマ・シッダルタは似ている箇所はあっても大乗経典以後は別人でしょうか。■日蓮聖人は密教の捉え方で何か直接的に教えた文言はあるでしょうか。■天台、伝教、日蓮の説法教化でそれぞれオリジナルな語句・成句はどれくらいあるでしょうか。金剛宝器戒はどうでしょう。
466
:
乾闥婆
:2005/11/18(金) 19:23:06
犀角独歩さん、ラスカルさん。
>受持即観心
これまた真蹟に載らない用語です。
ちょっと驚いたのですが写本遺文にもないようですね。いつごろから使われるようになった成句なのでしょうか。受持即観心の根拠は結局のところ観心本尊抄の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」になるようです。
「此の五字を受持すれば」ということも、具体的にどういうことを言っているのか、よく分かりません。観心といっても、蓮祖と天台では違うのでしょうか。犀角独歩さんから勧められました小止観を読んでみましたが、そこで語られる「観を修す」ることとは、心を観ることにより、「諸法の実相」を観、そのことによって現実世界への執着を解体するようなもの、と読めました。どうも蓮祖のイメージと違うようなのですが、天台においても小止観と摩訶止観では違ってくるのでしょうか。それとも蓮祖の受け止め方が異質なものなのでしょうか。蓮祖においては己心に仏を見るといったように感じられるのですが。
467
:
犀角独歩
:2005/11/18(金) 20:30:47
乾闥婆さん
仰るとおりで、実は天台関連の初期文献にもこの語はでてきません。
伝教は、手許にすべて資料がないためにわかりません。
注法華経にもないようです。
富士宗学要集でみると、以下のとおりです。
観心本尊抄文段上観心本尊抄文段上
「正しく本尊の妙能に由って受持即観心を成ずるの義を明かす。これ則ち文底深秘の奥旨、久遠名字の直達の正観なり」
「受持即観心の義なり。これ則ち「於我滅度後、応受持斯経」の文「凡そ当家の意は唯信心口唱を以て、即ち観心と名づけ、而して受持とは正しく信心口唱に当る。故に受持即観心というなり」
観心本尊抄首日相聞書
「是の故に堅固にこれを秘すと云云。是れ則ち受持即観心の義を明かす故」
「初め難信難解を示し、次に世尊の徳用を明かし、三に正しく受持即観心を明かす」
「先づ無量義経の文を借り以つて受持即観心の意を示す」
「今元意を示す正に是れ受持即観心なり。何んとなれば信心修行を以つて名づけて受持となす故なり」
まあ、日寛は観心とは信心口唱、すなわち、観心の本尊とは信心の本尊とするのは、なかなか卓見であるとは思います。しかし、日蓮遺文に受持即観心がない以上、日蓮のあずかり知らないことではあるのでしょう。
乾闥婆さんの止観禅のとらえ方は、わたしもほぼ同様に考えます。
これはたしか小松師が仰っていたことですが、日蓮の時代、比叡山では参禅はすっかり廃れていたということでした(小松師の言は、記憶違いの可能性もあります)もし、これが事実であろうと思うのは、日蓮の行学から、まるで参禅が見えないからです。ですから、その意味からすれば、たしかに天台・伝教と止観そのもののとらえ方が違っているというのは、当を得た観察であろうと思います。
468
:
犀角独歩
:2005/11/18(金) 20:43:37
> 認識判断の前提で印度応誕のゴウタマ・シッダルタ…大乗経典以後は別人
うーん、難しいですね。いちおう、仏伝は踏襲しているのが、大乗経典です。しかし、あんなスーパーマンやマジシャンみたいなブッダは初期経典とは著しく違っているのは事実です。
> 日蓮聖人は密教の捉え方で何か直接的に教えた文言
これまた、難しい質問ですが、しかし、たとえば、曼陀羅、本尊、不動・愛染ほか、これらは、みな密教に属します。
> 天、伝教、日蓮の説法教化でそれぞれオリジナルな語句・成句はどれくらい
この算出には該博な知識が必要でしょうね。
天台は華厳経ほか、当時の中国思想の影響も多々あるわけですから、これをより分けるには、わたしは力不足です。
伝教は当然、天台、妙楽等を踏襲するわけですから、その文意をさっ引いて、さらに偽撰を抜いてというのもなかなかの作業です。
天台宗その他で以上の作業をされているか多鹿いらっしゃるかも知れません。
> 金剛宝器戒
真蹟・写本通じて『教行証御書』に一度、引用されるのみであったと思います。富要にも載らないようです。
これを日蓮の教学とするのは、同書が確実な真跡であることを証明する必要があります。
469
:
とんび
:2005/11/19(土) 01:10:49
紙幅の曼荼羅(御本尊)について。
正宗では、紙幅の御本尊については、当時の信仰の厚い人に、一機一縁という
かたちで、授与していたということだったと思います。
ですから、戒壇の板本尊は、全人類の人の為に顕した..というのは、当時
納得いくものでした。しかし今は、戒壇の本尊については、日蓮さんが遺され
たものではないのでは..と感じています。
では、一体日蓮さんは、何を持って一切衆生を救おうとしたのでしょうか。
報恩抄でしたか、「日本国一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の
道をふさぎぬ」と。
あえて御本尊と書かずに、紙幅の曼荼羅と書きますが、紙幅の曼荼羅が、
信仰において、必要なものであれば、日蓮さんは生きている内に、もっと大
量に紙幅の曼荼羅を書き顕さなければ、ならなかったのではないでしょうか。
それとも、一幅の曼荼羅を多数の人で拝ませることが目的だったのでしょう
か。
正宗では、法主の書写したものを印刷して拝ませていますが、その他の門下
では、檀家の人たちはどうしているのでしょう。日蓮宗の信者の人は、曼荼羅
を拝んでいるのでしょうか。
また、日蓮さんの御書のどこに、私の遺した紙幅の曼荼羅を書写して多数の
人に拝ませなさい..という記述があるのでしょうか。
日蓮さんの、本意は..ということを論ずれば、それが一つの宗派になり、
合意点などあるはずもないのですが..。
允可証という言葉の意味がよくわかりません。なにぶん私は知識がないので
ここでの発言は、なじまないと思いますが。
470
:
とんび
:2005/11/19(土) 01:12:09
紙幅の曼荼羅(御本尊)について。
正宗では、紙幅の御本尊については、当時の信仰の厚い人に、一機一縁という
かたちで、授与していたということだったと思います。
ですから、戒壇の板本尊は、全人類の人の為に顕した..というのは、当時
納得いくものでした。しかし今は、戒壇の本尊については、日蓮さんが遺され
たものではないのでは..と感じています。
では、一体日蓮さんは、何を持って一切衆生を救おうとしたのでしょうか。
報恩抄でしたか、「日本国一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の
道をふさぎぬ」と。
あえて御本尊と書かずに、紙幅の曼荼羅と書きますが、紙幅の曼荼羅が、
信仰において、必要なものであれば、日蓮さんは生きている内に、もっと大
量に紙幅の曼荼羅を書き顕さなければ、ならなかったのではないでしょうか。
それとも、一幅の曼荼羅を多数の人で拝ませることが目的だったのでしょう
か。
正宗では、法主の書写したものを印刷して拝ませていますが、その他の門下
では、檀家の人たちはどうしているのでしょう。日蓮宗の信者の人は、曼荼羅
を拝んでいるのでしょうか。
また、日蓮さんの御書のどこに、私の遺した紙幅の曼荼羅を書写して多数の
人に拝ませなさい..という記述があるのでしょうか。
日蓮さんの、本意は..ということを論ずれば、それが一つの宗派になり、
合意点などあるはずもないのですが..。
允可証という言葉の意味がよくわかりません。なにぶん私は知識がないので
ここでの発言は、なじまないと思いますが。
471
:
犀角独歩
:2005/11/19(土) 05:53:15
とんびさん
> 一機一縁
この成句は真跡遺文には見られず、写本のなかでは
「真言は已今当(いこんとう)
の中には何れぞや。若し外と云はゞ、一機一縁の一往にして秘密とは云ふべからざるなり」当世念仏者無間地獄事文永元年
「真言は已今当の中には何れぞや。若し外と云はゞ、一機一縁の一往にして秘密とは云ふべからざるなり」早勝問答 文永8年
「四十二年の経の内には、一機一縁の為にしつらう処の方便」法華初心成仏鈔(
建治3年)
というような用法です。
富要でみれば、その日教、殊に日寛、また、日我の使用が見られ、主に日蓮所持の一体仏像を漫荼羅に比していう如くです。
ただし、日寛では「一閻浮提総与」との対句的な意味合いをここに持たせるために、ここから、現在の石山が初心入信者に頒布する印刷本尊を一機一縁と呼ぶ風習が生じたものと思われます。
> 一体日蓮さんは、何を持って一切衆生を救おうとした
唱題行だと思います。
> 報恩抄でしたか、「日本国一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の
道をふさぎぬ」と。
いえ、開目抄です。「盲目」「生盲」という語彙は困った用法ですが、いまはこの点は敢えて触れず、疑問の点に答えれば、この文の前文は
「他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし。此事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声もをしまず唱ふるなり」です。
> 紙幅の曼荼羅が、信仰において、必要なものであれば、日蓮さんは生きている内に、もっと大量に紙幅の曼荼羅を書き顕さなければ、ならなかった
これはまったくそのとおりです。
先の受持即観心とのちに成句される起因となったとのではないかと乾闥婆さんが仰ったとおり、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」(本尊抄)と日蓮は言うわけで、この受持とはまさに「南無」の異に他ならないとわたしは思えます。となれば、妙法蓮華經への信の強調、帰命ということで、それは日寛が言うように南無妙法蓮華經の信心口唱と実践されるという帰結は尤もな指摘です。(ただし、日寛の言うこと、すべてが遭っているという意味ではもちろんありません。彫刻本尊崇拝その他大半はおかしなことを言ってはいますが)
472
:
犀角独歩
:2005/11/19(土) 05:54:19
―471からつづく―
> 一幅の曼荼羅を多数の人で拝ませることが目的だったのでしょうか。
違うでしょうね。一つの漫荼羅は一人のためであったでしょう。
> その他の門下では、檀家の人たちはどうしているのでしょう。日蓮宗の信者の人は、曼荼羅を拝んでいるのでしょうか。
日蓮真筆漫荼羅を縮小印刷したものを本尊とすることが多いようです。
これを仏具店などで買い求め、所属寺院の住職に自分の名前を裏書きしてもらい、開眼とするようです。また、願え出れば、書写する人であれば、書写もして下付するでしょう。もちろん、漫荼羅を仏壇に奉安しています。その前に御影も置きます。信者に対して、こちらが一般的でしょう。ただし、寺院は本堂(釈迦堂)仏像奉安、祖師堂(御影堂)御影・漫荼羅奉安の二堂様式が一般的です。この二堂様式はしかし、本願寺などでも同様です。ただし、向こうは釈迦仏像ではなく、阿弥陀仏像という違いです。
> 日蓮さんの御書のどこに、私の遺した紙幅の曼荼羅を書写して多数の
人に拝ませなさい..という記述があるのでしょうか。
こんな記述があるわけはありません。
日蓮は、自分の漫荼羅が複製されることすら、まったく考えていなかったでしょう。その様子をもっとも端的に示すのは石山も重要視する
「一、御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂日向・日頂・日春等なり。
日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝くも書写し奉り之を授与する者なり」(富士一跡門徒存知事)
というのであって、形木本尊(いまでは印刷)の禁止をしっかりといい、さらに一分信心の有る輩という個人に対して、書写授与であると定めています。これは日蓮図示以来の伝統を書写と一段遜って伝える日興の厳格な姿勢を伝えたものでしょう。
> 日蓮さんの、本意は..ということを論ずれば、それが一つの宗派になり、
合意点などあるはずもないのですが..。
これはどのような意味で仰っているのかわかりませんが、「定 一、弟子六人事不次第」という日興筆御遷化記録の一節を「定めて本弟子六人は一つの殊、不次第なり」と読み、六人一丸の意と解する仁がありました。わたしは、この読み方に賛同します。
> 允可証
この言葉がわかりづらければ、今風に言えば、免許証、免状と言ってもよいでしょう。また、認可証、許可証といっても近いかも知れません。ともかく、日蓮の弟子として認めという意味です。
473
:
ラスカル
:2005/11/19(土) 06:52:40
では、本仏=本尊は法華経に出現する仏陀と言う事になるのでしょうか?本仏の胸中の心を開けば本尊の蓮花が咲く。仏像でも漫陀羅でも軽々に下賜するものでは無かったというもので、具体的な行為としては不軽菩薩の行と唱題と言う事ですか。
474
:
犀角独歩
:2005/11/19(土) 13:15:35
まず、472の訂正
誤)本弟子六人は一つの殊
正)本弟子六人は一つの事
> 本仏=本尊は法華経に出現する仏陀
出現というのは、何を意味するのかわかりませんが、寿量品に久遠成道を明かすというのが正確な表現になると思います。
また、本尊という言葉は、天台は使っていませんので、日本仏教で出来上がった本尊観に久遠本仏を当て嵌めたと言うことでしょう。
日蓮は、このような本尊、仏像がそれまで、造られておらず、これから“出現”すると本尊抄に記しました。
> 本仏の胸中の心を開けば本尊の蓮花が咲く
このような詩的表現が何を意味するのか、わかりませんが、胸中の蓮華とは心臓を指します。当時、解剖学、大脳生理学は解明されていなかったので、人々は心(精神)は心臓に宿っている働きだと考えていました。
> 仏像でも漫陀羅でも軽々に下賜するものでは無かったというもので、具体的な行為としては不軽菩薩の行と唱題と言う事ですか。
唱題は日蓮の発明で、不軽の礼拝は、その通りです。これが上行菩薩等になると滅後弘教が加わります。
475
:
ラスカル
:2005/11/19(土) 17:47:37
ウィキペディアと呼ばれる電子事典で「本尊」と出てくるのは大日経らしいです。ゴーグルでイメージ検索したら、四天王も梵字のような書き方の漫陀羅が見られました。それから、専門家の研究で漫陀羅100点以上でほとんど別書き(首題の他は配置転換等)で漫陀羅が図顕されている事がわかったそうです。■覚者→印度応誕、仏陀→大乗経典、本仏→実在の人物、本尊→教義内容のように分けないとまどろっこしくて。判り辛くてすみません。■白法・大白法は、教義などの根幹・宗旨で良いのでしょうか。
476
:
とんび
:2005/11/19(土) 20:28:05
犀角独歩さん、こんばんは。
レスありがとうございます。
先にあげた、「日蓮が慈悲曠大ならば・・・日本国一切衆生の盲目をひらける
功徳あり、云々」は、やはり報恩抄のなかにありました。
本尊と曼荼羅の違いについては、個人としては、紙幅の曼荼羅が顕している
もの・指し示しているものが、帰依すべき本尊であると思っています。
厳密にいうと曼荼羅≠本尊なのだと思います。しかし正宗では、曼荼羅=本尊
と教えていたように思います。正宗の信仰をしていた時に御本尊を拝していまし
たが、紙幅の御本尊その物体を信じていたのではなく、その御本尊(曼荼羅)の
指し示しているものを信仰していたと思います(帰依すべき妙法という感じ)。
ですから、戒壇の本尊に対して疑念を持ったときにも、あまりショックは
なかったのです。
ある、日蓮富士門流の方で本を出している人に、電話で聞いたところ、その方
は、日蓮さんは、御書の中で、本尊と曼荼羅とをハッキリ区別していると言って
いました。
前の、投稿のつづきになりますが、日蓮さんが題目行・唱題行を進められたと
いうことは、わかるのですが、だとしたら、正宗を含め日蓮門家は、全て日蓮さ
んの本意を受け継いでいるわけだし、新興宗教の、題目講とかそういうのも良い
わけですよね。
でこれは、行の部分ですが、信ずる対境としては、何を勧められたのでしょう
か。人は、信ずるものによって変わってきます。
当然、法華経・南無妙法蓮華経ということになるのでしょうが、これを理解し
ようとしたら、わけがわからなくなります。
日蓮さんの本意は・・・という意味は、それぞれどの日蓮各宗派も、我が宗派
こそが、正しく日蓮さんの意志を継いだ団体である・・と思っているのでしょう
から、合意など無理だということです。
また、個々人に於いても、それぞれ違った認識を持つのがあたりまえで、合意
・同じ考えを持つことはないだろう・・・ということです。
科学や数学ではないので、日蓮さんの本意は・・・という問いに、正解はない
のだろうと感じます。
477
:
犀角独歩
:2005/11/19(土) 21:36:11
とんびさん
失礼しました。ご指摘の通りでした。
何を勘違いしていたのか、お恥ずかしい限りです。
では、何を指し示しているとお思いになりますか。
> 日蓮さんは、御書の中で、本尊と曼荼羅とをハッキリ区別している
まあ、これは微妙で、先にも触れた護本尊とは漫荼羅を指すことがありますので、はっきりと言ってよいかどうか。ただ、わたしはもちろん、本尊、漫荼羅は別意であると考えます。
> 正宗を含め日蓮門家は、全て日蓮さんの本意を受け継いでいる
まあ、そうとも言えませんでしょうね。
> 信ずる対境としては、何を勧められたのでしょうか。
この信じるものには対境があるという考え事態が刷り込まれたものではないでしょうか。あるとすれば、法華経でしょうし、久遠本仏釈尊というのが日蓮の考えであると思います。
> 合意など無理…合意・同じ考えを持つことはない
別段、そうは思いません。というより、そのような決めつけをするのであれば、ここで議論する必要もないでしょう。
> 日蓮さんの本意…正解はないのだろうと感じます。
そうですね。ただし、日蓮にどんな本意があったのかは、真跡遺文から大旨の予想が立つでしょう。正解がないのは、各人の情念に基づく解釈のほうでしょうね。
478
:
犀角独歩
:2005/11/19(土) 21:52:31
> 専門家の研究で漫陀羅100点以上でほとんど別書き
これは多分、山中喜八師、桐谷征一師の研究だと思います。
> 覚者→印度応誕、仏陀→大乗経典、本仏→実在の人物、本尊→教義内容
buddha(ブッダ=仏陀)は目覚めた人、つまり、覚者でここに区別はないでしょう。
> 白法・大白法は、教義などの根幹・宗旨
これは多分、釈迦仏法は白法で穏没、大白法は日蓮仏法という教義の語法を言われているのだと思いますが、わたしは、この点において、寿量品では常住此(娑婆霊鷲山)説法というので、このような区別は成り立たないと考えます。
479
:
ラスカル
:2005/11/19(土) 22:46:25
■文章でしか見られませんでしたが、桐谷さんの名前は書いてありました。■其れは正・像・末の例えは大袈裟だから差し引いて、法華経だけでの判断で充分と言う事ですか。
480
:
とんび
:2005/11/19(土) 22:59:09
こんばんは。
私には、日蓮さんの本意は、わかりません。正宗の影響があると思いますが、
いわば、国立戒壇、全人類帰依の理想が、幻と悟った時点で、??ということ
です。
日蓮さんは、すごいことをおっしゃっていますよね。
先の、日本国一切衆生の盲目をひらける云々。一閻浮だい第一の聖人。日蓮
がいなけれは釈尊は嘘つき人間だ(趣意)
ですから、今は御本仏と信仰はしていませんが、好意は持っています。
顕正会での信仰で、人生が狂いましたが、日蓮さんを恨んだりはしていませ
ん。ですからいまだに関心があるのですね。
今、御書を開いて、思いましたが、やはり日蓮さんが遺されたものは、三大
秘法でしょうか。
本門の本尊と題目と戒壇と。正宗系の解釈では理解できますが、曼荼羅=
本尊でないと、うまく説明できないでしょうか。
日蓮さんの、本意に近づこうと思えば、最低法華経と御書はよく読まなけ
ればならないと思います。
私には、仕事を辞めて時間の余裕が出来ないと難しいと思います。
481
:
犀角独歩
:2005/11/19(土) 23:10:29
> 其れは正・像・末の例えは大袈裟だから差し引いて、法華経だけでの判断
いえ、そうではなく、大集経(正像末が記される)と法華経は別々の成立であり、そこに書かれていることは整合性はないだろうということです。
482
:
犀角独歩
:2005/11/19(土) 23:14:21
> 国立戒壇…幻と悟った時点…??
わたしも30年前に、そして、10年前に確実にそのように思いました。
> 日蓮さんの、本意に近づこう…最低法華経と御書はよく読まなければ
そうですね。
> 仕事を辞めて時間の余裕が出来ないと難しいと思います
必要と思わなければやらなければいいでしょうし、必要があると思えばやればよい。個人の問題でしょう。
483
:
乾闥婆
:2005/11/19(土) 23:32:21
>>467
犀角独歩さん。
「富士宗学要集」からの引用、ありがとうございます。少なくとも寛師のころには使われていたということですね。
>日寛は観心とは信心口唱、すなわち、観心の本尊とは信心の本尊とするのは、なかなか卓見であるとは思います。しかし、日蓮遺文に受持即観心がない以上、日蓮のあずかり知らないことではあるのでしょう。
では「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」は寛師の解釈とは無縁となるのでしょうか。「此の五字を受持すれば」とは蓮祖において法華経の身読を意味すると私は考えているのですが、そのような行法が、そのまま「観心」となるとは、蓮祖の真意からは、離れるものとなるのでしょうか。蓮祖においては心を観るとは、己心に仏を観るということであると思うのですが。
>日蓮の時代、比叡山では参禅はすっかり廃れていたということでした
>これが事実であろうと思うのは、日蓮の行学から、まるで参禅が見えないからです。
私も不思議に思っていました。止観は参禅の方法であるのでしょうけれど、天台・伝教からの流れを尊ぶ蓮祖が、なぜ行法としてそれを採用されなかったのか、なぜ唱題行をもって、その代わりとされたのか、よく分からないのです。末法であるとか、易行化であるとか、そういったことが要求された時代であったからなのでしょうか。
484
:
犀角独歩
:2005/11/20(日) 08:23:28
乾闥婆さん
> 釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足…受持…功徳を譲り与えたもう」は寛師の解釈とは無縁となるのでしょうか。
日寛の解釈は受持即観心、観心の本尊、信心の本尊、受持即信心というような一連の流れがあると観察できます。ここで基をなしているのは‘即’だと思えます。しかし、本尊抄の原文での、日蓮の解釈は、門下一般でも言われることですが、‘自然譲与’にあると思います。これを即、即と解釈しないのは以下の類推によります。
本尊抄の述作は、いうまでもなく、漫荼羅図示のはじめと密接に関わっていると考えられます。この日蓮漫荼羅のテーマは、大書された南無「妙法蓮華經」の五字であることはいうまでもありません。この題目を書いて、日蓮は授与するわけです。では、授与された側はそれをどうするのか。受け持(たも)つのではないでしょうか。
わたしは日蓮がいう妙法蓮華經の五字とは、たとえば、PCに表示される活字の文字や、版木刷られた法華経典や、印刷された遺文集に見られる五字ではないと考えています。つまり、日蓮自ら漫荼羅と認めた五字です。その五字に釈尊因行果徳の二法が具わっている、だから、この漫荼羅を受け持つ人は、その功徳を自然(じねん)に譲与されるというのが、本尊抄を通じて日蓮が言おうとしていることであると、わたしは読みます。ここに主眼があるのではないのかと、わたしには思えるわけです。
ですから、その漫荼羅を受持し、そこから心で観ていく本尊が妙法蓮華經であれ、本仏釈尊であれ、受持の結果と言うことになりますし、それは信心口唱によるわけですから、受持即観心と後世、成句されることはいわば趨勢なのですが、しかし、わたしがあずかり知らないと記したのは「受持即観心」という成句のことで、これを上述の日寛のような論法で整理されることを指していったのです。
> 止観は参禅…採用されなかったのか、なぜ唱題行をもって、その代わり…末法であるとか、易行化…要求された時代
仰る点にはいくつか重要な点が含まれています。いい視点であろうと思います。
まず、参禅ではなく唱題という点は、この発明が称名念仏をモデルにしているからだと思います。
次の易行道についても当然、それは法然に求められるわけで、いったん、日蓮は、この易行道を簡ぶわけですが、却って、その意を介すことを重視しないという展開となっていきます。また、青年期には娑婆修行を訴えた日蓮は、刎頭に絶命の体験を経たのち、霊山浄土観へと傾倒していきます。一般から観れば、極楽浄土と霊山浄土、目指すところは違っても、同じ浄土観ではないかという批判になります。念仏:法華≒称:唱、念仏:法華≒極楽:霊山という対比が看取できるように思えます。この意味において、仰るように時代性と、学問背景の影響が色濃く見られると観察すべきなのだと思います。
485
:
犀角独歩
:2005/11/20(日) 08:31:47
もう少し書き足せば、日蓮は龍口の刎頭、極寒の佐渡流罪という臨死体験を通じて、徹底した観心修行を唱題と読書三昧に費やしたのではないでしょうか。そこで己心の仏を観、もっと言えば一念三千を体感した。ここに日蓮は自身の妙法蓮華經を感得した。この‘日蓮の’妙法蓮華經を漫荼羅に図して、授与、受持するという宗教的というか、秘技的な要素が漫荼羅授与にあるのではないのかとわたしには思えます。ですから、その妙法蓮華經の五字は、同じ文字でも日蓮の文字でなければ、日蓮の己心も、信仰も、功徳も収まっていない、日蓮の記した妙法蓮華經(漫荼羅)であるからこそ、自然譲与となるという点が、見落とされていないのかと、わたしは考えています。
486
:
ラスカル
:2005/11/20(日) 12:04:16
横割り済みません。って事は宗祖日蓮真筆以外のヴァリエーションは書いては成らない。書かない方が良いと言う事?
487
:
犀角独歩
:2005/11/20(日) 15:25:19
> 486
いや、そうではなく、それ以降は、日蓮となり変わって書く、あるいは書写する、しかし、所詮、日蓮には及ぶべくもないことは書・写の当人も自覚してのことでしょう。
488
:
ラスカル
:2005/11/20(日) 15:41:03
其れはそうですが、一機一縁、一期一会であからさまに言われると子細につけても大雑把につけても身分差別の位階に通じてしまうので「ヴァリエーョンはつくらない方が良い」のではと書きました。どこかの蔵から梳き返されない真蹟が発見されませんでしょうか。
489
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/20(日) 16:18:14
>462,463 横レス失礼します。
導師御本尊と臨終漫荼羅について
(注:下記文章で“曼荼羅”と“漫荼羅”とが用語不統一です。 “曼荼羅”とあるのは引用資料原文のママであるためです。私は通常“漫荼羅”を使っていますのであえて用語統一をしませんでした。“八大龍王”と“八大龍玉”も同じです。)
臨終漫荼羅とは、「曼荼羅の中に特に「閻魔法皇」「五道冥官」が書き加えられ勧請された曼荼羅」(松村壽巌『日蓮宗儀礼史の研究』(平成13年、平楽寺書店、69頁)です。日蓮宗では「臨終曼荼羅」といい、日蓮正宗(石山)では「導師御本尊」と称しています。臨終葬送の際に使用される漫荼羅です。「八幡大菩薩」と「天照太神」を省き替わりに「閻魔法皇」「五道冥官」が書き加えられ、「臨終曼荼羅」では貫首の名と花押が、「導師御本尊」では日蓮在御判とあります。
松村氏によれば、「最初に「臨終曼荼羅」の世上に現われた時期についてみると、その上限は今のところ天正二十年(一五九二)京都本国寺(引用者注:“本圀寺”ですが原文のママ)第十六世究竟院日蘅を初見」(『日蓮宗儀礼史の研究』(86頁)とされています。『地涌からの通信 別巻②歴史編』(1993年、はまの出版、177頁)はこの見解を引用しています。
しかしながら、『大田区史 資料編 寺社2』(昭和58年、東京都大田区、1303頁)に山梨県甲府市の法華寺蔵天文廿一(1552)年十月十五日の日現師図顕による漫荼羅を紹介していまして、この漫荼羅には「閻魔法皇」「五道冥官」が勧請され、“逆修”(死後の往生菩提に資するために、生前にみずからの手で供養をおこなうということ(『日蓮宗儀礼史の研究』87頁))とありますので松村氏のいう「臨終曼荼羅」の定義に合致しますから「臨終曼荼羅」の出現は松村氏の見解よりもう少し時代が上がることになります。松村氏は「閻魔法皇」「五道冥官」が勧請されているだけでは「臨終曼荼羅」と断定できず、「逆修のため曼荼羅を授けていること」(87頁)としています。
『地涌からの通信 別巻②歴史編』(178頁)では、「それでは、いつ日蓮正宗に「閻魔法皇」「五道冥官」を配したニセ本尊が入り込んできたのだろうか。あくまでこれは推測にすぎないが、桃山期、第十五世日昌上人の登座(一五九六年)から江戸中初期、第二十三世日啓上人退座(一六九二年)までの要法寺系九代の法主の間において、用いられるようになった可能性が大である。 (中略) 総本山大石寺第十五世日昌上人(一五九六年登座〜一六二二年寂)の時代は、京都本満寺の日重が盛んに、臨終曼荼羅を顕していた頃である。(現存する臨終曼荼羅で日重のものは最多で六体が確認されており、その六体は一六〇〇年から一六二二年の間に書かれている)。日重から直接ではないにしても、京都ではびこったであろう臨終曼荼羅の影響が、京都要法寺出身の〝法主〟により大石寺にもたらされたとするのは、格別無理な推論ではないだろう。」と主張しています。
490
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/20(日) 16:18:59
489の続きです。
この『地涌からの通信 別巻②歴史編』の推論はあたっているかもしれません。なぜなら、『妙光寺百年史』に第二十三世日啓師の導師御本尊の記載があるからです。
『妙光寺百年史』(平成8年、妙光寺、88頁)の「一 御本尊脇書等 (一)妙光寺所蔵 1御歴代御筆御本尊脇書」に、
「(11)二十三世 日啓上人 即身成仏之印文也 元禄四辛未年三月廿八日 授与之
(導師御本尊)(寄付主 常在寺古川廣禎師)」
とあって、元禄四(1691)年の導師御本尊を妙光寺が所蔵していることを開示しています。
また日寛上人も導師御本尊を書写しています。『創価学会員への折伏教本』(平成16年、日蓮正宗宗務院、315頁)によれば、「創価学会では「第二十六世日寛上人こそ正統な法主である」と讃えていますが、その日寛上人も導師御本尊を書写されているのですから、こうした創価学会の主張は、日寛上人にも背く邪義なのです」とあり、詳細は解かりませんが日寛上人が導師御本尊を書写されたことは確認できます。
『地涌からの通信 別巻②歴史編』(181頁:原文は平成4(1992)年2月2日の『地涌』第374号)では、「ニセ曼荼羅である導師本尊に認められている「五道冥官」は、日蓮大聖人の御書には一ヵ所も出てこない。 導師本尊に「五道冥官」が書き込まれていることを理由に、ニセ曼荼羅と断定する本紙『地涌』の史的に反論するために、日顕宗の教学関係者は「五道冥官」あるいは「冥官」の言葉を、日蓮大聖人の御聖訓の中に探そうとしている。 だが、その試みは徒労に終わるだけである。「五道冥官」「冥官」という言葉は、日蓮大聖人の御書の中にはない。あるのは「五道」という言葉だが、それも「六道」と併記されている事例のみである。「閻魔法皇」も「五道冥官」も一切、日蓮大聖人の御書中に見いだすことはできない。(中略)なお、日蓮大聖人の御書には「閻魔」「閻魔法王」あるいは「地獄」などの名称が登場するが、御本仏日蓮大聖人が「閻魔」「閻魔法王」あるいは「地獄」を記されるときは、信徒に対し、生きているときに信仰に励むことを諭されてのことである。」と主張しています。
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/11/374.html
これに対して『大白法 平成14年3月1日号』の「御法主日顕上人猊下御説法『聖愚問答抄』(専唱寺復興新築落慶法要の砌)で日蓮正宗の日顕管長は、「次の「閻魔法王」については深い意味があるのです。御先師の御本尊のなかにも御相承の上から閻魔法王をお書きになっており形もあるのであります。これをよく弁(わきま)えないで、創価学会が最近になって「閻魔法王と書いてあるのは諦法だ」などと莫迦なことを言い出しているようです。そんなことを言う輩には「ではおまえさん方の戴(たい)するところの初代会長の牧口常三郎さんも、第2代の戸田城聖さんも、みんな日蓮正宗の僧侶の導師によって、その御本尊にお経を唱えて成仏したのではないか。それを今になって諦法の曼荼羅とは、何を言っているのだ」と言ってやればよいのです。要するに、何もわけが判らないで、悪口だけ言っておればよいと思っている。しかし大聖人様はこの御書で「閻魔法王」ときちんとお書きになっているではありませんか」と説法しています。
491
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/20(日) 16:19:52
490の続きです。
『地涌からの通信 別巻②歴史編』(181頁)では、「「閻魔法皇」も「五道冥官」も一切、日蓮大聖人の御書中に見いだすことはできない」と大見得をきったのですが、日顕管長のおっしゃるとおり「閻魔法王」(=「閻魔法皇」とします)は創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集』(昭和47年67刷(初版昭和27年、創価学会)の498頁にも出ているのです。
しかし、この『聖愚問答抄』は御真蹟の存在しない録外御書ですから真偽未決御書と考えます。よってこの御書にあるからといって御真蹟完存御書少なくとも上代諸師写本現存の御書の中にはないので“大聖人様はこの御書で「閻魔法王」ときちんとお書きになっている”とは言いきれないでしょう。もし『聖愚問答抄』が後世のものなら「閻魔法王」とあっても蓮祖が御書にお書きになっているとは言えないからです。
また少なくとも「五道冥官」は日蓮大聖人の御書中に見いだすことはできないと思います。
山中講一郎氏によれば、日寛上人の導師御本尊は大石寺の石之坊に現存するそうです。(「日寛上人書写の導師本尊について」(2000年3月18日インターネット資料:
http://www.ginpa.com/column/20000328.html
)
『富士年表』(昭和56年、富士学林、279頁)によれば日寛師は亨保9(1724)年に大石寺塔中石之坊を創していますのでそのころの書写でしょうか。
山中講一郎氏は「日寛上人書写の導師本尊について」で、「導師本尊の書写は日寛上人の本意ではなかった」としていますが、これはちょっといただけないと思います。導師御本尊をニセ本尊とするなら、それを書写した法主は寛師であれ、達師であれ、顕師であれ、少なくともその件は誤りであるという立場にたつべきです。そうでないなら、石山の主張である「宗門草創のときには顕れなかった教義や、化儀が時代とともに体系化され、時の御法主上人によって宗祖大聖人の教えを正しく敷衍する形で、顕発・化導されることは、宗門の歴史のうえで、在って当然のことです。したがって、「大聖人・日興上人の時代にはなかった」「御書にも載っていない」との理由で、宗門伝統の教義や化儀を否定することは大きな誤りです」(『創価学会員への折伏教本』314頁)との立場であるといわれてもしかたがないでしょう。
何でもありの石山ですから、「大聖人・日興上人の時代にはなかった」「御書にも載っていない」導師御本尊が時代とともに体系化されたと主張するのでしょう。宗門草創のときには顕れなかった教義をどうすると宗祖大聖人の教えを正しく敷衍する形になるのか理解に苦しむところですが、なぜ現在においても導師御本尊が必要であるとするのか全く説明がないからです。伝統という名のもとに何等精査せずただ漫然と惰性の如く昔ながらのやり方を履修しているだけなのでしょうか?上述のとおり導師御本尊を精査したなら疑問をもつのはむしろ自然でしょう。“ (株)日蓮正宗”としては利益率の高いビジネスツールである導師御本尊を営業上捨てるわけにはいかない、という程度のいなおった説明のほうがむしろすっきりすると思っているのは私だけでしょうか。
492
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/20(日) 16:20:34
491の続きです。
『地涌からの通信 別巻②歴史編』(179頁:原文は平成4(1992)年2月1日の『地涌』第373号)で公開されている本満寺日重が元和7(1621)年に顕した「臨終曼荼羅」などの座配図をみますと、その相貌には疑問点があります。それは「八大龍玉」が配座していることです。
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/zuhan/373_1.html
そもそも「八大龍玉」について柳澤宏道師は「石山本尊の研究」(平成9年、はちす文庫、150頁)で、
「日目師書写本尊 本書二一番は勧請なし
日寛師書写本尊 本書二二・二三・二四番は「八大龍王」
日元師書写本尊 本書二五番は「八大龍王」
日量師書写本尊 本書二六番は「大龍王」
日英師書写本尊 本書二七番は「八大龍王」
日霑師書写本尊 本書二六番は「大龍王」
(中略)
日寛・日元・日英の各師は「八大龍王」と書写しているが、原本である板マンダラには「大龍王」とあるのに何ゆえ「八大龍王」と書写したのであろうか。
殊に二二番日寛師と、二五番日元師のものには、書写年月日の後に「龍集」と書かれているが、これもまた奇異である。ちなみに聖祖の本尊に「八大龍王」とあるのは建治元年十一月の身延曾存のものと、弘安五年五月十五日の現在所蔵不明の二幅のみであり、座配も極めて特殊である」
と指摘しています。ここでいう二二番は亨保3(1718)年の御形木御本尊で「創価学会草創期に日蓮正宗入信者に授与されたもの」(80頁)で、二三番は亨保5(1720)年の栃木 浄圓寺蔵御本尊の御形木御本尊で「創価学会が独自に会員に授与している御本尊」(82頁)です。これらはもちろん導師御本尊ではありません。また“弘安五年五月十五日の現在所蔵不明”の御本尊がどれを指すのか不明ですが、弘安四年五月十五日の「大日本國衛護の本尊」(山川智應『本門本尊論』昭和48年、浄妙全集刊行会、235頁)に「八大龍王」の座配がありますので、多分これのことでしょう。「大日本國衛護の本尊」は『御本尊集目録』に入集した御本尊ではなく、見るからに偽筆の疑いがある御本尊です。つまり確実な蓮祖御真筆御本尊には「八大龍玉」の座配のあるものはないのです。
「石山本尊の研究」では第四世日道師から第二十五世日宥師までの御本尊が入集していないので正確なことは解かりませんが、「八大龍王」とあるのは第二十六世日寛師から第五十一世の間ということになります。途中、第四十八世日量師のように「大龍王」とされている先師もいますが、そもそも興師の御本尊では「八大龍王」とある御本尊はありませんから、「大龍王」とあるほうが自然で、第五十二世日霑師以後は「大龍王」となっています。『地涌からの通信 別巻②歴史編』(180頁:原文は平成4(1992)年2月2日の『地涌』第374号)にて公開されている日顕師の導師御本尊でも「大龍王」となっています。
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/zuhan/374.html
493
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/20(日) 16:21:13
492の続きです。
これは何を意味するのでしょうか?
すでに記しましたが通常の御本尊と導師御本尊の違いは「八幡大菩薩」・「天照太神」とあるか、「閻魔法皇」・「五道冥官」とあるかの違いです。つまり同じ原本でも「八幡大菩薩」・「天照太神」と書写すれば通常の御本尊であり、「閻魔法皇」・「五道冥官」と書写すれば導師御本尊なのです。そして「八大龍王」とある御本尊は、「臨終曼荼羅」に特徴的なのです。恐らくは日寛師が書写した先師の御本尊に「八大龍王」が座配していたのでしょう。その先師は京都要法寺からきた法主で当時京都にて流行していた「臨終曼荼羅」の影響を受けた「八大龍王」とある御本尊を書写していたという考えが成り立ちます。第二十三世日啓師の導師御本尊があることから、その先師は京都要法寺からきた法主というのは確実でしょう。
日霑師以後は「大龍王」となるのも興味深いです。以前、元治2(1865)年の大火で大石寺が焼亡し、戒壇本尊も焼失してしまったという考えを披露しました。「露上御自伝」によれば、「二月廿八日ノ夜半大坊ノ下男部屋ヨリ出火シ構内一宇モ残ラズ焼亡スト 是ヲ聴キ大愕非動シ遽ニ東行ヲ止メ直チニ帰山ヲ計ル」(『地湧からの通信 別巻②歴史編』27頁)とあり大惨事であったようです。“構内一宇も残らず焼亡す”とのことですから、戒壇本尊も焼失してしまった可能性が高く日霑師の時代に戒壇本尊が再建され、以後は通常の御本尊も導師御本尊も再建された戒壇本尊が書写の元になっていると考えると「大龍王」となっている件のツジツマは合います。
by 彰往考来
494
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/20(日) 16:32:01
>491 誤記訂正
誤:2000年3月18日インターネット資料
正:2000年3月28日インターネット資料
495
:
犀角独歩
:2005/11/20(日) 19:17:53
> 488…> 一機一縁、一期一会…身分差別の位階
これはまるで違うでしょう。
わたしは漫荼羅は免許のようなものではないかと言ったのは、つまり、いまの運転免許証に、それぞれ個人の名前が書いてあったからと言って、それが差別にならないようなものです。
日蓮が本弟子6人を定めて、他ので師と区別したところで身分差別にもならないでしょう。それと同じことです。
496
:
犀角独歩
:2005/11/20(日) 19:19:23
【495の訂正】
誤)他ので師
正)他の弟子
497
:
犀角独歩
:2005/11/20(日) 19:24:08
彰往考来さん、詳細のご教示有り難うございました。
たしかパンナコッタさんでしたか、骨壺に入れる漫荼羅があるというご投稿がありましたね。ちょっと、混乱しているのですが、この漫荼羅は、なんと呼ばれているのでしたっけ?
ところで、彫刻本尊は「八大龍王」で確定でしょうか?
498
:
パンナコッタ
:2005/11/20(日) 23:24:07
独歩さん、
それは自分ではないですよ。
ただ、未来本尊のことでしょうか。
499
:
ラスカル
:2005/11/20(日) 23:35:22
■舌足らずな書き込みでごめんなさい。「で〔〕あからさまに」⇒「で〔下賜されたのに〕あからさまに」と、在世なら派閥抗争にならないかもしれませんが、後の世を見ると差別社会に浸かりますよね。士農工商も年貢の取り立て以外はそんなのでも無かったとか聞きましたけど。■私の家の御本尊を見てみました。亨保五年、八大龍王、八幡大神、天照太神等になってます。それで字が崩し字過ぎて一文字だけ判らない字があるんです。2段目向かって右・大□天王、第六天魔王、大日天王と書いてあるのですが竃or竜みたいで解らないのですけど、何方かわかる方いるでしょうか。
500
:
犀角独歩
:2005/11/20(日) 23:35:45
パンナコッタさん、有り難うございます。
仰るとおりるそれでです。しかし、記憶違いでしたか、失礼しました。
501
:
犀角独歩
:2005/11/20(日) 23:42:49
> 後の世を見ると差別社会に浸かります
これは、言えますね。
> 大□天王
誰の本尊かがわかれば、もう少し特定しやすいでしょうが、位置からすると「大梵天玉」ではないでしょうか。
502
:
パンナコッタ
:2005/11/21(月) 00:23:04
ラスカルさん、
享保五年なら寛師の物だと思うのですが、”大梵天王”の崩し字だと思いますが。
503
:
乾闥婆
:2005/11/21(月) 02:55:40
>>484-485
犀角独歩さん。
>本尊抄の述作は、いうまでもなく、漫荼羅図示のはじめと密接に関わっていると考えられます。この日蓮漫荼羅のテーマは、大書された南無「妙法蓮華經」の五字であることはいうまでもありません。この題目を書いて、日蓮は授与するわけです。では、授与された側はそれをどうするのか。受け持(たも)つのではないでしょうか。
>つまり、日蓮自ら漫荼羅と認めた五字です。その五字に釈尊因行果徳の二法が具わっている、だから、この漫荼羅を受け持つ人は、その功徳を自然(じねん)に譲与されるというのが、本尊抄を通じて日蓮が言おうとしていることであると、わたしは読みます。
>その妙法蓮華經の五字は、同じ文字でも日蓮の文字でなければ、日蓮の己心も、信仰も、功徳も収まっていない、日蓮の記した妙法蓮華經(漫荼羅)であるからこそ、自然譲与となるという点が、見落とされていないのかと、わたしは考えています。
受持とは蓮祖図顕の曼荼羅受持ですか。もう一度よく勧心本尊抄を読んでみます。しかしそうなるとやはり自身の死後のことを蓮祖はどう考えていたのでしょうか。曼荼羅を自身が図顕できなくなった後、後世の人たちは「此の五字を受持す」ることはできなくなってしまうとは考えなかったのでしょうか。
504
:
乾闥婆
:2005/11/21(月) 02:56:15
>>499
ラスカルさん。
それは現在の創価学会の曼荼羅ですか。それなら私のものと同じです。皆さんの指摘どおり左側が帝釈天王で右側が大梵天王だと思います。
505
:
犀角独歩
:2005/11/21(月) 03:34:41
乾闥婆さん
> 死後のことを蓮祖はどう考えていたのでしょうか
そのために本弟子6人を定めていったのではないでしょうか。
もっとも、漫荼羅図示の在り方を伝えたか?という点では、疑問が残りますが。
506
:
ラスカル
:2005/11/21(月) 06:44:45
犀角独歩さん、パンナコッタさん、乾闥婆さんありがとうございます。考えてみれば「大梵天王」しかありませんよね。崩し字過ぎて判りませんでした。聞いて気が楽になりました。後はいろいろな曼陀羅を見に行きたいと思いました。
507
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/21(月) 07:18:59
犀角独歩さん
>497 彫刻本尊は「八大龍王」で確定でしょうか?
過去のものは解りませんが、熊田氏の『日蓮上人』で公開された戒壇本尊写真のものは、「大龍玉」です。
508
:
れん
:2005/11/21(月) 08:07:13
横レス失礼します。
完則図の「富士大石寺戒壇之本尊」では「大龍王」で、當家諸門流繼図之事における日憲師の「大石寺板本尊之事」の記述では大龍玉は在座していないようです。
日憲師の記述で気になるのは、日憲師が石山参詣の時観た「大石寺板本尊」に章安が在座していることで、蓮祖図顕曼陀羅で章安が在座しているのは、現存分では弘安元年八月日の二幅、曽存では千葉県法華経寺の建治元年十二月日のもの(日等師模本)の以上三幅で、いずれも龍樹・天親・天台・章安・妙楽・伝教の六師勧請で特徴的です。
これは私の憶測ですが日憲師が拝観した「大石寺板本尊」に章安が勧請されていることから、その日憲師拝観の「大石寺板本尊」の原本に関しては六師勧請の曼陀羅だった可能性があると思いました。
509
:
犀角独歩
:2005/11/21(月) 18:16:37
彰往考来さん
れんさん
有り難うございます。
一つお考えをお聞かせ願いたいのですが、日憲『當家諸門流繼図之事』で「天八」と天照大神と八幡大菩薩を一括りにしておりますが、これは実際のところどうなのでしょうか。万年救護本尊のように一つになっているのか、別勧請になっているのか、どちらであるとお考えになりますか。また、その根拠も併せてご教示いただければ有り難く存じます。
510
:
犀角独歩
:2005/11/21(月) 18:22:19
ラスカルさん
> 後はいろいろな曼陀羅を見に行きたい
現物を拝観するのであれば、御虫払、御風通といった御開帳のある法要。現物までといかないまでも取り敢えず写真でというのであれば、パンナコッタさんがご紹介してくださった海外サイト。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html
写真集でも、ということであれば、立正大学(五反田)情報センターは身分証を提示すれば、入館できます。
『御本尊集』、『御本尊集目録』(立正安国会)、『日蓮聖人真蹟の世界』(雄山閣)を閲覧すれば見られます。
511
:
れん
:2005/11/21(月) 20:50:13
犀角独歩さん
>509
日憲師記述の中の“天八”ですが、當家諸門流繼圖之事の原本を見ないと正確な読み・文意は掴めませんが、「十羅、天八、佛…」の天八は「天、八、」とすべきところ、活字におこして編集の時に「天八」と括られた可能性もあると思うので、日憲師拝観の板本尊の天照・八幡が万年救護本尊の如き表記になっていた可能性はやや少ないと思います。少なくとも、日憲師の記述によるかぎり、板本尊の最上段の勧請が「釈迦多宝本化ノ四菩薩」と弘安式ですので、日憲師の拝観した板本尊の原本が蓮師御真蹟だったならば、天照・八幡は万年救護本尊の如く一行書きではなく通途の如き表記であったろうと考えております。
512
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/22(火) 06:17:58
>508,509 れんさん、犀角独歩さん
れんさんのご指摘である日憲師の記述による戒壇本尊の配座で章安が在座しているという特徴ですが、ご存知とは思いますが章安の在座は興師書写御本尊では一般的です。
『日興上人御本尊集』中の相貌が明らかな154幅中で六師勧請(天台、伝教、妙楽、龍樹、章安、天親が在座する)であるかどうかを分析すると
四師以下(章安を欠く)・・・・ 28幅
六師勧請 ・・・・ 124幅
五師勧請(章安を欠く)・・・・ 1幅
五師勧請(妙楽を欠く)・・・・ 1幅
合計 154幅
となっていて、実に80%(5幅に1幅)は六師勧請なのです。
つまり日興上人の御本尊では六師勧請が一般的なのです。しかしながら、れんさんが御指摘のとおり『御本尊集』の蓮祖御本尊で章安が現れるのは弘安元年八月の第53番本尊と第54番本尊だけなのです。六師勧請の御本尊は章安とともに天親菩薩の在座が特徴です。
六師勧請の観点から日憲師の記述をみてみましょう。
蓮祖の第53番本尊と第54番本尊では向って左に天台、章安、妙楽、伝教の四師が、向って右に龍樹、天親の二師が在座しています。
それに対して興師の御本尊では、六師勧請の場合はすべて、向って左に天台、章安、伝教の三師が在座していて、向って右に妙楽、龍樹、天親の三師が在座している場合と妙楽が左(四師)に龍樹、天親の二師が右に在座する場合の2種類に分類されます。
日憲師の記述では天、章、伝とあり、向って左の在座のようです。そうすると右に妙楽、龍樹、天親が在座しているはずなのですが日憲師の記述では見あたりません。日憲師の書き落としの可能性があると考えます。向って左に天台、章安、伝教の三師だけが在座していて妙楽、龍樹、天親の三師を欠く御本尊は蓮祖、興師ともありません。
日憲師の記述では、第六天魔王と阿修羅王を欠きますがこれも書き落としではないかと推測します。六師勧請の場合は蓮祖、興師とも第六天魔王を欠く御本尊が存在しないからです。但し、日憲師の記述で “阿闍”とあるのがあるいは阿修羅王と阿闍世王を現しているとも考えられます。日憲師の記述では対になった諸尊の場合、大日月、天八というふうに続けて書かれているからです。天照太神と八幡大菩薩の場合は、蓮祖も第16番本尊(万年救護御本尊)のように続けて書かれる場合がありますが、このような書き方は建治元年12月の第30番本尊をもって最後となり、以後は別々に書かれています。興師の御本尊も別々です。日憲師の記述から弘安期の御本尊の特徴を有していることは確実ですから、天照太神と八幡大菩薩は日憲師の記述された御本尊でも別々に在座していたと考えます。
日憲師の記述で、もうひとつの特徴は提婆達多の存在です。蓮祖御本尊の第53番本尊と第54番本尊は、提婆達多を欠きます。蓮祖御本尊のうち弘安期の御本尊では提婆達多は弘安二年二月以後に現れるからです。従って六師勧請の御本尊で提婆達多の在座は興師御本尊の特徴なのです。六師勧請の興師御本尊では提婆達多は在座している場合としていない場合があります。
また日憲師の記述では、日蓮御判とあります。これも興師御本尊にある書き方ですが、これは日憲師が“御判”と書くことにより“花押”を表現したと考えるべきでしょう。
以上のことから、私は日憲師が拝した大石寺の弘安二年十月十二日とある板御本尊の原本は興師御本尊(紙幅)であったと考えています。但し疑問もあります。日憲師の記述では大龍王を欠きますが、六師勧請の興師御本尊の場合、大龍王を欠くときは必ず提婆達多も欠いています。日憲師の記述では大龍王を欠くのですが、提婆達多が在座していることです。六師勧請ではない興師御本尊の場合に大龍王を欠き提婆達多が在座する例はあるので、あるいはこのような相貌の六師勧請の興師御本尊があったのかもしれません。
by 彰往考来
513
:
犀角独歩
:2005/11/22(火) 11:41:47
れんさん、有り難うございます。
彰往考来さん、一つ質問させてください。
日憲が見た「戒壇本尊」の原本が日興書写本尊を基にしたとすると、当時、石山は、該当する原本を所持していたということでしょうか。また、該当する日興本尊は、ある程度、特定できるものでしょうか。
514
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/23(水) 12:26:06
>512
とんでもない誤記をしていました。お詫び申し上げるとともに謹んで訂正いたします。
誤:実に80%(5幅に1幅)は六師勧請
正:実に80%(5幅に4幅)は六師勧請
彰往考来 拝
PS:513の犀角独歩さんのご質問には、追って回答したします。
515
:
ラスカル
:2005/11/23(水) 18:54:48
犀角独歩さん、ありがとうございます。改めて皆さんの寄せて下さった知識・情報を合わせて日蓮仏法とは何なのか考えてみたいと思います。
516
:
犀角独歩
:2005/11/23(水) 19:39:04
ラスカルさん
何かご参考になったところがあれば幸いです。
先は長いです。また、日蓮の外には、仏法の天地が広がっています。
いつか、その扉を開けてみてください。
517
:
れん
:2005/12/13(火) 19:58:53
彰徃考来さん
>512
彰徃考来さんの512のご投稿を拝して、日憲師が見た大石寺の“戒壇本尊”の原本は興師筆曼陀羅であった可能性はあると私も思いました。この場合の原本は、仙台佛眼寺の飛び曼陀羅の如く、興師筆曼陀羅(の模写?)に手を加えて蓮師の花押を書き入れ、それに憲師の記述の如き脇書を加えた…ものとなりましょうか。
要法寺の碩学であった富谷日震師は、たしか、その著「日興上人」において、興師代筆の蓮師曼陀羅といわれるものが静岡県感応寺に所蔵されていると記されていましたが、それが身延曽存の伝四条金吾代筆の曼陀羅の如きものか、仙台佛眼寺の飛び曼陀羅の程度のものか、現存するかどうかも存じませんが、一応、日憲師が見た石山彫刻本尊の成立を考える上で、石山ではありませんが、他山にもこのような伝来品の記録もあることも考え合わせて、彰徃考来さんの512においてのご見解に、その可能性ありと私も思いました。
>513 石山蔵の興師曼陀羅は、日興上人御本尊集や堀日亨師が雪山書房版富士宗学要集史料類聚別巻において公開された数幅の写真以外は現在でも未公開ですから、残念ながら現時点において特定は不可能ではないかと思います。しかしながら彰徃考来さんは何らかの史料をお持ちかもしれませんので、後々のご教示をお待ち申し上げるものです。
518
:
れん
:2006/01/08(日) 23:00:02
初期興門の文献『本門心底抄』に大聖云く…又云くとして、以下の文があります。
「妙とは言語道断・心行所滅の妙空・妙心・妙智なり、法とは十界十如・因果不二の法仮・法色・法境なり、蓮華とは当体・辟+言喩の二義なり、経とは聖教の都名なり、当に知るべし・妙は空・法は仮なる当体を中道実相の蓮華経と証し、十界三諦の顕本を広宣流布の曼陀羅と号するなり」
この文章の原型がどの位遡れるか、文献学的には不明ですか、文中の「十界三諦の顕本」については、同じく初期興門文献の『尊師実録』の異本にあるという御示聞書に
「本門の三法妙とは、仏法妙を以て能開とす、衆生心法を所開とす、故に迹門の三法妙を即顕本すれば成レ本、顕本とは三身無始の顕本是也、三身とは我等が己身の仏性顕本なり、惣じて我等己身の十界久遠の顕本是也、一観心の三法妙は己心の妙を能開とす、無始久遠の釈尊と無始の衆生を所開と為る間、十界倶に久遠と云ふ也、此に知ぬ寿量品の教主釈尊の顕本、即十界久遠の顕本也」とあるのが、一応同時代成立の文献の中で些か参考になりましょうか。
上記の文献からみますと、本仏寿量品教主釈尊の「妙は空・法は仮なる当体を中道実相の蓮華経と証し、十界三諦の顕本」=広宣流布の曼陀羅(この“広宣流布の曼陀羅”との表現は後の七箇相承の流通分の大曼陀羅という表現に一脈通じるものがあり興味深いです)とも読め、初期興門における、本尊である本門(寿量品)教主釈尊と蓮師が図顕した曼陀羅との関係の一端の法義を表しているかとも言えますでしょうか。
まぁ、正月惚けがてら、少々つぶやいてみました。(;^_^A
519
:
犀角独歩
:2006/03/18(土) 21:31:52
顕正居士さん
『日蓮聖人と真言密教』に、密教考証に関し、75に整理されたご教示有り難うございました。
同74に関して、こちらのほうで、ややご賢察を賜りたく存じます。
日蓮が言う本尊を考えるとき、これは当然、本門本尊・本門戒壇・本門題目(妙法蓮華経の五字)という三大法門となろうかと存じます。
本尊・題目に関しては『本尊抄』に論じられるわけですが、題目に関しては、ここにおいて妙法蓮華経は一念三千珠を裏んだ上行所伝という点が言われます。一方、本尊は、爾前二種の科を破り法華本門から本尊を立て、四菩薩との関連から仏像を論じています。
この道筋から言うと、この題目と本尊は、元来、別立てのものであり、故に本門の本尊と題目をそれぞれに陳べたと考えることはできないのでしょうか。具体的には本尊として一尊四士、題目として漫荼羅という違いです。
わたしは個人的には、漫荼羅と仏像を平面と立体の差異と見る日順説は疑問が残ります。また、もし平面と見るのであれば、一尊四示をもって宛てるより、一塔両尊四士でなければ、相応しないと思えるからです。しかし、一尊四士という仏像様式は『本尊抄』から類推できますが、一塔両尊四士という仏像奉安の発想は日蓮の遺文からは窺えず、一尊四士に留まるかと思えます。この様から考えるとき、日蓮自身には本門本尊を一尊四士、本門題目を漫荼羅とし、別のものと考えていたと類推するのです。これは、もちろん、あくまで、派祖の展開ではなく、開祖日蓮の段階での考えと言うことです。
一方、五百塵点成道釈尊を本尊とすると考えたいところなのですが、所謂四十五字法体段と称される記述の問題が残ります。また、関連するのでしょうか、三身所顕無始古仏のこと、この二点から考えても、図示の漫荼羅、もしくは一尊四士本尊というのは、その論理的構築を崩さないと考えられますか。
以上、二点、ご教示賜れば有り難く存じます。
520
:
顕正居士
:2006/03/19(日) 00:23:14
其本尊爲體本師娑婆上寶塔居空。塔中妙法蓮華經左右。釋迦牟尼佛。多寶佛。釋尊脇士
上行等四菩薩。文殊彌勒等四菩薩眷屬居末座。迹化他方大小諸菩薩。萬民處大地如見
雲閣月卿。十方諸佛處大地上。表迹佛迹土故也。如是本尊在世五十餘年無之。八年之間
但限八品。正像二千年之間。小乘釋尊迦葉阿難爲脇士。權大乘竝涅槃法華經迹門等釋尊
以文殊普賢等爲脇士。此等佛造畫正像。未有壽量佛。來入末法始此佛像可令出現歟。
「此佛像」は明らかに十界曼荼羅を述べています。「小乘釋尊」以下は、法華曼荼羅を画き、
一部を仏像として造っても、本化の四菩薩は画かれず造られなかったことをいうのであって、
一尊四士が「此佛像」ではない。では文字の十界曼荼羅が直ちに「此佛像」かというと、そう
ではなく、画像、木像として画き、造るという意味で、つまり文字の曼荼羅は設計図である。
そのような大造像が幾回もできるはずがないから、本門戒壇堂のことと日順は解釈したので、
これは原殿御返事の趣意に一致すると考えます。
本尊は「境」であり、題目は「智」であります。法華経の題目を本尊とせよというのは、もっとも
簡略するなら塔中の妙法蓮華經になります。ただし法華曼荼羅は前代からあるのですから、
本化の四菩薩を造るべきではある。けれども一尊四士には塔中の妙法蓮華經がないから、
一塔両尊四士のほうが本尊抄の文、又それを具体に表現した妙法曼荼羅の趣旨にかなうと
おもいます。
521
:
顕正居士
:2006/03/19(日) 02:53:05
「本尊」という語は密教に由来し、或る修法を行ずる際、或る尊を本尊とする。例えば求聞持法
には虚空蔵を本尊とする。修法は真言(マントラ、梵語の呪文)を主に唱える。「三大秘法」とは
日蓮密教の修法である。本尊は十界皆成の曼荼羅であり、真言は妙法五字である。
本尊とは境智冥合、入我我入の対境であるが、流用し根本尊崇の対象、すなわち教主の意味
に用いることがある。仏教の宗であれば、教の本尊は釈尊である。ただし、天台宗においては
久成の釈尊である、始成の釈尊ではない。久成の釈尊とは毘盧遮那仏あるいは無量寿仏の
ことである。宗の本尊は天台大師の本地である。最澄の表現では、
「毘盧遮那如来ニ帰命シタテマツル、亦釈迦ト名ク、像法転ズル時ニハ衆生ヲ利益シ、
薬師瑠璃光仏ト称号ス、亦西方ニ住シ有情ヲ饒益シタマフ」(根本中堂本尊事)
「法界ニ周遍シタフ大日如来・妙法教主、亦釈迦ト名ク、大悲余リ有リ、亦西方安楽世界ニ住シ、
阿弥陀ト名ク、像法転ズル時ニハ大方便ヲ以テ薬師瑠璃光仏ト称号ス、三世利益同体ノ慈悲ナリ」
(三仏礼誦文)
参考
「天台大師も本地薬王菩薩なり、能説に約する時は釈迦なり衆生の重病を消除する方は薬王
薬師如来なり又利物の方にて薬王と云う自悟の方にては薬師と云う、此の薬王薬師出世の時
は天台大師なり薬王も滅後に弘通し薬師如来も像法暫時の利益有情なり、時を以て身体を顕し
名を以て義を顕す事を仏顕し給うなり」(御義口伝)
522
:
犀角独歩
:2006/03/19(日) 12:13:03
顕正居士さん
520、521にご教示、有り難うございました。
「漫荼羅設計図説」と仮に名付けさせていただくこととしますが、こうなりますと、現存130幅に及ぶ、それぞれの弟子に授与した漫荼羅は、みな設計図であったということでしょうか。
また、仮にこのような壮大な立体像群を造ったとき、仏菩薩諸尊の形貌は仏師が巧みを凝らせばよいと思いますが、塔中の妙法蓮華經ばかりは、日蓮筆でなければ画竜点睛を欠く思いがあります。この文字は漫荼羅となりましょうか。
以前、この文「塔中妙法蓮華經」に就き、宝塔内の妙法蓮華經は法華経典ではないかと、わたしが提案したところ、問答名人さんは妙法五字であると意見が分かれた経緯があります。法華経典元来の全体の趣旨には経典崇拝(聖典崇拝)という文化背景をわたしは感じる故にこのような提案をなしたのですが、しかし、『本尊抄』の趣旨からすれば、日蓮においては上行初伝の妙法蓮華經五字が趣意があるわけで、そのように見なさないと末法の始め500年に始まる先代に異なる本尊義とならないことになります。
その意味で問答さんのお考えは至当であることになります。また、今回は、日順説を宜しくご説明くださったご教示に接し、説得力は感じるところですが、もし本門戒壇堂仏像群の設計図であれば、一幅あれば事足りること、また、首題は乎やり、日蓮筆であるべきことと、わたしには思えながら、複数の漫荼羅が現存し、かつ、妙法五字のみの染筆がのこらないという点は、どのようなご説明となるのか、重ねてご教示を頂戴できれば有り難く存じます。
523
:
顕正居士
:2006/03/19(日) 19:44:24
「本尊」は一般的にはむしろ修法者の当身の本尊のことだから、携帯可能な規模であって、
日蓮授与の曼荼羅はふつうの意味の本尊です。ただし日蓮のいう「事」とは「事造」などの
意味ではなく、具象の意味であろう。また三大秘法は個人の即身成仏だけでなく鎮護国家を
目指すのだから、東大寺大仏とか東寺講堂の造営に匹敵するようなビジョンがあるべきで、
「來入末法始此佛像可令出現歟」はそういう趣意におもえる。いわゆる「事檀」です。
日蓮の宗教はいわゆる「対抗宗教改革」で目標は王朝仏教への復古であるが、手段として
改革派と同様の形態を採ったのだとおもう。だから伽藍仏教、祈祷仏教への志向は相当に
強かったのではないだろうか。維新により「王朝」のほうは復古したので、「事檀」思想が
蘇った。しかしもう王朝仏教への復古というようなビジョンは全然なくなっていました。
なお首題は宝塔を文字で表現したのだから、具体に二仏並座の宝塔を画く、あるいは造る
のが自然で、題目塔はどうも変に感じます。
524
:
犀角独歩
:2006/03/19(日) 23:45:55
顕正居士さん
重ねてご教示有り難うございます。
> 首題は宝塔を文字で表現
録外ではありますが『阿仏房御書』に「宝塔又南無妙法蓮華経也。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此五大は題目の五字也。然者阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房。此より外の才覚無益なり。聞信戒定進捨慙の七宝を以てかざりたる宝塔」とありますので、ここに照らせば、仰るところは了諾はできます。
たしかに妙法蓮華経が宝塔であれば、一念三千の珠を裏むという点は頷けます。
真跡遺文を中心に思考する習慣がついているために、この点は考慮しませんでした。
再考してみることといたします。
もう一点。これは質問というわけではないのですが、日興は「奉懸本門寺」と複数の御筆漫荼羅に添え書きをしました。この日興の意図は仏本尊というより、既に曼陀羅を以て本尊としていると映じます。ところが、ご指摘のとおり、伝・日順文献では仏像造立の図であるとするわけです。重須談所という同一の場で、この相違は師弟において齟齬を来している如くで不思議に観じます。
525
:
顕正居士
:2006/03/20(月) 01:15:04
本門寺には本堂、祖師堂、垂迹堂、講堂、戒壇堂、その他多数の堂宇があるでしょうから、
なんら矛盾はないとおもいます。羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)は東寺講堂が最大規模らしい。
安易に建立できるものではない、一尊四士だけでは「壽量佛」の十分な姿ではないという
理由から、時期が来るまでは紙幅の曼荼羅を本尊とする、これは日興、日順、日尊共通の
思想に見えます。ただし時期を待つうちに、富士の方では色相荘厳の像は無作三身の仏
に相応しくないという思想が生じた。しかし紙幅の曼荼羅は個人に授与されたもので寺院
の本尊として考案されてはいない。それで寺院には板曼荼羅を造立するようになった。
尊門では時期が来たら造像する思想が失われなかった。だからこれを調整する必要が
生じて、日寛は色相荘厳像は大石寺の教義に合わないと決着した。一尊四士のかわりに
板曼荼羅を造立する根拠、および失われた目標の代替として提出したのが戒壇板本尊で
ある。おおよそそういう経緯でしょう。
526
:
れん
:2006/03/20(月) 07:31:21
横レス失礼いたします。
顕正居士さん
525の御見解に賛同いたします。
日尊は京都要法寺蔵の元亨四年正月八日付けの日興漫荼羅に「奥州新田蓮蔵阿闍梨弟子日尊」とあり、日尊は日目の弟子であり、日目も、日道等の他の日目の弟子も、当時の見解は本門寺の戒壇には日蓮大漫荼羅図に則った仏像安置であったろうと愚考します。
日代も葦名阿闍梨御房御返事(正本・西山本門寺蔵)に日尊の弟子日尹に「但御弘通之趣、如今者所存同申也」と述べ、次下に「中仏像造立事本門寺建立時也、未無勅裁、国主御帰依之時三ケ大事一度可令成就給之由御本意也、御本尊図為其也」とありますので、日尊・日代・日順の文献に見える広布時仏像造立・戒壇安置説は当時の初期興門(富士門)共通の見解であり、門祖日興自身の見解でもあったろうと愚考します。
しかして、顕正居士さんが525にて御指摘の通りの後世にこの思想が石山等において失われ、石山においては特に彫刻本尊の造立・登場と相成ったと、私も思います。
527
:
犀角独歩
:2006/03/20(月) 07:50:11
顕正居士さん
重ねてご教示、まことに有り難うございます。
元来、漫荼羅が仏本尊群の設計図であったけれど、その原意が損なわれたのちに板漫荼羅に移行したというご賢察は説得性を感じました。
528
:
れん
:2006/03/20(月) 09:36:37
またまた横レス失礼します。
日蓮図顕の大漫荼羅の用途について、顕正居士さんが525にて示された御賢察ご指摘の点とともに、特に個人授与の大漫荼羅については、日女御前御返事に
「宝塔品の御時は多宝如来・釈迦如来・十方の諸仏、一切の菩薩あつまらせ給ぬ。此宝塔品はいづれのところにか只今ましますらんとかんがへ候へば、日女御前の御胸の間、八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候」(平成新修745ページ)
とあり、この記述により、釈尊の因行果徳の二法が具足した妙法五字の受持により、“宝塔品”が「八葉の心蓮華の内におはします」を見仏する(観心?)ための用途もあったのではないかとも愚考しています。
日蓮真蹟不現存ゆえの参考資料ながら日興・日源の写本が現存する本尊問答抄に「仏は所生法華経は能生なり」と法勝仏劣を述べているようですが、次下に「仏は身なり法華経は神(なましい)なり」と後世の門下教学で云々されるところの人法一箇の如き思想、原意的には生仏一如・法仏一箇の如き思想が見えますが、日女御前御返事の方が教学的に論述されていない分素朴で、案外大漫荼羅の用途の一側面を表しているのではないかと考えました。
話が変わりますが、今月17日に小松先生の日蓮聖人御遺文講義に初めて参加させて戴きました。参加を御許可いただいた福神研究所様、ご高配いただいた犀角独歩さん、そして、宗学の範囲ばかりでなく、仏典に対する幅広く深いご素養をもとに御賢察をご教示下さる一字三礼さんに重ねて深く感謝申し上げますものです。
529
:
れん
:2006/03/20(月) 09:44:19
528の訂正
誤)原意的には生仏一如・法仏一箇の如き思想
正)原意的には法仏一如・一箇の如き思想
530
:
犀角独歩
:2006/03/20(月) 11:03:38
日蓮の漫荼羅図示というのは、当初、わたしは今で言う揮毫のような手軽さで考えていたのですが、『教化情報』に載った桐谷征一師の説明、また、中尾堯師の話を伺って、この点を改めました。
図示を希望する弟子檀那はまず紙を供養する。紙は楮を選び、その紙の表面を木槌で叩いて平滑にし図示した。継いでもあるわけですから、このようなことを職があったのか、また、弟子にやらせたのか、それはわかりませんが、図示するまでにかなり工程があったことになります。
また、授与された漫荼羅は折り畳んで懐中に入れて肌身離さず持っていた、板に張られていた、風に靡いて劣化したあとが確認されるので幟のように工夫されていたといいます。折り畳めば御守のようですし、板に張れば本尊のようですし、道場の所表ともなります。幟とすれば標識的な役割を持たせたことになります。ただ、このような活用は、日蓮が意図したことなのかという点では多少ならずとも疑問が残ります。
日蓮自身が、では、曼荼羅を弟子に授与したのか、また、その曼荼羅をどのようなものであると考えていたのか、なかなか、その点は、授与されたほうもわからなかったのだというのが中尾師の解説でした。
日蓮は伊東流罪の折、自ら刻んだのであろう一体仏を終生持仏として、それを本尊として寓居に安置していたことが窺われ、一方、自分用の漫荼羅を所持していた事績は窺えないわけです。それにもかかわらず、弟子檀那は漫荼羅を本尊として拝んだか。わたしには、どうもあり得ないことと思えます。
四菩薩を副えることは重須方では、元来、日興の義としており、これを盗んだのが、日澄でしかし、のちに帰伏したという筋でした。また、冨木常忍を対告衆とする『四菩薩造立抄』は忘れがたい文献ですが、ここからは漫荼羅=仏本尊設計図と読めるかどうか。何よりこの書が真筆であるかどうか未決な訳ですが、四菩薩は『本尊抄』同様、重要な意義を持っていることは窺えます。
弘安期に至るまで、その消息分には仏本尊(釈迦像)の造立を伝える記事が見られるわけですが、では、戒壇の仏本尊と、それを分けるところは、これは、やはり、四菩薩を副えるかどうかという点にあったように思えます。
佐渡の地の漁農に従事する人々は、紙すら見たことがなかったのではないのかというのは、中尾師の指摘でした。渡辺照宏師の記述ですが、未開地に行って、薬を飲んで、添付してあった効能書きを捨てたところ、その人々がそれを拾い、張って一所懸命に拝んだ…、作り話のようにも思えますが、しかし、日蓮漫荼羅にも同様な側面はあったのではないかと思えます。
三大法門ということを改めて考えてみると、本門題目(妙法蓮華経)の五字は上行所伝として、日蓮はこの宣布を指名としたことが窺われます。
一方、本門本尊と戒壇は、前者はその義を日蓮は述べ、後者は密事とし、その造立と建造は王法に事寄せたのではないのかと思えます。
523に顕正居士さんが「伽藍仏教、祈祷仏教への志向は相当に強かったのではないだろうか」というご指摘は、わたしはこの度、草案『取要抄』を読み、その思いを強くしました。
漫荼羅の授与は日蓮が正当な弟子檀那として認める允可の意義を含むと、わたしは考えます。もし、仮にそれが設計図であるとすれば、未来、国は造立すべき戒壇の本堂の本尊を、そこに内秘したとみるのは、なかなか、胸がすく、日蓮の情熱も感じるところでした。
531
:
今川元真
:2006/03/20(月) 12:22:45
借金大国・仏教世界・リクルート等どれも一大事なハンドルネーム変えの今川元真です。●《天台密教→本門》 漫陀羅≒教義 日蓮聖人在世の鎌倉時代なので、摂受折伏する本尊漫陀羅(依法不依人ならば漫陀羅で説教化導すべきでは?) 皆成仏道で依法不依人だから一人ひとりの修行道具として下賜したのでは無いでしょうか。 日興伝持の漫陀羅の盗難は噂の説? ●法華経の伝法のあらましを書き表わした漫陀羅は、御書・遺文の代替であり教法本尊≒教主シャクソンを証す。其して、修行道具。御書・遺文の後先は前後が融通が効いても漫陀羅の十界勧請は動かない世界観。 教法本尊である題目 経の本尊、本門のシャクソンを脇士と為す一閻浮提第一の本尊(本尊問答、観心本尊) 色心不二、依正不二などから見ても国家の組織システムのような戒壇堂はあった方が良いかもしれませんが、説教化導の中心に漫陀羅を安置する事で良しとしたのだと思います。戒壇堂は広宣流布の暁。道場で戒壇が漫陀羅で、本門の本尊・戒壇・題目が日蓮仏法の柱だと考えたいです。
532
:
文殊
:2006/03/22(水) 23:13:39
宗祖の真言宗批判は湛然─知礼─柔義の対破思想の批判的側面が考えられます。
「真言諸宗異目」(中山法華経寺真筆)では伝教大師の『法華秀句』を引用し
つつ法華経の優位性を強調する。「四信五品抄」(中山法華経寺真筆)に見る
台密対破。日郷門流に相伝される「不動愛染感見記」の宗教体験の記号言語化は
区別する必要があります。
533
:
文殊
:2006/03/22(水) 23:39:53
「四条金吾殿御返事」(日興写本北山本門寺)には「此等の梵音声一切経と成つて
一切衆生を利益す、其の中に法華経は釈迦如来の書き顕して此の御声を文字と成し
給う仏の御心はこの文字に備われり」「釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は
一つなり、然れば法華経の文字を拝見させ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたり
と・おぼしめすべし」と東密の絵曼荼羅思想に対抗して文字曼荼羅思想が窺えます。
534
:
顕正居士
:2006/03/23(木) 00:19:22
ところで本尊抄を大きなフォントで縦書きにして見た。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/japan/
のファイルをもとにUNICODEで字を補った。現漢文の書は時にこうして眺めるのもよいとおもう。
http://www.geocities.jp/xianzhengjp/honzonsho
検索は普通にできます。「本尊」、「己心」などの語句で検索するととそれなりに発見があります。
535
:
文殊
:2006/03/23(木) 22:52:41
天台は、六道・三界といった仏教的世界観に忠実に従い、そこに居住する衆生
の実在を踏まえて『法華経』の説示内容を解釈していることに留意する必要が
あります。天台三大部の議論の背景に経典の記述世界を認める立場といえます。
経典の記述世界を認めない近代仏教学とは径庭がある。そもそも論議の前提が
異なり噛み合わない。近代仏教学・原始仏教回帰・真蹟遺文絶対思想は分別心
に覆われているといえます。「思議を超えたことがらは、分別心を超えた最深
最奥より湧き上がる真に法を求める心に依って理解されなければならない」と
柏倉明裕氏は説示する。「印仏研」51・1。宗祖の法華経観・本尊観は仏眼・
仏智の対象であり、仏の認識・観察対象といえる。ご自身の随身一体仏
と弟子檀那に対する曼荼羅本尊授与は仏と三十七道品・三十二相・十八不共法
を完備しない凡夫とは界位が根本的に異なるゆえに相反するものはない。
「故自他行業自在無碍譬如魚練水鳥翔虚空」と寛師が「末法相応抄」に。
末法は正像前代と大きく異なり、散心ゆえに禅定・観仏・見仏修行が困難にな
り得道できなくなっている時節である。対境としての曼荼羅本尊が喫緊の要と
なったのでしょう。
536
:
犀角独歩
:2006/03/24(金) 07:08:34
> 論議の前提が異なり噛み合わない
議論の前提が違うと違わないの問題ではなく、重要な点は、天台も、日蓮も、日寛も、事実ではないこと事実であると思いこんでいた、簡単に言えば、誤認に基づいて理論を組み立て、行動した。つまり、間違えたということです。
そもそも、間違いから発したようなものが仏智だなんだと言えるのかということです。
信じたければ、信じるのは勝手ですが、そんなものは、事実から見れば、中世キリスト教の天動説と一緒であり、妄信という謗りを免れないことです。
信じてきたものの前提が間違っていた、さて、そのとき、どうするのか、言い訳に終始して、しがみつくのか、事実に基づいて、再構築するのか、どちらが、真実、事実に基づく仏智なのか、客観的に考えてみることが必要だということです。
537
:
犀角独歩
:2006/03/24(金) 09:12:15
少し書き足せば、もし、天台、日蓮、日寛が現在に生き、我々が知り得た事実、法華経は後世の創作であるということを知っていても、結論が同じであったかどうか。わたしは同じ結論にはならないであろうと思います。
ならないけれど、現在、知り得る事実に基づいて、しかし、なにがしかの教理と行動を打ち立てたであろう思います。それによって、打ち立てられるものは、果たして、その当時の常識・仏教で組み立てられたものと、どちらが勝れたものであるのか、また、もし、現在に生きていれば、どのようなことを打ち立てのか、そのように考えることには、意義があると思います。
このような類推は、かつて確か顕正居士さんがどちらかで行っていたと記憶します。
われわれの人生はお芝居ではありません。「法華経はお釈迦様が説いたものであると、信じることにしよう」などという台本で生きることはできません。それは、まさに仮想現実、夢想世界の住人に成り下がる以上の意味はないからです。
しかし、われわれは、そのご認識に基づく経典、教理、漫荼羅本尊でも、一つの信仰体験を利得した。いわば、これは「仏の爾前教」「方便の説」であったようなものでしょう。では、事実証拠に基づいて、実教・真実を再構築できるのかという模索がなければ、日蓮門下人は、内部だけにしか通用しない妄想世界の住人になってしまう、いや、既になっている、だから、再構築する道はないのかというのが、ここ数年の当掲示板の議論であったとわたしは考えます。また、そのような模索に賛同されるれんさんの思索、また、ロムの空即是進化さん等のまなざしがあったのであろうとも思います。
538
:
顕正居士
:2006/03/24(金) 13:48:19
近代人の普遍的思惟は古代人、中世人、近世人の努力の結果に到達したものです。古人の
思惟は今人の思惟とは異なります。古代、中世の仏教徒の歴史観は当時の思惟方法に即し
理解される必要があります。
インドには歴史というものがないといわれる。これには事情がある。「通常のインド的気候の
環境においては、貝葉はほぼ二〇〇年程度で白蟻等に食われて用をなさなくなる。つまり、
インドにおいては、通常の記録は二〇〇年ごとに筆写し直さなければ失われてしまうのである」
『インドにおける「とき」---劫・輪廻・業---』
http://www.aa.tufs.ac.jp/~tjun/articles/jikan_frame.html
後漢においてすでに紙が発明された中国とは決定的な相違がある。魏晋南北朝時代までに
インド、西域で約千年間に作製された経論が伝来翻訳された。ここに経部はすべて開祖釈尊の
説として内容を分類する「教相判釈」が起こった。インドには各自に経論を伝持する二十一部が
存在し、さらに大乗があった。それらの内容が何らか開祖釈尊に由来するであろうという仮定を
した。しかし経論中にはある程度の史伝が含まれているから、大雑把な歴史は把握された。
「前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給ふ。ひろめし人々は迦葉・阿難等なり。後の五百年は
馬鳴・龍樹・無著・天親等、権大乗経を弘通せさせ給ふ」(随自意御書)
大乗経についてはインド以来、これを報身仏(毘盧遮那仏)の説とする。それらが現実の経典
として存在する理由は、応身仏(釈迦仏)の説法中にも高位の菩薩(法身の大士)は大乗経の
内容を感見し、別に結集し竜宮などに埋蔵し、後に竜樹などがこれを見出したとするのである。
歴史的仏陀(応身)と神格的仏陀(報身)は区別されており、大乗経は神格的仏陀の説とする。
そして歴史的仏陀の説は当時の仏弟子(声聞)の機根に応じた厭世教であるとして中国人や
日本人はこれを重んじなかった。すなわち古代、中世の仏教徒は近世以後の仏教徒のように
経典成立史を解明するには至らなかったが、今、仏教の知識が少ない人々が大乗経も釈迦仏
の説とおもっているのとは全くちがうのであります。
539
:
文殊
:2006/03/25(土) 00:39:58
西嶋和夫氏は「中論の新しい解釈について」(「印仏研」48・1)の論文で
竜樹『中論』に見る羅什訳とサンスクリット原典との対比・考証を通じて
竜樹思想を空を説き無を説く非実在論的な思想と説示する羅什訳を「重大
な誤訳から導き出された重大な錯誤」(245)、「羅什訳が竜樹の眞意を抹殺
する結果を招いている点は、大いに関心を払うべきであると思われる」(2
46)「そして痛感されることは、仏教経典の中国語訳を基礎とする仏教思想
研究が、意外に危険な陥穽を含んでいるのではないかという一点である」
(247)天台、日蓮、日寛はまさに誤訳の羅什訳を教理の基礎にしていた。
また、湯山明氏、辛島静志氏によるチベット語・漢語翻訳文との比較研究は
富士門流石山系教学の今後の帰趨に少なからずのインパクトを与えることに
なるでしょう。それに「東洋学術研究」連載の西夏語写本翻訳研究も見逃し
得ない。21世紀になって日寛教学はターニングポイントに直面している。
犀角独歩さん、顕正居士さん、れんさんによる「21世紀の日蓮教学」再
構築の方向性には賛同しますが、戒壇本尊脱構築を前提とする厳しい急進的
アプローチには留保させていただきます。できるだけ日興門流の歴史と伝統
を現代に生かしていきたいと考えています。
540
:
今川元真
:2006/03/25(土) 06:29:48
諸法無我・諸行無常・ネ槃寂静の三法印まで帰るしか無いのか。段階的摂受折伏を繰り返したオリジナル的な思想なら学問できるか。意思と意志の相違で是正できるか。
541
:
犀角独歩
:2006/03/25(土) 09:45:01
539 文殊さん
いつも含蓄のあるご投稿、有り難うございます。
> 「21世紀の日蓮教学」再構築の方向性には賛同
恐れ入ります。
> 戒壇本尊脱構築を前提とする厳しい急進的アプローチ
わたしの方向性は、このような表現とはやや違います。
戒壇本尊、つまり、大石寺所蔵の彫刻に係る動向を、戦後の日本における最大の宗教詐欺であると考えています。(断定するわけではありません、考えるということですが)
創価学会は宗教年間によれば、最高で1800万人信徒と発表しています。正本堂供養者名簿800万人実名によったともいいます。そのときの集金額は350億円ともいわれますが、これらの人々の集合と散財は、すべて「戒壇本尊」が日蓮出生の本懐であるという大前提に基づいたものでした。この「被害金額」は、しかし、ここに留まるのではなく、○兆円レベルのものでしょう。(それは創価学会にせよ、大石寺にせよ、その潤沢な資金力は半世紀で構築したその顧客はほかならぬ信者会員であったという因果関係から言えることです)このように人々が扇動され、騙された根本に、この看板の彫刻がある以上、事実を究明することは、むしろ、義務に近いとわたしは考えています。
いくら、高尚な教義理論、境地を語ったところで、詐欺行為を知って語らなければ、その境地がメッキに等しいでしょう。
『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版・訳:浅見定雄師)のなかでスティーヴン・ハッサン師は
「エドマンド・バークの言葉を使えば、『悪が勝利するのに必要なのは、良い人が何もしないことだけ』」(P354)
という言葉を引用しています。わたし自身は「良い人」ぶるつもりはありませんが、事実を知った以上、この点を語らないわけにはいきません。
また、そのような悪行に与同している自覚のない人々には、その自覚を持たせる必要性を感じます。それを「急進的」といわれるのであれば、敢えて、その批判を受けても、わたしは糾弾を停めようとは思いません。
なぜならば、「戒壇本尊」は日禅授与漫荼羅を原本として臨模・作為された模造品であり、日蓮の出世の本懐などということは虚偽以外のなにものでもないからです。そして、その模造品が戦後最大の宗教被害をもたらした以上、その点を糾弾しないわけにはいかず、奉安堂建立の如く、また、この彫刻を悪用して、宗教ビジネスが繰り返されている事実がある以上、次の被害を食い止める資料を提供することは、この彫刻を一度でも薦めた人間は、その責務を負うと考えるからです。
542
:
犀角独歩
:2006/03/25(土) 09:45:32
―541からつづく―
> 21世紀になって日寛教学はターニングポイントに直面
これはまったくそのとおりですが、しかし、ターニングポイントを迎えているのは、日寛教学ばかりではなく、それを金科玉条と仰ぐ、創価学会も、ひいては大石寺も同様です。創価学会ではいまだに日寛書写漫荼羅を会員頒布の本尊としているわけです。そもそも『東洋学術研究』とは、池田大作さんが創設した東洋哲学研究所(旧:東洋学術研究所)発刊の季刊学術誌です。つまり、創価学会は、既に実態を掌握したうえで、会員からの反発が起きない牛歩戦術で緩やかな路線変更を進めているわけです。昭和20年代・30年代入信の人々が死に絶える頃、この路線変更は、一つの山場を迎えるというスケジュールなのだろうと観察しています。虚偽発声の当事者・大石寺にとって日寛は揺るがぬ中興の祖です。すなわち、日寛を仰ぐ、一切にとっての、ターニングポイントであるわけでしょう。
しかしながら、このターニングポイントは、単に日寛に留まらず、近代科学の夜明けとともに、日本仏教全般にわたるターニングポイントでもあったわけです。
信者達は別に気づくわけでもなく、それぞれの集団のなかで、満足しているのだから、述べる必要はないという考えもあるでしょう。
しかし、このような考え方は、ならば、阿弥陀如来を仰ぎ、南無阿弥陀仏と称える人もそれで満足しているのだから、それでよいではないかということになります。ひいては、自爆テロをするものも、キリストの名をもって世界戦略をするものも、それはそれということなります。
宗教が個人レベルで他に被害を与えない限りにおいては、そのような考えはよいでしょうが、一たび、宗教被害という悪弊に至るとき、それを見て見ぬふりをすることは、宗教以前の問題として、社会正義に反することなりますので、それなりの行動を採らざるを得ないということです。
> 日興門流の歴史と伝統を現代に生かしていきたい
以上の点から、このような個人のお考えはけっこうなことながら、模造品を日蓮出世の本懐といって犯した罪の意識も反省もない創価学会を含む大石寺門下の無責任かつ無反省、もっといえば、無自覚は、現代に受け入れられるものではありません。それはあたかもテロで人々に被害を与えたあとで、その加害者の神を信じろというようなものでしょう。
反省と訂正なきところに未来はありません。
宗教は空理空論ではなく、この現実社会に存するものです。
ご一考ください。
543
:
文殊
:2006/03/26(日) 08:58:39
宋代天台の二哲二連枝、知礼と遵式は天台実相論をベースにしながらも、
略観修行・陀羅尼品・天台浄土に見る天台教学の簡素化を図り、王族か
ら漁民にいたるまで積極的に大衆受容を進めようとしました。遵式の念仏
結社は現在の在家教団の濫觴ともいえる。時代は下って、真筆本尊格護の
北山本門寺、保田妙本寺が少数派に止まっているのかは、強固な在家教団
が不在であったからだと思惟します。正本堂前夜に戒壇本尊は偽作と保田
妙本寺の万年救護本尊を求めていった人たちもいた。しかし、あくまでも
少数です。同じ富士門でも石山は日寛から花野充道氏まで理論的学匠を輩
出して文書布教による大衆受容に積極的であるのに対し、北山・要山・保
田は、本尊鑑定に耐えられる真筆本尊・真蹟遺文を多数存しているのに、
日寛系教団に勝つことができないのか不思議です。正本堂については長考
させてください。
544
:
犀角独歩
:2006/03/26(日) 09:52:17
文殊さんが書かれた富士門下の御筆大漫荼羅と偽作の関係が信者数を少数と大衆受容の相関比較は面白いですね。読んですぐわかるところは、大衆受容に熱心なところは偽作で、御筆格護は少数派ということです。
要は、大衆は、贋作で動くという分析になっています。
> 正本堂前夜に戒壇本尊は偽作と保田妙本寺の万年救護本尊
これは動いた人々が少数であるというより、受け入れ側(坊さん・寺)のキャパ、受け容れる‘装置’の相違で見るべきではないでしょうか。
> 花野充道氏まで理論的学匠を輩出して文書布教による大衆受容に積極的
この「文書」というのは、何を指すのでしょうか。形木で摺った本尊(江戸時代の日寛)、大衆受容側の現在の印刷本尊のことでしょうか。
それとも要法寺と開版した『御義口伝』の如きもの、また、創価学会の宗教法人に認められた出版業商法を指してのことでしょうか。
なお、花野氏は優秀な学者で、松本・袴谷両師との論争は、駒沢大学でも実見し、なかなか関心がありますが、彫刻の真偽を言わず、寺院経営で食をつないでいては、画竜点睛を欠くというか、石山門下の好きな言葉「正直な信心」というものに汚点と映じ、その点を差し引かれてみられてお気の毒です。食品分析研究に熱心な会社が、使用禁止の添加剤の入った食品を販売している会社の研究員のような印象を受けます。この人を日寛から系譜と見るより、堀日亨以来の仏教界と通用のある人物と見るほうが至当であると思えます。日亨は創価学会の圧力から石山内に隠居、外部との接触が断たれた。花野氏は、阿部氏の逆麟に触れながらも処分を免れ、外部との通用もある相違がある。なのに、彫刻の真偽を言わないのか。これは上述の比較からすると、偽作側の営業態度と言うことになりますか。
> 日寛系教団に勝つことができないのか不思議
金と人を集める技術を弄した偽作側と、学術研究をした少数派の相違ですね。
前者は、人のはいる器(組織)を用意したけれど、後者は葬式と墓以上のものは用意しなかった結果。不思議がるほどの内容とは思えません。
> 正本堂については長考させてください
上述した偽作側・大衆受容の装置としての組織構築、真筆側・寺請制度以来の風習を引きずった寺院檀家のための寺という相関図を考慮した分析を期待します。
545
:
顕正居士
:2006/03/26(日) 11:37:35
興門5派、北山、上野、西山、保田、要山の中で最終的に大石寺が優勢になったのは何といっても
堅樹日寛があらわれたからでしょう。他派には対抗できる近世興門宗学の集大成者は出なかった。
決定的要素は学問です。しかし日寛の後継者はその学問を継承発達させるのではなく、他派との
争論に使用し、一時の方便である板本尊に執着し、興門を統一するどころか、ますます孤立させた。
けれども近代にはまた堀日亨が出て各派我田引水の自山正嫡論を修正するように資料を用意した。
日寛宗学と日亨史学がなければ、創価学会といえどもこれほどの大勢力にはならなかったでしょう。
だが今回も同様にその学問を継承発達させず、他派との争論に使用し、依然、板本尊に執着した。
そして今は創価学会、正信会、顕正会との誹謗合戦のさなかにあり、いまさら二箇相承や板本尊を
引っ込めれば、こぞって宗門の責任が追及されるでしょう。まあ、もう取り戻しは不可能と考えます。
546
:
文殊
:2006/03/27(月) 18:44:24
花野氏は公式的には今も戒壇絶対論者のはずです。興風談所に行かず、山家に
とどまっている理由の一つに戒壇絶対帰依があったと思われます。体制内改革
の立場でかつ外部との通用があるという法教院閉鎖修道体系の中では異例の
学僧ですが、果たして戒壇絶対論と氏の長年にわたり唱導する本覚思想との
整合性が取れるのかと思います。文書の流通では日寛系諸教団が旧本門宗系
を圧倒している。旧本門宗は学僧・仏教研究者の人材育成を怠っていたと
の非難は免れないでしょう。
547
:
犀角独歩
:2006/03/27(月) 22:03:02
545、546 両ご賢察には賛同します。
548
:
文殊
:2006/03/28(火) 01:21:58
「久遠寺の板本尊今大石寺にあり大聖御存日の時の造立也」(保田日我
『観心本尊抄抜書』)東我西辰の面影なく、日目直伝相伝法門存しつつ
も結句は、互いに反目しながらも日寛書写曼荼羅本尊を尊崇・対境とし
ている日寛系諸教団(最大公約数として)の独走・寡占を許している。
旧本門宗系は、三師塔があっても学林なし。寺域は葬儀用施設と有料
駐車場では興尊の厳風はどこに行ったのか。上野大石は古文書学・鑑定
の目利きから見ると何もないところですが、花野充道氏・高橋粛道氏・
長倉信祐氏の学僧がいる。人は石垣、人は城か。堂宇ではなく弟子・
門下の優劣で勝負は決します。中国天台山家山外論争の帰趨は、広智
尚賢をはじめとする知礼が育成した弟子たちが次々と勢力を拡大した
ことによります。「山外」の智円も、従義も後に続く弟子がいなかった。
ただ法教院純粋培養教育からでは龍象は出ることはないでしょう。
一般大学に行かせない鎖国教団には明るい未来はありません。
549
:
文殊
:2006/03/30(木) 00:50:00
三論教学が仏の教えの言葉に対する観念の固定化や実体的把握を排除し、
教えに執われない如来の真意を求め、幾重にも執着を破し続け、無所
得空を徹底化させ、仏法を深く探求することを目指しているのに対し、
天台教学では、治生産業等の一切諸法の全てがそのまま即実相である
世間即仏法論、知病識薬授薬の積極的衆生教化、大乗菩薩行の重視が
あります。天台の師南岳慧思の法華経第一・禅定重視・折伏主義の
思想的影響が看取されます。日蓮門下最大手の日寛系諸教団は仏教
史上の南岳─天台─妙楽の系譜に連なるといえる。ここでは、本尊義
は問いません。
550
:
犀角独歩
:2006/03/30(木) 07:39:43
> …日寛系諸教団は仏教史上の南岳─天台─妙楽の系譜に連なる…本尊義は問いません
これは、仰っている意味は介しかねます。
日寛はたしかに天台学に秀で、その独自教学の構築は、以上の系譜を籍りています。しかし、そこで究竟としたのは「弘安二年十月十二日・一閻浮提総与・本門戒壇之大御本尊」であり、日蓮已来自身に至るとする唯授一人の血脈相承でした。日蓮は三国四師を言うわけですから、その脈絡とすると見ることはできますが、日寛の結論は、まさに、この唯一絶対の本尊思想以外の何ものでもありません。
551
:
一字三礼
:2006/03/30(木) 08:55:06
> 549
> 天台の師南岳慧思の法華経第一・禅定重視・折伏主義の思想的影響が看取されます。
南岳慧思は「折伏」もしくは「折伏主義」という用語を用いたのでしょうか。
また、その「折伏主義」の思想は南岳慧思のどの著作に示されているのでしょうか。
552
:
文殊
:2006/03/30(木) 23:06:51
犀角独歩さんの本尊研究の批判ではありません。旧本門宗系に対する
批判です。「不動愛染感見記」真偽論争に関しても護持する保田妙本
寺が挙証・反論すべきでしょう。文書・電子の両面にわたり当事者が
沈黙していることは、世間に門を閉ざしていることになるでしょう。
「印仏研」掲載論文も花野氏・菅野氏に二分されている。広義の
日寛系諸師は言論活動は活発だと思う。最近では松岡幹夫氏の近代
日蓮主義研究も出てきた。日寛系諸教団の青年・女性層に対する
布教(折伏)は勢いがある。広義の日朗系諸教団は社会福祉活動を
広範に展開している。日本山妙本寺のように強義の反戦・非暴力
運動も見逃し得ない。イラク反戦も街頭に立った。パレスティナ
にも積極的にコミットメントしている。では中間線に位置する
旧本門宗系はどうか。教化の面でも現代の大乗菩薩道といえる
社会福祉活動でもするわけではなく有料駐車場貸し出しと墓地
経営のみではないか。
553
:
文殊
:2006/03/30(木) 23:28:25
日寛は重須生御影信仰に対抗するため、富士門内での教学的な
主導権を確保するため『六巻抄』でクー・デタに成功した。
流れは京都・重須から大石寺に変わった。「板法華」在家団体
の登山参詣で寺門は栄えることになった。日寛は知略に長けた
政僧の側面も併せ持っていたといえます。生御影から板本尊に。
日寛教学は八品教学を参照しつつも「板本尊」絶対帰依信仰と
大石寺歴代万世一系思想の唱導という明快な結論で大衆受容を
積極的に行ったことは決して侮れないものがあります。
554
:
文殊
:2006/03/30(木) 23:43:05
南岳慧思の折伏主義についてですが、慧思の仏法護持のために
悪比丘に対して破折した事跡を類推解釈して当て嵌めました。
直接、大正蔵の明文にあたっていません。今後発言は慎重に行い
ます。
555
:
犀角独歩
:2006/03/30(木) 23:51:20
文殊さん
わたしは、拙稿を批判されたとは取っていません。
日寛に本尊義なしという記述であると早計したからでした。
552、553の解説については、賛同します。
556
:
顕正居士
:2006/03/31(金) 02:08:19
南岳慧思が論争家であったことは
「淮南郢州刺史劉懷寶共遊郢州山中。喚出講摩訶衍義。是時為義相答。故有諸法師起大瞋怒。
有五人惡論師以生金藥置飲食中令慧思食。所有餘殘三人噉之一日即死。慧思于時身懷極困。
得停七日氣命垂盡。臨死之際一心合掌向十方佛懺悔。念般若波羅蜜作如是言。不得他心智
不應説法。如是念時生金毒藥。即得消除還更得差。從是已後數遭非一」
南嶽思大禪師立誓願文
http://www.suttaworld.org/big5-txt/sutra/lon/other46/1933.htm
ただし、論争を折伏というのは「法華折伏・涅槃摂受」の文脈でいうことで、日蓮がいう折伏は
反対の「法華摂受・涅槃折伏」のほうの意義である。このことは次のスレッドで議論されました。
摂受と折伏について
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1117079987/l50
557
:
顕正居士
:2006/04/01(土) 02:28:47
>>552
それらの寺院は葬儀、法要を通常に執行しているでしょう。檀徒はカルト経営などは需めていません。
>>553
板本尊のために日蓮正宗は終わりかかっていますが。文殊さんがおっしゃるように現状のままだと
20年後にはこの宗派には学卒の坊さんはいなくなります。
30年ほど以前には日蓮正宗の公称檀信徒数は日本の諸宗派の中で最大でした。であったのに今も
専門の日蓮学者は一人もいません。単称日蓮宗にはどれだけいますか。カルトが宗教に進化する
ことはない。大石寺は既成宗派ではあったはず。それがほぼカルトに転落して来ている。融通念仏宗
とか時宗とか檀徒数万しかいないところもちゃんと持続している。堅樹日寛は素晴らしい宗学者ですが
板本尊は彼の学問の致命的な欠陥です。執行海秀はそれが日寛の説であるか疑っていたが、そう
考えざるを得ない文章はある。それを教義の中心に据えたのは大石日応だとおもうが。
558
:
犀角独歩
:2006/04/01(土) 08:41:17
顕正居士さん
板本尊…執行海秀…日寛の説であるか疑っていた
この執行師の文章とは何でしょうか。
ご教示いただければ有り難く存じます。
559
:
顕正居士
:2006/04/01(土) 12:52:16
独歩さん。
日寛のいう三秘総在の本尊なるものがただちにかの板曼荼羅を指すのか否かは判然としない、
という趣意の文です。『日蓮宗教学史』だったとおもいますが、もしかしたら違うかも知れません。
560
:
文殊
:2006/04/01(土) 16:28:19
北山の玉野日志貫首は富士教学の近代化・日興門家融会を模索していたが、
病に倒れ彼の試みは受け継がれることはなかった。欧州留学する学僧が
富士門では皆無であった。真宗が教学の近代化に成功したのに対して、
富士門では大学もつくれずに、教学論争に明け暮れたといえる。驥尾
日守の「末法観心論」と大石日応の「弁惑観心抄」。後書は現在法教院
教学で「六巻抄」より重視している。結局越洋会からは一般教養を欠く
が故に学者は輩出はされないでしょう。顕正居士さんのご教示の通り
です。慧思・摂折論議の学恩に深謝します。
561
:
犀角独歩
:2006/04/01(土) 17:41:11
顕正居士さん
ご教示有り難うございます。
教学史を再読してみようと思います。
『六巻抄当家三衣抄第六』に「蓮師御伝記八に云わく、弘安二年富士の戒壇の板本尊を造立し奉る」という一節がありますから、この点は動かないと思います。
しかし、ご指摘の通り、日寛ほどの天台の学者が板本尊に帰着したことは、たしかに不思議と思えます。
562
:
顕正居士
:2006/04/01(土) 21:04:08
22世の日俊がすでに三秘が一秘の本門本尊に集約し、かつその本門本尊とは大石寺の板本尊のこと
であると述べているそうです。
http://www.nichiren.com/jp/thesis/thesis_1.pdf
三大秘法とは日蓮宗の戒定慧三学であるが、「秘法」というから「事相」の意義がある。したがって大石寺
の板本尊が宗祖在世に造立され、事戒壇の本尊として予め奠定されたというのなら、そういう教義も理由
がないとはいえません。しかし板本尊がそうであるという根拠は脇書に「戒壇願主」とあるからに過ぎない。
宗祖が予め事壇の本尊を奠定したという史料は皆無である。
こういう無理な教義が出て来た背景には大石寺などで発達した教主論、仏身論があり、久遠本果の釈尊
ではなく久遠本因の釈尊を末法教主とする、久遠本因の釈尊とは宗祖と行位全同の名字即の菩薩である。
名字即の菩薩であるから色相荘厳の像ではあらわせないという教学です。しかし一尊四士にかわる寺院
の本尊は何か必要である、それは板曼荼羅を造立する。ここにおいて宗祖在世に板曼荼羅が造立された
根拠になる板本尊が重要な意義を帯びたのでしょう。
もとは大石寺のほうから説が出て、犀角独歩さんが検証されたように、板本尊は北山の万年救護曼荼羅
を板にしたのでしょう。ですから脇書はそのことが忘却された後に、宗祖の在世に板曼荼羅が造立された
根拠として誰人かが付加したのであろうと想像します。
563
:
れん
:2006/04/01(土) 23:00:49
横レス失礼します。
顕正居士さんが示された石山22世日俊師の彫刻本尊に関するコメントですが、私の携帯では見れないので、以下に備忘ならびに参考のためを含めて、列記しておきます。
「興師目師遺状被遊戒壇之本尊御座大石寺之貫主成致報恩謝徳導師事餘身喜何事過之耶」(歴全第三巻所収 初度説法)
「此三大秘法者何者、本門本尊者当寺戒壇板本尊非、其戒壇本尊座地広布不至迄此地戒壇非、日興正傳之題目非本門題目耶」(同上)「此三大秘法者云其體云事一念三千南無妙法蓮華経云者也。各題目修行本因妙南無妙法蓮華経本門題目也。本因對向本果妙佛界所具戒壇本尊也。本果所住本國土即是戒壇地也。三大秘法云向本尊勵信心唱題目即是本因本果本國土三妙合論事一念三千申法門大旨思召」(同上)
この日俊師の「初度説法」を読みますと、俊師は条々事の“弘安二年大御本尊”なるものを、彫刻本尊に規定しており、顕正居士さんのご指摘の通り、その彫刻本尊中心の三秘論を展開されているところ、俊師の影響を寛師は受けていると見て間違いなさそうです。
石山が彫刻本尊を作成したのは、重須の生御影に対抗するための手段としてという側面が強いでしょうね。その時期は、私の勝手な想像としては、一つの可能性としては、安土桃山期に大石・重須が甲駿地方の戦火に罹災し堂宇が焼失した後の、両山の堂宇の復興の時期と見た方が良いかと愚考しております。
564
:
文殊
:2006/04/01(土) 23:08:28
22世日俊は北山に色衣・鬼子母神で教義論争をしかけていたはずです。
北山が寺社奉行に訴えて一悶着となった。日俊は要法寺系でありながら、
日精造仏を一掃してしまった。日寛は実見しているはずで影響を受けて
いると考えます。石山・八品共同経営の細草壇林夏安居における天台学
修学では、同時に慶林日隆教学をも学んでいるはずです。尼崎流を一歩
先に進めたといえるのではないかと。日寛自身、大石寺再興にあたって、
山内に何も相伝法門もなかったことはわかっていた。それで慶林日隆の
著述を参照したと推定されます。通常、飯高壇林をはじめとする壇林
教学では天台三大部・妙楽釈・従義補注を領解するのに大変で、肝心の
宗学研鑚が充分とはいえなかったのですが、日寛は石山再建の危機意識
が常に本尊論・教判論・仏身論の理論再構築に向かっていたと考えます。
565
:
犀角独歩
:2006/04/02(日) 14:01:11
れんさん
> 此三大秘法者何者、本門本尊者当寺戒壇板本尊非、其戒壇本尊座地広布不至迄此地戒壇非、日興正傳之題目非本門題目耶
これは、どのように読むのでしょうか。
「この三大秘方途は何物ぞ、本門の本尊とは当寺の戒壇板本尊に非ず、その戒壇本尊の座する地は広付に至らざるまではこの地は戒壇に非ず、日興正伝の題目に非ず本門題目か」
でしょうか。「本門本尊者当寺戒壇板本尊非」が、わたしの読み下しのごときであれば、これはどのような解することになりますか。
566
:
れん
:2006/04/02(日) 18:58:17
犀角独歩さん
>565
歴全の当該文に付されている句読点を参照して読み下しますと以下のとおりです。
「此の三大秘法は何者ぞや、本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや、其の戒壇の本尊の座す地は広布の至らざる迄は戒壇に非ずや、日興正傳の題目は本門題目に非ずや」
俊師の解釈につきましては、読んで字の如くだと思います。
文殊さん、ご教示有難うございます。
>日寛自身、大石寺再興にあたって何も相伝法門もなかったことはわかっていた…
初期石山において、相伝法門なるものがあったとすれば、それは六世日時師がれれまで伝えられてきた法門化儀を纏めたものと思います。日有の聞書拾遺に「此の大石寺は高祖より以来今に仏法の付属切れず次第して候間得給へる人様は仏法世間の御沙汰、高祖の御時に少しも違はず候。若しも世の末にならば高祖の御時の事、仏法世間ともに相違する事もやあらんとて日時上人の御時四帖見聞と申す抄を書き置き給ふ間我が申す事私にあらず、上代の事を違せ申さず候。他門徒の趣は代々の意楽意楽に各々に建立候間上代の事御存知なく候間一向細工事に成り行き候と云々」と述べている四帖等がそれです。日寛師の文段にせよ、六巻抄にせよ、それ迄にすでに巷間に流布されていた自山の条々事を含む興門の文献をもって自山の正当性を主張していますが、なぜか四帖をはじめとする自山分の“相伝”については引用しません。それは恐らく、六巻抄や文段は当時の檀林教学に則って組み立てたもので、自山分の四帖などはそれこそ貫主一人の秘伝として、公開しなかったものとみるのが至当と愚考します。
567
:
れん
:2006/04/02(日) 19:53:35
566の誤字訂正。
誤)れれまで
正)それまで
568
:
文殊
:2006/04/02(日) 21:04:29
「日時上人は御勤の座ごとに御せつかんを召され候ひしなり」(「有師物語
聴聞抄佳跡上」『富要集』第1巻240頁)に数少ない六世時師の事跡に
日興門家化儀の厳格な伝統遵守と大石寺家統率の覇気を窺えます。重須・
西山が分立、そして下条妙蓮寺までが石山離れ独立本山の動きを公然化。
時師とすれば、鉄の規律で大石寺家の求心力を高めようと画したと思われ
ます。但し何故寛師が時師秘儀を引用せず、天台・妙楽・伝教、要法寺系
相伝書引用の所謂「顕教的解釈」に終始しているのかは判然としません。
現代法教院教学では天台三大部四明釈義一色に染まっていて、時師上代法
門、南宋従義流は完全に排除されていますが、漢字文化圏から急速に離脱
している21世紀日本では、古文書の解読が急務でしょう。そして、解読
された古文書から何を次代の世代に最良のものを伝えていくかは課題です。
れんさんの富士教学再構築の試みは貴重です。新資料のご提示お願いしま
す。また富士五山は重須談所を復活させて全文書を公開すべきです。
569
:
犀角独歩
:2006/04/02(日) 23:51:55
れんさん、有り難うございます。
文末に「非」をつけて、「非ずや」ですか。うーん、なるほど。
そう、読ませようと言うことでしょうね。
文殊さん、
> 日興門家化儀の厳格な伝統遵守
だいたい、そんなものがあるのでしょうか。
お尋ねしますが、日興が残した厳格な化儀とはいったい、どのようなものでしょうか。また、それは日蓮とどのように違うのでしょうか。
570
:
文殊
:2006/04/03(月) 07:56:06
伝統的な通説に依ったものです。改めて日興門家の化義の他門に比較
してその厳格性を考証となると難しいものがあります。朗門・像門
そして日向『金網集』研究の進捗を参照しなければ厳格性が挙証で
きません。日蓮と日興の教学的体質が異なるかについても精密な分析
が必要を痛感した次第です。護教論でなく学問的ルールに則っての
です。
571
:
犀角独歩
:2006/04/03(月) 08:26:07
日時はたしか仙波檀林に学んだといった資料があったと記憶します。
文殊さんが仰る「伝統的な通説」というのは、何を指すのかわかりませんが、上代の石山住職を手繰ると、出生は南条家との縁、学問は仙波檀林に行き着くようで、重須の檀所はともかくとして、石山が日興の厳格な化儀を伝えたとはとても思えません。
また、日興にしても、一尊四士義はともかくとして、日蓮の教義からはあずかり知れない‘御影’信仰にウエイトが掛かっていたわけで、それが絵像か・木像かいまひとつはっきりしませんが、ともかく、日蓮像を拝んでいた。日興は造仏は廃し、日蓮の厳格な教えに従って、漫荼羅正意だなどという現在のアナウンスはまるでウソで、実際は一尊四士という厳とした造仏論を有し、さらに御影崇拝という非日蓮義も有していました。そのうえで、漫荼羅を本尊と規定していったわけです。重須の盗難事件の実否を問う声は聞こえますが、これが事実であれば、盗難品のなかには日興像もありました。つまり、生存中から、日興本人の像が拝まれていたということでしょう。このような日興が、日蓮の化儀を厳格に伝えたというのは、事実に反します。もちろん、遺文蒐集、学問という面では重須檀所を中心に業績はもちろんあったでしょう。
日興の極端な賛美は、近年、日亨氏の功績により、さらに最近では興風談所の業績から内外ともに、さらに高まっていますが、わたしは、文殊さんが挙げる石山の学僧?の評価も含めて、もっと冷静かつ客観的にみたほうが事実究明には役立つと考えます。
まして、日時に関しては、この人物と時代は、問題が山積で、実質、日目と南条家の寺であった大石寺の独自形成の鍵を握るものであると考えられ、日興の厳格な継承者とはとても思えません。
なお、「護教論でなく学問的ルール」については、まったく賛同いたします。
それ故の以上の管見です。
572
:
れん
:2006/04/03(月) 09:42:00
文殊さん、私如き、無知の者に過分のお言葉をおかけ戴き、誠に恐縮です。
さて、日時の事績につき、手持ちの文献資料で確認できるのは以下の通りです。
石山蔵・肝心要義集中巻抜書冒頭に「肝心要義集 日時相伝之。日行之」とあり。
同寺蔵・日目弟子民部日盛書写の日満抄奥に「日時相伝之」とあり。
同寺蔵・民部日盛筆の「御筆集」の現存表紙裏に「謹奉相伝之。日時(花押)」とあり。
同寺蔵・上野下御房日舜書写「報恩抄」奥に「民部阿闍梨日影授与之。応永九年卯月十一日、日時(花押)」とあり。
日精「家中抄」日順伝によれば、石山には日時所持の「五人所破抄」が曽存し「応永四年丁丑十一月日 釈日時之」の奥書があったという。
石山僧完則による「大石寺宝蔵目録」によれば“日時筆”の「色心実相境智根源決」があるという。妙観文庫目録によれば具名を「妙法蓮華経色心実相境智根源口決」といい、日時筆のほか日精の写本もある模様であるが、一般には非公開で内容不明。
日有の聞書拾遺によれば、日時は四帖見聞を著述し、雑雑聞書によれば、その中には「本尊ノ大事」「三箇ノ秘法」について述べた“日目ノ耳引法門”なるものが記されていたという。これも内容不明。
日時師につきましては、独歩さんが「この人物と時代は問題が山積で、実質、日目と南条家の寺であった大石寺の独自形成の鍵を握るものである」と述べておられる通りと存じます。以上ご参考まで。
573
:
れん
:2006/04/03(月) 12:03:07
若干、日時の事績に補足を加えれば、嘉慶二年(1388)十月十三日、石山から小泉に移された日蓮影像に替わって、新たな御影建立、自筆書写漫荼羅28幅現存、大石記(おおいしき)の口述が挙げられますね。
あと、日時の御影建立につきましては、日什師の門弟日運師の門徒古事に、
「雖然或御影堂造立候間、無隙云々。使者云、御影堂ヲウラレ候テモ先ツ奏聞ヲ可被本云々。主人云、サニテハ候エトモト計云々。サテハメツラシキ沙汰ナレ、是大石寺云々」
とあり、これは嘉慶元年の京都妙顕寺の山門衆徒による破却を伝聞した什師が蓮師諸門徒に使者を派遣して日蓮門下は同心して天奏すべきであると伝えたときの、使者と大石寺主人とのやりとりを記録したものですが、この門徒古事に出てくる“大石寺主人”とは、翌年の御影建立成就、そして御影堂造立といっていることから石山六世日時を指しているのは間違いないようです。
574
:
文殊
:2006/04/04(火) 01:16:29
「本門寺」建立運動が日興教学の核心でしょう。非寛容・非妥協の戦闘
集団を形成したことが他門から畏怖されることになったといえるのでは
ないでしょうか。日興はモーゼに資質が似ているかもしれない。本門寺
建立の理想郷のために門下に対しては絶対服従を強いた。師弟の契約が
重須に多数格護されている日興直筆の本尊授与であったといえます。
京都布教を果たした像門は民間信仰を包含した寛容的な教学を形成して
いったでしょう。三十番神信仰。時代に合わせた柔軟な教学解釈は京都
町衆の広汎な支持を集めた。現在の社会福祉活動につながっています。
これに対し、日興教団は少数精鋭の「選民思想」を有していたがゆえに
他門との間に蹉跌が恒常的に生じたと思われます。一尊四士本尊観は
来るべき本門寺奉安本尊、日興書写曼荼羅本尊は教団の縦のライン師弟
関係強化のためと日興は構想していた。西山・尊門は忠実に継承したが、
大石寺は重須への明らかな対決意識から曼荼羅本尊正意にと急激に傾斜
していったのでしょう。起源は日時と思われます。犀角独歩さんご摘示
の日興本人の像は日興の教団におけるカリスマ的権威・日興崇拝を現し
ているのでしょう。れんさんの資料収集の熱意に心を打たれました。
妙観文庫はなぜ法教院に遠慮しているのでしょうか。旧共産圏が次々と
新資料を公開しいる時節なのに、未だに石山圏は21世紀になっても
冷戦思考にとらわれているのでしょうか。
575
:
犀角独歩
:2006/04/04(火) 07:56:58
文殊さん
> 一尊四士本尊観は来るべき本門寺奉安本尊
日興は、複数の御筆大漫荼羅に添え書きをし、「奉懸本門寺」と記しています。また、『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』という題名が示すとおり、漫荼羅を本尊と規定しています。この一連の流れから見ると、日興が本門寺に懸けるとした本尊とは一尊四士ではなく、日蓮御筆本尊の、しかも自ら「奉懸本門寺」としたものと考えられますが、この点は如何でしょうか。
日道の頃から、漫荼羅正意を喧しく言うようになったというのは執行海秀師の分析でした。日道は南条家で、日目の甥でしたか。しかし、その修学は北山に坊を置き、日順に師事したのでしたね。さて、当時の大石寺に日蓮御筆漫荼羅があったのかどうか。
漫荼羅正意というのは大きく二つの考えがあると思えます。一つは日興の如く日蓮御筆漫荼羅を本尊として、本門寺奉懸を考えること、もう一つは寺院経営者が自ら認めた漫荼羅を本尊として、仏本尊を斥けて、書写漫荼羅を本尊とさせること。
当然、この二つは日興その人から始まっているわけですが、北山には御筆漫荼羅はあったでしょうが、石山はどうであったか、なければ、石山には当初、御筆漫荼羅を奉懸といった漫荼羅正意は実質的に不可能であったことになります。つまり、このことが、のちに「本門戒壇之大御本尊」を捏造する動機になっていったのではないかと、わたしには思えます。
その件は、のちに譲ることとして、日興は身延にあっては一体仏本尊への崇敬を示し、重須でも、一尊四士仏本尊を掲げて自説とし、のちに御筆漫荼羅本尊へと移行していったと見るのが至当ではないでしょうか。そして、その影響下に石山日道も、また、のちに西山に移動を余儀なくされる日代もあった。当然、妙蓮寺日華もあったのではないでしょうか。石山から漫荼羅正意が起こったというのではなく、石山日道もまた、重須の日興・日澄・日順という師資の影響から、漫荼羅正意であったというのが事実ではないかと思えます。
576
:
犀角独歩
:2006/04/04(火) 15:18:38
読み直して、ちょっと、文が美(うま)くないので、訂します。
> 重須の日興・日澄・日順という師資の影響から、漫荼羅正意であった
と、記したのは、日興が仏本尊を斥けて曼荼羅正意を提唱したという意味ではありません。顕正居士さんが引用された伝日順文書に見られるとおり、当時、仏本尊が禁戒に属していたと見ることはできません。
わたしは個人的に、仏像を出家が造営するのはもっぱら持仏であり(日蓮伊東自作の例)、他は曼荼羅をもって弟子檀那に授与。在家の信徒は、その財力を持って、それぞれに仏像を像立、これには一尊四士を日興は勧めた。日興等が公武共に奏じ、その功なれば、ここに漫荼羅の授与はあるでしょうが、ここで仏像が像立されれば一尊四士というのが、元来、日興であったと思います。
しかしながら、御筆漫荼羅に「奉懸本門寺」と添え書きし、漫荼羅を本尊と規定するに至った日興が、御影信仰を醸造しながら、では、仏本尊をどう捌いたのかは、実に興味深いテーマであろうと思えます。この時点で、日興は漫荼羅正意と即断すれば、物語としては完結しますが、しかし、尊門にせよ、日順にせよ、仏像禁忌は窺えず、むしろ、広布戒壇に事寄せて、これを認める以上、ここに仏本尊は生きています。
日興在世より100年も経った頃、「隋身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か。執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ」と言うも、その後、ヒステリックなまでの仏像忌避に比べれば、また、その造立を制止しておらず、緩やかです。つまり、これは日興在世であればなおさらのことであろうと類推できます。
いずれにしても、御影信仰は、造像崇拝の一種であることは紛れもない事実であり、久種に遡って師資を論じ、ついには「三身所顕無始古仏」という峻厳なまでの法華道を歩んだ日蓮の教学的な姿勢からすれば、祖師信仰、ひいては御影信仰というのは、なんともはや、仏道という点から見れば、後退である映じなくもありません。キリスト者の「偶像崇拝」などをここに引用する気は毛頭ありませんが、造仏は日蓮義であれば、これを斥けてはならず、一方、祖師信仰は本門寿量本仏久種覚知からの信仰を確立した日蓮の教えに悖るものと、わたしには映じます。
577
:
文殊
:2006/04/04(火) 21:47:14
「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身、無始古仏也」「地涌千界菩薩己心釈尊
眷属也」「上行無辺行浄行安立行等我等己心菩薩也」「我弟子惟之、地涌千界
教主釈尊初発心弟子也」「此時地涌千界出現、本門釈尊為脇士、一閻浮提第一
本尊可立此国」の文からは「我等己心釈尊・無始古仏・教主釈尊・本門釈尊」
が仏との解釈になります。日興の御影信仰は「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」
と径庭があることになります。「奉懸本門寺」は犀角独歩さんのご指摘の通り
です。
578
:
文殊
:2006/04/06(木) 12:58:40
「報恩抄」では「教主釈尊」、「本尊問答抄」では「題目の五字」と
日蓮の本尊観は変遷しているが故に、後世の日蓮教団は教義論争が
現在にいたるまで絶えなかったのでしょう。日蓮自身が明示しなかった
ことと、中間の宗学者の諸解釈が厚い雲のように覆われている結果、
真意の究明は難しくなっています。
579
:
犀角独歩
:2006/04/16(日) 09:27:23
日興御影崇拝について自己レス
『富士一跡存知事』に
「一、聖人御影像の事。
或は五人と云ひ、或は在家と云ひ、絵像木像に図し奉る事在々所々其の数を知らず、而して面々各々不同なり。
爰に日興が云はく、先づ影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為なり、是に付け非に付け有りのまゝに移すべきなり。之に依って日興門徒の在家出家の輩、聖人を見奉る仁等一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体に異ならずと雖も大概麁相に之を図せり、仍って裏に書き付けを成す云云。但し彼の面々に図する像一つも相似せざるの中に、去ぬる正和二年日順図絵の本あり、相似の分なけれども自余の像よりもすこし面影有り。而る間後輩に彼此の是非を弁ぜんが為に裏に不似の書き付け之を置く」
とあります。「影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為」とは、実に合理的というか、俗信的な要素は微塵も感じられません。これが実際の日興の思想を受け継いだものであれば日興における御影崇拝は、そこに日蓮の面影を求めたものであり、像に神秘的な力が存するといった器物信仰とは違っていたのであろうと想像されます。よって、先の投稿を補填し、改めることといたします。
580
:
犀角独歩
:2006/04/28(金) 12:43:46
>
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/563-567
過去の議論を蒸し返す形になりますが、563にれんさんが引用された石山歴全の「此三大秘法者何者本門本尊者当寺戒壇板本尊非其戒壇本尊座地広布不至迄此地戒壇非日興正傳之題目非本門題目耶」に付された訓点には異議があります。
「非」は通常、文頭に付き否定する語で、文末に耶が付けば疑問形でしょうか。すると、その本則に従ってこの文を分割すると、
本門本尊者当寺戒壇板本尊
非其戒壇本尊座地広布不至迄此地戒壇
非日興正傳之題目
非本門題目耶
となり、この場合、本門の本尊とは当寺戒壇板本尊(なり)
其の戒壇本尊の座地、広布に至るまで此の地戒壇に非ず・
日興正伝の題目に非ず・
本門の題目に非ずや
ここで非〜耶の最後の文章だけであって、まあ、それをその前の二区に兼ね、それぞれを「非ずや」と読めないことはありませんが、いずれにしても、非は冒頭に付くべきで、その意味で歴全の訓点で、非を文末に付けて「非ずや」と読ませるのは、どうも納得がいきません。
581
:
犀角独歩
:2006/05/06(土) 12:05:54
かつて、ワラシナ師と、話しあった四大天玉の配置に関するところを、やや、まとめ、ブログにアップしました。
ご批正を賜れれば、有り難く存じます。
四大天玉の配置、日蓮が間違ったということはないと、わたしは考えます。意味があったのだと。その信頼からの管見です。
四大天玉の配置について
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50543409.html
582
:
パンナコッタ
:2006/05/14(日) 23:39:13
NO,13の本尊を見ると四天玉に東西南北が冠されて、下段の増長と広目が通常とは逆になっていますね。
その後、通常配置(時計回りに右上から東西南北)になりますが、
NO,34以降、毘楼博又(広目)・毘楼勒又(増長)と又逆になります。
弘安期に入りNO,65迄続く、この東南西北形式(途中59・60は通常配置)が在る事を踏まえれば、
蓮祖が単純に間違ったと言う事は、やはりあり得ないと思えますね。
意図した事(蓮祖の世界観)が途中で変わり、又、考えが変わりというのを繰り返して、
あの四天玉の配置が成ったように見受けられますね。
583
:
犀角独歩
:2006/05/15(月) 09:36:29
582 パンナコッタさん
そうなんです。そのような点をワラシナ師と、まだこの掲示板ができる以前か・その以前か、お話をしたことがあったのです。
石山の堂塔配置は南面ですが、五重塔ばかり西面になっているわけですね。この整列は他派に抜きんでたものであると、わたしは思います。(五重塔が仏法西漸というのは、この点を鈍らせる話ですが、まあ、それは置いて)
わたしの過程が合っているかどうか、いずれにしても、南面、西面、どちらにしても日蓮の最終的に落着した四大天玉の配置は、どちらでも合致することになります。たぶん、護本尊であったろう御筆では、四大天玉が勧請されていないわけです。懐中に折り畳んで所持する訳ですから、この方角がないこともまた、一致するとも思えるわけです。
585
:
犀角独歩
:2006/05/16(火) 06:13:47
松岡幹夫氏の『大石寺門流の本尊書写権に関する史的考察』という文を読んだのですが、これは石山門の僧侶にだけ「上人」をつけるという実におかしな文章でした。論文としては、異常な文体であるというのが第一印象です。
それはともかく、このなかで
「日興上人…特徴は、大聖人の本尊を忠実に『書写』された…中尊…日蓮在御判…大聖人を御本仏と仰ぎ…戒壇本尊を書写した証として「奉書写之」と認められている」(P28)
http://www.totetu.org/h/pdf/k013_024.pdf
という一節があり、吃驚しました。
松岡氏は、彫刻を書写したと断言しているわけです。日蓮を本仏と断言するのも学術畑では異様です。それにしても、よくまあ、こんな嘘が書けるものかと呆れました。
日興の本尊をざっと見ただけでも、「日蓮聖人御判」(正応5年10月13日上行寺蔵ほか)とあるものもあり、また、「奉書写之」の4文字となっていないわけです。
彫刻本尊の座配が“公開”されていないのにもかかわらず、これを忠実に書写したとはよく言ったものだと驚くわけです。
殊に日興書写のはじめを弘安10年10月13日と記すのはよいとしても、この本尊などは天台・伝教が日蓮とほぼ横並びで、その上に天照大神・八幡大菩薩があるという、極めて特異な座配となっているわけです。これは、その後、定型化する石山本尊とも異なっています。
1997年の文章をいまさら取り上げて云々するのも何ですが、この手の文章を臆面もなく、いまだにアップしている東洋哲学研究所と、このサイトには疑問を懐かざるを得ないと慨歎するところです。
586
:
犀角独歩
:2006/10/22(日) 10:44:19
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1694
から移動しました。
独学徒さん
レス、有り難うございます。本尊と漫荼羅については、2002年の段階で、いちりんさんからのご提案があり、スレッドが立って、議論されてきたことでした。
問答さん、Libraさんとも盛んに語り合いました。それでも、いまに至るまで、統一した見解は生まれていません。
よって議論の継続という意味も籠めて、せっかく、スレッドが立っていますので、こちらに移動しました。
門下一般での議論で感じることですが、真蹟遺文に限り、日蓮の素意を探ろうとしても、「自分がいままで信じてきた有様」「自分の所属する門派の解釈」という“まず答えありき”となって、その肯定論として、為にする屁理屈を押しつけることは、著名な学者、権威者のほうも顕著で、その真実を覆うことは、溜息が出るところです。つまり、それらは参考になるどころか、障害となるばかりです。
わたしは思想を考えるうえで、語彙の使用をしっかりと整理しておかないと、解釈者と日蓮の素意がごちゃ混ぜに議論される徒労に引き込まれることになる過悪に何度となく遭遇してきました。これは、学問的な素人ばかりではなく、尊敬を集める学者や、古文書読みの人々にも共通するところで、これを権威と感じる人々は、日蓮の真蹟遺文の言葉ではなく、この権威に泥んでしまうわけでした。
わたしは、そのような弊害を廃し、日蓮その人に真意に迫りたい、ただ思いのみがあります。
既に何度の記したことですが、天台、妙楽といったまだ真言勃興以前の時代を生きた人々に、そもそも「本尊」という語彙の用法はありません。日本天台宗においてはしかし、当然、本尊語の使用が頻繁に行われることになりますが、つまりこれは、真言密教との密接な関係から生じていった習合であるというのが、かつての顕正居士さんのご指摘であったと思います。わたしはその時点で、本尊観は需家からもたらされたものではないかと類推していました。もちろん、この側面もありますが、やはり、顕正居士さんの仰るところが正鵠を得ていたといまは考えています。
少し前の議論で、独学徒さんが三宝に充て、本尊をお考えになっておられましたが、これはなかなかわかりやすいところであろうと思います。さらに広げれば、孝という側面からいえば、親は本尊でしょうし、忠と言えば主君は本尊、また、師匠もまた本尊と見なされ、像に刻まれてきたのが日本という風土でした。また、門下一般でみれば、鬼子母神、七面大明神などは本尊として崇敬され、富士門でも日蓮は御影として本尊とされます。そのような観点からすれば、「漫荼羅も本尊のうち」という見解は成り立つのだろうと思えます。ただ、日蓮の場合、その語彙の用法においては、それほど、ラフな使用の仕方はしていないと観察するわけです。いま、ここで論じることは、門下解釈ではなく、日蓮の祖意です。
さて、学会を含む石山では「本尊と者勝たるを用べし」という一節を切り文解釈し、唯一絶対最勝の本尊を選ぶという思惟に基づき、挙げ句、模造品である彫刻を信じ込ませるという作為を行ってきました。この操作に一度、ひっかっかり、脱却しながら、しかも、それでも、唯一の本尊を選ぶという操作が既定概念として残ってしまっているという様を、わたしは観察するわけです。これは超えるべきハードルの第一となります。
587
:
犀角独歩
:2006/10/22(日) 10:44:48
―586からつづく―
「最高の本尊」へのこだわりは、では、どこから生じるのか、それは日寛義に違いありませんが、その基底をなすのは『本尊問答抄』でしょう。その趣旨に従えば、「法華経の題目を以て本尊とすべし」ということになります。弘安元年の書とされる当抄は日興写本を遺すことから、準真蹟と扱われるわけですが、わたしは、この書にはどうも違和感を禁じ得ません。
わたしが『本尊問答抄』が、本当に日蓮の文なのかと疑うのは、あまりに雑駁な論理展開に不審を懐くからです。
先のも挙げた「本尊と者勝たるを用べし」とする根拠として「法師品…薬王在々処々若説若読若誦若書若経巻所住之処皆応起七宝塔極令高広厳飾」としますが、日蓮は他書で一部(法華経全文)を斥けて題目を採っているのに、この文証は経巻一巻の読・書を言い、さらに経典塔の建立を促すものです。この文では、まったく題目をもって本尊とする根拠になっていません。さらに「天台大師法華三味云於道場中敷好高座安置法華経一部」といいます。言うところの「一部」とは一部分ということではなく、法華経典の全巻を意味するのは古語の用法であるわけです。
この第一問答は、題目本尊と言いながら、その根拠として、法華経典安置をもって充てるという実に杜撰なものとなっています。このような稚拙な問答を日蓮が構えるとは、とうてい信じがたいと言うのが正直な感想です。この有様は、その後の問答でも同様であり、法華経典を根拠に挙げて、題目本尊を証しようとする論の運びは、なんら説得性を有しません。なぜならば、日蓮は法華経典を簡び、題目の五字を採ったからです。
さらに指摘すべき点は、法華経の題目は題目であって、法ではないということです。日蓮の思惟からすれば法華一経の意(こころ)ということなのでしょうが、こころはしかし、法ではありません。さらに言えば、法華経の題目は五字の首題であって、漫荼羅の全体ではありません。つまり、この抄は、法本尊の根拠にも、漫荼羅本尊の根拠にもなっていないわけです。
また、題目本尊と観心本尊は、大きな隔壁があります。この点を顕正居士さんは『本尊問答抄』を真蹟と判断されたうえで、日蓮の心境の変化ととらえていたと記憶します。しかし、わたしは、むしろ、当抄への疑義とする心境を持つ者です。
また、題目を本尊とするとき、三つの法門(疑偽書で三大秘法と称される)における「本門の本尊と戒壇と題目」は、問答抄の題目=本尊の趣旨で読み替えれば「本門の本尊と戒壇と本尊」ということになってしまい、鼎立する三法門は意味をなさないことになります。このような齟齬を来すことが日蓮の教学変化であるとすれば、‘三大秘法’をもって日蓮の極意とすれば、論理矛盾を来すことになるでしょう。
以上が法本尊前夜における、まず第一の疑義です。
588
:
独学徒
:2006/10/22(日) 17:21:48
犀角独歩さん、引き続きの御教授ありがとう御座います。
誠に怠惰ながら、興風談所の「御書システム」の力を借りて、日蓮真蹟遺文(曾存・直弟子写本も除外)に限って、なおかつ「観心本尊抄」執筆後という条件で検索しますと、法本尊をうかがわせる文言は「上野殿母尼御前御返事」に記される内容として以下のものがありました。
『後七日を仏弟子に渡して祈らせしに、馬鳴と申す小僧一人あり。諸仏の御本尊とし給ふ法華経を以て七日祈りしかば、白鳥壇上に飛び来たる。』
ここでは法華経をもって、「諸仏の御本尊」と述べられています。
但しこれは、「経」をもって「法」と考えた場合のことです。
また「漫荼羅」をもって「本尊」とすることをにおわせる記述として、「是日尼御書」の以下の文言が確認されます。
『又御本尊一ふくかきてまいらせ候。霊山浄土にてはかならすゆきあひたてまつるへし。恐恐謹言。』
これら「法本尊」「漫荼羅本尊」をうかがわせる文書が希少なのに比べ、「釈迦仏本尊」については、「善無畏抄」や「報恩抄」のほか、「法華行者値難事」においても、次の如く述べられています。
『追って申す。竜樹・天親は共に千部の論師なり。但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまはず〈此れに口伝有り〉。天台・伝教は之れを宣べて、本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字と、之れを残したまふ。所詮 一には仏授与したまはざるが故に、二には時機未熟の故なり。』
この『本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字』から観取される「本門の本尊」は、まさしく釈迦仏以外に考えられません。
しかして、蓮師の教示に「法本尊」「漫荼羅本尊」という本尊観が皆無であるとは言い切れないものあるように感じられます。
加えまして、「新尼御前御返事」に多用される「此の御本尊」という表現は、文意からは「漫荼羅」を指しているように感じられます。
この点につき、御見解、御教授の程お願い申し上げます。
589
:
犀角独歩
:2006/10/22(日) 19:01:54
588 独学徒さん
今回のご投稿の由は、2002年春頃、問答さんと議論した内容と重複していますが、その後、考えの変化も当然ありましたので、再度、記すことといたします。
> 法本尊をうかがわせる文言は「上野殿母尼御前御返事」に…馬鳴と申す小僧一人…諸仏の御本尊とし給ふ法華経…「経」をもって「法」と考えた場合
この文は、まず、日蓮漫荼羅について論じていると言うより、諸仏と馬鳴のことを記したものですね。また、諸仏が本尊とするところを、凡夫が直ちに本尊とするのは可なのかという問題提議ができます。なぜならば、文字が同じでも、上行所伝されていない妙法五字を持っても日蓮の教義からすれば、意味をなさないからです。
また、仰せの通り、これは法ではなく、経典です。法華経本尊とは経典本尊であり、法本尊とは別であると思いますが如何でしょうか。ちなみに石山・学会教学では、法=法華経=題目=本尊と同一視することに成り立っていますが、日蓮の教学は、そうはなっていません。
> …「是日尼御書」…御本尊一ふくかきてまいらせ候
この文は、2002年4月の段階で、わたしも当スレッドの冒頭で引用し、独学徒さんと同様の提議を行っています。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/3
ただ、これは断片で、資料としてはやや不足があるように思えます。この点はあとで述べます。
> …「法華行者値難事」…本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字…「本門の本尊」は、まさしく釈迦仏以外に考えられません
これはまさにそのとおりであろうと存じます。『開目抄』には
「諸仏を本尊とする者釈尊等を下す…天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり…倶舎・成実・律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり…法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす…華厳宗・真言宗は釈尊を下て盧舎那・大日等を本尊と定…仏をさげ経を下。此皆本尊に迷…人皆禽獸に同ぜし…寿量品をしらざる諸宗の者畜同…寿量品の仏をしらざる者父統の邦に迷る才能ある畜生」
と言います。尤も同抄は焼失していますから、真蹟資料とすべきかは議論がわかるかもしれません。
592
:
犀角独歩
:2006/10/22(日) 19:09:13
―589からつづく―
> 「新尼御前御返事」に多用される「此の御本尊」
この書を、問答さんは2002年4月に取り上げられました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/2
執筆は文永12年2月ですから、『法華取要抄』と『撰時抄』の間ということになります。つまり、三法門(本尊・戒壇・題目)という自説を敷衍したと考えるのが自然ということになりますね。となれば、言うところの本尊は、先に挙げた『開目抄』の脈絡で、「五百塵…本尊」は『本尊抄』にいう「寿量仏」、『法華取要抄』にいう「本門の本尊」に契当すると見るべきではないでしょうか。
詰めていないのですが、漫荼羅を本尊という用法は、特に「守」「護」「まほり」といった御守本尊で使用が見られるという点で、一字三礼さんとわたしは意見を同じくしております。
やや雑駁な分類の仕方になりますが、日蓮漫荼羅の場合、四大天玉が四角に置かない図は、御守と見なしてよいのではないと、わたしは考えます。ですから、『是日尼御書』にいう本尊は、こちらではないのかとわたしは類推します。
ちなみに、創価学会の携帯本尊なるものは、この形式ではない漫荼羅を縮小して御守のごとく扱っていますが、如何にも素人騙しという観を否めません。尤も、これは携帯本尊ということで、御守とは区別されるのでしょうか。しかし、そうなると、携帯本尊とは何ぞや?という疑問は彷彿とします。脱線しました。
日蓮は観心本尊(寿量仏/三身所顕無始古仏)といったのちに、本門本尊を言います。ここに飛躍があるわけはありません。本門本尊が観心の寿量仏であり、その脇士が四菩薩、そして、戒壇と題目の三つを立てる法門にぶれがあると思えません。
本尊とは己心に観じるところ、口に唱えるのは、上行から伝わる一念三千の珠を裏(つつ)む妙法蓮華経の五字、戒壇とは、彰往考来さん、れんさんも頷かれた尊敬する都守基一師が『大崎学報』第154号所蔵論文で明確化された『取要抄』の「雖然 伝教大師 天台所存所残一事得此之上 天台未談之迹門円頓戒壇始日本建立之 仏滅後千八百余年 月支漢土日本無之 第一大事秘事也 問云 天台伝教所残之秘法何物乎」から師が結論される「「本門の戒壇については、従来聖人自身による説明がないために、あるいは理の戒壇、即是道場の戒壇という理解も行われてきた。しかし以上の文脈による限り、本門戒壇とは伝教大師が叡山に建立した迹門円頓戒壇に続いて、末法の時代にどこかに建立されるべき事相の戒壇の意であると理解するのが自然である」(P121)でしょう。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html
日蓮における本尊観は、本尊・戒壇・題目と鼎立する以上、寿量釈尊以外であるはずはないと思います。ただし、先にも種々挙げましたが、鎌倉時代、本尊とは、広い意味で使われていたわけですから、その用法から在家教化の消息文で、漫荼羅、もしくは御守符を本尊と記すことがあっても、齟齬を来したと見る必要を、わたしは感じません。
593
:
独学徒
:2006/10/22(日) 21:32:26
犀角独歩さん、今更ながら私の議論がいかに過去の議論の蒸し返しかと、恥ずかしくさえ思います。
これまでに既に出尽くした議論で、お時間をとらせてしまい恐縮です。
これも既に解決済みのことかもしれませんが、敢て恥を覚悟で質問させていただきます。
尊敬する先生の御所論では御座いますが、「戒壇」について「末法の時代にどこかに建立されるべき事相の戒壇の意」との事ですが、これでは一大秘法の「南無妙法蓮華経」、所謂「本門の題目」に集約されるようには思えません。
富士門所伝の如く、広宣流布の時は仏像建立、それに至るまでは大漫荼羅をもって本尊とするという考えは、既に大漫荼羅それ自体が「仮本尊」としての役割しかないということになります。
しかし日興は、「本門寺に懸け万年の重宝」と添書するわけで、これは広宣流布しようとしまいと、大漫荼羅は本門の寺の「末法万年の重宝」というわけです。
私は日順・日代の思想に反しますが、日興のとった振舞から考えれば、大漫荼羅を奉掲したる場所こそが「戒壇」なのではないかと考えます。
「本門の本尊」たる教主釈尊、「本門の戒壇」の証たる大漫荼羅奉掲の道場、口唱するところの「本門の題目」、このように考えれば宝前の様相は、犀角独歩さんも仰せになられていましたが、大漫荼羅と釈尊は同所に置かれてこそ初めて三大秘法の整った修行の場となるのではないでしょうか。
つまり大漫荼羅の役割は、守りとしての役割のほか、奉掲の場所を直ちに「本門の戒壇」とする役割があったのではないでしょうか。
そうであれば時代が下るにつれ「戒壇の証」が「戒壇の本尊」、そして大漫荼羅そのものが、「本尊」と誤解されるようになっていくことも十分に考えられます。
そして「本門戒壇の大御本尊」として、特化した大漫荼羅が、富士門から出現して行くことも十分におこりうるものだと思います。
以上、根拠薄弱な個人的思いの強い投稿となりましたが、御教授いただければ幸です。
594
:
犀角独歩
:2006/10/23(月) 11:19:38
593 独学徒さん
> 一大秘法の「南無妙法蓮華経」、所謂「本門の題目」
「南無妙法蓮華経」と「妙法蓮華経」は、なかなか微妙なところです。
「其所属之法何物乎。法華経之中 捨広取略 捨略取要。所謂妙法蓮華経之五字名体宗用教五重玄」(曽谷入道殿許御書)
ただし、これを是好良薬として受ける側からするとき「南無妙法蓮華経」となるのでしょう。
「是好良薬寿量品肝要名体宗用教南無妙法蓮華経是也」(本尊抄)
この薬はしかし、衆生が直ちに取ることはできません。遣いによってもたらされるわけですね。「遣使還告」がそれです。では、この薬(妙法蓮華経)を仏に所属され、遣いとされたのが上行を代表とする四菩薩である。故に末法にいたるに、ただ、この秘法の肝要のみが残されていた、というのが日蓮の主張です。
この所属の妙法蓮華経の受持、南無妙法蓮華経の口唱を、では、何に向かってするのかという問いは、実は漫荼羅・本尊を考えるうえで大きな問題なのだとわたしは考えます。妙法蓮華経に対してでしょうか。わたしは違うと思います。その本来の所持者、仏に向かってではないでしょうか。そして、その遣いをとして、自分にこの良薬(妙法蓮華経)をもたらしてくれた菩薩に向かってということになりませんか。なぜ、寿量久遠仏に向かうのか。それはすなわち久遠下種覚知から仏恩にいたるからでしょう。しかし、この妙法蓮華経は既に上行等四菩薩に所属されたものですから、その仏との取り次ぎに四菩薩が介在します。となれば、仰ぐ寿量本仏の様式はすなわち一尊四士となるということでしょう。しかし、これは仏像の話ではなく、己の心に観じる本尊であることが第一義です。所属の正体を‘伝える’具体的な方途が漫荼羅図示授与であったと、わたしは拝察します。
そしていつしか、その日蓮の教えを仰ぐ為政者が出現し、堂塔伽藍を建立すれば、そこにその久遠寿量本仏と四菩薩を建立し、ついには、迹門戒壇に代わる、本門戒壇もなることを日蓮は標榜していたのだと考えます。(詳しくは、機会を得ればそのときに記しますが、寺院仏像の建立は在家為政者の所行という考えを日蓮は有していたと考えます)
本尊は仏か・法か、いわゆる法勝人劣、もしくは法華経勝仏劣という勝劣論は、わたしは勝劣派ならではなの悲しき性がいたす選択(せんちゃく)なのだと思えます。仏も法も、共に尊いのでしょう。
たとえば、ある人が「この薬をあの人にあげなさい」と、遣わしてくれたとします。その薬を飲んで病が癒えたとき、「薬のおかげで治った。薬をくれた人のおかげでも、遣いのおかげでもない」と考えるのでしょうか。薬をくださった方、それを持ってきてくれた方に感謝の念が生じるのではないでしょうか。わたしは薬をくださった方に手を合わせます。そして、遣いに感謝し、薬を正しく服用するでしょう。
この薬とは教法であり、それはもちろん妙法蓮華経でしょう。その効能はつまり本仏釈尊と菩薩を己心に観じるところに三千を成就することですね。
この服用方法は信心口唱で、南無妙法蓮華経となるのでしょう。
では、南無妙法蓮華経に向かって、南無妙法蓮華経と唱えるのでしょうか。そうではなく、南無妙法蓮華経と本仏釈尊に向かい、誓い唱えるということでしょう。本門寿量本仏に向かって唱えるところが本門の題目であるということではないでしょうか。南無妙法蓮華経が漫荼羅なら、本仏は仏像です。以上が日蓮の思惟であろうかと存じます。
> 富士門所伝の如く、広宣流布の時は仏像建立、それに至るまでは大漫荼羅をもって本尊とするという考えは、既に大漫荼羅それ自体が「仮本尊」としての役割しかないということになります。
595
:
犀角独歩
:2006/10/23(月) 11:20:15
―594からつづく―
ここからは派祖日興以降の論議となりますね。
> …日興…広宣流布しようとしまいと、大漫荼羅は本門の寺の「末法万年の重宝」…奉掲したる場所こそが「戒壇」…道場
日興がこのように考えていたかどうか、その資料は実に乏しいわけですが、少々考えてみたいところです。
> 大漫荼羅の役割は、守りとしての役割のほか、奉掲の場所を直ちに「本門の戒壇」とする役割があったのではないでしょうか。
ならば、なぜ日興が「本門寺奉懸」と添え書きした大漫荼羅はいずれの寺にもかかっておらず、その寺が本門寺と呼ばれていないのでしょうか。わたしは寡聞にして存じ上げませんが、当の重須本堂、本門寺を名乗る各寺院では、では、日興が「本門寺奉懸」と記した漫荼羅がかかっているのでしょうか。
また、日興、そして、日目、日郷が天奏にかくも執念を示したのでしょうか。
つまり、このことこそが、戒壇未成就を示すことなのだとわたしは考えます。
この意味において、日興は、日蓮の戒壇義をある程度、そのままに継承していたのだろうと思えます。(戒壇は遺された密事であるということです)
ただし、その本尊義、もっと言えば漫荼羅に関する考え方は、日蓮、日興では大きく違っていると思えます。日蓮における漫荼羅図示は伝法証符の意味合いを持ち、しかし、日興にとっては、漫荼羅は本尊となっていった相違です。さらにその重須において、やがて漫荼羅は未来建立の戒壇堂の仏像奉安を示す図と解釈されるにいたり、さらに漫荼羅正意の偏執と、日蓮御影信仰の勃興は、仏本尊廃棄へと傾いていったと整理できようかと存じます。
なお、戒壇と道場は、その意義を大きく異にするのではないでしょうか。
日蓮は比叡山において菩薩戒を受けた人なのです。日昭にしてもしかりでしょう。他の阿闍梨号を有す弟子方は、どうであったのか、この点は実に悩ましい問題であるわけです。『取要抄』から看取できる日蓮の戒壇建立構想はしかし、比叡山戒壇を否定したところにあったようには思えません。その点は日興門下でも同様で、その証左が日順の比叡山遊学です。
現代となっては戒壇・受戒など等閑にされたところですが、この現代感覚で、戒壇を考えれば、上古の意味は取れないでしょう。
一方、道場とは、法華修行の場であって、受戒の場・戒壇とはその意義が違います。これは憶測の域を出ませんが、漫荼羅奉懸をもって、道場荘厳とした可能性は大いにあり得るとわたしは考えています。殊に日蓮の弟子僧の多くは、天台宗寺院寓居の修行者であり、いわば法華宗(天台宗)日蓮派といった立場であったわけでしょう。寓居する各寺院には、それぞれの本尊(仏像)が安置されてあるのは当然です。そこにおいて、日蓮が一門の道場として、かりそめの道場と荘厳する具として、漫荼羅奉懸はあったのではないかと想像します。
> 「戒壇の証」が「戒壇の本尊」、そして大漫荼羅そのものが、「本尊」と誤解されるようになっていく
これは、日興からも乖離する何ら重宝を有していなかった日目・南条の私寺が祖師・派祖の意図も汲めず画策していったところなのでしょうね。
> 「本門戒壇の大御本尊」として、特化した大漫荼羅が、富士門から出現
ここに至る経緯はかなり複雑であり、この一連の歴史推移を認識することは骨が折れます。何より、現代の各集団のアナウンスがまったくのご都合と捏造にまみれているために事実を覆い隠しもしています。また、日興から重須、京、西山、保田という広がりから、石山での特化はそれぞれ別事として整理する必要もあります。
> 口唱するところの「本門の題目」…宝前の様相…犀角独歩…大漫荼羅と釈尊は同所に置かれてこそ初めて三大秘法の整った修行の場
釈迦仏像を置き、漫荼羅も奉懸すれば、道場でもあるという気分を有します。また、私事として、菩薩道誓戒の場として道場を考えれば、個における戒壇と安ずることはできようかと存じます。
596
:
独学徒
:2006/10/23(月) 21:34:54
犀角独歩さん、
594での御教示、誠にその通りと思いました。
>では、日興が「本門寺奉懸」と記した漫荼羅がかかっているのでしょうか。
これにつきましては、それを証明する資料は全く存じ上げません。
憶測の域を出ませんが、当初は安置され、やがて宝蔵へしまいこまれたのかと想像はしています。
それでも日興添書のある大漫荼羅が他門あるということは、奉掲していたどころか売ってしまったという、全く犀角独歩さんの御指摘を裏付ける事実のみ明確なところは、なんとも言い訳もできないところであります。
私は、本門本尊が為政者によって造立され、本門戒壇も為政者によって建立されるとなりますと、蓮師の残したものは本門題目のみということになります。
しかし大漫荼羅は未曾有のものでありますし、それ相応の用途があったのではないかと思えてならないのです。
そのため真言における曼荼羅の用途を、執拗にお聞きしたりしていました。
「摩訶止観」、凡夫が心(摩訶)を止まって(止めて?)観る為の道具か。もしくは「観心本尊」、凡夫が心に本尊を観るためのイメージトレーニングの道具か、などを愚考し、意見させていただきました所存です。
「戒壇」と「道場」の意義の違い、御指摘ありがとう御座います。
大漫荼羅奉掲の場所を持って「戒壇」とする愚考は、国主帰依無きゆえに、本門本尊はないけれども、大漫荼羅奉掲の場所を「戒壇」と考えれば、後代の門下が叡山に行かなくとも受戒を受け出家得度する場所は確保できる。
そんな発想も成り立つのではないかとの愚考でもあります。
>また、日興、そして、日目、日郷が天奏にかくも執念を示したのでしょうか。
私もこれらの天奏は、「本門戒壇」建立の懇願とずっと思っていたのですが、ここ数日は「本門本尊」造立の懇願ではないかと考え始めているところです。
つまり「本門本尊」未成就のため、天奏を繰り返したのではないかと。
それがいつの間にか、大漫荼羅をもって「本門本尊」との誤解がはじまり、それによって「本門戒壇」未成就の思想に代わっていったのではないかと愚考し始めたところです。
>かりそめの道場と荘厳する具として、漫荼羅奉懸はあったのではないかと想像します。
これも非常に頷けるご投稿です。
本門本尊が国主造立とすれば、各地の門下・信徒のところでは、特に一尊四士の造立のできない場所では、大漫荼羅奉掲をもって道場を荘厳することは、もっとも自然な感じがします。
ここ数日の議論は、私は何一つ資料を使いこなせることなく、愚考を書き連ねる状況が続いております。
これも私が、何もわかっていない何よりの証左かと存じます。
お付き合いいただいております、犀角独歩さんの学恩に心より感謝申し上げる次第です。
597
:
犀角独歩
:2006/10/25(水) 09:45:35
596 独学徒さん
> …本門本尊…本門戒壇も為政者によって建立…蓮師の残したものは本門題目のみ
なるほど、そのようなニュアンスで受け止めていらっしゃいましたか。
より正確に素描してみますか。
日蓮が、敢えて「本門」とことわるのは、迹面本裏と成句される天台は方便品(迹門)諸法実相をもって表とするわけですから、ここに両師の相違は明らかです。では、「本門の」とするところは三つの法門であるというわけです。つまり、日蓮は本尊、戒壇、題目の‘法門’を遺したわけです。それに受持する未来の為政者はしかし、その法門に基づいて、本門の本尊像、つまり、一尊四士という奉安様式の仏像を建立するわけです。こちらは仏像です。つまり、日蓮は法を伝持、為政者は仏像を造立するという役割の差です。この点は戒壇も同様です。
ですから、日蓮が本尊、戒壇を遺さないというのは、やや不正確な表現ではないかと思います。
> 大漫荼羅は未曾有…それ相応の用途があった
これは、わたしももちろん、そう思います。
執行師の言を籍りれば、己心の釈尊の、その己心を表現したわけですから、しかし、たしかに未曾有に相違なきところと存じます。
> 「摩訶止観」
わたしは何度となく記してきましたが、『摩訶止観』について、たとえば、同書を岩波文庫で発刊した関口真大師は
「摩訶止観10巻は、仏教史上にあらわれた最大かつ最も懇切な座禅の指導書であり、すなわちまた禅の指南書である」(岩波文庫9頁)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117694/33
というわけです。
598
:
犀角独歩
:2006/10/25(水) 09:46:38
―597からつづく―
では、「摩訶」とmahāの音写で、「偉大な」といった意味合い、止観については、たとえば、『日蓮宗事典』では以下のように記されます。簡潔なので説明に換えます。
「止は梵語 s'amatha, 観は Vipas'y-ana ̄の訳語。本来止と観とは別個のものであるが、二つを併称することによって、一つの用語を形成している。また「止観」と言った場合、天台大師智邈によって講説された『摩訶止観』を指す場合もある(聖人の用例)。更にまた智邈が主張した、漸次・不定・円頓の三種止観を略称するものと解される場合もある。
止観は天台大師智邈によって、最も重んじられたので、それは智邈によって提唱されたものの如く思考されるが、既にこの止観については阿含経典に諸説がある。しかもこれらの叙述は端的に止観の意味を伝えているものとして注目される。即ち『長阿含経』巻九に、「云何が二の修法なる、謂わく止と観となり」といい、また『増一阿含経』巻一一には、「阿練比丘は常に二法を修行すべし。云何が二法なるや、所謂止と観となり」と説かれている。『成実論』巻一五には止観品があり、次の如く叙述される。「問うて云く。仏は処々の経中に諸比丘に告ぐ。若しくは阿練若処に在るも、若しくは樹下にあるも、若しくは空舎にあるも、応に二法を念ずべし。所謂止と観となり。若し一切の禅定等の法皆悉く応に念ずべきに、何が故に但だ止観のみを説くや。答えて曰く。止は定に名づけ、観は慧に名づく。一切善法の修より生ずるものは、此の二を皆摂す。及び散心に在る聞思等の慧も亦此の中に摂す。此の二事を以って能く道法を弁ず。所以は何如ん。止は能く結を遮し、観は能く断滅す。止は草を捉うるが如く、観は鎌にて刈るが如し。止は地を掃うが如く、観は糞を除くが如し。止は垢を掃うが如く、観は水にて洗うが如し。止は水に浸すが如く、観は火に熟するが如し。止は癰に附するが如く、観は刀にて決するが如し。止は脈を起すが如く、観は血を刺すが如し。止は制して心を調え、観は没する心を起す。止は釜に灑ぐが如く、観は火に炙るが如し。止は繩を牽ぐが如く、観は[戔*(利-禾)]を用うるが如く。止は鑷にて鑷刺するが如く、観は剪刀にて髪を剪るが如し。止は器諟の如く、観は兵[木*(祓-示)]の如く。止は平立の如く、観は箭を発するが如し。止は膩を服するが如く、観は薬を投ずるが如し。止は泥を調するが如く、観は印を印するが如く。止は金を調するが如く、観は器を造るが如く。又世間の衆生は皆二辺に堕す。若しくは苦、若しくは楽なり。止は能く楽を捨し、観は能く苦を離る。又七浄の中の戒浄心浄を止と名づけ、余の五を観と名づく。(略)七覚分の中の三覚分を止と名づけ、三覚分を観と名づけ、念は則ち倶に随う。八道分の中、三分を戒と名づけ、二分を止と名づけ三分を観と名づく。戒は亦止に属す。又止は能く貪を断じ、観は無明を除く」とある。これによって、止と観とのそれぞれがおよそ判明するが、止とは境であり、観とは智であることが一般的な止と観の意味である」
([]はJIS外 参)
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/gaijihyoki.html
)
599
:
犀角独歩
:2006/10/25(水) 09:47:36
―598からつづく―
> 「観心本尊」、凡夫が心に本尊を観るため
凡夫が、ですか。所謂「一心三観」における空化中を三身所顕無始古仏と観ていくことですから、凡夫のよくなせるところではないのでしょう。ですから、形貌によって、それを示す必要があります。すなわち、仏像です。
参)「若一法一切法 即是因縁所生法。是爲假名假觀也 若一切法即一法 我説即是空空觀也 若非一非一切者即是中道觀。一空一切空無假中而不空 總空觀也 一假一切假無空中而不假 總假觀也 一中一切中無空假而不中 總中觀也。即中論所説不可思議一心三觀」(摩訶止観5)「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也」(本尊抄)
これを万人にわかるように書き表したのが漫荼羅などといいますが、日蓮在世時代、一般民衆の識字率はいうに及ばず、武士階級でも四人に一人ほど、読めなかったというわけですから、文字漫荼羅は、知的特権階級の具であったことが知られます。仏像画以上に民衆には難解であったことでしょう。であるからこそ、唱題という行が有効であり、かつ、視覚に直接、訴える仏像が望まれたのではないでしょうか。
> 「戒壇」とする愚考は、国主帰依無きゆえに、本門本尊はないけれども、大漫荼羅奉掲の場所を「戒壇」と考えれば、後代の門下が叡山に行かなくとも受戒を受け出家得度する場所は確保できる。
これは戒壇の根本的な意義を欠いていませんか。
たとえば、東大寺戒壇院について、以下のような説明があります。
「大仏開眼より2年後、聖武天皇は唐から鑑真和上を迎えて大仏殿の前に戒壇を設けました。そこで天皇、皇后をはじめ500人が受戒」
http://www.crdc.gifu-u.ac.jp/mmdb/marc4/nara/toudaiji/21.html
天皇の受戒、これは大きなキーワードです。
伝教が比叡山に戒壇院を勅許されたことにより、国家公認の僧の受戒をこの場で行うことができるようになったわけですが、日蓮においては、意義はそこに留まらないと、わたしは考えます。
簡潔に記しますが、大乗戒壇、ここで授けられるところは「菩薩」戒です。以下の『本尊抄』を想い出してください。
「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王」
賢王は菩薩であるというのです。天台・伝教已来の佳例を踏む日蓮が「菩薩」であるというとき、それは法華受戒を受けた王であることを意味します。つまり、王が菩薩であるためには、受戒を絶対の要件とするのであり、そのためには戒壇は不可欠であるということです。本門本尊仏像を造立する王が受戒を受けるに相応しい場、それは迹門戒壇でしょうか。本門戒壇ではありませんか。
この戒壇は修行のための道場とは、根本的に意味を異にします。
『以一察万抄』『取要抄』に、日蓮が未来事相戒壇建立を密事としながらも標榜したのは、本門本尊寿量仏像を奉安する寺院建立において、折伏を現ずる折伏菩薩の賢王は、まず、本門戒壇において戒を日蓮の許に受け、菩薩の菩薩たる所以を具体的に対してのち、本門本尊堂を建立していくという図式を意味していませんか。
以上のことは、中世における檀家制度、さらに民主国家の現在とは遙か隔世の感に霞んだ、鎌倉往時の、日蓮の思惟であったと、わたしは拝します。現代の感覚で推し量っては想像だにもできないところでしょう。
600
:
今川元真
:2006/10/25(水) 16:25:48
横レス失礼致します。 日蓮聖人は四箇格言を鎌倉時代の僧の有様から言う。そして、天台密教から法華一乗を思考する。法華経(心)漫荼羅、仏像(色)行者、衣装(事実?)茶・糞雑衣(ゴウタマ・シッダルタ応誕を意識→経典から出る尾鰭の広がり方も考え方の一つひとつ)、灰・位階出自隔て無い(権威権力を持つ人々を意識して当然)
601
:
今川元真
:2006/10/25(水) 16:43:31
21世紀の学問【仏教経典・法華経・諸経の王、シャクソン・教主、日蓮・導師、漫荼羅・養育親】【法華経受持、如意宝珠・一念三千、如来神通力・陀羅尼真言、自然治癒力】【漫荼羅を信じさせ給え、信・仏、学・法華経、行・唱題】 先師先達と奉る訳では無いのですが、犀角独歩さん関係者各位の皆さんの知識情報意見を開示して頂ければと思います。 其れから管理人さん関係者各位方々、挙証出典に真、偽、未決、等書いて頂ければと思いますが、如何でしょうか。宜しくお願いします。
602
:
犀角独歩
:2006/10/25(水) 19:09:11
今川元真さん
> 知識情報意見を開示
この意味を斟酌しかねるのですが、もう少し記していただけませんか。
603
:
独学徒
:2006/10/25(水) 19:28:02
犀角独歩さん、今回は何度目から鱗が落ちたかわかりません。
大漫荼羅の用法についての愚論を、散々述べさせていただきましたが、犀角独歩さん御指摘の通り、漢字の読めない人が大半であった時代に、文字漫荼羅では何のイメージもできようはずがありませんね。
また蓮師は盲目乗蓮にも大漫荼羅を授与していることから、肉眼で文字漫荼羅をみて何かの修法とすることは、あらためて考えずらいと思いました。
また本門戒壇が賢王の菩薩戒受戒の場所との御教授、私は想像もしていなかった事でした。
やはり私には、正本堂=本門戒壇という概念が残っていたのでしょう、本門戒壇は信徒が本門本尊の開帳を受ける場、僧侶が受戒を受ける場という考えしかありませんでした。
自分では創価学会をはじめとする、彫刻信仰圏の思想からは脱却していると思っていましたが、思わぬところで自信に内在する彫刻信仰の痕跡を発見させられました。
あらためて感謝する次第です。
ありがとうございました。
最後にもう一つ御教授をお願いいたします。
大漫荼羅の用途、これを犀角独歩さんはなんであるとお考えでしょうか。
604
:
犀角独歩
:2006/10/26(木) 09:47:31
独学徒さん
> 大漫荼羅の用途
いくつかあるとは思います。また、派生的、発展的に、その‘用途’の変遷、もしくは応用はあるとも思います。
しかし、その根本は‘受持’ということではないでしょうか。より正確に記せば、授与であり、受持です。
『本尊抄』に「召地涌千界大菩薩寿量品肝心以妙法蓮華経五字令授与閻浮衆生也」とあります。
菩薩は授与し、衆生は受持する関係です。この五字の具体的な授与と受持とは、たとえば、石山門・日寛の言を挙げれば受持即信心などといいます。要は妙法五字を信じ、唱えるところにその受持があるというわけです。これは間違いとは言えないでしょうが、しかし、肝心の部分を欠いています。この日寛は解釈の五字と受持の関係は、観念に堕しています。
もっと具体的ではないでしょうか。つまり、妙法五字の授与・受持とは漫荼羅の授与・受持なのだと、わたしは近来、気が付きました。
日蓮は「上行菩薩所伝妙法蓮華経五字」(定P815)を、具体的に漫荼羅に記し、衆生に授与したのでしょう。つまり、我らが日蓮が唱え始めた妙法蓮華経を受持するとは、この漫荼羅を受持することをもって実際の事相として実現するのでしょう。単に法華経を読み、遺文を読み、口伝えに妙法蓮華経と唱えただけでは名ばかりのものでしょう。これでは久遠釈尊 ― 上行菩薩 ― 日蓮と受け継がれた妙法蓮華経とは違います。日蓮は自分が受持した五字を、漫荼羅に記し、衆生に授与したのだと考えます。これが日蓮の漫荼羅の‘用途’の第一であろうと、わたしは考えます。
さらに次段階としては、この漫荼羅を受持した法師は、この漫荼羅にある妙法蓮華経を読み諳んじ、そして、上行・日蓮の意を通じて解し説き、そして、また次に‘書写’して、その妙法蓮華経を授与していく無限連鎖が門下一般に広がっていったのでしょう。日蓮義において、妙法五字の受持とは漫荼羅奉戴ということではないでしょうか。
やや話の間口は広がりますが、『新尼御前御返事』では、漫荼羅を、如何様に扱うかを垣間見る思いが、わたしはします。「此五字の大曼荼羅を身に帯し心に存」(定P867)すというのです。別例を挙げれば、まさに『本尊抄』にあります。
「五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」(定P720)
このような点を考慮するとき、漫荼羅は奉安というより、折り畳み、袋に入れ、頚から紐につないで懐中に持していた様が窺えようかと存じます。受持の延長に漫荼羅の‘用途’として、守本尊といった側面が見られることになります。
しかし、これに収まらない大幅の漫荼羅は現存しているわけです。
中尾師の談ですが、現存する漫荼羅を観察すると、「板張り」にされていた形跡があるもの、また、幟のように扱われた形跡があるものが残っていると言います。前者は、道場結界の具という‘用途’であり、後者は布教の旗印として‘用途’であったのかもしれません。しかし、宮殿・厨子に奉安するような仏像と同じような扱いは見られません。
ところで、漫荼羅は五字のみならず、そこに霊山・虚空の有様が図示されています。つまり、これは妙法五字がどのように所伝されていったのかを図式化し、それを示したのではないでしょうか。では、四大天玉は、と言えば、既に戒壇の有様がここに記され、さらに愛染・不動の勧請、さらに経文等の書き込みは、符(祈祷祈願)としての‘用途’も籠められていたことを意味するのだと思えます。これらの様を見るに、実に多岐にわたる要素を日蓮漫荼羅は有していることになります。
いずれにしても、漫荼羅は、上行所伝の妙法蓮華経を、具体的に授与し、受持するという儀式に、その意義があったと観察します。
授与と受持は、血の温もりのある関係であると思えます。
その意味において、図には違いありませんが、その授受に係る意がなければ、それは写真と同じです。妙法五字もまた、ただ形ばかりのものに過ぎません。『御本尊集』の‘本尊写真’が本尊ではないことと同様です。
やや敷衍すれば、この授受の漫荼羅を帯さないものが、造立する一尊仏像四菩薩脇士像も、同じく形ばかりのものということになるのであろうと観察します。
以上が、日蓮の意図した漫荼羅の意義であったと、わたしは考えます。
605
:
問答迷人
:2006/10/26(木) 16:57:50
独学徒さん
犀角独歩さん
>いずれにしても、漫荼羅は、上行所伝の妙法蓮華経を、具体的に授与し、受持するという儀式に、その意義があったと観察します。
犀角独歩さんの、このご見解、全く賛同します。本尊抄と一致し、極めて解かり易く、しかも的を射抜いた見解だと思います。流石ですね。感服しました。
606
:
今川元真
:2006/10/26(木) 21:05:36
犀角独歩さん、間が空いてしまってすいません。私は調べるデータが乏しかったり何を最優先で見易くメモるかで辻褄が合わない事を書いてしまう事が多いです。皆様方の与り知らぬ事とは存じますが、何かしら知識情報を御存じなら教えて頂きたいと厚かましくも書いてしまいました。
607
:
独学徒
:2006/10/26(木) 22:56:54
犀角独歩さん、
問答名人さん、
私も問答名人さんと全くの同意見です。
本尊・戒壇に続き、大漫荼羅の用途につきましても、懇切丁寧に御教授意戴きましたこと、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
608
:
犀角独歩
:2006/10/27(金) 11:30:05
問答名人さん
ご賛同、恐縮です。
独学徒さん
適切なご質問をいただき、答弁することで、管見を整理することができました。有り難うございました。
今川元真さん
お知りになりたい具体的な知識情報をお尋ねいただければ、わかる範囲でお応え申し上げる所存です。
609
:
名無しさん
:2006/10/27(金) 20:24:35
以前書き込みしました名無しと申します。
謹んで犀角独歩さんに率直にお聞き致します。
現在、日蓮系の宗派はたくさんありますが、その中で、一番日蓮の教えに忠実な
(もしくは忠実に近い)宗派はどことお考えでしょうか?
各宗派が自己の優位性ばかり主張してきた過程には、うんざりしています。
嘘やだましもかなり多いようで、本当の事が知りたいですね。
610
:
犀角独歩
:2006/10/27(金) 22:13:38
名無しさん、こんばんは。
> 一番日蓮の教えに忠実な(もしくは忠実に近い)宗派はどこ
ここ数年来、当掲示板で皆さんと考えてきたところから申し上げれば、「ない」というのが率直な答えです。ないから、宗派、学者、権威者の言に惑わされず、日蓮その人を考えようということでした。
ただし、各宗派が悪意を持って日蓮の教えを枉げたというより、700年という時間の経過とは、斯くなるものなのだというのも正直な感想です。
611
:
名無しさん
:2006/10/28(土) 03:41:01
>犀角独歩さん
貴重なご意見、本当にありがとうございました。
これからも、独歩さんの書き込みを拝見するのを楽しみにしています。
頑張って下さいね。
612
:
犀角独歩
:2006/10/28(土) 10:27:25
名無しさん、お励まし、感謝いたします。
少し補足します。わたしは「どの宗派が」といった取捨は選択法として賢明とは思いません。それぞれ、善いところもあれば、悪いところもあるからです。ですから、善いところは採り、悪いところは採らず、人や、権威によらず、真実に基づくという在り方がよいのではないでしょうか。
いまの各宗派、おかしなところも多々ありますし、日蓮に遡源できないことも大半を占めます。しかし、700年来の発展と工夫に叡智を費やしたと思えるところも多くあります。反面、日蓮の素意であるといっても現代にはまったく用いることができない点もあります。これは『法華経』にしてもそうでしょう。
「伝持の人なければ、なお木石の衣鉢を帯持せるがごとし」とは『顕仏未来記』の一節ですが、日蓮の素意・原形教義とは違っても、しかし、いまに菩薩の実践をする人々は多くいます。その菩薩道が、仮に日蓮と違った形であったとしても、わたしは敬意を表します。
名無しさんが、「自己の優位性ばかり主張してきた」という点は、この菩薩の心とは反して映じる部分なのであろうと存じます。
613
:
今川元真
:2006/10/28(土) 18:53:55
犀角独歩さん、ありがとうございます。
614
:
犀角独歩
:2006/10/29(日) 18:20:22
本尊と漫荼羅について、やや管見を記してきましたが、ここで過去の議論も振り返りながら、少し整理しておきたいと思います。
中世以降の石山教学においては
釈迦如来=日蓮=本尊=仏=漫荼羅
法華経典=題目=本尊=法=漫荼羅
という連想によって成り立っているわけです。やや穿った言い方をすれば、御義口伝などにみられる本覚論的な短絡発想がここにあります。このような杜撰な考え方は、では、日蓮にあったのかという問いは立ちます。わたしは「ない」と考えるわけですが、しかしたとえば『本尊問答抄』における 題目=法華経 という挙証の有様は、これに当たると思えます。このことから、この書が真蹟であるか・否か、わたしは大いに疑ってかかるわけです。題目=本尊であるならば、「本尊と戒壇と題目の五字」という鼎立は、本尊と戒壇と本尊ということになってしまうわけで、三法門は成り立たないことになります。
題目本尊への疑問は、以上のような脈絡から思うところです。しかし、仮にこの書を真蹟として自問自答をすれば、『本尊問答抄』にいう題目本尊と、本門本尊は、では、同じなのかという問いは立ちます。
「法華経の題目を以て本尊」(定P1573)というときの法華経とは本迹両門に亘る法華経典の題目を意味すると採れます。一方、『本尊抄』の「事行南無妙法蓮華経五字 並本門本尊未広行之」(同P719)、『法華取要抄』の「此人得守護之力以本門本尊・妙法蓮華経五字令広宣流布於閻浮提歟」(同P739)、『法華行者値難事』の「本門本尊与四菩薩戒壇南無妙法蓮華経五字残之」(同P797)、『顕仏未来記』の「本門本尊与戒壇与題目五字」(同P815)でいう‘本門本尊’とは、迹門を簡んで本門とことわるわけです。
わたしが‘法本尊’という成句を奇異と感じるのは、迹門・諸法実相に事起こり本尊を陳べれば、それは一念三千法界からのことであるから、法本尊といえないこともないながら、本門寿量は、五百塵点成道という釈迦‘仏’を説く段であれば仏本尊に相違ないからです。つまり、本門とことわって本尊を陳べるのであれば、それは久成の釈迦‘仏’と最初一番成道・初発心の弟子‘四菩薩’との物語ということです。迹門・諸‘法’実相を簡んで本門本尊を取るという脈絡が看取できます。
では、この本門本尊と、法華経(本迹両門)題目の本尊と、それが同意なのでしょうか。
かつて問答さんと「法華経が先か、釈迦仏が先か」という議論をさせていただいたことがありました。これはまた、敢えて勝劣論的に記述すれば、法華勝釈迦劣という思弁を日蓮が有していたかどうかという問いでもあったわけです。妙法華・提婆品第12には「吾於過去 無量劫中 求法華経」と明記されるわけです。これを受けて日蓮は『日妙聖人御書』に「かの不軽菩薩は今の教主釈尊なり。昔の須頭檀王は妙法蓮華経の五字の為に、千歳が間阿私仙人にせめつかはれ身を床となさせ給て、今の釈尊となり給」(同P643)というわけです。つまり、不軽=檀王=釈迦仏とことわったうえで、因位において妙法蓮華経五字によったというわけです。この点は、たとえば『祈祷鈔』において引用される「諸仏所師所謂法」という『涅槃経』の文を、「涅槃経には諸仏は法華経を恭敬供養すべしと説せ給へり。仏此法華経をさとりて仏に成」という法華・涅槃の見地から即断していくわけです。ここでいう法華経とは、『十章鈔』「阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時必ず止観なりき。口ずさみは必南無妙法蓮華経なり」(同P489)から類すれば妙法五字であるといえることになります。この文から、題目が本尊という結論が導き出されるわけではありませんが、生仏(衆生=凡夫・仏)ともに「口ずさみ」は妙法五字というのが日蓮の思弁であることが知られます。
敢えて、真蹟未遺を採って勘がえます。『立正観抄』には「此妙法諸仏師也。如今経文久遠実成妙覚極果仏之境界非爾前迹門之教主・諸仏・菩薩境界。経唯仏与仏乃能究尽者迹門界如三千法門迹門仏当分究竟辺説也。本地難思境智妙法迹仏等思慮不及。」(同P848)といいます。この迹仏の辺から一重立ち入るところに本門本尊を立てるのが日蓮の三法門における「本門本尊」ではないのか。とすれば、本門本尊は題目本尊を簡んだところの日蓮御立法門であり、『本尊問答抄』は、その先序の本尊を通じて語ったものに過ぎなかったのではないのかというのが、わたしの管見です。
諸賢の叱正を仰ぐものです。
615
:
犀角独歩
:2006/10/30(月) 08:11:37
一晩経って、読み直すと、自分の文章ながら、気に入らぬところが目に付くものです。
> 先序の本尊を通じて語ったものに過ぎなかった
この表現は意を尽くしていません。少し補足します。
┌法華経の題目=法華全編の題名
└─本門の題目=従地涌出品第15〜普賢菩薩勧発品第28の題名
文字通り読めば、上記のごとくなります。先の独学徒さんとの議論でも引用しましたが、「本迹雖殊不思議一」(文句)と至極されるのにもかかわらず、敢えて本門立てに日蓮は論じるわけです。
「師に握拳なし」ということは、日蓮には言えないわけです。
顕説と密事ということが適宜な表現かどうか一考の余地はありますが、いまは、これを採ります。仮に『本尊問答抄』が真蹟であったとすると、日蓮は顕説として法華経題目本尊を表にし、四菩薩にかかる密事として三法門を立て、ここに一重立ち入り迹門を簡んで本門立てに本尊と題目を論じたのではないのか、という仮説をわたしは考えたということです。
616
:
天蓋真鏡
:2006/11/01(水) 08:17:17
おはようございます。 手紙形式での挙証で確認するしかない訳ですから、具体的に詳しくは判らないかもしれないと言う事でしょうか。 本仏の像と本尊顕説の漫荼羅は一対として戒壇堂に掲げるべきだと論じる事ができますか。 私は極端でも信心学問修行を進められるのは漫荼羅しかないと論じたいのですけど。
617
:
犀角独歩
:2006/11/01(水) 09:14:27
天蓋真鏡さん
おはようございます。
『本尊抄』から整理すると、以下のように、わたしは考えています。
四菩薩┬摂受 ― 僧侶 ― 妙法五字授与 ― 漫荼羅
└折伏 ― 賢王 ― 寿量本仏像と、その奉安堂塔伽藍の建造
さらに『本尊問答抄』を真蹟として扱えば、
┌題目 ― 今番下種 ― 法華経題目の本尊 ― 拡大解釈として漫荼羅本尊
三法門┼戒壇 ― 賢王の本門戒壇の建立
└本尊 ― 久遠下種 ― 久遠本仏・四菩薩像本尊
以上、有徳王・覚徳比丘の故事から王仏冥合の見地から御立てたのが日蓮の法門であると観察します。
ですから、信仰面から、己を今番下種(いま釈迦の末法に生まれてはじめて下種されたという見地)漫荼羅本尊(派祖以降は祖師像も)、久種(久遠五百塵点、初発心の弟子四菩薩結縁による下種と見れば)一尊四士と、奉安本尊に格差が出るのではないでしょうか。
もちろん、‘くに’としての寿量本仏像・堂は、四菩薩賢王のなすことなので、各家庭での奉安は、各個人の感得の話ということです。
※上記図が、崩れて表示される方は、以下を参考してください
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html
618
:
犀角独歩
:2006/11/01(水) 09:59:37
また、補足します。
『本尊問答抄』を真蹟として扱わない場合は以下のとおりです。わたしは、どちらかというと、この立場です。漫荼羅は、妙法五字授与・受持の允可の証といった感覚でとらえます。
┌題目 ― 今番下種 ― 法華経題目の授与 ― 受持の漫荼羅
三法門┼戒壇 ― 賢王の本門戒壇の建立
└本尊 ― 久遠下種 ― 久遠本仏・四菩薩像本尊
619
:
天蓋真鏡
:2006/11/01(水) 15:44:11
出かけていたのですみません。 【摂受&折伏の立て分けはなるほどですが、奉安本尊は仮の本尊ですか。允可証は末法無戒の戒壇の役割を果たさないのか。+戒壇は授与の場でしょうか、と質問がでます。】【「諸経の王・法華経→天台密教→法華一乗、本尊表現変化(幟、板貼、守札)、本仏(主師親)シャクソン色像・三法門(本尊・戒壇・題目)漫荼羅心図・法華経行者」上行→不軽→沙弥】
620
:
犀角独歩
:2006/11/01(水) 19:58:21
天蓋真鏡さん
ちょっと、ご質問の趣旨が斟酌しきれないのですが、思う範囲でお応えします。
> 奉安本尊は仮の本尊
これは漫荼羅本尊のことを指してのことでしょうか。
「仮」というより、仏像は久種により、漫荼羅は今番下種の差かと。
僧侶はあくまで漫荼羅授与が至極とするわけですから、自ら漫荼羅を下した国主が、やがて、本仏像・堂を建造するのを待つひねもすよもすがらということと考えます。
> 允可証は末法無戒の戒壇
これは、意味を採れません。ただ、一点。無戒の戒壇ということは論理矛盾です。戒壇を謳う日蓮が戒を当然、重視したでしょう。いわゆる菩薩戒です。
重須の地から日順が比叡山に遊学したことは、当然、この受戒を意味したでしょう。また、日興、日目、日郷、日尊などの天奏は、本門戒壇建立から、寿量本仏像・堂の造立・建立を目指したものであったと読みます。
> 戒壇は授与の場でしょうか
いえ。戒壇は受戒の場です。
> 諸経の王…
これ以下は意味を採れませんでした。
621
:
天蓋真鏡
:2006/11/01(水) 21:30:31
レスありがとうございます。 ●漫荼羅本尊授与が僧の最も大事な課題になるのでしょうか。一尊四士像&戒壇堂は気長に待つというのは解せません。御書遺文にも弟子にもはっきり伝わらないのは日蓮聖人が時世を判断して密事にした? ●無戒は「無戒の僧」とか表現した事があったと記憶にたったので、すみません。 ●授戒は僧だけと言う事でしょうか。
622
:
犀角独歩
:2006/11/03(金) 08:13:34
天蓋真鏡さん
> 漫荼羅本尊授与が僧の最も大事な課題
「最も」という比較勝劣の問題ではないと存じます。重大な役割の一つであろうということです。
先に独学徒さんが、日蓮が目の不自由な方にも漫荼羅を授与されたことが記されていました。一念三千の珠を裏む妙法蓮華経五字の受持は、その文字が見えるとか、声を出して唱えられるかとか、もっと詰めれば、受け取ったことを理解できない知的障害ではだめであるとかということではないのでしょう。見えなくとも、唱えられなくても、意味がわからなくても、上行所伝の妙法五字の認められた漫荼羅を受けることで仏種を植えるところに、その意義があるのではないでしょうか。
さらに進めれば、法華菩薩道とは、単に弘教に留まるのではなく、その五字を受持した自分が何をなすのかという具体的、且つ自主的行動を、おのが内心から涌く信念に基づき正道へ薫発することを訓えたのが『立正安国』ではないですか。
> 一尊四士像&戒壇堂は気長に待つというのは解せません
これは解せないと言われても致し方がないところです。
> 密事
この点は、『取要抄』『以一万察抄』、ならびに『「法華取要抄」の草案について」(『大崎学報』第154号所蔵、都守基一師の論文)を参考になさってください。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html
> 無戒は「無戒の僧」とか表現
『御衣並単衣御書』に「日蓮は無戒の比丘」(定P111)
『法衣抄』に「日蓮は無戒の比丘、邪見の者なり」(定P1854)
たしかに上述のごとくあります。
ただ、ここで注意すべきは両書とも‘衣’について、論じている点です。
前書の前文を読めば「法華経説人は、柔和忍辱衣」、後書の前文にも「柔和忍辱衣と申て衣をこそ本」といいます。
では、言うところの「戒」とは何でしょうか。『盂蘭盆御書』に「此僧は無戒也無智なり。二百五十戒一戒も持ことなし」(定P1775)といい、続けて「威儀は猿猴ににて候へども、あをぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり」ともいいます。すなわち、日蓮が自身を「無戒」というとき、それは二百五十戒といった戒を示す衣と威儀を斥け、法華経衣座室三軌中「柔和忍辱衣」によることを示すところに主眼があるのではないでしょうか。これは菩薩戒を採ってのことと考えます。
なお、日蓮が阿闍梨であったことは『行敏御返事』の「日蓮阿闍梨御房」(定P496)では記されています。また、弟子も阿闍梨号を有すことは周知の通りです。
阿闍梨については『日蓮宗事典』には、以下のようにあります。
簡潔な整理なので、参考に供せます。
「梵語で聖者、尊者、応供養等と訳す。『四分律行事抄』には五種(出家・受戒・教授・受經・依止)の阿闍梨が説かれている。『大日經』には、灌頂の阿闍梨となる人は一三種の徳を具足すべきことが述べてある。後世には師から許される場合と、官より賜る場合とある。聖人は門下の人格、法臈、学解等を認定して許された。本宗では、一〇〇〇日の加行を成満した修法師は伝師部の許可を得て称することができるとされているが成文はない。」
「a ̄ca ̄riya の音写で、阿遮梨、阿遮梨耶などとも音訳し、軌範師、親教師、正行の意である。もとはバラモン僧が弟子を養成する際に、ベーダの儀礼規則などを伝授する役の名称であったが、これが仏教教団でも取り入れられて、諸の規範を身をもって示し弟子を指導することのできる勝れた師範(教授)であるということを意味するようになった。そして『四分律行事鈔』上之三によると、五種の阿闍梨をあげている。即ち、出家・受戒・教授・受経・依止である。つまり教団に於ける学問的、徳行的な意味での最高の位にある僧に対する敬称として使われている。従って自ら阿闍梨号を称するなどは論外と言うべきものである。なお『宗定法要式』(二四四頁)では、「大衆の中で諸役をつとめる者である」とごく簡単に解説している。」
ここに「受戒」の文字が見られます。
> 授戒は僧だけ
さて、日蓮は、どのように考えていたか、わたしは決せません。
あるいは漫荼羅授与に「受持即持戒」の意味があったかどうか、さて、どうでしょうか。
623
:
犀角独歩
:2006/11/03(金) 08:27:45
補足します。
戒については『下山御消息』をご覧になるとよろしいかと存じます。
624
:
犀角独歩
:2006/11/03(金) 08:32:42
【622の訂正】
誤)『御衣並単衣御書』に「日蓮は無戒の比丘」(定P111)
正)『御衣並単衣御書』に「日蓮は無戒の比丘」(定P1111)
625
:
天蓋真鏡
:2006/11/05(日) 11:23:52
■法華経の如来神通力、心(精神)から湧いてくる力を鎌倉時代の僧・日蓮は意識していたのでしょうか。■皆成仏道の個人と在家出家の社会システム・公の道場を見据えて鑑みる必要があるので、三法門は漫荼羅中心三位一体、戒壇堂諸設備は時(聖人君子もしくは少欲知足の聖僧)至るまでの予定予測予言で質問納め得ます。■日蓮・法華一乗・漫荼羅中心、以後・祖師信仰・戒壇堂諸設備建立へ移行で宗教の歴史も全く同じで無くても繰り返すのでしょうか。
626
:
犀角独歩
:2006/11/05(日) 14:01:31
625 天蓋真鏡さん
> 法華経の如来神通力、心(精神)から湧いてくる力を鎌倉時代の僧・日蓮は意識していた
寿量品にいう神通力は如来に係ることなので、日蓮自身が心から涌くこととして、認識していたとは、わたしは思いません。真蹟遺文中に、我が身に充てた引用は、通読する限りなかったと記憶します。ただ、「心(精神)から湧いてくる力」は、もちろんのことを意識されていたと思います。
> 三法門は漫荼羅中心三位一体
言われるところの「三位一体」とは「父と子と精霊」という意味ではなく、一体とつかねるところに趣旨があるのでしょうか。日蓮の真蹟遺文からすれば、「一大秘法…所謂妙法蓮華経之五字名体宗用教五重玄也」(定P900)が三法門に展開されるのかということなのでしょうか。
『本尊問答抄』を真筆とし、また、草稿『取要抄』を採って、開合を示せば、以下のようかと。
┌本門本尊─寿量仏─三身所顕無始古仏
一大秘法─妙法蓮華経(題目)本尊┼本門題目─本門の妙法蓮華経
└本門戒壇─密事
なお、同抄の真偽、ならびに、三法門との不整合を心境の変化からご説明くださった顕正居士さんのご賢察を紹介しないことは気が引けます。以下のとおりです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/383
> 日蓮・法華一乗・漫荼羅中心
この記述の意味をわたしは採りかねますが、「漫荼羅中心」という点は引っかかります。『一谷入道御書』に「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず」(定P996)とありますが、これはまさに漫荼羅における「日蓮花押」を意味するのではないかと、考えています。
> 、以後・祖師信仰・戒壇堂諸設備建立へ移行で宗教の歴史も全く同じで無くても繰り返すのでしょうか。
何が繰り返すと仰っているのか、主語が判然としません。ご説明いただければと存知ます。
627
:
犀角独歩
:2006/11/05(日) 15:15:09
独学徒さんの掲示板を拝見したところ、『報恩抄』についてのれんさんとの議論がありました。わたしも考えるところがあるので、投稿させていただこうと思いましたが、すでにできなくなっていましたので、こちらに記すことにいたしました。
http://bbs6.fc2.com/php/e.php/fujikyougaku/
「は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(定P1428)
れんさんが「本尊としての“本門の教主釈尊”とその脇士となる“宝塔の内の釈迦…”とはいかなる関係にあるのでしょうか?この二重の釈迦の記述、そこのところがしっくりこない」と疑問を呈してお出ででした。
この点は、わたしも、問答さん方と過去に議論をしました。
管見では、二重の釈迦というより、釈迦と釈尊の相違が、ここにあるのだと考えます。便宜に従って慣習的に用いられている成句をもって記述します。霊山虚空宝塔の釈迦とは近成の仏であり、いわば迹門・宝塔品の辺、比して釈尊とは久成五百塵点久成の本門寿量品の辺。同仏には違いありませんが、天地雲泥の相違を日蓮は書き分けたのではないでしょうか。
(記すまでもありませんが、釈尊とは釈迦牟尼世尊の略ですから、釈迦には違いありません。つまり、牟尼世尊という尊称の有無で書き分けているわけです)
たとえば、『一代五時鶏図』では、倶舎・成実・律、法相・三論と天台と各宗を挙げ、通じて釈迦如来を本尊と記します。けれど、最初の三宗は劣応身、次の二宗は勝応身、天台宗では「久遠実成実修実証の仏」と付記します。名前が同じでも、ここに厳然たる差があります。(同P2341)
つまり、本門教主釈尊は、迹門宝塔品から事起こる近成の段階の釈尊(迹門)を基として証される故に、この記述となっているのではないでしょうか。対して釈尊は久成(本門)の証です。
そもそも二重に名前が出ることがおかしいとなると、上行と日蓮、同一体であれば、両方の名が載ること自体おかしいことになります。日教の教学などでは、互為主伴をもって捌かれるところですが、この点も、問答さん、愚鈍凡夫さん、また顕正居士さんなどと一年半ほど前に議論した点でした。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/119-
なお、「本尊図」について、独学徒さんの漫荼羅とは別に興門に伝わるのではないかという推論は興味深く拝読しました。
わたし自身は興門所伝の、仏像奉安を「漫荼羅の図の如し」という点にはまったく懐疑的です。かつては、この所伝を受け、大本門寺の仏像奉安、ならびに堂塔伽藍配置を想像したこともありましたが、現段階では寿量仏像奉安と漫荼羅図は別立てと考えます。要は示そうとするものが違うということです。
れんさんが仰るとおり、妙法蓮華経は像で形貌を造ることはできません。となれば、揮毫ということになりますが、そもそも、仏像造立に文字を置かなければならないとするのは、仏像奉安=漫荼羅図という固定観念による短絡であるとわたしは考えます。その意味での、興門所伝への懐疑です。
考えるに、漫荼羅相貌中で重要な「日蓮」は御影像で表すことはできても、しかし花押(判形)は表せません。殊に花押とは本人の証なのであって、日蓮以外が記した花押は模写であって何の証にもなりません。妙法蓮華経・日蓮花押とは漫荼羅の証であるのに対して、寿量仏像には四菩薩が証であるという差異が、ここにあるのではないですか。つまり、仏像奉安と、漫荼羅では、素よりその役割が違うので、漫荼羅を立体化したのが仏像であるという考え自体はなはだ短絡と言うしかないと、わたしは考えるわけです。
628
:
れん
:2006/11/05(日) 17:19:23
犀角独歩さん
>627
私の愚論に対する御批正かたじけなく存じます。仰るところ全くその通りと存じますが、あの報恩抄の文章に対応する様な蓮師御筆はいまのところ御筆漫荼羅しか発見されてないところから、独歩さんに“短絡”と言われるであろうことは百も承知の上で、“その場合”を想定した場合の試論を述べてみました。
実際のところ、蓮師以後の室町中期の石山文献でさえ、本門三法門を「仏と土と教法」と言い、表現するのであって、後の門下教学解釈は置いて、原意から見て、仏…即ち“本門の教主釈尊”(久成釈尊)が本尊であることは動かないわけですね。
独歩さんに御批正の労をおかけ致しましたこと、お詫び申し上げる次第です。
629
:
犀角独歩
:2006/11/05(日) 18:00:12
れんさん
決して、わたしはれんさんのご投稿を指して、「短絡」と記したわけではなく、富士門下の、たとえば日順の記などについて言ったことです。
ついでに愚考を記せば、「日蓮花押」というのは、今で言えば、自著・押印(もしくは書き判)ですね。これはいわば‘認め’ですから、造形化などできるはずはないわけです。サイン押印する代わりに、自分の写真とか像を置くなどあり得ないことです。ところが漫荼羅を設計図と想定して各尊像を造り、並べるとなると、日蓮御影を置くことになります。なぜ、これが是なのか?というのが、わたしの疑問です。
また、漫荼羅には、讃文、また、経釈文の書き込みがあります。いったい、これがどのように立体像化できるのか、漫荼羅では書いてあるが、仏像奉安では要らないなどとできるのかという疑問も生じます。
以上の疑問はしかし、漫荼羅図=仏像奉安と考えた場合のことです。仏像は仏像、漫荼羅は漫荼羅と、別に考えれば、こんな会通は不要となります。
仏像は本門寿量仏の造形化。漫荼羅は妙法蓮華経の授与/受持で「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず」という弟子允可の証、経釈の書き込み等は祈祷、守の意と、その用途を別と考えたほうが、すっきりと理解できるというのが、わたしの管見です。
630
:
天蓋真鏡
:2006/11/05(日) 18:26:47
■三つの法門一つ欠けても信学行の成就にならないと云う意味で、三つの法門は一体。 ■成仏得道で『唱題修行』が基本基軸になるなら漫荼羅中心に為らざるを得ないのではと個人的に断じます。 ■聖人君子を奉り諸設備を整えても形骸化する(してしまうかもしれない)危うさを歴史を調べれば調べるほど目につくでしょう。「未だ且つて成仏した者など存在しない」と言われたら尚更、歴史の運命、ヒトの非力を想像します。恐竜のように長く人類は続くのかとも夢見ます。
631
:
犀角独歩
:2006/11/05(日) 18:52:55
630 天蓋真鏡さん
> 三つの法門一つ欠けても信学行の成就にならないと云う意味で、三つの法門は一体
信行学と三法門と、どのような関係があるとお考えですか。
わたしはここに、直接の教学会通は希薄であると思うのですが。
> 『唱題修行』が基本基軸になるなら漫荼羅中心に為らざるを得ない
そうでしょうか。唱題行は漫荼羅図示以前から行われていましたし、漫荼羅授与はごく限られた人にしかなされていません。唱題と漫荼羅受持は不二の関係と思えないのですが、どうでしょうか。
632
:
天蓋真鏡
:2006/11/05(日) 22:26:48
■教学的繋がりは無いでしょうが、前提(信学行)と本義(三法門)が揃い成仏得道への道が開かれると考えられませんか。■漫荼羅は允可証と言っても「信じさせ給え」と呼ばれたもの。其れに天台密教から法華一乗に軌道修正する方向は示されている。漫荼羅は道場を示す看板であると同時に戒壇の代わりになる導師(個人的には戒壇と同じと思います)なのでは無いですか?成仏は日蓮の力では無くて信心学問修行に特に信に依ると書いた事があったと存じます。題目と戒壇と本尊は法華経と漫荼羅と仏彫像を意味すると断じたいのです。三つ揃い合わせないなら日蓮の教えの法門では無いでしょう。漫荼羅が突出したのは歴史の妙。
633
:
犀角独歩
:2006/11/06(月) 05:35:23
632 天蓋真鏡さん
わたしが今回のご投稿を完全に判読できたかと問われれば、あまり自身がありませんが、感覚的ながら、ほぼ賛同します。
一信二行三学と順位を言われますが、殊ここ当掲示板においては、むしろ逆で、学に始まり、では、行ずる価値ありや、信ずる価値ありやと問うているのかもしれません。
634
:
犀角独歩
:2006/11/06(月) 09:31:13
633「自身がない」は「自信がない」でした。
戒壇という一点のみ。実に悩ましい問題で、漫荼羅奉安の場所がそれに当たるというのは、門下にある程度、通じた解釈かもしれません。わたしは漫荼羅奉懸は道場結界の意義、さらに図示された諸尊勧請、さらに法華会座、霊山より虚空会を仰ぎ見る観といったところで、これが戒壇かと言えば、さて、どうかと考えます。戒壇とは授戒、潅頂といった儀式の場ですから、道場とは別立てでしょうが、その代用を兼ねるものとは言えるかもしれません。しかし、やはり、代用の域を超えないと思います。
実際のところ、日蓮は、ほとんど戒壇については言及していないわけで、このことから、当初、わたしは日蓮は本尊と題目を述べ、戒壇を語る以前に没したのではないかと考えていました。しかし、その考えを改める機会となったのが都守師の秀逸な論攷の拝読であったわけです。「密事」です。この戒壇に係る説明をしっかりと聞いた弟子がいたかどうか、「それは日興上人だ!」と富士の僧俗は言いたいところでしょうが、さて、どうでしょうか。
635
:
れん
:2006/11/06(月) 10:23:27
犀角独歩さん、御多忙のところ、ご返事有難うございます。
>629
仏像は仏像、漫荼羅は漫荼羅…仏像は本門寿量佛の造形化…漫荼羅は妙法蓮華経の授与/受持…弟子允可証…経釈の書き込み等は祈祷守りの意とその用途を別と考えたほうが、すっきりと理解できる…
仰る通りですね。蓮師のパトロンであった富木日常師は自らの寺院の宝物目録に妙法蓮華経漫荼羅と一尊四士を第一に掲げているので、富木日常師の寺院の本堂には寿量佛の造形化=一尊四士と漫荼羅が安置されていたと考えられるところですね。四菩薩造立抄は蓮師御筆はおろか南北朝末期まで門下の記述が見えないので、偽書である観心本尊得意抄とその内容が共通する部分があることから同一作者による作文と愚考しますが、一尊四士の造立は富木氏の宝物目録に見えることから早ければ蓮師在世の造立も考えられると思われます。
日興は、他の本弟子老僧には批判の資料が残りますが、不思議に富木日常師に対する批判の筆は残ってないので、「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来」と記す日興にとって、富木日常師の一尊四士と漫荼羅の本堂奉安はむしろ蓮師の意に沿い、また我が意を得たりとの思いで好意的に見ていたのかも知れませんね。
636
:
天蓋真鏡
:2006/11/06(月) 22:01:32
■賛同ありがとうございます。 ■授戒=成仏にならないなら、教学(体系)的意味で「戒壇」の要素を含んでも良いのでは、と思い考えます。完全完璧では無いので、個人の成長次第で其れぞれの三法門が完成するのではと断言したいです。個人の成仏と仏国土の現出を想うなら、漫荼羅だけで無くて、社会の環境を鑑み戒壇堂等諸設備を建立するのは当然と言えば当然でしょう。
637
:
天蓋真鏡
:2006/12/06(水) 14:42:12
補足・戒壇は個人一人ひとりに対して、戒壇堂は出家僧に対して、の広なり狭なりの意味があるのでは無いですか。とシンプルに支持してます。
638
:
天蓋真鏡
:2008/05/04(日) 11:25:00
管理者さん、ありがとうございます。 本尊も曼荼羅も内証を示してるのでは無いでしょうか。
639
:
たけぞう
:2008/12/31(水) 17:11:26
犀角独歩さんへ
今年1年間ありがとうこざいました。
以前から読む専門でした。今年こそは発言をと思っていましたがやはり教学レベルが高く、低度の低い発言となってしまわないかと、結局何ら投稿せず読む専門で1年が経過しました。
創価学会に入り50年がたちました。
実質活動していたのは高校生と大学生の時だけで、それからは組織活動もせず聖教新聞も読まない幽霊会員です。
しかし、御本尊と唱題と御書は好きで、50年間1度も勤行をかかしたことが無いのだけは自慢です。
組織活動から離れた理由、やはり池田名誉会長への生理的嫌悪感でしょうか。
それに学会最高幹部の体質でしょうか。
余りに学生部で活動しすぎたため、かなり高い役職になり、最高幹部と接する機会が多くなり、組織の裏を見たというか、幹部の人間性を疑ったというか。
そして最近にみる、池田名誉会長の勲章集め、へきへきとしています。
ですが、妻は副本部長、私の兄弟も妻の兄弟も全員学会人、姪や甥も学会人、孫まで家にきて「ナンミョーーー」ですから、事あらたげたくないということだけで、学会に所属しています。
日蓮非本仏論、これは私なりに御書を読み、本因妙抄、百六箇抄に唐突に出てくる久遠元初という概念、法華経、御書には出てこないのに、なんで六巻抄を擁護するような考え方が出てくるのだろうと思い、自分なりに偽書と決めつけていましたので、掲示板を読み意を強くしました。
そして、創価教学がおかしいのは六巻抄のせいだというのが私なりの持論でしたので、六巻抄ログも抵抗なく読めました。
驚いたのは、本尊と曼荼羅です。
50年間なんの疑いもなく、本尊 = 曼荼羅 でしたが、最初は何を問題にしているのだろうでした。
途中から意図するところが分かり、また最初から読み始めました。
学会の解説本がいかにいい加減なものか、実に思い知らされました。
犀角独歩さんも、学会と法華講、組織活動していたわけですから、本尊 = 曼荼羅 が当たり前のように思われていたと思います。
そこに疑問を持つという着眼点に驚いてしましいます。
日蓮非本仏論、これはかなり以前から私の持説でしたが、こうして掲示板で第三者から理詰めで来ますと、やはりカルチャーショックはあり、それでは本仏はと問われて、、口ごもってしまいます。
まだ教学の範囲内ですと頭の中で整理出来ますか、一度御本尊の前に座ると、釈迦、久遠実成の釈迦というのがピンとこず、やはり日蓮聖人を感じてしまいます。
日蓮が墨に染めながして云々、そうだよな、「信」だよな。
それがいつわらざる心境です。
5年程前、私事で大きな問題にぶつかり、一生分の題目を唱えました。
声をからし、泣きながら、もう乞食信心と言われてもいい、何しろ助けてくれという気持ちで唱題をしていました。
そして、日蓮聖人の足下にひれふして泣きながら助けを求めている自分がいました。
その問題も唱題で乗り越え、今日に至っております。
そうした体験をふまえ、南無妙法蓮華経に南無するという言葉が私としてはピッタリときます。
教学でなく、実際の信仰からいくと、そうとらえるしかないと私も思います。
確かに、日蓮非本仏論です。しかし、本仏の前に日蓮聖人の存在は偉大すぎます。
本尊≠曼荼羅 かもしれません。
教学的には私も自分なりに研鑽したいと思います。
しかし、50年間 「 本尊 = 曼荼羅 」 で唱題してきたし、現在も唱題しているので、信仰上はやはり曼荼羅を御本尊様とみて唱題していくと思います。
現役を引退し隠居生活に入り、ここ数年晩年の過ごし方を試行錯誤してきました。
仕事だけの人生でした。自分の人生でやり残したのは何か、真剣に考えた結論が信仰でした。
新しい気持ちでと座談会にも出席しました。
しかし、心を満たしてくれはしません。そして結論として出た答えは御書の研鑽でした。
自分が学んだことを学会人に話しても通じません。
やはり私も、独歩のようです。
私も努力いたします。どうか、私が皆さんと一緒に対話出来るまで、この掲示板存続させてください。
この1年間有り難うこざいました。
来年は良いお年でありますように。
駄文で失礼いたしました。
640
:
犀角独歩
:2008/12/31(水) 20:40:57
たけぞうさん
ご丁寧なご挨拶、畏れ入ります。
大晦日で、ばたばたしております。
改めてご挨拶申し上げる所存です。
有り難うございます。
641
:
幻論乙坊
:2009/01/01(木) 19:39:13
諸賢
破顔一笑
明けましておめでとう御座います。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
本年よりHMをしゅんかん→幻論乙坊に変更致しました。
643
:
問答迷人
:2009/01/01(木) 21:37:46
たけぞうさん
>南無妙法蓮華経に南無するという言葉が私としてはピッタリときます。
蓮祖がそう教えている箇所が有るのでしようか。「南無妙法蓮華経に南無」とは仰っておられないと思いますが・・・
蓮祖が教えられたのは、「法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱えよ」では無かったですか。
或いは、「曼陀羅を信じて南無妙法蓮華経と唱えよ」
本来は、妙法蓮華経の五字が上行菩薩が久遠釈尊から付属を受けた正体ですから、その『妙法蓮華経の五字に南無する』というのが教えの筋道でしょうが、
南無する、というのは『命を捧げ尽くす』という意義ですから、良く凡夫の為し得ることでは有りませんので、蓮祖は末代幼稚の為に曼陀羅を表し、授与して、『この曼陀羅を深く信じて南無妙法蓮華経と唱えよ。そうすれば、妙法蓮華経の五字に南無したのと同じ功徳が得られるのだ。」と教えられたと僕は拝しています。
末代凡夫の我々が妙法蓮華経の五字に南無することが容易に出来るのなら、曼陀羅を授与する必要性は無かったのではないかと思います。
如何お考えになられますか。
644
:
たけぞう
:2009/01/02(金) 14:03:09
問答迷人さんへ
>>南無妙法蓮華経に南無するという言葉が私としてはピッタリときます。
>如何お考えになられますか。
私が投稿したのは、犀角独歩さんへ感謝の念を示したいだけでことで、議論する気持ちはありませんので、返信はお控えください。
私は50年信じてきた創価教学をいま洗濯し始めたばかりで、私の考えは現在構築中で発言する段階にはありません。
南無妙法蓮華経への南無は、私の考えでなく、書き投稿に共鳴を受けて書いただけで、深い意味はありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
152 名前: 独歩 投稿日: 2001/10/19(金) 15:38
妙法蓮華経に南無するというより、聖人御立の南無妙法蓮華経の南無しているのです。
ですから、経典における瑕疵については、その可能性を視野に入れたところで、私の信仰は揺らぎません。
645
:
たけぞう
:2009/01/02(金) 14:05:22
× 書き投稿
○ 下記投稿
646
:
問答迷人
:2009/01/02(金) 14:15:30
たけぞうさん
>私が投稿したのは、犀角独歩さんへ感謝の念を示したいだけでことで、議論する気持ちはありませんので、返信はお控えください。
了解いたしました。
647
:
ドラ
:2009/02/13(金) 09:11:10
すみません。ちょっと教えて下さい。
日寛上人筆 享保九年六月日の曼荼羅ですが、
これは現在、どこに所蔵されているのでしょうか。
http://lovestube.com/up/src/up5644.jpg
どなたか、ご存じの方はよろしくお願いします。
648
:
ドラ
:2009/02/14(土) 08:55:54
すみません。消えてしまいましたね。
こちらが新たなアップロード先です。
http://sakuratan.ddo.jp/uploader/source/date104608.jpg
よろしくお願いします。
649
:
スポットファイア
:2009/02/15(日) 22:34:54
あの曼荼羅は日正寺所蔵だと思います。
日寛師の曼荼羅は全国に多数あると考えられますが、何故首題が白く塗りつぶされて
いるのでしょうか?
650
:
ドラ
:2009/02/17(火) 06:28:50
スポットファイアさん、日正寺ですか。
ありがとうございます。
実は写真は下のページから拝借したものです。
http://sudati.studio-web.net/nisehonzon1.html
最初から主題がマスクされていました。
651
:
大縫 薫
:2009/02/19(木) 21:04:12
学会携帯曼陀羅は会員の必須アイテムみたいに扱われていますが、それに
付随する収納ケースが多種多様あるのには驚かされました。
因みに入院先の病院の看護師が首から同様の物を掛けていたのが印象的です。
http://www.sokei-net.com/omamori.html
652
:
ドラ
:2009/03/01(日) 08:24:56
またよろしくお願いします。
開眼供養に関してなのですが、最近の学会などは開眼供養は必要ない、
正宗は開眼供養は必要であると言っていますが、
そういう問題とは別に、この本尊は開眼されている、されてない、というのは
見て分かるものなのですか? 前々から素朴な疑問でありまして。
654
:
管理者
:2009/03/01(日) 09:15:26
ドラさん
この件は既に議論がされています。以下のスレッドをご覧下さい。
「本尊の開眼は誰が行うのか」スレッドです。
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/kaigen.htm
655
:
問答迷人
:2009/03/01(日) 11:26:16
ドラさん
結局、ダルマに目を入れて開眼、という具合に外見に変化があれば誰が見ても判りますが、曼陀羅の開眼供養では、外見上、何の変化も無いわけですから、誰が見ても判らない、という事だと。
656
:
顕正居士
:2009/03/01(日) 13:42:38
>>652
>この本尊は開眼されている、されてない、というのは見て分かるものなのですか?
開眼されていない本尊というものはありません。それは単なる仏像、仏画、曼荼羅です。
寺院、家庭、個人が自分の礼拝対象として安置してはじめて本尊になります。
本尊は必ず誰かの本尊です。この際、通常は入仏式を行います。開眼供養ともいいます。
ですが必ずしも坊さんにやって貰わなくても、自分の本尊として安置し何らかの礼拝を
行えばそれが入仏になります。
仏像、仏画、お札などの礼拝物を作製した後、「魂入れ」を行うことはあります。しかし、
これはまだ誰の礼拝対象にもなっていないので、入仏(開眼)とはまた違うものです。
657
:
ドラ
:2009/03/02(月) 08:50:04
管理者様
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/kaigen.htm
たいへん、勉強になりました。
問答迷人さん
> 結局、ダルマに目を入れて開眼、という具合に外見に変化があれば誰が見ても判りますが、
そうなんですよ。第三者の目には分かりませんからね。だから、裏書きに、開眼済みは
小さくチェックマークを入れるとかフォーマットでもあるのかなと思って質問した次第です。
顕正居士さん
>開眼されていない本尊というものはありません。それは単なる仏像、仏画、曼荼羅です。
>寺院、家庭、個人が自分の礼拝対象として安置してはじめて本尊になります。
いや、おっしゃる通りです。本尊というのは礼拝対象として作成されるわけですからね。
ただ、質問するさいには詳しく書きませんでしたが、どの時点で本尊になるの
かも知りたいわけなんですよ。 石山の言葉では明確に本尊になる時点を言い
切ってますよね。つまり、丑寅勤行の際に猊下が開眼供養をした時点で本尊に
なると。ということは、逆に言えば、それまでは本尊ではないということにな
ります。
じゃあ、開眼済みか開眼済みでないかは、どこで見分けるのか。
学会あたりは、昭和の草創期に大量に配布された御本尊は、法道院で印刷され
て、猊下の開眼をうけることなく、日本中の末寺に配布されていった。と言っ
てるわけです。もちろん、大石寺は否定してますが。
結局、第三者の目にわかる形になってない以上、、開眼してある、してないと
いう議論は水掛け論ですな。
「してある」ということも証明できなければ、「してない」という事も証明できない。
658
:
顕正居士
:2009/03/03(火) 16:51:30
>どの時点で本尊になるのか
入仏式を行った時点、すなわちなんらかの礼拝を行った時点です。
>開眼済みか開眼済みでないかは、どこで見分けるのか。
礼拝対象として安置されているかどうかです。
見れば判ります。安置してあるのは本尊、幾つも曼荼羅を持っていても
しまってあるのは本尊ではなく、単なる曼荼羅です。
659
:
ヨシヨシ
:2009/07/22(水) 19:31:58
曼荼羅を板へ彫刻して漆で塗りその上から金箔を押す、初めて見た方々は荘厳に見えることでしょうね。
仮に奈良の大仏も綺麗に見えると思います。
それを、金集めにする日蓮正宗、また人の可能性を否定して都合悪くなると
(信心で受け止めるんだよ)と言い、寛曼荼羅に祈れば福が来るというのは暴言ですね。
660
:
問答迷人
:2009/07/22(水) 20:12:41
>それを、金集めにする日蓮正宗、
日顕師は明確に本門戒壇板曼陀羅が偽物である事を知っていたにも拘らず、内拝と称する御開扉を止めず、御供養と称して御開扉料を取り続け、あまつさえ、河辺メモが世間に出てしまって、戒壇板本尊が偽物だという事がばれてしまったのにも拘らず、河辺メモの中身を煙に巻くような稚拙な弁解で否定し、逃げ切ろうとしています。このような不誠実な行為は信徒を根底から欺くものであり、許し難い卑劣な蛮行と言わざるを得ません。この事だけは声を大にして明確にしておきたいと思います。
>人の可能性を否定して都合悪くなると(信心で受け止めるんだよ)と言い、
これは具体的には何が有ったのでしょうか、差し支えなければお教え下さい。
>寛曼荼羅に祈れば福が来るというのは暴言ですね。
寛曼荼羅というのは、日寛師書写の紙幅曼陀羅のことでしょうか。
661
:
ヨシヨシ
:2009/07/22(水) 21:01:53
問答迷人 こんばんは。
>人の可能性を否定して都合悪くなると(信心で受け止めるんだよ)と言い、
これは具体的には何が有ったのでしょうか、差し支えなければお教え下さい。
私の身体の痺れが非常に強いために精神疾患はないんですが、一時精神安定剤
を飲んでいた時期があり飲むことによって痺れを軽減できたのです。
その時に私の所属する幹部に事の真相(病いの事)を話した所、’(君は少し落ち着け)
などと言われ(そうじゃない)と私が反論すると(信心で受け止めなさい)
と言われ、何かこれは違うと感じ色々調べた結果二箇相承が偽書ということに
ぶつかり、脱会する事になりました。
>寛曼荼羅というのは、日寛師書写の紙幅曼陀羅のことでしょうか。
仰る通りです
享保5年脇書きの無い紙幅曼荼羅です。
662
:
問答迷人
:2009/07/22(水) 21:25:21
その幹部の方は、恐らく医学に暗く、自分のしている信仰にも暗い人なんだと思います。
安定剤は、余程強いものでない限り、副作用は少なく、習慣性も無く、無難な薬剤だと思います。
病は信心で受け止めるべきものではなく、医者に掛かって治療すべきものだと思います。勿論、医者を選ぶ必要が有りますね、特に手術は職人仕事ですから、腕の良医者を選ぶべきです。信心の眼で良い医者を選ぶべきだ、と指導するなら分かりますが、信心で受け止めよ、とは意味不明ですね。
戸田さんも、「幾ら祈っても、炊飯器にスイッチが入っていなければご飯は炊けない」と指導していましたね。何でもかんでも信心、では現実に直面している人を納得させる事は不可能ですね。
なお、寛師曼陀羅が悪いとは僕は思いません。現に僕は今も日顕師を激しく非難しながらも、日顕師書写の紙幅曼陀羅を仏壇に掛けて、日々勤行・唱題しています。どの曼陀羅にせよ、日蓮聖人の曼陀羅を基本にしたものであれば、何も問題はない、と考えています。
>二箇相承が偽書
よく気が付かれましたね。僕も同意です。日蓮正宗が他の日蓮宗各派に対して優位に立てための、虚仮脅しの道具だと考えています。
663
:
ヨシヨシ
:2009/07/22(水) 21:34:29
問答迷人さん
>なお、寛師曼陀羅が悪いとは僕は思いません。現に僕は今も日顕師を激しく非難しながらも、日顕師書写の紙幅曼陀羅を仏壇に掛けて、日々勤行・唱題しています。どの曼陀羅にせよ、日蓮聖人の曼陀羅を基本にしたものであれば、何も問題はない、と考えています。
そうでしたか。
私は、寛師の本尊は学会へ返還しましたが幸いにコピーしたものがあり一体掛け軸に貼り
所有しています。現在では聖人が亡くなられるときに掛けられていた曼荼羅(鎌倉 妙本寺所蔵)
を掛けています。
私もまだまだ、題目を卒業できていません。
しかし、以前よりは減りました。
昔ならば毎日やらないと罪悪感は出てしまいやっていましたが現在は調子がいい
時にしかやらなくなりました。
664
:
問答迷人
:2009/07/22(水) 23:06:00
ヨシヨシさん
>私もまだまだ、題目を卒業できていません。
僕は、富士門流に日蓮聖人の教えが伝わっていると堅く信じていました。しかし、二箇相承もウソ、百六箇抄も本因妙抄も他門の後世の作り物、戒壇板本尊も偽物、唯授一人の血脈相承もウソ、お肉牙もマガイモノ・・・調べれば調べるほど大石寺門流の嘘八百にほとほと嫌気が差しました。
それでも日蓮聖人が僕は人間として好きです。これはどうしようもない。好きなものは好きとしか言いようが無いわけです。それで、残された人生、日蓮聖人が見た世界を追体験しようと心に決めたわけです。
日蓮聖人の教えは、突き詰めるところ、曼陀羅信仰に尽きる、と思っています。日蓮曼陀羅を信仰して、どんな世界が見えるか、とことん極めてみようと思っています。
唱題は多くは無いですが、一日一時間と決めて、毎朝唱えています。これは、僕の道楽の様な物かも知れません。誰にも勧めていません。勿論、寺院参詣をやめた段階で、家族は誰一人、勤行・唱題をしなくなりました。これは当たり前だと思います。一日一時間唱題する僕を、どんな眼で見てるのかな、と時々思いますが、まぁ、親父の道楽、ぐらいに正当に評価してるんだと思っています。
665
:
ヨシヨシ
:2009/07/23(木) 08:49:47
問答迷人
おはようございます。
私も日蓮聖人の生き様と言いますか悪については一歩も引かないという強い意志
持たれていた方のように思えます。
私も子供が二人おり、長男は高校1年、次男は中学2年です。
いつも一緒に勤行・唱題しておりましたが最近は私はやりませんが子供たちは
一生懸命によくやっています。
たまに、題目をしている姿を見て涙することがあります。
お子様も信じていらっしゃるんではないでしょうか。
私も一時は一生懸命やりましたが身体の状態が酷くなるので控えるようにしています。
ですが一説で聖祖は曼荼羅本尊に題目をしていなかったというお話を聞いた事が
あります。ご存知ですか?
666
:
ヨシヨシ
:2009/07/23(木) 09:02:45
訂正
問答迷人さん
おはようございます
が正解です。
さん が抜けており大変に失礼しました。
申し訳ありません。
667
:
問答迷人
:2009/07/23(木) 09:15:06
ヨシヨシさん
>一説で聖祖は曼荼羅本尊に題目をしていなかったというお話を聞いた事があります。ご存知ですか?
日蓮聖人はお題目を唱える事は、ご臨終の時までずっと続けられたものと考えています。曼陀羅は、日蓮聖人が体得されたところの「一大秘法」の具体化表現ですから、一大秘法を体得されている日蓮聖人には曼陀羅は必要ではなかったと思っています。ただ、弟子檀那と一緒にお題目を唱える場合は、曼陀羅に向かわれたのではないかと考えています。
668
:
問答迷人
:2009/07/23(木) 11:52:09
「本門の本尊」と「紙幅曼陀羅」について
日蓮聖人は「本門の本尊」という法門を説きました。「本門の本尊」が一番詳しく説かれているのが、「観心本尊抄」という事になろうかと思います。
『其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。是くの如き本尊は在世五十余年に之無し、八年の間但八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。』(大石寺版御書全集)
669
:
問答迷人
:2009/07/23(木) 12:20:56
ここで、『末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。』とあるのは、未来において「本門の戒壇」を建立して、その時に、この「本門の本尊」たる『妙法蓮華経の五字と釈迦多宝等の諸仏菩薩等の仏像群』を出現させるべきと考えておられたと思います。
それでは曼陀羅は何か、紙幅曼陀羅は、戒壇が建立されて本門の本尊が出現するまでの間は、紙幅曼陀羅を以って「本門の本尊」とする、とのお考えであったろうと思います。つまりは紙幅曼陀羅を仏壇に掛けて信仰の対象とすれば、その曼陀羅は意味としては「本門の本尊」に相当すると考えて良いと思います。
670
:
ヨシヨシ
:2009/07/23(木) 12:56:25
問答迷人さん
本門の本尊とは、我々が拝している曼荼羅を指しますね。
つまり化儀においての本尊という解釈でよろしいのでしょうか?
または、釈尊の分身仏として捉えていけばいいのでしょうか?
先ほどは、大変失礼致しました。
671
:
問答迷人
:2009/07/23(木) 14:11:27
ヨシヨシさん
>本門の本尊とは、我々が拝している曼荼羅を指しますね。
いえ、そうではなくて、本門の戒壇が建立された時に出現させるべき「妙法蓮華経の五字と仏像群」を「本門の本尊」と日蓮聖人は述べています。
本門の戒壇が建立されるまでは、仏壇に曼陀羅を掛けて「本門の本尊」の意義を表す、と言った意味合いであろうと思います。曼陀羅が直ちに「本門の本尊」であると考えるのは、少し拡大解釈になってしまうのではと思います。
>化儀においての本尊という解釈でよろしいのでしょうか?
「本門の本尊」については、「三つの法門」と述べられていますので、「化儀」と捉える事は違うのではないかと思います。
>釈尊の分身仏
釈尊の分身は十方分身諸仏であり、曼陀羅の意味は、そうではないと思います。
「本門の本尊」は「本門の釈尊」であり、「久遠の釈尊像」と捉えるのが自然だと思っていますが、この点は、諸賢のご意見を僕も承りたい所です。
672
:
ヨシヨシ
:2009/07/23(木) 16:14:11
問答迷人さん
>「妙法蓮華経の五字と仏像群」を「本門の本尊」と日蓮聖人は述べています。
聖祖は既に文永8年に曼荼羅を顕していますがここで上文の意味なるかと思っています。
、>「三つの法門」
とは三大秘法のことでしょうか?
674
:
問答迷人
:2009/07/23(木) 16:43:27
ヨシヨシさん
>聖祖は既に文永8年に曼荼羅を顕していますがここで上文の意味なるかと思っています。
所謂「楊枝御本尊」ですね。この曼陀羅を出発点として、次々と諸尊が書き加えられ、所謂日蓮曼陀羅の形が出来上がっていったものと思われます。この曼陀羅には仏像群は無く、観心本尊抄の形に日蓮聖人の表現が固まってゆくには、まだ少し時間が必要だったのだと思います。
>「三つの法門」とは三大秘法のことでしょうか?
日蓮聖人の真跡遺文には、一大秘法という表現は有るものの、三大秘法という表現は有りません。「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」これらを、「三つの法門」と述べられています。
675
:
ヨシヨシ
:2009/07/23(木) 17:40:09
問答迷人さん
先程は失礼致しました。
やはり、真筆を使わなければ駄目ですね。
676
:
問答迷人
:2009/07/23(木) 18:07:34
ヨシヨシさん
先ほどは有難うございました。
>やはり、真筆を使わなければ駄目ですね。
七百年の歳月の中で、各宗派とも、独自の教学を組み立ててきたのだと思います。日蓮聖人その人に迫ろうとするなら、幸いにして真跡遺文が、大切に保管されてきていますので、それを基準にして、日蓮聖人の考えを直接探るのが確実な方法論だと思っています。
三大秘法という使い方を日蓮聖人がされていないのには、やはりそれなりの理由が有っての事だと思われます。有りの儘に、主観や宗派の教学を交えることなく真跡遺文を拝読する時、そこから見えてくる世界が有ると思います。そして、それは、各宗派で定説となっている事を覆すような内容の場合もありますが、ただひたすらに遺文のままに考える事が大切なんだと思っています。この真跡主義は犀角独歩さんが教えてくださった方法論です。
677
:
ヨシヨシ
:2009/07/23(木) 19:10:38
問答迷人さん
なるほどですね。
さすがは独歩さんですね。
先覚者と言わなければなりません。
一大秘法、三大秘法、六大秘法と何故二つも余計に定義を作ったのか?
謎ですね。
一大秘法=南無妙法蓮華経 三大秘法=本門の戒壇、本門の題目、本門の本尊
六大秘法=事と義の戒壇 信と行の題目 人と法の本尊
謎ですね。
678
:
ヨシヨシ
:2009/07/23(木) 19:13:29
問答迷人さん
では、六大秘法は更に謎ですね。
一大秘法だけで充分と言う事ですね。
どうでしょうか?
平成新修日蓮遺文集は今現在どこで出版していますか?
679
:
問答迷人
:2009/07/23(木) 19:55:08
ヨシヨシさん
>一大秘法だけで充分と言う事ですね。
そういう事ではないと思います。一大秘法は日蓮聖人が体得された秘法であり、それが法華経神力品で釈尊が上行菩薩に付属された秘法「妙法蓮華経の五字」なんだと日蓮聖人は言うわけです。
しかし、一大秘法は日蓮聖人だけが体得した秘法ですから、他の誰にもその中身は分からないわけです。そこで、日蓮聖人はその一大秘法を観心本尊抄において、「本門の本尊」として表現され、又、曼陀羅として書き現された訳です。日蓮聖人にしか分からない一大秘法が本門の本尊として表現された事により、一大秘法が万人に開かれた法門となったわけです。
>平成新修日蓮遺文集は今現在どこで出版していますか?
既に絶版の様で、入荷不可とされていますね。たまにネットオークションで見かけますが・・・。
680
:
ヨシヨシ
:2009/07/24(金) 10:34:58
問答迷人さん
一大秘法を聖祖は説かれて後の三大秘法の表現は三つの法門を指しているのですね。
681
:
問答迷人
:2009/07/24(金) 11:41:40
ヨシヨシさん
日蓮聖人が佐渡流罪を赦免され、身延に入山直後の文永十一年五月二十四日に執筆された法華取要抄(真跡在中山法華経寺)に次のようにお示しです。
『問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。』
同じく法華取要抄の末文には次のように述べられています。
『是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。』
「三大秘法」と言う表現は無く、あくまでも「三つの法門」ですね。
682
:
ヨシヨシ
:2009/07/24(金) 15:54:41
問答迷人さん
仰る通りです。
三大秘法という言葉はいつ頃から言われるようになったのでしょうか?
683
:
問答迷人
:2009/07/24(金) 16:17:53
ヨシヨシさん
>三大秘法という言葉はいつ頃から
調べてみます。少し時間をください。恐らくは日有上人以降かと。
684
:
ヨシヨシ
:2009/07/24(金) 17:59:05
問答迷人さん
了解しました。
685
:
hage
:2009/07/24(金) 20:28:52
富士派以外でも、例えば私のところでも、
本門の本尊、本門の戒壇、
本門事行、八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経(本門の題目)
とお唱えしますよ。
686
:
問答迷人
:2009/07/24(金) 20:59:16
hageさん
おうかがいします。八品派では『三大秘法』と言う言い回しは有るのでしょうか、それとも『三つの法門』ですか?
687
:
hage
:2009/07/24(金) 23:16:09
問答迷人さん
八品派でも『三大秘法』と言う言い回しはあるようです。
私は詳しくないのですが、八品派の中でも「三大秘法」の解釈が分かれています。
佛立宗系の御本尊には『三箇秘法之中一大秘法』とありまして
三大秘法は本門の題目の一大秘法の中にあるもの、即ち本門の題目を離れて
本門の本尊も本門の戒壇もないので、本門の題目の中にこそ、その本尊も戒壇も
具わっているというのが『三箇秘法之中一大秘法』ということであるそうです。
しかし、八品派の佛立宗系以外では「三秘総在」といいまして、
本門の本尊の中にも三秘が具わり、本門の戒壇の中にも三秘が具わり、
本門の題目の中にも三秘が具わるところの一箇の大法即ち
上行所伝の南無妙法蓮華経であり、
門祖日隆聖人は
「本門三大秘法惣在の本門の本尊の南無妙法蓮華経」と仰せで、
本門の題目とは仰せでなかったようです。
688
:
問答迷人
:2009/07/26(日) 18:46:22
ヨシヨシさん
三大秘法の言い回しの件、とりあえずの検討結果をご報告します。
【富士宗学要集にみる「三大秘法」という成句の年代検討】
01 要法寺日辰師1560年の写本「上行所伝三大秘法口訣」(富要1-045)
02 大石寺31世日因師1757年の著作「有師物語聴聞抄佳跡」(富要1-185)
03 妙本寺日我師1545年の著作「化儀秘決(私記)」(富要1-273)
04 妙本寺日我師1545年の述作「年中行事」(富要1-327)
05 日順師の記録とされる「本因妙口決」(富要2-069)
三大秘法抄の引用有り。内容は本因妙抄と重なる。三大秘法抄には日時師1397年写本、本因妙抄には日時師1391年写本がある。恐らくは、日時師辺りの時代に、日順師に仮託して作成されたものであろうと思われる。
06 西山8世日眼師(生年不生-1486年)述「日眼御談」(富要2-131) 1560年の写本
07 左京日教(日叶)師1428年の著作。「百五十箇条」(富要2-169)
08 左京日教(日叶)師1488年の著作。「類聚翰集私」(富要2-303)
09 大石寺26世日寛師(1665-1726年)「六巻抄」(富要3-069)
10 大石寺26世日寛師(1665-1726年)「寛記雑々 蓮祖義立の八相」(富要3-240)
以上の検討で、恐らくは三大秘法の名は1400年頃、三大秘法抄の出現により、門下全般に定着したものと思われます。
富士宗学要集第一巻から三巻までの検討結果。四巻以降の検討によって新たに知見が得られた場合は、追加報告いたします。
689
:
ヨシヨシ
:2009/07/26(日) 19:35:14
問答迷人さん
先程は失礼致しました。
これだけの文があるということは三大秘法は定着するはずですね。
しかし真蹟から見た場合で論じていかなければなりませんね。
>「三大秘法」と言う表現は無く、あくまでも「三つの法門」ですね。
こちらがやはり大切ですね。
690
:
問答迷人
:2009/07/26(日) 19:50:01
hage さん
>門祖日隆聖人は「本門三大秘法惣在の本門の本尊の南無妙法蓮華経」と仰せで、
日隆上人の門流独立は、1429年との事ですので、その日隆上人が「三大秘法」の成句を使われている事は、上記の「1400年頃」という検討結果と矛盾しない事が確認できました。有難うございます。
691
:
れん
:2009/07/26(日) 20:52:53
横レス失礼します。
三大秘法抄に就きましては、管見の史料によりますと、応永十八年(西暦1411年)成立の日陣師“授戒之作法”に「蓮祖大聖人作文、三大秘法抄並十重禁抄…」(十重禁抄とは本門戒体抄のこと)とあり、三大秘法抄は西暦1411年以前の成立であることは間違いないですね。話題に挙がった日隆師所持本(応永頃の書写とされる)の三大秘法抄には、「此御抄大不審也」(典拠、日本思想大系 日蓮)とあり、日隆師は本抄に不審感を感じていたものと見えます。
いずれにせよ、三大秘法の成句は三大秘法抄をその初めとし、三大秘法抄は西暦1400年代初頭に宗祖門下各門流に伝播していたことは上記の史料で明らかですね。日興門流の文献では本門三法門の呼称の初見は大夫日尊師の弟子日印師の“遣日代師状”(西暦1344年)に「大聖人三ケ大事」、日代師の“葦名阿闍梨御房御返事”(西暦1344年)に同じく「三ケ大事」とあるのが最も早いでしょう。日時師のものとされる石山の三大秘法抄と本因妙抄は、近年の研究で、筆跡から日時師筆は否定されているので、石山での三大秘法の語彙の初見は左京日教師の各著述といえるものと愚考します。
693
:
問答迷人
:2009/07/26(日) 21:12:59
れんさん
有難うございます。
>日時師のものとされる石山の三大秘法抄と本因妙抄は、近年の研究で、筆跡から日時師筆は否定されている
そうなんですか。そうすると、大石寺への「三大秘法」語句の初見は、又しても、左京日教師なんですね。ご賢察を御教授いただき、誠に有難うございました。
逆に言うと、この「三大秘法」語が含まれる「義浄坊御書」は偽作の疑いが極めて高いと言うことになりますね。
694
:
れん
:2009/07/26(日) 21:53:30
問答名人さん
宗祖ご自身は、問答名人さんがすでに御指摘されました通り「本門三法門」と書かれており、日興門流では、上代日興師直弟子門下の世代では「三ケ大事」の呼称が用いられ、西暦1400年代初頭に三大秘法抄が宗祖門下各門流に伝播して以降、日興門下各門流においても左京日教師の活躍年代である西暦1400年代後半辺りを初見として「三箇秘法」「三大秘法」の呼称が定着していく時系列であるという感触ですね。
となると、仰るところの義浄房御書は、ご指摘のように「三大秘法」の語彙を使用していますから、“三大秘法抄”の影響下で、応永以降に作成された可能性も出てくるので、無批判には宗祖著述の御書としては受容出来ない、少なくとも、学術的には御真蹟の現存する御書、興師・法師等の宗祖直弟子の写本の残る御書よりも、信用度はかなり落ちる部類の御書であることは確かですね。
695
:
独学徒
:2009/07/26(日) 21:54:24
れんさんに続き、横レスにて失礼します。
「三大秘法」の成句自体は、岡宮光長寺に古写本を蔵する日弁上人の申状に「法華本門三大秘法を弘め」(日蓮宗宗学全書第1巻89頁)と出てきますね。
同じく日宗全第1巻には、日弁記と伝わる「円極實義抄下」が掲載されここにも「三大秘法」(73頁)の成句が登場します。
もしかしたら「三大秘法」の成句は、天目・日弁の系統から出たのではと思えます。
696
:
問答迷人
:2009/07/26(日) 22:21:44
れんさん
>義浄房御書・・・信用度はかなり落ちる部類の御書
やはりそういう結論になりますね。有難うございました。
独学徒さん
日弁上人の申状、並びに円極實義抄下の、それぞれの推定年代はどのようでしょうか。
697
:
独学徒
:2009/07/26(日) 22:53:06
問答迷人さん、
日弁上人の申状は、1,293年(永仁元年五月十六日)となっています。
円極實義抄下は年代不定ですが、概ね1300年代との推論もあれば、執行師のように写本奥書の文明8年(1476年)に日弁に仮託して偽作されたものとの見解もあるようです。
興風談所は資料システムの記述からは、一応「円極實義抄下」の内容から、1300年代成立を支持しているように思われます。
698
:
れん
:2009/07/27(月) 08:52:43
独学徒さん
「三大秘法」の成句の使用例に日弁師の申状がありましたね。ただ、日蓮宗宗学全書第二巻に、参考文献として“直授日弁”として、上行所伝三大秘法口訣と同内容の八品派の相伝書が載ります。ですので、八品派の相伝に絡んで、この日弁師の申状に“三大秘法”の成句が、後代に加筆された可能性も否定出来ないので、私としては“三大秘法”の成句の初見として日弁師の申状を挙げるのには、やや躊躇するものがあります。
699
:
天蓋真鏡
:2009/08/09(日) 10:51:40
問答迷人さん諸賢の方々の意見は 三つの法門は 本仏釈尊の内証足る本門の本尊、国師の戒律を承る本門の戒壇、法華経行者日蓮が会得した本門の題目で良いのですか
700
:
問答迷人
:2009/08/09(日) 13:55:53
天蓋真鏡 さん
三つの法門については、日蓮聖人が諸御書にお示しです。
文永十一年の法華取要抄には次のようにお示しです。
「問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。・・・中略・・・ 是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に疑ひ無き者か。」
又、翌年、文永十二年の曽谷入道殿許御書には次のようにお示しです。
「大覚世尊寿量品を演説し、然して後に十神力を示現して四大菩薩に付嘱したまふ。其の所属の法は何物ぞや。法華経の中にも広を捨てヽ略を取り、略を捨てヽ要を取る。所謂妙法蓮華経の五字、名体宗用教の五重玄なり。」
「此の四大菩薩は・・・中略・・・但此の一大秘法を持して本処に隠居するの後、仏の滅後、正像二千年の間に於て未だ一度も出現せず。所詮仏専ら末世の時に限って此等の大士に付嘱せし故なり。」
これらの御書を要約すれば次のようだと思います。
◎ 釈尊が四菩薩に付属した法は「妙法蓮華経の五字・一大秘法」である。
◎ 末法に四菩薩が出現して「本門の本尊と戒壇と題目の五字」の「本門の三つの法門」を建立して、それによって妙法蓮華経の広宣流布は間違いないのである。
つまりは、『釈尊から一大秘法の付属を受けた四菩薩が「本門の三つの法門」たる「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」を建立して妙法蓮華経を広宣流布する。』という大枠は定まっています。その大枠の中で、三つの法門のそれぞれの意味・意義を捉える必要があると思います。僕は、「一大秘法を具体化した『本門の本尊』」「本門の本尊を安置した戒壇堂たる『本門の戒壇』」「本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える『本門の題目』」と捉えています。
701
:
天蓋真鏡
:2009/08/12(水) 12:36:07
レスありがとうございます。 問答迷人さんは 本尊戒壇題目の並べ方等で貴方の解釈が日蓮の意思と同じと考えますか? 漫荼羅は三つの法門の具現化への前提だと解釈しますか? 自分は釈尊像漫荼羅経典蔵と殿堂を建立するよりは個人の修行と三国四師を勉強するのに個人一人ひとりが漫荼羅を所持する事と勉強会を催す事が21世紀には良いと思います。 問答迷人さんや他の方々はどれだけお考えでしょうか。
702
:
問答迷人
:2009/08/14(金) 11:33:07
天蓋真鏡さん
>本尊戒壇題目の並べ方
文永十一年の「法華行者値難事」『本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字」
文永十一年の「法華取要抄」『本門の本尊と戒壇と題目の五字』
建治二年の「報恩抄」『一つには・・中略・・本門の教主釈尊を本尊とすべし。二つには本門の戒壇。三つには・・中略・・南無妙法蓮華経と唱ふべし。』
並べ方は、以上の真跡遺文が何れも「本尊→戒壇→題目」となっていますから、この順序で日蓮聖人のお考えと合っていると思います。
>貴方の解釈が日蓮の意思と同じと
はい、そのように考えています。
>漫荼羅は三つの法門の具現化への前提だと解釈しますか?
はい。三つの法門を説きながら、実際に後世に残したのは、曼陀羅と題目です。曼陀羅は三つの法門の具体化の第一歩で有ったと思います。
>自分は釈尊像漫荼羅経典蔵と殿堂を建立するよりは個人の修行と三国四師を勉強するのに個人一人ひとりが漫荼羅を所持する事と勉強会を催す事が21世紀には良いと思います。
「本門の本尊」の造立と「本門の戒壇堂」の建設は、日蓮聖人の目指したところだと考えています。但し、それが、今日に通用するかどうかは難しい所ですね。真跡遺文を見る限りにおいては、日蓮聖人は「本門の戒壇」について、詳しく述べられていない事から、聖人のお考えは不明と言うしか有りません。僕はこの点については敢えて考えは今のところ持っていません。白紙です。
703
:
天蓋真鏡
:2009/08/16(日) 06:51:44
問答迷人さん、解り易い挙証ありがとうございます。鎌倉時代の法華経行者・日蓮は東大寺延暦寺に続く本門の基軸を建立しようと民を諭し公を導こうと尽力したのは調べれば調べるほど確実な事は此の掲示板で折りに触れ明かされてきた事でしょう。 21世紀は仏像か掛軸か経典どれかに拘らず、 妙法蓮華の心を一人ひとりが理解し得るのか、 表現出来るのかが、 宗教の存否を決めるのでは無いかと想像しました。
704
:
天蓋真鏡
:2009/12/06(日) 12:06:03
問答迷人さん、自分は 一大秘法は要で本仏釈尊から伝わる南無妙法蓮華経で、三つの法門は三つの解釈だと思います。 本尊は南無を付けて尊敬。戒壇は行者自ら戒める意。題目は法華経出典で流布して我も彼も唱えるキーワード。 漫荼羅は法華経の伝播と継承の説明に使用する図式。
705
:
問答迷人
:2009/12/06(日) 19:38:37
天蓋真鏡さん
>一大秘法は要で本仏釈尊から伝わる南無妙法蓮華経
そのように日蓮聖人は捉えておられたと存じます。
>三つの法門は三つの解釈だと思います。
一大秘法の解釈であり、具体化であると存じます。
どのように具体化されたか、三つの法門のそれぞれについて検討すると、
本尊については、観心本尊抄に「本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。」と述べられています。妙法蓮華経の五字を中心として諸尊が立ち並ぶ本尊を日蓮聖人はお考えになっておられたと存じます。
戒壇については、日蓮聖人は具体的にはお示しでは有りませんが、妙法蓮華経の五字の曼陀羅を中心にして諸尊の仏像を配した本尊を安置する戒壇堂の建立を目指して居られたのではないかと考えています。
題目については、諸御書に於いて、一大秘法・妙法蓮華経の五字への帰命を誓い、南無妙法蓮華経と口に唱える事を具体的にご教示なされています。
706
:
天蓋真鏡
:2009/12/07(月) 15:23:27
レスありがとうございます。 いくつか追加質問させて頂きます。 本尊に掲げる漫荼羅の諸仏に廬遮那仏阿弥陀仏大日如来薬師如来は図示もしくは彫像されるのか。戒壇堂はやはり富士山の麓なのか。 自分としては彫像は難儀かなと。 釈尊立像と文字漫荼羅と経典巻を戒壇堂や各地寺院に奉戴する事が良いかなと思います。 戒壇は五重塔中心か戒壇堂中心か大伽藍形式か。もっと細かに言うなら 聖人国師と天皇主上、 戒壇と御所を並べて建てた方が良いのか。
707
:
問答迷人
:2009/12/07(月) 17:29:31
天蓋真鏡さん
>本尊に掲げる漫荼羅の諸仏に廬遮那仏阿弥陀仏大日如来薬師如来は図示もしくは彫像されるのか。
御本尊集を見ると色々な諸尊勧請の形式が見られます。例外的に書かれる事は有っても、本尊抄に「十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。」と有りますので、虚空にいらっしゃらずに大地に処されている訳ですから、基本的には図示或いは造立される対象とはならないのではないのか、と思います。
>戒壇
戒壇について日蓮聖人が論及された真跡遺文が存在しませんので、お答えする事は僕の力の及ぶところでは有りません。折角ご質問いただきましたが御免なさい。
708
:
天蓋真鏡
:2009/12/09(水) 14:09:09
問答迷人さん、レスありがとうございます。 自分も勉強不足で質問が雑でごめんなさい。
709
:
問答迷人
:2009/12/10(木) 09:49:40
天蓋真鏡さん
>勉強不足で質問が雑
いえいえ、そうは思いません。諸説が入り乱れていますので、どれが日蓮聖人の御本意なのか計りかねる所です。
一つ、僕が今考えている仮説を書き込ませていただきます。ご叱正戴ければ幸いです。
『一大秘法三法門について』
一大秘法が「妙法蓮華経の五字」で有ることは真跡に述べられていることですから明らかであると思います。(曽谷入道許御書)
この一大秘法・妙法蓮華経の五字を図顕されたのが本門の本尊。
この一大秘法・妙法蓮華経の五字を奉安し奉るのが本門の戒壇。
この一大秘法・妙法蓮華経の五字を口唱し奉るのが本門の本尊。
こう考えると、一大秘法・妙法蓮華経の五字』の具体化が三法門であり、三法門と言っても一大秘法がその正体であり、一大秘法の他に三法門が有るわけではない、そういう関係として整理出来るのではないかと考えています。
710
:
天蓋真鏡
:2009/12/10(木) 15:16:50
問答迷人さん、ありがとうございます。 では、とどのつまりは「鎌倉時代の僧・日蓮がどこまで考えて書いたのか」に尽きます。 自分は法門は解釈で、 問答迷人さんが考える一大秘法の具体的な用い方には踏み込んでません。自分は信の表現から 問答迷人さんは義の表現から申し述べたのかもしれません。 自分は結果論で言うなら問答迷人さんの考え方に賛成です。法華経の行者を自認する日蓮は其の様に組み立て説明するとシンプルに思います。
711
:
質問者
:2011/11/30(水) 01:44:47
昭和55年6月21日日顕上人書写の御形木御本尊ですが
何故、竜樹菩薩と妙楽大師が抜けてるんでしょうか
(普通は天台大師と伝教大師の横にそれぞれ書かれているのに)
誰に聞いても教えてくれません
詳しい方レスお願いします
ちなみにこの御本尊は当時の学会員に下付されたものです
あと、この御形木本尊持ってる方いますか?
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