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本尊と曼荼羅

622犀角独歩:2006/11/03(金) 08:13:34

天蓋真鏡さん

> 漫荼羅本尊授与が僧の最も大事な課題

「最も」という比較勝劣の問題ではないと存じます。重大な役割の一つであろうということです。
先に独学徒さんが、日蓮が目の不自由な方にも漫荼羅を授与されたことが記されていました。一念三千の珠を裏む妙法蓮華経五字の受持は、その文字が見えるとか、声を出して唱えられるかとか、もっと詰めれば、受け取ったことを理解できない知的障害ではだめであるとかということではないのでしょう。見えなくとも、唱えられなくても、意味がわからなくても、上行所伝の妙法五字の認められた漫荼羅を受けることで仏種を植えるところに、その意義があるのではないでしょうか。

さらに進めれば、法華菩薩道とは、単に弘教に留まるのではなく、その五字を受持した自分が何をなすのかという具体的、且つ自主的行動を、おのが内心から涌く信念に基づき正道へ薫発することを訓えたのが『立正安国』ではないですか。

> 一尊四士像&戒壇堂は気長に待つというのは解せません

これは解せないと言われても致し方がないところです。

> 密事

この点は、『取要抄』『以一万察抄』、ならびに『「法華取要抄」の草案について」(『大崎学報』第154号所蔵、都守基一師の論文)を参考になさってください。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html

> 無戒は「無戒の僧」とか表現

『御衣並単衣御書』に「日蓮は無戒の比丘」(定P111)
『法衣抄』に「日蓮は無戒の比丘、邪見の者なり」(定P1854)

たしかに上述のごとくあります。
ただ、ここで注意すべきは両書とも‘衣’について、論じている点です。
前書の前文を読めば「法華経説人は、柔和忍辱衣」、後書の前文にも「柔和忍辱衣と申て衣をこそ本」といいます。

では、言うところの「戒」とは何でしょうか。『盂蘭盆御書』に「此僧は無戒也無智なり。二百五十戒一戒も持ことなし」(定P1775)といい、続けて「威儀は猿猴ににて候へども、あをぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり」ともいいます。すなわち、日蓮が自身を「無戒」というとき、それは二百五十戒といった戒を示す衣と威儀を斥け、法華経衣座室三軌中「柔和忍辱衣」によることを示すところに主眼があるのではないでしょうか。これは菩薩戒を採ってのことと考えます。

なお、日蓮が阿闍梨であったことは『行敏御返事』の「日蓮阿闍梨御房」(定P496)では記されています。また、弟子も阿闍梨号を有すことは周知の通りです。

阿闍梨については『日蓮宗事典』には、以下のようにあります。
簡潔な整理なので、参考に供せます。

「梵語で聖者、尊者、応供養等と訳す。『四分律行事抄』には五種(出家・受戒・教授・受經・依止)の阿闍梨が説かれている。『大日經』には、灌頂の阿闍梨となる人は一三種の徳を具足すべきことが述べてある。後世には師から許される場合と、官より賜る場合とある。聖人は門下の人格、法臈、学解等を認定して許された。本宗では、一〇〇〇日の加行を成満した修法師は伝師部の許可を得て称することができるとされているが成文はない。」
「a ̄ca ̄riya の音写で、阿遮梨、阿遮梨耶などとも音訳し、軌範師、親教師、正行の意である。もとはバラモン僧が弟子を養成する際に、ベーダの儀礼規則などを伝授する役の名称であったが、これが仏教教団でも取り入れられて、諸の規範を身をもって示し弟子を指導することのできる勝れた師範(教授)であるということを意味するようになった。そして『四分律行事鈔』上之三によると、五種の阿闍梨をあげている。即ち、出家・受戒・教授・受経・依止である。つまり教団に於ける学問的、徳行的な意味での最高の位にある僧に対する敬称として使われている。従って自ら阿闍梨号を称するなどは論外と言うべきものである。なお『宗定法要式』(二四四頁)では、「大衆の中で諸役をつとめる者である」とごく簡単に解説している。」

ここに「受戒」の文字が見られます。

> 授戒は僧だけ

さて、日蓮は、どのように考えていたか、わたしは決せません。
あるいは漫荼羅授与に「受持即持戒」の意味があったかどうか、さて、どうでしょうか。


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