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本尊と曼荼羅
594
:
犀角独歩
:2006/10/23(月) 11:19:38
593 独学徒さん
> 一大秘法の「南無妙法蓮華経」、所謂「本門の題目」
「南無妙法蓮華経」と「妙法蓮華経」は、なかなか微妙なところです。
「其所属之法何物乎。法華経之中 捨広取略 捨略取要。所謂妙法蓮華経之五字名体宗用教五重玄」(曽谷入道殿許御書)
ただし、これを是好良薬として受ける側からするとき「南無妙法蓮華経」となるのでしょう。
「是好良薬寿量品肝要名体宗用教南無妙法蓮華経是也」(本尊抄)
この薬はしかし、衆生が直ちに取ることはできません。遣いによってもたらされるわけですね。「遣使還告」がそれです。では、この薬(妙法蓮華経)を仏に所属され、遣いとされたのが上行を代表とする四菩薩である。故に末法にいたるに、ただ、この秘法の肝要のみが残されていた、というのが日蓮の主張です。
この所属の妙法蓮華経の受持、南無妙法蓮華経の口唱を、では、何に向かってするのかという問いは、実は漫荼羅・本尊を考えるうえで大きな問題なのだとわたしは考えます。妙法蓮華経に対してでしょうか。わたしは違うと思います。その本来の所持者、仏に向かってではないでしょうか。そして、その遣いをとして、自分にこの良薬(妙法蓮華経)をもたらしてくれた菩薩に向かってということになりませんか。なぜ、寿量久遠仏に向かうのか。それはすなわち久遠下種覚知から仏恩にいたるからでしょう。しかし、この妙法蓮華経は既に上行等四菩薩に所属されたものですから、その仏との取り次ぎに四菩薩が介在します。となれば、仰ぐ寿量本仏の様式はすなわち一尊四士となるということでしょう。しかし、これは仏像の話ではなく、己の心に観じる本尊であることが第一義です。所属の正体を‘伝える’具体的な方途が漫荼羅図示授与であったと、わたしは拝察します。
そしていつしか、その日蓮の教えを仰ぐ為政者が出現し、堂塔伽藍を建立すれば、そこにその久遠寿量本仏と四菩薩を建立し、ついには、迹門戒壇に代わる、本門戒壇もなることを日蓮は標榜していたのだと考えます。(詳しくは、機会を得ればそのときに記しますが、寺院仏像の建立は在家為政者の所行という考えを日蓮は有していたと考えます)
本尊は仏か・法か、いわゆる法勝人劣、もしくは法華経勝仏劣という勝劣論は、わたしは勝劣派ならではなの悲しき性がいたす選択(せんちゃく)なのだと思えます。仏も法も、共に尊いのでしょう。
たとえば、ある人が「この薬をあの人にあげなさい」と、遣わしてくれたとします。その薬を飲んで病が癒えたとき、「薬のおかげで治った。薬をくれた人のおかげでも、遣いのおかげでもない」と考えるのでしょうか。薬をくださった方、それを持ってきてくれた方に感謝の念が生じるのではないでしょうか。わたしは薬をくださった方に手を合わせます。そして、遣いに感謝し、薬を正しく服用するでしょう。
この薬とは教法であり、それはもちろん妙法蓮華経でしょう。その効能はつまり本仏釈尊と菩薩を己心に観じるところに三千を成就することですね。
この服用方法は信心口唱で、南無妙法蓮華経となるのでしょう。
では、南無妙法蓮華経に向かって、南無妙法蓮華経と唱えるのでしょうか。そうではなく、南無妙法蓮華経と本仏釈尊に向かい、誓い唱えるということでしょう。本門寿量本仏に向かって唱えるところが本門の題目であるということではないでしょうか。南無妙法蓮華経が漫荼羅なら、本仏は仏像です。以上が日蓮の思惟であろうかと存じます。
> 富士門所伝の如く、広宣流布の時は仏像建立、それに至るまでは大漫荼羅をもって本尊とするという考えは、既に大漫荼羅それ自体が「仮本尊」としての役割しかないということになります。
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